{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "庵野秀明", "paragraphs": [ { "context": "庵野秀明は幼い頃よりアニメや特撮、そして大規模建造物等に夢中でよく絵を描いていたという。また、漫画少年でもあり、中学生の頃は特に少女漫画を大量に読んでいた。\n\n山口県立宇部高等学校での高校生時代には、美術部で部長を務めるほどの画力を有していた。アマチュア映像制作グループ「グループSHADO」にも所属し、自主制作の映像作品『ナカムライダー』が、文化祭で上映された。", "qas": [ { "question": "庵野秀明が中学生時代から大量で読んだ漫画とは何か。", "id": "tr-365-00-000", "answers": [ { "text": "少女漫画", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "庵野秀明の出身高校はどこですか?", "id": "tr-365-00-001", "answers": [ { "text": "山口県立宇部高等学校", "answer_start": 80, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "秀明が通った高校はなんですか?", "id": "tr-365-00-002", "answers": [ { "text": "山口県立宇部高等学校", "answer_start": 80, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "庵野秀明が所属していたアマチュア映像制作グループの名は?", "id": "tr-365-00-003", "answers": [ { "text": "「グループSHADO」", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "山口県立宇部高等学校の文化祭で庵野が所属していた「グループSHADO」で上映した作品名はなんですか?", "id": "tr-365-00-004", "answers": [ { "text": "『ナカムライダー』", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「グループSHADO」で庵野秀明が自主制作した作品のタイトルは?", "id": "tr-365-00-005", "answers": [ { "text": "『ナカムライダー』", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "庵野秀明は高校卒業後は就職せず、遊んでばかりいたために親に心配され、一浪を経て、当時、入試が実技のみであった大阪芸術大学映像計画学科に進学する。受験対策は宮崎駿らの絵コンテ等を見て勉強したという。\n\n同じ学科の同級生には南雅彦・西森明良などの同業者、広告デザイナーの碇義彦や漫画家の島本和彦および士郎正宗等も在籍していた。士郎とは学生時代の面識・交流の有無は不明だが、後に『アップルシード』『蒼きウル(未発表)』にて互いにスタッフとして参加している。\n\nサークルはSF研究会に所属していた。入学当初、同級生の山賀博之、赤井孝美らと班を作る。なお、この頃の庵野について、画力は「特にメカの描写は圧倒的であった」と後に山賀が語っており、学生生活の様子は島本和彦の漫画作品『アオイホノオ』に詳しく描かれている。", "qas": [ { "question": "庵野秀明の出身大学はどこですか?", "id": "tr-365-01-000", "answers": [ { "text": "大阪芸術大学", "answer_start": 54, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "庵野秀明が進学した大学名は?", "id": "tr-365-01-001", "answers": [ { "text": "大阪芸術大学", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "庵野秀明の大学学科は?", "id": "tr-365-01-002", "answers": [ { "text": "映像計画学科", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "庵野秀明が大学受験対策として見た絵コンテは誰のものですか?", "id": "tr-365-01-003", "answers": [ { "text": "宮崎駿", "answer_start": 77, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大阪芸術大学映像計画学科の同級生で広告デザイナーの方は誰ですか?", "id": "tr-365-01-004", "answers": [ { "text": "碇義彦", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大阪芸術大学映像計画学科に在籍していた同級生島本和彦の職業は?", "id": "tr-365-01-005", "answers": [ { "text": "漫画家", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『アップルシード』『蒼きウル(未発表)』で一緒にスタッフとして参加した秀明の大学同級生は誰ですか?", "id": "tr-365-01-006", "answers": [ { "text": "士郎正宗", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "庵野秀明が所属した大学サークルはなんですか?", "id": "tr-365-01-007", "answers": [ { "text": "SF研究会", "answer_start": 232, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "庵野秀明の大学時代画力について「特にメカの描写は圧倒的であった」と言った人の名前は?", "id": "tr-365-01-008", "answers": [ { "text": "山賀博之", "answer_start": 254, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "庵野秀明の学生生活の様子が描かれた島本和彦の漫画作品のタイトルはなんですか?", "id": "tr-365-01-009", "answers": [ { "text": "『アオイホノオ』", "answer_start": 333, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『アオイホノオ』を描いたのは誰?", "id": "tr-365-01-010", "answers": [ { "text": "島本和彦", "answer_start": 324, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その頃、庵野秀明は2回生に誘われた自主制作アニメに熱中し、山賀達との自主製作映画グループである「DAICONFILM」の主要メンバーとして参加し、大阪で開催のSF大会では異例であったオープニングアニメーションや、特撮作品等を製作し、プロも驚かせ高い評価を受けた。この時、スタジオぬえのメンバーに誘われ山賀達と『超時空要塞マクロス』の制作に参加し、アマチュアのアルバイトであるが、数話分の動画から原画までを担当した。この時に描いた爆発シーンが各所で評価され、仕事が来るようになったという。また、『アニメージュ』に掲載された、劇場アニメ『風の谷のナウシカ』の人手不足のための作画スタッフの募集告知を見て上京し、原画担当として採用される。\n\n学校生活では、共同実習にしか出席せず、学費も未納状態であったため、3回生時に除籍処分を受けるが、通学しなくなったのは、単位さえ取れればそれでいいという、周囲のやる気のない学生に付き合って在籍し続けるよりも、自分の作品を作り続ける方が意義があるとの考えからとのことである。なお、この時にはすでに『風の谷のナウシカ』への参加に伴う上京が決まっていた。また、漫画家を目指そうとした時期もあったが、漫画の才能は無いとの考えから断念している。", "qas": [ { "question": "庵野秀明が重要メンバーとして参加した自主製作映画グループの名は?", "id": "tr-365-02-000", "answers": [ { "text": "「DAICONFILM」", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "庵野秀明が「DAICONFILM」で活動していた頃、彼をメンバーに誘ったスタジオはどこですか?", "id": "tr-365-02-001", "answers": [ { "text": "スタジオぬえ", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スタジオぬえで山賀たちと制作に参加した作品のタイトルはなんですか?", "id": "tr-365-02-002", "answers": [ { "text": "『超時空要塞マクロス』", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『超時空要塞マクロス』で庵野秀明が描いたどのシーンが高く評価されましたか?", "id": "tr-365-02-003", "answers": [ { "text": "爆発シーン", "answer_start": 214, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "劇場アニメ『風の谷のナウシカ』の人手不足のための作画スタッフの募集告知はどこに載せられましたか?", "id": "tr-365-02-004", "answers": [ { "text": "『アニメージュ』", "answer_start": 246, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "庵野の上京のきっかけとなった、原画担当として採用された劇場アニメのタイトルは?", "id": "tr-365-02-005", "answers": [ { "text": "『風の谷のナウシカ』", "answer_start": 266, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "庵野秀明が大学から除籍処分を受けたのは彼が何回生の時ですか?", "id": "tr-365-02-006", "answers": [ { "text": "3回生", "answer_start": 351, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "庵野秀明は上京し、劇場アニメ『風の谷のナウシカ』、『超時空要塞マクロス愛・おぼえていますか』やOVA『メガゾーン23』等の商業作品に参加し、メカや爆発シーン等のエフェクトアニメーションを手がける。『風の谷のナウシカ』では、採用時に持参した大量の原画が宮崎駿に評価され、難しいとされるクライマックスの巨神兵登場のシーン担当に抜擢された。この時、人物も描くよう監督から指示されるも、出来が悪かったため監督本人に頼んだというエピソードがある。この頃から原画・動画一筋でやっていくのは無理だと考え、監督・演出の仕事をメインに切り替える。ちなみに、パンフレットに記載されている「巨神兵の呪いを受けて腹を壊したA氏」は庵野の事である。なお、師匠として、宮崎及び『超時空要塞マクロス』の板野一郎の名前を挙げており、特に宮崎からは監督としての仕事の進め方等を学んだという。また、『機動戦士ガンダム』の富野由悠季らも含め、アニメーション界を代表する作家の仕事に参加できたことをとてもラッキーだったと語っている。\n\nその後、DAICONFILMを母体とするガイナックスの初作品『王立宇宙軍オネアミスの翼』には「スペシャルエフェクトアーティスト」という肩書きで参加した。クライマックスシーンでは、戦闘・ロケット発射シーンは絵コンテから作画までほとんどを1人でこなした。セルを1コマに9枚重ね、3秒間でセル枚数が250枚にも上るカットもあるという。当時、戦車やミサイルなどに極限のリアリティを追求しており、手当たり次第に軍事関係の資料に目を通し、自衛隊にも体験入隊している。", "qas": [ { "question": "上京した庵野が『風の谷のナウシカ』で担当したクライマックスシーンはどれですか?", "id": "tr-365-03-000", "answers": [ { "text": "巨神兵登場のシーン", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "庵野秀明の師匠としてあげられる二人は宮崎を除くもう一人は誰ですか?", "id": "tr-365-03-001", "answers": [ { "text": "板野一郎", "answer_start": 336, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パンフレットに記載されている「巨神兵の呪いを受けて腹を壊したA氏」とは誰のことですか?", "id": "tr-365-03-002", "answers": [ { "text": "庵野", "answer_start": 303, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ガイナックスの母体となった自主製作映画グループはなんですか?", "id": "tr-365-03-003", "answers": [ { "text": "DAICONFILM", "answer_start": 452, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ガイナックスの初作品はなんですか?", "id": "tr-365-03-004", "answers": [ { "text": "『王立宇宙軍オネアミスの翼』", "answer_start": 478, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "庵野秀明は『王立宇宙軍オネアミスの翼』にどういう肩書きで参加しましたか?", "id": "tr-365-03-005", "answers": [ { "text": "「スペシャルエフェクトアーティスト」", "answer_start": 494, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "軍事関係資料を見るだけに止まらず、戦車やミサイルなどに極限のリアリティを追求のため庵野がとった行動はなんですか?", "id": "tr-365-03-006", "answers": [ { "text": "体験入隊", "answer_start": 666, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "庵野秀明の監督作品である『トップをねらえ!』及び『ふしぎの海のナディア』は、前者はOVAで発売され、後者はNHK総合テレビジョンで放送された。\n\n『トップをねらえ!』第5話戦闘シーンの収録の際、主演の日高のり子に「自ら必殺技名を絶叫してみせる」という体当たりの演技指導を行ったという逸話がある。\nナディアのグランディス一味が「タイムボカンシリーズ」における三悪の変形版になったのは自身のアイディアだという。また、ハンソンの口癖「そ、そ、そ、そ」は庵野の口癖である。\n主人公ナディアの性格は当時の性格の反映で、ナディアが冷たかったりわがままに描かれているのは、恋して振られた時の、自身の女性観を元にしたためとのことである。他にも「南の島編」での暴走ぶりも「周りから見た庵野監督」をモチーフにしていた。また、下記に記載している「偏食家であり、肉と魚は一切食べられない」というのもナディアの特徴であり、庵野がモチーフである。\nキングについては当初は「実は宇宙人」との設定が構想にあり、最終回ではキングの着ぐるみを脱いで正体を現す予定だったが、周囲の反対でこの構想はなくなった。", "qas": [ { "question": "『トップをねらえ!』の収録のとき、主演の日高のり子に「自ら必殺技名を絶叫してみせる」という体当たりの演技指導を行った話数はなんですか?", "id": "tr-365-04-000", "answers": [ { "text": "第5話", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ふしぎの海のナディア』が放送されたのはどこでですか?", "id": "tr-365-04-001", "answers": [ { "text": "NHK総合テレビジョン", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "OVAで発売された庵野秀明の監督作品はなんですか?", "id": "tr-365-04-002", "answers": [ { "text": "『トップをねらえ!』", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "主人公ナディアの「南の島編」での暴走ぶりのモチーフになったのは何か。", "id": "tr-365-04-003", "answers": [ { "text": "「周りから見た庵野監督」", "answer_start": 326, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当初、庵野の構想ではキングの本当の正体はなんですか?", "id": "tr-365-04-004", "answers": [ { "text": "宇宙人", "answer_start": 424, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズは1995年(平成7年)にテレビ東京の18時のアニメ枠で放送開始され、1997年(平成9年)以降は劇場版として制作されている。「庵野監督の代表作」として真っ先に名前が挙がる作品であり、数々の受賞歴がある。\nTVシリーズ後半、特に最終回2話とその前の展開について、パソコン通信上で激しい議論が繰り広げられ、批判意見も多くあった。この現象については、議論内容よりも「パソコン通信にハマる人たちは『現実世界に帰れ』」と苦言を呈している。また、TV放映後から劇場版公開頃の『エヴァブーム』当時、インターネット上のチャットや電子掲示板上での作品論争を「便所の落書き」と言い放っている。\n\n『新世紀エヴァンゲリオン』制作終了後、庵野秀明は実写方面への進出(『ラブ&ポップ』『式日』『キューティーハニー』)を経て、それ以降のアニメ作品では、いわゆる「実写畑の声優・つまり俳優」を起用することが多くなる。これは「職業声優の限界」を感じ、新しい可能性を模索するためだという。幾原邦彦の紹介で舞台にも非常に惹かれているが、まだ取り組めないので映画を作ることにした、とインタビューに答えている。", "qas": [ { "question": "『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズが放送開始されたのは何年ですか?", "id": "tr-365-05-000", "answers": [ { "text": "1995年", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "劇場版『新世紀エヴァンゲリオン』が制作されたのは何年以降ですか?", "id": "tr-365-05-001", "answers": [ { "text": "1997年", "answer_start": 52, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "庵野監督の代表作で真っ先に名前があげられる作品はなんですか?", "id": "tr-365-05-002", "answers": [ { "text": "『新世紀エヴァンゲリオン』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『新世紀エヴァンゲリオン』は1995年どこで放送されましたか?", "id": "tr-365-05-003", "answers": [ { "text": "テレビ東京", "answer_start": 30, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『新世紀エヴァンゲリオン』が放送された時間帯はいつですか?", "id": "tr-365-05-004", "answers": [ { "text": "18時", "answer_start": 36, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『新世紀エヴァンゲリオン』のTVシリーズ後半で特に問題視された2話はなんですか?", "id": "tr-365-05-005", "answers": [ { "text": "最終回2話", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "庵野秀明が舞台に非常に惹かれたのは誰の紹介のおかげですか?", "id": "tr-365-05-006", "answers": [ { "text": "幾原邦彦", "answer_start": 445, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2002年(平成14年)3月26日に、庵野秀明は共通の知人である貞本義行による紹介が縁で知り合った、漫画家の安野モヨコと結婚した。4月28日に「ダブルアンノの結婚を祝う会」と称した結婚披露宴パーティーが行われ、新夫側の主賓に宮崎駿、新婦側の主賓に桜沢エリカがそれぞれスピーチを行った。庵野自身は安野の『ハッピーマニア』等を読んでおり、高く評価していた。偶然にも姓の読みは双方とも「あんの」であるため、「Wアンノ」と話題になり、安野モヨコ自身も奇しくも本名が「アンノ」と非常に珍しい名字となった。\n\n安野の漫画作品『監督不行届』で結婚生活が描写されている。作中での呼び名は「カントク」「ロンパース、モヨ(安野)」である。また、結婚を機に安野によりダイエットをし、体脂肪率40%越えから180cm73kg体脂肪率22%まで減量に成功。身の回りにも無頓着で、充分な収入がありながら風呂の壊れたアパートに住んでいたため、結婚前は1年間風呂に入らなかったり、洗濯もせずに服はボロくなるまで着用し、汚れたら捨てていたが、安野により4・5日おきに着替え、1日おきに入浴するようになった。", "qas": [ { "question": "妻である安野モヨコと出会ったのは何月何日ですか?", "id": "tr-365-06-000", "answers": [ { "text": "3月26日", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "妻の安野モヨコとは誰の紹介で知り合ったんですか?", "id": "tr-365-06-001", "answers": [ { "text": "貞本義行", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "安野モヨコの職業はなんですか?", "id": "tr-365-06-002", "answers": [ { "text": "漫画家", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "庵野秀明の妻の名は?", "id": "tr-365-06-003", "answers": [ { "text": "安野モヨコ", "answer_start": 54, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ダブルアンノの結婚を祝う会」は開かれたのはいつですか?", "id": "tr-365-06-004", "answers": [ { "text": "4月28日", "answer_start": 65, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "庵野秀明の結婚披露宴パーティーはどう呼ばれますか?", "id": "tr-365-06-005", "answers": [ { "text": "「ダブルアンノの結婚を祝う会」", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ダブルアンノの結婚を祝う会」で新夫側からスピーチを行ったのは誰ですか?", "id": "tr-365-06-006", "answers": [ { "text": "宮崎駿", "answer_start": 112, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "庵野秀明の結婚披露宴パーティーで新婦側のスピーチをしたのは誰ですか?", "id": "tr-365-06-007", "answers": [ { "text": "桜沢エリカ", "answer_start": 123, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ハッピーマニア』の作家は誰ですか?", "id": "tr-365-06-008", "answers": [ { "text": "安野モヨコ", "answer_start": 54, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "自分たちの結婚生活を描いた安野の作品はなんですか?", "id": "tr-365-06-009", "answers": [ { "text": "『監督不行届』", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『監督不行届』中の庵野の呼び名は?", "id": "tr-365-06-010", "answers": [ { "text": "カントク", "answer_start": 286, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2006年(平成18年)に、庵野秀明はアニメ制作会社「株式会社カラー」を設立し、それまで名を連ねていたガイナックスの取締役から退いている。新スタジオでの第一作目は、2007年(平成19年)9月1日に全国主要映画館にて封切りされた『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』四部作の1つ『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』であった。2009年(平成21年)6月27日には『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』、2012年(平成24年)11月17日に『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』を全国主要映画館にて封切りした。完結編として『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』が予定されている。\n\n2011年(平成23年)に平野勝之監督の『監督失格』を実写初プロデュース作品として手掛けた。2013年(平成25年)には、宮崎駿の長編アニメーション映画『風立ちぬ』の主人公・堀越二郎役で声優デビューした。\n\n2014年(平成26年)に第27回東京国際映画祭の企画で「庵野秀明の世界」が開催された。学生時代からの映像作品がTOHOシネマズ日本橋で上映、トークセッションも開催された。\n\n2015年(平成27年)4月1日、2016年に公開予定の「ゴジラシリーズ」新作で、脚本と総監督を務めることが発表された。2015年秋から撮影開始し、2016年7月29日に『シン・ゴジラ』のタイトルで公開された。\n\n2017年(平成29年)5月8日、NPO法人『アニメ特撮アーカイブ機構』を設立し、代表を務める。", "qas": [ { "question": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』が開封されたのは何年ですか?", "id": "tr-365-07-000", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 82, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「株式会社カラー」の新スタジオでの第1作目の作品はなんですか?", "id": "tr-365-07-001", "answers": [ { "text": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』は何部作で予定されてますか?", "id": "tr-365-07-002", "answers": [ { "text": "四部作", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の第1作目の作品のタイトルは?", "id": "tr-365-07-003", "answers": [ { "text": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:序』", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の第2作目の作品のタイトルは?", "id": "tr-365-07-004", "answers": [ { "text": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』の第3作目の作品のタイトルは?", "id": "tr-365-07-005", "answers": [ { "text": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』が封切りされたのは何年ですか?", "id": "tr-365-07-006", "answers": [ { "text": 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"作品中に短いカットを挿入するものとして電柱・電線、信号機、遮断機、道路標識の他、庵野がよく使う素材は?", "id": "tr-365-08-000", "answers": [ { "text": "非常口マーク", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "庵野秀明の会社カラーのホームページにも使用された、彼がよく使うアイテムとはなんですか?", "id": "tr-365-08-001", "answers": [ { "text": "電柱・電線", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "庵野秀明の映像演出において、彼が得意とするものはなんですか?", "id": "tr-365-08-002", "answers": [ { "text": "大胆な映像演出", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "庵野が苦手と本人も認める分野はなんですか?", "id": "tr-365-08-003", "answers": [ { "text": "アニメ的なキャラクター", "answer_start": 414, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "イヴァン4世", "paragraphs": [ { "context": "イヴァン4世は、モスクワ大公、モスクワ・ロシアの初代ツァーリである。イヴァン雷帝という異称でも知られる。当時の表記はヨアン4世またはイオアン4世、しかし当時発行された貨幣には、Иван又はIванと表記された。ヴァシーリー3世の長男、母はエレナ・グリンスカヤである。また、後のソビエト連邦で最高指導者となるヨシフ・スターリンにも影響を与えた。", "qas": [ { "question": "イヴァン雷帝とは誰を指すのですか。", "id": "tr-366-00-000", "answers": [ { "text": "イヴァン4世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イヴァン4世の父は誰?", "id": "tr-366-00-001", "answers": [ { "text": "ヴァシーリー3世", "answer_start": 105, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イヴァン4世は、対外的には、東方への領土を拡大してアストラハン・ハン国とカザン・ハン国をモスクワ国家に組み入れ、治世末期にはシビル・ハン国の征服事業も成功裡に進んでいた。しかし、西部国境で長年にわたって続けられたリヴォニア戦争は完全な失敗に終わり、国内を激しく疲弊させる結果となった。内政面では、16世紀ヨーロッパにおける絶対君主制の発展の中で、ツァーリズムと呼ばれるロシア型の専制政治を志向し、大貴族の専横を抑えることに精力を傾注した。1547年に「全ルーシのツァーリ」の公称を開始した。行政・軍事の積極的な改革や、大貴族を排除した官僚による政治を試みた反面、強引な圧政や大規模な粛清、恐怖政治というマイナス面も生じたため、全土にわたって経済は低迷し、耕作地の放置が相次いだ。それを防ぐために、農民が土地から離れることを禁じた「禁止年実施令」は、農民の領主への依存を強め、農奴制の下地となった。結果的に大貴族層は権力を保持し、イヴァン4世亡き後のツァーリ権力の弱体化に乗じ、ロマノフ朝の成立までモスクワ国家を実質的に支配することになる。", "qas": [ { "question": "イヴァン4世にとってリヴォニア戦争は成功でしたか、失敗でしたか。", "id": "tr-366-01-000", "answers": [ { "text": "失敗", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1547年に「全ルーシのツァーリ」の公称を開始したのは誰の業績ですか。", "id": "tr-366-01-001", "answers": [ { "text": "イヴァン4世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1530年8月25日、イヴァン4世はクレムリンのテレムノイ宮殿で生まれた。長く後継者のいなかったヴァシーリー3世にとっては待望の嫡男だったが、1525年に正教会の猛反対を押し切って不妊の先妻を追放し、イヴァン4世の母エレナを妻に迎えていることから、イェルサレム総主教はこの結婚を「邪悪な息子をもつだろう」と呪ったとされる。なお、エレナは1380年のクリコヴォの戦いでドミトリイ・ドンスコイに敗れたジョチ・ウルスの有力者、ママイの子孫と言われており、イヴァン4世はクリコヴォの戦いにおける勝者と敗者双方の血を引くことになる。", "qas": [ { "question": "イヴァン4世はいつ誕生したか。", "id": "tr-366-02-000", "answers": [ { "text": "1530年8月25日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イヴァン4世はどこで誕生したか。", "id": "tr-366-02-001", "answers": [ { "text": "テレムノイ宮殿", "answer_start": 24, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イヴァン4世の母は誰?", "id": "tr-366-02-002", "answers": [ { "text": "エレナ", "answer_start": 108, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イヴァン4世の父は誰?", "id": "tr-366-02-003", "answers": [ { "text": "ヴァシーリー3世", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple 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"全国レベルでの単一通貨の導入、辺境防衛の強化など精力的に政治に取り組み、隣国リトアニア大公国との国境紛争にも勝利したのはどの政府の業績ですか。", "id": "tr-366-03-001", "answers": [ { "text": "エレナの政府", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エレナの政府はリトアニア大公国との国境紛争に勝利したか、敗北したか。", "id": "tr-366-03-002", "answers": [ { "text": "勝利", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アンドレイ・シュイスキーを処刑したイヴァン4世は、当時何歳ごろでしたか。", "id": "tr-366-03-003", "answers": [ { "text": "13歳の頃", "answer_start": 632, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "イヴァン4世は1547年1月16日、それまで国政では無視されていたイヴァン4世が、史上初めて「ツァーリ」として戴冠した。ツァーリの称号自体はイヴァン3世以来使われていたが、大公としてではなくツァーリとして戴冠するのはこれが初であった。生神女就寝大聖堂での戴冠式にはモノマフの帽子が使われ、東ローマ帝国との連続性が強調された。この戴冠式を思いついたのは、自らの権勢を見せつけたい母方の親族グリンスキー家だとされているが、実際の利益を得たのはイヴァン4世と教会であり、特に府主教マカリーは自らが冠を掲げることで、ロシアにおいて教会が特別な地位にあることを印象づけた。\n\n即位直後はグリンスキー家が勢力を伸ばして宮廷の最高位を占めたが、同年6月、モスクワ大火に伴うモスクワ暴動によってグリンスキー家が失脚したため、イヴァン4世自身が親政を開始するに至った。戴冠式の1ヶ月後には、ザハーリン家のアナスタシア・ロマノヴナを妻に迎えている。", "qas": [ { "question": "史上最初に「ツァーリ」として戴冠した人は誰ですか。", "id": "tr-366-04-000", "answers": [ { "text": "イヴァン4世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イヴァン4世の戴冠式はどこで行われましたか。", "id": "tr-366-04-001", "answers": [ { "text": "生神女就寝大聖堂", "answer_start": 117, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "モスクワ大火に伴うモスクワ暴動は何年に発生したか。", "id": "tr-366-04-002", "answers": [ { "text": "1547年", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イヴァン4世は戴冠式の1ヶ月後、誰を妻に迎えたか。", "id": "tr-366-04-003", "answers": [ { "text": "アナスタシア・ロマノヴナ", "answer_start": 393, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "イヴァン4世は新興貴族出身のアダシェフやシリヴェーストル司祭といった有能な顧問団による選抜会議に助けられ、1549年頃から本格的な改革に着手した。行政面では、士族層の訴えに応じる嘆願局、中小貴族、聖職者、士族にも政治参加の機会を与えるゼムスキー・ソボルが創設された。これまでのロシアの統治は「ツァーリが命じ、貴族が決定する」方式であり、最上位には大貴族たちの貴族会議があったが、全国会議ではその制度と貴族たちの専横を批判し、集まった各階層の代表者に対しては、ツァーリがそれらの搾取から民衆を保護することを約束した。これは貴族たちに対抗し、聖職者、士族の協調を得て中央集権化する狙いがあった。そのため、これらの制度では特に軍や地方行政を担当する士族の利益に配慮されていた。", "qas": [ { "question": "イヴァン4世が本格的な改革に着手したのは何年ごろからですか。", "id": "tr-366-05-000", "answers": [ { "text": "1549年頃", "answer_start": 53, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "広島タクシー運転手連続殺人事件", "paragraphs": [ { "context": "加害者の男H(逮捕当時34歳・タクシー運転手)は深夜に広島市中区の遊廓跡にある歓楽街一帯で被害者女性4人を次々と誘い、タクシー車内にてネクタイで被害者を絞殺して遺体を山中に遺棄した。\n\n被害者4人はいずれも売春・援助交際目的で夜の街を出歩いていた女性で、事件前から多額の借金を抱えて返済に窮していたHは借金返済のため現金を得ることを目的に最初の殺人(A事件)を起こしたが、犯行が露呈しなかったことから「行方不明になっても誰も不審に思わないような女性を殺害しても自分が疑われることはない」と確信して遊興費を得る目的を含めてさらなる殺人を重ね、次第に殺害行為そのものに快楽を見出すようになっていった。\n\n本事件はその凶悪さから広島の繁華街をパニックに陥れ、地元紙『中国新聞』が「中国地方でも稀に見る凶悪事件」と表現したほか、作家・丸山佑介は著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』にて「タクシードライバーによる殺人行脚」「『誰もが利用する交通機関』であるタクシーの運転手が突然襲い掛かる恐ろしい事件」と形容した。", "qas": [ { "question": "『判決から見る猟奇殺人ファイル』は誰が書いたの?", "id": "tr-367-00-000", "answers": [ { "text": "丸山佑介", "answer_start": 363, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "加害者の男Hは何人の女性を殺害しましたか。", "id": "tr-367-00-001", "answers": [ { "text": "4人", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "加害者の男HがA事件を起こしたのは何を得るためでしたか。", "id": "tr-367-00-002", "answers": [ { "text": "現金", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "加害者Hの性別は何?", "id": "tr-367-00-003", "answers": [ { "text": "男", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "広島タクシー運転手連続殺人事件の加害者である男Hは1962年4月に宮崎県宮崎市で生まれ、事件当時は34歳・広島市安佐南区沼田町吉山在住のタクシー運転手だった。本事件の刑事裁判で死刑が確定し、2006年12月25日に法務省の死刑執行命令により収監先・広島拘置所にて死刑を執行された。Hは多くの山林を持つ地元有数の資産家で3人兄弟の末っ子として生まれ、小中学校時代はソフトボール部・野球部で活躍し、中学時代には野球部の主将を務めた。また特に日本史が得意で、1978年4月に入学した県立高校では「クラスの上位15番以内に入る成績」を維持しており、高校時代まで地元では「スポーツ万能の優等生」として名を知られていた。一方で両親は子供に甘く、Hは末っ子だったため「小遣いを欲しがるだけもらえるような家庭環境」で育った。", "qas": [ { "question": "Hは何年生まれか。", "id": "tr-367-01-000", "answers": [ { "text": "1962年", "answer_start": 25, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Hの死刑執行はいつ行われたか。", "id": "tr-367-01-001", "answers": [ { "text": "2006年12月25日", "answer_start": 95, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Hは学生時代、どの科目が得意でしたか。", "id": "tr-367-01-002", "answers": [ { "text": "日本史", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Hは何年に高校生になったか。", "id": "tr-367-01-003", "answers": [ { "text": "1978年", "answer_start": 226, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1981年3月に高校を卒業したHは「教師か公務員になりたい」と大学受験に臨んだが、志望していた筑波大学の推薦入試に加えて第二志望の福岡教育大学にも不合格と立て続けに失敗し、滑り止めのつもりで受けた私立大学の福岡大学法学部にしか合格できなかった。Hは1981年4月に福岡大学へ入学したが、大学受験に失敗して以降は「私立大学ではたとえ教師になっても尊敬されない」と大きな挫折感を味わい、このころからは高校時代までの友人たちと音信不通になり同窓会にも出席しなくなった。また福岡大学でも「俺は筑波大学を推薦で受けたほどの人間だ。お前らとは違う」と同級生を見下しつつ、授業にはほとんど出席せず飲酒・ギャンブルにのめり込んだが、4年生になるとかつて見下していた同級生たちが国家公務員・都道府県職員として就職した一方で自身は留年が確実となり、「このままでは市役所職員にもなれない」と強い挫折感を抱えていた。\n\n福岡大学入学から4年2か月後となる1985年6月末、Hは授業料滞納を理由に4年生に留年したまま大学を中途退学した。", "qas": [ { "question": "Hが合格した唯一の大学はどこですか。", "id": "tr-367-02-000", "answers": [ { "text": "福岡大学", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "Hが大学を中途退学した理由は何でしたか。", "id": "tr-367-02-001", "answers": [ { "text": "授業料滞納", "answer_start": 426, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "大学中退後、Hは学費を援助していた兄により宮崎市の実家に連れ戻され、宮崎市役所の臨時職員として就職したが、飲酒・女遊びに溺れるなどの荒れた生活は改善せず、オートバイの酒気帯び運転で逮捕された。その後も遊ぶ金欲しさにひったくりを繰り返し、1986年1月25日には宮崎市内で会社員宅へ侵入し、その妻に包丁を突き付け現金2万円・預金通帳を奪う強盗事件を起こし、同事件で逮捕・起訴されて強盗罪で懲役2年の実刑判決を受けた。この事件により刑務所に服役したHは結婚を望んでいた女性と別れたほか、出所後に故郷・宮崎を離れ、それ以降実家に帰ることはなかった。\n\n出所後の1989年4月には広島県広島市内へ移住して叔父宅に身を寄せ、同月には広島市内のタクシー会社に運転手として就職した。当時、Hは「一からやり直そう」と決心して働いており、1日の売上は平均約45,000円で、勤務時間も他の運転手たちより1日2時間ほど長かった。しかし、大企業のエリート社員を客として乗せて働き続ける毎日のうちに「俺はタクシーの運転手なんかやっている人間ではない。筑波大学に合格できていれば今ごろは国家公務員として地位・名誉を約束された生活を送っていけたはずだ」とコンプレックスを募らせ続けていたほか、当時の月収(手取りで約30万円)の大半を飲酒・女遊びに浪費し、不足分を消費者金融から借金していた。", "qas": [ { "question": "Hは1986年1月25日には宮崎市内で会社員宅へ侵入し、その妻に包丁を突き付け現金2万円・預金通帳を奪う強盗事件を起こしたことで、懲役何年の実刑判決を受けたか。", "id": "tr-367-03-000", "answers": [ { "text": "2年", "answer_start": 195, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Hは何月に広島市内のタクシー会社に運転手として就職したか。", "id": "tr-367-03-001", "answers": [ { "text": "4月", "answer_start": 282, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "広島市内のタクシー会社に運転手として就職したときHは、平均的に一日いくらを稼いだか。", "id": "tr-367-03-002", "answers": [ { "text": "約45,000円", "answer_start": 368, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1992年初めごろには借金が総額約500万円になっていたが、当時29歳だったHは同年春に叔父の紹介で当時30歳(Hより1歳年上)の女性と結婚した。Hは借金返済で心機一転を図り、1992年7月には安佐南区の新興住宅地で建売住宅を購入し、その住宅ローンを実際の金額より400万円上乗せして組み、妻の貯金100万円と足して合計500万円を作ることで借金を完済した。\n\nまた結婚が転機となって生活が徐々に改善していき、1993年4月には長女が誕生して1児の父親になった。Hはこのころ「家も持ったし子供もできた。これで世間も認めてくれる」と希望を持ち始めていたが、長女誕生から2日後には産褥期の妻が突然意味不明な言葉をつぶやき続けたり時折奇声を上げたりなど精神疾患を発症した。そのため、Hは妻を入院させ娘を妻の実家に預けたが、その後は再び遊興に明け暮れて借金を重ねるようになり、1994年末には200万円の借金を抱えたため、実家の兄に借金を肩代わりさせたが、義両親の実家に引き取られた娘と疎遠になったことなどから生活は荒れていく一方で、その後も再び借金を繰り返していた。", "qas": [ { "question": "Hは何歳で結婚したか。", "id": "tr-367-04-000", "answers": [ { "text": "29歳", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "Hは勤務中の1996年4月18日20時に流川・薬研堀一帯をタクシーで流し、売春・援助交際のメッカとして知られていた新天地公園を通りかかった際、公園で少女Aを見つけ「遊ばないか?」と声を掛けた。被害者Aが料金2万円で応じたため、HはAをタクシーに誘い乗車させるとコンビニエンスストアで缶ビールを購入し、21時ごろに広島駅付近のラブホテルに入った。そのまま2人で缶ビールを飲み、HはAに2万円を渡したが、Aは身の上話として「行方不明になった父親の借金を返済するため大阪から広島まで働きに来た。あと10万円返せば完済できる。今日はその返済日だから10万円を用意して、広島駅から呉駅(呉市)に行く」と話した。Hはこの話を聞いて内心「やられた」と思いつつも「なんか(セックス)するのは悪いね」と言ってAに呉市まで送っていくことを約束し、Aをタクシーの助手席に乗せ、呉市(広島市中心街から約20km先)方面へタクシーを走らせた。", "qas": [ { "question": "HとAは何時ごろ広島駅付近のラブホテルに入ったか。", "id": "tr-367-05-000", "answers": [ { "text": "21時ごろ", "answer_start": 150, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "22時50分、被害者Aが身をかがめて後部座席に回ったところ、Hはネクタイを緩めて運転席を降り、背後から被害者Aに忍び寄るとネクタイをAの首に巻き付けて絞めつけ、被害者Aを窒息死させて絞殺した。Hは被害者Aを殺害した直後「咄嗟の判断でやったにしてはうまくいった」と思いながら被害者Aの所持品を物色したが、Aが所持していた現金は5万円しかなかったため「嵌められた」と立腹した。Hはその現金約5万円を奪った上で、23時ごろにはタクシーにAの遺体を乗せたまま殺害現場を立ち去った。そして約25km離れた広島市安佐南区内まで戻り、翌日未明には身元判明を防ぐためにAの遺体から衣服を剥がして全裸にした上で、遺体を用水路土管内に遺棄した。", "qas": [ { "question": "Aを殺したのは誰?", "id": "tr-367-06-000", "answers": [ { "text": "H", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Aの遺体はどこに遺棄されたか。", "id": "tr-367-06-001", "answers": [ { "text": "用水路土管内", "answer_start": 300, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1996年4月20日、Hは遺体遺棄現場に2回行き遺体がうまく隠されていることを確認した。前述のように被害者AはHに「大阪在住」と話していたため、Hは「殺しても(身元は)発覚しないだろう」と考えていたが、殺害から18日後の1996年5月6日に少女の遺体が発見され、後述のように広島県警広島北警察署は殺人・死体遺棄事件として捜査を開始した。遺体発見・身元判明をニュースで知ったHは「大阪の女じゃなかったのか」と驚き、同時に「自分の身辺に捜査の手が迫るかもしれない」と考えた。それ以降は「(Aが自分と)同じ県内に住んでいたなら自分も疑われて逮捕されるかもしれない」と恐怖していたが、やがて時間が経過するにつれてA事件の報道は少なくなっていた一方、Hの周囲に警察の動きはなかったため、1996年7月ごろには「警察の捜査能力にも限界がある。セックスを商売にしている行きずりの女なら自分と接点はないし、行方不明になっても捜索願は出ないだろうから自分が逮捕される不安はない」と安堵して自信を深めるようになっていた。", "qas": [ { "question": "Aの遺体は殺害から何日後発見されたか。", "id": "tr-367-07-000", "answers": [ { "text": "18日後", "answer_start": 105, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "A事件から約3カ月が経過した1996年8月になってもHの周囲には捜査の手が及ばなかったため、やがてHは「自分は絶対に警察になど捕まらない、悪運の強い特別な人間だ」という自信や「『他人の死をも支配できる』という一種の満足感・快感」を覚えるようになった。しかしその一方で被害者Aから奪った金(5万円)は借金返済には充てず、その後も返済の努力をしなかったために督促状が自宅に届き、妻に借金の存在を知られてしまった。やがて消費者金融の取り立てが深夜に及ぶほど厳しいものになったことから離婚騒動に発展し、家族が消費者金融に対し貸付の停止を申し入れた。これによりHは金融業界の「ブラックリスト」に載り借り入れができなくなったため、不満が募って自暴自棄になっていた。\n\n1996年8月12日夜、Hは「自分と接点のない売春婦を殺害して所持金を奪おう」と計画した上で、再び新天地の繁華街をタクシーで流しながら次の標的として「男から声を掛けられるのを待つ売春婦」を物色した。「ホテルを出てから殺せばセックスもタダでできる」と考えていたHは新天地公園で見つけた被害者女性Bに声を掛け乗車させ、車中で現金3万円を渡して安心させた上でラブホテルに入ったが、Bは「自分の父親は暴力団組員だ。怒ると何をするかわからない」と話した。Hは「それは怖いね」と返しながら被害者Bと性行為をし、翌日(1996年8月13日)になって2人でラブホテルを出るとコンビニに立ち寄り缶ビール・軍手を購入した上で山道に入った。", "qas": [ { "question": "HとBはラブホテルを出てからどこへ立ち寄りましたか。", "id": "tr-367-08-000", "answers": [ { "text": "コンビニ", "answer_start": 607, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1996年8月13日0時50分ごろ[5]、Hは「太田川橋」付近で突然タクシーを停車し、A事件の時と同じく燃料切り替えスイッチの操作でエンジンを停止させてエンストを装い、タクシーのエンジンの仕組みを知らない被害者Bを油断させた。その上でBに「(この車は)よく故障するんだよ」と言って床のシートをめくるよう頼み、軍手を嵌め被害者Bの背後からネクタイでBの首を絞めた。Bは咄嗟に自分の首とネクタイの間に右手を差し込んで抵抗し、「さっきの『父親がヤクザだ』という話は嘘だ。金は返すから許して」と命乞いしたが、Hはそれを聞き入れずにBの首を絞め続けて被害者Bを絞殺した。Hは1時ごろにタクシーを発進させて遺体遺棄現場への移動を開始し、被害者Bの遺体を物色して所持金52,000円を奪った上で、2時20分ごろに安佐北区白木町小越の関川沿い斜面でBの遺体を遺棄した。", "qas": [ { "question": "Hは何時ごろにBの遺体を遺棄したか。", "id": "tr-367-09-000", "answers": [ { "text": "2時20分ごろ", "answer_start": 341, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "被害者Bはいくらを所持していたか。", "id": "tr-367-09-001", "answers": [ { "text": "52,000円", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "面識のない女性2人を相次いで殺害したHはB事件から日数が経過しても被害者Bの遺体が発見されなかったため「自分が警察に疑われることはない」と確信し、1996年8月下旬ごろ以降は遊興費を入手するために女性を物色するようになったが、このころから「人を殺すこと自体が極めて強い刺激となり、快感を感じるほど」になっていた。1996年8月30日3時、Hは中区内で客待ちしていたところ、偶然通りかかった女性Cを見かけたが、この時は帰社時間が迫っていたため後日Cを殺害することにした。\n\nC事件当日(1996年9月7日)、Hは22時30分を過ぎても運賃収入が30,000円止まりで目標とした運賃収入50,000円に届かなかったため、不足分の運賃収入を補い、遊興費も稼ぐ目的で売春婦を殺害して金を奪うことを決意した。23時ごろ、Hは広島市南区内の路上でいつも客待ちしていた女性Cをタクシーに誘い入れ、Cに「どこか遠くで遊ぼうか」と提案して3万円を渡し「タクシーの中でしてもいいかな?」と提案して承諾を得ると、途中でコンビニに立ち寄ってCに缶ビールを買わせた。しかしHは以前から遺棄現場として考えていた加計町方面へ向かった一方、なかなかCと性行為をする気にはならなかった。", "qas": [ { "question": "HはいつBを初めて見かけたか。", "id": "tr-367-10-000", "answers": [ { "text": "1996年8月30日3時", "answer_start": 156, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1996年9月7日、Hが目標としていた運賃収入はいくらでしたか。", "id": "tr-367-10-001", "answers": [ { "text": "50,000円", "answer_start": 291, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1996年9月7日23時50分ごろ、Hは真っ暗な山道にタクシーを停車して被害者Cに「俺は後ろからするのが好きだ。四つん這いになってくれ」と後背位で性行為をするよう求めた。Hからの申し出を承諾した被害者Cは後部座席で背を向け、下着を脱いで腰を突き出したが、Hはネクタイ・ズボンのベルトを緩めて唸り声を上げながらCにのしかかった。Cは危険を察知して振り返り、Hに「何をするの!」と叫んだが、Hはベルトを引き抜いて被害者Cの首に回して絞め上げ、激しい抵抗にも躊躇せずCを絞殺した。その後、HはCの財布から現金約82,000円を奪い、9月8日0時10分ごろに遺体をタクシーに乗せたまま発進し、約1時間にわたり遺棄場所を探しながらタクシーで走行した。最終的にHは殺害現場から約10km離れた滝山川左岸の法面斜面に被害者Cの遺体を遺棄し、遺体発見を遅らせようと近くの農家から盗んだ青いビニールシートで遺体を隠した。", "qas": [ { "question": "Cは誰に殺されたの?", "id": "tr-367-11-000", "answers": [ { "text": "H", "answer_start": 177, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "HはCからいくらを奪ったか。", "id": "tr-367-11-001", "answers": [ { "text": "約82,000円", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Hは何を使ってCを絞殺したの?", "id": "tr-367-11-002", "answers": [ { "text": "ベルト", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "Hは1時50分ごろにDとともに2人でホテルを出ると、タクシーの後部座席にDを乗車させて廿日市市方面へ向かい、1996年9月14日2時すぎに人気のない田舎道(殺害現場)でタクシーを停車した。その上でA・B両事件の時と同じく燃料切り替えスイッチでエンジンを停止させてエンストを装い、タクシーのエンジンの仕組みを知らない被害者Dを油断させ、Dに「足元のシートをめくってほしい」と申し出た。そしてDが屈みこんでいる間にネクタイをほどいたところ、Dが顔を上げて「なんか怖い」と言ったため、HはDに笑みを浮かべながらネクタイを座席に掛けた。しかしDが「一人で帰る」と言い出してタクシーのドアを開けて車外へ飛び出したため、Hは「警察に駆け込まれたら終わりだ」と思ってタクシーを急発進させ、被害者Dを追いかけながら「ちゃんと(家まで)送るから乗ってくれ」と声を掛けたが、Dは走って逃げながらショルダーバッグから1万円札4枚を取り出し「もうお金はいらないから」と叫びながらHに投げつけた。これに逆上したHはタクシーを加速させて被害者Dの前に回り込むと、車外に出てDの行く手を塞ぎ、立ちすくんでいたDの襟首を掴み、売春婦を脅すためにあらかじめ準備していた果物ナイフを被害者Dに突き付けた。そしてDを後部座席に連れ込み、右拳でDの顔面を計10発近く殴りつけて失神させると、Dの首をネクタイで絞めて殺害した。", "qas": [ { "question": "HとDは何時ごろホテルを出たか。", "id": "tr-367-12-000", "answers": [ { "text": "1時50分ごろ", "answer_start": 2, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "Hは被害者Dが所持していた現金約56,000円・携帯電話を奪ったほか、「タクシーの座席がDの血液・(失禁した)糞尿で汚れてはまずい」と考えたため、Dの遺体の首に巻き付けたネクタイの両端を天井側部の手すりに結び付け、遺体を首吊りの格好で天井に固定した状態でタクシーを移動させた。そして2時40分ごろ、Hは広島県佐伯郡湯来町葛原の国道433号旧道沿い草むらにDの遺体を投げ捨てるようにして遺棄した。Hは犯行後の14日4時ごろにタクシーで広島市東区内の会社へ戻り、タクシー後部座席の客用シーツを新品と交換した上で古いシーツを持ち帰り、自分の自家用車で帰宅した。その後、翌日(1996年9月15日)も普段通り4時ごろに出勤して広島市内を中心に乗務していた。", "qas": [ { "question": "HはDを殺した次の日、何時ごろに出勤したか。", "id": "tr-367-13-000", "answers": [ { "text": "4時ごろ", "answer_start": 300, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "HはDから現金いくらを奪ったか。", "id": "tr-367-13-001", "answers": [ { "text": "約56,000円", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "被害者Dが殺害されてから5時間後となる1996年9月14日7時ごろ、広島県佐伯郡湯来町葛原の国道433号旧道東側法面で近隣住民が犬を散歩していたところ、仰向けに倒れ死亡している若い女性の遺体を発見した。遺体に目立った外傷はなかったが、顔面に鬱血・首に絞められた跡が確認されたため、広島県警捜査一課は殺人・死体遺棄事件と断定して廿日市警察署に捜査本部を設置して捜査を開始した。\n\n捜査本部が同日中に広島大学医学部で遺体を司法解剖して詳しい死因・身元などを調べた結果、死因は「首の圧迫による窒息死」、死亡推定時刻も「14日4時ごろ」とそれぞれ断定された。また着衣の乱れが少なく死亡推定時刻-遺体発見時刻の間隔が短かったため、捜査本部は「女性は他の場所(広島市かその周辺)で殺害されて車で現場へ運ばれた可能性が高い」「14日未明-早朝に遺棄された可能性がある」と推測したほか、犯人像を「地元の地理に詳しい人物で、被害者Dを遺体発見現場付近で殺害した可能性がある」と推測し、現場周辺での聞き込みなどに全力を挙げた。", "qas": [ { "question": "広島大学医学部によると、遺体の死因は何でしたか。", "id": "tr-367-14-000", "answers": [ { "text": "「首の圧迫による窒息死」", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Dの遺体は殺害から何時間後発見されたか。", "id": "tr-367-14-001", "answers": [ { "text": "5時間後", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ピョートル1世", "paragraphs": [ { "context": "ピョートル1世(ロシア語:ПётрIАлексеевич;ラテン文字表記の例:PyotrIAlekseevich,1672年6月9日(ユリウス暦5月30日)-1725年2月8日(ユリウス暦1月28日))は、モスクワ・ロシアのツァーリ(在位:1682年-1725年)、初代ロシア皇帝(インペラートル/在位:1721年-1725年)である。", "qas": [ { "question": "ロシア帝国の初代皇帝は、誰なの?", "id": "tr-368-00-000", "answers": [ { "text": "ピョートル1世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "初めてロシア皇帝の呼称を使ったのは、誰ですか?", "id": "tr-368-00-001", "answers": [ { "text": "ピョートル1世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "モスクワ・ロシアでは、君主を何と呼んだか?", "id": "tr-368-00-002", "answers": [ { "text": "ツァーリ", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ロシア帝国の名称は、誰の時代からのことを指すか?", "id": "tr-368-00-003", "answers": [ { "text": "ピョートル1世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ピョートルは1672年5月30日にツァーリ・アレクセイ・ミハイロヴィチと2番目の后妃ナタリヤ・ナルイシキナの子として生まれた。ピョートル出生時に存命している兄弟としては、フョードル3世とイヴァン5世の異母兄2人および異母姉5人がおり、姉の一人に14歳上のソフィアがいた。", "qas": [ { "question": "ピョートルは、いつ生まれたの?", "id": "tr-368-01-000", "answers": [ { "text": "1672年5月30日", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピョートルの父親は、どの地位にあった人物ですか?", "id": "tr-368-01-001", "answers": [ { "text": "ツァーリ", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナタリヤ・ナルイシキナは、アレクセイ・ミハイロヴィチの何番目の妻だったか?", "id": "tr-368-01-002", "answers": [ { "text": "2番目", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ピョートルにんは、異母兄と異母姉のうち、どちらがより多かったか?", "id": "tr-368-01-003", "answers": [ { "text": "異母姉", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1676年にピョートルの父アレクセイが死去すると異母兄フョードル3世が即位したが、在位6年目の1682年4月27日に死去した。精神障害のある異母兄イヴァンはその外戚であるミロスラフスキー家と姉ソフィアに擁されていたが、ピョートルは総主教とストレリツィの支持を受けて即位し、母方ナルイシキン家の政権が成立する。", "qas": [ { "question": "アレクセイが死去したのは、何年のことなの?", "id": "tr-368-02-000", "answers": [ { "text": "1676年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フョードル3世が即位したのは、何年のことですか?", "id": "tr-368-02-001", "answers": [ { "text": "1676年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アレクセイの後を継いだのは、誰だったか?", "id": "tr-368-02-002", "answers": [ { "text": "フョードル3世", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フョードル3世が死去したのは、いつのことか?", "id": "tr-368-02-003", "answers": [ { "text": "1682年4月27日", "answer_start": 47, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ピョートルは母とともにモスクワ郊外のプレオプラジェンスコエに移り、儀式の際のみクレムリンを訪れた。ピョートルの教育係は後に側近となるニキータ・ゾートフが務めた。少年時代のピョートルは近くの外国人村に頻繁に出入りし、多くの外国人と親交を結んだ。また、遊戯連隊を編成して戦争ごっこに勤しんでいる。", "qas": [ { "question": "ピョートルは、どこで日常を送ったの?", "id": "tr-368-03-000", "answers": [ { "text": "プレオプラジェンス", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "少年時代のピョートルの教育を担当したのは、誰ですか?", "id": "tr-368-03-001", "answers": [ { "text": "ニキータ・ゾートフ", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ピョートルは、少年時代、主に何をしながら遊んだか?", "id": "tr-368-03-002", "answers": [ { "text": "戦争ごっこ", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ニキータ・ゾートフは、どこでピョートルを教育したと予測できるか?", "id": "tr-368-03-003", "answers": [ { "text": "プレオプラジェンス", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ピョートルがスイス出身のレフォルト、下士官出身のメーンシコフを側近に取り立てたのはこの時期とされる。1689年、16歳になったピョートルは母の勧めによりエヴドキヤ・ロプーヒナを后妃に迎えたが、彼女を愛することはなく、後に不幸な結果を招くことになる。", "qas": [ { "question": "ピョートルと幼いころからよく遊び、のちに彼の側近となるのは、レフォルトと誰なの?", "id": "tr-368-04-000", "answers": [ { "text": "メーンシコフ", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "レフォルトは、どこ出身でしたか?", "id": "tr-368-04-001", "answers": [ { "text": "スイス", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1689年の時点でピョートルは何歳になったか?", "id": "tr-368-04-002", "answers": [ { "text": "16歳", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ピョートルがエヴドキヤ・ロプーヒナと婚姻したのは、何年のことか?", "id": "tr-368-04-003", "answers": [ { "text": "1689年", "answer_start": 50, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ピョートルの姉ソフィアの摂政政府はヴァシーリー・ゴリツィン公がストレリツィの蜂起で実権を握っており、進歩的な政策を行い内政・外交ともにおおむね良好に統治していた。だが、露土戦争の一環としてオスマン帝国の従属国のクリミア・ハン国に対して1687年と1689年に行われたクリミア遠征の失敗により不満が高まり、ピョートルが成長するとナルイシキン家などの支持派は彼の親政を望み、ソフィアの摂政政府と対立した。", "qas": [ { "question": "当時のロシアは、誰の摂政政府が統治していたの?", "id": "tr-368-05-000", "answers": [ { "text": "ソフィア", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴァシーリー・ゴリツィンは、どの事件を通して実権を握りましたか?", "id": "tr-368-05-001", "answers": [ { "text": "ストレリツィの蜂起", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時、実権を握っていたのは、誰か?", "id": "tr-368-05-002", "answers": [ { "text": "ヴァシーリー・ゴリツィン", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クリミア遠征は、どの戦争の一環としてとらえられるか?", "id": "tr-368-05-003", "answers": [ { "text": "露土戦争", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1697年3月から翌1698年8月まで、ピョートルは約250名の使節団を結成しヨーロッパに派遣、自らもピョートル・ミハイロフ(ПётрМихайлов)という偽名を使い使節団の一員となった。この使節は軍事・科学の専門技術といったヨーロッパ文明の吸収を目的としていたが、対オスマン軍事同盟への参加を各国に打診する外交使節をも兼ねていた。また使節の一員に身をやつしたのは、煩瑣な儀礼に縛られず自由に行動するためと、公的にはモスクワを離れていないと内外に示すためだった。", "qas": [ { "question": "ヨーロッパ文明の吸収を目的に派遣された使節団に同行したピョートルは、何と言う偽名を使ったの?", "id": "tr-368-06-000", "answers": [ { "text": "ピョートル・ミハイロフ", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ピョートルは、約何名で構成される使節団を編成しましたか?", "id": "tr-368-06-001", "answers": [ { "text": "約250名", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ピョートルが編成した使節団は、外交使節のほかに、何の目的を持っていたか?", "id": "tr-368-06-002", "answers": [ { "text": "軍事・科学の専門技術といったヨーロッパ文明の吸収", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ピョートルが編成した使節団は、どの国との対立においてヨーロッパの各国からの支援を受け取るための外交の目的を持っていたか?", "id": "tr-368-06-003", "answers": [ { "text": "オスマン", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1699年、ピョートルはポーランド王アウグスト2世、デンマーク=ノルウェー王フレデリク4世と反スウェーデン同盟(北方同盟)を結び、バルト海への出口を求めた。", "qas": [ { "question": "反スウェーデン同盟には、ロシア、ポーランドのほかに、どの国も参加したの?", "id": "tr-368-07-000", "answers": [ { "text": "デンマーク=ノルウェー", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1699年、ピョートルとアウグスト2世、フレデリク4世の間で結成された同盟は、何ですか?", "id": "tr-368-07-001", "answers": [ { "text": "反スウェーデン同盟", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "反スウェーデン同盟は、何年伊結成されたか?", "id": "tr-368-07-002", "answers": [ { "text": "1699年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "反スウェーデン同盟はスウェーデンに対し、何を求めたか?", "id": "tr-368-07-003", "answers": [ { "text": "バルト海への出口", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1700年に大北方戦争が始まると、ピョートルのロシアはコンスタンティノープル条約の締結で露土戦争の終結を確認した後にスウェーデンと交戦状態に入るが、ナルヴァの戦いでカール12世の率いる少数精鋭の敵軍に惨敗した。", "qas": [ { "question": "何の条約の締結が、露土戦争の終結を意味するの?", "id": "tr-368-08-000", "answers": [ { "text": "コンスタンティノープル条約", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大北方戦争が始まったのは、何年のことですか?", "id": "tr-368-08-001", "answers": [ { "text": "1700年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コンスタンティノープル条約が結ばれたのは、何年のことか?", "id": "tr-368-08-002", "answers": [ { "text": "1700年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ナルヴァの戦いが行われたのは、何年のことか?", "id": "tr-368-08-003", "answers": [ { "text": "1700年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1708年にカール12世がロシア領に侵攻し、ウクライナ・コサックの首長マゼーパと連合したが、1709年6月27日にポルタヴァの戦いでピョートルは冬将軍と焦土作戦でスウェーデン軍を弱体化させ大敗させた。カール12世はトルコに逃げたため故国に戻れず、ピョートルはこの機に乗じて親露派のアウグスト2世をポーランド王位に復帰させ、カレリアとリヴォニアを征服した。", "qas": [ { "question": "ロシアに侵攻してきたスウェーデン軍は、誰が率いていたの?", "id": "tr-368-09-000", "answers": [ { "text": "カール12世", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カール12世の率いるスウェーデン軍がロシアに侵攻してきたのは、何年のことですか?", "id": "tr-368-09-001", "answers": [ { "text": "1708年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポルタヴァの戦いは、いつ行われた戦闘か?", "id": "tr-368-09-002", "answers": [ { "text": "1709年6月27日", "answer_start": 46, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1709年6月27日の戦闘で勝利したのは、誰の率いる軍だったか?", "id": "tr-368-09-003", "answers": [ { "text": "ピョートル", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかし翌1712年からピョートルのロシアは攻勢に転じ、ハンゲの海戦で歴史的勝利をおさめ、ロシア海軍の成長を見せつけると同時にバルト海の覇権を獲得した。ロシアは勢いに乗じてスウェーデンのドイツ領を侵略、反スウェーデン同盟の加盟国を増やしてスウェーデンを追い込み、1716年には姪エカチェリーナ・イヴァノヴナを北ドイツのメクレンブルク=シュヴェリーン公カール・レオポルトと結婚させ、同盟を結んでスウェーデン侵攻拠点を手に入れバルト海への影響力を増していった。この事態はイギリスをはじめとする同盟諸国を警戒させ、ピョートルは圧力に屈してポーランドから撤退した。", "qas": [ { "question": "スウェーデンとの戦争でロシアが優勢になったのは、何年からなの?", "id": "tr-368-10-000", "answers": [ { "text": "1712年", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ピョートルのロシアが歴史的勝利を収めたのは、どの戦闘でですか?", "id": "tr-368-10-001", "answers": [ { "text": "ハンゲの海戦", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エカチェリーナ・イヴァノヴナと結婚したのは、誰か?", "id": "tr-368-10-002", "answers": [ { "text": "カール・レオポルト", "answer_start": 174, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピョートルのバルト海への影響力が増大したのは、エカチェリーナ・イヴァノヴナと誰の結婚によることだったか?", "id": "tr-368-10-003", "answers": [ { "text": "カール・レオポルト", "answer_start": 174, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1718年にピョートルのロシアはスウェーデンと休戦交渉に入ったが、カール12世の急死で親英派の妹ウルリカが王位を継ぐと交渉は打ち切られた。バルト海沿岸地域を我が物としたピョートルはさらにスウェーデンを圧迫し、フィンランド、そしてスウェーデン本土に直接攻撃を仕掛けた。ロシア軍はスウェーデン本土への攻撃は阻止されたものの、これがスウェーデンへの決定的な圧力となった。", "qas": [ { "question": "ロシアとスウェーデンの間で休戦交渉が開かれたのは、何年のことなの?", "id": "tr-368-11-000", "answers": [ { "text": "1718年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カール12世が死去したのは、何年のことですか?", "id": "tr-368-11-001", "answers": [ { "text": "1718年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウルリカが即位したのは、何年のことか?", "id": "tr-368-11-002", "answers": [ { "text": "1718年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カール12世の後を継いだのは、誰か?", "id": "tr-368-11-003", "answers": [ { "text": "ウルリカ", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スウェーデンは1719年から1720年にかけてロシア以外の交戦国とストックホルム条約を締結し講和、その内のイギリスと同盟条約を締結し、イギリスはバルト海に艦隊を派遣して圧力をかけたが、ロシアは1720年7月のグレンガム島沖の海戦でスウェーデンに勝利した。", "qas": [ { "question": "スウェーデンが講和条約を結ばなかった、唯一の国は、どの国なの?", "id": "tr-368-12-000", "answers": [ { "text": "ロシア", "answer_start": 23, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "グレンガム島沖の海戦はいつ行われた戦闘でありますか?", "id": "tr-368-12-001", "answers": [ { "text": "1720年7月", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ジョージ・グレンヴィル", "paragraphs": [ { "context": "ジョージ・グレンヴィルは、イギリスの政治家だ。\n\n1741年にホイッグ党の庶民院議員として政界入りし、閣僚職を歴任した。第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートの辞職後、ビュート伯の推挙で首相に就任した。1763年にはジョン・ウィルクスを「一般逮捕状」で逮捕したことでウィルクス事件を引き起こした。1765年には印紙法で北アメリカ植民地人の反発を買い、この反発がアメリカ独立戦争の遠因となった。イギリス国内でもビュート伯爵の傀儡政権と見做されて批判に晒された。1765年の摂政法をめぐって国王ジョージ3世とも対立したため、2年ほどで退陣を余儀なくされた。\n\n同じく首相の初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィルは三男である。", "qas": [ { "question": "初代グレンヴィル男爵ウィリアム・グレンヴィルの父は誰?", "id": "tr-369-00-000", "answers": [ { "text": "ジョージ・グレンヴィル", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウィルクス事件は何年にあった事件ですか。", "id": "tr-369-00-001", "answers": [ { "text": "1763年", "answer_start": 101, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1712年10月14日、ジョージ・グレンヴィルは庶民院議員リチャード・グレンヴィルと後に初代テンプル女伯爵に叙されるヘスター・グランヴィルの間の次男として生まれる。\n\n兄に後に第2代テンプル伯爵位を継承するリチャード・グレンヴィル=テンプルがいる。グレンヴィル家はバッキンガムシャーの大地主の家系だった。\n\n1725年から1728年までイートン・カレッジで教育を受けた後、1729年にインナー・テンプルに、1730年にオックスフォード大学クライスト・チャーチに、1734年にリンカーン法曹院に入学、1735年にインナー・テンプルで弁護士資格免許を取得した。1763年にはインナー・テンプルの評議員に就任した。", "qas": [ { "question": "ジョージ・グレンヴィルはいつ生まれたか。", "id": "tr-369-01-000", "answers": [ { "text": "1712年10月14日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジョージ・グレンヴィルは何年にリンカーン法曹院に入学したか。", "id": "tr-369-01-001", "answers": [ { "text": "1734年", "answer_start": 231, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジョージ・グレンヴィルはいつインナー・テンプルの評議員に就任したか。", "id": "tr-369-01-002", "answers": [ { "text": "1763年", "answer_start": 278, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ジョージ・グレンヴィルは1741年イギリス総選挙で父が議席を有したバッキンガム選挙区から選出されて庶民院議員となる。所属政党はホイッグ党だが、義弟大ピットとともに反ウォルポール派ホイッグとなり、ウォルポール内閣倒閣を目指した。処女演説は1742年1月21日に行われ、ウィリアム・パルトニーが提出した戦争遂行を調査する秘密委員会の設立動議に賛成するものだった。\n\nウォルポール失脚後の1743年から10数年にわたって海軍省や財務省の役職につくようになった。具体的には1744年から1747年まで下級海軍卿を、1747年から1754年まで下級大蔵卿を務め、1754年から1756年にかけての初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズの第一次内閣では海軍会計長官を務めた。また、1754年6月21日には枢密顧問官に任命された。一時大ピットにしたがって辞職したが、大ピットも南部担当国務大臣として入閣した1757年から1762年にかけての第二次ニューカッスル公内閣では海軍会計長官に再任された。", "qas": [ { "question": "ジョージ・グレンヴィルの処女演説はいつあったの?", "id": "tr-369-02-000", "answers": [ { "text": "1742年1月21日", "answer_start": 118, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジョージ・グレンヴィルはいつ枢密顧問官に任命された?", "id": "tr-369-02-001", "answers": [ { "text": "1754年6月21日", "answer_start": 338, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジョージ・グレンヴィルは1747年から1754年まで何を務めたの?", "id": "tr-369-02-002", "answers": [ { "text": "下級大蔵卿", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1765年初頭に国王ジョージ3世はポルフィリン症の発作を起こした。発作の再発に備えてグレンヴィル内閣は「摂政法」の制定を行った。\n\nしかし権力の制限を恐れた国王が強く反対し、この件でグレンヴィル内閣と国王の関係は決定的に悪化した。グレンヴィルを排除するため、国王はホイッグ党の第2代ロッキンガム侯爵チャールズ・ワトソン=ウェントワースと和解・接近した。そしてグレンヴィルは1765年7月に罷免された。", "qas": [ { "question": "1765年初頭に国王ジョージ3世はどの病気で発作を起こしたか。", "id": "tr-369-03-000", "answers": [ { "text": "ポルフィリン症", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "国王ジョージ3世の再発に備えてグレンヴィル内閣は何を制定したか。", "id": "tr-369-03-001", "answers": [ { "text": "「摂政法」", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "国王ジョージ3世は「摂政法」の制定に賛成でたか、反対でしたか。", "id": "tr-369-03-002", "answers": [ { "text": "反対", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "グレンヴィルは1770年11月13日に死去した。彼の死とともに彼の派閥は自然消滅した。ノース卿に警戒される政敵の一人だった彼の死はノース卿内閣の安定に資したとみられる。\n\n彼の長男ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィルは、兄リチャードから第3代テンプル伯爵位を継承し、小ピット内閣で国務大臣などの閣僚職を務め、バッキンガム侯爵に叙せられた。三男のウィリアム・グレンヴィルも小ピット内閣で閣僚職を歴任してグレンヴィル男爵に叙され、さらに首相となって「総人材内閣」と呼ばれる内閣を組閣している。", "qas": [ { "question": "グレンヴィルはいつ亡くなったか。", "id": "tr-369-04-000", "answers": [ { "text": "1770年11月13日", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "グレンヴィルの長男の名前は何?", "id": "tr-369-04-001", "answers": [ { "text": "ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グレンヴィルの三男の名前は何?", "id": "tr-369-04-002", "answers": [ { "text": "ウィリアム・グレンヴィル", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィルとウィリアム・グレンヴィルと、誰がもっと先に生まれたの?", "id": "tr-369-04-003", "answers": [ { "text": "ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "英国人名事典はグレンヴィルを「有能だが狭量」(ablebutnarrow-minded)と評し、財務に関する能力を評価した。また、厳格な性格で自分への反対に耐えられない気性だったことが災いして、国王の歓心も大衆の人気も得られなかった。首相の在任期間も失敗続きであり、ウィルクスへの処置で政権の評判を落とした上、植民地への徴税がアメリカ独立戦争の遠因になり、1765年の摂政法も国王ジョージ3世を怒らせる結果だった。\n\nエドマンド・バークは1774年4月の演説でグレンヴィルが「政治を果たす必要のある義務としてではなく、楽しむべき事柄として扱った」など、庶民院の事務への貢献を称えた。一方、ホレス・ウォルポールはグレンヴィルについて、話が冗長である上に学者ぶっていると酷評しており、ウォルポールが同じく酷評した兄リチャードと比べてもリチャードのほうが紳士的だったとした。", "qas": [ { "question": "英国人名事典はグレンヴィルを何と評したか。", "id": "tr-369-05-000", "answers": [ { "text": "「有能だが狭量」(ablebutnarrow-minded)", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "グレンヴィルは何によって「有能だが狭量」(ablebutnarrow-minded)と評されたの?", "id": "tr-369-05-001", "answers": [ { "text": "英国人名事典", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "グレンヴィルが「政治を果たす必要のある義務としてではなく、楽しむべき事柄として扱った」という述べたのは誰ですか。", "id": "tr-369-05-002", "answers": [ { "text": "エドマンド・バーク", "answer_start": 209, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "アメリカ=メキシコ国境", "paragraphs": [ { "context": "アメリカ=メキシコ国境は、4つのアメリカ合衆国の州と6つのメキシコの州に接している。\n20以上の横断道路があり、アメリカ合衆国カリフォルニア州サンディエゴとメキシコバハカリフォルニア州ティファナの接する西から、アメリカ合衆国テキサス州ブラウンズビルとメキシコタマウリパス州マタモロスが接する東まで伸びている。\n都会のエリアから荒れ果てた砂漠までさまざまな地形を横切り、東はテキサス州エルパソとメキシコチワワ州シウダー・フアレスの両国の大都市圏の境界を成し、メキシコ湾に流れるリオグランデ川に沿っている。\nソノラ砂漠、チワワ砂漠、コロラド川デルタ、バハカリフォルニア半島の北端も横切る。\n境界の全長は1,951マイル(3,141キロメートル)、世界で最も頻繁に横断される国境で、毎年のべ3億5000万人が(合法的に)横断している。", "qas": [ { "question": "アメリカ=メキシコ国境において、接している州の数が多いのはアメリカ合衆国とメキシコのどちらですか?", "id": "tr-370-00-000", "answers": [ { "text": "メキシコ", "answer_start": 5, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アメリカ=メキシコ国境において、アメリカ側の最東端はどこの地域ですか?", "id": "tr-370-00-001", "answers": [ { "text": "テキサス州エルパソ", "answer_start": 186, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アメリカ=メキシコ国境において、メキシコ側の最西端である地域はどこですか?", "id": "tr-370-00-002", "answers": [ { "text": "バハカリフォルニア州ティファナ", "answer_start": 82, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "リオグランデ川の流れ自体が変化したことによる境界の論争(リオ・リコなど)は、ごく少数の地域で20世紀に入ってもあった。\nとは言え、現在の国境は1848年のグアダルーペ・イダルゴ条約と1853年のガズデン購入で決着がついた。\nメキシコと1836年に建国されたテキサス共和国の両国が主張した国境周辺には当時誰も居住していなかったが、その不確かさは1846年から1848年の米墨戦争の契機となった。\nその前の合意には、メキシコ独立戦争の間にアメリカ合衆国とスペイン(ヌエバ・エスパーニャ)で結ばれた1819年のアダムズ=オニス条約があり、1803年のルイジアナ購入後の境界を定義した。", "qas": [ { "question": "アメリカが先に結んだ条約は、グアダルーペ・イダルゴ条約とアダムズ=オニス条約のどちらですか?", "id": "tr-370-01-000", "answers": [ { "text": "アダムズ=オニス条約", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "テキサス共和国の建国年はいつですか?", "id": "tr-370-01-001", "answers": [ { "text": "1836年", "answer_start": 117, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ガズデン購入とルイジアナ購入はどちらが先に行なわれましたか?", "id": "tr-370-01-002", "answers": [ { "text": "ルイジアナ購入", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "メキシコとテキサス共和国が主張した国境問題は、後に何の戦争を引き起こしましたか?", "id": "tr-370-01-003", "answers": [ { "text": "米墨戦争", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アメリカ=メキシコ国境は、合法、非合法を合わせて、世界で最も多い数の横断が行われている。\n両国の距離的な近さと、境界の両側での生活水準の違いはこれらの移住を促進している。\n毎年100万人以上の不法入国者がいると見られ、その8割はメキシコ人である。\n残りは中米からの人々で、メキシコ人以外(OtherThanMexicans,OTM)と呼ばれている。\nカリフォルニア大学デービス校の移民の専門家によると、アメリカの農業人口の45%は不法移民だという。\n国境巡視隊の活動は、広い範囲でフェンス越えが実行されているサンディエゴとエルパソなど、国境の大都市周辺に集中した。\nこの大都市圏への監視の集中により、不法移民は田舎の山岳地帯や砂漠地帯から入国を試みるようになり、これによって多くの死亡者を生んだ。", "qas": [ { "question": "毎年見られる不法入国者の中で最も多いのは何人ですか?", "id": "tr-370-02-000", "answers": [ { "text": "メキシコ人", "answer_start": 114, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "メキシコの次に多い不法入国者の出身地域はどこですか?", "id": "tr-370-02-001", "answers": [ { "text": "中米", "answer_start": 127, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フェンス越えなどの不法侵入を取り締まっている人は何ですか?", "id": "tr-370-02-002", "answers": [ { "text": "国境巡視隊", "answer_start": 225, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "不法入国者は毎年何人以上いると推定されていますか?", "id": "tr-370-02-003", "answers": [ { "text": "100万人以上", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "境界のほぼ全域は、アメリカ合衆国連邦政府の様々な巡視員が警備している。\n1990年代、アメリカ陸軍の人員が、アメリカ=メキシコ国境沿いに配備され、不法な外国人と麻薬密業者の流入を食い止めた。\nこれらの軍隊は赤外線監視装置やヘリコプターを駆使し、国境警備隊と共同で警備にあたった。\n不法入国者の密輸組織、「コヨーテ」が使用していたところは往来がなくなり、一時的ながら密輸業者と不法入国者は一掃された。\nしかし、効果的に思われたこの警備だが、軍が撤収すると、またすぐに不法入国が再開された。\n2001年の9.11テロの後、アメリカは警備策として国境に兵士を配備した。\nこのとき、赤外線スコープを搭載したわずか100機のヘリコプターと良好な装備を持った数百名の兵士で国境を封鎖できるという意見があった。", "qas": [ { "question": "不法入国者の密輸組織の名前とは?", "id": "tr-370-03-000", "answers": [ { "text": "「コヨーテ」", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "境界のほぼ全域を警備しているのはどこの国の巡視員か?", "id": "tr-370-03-001", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 9, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカ同時多発テロ事件以降に、アメリカ政府は国境に何を配備したの?", "id": "tr-370-03-002", "answers": [ { "text": "兵士", "answer_start": 273, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "しかし反対者は、アメリカ軍が国境を巡回することは、PosseComitatusAct(「民兵隊壮年団法」。アメリカ国内において、アメリカ合衆国憲法及び法律の定めがある場合を除き、軍隊の治安活動を禁止した法律。もともとレコンストラクションの後の1878年に制定された法律で、陸海軍対象だったが1956年に空軍も加えられた。これがSWATが作られるきっかけになる)に違反すると主張した。\nもっと現実的な者は、国境を完全に封鎖することは不可能で、さらに頑丈で強大な軍が投入され、不法入国に恐らく深刻な影響を与えるだろうと考えた。\nアメリカの各州は州兵(NationalGuard)組織を持ち、原則として、州知事の判断で国境の警備のために配置することが可能である。\nまた、一部の州は緊急時には州防衛軍(StateDefenseForce)という名の警備隊を動かすことができる。\nしかしながら、ほとんどの州知事は、地域の企業と、大きくなっていくメキシコ人コミュニティの反発を恐れて実行しなかった。", "qas": [ { "question": "1878年に制定された法律の日本名は何?", "id": "tr-370-04-000", "answers": [ { "text": "「民兵隊壮年団法」", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「民兵隊壮年団法」の対象として後から追加された軍隊とは何?", "id": "tr-370-04-001", "answers": [ { "text": "空軍", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「民兵隊壮年団法」の対象に空軍が加わったことで、後に何が作られましたか?", "id": "tr-370-04-002", "answers": [ { "text": "SWAT", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アリゾナ州およびニューメキシコ州は、現在のところ、制御できないほどの不法移民の流入による深刻な状態にある郡を公表し、その結果、両州の知事は州兵を国境に配置することができた。\nしかし、アリゾナ州の共和党上院議員、ジョン・マケインは、施行によって不法移住を軽減しようとしているいくつかの法案に反対し、合法化(多くは恩赦)を勝ち取る法案を上院で提案した。\n2006年5月、大統領ジョージ・W・ブッシュは、最大6,000名の州兵が、国境警備隊を支援するための施設を境界に設置する計画を発表した。\nこの計画に反対したのは、カリフォルニア州知事のアーノルド・シュワルツェネッガーで、当初はカリフォルニア州=バハカリフォルニア州の境界に3,000名の州兵を配置するブッシュの要求を拒絶した。\nしかし後になってシュワルツェネッガーは、カルフォルニア州予算の償還の再保証と、必要な時の部隊の返却を条件に、1,600名以上のカリフォルニア州兵を国境に配置した。", "qas": [ { "question": "ブッシュの州兵支援計画に反対した人物は誰?", "id": "tr-370-05-000", "answers": [ { "text": "アーノルド・シュワルツェネッガー", "answer_start": 267, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2006年5月当時にアメリカ大統領を務めていた人は誰でしたか?", "id": "tr-370-05-001", "answers": [ { "text": "ジョージ・W・ブッシュ", "answer_start": 186, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シュワルツェネッガーが配置させた州兵の数は何人でしたか?", "id": "tr-370-05-002", "answers": [ { "text": "1,600名以上", "answer_start": 393, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "シュワルツェネッガーはどこの州知事を務めていたの?", "id": "tr-370-05-003", "answers": [ { "text": "カリフォルニア州", "answer_start": 256, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ブッシュ政権の最終年である2008年は、メキシコとの国境警備が厳しくなったこともあり、アメリカにおける国外退去数が約38万人と前年度比で約8万人増加した。\n国外退去数は、不法移民や不法入国者に比較的寛容であるとされたオバマ政権下でも増え続けた。\n2013年6月24日、アメリカ上院は移民制度改革法案を承認、27日に可決した。\nこの法案の中には、アメリカ=メキシコ国境の警備の強化案が含まれており、国境警備隊2万人の増員、国境フェンスの増強、無人航空機やレーダー、センサーに数十億ドルを投入するなど、国境警備の軍事的な面を強化するものとなっている。\nただし、この警備の強化には移民に寛容であるべきとする国民からは反対意見が根強く、またこの法案には、アメリカ合衆国国内に存在する不法滞在者に市民権を与える内容も含まれていることから、移民反対派にも反対者が多い。\nそのため、下院では審議されない可能性も指摘されている。", "qas": [ { "question": "2007年と2008年はどちらの年が国外退去数が多かったですか?", "id": "tr-370-06-000", "answers": [ { "text": "2008年", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アメリカ=メキシコ国境の警備の強化案が含まれていた法案名は何ですか?", "id": "tr-370-06-001", "answers": [ { "text": "移民制度改革法案", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "移民制度改革法案では国境警備員を何人に増員すると決まりましたか?", "id": "tr-370-06-002", "answers": [ { "text": "2万人", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "移民制度改革法案は何日に可決されたの?", "id": "tr-370-06-003", "answers": [ { "text": "27日", "answer_start": 153, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "下院軍事委員会の議長でもある、下院議員ダンカン・ハンター(共和党・カリフォルニア州)は、2005年11月3日に、強化されたフェンス(事実上の壁)をアメリカ=メキシコ国境沿いに構築することを提案した。\n12月5日には、H.R.4437への修正案を提出。\nこの計画には、メキシコ境界の698マイル(1,123キロメートル)に沿ったフェンスの建設の義務化が盛り込まれた。\n2006年5月17日、上院で、三重構造のフェンスと自動車用フェンスを370マイル作るというS.2611が承認された。", "qas": [ { "question": "強化フェンスの構築を提案した人は誰ですか?", "id": "tr-370-07-000", "answers": [ { "text": "ダンカン・ハンター", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ダンカン・ハンターが提案した計画では、何マイル沿いのフェンス建設が義務化されたの?", "id": "tr-370-07-001", "answers": [ { "text": "698マイル", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "メキシコ境界のフェンス建設義務化の修正案が提出されたのはいつ?", "id": "tr-370-07-002", "answers": [ { "text": "12月5日", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ダンカン・ハンターは何州の下院議員ですか?", "id": "tr-370-07-003", "answers": [ { "text": "カリフォルニア州", "answer_start": 33, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "メキシコ政府は、多くのラテンアメリカ諸国の大臣や知識人と同様に、この計画を非難した。\nテキサス州知事のリック・ペリーも、国境はもっと開かれたものであるべきだとする反対を表明した。\nフェンスの拡大案はさらに、テキサス州ラレド市議会で満場一致で否決された。\n「2006年安全フェンス法」(H.R.6061)は、2006年9月13日に提出され、翌日、283対138の投票で可決された。\n9月29日には80対19の投票によって上院が認可し、10月26日にブッシュ大統領が署名した。", "qas": [ { "question": "この計画に反対したテキサス州知事は誰でしたか?", "id": "tr-370-08-000", "answers": [ { "text": "リック・ペリー", "answer_start": 51, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「2006年安全フェンス法」が可決された時の票数は何対何でしたか?", "id": "tr-370-08-001", "answers": [ { "text": "283対138", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「2006年安全フェンス法」が上院に認可された時の投票数は何対何でしたか?", "id": "tr-370-08-002", "answers": [ { "text": "80対19", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「2006年安全フェンス法」にブッシュ大統領が署名したのはいつでしたか?", "id": "tr-370-08-003", "answers": [ { "text": "10月26日", "answer_start": 216, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アメリカ合衆国=メキシコ国境に設置されたフェンスにより、国境を横切る不法入国を防ぐことが期待されている。\nしかし何人かの専門家は、フェンスは、単に国境は常に「安全である」ことをアメリカ合衆国市民に確信させることとを目的とした広報策略でしかなく、その一方で、国境を渡った安い労働力の再入国をしにくくし、そこから得られる経済的なメリットも目論まれていると主張した。\nメキシコでは、この障壁は非公式に、恥の壁(西:MurodelaVergüenza,英:WallofShame)と呼ばれている。\nケーブルテレビ局コメディ・セントラルの番組、\"TheColbertReport\"でベイ・ブキャナンは、三重フェンスの2,000マイルの壁を建設するのには6か月かかり、およそ15-30億ドルのコストがかかると試算した。\n同番組でブキャナンは、1990年代のクリントン政権による国境の警備プログラム、OperationGatekeeperでは、不法移住を90%カットしたことを引き合いに出し、これと似た結果が期待できるとした。", "qas": [ { "question": "恥の壁と呼んでいるのはどこの国ですか?", "id": "tr-370-09-000", "answers": [ { "text": "メキシコ", "answer_start": 181, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "テレビ番組で、フェンス設置にかかるコストや建設期間を具体的に試算した人は誰ですか?", "id": "tr-370-09-001", "answers": [ { "text": "ベイ・ブキャナン", "answer_start": 286, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ブキャナンは、三重フェンスの設置にかかる費用はいくらだと述べましたか?", "id": "tr-370-09-002", "answers": [ { "text": "およそ15-30億ドル", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2003年10月から2004年4月末までに、660,390人がアメリカ合衆国国境警備隊によって拘留され、同時期に43-61名が、ソノラ砂漠から密入国しようとして死んだ。\nこれは前年の同時期の3倍にのぼる。\n2004年10月には、過去1年間で325人が死亡したことが国境巡視隊によって発表された。\n1998年と2004年の間では、1,954人が国境沿いで死んだことが正式に報告された。", "qas": [ { "question": "2003年10月から2004年4月末の期間に死亡した43‐61名は、どこからの密国をもくろんで死亡しましたか?", "id": "tr-370-10-000", "answers": [ { "text": "ソノラ砂漠", "answer_start": 64, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2003年10月から2004年4月末の期間に拘留された密入国者は何人でしたか?", "id": "tr-370-10-001", "answers": [ { "text": "660,390人", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1998年と2004年の間の、国境沿いでの死亡者は何人でしたか?", "id": "tr-370-10-002", "answers": [ { "text": "1,954人", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "メキシコ外務省は、1994年から2000年までの期間に、国境のメキシコ側での死亡者数のデータを収集した。\nそれらのデータは、1996年に87名、1997年に149名、1998年に329名、1999年に358名、2000年に499名という死亡者数を示している。", "qas": [ { "question": "死亡者数が多かったのは1996年と1997年のどちらですか?", "id": "tr-370-11-000", "answers": [ { "text": "1997年", "answer_start": 72, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "死亡者数が多かったのは1997年と1998年のどちらですか?", "id": "tr-370-11-001", "answers": [ { "text": "1998年", "answer_start": 83, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "死亡者数が多かったのは1998年と1999年のどちらですか?", "id": "tr-370-11-002", "answers": [ { "text": "1999年", "answer_start": 94, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1998年から2000年の間に、死亡者数が最も多かった年は何年でしたか?", "id": "tr-370-11-003", "answers": [ { "text": "2000年", "answer_start": 105, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "不法入国を試みる者の死亡原因は様々である。\n国境のフェンスを避けて、不法移民はアリゾナ州のソノラ砂漠の横断に失敗する者の死因には、熱射病、脱水症状、低体温症がよく認められる。\nまた、リオ・グランデ川を渡ろうとして溺死する者もいる。\nその他、かなりの数の不法移民が、自動車事故や他の事故で死んでいる。\nたびたび起こる国境警備隊による殺害、自警団ミニットマンによる殺害は、しばしばヘイトクライムとして報道される。\n人権団体、連邦捜査局、国際連合がこれらの事件の調査に乗り出したケースもある。\n「コヨーテ」という悪名高い不法移民の密輸業者の集団が起こす、過度の暴力による死亡もこっそりと報告されている。\n本国メキシコに残された家族に危害が加えられる恐れがあるため、コヨーテによる被害についての証言は少なく、容疑者を識別することは難しい。", "qas": [ { "question": "ソノラ砂漠は何州にありますか?", "id": "tr-370-12-000", "answers": [ { "text": "アリゾナ州", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "不法移民が横断しようとする砂漠はどこですか?", "id": "tr-370-12-001", "answers": [ { "text": "ソノラ砂漠", "answer_start": 45, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "不法移民が横断しようとする川は何ですか?", "id": "tr-370-12-002", "answers": [ { "text": "リオ・グランデ川", "answer_start": 91, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "国境警備隊などによる不法移民者の殺害は、どのようなケースとして報道されますか?", "id": "tr-370-12-003", "answers": [ { "text": "ヘイトクライム", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1990年代以降、メキシコ国内で麻薬マフィアの活動が活発化すると、メキシコからアメリカに向けてコカインなどの麻薬の組織的な密輸が盛んになった。\n両国の取り締まりも年々厳重となる一方、マフィア側も捜査網を巧妙にかいくぐるようになり、2010年代には国境沿いに建設された延長数100メートルに及ぶ密輸用トンネルが相次いで発見されている。\n国境の壁が野生生物の生息地を分断している、一部の動物の生息域が縮小した。", "qas": [ { "question": "メキシコ国内で麻薬マフィアの活動が活発化したのはいつからでしたか?", "id": "tr-370-13-000", "answers": [ { "text": "1990年代以降", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "白血病", "paragraphs": [ { "context": "白血病(はっけつびょう、Leukemia)は、「血液のがん」ともいわれ、遺伝子変異を起こした造血細胞(白血病細胞)が骨髄で自律的に増殖して正常な造血を阻害し、多くは骨髄のみにとどまらず血液中にも白血病細胞があふれ出てくる血液疾患である。\n白血病細胞が造血の場である骨髄を占拠するために造血が阻害されて正常な血液細胞が減るため感染症や貧血、出血症状などの症状が出やすくなり、あるいは骨髄から血液中にあふれ出た白血病細胞がさまざまな臓器に浸潤(侵入)して障害することもある。\n治療は抗がん剤を中心とした化学療法と輸血や感染症対策などの支持療法に加え、難治例では骨髄移植や臍帯血移植などの造血幹細胞移植治療も行われる。\n大きくは急性骨髄性白血病(AML)、急性リンパ性白血病(ALL)、慢性骨髄性白血病(CML)、慢性リンパ性白血病(CLL)の4つに分けられる。", "qas": [ { "question": "白血病の異名は何ですか?", "id": "tr-371-00-000", "answers": [ { "text": "「血液のがん」", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "白血病の分類は大きく何種類に分けられますか?", "id": "tr-371-00-001", "answers": [ { "text": "4つ", "answer_start": 369, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "造血が阻害し、感染症や貧血、出血症状などを起こす原因細胞は?", "id": "tr-371-00-002", "answers": [ { "text": "白血病細胞", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "白血病は病的な血液細胞(白血病細胞)が骨髄で自律的、つまりコントロールされることなく無秩序に増加する疾患である。骨髄は血液細胞を生み出す場であり、骨髄での白血病細胞の増加によって正常な造血細胞が造血の場を奪われることで正常な造血が困難になり、血液(末梢血)にも影響が及ぶ。あるいは骨髄から血液中にあふれ出た白血病細胞がさまざまな臓器に浸潤(侵入)して障害することもある。白血病患者の血液中では白血病細胞あるいは病的な白血球を含めると白血球総数は著明に増加することも、あるいは減少することもある。しかし、正常な白血球は減少し血小板や赤血球も多くの場合減少する。\n\n白血病の症状として、正常な白血球が減ることで感染症(発熱)、赤血球が減少することで貧血になり貧血に伴う症状(倦怠感、動悸、めまい)、血小板が減少することで易出血症状などがよく見られ、また血液中にあふれ出た白血病細胞が皮膚や神経、各臓器に浸潤(侵入)してそれらにさまざまな異常が起きることもある。", "qas": [ { "question": "正常な白血球が減ることで起きる白血病の症状は?", "id": "tr-371-01-000", "answers": [ { "text": "感染症", "answer_start": 303, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "赤血球が減ることで現れる白血病の症状は?", "id": "tr-371-01-001", "answers": [ { "text": "貧血", "answer_start": 322, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "易出血症状が現れるのはどの細胞と相関がありますか?", "id": "tr-371-01-002", "answers": [ { "text": "血小板", "answer_start": 347, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "白血病は年に10万人あたりおよそ7人(2005年、日本)が発症する比較的少ないがんであるが、多くの悪性腫瘍(癌、肉腫)は高齢者が罹患し小児や青年層では極めてまれなのに対し、白血病は小児から高齢者まで広く発症するため、小児から青年層に限ればがんの中で比較的多いがんである。\n造血の場である骨髄で造血の元になっている細胞が変異したことによって起きるのが白血病であり、癌や肉腫のように固形の腫瘍を形成しないため、胃癌や大腸癌などのように外科手術の適応ではないが、抗がん剤などの化学療法には極めてよく反応する。\n19世紀にドイツの病理学者ルドルフ・ルートヴィヒ・カール・ウィルヒョー(ウィルヒョウ,フィルヒョウ)が白血病を初めて報告してLeukemia(白血病)と名付けた。\nかつては白血病は治療が困難で、自覚症状が現れてからは急な経過をたどって死に至ったため、不治の病とのイメージを持たれてきた。\nまた、白血病は現代においても現実に若年層での病死因の中で高い割合を占めることから、フィクションでは、かつての結核に代わって、現代において癌と並び、若い主人公が罹患する設定になることが多い。\nしかし、1980年代以降、化学療法や、骨髄移植(bonemarrowtransplantation;BMT)、末梢血造血幹細胞移植(peripheralbloodstemcelltransplantation;PBSCT)、臍帯血移植(cordbloodtransplantation;CBT)の進歩に伴って治療成績は改善されつつある。", "qas": [ { "question": "多くの悪性腫瘍が発症しやすい年齢層は?", "id": "tr-371-02-000", "answers": [ { "text": "高齢者", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "白血病が最初に発見された国はどこですか?", "id": "tr-371-02-001", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 257, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フィクションの世界で、以前白血病を変わって若手の不治の病の設定によく使われたのは何だ?", "id": "tr-371-02-002", "answers": [ { "text": "結核", "answer_start": 450, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一口に白血病と言っても、大きくは急性骨髄性白血病(AML)、急性リンパ性白血病(ALL)、慢性骨髄性白血病(CML)、慢性リンパ性白血病(CLL)の4つに分けられ、それぞれは病態は異なっている。\n急性白血病では増加する白血病細胞は幼若な血液細胞(芽球)に形態は似てはいるが、正常な分化・成熟能を失い異なったものとなる。\n慢性白血病では1系統以上の血液細胞が異常な増殖をするが、白血病細胞は分化能を失っておらず、幼若な血液細胞(芽球)から成熟した細胞まで広範な細胞増殖を見せる。\n急性白血病細胞は血液細胞の幼若細胞に似た形態を取り、多くの急性白血病では出現している白血病細胞に発現している特徴が白血球系幼若細胞に現れている特徴と共通点が多い細胞であるが、多くはないが赤血球系統や血小板系統の幼若細胞の特徴が発現した白血病細胞が現れるものもあり、それらも白血病である。\n血液細胞は分化の方向でリンパ球と骨髄系細胞に分けられるが、ほとんどの白血病細胞も少しであっても分化の方向付けがありリンパ性と骨髄性に分けることができる。", "qas": [ { "question": "分化能力のお持ちの白血病細胞は急性白血病か、それとも慢性白血病か?", "id": "tr-371-03-000", "answers": [ { "text": "慢性白血病", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "血液細胞の幼若細胞と似た形態を取っているのは急性か、慢性かどっちの白血病細胞ですか?", "id": "tr-371-03-001", "answers": [ { "text": "急性白血病細胞", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リンパ性と骨髄性に分ける基準は何ですか?", "id": "tr-371-03-002", "answers": [ { "text": "分化の方向付け", "answer_start": 430, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "白血病における慢性と急性の意味は、他の疾患で言う急性・慢性の意味合いとは違う。急性白血病が慢性化したものが慢性白血病という訳ではなく、白血病細胞が幼若な形態のまま増加していく白血病を「急性白血病」、白血病細胞が成熟傾向を持ち一見正常な血液細胞になる白血病を「慢性白血病」という。白血病の歴史の中で一般に無治療の場合には白血病細胞が幼若な形態のまま増加していく白血病の方が死に至るまでの時間が短かったので「急性」と名付けられた。急性白血病が慢性化して慢性白血病になることはないが、逆に慢性白血病が変異を起こして急性白血病様の病態になることはある。\n\n一般的に用いられる形容で、白血病を「血液の癌」と呼ぶが、この形容は誤りである。漢字で「癌」というのは「上皮組織の悪性腫瘍」を指し、上皮組織でなく結合組織である血液や血球には使えない。ただし、「血液のがん」という平仮名の表記は正解である。平仮名の「がん」は、「癌」や「肉腫」、血液悪性腫瘍も含めた広義的な意味で使われているからである。\n\n悪性リンパ腫や骨髄異形成症候群といった類縁疾患は通常、白血病には含まれないが、悪性リンパ腫とリンパ性白血病の細胞は本質的には同一であるとされ、骨髄異形成症候群にも前白血病状態と位置付けられ進行して白血病化するものもあり、これら類縁疾患と白血病の境目は曖昧な面もある。", "qas": [ { "question": "白血病細胞が幼若な形態のまま増加していく白血病をどう呼びますか?", "id": "tr-371-04-000", "answers": [ { "text": "「急性白血病」", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "白血病細胞が成熟傾向を持ち一見正常な血液細胞になる白血病って何?", "id": "tr-371-04-001", "answers": [ { "text": "「慢性白血病」", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「がん」と「癌」のなかで意味するものがもっと多い方はどっちですか?", "id": "tr-371-04-002", "answers": [ { "text": "「がん」", "answer_start": 396, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "白血病の症状は急性白血病と慢性白血病では大きく異なる。\n\n急性白血病の症状としては、骨髄で白血病細胞が増加し満ちあふれるために正常な造血が阻害されて正常な血液細胞が減少し、正常な白血球の減少に伴い細菌などの感染症(発熱)、赤血球減少(貧血)に伴う症状(倦怠感、動悸、めまい)、血小板減少に伴う易出血症状(歯肉出血、鼻出血、皮下出血など)がよく見られ、ほかにも白血病細胞の浸潤による歯肉の腫脹や時には(とくにAML-M3では)大規模な出血もありうる。\nさらに白血病が進行し、各臓器への白血病細胞の浸潤があると、各臓器が傷害あるいは腫張し圧迫されてさまざまな症状がありうる。\n腫瘍熱、骨痛、歯肉腫脹、肝脾腫、リンパ節腫脹、皮膚病変などや、白血病細胞が中枢神経に浸潤すると頭痛や意識障害などの様々な神経症状も起こりうる。\n急性リンパ性白血病ではリンパ節・肝臓・脾臓の腫大や中枢神経症状はよく見られるが、AMLでは多くはない。\n\nただし、これらの諸症状は白血病に特有の症状ではなく、これらの症状を示す疾患は多い。故に症状だけで白血病を推定することは困難である。", "qas": [ { "question": "発熱、貧血、倦怠感、動悸、めまいなどが現れる白血病は?", "id": "tr-371-05-000", "answers": [ { "text": "急性白血病", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "歯肉腫脹、肝脾腫、赤血球減少、腫瘍熱のなかで、白血病細胞が中枢神経に浸潤することで現れる症状でないものはどれか?", "id": "tr-371-05-001", "answers": [ { "text": "赤血球減少", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "AMLと急性リンパ性白血病で中枢神経症状がより多く見られるのはどちらですか?", "id": "tr-371-05-002", "answers": [ { "text": "急性リンパ性白血病", "answer_start": 358, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "慢性骨髄性白血病では罹患後しばらくは慢性期と呼ばれる状態が続き、特に症状が現れず健康診断などで白血球数の異常が指摘されて初めて受診することも多く、慢性期で自覚症状が現れる場合は脾腫による腹部膨満や微熱、倦怠感の場合が多い。\nただし、慢性骨髄性白血病の自然経過では数年の後必ず、移行期と呼ばれる芽球増加の中間段階を経て急性転化を起こす。\n急性期では芽球が著増し急性白血病と同様の状態になる。\n\n慢性リンパ性白血病では一般に進行がゆっくりで無症状のことも多く、やはり健康診断で白血球増加を指摘されて受診することが多いが、しかし80%の患者ではリンパ節の腫脹があり(痛みはないことが多い)他人からリンパ節腫脹を指摘されて受診することもある。\nリンパ節の腫れ以外に自覚症状がある場合には倦怠感、脾腫による腹部膨満や寝汗、発熱、皮膚病変などが見られる。\n慢性リンパ性白血病の低リスク群では無症状のまま無治療でも天寿を全うすることもあるが、病期が進行してくると貧血や血小板減少が進み、細菌や真菌などの日和見感染症や自己免疫疾患を伴うこともある。", "qas": [ { "question": "特に症状が現れない、白血球数の異常から指摘されるまで診断されない場合が多い慢性骨髄性白血病の段階は?", "id": "tr-371-06-000", "answers": [ { "text": "慢性期", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "慢性骨髄性白血病の三段階で2番目に訪れる段階は何でしょう?", "id": "tr-371-06-001", "answers": [ { "text": "移行期", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "白血病の検査では血液検査と骨髄検査が主になる。\n白血病の本体は骨髄にあり、白血病の状態を正確に把握するには骨髄検査が不可欠であるが骨髄検査は患者にとって負担の多い検査であり、患者への負担が少ない血液検査も重要になる。\n(骨髄と血液を川に例えると水源が骨髄で川の水が血液に相当する。水源の異常は川の水質や水量に影響を与える。川の水の状態から水源に異常があることはある程度推測することは出来るが、水源の状態や何が起きているのかを正確に把握するには水源そのものを調べるしかない。しかし水源まで行くことは苦痛を伴い労力が必要なので川の水の状態をこまめに点検し、必要に応じて水源の再点検も行うことが大事になる。)", "qas": [ { "question": "白血病の検査でもっとも正確な結果を得られるのはどの検査ですか?", "id": "tr-371-07-000", "answers": [ { "text": "骨髄検査", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "白血病の検査に置いて、血液と骨髄を水源と川に喩えるなら、川の水の調査はどの検査にあたいしますか?", "id": "tr-371-07-001", "answers": [ { "text": "血液検査", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "血液検査(末梢血)で芽球を明らかに認めれば白血病の可能性は高い。末梢血で芽球が認められなくとも、白血球が著増していたり、あるいは赤血球と血小板が著しく減少し非血液疾患の可能性が見つからなければ、骨髄検査が必要になる(白血病では白血球は、著増していることもあれば正常あるいは減少していることもある。10万を超えるような場合以外は白血球数だけでは白血病かどうかは分からない)。骨髄で芽球の割合が著増していたり、極端な過形成であればやはり白血病の可能性は非常に高い。\n\n急性白血病の骨髄では芽球の増加を認め、WHO分類では骨髄の有核細胞のなかでの芽球の割合が20%以上であれば急性白血病と定義するので骨髄検査を行わないと診断を確定できない。さらに骨髄内の有核細胞中のMPO陽性比率や非特異的エステラーゼ染色や免疫学的マーカー捜索によって急性白血病中の病型の診断を確定させる。CMLやCLLでも骨髄でのそれぞれの特徴的な骨髄像の確認は重要であり、CMLではフィラデルフィア染色体の捜索を行う。\n\nまた、白血病細胞の中枢神経への浸潤の可能性や脾・肝臓腫、感染症などの白血病の症状を探るための諸検査(CT検査、脳脊髄液検査、細菌培養検査等)も行われる。", "qas": [ { "question": "末梢血の検査で何が検出される場合、白血病の可能性が高いと判定しますか?", "id": "tr-371-08-000", "answers": [ { "text": "芽球", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "WHO分類で急性白血病と定義する骨髄の有核細胞のなかでの芽球の割合の基準は何パーセントですか?", "id": "tr-371-08-001", "answers": [ { "text": "20%", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "骨髄の有核細胞のなかでの芽球の割合が20%以上であれば急性白血病と定義するという基準を出した機関名は?", "id": "tr-371-08-002", "answers": [ { "text": "WHO", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "急性白血病細胞は多くの場合、白血球の幼若な細胞と類似した形態を取るため、芽球あるいは芽球様細胞と呼ばれる。\n血液細胞は大きくは、白血球、赤血球、血小板の3種の分けられるが、白血病細胞(芽球)は赤血球や血小板と違って有核であり、また赤血球と違い溶血剤に溶けず血小板とはサイズが違うので、正常な白血球ではないが自動血球計数器で分析する血液検査の血液分画(血液細胞の分類とカウント)の中では白血球の区分に入れられる(高性能な検査機や検査技師が行う目視検査では血液細胞の種類ごとに細かく分類ができる)。\n\n急性白血病の血液検査ではヘモグロビンや血小板数は低下していることが多く、芽球が認められることが多い。\n血液中の有核細胞が多数の骨髄系芽球と少数の正常な白血球だけで中間の成熟段階の細胞を欠けば(白血病裂孔)急性骨髄性白血病の可能性が高く、リンパ芽球が多数現れていれば急性リンパ性白血病の可能性が高い。\n芽球から成熟した白血球まで含めた白血球総数は著明に増加していることが多いが、なかには正常あるいは減少していることもある。", "qas": [ { "question": "血液細胞の分類は大きく何種類に分けられますか?", "id": "tr-371-09-000", "answers": [ { "text": "3種", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "白血病細胞と血小板の違いは核の有無以外に何がありますか?", "id": "tr-371-09-001", "answers": [ { "text": "サイズ", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "急性白血病細胞と赤血球を含む血に溶血剤をかけた場合、残るものは?", "id": "tr-371-09-002", "answers": [ { "text": "白血病細胞", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "慢性骨髄性白血病では、血液、骨髄の両方で芽球から成熟した細胞まで白血球の著明な増加があり血小板も増加していることが多く、慢性リンパ性白血病では成熟したリンパ球が著明に増加する。\n\n急性白血病細胞は分化能を失い幼若な形態(芽球)のまま数を増やすので、骨髄は一様な細胞で埋め尽くされる。慢性白血病では細胞は分化能を失わずに、しかし正常なコントロールを失って自律的な過剰な増殖を行うので正常な骨髄に比べて各成熟段階の白血球系細胞が顕著に多くなる(過形成)。骨髄検査では各細胞を細かく分けてカウントし、とくに芽球の割合と形態が重要になる。赤芽球は通常では芽球には含まれないが、赤白血病(AML-M6)では白血病細胞の半数程度は赤芽球と同様の表面抗原を発現するため、赤白血病を疑われたときのみ、芽球に赤芽球を含める。", "qas": [ { "question": "慢性骨髄性白血病では血小板の数はどう変化しますか?", "id": "tr-371-10-000", "answers": [ { "text": "増加", "answer_start": 39, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "慢性リンパ性白血病の人に現れるリンパ球の数の変化は?", "id": "tr-371-10-001", "answers": [ { "text": "増加", "answer_start": 83, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "骨髄で極めて若い造血細胞の遺伝子に1つ以上の遺伝子異常が後天的に起きて白血病幹細胞が発生し、白血病幹細胞が数千億から1兆個もの白血病細胞を生み出して骨髄を占拠するようになると発症するものと考えられている。白血病幹細胞が発生してすぐに白血病の症状が出るわけではない。1個の白血病幹細胞はゆっくりと、しかし自律的に増加して(コントロールを受けない)多数の白血病細胞を生み出していき、その白血病細胞は不死化(細胞寿命の延長)しているので、やがて骨髄を白血病細胞が占拠し満ちあふれる。骨髄を白血病細胞に占拠され正常な造血細胞が締め出されて正常な造血が阻害され、また骨髄に収まりきれず血液中にあふれ出た白血病細胞が各臓器に浸潤して白血病の諸症状が起きる。", "qas": [ { "question": "白血病細胞を生み出す細胞はどう呼ばれますか?", "id": "tr-371-11-000", "answers": [ { "text": "白血病幹細胞", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "骨髄が白血病細胞に占拠されると阻害される機能は?", "id": "tr-371-11-001", "answers": [ { "text": "造血", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "遺伝子異常が起きる原因として放射線被曝、ベンゼンやトルエン、抗がん剤など一部の化学物質、HTLVウイルスなどは発症のリスクファクターとされているが、しかしそれらが原因と推察できる白血病はごく一部に限られ、白血病のほとんどは原因は不明である。\n白血病は親から子への遺伝もしないし、成人T細胞白血病をわずかな例外とすればうつることもない。\nほとんどの白血病はウイルスなどの病原体によるものではないが、例外的に2種類だけウイルスが関わっているものがある。\n一つは日本で同定された成人T細胞白血病で、レトロウイルスの一つHTLV-Iの感染が原因であることが明らかになっている。\nもう一つは急性リンパ性白血病バーキット型(FAB分類ALLL3)の中でアフリカなどのマラリア感染地域に多い風土病型といわれるタイプでEBウイルスとの関連が指摘されている。", "qas": [ { "question": "ほぼ唯一うつることができる白血病は何ですか?", "id": "tr-371-12-000", "answers": [ { "text": "成人T細胞白血病", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "感染原因にウイルスが関わる白血病の数は?", "id": "tr-371-12-001", "answers": [ { "text": "2種類", "answer_start": 202, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "成人T細胞白血病の感染に関わるウイルスの名称は何ですか?", "id": "tr-371-12-002", "answers": [ { "text": "HTLV-I", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "細かく分類すると数十種類に及ぶ白血病では判明している遺伝子異常の数は多いが、すべての白血病に共通する遺伝子異常は見つかっていなく、多数ある白血病の病型のうち慢性骨髄性白血病や急性前骨髄球性白血病などいくつかの白血病では主となる遺伝子異常は判明しているが、大半の白血病では多くの遺伝子異常は見つかっていても共通で決定的な原因となる遺伝子異常は明らかでない。\n\n白血病を含む「がん」は細胞の増殖・分化・生存に関わる重要な制御遺伝子に何らかの(染色体の転座、重複、部分あるいは全体の欠失、染色体上の遺伝子の点状変異など)異常が起こり、がん遺伝子の発現とがん抑制遺伝子の異常・抑制などいくつかの段階を踏んでがん化すると考えられている。一般に白血病をふくめて「がん」は一段階の遺伝子異常だけでは起こらず何段階かの遺伝子異常が積み重なってがん化するため若い人では少なく、異常が積み重なる時間を十分に経た高齢者で多い。遺伝子に変化が起きる原因としては活性酸素、ウイルス、放射線、化学物質などが考えられる。", "qas": [ { "question": "細胞の増殖・分化・生存に関わる重要な制御遺伝子に異常が発生し、がん遺伝子の発現、抑制遺伝子の異常・抑制などのプロセスを経て発病する病の通称は何ですか?", "id": "tr-371-13-000", "answers": [ { "text": "「がん」", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "活性酸素、ウイルス、化学物質以外に遺伝子変異を引き起こす可能性がある原因は?", "id": "tr-371-13-001", "answers": [ { "text": "放射線", "answer_start": 428, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "がんを起こす遺伝子異常は染色体に活性酸素、ウイルス、放射線、化学物質などが作用することによって発生するが、細胞には遺伝子に生じた異常を修復する仕組みがあり、また修復しきれない致命的な異常が起きてしまったときはその細胞は死ぬが(アポトーシス)、修復が効かずしかしアポトーシスも免れるような変異を起こすことがある。\nそのような遺伝子変異を起こした細胞のほとんどはキラーT細胞やナチュラルキラー(NK)細胞のような免疫系が正常細胞との表面抗原の違いを認識して破壊するが、遺伝子異常を起こした細胞のなかにキラーT細胞やNK細胞に認識される表面抗原の発現を変化させて免疫細胞による排除を免れるものがいる。\nそのような遺伝子異常を積み重ねたのががん細胞であり、数を増やしてがんを発症させる。造血細胞ががん化したものが白血病である。\n\n白血病幹細胞を含むがん細胞は多段階の遺伝子異常を経て発生するが、がん細胞ではアポトーシス制御に異常が起き、アポトーシス抵抗性を獲得する。\nがん細胞の80-90%はテロメアを伸長させるテロメラーゼが発現し、あるいはテロメラーゼが発現していないがんでもテロメラーゼの代替経路があり、それによってがん幹細胞は不死化し無限の増殖能を獲得する。", "qas": [ { "question": "がんを起こす遺伝子異常の原因物質じゃないのはウイルス、アポトーシス、放射線のなかでどれか?", "id": "tr-371-14-000", "answers": [ { "text": "アポトーシス", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "がん細胞が死滅することなく、増殖を続けられる理由は何ですか?", "id": "tr-371-14-001", "answers": [ { "text": "テロメラーゼ", "answer_start": 452, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "症状が出るまでに進行した白血病では短時間で末梢血の白血球や芽球の数が増加することが多く、白血病細胞は増殖が速い印象がある。\nしかし実際には白血病細胞は、正常な造血細胞に比べ細胞分裂(増殖)が早いわけではなく、むしろかなり遅い。\n正常な造血細胞と比べ慢性白血病細胞の分裂には2-4倍の時間が掛かり、名に反して急性白血病細胞ではさらに細胞分裂には時間が掛かるのである。\nしかし、正常な造血細胞の細胞分裂の開始はコントロールを受け、造血細胞が増殖を始めても細胞はやがて分化・成熟して末梢血に移り役割を果たして寿命を迎え、また、過剰に作られた細胞はコントロールを受けてアポトーシスを迎えるので、健康人の正常な血液細胞は一定の数を保つのだが、白血病細胞はコントロールを受け付けることなく無際限に増殖し、また白血病細胞は不死化(細胞寿命の延長)しているので最終的には正常な細胞を圧倒して増殖する。", "qas": [ { "question": "正常な造血細胞と芽球の増殖速度はどっちが早いか?", "id": "tr-371-15-000", "answers": [ { "text": "正常な造血細胞", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "白血病細胞と正常な造血細胞で細胞分裂が遅いのはどちらですか?", "id": "tr-371-15-001", "answers": [ { "text": "白血病細胞", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "このようにして白血病細胞は正常な造血細胞を圧倒して骨髄を占拠し、さらには血液(末梢血)にもあふれ出てくる段階(通常、自覚症状が明らかに現れるところまでくると)になると骨髄での白血病細胞の数はすでに膨大なものになっているので、細胞1個の分裂時間は長くとも、末梢血内では短時間の内にみるみる白血病細胞の数が増えていくようになる。\n健康人の末梢血内の白血球総数は80-300億個程度であるが、AMLでは自覚症状が現れ診断が付く頃には骨髄内の白血病細胞は1kg、数にして1012個(1兆個)にもなるので、その10%が末梢血にあふれ出ただけでも、正常な末梢血内の白血球数から考えるとそれは尋常な量ではない。", "qas": [ { "question": "健康人の末梢血内の白血球総数はいくら?", "id": "tr-371-16-000", "answers": [ { "text": "80-300億個程度", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "AMLの自覚症状がでる頃には検査される白血病細胞の量を重さで表現するとどれくらいですか?", "id": "tr-371-16-001", "answers": [ { "text": "1kg", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "医療制度は各国でさまざまであるが、移植医療を支える骨髄バンクや臍帯血バンクは先進国を中心に世界約50カ国にあり、2012年現在世界的な骨髄ドナー検索システム(BoneMarrowDonorsWorldwide:BMDW)が構築され、骨髄に関しては48カ国66の骨髄バンクが参加し登録ドナーは1875万人、臍帯血でも29カ国から43の臍帯血バンクがBMDWに参加し、登録された臍帯血のストックは51万本になっている。\nBMDWで検索された骨髄血や臍帯血の提供や品質管理などで国際間で協力する組織としてはTheWorldMarrowDonorAssociation(WMDA)があり、やや古いデータであるが2004年の世界の骨髄移植ではその1/3は国境を超えて提供されたものである。", "qas": [ { "question": "骨髄ドナー検索システムに登録された臍帯血バンクは2012年、全部何カ国からのものですか?", "id": "tr-371-17-000", "answers": [ { "text": "29カ国", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "骨髄ドナー検索システムに登録された臍帯血バンクと骨髄バンクの数はどっちが片方をまさっていますか?", "id": "tr-371-17-001", "answers": [ { "text": "骨髄バンク", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "白血病は厳しく難しい病気ではあるが、治療費助成のある特定疾患(いわゆる難病)には指定されていない。しかし18歳未満の小児白血病には小児慢性特定疾患治療研究事業によって保健福祉事務所あるいは保健所に必要書類を添えて申請すれば自治体による助成を受けられるので小児白血病の治療費の患者負担は大きくはない。さらに治療費の助成だけでなく小児白血病では所得制限などの条件があるが特別児童扶養手当や財団法人がんの子供を守る会などの経済的支援を得られることもあり、あるいは企業によるCSR活動などもある。なので小児白血病では各種の制度を活用すれば保護者の経済的な負担は大きくはない。\n\n成人の白血病の治療費は高額になるが日本の健康保険では高額療養費支給制度を利用できる。\n移植が必要な患者には骨髄バンクや各地に設けられた臍帯血バンクなどの準公的な組織が患者の移植の支援のために活動している。\n2011年末時点では骨髄バンクでは約40万人のドナー登録があり、臍帯血バンクでは3万本のストックがある。\n白血病患者が日本骨髄バンクを利用する際の患者負担金については前年度の所得税額が一定額以下の場合には一部もしくは全額が免除される仕組みもある。\n日本人は民族的に遺伝学的な均一性が高く、そのために日本人同士でHLA型が一致する確率が高く、2004年の数字では世界で750万人の骨髄ドナーがいる中で日本人の骨髄ドナーは18万6千人と少数であったにもかかわらず、2004年時点で移植の総件数でも、人口当たりの移植数でも日本は世界第2位であった(1位はアメリカである)。\nしかし、登録ドナーが40万人を超えた2012年現在でもすべての患者にドナーが見つかるわけではない。", "qas": [ { "question": "18歳未満の小児白血病の関ジャニ自治体による治療費助成を受けられるようにしたのは?", "id": "tr-371-18-000", "answers": [ { "text": "小児慢性特定疾患治療研究事業", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小児慢性特定疾患治療研究事業による治療費助成を受けられる基準年齢は何歳未満ですか?", "id": "tr-371-18-001", "answers": [ { "text": "18歳未満", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2011年末時点では骨髄バンクの登録ドナー数はどれくらいですか?", "id": "tr-371-18-002", "answers": [ { "text": "約40万人", "answer_start": 405, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2004年時点で移植の総件数と人口当たりの移植数ランキングでアメリカの次にくる国はどこですか?", "id": "tr-371-18-003", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 646, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "ラーンナー", "paragraphs": [ { "context": "ラーンナーは、ラーンナー王朝(北タイ語:LN-Lanna.png,タイ語:อาณาจักรล้านนา,ラテン文字転写:XanacakrLanNa、現在のタイ)、もしくはその支配領域であったラーンナー地域を指す。また、これらの地域で育まれた文化をラーンナー文化という。またチエンマイ王朝ともいう。元の冊封を受けた際は八百媳婦国と呼ばれた。", "qas": [ { "question": "ラーンナーと言えば、一般的にどの王朝や、その支配領域のことを言うの?", "id": "tr-372-00-000", "answers": [ { "text": "ラーンナー王朝", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ラーンナー王朝の支配領域のことを何と言いますか?", "id": "tr-372-00-001", "answers": [ { "text": "ラーンナー地域", "answer_start": 95, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ラーンナー王朝の支配領域にて発達した文化のことを、何と言うか?", "id": "tr-372-00-002", "answers": [ { "text": "ラーンナー文化", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ラーンナー王朝の別称は、何か?", "id": "tr-372-00-003", "answers": [ { "text": "チエンマイ王朝", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ラーンナーないしラーンナー地域と称する場合、多くの場合はタイ北部のチエンマイ県、チエンラーイ県、ラムプーン県、ラムパーン県、ナーン県、パヤオ県、プレー県、メーホンソーン県などの領域を指していう。広義のラーンナー地域は、狭義のラーンナー地域に加え、南はターク県バーンターク郡北部まで、西はサルウィン川東岸地域まで、東はメコン川西岸地域すなわちラオス領のサイヤブーリー県、北はミャンマー領のシャン州あるいは中華人民共和国領のシーサンパンナ・タイ族自治州まで拡大して解釈される。", "qas": [ { "question": "ラーンナー地域と称すると、一般的にどの国の北部にある様々な県のことを言うの?", "id": "tr-372-01-000", "answers": [ { "text": "タイ", "answer_start": 28, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "広義のラーンナー地域には含まれるが、狭義のラーンナー地域には含まれない、北方地域としては、どこが挙げられていますか?", "id": "tr-372-01-001", "answers": [ { "text": "ターク県バーンターク郡北部", "answer_start": 125, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メコン川西岸地域とは、どの県と同じ領域のことを指しているか?", "id": "tr-372-01-002", "answers": [ { "text": "サイヤブーリー県", "answer_start": 175, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メコン川西岸地域とは、どの国の領域に含まれるか?", "id": "tr-372-01-003", "answers": [ { "text": "ラオス", "answer_start": 170, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1261年にグンヤーン王国(ヒランナコーングンヤーンとも。現在のチエンセーン郡)の君主となったマンラーイはコック川周辺のヨーン地域にある諸都市(ムアン)を、同盟あるいは攻撃し、自らの支配下に置き領土を広げた。一方でモンゴル帝国の雲南への侵入(雲南・大理遠征)に悩んでいたマンラーイは1262年に、チエンラーイに遷都した。", "qas": [ { "question": "マンラーイがグンヤーン王国の実権を握ったのは、何年のことなの?", "id": "tr-372-02-000", "answers": [ { "text": "1261年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1261年からグンヤーン王国の王として君臨したのは、誰ですか?", "id": "tr-372-02-001", "answers": [ { "text": "マンラーイ", "answer_start": 47, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "チエンラーイがグンヤーン王国の首都となったのは、何年のことか?", "id": "tr-372-02-002", "answers": [ { "text": "1262年", "answer_start": 141, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マンラーイは、コック川周辺のヨーン地域への領域拡大のために、攻撃とどの方法を用いたか?", "id": "tr-372-02-003", "answers": [ { "text": "同盟", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical 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"context": "1294年、マンラーイはピン川上流のウィエンクムカーム(現在のチエンマイ南部)に遷都した。その後1296年にチエンマイに遷都した。一般にこれがラーンナー王朝の成立と考えられている。その後の晩年のマンラーイは元からの侵攻を防ぐため、シャン族に援軍を送っているが、1311年、マンラーイの死んだ頃に、元の朝貢国となっている。", "qas": [ { "question": "ウィエンクムカームとチエンマイのうち、どちらが首都とされた時期からをラーンナー王朝の成立とするの?", "id": "tr-372-04-000", "answers": [ { "text": "チエンマイ", "answer_start": 54, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウィエンクムカームとチエンマイのうち、首都となった時期がより早いのは、どちらですか?", "id": "tr-372-04-001", "answers": [ { "text": "ウィエンクムカーム", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マンラーイが死んだのは、何年のことか?", "id": "tr-372-04-002", "answers": [ { "text": "1311年", "answer_start": 130, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "誰が死んでから元との関係が変わったか?", "id": "tr-372-04-003", "answers": [ { "text": "マンラーイ", "answer_start": 97, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1325年に王位についたセーンプーは、チエンセーンを建設し北方諸都市の防衛拠点を築いた。また、1334年に王位についたカムフーはパヤオ王国に侵攻し、プレー王国を占領しようとしたが失敗した。その次1336年に王位についたパーユーは歴代の王として初めて仏教を積極的に保護した王として知られる。", "qas": [ { "question": "セーンプーが王位についたのは、何年のことなの?", "id": "tr-372-05-000", "answers": [ { "text": "1325年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チエンセーンを建設したのは、誰ですか?", "id": "tr-372-05-001", "answers": [ { "text": "セーンプー", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "セーンプーが北方諸都市の防衛拠点としてのは、どこか?", "id": "tr-372-05-002", "answers": [ { "text": "チエンセーン", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "セーンプーとカムフーのうち、より先に国の君主として君臨したのは、誰か?", "id": "tr-372-05-003", "answers": [ { "text": "セーンプー", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ラーンナーが大きな繁栄を見せたのは、クーナー王(1355-1385年)の代からで、ラーマン派(旧ランカーウォン派)と呼ばれる仏教を保護し、スコータイからスマナー長老を招き、ワット・スワンドークを建設して仏教の一大中心地を作り上げた。その後サームファンケーン王(1402-1441年)の代には、長きにわたり滞っていたラーンナーの朝貢に対して侵攻してきたチン・ホー族(雲南のムスリムを呼ぶ言葉)を追い返し、明の支配下から独立した。", "qas": [ { "question": "ラーンナーが大きな繁栄を見せたのは、誰の時代からであるの?", "id": "tr-372-06-000", "answers": [ { "text": "クーナー王", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クーナー王がスコータイから招いたのは、誰ですか?", "id": "tr-372-06-001", "answers": [ { "text": "スマナー長老", "answer_start": 76, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クーナー王が仏教の一大中心地として建立したのは、どこか?", "id": "tr-372-06-002", "answers": [ { "text": "ワット・スワンドーク", "answer_start": 86, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "この文書によると、クーナー王は、どの宗教の繁栄に力を入れたか?", "id": "tr-372-06-003", "answers": [ { "text": "仏教", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ティローカラート王(1441-1487年)はラーンナー王朝における絶頂期の王として知られる。ティローカラートは即位から10年間は当時独自の王国を築いていたナーンとプレーを版図に加え、国力を増強した。その後、南進を進めヨム川上流のピチットを、ティローカラートに帰順したピッサヌロークの国主プラヤー・ピッサヌロークと共に攻め入った。", "qas": [ { "question": "ラーンナー王朝における絶頂期とされるのは、誰の時代なの?", "id": "tr-372-07-000", "answers": [ { "text": "ティローカラート王", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ティローカラート王の時代に支配下に置いた王国は、プレー、ピッサヌロークとどこですか?", "id": "tr-372-07-001", "answers": [ { "text": "ナーン", "answer_start": 77, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時独自の王国を築いていたところとしては、ナーンとどこが挙げられているか?", "id": "tr-372-07-002", "answers": [ { "text": "プレー", "answer_start": 81, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ティローカラート王のピチット攻略に力を加えたのは、誰か?", "id": "tr-372-07-003", "answers": [ { "text": "プラヤー・ピッサヌローク", "answer_start": 143, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1460年にスコータイ(スコータイ自体、アユタヤ王朝の支配下にあった)の支配下にあったチャリエン(現在のシーサッチャナーライ郡)がラーンナーに帰順すると、今度はピッサヌロークとカムペーンペットを攻撃したが失敗した。", "qas": [ { "question": "チャリエンがラーンナーに帰順したのは、何年のことなの?", "id": "tr-372-08-000", "answers": [ { "text": "1460年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "もともとチャリエンは、どこにて形成された勢力の支配かに置かれていましたか?", "id": "tr-372-08-001", "answers": [ { "text": "スコータイ", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "攻略に失敗した地域としては、カムペーンペットとどこが挙げられているか?", "id": "tr-372-08-002", "answers": [ { "text": "ピッサヌローク", "answer_start": 80, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スコータイは、どの王朝の勢力圏に入っていたか?", "id": "tr-372-08-003", "answers": [ { "text": "アユタヤ王朝", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかし当時、ラーンナーの南に台頭してきたアユタヤの王トライローカナートは、この侵攻に堪えきれず北進を開始し、ピッサヌロークに遷都する一方、膠着していた戦いを収め、ラーンナーと表面上は友好関係を結んだ。結局ラーンナーとアユタヤの対立は1474年まで続いた。この両国の戦いは同時代のアユタヤ人に影響を与え、この戦争の様子を描いた文学作品『リリット・ユワンパーイ』を生み出した。", "qas": [ { "question": "ラーンナー征服を決心したアユタヤ王朝は、どこへと遷都したの?", "id": "tr-372-09-000", "answers": [ { "text": "ピッサヌローク", "answer_start": 54, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アユタヤ王朝の首都がピッサヌロークとなったのは、どの王朝への征服のためだったの?", "id": "tr-372-09-001", "answers": [ { "text": "ラーンナー", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時、ピッサヌロークは、誰が君主として君臨している王朝の支配領域であったか?", "id": "tr-372-09-002", "answers": [ { "text": "トライローカナート", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ラーンナーとアユタヤの対立は、何年まで続いたか?", "id": "tr-372-09-003", "answers": [ { "text": "1474年", "answer_start": 116, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1480年、後レ朝ダイベトのレ・タイントンがラーンサーン王国に侵攻し、国王を殺した。ティローカラートは、このときにラーンナーへ逃げてきたラーンサーンの王子パヤー・サイカーオを保護し、これを追ってラーンナーへ侵攻してきたレ・タイントンを撃退した。この後パヤー・サイカーオはラーンサーンの王位につき、ラーンナーと強力な友好関係を結ぶ。また、この戦いに勝利したことにより、ティローカラートは明から報奨を受け取っている。", "qas": [ { "question": "後レ朝ダイベトがラーンサーン王国に侵攻したのは、何年のことなの?", "id": "tr-372-10-000", "answers": [ { "text": "1480年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1480年、後レ朝ダイベトから侵攻され、国王が殺害されたのは、どの国ですか?", "id": "tr-372-10-001", "answers": [ { "text": "ラーンサーン王国", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1480年にラーンサーン王国への侵攻を行った、後レ朝ダイベトの人物は、誰か?", "id": "tr-372-10-002", "answers": [ { "text": "レ・タイントン", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1480年にラーンサーン王国への侵攻を行った国は、どの国か?", "id": "tr-372-10-003", "answers": [ { "text": "後レ朝ダイベト", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "衰退期のラーンナーにおいては、国王の威光も衰退し、台頭してきた官吏らによる政治が行われた。1525年のケートクラオの即位は官吏らの指名によるものである。ケートクラオはそれまでムアンノーイという一地方の国主であり、チエンマイに政治基盤を持たなかった故に、脆弱であった。1535年にラムプーンの国主によるクーデタが起きる。これは失敗に終わるが、1538年官吏らによってケートクラオは王位を簒奪され、ケートクラオの子、チャーイが官吏らに擁立された。しかし5年間の統治の後チャーイも暗殺され、再びケートクラオが擁立されるが、これも2年後に暗殺される。", "qas": [ { "question": "ケートクラオが即位したのは、何年のことなの?", "id": "tr-372-11-000", "answers": [ { "text": "1525年", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1525年に官吏らから君主として選ばれ、即位したのは、誰ですか?", "id": "tr-372-11-001", "answers": [ { "text": "ケートクラオ", "answer_start": 51, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ラムプーンの国主によるクーデタが起きたのは、何年のことか?", "id": "tr-372-11-002", "answers": [ { "text": "1535年", "answer_start": 133, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チャーイが即位したのは、何年のことか?", "id": "tr-372-11-003", "answers": [ { "text": "1538年", "answer_start": 170, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1551年にメクティ(メーク)が王位につくが、1558年東方への領土拡大を狙ったタウングー王朝のバインナウンの侵攻に遭い、その支配下に入り、独立国としてのラーンナー王朝は終わりを告げた。その後、マンラーイ王家はチエンマイの土地を引き続き認められるが、1564年から1578年までウィスッティテーウィー女王が君主としてチエンマイを統治した。", "qas": [ { "question": "独立国としてのラーンナー王朝の最後の君主は、誰なの?", "id": "tr-372-12-000", "answers": [ { "text": "メクティ", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ラーンナー王朝が独立国としての地位を失ったのは、何年のことですか?", "id": "tr-372-12-001", "answers": [ { "text": "1558年", "answer_start": 23, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "軍服(ドイツ国防軍陸軍)", "paragraphs": [ { "context": "1933年にナチ党政権が誕生すると新しい野戦服が検討され、いくつかの改良を経たのち、1935年9月5日にM36野戦服が制定された。\n\nフィールドグレー色を基調としたレーヨンが5%混ざったウール製の軍服であり、襟と肩章の部分だけダークグリーン色の上質なラシャ製だった。襟は閉じても開襟でもよかった。前ボタンは5つ、波型のふた付きプリーツポケットが両胸・両裾に合計4つ付いており、右胸ポケットの上部には鷲章が付いていた。両腰にはそれぞれ小穴があり、後述の装備ベルトを支えるためのフックを設けた。このフックは上衣内側の腋下から布ベルトで吊るし、フックの先端を外部へ出すようになっていた。上衣背面の裾にはセンターベントが設けられている。", "qas": [ { "question": "M36野戦服はいつ制定されたか。", "id": "tr-373-00-000", "answers": [ { "text": "1935年9月5日", "answer_start": 42, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "M36野戦服は何色だった?", "id": "tr-373-00-001", "answers": [ { "text": "フィールドグレー色", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "M36野戦服の襟と肩章の部分は何色でしたか。", "id": "tr-373-00-002", "answers": [ { "text": "ダークグリーン色", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "戦争が長期化するにつれて野戦服の生産工程の簡略化がすすめられ、1940年には襟と肩章が服と同じフィールドグレー色の野戦服が作られるようになった。これをM40野戦服と呼ぶことがある。合成繊維の比率も20%程度に増加したため、ウールの品質に低下が見られる。\n\nさらに1943年にはポケットのプリーツが廃止され、またポケットのふたが波型ではなく直角になった野戦服の製造が開始された。これをM43野戦服と呼ぶこともある。ボタンは一つ増えて6個になっている。襟は閉じても開襟でもよいが、1943年に襟付きシャツが制定されたので開けることが多くなった。この襟付きシャツはそれ以前のシャツに代わって導入された物で、かぶって着るシャツであり、袖は長いが袖口をボタンで絞り込めるようになっていた。夏場などはこのシャツに肩章を取り付けて過ごす場合も多かったという。", "qas": [ { "question": "M40野戦服の襟と肩章は何色?", "id": "tr-373-01-000", "answers": [ { "text": "フィールドグレー色", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "戦争が長期化するにつれて、1940年に襟と肩章が服と同じフィールドグレー色になった野戦服を何と呼んだりしたの?", "id": "tr-373-01-001", "answers": [ { "text": "M40野戦服", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "M43野戦服のボタンは何個?", "id": "tr-373-01-002", "answers": [ { "text": "6個", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "M43野戦服とM40野戦服と、ボタンの数がもっと多いのはどっちなの?", "id": "tr-373-01-003", "answers": [ { "text": "M43野戦服", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "戦況の悪化でウール不足が深刻化し、1943年から1944年頃になると再生ウールが多く使用されるようになり、レーヨンの混紡率も高くなり、保温機能が悪化した。素材の変化でM43野戦服の頃からフィールドグレーというよりグレーブラウンに似た色になっていった。\n\n1944年には更なる生産工程の簡略化のためM44野戦服が登場した。これはもはやドイツ軍というより英軍の野戦服「バトルドレス」に似た形状であり、丈が短く下ポケットが廃止され、襟も開襟で着るのが普通になった。またこれまで下士官は襟廻りにトレッセという縁取りを入れて兵と区別されていたのだが、M44ではそれが廃止され、兵卒か下士官かの違いは肩章のみで判別するようになった。前ボタンはM43の6つが維持された。服の素材もますます劣悪となり、スパンレーヨンにわずかに再生ウールが入ってるだけになり、その色はますますグレーブラウンになっていき、この色は「フェルトグラウ(フィールドグレー)44」と呼ばれた。", "qas": [ { "question": "M43野戦服の色はフィールドグレーに近い色でしたか、グレーブラウンに近い色でしたか。", "id": "tr-373-02-000", "answers": [ { "text": "グレーブラウン", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1944年に更なる生産工程の簡略化のため登場した野戦服は何と呼ばれますか。", "id": "tr-373-02-001", "answers": [ { "text": "M44野戦服", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "M44野戦服の形状はドイツ軍の野戦服に似ていましたか、英軍の野戦服に似ていましたか。", "id": "tr-373-02-002", "answers": [ { "text": "英軍の野戦服", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "M44野戦服の前ボタンはいくつでしたか。", "id": "tr-373-02-003", "answers": [ { "text": "6つ", "answer_start": 319, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "将校は支給品のM36野戦服のような制服を洋服屋で自ら仕立てて着用するのが基本であった。M36と規格の上で違う点としては袖の部分に折りカフスが付いていること、襟が高いこと、襟章のドッペルリッツェンがより精巧な事、ベルトを止めるホックが付いていなかったことなどがある。折りカフスは命令書などを挟むのに使われていたという。素材は一般に支給軍服より良い物が使われていることが多く、ドスキンというラシャ地で作る者が多かった。ただ消耗を避けるために野戦では将校も支給品の野戦服を着用するのが一般的で、オーダーメイド野戦服は後方勤務の場合に使用されることが多かった。\n\n将校は下衣としてフィールドグレーのシャツと黒いネクタイを用いていたが、当初将校は襟を閉じるように規定されていたためネクタイは見えなかった。しかし1943年にネクタイが見えるように開襟で着用することが許可された(とはいっても開襟にする者はほとんどいなかったようである)。", "qas": [ { "question": "将校の下衣のシャツは何色だった?", "id": "tr-373-03-000", "answers": [ { "text": "フィールドグレー", "answer_start": 286, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "将校の中でも将官はとりわけ高級感漂う軍服を仕立てた。\n\nまた規格の上でも大佐以下の将校とは明確な違いがあった。将官は赤の台布に金のアラベスク模様が描かれたラーリシュ・シュティッケライという襟章を着用し、また右胸鷲章や服のボタンなどが金色になっていた。将官のかぶる軍帽のパイピングや顎紐やボタンや刺繍帽章も金色であった。制帽の金属の帽章類ははじめ大佐以下と同じ銀色だったが、これも1942年11月16日以降には金に変更された。\n\nズボンは基本的に乗馬ズボンを用い、約3センチの赤い側章が2本記入されていた。\n\n将官ともなると勤務が長期間に及ぶため、ヴァイマル共和政時代の国軍の軍服に国防軍の徽章を用いた軍服を着用する者が多かった。国軍時代の軍服やオーストリア併合後にドイツ軍に吸収された旧オーストリア軍の軍服について国防軍は着用を禁止していなかったためである。国軍時代の野戦服は前ボタンが8個ついており、また腰のポケットが切り込みになっているため外見からして判別が付く。", "qas": [ { "question": "ラーリシュ・シュティッケライには何の模様が描かれていましたか。", "id": "tr-373-04-000", "answers": [ { "text": "アラベスク模様", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "国軍時代の野戦服には前ボタンが何個ありましたか。", "id": "tr-373-04-001", "answers": [ { "text": "8個", "answer_start": 393, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "野戦服の上衣の下に着る下着は、1933年5月採用のレーヨン混紡の綿ニット素材で製造される生成り色のシャツだった。シャツに襟はないのでカラーの使用が必要だった。布で補強された前立てを合成樹脂ないし紙製のボタン4つで留めた。熱帯地で上衣を脱ぐ際に生成り色シャツは目立つため、後にグリーンに染められるようになった。1941年には襟付きでレーヨンの混紡率が高めな灰緑色のシャツが登場した。夏にはこのシャツだけで過ごすことが認められていた。1943年にはM43シャツが登場した。これは胸にプリーツ付きのポケットが付き、肩章を付けることができた。合成繊維の含有率はより高くなり、色はよりグレーに近かった。", "qas": [ { "question": "野戦服の上衣の下に着るシャツは何色でしたか。", "id": "tr-373-05-000", "answers": [ { "text": "生成り色", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "M43シャツは何年に登場したの?", "id": "tr-373-05-001", "answers": [ { "text": "1943年", "answer_start": 215, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "礼服(Waffenrock)は式典などの公式行事や外出着として着用する軍服である。国軍時代から礼服は存在していたが、1935年6月29日に陸軍総司令部はドイツ国防軍用の礼服を生産することを認可した。将校は出来る限り早く新礼服を仕立てるべきとされ、また下士官は1935年中、兵士は1936年中に支給されることとなった。ただし国軍時代の旧礼服も着潰すまで着用することが認められていた。\n\n旧礼服との違いとしてはポケットが外されたこと、袖のカフスに粉飾が施されたこと、背部にひれ状の粉飾が付けられたことがある。旧礼服と同じ特徴としては前ボタンが8個であること、襟章のドッペルリッツェンが通常の野戦服より派手で台布も兵科色になっていること、前立てや襟の縁取りなどに幅2ミリの兵科色のパイピングが付いていることがある。礼服のデザインは基本的に将校も下士官・兵士も同じだが、下士官・兵士用は銃剣をベルトからつるすことがあるため、ウェストの部分の後部左側にホックが付いており、また下士官の場合は襟とカフスに銀モールの白い縁取り(トレッセ)が付いている。礼服の上着は野戦服と同じフィールドグレー色であったが、ズボンは暗いグレー色で兵科を示す縦線が側面部分に入っていた。ただ将校の場合は乗馬ズボンをはく場合もあった。\n\n礼服着用の際の将校は飾緒を右肩に着用した。また下士官兵士であっても「射撃優等用飾緒」を授与されている者はそれを着用することができた。「射撃優等用飾緒」は12等級存在し、バッジの違いや「ドングリ」の数で等級が分かるようになっていた。さらに軍楽隊である場合には肩飾りシュヴァルベンネスター(Schwalbennester)を付ける。また、帯刀は将校のみだが、騎兵下士官はサーベルを佩いていた。\n\n1940年2月に戦時中限定の軍服規定として礼服は停止され、代わりに通常の野戦服が礼服としても使用できるようになり、この際に帯刀できるようになった。ただし飾緒や礼装ベルトなどの着用は禁じられていた。", "qas": [ { "question": "式典などの公式行事や外出着として着用する軍服を何といいますか。", "id": "tr-373-06-000", "answers": [ { "text": "礼服(Waffenrock)", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "軍楽隊の場合、肩の部分に何をつけるの?", "id": "tr-373-06-001", "answers": [ { "text": "シュヴァルベンネスター(Schwalbennester)", "answer_start": 682, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1940年2月に戦時中限定の軍服規定として礼服は停止され、代わりに何が礼服として使われるようになりましたか。", "id": "tr-373-06-002", "answers": [ { "text": "通常の野戦服", "answer_start": 780, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ドイツ軍の基本的な防寒具はオーバーコートである。将校と下士官・兵士でデザイン上の大きな違いはない。素材や細部に個人差が見られる程度である。\n\nオーバーコートの前ボタンは6個のボタンがダブルになっている。背中の腰部分には2個のボタンで止めるハーフベルトが付いており、そこからプリーツ(のちセンターベント)が下に伸びていた。コートには襟章は付けず、肩章と袖章のみを付けた。素材はウールであることが多かった。\n\n1934年制定の支給オーバーコートは襟の部分だけダークグリーンだったが、野戦服と同様に1940年からコート全体がフィールドグレー色で統一された。1942年に新しい支給オーバーコートが採用されたが、これは1941年から1942年にかけてのロシアでの厳寒の経験を踏まえて襟を大きくし、顔の下半分を隠せるようにしていた。また両脇にスリット・ポケットが加えられていた。また動きやすいように背中のプリーツがセンターベント(切り込み)になり、必要ならボタンで留める仕様となった。\n\n大佐以下は襟を閉じてコートを着用するが、将官は開襟でコートを着用した。陸軍将官のオーバーコートの下襟の内側はカーマインレッド色であり、それを外部に見せつけるように開襟した。", "qas": [ { "question": "オーバーコートの前ボタンは何個なの?", "id": "tr-373-07-000", "answers": [ { "text": "6個", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オーバーコートの素材は何が多かった?", "id": "tr-373-07-001", "answers": [ { "text": "ウール", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "陸軍将官のオーバーコートの下襟の内側は何色でしたか。", "id": "tr-373-07-002", "answers": [ { "text": "カーマインレッド色", "answer_start": 492, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "開襟でコートを着用したのは大佐以下だったか、将官だった。", "id": "tr-373-07-003", "answers": [ { "text": "将官", "answer_start": 458, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ドイツ国防軍陸軍の正式な軍帽が制帽(Schirmmütze)である。制帽には顎紐、鷲章、円形章(コカルデ)が付いており、円形章の周りを柏葉が取り囲んでいるデザインになっている。大佐以下は帽子のトップ周りとバンド(円形章が入っている帯の部分)の上下に兵科色のパイピングが入っているが、将官は金色であった。顎紐は将官が金、大佐以下の将校が銀、下士官兵士は黒い革であった。鷲章と円形章ははじめ全階級で銀色だったが、将官のみ1942年11月16日以降に金色になっている。\n\n戦前は兵士から将校までパレードや外出の場合にはこの制帽を用いるのが基本であった。しかし戦時中には制帽の着用は基本的には将校のみであり、野戦で下士官、まして兵士が制帽をかぶるのはまれであったという。\n\n将校はオーダーメイドなので将校制帽にも個人差が見られる。軍の規格に沿っていないクラッシュキャップ風になっている制帽も数多く存在した(顎紐がなかったもの、通常の形状よりトップがやや潰れているもの、鷲章・円形章・柏葉章などが金属ではなく刺繍されていたもの)。正規のトップの高い制帽は「ザッテルフォルム(Sattelform)」と呼ばれていた。", "qas": [ { "question": "1942年11月16日以前、鷲章と円形章ははじめ全階級で何色でしたか。", "id": "tr-373-08-000", "answers": [ { "text": "銀色", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "正規のトップの高い制帽は何と呼ばれていたか。", "id": "tr-373-08-001", "answers": [ { "text": "「ザッテルフォルム(Sattelform)」", "answer_start": 472, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "クラッシュキャップは将校が制帽の代わりに用いた戦闘用の略帽である。「クラッシュキャップ」(Crushercap)は俗称であり、正式名称は「野戦帽」(Feldmütze)である。後に支給を廃されたので「旧式野戦帽」(FeldmützeältererArt)と名付けられた。制帽に似た形状だが、中に形状を保つワイヤーが入っておらず、柔らかい。また顎紐がなく、顎紐を留めるためのボタンもない。鷲章・円形章・柏葉章も金属ではなく刺繍だった。兵科色がトップ周りとバンド部に入っているのは制帽と同じである。\n\n1934年に制定されるも1938年に支給が廃止された。しかし持ち運びに便利であることから、前線では下士官以上の者がオーダーメイドしてよく使用していた。", "qas": [ { "question": "将校が制帽の代わりに用いた戦闘用の略帽を何といいますか。", "id": "tr-373-09-000", "answers": [ { "text": "クラッシュキャップ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「野戦帽」(Feldmütze)の俗称は何ですか。", "id": "tr-373-09-001", "answers": [ { "text": "「クラッシュキャップ」(Crushercap)", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "クラッシュキャップは何年に廃されたの?", "id": "tr-373-09-002", "answers": [ { "text": "1938年", "answer_start": 261, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "全ドイツ軍人が制帽の代わりに用いた戦闘用の折り返し型の略帽である。このような折り返し帽はドイツに限らず他国にも多く見られる。正式名称はクラッシュキャップと同じく「野戦帽」(Feldmütze)であった。逆さにすると船のような形なので「小船」(Schiffchen)という愛称があった。日本では一般に略帽と呼ばれている。野戦服に使われていたのと同じウールとセルロース繊維混紡の布地で作られていた。\n\n略帽には下士官・兵士用の1934年型と将校用の1938年型があった。将校用のは旧野戦帽(上記のクラッシュキャップ)に代わる物としての導入である。略帽の基本的なデザインは下士官兵士用も将校用も同じだが、将校用は頭部にアルミ糸で縁取りが付けられており、よりスマートなデザインだった。帽子正面にはクラウン部分に鷲章、折り返し部分に円形章がついており、円形章を逆Vの字で囲むように兵科色のパイピングが二本入っている(この逆Vの字のパイピングはスータッシェと呼ばれた)。両側面には通気孔のハトメがあった。シュタールヘルムの下に略帽を被って更に頭部を守り、被り心地がよくなるよう考えられていた。\n\n1942年には略帽の形状が改良された。最大の違いは折り返し部分が前面で2個のボタンによって留められ、寒い時には折り返し部分を降ろして耳などを保護できるようになった点である。ボタンの部分にあった円形章はクラウン部分に移され、逆Vの字のパイピングは廃止された。しかしこの廃止の通達はしばしば無視された。\n\nさらに1943年にはそれにバイザーを付けた規格帽が登場して取って代わられることとなった。", "qas": [ { "question": "全ドイツ軍人が制帽の代わりに用いた戦闘用の折り返し型の略帽の愛称は何でしたか。", "id": "tr-373-10-000", "answers": [ { "text": "「小船」(Schiffchen)", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "全ドイツ軍人が制帽の代わりに用いた戦闘用の折り返し型の略帽を逆さにすると何のような形になりますか。", "id": "tr-373-10-001", "answers": [ { "text": "船", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "略帽の折り返し部分が前面で2個のボタンによって留められるようになったにはいつからでしたか。", "id": "tr-373-10-002", "answers": [ { "text": "1942年", "answer_start": 492, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "略帽の逆Vの字のパイピングは何年に廃止されたか。", "id": "tr-373-10-003", "answers": [ { "text": "1942年", "answer_start": 492, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "大戦後期、恐らくシュタールヘルムに次いでドイツ兵に多く用いられていたのがこの統一規格野戦帽(Einheitsfeldmütze)である。異なる規格の陸軍、空軍、SSの略帽を統一する形で1943年6月11日に制定された。日本では規格帽と呼ばれることが多い。1943年に制定されたためM43帽とも呼ばれる。1943年以降上記の略帽に取って代わった山岳帽型の野戦帽である。\n\n山岳部隊が使用した山岳帽や北アフリカで使用されたバイザー付き略帽が兵たちから非常に好評だったため、この型の帽子を全軍に支給するために1942年型略帽にバイザーを付ける形で開発された。山岳帽や1942年型略帽と同様に折り返し部分の前部に2個のボタンがついており、これを外して折り返しを垂れ下げることで耳を寒さから保護することができた。\n\n布地はセルロース繊維が70%から90%の割合で入った混紡である。鷲章と国家色の帽章は灰緑色の台布の上にグレーの人絹糸で刺繍されていた。ボタンは無塗装か艶消しの灰緑色の石目柄のアルミニウム製のほか、合成樹脂やガラス、ベークライト、紙、木のボタンが使われることもあった。鍔の芯は多くはボール紙か合成素材だったので、濡れたり、畳んでポケットにしまう時などに曲がったり、折れたりすることがあった。", "qas": [ { "question": "異なる規格の陸軍、空軍、SSの略帽を統一する形で制定したのは何年のことですか。", "id": "tr-373-11-000", "answers": [ { "text": "1943年", "answer_start": 92, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本で規格帽と呼ばれるのは何年に制定されましたのですか。", "id": "tr-373-11-001", "answers": [ { "text": "1943年", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ドイツ軍人を象徴する防具がこの鉄兜、シュタールヘルム(Stahlhelm)である。国防軍は1935年6月25日にM35シュタールヘルムを制定した。それまでに使われていた第一次世界大戦時のM16やM18よりも軽量化されてデザイン的にも洗練された。もっとも西方電撃戦ぐらいまでの頃には一次大戦時のシュタールヘルムが依然として用いられていたという。\n\nシュタールヘルムは国防軍、SS、警察で共通であり、貼り付けるデカールのみが異なった。国防軍のシュタールヘルムのデカールは右側にドイツ帝国以来の「黒白赤(シュヴァルツ=ヴァイス=ロート)」の国家色、左側には鷲章が貼り付けられていたが、迷彩効果を優先する為、国家色デカールは1940年3月21日、鷲章は1943年8月23日に廃止命令が出された。", "qas": [ { "question": "国防軍はいつM35シュタールヘルムを制定したか。", "id": "tr-373-12-000", "answers": [ { "text": "1935年6月25日", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "M16とM35と、どっちの方が先に使われていたの?", "id": "tr-373-12-001", "answers": [ { "text": "M16", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "国防軍のシュタールヘルムのデカールはいつ廃止されたか。", "id": "tr-373-12-002", "answers": [ { "text": "1940年3月21日", "answer_start": 308, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "国防軍のシュタールヘルムの鷲章はいつ廃止されたか。", "id": "tr-373-12-003", "answers": [ { "text": "1943年8月23日", "answer_start": 322, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ドイツ軍は当初全兵に黒革のブーツを支給しており、それがシュタールヘルムと並んでドイツ軍の特徴であった。ドイツの軍用ブーツはプロイセン軍が1866年に採用したものが端緒であり、靴底には野外での滑り止め用に鉄製の金具が打たれていた。公的には「マルシュシュティーフェル(行軍ブーツ)」(Marschstiefel)と呼称されたが、俗に「クノーベルベッヒャー(サイコロ壺)」(Knobelbecher)とも呼ばれた。\n\n行軍ブーツは上等な黒染の牛革で製造されたジャックブーツで、ふくらはぎの部分の丈は35センチから41センチだった。1939年11月9日の通達で35センチから29センチに短縮された。この規定が実際に効力を持ったのは1940年春からである。革の節約のために短めにされたものだった。\n\n二重の靴底に35個から45個のスパイク(鋲)で補強されている。しかしこのスパイクは東部戦線で断熱効果を発揮し兵士たちの足を凍えさせ、凍傷の原因になったとされる。", "qas": [ { "question": "ドイツ軍の特徴には黒革のブーツのまた何がありましたか。", "id": "tr-373-13-000", "answers": [ { "text": "シュタールヘルム", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイツの軍用ブーツの公的な名称は何ですか。", "id": "tr-373-13-001", "answers": [ { "text": "「マルシュシュティーフェル(行軍ブーツ)」(Marschstiefel)", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ドイツの軍用ブーツの俗称は何ですか。", "id": "tr-373-13-002", "answers": [ { "text": "「クノーベルベッヒャー(サイコロ壺)」(Knobelbecher)", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ベルトは将校か下士官兵士で大きく分かれる。下士官兵士は長方形バックルの付いた黒いベルト、将校はオープン・フレームのバックルの茶色ベルトを用いることが多かった。将校の茶色ベルトはサイズ調整用の穴が2列に開けられている。対して下士官兵士のベルトはベルトの一端にバックルに引っ掛けるフックが付いていた。\n\n下士官兵士用のベルトのバックルにはプロイセン時代からの格言「神は我らと共に(GottMitUns)」という文字が鷲の周りを取り囲むように刻まれている。一方将校にも礼装用やアフリカ軍団使用のベルトに丸型バックルの付いた物があったが、このバックルには文字は刻まれておらず、かわりに鷲の周りを柏葉が取り囲んでいるデザインになっていた。SSでは将校の丸型ベルトにも下士官兵士の四角いバックルにも「忠誠こそ我が名誉」という文字が刻まれており、ヒトラー個人への忠誠を陸軍よりも強く打ち出していた。\n\n初期のベルトには右肩から斜革がたすき状に付けられていたが、これは1940年から使用されなくなった。", "qas": [ { "question": "下士官兵士が使ったベルトは黒いベルトでしたか、茶色ベルトでしたか。", "id": "tr-373-14-000", "answers": [ { "text": "黒いベルト", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "下士官兵士用のベルトのバックルには何という文字が刻まれているか。", "id": "tr-373-14-001", "answers": [ { "text": "「神は我らと共に(GottMitUns)」", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第二次大戦時には戦争での毒ガス使用はジュネーヴ議定書によって禁じられていたが、連合軍がいつ使用してくるか分からなかったため、ドイツ軍兵士たちはガスマスクの支給を受けて常時携帯していた。結局この大戦で毒ガスが使用されることはなく、ガスマスクが耐ガス防具として使用されることはなかった。しかしながら耐ガス以外の目的でガスマスクが着用された例はあった。シールドがない初期型のパンツァーシュレックの耐火防護マスクとしての使用、東部戦線での防寒マスクとしての使用などである。\n\nガスマスクには1930年型と1938年型の2種類があり、いずれもキャニスターをマスクに取り付ける直結式であった。ガスマスクとして以外の使用の場合はキャニスターは外して使用する。\n\nガスマスクを携行するためのコンテナも一緒に支給された。これは鉄製の筒のような形状であった。ガスマスクとコンテナあわせて重量は2キロほどであった。野戦装備を携行する際には、まずガスマスクコンテナを身に付け、その上からY字サスペンダーを装着するよう定められていた。また毒ガスが空中散布された場合に備えてガスケープも支給されていた。ガスケープは専用の袋の中に収納し、その袋はコンテナに巻き付けるかコンテナのストラップに取り付けて携帯した。", "qas": [ { "question": "第二次大戦のとき、毒ガス使用は何によって禁じられていたか。", "id": "tr-373-15-000", "answers": [ { "text": "ジュネーヴ議定書", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ガスマスクには何種類ありますか。", "id": "tr-373-15-001", "answers": [ { "text": "2種類", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ツェルトバーン(Zeltbahn)とは迷彩柄のテントである。南米の古来からの衣服の名前を取ってポンチョと呼ばれることもある。1931年に制定された。二等辺三角形の防水布でできており、頂点は折り返され、周辺にボタンとボタン穴が設けられている。また中央部に雨具として使う際に頭を通すためのスリットがある。頭部を保護するためのフードは無い。通常は雨具として利用したり、ツェルトバーンを何枚か合わせてテントを作るためのものである。ツェルトバーンをテントにするためのピンとポールは布製のケースに入れてリュックサックかAフレーム・バッグに入れて携帯した。迷彩ははじめスプリンター・パターンと呼ばれる直線的な迷彩が多かったが、後にウォーターパターンと呼ばれるぼかしタイプの迷彩が増えた。\n\nツェルトバーンはテント以外にも様々に利用された。代表的な使い方が迷彩服としての使用である。陸軍の迷彩の使用はこのツェルトバーンやシュタールヘルムの迷彩カバー、スナイパーと装甲擲弾兵に使用された迷彩スモック、一部の防寒着などに限られており、迷彩服の一般的な支給はされなかった。そのため陸軍兵士で迷彩服が欲しい者はツェルトバーンを迷彩服の代わりとして使用したのである。それ以外には負傷者の搬送に使われたり、ツェルトバーン数枚を使ってワラなどを包み、浮力を得て渡河用の橋に利用したなどの例もある。", "qas": [ { "question": "ツェルトバーン(Zeltbahn)は何年に制定された?", "id": "tr-373-16-000", "answers": [ { "text": "1931年", "answer_start": 62, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ハーケンクロイツの上に留まる鷲の紋章(Adler)はナチス・ドイツの国章である。軍服の右胸や軍帽のトップにこれが貼り付けられていた。鷲章は国軍時代、いまだパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領が最高司令官だった頃の1934年2月25日に付けるよう命じられたものである。\n\n陸軍において右胸鷲章は、ダークグリーンの台布の上にレーヨン糸で刺繍されていた。兵士・下士官は白やグレーの糸で、大佐以下の将校は銀モールで、将官たる将校は金モールで刺繍されていた。しかしやがて支給軍服の台布はダークグリーンではなく、服と同じフィールドグレーになっていった。また刺繍ではなく染めつけただけの物も増え、1944年からは鷲の形に切り取る労力が惜しまれて三角形の台布になった。\n\n軍帽の鷲章も基本的には右胸鷲章と同様である。しかし制帽の鷲章だけは金属製であった。ただ制帽のところで前述したが、将校は制帽をオーダーメイドしていたので個人差があり、台布に鷲を刺繍している将校制帽も多く見られる。", "qas": [ { "question": "ハーケンクロイツの上に留まる鷲の紋章(Adler)はどこの国章ですか。", "id": "tr-373-17-000", "answers": [ { "text": "ナチス・ドイツ", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "鷲章をつけるようと命令があったのはいつでしたか。", "id": "tr-373-17-001", "answers": [ { "text": "1934年2月25日", "answer_start": 106, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ドイツ陸軍において襟章(Kragenspiegel)は上級将校(将官)、中級・下級将校(大佐から少尉)、下士官、兵という4段階の大雑把な区別で示された。細かい階級は肩章によって示され、これは親衛隊とは異なる(一般親衛隊は肩章で将官、佐官、尉官、下士官、兵という5段階の大雑把な区分で、襟章で細かい階級を示した。ただし武装親衛隊では陸軍の肩章が用いられたので肩章でも細かい階級が分かり二重表示になっていた)。\n\n将官の襟章は赤地の上に金モールでラーリシュ・シュティッケライと呼ばれるデザインが配われている。アラベスクとも呼ばれるこのデザインはもともとプロイセン陸軍の制服の飾りで使用されていた物であり、1900年からプロイセン軍将官の襟章として用いられるようになったものである。一部のコレクターの間ではその形から「エビフライ」と俗称されている。元来、将官と元帥は同じラリシュ・シュティッケライを用いたが、1941年4月3日から元帥用にラーリシュ・シュティッケライを長くした独自の襟章が制定された。", "qas": [ { "question": "ドイツ陸軍において襟章は、大きくいくつの段階に区別されていましたか。", "id": "tr-373-18-000", "answers": [ { "text": "4段階", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "雨氷", "paragraphs": [ { "context": "雨氷(うひょう)は、0°C以下でも凍っていない過冷却状態の雨(着氷性の雨)が、地面や木などの物体に付着することをきっかけに凍って形成される硬く透明な氷のこと。着氷現象の一種でもある。\n\n水はふつう凝固点である0°Cを下回ると凝固(凍結)し氷となる。しかし、ある条件下では0°C以下であっても凍結しないで液体のままを保つことがある。水を構成する分子が非常に安定しているときに起こるもので、これを過冷却状態という。自然界では、雲や霧を構成する水滴のように3-数百μmの大きさでは−20°C程度まで、雨粒のように数百μm-数mmの大きさでは−4°C程度まで、過冷却のものが存在することが知られている。\n\n雨粒がこのような過冷却状態にある雨を着氷性の雨という。なお、直径0.5mm以下の雨粒からなる雨を霧雨というが、同様に過冷却状態にある霧雨を着氷性の霧雨という。本項目ではこれ以降、特に注記がない場合は「着氷性の雨」には霧雨も含めることとする。過冷却状態の水に衝撃を与えると急速に凍結を始めて氷となるが、着氷性の雨も同様に樹木、地面、電線などの(0°C以下に冷えている)物体に触れた衝撃で凍結する。このようにしてできる付着氷が雨氷である。なお、雨よりも小さな水滴でできている霧の場合にも起こりうる。過冷却状態にある霧を着氷性の霧という。着氷性の霧は、後述のように風速や気温などの条件次第で付着の様子が変わるため、雨氷に限らず、粗氷、樹氷にもなる。", "qas": [ { "question": "水を構成する分子が非常に安定しているとき、0°C以下であっても凍結しないで液体のままを保つ現象をどう呼びますか?", "id": "tr-374-00-000", "answers": [ { "text": "過冷却状態", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "着氷性の雨が物体に衝突したら凍っちゃう原因は何ですか?", "id": "tr-374-00-001", "answers": [ { "text": "衝撃", "answer_start": 427, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "着氷性雨が通常の雨と異なる点は何ですか?", "id": "tr-374-00-002", "answers": [ { "text": "過冷却状態", "answer_start": 307, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1873年の国際会議で決定された気象用語では、ほぼ透明な付着氷が「glazedfrost」、白色で脆いものは「silverthaw」であった。日本では前者を「樹氷」に後者を「凝霜」と訳す予定であったが、1877年に内務省地理局が英語から気象用語を翻訳する際、2つの英文が入れ替わったため、「glazedfrost」は「凝霜」に「silverthaw」は「樹氷」と訳された。後に霜と混同して誤解を生むとされたことから、中国語の「霧淞」をより平易にした「雨氷」が1915年(大正4年)から使用されるようになった。\n\n英語では「上ぐすり(釉薬)」の意味があるglaze、glazeiceを雨氷を意味する語として用いる。また、航空の分野では航空機に付着する雨氷を特にcleariceと呼ぶことがある。また、着氷性の雨、霧雨、霧はそれぞれFreezingrain、Freezingdrizzle、Freezingfogという。", "qas": [ { "question": "もともと「glazedfrost」は和訳でどんな名前だった?", "id": "tr-374-01-000", "answers": [ { "text": "「樹氷」", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1877年に「silverthaw」に間違いでつけられた和訳は何ですか?", "id": "tr-374-01-001", "answers": [ { "text": "「樹氷」", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "今使われている雨氷の名称はどの国から由来したものですか?", "id": "tr-374-01-002", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 208, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "雨氷は、物体表面に硬く滑らかで透明な氷の層を作る。同じ着氷現象の1種である樹氷や粗氷とは、色や性質により区別されている。樹氷は白色不透明、粗氷は半透明なのに対して、雨氷は透明である。また樹氷より粗氷の方が固いがどちらも手で触れば崩れる程度の硬さであるのに対して、雨氷は固く手で触った程度では崩れない。色や脆さの違いは、気泡の含有率に起因している。樹氷は小さな気泡をたくさん含むため白色で脆く、粗氷は樹氷よりは固いがそれでも気泡を多く含むため半透明を呈する。一方の雨氷は気泡の含有率が低いため透明であり、氷が形成されるとき水滴同士が融合しあうので表面が滑らかになる。雨氷の密度は約0.9であり、純粋な氷とほぼ同じである。\n\nなお、0°Cを僅かに超えた雨粒が0°C以下に冷えた物体に付着しても透明な氷ができ、雨氷と混同される場合がある。また、積雪が融解したあと再び凍結するなどして透明な氷ができることもある。これらは雨氷ではない。なお、再凍結によりできるもののうち、例えば細く地面に向かって垂れ下がるものは氷柱、反対に空に向かって伸びるものは氷筍という。", "qas": [ { "question": "雨氷が他の着氷現象より硬い理由は何が高いためですか?", "id": "tr-374-02-000", "answers": [ { "text": "密度", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "白色不透明の色をもつ着氷現象は?", "id": "tr-374-02-001", "answers": [ { "text": "樹氷", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "着氷現象同士で色や脆さの違いが起こる要因は何ですか?", "id": "tr-374-02-002", "answers": [ { "text": "気泡の含有率", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "着氷性の雨が発生する条件として、地上気温は0°Cからマイナス数°Cの狭い範囲に限られ、後述のように上空に適度な厚みの逆転層が存在することが必要である。ごくありふれた現象である雨や雪と比べて、雨氷は目にする機会が少なく、発生頻度も低いため、珍しい気象現象とされている。\n\n低地の平野部よりも、地形に起伏のある山地などのほうが発生しやすい。これは起伏により逆転層が形成されやすくなることなどが原因である。\n\n雨氷が物体に大量に付着すると、樹木の枝が重くなりって折れ曲がったり、地面に氷の層を作って人の転倒や車両のスリップを引き起こすなど、被害を発生させることがある。一方、樹木などに付着した雨氷が美しい風景を作り出すという側面もある。着氷性の雨や霧は上空でも生じるが、これにより雨氷が航空機の翼などに付着して運行に重大な支障を引き起こす例がある。", "qas": [ { "question": "山地と平野の中では雨氷が多いのはどっち?", "id": "tr-374-03-000", "answers": [ { "text": "山地", "answer_start": 153, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "着氷性の雨の形成には2通りある。1つは雪が融けて生じるもので、上空で生成された雪が落下する間に融ける「融解過程」を経る。融解過程には、上空に逆転層が生じることが必要である。もう1つははじめから過冷却の状態にあるもので、始めから過冷却の水滴として雲の中で水滴が発達し、地上に達するものである。このプロセスは「過冷却の暖かい雨」と呼ばれている。\n\n着氷性の霧の場合、はじめから過冷却の「過冷却の暖かい雨」である。", "qas": [ { "question": "融解過程を経て着氷性の雨が形成されるために必要なものは何でしょう?", "id": "tr-374-04-000", "answers": [ { "text": "逆転層", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "はじめから過冷却の状態で降る雨をどう呼びますか?", "id": "tr-374-04-001", "answers": [ { "text": "「過冷却の暖かい雨」", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "通常、大気は上に行くほど気温が下がるが、例えば上空の高さごとに風向が異なり、上下の冷たい空気の層(冷気層)の間に暖かい空気の層(暖気層)が侵入すると、逆転層が発生する。逆転層発生の要因は他にも地形による寒気のブロックなどがある。\n\n上下の冷気層が気温0°C以下、真ん中の暖気層が気温0°C以上のとき、上の冷気層の雲から雪が降ると、暖気層で融解して雨、冷気層で再冷却され着氷性の雨となる。\n\n雪(固体)→加熱による融解→雨(液体)→冷却→着氷性の雨(過冷却の液体)となる。\nただし、前記のような逆転層があっても、必ずしも着氷性の雨にはならない。逆転層があっても、暖気層で雪が完全に融けないで雪となる場合もあれば、冷気層で凍結してしまい氷の粒が降る凍雨として観測される場合もあるからである。実際、着氷性の雨より凍雨の方が遥かに発生頻度は高い。\n\n具体的に暖気層の厚さが何百mないし、気温が何°Cというようなデータはいくつか報告されているが、事例によりまちまちで定性的ではない。", "qas": [ { "question": "逆転層を経ても着氷性の雨にならなかった場合水滴はどんな形で観測されますか?", "id": "tr-374-05-000", "answers": [ { "text": "凍雨", "answer_start": 322, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "凍雨と着氷性の雨でもっと多く観測されるのはどっちですか?", "id": "tr-374-05-001", "answers": [ { "text": "凍雨", "answer_start": 353, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "着氷性の霧は条件により、雨氷・樹氷・粗氷になる。3者の違いは気泡の含有率にあることは概要の節で述べたが、これと相関性が高いのは付着成長していくときの気温と風速である。気温が高いほど、また風速が速いほど、気泡が少ない傾向にある。ある研究によれば気温−2°C以上では風速に関係なくほとんどが雨氷になり、気温−2°Cから−4°Cの間では風速により雨氷と粗氷に分かれ、気温−4°C以下ではほとんど雨氷は発生しない。", "qas": [ { "question": "着氷性の霧の気泡の含有率に影響を与える要因は気温以外に何があるか?", "id": "tr-374-06-000", "answers": [ { "text": "風速", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "風速に関係なくほとんどが雨氷になるために越えなきゃならない気温は?", "id": "tr-374-06-001", "answers": [ { "text": "−2°C", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "着氷性の雨や霧が物体に付着してから完全に凍結するまでには、多少の時間がかかる。この時間は、凍結に伴う潜熱放出による加熱、蒸発に伴う潜熱吸収による冷却などの熱のバランスに左右され、湿度・気温・風速などに相関性がある。凍結速度が遅いと、枝の表面などでは水の部分は重力により落下していくほか、氷の表面は濡れた状態である。\n\n着氷性の雨(過冷却の液体)→物体表面に付着→冷却による凍結→雨氷(固体)となる。\nなお、雨氷の凍結を決定する熱的な収支バランスは、顕熱フラックスQs、潜熱フラックスQl、雨氷の凍結に必要な熱量Qfの3つの和により表され、木の枝など円柱表面における算出式は以下のようになる。この値が負で値が大きいほど、凍結は速いと考えられる。\n\nQs=-πhaΔT(W/m2)とは(haは大気の熱交換係数(W/(m2・°C))、ΔTは大気と雨氷表面の温度差(°C))である。\nQl=-πLehvΔρv(W/m2)とは(Leは水の蒸発潜熱(J/kg)、hvは水蒸気の交換係数(m/s)、Δρvは水蒸気密度の差(kg/m3))である。\nQf=Lfwとは(Lfは水の凍結潜熱(J/kg)、wは降水フラックス(kg/(m2・s))である。\n気温と物体表面の温度が低いなどの条件が整うと、着氷性の雨は物体に付着してすぐに凍結し、次々と積もって厚い氷として成長していく。屋根や壁のような平面の物体では低い方へ広がりながら凍結していく。電線や木の枝のように細長い物体ではそれを取り巻くように凍結する。時には氷柱)のように滴りながら成長したり、風のある場合は風上や風下に偏って成長したりする。地面に積もる量としては、極度に激しい雨氷の場合、最大でおよそ4–6インチ(10–15cm)程度の厚さになった記録がある。", "qas": [ { "question": "雨氷の表面が濡れた状態となるのはどの要因と関係がありますか?", "id": "tr-374-07-000", "answers": [ { "text": "凍結速度", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "低い方へ広がりながら凍結するのはどういうところに着氷する場合ですか?", "id": "tr-374-07-001", "answers": [ { "text": "平面の物体", "answer_start": 587, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "顕熱フラックスQs、潜熱フラックスQl、雨氷の凍結に必要な熱量Qfの総和が小さいほど凍結のスピードはどうなりますか?", "id": "tr-374-07-002", "answers": [ { "text": "速い", "answer_start": 312, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "総観スケールの気象は地域により差異があるため一概には言えないが、いくつかの例を挙げる。\n\n日本においては主に2つの様式が多い。1つは海に面した平野部で、下層に北寄りの風による寒気の移流、中層に南寄りの風による暖気の移流があって、そこに逆転層が生じる様式である。もう1つは内陸の盆地で、弱風下で下層の盆地内に寒気が滞留していて(「冷気湖」という)、中層に南寄りの風による暖気の移流があって、そこに逆転層ができる様式である。天気図で見ると、大局的には日本海と本州南岸の2つの低気圧が並んで東進する「二つ玉低気圧」の時に起こる場合が多い。また着氷性の雨の分布は、低気圧の東側にある温暖前線の寒気側から低気圧の周囲付近にかけての細長い地域となる場合が多い。\n\nアメリカではいくつかの様式がある。前線を伴った低気圧の北側(温暖前線や停滞前線の寒気側)で発生する様式、大陸に張り出す高気圧の辺縁部(寒冷前線の寒気側)で発生する様式、大陸を東進する低気圧と東海岸の高気圧との間で発生する様式、アパラチア山脈による寒気のせき止めにより発生する様式である。", "qas": [ { "question": "日本で海に面した平野部で逆転層が生じる過程で寒気の移流はどの方向からですか?", "id": "tr-374-08-000", "answers": [ { "text": "北", "answer_start": 79, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本で逆転層が作られるとき暖かい風は普通どっから吹くの?", "id": "tr-374-08-001", "answers": [ { "text": "南", "answer_start": 96, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アメリカと日本で逆転層が生じる様式はどっちが多いですか?", "id": "tr-374-08-002", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 326, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "山地など起伏のある地形の場所では、斜面を空気が上昇すると空気かかき混ぜられて逆転層ができ、雨氷が発生することがある。一般的に、標高が高いほど雨氷が発生しやすい。例えば日本で雨氷被害の多い長野県では、雨氷の発生日数が標高に対応して分布するという報告がある。ただし、ある程度の高さを超えると逆に発生しにくくなることがある。これは逆転層のできやすい高さがあり、標高が高くなると逆に暖気層に覆われることが多くなるためとみられている。また、山の斜面沿いでは一時的に狭い範囲で逆転層が発生し、山の斜面のある高さの付近あるいは片側だけ、雨氷が発生した例もある。\n\n一般的に起伏のある地形では樹氷や粗氷も発生しやすいが、例年のように樹氷が現れる場所で同様に雨氷が見られるかと言えばそうではない。雨氷は条件が非常に限定的なため、限られた狭い地域で偶発的に発生し、年々変動が大きい。", "qas": [ { "question": "雨氷が発生しやすくなる地形的要因は何ですか?", "id": "tr-374-09-000", "answers": [ { "text": "標高", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "広域的には、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、中国、日本など各地で発生例が報告されている。特にアメリカとカナダにまたがるセントローレンス川沿岸ではよく発生することが知られている。セントローレンス川沿岸に位置するモントリオールでは、年間約12–17回、時間にして年間計約45–65時間という頻度で雨氷が発生する。\n\nアメリカで1948–2000年の着氷性の雨の年間平均発生日数を調べた調査では、最多のアディロンダック山地南部で7日、ミズーリ州からペンシルベニア州までの帯状の地域及びアイオワ州・ミネソタ州西部で5日などとなっている。同様にカナダで1961–1990年の着氷性の雨・霧雨の年間発生日数を調べた調査では、ニューブランズウィック州、ノバスコシア州、ニューファンドランド島東部で年間50日(着氷性の雨に限っても25日)などとなっている。\n\n日本では、長野県で特に多く報告され多いところでは年平均2–3回の発生がある。また、1989–2003年に気象台や測候所のある都市の着氷性の雨・霧雨を調べた調査において、中部から東北にかけての山間部や東北と北海道の太平洋側平野部のいくつかの都市で4–5年に1回程度の発生が報告されているほか、被害をもたらすレベルの雨氷は国内で10年に1件程度という調査がある。\n\n時期については、研究報告のある北半球では、冬季に発生のピークがくる地域が多いが、北極に近く寒冷な地域の中には夏季にピークがくるところもある。", "qas": [ { "question": "年間約12–17回、時間にして年間計約45–65時間の雨氷が発生する地域はどこですか?", "id": "tr-374-10-000", "answers": [ { "text": "モントリオール", "answer_start": 103, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカで1948–2000年の着氷性の雨の年間平均発生日数調査で最大7日という結果が出たのはどこですか?", "id": "tr-374-10-001", "answers": [ { "text": "アディロンダック山地南部", "answer_start": 197, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アメリカでは、着氷性の雨または着氷性の霧雨によって道路等の凍結で交通状況が悪くなることが予想される場合に「WinterWeatherAdvisory」、雨氷が1/4インチ以上積もることが予想される場合に「IceStormWarning」が、アメリカ海洋大気庁(NOAA)の気象局(NWS)によってそれぞれ発表され、警戒が呼びかけられる。カナダでは、7時間以上着氷性霧雨が降り続くことが予想される場合や大量の着氷性霧雨が降ることが予想される場合は「SpecialWeatherStatement」に付随する注意情報または「FreezingDrizzleWarning」が、1–4時間以上着氷性の雨が降り続くことが予想される場合や2mm以上雨氷が降り積もることが予想される場合は「FreezingRainWarning」が、カナダ環境省の気象局(MSC)によってそれぞれ発表される。\n\n日本では、着氷全般(雨氷以外の霧氷・樹氷・粗氷・樹霜、融雪の再凍結なども対象としている)に注意を呼びかける着氷注意報というものがあり、雨氷の発生が予測される場合に出される注意報・警報等ではこれが最も重い。着氷注意報の発表基準は都道府県や地域によって異なり、(24時間降雪量などが基準になる)大雪警報発表時に気温が−2–2°Cとなる場合(大雪注意報まで含めたり、湿度90%以上という条件を付加したものもある)、大雪注意報発表時に気温が-2°C以上となる場合、著しい着氷が予想される場合、気温0°C付近で並以上の雪が数時間以上降り続くと予想される場合、船への着氷のみを対象に発表する場合等がある。また、着雪注意報という類似の注意報があり、この基準のみを定めて着氷注意報の基準を定めていない所や、両方とも定めていない所もある。", "qas": [ { "question": "アメリカで「IceStormWarning」が下される基準は雨氷何インチですか?", "id": "tr-374-11-000", "answers": [ { "text": "1/4インチ", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カナダで5時間以上着氷性の雨が降り続くことが予想される場合に発表されるのは何ですか?", "id": "tr-374-11-001", "answers": [ { "text": "「FreezingRainWarning」", "answer_start": 337, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本で雨氷が予測される場合出される注意報でもっとも重いやつはどれ?", "id": "tr-374-11-002", "answers": [ { "text": "着氷注意報", "answer_start": 444, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "雨氷ができた後、気温が上昇するなどして氷が融けてしまえば大きな被害は発生しない。しかし、例えばカナダ・アメリカでは、着氷性の雨の約45%が1時間以内、約90%が5時間以内に終わってしまうという研究があり、長時間続くと被害が大きくなる。\n\n雪や霧氷などに比べて雨氷は密度が高く、固い。雨氷による被害の主なものとして、樹木の被害、電力網への被害、交通の支障、人的被害等が挙げられる。北東部を中心に被害が多いアメリカでは、着氷性の雨を伴った天候をアイスストームと言うが、1949年から2000年までの間にアイスストームによる損害額は163億ドル(2000年時点)に上るとされ、同国内の気象災害によるケガの20%がアイスストームによるものだという報告もある。", "qas": [ { "question": "1949年から2000年までの間の着氷性の雨によるアメリカの被害額はいくらですか?", "id": "tr-374-12-000", "answers": [ { "text": "163億ドル", "answer_start": 263, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "雨氷をアメリカではどう呼ぶ?", "id": "tr-374-12-001", "answers": [ { "text": "アイスストーム", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "雨氷は高山で発生することが多いため、山地で局地的に雨氷が発生し、樹木への被害をもたらす例が多数報告されている。雨氷が樹木にもたらす被害は、枝のみが折れる軽微なものもあるが、傾いたり、大きく曲がったり、地面に倒れこんだり、根ごと倒れたり、途中で折れたりといった深刻なものもあり、林業にとっては大きな打撃となる。\n\n雪が樹木の上部や外部にのみ付着するのに対し、雨氷は樹木の枝葉1つ1つに氷がついて重くなるため、雪の半分程度の降水量で折れ曲がったり倒壊してしまう。ある調査では、樹木に付着する雨氷の重さは、平均で木の総重量の5–16倍に達していたといい、15mの木に総重量4.5トンの雨氷が付着した例もある。日本における事例では、森林に被害を与える気象現象の中で雨氷は珍しい部類ではあるが、北海道、岩手、長野などで詳しい記録がある。なお、雨氷で森林被害が生じても氷が解けるとそれが雨氷が原因であったことがわからないこともあるため、報告されていないものもあると考えられている。北海道のカラマツ人工林で行われた被害調査では、同年齢の樹木の中で太く高いものが被害を受ける事例、逆に細く低いものが被害を受ける事例、また樹勢に関係なく被害を受ける事例があり、樹勢よりも風や付着の仕方などの気象条件の方が雨氷被害との相関性が高いと報告されている。\n\n2016年1月末に長野県中部で発生した雨氷による倒木被害は標高800–1100mの範囲に被害が集中していたが、このように雨氷による倒木被害が一定の標高に集中するのは、標高がより高い場所では雨粒が雪になり、標高がより低い場所の地表付近は気温が高く雨氷現象が起こらなくなるためという見方がある。", "qas": [ { "question": "2016年長野県中部で発生した雨氷は何月のものですか?", "id": "tr-374-13-000", "answers": [ { "text": "1月", "answer_start": 571, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "雨氷によって被害を負う主な犠牲者は誰ですか?", "id": "tr-374-13-001", "answers": [ { "text": "樹木", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カラマツ人工林の所在地はどこですか?", "id": "tr-374-13-002", "answers": [ { "text": "北海道", "answer_start": 434, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "長野県中部で発生した雨氷の被害が、標高が高いところで逆に少なくなった理由は何ですか?", "id": "tr-374-13-003", "answers": [ { "text": "雨粒が雪になり", "answer_start": 660, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "市街で発生した場合は、特に被害が大きくなる。氷が電線に付着して電柱が倒壊し、氷の量が多い場合には送電線の鉄塔でさえ倒れることもある。鉄道の架線に付着した場合は、給電がストップして運行ができなくなるが、雨氷を取り除く作業は着雪などに比べて時間がかかり、運行再開は遅れがちになる。また、電線の一定の方向にだけ雨氷が付着すると、強風によりギャロッピング現象と呼ばれる振動現象を起こし、電線同士が接触するなどしてショートし、断線することがある。\n\n雨氷が道路を覆うと、表面は硬く滑らかなため非常に滑りやすい状態となり、車はスリップし、歩行者も転倒しやすくなる。雨氷に覆われた道路の制動距離は、乾いている場合の10倍、雪に覆われている場合の2倍といわれている。雨氷は表面が滑らかで透明なうえ、雪が降るとすぐ覆い隠されてしまうため、道路が雨氷に覆われていることに気付かないことがある。また、気づいていても滑りやすいので、誤って怪我をしてしまうことが多い。戸外での移動に際しては、靴や車のタイヤのスリップ対策が必要になる。また、鉄道の線路や飛行場の滑走路も凍結した場合、交通網の深刻な停滞・麻痺を来たす。\n\nまた、特に雨氷の場合に留意しなければならないのが、停電に伴う影響である。雨氷は電線に付着して停電を起こしやすいため、ガスや電気の代わりとして暖房に火を使うことになる。それによって火災の危険性が高まり、締め切った室内で暖房器具や発電機を使うことで一酸化炭素中毒の危険性も高まる。1998年1月上旬に北米を襲ったアイスストームでは、多数の一酸化炭素中毒患者が出ている。", "qas": [ { "question": "電柱と送電線の鉄塔で重いのはどっちですか?", "id": "tr-374-14-000", "answers": [ { "text": "送電線の鉄塔", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "電線の一定の方向にだけ雨氷が付着した状態で強風によって振動が起こる現象をどう呼びますか?", "id": "tr-374-14-001", "answers": [ { "text": "ギャロッピング現象", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "道路の制動距離は乾いている場合と雪に覆われている場合、どっちが長いですか?", "id": "tr-374-14-002", "answers": [ { "text": "雪に覆われている場合", "answer_start": 304, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "密閉された空間で暖房器具や発電機を使うことで生じる危険とは?", "id": "tr-374-14-003", "answers": [ { "text": "一酸化炭素中毒", "answer_start": 619, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "地上に限らず、上空でも雨氷の付着被害が発生する。航空機に雨氷が付着すると、視界が悪くなったり、機体の重量や空気抵抗が増加したり、翼に付着して揚力を低下させたり、ジェットエンジンやプロペラに付着して出力を低下させたりして、航行に支障が生じることがある。その他の着氷も航行への支障の原因となるが、付着速度は雨氷が最も速く、氷が硬く取れにくいため、もっとも厄介な着氷とされる。現在では航空機の防氷システム(英語版)が普及しており、中型機では主に防氷ブーツ、大型機では主にヒーターや空圧を利用した機構により着氷を防止したり、氷を除去(除氷)したりしている。\n\nなお、航空機においては地表では凍雨として観測されていても上空では着氷性の雨という場合があり、予報の際には凍雨を含めて考える必要がある。", "qas": [ { "question": "中型機で主な除氷手段として使われるものは何でしょう?", "id": "tr-374-15-000", "answers": [ { "text": "防氷ブーツ", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "一番付着速度が早い着氷現象は何ですか?", "id": "tr-374-15-001", "answers": [ { "text": "雨氷", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ウィリアム・グラッドストン", "paragraphs": [ { "context": "ウィリアム・グラッドストンはスコットランド豪族の末裔である大富豪の貿易商の四男としてリヴァプールに生まれる。イートン校からオックスフォード大学クライスト・チャーチへ進学。同大学在学中にイングランド国教会への信仰心を強めた。1831年に同大学を首席で卒業する。\n\n1832年の総選挙(英語版)で初当選し、23歳にして保守党所属の庶民院議員となる。二度のサー・ロバート・ピール准男爵内閣(保守党政権)において下級大蔵卿(在職1834年-1835年)、陸軍・植民地省政務次官(英語版)(在職1835年)、商務庁副長官(英語版)(在職1841年-1843年)、商務庁長官(在職1843年-1845年)、陸軍・植民地大臣(在職1845年-1846年)を歴任して政治キャリアを積む。商務庁副長官・商務庁長官時代には様々な品目の関税削減・廃止を手がけ、自由貿易推進に貢献した。\n\n1846年の穀物法廃止をめぐる保守党分裂では、穀物自由貿易を奉じるピール派に属して保守党を離党した。保守党から離れたことで経済思想以外も徐々に自由主義化していった。特に1850年秋に訪問した両シチリア王国において過酷な自由主義弾圧を目の当たりにして保守主義に嫌悪感を持つようになった。\n\n1852年には第一次ダービー伯爵内閣(保守党政権)の大蔵大臣ベンジャミン・ディズレーリの予算案を徹底的に論破して否決に追い込み、同内閣の倒閣に主導的役割を果たした。続くアバディーン伯爵内閣(ピール派・ホイッグ党連立政権)においては大蔵大臣(在職1852年-1855年)として入閣し、更に多くの品目の関税廃止を実施して自由貿易を一層推進した。", "qas": [ { "question": "グラッドストンの出生地はどこですか?", "id": "tr-375-00-000", "answers": [ { "text": "リヴァプール", "answer_start": 42, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オックスフォード大学クライスト・チャーチを卒業したのは何年ですか?", "id": "tr-375-00-001", "answers": [ { "text": "1831年", "answer_start": 111, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グラッドストンの初当選の総選挙は何年ですか?", "id": "tr-375-00-002", "answers": [ { "text": "1832年", "answer_start": 131, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第一次ダービー伯爵内閣の大蔵大臣の人は誰ですか?", "id": "tr-375-00-003", "answers": [ { "text": "ベンジャミン・ディズレーリ", "answer_start": 557, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1855年2月、クリミア戦争の泥沼化で総辞職したアバディーン伯爵内閣に代わって第一次パーマストン子爵内閣(ホイッグ党政権)が成立した。はじめ同内閣にも大蔵大臣として入閣していたが、首相との方針の食い違いからすぐにも下野した。以降はパーマストン卿の強硬外交を批判した。\n\n第二次ダービー伯爵内閣(保守党)期の1859年には保守党政権打倒のためホイッグ党、ピール派、急進派(英語版)が大同団結して自由党を結成。これに伴いグラッドストンも自由党議員となった。\n\n第二次ダービー伯爵内閣倒閣後の1859年6月に成立した第二次パーマストン子爵内閣(自由党政権)には大蔵大臣(在職1859年-1865年)として入閣し、英仏通商条約(英語版)を締結するなどして自由貿易体制を完成させた。また「知識に対する税金」として批判されていた紙税を廃止した。続く1865年から1866年の第二次ラッセル伯爵内閣(自由党政権)では蔵相(在職1865年-1866年)留任のうえ、庶民院院内総務を兼務した。選挙法改正の機運が高まる中、自助を確立している上層労働者階級に選挙権を広げる選挙法改正を目指し、保守党庶民院院内総務ディズレーリと激闘したが、敗れ、内閣総辞職に追い込まれた。\n\nつづく第三次ダービー伯爵内閣(保守党政権)で庶民院院内総務ディズレーリが行った第二次選挙法改正には選挙権が貧民にまで拡大される恐れありとして反対したが、阻止できなかった。1867年末に引退したラッセル伯爵の後継として自由党党首となる。1868年2月に成立した第一次ディズレーリ内閣(保守党)に対して、アイルランド国教会廃止を掲げて挑み、11月の総選挙に勝利したことで同内閣を総辞職に追い込んだ。", "qas": [ { "question": "第一次パーマストン子爵内閣でグランストンが務めた職務は?", "id": "tr-375-01-000", "answers": [ { "text": "大蔵大臣", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第一次パーマストンで大蔵大臣であったグランストンとの意見の差によって、グランストンが下野することになった、その人の名前は何ですか?", "id": "tr-375-01-001", "answers": [ { "text": "パーマストン", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1867年、自由党党首となったグランストンの先に自由党党首だった人は誰ですか?", "id": "tr-375-01-002", "answers": [ { "text": "ラッセル伯爵", "answer_start": 622, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "代わって組閣の大命を受け、第一次グラッドストン内閣を組閣した。内政において様々な改革を実施した。まず先の総選挙での公約通りアイルランド国教会を廃止した。不在地主に理由なく追い出されたり、法外な地代をかけられたアイルランド小作人への補償制度を定めた法律も制定したが、これはほぼ「ざる法」に終わった。他の欧米諸国と比べて小学校教育普及が遅れていることを念頭に初等教育法(英語版)を制定して小学校教育の普及を図った。外務省以外の省庁で採用試験を導入し、また軍隊の階級買い取り制度を廃することで、官界や軍における貴族優遇に歯止めをかけた。労働者上層に選挙権が広がったことを念頭に秘密投票制度の導入も行った。労働組合法を制定し、労働組合が賃金と労働時間以外のことを交渉するのを解禁した。一方で外交は不得手で、ドイツ帝国の勃興やロシア帝国のパリ条約黒海艦隊保有禁止条項の一方的破棄などを阻止できず、またアメリカ合衆国に対してもアラバマ号事件で賠償金を支払うことになるなど、相対的にイギリスの地位を低下させた。\n自由党内の分裂が深刻化し、1874年には所得税廃止を目指して解散総選挙に打って出るも、大英帝国の威信回復を訴えるディズレーリ率いる保守党が勝利し、総辞職を余儀なくされた。\n\n1875年には自由党党首も辞し、半ば引退した生活に入ったが、1875年から1877年にかけてのバルカン半島をめぐる騒乱でディズレーリ政権の親トルコ・反ロシア外交を批判する運動の先頭に立って政治活動を再開した。総選挙を間近にした1879年には「ミッドロージアン・キャンペーン(英語版)」を展開し、ディズレーリの第二次アフガン戦争、トランスヴァール共和国併合、ズールー戦争などの帝国主義政策を批判した。", "qas": [ { "question": "第一次グラッドストン内閣が小学校教育普及のため行った教育政策として立案した法律は?", "id": "tr-375-02-000", "answers": [ { "text": "初等教育法", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "所得税廃止、アイルランド国教会を廃止、初等教育法のなかで、第一次グラッドストン内閣が行っていないものはどれか?", "id": "tr-375-02-001", "answers": [ { "text": "所得税廃止", "answer_start": 469, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "グラッドストンが自由党党首も辞したのは何年か?", "id": "tr-375-02-002", "answers": [ { "text": "1875年", "answer_start": 536, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1880年の総選挙で自由党が大勝したため、第二次グラッドストン内閣を組閣した。\nアイルランド土地法を改正し、アイルランド小作農の地代を地代法廷で決めるなど小作農保護を強化した。\nまた選挙区割りについて野党保守党に妥協することで第三次選挙法改正を達成し、男子普通選挙に近い状態を実現した。\nグラッドストンは小英国主義者であり、帝国主義には消極的だったが、オラービー革命が発生したエジプトには派兵し、革命を鎮圧してエジプトを半植民地となした。\n一方マフディーの反乱が発生したスーダンは放棄を決定し、国民的英雄チャールズ・ゴードン将軍を同地に派遣してスーダン駐屯エジプト軍の撤退の指揮をとらせようとしたが、ゴードンは撤退しようとせずに戦死したため、内閣支持率に大きな打撃を受けた。\n1885年にアイルランド強圧法を制定しようとしたことにアイルランド国民党が反発してソールズベリー侯爵率いる保守党との連携に動いた結果、議会で敗北して総辞職に追い込まれた。", "qas": [ { "question": "第二次グラッドストン内閣でのアイルランド土地法の改正は誰のための政策ですか?", "id": "tr-375-03-000", "answers": [ { "text": "小作農", "answer_start": 60, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第二次グラッドストン内閣集権中、スーダンで戦死した将軍の名前は?", "id": "tr-375-03-001", "answers": [ { "text": "チャールズ・ゴードン", "answer_start": 252, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1885年の総選挙(英語版)の自由党の勝利、また保守党政権とアイルランド国民党の連携の崩壊により、ソールズベリー侯爵内閣倒閣に成功し、第三次グラッドストン内閣を組閣した。アイルランド国民党と連携してアイルランド自治法案を通そうとしたが、党内の反自治派が党を割って自由統一党を結成したため否決された。解散総選挙(英語版)に打って出るも敗北して退陣した。\n\n退陣後もアイルランド自治を掲げ、1892年の解散総選挙(英語版)に辛勝したことで第四次グラッドストン内閣(英語版)を組閣した。再びアイルランド自治法案を提出するも貴族院で否決された。さらに海軍増強に反対したことで閣内で孤立し、1894年に首相職を辞職した。次の総選挙にも出馬することなく、政界から引退した。\n\n1898年5月19日に死去した。", "qas": [ { "question": "グラットストンが2回も通そうとして失敗した法は何ですか?", "id": "tr-375-04-000", "answers": [ { "text": "アイルランド自治法案", "answer_start": 242, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グラッドストンが生涯最後に組閣した閣内で彼の意見が孤立し首相職を辞職することになったが、それは何に対する意見の違いでしたか?", "id": "tr-375-04-001", "answers": [ { "text": "海軍増強", "answer_start": 271, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グラッドストンが死亡したのはいつですか?", "id": "tr-375-04-002", "answers": [ { "text": "1898年5月19日", "answer_start": 332, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1828年10月にオックスフォード大学へ進み、クライスト・チャーチに在籍した。\n\nクライスト・チャーチはオックスフォードのカレッジの中でももっとも貴族的だが、読書には自由な風潮であり、グラッドストンも早朝4時間と就寝前2時間から3時間は読書に費やしたという。とりわけヘロドトス、アリストテレス、プラトン、ホメーロスなどの古典研究に明け暮れたという。\n\n1829年10月には十数人の友人とともに大学内に論文討論クラブを結成している。メンバーが論文を提出し、それについて賛否を表明するクラブだった。このクラブはウィリアム・ユワート・グラッドストン(WilliamEwartGladstone)の頭文字をとって、「WEG」と名付けられた。また1830年からはオックスフォード大学の各カレッジの代表学生が集まるオックスフォード連合(英語版)の討論にも参加するようになり、後にはその議長に選出された。", "qas": [ { "question": "グラッドストンが大学の時組織した論文討論クラブの名は?", "id": "tr-375-05-000", "answers": [ { "text": "「WEG」", "answer_start": 303, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グラッドストンが在籍したオックスフォード大学のカレッジは何ですか?", "id": "tr-375-05-001", "answers": [ { "text": "クライスト・チャーチ", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "大学時代のグラッドストンは宗教的な葛藤を感じることが多くなった。オックスフォード大学はもともと教会付属の学校が発展したものだが、この頃のオックスフォードは形骸化していて宗教への情熱が感じられなかった。軽薄と宗教的情熱の欠如を嫌うグラッドストンにはこれが許せなかった。彼はこの葛藤を勉学への打ち込みと一層の信仰心によって満たそうとした。その結果、一時は政治家の夢を断念して聖職者の道を希望するようにさえなった。\n\n彼は1日に何度も説教を聞き、やがて自らが神に遣わされた者であり、神に恥じることをしてはならないと思い込むようになった。1830年4月25日付けの日記には「1.愛、2.自己犠牲、3.誠実、4.活力」の4つの精神を持つことがその重要な柱と位置付けている。この宗教的確信を得るようになると、義務感からではなく意志をもって勉学に打ち込むようになった。この時以来、彼は休息を全く取らない異常な勤勉家と化したという。", "qas": [ { "question": "4つの精神美徳が記された彼の日記はいつのものですか?", "id": "tr-375-06-000", "answers": [ { "text": "1830年4月25日", "answer_start": 265, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "卒業試験も近くなった1831年4月から5月、選挙権を中層中産階級に広げる選挙法改正法案をめぐって反対派の野党トーリー党と賛成派の与党ホイッグ党が争う中、解散総選挙(英語版)が行われた。グラッドストンは「WEG」や「オックスフォード連合」の討論会で選挙法改正反対を表明した。有権者は貴族や上層中産階級など高い教養と責任感を持つ者に限定しないと衆愚政治になって社会秩序が崩壊すると考えたからである。こうしたノブレス・オブリージュ的な考え方は、オックスフォード大学の貴族学生の間では一般的な意見だったから多くの出席者から支持された。とりわけリンカン伯爵は、父ニューカッスル公爵に宛てた手紙の中で「父さんの影響力が強い選挙区にグラッドストンを保守党候補として立ててやってほしい」と頼み込んでいる。この願いは1年後にかなえられることになる。", "qas": [ { "question": "選挙法改正法案を巡ってそれに賛成した党はどれですか?", "id": "tr-375-07-000", "answers": [ { "text": "ホイッグ党", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "選挙法改正法案を巡ってグラッドストンは賛成か反対か?", "id": "tr-375-07-001", "answers": [ { "text": "反対", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "選挙戦中、グラッドストンはトーリー党の選挙活動に参加し、選挙法改正反対のプラカードを掲げて行進した。選挙権を持てない庶民から泥を投げつけられ泥だらけになったが、それでも屈することはなかったという。しかし総選挙の結果はホイッグ党の大勝に終わり、議会での一悶着の末に第一次選挙法改正が達成された。これにより中層の中産階級にも選挙権が広がり、成年男子の15%が選挙権を持つようになった。\n\n選挙活動中も卒業試験に向けての勉学を怠ることはなく、選挙後は更に勉学に集中した。当時の卒業試験は数学と古典に分かれていたが、グラッドストンは両方で首席をとっている。二冠に輝いたのは20年以上前の卒業生であるロバート・ピール以来のことであった。1832年1月に学位を得てオックスフォード大学を卒業した。", "qas": [ { "question": "選挙法改正法案を巡ってそれに賛成した党はどれですか?", "id": "tr-375-08-000", "answers": [ { "text": "ホイッグ党", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "グラッドストンが卒業試験で数学と古典両方首席をとる前にそれを達した人の名前は?", "id": "tr-375-08-001", "answers": [ { "text": "ロバート・ピール", "answer_start": 295, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ミラノ滞在中の1832年6月、オックスフォードの学友リンカン伯爵から手紙をもらい、彼の父ニューカッスル公爵の強い影響下にあるニューアーク選挙区(英語版)からの出馬を勧められた。\n\nグラッドストンにとっては有難い申し出であると同時に不安なことだった。グラッドストンは自分の信念を曲げることを嫌ったので、トーリー党守旧派のニューカッスル公爵の支援を受けてしまうと、守旧的な信念を強要されると懸念したのである。しかし父ジョンは「公爵はこれまで支援する候補者に信念を押し付けたことはないし、公爵と私はすでに話を進めており、私が選挙資金の半分を持つことになっている。」と息子を説得し、出馬を決意させた。", "qas": [ { "question": "グラッドストンが初めて選挙に出た選挙区はどこですか?", "id": "tr-375-09-000", "answers": [ { "text": "ニューアーク選挙区", "answer_start": 62, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グラッドストンが初選挙を支援してくれた人は誰ですか?", "id": "tr-375-09-001", "answers": [ { "text": "ニューカッスル公爵", "answer_start": 44, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "旅行を中断して帰国し、1832年8月からニューアーク選挙区で選挙活動に入った。トーリー党選対事務所が全力で支えてくれたおかげで、活発な選挙活動が可能となった。しかし当時植民地奴隷制廃止運動が盛んだったため、選挙戦中にもっとも頻繁に受けた攻撃は「悪名高い奴隷農場主の息子」という批判だった。これに対して彼は「植民地の奴隷の即時解放は白人に対する暴動を誘発する恐れがある。それを防ぐためにはまず奴隷たちにキリスト教育を施し、その後に解放するべき」という「漸進的解放」論で反論した。\n\n選挙の結果は3人の候補のうち最多得票での当選だった。", "qas": [ { "question": "選挙戦中、グラッドストンはどんな呼び方で批判されましたか?", "id": "tr-375-10-000", "answers": [ { "text": "「悪名高い奴隷農場主の息子」", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「悪名高い奴隷農場主の息子」という批判に対してグラッドストンが出した対案とは?", "id": "tr-375-10-001", "answers": [ { "text": "「漸進的解放」", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1833年1月に議会が招集された(この会期からトーリー党は保守党という名称を使用するようになった)。\n\nグラッドストンは、6月3日の庶民院で処女演説(英語版)を行った。この数日前に与党ホイッグ党の議員が父の奴隷農場を攻撃する演説を行っており、彼の演説は「漸進的解放」論を唱えてそれに反論するものだった。\n\nこのような考え方の議員は少なくなかったし、またグラッドストンの演説態度は真面目だったので好評を博したという。与党ホイッグ党の庶民院院内総務オールトラップ子爵も、国王ウィリアム4世に前途有望な議員としてグラッドストンのことを報告している。ウィリアム4世は「朕はグラッドストンのごとき前途有望な議員が進出したことを喜ぶ」と応じたという。", "qas": [ { "question": "グラッドストンの初演説で彼が唱えたことは何ですか?", "id": "tr-375-11-000", "answers": [ { "text": "「漸進的解放」", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "グラッドストンの初演説は何年のことですか?", "id": "tr-375-11-001", "answers": [ { "text": "1833年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1834年11月、国王ウィリアム4世はホイッグ党の首相メルバーン子爵を罷免し、保守党党首サー・ロバート・ピール准男爵に組閣の大命を与えた(第1次ピール内閣)。\n\nグラッドストンは第一大蔵卿(首相)を補佐する下級大蔵卿(JuniorLordoftheTreasury)に任命された。この役職は複数人置かれる役職なので、各省に一人ずつ置かれる政務次官(Undersecretary)と比べると地位は低いが、首相の側近くにあることから政府全般の事務に関与する役職だった。\n\n王の気まぐれで政権についたピール政権は少数与党政権であったため、1835年1月にも解散総選挙(英語版)となった。この選挙ではホイッグ党がニューアーク選挙区に対立候補を立てなかったので、グラッドストンは無投票再選を決めている。総選挙全体の結果は、保守党が100議席回復して300議席近くを獲得した(ただし過半数には届かず)。", "qas": [ { "question": "グラッドストンが第1次ピール内閣で補佐した人物は誰ですか?", "id": "tr-375-12-000", "answers": [ { "text": "サー・ロバート・ピール", "answer_start": 44, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グラッドストンが第1次ピール内閣で務めた職務は何ですか?", "id": "tr-375-12-001", "answers": [ { "text": "下級大蔵卿", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "先の総選挙で陸軍・植民地省政務次官(英語版)が落選したため、ピールは、父が植民地大地主で植民地問題に造詣が深いであろうグラッドストンをその後任にした。当時の陸軍・植民地大臣は貴族院議員アバディーン伯爵だったため、グラッドストンは庶民院における陸軍・植民地省の代表者となった。\n\n新議会が召集されると野党ホイッグ党党庶民院院内総務(英語版)ジョン・ラッセル卿が、アイルランド国教会の収入を国教会以外の目的にも使用するべきとする動議を提出したが(アイルランド人はカトリックが多数派だが、アイルランド国教会に教会税を納めさせられていたため、強い反発が起こっていた)、与党保守党はこの動議に反対した。グラッドストンもアイルランドにおける国教会制度を崩壊させるものとして反対演説を行った。しかしこの動議は1835年4月7日に可決されたため、ピール内閣は総辞職に追い込まれた。グラッドストンも就任から三カ月で陸軍・植民地省政務次官を辞することとなった。\n\n代わってホイッグ党党首メルバーン子爵に組閣の大命があり、第二次メルバーン子爵内閣(英語版)が発足した。この政権は1841年まで続き、その間保守党は野党となった。", "qas": [ { "question": "グラッドストンが庶民院で代表を務めたのはどの省ですか?", "id": "tr-375-13-000", "answers": [ { "text": "陸軍・植民地省", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "グラッドストン陸軍・植民地省政務次官を務めたのはどれくらいの間ですか?", "id": "tr-375-13-001", "answers": [ { "text": "三カ月", "answer_start": 394, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "下野して時間に余裕ができたグラッドストンは改めて宗教問題に関心を寄せた。1830年代はオックスフォード運動の影響で宗教問題がイギリスで盛んになっていた時期だった。\n\nこの頃、エディンバラ大学神学教授トーマス・チャーマーズは「国家は宗教の真理を定める義務を負っているが、全体像だけ決めればよく、細部は神学者に任せるべきである」という主張を行っていたが、グラッドストンはこれに強く反発した。また自由主義者による無宗教の風潮、アイルランド国教会廃止を狙う勢力の台頭にも脅威を感じ、国教会を守るための執筆を行う決意を固めた。\n\nそうして書きあげた『教会との関係における国家』を1838年秋に出版した。この著作の中でグラッドストンは「国家は人間と同じく一つの宗教を良心として奉じなければならず、それはローマ教会よりも純粋なキリスト教であるイングランド国教会以外はありえない。だから国家は国教会を優遇して援助しなければならない。アイルランド人にも彼らが好むと好まざるとに関わらず、唯一の真理である国教会を信仰させなければならない。教義の比較検討は、チャルマーズが言うような\"細部\"にあたるものではなく重要なことである。国家はその宗教的良心に照らし合わせて、各教義を比較検討し、真理と虚偽を峻別する義務を負っている。」と主張した。この本は保守派から好評を博したが、自由主義派からは一顧だにされなかった。保守党党首ながら自由主義的なところがあるピールも「こんな下らない本を書いていたら、彼は政治生命を台無しにしてしまうぞ」と述べて心配したという。", "qas": [ { "question": "宗教の真理を定めることに置いて国家の領域を制限し神学者の力を促すべきと主張したのは誰ですか?", "id": "tr-375-14-000", "answers": [ { "text": "トーマス・チャーマーズ", "answer_start": 99, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "トーマス・チャーマーズの主張に反発しグラッドストンが出した著作のタイトルは?", "id": "tr-375-14-001", "answers": [ { "text": "『教会との関係における国家』", "answer_start": 269, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "メルバーン卿の議会における求心力は低下し続け、1841年6月4日には保守党提出の内閣不信任案が1票差で可決された。メルバーン卿はヴィクトリア女王に上奏して解散総選挙(英語版)に打って出たが、保守党の勝利に終わった。グラッドストンもニューアーク選挙区から圧勝で再選した。メルバーン卿は召集された議会で敗北して総辞職し、代わってピールが組閣の大命を受け、第二次ピール内閣(英語版)が発足した。\n\nグラッドストンはアイルランド担当大臣(英語版)としての入閣を希望したが、ピールはグラッドストンにその地位を与えたらアイルランド人に国教会を押し付けることに利用するだろうと見ていた。ピールはグラッドストンに神学論争から離れてほしがっており、そのためにも実際的な仕事をさせようと商務庁副長官(英語版)のポストを与えた。商務庁長官は貴族院議員リポン伯爵だったため、グラッドストンが庶民院における商務庁代表者となった。グラッドストンは財政には門外漢だったが、この役職に就任したのを機に急速に財政に関する知識を身に付け、その勤勉さでリポン伯爵よりも商務庁の政務に精通するようになった。やがてリポン伯爵を傀儡にして商務庁の経済政策を主導するようになった。", "qas": [ { "question": "メルバーン卿の内閣に内閣不信任案が可決したのはいつですか?", "id": "tr-375-15-000", "answers": [ { "text": "1841年6月4日", "answer_start": 23, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第二次ピール内閣での商務庁長官は誰ですか?", "id": "tr-375-15-001", "answers": [ { "text": "リポン伯爵", "answer_start": 364, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ピール内閣の経済政策は関税の引き下げによって殖産興業を促し、その間の一時的な減収は所得税を導入して補う事を基本としていた。\nそして関税引き下げの具体的内容は商務庁、つまりグラッドストンに一任された。\nグラッドストンは、与野党の意見を調整して、関税が定められている1200品目のうち750品目もの関税を廃止するか引き下げることに成功した。\nさらに彼は穀物法で保護されている小麦についてもただちに自由貿易に移行させようとしたが、ピール首相が保守党の支持基盤である地主(保護貿易主義者が多い)に配慮してブレーキをかけた。\n結局、小麦についてはスライド制にして段階的自由貿易を目指すことになった。\nこの関税問題を通じてグラッドストンは庶民院で何度も演説することになったため、雄弁家として高く評価されるようになり、「小ピール」とあだ名されるようになったという。", "qas": [ { "question": "ピール内閣の関税政策の一環で廃止された品目は何品目ですか?", "id": "tr-375-16-000", "answers": [ { "text": "750品目", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グラッドストンが自由貿易に移行しようとしたが、党内での反対で挫折された品目はどれですか?", "id": "tr-375-16-001", "answers": [ { "text": "小麦", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "総辞職したパーマストン子爵内閣の後を受けて、1858年2月25日には保守党政権の第二次ダービー伯爵内閣が成立した。\n\n1859年3月に大蔵大臣・庶民院院内総務ディズレーリが庶民院に提出した選挙法改正法案が否決されたことで解散総選挙(英語版)となり、保守党があと少しで過半数を獲得できるところまで議席を伸ばした。これに対する野党の危機感とイタリア統一戦争の勃発による自由主義ナショナリズムの盛り上がりを背景にホイッグ党の二大派閥(ジョン・ラッセル卿派とパーマストン子爵派)、ジョン・ブライト率いる急進派、ピール派が合同して自由党が結成された。\n\nこれによりグラッドストンも自由党議員となった。ダービー伯爵政権は少数与党政権なので野党が一つに団結すれば政権は維持できず、1859年5月にも自由党から内閣不信任案を突き付けられて内閣総辞職に追い込まれた。グラッドストンは自由党議員でありながらこの不信任案に反対票を投じた。グラッドストンは自由党を率いるパーマストン子爵と(保守党の大部分を占める親オーストリア派を排除した)保守党少数派を率いるダービー伯爵による連立政権を希望していたためといわれる。", "qas": [ { "question": "第二次ダービー伯爵内閣が成立したのは何年ですか?", "id": "tr-375-17-000", "answers": [ { "text": "1858年", "answer_start": 22, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "自由党の結成はホイッグ党の急進派とどこの合同で行われましたか?", "id": "tr-375-17-001", "answers": [ { "text": "ピール派", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "グラッドストンがダービー伯爵政権の不信任案に反対票を投げたのはどんな形式の政権を求めてのことでしたか?", "id": "tr-375-17-002", "answers": [ { "text": "連立政権", "answer_start": 477, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1868年12月1日、59歳の誕生日を目前にしたグラッドストンがハワーデン城で木を伐採していた時、女王の近臣であるチャールズ・グレイ将軍(英語版)がそちらへ向かうという電報が彼の下に届けられた。それを読んだグラッドストンは「非常に重大だ」と一言だけ述べ、木の伐採に戻ったという。その翌日にグレイ将軍が到着し、ウィンザー城への参内を求める勅書をグラッドストンに手渡した。グラッドストンはただちにウィンザー城へ向かい、12月3日に女王の引見を受けた。そこで組閣の大命を受けたグラッドストンはこれを拝受し、第一次グラッドストン内閣を組閣した。", "qas": [ { "question": "チャールズ・グレイ将軍から電報を受けた時、グラッドストンは何をしていましたか?", "id": "tr-375-18-000", "answers": [ { "text": "伐採", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "グラッドストンが女王から第一次グラッドストン内閣を組閣の大命を受けたのは何年ですか?", "id": "tr-375-18-001", "answers": [ { "text": "1868年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1869年2月に新議会が招集された。グラッドストンは早速アイルランド国教会廃止法案を庶民院に提出した。自由党はアイルランド国教会問題を争点にして総選挙に勝利したのだから、庶民院でこの法案を止められる者はなく、法案は100票以上の大差をもって各読会を通過した。\n\n問題は保守党が恒常的に多数を占める貴族院だった。さすがに総選挙で勝利した法案に表立って逆らうのは貴族院でも難しい情勢だったが、それでも貴族院(とりわけ利害関係のある聖職者議員)は条件闘争を行い、教会の財産問題をめぐって何度も庶民院への差し戻しを行った。だがジョン・ブライトが「貴族院がいつまでも頑固な態度を続けるなら、彼らは不利な立場に追いやられるかもしれない」と貴族院改革を臭わせる脅迫を行ったのが功を奏して、決定的な修正をされることなく、1871年になって法案は貴族院を通過した。\n\nこの法案の成立によりアイルランド国教会は公的地位を喪失して自由教会となった。アイルランド人が教会税を納める必要もなくなった。また国教会の残余財産900万ポンドは国教会廃止により損害を被った者への補償に充てることとなった。", "qas": [ { "question": "グラッドストンが集権してすぐ、庶民院に出した法案は何ですか?", "id": "tr-375-19-000", "answers": [ { "text": "アイルランド国教会廃止法案", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アイルランド国教会廃止法案がやっと貴族院を通過したのは何年ですか?", "id": "tr-375-19-001", "answers": [ { "text": "1871年", "answer_start": 352, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "当時のイギリスにはまだ義務教育制度がなく、4割ほどの国民が小学校も出ていなかった。初等教育の内容も著しく不十分だったので、残りの6割の中でも小学校しか出ていない者は知識が乏しかった。初等教育においてイギリスは、プロイセン王国他ドイツ諸国やアメリカに先んじられていた。欧米型近代国家に生まれ変わるのが遅れた日本でも明治5年(1872年)には学制発布で義務教育制度の基礎が置かれたことを考えると、イギリスは欧米諸国としては義務教育制度導入が非常に遅れた国といえる。\n\n普仏戦争のプロイセンの勝利やアメリカ南北戦争の北軍の勝利はプロイセンやアメリカ北部の初等教育の充実のためと主張されていた。また第二次選挙法改正で選挙権が労働者層上層部(熟練工)まで拡大している今、初等教育を充実させることは急務であるという意見も根強くなっていた。しかしそれでもなお義務教育導入はイギリスでは意見が分かれる問題だった。特に非国教徒は義務教育で国教会信仰の押し付けが行われることを恐れており、義務教育導入に反対する者が多かった。", "qas": [ { "question": "日本に義務教育が導入されたのは西暦で何年ですか?", "id": "tr-375-20-000", "answers": [ { "text": "1872年", "answer_start": 161, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時のイギリスの国民のなか小学校を通うことができた国民の割合はどれくらいですか?", "id": "tr-375-20-001", "answers": [ { "text": "6割", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "グラッドストンはそうした反対を押し切ってでも義務教育を導入することを決意し、内閣で教育を所管している枢密院副議長ウィリアム・エドワード・フォースター(英語版)(急進派)に主導させて初等教育法案(英語版)を作成した。この法案は1870年に議会に提出され、急進派や非国教徒の激しい反発に遭いながらも、保守党の一部議員の賛成を得ることができ、なんとか両院を通過した。\n\nこの法律により「既存の学校は私立学校として宗教教育を自由にやってよいが、父兄から反対があった時はその子弟に対しては宗教教育をしてはならない」「学校がない地区には教育委員会の監督下に公立学校を設置・運営する。公立学校では特定宗派を引き立てる教育はしてはならない」「義務教育にするかどうかは各地区の教育委員会の判断にゆだねる」ことが定められた。\n\n急進派であるフォースターはもともと既存の学校を全て買収して無宗教公立学校に変えたがっていたが、それは熱心な国教徒であるグラッドストンが許さなかったため、この辺りが落とし所となった。しかし急進派や非国教徒の不満はくすぶり続け、自由党内に埋めがたい亀裂が生じ、1875年の総選挙の惨敗につながることになる。", "qas": [ { "question": "グラッドストン内閣でウィリアム・エドワード・フォースターが務めた職務は?", "id": "tr-375-21-000", "answers": [ { "text": "枢密院副議長", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イギリスの義務教育導入に反対した2勢力は急進派の他、どの勢力ですか?", "id": "tr-375-21-001", "answers": [ { "text": "非国教徒", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "グラッドストンの集権が終わったのは何年ですか?", "id": "tr-375-21-002", "answers": [ { "text": "1875年", "answer_start": 482, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "トゲウオ科", "paragraphs": [ { "context": "トゲウオ科(トゲウオか、英:Sticklebacks、学名:Gasterosteidae)は、トゲウオ目に所属する魚類の分類群の一つ。\n独特な巣作りや求愛および子育てなど、よく発達した繁殖行動を示すことで知られ、動物行動学の研究対象として利用される一群である。\nイトヨ・トミヨなど少なくとも5属8種が認められているが、1つの「種」の中に多様な生態および形態学的特徴を示す個体群が存在し、実際にはさらに多くの種が含まれることが確実視されている。", "qas": [ { "question": "トゲウオ科は現在何属が認められているの?", "id": "tr-376-00-000", "answers": [ { "text": "5属", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トゲウオ科は現在何種が認められているの?", "id": "tr-376-00-001", "answers": [ { "text": "8種", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イトヨとトミヨは何科の魚類ですか?", "id": "tr-376-00-002", "answers": [ { "text": "トゲウオ科", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トゲウオ科の学名は何?", "id": "tr-376-00-003", "answers": [ { "text": "Gasterosteidae", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "トゲウオ科の仲間は細長い体をもつもの、体高の高いものなど様々な体型をもつ。\n通常は体長10cm未満の小型魚類で、最大で全長18cmほどに成長する。\n体側には硬い鱗板が並び、一般に淡水性の種は海水・汽水性のものよりも鱗板の数が少ない。\n背鰭の棘条はよく発達し、3-16本が独立して並ぶ。\n腹鰭は1棘1-2軟条だが、一部の地域個体群では腹鰭の骨格を失っていることが知られている。\n背鰭軟条は6-14本、尾鰭の鰭条は通常12本。\n後擬鎖骨を欠き、眼窩周囲の骨は後部で欠損する。\n鰓条骨は3本、椎骨は28-42個。\nイトヨ種群は生態だけでなく形態の多様性も高いことが知られている。\n多くが3本の背鰭棘条をもつ一方で、2あるいは4本の個体も存在する。", "qas": [ { "question": "トゲウオ科の仲間は通常どれくらいのサイズですか?", "id": "tr-376-01-000", "answers": [ { "text": "10cm未満", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トゲウオ科の仲間は最大でどれくらいまで成長するの?", "id": "tr-376-01-001", "answers": [ { "text": "18cm", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "本数が多いのは背鰭軟条と尾鰭の鰭条のどちらですか?", "id": "tr-376-01-002", "answers": [ { "text": "背鰭軟条", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "トゲウオ科魚類は一般的に流れの緩やかな河川や湖沼、あるいは沿岸の浅い海で暮らし、水底付近を遊泳して生活する底生魚である。\n強靭な背鰭棘条を備えているものの、大型の魚類や鳥類にしばしば捕食され、それぞれの生態系における食物連鎖の中で重要な存在となっている。", "qas": [ { "question": "大型魚類や鳥類の生態系における食物連鎖の中で重要な存在となっている魚類は何ですか?", "id": "tr-376-02-000", "answers": [ { "text": "トゲウオ科魚類", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トゲウオ科魚類は水中以外では何から捕食されますか?", "id": "tr-376-02-001", "answers": [ { "text": "鳥類", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トゲウオ科は背鰭に何を備えているの?", "id": "tr-376-02-002", "answers": [ { "text": "背鰭棘条", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "トゲウオ類はすべての種が、雄による巣作りと卵塊の保護を行う。\n海産種は海藻を、淡水産種は水草または水底を利用した巣を形成する。\n本科魚類は進化学・遺伝学・動物行動学・生理学の研究対象として古くから利用され、多くの業績が導かれている。\nオランダの動物行動学者であるニコ・ティンバーゲンは、イトヨの本能行動を詳細に解析した研究により、1973年のノーベル生理学・医学賞を受賞している。", "qas": [ { "question": "巣作りを行うのはトゲウオ類の中で雄と雌のどちらですか?", "id": "tr-376-03-000", "answers": [ { "text": "雄", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "卵塊を保護するのはトゲウオ類の中で雄と雌のどちらですか?", "id": "tr-376-03-001", "answers": [ { "text": "雄", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ニコ・ティンバーゲンが1973年にノーベル賞を受賞した時に研究対象だった生物は何でしたか?", "id": "tr-376-03-002", "answers": [ { "text": "イトヨ", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イトヨの研究によってノーベル賞を受賞した学者は誰でしたか?", "id": "tr-376-03-003", "answers": [ { "text": "ニコ・ティンバーゲン", "answer_start": 131, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "トゲウオ類、特にイトヨ属の雄が示す繁殖行動の特徴として、鮮やかな婚姻色、分泌物を利用した巣作り、求愛のダンス、および卵の世話が挙げられる。\n繁殖期を迎えた雄の腹部は赤色を呈し、水底に縄張りを形成するようになる。\n腎臓から分泌される特殊な粘液状の物質(グル―)を使って巣作りをし、ジグザグに泳ぐ独特なダンスによって雌を呼び込む。\n背鰭の棘条で突き上げる仕草(ブリッキング)によって巣に誘導された雌は、数十秒かけて産卵した後ただちに雄から追い立てられ、子育てに参加することはない。", "qas": [ { "question": "グルーが分泌される部位はどこですか?", "id": "tr-376-04-000", "answers": [ { "text": "腎臓", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "背鰭の棘条で突き上げる仕草を何といいますか?", "id": "tr-376-04-001", "answers": [ { "text": "ブリッキング", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "繁殖期に雄の腹部は何色になりますか?", "id": "tr-376-04-002", "answers": [ { "text": "赤色", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "こうして何匹かの雌に卵を産ませると、雄は巣をグル―によってさらに固め、卵塊を保護する。\n雄は鰭を使って卵に新鮮な水流を送り(ファニング)、胚発生が進むにつれて徐々に巣を壊し、充分な酸素が供給されるようにする。\n孵化した仔魚はしばらく巣にとどまり、離れた仔魚を雄が口に入れて連れ戻す姿が観察される。", "qas": [ { "question": "雄が鰭を使って卵に新鮮な水流を送る行為を何といいますか?", "id": "tr-376-05-000", "answers": [ { "text": "ファニング", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "本科の中で最も原始的な群とされるウミトゲウオでは、繁殖行動はやや単純化されている。\n海産の本種は藻場に縄張りをもち、海藻の根元に鳥の巣に似た巣を形成する。\n雄は求愛のダンスはせず、巣に近づくものは雌雄を問わず攻撃する。\n産卵の意思をもつ雌は攻撃にひるまず、これを確認した雄は吻を巣に突っ込んだり、雌の尾柄をかんだりして巣に誘導する。\n産卵と受精が済むと、イトヨと同じように雌は雄の攻撃によってすぐに巣から追い払われる。\nこれを何度か繰り返した後、雄はファニングで新鮮な水を卵塊に送り、胚の成長につれてその頻度が増加する。\nウミトゲウオの雄は他の巣に産み付けられた卵を奪い、元親に代わって育てるという特異な習性も知られている。\nこの習性の意義はよくわかっていないが、繁殖経験を有する(強い)雄であることを雌にアピールしている可能性が指摘されている。", "qas": [ { "question": "トゲウオ科の中で最も原始的な群とされる種類は何ですか?", "id": "tr-376-06-000", "answers": [ { "text": "ウミトゲウオ", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "雄が他の巣に産み付けられた卵を奪い、元親に代わって育てるという習性を持つ種類は何ですか?", "id": "tr-376-06-001", "answers": [ { "text": "ウミトゲウオ", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウミトゲウオはどこに縄張りを持ちますか?", "id": "tr-376-06-002", "answers": [ { "text": "藻場", "answer_start": 48, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イトヨと同じく雌の産卵と受精後に雄が雌を攻撃する種類とは何ですか?", "id": "tr-376-06-003", "answers": [ { "text": "ウミトゲウオ", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "同じトゲウオ亜目に所属する近縁のシワイカナゴ科・クダヤガラ科にも、類似の行動が知られているが、トゲウオ科の繁殖行動はより複雑に特化している。\nトゲウオ亜目の中で最も原始的なグループとして位置付けられるシワイカナゴ科では、卵は海藻にそのまま産み付けられ、むき出しのままである。\n雄は卵をつついて固める動作をするが、その後は特に保護することもなく、巣から離れてしまう。\nクダヤガラ科のチューブスナウトでは海藻を束ねた簡素な巣を作るようになるが、やはり孵化まで卵を見守ることはない。", "qas": [ { "question": "トゲウオ亜目の中で最も原始的なグループとして位置付けられるのは何科ですか?", "id": "tr-376-07-000", "answers": [ { "text": "シワイカナゴ科", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "卵を海藻に産み付けても巣を作らないのは何科のトゲウオですか?", "id": "tr-376-07-001", "answers": [ { "text": "シワイカナゴ科", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "卵を海藻に産み付けて、簡単にでも巣を作るのは何科のトゲウオですか?", "id": "tr-376-07-002", "answers": [ { "text": "クダヤガラ科", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "シワイカナゴ科とシワイカナゴ科は卵をどこに産み付けますか?", "id": "tr-376-07-003", "answers": [ { "text": "海藻", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "これがトゲウオ科になると、前述の通りスピナキア属は束ねた海藻にグル―を用いて巣材を付着させ、新鮮な水流を送るといった保護行動が伴うようになる。\nさらに派生的な群であるトミヨ属・アペルテス属やクレア属では海藻(水草)を束ねることはせず、より多くの巣材を付着させることによって卵塊を露出させないようにする。\nイトヨ属は水草を使わずに水底に巣を作り、卵の保護と子育ての様式がさらに発達している。\n卵塊の隠蔽とファニングの必要性はトレードオフの関係にあり、卵を隠せば被捕食率は下がるが、新鮮な水を供給し続けなければならなくなる。\n形態だけでなく、このような行動様式の進化にも着目することが、トゲウオ亜目内の分類体系確立に寄与するものと考えられる。", "qas": [ { "question": "束ねた海藻にグル―を用いて巣材を付着させ、新鮮な水流を送るといった保護行動を行うのは何属ですか?", "id": "tr-376-08-000", "answers": [ { "text": "スピナキア属", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "トゲウオ科の魚類は北半球の淡水・汽水域、および沿岸海域にかけて幅広く分布する。\n本科に記載される5属のうち、スピナキア属(ウミトゲウオSpinachiaspinachiaのみ)は海産で、北欧の大西洋岸に生息する。\nイトヨ属の1種(Gasterosteuswheatlandi)およびアペルテス属(Apeltesquadracusのみ)も通常は海水魚で、北アメリカ北東部の大西洋岸に産する。", "qas": [ { "question": "トゲウオ科の魚類が幅広く分布するのは北半球と南半球のどちらか?", "id": "tr-376-09-000", "answers": [ { "text": "北半球", "answer_start": 9, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "トゲウオ科の魚類が多く分布しているのはどんな水域?", "id": "tr-376-09-001", "answers": [ { "text": "淡水・汽水域", "answer_start": 13, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スピナキア属、アペルテス属、イトヨ属の中で北欧の大西洋岸に生息しているものはどれですか?", "id": "tr-376-09-002", "answers": [ { "text": "スピナキア属", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "イトヨ種群(G.aculeatuscomplex)には海性・淡水性・遡河回遊性など、多様な生態をもつ個体群が含まれる。\n北アメリカの太平洋・大西洋岸、日本を含めたユーラシア大陸および北極海の一部に至る広大な範囲に分布し、特に標高100m未満の低地に多い。\nカナダ・ブリティッシュコロンビア州のハイダ・グワイ(クイーンシャーロット諸島)には、体長20cm(通常は8cm未満)に達する大型個体群が存在し、同所的種分化の例として知られている。", "qas": [ { "question": "イトヨ種群が多く分布しているのは標高何m未満の低地ですか?", "id": "tr-376-10-000", "answers": [ { "text": "100m未満", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イトヨ種群の通常の体長はどれくらいですか?", "id": "tr-376-10-001", "answers": [ { "text": "8cm未満", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "体長20cmに達するイトヨ種群が生息している場所はどこですか?", "id": "tr-376-10-002", "answers": [ { "text": "ハイダ・グワイ", "answer_start": 146, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "体長20cmに達するイトヨ種群が生息している国はどこですか?", "id": "tr-376-10-003", "answers": [ { "text": "カナダ", "answer_start": 128, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "トミヨ種群(Pungitiuspungitiuscomplex)は主に淡水性、ごくまれに回遊性で、北アメリカ・ユーラシア大陸の標高600mまでの河川・湖沼に分布する。\nトミヨ属に所属する2種、P.platygasterとP.hellenicusはそれぞれ黒海からアラル海、およびギリシャに産する。\nクレア属(カワトゲウオCulaeainconstansのみ)は北アメリカに生息する淡水魚である。\nこのほかに中新世の化石種として、イトヨ属の仲間がシベリア東部とカリフォルニア州から知られている。", "qas": [ { "question": "クレア属の生息地はどこですか?", "id": "tr-376-11-000", "answers": [ { "text": "北アメリカ", "answer_start": 180, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "トミヨ種群の分布水域はどのような場所ですか?", "id": "tr-376-11-001", "answers": [ { "text": "河川・湖沼", "answer_start": 72, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日本ではイトヨ属がイトヨ、ニホンイトヨとハリヨ、トミヨ属ではエゾトミヨ、トミヨ属淡水型、トミヨ属雄物型、トミヨ属汽水型、ムサシトミヨ、ミナミトミヨが報告されている。\nこのうちムサシトミヨ(Pungitiussp.)は、現在では埼玉県の一部(熊谷市)にしか生息しない日本の固有種である。\nまた、関西地方に分布していたミナミトミヨ(P.kaibaraeもしくはP.sinensiskaibarae)はすでに絶滅したとみられている。", "qas": [ { "question": "日本のトミヨ属の中で埼玉県の一部しか生息しない種類は何ですか?", "id": "tr-376-12-000", "answers": [ { "text": "ムサシトミヨ", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本のトミヨ属の中で、既に絶滅したとされる種類は何ですか?", "id": "tr-376-12-001", "answers": [ { "text": "ミナミトミヨ", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本の固有種であるトミヨ属の名前は何ですか?", "id": "tr-376-12-002", "answers": [ { "text": "ムサシトミヨ", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミナミトミヨが分布していた地域はどこでしたか?", "id": "tr-376-12-003", "answers": [ { "text": "関西地方", "answer_start": 146, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日本のイトヨ(Gasterosteusaculeatus)には生活史多型が存在し、生涯を淡水域で送る淡水(陸封)性の個体は北海道(阿寒湖など)と本州(福島県・栃木県・福井県など)の内陸部に、海で成長して産卵期に河川に遡上する遡河回遊性の個体が北海道の太平洋側に分布する。\nまた、ニホンイトヨ(G.nipponicus)は遡河回遊性の生活史を持ち、北海道から九州以北の日本海沿岸部、千葉県銚子付近までの太平洋沿岸部に生息する。\nハリヨは滋賀県ならびに岐阜県に分布し、後者の生息地はトゲウオ科魚類の南限の一つとみなされている。", "qas": [ { "question": "二ホンイトヨはどのような生活史を持っているの?", "id": "tr-376-13-000", "answers": [ { "text": "遡河回遊性", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハリヨの分布地域は岐阜県とどこですか?", "id": "tr-376-13-001", "answers": [ { "text": "滋賀県", "answer_start": 217, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "トミヨ属では、エゾトミヨが北海道、トミヨ属淡水型は太平洋側では岩手県以北、日本海側では福井県以北の本州および北海道に分布する。\nトミヨ属雄物型は秋田県雄物川水系と山形県のみに、トミヨ属汽水型は北海道東部に生息する。\nトミヨ属淡水型、雄物型、汽水型はそれぞれが独立した分類群である可能性が指摘されているが、適用すべき学名も和名も持たない。", "qas": [ { "question": "北海道東部に生息しているのは何型のトミヨ属ですか?", "id": "tr-376-14-000", "answers": [ { "text": "汽水型", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北海道に分布しているトミヨ属の名前は何?", "id": "tr-376-14-001", "answers": [ { "text": "エゾトミヨ", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "秋田県雄物川水系と山形県のみに分布しているトミヨ属は何型ですか?", "id": "tr-376-14-002", "answers": [ { "text": "雄物型", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "喉鳴らし", "paragraphs": [ { "context": "喉鳴らし(のどならし)はネコ科およびジャコウネコ科の動物の一部が行う発声の一種である。\n低周波の音で、呼気と吸気の双方で発生する。\n生後2日目には聞かれるようになる。\n喉鳴らしのメカニズムはまだ明確にはなっていない。\n支配的な理論は、神経振動により喉頭の筋肉の収縮が引き起こされ声帯を振動させることにより音が発生するというものである。\nネコ科の各動物、特にヒョウ亜科の動物たちが喉を鳴らすことができるのか否かも議論の的となっている。", "qas": [ { "question": "喉鳴らしは生後何日目には聞くことが出来ますか?", "id": "tr-377-00-000", "answers": [ { "text": "2日目", "answer_start": 68, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ネコ科とジャコウネコ科の動物の一部が行う発声の一種を何といいますか?", "id": "tr-377-00-001", "answers": [ { "text": "喉鳴らし", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "低周波の音で呼気と吸気の両方で発生する発声行為とは何?", "id": "tr-377-00-002", "answers": [ { "text": "喉鳴らし", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ネコは嬉しい時にも苦しい時にも喉を鳴らすことがあり、このため喉鳴らしの意味合いはあまり明確ではない。\n飼いネコでは頻繁であるが、自然ではネコが喉を鳴らすのは主として母子関係の中に限られる。\n一部の研究者たちによれば喉鳴らしは人間の微笑みに近いものであり、仲間に対するものも人間に対するものも含めその社会的な役割が最も重要である。\n喉鳴らしには治療的な役割があるとする理論もある――喉鳴らしにより送り出される低周波が骨、筋肉、腱を強化し、さらには鎮痛効果もあるのだという。\n喉鳴らしを指すフランス語ronronnement、ドイツ語Schnurren、英語Purrなどの語はいずれも「ごろごろ」という音の擬声語である。", "qas": [ { "question": "野生のネコが喉鳴らしをするのはどういった関係の中に限られるの?", "id": "tr-377-01-000", "answers": [ { "text": "母子関係", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "喉鳴らしを英語で表すとどうなる?", "id": "tr-377-01-001", "answers": [ { "text": "Purr", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "喉鳴らしをドイツ語で表すとどうなる?", "id": "tr-377-01-002", "answers": [ { "text": "Schnurren", "answer_start": 265, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "喉鳴らしをフランス語で表すとどうなる?", "id": "tr-377-01-003", "answers": [ { "text": "ronronnement", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "喉鳴らしは呼気と吸気の間の数十〜百ミリ秒ほどの短い休止を除く呼吸の全段階を通じて発生し続ける振幅の小さい連続音である。\n吸気の時の方が強く低くなると考えられているが、2010年に公刊された研究によると、ネコの喉鳴らしは呼気・吸気で振幅に変化はなく、チーターでは逆に呼気の方が強かった。\n口を閉じた状態で発生し、最も多くの場合で2秒以上持続し、周波数は25-20Hz、基本周波数は約20Hzである。\nネコの喉鳴らしは3メートル四方、チーターのものは40メートル四方にまで聞こえる。\n音は鼻の高さで最も強くなる。", "qas": [ { "question": "喉鳴らしの基本周波数は?", "id": "tr-377-02-000", "answers": [ { "text": "約20Hz", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "喉鳴らしが聞こえる範囲が広いのは、ネコとチーターのどちらですか?", "id": "tr-377-02-001", "answers": [ { "text": "チーター", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "チーターの喉鳴らしで振幅が強いのは呼気と吸気のどちらですか?", "id": "tr-377-02-002", "answers": [ { "text": "呼気", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "発声のメカニズムは呼気音でもあり吸気音でもある。\n吸気音の発声はイヌやキツネなど他の多くの動物も行うことがチャールズ・ダーウィン以来知られている。\n人間においても、吸気音はゲルマン語派などで用いられている。\nチーターとネコの喉鳴らしを比較した2010年発表の調査によれば、チーターにおいては呼気音の段階の方が長く、より多くのサイクルを含むが、ネコにおいては呼気音と吸気音の段階の間に差は存在しないか、存在しても僅かであった。\n2つの段階を通じ、チーターはネコより多くのサイクルを発生させるが、基本周波数は同じであった。", "qas": [ { "question": "ネコとチーターはどちらが呼気音の段階が長い?", "id": "tr-377-03-000", "answers": [ { "text": "チーター", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゲルマン語派などで用いられる発生メカニズムは、呼気音と吸気音のどちらですか?", "id": "tr-377-03-001", "answers": [ { "text": "吸気音", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "喉鳴らしは生後2日目には授乳の際に聞かれるようになり、これにより母子はコミュニケーションを行う。\nこの現象は母猫によるグルーミングの際にも見られる。\n喉鳴らしは子猫が涙と共に発する最初の鳴き声であり、母猫も子猫に喉鳴らしで答える。\n自然においては、喉鳴らしは母と子の関係において最も頻繁に見られるが、イエネコでは人間や物体との接触によっても喉鳴らしが起きる。\nネコは睡眠中には決して喉を鳴らさないが、その代わりニャーと鳴くことがある。", "qas": [ { "question": "ネコは眠っている最中はどのような鳴き声で鳴きますか?", "id": "tr-377-04-000", "answers": [ { "text": "ニャー", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "産まれたばかりの赤ちゃん猫が最初に発する鳴き声とは?", "id": "tr-377-04-001", "answers": [ { "text": "喉鳴らし", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "人間や物体との接触によって喉鳴らしが起きる動物は何?", "id": "tr-377-04-002", "answers": [ { "text": "イエネコ", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ネコ科の動物に喉鳴らし専用の器官があるわけではない。\n最も流布している仮説は、喉頭の筋肉の極めて急速な収縮が声門を収縮・膨張させ、音の発生源となる声帯の急激な分離が引き起こされるというものである。\nこの仮説は喉頭の筋肉の筋電計による計測に基づいている。\n毎秒20-30回のピークからなる規則的・反復的な型が観測され、これが喉頭の規則的な緊張をもたらす。\n喉頭の変化は30-40ミリ秒の周期を作り出す神経振動によりもたらされるこの神経振動を止めることはできず、このことは中枢神経系の内部そのものに高周波の振動機構があることを示唆している。\nこの振動を引き起こす脳の部位は視床下部の近くである。", "qas": [ { "question": "30-40ミリ秒の周期を作り出しているものは何?", "id": "tr-377-05-000", "answers": [ { "text": "神経振動", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "神経振動を引き起こす脳の部位はどこ?", "id": "tr-377-05-001", "answers": [ { "text": "視床下部の近く", "answer_start": 284, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1972年の研究によれば、吸息中の横隔膜の緊張には均等な切れ目があり、喉頭と横隔膜との間の筋電図のピークは同期していなかった。\nこの交互な活性化は気管の圧力の負の変動を抑えることを可能にし、喉頭が抵抗を最小とする期間中の吸息における空気の流れを促進する。\n1987年の新しい研究は筋電図により、呼息にかかわる筋肉もまた喉鳴らしに関与している可能性があることを示した。\n2000年のデニス・C・ターナーとパトリック・ベイトソンの研究では横隔膜やその他の筋肉は呼吸をするために必要ではあるが喉鳴らしそのものに必要なわけではないとしている。\n喉頭の筋肉の収縮という仮説を否定しうる要素の一つとして、喉頭切除術を受けたネコたちが横隔膜を用いて喉を鳴らすことができるという事実がある。\n他の仮説では、気管支・気管鼻腔により増幅された大静脈の振動や、さらには仮声帯もしくは軟口蓋の振動なども言及されている。", "qas": [ { "question": "呼息に関わる筋肉も喉鳴らしに関係している可能性があると分かったのは何年の研究によるものですか?", "id": "tr-377-06-000", "answers": [ { "text": "1987年", "answer_start": 128, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "横隔膜が喉鳴らしに関係ないと示した人はパトリック・ベイトソンと誰ですか?", "id": "tr-377-06-001", "answers": [ { "text": "デニス・C・ターナー", "answer_start": 190, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ネコ科動物の喉鳴らしは常に議論の的となってきた――ライオンやヒョウのような最も良く知られているものも含む多くの種について喉を鳴らせるのか否かは謎のままとなっている。\n情報が全くないかあっても不充分な種が多いのである。\nライオン、トラ、ヒョウ、ジャガー、ユキヒョウなどのヒョウ亜科の動物たちは骨化が部分的であるかもしくは骨化していない舌骨の靭帯を有しており、これにより吼えることが可能となっている反面喉を鳴らすことはできなくなっているという。\nしかしながら、こうした区別には1990年代になると疑問が呈されるようになる――ヒョウ亜科の発声構造では喉を鳴らすのは困難ではあるが、可能なのかもしれないのである。\nポール・ハイニーは、大型のネコ科動物たちは呼気でしか喉を鳴らせない(呼気では喉を鳴らせる)と主張している。", "qas": [ { "question": "大型のネコ科動物たちは呼気でした喉を鳴らせないと主張している人は誰?", "id": "tr-377-07-000", "answers": [ { "text": "ポール・ハイニー", "answer_start": 303, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "骨化が部分的であるか骨化していない舌骨のお陰で吼える(ほえる)ことができる、というのはリチャード・オーウェンと、続いてレジナルド・インズ・ポコックが1916年に立てた歴史的な仮説であり、これによりネコ科のさまざまな種を分類することが可能となった――吼える(よって喉を鳴らさない)ネコ科動物であるヒョウ亜科と、吼えない(喉を鳴らす)ネコ科動物であるネコ亜科である。\nグスタフ・ペータースによると、喉鳴らしはネコ科の共通祖先の持っていた特徴であり、同様の発声は収斂進化として他の哺乳類(例えばアライグマやウサギなど)にも見られる。\nケープジェネットやヨーロッパジェネットなど、一部のジャコウネコ科動物も喉を鳴らす。", "qas": [ { "question": "ネコ以外で喉鳴らしをする動物はウサギと何ですか?", "id": "tr-377-08-000", "answers": [ { "text": "アライグマ", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "喉鳴らしはネコ科の共通先祖の持っていた特徴であると述べたのは誰?", "id": "tr-377-08-001", "answers": [ { "text": "グスタフ・ペータース", "answer_start": 182, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "喉鳴らしは接触と結びつくことが最も多く、仲の良い仲間や、人間、さらには物体との触れ合いとも共に発せられる。\n物体の例としては、ネコが前脚でクッションを「もみもみ」する時などがある。\n喉鳴らしは動物が喜びを感じている時に現れるほか、苦痛を感じている時にも現れる。\n獣医師はネコ達がストレスを受けたり、傷ついたり、さらには死につつあったりするときに絶え間なく喉を鳴らし続けるのを観察している。", "qas": [ { "question": "物体との接触の際に喉鳴らしをする例で挙がっている物とは何ですか?", "id": "tr-377-09-000", "answers": [ { "text": "クッション", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "動物が喉鳴らしをする時は、喜びを感じている時とどんな時ですか?", "id": "tr-377-09-001", "answers": [ { "text": "苦痛を感じている時", "answer_start": 115, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ネコは依存を表す時に喉を鳴らすことが一番多い。\n子猫は母猫とその乳に依存し、また世話や愛撫を求める時には人間に依存する。\n喉鳴らしはネコたちの社会関係で重要な役割を担っており、ネコは喉鳴らしによって状態を周囲にいる人間やネコに伝える。\n喉を鳴らす子猫は母猫に自分が元気だと伝え、成猫は愛撫されての満足を表す。\nまた社会的な絆を強め、紛争を防ぐこともある(支配的なネコと遭遇したネコは喉を鳴らす)。\nデニス・C・ターナーとパトリック・ベイトソンによれば、喉鳴らしの社会的役割は人間でいう微笑みに相当するものであり、デズモンド・モリスは共通するメッセージが「悪意のなさ」であると説明している。\n1985年にジョエル・ドゥハッスは、ネコが自分自身のため、例えば落ち着きを取り戻すために喉を鳴らす場合があるという仮説を唱えた。\n病気のネコが喉を鳴らすことがある理由をこの仮説は説明する。\nグスタフ・ペータースもまた喉鳴らしが自己コミュニケーションの一例となり得るとしている。", "qas": [ { "question": "ネコが喉鳴らしをする時が最も多いのは、どんな時?", "id": "tr-377-10-000", "answers": [ { "text": "依存を表す時", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "喉鳴らしの社会的役割は人間でいうなら何に値いしますか?", "id": "tr-377-10-001", "answers": [ { "text": "微笑み", "answer_start": 242, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "デズモンド・モリスは、喉鳴らしと微笑みの共通点が何だと説明しましたか?", "id": "tr-377-10-002", "answers": [ { "text": "「悪意のなさ」", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ネコ自身が落ち着きを取り戻すために喉鳴らしをする事があるという仮説を立てた人は誰ですか?", "id": "tr-377-10-003", "answers": [ { "text": "グスタフ・ペータース", "answer_start": 390, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "イエネコは、赤ちゃんの鳴き声と対比されるような非常に鋭い声が通常の喉鳴らしと混淆した、「追加の」喉鳴らしを発達させた。\n通常の喉鳴らしと混ぜてこの「懇願の」喉鳴らしを50人の被験者に聞かせたところ、全ての被験者がこの喉鳴らしに切迫のニュアンスを感じ取った。\nこれは人間とのコミュニケーションに適応したものであろうと研究者は結論づけている。", "qas": [ { "question": "「追加の」喉鳴らしを発達させた動物は何ですか?", "id": "tr-377-11-000", "answers": [ { "text": "イエネコ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "人間とのコミュニケーションに適応したとされるのは、どのような喉鳴らしですか?", "id": "tr-377-11-001", "answers": [ { "text": "「懇願の」喉鳴らし", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「懇願の」喉鳴らしを聞いた被験者は何人でしたか?", "id": "tr-377-11-002", "answers": [ { "text": "50人", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ネコは骨折の治癒が速く、手術後の併発症が少なく、イヌに比して骨・筋肉・靭帯の有病割合が低いと獣医師たちは考えている。\n周波数が25-30ヘルツの喉鳴らしには骨・腱・靭帯に関する治癒とさらには鎮痛の効果があるという仮説が出されている。\nネコ科の動物の多くが、鋭い痛みや腱・筋肉・関節の問題を鎮める効果のある周波数の振動を発するのである。\nこの仮説によるなら、ネコにとって喉鳴らしは体の維持を行い健康を保つ手段ということになる。", "qas": [ { "question": "骨や筋肉の有病割合が低いのは、イヌとネコのどちらですか?", "id": "tr-377-12-000", "answers": [ { "text": "ネコ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イヌとネコのうち、靭帯の有病割合が高いのはどちらですか?", "id": "tr-377-12-001", "answers": [ { "text": "イヌ", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "骨や靭帯を治癒する以外に、喉鳴らしにはどのような効果があるの?", "id": "tr-377-12-002", "answers": [ { "text": "鎮痛の効果", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フランス語«ronron»([ʀɔ̃ʀɔ̃]、「ロンロン」)は日本語でいう「ゴロゴロ」というネコの出す音を真似た擬声語であり、初出はジャン=ジャック・ルソーの1731年の小説『新エロイーズ』の一節であった。\nこの名詞から「喉を鳴らす」という意味の動詞«ronronner»(「ロンロネ」)が派生し、さらに喉鳴らし一般を指すronronの同義語«ronronnement»(「ロンロヌマン」)が派生した。\nアナロジーにより、ronronやronronnementという語はエンジンなどの鈍い連続音も指す。", "qas": [ { "question": "フランス語ではネコの喉鳴らしの擬声語はどのように表されていますか?", "id": "tr-377-13-000", "answers": [ { "text": "「ロンロン」", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本語ではネコの喉鳴らしの擬声語はどのように表されていますか?", "id": "tr-377-13-001", "answers": [ { "text": "「ゴロゴロ」", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『新エロイーズ』の著者は誰?", "id": "tr-377-13-002", "answers": [ { "text": "ジャン=ジャック・ルソー", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『新エロイーズ』は何年に出版されたの?", "id": "tr-377-13-003", "answers": [ { "text": "1731年", "answer_start": 79, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "英語では喉を鳴らすことは名詞・動詞ともにpurrという。\n初出は16世紀で、これも擬声語である。\n日本語では、「喉を鳴らす」や「喉鳴らし」などの語句は日本国語大辞典でも見出し語となっていないが、「ごろ」「ごろごろ」及び「ぐるぐる」が「猫などが喉を鳴らす声」として掲載されており、1890-92年の『小公子』の邦訳に用例がある。", "qas": [ { "question": "purrという言葉が初めて世に出たのはいつでしたか?", "id": "tr-377-14-000", "answers": [ { "text": "16世紀", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "邦訳された喉鳴らしの用例が記載されている外国文学とは何?", "id": "tr-377-14-001", "answers": [ { "text": "『小公子』", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "喉鳴らしにはリラックス効果があるので人間にとっても非常に有益になりうる。\n喉を鳴らすネコがいることで傷の治癒が早くもなるという。\nネコの喉鳴らしは『失われた時を求めて』におけるマドレーヌのように快い思い出を蘇らせ、ストレスを解消する効果があるという。\n一部の病院では特に高齢者に対してネコによる安らぎの効果を試行しており、また日本では誰でもネコのそばで時間を過ごし安らぐことが出来る猫カフェが営業されている。\n(音楽つき、もしくはなしで)喉鳴らしを録音したものまで販売されている。\nPurr-likevibrationdevice(喉鳴らし風バイブレーター)という、低周波の(ありうる)治癒効果を利用した発明もある。\n体に固定し、喉鳴らしの周波数の振動を送り込む小さな装置である。\n認知行動療法では、ネコの喉鳴らしを真似て呼気を中心とした呼吸を学び直すことを狙ったソフロロジーの訓練が行われている。\n短く、フランス語のRの音に似た喉音を伴う呼気を行うのである。", "qas": [ { "question": "ネコと共に時間を過ごしゆっくり安らげるお店を何と言いますか?", "id": "tr-377-15-000", "answers": [ { "text": "猫カフェ", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "低周波の治癒効果を利用した発明品名は何?", "id": "tr-377-15-001", "answers": [ { "text": "喉鳴らし風バイブレーター", "answer_start": 266, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "体に固定して喉鳴らしの周波数の振動を送り込む小さな装置の名前は何?", "id": "tr-377-15-002", "answers": [ { "text": "喉鳴らし風バイブレーター", "answer_start": 266, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フランスの童謡『小さな羊飼いの娘』(Ilétaitunebergère)にはチーズを守るために子猫を殺してしまう羊飼いの娘が登場する。\nこの歌のリフレインはネコの喉鳴らしを模倣している。\nサー・パー(SirPurr;「ごろごろ卿」)はアメリカンフットボールのチームカロライナ・パンサーズのマスコットである。", "qas": [ { "question": "『小さな羊飼いの娘』はどこの国の童謡ですか?", "id": "tr-377-16-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『小さな羊飼いの娘』の歌のリフレインは何を模倣しているの?", "id": "tr-377-16-001", "answers": [ { "text": "ネコの喉鳴らし", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "南硫黄島原生自然環境保全地域", "paragraphs": [ { "context": "南硫黄島は東京から南南東約1300kmの、北緯24度13.7分、東経141度27.7分に位置している。緯度的には台湾の中部にあたり、北回帰線のすぐ北側にある。南硫黄島の北約60kmには、同じ火山列島に属する硫黄島があり、小笠原諸島の父島からは330km離れている。また、南東約540km先にはマリアナ諸島の北端にあるファラリョン・デ・パハロス島(ウラカス島)がある。南硫黄島は、ほぼ南北方向に延びる、全長約1200km、幅約400kmの島弧である伊豆小笠原弧の最南部に位置している。伊豆諸島や火山列島を構成する島々は、伊豆小笠原弧の火山フロントである七島-硫黄島海嶺に属し、258万8000年前以降の第四紀に活動している火山であるが、南硫黄島もやはり第四紀に火山活動によって形成された火山島である。南硫黄島がいつ頃島として誕生したのかについてははっきりしていないが、採集された岩石の分析から地磁気の逆転が見られないため、数十万年より新しいと考えられている。日本列島のように、かつて大陸と地続きであったが切り離された島を大陸島と呼ぶ。一方海洋底から火山活動によって誕生し、これまで大陸と一度も地続きとなったことがない島を海洋島ないし大洋島と呼ぶ。伊豆小笠原弧の火山フロントである七島-硫黄島海嶺に属する南硫黄島は、典型的な大洋島である。", "qas": [ { "question": "硫黄島と小笠原諸島の父島のうち、南硫黄島からより近いのは、どの島なの?", "id": "tr-378-00-000", "answers": [ { "text": "硫黄島", "answer_start": 80, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マリアナ諸島と小笠原諸島の父島のうち、南硫黄島からより遠いのは、どの島ですか?", "id": "tr-378-00-001", "answers": [ { "text": "マリアナ諸島", "answer_start": 146, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "南硫黄島の誕生時期についてははっきりされてないものの、数十万年より新しいと考えられているのは、何が見られないからであるか?", "id": "tr-378-00-002", "answers": [ { "text": "地磁気の逆転", "answer_start": 395, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "島の面積は3.67km2で、周囲は約7.5kmであるが、伊豆諸島と小笠原諸島の中で最高峰である916mの山が聳え、島の海岸線は湾や入江などの出入りがほとんど見られず、大小の岩に覆われた5mから50mの幅の浜辺があり、砂浜はほとんど見られない。そして浜辺の背後には数十-200mの海食崖が発達している。山体は平均斜度45度に達する急斜面で、侵食が進んでおらず火山体の原型を比較的良く留めている北西部が最も傾斜が緩やかであるが、その部分でも斜度30度に達する。また南硫黄島の地形の特徴としては、川や湖沼などの淡水系が全く見られないことも挙げられる。南硫黄島を構成する岩石は玄武岩であり、体積比では溶岩流とアグルチネートが島のほとんどを占める。島の急斜面が保たれているのはこのアグルチネートによるもので、強く溶結されている。山頂部には直径約150m、深さ30-40mの東側に開析された火口がある。火口の東側は崩落しており噴火の記録はなく現在噴気活動も認められない。山体全体も東斜面が西斜面よりも侵食が進んでいる。また南硫黄島には確認されているだけで254本の岩脈が貫入している。島の周囲の海域ではサンゴ礁の発達は悪く、海岸線に外洋の波浪が直接打ちつけるようになっている。南硫黄島周囲は水深40-50m付近までは緩やかな傾斜であるが、それ以深では急速に深度を増す。そして南硫黄島の北東約5kmには、しばしば活発な火山活動が観測されている海底火山である福徳岡ノ場がある。南硫黄島の誕生は数十万年前と考えられる。まず溶岩の流出を繰り返しながら小型の火山体が成長していった。短い噴火の休止期に続いて再び溶岩の流出などの火山活動が続き、今の南硫黄島山頂よりも少し東側に火山体が成長していった。その後現在の山頂部からの噴火が始まり現在の南硫黄島が形成された。その後、火山活動は南硫黄島の北東約5kmの福徳岡の場に移り、活動が休止した南硫黄島では侵食活動によって現在の形となったと考えられる", "qas": [ { "question": "南硫黄島と伊豆諸島、そして小笠原諸島の中で最も高い山を持っている島は、どの島なの?", "id": "tr-378-01-000", "answers": [ { "text": "南硫黄島", "answer_start": 230, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "南硫黄島はどのような岩石により構成されていますか?", "id": "tr-378-01-001", "answers": [ { "text": "玄武岩", "answer_start": 284, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "体積比で南硫黄島のほとんどを占めるもののうち、島の急斜面が強く溶結されて保たれている理由となるのは、何か?", "id": "tr-378-01-002", "answers": [ { "text": "アグルチネート", "answer_start": 335, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "南硫黄島周囲の水深が急激に深くなるのは、水深何mからか?", "id": "tr-378-01-003", "answers": [ { "text": "50m", "answer_start": 544, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "南硫黄島は、サンゴ礁の発達が悪い上に湾や入江がほとんど見られないため、外洋の波浪が海岸線に直接打ちつけており上陸自体が困難である。島自体も皇居ほどの大きさの島に916mという山が聳え、平均斜度45度という極めて険しい地形であり、また真水もほとんどないことから、人間が上陸した記録自体が少なく、これまで開発の手が入ることがなかった。南硫黄島の発見は1543年、スペイン船サン・ファン号による火山列島発見時のこととされる。その後も北太平洋を航海する船によって目撃された記録が残っている。1885年(明治18年)末、函館を出航した松尾丸が遭難、漂流の結果、南硫黄島に漂着し、乗組員のうち3名が救助されるまでの約3年半、島で過ごしたことがまがりなりにも南硫黄島で生活したことが確実な唯一の記録である。また第二次世界大戦終了直後、アメリカ軍によって南硫黄島で1人の日本人が発見されたとの話が伝えられているが不確実である。しかし南硫黄島を開発しようとする試みがこれまで全く行われなかったわけではない。1896年(明治29年)から北硫黄島の開拓を始めた石野平之丞は、火山列島を構成する北硫黄島、硫黄島、南硫黄島全てを調査した上で北硫黄島の開拓に乗り出したと伝えられており、また1917年(大正6年)には硫黄島の住民が南硫黄島に上陸し、サトウキビなどの栽培を試みた。しかし上陸自体が困難である上に、島自体の極めて険しい地形、そして真水が極めて乏しいという悪条件は、このような開発の試みを挫折させたと考えられる。", "qas": [ { "question": "南硫黄島を最初に発見したのは、どの国なの?", "id": "tr-378-02-000", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 179, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "南硫黄島で生活したという確実かつ唯一の記録とは、何年に出航し、南硫黄島に漂着した人々のことであるか?", "id": "tr-378-02-001", "answers": [ { "text": "1885年", "answer_start": 241, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "火山列島を構成する島々のうち、1896年から開拓され始まったのは、どの島か?", "id": "tr-378-02-002", "answers": [ { "text": "北硫黄島", "answer_start": 458, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1917年に南硫黄島への上陸、そして、そこでの作物の栽培を図ったが、南硫黄島の様々な環境のことで失敗したのは、どの島の住民らか?", "id": "tr-378-02-003", "answers": [ { "text": "硫黄島", "answer_start": 459, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "人間による開発の手が及ばず、手付かずの原始の自然が残された南硫黄島は、やがてその貴重な自然環境が注目されるようになった。1930年(昭和5年)に南硫黄島で採取され、小笠原営林署で栽培された植物が中井猛之進の手に渡ったことにより、南硫黄島の生物が最初に学会にもたらされることになった。そして1935年(昭和10年)10月、小笠原営林署による植物調査が実施され、標高約700m付近まで調査を実施して多数の植物標本を持ち帰った。これが初めての南硫黄島の学術調査である。翌1936年(昭和11年)3月、より本格的な植物調査が実施された。この時の調査では島の南西部から登頂を行って初めて島の最高点に到達し、海岸部から山頂部まで調査を行うことに成功した。調査では維管束植物89種を採集し、南硫黄島の植物相の特徴がとらえられるようになった。", "qas": [ { "question": "南硫黄島における最初の学術調査が行われたのは、何年?", "id": "tr-378-03-000", "answers": [ { "text": "1935年", "answer_start": 144, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "南硫黄島の植物相の特徴がとらえられるようになったのは、何年の調査によることか?", "id": "tr-378-03-001", "answers": [ { "text": "1936年", "answer_start": 232, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南硫黄島の生物に対する学術調査では、植物と動物のうち、どちらが主に取り扱われたのか?", "id": "tr-378-03-002", "answers": [ { "text": "植物", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1968年(昭和43年)6月の小笠原諸島の日本復帰後、人間の影響が極めて希薄で、自然環境の調査が進んでいない南硫黄島についての関心が高まっていった。まず1969年(昭和44年)7月には鳥類調査を目的として文部省の調査船が南硫黄島周辺を調査し、同月東京都建設局公園緑地部の調査船も調査のため南硫黄島を一周した。1972年(昭和47年)10月、南硫黄島は小笠原国立公園の区域に指定され、1972年11月には南硫黄島全体が天然記念物に指定された。さらに1975年(昭和50年)5月、環境庁によって人間による環境への影響が少なく原始の自然が残されている地域として、自然環境保全法に基づき原生自然環境保全地域に指定された。1979年(昭和54年)4月には、地質調査所が南硫黄島の岩石採集を目的として上陸調査を行ったが、天候急変のために数時間で調査を切り上げざるを得なかった。1981年(昭和56年)6月には国土庁が岩石採集を目的とした調査を試みたが、高波のために上陸を断念した。1981年(昭和56年)6月、日本シダの会の調査員が上陸に成功し、130m付近まで登頂を行い、新たに13種の植物を採集した。環境庁は原生自然環境保護地域に指定された5か所の総合的な学術調査を昭和55年度から実施した。その中で南硫黄島も、1982年(昭和57年)6月に総合的な学術調査が実施された。1936年以来46年ぶりに海岸部から山頂まで各種調査が実施され、これまで多くの謎に包まれていた南硫黄島の貴重な地形、地質、土壌、植物、動物などの自然環境が明らかになってきた。この時の調査結果を踏まえ、1983年(昭和58年)6月、南硫黄島全体が原生自然環境保護地域の立入制限地区に指定されることになった。", "qas": [ { "question": "小笠原国立公園の区域と天然記念物のうち、南硫黄島がどちらに指定されたのがより遅いの?", "id": "tr-378-04-000", "answers": [ { "text": "天然記念物", "answer_start": 208, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1982年6月の環境庁による学術調査以前に、南硫黄島の海岸部から山頂まで調査を行うのに成功したのは、何年のことか?", "id": "tr-378-04-001", "answers": [ { "text": "1936年", "answer_start": 582, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南硫黄島全体が原生自然環境保護地域の立入制限地区に指定されるきっかけとなった調査とは、何年に行われたのか?", "id": "tr-378-04-002", "answers": [ { "text": "1982年", "answer_start": 552, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2007年(平成19年)6月、東京都環境局と首都大学東京の手によって25年ぶりの南硫黄島調査が行われた。これは小笠原諸島が世界遺産の自然遺産の候補地とされる中で、調査回数が少なくいまだ全貌が明らかとなっていない南硫黄島の自然環境についての調査を実施し、人間からの影響が極めて少ない海洋島である南硫黄島の生物多様性、生態系のあり方や生物進化の過程を知り、そして南硫黄島への外来生物の進入状況を把握することが小笠原諸島の世界遺産としての価値を証明するためにも必要と判断されたためであった。2007年の調査では1936年、1982年に続き3回目となる山頂までの総合調査が実施され、南硫黄島の自然環境について貴重な知見を得ることができた。また2007年の調査時は、人間からの影響が最小限に抑えられている南硫黄島への外来種の持ち込みを避けるために、島内に持ち込む荷物をクリーンルーム内で殺虫剤の燻蒸を行い、調査隊員の排泄物やゴミも全て持ち帰るなど、調査によって南硫黄島の自然環境に影響を与えぬよう万全の体制を取った。2017年(平成29年)6月、東京都、首都大学東京、日本放送協会の合同による南硫黄島学術調査が実施された。立ち入り困難な場所も多いため、科学者らはロッククライミングの専門家から事前に指導を受け(調査にも同行)、マルチコプターによる空撮も使用された。この記録は2018年のNHKスペシャルで放送された。南硫黄島でこれまで行われた本格的な学術調査は、1936年、1982年、2007年、2017年の4回にすぎず、4回とも山頂部までの調査が実施されたものの、全て島の南西部からほぼ同一コースを取って山頂を目指したため、海岸部を除くと島の南西部から山頂への登頂ルート周辺という島内のほぼ同一地域の調査に限られている。また戦後の1982年、2007年、2017年の調査とも、天候が比較的安定していて台風も少なく波が一番穏やかな季節とされる6月に実施されており、冬季に南硫黄島で繁殖活動を行っている可能性があるとされるアホウドリ類の調査が進んでいないなど、まだ南硫黄島の自然環境については調査が進んでいない部分が残されている。", "qas": [ { "question": "山頂までの総合調査が初めて行われたのは、何年?", "id": "tr-378-05-000", "answers": [ { "text": "1936年", "answer_start": 252, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "天候が安定していないにもかかわらず、山頂まで調査を行うことに成功したのは、何年の調査ですか?", "id": "tr-378-05-001", "answers": [ { "text": "1936年", "answer_start": 252, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2018年のNHKスペシャルで放送された南硫黄島の調査記録は、何年に行われた調査記録であるか?", "id": "tr-378-05-002", "answers": [ { "text": "2017年", "answer_start": 453, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この文書では、南硫黄島でこれまで行われた本格的な学術調査は、何回に過ぎないと言っていますか?", "id": "tr-378-05-003", "answers": [ { "text": "4回", "answer_start": 650, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "南硫黄島の自然環境の中で最も研究が進んでいるのが植物に関する分野である。これは1982年の総合調査より前に、戦前の1935年、1936年、そして1981年には日本シダの会によって調査が行われた経緯があり、一番調査研究が長く行われていたことによる。これまでの南硫黄島での植物調査によって確認された維管束植物はシダ植物44種、双子葉植物59種、単子葉植物26種の計129種である。なお南硫黄島から裸子植物は確認されていない。南硫黄島の植物の中で、最も共通種が多いのは小笠原群島と北硫黄島、南硫黄島で、ともに7割近くに達している。しかし南硫黄島には小笠原群島を飛び越え、伊豆諸島や日本本土、遠くアジア大陸との共通種もかなり見られる。そしてマリアナ諸島を始めとするミクロネシアは小笠原群島よりも南硫黄島の方が近いが、ミクロネシアと共通すると考えられる植物は南硫黄島よりも小笠原群島の方が多い。これはミクロネシアから小笠原群島に植物がやって来た頃、まだ南硫黄島を始めとする火山列島が誕生していなかった可能性が指摘されている。また距離的に遠いアジア大陸などからの植物は風によって運ばれてきた可能性がある。南硫黄島の植物相を構成する種の数は、島の広さと標高から推定される数字を下回っている。面積の割に種が少ないことは大洋島の特徴の一つであり、南硫黄島の場合誕生してからの期間が比較的短いことなども原因している可能性がある。しかし南硫黄島の植物の生物多様性は豊かであるとはいえないが、後述のように多くの絶滅危惧種が生育しており、特に山頂近くの雲霧帯には多くの希少種が見られる。", "qas": [ { "question": "南硫黄島での植物調査によって確認された維管束植物のうち、その種が最も多いのは、何?", "id": "tr-378-06-000", "answers": [ { "text": "単子葉植物", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ミクロネシアから南硫黄島より遠いが、ミクロネシアと共通すると考えられる植物が南硫黄島より多いのは、どこですか?", "id": "tr-378-06-001", "answers": [ { "text": "小笠原群島", "answer_start": 335, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シダ植物と双子葉植物のうち、南硫黄島での植物調査によってより多くの種が確認されたのは、何か?", "id": "tr-378-06-002", "answers": [ { "text": "双子葉植物", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "南硫黄島の自然環境の中で最も研究が進んでいるのは、何に関する分野か?", "id": "tr-378-06-003", "answers": [ { "text": "植物", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "南硫黄島の植生は大きく分けて海岸部の乾生低木林帯、島の中腹を中心に広がる山地常緑広葉樹林帯、そして島の上部に見られる木生シダや草本植物群落の3つに分けられる。海岸部から標高200-300m付近までは断崖が多く、土壌に乏しい地域であり、保水性が悪いため土地は乾いていることが多い。このためセンダンやタコノキなどの群落が発達している。また、標高200-300m以上ではチギやオオバシロテツなどの常緑広葉樹林が広がっている。そして標高400m以上ではコブガシ林が広がっているが、コブガシ林は海鳥たちの巣穴が集中している地域と重なるため、小さな植物が極めて少ないという特徴を持っている。さらに標高500m以上の地域は雲霧林となり、コブガシの幹にはコケ植物、シダ植物、種子植物の着生が見られる。標高600-700m以上は、火山列島固有種のエダウチムニンヘゴなどの木生シダの群落や、ガクアジサイ、ヒサカキの群落、さらには草本であるススキの群落などが見られる。特にエダウチムニンヘゴ群落は幹に多くの種子植物、シダ植物、コケ植物の着生が見られ、雲霧林としての特徴を良く示している。またガクアジサイ、ヒサカキ群落は北硫黄島、そして八丈島の八丈富士にも分布しているが、父島や母島などの小笠原群島では見られない。これは南硫黄島や北硫黄島のような高い山が小笠原群島にはないためガクアジサイやヒサカキの群落が発達せず、さらには小笠原群島ではなく、伊豆諸島、日本本土そしてアジア大陸との共通種が南硫黄島に見られる原因も島の標高の高さが原因であるとの説がある。", "qas": [ { "question": "南硫黄島の植生を大きく分けると、いくつに分けられるの?", "id": "tr-378-07-000", "answers": [ { "text": "3つ", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南硫黄島の海岸部から標高200-300m付近の間にセンダンやタコノキなどの群落が発達しているのは、何が悪く土地が乾いているからですか?", "id": "tr-378-07-001", "answers": [ { "text": "保水性", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南硫黄島でセンダンやタコノキなどの群落が発達している地域とコブガシ林が広がっている地域の間には、何が広がっているのか?", "id": "tr-378-07-002", "answers": [ { "text": "常緑広葉樹林", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "南硫黄島と北硫黄島のほかに、ガクアジサイ、ヒサカキ群落が発達している島は、どの島か?", "id": "tr-378-07-003", "answers": [ { "text": "八丈島", "answer_start": 506, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "南硫黄島には23種の絶滅危惧種、準絶滅危惧種が記録されている。2007年の調査ではうち18種が確認されていて、ナガバコウラボシ、ホソバチケシダ、オオトキイヌビワ、ムニンカラスウリ、ムニンホオズキ、ナンカイシダの6種は南硫黄島の個体数が日本全国の個体数の5割を越えると見られている。特にホソバチケシシダは東ヒマラヤ、フィリピン、台湾に分布しているが、日本国内では屋久島と南硫黄島しか分布しておらず、しかも屋久島ではヤクシカの食害によって絶滅の危機に瀕しており、南硫黄島の群落は極めて貴重である。これら絶滅危惧種、準絶滅危惧種の大半が標高750m以上の山頂近くで確認されている。うち800m以上の地域では1982年、2007年の調査で比較的安定した個体数を保っている種が多かったが、700mから800mにかけては2007年の調査では個体数が減少、消滅した絶滅危惧種、準絶滅危惧種が多いことが判明した。また航空写真の比較や調査に参加した人への聞き取りなどから、1982年に比べて2007年は雲霧林が減少した可能性が指摘されている。雲霧林に多く生育する南硫黄島の絶滅危惧種、準絶滅危惧種は、地球温暖化などによる環境の変化によって発生する気候の変動などによって大きな打撃を蒙る可能性がある。", "qas": [ { "question": "南硫黄島にある絶滅危惧種や準絶滅危惧種と分類される植物の種のうち、最も多くの種が確認された調査は何年に行われたの?", "id": "tr-378-08-000", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 31, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ナガバコウラボシ、ホソバチケシダ、オオトキイヌビワ、ムニンカラスウリ、ムニンホオズキ、ナンカイシダの6種において、その個体数が日本全国で最も多いのは、どこですか?", "id": "tr-378-08-001", "answers": [ { "text": "南硫黄島", "answer_start": 108, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "航空写真の比較や調査に参加した人によると、1982年に比べて2007年は何が減少した可能性があるか?", "id": "tr-378-08-002", "answers": [ { "text": "雲霧林", "answer_start": 442, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2007年の調査では、南硫黄島で7種の外来種と考えられる植物が確認された。これは南硫黄島で確認された維管束植物の5.4%であり、他の小笠原諸島の島々に比べて著しく低い数字になっている。また外来種の分布状況は島内各地に散在していて、これもまた人間による撹乱を受けていないことを示している。しかし1982年には確認されていないシンクリノイガが南硫黄島の各所で生育しているのが確認された。シンクリノイガは小笠原群島では南島などで問題となっている外来種で、南硫黄島には鳥の羽毛に付着するなどして持ち込まれたと考えられている。人間の立ち入りが原則禁止となっている南硫黄島であるが、鳥などによって今後も外来植物が侵入する可能性がある。", "qas": [ { "question": "南硫黄島で外来種と考えられる、7種の植物が確認されたのは、何年のこと?", "id": "tr-378-09-000", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "鳥などによって外来種が侵入したとの可能性が挙げられるのは、何において立ち入りが原則禁止となっているためか?", "id": "tr-378-09-001", "answers": [ { "text": "人間", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オガサワラオオコウモリは父島列島、母島列島、火山列島に生息する、翼を広げると約1mになる大型の翼手類で、かつては父島や母島で多数のオガサワラオオコウモリが生息していたが、戦後のアメリカ統治時代に食用としてグアム島に売られたり、農作物に被害を与えるために駆除されてしまったりしたため数が激減し、天然記念物と種の保存法により国内希少野生動植物種に指定されている。現在の生息数は南硫黄島以外では父島に100-160頭、北硫黄島に数十頭、母島、硫黄島に少数の生息が確認されている。南硫黄島では戦前にオガサワラオオコウモリの生息が確認されていたが、1982年の調査によって約100頭から数百頭の生息が推定され、他の島に生息する個体よりも全体の色彩が明るいこと、そして昼間に活動するという特徴が報告された。また南硫黄島のオガサワラオオコウモリは主にタコノキやコブガシの果実を食用としていることが確認されたが、アナドリの頭部を食べている場面も目撃されており、状況によっては肉食も行っている可能性が指摘された。", "qas": [ { "question": "オガサワラオオコウモリが国内希少野生動植物種に指定された背景としては、どんな時代に食用としてグアム島に売られたとのことがあるの?", "id": "tr-378-10-000", "answers": [ { "text": "戦後のアメリカ統治時代", "answer_start": 85, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南硫黄島のオガサワラオオコウモリが主に食用とするのは、タコノキと何の果実か?", "id": "tr-378-10-001", "answers": [ { "text": "コブガシ", "answer_start": 373, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2007年の調査時も100-300頭程度のオガサワラオオコウモリの生息が確認された。1982年の調査時と同じく昼間の活動が確認されたが、昼間の活動は食物探索の合間に休息をしている可能性があり、また夜間も活動していることが確認された。これまでオガサワラオオコウモリの生態について調査が行われた父島、母島、北硫黄島ではいずれも昼間の活動は確認されず、夜間の活動のみであった。南硫黄島のみ昼間にオガサワラオオコウモリの活動が行われる理由としては、猛禽類が生息しておらず昼間に活動しても捕食される恐れがないことと、慢性的な食物不足のために昼間も食物探索に当てねばならない等の理由が考えられる。1982年の調査時にも指摘された、他の生息地域の個体よりも色が明るいという特徴は2007年の調査時も確認された。2007年に捕獲された個体を観察した結果、体毛の生え際は他の地域の個体の色と変わらないと見られるため、南硫黄島のオガサワラオオコウモリの特徴である昼間の活動や、急峻な地形のため日光を遮るものが少ないために紫外線等により後天的に色が変化した可能性が高いとされた。2007年の調査時、オガサワラオオコウモリはタコノキの実の他にシマオオタニワタリとナンバンカラムシの葉を食用としていたことが確認された。これは2007年の調査直前に台風が南硫黄島付近を通過しており、その影響で著しい食物不足に陥っていた可能性があり、シマオオタニワタリとナンバンカラムシの葉は緊急的に利用していた可能性もある。また2007年の調査時に捕獲されたオガサワラオオコウモリ全てに著しい歯の磨耗が確認され、顎の噛む力も強かった。歯の著しい磨耗が台風通過直後の食糧不足に伴う一時的なものか、慢性的な食糧不足による持続的なものであるかは現在のところ不明である。", "qas": [ { "question": "他の島とは違って南硫黄島ではオガサワラオオコウモリが昼間にも活動するのは、何が生息していないからだと考えられるの?", "id": "tr-378-11-000", "answers": [ { "text": "猛禽類", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "父島と母島、北硫黄島、南硫黄島のうち、オガサワラオオコウモリが夜間だけでなく昼間にも活動するのが確認されたのは、どこでか?", "id": "tr-378-11-001", "answers": [ { "text": "南硫黄島", "answer_start": 185, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2007年の調査で南硫黄島のオガサワラオオコウモリが、主に食用とする植物ではなく他の植物を食べるのが確認されたのは、何による食物不足のためだと考えられているのか?", "id": "tr-378-11-002", "answers": [ { "text": "台風", "answer_start": 560, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "南硫黄島のオガサワラオオコウモリが昼間にも活動する理由は、何のために昼間も食物探索に当てねばならないのであると考えられていますか?", "id": "tr-378-11-003", "answers": [ { "text": "慢性的な食物不足", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "小笠原諸島の島々では、外来種としてクマネズミなどのネズミ類が進入し、生態系に悪影響を与えている。例えば北硫黄島で戦前繁殖が確認されていたオーストンウミツバメ、クロウミツバメ、セグロミズナギドリは、クマネズミの影響で北硫黄島では繁殖が行われなくなったものと推定されており、父島列島、母島列島、聟島列島にはほとんどの島にクマネズミが侵入し、植生や鳥類、陸産貝類などに被害を与えていることが明らかになっている。南硫黄島はこれまで人間が生態系に与えた影響が極めて小さかったと考えられているが、船の難破や開墾の試みなど人間との関わりが皆無であったわけではない。また、ネズミ類は短距離ならば海を泳いで分布を広げるとの報告もある。そのため、1982年、2007年の学術調査の際にネズミ類の生息の有無の調査が行われた。1982年の調査時は、島内に設置したワナに全く捕獲されず、また島の南岸にあった難破船の生米が全くネズミ類の食害に遭っていなかったことが確認されたため、ネズミ類は生息していないものと判断された。2007年の調査時もワナの設置や食痕の調査を通じてネズミ類の存在について確認されたが、やはり生息していないものと考えられた。この結果は南硫黄島が人間からの影響がこれまで極めて小さかったことを物語っている。", "qas": [ { "question": "小笠原諸島の島々で生態系を揺らすほどの悪影響を与えていると思われる外来種は、何なの?", "id": "tr-378-12-000", "answers": [ { "text": "クマネズミ", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "南硫黄島にネズミ類が生息していないとの調査結果が初めて出されたのは、いつか?", "id": "tr-378-12-001", "answers": [ { "text": "1982年", "answer_start": 351, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オーストンウミツバメ、クロウミツバメ、セグロミズナギドリが北硫黄島で繁殖を行わなくなったのは、何の影響であるか?", "id": "tr-378-12-002", "answers": [ { "text": "クマネズミ", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1982年の調査時、南硫黄島ではオナガミズナギドリ、アナドリ、カツオドリ、アカオネッタイチョウ、シロハラミズナギドリ、クロウミツバメの6種の海鳥、そしてアカガシラカラスバト、ハシブトヒヨドリ、イソヒヨドリ、ハシナガウグイス、イオウジマメジロ、オガサワラカワラヒワの6種の陸鳥が繁殖ないし繁殖している可能性が高いとされた。2007年の調査ではセグロミズナギドリも繁殖している可能性が高いとされ、2017年の調査ではアカアシカツオドリの営巣が確認された。現在のところ海鳥8種、陸鳥6種が繁殖ないし繁殖を行っている可能性が高いとされている。うち海鳥であるセグロミズナギドリ、シロハラミズナギドリ、クロウミツバメ、アカオネッタイチョウ、陸鳥のアカガシラカラスバト、オガサワラカワラヒワは、2006年に改定されたレッドリストに記載されている。特にクロウミツバメは南硫黄島が現在確認されている全世界で唯一の繁殖地である。このように希少な海鳥、陸鳥が繁殖する南硫黄島を含む火山列島は重要野鳥生息地(IBA)に指定されている。南硫黄島の海岸部には、オナガミズナギドリ、アナドリ、カツオドリ、アカオネッタイチョウの営巣が確認されている。うちアカオネッタイチョウは日本国内ではこれまで北硫黄島、南鳥島、西之島で繁殖が確認されているが、いずれも10つがい程度の営巣で、数十つがい以上が営巣していると見られる南硫黄島は日本国内最大の繁殖地であると考えられる。地面に穴を掘って営巣するシロハラミズナギドリ、クロウミツバメ、セグロミズナギドリは南硫黄島の標高400m以上の、土壌の発達が良い場所を選んで営巣をしている。2007年の調査では、シロハラミズナギドリは標高400mから山頂付近まで、クロウミツバメは標高700m以上、セグロミズナギドリは標高800m以上で確認された。1982年の調査ではシロハラミズナギドリとクロウミツバメは標高750mを境に住み分けがなされているとされており、シロハラミズナギドリの営巣地が25年の間に拡大した可能性が指摘されている。", "qas": [ { "question": "現在のところ、南硫黄島で繁殖ないし繁殖を行っている可能性が高いとされている、海鳥と陸鳥のうち、その種がより多いのは、どちらか?", "id": "tr-378-13-000", "answers": [ { "text": "海鳥", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "現在のところ、南硫黄島で8種が繁殖ないし繁殖を行っている可能性が高いとされている鳥類のうち、一部が記載されているリストとは何か?", "id": "tr-378-13-001", "answers": [ { "text": "レッドリスト", "answer_start": 351, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "南硫黄島が現在確認されている全世界で唯一の繁殖地であるのは、何か?", "id": "tr-378-13-002", "answers": [ { "text": "クロウミツバメ", "answer_start": 368, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南硫黄島で6種の海鳥と6種の陸鳥が繁殖ないし繁殖している可能性が高いとされたのは、何年の調査によることか?", "id": "tr-378-13-003", "answers": [ { "text": "1982年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "シロハラミズナギドリは北西ハワイ諸島と小笠原諸島のみで繁殖が確認されており、戦前には小笠原諸島の5つの島、戦後は南硫黄島と北之島で繁殖が確認されているが、1978年以降北之島で確実な繁殖が報告されておらず、南硫黄島の繁殖地は全世界的に見ても貴重である。2007年の調査によれば南硫黄島では推定数万-数十万つがいに及ぶ多数のシロハラミズナギドリの繁殖が確認されている。セグロミズナギドリは2007年の調査でも繁殖の実態がはっきりせず、繁殖数も6000つがい程度ではないかとの推定がなされているのみであるが、他に確認されている繁殖地が父島列島の東島のみであり、南硫黄島の繁殖地はやはり貴重であると言える。そしてクロウミツバメは戦前、北硫黄島での繁殖が確認されているが戦後は繁殖が確認されていない。これはクマネズミによる食害の影響によるものと推定されている。そのため現在確認されているクロウミツバメの繁殖地は全世界で南硫黄島のみである。南硫黄島での繁殖つがいは数万-10万程度と推定されているが、確認されている全世界で唯一の繁殖地である南硫黄島の重要性は極めて高い。", "qas": [ { "question": "シロハラミズナギドリの繁殖が確認されたのは、小笠原諸島と何諸島のみなの?", "id": "tr-378-14-000", "answers": [ { "text": "北西ハワイ諸島", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "戦後、シロハラミズナギドリの繁殖が確認されており、1978年以降にもはそれに関する報告があったところは、どこか?", "id": "tr-378-14-001", "answers": [ { "text": "南硫黄島", "answer_start": 56, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ハンセン病", "paragraphs": [ { "context": "ハンセン病(ハンセンびょう、Hansen'sdisease,Leprosy)は、抗酸菌の一種であるらい菌(Mycobacteriumleprae)の皮膚のマクロファージ内寄生および末梢神経細胞内寄生によって引き起こされる感染症である。病名は、1873年にらい菌を発見したノルウェーの医師、アルマウェル・ハンセンに由来する。かつての日本では「癩(らい)」、「癩病」、「らい病」とも呼ばれていたが、それらを差別的に感じる人も多く、歴史的な文脈以外での使用は避けられるのが一般的である。その理由は、「医療や病気への理解が乏しい時代に、その外見や感染への恐怖心などから、患者への過剰な差別が生じた時に使われた呼称である」ためで、それに関連する映画なども作成されている。感染経路は、らい菌の経鼻・経気道よりのものが主であるが、他系統も存在する(感染経路の項にて後述)。らい菌の感染力は非常に低く、治療法も確立した現状では、重篤な後遺症を残すことや感染源になることは無いものの、適切な治療を受けない・受けられない場合、皮膚に重度の病変が生じ、他者へ感染することもある。2016年のWHOによる統計では、世界におけるハンセン病の新規患者総数は、年間約21万人である。一方、日本の新規患者数は年間で0〜1人に抑制され、現在では極めて稀な疾病となっている。", "qas": [ { "question": "ハンセン病の原因となる細菌は何?", "id": "tr-379-00-000", "answers": [ { "text": "らい菌", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハンセン病の原因となる細菌を発見したのは、何年のことですか?", "id": "tr-379-00-001", "answers": [ { "text": "1873年", "answer_start": 121, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2016年のWHOの統計によると、世界におけるハンセン病の新規患者総数は、年間約何人に至っていますか?", "id": "tr-379-00-002", "answers": [ { "text": "約21万人", "answer_start": 517, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ハンセン病は古くから世界の各地に存在していた病気で、多くの古文書や宗教にハンセン病を思わせる記述が残されている。ただし、古文書に登場するleprosy、癩病と呼ばれたものはハンセン病以外の病気も含む可能性があることや、歴史的経緯からみると医学用語ではなく宗教的要素も加わった言葉であること、また聖書の翻訳に見られるように混乱を引き起こすように訳された結果を考慮すると、ハンセン病と同義にならない。古文書でのleprosyやレプラの記述の意味を確認することは容易でなく、ハンセン病の起源、歴史の研究を難しくする要因となっている。日本では「癩(らい)病」、「ハンセン病」の両方の呼称がある。上述したとおり、公的な場での前者の使用は忌避される傾向がある。近代以前の「癩(病)」は一つの独立した「ハンセン病」という疾患以外の病気も含む概念であり、断りを併記して使用されることがある。英語圏ではleprosy,Hansen'sdiseaseの両方が使用される。患者はleper(らい者)とも呼ばれるが、1953年に開催された第6回国際らい会議では、患者はleprosypatientと呼ぶことが推奨された。従来、らい療養所は「レプロサリウム、Leprosarium」と呼ばれたが、「サナトリウム、sanatorium」の方がより一般的である。", "qas": [ { "question": "日本でらい病のことを呼ぶ他の呼称は何ですか?", "id": "tr-379-01-000", "answers": [ { "text": "ハンセン病", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "英語圏でハンセン病の患者の呼称を変えることが推奨されたのは、何年にあった会議でのことなの?", "id": "tr-379-01-001", "answers": [ { "text": "1953年", "answer_start": 446, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "英語圏では、ハンセン病のことをHansen'sdisease以外に何と呼んだか?", "id": "tr-379-01-002", "answers": [ { "text": "leprosy", "answer_start": 392, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "らい菌のヒト以外の自然感染例には、3種のサル(チンパンジー、カニクイザル、スーティーマンガベイ)とココノオビアルマジロがある。アルマジロは正常体温が30〜35°Cと低体温であり、らい菌に対し極めて高い感受性があるとされている。1971年にらい菌に対する感受性があることが明らかになって以降、ココノオビアルマジロはハンセン病の研究に用いられてきたが、1976年、突然変異により胸腺を欠いて免疫機能不全に陥ったヌードマウスに感染・発症することが明らかになり、現在の研究は主に当該マウスで行われるようになった。感染源は、菌を大量に排出するハンセン病患者(特に多菌型、LL型)である。ただし、ハンセン病治療薬の1つであるリファンピシンで治療されている患者は感染源にはならない。昆虫、特に蝿にらい菌が感染して、ヒトにベクター感染することもあるため、昆虫も感染源になり得るという報告がある。ゴキブリによる結核菌の移動実験により証明されたという報告もあるが、否定的な意見も多い。その他、ルイジアナ、アーカンソー、ミシシッピ、テキサスの低地のココノオビアルマジロかららい菌が検出されており、アルマジロから人間に感染するルートの検討や、自然界、特に川などに存在するらい菌が経鼻感染にて感染するルートの検討もある。", "qas": [ { "question": "この文書にヒト以外にらい菌に感染した例として書かれている動物のうち、自然感染した例ではないのは、どの動物なの?", "id": "tr-379-02-000", "answers": [ { "text": "ヌードマウス", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハンセン病の研究に用いられる動物とは、ココノオビアルマジロからどの動物に代えられたのか?", "id": "tr-379-02-001", "answers": [ { "text": "ヌードマウス", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハンセン病の感染源とされているのは、治療にどの薬を使わなく、菌を大量に排出するハンセン病患者であるのか?", "id": "tr-379-02-002", "answers": [ { "text": "リファンピシン", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "感染は、未治療のらい菌保有者(特に菌を大量に排出する多菌型、LL型患者)の鼻汁や組織浸出液を感染源とするルートが主流となっている。ヌードマウスに菌のスプレーを与えた動物実験により確認された。飛沫感染(dropletinfection)とも呼ばれる。また、経鼻・経気道感染とは別に接触感染のルートも存在する。傷のある皮膚(英:abradedskin)経由説と呼ばれ、刺青部や外傷部に癩の病巣ができる病例より証明されている。前述したとおり、その他の感染経路として昆虫からのベクター感染のルートの検討もあるが、否定的な意見も多く証明されていない。たとえ菌を大量に排出するハンセン病患者(特にLL型)と接触しても、高頻度に感染が成立する訳ではない。濃密な感染環境下に置かれる等の特殊な条件が必要であり、感染力は非常に低い。らい菌と接触する人の95%は、自然免疫で感染・発症を防御できるためである。感染時期は小児が多く、大人から大人への感染及び発病は、極めて稀である。患者から医療関係者への伝染に関しては、一般的に「医療関係者に伝染発病した事実はない」と言われている。ただし、流行地で幼児期を過ごした人であれば発病する可能性がゼロではないこと、実際に患者に接触して感染した医師や神父(ダミアン神父など)も存在することを考慮する必要がある。感染してから発症するまでの潜伏期間は長く、3〜5年とされているが、10年から数十年に及ぶ例もある。", "qas": [ { "question": "ハンセン病の主な感染ルートは、何?", "id": "tr-379-03-000", "answers": [ { "text": "飛沫感染", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "人がらい菌に接触した時、自然免疫により感染を防御する割合と、感染する割合のうち、どちらがより小さいか?", "id": "tr-379-03-001", "answers": [ { "text": "感染", "answer_start": 377, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハンセン病の感染ルートのうち、否定的な意見が多く証明されていないのは、何ですか?", "id": "tr-379-03-002", "answers": [ { "text": "昆虫からのベクター感染", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1869年、ノルウェーのアルマウェル・ハンセンはハンセン病患者の癩結節の中に大きな塊状のものがあることを顕微鏡で発見し、1873年2月28日に細菌によく似た小さな桿状の物体を発見した。1873年、オスロで「眼の癩性疾患」と題した発表の中でハンセンが癩菌をスケッチした図を残した。ただし当時は染色法もなく、らい菌の形態を正確に描いたものではなかった。その後、1874年オスロのクリスチャニア医学会で「癩の発生原因について」と題した講演とノルウェーの医学雑誌上での発表を行った。1875年には英国の医学雑誌へ再掲載し、英文で初めて発表を行った。1879年、ドイツの細菌学者であるアルベルト・ナイサーは、ハンセンから標本を分与されたらい菌の染色に成功し、らい菌の正確な形態を明らかにした。追随してハンセンも1880年に発表を行った。ちなみに、らい菌を最初にスケッチしたハンセンと、初めて染色に成功してらい菌の形態を明らかにしたナイサーは「らい菌の発見者」であると共に主張し論争が起こった。その後、ハンセンがらい菌を1873年に発見したということで決着した。", "qas": [ { "question": "初めてらい菌の染色に成功し、らい菌の正確な形態が明らかにされたのは、誰によることだったの?", "id": "tr-379-04-000", "answers": [ { "text": "アルベルト・ナイサー", "answer_start": 287, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "らい菌を最初に発見したのは、誰か?", "id": "tr-379-04-001", "answers": [ { "text": "ハンセン", "answer_start": 445, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "らい菌の発見者はどの国の人ですか?", "id": "tr-379-04-002", "answers": [ { "text": "ノルウェー", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "人獣共通感染症でも知られるが、自然動物ではヒト、霊長類(マンガベイモンキー)とココノオビアルマジロ以外に感染した例はない。以下、ヒトの感染状況について説明する。2008年初頭の登録患者数(治療中の患者)は218,605人、2007年の新規患者数(年間罹患者数)は258,133人である。登録患者数は一定の治療を終えた患者は治癒の有無に問わず、登録から除外されている。そのため年次報告の性質上、年内に治療が完了すると登録者から除外されるため、新規患者数(年間罹患者数)は登録患者数を上回る。MB型では1年でなく2年以上で治療しているので例外がある。また注意点としては、ハンセン病と診断されて適切に治療している人数のみをカウントしているため、ハンセン病と診断されず、治療されていない患者も相当数存在すると思われる。", "qas": [ { "question": "ハンセン病における、2008年初頭の登録患者数と2007年の新規患者数のうち、どちらの値がより大きいですか?", "id": "tr-379-05-000", "answers": [ { "text": "2007年の新規患者数", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハンセン病において、新規患者数が登録患者数を上回る理由は、どのような人々を登録患者として数えないからか?", "id": "tr-379-05-001", "answers": [ { "text": "一定の治療を終えた患者", "answer_start": 149, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "WHOによるハンセン病制圧の定義は、1991年5月に開催された第44回世界保健総会で決定され、人口100万人以上の国で、登録患者数が人口1万人あたり1人を下回る(有病率が1.0を下回る)こととされた。この定義を遵守すると日本では1970年前後に制圧を達成している。2005年初頭はインド・ブラジル・コンゴ民主共和国・アンゴラ・モザンビーク・ネパール・タンザニア・中央アフリカの9カ国が未制圧国であったが、2006年初頭にインド・アンゴラ・中央アフリカが、2007年初頭にマダガスカルとタンザニアが、2007年末にコンゴ民主共和国とモザンビークが制圧を達成した。現在の未制圧国はブラジル・ネパールと、新たに加わった東ティモールの3カ国となっている。東ティモールは以前より有病率が1.0を超えていたものの、人口100万人未満であったために定義より除外されていた。しかし2008年、人口100万人を突破したことにより加わった。", "qas": [ { "question": "日本でハンセン病における登録患者数が人口1万人あたり1人を下回るようになったのは、何年前後であるか?", "id": "tr-379-06-000", "answers": [ { "text": "1970年", "answer_start": 114, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2005年初頭に未制圧国に分類された9か国のうち、2007年末になっても未制圧国と分類された国は、ブラジルとどの国か?", "id": "tr-379-06-001", "answers": [ { "text": "ネパール", "answer_start": 293, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ハンセン病は全世界に見られるが、分布は一様でなく、度々、流行も生じる。代表的なものとしては、1850〜1920年のノルウェー・1920年代のナウル島・1980年代のカピンガマランギ島での流行がある。流行の原因について多種多様な検討も行われているが、実際には明確になっていない。男女比に関しては、全世界を通じて男性が女性より多い。男性は小児期から活動的であり、感染しやすいと言われているが、明確には原因が分かっていない。ただし日本の全国の療養所では、一般的に男性の方が女性より寿命が短いために男女比はほとんど同じまたは逆転している。貧困層と富裕層の比較に関しては、インドの調査によると、貧困層に発症率が高い。ハンセン病患者は、亜鉛、カルシウム、マグネシウムが正常の人に比べて著しく低値であった。", "qas": [ { "question": "1920年代にハンセン病が流行していた地域には、ノルウェーのほかに、どの地域があるの?", "id": "tr-379-07-000", "answers": [ { "text": "ナウル島", "answer_start": 70, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ノルウェーとナウル島、カピンガマランギ島のうち、ハンセン病の流行が最も遅かったのは、どこですか?", "id": "tr-379-07-001", "answers": [ { "text": "カピンガマランギ島", "answer_start": 82, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1996-2018年までの日本国内の新規患者数を見ると、日本で発見された日本人の新規患者数に関しては減少傾向を示し2005年にはじめてゼロになった。よって日本で発見された新規患者は、外国で過ごしたことがある在日外国人がほとんどである。在日外国人の中ではブラジル出身者と東南アジア出身者がほとんどである。一方、登録患者数は日本では1997年(平成9年)以降、公表されていない。日本国内の療養所入所者数は、2008年現在2,717人であるが、ハンセン病が治癒しても障害を負った人々が、施設で暮らしている。WHOに定義されるように「診断されて適切に一定期間治療を行いその後は患者登録から除外される」という観点で日本の登録患者数を推定すると、新規患者数と同程度である数名となる。しかし、日本では菌をゼロにするまで治療を行う治療基準が設けられており、WHOが規定している治療期間より大幅に治療が長期化しているケースや、一旦治癒したが菌検査で少しでも陽性がみられれば治療を行うというケースも考えられるため、実際に治療を行っている患者数に関してはWHOで定義している登録患者数に比べるとかなり多いと推定される。しかし実際のところは、治療を行っている患者数に関する統計を行っていないので詳細は不明である。病型別では、昭和前半の統計ではあるが、日本では多菌型が多く癩性禿頭症や失明が多かった。光田健輔によると1911年に公立療養所第一区府県立全生病院(現、国立療養所多磨全生園)では58.63%に禿頭症がみられた。沖縄県や東南アジアの様な流行地では症状は一般的に軽いといわれている。", "qas": [ { "question": "日本でハンセン病の新規患者数が一人もいなかったのは、何年が初めてなの?", "id": "tr-379-08-000", "answers": [ { "text": "2005年", "answer_start": 57, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本でハンセン病の登録患者数が公表されなくなったのは、何年以降でありますか?", "id": "tr-379-08-001", "answers": [ { "text": "1997年", "answer_start": 164, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "光田健輔によると、1911年に公立療養所第一区府県立全生病院のハンセン病の患者のうち、禿頭症が見られた患者は全体の何%に至るか?", "id": "tr-379-08-002", "answers": [ { "text": "58.63%", "answer_start": 632, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ハンセン病の分類に関しては様々な分類法がある。一般的な病型分類は、WHOのMB型・PB型分類法であり、この分類が望ましい。以前は、1962年提唱のRidley&Joplingの分類法が一般的に使用された。WHOは、多剤併用療法による治療方針決定上の簡便な病型分類として、MB型(多菌型、multibacillary)とPB型(少菌型、paucilbacillary)の2分類を採用している。MB型はおおむねLL型、BL型、BB型および一部のBT型に相当する。一方、PB型はおおむねI群、TT型および大部分のBT型に相当する。菌スメア検査のBI(bacterialindex)(菌指数)と皮疹(皮膚の発疹)の数によって分けられる。BIについては検査の項を参照。Ridley&Joplingの分類法とは、1962年に提唱された分類法である。分類の方法は、らい菌に対する生体の細胞性免疫の強弱に基づいている。LL型(らい腫型、lepromatoustype)、TT型(類結核型、tuberculoidtype)、B群(境界群、boderlinegroup)、I群(未定型群、indeterminategroup)に分け、さらにB群はLL型に近いBL型(borderlinelepromatoustype)、TT型に近いBT型(borderlinetuberculoidtype)、中間のBB型(mid-borderlinetype)と、1群5型に分類した。", "qas": [ { "question": "Ridley&Joplingの分類法が使用されなくなったのは、どの機関によるハンセン病の分類法が出てきたからか?", "id": "tr-379-09-000", "answers": [ { "text": "WHO", "answer_start": 33, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "Ridley&Joplingの分類法は何を基準にハンセン病を分類する方法であるか?", "id": "tr-379-09-001", "answers": [ { "text": "細胞性免疫の強弱", "answer_start": 385, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マドリッド分類法とは、第6回国際らい会議で1953年に提唱されたリドレイとジョプリング(Ridley&Jopling)の分類法以前の分類法である。らい腫型(L型)・境界群(B群)・類結核型(T型)・不定型群(I群)の2群2型に分類している。日本の伝統的分類法では、結節らい・斑紋らい・神経らいの3型に分類している。結節らいはLL型とB群の一部、斑紋らいはTT型とB群の一部に相当するものと思われる。神経らいはTT型とB群の一部で斑紋が消失した状態に相当するものと思われる。", "qas": [ { "question": "マドリッド分類法と日本の伝統的分類法のうち、ハンセン病をより多くの型に分類したのは、どちらですか?", "id": "tr-379-10-000", "answers": [ { "text": "日本の伝統的分類法", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マドリッド分類法が提唱されたのは、何年か?", "id": "tr-379-10-001", "answers": [ { "text": "1953年", "answer_start": 21, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "大風子油(だいふうしゆ)は、イイギリ科Hydnocarpus属(APG植物分類体系ではアカリア科に移動)に属する何種類かの植物の種子である大風子(HydnocarpusAnthelmintica)の種皮を除いてから圧搾して得た脂肪油である。搾油直後には白色の軟膏様の性状を示し無味無臭であるが、次第に黄色に変化して特有の臭いと焼きつくような味を生じる。大風子油にはヒドノカルプス酸とチョールムーグラ酸という不飽和環状脂肪酸が含まれており、その成分がらい菌の成長阻害作用を生じる。もともとは古代より東南アジアやインドの民間療法として行われていた治療法であった。中国には明の時代に伝わり1578年の「本草綱目」にハンセン病の治療薬として漢方の処方が記載されている。日本でも江戸時代頃から用いられた。19世紀末にはヨーロッパでも使用されるようになった。1920年代にオーストリアの植物学者ヨゼフ・F・ロックにより再発見され、全世界で一般的に使用されるようになった。1917年にはイギリスの医師・ロジャース卿によって大風子油からジノカルピン(Gynocarpin)脂肪酸を製剤化し、内服薬・注射薬が作られた。その後、1920年にヒギロカルプス酸ナトリウム製剤(内服薬・注射薬)が作られた。これらは「アレポール」と呼ばれ、イギリスの植民地であるインド・ビルマを中心に使われた。その後、種々の改良が行われた。アメリカ薬局法には、内服療法では消化器障害の副作用を生じるための注射薬として記載された。大風子油の注射の欠点は注射部位に結節や瘢痕を残すことであった。効果が乏しく無効という意見も多かったが、大風子油で治療をしない場合に比べれば効果はゼロではないとした報告があることと、他に有効な薬剤が存在しなかったために、大風子油による治療は多くの国で行われた。その後、1943年のプロミンが有効であるという報告以降は、大風子油による治療は徐々に行われなくなった。", "qas": [ { "question": "大風子から得られる、らい菌の成長阻害作用をする成分には、ヒドノカルプス酸と何があるの?", "id": "tr-379-11-000", "answers": [ { "text": "チョールムーグラ酸", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "中国とヨーロッパのうち、大風子油がハンセン病の治療薬として使われ始めた時期がより遅いのは、どちらか?", "id": "tr-379-11-001", "answers": [ { "text": "ヨーロッパ", "answer_start": 354, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "大風子油がハンセン病の治療薬として使われなくなり始めたのは、どんな薬が有効であるとの報告があってからなの?", "id": "tr-379-11-002", "answers": [ { "text": "プロミン", "answer_start": 781, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリスで開発されたハンセン病治療用の内服薬・注射薬は、ビルマとどこを中心に使われましたか?", "id": "tr-379-11-003", "answers": [ { "text": "インド", "answer_start": 567, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "世界の各地域から採取されたらい菌を遺伝子解析し比較した研究によると、らい菌は東アフリカで誕生したと見られている。なお、らい菌が発見される以前は似たような症状の病気を混同することも多く、古い時代の報告例では現在のハンセン病に当たるのかはっきりしないものもあるので注意が必要である。一例として『描かれた病』(リチャード・バーネット)では写真普及以前に使用されていた医学書の精密画について「痂皮形成らい病」と「結核様らい」と書かれている症例について、「(現在の視点からでは)魚鱗癬の可能性が高い」と指摘している他、結核(皮膚結核)もハンセン病との区別が難しかったとしている。ハンセン病に関する最古の記述は、紀元前2400年のエジプトの古文書、医書としては紀元前1500年頃のインドの『チャラカ・サンヒター』や『スシュルタ・サンヒター』である。その他にも、ペルシアでは紀元前6世紀に、中国では『論語』に、あるいはギリシアでは紀元後1-2世紀の医師の記述にハンセン病の症状の記述がある。日本のハンセン病に関する最古の記述は720年頃、日本書紀に残っている。中世鎌倉遺跡である由比ヶ浜南遺跡の発掘調査で、ハンセン病による変病骨が発見されている。江戸時代後期の遺跡と見られる青森県畑内遺跡第26号土坑墓から出土した古病理学的にハンセン病と診断される人骨の上顎から、らい菌のDNAが検出された。この人骨は東北大学総合学術博物館に所蔵されている。", "qas": [ { "question": "らい菌はどこで誕生したと見られていますか?", "id": "tr-379-12-000", "answers": [ { "text": "東アフリカ", "answer_start": 38, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハンセン病に関して記述されている最も古い医書とは、何年頃のものであるの?", "id": "tr-379-12-001", "answers": [ { "text": "紀元前1500年頃", "answer_start": 324, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本におけるハンセン病に関する最古の記述とは、何年頃のものか?", "id": "tr-379-12-002", "answers": [ { "text": "720年頃", "answer_start": 456, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "世界各地におけるハンセン病に関する最古の記述がなされた時期を比較した時、ペルシアとギリシアのうち、その時期がより早いのは、どの地域か?", "id": "tr-379-12-003", "answers": [ { "text": "ペルシア", "answer_start": 374, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "西ヨーロッパには中世初期に侵入したと考えられており、300年頃からヨーロッパでハンセン病が蔓延した。十字軍による移動や民族大移動によりハンセン病は拡大し、11世紀・12世紀にハンセン病の流行がピークとなった。1096年にはじまった十字軍は、パレスチナ・エルサレム地域のハンセン病がヨーロッパに蔓延するきっかけとなった。罹患した兵士のためにエルサレムのラザレット(lazaretto:ハンセン病患者専用の収容所・らい院)が作られ、患者救済が行われた。その後、ヨーロッパ各地にもハンセン病が蔓延してきたため、フランスやドイツなどにもラザレットが作られた。ラザレットでは、ハンセン病を「ミゼル・ズフト」(貧しき不幸な病)と称して救済が行われたが、当時のローマ教会は旧約聖書に基づき、「ツァーラアト」の措置として「死のミサ」や「模擬葬儀」など祭儀的な厳しい措置が行われることも多かった。また、外出時には自分が患者であることを分かるような服装を強制され、公衆の場に出ることは制限された。旧約聖書レビ記13-14章には患者と思しき人物を一時的に隔離して祭司が経過を観察する法があるが、これには感染していなかった場合や治癒した場合の復権の規定も含まれており、不治の病であるかのような誤解に基づく種々の差別とは一線を画している。中世において行われていたのは公衆衛生上の隔離ではなく「風俗規制」による社会的隔離のための患者隔離政策が行われた。具体的には「現社会からの追放」「市民権・相続権の剥奪」「結婚の禁止、家族との分離、離婚の許可」「就業禁止、退職の促進」「立ち入り禁止などの行動規制」などの制裁措置がとられた。一方で兵役、納税、裁判出頭の義務は免除されていたが、それは公民としての存在が否定されていたことを意味する。そのため、ハンセン病患者に対する偏見・差別が拡大した。社会的隔離政策の勅令としてはカール大帝が有名で、その後出現した法治国家でも「患者隔離法」や「患者取締令」によりらい院に強制収容された。", "qas": [ { "question": "民族大移動と何が原因で、ヨーロッパでハンセン病が拡大し、その流行が11世紀・12世紀にピークとなったの?", "id": "tr-379-13-000", "answers": [ { "text": "十字軍による移動", "answer_start": 50, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パレスチナ・エルサレム地域のハンセン病がヨーロッパに蔓延するきっかけとなった事件とは、何年から始まった事件なのか?", "id": "tr-379-13-001", "answers": [ { "text": "1096年", "answer_start": 104, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "罹患した兵士のためにエルサレムに作られたものがフランスやドイツなどにも作られたのは、何をきっかけでハンセン病がヨーロッパに蔓延したからですか?", "id": "tr-379-13-002", "answers": [ { "text": "十字軍", "answer_start": 115, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハンセン病の患者に対する社会的隔離政策を実行するよう命令を下したことで有名なローマの皇帝は誰か?", "id": "tr-379-13-003", "answers": [ { "text": "カール大帝", "answer_start": 793, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "13世紀には新約聖書に範をとった「救らい事業」が行われた。ローマ教会に対抗し、アッシジのフランチェスコの献身的な救済活動により、1209年に組織されたフランシスコ会はアッシジに「らい村」を建設した。そこでは、一つの共同自治社会が形成され、「死のミサ」や「仮装埋葬」などの儀式もなく、また外出も自由にできた。新約聖書の「マタイ伝」16章に出ているイエス・キリストの教えと行動に則った病者への「労わり」に基づく救済活動であった。また、キリストによるハンセン病患者の治療は奇跡として扱われ、ハンガリーの聖女エリーザベトによる救済などや、十字軍時代のパレスチナに設置されたらい院でのラザロ看護騎士団の患者救済にも影響を及ぼした。フランシスコ会は日本の安土桃山時代にも伝来し、日本のハンセン病患者の救済も行われた。14世紀頃になるとヨーロッパではハンセン病患者は次第に減少した。1348年の黒死病(ペスト)の大流行でラザレットの収容者が一掃されることもあり、ヨーロッパ各地のらい院は次々に閉鎖された。", "qas": [ { "question": "13世紀に新約聖書に範をとった救らい事業を行った会とは、何年に組織されたの?", "id": "tr-379-14-000", "answers": [ { "text": "1209年", "answer_start": 64, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヨーロッパでハンセン病患者が徐々に減少していったのは、何世紀頃になってからですか?", "id": "tr-379-14-001", "answers": [ { "text": "14世紀頃", "answer_start": 352, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本のハンセン病患者の救済に影響を及ぼした会が、ヨーロッパに建設したハンセン病の患者のための村とは、何か?", "id": "tr-379-14-002", "answers": [ { "text": "らい村", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "16世紀にはヨーロッパやアフリカからアメリカ大陸にハンセン病がもたらされた。そして18世紀には北米、19世紀後半には太平洋諸国に広がった。19世紀にハワイで激しい流行がみられた。政府は棄民政策をとり、モロカイ島に患者を隔離・定住させた。1873年にハワイで布教をしていたダミアン神父がモロカイ島に定住し奉仕を開始した。1850年から1920年にかけて、ノルウェーにハンセン病が流行した。戦争による飢饉が引き金となり、人口の多い地方より漁村や農村で流行した。1885年に世界で初めて衛生立法に基づく強制隔離政策が行われた。これは、1897年にドイツで開かれた第1回国際らい会議で発表され、強制隔離政策が評価された。ただし、患者全員を国立病院に隔離する前に流行は終結した。1920年代にナウル島と1980年代にカピンガマランギ島で3割の住民に感染発病を示すほどの流行がみられた。この様なハワイと同様な激烈な流行については、感染症に対する処女地では弱い感染症進入でも流行が発生するという考えがあり、外的物質に対する免疫能がない(自然免疫能)とも考えられるが、しかし十分な説明はなされていない。", "qas": [ { "question": "北米と太平洋諸国のうち、ハンセン病がやってきたのがより遅いのは、どこ?", "id": "tr-379-15-000", "answers": [ { "text": "太平洋諸国", "answer_start": 58, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハンセン病がヨーロッパやアフリカからアメリカ大陸までやってきたのは、何世紀のことでありますか?", "id": "tr-379-15-001", "answers": [ { "text": "16世紀", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "世界で初めて衛生立法に基づきハンセン病の患者の強制隔離政策を行ったのは、どの国か?", "id": "tr-379-15-002", "answers": [ { "text": "ノルウェー", "answer_start": 176, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1897年、ドイツで開かれた第1回国際らい会議でノルウェーの事例が発表され強制隔離政策が推奨された。ただし、日本の隔離政策とは異なり警察による取締りではなく、医師の判断に基づいた強制隔離であった。1909年にノルウェーで第2回国際らい学会が開催され、強制隔離政策による対策の重要性が再確認されるとともに、早期にハンセン病患者から子供を引き離すことが推奨された。1907年、フィリピン(米国統治下)では、元来、強制隔離政策を行っていたが、大風子油(当時の治療薬)による施設治療を行い、菌が陰性化した患者は社会復帰させるという開放制度に転換した(パロールシステム)。患者の意志ではなく、多くの伝染病患者に対し施設収容・治療の効率化することが目的であったが、この開放制度は世界で初めての試みで画期的な政策であった。この政策は、1923年にストラスブルクで開かれた第3回国際らい学会によって発表されたが、退所後の再発は非常に高いことなどが明らかになり、開放制度や大風子油治療の効果については否定された。一方で小児に伝染しやすいことから「産児は母から引き離すこと」「らい患者は伝染させる職業にはつくべきでない」などの公衆衛生的に必要な隔離ための方法が決議された。1931年、国際連盟は「らい公衆衛生の原理」と題する著作を発刊し、ハンセン病の早期患者に対しては施設隔離を行わず、外来診療所で大風子油による治療を行うのが望ましいとされ、政策として初めて「治療対策」「脱施設隔離」が打ち出された。ただしその一方で重症の伝染性の強い患者は施設に強制的に隔離する重要性も再確認されている。1938年にカイロで開催された第4回国際らい学会では、その影響を受けて疫病地の大風子油による施設治療政策は認められた1941年にはアメリカのファジェットにより新薬であるプロミンが使用され、これにより大風子油からプロミンと治療方法が変化しハンセン病は治る病気となった。その後は、隔離政策は徐々に衰退し外来診療が重視されていくことになる。", "qas": [ { "question": "ノルウェーでは誰の判断に基づいたハンセン病の患者の強制隔離を行ったの?", "id": "tr-379-16-000", "answers": [ { "text": "医師", "answer_start": 79, 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"answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バヤズィト2世は、第何代皇帝でありますか?", "id": "tr-380-00-001", "answers": [ { "text": "第8代", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バヤズィト2世の父親は、誰か?", "id": "tr-380-00-002", "answers": [ { "text": "メフメト2世", "answer_start": 89, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "メフメト2世の後を継ぎ、皇帝になったのは、誰か?", "id": "tr-380-00-003", "answers": [ { "text": "バヤズィト2世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "バヤズィト2世は、1447年にメフメト2世の長子として生まれた。1456年に弟のムスタファと共に割礼を施され、同日にメフメトによってアナトリアのベイリクたちを招待しての大宴会が開かれた。この祝宴はメフメトがベオグラード包囲で大敗して帰国した直後のことであり、宴を開いたのは敗北を忘れる意味合いもあった。オスマン帝国の皇子の慣例としてアマスィヤの知事を務め、1473年に起きた白羊朝とのバシュケントの戦い(en:BattleofOtlukbeli)では、イェニチェリとヨーロッパ人からなる部隊を指揮し、ウズン・ハサンの甥が率いる騎兵隊と交戦した。", "qas": [ { "question": "バヤズィト2世は、何年に生まれたの?", "id": "tr-380-01-000", "answers": [ { "text": "1447年", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オスマン帝国には皇子は、どこの知事を務める慣例がありましたか?", "id": "tr-380-01-001", "answers": [ { "text": "アマスィヤ", "answer_start": 166, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バヤズィト2世は、皇子としてどこの知事を務めたか?", "id": "tr-380-01-002", "answers": [ { "text": "アマスィヤ", "answer_start": 166, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バシュケントの戦いは、何年に行われた戦闘のことか?", "id": "tr-380-01-003", "answers": [ { "text": "1473年", "answer_start": 178, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1481年にメフメト2世がイタリア遠征途上で陣没すると、弟のジェムとの帝位をめぐる争いが始まる(もう1人の弟ムスタファは1474年に暗殺されていた)。バヤズィトとジェムの両方にメフメトの死を告げる使者が送られたが、縁戚の総督(ベイレルベイ)シナンによってジェムへの使者が足止めを受け、ジェムに先んじてイスタンブールに入城した。", "qas": [ { "question": "メフメト2世が死ぬと、誰とジェムが帝位を巡って争ったの?", "id": "tr-380-02-000", "answers": [ { "text": "バヤズィト", "answer_start": 75, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メフメト2世が死んだのは、何年ですか?", "id": "tr-380-02-001", "answers": [ { "text": "1481年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "メフメト2世はどこへの遠征を行う途中に死去したか?", "id": "tr-380-02-002", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 13, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バヤズィトとジェムの帝位を巡った争いは、何年から始まったか?", "id": "tr-380-02-003", "answers": [ { "text": "1481年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "バヤズィトのイスタンブールへの入城に先立ち、ジェムの擁立を考えていた大宰相メフメト・カラマニーはイェニチェリに殺害されており、イェニチェリとメフメトの政策に反対的だった臣下に支持されて、1481年5月21日に正式に皇帝として即位した。その即位の経緯からイェニチェリに特権と恩賞を付与し、反対派の要求に対して譲歩する必要があった。", "qas": [ { "question": "バヤズィトが正式に皇帝として即位したのは、いつのことなの?", "id": "tr-380-03-000", "answers": [ { "text": "1481年5月21日", "answer_start": 93, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時、メフメト・カラマニーは、誰の皇帝即位を支持していましたか?", "id": "tr-380-03-001", "answers": [ { "text": "ジェム", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メフメト・カラマニーを殺したのは、誰か?", "id": "tr-380-03-002", "answers": [ { "text": "イェニチェリ", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "帝国の首都はどこだったか?", "id": "tr-380-03-003", "answers": [ { "text": "イスタンブール", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "帝位を逃したジェムはブルサを占領して貨幣とフトバに自らの名を刻んで独立を表明し、バヤズィトに帝国の分割統治を条件とした和平を提案した。バヤズィトはジェムの提案を拒絶して対決の意を示し、戦前にジェム側の司令官の幾人かを調略し、同年6月20日のイェニシェヒルの戦いでジェムの軍を破った。", "qas": [ { "question": "ジェムはどこを本拠地とし、独立しようとしたの?", "id": "tr-380-04-000", "answers": [ { "text": "ブルサ", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時、帝国の皇帝には、誰が即位したと予測できますか?", "id": "tr-380-04-001", "answers": [ { "text": "バヤズィト", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "バヤズィトとジェムのうち、和平の意を示したのは、誰か?", "id": "tr-380-04-002", "answers": [ { "text": "ジェム", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バヤズィトとジェムの戦いで勝者となったのは、誰か?", "id": "tr-380-04-003", "answers": [ { "text": "バヤズィト", "answer_start": 67, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "敗れたジェムはエジプトのマムルーク朝に亡命し、白羊朝に亡命していたカラマン侯国の王族カシム・ベイと協力して再起を図るが失敗、エジプトを離れてロドス島の聖ヨハネ騎士団の元に身を寄せた。", "qas": [ { "question": "帝位を巡った争いに敗れたジェムは、どの王朝へ逃げたの?", "id": "tr-380-05-000", "answers": [ { "text": "マムルーク朝", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジェムと協力して再起を図ったのは、誰ですか?", "id": "tr-380-05-001", "answers": [ { "text": "カシム・ベイ", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カシム・ベイは、どの国の者だったか?", "id": "tr-380-05-002", "answers": [ { "text": "白羊朝", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カシム・ベイは、どこに亡命していたか?", "id": "tr-380-05-003", "answers": [ { "text": "カラマン侯国", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "バヤズィトはマムルーク朝、聖ヨハネ騎士団、フランスのヴァロワ朝、教皇庁といったジェムが亡命した北アフリカ、ヨーロッパの諸勢力と交渉を行い、聖ヨハネ騎士団との交渉では騎士団側の要求に応じて多額の身代金を支払わなければならなかった。ジェムの子オウズ、ジェム派の高官を粛清し、1495年にジェムが病死した後に彼の生母、妻、娘を保護するが、男子の子孫はロドス島に残っていた1人を除いて全員が絞首に処された。", "qas": [ { "question": "バヤズィトと交渉を行った勢力として挙げられているのは、マムルーク朝、聖ヨハネ騎士団、ヴァロワ朝のほかに、どの勢力なの?", "id": "tr-380-06-000", "answers": [ { "text": "教皇庁", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バヤズィトがマムルーク朝、聖ヨハネ騎士団、ヴァロワ朝、教皇庁といった諸勢力と交渉を行ったのは、誰のせいでしたか?", "id": "tr-380-06-001", "answers": [ { "text": "ジェム", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バヤズィトが身代金を支払ってまで交渉を行った勢力は、どの勢力か?", "id": "tr-380-06-002", "answers": [ { "text": "聖ヨハネ騎士団", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジェムが死去したのは、何年か?", "id": "tr-380-06-003", "answers": [ { "text": "1495年", "answer_start": 135, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1495年にジェムが病死するまでの間、オスマン帝国と亡命中のジェムを保護したマムルーク朝の関係が悪化する。", "qas": [ { "question": "ジェムの死の原因となったのは、何?", "id": "tr-380-07-000", "answers": [ { "text": "病", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジェムはどの王朝に亡命していたか?", "id": "tr-380-07-001", "answers": [ { "text": "マムルーク朝", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マムルーク朝がオスマン帝国と対立するようになったのは、誰のせいでしたか?", "id": "tr-380-07-002", "answers": [ { "text": "ジェム", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジェムがマムルーク朝から保護されたのは、何年までだったか?", "id": "tr-380-07-003", "answers": [ { "text": "1495年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オスマン帝国は、マムルーク朝とはジェムの処遇以外に、メッカの水路の修理を拒絶されたこと、インドからの贈物を携えた使節がマムルーク朝の領土を通行した際にジッダの太守に荷物を奪われたことで関係が険悪なものとなり、バヤズィトはドゥルカディル侯国のベイリクであるアラー・アッダウラがマムルーク朝のスルターン・アシュラフ・カーイトバーイと対立していることを知ると、アッダウラを助けるために1485年にアナトリア南部に派兵した。", "qas": [ { "question": "オスマン帝国とマムルーク朝の関係をより悪化させた原因とは、何?", "id": "tr-380-08-000", "answers": [ { "text": "ジェムの処遇", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バヤズィトがドゥルカディル侯国へ援軍を送ったのは、何年のことですか?", "id": "tr-380-08-001", "answers": [ { "text": "1485年", "answer_start": 189, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドゥルカディル侯国とマムルーク朝の対立において、オスマン帝国はどちらの味方をしたか?", "id": "tr-380-08-002", "answers": [ { "text": "ドゥルカディル侯国", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドゥルカディル侯国とマムルーク朝のうち、オスマン帝国と対立していたのは、どの国か?", "id": "tr-380-08-003", "answers": [ { "text": "マムルーク朝", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オスマン・ドゥルカディルの連合軍はマラティヤ付近でマムルーク朝軍と戦うが敗れ、かえってアダナ、タルソス内の城砦を奪われる。戦後にマムルーク朝から和平が提案され、和解を勧めるカリフの親書と共に奪われた贈物も届けられるが、バヤズィトはこの提案に対して進軍という答えを返した。", "qas": [ { "question": "マムルーク朝がオスマン・ドゥルカディルの連合軍との戦いで勝利し、手に入れた地域は、タルソス内の城砦とどこですか?", "id": "tr-380-09-000", "answers": [ { "text": "アダナ", "answer_start": 43, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オスマン・ドゥルカディルの連合軍とマムルーク朝の戦いは、どこ付近で行われたの?", "id": "tr-380-09-001", "answers": [ { "text": "マラティヤ付近", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マラティヤ付近での戦いで戦勝国となったのは、オスマン・ドゥルカディルの連合軍とマムルーク朝のうち、どちらか?", "id": "tr-380-09-002", "answers": [ { "text": "マムルーク朝", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オスマン帝国とマムルーク朝のうち、和平の意を示したのは、どちらだったか?", "id": "tr-380-09-003", "answers": [ { "text": "マムルーク朝", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オスマン軍はウズバク・ブン・タタハ率いるマムルーク朝軍に3度敗れる不利な状況にあったが、マムルーク朝も長期の戦争によって財政が悪化しており、1491年にハフス朝の仲介によって和議が結ばれた。", "qas": [ { "question": "マムルーク朝軍の統率者は、誰だったの?", "id": "tr-380-10-000", "answers": [ { "text": "ウズバク・ブン・タタハ", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オスマン軍とマムルーク朝軍の間で起こった戦争の戦況を見ると、どちら側が優勢でしたか?", "id": "tr-380-10-001", "answers": [ { "text": "マムルーク朝軍", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オスマン軍とマムルーク朝軍の戦闘は、何度行われ、すべての戦闘はマムルーク朝軍の勝利で終わったか?", "id": "tr-380-10-002", "answers": [ { "text": "3度", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オスマン帝国とマムルーク朝が和平を結んだのは、何年のことか?", "id": "tr-380-10-003", "answers": [ { "text": "1491年", "answer_start": 70, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ハンガリー王マーチャーシュ1世が没した後、バヤズィトは1492年にマーチャーシュの死を好機と考えてベオグラード攻略に挑むが失敗、1495年にハンガリーと10年の休戦協定を結んだ。", "qas": [ { "question": "バヤズィトは誰の死を機会と思い、ハンガリーへの侵攻を計画したの?", "id": "tr-380-11-000", "answers": [ { "text": "マーチャーシュ1世", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バヤズィトがベオグラード攻略を開始したのは、何年のことですか?", "id": "tr-380-11-001", "answers": [ { "text": "1492年", "answer_start": 27, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バヤズィトのベオグラード攻略の結果は、どうだったか?", "id": "tr-380-11-002", "answers": [ { "text": "失敗", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オスマン帝国とハンガリーの間で10年の休戦協定が締結されたのは、何年のことか?", "id": "tr-380-11-003", "answers": [ { "text": "1495年", "answer_start": 64, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "しかし、ベオグラード遠征と同じ1492年にモルダヴィア公国を属国化し、黒海方面への拡大は着実に果たした。", "qas": [ { "question": "モルダヴィア公国がオスマン帝国の属国となったのは、何年のことなの?", "id": "tr-380-12-000", "answers": [ { "text": "1492年", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オスマン帝国が黒海方面でその影響力を行使できるようになったのは、何年のことですか?", "id": "tr-380-12-001", "answers": [ { "text": "1492年", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "石油タンカー", "paragraphs": [ { "context": "石油タンカー(せきゆタンカー)は、石油をばら積みで運ぶために設計された船である。石油タンカーには2つの基本的な分類があり、原油タンカーとプロダクトタンカーに分けられる。原油タンカーは大量の原油を油田から製油所まで輸送する。プロダクトタンカーは一般的にかなり小さく、石油化学製品を製油所から消費市場の近くまで輸送するために設計されている。石油タンカーは、その使用目的だけではなく大きさによっても分類されている。載貨重量トン数にして数千トン程度の内水面・沿岸用タンカーから、55万トンに達するマンモススーパータンカーまである。2006年6月時点で、1万載貨重量トンを超える石油タンカーは4,024隻ある。タンカーは年間およそ20億トンの石油を輸送している。効率の点ではパイプラインに次ぎ、タンカーによる石油輸送の平均費用は1ガロン(3.79リットル)あたり2-3セント程度である。特殊化した石油タンカーが発展していった。こうした中の1つとして、動いている船に燃料を補給することのできる補給艦がある。標準の石油タンカーの設計の派生形としては他に、鉱石・石油兼用船や、半永久的に繋留されて用いられる浮体式生産貯蔵積出設備などがある。石油タンカーはこれまでに、多くの被害をもたらし世間の耳目を集めた石油流出事故に関わってきた。その結果として石油タンカーの設計と運航には厳しい規制が課されている。", "qas": [ { "question": "石油タンカーの使用目的における2つの分類のうち、大量の原油を油田から製油所まで輸送するものは、何か?", "id": "tr-381-00-000", "answers": [ { "text": "原油タンカー", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "内水面・沿岸用タンカーとマンモススーパータンカーのうち、積載可能重量がより大きいのは、どちらか?", "id": "tr-381-00-001", "answers": [ { "text": "マンモススーパータンカー", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "原油タンカーとプロダクトタンカーのうち、より小さいのは、どちらなの?", "id": "tr-381-00-002", "answers": [ { "text": "プロダクトタンカー", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "石油タンカーは、使用目的と何によって分類されますか?", "id": "tr-381-00-003", "answers": [ { "text": "大きさ", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "石油輸送の技術は石油産業と共に発展した。人類による石油の利用は先史時代にまで遡るが、最初の近代的・商業的な利用は1850年のジェームズ・ヤングによるパラフィンの生産からとなる。こうした初期には、ミャンマー北部からの石油は陶器の容器に入れて川岸まで輸送され、そこで船倉に入れられていた。1850年代には、ペンシルベニア州タイタスビル近郊でエドウィン・ドレークが石油を掘り当てて以来、ペンシルベニア州の油田が主な石油の供給源となり、また革新の中心となった。アメリカ合衆国で最初の油田はこの地に1859年に掘られ、当初は1日10バレルほどの産出であった。2年以内にタイタスビルの油田は1日3,000バレルの石油を供給するようになった。この頃には既に石油は、屋内・屋外での照明といった用途に用いられる油として、魚やクジラ、野菜から採れる油を置き換えるようになりつつあり、また大西洋を横断した輸出も開始された。", "qas": [ { "question": "エドウィン・ドレーにより主な石油の供給先として発展したのは、どの州なの?", "id": "tr-381-01-000", "answers": [ { "text": "ペンシルベニア州", "answer_start": 151, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカ合衆国における最初の油田は、どの州に掘られましたか?", "id": "tr-381-01-001", "answers": [ { "text": "ペンシルベニア州", "answer_start": 151, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1859年と1862年のうち、ペンシルベニア州タイタスビルからの石油供給量がより少なかったのは、いつか?", "id": "tr-381-01-002", "answers": [ { "text": "1859年", "answer_start": 244, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ペンシルベニア産の石油は当初、40米ガロン(150リットル)の木製の樽に入れられて、混載のボートや艀が輸送に用いられた。しかし樽による輸送にはいくつかの問題があった。最初の問題は重量で、標準的な空の樽は64ポンド(約29kg)ほどで、これは中を満たした樽の全重量の20パーセントほどに相当する。また、樽は中身が漏れやすく、一方向への輸送にしか用いることができない。そして最後に、樽はそれ自体が値の張るものである。例えば、ロシアの石油産業発展の初期には、樽の値段は石油生産価格の半分を占めていた。ばら積みでの石油の輸送が多くの地域で多くの手段で試みられた。石油のパイプラインは1860年から存在している。1863年、2隻の帆走タンカーがイングランドのタイン川で建造された。これに続いて、1873年に最初の蒸気推進タンカーであるVaderlandがベルギーの所有者向けにパーマーズ・シップビルディング・アンド・アイアン・カンパニーによって建造された。こうした船の使用は、安全上の問題を懸念したアメリカとベルギーの当局によって抑えられた。1871年時点で、ペンシルベニア油田では石油輸送艀と、今日用いられているものに似た鉄道のタンク車を限定的に用いていた。", "qas": [ { "question": "石油のパイプラインが登場したのは、何年のこと?", "id": "tr-381-02-000", "answers": [ { "text": "1860年", "answer_start": 287, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "最初の蒸気推進タンカーが建造されたのは、何年ですか?", "id": "tr-381-02-001", "answers": [ { "text": "1873年", "answer_start": 342, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "安全上の問題を懸念し、最初の蒸気推進タンカーの使用を抑えたのは、アメリカとどの国の当局か?", "id": "tr-381-02-002", "answers": [ { "text": "ベルギー", "answer_start": 449, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "樽による輸送において、樽の値段と中身が漏れやすいことのほかに、何が問題とされたか?", "id": "tr-381-02-003", "answers": [ { "text": "重量", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1876年に、アルフレッド・ノーベルの兄弟であるルートヴィヒ・ノーベル、ロベルト・ノーベルがアゼルバイジャンのバクーで、ノーベル兄弟石油会社(ブラノーベル)を設立した。19世紀末期、この会社は世界最大級の石油会社であった。ルードヴィヒは、初期のタンカー開発のパイオニアである。彼はまず、一重船殻の艀で石油をばら積みして運ぶことを試みた。彼が自航式のタンカーへ関心を移すと、多くの問題点にぶつかった。最初の問題点は、火災を避けるために積み荷とそこから出るガスを機関室から隔離することであった。他の問題点としては、温度変化に応じて積み荷が膨張・収縮できるようにしたり、タンクに換気の方法を備えたりといったことがあった。世界で最初の成功した石油タンカーは、ノーベルの「ゾロアスター」(Zoroaster)であった。彼はSvenAlmqvistと共にスウェーデンのヨーテボリでこの船を設計した。建造契約は1878年1月に結ばれ、その年のうちにバクーからアストラハンまで最初の航海を行った。ノーベルは、タンカーの設計のどの部分も特許を取得しなかったので、ゾロアスターの設計は広く研究されコピーされた。1878年10月、彼は同じ設計の2隻のタンカー、「ブッダ」(Buddha)、「ノルデンフェールド」(Nordenskjöld)をさらに発注した。", "qas": [ { "question": "この文書で紹介されている、19世紀末期における世界最大級の石油会社が設立されたのは、何年か?", "id": "tr-381-03-000", "answers": [ { "text": "1876年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "初期のタンカー開発のパイオニアとされる人物が設立した石油会社の社名は?", "id": "tr-381-03-001", "answers": [ { "text": "ノーベル兄弟石油会社", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "世界で最初の成功した石油タンカーとは、どの国で設計されたものか?", "id": "tr-381-03-002", "answers": [ { "text": "スウェーデン", "answer_start": 371, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "世界で最初の成功した石油タンカーの初航海は、何年に行われましたか?", "id": "tr-381-03-003", "answers": [ { "text": "1878年", "answer_start": 398, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ゾロアスターは、242ロングトンの灯油を、パイプで連結された2つの鉄製タンクに入れて輸送した。船の中央に機関室が置かれ、1つのタンクがその前方に、もう1つが後方に置かれた。この船は、予備浮力のために21の垂直防水区画を備えていたことがもう1つの特徴であった。船の全長は184フィート(56m)、全幅は27フィート(8.2m)、喫水は9フィート(2.7m)であった。ノーベルの以降のタンカーとは異なり、ゾロアスターの設計はスウェーデンからカスピ海まで、バルト海、ラドガ湖、オネガ湖、ルイビンスク、ヴォルガ・バルト水路、ヴォルガ川を経由して航海できるようになっていた。ノーベルはそれから、単一船殻設計を採用し始めた。これは船体がタンクの構造の一部をなすものである。1880年11月、彼は最初の単一船殻タンカーである「モーゼ」(Moses)を発注した。1年以内に彼はさらに「モハメド」(Mohammed)、「タターリン」(Tatarin)、「ブラマ」(Bramah)、「スピノザ」(Spinoza)、「ソクラテス」(Socrates)、「ダーウィン」(Darwin)、「コーラン」(Koran)、「タルムード」(Talmud)、「カルマック」(Calmuck)と7隻の単一船殻タンカーを発注した。ブラノーベルは、初期の石油タンカーの事故も経験している。1881年にゾロアスターの姉妹船、ノルデンフェールドはバクーで灯油を搭載している最中に爆発した。船が突風に煽られて、灯油を流し込んでいたパイプが船倉から引き離されてしまった。そして灯油は甲板に漏れ出し、機械工が灯油ランプの明かりで作業をしていた機関室に流れ込んだ。これにより船は爆発し、乗員の半数が死亡した。ノーベルはこの事故に対して、漏れがより起こりにくい柔軟な積み込みパイプを作ることで対策した。", "qas": [ { "question": "ゾロアスターの中央には、何が置かれたの?", "id": "tr-381-04-000", "answers": [ { "text": "機関室", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ノーベルが最初の単一船殻タンカーを発注したのは、いつですか?", "id": "tr-381-04-001", "answers": [ { "text": "1880年11月", "answer_start": 330, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゾロアスターには、いくつの鉄製タンクが置かれたか?", "id": "tr-381-04-002", "answers": [ { "text": "2つ", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゾロアスターでは、何を中心として前後に1つずつ鉄製タンクが置かれたのか?", "id": "tr-381-04-003", "answers": [ { "text": "機関室", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1883年に石油タンカーの設計は大きく進歩した。ノーベルの会社で働いていたヘンリー・F・スワン(HenryF.Swan)が、ノーベルの3隻のタンカーを設計した。1つか2つの大きな船倉を備える代わりに、スワンの設計では船を横方向の間仕切りでいくつかに分割した船倉を用いていた。これらの船倉はさらに縦方向の間仕切りで右舷側と左舷側に分割されていた。初期の設計では、石油がタンク内で跳ね回って船を転覆させてしまう自由表面効果による安定性問題を抱えていた。しかし船の貯蔵スペースを小さなタンクに分割してしまうという方法では、自由表面効果をほとんどなくすことができた。この現代ではほとんど一般的となった方法は、最初にスワンによってノーベルのタンカー、「ブレスク」(Blesk)、「ルーメン」(Lumen)、「ルックス」(Lux)に用いられた。1903年、ノーベル兄弟は、それまでの蒸気機関とは対照的に、内燃機関で航行する2隻の石油タンカーを建造した。「ヴァンダル」(Vandal)、「サラマート」(Sarmat)は、最初のディーゼル・エレクトリック船でもあり、750ロングトンの精製された石油を輸送でき、360馬力(270kW)のディーゼルエンジンで駆動されていた。この同じ会社は、すぐにより大きな「エマニュエル・ノーベル」(EmanuelNobel)や「カール・ハゲリン」(KarlHagelin)などの4,600トンで1,200馬力のエンジンを備えた灯油用タンカーの建造へ向かった。", "qas": [ { "question": "ヘンリー・F・スワンは石油タンカーのどのような問題の解決を成し遂げましたか?", "id": "tr-381-05-000", "answers": [ { "text": "自由表面効果による安定性問題", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1903年にノーベル兄弟が建造した石油タンカーでは、蒸気機関と内燃機関のうち、どちらが採用されたの?", "id": "tr-381-05-001", "answers": [ { "text": "内燃機関", "answer_start": 396, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ヴァンダル」と「エマニュエル・ノーベル」のうち、エンジン出力のより大きいのは、どちらか?", "id": "tr-381-05-002", "answers": [ { "text": "「エマニュエル・ノーベル」", "answer_start": 544, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「エマニュエル・ノーベル」と同じ出力のエンジンを持ち、同じ会社で建造された石油タンカーは、何か?", "id": "tr-381-05-003", "answers": [ { "text": "「カール・ハゲリン」", "answer_start": 572, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "「グリュックアウフ」(Glückauf)により、タンカーの設計がさらに大きな前進をした。これもまたスワンの設計によるもので、この船は「以降の全てのタンカーの真の先駆者」と呼ばれている。特徴としては、甲板から操作可能なバルブ、石油の主配管、蒸気管、安全を向上するための防油区画、積み荷を載せていない時に海水をバラスト水として搭載する能力などがあった。スタンダード・オイルの代理人であったヴィルヘルム・アントン・リーデマン(WilhelmAntonRiedemann)によりグリュックアウフとその姉妹船が数隻購入された。1893年にグリュックアウフが失われると、スタンダード・オイルは姉妹船を購入した。", "qas": [ { "question": "「以降の全てのタンカーの真の先駆者」と呼ばれる石油タンカーは、誰が設計したの?", "id": "tr-381-06-000", "answers": [ { "text": "スワン", "answer_start": 49, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「以降の全てのタンカーの真の先駆者」と呼ばれる石油タンカーが失われたのは、何年のことですか?", "id": "tr-381-06-001", "answers": [ { "text": "1893年", "answer_start": 258, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1880年代にはまた、アジアとの石油貿易が開始された。ロシアの石油を極東へスエズ運河経由で輸送することになる発案は、貿易業者のマーカス・サミュエルと船のオーナーでブローカーのフレッド・レーン(FredLane)によるものであった。それ以前にスエズ運河を通して石油を輸送しようとする試みは、あまりにリスクが大きいとしてスエズ運河会社により拒否されていた。この問題に対してサミュエルは異なる方法を採った。スエズ運河会社に対して、運河の通航を許可できるタンカーの仕様を問い合わせたのである。運河会社指定の仕様に従って、サミュエルは北イングランドのウィリアム・グレイ(WilliamGray)に3隻のタンカーを発注した。3隻は「ミュレックス」(Murex)、「コンチ」(Conch)、「クラム」(Clam)と名づけられ、それぞれ載貨重量トンにして5,010ロングトンの輸送能力があった。これらの3隻は、今日のロイヤル・ダッチ・シェルの前身であるタンク・シンジケート(TankSyndicate)の最初のタンカーであった。", "qas": [ { "question": "サミュエルがウィリアム・グレイに発注した3隻のタンカーは、何ロングトンの輸送能力を持っていたか?", "id": "tr-381-07-000", "answers": [ { "text": "5,010ロングトン", "answer_start": 369, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スエズ運河経由での輸送を可能にするため、運河会社に通行許可できるタンカーの仕様を問い合わせた人物のフールネームを答えなさい。", "id": "tr-381-07-001", "answers": [ { "text": "マーカス・サミュエル", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サミュエルがウィリアム・グレイに発注した3隻のタンカーが最初のタンカーである会社は、今日のどの会社の前身であるか?", "id": "tr-381-07-002", "answers": [ { "text": "ロイヤル・ダッチ・シェル", "answer_start": 400, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ジャカルタ、シンガポール、バンコク、サイゴン、香港、上海、神戸に準備された設備により、まだ発足したばかりの若い会社であったシェルは、アジア市場においてスタンダード・オイルの独占に対する最初の挑戦者となる用意ができた。1892年8月24日、ミュレックスはスエズ運河を通過した最初のタンカーとなった。シェルがロイヤル・ダッチ石油と合併した1907年の時点で、スタンダード・オイルが4隻の蒸気推進タンカーと16隻の帆走タンカーを所有していたのに対して、シェルは34隻の蒸気推進タンカーを所有していた。", "qas": [ { "question": "スエズ運河を通過した最初のタンカーは、何か?", "id": "tr-381-08-000", "answers": [ { "text": "ミュレックス", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1915年4月17日に進水したアメリカ海軍の給油艦「モーミー」が、洋上補給の技術の創始となった。その当時としては大型の、載貨重量トンにして14,500ロングトンの能力で、モーミーは第一次世界大戦の初期、イギリスへ向かう途中の駆逐艦への補給を行った。この技術により、友好国の港の補給能力に依存せずにはるか遠距離で、より長い期間艦隊が海上に留まって活動することが可能となった。チェスター・ニミッツ元帥は、この頃モーミーの副長を務めて、洋上補給の技術を開発するための中心的な役割を果たし、後に第二次世界大戦においてこの港から独立して行動する能力が勝利にとって極めて重要であることを指揮下の艦隊を通じて証明した。洋上補給はすぐに他の海軍にも取り入れられた。一例として、オーストラリアの給油艦「クルンバ」は、イギリス海軍において1917年から1919年まで洋上補給活動に加わった。", "qas": [ { "question": "洋上補給の技術の創始となったのは、何軍の給油艦なの?", "id": "tr-381-09-000", "answers": [ { "text": "アメリカ海軍", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカ海軍の給油艦「モーミー」が創始となった技術の開発において、中心的な役割を果たしたのは誰ですか?", "id": "tr-381-09-001", "answers": [ { "text": "チェスター・ニミッツ", "answer_start": 186, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "第一次世界大戦中、無制限潜水艦作戦によりタンカーが不足した。当時の駐英アメリカ大使であるウォルター・ハインズ・ページは、「潜水艦部隊は、世界中で貨物船が建造されるペースよりも速く沈めつつある。このように、ドイツ人たちは成功しつつある。この状況が充分長く続けば、連合国はもう終わりだ。例えば、彼らは最近数多くのタンカーを撃沈したため、これによりこの国は、たとえグランドフリート(本国艦隊)に充分な燃料を供給しなかったとしても、すぐにも危険な状況になってしまうかもしれない。」と書いている。ジョルジュ・クレマンソーはアメリカ合衆国のウッドロウ・ウィルソン大統領に対して、「ガソリンは来るべき戦いにおいて、血液と同じくらい重要です。ガソリンの供給不足は、たちまち我々の軍隊を麻痺させてしまうでしょう」と書いている。ウィルソンはこれに強く反応した。アメリカ合衆国船舶委員会は、アメリカの全ての船を徴発し、また全ての造船所を監督下に置いた。前例の無い13億ドルの予算がこの目的に投じられた。ホグ島に世界最大の造船所が建設され、そこで建造された船はホグ・アイランダーとして知られる。", "qas": [ { "question": "どこに建設された造船所が、当時の世界最大の造船所だった?", "id": "tr-381-10-000", "answers": [ { "text": "ホグ島", "answer_start": 440, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ホグ島に造船所を建設したのは、どの国ですか?", "id": "tr-381-10-001", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 370, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "無制限潜水艦作戦を行ったのは、どの国か?", "id": "tr-381-10-002", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 102, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "第一次世界大戦前の全世界のタンカーは200万トンを少し超える程度であったのに対して、1916年から1921年までの間に316隻320万トンのタンカーが建造された。1923年の時点で80万ロングトン分の船が休航状態になり、ダニエル・ケイト・ルードヴィヒのような投機家に大きなチャンスをもたらした。1925年に彼は貨物船「フェニックス」(Phoenix)を買い、船倉にタンクをしつらえた。こうしたリベット接合されたタンクは内容物が漏れ、可燃性の混合物ができてしまった。結果として発生した爆発により船員2人が死亡し、ルードヴィヒも酷く負傷した。この後、彼は溶接技術の強い信奉者となった。", "qas": [ { "question": "1916年から1921年までと第一次世界大戦前のうち、積載可能重量がより大きいタンカーが建造されたのは、いつか?", "id": "tr-381-11-000", "answers": [ { "text": "1916年から1921年まで", "answer_start": 42, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「フェニックス」は、何万ロングトン分の船であるか?", "id": "tr-381-11-001", "answers": [ { "text": "80万ロングトン", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "石油タンカー、特にT2タンカーは、第二次世界大戦において重要な役割を果たした。載貨重量トン16,613トンの容積を持つT2-SE-A1型は、大戦中に500隻近く建造された中で最も一般的な派生型であった。大戦後、こうしたタンカーは数十年にわたり商業目的で使用され、多くは国際市場で売却された。1956年まで、タンカーはスエズ運河を通航できるように設計されていた。1956年の第二次中東戦争(スエズ動乱)の最中に運河が閉鎖されると、この大きさ制限はあまり重要ではなくなった。喜望峰周りで石油を輸送しなければならなくなり、船の所有者たちはより大きなタンカーが効率的な輸送の鍵となることに気付いた。", "qas": [ { "question": "どんな事件の影響で、より大きなタンカーが必要とされるようになったの?", "id": "tr-381-12-000", "answers": [ { "text": "第二次中東戦争", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第二次世界大戦中に大量建造され、重要な役割を果たした石油タンカーは、何か?", "id": "tr-381-12-001", "answers": [ { "text": "T2タンカー", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第二次世界大戦以降、タンカーは大きさの点で大きく成長した。第二次世界大戦期の典型的なT2型タンカーは全長532フィート(162m)で載貨重量トン16,500トンの容量であった。現代の超大型原油タンカー(ULCC:UltraLargeCrudeCarrier)は、全長1,300フィート(400m)、載貨重量トン500,000トンにもおよぶ。いくつかの要素がこの成長をもたらした。中東における戦闘がスエズ運河の通航を中断させたことも要素であるし、また中東の製油所が国有化されたことも要素である。船主間の猛烈な競争もまた原因となった。しかしこうした要素が無かったとしても、単純な経済的原則で、石油タンカーが大きいほどより安く原油を輸送でき、伸び続ける石油需要に応えることができるということがあった。1958年にアメリカの船舶関係の有力者であるダニエル・K・ルードヴィヒが満載排水量10万トンの壁を破った。彼の「ユニバース・アポロ」(UniverseApollo)は、同じルードヴィヒの所有船でそれ以前の記録を保持していた「ユニバース・リーダー」(UniverseLeader)から23パーセント大型化して104,500トンとなった。", "qas": [ { "question": "満載排水量が10万トン以上である船を建造したのは、誰?", "id": "tr-381-13-000", "answers": [ { "text": "ダニエル・K・ルードヴィヒ", "answer_start": 369, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ユニバース・アポロ」と「ユニバース・リーダー」のうち、より早く建造されたのは、どちらですか?", "id": "tr-381-13-001", "answers": [ { "text": "「ユニバース・リーダー」", "answer_start": 458, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「ユニバース・アポロ」と「ユニバース・リーダー」を建造した人物のフールネームを答えなさい。", "id": "tr-381-13-002", "answers": [ { "text": "ダニエル・K・ルードヴィヒ", "answer_start": 369, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "これまで建造された世界最大のスーパータンカーは、1979年に住友重機械工業追浜造船所で建造された「シーワイズ・ジャイアント」(SeawiseGiant)である。この船は載貨重量トン564,763トンの容量があり、全長は458.45m、喫水は24.611mある。46のタンクを備え、31,541平方メートルの甲板があり、大きすぎてイギリス海峡を通航することができない。シーワイズ・ジャイアントは1989年に「ハッピー・ジャイアント」(HappyGiant)へ、1991年に「ヤーレ・バイキング」(JahreViking)へ改称された。1979年から2004年まではロキ・ストリーム(LokiStream)が所有しており、その後ファースト・オルセン・タンカーズに買収されてノック・ネヴィスへと改称し、永久繋留されて石油貯蔵用のタンカーとなった。2008年現在、世界最大の稼動中のスーパータンカーはTIクラススーパータンカーで、「TIアジア」(TIAsia)、「TIヨーロッパ」(TIEurope)、「TIオセアニア」(TIOceania)、「TIアフリカ」(TIAfrica)の4隻がある。これらの4隻は、2002年から2003年にかけてギリシャのヘレスポント汽船会社(HellespontSteamshipCorporation)向けに「ヘレスポント・アルハンブラ」(HellespontAlhambra)、「ヘレスポント・メトロポリス」(HellespontMetropolis)、「ヘレスポント・タラ」(HellespontTara)、「フェアファックス」(Fairfax)として、韓国の造船会社大宇造船海洋により建造された。ヘレスポントはこれらの船を2004年にオーバーシーズ・シップホールディング・グループおよびユーロナブへ売却した。", "qas": [ { "question": "これまで建造された世界最大のスーパータンカーは、1990年には何と呼ばれたの?", "id": "tr-381-14-000", "answers": [ { "text": "「ハッピー・ジャイアント」", "answer_start": 202, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "シーワイズ・ジャイアントがノック・ネヴィスと呼ばれるようになったのは、誰に買収されてからですか?", "id": "tr-381-14-001", "answers": [ { "text": "ファースト・オルセン・タンカーズ", "answer_start": 312, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オーバーシーズ・シップホールディング・グループがヘレスポント汽船会社から2004年に買収した船とは、どの国の造船会社により建造されたものか?", "id": "tr-381-14-002", "answers": [ { "text": "韓国", "answer_start": 692, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2008年の時点での世界最大の稼動中のスーパータンカーとは、どの会社が建造したものであるか?", "id": "tr-381-14-003", "answers": [ { "text": "大宇造船海洋", "answer_start": 699, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "これら4隻の姉妹船はそれぞれ載貨重量トンにして441,500トン以上の容量を持ち、全長は380.0m、積み荷の搭載能力は3,166,353バレル(503,409,900リットル)に達する。ここ25年ほどで初めて建造されたULCCであり、また二重船殻で建造された最初のULCCでもある。より小さなULCCと区別するために、これらの船はしばしばV-Plusクラスとして識別されている。2008年2月、所有者はTIアフリカとTIアジアをカタール近郊のアル・シャヒーン油田に設置する固定式の浮体貯蔵積出設備に2009年末に改造する計画を発表した。パイプラインを除けば、こんにちタンカーはもっとも安く石油を輸送する手段である。世界中で、タンカーは年間約20億バレル(3.2×1011リットル)を輸送し、タンカーによる輸送費用は1ガロンあたりわずか2セントほどである。", "qas": [ { "question": "タンカーを使った石油輸送費用は、1ガロンあたり何セントしかかからないか?", "id": "tr-381-15-000", "answers": [ { "text": "2セント", "answer_start": 368, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "世界中のタンカーによる年間石油輸送量は、約何バレルもなるか?", "id": "tr-381-15-001", "answers": [ { "text": "約20億バレル", "answer_start": 320, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1954年、シェル石油はaveragefreightrateassessment(AFRA)というタンカーの大きさを分類する仕組みを開発した。これを独立した基準にするため、シェルはロンドン・タンカー・ブローカーズ・パネル(LTBP:LondonTankerBrokers'Panel)の意見を求めた。当初、彼らはタンカーを載貨重量トン25,000トン以下の一般目的(GP:GeneralPurpose)、25,000トンから45,000トンの中規模(MR:MediumRange)、45,000トンより大きなその当時としては巨大な船を大規模(LR:LargeRange)に分類していた。1970年代を通じて船は大きくなり、これにより再分類が行われた。税務当局が、内部の徴税資料が正しいことを示す証拠を必要としていたため、この仕組みは税務目的で開発された。ニューヨーク・マーカンタイル取引所が1983年に原油の先物取引を開始する前は、契約ごとに異なりうる石油の正確な価格を確定することは難しかった。この仕組みを最初に使用した、シェルとブリティッシュ・ペトロリアムは1983年にAFRAシステムを廃止し、後に他のアメリカの石油会社も続いた。しかしながら、このシステムはこんにちでもまだ使われている。これ以外に柔軟な市場基準のスケールがあり、これは典型的な輸送経路と50万バレル単位のロットを用いている。", "qas": [ { "question": "シェル石油が開発したタンカーの大きさを分類する仕組みの略称は、何?", "id": "tr-381-16-000", "answers": [ { "text": "AFRA", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "AFRAシステムによると、載貨重量トン40,000トンの船は、一般目的と中規模、大規模のうち、どちらに分類されるか?", "id": "tr-381-16-001", "answers": [ { "text": "中規模", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "中川イセ", "paragraphs": [ { "context": "中川イセは、日本の政治家、北海道網走市の博物館網走監獄を運営する財団法人網走監獄保存財団の元理事長である。\n\n網走市議会の初の女性議員である。昭和中期の網走市において、上水道敷設による水質改善、人権擁護活動、女性の地位向上などの活動で地域発展に貢献し、「網走開拓の母」と呼ばれた。政界以前の波乱に富んだ人生でも知られ、網走市民には「中川のばっちゃん」の呼び名で親しまれた。1968年にTBSテレビで放映されたテレビドラマ『流氷の女』のモデルだ。本名、中川いせよ。旧姓は今野である。山形県東村山郡干布村上荻野戸出身。", "qas": [ { "question": "網走市議会の初の女性議員は誰ですか。", "id": "tr-382-00-000", "answers": [ { "text": "中川イセ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「網走開拓の母」とは誰を指すのですか。", "id": "tr-382-00-001", "answers": [ { "text": "中川イセ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "網走市民は中川イセのことを何と呼びましたか。", "id": "tr-382-00-002", "answers": [ { "text": "「中川のばっちゃん」", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中川イセの旧姓は何?", "id": "tr-382-00-003", "answers": [ { "text": "今野", "answer_start": 234, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "中川イセは2歳のとき、産後の肥立ちの悪かった母が死に瀕したため、里子に出された。預かり先での生活は、後に中川の長女が「NHKドラマ『おしん』の幼少時代が天国に思えるほど」と語るほど極貧であったが、実母に代って養母に愛情を注がれて育ち、養母の尽力で荒谷尋常小学校に通うこともできた。学業は優秀であったが、4年修了後に生家に戻された。すでに実母は死去しており、継母のもとで家業を手伝わされ、進学は許されなかった。11歳のとき、継母との不仲から家を出た。\n\n山形、米沢市、東京市を渡り歩き、女中奉公、女工、給仕など、様々な職を転々とした。妻子持ちの男性に騙されて暴行され、1918年に17歳にして女児を出産、未婚の母となった。身内を頼ることもできず、自分で娘を育てようにも、幼い子供を抱えた女を雇ってくれる仕事場は何もなかったため、やむを得ず娘を里子に出した。\n\n翌1919年、娘の養育費捻出のため北海道に渡り、網走の遊廓に入った。客を喜ばすために趣向を凝らし、遊女として次第に頭角を現し、一時は遊郭きっての看板遊女となった。\n\n1921年、牧場経営者である中川卓治と結婚して身請された。中川家の親戚たちから結婚に反対されて居場所を失ったため、開拓景気に沸く樺太に渡り、夫婦で牧場、旅館、飯場などで働いた。", "qas": [ { "question": "中川イセは何歳の時里子に出されたか。", "id": "tr-382-01-000", "answers": [ { "text": "2歳", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中川イセが通った小学校はどこなの?", "id": "tr-382-01-001", "answers": [ { "text": "荒谷尋常小学校", "answer_start": 123, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中川イセは1918年に何歳だったの?", "id": "tr-382-01-002", "answers": [ { "text": "17歳", "answer_start": 289, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中川イセは1921年に誰と結婚したの?", "id": "tr-382-01-003", "answers": [ { "text": "中川卓治", "answer_start": 476, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1926年に中川家により網走に呼び戻され、夫婦で牧場を営んだ。\n\nしかし1928年に中川イセの夫の父が死去、14万円の借金が残った。労賃日給1円、そば・うどんが10銭、月給100円以上を得る者は網走でわずか3人という時代であり、網走で一番の借金額であった。全財産を処分して返済にあてようにも、6万円程度が限度だった。そこで中川は札幌へ向かい、銀行の頭取に直談判して熱弁を振るい、50年月賦で返済すると約束した。当時の人間の平均寿命は50歳といわれ、50年もの月賦は前代未聞であった。以降は返済のため、牧場仕事で夫から乗馬の特訓を受け、牧場に加えて馬喰、家畜市場の開催、生命保険の代理店などの仕事を必死にこなした。", "qas": [ { "question": "中川イセの夫の父が死んで、中川夫婦に残された借金はいくらでしたか。", "id": "tr-382-02-000", "answers": [ { "text": "14万円", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時の人間の平均寿命は何歳でしたか。", "id": "tr-382-02-001", "answers": [ { "text": "50歳", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "中川イセは1975年、数えで75歳を迎えたことを機に市議会を引退した。周囲からは引き止められたが、自身は「引き際が大事」と語った。\n\n当時の網走市内には4軒の保育園があったが、17時までに子供を引き取る規則であった。早退を強いられていた仕事を持つ女性たちから相談を受けたことにより、女性の地位向上のため、1981年、社会福祉法人網走愛育会を作って自ら理事長を務め、潮見保育園を開設した。園児のために貯金通帳を作り、卒園式の際に1人1人に渡した。\n\n1988年、博物館網走監獄を運営する財団法人網走監獄保存財団の理事長就任を依頼された。前任の佐藤久は中川の友人でもあった。また、旭川市や釧路市への道路を造って網走の基礎を築いたのは網走刑務所の囚人であり、彼らの力なくしては網走はただの漁村に過ぎなかったと考えたこともあり、2代目理事長に就任した。当時、運営財団には9億円の負債が残っていた。中川はその立て直しのため、旅行ツアーに博物館見学を盛り込ませようと旅行会社を駆け回り、博物館の入館者を倍以上に増やした。開館10周年を迎える1993年には総入場者は300万人を超え、同年の入場者数は60万人に届くまでになった。\n\n1992年、網走市から名誉市民の称号を受けた。網走市名誉市民の称号は32年ぶりであり、女性では中川が初である。ほかに紺綬褒章も受章した。", "qas": [ { "question": "中川イセは何年に市議会を引退した。", "id": "tr-382-03-000", "answers": [ { "text": "1975年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中川イセは1975年に何歳だったの?", "id": "tr-382-03-001", "answers": [ { "text": "75歳", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "周囲からは引退を引き止められた時、中川イセは何と言ったか。", "id": "tr-382-03-002", "answers": [ { "text": "「引き際が大事」", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中川イセが網走市から名誉市民の称号を受けたのはいつですか。", "id": "tr-382-03-003", "answers": [ { "text": "1992年", "answer_start": 509, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ノンフィクション作家の大宅壮一は、中川と親しかった小説家の中山正男から中川を紹介され、『週刊朝日』誌上の徳川夢声との対談の中で中川について語った。これによって中川の名は、全国的に広まることとなった。\n\nまた中山の義妹である小説家の金子きみは、中川の半生記『雪と風と青い天』を著した。これが1968年に渚まゆみ主演によるテレビドラマ『流氷の女』としてTBSテレビで全国放映され、中川の名はさらに広まった。中川自身もその後にNHKの『こんにちは奥さん』など、何度もテレビに出演し、反響を呼んだ。\n\n網走市の作詞家である纓片實は、このドラマに感銘を受け、歌を作詞。北海道名寄市出身の歌手である加山ひろしの曲『流氷の女』として同1968年にリリースされた。中川は生まれて初めて曲を貰ったことに感激し、その後も纓片と交流を続けた。", "qas": [ { "question": "中川の名は、どんな雑誌を通して全国的に広まることとなったか。", "id": "tr-382-04-000", "answers": [ { "text": "『週刊朝日』誌", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大宅壮一はどんなジャンルを書く作家なの?", "id": "tr-382-04-001", "answers": [ { "text": "ノンフィクション", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『雪と風と青い天』を書いたのは誰なの?", "id": "tr-382-04-002", "answers": [ { "text": "金子きみ", "answer_start": 115, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『流氷の女』は誰の曲なの?", "id": "tr-382-04-003", "answers": [ { "text": "加山ひろし", "answer_start": 293, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1987年には、北海道放送のラジオ教養番組『涙流す間もなし〜流氷の町に生きる女〜』で、中川の七転八倒の人生遍歴が紹介され、同年の日本民間放送連盟賞の教養部門で最優秀番組に選ばれた。\n\n1990年には網走市民会館で、中川をモデルとした演劇『岬を駈ける女』が上演した。中川も娘とともに観劇した。1500人収容可能な会場が満員となり、通路に座って観劇する客もいた。\n\n没後の2015年には、天童市在住の女優である夢実子主演による朗読劇『激動の一世紀を生きた人生零(ゼロ)に立つ中川イセ物語』が網走市で上演され、満席の客席から喝采を浴びた。同2015年12月には第2回公演として、中川の故郷である天童市で、2016年9月には山形市で上演された。\n\n2017年には作家の蛭田亜紗子が小説『凜』を発表し、中川をモデルとした主人公の姿を著した。作中では中川同様、主人公が網走の遊郭で過酷な環境を必死に耐えて生き延びる姿が展開されている。", "qas": [ { "question": "1987年の日本民間放送連盟賞の教養部門で最優秀番組に選ばれたラジオ教養番組は何ですか。", "id": "tr-382-05-000", "answers": [ { "text": "『涙流す間もなし〜流氷の町に生きる女〜』", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "演劇『岬を駈ける女』は誰をモデルにしたものですか。", "id": "tr-382-05-001", "answers": [ { "text": "中川", "answer_start": 107, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "蛭田亜紗子の小説『凜』は何年に発表されたの?", "id": "tr-382-05-002", "answers": [ { "text": "2017年", "answer_start": 320, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "朗読劇『激動の一世紀を生きた人生零(ゼロ)に立つ中川イセ物語』は何年に上演されたか。", "id": "tr-382-05-003", "answers": [ { "text": "2015年", "answer_start": 184, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "中川イセの夫である中川卓治は柔道道場仲間でもあり、道場が縁で知り合った。酒ばかりでろくに働かない人物であり、そのような夫を妻が懸命に支える夫婦生活であった。晩年は脳卒中で倒れた後、1962年に妻に看取られつつ死去した。離婚歴があったために結婚当時は連れ子である息子がすでにおり、この息子は父の牧場を継いだ後、2002年に死去した。\n\n実子である娘は、1932年に夫の同意のもと、里親先から引き取られた。1943年、中川夫妻が牧場の競馬師にするために引き取っていた養子と結婚して息子を身ごもるが、息子の誕生前に戦争により夫と死別。終戦後に美容師の修行を経て、網走で美容院を開業。息子が15歳で結核で死去という不幸に見舞われたものの、そのときの主治医の父親と再婚。1985年にその後夫が死去した後は、中川のもとに通って朝晩の食事を共にし、母娘2人で山形などを旅行して回る生活を送っていた。", "qas": [ { "question": "中川イセの夫は誰?", "id": "tr-382-06-000", "answers": [ { "text": "中川卓治", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中川イセと中川卓治と、誰がもっと早く亡くなったの?", "id": "tr-382-06-001", "answers": [ { "text": "中川卓治", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "中川イセは興行女相撲で知られる天童市出身だけあり、幼少時より相撲が得意で、何人もの男の子を負かした。後には柔道3段、合気道3段、棒術初段、空手名誉3段の腕前となり、武術家としても知られるようになった。\n\n柔道は遊女時代、話題作りのために道場に通って身につけたものである。仲間の遊女に乱暴を働く客を柔道技で懲らしめたこともあり、遊女人気に一役買った。樺太滞在時も「襲いかかる飯場の荒くれ者を一本背負いで投げ飛ばした」「夫を襲う者たちを柔道技で蹴散らした」「夫が喧嘩に負けて帰宅して来ると、相手のもとへ乗り込み、背負い投げで仕返しをした」「夫が約20人の男たちと喧嘩になった際、夫を助けに駆けつけると、刃向う者は誰もいなかった」などの数々の武勇伝を残した。\n\n合気道は、終戦直後に荒れ放題の子供たちの品行を正すため、武術家の武田時宗に依頼して道場を始め、自らも門下生となって習得したものである。後には師範となり、60歳を過ぎても余暇には道場で教え、毎年の大会では演武を披露していた。\n\nこうした武術の腕前により、牧場で馬喰を務めていたときも、荒くれ男の多いほかの馬喰たち、あくどい商売をするも馬喰たちも、中川に手出しをしようとはしなかった。人権擁護活動で遊技たちを救い、遊郭の手の者に睨まれた際にも、直接手を出されることはなかった。\n\n後々まで凄腕の武術家として名を馳せ、90歳を過ぎた頃でも「1対1なら男でもぶっ飛ばせる」と豪語していた。網走市内には「中川記念武道館」として名前が残されている。", "qas": [ { "question": "中川イセの得意の運動は何?", "id": "tr-382-07-000", "answers": [ { "text": "相撲", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "三沢光晴", "paragraphs": [ { "context": "三沢光晴(みさわみつはる、1962年6月18日-2009年6月13日)は、日本の元プロレスラー。\n本名:三澤光晴(読み同じ)。\n1981年に全日本プロレスにてデビューし、同団体のトップレスラーとして活躍した後、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げした。\n全日本プロレス及びプロレスリング・ノアで代表取締役社長を歴任し、選手兼任の社長として同団体を牽引した。", "qas": [ { "question": "1962年6月18日生まれの日本の元プロレスラーとは誰?", "id": "tr-383-00-000", "answers": [ { "text": "三沢光晴", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "三沢光晴が社長を務めた会社名とは何?", "id": "tr-383-00-001", "answers": [ { "text": "プロレスリング・ノア", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1962年6月18日、北海道夕張市に生まれる。\n父親は北海道炭礦汽船に勤務していたが、三沢が生まれて間もなく夕張炭鉱が閉山同然の状態となったため、一家は埼玉県越谷市へ転居した。\nそのため、三沢に北海道での記憶は全くないという。\n三沢の母親は「光晴」ではなく「樹」という文字が好きだったため「秀樹」と名付けるつもりだったが、父親が勝手に「光晴」で出生届を出してしまったため「光晴」と名付けられた。", "qas": [ { "question": "三沢の出生地はどこ?", "id": "tr-383-01-000", "answers": [ { "text": "北海道夕張市", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world 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"answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "三沢は中学時代何部に所属していたの?", "id": "tr-383-02-001", "answers": [ { "text": "器械体操部", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中学2年の時、テレビで全日本プロレス中継を見て「観るよりやるほうが絶対におもしろい」と直感した三沢はプロレスラーを志すようになる。\n三沢は中学校を卒業してすぐにプロレスラーになるつもりだったが、担任の教師と母親にレスリングの強い高校へ進学して基礎を学んでからの方がよいと説得され、埼玉県内にレスリング部があるのは埼玉栄高校だけだったため、当時2年連続でインターハイを制していた足利工業大学附属高等学校に特待生として進学した。\nレスリング部に入部した三沢は高校の3年間を学校の寮で過ごし、ハードな練習に明け暮れる日々を送った。\n休みは大晦日と正月三が日のみであった。\n三沢は入学して1か月が経った頃に行われた練習試合で他校の2年生を相手に勝利し、3年時には国体(フリースタイル87kg級)で優勝するなど活躍したが、本人にとってレスリングはプロレスラーになるための手段に過ぎず、競技自体を好きになることはなかった。\nなお、三沢は高校2年時に寮を抜け出して全日本プロレスの事務所を訪れ、入門を志願したことがある。\nこの時はジャンボ鶴田に高校を卒業してから来るよう諭され、断念している。", "qas": [ { "question": "三沢が高校時代に所属していた部とは?", "id": "tr-383-03-000", "answers": [ { "text": "レスリング部", "answer_start": 213, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "三沢が入学した高校の名前は?", "id": "tr-383-03-001", "answers": [ { "text": "足利工業大学附属高等学校", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "三沢がプロレスラーを目指そうと思ったのはいつ?", "id": "tr-383-03-002", "answers": [ { "text": "中学2年の時", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "高校卒業後の1981年3月27日、全日本プロレスに入団。\n同年8月21日に浦和競馬場正門前駐車場で行われた越中詩郎戦でデビューした。\n入門から5か月でのデビューは全日本プロレス史上最速であった。\n1983年にはルー・テーズ杯争奪リーグ戦に出場して決勝に進出し、越中に敗れて優勝はならなかったものの、この試合の特別レフェリーを務めたルー・テーズは「日本で見た若手選手の試合のベストバウトじゃないか」とこの試合を高く評価した。\n三沢の1年前に入団したターザン後藤によると、三沢は受身を覚えるのが早く、瞬く間に自身と同じレベルに達したといい、冬木弘道によると三沢は当時から天才タイプで、「(三沢は)誰かから『あれやってみろ』と言われたこと」がすぐにできたといい、頭の中でイメージした動きができる理想的なレスラーだと評している。\nジャイアント馬場は、練習において受け身の音を聞いただけで三沢が受け身をとったことがわかったとされている。", "qas": [ { "question": "1983年のルー・テーズ杯争奪リーグ戦の優勝者は誰?", "id": "tr-383-04-000", "answers": [ { "text": "越中", "answer_start": 130, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ターザン後藤と三沢はどちらが先に全日本プロレスに入団したの?", "id": "tr-383-04-001", "answers": [ { "text": "ターザン後藤", "answer_start": 223, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "三沢がデビューしたのは何年?", "id": "tr-383-04-002", "answers": [ { "text": "1981年", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "もともと全日本プロレスではジャイアント馬場以下、ジャンボ鶴田、タイガー戸口、天龍源一郎、ロッキー羽田、桜田一男などの大型レスラーが重視される傾向にあったが、若手レスラーの指導に当たっていた佐藤昭雄の後押しを受けて頭角を現すようになる。\nちなみに、当時の全日本プロレス練習生の月給は5万円であったが、三沢だけは特別に7万円貰っていた。", "qas": [ { "question": "当時の月給が安かったのは練習生と三沢のどちらでしたか?", "id": "tr-383-05-000", "answers": [ { "text": "練習生", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "三沢は誰の指導を受けて頭角を現しましたか?", "id": "tr-383-05-001", "answers": [ { "text": "佐藤昭雄", "answer_start": 94, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1984年春、三沢は越中とともにメキシコへ遠征に出発した。\n現地で越中は『サムライ・シロー』、三沢は『カミカゼ・ミサワ』のリングネームで試合に出場していたが、数か月が経ったある日、三沢は馬場から国際電話で「コーナーポストに飛び乗れるか」と問われ、飛び乗れると答えたところ直ちに帰国するよう命じられた。\n帰国後、三沢は馬場に2代目タイガーマスクとなるよう命令を受ける。\n三沢は初代タイガーマスク(佐山聡)のファンから二番煎じ扱いされるのではと抵抗を感じたが、すでに2代目タイガーマスクとしてデビュー戦のスケジュールは組まれていた。", "qas": [ { "question": "三沢のメキシコでのリングネームは何でしたか?", "id": "tr-383-06-000", "answers": [ { "text": "『カミカゼ・ミサワ』", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "越中のメキシコでのリングネームは何だった?", "id": "tr-383-06-001", "answers": [ { "text": "『サムライ・シロー』", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "初代タイガーマスクは誰?", "id": "tr-383-06-002", "answers": [ { "text": "佐山聡", "answer_start": 197, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "三沢に日本への帰国を命じた人は誰?", "id": "tr-383-06-003", "answers": [ { "text": "馬場", "answer_start": 93, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "同年8月26日、田園コロシアムでのラ・フィエラ戦で2代目タイガーマスクとしてデビュー。\n当初はジュニアヘビー級戦線で活躍し、1985年8月31日に小林邦昭を破ってNWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を獲得したが、同年10月にヘビー級に転向。\n1986年にはアメリカに遠征し、4月19日にNWAのジム・クロケット・プロモーションズがルイジアナ州ニューオーリンズのスーパードームで開催したタッグチーム・トーナメント\"CrockettCup\"に御大のジャイアント馬場と組んで参戦、シード出場した2回戦でジミー・ガービン&ブラック・バートを破るも、準々決勝でロニー・ガービン&マグナムTAに敗退した。\n4月20日にはミネソタ州ミネアポリスのメトロドームで開催されたAWAの\"WrestleRock86\"に出場、AWA世界ライトヘビー級王者バック・ズモフから勝利を収めた。\n1988年1月2日には後楽園ホールにて、カート・ヘニングが保持していたAWA世界ヘビー級王座に挑戦している。", "qas": [ { "question": "2代目タイガーマスクのデビュー戦で対戦した相手は誰?", "id": "tr-383-07-000", "answers": [ { "text": "ラ・フィエラ", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "三沢は、ヘビー級転向前は何級でしたか?", "id": "tr-383-07-001", "answers": [ { "text": "ジュニアヘビー級", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "三沢が先に出場したのは\"WrestleRock86\"と\"CrockettCup\"のどちらでしたか?", "id": "tr-383-07-002", "answers": [ { "text": "\"CrockettCup\"", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "\"WrestleRock86\"の主催者は誰ですか?", "id": "tr-383-07-003", "answers": [ { "text": "AWA", "answer_start": 333, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "タイガーマスク時代の三沢は、初代タイガーマスク(佐山聡)が確立した華麗な空中技を受け継ぐ必要に迫られた。\nこれでは、三沢が本来目指すプロレスを前面に出せないことを意味し、三沢はそのことに苦しんだ。\n空中技を多用したことで三沢の膝には負担がかかり、左膝前十字靱帯断裂を引き起こし、負傷箇所の手術を受けるため1989年3月から1990年1月にかけて長期欠場を余儀なくされた。\n1990年2月10日、新日本プロレス東京ドーム大会に参戦して天龍源一郎とタッグを組み、長州力&ジョージ高野組と対戦。\n同年4月13日には日米レスリングサミットに出場し、ブレット・ハートとシングルマッチで対戦している。", "qas": [ { "question": "空中技の多用により、三沢の膝はどのような症状を起こした?", "id": "tr-383-08-000", "answers": [ { "text": "左膝前十字靱帯断裂", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "三沢が先に出場したのは日米レスリングサミットと新日本プロレス東京ドーム大会のどちらですか?", "id": "tr-383-08-001", "answers": [ { "text": "新日本プロレス東京ドーム大会", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "新日本プロレス東京ドーム大会で三沢は誰と手を組んで試合をしましたか?", "id": "tr-383-08-002", "answers": [ { "text": "天龍源一郎", "answer_start": 216, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "なお、全日本では「タイガーマスクは1年に1つ新しい技を開発する」と宣伝していたため、三沢がタイガーマスク時代に開発した技の名前には「タイガー・スープレックス'84」といった具合に開発年がついている。\nちなみに三沢は2代目タイガーマスクとして活動していた最中の1988年5月に結婚したが、その際に記者会見で正体を明かし、その上で2代目タイガーマスクとしての活動は続行させるという、覆面レスラーとしては異例の行動に出ている。", "qas": [ { "question": "三沢はいつ結婚したの?", "id": "tr-383-09-000", "answers": [ { "text": "1988年5月", "answer_start": 129, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1984年に開発されたタイガーマスクの技名は何?", "id": "tr-383-09-001", "answers": [ { "text": "「タイガー・スープレックス'84」", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1990年春、天龍源一郎が全日本を退団しSWSへ移籍したことで、複数のプロレスラーが天龍に追随した(SWS騒動)。\nこの騒動により、全日本は天龍対鶴田という当時の黄金カードを失うことになり、全日本は存亡の危機に晒された。\n騒動の最中の5月14日、「マスクマンが上を狙うのは限界がある」と感じていた三沢は、この日の試合中(東京体育館、タイガーマスク&川田利明vs谷津嘉章&サムソン冬木)、パートナーの川田にマスクの紐を解くように指示して唐突に素顔に戻り、脱いだマスクを客席に向かって投げ入れた。\nこの試合から2日後の16日、三沢はリングネームを「三沢光晴」に戻し、ポスト天龍に名乗りを挙げた。\n三沢は川田利明、小橋健太らと共に超世代軍を結成。\n1990年6月8日に「全日の『強さ』の象徴だった」鶴田とのシングルマッチで勝利を収め、1992年8月22日にはスタン・ハンセンを破って三冠ヘビー級王座を獲得するなど、超世代軍の中心レスラーとして活躍した。\n超世代軍とジャンボ鶴田を中心とする鶴田軍との世代抗争は全日本プロレスの新たな名物カードとなった。\nとくに超世代軍は高い人気を獲得し、全日本プロレスに大きな収益をもたらした。\n永源遙曰く、超世代軍の人気は初代タイガーマスクを凌ぐほどであった。\n三沢はこの時期にエルボーやフェイスロックといった必殺技を習得した。", "qas": [ { "question": "三沢が試合中に自身のマスクを脱ぎ、素顔を見せたのはいつでしたか?", "id": "tr-383-10-000", "answers": [ { "text": "5月14日", "answer_start": 117, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "三沢が先に試合を行ったのはスタン・ハンセンと鶴田のどちらでしたか?", "id": "tr-383-10-001", "answers": [ { "text": "鶴田", "answer_start": 346, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "超世代軍の主なメンバーは三沢の他に、小橋健太と誰がいましたか?", "id": "tr-383-10-002", "answers": [ { "text": "川田利明", "answer_start": 299, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "三沢がリングネームを「三沢光晴」に戻したのは何年でしたか?", "id": "tr-383-10-003", "answers": [ { "text": "1990年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1992年7月、ジャンボ鶴田が内臓疾患で長期休養を余儀なくされたことによって超世代軍と鶴田軍の抗争は終わり、同時に三沢は実質的なエースとなった。\n超世代軍の活動は1993年に川田が離脱したことで区切りを迎え、それ以降は小橋・川田・田上明とともにプロレス四天王(後に秋山準が加わり「五強」と呼ばれた)の一人として全日本プロレスの中心を担った。\n三沢は1992年8月から1999年10月にかけて三冠統一ヘビー級王座を5度獲得、21度防衛。\n1994年3月5日には全日本プロレスの象徴的存在であったジャイアント馬場からタッグマッチでフォール勝ちし、名実ともに同団体を代表するレスラーとなった。", "qas": [ { "question": "1993年に超世代軍を離脱したメンバーは誰でしたか?", "id": "tr-383-11-000", "answers": [ { "text": "川田", "answer_start": 87, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "三沢は三冠統一ヘビー級王座を何度防衛しましたか?", "id": "tr-383-11-001", "answers": [ { "text": "21度", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「五強」に最後に加わった人物は誰ですか?", "id": "tr-383-11-002", "answers": [ { "text": "秋山準", "answer_start": 132, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "超世代軍が結成された当時、馬場は凶器攻撃、流血、リングアウト・反則・ギブアップによる決着のないマッチよりも、3カウントフォールによってのみ決着するプロレスを理想とするようになり、三沢たち超世代軍のレスラーは馬場の理想を具現化すべく、大技をカウント2.9で返し続ける激しい試合を行うようになった。\nプロレス四天王の時代になると、三沢たちは次第に考案者である馬場の想像すら凌駕する激しい試合を繰り広げるようになった。\n馬場は三沢が川田と対戦した1993年7月29日に行われた三冠ヘビー級選手権試合について、「三沢と川田の勝因なんて、テレビ解説者として恥ずかしいが、高度な展開すぎて、俺にはわからないよ」と放送席でコメントし、同じく三沢と川田が対戦した1997年6月6日の三冠戦は、馬場が「あまりにもすごい」と涙したほど激しい試合として知られる。\n三沢自身は小橋との戦いを「極限の力を見せることができる」戦いとして認識しており、両者の試合の激しさは三沢自身が死の恐怖を感じることがあったほどであった。\nこのような、大技を連発するプロレスは王道プロレス、四天王プロレスと呼ばれた。\nレフェリーとして三沢の試合を裁いた和田京平によると、試合中の三沢はどんなに攻撃を受けても音をあげず、「大丈夫か?」と問いかけると「大丈夫」と答えて試合を続ける意思表示をしたという。", "qas": [ { "question": "三冠ヘビー級選手権試合で三沢と川田が戦ったのはいつでしたか?", "id": "tr-383-12-000", "answers": [ { "text": "1993年7月29日", "answer_start": 220, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "全日本プロレスではジャイアント馬場の妻である馬場元子が会社の運営について大きな発言権を有し、試合会場での実務や対戦カードにまで口出しする状況が続いていた。\n仲田龍(リングアナウンサー。後にプロレスリング・ノア取締役)によると、1996年に三沢は元子に反発を覚えるレスラーや社員を代表する形で、元子本人に「周囲の人間の声に耳を傾けた方がよい」という内容の忠告をしたことがあったという。\nこれがきっかけで三沢は元子と対立するようになり、1998年には馬場に対し所属レスラーを代表して「元子さんには現場を退いてもらえないでしょうか」と直談判するなど、対立を深めていった。", "qas": [ { "question": "馬場元子の夫は誰?", "id": "tr-383-13-000", "answers": [ { "text": "ジャイアント馬場", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "三沢が対立を深めた女性とは誰ですか?", "id": "tr-383-13-001", "answers": [ { "text": "元子", "answer_start": 203, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1999年に馬場が死去すると、マッチメイクなど現場における権限を譲り受けていた三沢はレスラーの支持を受けて後継の社長に就任した。\nただし馬場の死後約3カ月間もの間紛糾した末の人事であった。\n三沢は就任時に「いいものは採り入れて、今までとは違う新しい風を吹き入れてやっていきたい」と抱負を語ったものの、株式は三沢ではなく馬場元子が保有しており、何をするにも自分に断りを入れるよう要求する元子の前に思うように会社を運営することができなかった。", "qas": [ { "question": "馬場の死後、社長を継いだ人は誰ですか?", "id": "tr-383-14-000", "answers": [ { "text": "三沢", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "馬場は何年に亡くなったの?", "id": "tr-383-14-001", "answers": [ { "text": "1999年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "会社の株主保有者は誰でしたか?", "id": "tr-383-14-002", "answers": [ { "text": "馬場元子", "answer_start": 159, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "三沢は1998年に当時秋山準と組んでいたタッグを解体して当時前座での出場が多かった小川良成とタッグを結成し、マッチメイクの権限を所有するようになってからは中堅に埋もれていた大森隆男が主張を始め、フリーとして全日本に参戦していた高山善廣とのタッグを結成してアジアタッグ王座を獲得、さらに四天王の戦いに秋山準が絡むようになり、こうした全日本の変化をマスコミは「三沢革命」と称した。\nしかし、和田京平によると元子は三沢が決めたマッチメイクに対して必ず反対意見を出し、また仲田龍によると、三沢には馬場の運営方針を100%受け継ぐことが要求され、新たな試みを行うことは一切禁じられた。\n三沢は社長として会社の経費削減を考えなければならず、巡業の際の移動手段や宿泊先なども変更を検討していたが、元子はこのようなことに関しても「馬場全日本の伝統を崩す行為」と捉えていたことで、三沢は会社の収支を考えなければならない一方で、「馬場全日本」の伝統とも向かい合わなければならない板挟みとなっていた。\n後に三沢はこうした環境が「オレのやろうとすることが、尊敬する馬場さんが作り上げたプロレスを汚すと言われ、更に全日本らしくないと非難されるなら、俺の方から身を引く」と全日本退団を決意する原因になったと語っている。\nさらに三沢によると、経営に関する不透明な部分を目にするうちに全日本に対する不信感が募ってプロレスそのものに愛想が尽きかねない心境になり、そうなる前に退団した方がいいと思うようになった。", "qas": [ { "question": "秋山準とのタッグを解体したのは何年ですか?", "id": "tr-383-15-000", "answers": [ { "text": "1998年", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "三沢が秋山とのタッグを解体した後、新たにタッグを組んだ人は誰でしたか?", "id": "tr-383-15-001", "answers": [ { "text": "小川良成", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2000年5月28日、臨時取締役会において三沢は社長を解任された。\n6月に入って東京スポーツが「三沢社長解任」と報道し、同月13日に三沢は定例役員会において取締役退任を申し出、これをもって三沢は全日本を退団することになった。\n三沢はすでに退団後に新団体を設立する構想を抱いており、6月16日に記者会見を開いて「約1年間、代表取締役として頑張ってまいりましたが、全日本プロレスが持つ伝統と、私がこれからやろうとするプロレスの間にギャップを感じ、このままでは私の理想とするプロレスを貫き通すと、馬場さんが作ったプロレスらしさを壊してしまうんじゃないかと思い、退団を決意いたしました」とコメントし、自身を含めて会見に同席したレスラー24人で新団体を設立することを宣言した。", "qas": [ { "question": "三沢が全日本を退団したのは何年?", "id": "tr-383-16-000", "answers": [ { "text": "2000年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "三沢が社長をやめさせられたのはいつでしたか?", "id": "tr-383-16-001", "answers": [ { "text": "2000年5月28日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "三沢の当初の構想は居酒屋を経営しながら5人の新人を育成し、3試合ほどの小さな興行を催すというものであったが、三沢以外に9人いた取締役のうち5人が三沢に追随して退任するなど社内から三沢の行動に同調する者が続出、全日本を退団して新団体に参加するレスラーは練習生を含め26人にのぼった。\n一方、全日本プロレスへの残留を表明した選手は川田利明、渕正信の2人に、当時留学生扱いだったマウナケア・モスマンを含めた3人だけだった。\n予想より多くの選手が新団体への参加を表明したため三沢は資金繰りに苦しみ、自身の保険を解約し、さらに自宅を担保に金を借り入れて選手たちの給料に充てた。\nその後、18日に催された「ジャンボ鶴田メモリアル献花式」において、鶴田夫人の保子は今回の件について、「主人が生きていたら、三沢君の行動を支持していたと思います。でも、三沢君に全日本の名前を潰す権利はない」とコメントした。", "qas": [ { "question": "全日本を退団して新団体に参加したのは何人だった?", "id": "tr-383-17-000", "answers": [ { "text": "26人", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "取締役のうち、何人が三沢に同調したの?", "id": "tr-383-17-001", "answers": [ { "text": "5人", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジャンボ鶴田の妻の名は?", "id": "tr-383-17-002", "answers": [ { "text": "保子", "answer_start": 322, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "大クロアチア", "paragraphs": [ { "context": "大クロアチア(クロアチア語:VelikaHrvatska)は、クロアチアの民族主義の潮流のひとつで、クロアチア人による民族統一主義である大クロアチア主義が自国領とみなす領域である。", "qas": [ { "question": "大クロアチアは、何主義の者らが自国領とみなした領域であるの?", "id": "tr-384-00-000", "answers": [ { "text": "大クロアチア主義", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大クロアチア主義とは、クロアチア人の間で存在したどの主義のことをいいますか?", "id": "tr-384-00-001", "answers": [ { "text": "民族統一主義", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "大クロアチア主義は20世紀の大半を通じてクロアチアの民族主義の根底となってきた考え方であり、特にユーゴスラビア王国時代、第二次世界大戦時、そしてクロアチア紛争時に盛んになった。現在ではクロアチア純粋権利党がこの主張を支持している。", "qas": [ { "question": "大クロアチア主義が盛んになった時期としては、ユーゴスラビア王国時代、第二次世界大戦時と、何があった時期が挙げられるか?", "id": "tr-384-01-000", "answers": [ { "text": "クロアチア紛争", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大クロアチア主義とは、何世紀から存在した考え方であるか?", "id": "tr-384-01-001", "answers": [ { "text": "20世紀", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クロアチアの民族主義の根底となってきた考え方は、何か?", "id": "tr-384-01-002", "answers": [ { "text": "大クロアチア主義", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現在、クロアチアで大クロアチア主義を支持しているのは、どの政党か?", "id": "tr-384-01-003", "answers": [ { "text": "クロアチア純粋権利党", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "大クロアチア主義の領土主張は、「クロアチア人国家と歴史的権利」に基づくとされ、15世紀にクロアチアがハンガリーと連合していた時代にさかのぼる。大クロアチア主義の支持者によると、15世紀から17世紀にかけてオスマン帝国が侵攻する以前のクロアチアの歴史的領土はクロアチアに「返還」され、完全なクロアチアの支配下に置かれるべきであるとする。この概念は、19世紀のクロアチア民族復興運動(イリュリア運動)や1878年のオーストリア・ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナ併合以降、特に盛んになった。", "qas": [ { "question": "クロアチア地域は、何世紀から何世紀にかけてオスマン帝国に侵攻されましたか?", "id": "tr-384-02-000", "answers": [ { "text": "15世紀から17世紀", "answer_start": 88, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "19世紀のクロアチア民族復興運動の根底となった考え方は、何?", "id": "tr-384-02-001", "answers": [ { "text": "大クロアチア主義", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オーストリア・ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナ併合は、何年にあった出来事か?", "id": "tr-384-02-002", "answers": [ { "text": "1878年", "answer_start": 199, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "近代的な大クロアチアの概念は19世紀にさかのぼり、1878年のオーストリア・ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナ併合以前からあった。これはクロアチアの右翼政党と結びついていた。", "qas": [ { "question": "近代的な大クロアチア主義は、何世紀のことを言いますか?", "id": "tr-384-03-000", "answers": [ { "text": "19世紀", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オーストリア・ハンガリー帝国がボスニア・ヘルツェゴビナを併合させたのは、何年のことか?", "id": "tr-384-03-001", "answers": [ { "text": "1878年", "answer_start": 25, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1878年にボスニア・ヘルツェゴビナを併合させたのは、どの国だったか?", "id": "tr-384-03-002", "answers": [ { "text": "オーストリア・ハンガリー帝国", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "「Hervatska」紙の主張は、クロアチア民族内において決して特別に急進的なものではない。1869年にエウゲン・クヴァテルニク(EugenKvaternik)はドン・ミホヴィル・パヴリノヴィッチ(donMihovilPavlinović)に手紙を書き、「クロアチア国家と歴史的権利」に従いクロアチア権利党の政策を完遂すれば、ドラーヴァ川からアドリア海までではなく、ザルツブルク・アルプスからアルバニアおよびコソボまでの領域に純粋で穢れなきクロアチアの国旗がはためくだろうと述べた。", "qas": [ { "question": "1869年にドン・ミホヴィル・パヴリノヴィッチに手紙を送ったのは、誰なの?", "id": "tr-384-04-000", "answers": [ { "text": "エウゲン・クヴァテルニク", "answer_start": 52, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "この文書を見ると、エウゲン・クヴァテルニクは、どのような考え方をもとに動く人だったと予測できますか?", "id": "tr-384-04-001", "answers": [ { "text": "「クロアチア国家と歴史的権利」", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エウゲン・クヴァテルニクとドン・ミホヴィル・パヴリノヴィッチのうち、「クロアチア国家と歴史的権利」の考え方を持っていたのは、誰か?", "id": "tr-384-04-002", "answers": [ { "text": "エウゲン・クヴァテルニク", "answer_start": 52, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「クロアチア国家と歴史的権利」の考え方をもとに動いていた政党は、どの政党か?", "id": "tr-384-04-003", "answers": [ { "text": "クロアチア権利党", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アンテ・スタルチェヴィッチ(AnteStarčević)が創設したクロアチア権利党の支持者であるクロアチアの作家、ジュロ・デジェリッチ(ĐuroDeželić)は1879年に「クロアチア民族」あるいは「クロアチア人の魂」という本を出版し、その中でクロアチア人が住み、従ってクロアチアの土地である地方は「現在のダルマチア全域およびコトル湾・トルコ領クロアチアを含むボスニア・ノヴィ・パザル・パシャリク(サンジャク地方)、1789年のアンゲルの本でトルコ領ダルマチアとして言及された現在のヘルツェゴヴィナ地方・そしてモンテネグロとアルバニア北部である」とした。", "qas": [ { "question": "クロアチア権利党の設立者は、誰なの?", "id": "tr-384-05-000", "answers": [ { "text": "アンテ・スタルチェヴィッチ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「クロアチア民族」と「クロアチア人の魂」の著者は、誰ですか?", "id": "tr-384-05-001", "answers": [ { "text": "ジュロ・デジェリッチ", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「クロアチア民族」と「クロアチア人の魂」の著者は、どの政党の支持者だったか?", "id": "tr-384-05-002", "answers": [ { "text": "クロアチア権利党", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「クロアチア民族」と「クロアチア人の魂」の出版年度は、何年か?", "id": "tr-384-05-003", "answers": [ { "text": "1879年", "answer_start": 81, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第二次世界大戦時のナチス・ドイツによるユーゴスラビア侵攻の後、ドイツやイタリアの支援を受けたクロアチアの民族主義組織ウスタシャのアンテ・パヴェリッチはクロアチア独立国を建国した。", "qas": [ { "question": "アンテ・パヴェリッチが属していた組織は、何?", "id": "tr-384-06-000", "answers": [ { "text": "ウスタシャ", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クロアチア独立国の建国者は、誰ですか?", "id": "tr-384-06-001", "answers": [ { "text": "アンテ・パヴェリッチ", "answer_start": 64, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウスタシャを支援したのは、ドイツとどの国か?", "id": "tr-384-06-002", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 35, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クロアチア独立国を建国した勢力は、どの勢力か?", "id": "tr-384-06-003", "answers": [ { "text": "ウスタシャ", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "エアバスA340", "paragraphs": [ { "context": "エアバスA340(AirbusA340)は、ヨーロッパの企業連合であるエアバス・インダストリー社(後のエアバス社)が開発・製造した、長距離路線向けのワイドボディ4発ジェット旅客機である。A340は、エアバスA300由来の胴体を延長したワイドボディ機で、低翼に配置された主翼下に4発のターボファンエンジンを装備する。尾翼は低翼配置、降着装置は前輪配置で主翼間に中央脚を持つ仕様もある。A340シリーズには4つのモデルA340-200、A340-300、A340-500、A340-600が存在する。機体寸法や性能は各形式によるが、巡航速度はマッハ0.82から0.83で、全長は59.40から75.36メートル、全幅は60.30から63.45メートル、最大離陸重量は253.5から380トン、座席数は240席から440席程度である。A340は双発のエアバスA330と同時に正式開発が決定され、エンジン関係を除いて両機は最大限共通化された。A340はエアバスが開発した最初の4発機となったほか、4発機と双発機の同時並行的な開発は、航空技術史上において希少な取り組みとなった。また、A340ではフライ・バイ・ワイヤシステムやグラスコックピットが導入され、操縦系統が共通化されたエアバス機との間で相互乗員資格が認められている。", "qas": [ { "question": "エアバスA340と同時に正式開発が決定されたのは、何か?", "id": "tr-385-00-000", "answers": [ { "text": "エアバスA330", "answer_start": 372, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エアバスA340とエアバスA330は、何を除いて最大限共通化されたのか?", "id": "tr-385-00-001", "answers": [ { "text": "エンジン関係", "answer_start": 394, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "双発のエアバスA330と同時に正式開発が決定された旅客機は、何発のエンジンを装備しているか?", "id": "tr-385-00-002", "answers": [ { "text": "4発", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エアバスA330を開発・製造したのは、どの会社か?", "id": "tr-385-00-003", "answers": [ { "text": "エアバス・インダストリー社", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "A340シリーズの中で、A340-200/-300は最初に開発されたA340の第1世代である。A340-200は航続力を優先した短胴型、A340-300は収容力を優先した長胴型で、それぞれルフトハンザドイツ航空とエールフランスによって1993年に初就航した。その後、長距離路線に進出しつつあった双発機に対抗するため、A340の第2世代としてA340-500/-600が開発された。収容力増強型のA340-600は登場時点で世界最大の全長を持つ旅客機となり、2002年にヴァージン・アトランティック航空によって初就航した。航続力増強型のA340-500は登場時において世界最長の航続距離性能を持つ航空機となり、エミレーツ航空によって2003年に初就航した。2004年にはシンガポール航空がA340-500を用いてシンガポール-ニューヨーク直行便を開設し、民間航空路線として世界最長距離を記録した。その後、エアバスは新しい長距離機としてA350XWBを開発し、2011年にA340の生産終了を発表した。A340シリーズ全体での生産数は377機であった。A340は欧州やアジア・中東地域の航空会社を中心に運航され、ボーイング747ほどの収容力を必要としない長距離路線を中心に就航している。2014年10月現在までに、A340に関して5件の機体損失事故が発生しているが、死亡事故は起きていない。", "qas": [ { "question": "A340-600とA340-500のうち、初就航がより遅かったのは、どれなの?", "id": "tr-385-01-000", "answers": [ { "text": "A340-500", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A340-200が優先したのを増強したA340の第2世代の旅客機は何ですか?", "id": "tr-385-01-001", "answers": [ { "text": "A340-500", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A340-300が優先したところを増強したA340の第2世代の旅客機が、初就航したのはいつか?", "id": "tr-385-01-002", "answers": [ { "text": "2002年", "answer_start": 228, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A340の生産終了を発表したのは、どのような旅客機の開発に集中するためだったか?", "id": "tr-385-01-003", "answers": [ { "text": "A350XWB", "answer_start": 416, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "米国の航空機メーカーに対抗するため、欧州の航空機メーカーは1970年12月に企業連合「エアバス・インダストリー」を設立した。エアバスは最初の製品であるワイドボディ機、A300の販売を軌道に乗せると、1978年に2番目の製品として短中距離向けのワイドボディ機であるA310の開発を開始した。A310は検討段階では「A300B10」と呼ばれていたが、当時、次期製品の候補としてA300B9(以下、B9)、A300B11(以下、B11)とそれぞれ呼ばれた機体案も考えられていた。B9案は、A300の胴体延長版となる双発の中距離機で、ダグラスDC-10やロッキードL-1011の市場に食い込むことを狙い、B11案は、短めの胴体に新設計の主翼を組み合わせてエンジンを4発とする長距離型で、707やダグラスDC-8の後継機需要を狙っていた。しかし、当時のエアバスには、複数の機種を同時開発できるだけの資金や人員がなく、B10案がA310と命名され正式開発が開始された一方で、B9やB11案は無期限に延期された。1980年になってエアバスは、「SA」(SingleAisle)と名付けられた単通路機(ナローボディ機)の研究を行っていることを明らかにした。同時に、ワイドボディ機の計画名には2通路を意味する「TA」(TwinAisle)が付けられ、B9案はTA9、B11案はTA11と名前を変えた。1982年のファーンボロー国際航空ショーの場で、TA9、TA11、そして新たに追加されたTA12の開発構想が発表された。TA9、TA11、TA12案は何度か変更が加えられた。しかし、この頃、第2次石油危機と景気後退により民間航空機市場は縮小していた。エアバスは、1984年3月にSA計画をA320と名付けて正式開発を開始した一方で、TA計画の開発決定を先送りした。1980年代の中頃にはTA12案が取り下げられたが、TA9とTA11案には改良が加えられ、A320と共通のフライ・バイ・ワイヤシステムを導入し、A320同様にサイドスティック方式の操縦席を搭載する計画となった。", "qas": [ { "question": "1978年にエアバス・インダストリーが開発を開始したのに、B9案とB10案、B11案のうち、何か?", "id": "tr-385-02-000", "answers": [ { "text": "B10案", "answer_start": 403, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1984年にA320と名付けられた計画とは、何の研究ですか?", "id": "tr-385-02-001", "answers": [ { "text": "単通路機", "answer_start": 488, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "TA計画のうち、取り下げられたのは、どの案なの?", "id": "tr-385-02-002", "answers": [ { "text": "TA12", "answer_start": 784, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "SAとTAのうち、通路がより多いのは、どれか?", "id": "tr-385-02-003", "answers": [ { "text": "TA", "answer_start": 546, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "エアバス内部では、双発機のTA9と4発機のTA11のどちらを先に開発するか議論が重ねられた。離陸重量などの条件が同等だと仮定した場合、双発機には4発機よりも強力なエンジンを装備する必要がある。また、エンジンの信頼性が低かった時代に作られた規制により、双発機はエンジン1基が停止した場合に60分以内に着陸可能な飛行場があるルートしか飛行できず、代替飛行場の少ない中長距離の洋上路線では3発機や4発機が用いられていた。他方、双発機と比較した4発機のデメリットとして、機体のシステムが複雑で整備に手間がかかり、運用コストが高くつくことがあげられる。エンジンの信頼性や性能が向上してきたことで、低コストの双発機を洋上路線で運航したいという企業のニーズが高まっており、1985年には、ETOPSと呼ばれる双発機の長距離運航を認める要件が策定されていた。ただし、当時のETOPSでは航路設定や運航の自由度がまだ限られていたほか、認証を得るために時間も要した。この当時、北米の航空会社はコスト面で有利な双発機を好んだ一方、長距離洋上路線を抱えるアジアの航空会社は双発機のような制約の無い4発機を必要とし、欧州の航空会社の意見は両者に二分されていた。", "qas": [ { "question": "双発機と比較した4発機のデメリットとして挙げられるのは、どんなコストが高いということなの?", "id": "tr-385-03-000", "answers": [ { "text": "運用コスト", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "双発機と4発機のうち、離陸重量などの条件が同じであると仮定したとき、より強力なエンジンが必要なのは、どちらか?", "id": "tr-385-03-001", "answers": [ { "text": "双発機", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北米の航空会社とアジアの航空会社のうち、4発機を必要としたのは、どちらですか?", "id": "tr-385-03-002", "answers": [ { "text": "アジアの航空会社", "answer_start": 465, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "双発機と4発機のうち、運用コストがより低いのは、どちらか?", "id": "tr-385-03-003", "answers": [ { "text": "双発機", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "航空業界の意見が双発機と4発機に分かれていた中で、エアバスはTA9とTA11を同時開発する方向へ舵を切った。総開発費を抑制するため、両機の構成要素は最大限共通化するよう設計が進められた(設計過程の詳細は後述)。2機を同時開発する目処が立ち、1986年1月にエアバスはTA9とTA11をそれぞれA330、A340と命名した。なお、この両機の名称は、元々は逆であった。エアバスはTA11を先に開発する予定であり、A320に続く新型機ということでTA11をA330、そしてTA9をA340としていた。しかし、4発機がA3\"3\"0で双発機がA3\"4\"0では、顧客が両機を取り違えるという問題が指摘され、4発機がA340に変更された。最初にA340の発注の意向を示したのはルフトハンザドイツ航空で、1987年1月のことであった。その後、米国のノースウェスト航空もA340の発注を決め、1987年6月までに合計10社の航空会社からA340に89機、A330に41機の注文が集まっていた。開発を進めるのに十分な受注の見込みが立ったことで、エアバスはパリ航空ショーを控えた1987年6月5日、A340とA330の正式開発を決定した。両機は姉妹機として同時に開発が決定されたが、市場調査の結果を踏まえ、A340の開発作業を先行させることになった。", "qas": [ { "question": "TA9とTA11の構成要素を最大限共通化したのは、何を減らすためだった?", "id": "tr-385-04-000", "answers": [ { "text": "総開発費", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "最初はA330と名付けられたが、後でその名称がA340に変えられたのは、何ですか?", "id": "tr-385-04-001", "answers": [ { "text": "TA11", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1987年1月にルフトハンザドイツ航空が発注の意向を示した旅客機のもともとの呼称は、TA11か、もしくは、TA9か?", "id": "tr-385-04-002", "answers": [ { "text": "TA11", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1987年6月までより多くの注文が入った旅客機のもともとの呼称は、TA11か、もしくは、TA9か?", "id": "tr-385-04-003", "answers": [ { "text": "TA11", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "A340とA330は同一の胴体断面を持ち、尾翼を含めて尾部も共通、主翼もエンジン取付部以外は構造的に同じで空力学的に全く同じであるほか、システムやコックピットもエンジン関係を除いて共通化された。4発機と双発機の同時並行的な開発というのは航空技術史上において希少な取り組みとなった。特に、後退翼にパイロンを介してエンジンを装備する大型機で、双発機と4発機で同じ主翼を用いるというのは、前例が無かった。ここで時間を少し巻き戻して、A340の設計過程を詳しく見てみる。A340がまだTA11と呼ばれていた頃から機体案には何度か修正が加えられており、1985年の段階で長胴型と短胴型の2種類が提案されていた。長胴型は座席数が280で航続距離が10,000キロメートル(5,400海里)、短胴型は座席数を240に減らして航続距離を12,000キロメートル(6,500海里)に延ばすという案であった。2種類の胴体案は、短胴型のA340-200と長胴型のA340-300として具体化された。最終的な仕様は、A340-200は胴体長が58.57メートルで3クラス編成での標準座席数は261席、A340-300は胴体長が62.84メートルで3クラス編成での標準座席数は295席と決まったほか、姉妹機のA330の胴体長はA340-300と同一とされた。A340の胴体断面には、A300、A310と引き継がれてきたワイドボディ機の断面が用いられた。このため、座席配置などはA300と同様で、内装設計はA310のものが基本的に用いられた。LD-3航空貨物コンテナを左右に並べて搭載できる床下貨物室もA300と同様とされた。", "qas": [ { "question": "1985年の段階でTA11の機体案として提案された2種類の中で、座席数がより少ないのは、どれなの?", "id": "tr-385-05-000", "answers": [ { "text": "短胴型", "answer_start": 339, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A340-200とA340-300のうち、胴体がより長いのは、どちらですか?", "id": "tr-385-05-001", "answers": [ { "text": "A340-300", "answer_start": 420, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "座席配置と床下貨物室において、A340と同じであるのは、何か?", "id": "tr-385-05-002", "answers": [ { "text": "A300", "answer_start": 625, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A340-300として具体化されたのは、短胴型か、もしくは、長胴型か?", "id": "tr-385-05-003", "answers": [ { "text": "長胴型", "answer_start": 416, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "A340の主翼は完全に新設計となり、空力設計はブリティッシュ・エアロスペース社が担当した。空力的特性はA310の主翼のものを引き継ぎつつ、長距離飛行に適するよう修正が加えられた。A340とA330で最大離陸重量が同一だと仮定すると、4発機でエンジンの重量が分散されるA340の方が主翼の付け根にかかる負荷が小さくなり、強度的な余裕が生まれる。そこで、長距離向けで燃料を多く必要とするA340にのみ胴体内に燃料タンクが増設されたほか、重量増加に備えた降着装置の増設も行われ、A340とA330で主翼に必要な強度がほぼ等しくされた。A340/A330は主翼下にパイロンを介してエンジンを装備する方式であり、エンジンとそのカウリングの重量、位置、空力特性などが主翼の構造や空力形状の設定に深く影響するため、共通化には高い技術が求められた。エアバスは、コンピュータを用いた強度計算・空力設計と風洞実験を組み合わせることで翼型、翼厚比、取付角などを緻密に検討し、エンジン取付部を除いてA340とA330の主翼は実質的に共通化された。そのほか、設計当初から主翼の翼端には燃費性能を向上させるウィングレットが備えられた。A340の主翼の平面形は、A300と比べて翼幅、後退角、アスペクト比のいずれもが拡大された。主翼の後退角はこれまでのエアバス機で最も大きい30度となった。A340とA330では尾翼も共通化された。垂直尾翼はA310のものがほぼ流用され、生産の共通性が維持された。水平尾翼は新規設計となり、一次構造部材にも炭素繊維強化プラスチック(CFRP)が取り入れられた。A310と同様に水平安定板内には燃料タンクが設けられ、主翼や尾翼のタンク間で燃料を移動させて機体の重心位置を制御するシステムが採用された。", "qas": [ { "question": "A340とA300のうち、翼幅がより広いのは、どれなの?", "id": "tr-385-06-000", "answers": [ { "text": "A340", "answer_start": 503, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A340の主翼の空力設計を担当したのは、どの会社ですか?", "id": "tr-385-06-001", "answers": [ { "text": "ブリティッシュ・エアロスペース", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A340とA330で最大離陸重量が同じであると仮定した時、主翼の付け根にかかる負荷がより小さいのは、どちらか?", "id": "tr-385-06-002", "answers": [ { "text": "A340", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "胴体内に燃料タンクが増設されなかったのは、A340とA330のうち、どれか?", "id": "tr-385-06-003", "answers": [ { "text": "A330", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "機体の大型化・重量増加に合わせて降着装置を強化するため、主脚が新たに設計され大型化したほか、胴体中央部に2輪式の中央脚がオプションで用意された。前脚については、主脚と比べて負荷が小さいため、製造の共通性やコスト抑制の観点などからA310のものが流用された。中央脚以外の降着装置はA340とA330とで共通化された。A340のエンジンには、英米日独伊5か国のエンジンメーカーによる国際合弁会社のインターナショナル・エアロ・エンジンズ(以下、IAE)社がV2500「スーパーファン」を提案していた。スーパーファンは、A320で採用されていたV2500エンジンのコアを用いつつ、減速ギアを介した大型ファンの駆動といった新技術の導入により非常に大きなバイパス比を実現し、燃費性能を15ないし20%も向上させるという画期的なエンジン構想であった。ただ、スーパーファン計画がIAE社から発表されたのは1986年7月で、型式名がA340と決まった段階では、試作機どころかモックアップすら存在しなかった。開発が始められたばかりのスーパーファンの採用を不安視する意見もあったが、ルフトハンザドイツ航空やノースウェスト航空などA340の発注を決めた航空会社は、その性能に期待をかけていた。しかし、心配されたとおり技術的課題を解決できず開発は行き詰まり、IAE社は1987年4月にスーパーファン構想の無期限延期を発表した。スーパーファンの開発が事実上打ち切られたことから、A340のエンジンは、A320で採用されていたもう1つのエンジンであるCFMインターナショナル(以下、CFMI)社のCFM56-5シリーズ1種類に絞られた。", "qas": [ { "question": "インターナショナル・エアロ・エンジンズ社は、何か国のエンジンメーカーによる国際合併会社なの?", "id": "tr-385-07-000", "answers": [ { "text": "5か国", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A340とA330とで共通化されなかった降着装置とは、何ですか?", "id": "tr-385-07-001", "answers": [ { "text": "中央脚", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1987年4月に無期限延期と発表されたエンジンをA340のエンジンとして提案した会社は、何か国のエンジンメーカーにより構成されている会社か?", "id": "tr-385-07-002", "answers": [ { "text": "5か国", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スーパーファンとは、何で採用されたエンジンのコアを用いるものか?", "id": "tr-385-07-003", "answers": [ { "text": "A320", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "A340の操縦系統には、エアバスがA320で実用化したシステムの発展形が用いられた。このシステムでは全ての操縦翼面にフライ・バイ・ワイヤ方式が導入され、A340はフライ・バイ・ワイヤ方式を用いた史上初のワイドボディ機となった。このシステムは基本的にA320のものと同じだが、A340の機体構造や性能に合わせた飛行特性が調整や改良が行われた。コックピットもA320と基本的な設計は同じで、6面のブラウン管ディスプレイに各種情報を表示するいわゆるグラスコックピットであり、従来の操縦桿の代わりにサイドスティックを用いるのもA320と同様である。A340のコックピット配置は、エンジンのスロットルレバーを除いてA330のものと事実上共通化された。エンジンの数とそれに伴う非常時の対処以外、A340とA330の操縦操作は基本的に同じであり、相互乗員資格(CrossCrewQualification,以下CCQ)と呼ばれる資格制度が認められた。これは、いずれかの機種の操縦資格を持つ操縦士は、短期間の訓練でもう一方の操縦資格を得られるという制度で、特にA340からA330への転換訓練は1日とされた。また、コックピットの配置が基本的に同じA320ファミリーとの間でもCCQが適用された。", "qas": [ { "question": "操縦系統のシステムやコックピットの基本的なところにおいて、A340と同じであるのは、何ですか?", "id": "tr-385-08-000", "answers": [ { "text": "A320", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A330のほかに、A340との間で相互乗員資格制度が認められたのは、何か?", "id": "tr-385-08-001", "answers": [ { "text": "A320ファミリー", "answer_start": 515, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "コックピット配置において、A340がA330と異なるのは、何か?", "id": "tr-385-08-002", "answers": [ { "text": "エンジンのスロットルレバー", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A340とA330の開発作業では、試作機の製造もA340が先行した。A340の生産はそれまでのエアバス機と同様に国際分業体制がとられ、参加各国でパーツを分担して製造し、最終組み立てはフランスのトゥールーズで行われた。トゥールーズには新たな大型機A340/A330を組み立てるための施設が新設され、最終組み立て工程の一部にはロボットが導入された。生産においてもA340/A330の共通性は極めて高く、同一ライン上で両機の組み立てが行われた。A340の1号機はA340-300であり、1991年10月4日にトゥールーズで完成披露式典が行われ、その年の12月25日に初飛行した。A340-200の初号機となったのは通算4号機で、初飛行は1992年4月1日であった。飛行試験にはA340-300が4機、A340-200が2機の計6機が投入された。飛行試験ではいくつかの問題が見つかり、設計の修正が行われた。高速性を確認する試験では、計画値よりも大きな抵抗があることがわかった。原因調査によって主翼付け根側の第1スラットが関係することが判明し、このスラットの翼弦長を増やすことで解決が図られた。このため、主翼前縁はエンジンパイロンの取付部と内側のスラット部にわずかな段差がついた。また、飛行試験の1つである緩降下試験では、主翼でバフェットと呼ばれる振動が想定より強く表れ、目標速度としていたマッハ0.93に到達できなかった。原因を解析したところ、外側エンジンのパイロンで気流が乱れることでこの振動が発生し、主翼のねじれ変形が事前の想定よりも大きかったことで症状が悪化していることが分かった。この問題を解決するために、パイロン付近の主翼下面に気流を整える突起が追加され、後に最終的な対策として主翼のねじれ特性を改善するよう設計が変更された。問題への対処を行いつつ、1992年末までに延べ2,400時間、750回の試験飛行が行われた。1992年12月22日に欧州の合同航空当局(JointAviationAuthorities、以下JAA)からA340-200、-300の両型式に対する最初の型式証明が交付された。翌1993年2月2日に、A340-200の初引き渡しがルフトハンザ航空に対して行われた。続いて同月26日には、A340-300の初引き渡しがエールフランスに行われ、このときの機体はエアバスの生産機としてちょうど1,000機目でもあった。また、この年の5月27日には、米国の連邦航空局(FederalAviationAdministration、以下FAA)の型式証明も取得した。", "qas": [ { "question": "A340の4号機の初飛行は、いつ?", "id": "tr-385-09-000", "answers": [ { "text": "1992年4月1日", "answer_start": 315, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "飛行試験に投入されたA340-300とA340-200のうち、その機数がより多いのは、どれか?", "id": "tr-385-09-001", "answers": [ { "text": "A340-300", "answer_start": 335, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A340-200はどの航空会社に初めて引き渡されたのか?", "id": "tr-385-09-002", "answers": [ { "text": "ルフトハンザ航空", "answer_start": 927, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A340-300とA340-200のうち、初引き渡しがより早かったのは、どちらか?", "id": "tr-385-09-003", "answers": [ { "text": "A340-200", "answer_start": 912, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "A340-200の初就航は1993年3月15日、ルフトハンザ航空のフランクフルト-ニューヨーク線であった。同月29日には、エールフランスによって、パリとワシントンD.C.を結ぶ路線でA340-300が初就航した。1990年代には、A340の納入はおおむね年に20機から30機というペースで進められた。A340の運航会社は欧州の航空会社を中心に広がり、747ほどの収容力を必要としない長距離路線を中心に、747やDC-10の後継機として投入された。1995年7月までに欧州では、エールフランス、ルフトハンザ航空、オーストリア航空、TAPポルトガル航空、トルコ航空、ヴァージン・アトランティック航空がA340を導入していた。アジアで最初にA340を導入したのはエア・ランカ(後のスリランカ航空)で、キャセイパシフィック航空がそれに続いた。日本の航空会社では、1990年に全日本空輸が5機を発注していたが、1995年1月に機体の受領を2000年以降に延期することが発表され、最終的に注文はキャンセルされた。米国では、1992年にノースウェスト航空が経営状況の悪化によりA340の発注をキャンセルしており、その後もA340を導入する航空会社は現れなかった。その他の地域では、1995年7月までにモーリシャス航空、クウェート航空、バーレーンのガルフ・エア、そしてエア・カナダがA340を導入していた。エアバスは、A340-200/-300ともに最大離陸重量の段階的な引き上げを行い、航続力の向上が図られた。一方、A340のエンジン推力は最大でも151キロニュートンで、当時ライバルとされたマクドネル・ダグラスMD-11などと比べると余剰推力が小さく、上昇性能が劣っていた。A340の巡航速度はマッハ0.82でありマッハ0.85以上の巡航速度を持つ747やMD-11と比べて遅く、A340が就航するような長距離路線では、速度の遅さにより所要時間に大きな差がついた。また、これら複数の機種が混在して運航されている路線では、A340が747やMD-11に追いつかれるケースが頻発し、航空会社からクレームが続出したことで、巡航速度に応じて飛行ルートを分離する措置がとられた。", "qas": [ { "question": "A340-300とA340-200のうち、初就航がより早かったのは、どちらか?", "id": "tr-385-10-000", "answers": [ { "text": "A340-200", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アジアで二番目にA340を導入したのは、どの航空会社なの?", "id": "tr-385-10-001", "answers": [ { "text": "キャセイパシフィック航空", "answer_start": 347, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本以外に、自国の航空会社がA340の注文を取り下げたのは、どの国ですか?", "id": "tr-385-10-002", "answers": [ { "text": "米国", "answer_start": 450, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A340と747、MD-11のうち、同じ距離の長距離路線を就航すると仮定したとき、所要時間が最も長いのは、どれか?", "id": "tr-385-10-003", "answers": [ { "text": "A340", "answer_start": 731, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "姉妹機のA330は、A340から約1年遅れて1992年11月に初飛行に成功し、1993年10月に型式証明を取得して1994年1月に初就航していた。長距離は4発機、短中距離は双発機という棲み分けを提示したエアバスだが、航空会社はより航続距離が長い双発機を求めるようになっていた。1995年6月には、ボーイングによって開発された新型の双発ワイドボディ機777が路線就航を開始した777は双発ながら優れた航続性能を持ち、A340-200に匹敵する14,000キロメートルという航続力を持つ発展型の登場も予定されていた777は双発ながら優れた航続性能を持ち、A340-200に匹敵する14,000キロメートルという航続力を持つ発展型の登場も予定されていた。1995年11月にはエアバスも双発のA330の胴体を短縮して軽量化し、その分燃料搭載量を増やすことで航続性能の向上を図るA330-200の開発を決定した。また、ETOPS制度の拡充により双発機の運航可能範囲が拡大し、双発機がA340の市場を侵食しつつあった。このような状況で、エアバスは777に対抗でき、747初期型の後継需要も狙える機体として、A340の一層の大型化・長距離化を検討し、1996年4月に本格的な研究作業を開始した。詳細設計を続けたエアバスは、超長距離型のA340-500ならびに長胴型のA340-600を開発することを決断し、1997年6月15日にパリ航空ショーにおいて正式発表した。第2世代となる2モデルの機体案は、A340-500はA340-300と同等の収容力で、A340-200以上の航続距離を持たせ、A340-600はA340-300と同等の航続力を維持しつつ、客席数を3割程度増加させるとのものだった。", "qas": [ { "question": "A340-500とA340-600の開発が正式に発表されたのは、いつですか?", "id": "tr-385-11-000", "answers": [ { "text": "1997年6月15日", "answer_start": 596, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A340-500とA340-600のうち、より多い客席を持っているのは、何か?", "id": "tr-385-11-001", "answers": [ { "text": "A340-600", "answer_start": 688, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A340-500とA340-200のうち、より遠くまで飛べるのは、何か?", "id": "tr-385-11-002", "answers": [ { "text": "A340-500", "answer_start": 642, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ヨークシャー", "paragraphs": [ { "context": "ヨークシャー(Yorkshire英[ˈjɔːkʃə]、米[ˈjɔɚkʃiɚ])は、イングランドの北部にある地方である。\n一地方としてはイングランドで最大の面積をもち、様々な固有の文化を持っている。\n「ヨークシャー」という地方概念が確立されたのは9世紀に遡り、単一の地方としては、イギリスで最大の面積をもつ。\n面積はおおよそ1万5000km2で、おおむね日本の岩手県と等しい。\n面積比では「ヨークシャー」はイングランドの国土の約12%を占めている。\nこの割合を日本に当てはめると九州全域と四国の半分を合わせたものに相当する。\nヨークシャーの人口規模(約530万・2011年現在)はアイルランド、デンマーク、ノルウェー、フィンランド、ニュージーランドなどの国家に匹敵し、アメリカの14の州よりも多い。", "qas": [ { "question": "イングランドで最も大きい地方とはどこ?", "id": "tr-386-00-000", "answers": [ { "text": "ヨークシャー", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヨークシャーの面積は?", "id": "tr-386-00-001", "answers": [ { "text": "おおよそ1万5000km2", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2011年のヨークシャーの人口規模は?", "id": "tr-386-00-002", "answers": [ { "text": "約530万", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一般的に、ヨーク地方は、自然が豊かな地域とみなされている。\n広大で、大都市のまわりにも、昔のままのカントリーサイドの風景が残されている。\nヨークシャー・デイルズ(YorkshireDales)やノース・ヨーク・ムーア(NorthYorkMoors)がその典型である。\nヨーク地方はしばしば「神の恵みの土地(God'sOwnCountry)」と称される。\nヨークシャーの紋章は「ヨークの白薔薇(WhiteRoseofYork)」である。\nこれはかつてのヨーク王家の紋章であり、青地に白薔薇の旗がヨークシャーの旗としてよく使われている。\nこの旗は50年ほど使われてきたが、2008年7月29日に正式化された。\n1975年以来、毎年8月1日は、ヨーク地方の歴史、文化、方言を記念した「ヨークシャーの日(YorkshireDay)」となっている。", "qas": [ { "question": "「ヨークの白薔薇」が正式化したのはいつ?", "id": "tr-386-01-000", "answers": [ { "text": "2008年7月29日", "answer_start": 284, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ヨークシャーの日」は何月何日?", "id": "tr-386-01-001", "answers": [ { "text": "8月1日", "answer_start": 313, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "イギリスでは急増する人口と食糧問題に対処するため、1801年に人口調査が行われた。\n上表は2001年に人口統計200年を記念してイギリスの国家統計局から発表されたデータである。\nはっきりした数字がわかっている1831年以降、ヨーク地方の面積は概ね390万エーカー(約15800km2)弱で推移している。\nその間、1844年の区割り変更(Counties(DetachedParts)Act1844)でクレイク村(Crayke)を北ヨーク地方へ編入したことで面積が増えている。\n1970年代の大改革でヨーク地方からハンバーサイドが分割されるなどしたため、1971年と1981年の間で大きく面積が減少している。\nそのため単純比較は難しいが、国家統計局では200年の間にヨーク地方の人口は約5倍になったと結論づけている。", "qas": [ { "question": "人口統計200年を記念した年とは?", "id": "tr-386-02-000", "answers": [ { "text": "2001年", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1831年以降でヨーク地方の面積が増えた年とは?", "id": "tr-386-02-001", "answers": [ { "text": "1844年", "answer_start": 156, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "イングランドでは、西からの湿った卓越風がペナイン山脈にあたって、山脈の西側や中央部でたくさんの雨を降らせる。\nそのあと、乾いて高温の下降気流となってヨーク地方のある東部へ降りてくる。\nこのため、一般に寒冷・湿潤なイングランドのなかでも、ヨーク地方は比較的高温で乾燥している。\n温暖湿潤なイングランド南部に比べると農耕に適さない一方、鉱産資源には富む。\n農耕に適したイングランド南部は古くから交易が盛んで文化が多様に変化・発達したのに比べると、北部のヨーク地方では古い文化がそのまま長く維持された。", "qas": [ { "question": "イングランド南部とヨーク地方はどちらが農耕に不適だったの?", "id": "tr-386-03-000", "answers": [ { "text": "ヨーク地方", "answer_start": 224, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "鉱産資源が豊富な地方はどこ?", "id": "tr-386-03-001", "answers": [ { "text": "ヨーク地方", "answer_start": 118, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヨーク地方には数多くの「デイル」地域がある。\n特にヨーク地方西部のペナイン山脈一帯は広範囲に及ぶ「デイル」地域で、「ヨークシャー・デイル」(YorkshireDales)と呼ばれている。\nヨークシャー・デイルには数多くの川があり、川毎に流域が「デイル」と呼ばれている。\nたとえばスウェイル川(RiverSwale)の流域は「スウェイルデイル(Swaledale)」といった具合である。\nスウェイルデイルはイギリスの田園風景の保全活動の最初のモデルになった地域であり、ヨーク地方を代表する「デイル」である。", "qas": [ { "question": "スウェイルデイルに流れている川の名は?", "id": "tr-386-04-000", "answers": [ { "text": "スウェイル川", "answer_start": 139, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "古典的な「ヨーク地方」の範囲と、その下位区分である「ライディング」の境界は、主に川によって定められていた。\nヨーク地方の南限はハンバー川で、「東ライディング」と「北ライディング」の境界はダーウェント川だった。\n「西ライディング」と「北ライディング」の境界はウーズ川と、ユア川・ニッド川の分水界だった。\nヨーク地方を流れる川のほとんどはウーズ川を経てハンバーに注いでいる。\nこのほかの主な川は、ティーズ川、エスク川、ハル川である。\nヨーク地方の河川は各地で水路によって連結されている。\nペナイン山脈の西側では、リブル川(RiverRibble)が西のアイルランド海に向かって流れ、ランカシャーのリザムセントアンズ(LythamStAnnes)で海に出ている。", "qas": [ { "question": "「東ライディング」と「北ライディング」の境目となる川は何?", "id": "tr-386-05-000", "answers": [ { "text": "ダーウェント川", "answer_start": 93, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヨーク地方を流れる川の大半は、どの川に繋がっているの?", "id": "tr-386-05-001", "answers": [ { "text": "ハンバー", "answer_start": 174, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "北から来るウーズ川(RiverOuse)と、南から来るトレント川の合流地点より下流側の水域をハンバー川(HumberまたはHumberEstuary)と呼んでいる。\nハンバー川は伝統的なヨーク地方の南限を区切る水域で、「川」というよりは巨大な三角江である。\nハンバー川に面する都市ハルのあたりで川幅は2.5kmほどあり、「河口」に相当する北海沿岸ではその4倍ほどの幅に広がっている。\n1981年に架けられたハンバー橋(HumberBridge)は全長約2.2kmあり、完成当時は世界最長の吊り橋だった。\n1998年に日本の明石海峡大橋が完成し、これを上回るものとなった。\n「ハンバー(Humber)」というのは古代西ゲルマン語の方言と考えられているが、その意味はわかっていない。\n中世初期にブリタニアに侵入したアングロ・サクソン人は、ハンバー川より北の地域を「Norðhymbre(NorthofHumberの意味)」と呼び、これが「ノーサンブリア(Northumbria)」という地名になった。", "qas": [ { "question": "ハンバー川の川幅が広いのは、都市ハルのあたりと北海沿岸のどちらですか?", "id": "tr-386-06-000", "answers": [ { "text": "北海沿岸", "answer_start": 169, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハンバー橋と明石海峡大橋はどちらが長いですか?", "id": "tr-386-06-001", "answers": [ { "text": "明石海峡大橋", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハンバー橋と明石海峡大橋はどちらが遅く作られたの?", "id": "tr-386-06-002", "answers": [ { "text": "明石海峡大橋", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「Norðhymbre」と呼んでいた人々は誰ですか?", "id": "tr-386-06-003", "answers": [ { "text": "アングロ・サクソン人", "answer_start": 355, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "西部・中央部の河川の多くはウーズ川(RiverOuse)の支流で、ウーズ川はハンバー川(HumberEstuary)を経て北海に注ぐ。\nウーズ川の北部はユア川(RiverUre)と呼ばれている。\nユア川はウーズ川の各支流のなかで最も水量が多い川で、アエガスの滝(AysgarthFalls)などでも知られている。\n上流はウェンズレー谷(ウェンズレーデイル)(Wensleydale)と呼ばれており、特産のウェンズリーデールチーズ(Wensleydalecheese)でよく知られている。\nユア川はバラブリッジの町(Boroughbridge)で北から流れてきたスウェイル川を合わせ、グレートウーズバーン村(GreatOuseburn)の近くでウーズ沢(OuseGillBeck)が合流する。\nここから下流側をウーズ川と名前が変わる。", "qas": [ { "question": "ウェンズリーデールチーズの産地はどこ?", "id": "tr-386-07-000", "answers": [ { "text": "ウェンズレー谷", "answer_start": 160, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウーズ川の支流の中で、最多水量である川とは?", "id": "tr-386-07-001", "answers": [ { "text": "ユア川", "answer_start": 98, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ユア川の本流は何?", "id": "tr-386-07-002", "answers": [ { "text": "ウーズ川", "answer_start": 102, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スウェイル川(RiverSwale)は水系のなかでも最も北を流れている。\n源流は北ヨーク地方のケルド(Keld)にあるバークデイル(Birkdale)に発する。\nそこから東へ流れ、北ヨーク地方の代表都市リッチモンド(Richmond)に至る。\nこれらの地域は「スウェイル谷(スウェイルデイル、(Swaledale))」と呼ばれている。\nそのあと南へ転じ、モウブレイ低地(ValeofMowbray)を蛇行してユア川に注ぐ。", "qas": [ { "question": "スウェイル川の水源地はどこ?", "id": "tr-386-08-000", "answers": [ { "text": "バークデイル", "answer_start": 59, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スウェイル川が流れつく都市はどこ?", "id": "tr-386-08-001", "answers": [ { "text": "リッチモンド", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ニッド川(RiverNidd)はヨークシャー渓谷国立公園(YorkshireDalesNationalPark)の端部に発する。\n流域はニダー谷(ニダーデイル、(Nidderdale))と呼ばれており、昔のままの景観を残した観光地となっている。\n川の上流付近からは水路が分岐してブラッドフォードで利用されているため、ニッド川の本流は水量が少なく、大雨の時しか水位が上がらない。", "qas": [ { "question": "ニッド川流域の呼称とは?", "id": "tr-386-09-000", "answers": [ { "text": "ニダー谷", "answer_start": 68, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ニッド川の水を利用している都市はどこ?", "id": "tr-386-09-001", "answers": [ { "text": "ブラッドフォード", "answer_start": 139, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ワーフ川(RiverWharfe)はヨーク地方で最も流れが速い川の一つである。\n流域はワーフ谷(ワーフデイル、(Wharfedale))と呼ばれている。\nタドカスター(Tadcaster)を経て、カーウッド村(Cawood)の手前でウーズ川に合流する。", "qas": [ { "question": "ワーフ谷に流れている川の名は?", "id": "tr-386-10-000", "answers": [ { "text": "ワーフ川", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "エア川(RiverAire)とその支流のカルダー川(RiverCalder)はウーズ川水系の中でも南方を流れている。\nエア川はペナイン山脈のマルヘム池(MalhamTarn)に発し、エアギャップ(AireGap)という断層の谷を流れてくる。\nエア川の源流は砂岩地域の泥炭層で、石灰岩地帯を経由しないために水が軟水になっており、それが流域の毛織物産業の発達につながった。\n中流にはヨーク地方の最大都市で羊毛産業の中心地として栄えたリーズがあり、リーズ・リヴァプール運河(LeedsandLiverpoolCanal)が並走している。", "qas": [ { "question": "リーズはエア川のどの部分に位置しているの?", "id": "tr-386-11-000", "answers": [ { "text": "中流", "answer_start": 185, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カルダー川の本流は何?", "id": "tr-386-11-001", "answers": [ { "text": "エア川", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "リーズの下流で合流するカルダー川は、源流は美しい自然で知られているが、中流にはウェイクフィールドをはじめ、多くの重工業都市が並んでおり、かつては長年にわたる深刻な水質汚染に悩まされた。\n川魚も全く姿を消し、その後の水質の改善の取り組みが続けられた。\n1990年代になって、清流とまでは言えないまでも、マスなどが戻ってくる程度には回復した。\nカルダー川とエア川は、ウェイクフィールドとリーズの間エア=カルダー水路(AireandCalderNavigation)で接続されており、この水路はそのままウーズ川下流のグールの町(Goole)まで繋がっている。", "qas": [ { "question": "カルダー川にマスが戻ってきたのはいつ?", "id": "tr-386-12-000", "answers": [ { "text": "1990年代", "answer_start": 125, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カルダー川とエア川の接続水路の名前は?", "id": "tr-386-12-001", "answers": [ { "text": "エア=カルダー水路", "answer_start": 196, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ウーズ水系で一番南側の支流はドン川(RiverDon)である。\nドン川はサールストン・ムーア(ThurlstoneMoor)に発し、シェフィールド、ロザラム、ドンカスターなどの大都市を流れて北へ向かう。\nかつては水質が悪かったが、近年は魚が棲む程度に回復している。\n北東側を流れる支流がダーウェント川(RiverDerwent)である。\nダーウェント川はノース・ヨーク・ムーア(NorthYorkMoors)に発し、南にむかって流れたあと西向きに転じ、ピカリング盆地(ValeofPickering)に入る。\n盆地をぬけると再び南流してヨーク盆地の東側を流れ、バムビー村(BarmbyontheMarsh)でウーズ川に合流する。", "qas": [ { "question": "ダーウェント川がウーズ川に合流する地点はどこ?", "id": "tr-386-13-000", "answers": [ { "text": "バムビー村", "answer_start": 280, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ドン川はどの方角に向かって流れているの?", "id": "tr-386-13-001", "answers": [ { "text": "北", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ユア川から名前が変わったウーズ川の本流はニッド川を合わせたあと、ヨーク市に入る。\nさらにヨーク城付近で左岸からフォス川(RiverFoss)を合わせる。\nかつてはこの合流地点が、北海からハンバー川、ウーズ川を船で遡上することができる北限だった。\nその後、ワーフ川、ダーウェント川をあわせながら蛇行し、エア川をあわせてグール(Goole)に出る。\nグールから下流は川が広く深くなっているので、グールはかつて港町として栄えた。\nその後は南からドン川をあわせ、ハンバー川に注ぐ。", "qas": [ { "question": "ウーズ川がハンバー川に繋がる前に合流する川とは?", "id": "tr-386-14-000", "answers": [ { "text": "ドン川", "answer_start": 219, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ティーズ川(RiverTees)はヨーク地方の一番北側を流れ、ダラム州との地方境になっている。\n川はペナイン山脈のクロスフェル山(CrossFell)に発し、東へ流れる。\n流域はティーズ谷(ティーズデイル、チーズデイル、(Teesdale))と呼ばれ、州境をまたいだ両岸が一帯の地域とみなされる場合もある。\n川は比較的流れが早く、特に降雨時の影響が端的に顕れやすい。\nミドルズブラ市の下流で北海に注いでいる。\n同じくヨーク地方北部を流れるエスク川(RiverEsk)は、ノース・ヨーク・ムーアに発して東流し、ウィットビーの町で北海に注いでいる。\nヨーク台地(ヨークシャー・ウォルズ、YorkshireWolds)の東部にはハル川(RiverHull)が南へむかって流れており、ハル市でハンバー川に注いでいる。", "qas": [ { "question": "ヨーク地方の最北を流れる川とは?", "id": "tr-386-15-000", "answers": [ { "text": "ティーズ川", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チーズデイルに流れる川とは?", "id": "tr-386-15-001", "answers": [ { "text": "ティーズ川", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「ペナイン山脈」は北イングランドから南スコットランドにかけて、島の中央部を南北に連なっている。\n高さはおおむね標高2000フィート(約600m)。\n夾炭層、珪質砂岩、石灰岩が層をなしていて、南へ行くほど強く褶曲している。\n山脈は東西に走る断層帯によっていくつかに分けられている。\nヨーク地方の北境であるティーズ川の上流にはステンモア山峡(StainmoreGap)と呼ばれる断層帯があり、ここより北側の山塊を「オルストン山塊(AlstonBlock」、南側をアスクリグ山塊(AskriggBlock)と呼ぶ。\nアスクリグ地塊は全域がヨーク地方に含まれており、ヨークシャー・デイルズ(YorkshireDales)と呼ばれる丘陵地に相当する。", "qas": [ { "question": "ペナイン山脈の標高は何m?", "id": "tr-386-16-000", "answers": [ { "text": "約600m", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヨークシャー・デイルズにある山塊の名前は?", "id": "tr-386-16-001", "answers": [ { "text": "アスクリグ山塊", "answer_start": 229, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オルストン山塊はステンモア山峡からどの方向に位置しているの?", "id": "tr-386-16-002", "answers": [ { "text": "北側", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アスクリグ地塊の南端はヨーク地方南西部を流れるエア川で、この川に沿った断層帯を「エア・ギャップ(AireGap)」という。\nここはヨーク地方とランカスター地方を結ぶ交通路になっていて、古くから人の往来があり、1700年開通のリーズ・リヴァプール運河もここを通っている。\nエア・ギャップの南側は南ペナイン山脈(SouthernPennines)と呼ばれている。", "qas": [ { "question": "「エア・ギャップ」に流れている川は?", "id": "tr-386-17-000", "answers": [ { "text": "エア川", "answer_start": 23, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "山脈は北の方ほど褶曲が小さいぶん、断層面や侵食面の発達が著しく、険しい。\nアスクリグ山塊のうちヨーク地方の北西部には「ヨーク三山(YorkshireThreePeaks)と呼ばれる山々があり、ワーンサイド山(Whernside)(標高2415フィート=約736m)、イングルボロ山(Ingleborough)(標高2372フィート=約723m)、ペニジェント山(Penyghent)(標高2277フィート=約694m)が聳えている。", "qas": [ { "question": "ヨーク三山の中で最も高い山は何?", "id": "tr-386-18-000", "answers": [ { "text": "ワーンサイド山", "answer_start": 96, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イングルボロ山とペニジェント山はどちらが高い?", "id": "tr-386-18-001", "answers": [ { "text": "イングルボロ山", "answer_start": 133, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヨーク三山の中で最も低い山は何?", "id": "tr-386-18-002", "answers": [ { "text": "ペニジェント山", "answer_start": 173, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ヨーク地方の北西部にあたるこの一帯は、降水量は年60インチ(約1500mm)と豊富だが、石灰岩に浸透してしまって地表は水が乏しい。\nそのうえ冬は氷点下に冷え込み、夏も11°C(50°F)程度までしかなく、窪地の湿原にわずかな草が生える程度である。\nこうした地域では、羊毛用の頑健なスウェイルデール種のヒツジ(Swaledalesheep)が放牧されている。\nこの品種の名はウーズ川上流のスウェイル川流域(スウェイル谷(Swaledale))からとられている。\nスウェイル谷(スウェイル・デイル)をはじめ、ウーズ川の北側の支流であるウール川、ニッド川、ワーフ川などの谷は氷河時代に削られて深いU字谷になっている。\nこの谷底は土壌が堆積しているうえ湧き水が豊富で、崖によって冷たい風から守られており、定住に向いている。\nヨーク地方北西部ではこうした谷(デイル)に集落が形成され、わずかな草地でヒツジを肥育している。", "qas": [ { "question": "ヨーク地方の北西部に放牧されている動物とは何?", "id": "tr-386-19-000", "answers": [ { "text": "ヒツジ", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スウェイルデール種の語源となっている地域とはどこ?", "id": "tr-386-19-001", "answers": [ { "text": "スウェイル川流域", "answer_start": 193, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウール川とワーフ川の本流は何?", "id": "tr-386-19-002", "answers": [ { "text": "ウーズ川", "answer_start": 252, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "エア・ギャップより南側のヨーク地方南西部の山塊は、北部に比べると褶曲が強まっていて、石灰岩まで侵食が及んでいない。\n山脈の中心に近い高標高地域では、石灰岩層の上の砂岩層が残っていて、平坦である。\nこのためペナイン山脈に降った豊富な雨が地表にとどまっていて、砂岩をもとにした薄い土壌が泥炭地をつくっていて、酸性で痩せている。\n植生はおもにシダ類、ワタスゲ、コケモモやイネ科の雑草が生える程度のヒースになっている。\nペナイン山脈に降り注いだ豊富な雨がこの泥炭地を流れて下ってくることで、ヨーク地方南西部の山麓の川は繊維産業に適した軟水となる。\nこの豊富な軟水を利用することで、ヨーク地方南西部は世界的な羊毛工業地帯に発展した。", "qas": [ { "question": "繊維産業に適した水の性質とは?", "id": "tr-386-20-000", "answers": [ { "text": "軟水", "answer_start": 263, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また、より標高の低い地域では砂岩層の上の石炭層が侵食されずに残っている(ヨークシャー炭田(SouthYorkshireCoalfield))。\nこの炭田はヨーク地方南西部から、ノッティンガム地方、ダービー地方にまで広範囲に広がっていて、近代になってシェフィールドやリーズなどで石炭産業が栄えた。\nヨーク地方の羊毛産業と石炭産業はイギリスの産業革命の牽引役となり、ここで生産された工業製品を運び出すために、ペナイン山脈を横断する交通網が整備されていった。", "qas": [ { "question": "ヨーク地方南西部から、ノッティンガム地方、ダービー地方に広がる炭田の名前は?", "id": "tr-386-21-000", "answers": [ { "text": "ヨークシャー炭田", "answer_start": 36, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「ノース・ヨーク・ムーア(NorthYorkMoors)」は広さが1,436km2あり、イギリス最大のムーアである。\n標高はおおむね1,200フィート(約366m)と高原状で、四方を急崖で囲まれ、ムーアの中にもいくつもの谷が刻まれている。\nこの地域はおおむねジュラ紀の地層から成っていて、南に傾いた地層が氷期などに差別侵食を受けたことで数々の丘陵地(ヒルズ)や谷(デイル)、低地(ヴェイル)が形成されている。\n高く取り残された高原・丘陵地には酸性の土壌が薄く形成され、痩せたヒースになっている。\nそれらの土地は天然のヒツジの放牧地として利用されている。\n削られた谷底には深い土壌が堆積しており、家畜の牧草や飼料、根菜の栽培に利用されている。", "qas": [ { "question": "「ノース・ヨーク・ムーア」の面積は?", "id": "tr-386-22-000", "answers": [ { "text": "1,436km2", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ノース・ヨーク・ムーア」の標高は?", "id": "tr-386-22-001", "answers": [ { "text": "おおむね1,200フィート", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヴェイルとは何の意味?", "id": "tr-386-22-002", "answers": [ { "text": "低地", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "中島敦", "paragraphs": [ { "context": "中島敦は、日本の小説家だ。代表作は『山月記』『光と風と夢』『弟子』『李陵』などがある。第一高等学校、東京帝国大学を卒業後、横浜高等女学校の教員勤務のかたわら小説執筆を続け、パラオ南洋庁の官吏(教科書編修書記)を経て専業作家になるも、同年中に持病の喘息悪化のため33歳で病没した。死後に出版された全集は毎日出版文化賞を受賞した。\n\nその短い生涯に残した著作は、中国古典の歴史世界を題材にした作品や、南島から材を得た作品、古代伝説の体裁をとった奇譚・寓意物、自身の身辺を題材にした私小説的なものなど、未完作も含めわずか20篇たらずであったが、漢文調に基づいた硬質な文章の中に美しく響く叙情詩的な一節が印象的で、冷厳な自己解析や存在の哲学的な懐疑に裏打ちされた芸術性の高い作品として評価されている。", "qas": [ { "question": "『山月記』の著者は誰?", "id": "tr-387-00-000", "answers": [ { "text": "中島敦", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中島敦が卒業した大学は?", "id": "tr-387-00-001", "answers": [ { "text": "東京帝国大学", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中島敦は何歳で亡くなったか。", "id": "tr-387-00-002", "answers": [ { "text": "33歳", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中島敦の死後、彼の全集はどの賞を受賞したか。", "id": "tr-387-00-003", "answers": [ { "text": "毎日出版文化賞", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "中島敦は1909年5月5日に、東京府東京市四谷区四谷箪笥町59番地で、父・中島田人と、母・チヨの長男として生まれた。この地は母の実家の岡崎家であった。\n\n父・田人は、儒学者・中島撫山の六男で漢学の教育を父兄から受けた影響で旧制中学校の漢学教員となり、敦が誕生した34歳当時は千葉県海上郡銚子町の中学校に勤務していた。母・チヨは元小学校教員で、前年1908年に2人は結婚していた。\n\nしかしながら、敦が1歳のときに両親は離婚し、2歳のときから父の郷里の埼玉県南埼玉郡久喜町大字久喜新に引き取られ、祖母や伯母たちに育てられた。祖父・中島撫山は敦の幼少時に亡くなっていたものの、伯父たちには学者の中島斗南、中島竦らがいて、敦もまた彼らを通して儒学や漢文の影響を受けた。", "qas": [ { "question": "中島敦は何年生まれ?", "id": "tr-387-01-000", "answers": [ { "text": "1909年", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中島敦の父が何歳のとき、中島敦が生まれたか。", "id": "tr-387-01-001", "answers": [ { "text": "34歳", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "田人とチヨは何年に結婚したか。", "id": "tr-387-01-002", "answers": [ { "text": "1908年", "answer_start": 173, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "田人とチヨは敦が何歳の時、離婚したか。", "id": "tr-387-01-003", "answers": [ { "text": "1歳", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "敦が5歳のときに父が紺家カツと再婚し、6歳から奈良県で父と継母と暮らした。その後、14歳のときにカツが死去したあとは、飯尾コウが新たな継母となり、少年時代に2人の継母と暮らしたが、父や継母たちとの折り合いは必ずしもよくなく、そうした「母」という存在の希薄さがのちの中島文学の形成に影を落とす。\n\nまた、9歳のときに教師の父の転勤で、奈良県の郡山小学校から浜松西小学校へ、さらに11歳のときには朝鮮総督府の京城府龍山公立尋常小学校へと転校する。小学校4年のころの担任教師から執拗に繰り返し聞かされた、太陽系や地球絶滅の運命と存在の無意味さにショックを受け、爾来あらゆる生の虚無と形而上学的な不安が敦の内面に巣食うようになり、のちの中島文学の主題形成に影響を与えていく。", "qas": [ { "question": "敦の父の一番目の再婚相手は誰なの?", "id": "tr-387-02-000", "answers": [ { "text": "紺家カツ", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "敦の父の二番目の再婚相手は誰なの?", "id": "tr-387-02-001", "answers": [ { "text": "飯尾コウ", "answer_start": 59, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "京城府龍山公立尋常小学校卒業後は公立京城中学校に入学するなど、各地を転々とする少年時代を過ごした。そのため、一般の人々が口にする「故郷」という懐かしみの感覚が敦には分からなかった。\n\n中学時代の同級生には湯浅克衛、小山政憲がいた。敦は中学のころは湯浅や小山のような文学青年とはあまり付き合わず普通の友人と親しく交遊していたが、このころからすでに英文学の本などを鉄道図書館で借りて読んでいた。また、湯浅が授業中に急進的な総合雑誌『改造』を読んでいたときや、寄宿舎の机の中の『痴人の愛』が摘発されたとき、敦が強く湯浅を擁護し停学処分が免れたというエピソードも知られている。また、とある級友に頼まれ彼の試験答案を代筆したことが発覚し、謹慎処分を受けたこともあったという。小学校・中学時代を通して成績はきわめて優秀で開校以来の秀才といわれ、異母妹を背負って子守りながら中学1年ですでに四書五経を読破するなど多くの和漢書を読み、英語や数理学科の成績もよかったが、16歳のとき、父親が関東庁立大連中学の勤務となり、伯母・志津(京城女学校に勤務)の家に移り住んでいた間は少し成績が落ちたこともあった。\n\nこの龍山小学校・京城中学時代を通して、中島敦は合わせて5年半を朝鮮半島で暮らしている。初期の複数習作や「虎狩」における植民地時代の朝鮮像や朝鮮人の描写は、その後に得た朝鮮に関する広い知識によるところが大きいものの、このころの朝鮮での経験をベースとしたものであるとされる。", "qas": [ { "question": "中島敦は合わせて何年間朝鮮半島で暮らしたの。", "id": "tr-387-03-000", "answers": [ { "text": "5年半", "answer_start": 522, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "敦が何歳の時、父親が関東庁立大連中学で勤務することになりましたか。", "id": "tr-387-03-001", "answers": [ { "text": "16歳", "answer_start": 426, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1926年、敦は通常は5年間通う旧制中学校を4年で修了し、合格した第一高等学校に入学する。第一高等学校入学後は寮に入り、のちにニーチェ研究者となる氷上英廣と知り合うきっかけとなった。敦にカフカを奨めたのも氷上であった。1927年の春に伊豆下田を旅するが、夏休みの帰省中に大連で肋膜炎に罹ったため1年間休学となり、このときの療養生活中に「病気になった時のこと」という習作断片が書かれた。そして『校友会雑誌』に投稿した「下田の女」が11月に掲載された。これが活字となった初めての作品となった。\n\n1928年4月に寮を出て、伯父・関翊の知り合いの弁護士・岡本邸に寄寓し、そこの息子と親交を結んだ縁で、のちに英米文学の翻訳者となる田中西二郎と知り合う。また、同じく岡本邸に寄寓していた日本女子大学に通う2人の従妹・褧子と美恵子のうち、敦は2歳年下の褧子と特に親しくなり、卒業論文作成の手伝いをしたりした。この年も『校友会雑誌』に「ある生活」「喧嘩」が掲載された。\n\n1929年4月に文芸部委員となり『校友会雑誌』編集に参加する。この年の夏に岡本邸を出て、芝の同潤会アパートに移った。秋には氷上英廣、吉田精一、釘本久春らとともに季刊同人誌『しむぽしおん』を作り、翌年夏まで4冊を出すが、敦はこの同人誌に一度も執筆しなかった。", "qas": [ { "question": "旧制中学校は通常、何年課程なの?", "id": "tr-387-04-000", "answers": [ { "text": "5年", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "敦にカフカを奨めた人のフルネームは何。", "id": "tr-387-04-001", "answers": [ { "text": "氷上英廣", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "敦はいつから文芸部委員となって『校友会雑誌』編集に参加するようになったの?", "id": "tr-387-04-002", "answers": [ { "text": "1929年4月", "answer_start": 429, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "田中西二郎はどの文学の翻訳者になるの?", "id": "tr-387-04-003", "answers": [ { "text": "英米文学", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "敦は第一高等学校を卒業し、1930年4月に東京帝国大学文学部国文学科に入学する。友人らは英語力の高い敦は英文科に進むものだと思っていたため、国文学科を選んだことに驚いたという。大学時代には、文学発表活動への関与はあまりなく、友人・釘本久春の紹介で英国大使館駐在サッチャー海軍主計少佐の日本語教師を10月から約1年間務めながら、ダンスホールや麻雀屋に入り浸る生活を送っていたが、未完の長編草稿「北方行」の執筆準備は大学時代に行われていたのではないとされている。1931年の夏休みには天野宗歩の全棋譜(『将棋精選』)を読み上げ友人を驚かせたり、同年3月に麻雀屋で知り合った同年齢の橋本タカ(故郷は愛知県)と会う旅費稼ぎのため、下宿に友人らを集めレコードの売り立て会を開いたりしたこともあった。\n\n一方で、永井荷風、谷崎潤一郎、正岡子規、上田敏、森鷗外らのほぼ全作品を読むなど読書にも熱中した。そしてポーやボードレール、ワイルドなど欧州の耽美派を概観しつつ近代日本では自然派に対抗し耽美派と呼ばれた谷崎を論じた「耽美派の研究」と題する卒業論文に備えた。1931年10月には、大連の中学校を退職した父親が東京に戻ったため、荏原郡駒沢町大字上馬の借家で父母と同居するようになった。1932年には、前年知り合った橋本タカとの結婚を考えるようになった。しかし、父から正式な結婚は大学卒業後にしろと言われ、この時点では婚姻届は出してはいない。この年の8月、旅順にいる叔父の中島比多吉を頼り、南満州・中国北部を旅行し、久しぶりに母校の京城中学にも立ち寄ったりした。", "qas": [ { "question": "敦が通った大学は?", "id": "tr-387-05-000", "answers": [ { "text": "東京帝国大学", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "敦の友人たちは、敦が大学でどの科に進学すると予想していましたか。", "id": "tr-387-05-001", "answers": [ { "text": "英文科", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "敦が卒業した中学校は?", "id": "tr-387-05-002", "answers": [ { "text": "京城中学", "answer_start": 658, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中島敦は当時の就職難に苦しみ、同年秋に朝日新聞社の入社試験を受けたが二次試験の身体検査で落ち、また叔父の満州国高級官僚の中島比多吉に就職の斡旋を依頼するなどしていた。同級生38名中、順調に就職が決まった者は3名だけだった。結局、1933年4月、祖父の門下生だった田沼勝之助が理事を務める横浜高等女学校(現・横浜学園高等学校)での教員の職を得て横浜市中区で単身暮らしとなった。担当科目は国語・英語であり、週23時間の授業を受け持ったという。初任給は60円だった。\n\n女学校教員となったこの年の12月11日には橋本タカと結婚した。タカは4月に郷里の愛知県碧海郡で産んだ長男・桓を連れて11月ごろに上京し、東京市杉並区の佐々木方に下宿した。教師時代も多趣味な生活を送り、また生徒からもかなりの人気があった。教員時代は、山岳部生徒の引率で、箱根外輪山や北アルプスに登ったり、同僚らと三国峠、法師温泉などにキャンプに行ったりしたこともあった。\n\n教師時代に「斗南先生」「北方行」など多くの作品を執筆しており、1934年7月、「虎狩」を『中央公論』新人号に応募して、選外佳作10編に入る。敦はこの結果に、氷上英廣宛てのハガキで「虎狩、又してもだめなり。(中略)なまじっか、そんなところに出ないほうがよかったのに。すこしいやになる」と、なまじっか佳作に名を連ねていることを悔しがり応募したことを後悔している。同じ年の4月に釘本久春を介して、京城中学の1年後輩の三好四郎と知り合っており、さらに1936年、その三好四郎から鎌倉に住む深田久弥を紹介されている。なんとか中島敦を世に出したいと願う釘本や三好の勧めで、毎週深田の自宅を訪ね、作品評を乞うようになった。", "qas": [ { "question": "敦の同級生のうち、順調に就職が決まった者は何名でしたか。", "id": "tr-387-06-000", "answers": [ { "text": "3名", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "敦と橋本タカは何年に結婚した?", "id": "tr-387-06-001", "answers": [ { "text": "1933年", "answer_start": 114, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "敦の初任給はいくらでしたか。", "id": "tr-387-06-002", "answers": [ { "text": "60円", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1942年2月号の『文學界』に、「山月記」と「文字禍」が「古譚」と題して掲載されていた。深田久弥は掲載を知らせる手紙を送ったが、同年3月17日にパラオより帰国した敦が『文學界』掲載のことを知ったのは、東京に戻ったあとであった。帰国後は喘息と気管支カタルで、父親と妻子の住む世田谷の家で療養する。当時の世田谷は周囲に田畑が広がり、冷たいおろし風が吹く喘息持ちにはよくない土地で、敦は住み慣れた横浜への転居を希望したが実現しなかった。\n\n続けて「ツシタラの死」を編集者の要請で「光と風と夢」と題名変更し『文學界』5月号に発表し、昭和17年度上半期の芥川賞候補となる。しかし、同作品は室生犀星と川端康成の2人の選考委員が高く評価したのみで、ほかの選考委員からの支持が得られず落選する。とはいえ、「光と風と夢」の掲載後、筑摩書房、中央公論社、今日の問題社の3社から中島の作品集を出版したいという申し出があった。\n\n5月、小康状態になった敦の元へ、筑摩書房の古田晁、中央公論社の杉森久英の訪問があり、作品集の出版が決まった。7月に第一創作集『光と風と夢』が出版され、その印税で妻子に着物を買った。8月に南洋庁に辞表を提出し、専業作家生活に入った。", "qas": [ { "question": "編集者の要請で「ツシタラの死」は何に変更されるか。", "id": "tr-387-07-000", "answers": [ { "text": "「光と風と夢」", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第一創作集『光と風と夢』は何月に出版されたか。", "id": "tr-387-07-001", "answers": [ { "text": "7月", "answer_start": 457, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "11月には第二創作集『南島譚』が出版されるも、同月に持病の気管支喘息悪化と服薬の影響で心臓もかなり衰弱し、世田谷の岡田医院に入院。敦は12月4日の午前6時に同院で死去した。33歳没。涙をためながら「書きたい、書きたい」「俺の頭の中のものを、みんな吐き出してしまひたい」と言ったのが最期の言葉だったと伝えられている。\n\n6日の午後2時から神式の葬儀が行われ、多摩墓地に埋葬された。未発表であったいくつかの作品は遺作として没後に発表されており、「李陵」は1943年7月号の『文學界』に掲載された。全3巻の『中島敦全集』は1948年から1949年にかけて筑摩書房から刊行され、毎日出版文化賞を受賞している。", "qas": [ { "question": "敦は何月に亡くなった?", "id": "tr-387-08-000", "answers": [ { "text": "12月4日", "answer_start": 67, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『中島敦全集』はどの賞を受けたか。", "id": "tr-387-08-001", "answers": [ { "text": "毎日出版文化賞", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "敦の遺体はどこに埋葬されたか。", "id": "tr-387-08-002", "answers": [ { "text": "多摩墓地", "answer_start": 178, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ヒョウモンチョウ族", "paragraphs": [ { "context": "ヒョウモンチョウ族(Argynnini、豹紋蝶)は、チョウ目タテハチョウ科ドクチョウ亜科内のひとつの分類単位。\n本族に分類されるチョウは、和名の通り黄色の地に黒い斑点が並んだヒョウ柄模様の翅を持つものがほとんどである。\n日本では本族内の一種Brenthisdaphne(DenisetSchiffermüller,1775)に「ヒョウモンチョウ」(別名ナミヒョウモン)の和名が充てられるが、「ヒョウモンチョウ」という言葉は本族のチョウの総称としても使われることが多い。\n熱帯性のウラベニヒョウモン、ヒメウラベニヒョウモン、ウスイロネッタイヒョウモンなどは近縁のVagrantini族とし、ヒョウモンチョウ族とは普通区別される。", "qas": [ { "question": "ヒョウモンチョウを漢字表記するとどうなりますか?", "id": "tr-388-00-000", "answers": [ { "text": "豹紋蝶", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヒョウモンチョウ族の翅は何模様をしているの?", "id": "tr-388-00-001", "answers": [ { "text": "ヒョウ柄模様", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヒョウモンチョウの別名は何?", "id": "tr-388-00-002", "answers": [ { "text": "ナミヒョウモン", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "寒帯から熱帯まで全世界の陸上に分布し、分類法にもよるが14属・100種ほどが知られる。\n分布の中心は北半球の温帯・寒帯地域で、チョウとしては北方系の分類群として位置づけられる。\nこのうち日本では8属・14種が見られる。", "qas": [ { "question": "ヒョウモンチョウは全部で何種類ありますか?", "id": "tr-388-01-000", "answers": [ { "text": "100種", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本にいるヒョウモンチョウは何種類ですか?", "id": "tr-388-01-001", "answers": [ { "text": "14種", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヒョウモンチョウの分布地域は北半球と南半球のどちらですか?", "id": "tr-388-01-002", "answers": [ { "text": "北半球", "answer_start": 50, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本には何属のヒョウモンチョウが生息していますか?", "id": "tr-388-01-003", "answers": [ { "text": "8属", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "成虫の前翅長は20mm-45mmほどで、種類によってかなり異なる。\n暖地性の種類は大型だが、寒帯産や亜寒帯産の種類はシジミチョウ類とあまり変わらない大きさのものもいる。\n翅は丸みを帯びた三角形で、尾状突起などの極端な凹凸は無い。\n翅の表側はどの種類も黄色-茶色の地に黒い斑点が点在し、ヒョウの毛皮の模様に似ることから「豹紋蝶」の和名がある。\nツマグロヒョウモンやメスグロヒョウモンのメスなど判別しやすい種類もいるが、どれも似たような模様で、さらにオスメスの区別も困難な種類が多い。\n野外で飛びまわる個体を同定するのも難しく、採集もしくは注意深い観察が必要である。\n同定には斑紋の配置が手がかりとなるが、前翅より後翅、翅の表側より裏側に特徴が現れやすい。\nまた、成虫の前脚が短くたたまれること、幼虫に棘や毛が多いこと、蛹が尾部だけで逆さ吊りになる垂蛹型であることなどは他のタテハチョウと共通する特徴である。", "qas": [ { "question": "斑紋の配置の特徴が現れやすいのは前翅と後翅のどちらですか?", "id": "tr-388-02-000", "answers": [ { "text": "後翅", "answer_start": 305, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "斑紋の配置の特徴が現れやすいのは翅の裏側と表側のどちらですか?", "id": "tr-388-02-001", "answers": [ { "text": "裏側", "answer_start": 314, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "成虫の前翅の長さはどれくらいですか?", "id": "tr-388-02-002", "answers": [ { "text": "20mm-45mmほど", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "蛹はどのようなタイプですか?", "id": "tr-388-02-003", "answers": [ { "text": "垂蛹型", "answer_start": 372, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "おもに日当たりの良い森林の周辺、草原、湿原、岩場などに生息し、寒冷地を好む種類ではアサヒヒョウモンなど高原性のものも多い。\nほとんどの種類が年1回だけ発生する。\n温暖な地方では成虫の期間は比較的長く、晩春に羽化して夏の暑い時期に一時的に活動を停止して「夏眠」、秋になると再び活動するものが多い。\nただし暖地性・多化性で夏眠もしないツマグロヒョウモンのような例外もある。\n幼虫の食草はスミレ類が多いが、ワレモコウ類、キバナシャクナゲなどを食べる種類もある。\nどちらにせよ草原性草本に強く依存した分類群といえる。\n成虫は食草に直接産卵せず、周囲の岩や樹木に産卵する性質がある。\n冬は卵または若齢幼虫で越冬し、春になると食草に幼虫が現れる。\n成虫は日当たりの良い所を好んで飛び、各種の花に訪れる。", "qas": [ { "question": "寒い地域を好む種類は何ですか?", "id": "tr-388-03-000", "answers": [ { "text": "アサヒヒョウモン", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "生物が夏の暑い時期に一時的に活動を停止することを何といいますか?", "id": "tr-388-03-001", "answers": [ { "text": "「夏眠」", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "幼虫が主に食べる草は何ですか?", "id": "tr-388-03-002", "answers": [ { "text": "スミレ類", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "羽化の時期はいつですか?", "id": "tr-388-03-003", "answers": [ { "text": "晩春", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヒョウモンチョウ類は古くからタテハチョウ科に組みこまれていたが、研究が進んだ結果、かつて独立した科として扱われていたドクチョウ類に近縁とされ、21世紀初頭の時点ではドクチョウ亜科に組みこまれる。\nヒョウモンモドキ族(Melitaeini)とは成虫の色彩が似るが、ヒョウモンモドキ族は狭義タテハチョウ科のタテハチョウ亜科(Nymphalinae)に属するため、さほど近縁ではない。", "qas": [ { "question": "ドクチョウ亜科に組みこまれる前は何科に入っていましたか?", "id": "tr-388-04-000", "answers": [ { "text": "タテハチョウ科", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヒョウモンチョウ類と成虫の色彩が似ているのは何ですか?", "id": "tr-388-04-001", "answers": [ { "text": "ヒョウモンモドキ族", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "日本には8属・14種のヒョウモンチョウ類が分布する。\n北日本には種類・個体数とも多いが、西日本では種類数が減り、冷涼な山地に分布するようになる。\n小型種は北海道や本州各地、大型種も四国山地や九州山地に分布南限がある。\nこのうちアサヒヒョウモンは1965年に国の天然記念物に指定され、採集が禁止されているが、他の種類も20世紀後半頃から個体数を減らしている。\nこの原因は詳しくわかっていないが、地球温暖化、外来種の侵入、人里付近の草原が利用されなくなったことによる遷移の進行などで草原の環境が変化したためと考えられている。\n2000年に公表された昆虫類の環境省レッドリストには以下の3種(2亜種)がリストアップされている。\n絶滅危惧I類(CR+EN)にリストされているのはオオウラギンヒョウモンである。\n準絶滅危惧(NT)にリストされているのはヒョウモンチョウ東北以北亜種、ヒョウモンチョウ本州中部亜種、アサヒヒョウモンである。\n他にも都道府県・各市町村レベルでの指定も多く、動向が注目される。\nただし暖地性・多化性のツマグロヒョウモンは個体数が安定していて、さらに関東地方付近では分布域の北上も報告されており、他のヒョウモンチョウ類とは違った傾向が見られる。", "qas": [ { "question": "ヒョウモンチョウ類の種類が数多く分布するのは北日本と西日本のどちらですか?", "id": "tr-388-05-000", "answers": [ { "text": "北日本", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オオウラギンヒョウモンが絶滅危惧I類にリストアップされた事は何年に公表されたの?", "id": "tr-388-05-001", "answers": [ { "text": "2000年", "answer_start": 261, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アサヒヒョウモンが準絶滅危惧にリストアップされた事は何年に公表されたの?", "id": "tr-388-05-002", "answers": [ { "text": "2000年", "answer_start": 261, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1965年に国の天然記念物に指定されたヒョウモンチョウ類は何ですか?", "id": "tr-388-05-003", "answers": [ { "text": "アサヒヒョウモン", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヒョウモンチョウBrenthisdaphne(DenisetSchiffermüller,1775)は他の種類と区別し「ナミヒョウモン」という別名もある。\n成虫の前翅長は25-32mmほどで、翅の地色は黄色。\nメスの方がやや大きくて、翅色が鈍い。\n後翅の裏側にはつけ根に褐色で縁取られた黄白色の石垣状紋、外縁は赤褐色の地に不鮮明な白い縁取りがある。\n幼虫はバラ科のワレモコウ類を食草とする。\nヨーロッパから中央アジア、シベリアまで広く分布し、日本では本州中部山地、東北地方北部から北海道に分布する。\n5つの亜種があり、日本には本州中部亜種B.d.rabdiaButler,1877と東北以北亜種B.d.iwatensisOkano,1951が分布する。\n東北以北亜種は樺太、千島列島まで分布する。", "qas": [ { "question": "ヒョウモンチョウの翅の地色は何?", "id": "tr-388-06-000", "answers": [ { "text": "黄色", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヒョウモンチョウの幼虫は何を食べるの?", "id": "tr-388-06-001", "answers": [ { "text": "ワレモコウ類", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヒョウモンチョウの北限地域はどこですか?", "id": "tr-388-06-002", "answers": [ { "text": "北海道", "answer_start": 240, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヒョウモンチョウのメスとオスはどちらが大きいの?", "id": "tr-388-06-003", "answers": [ { "text": "メス", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "コヒョウモンB.ino(Rottemburg,1775)は前翅長25mm前後ある。\n外見・分布域ともヒョウモンチョウに似るが、翅の地色の赤みが強く橙色をしていること、外縁の小さな突起が丸みを帯びること、後翅裏側の白い縁取りが鮮明なことなどから区別する。\nまた、生息地にはヒョウモンチョウとの棲み分けが見られる。\n幼虫はバラ科のオニシモツケなどを食草とする。", "qas": [ { "question": "コヒョウモンの幼虫が食べるものは何ですか?", "id": "tr-388-07-000", "answers": [ { "text": "オニシモツケ", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "カラフトヒョウモンClossianaiphigenia(Graeser,1888)は前翅長25mm前後で、ヒョウモンチョウに比べて横長の翅をもち、後翅裏側外縁には黒く縁取られた三角形の白色紋が並ぶ。\n幼虫はスミレ科のミヤマスミレを食草とする。\nアムール地方から朝鮮半島まで分布するが、日本では北海道だけに分布する。", "qas": [ { "question": "ミヤマスミレを食草とする幼虫は、羽化すると何になりますか?", "id": "tr-388-08-000", "answers": [ { "text": "カラフトヒョウモン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カラフトヒョウモンの日本での生息地はどこですか?", "id": "tr-388-08-001", "answers": [ { "text": "北海道", "answer_start": 146, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ホソバヒョウモンC.thore(Hübner,1806)は「ヒメカラフトヒョウモン」という別名もある。\n前翅長23mm前後である。\n後翅裏側外縁の白色紋が不鮮明なことでカラフトヒョウモンと区別できる。\nシベリア北部から東部に分布し、日本では北海道だけに分布する。\nまた、ヨーロッパにも生息地が点在する。", "qas": [ { "question": "ヒメカラフトヒョウモンの正式名称は何?", "id": "tr-388-09-000", "answers": [ { "text": "ホソバヒョウモン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ホソバヒョウモンの前翅の長さはどれくらいですか?", "id": "tr-388-09-001", "answers": [ { "text": "23mm前後", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ホソバヒョウモンの日本での生息地はどこですか?", "id": "tr-388-09-002", "answers": [ { "text": "北海道", "answer_start": 120, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ホソバヒョウモンの海外での分布地はどこですか?", "id": "tr-388-09-003", "answers": [ { "text": "シベリア北部から東部", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アサヒヒョウモンC.freija(Thunberg,1791)は前翅長20mm前後ある。\n後翅の表側つけ根に斑紋がなく黒ずむ。\nまた、後翅裏側は赤褐色が強く、白色紋が際立つ。\n幼虫はツツジ科のキバナシャクナゲなどを食草とする。\n北極圏周辺の寒帯域に広く分布するが、日本では北海道・大雪山系だけに分布する。\n和名のアサヒは大雪山系の最高峰・旭岳に由来する。\n日本国指定の天然記念物(1965年)、環境省レッドリスト準絶滅危惧となる(2000年)。", "qas": [ { "question": "アサヒヒョウモンの名前にあるアサヒの由来とは何?", "id": "tr-388-10-000", "answers": [ { "text": "旭岳", "answer_start": 169, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アサヒヒョウモンの幼虫は何を食べるの?", "id": "tr-388-10-001", "answers": [ { "text": "キバナシャクナゲ", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アサヒヒョウモンが指定されるのが早かったのは環境省レッドリスト準絶滅危惧と天然記念物のどちらですか?", "id": "tr-388-10-002", "answers": [ { "text": "天然記念物", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ギンボシヒョウモンSpeyeriaaglaja(Linnaeus,1758)は前翅長35mm前後ある。\n和名は後翅裏側に白い斑点が点在することに由来する。\nウラギンヒョウモンに似るが、後翅裏側のつけ根にある3つの白斑が三角形に並ぶ点で区別する。\nユーラシア大陸の温帯域に広く分布し、日本では中部地方以北で見られる。", "qas": [ { "question": "ギンボシヒョウモンとよく似ている種類とは何ですか?", "id": "tr-388-11-000", "answers": [ { "text": "ウラギンヒョウモン", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ギンボシヒョウモンの日本での生息地はどこですか?", "id": "tr-388-11-001", "answers": [ { "text": "中部地方以北", "answer_start": 145, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ウラギンヒョウモンFabricianaadippe(DenisetSchiffermüller,1775)は前翅長35mm前後ある。\nギンボシヒョウモンに似るが、後翅裏側のつけ根にある3つの白斑は直線上に並ぶ。\nまた、後翅裏側の外縁には半円形の白斑が並ぶ。\nユーラシア大陸に広く分布し、日本でも北海道から九州まで分布する。", "qas": [ { "question": "ウラギンヒョウモンが広範囲で分布している大陸は何ですか?", "id": "tr-388-12-000", "answers": [ { "text": "ユーラシア大陸", "answer_start": 129, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウラギンヒョウモンの日本での北限となる生息地はどこですか?", "id": "tr-388-12-001", "answers": [ { "text": "北海道", "answer_start": 147, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウラギンヒョウモンの日本での南限となる生息地はどこですか?", "id": "tr-388-12-002", "answers": [ { "text": "九州", "answer_start": 152, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world 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"answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オオウラギンスジヒョウモンA.ruslana(Motschulsky,1866)は前翅長35-40mmある。\n前翅の前端が外へ突き出ること、後翅つけ根の黒斑の列がつながることでウラギンスジヒョウモンと区別する。\n北海道から九州までを含む東アジアに分布するが、ウラギンスジヒョウモンよりやや山地性の傾向がある。\nミドリヒョウモンArgynnispaphia(Linnaeus,1758)は前翅長35-40mmある。\n和名通り後翅の裏側が緑褐色で、太い白の縦線が数本走る。\nまた、メスの中には翅の表側全体に緑色を発色するものもいる。\nユーラシア大陸の温帯・亜寒帯域に広く分布し、日本でも北海道から九州まで分布する。", "qas": [ { "question": "オオウラギンスジヒョウモンとミドリヒョウモンの前翅長はどれくらいありますか?", "id": "tr-388-15-000", "answers": [ { "text": "35-40mm", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "山地性の傾向が強いのはオオウラギンスジヒョウモンとウラギンスジヒョウモンのどちらですか?", "id": "tr-388-15-001", "answers": [ { "text": "オオウラギンスジヒョウモン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "クモガタヒョウモンA.anadyomeneC.etR.Felder,1862の学名はNephargynnisanadyomeneとし、別属のクモガタヒョウモン属として扱うこともある。\n前翅長35-40mmである。\n後翅裏側にはっきりした模様がなく、一様に黄褐色なので他の種類と区別できる。\n北海道から九州までを含む東アジアに分布する。", "qas": [ { "question": "クモガタヒョウモンの前翅長は何mm?", "id": "tr-388-16-000", "answers": [ { "text": "35-40mm", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "クモガタヒョウモンは全体的に何色ですか?", "id": "tr-388-16-001", "answers": [ { "text": "黄褐色", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "クモガタヒョウモンの分布地域はどこですか?", "id": "tr-388-16-002", "answers": [ { "text": "東アジア", "answer_start": 157, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "メスグロヒョウモンDamorasagana(Doubleday,1847)は前翅長35-45mmほどである。\n和名通りメスは黒っぽい青緑色の地に白い帯や斑点があり、ヒョウモンチョウというよりイチモンジチョウ類に似る。\nオスはウラギンスジヒョウモンに似るが、表側の前翅前端や後翅つけ根に斑紋がなく、全体的に黄色部分が多い。\n北海道から九州までを含む東アジアに分布する。", "qas": [ { "question": "メスグロヒョウモンのオスは全体的に何色の部分が多いですか?", "id": "tr-388-17-000", "answers": [ { "text": "黄色", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ツマグロヒョウモンArgyreushyperbius(Linnaeus,1763)は前翅長38-45mmほどである。\n和名通りオスメスとも後翅外縁が黒く縁取られる。\nさらにメスは前翅先端が黒くて、斜めに白い帯が走り、カバマダラに似る。\nアフリカ東岸から西日本を含むアジア、オーストラリアまでの熱帯・亜熱帯域に広く分布し、ヒョウモンチョウ類の中でも例外的な存在である。", "qas": [ { "question": "ヒョウモンチョウ類の中で例外的な種類とは何ですか?", "id": "tr-388-18-000", "answers": [ { "text": "ツマグロヒョウモン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] } ] }