{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "石淵ダム", "paragraphs": [ { "context": "石淵ダム(いしぶちダム)は岩手県奥州市、一級河川・北上川水系胆沢(いさわ)川に建設されたダムである。国土交通省東北地方整備局が管理する国土交通省直轄ダムで、北上川上流改修計画に基づく北上川五大ダム計画の第一弾として建設された、高さ53メートルのダム。日本で最初に施工されたロックフィルダムで、コンクリートで上流部の水を遮る日本では5基しか存在しないコンクリートフェイシングフィルダムの一つ。胆沢川・北上川の治水及び胆沢扇状地への灌漑、水力発電を目的とする多目的ダムであるが、治水・利水機能強化を目的としてダム下流2キロメートルの地点に胆沢ダムが完成し、石淵ダムは水没した。栗駒国定公園内に位置する。", "qas": [ { "question": "石淵ダムは、どこの管理下にあるダムなの?", "id": "tr-316-00-000", "answers": [ { "text": "国土交通省東北地方整備局", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "北上川五大ダム計画により建設されたダムのうち、最初のものは何ですか?", "id": "tr-316-00-001", "answers": [ { "text": "石淵ダム", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "北上川五大ダム計画における最初のダムが水没したのは、どのダムの建設によることか?", "id": "tr-316-00-002", "answers": [ { "text": "胆沢ダム", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "石淵ダムが建設された胆沢川は北上川中流部における主要な支流の一つである。栗駒山系を形成する焼石岳(標高1,548メートル)を水源として東南に流路を取り、ダム地点上流で南西より流れ来る前川を合わせダム地点を通過すると面積約2万ヘクタールにもおよぶ日本最大級の扇状地・胆沢扇状地を形成。以後は概ね北東に流れ、奥州市水沢区において北上川に合流し太平洋へ注ぐ。流路延長は約48キロメートル、流域面積は約320平方キロメートルである。ダムは前川との合流点下流、胆沢扇状地の扇頂部に建設された。", "qas": [ { "question": "石淵ダムが建設された川は、どの川中流部における主要な支流の一つであるの?", "id": "tr-316-01-000", "answers": [ { "text": "北上川", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ダムの名称である「石淵」はかつてこの一帯が猿岩を始め巨石や巨岩などによって険阻な峡谷が形成されていた所から「石淵野」と呼ばれたことに由来する。また河川名の「胆沢」については諸説があり、アイヌ語で「イ」(それが)・「サワ」(山間の平地)または「エサバ」(酋長のいる所)に由来する説のほか、胆沢扇状地の砂を「イサ」と呼びそれに沢を合体させたとする説、水路を意味する「イ」と窪地を意味する「サワ」を合わせた説などがある。しかし何れも定説になっていない。なおダムが建設された当時の自治体は胆沢郡若柳村であり、後に胆沢村に合併されさらに胆沢町に町制施行されたが平成の大合併に伴い水沢市、江刺市、胆沢郡前沢町・衣川村と合併して奥州市となり、旧胆沢町域は胆沢区となった。", "qas": [ { "question": "ダムの名称は、その地域が何と呼ばれたことに由来しますか?", "id": "tr-316-02-000", "answers": [ { "text": "「石淵野」", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「胆沢」という河川名についての様々な説のうちには、水路の意味と何の意味を合わせたとの説もあるのか?", "id": "tr-316-02-001", "answers": [ { "text": "窪地", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "胆沢郡は何度か合併されており、最終的に与えられた地域名は何か?", "id": "tr-316-02-002", "answers": [ { "text": "胆沢区", "answer_start": 320, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "東北地方最大の河川である北上川は岩手県・宮城県を主な流域とするが、中流部と下流部の間、岩手県一関市狐禅寺(こぜんじ)から宮城県登米市に至る約27キロメートル区間は急激に川幅が狭くなる。この「狐禅寺狭窄部」の存在と狭窄部より下流における北上川の河川勾配が緩やかなことで、狭窄部より上流部の一関市は慢性的な水害常襲地帯であった。北上川流域面積(10,150平方キロメートル)の7割を占める岩手県内(北上高地や奥羽山脈東側)で大雨が降ると各支流を経て北上川に到達した洪水は一関市に集まる。この一関市狐禅寺におけるピーク時の基本高水流量は毎秒1万3600立方メートルであるが、狭窄部は毎秒6,300立方メートルの流下能力しかない。このため狭窄部で処理し切れない洪水が一関市内に湛水(たんすい)する状態となり、古くより洪水の被害に悩まされていた。根本的な解決法は狭窄部の開削による流下能力の増強であるが、約27キロメートルにもおよぶ狭窄部の開削は非現実的であった。", "qas": [ { "question": "東北地方最大の河川は、宮城県とどこを主な流域としているか?", "id": "tr-316-03-000", "answers": [ { "text": "岩手県", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北上川流域のうち、最も広い面積を占めるのは、何県か?", "id": "tr-316-03-001", "answers": [ { "text": "岩手県", "answer_start": 192, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "古くから洪水の被害に悩んでいた、北上川流域は、どの市か?", "id": "tr-316-03-002", "answers": [ { "text": "一関市", "answer_start": 329, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "一関市が慢性的な水害常襲地帯とされていたのは、何が存在したためか?", "id": "tr-316-03-003", "answers": [ { "text": "「狐禅寺狭窄部」", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "当時河川行政を管掌していた内務省は北上川水系における治水対策として北上川改修事業を実施。従来宮城県石巻市にて太平洋に注いでいた北上川本流を追波湾側へ付け替える新北上川開削工事を1934年(昭和9年)に完成させ、下流部の流下能力増大を図ったが、一関市以北の北上川上流部における治水対策も急務となっておりこれに対応するため1941年(昭和16年)より北上川上流改修計画を立案した。この計画は従来の北上川改修事業と異なり、東京帝国大学教授・内務省土木試験所所長の物部長穂らが提唱し内務省内務技監であった青山士(あきら)が採用した河水統制事業制度に沿った計画であった。河水統制事業は河川に多目的ダムを建設し、従来別個に実施していた治水事業と利水事業(灌漑・水力発電など)を統合することで効率的な河川開発を行い流域の開発を促進するというものであり、既に青森県や香川県、山口県、神奈川県といった地方自治体において着手されていた。やや遅れて内務省は北上川を始め琵琶湖を含む淀川、由良川、名取川など日本の主要な河川を国直轄改修河川に指定、多目的ダムによる河川開発を開始した。北上川水系では岩手県内の上流域を対象として、北上川本流と主要な支流である雫石川、和賀川、猿ヶ石川そして胆沢川に多目的ダムを建設して洪水調節を図り、一関市には大規模な遊水池を建設して洪水を貯留することで治水安全度を向上させる計画とした。これに基づき同年には猿ヶ石川に猿ヶ石堰堤(えんてい)、後の田瀬ダムが着工されたが太平洋戦争の激化により資材確保がままならなくなり、1944年(昭和19年)の小磯内閣による決戦非常措置要領の発令もあって事業は中断した。", "qas": [ { "question": "新北上川開削工事の完成と北上川上流改修計画の立案のうち、その時期がより早かった方は、何年の出来事なの?", "id": "tr-316-04-000", "answers": [ { "text": "1934年", "answer_start": 88, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1934年に完成した開削工事と1941年に立案した計画の両方の対象となった川は、どの川ですか?", "id": "tr-316-04-001", "answers": [ { "text": "北上川", "answer_start": 63, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1941年立案の北上川上流改修計画とは、何を建設することで河川開発を図った計画であるのか?", "id": "tr-316-04-002", "answers": [ { "text": "多目的ダム", "answer_start": 290, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1941年立案の北上川上流改修計画とは、治水事業と何を統合するような制度に沿った計画であるのか?", "id": "tr-316-04-003", "answers": [ { "text": "利水事業", "answer_start": 316, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "終戦を迎え日本は極度な食糧不足に陥り、1946年(昭和21年)5月19日の食糧メーデーなど国民の不満が顕著となった。食糧増産が喫緊の課題となった政府は河川開発に関して灌漑施設拡充による食糧増産を目論見、1948年(昭和23年)には国営農業水利事業制度を発足させるなどの対策を講じた。北上川流域は江戸時代より一大穀倉地帯として稲作が盛んであったが北上川本流は松尾鉱山より流出する強酸性の坑内水により河水の酸性度が高く、農業用水には不適当であった。このため支流の河川を開発して灌漑用水を整備して農地拡大を図り食糧を増産する方針が採られ、1945年(昭和20年)より国営事業として山王海ダム(滝名川)の建設が紫波郡で開始された。一方治水に重点を置いていた北上川上流改修事業についても灌漑整備優先の観点から、広大な胆沢扇状地を流域に持つ胆沢川の河川開発が注目されるようになった。以上の経緯により、戦前より着手されていた田瀬ダムの建設を中断したまま胆沢川上流の多目的ダム計画が優先的に着手された。これが石淵ダムであり胆沢郡若柳村において1945年より内務省直轄事業として建設が開始された。", "qas": [ { "question": "終戦を迎え極度な食糧不足に陥った日本は、何を開発することで食糧増産を目論んだか?", "id": "tr-316-05-000", "answers": [ { "text": "河川", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "北上川本流はどこから流れ込む強酸性の坑内水により、農業用水には適していなかったの?", "id": "tr-316-05-001", "answers": [ { "text": "松尾鉱山", "answer_start": 178, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "石淵ダムと田瀬ダムのうち、より早く計画されたのは、どちらですか?", "id": "tr-316-05-002", "answers": [ { "text": "田瀬ダム", "answer_start": 405, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1945年より石淵ダムの建設事業が開始されたが、ダム建設に伴い13世帯が移転を余儀なくされた。しかし補償問題については大きな禍根を移転住民たちに残すことになる。通常、ダム事業を開始するに当たり工事を行う前には水没予定地住民に対する補償交渉を行う。しかし石淵ダムの場合は食糧難解決という差し迫った国情が背景にあった中、工事を開始してから住民への補償交渉を開始するという状態であり、当時の事業者である内務省、後に内務省解体後河川行政を承継した建設省の態度は移転交渉というよりは立ち退き要求に近いものがあった。ダム建設開始当時は日本国憲法の制定前であり、生存権など基本的人権の尊重という概念はまだ浸透していなかった。さらに水源地域対策特別措置法などダム補償に関連する法整備は、ダム事業自体の法整備も未熟であったことから皆無に等しい状況であったことが事業者の冷淡な補償姿勢の背景にある。", "qas": [ { "question": "石淵ダムの建設事業と日本国憲法の制定のうち、より早く行われたのは、どちらなの?", "id": "tr-316-06-000", "answers": [ { "text": "石淵ダムの建設事業", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "石淵ダムの建設事業を管轄した内務省とそれを継いだ建設省は、水源地域の住民たちに対しどのような補償姿勢を見せましたか?", "id": "tr-316-06-001", "answers": [ { "text": "冷淡な補償姿勢", "answer_start": 375, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "水没予定地の住民に対する補償交渉は1950年(昭和25年)10月に妥結された。しかし当時の日本の経済状況は急激なインフレーションの中にあり物価上昇が著しく、最初は高額であった補償金はインフレーションによる物価変動で貨幣価値が激減し住民が満足できる妥結内容ではなくなった。さらに移転後の住民に対する生活再建対策も放置され、結果的にわずかな補償金しか受け取れなかった移転住民は失業の上困窮した生活を強いられ、全財産を喪失した住民も現れた。加えて工事中の住民安全対策も十分ではなく、岩石発破の度に小学校では発破の爆音や振動を恐れた児童たちが机の下へ隠れ、遂には発破によって飛来した岩石が地元女性に直撃して死亡するという事故も発生した。こうした移転住民・地元住民の苦難に対する建設省の報恩意識は欠如しており、1950年秋に行われた定礎式には地元住民が全く招かれず、完成を記念して製作された記録映画にも移転住民への感謝の言葉が一言も挿入されなかった。わずかな補償金では生活が困窮する住民たちは再補償を国に求めたが、最終的に再補償は認められなかった。", "qas": [ { "question": "経済状況が急激なインフレーションに陥ると、貨幣価値はどうなるか?", "id": "tr-316-07-000", "answers": [ { "text": "激減", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "石淵ダムの完成を記念して製作された記録映画には、移転住民への感謝の言葉が乗せられていたのか?", "id": "tr-316-07-001", "answers": [ { "text": "なかった", "answer_start": 415, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "事業者である国の補償交渉に対する姿勢は多方面から厳しい批判の的となった。一方で内務省仙台土木出張所技官としてダム工事に携わり初代の石淵ダム管理所長となった吉井弥七は、自著『遍歴』の中で石淵ダム補償交渉における国の姿勢に対し忸怩(じくじ)とした思いを記している。この『遍歴』は石淵ダム補償交渉の最中でもある1948年冬の項で中断し、未完のまま記載が終わっている。石淵ダム建設で移転を余儀なくされた住民は90名を数えるが、内9名は現在建設が進められている胆沢ダムによって再度移転を余儀なくされた。しかし胆沢ダム補償交渉では石淵ダムにおける補償対応の反省もあり、事業者である建設省も地元との交渉を重視して対応。1990年(平成2年)には水源地域対策特別措置法の対象ダムに指定されている。石淵ダム補償交渉にみられる建設省の姿勢は群馬県の藤原ダム(利根川)や秋田県の鎧畑ダム(玉川)などでも見られ地元住民との摩擦を起こしており、遂に熊本県の下筌(しもうけ)ダム(津江川)において蜂の巣城紛争という12年にわたる激しいダム反対闘争として水没住民の不満が爆発した。水源地域対策特別措置法などの水没予定地に対する法整備がなされるのはこれ以降のことであり、北上川・胆沢川流域の治水・利水という大義の下で13世帯90名の移転住民は多大な犠牲を背負った。", "qas": [ { "question": "初代の石淵ダム管理所長は、誰だったの?", "id": "tr-316-08-000", "answers": [ { "text": "吉井弥七", "answer_start": 77, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "石淵ダムと胆沢ダムのうち、より早く建設されたのは、どちらか?", "id": "tr-316-08-001", "answers": [ { "text": "石淵ダム", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "石淵ダムが属する流域の近くに建設されたのは、どのダムですか?", "id": "tr-316-08-002", "answers": [ { "text": "胆沢ダム", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "蜂の巣城紛争などの水没住民の不満表出は、それに関する法が何年に制定されるまで続いたか?", "id": "tr-316-08-003", "answers": [ { "text": "1990年", "answer_start": 302, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "内務省は胆沢川にダムを建設するに当たり、まずは建設可能な地点の選定を試みた。胆沢川は前川合流点までは峡谷を形成するが、尿前(しとまえ)川合流点を通過すると次第に胆沢扇状地が形成される。尿前川合流点より下流の山間部にダムを建設することについては扇状地の構造上、谷が次第に広くなることから当時の土木技術ではダムの長さ(堤頂長)が長くなるため当初設定していたダム本体の規模では貯水量が十分確保できなかったため断念した。一方前川合流点より上流については貯水池を形成できる適地が存在せず、結果前川合流点にある猿岩(後述)地点と現在のダムサイト地点が十分な貯水容量を確保できる好適地として最終候補に挙げられた。続く基礎地盤の調査で猿岩地点ではダム建設に耐えられるだけの地盤の強度が足りなかったが、現在のダムサイト地点では十分な強度を有することが判明したことから、当時の土木技術でダム建設が可能な唯一の建設地点として現地点が決定された。", "qas": [ { "question": "ダムが現地点に建設されたのは、他の候補地点に建設するほどのどんな技術を持たなかったからなの?", "id": "tr-316-09-000", "answers": [ { "text": "土木技術", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ダム建設可能な地点の選定を行った、当ダム建設管轄はどこですか?", "id": "tr-316-09-001", "answers": [ { "text": "内務省", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ダム建設地点が決定し、続いて型式の選定が行われた。石淵ダムは北上川上流改修計画の立案当時は重力式コンクリートダムとして計画されていたが、戦後の特殊な事情によって型式の変更を余儀なくされ、結果的に日本では最初となるロックフィルダムの施工となった。重力式コンクリートダムとして建設する場合、石淵ダムの規模で必要となるセメントの量はダム本体だけで約3万7500トンと推計されていた。だが太平洋戦争の影響で1946年当時の日本国内におけるセメント生産量は計画当時(1940年)の約605万トンに対して、6分の1弱に当たる約93万トンにまで減衰しており、その用途も進駐軍用あるいは戦災復興用の資材として優先利用されていたためダム建設に回せるだけの余裕がなかった。また運搬に掛かる輸送費用もダム本体のセメント使用量との費用対効果で比べてコストが極めて割高となり、非経済的である上に国鉄(当時)東北本線水沢駅からダム工事現場までの24キロメートル区間をトラックでピストン輸送することも、ガソリンや車両数の確保の点で困難であった。一方ロックフィルダムの場合は日本では当時全く施工例がなかったものの、ダム付近の地質が風化に乏しい良質な石英安山岩で、かつ発破により大量の岩石が採取可能で工事現場からも至近距離に位置することからセメント量と輸送コストの節減が期待された。さらにダムを支える基礎地盤は石英粗面岩であり重力式では基礎処理に多大な時間と費用が掛かる反面、ロックフィルダムであれば十分な強度であるため基礎処理も簡易に済む。以上の観点からロックフィルダムが採用され、1946年より日本初のロックフィルダム施工が開始された。", "qas": [ { "question": "日本初のロックフィルダムの施工であるのは、どのダムの施工なの?", "id": "tr-316-10-000", "answers": [ { "text": "石淵ダム", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "重力式コンクリートダムとして施工される計画であった、石淵ダムにおいて形式変更がなされたのは、当時、何の生産量が減衰していたからですか?", "id": "tr-316-10-001", "answers": [ { "text": "セメント", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "石淵ダムがロックフィルダムとして施工されるようになったのは、何の生産量減衰とともに、何の輸送にかかる費用と距離が問題となったからか?", "id": "tr-316-10-002", "answers": [ { "text": "セメント", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "当時、石淵ダムの建設では、最寄駅から工事現場までの資材の輸送に何が用いられる計画であったか?", "id": "tr-316-10-003", "answers": [ { "text": "トラック", "answer_start": 419, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ダムの施工においては、投石工法(投石射水工法)と呼ばれる工法が用いられた。まずダムサイト直上流部にある猿岩がロックフィルダム堤体の材料となる原石山に選定され、これを火薬で爆破して岩石を採取しダム本体工事現場まで輸送。本体予定地に建設した橋の上より岩石を投下して、これを高圧水で締め固めてダム本体を盛り立てる工法である。当初は運搬に用いる蓄電車の稼働が満足ではなく、作業も不慣れであり盛り立て作業の進捗は満足ではなかったが、油圧ショベルや運搬用7トンディーゼルの導入により工程は次第に順調な推移を見せた。1950年5月12日より開始された盛り立て作業は昼夜兼行、厳寒の冬季にも作業が行われ完成するまでの間約37万トンの岩石が投石によって積み上げられた。原石採取のための発破作業は1949年(昭和24年)6月13日から1952年9月22日まで計12回実施され、使用された火薬の総量は約98トンに及んだ。そのうち1950年に実施された50トンの火薬を用いた砕石爆破の際には、日本国内の地震関係機関が共同で爆破地震動の観測を実施している。盛り立てが終わるころに投石用の橋が撤去され、上流面で水を遮るコンクリート壁の舗装や積み上げ岩石の整理作業が実施され、取水塔・排水塔・洪水吐きなどの設備も順次完成して1953年6月9日にダム本体は完成した。", "qas": [ { "question": "ダムの施工にはどんな工法が使用された?", "id": "tr-316-11-000", "answers": [ { "text": "投石工法", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "蓄電車の稼働や盛り立て作業の進捗において不満足であったが、油圧ショベルと何を導入することでそれを解消することができましたか?", "id": "tr-316-11-001", "answers": [ { "text": "運搬用7トンディーゼル", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "原石採取のための最後の発破作業とは、いつ実施されたか?", "id": "tr-316-11-002", "answers": [ { "text": "1952年9月22日", "answer_start": 357, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1952年9月22日に行われた原石採取のための発破作業とは、第何回の作業であったか?", "id": "tr-316-11-003", "answers": [ { "text": "12回", "answer_start": 370, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ダムは着工から完成まで8年の歳月を要し、総事業費13億3600万円(当時)を投じた。戦後の混乱期の事業であったことから資材や建設機械の不足、さらには労働力の不足に絶えず悩まされた。先述した『遍歴』の著者・吉井弥七は石淵ダム建設に従事したが、11月には早くもダム工事現場は時雨に見舞われ、真冬には一晩で1メートル以上の積雪となることもあったという。また従事する労務者の安全管理という概念に乏しい時代で、頭部保護の保安帽を着用する労務者はなく作業着すら統一されていなかった。さらには労働力不足を補うため服役囚が工事に従事する状況であったと吉井は自著で述べている。厳しい環境の中で労務者はどぶろくを飲んだりして英気を養ったが、酒のつまみに死んだウサギを調理して食べた職員が野兎病に罹患するなどのハプニングもあった。こうした厳しい労務環境の中で延べ181万人の労務者が建設に従事し、ダムは完成する。", "qas": [ { "question": "当ダムの建設工事は何年にわたって行われたの?", "id": "tr-316-12-000", "answers": [ { "text": "8年", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当ダムの建設工事には、計何人が動員されましたか?", "id": "tr-316-12-001", "answers": [ { "text": "181万人", "answer_start": 370, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "当ダムの建設工事における労働力不足を解決するための動員された人々とは、どのような人々だったのか?", "id": "tr-316-12-002", "answers": [ { "text": "服役囚", "answer_start": 249, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "こうして、日本において最初に施工されたロックフィルダムである石淵ダムは完成した。しかし岐阜県が木曽川水系久々利川に建設した小渕防災溜池(小渕ダム)が石淵ダム完成の前年・1952年に完成しており、石淵ダムは完成例において日本で最初になることはできなかった。だが石淵ダムを出発点として日本のロックフィルダム技術は発展し、御母衣ダム(庄川)や九頭竜ダム(九頭竜川)、徳山ダム(揖斐川)などといった大規模ロックフィルダムの建設につながってゆく。", "qas": [ { "question": "日本で初めて完成したロックフィルダムは、どのダムなの?", "id": "tr-316-13-000", "answers": [ { "text": "小渕ダム", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "石淵ダムの特徴はダム本体上流部のコンクリート舗装部が貯水を遮り、ダム本体内部への水の浸透を防ぐ遮水壁(しゃすいへき)となっていることである。これをコンクリートフェイシングフィルダムまたはコンクリート表面遮水壁型ロックフィルダムと呼び、英語の頭文字を取ってCFRDと略される。日本では石淵ダム、小渕防災溜池のほか1956年(昭和31年)群馬県に野反(のぞり)ダム(中津川)、1963年には秋田県に皆瀬ダム(皆瀬川)が建設された。しかし当時はロックフィルダムの締め固め技術が現在のように進歩しておらず、本体締め固め不足による不均等な堤体陥没(不等沈下)やクラックと呼ばれるひび割れなどが発生し易く、その対策も未確立だったため皆瀬ダムの完成以降しばらく新規の施工例は無かった。以降日本におけるロックフィルダムの施工は、ダム本体中央部に不透水性の粘土などを用いて遮水壁を形成する中央土質遮水壁型ロックフィルダムが主流になり、胆沢ダムもこの型式を採用している。しかしロックフィルダム技術の進歩に伴いこれらの問題解決が可能となり、経済性にも優れていることから2004年(平成16年)岡山県の苫田鞍部ダム(吉井川)が41年ぶりに同型式として新規に完成した。なおこの型式は世界的には中国の清江に建設中の水布埡ダムが高さ233メートルと世界一を誇っており、完成例では高さ156メートルの紫坪埔ダム(岷江)などがある。既設のものではブラジルのカンポスノボスダムが202メートルと世界一の高さを有する。", "qas": [ { "question": "CFRDが意味するのは、何か?日本式表現で答えなさい。", "id": "tr-316-14-000", "answers": [ { "text": "コンクリート表面遮水壁型ロックフィルダム", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "胆沢ダムに採用された型式の基となる型式の略称は、何か?", "id": "tr-316-14-001", "answers": [ { "text": "CFRD", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "地震が多発する日本において、ダムの地震に対する安全性は特に注意を払うべき問題である。2011年(平成23年)3月11日の東日本大震災で福島県の藤沼ダム(江花川)が決壊し死者を出したが、石淵ダムにおいても過去に地震の直撃を受けている。1986年(昭和61年)6月27日にはダム付近において直下型地震が発生。ダム地点における震度は5(強震)であったが特段の被害は報告されなかった。しかし、2008年(平成20年)6月14日に宮城県・岩手県を襲った岩手・宮城内陸地震ではダム本体に被害が生じた。この地震では宮城県の荒砥沢ダム(二迫川)の貯水池において大規模な地すべりが発生し湖に大量の土砂が流入、ダム本体には影響が無かったもののダム湖は一度に大量の土砂が流入したため堆砂の被害が甚大となった。一方、石淵ダムにおいてはダム地点で震度7に相当する揺れを記録、ダム本体の加速度は基礎部において最大で2,097ガルを計測した。この地震によりダム本体は天端(てんば)にうねりや亀裂が生じたほか、貯水池周辺のがけ崩れなどが発生した。しかしダム本体における最重要部分となるコンクリート表面遮水壁の損傷は確認されず、潜水夫による水中探索においても損傷は確認されなかった。管理する国土交通省東北地方整備局は対策本部を設置し石淵ダムの緊急放流を開始して貯水池の水位を下げ、損傷箇所の修復を行った。修復後貯水を通常の水位まで戻してダムの状態を確認する「安全確認試験」を実施し、異常が認められなかったことから翌2009年(平成21年)1月21日に通常の管理体制に戻した。藤沼ダム決壊を引き起こした東日本大震災では天端に亀裂が生じたものの岩手・宮城内陸地震ほどの損傷は無く、ダムの安全性には影響がなかった。石淵ダムは完成後50年以上を経過してから二度の大震災を経験しているが、多少の損傷はあったものの地震による致命的な損傷は受けなかった。", "qas": [ { "question": "1986年と2008年のうち、何年に起こった地震により石淵ダムが被害を受けましたか?", "id": "tr-316-15-000", "answers": [ { "text": "2008年", "answer_start": 192, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "石淵ダムは完成後何年までは地震による被害を受けたことがなかったの?", "id": "tr-316-15-001", "answers": [ { "text": "50年", "answer_start": 745, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "石淵ダムの目的は洪水調節、灌漑、水力発電の三つである。先述した通り石淵ダムは灌漑に対する効果が大きいために戦後直ちに着手された。その後河水統制事業を発展させた河川総合開発事業がアメリカのテネシー川流域開発公社(TVA)を参考として日本各地で活発になり、治水だけではなく灌漑、水力発電、上水道・工業用水道供給といった利水目的を包括した大規模河川開発計画も構想されるに至った。北上川水系では1950年の国土総合開発法制定に基づき北上特定地域総合開発計画(KVA)が1951年に閣議決定され、隣接する鳴瀬川水系を包括し岩手・宮城両県を一体とした大規模河川総合開発が行われた。石淵ダムは他の北上川五大ダムである四十四田ダム(北上川)、御所ダム(雫石川)、田瀬ダム(猿ヶ石川)、湯田ダム(和賀川)と共に北上川の治水・利水の要として重要な位置を占めている。", "qas": [ { "question": "石淵ダムの三つの目的には、洪水調節と灌漑のほかに、何が含まれるの?", "id": "tr-316-16-000", "answers": [ { "text": "水力発電", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカと日本のうち、大規模河川開発計画をより早く実施したのは、どの国ですか?", "id": "tr-316-16-001", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 88, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "トラフザメ", "paragraphs": [ { "context": "トラフザメ(虎斑鮫、学名:Stegostomafasciatum、英名:Zebrashark)は、テンジクザメ目に属するサメの一種。\nトラフザメ科、トラフザメ属は単型である。\nインド太平洋全域、60m以浅のサンゴ礁で見られる。\n成体は円筒形の体、体側の隆起線、非常に長い尾鰭、薄黄色の体色に散らばる黒い斑点を持ち、識別は容易である。\n幼体は横縞を持ち、成体とは体色が完全に異なる。\n全長3.5m程度になる。", "qas": [ { "question": "トラフザメの主な生息地域はどこですか?", "id": "tr-317-00-000", "answers": [ { "text": "インド太平洋全域", "answer_start": 88, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トラフザメの全長はどれくらいですか?", "id": "tr-317-00-001", "answers": [ { "text": "3.5m程度", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トラフザメは何科に属していますか?", "id": "tr-317-00-002", "answers": [ { "text": "トラフザメ科", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "横縞があるのは成体と幼体のどちらですか?", "id": "tr-317-00-003", "answers": [ { "text": "成体", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "夜行性で、日中は海底で休み、夜に岩の割れ目に潜む魚、貝、甲殻類、軟体動物、ウミヘビなどを食べる。\n単独で生活するが、季節的に大きな群れを作ることもある。\n卵生で、雌は数十個の卵鞘を、粘着糸で岩などに固定する。\n人に無害で飼育もしやすいため、ダイビングや水族館で好まれる。\n肉、鰭、肝油などを目的とした漁業の対象となっており、生息数が減少している可能性が高いため、IUCNは絶滅危惧種としている。", "qas": [ { "question": "トラフザメの生活習性は何ですか?", "id": "tr-317-01-000", "answers": [ { "text": "夜行性", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "IUCNはトラフザメをどのような種類と定めていますか?", "id": "tr-317-01-001", "answers": [ { "text": "絶滅危惧種", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "雌は何個の卵鞘を産むの?", "id": "tr-317-01-002", "answers": [ { "text": "数十個", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1759年に出版されたアルベルトゥス・セバのシソーラス『Locupletissimirerumnaturaliumthesauriaccuratadescriptio–Naaukeurigebeschryvingvanhetschatrykekabinetdervoornaamsteseldzaamhedendernatuur』の中でツノザメ属の新種Squalusvariusとして記載された。\nセバは幼体のイラストとラテン語による包括的な記載を発表したが、タイプ標本は指定しなかった。\n1783年にジャン・エルマンは『Tabulaaffinitatumanimalium』の中でSqualusfasciatusとして記載命名した。", "qas": [ { "question": "『Locupletissimirerumnaturaliumthesauriaccuratadescriptio–Naaukeurigebeschryvingvanhetschatrykekabinetdervoornaamsteseldzaamhedendernatuur』の著者は誰ですか?", "id": "tr-317-02-000", "answers": [ { "text": "アルベルトゥス・セバ", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『Tabulaaffinitatumanimalium』の著者は誰ですか?", "id": "tr-317-02-001", "answers": [ { "text": "ジャン・エルマン", "answer_start": 251, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "Squalusfasciatusの命名者は誰ですか?", "id": "tr-317-02-002", "answers": [ { "text": "ジャン・エルマン", "answer_start": 251, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『Tabulaaffinitatumanimalium』が出版されたのはいつ?", "id": "tr-317-02-003", "answers": [ { "text": "1783年", "answer_start": 245, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1837年、ミュラーとヘンレは本種を独自の新属Stegostoma属に移し、1801年にブロッホおよびシュナイダーによって『110の画像付分類魚類学』(\"SystemaichthyologiaeiconibusCXillustratum\")の中で用いられた種小名fasciatusを使用した。\nStegostomaは中性形であるため、学名はStegostomafasciatumとなる。\n1984年、レオナルド・コンパーニョは、Squalusvariusも学名の一つと解釈することはできるが、セバが記載論文中で学名を一貫して用いていないことを理由に、\"fasciatus/m\"を正式な学名として支持した。\nコンパーニョによれば、最初に\"varius/m\"が適切に用いられたのは1913年のサミュエル・ガーマンによるものであり、この名はジュニアシノニムとみなせる。\n現在はS.fasciatum・S.variumどちらも本種を指す学名として用いられている。", "qas": [ { "question": "ミュラーが本種をStegostoma属に移したのは何年ですか?", "id": "tr-317-03-000", "answers": [ { "text": "1837年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "\"fasciatus/m\"を正式な学名として支持した人は誰?", "id": "tr-317-03-001", "answers": [ { "text": "レオナルド・コンパーニョ", "answer_start": 200, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最初に\"varius/m\"が適切に用いられたのは何年だとされていますか?", "id": "tr-317-03-002", "answers": [ { "text": "1913年", "answer_start": 338, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最初に\"varius/m\"を適切に用いたのは誰だとされていますか?", "id": "tr-317-03-003", "answers": [ { "text": "サミュエル・ガーマン", "answer_start": 344, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "属名はギリシャ語のstego(覆い)、stoma(口)に由来する。\n種小名fasciatumは“縞模様”を意味し、幼魚の体色に因んだものである。\nこの体色は英名\"zebrashark\"の由来ともなっている。\n\"leopardshark\"の名が本種の成体に対して用いられることもあるが、この名は普通はカリフォルニアドチザメTriakissemifasciata、またはイタチザメを指す。\n成長に連れて大きく体型・体色が変化するため、幼体はSqualustigrinus、亜成体はS.longicaudatusとして別種とされていた時代もあった。\nなお和名の虎斑鮫は岸上鎌吉によって命名された。", "qas": [ { "question": "属名の由来となった言語は何?", "id": "tr-317-04-000", "answers": [ { "text": "ギリシャ語", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本種の和名は何ですか?", "id": "tr-317-04-001", "answers": [ { "text": "虎斑鮫", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "虎斑鮫と名付けた人は誰ですか?", "id": "tr-317-04-002", "answers": [ { "text": "岸上鎌吉", "answer_start": 281, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "fasciatumは何を意味しているの?", "id": "tr-317-04-003", "answers": [ { "text": "“縞模様”", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "形態・分子系統の両面から、ジンベエザメ・コモリザメ科とともに単系統群を構成することは広く受け入れられている。\nこの単系統群内での系統関係には諸説があるが、分子系統解析ではタンビコモリザメPseudoginglymostomabrevicaudatumの姉妹群であるという結果が得られている。", "qas": [ { "question": "本種は何の姉妹群であるとされているの?", "id": "tr-317-05-000", "answers": [ { "text": "タンビコモリザメ", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "円筒形のどっしりとした体、大きくて少し平たい頭、短く丸い吻を持つ。\n眼は小さく、頭部の側面にあり、その後方にはそれより大きな噴水孔がある。\n鰓裂は短く、後ろの3対は胸鰭の基部の上に位置し、第4・5鰓裂の間隔は他のものより近い。\n鼻孔には短い髭があり、鼻孔から口まで続く溝がある。\n口はほぼ直線で、下唇は3葉に分かれ、口角にも溝がある。\n歯列は上顎に28-33、下顎に22-32列。\n歯は大きな尖頭を持ち、2個の小尖頭に囲まれる。", "qas": [ { "question": "眼の位置はどこ?", "id": "tr-317-06-000", "answers": [ { "text": "頭部の側面", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "歯列が多いのは上顎と下顎のどちらですか?", "id": "tr-317-06-001", "answers": [ { "text": "上顎", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "下唇は何葉に分かれているの?", "id": "tr-317-06-002", "answers": [ { "text": "3葉", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "成魚の体には5列の隆起線があり、1列は背の正中線上で背鰭と一体になり、他の2対は体側にある。\n第一背鰭は第二背鰭の2倍程度の大きさである。\n胸鰭は大きくて幅広い。\n腹鰭・臀鰭はそれより小さいが、第二背鰭よりは大きい。\n尾鰭は体と同じくらい長い。\n下葉は小さく、上葉の先端には大きな欠刻がある。\n2.5m程度まで成長するが、不確実な記録では3.5mというものもある。\n全長に雌雄差はない。", "qas": [ { "question": "第一背鰭と第二背鰭はどちらが大きいですか?", "id": "tr-317-07-000", "answers": [ { "text": "第一背鰭", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "成魚にはいくつの隆起線があるの?", "id": "tr-317-07-001", "answers": [ { "text": "5列", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "背鰭と一緒になる隆起線はいくつあるの?", "id": "tr-317-07-002", "answers": [ { "text": "1列", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "腹鰭と第二背鰭はどちらが大きい?", "id": "tr-317-07-003", "answers": [ { "text": "腹鰭", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "幼魚は背側が暗褐色、腹側が淡黄色で、黄色い横縞、斑点がある。\n50-90cmまで成長すると黒い部分が縮小を始め、ヒョウ柄模様に変化してゆく。\n成体の模様は個体ごとに差があり、個体識別に用いることができる。\n1964年、インド洋において全ての斑点を欠くアルビノ個体が発見された。\nこれは全長1.9mの成体雌で、目立つアルビノが野生下で長期間生存していたという点で、非常に珍しいものである。", "qas": [ { "question": "本種のアルビノ個体が発見されたのはどこの水域でしたか?", "id": "tr-317-08-000", "answers": [ { "text": "インド洋", "answer_start": 109, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本種のアルビノ個体が発見された年はいつでしたか?", "id": "tr-317-08-001", "answers": [ { "text": "1964年", "answer_start": 103, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "インド洋で発見されたアルビノ個体の全長はどれくらいでしたか?", "id": "tr-317-08-002", "answers": [ { "text": "1.9m", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "幼魚の腹側は何色ですか?", "id": "tr-317-08-003", "answers": [ { "text": "淡黄色", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "インド太平洋の熱帯に分布する。\n南アフリカから紅海・ペルシャ湾(マダガスカル・モルディブを含む)・インド・東南アジア(インドネシア・フィリピン・パラオを含む)、北は台湾・日本まで、東はニューカレドニア・トンガまで、南はオーストラリア北部までで確認されている。\n底生で、潮間帯から水深62m程度の大陸棚の上に生息する。\n成体、大型の幼体はよくサンゴ礁・礫底・砂底で見られる。\n不確実ではあるが、フィリピンの淡水で見られたという報告もある。\n外洋を渡って別の島や海山に移動することもあり、ある個体は140kmを移動した記録がある。\nだが、遺伝子からは、連続する分布域であっても個体群間の移動は少ないことが示された。", "qas": [ { "question": "本種が生息している南限はどこですか?", "id": "tr-317-09-000", "answers": [ { "text": "オーストラリア北部", "answer_start": 109, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種が生息している東限となる国はどこですか?", "id": "tr-317-09-001", "answers": [ { "text": "トンガ", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種の生息水深は何mですか?", "id": "tr-317-09-002", "answers": [ { "text": "62m程度", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種の生息区域となる北限の国は台湾とどこですか?", "id": "tr-317-09-003", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 85, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日中は不活発で海底で休息しており、偶に胸鰭で体を持ち上げ、口を流れに向けて呼吸を行う。\n強い流れが得られるため、岩の間の水路が休息場所として好まれる。\n夜間や餌があるときは活発になる。\n泳ぎは素早くて力強く、体と尾鰭をウナギのようにうねらせることで推進する。\n一定の流れがある場所では、尾鰭をうねらせることで水中に浮かぶことができる。\n餌は主に貝類、甲殻類、小さな硬骨魚などで、おそらくウミヘビも食べる。\n体が細く柔らかいため、狭い穴や裂け目にも入り込み、口腔の分厚い筋肉によって獲物を吸い出すことができる。\n本種はより大きな魚類や海獣の餌となる。\n寄生虫として、4種のPedibothrium属の条虫などが見つかっている。", "qas": [ { "question": "日中での休息地はどこですか?", "id": "tr-317-10-000", "answers": [ { "text": "海底", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種の寄生虫は何種いますか?", "id": "tr-317-10-001", "answers": [ { "text": "4種", "answer_start": 282, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "通常は単独でいるが、20-50匹の群れを作ることも記録されている。\nクイーンズランド南東では毎夏、浅瀬で数百匹の群れが見られる。\nこの群れはほぼ全て大型の成体で、雌3に対し雄1の割合である。\n群れ内での交尾行動は観察されておらず、このような群れを作る目的は不明である。\n成体雄が他の雄の胸鰭に噛み付き、海底に押さえつける行動が観察されている。\n押さえられた雄は仰向けになって数分間動かなくなる。\nこの行動は雌雄間の交尾前行動と似ており、これは上になった雄が自身の優位性を主張する行動ではないかと推測されている。", "qas": [ { "question": "クイーンランドの南東で大群が見られる季節はいつですか?", "id": "tr-317-11-000", "answers": [ { "text": "夏", "answer_start": 47, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クイーンランドの南東で見られる群れの中で数が多いのは、雌と雄のどちらですか?", "id": "tr-317-11-001", "answers": [ { "text": "雌", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "交尾は、雄が雌を追いかけ、胸鰭や尾に噛み付くことで始まる。\n共に海底に降りた後、雄は雌に体を巻き付け、交尾器を雌の総排泄孔に挿入する。\n交尾は2-5分続く。\n卵生で、雌は17cm×8cm×5cm程度の大きさの卵鞘を産む。\n卵鞘は暗褐色から紫で、側面から細い繊維が生える。\nこの繊維には粘着性があり、雌は岩礁の垂直な壁に卵を固定する。\n最大で、112日程度かけて46個の卵を産んだ記録がある。\n各卵鞘は4個程度の束で産み付けられる。\n野生での繁殖期は不明である。", "qas": [ { "question": "卵鞘の大きさはどれくらいですか?", "id": "tr-317-12-000", "answers": [ { "text": "17cm×8cm×5cm程度", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "飼育下では、温度に依存するが、卵は4-6ヶ月で孵化する。\n孵化時は全長20-36cmで、成魚に比べ尾鰭が体に対して長い。\n幼魚がどのような場所で成長するかはよく分かっていないが、ある報告では50m以深、インドからの別の報告では成体より浅い場所、という結果がある。\n幼魚の縞模様には、群れの中で各個体の境界を曖昧にし、捕食者が1個体を狙いにくくする役割があると考えられている、雄は1.5-1.8m、雌は1.7mで性成熟する。\n寿命は野生下で25-30年と見られている。\n雌が無性生殖した報告が1例ある。", "qas": [ { "question": "性成熟時の最大サイズが大きいのは雄と雌のどちらですか?", "id": "tr-317-13-000", "answers": [ { "text": "雄", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "分布域のほとんどにおいて商業漁業の対象となっており、底引き網・刺し網・延縄などで漁獲される。\n肉は干物・塩漬けで消費され、肝油からはビタミン、鰭はフカヒレ、あらは魚粉とされる。\n浅瀬に生息し、個体群間の移動が少ないため、局地的な漁業の影響を受けやすい。\n市場調査からは、昔に比べ出現頻度が減ったことが推測される。\n沿岸の開発や、爆発物を用いた漁などの危機に曝されており、IUCNは危急種としている。\nオーストラリアでの脅威は、エビの底引き網漁による少数の混獲だけであるため、ここでは軽度懸念とされている。", "qas": [ { "question": "本種の漁獲方法は、刺し網、延縄の他にどんな方法がありますか?", "id": "tr-317-14-000", "answers": [ { "text": "底引き網", "answer_start": 26, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "肝油から採れる栄養素は何?", "id": "tr-317-14-001", "answers": [ { "text": "ビタミン", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "焼戻し", "paragraphs": [ { "context": "焼戻し(やきもどし、英語:tempering)とは、焼入れあるいは溶体化処理されて不安定な組織を持つ金属を適切な温度に加熱・温度保持することで、組織の変態または析出を進行させて安定な組織に近づけ、所要の性質及び状態を与える熱処理のことである。\n焼き戻し、焼もどしとも表記する。\n狭義には、焼入れされた鋼を対象にしたものを指す、鋼の焼戻しは、焼入れによりマルテンサイトを含み、硬いが脆化して、不安定な組織となった鋼に靱性を回復させて、組織も安定させる処理である。\nアルミニウム合金のような非鉄金属やマルエージング鋼のような特殊鋼などへの溶体化処理後に行われる。\n焼戻し処理は時効処理の一種で、人工時効あるいは焼戻し時効、高温時効と呼ばれる。\n本記事では焼入れされた鋼の焼戻しについて主に説明する。\n人工時効については時効(金属)を参照のこと。\nまた、本記事では日本工業規格、学術用語集に準じて、「焼戻し」の表記で統一する。", "qas": [ { "question": "焼入れの後に行う熱処理を何と言いますか?", "id": "tr-318-00-000", "answers": [ { "text": "焼戻し", "answer_start": 0, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "焼戻しでは、金属の不安定な組織をどのような組織に近づける効果がありますか?", "id": "tr-318-00-001", "answers": [ { "text": "安定な組織", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "焼入れされた鋼に含まれる組織とは何?", "id": "tr-318-00-002", "answers": [ { "text": "マルテンサイト", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "焼入れによって得られた鋼のマルテンサイト組織は、硬いが脆い状態となっている。\nこの焼入れ組織に粘り強さを与えるのが焼戻しの目的の1つである。\n基本的には焼戻し温度と呼ばれる焼戻し時に加熱・保持する温度を変更することで、硬さと靱性のバランスを決定する。\n靱性を重視する場合は比較的高温で焼戻しする高温焼戻しが、硬さを重視する場合は比較的低温で焼戻しする低温焼戻しが適用される。", "qas": [ { "question": "焼戻しの目的の1つは、焼入れ組織に何を与えることですか?", "id": "tr-318-01-000", "answers": [ { "text": "粘り強さ", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "何を変更することで硬さと靱性のバランスが決まるの?", "id": "tr-318-01-001", "answers": [ { "text": "焼戻し温度", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "靱性を重視する際の焼戻し温度は高温か低温かどっち?", "id": "tr-318-01-002", "answers": [ { "text": "高温", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "低温焼戻しが適用されるのは、靱性と硬さのどちらを重視する場合ですか?", "id": "tr-318-01-003", "answers": [ { "text": "硬さ", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "焼入れによって、加工品にはマルテンサイト変態や熱膨張によって内部に応力が発生する。\nこの応力は焼入れ後にも残り、変形・割れの発生や、機械的性質の悪化を生じさせる。\nこのような応力を残留応力と呼ぶ。\nこの残留応力を焼戻し処理によって除去あるいは軽減させることができる。\n加工品の大きさや加熱時間にもよるが、500°C程度の焼戻しで残留応力はほぼ除去でき、200°C程度の焼戻しで半減できる。", "qas": [ { "question": "焼入れ後に残る応力を何と呼んでいるの?", "id": "tr-318-02-000", "answers": [ { "text": "残留応力", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "残留応力を半減させることが出来るのは、焼戻し温度が何°Cの時ですか?", "id": "tr-318-02-001", "answers": [ { "text": "200°C程度", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "残留応力をほぼ除去することが出来る焼戻し温度はいくつですか?", "id": "tr-318-02-002", "answers": [ { "text": "500°C程度", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "焼入れ後の組織には、残留オーステナイトと呼ばれるマルテンサイト化しきれなかったオーステナイト組織が残っている。\n残留オーステナイトは常温で放置すると時間が経つに連れて徐々にマルテンサイトに変態する。\n残留オーステナイトからマルテンサイトへの変態の際、組織の体積が膨張するので変形や寸法変化を起こしたり、上記の残留応力とも相まって割れが発生する場合がある。\nまた、マルテンサイトも低炭素マルテンサイトへ時間が経つに連れて徐々に変化していき、その際に縮小を起こす。\n焼戻しにより、このような不安定な組織を安定化させて、加工品の寸法変化や割れの発生防止をすることができる。", "qas": [ { "question": "焼入れ後に割れが生じる原因となる組織は何ですか?", "id": "tr-318-03-000", "answers": [ { "text": "残留オーステナイト", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "厳密に言うと、残留オーステナイトが何に変態する時に割れの発生確率が高いですか?", "id": "tr-318-03-001", "answers": [ { "text": "マルテンサイト", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "焼入れされた鋼は、金属組織的にも内部応力的にも不安定な状態にある。\n焼入れで得られたマルテンサイト組織を再加熱していくと、マルテンサイトから過飽和に固溶されていた炭素や合金元素が吐き出され、安定な組織に近づいていき、機械的性質も変化していく。\nこれが焼戻しの基本原理である。\n以下、焼入れ後の組織を再加熱していくと、組織にどのような変化が発生していくかを説明する。", "qas": [ { "question": "焼戻しの際にマルテンサイトから排出されるのは合金元素や何ですか?", "id": "tr-318-04-000", "answers": [ { "text": "炭素", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "焼戻しするまでは、焼入れされた鋼の金属組織や内部応力はどのような状態なのか?", "id": "tr-318-04-001", "answers": [ { "text": "不安定な状態", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "まず80-160°Cまで加熱すると、マルテンサイトからε炭化物と呼ばれる炭化物が析出し、マルテンサイトは低炭素マルテンサイトあるいは焼戻しマルテンサイトと呼ばれる組織に変わり、組織は低炭素マルテンサイトとε炭化物で構成されるようになる。\n焼入れによる高炭素マルテンサイトはオーステナイトの炭素含有量をそのまま受け継いで炭素を0.8%含有しているのに対し、低炭素マルテンサイトは0.2-0.3%程度の含有量である。\n結晶構造は、高炭素マルテンサイトは正方晶であるのに対し、低炭素マルテンサイトは立方晶を取る。\nε炭化物は六方晶の結晶構造を持ち、Fe2-2.5CあるいはFe2-3Cで表され、標準組織で析出するFe3Cのセメンタイトとは異なる。\nまた、このような変化により体積が縮小する。\nこの変化は高炭素マルテンサイトが存在する場合のみに発生するので、炭素含有量0.3%以下の低炭素鋼では発生しない。", "qas": [ { "question": "高炭素マルテンサイトと低炭素マルテンサイトはどちらが炭素を多く含んでいるの?", "id": "tr-318-05-000", "answers": [ { "text": "高炭素マルテンサイト", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "炭素の含有量が低いのは、高炭素マルテンサイトと低炭素マルテンサイトのどちら?", "id": "tr-318-05-001", "answers": [ { "text": "低炭素マルテンサイト", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "結晶構造が立方晶の組織は何ですか?", "id": "tr-318-05-002", "answers": [ { "text": "低炭素マルテンサイト", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "加熱して焼戻しマルテンサイトに変化する前の組織名は何ですか?", "id": "tr-318-05-003", "answers": [ { "text": "マルテンサイト", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "次に230-280°Cまで加熱すると、組織中の残留オーステナイトが下部ベイナイトに変態する。\nこの変化で体積は膨張する。\nこの変化は残留オーステナイトが存在する場合のみに発生する。\n生じたベイナイトはやがてフェライトと炭化物(ε炭化物とセメンタイト)に変化する。", "qas": [ { "question": "残留オーステナイトが下部ベイナイトに変態する際に膨張するものは何ですか?", "id": "tr-318-06-000", "answers": [ { "text": "体積", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "残留オーステナイトが下部ベイナイトに変態するのは何°Cまで加熱した時ですか?", "id": "tr-318-06-001", "answers": [ { "text": "230-280°C", "answer_start": 2, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フェライトと炭化物は何が変化したものですか?", "id": "tr-318-06-002", "answers": [ { "text": "ベイナイト", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "さらに300°C以上に加熱すると、ε炭化物は一端母相中に溶け込み、χ炭化物と呼ばれる別の中間相炭化物の析出を経てセメンタイトを析出するようになる。\n低炭素マルテンサイトは炭素をセメンタイトとして析出したことでフェライトに変態していく。\nこの過程では体積は縮小する。\nセメンタイトは、初めはフェライト素地中に細かい粒状で分散しているが、さらに温度が上昇していくと、大きな粒子に凝縮していく。\n400-500°C程度までに加熱された組織は、トルースタイトと呼ばれる組織になり、500-650°C程度ではソルバイトと呼ばれる組織になる。\nトルースタイトは光学顕微鏡では判別できないレベルで微細化されたセメンタイトと等軸のフェライトから構成され、ソルバイトでは光学顕微鏡約400倍程度で判別できる微細な球状セメンタイトと等軸のフェライトで構成される。", "qas": [ { "question": "トルースタイトとソルバイトを比べると、生じる時の加熱温度が高いのはどちらの組織ですか?", "id": "tr-318-07-000", "answers": [ { "text": "ソルバイト", "answer_start": 249, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "低炭素マルテンサイトがフェライトに変態する際に、縮小するものは何ですか?", "id": "tr-318-07-001", "answers": [ { "text": "体積", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "以上の組織変化に加えて、合金鋼の場合、400-450°C以上に加熱すると固溶されていた合金元素も放出され、合金鋼特有の変化が発生するようになる。\nこの変化を第3段階に続く第4段階に加える場合もある。\nその合金鋼特有の炭化物が発生するようになり、次のような現象が発生する。\n高合金鋼を焼戻しすると、焼戻し前よりも硬さが向上する場合がある。\nこのような焼戻しによる硬化を、焼入れによる硬化を一次硬化として、二次硬化、あるいは焼戻し硬化と呼ぶ。\n二次硬化の要因は、残留オーステナイトが焼戻しによりマルテンサイト化することによる硬化と複炭化物の微細析出による硬化の2つである。\n二次硬化時に残留オーステナイトから変態したマルテンサイトは通常の焼入れ時に発生するマルテンサイトと同じなので、二次硬化を伴った焼戻し後には更にもう1回、2回焼戻しを繰り返すことが必要となる。", "qas": [ { "question": "焼入れによって硬くなる現象を何という?", "id": "tr-318-08-000", "answers": [ { "text": "一次硬化", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "焼戻しによって硬くなることを焼戻し硬化、もしくは何というの?", "id": "tr-318-08-001", "answers": [ { "text": "二次硬化", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "比較的低温域で焼戻しすることで、焼入れ後の硬さをあまり減少させず、残留応力の低減と性状の安定化を行うことができる。\nこのような焼戻し処理を低温焼戻しと呼ぶ。\n焼戻し温度は目安として150-250°Cの範囲である。\n低温焼戻しによって生じる鋼組織は、上記で説明した低炭素マルテンサイトで、ビッカース硬さは約800HVとなっている。\n硬さや耐摩耗性を必要とする材料に低温焼戻しが適用される。\n鋼種としては、炭素含有量が0.77%超える過共析鋼が主となっている。\n工具鋼の例としては、二次硬化特性を持たない炭素工具鋼や冷間加工用の合金工具鋼などに適用される。\n実際の製品としては、ナイフや包丁といった切削工具、ゲージやノギスといった計測器具、自動車車体のプレス金型、軸受などで適用される。\nまた、低温焼戻しは高周波焼入れ後や浸炭焼入れ後の標準的な焼戻しでもある。", "qas": [ { "question": "低温焼戻しのおおよその基準となる温度は何°Cですか?", "id": "tr-318-09-000", "answers": [ { "text": "150-250°C", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "低温焼戻しによって生じる鋼組織は何?", "id": "tr-318-09-001", "answers": [ { "text": "低炭素マルテンサイト", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "低温焼戻しが適用された切削工具は包丁と何ですか?", "id": "tr-318-09-002", "answers": [ { "text": "ナイフ", "answer_start": 287, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "低炭素マルテンサイトのビッカース硬さはどれくらいなの?", "id": "tr-318-09-003", "answers": [ { "text": "約800HV", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "加熱装置には油浴が最適とされる。\n100°Cに沸騰させたお湯に漬す焼戻しでも残留応力を25%程度減少でき、耐摩耗性向上の効果があるので、本来の低温焼戻し温度が不可能な場合などに推奨される。\n高温焼戻しの場合は焼戻し脆性を避けるために水冷などを用いた急冷が推奨されるが、焼戻し脆性温度を避けている低温焼戻しの場合は空冷などのややゆっくりした冷却が推奨される。\nこれは、ひずみや割れを防ぐためである。", "qas": [ { "question": "低温焼戻しにふさわしい加熱装置は何?", "id": "tr-318-10-000", "answers": [ { "text": "油浴", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "低温焼戻しにゆっくりした冷却が薦められるのはひずみや何を防止するためですか?", "id": "tr-318-10-001", "answers": [ { "text": "ひずみや割れを防ぐため", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "低温焼戻しに対して比較的高温域で焼戻しすることで、靱性を高める焼戻しを高温焼戻しと呼ぶ。\n焼戻し温度は目安として温度400-680°Cの範囲で行われる。\n加熱装置には塩浴や燃焼炉、電気炉が用いられる。\n前述で説明した通り、焼戻し温度によって得られる組織が異なる。\n高温焼戻しと呼ばれる焼戻し温度域の中でも、400-500°Cから焼き戻すとトルースタイトと呼ばれる組織が得られる。\nトルースタイトのビッカース硬さは約400HVで、硬さを残しつつ靱性もある程度高い組織が得られる。\nただし、トルースタイトは錆びやすいのが欠点の1つである。\n実際の製品としては高級刃物やバネ類などに適用される。", "qas": [ { "question": "高温焼戻しの目安温度は何°C?", "id": "tr-318-11-000", "answers": [ { "text": "400-680°C", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トルースタイトが得られる焼戻し温度は何°C?", "id": "tr-318-11-001", "answers": [ { "text": "400-500°C", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "トルースタイトの短所は何?", "id": "tr-318-11-002", "answers": [ { "text": "錆びやすい", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "トルースタイトのビッカース硬さはどれくらいあるのでしょうか?", "id": "tr-318-11-003", "answers": [ { "text": "約400HV", "answer_start": 206, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "500-650°Cから焼き戻すとソルバイトと呼ばれる組織が得られる。\nソルバイトのビッカース硬さは約280HVで、鋼の組織の中では最も靱性が高いのが特徴となっている。\n適度の強さと高い靱性を得られることから機械構造用鋼に適しており、実際の製品としても、トルースタイトと同じくバネ類も含め、機械部品全般で広く採用される。\n日本工業規格によれば、高温焼戻しでトルースタイトかソルバイト組織を得る焼入焼戻しを、特に調質と呼ぶ。\nまたは、ソルバイト組織を得る焼入焼戻しに限って調質と呼ぶ場合もある。\n高温焼戻しが適用される製品としては、上記で述べたもの以外では、軸、高強度ボルト、軽中荷重用歯車などがある。", "qas": [ { "question": "ソルバイトが得られるのは何°Cから何°Cに焼戻した時ですか?", "id": "tr-318-12-000", "answers": [ { "text": "500-650°C", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "適度な強さと高い靱性があり、機械構造用鋼に適している組織とは何?", "id": "tr-318-12-001", "answers": [ { "text": "ソルバイト", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ソルバイトを採用した実際の製品の中で、トルースタイトと共通している種類は何?", "id": "tr-318-12-002", "answers": [ { "text": "バネ類", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "焼戻しでは基本的に焼戻し温度に比例して硬さが低下するが、炭素鋼や合金鋼の低合金鋼などの鋼種に対して、中合金鋼、高合金鋼などの鋼種では、焼戻し温度上昇に対する硬さの低下割合が低くなる。\nこのように、鋼中の合金元素によっては、同じ焼戻し温度でも焼戻し後硬さが異なる性質を焼戻し軟化抵抗や焼戻し軟化抵抗性と呼ぶ、クロム、モリブデン、タングステン、バナジウムなどの炭化物形成元素が添加されていると、焼戻し軟化抵抗を大きくするように働く。", "qas": [ { "question": "焼戻し温度上昇に対する硬さの低下具合が低くないのは、低合金鋼と中合金鋼のどちらでしょうか?", "id": "tr-318-13-000", "answers": [ { "text": "低合金鋼", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "焼戻し軟化抵抗性とは、同じ焼戻し温度でも焼戻し後硬さがどうなる性質のことを言いますか?", "id": "tr-318-13-001", "answers": [ { "text": "異なる性質", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "焼戻し軟化抵抗が大きく働く元素とは、クロム、モリブデン、バナジウムの他に何がある?", "id": "tr-318-13-002", "answers": [ { "text": "タングステン", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "焼戻しは加工品の靱性を向上させる処理だが、焼戻し温度によっては逆に脆化する場合がある。\nこれを焼戻し脆性と呼び、低温焼戻し脆性と高温焼戻し脆性がある。\n焼戻し特有の欠陥で、焼戻し処理時には焼戻し脆性が発生する温度域には注意を要する。", "qas": [ { "question": "焼戻しは基本的に加工品のどういった性質を高める処理ですか?", "id": "tr-318-14-000", "answers": [ { "text": "靱性", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "焼戻しする際の何が加工品に影響を与えて脆化させてしまうのですか?", "id": "tr-318-14-001", "answers": [ { "text": "温度", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "靱性の対義語は何ですか?", "id": "tr-318-14-002", "answers": [ { "text": "脆化", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "250-350°Cからの焼戻しで発生する脆化を低温焼戻し脆性と呼ぶ。\n低温焼戻し脆性は、焼戻しの冷却速度と鋼種を問わずに発生する。\n一端高温で焼戻しすれば、この条件で焼戻ししても低温焼戻し脆性は発生しなくなるのが特徴である。\n低温焼戻し脆性の原因は、リン、窒素などの不純物が旧オーステナイト結晶粒界に析出すること、300°C以上で析出する初期セメンタイトが薄板状のため粒界に析出すること、残留オーステナイトから炭化物が析出して不安定になり、荷重負荷時にマルテンサイト変態して脆くなること、などが挙げられる。\nそのため、リン、窒素などの不純物を減らすことも脆化を軽減する対策の1つである。\n防止策としては、この温度域からの焼戻しを避けることが第一で、珪素を添加も有効である。\n珪素の働きでε炭化物を安定させて、セメンタイトの析出と成長を抑え、脆化発生領域を高温域に移動させることができる。", "qas": [ { "question": "低温焼戻し脆性を軽減する対策として窒素と何を減らすことが挙げられますか?", "id": "tr-318-15-000", "answers": [ { "text": "リン", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "低温焼戻し脆性が発生する時の温度は何°Cですか?", "id": "tr-318-15-001", "answers": [ { "text": "250-350°C", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "450-550°Cからの焼戻しで発生する脆化を高温焼戻し脆性と呼ぶ。\nさらに、この温度域を避けて550-650°Cから焼戻ししても500°C付近を徐冷すると同様に高温焼戻し脆性が発生してしまう。\nそのため、高温焼戻し脆性を避けて550-650°Cから焼戻しする時には急冷が推奨される。\n脆化を避ける冷却速度は空冷以上が望ましいとされる。\n高温焼戻し脆性の原因は、リン、アンチモンなどの不純物が旧オーステナイト結晶粒界に析出するためで、モリブデンの添加が析出を遅らせるのに有効である。\n一方で、クロム、ニッケル、マンガンなどは析出を促進させるので、ニッケルクロム鋼、クロム鋼、ニッケルマンガン鋼、マンガン鋼などで発生しやすい。\n低温焼戻し脆性と異なり可逆性を持つのが特徴で、適切な他の条件で焼戻ししても、その後にこの条件で焼戻しすると高温焼戻し脆性が発生する。\n逆に、高温焼戻し脆化された加工品でも再度急冷で焼き戻し直せば使えるようになる。", "qas": [ { "question": "高温焼戻し脆性が生じる時の焼戻し温度は何°Cなの?", "id": "tr-318-16-000", "answers": [ { "text": "450-550°C", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "急冷が推奨される焼戻し温度は何°Cから何°Cの時ですか?", "id": "tr-318-16-001", "answers": [ { "text": "550-650°C", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "450-550°Cからの焼戻しで生じる脆化の事を何と言っていますか?", "id": "tr-318-16-002", "answers": [ { "text": "高温焼戻し脆性", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "脆化を回避するために適した冷却速度は何以上とされていますか?", "id": "tr-318-16-003", "answers": [ { "text": "空冷以上", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "今中慎二", "paragraphs": [ { "context": "今中慎二は、大阪府門真市出身の元プロ野球選手・コーチ等の野球指導者、野球解説者だ。愛称は「チュー」または「イマチュー」である。\n\n現役時代は中日ドラゴンズに所属し、最多勝利や沢村栄治賞を獲得するなど、1990年代のNPBを代表する左腕として活躍した。\n\n今中慎二は大阪府門真市の古川橋駅周辺で生まれ、3歳年上の兄の影響で浜町小学校2年生の時に野球を始めた。本来は右利きだが、この時に近所の中年女性から左利き用のグラブをもらって使い始めたことがきっかけで、左投げになった。3年生になると兄と同じ軟式野球チームに入り、4年生からは投手になった。門真第一中学に進むと同年設立されたリトルシニアチームである門真シニアに入団し、1年目からエースとなっている。当時から球速があったが、チームの守備力が高くない事などから大会ではなかなか勝てず、野球を辞めようかとも考えたという。", "qas": [ { "question": "「チュー」とは誰の愛称ですか。", "id": "tr-319-00-000", "answers": [ { "text": "今中慎二", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "今中慎二は現役時代、どこに所属していたか。", "id": "tr-319-00-001", "answers": [ { "text": "中日ドラゴンズ", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "今中慎二は誰の影響で野球を始めたか。", "id": "tr-319-00-002", "answers": [ { "text": "3歳年上の兄", "answer_start": 150, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "今中慎二はいつから野球を始めたの?", "id": "tr-319-00-003", "answers": [ { "text": "浜町小学校2年生の時", "answer_start": 160, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "今中慎二は大阪産大高校大東校舎に進学後、入学当初は目立った存在ではなかったが、すぐに見違えるような速球を投げるようになり、同校を訪れた田丸仁からも高評価を受けたという。1年夏の大阪府大会からベンチ入りを果たし、秋の府大会では準々決勝の対PL学園戦に登板した。この試合は0対1で敗れたものの、立浪和義や野村弘を擁して翌年に春夏連覇を果たす強豪をよく抑え、NPBのスカウトらから注目を集めるようになった。2年の冬にはクモ膜下出血で母を亡くし、精神的に大きく落ち込んだが、3年時になると精神的に立ち直り、将来のプロ入りを明確に目指すようになった。\n\n3年生に進級した1988年度より大東校舎は大阪桐蔭高校として独立する。3年夏の大阪府大会では15個の三振を奪いながら延長戦の末に初戦で敗退し、甲子園に出場することはなかった。漫然と大学への進学を予定していたが、145km/hの速球などによって全球団のスカウトが来校するほど高い注目を集めており、1988年度ドラフト会議で中日ドラゴンズから1位指名を受けた。担当スカウトは法元英明で、契約金と年俸それぞれ6000万円、480万円(いずれも推定)で入団契約を結んでいる。同期には、バッテリーを組んでいた桐山明佳(1988年に日本ハムファイターズにドラフト外で入団)がいる。", "qas": [ { "question": "1988年、今中慎二は高校何年生になったの?", "id": "tr-319-01-000", "answers": [ { "text": "3年生", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "カタルーニャ州", "paragraphs": [ { "context": "カタルーニャ州(カタルーニャしゅう、カタルーニャ語:Catalunya[kətəˈluɲə],スペイン語:Cataluña,アラン語:Catalonha)は、スペインの自治州。\n州都はバルセロナ。\nカタルーニャ州はスペイン北東部の地中海岸にあり、交通の要衝として古代から栄えた。\nカタルーニャは独自の歴史・伝統・習慣・言語を持ち、カタルーニャ人としての民族意識を有している。\n中世にはアラゴン連合王国として地中海の覇権を握ったが、スペイン王国成立後には衰退した。\n1979年にはスペイン国家内で自治州の地位を得たが、2010年代にはカタルーニャ独立運動が盛んになり、2017年10月にはカタルーニャ共和国として独立宣言が行われるに至った。", "qas": [ { "question": "カタルーニャ州の州都は?", "id": "tr-320-00-000", "answers": [ { "text": "バルセロナ", "answer_start": 92, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カタルーニャ州は中世時代に何王国として地中海の覇権を握ったの?", "id": "tr-320-00-001", "answers": [ { "text": "アラゴン連合王国", "answer_start": 192, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "14世紀末のカタルーニャ地方の人口は約45万人と推定されており、18世紀初頭までほぼ変化がなかったとされているが、18世紀以後に大きく変化した。\n1787年のカタルーニャの人口は87万人だったが、1857年には165万人となり、スペイン全土に占める比率も7.8%から10.7%に増加した。\n19世紀前半にはまだ国内移民は多くなく、基本的には産業革命の進行による自然増によるものである。\n1900年には196万人(スペイン比10.5%)だったが、アラゴン・バレンシア・ムルシア・アルメリアなどからの国内移民が増加した結果、1930年には279万人(同11.8%)まで増加した。\nバルセロナではこの30年間に人口が倍増して100万都市となったが、その影響で都市環境の悪化に悩まされている。\nスペイン内戦とその後の混乱で人口の伸びが停滞し、1950年の人口は324万人だったが、1960年代以降の経済成長で大量に国内移民を受け入れたことで、1975年には566万人にまで急増した。\n1961年から1975年の間に、アンダルシア地方などからカタルーニャに95万人が流入している。\n1970年にはカタルーニャの人口の38%が非カタルーニャ人であり、乱開発、インフラや公共サービスの不足、公害などの生活環境の悪化につながった。", "qas": [ { "question": "1787年と1857年のカタルーニャの人口はどちらが多かったの?", "id": "tr-320-01-000", "answers": [ { "text": "1857年", "answer_start": 98, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1900年と1930年のカタルーニャへ移動して来た国内移民はどちらが多かったですか?", "id": "tr-320-01-001", "answers": [ { "text": "1930年", "answer_start": 260, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "バルセロナの人口は1950年と1975年を比較するとどちらが少ないですか?", "id": "tr-320-01-002", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 367, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "民主化後の1980年代にはカタルーニャ経済が低迷し、1981年には595万人、1991年には605万人と、人口の伸びは低調だった。\n1990年代にはEU外からの移民が増加し、2003年の外国人居留者は約40万人(6%)に上っている。\n2003年時点での国籍別ではモロッコ人(30%)、エクアドル人(6%)、ペルー人(4.6%)の順に多く、地域としてはラテンアメリカ諸国、北アフリカ、アジア諸国からの移民が多い。\n2008年のカタルーニャ州の人口は7,354,411人であり、そのうちの移民の比率は12.3%であった。\n面積2,268km2のバルセロナ都市圏には3,327,872人が暮らし、バルセロナの中心部から半径15km以内に約170万人が暮らしている。\nカタルーニャの人口は沿岸部に偏っており、内陸部の人口は減少傾向にある。", "qas": [ { "question": "1981年と1991年を比較してみて、カタルーニャの人口が少ないのはどちら?", "id": "tr-320-02-000", "answers": [ { "text": "1981年", "answer_start": 26, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2003年時点での国籍別でモロッコ人、エクアドル人、ペルー人の中で2番目に割合が多いのは何人ですか?", "id": "tr-320-02-001", "answers": [ { "text": "エクアドル人", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical 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] }, { "context": "1930年代後半のスペイン内戦後に国家の中央集権化を推し進めたフランコ体制下(1939-1975)では、公的使用が禁じられて弾圧を受けた。\n内戦以前のカタルーニャでは年間700冊以上の書籍・年間200冊以上の雑誌が出版されていたが、カタルーニャ語出版物は全面的に禁じられた。\n自治体・道路・広場などの名称はスペイン語名に変更され、カタルーニャ語名を戸籍簿に登録することが禁じられた。\nカタルーニャ主義に関与した教育関係者は一様に罷免され、カスティーリャ地方やエストレマドゥーラ地方からスペイン語教師が送り込まれている。\nカタルーニャ文化の規制は1946年に緩和され、1962年には実質的に自由化されたが、公教育やマスメディアでカタルーニャ語の使用が始まるのはフランコ死去後のことである。", "qas": [ { "question": "カタルーニャ語の公的使用が禁止された期間とは?", "id": "tr-320-04-000", "answers": [ { "text": "1939-1975", "answer_start": 39, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カタルーニャ語の公的使用を禁止した人物とは?", "id": "tr-320-04-001", "answers": [ { "text": "フランコ", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "民主化後に制定されたスペイン1978年憲法では各自治州が独自の公用語を用いることを認めており、カタルーニャ州はスペイン語に加えてカタルーニャ語も公用語とした。\n1983年には言語正常化法を制定し、1998年には言語正常化法を発展させた言語政策法を制定した。\n公立の初等・中等教育ではほぼすべてでカタルーニャ語が採用されており、カタルーニャ語は教育言語として定着している。\n1998年にはエル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ紙がスペイン語版に加えてカタルーニャ語版の発行も始め、2011年にはカタルーニャ地方最大の新聞であるラ・バングアルディア紙も追随した。\nカタルーニャ公営鉄道、バルセロナ地下鉄、バスなどの公共交通ではカタルーニャ語が基本であり、レンフェ(スペイン国鉄)は両言語でアナウンスしている。\nカタルーニャ州の言語政策は国家公用語であるスペイン語を軽視していると批判されることもある。\nなお、1993年に独立国家となったアンドラ公国はカタルーニャ語を公用語としている。", "qas": [ { "question": "エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ紙とラ・バングアルディア紙はどちらが先にカタルーニャ語版の発行を始めたの?", "id": "tr-320-05-000", "answers": [ { "text": "エル・ペリオディコ・デ・カタルーニャ紙", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アンドラ公国の公用語は何?", "id": "tr-320-05-001", "answers": [ { "text": "カタルーニャ語", "answer_start": 422, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カタルーニャ州でカタルーニャ語が公用語として追加されたのは何年?", "id": "tr-320-05-002", "answers": [ { "text": "1978年", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "人間の塔(カステイス)はカタルーニャの象徴の一つとされる組体操であり、結束・団結・努力などカタルーニャ人の民俗的特質を表しているとされる。\n大きなものでは約150人が参加し、3階建てのビルに相当する約10mの塔を組む。\n人間の塔は18世紀末にタラゴナ地方のバイスで生まれたとされており、20世紀前半には消滅しかけたものの、1960年代以降にカタルーニャ文化が見直されるようになるとカタルーニャ地方全土に広がった。\n1990年代にブームが起こり、2010年時点では56のチーム、8,000人が活動しているとされる。\n2010年には「人間の塔」が、「ベルガのパトゥム」に次いでカタルーニャ地方で2番目の無形文化遺産となった。", "qas": [ { "question": "カタルーニャ地方における最初の無形文化遺産とは何?", "id": "tr-320-06-000", "answers": [ { "text": "「ベルガのパトゥム」", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カステイス発祥の地とはどこ?", "id": "tr-320-06-001", "answers": [ { "text": "バイス", "answer_start": 128, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "カタルーニャ人のアイデンティティを表す舞踊としてサルダーナがある。\n男女が交互になって手を高く上げて繋ぎ、輪を描くようにして踊る。\nサルダーナはリズムの取り方やステップの踏み方が独特である。\nサルダーナは激しく情熱的なフラメンコとは対比的であり、闘牛(スペインの象徴)と人間の塔(カタルーニャの象徴)の関係に似ているとされる。\nフランコ体制下ではサルダーナは禁じられており、20世紀初頭や1970年代末の民主化以後にカタルーニャ精神の象徴であるとする意味合いが込められた。", "qas": [ { "question": "カタルーニャ人のアイデンティティを表す舞踊とは何?", "id": "tr-320-07-000", "answers": [ { "text": "サルダーナ", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サルダーナが禁止されていたのは誰の体制下の時でしたか?", "id": "tr-320-07-001", "answers": [ { "text": "フランコ", "answer_start": 164, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "スペイン北部の祭礼には巨人人形が登場することがあり、約3-4mの人形の中に人間が入ってパレードに参加する。\nバルセロナのマルセーの祭礼では、巨人人形に加えて、ドラゴンやタラスク(亀と蛇が合体した怪物)などの人形もそろって行進し、夜間にはドラゴンやタラスクが爆竹を鳴らし火を噴きながら歩くコラフォックが行われる。\nベルガでは聖体祭にパトゥムという祭礼が行われ、巨人人形やドラゴンに似た怪物や巨人人形がパレードや寸劇を繰り広げる。\n2005年にはカタルーニャ地方で初めて「ベルガのパトゥム」がユネスコの無形文化遺産に登録された。", "qas": [ { "question": "「ベルガのパトゥム」に登場する人形とはどんなもの?", "id": "tr-320-08-000", "answers": [ { "text": "巨人人形", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "巨人人形の高さはどれくらいあるの?", "id": "tr-320-08-001", "answers": [ { "text": "約3-4m", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スペインではクリスマスにキリストの降誕の場面を模したベレン(Belén)と呼ばれる立体模型を製作することが多いが、カタルーニャ地方ではこの生誕飾りがパセブラと呼ばれる。\nパセブラには必ずカガネル(排便人形)が飾られ、翌年の豊穣などを祈願する。\nこの時期になると子どもはカガ・ティオー(糞しろ、丸太)と呼ばれる人形を作り、クリスマスに「糞しろ、丸太、糞しろ丸太」と歌いながら人形を棒で叩くと、菓子やおもちゃが貰える。\n春季には聖週間や復活祭が行われ、白いシュロ飾りやチョコレート菓子などが登場する。\n聖木曜の沈黙の行列を行う都市もあり、キリストの受難劇を含む行列を行う村もある。\n4月23日にはカタルーニャの守護聖人であるサン・ジョルディの祭礼が行われ、人々はバラの花や本を贈りあう。\n夏至の時期である6月23日にはサン・ジュアンの祭礼が行われ、この日には爆竹を鳴らすのが一般的な風習となっている。\nカタルーニャの象徴であるカニゴー山でたき火を行い、その火をカタルーニャの全自治体の祭礼会場に届けることでカタルーニャ地方の一体感を再確認する日でもある。\n9月24日はバルセロナの守護聖人であるマルセー(慈悲の聖母)の日であり、この日を中心とする一週間にはコンサート、マラソン、航空ショー、花火など様々なイベントが開催される。\n11月1日の諸聖人の日と11月2日の死者の日が祝われ、焼き栗などが食べられる。", "qas": [ { "question": "サン・ジョルディの祭礼で贈る植物とは?", "id": "tr-320-09-000", "answers": [ { "text": "バラ", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サン・ジョルディの祭礼で贈られる物品とは?", "id": "tr-320-09-001", "answers": [ { "text": "本", "answer_start": 334, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "翌年の豊穣などを祈願する人形の名前は?", "id": "tr-320-09-002", "answers": [ { "text": "カガネル", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カタルーニャ州は自治州旗(サニェーラ)、国祭日(ディアーダ)、自治州歌(『収穫人たち』)を有している。\n金色地に4本の赤線を引いたサニェーラが生まれたのは9世紀末であるとする伝承があり、1150年にはこのデザインがバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の紋章となった。\nやがてアラゴン=カタルーニャ連合王国の王家の象徴となり、1979年のカタルーニャ自治憲章でサニェーラがカタルーニャ自治州旗とされた。\nアラゴン州旗にも類似の図柄が採用されており、フランスのプロヴァンス地方の紋章も起源を同じくしている。", "qas": [ { "question": "カタルーニャ州の自治州旗とは何?", "id": "tr-320-10-000", "answers": [ { "text": "サニェーラ", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アラゴン州旗に採用されている図柄と同じ自治州旗は何ですか?", "id": "tr-320-10-001", "answers": [ { "text": "サニェーラ", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サニェーラが生まれたのはいつだと伝えられているの?", "id": "tr-320-10-002", "answers": [ { "text": "9世紀末", "answer_start": 77, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "毎年9月11日はカタルーニャ国民の日(ディアーダ)と呼ばれる祝祭日であり、18世紀初頭のスペイン継承戦争でバルセロナが陥落した日(1714年9月11日)を由来としている。\nこの戦争後にはブルボン朝によってカタルーニャ語の公的使用が初めて禁じられ、カタルーニャ文化は衰退の時代を迎えた。\nカタルーニャ地方の自由と固有制度の喪失を想起させる日を記念日とすることで、自らのアイデンティティの保持を表明している。\n1886年に初めてカタルーニャ国民の日が記念され、フランコ体制下でこの記念日は抑圧されたが、1980年にはカタルーニャ州政府によって復活した。\nカタルーニャ地方各地でスペイン継承戦争の英雄を追悼する行事が行われ、多くの市民がサニェーラなどを揺らす。\n2012年には約150万人が参加する大規模な独立デモが組織され、このデモによってカタルーニャ独立の機運が高まったとされる。\n独立支持派により星付きの旗(アスタラーダ)が使用されることが多い。\n様々な行事で「傲慢な人びとよ、立ち去れ!」と歌われる『収穫人たち』は、1993年のカタルーニャ州議会の決議によって自治州歌とされた。\nこの歌は農民を中心とする民衆が権力者に対抗した収穫人戦争(1640年-1650年)に由来する。", "qas": [ { "question": "スペイン継承戦争でバルセロナが陥落した日を由来したカタルーニャの祝祭日の通称とは?", "id": "tr-320-11-000", "answers": [ { "text": "ディアーダ", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カタルーニャの自治州歌のタイトルは?", "id": "tr-320-11-001", "answers": [ { "text": "『収穫人たち』", "answer_start": 450, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『収穫人たち』の由来となる争いとは?", "id": "tr-320-11-002", "answers": [ { "text": "収穫人戦争", "answer_start": 514, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "19世紀後半に生まれたエンリケ・グラナドスとイサーク・アルベニスは、スペインの国民学派を代表する音楽家である。\nグラナドスは演奏活動の傍らで音楽教育者としても成功したが、第一次世界大戦中にイギリス船でアメリカ合衆国に向かう途中、ドイツの潜水艦の攻撃を受けて亡くなった。\nアルベニスは『スペイン組曲』や『イベリア組曲』などのピアノ曲を書き、音楽家や画家などに多くの友人がいた。\nフェデリコ・モンポウは「クロード・ドビュッシーの後継者」と呼ばれ、カタルーニャ民謡を用いた曲集やカタルーニャ語の歌曲などを残した。\nパウ・カザルスは世界最高のチェリストと呼ばれる。\nカザルスはスペイン内戦勃発後に亡命し、フランス領カタルーニャのプラードで長らく暮らした。\nプラードではカザルスが中心となったプラード音楽祭が開催されるようになり、『パセブラ』を作曲したのもこの地である。\n1971年の国連総会ではカタルーニャ民謡『鳥の歌』を演奏し、自身を「カタルーニャ人」であると述べている。\n現在、世界のクラシック音楽界で最も高い評価を受けているピアニストの一人であるマリア・マルタ・アルゲリッチは祖先は18世紀にカタルーニャ地方からアルゼンチンへ移住していて、アルゲリッチはカタルーニャ発祥の姓である。\nまた古楽演奏の分野ではジョルディ・サバールが名高い。", "qas": [ { "question": "エンリケ・グラナドスが亡くなった時、何の戦争が行われていたの?", "id": "tr-320-12-000", "answers": [ { "text": "第一次世界大戦", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "世界最高のチェロの演奏者は誰?", "id": "tr-320-12-001", "answers": [ { "text": "パウ・カザルス", "answer_start": 254, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『パセブラ』が作曲された地とはどこ?", "id": "tr-320-12-002", "answers": [ { "text": "プラード", "answer_start": 324, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "世界的なオペラ歌手のモンセラート・カバリェとホセ・カレーラスはカタルーニャ地方出身である。\nカバリェは1965年にアメリカ合衆国で知名度を得て、その後世界的なスター歌手となった。\nカレーラスはカバリェに見出され、1987年に発病した白血病を乗り越えて活躍している。\n著名なオペラ歌手を輩出している背景には、19世紀前半に設立されたリセウ音楽院とリセウ大劇場の存在がある。", "qas": [ { "question": "モンセラート・カバリェとホセ・カレーラスの出身地はどこ?", "id": "tr-320-13-000", "answers": [ { "text": "カタルーニャ地方", "answer_start": 31, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "カタルーニャ地方にアラブの遺跡はほとんど存在しない。\n11世紀以後にはカタルーニャのキリスト教美術が目覚ましく変化し、カタルーニャ地方のフレスコ画の数と質は西ヨーロッパで際立っているとされる。\nロマネスク様式の修道院・教会・大聖堂が数多く建設され、バルセロナ美術館にはいくつものロマネスク絵画の傑作が収蔵されている。\nゴシック時代にはカタルーニャ様式と呼ばれる簡素さを好む様式が生まれ、アラゴン=カタルーニャ連合王国の領土であったサルデーニャやナポリなどでもこの様式の特徴がみられる。\n政治的背景が理由で1500年頃のルネサンス期のカタルーニャ美術は低調だった。\n17世紀末にはカタルーニャにバロック美術の波が到来し、特に建築の分野で数多くの作品が残っている。\n1750年以降にはネオ・クラシック美術の影響が強く、19世紀には建築がロマン主義に移行した。", "qas": [ { "question": "フレスコ画の数と質が西ヨーロッパで抜きん出ている地域はどこ?", "id": "tr-320-14-000", "answers": [ { "text": "カタルーニャ地方", "answer_start": 59, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゴシック時代に生まれたシンプルさを好む様式とは何?", "id": "tr-320-14-001", "answers": [ { "text": "カタルーニャ様式", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "19世紀後半には大都市の再開発が行われ、19世紀末には特に建築の分野でムダルニズマが花開いた。\nアントニ・ガウディはサグラダ・ファミリア教会に心骨を注ぎ、リュイス・ドゥメナク・イ・ムンタネーやジュゼップ・プッチ・イ・カダファルクも活躍した。\n画家ではサンティアゴ・ルシニョールやラモン・カザスが登場し、彼らが開いたカフェ『四匹の猫』ではパブロ・ピカソの初個展が開催された。\nスペイン内戦が勃発すると多くの芸術家が亡命してパリや南仏に逃れたが、第二次世界大戦後にはカタルーニャで芸術活動が再開された。\n1960年代から1970年代には、ジョアン・ミロとサルバドール・ダリという2人のカタルーニャ人芸術家が名声を高めた。\n1948年にはムデスト・クシャ、ジュアン=ジュゼップ・タラッツ、アントニ・タピエスが美術団体「ダウ・アル・セット」(サイコロにおける7の目)を結成し、後には3人ともに国内外で評価を高めた。\nタピエスは現代のカタルーニャ美術界の代表的存在であり、様々な素材を用いて精神性や美を追求した。\n1960年代以降にはカタルーニャの建築界が高い評価を受けており、世界的にウリオル・ブイーガス、リカルド・ボフィルらの名が知られている。", "qas": [ { "question": "サグラダ・ファミリア教会建築の中心的人物は誰だったの?", "id": "tr-320-15-000", "answers": [ { "text": "アントニ・ガウディ", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『四匹の猫』を開いたのはラモン・カザスと誰ですか?", "id": "tr-320-15-001", "answers": [ { "text": "サンティアゴ・ルシニョール", "answer_start": 125, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "12世紀のカタルーニャ詩人はカタルーニャ語ではなく主にオック語で詩作を行っていた。\n13世紀に活動したラモン・リュイは「カタルーニャ語の父」と呼ばれており、その内容の豊かさや言語的創造性の高さから普遍的な価値が認められている。\n14世紀のカタルーニャ地方では散文が優勢となり、フランセスク・アシメニスやビセン・ファレーなどが登場した。\n15世紀は「カタルーニャ文学の黄金時代」とされ。\n詩人のアウジアス・マルクや騎士道小説『ティラン・ロ・ブラン』を書いたジュアノット・マルトゥレイなどがバレンシアで活躍した。\n1479年にスペイン王国が成立した影響で、民衆以外の宮廷や知識人の間ではスペイン語化が進んだ。\nカタルーニャ地方が政治的・経済的に低迷した16世紀以後にはカタルーニャ文学も停滞し、16世紀から18世紀は「カタルーニャ文学の衰退期」と呼ばれている。", "qas": [ { "question": "「カタルーニャ語の父」と呼ばれた人は?", "id": "tr-320-16-000", "answers": [ { "text": "ラモン・リュイ", "answer_start": 51, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ティラン・ロ・ブラン』の作者は誰?", "id": "tr-320-16-001", "answers": [ { "text": "ジュアノット・マルトゥレイ", "answer_start": 227, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「カタルーニャ文学の衰退期」は何世紀から始まったの?", "id": "tr-320-16-002", "answers": [ { "text": "16世紀", "answer_start": 324, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "19世紀半ばにはカタルーニャ語とカタルーニャ文化の復興運動であるラナシェンサ(文芸復興)運動が興り、「カタルーニャの国民的詩人」と呼ばれるジャシン・バルダゲーや劇作家のアンジャル・ギマラーなどが活躍した。\n19世紀末にはカタルーニャ・ナショナリズムが勢いを増し、19世紀末から20世紀初頭にはムダルニズマ(近代主義)運動が興った。\n1930年代にはスペイン第二共和政の教育政策や言語政策にも助けられ、カタルーニャ文学は特に詩などの分野で活況を呈した。\nスペイン内戦後のフランコ体制ではカタルーニャ語が弾圧され、カタルーニャ語作家はスペイン語作家に転向したり他国に亡命した。\n1960年代になるとようやくカタルーニャ語文学の出版も可能となり、マヌエル・ダ・ペドロロの『第二創世記のタイプ原稿』はカタルーニャ語文学史上最大の売り上げを記録している。\n1970年代末の民主化以後のカタルーニャでは詩の分野で優れた作家が多いとされる。", "qas": [ { "question": "カタルーニャ語文学で最も高い売り上げを記録した作品とは何?", "id": "tr-320-17-000", "answers": [ { "text": "『第二創世記のタイプ原稿』", "answer_start": 332, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『第二創世記のタイプ原稿』の作者は誰?", "id": "tr-320-17-001", "answers": [ { "text": "マヌエル・ダ・ペドロロ", "answer_start": 320, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "カタルーニャ自治州政府は20世紀初頭からスポーツ振興に力を入れており、各競技のカタルーニャ代表を国際大会に参加させることを目標としている。\nローラーホッケーのカタルーニャ代表は暫定的に国際大会への参加を認められているが、その他の競技では国際大会への参加は実現していない。\n1931年の国際オリンピック委員会(IOC)総会では1936年の夏季オリンピック開催地が決定され、下馬評ではバルセロナが有力だったもののドイツのベルリンに敗れた。\nナチス・ドイツのアドルフ・ヒトラー総統はベルリンオリンピックを政治利用しようとしたため、対抗してほぼ同時期にバルセロナで人民オリンピックの開催が企画された。\nカタルーニャ自治政府に加えてスペイン共和国政府も支援し、23か国から約6,000人の選手が人民オリンピックに参加を申し込んでいる。\nしかし、開会式当日の7月19日にスペイン内戦が勃発したことで人民オリンピックは中止を余儀なくされた。\nそれから56年後、カタルーニャ人のフアン・アントニオ・サマランチがIOC会長を務めていた1992年に、カタルーニャ色を強く出したバルセロナオリンピックが開催された。", "qas": [ { "question": "人民オリンピックの中止の原因は何が起こったからですか?", "id": "tr-320-18-000", "answers": [ { "text": "スペイン内戦", "answer_start": 379, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world 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"FCバルセロナとレアル・マドリードの対戦を何と呼んでいる?", "id": "tr-320-19-001", "answers": [ { "text": "エル・クラシコ", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "FCバルセロナのホームスタジアムはどこにある?", "id": "tr-320-19-002", "answers": [ { "text": "カンプ・ノウ", "answer_start": 200, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "FCバルセロナを運営している会員の呼称とは?", "id": "tr-320-19-003", "answers": [ { "text": "ソシオ", "answer_start": 284, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ボーイング717", "paragraphs": [ { "context": "ボーイング717(Boeing717)は、アメリカ合衆国のボーイングが製造した、100席級のナローボディの双発ジェット旅客機である。当初はマクドネル・ダグラスによりMD-95として開発が進められていたが、同社がボーイングに吸収合併されたことでボーイング717の名称が与えられた。717はダグラスが開発したDC-9の発展型で、DC-9由来の胴体断面、低翼配置の主翼、T字型の尾翼を備え、胴体尾部の左右に1発ずつターボファンエンジンを備える。機体寸法は、全長が37.81メートル、全幅は28.45メートル、全高は8.92メートルで、標準座席数は106(2クラス)から117席(1クラス)である。ボーイング717のラインナップは717-200の一種類のみだが、オプションで燃料タンクを増設して最大離陸重量を増加させたHGW型がある。", "qas": [ { "question": "ボーイング717のもともとの名称は何か?", "id": "tr-321-00-000", "answers": [ { "text": "MD-95", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ボーイング717における、1クラスと2クラスのうち、その座席数がより多いのはどれ?", "id": "tr-321-00-001", "answers": [ { "text": "1クラス", "answer_start": 286, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "HGW型は717-200の標準型から何を増加させたものですか?", "id": "tr-321-00-002", "answers": [ { "text": "最大離陸重量", "answer_start": 343, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1995年10月にMD-95の正式開発が決定され、途中マクドネル・ダグラスがボーイングに吸収合併されるという出来事もあったが、合併後も唯一開発・生産が継続されたマクドネル・ダグラスの旅客機となった。717は1999年10月にエアトラン航空によって初就航し、従来ターボプロップ機のみを運航していた小さな航空会社でも採用された。ボーイングはボーイング737との売り分けを考えていたが受注は伸び悩み、2006年5月に最終機の引き渡しが行われて生産が終了した。717の総生産数は156機であった。2017年10月現在、717に関して5件の航空事故・事件が発生しているが、機体損失事故および死亡事故に至ったものはない。", "qas": [ { "question": "ボーイング717の初就航はいつ?", "id": "tr-321-01-000", "answers": [ { "text": "1999年10月", "answer_start": 103, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ボーイング717において死亡事故が発生したことはあるか?", "id": "tr-321-01-001", "answers": [ { "text": "ない", "answer_start": 301, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ボーイング717の最終機が引き渡されたのはいつですか?", "id": "tr-321-01-002", "answers": [ { "text": "2006年5月", "answer_start": 197, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "米国のダグラスは、同社で最初のジェット旅客機となるDC-8を開発した後、プロペラ機が担っていた小型旅客機市場に向けて、短距離用の小型ジェット旅客機のDC-9を開発した。DC-9シリーズで最初のモデルとなったのはDC-9-10で、1965年12月8日に初就航した。DC-9は胴体尾部の左右に1発ずつターボファンエンジンを装備してT字型の尾翼を持ち、客席の通路が1本のナローボディ機であった。ダグラスはDC-9-10をベースに胴体延長型や最大離陸重量増加型といった派生型を開発してDC-9シリーズのラインナップを拡充した。1967年4月、ダグラスは同じ米国の航空機メーカーのマクドネルと合併してマクドネル・ダグラスとなった。1970年代の中頃になると、150席級の旅客機の需要が高まると考えられるようになり、マクドネル・ダグラスはDC-9のさらなる胴体延長型を開発して対応しようとした。このモデルでは主翼などの設計変更やエンジンの更新も行うことになり、1977年10月14日に正式な開発が決定してDC-9スーパー80と呼ばれた。DC-9スーパー80の最初のモデルは1980年8月25日に型式証明を取得し、その年の10月に路線就航を開始した。1983年7月、マクドネル・ダグラスは製品名の変更を発表し、DC-9スーパー80はMD-80シリーズと呼ばれることとなった。MD-80シリーズでも胴体長や航続距離性能が異なるシリーズ機が開発されたが、いずれもDC-9と同じ胴体断面を用い、尾部のエンジン配置とT字尾翼という特徴もDC-9から引き継がれた。", "qas": [ { "question": "DC-8のすぐ後に開発された旅客機のシリーズで最初のモデルにおける初就航とは、いつか?", "id": "tr-321-02-000", "answers": [ { "text": "1965年12月8日", "answer_start": 114, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "DC-9のさらなる胴体延長型は、正式な開発が決定された時点で何と呼ばれましたか?", "id": "tr-321-02-001", "answers": [ { "text": "DC-9スーパー80", "answer_start": 446, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "DC-9のさらなる胴体延長型は、最終的には何と呼ばれるようになったの?", "id": "tr-321-02-002", "answers": [ { "text": "MD-80シリーズ", "answer_start": 559, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "DC-9スーパー80がMD-80シリーズと呼ばれるようになったのは、いつからか?", "id": "tr-321-02-003", "answers": [ { "text": "1983年7月", "answer_start": 518, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1984年3月、欧州のエアバスが完全に新設計のA320の開発を決定し、150席級のジェット旅客機市場への参入を決めた。また、1981年3月にはボーイングも737の発展型(737-300)の開発を決定しており、さらなる後継機計画も検討していた。DC-9/MD-80シリーズは一定の市場シェアを獲得していたが、マクドネル・ダグラスはこれらの競合他社の動きに対応する必要に迫られ、MD-80の次世代型となるMD-90を開発した。MD-90でもDC-9由来の胴体断面を用いられ、尾翼やエンジンの配置も引き継がれたが、エンジンは新型のインターナショナル・エアロ・エンジンズ社のV2500に置き換えられたほか、操縦系統や客室内装などが改良された。MD-90は全長が46.5メートル、標準座席数が153席(2クラス)から172席(1クラス)で、1995年4月に初就航した。マクドネル・ダグラスは、MD-80シリーズの胴体短縮型であるMD-87をベースにしたMD-90-10の開発も計画していた。しかし、MD-90のV2500エンジンは胴体短縮型には大きすぎたことから、機体計画が見直され、エンジンを置き換えて各種新技術を導入し、座席数を100席程度としたMD-95の機体構想がまとめられた。MD-95の機体案は1991年6月のパリ航空ショーで発表され、航空会社への説明が開始された。しかし、しばらくの間、航空会社からの受注はなく開発計画は棚上げ状態となった。その後1995年10月19日、米国の格安航空会社のバリュージェット航空から確定50機、オプション50機という大口の注文を獲得したことで、同日付でマクドネル・ダグラスはMD-95の正式開発を決定した。", "qas": [ { "question": "A320と737-300のうち、開発が決定された時期がより早いのは、何か?", "id": "tr-321-03-000", "answers": [ { "text": "737-300", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "MD-90における、1クラスと2クラスのうち、その座席数がより多いのはどれですか?", "id": "tr-321-03-001", "answers": [ { "text": "1クラス", "answer_start": 358, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "MD-90の初就航はいつか?", "id": "tr-321-03-002", "answers": [ { "text": "1995年4月", "answer_start": 365, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "MD-95の正式開発を決定したのは、どの航空会社からの受注があったからか?", "id": "tr-321-03-003", "answers": [ { "text": "バリュージェット航空", "answer_start": 647, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "MD-95の開発が進行中に、計画を左右する2つの大きな出来事があった。1つ目は、MD-95の最初の発注者であったバリュージェットが深刻な経営不振に陥ったことである。1996年5月11日、バリュージェットが運航するDC-9が墜落し、乗客・乗員合わせて110人全員が死亡する事故が発生した(バリュージェット航空592便墜落事故)。その後、同社は安全上の問題点が指摘されて社会的信用を失い、1996年6月に運航を停止した。当時、MD-95を発注していたのはバリュージェットのみであり、受注がゼロになる可能性もあった。しかし、最終的にバリュージェットはエアウェイズ社と合併してエアウェイズ社の子会社であったエアトラン航空の名前で運航を再開した。MD-95の発注もエアトラン航空に引き継がれ、注文のキャンセルは回避された。2つ目は、1997年8月、マクドネル・ダグラスがボーイングに吸収合併されたことである。合併後のボーイングは、従来のボーイング製品と競合するマクドネル・ダグラス機の生産を終了させる方針を決めた。MD-95の開発も中止すべく、ボーイングはエアトラン航空に対し、ボーイングの100席級の旅客機である737-600へ発注切り替えを要請した。しかし、エアトラン航空は運航していた機材との共通性からこれを拒否し、MD-95は旧マクドネル・ダグラスの旅客機の中で唯一、合併後も開発・生産が継続されることとなった。1998年1月、ボーイングは製品の名称を揃えるため、MD-95をボーイング717-200へと変更した。「717」という名称は、アメリカ空軍の空中給油機であるKC-135Aおよび707の派生型旅客機(後に720と命名された)の型式名として割り当てられていた。しかし、この名称は一般には知られていなかったことと、717の「1」で100席級の旅客機ということを表現できることなどから、当機の名称として選ばれた。717は新生ボーイングの象徴となり、短距離路線を運航する格安航空会社向けの旅客機として開発が進められた。", "qas": [ { "question": "ボーイングによるマクドネル・ダグラスの吸収合併とバリュージェット航空592便墜落事故のうち、その時期がより早いのは、どれ?", "id": "tr-321-04-000", "answers": [ { "text": "バリュージェット航空592便墜落事故", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "バリュージェット航空592便墜落事故とは、何人が死亡した大事件でしたか?", "id": "tr-321-04-001", "answers": [ { "text": "110人", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マクドネル・ダグラスがボーイングに吸収合併された後にも唯一に開発・生産が継続された、マクドネル・ダグラス制の旅客機は何か?", "id": "tr-321-04-002", "answers": [ { "text": "MD-95", "answer_start": 556, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "717の「1」は、何席級の旅客機であることを意味していたのか?", "id": "tr-321-04-003", "answers": [ { "text": "100席級", "answer_start": 767, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "717の胴体断面や主翼の設計はDC-9-30のものを引き継ぎ、717の開発や認証取得にかかるコストが節約され、1999年時点での717のカタログ価格は3150万USドルであった。主翼はDC-9-34のものを基本とし、新しいアルミ合金を採用して軽量化が図られた。エンジンはBMWロールス・ロイスが開発した低騒音、低燃費の新型ターボファンエンジンであるBR715が採用された。MD-80シリーズの後半から行われていた操縦系統の電子化がさらに進められ、717では完全なグラスコックピットとなった。717の生産は、マクドネル・ダグラスから引き継がれたカリフォルニア州・ロングビーチの工場で行われた。717では一部の主要コンポーネントは米国以外の企業によって設計・生産された。胴体はイタリア、機首や主翼は韓国、内装はオーストリアの企業が担当し、水平尾翼とエンジン・パイロンの設計と製造は日本の新明和工業が担当した。試験飛行のために3機の717が生産され、1号機は1998年9月2日に初飛行した。2号機と3号機は同じ年の10月26日、12月16日にそれぞれ初飛行した。1999年1月23日には量産の初号機となる機体が完成し、型式証明取得のための試験に投入された。1999年9月1日に米国の連邦航空局(FederalAviationAdministration、以下FAA)、続いて16日にはドイツの航空当局から717の型式証明が交付された。そして同月23日、エアトラン航空への初引き渡しが行われた。", "qas": [ { "question": "717には軽量化のために、どんなものが使われたの?", "id": "tr-321-05-000", "answers": [ { "text": "新しいアルミ合金", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "試験飛行のために3機の717のうち、その初飛行時期が最も遅かったのは、何月何日に初飛行が行われましたか?", "id": "tr-321-05-001", "answers": [ { "text": "12月16日", "answer_start": 461, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ドイツと米国のうち、どの国の航空当局からの717に対する型式証明交付がより遅かったか?", "id": "tr-321-05-002", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 589, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "717における初引き渡しは、9月何日に行われたのか?", "id": "tr-321-05-003", "answers": [ { "text": "23日", "answer_start": 619, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1999年10月12日、エアトラン航空によって717の商業運航が開始された。2001年6月までに、7社の航空会社に63機の717が導入された(リース会社が機体を保有するリース機も含む)。717の新造機納入数が多かったのは米国の航空会社で、エアトラン航空で22機、その次がトランス・ワールド航空で20機であった。その他の地域では、スペインのエーバルと、ギリシャのオリンピック航空の子会社オリンピック・アビエーション、オーストラリアのインパルス航空、アジアのバンコク・エアウェイズに引き渡しが行われていた。エアトラン航空では717により旧式のDC-9が置き換えられ、ハワイアン航空は島々を結ぶ短距離路線に717を投入した。インパルス航空やオリンピック・アビエーションは、それまで小型のターボプロップ機しか運航しておらず、717が最初に導入したジェット旅客機となった。717の初期の運航者は、ボーイングが従来取引していた航空会社よりも小さかったため、ボーイングはカスタマーサポートの新しい方針を打ち出し、整備や運航に関する諸問題を運航者間で共有できる体制を整えた。初期に717を導入した航空会社では、補助動力装置やエンジンなどに関するいくつかのトラブルがあり、ボーイングは対処が必要であったが、早期に出発信頼度は99パーセントに達していたほか、上昇性能、燃費性能などが当初計画値を上回り、着陸滑走距離は計画より短く済んだ。また、エンジンの排気や機外騒音は当時の規制値を十分下回った。", "qas": [ { "question": "エアトラン航空とトランス・ワールド航空のうち、2001年6月までの新造機納入数がより多かったのは、どの会社なの?", "id": "tr-321-06-000", "answers": [ { "text": "エアトラン航空", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "インパルス航空やオリンピック・アビエーションにおいて、最初に導入したジェット旅客機は、何ですか?", "id": "tr-321-06-001", "answers": [ { "text": "717", "answer_start": 358, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エアトラン航空において、717の導入とともに使用されなくなった旅客機は何か?", "id": "tr-321-06-002", "answers": [ { "text": "DC-9", "answer_start": 269, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2001年6月までに新造機納入数が最も多かったのは、どの航空会社か?", "id": "tr-321-06-003", "answers": [ { "text": "エアトラン航空", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ボーイングのラインナップには717とほぼ同じ客席数の737-600があり、両機種を並行して生産し続けることを疑問視する声がボーイングに寄せられていた。ボーイングは、両機種は航続距離が異なり717は短距離向け、737-600は中距離向けで、1,600キロメートルより短い飛行での飛行距離当たりの運航経済性は717-200の方が737-600より優れていると説明していた。そしてボーイングは、717の胴体を短縮して座席数を70から80席とする717-100Xや、胴体延長により130席程度を配置できるようにする717-300Xといった派生型の開発構想も示していた。しかし、短距離路線向けの100席以下の旅客機市場には、ボンバルディアのCRJシリーズやエンブラエルのE-Jetシリーズといったリージョナルジェットが参入しており、ボーイングは旅客機のラインナップを100席以上に絞る方針を固めていた。また、130席級の短距離機というのも航空会社からの関心を得ることができず、717-100Xと-300Xの開発には至らなかった。", "qas": [ { "question": "717と737-600のうち、より遠くまで運航できたのは、何?", "id": "tr-321-07-000", "answers": [ { "text": "737-600", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "717-100Xと717-300Xのうち、より多くの座席数を有すると構想された旅客機は何ですか?", "id": "tr-321-07-001", "answers": [ { "text": "717-300X", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "717-100Xと717-300Xのうち、胴体がより長く構想された旅客機は何ですか?", "id": "tr-321-07-002", "answers": [ { "text": "717-300X", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "717は2001年6月の時点で154機の受注を得ていたが販売は減速を続け、2001年10月、ボーイングは2001年中で717の受注を終了することを発表した。しかし、この間に商談が進んでいた航空会社が製造延長を強く望んだことから、同年12月にボーイングは製造継続を決定した。その後、2003年5月には、受注数の上積みを狙って717-200をベースとして座席数を40から60席としたビジネスジェット型の提案も始めた。ビジネスジェット型の受注は得られなかったものの、受注継続により2002年には32機、2003年と2004年には8機ずつの注文を得た。2004年後半になると受注がなくなり、2005年1月、ボーイングは改めて新規受注を停止することを発表した。2006年5月23日、ミッドウエスト航空とエアトラン航空に1機ずつ、717の最後の引き渡しが行われた。これにより、ダグラスによって1941年に開設されたロングビーチ工場での民間機生産が終了した。717の総生産数は156機であった。", "qas": [ { "question": "2002年と2003年のうち、717に対しより多くの機数の注文があったのは、いつか?", "id": "tr-321-08-000", "answers": [ { "text": "2002年", "answer_start": 237, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "717の最後の引き渡しが行われたのは、いつ?", "id": "tr-321-08-001", "answers": [ { "text": "2006年5月23日", "answer_start": 325, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ボーイングが717の受注を終了すると最初に発表したのはいつなの?", "id": "tr-321-08-002", "answers": [ { "text": "2001年10月", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "717は低翼配置の主翼を持つ単葉機であり、エンジンは胴体尾部の左右に1発ずつ配置され、垂直尾翼の上に水平尾翼が配置されたT字尾翼を持つ。717の尾翼やエンジンの配置はDC-9シリーズの流れが受け継がれたものである。胴体断面もDC-9から引き継がれたもので、2つの円を組み合わせたダルマを逆さにしたような断面を持ち、最大幅が3.34メートルである。機体の寸法はDC-9-30と同程度であり、全長が37.81メートル、全幅は28.45メートル、全高は8.92メートルである。717の主翼はテーパーがついた後退翼で、翼端にはウィングレットを持たない。この主翼はDC-9-34の主翼と基本設計は同様で、前縁・後縁ともに直線で構成されたシンプルな平面形を持ち、翼面積は92.97平方メートル、25パーセント翼弦での後退角は24.5度、翼厚/翼弦比は11.6である。717で変更された点としては、取り付け角が1.3度増やされているほか、使用部材に新アルミ合金などの新素材が採用されている。降着装置は前輪配置で、前脚と主脚ともに2輪式である。717には長胴型や短胴型といった派生型は開発されなかったが、最大離陸重量を増加させたHGW型と呼ばれる仕様が設定されている。標準型の最大離陸重量は49,845キログラムであり、HGW型では54,885キログラムとなる。HGW型では中央翼(胴体)内に燃料タンクが追加され、重量増加分はこの燃料に充てられる。106名の乗客と手荷物を搭載した場合の航続距離は、標準型が1,430海里(2,648キロメートル)、HGW型が2,060海里(3,815キロメートル)となる。HGW型ではエンジンの推力も強化されている。", "qas": [ { "question": "717は、エンジンがどこの左右に1つずつ配置された旅客機でありますか?", "id": "tr-321-09-000", "answers": [ { "text": "胴体尾部", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "717における標準型とHGW型のうち、最大離陸重量の値がより大きいのは、どれか?", "id": "tr-321-09-001", "answers": [ { "text": "HGW型", "answer_start": 552, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "搭載した乗客数および手荷物の重量が同じである場合、航続距離がより長いのは、標準型とHGW型のうち、どれか?", "id": "tr-321-09-002", "answers": [ { "text": "HGW型", "answer_start": 666, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "717の標準型より最大離陸重量を増加させ、エンジンの推力を強化した型を何と呼ぶか?", "id": "tr-321-09-003", "answers": [ { "text": "HGW型", "answer_start": 695, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "717の運航に必要な操縦士は機長と副操縦士の2名である。717の操縦席にはMD-11で導入された技術や設計が用いられている。717の操縦席は完全なグラスコックピットとなり、操縦席の全面には液晶ディスプレイが横一列に6面配置されている。操縦室内の電子システムも完全にデジタル化され、MD-87と比べて操縦室内のコンポーネントが50パーセント以上少なくなり、操縦士の作業負荷の低減が図られている。スポイラーはフライ・バイ・ワイヤによって制御される。航法システムや自動操縦装置はハネウェル社のシステムが採用されている。自動着陸装置は標準でカテゴリーIIIa対応で、オプションでカテゴリーIIIbへの対応も可能である。", "qas": [ { "question": "717の操縦席には、何で導入された技術や設計が用いられた?", "id": "tr-321-10-000", "answers": [ { "text": "MD-11", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "717とMD-87を比べた時、操縦室内のコンポーネントの数がより多いのは、どれですか?", "id": "tr-321-10-001", "answers": [ { "text": "MD-87", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、飛行システムにおいて717を、MD-11とどんな旅客機と比較しているか?", "id": "tr-321-10-002", "answers": [ { "text": "MD-87", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "717の客室内には通路が1本配置され、標準的な座席配置はエコノミークラスが3+2の5アブレスト、上級クラスは2+2の4アブレストであり、左右の座席上には手荷物を収容するオーバーヘッド・ビンが配置されている。胴体断面は1960年代に設計されたDC-9のものだが内装は一新されており、窓面積が拡大され、オーバーヘッド・ビンの下部へ手すりが設けられ、バキューム式の化粧室が導入されている。乗降用のドアは客室最前部の左舷と通路最後部の尾部に配置されている。前方の乗降用ドアの下にはエアステアと呼ばれる収納式階段がオプションで設定されている。サービスドアは前方乗降用ドアの向かいにあたる右舷に1か所あり、非常口は、左右の主翼上に2か所ずつと、尾部乗降用ドアの上にあたるテールコーン部に1か所設けられている。床下の貨物室は、主翼を挟んで前方と後方に分かれており、容積は標準型が26.5立方メートル、HGW型が20.7立方メートルである。HGW型の方が容積が小さいのは、貨物室内にオプションの燃料タンクが設けられるためである。各貨物室の右舷側に内開き式の貨物用扉が配置されている。", "qas": [ { "question": "717の座席配置において、アブレストがより多いのは、エコノミークラスか、もしくは、上級クラスか?", "id": "tr-321-11-000", "answers": [ { "text": "エコノミークラス", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "床下の貨物室の容積がより小さいのは、標準型とHGW型のうち、どちらですか?", "id": "tr-321-11-001", "answers": [ { "text": "HGW型", "answer_start": 412, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "HGW型の方が容積が小さいのは、貨物室内に何が設けられたためであるの?", "id": "tr-321-11-002", "answers": [ { "text": "オプションの燃料タンク", "answer_start": 433, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2017年7月現在、航空会社5社により154機が民間航空路線に就航している。最も多くの717を運航しているのは米国のデルタ航空であり、全体の約6割となる91機である。続いてオーストラリアのカンタスリンクと米国のハワイアン航空がそれぞれ20機、スペインのボロテアが17機、トルクメニスタン航空が6機を運用している。717の新造機の受領数が最も多かったのはエアトラン航空で63機、2番手がミッドウエスト航空で25機、続いてトランス・ワールド航空で24機であり、いずれも米国の航空会社であった。また、717は、インパルス航空やオリンピック・アビエーションのように小型のターボプロップ機しか運航していなかった航空会社でも導入された。初期に717の導入数が多かった航空会社のうち、トランス・ワールド航空は2001年にアメリカン航空に吸収合併された。これにより717はアメリカン航空に引き継がれたが、同社は2002年には手放している。また、エアトラン航空はサウスウエスト航空に吸収合併された。合併作業は2011年5月に完了し、717もサウスウエスト航空に引き継がれた。これによりサウスウエスト航空が717の最多運用者となったが、同社は717をデルタ航空にリースすることを発表し、2015年にデルタ航空が最大の運用者となった。ミッドウエスト航空では2009年から2010年にかけて717を手放している。2014年頃にはフィンランドのブルーワンでも運用されていた。", "qas": [ { "question": "ハワイアン航空とボロテアのうち、2017年7月の時点でより多くの717を運航していたのは、どの航空会社か?", "id": "tr-321-12-000", "answers": [ { "text": "ハワイアン航空", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "717の新造機の受領数が3番目に多かったのは、どの航空会社なの?", "id": "tr-321-12-001", "answers": [ { "text": "トランス・ワールド航空", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "デルタ航空のすぐ前の717の最多運用者は、どの航空会社ですか?", "id": "tr-321-12-002", "answers": [ { "text": "サウスウエスト航空", "answer_start": 483, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカン航空とミッドウエスト航空のうち、717を手放した時期がより遅いのは、どちらか?", "id": "tr-321-12-003", "answers": [ { "text": "ミッドウエスト航空", "answer_start": 556, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "カール・ボッシュ", "paragraphs": [ { "context": "カール・ボッシュはドイツの化学者、工学者、経営者である。\n\n1899年にBASFに入社し、研究を開始した。1908年から1913年までフリッツ・ハーバーと共にハーバー・ボッシュ法を開発した。第一次世界大戦の後、高圧化学を用いて、ガソリンやメタノールの合成の研究を続けた。1925年にはIG・ファルベンの創立者の一人となった。1931年に高圧化学的方法の発明と開発によって、ノーベル化学賞を受賞した。", "qas": [ { "question": "カール・ボッシュは何年にBASFに入社したか。", "id": "tr-322-00-000", "answers": [ { "text": "1899年", "answer_start": 30, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハーバー・ボッシュ法を開発したのはフリッツ・ハーバーと誰ですか。", "id": "tr-322-00-001", "answers": [ { "text": "カール・ボッシュ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カール・ボッシュは何を発明したことでノーベル化学賞を受賞したか。", "id": "tr-322-00-002", "answers": [ { "text": "高圧化学的方法", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "カール・ボッシュは1874年8月27日、ドイツのケルンで生まれた。カールという名前は父親の名から採られている。父親はシュヴァーベンの農家の出身で、ケルンでは配線事業や、ガス・水道用の部品の製造・販売にたずさわっていた。母親のパウラ・リープストはケルンの生まれである。また、ロバート・ボッシュ社の創立者であるロバート・ボッシュは叔父にあたる。\n\n幼いころから父親の持っている工具や機械に興味を示し、フンボルト街の高等実業学校に入ってからは家で鳥かごや飼育箱、ボートなど、様々なものを細工していた。16歳のとき、一家は仕事場つきの家へと引っ越した。この頃になると化学を好むようになり、器具を入手して化学の実験をしていた。", "qas": [ { "question": "カール・ボッシュの母国はどこ?", "id": "tr-322-01-000", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カール・ボッシュのカールは父親から採ったの、母親から採ったの?", "id": "tr-322-01-001", "answers": [ { "text": "父親", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ロバート・ボッシュ社の創立者の名前は何?", "id": "tr-322-01-002", "answers": [ { "text": "ロバート・ボッシュ", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カール・ボッシュは1893年、高等実業学校を卒業したとき、化学者になりたいという思いを持っていた。しかし父の勧めにより、シレジアの精錬所で組立工の従弟として学ぶことになった。化学から離れて職人仕事にたずさわることは本意でなかったが、仕事仲間からの評価は高かった。翌1894年になると、シャルロッテンブルク工科大学に冶金学と機械工学の学生として入学が認められた。そこでは専攻分野の講義のほか、化学の講義も受講した。ただし同校では理論的な計算値よりも職人たちが感覚で導いた値を優先するようなところがあって、ボッシュは不満に思っていた。そして、純粋な科学に魅力を感じたボッシュは、ライプツィヒ大学に入学した。\n\nライプツィヒ大学ではヨハネス・ウィスリセヌスのもとで有機化学を学び、1898年に学位を得た。大学では化学のほか、鉱物学や昆虫、植物についての講義を聞き、知見を広めた。また、イギリスから講演にやってきたウィリアム・ラムゼーが希ガスのスペクトルを実演した時は、自らの手でそれを再現しようと思い、自分で装置を作り上げ、ラムゼイ講演の3日後にヘリウムのスペクトル実演を成功させた。", "qas": [ { "question": "カール・ボッシュは1893年、どの学校を卒業したの?", "id": "tr-322-02-000", "answers": [ { "text": "高等実業学校", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カール・ボッシュは、いつシャルロッテンブルク工科大学の入学が認められたか。", "id": "tr-322-02-001", "answers": [ { "text": "1894年", "answer_start": 132, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1898年、カール・ボッシュはどの学校の学位を得たか。", "id": "tr-322-02-002", "answers": [ { "text": "ライプツィヒ大学", "answer_start": 303, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カール・ボッシュはラムゼイ講演の何日後、ヘリウムのスペクトル実演を成功させたか。", "id": "tr-322-02-003", "answers": [ { "text": "3日後", "answer_start": 466, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ボッシュはこのまま学問への道を進みたかったが、経済的な理由で父親からの反対を受けたため断念した。父親はライプツィヒへ行き、息子の化学工場への入社についてウィスリセヌス教授に相談を持ちかけた。教授から希望先を聞かれたカール・ボッシュは、その場でBASFの名を挙げた。\n\nボッシュがBASFを志望したのは、教授や先輩の勧めによるところもあったが、同社の名声や将来性も大きな理由だった。また同社には、ハインリッヒ・フォン・ブルンクやルドルフ・クニーツといった著名な学者が在籍していたことも、ボッシュにとっては魅力的だった。ボッシュは1899年1月30日付けでBASFに求職願いを出し、面接の結果、4月15日に採用になった。\n\nBASF社では、新入社員はまず中央研究室に入り、そこで社員の適性を見てから配属先を決めることになっていた。ボッシュも中央研究室を経てから、無水フタル酸の製造工場に回された。担当部長は、無水フタル酸の製造における硫酸水銀の触媒作用を発見したオイゲン・サッパーだった。それと並行して、ボッシュは1900年、ルドルフ・クニーツからアンモニア合成に関する実験を命じられた。", "qas": [ { "question": "ボッシュが学問の道へ進むことに対して、父親は反対でしたか、賛成でしたか。", "id": "tr-322-03-000", "answers": [ { "text": "反対", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ボッシュは何年にBASFに入社することになりましたか。", "id": "tr-322-03-001", "answers": [ { "text": "1899年", "answer_start": 263, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ボッシュがBASFの新入社員だったとき、無水フタル酸の製造工場の担当部長は誰でしたか。", "id": "tr-322-03-002", "answers": [ { "text": "オイゲン・サッパー", "answer_start": 429, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "無水フタル酸の製造における硫酸水銀の触媒作用を発見した人の名前は何ですか。", "id": "tr-322-03-003", "answers": [ { "text": "オイゲン・サッパー", "answer_start": 429, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "当時、アンモニアを人工的に合成させることは、チリ硝石に代わる化学肥料に必須となる固定窒素を作り出す目的として化学者の間で注目を集めていた。そのような状況の中で、当時著名な化学者であったヴィルヘルム・オストヴァルトは1900年、鉄の針金を触媒として、窒素と水素を適切な温度・圧力のもとで合成させることでアンモニアを作ることに成功した。そこでオストヴァルトは、さっそくその方法で特許を申請し、BASFをはじめとする数社に売り込みをかけた。BASFはこの内容に興味を示し、社内で追試することにした。この追試を任されたのがボッシュだったのである。このときボッシュは入社してまだ1年もたっていなかった。\n\nボッシュは実験をしてみたが、何度やってもオストヴァルトの結果が再現できなかったので、上司にそのように報告した。これを聞いてオストヴァルトは怒り、会社の重役室までやってきた。そして、「そうです。もし貴方達が、新参で無経験で何もできない化学者に命じたならば、もちろん何も出てこないでしょう」と言った。その後ボッシュはオストヴァルトと激しく論争したり、オストヴァルトが実際に使った針金で実験したりしてみたが、結局上手くゆかなかった。しかしボッシュは実験しているうちに、事の実態がだんだん分かってきた。オストヴァルトが使った針金には不純物である窒化鉄が付着していて、それが水素と反応してアンモニアが生成されていたのである。オストヴァルトもやがてはそれを認め、特許を取り下げ、この問題から手を引いた。\n\nこの事件によって、ボッシュは、問題を発見する能力や、化学界の大物にもひるまずに自己を貫いたことなどが評価され、上司からの信頼を得ることができた。", "qas": [ { "question": "ヴィルヘルム・オストヴァルトは1900年、鉄の針金を触媒として、窒素と水素を適切な温度・圧力のもとで合成させることで何を作ることに成功しましたか。", "id": "tr-322-04-000", "answers": [ { "text": "アンモニア", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オストヴァルトが使った針金には何が付着していて、水素と反応してアンモニアが生成されていたのですか。", "id": "tr-322-04-001", "answers": [ { "text": "窒化鉄", "answer_start": 566, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オストヴァルトが使った針金には不純物である窒化鉄が付着していて、それが水素と反応してアンモニアが生成されていたことを発見したのは誰ですか。", "id": "tr-322-04-002", "answers": [ { "text": "ボッシュ", "answer_start": 514, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ボッシュは入社直後から、工場内の住居に住み、週末にはボウリングをしたり、酒を飲みに出かけたりしていた。また、休暇や祭日には両親のところで過ごすようにしていた。そしてここで、妹の友達のエルゼ・シルバッハと仲が良くなり、1902年に結婚した。結婚後はルートヴィヒス・ハーフェンのアパートに住み、その後、さらに大きな家に移り住んだ。1906年には長男のカール、1911年には長女のインゲが生まれた。\n\n一方、仕事においては、無水フタル酸工場の拡張が計画されていた。ボッシュはこの際、装置の加熱方法を従来の石炭ガス加熱から、新たな発生炉ガス加熱に切り替えることを提案し、実行に移した。ブルンクは当初これに反対していたが、後に、ボッシュの方法は経費の節約になることを認めた。ボッシュは他にもいくつかの改良を提案したが、ブルンクやクニーツから信頼されるようになっていたため、上司の支持を得ることができた。ボッシュには大きな権限が与えられ、フタル酸工場拡張後には実験室が与えられ、助手もつくようになった。", "qas": [ { "question": "ボッシュは誰と結婚したの?", "id": "tr-322-05-000", "answers": [ { "text": "エルゼ・シルバッハ", "answer_start": 91, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カールとインゲと、誰の方が先に生まれたの?", "id": "tr-322-05-001", "answers": [ { "text": "カール", "answer_start": 173, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ボッシュの長女は何年生まれなの?", "id": "tr-322-05-002", "answers": [ { "text": "1911年", "answer_start": 177, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ボッシュはこの任務の中心となって活動し、1915年5月、オッパウ工場に作られた新装置を使って1日150トンのチリ硝石を作ることに成功した。しかし同年同月、フランス軍がオッパウを空襲したため、この工場もそのうち空襲で失われるのではないかと危ぶまれるようになった。そこでドイツ政府とBASFは再び契約を結び、ライプツィヒ近くにあるロイナという小さな町に新しい工場を作ることにした。ボッシュは1916年からこの工場建設に専念したが、軍の徴用による人材不足、資材不足、冬の厳しい寒さにより、作業は難航した。結果的に、当初の予定である1917年2月1日からは遅れたものの、着工から約1年で建設は完了し、1917年4月27日に装置の炉に火がつけられた。生産量は、最初の年は年間36,000トンだったが、急激に増加し、戦争が終わるころには年間16万トンになった。\n\n戦争中ボッシュの評価は高まり、BASFの取締役に任命された。さらに、ボッシュの名はドイツ工業会でも知られるようになった。一方、戦争が続いて、ドイツ軍の敗北が避けられなくなってくると、元々食糧危機を救うために自分が進めていたアンモニア合成の発展は、結果的に現在では戦争を長引かせることになっているのではないかと考え、悩むこともあった。", "qas": [ { "question": "ボッシュは1915年5月、オッパウ工場に作られた新装置を使って1日何トンのチリ硝石を作ることに成功したか。", "id": "tr-322-06-000", "answers": [ { "text": "150トン", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "戦争中、ボッシュの評価は高まったことで、ボッシュはBASFの何に任命されたか。", "id": "tr-322-06-001", "answers": [ { "text": "取締役", "answer_start": 396, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1918年、戦争は終結した。ボッシュはドイツ工業会の代表として、1919年3月にベルサイユで始まった和平交渉に参加した。ベルサイユではホテルからの外出は許されず、回りには鉄条網がはりめぐらされ、厳しい監視がつけられた。\n\n交渉の内容もドイツにとって厳しいものだった。ドイツにある多くの化学工場は、火薬や爆薬が製造可能であるという理由で、軍需工場とみなされた。そして連合国であるフランスは、BASFのオッパウ工場とロイナ工場の閉鎖を求めた。ボッシュは、ドイツの秩序と賠償金の支払いのため、工場は連合国にとっても必要であると主張したが、聞き入れてもらえなかった。\n\nそこでボッシュは、ある夜、ホテルを抜け出し、鉄条網を乗り越え、監視の目をすり抜けて、フランス化学工業界の大物であるジョセフ・フロッサールと会って話をつけ、2時間後にホテルに戻った。その結果、ボッシュはパリに行くことが許され、そこでの数度にわたる交渉の末に、1919年11月に話はまとまり、オッパウ・ロイナ両工場は操業を続けることが許された。その代わり、フランスは国家窒素局(ONIA)の手でフランス国内にハーバー・ボッシュ法を利用したアンモニア工場を建てることが決まり、BASFはそのための技術援助をすることになった。ボッシュは交渉をまとめた功績により、1919年、BASFの取締役会長に任命された。\n\nこうしてボッシュはBASFの代表となったが、従業員との細かい取り決めについては深く関わろうとはしなかった。そういった中で、労働者からの不満が表面化するようになった。1919年にはロイナ工場でストライキが発生し、1921年には、共産主義活動家によって組織された労働者によってロイナ工場の入り口が封鎖され、警察との間で戦闘状態となった。こうした背景には、ロイナ工場が短期間のうちに作られたために従業員の住居が十分に建てられておらず、労働環境においても長時間労働や安全性の欠如といった問題を抱えており、さらに従業員に対する厳しい管理への反発もあったことが挙げられる。", "qas": [ { "question": "ドイツ工業会の代表として、1919年3月にベルサイユで始まった和平交渉に参加した人は誰でしたか。", "id": "tr-322-07-000", "answers": [ { "text": "ボッシュ", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ボッシュがBASFの取締役会長に任命されたのはいつですか。", "id": "tr-322-07-001", "answers": [ { "text": "1919年", "answer_start": 558, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロイナ工場でのストライキは何年に発生したの?", "id": "tr-322-07-002", "answers": [ { "text": "1919年", "answer_start": 665, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方でオッパウ工場では、1921年9月に大きな爆発事故が起き、死者561人を出す大惨事となった(オッパウ大爆発)。肥料の固まりを崩すのに使っていた火薬が原因だった。この爆発音は当時工場から12マイル(19.2キロメートル)離れたハイデルベルクにいたボッシュにも聞こえた。\n\nボッシュはすぐにオッパウへ行き状況を確認した。それからハイデルベルクに戻って、母親が使うミシンの糸巻きを一晩中旋盤加工した。その後9月25日の追悼式で社員に対して挨拶をしたが、それ以後、ボッシュはしばらく人前に姿を見せなくなった。1922年6月に仕事に復帰したが、以前と比べて口数が少なくなり、大勢の人とかかわるのを避けるようになっていた。\n\n1923年、フランスは、ドイツが賠償金の支払いを延期したのを理由に、オッパウ工場を占領した。ボッシュは当局に協力しなかったという理由でフランス法廷で裁かれ、懲役8年の刑となったが、その年のうちにフランス軍は撤退し、翌年には判決も撤回された。\n\nまたこの時期、妻と2人の子供とともに、ハイデルベルクの家に移り住んだ。", "qas": [ { "question": "オッパウ大爆発は何年にありましたか。", "id": "tr-322-08-000", "answers": [ { "text": "1921年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オッパウ大爆発の原因は何でしたか。", "id": "tr-322-08-001", "answers": [ { "text": "火薬", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1923年、オッパウ工場はどの国に占領されたか。", "id": "tr-322-08-002", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 315, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1932年、ドイツではアドルフ・ヒトラー率いるナチスが勢力を伸ばしてきた。ヒトラーは自動車の愛好家でもあったため、IGファルベンが進めるガソリンの合成に期待していた。そのことを人づてに聞いたボッシュは、「あの男は私が思っていたより分別があるらしい」と言った。1933年1月、ヒトラーは首相に任命された。2月20日、ナチスは化学会社に献金を求め、IGファルベンは40万マルクを支払った。\n\n1933年4月7日、ヒトラーは、ユダヤ人を公職から追放する公務員法を発布した。ボッシュはこの法律に反対していたが、自然科学界で功績のあった人物に対しては法律を適用しないという話を信じていた。そのため、当時カイザー・ヴィルヘルム研究所にいたユダヤ人の物理学者リーゼ・マイトナーには、このまま職にとどまるよう助言した。また同じころ、ヒトラーは経済諮問委員会をつくり、ボッシュは委員に選ばれた。その際、ヒトラーはボッシュの政治的見解について調査するよう命じており、ボッシュがナチスのユダヤ人に対する政策に不満を持っていることなどが調べ上げられていた。", "qas": [ { "question": "ヒトラーはいつドイツの首相に任命されたの?", "id": "tr-322-09-000", "answers": [ { "text": "1933年1月", "answer_start": 129, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒトラーはいつユダヤ人を公職から追放する公務員法を発布したの?", "id": "tr-322-09-001", "answers": [ { "text": "1933年4月7日", "answer_start": 194, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時リーゼ・マイトナーはどの研究所にいたの?", "id": "tr-322-09-002", "answers": [ { "text": "カイザー・ヴィルヘルム研究所", "answer_start": 296, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ローテンブルク・オプ・デア・タウバー", "paragraphs": [ { "context": "ローテンブルク・オプ・デア・タウバー(ドイツ語:RothenburgobderTauberDe-RothenburgobderTauber-pronunciation.ogg)は、ドイツ南部のバイエルン州ミッテルフランケンのアンスバッハ郡にある大規模郡都市。\nローテンブルク・オプ・デア・タウバーは、タウバー川沿いのフランケンヘーエ自然公園周縁部に位置している。", "qas": [ { "question": "ローテンブルク・オプ・デア・タウバーは何州に属しているの?", "id": "tr-323-00-000", "answers": [ { "text": "バイエルン州", "answer_start": 96, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ローテンブルク・オプ・デア・タウバーはどこの群に属しているの?", "id": "tr-323-00-001", "answers": [ { "text": "アンスバッハ郡", "answer_start": 112, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ローテンブルク・オプ・デア・タウバーに流れている川は何?", "id": "tr-323-00-002", "answers": [ { "text": "タウバー川", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ローテンブルクの起源は、現在は一市区となっているデトヴァングにあった。\nこの小教区は、970年頃にライニガーという名の東フランケン地方の貴族によって創設された。\nこの貴族はついでコムブルク(現在はシュヴェービッシュ・ハル市の一部)を創設した。\nこの貴族が、タウバー川を望む丘の上に(oberhalbderTauber)城を建てたことが、現在の地名である\"obderTauber\"の由来である。", "qas": [ { "question": "ローテンブルクの起源となる都市はどこ?", "id": "tr-323-01-000", "answers": [ { "text": "デトヴァング", "answer_start": 24, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "デトヴァングの創設者は誰?", "id": "tr-323-01-001", "answers": [ { "text": "ライニガー", "answer_start": 49, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コムブルクの創設者は誰?", "id": "tr-323-01-002", "answers": [ { "text": "ライニガー", "answer_start": 49, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "タウバー川を望む丘の上に城を建てた人は誰?", "id": "tr-323-01-003", "answers": [ { "text": "ライニガー", "answer_start": 49, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "このコムブルク=ローテンブルク伯が断絶する1108年までには、皇帝の城が築かれていた。\nこの伯家の最後の当主となったハインリヒ・フォン・ローテンブルクは、城をコムブルク修道院に遺贈した。\nしかし、皇帝ハインリヒ5世は、この遺贈を認めず、甥のコンラート・フォン・ホーエンシュタウフェンにレーエンとしてこの所領を与えた。\nコンラートは1137年にローマ王(在位1138年-1152年)に即位してコンラート3世となると、1142年にローテンブルクに帝国の城を築き、ここに宮廷を置いた。\nしかしローテンブルクの宮殿において政務を執った国王はコンラート3世のみである。", "qas": [ { "question": "コムブルク=ローテンブルク伯の最期の当主は誰だったの?", "id": "tr-323-02-000", "answers": [ { "text": "ハインリヒ・フォン・ローテンブルク", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "城の寄贈先はどこでしたか?", "id": "tr-323-02-001", "answers": [ { "text": "コムブルク修道院", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コンラートはローマ王即位後に何と名乗りましたか?", "id": "tr-323-02-002", "answers": [ { "text": "コンラート3世", "answer_start": 195, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハインリヒ・フォン・ローテンブルクによる城の寄贈を否認した人は誰でしたか?", "id": "tr-323-02-003", "answers": [ { "text": "ハインリヒ5世", "answer_start": 100, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "彼の息子のフリードリヒ・フォン・ローテンブルクは、父親が亡くなったときはまだ成人前であったため、従兄弟のフリードリヒ1世の後見下に置かれ、1157年に「ローテンブルク公」という称号で刀礼を受けた。\nフリードリヒ1世により、フリードリヒ・フォン・ローテンブルクにはエーガーラント地方も与えられた。\nフリードリヒは1167年に亡くなり、彼の兄も早逝していたため、ローテンブルクの城は意味を失った。\n1170年にローテンブルク市が設置された。\n当時の町の中心は市場とヤコブ教会であった。\nこの当時から街の要塞化が始まったとみられる。\nその時代の遺物として、古い地下室・古い堀や牛乳市場などを見る事が出来る。\n13世紀になると、塔や城壁が造られた。\nその中で現在まで残っているものはレーダー・アーチとマルクス塔である。\n1194年から1254年まで、ホーエンシュタウフェン朝の代官がローテンブルク周辺の地域を支配した。\nこの頃、聖ヨハネ修道会やその他の修道会がヤコブ教会やドミニコ会の修道院の近くに設置された。", "qas": [ { "question": "「ローテンブルク公」の称号を得た人は誰?", "id": "tr-323-03-000", "answers": [ { "text": "フリードリヒ・フォン・ローテンブルク", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マルクス塔はいつ造られたの?", "id": "tr-323-03-001", "answers": [ { "text": "13世紀", "answer_start": 301, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "レーダー・アーチはいつ造られたの?", "id": "tr-323-03-002", "answers": [ { "text": "13世紀", "answer_start": 301, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1274年にローテンブルクはハプスブルク家のルドルフ1世から帝国都市の特権を与えられた。\n市内には3つの有名な市場が出来、その後の数世紀にわたり街は発展した。\n市内の住民と郊外の騎士らはフランシスコ会の修道院と聖霊病院を設置した(1376年-1378年に市の防壁に組み込まれた)。\nドイツ騎士団は1311年に聖ヤコブ教会の建設をはじめ、1336年から市民が使えるようになった(完成は1485年)。\n聖ヤコブ教会には、十字軍遠征に伴いローテンブルクにもたらされた聖遺物とされる聖血が置かれた。\nこれが多くの巡礼者を引き寄せ、中世のローテンブルクは第一級の巡礼地であった。\nその当時は神聖ローマ帝国内の上位20都市の中に入っていた。\n市壁の内側の人口は約5500人で、これに加えて周辺の390平方キロメートルの領地の中に14,000人が居住していた。\n1350年には皇帝から徴税権と関税権を認められ、この頃からローテンブルクは帝国自由都市とみなされるようになる。\n1356年のバーゼル地震で古い城塞が崩壊した。\n今もなお聖バルシウス教会が残っている所である。\nその廃墟の切石は当時としては貴重な資材であり、市壁の建造に用いられた。", "qas": [ { "question": "聖ヤコブ教会が完成したのはいつですか?", "id": "tr-323-04-000", "answers": [ { "text": "1485年", "answer_start": 191, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "人口が多かったのは、市壁の内側と390平方キロメートルの領地のどちらの地域ですか?", "id": "tr-323-04-001", "answers": [ { "text": "390平方キロメートルの領地", "answer_start": 341, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "関税権が認められたのは何年でしたか?", "id": "tr-323-04-002", "answers": [ { "text": "1350年", "answer_start": 374, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "古い城塞が崩壊した原因は、何が発生したためですか?", "id": "tr-323-04-003", "answers": [ { "text": "バーゼル地震", "answer_start": 436, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "中世のこの町で最も有名な人物は、エネルギッシュな政策で知られた市長ハインリヒ・トップラー(1340年頃生-1408年没)であろう。\n1373年にはトップラーが市長に就任した(1408年まで在任)。\nヤコブ教会の増築を決定。\nまた1398年には聖ヤコブ教会の建設をドイツ騎士団から引き継ぎ、聖ヤコブ教会は市所有の教会となった。\nそれと同時に、ゴシック様式の市庁舎の建設も始まった。\n1378年、ローテンブルクはウルムを盟主とするシュヴァーベン都市連盟に加盟した。\n1400年ごろまでには、ローテンブルクはフランケン地方の中ではニュルンベルクに次ぐ第二位の人口を抱える都市となった。\n1485年には、170年掛けて建設された聖ヤコブ教会が落成し、現在までよく保存されている。", "qas": [ { "question": "1373年から1408年まで市長を務めた人は誰でしたか?", "id": "tr-323-05-000", "answers": [ { "text": "トップラー", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "聖ヤコブ教会の建設期間は何年でしたか?", "id": "tr-323-05-001", "answers": [ { "text": "170年", "answer_start": 298, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1525年、ドイツ農民戦争において、ローテンブルクはフロリアン・ガイアー率いる反乱軍側につき、プロテスタントに改宗しようとしたが、最終的にローテンブルクの守将Kasimirは降伏した。\nJohannTeuschleinら反乱者が処刑された。\n1544年、ローテンブルクはJohannHornburg市長の時代に遂にプロテスタントへの改宗を達成した。\nいわゆる宗教改革である。\n1559年にはプロテスタントの教会規則が公布された。\n聖ジョンの騎士団とドイツ騎士団だけが引き続きカトリックを信仰したが、これらの騎士修道会もそれぞれの教会(聖ジョン教会、聖ヨハネ教会)への権利を手放さねばならなかった。\n1572年、1501年に焼失した市庁舎の東側の再建が始まった。\nその後、三十年戦争が勃発するまでの間、街は繁栄した。", "qas": [ { "question": "ドイツ農民戦争にて反乱軍を率いた人物は誰でしたか?", "id": "tr-323-06-000", "answers": [ { "text": "フロリアン・ガイアー", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイツ騎士団が信仰した教派は何でしたか?", "id": "tr-323-06-001", "answers": [ { "text": "カトリック", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "聖ジョンの騎士団が信仰した教派は何だった?", "id": "tr-323-06-002", "answers": [ { "text": "カトリック", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ローテンブルクは何の教派に改宗したの?", "id": "tr-323-06-003", "answers": [ { "text": "プロテスタント", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1618年に勃発し1648年まで続いた三十年戦争の時代、ローテンブルクも戦費の負担や通過する友軍への便宜供与などを行った。\n1631年、1634年、1645年にローテンブルク付近で戦闘があった。\n1631年10月にカトリックのティリー伯ヨハン・セルクラエスが、プロテスタントのルター派のローテンブルクに40,000人の軍隊の宿営を求めた。\n街はこれを拒否し、籠城して守り抜こうとした。\nしかしながら、ティリー伯の軍隊は300人の兵を失っただけで、間もなくローテンブルクを陥落させた。\n「街に火を放ち掠奪する」と脅したティリー伯から旧市長のヌッシュが街を救った成り行きは、現在も毎年開催される街の祝祭劇『マイスタートゥルンク』の話の元になっている。", "qas": [ { "question": "1618年に始まり1648年に終わった戦争の名称は何?", "id": "tr-323-07-000", "answers": [ { "text": "三十年戦争", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "三十年戦争の期間中、ローテンブルク付近での最初の戦闘は何年に起こりましたか?", "id": "tr-323-07-001", "answers": [ { "text": "1631年", "answer_start": 62, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ローテンブルクで毎年開催される祝祭劇の題目とは何?", "id": "tr-323-07-002", "answers": [ { "text": "『マイスタートゥルンク』", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "帝国都市連合は1632年-1634年にかけてスウェーデンと同盟した。\n1634年にはペストの大流行によって多くの死者が出た。\n1645年にフランスの軍隊に占領された。\n1650年に最後の兵士が街を去ると、この街にはもはや財産も権力もなくなり、ローテンブルクの街の発展は停滞し、街はその重要性を失っていった。\nこれは、街が17世紀のままの状態で保存された理由である。\n1688年の大同盟戦争では、フランスの侵攻を受けてドイツ側の軍隊(ラントヴェーア)は大損害を受けたがローテンブルクは占領されなかった。\n街の再建は18世紀まで続いた。", "qas": [ { "question": "1634年に多数の死者が出た死因は何だったの?", "id": "tr-323-08-000", "answers": [ { "text": "ペスト", "answer_start": 42, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1793年のフランス革命戦争もこの地に大きな騒乱をもたらした。\nこの頃、既にアンスバッハ侯領とバイロイト侯領を引き継いだプロイセン王国はローテンブルクとの間で国境を画定する合意書に署名している。\nこの事は、ローテンブルクのような小さな帝国都市であっても、その独立性を認められていた事を意味している。\nフランス革命戦争ではオーストリア軍および帝国クライス軍がフランスに敗北した。\nこの賠償のために神聖ローマ帝国はライン川左岸地域をフランスに割譲する事となった。\nこのとき神聖ローマ帝国が失ったライン川左岸地域の領土を領有していた諸侯に対しては、残っている神聖ローマ帝国領を再分割して領地を補償する事となり、そのために招集された帝国代表者会議主要決議において1803年に決議が成立した。\nこの決議により、500年にわたる独立都市としての歴史を持つローテンブルクは、その意思に反してバイエルン領に併合された。\n帝国の負債のため、バイエルンは多くの公共建築物や土地を売却した(例えば現在の教会広場となっている牛乳市場のMarienkapelleや、Stauferburgの大きな塔など)。\n帝国クライス会議の代議士を勤めた名門の家系も土地を失い、vonStadt家を除いて他所へ移って行った。", "qas": [ { "question": "フランス革命戦争の賠償のために、神聖ローマ帝国はどこの地域をフランスに割譲したの?", "id": "tr-323-09-000", "answers": [ { "text": "ライン川左岸地域", "answer_start": 205, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ローテンブルクがバイエルン領に併合されると決まったのは何年でしたか?", "id": "tr-323-09-001", "answers": [ { "text": "1803年", "answer_start": 327, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1806年にはナポレオンの圧力により、フランス主導でバイエルン王国が成立。\n同時にライン同盟に加盟し、フランスの影響下に置かれた。\nローテンブルクは辺境地帯となり、経済危機はさらに悪化した。\n1813年にはナポレオン敗退によりライン同盟は解消、1815年のウィーン会議によりバイエルン王国はオーストリアを盟主とするドイツ連邦に加入した。\nこのドイツ連邦も、1866年の普墺戦争のプロイセン勝利をもって解消された。\n1871年にドイツ帝国が成立すると、バイエルン王国もドイツ帝国に組み込まれた。\nまた、1873年には鉄道が開通した。\nこれらの理由によりドイツ帝国内からの旅行が容易になり、次第に観光客が増え始めた。\nまた工業化(乳母車工場など)も進め、経済は回復を始めた。", "qas": [ { "question": "バイエルン王国の成立を主導した国はどこ?", "id": "tr-323-10-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ローテンブルクに鉄道が開通したのは何年?", "id": "tr-323-10-001", "answers": [ { "text": "1873年", "answer_start": 250, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "先に成立したのはドイツ帝国とバイエルン王国のどちらですか?", "id": "tr-323-10-002", "answers": [ { "text": "バイエルン王国", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "普墺戦争で勝った国はどこでしたか?", "id": "tr-323-10-003", "answers": [ { "text": "プロイセン", "answer_start": 189, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1880年代になると、ロマン主義の画家らによってローテンブルクが再発見され、イギリスやフランスからも人気の観光地となっていった。\n街並みに大きな変更を加える事を禁ずる法律が作られた。\n第一次世界大戦前には、現在も存在しているホテル・アイゼンフートに滞在するバスツアーまであった。\nヴァイマール共和国時代、この都市とその周辺の選挙区は、NSDAP支持者の多い地区となり、1933年の選挙でこの政党は80%もの票を獲得した。", "qas": [ { "question": "ヴァイマール共和国時代に、ローテンブルクの多くの人々が支持した政党は何ですか?", "id": "tr-323-11-000", "answers": [ { "text": "NSDAP", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ローテンブルクはナチスの運動家たちにとって特別に重要なものであった。\n彼らにとってローテンブルクはドイツ人の「故郷の町」の典型であり、ドイツ的な要素を余すところなく体現した街とされた。\n1930年代を通じて、ナチスの下部組織である歓喜力行団は国中からローテンブルクへの日帰り旅行を定期的に組織した。\nこの運動はローテンブルクの住民からは強く支持された。\nそれは、この運動がもたらす経済的な利益のみならず、ローテンブルクは「ドイツの街の中で最もドイツ的である」と称揚されていたからでもあり、住民の多くは国家社会主義に好意的であった。\n1938年10月、ローテンブルクはユダヤ人市民を追放した。\nこれはナチスや、ドイツ中のナチス支持者たちから支持された。", "qas": [ { "question": "「ドイツの街の中で最もドイツ的である」と褒められていた地域はどこ?", "id": "tr-323-12-000", "answers": [ { "text": "ローテンブルク", "answer_start": 202, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ローテンブルクからユダヤ人市民が追放されたのはいつ?", "id": "tr-323-12-001", "answers": [ { "text": "1938年10月", "answer_start": 266, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第二次世界大戦の終戦直前の1945年3月、ドイツ軍の兵士がローテンブルクに駐屯して街を守備していた。\n3月31日、ローテンブルクは、16機のアメリカ空軍機の爆撃を受け、39人が死亡し、306軒の家屋、6つの公共建築物、9つの望楼、そして市壁が600mにわたって破壊された。\nこれは、保存されていた建造物の約40%以上を占める旧市街東部が損傷または破壊された事になる。\nこの爆撃作戦の本来の目標は、オーバーフランケンのエーブラハであったが、霧に覆われていたため攻撃できず、このため代理の目標として、軍事的な意義などないにもかかわらず、ローテンブルクが攻撃されたのであった。\n損害の大部分は、旧市街でも比較的新しい地域であったため、最も重要な記念建造物は、被害を免れた。\n後に質問されたパイロットは、自分たちが文化遺産都市を爆撃していることにまったく気づいていなかったと答えている。", "qas": [ { "question": "ローテンブルクはどこの地域の代わりに爆撃を受けましたか?", "id": "tr-323-13-000", "answers": [ { "text": "エーブラハ", "answer_start": 208, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アメリカ空軍の爆撃によって亡くなった人は何人いましたか?", "id": "tr-323-13-001", "answers": [ { "text": "39人", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アメリカ空軍の当初の爆撃目的地はどこでしたか?", "id": "tr-323-13-002", "answers": [ { "text": "エーブラハ", "answer_start": 208, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "かつての米国国防省副長官ジョン・ジェイ・マックロイは、文書で以下の証言を行った。\nローテンブルクへの進軍に際して、デーヴァーズ将軍の部隊による砲撃が計画されたのだが、これを阻止したというのである。\n彼は、戦前にこの街を訪れ、この中世都市に魅了された母親の話で、この街を知っていたのだという。\nドイツ軍守備隊長のThommes少佐はヒトラーの「全ての街は最後まで戦え」との命令を無視し、降伏した。\nこれによって、砲撃による街の完全破壊は免れた。\n4月17日、ドイツが降伏する3週間前に、米軍が街を占領した。\n戦後、街は旧態に忠実に再建された。\n全世界から再建のための寄付が寄せられ、アメリカからも多額の再建資金援助を行っている。\nこの時の寄付者の名前は、市壁の内側通路に掲示されている。\n1972年まで、この街はローテンブルク郡の郡庁所在地であった。\nバイエルン州の市町村再編により、この街とその郡はアンスバッハ郡に編入されることとなった。\nこの都市は、大規模郡都市の地位を保持した。", "qas": [ { "question": "デーヴァーズ将軍の部隊による砲撃計画を阻止した人は誰ですか?", "id": "tr-323-14-000", "answers": [ { "text": "ジョン・ジェイ・マックロイ", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ローテンブルク・オプ・デア・タウバー郡が廃止された後でも大規模郡都市の状態にあるローテンブルクでは、上級市長の選挙が行われる。\n2006年の選挙では、選挙グループ\"FürRothenburg\"のヴァルター・ハルトルが、決選投票でSPDの候補を破って選出された。\nハルトルは、2006年5月2日に着任した。\n市議会は、24議席からなり、その中から市長が選出される。\n選挙は6年ごとに行われる。", "qas": [ { "question": "ローテンブルクでは、市長選挙が何年ごとに行われるの?", "id": "tr-323-15-000", "answers": [ { "text": "6年", "answer_start": 185, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヴァルター・ハルトルが市長に着任したのはいつでしたか?", "id": "tr-323-15-001", "answers": [ { "text": "2006年5月2日", "answer_start": 137, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ローテンブルクでは、観光産業が大きなウェイトを占めている。\nしかしこの他にも、大手家具製造業者の工場が一つ、大手建設機械製造業者の工場が一つ、中小の機械製造業者がいくつか、それにヨーロッパで2番目に大きな焼き菓子の生産工場がある。\nローテンブルク・オプ・デア・タウバーは、アウトバーンA7号線沿いに位置し、市街からわずかな距離にローテンブルク・オプ・デア・タウバー・インターチェンジがある。\n旧連邦道B25号線がローテンブルクを南北に縦断して走っており、東西に走る古城街道と市内で交差する。\nこの街は、幹線鉄道ヴュルツブルク-アンスバッハ線とシュタイナハから分岐する形で1873年11月1日に開業した、鉄道路線の終着点である。\n現在この路線は、ニュルンベルク広域鉄道網の一つ、近郊鉄道R82として運営されている。\n1905年から1971年までの間はシリングスフュルストを経由してドムビュールで幹線アンスバッハ-クライルスハイム線に接続する路線もあった。", "qas": [ { "question": "ローテンブルクでの重要産業は何ですか?", "id": "tr-323-16-000", "answers": [ { "text": "観光産業", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ローテンブルクを南北に縦断している道路とは何?", "id": "tr-323-16-001", "answers": [ { "text": "旧連邦道B25号線", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ローテンブルク・オプ・デア・タウバーには多くのサイクリングロードが通っている。\n市街の約1km東に、ローテンブルク・オプ・デア・タウバー・スポーツ飛行場(荷重5,700kg、滑走路600m)がある。\nここでは、時折、メルセデス・ベンツ・ツーリングカー・レーシング・チームがテスト走行を行っている。\n鉄道で移動する際には、バイエルン州ゼルビッツ郊外にローテンビュルク(de:Rothenbürg(Selbitz)、uにウムラウトが付いている)というまぎらわしい駅があるので注意が必要である。\n間違えてローテンビュルクに向かってしまう観光客が少なくないようで、ローテンビュルクからローテンブルク・オプ・デア・タウバーに行く方法を複数の言語で案内するパンフレットがローテンビュルク駅には用意されている。", "qas": [ { "question": "ローテンブルクと間違えやすい鉄道の駅名とは何?", "id": "tr-323-17-000", "answers": [ { "text": "ローテンビュルク", "answer_start": 174, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ローテンブルク・オプ・デア・タウバー・スポーツ飛行場の滑走路の距離はどれくらいですか?", "id": "tr-323-17-001", "answers": [ { "text": "600m", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "戦争レクイエム", "paragraphs": [ { "context": "『戦争レクイエム』作品66は、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテンが1962年に発表した管弦楽付き合唱作品である。テクストにはラテン語によるカトリックの典礼文と、第一次世界大戦に従軍し25歳の若さで戦死したイギリスの詩人ウィルフレッド・オーウェンによる英語の詩が使われており、第二次世界大戦における全ての国の犠牲者を追悼するとともに、戦争の不合理さを告発し世界の平和を願う作品となっている。\n\n3人の独唱者と混声合唱および児童合唱、大小2つのオーケストラにより演奏され、所要時間は約1時間25分。「第1章レクイエム・エテルナム(永遠の安息)」、「第2章ディエス・イレ(怒りの日)」、「第3章オッフェルトリウム(奉献唱)」、「第4章サンクトゥス(聖なるかな)」、「第5章アニュス・デイ(神の子羊)」、「第6章リベラ・メ(我を解き放ちたまえ)」の6つの楽章で構成されている。なお、第6章「リベラ・メ」で使われているラテン語のテクスト「リベラ・メ」と「イン・パラディスム(楽園にて)」は、それぞれ「死者のためのミサ」が終わった後の「赦祷式」と、柩を墓地へ運ぶ時のためのものであり、本来は「レクイエム」の典礼文には含まれない。", "qas": [ { "question": "『戦争レクイエム』作品66の作曲家の名前は何?", "id": "tr-324-00-000", "answers": [ { "text": "ベンジャミン・ブリテン", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イギリスの詩人ウィルフレッド・オーウェンは何歳で亡くなったか。", "id": "tr-324-00-001", "answers": [ { "text": "25歳", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『戦争レクイエム』作品66は何年に発表されたの?", "id": "tr-324-00-002", "answers": [ { "text": "1962年", "answer_start": 35, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『戦争レクイエム』はいくつの楽章で構成されているか。", "id": "tr-324-00-003", "answers": [ { "text": "6つ", "answer_start": 372, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『戦争レクイエム』の特徴は、典礼文とオーウェンの詩を対比・融合させ、カトリックの「死者のためのミサ」の世界と現実的な世界を交錯させている点にある。オーウェンは、第一次世界大戦に従軍して戦争の現実を目の当たりにし、殺し殺される運命にある兵士の苦悩や自己の内面の葛藤を表現した詩人である。オーウェンの詩作に対する姿勢は彼の詩集の序文に現れており、『戦争レクイエム』のスコアの扉ページには、その一節が次のように引用されている。\n\n『戦争レクイエム』の作曲にあたり、ブリテンはオーウェンの作品から9篇の詩を選び出し、ミサの典礼文と巧みに組み合わせてテクストを構成した。例えば第2章「ディエス・イレ」において典礼文が「最後の審判」のラッパに言及した後に軍隊の消燈ラッパが登場する詩が置かれるといったように、テクストは緊密に結び付けられている。ブリテンはこの作品におけるオーウェンの詩の役割を「レクイエムの一種の注釈」と説明しているが、第3章「オッフェルトリウム」において聖書に出てくる逸話が全く違う結末に置き換えられてしまうように、オーウェンの詩は直前に置かれた典礼文の内容を転覆し、あるいは戦争に対するキリスト教の態度そのものを批判するかのように配置されており、二つのテクストはフィナーレ部分において融和するまで厳しく対立し続けている。", "qas": [ { "question": "『戦争レクイエム』の作曲にあたり、ブリテンはオーウェンの作品から何篇の詩を選び出しましたか。", "id": "tr-324-01-000", "answers": [ { "text": "9篇", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ブリテンは生来優しく繊細な性格で暴力を嫌っており、作曲の師であるフランク・ブリッジからも平和主義の影響を受けていた。1935年には映画音楽の制作を通して詩人のW・H・オーデンと出会い親交を深めるが、その影響で平和主義の傾向はさらに強固なものになった。オーウェンの影響を強く受けていたオーデンは周囲の者に対してオーウェンの詩を読むことを熱心に勧めており、ブリテンはこの頃にオーデンを通じてオーウェンを理解する手がかりを得ていた可能性が考えられる。そのオーデンは1939年1月にアメリカ大陸に移住し、同年5月にはブリテンも親友ピーター・ピアーズとともにイギリスを離れ、カナダ・アメリカに向かった。同年9月には第二次世界大戦が勃発し、イギリスの友人からは帰国を促す手紙が届くが、ブリテンはさらに数年間アメリカにとどまり続けた。アメリカ滞在中の1940年には日本政府の委嘱により『シンフォニア・ダ・レクイエム』作品20を作曲しているが、この曲についてはブリテン自身が新聞に「私が作品に込めようとしているのは私自身の反戦的信条のすべて」だと寄稿しており、平和主義的な内容や典礼文に基づく楽章タイトルなど、『戦争レクイエム』を予告する作品であると言える。", "qas": [ { "question": "ブリテンの作曲の師は誰?", "id": "tr-324-02-000", "answers": [ { "text": "フランク・ブリッジ", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "W・H・オーデンとブリテンは何年に知り合いになったか。", "id": "tr-324-02-001", "answers": [ { "text": "1935年", "answer_start": 58, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第二次世界大戦は何年に勃発したか。", "id": "tr-324-02-002", "answers": [ { "text": "1939年", "answer_start": 229, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブリテンに『シンフォニア・ダ・レクイエム』作品20の作曲を任せたのは誰?", "id": "tr-324-02-003", "answers": [ { "text": "日本政府", "answer_start": 375, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この申し出は最終的に1943年5月に認可され、ブリテンは、同じく良心的兵役拒否者となったピアーズとともに「戦意高揚のための音楽家・美術家委員会(CEMA)」のためのコンサートを行った。その一方で、ブリテンやピアーズの友人の中には、従軍し大戦の犠牲となった者もいる。ロジャー・バーニー、デヴィッド・ギルは戦死し、マイケル・ハリディは従軍中に行方不明となった。『戦争レクイエム』は、この3名と1959年に自殺したピアーズ・ダンカリーの思い出に捧げられ、スコアには4人の友人の名前が記されている。\n\n平和主義者のブリテンではあったが第二次世界大戦を扱った作品は決して多くない。第二次世界大戦が終結した1940年代後半には、戦争や暴力に反対する内容の大規模な合唱曲を構想するが、それらは実を結ばず、1955年には、イーディス・シットウェルの詩による、ロンドン空襲を扱った『カンティクル第3番「なおも雨は降る」』作品55を作曲している。これはブリテンが第二次世界大戦に直接言及した数少ない作品の一つである。", "qas": [ { "question": "ピアーズ・ダンカリーは何年に亡くなったか。", "id": "tr-324-03-000", "answers": [ { "text": "1959年", "answer_start": 194, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第二次世界大戦はいつ終わったの?", "id": "tr-324-03-001", "answers": [ { "text": "1940年代後半", "answer_start": 297, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『カンティクル第3番「なおも雨は降る」』作品55は何を扱った作品ですか。", "id": "tr-324-03-002", "answers": [ { "text": "ロンドン空襲", "answer_start": 371, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1958年10月7日、ブリテンは、第二次世界大戦で破壊された聖マイケル大聖堂の再建を祝う献堂式のための楽曲を委嘱され、このことが『戦争レクイエム』が生まれる直接のきっかけとなった。\n\n大聖堂があるコヴェントリーはイギリス中部のウォリックシャー州にある工業都市で、第二次世界大戦中の1940年11月14日にドイツ空軍の激しい空襲を受けた。市のシンボルであった大聖堂もこの時に破壊されたが、戦後、建築家バジル・スペンスの設計による現代的な新しい大聖堂が破壊された聖堂の廃墟に隣接して建てられることとなり、彫刻家ジェイコブ・エプスタイン、画家のグレアム・サザーランド、ジョン・パイパー、エリザベス・フリンクなど多くの芸術家がこの再建に関わった。ブリテンへの作曲の委嘱は、献堂式ために組織された式典芸術委員会から行われたが、英国王室楽長であったアーサー・ブリスを差し置いてブリテンが起用されたことは、当時のイギリス楽壇では意外性をもって受け止められた。", "qas": [ { "question": "聖マイケル大聖堂はどの戦争のせいで破壊されたか。", "id": "tr-324-04-000", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦", "answer_start": 17, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブリテンはいつ聖マイケル大聖堂の再建を祝う献堂式のための楽曲を委嘱されたか。", "id": "tr-324-04-001", "answers": [ { "text": "1958年10月7日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コヴェントリーはいつドイツ空軍の空襲を受けたか。", "id": "tr-324-04-002", "answers": [ { "text": "1940年11月14日", "answer_start": 140, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『戦争レクイエム』の初演に向けての大きな問題点はヴィシネフスカヤの出演が確定していないことであった。すでに1961年の夏、オールドバラ音楽祭にヴィシネフスカヤが出演した際、ブリテンは彼女に『戦争レクイエム』への出演を直接依頼し快諾を得ていたがソ連当局が出演許可を与えていなかったのである。ブリテンはソ連文化省に手紙を送り、ヴィシネフスカヤも文化省のエカチェリーナ・フルツェワに直談判を行ったがソ連当局は出演を拒み続けていた。『戦争レクイエム』が完成した1961年といえばベルリンの壁の建設やアメリカとキューバの断交など冷戦に伴う緊張が高まっていた時期ではあったが東西の文化的な交流が途絶えていた訳ではなく、まさに『戦争レクイエム』の初演が行われる直前の1962年5月、ヴィシネフスカヤはロイヤル・オペラ・ハウスでの『アイーダ』公演のためイギリスを訪れていたのである。ソ連当局の許可さえ得られれば彼女はそのままイギリスに残って『戦争レクイエム』に出演できるはずであり、ブリテンやロストロポーヴィチは間際まで粘り強く交渉を行った。しかしその努力も空しく、『アイーダ』公演の最終日、ヴィシネフスカヤに帰国命令が下された。", "qas": [ { "question": "1961年の夏、ブリテンは誰に『戦争レクイエム』への出演を直接依頼していましたか。", "id": "tr-324-05-000", "answers": [ { "text": "ヴィシネフスカヤ", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『戦争レクイエム』は何年に完成されたの?", "id": "tr-324-05-001", "answers": [ { "text": "1961年", "answer_start": 226, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1962年5月30日、コヴェントリーの聖マイケル教会における『戦争レクイエム』の初演は、ピアーズ(テノール)、フィッシャー=ディースカウ(バリトン)、ハーパー(ソプラノ)の3名の独唱者、メレディス・デイヴィス指揮によるバーミンガム市交響楽団、コヴェントリー祝祭合唱団、レミントンとストラットフォードのホーリー・トリニティ教会児童合唱団、ブリテン自身の指揮によるメロス・アンサンブルによって行われた。\n\nこの時の演奏では、第2章「ディエス・イレ」の途中でファンファーレを担当する金管楽器奏者が出るタイミングを完全に見失ってしまうなどのミスがあり、ブリテンはその出来栄えに満足しなかったが、聴衆には好意的に受け止められた。出演者のフィッシャー=ディースカウもフィナーレの部分では戦死した友人や戦争にまつわる様々な思いが去来し、涙ぐみながら歌ったという。\n\n初演当日の演奏はBBCがモノラル録音しており、ブリテンの生誕100年にあたる2013年にイギリスのテスタメントがCD化している。", "qas": [ { "question": "1962年5月30日に行われた『戦争レクイエム』の初演で、独唱者は何名でしたか。", "id": "tr-324-06-000", "answers": [ { "text": "3名", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブリテンの生誕100年にあたる年はいつでしたか。", "id": "tr-324-06-001", "answers": [ { "text": "2013年", "answer_start": 414, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "焼入れ", "paragraphs": [ { "context": "焼入れ(やきいれ、英語:quenching)とは、金属を所定の高温状態から急冷させる熱処理である。\n焼き入れとも表記する。\n広義には、金属全般を所定の高温状態から急冷させる操作を行う処理を指し、狭義には、鉄鋼材料(特に鋼)を金属組織がオーステナイト組織になるまで加熱した後、急冷してマルテンサイト組織を得る熱処理を指す。\n本記事では、狭義の方の鋼の焼入れについて主に説明する。\n焼入れを行うことにより、鉄鋼材を硬くして、耐摩耗性や引張強さ、疲労強度などの強度を向上させることができる。\n焼入れ性がよい材料ほど、材料内部深くまで焼きを入れる(マルテンサイト化させる)ことができる。\n焼入れしたままでは硬いが脆くなるため、靭性を回復させて粘り強い材料にするために焼戻しを焼入れ後に行うのが一般的である。\n焼入れ処理にともなって割れやひずみなどの欠陥が起きる可能性があり、冷却方法などに工夫が行われる。", "qas": [ { "question": "金属を所定の高温状態から急速に冷却させる熱処理の方法を何と言いますか?", "id": "tr-325-00-000", "answers": [ { "text": "焼入れ", "answer_start": 0, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "焼入れは、厳密には鉄鋼材料を急冷することで何を得る熱処理だとしていますか?", "id": "tr-325-00-001", "answers": [ { "text": "マルテンサイト組織", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "焼入れをすると、鉄鋼材の硬さ、引張強さ、疲労強度とあともう1つはどのような性質を強化することができますか?", "id": "tr-325-00-002", "answers": [ { "text": "耐摩耗性", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "物質は、組成、温度、圧力の条件により、液体や固体などに代表される相と呼ばれる物質の形態が変化する。\n組成、温度、圧力などを縦軸や横軸として変化させて、どの相が存在するか示した図を状態図、平衡状態図、あるいは相図と呼ぶ。\n合金の場合は、圧力一定として温度変化と組成変化で状態図を示す場合が一般である。\nまた、合金の場合は、固体として存在する間でも種々の相に変化するのが特徴である。\nこのような相の変化を変態と呼ぶ。", "qas": [ { "question": "圧力一定として温度変化と組成変化で状態図を示す事が一般的である物質とは何?", "id": "tr-325-01-000", "answers": [ { "text": "合金", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "固体として存在する間でも種々に変態する物質とは何ですか?", "id": "tr-325-01-001", "answers": [ { "text": "合金", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ある1つの金属元素に別の1つの元素を加えたものを二元合金と呼ぶ。\n鉄と炭素から成る二元合金について、横軸に炭素の質量パーセント濃度、縦軸に温度を取り、相の変化を示した図を鉄-炭素系二元合金平衡状態図、あるいは鉄-炭素系平衡状態図などと呼ぶ。\nここで「平衡」とは、非常にゆっくり冷却・加熱したときの変化を表している。\n鉄-炭素系二元合金平衡状態図は純鉄と純炭素のみを原料とした合金に基づくものであるが、一般的な鋼は、不純物として、あるいは性質改善のために、炭素以外の成分も含んでおり、これらの他の成分により状態図が多少変化するので注意が必要である。\n合金鋼の場合で、横軸:炭素濃度、縦軸:温度の状態図で比較すると、合金元素の総量が5%以下の低合金鋼では鉄-炭素二元合金とほぼ同形だが、総量10%以上の高合金鋼になると大きく異なってくる。\n以下では簡単のために鉄-炭素系二元合金平衡状態図を用いて鋼の相変化を説明する。", "qas": [ { "question": "ある1つの金属元素に別の1つの元素を加えたものを何と呼びますか?", "id": "tr-325-02-000", "answers": [ { "text": "二元合金", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "超スロースピードで冷却・加熱したときの変化を表した単語は何ですか?", "id": "tr-325-02-001", "answers": [ { "text": "「平衡」", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "純鉄と呼ばれる炭素質量パーセント濃度が0.022%以下の領域を除いて、鉄-炭素系二元合金平衡状態図を見ていく。\n室温では、鋼の相はフェライト相およびセメンタイトで構成される。\n詳しく見ると、炭素濃度0.77%未満ではフェライト+パーライトで、0.77%丁度ではパーライトのみで、0.77%超過ではパーライト+セメンタイトで構成される。\nこの0.77%の点を共析点と呼び、共析点未満の炭素濃度の鋼を亜共析鋼、共析点丁度を共析鋼、共析点超過を過共析鋼と呼ぶ。\n硬さに注目すると、フェライトは軟らかく粘りのある組織で、パーライトも比較的柔らかい組織で、セメンタイトは非常に硬いが脆い組織となっている。", "qas": [ { "question": "フェライト、セメンタイト、パーライトの中で最も硬い組織はどれですか?", "id": "tr-325-03-000", "answers": [ { "text": "セメンタイト", "answer_start": 273, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "室温での鋼がパーライトのみで構成される時は炭素濃度が何%の時ですか?", "id": "tr-325-03-001", "answers": [ { "text": "0.77%丁度", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "室温での鋼がパーライト+セメンタイトで構成される時の共析点は何%ですか?", "id": "tr-325-03-002", "answers": [ { "text": "0.77%超過", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "共析点超過の炭素濃度の鋼の呼称は何ですか?", "id": "tr-325-03-003", "answers": [ { "text": "過共析鋼", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "高温域を見ていくと、A1線と呼ばれる727°Cの温度を超えた領域では、亜共析鋼はフェライト+オーステナイトに、共析鋼はオーステナイトのみに、過共析鋼はオーステナイト+セメンタイトになる。\nこの温度では亜共析鋼にはまだフェライトが存在するが、さらに温度を上げてA3線と呼ばれる温度を超えると亜共析鋼もオーステナイトのみの相となる。\nオーステナイトもフェライトに似て軟らかく粘りのある組織であるが、炭素固溶領域が大きい特徴を持つ。\nオーステナイトあるいはオーステナイト+セメンタイトの高温状態から、逆に冷却していくとする。\nゆっくり平衡的に冷やしていくと上記で説明した順序を逆にたどって変態が起こるだけだが、冷却速度を上げて冷やすと、パーライトやフェライトに変態する時間が足りず、マルテンサイトと呼ばれる平衡状態図には示されない相が現れる。\nこの変態をマルテンサイト変態と呼ぶ。\nマルテンサイト組織は、α鉄が過剰に炭素を強制固溶した組織で、非常に硬い性質を持つ。\nこのように、急冷によるマルテンサイト変態を起こして鋼を硬くさせる操作が、一般的な鋼の焼入れである。\n日本刀の焼入れなど、焼入れは古来から経験的な鍛冶職人の技術として存在していたが、1888年、ロシアの冶金学者ドミートリー・コンスタンチノヴィッチ・チェルノフ(DmitryChernov)により、焼入れが起こる具体的な加熱・冷却条件が発表され、これが鋼の焼入れ、及び熱処理の理論的な嚆矢とされる。", "qas": [ { "question": "亜共析鋼にまだフェライトが存在している時の温度とは何°Cですか?", "id": "tr-325-04-000", "answers": [ { "text": "727°C", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "焼入れの仕組みや条件を理論的に説いた人は誰ですか?", "id": "tr-325-04-001", "answers": [ { "text": "ドミートリー・コンスタンチノヴィッチ・チェルノフ", "answer_start": 534, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "平衡状態図には示されないマルテンサイトの相が現れる変態を何といいますか?", "id": "tr-325-04-002", "answers": [ { "text": "マルテンサイト変態", "answer_start": 374, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "焼入れは、一般的に加工品の加熱、温度保持、冷却という順序で行われ、冷却途中でマルテンサイト変態が発生する。\nまた、通常は焼入れ後に焼戻しを行う。\n以下に順を追って説明する。\n鋼の組織がオーステナイトになるまで加工物を炉などで加熱する。\n熱処理用の炉の種類には、熱源の種類別に、電気炉、重油炉、ガス炉、塩浴炉などがある。\n加熱前の前処理として、焼入れ不良の原因となるため、加工品に汚れや錆がある場合は洗浄やショットブラストで取り除く。\n加熱は、一般に、亜共析鋼ではA3線から30-50°C高い温度まで昇温させ、共析鋼・過共析鋼ではA1線から30-50°C高い温度まで昇温させて、温度を保持する。\n前述の通り、A3線・A1線を超えるとオーステナイト化されるが、それよりも30-50°C高く設定する理由は十分均一なオーステナイトを得る確実性を上げるためである。\nこのような焼入れのための最高加熱温度を焼入れ温度あるいはオーステナイト化温度と呼ぶ。\n上記の一般的な焼入れ温度は、焼なましの一種である完全焼なましとほぼ同じ加熱温度でもある。", "qas": [ { "question": "焼入れ過程の中でマルテンサイト変態が生じるのはいつ?", "id": "tr-325-05-000", "answers": [ { "text": "冷却途中", "answer_start": 33, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "焼入れ不良が起こらないように、加工品に錆がある時はどのような方法で除去しますか?", "id": "tr-325-05-001", "answers": [ { "text": "ショットブラスト", "answer_start": 202, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "亜共析鋼の場合、もし焼入れ温度がA3線より低い場合は、A3線以下ではフェライトが既に析出しているので、焼入れ後組織にもフェライトが含まれるようになり十分な硬度が得られない。\nこのような、何らかの原因によりマルテンサイトのみの組織が得られなかった焼入れを不完全焼入れ、甘焼きと呼ぶ。\nこれに対して、100%マルテンサイト組織が得られた焼入れを完全焼入れと呼ぶ。\nただし、100%のマルテンサイトを得ることは現実的には困難なので、およそ90%程度で実用上は完全焼入れと見なされる。\n逆に焼入れ温度が高過ぎると、結晶粒が粗大化して焼入れ後の機械的性質が劣るようになる。\nまた、後述の焼割れや変形の原因にもなる。\n過共析鋼の場合、A1線を超えてAcm線以上まで加熱すれば全ての組織がオーステナイト化されるが、この温度から焼入れしても焼割れや残留オーステナイトの増加などが発生して上手く焼入れできない。\nこれは鉄中への炭素の固溶濃度が大きくなり過ぎることが原因で、このため焼入れ温度をA1線直上に設定するのが一般である。\nただし、後述の通り高合金鋼使用の場合は、Acm線以上で焼入れ温度を設定する場合もある。", "qas": [ { "question": "100%マルテンサイト組織が得られなかった焼入れを甘焼き、または何と言いますか?", "id": "tr-325-06-000", "answers": [ { "text": "不完全焼入れ", "answer_start": 126, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "実際は、およそ何%程度のマルテンサイトが得られたら完全焼入れと言えるのでしょうか?", "id": "tr-325-06-001", "answers": [ { "text": "90%程度", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "焼入れ温度に保持してセメンタイトをオーステナイト中に固溶させる操作を、固溶化熱処理、オーステナイト化処理とよぶ。\n昇温速度にもよるが、加熱するとき加工品の表面に比べて内部・中心は遅れて昇温するので、表面温度が焼入れ温度に達した後に内部・中心温度は遅れて焼入れ温度に達する。\nそのため、加工品表面が焼入れ温度に達してから冷却するまでの時間を保持時間、加工品全体が焼入れ温度に達してから冷却するまでの時間を有効保持時間と呼び分ける。\n必要な保持時間は、昇温速度、加工品の大きさ、化学成分や加熱前の組織状態によって変わる。\n材質の影響としては、焼入れ前の組織の結晶粒が微細化されているほど、均質なオーステナイト化にかかる時間が短く、保持時間も短くてよくなる。\nまた、組成の影響も大きく、高炭素クロム軸受鋼、高速度鋼、ダイス鋼などでは、同じ条件で比較して、機械構造用炭素鋼などよりも約20分程度保持時間が長くする必要がある。", "qas": [ { "question": "有効保持時間とは、加工品の表面と全体どちらの部分が焼入れ温度に達してから冷却するまでの時間を指しますか?", "id": "tr-325-07-000", "answers": [ { "text": "全体", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "同じ条件下で高炭素クロム軸受鋼、高速度鋼、ダイス鋼と機械構造用炭素鋼を比べる時、保持時間を長くする必要がないのはどちらですか?", "id": "tr-325-07-001", "answers": [ { "text": "機械構造用炭素鋼", "answer_start": 374, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "加工品の加熱・保持後に冷却を行う。\n焼入れに必要な冷却速度は大体160°C/秒以上とされる。\n冷却速度を下げていくと、マルテンサイト変態の前にパーライト変態、ベイナイト変態、フェライト変態が発生するようになり、冷却後の組織にマルテンサイト以外の組織が混入し始める。\nこの他の組織が発生するようになる限界の冷却速度を上部臨界冷却速度、あるいは単に臨界冷却速度と呼び、完全焼入れになる限界速度でもある。\n上部臨界冷却速度からさらに冷却速度を下げていくと、他の変態が多くなりマルテンサイト変態の比率が下がっていき、遂にはマルテンサイト変態が発生しなくなる。\nこの限界の冷却速度を下部臨界冷却速度と呼び、不完全焼入れになる下限速度となる。\nさらに冷却速度を遅くすると(亜共析鋼の場合は)焼ならしに、もっと遅くすると完全焼なましに該当するような熱処理操作となる。\nこのような冷却速度と変態の関係を、亜共析鋼を例にしてCCT図(連続冷却変態曲線)で見ていくと、上部臨界冷却速度でパーライト変態開始線にかかり出す。\n上部臨界冷却速度と下部臨界冷却速度の間では、100%パーライト変態する前にパーライト変態領域を抜けて残りはマルテンサイト変態領域に入る。\n下部臨界冷却速度で100%パーライト変態線にかかり出し、これ以上になると全てパーライト変態となる。", "qas": [ { "question": "加工品の加熱・保持後に冷却を行う際に、必要な冷却速度は大体どれくらいとされていますか?", "id": "tr-325-08-000", "answers": [ { "text": "160°C/秒以上", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "冷却速度を下げていく中で、パーライト変態、ベイナイト変態、フェライト変態の後に発生する変態は何ですか?", "id": "tr-325-08-001", "answers": [ { "text": "マルテンサイト変態", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "焼割れや変形を避けるためにも、加工品全体が均一に降温するように冷却するのが理想的である。\nそのためには冷却速度を落とすことが1つの方策だが、その他に降温を不均一にする要因としては加工品形状やサイズの影響が大きい。\n一般に、表面が最も冷却が早く、内部深くなるに連れて冷却が遅くなる。\nそのため、表面は100%マルテンサイトが得られるような冷却であっても、中心部ではパーライトしか得られないような冷却速度まで低下してしまうことがある。\nこのように、内部深くになるほど焼きが入りにくくなるので、加工品のサイズが大きくなるほど焼きが入らない領域が大きくなる。\nまた、内部の冷却が遅くなることに起因して、内部だけでなく、表面側も冷却速度が低下して焼きが不十分となることもある。\nこのような加工品の大きさ(=質量)が大きくなるほど焼きが入りづらくなる現象を、質量効果と呼ぶ。\n焼入れ性が良い材料では深くまで焼きが入りやすいので質量効果を小さくできる。", "qas": [ { "question": "加工品の大きさが大きくなるにつれて焼きが入りにくくなる現象は何ですか?", "id": "tr-325-09-000", "answers": [ { "text": "質量効果", "answer_start": 373, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "質量効果を小さくできるのはどんな材料ですか?", "id": "tr-325-09-001", "answers": [ { "text": "焼入れ性が良い材料", "answer_start": 382, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "加熱保持後に冷却するために冷却剤が必要になる。\n焼入れに用いられる冷却剤としては、\n水、油、水溶液、塩浴、加圧ガス、空気などがある。\n慣習として、使用する冷却剤の名前を冠して○○焼入れなどと呼ぶ。\n例えば水中で冷却する焼入れは水焼入れ、油中で冷却する焼入れは油焼入れなどと呼ぶ。\nまた、冷却液に浸漬させて焼入れする方法をズブ焼入れ、冷却液を吹きつけて焼入れする方法をスプレー焼入れ、噴射焼入れ、霧状の冷却液中で行う焼入れを噴霧焼入れなどと呼ぶ。\n冷却剤の種類の他に、流体の場合は撹拌の程度が冷却の強さに大きく影響する。\nこれは、加工品を水や油の冷却液につけると、すぐに加工品表面に蒸気膜が発生・覆い、冷却がゆるやかとなるためである。\n一般に、実際に冷却剤を使用する上で必要な管理項目は、温度、撹拌、異物混入防止、冷却剤の品質・寿命が挙げられる。", "qas": [ { "question": "霧状の冷却液中で行う焼入れを何というの?", "id": "tr-325-10-000", "answers": [ { "text": "噴霧焼入れ", "answer_start": 211, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "水による冷却は、冷却剤の中でも冷却速度が大きく、コストが安く、どこでも手に入りやすいという利点がある。\nしかし、Ms点を過ぎた危険区域温度でも急冷してしまうので、焼割れや変形の不具合の可能性が高い。\n水温が30°Cを超えると冷却能が大きく低下するので、30°C以下に保った使用が推奨される。\n冷た過ぎても冷却効果が悪くなるので、焼入れを開始するときの水温は、15°C程度が適当とされる。\n約60°Cくらいでは油と同程度の冷却速度となるので、油焼入れの代わりに使用される場合もある。", "qas": [ { "question": "焼入れ開始時の水温が約60°Cの場合、冷却速度がほぼ同じになるのは何ですか?", "id": "tr-325-11-000", "answers": [ { "text": "油", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "水による冷却では、最適水温は何°Cとされていますか?", "id": "tr-325-11-001", "answers": [ { "text": "30°C以下", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "油による冷却は、均一な冷却ができ、危険区域でもゆっくり冷却できるので焼割れや変形の危険が少ないという利点がある。\n一方、冷却速度が水の約1/3遅く、臨界区域での冷却が遅い点、火災や環境汚染に注意する必要がある点などの欠点がある。\n焼入れ用に調整された油を焼入油と呼び、鉱油が広く使用されている。\n油の場合は、油温を上げると粘度が小さくなり、結果として冷却が早くなる。\nそのため油の冷却能は60-80°Cで最も大きくなる。\n加工品によって冷却油自身も温度上昇することを考えて、焼入れを開始するときの油温は、50-70°C程度が適当とされる。\nさらに温度を上げて後述のマルテンパなどにも使用される。", "qas": [ { "question": "水と油ではどちらが冷却速度が速いですか?", "id": "tr-325-12-000", "answers": [ { "text": "水", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "焼入れを開始するときの油の適温は何°Cですか?", "id": "tr-325-12-001", "answers": [ { "text": "50-70°C程度", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "焼入油として多く用いられている油は何ですか?", "id": "tr-325-12-002", "answers": [ { "text": "鉱油", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "水溶性の物質を水に溶かして冷却剤として使用するもの。\n苛性ソーダ、炭酸ソーダ、食塩などは、蒸気幕が発生している時間を短縮できるので水の冷却能を高めることができる。\n近年では、ポリマーを利用したポリマー焼入液が実用化されている。\nポリビニルアルコール、ポリエチレングリコール、ポリアクリル酸ナトリウム、ポリアルキレングリコールなどを利用したものがある。\n液濃度に応じて冷却能が変わり、高濃度では油寄り、低濃度では水寄りになる。\n油のように危険区域での冷却速度を落とすことができ、水のように火災の恐れが無いという利点がある。", "qas": [ { "question": "最近になって実用化された水溶性の冷却剤とは何ですか?", "id": "tr-325-13-000", "answers": [ { "text": "ポリマー焼入液", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "塩浴、あるいはソルトバスは、塩類を浴に満たして加熱して液体化したもの。\n熱処理塩浴剤をソルトと総称する。\n150-500°Cに加熱して使用する。\n後述のマルテンパ、オーステンパに使用される。\n150°C程度の塩浴は、50°C程度の油と同程度の冷却能となる。\n塩類としては、塩化カリウム、食塩、硝酸ナトリウム、亜硝酸ナトリウムなどが使用される。\n均一な冷却ができ、焼むらや焼割れが少ないなど利点がある一方、塩浴のコストが掛るなどの欠点がある。", "qas": [ { "question": "ソルトバスを使用する際の加熱温度は何°Cですか?", "id": "tr-325-14-000", "answers": [ { "text": "150-500°C", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "50°C程度の油と同程度の冷却能となるのは、塩浴が何°Cの時ですか?", "id": "tr-325-14-001", "answers": [ { "text": "150°C程度", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "水素ガスや窒素ガス、ヘリウムガスなどを加圧して吹きつけ、焼入れの冷却剤として利用する。\n真空加熱炉と併用して、表面を酸化させない光輝焼入れに利用される。\n0.1-0.6MPa程度の加圧ガスで、焼入れ性の良い高合金鋼に対して行われるのが一般的である。\n0.5-4MPaまで加圧して低合金鋼へ適用する例もある。\nただし、日本国内では1MPa以上では高圧ガス保安法で規制されるため採用が難しく、ガスを高速循環させて冷却速度を向上させる方法などが開発されている。\nガス焼入れの欠点としては、設備にコストがかかることなどである。", "qas": [ { "question": "加圧ガスを利用する際に併用される熱処理用の炉は何ですか?", "id": "tr-325-15-000", "answers": [ { "text": "真空加熱炉", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本国内では何MPa以上だと加圧ガスの採用が困難ですか?", "id": "tr-325-15-001", "answers": [ { "text": "1MPa以上", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "低合金鋼に加圧ガスを適用する際はどれくらいの圧力ですか?", "id": "tr-325-15-002", "answers": [ { "text": "0.5-4MPa", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オーステンパ(austemper)は、等温焼入れの一種で、焼入れ温度からの急冷途中に300-500°Cの温度で停止させ、等温変態が完了したら、再び空冷などのゆっくりとした冷却に切り替えて焼入れを完了させる方法である。\n焼入れ後に得られる組織はベイナイトで、そのためベイナイト焼入れとも呼ぶ。\nベイナイトは硬さと靱性が高い組織で、オーステンパ後は焼戻しを必ずしも必要としない利点がある。\nまた、高温域で変態が徐々に進行するので、マルクエンチ、マルテンパ以上に、ひずみ、焼割れの危険性は小さくなる。\n同じベイナイトでも、高めの温度で等温変態させることで靱性が高い上部ベイナイトとなり、低めの温度で硬めの下部ベイナイトとなる。\n境目の温度は約350°Cである。\n硬さ調整のため、オーステンパ後も焼戻しすることはある。\n加工品が大形品だと内部でパーライト変態が発生する場合があり、加工品の大きさに制限がある。\n一次冷却を行う熱浴には、塩浴の他に金属浴を使用する場合もある。", "qas": [ { "question": "オーステンパ後に得られる組織は何ですか?", "id": "tr-325-16-000", "answers": [ { "text": "ベイナイト", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オーステンパの別名は何?", "id": "tr-325-16-001", "answers": [ { "text": "ベイナイト焼入れ", "answer_start": 132, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マルクエンチ、マルテンパ、オーステンパの中でひずみや焼割れの危険性が小さいのは何?", "id": "tr-325-16-002", "answers": [ { "text": "オーステンパ", "answer_start": 0, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "上部ベイナイトと下部ベイナイトの境目の温度は何°Cですか?", "id": "tr-325-16-003", "answers": [ { "text": "約350°C", "answer_start": 317, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "表面相だけを焼入れして内部は軟らかいままにしておく焼入れが表面焼入れで、使用する熱源別に、高周波焼入れ、炎焼入れ、レーザー焼入れ、電子ビーム焼入れなどがある。\n鋼表面の化学成分を変化させる方法を合わせたものとしては、浸炭焼入れ、浸炭窒化焼入れなどもある。\n加工品全体ではなく表面の硬化を狙った熱処理を表面硬化処理(surfacehardeningtreatment)と呼ぶ。\n表面硬化処理には、鋼表面の化学成分を変化させる化学的表面硬化法と、化学成分を特に変化させずに行う物理的表面硬化法がある。\n浸炭焼入れ、浸炭窒化焼入れが化学的表面硬化法に相当し、表面焼入れは物理的表面硬化法に相当する。", "qas": [ { "question": "レーザー焼入れは何という焼入れの種類に含まれますか?", "id": "tr-325-17-000", "answers": [ { "text": "表面焼入れ", "answer_start": 29, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "化学成分を特に変化させずに行う表面硬化処理は何?", "id": "tr-325-17-001", "answers": [ { "text": "物理的表面硬化法", "answer_start": 236, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "鋼表面の化学成分を変化させる表面硬化処理を何と言いますか?", "id": "tr-325-17-002", "answers": [ { "text": "化学的表面硬化法", "answer_start": 211, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "焼入れ完了後に、加工品に割れや変形、硬さ不足などの不具合が発生する場合がある。\nマルテンサイト変態や冷却の不均一などを原因として、焼入れにより割れ(き裂)が発生する。\n焼入れにより発生する割れを分類すると、焼割れ、置割れ、研削割れの種類がある。\n加工品に割れが発生すると再生が利かずほとんどの場合使用不可になるので、致命的な焼入れ欠陥の一つである。", "qas": [ { "question": "焼入れによる割れの発生原因は、マルテンサイト変態と何が挙げられますか?", "id": "tr-325-18-000", "answers": [ { "text": "冷却の不均一", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "焼割れとは焼入れの過程で発生する割れのことで、焼入応力を主原因とする。\n焼入応力が加工品の引張強さを超えると割れが発生する。\n焼入れ完了した加工品に常温放置中に生じる割れを置割れ、あるいは自然割れ、時効割れなどとも呼ぶ。\n特に、焼入れ後に焼戻ししないで加工品を放置すると発生しやすい。\n焼入れ後の組織には、マルテンサイトの他に残留オーステナイトも発生する。\n残留オーステナイトは常温でも時間経過によりマルテンサイトへ変化するので、その際の変態応力の発生で加工品の残留応力のバランスが崩れて割れに至る。\nこれが置割れの原因である。\n対策として、焼入れ後は間を置かずに焼戻しを実行して、材質を安定化させることが望ましい。\n必要に応じてサブゼロ処理も組み合わせる。", "qas": [ { "question": "置割れや自然割れが生じるのは焼入れ完了後のいつですか?", "id": "tr-325-19-000", "answers": [ { "text": "常温放置中", "answer_start": 74, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "焼入れ後の組織に発生するのは、マルテンサイト以外で何がありますか?", "id": "tr-325-19-001", "answers": [ { "text": "残留オーステナイト", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "置割れ対策として、焼入れ後は即時に何を行うことが望ましいですか?", "id": "tr-325-19-002", "answers": [ { "text": "焼戻し", "answer_start": 282, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "焼入れ完了した加工品に研削加工する際に発生する割れを、研削割れ、あるいは研磨割れと呼ぶ。\n研削時の加熱が研削割れの原因で、約100°Cまで加工品表面が昇温することにより発生する第1種研削割れと約300°Cまで昇温することにより発生する第2種研削割れがあり、第1種研削割れは研削方向に直角に割れが走り、第2種研削割れは研削方向に直角と平行に割れが走る特徴がある。\nこれは、再加熱で100°C付近でε炭化物が析出し、300°C付近でセメンタイトが析出するのが原因で、組織変化により体積変化が起こり、置割れと同じように加工品の残留応力のバランスが崩れて割れに至る。\n研削中ではなく、研削終了後に発生する傾向を持つ。\n第1種研削割れには100-120°C焼戻しが、第2種研削割れには300°C焼戻しが有効とされる。\n焼戻しを行わない場合は、できるだけ残留オーステナイトを少なくして、かつ研削による昇温を小さくする", "qas": [ { "question": "第1種研削割れと第2種研削割れは、どちらの方が発生時の温度が高いですか?", "id": "tr-325-20-000", "answers": [ { "text": "第2種研削割れ", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第1種研削割れに有効な焼戻し温度と第2種研削割れに有効な焼戻し温度では、どちらが低温度ですか?", "id": "tr-325-20-001", "answers": [ { "text": "第1種研削割れ", "answer_start": 305, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "研削割れの発生傾向が高いのは、研削中か、それとも研削終了後か?", "id": "tr-325-20-002", "answers": [ { "text": "研削終了後", "answer_start": 288, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "アンドレイ・ルブリョフ(映画)", "paragraphs": [ { "context": "『アンドレイ・ルブリョフ』は、1971年のソビエト連邦の映画である。監督は、アンドレイ・タルコフスキー、脚本は、アンドレイ・コンチャロフスキーとアンドレイ・タルコフスキーがつとめた。出演は、アナトリー・ソロニーツィン、イワン・ラピコフ、ニコライ・グリニコ、ニコライ・セルゲーエフ、ニコライ・ブルリャーエフ、イルマ・ラウシュなど。15世紀初頭のモスクワ大公国を舞台に、イコン画家アンドレイ・ルブリョフを描いた歴史映画である。\n\n本作が製作された当時のソビエト連邦の映画は、完成するとまずスタジオの審査にかけられ、さらに国家検閲を経てから一般上映されるしくみになっていた。本作においては、1966年に完成しながら検閲で歴史的解釈や暴力的描写が批判されて、ただちに一般公開が許可されず、のちに作品の一部をカットして検閲を通過したものが、1971年にソビエト連邦内で一般公開された。\n\nまた、1969年、ソビエト連邦での一般公開が許可されていないうちに第22回カンヌ国際映画祭に出品されて、当年の国際映画批評家連盟賞を受賞した。", "qas": [ { "question": "映画『アンドレイ・ルブリョフ』の監督は誰?", "id": "tr-326-00-000", "answers": [ { "text": "アンドレイ・タルコフスキー", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "映画『アンドレイ・ルブリョフ』の脚本はアンドレイ・タルコフスキーと誰?", "id": "tr-326-00-001", "answers": [ { "text": "アンドレイ・コンチャロフスキー", "answer_start": 56, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "映画『アンドレイ・ルブリョフ』の舞台となっている場所はどこ?", "id": "tr-326-00-002", "answers": [ { "text": "モスクワ大公国", "answer_start": 171, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "映画『アンドレイ・ルブリョフ』は第22回カンヌ国際映画祭でどの賞を受賞したか。", "id": "tr-326-00-003", "answers": [ { "text": "国際映画批評家連盟賞", "answer_start": 444, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "映画『アンドレイ・ルブリョフ』の舞台は、15世紀初頭のモスクワ大公国である。タタール襲来とルーシ諸公の内乱が続いた動乱期を背景に、ロシアの最も優れたイコン画家アンドレイ・ルブリョフの苦悩と模索を描いた。ルブリョフの生涯をたんにたどるのでなく、その生涯に関する挿話や、中世ロシアの史実を下敷きにした挿話を織りまぜた8つの章と「プロローグ」、「エピローグ」をあわせた全10章を叙述することで物語は進む。「プロローグ」と「エピローグ」を除く8つの章はそれぞれ題名が付けられて年代順に並べられている。また、「プロローグ」から「最後の審判1408年夏」が第1部、「襲来1408年」から「エピローグ」が第2部の2部構成になっており、日本公開時は第1部に「動乱そして沈黙」、第2部に「試練そして復活」と独自の邦題がくわえられた。", "qas": [ { "question": "映画『アンドレイ・ルブリョフ』の舞台となっている場所はどこ?", "id": "tr-326-01-000", "answers": [ { "text": "モスクワ大公国", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1961年、『僕の村は戦場だった』で長編映画の初監督をつとめていたアンドレイ・タルコフスキーは、その製作中にイコン画家アンドレイ・ルブリョフにかんする映画の企画書を映画スタジオのモスフィルムに持ち込んだ。1962年2月に脚本執筆の契約を結び、タルコフスキーと脚本の共同執筆者アンドレイ・コンチャロフスキーは、映画の舞台となる中世史や当時の芸術文化にかんする書籍や記録をくわしく調査しながら、同年12月に第一稿を完成させた。その後、2回の改稿を経て、1963年12月に脚本の最終稿がモスフィルムに承認されたのち、1964年4月にはソビエト連邦における映画全般の管理を担っていた中央行政機関ゴスキノでも脚本が承認されて、映画製作が始まった。また、時期を同じくして映画雑誌『映画芸術』4月号と5月号に脚本の最終稿が連載されて、歴史家、映画研究家や一般読者らによって社会政治的側面、歴史的側面から広く議論がなされた。", "qas": [ { "question": "アンドレイ・タルコフスキーが監督をつとめた最初の長編映画は何?", "id": "tr-326-02-000", "answers": [ { "text": "『僕の村は戦場だった』", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "そもそも、ルブリョフの生涯の映画化は、映画俳優ワシーリー・リヴァーノフの構想から始まったものだった。リヴァーノフは、タルコフキーとコンチャロフスキーと3人でモスクワ郊外の森を散策中にルブリョフの脚本をともに書くことを提案したが、タルコフスキーとコンチャロフスキーは、リヴァーノフがほかの映画に出演中に2人で脚本を執筆し始めた。ルブリョフを題材に選んだ理由は、ロシア文化史上、第一級の人物のひとりであったからである。しかし、タルコフスキーは、ルブリョフの伝記映画や歴史映画にするつもりはなく、それよりむしろルブリョフの生きた時代と、芸術家の人格形成との関連性を表現することに興味を持ち、ルブリョフが芸術家として成熟していく過程を描こうとした。", "qas": [ { "question": "ルブリョフの生涯の映画化は誰の構想から始まったものですか。", "id": "tr-326-03-000", "answers": [ { "text": "ワシーリー・リヴァーノフ", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "映画『アンドレイ・ルブリョフ』の第1版は、1966年7月に完成した。このときの題名は『アンドレイの受難』となっており、上映時間は205分であった。しかし、中央行政機関ゴスキノの検閲で歴史的解釈が批判されたほか、上映時間を短縮することや暴力的描写、ヌードシーンの削除が要求されて、ただちに一般上映が許可されなかった。批判を受けた具体的な内容は、「襲来1408年」の章において、民衆はタタール軍に蹂躙、虐殺されて一方的に打ちひしがれる描かれ方をしているが、ロシア人民はもっと勇敢にもっと英雄的にタタールと戦い続けた、という歴史的解釈の異論があったほか、暴力的描写は「最後の審判1408年夏」の章で彫刻家らの目をえぐる場面など、ヌードシーンは「祭日1408年」の章の異教徒らの儀式の場面などが議論の的となった。監督のアンドレイ・タルコフスキーは、そういったゴスキノの要求に段階的に従い、元の205分版を数次にわたってカットと編集を重ねて186分版まで短縮して、題名を『アンドレイ・ルブリョフ』と改題した。", "qas": [ { "question": "映画『アンドレイ・ルブリョフ』の第1版は、いつ完成したの?", "id": "tr-326-04-000", "answers": [ { "text": "1966年7月", "answer_start": 21, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "映画『アンドレイ・ルブリョフ』の第1版の上演時間は何分でしたか。", "id": "tr-326-04-001", "answers": [ { "text": "205分", "answer_start": 64, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "映画『アンドレイ・ルブリョフ』は1969年から1973年にかけて、フランスとフィンランドで映画賞を受賞した。ひとつは、1969年に第22回カンヌ国際映画祭に出品したときのものである。このとき、ソビエト連邦でまだ一般公開が許可されておらず、公開を許可しないソビエト連邦当局に対する抗議として、パルム・ドールや審査員特別グランプリの選考対象とならないコンペティション外での招待出品となった。しかしながら、本作は観客の高い評価を得て、国際映画批評家連盟賞を受賞した。また、このときのカンヌ国際映画祭は、出品作を選ぶ主導権が出品国の映画関係機関にあったが、1972年以降の回からそれが映画祭当局に移ることとなり、本作の出品と受賞をめぐる一件は、そうした未来へのひとつの序章となった。さらに、1971年にフランスのフランス映画批評家協会の最優秀外国映画賞、1973年にフィンランドのユッシ賞で最優秀外国映画賞を受賞したほか、個人では1970年にイルマ・ラウシュが、フランスのエトワール・ドゥ・クリスタル賞の最優秀外国人女優賞を受賞した。", "qas": [ { "question": "映画『アンドレイ・ルブリョフ』は1973年にフィンランドのユッシ賞で何を受賞したか。", "id": "tr-326-05-000", "answers": [ { "text": "最優秀外国映画賞", "answer_start": 364, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ウィリアム・キャヴェンディッシュ(第4代デヴォンシャー公爵)", "paragraphs": [ { "context": "第4代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュ(英語:WilliamCavendish,4thDukeofDevonshire,KGPCFRSFSA、1720年5月8日-1764年10月2日)は、イギリスのホイッグ政治家である。", "qas": [ { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュは、どの国の者なの?", "id": "tr-327-00-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 103, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュは、第何代デヴォンシャー公爵でありますか?", "id": "tr-327-00-001", "answers": [ { "text": "第4代", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ウィリアム・キャヴェンディッシュは、1756年11月16日から1757年6月25日の間首相をつとめたが、実質的指導者はウィリアム・ピット(大ピット、後の初代チャタム伯爵)であった。大ピットは財政面の知識に乏しく、自らは南部担当国務大臣となり、第一大蔵卿(首相)をデヴォンシャーに任せて七年戦争の指揮にあたった。", "qas": [ { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュがイギリス首相を務めたのは、いつからいつだったか?", "id": "tr-327-01-000", "answers": [ { "text": "1756年11月16日から1757年6月25日", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュがイギリス首相を務めた時に、実質的指導者とされたのは、誰だったか?", "id": "tr-327-01-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ピット", "answer_start": 59, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大ピットとは、誰のことを指すのか?", "id": "tr-327-01-002", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ピット", "answer_start": 59, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "七年戦争の指揮をとったイギリス側の者は、誰だったか?", "id": "tr-327-01-003", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ピット", "answer_start": 59, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ウィリアム・キャヴェンディッシュは、1729年以前はキャヴェンディッシュ卿(LordCavendish)、同年から1755年まではハーティントン侯爵(MarquessofHartington)の儀礼称号を名乗った。", "qas": [ { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュは、キャヴェンディッシュ卿とハーティントン侯爵のうち、どちらの儀礼称号をより早く名乗ったの?", "id": "tr-327-02-000", "answers": [ { "text": "キャヴェンディッシュ卿", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュが1728年の時点に名乗った、儀礼称号は何ですか?", "id": "tr-327-02-001", "answers": [ { "text": "キャヴェンディッシュ卿", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュが1753年の時点に名乗った、儀礼称号は何ですか?", "id": "tr-327-02-002", "answers": [ { "text": "ハーティントン侯爵", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "何年を基点に、ウィリアム・キャヴェンディッシュが名乗る儀礼称号が変わったか?", "id": "tr-327-02-003", "answers": [ { "text": "1729年", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ウィリアム・キャヴェンディッシュは、第3代デヴォンシャー公爵ウィリアム・キャヴェンディッシュとキャサリン・ホスキンス(1777年5月8日没、ジョン・ホスキンスの娘)の長男として、1720年に生まれ、同年6月1日にセント・マーティン・イン・ザ・フィールズで洗礼を受けた。", "qas": [ { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュの父親は、第何代デヴォンシャー公爵であったの?", "id": "tr-327-03-000", "answers": [ { "text": "第3代", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュは、何年に生まれましたか?", "id": "tr-327-03-001", "answers": [ { "text": "1720年", "answer_start": 89, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュが洗礼を受けたのは、何年だったか?", "id": "tr-327-03-002", "answers": [ { "text": "1720年", "answer_start": 89, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュは、どこで洗礼を受けたか?", "id": "tr-327-03-003", "answers": [ { "text": "セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ", "answer_start": 106, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ウィリアム・キャヴェンディッシュは、1729年から1755年までハーティントン侯爵の儀礼称号を使用した。家庭教師のアーサー・スミス(後のダブリン大主教)から教育を受けた後、1739年から1740年にかけてスミスとともにグランドツアーに出てフランスとイタリアを旅した。", "qas": [ { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュが、ハーティントン侯爵の儀礼称号を名乗ったのは、何年から何年までだったの?", "id": "tr-327-04-000", "answers": [ { "text": "1729年から1755年", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "幼いころのウィリアム・キャヴェンディッシュを教えた家庭教師は、誰でしたか?", "id": "tr-327-04-001", "answers": [ { "text": "アーサー・スミス", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュがアーサー・スミスとグランドツアーに出かけた時、訪ねた国には、フランスとどの国があるか?", "id": "tr-327-04-002", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 124, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1729年から1755年までにウィリアム・キャヴェンディッシュが使っていた儀礼称号は、何だったか?", "id": "tr-327-04-003", "answers": [ { "text": "ハーティントン侯爵", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ウィリアム・キャヴェンディッシュは、成人直後の1741年イギリス総選挙でダービーシャー選挙区から出馬して庶民院議員に当選、1742年11月16日に初めて議場での演説をした。", "qas": [ { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュが政界入りを果たしたのは、いつの総選挙でのことなの?", "id": "tr-327-05-000", "answers": [ { "text": "1741年", "answer_start": 23, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュは、どの選挙区から出馬し、政界入りを果たしましたか?", "id": "tr-327-05-001", "answers": [ { "text": "ダービーシャー選挙区", "answer_start": 36, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュにとって、議員としての初演説は、いつだったか?", "id": "tr-327-05-002", "answers": [ { "text": "1742年11月16日", "answer_start": 61, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1741年のイギリス総選挙でダービーシャー選挙区から出馬し、議員として活動し始めたのは、誰か?", "id": "tr-327-05-003", "answers": [ { "text": "ウィリアム・キャヴェンディッシュ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1747年イギリス総選挙で再選を果たすと、ウィリアム・キャヴェンディッシュは議会開会直後にアーサー・オンズローの庶民院議長再任を動議した。1751年に王太子ジョージ(後の国王ジョージ3世)の家庭教師への任命を打診されたが辞退した。", "qas": [ { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュがアーサー・オンズローの庶民院議長再任に関する案件を提出したのは、何年のことなの?", "id": "tr-327-06-000", "answers": [ { "text": "1747年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1741年に初当選したウィリアム・キャヴェンディッシュは、そのあと、何年の総選挙で再選しましたか?", "id": "tr-327-06-001", "answers": [ { "text": "1747年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュに王太子ジョージの家庭教師の役が下されたのは、何年のことか?", "id": "tr-327-06-002", "answers": [ { "text": "1751年", "answer_start": 69, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1748年に裕福な女相続人であるシャーロット・ボイルと結婚して広大な領地を獲得したことで政治におけるウィリアム・キャヴェンディッシュの影響力が増し、1751年に主馬頭に任じられるとともに同年6月13日に「ハードウィックのキャヴェンディッシュ男爵」(BaronCavendishofHardwick)として貴族院に招集され(繰上勅書)、貴族院議員となる。", "qas": [ { "question": "何年を基点にウィリアム・キャヴェンディッシュの政治的影響力が急激に上がったの?", "id": "tr-327-07-000", "answers": [ { "text": "1748年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュは、誰と結婚しましたか?", "id": "tr-327-07-001", "answers": [ { "text": "シャーロット・ボイル", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュとシャーロット・ボイルは、何年に結婚したか?", "id": "tr-327-07-002", "answers": [ { "text": "1748年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュが貴族院議員になったのは、何年のことか?", "id": "tr-327-07-003", "answers": [ { "text": "1748年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ウィリアム・キャヴェンディッシュは、1754年にヘンリー・ペラムが死去するとその兄にあたる初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズを支持したため、1755年3月に初代ドーセット公爵ライオネル・サックヴィルの後任としてアイルランド総督を務めるようニューカッスル公爵から任じられた。", "qas": [ { "question": "ヘンリー・ペラムが死去したのは、何年のことなの?", "id": "tr-327-08-000", "answers": [ { "text": "1754年", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュがアイルランド総督に任命されたのは、何年のことですか?", "id": "tr-327-08-001", "answers": [ { "text": "1755年", "answer_start": 76, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1754年からイギリスの実権を握ったのは、誰か?", "id": "tr-327-08-002", "answers": [ { "text": "トマス・ペラム=ホールズ", "answer_start": 56, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヘンリー・ペラムの実験末期にアイルランド総督を務めていたのは、誰か?", "id": "tr-327-08-003", "answers": [ { "text": "ライオネル・サックヴィル", "answer_start": 93, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1756年に七年戦争が勃発するとイングランドでは指導者として大ピットを期待する声が高まるが、本人が初代ニューカッスル公爵トマス・ペラム=ホールズの政権へ加わるのを拒否した。デヴォンシャー公爵は1756年10月にアイルランドから帰国したが、ちょうど同10月にヘンリー・フォックスが南部担当国務大臣を辞任して第1次ニューカッスル公爵内閣が崩壊、フォックスが組閣に失敗したため家柄と庶民院議員の経験やアイルランドでの人気によりデヴォンシャーが第一大蔵卿(首相)に推された(大ピットはフォックスの後任として南部担当国務大臣に就任)。", "qas": [ { "question": "七年戦争が発生したのは、何年のことなの?", "id": "tr-327-09-000", "answers": [ { "text": "1756年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1756年の時点でイングランドの実権を握っていたのは、誰ですか?", "id": "tr-327-09-001", "answers": [ { "text": "トマス・ペラム=ホールズ", "answer_start": 60, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "デヴォンシャー公爵がイギリス首相に推薦されたのは、何年のことか?", "id": "tr-327-09-002", "answers": [ { "text": "1756年", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1755年の時点でデヴォンシャー公爵は、どこで活動していたか?", "id": "tr-327-09-003", "answers": [ { "text": "アイルランド", "answer_start": 105, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "デヴォンシャーは大ピットとニューカッスル公爵が和解するためのつなぎ役とみられ、彼はアイルランド政界での任命と同じく党派性の薄い内閣を組閣したが、これは同時に内閣が不安定であることを意味した。そして、大方の予想通り、組閣からわずか5か月後に大ピットが辞任すると内閣が倒れ、デヴォンシャーの仲介もあり6月末にニューカッスル=ピット内閣が成立した、デヴォンシャー自身は宮内長官に転じた。", "qas": [ { "question": "当時、大ピットとニューカッスル公爵が和解するためのつなぎ役とみられていたのは、誰なの?", "id": "tr-327-10-000", "answers": [ { "text": "デヴォンシャー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "デヴォンシャーが組閣した内閣は、何と安定性が薄い内閣と評されていましたか?", "id": "tr-327-10-001", "answers": [ { "text": "党派性", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "デヴォンシャーが組閣した内閣は、わずか何か月で崩れてしまったか?", "id": "tr-327-10-002", "answers": [ { "text": "5か月", "answer_start": 114, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "デヴォンシャーが組閣した内閣が崩れた原因としては、誰の辞任が挙げられるか?", "id": "tr-327-10-003", "answers": [ { "text": "大ピット", "answer_start": 119, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "宮内長官に転じた後も閣議に出席して、各党派の融和に努めた。やがて1762年5月にニューカッスル公爵が辞任すると、デヴォンシャー公爵は辞任せず閣議への出席を拒否したが、結局七年戦争の講和条約をめぐり後任の首相である第3代ビュート伯爵ジョン・ステュアートと決裂して1762年11月28日に宮内長官を辞任、国王ジョージ3世は激怒してデヴォンシャー公爵を枢密顧問官から解任した。", "qas": [ { "question": "ニューカッスル公爵が辞任したのは、何年のことなの?", "id": "tr-327-11-000", "answers": [ { "text": "1762年", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ニューカッスル公爵の後を継ぎ、イギリス首相となったのは、誰ですか?", "id": "tr-327-11-001", "answers": [ { "text": "ジョン・ステュアート", "answer_start": 115, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジョン・ステュアートがイギリス首相となったのは、何年のことか?", "id": "tr-327-11-002", "answers": [ { "text": "1762年", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "デヴォンシャー公爵が宮内長官を辞任したのは、いつのことか?", "id": "tr-327-11-003", "answers": [ { "text": "1762年11月28日", "answer_start": 130, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1761年11月12日、ウィリアム・キャヴェンディッシュは王立協会フェローに選出された。1762年12月9日、ロンドン考古協会フェローに選出された。また、1761年7月4日にアイルランド枢密院の枢密顧問官への任命が公表されたが、就任宣誓を行わなかった。", "qas": [ { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュは、王立協会フェローとロンドン考古協会フェローのうち、どちらに、より早く選出されたの?", "id": "tr-327-12-000", "answers": [ { "text": "王立協会フェロー", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュをアイルランド枢密院の枢密顧問官に任命することが公表された年度に、ウィリアム・キャヴェンディッシュは、何に選出されましたか?", "id": "tr-327-12-001", "answers": [ { "text": "王立協会フェロー", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュが、王立協会フェローに選出されたのは、いつのことか?", "id": "tr-327-12-002", "answers": [ { "text": "1761年11月12日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィリアム・キャヴェンディッシュが、ロンドン考古協会フェローに選出されたのは、いつのことか?", "id": "tr-327-12-003", "answers": [ { "text": "1762年12月9日", "answer_start": 44, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "南極点", "paragraphs": [ { "context": "南極点(なんきょくてん、英:SouthPole)とは、自転する天体の最南端に当たる南緯90度地点のことである。\nほとんどの場合、地理学上の南極点は自転軸と天体表面が交差する点の内、南側にある1点が南極点である。\nもうひとつは北極点のことである。\n以下本項では特に断らないかぎり、地球の南極点について述べる。", "qas": [ { "question": "南極点は南緯何度ですか?", "id": "tr-328-00-000", "answers": [ { "text": "90度", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "自転する天体の最北端に当たる地点を何といいますか?", "id": "tr-328-00-001", "answers": [ { "text": "北極点", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "南極点は南極大陸上に位置し、1956年に建設されたアメリカ合衆国のアムンゼン・スコット基地内にある。\n南極点はあくまで地理学的な地点であり、方位磁石のS極が指し示す地磁気の極である南磁極(南緯64.6度、東経138.6度、1997年1月)や、地球磁場を完全な双極子磁場と想定した際にS極に当たる南磁軸極(南地磁気極)(en)(南緯78.6度、東経110.0度)とは一致しない。\n南極点の地理座標は、緯度であれば単純に南緯90度と与えられる。\n一方の経度では、表すことができない特異点である極(きょく)に相当する。\n便宜的に経度を示す場合、南極点の方眼北(グリッド北)はグリニッジ子午線に沿っているとみなし、経度は西経(または東経)0度としている。", "qas": [ { "question": "南極点が位置しているのはどこの基地内ですか?", "id": "tr-328-01-000", "answers": [ { "text": "アムンゼン・スコット基地", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アムンゼン・スコット基地を建設した国は?", "id": "tr-328-01-001", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 25, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アムンゼン・スコット基地の設立年は?", "id": "tr-328-01-002", "answers": [ { "text": "1956年", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "南極点の経度は何度ですか?", "id": "tr-328-01-003", "answers": [ { "text": "0度", "answer_start": 315, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "大陸移動があるため、地球の歴史において常にそうであった訳ではないが、南極点は南極大陸上にある。\n2011年現在それは、最も近い海岸線となるマクマード湾(en)から内陸におよそ1,300キロメートル(800マイル)の位置にある。\nそこには厚さおよそ2,700メートル(9,000フィート)の氷が大地を覆い、南極点はその氷床の上、標高にしておよそ2,835メートル(9,306フィート)の位置にある。\nしかし、地震などの地殻変動によってジオイドに変化が起こると、自転のモーメントに影響を与え地球の自転軸はぐらつく。\nこれを極運動という。\nそのため、この定義では厳格には南極点および北極点を固定できない。\nさらに、南極点の氷床は1年あたり約10メートルの速度でグリッド北37度から40度の方向に移動し、ウェッデル海へ向かっている。よって南極点に何らかの標識を置いても、時間が経つにつれて位置がずれて行くことになる。", "qas": [ { "question": "南極点に最も近い海外線はどこ?", "id": "tr-328-02-000", "answers": [ { "text": "マクマード湾", "answer_start": 69, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "南極点の標高は?", "id": "tr-328-02-001", "answers": [ { "text": "およそ2,835メートル", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南極点の氷床の厚さはどれくらいですか?", "id": "tr-328-02-002", "answers": [ { "text": "およそ2,700メートル", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "以上の理由から、地理学的に定められる実際の南極点は継続的に測定され、毎年元旦に「ジオグラフィック・ポール」という標識が付け替えられる。\nジオグラフィック・ポールは簡単な杭を打って示す。\nそばにはアメリカ合衆国の星条旗と、添えられた立て看板がある。\n看板にはロアール・アムンセンとロバート・スコットの業績を讃えて彼らがそれぞれ南極点に到達した日付と短い解説、そして南極点の標高が記されている。\n過去の標識は観測日を付けて残されるため、氷原に点々と打たれた杭から南極点の移動が確認できる。", "qas": [ { "question": "ジオグラフィック・ポールの付け替えが行われる日は?", "id": "tr-328-03-000", "answers": [ { "text": "元旦", "answer_start": 36, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジオグラフィック・ポールのそばに立てられる旗とは?", "id": "tr-328-03-001", "answers": [ { "text": "星条旗", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "看板に記されているのは、ロアール・アムンセンと誰の南極点到達の日付ですか?", "id": "tr-328-03-002", "answers": [ { "text": "ロバート・スコット", "answer_start": 139, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "実際の南極点標識とは別に、観光用の南極点標識「セレモニアル・ポール」がアムンゼン・スコット基地の脇に設置されている。\n金属球を上に据えた柱脚(en)状台座の標識は、南極条約の原加盟国である12カ国の国旗で囲われており、南極が人類の共有財産であることを象徴する。\n実際の南極点とはさほど離れていない。", "qas": [ { "question": "「セレモニアル・ポール」とは何用の南極点標識ですか?", "id": "tr-328-04-000", "answers": [ { "text": "観光用", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南極条約の原加盟国は何ヶ国ですか?", "id": "tr-328-04-001", "answers": [ { "text": "12カ国", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「セレモニアル・ポール」の近くにある施設とは何?", "id": "tr-328-04-002", "answers": [ { "text": "アムンゼン・スコット基地", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アムンセンのテントとは、1911年12月14日に南極点に到達したロアール・アムンセン率いるノルウェー遠征隊によって設営されたテント。\n現在、南極点付近の雪と氷の下に埋没している。\n南極条約協議国会議へのノルウェーからの提案により、南極史跡記念物(HSM80)に指定された。\nテントの正確な位置は不明だが、氷の移動速度と雪の蓄積速度から計算すると、2010年の時点で、南極点から1.8〜2.5キロメートル離れた表面から17メートルの深さと推定される。", "qas": [ { "question": "ノルウェー遠征隊が南極点に到達したのはいつですか?", "id": "tr-328-05-000", "answers": [ { "text": "1911年12月14日", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ノルウェー遠征隊の中心人物は誰でしたか?", "id": "tr-328-05-001", "answers": [ { "text": "ロアール・アムンセン", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アムンセンのテントは2010年の時点で、南極点から何キロメートル離れた地点に埋まっていますか?", "id": "tr-328-05-002", "answers": [ { "text": "1.8〜2.5キロメートル", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ノルウェーの提案によって南極史跡記念物に指定されたものとは?", "id": "tr-328-05-003", "answers": [ { "text": "アムンセンのテント", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アルゼンチンの旗竿とは、第1回アルゼンチン内陸極点探検隊(オペラシオン90)によって1965年12月に南極点に立てられた旗竿。\n南極条約協議国会議へのアルゼンチンの提案により、南極史跡記念物(HSM1)に指定された。", "qas": [ { "question": "アルゼンチンの旗竿が立てられたのはいつ?", "id": "tr-328-06-000", "answers": [ { "text": "1965年12月", "answer_start": 42, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南極史跡記念物(HSM1)に指定されたものとは何?", "id": "tr-328-06-001", "answers": [ { "text": "アルゼンチンの旗竿", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "南極の発見には諸説あるが、1820年から翌1821年の1月にロシアのファビアン・ベリングスハウゼン(en)とミハイル・ラザレフ(en)が南極に到達したことはごく初期の事例に当たる。\n1月後にアメリカのジョン・デイビス(en)らが南極大陸初上陸を果たした。\n当時、南極の地形は未知であったが、19世紀中ごろにアメリカの海軍士官チャールズ・ウィルクスが自ら行った1839年-1840年の探検結果を元に南極は新大陸であると主張し、後にそれは正しさが証明された。\nジェイムズ・クラーク・ロスは1839年-1843年に航路で南極点到達を目指す探検に挑んだが、失敗した。", "qas": [ { "question": "ファビアン・ベリングスハウゼンとジョン・デイビスはどちらが先に南極に到達しましたか?", "id": "tr-328-07-000", "answers": [ { "text": "ファビアン・ベリングスハウゼン", "answer_start": 34, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "南極が新大陸であることを主張した人は誰でしたか?", "id": "tr-328-07-001", "answers": [ { "text": "チャールズ・ウィルクス", "answer_start": 162, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファビアン・ベリングスハウゼン、ジョン・デイビス、ミハイル・ラザレフの中でアメリカの人は誰ですか?", "id": "tr-328-07-002", "answers": [ { "text": "ジョン・デイビス", "answer_start": 100, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "南極点への行程を探す最初の試みは、1901年-1904年にディスカヴァリー号探検隊に加わったイギリスの冒険家ロバート・スコットによって行われた。\nアーネスト・シャクルトンやエドワード・ウィルソン(en)とともに、出来るかぎり南を目指したスコットは、1902年12月31日に南緯82.16度まで到達した。\nシャクルトンはニムロド号探検隊の隊長として再び南極に挑み、1909年1月9日に南緯88.23度、南極点まであと112マイル(180キロ)というところまでたどり着いたが、引き返さざるを得なくなり涙を呑んだ。", "qas": [ { "question": "1902年12月31日と1909年1月9日に到達した地点が、より南極点に近かったのはどちらの年月日ですか?", "id": "tr-328-08-000", "answers": [ { "text": "1909年1月9日", "answer_start": 181, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1902年以降に再度南極点を目指した人は誰ですか?", "id": "tr-328-08-001", "answers": [ { "text": "シャクルトン", "answer_start": 152, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シャクルトンが2度目の南極点挑戦時に属していた隊の名前とは?", "id": "tr-328-08-002", "answers": [ { "text": "ニムロド号探検隊", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "人類初の南極点到達は、1911年12月14日にノルウェーのロアール・アムンセンの南極点遠征隊によって成し遂げられた。\nアムンセンは南極点にポールハイム(en)というキャンプを張り、南極点周辺の台地を国王ホーコン7世にちなみ「ホーコン7世台地(en)」と命名した。\nロバート・スコットもまたテラノヴァ号探検隊を組んで再び南極大陸に上陸し、南極点を目指していた。\nスコットと4人の探検隊が南極点に到達したのは1912年1月17日、アムンセンに遅れる事34日後だった。\n帰路、飢餓と極寒の中で彼らは全滅した。", "qas": [ { "question": "ロアール・アムンセンとロバート・スコットはどちらが先に南極点に到達しましたか?", "id": "tr-328-09-000", "answers": [ { "text": "ロアール・アムンセン", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ロアール・アムンセンの出身国はどこですか?", "id": "tr-328-09-001", "answers": [ { "text": "ノルウェー", "answer_start": 23, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アムンセンが南極点に張ったキャンプの名前は?", "id": "tr-328-09-002", "answers": [ { "text": "ポールハイム", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロバート・スコットが属していた隊の名前", "id": "tr-328-09-003", "answers": [ { "text": "テラノヴァ号探検隊", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1914年にはアーネスト・シャクルトン率いる帝国南極横断探検隊が、南極点を経由する大陸横断の探検に出発した。\nしかし乗艦したエンデュランス号(en)が海氷に閉じ込められ、試みは断念された。\nその後、長らく陸路横断計画は立案されなかった。\n1929年11月には、アメリカの海軍少将リチャード・バードが、操縦士バーント・バルヒェン(en)の操縦する航空機で、世界で初めて南極点上空を通過した。", "qas": [ { "question": "人類が世界で初めて南極点上空を通過したのはいつ?", "id": "tr-328-10-000", "answers": [ { "text": "1929年11月", "answer_start": 119, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "帝国南極横断探検隊が乗っていた艦体の名前は?", "id": "tr-328-10-001", "answers": [ { "text": "エンデュランス号", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "世界で初めて南極点上空を通過した航空機のパイロットは誰でしたか?", "id": "tr-328-10-002", "answers": [ { "text": "バーント・バルヒェン", "answer_start": 153, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1956年10月31日にジョージ・J・デューフェク(en)を載せたアメリカ海軍の航空機R4D-5Lスカイトレインが着陸し、南極点は人類が訪れない長い空白期間を終えた。\nこの年から翌年の国際地球観測年にかけて、南極点にアムンゼン・スコット基地が建設され、研究者や支援要員の常駐が始まった。\nアムンゼンとスコットに次ぐ陸路での南極点到達は、イギリス連邦の南極大陸横断探検(en)の一環に当たる1958年1月4日のエドモンド・ヒラリー一行、1月19日のヴィヴィアン・フックス一行が航空機からの支援をうけつつも達成した。\nその後も、アンテロ・ハボラ、アルバート・P・クレイリー、ラノフ・ファインズ(en)ら多くの探検家が南極点への旅を成功させた。\n1968年12月19日、日本の第9次越冬隊(隊長・村山雅美)が日本人として初めて南極点に到達した。\n1987年にはエルスワース山脈内の南緯80度にあるパトリオットヒルズに民間のベースが建設され、南極点への非政府系の遠征が行われるようになった。\n1989年12月30日には、アルブト・フックス(en)とラインホルト・メスナーが乗り物や動物の助けを受けず、スキーと風力だけで南極点に達した。\n海岸から支援を受けず徒歩で南極点に到達した例は、2009年にヘラクレス湾(HerculesInlet)から33日をかけたカナダのレイ・ザハブ(en)、リチャード・ウェーバー、ケビン・バレリーが成し遂げた。\nこれは1か月前にトッド・カーマイケルが達成した39日と7時間の記録を更新した。", "qas": [ { "question": "エドモンド・ヒラリー一行とヴィヴィアン・フックス一行のうち、南極点到達が遅かったのはどちらでしたか?", "id": "tr-328-11-000", "answers": [ { "text": "ヴィヴィアン・フックス一行", "answer_start": 223, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "南極点に初めて到達した日本人は誰?", "id": "tr-328-11-001", "answers": [ { "text": "村山雅美", "answer_start": 345, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トッド・カーマイケルとレイ・ザハブはどちらが先に南極点に到達しましたか?", "id": "tr-328-11-002", "answers": [ { "text": "トッド・カーマイケル", "answer_start": 625, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "南極点到達までの時間が短いのはトッド・カーマイケルとレイ・ザハブのどちらですか?", "id": "tr-328-11-003", "answers": [ { "text": "レイ・ザハブ", "answer_start": 578, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アムンセンが南極点の初到達者とするからには、必然的に、アムンセンが極点の位置を実測により特定した最初の人物と言える。\nGPS等による位置測定ができない1911年当時において用いられた方法は、太陽による天測が主であった。\nまず、アムンセンが持参した計測機器類は、羅針儀4個、ソリ距離計3個、六分儀2個、人工水平線器3個、沸点高度計1個、アネロイド晴雨計1個、温度計4個、双眼鏡2個、クロノメーター3個であった。\nなお、アムンセンは船長を務めていたことから、航海術を習得する過程でこれらの機器の操作法には習熟していたものと考えられる。\n帰国後、極点と断定した測定値を天文学者と数学者に委託。\nその結果、実際には南緯89度58分05秒、東経60度だったことが判明した。\nそこから3方向に往復した結果、計算による本当の南極点を200~300メートル以内の近さで通過したと見られている。", "qas": [ { "question": "アムンセンが持参した計測機器類の中で最も個数が多かったのは温度計と何でしたか?", "id": "tr-328-12-000", "answers": [ { "text": "羅針儀", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アムンセンが持参した六分儀、人工水平線器、沸点高度計の中で、最も個数が少なかったのはどれですか?", "id": "tr-328-12-001", "answers": [ { "text": "沸点高度計", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1911年当時において用いられた位置測定の方法とは?", "id": "tr-328-12-002", "answers": [ { "text": "太陽による天測", "answer_start": 95, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アムンセンが実測した極点の南緯はいくつでしたか?", "id": "tr-328-12-003", "answers": [ { "text": "南緯89度58分05秒", "answer_start": 303, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "南半球の冬季に当たる3月から9月にかけて、南極点には日光が全く射さない。\n5月から7月には薄明かりも見られなくなり、月光を除けば南極点は暗闇に沈む。\n逆に夏季となる9月から3月の期間、太陽は昇ったまま反時計まわりで地平線上にとどまる。\nただし高度は一貫して低く、日光の入射角は最大となる12月でも23.5度程度に過ぎない。\nこの日照の少なさに加え、積もる白い雪が光を反射する点や標高が2,800メートル(9,186フィート)であることも相まって、南極点は地球上で最も気温が低い場所のひとつに挙げられる。\nなお、観測された最低気温は標高がより高いボストーク基地(標高3,488メートル)で1983年に記録された。\n北極点は海洋上の氷原にあり標高も低い上、暖流の影響などもあり南極点ほどに気温は下がらない。", "qas": [ { "question": "ボストーク基地の標高はどれくらいですか?", "id": "tr-328-13-000", "answers": [ { "text": "3,488メートル", "answer_start": 282, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南極点に日光が全く射さない時期は何月から何月にかけてですか?", "id": "tr-328-13-001", "answers": [ { "text": "3月から9月にかけて", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1月の南極点は平均気温がマイナス25.9°Cまで上昇する。\nしかし日が経つにつれて太陽の高度が徐々に落ち、3月には気温は平均でマイナス45°Cまで下がる。\n3月下旬には陽が暮れ、再び日の出が来るのは9月下旬を待たなければならない。\n冬季の平均気温はマイナス58°Cを前後する。\nアムンゼン・スコット基地で観測された最高気温は1978年12月27日のマイナス13.6°C、最低気温は1982年6月23日のマイナス82.8°Cである。\n南極点は砂漠気候に相等する程に降水量がほとんど無く、空気中の湿度もほぼゼロに等しい。\nしかし激しい風を伴う降雪はあり、年間の積雪量は20cm程度となる。\n以前のアムンゼン・スコット基地はドーム状だったため、この雪が部分的に覆い、入り口は定期的に雪かきをしなければならなかった。\n現在の建物は積雪対策のため高床形状に設計され、雪の吹き溜まりができないようになった。", "qas": [ { "question": "現在のアムンゼン・スコット基地はどのような形状をしていますか?", "id": "tr-328-14-000", "answers": [ { "text": "高床形状", "answer_start": 368, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アムンゼン・スコット基地で観測された最高気温は何°Cですか?", "id": "tr-328-14-001", "answers": [ { "text": "マイナス13.6°C", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南極点の3月の平均気温は何°Cですか?", "id": "tr-328-14-002", "answers": [ { "text": "マイナス45°C", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "地球上では、各地点の時刻はほぼ経度に沿うように設定されている。\n時刻は同時に太陽の位置に連動し、例えば正午には一日でおおよそ最も高い高度に太陽が来る。\nしかし、全ての経度線が集中し、日の出と日の入りが年に一度しかない南極点では、このような原則が当てはまらない。\nそこで、南極点にあるアムンゼン・スコット基地では便宜上の時刻を採用している。\nそれはアメリカが補給機を離陸させるディープ・フリーズ作戦(en)で使うニュージーランドのクライストチャーチの時刻(標準時NZST,UTC+12。夏時間ではUTC+13)である。", "qas": [ { "question": "アムンゼン・スコット基地で採用されている便宜上の時刻はどこの都市の時刻ですか?", "id": "tr-328-15-000", "answers": [ { "text": "クライストチャーチ", "answer_start": 214, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "南極点の気候は非常に厳しく、まれに風に流されたトウゾクカモメが見られる程度で、定住する動植物は存在しない。\n2000年に、肺炎球菌に似たバクテリアが南極点付近の氷の中から見つかったが、このバクテリアが南極で進化した可能性は低いと考えられている。\nしかし科学者らは、極寒・乾燥かつ強烈な紫外線が降り注ぐ時期と一転暗闇に閉ざされる時期がある南極点の過酷な環境でも生存できる生命が存在する事実は、太陽系の他の惑星や衛星にも生命が存在する可能性を考えるに当たって重要な意味を持つと考えている。", "qas": [ { "question": "南極点でまれに見られる動物とは何?", "id": "tr-328-16-000", "answers": [ { "text": "トウゾクカモメ", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "南極点付近には1957年にアメリカのアムンゼン・スコット基地が建設されたほか、南極点望遠鏡などいくつかの施設が建設されて研究・観測を行っている。\nアムンゼン・スコット基地には物資輸送用のJackF.PaulusSkiway(en)と呼ばれる滑走路が存在し、マクマード基地からの物資輸送に使用されている。\n以前は輸送路はこの空路のみであったが、2003年から物資輸送を目的としてマクマード南極点道路の建設が開始され、2006年に完成した。\nマクマード南極点道路は、船舶の接岸できる南限であるロス島のマクマード基地から南極点を結ぶ全長1450kmの道路であり、路面は圧雪した雪によってできていて、400mごとに目印が建てられて道を見失わないようになっている。", "qas": [ { "question": "マクマード南極点道路の全長はどれくらいありますか?", "id": "tr-328-17-000", "answers": [ { "text": "1450km", "answer_start": 265, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "名鉄3400系電車", "paragraphs": [ { "context": "名鉄3400系電車(めいてつ3400けいでんしゃ)は、名古屋鉄道(名鉄)が主に優等列車運用に供する目的で1937年(昭和12年)に導入した電車である。名鉄の直流1,500V電化路線において運用された吊り掛け駆動車各形式のうち、間接自動進段制御器を搭載するAL車に属する。\n\n先頭車の前頭部を流線形状として、前面から側面にかけての車体下部全周をスカートと称する下部覆い板にて覆った外観を特徴とし、名鉄社内においては3400系電車を「流線」と呼称した。また鉄道愛好家からは主に「いもむし」の愛称で呼称された。\n\n以下、本項においては3400系電車を「本系列」と記述し、また編成単位の説明に際しては制御電動車モ3400形の車両番号をもって編成呼称とする(例:モ3401-ク2401の2両で組成された編成であれば「3401編成」)。", "qas": [ { "question": "名鉄3400系電車が導入されたのは何年なのか和暦で答えなさい。", "id": "tr-329-00-000", "answers": [ { "text": "昭和12年", "answer_start": 58, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "名鉄3400系電車の先頭車の前頭部の形態は?", "id": "tr-329-00-001", "answers": [ { "text": "流線形状", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "名鉄社内での3400系電車の呼称は?", "id": "tr-329-00-002", "answers": [ { "text": "「流線」", "answer_start": 214, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "愛知電気鉄道(愛電)と名岐鉄道(名岐)の対等合併によって成立した現・名古屋鉄道(名鉄)における、合併後初の新型車両として、1937年(昭和12年)3月に制御電動車モ3400形と制御車ク2400形によって組成される2両編成3本・計6両が落成した。当時は国鉄EF55形電気機関車・国鉄52系電車・国鉄キハ43000形気動車などに代表される、前面形状を流線形とした車両設計が流行しており、本系列もそれを取り入れる形で設計され、旧愛電由来の各路線、通称「東部線」へ導入された。また同時期には旧名岐由来の各路線、通称「西部線」向けの新型流線形車両として850系が導入され、東部線・西部線にそれぞれ流線形車両が導入される形となった。", "qas": [ { "question": "名古屋鉄道は名岐鉄道とどこの合併によって成立しましたか?", "id": "tr-329-01-000", "answers": [ { "text": "愛知電気鉄道", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "名岐鉄道由来の各路線に配置された車両は何ですか?", "id": "tr-329-01-001", "answers": [ { "text": "850系", "answer_start": 271, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ただし、旧名岐出身の設計陣が担当した西部線用の850系が名岐鉄道当時に新製されたモ800形の設計を踏襲しつつ、前面形状を本系列と同じく流線形に改めたのみの保守的な設計を採用したのに対して、旧愛電出身の設計陣が担当した東部線用の本系列は車体・主要機器とも完全新規設計され、高速運転に対応した歯車比設定による高回転型主電動機の採用、回生制動を用いた定速制御機能の実装や、車内座席を全席転換クロスシート仕様とするなど、名鉄においては初採用となる数々の新機軸が取り入れられた。\n\n落成当初は2両編成で就役したが、太平洋戦争終戦後の1948年(昭和23年)に東部線・西部線の架線電圧統一が完成し東西直通運転が開始され、それに伴って幹線系統の優等列車運用が4両編成を基本とする形態に改められたことを受け、1950年(昭和25年)と1953年(昭和28年)の二度にわたって中間電動車モ3450形および付随車サ2450形を1両ずつ編成内に組み込み、全編成とも4両編成となった。その途上、回生制動および定速制御機能の撤去などが施工され、他のAL車各形式と性能が統一された。", "qas": [ { "question": "全編成とも3両編成となった年は何年ですか?", "id": "tr-329-02-000", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 346, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "中間電動車モ3450形および付随車サ2450形が組み込まれる前は何両編成だったか?", "id": "tr-329-02-001", "answers": [ { "text": "2両編成", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1967年(昭和42年)より重整備工事と称する車体修繕工事が施工され、外観に大きな変化が生じたものの、特徴ある前頭部の流線形状や車体下部のスカートはそのままとされた。その後は長年にわたり幹線系統を中心に運用されたのち、1988年(昭和63年)に2編成が廃車となった。残る1編成については、名鉄の会社発展の象徴的存在との本系列の位置付けから、中間車2両を編成より外して落成当初と同じく2両編成化の上、動態保存車両として運用を継続した。同編成はのちに車体塗装を落成当初の塗り分けに復元し、さらに冷房装置を搭載するなど各種改造を経て、2002年(平成14年)まで運用された。", "qas": [ { "question": "重整備工事がなされたのは何年?", "id": "tr-329-03-000", "answers": [ { "text": "1967年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1967年の車体修繕工事で変化がなかった部分は車体下部のスカート以外どこがありますか?", "id": "tr-329-03-001", "answers": [ { "text": "前頭部の流線形状", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "現・名古屋鉄道(名鉄)は、神宮前を拠点駅として名古屋以東に多くの路線を保有していた愛知電気鉄道(愛電)と、押切町を拠点駅として津島・岐阜・犬山方面へ路線を延ばしていた名岐鉄道(名岐)が1935年(昭和10年)8月に合併して成立した事業者である。ただし、押切町と神宮前の間は線路が繋がっておらず、また架線電圧も旧愛電由来の各路線(東部線)の大部分が直流1,500Vであったのに対して、旧名岐由来の各路線(西部線)は全線直流600Vと異なっていた。そのため現・名鉄発足後も、列車の運行および車両の管理については、東部線を管轄する旧愛電由来の部署と西部線を管轄する旧名岐由来の部署という別組織によって行われた。", "qas": [ { "question": "愛知電気鉄道と名岐鉄道が合併して成立した事業者は?", "id": "tr-329-04-000", "answers": [ { "text": "名古屋鉄道", "answer_start": 2, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1935年当時、東部線と西部線の架線電圧を比較して、高いのはどっち?", "id": "tr-329-04-001", "answers": [ { "text": "東部線", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "同時期には名古屋市において汎太平洋平和博覧会が1937年(昭和12年)3月に開催されることが決定し、多くの来場者によって大幅な利用者増が見込まれたことから、名鉄は東部線・西部線の両路線区について車両増備による輸送力増強を計画した。1936年(昭和11年)6月に作成された決裁書「車輌製作ノ件伺」によると、輸送力増強目的のほか、鉄道省路線との競争関係を踏まえ、会期前の翌1937年(昭和12年)2月までに新型車両を導入し、旅客誘致を図る計画であったことが明らかとなっている。\n\n同決裁書にて取り上げられた新型車両は、前記事情から東部線向けの新製車両については旧愛電出身の設計陣が、西部線向けの新製車両については旧名岐出身の設計陣がそれぞれ開発を担当した。旧名岐の設計陣が担当した850系は従来車モ800形の設計を踏襲したのに対して、旧愛電の設計陣が担当した本系列は従来車の設計に囚われない完全新規設計が採用され、両系列の設計思想は大きく異なるものとなった。この設計思想の差異については、保守的体質を特徴とする地元名古屋資本による名岐鉄道を出自とする設計陣と、電力会社系資本で新機軸を取り入れることに非常に意欲的であった愛知電気鉄道を出自とする設計陣との体質の違いに起因することが示唆されている。", "qas": [ { "question": "昭和12年3月に名古屋市開催されたイベントは何ですか?", "id": "tr-329-05-000", "answers": [ { "text": "汎太平洋平和博覧会", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "車両増備による輸送力増強の計画が記されている決裁書は?", "id": "tr-329-05-001", "answers": [ { "text": "「車輌製作ノ件伺」", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "車両増備による輸送力増強と新型車両を導入について書かれている決裁書は何年に作成されたか和暦で答えて。", "id": "tr-329-05-002", "answers": [ { "text": "昭和11年", "answer_start": 121, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "また、前記決裁書においては、東部線向け新型車両2両編成3本について、当時の流行を反映して前頭部を流線形状とし、さらに連接構造を採用した「流線形連接車」として予算を計上しており、本系列は2車体3台車構造の連接車として計画されていたことが明らかとなっている。連接構造の採用は製造発注先の日本車輌製造本店からの提案であったと伝わり、同社は本系列の受注に先立つ1934年(昭和9年)に、京阪電気鉄道向けに日本の鉄道車両史上初の連接車として設計・製造された60型電車「びわこ号」を納入していたことから、その実績をもって名鉄側に提案したものとされる。また、本系列をはじめとした日本国内のみならず世界的に大流行した鉄道車両における流線形デザインの祖であるドイツの電気式気動車「フリーゲンダー・ハンブルガー」が連接構造を採用していたことに影響を受けたともされる。\n\n連接構造の採用による長所としては、一編成あたりの台車数の削減による製造コストおよび保守コスト削減などが挙げられ、設計担当者より連接構造の採用を強く推奨された。しかし、本格的な高速鉄道向けの鉄道車両における連接構造の採用は当時の日本国内においては前例がなく、本系列を連接車として設計することについて担当部署の上長より慎重な見解が示されたことも記録されている。", "qas": [ { "question": "「びわこ号」と本系列の中で、後に作られた物はどれ?", "id": "tr-329-06-000", "answers": [ { "text": "本系列", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本系列と「びわこ号」を製作した会社は何ですか?", "id": "tr-329-06-001", "answers": [ { "text": "日本車輌製造本店", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "本系列の製作に置いて、設計担当者から強く勧められたが、高速鉄道向けの鉄道車両における前例がない事を理由に担当部署の上長より慎重な見解が示されたというその構造とは?", "id": "tr-329-06-002", "answers": [ { "text": "連接構造", "answer_start": 375, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "結局、一編成あたりの台車数が減少することによって車輪1軸あたりの軸重が過大となることなどを理由として連接構造の採用は見送られた。本系列は一般的な2軸ボギー構造による車両として設計が進められ、1936年(昭和11年)7月26日付で設計図面「見-2-ハ-4066」が日本車輌製造本店において作成され、最終仕様が決定した。\n\n発注時の1両あたりの単価はモ3400形が56,000円、ク2400形が32,000円で、財源として1936年(昭和11年)11月発行の新株払込金が充当された。なお、850系の発注時単価はモ850形が45,000円、ク2350形が24,900円であり、本系列の単価は850系と比較して約2割高額であった。\n\n翌1937年(昭和12年)3月16日付で3401編成(モ3401-ク2401)・3402編成(モ3402-ク2402)・3403編成(モ3403-ク2403)の2両編成3本が竣功し、翌17日の公式試運転を経て、営業運転に就役した。\n\n上記経緯により落成した本系列は、前述の通り現・名鉄発足後初の新規設計車両であり、元名鉄社員で鉄道研究家の清水武は、本系列の設計経緯について「(本系列を)新生名鉄のシンボルカーにしようとする関係者の意欲が込められていたに違いない」と評したほか、後年の名鉄社内において本系列は「名岐と愛電の良い部分を集大成した高性能車」と評された。", "qas": [ { "question": "本系列の最終仕様が決定されたのは何年ですか?", "id": "tr-329-07-000", "answers": [ { "text": "1936年", "answer_start": 95, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "発注時の1両あたりの単価を形態別に比較したところ、一番安い値段の車両は本系列と850系のうちどっちに含まれますか?", "id": "tr-329-07-001", "answers": [ { "text": "850系", "answer_start": 242, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "前頭部を流線形状とした、完全新規設計による車体長18,250mm・車体幅2,700mm(全長19,000mm・全幅2,740mm)の半鋼製車体を備える。外板は溶接構造の全面採用によってリベットを廃し、窓上の補強帯であるウィンドウヘッダーが露出しない構造としたほか、幕板部から屋根部にかけての外板を連続処理した張り上げ屋根構造を採用する。ただし、側面については幕板と屋根板の接合部付近に水切りが設置されている。車体下部は前面から側面にかけて、曲面形状(曲率1,300R)の下部スカートによって完全に覆われている。スカート下端部は軌条面から350mmとし、台車部分のみ上方へ切り欠かれている。\n\n台車心皿中心間隔は12,000mmと東部線用のモ3300形や西部線用のモ800形などに準じているが、側窓幅は800mmとし、モ3300形(710mm)ともモ800形(740mm)とも異なる。ただし、乗務員扉と直後の客用扉の間に配置された2枚の側窓のみ、車体寸法上の制約から600mm幅に縮小されている。また前頭部を流線形状とした都合上、台車心皿中心から妻面までの寸法(オーバーハング)は連結面側が2,850mmであるのに対して、先頭側は3,400mmと550mm延長された前後非対称構造となっている。", "qas": [ { "question": "溶接構造のせいで、外板からいなくなったのは何だ?", "id": "tr-329-08-000", "answers": [ { "text": "リベット", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "車両のスカート下端部から軌条面までの距離は?", "id": "tr-329-08-001", "answers": [ { "text": "350mm", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "先頭側のオーバーハングが前後非対称構造となっちまった原因は何ですか?", "id": "tr-329-08-002", "answers": [ { "text": "流線形状", "answer_start": 453, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "流線形の前頭部は、側面の乗務員扉付近から前端部にかけて前後方向に滑らかな半円を描き、後退角は前面窓付近で床面に対して約70度とし、腰板下部で縦方向の曲線を描きつつ緩やかに垂直となる形状である。前面に配された3枚の前面窓はいずれも車体曲面に合わせた曲面ガラスを採用して外観の一体性を高めているほか、妻面からの曲面上に位置している乗務員扉の窓についても曲面ガラスを採用する。また、3枚の前面窓のうち両端の2枚の窓上には横格子のルーバー状の通風器開口部を設けている。前照灯は白熱灯式のものを1灯、前面屋根部中央に埋込形のケースを介して設置し、また後部標識灯は前面向かって左下の腰板下部に砲弾型の灯具を1灯、車体より水平方向に突き出した支持腕へ取り付ける形で設置する。", "qas": [ { "question": "前面に配された前面窓ガラスの形態は?", "id": "tr-329-09-000", "answers": [ { "text": "曲面ガラス", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "前面に配された3枚の前面窓ガラス以外に曲面ガラスを採用しているのはどこですか?", "id": "tr-329-09-001", "answers": [ { "text": "乗務員扉の窓", "answer_start": 163, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "横格子のルーバー状の通風器開口部を設けている前面の曲面ガラスは何枚ですか?", "id": "tr-329-09-002", "answers": [ { "text": "2枚", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "側面には乗務員扉および開口幅1,200mmの片開客用扉、800mm幅(一部600mm幅)の側窓をそれぞれ配置し、客用扉両脇の吹寄柱幅は300mm、窓間柱幅は100mmである。側窓は一段上昇式の1枚窓で窓枠上隅部を曲線形状に処理し、客用扉の上辺もアーチ状に曲線形状を描く特徴的な形態とされている。客用扉は戸閉装置(ドアエンジン)を備える自動扉仕様である。また、客用扉の下部には内蔵型の乗降用ステップが設置され、客用扉下端部が車体裾部まで引き下げられている。側面窓配置はd2D9D3(d:乗務員扉、D:客用扉、各数値は側窓の枚数)で、モ3400形・ク2400形とも同一である。\n\n連結面は屋根部を含めて平坦な切妻形状とし、妻面には引扉式の貫通扉を併設した700mm幅の貫通路を備え、その左右に500mm幅の妻面窓を設置する。モ3400形・ク2400形の両車は車体断面と同一形状の大型貫通幌によって結合されており、編成としての一体感を演出している。また、この大型貫通幌は本系列が連接車として設計されていた当時の名残であるともされる。\n\n屋根上にはガーランド形ベンチレーター(通風器)を1両あたり6基、中央部に一列配置する。", "qas": [ { "question": "ク2400形で9枚の側窓が配置されているのはどこですか?", "id": "tr-329-10-000", "answers": [ { "text": "客用扉", "answer_start": 249, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "モ3400形で一番低い数の側窓が配置されているのはどのパートですか?", "id": "tr-329-10-001", "answers": [ { "text": "乗務員扉", "answer_start": 242, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "一つの車両につき通風器はどれくらい配置されていますか?", "id": "tr-329-10-002", "answers": [ { "text": "6基", "answer_start": 494, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "車体塗装は下半分を濃緑色・上半分を灰色がかった淡緑色とした2色塗りとし、下部スカートが薄茶色、屋根が明灰色にそれぞれ塗り分けられた。当時の東部線に在籍する従来車各形式の車体塗装がマルーン1色塗装である中で、緑の濃淡塗装の本系列は非常に目立つ存在であったと評される。\n\nその他、側面腰板部の切り出し文字による車両番号(車番)標記の書体は、名岐由来のローマン書体ではなく、愛電由来の字体の異なるボールド体のローマン書体とされた。これは本系列以降、愛電由来の東部線向けに導入された各形式における特徴の一つとして継承され、戦後に新製された3850系への採用を機に、名鉄の保有車両における車体標記の標準書体として名岐由来のローマン書体に代わって全車に普及した。", "qas": [ { "question": "濃緑色で塗られた車体はどの部分ですか?", "id": "tr-329-11-000", "answers": [ { "text": "下半分", "answer_start": 5, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本系列以前の車両の塗装はどのカラーが使われましたか?", "id": "tr-329-11-001", "answers": [ { "text": "マルーン", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本系列の車両番号標記の書体と名岐由来の書体との相違点は?", "id": "tr-329-11-002", "answers": [ { "text": "ボールド体", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "座席は転換クロスシート仕様で、車端部や運転台後部も含めて全席ともクロスシートとされている。当時の電車は車内床部に主電動機用点検蓋を設置する都合上、名鉄においてもモ800形・モ3300形など本系列に先行して新製された電動車各形式については点検蓋周辺のみをロングシートとするセミクロスシート仕様とされていたが、本系列は主電動機点検蓋を車内通路幅に合わせた一列配置とすることにより、クロスシートと点検蓋との干渉を回避して全席をクロスシート仕様とすることを可能としている。座席表皮(シートモケット)は当時の鉄道省における二等車と同様に青色とした。\n\n前面中央部に設置された運転台と、運転台より後部の客室スペースを区分する仕切り壁は、左右幅を前面中央窓の左右横幅と合わせ、高さは前面窓の下辺までとして、それより上をパイプによって仕切った開放的な構造を採用する。そのため、先頭寄り最前列の座席からは運転台越しながら前面展望が可能であった。\n\n車内照明は白熱灯式で1両あたり7個設け、各灯には行灯をモチーフとした和風の照明カバーを設置する。また落成当初は、当時の鉄道省に在籍した優等列車用客車と同様に車内床部の通路に痰壺が設置されていたことが図面で明示されている。その他、座席上部の窓上に設置された荷棚や車内手すりなどは磨き出し仕上げを施した真鍮製とした。", "qas": [ { "question": "本系列の全ての座席のタイプは?", "id": "tr-329-12-000", "answers": [ { "text": "クロスシート", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本系列の荷棚と車内手すりはどの金属でできていますか?", "id": "tr-329-12-001", "answers": [ { "text": "真鍮", "answer_start": 564, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "従来の旧愛電由来の東部線系統に在籍する車両における標準仕様であったウェスティングハウス・エレクトリック社が開発した電空単位スイッチ式の間接手動進段制御器(HL制御器)ではなく、旧名岐由来の西部線系統に在籍する車両において標準仕様とされた電動カム軸式の間接自動進段制御器(AL制御器)を、東部線所属車両として初めて採用した。\n\nモ3400形へ搭載された東洋電機製造ES-515-Aは、通常の直並列組合せによる抵抗制御、および弱め界磁制御のほか、電磁単位スイッチ式の他励界磁制御装置による回生制動および定速制御機能を有する。運転台に設置されたES-63-A主幹制御器(マスコン)の逆転器(レバーサ)を力行モードから回生制動モードに切り替え、マスコンのノッチを任意に選択することにより40km/hから100km/hの範囲で速度制御を行うもので、下り勾配区間において走行速度が指令速度を上回ると自動的に回生制動が動作し、上り勾配区間において走行速度が指令速度を下回ると自動的に力行に移行する。\n\nなお、東洋電機製造が設計・開発した他励界磁制御による高速列車向けの回生制動機能は、本系列の新製に先立つ1935年(昭和10年)に阪和電気鉄道へ納入されたES-513-A制御装置によって実用化されており、当時日本国内で最速を記録した超特急列車など高速運転を行う車両における制輪子(ブレーキシュー)の摩耗減少に大きな効果をもたらしていた。本系列の回生制動機能は、東部線本宿付近をはじめとした連続勾配区間における抑速制動としての使用を想定して採用されたものである。また、当時の東洋電機製造の技術担当専務が名鉄の取締役の1人と懇意な間柄であったことが同機能の採用に関係しているとも指摘される。", "qas": [ { "question": "旧愛電由来の東部線系統に在籍する車両における標準仕様は何ですか?", "id": "tr-329-13-000", "answers": [ { "text": "電空単位スイッチ式の間接手動進段制御器", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "HL制御器を開発した会社の社名は?", "id": "tr-329-13-001", "answers": [ { "text": "ウェスティングハウス・エレクトリック社", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "本系列の新製と高速列車向けの回生制動機能の実用化のうち、後の出来事だったのはどっちですか?", "id": "tr-329-13-002", "answers": [ { "text": "本系列の新製", "answer_start": 485, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "主電動機は東京芝浦電気(現・東芝)SE-139C直流直巻電動機を採用、モ3400形に1両あたり4基搭載する。SE-139Cは端子電圧750V時の1時間定格出力が112.5kWと標準的な特性を備えるが、定格回転数は1,188rpmと、モ800形に搭載された東洋電機製造TDK-528/5-Fと端子電圧750V環境下で同等の特性を持つ高速回転型の主電動機である。本系列への採用にあたっては歯車比を2.64(58:22)と、TDK-528/5-Fを搭載するモ800形の歯車比3.21(61:19)と比較して小さく設定、全界磁時定格速度は76km/h、60%弱め界磁時定格速度は96.2km/hに達し、設計最高速度120km/hの高速性能を有した。駆動方式は吊り掛け式である。", "qas": [ { "question": "モ3400形に搭載されたSE-139C直流直巻電動機は、1両につき何機ですか?", "id": "tr-329-14-000", "answers": [ { "text": "4基", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "本系列の設計最高速度はどれくらいですか?", "id": "tr-329-14-001", "answers": [ { "text": "120km/h", "answer_start": 303, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "台車は形鋼組立形の釣り合い梁式台車である日本車輌製造D16をモ3400形・ク2400形とも装着する。D16をはじめとする日本車輌製造製の形鋼組立形釣り合い梁式台車は、東部線および西部線に在籍する従来車各形式において既に採用実績があったものである。\n\n本系列が装着するD16台車は、軸受に従来の平軸受(プレーンベアリング)に代えてスウェーデン・SKF社製のコロ軸受(ローラーベアリング)を採用した。また、従来車に装着された日本車輌製造製の形鋼組立形釣り合い梁式台車の固定軸間距離は2,134mm-2,200mmであったのに対して、本系列の装着するD16台車は固定軸間距離が2,300mmに延長された。さらに、軌条方向の軸箱寸法拡大、振動特性改善を目的とした枕ばね位置・ばね定数の変更、釣り合い梁の厚材化など、各部に改良が施されている。\n\n制動装置は、アメリカのウェスティングハウス・エア・ブレーキ社(WABCO)の原設計に基づくM三動弁を用いた自動空気ブレーキを常用制動として採用、モ3400形の制動装置はAMM、ク2400形の制動装置はACMとそれぞれ呼称された。その他、両形式とも手用制動を併設する。", "qas": [ { "question": "本系列が装着するD16台車の固定軸間距離は?", "id": "tr-329-15-000", "answers": [ { "text": "2,300mm", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "本系列の制動装置のタイプは?", "id": "tr-329-15-001", "answers": [ { "text": "自動空気ブレーキ", "answer_start": 421, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "本系列の制動装置が基づいたM三動弁の設計をした会社はどの国籍の会社ですか?", "id": "tr-329-15-002", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 374, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "電動カム軸式制御器搭載に伴う低圧電源供給を目的として、モ3400形に東洋電機製造TDK-311直流電動発電機(MG、定格出力3.2kW・直流100V)を1両あたり1基搭載する。東部線系統に在籍する従来車における標準仕様であったHL制御方式は、制御装置用電源を架線からの電力を抵抗器によって電圧降下させて用いるため電動発電機(MG)を必要とせず、本系列は東部線に在籍する車両として電動発電機を初めて採用した車両となった。また、モ3400形には制動装置の動作などに用いる空気圧供給元となる三菱電機DH-25電動空気圧縮機(CP、定格吐出量710L/min)を同じく1両あたり1基搭載する。\n\n集電装置は回生制動の失効対策としてモ3400形のほかク2400形にも搭載、東洋電機製造PT-7菱形パンタグラフを屋根上先頭寄りに1両あたり1基搭載する。", "qas": [ { "question": "東洋電機製造TDK-311直流電動発電機が搭載された目的は何ですか?", "id": "tr-329-16-000", "answers": [ { "text": "低圧電源供給", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "連結器は、設計段階より本系列が他編成との併結運用を考慮していなかったことから、外観の一体性を高める目的で運転台側の連結器を構造の簡易な簡易連結器とし、不使用時は連結器を前面下部スカート内へ格納する構造を採用、設計認可申請を行った。しかし、簡易連結器の耐荷重は一般的な連結器と比較した場合大きく劣るため、非常時における他編成との連結運転用途にも不適であることを理由に管轄省庁から設計を見直すよう指摘され、これを受けて最終的には従来車と同様に並形自動連結器を採用した。落成当初は、前頭部には連結器のみを装着し、他編成との総括制御用のジャンパ栓およびブレーキ管などは一切省略されたが、後年非常時における他編成との連結運転を考慮して非常ブレーキ管のみ追加された。\n\n一方、連結面側の連結器については、衝動軽減を目的として柴田式密着連結器を名鉄において初めて採用した。固定編成間の連結器を密着連結器として前後衝動を抑制する設計方針は、戦後に新製された優等列車用車両である3850系にも踏襲された。", "qas": [ { "question": "本系列の連結器のタイプは?", "id": "tr-329-17-000", "answers": [ { "text": "並形自動連結器", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "本系列が採用した連結面側の連結器は?", "id": "tr-329-17-001", "answers": [ { "text": "柴田式密着連結器", "answer_start": 356, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "本系列が柴田式密着連結器を採用した理由は?", "id": "tr-329-17-002", "answers": [ { "text": "衝動軽減", "answer_start": 346, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "動態保存車両として犬山地区の各支線区における定期運用のほか、各種イベント列車運用に充当された3401編成であったが、経年による老朽化の進行と旧型の保守部品の調達が困難となりつつあったことに加えて、景気低迷の折から運行経費の確保が厳しくなったことなどを理由に、2001年(平成13年)10月1日のダイヤ改正をもって定期運用から離脱した。\n\n定期運用離脱後の3401編成は、団体貸切列車など臨時列車運用にのみ充当されていたが、翌2002年(平成14年)7月に、同年8月31日をもって退役することが公式発表された。", "qas": [ { "question": "3401編成が定期運用から離脱した年はいつですか?", "id": "tr-329-18-000", "answers": [ { "text": "2001年", "answer_start": 129, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "3401編成が退役したのは何月ですか?", "id": "tr-329-18-001", "answers": [ { "text": "8月", "answer_start": 230, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2002年(平成14年)8月には、退役を記念する特製ヘッドマーク「さよなら3400系」を掲出して、広見線および各務原線の定期運用に同月の土曜・日曜限定で充当された。さらに同年8月11日・14日・18日の計3日、3401編成を使用して犬山-伊奈-新鵜沼-新岐阜(各務原線)-犬山の行程で団体専用列車が運行され、各所で最高速度100km/hの高速走行が実施された。また、同年7月から9月にかけての夏休み期間中、「さよなら3400系スタンプラリー」と題して、本系列「3400系」にちなんで名鉄線内の計34駅に設置されたスタンプを収集するスタンプラリー企画が実施された。\n\n運用最終日となった2002年(平成14年)8月31日は新可児駅にてさよならイベントが実施され、同日をもって全ての運用を終了した。その後3401編成は舞木検査場へ回送されたのち、同年9月30日付で除籍され、本系列は全廃となった。\n\n廃車後はモ3401-ク2401の2両とも舞木検査場にて保管された。後年同2両が装着したFS36台車はえちぜん鉄道へ譲渡され、代わりに同社より本系列が当初装着したD16台車と類似した外観を有する形鋼組立形釣り合い梁式台車の汽車製造K-16を譲り受け、同2両へ装着した。その後、ク2401は解体処分のため2006年(平成18年)5月19日に名電築港駅へ回送され、翌日より解体作業が実施された。残るモ3401については、2013年(平成25年)4月現在、舞木検査場正門付近にて静態保存されており、舞木検査場の見学イベント「名鉄でんしゃまつり」などにおいて一般公開される。", "qas": [ { "question": "「さよなら3400系スタンプラリー」は何年に開催しましたか?", "id": "tr-329-19-000", "answers": [ { "text": "2002年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2004年の時点でク2401はどこにありますか?", "id": "tr-329-19-001", "answers": [ { "text": "舞木検査場", "answer_start": 418, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "帝国クライス", "paragraphs": [ { "context": "帝国クライス(ていこくクライス、ドイツ語:Reichskreis)とは、神聖ローマ帝国で16世紀に確立した統治システムである。帝国を複数の帝国等族を包含した10のクライスに分け、ラント平和(地域内の治安維持)にあたった。平和破壊活動(一揆、暴徒化した傭兵、諸侯の侵略行為など)の規模に応じ、隣接するクライスと共同でその平定にあたることもあった。", "qas": [ { "question": "帝国クライスは、どの国の統治システムなの?", "id": "tr-330-00-000", "answers": [ { "text": "神聖ローマ帝国", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "帝国クライスが確立されたのは、何世紀のことですか?", "id": "tr-330-00-001", "answers": [ { "text": "16世紀", "answer_start": 44, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "帝国クライスとの統治システムには、いくつのクライスが存在したか?", "id": "tr-330-00-002", "answers": [ { "text": "10", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "神聖ローマ帝国で16世紀に確立した統治システムは、何と呼ぶか?", "id": "tr-330-00-003", "answers": [ { "text": "帝国クライス", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "帝国クライスの治安維持活動により、弱小等族単独では対応が困難であった大規模な平和破壊活動に対処することが可能となり、いたずらな戦禍の拡大を防げるようになった。また、クライス会議を通じて地域行政の調整を行うことで、帝国の連邦的性格を決定づけた。帝国クライス制度は、いわゆる「アウクスブルクの宗教和議」で名高い1555年のアウクスブルク帝国議会で審議され、発令された帝国執行令で一応の完成を見た。", "qas": [ { "question": "弱小等族単独が規模の大きい平和破壊活動に対応できるようになったのは、何のシステムの治安維持活動のおかげだったの?", "id": "tr-330-01-000", "answers": [ { "text": "帝国クライス", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アウクスブルクの宗教和議は、何年の帝国議会のことを呼ぶのか?", "id": "tr-330-01-001", "answers": [ { "text": "1555年", "answer_start": 153, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "帝国クライス制度が審議されたのは、何年の帝国議会でか?", "id": "tr-330-01-002", "answers": [ { "text": "1555年", "answer_start": 153, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし帝国クライス制度は、帝国等族と皇帝の中間で機能するシステムであり、両者の力関係から、その位置づけは帝国執行令以前も以後も、時代と共に変遷している。たとえば防衛は、創設時にはその管轄外であったが、帝国末期には防衛も担うようになった。特にフランスに隣接する地域では、ハプスブルク家の私兵と化した帝国軍に代わってクライス軍が帝国防衛の主戦力となった。", "qas": [ { "question": "帝国クライス制度は、帝国等族と誰の間で機能するシステムだったの?", "id": "tr-330-02-000", "answers": [ { "text": "皇帝", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "防衛が帝国クライス制度の管轄内には入ったのは、いつ頃のことですか?", "id": "tr-330-02-001", "answers": [ { "text": "帝国末期", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "帝国末期にフランスに隣接する地域の防衛を担当したのは、どの軍か?", "id": "tr-330-02-002", "answers": [ { "text": "クライス軍", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クライス軍が創設されたのは、いつ頃のことだと予測できるか?", "id": "tr-330-02-003", "answers": [ { "text": "帝国末期", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "いくつかの帝国等族を包含したブロックに帝国を分け、地域の治安維持に当たらせるという帝国クライス制度の発想は、皇帝ルドルフ1世の時代に遡る。1287年にルドルフは公共平和のために地域に基づき領邦をグループ化する試みを行っている。これは、大空位時代に政治的混乱から治安が悪化したことにより、自発的に生じた帝国等族間個別の盟約を帝国レベルで整備し直し、安定を図る試みであった。また、都市同盟を結び、帝国と独立した動きを示そうとした有力都市を牽制する意味もあった。", "qas": [ { "question": "帝国クライス制度を初めて構想したのは、誰なの?", "id": "tr-330-03-000", "answers": [ { "text": "ルドルフ1世", "answer_start": 56, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ルドルフ1世が帝国クライス制度の前身となるものを初めて執行したのは、何年のことですか?", "id": "tr-330-03-001", "answers": [ { "text": "1287年", "answer_start": 69, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1287年にルドルフ1世が行った制度は、何をグループ化することであったか?", "id": "tr-330-03-002", "answers": [ { "text": "領邦", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヴェンツェル帝は、1383年に帝国平和盟約令を発令した。これは帝国を4つのパルタイ(党派)に分け、他からの攻撃に対して相互保護を行うという内容のものであった。しかしこの政策は、その背後に都市同盟解体の意図を察知した有力都市が参加しなかったため、実効性を持たないまま終息した。", "qas": [ { "question": "ヴェンツェル帝が、帝国平和盟約令を発令したのは、何年のことなの?", "id": "tr-330-04-000", "answers": [ { "text": "1383年", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "帝国平和盟約令を発令したのは、誰でしたか?", "id": "tr-330-04-001", "answers": [ { "text": "ヴェンツェル", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴェンツェルが発令した帝国平和盟約令とは、帝国をいくつに分けるとのものであったか?", "id": "tr-330-04-002", "answers": [ { "text": "4つ", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1383年に、帝国を4つに分けて外部からの攻撃に相互保護しながら対応するとの目的でヴェンツェルにより発令されたが、その実効性自体は認められなかったのは、何か?", "id": "tr-330-04-003", "answers": [ { "text": "帝国平和盟約令", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "その後、1388年に諸侯と都市同盟の対立が顕在化し、その直接対決の結果、都市同盟が力を弱めたため、ヴェンツェルは翌1389年に再度帝国ラントフリーデ令を発令した。", "qas": [ { "question": "ヴェンツェルが1389年に発令したのは、何?", "id": "tr-330-05-000", "answers": [ { "text": "帝国ラントフリーデ令", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "帝国ラントフリーデ令を発令したのは、誰ですか?", "id": "tr-330-05-001", "answers": [ { "text": "ヴェンツェル", "answer_start": 49, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴェンツェルは、何年からの帝国内の対立状況の深刻化を踏まえて、1389年に帝国ラントフリーデ令を発令したか?", "id": "tr-330-05-002", "answers": [ { "text": "1388年", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1388年から帝国内で深刻な問題とされたのは、諸侯と誰の対立であったのか?", "id": "tr-330-05-003", "answers": [ { "text": "都市同盟", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "今度は、フランケン、バイエルン、シュヴァーベン、中ラインの4つのアイヌンク(盟約)に分け、各アイヌンクは、諸侯4人、都市代表4人、国王が任命する長官1人からなる9人委員会を設け、裁判、刑の執行、治安維持のための援助要請を行うとした。しかし、多くの帝国等族にとってこのラントフリーデ令は都市同盟解体のための方便に過ぎず、その目的を達成した後は形骸化していった。", "qas": [ { "question": "帝国をフランケン、バイエルン、シュヴァーベン、中ラインの4つのアイヌンクに分けたのは、どの法令だったの?", "id": "tr-330-06-000", "answers": [ { "text": "ラントフリーデ令", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ラントフリーデ令では、帝国を4つに分けるとしていたが、分けられた各地域かつ勢力を何と呼んでいましたか?", "id": "tr-330-06-001", "answers": [ { "text": "アイヌンク", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ラントフリーデ令により各アイヌンクには9人委員会が設けられたが、その委員会には都市代表と諸侯がそれぞれ何人配置されたか?", "id": "tr-330-06-002", "answers": [ { "text": "4人", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ラントフリーデ令により各アイヌンクに設けられた9人委員会で、その人数が最も少なったのは、どのような職責だったか?", "id": "tr-330-06-003", "answers": [ { "text": "国王が任命する長官", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1415年、帝国改造を掲げた皇帝ジギスムントは、コンスタンツの帝国議会で、国王裁判権の強化を訴えた。それに伴い、帝国を4つのタイル(部分)、すなわち、ライン、アルザス、ヴェッテラウの一組と、テューリンゲン、マイセン、ヘッセンの一組、フランケン、シュヴァーベンの4つの区域に分け、国王が派遣する指揮官がその平和維持、判決執行を行う政策を提案したが、諸侯の反発が強く実現はできなかった。", "qas": [ { "question": "皇帝ジギスムントが国王裁判権の強化を訴えたコンスタンツの帝国議会は、何年に行われたの?", "id": "tr-330-07-000", "answers": [ { "text": "1415年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1415年の時点で帝位には、誰がついていましたか?", "id": "tr-330-07-001", "answers": [ { "text": "ジギスムント", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1415年のコンスタンツの帝国議会では、帝国をいくつのタイルに分けるとのことが決まったか?", "id": "tr-330-07-002", "answers": [ { "text": "4つ", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ライン、アルザス、ヴェッテラウ、テューリンゲンのうち、同じ区域として分けられた地域ではないのは、どちらか?", "id": "tr-330-07-003", "answers": [ { "text": "テューリンゲン", "answer_start": 95, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一方、1438年には逆に諸侯の側からクライスの提案があった。この案では、帝国を4つのクライス(フランケンとバイエルン、シュヴァーベンと中ライン、下ライン、ザクセン)に分け、有力諸侯の指揮下にある指揮官が平和維持および刑の執行を行うというものであった。", "qas": [ { "question": "諸侯からクライスの提案があったのは、何年のことなの?", "id": "tr-330-08-000", "answers": [ { "text": "1438年", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1438年に取り上げられた提案は、帝国をいくつのクライスに分けるとの内容だったか?", "id": "tr-330-08-001", "answers": [ { "text": "4つ", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1438年にあった諸侯からの提案では、分けられた帝国の各地域かつ勢力を何と呼んでいたか?", "id": "tr-330-08-002", "answers": [ { "text": "クライス", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1438年の帝国を4つのクライスに分けるとの案に対して国王は、クライスは6つ(フランケンとバイエルン、シュヴァーベンと中ラインをそれぞれ分離)にすること、指揮官の選出について諸侯の意見が不一致の場合は国王がこれを任命すること、指揮官は領主・騎士・都市からなる10人の参議官と共同で活動すること、という修正案を提出した。これらはクライスを管理する指揮官、ひいてはその上位に位置することになる有力諸侯の影響力を減じようという策で、帝国都市は総論賛成・各論反対の立場をとり、諸侯は強く反発したために、クライス案自体が不成立となった。", "qas": [ { "question": "国王は、帝国をいくつのクライスに分けるとの修正案を出したの?", "id": "tr-330-09-000", "answers": [ { "text": "6つ", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "国王の修正案では、各クライスの指揮官の選出について諸侯の意見が不一致の場合は、誰がこれを任命すると書かれていましたか?", "id": "tr-330-09-001", "answers": [ { "text": "国王", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "国王の修正案では、各クライスの指揮官は領主・騎士・都市からなる何人の参議官と共同で活動すると書かれていましたか?", "id": "tr-330-09-002", "answers": [ { "text": "10人", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "国王の修正案で各クライスの指揮官とともに活動すべき人物として指定されたのは、誰と騎士、都市からなる10人の参議官であったか?", "id": "tr-330-09-003", "answers": [ { "text": "領主", "answer_start": 117, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "帝国運営に無関心であった皇帝フリードリヒ3世が亡くなり、マクシミリアン1世が新たに帝位に就き、帝国改造の機運が高まった。", "qas": [ { "question": "フリードリヒ3世の後を継いだのは、誰なの?", "id": "tr-330-10-000", "answers": [ { "text": "マクシミリアン1世", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリードリヒ3世とマクシミリアン1世のうち、帝国運営により力を入れたのは、どちらですか?", "id": "tr-330-10-001", "answers": [ { "text": "マクシミリアン1世", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "誰が皇帝になってから、帝国改造の機運が高まったか?", "id": "tr-330-10-002", "answers": [ { "text": "マクシミリアン1世", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "マクシミリアンが皇帝主導での帝国の秩序回復を目指したのに対し、マインツ大司教(選帝侯)ベルトルト・フォン・ヘンネベルクは、公共の秩序を維持するためには主要な諸侯が帝国の意思決定に継続的に参加する必要があると主張していた。", "qas": [ { "question": "マクシミリアンと帝国の意思決定における諸侯の参加権を巡り意見対立したのは、誰なの?", "id": "tr-330-11-000", "answers": [ { "text": "ベルトルト・フォン・ヘンネベルク", "answer_start": 43, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マクシミリアンとベルトルト・フォン・ヘンネベルクのうち、帝国の意思決定に諸侯の意見が反映されるべきだと主張したのは、誰ですか?", "id": "tr-330-11-001", "answers": [ { "text": "ベルトルト・フォン・ヘンネベルク", "answer_start": 43, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マクシミリアンの時代に、マインツ大司教の座についていたのは、誰か?", "id": "tr-330-11-002", "answers": [ { "text": "ベルトルト・フォン・ヘンネベルク", "answer_start": 43, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "こうした皇帝と諸侯との間でラント平和の主導権争いが行われる中、1495年に「永久ラント平和令」がヴォルムスの帝国議会で決議された。その実務機関として、諸侯の影響下に置かれた司法組織である帝国最高法院が設けられた。また、1500年のアウクスブルク帝国議会で、帝国等族の代表者が帝国の運営に参与する常設委員会として帝国統治院が設けられ、その参議官任命のための地理的区分として6つのクライス(フランケン、バイエルン、シュヴァーベン、オーバーライン、ヴェストファーレン、ニーダーザクセン)が設定された。", "qas": [ { "question": "永久ラント平和令が決議されたのは、いつのことなの?", "id": "tr-330-12-000", "answers": [ { "text": "1495年", "answer_start": 31, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "どこで開かれた帝国議会で、永久ラント平和令が決議されましたか?", "id": "tr-330-12-001", "answers": [ { "text": "ヴォルムス", "answer_start": 48, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "帝国最高法院は、何の実務機関として設置されたか?", "id": "tr-330-12-002", "answers": [ { "text": "永久ラント平和令", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "帝国最高法院は、誰の影響下の置かれていたか?", "id": "tr-330-12-003", "answers": [ { "text": "諸侯", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "イブン・スィーナー", "paragraphs": [ { "context": "イブン・スィーナーは、ペルシャの哲学者・医者・科学者である。イスラム世界が生み出した最高の知識人と評価され、同時に当時の世界の大学者である。「第二のアリストテレス」とも呼ばれ、アリストテレス哲学と新プラトン主義を結合させたことでヨーロッパの医学、哲学に多大な影響を及ぼした。アラビア医学界においては、アル・ラーズィーと並ぶ巨頭とされている。その生涯は、幸福と苦難が交差する波乱万丈のものだった。", "qas": [ { "question": "イスラム世界が生み出した最高の知識人と評価されるのは、誰なの?", "id": "tr-331-00-000", "answers": [ { "text": "イブン・スィーナー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「第二のアリストテレス」との別称を持つ人物は、誰ですか?", "id": "tr-331-00-001", "answers": [ { "text": "イブン・スィーナー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アラビア医学界においては、アル・ラーズィーと誰が最も有名であるか?", "id": "tr-331-00-002", "answers": [ { "text": "イブン・スィーナー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イブン・スィーナーの生涯については、何と表現しているか?", "id": "tr-331-00-003", "answers": [ { "text": "波乱万丈", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イブン・スィーナーは、980年8月末にサーマーン朝の徴税官アブドゥッラーフ・イブン・アル=ハサンとその妻シタラの息子として、首都ブハラ近郊のアフシャナに生まれる。5歳のときに一家はブハラに移住し、イブン・スィーナーはブハラの私塾に入れられた。", "qas": [ { "question": "イブン・スィーナーは、何年生まれなの?", "id": "tr-331-01-000", "answers": [ { "text": "980年", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イブン・スィーナーは、どの王朝の時代に生まれた人物ですか?", "id": "tr-331-01-001", "answers": [ { "text": "サーマーン朝", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イブン・スィーナーの父親は、どの職に就いていたか?", "id": "tr-331-01-002", "answers": [ { "text": "徴税官", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イブン・スィーナーはどこで生まれたか?", "id": "tr-331-01-003", "answers": [ { "text": "アフシャナ", "answer_start": 70, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "イブン・スィーナーは幼いころからクルアーンを学び、10歳ですでに文学作品とクルアーンを暗誦することができたという。イブン・スィーナーは父アブドゥッラーフによって教師を付けられ、野菜商人の下で算術を学び、ホラズム地方出身の哲学者ナティリの元で哲学、天文学、論理学などを学んだ。ナティリからユークリッド幾何学とプトレマイオスの天文学を学び、間も無くイブン・スィーナーの学識はナティリのそれを上回った。しかし、イブン・スィーナーが読んでいた書籍は受験参考書のような入門用の啓蒙書であり、原典の逐語訳とは大きく内容が異なっていた。", "qas": [ { "question": "イブン・スィーナーの才能が台頭し始めたのは、彼が何歳のことだったの?", "id": "tr-331-02-000", "answers": [ { "text": "10歳", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イブン・スィーナーに哲学と天文学、論理学を教えたのは、誰ですか?", "id": "tr-331-02-001", "answers": [ { "text": "ナティリ", "answer_start": 113, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イブン・スィーナーはナティリから教わった天文学とは、誰が書いたものであったか?", "id": "tr-331-02-002", "answers": [ { "text": "プトレマイオス", "answer_start": 153, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イブン・スィーナーに算術を教えたのは、どのような人だったか?", "id": "tr-331-02-003", "answers": [ { "text": "野菜商人", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "その後ジュルジャーン出身のキリスト教徒の医学者サフル・アル・マスィーヒーに師事し、自然学、形而上学、医学を学び、16歳の時にはすでに患者を診療していた。後年、イブン・スィーナーは医学について「さして難しい学問ではなく、ごく短い時間で習得することができた」と自伝で述懐した。とはいえ、この時イブン・スィーナーが使用していたテキストもヒポクラテスやガレノスの著書の逐語訳ではなく、ダイジェストともいえる家庭医学の指南書であり、後年にイブン・スィーナーは医学の奥深さを知ることになる。", "qas": [ { "question": "何歳から患者を診療したということが、イブン・スィーナーの才能を見せてくれる証拠であるの?", "id": "tr-331-03-000", "answers": [ { "text": "16歳", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イブン・スィーナーに自然学、形而上学、医学を教えたのは、誰ですか?", "id": "tr-331-03-001", "answers": [ { "text": "サフル・アル・マスィーヒー", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イブン・スィーナーは、サフル・アル・マスィーヒーのもとで、自然学、形而上学とどの学問を教わったか?", "id": "tr-331-03-002", "answers": [ { "text": "医学", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イブン・スィーナーに医学を教えた人物は、どこ出身であったか?", "id": "tr-331-03-003", "answers": [ { "text": "ジュルジャーン", "answer_start": 3, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "しかし、イブン・スィーナーにとってもアリストテレスの思想は難解なものであり、『形而上学』を40回読んでもなお理解には至らなかったと述べている。ある日、ブハラのバザールを歩き回っていたイブン・スィーナーは店員に本を勧められ、一度はいらないと断ったものの、強く勧められて本を購入した。彼が購入した本はファーラービーが記した『形而上学』の注釈書であり、ファーラービーの注釈に触れたことがきっかけとなってはじめてアリストテレス哲学を修得することができた。", "qas": [ { "question": "イブン・スィーナーは、『形而上学』を何回読んでも理解できなかったと言うの?", "id": "tr-331-04-000", "answers": [ { "text": "40回", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "才能を認められたイブン・スィーナーでも、理解しにくかったのは誰の思想でしたか?", "id": "tr-331-04-001", "answers": [ { "text": "アリストテレス", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『形而上学』を著したのは、誰か?", "id": "tr-331-04-002", "answers": [ { "text": "アリストテレス", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イブン・スィーナーは、誰が記した『形而上学』に接したことをきっかけに、ようやくアリストテレスの思想を理解できたか?", "id": "tr-331-04-003", "answers": [ { "text": "ファーラービー", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イブン・スィーナーは無料で診療を行って経験を積み、医師としての名声を高めていった。サーマーン朝のアミール(君主)・ヌーフ2世の病を治療したイブン・スィーナーは彼の信任を得、王室附属図書館を自由に利用することが許された。", "qas": [ { "question": "イブン・スィーナーは、何として名声を上げたのが、初めてだったの?", "id": "tr-331-05-000", "answers": [ { "text": "医師", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "当時、サーマーン朝の君主は誰でしたか?", "id": "tr-331-05-001", "answers": [ { "text": "ヌーフ2世", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イブン・スィーナーは、ヌーフ2世を治療した功が認められ、どこを自由に利用できる権利を得たか?", "id": "tr-331-05-002", "answers": [ { "text": "王室附属図書館", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヌーフ2世の病を治療したのは、誰か?", "id": "tr-331-05-003", "answers": [ { "text": "イブン・スィーナー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "イブン・スィーナーは18歳までに蔵書の全てを読破し、「18歳にして全ての学問を修めた」と自ら述懐するほどの境地に至る。王室附属図書館の蔵書はイブン・スィーナーの知識を深める上で大きな役割を果たした。間も無く図書館は火災で焼失するが、イブン・スィーナーの才能を妬む人間たちは、彼が知識を独占するために放火したと噂し合った。18歳の時、隣人のアル・アルーディにむけて、イブン・スィーナーは最初の著作『種々の学問の集成』を書き上げた。", "qas": [ { "question": "イブン・スィーナーが王室附属図書館に置かれた全書籍を読破したのは、彼が何歳のころだったの?", "id": "tr-331-06-000", "answers": [ { "text": "18歳", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イブン・スィーナーが知識を深めるのに、大きな役割を果たしたのは、どこに置かれていた書籍でしたか?", "id": "tr-331-06-001", "answers": [ { "text": "王室附属図書館", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イブン・スィーナーが最初の作品を著したのは、何歳の頃か?", "id": "tr-331-06-002", "answers": [ { "text": "18歳", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イブン・スィーナーの最初の著作は、何か?", "id": "tr-331-06-003", "answers": [ { "text": "『種々の学問の集成』", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "999年、イブン・スィーナーが仕えていたサーマーン朝がガズナ朝とカラハン朝の攻撃を受けて滅亡する。21歳の時、法学者アル・バルキーのために全20巻の百科事典『公正な判断の書』を書き上げる。同年に父アブドゥッラーフが没し、父の死後にイブン・スィーナーは跡を継いで宮廷に出仕するが、その死のために生計を立てていくことが困難になる。ブハラの人間たちが無名の家系出身のイブン・スィーナーを邪険に扱ったためか、イブン・スィーナーは22歳ごろにブハラを去って放浪の旅に出、生涯ブハラに戻ることは無かった。", "qas": [ { "question": "サーマーン朝が滅びたのは、何年のことなの?", "id": "tr-331-07-000", "answers": [ { "text": "999年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サーマーン朝の滅亡は、ガズナ朝とどの王朝の攻撃によることでしたか?", "id": "tr-331-07-001", "answers": [ { "text": "カラハン朝", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "全20巻の百科事典『公正な判断の書』を書き上げた時、イブン・スィーナーは何歳だったか?", "id": "tr-331-07-002", "answers": [ { "text": "21歳", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イブン・スィーナーが何歳のころが、彼にとってブハラにいた最後となったか?", "id": "tr-331-07-003", "answers": [ { "text": "22歳", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イブン・スィーナーはホラズム地方のウルゲンチの統治者マームーン2世に仕官し、法律顧問として活躍する傍らで『医学典範』の執筆を開始する。ウルゲンチ滞在中、ホラズム出身の学者ビールーニーと交流を持ち、書簡を通して宇宙論と物理学についての討論を行った。ビールーニーとのやり取りは『問答集』という書物に記録されており、その中では若年期のイブン・スィーナーの知見を垣間見ることができる。", "qas": [ { "question": "イブン・スィーナーは、誰の下で法律顧問として活躍したの?", "id": "tr-331-08-000", "answers": [ { "text": "マームーン2世", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イブン・スィーナーは、誰の下で『医学典範』を執筆しましたか?", "id": "tr-331-08-001", "answers": [ { "text": "マームーン2世", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マームーン2世はイブン・スィーナーに、何の役を任せたか?", "id": "tr-331-08-002", "answers": [ { "text": "法律顧問", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この時、イブン・スィーナーと良い関係を持ったのは、誰か?", "id": "tr-331-08-003", "answers": [ { "text": "ビールーニー", "answer_start": 85, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1012年にサーマーン朝を滅ぼしたガズナ朝のマフムードがイブン・スィーナーらホラズムの学者たちに出仕を要請したが、イブン・スィーナーは要求を拒む。マームーン2世はガズナ朝の使者が訪れる前にイブン・スィーナーに路銀と案内人を与えて密かに逃がし、かくしてイブン・スィーナーはホラズムから立ち去ることになった。ガズナのマフムードはイブン・スィーナーの逃亡に怒り、各地の王侯に彼の捜索を要求する触れ書きを出した。", "qas": [ { "question": "1012年の時点でガズナ朝は、誰が率いていたの?", "id": "tr-331-09-000", "answers": [ { "text": "マフムード", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イブン・スィーナーがマームーン2世のもとから去ったのは、何年のことですか?", "id": "tr-331-09-001", "answers": [ { "text": "1012年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マームーン2世は、どこの統治者だったか?", "id": "tr-331-09-002", "answers": [ { "text": "ホラズム", "answer_start": 38, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マフムードが怒ったのは、何のためだったか?", "id": "tr-331-09-003", "answers": [ { "text": "イブン・スィーナーの逃亡", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "イスファハーンに移住したイブン・スィーナーは政務から退いて著述に専念したいと考えていたが、イスファハーンの君主アラー・ウッダウラは彼を宰相に登用したため、願いはかなわなかった。イブン・スィーナーはアラー・ウッダウラに科学や文学についての助言を行い、また遠征に随行した。アラー・ウッダウラの遠征に従軍した時には、馬上で書記に口述筆記をさせて著作を書き進めた。この時期の軍事遠征への参加は、『治癒の書』の植物学と動物学の章の完成に寄与する。", "qas": [ { "question": "イブン・スィーナーがイスファハーンでの生活を始めた時のイスファハーンの統治者は、誰だったの?", "id": "tr-331-10-000", "answers": [ { "text": "アラー・ウッダウラ", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アラー・ウッダウラはイブン・スィーナーをどの職に就かせましたか?", "id": "tr-331-10-001", "answers": [ { "text": "宰相", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1030年、イスファハーンはガズナ朝の君主マスウード1世の攻撃を受け、イブン・スィーナーは蔵書を含む所有物を奪われる。この時、かつて書き上げた『公正な判断の書』が散逸する。病に倒れた時、奴隷に多量のアヘンを飲まされて財産のほとんどを奪われ、最後まで窮乏から立ち直ることができなかった。", "qas": [ { "question": "イスファハーンがガズナ朝により侵攻されたのは、何年のことか?", "id": "tr-331-11-000", "answers": [ { "text": "1030年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1030年にイスファハーンを侵攻したのは、どの王朝でしたか?", "id": "tr-331-11-001", "answers": [ { "text": "ガズナ朝", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『公正な判断の書』が散逸したのは、何年のガズナ朝の侵攻の結果だったか?", "id": "tr-331-11-002", "answers": [ { "text": "1030年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1030年にイスファハーンがガズナ朝により侵攻されたことにより、散逸したイブン・スィーナーの著書は、何か?", "id": "tr-331-11-003", "answers": [ { "text": "『公正な判断の書』", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日々の激務に体を蝕まれたイブン・スィーナーは腹痛に苦しむようになり、自身に施した浣腸などの治療によって、容体はますます悪化していく。1037年にイブン・スィーナーはアラー・ウッダウラのハマダーン遠征に同行し、行軍中に病に倒れる。死の2週間前、イブン・スィーナーは一切の治療を拒み、貧者に施しを与えて所有していた奴隷を解放し、毎日クルアーンを朗読していたと伝えられている。同年6月18日にイブン・スィーナーはハマダーンで生涯を終える。死因は胃癌(あるいは赤痢)だと考えられており、没時のイブン・スィーナーに家族は無かった。", "qas": [ { "question": "イブン・スィーナーはどこへの遠征に出かけ、病に倒れたの?", "id": "tr-331-12-000", "answers": [ { "text": "ハマダーン", "answer_start": 92, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アラー・ウッダウラがハマダーン遠征に出かけたのは、何年のことですか?", "id": "tr-331-12-001", "answers": [ { "text": "1037年", "answer_start": 66, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イブン・スィーナーは、何年に死去したか?", "id": "tr-331-12-002", "answers": [ { "text": "1037年", "answer_start": 66, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イブン・スィーナーが所有していた奴隷が解放されたのは、1037年の何月のことだったか?", "id": "tr-331-12-003", "answers": [ { "text": "6月", "answer_start": 187, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "静岡市立御幸町図書館", "paragraphs": [ { "context": "静岡市立御幸町図書館(しずおかしりつみゆきちょうとしょかん)は、静岡県静岡市葵区御幸町にある公共図書館。\n市街地中心部の複合ビル「ペガサートビル」内にある。\n2004年9月17日に開館した。\n静岡市庁舎内にあった静岡市立追手町図書館の後継館であり、12館ある静岡市立図書館のひとつである。\n蔵書数では12館中6位、貸出数では12館中4位だが、入館者数では12館中1位である(2014年度)。\n図書館の構想段階からビジネス支援サービスを取り入れた先進的な図書館である。", "qas": [ { "question": "静岡市立御幸町図書館は何のビルの中に入っているの?", "id": "tr-332-00-000", "answers": [ { "text": "「ペガサートビル」", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "静岡市立御幸町図書館はいつ開館しましたか?", "id": "tr-332-00-001", "answers": [ { "text": "2004年9月17日", "answer_start": 79, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2014年度の入館者数と貸出数はどちらの順位が良いですか?", "id": "tr-332-00-002", "answers": [ { "text": "入館者数", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2014年度の蔵書数と貸出数はどちらの順位が良いですか?", "id": "tr-332-00-003", "answers": [ { "text": "貸出数", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1969年(昭和34年)には静岡市初の公立図書館として、追手町に静岡市立図書館が開館した。\n静岡市立図書館の老朽化にともなって、1984年(昭和59年)には城北地区の大岩本町に静岡市立中央図書館が開館。\nこれによって中心市街地から図書館がなくなったため、1986年(昭和61年)には静岡市役所新庁舎3階のワンフロアに静岡市立追手町図書館が開館した。\nその立地から行政資料コーナーの存在が特色であり、静岡市役所総務課市史編纂室が所管していた自治体市史類を引き継いでいる。", "qas": [ { "question": "静岡市立図書館と静岡市立中央図書館はどちらが先に開館したの?", "id": "tr-332-01-000", "answers": [ { "text": "静岡市立図書館", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "静岡市立図書館、静岡市立中央図書館、静岡市立追手町図書館の中で最も遅く開館したものは何?", "id": "tr-332-01-001", "answers": [ { "text": "静岡市立追手町図書館", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "追手町図書館は中心市街地にあることから、中央図書館と間違えて来訪する利用者も少なくなかった。\n平日は市役所の駐車場を無料で利用することができ、この駐車場は休日のみ有料となった。\n1998年度の追手町図書館の蔵書数109,312冊は、中央図書館の蔵書数515,326冊の約1/5であるが、追手町図書館の貸出数337,969冊は、中央図書館の貸出数684,489冊の約1/2に達している。", "qas": [ { "question": "1998年度の蔵書数が多かったのは追手町図書館と中央図書館のどちらですか?", "id": "tr-332-02-000", "answers": [ { "text": "中央図書館", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1998年度の貸出数が多かったのは追手町図書館と中央図書館のどちらですか?", "id": "tr-332-02-001", "answers": [ { "text": "中央図書館", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "駐車場が有料となるのは平日と休日のどちらですか?", "id": "tr-332-02-002", "answers": [ { "text": "休日", "answer_start": 77, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1998年(平成10年)頃には静岡市立図書館の職員のプロジェクトチームが中央図書館を中心市街地に移転させる構想を打ち出した。\n2000年には中心市街地の御幸町と伝馬町に再開発ビルを建設することが決定したため、静岡市はこの再開発ビルの4フロアを購入して、2フロア分を図書館に、残りの2フロアを都市型産業支援施設に宛てることとした。\n図書館2フロア分の延床面積は約2,000mであり、延床面積の狭さなどの問題から中央図書館を移転させるのは困難だったため、近隣の追手町図書館を複合ビルに移転させることとした。\nこのビルは静岡鉄道新静岡駅とバスターミナルがある新静岡センターと向かい合っており、静岡市でもっとも賑わいのあるエリアに位置する。\n複合ビルの設計は静岡市内で葵タワーなども手掛けることになるアール・アイ・エー。", "qas": [ { "question": "4フロアのうち何フロアを図書館として利用することにしたの?", "id": "tr-332-03-000", "answers": [ { "text": "2フロア", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "複合ビルの設計会社はどこ?", "id": "tr-332-03-001", "answers": [ { "text": "アール・アイ・エー", "answer_start": 346, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "葵タワーの設計会社はどこ?", "id": "tr-332-03-002", "answers": [ { "text": "アール・アイ・エー", "answer_start": 346, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2001年(平成13年)4月1日には基本構想等策定委員会が設置され、栗田仁(建築家)、草谷桂子(児童文学者)、杉田至朗(静岡新聞論説委員)、竹内比呂也(図書館情報学者)、平野雅彦(情報プランナー)の5人が委員に就任。\n静岡市が基本構想策定委員会を設けるのは、(中央館ではない)地域館としては異例のことである。\n2002年5月10日には「仮称静岡市立御幸町伝馬町地区図書館基本構想」が策定され、「ビジネス支援サービス」というコンセプトが明確にされた。", "qas": [ { "question": "基本構想等策定委員会は何人によって構成されていますか?", "id": "tr-332-04-000", "answers": [ { "text": "5人", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "栗田仁の職業は何ですか?", "id": "tr-332-04-001", "answers": [ { "text": "建築家", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "草谷桂子の職業は何ですか?", "id": "tr-332-04-002", "answers": [ { "text": "児童文学者", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "平野雅彦の職業は何?", "id": "tr-332-04-003", "answers": [ { "text": "情報プランナー", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2003年(平成15年)4月1日には旧静岡市と清水市が合併して新静岡市となった。\n同月には静岡市職員の渡邉正人が追手町図書館の館長に就任。\n渡邉は自治体職員として庶務、相談員、施設管理、経理など様々な職種を経て、静岡市立南部図書館で2年間実務を経験した上で追手町図書館長に就任している。\n2004年4月1日には静岡中央図書館と清水中央図書館が統合され、静岡中央図書館が新静岡市の中央図書館となった。", "qas": [ { "question": "渡邉正人が追手町図書館の館長に就任したのは何年ですか?", "id": "tr-332-05-000", "answers": [ { "text": "2003年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2004年(平成16年)9月17日、追手町図書館の御幸町への移転という形をとって静岡市立御幸町図書館が開館した。\n館長は公募を行うことも検討されたが、追手町図書館長の渡邉がそのまま御幸町図書館長に就任している。\n追手町図書館の閉館時の蔵書数は約11万冊、開館した御幸町図書館の所蔵可能冊数は18万冊であるため、ゆったりとした書架での出発となった。", "qas": [ { "question": "追手町図書館の閉館時の蔵書数は?", "id": "tr-332-06-000", "answers": [ { "text": "約11万冊", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "旧静岡市と旧清水市では図書館の開館時間が異なっていたが、2005年(平成17年)5月には静岡市の全館を旧清水市の開館時間に合わせ、午前9時30分開館となった。\n2003年度の追手町図書館と2004年度の御幸町図書館の統計を比較すると、入館者数は1.6倍(1,918人/日)に、貸出点数は1.4倍(1,398点/日)に増加している。\n2006年4月には第2代館長に豊田高広が就任。\n豊田は静岡市職員として社会教育分野に携わり、静岡市中央図書館を経て2004年9月の開館時に御幸町図書館に転任していた。", "qas": [ { "question": "豊田高広が御幸町図書館の館長に就任したのはいつでしたか?", "id": "tr-332-07-000", "answers": [ { "text": "2006年4月", "answer_start": 166, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "御幸町図書館の2代目館長を務めた人は誰?", "id": "tr-332-07-001", "answers": [ { "text": "豊田高広", "answer_start": 181, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ビジネス支援サービスなどが評価され、2006年(平成18年)には文部科学省の「これからの図書館像」で9つの先進事例の一つとして紹介された。\nその立地を生かしたビジネス支援サービスを計画的に展開している点が評価され、2007年(平成19年)にはLibraryoftheYearの優秀賞と会場賞を受賞した。\n同年の大賞には滋賀県愛荘町の愛荘町立愛知川図書館が選ばれている。", "qas": [ { "question": "2007年にLibraryoftheYearで受賞したのは会場賞と何でしたか?", "id": "tr-332-08-000", "answers": [ { "text": "優秀賞", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "愛荘町立愛知川図書館がLibraryoftheYearの大賞を受賞したのは何年でしたか?", "id": "tr-332-08-001", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 107, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "御幸町図書館の特徴はビジネス支援サービスと多言語サービスであり、書架の約半分はビジネス支援または多言語サービスが占めている。\n早い時期からビジネス支援サービスを本格的に実施していた図書館として、新聞や専門誌などに紹介されている。\n一般的な図書館における貸出の中心は児童書や文芸書であるが、御幸町図書館では書架の配置にしても所蔵冊数にしても脇役の地位にある。\n約400タイトルある新聞・雑誌の半分以上はビジネス関連である。", "qas": [ { "question": "ビジネス関連の新聞や雑誌のタイトルはいくつありますか?", "id": "tr-332-09-000", "answers": [ { "text": "約400タイトル", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "早い時期からビジネス支援サービスを本格的に実施していた図書館とは何ですか?", "id": "tr-332-09-001", "answers": [ { "text": "御幸町図書館", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "図書館内には約30台のPCが設置されており、2007年時点で約20タイトルの商用データベースにアクセスすることができる。\n開館時には図書へのICチップの導入や自動貸出機の導入も検討されたが、静岡市立図書館全体の電算システムとの整合性の問題から実現していない。", "qas": [ { "question": "図書館内には何台のパソコンが置いてありますか?", "id": "tr-332-10-000", "answers": [ { "text": "約30台", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2003年(平成15年)に旧静岡市と清水市が合併して新静岡市となり、静岡市は2005年(平成17年)に政令指定都市に移行して行政区を導入した。\n静岡市に3つある行政区のうち、葵区には静岡市立中央図書館や御幸町図書館を含めて5つの図書館が存在する。\n中央図書館は静岡市の中心市街地からやや離れた城北地区にあり、御幸町図書館とはサービスの住み分けがなされている。\n2005年にワード研究所がインターネット上で行った自治体公共サービス満足度調査によると、「図書館の満足度」で葵区は千葉県浦安市(浦安市立図書館)についで全国2位タイだった。", "qas": [ { "question": "新静岡市が誕生したのは何年ですか?", "id": "tr-332-11-000", "answers": [ { "text": "2003年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2005年の「図書館の満足度」が1位だった図書館はどこですか?", "id": "tr-332-11-001", "answers": [ { "text": "浦安市立図書館", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "新静岡市は旧静岡市と何市が合わされた市ですか?", "id": "tr-332-11-002", "answers": [ { "text": "清水市", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2005年の「図書館の満足度」が2位だった図書館はどこですか?", "id": "tr-332-11-003", "answers": [ { "text": "御幸町図書館", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "御幸町図書館は静岡市街地中心部にある複合ビル「ペガサートビル」の4階と5階の2フロアを使用しており、それぞれのフロアにカウンターが設置されている。\n地域図書館としての機能(児童・ヤングアダルト・生活・健康・文芸)は4階、ビジネス支援、法律・経済・産業・静岡関連資料、外国語資料は5階に振り分けている。\n同一ビルの6階と7階には静岡市が運営する静岡市産学交流センターが入居しており、図書館と産学交流センターは連携してビジネス支援サービスを行っている。\n御幸町図書館と産学交流センターの二つの施設には「B-nest」(ビネスト)という愛称が付けられている。\n産学交流センターには指定管理者が導入されているが、御幸町図書館は静岡市の直営である。", "qas": [ { "question": "外国語資料は何階に配置されているの?", "id": "tr-332-12-000", "answers": [ { "text": "5階", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "児童図書は何階に配置されているの?", "id": "tr-332-12-001", "answers": [ { "text": "4階", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "健康関連の図書は何階にあるの?", "id": "tr-332-12-002", "answers": [ { "text": "4階", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "法律関係の資料は何階にあるの?", "id": "tr-332-12-003", "answers": [ { "text": "5階", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "公共図書館には珍しく専用駐車場がなく、自動車で来訪した利用者はペガサートビルの有料駐車場を使用する必要がある。\n御幸町図書館は開館時から徒歩または公共交通機関による来訪を想定している。\nバスや電車を利用する通勤通学者の利用者比率が高かったために、無料駐車場がないことへの苦情はほとんどないという。\n自動車での来訪者が少ないことで、一度の利用における貸出冊数は少なく、開館1年後時点では他館の平均が3.3-3.5冊だったのに対して、御幸町図書館は2.4冊だった。", "qas": [ { "question": "開館1年後時点の貸出冊数の平均が少なかったのは他館と御幸町図書館のどちらですか?", "id": "tr-332-13-000", "answers": [ { "text": "御幸町図書館", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "車で図書館に来訪した場合、利用しないといけないものは何ですか?", "id": "tr-332-13-001", "answers": [ { "text": "有料駐車場", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "御幸町図書館では経済・経営関係の図書・雑誌・新聞・データベースを幅広く提供しており、図書に関しては入門書・実用書・パンフレット・統計書・年鑑の収集に力を入れている。\n中でも特に静岡県の企業や経済に関する資料の収集を重視しており、いわゆる灰色文献も収集している。\n議員・NPO法人・公務員などが活動に利用できるよう、法律情報に関する文献も重点的に収集している。\n同一ビル内の産学交流センターと連携し、産学交流センターが注力している資料の収集や産学交流センターの利用促進に努めている。\n科学技術情報や特許情報については基礎的なサービスを提供し、静岡県立中央図書館や大学図書館などの図書館間連携や、発明協会など関連機関との連携を重視している。\nこれらのビジネス支援は御幸町図書館単独の事業ではなく、静岡市役所産業政策課などとの産学官連携の枠組みの中に位置づけられている。", "qas": [ { "question": "御幸町図書館が図書館間連携を行っているのは大学図書館とどこですか?", "id": "tr-332-14-000", "answers": [ { "text": "静岡県立中央図書館", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "御幸町図書館が他地域の図書館以外で連携を重視している機関はどこですか?", "id": "tr-332-14-001", "answers": [ { "text": "発明協会", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1999年(平成11年)の旧静岡市と清水市の外国人登録人口は計6,163人だったが、近年に両地域の外国人人口は急成長しており、2003年(平成15年)には計7,933人となった。\n御幸町図書館の基本構想における柱はビジネス支援サービスのみだったが、その後多言語サービスも柱の一つに位置づけられた。", "qas": [ { "question": "外国人登録人口が多いのは1999年と2003年のどちらですか?", "id": "tr-332-15-000", "answers": [ { "text": "2003年", "answer_start": 63, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1999年の外国人登録人口は何人でしたか?", "id": "tr-332-15-001", "answers": [ { "text": "6,163人", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2003年の外国人登録人口は何人でしたか?", "id": "tr-332-15-002", "answers": [ { "text": "7,933人", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "今日では静岡市の人口の約1%を外国人が占めている。\n御幸町図書館が行っている多言語サービスの利用者層は、特に中国や韓国などアジア出身の留学生、英語圏出身の社会人と想定している。\n静岡市に在住する外国人の国籍を反映し、英語、中国語、ブラジルポルトガル語、韓国語で書かれた資料を収集している。\n2007年(平成19年)時点では各言語のベストセラー、生活実用書、文芸書、児童書、日本語学習書など書籍約4,000冊、雑誌・新聞40タイトルを収集しており、日常生活や観光などのパンフレットやチラシも収集している。\n御幸町図書館は静岡市国際課や静岡市国際交流協会などと協力関係にある。", "qas": [ { "question": "静岡市の人口に占めている外国人の割合はどれくらいですか?", "id": "tr-332-16-000", "answers": [ { "text": "約1%", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2007年に収集されていた多言語の書籍は何冊でしたか?", "id": "tr-332-16-001", "answers": [ { "text": "約4,000冊", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "御幸町図書館が協力関係にあるのは静岡市国際課とどこですか?", "id": "tr-332-16-002", "answers": [ { "text": "静岡市国際交流協会", "answer_start": 266, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2014年度のレファレンス件数は7,917件であり、清水中央図書館の6,043件、中央図書館の3,836件などを抑えて市内最多だった。\n静岡市の全館のレファレンス件数合計は42,560件だった。\n2014年度の入館者数は467,780人であり、南部図書館の437,138人、中央図書館の331,897人などを抑えて市内最多だった。\n静岡市の全館の入館者数合計は2,432,014人だった。", "qas": [ { "question": "2014年度のレファレンス件数が多かったのは清水中央図書館と中央図書館のどちらですか?", "id": "tr-332-17-000", "answers": [ { "text": "清水中央図書館", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2014年度の入館者数が多かったのは南部図書館と中央図書館のどちらですか?", "id": "tr-332-17-001", "answers": [ { "text": "南部図書館", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2014年度の静岡市の全館のレファレンス件数は合計何件でしたか?", "id": "tr-332-17-002", "answers": [ { "text": "42,560件", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2014年度の静岡市の全館の入館者数の合計は何人でしたか?", "id": "tr-332-17-003", "answers": [ { "text": "2,432,014人", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "陸前高田市立図書館", "paragraphs": [ { "context": "陸前高田市立図書館(りくぜんたかたしりつとしょかん、RikuzentakataPublicLibrary)は、岩手県陸前高田市の公共図書館。\n1964年に設置された。\n2011年3月11日の東日本大震災で壊滅的な被害を受け、2012年からはログハウスの仮設館で業務を行っていたが、2017年7月20日に新図書館が開館した。\n震災後には市立図書館のほかに3館の私設図書館が陸前高田市内で活動を行っている。", "qas": [ { "question": "陸前高田市立図書館が壊滅的被害を受けた自然災害とは何?", "id": "tr-333-00-000", "answers": [ { "text": "東日本大震災", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "陸前高田市立図書館ができた年はいつ?", "id": "tr-333-00-001", "answers": [ { "text": "1964年", "answer_start": 71, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "震災後に陸前高田市立図書館の新図書館がオープンしたのはいつ?", "id": "tr-333-00-002", "answers": [ { "text": "2017年7月20日", "answer_start": 140, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "陸前高田市の前身となる自治体では、1924年1月26日に竹駒村の竹駒村立小学校に竹駒村立図書館が、同年3月8日に米崎村の米崎村立小学校に米崎村立図書館が、同年3月15日に広田村の広田村立小学校に広田村立図書館が、いずれも摂政宮(後の昭和天皇)殿下御成婚記念事業として設置された。\n竹駒村立図書館と米崎村立図書館では小学校長が図書館長を兼任している。\n1930年12月1日には高田町の高田町立小学校に高田町立図書館が設置され、翌1931年5月に高田町青年会館に移転した。\nこの図書館は425冊の図書を備え、年間2,000人が利用したが、施設は不十分だったという。\n1931年7月23日から8月31日には、風光明媚な高田松原に臨時の海浜図書館が開設された。", "qas": [ { "question": "広田村立図書館、竹駒村立図書館、米崎村立図書館の中で最初に設置されたのはどれですか?", "id": "tr-333-01-000", "answers": [ { "text": "竹駒村立図書館", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "竹駒村立図書館、米崎村立図書館、広田村立図書館の中で小学校長と図書館長が兼任していないのはどれですか?", "id": "tr-333-01-001", "answers": [ { "text": "広田村立図書館", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "高田町立図書館と海浜図書館はどちらが後につくられたの?", "id": "tr-333-01-002", "answers": [ { "text": "海浜図書館", "answer_start": 314, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1955年には高田町を中心とする3町5村が新設合併して陸前高田市が成立した。\n1959年4月、陸前高田市字本丸29にある陸前高田市役所の一室に陸前高田市中央公民館図書部が設置された。\n1964年には陸前高田市立図書館条例を制定し、4月1日には中央公民館図書部が陸前高田市立図書館に改称された。\n陸前高田市立高田中学校が移転すると、1967年7月15日には高田中学校の校舎に移転し、2階西側の3教室を用いて図書館業務を再開した。\n同年11月1日には巡回文庫(移動図書館)を開始したが、トラックにテントを張った簡素な車両だった。\n中央公民館時代の図書館の蔵書数は約11,000冊だった。", "qas": [ { "question": "1955年に新設合併した町と村は、どちらの数が多かったですか?", "id": "tr-333-02-000", "answers": [ { "text": "村", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "陸前高田市立図書館が移動図書館をスタートさせたのは何年ですか?", "id": "tr-333-02-001", "answers": [ { "text": "1967年", "answer_start": 165, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "陸前高田市立図書館の移転先となった建物は何?", "id": "tr-333-02-002", "answers": [ { "text": "高田中学校の校舎", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "陸前高田市は1972年から1974年に22,562m2の公共施設建設用地を取得。\n1976年から1979年にかけて陸前高田市民体育館、陸前高田市中央公民館、陸前高田市立博物館を建設しており、1977年9月5日から1978年2月28日には891m2の図書館を建設した。\n総工費は1億2858万9000円。\n1978年3月12日に新館の開館記念式典を行い、10,870冊を備えて4月に開館した。\n新設された建物は鉄筋コンクリート造2階建であり、床面積は1階が477m2、2階が414m2で計891m2である。\n公共施設の集合体である陸前高田市体育文化センターは岩手県有数の施設として賞賛され、岩手県のみならず東北地方の各県や近畿地方などからも視察者が訪れた。", "qas": [ { "question": "新設された建物の1階と2階はどちらが広いですか?", "id": "tr-333-03-000", "answers": [ { "text": "1階", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "陸前高田市民体育館、陸前高田市中央公民館、陸前高田市立博物館、図書館の中で建設期間が最も短いのはどれですか?", "id": "tr-333-03-001", "answers": [ { "text": "図書館", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "新館の図書館に備えていた図書の数はいくつでしたか?", "id": "tr-333-03-002", "answers": [ { "text": "10,870冊", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1階に学生閲覧室、児童閲覧室、研修室、閉架書庫・車庫などがあり、2階に一般閲覧室、研修室、貴重本書庫、ブラウジングコーナーなどがあった。\n1階には学生用の席が24席、児童用の席が24席設けられており、2階には一般用の席が36席設けられていた。\n1979年度の蔵書数は15,393冊、貸出冊数は13,955冊だったが、1984年度には蔵書数が28,533冊、貸出冊数が28,183冊、1988年度には蔵書数が36,426冊、貸出冊数が30,338冊と、9年間でそれぞれ2倍以上に増加している。", "qas": [ { "question": "1979年度、1984年度、1988年度の中で、最も蔵書数が多いのは何年度ですか?", "id": "tr-333-04-000", "answers": [ { "text": "1988年度", "answer_start": 191, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1979年度、1984年度、1988年度の中で、最も貸出冊数が多いのはいつですか?", "id": "tr-333-04-001", "answers": [ { "text": "1988年度", "answer_start": 191, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "児童用の席と一般用の席はどちらが多いですか?", "id": "tr-333-04-002", "answers": [ { "text": "一般用の席", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "児童用の席と数が同じなのは学生用の席と一般用の席のどちらですか?", "id": "tr-333-04-003", "answers": [ { "text": "学生用の席", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1985年頃には図書館と地元の郷土史家が協力して、吉田家文書の解読作業を開始した。\n1988年には1階の児童閲覧室に書架を設置し、1989年4月には1階に学生閲覧室と研修室を新設。\n1991年5月にはコピー機を導入し、1993年にはAV書架を設置したほかに国立国会図書館の図書館間貸出制度に加入した。\n1995年7月には中高生を対象としたヤングコーナーを設置した。\n1997年の入館者数は30,368人、貸出冊数は67,540点であり、1人あたりの利用率は岩手県内で中位に位置していた。", "qas": [ { "question": "ヤングコーナーの対象者は誰ですか?", "id": "tr-333-05-000", "answers": [ { "text": "中高生", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1997年の図書館入館者数は何人でしたか?", "id": "tr-333-05-001", "answers": [ { "text": "30,368人", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2002年12月3日にはオンライン蔵書検索システム(OPAC)を導入した。\n岩手県の63館中(分館を含む)32館目のコンピュータ導入事例である。\nコンピュータの導入によって貸出冊数が大幅に増加し、2002年度の貸出点数80,692点が2003年度には108,666点(1.35倍)となった。\n震災前の2010年4月時点の蔵書数は80,364点だった。", "qas": [ { "question": "2002年度と2003年度の貸出点数が少ないのどちらの年ですか?", "id": "tr-333-06-000", "answers": [ { "text": "2002年度", "answer_start": 98, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "陸前高田市立図書館にコンピュータが導入されたのはいつですか?", "id": "tr-333-06-001", "answers": [ { "text": "2002年12月3日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2003年度の貸出点数は、前年度と比較して何倍となりましたか?", "id": "tr-333-06-002", "answers": [ { "text": "1.35倍", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "図書館とボランティアグループが協力し、読書ボランティアの育成、図書館でのおはなし会、学校や保育園での出前おはなし会、ワークショップ、講演会、ブックスタート事業など、特に幼児や小学生を対象とした支援活動を行っていたが、中高生への支援が手薄だとされていた。\n2007年に文部科学省が「子ども読書応援プロジェクト」の公募を行うと、「作家の出前授業」をメインとした0歳から18歳までのあらゆる子どもを対象とした活動を行っている。\nこの活動の中ではアメリカ出身の詩人であるアーサー・ビナード、絵本作家の飯野和好、児童文学作家の斉藤洋などが講師を務めた。", "qas": [ { "question": "「子ども読書応援プロジェクト」で講師を務めた海外出身者は誰ですか?", "id": "tr-333-07-000", "answers": [ { "text": "アーサー・ビナード", "answer_start": 231, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「子ども読書応援プロジェクト」で講師を務めた絵本作家は誰ですか?", "id": "tr-333-07-001", "answers": [ { "text": "飯野和好", "answer_start": 246, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2010年4月時点の蔵書数は80,364点。\n岩手県指定文化財の吉田家文書を所蔵し、古文書や絵図などの貴重な郷土資料なども所蔵していた。\n2011年3月11日の東日本大震災では、津波によって図書館の建物が壊滅的な状態となり、図書館がどこにあったのかもわからないような状況であった。\n地震発生当時の館内には職員6人、利用者4-5人、古文書研究会員2人がいたが、利用者を避難誘導してから館内で図書の整理作業を行っていた職員6人と非番の職員1人の7人が亡くなった。\n陸前高田市立米崎小学校に駐車中だった移動図書館車は地震発生後に図書館に戻っていたが、津波に押しつぶされて横倒しの状態で発見されている。\n陸前高田市立体育館で行われた現地調査では、陸前高田市には推定15.8mの津波が押し寄せたとする指摘もある。\n陸前高田市では市教育委員会生涯学習課(図書館・博物館・体育館などを管轄)に所属する職員12人中11人が亡くなっている。\n図書・資料の大半が流失するか浸水する被害を受け、郷土資料6,000冊を含む蔵書約80,000冊を失った。\n陸前高田市は総面積の5.6%、建物用地の42.9%が浸水被害を受け、市役所本庁舎も全壊した。", "qas": [ { "question": "地震発生時に館内にいた職員、利用者、古文書研究会員の中で一番人数が少なかったのは誰でしたか?", "id": "tr-333-08-000", "answers": [ { "text": "古文書研究会員", "answer_start": 165, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "職員と非番の職員のうち、地震による死亡者数が少なかったのはどちらですか?", "id": "tr-333-08-001", "answers": [ { "text": "非番の職員", "answer_start": 212, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "東日本大震災で陸前高田市を襲った津波はどれくらいの高さだったと推定されているの?", "id": "tr-333-08-002", "answers": [ { "text": "15.8m", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "4月30日に岩手県立図書館が作成した資料では、陸前高田市立図書館の建物は「壊滅状態」、設備は「把握不能」とされている。\n東日本大震災では岩手県の公立図書館57館中30館が建物被害を受け、陸前高田市に加えて野田村の野田村立図書館と大槌町の大槌町立図書館の3館は壊滅的な状態となった。\n陸前高田市に隣接する大船渡市立図書館は6月5日に活動を再開しており、この際には陸前高田市民にも貸出サービスを拡大した。\n岩手県の陸前高田市・大船渡市・住田町に加えて宮城県の気仙沼市などは気仙地方と呼ばれて一体性を持つ地域であり、陸前高田市立図書館は大船渡市や住田町の在住者にも貸出を行っている。", "qas": [ { "question": "東日本大震災で、岩手県の公立図書館の半分以上が受けた被害とは何?", "id": "tr-333-09-000", "answers": [ { "text": "建物被害", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "市立博物館なども含めると、陸前高田市では約56万点の文化財などが被災したが、その8割を回収することに成功している。\n図書館の2階は壁際の書架を除いて破壊されたが、貴重本庫に保管されていた古文書・市議会資料・市史編纂資料などは、水に浸かったものの流出を免れた。\n2011年4月に岩手県立博物館に搬送されると、岩手県立博物館は吉田家文書などの洗浄やクリーニングなどを行い、岩手県に派遣された国立国会図書館は応急処置や撮影などを行った。\nその後は国立国会図書館に搬送され、本格的な修復作業が行われている。\n海水に浸かった資料の修復は世界初の試みである。\n吉田家文書は地元の郷土史家らが20年以上かけて解読作業を行っており、95冊中93冊の解読が終了していたが、そのデータは図書館とともに流出したため、2011年12月には解読作業をゼロから再開している。\n2階書庫の整理作業の様子は2011年5月2日にNHKの『NHKニュースおはよう日本』で取り上げられた。", "qas": [ { "question": "被災して水浸しになった資料は、最終的にどこで本格的な修復作業を行ったの?", "id": "tr-333-10-000", "answers": [ { "text": "国立国会図書館", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "吉田家文書の解読作業は何冊まで解読が済んでいたの?", "id": "tr-333-10-001", "answers": [ { "text": "93冊", "answer_start": 312, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "7人の職員全員が亡くなった陸前高田市立図書館は、応援職員を中心に2011年度には移動図書館活動のみを行い、津波の被害を受けなかった21か所を巡回した。\n図書館勤務経験があった自治体職員は1人だけだったが、2012年3月に書誌データの登録業務を開始した。\n2012年度にはこの正規職員1人、嘱託職員3人、緊急雇用創出事業による臨時職員6人によって、仮設館内で寄贈図書の選書と登録作業を開始した。\n2011年度中には全国各地から図書の寄贈があったため、職員は選書や蔵書登録などの作業を行う。\n図書館システムを構築した業者の社長も震災で亡くなっており、蔵書登録作業は難航した。\nブックカバー貼りのボランティア募集には市内や岩手県内のみならず、東京都・埼玉県・愛知県などからも支援者が駆けつけている。\n2013年度には専任館長、正規職員1人、嘱託職員4人、緊急雇用創出事業による臨時職員6人の体制となった。", "qas": [ { "question": "2012年度の仮設館職員である正規職員、嘱託職員、臨時職員の中で人数が2番目に多かった職員は何ですか?", "id": "tr-333-11-000", "answers": [ { "text": "嘱託職員", "answer_start": 144, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2012年度と2013年度の委託職員の人数が少ないのはどちらですか?", "id": "tr-333-11-001", "answers": [ { "text": "2012年度", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "岩手県外からも支援者が駆けつけたボランティアの内容とは何ですか?", "id": "tr-333-11-002", "answers": [ { "text": "ブックカバー貼り", "answer_start": 286, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2012年6月中には全壊した図書館の解体作業が開始され、2013年3月までに解体作業が終了した。\n図書館振興財団からの支援を得た札幌市のボランティア団体「北海道ブックシェアリング」は、仮設市立図書館の建設資金550万円を寄付した。\n札幌大学の学生らがボランティアとして仮設館の建設にあたり、2012年8月末にはログハウス2階建の仮設館の建設を開始した。\nこの仮設館は竹駒町の高台にあり、子ども図書館「ちいさいおうち」に隣接している。\n約2週間後の9月にはログハウスが完成し、12月1日にはログハウス内で仮設図書館一般閲覧室(50m2)が開館した。\n仮設館は旧図書館から5km離れており、公共交通機関によるアクセス手段がないため、どの程度の利用者がいるのか未知数の状態での開館だった。", "qas": [ { "question": "仮設市立図書館の建設資金を寄付してくれた団体は何ですか?", "id": "tr-333-12-000", "answers": [ { "text": "「北海道ブックシェアリング」", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "仮設市立図書館はどんな家屋でしたか?", "id": "tr-333-12-001", "answers": [ { "text": "ログハウス", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "開館時の蔵書は約13,000冊。\n一般書のほかに郷土資料や震災関連資料などがあり、開館当初から検索システムや取り寄せサービスを行っている。\n日本全国から寄贈された約13,000冊のうち約4,000冊が配架され、貸出やコピーなどのサービスも再開した。\n建物内部の入口付近には木製テーブルや書棚を置いている。\n室内の一角には東日本大震災関連図書コーナーを設けており、関連する新聞記事のスクラップなどを並べている。\n開館月の2012年12月には1日平均15人ほどが利用した。\n2013年6月以降には立教大学から書架の寄贈を受け、2013年9月には聖心女子大学ほかからパラソルなど「憩いの広場」の寄贈を受けた。", "qas": [ { "question": "仮設市立図書館が開館した月の1日の平均利用人数は何人でしたか?", "id": "tr-333-13-000", "answers": [ { "text": "15人ほど", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "寄贈された書籍の保管場所の確保などに問題を抱えていたことから、2012年6月には「陸前高田市立図書館ゆめプロジェクト」が開始された。\nこのプロジェクトはバリューブックスによる社会事業「ブックスフォージャパン」の一環であり、寄贈された図書の買取金額相当を図書館再建の資金に充てている。\n2014年9月末時点では130万冊以上がこのプロジェクトに寄贈され、その買取金額は約2300万円にのぼる。\n毎週水曜日には図書館内でコーヒーを飲みながら利用者同士で談笑ができる「井戸端図書館」を開催している。\n震災前には1日平均120人の利用者がいたが、2013年8月時点では1日平均17人程度である。\n震災時にはすべての音楽CDが流出しており、同8月には日本レコード協会から音楽CD500枚が寄贈された。\n開館10か月後の2013年10月22日には、仮設図書館への来館者数が5,000人を突破した。\n2015年4月時点の蔵書数は震災前の46%にあたる37,027冊である。\n陸前高田市立図書館の2015年時点の貸出冊数は震災前の30%、入館者数は震災前の28%だった。\n民間支援によって開館した3館の入館者数を合わせても、2009年度の入館者数の半分にも満たない。", "qas": [ { "question": "「陸前高田市立図書館ゆめプロジェクト」を開始させた事業主は何ですか?", "id": "tr-333-14-000", "answers": [ { "text": "バリューブックス", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2015年4月の仮設図書館の蔵書数はいくつですか?", "id": "tr-333-14-001", "answers": [ { "text": "37,027冊", "answer_start": 418, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "東日本大震災で大きな被害を受けた陸前高田市は、旧市街地に高さ10メートルの嵩上げ地を造成、そこにまったく新しい新市街地を建設する。\n市民の代表者、ボランティア団体、NPO団体、有識者によって構成される図書館検討委員会が基本構想の素案をまとめ、その素案に市民アンケートやパブリックコメントを反映させた上で、2015年9月には新陸前高田市図書館整備基本構想が発表された。\n嵩上げ地に建設される新図書館は中心市街地の本丸公園通りに面し、まちなか公園と隣接する。\n商業施設が併設され、商業施設を建設する事業者が整備した図書館スペースを陸前高田市が買収する形式をとる。\n図書館は商業施設とコミュニティスペースを共有し、各種イベントを開催する予定である。\n震災前の図書館と同じ延床面積891m2を予定。\n約35,000冊の一般書コーナー、約15,000冊の児童書コーナー、約5,000冊の郷土資料コーナーなどが設けられる予定であり、約18,000冊の公開書庫や約30,000冊の閉架書庫が設置される予定である。\n雑誌架は約100誌分用意され、雑誌の閲覧スペースとして約20席が用意される。\n一般閲覧席は50席が予定され、デスク席にはパソコン用の電源が設置される。\n2016年2月に建設事業者を決定し、2016年度中に着工した。\n総事業費は約6億円であった。\n新館開館にともない、仮設館は6月30日をもって閉館した。", "qas": [ { "question": "新図書館に設置予定である児童書コーナーと郷土資料コーナーではどちらの冊数が多いですか?", "id": "tr-333-15-000", "answers": [ { "text": "児童書コーナー", "answer_start": 372, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "公開書庫と閉架書庫の書籍数が多いのはどちらですか?", "id": "tr-333-15-001", "answers": [ { "text": "閉架書庫", "answer_start": 433, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "一般書コーナー、児童書コーナー、郷土資料コーナーの中で2番目に書籍数が少ないのはどのコーナーですか?", "id": "tr-333-15-002", "answers": [ { "text": "児童書コーナー", "answer_start": 372, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "新図書館の総事業費はいくらですか?", "id": "tr-333-15-003", "answers": [ { "text": "約6億円", "answer_start": 563, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2017年7月20日、新図書館が開館した。\n図書館の建物は大型商業施設「アバッセたかた」に併設された木造平屋建であり、延床面積は891m2。\n仮設館からは約35,000冊が持ち込まれ、新規購入した約30,000冊と合わせた開館時の蔵書数は約65,000冊であった。", "qas": [ { "question": "新図書館では、仮設館からの持ち込みと新規購入のどちらの書籍の数が少なかったですか?", "id": "tr-333-16-000", "answers": [ { "text": "新規購入", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "新図書館のオープン時の蔵書数はいくつでしたか?", "id": "tr-333-16-001", "answers": [ { "text": "約65,000冊", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2011年から2012年にかけて、陸前高田市内には私設図書館が3館開館した。\n陸前高田市立図書館と私設の3館は連携して図書館業務を行っており、市立図書館の公式ウェブサイトでは私設館についても紹介している。\n「ちいさいおうち」の職員1人は市立図書館が雇用した職員であり、市立図書館と「ちいさいおうち」は電話を共有している。\n4館は定期的に情報交換を行う会議を開催しており、2014年2月には4館を回るスタンプラリーを実施した。\n運営方法や位置づけに差異はあるものの、将来的には全館が市立図書館に統合される可能性がある。", "qas": [ { "question": "市立図書館と「ちいさいおうち」の共有物は何ですか?", "id": "tr-333-17-000", "answers": [ { "text": "電話", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2011年3月11日の東日本大震災から約半年後の11月12日には、三井物産の支援によって子ども図書館「にじのライブラリー」が開館した。\n「子どもたちへ<あしたの本>プロジェクト」と「<大震災>出版対策本部」が運営を行っている。\nこの建物は気仙川右岸の気仙町にあり、避難所にもなった北野神社今泉天満宮社務所跡地にある。\n建物は木造平屋建で、延床面積は106m2。\n土日・祝日・水曜日に開館している。\n開館時の蔵書は約2,000冊だったが、2014年時点では約3,200冊となった。\n神社境内に設置された「にじのライブラリー」は、図書館機能以外に地域住民の交流場所にもなっている。\n「ふっくら布ぞうりの会」が布ぞうりやハンカチづくりをおこなっているうえに、宮司らによる「今泉天満宮の再建を支援する会」の拠点にもなっている。", "qas": [ { "question": "「にじのライブラリー」の平日の開館日はいつ?", "id": "tr-333-18-000", "answers": [ { "text": "水曜日", "answer_start": 187, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2011年と2014年を比較すると、蔵書数が多いのは何年ですか?", "id": "tr-333-18-001", "answers": [ { "text": "2014年", "answer_start": 218, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "「にじのライブラリー」開館からの2週間後の2011年11月26日には、盛岡市に拠点を置くNPO法人うれし野こども図書室が、竹駒町のコミュニティセンター敷地内に子ども図書館「ちいさいおうち」を設置した。\nこの子ども図書館はトレーラーハウスを利用しており、68m2(約20畳)の広さを持つ。\nNPO法人うれし野こども図書室は、陸前高田市教育委員会と連携して運営・管理を行っている。\nトレーラーハウスや書架などは特注品であり、蔵書の多くは児童書に詳しい東京こども図書館自身が選書したものである。\n蔵書は0歳から18歳を対象としており、陸前高田市または近隣市町村在住者であればだれでも利用可能である。\n開館当初の蔵書数は約2,500冊だったが、2014年7月には4,200冊を超えた。\n火・水・金・土・日の週5日開館。\n東京こども図書館から1人、陸前高田市から1人の計2人の職員がいる。\n開館から15か月後の2013年2月末時点で468人が利用者登録を行っている。\n「ちいさいおうち」開館時の蔵書は約2,000冊だったが、2015年3月には約4,500冊となった。\nトレーラーハウスを改造した形態の建物であるため、陸前高田市の復興状況に応じて移転する可能性がある。\n2012年12月1日に隣接場所に(仮設)陸前高田市立図書館が開館したため、児童へのサービスは「ちいさいおうち」、大人へのサービスは(仮設)陸前市立図書館と、役割を分担している。\n「ちいさいおうち」は設立当初から陸前高田市立図書館の一部となることを視野に入れて活動している。", "qas": [ { "question": "「ちいさいおうち」にある蔵書の対象年齢は何歳から何歳ですか?", "id": "tr-333-19-000", "answers": [ { "text": "0歳から18歳", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ちいさいおうち」の設置者とは誰に当たりますか?", "id": "tr-333-19-001", "answers": [ { "text": "NPO法人うれし野こども図書室", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2014年7月と2015年3月の「ちいさいおうち」の蔵書数を見てみると、どちらの時期の数が多いですか?", "id": "tr-333-19-002", "answers": [ { "text": "2015年3月", "answer_start": 457, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "藻岩山", "paragraphs": [ { "context": "藻岩山(もいわやま)は、北海道札幌市の中心部から南西約5キロメートル(札幌駅の南西6km)に位置する標高531メートル(530.9m〈531.03m〉)の山である。\n藻岩山にはロープウェイや自動車道が通り、展望台や冬季はスキー場により、札幌市民や観光客の行楽地となっている。\n山頂に登るには、北側から「もいわ山ロープウェイ」と「もーりすカー」(ケーブルカー)を乗り継ぐか、あるいは南側から「藻岩山観光自動車道」(冬季休業)で中腹まで至り、「もーりすカー」に乗り換えて行くことができる。\nともに有料。\nまた、5つの登山道も整備されている。", "qas": [ { "question": "藻岩山は札幌駅から何km離れていますか?", "id": "tr-334-00-000", "answers": [ { "text": "6km", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "藻岩山の登山道はいくつありますか?", "id": "tr-334-00-001", "answers": [ { "text": "5つ", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "藻岩山にあるケーブルカーの名前は何?", "id": "tr-334-00-002", "answers": [ { "text": "「もーりすカー」", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "札幌市民や観光客の行楽地となっている山とは?", "id": "tr-334-00-003", "answers": [ { "text": "藻岩山", "answer_start": 83, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "山頂展望台からは石狩平野、そして石狩湾までを一望することができ、夜には札幌市街の夜景を楽しめる。\n夜景は、函館市の函館山、小樽市の天狗山とともに「北海道三大夜景」の1つとされ、日本の「夜景100選」にも認定されている。\nまた、札幌市は2015年(平成27年)より「日本新三大夜景都市」に認定されている。\n札幌市南区北部に位置し、中心部から近いという立地もあって、多くの市民や外国人を含む観光客でにぎわう。\n2017年(平成29年)度の来訪者は約90万6000人。\n山頂の南東方向に札幌藻岩山スキー場がある。", "qas": [ { "question": "「北海道三大夜景」は藻岩山、函館山ともう1つはどこですか?", "id": "tr-334-01-000", "answers": [ { "text": "天狗山", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「日本新三大夜景都市」に認定されたのは何年でしたか?", "id": "tr-334-01-001", "answers": [ { "text": "2015年", "answer_start": 117, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2017年度の来訪者は何人でしたか?", "id": "tr-334-01-002", "answers": [ { "text": "約90万6000人", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "山頂から一望出来る湾は何ですか?", "id": "tr-334-01-003", "answers": [ { "text": "石狩湾", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "藻岩山の基盤を構成する地質は、650-300万年前、第三紀の中新世末から鮮新世に浅い海底に溶岩が噴出した際に形成された西野層と称される堆積岩であり、角閃石デイサイト質溶岩・貫入岩、ハイアロクラスタイト(水冷破砕岩)、安山岩質軽石凝灰岩、泥岩からなる。\nその後、280-230万年前にかけて、鮮新世末から第四紀の更新世初頭に起きた三度の噴火により安山岩質溶岩が噴出し、山体を作った。\n最も古い下部の藻岩溶岩3(軍艦岬溶岩)は「軍艦岬」と呼ばれる北尾根突端部に見られるが、山体の大部分は2度目の噴火による山頂付近から北側尾根にかけての藻岩溶岩2(藻岩山溶岩II)に覆われる。\n山頂から南側の尾根沿いには最も新しい藻岩溶岩1(藻岩山溶岩I)が認められる。", "qas": [ { "question": "西野層は何年前に形成されたの?", "id": "tr-334-02-000", "answers": [ { "text": "650-300万年前", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "更新世初頭に噴火は何度起こりましたか?", "id": "tr-334-02-001", "answers": [ { "text": "三度", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北尾根突端部の名称は何ですか?", "id": "tr-334-02-002", "answers": [ { "text": "「軍艦岬」", "answer_start": 211, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "藻岩山は後志山地の東端に位置する。\n藻岩山の山頂からは、崖錐状堆積物(山麓緩斜面堆積物)の見られる幅広い谷を挟んで、南東に向けて尾根が北側と南側に並んで延びる。\n藻岩山の北東面は直線状の斜面を形成し、豊平川扇状地面(札幌面)に接している。\n山麓に近いところが山鼻という地区で、その北方に札幌市中心部が発展している。\n市街にビルが立ち並ぶ以前に札幌の人々が馴染んだ藻岩山の姿は、この方面から見たものである。", "qas": [ { "question": "藻岩山はどこの東端に位置しているの?", "id": "tr-334-03-000", "answers": [ { "text": "後志山地", "answer_start": 4, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "北側の尾根は、札幌市街方面から見ると裾野が長く緩やかに延び、先端が岬のように急に落ちて見える。\nこの姿が軍艦の舳先の形に似ていたことから、北尾根の先端は明治時代より「軍艦岬」と呼ばれた。\n岬と呼ばれるが、崖下は海や湖ではなく山鼻川が流れている。\n南側の尾根の先端は「割栗岬(わりぐりみさき)」と呼ばれ、崖下を豊平川が流れる。\n2つの尾根に挟まれた浅い谷は藻岩下という地区で、山鼻川が流れ出る。\n軍艦岬から割栗岬に至るこの地は地形上古くから交通の要衝であり、1870年(明治3年)に東本願寺が「本願寺道路」(山鼻-八垂別〈はったりべつ、現在の川沿〉間「ハッタルベツ新道」)を開削した後、石山からの札幌軟石の輸送などにも使われた。\n現在は国道230号が通じている。", "qas": [ { "question": "「軍艦岬」という呼び名が生まれたのは何時代からですか?", "id": "tr-334-04-000", "answers": [ { "text": "明治時代", "answer_start": 76, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「軍艦岬」の崖下には何がありますか?", "id": "tr-334-04-001", "answers": [ { "text": "山鼻川", "answer_start": 112, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「割栗岬」の崖下には何がありますか?", "id": "tr-334-04-002", "answers": [ { "text": "豊平川", "answer_start": 154, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "現在の藻岩山は、アイヌ民族からアイヌ語で「インカルシペ(インカルシュペ)」(いつも登って見張りをするところ)と呼ばれていた。\nこの山はアイヌにとっての聖地であり、尊い神の山であった。\n山腹にはカムイシュネ(神の灯火)が灯るさまが眺められたという。\n山鳴りがするような時は、大吹雪や天然痘(疱瘡)の流行などの兆しとして警戒し、本当に天然痘の流行が始まればこの山に逃げ込み、神の加護を願った。\n江戸時代末期、松浦武四郎は、1859年(安政6年)の『後方羊蹄日誌』において、「エンガルシベ」は往古より深く信仰される山であり、ここに「蝦夷総鎮守の宮」を建てるよう意見を記している。", "qas": [ { "question": "アイヌにとっての聖地であった山とは?", "id": "tr-334-05-000", "answers": [ { "text": "藻岩山", "answer_start": 3, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『後方羊蹄日誌』を書いた人は誰?", "id": "tr-334-05-001", "answers": [ { "text": "松浦武四郎", "answer_start": 202, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「インカルシペ」の意味は?", "id": "tr-334-05-002", "answers": [ { "text": "いつも登って見張りをするところ", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "明治時代に入植した初期の和人たちは、インカルシペ山(インカルシペヌプリ)の意味および発音から、当初は「眺臨山」や「笑柯山(えんがるやま)」と称した。\nしかし、「モイワ」(小さな山)と呼ばれていた隣の小山に「円山」の字があてられると、「円山」はモイワやインカルシペのある山岳の総称ともなった。\nやがてモイワとインカルシペを取り違え、「インカルシペ」を藻岩山、「モイワ」を円山と呼び習わすようになり、そのまま地名として定着してしまった。", "qas": [ { "question": "アイヌ以外の日本人は何時代に北海道に入植したの?", "id": "tr-334-06-000", "answers": [ { "text": "明治時代", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「モイワ」の意味とは?", "id": "tr-334-06-001", "answers": [ { "text": "小さな山", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「モイワ」はどのような呼び名として地名となったの?", "id": "tr-334-06-002", "answers": [ { "text": "円山", "answer_start": 184, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "開拓使は1871年(明治4年)より7種(イチイ・ハリギリ・イヌエンジュ・ヤマグワ・トドマツ・カツラ・エゾヤマザクラ)の立木の伐採を禁じ、1873年(明治6年)に官林を定めると、藻岩山や円山は禁伐林として保護された。\nしかし、1882年(明治15年)の開拓使の廃止による三県一局時代を経て北海道庁(1886年〈明治19年〉-1887年〈明治20年〉)となると、樹木の伐採禁止は緩和され、針葉樹など一部が伐採されるようになる。\n明治時代中頃には南側で木材が伐採され、この藻岩山は札幌に近いこと、近くの豊平川を用いた水運が利用できることから、北の沢川から豊平川、創成川を経由して札幌まで流された。", "qas": [ { "question": "開拓使が立木の伐採を禁じた7種とはイチイ・ハリギリ・イヌエンジュ・トドマツ・カツラ・エゾヤマザクラともう1つは何?", "id": "tr-334-07-000", "answers": [ { "text": "ヤマグワ", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "開拓使はその後何という名前の機関になったの?", "id": "tr-334-07-001", "answers": [ { "text": "北海道庁", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1892年(明治25年)に来日したアメリカの植物学者サージェントは、札幌農学校出身で藻岩・円山を研究フィールドとした植物学者の宮部金吾の案内で藻岩山を訪れ、その狭い地域における植生の多様性を『日本森林植物誌』(英:“ForestfloraofJapan”、1894年)で世界的にも珍しいと紹介した。\nその後、明治時代末から大正時代初頭になると北海道の主な原始林の保存が検討され、北東斜面にあるシナノキ、ミズナラ、ダケカンバなどの広葉樹が生い茂る「藻岩原始林」が、1915年(大正4年)に北海道庁より原生天然保護林に指定された。\nその後、1921年(大正10年)3月3日、「円山原始林」とともに北海道で最初の天然記念物(史蹟名勝天然紀念物)に指定された。\n指定区域は284.7ヘクタール(284.68ha)の国有林であり、天然記念物になる以前、開拓使時代から伐採などの利用が禁止されてから今日まで、一度も人の手が入ったことのないという厳密な意味での原始林ではなく、原生林に近い天然林にあたる。\n1969年(昭和44年)11月、文部省と北海道教育委員会により「天然記念物藻岩山原始林」碑が、藻岩山山頂、ロープウェイ終点広場、慈恵会病院登山口に建立されている。\n南(南西)斜面の原生林は明治時代の数度の山火事により焼失し、天然記念物区域に指定されておらず、太平洋戦争後はスキー場などに利用された。", "qas": [ { "question": "天然記念物に指定された指定区域はどれくらいでしたか?", "id": "tr-334-08-000", "answers": [ { "text": "284.7ヘクタール", "answer_start": 332, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『日本森林植物誌』の著者は誰?", "id": "tr-334-08-001", "answers": [ { "text": "サージェント", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "藻岩山と共に天然記念物に指定されたものとは何?", "id": "tr-334-08-002", "answers": [ { "text": "「円山原始林」", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "山麓にある新善光寺の初代住職が、1885年(明治18年)に北海道新西国三十三番観音安置の許可を受けたことより、山道が開かれ、1886年(明治19年)、参道が整備されると、同年6月1日に山開き大祭がとり行なわれた。\n1901年(明治34年)には2代住職により、各所に西国三十三所観音霊場を模した33体の観音像が置かれ、山頂に石堂が造られた。\n以来、6月1日には「藻岩山山開き」として、信者が山頂に参拝する行事が毎年行われ、明治時代末頃には、山開きは札幌の年中行事として親しまれた。\n参道の幅は1932年(昭和7年)に拡張された。\nその後、石堂は観光施設建設のために山頂の別の場所に移設され、1973年(昭和48年)に六角堂として再建された後、山開き大祭108回となった1992年(平成4年)に本格的建築として落成し、今日の藻岩観音奥の院(正式名称「浄土宗観音寺藻岩観音奥之院」)になった。\n堂内には竜頭観音が安置されており、堂の傍らにある水かけ観音は、かつての石堂に安置された石像である。\n山頂に至る藻岩観音の参道は、今日の主要な藻岩山登山道(慈啓会病院前コース)となっている。", "qas": [ { "question": "「藻岩山山開き」は毎年いつ行われていますか?", "id": "tr-334-09-000", "answers": [ { "text": "6月1日", "answer_start": 173, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北海道新西国三十三番観音安置の許可を受けたのは何年?", "id": "tr-334-09-001", "answers": [ { "text": "1885年", "answer_start": 16, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1992年に山開き大祭は何回目を迎えましたか?", "id": "tr-334-09-002", "answers": [ { "text": "108回", "answer_start": 325, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "戦後占領期の1946年(昭和21年)に北東の山腹(ロープウェイ沿線の北側)を切り拓いた進駐軍専用の札幌スキー場が建設されるとともに、1947年(昭和22年)1月、長野県の志賀高原丸池スキー場と並んで日本初のスキーリフトが導入された。\n当時、宮部金吾およびその後の舘脇操が同地の保全を提唱した。\nそして、1958年(昭和33年)の第13回国民体育大会における使用を最後に、自然保護のため立ち入りが禁止されたことで、現在は植生がある程度回復しており、スキーリフトの台座などの遺構が残るのみである。", "qas": [ { "question": "北海道で初めてスキーリフトが導入されたのは何年でしたか?", "id": "tr-334-10-000", "answers": [ { "text": "1947年", "answer_start": 66, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "北海道以外で初めてスキーリフトが導入されたスキー場とはどこ?", "id": "tr-334-10-001", "answers": [ { "text": "志賀高原丸池スキー場", "answer_start": 85, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "北東側の山麓に近い標高178メートルの位置に、白い仏舎利塔(通称「平和の塔」、正式名称「札幌平和塔」)が建っている。\n太平洋戦争の犠牲者の冥福と世界・日本の平和を祈る目的で、日本山妙法寺の藤井日達の発願により、1959年(昭和34年)に建立され、その後、改装されている。\n高さ33メートル、基底幅28メートルである。\nインドのネール首相から贈られた仏舎利が安置されている。", "qas": [ { "question": "仏舎利塔の発願者は誰?", "id": "tr-334-11-000", "answers": [ { "text": "藤井日達", "answer_start": 94, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "仏舎利塔が建立されたのは何年?", "id": "tr-334-11-001", "answers": [ { "text": "1959年", "answer_start": 105, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "仏舎利塔の高さはどれくらいですか?", "id": "tr-334-11-002", "answers": [ { "text": "33メートル", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "仏舎利塔には誰から贈られた仏舎利が安置されているの?", "id": "tr-334-11-003", "answers": [ { "text": "ネール", "answer_start": 163, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この平和塔の南側の中腹(ロープウェイの沿線下付近)には、かつてエゾシカ園が設けられていたが、その後、「森永牧場」(1966年〈昭和41年〉森永乳業開設)と呼ばれる乳牛牧場となり、北海道の形状をした浅い池も存在していた。\n現在は撤去され、跡地は「はらっぱ」と呼ばれる広場になっている。\nまた、山麓の観光スポットとして「ちざきバラ園」があったが、2009年(平成21年)10月に閉園した。\n現在、同地にはローズガーデンクライスト教会(2010年〈平成22年〉6月完成)が建つ。", "qas": [ { "question": "森永牧場は元々何でしたか?", "id": "tr-334-12-000", "answers": [ { "text": "エゾシカ園", "answer_start": 31, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ちざきバラ園」の跡地には現在何が建っていますか?", "id": "tr-334-12-001", "answers": [ { "text": "ローズガーデンクライスト教会", "answer_start": 200, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ローズガーデンクライスト教会の場所には元々何がありましたか?", "id": "tr-334-12-002", "answers": [ { "text": "「ちざきバラ園」", "answer_start": 157, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ロープウェイ中腹駅の近隣にある藻岩山神社は、1987年(昭和62年)に建立されたもので、現在の中央区伏見の山麓に位置する札幌伏見稲荷神社の境外末社となる。\nオーストリア=ハンガリー帝国の軍人レルヒからスキーを学んだ学生数人が1912年(明治45年)3月に藻岩山スキー登山を決行したことが北海道の山スキーの発祥とされることから、伏見稲荷大神とともに、ウルの神(北欧神話のスキーの神)、レルヒの神(スキー術を伝授したレルヒ)、ブランデージの神(札幌オリンピック時の国際オリンピック委員会〈IOC〉会長)を祀り、藻岩山スキー客の無病息災と安全を祈願して建立された。\n2015年(平成27年)国勢調査によれば、行政町名としての「藻岩山」地域は、調査時点で人口0人である。", "qas": [ { "question": "藻岩山神社は何年に建立されたの?", "id": "tr-334-13-000", "answers": [ { "text": "1987年", "answer_start": 22, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北欧神話のスキーの神とは誰ですか?", "id": "tr-334-13-001", "answers": [ { "text": "ウル", "answer_start": 174, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本人にスキー術を伝授した人とは誰?", "id": "tr-334-13-002", "answers": [ { "text": "レルヒ", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "積雪は、札幌藻岩山スキー場の最上部では市街地に比べておよそ30センチメートル多い。\nまた、木々が芽吹く季節である4-5月は平均風速が大きく、それにより山頂や尾根沿いでは偏形樹(風衝樹形)が見られる。", "qas": [ { "question": "積雪が少ないのは藻岩山スキー場と市街地のどちらですか?", "id": "tr-334-14-000", "answers": [ { "text": "市街地", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "樹木は100種余り(高木41種、低木54種、つる植物12種、計107種)の数多くの樹種が認められる。\n冷温帯性の落葉広葉樹林が最も多く、伐採の影響が見られない北・東斜面などにはイタヤカエデ(エゾイタヤ)・シナノキ林が広がり、ミズナラやホオノキなどが多様に混生しており、山頂付近にはダケカンバ林が見られる。\n尾根沿いや伐採の影響より再生した二次林は若いミズナラ林となる。\n軍艦岬の沢沿いなどにはカツラ林がある。", "qas": [ { "question": "高木、低木、つる植物の中で最も種類が多いのは何ですか?", "id": "tr-334-15-000", "answers": [ { "text": "低木", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "高木、低木、つる植物の中で最も種類が少ないのは何ですか?", "id": "tr-334-15-001", "answers": [ { "text": "つる植物", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "藻岩山周辺の大型哺乳類としては、エゾシカのほかヒグマも挙げられる。\nリス類は、エゾリス、エゾシマリスのほかエゾモモンガが生息する。\nまた、エゾユキウサギも認められるが、キタキツネの増加により減少したといわれる。\nこのほか特定外来生物であるアライグマも定着・拡大している。\nネズミ類は、アカネズミ類であるヒメネズミ、ハントウアカネズミ(カラフトアカネズミ)、アカネズミ(エゾアカネズミ)、ヤチネズミ類のエゾヤチネズミが生息するほか、ヒメヤチネズミ(ミカドネズミ)も認められている。\nまた、ネズミとは別系統であるトガリネズミ類としてバイカルトガリネズミ(エゾトガリネズミ)、オオアシトガリネズミが生息する。", "qas": [ { "question": "エゾユキウサギが減少した原因となる動物は何?", "id": "tr-334-16-000", "answers": [ { "text": "キタキツネ", "answer_start": 84, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "藻岩山周辺に生息している大型哺乳類はエゾシカと何がいますか?", "id": "tr-334-16-001", "answers": [ { "text": "ヒグマ", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "藻岩山周辺に生息し始めた特定外来生物とは何?", "id": "tr-334-16-002", "answers": [ { "text": "アライグマ", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "鳥類は藻岩山・円山でほぼ同様に120種余りが認められ、夏鳥を含む繁殖期に種数および個体数が最大になる。\n特に天然記念物のクマゲラの繁殖例が有名であるが稀であり、減少が懸念されるヨタカやエゾライチョウも1980年(昭和55年)以降の記録としてあるが21世紀以降は不明である。\n留鳥としては、カラ類、キツツキ類、ヒヨドリ、シメ、カケス(ミヤマカケス)、猛禽類のフクロウ(エゾフクロウ)やタカ類などが生息する。\nまた、多くの夏鳥が繁殖するほか、渡り鳥の要地として多くの旅鳥も見られ、冬鳥としては、ツグミ、レンジャク類、アトリ類などが知られる。", "qas": [ { "question": "藻岩山・円山で確認されている鳥類の種類は?", "id": "tr-334-17-000", "answers": [ { "text": "120種余り", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "アヴィス王朝", "paragraphs": [ { "context": "アヴィス王朝は、ポルトガル王国の王朝であり、ポルトガル最初の王朝であるブルゴーニュ王朝に次いで、1385年から1580年までポルトガルを支配した。", "qas": [ { "question": "アヴィス王朝は、どの王国の王朝であるの?", "id": "tr-335-00-000", "answers": [ { "text": "ポルトガル王国", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポルトガルにおける2番目の王朝は、どの王朝ですか?", "id": "tr-335-00-001", "answers": [ { "text": "アヴィス王朝", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アヴィス王朝は、何年から何年までポルトガルに存在した王朝であるか?", "id": "tr-335-00-002", "answers": [ { "text": "1385年から1580年", "answer_start": 48, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブルゴーニュ王朝がポルトガルを支配していたのは、何年までだったか?", "id": "tr-335-00-003", "answers": [ { "text": "1385年", "answer_start": 48, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アヴィス王朝の創始者であるジョアン1世から最後の国王であるエンリケ1世に至る200年近くの期間のほとんどはポルトガルの「大航海時代」と重複する。エンリケ航海王子が実施したアフリカ大陸への進出、ヴァスコ・ダ・ガマのインド航路開拓によって、大西洋とインド洋にまたがる「ポルトガル海上帝国」が出現した。香料交易の衰退とともにポルトガルの国力は低下し、1580年にスペイン王フェリペ2世が空位となったポルトガル王位に就き、王朝は滅亡を迎える。", "qas": [ { "question": "アヴィス王朝の最初の国王は、誰なの?", "id": "tr-335-01-000", "answers": [ { "text": "ジョアン1世", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アヴィス王朝は、誰の時代からエンリケ1世の時代までのことをいいますか?", "id": "tr-335-01-001", "answers": [ { "text": "ジョアン1世", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポルトガルの国力に悪影響を及ぼしたのは、何の衰退だったか?", "id": "tr-335-01-002", "answers": [ { "text": "香料交易", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アヴィス王朝の滅亡時期は、何年だとされるか?", "id": "tr-335-01-003", "answers": [ { "text": "1580年", "answer_start": 172, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "13世紀のレコンキスタの達成後、ポルトガル社会は封建領主が支配する北部地域、富を蓄えた自治都市のブルジョアジーが影響力を行使する中部地域、騎士修道会が支配する南部地域に三分される。1348年秋に流行した黒死病によってポルトガルの総人口は約3分の2に減少し、リスボン、コインブラなどの都市部は深刻な被害を受ける。黒死病は零細農民の都市部への流入と農村部の人口の減少、黒死病を恐れる貴族や地主による教会・修道院への土地の寄進などの現象を引き起こし、固定地代に依存していた貴族層の経済力は低下する。他方、一部の都市ブルジョアジーはワイン、オリーブオイルなどの輸出によって利益を得るようになり、ポルトガル王はリスボン商人を初めとする新興資産家を政治基盤に取り込むために頻繁にコルテス(身分制議会)を開催し、相対的に王権が強化されていった。", "qas": [ { "question": "レコンキスタが行われたのは、何世紀のことなの?", "id": "tr-335-02-000", "answers": [ { "text": "13世紀", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "レコンキスタの達成後、ポルトガルは封建領主、ブルジョアジー、そしてどの勢力により三分されましたか?", "id": "tr-335-02-001", "answers": [ { "text": "騎士修道会", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポルトガルの総人口が約3分の2まで減少するほどの大きな影響を及ぼしたのは、何か?", "id": "tr-335-02-002", "answers": [ { "text": "黒死病", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポルトガル王が資産家たちを味方にし、究極的には王権強化を図るために、頻繁に開催したのは、何か?", "id": "tr-335-02-003", "answers": [ { "text": "コルテス", "answer_start": 333, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "黒死病の流行前からポルトガルと隣国のカスティーリャ王国の関係は悪化しており、ポルトガル王フェルナンド1世はカスティーリャ王国の王位継承権を主張して3度の戦争を実施するが、戦争はポルトガルの敗北に終わる。戦争の結果ポルトガルの国土は荒廃し、戦後の和約でカスティーリャ王フアン1世とフェルナンドのただ一人の子であるベアトリスの結婚が取り決められたため、ポルトガルがカスティーリャに併合される可能性が生じた。", "qas": [ { "question": "ポルトガルとカスティーリャ王国の間で3度に渡る王位継承戦争が勃発したのは、誰がカスティーリャ王国の王位継承を主張したからだったの?", "id": "tr-335-03-000", "answers": [ { "text": "フェルナンド1世", "answer_start": 44, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カスティーリャ王国の王位継承問題を巡った、ポルトガルとの3度に渡る戦争は、どの国の勝利で終わりましたか?", "id": "tr-335-03-001", "answers": [ { "text": "カスティーリャ王国", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "戦後の和約でフアン1世と結婚するようになったのは、誰か?", "id": "tr-335-03-002", "answers": [ { "text": "ベアトリス", "answer_start": 155, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フアン1世とベアトリスの結婚により、カスティーリャがポルトガルがをどうする可能性が生じたか?", "id": "tr-335-03-003", "answers": [ { "text": "併合", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1383年10月にフェルナンド1世が没した後、ベアトリスがポルトガル女王に即位し、大貴族メネゼス家出身の王妃でベアトリスの母であるレオノール・テレスが摂政となり、貴族らと共に専制政治が始まった。戦争に疲弊し、経済的に困窮する都市の下層民や職人層の反乱がベアトリスの即位前から各地で勃発し、都市下層民と一部の貴族はカスティーリャとの戦争で利益を得たレオノールとその寵臣であるオーレム伯アンデイロを悪政の元凶として敵視していた。", "qas": [ { "question": "フェルナンド1世が死去したのは、いつのことなの?", "id": "tr-335-04-000", "answers": [ { "text": "1383年10月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フェルナンド1世の後を継いだのは、誰ですか?", "id": "tr-335-04-001", "answers": [ { "text": "ベアトリス", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベアトリスはフェルナンド1世の娘であるが、それではフェルナンド1世の妻は誰か?", "id": "tr-335-04-002", "answers": [ { "text": "レオノール・テレス", "answer_start": 65, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1383年10月からポルトガル王国の実権を握ったのは、ベアトリスと誰か?", "id": "tr-335-04-003", "answers": [ { "text": "レオノール・テレス", "answer_start": 65, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1383年12月にフアン1世はレオノール派を援護するためにポルトガルに侵攻し、グアルダを占領した。ポルトガル王ペドロ1世、フェルナンド1世に仕えた大法官アルヴァロ・パイスはペドロ1世の庶子でアヴィス騎士団団長のジョアンを説得し、一部のリスボン市民と協力してアンデイロを殺害する。反乱軍はジョアンを「王国の統治者、防衛者」に奉じ、蜂起の知らせが全国に広がると各地で民衆の暴動が発生した。1384年1月にレオノールはサンタレンまで進軍したフアン1世にポルトガルの統治権を委譲し、ポルトガル国内は親カスティーリャ派の大貴族とアヴィス派の下層民・ブルジョアジー・中層貴族に分裂する。", "qas": [ { "question": "フアン1世がポルトガルを攻撃したのは、いつのことなの?", "id": "tr-335-05-000", "answers": [ { "text": "1383年12月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1383年12月にフアン1世がポルトガルを攻撃したのは、どの派を手助けするためでしたか?", "id": "tr-335-05-001", "answers": [ { "text": "レオノール派", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フアン1世による1383年12月のポルトガル侵攻で、最初に占領されたのは、どこか?", "id": "tr-335-05-002", "answers": [ { "text": "グアルダ", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical 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"question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジョアン1世がポルトガルの独立を果たしたのは、何年のことか?", "id": "tr-335-06-003", "answers": [ { "text": "1385年", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "カスティーリャ王国と対抗する政策上、ポルトガル王国はブルゴーニュ王朝以来のイングランド王国との同盟を強化し、イングランドとの同盟が外交の軸となる。1386年、ポルトガルとイングランドの間にウィンザー条約が締結され、ジョアン1世はイングランド王エドワード3世の孫娘フィリパと結婚した。", "qas": [ { "question": "カスティーリャ王国とイングランド王国のうち、ポルトガル王国はどの国と良い関係を保っていたの?", "id": "tr-335-07-000", "answers": [ { "text": "イングランド王国", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポルトガル王国において、イングランド王国との同盟が強化されたのは、どの王朝以来初めてでしたか?", "id": "tr-335-07-001", "answers": [ { "text": "ブルゴーニュ王朝", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウィンザー条約が締結されたのは、何年のことか?", "id": "tr-335-07-002", "answers": [ { "text": "1386年", "answer_start": 73, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジョアン1世とフィリパの結婚を決定した条約は、何年に結ばれた条約であるか?", "id": "tr-335-07-003", "answers": [ { "text": "1386年", "answer_start": 73, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1411年にジョアン1世は王位継承者である長男のドゥアルテを共同統治者とする。1387年にカスティーリャ王国と最初の休戦協定が結んだ後、1396年から1397年にかけて起きた小競り合いを経て数度休戦協定が結ばれ、1411年にカスティーリャ王国との間に和約が成立したことで隣国からの脅威が取り払われた。", "qas": [ { "question": "ジョアン1世とドゥアルテの共同統治体制が確立されたのは、何年のことなの?", "id": "tr-335-08-000", "answers": [ { "text": "1411年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1411年をもってポルトガル王国は、ジョアン1世と誰が共同で統治しましたか?", "id": "tr-335-08-001", "answers": [ { "text": "ドゥアルテ", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カスティーリャ王国との最初の休戦協定は、何年に締結されたか?", "id": "tr-335-08-002", "answers": [ { "text": "1387年", "answer_start": 39, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジョアン1世とドゥアルテの共同統治体制が確立されたのと同じ年度に成立された和約は、どの国との和約だったか?", "id": "tr-335-08-003", "answers": [ { "text": "カスティーリャ王国", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ブルゴーニュ王朝末期から続く経済危機、新興貴族の台頭という潜在的な危険に対して、ジョアン1世はヨーロッパへの金の供給元であるアフリカ大陸への進出という手段で解決を図った。当初はナスル朝が支配するグラナダが攻撃先に挙げられていたが、カスティーリャの感情を考慮して攻撃先はモロッコの港湾都市セウタに変更された。1415年にポルトガル軍はマリーン朝が支配するセウタを攻略し、ポルトガルは世界の一体化に行き着くヨーロッパ諸国の対外拡張政策の先陣を切る。カスティーリャなどの同時期の西欧諸国は内乱の火種を抱えていたが、アヴィス家の下で再編されたポルトガルは団結力を強め、他国に先んじて海外に進出することができたと考えられている。", "qas": [ { "question": "当時、グラナダはどの王朝が支配していましたか?", "id": "tr-335-09-000", "answers": [ { "text": "ナスル朝", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジョアン1世のアメリカ大陸のための進出先は、グラナダからどこへと変更されたか?", "id": "tr-335-09-001", "answers": [ { "text": "セウタ", "answer_start": 143, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジョアン1世のアメリカ大陸のための進出先が、グラナダからセウタへと変更されたのは、誰のことを心配したからであるか?", "id": "tr-335-09-002", "answers": [ { "text": "カスティーリャ", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ジョアン1世の跡を継いだドゥアルテ1世は、1437年にタンジールに十字軍を派遣するが遠征は失敗し、従軍していたアヴィス騎士団長ドン・フェルナンドが捕虜とされ、フェルナンドはモロッコのフェズで生涯を終える。西アフリカ方面では、1434年にポルトガル船がボジャドール岬の回航に成功し、アフリカ探索の展望が開かれる。エンリケと彼の支持者はドゥアルテ1世にモロッコでの新たな軍事行動を行うよう主張したが、彼らの意見は採用されず、1438年にドゥアルテ1世は没する。", "qas": [ { "question": "ジョアン1世の死後、ポルトガル王国の国王になったのは、誰なの?", "id": "tr-335-10-000", "answers": [ { "text": "ドゥアルテ1世", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "タンジールへの十字軍派遣は、何年のことですか?", "id": "tr-335-10-001", "answers": [ { "text": "1437年", "answer_start": 21, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポルトガル船がボジャドール岬の回航に成功したのは、何年のことか?", "id": "tr-335-10-002", "answers": [ { "text": "1434年", "answer_start": 112, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エンリケとドゥアルテ1世のうち、より早く死去したのは、誰か?", "id": "tr-335-10-003", "answers": [ { "text": "ドゥアルテ1世", "answer_start": 166, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ドゥアルテ1世の死後、わずか6歳のアフォンソ5世が即位し、アフォンソ5世の母レオノールが摂政を務めた。ドン・エンリケ、ドン・アフォンソら主戦派から支持を得ていたレオノールに対して、ドン・ペドロ、ドン・ジョアンがブルジョアジー、下層民の支持を背景にして反乱を起こした。ペドロがアフォンソにブラガンサ公爵の称号といくつかの特権を与える事で両派の間に妥協が成立し、ペドロは摂政として王国を統治するが、カスティーリャの干渉によって国情はより混迷する。ペドロが摂政の職を解かれた後、アフォンソ5世は叔父のアフォンソの助言を受け入れ始め、先の内戦で敗れたエンリケ、アフォンソらの主戦派が力を取り戻す。追い込まれたペドロは反乱を起こすが、1449年にリスボン近郊のアルファロベイラで戦死する。", "qas": [ { "question": "ドゥアルテ1世の死後、王国の実権を握ったのは、アフォンソ5世と誰だったの?", "id": "tr-335-11-000", "answers": [ { "text": "レオノール", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "レオノールは、どの派から支持を得ていましたか?", "id": "tr-335-11-001", "answers": [ { "text": "ドン・エンリケ、ドン・アフォンソら主戦派", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アフォンソ5世の母レオノールと対立していたのは、誰だったか?", "id": "tr-335-11-002", "answers": [ { "text": "ドン・ペドロ、ドン・ジョアン", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ペドロが死去したのは、何年のことか?", "id": "tr-335-11-003", "answers": [ { "text": "1449年", "answer_start": 312, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1474年にカスティーリャ王エンリケ4世が没した後、カスティーリャの一部の貴族はアフォンソ5世に姪であるカスティーリャ王女フアナとの結婚を条件にカスティーリャ王位の継承を提案し、カスティーリャはアフォンソ5世を支持する派閥とフェルナンド・イサベル1世のカトリック両王を支持する派閥に分かれて争った。カスティーリャ内部の王位継承戦争と共に、西アフリカ沿岸部におけるポルトガルとカスティーリャの競争は激化するが、1479年に締結されたアルカソヴァス条約によって西アフリカ沿岸部の領有地域が取り決められた。カスティーリャはカナリア諸島と対岸の地域を領有し、ポルトガルはその他の大西洋の島々とヴェルデ岬以南の沿岸部を獲得する。アフォンソ5世の王子ジョアンはインドを西アフリカでの商業的展開の目的地に定め、1481年にポルトガル王位に就いた後には西アフリカでの探検事業を推進した。", "qas": [ { "question": "エンリケ4世が死去したのは、何年のことなの?", "id": "tr-335-12-000", "answers": [ { "text": "1474年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アルカソヴァス条約が結ばれたのは、何年のことですか?", "id": "tr-335-12-001", "answers": [ { "text": "1479年", "answer_start": 204, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "クロアジモドキ", "paragraphs": [ { "context": "クロアジモドキ(学名:Parastromateusniger)はアジ科に属する海水魚であり、クロアジモドキ属(Parastromateus)を構成する唯一の種である。\n西日本の一部ではクロマナと呼ばれることもある。\n現在ではアジ科に属しているが、その分類を巡っては独特な形態のために長らく混乱があった。\nインド洋、太平洋西部の大陸棚でみられ、その分布域は西はアフリカ東海岸、東は日本やオーストラリア北部まで広がる。\n中型の種で、全長30cmくらいの個体がよくみられる。\n肉食魚であり、大きな群れをつくって行動する。\n漁業の対象として重要な種であり、東南アジアや中東などで刺し網、底引き網などによって漁獲される。\n食用魚としても美味である。", "qas": [ { "question": "クロナマの正式名称は何?", "id": "tr-336-00-000", "answers": [ { "text": "クロアジモドキ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "クロアジモドキは全長何cmくらいですか?", "id": "tr-336-00-001", "answers": [ { "text": "30cmくらい", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "スズキ目アジ科に属する約30ある属のうちのひとつである、クロアジモドキ属(Parastromateus)に属する唯一の種である。\n初記載は1795年、マルクス・エリエゼル・ブロッホによる。\n本種の外部形態は一見してマナガツオ科魚類に類似しているため、彼は本種をマナガツオ科のStromateus属に分類しStromateusnigerという学名を与えた。", "qas": [ { "question": "Stromateusnigerという学名を付けた人は誰?", "id": "tr-336-01-000", "answers": [ { "text": "マルクス・エリエゼル・ブロッホ", "answer_start": 75, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "本種によく似た外見である魚類は何?", "id": "tr-336-01-001", "answers": [ { "text": "マナガツオ科魚類", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種が初記載されたのは何年でしたか?", "id": "tr-336-01-002", "answers": [ { "text": "1795年", "answer_start": 69, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "初記載の後、本種の分類については長く混乱が続いた。\n1832年には、ジョルジュ・キュヴィエとアシル・ヴァランシエンヌが本種に独特ないくつかの特徴をみとめ、マナガツオ科にApolectus属という新たな属を創設して本種を模式種とした。\nその後1923年にこの属はデイビッド・スター・ジョーダンにより創設された新たな科Apolectidaeに移動されている。\nしかしながら、このキュヴィエとヴァラシエンヌによるApolectusという属名は、すでに1831年に現在のサワラ属(Scomberomorus)のシノニムとして先取されていたものであったことが判明した。\n1929年にこのことを指摘したMcCllochは、無効となった属名の代わりに、本種に対しFormio属という属名を与え、新科Formiidaeを創設した。", "qas": [ { "question": "Apolectidaeの創設者は誰?", "id": "tr-336-02-000", "answers": [ { "text": "デイビッド・スター・ジョーダン", "answer_start": 130, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "新科Formiidaeの創設者は誰ですか?", "id": "tr-336-02-001", "answers": [ { "text": "McClloch", "answer_start": 295, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本種がApolectidaeに移されたのは何年?", "id": "tr-336-02-002", "answers": [ { "text": "1923年", "answer_start": 120, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "一方、ピーター・ブリーカーは1864年にすでに本種を模式種として新属Parastromateus属(クロアジモドキ属)を創設していた(このことをジョーダンおよびMcCllochは認識していなかった)。\nここで、キュヴィエとヴァラシエンヌによる属名は前述のように無効となったため、本種に与えられた(無効でない)属名としてはブリーカーのParastromateusが最古で、国際動物命名規約に規定された先取権に基づく唯一の有効な属名ということになる。\n2015年現在では精密な解剖学的研究などの結果以下でも述べるようなアジ科に共通な特徴が本種に多数見つかったため、本種が属する単型のクロアジモドキ属(Parastromateus)をアジ科(Carangidae)に包含させる分類がFishBaseや多くの文献で認められている。\n本種の幼魚は、成魚との形態の差異が大きいためか独立に二度別種として記載されているが、そのいずれも現在では無効なシノニムとされている。", "qas": [ { "question": "Parastromateus属を新しく創設した人は誰?", "id": "tr-336-03-000", "answers": [ { "text": "ピーター・ブリーカー", "answer_start": 3, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "以上で述べたような理由から、本種の現在有効な学名はParastromateusnigerである。\n属名についてはギリシャ語で「近〜」「側〜」「副〜」という意味をもつ\"para\"を接頭辞としてつけることで、Stromateus属と類似する別属であることを表している。\n一方種小名はラテン語で「黒い」という意味である。\n和名の「クロアジモドキ」は田中茂穂が本種の内外の形質に基づいて命名したものとされ、明治末から昭和初期にかけて刊行された倉場富三郎の『日本西部及び南部魚類図譜』(グラバー図譜)にも、「くろあじもどき」の名で記載がみられる。\n日本での地方名として、長崎や福岡、下関で主に底引き網漁業の関係者が使用する「クロマナ」がある。\nこの呼称は本種の体型がマナガツオに似ており、また体色が黒いことに由来する。", "qas": [ { "question": "Parastromateusnigerの\"para′′とは何語か?", "id": "tr-336-04-000", "answers": [ { "text": "ギリシャ語", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "クロアジモドキと命名した日本人は誰?", "id": "tr-336-04-001", "answers": [ { "text": "田中茂穂", "answer_start": 171, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「クロナマ」の由来となった魚は何?", "id": "tr-336-04-002", "answers": [ { "text": "マナガツオ", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『日本西部及び南部魚類図鑑』を刊行した人は誰?", "id": "tr-336-04-003", "answers": [ { "text": "倉場富三郎", "answer_start": 217, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中型の種であり、最大で全長75cmに達した記録があるが、ふつうみられるのは全長30cmくらいの個体である。\n卵形で強く側偏した体型を持ち、体高は体長の半分以上と高い。\n一方、吻は短い。\n両顎の歯は小さく、口蓋骨、前鋤骨に歯は無い。\n背鰭には前方に4本から5本の棘からなる第一背鰭があるが、成魚では体内に埋め込まれ見えなくなる。", "qas": [ { "question": "本種の平均全長は何cm?", "id": "tr-336-05-000", "answers": [ { "text": "30cmくらい", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "記録上の最大全長は何cm?", "id": "tr-336-05-001", "answers": [ { "text": "75cm", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "棘が4本から5本ある部位はどこ?", "id": "tr-336-05-002", "answers": [ { "text": "第一背鰭", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第二背鰭は1棘、41-44軟条である。\n臀鰭も前方に2本の遊離棘があるが、成魚では体内に埋め込まれわずかな痕跡しか観察できない。\n遊離棘をのぞくと臀鰭は1棘、35-39軟条である。\n第二背鰭と臀鰭はほぼ相同形であり、前方部が伸長する。\n腹鰭は尾叉長10cm以上の個体では見られない。\n成魚の尾柄の左右側にはそれぞれ一本の隆起があるが、若い個体ではみられない。\n側線は前方部でごくわずかに湾曲し、側線直線部には8から16の稜鱗(アジ亜科に特有の鱗)が存在する。", "qas": [ { "question": "第二背鰭にはいくつの棘があるの?", "id": "tr-336-06-000", "answers": [ { "text": "1棘", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "臀鰭にある遊離棘は何本?", "id": "tr-336-06-001", "answers": [ { "text": "2本", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "凌鱗の数はいくつあるの?", "id": "tr-336-06-002", "answers": [ { "text": "8から16", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "椎骨数は24である。\n成魚の体色は背部では茶色、腹部では銀白色になる。\n臀鰭と背鰭の前方部は灰青色になる。\n他の鰭は黄色味を帯びる。\nしかしシンガポール沿岸で生きている個体を観察した報告によれば、生きている時の体色は死後と異なり全体が銀白色、腹部は白色で、鰓蓋後方の体側に4本の等間隔の白色の縞が存在するという。", "qas": [ { "question": "成魚のお腹部分は何色?", "id": "tr-336-07-000", "answers": [ { "text": "銀白色", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "成魚の背中部分は何色をしているの?", "id": "tr-336-07-001", "answers": [ { "text": "茶色", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "先に述べたように本種は外部形態上類似するマナガツオ科Stromateus属に分類されていたことがあった。\nその類似とは、体型の類似の他には、成魚の背鰭が1基である、つまりアジ科にみられる第一背鰭がないこと、腹鰭がないこと、臀鰭遊離棘がないことなどであった。\nしかし、幼魚においてはこれらの鰭、棘がすべて存在すること、また成魚にも痕跡的にみられることが確認されている。\n現在ではこれらの鰭、棘の存在や稜鱗の存在、椎骨数といったアジ科に特有の解剖学的特徴が多数確認されており、本種がアジ科に分類される根拠となっている。", "qas": [ { "question": "成魚の背鰭はいくつあるの?", "id": "tr-336-08-000", "answers": [ { "text": "1基", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "体長5.5mmほどの仔魚は菱形の体型であり、頭部長が体長のほぼ半分を占め腹鰭基部で最も体高が大きい。\n幼魚には暗色の横帯があり、長い腹鰭には黒色色素胞が発達する。\n体型に類似のみられる他のアジ科魚類(アイブリSeriolinanigrofasciataや、コバンアジ属Trachinotusの種など)の仔稚魚とは、腹鰭がきわめて前位であること、背鰭と臀鰭の軟条数が多いことなどで区別できる。", "qas": [ { "question": "仔魚の体型は?", "id": "tr-336-09-000", "answers": [ { "text": "菱形", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "仔魚の体長は?", "id": "tr-336-09-001", "answers": [ { "text": "5.5mmほど", "answer_start": 2, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "本種はインド洋、西太平洋に広く分布する。\nインド洋では、南アフリカ、ケニア、モザンビークといったアフリカ東海岸からアラビア海、ベンガル湾にかけて生息する。\n太平洋西部では中国や日本の南岸、インドネシア、フィリピン、オーストラリア北部などでみられる。\n特にインド西部やインドネシアで個体数が多い。\n日本においては稀種であるが、東シナ海をはじめとした南日本でみられる。\n青森県牛滝、そして新潟県や富山県、福井県、兵庫県、山口県などの日本海側でも捕獲された報告がある。", "qas": [ { "question": "本種の個体数が多い地域はインド西部とどこ?", "id": "tr-336-10-000", "answers": [ { "text": "インドネシア", "answer_start": 133, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "大陸棚でよく見られる。\n通常日中は泥海底近くに位置し、夜間には表層近くまで上がってくる。\nエスチュアリーに入ることもある。\n水深15mから105mから記録があるが、通常は水深15mから40mほどでみられる。\n東シナ海では水深55mから80mほどから漁獲され、特に60mから70mの範囲で多く漁獲される。\n漁獲時の水温は20°Cから23°Cほどで、中でも21°Cから23°Cの温度範囲で最も多い。\n成魚は漂泳性が強い一方、幼魚は主に底棲生活を送る。", "qas": [ { "question": "東シナ海で最も多く漁獲出来る水深の範囲とは?", "id": "tr-336-11-000", "answers": [ { "text": "60mから70m", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "底棲生活をするのは成魚と幼魚のどちら?", "id": "tr-336-11-001", "answers": [ { "text": "幼魚", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "最も漁獲量が多い時の水温範囲は?", "id": "tr-336-11-002", "answers": [ { "text": "21°Cから23°C", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種がよく見られる海底部分とはどこ?", "id": "tr-336-11-003", "answers": [ { "text": "大陸棚", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "肉食魚であり、歯が小さいために小型の甲殻類やクラゲ、底生生物などを捕食する。\nインド西岸で行われた研究では、大型の動物プランクトンを主に捕食していた。\n特にサルパが最も重要な捕食対象で、次いでエビ類が捕食対象としては多く、その他の甲殻類やクラゲ、コウイカ、多毛類もごくわずかに捕食していた。\n中でも大型個体はサルパを好み、小型の個体はそれよりもエビやシャコを好むという。\n一方クウェートで行われた研究では、カニのゾエアやカイアシ類を主に捕食し、魚の卵や鱗、植物プランクトンも捕食することが分かった。", "qas": [ { "question": "本種に最も多く捕食されている生物とは何?", "id": "tr-336-12-000", "answers": [ { "text": "サルパ", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2番目に多く捕食されている生物とは何?", "id": "tr-336-12-001", "answers": [ { "text": "エビ類", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "インド西岸での研究では、本種の主食は何だと判明しましたか?", "id": "tr-336-12-002", "answers": [ { "text": "大型の動物プランクトン", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サルパを好んで捕食するのは大型個体と小型個体のどちら?", "id": "tr-336-12-003", "answers": [ { "text": "大型個体", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "本種は何種かの寄生虫に寄生されることがある。\n1979年には、パキスタン、カラチ沖で捕獲された本種の腸から、線形動物門の新種の寄生虫が報告され、本種の属名に因んでRhabdochonaparastromateiと命名された。\nインド、パランギペーッタイ沖で行われた研究では、ワラジムシ目ウオノエ科の寄生虫、ウオノエ(Cymothoaeremita)が好んで本種の口腔に寄生すること、そして宿主であるクロアジモドキが大型であるほど寄生しているウオノエも大型であることが分かった。\n幼魚はクラゲのそばにいるのがみられることがある。", "qas": [ { "question": "Rhabdochonaparastromateiが発見されたのは何年だったの?", "id": "tr-336-13-000", "answers": [ { "text": "1979年", "answer_start": 23, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウオノエはどの部位に寄生するの?", "id": "tr-336-13-001", "answers": [ { "text": "口腔", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "Rhabdochonaparastromateiは本種のどこから見つかったの?", "id": "tr-336-13-002", "answers": [ { "text": "腸", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "本種の繁殖については産卵や性成熟の時期に関していくつかの研究がなされている。\n1965年にインド西部で行われた研究では、産卵期は7月から10月頃であるとされた。\nまた、産卵期より前にまずオスが産卵の行われる場所へ移動し、その後でメスがやって来て産卵期が開始すると考えられた。\n2003年から2005年にかけてクウェートで行われた卵巣の成熟に関する詳細な研究では、産卵期は2月から9月とより長く、また雌は同一産卵期に複数回産卵を行うことが分かった。\nメスは一腹に最小で2,132個、最大で2,001,648個の卵をもっていた。\nこの卵数はメスの全長と、卵巣を除いた体重に正比例していた。", "qas": [ { "question": "研究結果で産卵期の期間が長かったのは、インド西部とクウェートで行われた研究のどちらですか?", "id": "tr-336-14-000", "answers": [ { "text": "クウェート", "answer_start": 154, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "メスの最大産卵数は何個?", "id": "tr-336-14-001", "answers": [ { "text": "2,001,648個", "answer_start": 243, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クウェートでの研究結果では、産卵期は何月から始まると判明しましたか?", "id": "tr-336-14-002", "answers": [ { "text": "2月", "answer_start": 185, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "性成熟時の体長については研究によって見解にばらつきがある。\n例えば2008年のクウェートにおける研究では、オスは尾叉長17.5cm以上で、メスは尾叉長29cm以上で50%の個体が性成熟に達していたという。\n一方で2015年には、インド西部で漁獲された個体の体の化学組成に注目した研究から、性成熟に達する際の体長が雄で28cmから32cm、雌で25cmから30cmと推定された。\n本種の成長は早く、クウェート沖で調査がなされている魚類の中では、年成長率が最も高いという。", "qas": [ { "question": "オスの性成熟に達する体長が大きかったのは、クウェートとインド西部のどちらで行われた研究ですか?", "id": "tr-336-15-000", "answers": [ { "text": "インド西部", "answer_start": 114, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "インド西部での研究では、雌が性成熟に達する際の体長は何cmと推定されましたか?", "id": "tr-336-15-001", "answers": [ { "text": "25cmから30cm", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "インド西部での研究では、雄が性成熟に達する際の体長は何cmと推定されましたか?", "id": "tr-336-15-002", "answers": [ { "text": "28cmから32cm", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "性成熟時の体長に関する研究を早くから行っていたのはインド西部とクウェートのどちらですか?", "id": "tr-336-15-003", "answers": [ { "text": "クウェート", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "漁業の対象として重要な種である。\nFAOの統計によれば2013年には全世界で一年の間に75,257トン漁獲されている。\nその中でもインドネシアにおいて最も漁獲量が多く、57,288トンが漁獲されたという。\nその他イラン、マレーシア、タイ、パキスタンでも年間1,000トンを超える漁獲があった。\n東シナ海でも底引き網により年間数10トンから100トン前後漁獲がある。\nペルシア湾北部では刺し網による多魚種を対象にした漁業で漁獲され、本種の漁獲量は持続可能な水準で推移している。", "qas": [ { "question": "2013年に世界で漁獲された量はどれくらいでしたか?", "id": "tr-336-16-000", "answers": [ { "text": "75,257トン", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種の最も漁獲量が多い国はどこ?", "id": "tr-336-16-001", "answers": [ { "text": "インドネシア", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本種の年間漁獲量が多いのは、インドネシアとタイのどちらですか?", "id": "tr-336-16-002", "answers": [ { "text": "インドネシア", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "東シナ海で本種を漁獲する方法は何ですか?", "id": "tr-336-16-003", "answers": [ { "text": "底引き網", "answer_start": 153, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "クウェートでは年平均150トンの漁獲があるが、これはクウェートでの魚類の年間全漁獲量の3.1%を占める。\n本種の漁獲量は季節によって大きく変わり、4月から10月の漁獲量が全体の漁獲量のほとんどを占めるという。\n当地ではダウ船を用いた刺し網漁で漁獲されるほか、小型個体はエビを狙ったトロール漁で混獲されることがある。\n日本では稀だが釣りによっても捕獲されることがある。\n漁獲された個体は主に鮮魚で、少数は冷凍されて流通する。\n例としてシンガポールでは中程度の価格で取引され、生鮮市場での1kgあたりの売価はサイズによるものの8シンガポールドルから20シンガポールドルほどであるという(2009年時点)。\n肉は美味であり、各種惣菜にされる。", "qas": [ { "question": "クウェートでの本種の漁獲方法は何?", "id": "tr-336-17-000", "answers": [ { "text": "刺し網漁", "answer_start": 116, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クウェートでの本種の小型個体はどのような漁獲方法を使って獲っていますか?", "id": "tr-336-17-001", "answers": [ { "text": "トロール漁", "answer_start": 140, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "伊能忠敬", "paragraphs": [ { "context": "伊能忠敬(いのうただたか、延享2年1月11日(1745年2月11日)-文化15年4月13日(1818年5月17日))は、江戸時代の商人・天文学者・測量家である。\n通称は三郎右衛門、勘解由(かげゆ)。\n字は子斉、号は東河。\n寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)まで、17年をかけて日本全国を測量して『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。\n1883年(明治16年)、贈正四位。", "qas": [ { "question": "伊能忠敬は何年かけて日本全国を測量しましたか?", "id": "tr-337-00-000", "answers": [ { "text": "17年", "answer_start": 140, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『大日本沿海輿地全図』を完成させた人物は誰?", "id": "tr-337-00-001", "answers": [ { "text": "伊能忠敬", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "伊能忠敬が日本の測量を開始した年はいつ?", "id": "tr-337-00-002", "answers": [ { "text": "1800年", "answer_start": 117, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "延享2年(1745年)1月11日、上総国山辺郡小関村(現・千葉県山武郡九十九里町小関)の名主・小関五郎左衛門家で生まれた。\n幼名は三治郎。\n父親の神保貞恒は武射郡小堤村(現・横芝光町)にあった酒造家の次男で、小関家には婿入りした。\n三治郎のほかに男1人女1人の子がおり、三治郎は末子だった。\n6歳のとき母が亡くなり、家は叔父(母の弟)が継ぐことになった。\nそのため、婿養子だった父・貞恒は兄と姉を連れて実家の小堤村の神保家に戻るが、三治郎は祖父母のもとに残った。\n小関家での三治郎の生活状況については詳しく分かっていない。\n当時の小関村は鰯漁が盛んで、三治郎は漁具がしまってある納屋の番人をしていたと伝えられている。\n一方で、名主の家に残されていたということもあって、読み書きそろばんや、将来必要となるであろう教養も教え込まれていたのではないかとも考えられている。", "qas": [ { "question": "三治郎が生まれた地名は?", "id": "tr-337-01-000", "answers": [ { "text": "上総国山辺郡小関村", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "三治郎の父親名は?", "id": "tr-337-01-001", "answers": [ { "text": "神保貞恒", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "10歳のとき、三治郎は父のもとに引き取られた。\n神保家は父の兄である宗載(むねのり)が継いでいたため、父は当初そこで居候のような生活をしていたが、やがて分家として独立した。\n神保家での三治郎の様子についても文献が少なく、詳細は知られていない。\n三治郎は神保家には定住せず、親戚や知り合いのもとを転々としたと言われている。\n常陸の寺では半年間そろばんを習い、優れた才能を見せた。\nまた17歳くらいのとき、「佐忠太」と名乗り、土浦の医者に医学を教わった記録がある。\nただしここで習った医学の内容はあまり専門的なものではなく、余興の類だったといわれている。\n三治郎が流浪した理由について、研究家の大谷亮吉は、父親が新たに迎え入れた継母とそりが合わなかったこともあって、家にいづらくなったからだとしている。\nこのように、三治郎が周囲の環境に恵まれず不幸な少年時代を過ごしたとする説は昔から広く伝えられている。\nしかしこの見解に対しては、父や周辺の人物が三治郎のことを思って各地で教育を受けさせたのではないかという反論もある。", "qas": [ { "question": "三治郎が「佐忠太」と名乗ったのは、本人がいくつの時でしたか?", "id": "tr-337-02-000", "answers": [ { "text": "17歳くらい", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "三治郎の父方の伯父の名前は何ですか?", "id": "tr-337-02-001", "answers": [ { "text": "宗載", "answer_start": 34, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "三治郎が生まれる前の寛保2年(1742年)、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)にある酒造家の伊能三郎右衛門家(以下、伊能家と)では、当主の長由(ながよし)が、妻・タミと1歳の娘・ミチを残して亡くなった。\n長由の死後、伊能家は長由の兄が面倒を見ていたが、その兄も翌年亡くなった。\nそのため伊能家は親戚の手で家業を営むことになった。\nミチが14歳になったとき、伊能家の跡取りとなるような婿をもらったが、その婿も数年後に亡くなった。\nそのためミチは、ふたたび跡取りを見つけなければならなくなった。\n伊能家・神保家の両方の親戚である平山藤右衛門(タミの兄)は、土地改良工事の現場監督として三治郎を使ったところ、三治郎は若いながらもいい仕事ぶりを発揮した。\nそこで三治郎を伊能家の跡取りにと薦め、親族もこれを了解した。\n三治郎は形式的にいったん平山家の養子になり、平山家から伊能家へ婿入りさせる形でミチと結婚することになった。\nその際、大学頭の林鳳谷から、忠敬という名をもらった。\n宝暦12年(1762年)12月8日に忠敬とミチは婚礼を行い、忠敬は正式に伊能家を継いだ。\nこのとき忠敬は満17歳、ミチは21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子が1人いた。\n忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、のちに三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬とした。", "qas": [ { "question": "忠敬の結婚相手の名前は?", "id": "tr-337-03-000", "answers": [ { "text": "ミチ", "answer_start": 458, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "忠敬は何歳で結婚したの?", "id": "tr-337-03-001", "answers": [ { "text": "満17歳", "answer_start": 489, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "忠敬とミチはどちらが早く生まれたの?", "id": "tr-337-03-002", "answers": [ { "text": "ミチ", "answer_start": 494, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "忠敬が入婿した時代の佐原村は、利根川を利用した舟運の中継地として栄え、人口はおよそ5,000人という、関東でも有数の村であった。\n舟運を通じた江戸との交流も盛んで、物のほか人や情報も多く行き交じった。\nこのような佐原の土壌はのちの忠敬の活躍にも影響を与えたと考えられている。\n当時の佐原村は天領で、武士は1人も住んでおらず、村政は村民の自治によって決められることが多かった。\nその村民の中でも特に経済力が大きく、村全体に大きな発言権を持っていたのが永沢家と、忠敬が婿入りした伊能家であった。\n伊能家は酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいたほか、利根水運などにも関わっていたが、当主不在の時代が長く続いたために事業規模を縮小していた。\n他方、永沢家は事業を広げて名字帯刀を許される身分となり、伊能家と差をつけていた。\nそのため伊能家としては、家の再興のため、新当主の忠敬に期待するところが多かった。", "qas": [ { "question": "忠敬が結婚した当時の佐原村の人口は何人でしたか?", "id": "tr-337-04-000", "answers": [ { "text": "およそ5,000人", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "佐原村で大きな発言権を持っていたのは伊能家と何家でしたか?", "id": "tr-337-04-001", "answers": [ { "text": "永沢家", "answer_start": 224, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "忠敬が伊能家に来た翌年の1763年、長女のイネ(稲)が生まれた。\n同じ年、妻・ミチと前の夫との間に生まれた男子は亡くなった。\n3年後の明和3年(1766年)には長男の景敬が生まれた。\n忠敬は伊能家の主人という立場から、村民からの推薦で名主後見という立場に就いた。\nしかしそうはいっても忠敬はまだ若かったため、初めのうちは親戚である伊能豊明の力を借りることが多かった。\nこの時期の忠敬は病気になって長い間寝込んでいたこともあった。\n新主人として親戚づきあいなど気苦労も絶えなかったと推測されている。", "qas": [ { "question": "ミチの連れ子が亡くなった年はいつ?", "id": "tr-337-05-000", "answers": [ { "text": "1763年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イネの次に生まれた息子の名前は?", "id": "tr-337-05-001", "answers": [ { "text": "景敬", "answer_start": 83, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "明和6年(1769年)、佐原の村で祭りにかかわる騒動が起き、これは当時24歳の忠敬にとっても力量が試される事件となった。\n佐原の中心部は小野川を境に大きく本宿と新宿に分かれ、祭りはそれぞれ年に1回ずつ行われる。\n伊能家と永沢家のある本宿の祭礼は牛頭天王(ごずてんのう)の祭礼(祇園祭)で、当時は毎年6月に行われていた。\n祭りのときは各町が所有する趣向を凝らした山車が引き回される。\nところが明和3年(1766年)以来、佐原村は不作続きで、農民も商人も困窮していた。\nそこで佐原村本宿の村役人3人は話し合い、今年は倹約を心がけ、豪華な山車の飾りものは慎むことに決め、町内にもそのように通達した。\nしかしその通達にもかかわらず、各町内はいつものように飾りものの準備を始めた。\nそのうえ、山車を引き回す順番についても、双方の町が一番に出すと言い出し、収拾のつかない状態で祭りの当日を迎えることになった。\nこのまま祭りが始まると大騒動に発展すると判断した村役人たちは、「今年は山車を出さない」と決定した。\nこのときに各町を説得しに回ったのが、名主後見という立場にいた永沢家の永沢治郎右衛門と、伊能家の忠敬であった。", "qas": [ { "question": "佐原村の中心部に流れる川の名前は何?", "id": "tr-337-06-000", "answers": [ { "text": "小野川", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "佐原村本宿は大きく、本宿組と浜宿組に分かれていた。\n忠敬と永沢は分担して、忠敬は本宿組の各町を、永沢は浜宿組の各町を説得し、ようやく各町の同意を取りつけた。\nところが祭礼2日目、永沢家が説得したはずの浜宿組において禁が破られ、山車が引き回されるという事態が発生した。\n本宿組の町民はさっそく忠敬を問い詰め、忠敬も永沢家におもむき責任を追及した。\nしかし本宿組の担当者はそれだけでは納得がいかず、浜宿組が出したのだからこちらも山車を出すと強硬に主張した。\n忠敬は、このままでは大きな争いになるのは必至で、町内に申し訳が立たないと感じたため、伊能家は永沢家と「義絶」すると宣言した。\n義絶とはどのような状態なのかは詳しく分かっていないが、伊能家は永沢家と今後一切の付き合いをなくすという意味であると推定される。\nこれにより、各町は山車を出すことをようやく取りやめた。\nとはいえ佐原で「両家」と言われ、富と名声を持っていた2つの家の義絶は村にとってもよくないと考えられたため、仲介によって、同年に両家は和解することとなった。", "qas": [ { "question": "本宿組の各町を説得に回ったのは誰?", "id": "tr-337-07-000", "answers": [ { "text": "忠敬", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "祭礼騒動が起こった年の7月、忠敬とミチとの間に次女・シノ(篠)が生まれた。\nさらに同じ年、忠敬は江戸に薪問屋を出したが、翌年に火事にあい、薪7万駄を焼くという損害を出してしまった。\nこのころ、幕府では田沼意次が強い力を持つようになっていった。\n田沼は幕府の収入を増やすため、利根川流域などに公認の河岸問屋を設け、そこから運上金を徴収する政策を実行した。\nそして明和8年(1771年)11月、佐原村も、河岸運上を吟味するため、名主・組頭・百姓代は出頭するよう通告された。\n河岸問屋が公認されると運上金を支払わなければならなくなる。\nそのため佐原の商人や船主は公認に乗り気でなかった。\nそこで名主4人が江戸の勘定奉公所へ行き、「佐原は利根川から十四、五町も離れていて、河岸問屋もないから、運上は免除願いたい」と申し出た。\nしかしこの願いは奉公所にまったく聞き入れられず、それならば佐原には河岸運送をすることは認めないと言われることとなった。\nこれを受けて佐原村ではふたたび話し合いを行い、その結果、今まで河岸運送に大きく関わってきた永沢治郎右衛門、伊能茂左衛門、伊能権之丞、そして忠敬の4人が河岸問屋を引き受けることになった。\nところがその数日後、永沢治郎右衛門と伊能権之丞は突然辞退したため、結局、引き受けるのは伊能茂左衛門と忠敬の2人だけになった。", "qas": [ { "question": "河岸問屋を辞退した永沢家の人物とは誰?", "id": "tr-337-08-000", "answers": [ { "text": "永沢治郎右衛門", "answer_start": 522, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "河岸の一件が片づくと、忠敬は比較的安定した生活を送った。\n安永3年(1774年)、忠敬29歳のときの伊能家の収益は以下のようになっている。\n酒造の収益は163両3分、田徳の収益は95両、倉敷・店賃の収益は30両、舟利の収益は23両2分、薪木の収益は37両3分、炭の収益は1両1分、合計351両1分である。", "qas": [ { "question": "安永3年当時の伊能家の収益中、最も利益を上げていたのは何でしたか?", "id": "tr-337-09-000", "answers": [ { "text": "酒造", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "安永3年当時の伊能家の収益中、最も利益が少なかったものは何?", "id": "tr-337-09-001", "answers": [ { "text": "炭", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "安永7年(1778年)には、妻・ミチと奥州旅行へ出かけた。\nこれは忠敬にとって、妻と一緒に行った唯一の旅行となった。\n同じ年、これまで天領だった佐原村は、旗本の津田氏の知行地となった。\n忠敬は名主や村の有力者と、江戸にある津田氏の屋敷にあいさつに出向いた。\nそのとき、名主5人と永沢治郎右衛門は麻の裃を着用していたのに対し、忠敬は裃の着用を許されず、屋敷内で座る場所も差をつけられた。\nこれは永沢が名字帯刀を許された身分だったためであるが、商いが順調なのに相変わらず永沢家と身分に差をつけられていることに悔しさを感じた忠敬は、永沢に対抗心を燃やすようになった。\nしかし、そのうちに忠敬の待遇も上がり、天明元年(1781年)、名主の藤左衛門が死去すると、代わりに忠敬が36歳で名主となった。", "qas": [ { "question": "忠敬夫妻の旅行先はどこでしたか?", "id": "tr-337-10-000", "answers": [ { "text": "奥州", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "忠敬の前の名主は誰でしたか?", "id": "tr-337-10-001", "answers": [ { "text": "藤左衛門", "answer_start": 315, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "天明3年(1783年)、浅間山の噴火などにともなって天明の大飢饉が発生し、佐原村もこの年、米が不作となった。\n忠敬はほかの名主らとともに地頭所に出頭し、年貢についての配慮を願い出た。\nその結果、この年の年貢は全額免除となり、さらに、「御救金」として100両が下された。\nまた、同じ年の冬になってから行われた利根川の堤防に関する国役普請では、普請掛りを命じられた。\n忠敬は堤防工事を指揮するとともに、工材を安く買い入れることで、工事費の節約の面でも手腕を発揮した。\n一方その頃、妻・ミチは重い病にかかり、同じ年の暮れに42歳で亡くなった。\n地頭の津田氏は前述のように佐原村の年貢を免除していたが、一方で伊能家や永沢家にたびたび金の無心をしていた。\nそのため、両家は地頭に対して多くの貸金を持つようになり、地頭所や村民に対し、よりいっそうの発言力を持つようになった。\nそして忠敬は、天明3年(1783年)9月には津田氏から名字帯刀を許されるようになり、さらには天明4年(1784年)、名主の役を免ぜられ、新たに村方後見の役を命じられた。\n村方後見は名主を監視する権限を持っており、これは永沢治郎右衛門も就いている役である。\nこうして忠敬は、永沢とほぼ同格の扱いを受けることができた。", "qas": [ { "question": "忠敬が永沢治郎右衛門とほぼ同格の扱いを受けるようになれたのはいつから?", "id": "tr-337-11-000", "answers": [ { "text": "1784年", "answer_start": 433, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミチが亡くなったのは何年?", "id": "tr-337-11-001", "answers": [ { "text": "1783年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "天明3年に噴火した山は何?", "id": "tr-337-11-002", "answers": [ { "text": "浅間山", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "浅間山の噴火以降、佐原村では毎年不作が続いていた。\n天明5年(1785年)、忠敬は米の値上がりを見越して関西方面から大量の米を買い入れた。\nしかし米相場は翌年の春から夏にかけて下がり続け、伊能家は多額の損失を抱えた。\n周囲からは、今のうちに米を売り払って、これ以上の損を防いだ方がよいと忠告されたが、忠敬は、あえて米をまったく売らないことにした。\n忠敬は、もしこのまま米価が下がり続けて大損したら、そのときは本宅は貸地にして、裏の畑に家を建てて10年間質素に暮らしながら借金を返していこうと思っていたが、その年の7月、利根川の大洪水によって佐原村の農業は大損害を受け、農民は日々の暮らしにも困るようになった。\n忠敬は村の有力者と相談しながら、身銭を切って米や金銭を分け与えるなど、貧民救済に取り組んだ。\n各地区で、特に貧困で暮らすにもままならない者を調べ上げてもらい、そのような人には特に重点的に施しを与えた。\nまた、ほかの村から流れ込んできた浮浪人には、一人につき一日一文を与えた。\n質屋にも金を融通し、村人が質入れしやすくするようにした。\n翌年もこうした取り組みを続け、村やその周辺の住民に米を安い金額で売り続けた。\nこのような活動によって、佐原村からは一人の餓死者も出なかったという。", "qas": [ { "question": "天明の大飢饉の中、忠敬が取り組んだこととは何?", "id": "tr-337-12-000", "answers": [ { "text": "貧民救済", "answer_start": 340, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "妻・ミチが死去してから間もなく、忠敬は内縁で2人目の妻を迎えた。\nこの妻については詳しいことは分かっておらず、名前も定かではない。\n天明6年(1786年)に次男・秀蔵、天明8年(1788年)に三男・順次、寛政元年(1789年)に三女・コト(琴)が生まれ、妻は寛政2年(1790年)に26歳で死去した。\n一方、最初の妻・ミチとの間に生まれた次女・シノも、天明8年に19歳で死去した。\n寛政2年、忠敬は仙台藩医である桑原隆朝の娘・ノブを新たな妻として迎え入れた。\nこのころ、長女のイネはすでに結婚して江戸に移っており、長男・景敬は成年を迎えていた。\n忠敬は、景敬に家督を譲り、自分は隠居して新たな人生を歩みたいと思うようになっていった。\nそして寛政2年、地頭所に隠居を願い出た。\nしかし地頭の津田氏はこの願いを受け入れなかった。\nこれは、当時の津田氏は代替わりしたばかりのころだったため、まだ村方後見として忠敬の力を必要としていたからである。\n地頭所には断られたが、忠敬の隠居への思いはなお強かった。\nこのとき忠敬が興味を持っていたのは、暦学であった。\n忠敬は江戸や京都から暦学の本を取り寄せて勉強したり、天体観測を行ったりして日々を過ごし、店の仕事は実質的に景敬に任せるようにした。", "qas": [ { "question": "忠敬の2人目の妻は何歳で亡くなりましたか?", "id": "tr-337-13-000", "answers": [ { "text": "26歳", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "忠敬が隠居を願っていた時に関心を持っていた学問分野は何でしたか?", "id": "tr-337-13-001", "answers": [ { "text": "暦学", "answer_start": 467, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "忠敬は誰に家督を譲ろうとしていましたか?", "id": "tr-337-13-002", "answers": [ { "text": "景敬", "answer_start": 277, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "忠敬の3人目の妻の名前は?", "id": "tr-337-13-003", "answers": [ { "text": "ノブ", "answer_start": 213, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "寛政4年(1792年)、忠敬は、これまで地頭所に金銭を用立てすることによって財政的に貢献したという理由で、地頭所から三人扶持を与えられた。\nただしこれは、忠敬にまだ隠居してほしくないという地頭所の思惑も含まれていたと考えられている。\n翌寛政5年(1793年)には、久保木清淵らとともに、3か月にわたって関西方面への旅に出かけた。\n忠敬はこの旅についての旅行記を残している。\nそしてそこには、各地で測った方位角や、天体観測で求めた緯度などが記されており、測量への関心がうかがえる。\nまた、久保木も『西遊日記』と呼ばれる旅行記を残している。\n寛政6年(1794年)、忠敬はふたたび隠居の願いを出し、地頭所は12月にようやくこれを受け入れた。\n忠敬は家督を長男の景敬に譲り、通称を勘解由(伊能家が代々使っていた隠居名)と改め、江戸で暦学の勉強をするための準備にとりかかった。\nそのさなかの寛政7年(1795年)、妻・ノブは難産が原因で亡くなった。\nなお、寛政6年に佐原の橋本町(現・本橋元町)の惣代より村役人および村方後見である伊能三郎右衛門宛てに町内への便所の設置を求める願書が出されており、ここに登場する三郎右衛門は忠敬から家督を譲られた景敬であるとされている。\nちなみに、現在の本橋元町にある公衆便所がこのとき設置された便所の後身に当たるという。", "qas": [ { "question": "『西遊日記』の著者の氏名は?", "id": "tr-337-14-000", "answers": [ { "text": "久保木清淵", "answer_start": 132, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "久保木清淵との関西方面への旅行期間はどれくらいありましたか?", "id": "tr-337-14-001", "answers": [ { "text": "3か月", "answer_start": 143, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ノブの死因は何でしたか?", "id": "tr-337-14-002", "answers": [ { "text": "難産", "answer_start": 408, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "隠居して、忠敬は江戸の地で何を勉強しようと考えていましたか?", "id": "tr-337-14-003", "answers": [ { "text": "暦学", "answer_start": 363, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "安永3年(1774年)の目録と比較すると、忠敬は伊能家を再興し、かなりの財産を築いたことが分かる。\nこのときの伊能家の資産については正確な数字は明らかでないが、寛政12年に村人が「3万両ぐらいだろう」と答えた記録が残っている。\nこの資産は30億-35億円程に相当する。", "qas": [ { "question": "3万両は現代ではいくらに相当しますか?", "id": "tr-337-15-000", "answers": [ { "text": "30億-35億円程", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ただし、伊能家の状況は必ずしも順風満帆ではなかったとする説もある。\n伊能家(三郎右衛門家)が得意としてきた酒造業の実績を示す酒造高は天明の大飢饉後の天明8年(1788年)には1480石を誇っていたが、享和3年(1803年)には600石に減少しており、忠敬没後の天保10年(1839年)には株仲間の記録に伊能家の名前は存在していない、すなわち廃業状態にあったことを示している。\nこれは伊能家だけではなく、競合する永沢家も含めて天明期の仲間35家のうち22家が天保期に姿を消し、代わりに天明期に存在が確認できなかった14家の新興酒造家が名前を連ねている状況から、江戸幕府の度重なる酒株政策の変更に伊能家を含めた旧来の酒造家が対応しきれなかったことが背景にあるとみられている。\nまた、貨幣経済の浸透は旗本などの中小領主たちに先納金・御用金・領主貸などの手段による貨幣の確保に向かわせることになった。\n先納金は年貢米を貨幣で前借することであるが、実際には貨幣による年貢徴収の口実とされて結果的には年貢米の輸送減少をもたらし、御用金や領主貸は伊能家のような地方商人への負担となった。\nまた、農村の疲弊は伊能家から村単位への貸付の増加になって現れており、その中にはこれらの村が御用金や先納金を納めるための貸付もあったとみられている。\nさらに伊能家の土地所持高を見ると、享保5年(1720年)には52石7斗あまりだったのが、忠敬の相続後である明和3年(1766年)には84石1斗あまり、隠居後の享和2年(1802年)には145石1斗あまりと、忠敬当主時代に急激に増加しているのである。\nこれは金融業における質流れの増加とともに忠敬が酒造や輸送業に限界を感じ、土地の集積へと軸足を移そうとしていたことの表れとされる。\n実際に隠居後の忠敬が佐原に送った書状には「店賃と田の収益ばかりになっても仕方がない」「もし、古酒の勘定もよくなく、未回収金が過分になったら酒造も見合わせてやめるように」などと記しており、特に後継者であった景敬が没した文化9年(1812年)以降には、酒造業や運送業、領主貸を縮小する意向を示している。\nしかし、地主としての土地経営も小作人となった農民との衝突を招くなど困難な状況が続いており、忠敬隠居後の文化年間に入ると土地集積の対象を山林にも広げている。", "qas": [ { "question": "伊能家の酒造石は、1788年と1803年を比較するとどちらの年が少ないですか?", "id": "tr-337-16-000", "answers": [ { "text": "1803年", "answer_start": 105, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "伊能家の土地所持高は、享保5年、明和3年、享和2年の中でどの年が最も多いですか?", "id": "tr-337-16-001", "answers": [ { "text": "享和2年", "answer_start": 640, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1720年、1766年の伊能家の土地所持高を比較すると、どちらの年が少ないですか?", "id": "tr-337-16-002", "answers": [ { "text": "1720年", "answer_start": 583, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "佐原の町は昔から大雨が降ると利根川堤防が決壊し、大きな被害を受けていた。\nいったん洪水が起きてしまうと田畑の形が変わってしまうため、測量して境界線を引き直さなければならない。\n忠敬は江戸に出る前から測量や地図作成の技術をある程度身につけていたが、それはこうした地で名主などの重要な役に就いていたという経験によるところが大きい。\nさらに、前述したように、祖先の伊能景利は隠居してから膨大な記録をまとめるという仕事に取り組み、また、忠敬の家から川を挟んで向かい側に住んでいた楫取魚彦も、隠居後に江戸へ出て国学者・歌人として活動した。\n忠敬もこの2人の生き方から大きな影響を受けたと考えられている。", "qas": [ { "question": "忠敬の人生に大きな影響を与えたとされる国学者は誰?", "id": "tr-337-17-000", "answers": [ { "text": "楫取魚彦", "answer_start": 235, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "佐原の町が昔から受けていた水害は、どこの川が関係していますか?", "id": "tr-337-17-001", "answers": [ { "text": "利根川", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "寛政7年(1795年)、50歳の忠敬は江戸へ行き、深川黒江町に家を構えた。\nちょうどそのころ、江戸では今まで使われていた暦を改める動きが起こっていた。\n当時の日本は宝暦4年(1754年)に作られた宝暦暦が使われていたが、この暦は日食や月食の予報をたびたび外していたため、評判が悪かった。\nそこで幕府は松平信明、堀田正敦を中心として、改暦に取り組んだ。\nしかし幕府の天文方には改暦作業を行えるような優れた人材がいなかったため、民間で特に高い評価を受けていた麻田剛立一門の高橋至時と間重富に任務にあたらせることにした。\n至時は寛政7年(1795年)4月、重富は同年6月に出府した。", "qas": [ { "question": "忠敬が江戸に出て来た当時の年齢は?", "id": "tr-337-18-000", "answers": [ { "text": "50歳", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1754年に作られた日本の暦とは?", "id": "tr-337-18-001", "answers": [ { "text": "宝暦暦", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "寛政7年当時に日本で使用されていた暦とは何?", "id": "tr-337-18-002", "answers": [ { "text": "宝暦暦", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "忠敬が江戸に出たのは同年の5月のため、2人の出府と時期が重なる。\n改暦の動きは秘密裏に行われていたが、この時期の符合から、忠敬は事前に2人が江戸に来ることを知っていたとも考えられている。\nその情報元として、渡辺一郎は、忠敬の3人目の妻・ノブの父親である桑原隆朝を挙げている。\n桑原は改暦を推し進めていた堀田正敦と強いつながりがあった。\nそのため桑原は、堀田から聞いた改暦の話を忠敬に伝えていたのではないかという説がある。", "qas": [ { "question": "渡辺一郎によると、改暦の話を忠敬に伝えたのは誰だったの?", "id": "tr-337-19-000", "answers": [ { "text": "桑原隆朝", "answer_start": 126, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "同年、忠敬は高橋至時の弟子となった。\n50歳の忠敬に対し、師匠の至時は31歳だった。\n弟子入りしたきっかけについては、昔の中国の暦『授時暦』が実際の天文現象と合わないことに気づいた忠敬がその理由を江戸の学者たちに質問したが誰も答えられず、唯一回答できたのが至時だったからだという話が伝えられている。\nそして至時に必死に懇願して入門を認めさせたとのことであるが、至時が多忙な改暦作業のなかで入門を許した理由についても、渡辺は、桑原と堀田正敦の影響を指摘している。\n一方で今野武雄は、麻田剛立の弟子で大名貸の升屋小右衛門とのつながりを推測している。", "qas": [ { "question": "忠敬が弟子入りした学者は誰でしたか?", "id": "tr-337-20-000", "answers": [ { "text": "高橋至時", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "忠敬が弟子入りした時の高橋至時の年齢は?", "id": "tr-337-20-001", "answers": [ { "text": "31歳", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "弟子入りした忠敬は、19歳年下の師・至時に師弟の礼をとり、熱心に勉学に励んだ。\n忠敬は寝る間を惜しみ天体観測や測量の勉強をしていたため、「推歩先生」(推歩とは暦学のこと)というあだ名で呼ばれていた。\n至時は弟子に対しては、まずは古くからの暦法『授時暦』で基礎を学ばせ、次にティコ・ブラーエなどの西洋の天文学を取り入れている『暦象考成上下編』、さらに続けて、ケプラーの理論を取り入れた『暦象考成後編』と、順を追って学ばせることにしていた。\nしかし忠敬は、すでに『授時暦』についてはある程度の知識があったため、『授時暦』と『暦象考成上下編』は短期間で理解できるようになった。\n寛政8年(1796年)9月からおよそ1年半の間、至時は改暦作業のため京都に行くことになり、その間は間重富が指導についた。\n同年11月に重富から至時に宛てた手紙の中では、「伊能も後編の推歩がそろそろ出来候。月食も出来候」と記されており、すでに『暦象考成後編』を学んでいたことが分かる。", "qas": [ { "question": "熱心に暦学を学んだ忠敬のニックネームは何でしたか?", "id": "tr-337-21-000", "answers": [ { "text": "「推歩先生」", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "至時は弟子に対して、『授時暦』の次に何を学ばせていましたか?", "id": "tr-337-21-001", "answers": [ { "text": "『暦象考成上下編』", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "至時の留守中に、忠敬を指導した人は誰ですか?", "id": "tr-337-21-002", "answers": [ { "text": "間重富", "answer_start": 335, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ヨハネの手紙三", "paragraphs": [ { "context": "『ヨハネの手紙三』(ヨハネのてがみさん)は新約聖書の正典を構成する27文書の一つで、公同書簡に分類される3通のヨハネ書簡の最後のものである。\nガイオという人物に宛てて、他のキリスト教徒を受け入れ、親切にすることを説いたこの書簡は15節しかなく、旧約・新約聖書の中でも短さの点で一、二を争う。\n1世紀後半から2世紀初め頃に成立したと考えられているが、その短さや教理的要素の少なさもあって、キリスト教文献での直接的言及は3世紀まで見られず、正典と広く承認されるまでに時間を要した。", "qas": [ { "question": "3通のヨハネ書簡の3番目にあたるものを何と言いますか?", "id": "tr-338-00-000", "answers": [ { "text": "『ヨハネの手紙三』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヨハネ書簡は全部で何通あるの?", "id": "tr-338-00-001", "answers": [ { "text": "3通", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ヨハネの手紙三』は誰に宛てられた手紙なの?", "id": "tr-338-00-002", "answers": [ { "text": "ガイオ", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "旧約・新約聖書の中でも短さの点で一、二を争う『ヨハネの手紙三』は何節から成っている?", "id": "tr-338-00-003", "answers": [ { "text": "15節", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "定評あるギリシア語校訂版のネストレ・アーラント28版での題名はΙΩΑΝΝΟΥΕΠΙΣΤΟΛΗΤΡΙΤΗである。\n『ヨハネの手紙三』という呼称は新共同訳聖書によるもので、カール・ギュツラフによる最初の日本語訳『約翰下書』以来、様々な題名で呼ばれてきた。\n何らかの団体によって訳された聖書(およびそれと訳名が一致する個人訳)での名称としては、『ヨハネの第三の書』(大正改訳)、『ヨハネの第三の手紙』(口語訳、バルバロ訳、フランシスコ会訳、岩波委員会訳)、『ヨハンネスの手紙III』(共同訳)、『ヨハネの手紙第三』(新改訳、塚本虎二訳)、『イオアンの第三書』(日本正教会訳)などがある。\n以下では便宜上、第三ヨハネ書ないし第三書と略す。\nほか2つのヨハネ書簡の略し方もこれに準ずる。", "qas": [ { "question": "『ヨハネの手紙三』は日本では一番初めに何と約された?", "id": "tr-338-01-000", "answers": [ { "text": "『約翰下書』", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ヨハネの手紙三』を『約翰下書』と訳した人物の名は?", "id": "tr-338-01-001", "answers": [ { "text": "カール・ギュツラフ", "answer_start": 84, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ヨハネの手紙三』を最も多くの団体が共通に訳したのは何?", "id": "tr-338-01-002", "answers": [ { "text": "『ヨハネの第三の手紙』", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "公同書簡は本来、公同の教会に宛てて書かれたことからその名があるが、第三ヨハネ書は著者自らが「長老」と名乗り、ガイオという個人に宛ててこの手紙を書いている。\n便宜上は公同書簡に分類されるとはいえ、本文からはこの手紙が完全に個人的な手紙であることが読み取れる。\n「長老」は、地域内の信徒の家で営まれた小規模な「家の教会」を巡回して福音を説いていた「兄弟たち」の歓待や支援をしているガイオを賞賛し、彼に対し、ある「家の教会」を取り仕切って「兄弟たち」を拒絶しているディオトレフェスには従わず、引き続き善を行うようにと激励している。\n初期のキリスト教文献はこの書簡についての言及を何も含んでおらず、3世紀半ばになってようやく言及された。\nその背景には、この書簡が非常に短いこと、使徒の著作であると承認されるのに時間を要したこと、その内容が個人的であることなどがあったと考えられている。", "qas": [ { "question": "公同の教会に宛てて書いた手紙のことを一般的に何と呼びますか?", "id": "tr-338-02-000", "answers": [ { "text": "公同書簡", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第三ヨハネ書の著者は教会においてどういった立場の人でしたか?", "id": "tr-338-02-001", "answers": [ { "text": "「長老」", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "書簡の短さや書簡内容が個人的なものであった理由から、第三ヨハネ書に対するキリスト教文献の言及が始まったのはいつ?", "id": "tr-338-02-002", "answers": [ { "text": "3世紀半ば", "answer_start": 295, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "伝承上は使徒ヨハネの著作とされるが、現代では少なからぬ論者が疑問視している。\nとはいえ、第三ヨハネ書の言葉遣いは他のヨハネ書簡や『ヨハネによる福音書』と共通するものを含んでおり、若干の異説はあるが、1世紀末頃から2世紀初頭に他の2書簡とともに同じ人物、あるいは少なくとも同じ共同体に属する構成員(たち)によって作成されたと考えられている。\n執筆地は未詳であるが、伝統的にはエフェソと想定されている。\nこの書簡は現存最古の部類に属する新約聖書の写本の多くに見出され、大きな異文などは存在しない。\n神学的内容は希薄とされ、新約聖書の中で重視されてきたとは言いがたいが、信徒同士が親切にしあうことの大切さや尊大に振舞うことへの戒めが説かれているとみなされており、教会制度の過渡期の様子を伝えているという歴史的側面からの評価もなされている。", "qas": [ { "question": "第三ヨハネ書を書いたのは伝承上では誰となっているか?", "id": "tr-338-03-000", "answers": [ { "text": "使徒ヨハネ", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第三ヨハネ書の執筆地はどことされていますか?", "id": "tr-338-03-001", "answers": [ { "text": "エフェソ", "answer_start": 186, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第三ヨハネ書、ヨハネ書簡、『ヨハネによる福音書』に共通しているものは何でしょう?", "id": "tr-338-03-002", "answers": [ { "text": "言葉遣い", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第三ヨハネ書は歴史的側面からの評価として、どのような様子を伝えていますか?", "id": "tr-338-03-003", "answers": [ { "text": "教会制度の過渡期", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヨハネ書簡と呼ばれる3通の書簡は、実際には著者名が一切書かれておらず、第三書の本文でも、著者は単に「長老」とだけ名乗っている。\nこの著者問題は、他の2通のヨハネ書簡および『ヨハネによる福音書』の著者との関連で議論されてきた。\n全ての書簡が同一人物によるのか、また違う場合にはどれが同一人物によるのかなどについて様々な議論があり、確定していない。\nとはいえ、少なからぬ専門家が3つの書簡全てを同一人物の作品と見る説を採っている。\n伝承通り3通全てを使徒ヨハネに帰するローマ・カトリックのフェデリコ・バルバロやフランシスコ会聖書研究所、福音派の『新聖書辞典』や『新実用聖書注解』は当然その立場であり、使徒ヨハネを著者とする伝承を受け入れていない聖書学者にも、『総説新約聖書』でヨハネ書簡を担当した中村和夫、上智学院の『新カトリック大事典』などでヨハネ書簡を担当した小林稔などのようにこの立場を採る者たちがいる。\nアンカー・バイブルでヨハネ書簡を担当したレイモンド・E・ブラウンは、「多くの学者」(manyscholars)が3書簡全てを同一著者に帰することに否定的であると述べつつ、自分は3書簡全てを同一著者に帰すると述べていた。\nしかし、後には「多くの学者」が3書簡を同一の著者の作品と見ていると述べた。", "qas": [ { "question": "3通からなるヨハネ書簡の著者は、同一人物の誰とみなされていますか?", "id": "tr-338-04-000", "answers": [ { "text": "使徒ヨハネ", "answer_start": 223, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "上智学院でヨハネ書簡を担当した日本人は何という人?", "id": "tr-338-04-001", "answers": [ { "text": "小林稔", "answer_start": 380, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヨハネ書簡3通全てを使徒ヨハネの著と考えている聖書研究所はどこ?", "id": "tr-338-04-002", "answers": [ { "text": "フランシスコ会聖書研究所", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "使徒ヨハネと見ることに批判的な学者からは、もしも第三ヨハネ書が使徒ヨハネによって書かれたのだとすれば、ディオトレフェスが彼に反抗したことは奇妙であるとされている。\nというのは、使徒たちは初期キリスト教会にあっては高く尊敬されていたからである。\nこれに対して福音派の『新聖書辞典』では、使徒ヨハネの著書とする観点から、まさにヨハネの使徒権を否定したものとして、ディオトレフェスの振舞いが「暴挙」と位置づけられている。\n同様に福音派の『新聖書注解』では、ディオトレフェスの異常さこそが問題であって、彼の振る舞いが使徒ヨハネの著作であることを否定する根拠にはならないと主張されている。", "qas": [ { "question": "ディオトレフェスの使徒ヨハネに対する振舞いが「暴挙」としているのは何辞典ですか?", "id": "tr-338-05-000", "answers": [ { "text": "『新聖書辞典』", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "さて、ヒエラポリスのパピアスによって140年頃に書かれ、エウセビオスによって引用された断片からは、書簡の著者に関して使徒ヨハネとは別の可能性が指摘されている。\nその断片で長老ヨハネという人物について言及されているからであるが、この人物について知られていることはパピアスの乏しい言及以外には何もないので、第三書の著者とこの詳細不明の人物と結びつける根拠は何もない。\nそれでもヒエロニムスがこの「長老ヨハネ」を第二・第三ヨハネ書の著者と位置づけていたことで、近代以降にもこの見方を採る者たちがいる。\nその延長線で、中村和夫、NTD新約聖書註解シリーズでヨハネ書簡を担当したヨハネス・シュナイダーらのように、3書簡すべてを長老ヨハネの作品とする者もいる。\n3書簡を執筆したのは使徒ヨハネその人かもしれないし、長老ヨハネのような他の人物かもしれないが、チャールズ・ドッドは「もしも我々がこれらの書簡の匿名の著者を...いくらか知られている人物と結び付けようとするなら、ほとんどうまくいかないものと思われる」と述べていた。", "qas": [ { "question": "「長老ヨハネ」を第二・第三ヨハネ書の著者と位置づけたのは誰によってですか?", "id": "tr-338-06-000", "answers": [ { "text": "ヒエロニムス", "answer_start": 186, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨハネス・シュナイダーは何シリーズでヨハネ書簡を担当した?", "id": "tr-338-06-001", "answers": [ { "text": "NTD新約聖書註解シリーズ", "answer_start": 260, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第一ヨハネ書を別人の作とし、第二書と第三書のみ同一人物に帰する見解もある。\n前述のように、古くはヒエロニムスがこの見解を紹介していたが、現代日本では『新約聖書略解』でヨハネ書簡を担当した宮内彰、『新共同訳新約聖書略解』で同書簡を担当した土戸清などがこの立場である。\n第二書と第三書には多くの類似点がある。\nどちらも当時の他人宛の手紙の様式で書かれており、著者は「プレスビュテロス」とだけ名乗っており、直訳では「老人」(elderlyman)を意味する。\nそして、どちらの書簡も歓待と教会内の対立のテーマを扱っている。\nそれらは長さの点でもきわめて類似しているが、おそらくそれはどちらもパピルス1枚に収まるようにしたためたことによるのだろう。", "qas": [ { "question": "現代、第一ヨハネ書を別人の作とし、第二書と第三書のみ同一人物に帰する見解をしている日本人は宮内彰ともう1人は誰?", "id": "tr-338-07-000", "answers": [ { "text": "土戸清", "answer_start": 118, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヨハネ書簡の第二書と第三書で名乗られていた著者の名前は?", "id": "tr-338-07-001", "answers": [ { "text": "「プレスビュテロス」", "answer_start": 180, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "3通のヨハネ書簡はいずれもほとんど同じ時期に書き上げられたとみなされている。\nその時期は若干の異説もあるものの、おおむね1世紀末から2世紀初頭と見積もられている。\nたとえば、福音派の『新聖書辞典』では80年代末から90年代初頭に作成されたという見解が有力説として挙げられている。\n福音派の『新聖書注解』でも90年頃とされており、同じく福音派の尾山令仁も90年から91年頃としている。\nローマ・カトリックの側ではフランシスコ会訳聖書がヨハネ福音書よりも少し先に成立したと考え、90年よりも少し前の時期を想定している。", "qas": [ { "question": "ヨハネ書簡は3通とも同じ時期に書かれたとされているが、有力説を挙げているのは何辞典の見解によるものか?", "id": "tr-338-08-000", "answers": [ { "text": "『新聖書辞典』", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "これに対して、同じカトリックでもフェデリコ・バルバロは、ヨハネ福音書やヨハネの黙示録(バルバロは90年から96年と想定)よりも後の成立であろうとみなしていた。\nまた、岩波委員会訳聖書でヨハネ書簡を担当し、それらを使徒ヨハネの作とはみなしていない大貫隆の場合、ポリュカルポスの言及なども勘案して110年前後としている。\nこの見解は小林稔も踏襲している。\nブラウンは現存するヨハネ福音書が原著者の版に最終編集者が手を加えて成立させたという立場を採っており、その原著者の版(90年頃)の10年ほど後、しかし、最終編集者の版(おそらく100年を過ぎた頃)が出る前に3書簡が書かれたと想定した。\n『ハーパー聖書注解』でも「100年頃とするのが大方の見解」とされている。\nフランスのクセジュ叢書で新約聖書を担当したレジス・ビュルネは90年から110年の間とし、土戸清もほぼ同じ期間を想定している。", "qas": [ { "question": "ヨハネ書簡がヨハネ福音書やヨハネの黙示録よりも後に書かれたとみなしたのは誰ですか?", "id": "tr-338-09-000", "answers": [ { "text": "フェデリコ・バルバロ", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨハネ書簡の執筆時期を土戸清の予想と同じである人物は誰でしょうか?", "id": "tr-338-09-001", "answers": [ { "text": "レジス・ビュルネ", "answer_start": 351, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大貫隆はヨハネ書簡の執筆時期を何年としているのか?", "id": "tr-338-09-002", "answers": [ { "text": "110年前後", "answer_start": 146, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大貫隆がヨハネ書簡の執筆が110年前後だとするのと同じ考えをしている日本人は誰ですか?", "id": "tr-338-09-003", "answers": [ { "text": "小林稔", "answer_start": 164, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヨハネ書簡には執筆地を示すものは何もないが、それらの初期の引用者であるポリュカルポス、パピアス、エイレナイオスらの作品が小アジアで書かれたことを考えるなら、ヨハネ書簡も小アジアで書かれたのだろうという程度の推測は成り立つ。\nそれに対し、教会の伝承では、ヨハネ書簡の執筆地は小アジアの中でもエフェソと限定されており、ローマ・カトリックのバルバロ、フランシスコ会聖書研究所、福音派の『新聖書辞典』、尾山令仁などはいずれもそれを堅持している。", "qas": [ { "question": "ヨハネ書簡の執筆地はエフェソと限定している日本人は何という人ですか?", "id": "tr-338-10-000", "answers": [ { "text": "尾山令仁", "answer_start": 197, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "新約正典の中で節が最も少ないのは第二ヨハネ書であるが、単語数で見れば、第三ヨハネ書が新約正典中で最短である。\nブラウンはネストレ・アーラント21版に基づく算定として、短い順に第三書を219語、第二書を245語、『フィレモンへの手紙』を355語、『ユダの手紙』を457語としている(文字数は第二書が1126字、第三書が1105字)。\nティンデル聖書注解でヨハネ書簡を担当したジョン・ストット、「インタープリテーション」シリーズでヨハネ書簡を担当したD・M・スミス、大貫隆のように、第二書、第三書をともに聖書中で最短の書と位置づける者もいる。", "qas": [ { "question": "ヨハネ書簡の中で節が最も少ないのは何になるのか?", "id": "tr-338-11-000", "answers": [ { "text": "第二ヨハネ書", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブラウンが算定した単語数の短い書簡順の中で、3番目に短い書は何?", "id": "tr-338-11-001", "answers": [ { "text": "『フィレモンへの手紙』", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第二書、第三書両方を最短の書と位置付けた日本人は誰?", "id": "tr-338-11-002", "answers": [ { "text": "大貫隆", "answer_start": 231, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「インタープリテーション」シリーズでのヨハネ書簡担当者は誰?", "id": "tr-338-11-003", "answers": [ { "text": "D・M・スミス", "answer_start": 223, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "いずれにせよ、すでに「執筆年代」の節で述べたことと重なるが、ヨハネ書簡のうちで最も早くに言及されたのは第一書で、ポリュカルポスによる言及は一連のヨハネ書簡の推定成立年代の下限としても利用されている。\nそれに対し、第三ヨハネ書への言及はそれからも長い間見られない。\nたとえば、エイレナイオスはその『異端駁論(英語版)』(180年頃)において、第一書と第二書から引用しているが、第一書と第二書を区別していないし、第三書は引用していない。\nまた、いわゆる『ムラトリ正典目録』(2世紀末から3世紀初頭)では、ヨハネ書簡は「2通」とされている。\n具体的にどの書簡かは明言されておらず、これを第三書への初期の言及とみなすバルバロのような論者もいなかったわけではないが、一般には第一書と第二書を指し、第三書は言及されていないものと受け止められている。", "qas": [ { "question": "ヨハネ書簡の中で最初に言及された書は何か?", "id": "tr-338-12-000", "answers": [ { "text": "第一書", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨハネ書簡の第一書と第二書だけを引用した『異端駁論(英語版)』は誰による著書か?", "id": "tr-338-12-001", "answers": [ { "text": "エイレナイオス", "answer_start": 137, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨハネ書簡の中で長期間に渡り言及されなかった書は何か?", "id": "tr-338-12-002", "answers": [ { "text": "第三ヨハネ書", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヨハネ書簡は「2通」だとしていた書物は何でしょう?", "id": "tr-338-12-003", "answers": [ { "text": "『ムラトリ正典目録』", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第三書が3世紀以前に引用されていたことは確認されていない。\n西方系では3世紀に入っても、ノウァティアヌス、キプリアヌスらは第三書に言及していない。\n他方、東方系ではオリゲネス、エウセビオスらが真作あるいは公認書として第一書に言及する一方、「疑わしい書」として第二書・第三書に言及している。\n第三ヨハネ書を含む現在の27文書が新約正典とされたのは、アレクサンドリアのアタナシオスの『第三十九復活祭書簡』(367年)が最初とされている。\nこの決定はヒッポ会議(393年)、カルタゴ会議(397年)などで追認された。\n第三書の短さは、その言及が他の正典文書よりも遅れたことを説明する一因である。\nつまり、初期のキリスト教著述家たちには、単にそこから引用する理由がなかったというだけかもしれないのである。\n言及の遅れに関しては、他にも私信という側面の強さや使徒の著作であるとなかなか承認されなかったことなどの影響が挙げられている。", "qas": [ { "question": "ヨハネ書簡の第一書を公認書とした一方で、「疑わしい書」となったのは何か?", "id": "tr-338-13-000", "answers": [ { "text": "第二書・第三書", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第三ヨハネ書を含む現在の27文書が新約正典とされた中で、最後に追認されたのは何会議によるものでしょうか?", "id": "tr-338-13-001", "answers": [ { "text": "カルタゴ会議", "answer_start": 234, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第三ヨハネ書の言及が遅れた理由の一つに、誰の著作であった為に承認されるのに時間がかかったといえますか?", "id": "tr-338-13-002", "answers": [ { "text": "使徒", "answer_start": 374, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "いずれにせよ、現存する最古の部類に属するギリシア語のいわゆる「大文字写本」の中でも、一部破損の見られる写本で断片しか残されていないものの、シナイ写本、アレクサンドリア写本、バチカン写本はヨハネ書簡を3通全て収録している。\n写本は多種多様であるが、それらの間に有意な異文は存在せず、本来の原文を確定させる上での困難はほとんどない。", "qas": [ { "question": "ヨハネ書簡を3通全て収録している写本はシナイ写本、アレクサンドリア写本の他に何がある?", "id": "tr-338-14-000", "answers": [ { "text": "バチカン写本", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "他方、シリアの教会では第三書の承認が遅れ、5世紀以降になった。\n5世紀初頭に新約部分が成立したシリア語訳聖書(ペシタ訳)には、ヨハネ書簡は第一書しか含まれていない。\nそれに対し、508年に成立したシリア語訳、フィロクセノス訳には3書簡全てが含まれ、616年の改訂版(ハルケル訳)でも踏襲された。", "qas": [ { "question": "第三書の承認が5世紀以降になった教会はどこ?", "id": "tr-338-15-000", "answers": [ { "text": "シリア", "answer_start": 3, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シリア語訳聖書に含まれていたのはヨハネ書簡の第何書だったの?", "id": "tr-338-15-001", "answers": [ { "text": "第一書", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨハネ書簡の3通全てが含まれた改訂版の聖書は何年に成立したの?", "id": "tr-338-15-002", "answers": [ { "text": "616年", "answer_start": 124, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中世ヨーロッパにおいては、正典として受容された後も、第一ヨハネ書に比べ、第二書・第三書は低い評価が与えられることがあった。\n宗教改革期には、マルティン・ルターが新約聖書の文書を3つに分類し、第一書に『ローマの信徒への手紙』などとともに最高の評価を与えたのに対し、第二書・第三書はそれより劣る評価になった。\nジャン・カルヴァンは公同書簡の注解では、第二書と第三書を割愛した。これは当時の慣例に従ったものとされている。", "qas": [ { "question": "ヨハネ書簡の3通の中で、比較的高い評価を得ているのはどれでしょう?", "id": "tr-338-16-000", "answers": [ { "text": "第一ヨハネ書", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マルティン・ルターが『ローマの信徒への手紙』と同等に高評価をつけたのはヨハネ書簡の中のどれ?", "id": "tr-338-16-001", "answers": [ { "text": "第一書", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "公同書簡の注解で第二書と第三書を割愛したのは誰?", "id": "tr-338-16-002", "answers": [ { "text": "ジャン・カルヴァン", "answer_start": 153, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "現代においても、第三ヨハネ書を積極的に評価する意見ばかりではない。\n岩波新書で聖書の入門書をものした小塩力は、第二・第三ヨハネ書などについて「信仰思想的な価値は、少しく落ちると見るべき」という理由で内容紹介を割愛した。\nまた、第二・第三ヨハネ書を主題とする研究をまとめたジュディス・リュウは、大学院生時代にそれらを主題としていることを述べると、しばしば何故なのかと驚かれたものだと述懐した。\n他方、文章に明記されていることから教訓を導くとすれば、「信者たちは互いに親切にし合うべき」ことを説いた可能性が指摘されている。\nまた、ディオトレフェスの尊大な振舞いや利己心から、自らの内面への戒めを読み取ることの大事さを説く者や教会からそのような者が現れて分裂を引き起こさないように絶えず気をつけるべきことを説く者もおり、福音派の『新聖書辞典』では、教会に対するいつの時代にも普遍的な警告を発している書とされている。", "qas": [ { "question": "現代において第三ヨハネ書をあまり評価しなかった日本人は誰?", "id": "tr-338-17-000", "answers": [ { "text": "小塩力", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大学院生時代に第二・第三ヨハネ書を主題とする研究をした人の名前は?", "id": "tr-338-17-001", "answers": [ { "text": "ジュディス・リュウ", "answer_start": 135, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ただし、第三ヨハネ書はそこに反映されている神学を議論するには短すぎるものであり、ジュディス・リュウは「教理的な内容を欠いている」と位置づけた。\n新約正典中で「イエス」も「キリスト」も直接的に出てこないのは本書が唯一である。\nそれでも、短い中に「真理」が頻出することなどを、他のヨハネ文書の神学とも共通する点とみなす者たちはいる。\nほか、「愛」を引き合いに出すことも共通点として挙げられる。", "qas": [ { "question": "第三ヨハネ書が他のヨハネ文書の神学とも共通する点として挙げられるキーワードは「真理」と何ですか?", "id": "tr-338-18-000", "answers": [ { "text": "「愛」", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "別の角度からの評価もなされている。\n日本でも1930年代には、神学的にはあまり価値がないが、それよりも歴史的にその意義の大きさが認められるようになっているという位置付けが見られた。\nつまり、巡回伝道者の影響が大きかった時期から、地域ごとの教会に定着した監督者の影響力が強くなっていく時期の過渡的な様子を伝えているということである。\nキリスト新聞社の『新共同訳聖書辞典』(1995年)も、第三書の価値を2世紀初頭小アジアの教会の状況を伝えていることに見出しており、小林稔も第三書に教会制度の過渡期における葛藤あるいは緊張を見出している。", "qas": [ { "question": "日本で第三書の価値を歴史的な角度から評価し出したのはいつからですか?", "id": "tr-338-19-000", "answers": [ { "text": "1930年代", "answer_start": 22, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "モンテ・カッシーノの戦い", "paragraphs": [ { "context": "モンテ・カッシーノの戦い(モンテ・カッシーノのたたかい、英:BattleofMonteCassino)は、第二次世界大戦中、1944年1月17日から5月19日にかけてイタリアのモンテ・カッシーノで行われた戦いである。連合軍のイタリア戦線におけるグスタフ・ラインの突破およびローマ解放のために企画された。", "qas": [ { "question": "モンテ・カッシーノの戦いは、1944年の何月何日から何月何日にかけて行われた戦闘であるの?", "id": "tr-339-00-000", "answers": [ { "text": "1月17日から5月19日", "answer_start": 67, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "モンテ・カッシーノの戦いは、どの戦争中に行われた戦闘でありますか?", "id": "tr-339-00-001", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "モンテ・カッシーノの戦いが行われた場所は、どこか?", "id": "tr-339-00-002", "answers": [ { "text": "モンテ・カッシーノ", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "モンテ・カッシーノの戦いは、第二次世界大戦中のどの戦線で行われた戦闘か?", "id": "tr-339-00-003", "answers": [ { "text": "イタリア戦線", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1944年初頭、グスタフ・ラインの西半分は、ラーピド川・リーリ川・ガリリャーノ川およびその周囲の尾根や山頂を守るドイツ軍により支えられていた。その中にあって、モンテ・カッシーノ頂上にある修道院(529年ごろ建立された歴史的建築物)には守備兵は配置されておらず、修道院城壁下の急斜面に防御陣地が築かれていた。", "qas": [ { "question": "1944年初頭、グスタフ・ラインの西半分は、どの国のにより支えられていたの?", "id": "tr-339-01-000", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 56, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1944年初頭、ドイツ軍の守備隊が配置されていた川として挙げられているのは、リーリ川、ガリリャーノ川とどの川ですか?", "id": "tr-339-01-001", "answers": [ { "text": "ラーピド川", "answer_start": 22, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1943年9月、連合軍イタリア方面総司令官ハロルド・アレクサンダー指揮の第15軍集団はイタリア・サレルノ上陸作戦(アヴァランチ作戦)ののち、イタリアの“背骨”を形成しているアペニン山脈の東西両側からそれぞれ北方へ進撃した。西側戦線では、マーク・ウェイン・クラーク中将指揮のアメリカ第5軍がナポリからイタリアの“ブーツ”を北上し、東側戦線では、バーナード・モントゴメリー大将のイギリス第8軍がアドリア海沿岸を進軍した。", "qas": [ { "question": "当時、連合軍イタリア方面総司令官には、誰がついていたか?", "id": "tr-339-02-000", "answers": [ { "text": "ハロルド・アレクサンダー", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第15軍集団がアペニン山脈の東西両側から北方への進撃を開始したのは、いつのことか?", "id": "tr-339-02-001", "answers": [ { "text": "1943年9月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "西側戦線で進撃を開始した連合軍側の勢力は、誰が率いていたか?", "id": "tr-339-02-002", "answers": [ { "text": "マーク・ウェイン・クラーク", "answer_start": 118, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、どの軍側の動きについて説明しているか?", "id": "tr-339-02-003", "answers": [ { "text": "連合軍", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "第5軍は、困難な地形、悪天候および熟練したドイツ軍の抵抗により、進軍が遅れていた。ドイツ軍は、最大のダメージを与えるよう設計・準備された陣地から戦闘を仕掛けては退き、ローマ南方の守備陣地グスタフ・ラインを建設するための時間を稼いだ。当初、ローマは1943年9月には陥落すると見込まれていたが、それは楽観的すぎた。", "qas": [ { "question": "様々な要素により、進軍が遅れていたのは、第何軍なの?", "id": "tr-339-03-000", "answers": [ { "text": "第5軍", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ローマ陥落のため、ドイツ軍と戦ったのは、第何軍ですか?", "id": "tr-339-03-001", "answers": [ { "text": "第5軍", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドイツ軍が敷いたローマ南方の守備陣地は、何と呼ばれたか?", "id": "tr-339-03-002", "answers": [ { "text": "グスタフ・ライン", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第5軍の目的は、どこを手に入れることだったか?", "id": "tr-339-03-003", "answers": [ { "text": "ローマ", "answer_start": 119, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アドリア海沿岸のイギリス第8軍はグスタフ・ライン東側を突破し、オルトーナを占領していたが、その進軍は12月末には猛吹雪の始まりで停滞し、複雑な地形のため航空支援も不可能であった。このためルート5号線を使用した東からローマへ向かう進軍ルートは非現実的であると判断され、高速道路6号線および7号線ルートのみが可能性として残された。", "qas": [ { "question": "グスタフ・ライン東側を突破したが、進軍の途中に猛吹雪に遭い、停滞していたのは、何軍なの?", "id": "tr-339-04-000", "answers": [ { "text": "イギリス第8軍", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オルトーナを占領したイギリス第8軍の進軍において、邪魔になったのは何か?", "id": "tr-339-04-001", "answers": [ { "text": "猛吹雪", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリス第8軍の目的地は、どこだったか?", "id": "tr-339-04-002", "answers": [ { "text": "ローマ", "answer_start": 107, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "5号線と6号線、7号線のうち、可能性のある進軍ルートではなかったのは、どちらか?", "id": "tr-339-04-003", "answers": [ { "text": "5号線", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかし高速道路6号線と7号線ルートのうち高速道路7号線(古代ローマのアッピア街道)は西海岸に沿ってローマ南方ポンティーノ湿地帯に通じており、そこは既にドイツ軍により水没させられていた。高速6号線はリーリ川の渓谷を通過しており、この谷の南側入り口はカッシーノの町後方の多数の丘で構成されていた。いくつかの丘の頂上はドイツ軍守備兵が連合軍の動きを観測するのに最適の場所であり、北への進軍を阻止し、連合軍部隊への直接砲撃を可能としていた。", "qas": [ { "question": "高速道路7号線は、どこに通じていたの?", "id": "tr-339-05-000", "answers": [ { "text": "ポンティーノ湿地帯", "answer_start": 54, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "高速6号線と高速道路7号線のうち、より進軍可能性のあるルートは、どのルートでしたか?", "id": "tr-339-05-001", "answers": [ { "text": "高速6号線", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "高速6号線と高速道路7号線のうち、進軍できない状態となっていたのは、どのルートか?", "id": "tr-339-05-002", "answers": [ { "text": "高速道路7号線", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "高速6号線はどの川の渓谷を通過するルートだったか?", "id": "tr-339-05-003", "answers": [ { "text": "リーリ川", "answer_start": 98, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ドイツ軍と修道院の間では、修道院の歴史的重要性に鑑み、修道士たちが残っている限り修道院を軍事目的で利用しないことで合意した。1943年12月、イタリア方面総司令官アルベルト・ケッセルリンク空軍元帥は修道院内へのドイツ軍部隊の配置・陣地化を行わないよう命じ、そのことを連合軍に適宜通知した", "qas": [ { "question": "ドイツ軍は、何の歴史的価値を認め、軍事目的としては使用しないことを約束したの?", "id": "tr-339-06-000", "answers": [ { "text": "修道院", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1943年12月にアルベルト・ケッセルリンクが下した命令は、何を行ってはいけないとのことでしたか?", "id": "tr-339-06-001", "answers": [ { "text": "修道院内へのドイツ軍部隊の配置・陣地化", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アルベルト・ケッセルリンクは、どの方面におにおける総司令官についていたか?", "id": "tr-339-06-002", "answers": [ { "text": "イタリア方面", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドイツ軍部隊が修道院内に陣を敷いたりしないことが、連合軍側にも伝えられたのは、いつのことか?", "id": "tr-339-06-003", "answers": [ { "text": "1943年12月", "answer_start": 62, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第一次攻撃は1月17日に行われた。沿岸のイギリス第10軍団(第56および第5師団)はガリリャーノ川を強行渡河した(約2日後にはイギリス軍第46師団が彼らの右翼から続いた)。ドイツ軍第14装甲軍団長でグスタフ・ライン南西部の守備責任者フリードリーン・フォン・ゼンガー・ウント・エッターリンはドイツ軍第94歩兵師団の守備能力に大きな懸念を抱き、それをうけたケッセルリンクはローマからドイツ軍第29および第90装甲擲弾兵師団を増援に向かわせた。", "qas": [ { "question": "第一次攻撃が行われたのは、いつだったの?", "id": "tr-339-07-000", "answers": [ { "text": "1月17日", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イギリス第10軍団は、どの川は強行渡河しましたか?", "id": "tr-339-07-001", "answers": [ { "text": "ガリリャーノ川", "answer_start": 42, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ローマからグスタフ・ライン南西部の守備地帯へ増援に送られた部隊は、ドイツ軍第29装甲擲弾兵師団と第何装甲擲弾兵師団だったか?", "id": "tr-339-07-002", "answers": [ { "text": "第90装甲擲弾兵師団", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world 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(world knowledge)" }, { "question": "何名にも至るイギリス第10軍団の兵士たちが命を失ったか?", "id": "tr-339-08-003", "answers": [ { "text": "4,000名", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1月20日、アメリカ軍第36師団による中央攻勢は日没の3時間後に開始された。事前準備が不足しており、まだ地雷やブービートラップが十分に除去されていなかったため、川への接近には危険が伴った。", "qas": [ { "question": "アメリカ軍第36師団による中央攻勢が行われ始めたのは、何月何日のことなの?", "id": "tr-339-09-000", "answers": [ { "text": "1月20日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1月20日には、どの国の一個師団が中央攻勢を行い始めましたか?", "id": "tr-339-09-001", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "事前準備が不足していたというのは、ブービートラップと何の除去があまりなされていなかったことを言っていますか?", "id": "tr-339-09-002", "answers": [ { "text": "地雷", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "川への接近において邪魔になったのは、地雷と何?", "id": "tr-339-09-003", "answers": [ { "text": "ブービートラップ", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第143連隊の1個大隊はサン・アンゲロの南から、第141連隊(この中に日系二世部隊第100大隊が含まれる)の2個中隊は北からラーピド川渡河に成功したが、彼らは孤立しており、連合軍機甲部隊は渡河出来ないまま、ドイツ軍第15装甲擲弾兵師団の戦車および自走砲の反撃に対し非常に危険な状態におかれていた。", "qas": [ { "question": "この渡河作戦には、第143連隊の1個大隊、第141連隊の2個中隊とどの部隊が動員されたか?", "id": "tr-339-10-000", "answers": [ { "text": "連合軍機甲部隊", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "連合軍機甲部隊は渡河に失敗し、しかもドイツ軍のどの部隊からの攻撃に危険な状態に陥ていたか?", "id": "tr-339-10-001", "answers": [ { "text": "第15装甲擲弾兵師団", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "連合軍の渡河作戦は、サン・アンゲロとどこから渡河する作戦だったか?", "id": "tr-339-10-002", "answers": [ { "text": "ラーピド川", "answer_start": 62, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、どの軍の作戦実行とそれに伴う危険な状況について説明しているか?", "id": "tr-339-10-003", "answers": [ { "text": "連合軍", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "次の攻撃は1月24日に開始された。アメリカ第2軍団はチャールズ・ウォルコット・ライダー少将指揮のアメリカ軍第34歩兵師団が先鋒、フランス植民地部隊が右翼となり、カッシーノ北の氾濫したラーピド川渓谷を渡河、左へ転進し高地からモンテ・カッシーノを攻撃することを企図し、山の背後へ進撃した。", "qas": [ { "question": "この文書では、いつから始まった攻撃のことについて説明しているの?", "id": "tr-339-11-000", "answers": [ { "text": "1月24日", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1月24日からの攻撃において、先鋒に立った部隊は誰が指揮をとっていましたか?", "id": "tr-339-11-001", "answers": [ { "text": "チャールズ・ウォルコット・ライダー", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1月24日からの攻撃で先鋒に立った部隊は、どの部隊か?", "id": "tr-339-11-002", "answers": [ { "text": "アメリカ軍第34歩兵師団", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この文書で説明する攻撃は、どの部隊が中心になり行った攻撃であるか?", "id": "tr-339-11-003", "answers": [ { "text": "アメリカ第2軍団", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2月11日、モンテ・カッシーノおよびカッシーノに対する3日間に渡る最後の攻撃が不首尾に終わったのち、アメリカ軍は撤退した。アメリカ第2軍団は2週間半の激戦のあと、戦闘を中止した。山地にあった第34師団の奮戦は戦争中にあらゆる兵士が行った戦いの中でももっとも素晴らしいものの一つに数えられる。その見返りとして彼らは歩兵大隊の80%を失い、2,200名の死傷者を出した。", "qas": [ { "question": "アメリカ軍が撤退したのは、いつのことなの?", "id": "tr-339-12-000", "answers": [ { "text": "2月11日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカ第2軍団が戦闘を中止したのは、戦闘開始から何週間半にも至る時間が経った後のことでしたか?", "id": "tr-339-12-001", "answers": [ { "text": "2週間半", "answer_start": 70, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第34師団の歩兵大隊の兵力損失は、何%にも至ったか?", "id": "tr-339-12-002", "answers": [ { "text": "80%", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第34師団から出た死傷者は、何名にも至ったか?", "id": "tr-339-12-003", "answers": [ { "text": "2,200名", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] } ] }