{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "時計の歴史", "paragraphs": [ { "context": "何千年にもわたって時計は時間を計り、その経過を追うために用いられてきた。現在使われている六十進法の時間単位は紀元前約2000年にシュメールで考えられたものである。1日を12時間2組に分けたのは古代エジプト人で、巨大なオベリスクの影を日時計に見立てたことが起源である。彼らはルクソール近郊にあるアメン=ラーの地(PrecinctofAmun-Re)でおそらく最初に使われたとされる水時計も作っている。水時計は後にエジプト以外でも用いられるようになり、古代ギリシアではこれをクレプシドラの名で呼んでいた。同じころ、古代中国の殷では、水があふれる仕組みを利用した水時計が発明された。この水時計の技術はメソポタミアから紀元前2000年ごろにもたらされたものと考えられている。その他、中国、日本、イギリス、イラクではロウソク時計(candleclock)も使われており、インド、チベット、一部ヨーロッパでは日時計が広く使われていた。砂時計も使われていた。初期の時計は日時計が多く、曇りや夜には使うことができなかった。よく使われたのはグノモン(gnomon)と呼ばれる形のものであったが、あくまで日時計なので、緯度で値が変化した。", "qas": [ { "question": "今現在我々が使う時間の数え方は何ですか?", "id": "tr-288-00-000", "answers": [ { "text": "六十進法", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "六十進法の時間単位を考案したのはいつですか?", "id": "tr-288-00-001", "answers": [ { "text": "紀元前約2000年", "answer_start": 54, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1日を12時間2組に分けた最初の国はどこですか?", "id": "tr-288-00-002", "answers": [ { "text": "エジプト", "answer_start": 98, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "時計に脱進機(Escapement)(歯車を一定方向に回す装置)を初めて用いたのは8世紀の中国であり、水時計にギアとおもりを組み込んだのは11世紀のイスラム教徒(InventionsinmedievalIslam)であった。脱進機に王冠歯車(vergeescapement)を用いたのは14世紀のヨーロッパで、16世紀にゼンマイ式の懐中時計ができ、18世紀に振り子時計ができるまで長い間使われた。20世紀になると、クオーツ時計、さらには原子時計へと置き換わっていった。クォーツ時計は作るのが簡単で正確なので、腕時計によく使われた。原子時計はこれよりもはるかに正確なので、国際標準時間「国際原子時」をきめるのに使われている。原子時計は協定世界時にも使われている。", "qas": [ { "question": "脱進機を最初に使ったのはどこですか?", "id": "tr-288-01-000", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 45, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "王冠歯車、振り子、脱進機の初登場を時間順に並べたとき、2番目にくるのは何ですか?", "id": "tr-288-01-001", "answers": [ { "text": "王冠歯車", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "暦が使われたのは最終氷期の狩猟採集社会においてであり、棒や骨などを使って月の位置と満ち欠けを観察したのが始まりだった。先史ヨーロッパを中心にストーンサークルも多く使われており、春分、秋分や夏至、冬至の見極めに用いられた。その代表がストーンヘンジである。ただし、これら巨石文明の時代には文献資料が残されていないため、その役割はあまりよくわかっていない。\n\n多くの古代文明で太陽や月などの天体観測が行われており、それを元に時間、日付、季節が決められていた。現在広く世界で使われている60進法の時間単位は、約4000年前の古代メソポタミア文明、及びエジプトで考えられたものである。時代的には後になるが、60進法はメソアメリカでも使われた。", "qas": [ { "question": "先史ヨーロッパで季節の変化を見極めるため使われたものは何ですか?", "id": "tr-288-02-000", "answers": [ { "text": "ストーンサークル", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "多くの古代文明で時間、日付、季節を測るためにやった行為は何ですか?", "id": "tr-288-02-001", "answers": [ { "text": "天体観測", "answer_start": 192, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "60進法の時間単位を考案したと言われる三つの場所で一番最後だと言われているところはどこですか?", "id": "tr-288-02-002", "answers": [ { "text": "メソアメリカ", "answer_start": 303, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1日の時刻の測定に使われた初めての時計は日時計だった。最も古いタイプの日時計は古代エジプトで作られており、緑色片岩を加工したものだった。紀元前3500年頃に作られたオベリスク(方尖塔)もまた日時計の役割も果たしていた。エジプトでは日中を10に分けていた。オベリスクはそれに合わせて作られており、エジプトの人々は午前と午後を、あるいは季節を読み取ることができた。紀元前1500年頃には日時計の影を作る部分がT字型になり、その形の歪で時刻の補正ができるようになった。\n\nただし、形をどれだけ工夫しても、日時計は曇りや夜など太陽が見えていない時には使えない。そこでエジプト人は、水時計、砂時計、天体図などを使って時刻を知ろうとした。水時計に関して残っている最も古い文献資料は、紀元前16世紀のアメンエムハト[要曖昧さ回避](Amenemhet)の墓碑銘で、この内容から彼が水時計の一つを発明したと考えられている。いろいろな水時計が考案されており、中には非常に複雑な構造のものもあった。その一つは容器の底に小さな穴が開けられたもので、水面の高さから時間変化を読み取ることができた。有名なのは古代エジプト第18王朝の第2代ファラオ、アメンホテプ1世の墓で見つかったもので、おそらくこれが古代エジプトで初めて作られた水時計である。砂時計も古代エジプトで発明されたものと考えられており、その原理は今のものと同じ、2つの容器を細い管でつないだものであった。水時計と砂時計の大きな違いは、水時計は流れる水の速度が水面が低くなるにつれて次第に遅くなるのに対し、砂時計はほぼ一定速度で砂が落ちることである。この砂時計は逆さにすれば再び時を測ることができるものであった。このほか、星を観察しての時刻測定も行われた。たとえばメルケット(merkhet)と呼ばれる鉛直線を求める装置や、紀元前600年頃になると北極星から南北線を見つける装置を使って、鉛直線や南北線と星との位置関係から時刻を割り出すようになった。", "qas": [ { "question": "最初の日時計を作ったと言われる国はどこですか?", "id": "tr-288-03-000", "answers": [ { "text": "エジプト", "answer_start": 41, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "最初の日時計はどういう岩石で作られましたか?", "id": "tr-288-03-001", "answers": [ { "text": "緑色片岩", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "古代エジプトで初めて作られた水時計はどこで発見されましたか?", "id": "tr-288-03-002", "answers": [ { "text": "アメンホテプ1世の墓", "answer_start": 511, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "古代ギリシアでは水時計が使われており、「クレプシドラ」と呼ばれていた。語源は鉄を意味するklepteinと水を意味するhydōrである。プラトンはクレプシドラを応用した目覚し時計を発明している。プラトンの目覚まし時計は、夜に水を注ぎ始めると、朝になって容器から溢れた水の力で銅の球がたらいの上に落ち、音が鳴る、というものであった。彼の創った学校アカデメイアの生徒はこれを合図に起床したという。別の説では、複数の容器がサイフォンの仕組みで繋がれており、最後の容器がいっぱいになると空気が押し出されて笛が鳴る仕組みだったという。ギリシアと新バビロニアでは天体観測による時刻測定も行われていた。", "qas": [ { "question": "古代ギリシアで使われた水時計の名前は何ですか?", "id": "tr-288-04-000", "answers": [ { "text": "「クレプシドラ」", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "古代ギリシアで使われた水時計を応用し目覚し時計を発明した人物は誰ですか?", "id": "tr-288-04-001", "answers": [ { "text": "プラトン", "answer_start": 68, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "古代ギリシアの天文学者、キュロスのアンドロニコス(AndronicusofCyrrhus)は、紀元前1世紀、アテネの風の塔と呼ばれる建物に日時計、水時計を設けている。\n\nギリシアでは昔から、裁判の時間測定に水時計クレプシドラが使われていた。後の古代ローマでもこの時計が使われた。この記録はいくつかの古文献にも記されており、例えばプラトンは著書『テアイテトス』の中で「人々は水の流れに急かされてついつい早口になる」と述べている。また、アプレイウスは『変容』(TheGoldenAss)の中で「法廷の役員は、検察側の証人を呼ぶ時刻になったと大声で叫んだ。演壇に上った老人を私は知らなかった。彼は時計の中の水が空になるまで延々と話し続けた。球体の中の水は、細い管をゆっくりと通りながら、すっかり流れ出てしまったのである。」と描写している。アプレイウスが描写しているのは、数ある水時計の中の1種である。この他、底に小さな穴が空いたタライを水に浮かべ、そのタライが水に沈むまでの時間を測るタイプのものもあった。", "qas": [ { "question": "古代ギリシアのキュロスのアンドロニコスが日時計と水時計を設置した場所はどこですか?", "id": "tr-288-05-000", "answers": [ { "text": "アテネの風の塔", "answer_start": 54, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "古代ギリシアの裁判の時間測定に使われた時計のタイプは?", "id": "tr-288-05-001", "answers": [ { "text": "水時計", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「人々は水の流れに急かされてついつい早口になる」と記述されたのはどの本ですか?", "id": "tr-288-05-002", "answers": [ { "text": "『テアイテトス』", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "クレプシドラは室内でも、夜間でも、曇天でも使える便利なものであったが、正確さには欠けていた。そのためギリシアではこの改良が盛んに試みられた。そのため、日時計の正確さには及ばないものの、紀元前325年頃には大きく改良され、1時間単位でかなり正確に簡単に読み取れるようになった。クレプシドラに共通する欠点は水圧だった。つまり、はじめに水がたくさん入っているときは流速が高くなり、水が減ってくると流速が落ちるのである。この対策が紀元前100年頃からギリシア、ローマを通じて時計職人(horology)の間で研究され始めた。水圧が一定となるように、タンクの形を工夫することが試みられた。この改良により、水時計の正確さは大いに改良され、1時間ごとに鐘が鳴ったり、時計の戸が開いて中から小さな人形が出てきたりするような仕掛けが組み入れられるようになった。このほか、温度が与える影響もばかにならず、水が冷たいと流れ出るのに時間がかかり、時には凍ったりするが、彼らはこれを改良することはできなかった。", "qas": [ { "question": "クレプシドラの欠点は何ですか?", "id": "tr-288-06-000", "answers": [ { "text": "正確さ", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "クレプシドラが正確さにかけていた一番の原因で、改良により大きく改善されたのは何ですか?", "id": "tr-288-06-001", "answers": [ { "text": "水圧", "answer_start": 151, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "クレプシドラの正確さに影響を与える要因として水圧とは異なり、改良できなかった要因は何ですか?", "id": "tr-288-06-002", "answers": [ { "text": "温度", "answer_start": 376, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ギリシア時代とローマ時代を通じて水時計の技術は大いに上がったが、日時計も使われ続けた。数学者で天文学者のビテュニアのテオドシオスは、緯度の影響を補正する日時計を発明したとされているが、その詳細は伝わっていない。この頃、数学書や文学書の中で、日時計に関して述べられたものがいくつかある。著書『建築について』で知られるローマの建築家ウィトルウィウスは、日時計グノモン(gnomon)の構造について解説をしている。ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの時代には、「アウグストゥスの日時計」(SolariumAugusti)と呼ばれる巨大グノモンを建設している。これに使われたオベリスクは古代エジプトの都市ヘリオポリスから運ばれたものである。アウグストゥスはカンプス・マルティウスのオベリスクを使って「アウグストゥスの黄道日時計」も作っている。古代ローマの博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥスの記録によると、ローマに最初の日時計が作られたのは紀元前264年のことであり、シチリア島の都市カターニアからもたらされたものである。ただしこれはシチリアとの緯度の違いを考慮していなかったために当初は不正確であり、後に改良されたと記録されている。", "qas": [ { "question": "ウィトルウィウスの『建築について』の本で構造について解説されている日時計の名称は?", "id": "tr-288-07-000", "answers": [ { "text": "グノモン", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥス時代の巨大日時計の異名は何ですか?", "id": "tr-288-07-001", "answers": [ { "text": "「アウグストゥスの日時計」", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ローマで最も古い日時計が製作されたのはいつですか?", "id": "tr-288-07-002", "answers": [ { "text": "紀元前264年", "answer_start": 419, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "20世紀の中国科学史家ジョゼフ・ニーダムによると、メソポタミアから中国に水時計が伝わったのは、紀元前2000年から紀元前1000年頃の殷の頃である。漢の時代となった紀元前202年、水時計は外流式から、浮きと連動してバーが動く仕組みの内流式へと徐々に置き換わっていった。後漢の科学者張衡は、水時計内の水の流速がタンクの水位で変化するのを改良するため、タンクと水時計の間に予備タンクを設ける工夫をしている。南北朝時代の紀元550年頃にはオーバーフローさせることによって水位が(つまり底の水圧が)一定となるタンクが水時計に利用された。その詳細が後に沈括によって記録されている。隋になった610年頃、耿詢と宇文愷は水時計に初めて棹ばかり(Steelyardbalance)を組み込んだ。ジョゼフ・ニーダムはこれを評して「水時計に棹ばかりを組み込んだことにより、水速を好きなように調整することができるようになった。当時は昼と夜とで時間の刻み間隔を変えていたが、それにも対応できるようになった。オーバーフロータンクも必要なくなった」と語っている。", "qas": [ { "question": "メソポタミアと中国で先に水時計を使い始めたのは?", "id": "tr-288-08-000", "answers": [ { "text": "メソポタミア", "answer_start": 25, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "後漢の科学者張衡が水時計のタンクと水時計の間に予備タンクを設置した理由は何ですか?", "id": "tr-288-08-001", "answers": [ { "text": "水時計内の水の流速がタンクの水位で変化するのを改良するため", "answer_start": 144, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中国の水時計に棹ばかりの導入に関して「水速を好きなように調整することができるようになった。」と評した人物は誰ですか?", "id": "tr-288-08-002", "answers": [ { "text": "ジョゼフ・ニーダム", "answer_start": 339, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "紀元前270年から紀元500年の間、ギリシアのクテシビオス、ヘロン、アルキメデスや、ローマの時計学者、天文学者らはより精巧に水時計を改良していった。特に、流速を一定にすること、表示を見やすく華麗にすることに力が入れられた。例えば時間が来ると鐘を鳴らしたり、小窓が開いて人形が出てきたり、針や文字盤が動いたりするものであった。星図と組み合わされたものもあった。\n\n非常に凝った作りの水時計の一つに、アラブ人によるもの(TimelineofMuslimscientistsandengineers)がある。特に、ジャザリーが1206年に作った水時計は当時「他のどのものよりも優れている」と謳われており、彼はこれを「象時計(elephantclock)」と名づけて解説書も作っている。これは1年を通じて使える仕組みになっている。この時計にはタンクが2つ付いており、上のタンクは時刻表示機構とつながれており、下のタンクは圧力調節器につながれている。夜明けに合わせて水のコックを開けると、上のタンクの水が圧力調節器を通して下のタンクに流れ込むので、圧力が常に一定になるようになっている。", "qas": [ { "question": "水時計が時間が来ると鐘を鳴らすように改良されたのは、紀元前270年から紀元500年の間に行われた水時計の二つの大きな改良点で、対応するものはどれか?", "id": "tr-288-09-000", "answers": [ { "text": "表示を見やすく華麗にすること", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1206年に作られた「他のどのものよりも優れている」と言われた水時計は誰が作ったものですか?", "id": "tr-288-09-001", "answers": [ { "text": "ジャザリー", "answer_start": 254, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジャザリーが1206年に作った他のどのものよりも優れているとも言われた時計の名を英語名で答えてください。", "id": "tr-288-09-002", "answers": [ { "text": "elephantclock", "answer_start": 309, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "火時計とは、何かを燃やして、その燃えた量(もしくは燃え残りの量)を調べることで、火を付けてから経過した時間を計る時計である。\n\n火時計の起源はよくわかっていない。記録としては520年の中国の古詩に書かれたものが知られている。この詩によると、夜間の時刻を知るのに使われていた。日本でも10世紀初頭には火時計が使われていた。\n\n初期の火時計として有名なのは、9世紀イギリスのアルフレッド大王によるものである。この火時計は、72ペニーウエート(約110グラム)のロウを使った6本のロウソクを使ったもので、ロウソクの長さは30センチメートルであり、2.5センチ毎に印がつけられていた。1本のロウソクが燃えきるのに約4時間、2.5センチの印あたり20分であった。火が付けられたろうそくは風で消えないように木枠の箱に入れられた。", "qas": [ { "question": "何かを燃やして、その燃えた量もしくは燃え残りの量を測って、火を付けてから経過した時間を計る時計はなんですか?", "id": "tr-288-10-000", "answers": [ { "text": "火時計", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本と中国で、記録上火時計を先に使ったのはどこですか?", "id": "tr-288-10-001", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 92, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "記録上火時計が中国に現れたのは何年ですか?", "id": "tr-288-10-002", "answers": [ { "text": "520年", "answer_start": 87, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "当時もっともすぐれていた火時計は、1206年にジャザリーが発明したものである。これには文字盤が付いており、現在と同じような回転接続(Bayonetmount)の仕組みが組み込まれていた。20世紀の科学史家ドナルド・ヒル(DonaldRoutledgeHill)はジャザリーの火時計を解説して「彼のロウソク時計は、芯の周りに蓋がかぶせられているので、溶けたロウが安定して落下する仕組みになっている。余ったロウが取り除かれる仕組みになっているので、時間とともに一定速度でロウソクが軽くなっていく。ロウソクは浅い皿の上に置かれており、その重さが滑車を使って文字盤に伝わり、時を示すようになっている。これほど精巧な火時計は無い」と語っている。\n\nランプ時計(oil-lampclock)というものもある。燃料油の減り具合で時を見るというものである。燃料油には、煤が少なく品質が安定していることから、主に鯨油が使われた。", "qas": [ { "question": "1206年、文字盤が付いていて、回転接続の仕組みが組み込まれている火時計を作ったのは誰ですか?", "id": "tr-288-11-000", "answers": [ { "text": "ジャザリー", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "燃料油の減り具合で時を見る時計は何ですか?", "id": "tr-288-11-001", "answers": [ { "text": "ランプ時計", "answer_start": 319, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ランプ時計の燃料として主に使われてるものは何ですか?", "id": "tr-288-11-002", "answers": [ { "text": "鯨油", "answer_start": 397, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "東洋にはさまざまな装飾が施された香時計があった。6世紀頃の中国で使われており、日本の正倉院には当時のものが残されている。なお、正倉院の香時計には漢字ではなく古代インドの文字デーヴァナーガリーが刻まれている。このことから、20世紀の中国史家エドワード・シェーファー(EdwardH.Schafer)は、これはインドで作られたものであり、仏教行事に使われていたと推定している。香からは大きな炎が上がらないので、ロウソクよりも燃え方が安定しており、火災の危険も小さい。\n\nいろいろなタイプのものがあるが、最も多いのが線香を用いたものである。この線香時計に使われた線香は線香時計専用に調整されたものであった。凝った作りのものも多くあり、例えば一定長さごとにおもりが付けられていて、時間が来るとそのおもりが落ちて銅鑼などを鳴らす仕掛けのものもあった。時計自体にも凝った装飾が施されていた。線香の香りもいろいろなものが使われており、一定時間ごとに香りが変わるものもあった。長時間使える渦巻状のものもあり、寺や家の天井から吊るして使われていた。\n\n日本の芸妓はサービス時間を線香時計で測って料金を計算していた(土地によって「線香代」、「花代」などと呼ばれる)。", "qas": [ { "question": "香時計が中国で使われたのはいつ頃ですか?", "id": "tr-288-12-000", "answers": [ { "text": "6世紀頃", "answer_start": 24, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本の正倉院の香時計に書き込まれた文字はどの文字ですか?", "id": "tr-288-12-001", "answers": [ { "text": "デーヴァナーガリー", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "エドワード・シェーファーによると、日本に残されている香時計はどこで作られたものだと推測されていますか?", "id": "tr-288-12-002", "answers": [ { "text": "インド", "answer_start": 153, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "線香をもっと複雑な紋様に形作ったものも使われた。宗教的な目的に使われたことが多く、その他には集会で使われたり、学者らに使われたりした。そのような線香は、溝が彫られた木や石で香を成型して作られたものである。主として中国で使われたが、日本でも一部で使われたことが知られている。ある時間が来ると特別の香りがするように作られたものもあった。燃え尽きるまでの時間は線香の長さと比例し、12時間ぐらいから1ヵ月ぐらいになるよう調整されていた。\n\n初期には木や石の型が使われていたが、宋の頃には金属の型が使われ始めた。金属だと微細な加工が可能なので、大小さまざまなものや、非常に凝った模様のものも作られた。また、小型のものもよく使われるようになり、贈答品などにも用いられた。これらの紋様線香時計は現代の時計収集家にも珍重されているが、そのほとんどは博物館や寺などが所有している。", "qas": [ { "question": "香時計で香が燃え尽きるまでの時間に関係するものは何ですか?", "id": "tr-288-13-000", "answers": [ { "text": "線香の長さ", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "香時計に金属を使い始めたのはいつ頃ですか?", "id": "tr-288-13-001", "answers": [ { "text": "宋の頃", "answer_start": 235, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "香時計を金属に作り始めてできるようになったのは?", "id": "tr-288-13-002", "answers": [ { "text": "微細な加工", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "11世紀、宋(王朝)(TechnologyoftheSongDynasty)の天文学者、時計技術者(horologist)、機械技術者の蘇頌(SuSong)は、首都開封に水動力式の天文時計を作った。エンドレスで動かせる時計としては世界初だった。\n\n同じころ、イスラムの天文学者らも精巧な天文時計を作り、モスクや天文台で使用していた。たとえば10世紀、アブドゥル・ラフマーン・スーフィーは天球儀の時間測定に使っている。11世紀のアブー・ライハーン・ビールーニーや、13世紀にムハンマド・イブン・アビー・バクル(MuhammadibnAbiBakr)が作ったのアストロラーベはとりわけ精巧だった。これらの装置は時間測定器であるとともに、カレンダーの役割も果たしていた。", "qas": [ { "question": "永久に動かせる最初の時計はどこで作られましたか?", "id": "tr-288-14-000", "answers": [ { "text": "宋", "answer_start": 5, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "永久に動かせる最初の天文時計を作ったのは誰ですか?", "id": "tr-288-14-001", "answers": [ { "text": "蘇頌", "answer_start": 68, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1206年にはジャザリーが水力式の天文時計台を作っている。これは動作のプログラムを組み事ができる一種のアナログコンピュータであった。高さは11フィート(3.4m)であり、時間に関するさまざまな指標を表示することができた。たとえば黄道、太陽、月の軌跡なども模型で表示されるようになっていた。季節変動の補正が手動で行えるようになっていた。さらにはきまった時間になると、5つの模型人形が水力で動き、それに合わせて音楽が奏でられるようになっていた。水タンクには浮き、圧力調整機、バルブ、プーリーなどが組み込まれていた。\n\n14世紀にはイブン・シャーティルが天文日時計を作っている。", "qas": [ { "question": "1206年、ジャザリーが作った天文時計台の動力は?", "id": "tr-288-15-000", "answers": [ { "text": "水力", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1206年、ジャザリーが作った水力式の天文時計台の高さは何メートルですか?", "id": "tr-288-15-001", "answers": [ { "text": "3.4m", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "機械式時計は小型化が進み、15世紀には家庭用の時計が、16世紀になると個人用の時計が作られた。1580年代、イタリアの博学者、ガリレオ・ガリレイは振り子を規則正しく動かす機構を発明した。ガリレオが振り子について研究したのは1582年以前のことであるが、彼は当時、それを時計に応用しようとはしなかった。初めて振り子時計を設計したのは1656年、オランダの科学者クリスティアーン・ホイヘンスだった。最初のものは1日に1分ほど狂うものであったが、後には10秒程度にまで縮められている。\n\n17世紀および18世紀の振り子時計に欠かせない存在なのがイエズス会である。1秒単位で正確な時計が作られており、イタリアの天文学の父ジョヴァンニ・バッティスタ・リッチョーリはこの時計を9人のイエズス会の会員に対して「1日(86,400秒)に87,000回ほど振動している」と解説している。当時の技術を駆使し、ホイヘンスなど同時代の科学者の助力を得て作られている。", "qas": [ { "question": "家庭用の時計と個人用の時計で先に補給されたのはどっち?", "id": "tr-288-16-000", "answers": [ { "text": "家庭用の時計", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "振り子時計の設計の根拠となる研究が始めてなされたのは誰ですか?", "id": "tr-288-16-001", "answers": [ { "text": "ガリレオ・ガリレイ", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "最初の振り子時計が作られたのはいつですか?", "id": "tr-288-16-002", "answers": [ { "text": "1656年", "answer_start": 165, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "近代的な縦長時計(longcaseclock)(英語ではgrandfatherclockともいう)は、1670年頃に王冠脱進機(anchorescapement)機構が発明されたのに始まる。それまでの振り子時計は旧式の縁脱進機(vergeescapement)が使われていたため、振り子の角が100°近くまで広くなければ動作しなかった。そのため、時計を小さくするためには、振り子の長さを短くせざるを得なかった。それに対して王冠機構では、振り子の角度はわずか4°–6°あれば十分であり、振り子の長さを長く、周期を短くすることができる。このため、小さな動力で動かすことが可能となり、摩擦や摩滅の影響が小さくなり、以前のものよりも時刻のずれが小さくなった。当時もっともよく使われていたのが長さ1メートルほどの振り子であり、片道1秒で動くものであった。この仕組みから、時計は必然的に細長く、そのほとんどが振り子が動くスペースで占められる形となった。\n\n振り子時計が生まれてから18年後の1675年、ホイヘンスは、イギリスの自然哲学者ロバート・フックが発明した板バネを改良してヒゲぜんまいを発明し、懐中時計の振子輪(balancewheel)用の調整バネ(balancespring)として利用した。これにより、懐中時計は非常に正確になり、今まで1日に数時間狂っていたところを10分程度にまで縮めることに成功した。", "qas": [ { "question": "王冠機構での振り子時計の振り子に必要な角度は?", "id": "tr-288-17-000", "answers": [ { "text": "4°–6°", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒゲぜんまいが懐中時計の振子輪用の調整バネ使われ始めたのはいつですか?", "id": "tr-288-17-001", "answers": [ { "text": "1675年", "answer_start": 439, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヒゲぜんまいが懐中時計に入れ込まれた後の懐中時計に1日に発生する誤差は?", "id": "tr-288-17-002", "answers": [ { "text": "10分程度", "answer_start": 583, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "Undertale", "paragraphs": [ { "context": "『Undertale』は、インディーゲームクリエイターであるトビー・フォックスが開発したコンピュータRPGだ。2015年9月15日にMicrosoftWindowsおよびmacOS向けに発売された。本記事では日本を含む地域でも発売された移植版についても記述する。\n\n本作はタイトルが示す通り、地上から隔絶された地底世界が舞台の物語である。プレイヤーは、モンスターたちの住む地底世界に落ちてしまった「ニンゲン」の子供を操作し、地上に帰るために様々なモンスターと出会い、ふれあいながら冒険を繰り広げていく。\n\n本作は「誰も死ななくていいやさしいRPG」をキャッチコピーにしており、必ずしもバトルでモンスターを倒す必要がない点がシステム上の大きな特徴である。一般的なゲームのようにモンスターを攻撃して倒すこともできるが、モンスターに話しかけたりいろいろと働きかけたりすることで戦闘を平和裏に終わらせることもでき、プレイの中でモンスターを殺すのか逃がすのか、その選択に応じてゲームの展開や結末が変化するようになっている。また、戦闘においては一般的なRPGのコマンド選択式のバトルに、シューティングゲームの要素を組み合わせた独自のシステムを採用していることから、「2DシューティングRPG」と呼ばれることもある。このほかにもレトロゲーム調のあたたかみのあるグラフィックや、独特な世界観、個性的なキャラクターなども本作の魅力の一つであるとされる。", "qas": [ { "question": "『Undertale』は誰が開発したの?", "id": "tr-289-00-000", "answers": [ { "text": "トビー・フォックス", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『Undertale』はいつ発売されたの?", "id": "tr-289-00-001", "answers": [ { "text": "2015年9月15日", "answer_start": 55, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『Undertale』の舞台はどこなの?", "id": "tr-289-00-002", "answers": [ { "text": "地底世界", "answer_start": 155, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『Undertale』のキャッチコピーは何?", "id": "tr-289-00-003", "answers": [ { "text": "「誰も死ななくていいやさしいRPG」", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『Undertale』は、アメリカ人の作曲家兼ゲーム開発者であるトビー・フォックスによって開発されたインディーズタイトルであり、グラフィックの一部分を除けば、ゲーム全編をほぼ1人だけで開発した。製作資金はクラウドファンディングで調達され、開発には2年以上が費やされた。影響を受けた作品はコメディ番組の『Mr.ビーン』が挙げられているほか、様々な日本のゲーム作品からも影響を受けているとコメントされている。\n\n本作はレビュアーに高く評価されており、とりわけ称賛を集めているのが、シナリオ・キャラクター・直感的な戦闘システムである。売上は100万本以上を記録、ゲーム系メディア主催のゲーム・オブ・ザ・イヤーをはじめとして、海外・国内問わず複数の年間ゲーム大賞にノミネートされている。\n\nまた、2018年10月31日より同じくトビー・フォックスによる『UNDERTALE』の姉妹編であるとされる『DELTARUNE』のチャプター1のデモ版の配信が開始された。プレイは無料。", "qas": [ { "question": "『Undertale』はほぼ何人が開発してゲームなの?", "id": "tr-289-01-000", "answers": [ { "text": "ほぼ1人", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『Undertale』の売上は何本以上を記録したか。", "id": "tr-289-01-001", "answers": [ { "text": "100万本以上", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『Undertale』に影響を与えたコメディ番組は何ですか。", "id": "tr-289-01-002", "answers": [ { "text": "『Mr.ビーン』", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『Undertale』は誰が開発したの?", "id": "tr-289-01-003", "answers": [ { "text": "トビー・フォックス", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『Undertale』は見下ろし型のRPGでありプレイヤーはモンスターの住処となった地底世界の町や洞窟を探索し、地上世界へ帰還することを目指す。プレイヤーはある1人の子供を操作し、行く手をさえぎるパズルを解いたり、モンスターに戦いを挑まれたりしながらストーリーを進めていく。戦闘ではモンスターを殺したり、逆に逃がしたり友達になったりすることもでき、プレイヤーの決断次第である。\n\nイベントやランダムエンカウントでモンスターと遭遇すると、バトルモードが始まる。プレイヤーが戦闘中に取ることのできる行動は「たたかう(FIGHT)」「こうどう(ACT)」「アイテム(ITEM)」「みのがす(MERCY)」の4つに大別される。「たたかう」でモンスターに攻撃を仕掛ける場合は、プレイヤーはタイミングよくボタンを押すことでダメージを上げることができる。敵を倒すとEXPとゴールドが手に入る。", "qas": [ { "question": "プレイヤーが戦闘中に取ることのできる行動は大きく分けていくつありますか。", "id": "tr-289-02-000", "answers": [ { "text": "4つ", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "プレイヤーが戦闘中に取ることのできる四つの行動には、「たたかう(FIGHT)」「こうどう(ACT)」「みのがす(MERCY)」そして何がありますか。", "id": "tr-289-02-001", "answers": [ { "text": "「アイテム(ITEM)」", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "敵を倒すとEXPと何を得ることができるか。", "id": "tr-289-02-002", "answers": [ { "text": "ゴールド", "answer_start": 379, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "かつて地球では「ニンゲン」と「モンスター」と呼ばれる二つの種族が対等に暮らしていた。やがて2つの種族の間で戦争が起こり、長い戦いの末に勝利を収めたニンゲン側が地上を支配する一方で、モンスターは地底へと追いやられた。そしてニンゲンは地上と地底を繋ぐ唯一の入口であるイビト山のゲートを魔法のバリアで封印し、モンスターたちを地底に閉じ込めた。『Undertale』の舞台となる「ちていのせかい」は、そのモンスターたちの領界である。ゲームは、201X年に1人のニンゲンの子供が地底に落ちるところからスタートする。\n\nニンゲンである主人公は、フラウィという言葉をしゃべる花に出会う。フラウィは、主人公の「タマシイ」は今は脆弱だが、「LV」または「LOVE」を上げれば強くなることができるのだという。さらにフラウィは、自分の攻撃を食らうと「LV」を得られると嘘をつき(このゲームでは、実際にはモンスターを倒して「EXP」を得ることで「LV」を上げられる)、主人公を殺しにかかる。主人公は危ういところをヤギのモンスター、トリエルに救出される。トリエルは母親のようにやさしくふるまい、パズルの解き方やモンスターを殺さずに戦闘を切り抜ける方法を教えてくれる。彼女は主人公を養子に迎えることで自分のもとへ置いておき、ニンゲンの「タマシイ」を狙う地底世界の王、アズゴア・ドリーマーの手から守ろうとしていた。しかし、やがて主人公は地上に戻るためトリエルのもとを去り、アズゴアの城を探しに向かう。地底世界を封印するバリアはアズゴアの城にあり、そこから地上へ戻ることができるのである。", "qas": [ { "question": "かつて地球ではいくつの種族が対等に暮らしていたか。", "id": "tr-289-03-000", "answers": [ { "text": "二つ", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "長い戦いの結果、地上を支配するようになったのはモンスターですかニンゲンですか。", "id": "tr-289-03-001", "answers": [ { "text": "ニンゲン", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "主人公はニンゲンなの、モンスターなの?", "id": "tr-289-03-002", "answers": [ { "text": "ニンゲン", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アズゴア・ドリーマーはニンゲンの何を狙うの?", "id": "tr-289-03-003", "answers": [ { "text": "「タマシイ」", "answer_start": 553, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "モンスターを1体でも殺していた場合、またはこの中立ルートをまだクリアしていない場合、次のようになる。\n主人公はアズゴアの城にたどり着き、ボスモンスターのタマシイを奪わなければバリアを越えられないという事実を知る。つまり、アズゴアを倒す必要があるのだ。アズゴアとの対面を前にサンズが現れて主人公を呼び止め、「LOVE」とは「LevelOfVIOLENCE」、「EXP」とは「EXecutionPoints」の頭文字だったという事実を明かす。魔法で体が構成されているモンスターは、高いLOVEすなわち冷酷な心の持ち主の攻撃に弱いのである。\nその後、主人公はアズゴアと対決する。決着後にフラウィが割り込み、瀕死のアズゴアの魂を滅ぼして6つのタマシイを奪う。タマシイを吸収したことにより、強大な力を手に入れ、主人公からセーブ・ロードの能力をも奪ったフラウィは、主人公を痛めつける。ところが、主人公の決死の働きかけによってタマシイたちはフラウィに歯向かい、6つのタマシイの力を借りた主人公はついにフラウィを打ち負かす。その後、サンズが電話をかけてきて、ニンゲンがいなくなったあと、アズゴア無き地底世界がどうなったのか教えてくれる。主人公の地下での行いによって電話の内容は異なる。", "qas": [ { "question": "「LOVE」は何の頭文字なの?", "id": "tr-289-04-000", "answers": [ { "text": "「LevelOfVIOLENCE」", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「EXP」は何の頭文字なの?", "id": "tr-289-04-001", "answers": [ { "text": "「EXecutionPoints」", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "フラウィは主人公が地底世界に来て最初に出会う花のモンスターだ。\n初めて出会った際から主人公に注目し、主人公の動向をひっそりと監視している。\nその正体は、アズリエルの遺灰の撒かれた金色の花にケツイが注入されることにより誕生した、彼の生まれ変わりである。その高いケツイにより、主人公と同じく、セーブやリセットの能力を持っていたが、主人公が地下に落ちてきたことによりその能力を失っている。タマシイを失ったことにより、他人への思いやりのない冷酷な性格へと変貌している。", "qas": [ { "question": "主人公が地底世界に来て最初に出会う花のモンスターは何ですか。", "id": "tr-289-05-000", "answers": [ { "text": "フラウィ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "トリエルは主人公が最初に訪れる遺跡の番人を務めるモンスターの女性で、ヤギのような姿をしている。\n心優しく母性に溢れ、地底に来たばかりの主人公を自身の住処で保護するが、地底世界から脱出するために外に出ようとした主人公を止めるため立ちふさがる。\nアズゴアとは元夫婦だが、現在は関わっていない。彼の考えを良しとしていない彼女の真の目的は、遺跡に落ちてきたニンゲンを匿い、アズゴアに渡さないようにすることであった。平和主義ルートでは、アズゴア戦の直前に現れ、戦闘を未然に防ぐ。", "qas": [ { "question": "トリエルは動物の何に似ているの?", "id": "tr-289-06-000", "answers": [ { "text": "ヤギ", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "トリエルの性別は何?", "id": "tr-289-06-001", "answers": [ { "text": "女性", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "サンズはスノーフルで出会うスケルトン兄弟の兄だ。怠惰な性格で、骨に関するギャグをよく言う。地底の見張り番をしているが、居眠りをしていることも。\n彼のセリフテキストは全て小文字かつ「ComicSans」というフォントのみで表記されており、名前の由来にもなっている。\n虐殺ルートでのみ実質的な最終ボスとして主人公の前に立ちふさがる。\n2019年9月5日に大乱闘スマッシュブラザーズSPECIALにMiiファイター射撃のMiiコスチュームとして登場した。\n\nパピルスはスケルトン兄弟の弟だ。\n几帳面で、やや尊大とすら言えるたいへんな自信家だが、天然ボケで心を鬼に出来ない優しい性格の持ち主。人気者になるため、アンダインのロイヤルガードにスカウトしてもらおうとしているが、優しすぎるその性格のため何度も断られている。\nニンゲンを捕まえればロイヤルガードに入れてもらえるだろうと考え、主人公を捕まえようと立ちふさがるが、その性格のため本気を出してくることはない。\n彼のセリフテキストもサンズのように独自の表記がなされており、全て大文字かつ名前の由来でもある「Papyrus」というフォントになっている。日本語版では彼のみ縦書きになる。", "qas": [ { "question": "サンズのセリフテキストはどんなフォントで表記されているか。", "id": "tr-289-07-000", "answers": [ { "text": "「ComicSans」", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "虐殺ルートの最終ボスは誰なの?", "id": "tr-289-07-001", "answers": [ { "text": "サンズ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "パピルスの方が年下なの、サンズの方が年下なの?", "id": "tr-289-07-002", "answers": [ { "text": "パピルス", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "パピルスのセリフテキストはどんなフォントで表記されているか。", "id": "tr-289-07-003", "answers": [ { "text": "「Papyrus」", "answer_start": 473, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "トビー・フォックスは本作の開発に2.7年を費やした。制作資金は、Kickstarter上のクラウドファンディングキャンペーンを通じて調達された。キャンペーンは2013年6月25日に始まり、当初の目標金額は5,000ドルだった。終了したのは2013年7月25日で、2,398人から51,124ドルが集まった。実に目標金額の10倍以上である。まず、フォックスはゲーム制作システムのGameMaker:Studioで戦闘システムを作り、その後ゲーム本編の制作に入った。フォックスはいわゆるJRPGのファンであるが、古いRPGのデザインにはかねてから退屈しており、そういったものにとらわれないゲームを作りたいと考えていた。開発にあたって目指したのは、「興味をそそられるキャラクター」をゲームに吹き込むこと、そして、「ゲームならではの表現媒体をストーリーテリングの道具として活かし、ストーリーとゲームシステムとを別々のレベルで扱うようなことはしない」ことである。\n\nグラフィックの一部分を除けば、フォックスはほとんど全編を1人で制作した。他人には頼らず作ろうと決心していたのである。しかし、フォックスにはゲーム開発の経験がほとんどなかった。子供のころは、3人の兄弟と一緒に『RPGツクール2000』でゲームづくりを楽しんでいた。しかし、それも完成までこぎつけたことはほとんどなかった。高校時代には『MOTHER2』のROMハックに取り組み、いくつか作品を残した。ゲーム開発のキャリアはそれだけだった。メイン・アーティスティック・アシスタントとしてテミー・チャン(TemmieChang)が参加し、スプライトとコンセプトアートを多く手がけている。フォックスは考えでは、もっと大人数のアーティストチームが加わっていたとしても、グラフィックの方向性は変わっていなかっただろうという。「プレイヤーが愛着を抱くのは、細かく描き込まれたキャラクターじゃない。シンプルに描かれたキャラクターのほうなんだ。そう確信している」。特に、シンプルなグラフィックを用いると、視覚的なギャグが使いやすいというメリットがあったという。", "qas": [ { "question": "制作資金の調達のためのキャンペーンはいつ始まりましたか。", "id": "tr-289-08-000", "answers": [ { "text": "2013年6月25日", "answer_start": 79, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "制作資金の調達のためのキャンペーンはいつ終わったの?", "id": "tr-289-08-001", "answers": [ { "text": "2013年7月25日", "answer_start": 119, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "制作資金の調達のためのキャンペーンでいくら集めることができたか。", "id": "tr-289-08-002", "answers": [ { "text": "51,124ドル", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "制作資金の調達のためのキャンペーンで実に目標金額の何倍以上を集めましたか。", "id": "tr-289-08-003", "answers": [ { "text": "10倍以上", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝)", "paragraphs": [ { "context": "ヴィルヘルム2世(WilhelmII.,1859年1月27日-1941年6月4日)は、第9代プロイセン王国国王・第3代ドイツ帝国皇帝である。", "qas": [ { "question": "ヴィルヘルム2世は、プロイセン王国の国王としては、第何代の国王だったの?", "id": "tr-290-00-000", "answers": [ { "text": "第9代", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴィルヘルム2世は、ドイツ帝国の皇帝としては、第何代の皇帝でしたか?", "id": "tr-290-00-001", "answers": [ { "text": "第3代", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴィルヘルム2世は、プロイセン王国国王とどの国の皇帝の位を兼任したか?", "id": "tr-290-00-002", "answers": [ { "text": "ドイツ帝国", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プロイセン王国とドイツ帝国を統治したもので、第3代ドイツ皇帝だったものは、誰か?", "id": "tr-290-00-003", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム2世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヴィルヘルム2世はプロイセン王子フリードリヒ(フリードリヒ3世)とイギリス王女ヴィクトリアの長男としてベルリンに生まれる。", "qas": [ { "question": "ヴィルヘルム2世の出生地は、どこなの?", "id": "tr-290-01-000", "answers": [ { "text": "ベルリン", "answer_start": 51, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴィルヘルム2世の父親は、どの国の王子でしたか?", "id": "tr-290-01-001", "answers": [ { "text": "プロイセン", "answer_start": 9, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴィルヘルム2世の母親は、どの国の王女でしたか?", "id": "tr-290-01-002", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 33, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヴィルヘルム2世は1888年に祖父ヴィルヘルム1世、父フリードリヒ3世が相次いで崩御したことにより29歳でドイツ皇帝・プロイセン王に即位した。", "qas": [ { "question": "ヴィルヘルム2世がドイツ皇帝に即位したのは、何年なの?", "id": "tr-290-02-000", "answers": [ { "text": "1888年", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴィルヘルム2世がプロイセン王に即位したのは、彼が何歳の頃でしたか?", "id": "tr-290-02-001", "answers": [ { "text": "29歳", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴィルヘルム2世は、誰の後を継ぎ、ドイツ皇帝・プロイセン王に即位したか?", "id": "tr-290-02-002", "answers": [ { "text": "フリードリヒ3世", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヴィルヘルム2世は祖父ヴィルヘルム1世の治世において長きにわたり宰相を務めたオットー・フォン・ビスマルク侯爵を辞職させて親政を開始し、治世前期には労働者保護など社会政策に力を入れ、社会主義者鎮圧法も延長させずに廃止した。", "qas": [ { "question": "長きにわたり宰相を務めたオットー・フォン・ビスマルクがその地位から引き下ろされたのは、誰によることだったの?", "id": "tr-290-03-000", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム2世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴィルヘルム1世の治世にオットー・フォン・ビスマルクは、どの職を務めていましたか?", "id": "tr-290-03-001", "answers": [ { "text": "宰相", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "社会主義者鎮圧法を廃止したのは、誰か?", "id": "tr-290-03-002", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム2世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴィルヘルム2世により宰相の地位から引き下ろされたのは、誰か?", "id": "tr-290-03-003", "answers": [ { "text": "オットー・フォン・ビスマルク", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかしその後ヴィルヘルム2世は保守化を強め、社会政策にも消極的になっていった。1908年のデイリー・テレグラフ事件以降は政治的権力を大きく落とした。", "qas": [ { "question": "デイリー・テレグラフ事件により政治的権力を大きく失ったのは、誰なの?", "id": "tr-290-04-000", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム2世", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヴィルヘルム2世が政治的権力を失う決定的な要因となった事件は、何ですか?", "id": "tr-290-04-001", "answers": [ { "text": "デイリー・テレグラフ事件", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "デイリー・テレグラフ事件がヴィルヘルム2世に及んだ影響としては、何の喪失が挙げられるか?", "id": "tr-290-04-002", "answers": [ { "text": "政治的権力", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴィルヘルム2世は、何年を基点に政治的権力を失っていったか?", "id": "tr-290-04-003", "answers": [ { "text": "1908年", "answer_start": 39, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一方、ヴィルヘルム2世は外交では一貫して帝国主義政策を推進し、海軍力を増強して新たな植民地の獲得を狙ったが、イギリスやフランス、ロシアなど他の帝国主義国と対立を深め、最終的に第一次世界大戦を招いた。", "qas": [ { "question": "ヴィルヘルム2世がとった外交政策は、何だったの?", "id": "tr-290-05-000", "answers": [ { "text": "帝国主義政策", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴィルヘルム2世は帝国主義政策の一環として何の増強に力を入れましたか?", "id": "tr-290-05-001", "answers": [ { "text": "海軍力", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴィルヘルム2世が海軍力の増強に力を入れたのは、何の拡大を図るためだったか?", "id": "tr-290-05-002", "answers": [ { "text": "植民地", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "帝国主義で重要なものとされるのは、何の拡大だったか?", "id": "tr-290-05-003", "answers": [ { "text": "植民地", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ヴィルヘルム2世のドイツはオーストリア=ハンガリー、オスマン=トルコ、ブルガリアと同盟を結んでイギリス、フランス、ロシアを相手に4年以上にわたって消耗戦・総力戦で戦うこととなった。", "qas": [ { "question": "当時、ドイツの同盟国には、オーストリア=ハンガリーとオスマン=トルコ以外に、どの国があったの?", "id": "tr-290-06-000", "answers": [ { "text": "ブルガリア", "answer_start": 35, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時、ドイツと対立した国には、イギリスとフランスのほかに、どの国がありましたか?", "id": "tr-290-06-001", "answers": [ { "text": "ロシア", "answer_start": 57, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリス、フランス、ロシア、ブルガリアのうち、同じ勢力として含まれないのは、どの国か?", "id": "tr-290-06-002", "answers": [ { "text": "ブルガリア", "answer_start": 35, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドイツ、オーストリア=ハンガリー、オスマン=トルコ、ロシアのうち、同じ勢力として含まれないのは、どの国か?", "id": "tr-290-06-003", "answers": [ { "text": "ロシア", "answer_start": 57, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1916年にパウル・フォン・ヒンデンブルク元帥とエーリヒ・ルーデンドルフ歩兵大将による軍部独裁体制が成立すると、ヴィルヘルム2世はほとんど実権を喪失した。", "qas": [ { "question": "軍部独裁体制成立により、有していた権力をほとんど失ったのは、誰なの?", "id": "tr-290-07-000", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム2世", "answer_start": 56, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "軍部独裁体制成立は何年に果たされましたか?", "id": "tr-290-07-001", "answers": [ { "text": "1916年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エーリヒ・ルーデンドルフとともに軍部独裁体制を成立させたのは、誰か?", "id": "tr-290-07-002", "answers": [ { "text": "パウル・フォン・ヒンデンブルク", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エーリヒ・ルーデンドルフとパウル・フォン・ヒンデンブルクにより成立された体制とは、何だったか?", "id": "tr-290-07-003", "answers": [ { "text": "軍部独裁体制", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヴィルヘルム2世自身は戦後もオランダのドールンで悠々自適に暮らし、ドイツ国内の帝政復古派の運動を支援した。1925年にドイツ大統領となったヒンデンブルクは帝政復古派であったが、ドイツ国内の議会状況から帝政復古は実現せず、最終的に反帝政派のアドルフ・ヒトラーによる独裁体制が誕生したことにより復位の可能性はなくなった。独ソ戦を目前にした1941年6月4日にドールンで死去した。", "qas": [ { "question": "ヴィルヘルム2世は、戦後どこで生活していたの?", "id": "tr-290-08-000", "answers": [ { "text": "ドールン", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "帝政復活は実現可能性はあるが、その数値がとても少ない状態であったが、誰によりその可能性すら完全になくなったか?", "id": "tr-290-08-001", "answers": [ { "text": "アドルフ・ヒトラー", "answer_start": 119, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴィルヘルム2世は、いつ死去したか?", "id": "tr-290-08-002", "answers": [ { "text": "1941年6月4日", "answer_start": 167, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴィルヘルム2世は、どこで死去したか?", "id": "tr-290-08-003", "answers": [ { "text": "ドールン", "answer_start": 177, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヴィルヘルム2世は1859年1月27日にプロイセン王国首都ベルリンのウンター・デン・リンデンの皇太子宮殿に生まれる。その時のプロイセン王の甥であるフリードリヒ王子(のちの第2代ドイツ皇帝・第8代プロイセン王フリードリヒ3世)とその妃ヴィクトリア(イギリス女王ヴィクトリアの長女)の間の第一王子だった。", "qas": [ { "question": "ヴィルヘルム2世の出生地は、どこなの?", "id": "tr-290-09-000", "answers": [ { "text": "ベルリンのウンター・デン・リンデンの皇太子宮殿", "answer_start": 29, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴィルヘルム2世の出生日は、いつですか?", "id": "tr-290-09-001", "answers": [ { "text": "1859年1月27日", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリードリヒ王子の長男は、誰だったか?", "id": "tr-290-09-002", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム2世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フリードリヒ王子の初子は、いつ生まれたか?", "id": "tr-290-09-003", "answers": [ { "text": "1859年1月27日", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヴィルヘルム2世は、1859年3月5日に洗礼を受けてフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトール・アルベルトと名付けられた。フリードリヒやヴィルヘルムはホーエンツォレルン家の伝統的名前であり、ヴィクトールとアルベルトは祖父母にあたる英女王ヴィクトリアとその王配アルバートからもらった名前である(ヴィクトールはヴィクトリアの男性名、アルベルトはアルバートのドイツ語読み)。ポツダムの宮殿で育てられることとなった。", "qas": [ { "question": "ヴィルヘルム2世が洗礼を受けたのは、いつなの?", "id": "tr-290-10-000", "answers": [ { "text": "1859年3月5日", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴィルヘルム2世にフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトール・アルベルトという名がつけられたのは、いつのことですか?", "id": "tr-290-10-001", "answers": [ { "text": "1859年3月5日", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "洗礼を受けると同時にヴィルヘルム2世に付けられた名前は、何か?", "id": "tr-290-10-002", "answers": [ { "text": "フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヴィクトール・アルベルト", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ホーエンツォレルン家の伝統的名前とされたのは、ヴィルヘルムと何だったか?", "id": "tr-290-10-003", "answers": [ { "text": "フリードリヒ", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヴィルヘルム2世は1869年1月27日に10歳の誕生日を迎えると第1近衛歩兵連隊に入隊し、少尉(Leutnant)に任官した(即位までに少将まで昇進)。ポツダムの近衛将校団に囲まれてフリードリヒ大王以来のプロイセン軍国主義に深く心酔していった。しばしばイギリスの自由主義的な制度を称えたがる「イギリス女」のヴィクトリアは彼ら近衛将校団の憎悪の対象であった。1870年に普仏戦争が発生するとヴィルヘルムも従軍を希望したが、年少すぎるとして認められず、軍人としての無念さを訴えていたという。", "qas": [ { "question": "1869年の時点でヴィルヘルム2世は何歳だったの?", "id": "tr-290-11-000", "answers": [ { "text": "10歳", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴィルヘルム2世が入隊したのは、何歳の頃ですか?", "id": "tr-290-11-001", "answers": [ { "text": "10歳", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴィルヘルム2世はが最初に勤務した部隊は、どこだったか?", "id": "tr-290-11-002", "answers": [ { "text": "第1近衛歩兵連隊", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "普仏戦争が勃発したのは、何年のことか?", "id": "tr-290-11-003", "answers": [ { "text": "1870年", "answer_start": 178, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "普仏戦争中の1871年1月18日に祖父であるプロイセン国王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝(カイザー)に即位し、ドイツ帝国が成立した。", "qas": [ { "question": "ドイツ帝国の創立者は、誰?", "id": "tr-290-12-000", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム1世", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ドイツ帝国における初代皇帝は、誰ですか?", "id": "tr-290-12-001", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム1世", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ドイツ帝国が創立されたのは、いつのことか?", "id": "tr-290-12-002", "answers": [ { "text": "1871年1月18日", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ドイツ帝国はどの国から発展して成立された国か?", "id": "tr-290-12-003", "answers": [ { "text": "プロイセン", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "オウム", "paragraphs": [ { "context": "オウム(鸚鵡、鸚䳇)は、オウム目オウム科に属する21種の鳥の総称である。\nインコ科(Psittacidae,trueparrots)、ミヤマオウム科、ニュージーランド産の大型のインコ)とともにオウム目(Psittaciformes)を構成する。\n現存するオウム目の系統の多くは、さまざまな面で解明されていない。\nしかしながら、オウム科を独立した科として位置づけることは広く認められている。\nオウム科はオーストラレーシアに分布しており、その範囲はフィリピン、ワラセアのインドネシア諸島東部からニューギニア島、ソロモン諸島およびオーストラリアに及ぶ。\n英語名\"Cockatoo\"は、この鳥のマレー語での名前である\"kaka(k)ktua\"に由来している(kaka\"インコ\"+tuwahあるいは\"姉妹\"+tua\"年上\")。", "qas": [ { "question": "オウム科が分布している地域はどこですか?", "id": "tr-291-00-000", "answers": [ { "text": "オーストラレーシア", "answer_start": 200, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オウムはその特徴的な冠羽(crest)と湾曲したくちばしから、即座に見分けることができる。\nオウム科で最小の種であるオカメインコは小型の鳥であるが、概ねオウムは、インコよりも大型である。\n羽毛は一般にインコと比べてあまりカラフルではなく、主に白色ないし灰色か黒色をしており、冠羽や頬ないし尾羽などに彩色のある部分が存在する。\nバタンインコの仲間(Cacatua属)は11種の白色の羽毛を持つオウムからなり、より小型のオウムの仲間であるcorella(Licmetis亜属)を含む。\nこれらに近い関係の系統にピンクと灰色をしたモモイロインコやピンクと白色のクルマサカオウムがある。\nクロオウムの仲間(Calyptorhynchus属)の5種は大型の黒色をしたオウムである。\n残りの3種、大型で黒い羽毛のヤシオウム、主に灰色のアカサカオウム、そして小型でおおむね灰色のオカメインコは、これ以外のオウムたちと進化における初期の未解明の分岐を通して関連している。", "qas": [ { "question": "オウムとインコはどちらが小さいですか?", "id": "tr-291-01-000", "answers": [ { "text": "インコ", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "一般的にオウムとインコはどちらが色彩豊かですか?", "id": "tr-291-01-001", "answers": [ { "text": "インコ", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "モモイロインコにはピンクの他に何色がありますか?", "id": "tr-291-01-002", "answers": [ { "text": "灰色", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オウムの食性は種子、塊茎、球茎、果実、花や昆虫からなっている。\n群れで採食することが多く、とりわけ地上で採食する場合に大きな群れをつくる。\n一雌一雄でつがいを作り、樹洞に営巣する。\n一部のオウムは居住環境の喪失、ことに営巣に適した洞をもつ大きな成熟した樹木の伐採による悪影響を被っている。\n逆に言えばこの結果、人為的な環境の改変によく適応した一部の種が農業において害鳥と考えられている。\nオウムはペットとして人気があるが、飼育することは容易でない。\nオカメインコの場合は、飼うことがとても容易なため、ペットとして非常に人気が高い。\n大規模な野生種の捕獲による違法な取引によって、絶滅に瀕している種もある。", "qas": [ { "question": "オウムはどこに巣を作りますか?", "id": "tr-291-02-000", "answers": [ { "text": "樹洞", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オウムの中で比較的飼うのが簡単な種類とは何ですか?", "id": "tr-291-02-001", "answers": [ { "text": "オカメインコ", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "cockatooという語は17世紀に遡る。\nその起源はこれらの鳥のマレー語の名前KakatuwahないしKakakTua(\"年長の兄弟\"の意味)がオランダ語のkaketoeを経て伝わった。\n17世紀にはcacato、cockatoonやcrockadoreなどの別称もあり、その他cocatoreやcocatooなどが18世紀に使われていた。\nこれらの別称は学名において科や属を表すCacatuidaeやCacatuaにそれぞれ使用されている。\nオーストラリア英語やスラングでは、秘密であったり違法な行い(ことに賭博)に従事する者が、見張りを命じられた人物をcockatooと呼ぶ。\nまた、小規模な農家のことを滑稽めかしたり、軽い侮蔑をこめてしばしばcockyfarmers(cockyはオーストラリア英語のスラングで、cockatooのこと)と呼ぶ。", "qas": [ { "question": "cockatooの起源となる言語は何ですか?", "id": "tr-291-03-000", "answers": [ { "text": "マレー語", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "cockatooとcocatoreはどちらが先に使われ始めましたか?", "id": "tr-291-03-001", "answers": [ { "text": "cockatoo", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "cockatoo、crockadore、cocatooの中で、同じ時期に使われていないものはどれですか?", "id": "tr-291-03-002", "answers": [ { "text": "cocatoo", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "現在のオウム科を、最初にインコ科Psittacidaeの亜科(Cacatuinae)として分類したのは、1840年に英国の自然学者ジョージ・ロバート・グレイである。\nこのとき、Cacatua属は初めて属として記載された。\nこのグループはさまざまな専門家たちによって代わる代わる、科と考えられたり亜科であると考えられてきた。\nアメリカの鳥類学者ジェイムズ・リー・ピーターズは1937年の著書Check-listofBirdsoftheWorldにおいて、また1990年には、オウム目の専門家であるジョセフ・フォーショウが1973年にこれらをオウム科として分類していたにも関わらず、シブリーとモンローもまたオウム亜科としての位置づけを維持した。\nその後の分子分岐学の研究によって、オリジナルのインコの祖先からの最も初期の分岐がニュージーランドのインコであるミヤマオウム科であり、これに続いて現在では明確にグループないし単系統群に分類されているオウム科が分岐し、これ以外のインコが南半球への適応放散によりパラキートやコンゴウインコ、ヒインコ、ボタンインコ、そしてその他のインコといったさまざまなインコ科の種へと多様化していったことが示されている。", "qas": [ { "question": "インコの祖先から最初の分岐点となるインコは何科ですか?", "id": "tr-291-04-000", "answers": [ { "text": "ミヤマオウム科", "answer_start": 376, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "Check-listofBirdsoftheWorldの著者は誰?", "id": "tr-291-04-001", "answers": [ { "text": "ジェイムズ・リー・ピーターズ", "answer_start": 171, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オウムの種の相互の関係は、現在でも完全には解明されてはおらず、また現時点でのデータはこの科を亜科に分割することを支持していない。\nとりわけアカサカオウム、(Callocephalonfimbriatum)とオカメインコの位置づけは厄介な問題となっている。\nオーストラリアの農夫にしてアマチュア鳥類学者であるジョン・コートニーは1996年に、これら2種の鳥の雛が餌をせがむときに頭を振る様子が他のオウムとは異なり、むしろインコの種に似ていることを観察している。\n1999年にアメリカの研究者であるデイビッド・M・ブラウンとキャサリン・A・トフトはミトコンドリアDNAの塩基配列の比較から、この二つの種が白色オウムよりも、むしろクロオウム(Calyptorhynchus属)により密接な関係があることを発見した。\nこのことはオーストラリアの鳥類学者リチャード・ショッデによる、Cacatuinae亜科を設けてここにアカサカオウムを白色オウムとともに分類するという提案と対照的である。\nまた、研究者のDwiAstutiによるオウムのDNAにおけるβ-フィブリノゲン遺伝子断片の分析でも、同様にアカサカオウムをここ(Calyptorhynchus属の近縁)に分類している。", "qas": [ { "question": "アカサカオウムとオカメインコはオウムよりも何の種類に似ていると観察されましたか?", "id": "tr-291-05-000", "answers": [ { "text": "インコ", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミトコンドリアDNAの塩基配列を比較して、アカサカオウムとオカメインコに深い関係のある鳥は何だとされましたか?", "id": "tr-291-05-001", "answers": [ { "text": "クロオウム", "answer_start": 312, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジョン・コートニーはどこの国の人ですか?", "id": "tr-291-05-002", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 128, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "Eolophus属、Lophocroa属およびCacatua属は明確で議論の余地の無いグループないし単系統群を形成する。\nこの単系統群に属する種は白変種であり、また性的二型性を示すことはない。\nEolophus属(モモイロインコ)をこのほかの属のBasal(初期の分岐)とすることで、さらにまた、Lophochroa属とCacatua属を互いに直近の関係(姉妹クレード)とすることで、この単系統群内での関係は確立したものとなっている。\nCacatua属はさらにLicmetis亜属(一般にcorellaとして知られている、アカビタイムジオウムなど)とCacatua亜属(いわゆる白色オウム、\"whitecockatoo\")へと分割される。\n紛らわしいことに、この\"whitecockatoo\"という語は属全体(Cacatua属)のみならず、この単系統群全体を指す名称としても使われている。\n残りの6種は羽毛の大部分が黒である。\nこれらのうち、ヤシオウムはそれ自身で単独のProbosciger属を構成しており、オウム科の最も初期の分岐の系統を引いている。\nCalyptorhynchus属の5種のオウムは一般にクロオウムとして知られておりこれらは二つの亜属-Calyptorhynchus亜属とZanda亜属-に分割される。\n前者のグループは性的二色性であり、雌は特徴的な縞模様の羽毛をもつ。\nさらに、2種は、ひな鳥が餌をせがむときの鳴き声の違いによっても特徴づけられる。", "qas": [ { "question": "ヤシオウムの羽毛は何色ですか?", "id": "tr-291-06-000", "answers": [ { "text": "黒", "answer_start": 408, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オウムの化石記録は、一般にインコのそれに比べるとかなり限られており、オーストラリアのリバースレイの初期中新世(1600~2300万年前)の堆積から発見された、わずか一種類の真のオウムの祖先(Cacatua属、おそらくはLicmetis亜属のオウムと推測される)の化石が知られているだけである。\n断片的ではあるが、この遺物はヒメテンジクバタンやモモイロインコによく似ている。\nまた、メラネシアのニューカレドニアやニューアイルランドでは、Cacatua亜属(白色オウム)の種の骨の半化石が見つかっているが、これらは初期のヒトの進出によって絶滅したもののようである。\nオウムの進化と系統発生に関して、これらの化石から分かることはかなり限られてはいる。\nしかし、リバースレイの化石によって亜科の分岐について、何らかの仮説的な年代決定が出来るのではないかと期待されている。", "qas": [ { "question": "オウムの化石はオーストラリアのどこで見つかりましたか?", "id": "tr-291-07-000", "answers": [ { "text": "リバースレイ", "answer_start": 42, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オウムは全般にずんぐりした体付きをした、オウム目のなかでは中型から大型の鳥で、その大きさは体長30–60cm(12–24in)、体重300–1,200g(0.66–2.6lb)に及ぶ。\nただし一種類、オカメインコはほかの種よりもかなり小型で細身であり、体長は32cm(13in)あるが、これにはその先細の長い尾羽根がふくまれる。\nまた体重は80-100g(2.8-3.5oz)である。\n頭頂部の動く冠羽はすべてのオウムに存在するが、多くの種でそれは華々しいものである。\n飛んでいた鳥が着地するとき、あるいは興奮しているとき、この冠羽は起立する。\nオウムは数多くの特徴をインコと共有しており、このなかには特徴的なカーブした形状の嘴や、対趾足の脚(趾(あしゆび)の内側2本が前方を、残りの2本が後方を向いている)などがある。\nまた一方ではオウムに固有の特徴も数多くあり、たとえば胆嚢が存在することや、そのほかのいくつかの解剖学的な細部、またインコに見られる明るい青や緑を出現させる、羽根のダイクテクスチャー組織が欠如していることなどが挙げられる。", "qas": [ { "question": "オウムとオカメインコの体重は、どちらが軽いですか?", "id": "tr-291-08-000", "answers": [ { "text": "オカメインコ", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オウムとオカメインコの全長は、どちらが大きいですか?", "id": "tr-291-08-001", "answers": [ { "text": "オウム", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "インコと同様に、オウムも短い足に強力な鉤爪をもち、よたよたと歩き、枝を上り下りする際にはしばしばその嘴を第三の手足として使用する。\n全般に高速飛行に適した幅の広い長い翼をもち、モモイロインコの記録ではその速度は70km/h(43mph)にも及ぶ。\nクロオウムの仲間(Calyptorhynchus属)、キバタンのような大型の白色オウムやクルマサカオウムなどは、より短く丸みを帯びた翼をしており、ゆっくりとした飛行をする。\nオウムは大きな嘴をしており、休息中に上下の嘴をこすり合わせることによってこれを鋭利に保っている。\n嘴の中で、筋肉の発達した大きな舌の助けを借りて種子を巧みに操ることで、種子の殻を取り除いてから食べることができる。\n殻を剥くときには下側の嘴が圧力を加え、舌が種子を適切な位置に固定する。\nそして上側の嘴が鉄床の役割を果たす。\n頭蓋骨の目の領域は、嘴を横方向に動かすための筋肉を保持するように強化されている。\n雄のオウムの嘴は、一般に雌のそれぞれの対応する部位よりわずかに大きいが、ヤシオウムにおいてはこの大きさの違いが際立っている。", "qas": [ { "question": "モモイロインコの飛行速度はどれくらいなの?", "id": "tr-291-09-000", "answers": [ { "text": "70km/h", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "雄と雌で大きさの違いがはっきりしているオウムの種類は何ですか?", "id": "tr-291-09-001", "answers": [ { "text": "ヤシオウム", "answer_start": 450, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オウムの羽毛は、インコのそれに比較して鮮やかな色彩に欠けており、ほとんどの場合、種によって黒、灰色ないし白のいずれかである。\n多くの種でその羽毛に、たいていは黄色、ピンクあるいは赤などの小さな彩色の領域があり、これらは通常、冠羽か尾羽根に見られる。\nモモイロインコとクルマサカオウムはもっと広範囲にピンクがかった色をしている。\n多くの種が目の周囲や顔にperiophthalmicringと呼ばれる明るい色彩の皮膚が露出した領域をもち、なかでもヤシオウムの赤い皮膚が大きく露出した部分が最も広範囲にわたり、顔の一部をカバーする。\nこのほかにもずっと狭い領域ではあるが、テンジクバタンやルリメタイハクオウムなど、白色オウムの一部の種でも顕著に見られる。\nほとんどの種で、雄と雌の羽毛はよく似ている。\n雌のオカメインコの羽毛は雄のそれより鈍い色をしている。\nしかしながら、最も際立った性的二型性はアカサカオウムとCalyptorhynchus亜属の2種のクロオウム、すなわちアカオクロオウムとテリクロオウムに見ることができる。\n虹彩の色が雌雄で異なっている種がいくつかあり、モモイロインコとクルマサカオウムの雌ではピンクないし赤であり、また白色オウムのいくつかの種では雌の虹彩は赤褐色である。\nすべての雄の虹彩は暗褐色をしている。", "qas": [ { "question": "オウムの顔にある明るい色彩の皮膚が露出した領域の名称を何といいますか?", "id": "tr-291-10-000", "answers": [ { "text": "periophthalmicring", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オウムの全ての雄は虹彩が何色ですか?", "id": "tr-291-10-001", "answers": [ { "text": "暗褐色", "answer_start": 554, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "最も広範囲のperiophthalmicringをもつオウムの種類は何ですか?", "id": "tr-291-10-002", "answers": [ { "text": "ヤシオウム", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オウムは一日を通して頻繁に羽繕いすることによってその羽毛を維持している。\n自分の羽根をすこしずつ噛むことでホコリや油を取り除き、羽枝を再整列させる。\nまたほかの鳥の、自分では届かない場所の羽根を繕ってやることもある。\nオウムは背中の下部にある羽脂腺から羽脂を分泌して、羽根を自分の頭やすでに油のついている羽根で拭くことで、これを羽根に塗布する。\n脂粉は腰部にある専門化された羽毛によって分泌され、オウムが羽繕いすることにより全身の羽毛に分配される。\n換羽は非常に時間のかかる複雑な過程である。\nクロオウムはその風切り羽根を一度に一本ずつ置き換えているように見える。\nその換羽が完了するには2年を要する。\nこの過程はほかの種でははるかに短く、たとえば、モモイロインコやテンジクバタンでは、その風切り羽根全部の換羽に要する時間は6ヶ月前後である。", "qas": [ { "question": "クロオウムとモモイロインコの換羽に要する時間が短いのはどちら?", "id": "tr-291-11-000", "answers": [ { "text": "モモイロインコ", "answer_start": 325, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "クロオウム、モモイロインコ、テンジクバタンの中で、換羽完了までの時間が最も長くかかるのはどれ?", "id": "tr-291-11-001", "answers": [ { "text": "クロオウム", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "クロオウムが換羽に要する時間はどれくらいですか?", "id": "tr-291-11-002", "answers": [ { "text": "2年", "answer_start": 294, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オウムの鳴声は大きく耳障りである。\nこの声には、互いに個々を識別できるようにすることや、仲間に捕食者の出現を警告すること、自分の気分を知らせること、群れのつながりを維持すること、そして巣を守るための警告などいくつもの機能がある。\n特定の鳴声の種類や鳴声の使い方は種によって異なる。\nたとえばニシオジロクロオウムは15種類にもおよぶ鳴声を使い分けるのに対し、クルマサカオウムなど、このほかの種はもっと少ない。\n一部の種は、アカサカオウムのように比較的静かであるが、採食の際に低くうなるような鳴声をだす。\nヤシオウムは鳴声のほかに、棒で枯れ枝を叩いて長距離のコミュニケーションを行う。\nまたオウムは何かを警戒しているときには、特徴的なシューシューという音を出す。", "qas": [ { "question": "ニシオジロクロオウムとクルマサカオウムはどちらが鳴き声の使い分けが多いですか?", "id": "tr-291-12-000", "answers": [ { "text": "ニシオジロクロオウム", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オウムが警戒している時の鳴き声はどんな音ですか?", "id": "tr-291-12-001", "answers": [ { "text": "シューシュー", "answer_start": 315, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オウムの分布はインコのそれに比べると遥かに限定されており、自然界での生息はオーストラレーシアに限られている。\n野生では21種のうち11種がオーストラリアのみに分布しており、さらに7種がフィリピン諸島、インドネシア、パプアニューギニアおよびソロモン諸島のみに分布する。\n興味深いことにボルネオ(近くのパラワンとスラウェシでの彼らの存在にもかかわらず)や多くの太平洋の島嶼(化石の痕跡がニューカレドニアで記録されているにも関わらず)ではオウムは見つかっていない。", "qas": [ { "question": "野生のオウムが最も多く分布している地域はどこ?", "id": "tr-291-13-000", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 69, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オウムとインコはどちらの方が分布範囲が広いですか?", "id": "tr-291-13-001", "answers": [ { "text": "インコ", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "3種がニューギニアとオーストラリアの両方に分布する。\nなかには広範囲に分布する種もあり、たとえばモモイロインコに関して言えば、ほぼオーストラリア全土に分布する。\nところがこれ以外の種は、たとえば西オーストラリアのボーダンクロオウムのように大陸の一部にしか分布しないものや、インドネシアのタニンバル諸島にしか分布しないシロビタイジオウムのように島嶼に限定されたグループなど、狭い分布域にしか生息しない。\n中には偶発的に、ニュージーランドやシンガポール、香港、パラウのように、その本来の分布域以外の地域に移入された種もあるし、2種のオーストラリア産ジオウムはオーストラリア大陸の中で、本来の分布域ではない地域に移入された。", "qas": [ { "question": "ニューギニアとオーストラリアの両方に分布するオウムは何種ですか?", "id": "tr-291-14-000", "answers": [ { "text": "3種", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オウムは亜高山性の樹林帯からマングローブにまでいたる広範囲な居住環境に生息する。\nしかしながら、すべてのタイプの環境に生息する種は存在しない。\nモモイロインコやオカメインコのように、最も広範囲に分布する種は開けた土地に特化しており、草の種子を採食する。\n彼らはたいてい非常に移動性が高く、速く飛ぶことができ、また非定着性である。\n鳥の群れは種子やその他の食料源を探したり、食べたりしながら、内陸の広大な領域をわたってゆく。\n旱魃によってこれらの群れはより乾燥した地域から農耕地へと、さらに追い立てられることになるだろう。\nこのほかのテリクロオウムのような種は、森林地帯、雨林帯、潅木地や山岳地帯の樹林にすら生息する。\nアカオクロウムはマングローブに生息する。\nそしてルソン島北部に分布していないのは、ここでのマングローブ林の欠如に関係があるのかもしれない。\n樹林に生息するオウムは、一般に定着性である。\nというのもここでは食料の供給がより安定的で、予測可能だからである。\nさまざまな種が人間によって改変された居住環境によく適応しており、農耕地や、また雑踏した都市部ですら見ることができる。", "qas": [ { "question": "モモイロインコは何を食べますか?", "id": "tr-291-15-000", "answers": [ { "text": "草の種子", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マングローブに生息するオウムの種類は何ですか?", "id": "tr-291-15-001", "answers": [ { "text": "アカオクロウム", "answer_start": 309, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オウムは昼行性であり、食料を探すために日光を必要とする。\n彼らは早起きではなく、むしろ日光がそのねぐらを暖めるのを待って餌を探しに行く。\nすべての種が一般に高い社会性を備え、ねぐらにつく時や、採食、移動に際してはカラフルで騒々しい群れをつくる。\nこの群れの大きさは食料の状況によって変化し、潤沢な時期には100羽かそれ以下の小さな群れを形成するが、旱魃やその他の逆境の時期においては、数千から数万羽の群れにまで膨れ上がることがある。\nキンバリーでのある記録には、32,000羽のアカビタイムジオウムの群れのことが記述されている。\n開けた土地に生息する種は、森林地帯に生息するものよりも大きな群れをつくる。\nたいていの種はねぐらの場所からえさ場までの間、長大な距離を移動するかもしれないが、それでもすべての種はねぐらの近くに水場を必要とする。\nオウムの水浴びには特徴的な方法がいくつもあり、雨の中で逆さまにぶら下がったり飛び回ったりする、あるいはまた樹冠のぬれた葉の中で羽ばたいたりすることもある。", "qas": [ { "question": "オウムの行動性質は何?", "id": "tr-291-16-000", "answers": [ { "text": "昼行性", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "キンバリーで記録されたオウムの群れは何羽だったの?", "id": "tr-291-16-001", "answers": [ { "text": "32,000羽", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "オウムは、さまざまな範囲の植物性食物を主として摂取する、融通の利く食べ手である。\nすべての種においてその食餌の大部分は種子によって構成され、その大きく強力な嘴によって割って食べられる。\nモモイロインコ、ジオウムやクロオウムの一部は、主に地上で採食するが、これ以外の種はほとんど樹上で採食する。\n地上で採食する種は群れで餌をあさる傾向があり、種子が集中している場所では密集した小競り合いをするグループを形成し、種子がもっとまばらに分布している時には分散したラインを形成する。\nまた、採食するには視界が良好な開けた場所を好む。\nヒメテンジクバタンとテンジクバタンは塊根や根を掘り返すための長く伸びた嘴を持ち、またクルマサカオウムは、doublegree(Emexaustralis、タデ科の一年草)をねじって引き抜くために、この周囲を円を描くように歩き、地下の部分を取り除く。", "qas": [ { "question": "オウムの主食は何ですか?", "id": "tr-291-17-000", "answers": [ { "text": "植物性食物", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "テンジクバタンの嘴が長いのは、何を食べるためですか?", "id": "tr-291-17-001", "answers": [ { "text": "塊根や根", "answer_start": 280, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ほとんどの種は樹冠の中で餌を探す。\nこれはオーストラリアの乾燥地帯の自然の特徴であるSerotiny(ユーカリ属やバンクシア属、ハケア属といったグループの植物によるガムナッツや球果の種の大量供給による備蓄)を利用するためである。\nこれらの樹木性果実の果肉は、ほとんどの生物種にとって近付き難く、このために主にインコとオウム、そしてもっと熱帯気候の地域では齧歯類によって収穫される。\nより大型の球果は小動物には頑丈すぎるが、オウムの大きな嘴なら開けることができる。\nナッツや果実の多くは餌を探しているオウムの重量を支えられないような小枝の端に実る。\nそこで、オウムは枝をたわめて実を引き寄せてからこれを足で保持する。", "qas": [ { "question": "ナッツや果実の多くはどこに実りますか?", "id": "tr-291-18-000", "answers": [ { "text": "小枝の端", "answer_start": 265, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "オウムは種によって幅広い範囲の食物を食べる万能選手であったり、また特定の食物に特化したスペシャリストであったりする。\nテリクロオウムはAllocasuarina属(モクマオウ科に属するグループのひとつ)の球果に特化しており、特にこの中の1種類(A.verticillata)を好む。\nこの鳥は足で球果を保持して、強力な嘴で細かく引き裂いてから、舌で種子を取り出す。\nたくさんの昆虫を、ことに繁殖期に捕食する種もある。\n事実キイロオクロオウムの食餌は大部分が昆虫から構成されている。\nこの大きな嘴は腐りかけた樹木から地虫や幼虫を引き出すために使われる。\nオウムが採食のために費やさねばならない時間は季節によって変動する。\n食料が潤沢な時期は採食のために毎日、朝と夕方の数時間を費やすだけでよく、一日の残りは木の中でくつろいだり羽繕いをして過ごす。\nしかし冬季にはほとんど一日を採食に費やさねばならない。\n繁殖の季節になると鳥の栄養的な要求が増大する。\nこのため、この時期には食料を探し求めるための時間が長くなる。\nオウムは大きなそ嚢をもっており、これにより木の中にこもった後数時間のあいだ食料を貯蔵して消化することができる。\n困難な時期になるとオウムはまたその食料に関する万能性を発揮する。\n食料を見つけるため広い範囲を移動し、より未熟な植物の果実や種子を採食し、なかには根茎を掘り起こすためにその嘴を使う種もある。", "qas": [ { "question": "鳥の栄養的な要求が増大する時期はいつ?", "id": "tr-291-19-000", "answers": [ { "text": "繁殖の季節", "answer_start": 401, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "キイロオクロオウムの主食は何?", "id": "tr-291-19-001", "answers": [ { "text": "昆虫", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オウムは一雄一雌で繁殖を行い、つがいの絆は長年にわたる。\n多くの鳥は性的に成熟する以前に群れの中でペアとなり、少なくとも1年は繁殖を行わない。\n雌が初めて繁殖を行うのは3歳から7歳の間のいずれかであり、たいてい雄はこれより年かさである。\n鳥が雛を取り上げて哺育できる技術を発達させることができるように、性的な成熟は遅れ、これはほかの種の鳥に比べて長期にわたる。\nなかには若鳥が両親のもとに1年以上とどまる種もある。\nまた、オウムは何年も同じ営巣場所に戻ってくる性質(sitefidelity)を示すことがある。\n求愛行動は一般に、ことに確立したペアの間では単純である。\nただしクロオウムの仲間だけは、求愛給餌行動を行う。\n確立したペアは互いに羽繕いをしあう行動をするが、おそらくはそのつがいの絆の強さのため、抱卵が始まるとすべての形態の求愛行動は次第に少なくなる。", "qas": [ { "question": "雌が初めて繁殖を行うのは何歳から何歳の間ですか?", "id": "tr-291-20-000", "answers": [ { "text": "3歳から7歳の間", "answer_start": 84, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ペアになるオウムは、ほとんどのケースで雄と雌のどちらが年かさですか?", "id": "tr-291-20-001", "answers": [ { "text": "雄", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ほとんどのインコと同様にオウムも空洞に営巣する鳥で、樹洞に巣をつくるが自分でその穴を掘ることはできない。\nこれらの洞は、木の枝が折れたあとの腐朽や破壊によるものや、キノコやシロアリのような昆虫によるもの、あるいは生息域が重なる場合にはキツツキによって形成されたものと言う場合すらある。\n大抵の場所でこのような穴は不足しており、このため同じ種の仲間のみならず、異なる種の鳥や動物との競争の原因となる。\n一般にオウムは自分の体よりもわずかに大きい洞を選ぶ。\nこの結果、体の大きさによってそれぞれの種が、そのそれぞれに対応した(そして大きさの異なる)樹洞に営巣する。\n機会に恵まれれば、オウムは地上7–8m(23–26ft)の高さで、水と食料に近い場所に営巣することを好む。", "qas": [ { "question": "オウムは地上から何mの高さに巣を作るのを好みますか?", "id": "tr-291-21-000", "answers": [ { "text": "7–8m", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "巣穴は小枝や木片、葉のついた枝などで内張される。\nオウムの卵は楕円形で、営巣場所のおかげでカモフラージュが必要ないため、当初は白である。\nとはいえこれは抱卵の過程で変色してゆく。\nその大きさの範囲はヤシオウムやアカオクロオウムの55mm×37mm(2.2in×1.5in)から、オカメインコの26mm×19mm(1.0in×0.75in)におよぶ。\n卵の数はグループにより異なっており、ヤシオウムやこのほかの一部の大型のオウムではたった1個の卵しか産まないし、もっと小型の種では2個から8個のあいだのいずれかである。\nまた食糧事情も卵の数に影響を与える。\n最初の産卵が失敗であった場合に、2度目の産卵を行うことができる種もある。\n卵の20%前後が無精卵である。\nオウムの抱卵と哺育の責任は、クロオウムのようにそのいずれも雌のみが受け持つ場合もあり、あるいはこのほかの種のように、雌雄の間で分担して受け持つ場合もある。\nクロオウムの場合では、雌は雄によって日に何度も餌を与えられる。\nヤシオウムの雛だけは裸で生まれて来るが、この他のすべての種の雛は、黄色がかった綿羽に覆われて生まれる。\nオウムの孵化までの期間は種の大きさによって決まる。\n小型種であるオカメインコの場合20日前後の期間であるのに対し、大型種のニシオジロクロオウムの卵が孵化するまでには29日かかる。", "qas": [ { "question": "アカオクロオウムとオカメインコの卵のサイズはどちらが大きいですか?", "id": "tr-291-22-000", "answers": [ { "text": "アカオクロオウム", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "大型のオウムと小型の種では、どちらがたくさん卵を産みますか?", "id": "tr-291-22-001", "answers": [ { "text": "小型の種", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オカメインコとニシオジロクロオウムでは、卵の孵化に時間がかかるのはどちらですか?", "id": "tr-291-22-002", "answers": [ { "text": "ニシオジロクロオウム", "answer_start": 554, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オカメインコとニシオジロクロオウムでは、卵の孵化の時間が短いのはどちらですか?", "id": "tr-291-22-003", "answers": [ { "text": "オカメインコ", "answer_start": 525, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "巣立ちまでの期間もまた種の大きさによって異なり、大型種になるほど巣立ちが遅くなる。\nこれはまた、季節や環境の条件からも影響を受けるし、そしてまた複数の卵を産む種では、兄弟との競争によっても変化する。\n一部の種では巣立ちに要する期間について知られていることの多くが、禽舎での研究に依存している。\n飼育されているオカメインコは5週間で巣立ちを迎えることができ、同様に大型種のヤシオウムでは11週間後である。\n巣立ちまでの期間、幼鳥は洞の中にとどまっている間はjuvenileplumage(幼鳥の羽根)によって覆われている。\n翼と尾の羽根は当初は成長が遅いが、初列風切り羽根が現れると、より急速に成長するようになる。\n幼鳥はこの期間のおおよそ2/3という短い間に、成鳥の体重の80~90%まで成長する。\nそして巣穴を離れるまでに安定水準に達する。\nこの体重になると羽根が生えそろうが、翼と尾羽根は成鳥の大きさに到達する直前まで成長が続く。\n若鳥の成長率は、巣立ちできる数と同じように、食料の減少や悪天候によって悪影響を受ける。", "qas": [ { "question": "オカメインコとヤシオウムの巣立ちまでに要する期間が短いのはどちらですか?", "id": "tr-291-23-000", "answers": [ { "text": "オカメインコ", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オカメインコとヤシオウムを比較すると、巣立ちまでの期間が長くかかるのはどちらですか?", "id": "tr-291-23-001", "answers": [ { "text": "ヤシオウム", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "マラッカ王国", "paragraphs": [ { "context": "マラッカ王国(英語:MalaccaSultanate、マレー語:كسلطاننملايوملاكKesultananMelayuMelaka)は、15世紀から16世紀初頭にかけてマレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家(1402年-1511年)である。漢籍史料では満剌加と表記される。16世紀初頭にマラッカに滞在し、『東方諸国記』を著したポルトガル人トメ・ピレスによれば、「マラッカ」の語源は「隠れた逃亡者」に由来するとされている。マレー半島という交易において重要な位置に立地していたことが国家の形成に多大な影響を与え、香料貿易の中継港としてインド、中東からイスラム商船が多数来航し、東南アジアにおけるイスラム布教の拠点ともなった。当初から中国・明王朝の忠実な朝貢国であり、同時期に交易国家として繁栄した琉球王国とも通好があった。", "qas": [ { "question": "マラッカ王国は、どこにに栄えたマレー系イスラム港市国家であるの?", "id": "tr-292-00-000", "answers": [ { "text": "マレー半島南岸", "answer_start": 89, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『東方諸国記』を著したのは、誰ですか?", "id": "tr-292-00-001", "answers": [ { "text": "トメ・ピレス", "answer_start": 178, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トメ・ピレスによれば、「マラッカ」の語源は何に由来するとされているか?", "id": "tr-292-00-002", "answers": [ { "text": "「隠れた逃亡者」", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "漢籍史料でマラッカ王国は何と表記されるか?", "id": "tr-292-00-003", "answers": [ { "text": "満剌加", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マラッカ王家の末裔が治めるジョホール王国で編纂された年代記『スジャラ・ムラユ(SejarahMelayu)』によると、マラッカ王室はアレクサンドロス大王の血を引き、インドのチョーラ王国の王ラジャ・チュランと海の王の娘の間の子を祖とする。ラジャ・チュランの三男スリ・トリ・ブワナはパレンバンの王に迎え入れられ、後にシンガプラ(現在のシンガポール)に移住した。", "qas": [ { "question": "『スジャラ・ムラユ』によると、マラッカ王室は誰の血を引いたとされるの?", "id": "tr-292-01-000", "answers": [ { "text": "アレクサンドロス大王", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『スジャラ・ムラユ』によると、マラッカ王室の祖はどの国の王と海の王の娘の間の子とされますか?", "id": "tr-292-01-001", "answers": [ { "text": "チョーラ王国", "answer_start": 86, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パレンバンの王に迎え入れられ、後にシンガプラに移住した人は、どの国の王の息子か?", "id": "tr-292-01-002", "answers": [ { "text": "チョーラ王国", "answer_start": 86, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "彼の曾孫がマラッカに移住して王国を建設したと『スジャラ・ムラユ』は伝えるが、ピレスの『東方諸国記』や中国の史料より、実際の王国の建国者は後述するパラメスワラ(Parameswara、パラミソラとも)と判明している。『スジャラ・ムラユ』に書かれるスリ・トリ・ブワナから彼の玄孫の五代にわたっての事績は、パラメスワラ一代に起きた事件を5人の人物に託したものである。", "qas": [ { "question": "実際のマラッカ王国の建国者は、誰だと判明されたの?", "id": "tr-292-02-000", "answers": [ { "text": "パラメスワラ", "answer_start": 72, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『東方諸国記』は誰が著したものですか?", "id": "tr-292-02-001", "answers": [ { "text": "ピレス", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "14世紀末から15世紀初頭にかけてマジャパヒト王国で起きた内戦(パルグルグ戦争)に巻き込まれたスマトラ島南部パレンバンのシュリーヴィジャヤ王国の王子パラメスワラが、従者を伴ってマレー半島に逃れたのがマラッカ王国の起源である。当初一行はトゥマシク(シンガプラ、現在のシンガポール)に逃れたがトゥマシクは海賊たちが跋扈する危険な地であり、またタイのアユタヤ朝からの攻撃に晒されたためにマレー半島を移動し、15世紀初頭にパレンバン、シンガプラなどに居住する「オラン・スラット」(またはバジャウ)と呼ばれるマラッカ海峡の海上民の協力を得て村落を造り、集落を「マラッカ」と名付けてパラメスワラが王となった。", "qas": [ { "question": "マジャパヒト王国で内戦が起きたのは、何世紀末から何世紀初頭にかけてのことなの?", "id": "tr-292-03-000", "answers": [ { "text": "14世紀末から15世紀初頭", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "誰が従者を伴ってマレー半島に逃れたのが、マラッカ王国の起源でありますか?", "id": "tr-292-03-001", "answers": [ { "text": "パラメスワラ", "answer_start": 74, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マラッカ王国は、どの国の者の移住により建国されたか?", "id": "tr-292-03-002", "answers": [ { "text": "パラメスワラ", "answer_start": 74, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パラメスワラの一行が作った集落は、何と呼ばれたか?", "id": "tr-292-03-003", "answers": [ { "text": "「マラッカ」", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "建国の時期は1402年と推定されることが多いが、14世紀末にすでに王国が成立していた可能性を指摘する声もある。1405年に明への朝貢を開始、東西貿易の中継港としての道を歩み始める。パラメスワラの子イスカンダル・シャーはマレー半島におけるマラッカ王国の支配領域を拡大し、マラッカ海峡の交易路を確保するために北スマトラの東海岸に存在するサムドラ・パサイ王国に目を付けるが、当時のマラッカの軍事力はパサイに比べて劣っていた。ピレスによると、イスカンダル・シャーは戦争という手段に訴えず婚姻関係を作る道を選択し、72歳という高齢にもかかわらずパサイの王女を娶った。パサイの仲介によって敵対していたマジャパヒトとの関係が良化し、またパサイに住むイスラム教徒のマラッカへの移住も始まった。イスカンダル・シャーは周辺地域の海賊、漁師にマラッカへの移住を積極的に勧め、彼の治世の3年目(1416年-1417年ごろ)には人口は2000から6000人に到達した。", "qas": [ { "question": "マラッカ王国の建国時期は、何年と推定されることが多いの?", "id": "tr-292-04-000", "answers": [ { "text": "1402年", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マラッカ海峡の交易路を確保するためには、どの王国を通すしか方法がなかったか?", "id": "tr-292-04-001", "answers": [ { "text": "サムドラ・パサイ王国", "answer_start": 166, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マラッカ海峡の交易路を確保するために、イスカンダル・シャーはパサイ王国とどのような関係を構築する道を選びましたか?", "id": "tr-292-04-002", "answers": [ { "text": "婚姻関係", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "パサイ王国との婚姻関係の構築とマジャパヒトとの関係の良化を果たしたマラッカ王国の王は、誰か?", "id": "tr-292-04-003", "answers": [ { "text": "イスカンダル・シャー", "answer_start": 98, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マラッカの発展にはパラメスワラが連れてきたシュリーヴィジャヤの貴族と海上民以外に、明が実施した私貿易の禁止によって東南アジア各地に留まらざるを得なくなった中国人のコミュニティも寄与していた。彼らは明への朝貢貿易を組織し、また中国の造船技術と東南アジア島嶼部本来の造船技術が合わさったジャンク船を建造して海洋交易で活躍したのである。", "qas": [ { "question": "マラッカの発展に寄与したシュリーヴィジャヤの貴族と海上民は、誰が連れてきたの?", "id": "tr-292-05-000", "answers": [ { "text": "パラメスワラ", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1445年にスリ・パラメスワラ・デワ・シャーが明に朝貢の使節を派遣した際、護国の勅書、衣服、朝貢のための船の下賜を明に要請して認められているが、この要請は簒奪によって即位したスリ・パラメスワラ・デワ・シャーの不安定な立場と、タイのアユタヤ朝からの外圧が強まっていたことの裏返しとも言える。1446年に即位したムザッファル・シャーの治下、王の即位直後にアユタヤの攻撃を受ける。マレー半島西岸のクランを統治していたブンダハラ(宰相)家のトゥン・ペラクの活躍によってアユタヤ侵攻を撃退、マレー半島のパハン、スマトラ中部(現在のリアウ州)にマラッカ成立以前より存在したと思われるインドラギリ、カンパールに成立した都市国家を従属させるべく軍を進めた。ムザッファルの治世においては、彼の異母兄弟であり、中国人の血を引くと伝えられる副王ラジャ・プテの活躍が軍事と外交の両方で目覚ましい活躍を見せ、ラジャ・プテはパハン、カンパル、インドラギリの王と婚姻を結び、それらの地を支配したマラッカ分家の祖となった。", "qas": [ { "question": "ムザッファル・シャーが即位したのは、何年ですか?", "id": "tr-292-06-000", "answers": [ { "text": "1446年", "answer_start": 144, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マラッカ王国がアユタヤから攻撃を受けたのは、誰が即位した直後のことなの?", "id": "tr-292-06-001", "answers": [ { "text": "ムザッファル・シャー", "answer_start": 154, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アユタヤからの攻撃の撃退は、誰の活躍があったこそできたことか?", "id": "tr-292-06-002", "answers": [ { "text": "トゥン・ペラク", "answer_start": 216, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "トゥン・ペラクの活躍により外部勢力の攻撃を撃退したのは、誰の時代のことか?", "id": "tr-292-06-003", "answers": [ { "text": "ムザッファル・シャー", "answer_start": 154, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "次のスルタン・マンスールの治世にマラッカ王国は繁栄期を迎える。ムザッファルの遺言でラジャ・プテがマンスールの後見人を任せられるが、成人したマンスールは王と並ぶ権威を持つラジャ・プテを暗殺して統治者としての地位を確立する。ラジャ・プテの殺害を不服として反乱を起こしたパハン、カンパル、インドラギリを再征服し、ロカンを従属させた後、これらの国から金を貢納品として受け取り、また婚姻関係を築いて各国間との仲をより緊密にした。", "qas": [ { "question": "マラッカ王国における繁栄期は、誰の時代だった?", "id": "tr-292-07-000", "answers": [ { "text": "スルタン・マンスール", "answer_start": 2, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マンスールが統治者としての地位を確立するため、暗殺したのは、誰ですか?", "id": "tr-292-07-001", "answers": [ { "text": "ラジャ・プテ", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マンスールによるラジャ・プテの暗殺を不服として反乱を起こしたのは、パハンとカンパルのほかに、どの国か?", "id": "tr-292-07-002", "answers": [ { "text": "インドラギリ", "answer_start": 141, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マンスールは各国間の仲をより緊密にするために、どのような関係を築いたか?", "id": "tr-292-07-003", "answers": [ { "text": "婚姻関係", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第7代スルタン・アラウッディン・リアト・シャーの治世にマラッカの勢力圏にあった港市国家の再独立が始まる。マンスール・シャーの治世以前に従属させた港市国家は交易において自立性を保ちつつもマラッカの支配を受け入れていたが、それらの勢力が王国の従属下から脱していったのである。アラウッディンの治世は短く、彼はメッカ巡礼の準備中に病死した。16世紀のポルトガル人コメンタリオスはアラウッディンの死因について、彼がパハン、インドラギリの王を強引にメッカ巡礼に同行させようとしたために毒殺された説を伝える。その子マームド・シャーは幼くしてスルタンに擁立され、支配領域はマレー半島の一部に限られていたが、叔父であるパハン王やブンダハラら有能な後見人に支えられ、交易港としてのマラッカは最盛期を迎える。", "qas": [ { "question": "アラウッディン・リアト・シャーは、第何代スルタンであるの?", "id": "tr-292-08-000", "answers": [ { "text": "第7代スルタン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マンスール・シャーの治世以前からマラッカ王国の従属下にあった港市国家が、そこから脱していったのは、誰の時代のことですか?", "id": "tr-292-08-001", "answers": [ { "text": "アラウッディン・リアト・シャー", "answer_start": 8, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アラウッディンが毒殺された可能性を取り上げたのは、誰か?", "id": "tr-292-08-002", "answers": [ { "text": "コメンタリオス", "answer_start": 177, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マームド・シャーの時代のマラッカ王国は、何として最盛期を迎えたか?", "id": "tr-292-08-003", "answers": [ { "text": "交易港", "answer_start": 323, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1509年にディオゴ・ロペス・デ・セケイラの率いるポルトガル遠征隊がマラッカに初めて到着し、当初マームド・シャーはポルトガルに交易と商館の建設の許可を与えた。しかし、インドにおけるポルトガルのイスラム教徒迫害を聞き及んでいたイスラム商人がマームド・シャーにポルトガルの排除を働きかけ、王国は奇襲をかけて60人前後のポルトガル人を殺害し、ポルトガル艦隊は24人の捕虜を残してインドに帰還した。", "qas": [ { "question": "ポルトガルがマラッカ王国での交易と商館の建設の許可を取得したのは、誰の時代のこと?", "id": "tr-292-09-000", "answers": [ { "text": "マームド・シャー", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1509年に初めてマラッカに到着したポルトガルの遠征隊は、誰が率いていましたか?", "id": "tr-292-09-001", "answers": [ { "text": "ディオゴ・ロペス・デ・セケイラ", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マラッカ王国にいるイスラム商人たちが、マームド・シャーにポルトガルの排除を要請したのは、どこにおけるポルトガルのイスラム教徒迫害を聞き及んだからか?", "id": "tr-292-09-002", "answers": [ { "text": "インド", "answer_start": 83, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マラッカ王国にポルトガルの遠征隊が初めてやってきたのは、何年のことか?", "id": "tr-292-09-003", "answers": [ { "text": "1509年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この知らせを聞いたポルトガルのインド総督アフォンソ・デ・アルブケルケは1511年7月に16隻の艦隊を率いてマラッカに来航した。アルブケルケはマラッカに対して捕虜の釈放、要塞建設の用地の提供、賠償金の支払いを要求したが、マラッカ側は捕虜の釈放を除いた条件の受け入れに難色を示したため、上陸したポルトガル軍の攻撃を受けた。マラッカは中国、タイ、ビルマ、あるいは地中海地域より輸入した火砲と自国で生産した鉄砲で応戦するが、マラッカ側は火器の使用法を熟知しておらず、性能もポルトガルのものが勝っていた。また、国内のジャワ商人と中国商人の中にポルトガルと内通した一派があって統率を欠き、翌8月にマラッカは陥落した(マラッカ占領(1511年))。", "qas": [ { "question": "アフォンソ・デ・アルブケルケが、マラッカ王国でポルトガル人が殺害されるなどの事件のことを耳にし、マラッカに来航したのは、いつなの?", "id": "tr-292-10-000", "answers": [ { "text": "1511年7月", "answer_start": 35, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1511年7月にマラッカに来航した16隻の艦隊を率いていたのは、誰ですか?", "id": "tr-292-10-001", "answers": [ { "text": "アフォンソ・デ・アルブケルケ", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マラッカ王国は、来航してきたアフォンソ・デ・アルブケルケの要求に対し、どの条件だけは受け入れると答えたか?", "id": "tr-292-10-002", "answers": [ { "text": "捕虜の釈放", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポルトガルによりマラッカが陥落されたのは、何年のことか?", "id": "tr-292-10-003", "answers": [ { "text": "1511年", "answer_start": 35, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マームド・シャーはマラッカ南部のムアルに逃れて再起を図るが失敗し、パハンに移った。さらに海上民が多く住むビンタン島で体勢の立て直しを図り、1512年以降5回にわたってマラッカを攻撃するが失敗した。マラッカ海峡域の港湾都市は対ポルトガル連合を組んで抗戦するが、ポルトガルからマラッカを奪還することはできなかった。マームド・シャーの子アラウッディン・リアヤト・シャーはマラッカ王室の分家であるパハン王家の協力の元、ジョホールにジョホール王国を建設した。", "qas": [ { "question": "マームド・シャーは、マラッカを奪還することができたの?", "id": "tr-292-11-000", "answers": [ { "text": "できなかった", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジョホール王国を建国したのは、誰ですか?", "id": "tr-292-11-001", "answers": [ { "text": "アラウッディン・リアヤト・シャー", "answer_start": 165, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "パハン王家は、どの王室の分家であるか?", "id": "tr-292-11-002", "answers": [ { "text": "マラッカ王室", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アラウッディン・リアヤト・シャーがジョホール王国を建国するのに力を貸したのは、誰か?", "id": "tr-292-11-003", "answers": [ { "text": "パハン王家", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1509年にポルトガル遠征隊が到着した当時、マラッカは東南アジアにおける最大の中央市場として機能していたが、マラッカの陥落によって交易拠点としての機能が東南アジア各地の港湾都市に分散した。ポルトガルがマラッカ海峡の通行を管理しようとし、またイスラム商人に対して徹底的な弾圧を行ったために、隊商の交易ルートがマレー半島を陸路で横断した後にスマトラ島の西海岸を南下してスンダ海峡に到達するものに変化した。", "qas": [ { "question": "1509年の時点で東南アジアにおける最大の中央市場として機能していたのは、どこなの?", "id": "tr-292-12-000", "answers": [ { "text": "マラッカ", "answer_start": 22, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "隊商の交易ルートの変化をもたらしたのは、どの国によるマラッカ陥落でしたか?", "id": "tr-292-12-001", "answers": [ { "text": "ポルトガル", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポルトガル人が徹底的に弾圧したのは、誰だと書かれているか?", "id": "tr-292-12-002", "answers": [ { "text": "イスラム商人", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "隊商の交易ルートは、マレー半島を陸路で横断した後に、どこを南下してスンダ海峡に到達するものに変化したか?", "id": "tr-292-12-003", "answers": [ { "text": "スマトラ島の西海岸", "answer_start": 168, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この交易ルートの変化によってマレー半島のジョホール、パタニ、パハン、スマトラ島のアチェ、バンテンなどの港湾都市は急速に利益をあげ、国際社会内での重要性を増していった。また、マラッカから放逐されたイスラム商人は、これらのマラッカ占領後に発展した港湾都市に逃れて反ポルトガル運動を展開した。特に多くのイスラム商人が逃れたアチェ王国において、彼らは政治的に分裂していたスマトラ沿岸部の統一において大いに貢献した。", "qas": [ { "question": "隊商の交易ルートの変化により、急速に利益を上げたのは、マレー半島とどの島の港湾都市なの?", "id": "tr-292-13-000", "answers": [ { "text": "スマトラ島", "answer_start": 34, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジョホールとパタニ、アチェのうち、マレー半島の港湾都市ではないのは、どちらの都市ですか?", "id": "tr-292-13-001", "answers": [ { "text": "アチェ", "answer_start": 40, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マラッカ占領後に発展した港湾都市のうち、特に多くのイスラム商人が逃れた港湾都市は、どこか?", "id": "tr-292-13-002", "answers": [ { "text": "アチェ", "answer_start": 158, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マラッカから放逐されたイスラム商人は、マラッカ占領後に発展した港湾都市において、どのような運動を展開したか?", "id": "tr-292-13-003", "answers": [ { "text": "反ポルトガル運動", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "アフリカ", "paragraphs": [ { "context": "アフリカ(ラテン語:Āfrica、英語:Africa)は、広義にはアフリカ大陸およびその周辺のマダガスカル島などの島嶼・海域を含む地域の総称で、六大州の一つ。\n阿州。\n漢字表記は阿弗利加。", "qas": [ { "question": "アフリカ州を漢字表記するとどうなる?", "id": "tr-293-00-000", "answers": [ { "text": "阿州", "answer_start": 80, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アフリカを漢字表記するとどうなる?", "id": "tr-293-00-001", "answers": [ { "text": "阿弗利加", "answer_start": 89, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "地理的には地中海を挟んでヨーロッパの南に位置する。\n赤道を挟んで南北双方に広い面積を持つ唯一の大陸でもあり、それに伴って多様な気候領域がある。\n面積は3020万平方キロメートルで、地球表面の6%、陸地全体の20.4%を占めるが、人口は約10億人で、世界人口比では14.72%を占めるに過ぎない。\n2011年3月現在、島嶼を含めて54の独立国がある(西サハラを含めると55カ国)。\n経済成長率は2010年に約5.0%、2011年予測は5.5%である。", "qas": [ { "question": "経済成長率が高いのは2010年と2011年のどちらですか?", "id": "tr-293-01-000", "answers": [ { "text": "2011年", "answer_start": 208, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アフリカの人口は何億人ですか?", "id": "tr-293-01-001", "answers": [ { "text": "約10億人", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アフリカはアフリカ単一起源説からヒトの起源とされ、エチオピアからは20万年前のホモ・サピエンスの化石が発見され、世界遺産の南アフリカの人類化石遺跡群は人類の発祥の地と呼ばれている。\nアフリカは、かつてヨーロッパ諸国から「暗黒大陸」と未開の地のように呼ばれたが、ヨーロッパに知られていなかった(あるいはその存在を認めようとしなかった)だけで、実際にはヨーロッパより古い歴史と文明があった。\nアフリカの地理的区分ではサハラ砂漠が大きな境界となり、この北側を「ホワイトアフリカ」、南側を「ブラックアフリカ」あるいは「サブサハラアフリカ」と呼び分ける場合もある。\nまた、北アフリカ、中部アフリカ、東アフリカ、南部アフリカ、西アフリカに分ける区分もある。", "qas": [ { "question": "アフリカとヨーロッパはどちらが先に歴史と文明が始まったの?", "id": "tr-293-02-000", "answers": [ { "text": "アフリカ", "answer_start": 91, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「サブサハラアフリカ」とは北側と南側のどちらを指しますか?", "id": "tr-293-02-001", "answers": [ { "text": "南側", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ホワイトアフリカ」、「ブラックアフリカ」、「サブサハラアフリカ」の中で北側を指している名称はどれですか?", "id": "tr-293-02-002", "answers": [ { "text": "「ホワイトアフリカ」", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "当初は、サハラ砂漠以北の地域をさす言葉であった。\n正確な語源ははっきりとはわからないが、有力説としては、現在のチュニジアに当たるカルタゴ近郊の北部アフリカに居住していたセム系部族を指す「Afri」(アフリ)と推測される。\nこの言葉はフェニキア語の「afar」(「dust」の意)に結びつけられがちだが、1981年にはベルベル語の「洞窟に住む人々」を指す「ifri」が転じたものという仮説が提示された。\nこれら「afar」「ifri」「Afri」は現在のアルジェリアおよびリビアに住むベルベル人のことである。\nほかに、カルタゴ人が使っていたファラカ(faraqa:植民地の意)の変形または転訛という説や先住民の一部族アフェル(Afer、複数形Ifei)に由来するという説もある。\n他にも様々な仮説が提唱されており、歴史家レオ・アフリカヌス(1488年-1554年)は、ギリシア語の「phrike(φρίκη)」(「寒い」または「怖い」の意)に否定を意味する接頭辞a-(α-)が上接し、寒さや恐れが無いところを意味する「aphrike(Αφρική)」となったと主張した。\nまたジェラルド・マッセイen:GeraldMasseyは1881年に、エジプト語の「af-rui-ka」が語源だとの仮説を発表した。\nそれによると、「af-rui-ka」は「カーの始まりに回帰する」を意味する。\nこの「カー」は「すべての人々」と、カーの始まりという用法で「子宮・生誕地」両方の語源である。\nエジプト人にとってアフリカとはまさに「誕生したところ」を意味する。", "qas": [ { "question": "アフリカの語源の有力候補として挙がっている言葉とは何?", "id": "tr-293-03-000", "answers": [ { "text": "「Afri」", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "エジプト語の「af-rui-ka」が語源だと主張した人は誰?", "id": "tr-293-03-001", "answers": [ { "text": "ジェラルド・マッセイ", "answer_start": 487, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "起源が上述のいずれの説であるにしろ、ローマ時代、カルタゴがアフリカ属州になると、ラテン語で「アフリカ人の土地」を表す「Africaterra」(「-ca」は形容詞化接尾辞女性形)から「Africa」という語形が生じた。\nこれが現在の『アフリカ』という言葉の直接の始まりである。\nその後、サハラ砂漠以南についての人類の知見が広がるに従い、サハラ砂漠の南北を含めて一つの大陸の名となった。\nアイルランド語の女性名AifricはAfricaと英語化されるが、地名とは関係が無い。", "qas": [ { "question": "「Africaterra」はラテン語でどのような意味ですか?", "id": "tr-293-04-000", "answers": [ { "text": "「アフリカ人の土地」", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中生代初期、アフリカは他の大陸と同じく超大陸パンゲアを形成した。\nその状況下で、獣脚類や竜脚形亜目また原始的な鳥盤類が、三畳紀終わり頃まで繁殖していた。\nこれらの化石はアフリカのいたるところで発見され、特に南部で顕著に見られる。\n三畳紀とジュラ紀を分ける地球規模の絶滅を示す発掘は、アフリカではあまり行われていない。", "qas": [ { "question": "獣脚類や鳥盤類の化石が特に多く発見されたのはアフリカの北部と南部のどちら?", "id": "tr-293-05-000", "answers": [ { "text": "南部", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "北は地中海、西は大西洋、東はインド洋および紅海に面する。\n南端のアガラス岬で大西洋とインド洋が接する。\n南北約8,000km、東西約7,400km。\n海岸線は総延長26,000kmである。\nかつてはスエズ地峡によりユーラシア大陸とつながっていたが、現在ではスエズ運河が開通して分断され、この運河がアフリカとアジアの境界と受け取られる場合もある。", "qas": [ { "question": "アフリカの海岸線は全部で何kmありますか?", "id": "tr-293-06-000", "answers": [ { "text": "26,000km", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アフリカの南北と東西の距離はどちらが長いですか?", "id": "tr-293-06-001", "answers": [ { "text": "南北", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "大陸北側に世界最大の砂漠であるサハラ砂漠をもち、これによって大陸は大きく二つに分けられる。\nまた大陸東部にはパンゲア大陸がゴンドワナ・ローラシア大陸に分裂したときの名残である2,000kmの隆起地帯(ドーミング)と、それを東西に切り裂く世界最大長のアフリカ大地溝帯(東アフリカ地溝帯)が南北に走る。\nこの南端にはアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロ山(5,895m)があり、これは他の五大陸最高峰が非火山であるのに対し唯一火山活動で形成されたものである。\n大地溝帯には複数の火山や東アフリカ大湖沼群があり、西側で接するエチオピア高原などの高地部分にもニアムラギラ山(en)やニーラゴンゴ山などの活火山やヴィクトリア湖などの古代湖が残る。\nしかしアフリカ大陸全体で、標高500m以上の領域は半分程度に過ぎない。\n理由はこれも大陸移動が関係しており、アフリカはパンゲア大陸の中心部として移動した距離が短く、山脈が形成されにくかったことが挙げられる。", "qas": [ { "question": "五大陸最高峰の中で唯一の火山とは何?", "id": "tr-293-07-000", "answers": [ { "text": "キリマンジャロ山", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アフリカ大陸にある古代湖とは何?", "id": "tr-293-07-001", "answers": [ { "text": "ヴィクトリア湖", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "キリマンジャロ山の高さはどれくらいですか?", "id": "tr-293-07-002", "answers": [ { "text": "5,895m", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アフリカ大陸全般の経済成長で自然保護区が設置されるものの、依然として色濃く豊かな自然、人類学術的な側面から、生物の多様性とヒトを含めたその起源の候補地とされている。\n気候は多様である。\nほぼ赤道直下に位置する大陸中央部は西部のギニア湾沿岸から大陸中部のコンゴ盆地にかかる熱帯雨林で高温多湿な地域が広がり、これを挟んでセレンゲティ高原などのサバンナ地域が広がる。\nさらに高緯度に向かうと砂漠気候域に入り、北にはサハラ砂漠、南にはカラハリ砂漠が広がる。\n大陸北端と南端は地中海性気候域となる。", "qas": [ { "question": "アフリカ大陸の北側にある砂漠とは何?", "id": "tr-293-08-000", "answers": [ { "text": "サハラ砂漠", "answer_start": 204, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アフリカ大陸の南側にある砂漠とは何?", "id": "tr-293-08-001", "answers": [ { "text": "カラハリ砂漠", "answer_start": 213, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アフリカの多くの国々は情勢が非常に不安定であり、ヨーロッパなどに比べると遙かに治安が悪い地区が多い。\n政治的に安定している国はごくわずかである。\nイギリスの雑誌『エコノミスト』は、2008年にアフリカ各国の政治情勢を民主主義達成度から分析し公表した。\nこれによると、対象50カ国(ソマリア、セーシェル、サントメ・プリンシペ及び西サハラ、ソマリランドは含まれない)のうち、完全な民主主義を実現している国はモーリシャスただ1国で、15カ国は独裁と民主政の混合状態、28カ国は完全な独裁体制と分析されている。", "qas": [ { "question": "『エコノミスト』の分析では、対象50ヵ国のうち完全な民主主義の国はいくつだと発表しましたか?", "id": "tr-293-09-000", "answers": [ { "text": "1国", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アフリカの中で完全な民主主義国家はどこですか?", "id": "tr-293-09-001", "answers": [ { "text": "モーリシャス", "answer_start": 201, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アフリカの中で完全な独裁体制である国はいくつありますか?", "id": "tr-293-09-002", "answers": [ { "text": "28カ国", "answer_start": 230, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "このような体制が出来上がった背景には、植民地支配の影響がある。\n現在のアフリカ各国の国境線は地形や民族構成などを反映しない単純な直線が多い。\nこれはヨーロッパ列強間の力関係から引かれたもので、異なる民族や部族が混在または分離される結果を生んだ。\nそのため独立後にも国民はまとまりを欠き、強権的な政府体制としてアフリカ型社会主義もしくは開発独裁体制が選択された。\nしかし前者は構造的に経済発展には向かず、後者は汚職や主導権争いが絶えなかった。\nさらには非アフリカ人を排除したために人材不足にも陥り、結果的に、かつては「AA」もしくは南北問題と呼ばれて同じように発展途上に苦しんだアジア各国が急速な経済発展を実現しつつあるのに対し、アフリカは「例外的に成長しない」経済体制と評され、取り残されたまま現在に至る。", "qas": [ { "question": "アフリカの国境線はどのような線が比較的多いですか?", "id": "tr-293-10-000", "answers": [ { "text": "直線", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "結果的に経済発展に向かなかった政治体制とはどんなものだったの?", "id": "tr-293-10-001", "answers": [ { "text": "アフリカ型社会主義", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "汚職や主導権争いが絶えなかったアフリカの政治体制とは何でしたか?", "id": "tr-293-10-002", "answers": [ { "text": "開発独裁体制", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "そのために内戦や紛争も多く、代表的なものでは1991年からのソマリア内戦、1997年からのコンゴ内戦、2003年からのダルフール紛争などが尾を引いている。\n国民の大多数がイスラム教徒であり、比較的に安定した政治を行っていた北アフリカも、2010年に発生した各国の動乱以来、政権が大きく揺らいでいる。\n終わりが見えない内戦や紛争、および貧困から、アフリカでは多くの難民が発生している。\n国際連合難民高等弁務官事務所推計による2009年末のアフリカ難民は約230万人、さらに国内の避難民は約650万人にのぼる。\nまた、農村疲弊による人口の都市部集中に伴ったスラム化も進展し、モザンビークやタンザニアなどでは人口の90%に相当するまで膨れ上がり、治安悪化などの問題が生じている。", "qas": [ { "question": "ソマリア内戦、コンゴ内戦、ダルフール紛争の中で2番目に早く始まったものはどれなの?", "id": "tr-293-11-000", "answers": [ { "text": "コンゴ内戦", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2009年末の推計によるアフリカ難民と国内の避難民はどちらの方が人数が多かったの?", "id": "tr-293-11-001", "answers": [ { "text": "国内の避難民", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "コンゴ内戦とソマリア内戦はどちらが先に始まったの?", "id": "tr-293-11-002", "answers": [ { "text": "ソマリア内戦", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "IMFによると、2009年のアフリカ52ヶ国の合計のGDPは1兆1848億ドル(約100兆円)であり、全世界の約2%のシェアとなっている。\nアフリカの1国平均のGDPは227億ドル(約2兆円)であり、鳥取県(平成18-19年度)とほぼ同じ経済規模である。\nアフリカ最大の経済大国は南アフリカである。\nアフリカ唯一のG20参加国であり、2010年には史上初めてアフリカ大陸でサッカーのワールドカップを開催している。\nまたアフリカ第2の経済大国はエジプトであり、北部アフリカにおいて影響力の強い国の一つになっている。", "qas": [ { "question": "アフリカ大陸で最初にサッカーワールドカップを開催した国はどこ?", "id": "tr-293-12-000", "answers": [ { "text": "南アフリカ", "answer_start": 140, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アフリカ1国の平均GDPは、日本のどの県とほぼ等しいですか?", "id": "tr-293-12-001", "answers": [ { "text": "鳥取県", "answer_start": 100, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2009年のアフリカ52ヶ国のGDPの合計はいくらでしたか?", "id": "tr-293-12-002", "answers": [ { "text": "1兆1848億ドル", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アフリカで最も経済が豊かな国はどこ?", "id": "tr-293-12-003", "answers": [ { "text": "南アフリカ", "answer_start": 140, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "豊富な天然資源を持ちながら、アフリカは世界で最も貧しい発展途上の状態にある。\nこれは、エイズやマラリアなど深刻な感染症の蔓延、高い腐敗認識指数で指摘される政治によって引き起こされる人権の抑圧や経済政策の失策、また国民の低水準なリテラシーや不得手な外交、さらにゲリラから大量殺戮まで含まれる部族間や軍隊による戦闘など、さまざまな要因の結果である。\n国際連合の2003年度人間開発報告書によると、開発の度合いを示す尺度において調査対象の最低ランク25か国(151位から175位まで)を全てアフリカの国々が占めた。", "qas": [ { "question": "アフリカで蔓延している感染症とはマラリアと何?", "id": "tr-293-13-000", "answers": [ { "text": "エイズ", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "開発の度合いを示す尺度において、最低ランクにランクインしたのはどこの国々だったの?", "id": "tr-293-13-001", "answers": [ { "text": "アフリカ", "answer_start": 242, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この統計は、サブサハラが1日1.25USドルという貧困の基準を脱することが世界中で非常に難しい地域であることを示す。\n1981年のデータではこの地域に住む50%(2億人に相当)の人々が貧困層に相当していたが、1996年には58%まで上昇し、2005年には率は50%となったが人口の絶対数は3.8億人に増加している。\n貧困層平均所得は1日0.7USドルに過ぎず、2003年の数値は1973年よりも悪化している。\nこの原因を、外国企業と外国政府主導による経済自由化政策の失敗に求めることもあるが、このような外的要因よりも国内政治の失策が大きいという指摘もある。", "qas": [ { "question": "サブサハラで貧困層に属している割合が多かったのは1981年と1996年のどちらですか?", "id": "tr-293-14-000", "answers": [ { "text": "1996年", "answer_start": 104, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "サブサハラの1日の貧困層平均所得はいくらですか?", "id": "tr-293-14-001", "answers": [ { "text": "0.7USドル", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1995年から10年間にアフリカは経済成長を続け、2005年の平均成長率は5%に達した。\nさらに、埋蔵石油を持ち輸出に振り分けるため掘削に着手したアンゴラ・スーダン・赤道ギニアなど数カ国はさらなる成長が見込まれる。\nさらにアフリカには世界中のコバルト90%、白金90%と金の50%、クロム98%、タンタライト(en)70%、マンガン64%、ウラン33%が存在すると考えられている。\nコンゴ民主共和国には、携帯電話の製造に欠かせないコルタンが世界の70%に相当する量に上り、ダイヤモンドも世界の30%以上が同国に存在する。\nギニアは世界最大のボーキサイト供給国である。\nこのようにアフリカの経済成長はほとんどが資源提供を背景としたもので、工業や農業の発展ではなく、雇用創出や貧困からの脱却に寄与していない。\n実際に、2008年にリーマンショックを原因として起こった食糧危機では、1億人が飢餓状態に陥った。", "qas": [ { "question": "世界で最も多くのコルタンが存在している国はどこ?", "id": "tr-293-15-000", "answers": [ { "text": "コンゴ民主共和国", "answer_start": 191, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "世界で最も多くボーキサイトを供給している国はどこ?", "id": "tr-293-15-001", "answers": [ { "text": "ギニア", "answer_start": 261, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アフリカに存在する天然資源の中で、世界と比較して最も多く割合を占めているものは何?", "id": "tr-293-15-002", "answers": [ { "text": "クロム", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "白金と金はどちらの方が多くアフリカに存在していますか?", "id": "tr-293-15-003", "answers": [ { "text": "白金", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "特に中華人民共和国はかねてからアフリカ諸国へのスタジアム外交や大統領府などの箱物やタンザン鉄道の建設に象徴される強い結びつきを構築してアフリカ連合本部も建設しており、2009年に中国はアフリカ最大の貿易相手国になった。", "qas": [ { "question": "2009年以降、アフリカの最大の貿易相手国になった国はどこ?", "id": "tr-293-16-000", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 89, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "鉱業を除けばアフリカの主要産業は農業であり、他国と産業構造が著しく異なる南アフリカを除くとその就業人口比は66.1%、輸出比は15.4%(2000年)である。\nしかしこれらはカカオなど特定地域の特定産物を除けば農業生産性が高いアメリカ合衆国等農業先進国との競争には弱く、大半の農産物はアフリカ内部で消費される。\nしかしながら、1961年から2000年にかけて人口が3倍になったのに対し、穀物は1.35倍程度しか伸長していない。\n土地の生産性もアジアや南アメリカが大きく伸ばしているのに対し4割以下まで落ち込んでいる。\nこのような状況に陥った要因は、アフリカでは人口増加に対応する農業生産を高める手段をもっぱら耕地面積の拡大に依存した点がある。\nしかしこれは痩せた土地の利用や少ない水資源の制約等がからみ、充分な効果をあげることができなかったことを物語る。\n2010年にハーバード大学は、政治さえ安定していればアフリカは食糧自給が可能との研究結果を発表した。\n低い農業生産性は、従事者の貧困を招く原因のひとつであり、農業改革を行う技術や人材の育成が望まれる。", "qas": [ { "question": "1961年から2000年にかけて、人口と穀物はどちらがより多く伸長したの?", "id": "tr-293-17-000", "answers": [ { "text": "人口", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アフリカの鉱業以外の主要産業とは何ですか?", "id": "tr-293-17-001", "answers": [ { "text": "農業", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アフリカの農地は、その65%が土壌浸食の被害を受けている。\nまた、国際連合環境計画(UNEP)によると、アフリカの森林破壊は世界平均の2倍の速度で進行している。\n報告の中には、西アフリカの約9割が既に破壊されたというものもある。\nこれはマダガスカルでも同様で、人類が進出してからの2000年で90%以上の原生林が失われた。\n干ばつや灌漑などによる環境への影響もあり、チャド湖は40年前と比較して面積が1/10まで減少した。", "qas": [ { "question": "アフリカの農地は半分以上が何の被害を受けているの?", "id": "tr-293-18-000", "answers": [ { "text": "土壌浸食", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アフリカでは、人類が進出してからの2000年で何%以上の原生林が消えたの?", "id": "tr-293-18-001", "answers": [ { "text": "90%以上", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "干ばつなどの原因で、40年前と比較して面積が1/10まで減少した湖とは何?", "id": "tr-293-18-002", "answers": [ { "text": "チャド湖", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "現在、アフリカの人口は爆発的に増え、特にこの40年は顕著である。\n国によっては人口の半数以上が25歳以下という所もある。\n総人口は、1950年に2億2100万人だったが、2009年には10億人まで膨れ上がった。\n世界の人口は増え続ける傾向にあるが、アフリカ地域の増加分がかなりの量を占めている。\nこの人口増加は経済成長を伴っていないため、環境破壊や貧困層の増大などさまざまな問題をもたらしている。\n大陸全体がリカードの罠に陥っているとの指摘もある。", "qas": [ { "question": "1950年と2009年を比較すると、アフリカの総人口が少ないのはどちらの年なの?", "id": "tr-293-19-000", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 66, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アフリカの総人口が10億人に達したのは何年?", "id": "tr-293-19-001", "answers": [ { "text": "2009年", "answer_start": 85, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "北アフリカは、イスラム教とともにアラブ人が入ってくるまでは、ベルベル人の居住する地域であった。\n現在も多数派となったアラブ人に混じってベルベル人が残っている。\n中南アフリカでは、従来からの先住民族が暮らす。", "qas": [ { "question": "北アフリカは元々何の民族が住んでいた地域だったの?", "id": "tr-293-20-000", "answers": [ { "text": "ベルベル人", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "北アフリカでは、イスラム教と共にどのような民族が入ってきましたか?", "id": "tr-293-20-001", "answers": [ { "text": "アラブ人", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "只見特定地域総合開発計画", "paragraphs": [ { "context": "只見特定地域総合開発計画(ただみとくていちいきそうごうかいはつけいかく)とは、1950年(昭和25年)に施行された国土総合開発法に基づき日本国政府が定めた地域開発計画の一つである。\n福島県と新潟県にまたがって流れる阿賀野川水系最大の支流・只見川を中心に阿賀野川下流に至るまで大小さまざまな水力発電所とダムを建設し、発生した電力を関東地方と東北地方に供給する目的で計画された大規模な河川開発である。\nこの計画の中には奥只見ダムや田子倉ダム(たごくらダム)といった日本のダムの歴史に名を刻む大事業が含まれ、日本の電気事業史や日本の土木史においても特筆される事業である。", "qas": [ { "question": "只見特定地域総合開発計画で開発中心となった河川は何ですか?", "id": "tr-294-00-000", "answers": [ { "text": "只見川", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "只見川の本流は何ですか?", "id": "tr-294-00-001", "answers": [ { "text": "阿賀野川", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "阿賀野川は福島県と何県をまたぐ河川ですか?", "id": "tr-294-00-002", "answers": [ { "text": "新潟県", "answer_start": 95, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "只見川は、阿賀野川水系における最大の支流である。\n群馬県・新潟県・福島県の三県にまたがる尾瀬国立公園の一つ、尾瀬沼がその水源であり、湿原の水を集めながら三条の滝を経て北へ流路を取り、深いV字谷を形成しながら南会津郡只見町の中心部付近で東から流れる伊南川(いながわ)を合わせる。\n「会津のマッターホルン」とよばれる蒲生岳を過ぎると次第に向きを北東に変え、大沼郡金山町で野尻川を合わせた後沼沢湖の横を流れ、大沼郡三島町、河沼郡柳津町・会津坂下町を過ぎた後に喜多方市高郷町付近で阿賀野川に合流する。\n流路延長146.0キロメートル、流域面積2,800平方キロメートルの河川である。", "qas": [ { "question": "只見川の水源地はどこですか?", "id": "tr-294-01-000", "answers": [ { "text": "尾瀬沼", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "蒲生岳の別名は何?", "id": "tr-294-01-001", "answers": [ { "text": "「会津のマッターホルン」", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "只見川の流域面積はどれくらいあるの?", "id": "tr-294-01-002", "answers": [ { "text": "2,800平方キロメートル", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "只見川が阿賀野川と合流するのはどこですか?", "id": "tr-294-01-003", "answers": [ { "text": "喜多方市高郷町付近", "answer_start": 226, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "只見川は流域の大半が山地で占められ、平地はごくわずかである。\n特に上流部は三国山脈の険しい山岳地帯で人跡未踏の地も多い。\n加えて年間雨量は2,500から3,000ミリに達する多雨地帯であり、しかも冬季は豪雪地帯で春季の融雪と夏季の多雨によって水量は極めて豊富で、会津坂下町片門におけるピーク時の基本高水流量は毎秒9,000立方メートルにも及ぶ。\n加えて源流から阿賀野川合流点までの落差が1,500メートル近くもある。\nこうした自然条件は、急流・豊富な水量・高落差という水力発電の好条件を全て備えており、只見川は水力発電には日本で最も有望な地点の一つとして古くは明治時代から電力会社にとっては垂涎(すいぜん)の的であった。\n現在とは違い当時は日本各地におびただしい数の電力会社が存在しており、経営拡大のため激烈なシェア争いを演じていた。\n只見川の開発を成功させることは、他の電力会社に対し一頭地を抜く存在になり得ること明らかで、いわば電力会社にとって只見川は「宝の山」的な存在であった。\nしかし険しい山岳地帯と厳しい気象条件がこれを阻み、本格的な開発にはなかなか乗り出すことができなかった。", "qas": [ { "question": "只見川の年間雨量は多い時で何ミリに達しますか?", "id": "tr-294-02-000", "answers": [ { "text": "3,000ミリ", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "只見川の阿賀野川合流地点までの落差はどれくらいですか?", "id": "tr-294-02-001", "answers": [ { "text": "1,500メートル", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "水力発電の好条件を全て備えている「宝の山」とは何を指しているの?", "id": "tr-294-02-002", "answers": [ { "text": "只見川", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "只見川において、初めて水力発電事業が計画されたのは1910年(明治43年)のことであった。\n岩代水力電気発起人の大田黒重五郎らが只見川と伊南川に各一箇所の水路式発電所を計画し、河川管理者である宮田光雄福島県知事に申請したのが最初とされる。\nこれ以降さまざまな電力会社が只見川や阿賀野川、沼沢湖の発電用水利権取得申請を行った。\n数多の会社が水利権申請を行ったが、最初に福島県知事の許認可を受けたのは現在の耶麻郡西会津町を地盤とした野沢電気株式会社であった。\n1916年(大正5年)創立のこの会社は資本金を増額するという条件で只見川の水利権を1919年(大正8年)に獲得した。\nこの結果会社の株式はプレミアムが付くほど高騰し、結果条件として掲げていた資本金1千万円(当時の価格)を集めることが出来た。\nそれまで「野沢電気の電灯は夜にちらりと光るだけ」と地元民から揶揄(やゆ)されていた貧弱な電力会社が、一躍時代の寵児となったのである。", "qas": [ { "question": "最も早く福島県知事から只見川の水利権の許認可を受けた会社はどこですか?", "id": "tr-294-03-000", "answers": [ { "text": "野沢電気株式会社", "answer_start": 214, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "野沢電気株式会社が只見川の水利権を得た年はいつですか?", "id": "tr-294-03-001", "answers": [ { "text": "1919年", "answer_start": 269, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大田黒重五郎は、只見川とどこに水路式発電所の設置を計画しましたか?", "id": "tr-294-03-002", "answers": [ { "text": "伊南川", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この水利権獲得を機に野沢電気は「只見川水力電気株式会社」と改称し、現在の大沼郡金山町にある上田発電所付近を取水口として、トンネルを経て西会津町の阿賀野川に出力1万キロワットの水路式発電所・野沢発電所を建設するという計画を立てた。\nところが許可の際に福島県内務部長から効率的な水力発電方法に改善するよう指示を受け、その計画変更許可申請書を提出するように命令が出されていたにもかかわらず、只見川水力電気は定められた期限までに申請書を提出しなかったので折角取得した水利権を喪失するという失態を犯した。\n空白となった水利権に対して再度多くの電力会社から取得の申請が出されたが、最終的に東北水電株式会社が只見川水力電気を合併して有利な方法による水力発電計画を提示したことにより水利権を獲得した。\n東北水電は水利権を獲得すると「東北電力株式会社」を創立。\n再度野沢発電所の計画に乗り出したのである。", "qas": [ { "question": "野沢電気は水利権獲得後、新しく何と名乗りましたか?", "id": "tr-294-04-000", "answers": [ { "text": "「只見川水力電気株式会社」", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「東北電力株式会社」の水利権獲得前の正式名称は何?", "id": "tr-294-04-001", "answers": [ { "text": "東北水電株式会社", "answer_start": 288, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "只見川下流での水利権獲得競争が始まった頃、源流である尾瀬沼についても水利権申請が行われていた。\n関東水電株式会社は1919年8月14日、尾瀬沼にダム式発電所を建設して利根川水系の片品川に導水し、水力発電を行うことを利根川の河川管理者であった群馬県知事に申請していた。\nこの申請は当時の原内閣の内務大臣であった床次竹二郎の強力な後援もあって関東水電に水利権の使用許可が下りた。\nここに尾瀬原ダム計画が開始されたが宮田福島県知事は1921年(大正10年)に尾瀬沼の関東水電への水利権取得は容認できないとして反対を表明した。\nその後関東水電と群馬県の動きに対抗すべく尾瀬沼の発電用水利権を14件認可したが、内務省と逓信省は関東水電の計画を優先し福島県が許可した水利権使用を全て却下した。\nこの間、平野長蔵が尾瀬原ダム建設に反対するため、単独で尾瀬に定住して抵抗の姿勢を表し、原内閣の後を継いだ加藤友三郎内閣の水野錬太郎内務大臣に計画の中止を求める書簡を送っている。", "qas": [ { "question": "尾瀬沼に発電所を建設し、尾瀬原ダム計画を立てた会社はどこですか?", "id": "tr-294-05-000", "answers": [ { "text": "関東水電株式会社", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "尾瀬原ダム建設に反対した一個人は誰ですか?", "id": "tr-294-05-001", "answers": [ { "text": "平野長蔵", "answer_start": 345, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "尾瀬沼の関東水電への水利権取得に反対を表明したのは何県の知事ですか?", "id": "tr-294-05-002", "answers": [ { "text": "福島県", "answer_start": 207, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一方下流の阿賀野川については立憲政友会所属で阿賀川水力電気発起人の一人であった吉野周太郎が1918年(大正7年)に水利権使用申請許可を宮田福島県知事に申請したのが最初である。\nだが政友会と対立する憲政会所属の大島要三が同志19名と語らい岩越電力株式会社を組織して同じく阿賀野川の水利権使用申請を申請したのである。\n政友会と憲政会の代理戦争の様相を呈した阿賀野川の水力発電開発は同年12月に政友会所属でもあった宮田知事が阿賀川水力電気に水利権の使用許可を与える旨内諾した。\nだが宮田知事は内諾後すぐに転出、水利権使用許可申請は6年間保留状態であった。\n6年後福島県知事が川淵洽馬に替わると岩越電力は再度水利権の申請を行ったが、この時川淵知事は「上流が政友会なら下流は憲政会の方が公平を期すことが出来る」として只見川合流点より下流の阿賀野川の水利権を福島県側上流部は阿賀川水力電気に、新潟県側下流部は岩越電力に与えた。\n岩越電力は水利権を取得後の1927年(昭和2年)、東信電気株式会社に買収され、現在の新潟県東蒲原郡阿賀町鹿瀬にダム式発電所を建設する計画を立てた。\nこれが鹿瀬ダムであり、同年に着工した。\nこの鹿瀬ダムが阿賀野川・只見川流域における最初の発電用ダムであり、以降只見川、阿賀野川にもダム建設ブームが到来するのである。", "qas": [ { "question": "阿賀川水力電気のライバル会社は何ですか?", "id": "tr-294-06-000", "answers": [ { "text": "岩越電力株式会社", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "只見川、阿賀野川のダム建設ブームの火付け役となったダムは何ですか?", "id": "tr-294-06-001", "answers": [ { "text": "鹿瀬ダム", "answer_start": 504, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宮田知事の次に福島県知事になった人物は誰ですか?", "id": "tr-294-06-002", "answers": [ { "text": "川淵洽馬", "answer_start": 284, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "鹿瀬ダムを建設した会社はどこですか?", "id": "tr-294-06-003", "answers": [ { "text": "東信電気株式会社", "answer_start": 433, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "只見川の水力発電事業は長大なトンネルによる水路式発電所・野沢発電所(出力10万キロワットに増強)が東北電力によって進められていた。\nだが東北電力は尾瀬原ダム計画を進めていた関東水電と共に信越電力株式会社に1928年(昭和3年)吸収合併されていた。\nその信越電力も合併後すぐに名称を東京発電株式会社に改め、さらに程なくして東京電燈株式会社と合併する。\n実に目まぐるしい電力会社の変遷はあったが水力発電事業はそのまま進められ、只見川流域の水利権については尾瀬沼から阿賀野川合流点まで事実上東京電燈が一手に握ることになった。\n東京電燈は猪苗代湖や裏磐梯三湖(桧原湖・小野川湖・秋元湖)の水力発電事業を行っていた猪苗代水力電気も合併しており、結果として只見川合流点より上流の阿賀野川水系はほぼ東京電燈によって開発されることになったのである。", "qas": [ { "question": "信越電力株式会社が吸収合併した会社で、もともと只見川の水力発電事業を進めていたのはどこですか?", "id": "tr-294-07-000", "answers": [ { "text": "東北電力", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "信越電力株式会社が合併した会社は何?", "id": "tr-294-07-001", "answers": [ { "text": "東京電燈株式会社", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "猪苗代水力電気はもともとどの湖の水力発電事業に携わっていましたか?", "id": "tr-294-07-002", "answers": [ { "text": "裏磐梯三湖", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "猪苗代水力電気はどの会社に合併されましたか?", "id": "tr-294-07-003", "answers": [ { "text": "東京電燈", "answer_start": 260, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "只見川流域の開発では野沢発電所計画がそのまま継続していたが、着工までには至らなかった。\nそれは当時世界恐慌のあおりを受けて日本の経済界も深刻な不況に陥り、それに伴って電力需要が低下した反面、電力開発は年々増強の一途をたどり電力過剰状態になったためである。\n東京電燈は野沢発電所計画の他に沼沢沼を利用した揚水発電計画を申請していたが、電力過剰に対応するため二事業の一時休止を1929年(昭和4年)に申請、内諾を受け保留した。\nだが1929年を境に電力需要がにわかに増加に転じたことから1933年(昭和8年)に再開した。\nだが野沢発電所計画は長大なトンネル掘削は不経済であることから計画の変更を余儀なくされており、捗らないままであった。\nだがその他の只見川流域における開発は計画が進捗し、1925年(大正15年)から1927年に掛けて沼沢沼揚水発電計画を始め只見川第一から第五発電所、白戸川第一・第二発電所、袖沢発電所、叶津川発電所の10地点の水力発電所計画を申請し、福島県の許可を得た。\nこれにより野沢発電所を含めた11発電所の総出力は34万2000キロワットにも及んだ。", "qas": [ { "question": "揚水発電計画の事業が再開されたのはいつ?", "id": "tr-294-08-000", "answers": [ { "text": "1933年", "answer_start": 241, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "只見川流域の11発電所の出力の総合計は何キロワットになりましたか?", "id": "tr-294-08-001", "answers": [ { "text": "34万2000キロワット", "answer_start": 467, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "一方尾瀬原ダム計画は当初尾瀬沼にダムサイトを計画していたが、1934年(昭和9年)日光国立公園に尾瀬が指定されたことから建設地点を変更し、尾瀬ヶ原出口に高さ85メートルのロックフィルダムを建設し、有効貯水容量3億3000万立方メートルの巨大な人造湖を誕生させる壮大な計画に変わっていった。\nダムによって形成される尾瀬原貯水池の水は利根川最上流部に建設が予定されていた矢木沢ダムとの間で揚水発電を行い、尾瀬第一・尾瀬第二発電所によってそれぞれ17万9000キロワットと18万5000キロワットの発電を行う方向性が固まった。\nしかし福島県は特に福島県会が利根川の導水に猛反発し、これに押された県当局は以後群馬県との間で分水を巡り争うことになる。\nこの問題について東京電燈は群馬県と福島県の間で板挟みとなっていた。", "qas": [ { "question": "尾瀬第一発電所と尾瀬第二発電所では、どちらが出力が大きいですか?", "id": "tr-294-09-000", "answers": [ { "text": "尾瀬第二発電所", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "群馬県と福島県は、どこの川の分水を巡って争っていたのですか?", "id": "tr-294-09-001", "answers": [ { "text": "利根川", "answer_start": 275, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "阿賀野川の水力発電事業は東信電気が鹿瀬ダム建設を進め、ダムに付設された鹿瀬発電所(出力5万6400キロワット)は1928年11月より運転を開始した。\n東信電気は阿賀川水力電気と競合し対立していたが、この頃になるとダム建設の資金調達から一河川一社運営の必要性を感じ、阿賀川水力電気と合併に関する協議を行っていた。\n阿賀川水力電気もこの申し出に応じ翌1929年、阿賀川水力電気を吸収する形で両社は合併する。\n合併した同年には鹿瀬ダムの直上流に豊実ダムと豊実発電所(出力4万9500キロワット)を完成させ、さらに開発の手を上流に伸ばしていった。\n1936年(昭和11年)には阿賀野川と只見川合流点の直下流に新郷発電所(出力5万1600キロワット)を計画して新郷ダムの建設に取り掛かり、1939年(昭和14年)に完成させた。\nそして新郷発電所完成の直後には下流に山郷発電所(出力4万5900キロワット)を建設する計画に着手した。\nしかしこの頃戦時体制を進める政府は電力の国家統制を進めており、電力業界にもその暗雲が垂れ込めてきたのである。", "qas": [ { "question": "新郷発電所、豊実発電所、鹿瀬発電所、山郷発電所の中で、出力が最も大きい発電所はどこですか?", "id": "tr-294-10-000", "answers": [ { "text": "鹿瀬発電所", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "山郷発電所、豊実発電所、新郷発電所、鹿瀬発電所の中で、出力が3番目に大きい発電所はどこですか?", "id": "tr-294-10-001", "answers": [ { "text": "豊実発電所", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "山郷発電所、豊実発電所、新郷発電所、鹿瀬発電所の中で、3番目に早く出来た発電所はどこですか?", "id": "tr-294-10-002", "answers": [ { "text": "新郷発電所", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "新郷発電所、豊実発電所、鹿瀬発電所の中で、最後に出来た発電所はどこですか?", "id": "tr-294-10-003", "answers": [ { "text": "新郷発電所", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1938年(昭和13年)、東條英機ら軍部統制派の圧力に押された第1次近衛内閣は戦時体制を遂行するため電力の国家管理を目論み、松永安左エ門ら電力業界の猛反発を抑え込んで第73帝国議会に「電力国家管理法案」を上程した。\n翌1939年4月1日に国家総動員法と共に電力管理法・日本発送電株式会社法を成立させた。\nこれに伴い特殊法人として発足した日本発送電株式会社は出力5,000キロワット以上の水力発電所および出力1万キロワット以上の火力発電所をほぼ例外なく管理下に置き、かつ同規模の新規電力開発を電力会社が実施することを事実上禁止した。", "qas": [ { "question": "日本発送電株式会社が管理下に置いた水力発電所の出力の下限は何キロワットですか?", "id": "tr-294-11-000", "answers": [ { "text": "5,000キロワット", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "電力管理法が導入されたのは何内閣の時ですか?", "id": "tr-294-11-001", "answers": [ { "text": "第1次近衛内閣", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "只見川や日橋川、猪苗代湖などの水力発電所を保有、もしくは計画していた東京電燈は既設の水力発電所のほとんどを日本発送電に接収され、只見川で計画していた11発電所も施工の継続を差し止められた。\n東京電燈は発電用水利権が残されたものの、発電所の開発も運用も出来ないことから水利権も有名無実な状態に追い込まれた。\nまた東信電気が所有していた新郷・豊実・鹿瀬の三発電所と施工中の山郷発電所も接収され、大正時代から民間によって開発された水力発電所はほぼ全て取り上げられた形になった。", "qas": [ { "question": "東京電燈は既設の水力発電所の大半をどこに取り上げられましたか?", "id": "tr-294-12-000", "answers": [ { "text": "日本発送電", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本発送電は発足後の1940年(昭和15年)2月20日、監督官庁である逓信省電気庁を通じ米内内閣より宮下発電所建設事業着手の指示を受けた。\nこの宮下発電所は沼沢湖の下を流れる只見川に宮下ダムを建設し、最大6万4200キロワットを発電するというものである。\nだがこの宮下発電所を建設すると東京電燈が保持していた野沢発電所及び沼沢沼揚水発電所の水利権と競合する。\nそこで日本発送電株式会社法第24条に基づいて東京電燈が保有していた水利権を行政処分にて取り消し、宮下発電所の工事に着手したのである。\nここに只見川最初の水力発電計画となった野沢発電所計画は潰えるが、元々費用対効果の面で非効率的な発電所であり、仮に完成していれば宮下発電所より下流の発電所が建設できない可能性があった。\nその意味では長期的に見た場合野沢計画の中止は只見川の水力発電計画にはプラスに働いたのである。", "qas": [ { "question": "宮下発電所を設置するにあたって建設が必要となったダムの名前は何?", "id": "tr-294-13-000", "answers": [ { "text": "宮下ダム", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1941年(昭和16年)に始まった宮下発電所建設事業は困難の連続であった。\nまず冬季の豪雪と夏季の豪雨が工事の進捗を阻み、続いて戦局悪化に伴う物資の欠乏で放流用のゲートの搬入もままならなかったばかりか、次第にダム建設のための物資も枯渇する有様となった。\nこうした状況にもかかわらず日本発送電の監督官庁であった軍需省電気局は1945年(昭和20年)までの完成を厳命しており、中国人労働者の強制労働などで工事を進め1944年(昭和19年)にはダム湖への湛水(たんすい)が開始された。\nだが完成予定の1945年日本は終戦を迎え、一時工事は中断する。\nしかし今度は戦後復興のための事業に変化し工事は再開され、物資と電力が極端に欠乏する中で1946年(昭和21年)に発電所第1号機が運転を開始、1万3800キロワットの電力を生み出すことができた。\nそして1949年(昭和24年)には当初の計画を半減し認可出力3万6000キロワットとして事業を完成させた。\nこれは阿賀野川に建設されていた山郷発電所でも同様だった。", "qas": [ { "question": "宮下発電所建設事業では、冬場は何の影響で工事の建設が遅れましたか?", "id": "tr-294-14-000", "answers": [ { "text": "豪雪", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "軍需省電気局は宮下発電所の完成年をいつまでと命じていましたか?", "id": "tr-294-14-001", "answers": [ { "text": "1945年", "answer_start": 161, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "宮下発電所建設事業が完成した年はいつですか?", "id": "tr-294-14-002", "answers": [ { "text": "1949年", "answer_start": 372, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "一方福島県が頑強に反対していた尾瀬原ダムの利根川への分水計画であるが、1944年9月16日に荒木万寿夫軍需省電気局長は日本発送電に対し「尾瀬沼から利根川水系片品川への流域変更(分水)による発電所出力増強を直ちに図ること」という指令を下した。\nそして日本発送電から石井英之助群馬県知事と石井政一福島県知事に対し水利権使用の早急な許可を求めた。\n福島県は当初より分水反対の姿勢を崩していなかったが、軍部に逆らうことの愚を悟り、やむなく許認可を下した。\n日本発送電が尾瀬沼の分水を「緊急措置」として使用し、戦争終了後は原状復帰すると確約したことも、福島県の認可を引き出す要因になった。\n翌年に戦争は終了し本来なら原状復帰されなければならないところ、軍需省廃止後に電力行政を継承した商工省は「国土復興のため」として尾瀬沼から片品川への分水を継続するよう日本発送電に指示した。\n福島県としては当初の約束を反故にされた形になるが、今度は国土復興という大義名分には逆らえずこれを認めた。\nその結果尾瀬沼から三平峠をトンネルで越えて片品川へ導水する事業が1949年完成する。", "qas": [ { "question": "利根川の分水問題で、許認可を下したのは福島県と群馬県のどちらですか?", "id": "tr-294-15-000", "answers": [ { "text": "福島県", "answer_start": 171, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "宮下発電所の建設を進めていた日本発送電東北支店は、1946年に只見川・阿賀野川の総合的な水力発電計画を企図し政府の指示を得ずに自主的な調査を開始した。\n南会津郡伊北村に調査所を設置し23名にて只見川の気象・水文などを調査した。\nさらに翌1947年(昭和22年)には商工省が只見川・尾瀬原・利根川総合開発計画を策定し只見川流域の調査を委託。\nその結果只見川調査所も上流部と下流部に分離・拡大して調査を続行した。\n1948年(昭和23年)10月には「東北地方電力復興計画案」をまとめ北上川、十和田湖、田沢湖、猪苗代湖と共に只見川が重要な開発地点にあげられ、特に只見川は復興計画にある水力発電計画の87パーセントに及ぶ約247万キロワットを新規に開発できると報告した。\nこの間只見川の水力発電計画の骨子として1947年3月に「只見川筋水力開発計画概要」が発表された。", "qas": [ { "question": "「東北地方電力復興計画案」において北上川、十和田湖、猪苗代湖、只見川、田沢湖の中で、約247万キロワットを新規開発できると報告が上がったのはどこですか?", "id": "tr-294-16-000", "answers": [ { "text": "只見川", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "只見川の水力発電計画のコンセプトとして発表されたものは何?", "id": "tr-294-16-001", "answers": [ { "text": "「只見川筋水力開発計画概要」", "answer_start": 359, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "これによれば只見川と阿賀野川に連続して15箇所のダム式発電所を建設、既設5発電所の出力を増強させることで新規に増加する発電出力は235万キロワットに及び、年間増加発電量は55億キロワット時にも上るとしてその開発の有用性を主張した。\nこの中で根幹事業として只見川最上流部に4箇所、伊南川に1箇所の巨大ダムを建設し大容量貯水池を建設するとした。\nここにおいて初めて奥只見ダムと田子倉ダムの二大ダム計画が登場した。\nまた尾瀬原ダムはこの計画で揚水発電から一般水力発電に修正され、利根川の分水も無くなりダムの規模も縮小された。\nこの案は後に「只見川本流案」となる。\n「本流案」は只見川・尾瀬原・利根川総合開発計画案を審議する「只見川・尾瀬沼・利根川総合開発調査審議会」に1948年提示されたが、同時期新潟県は只見川の豊富な水量を信濃川水系に導水して灌漑(かんがい)に役立てようと考え、「只見川分流案」を引っさげ、福島県と対立した。\nまた「尾瀬分水案」を巡って福島県は群馬県と争うなど、只見川を巡って河川管理者である福島・新潟・群馬三県が争う三つ巴の構図が生まれた。", "qas": [ { "question": "尾瀬原ダムの修正前の発電方式は何でしたか?", "id": "tr-294-17-000", "answers": [ { "text": "揚水発電", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "只見川最上流部と伊南川のどちらに多くの巨大ダムを建設しようとしましたか?", "id": "tr-294-17-001", "answers": [ { "text": "只見川最上流部", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "只見川最上流部と伊南川に巨大ダムを建設する計画が生まれたが、そのダムとは田子倉ダムともう1つは何ですか?", "id": "tr-294-17-002", "answers": [ { "text": "奥只見ダム", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「只見川分流案」を提示して福島県と対立した県はどこですか?", "id": "tr-294-17-003", "answers": [ { "text": "新潟県", "answer_start": 346, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本発送電はその第一歩として宮下発電所建設の際に中止された沼沢沼揚水発電所計画を復活させ、1949年福島県に水利権申請を行った。\nところが日本発送電は1948年に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)より戦時体制に協力した独占資本であるとして過度経済力集中排除法の指定を受けた。\n以後松永安左エ門を委員長とする電気事業再編成審査委員会の検討を経て1951年(昭和26年)ポツダム政令に基づく電気事業再編成令が発令され、日本発送電は全国九電力会社に分割・民営化された。\nこの中で東北支店は東北電力に、関東支店は東京電力に改組・発足する。\n東京電力は東京電燈やそれ以前に合併した電力会社の流れを汲み、只見川に深く関与していた。\n一方東北電力は戦後只見川の開発調査に携わり、両社は只見川の魅力的な電力資源を巡り対立を深める。", "qas": [ { "question": "日本発送電が民営化せざるを得なかった法令とは何?", "id": "tr-294-18-000", "answers": [ { "text": "電気事業再編成令", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "美濃の壺石", "paragraphs": [ { "context": "美濃の壺石(みののつぼいし)とは、岐阜県土岐市南西部一帯に広がる丘陵の地中から産出する、国の天然記念物に指定された、壺に似た形状を持つ風変わりな、団塊状の石である。\n鉄分を含む珪質粘土と小石など複数の礫が互いに連結し球形に固まったもので、内部が空洞になっているため古くより壺石と呼ばれて珍重されてきた。\n壺石は土中で様々な条件がそろった場合にのみ、局所的に生成されるもので、日本国内の他所でも稀に見つかることがあるが、当地のように多量に産出することは珍しく、「美濃の壺石」の名称で1934年(昭和9年)1月22日に国の天然記念物に指定された。", "qas": [ { "question": "壺に似た形状が特徴的な、団塊状の石の名称は何ですか?", "id": "tr-295-00-000", "answers": [ { "text": "壺石", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "美濃の壺石が産出しているのは何県ですか?", "id": "tr-295-00-001", "answers": [ { "text": "岐阜県", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "美濃の壺石が国の天然記念物に指定されたのは何年でしたか?", "id": "tr-295-00-002", "answers": [ { "text": "1934年", "answer_start": 240, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "壺石の珪質粘土には何の成分が含まれているの?", "id": "tr-295-00-003", "answers": [ { "text": "鉄分", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "美濃の壺石は大小さまざまな礫岩や小石が接着剤で固められたような赤褐色の塊状の石で、表面に複数の礫や小石があるため凸凹しており、大きさ形状ともに一様でないが、全体的には円形や楕円形の不規則な球形をしている。\n大きさは豆粒大から人間が一抱えするようなものまであるが、いずれも内部が空洞になっており、表面にある礫や小石をひとつ取り外せば、内部に詰まった砂や小石などの内容物を簡単に取り除くことができ、中身が中空になり、水を入れても漏れることがない。\nこのように、あたかも壺のような球塊になるため、古くから「壺石」の名で呼ばれ、花を活ける一輪差しなどの花器として使用されたり、盆栽を植える植木鉢として、さらには陶磁器などの伝統工芸品のように、観賞用として床の間に飾られるなど珍重されてきた。", "qas": [ { "question": "美濃の壺石は何色ですか?", "id": "tr-295-01-000", "answers": [ { "text": "赤褐色", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "壺石の内部はどのような構造ですか?", "id": "tr-295-01-001", "answers": [ { "text": "空洞", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "美濃の壺石が産出する岐阜県土岐市付近一帯の地表面に近い地質は、岐阜県東部の東濃地域から愛知県北部にかけて発達する、新第三紀鮮新世に形成された粘土層や砂礫層で覆われている。\nこのうち粘土層は土岐市や多治見市付近に多く分布し、昔からこの地域の地場産業として盛んな美濃焼など、窯業の原材料として粘土の採掘が行われてきた。\nこの新第三紀鮮新世の最上部を構成する礫層は土岐砂礫層と呼ばれ、美濃帯堆積岩類、濃飛流紋岩類、花崗岩類などで構成され、チャート礫以外は風化が進んでいるためスコップ等で削れるほど軟らかく、この砂や礫が混ざる土岐砂礫層の中から壺石が産出される。", "qas": [ { "question": "美濃の壺石が産出される地はいつの地質時代に形成されたものですか?", "id": "tr-295-02-000", "answers": [ { "text": "新第三紀鮮新世", "answer_start": 57, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "土岐市や多治見市で盛んな地場産業とは何?", "id": "tr-295-02-001", "answers": [ { "text": "美濃焼", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "新第三紀鮮新世の最上部を構成する礫層の名前とは何?", "id": "tr-295-02-002", "answers": [ { "text": "土岐砂礫層", "answer_start": 179, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "壺石はどこの層から産出されるの?", "id": "tr-295-02-003", "answers": [ { "text": "土岐砂礫層", "answer_start": 179, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "壺石の成因は、地中の二酸化ケイ素(SiO2)や褐鉄鉱(リモナイト英:limonite)の成分が地下水中に溶け出し、これらがセメント材料の役割をして礫層中の小石や礫を徐々に包み込むように膠着させ、外殻をつくりながら塊状に固まったものと考えられている。\nまた、地質学者の須藤定久は、この付近周辺の粘土層や礫層中に、鉄の炭酸塩鉱物(FeCO2)の一種である菱鉄鉱(シデライト英:siderite)の団塊(ノジュール英:nodule)がよく見られることから、弱酸性の雨水などがシデライト・ノジュールに接触して分解され、鉄分が酸化鉄となって沈着する作用が繰り返され壺石が形成されたのではないかという仮説を挙げている。\nこうして出来た外殻は膠(にかわ)で固めたように見え、殻の厚さは1センチから1.5センチほどであるが、非常に硬いという。", "qas": [ { "question": "この文書内では、須藤定久の役職は何だと書かれているの?", "id": "tr-295-03-000", "answers": [ { "text": "地質学者", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "外側の殻の厚さはどれくらいですか?", "id": "tr-295-03-001", "answers": [ { "text": "1センチから1.5センチほど", "answer_start": 335, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "壺石は鮮新世の礫層がむき出しになっている谷川の河床に流れ出たものから採集されることがあるが、土岐市南西部の土岐口地区では河床ではない土中から多くの壺石が産出することが古くから知られており、東隣の瑞浪市では空洞中に粘土塊が入っているため音を発する鳴石(なりいし)、または鈴石と呼ばれる壺石によく似た石が産出される。\nこれらの石は江戸時代には「余糧(よりょう)」と呼ばれており、そのうち、土岐の壺石は「太一余糧(たいいつよりょう)」、瑞浪の鳴石は「禹余糧(うよりょう)」と呼んで区別され、これらの空洞中にある乾燥した白い粉状の内容物(カオリナイトまたはハロイサイドなどの粘土鉱物)は、傷薬や止血薬などの民間薬として売買されていたという。", "qas": [ { "question": "「余糧」の呼び名があったのは何時代でしたか?", "id": "tr-295-04-000", "answers": [ { "text": "江戸時代", "answer_start": 163, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "江戸中期の安永年間頃、尾張藩藩士・内藤東甫により書かれた地誌、張州雑志の中にも「太乙禹余糧(たいつうよりょう)」の表題で描かれた壺石の記述がある。\n描かれている壺石は2つあり、「赤津邑、水野邑、間々有、之信州濃州ニ多シ、當國ノ内ニハ稀ニ有之」と解説されており、今日の土岐市の南西部に位置する赤津村・水野村(現瀬戸市)の所々にあって、信州や濃州に多く、当国(尾張)では稀であると記されている。\nまた、2つ描かれた壺石の片方には割られた断面が描かれており、割られた中空の部分には「中ウツロナリ」、つまり中空であるとの説明が書き込まれている。", "qas": [ { "question": "張州雑志を書いた人は誰?", "id": "tr-295-05-000", "answers": [ { "text": "内藤東甫", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "内藤東甫はどこの藩に所属していたの?", "id": "tr-295-05-001", "answers": [ { "text": "尾張藩", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "いずれにしても壺石の産出地は限られており、この地域のように多量に産出することは珍しいため、史蹟名勝天然紀念物保存法により、1934年1月22日に国の天然記念物に指定された。\n指定範囲は今日の国道19号神明峠から南南東方向の旧土岐郡土岐津町へ広がる丘陵地帯であるが、周辺一帯は新興住宅地の開発や、2005年には土岐プレミアム・アウトレットが開業するなど大規模な土地開発が行われている。\n天然記念物の指定は壺石個体への指定ではなく産地の指定であり、指定エリア以外の場所から産出した壺石は、一部の水石愛好家らの間で流通しているが、天然記念物指定エリア内での壺石の採集や土地改変は文化財保護法により禁じられている。", "qas": [ { "question": "壺石が国の天然記念物に指定されたのはいつですか?", "id": "tr-295-06-000", "answers": [ { "text": "1934年1月22日", "answer_start": 61, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "能代大火", "paragraphs": [ { "context": "能代大火は、秋田県能代市で発生した大規模な火災である。1949年2月20日に発生した第一次能代大火と、1956年3月20日に発生した第二次能代大火があり、いずれも市民生活に甚大な被害をもたらした。\n\n1949年2月20日0時35分頃、市街西部の清助町新道の木工所から出火した。第一発見者は当時の能代市消防団常備消防部の団員で、望楼からの発見である。この冬は暖冬で市内にほとんど積雪がなく、また火災発生前日より次第に風が強くなってきており、夜半には粉雪が舞い13m/sの強風が吹いていた。火災が懸念される気候のため、消防ではポンプ車を警戒のためサイレンを鳴らして巡回させていたが、走り去ったすぐ後に火災が発生した。当日の気象状況は以下の通り。\n\n火災の発見を受けてただちに当時保有していた4台のポンプ車のうち3台が出動し、1台が火元の消火にあたった。発見が早かったことから一旦は消火しかかったものの、中途で130mほど東に離れた別の木工所の柾葺き屋根に飛び火。以降も火の粉が家々を舐めるように横に拡がっていき、同時多発的に発火していった。出動した3台のポンプ車のうち別の1台も火に包囲されて動けなくなり、火の回りが速く2台のポンプ車では対処不能な状況となった。午前2時を過ぎる頃には、秋田・土崎・五城目・船越・鷹巣・大館などから応援の消防車15台が駆け付けたが、市外から来たため貯水槽の場所がよく分からなかったり、あるいはそもそも貯水槽の周囲が火に巻かれて近づけなかったりしたため、機能不全であった。米代川の自然水利も全く使用することが出来なかった。午前2時40分には能代市警察署から最後の電話通信が送られ、電話交換手が退避して間もなく警察署が焼失した。", "qas": [ { "question": "能代大火はどこで発生した火災なの?", "id": "tr-296-00-000", "answers": [ { "text": "秋田県能代市", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "火災の発見を受けて、当時保有していた4台のポンプ車のうち何台が出動しましたか。", "id": "tr-296-00-001", "answers": [ { "text": "3台", "answer_start": 353, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第一次大火では3名の死者と、132名の負傷者という人的被害を出した。住家1,295棟、非住家942棟が焼失、また破壊消防によって5棟が破壊された。被災世帯数は1,755世帯で、8,790人が被災している。火災発生から10日間、渟城第一、第二、第三小学校を休校とし、縁故者のいない被災者333名がこれら3校及び能代工業高校に分けられて収容された。\n\n被害範囲は東西約1,500m、南北約800mに及び、焼失面積約25万2,000坪は、当時の市街地のおよそ42%に達した。被害が出た町名は、上町、万町、馬喰町、羽立町、上川反町、仲町、幸町、大町、畠町、後町、清助町、下川反町、富町、寺町、長根町の15町に及んだ。焼失した区域には473棟の土蔵があったが、焼け残ったのは127棟だけで、大部分の土蔵が持ちこたえられなかったことが火勢の強さを物語る。当時の市街地は製材所や木工所が各所にあり、木材や板材といった可燃物が多かったが、これらが火柱となって飛び、文字通り飛び火して被害を拡げた。さらに丸太は青光りする炎を上げて飛びながら燃えたという証言が、当時の能代市長柳谷清三郎から残されている。", "qas": [ { "question": "第一次大火によって何名の人が死亡したか。", "id": "tr-296-01-000", "answers": [ { "text": "3名", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "渟城第一、第二、第三小学校は火災発生から何日間休校しましたか。", "id": "tr-296-01-001", "answers": [ { "text": "10日間", "answer_start": 108, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第一次大火によって何棟の住家が焼失されたか。", "id": "tr-296-01-002", "answers": [ { "text": "1,295棟", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第一次大火による被害範囲は当時の市街地の何%達しましたか。", "id": "tr-296-01-003", "answers": [ { "text": "およそ42%", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ローマによるブリタンニア侵攻(紀元前55年-紀元前54年)", "paragraphs": [ { "context": "この項目では、ガリア戦争中の紀元前55年と前54年の2度にわたってガイウス・ユリウス・カエサル率いる共和政ローマ軍がブリタンニアへ侵攻した戦闘を中心に記す。", "qas": [ { "question": "この項目で中心に取り扱う戦闘とは、どの戦争中に行われた戦闘であるの?", "id": "tr-297-00-000", "answers": [ { "text": "ガリア戦争", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この項目で中心に取り扱う戦闘とは、紀元前55年から何年まで2度に渡り行われた戦闘でありますか?", "id": "tr-297-00-001", "answers": [ { "text": "前54年", "answer_start": 21, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ガリア戦争中の紀元前55年と前54年に、2度にわたってブリタンニアを侵攻したのは、どの国だったか?", "id": "tr-297-00-002", "answers": [ { "text": "共和政ローマ", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ガリア戦争中の紀元前55年と前54年に、2度にわたってブリタンニアを侵攻した共和政ローマ軍の指揮官には、誰がついていたか?", "id": "tr-297-00-003", "answers": [ { "text": "ガイウス・ユリウス・カエサル", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "夏の終わりに行われた1度目の侵攻(前55年)は、完全な侵略というわけではなく、勢力誇示と偵察程度のものであった。現在のケント近郊の海岸に足掛かりを得たが、ほとんど何も達せられず、失敗の部類に属する。2度目の侵攻(前54年)は1度目よりは成果を収めた。新たにローマの版図に入った領地は無かったものの、友好関係にあったトリノウァンテス族およびその王マンドゥブラキウスとの同盟関係を回復し、マンドゥブラキウスのライバルであったカッシウェラウヌスを軍事力で服従させ、ブリタンニア東部の部族に対して、ローマへ貢物を送ることを約束させた。", "qas": [ { "question": "1度目と2度目のうち、何度目の侵攻が失敗に終わったの?", "id": "tr-297-01-000", "answers": [ { "text": "1度目", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2度目のローマの侵攻により、その勢力が弱まったのは、誰の勢力ですか?", "id": "tr-297-01-001", "answers": [ { "text": "マンドゥブラキウス", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2度目の侵攻で、ローマは、どの部族との同盟関係を築いたか?", "id": "tr-297-01-002", "answers": [ { "text": "トリノウァンテス族", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時のトリノウァンテス族の王は、誰だったか?", "id": "tr-297-01-003", "answers": [ { "text": "マンドゥブラキウス", "answer_start": 172, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ブリタンニアは錫の産地として遥か古代より知られており、前5世紀にはカルタゴの航海者ヒミルコ、前4世紀には古代ギリシア時代のマッシリア(現:マルセイユ)出身の地理学者ピュテアスがそれぞれブリタンニアへ到着し、探検したと伝わっている。", "qas": [ { "question": "ヒミルコとピュテアスのうち、ブリタンニアに到着した時期がより早いのは、誰なの?", "id": "tr-297-02-000", "answers": [ { "text": "ヒミルコ", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ブリタンニアは、昔から何の産地としてよく知られていますか?", "id": "tr-297-02-001", "answers": [ { "text": "錫", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ピュテアスは、どこ出身の地理学者だったか?", "id": "tr-297-02-002", "answers": [ { "text": "マッシリア", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヒミルコは、どこ出身の者だったか?", "id": "tr-297-02-003", "answers": [ { "text": "カルタゴ", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかし、大海の向こう、古代地中海世界の人間が知り得る世界の外縁部に当たり、ブリタンニアは大きな謎に包まれていた。何人かの著作家は、ブリタンニアは存在さえしないと主張し、ピュテアスの航海自体も全くのデタラメと捉えられていた。\nカエサルがブリタンニアへ遠征した時期は鉄器時代であった。島の人口は約100万人と見積もられていた。経済的、考古学的にブリタンニアは低地部分(平野部)と高地部分(山岳部)に分割されていた。", "qas": [ { "question": "カエサルがブリタンニアを侵攻した時は、どの時代だったの?", "id": "tr-297-03-000", "answers": [ { "text": "鉄器時代", "answer_start": 131, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時のブリタンニアには、約何万人が住んでいましたか?", "id": "tr-297-03-001", "answers": [ { "text": "約100万人", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブリタンニアを経済的かつ考古学的に分割した場合、低地部分とどの部分に分けられるか?", "id": "tr-297-03-002", "answers": [ { "text": "高地部分", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブリタンニアを低地部分と高地部分に分けてとらえるのは、経済的観点とどの学問の観点によることか?", "id": "tr-297-03-003", "answers": [ { "text": "考古学", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "前58年よりガリア・トランサルピナ、イリュリクムなどの属州総督に就任したユリウス・カエサルは同じ前58年よりガリア戦争を開始し、ガリア征服を進めていたが、ローマと敵対するベルガエ人(ガリア人の一派)が、ブリタンニアにあるベルガエ人の入植地へ逃亡したことを見逃し、また、ガリア人たちの戦闘をブリタンニア人たちが支援していた。実際にブリタンニアとの海上貿易を統制していたアルモリカのウェネティ族は、前56年にカエサル軍との戦闘に際して、ブリタンニアの同盟者から支援を受けていた、とカエサルは抗議した。", "qas": [ { "question": "前58年よりユリウス・カエサルが総督についていた属州としては、ガリア・トランサルピナとどこが挙げられているの?", "id": "tr-297-04-000", "answers": [ { "text": "イリュリクム", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ガリア戦争を起こしたのは、誰ですか?", "id": "tr-297-04-001", "answers": [ { "text": "ユリウス・カエサル", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユリウス・カエサルがガリア征服を開始したのは、いつのことか?", "id": "tr-297-04-002", "answers": [ { "text": "前58年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ガリア人たちの戦闘を支援したのは、どのような人々だったか?", "id": "tr-297-04-003", "answers": [ { "text": "ブリタンニア人", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ストラボンは、前56年のウェネティ族の反乱(モルビアン湾の海戦)はカエサルをブリタンニアへ渡航させることや、ウェネティ族の商業活動を中断させること、既に考えられていたブリタンニアへ干渉させることなどを防ぐために発生した、と記述している", "qas": [ { "question": "ウェネティ族の反乱が発生したのは、いつのことなの?", "id": "tr-297-05-000", "answers": [ { "text": "前56年", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、どの事件の意義について説明していますか?", "id": "tr-297-05-001", "answers": [ { "text": "ウェネティ族の反乱", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書は、誰の記述をもとに、ウェネティ族の反乱の意義について説明しているか?", "id": "tr-297-05-002", "answers": [ { "text": "ストラボン", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "カエサルはブリタンニアと交易をする商人を呼んでブリタンニアの居住民や軍事的な戦術について尋ねたが、おそらくは商人たちが独占的に有する海上貿易のチャネルを失うのを望まなかったこともあって、有用な情報は全く得られなかった。カエサルは、海岸を偵察させるためにトリブヌスのガイウス・ウォルセヌスを乗せた軍船1隻をブリタンニアへと送り出した。", "qas": [ { "question": "ブリタンニアの居住民や軍事的な戦術についての情報が必要だったカエサルは、どんな人々を呼んで情報を取得しようとしたの?", "id": "tr-297-06-000", "answers": [ { "text": "ブリタンニアと交易をする商人", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "海岸偵察の目的をもってブリタンニアに向かったのは、誰ですか?", "id": "tr-297-06-001", "answers": [ { "text": "ガイウス・ウォルセヌス", "answer_start": 132, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カエサルは、どの職の者に海岸偵察を命じたか?", "id": "tr-297-06-002", "answers": [ { "text": "トリブヌス", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ロボジッツの戦い", "paragraphs": [ { "context": "ロボジッツの戦い(ドイツ語:SchlachtbeiLobositz)は、1756年10月1日にプロイセン軍とオーストリア軍との間で行われた、七年戦争における会戦である。プロイセン軍が勝利した。", "qas": [ { "question": "ロボジッツの戦いとは、いつ行われた戦闘なの?", "id": "tr-298-00-000", "answers": [ { "text": "1756年10月1日", "answer_start": 36, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロボジッツの戦いで戦勝国となったのは、どの国ですか?", "id": "tr-298-00-001", "answers": [ { "text": "プロイセン", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ロボジッツの戦いで敗戦国となったのは、どの国か?", "id": "tr-298-00-002", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 54, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ロボジッツの戦いとは、どの戦争中に行われた戦闘か?", "id": "tr-298-00-003", "answers": [ { "text": "七年戦争", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "七年戦争の開始後、フリードリヒ大王率いるプロイセン軍はザクセンに攻め込み、ピルナにおいてにザクセン軍を包囲した(ピルナ包囲戦)。", "qas": [ { "question": "七年戦争が始まる頃のプロイセンは、誰が統治していたの?", "id": "tr-298-01-000", "answers": [ { "text": "フリードリヒ大王", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "七年戦争の開始後、フリードリヒ大王は、どの国に向かい進軍しましたか?", "id": "tr-298-01-001", "answers": [ { "text": "ザクセン", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリードリヒ大王は、どこにおいてザクセン軍を包囲したか?", "id": "tr-298-01-002", "answers": [ { "text": "ピルナ", "answer_start": 37, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文章では、ザクセンとどの国の間で行われた戦闘について説明しているか?", "id": "tr-298-01-003", "answers": [ { "text": "プロイセン", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ピルナを包囲している間にもプロイセン軍はベーメンに向けて進軍を続け、ピルナから南下したブラウンシュヴァイク公子フェルディナントの指揮する前衛部隊は9月13日、ノレンドルフとペータースヴァルトでヴィートの小規模なオーストリア軍部隊を排除してベーメンに入った。", "qas": [ { "question": "プロイセン軍は、ピルナとどこを同時に攻略したの?", "id": "tr-298-02-000", "answers": [ { "text": "ベーメン", "answer_start": 20, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベーメンに向かったプロイセン軍は、誰が率いていましたか?", "id": "tr-298-02-001", "answers": [ { "text": "フェルディナント", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "プロイセン軍がベーメン攻略に成功したのは、いつのことだったか?", "id": "tr-298-02-002", "answers": [ { "text": "9月13日", "answer_start": 73, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベーメンに向かったプロイセン軍は、ノレンドルフとどこでオーストリア軍に勝ち抜き、ベーメン入城を果たしたか?", "id": "tr-298-02-003", "answers": [ { "text": "ペータースヴァルト", "answer_start": 86, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フリードリヒ大王はさらにカイトに主力部隊を預けてフェルディナント公子の後を追わせ、カイトはアウシヒに進出、ここからまたマンシュタイン支隊を送ってエルベ右岸テシェンを占領し、エルベ川両岸を制圧してオーストリア軍を寄せ付けない態勢を整えた。", "qas": [ { "question": "アウシヒとテシェンのうち、プロイセン軍はどちらを先に占領したの?", "id": "tr-298-03-000", "answers": [ { "text": "アウシヒ", "answer_start": 45, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フェルディナント公子とカイトのうち、より先まで進出していたのは、誰ですか?", "id": "tr-298-03-001", "answers": [ { "text": "フェルディナント公子", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エルベ川両岸制圧に送られた部隊は、何か?", "id": "tr-298-03-002", "answers": [ { "text": "マンシュタイン支隊", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エルベ川両岸制圧に送られた部隊は、誰が率いる部隊から差し出された部隊だったか?", "id": "tr-298-03-003", "answers": [ { "text": "カイト", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一方のオーストリア軍では、ベーメンのコリンに軍を集結中であったブラウンがベーメン方面の最高指揮官に任じられ、コリンから西に移動して9月20日エーガー川南岸のブディンに陣を敷き、とりあえずプロイセン軍のプラハ方面への進撃を阻止する態勢を取った。しかしこれ以上の積極的な作戦を行うために必要な砲、馬匹、食糧、浮橋等々の準備が間に合わず、ここでブラウンは一旦停止した。", "qas": [ { "question": "オーストリア軍側では、ベーメン方面の指揮を誰に任せたの?", "id": "tr-298-04-000", "answers": [ { "text": "ブラウン", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オーストリア軍がエーガー川南岸に到着したのは、いつでしたか?", "id": "tr-298-04-001", "answers": [ { "text": "9月20日", "answer_start": 65, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブラウンは、どの町で軍を集結中であったか?", "id": "tr-298-04-002", "answers": [ { "text": "コリン", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブラウン軍がブディンに陣を敷いたのは、プロイセン軍がどの方面に進撃することを阻止するためだったか?", "id": "tr-298-04-003", "answers": [ { "text": "プラハ方面", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ベーメンを守りつつ同時にザクセン軍を救援するという難題を背負わされたブラウンは、はじめ、エルベ川西岸を全力をもって北上してプロイセン軍を撃退、オーストリア軍が接近したらザクセン軍も呼応して封鎖を突破し、オーストリア軍に合流するという作戦を考えていた。しかしザクセン軍から実行は難しいと返答され、ブラウンは作戦を変更した。それは、主力部隊でもって西岸のプロイセン軍を拘束し、一方でエルベ東岸に渡した別働隊をザクセンに向かわせ、接近したらザクセン軍を東岸に渡らせて合流するというもので、こちらはザクセン軍の了解を得た。", "qas": [ { "question": "ブラウンに下された課題は、ベーメンを守りつつ同時にどの軍を救援するとのことだったの?た", "id": "tr-298-05-000", "answers": [ { "text": "ザクセン軍", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブラウンの最初の目標は、どこをプロイセン軍から取り戻すことでしたか?", "id": "tr-298-05-001", "answers": [ { "text": "エルベ川西岸", "answer_start": 44, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブラウンの作戦が変更せざるを得なかったのは、誰がその作戦通りに動くのが難しいと言ってきたからか?", "id": "tr-298-05-002", "answers": [ { "text": "ザクセン軍", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "9月25日、ブラウンは救援軍を構築するためラシ支隊をエルベ東岸ライトメリッツに派遣した。", "qas": [ { "question": "ラシ支隊がライトメリッツに向かったのは、いつのことなの?", "id": "tr-298-06-000", "answers": [ { "text": "9月25日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ラシ支隊は、エルベ東岸のどこに向かうよう命じられましたか?", "id": "tr-298-06-001", "answers": [ { "text": "ライトメリッツ", "answer_start": 31, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブラウンは救援軍を構築するために、どの部隊をエルベ東岸ライトメリッツに向かわせたか?", "id": "tr-298-06-002", "answers": [ { "text": "ラシ支隊", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "9月25日にラシ支隊をライトメリッツに向かわれた指揮官は、誰だったか?", "id": "tr-298-06-003", "answers": [ { "text": "ブラウン", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "が、9月30日に主力部隊がエーガー川を渡河するころにはプロイセン軍の予想以上に早い南下のため一両日中の会戦が避けられない情勢となり、ブラウンは作戦を急遽変更して結局ラシを西岸に呼び戻した。30日夕刻、ブラウン軍はラシと合流してエルベ川屈折部ロボジッツに布陣した。", "qas": [ { "question": "主力部隊の撤退が命じられたのは、いつのこと?", "id": "tr-298-07-000", "answers": [ { "text": "9月30日", "answer_start": 2, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "主力部隊に撤退命令が下されたのは、何のためでしたか?", "id": "tr-298-07-001", "answers": [ { "text": "プロイセン軍の予想以上に早い南下", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "一行目の主力部隊と同じことを指す単語を、二行目から差し出しなさい。", "id": "tr-298-07-002", "answers": [ { "text": "ラシ", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "撤退したラシ支隊とブラウン軍は、エルベ川屈折部のどこに陣を敷いたか?", "id": "tr-298-07-003", "answers": [ { "text": "ロボジッツ", "answer_start": 120, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "このあいだフリードリヒ大王は、ブラウン軍の北上を阻止すべくピルナからベーメンに移り、9月28日にカイトの陣営のあるヨーンスドルフに到着して軍を掌握していた。29日、大王は前衛部隊とともに本隊に先行して進発し、アウシヒの南にある山を避けてエルベ川からやや西に離れて南下していたところ、騎兵斥候が、オーストリア軍はエーガー渡河の準備を完了して明日にも北岸に渡るであろうという情報をもたらした。さらに30日ヴェレミン村北方で大王は、山1つ挟んだ向こう側のロボジッツにすでにオーストリア軍部隊が展開しているとの報告を得た。大王は本隊の到着を待って村の北で一度停止し、夜になってからヴェレミン周辺に展開していたオーストリア軍の軽歩兵を駆逐して村に入った。", "qas": [ { "question": "フリードリヒ大王がヨーンスドルフに到着したのは、いつのことなの?", "id": "tr-298-08-000", "answers": [ { "text": "9月28日", "answer_start": 42, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨーンスドルフには、誰の軍が陣を敷いていましたか?", "id": "tr-298-08-001", "answers": [ { "text": "カイト", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリードリヒ大王が、合流した本隊とともにオーストリア軍を駆逐して入った村は、どの村か?", "id": "tr-298-08-002", "answers": [ { "text": "ヴェレミン村", "answer_start": 200, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリードリヒ大王に入った報告によると、9月30日の時点でオーストリアはどこまで到着していたか?", "id": "tr-298-08-003", "answers": [ { "text": "ロボジッツ", "answer_start": 224, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ベーメン北西部のこの一帯はベーミッシュ・ミッテルゲビルゲと呼ばれる山地で、プロイセン軍はこの山々の間を縫って行軍してきた。ロボジッツは山地の出口にあたり、ロボジッツの北はエルベ川、南には平地が広がる。ロボジッツの西には、北西にロボシュ山、南西にヴォフチュィン山があって、ヴェレミンの北にも同じように山があり、従ってヴェレミンは谷の底にあった。", "qas": [ { "question": "ロボジッツは、何と呼ばれる山地の出口だと説明しているの?", "id": "tr-298-09-000", "answers": [ { "text": "ベーミッシュ・ミッテルゲビルゲ", "answer_start": 13, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エルベ川の南に位置した地域は、どこですか?", "id": "tr-298-09-001", "answers": [ { "text": "ロボジッツ", "answer_start": 61, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ロボジッツの西にある山には、ロボシュ山のほかに、どの山があるか?", "id": "tr-298-09-002", "answers": [ { "text": "ヴォフチュィン山", "answer_start": 122, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴォフチュィン山とロボシュ山の共通点としては、ロボジッツからどの方向に位置しているとのことが挙げられるか?", "id": "tr-298-09-003", "answers": [ { "text": "西", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "プロイセン軍に一歩先んじてロボジッツに到着することのできたオーストリア軍であるが、しかしブラウンは慎重に構えて待ち受けの姿勢をとった。ピルナ包囲に戦力の半分を残してきたプロイセン軍に対し、ベーメンのオーストリア軍は本来かなり優位に立てる局面であって、このとき大王はブラウン軍の戦力を約6万と見ていた。", "qas": [ { "question": "プロイセン軍とオーストリア軍のうち、ロボジッツにより早く到着したのは、どちらなの?", "id": "tr-298-10-000", "answers": [ { "text": "オーストリア軍", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オーストリア軍の指揮は、誰がとっていましたか?", "id": "tr-298-10-001", "answers": [ { "text": "ブラウン", "answer_start": 44, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プロイセン軍は、軍を二つに分けていたが、ロボジッツのほかに、どこにも軍を展開していたか?", "id": "tr-298-10-002", "answers": [ { "text": "ピルナ", "answer_start": 67, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プロイセン軍から見ると、オーストリア軍は約何万の軍勢であったか?", "id": "tr-298-10-003", "answers": [ { "text": "約6万", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ところがこれがかなり過大な評価で、実際の戦力はその半分程度であった。これはオーストリア軍の集結がもたついていて遠方の部隊がまだ到着していなかったうえに、ピッコロミーニ軍がシュレージエンから侵入してきたシュヴェリーン軍に牽制されてベーメン北東部から動けなかったためである。", "qas": [ { "question": "オーストリア軍は、誰の率いる部隊が合流する予定であったの?", "id": "tr-298-11-000", "answers": [ { "text": "ピッコロミーニ", "answer_start": 76, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ピッコロミーニ軍の本隊合流は、誰の率いるプロイセンの部隊により阻止されましたか?", "id": "tr-298-11-001", "answers": [ { "text": "シュヴェリーン", "answer_start": 100, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ピッコロミーニ軍は、どこから侵攻してきたシュヴェリーン軍の牽制を受け、本隊への応援が難しくなったか?", "id": "tr-298-11-002", "answers": [ { "text": "シュレージエン", "answer_start": 85, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オーストリア軍、ピッコロミーニ軍、シュヴェリーン軍のうち、同じ勢力に含まれないのは、どの軍か?", "id": "tr-298-11-003", "answers": [ { "text": "シュヴェリーン軍", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オーストリア軍は戦場から離脱するとそのままブディンに撤退した。ブラウンは会戦の勝利こそ諦めたもののザクセン軍を救出する作戦は断固続行する考えであり、藪蛇にならぬよう何とか敵を足止めしてプロイセン軍のこれ以上の進撃を阻止しつつ、自ら救援軍を率いて北上するつもりであった。ブラウンは撤退の際にライトメリッツでエルベ川に架かる橋を落とし、さらにブディンに戻ると直ちにエーガー川に架かる橋全てを落としてプロイセン軍が勝利に乗じた急進撃を行えないようにした。その間にオーストリア軍はエーガー南岸で防御態勢を整えることに成功し、ここからブラウンは約9千の兵を抽出して救援軍を構成し北上してザクセン軍の救援に向かった。", "qas": [ { "question": "オーストリア軍は、戦場から離脱し、どこに撤退したの?", "id": "tr-298-12-000", "answers": [ { "text": "ブディン", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブラウンはブディンへと撤退する間に、プロイセン軍の急進撃を阻止するため、エルベ川とどの川に架かる橋全てを落としましたか?", "id": "tr-298-12-001", "answers": [ { "text": "エーガー川", "answer_start": 180, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ペリー上陸記念碑", "paragraphs": [ { "context": "ペリー上陸記念碑(ペリーじょうりくきねんひ)は、1853年(嘉永6年)のペリー艦隊の来航時、アメリカ大統領からの国書受け渡しの地となった神奈川県横須賀市久里浜に、ペリー上陸を記念して建立され、1901年(明治34年)7月14日に除幕された記念碑である。\n1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリー率いるアメリカ海軍の艦隊が浦賀沖に来航した。\nペリーはフィルモア大統領の国書を携えており、日本側を威圧しながら国書受け取りを要請した。\nペリーの強圧に屈した幕府は長崎での対応を諦め、浦賀の隣の入江である久里浜でアメリカ大統領の国書を受け取ることになった。\n1853年7月14日(嘉永6年6月9日)、ペリーは久里浜に上陸して国書を日本側に引き渡した。", "qas": [ { "question": "ペリー上陸記念碑の所在地はどこですか?", "id": "tr-299-00-000", "answers": [ { "text": "神奈川県横須賀市久里浜", "answer_start": 68, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1853年にアメリカ大統領を務めていた人は誰?", "id": "tr-299-00-001", "answers": [ { "text": "フィルモア", "answer_start": 177, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ペリーによるアメリカ大統領からの国書の受け渡しが行われた入江はどこ?", "id": "tr-299-00-002", "answers": [ { "text": "久里浜", "answer_start": 251, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ペリーの久里浜上陸後47年を経た1900年(明治33年)10月、かつてペリー艦隊に少尉候補生として乗り込んでいたレスター・ビアズリー(LesterA.Beardslee)退役海軍少将が久里浜を訪れた。\n47年ぶりに久里浜を訪れたビアズリーは、ペリー来航を記念する事物が全く無いことに落胆した。\nビアズリーは米友協会主宰の歓迎会の席などで、ペリー上陸を記念する事物が久里浜に全く無いことを遺憾とする意見を表明した。\nビアズリーの意見に感銘した米友協会はさっそくペリー上陸記念碑の建設を決定する。\n米友協会は久里浜の現地見分や募金の呼びかけなど記念碑の建設に尽力し、碑文の揮毫は伊藤博文に依頼した。", "qas": [ { "question": "ペリー上陸を記念する事物が皆無だったことを意見した人物とは?", "id": "tr-299-01-000", "answers": [ { "text": "ビアズリー", "answer_start": 147, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "碑文の揮毫は誰に依頼しましたか?", "id": "tr-299-01-001", "answers": [ { "text": "伊藤博文", "answer_start": 287, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ペリー上陸記念碑の建設に尽力した団体は何?", "id": "tr-299-01-002", "answers": [ { "text": "米友協会", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1901年(明治34年)7月14日、日米両海軍の軍艦、そして桂太郎首相ら大勢の来賓を招き、ペリー上陸記念碑の除幕式が盛大に行われた。\nペリー上陸記念碑は日米友好のシンボルとしての役割を果たしていたが、1941年(昭和16年)12月8日、日本がアメリカに宣戦して日米は敵国同士となり、やがて戦況が悪化する中で、ペリー上陸記念碑は人々の間に高まってきたアメリカ憎しの感情の格好のターゲットとなった。\n1944年(昭和19年)には、横須賀市の翼賛壮年団が中心となってペリー上陸記念碑の破壊運動が行われるようになり、1945年(昭和20年)2月8日、ついにペリー上陸記念碑は倒される。", "qas": [ { "question": "ペリー上陸記念碑の除幕式に参席した首相とは?", "id": "tr-299-02-000", "answers": [ { "text": "桂太郎", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ペリー上陸記念碑の破壊運動が行われるようになったのは何年から?", "id": "tr-299-02-001", "answers": [ { "text": "1944年", "answer_start": 198, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ペリー上陸記念碑の破壊運動を行っていた中心団体は何?", "id": "tr-299-02-002", "answers": [ { "text": "翼賛壮年団", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ペリー上陸記念碑が倒されたのは何年?", "id": "tr-299-02-003", "answers": [ { "text": "1945年", "answer_start": 254, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし同年8月15日には終戦となり、11月には碑の再建工事が行われた。\n1947年(昭和22年)7月14日、ペリー上陸記念碑前でペリー上陸95周年記念式典が行われ、これを機に毎年7月半ばには久里浜ペリー祭りが行われるようになった。\n1953年(昭和28年)にはペリー来航100周年が盛大に祝われ、その後記念碑周辺の公園化、ペリー記念館の建設がなされ、記念碑は再び日米友好のシンボルとしての役割を果たすようになった。", "qas": [ { "question": "倒された記念碑の再建工事は何月に行われたの?", "id": "tr-299-03-000", "answers": [ { "text": "11月", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "久里浜ペリー祭りの開催時期はいつ?", "id": "tr-299-03-001", "answers": [ { "text": "7月半ば", "answer_start": 89, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ペリー来航100周年を迎えた年は何年?", "id": "tr-299-03-002", "answers": [ { "text": "1953年", "answer_start": 116, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "久里浜ペリー祭りの開催きっかけとなった式典とは?", "id": "tr-299-03-003", "answers": [ { "text": "ペリー上陸95周年記念式典", "answer_start": 64, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリー率いるサスケハナ、ミシシッピ、プリマス、サラトガの4隻の艦隊が浦賀沖に到着した。\nペリー艦隊に接触した日本側は、来日の目的がフィルモア大統領の国書を日本の皇帝に受け渡すためであると把握した。\n日本側は長崎が日本唯一の対外交渉の窓口となっているので、日本での決まりに基づき長崎へ向かうように再三伝えたが、ペリー側は了承しなかった。\nその上、しかるべき高官が国書受け取りを行おうとしない場合、十分な兵力を率いて江戸に直接向かい国書を渡すと主張し、江戸湾内の測量を開始して、幕府側に圧力を加えた。\nペリーの強硬姿勢を前に幕府側は譲歩を迫られ、ペリー艦隊を長崎に向かわせることを断念し、国書受け取りを決断した。", "qas": [ { "question": "ペリーは西暦でいつ日本に来航したの?", "id": "tr-299-04-000", "answers": [ { "text": "1853年7月8日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ペリーが日本の皇帝に渡そうとしたものとは何?", "id": "tr-299-04-001", "answers": [ { "text": "国書", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "当時、日本での対外交渉の地はどこでしたか?", "id": "tr-299-04-002", "answers": [ { "text": "長崎", "answer_start": 123, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ペリー艦隊は全部で何隻でしたか?", "id": "tr-299-04-003", "answers": [ { "text": "4隻", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "国書受け取りは当初、浦賀港入り口にあった燈明堂近くの、館浦で行われる予定であった。\nしかしここで江戸湾の警備を担当していた川越藩、彦根藩、会津藩、忍藩の四藩から猛抗議がなされた。\n四藩の言い分は、江戸湾の測量を強行するペリー艦隊に対して、あくまで攻撃を控え見守り続けるように指示され、江戸湾警備の役目を果たせなかった上に、狭くて四藩の警備陣が展開できる余地がない館浦では、国書受け取りという重要時までも蚊帳の外に置かれることになり、いったい何のために江戸湾警備に携わっているのかということであった。", "qas": [ { "question": "館浦での国書の受け取りを強く反対した四藩とは、川越藩、会津藩、忍藩ともう1つはどこですか?", "id": "tr-299-05-000", "answers": [ { "text": "彦根藩", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "最初の国書の受け取り場所はどこに予定されていたの?", "id": "tr-299-05-001", "answers": [ { "text": "館浦", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "結局国書受け取りの場所は、ペリー側の了承も得て浦賀の隣の入江である久里浜となった。\n久里浜には応接所として仮設の陣屋が設けられた。\n1853年7月14日(嘉永6年6月9日)の午前8時頃、ペリーらを久里浜へ案内するため、日本側から応接担当がサスケハナ号に向かった。\n国書受け渡しの当日、久里浜は江戸湾の警備を担当していた彦根藩、川越藩が陸、会津藩、忍藩が海上の警備を行う中、午前10時頃に日本側の応接担当に引率され、ペリー一行は久里浜に上陸した。", "qas": [ { "question": "ペリーから国書が受け渡された年月日はいつでしたか?", "id": "tr-299-06-000", "answers": [ { "text": "1853年7月14日", "answer_start": 66, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本側の応接担当が向かったペリー艦隊の名前は何でしたか?", "id": "tr-299-06-001", "answers": [ { "text": "サスケハナ号", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ペリーが久里浜に上陸したのは何時頃だったの?", "id": "tr-299-06-002", "answers": [ { "text": "午前10時頃", "answer_start": 186, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ペリーは操縦に必要な人員のみ船に残し、約300名の兵士を率いて久里浜に上陸した。\n上陸したペリー一行は隊列を整え、威儀を正して仮設の応接所へと向かった。\nペリーは応接所で浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道に、アメリカ大統領からの国書、ペリーの信任状、そしてペリーからの書簡2通を手渡した。\n戸田はペリーに対して日本語とオランダ語で書かれた受領書を交付し、国書受け渡しの目的を達したペリー一行は艦隊へと戻っていった。", "qas": [ { "question": "ペリー上陸の際に同行した兵士は何名でしたか?", "id": "tr-299-07-000", "answers": [ { "text": "約300名", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ペリーの対応に応じた浦和奉行は井戸弘道と誰でしたか?", "id": "tr-299-07-001", "answers": [ { "text": "戸田氏栄", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ペリーの書簡は何通渡されたの?", "id": "tr-299-07-002", "answers": [ { "text": "2通", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本が交付した受領書は日本語と何語で作成されましたか?", "id": "tr-299-07-003", "answers": [ { "text": "オランダ語", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ペリー率いる黒船襲来をきっかけとし、日本の鎖国は破られ開国することになった。\n開国後、日本から多くの人々が学問や技術を学ぶために欧米諸国へ向かうことになる。\nアメリカにも多くの日本人が渡っていったが、明治時代後半になるとかつてアメリカで学んだ人々が、在米旧友親睦会、遊米人会という親睦会を組織するようになった。\nそして1898年(明治31年)12月には在米旧友親睦会、遊米人会が合同して米友協会が発足し、1900年(明治33年)9月、米友協会は金子堅太郎を会長とし、かつてアメリカで学問や技術等を学んだ日本人同士の親睦を図るとともに、日米友好親善に係わる活動を繰り広げるようになった。", "qas": [ { "question": "1900年の9月に米友協会の会長に就任した人は誰ですか?", "id": "tr-299-08-000", "answers": [ { "text": "金子堅太郎", "answer_start": 222, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "過去にアメリカで学んだ人達が組織した親睦会とは在米旧友親睦会や何ですか?", "id": "tr-299-08-001", "answers": [ { "text": "遊米人会", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "在米旧友親睦会、遊米人会が立ち上がったのはいつ頃ですか?", "id": "tr-299-08-002", "answers": [ { "text": "明治時代後半", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "米友協会が発足したのは明治何年だったの?", "id": "tr-299-08-003", "answers": [ { "text": "明治31年", "answer_start": 165, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ペリーの久里浜上陸から47年が経過した1900年(明治33年)10月、ペリー来航時は17歳の少尉候補生としてプリマス号に乗船し、その後アメリカ海軍の少将にまでなったレスター・ビアズリーが来日した。\nビアズリーは1898年(明治31年)2月をもって退役しており、夫婦で日本などアジア諸国歴訪の旅の途上の日本訪問であった。\n1900年(明治33年)10月25日、ビアズリーは横浜からかつてペリーが上陸した久里浜へと向かった。\n彼はペリー上陸を記念する何らかのモニュメントがあるものと期待していたが、全くそのようなものがないことに落胆した。\nビアズリーはペリーの日本来航が日本を開国へと導き、大きな歴史の転換点となったのにもかかわらず、ペリーの上陸地である久里浜にそのことを記念する事物が全く存在しないことを遺憾とする意見を、11月5日掲載の時事新報のインタビューの中で述べた。", "qas": [ { "question": "レスター・ビアズリーは何歳の時にペリー艦隊に乗船していたの?", "id": "tr-299-09-000", "answers": [ { "text": "17歳", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビアズリーはアメリカ海軍を何年に退役したの?", "id": "tr-299-09-001", "answers": [ { "text": "1898年", "answer_start": 105, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ビアズリーがペリー来航の際に乗船していた艦隊の名前は?", "id": "tr-299-09-002", "answers": [ { "text": "プリマス号", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "折りしも日本では10月19日に第4次伊藤内閣が成立していた。\n第4次伊藤内閣には、米友協会会長の金子堅太郎が司法大臣、会員の星亨が逓信大臣として入閣した。\nまた会員の中から駐オランダ大使、駐米公使館書記官に任命された人物がいたため、米友協会は11月6日に大臣就任祝賀会兼送別会を行うことになった。\nそして会を行うに当たり、在日中のビアズリーを招待するアイデアが出され、ビアズリーも出席を快諾したため、結局11月6日の会は大臣就任祝賀会兼送別会兼ビアズリー歓迎会となった。\nビアズリーは米友協会主宰の歓迎会の席で時事新報のインタビューでも述べたように、ペリー上陸地の久里浜に記念となるものが全く無い現状を遺憾とする意見を述べた。米友協会の金子堅太郎会長以下、ビアズリーの意見に大きな感銘を受け、金子会長の提案によってその場で満場一致でペリー来航の記念碑建設の決議がなされた。", "qas": [ { "question": "ビアズリーの意見を受けて、ペリー来航の記念碑建設を提案した人とは?", "id": "tr-299-10-000", "answers": [ { "text": "金子堅太郎", "answer_start": 318, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "金子堅太郎と星亨は何の親睦会の会員だったの?", "id": "tr-299-10-001", "answers": [ { "text": "米友協会", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大臣就任祝賀会兼送別会兼ビアズリー歓迎会の主催者はどこですか?", "id": "tr-299-10-002", "answers": [ { "text": "米友協会", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第4次伊藤内閣で逓信大臣に任命された人は誰?", "id": "tr-299-10-003", "answers": [ { "text": "星亨", "answer_start": 62, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "米友協会は11月11日、金子堅太郎、星亨ら10名の建碑委員を選出した。\n11月28日には、記念碑を久里浜に建設することや1901年(明治34年)7月14日のペリー上陸記念日に記念碑の落成式を行うことなどを取り決めた記念碑設立の要件を定めた。\nそして12月5日には雨宮敬次郎ら日本側と、ビアズリー夫妻、そしてシドモア(GeorgeHawthorneScidmore)米副総領事が碑の建設予定地である久里浜を検分した。\n検分の結果、約1500坪の土地に上陸記念碑を建設することとして、建設予定地に「嘉永六年米国水師提督彼理氏上陸紀念碑」と書かれた木標を立て、更にビアズリー夫妻ら4、5名が松の記念植樹を行った。", "qas": [ { "question": "上陸記念碑は何坪の土地に建設されることになったの?", "id": "tr-299-11-000", "answers": [ { "text": "約1500坪", "answer_start": 214, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "建碑委員には何名が選ばれたの?", "id": "tr-299-11-001", "answers": [ { "text": "10名", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "上陸記念碑建設記念に植えられた木とは?", "id": "tr-299-11-002", "answers": [ { "text": "松", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1901年(明治34年)に入ると記念碑建設への動きが本格化した。\n1月15日には米友協会の金子会長の名で、設立趣意書を各方面に配布するとともに募金を開始した。\n募金は順調に集まり、日米両国から寄せられた募金総額は6月末までに2万円余りに達した。\nその上、6月23日には宮内省から明治天皇の思召とのことで1000円が下賜された。", "qas": [ { "question": "募金総額と明治天皇の思召は、どちらの金額が高額だったの?", "id": "tr-299-12-000", "answers": [ { "text": "募金総額", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "記念碑建設のための募金は何年に開始されたの?", "id": "tr-299-12-001", "answers": [ { "text": "1901年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "記念碑建設のための募金は約半年でいくら集まったの?", "id": "tr-299-12-002", "answers": [ { "text": "2万円余り", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "募金集めと並行して記念碑建設が開始された。\n途中、工事の届出を行っていなかったために東京湾要塞司令部から工事差し止めを言い渡されるアクシデントもあったが、届出を迅速に行ったために大事には至らず、建設は順調に進められた。\n記念碑本体となる石は、当初取り寄せた石が小さかったため、改めて大きな石を取り寄せたといい、高さ1丈5尺、幅8尺、厚さ1尺2寸、重量は10トンあまりの仙台産の花崗岩であった。\n台座は神奈川県根府川産の石が用いられ、高さ1丈8尺、幅1丈2尺、厚さ5寸、重さは9トンあまりであった。", "qas": [ { "question": "記念碑本体と台座に使用された石はどちらが重いですか?", "id": "tr-299-13-000", "answers": [ { "text": "記念碑本体", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "記念碑本体と台座に使用された石の高さはどちらが高いですか?", "id": "tr-299-13-001", "answers": [ { "text": "台座", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "使用された石の厚さがより分厚いのは記念碑本体と台座のどちらですか?", "id": "tr-299-13-002", "answers": [ { "text": "記念碑本体", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "カジキ", "paragraphs": [ { "context": "カジキ(梶木・舵木・旗魚・羽魚・鮙)はスズキ目カジキ亜目Xiphioideiに分類される魚の総称。\n温暖な海を高速で遊泳する大型肉食魚で、いずれも上顎が剣のように長く鋭く伸びて「吻」(ふん)を形成しており、食用やトローリングによるスポーツフィッシングの対象魚。\nカジキ亜目はメカジキ科Xiphiidae、マカジキ科Istiophoridaeの2科からなる。\n分類によってはサバ亜目に含めたり、カジキ上科Xiphioideaとしたりもする。\n全世界に10-12種が分布し、このうち日本近海にはメカジキ、マカジキ、バショウカジキ、フウライカジキ、シロカジキ、クロカジキの6種が生息する。\nマグロとは異なる分類群であるが、混同する場合もある。", "qas": [ { "question": "舵木や旗魚と漢字表記される魚は何ですか?", "id": "tr-300-00-000", "answers": [ { "text": "カジキ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カジキ亜目は何科ありますか?", "id": "tr-300-00-001", "answers": [ { "text": "2科", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本の近海には何種のカジキが生息しているの?", "id": "tr-300-00-002", "answers": [ { "text": "6種", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カジキの上顎にある特徴は何?", "id": "tr-300-00-003", "answers": [ { "text": "「吻」", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "「カジキ」という和名は、その吻で舵木(船の舵をとる硬い木板)を突き通すことから舵木通し(カジキドオシ)と呼ばれ、それを略したものとする説が有力である。\n英語では\"Billfish\"(ビルフィッシュ:「嘴魚」の意)と呼ぶが、マカジキ科のみを\"Billfish\"とすることもある。\nまた、メカジキは\"Swordfish\"(ソードフィッシュ:剣魚)、バショウカジキ類は\"Sailfish\"(セイルフィッシュ:帆魚)、マカジキ・クロカジキ類は\"Marlin\"(マーリン)、フウライカジキ類は\"Spearfish\"(スピアフィッシュ:槍魚)という呼び分けもされている。", "qas": [ { "question": "カジキの英語表記は何ですか?", "id": "tr-300-01-000", "answers": [ { "text": "Billfish", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "舵木通しの呼称をもつ魚の名前は何?", "id": "tr-300-01-001", "answers": [ { "text": "カジキ", "answer_start": 1, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メカジキの英語名は何?", "id": "tr-300-01-002", "answers": [ { "text": "Swordfish", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メカジキの和名は何?", "id": "tr-300-01-003", "answers": [ { "text": "剣魚", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "カジキ類は水中における最速のスプリンターである。\n水中ゆえに最高遊泳速度を正確に測定することは難しいが、種によっては時速100km以上に達すると考えられている。\nバショウカジキのトップスピードなら、25mプールを1秒以内で駆け抜ける速さに相当する。\n水中で最も速く泳ぐことのできる動物として、ギネスブックにも記載されている。\nその体には高速遊泳に適応した構造や機能がいくつか見られる。", "qas": [ { "question": "水中で最速のスピードで泳ぐことの出来る動物とは何?", "id": "tr-300-02-000", "answers": [ { "text": "バショウカジキ", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ギネスブックに記載されている、水中において最速で泳げる動物とは何?", "id": "tr-300-02-001", "answers": [ { "text": "バショウカジキ", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バショウカジキは、水中で最も速く泳ぐことのできる動物として、何に記載されていますか?", "id": "tr-300-02-002", "answers": [ { "text": "ギネスブック", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "多くの高速遊泳魚に共通することであるが、体は流線型(紡錘形)をしており水の抵抗を受けにくい。\n筋肉に奇網という熱交換器官を備え、周りの海水よりも体温を高く保つことができる。\nこれは水温が低いと筋肉の動きが鈍くなるという、変温動物である魚の短所を克服している。\n第一背鰭(せびれ)と臀鰭(しりびれ)には、鰭を格納するための溝がある。\n高速遊泳時にはこの溝に鰭を収納し、ブレーキをかける時に鰭を大きく広げる。\n腹鰭が退化傾向である。\nマカジキ科は2本の細い帯状になっており、メカジキは腹鰭が無い。\n鎌のような三日月型の尾鰭(おびれ)は、長時間の持続的遊泳と短時間の爆発的遊泳の両方に適した形状である。", "qas": [ { "question": "カジキの体温と海水を比較すると、温度が低いのはどちらですか?", "id": "tr-300-03-000", "answers": [ { "text": "海水", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カジキはどんな体型をしているの?", "id": "tr-300-03-001", "answers": [ { "text": "流線型", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "腹鰭の無いカジキの種類は何?", "id": "tr-300-03-002", "answers": [ { "text": "メカジキ", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "尾鰭のつけ根(尾柄:びへい)には水平隆起線があり、遊泳時には小さな翼となって水から揚力を得ると同時に、横揺れを防ぐ効果もある。\nマカジキ科には2対、メカジキ科には1対の水平隆起線がある。\n体の後半部には強靭な筋肉が発達し、これと柔軟な背骨を左右にしならせて推進力を得る。", "qas": [ { "question": "水平隆起線が多いのはマカジキ科とメカジキ科のどちら?", "id": "tr-300-04-000", "answers": [ { "text": "マカジキ科", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "尾柄にある線とは何?", "id": "tr-300-04-001", "answers": [ { "text": "水平隆起線", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "温暖な海を高速で遊泳する大型肉食魚で、世界中の海に広く分布する。\n通常は暖海域の外洋表層部を泳ぎ、餌を追って回遊する。\n1匹か数匹の群で行動し、つがいの絆が強いことが知られている。\n食物連鎖の上位に位置し、イワシ・ニシン・トビウオ・アジ・サバなどの小魚やカツオ・マグロ類、頭足類、甲殻類などを食べる。\nメカジキはより冷たい海域にも進出し、深海海底付近でメヌケ類を捕食することがある。\n産卵期は5月-9月で、分離浮性卵を産卵する。\n産卵期には普段沖合にいるカジキが沿岸にやってくるので、この時期に合わせてカジキ釣り大会が催される。", "qas": [ { "question": "カジキはどのような卵を産むの?", "id": "tr-300-05-000", "answers": [ { "text": "分離浮性卵", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "より冷たい海域にも生息するカジキの種類は何?", "id": "tr-300-05-001", "answers": [ { "text": "メカジキ", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "カジキ類は時折船と衝突することがあり、イギリスの軍艦が浸水の原因を調べると、船底にメカジキの吻が突き刺さっていたという逸話がある。\n「メカジキは気性が荒く、船を攻撃する事すらある」ことの証明とされているが、これらに関してはカジキ類がその高速遊泳能力ゆえに船を避けきる事ができずに「衝突」したに過ぎない、という考察もある。\nアメリカ海洋大気庁によると、水中の生物やボート、調査用の潜水艇などの物体をメカジキをはじめとしたカジキ類が攻撃するのは珍しくないという。\nまた、鮫に比べれば事故例は少ないが、その巨体と吻により攻撃され、人が死亡した事例もある。", "qas": [ { "question": "カジキと鮫はどちらの事故例が多く挙がっていますか?", "id": "tr-300-06-000", "answers": [ { "text": "鮫", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "各国で食用にされ、中でもマカジキとメカジキが多く利用されている。\n漁業市場では吻を切り落とされたカジキが横たわった状態で並べられている姿を見ることが出来る。\nカジキマグロという呼び名で取引されることも多いが、マグロとの類似点が多いことからつけられた俗称であって、先述した通りマグロとは別種である。\nマグロ延縄(はえなわ)で捕られることが多いが、伝統的な突きん棒漁も行われている。\nこれは船の見張り台でカジキの魚影を探し、水面近くで遊泳しているカジキを銛(もり)で突くというものである。\n現代では銛の先端から電流を流し失神させる漁も行われている。", "qas": [ { "question": "カジキを捕獲する際に行われている伝統的な漁の方法は何?", "id": "tr-300-07-000", "answers": [ { "text": "突きん棒漁", "answer_start": 176, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カジキを捕獲する際のポピュラーな方法は何?", "id": "tr-300-07-001", "answers": [ { "text": "マグロ延縄", "answer_start": 149, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "食用カジキで多いのはマカジキと何ですか?", "id": "tr-300-07-002", "answers": [ { "text": "メカジキ", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "突きん棒漁で使用される道具とは何?", "id": "tr-300-07-003", "answers": [ { "text": "銛", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アメリカの小説家、アーネスト・ヘミングウェイの名著「老人と海」(1952年)では、年老いた漁師サンチャゴと巨大カジキの3日間に及ぶ奮闘が描かれている。", "qas": [ { "question": "「老人と海」の著者は誰?", "id": "tr-300-08-000", "answers": [ { "text": "アーネスト・ヘミングウェイ", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「老人と海」の主人公は誰?", "id": "tr-300-08-001", "answers": [ { "text": "サンチャゴ", "answer_start": 47, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「老人と海」が出版された年は?", "id": "tr-300-08-002", "answers": [ { "text": "1952年", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アーネスト・ヘミングウェイはどこの国の小説家なの?", "id": "tr-300-08-003", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スーパーマーケットなどでは切り身にして売られることが多いが、新鮮なものは刺身で食べる事もありまた昆布で挟んだ昆布締めでも食される。\n家庭料理としてはソテーや照り焼きもしくはフライなどの揚げ物にして食べるのが一般的。\n台湾では粥に入れたり、スープにしたりもする。\n他方、カジキは食物連鎖の上位にいることから、その体内には有害な化学物質が蓄積しやすく、マグロと同様に水銀の蓄積が問題視されている。\nまた、漁獲後に常温で保管するとヒスタミン食中毒(アレルギー様食中毒)を招く場合があるので、衛生状態には注意しなければならない。", "qas": [ { "question": "カジキを粥やスープにして料理する国はどこ?", "id": "tr-300-09-000", "answers": [ { "text": "台湾", "answer_start": 108, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カジキの体内に蓄積されやすい化学物質とは何?", "id": "tr-300-09-001", "answers": [ { "text": "水銀", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マグロの体内に蓄積されやすい化学物質とは何?", "id": "tr-300-09-002", "answers": [ { "text": "水銀", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "多くはスポーツ・フィッシングの対象魚となっており、針にかかったときの引きとジャンプが釣り人を魅了しており、日本近海では太平洋・インド洋産のカジキ類6種が全て見られることから、JapanGameFishAssociation(JGFA)による大会や、カジキを狙ったトローリングが盛んである。", "qas": [ { "question": "日本で開催されるカジキ釣りの大会とは何?", "id": "tr-300-10-000", "answers": [ { "text": "JapanGameFishAssociation", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スポーツ・フィッシングの対象魚となることが多いのは何?", "id": "tr-300-10-001", "answers": [ { "text": "カジキ", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カジキ類をサバ亜目Scombroideiに含めることもあるが、2科が姉妹群でサバ亜目の他の科より離れていることから、独立したカジキ亜目Xiphioideiにすることが多くなった。\nさらにColletteetal.は従来のフウライカジキ属(マカジキ属とも)Tetrapturus、クロカジキ属Makairaが単系統ではないことを示し、フウライカジキ属からマカジキ属Kajikia、クロカジキ属からシロカジキ属Istiompaxを夫々分離した。\n共に以前はシノニムとされていた属名である。\nITISはこの属分類を採用しており、ここでもそれにならった。\n従来の属分類での種名はシノニムとして添えた。", "qas": [ { "question": "フウライカジキ属から分離されたものは何?", "id": "tr-300-11-000", "answers": [ { "text": "マカジキ属", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クロカジキ属から分離されたものは何?", "id": "tr-300-11-001", "answers": [ { "text": "シロカジキ属", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "種分類については、Colletteetal.やITISは現生10種を認めているが、ここでは12種に分けた。\n10種とする場合、クロジカジキ属とバショウカジキ属について、大西洋の種と太平洋インド洋の種を分けず、世界中に1種のみを認める。\nクロカジキ属はクロカジキMakairanigricans、バショウカジキ属はバショウカジキIstiophorusplatypterusのみとなる。\n特にバショウカジキは1種とされることが多い。", "qas": [ { "question": "クロカジキは何属に分類されるの?", "id": "tr-300-12-000", "answers": [ { "text": "クロカジキ属", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バショウカジキは何属に分類されるの?", "id": "tr-300-12-001", "answers": [ { "text": "バショウカジキ属", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "メカジキX.gladius(Linnaeus,1758)-英名Swordfish。\n体長4m。\n全世界の海洋に分布。\n気性が荒く、自分より大きいクジラや船を攻撃することもある。\n他のカジキと異なり、腹鰭と鱗が無い・第一背鰭基底が短い・尾柄の水平隆起線が1対しかない・吻が扁平などの特徴がある。\n1種のみで1科1属を構成する。", "qas": [ { "question": "メカジキの体長はどれくらいあるの?", "id": "tr-300-13-000", "answers": [ { "text": "4m", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "バショウカジキI.platypterus(Shaw,1792)-英名Sailfish(またはIndo-Pacificsailfish)。\n体長3m。\n名前通り帆のような大きな背鰭を持つ。\n全魚類中で最も速く泳げる魚でもある。", "qas": [ { "question": "バショウカジキを英語表記すると?", "id": "tr-300-14-000", "answers": [ { "text": "Sailfish", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バショウカジキの体長は?", "id": "tr-300-14-001", "answers": [ { "text": "3m", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "全魚類中、最も速く泳げるカジキの種類は何?", "id": "tr-300-14-002", "answers": [ { "text": "バショウカジキ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "シロカジキI.indica(Cuvier,1832)syn.Makairaindica(Cuvier,1832)-英名Blackmarlin。\n体長4m。\n別名カツオクイ。\n体色の捉え方が和名と英名で正反対だが、英名は生体、和名は死後の体色に由来するためである。\nカジキ類中最重量を誇る。", "qas": [ { "question": "シロカジキを英語表記すると?", "id": "tr-300-15-000", "answers": [ { "text": "Blackmarlin", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シロカジキの体長は?", "id": "tr-300-15-001", "answers": [ { "text": "4m", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シロカジキの別名は?", "id": "tr-300-15-002", "answers": [ { "text": "カツオクイ", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カジキの中で最も重量が重い種類は何?", "id": "tr-300-15-003", "answers": [ { "text": "シロカジキ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "マカジキK.audax(Philippi,1887)syn.Tetrapturusaudax(Philippi,1887)-英名Stripedmarlin。\n体長4m。\n青い縞模様が特徴で英名もこれに由来する。\n古来より日本の食文化になじみ深く、カジキの中で最も美味とされている。\n旬は冬。", "qas": [ { "question": "マカジキはどんな模様をしているのが特徴なの?", "id": "tr-300-16-000", "answers": [ { "text": "青い縞模様", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カジキの中で最も美味しい種類は何?", "id": "tr-300-16-001", "answers": [ { "text": "マカジキ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "大阪電灯", "paragraphs": [ { "context": "大阪電灯は、日本において電気事業が勃興してから間もない時期に設立された、関西地方では2番目に古い電力会社である。その設立は1888年2月であり、日本初の電力会社東京電灯の設立の5年後で、名古屋電灯・神戸電灯の設立に続くものである。供給事業の開始は翌1889年5月からで、東京電灯・神戸電灯に次いで日本で3番目、関西地方に限定すると2番目の事例となった。大阪電灯の直後に設立された京都電灯と大阪電灯・神戸電灯の3社は明治期の関西における三大電灯会社で、その後相次いで設立された電力会社よりも著しく大規模であった。設立当初の資本金は40万円、開業時点での電灯供給は150灯、という規模でスタートした大阪電灯は、明治から大正にかけて電気事業の市場が拡大する中で発展し、開業から35年目の1923年には資本金4320万円、電灯供給約188万灯、電力供給約3万馬力という規模まで拡大した。この間電気の供給区域も拡張され、初め配電は大阪市内のみに限られていたがやがて大阪市外にも広がり、堺市なども含む大阪府中部一帯に及んだ。また1902年に九州の門司市にて供給事業を開始したのを皮切りに、一時期大阪府外でも事業を展開した。供給事業以外にも電気機器の製造・販売事業を手がけており、設立初期から販売を行い後に自社工場を設置して機器の製造にも乗り出していたが、これは1921年に廃業している。", "qas": [ { "question": "大阪電灯が設立されたのはいつ?", "id": "tr-301-00-000", "answers": [ { "text": "1888年2月", "answer_start": 61, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本の中で最初にできた電力会社は何?", "id": "tr-301-00-001", "answers": [ { "text": "東京電灯", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大阪電灯の設立の5年前設立された日本の電力会社は?", "id": "tr-301-00-002", "answers": [ { "text": "東京電灯", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "名古屋電灯、神戸電灯、大阪電灯、東京電灯のうち、最も古い会社はどれか。", "id": "tr-301-00-003", "answers": [ { "text": "東京電灯", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "第一次世界大戦後から大正末期にかけて日本の電力業界では5つの会社が巨大化し、「五大電力」と呼ばれるに至った。関東からは東京電灯、中京と九州北部からは名古屋電灯の後身である東邦電力が加わり、関西からは宇治川電気と卸売り主体の大同電力・日本電力という新興の3社が名を列ねた。一方で大阪電灯を含む関西の既存会社はこれら5社に比して発展せず、関西地方における電気事業の中心は大正になってから開業した新興の3社へと移っていった。既存会社の発展が停滞した要因の一つが公営電気事業の発達で、大阪市でも1906年に市と大阪電灯の間で報償契約が締結されて事業が規制された上、後に市営の電気供給事業が開始された。大阪市と大阪電灯の間で交わされた報償契約には、1922年以降に市が事業の買収を希望する場合には大阪電灯はそれに応ずる、という条項が盛り込まれていた。これに基づき1922年より大阪市は大阪電灯からの事業買収に向けて動き始める。長期にわたる協議の結果翌1923年に妥結に至り、同年10月、大阪電灯の事業・財産のうち大阪市内および東成郡・西成郡のものが大阪市に買収され、市営の電気供給事業に編入された。それと同時に残余の事業・財産は大同電力に買収され、大阪市および大同電力に事業・財産を譲渡した大阪電灯は解散し消滅した。", "qas": [ { "question": "関東の東京電灯、中京と九州北部の東邦電力、関西の宇治川電気と卸売り主体の大同電力・日本電力を日本の電力業界では何と呼んだか。", "id": "tr-301-01-000", "answers": [ { "text": "五大電力", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1887年頃、大阪市の有力者の間である事案が話し合われた。大阪市のような商業が盛んで人口の多い土地においては石油を用いて灯火をともすのは不衛生かつ火災の危険が伴う、ということで照明を近代化しようというものである。新たな照明としてガス灯が着目され、まずはガス事業が企画された。日本においてガス事業は1872年まず横浜市で開業し、1874年からは東京市でも経営されていた。このガス事業の企画に対し、ガス灯よりも電灯を供給するのが有利であるという意見も出現する。電灯供給事業は1887年11月、東京市にて東京電灯の手で日本初の一般供給用発電所が竣工し、供給が始まったばかりであったが、先発のガス事業を圧倒して優位に立つ状勢であった。電灯はこの時期大阪にも登場しており、自家発電ではあったが1886年に三軒家の大阪紡績工場に採用され、また市内の劇場「中座」にも設置されていた。ガス派・電灯派に分かれて紛糾したものの、最終的に土居通夫の斡旋によって電灯事業の経営にて一同意見の一致をみた。", "qas": [ { "question": "横浜市と東京市のうち、どっちの方のガス事業が早かった?", "id": "tr-301-02-000", "answers": [ { "text": "横浜市", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本初の一般供給用発電所が設立されたのはどこか。", "id": "tr-301-02-001", "answers": [ { "text": "東京市", "answer_start": 244, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1887年11月28日、大阪府知事あてに事業設立願書が提出された。その発起人は大阪の有力実業家20名で、鴻池財閥の鴻池善右衛門、住友財閥の住友吉左衛門のほか、山口吉郎兵衛・阿部彦太郎・下郷伝平・松本重太郎・田中市兵衛・藤田伝三郎・土居通夫らが名を連ねた。同年12月1日に認可を受けて準備を進め、翌1888年2月5日、発起人により創立総会が開催されここに大阪電灯が発足するに至った。社名は発足当初「有限責任大阪電灯会社」と称したが、18937月に「大阪電灯株式会社」に改称している。資本金は40万円である。会社の設立とともに20名の発起人の中から土居通夫・豊田文三郎・玉手弘通・野田吉兵衛・徳田亀太郎の5名が取締役に選出され、そのうち土居が初代社長に就任した。土居は宇和島藩出身の士族で維新後は明治政府に出仕していたが、1884年に官を辞して実業界に入り鴻池家の顧問となり、次いで大阪電灯の設立に参加、後年には大阪商業会議所会頭にも推された。設立以後30年にわたり、土居は大阪電灯を社長として率いることになる。", "qas": [ { "question": "大阪府知事あての事業設立願書が許可を得たのは何年のことですか。", "id": "tr-301-03-000", "answers": [ { "text": "1887年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「有限責任大阪電灯会社」の名称はのちに何に変わりましたか。", "id": "tr-301-03-001", "answers": [ { "text": "大阪電灯株式会社", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "会社設立翌年の1889年5月、大阪市南部の西道頓堀に建設していた出力30キロワット(kW)の火力発電所が完成した。難波新地・千日前・日本橋・心斎橋などの地域にまず150個の電灯を取り付け、同年5月20日より供給を開始して開業した。2年後の1891年6月には、中之島に2番目の発電所を設置し、市内北部でも供給を開始している。大阪電灯に先行して設立されていた東京電灯は、東京での供給事業以外にも開業以来日本各地において発電機の据え付け工事を請け負っていた。紡績工場や後発の電灯会社への設置が主体で、名古屋電灯などで発電機設置工事を担当した。東京電灯の影響力は関西地方の電灯会社にも及び、大阪電灯に先立って開業した神戸電灯、大阪電灯に続いて開業した京都電灯の2社でも、発電機の設置を東京電灯が行っている。しかし大阪電灯は、名古屋や神戸・京都の場合と異なり、東京電灯への対抗意識を持ち、設立・開業にあたり同社の関与を排除した。例えば東京電灯の技師長は藤岡市助であったが、大阪電灯では藤岡より1年後に工部大学校を卒業し当時アメリカ合衆国へ留学中であった岩垂邦彦を招聘している。", "qas": [ { "question": "大阪電灯の方が先に設立されたの、それとも東京電灯の方が先に設立されたの?", "id": "tr-301-04-000", "answers": [ { "text": "東京電灯", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "大阪電灯、神戸電灯、大阪電灯のうち、どれが最も遅く開業しましたか。", "id": "tr-301-04-001", "answers": [ { "text": "京都電灯", "answer_start": 321, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "信玄公旗掛松事件", "paragraphs": [ { "context": "信玄公旗掛松事件(しんげんこうはたかけまつじけん)は、1914年(大正3年)12月に一本の老松が蒸気機関車の影響で枯れたことから、所有者の清水倫茂(しみずりんも)が1917年(大正6年)に国を相手取り起こした損害賠償請求事件である。\n\nこの松樹は武田信玄が軍旗を立て掛けたという伝承・由来のある「信玄公旗掛松」と呼ばれていた老松で、国鉄(現JR東日本)中央本線日野春駅(山梨県北杜市長坂町富岡)駅構内に隣接した線路脇に生育していたが、老松の所有者(地権者)であった清水倫茂は、蒸気機関車の煤煙、蒸気、振動などにより枯死してしまったとして、一個人として国(鉄道院)を相手取り訴訟を起こした。", "qas": [ { "question": "大正3年に蒸気機関車の影響で枯れたしまった老松の別の名称は何ですか?", "id": "tr-302-00-000", "answers": [ { "text": "「信玄公旗掛松」", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「信玄公旗掛松」の所有主の名前は何ですか?", "id": "tr-302-00-001", "answers": [ { "text": "清水倫茂", "answer_start": 69, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "信玄公旗掛松事件は何年に訴訟がかけられましたか?", "id": "tr-302-00-002", "answers": [ { "text": "1917年", "answer_start": 82, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "国家賠償法成立以前の、大正年間(1910年代-1920年代)に起きた当訴訟事件は、鉄道事業という公共性の高いものであっても、「他人の権利を侵略・侵害することは法の認許するところではない、松樹を枯死させたことは、権利の内容を超えた権利の行為である。」、すなわち「権利の濫用」に当たると司法によって判断され、第一審の甲府地方裁判所、第二審の東京控訴院に続いて、上告審の大審院(第二民事部)に至るまで、原告である清水倫茂が被告である国に勝訴した歴史的裁判であった(大判大正8年3月3日民録25輯356頁)。\n\nこれは近代日本の民事裁判判決において、権利の濫用の法理が実質的に初めて採用された民事訴訟案件であり、加害者の権利行使の不法性(違法性)について重要な判断が示されるなど、その後の末川博、我妻栄、青山道夫ら、日本の法学者による「権利濫用論」研究の契機となった、日本国内の法曹界では著名な判例である。", "qas": [ { "question": "本事件が影響を与えた法理論研究分野は何ですか?", "id": "tr-302-01-000", "answers": [ { "text": "「権利濫用論」", "answer_start": 363, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本事件はある法理が採用された近代日本における最古の事件でありますが、その法理とは何ですか?", "id": "tr-302-01-001", "answers": [ { "text": "権利の濫用", "answer_start": 271, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本事件での被告側は誰ですか?", "id": "tr-302-01-002", "answers": [ { "text": "国", "answer_start": 213, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "信玄公旗掛松(しんげんこうはたかけまつ)と呼ばれた老松がかつて生育していた所在地は、山梨県旧北巨摩郡日野春村字富岡26番地(現、山梨県北杜市長坂町富岡)、今日のJR東日本中央本線日野春駅構内南東側の線路脇である。\n\n日野春村の立地する八ヶ岳南麓一帯は近世において、逸見路(へみじ)、信州往還(甲州街道原路)、棒道など、甲府盆地と信州諏訪地方を結ぶ複数の街道が通過していた交通の要所であり、これらの街道のうち日野春村は信州往還(2015年現在の山梨県道、通称「七里岩ライン」に相当)の道筋にあたる。", "qas": [ { "question": "信玄公旗掛松が立っていた場所はどこでしたか?", "id": "tr-302-02-000", "answers": [ { "text": "山梨県旧北巨摩郡日野春村字富岡26番地", "answer_start": 42, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日野春(ひのはる)付近は、八ヶ岳泥流と呼ばれる火山泥流によって形成された七里岩台地の上面にあたり、かつては別名、日野春原野(ひのっぱらげんや)とも呼ばれた雑木林が広がる原野であり、台地上という地形のため古来より水利の便が悪く、開発の遅れていた一帯であった。明治初年頃より徐々に開拓が始まり、1873年(明治6年)に山梨県令藤村紫朗による「日野春開拓計画」が策定され、翌明治7年、日野春新墾地移住規則が通達された。こうして募集された移住者により日野春付近の原野は開墾され開発された。日野春駅の所在する字名富岡とは、県の開拓指導の責任者であった富岡敬明から名付けられた地名である。\n\n当地を通過する中央本線は、釜無川と塩川支流の鳩川に挟まれた七里岩台地の尾根上を、複数のスイッチバックにより最大25パーミルの急勾配で登る経路で敷設されており、信玄公旗掛松は日野春原野のほぼ中央、七里岩台地分水嶺のちょうど真上、標高約600メートルに生育していた。", "qas": [ { "question": "「日野春開拓計画」が策定されたのは和暦で何年か?", "id": "tr-302-03-000", "answers": [ { "text": "明治6年", "answer_start": 151, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日野春の地域は昔どういう名前で呼ばれてましたか?", "id": "tr-302-03-001", "answers": [ { "text": "日野春原野", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日野春駅ある字名富岡って人の名前からとったらしいけど、その人って誰?", "id": "tr-302-03-002", "answers": [ { "text": "富岡敬明", "answer_start": 270, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "信玄公旗掛松は、高さ約15メートル、木の周り約7メートルにおよぶ巨木であり、別名「信玄公旗挙松」、「信玄公旗立松」、「甲斐の一本松」などとも呼ばれた老松であった。ただ、武田信玄の時代よりも後世のものであることが、後述する裁判過程で国側の鑑定により明らかにされた。\n\nしかしながら、見晴らしの良い丘の上に立つこの一本松は、古来から名の知れた名木であることに変わりはなく、甲斐源氏の祖である逸見清光(源清光)が、ここに物見櫓を置き、戦が始まると、松に軍旗が立てられ農民兵を集めたという伝承が残されており、武田信玄もまた、この松樹に「孫子の旗」を立て掛け目印とし、周辺の家臣、農民兵を集めたという話が、天明年間(1781年-1789年)に著された加賀美遠清の『甲陽随筆』に見られるなど、古くからこの地域の人々にとって代々親しまれた名木であった。\n\n山梨県内には信玄堤や信玄の棒道、信玄の隠し湯など、到るところに武田信玄ゆかりとされるものが残されており、この老松もそうしたものの一つであった。", "qas": [ { "question": "信玄公旗掛松が立っていた頃の高さは何メートルくらい?", "id": "tr-302-04-000", "answers": [ { "text": "約15メートル", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "信玄公旗掛松に関する武田信玄の一話が記録されている文献はどれですか?", "id": "tr-302-04-001", "answers": [ { "text": "『甲陽随筆』", "answer_start": 326, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "信玄公旗掛松に軍旗が立てられ農民兵を集めたという伝承で、それをやった人の名前は何すか?", "id": "tr-302-04-002", "answers": [ { "text": "逸見清光", "answer_start": 193, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "このような由緒ある古木、名木に隣接した位置に鉄道を敷設するようなことは、自然保護、文化財保護等の理解が浸透した現代の感覚からすると考え難いことである。しかし現実に、信玄公旗掛松の根元から至近距離にレールが敷かれたことによって本訴訟事件は発生した。\n\n日本では人的記念物の保存については古くから関心が高く、1871年(明治4年)5月23日に公布された太政官布告の古器旧物保存方に続いて、1897年(明治30年)には古社寺保存法の公布があったが、これらはいずれも神社仏閣等の人的記念物を対象としたものであり、植物、動物、地質・鉱物など、自然環境を対象とした文化遺産に関する保護制度は一元化されていなかった。1919年(大正8年)になり史蹟名勝天然紀念物保存法が制定されたことによって、初めて日本に天然記念物という概念が成立した。信玄公旗掛松が枯死したのは、その5年前の1914年(大正3年)年末のことであった。", "qas": [ { "question": "植物、動物、地質・鉱物など、自然環境を対象とした文化遺産の概念が日本で初めて建てられたのは何年ですか?", "id": "tr-302-05-000", "answers": [ { "text": "1919年", "answer_start": 301, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "信玄公旗掛松が枯れてから何年後、日本で初めて天然記念物という概念が成立しましたか?", "id": "tr-302-05-001", "answers": [ { "text": "5年", "answer_start": 378, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1872年(明治5年)に新橋駅–横浜駅間が開業されたのを皮切りに、日本の各地では鉄道の建設が急速に発展していった。当初、政府主導で始まった鉄道事業は、民間による鉄道会社設立敷設の動きが、企業家を中心として始まった。当時鉄道は、企業家が競って投資の対象とするほど、将来の発展が約束された魅力的な産業でもあった。\n\n中央本線の敷設については、東京から立川方面へ鉄道を敷設する民間会社甲武鉄道が1886年(明治19年)に設立され、3年後の1889年(明治22年)4月11日に、新宿駅–立川駅の区間で開業し、同じ年の8月11日に八王子駅まで延伸された。この甲武鉄道は甲州財閥と呼ばれる山梨県出身の実業家、雨宮敬次郎と若尾逸平を中心として設立されたもので、社名の甲武鉄道とは甲州(現:山梨県)と武州(現:東京都)を結ぶことを目的としたものであった。", "qas": [ { "question": "日本で初めて鉄道が開設されたのはいつですか?", "id": "tr-302-06-000", "answers": [ { "text": "1872年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中央本線で八王子駅から東京駅まで行けるようになったのは何年ですか?", "id": "tr-302-06-001", "answers": [ { "text": "1889年", "answer_start": 216, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1889年、中央線が新宿駅まで拡張されたのは東京方面か立川方面か?", "id": "tr-302-06-002", "answers": [ { "text": "東京", "answer_start": 169, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "一方で、これら私設鉄道(私鉄)の計画が日本全国で過熱気味になり、中には投機目的の誇大な計画が増えるなど問題化し始めた。この流れを受けて、幹線鉄道はなるべく国が主体となって設けるべきとの方針を国は取るようになる。そして1892年(明治25年)に制定された鉄道敷設法へ、1906年(明治39年)の鉄道国有法公布へと、私鉄国有論は台頭していった。鉄道敷設を取り巻くこのような流れの中、甲武鉄道として八王子まで開業していた中央本線は、八王子から西は国が主体となって建設する方針が取られた。1896年(明治29年)、八王子駅–塩尻駅(現:長野県塩尻市)間の工事が開始され、難工事の末貫通した笹子トンネル等の完成により、1903年(明治36年)6月11日に甲府駅まで、同年12月15日に韮崎駅まで開通し、韮崎から県境を越えた富士見(現、長野県諏訪郡富士見町)までの区間は1904年(明治37年)12月21日に開通した。信玄公旗掛松事件で問題となった日野春駅は、この「韮崎–富士見」の区間に所在する。次いで1906年(明治39年)10月1日、国は甲武鉄道(新宿-八王子)を買収し、八王子から西の国有鉄道と一体化され、今日の中央東線の原型となった。", "qas": [ { "question": "甲武鉄道の甲府駅まで拡張されたのは何年か?", "id": "tr-302-07-000", "answers": [ { "text": "1903年", "answer_start": 304, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1903年最後に開設された甲武鉄道の駅は何ですか?", "id": "tr-302-07-001", "answers": [ { "text": "韮崎駅", "answer_start": 337, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本政府が甲武鉄道を買い取ったのは何年?", "id": "tr-302-07-002", "answers": [ { "text": "1906年", "answer_start": 446, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "当初、国有鉄道は逓信省が管理していたが、1907年(明治40年)4月1日に逓信省から帝国鉄道庁が独立し、翌1908年(明治41年)12月5日に後藤新平を初代総裁として鉄道院が発足した。その後1920年(大正9年)に鉄道省が設立されるまでの約13年間、国の鉄道は鉄道院により管理運営が行われた。信玄公旗掛松事件はこの鉄道院時代に起きた事件であった。\n\n前述したように中央本線の開設は、国が主体となり建設が行われたものである。そして開設の背景には日清・日露の両戦を通じて、鉄道輸送の重要性を認識し、幹線鉄道の国有化を推進した軍部の思惑、要請が大きかったと言われている。", "qas": [ { "question": "鉄道院が国の鉄道の管理運営するようになったのは何年からか?", "id": "tr-302-08-000", "answers": [ { "text": "1908年", "answer_start": 53, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "鉄道院の次、鉄道院に代わって国有鉄道を管理してきたのはどの機関ですか?", "id": "tr-302-08-001", "answers": [ { "text": "鉄道省", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "このように鉄道院時代の日本における鉄道の役割は、国家目的の遂行、しかも国防上の目的という考え方が背景にあり、一般の人々にとって鉄道は国のもの、「国は悪をなさず」という考え方が強かった。\nたとえば、1909年(明治42年)、中央本線沿線の武蔵野市(当時の東京府北多摩郡武蔵野村)で蒸気機関車の火の粉によるボヤが生じ、被害者が鉄道院に補償を求めたところ、鉄道院はこれを全く受け付けなかったという。\nまた、事故も頻発していたようで汽車をもじって「人ひき車」と揶揄されるほど、被害も生じたというが、これらの賠償問題がどのようにして処理されていたのか記録が残されておらず、被害者の救済がどのように行われたのか不明であるが、今日で言う無過失責任に近い処理が行われたと考えられている。\nいずれにしても「国の権威を背景にした鉄道院」、「国は悪をなさず」という世間一般の鉄道に対する認識が、信玄公旗掛松事件の生じた背景に控えていたと言える。", "qas": [ { "question": "蒸気機関車の火の粉によるボヤが生じて被害者が鉄道院に補償を求めたが鉄道院はこれを全く受け付けなかった事件は何年の出来事ですか?", "id": "tr-302-09-000", "answers": [ { "text": "1909年", "answer_start": 98, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "事故も頻発していたようで汽車を当時の人々は何に喩えましたか?", "id": "tr-302-09-001", "answers": [ { "text": "「人ひき車」", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "信玄公旗掛松事件は煤煙によって被った被害をめぐる煙害事件であり、今日で言う公害問題に属する事件である。\nそれに加えて「権利濫用」の法理が日本で初めて実質的に法廷で取り上げられた点や、その3年前(1916年)の大阪アルカリ事件に続いて、権利者による権利行使が「不法行為」に該当し責任を問えるのか争われた点に、信玄公旗掛松事件の特筆性がある。\nそのため日本国内の法学部等における民法講義で、権利濫用の古典的事例として採り上げられるほど、日本の法曹界では著名な事件である。\nだが、社会一般的にはあまり知られた事件ではない。\nたとえば1969年(昭和44年)から1974年(昭和49年)にかけて、当時の国鉄が編纂した『日本国有鉄道百年史』という全19巻にもおよぶ詳細な書物の中でも、わずかに他の公害問題の箇所にこの事件が引用されているだけである。\nこの点について法学者である川井健一橋大学名誉教授は、「国鉄当局にとってこの事件は、さほどとるに足りない事件であったのかも知れない」、との見解を示している。\nこのように敗訴した立場である当時の国側(鉄道院)の観点に立った資料は極めて少ない。", "qas": [ { "question": "本事件の前に、権利者による権利行使が「不法行為」に該当し責任を問えるのか争われた点で類似している事件は何ですか?", "id": "tr-302-10-000", "answers": [ { "text": "大阪アルカリ事件", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「国鉄当局にとってこの事件は、さほどとるに足りない事件であったのかも知れない」と見解を見せた法学者の名前は?", "id": "tr-302-10-001", "answers": [ { "text": "川井健", "answer_start": 383, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "信玄公旗掛松の所有者であった清水倫茂が、国(鉄道院)を相手取り訴訟に踏み切ったのは、1917年(大正6年)1月の甲府地方裁判所への提訴であった。\nしかし、この提訴に至るまでの過程には、清水が国、鉄道院に対し、信玄公旗掛松への保全保護対策を行うよう要望する陳情を再三にわたり訴え続けたにもかかわらず、それが受け入れられず、ついに老松が枯死してしまったという経緯が背景にあった。\n\n当訴訟事件の当事者(原告)であった清水倫茂は、山梨県北巨摩郡甲村(かぶとむら、現:北杜市高根町下黒沢)の旧家である清水家、清水啓造の長男として、元治元年12月7日(旧暦)(グレゴリオ暦1865年1月4日)に生まれ、父啓造から1888年(明治21年)7月に家督を相続した後、1893年(明治26年)12月に、甲村の村会議員に初当選し、2年後には甲村の助役になる。\n清水倫茂は曲がったことを嫌い、自分の思うことは自由に行うという、いわゆる熱血漢タイプの人物であったと言われており、周囲を引っ張っていく親分肌的な行動力により地域社会で頭角を現し、1898年(明治31年)4月に33歳という若さで甲村の村長に就任し、さらに1903年(明治36年)9月には北巨摩郡の郡会議員に当選するなど、言わば地元の有力者、かつ実力者、かつ資産家であった。\n大正期に一個人として国を相手に訴訟を起こすことができたのも、清水が裁判費用を捻出できるだけの資産家であったからでもあり、事件発生当時には、合資会社甲斐銀行の取締役頭取を務め、甲村にある自宅において「甲斐銀行日野春支店」を開業していた。", "qas": [ { "question": "清水倫茂が鉄道院相手に訴訟を起こしたのは何年だ?", "id": "tr-302-11-000", "answers": [ { "text": "1917年", "answer_start": 42, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "清水倫茂が村長に就任したのは彼が何歳の時ですか?", "id": "tr-302-11-001", "answers": [ { "text": "33歳", "answer_start": 474, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "甲村は信玄公旗掛松の生育する日野春村富岡から見て、すぐ北東に隣接した位置に当たる。甲村の清水にとって日野春村は隣村である。しかし中央本線敷設が計画された一帯は、先祖代々清水家の土地であり、1902年(明治35年)当時は清水倫茂の所有地であった。つまり、そこに生育していた信玄公旗掛松は、清水倫茂が所有権を持つ個人所有物であった。\n\n東京方面から甲府駅まで着工されていた中央本線を、信州諏訪塩尻方面へ延伸する計画は、数年前からルートの検討が行われていたが、日野春村を含む周辺8か村による「停車場位置請願書」提出などの誘致活動が行われ、日野春村字富岡に停車場が設置されることが1896年(明治29年)に内定し、1902年(明治35年)に正式決定された。\n\n日野春駅設置決定を知った近隣の人々は喜び、これを歓迎した。その一方で地権者であった清水倫茂は、鉄道院が作成した詳細な計画図面を見て驚いた。その図面によると、信玄公旗掛松の根元から西側にわずか一間(約1.8メートル)足らずという至近距離に、停車場と線路が敷設される計画であったからである。", "qas": [ { "question": "信玄公旗掛松の根元から線路までの距離は約何メートルでしたか?", "id": "tr-302-12-000", "answers": [ { "text": "約1.8メートル", "answer_start": 424, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日野春村字富岡に停車場が設置されることが正式に決定されたのは何年ですか?", "id": "tr-302-12-001", "answers": [ { "text": "1902年", "answer_start": 303, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "実際に工事が開始されると、清水が危惧していた通り、線路上に覆い被さる形になった信玄公旗掛松の枝葉が、機関車運行の障害になることが分った。鉄道を通すためには枝葉を除去しなければならず、鉄道院からの1903年(明治36年)12月3日付の申し出による補償料「金弐拾円也(20円)」で清水は止む無くこれを了承し、信玄公旗掛松の枝葉10数本が枝打ちされた。なお、この「請書」は清水倫茂の先代(父)である清水啓造名義で作成されているが詳しい経緯は不明である。\n\nこうして1904年(明治37年)12月21日、中央本線の韮崎駅から富士見駅までの区間が開通したのと同時に日野春駅は開業した。なお、2014年現在の同区間には合計6駅が存在するが、開業当初は日野春駅と小淵沢駅の2駅しか設けられていなかった。また、日野春駅の設置された場所は、韮崎方面から七里岩台地、八ヶ岳南麓へと登り詰める急勾配区間の中間点にあたり、蒸気機関車の給水を行うための給水塔が設けられた。蒸気機関車時代、すべての下り列車が給水のために停車する日野春駅は、旅客の取り扱いだけではない運行上の重要な役割を担っていた。", "qas": [ { "question": "信玄公旗掛松の枝葉を数本切り捨てる代わりに与えられた金額は?", "id": "tr-302-13-000", "answers": [ { "text": "20円", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2014年時点と当時1904年の時点を比べて、韮崎駅から富士見駅までの区間の停車駅はどっちが多いですか?", "id": "tr-302-13-001", "answers": [ { "text": "2014年", "answer_start": 290, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "駅が開業したことにより、近隣の人々の暮らしは便利になった一方で、日野春駅まで登ってきた蒸気機関車の熱い蒸気や多量の煤煙は当然、信玄公旗掛松に噴き付けられた。設置された給水塔は松樹の近くにあり、煙を吐き続ける機関車が松樹の傍で給水のため長時間停車し、機関車の振動にさらされ続けるなど悪条件も重なった。さらに、1911年(明治44年)には、駅構内に鉄道の待避線が新たに引かれ、これに伴いレールと松樹の距離は更に狭まってしまう。開業当初に約4間(約7メートル)であった信玄公旗掛松の根元とレールとの実距離は、1間未満となってしまったのである。これに追い討ちをかけるように同年9月18日未明、日野春駅構内で転轍手の不注意による貨物列車の脱線事故が発生し、脱線した機関車が信玄公旗掛松に激突、松樹の大枝が数本折れてしまう。ただでさえ煤煙や蒸気、振動により衰弱していた老松にとって、この脱線衝突事故によるダメージは大きく、この事故に対し鉄道院は慰謝料として15円を清水に支払っている。", "qas": [ { "question": "1911年貨物列車の脱線事故による信玄公旗掛松へのダメージに対する謝罪として支払った金額は?", "id": "tr-302-14-000", "answers": [ { "text": "15円", "answer_start": 422, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1911年時点で信玄公旗掛松の根元とレールとの実距離はどれくらいですか?", "id": "tr-302-14-001", "answers": [ { "text": "1間未満", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "これ以上の老松へのダメージは、取り返しのつかない最悪の結果を招きかねず、清水は2ヵ月後の同年11月、蒸気や煤煙と松樹とを隔てる「ガス防除設備」設置を要求する上申書を、時の鉄道院総裁原敬宛に提出した。\n\n当時の鉄道院総裁である原敬は、後に第19代内閣総理大臣となる人物である。これまでの出張所長宛への訴えと異なり、組織のトップである鉄道院総裁へ直接訴えた上申書は、「衰弱した老松を何とか守って頂けないだろうか」、「実際に現地へ御足労願い、枯死の危機に瀕する老松を直接御覧頂けないだろうか」、という、清水の切実な懇願であった。\n\nしかし、この要求も履行されることはなく、日野春駅開業からちょうど10年を経過した1914年(大正3年)12月、ついに信玄公旗掛松は枯死してしまう。先祖代々同地の地主として信玄公旗掛松を大切に守り続けてきた清水の落胆は察するに余りあるものであった。翌1915年(大正4年)12月10日付の『甲斐新聞』は、「名木の枯死」として清水倫茂が取り組んできた経緯を報じている。", "qas": [ { "question": "信玄公旗掛松が枯死した年は?", "id": "tr-302-15-000", "answers": [ { "text": "1914年", "answer_start": 303, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1916年(大正5年)4月15日、清水倫茂は添田壽一鉄道院総裁(当時)宛に「松樹枯死ニ付賠償請求書」を提出し、賠償料2,000円と慰藉料として1,000円の、合計3,000円の損害賠償を直接要求した。この請求で清水は「去ル明治四十四年十一月中別紙第五号証写ノ如ク瓦斯除ヶ建設ヲ上申候モ御採用ニ至ラズ、遂ニ昨大正四年末に全ク枯死セリ」と訴えている。\n\n清水が松樹本体の賠償金算定額を2,000円としたのは、明治36年の鉄道敷設時に伐採された松枝3把の賠償金20円、明治44年の貨物列車脱線事故時の賠償金2把に対して15円、計5把に対する賠償金の合計が35円であったことが根拠にあった。\n\nつまり、(20+15)(35円)/(3+2)(5把)=7(円)となり、1把あたりの平均は7円となる。枯死後見積もった松樹全体の把数は、合計285把7分であったので、285.7(杷)*7(円)=約2,000円になる、とするものであった。\nこの直接賠償請求に対し鉄道院からは、総官房文書課長名義による同年6月20日付「官文第402号」として、次の拒否返答があった。鉄道院からのこの拒否回答をもって、清水倫茂は「信玄公旗掛松事件」と後に呼ばれることになる歴史的訴訟へ踏み出していくこととなった。", "qas": [ { "question": "清水倫茂は添田壽一鉄道院総裁に出した鉄道院に対する請求額は?", "id": "tr-302-16-000", "answers": [ { "text": "3,000円", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "枯死前に松樹に2回に渡って与えられた賠償金は合計いくらですか?", "id": "tr-302-16-001", "answers": [ { "text": "35円", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「松樹枯死ニ付賠償請求書」により賠償金で賠償すべき松枝の把数はどれくらいですか?", "id": "tr-302-16-002", "answers": [ { "text": "285把7分", "answer_start": 362, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「松樹枯死ニ付賠償請求書」に対し鉄道院はどういう反応でしたか?", "id": "tr-302-16-003", "answers": [ { "text": "拒否返答", "answer_start": 464, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "甲府地方裁判所民事部において、原告勝訴の判決が下されたのは、翌1918年(大正7年)1月31日であった。判決は裁判長東亀五郎、判事大庭良平・高橋方雄によって行われた。ただし、ここでの勝訴は、老松枯死の原因が鉄道院側にあるとする訴訟原因についてのみであって、損害賠償額の具体的な算定については、後日の判決に持ち越された。したがって甲府地方裁判所でのこの判決は中間判決にあたる。\n\n主文は、「原告ノ本訴請求ノ原因ハ正当ナリ」、として原告清水の訴えを認めたものであった。\n\n続く理由は要約すると、煤煙が樹木を枯死させることは予見できたことで、松樹の近くで汽車を走らせるためには、松樹の生存を維持する相当の施設を要すべきであるのに、保全の措置をとらず枯死させたることは鉄道院側に過失があることは当然であり、これによって生じた損害を賠償する義務があることを認める。よって原告の請求の原因は正当である。また、鉄道線路に汽車を走らせる事は鉄道事業者の正当な権利であり、その権利行使に伴う煤煙の発散は必然の結果であるとは言えども、これによって他人の権利を侵害することは法の認許するところではない。老松を枯死させたことは、権利の内容を超えた権利の行為である、とするものであった。", "qas": [ { "question": "甲府地方裁判所民事部での本事件の判決を下した裁判長の名は?", "id": "tr-302-17-000", "answers": [ { "text": "東亀五郎", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "甲府地方裁判所民事部での判決で老松を枯死させたことをどう表現しましたか?", "id": "tr-302-17-001", "answers": [ { "text": "権利の内容を超えた権利の行為", "answer_start": 502, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "老松枯死の原因が鉄道院側にあると認める訴訟の判決が下されたのは何年のことか西暦で答えてください。", "id": "tr-302-17-002", "answers": [ { "text": "1918年", "answer_start": 31, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "損害賠償額をめぐり控訴された東京控訴院での判決は、1922年(大正11年)4月11日に行われたが、実に珍妙かつ、不可解な判決であった。この東京控訴院判決は、同院民事第二部、裁判長三橋久美、判事水口吉蔵、竹田音次郎によるものであった。\n\n賠償額が499円(内訳、松樹449円、慰藉料50円)から、72円60銭(内訳、松樹22円60銭、慰藉料50円)に減額され、なおかつ訴訟費用の負担割合が原告清水9割、被告鉄道院1割という、一審判決とは全く逆になってしまったのである。\n\n慰謝料については一審同様50円とされた。松樹に対する賠償金を22円60銭とした根拠は、「理由」での説明にあった鑑定人剣持元次郎の鑑定によるもので、松樹の損害を薪材としての価格で算定したのは一審と同様であった。しかし、損害算定の時点を一審判決が口頭弁論における鑑定当時の1920年(大正9年)3月としていたのを変更し、損害発生当時、つまり信玄公旗掛松が枯死した1914年(大正3年)12月を損害算定基準時とした上に、一審では枯死していない材木としての価格を損害としたが、二審では枯死していないものを123円25銭、枯死したものを100円65銭と評価し、その差額を損害であるとした。その結果、一審では449円であった松樹損害算定額が、22円60銭と大幅に減額されたのである。これは今日も大いに争われる損害賠償算定基準時の問題でもある。さらに、訴訟費用負担割合については、判決主文中に「原判決中......訴訟費用ノ負担ヲ原告ニ命シタル部分ヲ除キ其他」を変更する、と書かれているのにもかかわらず、訴訟費用負担割合が一審判決と逆になっているなど、この東京控訴院での賠償金額決定二審判決には疑問点や問題点があると、今日では複数の法学者、識者によって指摘されている。", "qas": [ { "question": "一審判決での訴訟費用の負担割合は原告と被告、どっちが多かったんですか?", "id": "tr-302-18-000", "answers": [ { "text": "被告", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1922年4月11日の判決が下されたのはどこですか?", "id": "tr-302-18-001", "answers": [ { "text": "東京控訴院", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "このように松樹の評価が伝承的価値としてではなく、材木・薪材としての評価の問題として扱われ、信玄公云々の部分に関しては慰藉料50円として処理された。これに対し、たとえこの老松が信玄公時代からのものでなくとも、人々は代々固く信じてきた事実を重視し、もう少し高額の慰藉料を認めてもよかったのではないかという意見もある。賠償額、裁判費用負担割合だけを考えると、原告の清水は実質的に勝訴したのかどうかわからないほどであり、被告の鉄道院(国)は、結果的には名を捨て実をとったとも言える。\n\n判決を受けた当事者の清水倫茂も、賠償総額の72円60銭はともかく、訴訟費用を9割まで負担させられた点は腑に落ちず、「これは誤記ではないか」と東京控訴院に更正の「申立」を行った。しかし、東京控訴院は1924年(大正13年)12月25日、この申立を却下した。\n\nここで清水倫茂は、訴訟行為を断念する。\n\n翌1925年(大正14年)9月28日、甲府地方裁判所において、訴訟費用額241円71銭2厘5毛。原告(清水)が9割を負担とする決定が行われ、長期間に及んだ信玄公旗掛松事件の裁判はすべて終結した。", "qas": [ { "question": "最終判決による信玄公に対する慰藉料はいくらですか?", "id": "tr-302-19-000", "answers": [ { "text": "50円", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "清水倫茂が本事件でもらえた賠償総額と彼が払うことになった訴訟費用で、その金額が高いのはどっちですか?", "id": "tr-302-19-001", "answers": [ { "text": "訴訟費用", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "信玄公旗掛松事件は日本国内の法曹界で著名な判例ではある。\nしかし、今日の民法講義等で使用される教科書類では、内田貴『民法II』(東京大学出版会2007年)、大村敦志『基本民法II』(有斐閣2007年)などで、受忍限度論の登場に至る過度的なものとして取り上げられているに過ぎず、いわゆる先例判例として法学部の講義等で取り上げられる機会は少なくなっている。\nその理由を2007年の窪田充見の『不法行為法』では、「今日では......権利の行使であるが、適当な範囲を逸脱しているから権利の濫用であり、不法行為になると説明する必要は無い。......それでは、なぜ信玄公旗掛松事件は、権利の濫用として取り上げられたのだろう。この背景には、『自己の権利を行使する者は何人も害するものではない』というローマ法に由来する考え方があったとされる。つまり、この法諺(ほうげん)を前提として、鉄道の運行というものを権利行使と考えるところから出発すれば、不法行為責任を認めるためには、権利の濫用という、もうひとつの概念が必要とされたのである。しかしながら、......今日では、こうした問題について、そのような説明はしていない。それは、『自己の権利を行使する者は何人も害するものではない』という前提自体が、もはや共有されていないからである。......このように考えてくると、信玄公旗掛松事件におけるようなタイプの権利濫用の禁止の法理は、それが克服すべき前提(つまり、『自己の権利を行使する者は何人も害するものではない』という考え方)が失われた今日では、すでにその意味を失っているとみてよい。」と説明している。\n\n今日、信玄公旗掛松事件判例は、権利行使の違法性を強調するために「権利濫用論」が引き合いに出されたものと位置づけられており、現実の裁判では実例の意味として機能しておらず、実質的な判例の意味を失っていると考えられている。\nしかし、この判例以前には「国による権利は絶対である」という社会風潮が存在していたということ、それが信玄公旗掛松事件を通じて克服されたという歴史的事実に意味があり、明治・大正期の国家や地域社会、さらに当時の法学者と外国法理の関わりの一例を示すなど、近代日本法理の歴史を理解する上で重要な事例と位置づけられている。", "qas": [ { "question": "『自己の権利を行使する者は何人も害するものではない』という理論はどこから由来したものですか?", "id": "tr-302-20-000", "answers": [ { "text": "ローマ法", "answer_start": 344, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "本事件が「権利濫用論」に関わったのはどういう特性から来たものですか?", "id": "tr-302-20-001", "answers": [ { "text": "権利行使の違法性", "answer_start": 711, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "信玄公旗掛松事件が判例としての意味を失ったのはどういう前提が失っているからですか?", "id": "tr-302-20-002", "answers": [ { "text": "『自己の権利を行使する者は何人も害するものではない』", "answer_start": 623, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "神話", "paragraphs": [ { "context": "神話は、人類が認識する自然物や自然現象、または民族や文化・文明などさまざまな事象を、世界が始まった時代における神など超自然的・形而上的な存在や文化英雄などとむすびつけた一回限りの出来事として説明する物語であり、諸事象の起源や存在理由を語る説話でもある。このような性質から、神話が述べる出来事などは、不可侵であり規範として従わなければならないものとして意義づけられている。\n\n英語のMythologyには「物語としての神話」と「神話の研究」のふたつの意味がある。例えば「比較神話学」は異なる文化圏の神話を比較研究する学問であり、一方で「ギリシア神話」とは古代ギリシアの神話物語の体系を指す。単語「myth」は口語にてしばしば「誤った根拠」を指して使われるが、学問的に使われる場合は、その真偽を問うことは無い。民俗学では、神話とは世界や人類がいかにして現在の姿となったかを説明する象徴的な物語と定義されるが、他の学問分野では単語「myth」の使い方が異なり、伝統的な説話を広く包括する意味合いを持たせている。\n\n比喩的な用法では根拠も無く絶対的事実だと思われている事象を例えて用いる言葉にも使われ、「日本の『安全神話』が崩れた」といった例で使われる場合もある。これらは、現実が隠蔽され、人々の考え方や行動が何かしら誤った方向に固定化してしまった「常識」ともいえる。", "qas": [ { "question": "英語のMythologyは「物語としての神話」以外にどんな意味を持っていますか。", "id": "tr-303-00-000", "answers": [ { "text": "「神話の研究」", "answer_start": 212, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "神話と墳墓のシンボルとの関係を調べたJ・J・バッハオーフェンは、20世紀以降に科学的見地から乱婚や母権制といった古代社会に対する見方を批判されることになるが、1861年の著作『母権制』にて神話は母権制社会が父権制へ変遷する過程で構築されたと論説した。その段階を、J・J・バッハオーフェンは、初期の乱婚制母系社会から一夫一妻制を経て大地母神・デーメーテール型の母権へと変わり、やがて古代ギリシア・ローマを典型とする父権優位型神話体系が成立したと述べた。これは根底に、母親は自ずと母親たりえるが、父親がアイデンティティを持つには説明が不可欠で、この説明のために神話が創られたとしている。\n\n神話学者の松村一男によると、この背景が影響して神話の女神や女性に見られる性質には、男性側の観念を反映した要素がある。ひとつはギリシアのアルテミスやインドのドゥルガーのような豊穣がある。ただしそこには、単に恵みをもたらすのみならず、全てを呑み込むような過剰な部分も併せ持つ。他にも処女と母親という相反する性質の同居があり、日本のアマテラス、ギリシアのアテーナー、そしてキリスト教の聖母マリアらがこの例に当たる。これらは男性が女性に抱く理想を反映し、後に難解な理論づけをしたものという。", "qas": [ { "question": "『母権制』の著者は誰ですか。", "id": "tr-303-01-000", "answers": [ { "text": "J・J・バッハオーフェン", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "初期の乱婚制母系社会から一夫一妻制を経て大地母神・デーメーテール型の母権へと変わり、やがて古代ギリシア・ローマを典型とする父権優位型神話体系が成立したと主張した人は誰なの?", "id": "tr-303-01-001", "answers": [ { "text": "J・J・バッハオーフェン", "answer_start": 131, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "儀式との関連を解説した神話‐儀式理論の極端な説では、神話とは儀式を説明するために作られたという。聖書学者のウィリアム・ロバートソン・スミスによって提唱されたこの主張では、古代人が何らかの目的を持って儀式を始めた時には神話とは何ら関係が無かった。しかし時が過ぎ元々の目的が忘れ去られたときに、人々はなぜ儀式を行うかを説明するために神話を創り出し、それを祝するためという理由で儀式を行うようになったという。人類学者のジェームズ・フレイザーも似通った説を唱え、古代人の信仰は人智が及ばぬ法則を信じることで始まり、やがてそのような感情を失ってしまった際に神話を創り出し、それまで行っていた魔術的な儀式を、神を鎮める儀式にすりかえたと主張した。\n\nしかし現在では、神話と儀式の関係には普遍的な判断をつけずそれぞれの民族ごとに判断すべきという意見で一致している。儀式が先行し後に神話が作られたというフレイザーらの説を立証する証拠はほとんど見つからず、逆にアメリカインディアンのゴースト・ダンスの例のように神話が先行して存在し、儀式は神話の補強として発達する例が多い。", "qas": [ { "question": "神話‐儀式理論を提唱した人は誰ですか。", "id": "tr-303-02-000", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ロバートソン・スミス", "answer_start": 53, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "民族や文化を単位に生まれる。古代、小規模であったこれらの単位は征服や統合を通じて集合し、やがては国家単位の大きな統一的文化・文明へと発展した。これに伴い神話も段階的にまとまり、体系付けられた。松村武雄はこれら神話の統合された構成について、「横に展開」と「縦に展開」とに分類し、前者の例としてギリシア・ゲルマン・ケルトなど西ヨーロッパの神話が網のように存在する状態を示し、後者の例として日本の天孫系神話を挙げている。\n\n中国の神話はこのような体系化がなされず断片的・孤立的なところを特徴とするが、個別の神話の中には三皇五帝に見られる3つの異なる大洪水があるように「横に展開」や「縦に展開」に相当する箇所もある。これらは、神話が固定化した時期に当該地域がどのような政治的・文化的な体系を成していたかが影響し、中国は例外的に神話が統合されない傾向にあった可能性が考えられる。", "qas": [ { "question": "神話の統合された構成について、「横に展開」と「縦に展開」とに分類した人は誰なの?", "id": "tr-303-03-000", "answers": [ { "text": "松村武雄", "answer_start": 96, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "松村武雄が分類した「横に展開」、「縦に展開」によると、ギリシア・ゲルマン・ケルトなどは何に属しますか。", "id": "tr-303-03-001", "answers": [ { "text": "「縦に展開」", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "スイスの心理学者カール・グスタフ・ユングを筆頭に、世界の神話には背景に心理学的なものがあるという考えを置いた理解も進んだ。ユングは、すべての人間は生まれながらの心理的な力を無意識に共有すると主張し、これを「元型」と名づけた。彼は、異文化間の神話に見られる類似性から、このような普遍的な原型が存在することを明らかにできると考え、この元型が表現された一つの形態が神話だと論じた。\n\nジョーゼフ・キャンベルは、人間心理を洞察した中で、人の生き方に応用できるものを神話から得られると主張した。例えば、キャンベルが主張するところによると神話第一の機能は「神秘な存在に対する畏敬の念を想起させ支持させる」ことにあり、さらに「各個人に自己の精神を現実的に秩序づけるよう導く」ことに役立つと言及した。\n\nユングやキャンベル同様、クロード・レヴィ=ストロースも神話は心の有り様を反映したものだと唱えた。ただし彼は、この有り様とは無意識や衝動ではなく明確な精神機構、特に対立する神話素の組み合わせである二項対立があると考えた。\n\nミルチャ・エリアーデは『神話と夢想と秘儀』や『TheMythoftheEternalReturn』の付記に、現代人が感じる不安は神話や神聖なるものの拒絶に帰すると論じた。", "qas": [ { "question": "カール・グスタフ・ユングはすべての人間は生まれながらの心理的な力を無意識に共有することを何と呼びましたか。", "id": "tr-303-04-000", "answers": [ { "text": "「元型」", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『TheMythoftheEternalReturn』を書いた人は誰ですか。", "id": "tr-303-04-001", "answers": [ { "text": "ミルチャ・エリアーデ", "answer_start": 455, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ハンス・ブルーメンベルクは、神話には「威嚇と「詩情」という互いに背反する二つの機能が対立する構図を取ると分析した。前者は人間社会が有する制度や規範または抑圧などをイメージさせる物語を提示し、それを強制させる機能をいう。後者は生命本来が持つ自然性や原初の話にある自由さを提示し、世界を人間の相似をして認識させ、人間の精神を高める想像をもたらす機能を意味する。ブルーメンベルクはこの二つの機能が対立するのではなく、「距離」を持ちながら共存すると言い、具体的には「威嚇」を感じ取りながらそこから適度に離れた位置で「詩情」を感じ取る構造が神話の特色と言及した。", "qas": [ { "question": "神話は「威嚇と「詩情」という互いに背反する二つの機能が対立する構図を取ると分析した人は誰なの?", "id": "tr-303-05-000", "answers": [ { "text": "ハンス・ブルーメンベルク", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "異なる文化における神話を比較する学問を比較神話学という。その主題は各神話の中にある類似性を見つけ出すことにあり、そこから神話に流れる共通の基礎的部分を見出そうとする試みである。この基礎的な部分とは、例えばある同じ自然現象に直面した各民族が意図せず似通った神話を創り出すような場合にありうる、普遍的な発想の源、もしくは多様な神話に分岐する大元の「神話の種」(protomythology)とみなされる可能性がある。\n\n19世紀には、神話解釈において比較神話学的手法が活発になり、その普遍性探求が行われた。しかし現代、このような比較検討の手法には研究者から疑問も提示され、神話の普遍性に囚われるべきではないとの意見もある。この傾向に抗う例のひとつはジョーゼフ・キャンベルの『千の顔を持つ英雄』であり、この中でジョーゼフは、全ての神話上の英雄には基本的に同じパターンが見られるという。このモノミス理論は神話研究の主流派には認められていない。", "qas": [ { "question": "異なる文化における神話を比較する学問を何と呼びますか。", "id": "tr-303-06-000", "answers": [ { "text": "比較神話学", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本の古典には、「神語」という語はあるが、「神話」という語はない。これは明治20年代に、英語の「myth」を「神話」と日本語に翻訳した事で用いられる様になった翻訳漢字であり、中国や朝鮮の古典にもない言葉である。これは本来、神話と呼ばれるものが語られるものであって、文字によって書き残される様になったのは後である為とされる。したがって『神話』という日本語は、近代から用いられる様になった比較的新しい語である。", "qas": [ { "question": "『神話』という言葉を作った国はどこなの?", "id": "tr-303-07-000", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "古池や蛙飛びこむ水の音", "paragraphs": [ { "context": "「古池や蛙飛びこむ水の音」(ふるいけやかわずとびこむみずのおと)は、松尾芭蕉の発句。\n芭蕉が蕉風俳諧を確立した句とされており、芭蕉の作品中でもっとも知られているだけでなく、すでに江戸時代から俳句の代名詞として広く知られていた句である。", "qas": [ { "question": "「古池や蛙飛びこむ水の音」の句を詠んだ人は誰ですか?", "id": "tr-304-00-000", "answers": [ { "text": "松尾芭蕉", "answer_start": 34, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "松尾芭蕉は何時代の人物ですか?", "id": "tr-304-00-001", "answers": [ { "text": "江戸時代", "answer_start": 89, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "江戸時代から俳句の代名詞として広く知られていた句とは何?", "id": "tr-304-00-002", "answers": [ { "text": "「古池や蛙飛びこむ水の音」", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "芭蕉が蕉風俳諧を確立した句とは何?", "id": "tr-304-00-003", "answers": [ { "text": "「古池や蛙飛びこむ水の音」", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "季語は蛙(春)。\n古い池に蛙が飛び込む音が聞こえてきた、という単純な景を詠んだ句であり、一見平凡な事物に情趣を見出すことによって、和歌や連歌、またそれまでの俳諧の型にはまった情趣から一線を画したものである。\n芭蕉が一時傾倒していた禅の影響もうかがえるが、あまりに広く知られた句であるため、後述するように深遠な解釈や伝説も生んだ。", "qas": [ { "question": "「古池や蛙飛びこむ水の音」の季語は何?", "id": "tr-304-01-000", "answers": [ { "text": "蛙", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "蛙はいつの季語ですか?", "id": "tr-304-01-001", "answers": [ { "text": "春", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "芭蕉が一時期心酔していたものとは何?", "id": "tr-304-01-002", "answers": [ { "text": "禅", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "初出は1686年(貞享3年)閏3月刊行の『蛙合』(かわずあわせ)であり、ついで同年8月に芭蕉七部集の一『春の日』に収録された。\n『蛙合』の編者は芭蕉の門人の仙化で、蛙を題材にした句合(くあわせ。左右に分かれて句の優劣を競うもの)二十四番に出された40の句に追加の一句を入れて編まれており、芭蕉の「古池や」はこの中で最高の位置(一番の左)を占めている。\nこのときの句合は合議による衆議判制で行われ、仙化を中心に参加者の共同作業で判詞が行われたようである。", "qas": [ { "question": "『蛙合』の編者は誰ですか?", "id": "tr-304-02-000", "answers": [ { "text": "仙化", "answer_start": 78, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『春の日』は何年に出ましたか?", "id": "tr-304-02-001", "answers": [ { "text": "1686年", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "芭蕉の「古池や」が収録されている書物とは何?", "id": "tr-304-02-002", "answers": [ { "text": "『春の日』", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "芭蕉の「古池や」が初めてお披露目された書物は何ですか?", "id": "tr-304-02-003", "answers": [ { "text": "『蛙合』", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "一般に発表を期した俳句作品は成立後日をおかず俳諧撰集に収録されると考えられるため、成立年は貞享3年と見るのが定説である。\nなお同年正3月下旬に、井原西鶴門の西吟によって編まれた『庵桜』に「古池や蛙飛ンだる水の音」の形で芭蕉の句が出ており、これが初案の形であると思われる。\n「飛ンだる」は談林風の軽快な文体であり、談林派の理解を得られやすい形である。", "qas": [ { "question": "芭蕉の「古池や」の成立年はいつですか?", "id": "tr-304-03-000", "answers": [ { "text": "貞享3年", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "芭蕉の句の初案は何だと言われていますか?", "id": "tr-304-03-001", "answers": [ { "text": "「古池や蛙飛ンだる水の音」", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『庵桜』は日本の元号で何年に出た書物ですか?", "id": "tr-304-03-002", "answers": [ { "text": "貞享3年", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「古池や蛙飛ンだる水の音」は誰が詠みましたか?", "id": "tr-304-03-003", "answers": [ { "text": "芭蕉", "answer_start": 109, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『蛙合』巻末の仙花の言葉によれば、この句合は深川芭蕉庵で行われたものであり、「古池や」の句がそのときに作られたものなのか、それともこの句がきっかけとなって句合がおこなわれたのか不明な点もあるが、いずれにしろこの前後にまず仲間内の評判をとったと考えられる。\n「古池」はおそらくもとは門人の杉風が川魚を放して生簀としていた芭蕉庵の傍の池であろう。", "qas": [ { "question": "この句合が行われた場所はどこですか?", "id": "tr-304-04-000", "answers": [ { "text": "深川芭蕉庵", "answer_start": 22, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「古池」はどこにある池のことを指していますか?", "id": "tr-304-04-001", "answers": [ { "text": "芭蕉庵", "answer_start": 159, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "芭蕉庵の傍の池に川魚を放した門人は誰ですか?", "id": "tr-304-04-002", "answers": [ { "text": "杉風", "answer_start": 143, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1700年(元禄13年)の『暁山集』(芳山編)のように「山吹や蛙飛び込む水の音」の形で伝えている書もあるが、「山吹や」と置いたのは門人の其角である。\n芭蕉ははじめ「蛙飛び込む水の音」を提示して上五を門人たちに考えさせておき、其角が「山吹や」と置いたのを受けて「古池や」と定めた。\n芭蕉は和歌的な伝統をもつ「山吹という五文字は、風流にしてはなやかなれど、古池といふ五文字は質素にして實(まこと)也。\n山吹のうれしき五文字を捨てて唯古池となし給へる心こそあさからぬ」とした。\n「蛙飛ンだる」のような俳意の強調を退け、自然の閑寂を見出したところにこの句が成立したのである。\nなお、和歌や連歌の歴史においてはそれまで蛙を詠んだものは極めて少なく、詠まれる場合にもその鳴き声に着目するのが常であった。\n俳諧においては飛ぶことに着目した例はあるが、飛び込んだ蛙、ならびに飛び込む音に着目したのはそれ以前に例のない芭蕉の発明である。", "qas": [ { "question": "『暁山集』は何年に出た書物ですか?", "id": "tr-304-05-000", "answers": [ { "text": "1700年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『暁山集』は日本の元号で何年に出た書物ですか?", "id": "tr-304-05-001", "answers": [ { "text": "元禄13年", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「山吹や蛙飛び込む水の音」としたのは誰ですか?", "id": "tr-304-05-002", "answers": [ { "text": "其角", "answer_start": 68, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この句が有名になったのは、芭蕉自身が不易流行の句として自負していたということもあるが、芭蕉の業績を伝えるのにことあるごとにこの句を称揚した門人支考によるところが大きい。\n支考は1719年(享保4年)に著した『俳諧十論』のなかでこの句を「情は全くなきに似たれども、さびしき風情をその中に含める風雅の余情とは此(この)いひ也」として、句の中に余情としての「さびしさ」を見ており、この見方が一般的な見方として現代まで継承されていると思われる。\nただし芭蕉の同時代には必ずしも他の俳人の理解が得られていたわけではなく、例えば前述の『暁山集』では「山吹や」を「古池や」に変えると発句にはならないとしている。\nまた禅味のある句風から、『芭蕉翁古池真伝』(春湖著、慶応4年)に見られるように、芭蕉がその禅の師である仏頂を訪れて禅問答を行い、そこで句想を得た、というような伝説も流布した。", "qas": [ { "question": "『俳諧十論』の著者は誰?", "id": "tr-304-06-000", "answers": [ { "text": "支考", "answer_start": 85, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "芭蕉の業績を伝えるのに頻繁にこの句を称揚した門人とは誰ですか?", "id": "tr-304-06-001", "answers": [ { "text": "支考", "answer_start": 85, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『芭蕉翁古池真伝』の著者は誰ですか?", "id": "tr-304-06-002", "answers": [ { "text": "春湖", "answer_start": 321, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『芭蕉翁古池真伝』は日本の元号で何年に出ましたか?", "id": "tr-304-06-003", "answers": [ { "text": "慶応4年", "answer_start": 325, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "俳句の近代化を推進した正岡子規は、「古池の句の弁」(『ホトトギス』1898年10月号)においてこの種の神秘化をはっきりと否定し、「古池や」の句の再評価を行っている。\nこの文章は「古池や」の句がなぜこうまで広く人々に知られるようになったのかと質問した客人に対して、主人がその説明をする、という態で書かれており、俳句の歴史をひもときながら、上述したように「蛙が水に飛び込む」というありふれた事象に妙味を見いだすことによって俳諧の歴史に一線を画したのだということを明確にしている。\nまた子規はこの句の重要性はあくまで俳句の歴史を切りひらいたところにあり、この句が芭蕉第一の佳句というわけではないということも記している。", "qas": [ { "question": "「古池の句の弁」で「古池や」の句の再評価を行った人物は誰ですか?", "id": "tr-304-07-000", "answers": [ { "text": "正岡子規", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「古池の句の弁」を掲載していた雑誌名は何ですか?", "id": "tr-304-07-001", "answers": [ { "text": "『ホトトギス』", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "山本健吉は『芭蕉―その鑑賞と批評』(1957年)において、上五を「山吹や」とした場合には視覚的なイメージを並列する取り合わせの句となるのに対し、「古池や」は直感的把握、ないし聴覚的想像力を働かせたものであり、「蛙飛びこむ」以下とより意識の深層において結びつき意味を重層化させているのだとしている。\nそしてこの句が「笑いを本願とする俳諧師たちの心の盲点」を的確についたものであり、芭蕉にとってよりも人々にとって開眼の意味を持ったのだとし、またわれわれが誰しも幼いころから何らかの機会にこの句を聞かされている現在、「われわれの俳句についての理解は、すべて「古池」の句の理解にはじまると言ってよい」と評している。\n大輪靖宏の『なぜ芭蕉は至高の俳人なのか』(2014年)によると、古池は古井戸の用法の如く、忘れ去られた池であり、死の世界であるはずである。\n「蛙飛び込む水の音」は生の営みであり、動きがある。\n蛙を出しておきながら、声を出していない。\n音は優雅の世界ではない。\nここでは優雅でなく、わび、さびの世界である。\n古池という死の世界になりかねないものに、蛙を飛びこませることによって生命を吹き込んだのである。\nそれでこそ、わび、さびが生じた、と述べている。", "qas": [ { "question": "『なぜ芭蕉は至高の俳人なのか』と『芭蕉―その鑑賞と批評』はどちらが先に発表されましたか?", "id": "tr-304-08-000", "answers": [ { "text": "『芭蕉―その鑑賞と批評』", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『なぜ芭蕉は至高の俳人なのか』の著者は誰?", "id": "tr-304-08-001", "answers": [ { "text": "大輪靖宏", "answer_start": 304, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『芭蕉―その鑑賞と批評』の著者は誰?", "id": "tr-304-08-002", "answers": [ { "text": "山本健吉", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "浜松市立中央図書館", "paragraphs": [ { "context": "浜松市立中央図書館(はままつしりつちゅうおうとしょかん)は、静岡県浜松市中区松城町にある公共図書館である。\n24館からなる浜松市立図書館の中央館である。\n浜松市には1912年(明治45年)開館の私立浜松図書館があった。\n1920年(大正9年)に五社公園に浜松市立図書館が開館したが、太平洋戦争末期の浜松空襲で焼失した。\n戦後の1950年(昭和25年)には松城町に木造の浜松市立図書館が開館し、1974年(昭和49年)に浜松市立中央図書館に改称した。\n1981年(昭和56年)には同一場所に鉄筋コンクリート造の現行館が開館した。", "qas": [ { "question": "浜松市立図書館は全部で何館ありますか?", "id": "tr-305-00-000", "answers": [ { "text": "24館", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "私立浜松図書館と浜松市立図書館はどちらが先に開館しましたか?", "id": "tr-305-00-001", "answers": [ { "text": "私立浜松図書館", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "浜松市立中央図書館の改称前の名前は何ですか?", "id": "tr-305-00-002", "answers": [ { "text": "浜松市立図書館", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "浜松市立図書館が焼失した原因は何ですか?", "id": "tr-305-00-003", "answers": [ { "text": "浜松空襲", "answer_start": 149, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1901年(明治34年)には敷知郡浜松町に浜松青年書籍館が設立され、1902年(明治35年)には浜松女子尋常高等小学校(後の浜松市立元城小学校)内に浜松青年同志会が運営する浜松青年同志会附属浜松図書館が設立された。\nこの図書館の蔵書数は少なく、また単独施設ではなかったため、満足な活動ができなかった。\n1911年(明治44年)には浜松町が市制施行して浜松市となった。\n浜松青年同志会は会の創立10周年と市制施行1周年を記念して、1912年(明治45年)7月1日に浜松青年同志会附属私立浜松図書館を設立した。\n私立浜松図書館は浜松女子尋常高等小学校の校庭の北西角にあり、開館時の蔵書数は2,585冊、浜松市立図書館が開館するまでは浜松唯一の図書館だった。\n私立図書館ということもあって蔵書数は伸び悩み、また開館日も日曜日のみとなったため、浜松市民からはより大規模な図書館の建設を求める声が上がった。", "qas": [ { "question": "設立が早かったのは浜松青年同志会附属私立浜松図書館と浜松青年同志会附属浜松図書館のどちらですか?", "id": "tr-305-01-000", "answers": [ { "text": "浜松青年同志会附属浜松図書館", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "私立浜松図書館の開館当初の蔵書数は何冊ですか?", "id": "tr-305-01-001", "answers": [ { "text": "2,585冊", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "私立浜松図書館が唯一開館していたのはいつですか?", "id": "tr-305-01-002", "answers": [ { "text": "日曜日", "answer_start": 356, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "大正天皇御即位記念事業のひとつとして、浜松市は1916年(大正5年)から篤志家の寄付を募り、市費を合わせて1920年(大正9年)6月に組織としての浜松市立図書館を創立した。\n私立浜松図書館の蔵書約1,000冊を基にして、1920年(大正9年)7月1日の市制施行記念日に五社公園内に浜松市立図書館が開館した。\n所在地である紺屋町97はかつて浜松医学校があった場所であり、戦後には逓信診療所が、後にNTT浜松健康管理所が建った。\n1925年時点で4,735冊だった蔵書の約半分は市民からの寄贈によるものだった。\n静岡県では田方郡伊東町(伊東町立図書館)、田方郡熱海町(町立熱海図書館)、君沢郡三島町(三島町立図書館)、益津郡焼津町(焼津町立図書館)に次いで設立された公立図書館とされる。", "qas": [ { "question": "NTT浜松健康管理所が建つ前は何がありましたか?", "id": "tr-305-02-000", "answers": [ { "text": "逓信診療所", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "浜松市立図書館の場所は戦前に何がありましたか?", "id": "tr-305-02-001", "answers": [ { "text": "浜松医学校", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1925年の浜松市立図書館の蔵書数は何冊でしたか?", "id": "tr-305-02-002", "answers": [ { "text": "4,735冊", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "町立熱海図書館の次に設立された公立図書館は何?", "id": "tr-305-02-003", "answers": [ { "text": "三島町立図書館", "answer_start": 298, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "現在の浜松市域では、1923年(大正12年)には浜名郡豊西村(後の笠井町、現浜松市)に豊西村立図書館が開館し、1924年(大正13年)には浜名郡白脇村(現浜松市)に白脇村立図書館が開館している。\n特に豊西村立図書館は松島十湖の指導によって設立された本格的な図書館であり、戦後には町立笠井図書館となって1962年(昭和37年)まで続いている。\nその他にもいくつかの村で尋常高等小学校内に図書館が設けられた。\n戦前の浜松市立図書館の蔵書数は約35,000冊だったが、1945年(昭和20年)6月18日の浜松空襲では建物も蔵書も焼失した。", "qas": [ { "question": "開館が早かったのは白脇村立図書館と豊西村立図書館のどちらですか?", "id": "tr-305-03-000", "answers": [ { "text": "豊西村立図書館", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "豊西村立図書館は戦後にどんな名称に変わりましたか?", "id": "tr-305-03-001", "answers": [ { "text": "町立笠井図書館", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "戦前の浜松市立図書館の蔵書数は何冊でしたか?", "id": "tr-305-03-002", "answers": [ { "text": "約35,000冊", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "軍都であった浜松市は1944年(昭和19年)に18万7433人の人口を有していたが、浜松空襲後には相次ぐ疎開などで8万1437人にまで激減した。\nしかし1946年には旧海軍経理学校の蔵書約300冊を譲り受け、浜松市役所教育課内に図書館を仮設して図書館活動を再開した。\nこの際には教育課長が図書館長を代行している。\n1946年4月1日時点の蔵書数はわずか342冊だった。\n戦後には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)から戦争関連図書の没収命令を受けて、浜松市立図書館は『日本精神史稿』(河合弘道・島方泰助共著、昭森社、1943年)と『皇道哲学』(佐藤通次著、朝倉書店、1943年)の2冊を西遠地方事務所に提出している。\n1948年の蔵書数は2,135冊であり、貸出は部内者のみだった。", "qas": [ { "question": "浜松市の人口が多かったのは1944年と浜松空襲後のどちらの時期ですか?", "id": "tr-305-04-000", "answers": [ { "text": "1944年", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "蔵書数が多かったのは1946年と1948年のどちらですか?", "id": "tr-305-04-001", "answers": [ { "text": "1948年", "answer_start": 309, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『日本精神史稿』と『皇道哲学』の刊行年はいつですか?", "id": "tr-305-04-002", "answers": [ { "text": "1943年", "answer_start": 258, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "戦争関連図書の没収命令を下した機関は何ですか?", "id": "tr-305-04-003", "answers": [ { "text": "連合国軍最高司令官総司令部", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1947年(昭和22年)に浜松市長に就任した坂田啓造の在任時には、市営住宅、小中学校14校、浜松市営球場(1948年)、浜松市営プール(1950年)、浜松市立図書館(1950年)などが建設され、1950年(昭和25年)には浜松こども博覧会が開催されている。\n1948年から図書館再建に向けた動きがみられ、1949年度予算で図書館の建設が決定した。\n1950年4月からは浜松ユネスコ協力会が中心となって献本活動が行われ、3,381冊の図書、1,068冊の雑誌、196,876円の現金が集まった。\n谷口吉郎に師事した栗原勝(当時は浜松市役所建築課職員であり後の浜松市長)が建物の設計を手掛け、小出組が施行を担当して、かつて明石邸別荘があった浜松城の出丸跡(松城町16番地)に建設された。\n設計時にはまだ図書館法が成立していなかったため、戦災で焼失を免れた図書館を視察したり、市内の文化人の意見を聴いたりして設計を行っている。\n図書館からは浜松市街地が見下ろせ、富士山や遠州灘を眺めることもできた。", "qas": [ { "question": "浜松市営球場と浜松市営プールはどちらが先に建設されたの?", "id": "tr-305-05-000", "answers": [ { "text": "浜松市営球場", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "献本活動によって集まった数が多かったのは図書と雑誌のどちらですか?", "id": "tr-305-05-001", "answers": [ { "text": "図書", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "浜松市立図書館と同じ年に建設されたのは市営住宅と浜松市営プールのどちらですか?", "id": "tr-305-05-002", "answers": [ { "text": "浜松市営プール", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1950年(昭和25年)11月15日に浜松市立図書館の落成式が行われ、11月20日に開館した。\n敷地面積は5,493m2であり、延床面積は1,457m2である。\n総工費は900万円だった。\n新聞は「東海一の図書館」などと報じ、雑誌『新建築』は単なる図書館ではなく文化センターとして建設されたことを称賛している。\n戦後に開館した図書館としては、全国的にみてもっとも早い時期の開館だった。\n児童書はすべて開架であり、一般書は部分開架となる予定だったが、整理が間に合わなかったため書庫が開放された。", "qas": [ { "question": "浜松市立図書館の敷地面積は?", "id": "tr-305-06-000", "answers": [ { "text": "5,493m2", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "浜松市立図書館の延床面積は?", "id": "tr-305-06-001", "answers": [ { "text": "1,457m2", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "浜松市立図書館の総工費は?", "id": "tr-305-06-002", "answers": [ { "text": "900万円", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「東海一の図書館」と新聞が報じた図書館とは何?", "id": "tr-305-06-003", "answers": [ { "text": "浜松市立図書館", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "初代館長には浜松市立高等学校の校長を務めていた坂本幸次郎が就任した。\n1951年1月23日には分類目録の作成が完了して、蔵書の管理方式を出納式に移行させたが、開館当初は蔵書の盗難も多かった。\n開館当初の蔵書数は8,939冊、1951年度末の蔵書数は11,425冊だったが、1958年度末には35,640冊、1964年度末には66,147冊にまで増加した。", "qas": [ { "question": "浜松市立図書館の初代館長は誰?", "id": "tr-305-07-000", "answers": [ { "text": "坂本幸次郎", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "蔵書数が最も多かった年は1951年度末、1958年度末、1964年度末の中でいつですか?", "id": "tr-305-07-001", "answers": [ { "text": "1964年度末", "answer_start": 153, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "開館直後の12月からは月1・2回の頻度でレコードコンサートが開催され、その他には映画会、講演会、展覧会などの文化的な催しが数多く開催された。\n昭和30年代には映画が大衆娯楽の頂点に君臨しており、浜松市立図書館では静岡県視聴覚ライブラリーや日米文化センターから借りた文化映画などを上映した。\n児童閲覧室では紙芝居・人形劇・幻灯・おはなし会などを開催した。\n当時は市内に美術館や博物館がなかったため、美術展・華道展・書き初め展・写真展・志戸呂焼展などの催しも図書館で開催された。\nやがて浜松市公会堂や松菱が美術展の会場の役割を引き継ぎ、1958年に開館した浜松郷土博物館が博物施設の役割を引き継いだ。\n1961年には浜松市民会館、1962年には浜松市児童会館、1963年には浜松市体育館が完成しており、これらの諸施設と重複するような事業は取りやめて図書館本来の役割に専念するようになった。", "qas": [ { "question": "最も完成が早かったのは浜松市民会館、浜松市体育館、浜松市児童会館の中でどれですか?", "id": "tr-305-08-000", "answers": [ { "text": "浜松市民会館", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "浜松市児童会館と浜松市体育館はどちらが先に完成しましたか?", "id": "tr-305-08-001", "answers": [ { "text": "浜松市児童会館", "answer_start": 320, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "浜松市は1951年(昭和26年)3月に浜名郡五島村・河輪村・新津村の3村を合併して市域を広げたことで、同年7月16日には初めて巡回文庫サービスを実施し、一団体あたり50冊の本を貸出した。\n1954年(昭和29年)から1957年(昭和32年)の期間には11町村を合併し、市域がそれまでの2.6倍となったため、1957年(昭和32年)6月には移動図書館(自動車文庫)を設置して遠隔地への図書館サービスを開始した。\n1957年末には静岡県から中古の移動図書館車を譲り受けているが、1959年(昭和34年)には新車を購入した。\nこの際に合併した笠井町の町立笠井図書館は浜松市立図書館笠井分館に改称している。\n自動車文庫は各地に設置した配本所に本を届けたほか、映画会や読書会などの活動もおこなった。\n1956年(昭和31年)7月6日には市内在住の社会人に対して、小説・随筆に限って館外貸出を開始した。\n1961年6月16日には館外貸出図書を全部門に拡大し、1962年11月1日からは小学生以下の児童と母親に対して、1964年4月1日からは中・高・大学生にも貸出を認めた。", "qas": [ { "question": "1951年3月に浜松市は新たにいくつの村が加わりましたか?", "id": "tr-305-09-000", "answers": [ { "text": "3村", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "浜松市立図書館笠井分館の改称前の名称は何?", "id": "tr-305-09-001", "answers": [ { "text": "町立笠井図書館", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "先に貸出が認められたのは大学生と小学生以下の児童のどちらですか?", "id": "tr-305-09-002", "answers": [ { "text": "小学生以下の児童", "answer_start": 436, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "笠井地区にも自動車文庫のステーションが設置されたことで、1962年(昭和37年)9月30日には唯一の分館だった笠井分館が廃止された。\n1963年4月には産業資料室が設けられ、社史・社報・技報・便覧類の収集保管に努めた。\n1950年の開館後には改修なども行われたが、手狭だったことから昭和40年代半ばには新図書館の建設が望まれるようになった。\n1975年(昭和50年)に策定された第二次浜松市総合計画基本計画には、中央図書館の建設、地区図書館の建設、自動車文庫の充足などが盛り込まれた。\n1974年4月には初の地区図書館として浅田町に浜松市立南図書館が開館し、これにともなって浜松市立図書館は浜松市立中央図書館に改称した。\n1978年(昭和53年)4月には文丘町に浜松市立城北図書館が、1979年(昭和54年)4月には西伊場町に浜松市立西図書館が、1980年(昭和55年)4月には積志町に浜松市立積志図書館が、1982年(昭和57年)4月には子安町に浜松市立東図書館が、1983年(昭和58年)4月には葵東1丁目に浜松市立北図書館が、1984年(昭和59年)4月には下江町に浜松市立南陽図書館が開館している。", "qas": [ { "question": "浜松市立中央図書館の名称が誕生したのはいつですか?", "id": "tr-305-10-000", "answers": [ { "text": "1974年4月", "answer_start": 243, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "遅く開館したのは浜松市立西図書館と浜松市立積志図書館のどちらですか?", "id": "tr-305-10-001", "answers": [ { "text": "浜松市立積志図書館", "answer_start": 393, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "浜松市立東図書館、浜松市立南陽図書館、浜松市立北図書館の中で2番目に開館したのはどれですか?", "id": "tr-305-10-002", "answers": [ { "text": "浜松市立北図書館", "answer_start": 456, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1979年(昭和54年)5月24日には浜松市立中央図書館の新館が起工された。\n浜松市制施行70周年の当日にあたる1981年(昭和56年)4月13日に落成式が行われ、4月14日に開館した。\n蔵書収容能力は65万冊であり、冷暖房設備やコンピュータ設備も有する最新式の図書館だった。\n総工費は約14億円。\nコンピュータ設備では貸出・返却・予約・資料検索などを行なうことができ、全国の図書館関係者が見学に訪れている。\n1989年(平成元年)には全館がオンラインで結ばれ、利用者用検索端末(OPAC)が設置された。\n2001年(平成13年)には蔵書の予約が可能となった。", "qas": [ { "question": "浜松市立中央図書館の新館は何冊まで蔵書収容が可能ですか?", "id": "tr-305-11-000", "answers": [ { "text": "65万冊", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "浜松市立中央図書館の新館の総工費はいくらかかりましたか?", "id": "tr-305-11-001", "answers": [ { "text": "14億円", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "浜松市立中央図書館はいつ開館しましたか?", "id": "tr-305-11-002", "answers": [ { "text": "4月14日", "answer_start": 82, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1997年(平成9年)4月には小沢渡町に浜松市立可新図書館が、2004年(平成16年)7月には大人見町に浜松市立はまゆう図書館が開館し、その間の2002年(平成14年)4月には中央図書館駅前分室が開室している。\n2005年(平成17年)7月1日には浜松市周辺の2市8町1村が浜松市に編入合併されている。\n2006年(平成18年)10月には浜松市立城北図書館が「第二の中央館」として移転開館した。\n城北図書館の6,530m2という延床面積は中央図書館を上回り、浜松市立図書館の中で最大である。\n中央図書館の閉架書庫にあった資料のうち、郷土資料などを除く図書、クリエート浜松に収蔵されていたビデオ・CD・DVDが城北図書館に移管されたほか、移動図書館の拠点も城北図書館に集約された。", "qas": [ { "question": "浜松市立可新図書館と浜松市立はまゆう図書館はどちらが先に開館しましたか?", "id": "tr-305-12-000", "answers": [ { "text": "浜松市立可新図書館", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "浜松市立はまゆう図書館は何町に所在していますか?", "id": "tr-305-12-001", "answers": [ { "text": "大人見町", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "城北図書館と中央図書館はどちらの方が延床面積が広いですか?", "id": "tr-305-12-002", "answers": [ { "text": "城北図書館", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "合併後しばらくは、各自治体が使用していた9種類の図書館システムが並立していたが、城北図書館の移転開館を機に、全21館分室の市立図書館すべてを統合するネットワーク化が行われた。\nこれに合わせて浜松市立図書館の全蔵書約200万冊にICタグが貼られたが、43万冊の高岡市立図書館を上回って日本最多のICタグ貼付数であった。\nなお、国外の大規模図書館とICタグ貼付数を比較しても、アメリカ合衆国のシアトル公共図書館(約220万冊)や中国の深圳図書館(約180万冊)にも見劣りしない規模とされる。\n城北図書館は開館当初から窓口業務を外部委託していたが、2007年には中央図書館も窓口業務が外部委託された。", "qas": [ { "question": "日本最多のICタグ貼付数をもつ図書館は浜松市立図書館と高岡市立図書館のどちらですか?", "id": "tr-305-13-000", "answers": [ { "text": "浜松市立図書館", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ICタグ貼付数が多いのはシアトル公共図書館と深圳図書館のどちらですか?", "id": "tr-305-13-001", "answers": [ { "text": "シアトル公共図書館", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ICタグ貼付数が多いのは浜松市立図書館と深圳図書館のどちらですか?", "id": "tr-305-13-002", "answers": [ { "text": "浜松市立図書館", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本で2番目にICタグ貼付数の多い図書館はどこ?", "id": "tr-305-13-003", "answers": [ { "text": "高岡市立図書館", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2002年(平成14年)4月にはJR浜松駅前の商業ビルフォルテに中央図書館駅前分室が開室した。\n予約本の受け取りや返却などができ、会社や学校からの帰宅途中に立ち寄ることができる利便性が好評を博している。\n2008年(平成20年)にフォルテが閉館すると、駅前分室は暫定的に浜松駅前ビルヂング7階に移転したが、その後2011年11月9日にフォルテ跡地に開業した遠鉄百貨店新館9階に移った。", "qas": [ { "question": "中央図書館駅前分室とはどこの駅前にありますか?", "id": "tr-305-14-000", "answers": [ { "text": "JR浜松駅前", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フォルテが閉館したのはいつ?", "id": "tr-305-14-001", "answers": [ { "text": "2008年", "answer_start": 102, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フォルテ閉館後の駅前分室はどこの建物に移転したの?", "id": "tr-305-14-002", "answers": [ { "text": "浜松駅前ビルヂング", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "駅前分室が遠鉄百貨店新館9階に移転したのはいつ?", "id": "tr-305-14-003", "answers": [ { "text": "2011年11月9日", "answer_start": 156, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "カリュドーンの猪", "paragraphs": [ { "context": "カリュドーンの猪はギリシア神話に登場する巨大な猪だ。長母音を省略してカリュドンの猪とも表記する。アイトーリアのカリュドーン王オイネウスが生け贄を忘れたために女神アルテミスの怒りを買い、この猪が放たれたとされる。ギリシア全土から勇士が招集され、猪は退治されたが、このことがオイネウスの息子メレアグロスの死につながった。", "qas": [ { "question": "カリュドーンの猪はどの神話に登場しますか。", "id": "tr-306-00-000", "answers": [ { "text": "ギリシア神話", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カリュドーンの猪が放たれたのは、誰の怒りのせいでしたか。", "id": "tr-306-00-001", "answers": [ { "text": "女神アルテミス", "answer_start": 78, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "カリュドーンの猪の由来については、一般には女神アルテミスが野に放ったとする以上の伝えはない。ストラボンは、この猪をクロムミュオーン地方を荒らした雌猪パイア(エキドナとテューポーンの子ともいわれ、テーセウスによって退治された)の子であるとしているが、他にこの説を採り上げるものがない。イギリスの詩人ロバート・グレーヴスは、その著書『ギリシア神話』のなかで、猪は三日月型の牙を持つことから月の聖獣とされ、同時にアレースの聖獣でもあるとする。\n\nカリュドーンの猪を退治するためにギリシア全土から勇士が集まった。狩りは、犠牲者を出しながらも猪を仕留めることに成功する。しかし、猪退治の功績をだれに帰するかについてメレアグロスと彼の伯父たちとの間で争いとなった。メレアグロスは伯父たちを倒すが、母アルタイアーに呪われ、彼の寿命とされた薪を燃やされて死んだ。", "qas": [ { "question": "ストラボンはカリュドーンの猪が何の子だと考えていますか。", "id": "tr-306-01-000", "answers": [ { "text": "雌猪パイア", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ロバート・グレーヴスは、どの著書で、猪が三日月型の牙を持つことから月の聖獣とされ、同時にアレースの聖獣でもあるとしていますか。", "id": "tr-306-01-001", "answers": [ { "text": "『ギリシア神話』", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "メレアグロスは伯父たちを倒したことで、誰に呪われましたか。", "id": "tr-306-01-002", "answers": [ { "text": "母アルタイアー", "answer_start": 342, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カリュドーンの猪の物語についてロバート・グレーヴスは、「たぶん有名な現実の猪狩りと、それが原因になって生じたアイトーリアの部族間の仲違いをもとにした英雄伝説だろう」としている。猪によって聖王が死ぬ、というテーマは、同じギリシャのアドーニスの神話の他にもエジプト神話でオシーリスが猪に姿を変えたセトに殺される話があるなど古くからあり、このため、同じ運命によって倒れたさまざまなギリシア都市国家の英雄がこの物語に持ち込まれているとする。\n\nハンガリーの神話研究家カール・ケレーニイは、その著書『ギリシアの神話英雄の時代』のなかで、この物語に登場する英雄メレアグロスの死は、早い、不当な死の物語として思い出され、アッティカの石碑の上に一人の若い死者が夢見る狩人として立っている像があれば、それは決まってメレアグロスであるとする。", "qas": [ { "question": "カリュドーンの猪の物語について、有名な現実の猪狩りと、それが原因になって生じたアイトーリアの部族間の仲違いをもとにした英雄伝説であると考えた人は誰ですか。", "id": "tr-306-02-000", "answers": [ { "text": "ロバート・グレーヴス", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エジプト神話でオシーリスは誰に殺されますか。", "id": "tr-306-02-001", "answers": [ { "text": "セト", "answer_start": 146, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カリュドーン王オイネウスは、ある夏、オリュンポスの神々の生け贄を捧げる際に、アルテミスを忘れてしまった。ヘーリオスからこのことを知らされたアルテミスは、巨大な猪を地に放った。猪はオイネウスの家畜や作男たちを殺し、農作物に大損害を与えた。オイネウスは使者を遣わしてギリシア全土から勇士を募り、猪を退治した者にはその皮と牙を与えると約束した。\n\nアルカディアから来たアンカイオスとケーペウスの兄弟は、アタランテーが参加しているのを見て、女と一緒に狩りをするのはご免だといいだした。メレアグロスは、アタランテーを見て彼女を恋するようになっており、文句を言うなら狩りそのものをやめにするといって、彼女の参加を受け入れた。メレアグロスは、すでにイーダースの娘クレオパトラーを妻としていたにもかかわらず、「アタランテーと結婚できる男はどんなに幸せ者だろう」とため息混じりにつぶやき、これを聞いた彼の伯父たち、つまりアルタイアーの兄弟たちは、アタランテーの存在を不吉と見て快く思わなかった。", "qas": [ { "question": "カリュドーン王オイネウスがオリュンポスの神々の生け贄を捧げる際に、アルテミスを忘れてしまったことをアルテミスに教えたのは誰ですか。", "id": "tr-306-03-000", "answers": [ { "text": "ヘーリオス", "answer_start": 52, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "メレアグロの妻は誰?", "id": "tr-306-03-001", "answers": [ { "text": "クレオパトラ", "answer_start": 324, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "猪の狩りは、メレアグロスの案にしたがい、各人が数歩ずつの間隔を置いて半円形を描き、猪がねぐらとする森に入っていった。バッキュリデースによれば、狩りは6日間つづいた。猪は飛び出すと、たちまち二人の狩人を殺し、さらに一人を押し倒してその足を不自由にした。猪に襲われたネストールは木に登って難を逃れた。イアーソーンたちが槍を投げつけたが、みな外れ、イーピクレースの槍がかろうじて猪の肩にかすり傷を負わせただけだった。テラモーンとペーレウスが進み出たところ、テラモーンは木の根につまずいて転んだ。ペーレウスがテラモーンを抱き起こそうとするところへ猪が突進してきた。アタランテーが矢を放つと、猪の耳の後ろに突き刺さり、猪はいったん逃げた。アンカイオスは笑って「そんなことで猪が退治できるものか。俺の腕前を見るがいい」といって猪の前に立ちはだかり、戦斧を振り下ろそうとしたが、猪の方が速く、アンカイオスは腹をえぐられて最期を遂げた。ペーレウスは動転して、投げつけた槍の手元が狂ってエウリュティオーンを殺してしまった。アムピアラーオスが猪の目を射抜くと、猪はやみくもに突進し、テーセウスに突っかかってきた。テーセウスの投げた槍は逸れたが、このときメレアグロスが投げた槍が猪の脇腹を貫いた。突き刺さった槍を外そうと、猪がぐるぐる回っているところをメレアグロスは再び手槍でとどめを刺した。", "qas": [ { "question": "バッキュリデースは狩りが何日間続いたといいましたか。", "id": "tr-306-04-000", "answers": [ { "text": "6日間", "answer_start": 74, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "エウリュティオーンは誰のせいで死んだの?", "id": "tr-306-04-001", "answers": [ { "text": "ペーレウス", "answer_start": 410, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "猪の脇腹を貫いた槍は誰が投げたのですか。", "id": "tr-306-04-002", "answers": [ { "text": "メレアグロス", "answer_start": 516, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "メレアグロスは猪の皮を剥ぐと、「最初に血を流させたのはあなただ」といい、生皮をアタランテーに贈った。しかし、メレアグロスの伯父たちはこれに腹を立てた。プレークシッポスは、メレアグロスが自分のものにすべき皮をいらないというのなら、オイネウスの義兄弟で最年長である自分によこすべきだと言い立てた。プレークシッポスの兄弟も、最初に血を流したのはアタランテーではなくイーピクレースだったとしてプレークシッポスを支持した。メレアグロスは、激怒して二人の伯父を殺してしまった。\n\nメレアグロスの母アルタイアーは、兄弟たちの死を嘆くあまり、しまっていた箱から薪を取り出して火中に投じた。これは、メレアグロスが生まれたときに3人のモイライが現れ、「かまどの燃え木が燃え尽きるまでは、(メレアグロスは)生きているだろう」と予言した運命の燃え木だった。メレアグロスは突然、体中を焼き尽くすような痛みを感じて苦しみだし、アタランテーの目の前で、なすすべもなく死んでしまった。\n\nアルタイアーとクレオパトラーはメレアグロスの後を追って自殺し、声を上げて嘆き悲しむメレアグロスの姉妹たちは、ゴルゲーとデーイアネイラの二人を除いてアルテミスによってほろほろ鳥(ギリシア語でメレアグリデスmeleagrides)に姿を変えられたという。メレアグロスの死に衝撃を受けたアタランテーは、結婚しない誓いを立てた。", "qas": [ { "question": "メレアグロは猪の皮を誰にあげましたか。", "id": "tr-306-05-000", "answers": [ { "text": "アタランテー", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "プレークシッポスの兄弟はプレークシッポスを支持したか、アタランテーを支持したか。", "id": "tr-306-05-001", "answers": [ { "text": "プレークシッポス", "answer_start": 146, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "メレアグロスの母親は誰?", "id": "tr-306-05-002", "answers": [ { "text": "アルタイアー", "answer_start": 242, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "メレアグロスとアルタイアーとクレオパトラーのうち、一番先に死んだのは誰なの?", "id": "tr-306-05-003", "answers": [ { "text": "メレアグロス", "answer_start": 443, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "誤ってエウリュティオーンを殺してしまったペーレウスは、狩りに参加していたアカストスを頼り、イオールコスで罪を浄められた。しかし、アカストスの妻クレーテーイス(アステュダメイアとも)から恋心を寄せられ、これを断ったために恨みを買って殺されそうになる。\n\nヘーラクレースがケルベロスを生け捕るために冥界に入ったとき、亡霊たちがみなヘーラクレースの前から逃げ出すなか、メレアグロスだけは輝く甲冑を身に付けた姿で彼を迎えた。ヘーラクレースはメレアグロスに恐怖を感じて弓を引いたが、メレアグロスは笑って「恐れるな。死者は傷つけられないし、生者を傷つけることもない」と話した。メレアグロスは彼の死につながった狩りについて語り、妹のデーイアネイラが心残りであり、ヘーラクレースに娶ってくれるように頼んだ。このとき、ヘーラクレースは涙を流したが、これがこのギリシア最大の英雄の最初で最後の涙だったという。", "qas": [ { "question": "エウリュティオーンは誰に殺されたの?", "id": "tr-306-06-000", "answers": [ { "text": "ペーレウス", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "メレアグロスは誰に「恐れるな。死者は傷つけられないし、生者を傷つけることもない」と言ったのですか。", "id": "tr-306-06-001", "answers": [ { "text": "ヘーラクレース", "answer_start": 208, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "カール1世(オーストリア皇帝)", "paragraphs": [ { "context": "カール1世は大伯父であるフランツ・ヨーゼフ1世の後継者として1916年に即位し、オーストリア=ハンガリー帝国の統治者となった。第一次世界大戦に敗れて「国事不関与」を宣言したが、王権神授説を主張して退位要求を拒絶し、スイスに亡命。莫大な皇室財産のほとんどを新生のオーストリア共和国に没収された後、二度にわたってハンガリー国王への復帰運動を企てたが失敗し、ポルトガル領マデイラ島に流されて困窮の中で病死した。\n\n政治的には成すところの少ない君主だったが、カトリック教会への篤い信仰心を持ち、フランス首相クレマンソーからは「中欧における教皇」と、時のローマ教皇ベネディクト15世からは「私のお気に入りの子」と呼ばれ、20世紀の国家元首としては初めての福者になった。かつてのハプスブルク君主国の領域を中心に崇敬を集めている。", "qas": [ { "question": "カール1世は何年に即位したの?", "id": "tr-307-00-000", "answers": [ { "text": "1916年に", "answer_start": 30, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カール1世を「私のお気に入りの子」と呼んだ人は誰なの?", "id": "tr-307-00-001", "answers": [ { "text": "ローマ教皇ベネディクト15世", "answer_start": 272, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "カール1世は1887年8月17日、ドナウ川の河畔に位置するペルゼンボイク城において生を享けた。父はオーストリア皇族オットー・フランツ大公、母はザクセン国王ゲオルクの娘マリア・ヨーゼファだ。\n出生当時、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世には長男としてルドルフ皇太子がおり、皇弟カール・ルートヴィヒ大公の孫として誕生したカールは帝位継承とはかけ離れた存在だった。誰の目にも未来の皇帝とは映らなかったこの新大公の誕生のニュースは、宮廷に関する他の記事といっしょに扱われたにすぎなかった。1889年1月30日、2歳に満たないときに「マイヤーリンク事件」でルドルフ皇太子が謎の死を遂げた。皇位継承者はしばらく決定されなかったが、皇弟カール・ルートヴィヒ大公かその長男フランツ・フェルディナント大公のどちらかが後継者だと目された。将来フランツ・フェルディナント大公が身分相応の女性との間に男児を儲けることが当然視されており、依然としてオットー・フランツ大公とその息子カールの出番はないと考えられていた。", "qas": [ { "question": "カール1世は何年生まれ?", "id": "tr-307-01-000", "answers": [ { "text": "1887年", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カール1世の父は誰?", "id": "tr-307-01-001", "answers": [ { "text": "オットー・フランツ大公", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルドルフ皇太子とカール1世と、誰がもっと先に生まれたの?", "id": "tr-307-01-002", "answers": [ { "text": "ルドルフ皇太子", "answer_start": 120, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ルドルフ皇太子とカール1世と、誰がもっと長生きした?", "id": "tr-307-01-003", "answers": [ { "text": "カール1世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "カールは一家の領地であるヴィラ・ヴァルトホルツや父オットー・フランツ大公が帝国陸軍の司令官を務めていたプラハで、カールは特に母マリア・ヨーゼファの寵愛を受けて育った。父オットー・フランツは素行にやや問題のある大公として知られ、軍帽と剣以外のものを一切身につけずにホテル・ザッハーのロビーを横切るという事件を起こしたこともあった。そのため母マリア・ヨーゼファは、カールたちを父親の悪い影響から避けるために腐心したという。\n\n皇族の義務として受けた宗教教育によって、カールはローマ・カトリック教会への篤い信仰心を持つようになった。カールは家の礼拝堂での祈りを欠かさず、毎日夕方になると良心の糾明をし、Tafertの聖母マリアの聖堂に行くのを好んだ。\n\nある日、ライヒェナウ・アン・デア・ラクスの領民が火事で家を失って困っていることを知ったカールは、自分の貯金箱を壊して貯めたお金をその家族に渡した。またある日、無造作に投げた木の枝が聖母マリアに捧げられた聖堂に当たってしまい、神の母を傷つけたという思いで泣き出してしまったという。1896年、祖父カール・ルートヴィヒ大公が他界し、伯父フランツ・フェルディナント大公が皇位継承者に決定した。しかしフランツ・フェルディナント大公は、将来の皇后としては身分不相応の伯爵令嬢ゾフィー・ホテクと恋に落ち、子孫の帝位継承権を放棄することを皇帝フランツ・ヨーゼフ1世に誓ったうえで1900年に貴賤結婚した。これによって、将来フランツ・フェルディナント大公からその弟オットー・フランツ大公の血脈に帝位が移ることがほぼ確定的になった。1906年、不摂生が過ぎたために父オットー・フランツ大公が41歳で早世すると、カールの帝位継承順位は伯父フランツ・フェルディナント大公に次いで第2位となった。", "qas": [ { "question": "カールの父は誰?", "id": "tr-307-02-000", "answers": [ { "text": "オットー・フランツ大公", "answer_start": 25, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カールの母は誰ですか。", "id": "tr-307-02-001", "answers": [ { "text": "マリア・ヨーゼファ", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カール・ルートヴィヒ大公は何年に亡くなりましたか。", "id": "tr-307-02-002", "answers": [ { "text": "1896年", "answer_start": 463, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フランツ・フェルディナント大公とゾフィー・ホテクは何年に結婚したか。", "id": "tr-307-02-003", "answers": [ { "text": "1900年", "answer_start": 606, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガルの用意周到な計画によって、カールは1909年にツィタ・フォン・ブルボン=パルマと出会う。マリア・テレサは亡き祖父カール・ルートヴィヒ大公の3度目の妻で、すなわちカールの義理の祖母にあたり、さらにツィタにとっては母の妹であった。カールとツィタはこれ以降、宮廷内のほとんどの人間に気付かれることなく親密な交際をするようになった。\n\n将来の皇帝となるであろうカールに、フランツ・ヨーゼフ1世は自身の孫娘エリーザベト・フランツィスカを嫁がせようと考えたが、血縁関係が近すぎることを心配するカールの母マリア・ヨーゼファの反対に遭った。そこでフランツ・ヨーゼフ1世は、今度はオルレアン家の血を引くデンマーク王女マルグレーテをカールと結婚させようと考えた。", "qas": [ { "question": "カールがツィタ・フォン・ブルボン=パルマと出会ったのは誰の計画によるのでしたか。", "id": "tr-307-03-000", "answers": [ { "text": "マリア・テレサ・フォン・ポルトゥガル", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マリア・テレサはカール・ルートヴィヒ大公の何度目の妻ですか。", "id": "tr-307-03-001", "answers": [ { "text": "3度目", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1910年秋、カールはフランツ・ヨーゼフ1世に呼び出され、そろそろ自分に合った結婚相手を決定するように命令された。結婚相手とする女性には、「カトリック信者であること」「現在または過去において統治に与った君主の子女」という2つの条件が付けられていた。1911年5月中旬、カールはツィタに求婚し、婚約に至った。マリア・ヨーゼファから婚約の報告を受けたフランツ・ヨーゼフ1世は、カールを本気でデンマーク王女と結婚させようと考えており、ツィタと真剣に交際していることを知らなかったため、大いに驚いた。しかし旧パルマ公国の公女でカトリック信者であるツィタに老帝は納得し、この婚約を祝福した。\n\n1911年6月24日、ローマ教皇ピウス10世はツィタに「私はあなたの未来の夫を祝福します。彼は次のオーストリア皇帝になるでしょう」と言った。ツィタらが次の皇帝はフランツ・フェルディナント大公であると訂正しても、ピウス10世は次の皇帝はカールであると繰り返したという。同年10月21日、シュヴァルツアウの城館において、カールとツィタの結婚式が挙行された。", "qas": [ { "question": "カールとツィタの結婚式は何年にありましたか。", "id": "tr-307-04-000", "answers": [ { "text": "1911年", "answer_start": 292, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カールとツィタの結婚式はどこで行われたか。", "id": "tr-307-04-001", "answers": [ { "text": "シュヴァルツアウの城館", "answer_start": 434, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1914年6月28日、サラエボ事件で皇位継承者フランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺されたのを契機として、第一次世界大戦が勃発した。サラエボ事件当日、食事の時間にいくら待っても主食が出てこないのを不審に思ったカール夫妻は、やがて侍従が電報を持って入ってきたのを見た。その電報に目を通したカールは、顔面蒼白になって「フランツ伯父が暗殺された」と一言ツィタに言ったという。\n\nやがてカールのもとには時のローマ教皇ピウス10世からの手紙が届いた。カールは皇帝にこの戦争の危険性を十分に認識させるようにローマ教皇から助言されたが、しかし当時カールはウィーンの政治中枢から一貫して外されており、一度たりとも開戦についての意見を求められたことはなかった。セルビア王国への最後通牒についても、カールはある銀行筋からの電話で知ったありさまだった。カールは新たな皇位継承者になったにも関わらずこのような扱いを受けていることに悲憤したが、のちにこれはカールに開戦責任が全くないことを証明した。", "qas": [ { "question": "誰が暗殺されたのをきっかけに、第一次世界大戦が勃発したか。", "id": "tr-307-05-000", "answers": [ { "text": "フランツ・フェルディナント大公夫妻", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1916年11月12日、イタリア戦線にいたカールは、フランツ・ヨーゼフ1世の体調悪化の報を受けてウィーンに帰還した。同月21日の午前には、老帝は高熱を発しながらも執務室で書類に目を通しており、カール夫妻が面会に来たと聞いて軍服に着替えようとする元気はあった。しかし同日の午後になると、老帝はため息をつきながらこう語ったとされる。「私は、多事多難な折に帝位に就き、さらに困難を極める時期に帝冠を譲り渡さねばならなくなった......」。同日夜21時5分、老帝フランツ・ヨーゼフ1世は86歳で崩御し、カールはオーストリア皇帝「カール1世」と呼ばれることとなった。\n\n新皇帝となったカールは、ただちに宮廷改革に取りかかった。仰々しい宮廷儀礼を廃止し、電話などの現代機器を採り入れたり、勤務形態や社交形式などを改めさせた。ハンガリー人の官吏には母国語で話すことを許し、それまで皇帝との謁見の際に義務付けられていた燕尾服の着用を不要とするなどした。侍従武官アルべルト・フォン・マルグッティはカール1世の一連の改革について、「移行措置などまったく聞き入れず、ハリケーンのごとし」と述べている。", "qas": [ { "question": "老帝フランツ・ヨーゼフ1世は何日に亡くなったか。", "id": "tr-307-06-000", "answers": [ { "text": "21日", "answer_start": 60, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "老帝フランツ・ヨーゼフ1世の次のオーストリア皇帝は誰なの?", "id": "tr-307-06-001", "answers": [ { "text": "カール", "answer_start": 248, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "電話などの現代機器を宮廷に導入したオーストリア皇帝は誰ですか。", "id": "tr-307-06-002", "answers": [ { "text": "カール", "answer_start": 288, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "先帝フランツ・ヨーゼフ1世が頑迷なまでに日常生活の形を崩そうとしなかったのに対して、カール1世は「不快である」の一言で計画を中止にすることも多々あった。多くのことを即時即決で行ったため、「思いつきのカール」と宮廷であだ名されるようになった。\n\n1916年12月30日、カールはハンガリー国王「カーロイ4世」として即位することとなった。聖イシュトヴァーンの王冠を戴かなければ正統なハンガリーの統治者とは認められないため、戦時中にもかかわらず荘厳華麗な即位式がブダペストのマーチャーシュ聖堂で挙行された。この即位式においてカールは「ハンガリーとその周辺諸国の国境を、我々はこれまで通り存続させ、縮小させることなく、可能な限り拡大していこう」と宣誓した。カールは皇族時代にひそかに帝国の完全連邦化を構想していたが、この宣誓は明らかにカールが念頭に置いていた新体制を阻害するものだった。", "qas": [ { "question": "1916年12月30日、カールはどの国で「カーロイ4世」として即位することとなったか。", "id": "tr-307-07-000", "answers": [ { "text": "ハンガリー", "answer_start": 138, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "多くのことを即時即決で行ったことから、カールにはどんなあだ名が付けられましたか。", "id": "tr-307-07-001", "answers": [ { "text": "「思いつきのカール」", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1917年3月23日夜、カールはラクセンブルク城において、皇后ツィタの二人の兄パルマ公子ジクストゥスとグザヴィエ公子と密談した。カールが彼らと密談した理由は、あくまで勝利のみを追求する同盟国ドイツ抜きに、オーストリア=ハンガリー帝国と英仏との単独講和を締結するためであった。ドイツ帝国はまだしも、オーストリア=ハンガリー帝国の食糧事情は深刻で、もはや戦争を続行できるほどの国力が残っていなかったのである。\n\nカールは前線の兵士や窮乏生活に忍従している国民のことを気をかけており、証言によれば戦場を訪問した際にカールは思い余って落涙したことが何度もあるという。また、ある写真家の前で「誰もこのようなことを神の御前で申し開きすることはできない。できるだけ早くこれを終わらせなければ」と涙を流しながら述べたこともある。早期に戦争を終結させたいという思いからカールは単独講和を試みたのだが、彼らに渡したこの時の手紙が、かえってヨーロッパ中を騒然とさせることになる。", "qas": [ { "question": "皇后ツィタ、パルマ公子ジクストゥス、グザヴィエ公子のうち、誰が一番年下か。", "id": "tr-307-08-000", "answers": [ { "text": "皇后ツィタ", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1917年3月23日の夜、密談に参加したのはパルマ公子ジクストゥス、グザヴィエ公子そして誰?", "id": "tr-307-08-001", "answers": [ { "text": "カール", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "フランス政府は、パルマ公子を仲介役としてのオーストリア=ハンガリー帝国との単独講和を、フランツ・ヨーゼフ1世の存命時から画策していた。パルマ公子に皇位継承者カールと接触させようとフランス政府は考えていたが、当時カールには何の権限もなかったために計画のみで終わった。カールが即位すると、フランスはパルマ公子に交渉の開始を促した。つまりこの単独講和交渉は、フランスとオーストリア=ハンガリーの思惑が一致してのものであった。\n\nしかし、1918年にフランス首相クレマンソーがこの秘密交渉を暴露してしまった。当初カールは手紙を書いたこと自体を否定し、次にその手紙の存在を認めつつ「フランスの正統な返還要求の支援」については記述がなかったと言った。ドイツ軍部はこのカールの秘密交渉に激怒し、またオーストリア=ハンガリーでは虚偽の発言を重ねるカールのせいで帝室の信望は失墜した。皇帝夫妻が同盟国ドイツを裏切ってその領土を割譲させようとしたことは、多くのドイツ民族主義者の憤慨を招くことになった。この皇帝の失態を好機と見た反君主制活動家のプロパガンダも広まり、敵国イタリアとフランスの双方にルーツを持つブルボン=パルマ家出身の皇后ツィタを非難する声も高まった。", "qas": [ { "question": "フランス政府は、誰を仲介役として、オーストリア=ハンガリー帝国との単独講和を計画していたか。", "id": "tr-307-09-000", "answers": [ { "text": "パルマ公子", "answer_start": 8, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1918年、フランスの首相は誰だった?", "id": "tr-307-09-001", "answers": [ { "text": "クレマンソー", "answer_start": 227, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "11月9日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位を宣言した。その直後ドイツではドイツ社会民主党の主導する政権が誕生したことを受けて、オーストリア社会民主党はオーストリア皇帝も退位するよう要求し始めた。キリスト教社会党は王党派であったが、彼らも最終的には皇帝退位に同意した。これはハインリッヒ・ラマシュ(首相と内務大臣ガイヤーの起草によるもので、カールは同日の午前11時頃にこの草稿を見せられた後、「これは退位声明ではないか!朕は退位なぞするつもりはない!」と激高した。ラマシュとガイヤーは「断念」とは国事行為であって帝位ではないことをカールに保証した。続いてこの最終的草稿文を見せられた皇后ツィタも同様に「これは退位以外の何物でもありません」と激怒したが、この際にも退位宣言ではないことが起草者によって保証された。午後3時にカールが署名を決断した時、すでに街の広告塔から「皇帝退位」は国民に知らされていた。\n\n2日後の13日、今度はハンガリーの統治を断念する類似の書類にカールは署名した。この際にもカールは「朕はハンガリー王になることを神に宣誓した。その宣誓を破棄するか否かの決定を下すのは神のみだ」と自身の立場が王権神授説にもとづいていることを述べ、王位から退くことは明確に否定した。", "qas": [ { "question": "ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は何月何日に退位を宣言したか。", "id": "tr-307-10-000", "answers": [ { "text": "11月9日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カールは何日、ハンガリーの統治を断念する類似の書類に署名したか。", "id": "tr-307-10-001", "answers": [ { "text": "13日", "answer_start": 407, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "「国事不関与」宣言を発した皇帝一家は、その日のうちにシェーンブルン宮殿を退去した。皇帝夫妻は、召使いに至るまで、ひとりひとりと握手を交わして別れを告げた。24人の護衛兵の乗る自動車に先導されて、一家はシェーンブルン宮殿からエッカルツアウ宮殿に移った。\n\n1919年1月、共和国初代首相カール・レンナーがエッカルツアウ城のカールのもとを訪れた。カールは謁見を拒絶し、代理として侍従武官レデコフスキー伯爵に会談させた。レンナーの話の要旨は、「無分別な輩が予測できない暴挙に出る恐れがある」として、できるだけ早期に国外に出るよう勧告するものだった。実際、2月にはエッカルツアウの周辺を300人もの赤軍が徘徊しており、配備された武装警官10人では安全面に相当の不安があった。カールはスイスへの亡命を真剣に考え始めた。", "qas": [ { "question": "「国事不関与」宣言のあと、皇帝夫妻は、どの宮殿に移ったか。", "id": "tr-307-11-000", "answers": [ { "text": "エッカルツアウ宮殿", "answer_start": 111, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "共和国初代首相は誰なの?", "id": "tr-307-11-001", "answers": [ { "text": "カール・レンナー", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "11月19日午後3時、カール夫妻を乗せた英国軍艦は、大西洋に浮かぶポルトガル領マデイラ島に到着した。カール夫妻は島民に温かく迎えられ、中心都市フンシャルに「ヴィラ・ヴィクトリア」という比較的快適な住居を与えられた。しかし皇帝一家の財産は尽きかけており、翌1922年2月中旬には劣悪な環境の山荘に転居せねばならなかった。ツィタの日記によれば、マデイラ島上陸の数日後に英国領事から「もしカールが正式に退位するならば、旧ハプスブルク諸国に没収されている皇室財産を返還するだけでなく、英国も経済的援助を惜しまない」といった内容の手紙が届いた。しかしカールは「私の帝冠は換金できるものではないと、皆さんにお伝えください」と返事を送ったという。", "qas": [ { "question": "マデイラ島に行くとき、カール夫妻はどの国の軍艦に乗っていたか。", "id": "tr-307-12-000", "answers": [ { "text": "英国", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カールはツィタに「これからはスペイン国王アルフォンソ13世を頼みとしなさい、彼は私の家族を助けてくれると約束してくれた」「私がハンガリー王でないという宣言は無効だ」と遺言し、1922年4月1日12時23分に崩御した。享年34。なお、アルフォンソ13世は、カールが死去した晩にどういうわけかツィタと子供たちの面倒を見なくてはという義務感に突如取りつかれたと後に述べている。葬儀には3万人が参列したという。\n\nカールの死から60年以上が経った1989年3月14日、ツィタは96歳で死去した。4月1日にシュテファン大聖堂で葬儀が営まれたが、この日程はマデイラ島でカールが死去した1922年4月1日に合わせてのものだった。ツィタの心臓とともにカールの心臓も壺に入れられ、ムーリ修道院に安置されている。心臓以外のカールの遺骸は、いまだマデイラ島フンシャルにある。皇帝廟カプツィーナー納骨堂の地下室には、棺の代わりとしてカールの胸像が安置されている。", "qas": [ { "question": "カールとツィタと、誰がもっと長生きしたの?", "id": "tr-307-13-000", "answers": [ { "text": "ツィタ", "answer_start": 230, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カールの葬儀には何人が参列したといわれていますか。", "id": "tr-307-13-001", "answers": [ { "text": "3万人", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カールは何年に亡くなりましたか。", "id": "tr-307-13-002", "answers": [ { "text": "1922年", "answer_start": 87, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ツィタの心臓はどこに安置されていますか。", "id": "tr-307-13-003", "answers": [ { "text": "ムーリ修道院", "answer_start": 331, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "欧州連合", "paragraphs": [ { "context": "欧州連合(おうしゅうれんごう、英:EuropeanUnion、略称:EU)は、ヨーロッパを中心に27カ国が加盟する政治経済同盟である。総面積は4,233,255.3km2(1,634,469.0sqmi)で、総人口は約4億4700万人と推定されている。EUは、加盟国が一体となって行動することに同意した場合にのみ、これらの事項についてすべての加盟国に適用される標準化された法制度を通じて、域内単一市場を発展させてきた。EUの政策は、域内市場における人、物、サービス及び資本の自由な移動を確保し、司法及び内政に関する法律を制定し、貿易、農業、漁業及び地域開発に関する共通の政策を維持することを目的としている。シェンゲン圏内の旅行については、パスポートによる管理が廃止された。通貨同盟は1999年に設立、2002年に完全施行され、ユーロ通貨を使用する19のEU加盟国で構成されている。", "qas": [ { "question": "欧州連合に加盟したのは、何か国であるの?", "id": "tr-308-00-000", "answers": [ { "text": "27カ国", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "欧州通貨同盟が設立されたのは、何年のことですか?", "id": "tr-308-00-001", "answers": [ { "text": "1999年", "answer_start": 341, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "欧州通貨同盟に加盟した国々は、どの通貨を使うか?", "id": "tr-308-00-002", "answers": [ { "text": "ユーロ", "answer_start": 363, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "欧州通貨同盟に加盟した19カ国の国々は、どの組織にも加盟しているか?", "id": "tr-308-00-003", "answers": [ { "text": "EU", "answer_start": 376, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "EUおよびヨーロッパの市民権は、1993年のマーストリヒト条約の発効によって確立された。その起源は、それぞれ1951年のパリ条約と1957年のローマ条約によって設立された欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)と欧州経済共同体(EEC)にある。欧州経済共同体として知られるようになった最初のメンバーは、ベルギー、フランス、イタリア、ルクセンブルク、オランダ、西ドイツの6カ国であった。共同体とその後継組織は、新たな国の加盟によって規模を拡大し、その権限に政策分野を加えることで権力を拡大した。EUの憲法上の基盤に対する最近の大きな改正であるリスボン条約が2009年に発効した。", "qas": [ { "question": "マーストリヒト条約が結ばれたのは、何年のことなの?", "id": "tr-308-01-000", "answers": [ { "text": "1993年", "answer_start": 16, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "EUおよびヨーロッパの市民権が確立されたのは、何に結ばれた条約の発効によることでしたか?", "id": "tr-308-01-001", "answers": [ { "text": "1993年", "answer_start": 16, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パリ条約は、何年に締結された条約であるか?", "id": "tr-308-01-002", "answers": [ { "text": "1951年", "answer_start": 54, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ローマ条約は、何年に締結された条約であるか?", "id": "tr-308-01-003", "answers": [ { "text": "1957年", "answer_start": 65, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "英国は、2020年1月にEUを離脱した最初の加盟国となり、2016年の国民投票を経て離脱の意思を表明し、離脱協定を交渉した。英国は少なくとも2020年12月31日までは過渡期にあり、その間はEU法とEU単一市場・関税同盟の一部の適用を受ける。これまでEUやその前身となる地域から離脱したのは、フランス領アルジェリア(1962年、独立に際して)、グリーンランド(1985年の住民投票の結果)、サンバルテルミー(2012年)の3国・地域のみであった。", "qas": [ { "question": "2020年1月にEUを離脱した最初の加盟国は、どの国なの?", "id": "tr-308-02-000", "answers": [ { "text": "英国", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "英国がEUを離脱したのは、いつのことですか?", "id": "tr-308-02-001", "answers": [ { "text": "2020年1月", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "英国と同じく、国民投票によりEUを離脱した地域は、どこか?", "id": "tr-308-02-002", "answers": [ { "text": "グリーンランド", "answer_start": 172, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "英国がEUを離脱するかどうかについての投票を実施したのは、いつだったか?", "id": "tr-308-02-003", "answers": [ { "text": "2016年", "answer_start": 29, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "EUは、2020年には世界人口の約5.8%を占めており、2017年(英国を含む)の名目国内総生産(GDP)は約20兆ドルと、世界の名目GDPの約25%を占めていた。また、国際連合開発計画によれば、EU各国とも非常に高い人間開発指数を持っている。2012年、EUはノーベル平和賞を受賞した。共通外交・安全保障政策を通じて、EUは対外関係と防衛における役割を発展させてきた。国連、世界貿易機関(WTO)、G7、G20に代表される世界各地に常設の在外公館を持ち、グローバルな影響力を持つ欧州連合(EU)は、新興超大国と言われている。", "qas": [ { "question": "人口と名目GDPのうち、世界全体の数値においてEUが占める割合がより大きいのは、どの項目においてか?", "id": "tr-308-03-000", "answers": [ { "text": "名目GDP", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2020年のEUの人口が世界全体において占める割合は、どれぐらいなの?", "id": "tr-308-03-001", "answers": [ { "text": "約5.8%", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2017年のEUの名目GDPが世界全体において占める割合は、どれぐらいですか?", "id": "tr-308-03-002", "answers": [ { "text": "約25%", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "EUがノーベル平和賞を受賞したのは、何年か?", "id": "tr-308-03-003", "answers": [ { "text": "2012年", "answer_start": 122, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "欧州連合の基本条約である欧州連合条約の正文は23言語で作成されており、そのため欧州連合の正式名称は23言語で表記される。略称としては、英語での表記の頭文字をとったEUがあり、日本語においてもこの略称を使用している。ただしフランス語、スペイン語など形容詞を後置する言語ではUEという略称が用いられる。またアイルランド語ではAE、エストニア語ではEL、ラトビア語とリトアニア語ではES、キリル文字を使うブルガリア語ではЕС、ギリシア文字を使うギリシア語ではΕΕとなる。", "qas": [ { "question": "欧州連合条約の正文はいくつの言語で作成されているの?", "id": "tr-308-04-000", "answers": [ { "text": "23言語", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "欧州連合は、いくつの正式名称を有していますか?", "id": "tr-308-04-001", "answers": [ { "text": "23", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本では、どの言語での略称表記を使っているか?", "id": "tr-308-04-002", "answers": [ { "text": "英語", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ユゼフ・ピウスツキの海洋間連邦(Intermarium)、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーの国際汎ヨーロッパ連合、ナチス・ドイツの新ヨーロッパ(DasneueEuropa)やウィンストン・チャーチルのヨーロッパ合衆国構想など、ヨーロッパを統合する試みは多々あったが、それらに共通する点として、ソ連を仮想敵国とした反共主義があった。", "qas": [ { "question": "ヨーロッパを統合する試みとしては、ユゼフ・ピウスツキ、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギー、ナチス・ドイツのほかに、誰の構想を紹介しているの?", "id": "tr-308-05-000", "answers": [ { "text": "ウィンストン・チャーチル", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "海洋間連邦の構想は、誰の構想でありますか?", "id": "tr-308-05-001", "answers": [ { "text": "ユゼフ・ピウスツキ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書にはヨーロッパ統合への試みについて書かれているが、唯一に一人ではなく組織でヨーロッパ統合を構想した例としては、どの組織が挙げられているか?", "id": "tr-308-05-002", "answers": [ { "text": "ナチス・ドイツ", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "国際汎ヨーロッパ連合を構想したのは、誰か?", "id": "tr-308-05-003", "answers": [ { "text": "リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギ", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アメリカは、1948年に設立された統合ヨーロッパのためのアメリカ委員会を通じてヨーロッパの統合を推し進めるための資金提供を行ってきた。例えば、1958年、ヨーロッパ統合の要を成していた欧州運動の資金の53.5%はこの委員会からきたものである。", "qas": [ { "question": "ヨーロッパの統合を推し進めるための資金提供を行ったのは、どの国なの?", "id": "tr-308-06-000", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "統合ヨーロッパのためのアメリカ委員会が設立されたのは、何年のことですか?", "id": "tr-308-06-001", "answers": [ { "text": "1948年", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1958年の欧州運動に必要な資金を最も多く出したのは、どの組織だったか?", "id": "tr-308-06-002", "answers": [ { "text": "統合ヨーロッパのためのアメリカ委員会", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1958年の欧州運動に必要な資金を最も多く出したのは、どの国だったか?", "id": "tr-308-06-003", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ロベール・シューマンは1950年5月9日にシューマン宣言を発し、その中で経済と軍事における重要資源の共同管理を掲げ、欧州石炭鉄鋼共同体設立条約が策定され、1952年7月23日に欧州石炭鉄鋼共同体(英:ECSC)が設立された。", "qas": [ { "question": "シューマン宣言を発したのは、誰なの?", "id": "tr-308-07-000", "answers": [ { "text": "ロベール・シューマン", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シューマン宣言が発されたのは、何年のことですか?", "id": "tr-308-07-001", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロベール・シューマンのシューマン宣言に基づき、設立された団体は、どの団体か?", "id": "tr-308-07-002", "answers": [ { "text": "欧州石炭鉄鋼共同体", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "欧州石炭鉄鋼共同体が設立されたのは、いつのことか?", "id": "tr-308-07-003", "answers": [ { "text": "1952年7月23日", "answer_start": 77, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "欧州石炭鉄鋼共同体が設立され、1957年には経済分野での統合とエネルギー分野での共同管理を進展させるべくローマ条約が調印され、翌年1月1日に欧州経済共同体(英:EEC)と欧州原子力共同体(英:Euratom)が発足した。当初これら3共同体は個別の機関・枠組みで活動していたが、1つの運営機関のもとでそれぞれの目的を達成することでヨーロッパの統合を進めるべく、1965年にブリュッセル条約が調印され、1967年に欧州諸共同体(英:EC)という1つの枠組みの中に3つの共同体をおくことで統合の深化が図られた。", "qas": [ { "question": "べくローマ条約が締結されたのは、何年のことなの?", "id": "tr-308-08-000", "answers": [ { "text": "1957年", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "べくローマ条約では、経済分野とどの分野について話し合いましたか?", "id": "tr-308-08-001", "answers": [ { "text": "エネルギー分野", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "べくローマ条約に基づき設立された組織には、欧州経済共同体のほかに、どの組織があるか?", "id": "tr-308-08-002", "answers": [ { "text": "欧州原子力共同体", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "べくローマ条約と欧州経済共同体、欧州原子力共同体のうち、同じ年度に成立されたものではないのは、どちらか?", "id": "tr-308-08-003", "answers": [ { "text": "べくローマ条約", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1973年1月1日、それまでのフランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの6か国に加えて、イギリス、アイルランド、デンマークが欧州諸共同体に加盟する。また1981年1月1日にはギリシャが、1986年1月1日にはスペインとポルトガルがそれぞれ欧州諸共同体に加盟する。この間に議題にあがったのが、いかに経済統合を進めていくか、というものである。加盟国間における政策や法制度の違いは貿易の自由化を妨げており、世界における市場競争の障害となっているという意見が出るようになったことを受けて、欧州経済共同体では域内の単一市場の設立が持ち上がってきた。", "qas": [ { "question": "1972年までの欧州諸共同体には、フランス、西ドイツ、イタリア、オランダ、ベルギー、そしてどの国の6か国しか加盟していなかったの?", "id": "tr-308-09-000", "answers": [ { "text": "ルクセンブルク", "answer_start": 40, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "欧州諸共同体の加盟国が9か国になったのは、いつのことですか?", "id": "tr-308-09-001", "answers": [ { "text": "1973年1月1日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "欧州諸共同体に加盟した時期が1973年1月1日ではないのは、フランスとイギリス、アイルランド、デンマークのうち、どちらの国か?", "id": "tr-308-09-002", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランスとイギリスのうち、欧州諸共同体により早く加盟したのは、どちらの国か?", "id": "tr-308-09-003", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "また、1984年にはイタリアの欧州議会議員アルティエロ・スピネッリが提出した欧州連合設立条約草案を欧州議会が可決させたことは大きな後押しとなった。これに対応するべくドロール委員会のもとで1986年に単一欧州議定書が調印され、ローマ条約を大幅に修正し、経済分野に関する政策を原則として欧州経済共同体が統括することで共同市場設立が掲げられた。また域内における人、商品、サービスの移動の自由を図るべく、1985年にシェンゲン協定が調印され、加盟国間の国境という障壁を除去していくことが盛り込まれた。", "qas": [ { "question": "アルティエロ・スピネッリは、どの国の人なの?", "id": "tr-308-10-000", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1984年に欧州連合設立条約草案を提出したのは、誰でしたか?", "id": "tr-308-10-001", "answers": [ { "text": "アルティエロ・スピネッリ", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "単一欧州議定書が調印されたのは、何年のことか?", "id": "tr-308-10-002", "answers": [ { "text": "1986年", "answer_start": 93, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "単一欧州議定書が調印されたのと同じ年度に、修正が行われた条約は、どの条約か?", "id": "tr-308-10-003", "answers": [ { "text": "ローマ条約", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1989年になると、レティンゲルの後半の予言が的中した。ポーランドの民主化を皮切りに、東ヨーロッパ諸国における政変が相次ぐなか、鉄のカーテンが劇的に取り払われていき、1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊、翌年10月3日にドイツが再統一された。このさい東ドイツで復活した5州が西ドイツに編入され、これに伴って欧州諸共同体は旧東ドイツにもその領域を拡大させた。東ヨーロッパ諸国の共産主義体制の崩壊は欧州諸共同体にとっても重大な影響を及ぼし、これら諸国が自由主義陣営につくことが想定され、ヨーロッパの統合は政治の分野においても協力関係を強化することが求められるようになった。そこで1992年2月7日に欧州連合条約が調印され、翌年11月1日に欧州連合が発足した。", "qas": [ { "question": "東ヨーロッパ諸国において政変が多発するきっかけとなったのは、どの事件だったの?", "id": "tr-308-11-000", "answers": [ { "text": "ポーランドの民主化", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベルリンの壁が崩壊されたのは、いつのことですか?", "id": "tr-308-11-001", "answers": [ { "text": "1989年11月9日", "answer_start": 83, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "何の崩壊の象徴的意味が、ドイツの再統一であったか?", "id": "tr-308-11-002", "answers": [ { "text": "ベルリンの壁", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "欧州連合が成立したのは、何年のことか?", "id": "tr-308-11-003", "answers": [ { "text": "1992年", "answer_start": 289, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "欧州連合では、経済分野に関して超国家的性格を持つ欧州共同体の枠組みのほかに共通外交・安全保障政策、司法・内務協力という加盟国政府間の協力枠組みを新設、いわゆる「3つの柱」構造のもとでヨーロッパのさらなる統合が図られ、またその後、欧州経済共同体設立条約から改称された欧州共同体設立条約と欧州連合条約は1999年発効のアムステルダム条約や2003年発効のニース条約で修正や一体化がなされ、統合の深化が進められた。", "qas": [ { "question": "アムステルダム条約とニース条約のうち、どちらの発効がより早かったの?", "id": "tr-308-12-000", "answers": [ { "text": "アムステルダム条約", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "欧州共同体設立条約と欧州連合条約の内容の変更がなされた条約には、アムステルダム条約のほかに、どの条約があるか?", "id": "tr-308-12-001", "answers": [ { "text": "ニース条約", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "安城市図書情報館", "paragraphs": [ { "context": "安城市図書情報館(あんじょうしとしょじょうほうかん)は、愛知県安城市の御幸本町のアンフォーレ本館にある公共図書館。\n2017年(平成29年)6月1日開館。\n1985年(昭和60年)から2017年1月31日までは城南町に安城市中央図書館(あんじょうしちゅうおうとしょかん)があった。\n安城市には安城市図書情報館に加えて11か所の公民館図書室があり、安城市図書館(あんじょうしとしょかん)と総称されることがある。", "qas": [ { "question": "安城市には全部で何か所の公民館図書室があるの?", "id": "tr-309-00-000", "answers": [ { "text": "11か所", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "安城市図書情報館は安城市のどの町に位置しているの?", "id": "tr-309-00-001", "answers": [ { "text": "御幸本町", "answer_start": 35, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "三河国碧海郡の碧海台地には江戸時代まで原野が広がっていたが、1881年(明治14年)に開通した明治用水のおかげで先進的な農業地域に変貌。\n碧海郡安城町で行われた多角形農業経営手法は、農業先進国デンマークになぞらえて「日本デンマーク」と呼ばれた。\n全国各地から農業関係者が安城町に視察に訪れ、農会(農会法によって公認された農業団体)が建設した安城町農会館、農事試験場、愛知県立農林学校、農業補習学校、明治用水などを見て回ったという。\n1932年度(昭和7年度)・1933年度(昭和8年度)の視察者は年間12,000人にも上った。\n日本列島だけでなく朝鮮・大連・樺太などからも視察者が訪れ、民間人だけでなく農林省や商工省からも視察者が訪れた。", "qas": [ { "question": "明治用水が出来てから、碧海郡安城町はどのような手法を用いて農業地域として発展したの?", "id": "tr-309-01-000", "answers": [ { "text": "多角形農業経営手法", "answer_start": 80, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "碧海群安城町は農業地域として変貌を遂げ、どのような呼称で呼ばれましたか?", "id": "tr-309-01-001", "answers": [ { "text": "「日本デンマーク」", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1933年に訪れた視察者は年間何人に上ったの?", "id": "tr-309-01-002", "answers": [ { "text": "12,000人", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "安城町における図書館活動は、1931年(昭和6年)に安城町農会が財団法人安城図書館(通称:安城農業図書館)を設置したことを始まりとする。\n1930年(昭和5年)8月17日に安城農業図書館が竣工すると、1931年(昭和6年)1月4日に愛知県知事から図書館設立許可を得て正式に開館した。\n1933年度(昭和8年度)には常勤職員が配置されて本格的に開館し、4月1日には館外貸出が開始された。\n自治体農会が運営する図書館は全国的に見て珍しく、「農業図書館」の名を掲げたものは他に例がなかった。\n1935年(昭和10年)には文部省によって優良図書館として表彰されている。\n戦局が悪化した1943年(昭和18年)には、一部の蔵書を3か所に分けて疎開させた。\n同年9月15日には農業団体法が施行されたことで安城町農会が廃止され、安城農業図書館は閉館となった。", "qas": [ { "question": "安城農業図書館の設置者は誰ですか?", "id": "tr-309-02-000", "answers": [ { "text": "安城町農会", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "安城農業図書館が閉館したのは何年でしたか?", "id": "tr-309-02-001", "answers": [ { "text": "1935年", "answer_start": 243, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1947年(昭和22年)7月、安城農業図書館の建物は安城簡易裁判所庁舎となった。\nこの建物は安城市に残された明治期唯一の建物であり、文化財としての保存を望む声も強かったが、1972年(昭和47年)に簡易裁判所の移転が決定すると解体されることになった。\nその後、安城農業図書館跡地には安城市営安城駅西駐車場東棟が建っている。", "qas": [ { "question": "安城農業図書館の閉鎖後にどのような機関が建物を利用しましたか?", "id": "tr-309-03-000", "answers": [ { "text": "安城簡易裁判所", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "簡易裁判所の移転後、図書館の跡地には何が建っているの?", "id": "tr-309-03-001", "answers": [ { "text": "安城市営安城駅西駐車場東棟", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1949年(昭和24年)4月1日には安城農業図書館の蔵書などが安城町農会から安城町役場に譲渡され、安城農業図書館は安城町立図書館として再建されることとなった。\n7月には新館が建設され、蔵書・疎開図書の移動や図書の整理などを経て、11月1日に安城町立図書館が開館した。\n場所は今日の安城市役所正面駐車場北東角、大字安城花ノ木53(開館時)である。\n既存の木造平屋建の建物を移築したとされ、用地購入費を含めた建設費は1,186,500円程度だったとされる。\n蔵書は安城農業図書館から譲り受けた。\n開館前には大見為次安城町長が図書館長を兼任していたが、開館時には書記の岡田清之が専任館長に就任した。", "qas": [ { "question": "安城町立図書館の再建前の名前は何でしたか?", "id": "tr-309-04-000", "answers": [ { "text": "安城農業図書館", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "安城町立図書館の建設費はいくらかかりましたか?", "id": "tr-309-04-001", "answers": [ { "text": "1,186,500円程度", "answer_start": 206, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "開館時の安城町立図書館長を務めた人は誰ですか?", "id": "tr-309-04-002", "answers": [ { "text": "岡田清之", "answer_start": 281, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1950年(昭和25年)12月末時点の蔵書数は7,440冊であり、閉館時の安城農業図書館より4,000冊ほど少なかった。\nとはいえ、1949年度(昭和24年度)には安城農業図書館のピーク時の閲覧者数37人/日を上回る59人/日が町立図書館を利用した。\n1950年度(昭和25年度)に527,060円だった図書館費は、1955年度(昭和30年度)に1,545,500円、1960年度(昭和35年度)に1,630,770円、1965年度(昭和40年度)に3,320,000円と伸びていった。\n蔵書数は1953年度(昭和28年度)に10,000冊を突破し、1961年度(昭和36年度)に20,000冊を突破した。", "qas": [ { "question": "図書館費の金額が2番目に高かったのは1950年度、1955年度、1960年度、1965年度の中でどの年度ですか?", "id": "tr-309-05-000", "answers": [ { "text": "1960年度", "answer_start": 184, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "昭和28年度と昭和36年度のうち、蔵書数が多かったのはどちらですか?", "id": "tr-309-05-001", "answers": [ { "text": "昭和36年度", "answer_start": 282, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1950年12月末時点で蔵書数が多かったのは、町立図書館と閉館時の安城農業図書館のどちらですか?", "id": "tr-309-05-002", "answers": [ { "text": "閉館時の安城農業図書館", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "図書館費の金額が最も高かったのは1950年度、1955年度、1960年度の中でどの年度ですか?", "id": "tr-309-05-003", "answers": [ { "text": "1960年度", "answer_start": 184, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1952年(昭和27年)5月5日には安城町の市制施行にともなって安城市立図書館に改称している。\n延床面積は99坪(約330m2)と、120坪の安城農業図書館より手狭だった。\nさらに閉架方式を採用していたため、利用者は分類目録を見て借りたい図書を選び、閲覧票に記入して係員に手渡す必要があった。\n閲覧者数は1958年度(昭和32年度)の49,643人をピークとして減少しており、1966年度(昭和41年度)には10,833人まで落ち込んだ。\nその理由には図書購入費の減少、閉架方式など施設面の不備、隣接する愛知県道48号岡崎刈谷線からの騒音、経済力の向上によるテレビの普及や書店での購入の増加などが考えられている。\n1966年(昭和41年)に安城市役所が新築されるまで、図書館会議室は安城市議会議場としても使用されている。\n1960年(昭和35年)頃に購入していた定期刊行物は以下のとおりである。", "qas": [ { "question": "延床面積が広かったのは安城市立図書館と安城農業図書館のどちらでしたか?", "id": "tr-309-06-000", "answers": [ { "text": "安城農業図書館", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "閲覧者数が多かったのは1958年度と1966年度のどちらですか?", "id": "tr-309-06-001", "answers": [ { "text": "1958年度", "answer_start": 152, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "安城市立図書館で採用していた方式とは何だったの?", "id": "tr-309-06-002", "answers": [ { "text": "閉架方式", "answer_start": 90, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1965年(昭和40年)以降に安城公園が再整備されると、今日の安城公園北西角、桜町18番2号に新館が建設され、1967年(昭和42年)5月4日に開館した。\n敷地面積は2,231.3m2、建物面積は403.2m2、延床面積は757.3m2であり、図書収容能力は4万冊。\n鉄筋コンクリート造2階建であり、総工費は22,010,590円。\n1階は新聞・雑誌コーナー、会議室、展示室、閉架書庫、事務室などがあり、2階は一般室、児童室、参考資料室・産業資料室などがあった。\n産業資料室には農業関連資料が集められ、安城の農業指導者だった山崎延吉から寄贈された図書を並べたコーナーが併設された。\n閲覧方法は新館移転時から開架方式を採用し、貸出方法は1971年(昭和46年)12月から変形ブラウン方式が採用された。", "qas": [ { "question": "新館の総工費はいくらかかりましたか?", "id": "tr-309-07-000", "answers": [ { "text": "22,010,590円", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "新館の建物面積と延床面積はどちらが大きかったですか?", "id": "tr-309-07-001", "answers": [ { "text": "延床面積", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "新館移転時から採用した方式は何でしたか?", "id": "tr-309-07-002", "answers": [ { "text": "開架方式", "answer_start": 303, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1971年12月から採用された貸出方法は何だったの?", "id": "tr-309-07-003", "answers": [ { "text": "変形ブラウン方式", "answer_start": 334, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1973年(昭和48年)末から1974年(昭和49年)初頭には建物を増築して延床面積は1,250.9m2となった。\n1974年度(昭和49年度)を境に図書購入費や蔵書数の伸びが著しく、1974年度(昭和49年度)に47,477冊だった蔵書数は10年後の1984年度(昭和59年度)には188,967冊に達した。\nこの時の建物は安城公園内にあるために都市公園法の規制を受け、立地条件はよかったものの、これ以上の増築は不可能だった。\n1980年(昭和55年)の安城市総合計画には新図書館構想が盛り込まれ、1981年度(昭和56年度)には新築移転の方向性が示された。\n1982年度(昭和57年度)中には移転場所が決定し、1983年(昭和58年)には競技設計方式で石本建築事務所が設計者に選定された。", "qas": [ { "question": "蔵書数が少なかったのは1974年度と1984年度のどちらですか?", "id": "tr-309-08-000", "answers": [ { "text": "1974年度", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "移転先で採用された建築方式は何でしたか?", "id": "tr-309-08-001", "answers": [ { "text": "競技設計方式", "answer_start": 321, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "移転先での設計を担当した会社はどこですか?", "id": "tr-309-08-002", "answers": [ { "text": "石本建築事務所", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1985年(昭和60年)4月1日には移転にそなえて休館となった。\n旧館は改修工事を経て、1985年(昭和60年)10月1日に児童用閲覧図書館として再開館したが、1996年(平成8年)に廃止された。\n建物自体はその後市役所西庁舎として転用利用されている。", "qas": [ { "question": "児童用閲覧図書館が廃止されたのはいつでしたか?", "id": "tr-309-09-000", "answers": [ { "text": "1996年", "answer_start": 80, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1985年(昭和60年)2月には安城町百々目木(現・城南町)の新館が竣工し、7月12日に安城市中央図書館として開館した。\n総工費は11億5920万円。\n吹き抜け正面の壁面には、安城文化協会が原画を製作した壁画『読書は人を創る』(幅6m×高さ7.5m)が飾られている。\nまた、玄関前には海面に立つ波をデフォルメしたモニュメント『パピルスの海』が飾られている。\n蔵書収容能力は35万冊である。\n延床面積は3,994.45m2であり、旧館の約3倍となった。\nこの新館は1986年(昭和61年)に中部建築賞を受賞している。", "qas": [ { "question": "安城市中央図書館の総工費はいくらでしたか?", "id": "tr-309-10-000", "answers": [ { "text": "11億5920万円", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "新館と旧館の延床面積が狭いのはどちらでしたか?", "id": "tr-309-10-001", "answers": [ { "text": "旧館", "answer_start": 214, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "新館の蔵書収容能力は何冊ですか?", "id": "tr-309-10-002", "answers": [ { "text": "35万冊", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "新館の玄関前に飾られている記念碑のタイトルは何?", "id": "tr-309-10-003", "answers": [ { "text": "『パピルスの海』", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "移転にともなってコンピュータシステムを導入。\n貸出冊数を3点から5点に拡大し、レコードとカセットテープの館内試聴を開始した。\n1989年(平成元年)にはCDの館内視聴を開始した。\n1990年(平成2年)には中央図書館と各公民館図書室の間に図書業務オンラインシステムを導入した。\n1992年(平成4年)には愛知県図書館オンライン検索システムに接続した。", "qas": [ { "question": "移転後の貸出冊数は何点まで可能となったの?", "id": "tr-309-11-000", "answers": [ { "text": "5点", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "CDの館内視聴を開始した年はいつですか?", "id": "tr-309-11-001", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 63, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "それまでは館外貸出の対象を安城市在住・在勤・在学者に制限していたが、1995年(平成7年)には碧海5市(安城市に加えて碧南市、刈谷市、知立市、高浜市)の在住・在勤・在学者に対して貸出カードの発行を始めた。\n2001年(平成13年)には広域行政圏利用を拡大し、安城市に隣接する3市(岡崎市、豊田市、西尾市)の在住者に対して貸出カードの発行をはじめた。", "qas": [ { "question": "貸出カードの発行が早かったのは、高浜市と岡崎市のどちらですか?", "id": "tr-309-12-000", "answers": [ { "text": "高浜市", "answer_start": 71, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "貸出カードの発行が遅かったのは、豊田市と知立市のどちらですか?", "id": "tr-309-12-001", "answers": [ { "text": "豊田市", "answer_start": 144, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "貸出カードの発行が西尾市と同じ年だったのは刈谷市と岡崎市のどちらですか?", "id": "tr-309-12-002", "answers": [ { "text": "岡崎市", "answer_start": 140, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1995年(平成7年)には夏季開館時間延長サービスを開始し、2001年(平成13年)と2004年(平成16年)にこのサービスを拡大した結果、6月-9月の平日すべてで開館時間を延長している。\n1998年(平成10年)には文庫本の貸出を開始し、1999年(平成11年)にはCDと漫画本の貸出を開始した。\n2000年(平成12年)7月には対面朗読室内に弱視者コーナーが設置された。", "qas": [ { "question": "貸出開始が早かったのは、漫画本と文庫本のどちらでしたか?", "id": "tr-309-13-000", "answers": [ { "text": "文庫本", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "貸出開始が遅かったのは、CDと文庫本のどちらでしたか?", "id": "tr-309-13-001", "answers": [ { "text": "CD", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2003年(平成15年)1月にはインターネット蔵書検索システム(OPAC)を導入し、4月にはインターネット予約システムを開始した。\n2005年(平成17年)には弱視者コーナーを郷土資料・行政資料コーナーに改修。\n貸出冊数を「5点」から「図書・雑誌10点、視聴覚資料は別に5点」に拡大した。\nこれによって貸出冊数が約30%増加し、特に絵本などの児童書は50%以上の増加、AV資料は80%以上の増加を見た。\n開館20周年を機に、2005年(平成17年)6月30日には安城図書館友の会が設立された。\n安城図書館友の会は図書館まつりや除籍本リサイクルフェアの企画・運営などを行っている。\n7月15日には中央図書館開館以後の入館者数が500万人を突破した。", "qas": [ { "question": "貸出冊数の増加率が高かったのは、児童書とAV資料のどちらでしたか?", "id": "tr-309-14-000", "answers": [ { "text": "AV資料", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "雑誌と視聴覚資料はどちらの方がたくさん貸りることが出来ますか?", "id": "tr-309-14-001", "answers": [ { "text": "雑誌", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "開館20周年を迎えて設立されたものは何ですか?", "id": "tr-309-14-002", "answers": [ { "text": "安城図書館友の会", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2006年(平成18年)には児童室内にティーンズコーナーを設置。\n12月7日には入口にICタグ対応ゲートを設置した。\n安城市内にはトヨタグループなど製造業企業が多く所在する。\nこれらの企業の社員がボランティアで返却図書の配架奉仕作業を行っており、2006年度(平成18年)にはデンソー、ジェイテクト学園生、トヨタ自動車、豊田自動織機、サンバレーの社員が配架奉仕作業を行った。\n2007年(平成19年)2月27日にはパソコンコーナーを設置し、パソコンコーナーに3台、郷土資料室内に2台パソコンを設置した。\n2008年(平成20年)には貸出券を磁気カードに変更した。\n2014年(平成26年)3月末には10代向け本のコーナーを新設した。", "qas": [ { "question": "設置されたパソコン台数が多かったのはパソコンコーナーと郷土資料室のどちらですか?", "id": "tr-309-15-000", "answers": [ { "text": "パソコンコーナー", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ティーンズコーナーが設けられたのは何年でしたか?", "id": "tr-309-15-001", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2002年(平成14年)には安城更生病院がJR東海道線安城駅前市街地から郊外に移転し、病院跡地は2003年(平成15年)から更地となっていた。\n2009年(平成21年)4月には安城市が病院跡地利用の素案をまとめ、中央図書館を置き換える新図書館を複合施設の中核とすることが決定した。\n2012年(平成24年)には中心市街地拠点整備事業の実施方針をまとめ、安城市としては初となるPFI方式の採用を決定した。", "qas": [ { "question": "PFI方式の採用を決定したのは何年でしたか?", "id": "tr-309-16-000", "answers": [ { "text": "2012年", "answer_start": 141, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2015年(平成27年)6月3日には、安城市図書情報館という名称の新図書館を核とする中心市街地拠点整備事業の起工式が行われた。\nこの事業にはPFI方式が採用されており、清水建設を中心とする企業グループが15年間にわたって設計・建設・維持管理を行う。\n15年間の維持管理費を含めた施設全体の総事業費は62億5320万円。", "qas": [ { "question": "62億5320万円という金額は何年間の総事業費ですか?", "id": "tr-309-17-000", "answers": [ { "text": "15年間", "answer_start": 125, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2016年(平成28年)1月には拠点施設の愛称が「アンフォーレ」に決定。\nこの間の2014年6月30日には『未来をつくる図書館』(岩波新書)の著者菅谷明子の講演会が行われ、2016年2月13日には『未来の図書館、はじめませんか?』(青弓社)の共著者岡本真の講演会が行われ、同年12月4日には『つながる図書館』(ちくま新書)の著者猪谷千香の講演会が行われた。", "qas": [ { "question": "猪谷千春、菅谷明子、岡本真の中で最も先に講演会を行った人は誰ですか?", "id": "tr-309-18-000", "answers": [ { "text": "菅谷明子", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "猪谷千春と岡本真はどちらが先に講演会を行ったの?", "id": "tr-309-18-001", "answers": [ { "text": "岡本真", "answer_start": 124, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "サッカー戦争", "paragraphs": [ { "context": "サッカー戦争(サッカーせんそう、スペイン語:GuerradelFútbol)は、1969年7月14日から7月19日にかけてエルサルバドルとホンジュラスとの間で行われた戦争である。両国間の国境線問題、ホンジュラス領内に在住するエルサルバドル移民問題、貿易摩擦などといった様々な問題が引き金となり戦争に発展した。この戦争の根本的な原因は両国の経済成長モデルと農地問題に起因した国内矛盾にあり、寡頭支配層が国際紛争を引き起こすことで政情不安の高まりを一時的に回避しようとする狙いがあったと考えられている。一般的には同年6月に行われた1970FIFAワールドカップ・予選における両国の対戦と関連付けた「サッカー戦争」の名称で知られているが、この戦争の性質を端的に捉えたものではない。100時間戦争、エルサルバドル・ホンジュラス戦争、1969年戦争とも呼ばれる。", "qas": [ { "question": "サッカー戦争とは、いつからいつにかけて行われた戦争であるの?", "id": "tr-310-00-000", "answers": [ { "text": "1969年7月14日から7月19日", "answer_start": 40, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サッカー戦争は、エルサルバドルとどの国の間で行われた戦争でありますか?", "id": "tr-310-00-001", "answers": [ { "text": "ホンジュラス", "answer_start": 69, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エルサルバドルとホンジュラスの間で存在していた様々な問題が交わり、さらに激化したことで、勃発した戦争は、何か?", "id": "tr-310-00-002", "answers": [ { "text": "サッカー戦争", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "戦争の勃発年度が付けられた、サッカー戦争の別称は、何か?", "id": "tr-310-00-003", "answers": [ { "text": "1969年戦争", "answer_start": 362, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "エルサルバドルは中米で最も国土面積が小さく、人口密度が最も高い国である。人口の約9割は、メスティーソと呼ばれるスペイン系などの白人とインディオの混血であり、残りは純粋な白人とインディオで構成されていた。山岳地帯が連なる狭い国土に居住しており、中米地域の中で特に工業が発展していること、また勤勉な国民性を持つ点などから「中米の日本」とも評された。", "qas": [ { "question": "中米で国土面積が最も小さい国は、どの国なの?", "id": "tr-310-01-000", "answers": [ { "text": "エルサルバドル", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中米で最も人口密度の高い国は、どの国ですか?", "id": "tr-310-01-001", "answers": [ { "text": "エルサルバドル", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エルサルバドルの人口のうち、最も高い割合を占めるのは、何と呼ばれる人々か?", "id": "tr-310-01-002", "answers": [ { "text": "メスティーソ", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical 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{ "text": "14家族", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "エルサルバドルの先住民たちは、どのような性格の農業を行っていたか?", "id": "tr-310-02-003", "answers": [ { "text": "自給自足農業", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "土地を所有していないエルサルバドルの一部の国民は、約6倍の国土を持ち人口比もエルサルバドルの2分の1(250万人)に満たない隣国のホンジュラスへと移住し生活基盤を置いたが、こうした移民は1960年代当時、合法による者と非合法による者を含めて30万人から50万人に上った。", "qas": [ { "question": "エルサルバドルとホンジュラスのうち、領土のより広い国は、どちらなの?", "id": "tr-310-03-000", "answers": [ { "text": "ホンジュラス", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エルサルバドルとホンジュラスのうち、人口のより多い国は、どちらですか?", "id": "tr-310-03-001", "answers": [ { "text": "エルサルバドル", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ホンジュラスでは古くからエルサルバドルからの移民を受け入れ、1900年代には政府が辺境地を開拓する意思を持つ移民に対し無償で土地を提供し、1932年にエルサルバドルで恐慌が発生した際には、数千人がホンジュラスへと移民し、農園や鉱山で働いた。一方、ホンジュラスの国内情勢の変化や、地元民と移民との間での土地と仕事を巡る争いごとが表面化すると、ホンジュラス政府も次第に態度を硬化させるようになった。", "qas": [ { "question": "ホンジュラスがエルサルバドルからの移民のうち、辺境地の開拓の意思をもった移民たちに無償で土地を提供したのは、何年代のことか?", "id": "tr-310-04-000", "answers": [ { "text": "1900年代", "answer_start": 30, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書では、どの国からの移民に対するホンジュラスの政策について、説明しているか?", "id": "tr-310-04-001", "answers": [ { "text": "エルサルバドル", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "移民問題に対処するべく、両国政府は1962年と1965年に条約を締結し調整を図ってきたが、ホンジュラス国内の人口増加、バナナ農園の近代化に伴う労働需要の激減、牧畜や綿花農園の拡大による農地不足が問題となり、野党や富裕層から農地改革への圧力が高まっていた。ホンジュラス政府は1969年1月に条約の更新を拒否し、オスバルド・ロペス・アレジャーノ大統領は、1962年に制定された農地改革法の実施に踏み切ることになった。この改革法は土地の所有者をホンジュラス国内で出生した者に限定したもので、それに該当しないエルサルバドル移民に対し30日以内の国外退去を求める内容となった。ホンジュラス政府による発表は1969年4月に行われ、同年5月下旬までにエルサルバドル移民の帰還が始まった。", "qas": [ { "question": "エルサルバドルとホンジュラスの両国の間では、移民問題解決のため、1962年と何年の2度に渡る条約締結が行われたの?", "id": "tr-310-05-000", "answers": [ { "text": "1965年", "answer_start": 23, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この時、ホンジュラスでは、野党や富裕層から、何についての圧力が高まっていましたか?", "id": "tr-310-05-001", "answers": [ { "text": "農地改革", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "移民問題解決を主題とする、エルサルバドルとホンジュラスの両国の間で結ばれた2度の条約のうち、より早く結ばれたのは、何年に結ばれた条約か?", "id": "tr-310-05-002", "answers": [ { "text": "1962年", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ホンジュラス政府が条約の変更を拒否したのは、いつのことか?", "id": "tr-310-05-003", "answers": [ { "text": "1969年1月", "answer_start": 136, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "国の産業をコーヒーやバナナなどの農業生産と輸出に特化し、先進国からは「近代化の遅れた国々」と見做されていたエルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、グアテマラ、コスタリカの5か国は、中米地域の経済統合を目指して1961年に中米共同市場を発足させた。中米共同市場の発足と、アメリカ合衆国の圧力による外資系企業の参入自由化により、1960年代に5か国での工業化が進展した。工業立地に関して当初は、各国間で公平に分配する取り決めとなっていたが、加盟国間の対立と外資系企業の圧力もあって緩和され、工業化の進んでいたエルサルバドル、グアテマラ、コスタリカの3か国に工業立地は集中するようになった。", "qas": [ { "question": "中米共同市場を発足させた5か国には、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、グアテマラのほかに、どの国があるの?", "id": "tr-310-06-000", "answers": [ { "text": "コスタリカ", "answer_start": 80, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中米共同市場を発足させた5か国は、産業をどの業種からの生産と輸出に特化させていましたか?", "id": "tr-310-06-001", "answers": [ { "text": "農業", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中米共同市場を発足させた5か国で、工業化が進展したのは、何年代のことか?", "id": "tr-310-06-002", "answers": [ { "text": "1960年代", "answer_start": 163, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "中米共同市場を発足させた5か国で、外資系企業の参入自由化がなされたのは、どの国からの圧力があったからか?", "id": "tr-310-06-003", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 135, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "両国の国境線は植民地時代以来、河川を基点とすることが多かったが、雨季と乾季で地形が大きく変動することから国境線が未確定の部分が存在した。そのため、エルサルバドルのチャラテナンゴやモラサン北部では、両国がたびたび衝突を繰り返しており、1961年、アルベルト・チャベスに率いられた部隊がホンジュラス領内のドロレスとラパスに侵入して現地の市民警備隊と交戦し、指揮官のチャベスが死亡した。6年後の1967年5月29日、エルサルバドル領内のモンテカ(Monteca)をパトロール中の国境警備隊が、ホンジュラス軍部隊の待ち伏せを受けて戦闘となった。この戦闘によりエルサルバドル側は3人が死亡、2人が捕虜となり、ホンジュラス側も2人が死亡したが、その後しばらくは国境を挟んで両国の緊張が高まった。", "qas": [ { "question": "雨季と乾季を経て発生した地形大変動により、エルサルバドルとホンジュラスの両国の国境線があいまいになったのは、チャラテナンゴとどこか?", "id": "tr-310-07-000", "answers": [ { "text": "モラサン北部", "answer_start": 89, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アルベルト・チャベスは、何年に行われた侵攻で戦死しましたか?", "id": "tr-310-07-001", "answers": [ { "text": "1961年", "answer_start": 116, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アルベルト・チャベスは、1961年、ドロレスとどこへの侵攻を行ったか?", "id": "tr-310-07-002", "answers": [ { "text": "ラパス", "answer_start": 155, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "モンテカで、エルサルバドルの国境警備隊とホンジュラス軍部隊が衝突したのは、いつのことか?", "id": "tr-310-07-003", "answers": [ { "text": "1967年5月29日", "answer_start": 194, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ホンジュラスのアレジャーノ大統領により実施された農業改革法は、主に国境未確定地帯に居住しているエルサルバドル人を退去させ、ホンジュラス人を入植させることを企図するものだったが、この政策により土地を失いエルサルバドルへと帰国した移民の数は戦争開始前の数か月間に1万4千人とも、2万人から5万人にのぼったものと推測されている。この政策はワールドカップ予選とほぼ同時期に執り行われたもので、偶然によるものなのか意図的なものなのかは定かではないが、結果として両国間の国民感情を刺激し、戦争へと発展する呼び水となった。", "qas": [ { "question": "当時のホンジュラスの大統領は、誰だったの?", "id": "tr-310-08-000", "answers": [ { "text": "アレジャーノ", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ホンジュラスのアレジャーノ大統領が実施した農地改革法は、主にどこからエルサルバドル人を退去させるためのものでしたか?", "id": "tr-310-08-001", "answers": [ { "text": "国境未確定地帯", "answer_start": 33, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ワールドカップ予選とほぼ同時期に行われた法とは、誰により実施された法のことを言うのか?", "id": "tr-310-08-002", "answers": [ { "text": "アレジャーノ", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "どの国がエルサルバドルに対してとった政策により、のちに両国間の戦争に発展してしまったか?", "id": "tr-310-08-003", "answers": [ { "text": "ホンジュラス", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "移民の国外退去は強制的なもので、ホンジュラスの「ラ・マンチャ・ブラバ」と呼ばれる極右組織や準軍事組織が関与し、残虐行為が行われた事例が報告された。これに対しエルサルバドルの新聞メディアは、ホンジュラスに対して徹底的な報復を求める様に政府に要求した。", "qas": [ { "question": "エルサルバドルからの移民に対する強制的国外退去に関わったホンジュラスの組織は、何と呼ばれる組織なの?", "id": "tr-310-09-000", "answers": [ { "text": "「ラ・マンチャ・ブラバ」", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "エルサルバドル国内で、政府に対し、ホンジュラスへの徹底的な報復を求めてきたのは、誰ですか?", "id": "tr-310-09-001", "answers": [ { "text": "新聞メディア", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1970FIFAワールドカップの北中米カリブ海予選は、史上最多となる12チームがエントリーして行われた。同地域ではメキシコ代表がワールドカップ本大会に連続出場するなど優勢を保っていたが1970年大会は地元開催ということで予選を免除されていたため、それ以外のチームにとっては本大会出場の機会となった。\nエルサルバドル代表はスリナム代表とオランダ領アンティル代表を、ホンジュラス代表はコスタリカ代表とジャマイカ代表をそれぞれ下して1次ラウンドを突破し、準決勝ラウンドで対戦することになった。", "qas": [ { "question": "1970FIFAワールドカップの北中米カリブ海予選には、何チームがエントリーし、史上最多の事例となったか?", "id": "tr-310-10-000", "answers": [ { "text": "12チーム", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北中米カリブ海の地域において、どの国が圧倒的優勢を保っていたか?", "id": "tr-310-10-001", "answers": [ { "text": "メキシコ", "answer_start": 57, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1970FIFAワールドカップの北中米カリブ海予選の準決勝には、エルサルバドルとどの国が進出したか?", "id": "tr-310-10-002", "answers": [ { "text": "ホンジュラス", "answer_start": 181, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スリナムとオランダ領アンティル、コスタリカのうち、エルサルバドルと試合した国ではないのは、どちらの国か?", "id": "tr-310-10-003", "answers": [ { "text": "コスタリカ", "answer_start": 190, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第1戦は1969年6月8日にホンジュラスの首都テグシガルパで行われホンジュラス代表が1-0と勝利したが、エルサルバドル代表が宿泊するホテルの周辺を群集が取り巻き、昼夜を問わず爆竹やクラクションや鳴り物を響かせ、相手を批難する歓声や口笛を鳴らし、建造物へ投石をするなどして、同チームを疲弊させていた。なお、こうしたサポーターによる行為は両国間の関係や国民感情に拠るものだけではなく、ラテンアメリカ諸国では常態的に行われている行為だった。一方、エルサルバドルでは熱狂的サッカーファンの18歳の女性が敗戦を苦に拳銃自殺を図る事件が発生した。女性の葬儀にはフィデル・サンチェス・エルナンデス大統領や大臣といった政府要人、エルサルバドル代表選手らが参列し葬儀の模様がテレビ中継をされるなど、国家的イベントの様相を呈した。", "qas": [ { "question": "1970FIFAワールドカップの北中米カリブ海予選の準決勝の第1戦は、どの国で行われたの?", "id": "tr-310-11-000", "answers": [ { "text": "ホンジュラス", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ホンジュラスとエルサルバドルの間で行われた第1戦は、誰の勝利で終わったか?", "id": "tr-310-11-001", "answers": [ { "text": "ホンジュラス", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第1線での負けを苦に拳銃自殺を図る事件が発生したのは、どの国でですか?", "id": "tr-310-11-002", "answers": [ { "text": "エルサルバドル", "answer_start": 220, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時のエルサルバドルの大統領は、誰だったか?", "id": "tr-310-11-003", "answers": [ { "text": "フィデル・サンチェス・エルナンデス", "answer_start": 274, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第2戦は1週間後の6月15日にエルサルバドルの首都サンサルバドルで行われたが、ホンジュラス代表が宿泊したホテルの周辺では第1戦と同様に群集が周囲を取り巻き、自殺した女性の肖像を掲げ、相手チームを批難した。また、群集はホテルの窓ガラスを破壊し、腐敗した卵や鼠の死骸などの汚物を建物へと投げ入れた。ホンジュラス代表選手の輸送はエルサルバドル軍の装甲車によって行われていたため、暴徒による襲撃を直接に受けることはなかったが、ホンジュラスから応援に駆けつけたホンジュラス代表サポーターは暴徒から殴る蹴るの暴行を受けるなど2人が死亡し、彼らの乗車していた自動車150台が放火される被害を受けた。試合は3-0でエルサルバドルが勝利し1勝1敗の成績で並び、プレーオフへと持ち込まれることになった。", "qas": [ { "question": "第2戦は、第1戦からいくら経って、行われたの?", "id": "tr-310-12-000", "answers": [ { "text": "1週間", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world 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"Syntactic variation" }, { "question": "両国のサポートの間で衝突が予想された地帯では、何を装備した機動隊員が配置されましたか?", "id": "tr-310-13-001", "answers": [ { "text": "催涙ガス銃", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ホンジュラスとエルサルバドルの最終戦では、どの国が勝利したか?", "id": "tr-310-13-002", "answers": [ { "text": "エルサルバドル", "answer_start": 189, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最終ラウンドでは、エルサルバドルとどの国が対戦することになったか?", "id": "tr-310-13-003", "answers": [ { "text": "ハイチ", "answer_start": 215, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "バロック", "paragraphs": [ { "context": "バロックとは、16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのローマ、マントヴァ、ヴェネツィア、フィレンツェで誕生し、ヨーロッパの大部分へと急速に広まった美術・文化の様式である。バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとしてルネサンスの芸術運動の後に始まった。カトリック教会の対抗改革(反宗教改革運動)や、ヨーロッパ諸国の絶対王政を背景に、影響は彫刻、絵画、文学、建築、音楽などあらゆる芸術領域に及び、誇張された動き、凝った装飾の多用、強烈な光の対比のような劇的な効果、緊張、時として仰々しいまでの豊饒さや壮大さなどによって特徴づけられる。18世紀後半には新古典主義へと移行した。", "qas": [ { "question": "バロックという美術・文化の様式はどの国で誕生しましたか。", "id": "tr-311-00-000", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 23, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バロック芸術とルネサンスの芸術運動と、どっちの方が先にあったの?", "id": "tr-311-00-001", "answers": [ { "text": "ルネサンスの芸術運動", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ルネサンスの芸術運動、バロック芸術、新古典主義のうち、一番後にあったのはどれですか。", "id": "tr-311-00-002", "answers": [ { "text": "新古典主義", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "バロックという語は、真珠や宝石のいびつな形を指すポルトガル語のbarrocoから来ているとする説が有力である。一方、ベネデット・クローチェによれば、中世の学者が論理体系を構築するうえで複雑で難解な論法を指すのに使ったラテン語のbarocoからきたともされる。そのほか詐欺を意味する中世イタリア語のbarocchioや、バロック初期の画家フェデリコ・バロッチを由来とする説もある。\n\n現在の意味での「バロック」という語は、様式の時期や呼称の大半がそうであるように、後世の美術評論家によって作り出されたものであり、17-18世紀の当事者によるものではなかった。当時の芸術家は自身を「バロック」ではなく古典主義であると考えていた。彼らは中世のフォルムや、建築のオーダーや、ペディメントや、古典的なモデナチュールといったギリシア・ローマの題材を利用していた。「バロック」の語は16世紀末のローマで生まれた。フランスでは、この語は1531年には真珠について用いられており、17世紀末には比喩的な意味で用いられるようになった。", "qas": [ { "question": "バロックという語はポルトガル語のどの単語から来たという説が有力ですか。", "id": "tr-311-01-000", "answers": [ { "text": "barroco", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "詐欺を意味する中世イタリア語は何ですか。", "id": "tr-311-01-001", "answers": [ { "text": "barocchio", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「バロック」の語はどこで生まれたか。", "id": "tr-311-01-002", "answers": [ { "text": "ローマ", "answer_start": 390, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1694年(バロック期の最中)には、バロックという語はアカデミー・フランセーズの辞書では「極めて不完全な丸さを持つ真珠のみについて言う。『バロック真珠のネックレス』」と定義されていた。1762年、バロック期の終結した頃には、第1義に加え「比喩的な意味で、いびつ、奇妙、不規則さも指す。」という定義が加わった。19世紀には、アカデミーは定義の順序を入れ替え、比喩的な意味を第1義とした。1855年になって初めて、スイスの美術史家ヤーコプ・ブルクハルトが『チチェローネイタリアの美術品鑑賞の手引き』においてバロックという語をルネサンスに続く時期と芸術を表すのに用いた。この用法が生まれたのがドイツ文化圏であったのは偶然ではない。フランスやイギリスは様式の変化を表すのに(「ルイ14世様式」のように)その王の名を使用することができたが、ドイツは当時Kleinstaatereiと呼ばれる無数の小国家に分裂していたのである。\n\nさらに1世代後の1878年になってようやく「バロック様式」がアカデミーの辞書の見出しとなり、定義の軽蔑的な意味合いも薄まった。皇后ウジェニーは気取ったものやルイ15世様式を再び流行させ、今日ネオバロック(バロックリバイバル)と呼ばれる様式が生まれた。バロックの復権が始まり、スイスの美術史家ハインリヒ・ヴェルフリンはその著作でこのバロックというものが如何に複雑であり、激動し、不規則であり、そして根底においては奇妙である以上に魅惑的であるかを示してみせた。\n\nヴェルフリンはバロックを「一斉に輸入された運動」、ルネサンス芸術へのアンチテーゼとして定義した。ヴェルフリンは今日の著述家たちのようにはマニエリスムとバロックの間に区別を設けず、また18世紀前半に開花したロココという相も無視していた。フランスとイギリスではその研究はドイツの学界でヴェルフリンが支配的な影響力を獲得するまでまともに受け止められなかった。", "qas": [ { "question": "1694年、バロックという語はアカデミー・フランセーズの辞書で何と定義されていましたか。", "id": "tr-311-02-000", "answers": [ { "text": "「極めて不完全な丸さを持つ真珠のみについて言う。『バロック真珠のネックレス』」", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バロックという語をルネサンスに続く時期と芸術を表すのに用いたのは何年からでしたか。", "id": "tr-311-02-001", "answers": [ { "text": "1855年", "answer_start": 192, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バロックを「一斉に輸入された運動」、ルネサンス芸術へのアンチテーゼとして定義した学者は誰ですか。", "id": "tr-311-02-002", "answers": [ { "text": "ヴェルフリン", "answer_start": 640, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "バロックの萌芽となる着想はミケランジェロの仕事に見出される。バロック様式は1580年頃に始まった。\n\n(大抵はプロテスタントの)美術史家は伝統的に、バロック様式が新しい科学と新しい信仰の形――宗教改革――を生んださまざまな文化的運動にカトリック教会が抵抗していた時代に発展したという事実を強調している。建造物におけるバロックは教皇が、絶対王政がそうしたように、その威信を回復できるような表現手段を命じることでカトリックの対抗宗教改革の端緒の象徴となるほどまでに道具として使った様式であったと言われている。いずれにせよ、ローマでは成功を収め、バロック建築は街の中心部を大きく塗り替えた。この時代の都市の更新としては最も重要なものであったろう。", "qas": [ { "question": "バロック様式は何年ごろに始まったか。", "id": "tr-311-03-000", "answers": [ { "text": "1580年頃", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ソビエト連邦の食事情", "paragraphs": [ { "context": "この項目では、1917年のロシア革命から1991年のソ連崩壊にかけてのソビエト連邦の食事情について記述する。\nソビエト連邦時代のロシアでは、ロシア料理の伝統は壊滅的な状態に陥ったと言われている。\n批評家アレクサンドル・ゲニスは、ロシア語で「美しい」「素晴らしい」といった意味を持ち、共産主義のシンボルでもある赤色に掛けた「赤いパン」の題名でソビエト連邦の食文化を論じた。\n社会主義体制内ではかつてのロシア帝国の上流階級は壊滅し、彼らのお抱えの料理人や、社交場であった高級レストランも失われる。\n西欧の影響が強い貴族の料理と、ロシア土着の素朴な民衆の料理が一本化されて階級的な差異が埋まっていった。", "qas": [ { "question": "ロシア料理の伝統がほとんど失われてしまった時期とはいつですか?", "id": "tr-312-00-000", "answers": [ { "text": "ソビエト連邦時代", "answer_start": 55, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「赤いパン」のタイトルでソビエト連邦の食文化を論じた人は誰?", "id": "tr-312-00-001", "answers": [ { "text": "アレクサンドル・ゲニス", "answer_start": 101, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "共産主義を象徴する色は?", "id": "tr-312-00-002", "answers": [ { "text": "赤色", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アレクサンドル・ゲニスがソビエト連邦の食文化について論じた著書とは?", "id": "tr-312-00-003", "answers": [ { "text": "「赤いパン」", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ソビエト連邦の指導者たちは女性の家事労働からの解放を掲げ、家事労働を少なくする試みを打ち出した。\n炊事の時間の削減の一環として、家庭外で食事を摂るための大規模な共同食堂が多く建設された。\nモスクワで設立された協同組合「人民の栄養」は、一度に3,000人分のシチーを調理できる「台所工場」という大規模な調理場を多く建設し、ここで作られた料理が労働者のための食堂に送られた。\n共同食堂の支持者は、経済面、栄養面、衛生面において家庭の料理よりも優れていると主張し、公共の食堂を家庭の食卓に取って代わる地位に置こうとした。\n1920年代から1930年代までは労働者のための公共食堂では安価で質の高い料理と良質なサービスが提供されていたが、公共の食堂が増えるにつれて食堂で提供される料理の質と種類は落ちていき、キャベツのシチーやソバのカーシャといった初歩的な料理のみが出されるようになった。", "qas": [ { "question": "「台所工場」は一度に何人分のシチーを調理出来ますか?", "id": "tr-312-01-000", "answers": [ { "text": "3,000人分", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大規模な調理場を多数建設した協同組合の名前は?", "id": "tr-312-01-001", "answers": [ { "text": "「人民の栄養」", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "炊事時間の削減を目的として多数建設されたものとは何?", "id": "tr-312-01-002", "answers": [ { "text": "共同食堂", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1930年代の半ばからスターリンの政府は、食事に困窮することのない「豊かで楽しい」国民の生活を前面に押し出した。\n映画、絵画、ポスターは集団農場での豊作を題材にとり、マスメディアは商店の豊富な品ぞろえを喧伝した。\n1930年代にソ連の食料工業省大臣を務めたアナスタス・ミコヤンは、欧米から技術を導入してアイスクリーム、フランクフルト・ソーセージなどの生産を推進した。\nミコヤンが導入した製法によってアイスクリームの大量生産が可能になり、アイスクリームはモスクワの名物となった。\n多くの料理を誕生させたミコヤンは、「ソビエト料理の父」と言われている。\nしかし、ソ連の食の実情は政府の宣伝とは大きく異なっていた。", "qas": [ { "question": "「ソビエト料理の父」の本名は?", "id": "tr-312-02-000", "answers": [ { "text": "アナスタス・ミコヤン", "answer_start": 128, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "欧米からの技術導入によって大量生産が可能となった食品は何?", "id": "tr-312-02-001", "answers": [ { "text": "アイスクリーム", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミコヤンがソ連の食料工業省大臣を務めた時期はいつですか?", "id": "tr-312-02-002", "answers": [ { "text": "1930年代", "answer_start": 107, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "農業の集団化による農村の荒廃と、農業の集団化とともに実施された穀物の徴発は1932年から1933年にかけてロシア、ウクライナ、中央アジア、コーカサスを襲った大飢饉を引き起こし、さらに第二次世界大戦による国土の荒廃が生産に打撃を与えた。\n農村の荒廃は生産力を低下させただけではなく、農村で食べられていた伝統的な料理を破壊した。\nロシアの穀物不足を補うために中央アジアなどから穀物が輸送されたが、そのためにウズベキスタンなどの地域で食料が欠乏する。", "qas": [ { "question": "1932年から1933年にかけてロシアやウクライナなどの地域で引き起った問題とは何?", "id": "tr-312-03-000", "answers": [ { "text": "大飢饉", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "第二次世界大戦前にソ連が通商協定を結んでいたドイツと敵対するに及んでソ連の食料の不足は第一次世界大戦の時代よりも悪化する。\n都市部の住民は自家菜園の作物や、配給品のパンとコルホーズで収穫された作物の物々交換によって不足する食料を補った。\nコルホーズの収穫品は生産者である農民の元には届かず、農民たちは付属地で栽培したジャガイモによって飢えをしのいだ。\n食品の生産と流通の過程では中間搾取と横流しが横行し、消費者の元に届いたときには低質な食材しか残されていなかった。\n時には、砂糖や小麦粉といった基本的な食材が店頭から消える事態も起きた。\n物資の不足により、レストランではメニューに載せられている多くの料理の中で実際に提供できる料理はその中の幾つかだけ、という状況が継続した。\n品不足のために市民は商店で物を買うたびに行列に並ばなければならず、また購入できる商品の選択の幅は極めて狭かった。\n食品の価格は政府によって低く抑えられていたが、ロシア人は収入の大部分を食費に充てていた。\nまた、食品には地域ごとに価格差が設定されていた。\n市民はめぼしいものがあればすぐ買えるように、アヴォーシカ(Авоська、「もしかしたら」の意)という網袋を持ち歩いていた。\n都市部に住むロシア人は、郊外のダーチャ(家屋付きの家庭菜園)で食糧の不足を補っていた。\nそれでもモスクワやレニングラードといった大都市は物資に恵まれていた方であり、地方の都市は中央以上に物不足に苦しんでいた。", "qas": [ { "question": "アヴォーシカとはどういう意味ですか?", "id": "tr-312-04-000", "answers": [ { "text": "「もしかしたら」", "answer_start": 502, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大都市と地方の都市は、どちらが物不足が深刻でしたか?", "id": "tr-312-04-001", "answers": [ { "text": "地方の都市", "answer_start": 610, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "市民が持参していた網袋の呼び名は何でしたか?", "id": "tr-312-04-002", "answers": [ { "text": "アヴォーシカ", "answer_start": 487, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ロシア人は収入の大半を何に充てていましたか?", "id": "tr-312-04-003", "answers": [ { "text": "食費", "answer_start": 430, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1953年秋、中央と地方の政府、新聞社に食糧の欠乏を訴える市民の声が多く届く。\n1954年にフルシチョフは処女地(カザフスタンや西シベリアなどの未開墾地、耕作放棄地)の開拓事業を提案し、処女地からの穀物の収穫が試みられる。\n1955年から数年の間は処女地の収穫物によって穀物の不足は一時的に解消されたが、処女地が不作に陥ると穀物は再び欠乏する。\n1965年になると肉、魚類、卵、野菜、果物、日常食、砂糖の消費量は、ロシア革命前と比べて大幅に増加する。\nスターリン死後に食肉の消費量が増加した半面供給が追い付かず、週1日の「肉無しデー」が制定された。\n家畜の餌となる穀物を補うために農業の機械化を推進したが、アメリカ・西欧と比べて技術や労働力の質で劣り、生産性は低かった。\n飼料用の穀物の多くは、アメリカ・カナダなどから輸入されていた。", "qas": [ { "question": "処女地の開拓事業を提案した人は誰?", "id": "tr-312-05-000", "answers": [ { "text": "フルシチョフ", "answer_start": 46, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「肉無しデー」は週に何日ありましたか?", "id": "tr-312-05-001", "answers": [ { "text": "1日", "answer_start": 257, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "処女地の開拓事業が提案されたのはいつ?", "id": "tr-312-05-002", "answers": [ { "text": "1954年", "answer_start": 40, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ブレジネフ政権を通して食糧不足は悪化し、競争原理が部分的に取り入れられたペレストロイカ時代に食糧の欠乏は顕著になった。\n裏ルートを通した買いだめにより、店頭から物資が消え去った。\n1991年末のソ連崩壊後にロシアの社会・経済が混乱する中で食生活はいち早く改善され、物資の不足は解消された。\nレストランなどの料理店の質も改善され、レシピ集以外にヴィリヤム・ポフリョプキンなどが著した食文化を扱う本も読まれるようになった。\nしかし、1960年代から約30年間安定していた食品の小売価格は、2-3倍に上昇する。\nまた、輸入食材がロシアに多く出回るようになったが、一方でミコヤノフスキー・ソーセージなどのソ連時代の国産品を再評価する動きも見られる。", "qas": [ { "question": "紛れもなくひどい食糧不足に陥った時期はいつですか?", "id": "tr-312-06-000", "answers": [ { "text": "ペレストロイカ時代", "answer_start": 36, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "食品の小売価格が2倍以上に上がったのはいつからですか?", "id": "tr-312-06-001", "answers": [ { "text": "1960年代", "answer_start": 214, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "肉の供給不足が起きた後、政府は肉に代わるタンパク源として魚に着目した。\n池では淡水魚の養殖が行われていたものの、ロシアで伝統的に食されていた淡水魚が店頭に並ぶことは少なかった。\nロシア内に供給される魚介類の多くは、外洋で展開される遠洋漁業によって賄われていた。\n政府はロシア人にとって馴染みの薄い魚の調理法を普及させるとともに、加工品にして出荷するが中々受け入れられなかった。\nニシン、キャビア、サケ、カニの缶詰は輸出され、ソ連内での流通量は少なかった。\nロシア人が好むニシンの塩漬けも多くが輸出に回されていたため、ソ連内で入手する機会はやはり少なかった。\n魚介類とその加工品は、オケアンと呼ばれる専門店で販売されていた。", "qas": [ { "question": "肉の代用品として政府が目を付けた食材は何でしたか?", "id": "tr-312-07-000", "answers": [ { "text": "魚", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ロシア内に供給される魚介類の大半は何漁業によって賄われていましたか?", "id": "tr-312-07-001", "answers": [ { "text": "遠洋漁業", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "魚介類とその加工品が販売されていた店の名前は?", "id": "tr-312-07-002", "answers": [ { "text": "オケアン", "answer_start": 290, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ソ連は茶の消費量が多く、好まれる種類は地域ごとに異なっていた。\nおおむねロシアでは紅茶、中央アジアでは緑茶、カザフ・ブリヤート・トゥヴァ・アルタイではレンガ状に固めた緑茶(方茶)が飲まれていた。\nソ連政府はグルジアでの茶の生産を推進し、グルジア産の茶はソ連の内外に多く出荷された。\nしかし、グルジア人は茶の生産に抵抗を示し、連邦内で民族間の衝突が頻発した1980年代半ばになるとグルジア産の茶の生産量は半減する。\nソ連崩壊後、ロシアが輸入する茶の中でグルジア産の茶が占める割合は大きく低下した。", "qas": [ { "question": "中央アジアで好まれた茶の種類は何?", "id": "tr-312-08-000", "answers": [ { "text": "緑茶", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "紅茶が好まれていた地域はどこ?", "id": "tr-312-08-001", "answers": [ { "text": "ロシア", "answer_start": 36, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ソ連政府が茶の生産を推進した地域とはどこ?", "id": "tr-312-08-002", "answers": [ { "text": "グルジア", "answer_start": 103, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "グルジアでの茶の生産をめぐって民族間衝突が頻発した時期はいつ?", "id": "tr-312-08-003", "answers": [ { "text": "1980年代半ば", "answer_start": 177, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1940年代後半よりザコカ・コーラカンパニーはコカ・コーラの販路をアメリカ外に拡大するが、ヨーロッパ各地の共産主義者はコカ・コーラに「反共的な飲み物」というレッテルをはった。\n1965年にコカ・コーラ社はロシアでの事業を計画し、ソ連内で私企業は認められていなかったため、ソ連政府と共同しての販路の展開を試みた。\nしかし、アメリカ内から事業のパートナーであるソ連の懐も潤うのではないかと批判が起こり、コカ・コーラ社はロシア進出を中止した。\n1980年のモスクワオリンピックの公式飲料にコカ・コーラが選ばれたことでロシア進出のチャンスが復活したかに思われたが、アメリカがオリンピックのボイコットを表明したためにソ連への進出は失敗する。\n一方、ペプシコーラは反共的というレッテルがはられていなかったため、ペプシコ社の共産圏への進出はコカ・コーラ社に比べて容易だった。\n1972年にペプシコ社はロシアにおける独占販売権を認められる。\nソ連崩壊後、共産圏の消費者は国内で流通していたペプシコーラを旧体制を象徴する飲料、コカ・コーラを西側の自由な気風を象徴する飲料と捉えた。\nコカ・コーラは旧ソ連圏内でのシェアでペプシコーラを上回り、両者の立場は逆転する。", "qas": [ { "question": "コカ・コーラの販売会社は何ですか?", "id": "tr-312-09-000", "answers": [ { "text": "ザコカ・コーラカンパニー", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ペプシコーラを販売している会社は何ですか?", "id": "tr-312-09-001", "answers": [ { "text": "ペプシコ社", "answer_start": 349, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1972年にロシアでの独占販売権を認められた会社は?", "id": "tr-312-09-002", "answers": [ { "text": "ペプシコ社", "answer_start": 387, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ペプシコーラが旧体制を象徴する飲料とみなされたのはいつからですか?", "id": "tr-312-09-003", "answers": [ { "text": "ソ連崩壊後", "answer_start": 413, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ロシア革命前からアルコール依存症がロシアの社会問題となっており、飲酒問題への対策はソビエト連邦政権にも引き継がれた。\nロシア帝国末期から施行されていた禁酒法はソ連でも継続して実施されたものの第一次世界大戦中に頓挫し、1924年にウォトカの製造が再開される。\n1920年代から1930年代にかけて減酒キャンペーンが行われたが成果は現れず、都市部ではクワス売りが商売を続けていた。", "qas": [ { "question": "ロシア革命前から国が抱えていた社会問題とは、何による依存症の蔓延ですか?", "id": "tr-312-10-000", "answers": [ { "text": "アルコール", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1924年に製造を再開されたお酒とは何ですか?", "id": "tr-312-10-001", "answers": [ { "text": "ウォトカ", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ブレジネフ時代の停滞期にはウォトカの消費量はより増加し、経済・治安・家庭・国民健康に及ぼす悪影響が顕著になる。\n1980年代にアンドロポフ、ゴルバチョフは酒類の統制を試みたため、民間には政府が製造する高価で質の悪い酒類が以前よりも少ない量で出回るという状況になった。\n庶民の間では配給された砂糖を使った密造酒(サマゴン、ru:Самогон)が製造され、砂糖不足と税収低下を招いた。\n1927年の調査では、当時の農民の42%がサマゴンを製造し、1950年代末から1960年代初頭にかけては原料となる酒精が不足したために樹木から採取したアルコールがサマゴンの原料に代用されたが、低質なサマゴンはしばしば事故を引き起こした。", "qas": [ { "question": "サマゴンとは何のことですか?", "id": "tr-312-11-000", "answers": [ { "text": "密造酒", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "禁酒法施行時代やゴルバチョフ時代には、ロシア人はアルコールが含まれているものならローションや中性洗剤でも飲んだと言われ、酒にまつわるアネクドートも多く存在する。\n一連の取り組みが行われた一方で、リキュール類から得られる税収は政府の収入源になり、1920年代末期には政府は工業化に必要な資金を得るためにウォトカを増産した。\nストリチナヤを始めとしたウォトカは外貨獲得のため食料輸出輸入公団(S.P.I.Groupの前身)によって輸出されており、西側諸国ではカクテルベースとして利用されていた。\nなおアメリカでの販売権はペプシコがペプシの濃縮液との物々交換で獲得した。", "qas": [ { "question": "政府がウォトカを増産した時期はいつですか?", "id": "tr-312-12-000", "answers": [ { "text": "1920年代末期", "answer_start": 122, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "政府の収入源となったお酒の種類は何ですか?", "id": "tr-312-12-001", "answers": [ { "text": "リキュール類", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウォトカの輸出を管理していた機関は何ですか?", "id": "tr-312-12-002", "answers": [ { "text": "食料輸出輸入公団", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "西側諸国でウォトカは何に利用されていましたか?", "id": "tr-312-12-003", "answers": [ { "text": "カクテルベース", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ソ連時代のロシアでは、食品を扱う小売店の数は少なかった。\n食材を扱う店や、既成の食品を扱う食料品店(ガストロノム)は国営であるため固有の名前は無く、看板には店が扱う商品の名前が書かれていた。\n店に並ぶ肉と野菜、乳製品の種類は限られ、質も低かった。\nしかし、中にはアイスクリームやサラミのように質の高さを評価される食品も製造されていた。\n市場(ルィノク、Рынок)では農民が自営地で作った物品が売られており、商品の種類とサービスの質は国営の商店に勝っていたが、価格も2-3倍と相応に高かった。\nマフィアが取り仕切っていると言われる市場には農民が製造するのは難しい加工食品が並んでおり、主な売り手はカフカス系・中央アジア系の民族だった。\nソ連崩壊後は国営の商店、屋台、市場に代わって民営の大型スーパーや郊外型の小売店が台頭する。", "qas": [ { "question": "品質が良かった食品はサラミと何が挙げられますか?", "id": "tr-312-13-000", "answers": [ { "text": "アイスクリーム", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ルィノクとは何ですか?", "id": "tr-312-13-001", "answers": [ { "text": "市場", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ソ連時代の料理店は、高価な料理を供するレストランと、庶民向けの安価な料理を供するスタローヴァヤ(ストローヴァヤ、Столовая)の2種に大別される。\n冷菜(ザクースカ)のみを扱う大衆食堂(ザクーソチナヤ)も営業していたが、数は少なかった。\nレストランは、注文までに時間がかかり、メニューに載せられている料理のうち実際に注文できるものはごく限られていた。\n料理は最初のスープ、ジャガイモや穀類を添えた肉料理か魚料理、締めの紅茶(もしくはコンポート)の3つのコースで構成されていた。\n外国の人間以外に、ソ連内でレストランを利用できたのは党の幹部、科学者、芸術家などのエリートが主だった。", "qas": [ { "question": "レストランの料理の構成で、1番目に出てくる料理は何ですか?", "id": "tr-312-14-000", "answers": [ { "text": "スープ", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "レストランの料理の順番で、最後に出てくる飲料は何ですか?", "id": "tr-312-14-001", "answers": [ { "text": "紅茶", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "スタローヴァヤとは、セルフサービスの食堂であり、主に企業、工場、大学の中に併設されていた。\nスタローヴァヤでは、1ルーブル(1980年12月当時約314円)あれば十分な量の食事が摂れたと言われている。\nしかし、サービスは不十分であり、店側が供給される食材をかすめとっていたため、料理の味も悪かった。\nソ連崩壊後は「カフェ」「ビストロ」と名前を付けて営業しているものも存在する。\nその他には、ソ連崩壊間近の1990年、モスクワの中心であるプーシキン広場にマクドナルドのロシア1号店が開店した。\n保守的な市民の中には、有害なアメリカの大衆文化がロシアに食い込んできたと考える者もいた。\nしかし、開店前に5,000人超が行列を作り、初日にはおよそ30,000人が来店した。", "qas": [ { "question": "セルフサービスの食堂のことを何と言いますか?", "id": "tr-312-15-000", "answers": [ { "text": "スタローヴァヤ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロシア初のマクドナルド店がオープンしたのは何年でしたか?", "id": "tr-312-15-001", "answers": [ { "text": "1990年", "answer_start": 202, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マクドナルドのロシア1号店の開店初日には何人が来店したの?", "id": "tr-312-15-002", "answers": [ { "text": "およそ30,000人", "answer_start": 317, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1910年代から1920年代にかけてのロシアでは、戦乱により大規模な人口移動が起きた。\n人口の移動に伴って、ウクライナやベラルーシ、シベリアといったロシアの周辺地域で食されていた料理がロシアに普及するようになる。\nこの時期に広まった料理の代表として、ボルシチ、サーロが挙げられる。\nモスクワではコーカサスや中央アジアの郷土料理を出すレストランが営業していたが、1960年代のブレジネフ政権の「停滞期」以降、外食事情は悪化する。\nだが、シャシリクなどのコーカサス料理やプロフなどの中央アジアの郷土料理がロシアに定着したのは、1970年代から1980年代にかけての時期だと言われている。\nソ連時代を通して、コーカサスや中央アジアの料理がロシアの食文化に与えた影響はごく小さなものだった。\n中央アジアにはロシアなどの他の地域や民族の食文化が伝わり、料理のレパートリーが増加した。\nジャガイモやキャベツなどの野菜、乾麺・マカロニ・缶詰などの加工品が料理に使われるようになり、ソ連崩壊後も食材として使用されている。", "qas": [ { "question": "1910年代から1920年代にかけてロシアで広まった料理の代表は、サーロや何ですか?", "id": "tr-312-16-000", "answers": [ { "text": "ボルシチ", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プロフはどこの地域の郷土料理ですか?", "id": "tr-312-16-001", "answers": [ { "text": "中央アジア", "answer_start": 239, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1939年にソ連医学アカデミー栄養研究所が監修した料理本『美味しく健康によい食べ物の本』が出版され、ソ連におけるほぼ唯一の食文化・料理の教科書となった。\n料理本の出版の目的には国民の食生活の管理・計画的発展があり、執筆には多くの医師・科学者・エンジニアが携わっていた。\n料理の調理法と材料の説明に表は使われていないためレシピは読みにくく、掲載されている写真の画質も悪かった。\n本文ではレシピとともに栄養管理、理想的な調理と食事の摂取の環境について述べられていたが、物資の不足のために掲載されたレシピ通りに料理を作ることは一般の民衆にとって困難だった。\n『美味しく健康によい食べ物の本』は何度も版を重ね、ソ連崩壊後のロシアでも改訂されて出版が続けられている。", "qas": [ { "question": "『美味しく健康によい食べ物の本』はどこの機関が監修したの?", "id": "tr-312-17-000", "answers": [ { "text": "ソ連医学アカデミー栄養研究所", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『美味しく健康によい食べ物の本』が出版された年はいつ?", "id": "tr-312-17-001", "answers": [ { "text": "1939年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "愛知県蟹江町母子3人殺傷事件", "paragraphs": [ { "context": "愛知県蟹江町母子3人殺傷事件とは、2009年5月1日深夜から翌5月2日昼にかけて愛知県海部郡蟹江町の民家で発生した強盗殺人・同未遂事件である。\n\n後述するように捜査を担当した愛知県警察による初動捜査時の不手際などから捜査が難航したため、事件から半年以上が経過した2009年12月10日に警察庁は本事件を捜査特別報奨金制度対象事件に指定した。その後、被疑者として中国人の男が逮捕された直後の2012年12月9日付で指定期限満了を迎え、指定は延長されることなく同日付で取り消された。\n\n本事件加害者である死刑囚の男Lは、1983年7月、中華人民共和国山東省済南市の地方公務員の父親による中流家庭で一人っ子として生まれた。\n\n2018年10月1日時点で、死刑判決を不服として上告中の被告人Lは名古屋拘置所に収監されている。", "qas": [ { "question": "2009年5月1日深夜から翌5月2日昼にかけて愛知県海部郡蟹江町の民家で発生した強盗殺人・同未遂事件を何といいますか。", "id": "tr-313-00-000", "answers": [ { "text": "愛知県蟹江町母子3人殺傷事件", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "警察庁は愛知県蟹江町母子3人殺傷事件をいつ、捜査特別報奨金制度対象事件に指定したか。", "id": "tr-313-00-001", "answers": [ { "text": "2009年12月10日", "answer_start": 131, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "愛知県蟹江町母子3人殺傷事件の加害者の父親の国籍は?", "id": "tr-313-00-002", "answers": [ { "text": "中華人民共和国", "answer_start": 266, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "経済的に不自由なく暮らし、読書好きな少年だったLは、地元では成績優秀で地元の大学にも合格していたが、父親から「日本で先進技術を学んではどうか」と留学を勧められたことから、2003年10月に郷里の中国・山東省から留学目的で来日した。\nLは来日後、四年制大学への進学をめざし、京都府京都市内の語学学校の1年6カ月コースに入学し、寮生活を送っていたが、その間の2004年4月・8月には京都府京都市内で2度にわたって万引きをしたとして、窃盗容疑で逮捕され、不起訴処分となった。語学学校関係者は『中日新聞』の取材に対し「授業料の約100万円は滞納せずに納めており、成績は優秀だった。三重大よりもさらに上の大学に届くぐらいの学力だったが、受験で手続き上のミスをしたため、上の大学には進学できなかった」と語った。", "qas": [ { "question": "Lに日本留学を勧めたのは誰なの?", "id": "tr-313-01-000", "answers": [ { "text": "父親", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Lは来日後、京都府京都市内の語学学校のどのコースに入学したか。", "id": "tr-313-01-001", "answers": [ { "text": "1年6カ月コース", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2004年4月・8月、Lは何度万引きをしたことで逮捕されたか。", "id": "tr-313-01-002", "answers": [ { "text": "2度", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "Lは日本語語学学校を卒業後、2005年4月には奈良県奈良市内の、コンピューター専門学校に入学したが、後述の三重大学合格を受けて中退した。当時の授業料は年間65万円余りでLはこれを延滞せずに納めていたが、クラスの成績上位者が選ばれる私費留学生向けの奨学金は受けられなかった。コンピューター専門学校では「クラスのまとめ役」と評価されていたが、奨学金を受けられないことに不満を抱いており、担任教師に対して何度も「なぜ奨学金を受けられないんだ」と詰め寄っていた。", "qas": [ { "question": "Lはコンピューター専門学校と三重大学と、どっちを先に合格したの?", "id": "tr-313-02-000", "answers": [ { "text": "コンピューター専門学校", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "Lが通っていた奈良県奈良市内のコンピューター専門学校の授業料は年間いくらでしたか。", "id": "tr-313-02-001", "answers": [ { "text": "65万円余り", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "Lは2006年4月、三重大学に留学生として入学し、それ以降同大学に在学していた。\nLは当時、国の支援を受けない私費留学生として年間約34万円の授業料を払っており、津市内の大学キャンパス付近の木造平屋アパートで一人暮らししつつ、地域文化論を学んでいた。三重大入学後、Lはコンピューター専門学校在学当時の担当教師に対し、「なぜ自分は奨学金を受けられないのか。そのせいで金に困り、コンビニエンスストアの廃棄弁当を漁って食べるような生活を送っている」という内容の手紙を送っていた。そのため、母国の両親から仕送りを受けつつ、大学付近の飲食店などでアルバイトをして生活していたが、事件前には体調を崩して働けなくなった。\nしかし三重大の学生時代は学費滞納を繰り返し、前期・後期ごとに大学側から何度も支払いの督促を受けており、所属ゼミの教授は「大学の会計担当者から督促依頼が来ており、会計が退学をちらつかせてようやく支払う状態だった」と証言した。Lは入学後最初の2年こそ半年ごとに授業料を納付していたが、2008年度から2010年度にかけての3年間は、いずれも期限直前の3月下旬に前期・後期分を一括納付していた上、2008年には三重県の私費留学生奨学金を申請したが、成績不良などを理由に認められなかった。\nこれに加えて三重大在学中は、アパートの家賃も滞納するなど、生活費に困窮しており、成績も悪く、授業に来ないことも多かった。結局、事件のあった2009年度は2単位しか取得できなかったが、入学5年目となる2010年度には授業に出席するようになり、2011年3月に卒業した。", "qas": [ { "question": "Lが三重大学に通っていたとき、授業料は年間いくらを払っていましたか。", "id": "tr-313-03-000", "answers": [ { "text": "約34万円", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Lは2009年度に何単位を取得しましたか。", "id": "tr-313-03-001", "answers": [ { "text": "2単位", "answer_start": 621, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Lは三重大学を何年に卒業したか。", "id": "tr-313-03-002", "answers": [ { "text": "2011年", "answer_start": 665, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2008年には三重県の私費留学生奨学金を申請したが、認められなかった理由は何でしたか。", "id": "tr-313-03-003", "answers": [ { "text": "成績不良", "answer_start": 525, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "来日直後から万引きなどの窃盗事件を繰り返していたLは、津市内でも食料品・衣類などの万引きを繰り返した。\n\n事件前年の2008年12月31日、当時大学3年生だったLは、高級食材を万引きする窃盗事件を起こし、三重県警察津警察署に摘発され、その後20万円の罰金刑を受けた。これに加え、翌2009年2月8日、セーラー服のコスチュームを万引きしようとした窃盗未遂事件を起こし、検挙された。\n\nこれに加えてLは、出席日数不足・成績不振などの理由から、事件発生年の2009年4月には留年し、4年生に進級できなかった。\n\n2009年4月27日、各事件について検察庁で取調べを受けたLは、検察官から「罰金刑を科される見込みである」、「罰金を納めない場合には労役場に留置される可能性がある」と説明を受けた上で、略式手続による処分を受けることに同意した。\n\nLは「罰金を支払えず労役場に留置されると、大学を退学処分になり自分の人生が終わってしまう。そうなれば日本への留学のために経済的負担を掛けた両親の期待を裏切ってしまう」などと考えた。当時、Lの銀行口座の貯金残高は1000円未満だった。", "qas": [ { "question": "2008年12月31日、Lは大学何年生でしたか。", "id": "tr-313-04-000", "answers": [ { "text": "3年生", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Lが略式手続による処分を受けることに同意したのはいつですか。", "id": "tr-313-04-001", "answers": [ { "text": "2009年4月27日", "answer_start": 253, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Lが留年したのは何年のことですか。", "id": "tr-313-04-002", "answers": [ { "text": "2009年", "answer_start": 225, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時、Lの銀行口座の貯金残高はいくら未満だったの?", "id": "tr-313-04-003", "answers": [ { "text": "1000円未満", "answer_start": 473, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "するとLの背後から、家主の女性Aが、Lを問い質すような声を掛けた。Aは三男Cが5月1日午後8時ごろに外出した際には自宅にいた。\nこれに驚いたLは玄関から逃走しようとしたが、Aに服を掴まれた。この時Lは、全力でAから逃げようとすれば逃げることはできたが、「(金を手に入れる)最後のチャンス」と大金を手に入れることを諦めきれなかったため、Aから逃げなかった。\nそして金品を強取することを決意した上で、殺意を持ってAの頭部を多数回持っていたモンキーレンチで殴るなどして、頭蓋骨骨折・脳挫傷などによる外傷性脳障害によりAを死亡させて殺害した(強盗殺人罪)。\nモンキーレンチで襲われた後も、Aはしばらく息があり「誰か」と声を上げたが、Lによって首に紐を巻き付けられてとどめを刺された。", "qas": [ { "question": "三男Cは何時ごろに外出したの?", "id": "tr-313-05-000", "answers": [ { "text": "午後8時ごろ", "answer_start": 43, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Aは誰に殺されたの?", "id": "tr-313-05-001", "answers": [ { "text": "L", "answer_start": 70, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Lは何でAの頭を殴ったの?", "id": "tr-313-05-002", "answers": [ { "text": "モンキーレンチ", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "LがAに対し暴行を加えていた最中、Aの次男B(事件当時26歳、死亡)が母親Aを助けようとLに飛び掛かった。Bは事件1週間前、勤務先のケーキ店で同僚だった交際相手女性と婚約していた。事件前日(2009年4月30日)、Bは交際相手女性を家に泊めており、事件当夜には仕事後に女性から「今日も泊まっていい?」と尋ねられたが、Bは「連続になるからやめておこう」と女性を帰宅させていた。\nLはそのままリビング・和室などで、Bと約1時間にわたって揉み合いになり、この時に着けていたマスクが外れたが、Lは自己の後頭部を勢いよくBの頭部にぶつけたことで優勢となり、Bの服をまくり上げて近くにあった電気コードでBの両手を縛り上げた。\nマスクが取れてしまい「Bに顔を見られた」と思ったLは「Bを殺すしかない」と考え、A宅の台所にあった包丁(刃渡り約17.2cm)を持ち出し、殺意を持って包丁でBの左背部を数回突き刺すなどして、被害者Bを左肺動脈切断による出血性ショックにより死亡させて殺害した(強盗殺人罪)。Bの殺害に使用された包丁は刃全体が反り曲がっていた。", "qas": [ { "question": "Bは誰に殺された?", "id": "tr-313-06-000", "answers": [ { "text": "L", "answer_start": 331, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "Bは事件の何週前、婚約をしましたか。", "id": "tr-313-06-001", "answers": [ { "text": "1週間前", "answer_start": 57, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Lは何を使ってBを殺したか。", "id": "tr-313-06-002", "answers": [ { "text": "包丁", "answer_start": 356, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "A・B両被害者を殺害したLがA宅の床の血痕・足跡を拭き取ったり、血液の付着した衣服を洗濯したりして証拠隠滅を図っていた途中、日付が変わった2009年5月2日午前2時25分ごろになってAの三男C(事件当時25歳、負傷)が帰宅した。Cは事件発生数時間前にいったん帰宅していたものの同僚との飲み会に参加するために外出し、2日午前2時半ごろに帰宅した。\nCの帰宅に驚いたLは、玄関に座ってブーツを脱いでいたCを背後から殺意を持った上で、首やその周辺などを立て続けにクラフトナイフで数回突き刺し、死亡させるには至らなかったものの全治2週間の怪我を負わせた(強盗殺人未遂罪)。Cはこの状況を公判で「玄関でブーツを脱いでいたら、背後の廊下を勢いよく走る足音が聞こえた直後、後頭部に強い衝撃が2,3回走り、振り返ると暗がりに人影があった」と証言した。\n刺されたCは背後を振り返り、廊下に立っていたLを取り押さえようとして揉み合いになった。2人が和室へ雪崩込んだところCがうつぶせの状態になり、その上にLが覆いかぶさる形となった。両者はクラフトナイフを奪い合い、一時は反撃したCがLの足を刺すなどした後、両者の話し合いによる結果、Lはクラフトナイフを離れた場所に投げ捨てた。", "qas": [ { "question": "Cは何時ごろに家に帰ったの?", "id": "tr-313-07-000", "answers": [ { "text": "午前2時25分ごろ", "answer_start": 78, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "Lは何を使ってCを突き刺したか。", "id": "tr-313-07-001", "answers": [ { "text": "クラフトナイフ", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "Cを縛りつけたLは、Cに「殺さないでくれ」と命乞いをされたことや、顔を見られていなかったことから殺害を思い留まり、Cにそれ以上の暴行を加えることはなかったが、A宅を離れるまでにCを解放したり、怪我を治療したりするなど、救助するような行動は一切取らなかった。Lはその間、いったんCのそばを離れて現場の物色・証拠隠滅をした後、約1時間後になってCに「金はあるか」と尋ねたが、Cが「うちには金はない」と答えたことに対し、Lは「家に入って女性(A)に見つかった。揉み合っているとき、男性(B)が入ってきて...ごめん」と告げた。Lのこの言葉からCは母親A・兄Bが死亡したことを悟った。", "qas": [ { "question": "Cは誰に縛りつけられたの?", "id": "tr-313-08-000", "answers": [ { "text": "L", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "CはLのどんな言葉から母親A・兄Bが死亡したことに気づいたか。", "id": "tr-313-08-001", "answers": [ { "text": "「家に入って女性(A)に見つかった。揉み合っているとき、男性(B)が入ってきて...ごめん」", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "そしてLは逃走するまでの間に床に付着した血痕・足跡を拭き取ったり、血液の付着した衣服を洗濯したりするなどして証拠隠滅工作を行った上で、縛られたCに「金があるのか」と尋ねた上で財布を発見し、入っていた現金を奪い取るなどした。後述のように警察が駆け付ける前の2009年5月2日早朝、母親Aの知人が現場宅を訪れて家の玄関のインターホンを押した。Cがこの際「出てもいいか」とLに尋ねると、Lは「まだやること(現場の血痕を拭き取るなどの証拠隠滅・現場偽装)が残っている」「掃除している」などと述べ、Cが玄関に出るのを制止した上で、Cに布団をかぶせて声を出せない状態にした。\nLは長時間にわたり物色を続けた結果、A・B・C所有の現金約20万円・腕時計1個(時価約1,200円相当)を強取し、現場から逃走した。Lにナイフで刺されるなどした結果、Cは一命こそ取り留めたものの全治約2週間の怪我を負った。", "qas": [ { "question": "母親Aの知人が現場宅を訪れて家の玄関のインターホンを押したのは何月何日でしたか。", "id": "tr-313-09-000", "answers": [ { "text": "5月2日", "answer_start": 132, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Lは現金いくらを奪ってから逃げましたか。", "id": "tr-313-09-001", "answers": [ { "text": "約20万円", "answer_start": 310, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ヒダハタケ", "paragraphs": [ { "context": "ヒダハタケ(Paxillusinvolutus)はイグチ目に属するキノコの一種。\n北半球に広く分布するが、欧州産の樹木の輸出によってオーストラリア、ニュージーランドにも移入されている。\n子実体の色は茶色に近く、高さ6cm、傘は漏斗型で直径12cm、傘の縁は巻き込み、ひだは垂生形で柄に近い部分は管孔状となる。\nひだを持つが、同じようなひだを持つハラタケ類でなく管孔を持つイグチ類と近縁である。\n1785年にピエール・ビュイヤールにより記載され、1838年にエリーアス・フリースにより現在の学名が与えられた。\n遺伝子調査では、Paxillusinvolutusは単一種ではなく種複合体を構成しているようである。", "qas": [ { "question": "ヒダハタケの現在の学名をつけた人は誰?", "id": "tr-314-00-000", "answers": [ { "text": "エリーアス・フリース", "answer_start": 228, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヒダハタケの子実体はどれくらいの高さですか?", "id": "tr-314-00-001", "answers": [ { "text": "6cm", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヒダハタケの傘の直径はどれくらいの長さですか?", "id": "tr-314-00-002", "answers": [ { "text": "12cm", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒダハタケを最初に記載した人は誰?", "id": "tr-314-00-003", "answers": [ { "text": "ピエール・ビュイヤール", "answer_start": 203, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "晩夏から秋に温帯落葉樹林・温帯針葉樹林や緑地で見られる普通種で、多様な樹木と菌根を形成する。\nこの共生は、宿主の重金属吸収を減らすだけでなく、Fusariumoxysporumのような病原体への抵抗性も増大させる。\n生食によって消化管の不調を引き起こすことは知られていたが、かつては食用キノコと見なされ、東ヨーロッパ・中央ヨーロッパで広く食されていた。\nだが、1944年にドイツの菌類学者ユリウス・シェッファーが中毒死したことで毒キノコと分かった。\nこれは、以前の摂取で悪影響が無かったとしても、反復的な摂取で突然発症する可能性がある。\n毒性は致命的な自己免疫性の溶血によるもので、キノコに含まれる抗原が免疫系に赤血球を攻撃させることによる。\nこれにより、急性腎不全・ショック・呼吸不全・播種性血管内凝固症候群などの合併症が発症する。", "qas": [ { "question": "誰が中毒死したことによってヒダハタケが毒キノコだと判明したの?", "id": "tr-314-01-000", "answers": [ { "text": "ユリウス・シェッファー", "answer_start": 194, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヒダハタケが毒キノコであることが判明した年はいつ?", "id": "tr-314-01-001", "answers": [ { "text": "1944年", "answer_start": 180, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1785年、フランスの菌類学者ピエール・ビュイヤールによってAgaricuscontiguusの名で記載された。\nだが、正式発表された学名と認められているのは、1786年のAugustBatschによるAgaricusinvolutusである。\nw:JamesBoltonが1788年にAgaricusadscendibusの名で記載した種も、IndexFungorumによれば本種のシノニムである。\n他のシノニムとしては、1821年のSamuelFrederickGrayによるOmphaliainvoluta・1844年のGottlobLudwigRabenhorstによるRhymovisinvolutaがある。", "qas": [ { "question": "ピエール・ビュイヤールはヒダハタケのことを何と記載しましたか?", "id": "tr-314-02-000", "answers": [ { "text": "Agaricuscontiguus", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "正式な学名となったのはAgaricuscontiguusとAgaricusinvolutusのどちらですか?", "id": "tr-314-02-001", "answers": [ { "text": "Agaricusinvolutus", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ピエール・ビュイヤールの役職は何ですか?", "id": "tr-314-02-002", "answers": [ { "text": "菌類学者", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "OmphaliainvolutaとRhymovisinvolutaはどちらが先に出ましたか?", "id": "tr-314-02-003", "answers": [ { "text": "Omphaliainvoluta", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "現在の学名は1838年、'菌学の父'として知られるスウェーデンの博物学者、エリーアス・フリースによるもので、彼はPaxillus属を立てて本種をそのタイプ種とした。\n菌類の分類学の始まりは1821年1月1日、フリースの著作の出版に伴うもので、これ以前に発表された名前はフリースによって認可名と認められていなければ正名とならなかった。\nそのため、コロンによって認可名であることを示し、”Paxillusinvolutus(Batsch:Fr.)Fr.”とするのが正式な表記であった。\nだが、1987年の国際藻類・菌類・植物命名規約の改定によって、学名の起点は1753年5月1日、カール・フォン・リンネのSpeciesPlantarumの出版日となった。\nそのため、現在ではフリースによる認可は不要である。", "qas": [ { "question": "菌学の父'とは誰のことを指していますか?", "id": "tr-314-03-000", "answers": [ { "text": "エリーアス・フリース", "answer_start": 37, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "エリーアス・フリースはどこの国の博物学者ですか?", "id": "tr-314-03-001", "answers": [ { "text": "スウェーデン", "answer_start": 25, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その後、フランスの菌類学者ルネ・メールによって、ハラタケ類(agaric)とイグチ類(bolete)の双方に関連する科としてヒダハタケ科Paxillaceaeが立てられた。\n本種は管孔でなくひだを持つにもかかわらず、ひだを持つハラタケ目ではなく管孔を持つイグチ目に属するとされている。\n属名Paxillusはラテン語で\"ペグ\"・\"プラグ\"を意味する。\n種小名involutusは\"湾曲した\"の意味で、傘の縁が内側に巻いていることに由来する。\n英名にはnakedbrimcap・poisonpaxillus・inrolledpax・poisonpax・commonroll-rim・brownroll-rim・brownchanterelleなどがある。\nGrayは1821年の英国の植物相大要の中で本種を\"involvednavel-stool\"と呼んでいる。", "qas": [ { "question": "ラテン語で\"ペグ\"や\"プラグ\"を意味している言葉は何ですか?", "id": "tr-314-04-000", "answers": [ { "text": "Paxillus", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "involutusの意味は何?", "id": "tr-314-04-001", "answers": [ { "text": "\"湾曲した\"", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "生態・遺伝学的研究からは、本種は複数の類似した種を含む種複合体であることが示唆される。\n1981-83年に行われたウプサラ周辺での調査で、菌類学者NilsFriesは相互に交雑しない3つの個体群を発見した。\n1つの個体群は針葉樹、または混交林で、2つの個体群はカバノキに近接した緑地で発見された。\n1つ目の個体群の子実体は単独で、柄は細く、傘の縁はあまり巻き込まないのに対し、他の2個体群の子実体は群生し、太い柄を持ち、傘の縁は強く巻き込み波打つこともある。\nだが、これらは一般的な傾向に過ぎず、これらの個体群を区別する明瞭な巨視的、微視的特徴は発見できなかった。", "qas": [ { "question": "相互に交雑しない個体群3つの発見者は誰ですか?", "id": "tr-314-05-000", "answers": [ { "text": "NilsFries", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "交雑しない3つの個体群はどこで発見されたの?", "id": "tr-314-05-001", "answers": [ { "text": "ウプサラ周辺", "answer_start": 57, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "バイエルン州で採集した標本の塩基配列を分子系統的手法で比較した研究では、緑地、庭から得られた標本は北米に分布するPaxillusvernalisに、森林から得られた標本はムクゲヒダハタケに近縁であるという結果が得られた。\n著者は、緑地の個体群は北米から移入されたものであると推測している。\nヨーロッパ産の分離株を用いた多重遺伝子解析からは、P.involutussensulatoはP.obscurosporus・P.involutussensustricto・P.validus・未同定の1種の4つの遺伝的系統に分離できることが示された。\n宿主範囲の変異は、この内の複数の系統で独立に、頻繁に発生している。", "qas": [ { "question": "標本がムクゲヒダハタケに近かったのは緑地と森林のどちらから得られたものですか?", "id": "tr-314-06-000", "answers": [ { "text": "森林", "answer_start": 74, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "緑地の個体群はどこから移入されたものだと推測されていますか?", "id": "tr-314-06-001", "answers": [ { "text": "北米", "answer_start": 122, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヒダハタケは茶色い木製の独楽のような形態で、子実体の地上部は高さ6cm程度になる。\n傘は最初は凸型であるが、その後中心部が凹んで漏斗型になり、縁が巻き込む。\n色は赤・黄・またはオリーブ色がかった茶色で、幅4–12cm、傘の直径は15cmを超えない。\n表面は最初は綿毛状であるが、その後滑らかになり、湿ると粘りが出る。\n若い子実体では、傘と傘の縁がひだを保護している(pilangiocarpicdevelopment)。\nひだは細くて黄褐色で、垂生形で分岐しており、イグチ類の管孔のように肉から容易に剥がすことができる。\nひだは柄に近づくに従って不規則な網目状となり、イグチ類の管孔に類似する。\n傷つけると暗い色に変色し、古い標本には暗い斑点が現れることがある。", "qas": [ { "question": "ヒダハタケのひだは何色?", "id": "tr-314-07-000", "answers": [ { "text": "黄褐色", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒダハタケの傘の幅はどれくらいですか?", "id": "tr-314-07-001", "answers": [ { "text": "4–12cm", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヒダハタケの傘の直径は何cm以内ですか?", "id": "tr-314-07-002", "answers": [ { "text": "15cm", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヒダハタケの肉は黄味がかって水分が多く、わずかに酸味、鋭い匂い、味があり、調理することでよい風味がすると記録されている。\n柄は短く、傘と似た色で、曲がることがあり、基部に向けて先細りとなっている。\n胞子紋は褐色、胞子は楕円体で長径7.5–9μm、短径5–6μm。\nひだは細い糸状の縁・側シスチジアを持ち、長さ40–65μm、幅8–10.5μm程度になる。", "qas": [ { "question": "ヒダハタケの胞子の長径はどれくらいですか?", "id": "tr-314-08-000", "answers": [ { "text": "7.5–9μm", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒダハタケの胞子の短径はどれくらいですか?", "id": "tr-314-08-001", "answers": [ { "text": "5–6μm", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒダハタケのひだの長さはどれくらいですか?", "id": "tr-314-08-002", "answers": [ { "text": "40–65μm", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "茶色であることと、漏斗型であることから、多少の毒性を有するチチタケ属の種と混同されることがあるが、乳白色の滲出液を分泌しないことで区別できる。\nウグイスチャチチタケLactariusturpisとよく似ているが、この種は暗いオリーブ色である。\n北米で見られるPaxillusvernalisとは、胞子紋の色が暗い、柄が太い、ポプラの下に生育する、などの点で区別できる。\nムクゲヒダハタケP.filamentosusと本種はさらに類似しているが、この種は稀で、ハンノキの下にしか生育せず、傘の縁に向いた平たい鱗片を持つ、肉は淡黄色で傷つけても僅かにしか褐色にならない、傷つけても変色しない深い黄土色のひだを持つ、などの点で区別できる。", "qas": [ { "question": "ウグイスチャチチタケはどんな色をしているの?", "id": "tr-314-09-000", "answers": [ { "text": "暗いオリーブ色", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "本種より類似しているのはウグイスチャチチタケとムクゲヒダハタケのどちらですか?", "id": "tr-314-09-001", "answers": [ { "text": "ムクゲヒダハタケ", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "Paxillusvernalisはどこに生息しているの?", "id": "tr-314-09-002", "answers": [ { "text": "北米", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ヨーロッパにおいては、かつて本種と同種だと見なされていた2種が存在する。\nPaxillusobscurosporusは本種より大型で、傘の直径は40cmに達し、縁は最初は巻いているが、時間とともに平たくなる。\n柄は先細りになり、基部をクリーム色の菌糸が覆っている。\nPaxillusvalidusは広葉樹林や緑地で見られ、直径20cmに達し、柄の太さは上部と下部で変わらない。\nヒダハタケを含むヒダハタケ属の種は、根状菌糸束(rhizomorph)に存在する結晶物の長さが0.5μm以下であるのに対し、Paxillusvalidusでは2.5μmに達する。", "qas": [ { "question": "傘の直径が大きいのはPaxillusobscurosporusとPaxillusvalidusのどちらですか?", "id": "tr-314-10-000", "answers": [ { "text": "Paxillusobscurosporus", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "Paxillusobscurosporusと本種はどちらが大きいですか?", "id": "tr-314-10-001", "answers": [ { "text": "Paxillusobscurosporus", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "多くの針葉樹や落葉樹と外菌根を形成する。\n栄養要求が特殊ではないため宿主特異性が低く、研究や植樹によく用いられる。\nこの菌根は宿主にも利益をもたらす。\n本種をPinusresinosaの滲出液で培養した実験では、病原性のカビであるFusariumoxysporumの増殖を抑制することが示された。\n苗木に本種を接種した場合も、フザリウム属のカビへの抵抗性が増すことが示されている。\n本種は抗菌物質を作り出し、宿主の根腐れを防いでいるのかもしれない。\nまた、重金属のような毒性物質の吸収を減らし、宿主への毒性を軽減する効果もある。\n例えば、本種はヨーロッパアカマツの苗木に対するカドミウム・亜鉛の毒性を軽減する。\nカドミウム自体は菌根の形成を阻害するが、菌根はカドミウム・亜鉛の根への移送を減少させると同時に、亜鉛の移送割合を変化させることでカドミウムを根に留め、植物体全体の代謝経路への侵入を妨げる。\n解毒機構には、菌の細胞壁にカドミウムが結合すること、液胞に蓄積されることが関わっていると考えられる。\nさらに、菌根は銅・カドミウムなどに曝されたとき、金属を結合する低分子タンパクであるメタロチオネインの生産量を急速に増加させる。", "qas": [ { "question": "本種をPinusresinosaの滲出液で培養した実験では、何という病原性のカビを抑制したの?", "id": "tr-314-11-000", "answers": [ { "text": "Fusariumoxysporum", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "本種はヨーロッパアカマツの苗木に対して何と亜鉛の毒性を減らしたの?", "id": "tr-314-11-001", "answers": [ { "text": "カドミウム", "answer_start": 288, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "本種がヨーロッパアカマツの根に存在すると、根に付着している細菌が減り、代わりに菌糸に付着するようになる。\nまた、細菌叢も変化する。\n1997年のフィンランドでの調査では、菌根が存在しないとき、ヨーロッパアカマツの根の細菌叢は有機酸やアミノ酸を利用していたが、本種の菌根が存在するときにはフルクトースを利用していた。\nまた、本種自身も土壌細菌から利益を受けている。\n本種の成長時に排出されるポリフェノールは、そのままでは本種の成長を阻害するが、この物質を細菌が分解することで再び成長することができる。\nまた、細菌が作り出すクエン酸やリンゴ酸のような物質も本種の成長を刺激する。", "qas": [ { "question": "本種の成長時に排出される成分とは何?", "id": "tr-314-12-000", "answers": [ { "text": "ポリフェノール", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "本種は極めて豊富であり、北半球の広い範囲で見られる。\nヨーロッパだけでなく、アジアではインド・中国・日本・イラン・アナトリア半島、北米でも同じように広範囲に分布し、アラスカ州中心部のツンドラ地帯、コールドフット近郊からも記録がある。\nグリーンランド南西部ではカバノキ属のヒメカンバ・ヨーロッパダケカンバ・Betulaglandulosaなどの樹の下で採集されている。\nヨーロッパの針葉樹林でも普遍的に見られるが、オウシュウシラカンバとも共生する。\n森林内では、湿った場所や泥状の場所を好み、石灰質の土壌は嫌う。\nまた、ヨーロッパではニセイロガワリ、北米の太平洋岸北西部ではヤマイグチやLactariusplumbeusに隣接して生育することが記録されている。\n落葉・針葉樹林どちらでも見られ、主に都市のアメリカシラカンバの下で見られる。\n植林されたラジアータパインの林で生育できる数少ないキノコの一つでもある。\nフィンランド北部、オウル周辺のヨーロッパアカマツ林での調査では、本種は他のキノコが減少するような高度に汚染された土地でもよく生育することが示された。\n汚染の原因は製紙工場・肥料・暖房・交通であり、松の葉に含まれる硫黄分によって測定したものである。", "qas": [ { "question": "ヨーロッパの針葉樹林で本種との共生が見られる樹木とは何?", "id": "tr-314-13-000", "answers": [ { "text": "オウシュウシラカンバ", "answer_start": 206, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヒメカンバは何属に含まれていますか?", "id": "tr-314-13-001", "answers": [ { "text": "カバノキ属", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヨーロッパダケカンバは何属に含まれているの?", "id": "tr-314-13-002", "answers": [ { "text": "カバノキ属", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "芝生や古い牧草地に出現する。\n子実体は、切り株周辺の腐食した木の上に生えることもあるが、一般的には地面から直接生える。\n子実体は晩夏から秋に出現する。\nDavidAroraはカリフォルニアにおいて、晩秋から冬にカシやマツの下に出現するフォームと、秋にカバノキの下に出現するフォームを区別している。\n幼虫の餌として子実体を利用する甲虫やハエもいる。\nまた、イグチ目に寄生する菌類、アワタケヤドリHypomyceschrysospermusの寄生を受ける。\n寄生を受けると、最初は白い粉を吹いたようになり、成熟とともに黄金色から赤茶色に変化する。", "qas": [ { "question": "子実体が出現し始めるのはいつの季節からですか?", "id": "tr-314-14-000", "answers": [ { "text": "晩夏", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種は何の菌類から寄生されますか?", "id": "tr-314-14-001", "answers": [ { "text": "アワタケヤドリ", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オーストラリアの菌類学者ジョン・バートン・クレランドは1934年、南オーストラリア州において本種がカラマツ・カシ・マツ・カバノキなどの移入樹木の下に発生していることを記録しており、その後ニューサウスウェールズ州・ビクトリア州(カバノキ・ポプラ属)、西オーストラリア州でも記録されている。\nニュージーランドにおいても、移入されたカバノキ・ハシバミから発見されている。\n菌類学者ロルフ・シンガーによって、同様の状況がチリに移入された樹木からも報告されている。\nこれらは、輸入された樹木に付着した土が原因のようである。", "qas": [ { "question": "南オーストラリア州において本種の発生を記録していた人は誰ですか?", "id": "tr-314-15-000", "answers": [ { "text": "ジョン・バートン・クレランド", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チリで、移入された樹木から本種が発見されたことを報告した人は誰ですか?", "id": "tr-314-15-001", "answers": [ { "text": "ロルフ・シンガー", "answer_start": 187, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "イギリスのガイドブックでは推奨されていなかったが、第二次大戦までは、中央ヨーロッパ・東ヨーロッパにおいて広く食用とされていた。\nポーランドでは酢漬け・塩漬けとして食べられていた。\n生食すると消化管刺激性があることが知られていたが、加熱すれば可食であると考えられてきた。\nだが、1944年10月にドイツの菌類学者ユリウス・シェッファーが本種を食べた後に死亡し、毒性が疑われ始めた。\nシェッファーと妻が本種を用いた料理を食べた後、シェッファーは嘔吐・下痢・発熱などの症状を示し始めた。\n症状が悪化したために彼は翌日病院へ行ったが、腎不全により17日後に死亡した。", "qas": [ { "question": "ユリウス・シェッファーはどこの国の菌類学者でしたか?", "id": "tr-314-16-000", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 147, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シェッファーは何月に亡くなったの?", "id": "tr-314-16-001", "answers": [ { "text": "10月", "answer_start": 143, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種を酢漬けや塩漬けで食していた国はどこ?", "id": "tr-314-16-002", "answers": [ { "text": "ポーランド", "answer_start": 64, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1980年代半ば、スイスの医師RenéFlammerは、本種に含まれる抗原が赤血球に対する自己免疫反応を引き起こすことを発見した。\nこれにもかかわらず、1990年までガイドブックは本種に関する警告を掲載しておらず、あるイタリアのガイドブックは1998年まで本種を食用と表記していた。\nこの自己免疫性溶血は比較的稀であるが、本種を繰り返し摂取した後に発生する。\n発症する1回前の摂取では、軽度の胃腸症状がみられることもある。\nこれは純粋な毒性物質ではなく、キノコ内の抗原によって発生するため、厳密にはアレルギー反応というべきである。\n抗原の構造は未知であるが、血漿中の免疫グロブリンGを凝集させる。\n継続的な摂取によって免疫複合体が形成され、これが赤血球表面に付着することで溶血が起こる。", "qas": [ { "question": "本種に含まれる抗原が赤血球に対する自己免疫反応を引き起こすことを発見した人は誰?", "id": "tr-314-17-000", "answers": [ { "text": "RenéFlammer", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "RenéFlammerの職業は何でしたか?", "id": "tr-314-17-001", "answers": [ { "text": "医師", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "中毒症状は急速に現れ、まず嘔吐・下痢・腹痛に伴って血液量減少が起こる。\nその直後に溶血が発生し、乏尿・血色素尿症・貧血に至る。\n臨床検査では、ビリルビンと遊離ヘモグロビンの増加、ハプトグロビンの減少が確認できる。\n溶血により、急性腎不全・ショック・急性呼吸不全・播種性血管内凝固症候群などの様々な合併症が引き起こされる。\nこの合併症は重篤なもので、死者も報告されている。", "qas": [ { "question": "嘔吐・下痢・腹痛に伴って起こる現象は何ですか?", "id": "tr-314-18-000", "answers": [ { "text": "血液量減少", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "血液量減少後に発生するものは何ですか?", "id": "tr-314-18-001", "answers": [ { "text": "溶血", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "臨床検査で減少が確認された成分とは何?", "id": "tr-314-18-002", "answers": [ { "text": "ハプトグロビン", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "解毒剤はないため、全血球数・腎機能・血圧・電解質・体液平衡を監視・補正することによる支持療法が行われる。\nコルチコステロイドを用いることで溶血を防ぎ、合併症を減らせる可能性がある。\n血漿交換によって免疫複合体を取り除くことでも転帰が改善する可能性がある。\nまた、腎機能障害・腎不全が発生した場合には血液透析を用いることができる。\n染色体を傷害する物質が含まれることもわかっているが、発がん性・変異原性があるかどうかは不明である。\n2種のフェノール類が同定されており、それぞれインボルトン・インボルチンと呼ばれる。\n後者は、本種を傷つけた際に茶色に変色する原因であることが分かっている。\n日本における古い文献では、無毒だが食不適と記載されていたが、比較的新しい近年の文献ではほとんどが有毒扱いとなっている。", "qas": [ { "question": "溶血を防ぐことのできる物質は何ですか?", "id": "tr-314-19-000", "answers": [ { "text": "コルチコステロイド", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本種を傷つけた際に茶色に変色する原因とは何?", "id": "tr-314-19-001", "answers": [ { "text": "インボルチン", "answer_start": 244, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "イギリス東インド会社", "paragraphs": [ { "context": "イギリス東インド会社(イギリスひがしインドがいしゃ、英:EastIndiaCompany(EIC))は、アジア貿易を目的に設立された、イギリスの勅許会社である。アジア貿易の独占権を認められ、イングランド銀行から貸付を受けながら、17世紀から19世紀半ばにかけてアジア各地の植民地経営や交易に従事した。当初は香辛料貿易を主業務としたが、次第にインドに行政組織を構築し、徴税や通貨発行を行い、法律を作成して施行し、軍隊を保有して反乱鎮圧や他国との戦争を行う、インドの植民地統治機関へと変貌していった。セポイの乱(インド大反乱)の後、インドの統治権をイギリス王室に譲渡し、1858年に解散した。", "qas": [ { "question": "イギリスは何を目的として、イギリス東インド会社を設立したの?", "id": "tr-315-00-000", "answers": [ { "text": "アジア貿易", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "17世紀から19世紀半ばにかけて、アジア貿易の独占権を握ったうえでアジア各地の植民地経営や交易に従事した会社は、どの会社ですか?", "id": "tr-315-00-001", "answers": [ { "text": "イギリス東インド会社", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "インドの植民地統治機関としてよく知られている、イギリス東インド会社は、当初、何を主業務としていたか?", "id": "tr-315-00-002", "answers": [ { "text": "香辛料貿易", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリス東インド会社が解散したのは、いつか?", "id": "tr-315-00-003", "answers": [ { "text": "1858年", "answer_start": 283, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "厳密には「イギリス東インド会社」は単一の組織ではなく、ロンドン東インド会社(旧会社)、イングランド東インド会社(新会社)、合同東インド会社(合同会社)という三つの会社の総称である。初期には東インド(インドネシア)の香辛料貿易をめざしてジャワ島のバンテンやインドのスーラトに拠点を置き、マレー半島のパタニ王国やタイのアユタヤ、日本の平戸、台湾の安平にも商館を設けた。アジアの海域の覇権をめぐるスペイン、オランダ、イギリス3国の争いの中で、アンボイナ事件後、活動の重心を東南アジアからインドに移した。", "qas": [ { "question": "イギリス東インド会社という名称に含まれる会社には、ロンドン東インド会社とイングランド東インド会社のほかに、どの会社があるの?", "id": "tr-315-01-000", "answers": [ { "text": "合同東インド会社", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当初、イギリス東インド会社は、どこ向けの香辛料貿易を目的としていましたか?", "id": "tr-315-01-001", "answers": [ { "text": "東インド", "answer_start": 94, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "初期のイギリス東インド会社が商館を設けた国には、パタニ王国と日本のほかに、どの国があるか?", "id": "tr-315-01-002", "answers": [ { "text": "台湾", "answer_start": 168, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アジアの海域の覇権をめぐり争った、ヨーロッパの3か国には、イギリスとオランダのほかに、どの国があるか?", "id": "tr-315-01-003", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 195, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "インドにおける会社の大拠点はベンガルのカルカッタ、東海岸のマドラス、西海岸のボンベイである。フランス東インド会社と抗争し、1757年にプラッシーの戦いで、同社の軍隊がフランス東インド会社軍を撃破し、インドの覇権を確立した。以後単なる商事会社のみならず、インド全域における行政機構としての性格をも帯びるようになった。ナポレオン戦争後は再び東南アジアに進出して海峡植民地を設立、ビルマとも戦った。18世紀以降、中国の広東貿易にも参入してアヘン戦争を引き起こし、香港を獲得した。しかし、同社による統治の失敗からインド大反乱を引き起こし、会社軍は反乱をようやく鎮圧したものの、インドの行政権をヴィクトリア女王に譲渡し、1874年に解散した。", "qas": [ { "question": "イギリスがインド地域を手にしたのは、いつ起こった戦いで勝ったからなの?", "id": "tr-315-02-000", "answers": [ { "text": "1757年", "answer_start": 61, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "中国との戦争で勝利したイギリスは、どこを獲得しましたか?", "id": "tr-315-02-001", "answers": [ { "text": "香港", "answer_start": 228, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリス東インド会社の解散後、インドに対する実権は、誰が握ったか?", "id": "tr-315-02-002", "answers": [ { "text": "ヴィクトリア女王", "answer_start": 292, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリス東インド会社が中国の広東貿易に参入し始めたのは、何世紀以降のことか?", "id": "tr-315-02-003", "answers": [ { "text": "18世紀以降", "answer_start": 196, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1577年から1580年にかけてのフランシス・ドレークの世界周航を皮切りに、イギリス(イングランド王国)は、世界の海への進出を開始していた。しかし、当時のイギリスの航海の性格は、略奪、探検、冒険航海の色が強かった。また、すでに、レヴァント会社という会社組織が結成されており、地中海やモスクワ経由で地中海東岸地域との貿易を専門とする商社がイギリスにおけるアジアとの貿易を独占していた。だが、1595年、オランダがジャワ島バンテンへ4隻から構成される船団を派遣し、この派遣の成功がヨーロッパ中に衝撃を与えた。", "qas": [ { "question": "1577年から1580年の間に世界一周を果たした人物は?", "id": "tr-315-03-000", "answers": [ { "text": "フランシス・ドレーク", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランシス・ドレークが世界一周の航海に旅立ったのは、何年のことですか?", "id": "tr-315-03-001", "answers": [ { "text": "1577年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1595年、ジャワ島バンテンへ4隻から構成される船団を派遣した国は、どの国か?", "id": "tr-315-03-002", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 200, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イギリスが世界の海への進出を目論む契機となったのは、誰の世界一周か?", "id": "tr-315-03-003", "answers": [ { "text": "フランシス・ドレーク", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "レヴァント会社はオランダが直接、アジアから東方の物産を大量に仕入れることができたことを目の当たりにしたことで、自らの独占が打破されることを危惧した。とはいえ、当時の航海技術、資本の蓄積では非常にリスクが高いものであった。そこで、レヴァント会社の人間が中心となり、航海ごとに資金を出資する形で東インド会社が設立されることとなった。貿易商人の組合に近い性格を持っていたレヴァント会社、モスクワ会社などといったそれまでの制規会社とは異なり、東インド会社は自前の従業員を持つジョイント・ストック・カンパニー(合本会社)として設立された。さらに、エリザベス1世にアジアの貿易に関して、独占を許可する要請を行った。最初の航海は、1601年3月、4隻の船団が東南アジアへ派遣された。215人の出資者から68,373ポンドの資金を集めたこの航海は成功に終わった。", "qas": [ { "question": "レヴァント会社によるアジア貿易独占体制に亀裂がはいたのは、どの国によることなの?", "id": "tr-315-04-000", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリス東インド会社の設立において中心となった人は、どこの人間ですか?", "id": "tr-315-04-001", "answers": [ { "text": "レヴァント会社", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レヴァント会社とモスクワ会社、東インド会社のうち、その性格が異なる会社は、どちらですか?", "id": "tr-315-04-002", "answers": [ { "text": "東インド会社", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東インド会社における最初の航海とは、どこにむける航海であったか?", "id": "tr-315-04-003", "answers": [ { "text": "東南アジア", "answer_start": 322, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "その後、イギリス東インド会社は、オランダ東インド会社と東南アジアにおける貿易をめぐって、衝突を繰り返すこととなった。1602年にはジャワ島のバンテンに、1613年には、日本の平戸に商館を設置した。1610年代から20年代にかけてのイギリス、オランダ、スペインの競合において、オランダは、1612年にスペインとの間で休戦協定を締結する事により、イギリスとの対立を鮮明にした。しかし、オランダは、イギリスと対立するゆとりが無い事を悟り、1619年には、オランダ東インド会社に対して、イギリス東インド会社との融和を命じると同時に、1619年にはイギリス、オランダ両国の間で休戦協定が締結された。", "qas": [ { "question": "イギリス東インド会社と東南アジアにおける貿易をめぐって争ったのは、誰?", "id": "tr-315-05-000", "answers": [ { "text": "オランダ東インド会社", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジャワ島と日本のうち、イギリス東インド会社がより早く商館を設置したのは、どちらの地域ですか?", "id": "tr-315-05-001", "answers": [ { "text": "ジャワ島", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オランダがスペインとの間で休戦協定を締結したのは、何年のことか?", "id": "tr-315-05-002", "answers": [ { "text": "1612年", "answer_start": 143, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オランダは、イギリスとスペインのうち、どの国との競争により集中する方策を採ったのか?", "id": "tr-315-05-003", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 115, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "とはいえ、1623年のアンボイナ事件をはさんだ時期において、平戸の商館を閉鎖するなど、アンボイナ事件以前より、イギリスは東アジア・東南アジアにおける活動を縮小しており、イギリス東インド会社の主な活動拠点は、インド亜大陸とイラン(サファヴィー朝)へ移っていった。今日、アンボイナ事件の歴史的意義を見直す動きもあり、アンボイナ事件を契機に東南アジアにおける活動の撤退をしたとされる学説を否定する主張もある。それによると、あくまで、アンボイナ事件の意義とは、イギリス、オランダ両国において、封印されるべき記憶として刻印されたものの、事件の原因は当時のオランダ東インド会社総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーン(en:JanPieterszoonCoen)が個人的にイングランド人を毛嫌いにしており、本国政府の意向を無視したからに他ならないとの事である。", "qas": [ { "question": "アンボイナ事件とは、何年にあった事件なの?", "id": "tr-315-06-000", "answers": [ { "text": "1623年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic 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"1639年には、マドラスの領主に招聘される形で、要塞の建設が開始された。また、サファヴィー朝のシャー・アッバース1世にも使節を派遣し、その結果、当時、ポルトガルの活動拠点であったホルムズ島はサファヴィー朝の支配下に入った。ホルムズ島の対岸に港市機能を持たせたバンダレ・アッバースが建設された。当時のイギリス東インド会社の弱点は、航海ごとに、出資者を募りその売り上げ全てを出資者に返却する方式であった。この方式では継続的に商業活動を営むオランダ東インド会社との対抗が時代を経るごとに困難になってきた。1657年、オリヴァー・クロムウェルによって、会社組織の改組が実施された。この改組により、利潤のみを株主に分配する方式へ改めると同時に株主は会社経営に参画できる総会方式が採用されることとなった。", "qas": [ { "question": "イギリス東インド会社は、サファヴィー朝の誰に対し、使節を派遣したの?", "id": "tr-315-07-000", "answers": [ { "text": "シャー・アッバース1世", "answer_start": 47, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "どの島に、バンダレ・アッバースが建設されましたか?", "id": "tr-315-07-001", "answers": [ { "text": "ホルムズ島", "answer_start": 111, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イギリス東インド会社における会社組織の改組は、何年に進められたか?", "id": "tr-315-07-002", "answers": [ { "text": "1657年", "answer_start": 249, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリス東インド会社における会社組織の改組は、誰により進められたか?", "id": "tr-315-07-003", "answers": [ { "text": "オリヴァー・クロムウェル", "answer_start": 255, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1670年代から1680年代にかけて、イギリス経済は空前の好況が訪れた。1671年から1681年にかけて支払われた配当金は、利回りで合計240%になり、1691年までの10年間での配当利回りは合計で450%となった。背景には、イギリス国内における「キャラコ熱」と呼ばれるほどの綿製品に対する需要があった。東インド会社の株式は投機の対象となり、インサイダー取引も横行する状況でもあった。その中で登場したのが、ジョサイア・チャイルド(en:JosiahChild)である。東インド会社総裁に就任したチャイルドはインサイダー取引を駆使し、巨万の富を得たとされる。チャイルドは王室とも癒着関係を持っていた。", "qas": [ { "question": "1670年代から1680年代にかけて、イギリス経済が好況を迎えたのは、何に対する需要が高かったからであるの?", "id": "tr-315-08-000", "answers": [ { "text": "綿製品", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この時期に新たにイギリス東インド会社の総裁となった人は、誰ですか?", "id": "tr-315-08-001", "answers": [ { "text": "ジョサイア・チャイルド", "answer_start": 203, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "新たにイギリス東インド会社の総裁となった人は、何を駆使し巨万の富を得たか?", "id": "tr-315-08-002", "answers": [ { "text": "インサイダー取引", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかし、名誉革命により、ジェームズ2世が失脚すると、新しく国王となったウィリアム3世の命令により、1698年9月には、「東インドと貿易をする英国のカンパニー」が設立され、旧会社に付与されていた特権は、3年後に失効する形となった。その後、旧東インド会社の経営状況が改善され、1709年、新旧両会社は合同された。", "qas": [ { "question": "名誉革命により王位から追い出されたのは、誰?", "id": "tr-315-09-000", "answers": [ { "text": "ジェームズ2世", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "名誉革命によりイギリス国王に即位したのは、誰ですか?", "id": "tr-315-09-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム3世", "answer_start": 35, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イギリス東インド会社に付与されていた特権が失効となったのは、何年度から3年後のことか?", "id": "tr-315-09-002", "answers": [ { "text": "1698年", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「東インドと貿易をする英国のカンパニー」が設立されたのは、いつか?", "id": "tr-315-09-003", "answers": [ { "text": "1698年9月", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "インド南東部・コロマンデル海岸にマドラスという拠点を獲得したイギリスであるが、それ以外の地域でも商館の建設に随時成功していった。1661年には、チャールズ2世とポルトガル王女キャサリン・オブ・ブラガンザが結婚した。この時の持参金の一部がボンベイである。インド北西部での活動拠点をスーラトからボンベイへ移した際に、パールシーの商人や職人が移住した。ボンベイでゾロアスター教徒が活躍したことは、沈黙の塔(en:TowersofSilence)が建設されたことでも分かる。ボンベイの人口は、1671年には10万人に到達した。", "qas": [ { "question": "1661年にポルトガル王女キャサリン・オブ・ブラガンザと結婚したのは、誰?", "id": "tr-315-10-000", "answers": [ { "text": "チャールズ2世", "answer_start": 72, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ボンベイでゾロアスター教徒が活躍したことの印となるのは、何ですか?", "id": "tr-315-10-001", "answers": [ { "text": "沈黙の塔", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリスの活動拠点として選ばれたことにより、ものすごい発展を見せたところは、どこか?", "id": "tr-315-10-002", "answers": [ { "text": "ボンベイ", "answer_start": 145, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ボンベイについで獲得した主要な拠点がカルカッタである。1702年に、ウィリアム砦の建設を開始していたが、1717年、イギリス東インド会社は、ムガル帝国第9代皇帝ファッルフシヤルから、ベンガル地方における輸出関税の免除という特権を獲得した。ベンガル地方は、当時のイギリスが求めていた産物の集散地であった。このことから、イギリス東インド会社の輸出の重心はカルカッタへと移動する。1750年には、イギリス東インド会社全体の75%がベンガル地方で占めるようになった。", "qas": [ { "question": "イギリス東インド会社が、ベンガル地方における輸出関税の免除という特権を獲得したのは、何年のこと?", "id": "tr-315-11-000", "answers": [ { "text": "1717年", "answer_start": 52, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ベンガル地方における輸出関税の免除の特権獲得に伴い、イギリス東インド会社の輸出の重心地は、どこへと移されましたか?", "id": "tr-315-11-001", "answers": [ { "text": "カルカッタ", "answer_start": 175, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イギリス東インド会社全体の75%がベンガル地方で占めるようになったのは、何年のことか?", "id": "tr-315-11-002", "answers": [ { "text": "1750年", "answer_start": 187, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1717年、イギリス東インド会社にベンガル地方における輸出関税の免除という特権を与えたのは、誰か?", "id": "tr-315-11-003", "answers": [ { "text": "ファッルフシヤル", "answer_start": 80, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "とはいえ、17世紀のイギリス東インド会社の進出はあくまで、インドで産出される物産を独占することが目的となっていたため、必ずしも領土的野心を持って進出したわけではないことは明確にしておかなければならない。また、フランス東インド会社が1664年に、コルベールの肝いりで設立されるとインドにおける貿易は、イギリス、フランス、オランダ、さらには、デンマークやスウェーデンといった北欧諸国との競争が激化することとなった。", "qas": [ { "question": "フランス東インド会社が設立されたのは、何年?", "id": "tr-315-12-000", "answers": [ { "text": "1664年", "answer_start": 115, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "インドにおける貿易を巡ってイギリスと争った国としては、フランスとオランダ、デンマークのほかに、どの国が挙げられていますか?", "id": "tr-315-12-001", "answers": [ { "text": "スウェーデン", "answer_start": 175, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "デンマークとスウェーデン、オランダのうち、ヨーロッパの地域区分において同じ地域として分類されないのは、どの国か?", "id": "tr-315-12-002", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 159, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イギリスとフランス、オランダ、デンマーク、スウェーデンは、何を巡って激しく争ったか?", "id": "tr-315-12-003", "answers": [ { "text": "インドにおける貿易", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] } ] }