{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "ジークフリート(楽劇)", "paragraphs": [ { "context": "『ジークフリート』は、リヒャルト・ワーグナーが1856年から1871年にかけて作曲し1876年に初演した楽劇だ。台本も作曲者による。ワーグナーの代表作である舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』四部作の3作目に当たる。原案は叙事詩『ニーベルンゲンの歌』及びドイツの英雄的主題『ニーベルンゲン伝説』。『ニーベルングの指環』四部作は、ひとつのプロローグと3日を要する舞台上演と見なすことができ、その「第2日」に当たる本作『ジークフリート』は、「序夜」(『ラインの黄金』)を除く「三部作」の中間に位置づけられる作品である。「指環」四部作はそれぞれ独立した性格を持ち、単独上演が可能である。『ジークフリート』は全3幕からなり、上演時間は約3時間50分だ。第2幕第2場「森のささやき」の音楽はしばしば管弦楽のみで独立して演奏される。", "qas": [ { "question": "『ジークフリート』の台本を書いたのは誰?", "id": "tr-165-00-000", "answers": [ { "text": "リヒャルト・ワーグナー", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ジークフリート』は『ニーベルングの指環』四部作の何作目に当たるか。", "id": "tr-165-00-001", "answers": [ { "text": "3作目", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ジークフリート』の上演時間は?", "id": "tr-165-00-002", "answers": [ { "text": "約3時間50分", "answer_start": 311, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ジークフリート』は全部で何幕で構成されているか。", "id": "tr-165-00-003", "answers": [ { "text": "全3幕", "answer_start": 298, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『ジークフリート』の物語は、『エッダ』、『ヴォルスンガ・サガ』など北欧神話の物語を軸にしつつドイツの叙事詩『ニーベルンゲンの歌』を始めとするドイツ英雄伝説や、ワーグナー独自の重層的・多義的な世界が構築されている。直接引用されてはいないがギリシア神話の影響も多分に見られる。\n\n『ジークフリート』の台本は1852年12月、音楽は1856年から1871年にかけてそれぞれ完成された。作曲期間には後述の通り10年以上の中断をはさんでいる。1876年8月13日から17日まで開催された第1回バイロイト音楽祭において、『ニーベルングの指環』四部作全曲として初演された。\n\nバイロイト音楽祭では四部作が連続上演される。内訳は以下のとおり。\n\n序夜『ラインの黄金』(DasRheingold)\n第1日『ヴァルキューレ』(DieWalküre)\n第2日『ジークフリート』(Siegfried)本作\n第3日『神々の黄昏』(Götterdämmerung)", "qas": [ { "question": "『ジークフリート』の音楽は何年に完成されたか。", "id": "tr-165-01-000", "answers": [ { "text": "1871年", "answer_start": 170, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ニーベルングの指環』が初演されたのはどの音楽祭のときですか。", "id": "tr-165-01-001", "answers": [ { "text": "第1回バイロイト音楽祭", "answer_start": 238, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第1回バイロイト音楽祭は1876年8月13日から何日まで開催されましたか。", "id": "tr-165-01-002", "answers": [ { "text": "17日", "answer_start": 228, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『ジークフリート』のジークフリートは、難役の多いワーグナーのテノール役の中でも最高峰の難役として知られる。初演以来、この役をこなした歌手は多くなく、その中でも名声を得た歌手は限られている。\n声量や表現力が求められるのはもちろんだが、困難さの第一は体力・スタミナ面にある。『ジークフリート』では、全3幕を通じてほぼ出ずっぱりである上、第3幕から登場する元気なブリュンヒルデとの長大な二重唱を最後まで歌いきらなければならない。\n『指環』四部作の上演では、本作とつづく『神々の黄昏』の間に1日休みを取る場合があるが、これはもっぱらジークフリート役の負担が大きいためとされる。また、このためにジークフリート役を二人にする措置も見られる。", "qas": [ { "question": "ワーグナーのテノール役の中でも最高峰の難役として知られている役は何ですか。", "id": "tr-165-02-000", "answers": [ { "text": "ジークフリート", "answer_start": 1, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "グレア", "paragraphs": [ { "context": "グレア(glare、眩輝『げんき』、眩惑『げんわく』)とは、不快感や物の見えづらさを生じさせるような「まぶしさ」のことをいう。ある光の状態がグレアとなりうるか否かは、周辺の総合的な環境と個々人の生理的状態で決まる。光源とその周辺との明るさのバランスや、直接光・間接光の別、視線の方向と光源のなす角度などにも依存する。また、同じ光環境、同じ位置であっても、観察者の特性によってグレアとして受け取られるか否かは異なる。特に高齢者はグレアを感じ易く、また不快感から回復するのに要する時間も長い傾向にある。\n\nグレアは、程度によっては単なる不快感にとどまらず、眼の障害や、状況把握能力の急な低下による事故などにもつながるため、照明器具の設計や照明計画などにおいては、グレアを防ぐことが必須となる。国・地域によっては、道路交通や照明設計に関して、グレア防止のための法規が整備されている。たとえばヨーロッパでは「輝度制限法」によって照明器具の輝度が制限されている。\n\nなお、グレアは光害という概念とも一部共通するが、「光害」が主に公共性の面での問題として捉えられるのに対し、「グレア」はより工学的な問題として捉えられる。", "qas": [ { "question": "不快感や物の見えづらさを生じさせるような「まぶしさ」のことをどう呼びますか?", "id": "tr-166-00-000", "answers": [ { "text": "グレア", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ある光がグレアになるか否かを決める変数は周辺の総合的な環境以外に何がありますか?", "id": "tr-166-00-001", "answers": [ { "text": "個々人の生理的状態", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「光害」と「グレア」の中でもっと工学的接近を要する概念はどれか?", "id": "tr-166-00-002", "answers": [ { "text": "「グレア」", "answer_start": 481, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "グレアは、その原因や程度によって分類される。目の機能を生理的に損なう「不能グレア」「減能グレア」と、心理的に不快感を起こす「不快グレア」に分類される。不能グレアは視野内の極端な高輝度部分もしくは極端に高いコントラストにより、網膜が順応不能となった状態である。眼球内では入射光が散乱し、視界の把握がほとんど不能となる。減能グレアは不能グレアよりも軽度だが、眼球内での入射光の散乱によって視界の把握が困難となる。不快グレアは目の機能自体ではなく、眩しさによる心理的な不快感をおぼえる。不快グレアが長時間続くと、目の痛みやストレス、頭痛など二次的な害を生じることもある。", "qas": [ { "question": "グレアをその原因や程度によって分類した時、目の機能に生理的影響を与えるものではないのはどれか?", "id": "tr-166-01-000", "answers": [ { "text": "「不快グレア」", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "極端に高いコントラストにより網膜が順応不能状態になることをどう呼びますか?", "id": "tr-166-01-001", "answers": [ { "text": "不能グレア", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "減能グレアと不能グレアでその程度がより重いのはどれだ?", "id": "tr-166-01-002", "answers": [ { "text": "不能グレア", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "眩しさによる心理的な不快感を感じる現象は何ですか?", "id": "tr-166-01-003", "answers": [ { "text": "不快グレア", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、光源と観察者の関係によって、以下のように分類される。直接グレアは高輝度光源を直接見ることによって生じるグレアである。太陽や車のライトを直視した場合などに起こる。間接グレアは光沢のある面に映った光源(照明や太陽)を間接的に見ることによって生じるグレアである。鏡やディスプレイごしに蛍光灯を注視してしまうような状況である。反射率の高い面でこれが起こった場合、光源を直視した状況に近い刺激を受けているにもかかわらず、観察者の「たかが映り込み」という意識のため改善策が疎かとなるという問題がある。反射グレアは光源からの強い光が机や紙に反射したものを受けることによって生じるグレアである。読書や書き物のときに白い紙面で反射した光が長時間入射するといった状況である。", "qas": [ { "question": "直接グレア、間接グレア、反射グレアと分類する基準は何ですか?", "id": "tr-166-02-000", "answers": [ { "text": "光源と観察者の関係", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "高輝度光源を直接見ることによって生じるグレアをどう言いますか?", "id": "tr-166-02-001", "answers": [ { "text": "直接グレア", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "光源からの強い光を反射によって目にした時生じるグレアをどう呼びますか?", "id": "tr-166-02-002", "answers": [ { "text": "反射グレア", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "光沢のある面に映った光源を間接的に見ることによって生じるグレアのことをどう呼びますか?", "id": "tr-166-02-003", "answers": [ { "text": "間接グレア", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "グレアを生じる要素として、主たる光源自体の輝度、光源と背景の輝度差、光源と視線の近さ、視野中に占める光源の立体角がある。下図の例では、上段のような状況は下段のような状況に比べてグレアの程度が大きくなる。具体的には、以下のような状況で極端なグレアが発生する。\n\nテレビやコンピュータの画面は間接グレア・直接グレアの両方を生じる要因となる。特にCRTの表面のガラスは単純な反射を起こしやすく、蛍光灯の光の映りこみが直接作業者の目に入り間接グレアを生じる。また、ディスプレイ自体の輝度が高すぎる場合や、暗い室内で利用した場合に、背景とディスプレイの輝度差が大きくなり、直接グレアが発生する。適切な対策をとらずに長時間コンピュータやテレビを利用することにより眼の疲労や視力の低下をきたすというケースも少なくない。", "qas": [ { "question": "ディスプレイの反射が起こすグレアの種類は?", "id": "tr-166-03-000", "answers": [ { "text": "間接グレア・直接グレアの両方", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ディスプレイ自体の輝度が高すぎる場合におこるグレアの種類は?", "id": "tr-166-03-001", "answers": [ { "text": "直接グレア", "answer_start": 281, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "蛍光灯の光の映りこみが直接作業者の目に入った時発生するグレアは何ですか?", "id": "tr-166-03-002", "answers": [ { "text": "間接グレア", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "夜間に自動車のヘッドランプを直接向けられた場合、瞬間的に不能グレアが生じる。特に暗闇を長時間歩いて目が暗順応している場合にはこれが起こりやすい。照射角が広いフォグランプの急な点灯も、対向車の運転者や歩行者にグレアを起こさせ、危険である。対向車や歩行者が周辺環境を把握できなくなり、交通事故につながる危険性もある。その光の周りに円状に見える光を暈(ハロー)といい、対向車の強い光源の近くにある物体が消えてしまったかのように見えなくなることを蒸発#交通に関して蒸発現象と呼ぶ。\n\n夜間のスタジアムでは、限られた台数と位置から照明効果を得るため、高輝度の照明が用いられる。暗い環境をバックにしてこの照明を注視したとき、直接グレアが生じやすい。観客への不快感のみならず、プレイヤーの能力低下、周辺道路の交通の妨げともなる場合があるので、設置位置や角度、照明器具の種類に注意を払った設計が必要である。\n\nまた、このような外的要因以外に、光を受ける側の目の状態によってもグレアは発生する。一般に、瞳孔が拡大した状態や、暗い場所で目が暗順応した状態では、光の刺激を大きく受けるため、不快感を持ちやすくなる。また、LASEKやLASIKなどの視力回復手術の後には、通常ならば不快とならないような光環境下でグレアが発生する。高齢者は一般的にグレアを生じやすく、さらに不能グレアからの回復にも時間がかかるが、これは水晶体の濁りによって光の散乱が起こるためである。これは、白内障の一般的な症状でもある。", "qas": [ { "question": "夜に車のヘッドライトを直接向けられた時、瞬間的に生じ得るグレアは何ですか?", "id": "tr-166-04-000", "answers": [ { "text": "不能グレア", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "自動車のヘッドランプなどの光の周りに円状に見える光のことをなんていうの?", "id": "tr-166-04-001", "answers": [ { "text": "暈", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "夜間のスタジアムのライトを直接見た時起こりかねないグレアは何ですか?", "id": "tr-166-04-002", "answers": [ { "text": "直接グレア", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "グレアの研究が始められたのは1910年頃である。電球が普及し、従来の照明とは異なる強い視覚刺激が問題視されはじめた時期であった。\nグレア研究の先駆となった人物は、アメリカの視覚研究者PercyG.Nuttingであった。彼はアメリカ照明学会(IlluminatingEngineeringSociety,IES)のグレア研究会の座長として「不快なまぶしさ」についての定量的研究成果を発表していった。彼が研究テーマとしていたのは「光源の輝度」と「順応レベル」の関係であった。\n\n1920年代、アメリカとイギリスを中心にグレア研究は盛んとなる。この頃、研究初期には同列のものとみられていた「不能グレア」と「不快グレア」が明確に区別されるようになる。研究を主導したのは、主に各国の照明学会であった。\n\n1940年代になると、光源輝度と背景輝度の対比を考慮した不快グレア評価法が提唱され、徐々に実用化されはじめる。1950年にイギリス照明学会が提唱したDGI(DaylightGlareIndex)法は「背景輝度」「光源輝度」「視界に占める光源の立体角」の3要素から不快グレアの程度を算出するものであった。", "qas": [ { "question": "グレアの研究が始まったのは何の普及と関係ありますか?", "id": "tr-166-05-000", "answers": [ { "text": "電球", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "IESのグレア研究会の座長として務め、グレア研究の先駆となった人物は誰ですか?", "id": "tr-166-05-001", "answers": [ { "text": "PercyG.Nutting", "answer_start": 91, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「不能グレア」と「不快グレア」を区別するようになったのはいつからですか?", "id": "tr-166-05-002", "answers": [ { "text": "1920年代", "answer_start": 238, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イギリス照明学会でDGI法が主張されたのはいつか?", "id": "tr-166-05-003", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 403, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1970年代からは、世界各国の照明学会で別々に研究されてきたグレア評価方法を統合し、国際標準として確立する動きが活発になる。コンピュータの普及も、グレア研究を加速させた。長時間のコンピュータ作業による技術者のストレスが問題視され、オフィス設計の指針としても標準的なグレア評価法の需要が高まっていった時代である。\n国際照明委員会(CommissionInternationaldel'Eclairage/InternationalCommissiononIllumination、CIE、1913年設立)が1995年に発表したUGR(UnifiedGlareRating)法は、照明器具の配置を評価する「ポジションインデックス」の概念を含めたもので、現在のグレア評価の主流として国際的に最も広く実用化されている。ISO規格で利用されているのもUGRである。\n\n現在、LEDなどの新たな照明の刺激や、これまであまり研究の進まなかった照明の色の影響も研究課題となっている。人種・年齢・性別などで異なるグレアの受け方を評価に含める研究も進められている。また、近年飛躍を遂げたコンピュータ・グラフィックス技術を用いて光環境をリアルにシミュレートし、直感的に快・不快を予測することができるようになったため、照明設計の補助として利用してゆこうという向きもある。", "qas": [ { "question": "世界各国の照明学会で別々に研究されてきたグレア評価方法を統合されたのはいつですか?", "id": "tr-166-06-000", "answers": [ { "text": "1970年代", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ISO規格にも用いられ、「ポジションインデックス」の概念も含んでいるこの評価法は何年に発表されたものですか?", "id": "tr-166-06-001", "answers": [ { "text": "1995年", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "UGR法を発表したのはどこでか、その機関を英語の略称で答えなさい。", "id": "tr-166-06-002", "answers": [ { "text": "CIE", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "グレアの規制はグレアの悪影響を防ぐための基準は世界各国に設けられている。特に屋内照明と道路照明の規制が多い。オフィスワーカーの健康、特に長時間のコンピュータ作業にともなうVDT症候群の問題が指摘されるようになり、グレアを客観的に評価し、改善を促す必要が出てきた。また、自動車のヘッドライトや屋外照明による不能グレアが深刻な事故につながる危険性も指摘されるようになった。そのような背景から、法令などに光環境への規定が盛り込まれる場合がある。", "qas": [ { "question": "コンピュータディスプレーのせいで、長時間のコンピュータ作業で起こり得る症状は何ですか?", "id": "tr-166-07-000", "answers": [ { "text": "VDT症候群", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本では、厚生労働省がVDT(VisualDisplayTerminals)作業者の心身の健康のために定めたVDT作業における労働衛生環境管理のためのガイドラインに、以下の内容が定められている。\n\nディスプレイ画面の位置、前後の傾き、左右の向き等を調整させること。反射防止型ディスプレイを用いること。間接照明等のグレア防止用照明器具を用いること。その他グレアを防止するための有効な措置を講じること。\n\nまた、照明学会(日本)により制定された「屋内照明基準」(1999年)が、特にオフィス環境の照明のグレア防止に用いられている。\n\nアメリカでは、州法や条例という形で、州ごとにグレアへの規制が明記されている。特に交通網の発達した州では、運輸局などが道路照明の設置や自動車照明の利用について、詳細な目標を定めることもある。たとえばカリフォルニア州の交通マニュアルには、照明の位置・角度・種類など、交通照明のグレア対策が詳細に定められている。", "qas": [ { "question": "照明学会により設けられた「屋内照明基準」は何年に作られたものですか?", "id": "tr-166-08-000", "answers": [ { "text": "1999年", "answer_start": 229, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本の「屋内照明基準」はどこで作られたものですか?", "id": "tr-166-08-001", "answers": [ { "text": "照明学会", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "自動車・道路照明の位置・角度・種類まで詳細に定めている、アメリカの州はどこですか?", "id": "tr-166-08-002", "answers": [ { "text": "カリフォルニア州", "answer_start": 363, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "デスクなど一定の場所で長時間作業を行う場合、作業者の目に直接光が入るような位置に輝度の高い照明を設置することは避ける。また、たとえ反射率が高くなくとも、前方からの照明光が机やその上に置いた紙などで反射すること(これを光幕反射という)もグレアの原因となるため、避けることが望ましい。上半身の影が作業面にかぶらない程度の斜め後ろ上方が、光幕反射を防止するのに適切な照明位置として推奨される。ただし、ディスプレイを用いた作業の場合、照明器具の映りこみが見えてしまうような位置は強い間接グレアの原因となるため、避けるべきである。\n\nまた、直接照明の影響を軽減できる間接照明は、グレアを防止する目的でも用いられる。\n\nこれらの対策をした上で、利用者自らが室内照明や窓からの光を調節したり、読書や作業の位置を適切に選択することも重要である。", "qas": [ { "question": "光が机やその上に置いた紙などで反射することを何と言いますか?", "id": "tr-166-09-000", "answers": [ { "text": "光幕反射", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "照明器具の映りこみが見える照明位置は作業員にどういうタイプのグレアを起こす恐れがありますか?", "id": "tr-166-09-001", "answers": [ { "text": "間接グレア", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "直接照明の影響を軽減するため設置される照明タイプは?", "id": "tr-166-09-002", "answers": [ { "text": "間接照明", "answer_start": 278, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "コンピュータのディスプレイには、グレアを防ぐための加工がなされる場合がある。特に映りこみの発生しやすいCRTのガラス面には微細な凹凸で入射光を乱反射させるノングレア(アンチグレア、防眩)加工がなされることが多い。この加工には、入射光を乱反射させるシリコーンやフッ素加工の薄い層を設ける方法が一般的である。また、もともとグレア対策のなされていないディスプレイには、利用者自らアンチグレアフィルムやパネルを装着することでグレアを防ぐことができる。ディスプレイを覆う形のフードを用いる場合もある。反射光が直接目に入らないように照明の位置やディスプレイの角度を工夫するのも効果的である。\n\nまた、CRT・液晶ともに、画面自体の輝度もグレアを生じさせる要因となる。ほとんどの製品には輝度を調節する機能が備わっている。また、背景の輝度とディスプレイの輝度に極端な差がある場合、不快グレアを生じやすいため、暗い部屋での作業は適当ではない。", "qas": [ { "question": "微細な凹凸で入射光を乱反射させ、光の映りこみの発生し難くする加工は?", "id": "tr-166-10-000", "answers": [ { "text": "ノングレア", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ノングレア加工に使われるシリコーン以外の物質は何ですか?", "id": "tr-166-10-001", "answers": [ { "text": "フッ素", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "防眩加工にフッ素以外によく使用されるものは何ですか?", "id": "tr-166-10-002", "answers": [ { "text": "シリコーン", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "発明以来その低消費電力、高寿命から『未来の照明』と言われながらも長らく電光表示などの用途にとどまっていたLEDだが、青色LEDの発明を経て高輝度LEDの単価が下がってきた近年では懐中電灯をはじめ、電球・蛍光灯などと同等の照明器具に用いられるようになってきた。しかしLEDはその構造上光の指向性が高く、高輝度・低立体角の光源(言い換えると「強く細い光」)であり、照明器具として設計する際には特に不快グレアへの対策が要求される。たとえば、乳白色の半透過フィルタやキャップを被せることで拡散発光をさせる、広指向性LEDの開発等、照明器具と周辺との輝度差をより緩やかにするといった工夫がなされている。\n\n一方でその視認性の高さから信号機などの運転案内表示や、自動車のヘッドライトやテールランプ、ウインカーなどへ応用されている物もある。", "qas": [ { "question": "低消費電力、高寿命から『未来の照明』とも呼ばれる照明は何ですか?", "id": "tr-166-11-000", "answers": [ { "text": "LED", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「強く細い光」とは何が高い光ですか?", "id": "tr-166-11-001", "answers": [ { "text": "輝度", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「強く細い光」とは何が低い光ですか?", "id": "tr-166-11-002", "answers": [ { "text": "立体角", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "自動車、二輪車のヘッドライトは輝度が高く、光線が直接目に入ると特に夜間では不能グレア・減能グレアを起こしやすい。路面が雨で濡れている場合には、下に向けたライトも路面反射によるグレアの原因となる。路面の滑り易さなどともあいまって事故につながりやすいため、注意を要する。走行中におけるこのような視界不良は極めて危険を伴うため、国土交通省ではヘッドライトの光軸、色温度に規定値を定めている。\n\nヘッドライトによる対人・対車への視界眩惑による危険性は自動車史上古くから認知されており、光軸調整機能、上向き・下向き照射(ハイ・ロービーム)切り替え機能は自動車の安全装備としてはシートベルトよりも早くに実装されている。また下向き照射でも充分な光量を保ち運転者の視界を確保出来るよう各自動車メーカーは工夫を重ねてきた。古くはヘッドライトレンズの屈折率により光線を調節し、設計・成形技術が進歩した今日ではヘッドライト内のリフレクター(反射板)の角度を厳密に設定する事で必要な方向へ光が照射されるよう設計されている。近年はバルブの輝度が高くなって来たため、トラック、バスなど大型の車はバンパー付近に低くヘッドライトを配置・デザインする事で光源位置を下げ光軸が対向運転者の目に入りにくいよう配慮、また直接の光源であるフィラメントが視界に入らないよう何らかの覆いが施されている。また大型車では信号停車時にヘッドライトの運転者による任意消灯、乗用車では一部車種に光軸の調整ダイアルが運転席に備わるなど、他車への不快グレアに配慮する運転マナーによる効果も決して少なくない。", "qas": [ { "question": "自動車や二輪車のヘッドライトの路面反射がグレアの原因となる時っていつ?", "id": "tr-166-12-000", "answers": [ { "text": "路面が雨で濡れている場合", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "自動車・二輪車のヘッドライトの光軸、色温度などに規定値を定めているのはどこですか?", "id": "tr-166-12-001", "answers": [ { "text": "国土交通省", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘッドライトの光軸調整機能とシートベルトで自動車の安全装備として先に実装されたのはどれですか?", "id": "tr-166-12-002", "answers": [ { "text": "光軸調整機能", "answer_start": 238, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "現在の車のヘッドライトは何を用いてその光の方向や光量を調節しますか?", "id": "tr-166-12-003", "answers": [ { "text": "リフレクター", "answer_start": 402, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一方で国土交通省の定める交通規則では平常走行では上向き照射(ハイビーム)で走行し、市街地及び対向車がある場合は下向き照射(ロービーム)で走行するよう定めている。グレアを引き起こしやすい上向き照射(ハイビーム)も対人でない限りは運転者の視界確保に極めて有効であり、対人であっても瞬間的に明滅するパッシングなど効果的に使えば他車とのコミュニケーション、注意喚起にもなる。また下向き照射(ロービーム)であってもテールランプと共に夜間は暗闇の中で自車の存在を他者に知らせ、二輪車ではこの理由から昼間でもヘッドライトの常時点灯が義務付けられているなど、光を他者・他車運転者の視界に入れる、則ち意図的に軽微なグレア現象を引き起こす事で対称者の意識を向け注意を促す一定の機能・役割を持っている。", "qas": [ { "question": "国土交通省の定める交通規則によると、ハイビームで走るのはいつですか?", "id": "tr-166-13-000", "answers": [ { "text": "平常走行", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "国土交通省の定める交通規則によると、市街地及び対向車がある場合にヘッドライトはどこ向きにすべきですか?", "id": "tr-166-13-001", "answers": [ { "text": "下向き", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハイビームとロービームを比較すると、晴れ時にグレアを起こす可能性が低いのはどっちですか?", "id": "tr-166-13-002", "answers": [ { "text": "ロービーム", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "グレアを生じるような視環境を自力で避けることのできない場合もある。特に視力回復手術後・高齢・白内障などで特別グレアを受けやすい人にとっては、深刻な不快や不便をもたらす。対策として、偏光のかかったサングラスなどを用いて視覚を守ることがある。又、遮光レンズといい、ある特定の波長のみを減光させてグレアを防ぐものもある。", "qas": [ { "question": "偏光のかかったサングラスとともに、グレアを生じるような視環境を自力で避けることのできない場合に有効な対策手段は何ですか?", "id": "tr-166-14-000", "answers": [ { "text": "遮光レンズ", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グレアを生じ得る環境で、本文でグレア対策としてあげられたのは遮光レンズ以外に何がありますか?", "id": "tr-166-14-001", "answers": [ { "text": "偏光のかかったサングラス", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "照明計画においては、グレアを防ぐため、利用者から見える位置に高輝度光源を配置することは避けられる傾向にある。しかしその一方で、シャンデリアなど、あえて高輝度の照明を演出効果として用いる場面もあり、周囲の照明との兼ね合い次第ではグレアを発生させずに豪奢な照明のきらめきを楽しむ空間を創出できる。特に、立体角が小さく輝度の高い照明は、貴金属や宝石に反射・屈折を生じさせ、その美しさをきわだたせる効果があり、店舗ディスプレイなどでも取り付け位置を工夫しながら積極的に用いられている。\n\nまた、コンピュータグラフィックスでは、暗闇の中に突如何かが現れるシーン、リアルな照明環境などを効果的に表現するため、現実にグレアの生じる場面での視覚的刺激を再現し、鑑賞者に「眩しい」という印象を持たせる技術が用いられている。", "qas": [ { "question": "演出効果として高輝度光源を配置する場合、その照明の何を低くするのが望ましいですか?", "id": "tr-166-15-000", "answers": [ { "text": "立体角", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "演出効果として高輝度光源を用いる例として本文であげられたのは何ですか?", "id": "tr-166-15-001", "answers": [ { "text": "シャンデリア", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "コンピュータグラフィックスで、暗闇の中に急に何かが現れるシーンやリアルな照明環境などを効果的に表現するためにどういう方法を使いますか?", "id": "tr-166-15-002", "answers": [ { "text": "現実にグレアの生じる場面での視覚的刺激を再現", "answer_start": 298, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "スポ根", "paragraphs": [ { "context": "スポ根(スポこん)は、日本の漫画、アニメ、ドラマにおけるジャンルの一つである。\n「スポーツ」と「根性」を合成した「スポーツ根性もの」の略語。\nこのジャンルの作品を「スポ根漫画」「スポ根アニメ」「スポ根ドラマ」と呼ぶ。\n狭義のスポ根とは、1960年代から1970年代の日本の高度経済成長期に一般大衆の人気を獲得したジャンルであり、メキシコ五輪が開催された1968年前後に人気のピークを迎えた。", "qas": [ { "question": "「スポーツ根性もの」の略語は何ですか?", "id": "tr-167-00-000", "answers": [ { "text": "スポ根", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スポ根ものが人気のピークに達したのはいつ頃でしたか?", "id": "tr-167-00-001", "answers": [ { "text": "1968年前後", "answer_start": 176, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "主人公が努力と根性でひたむきに競技に取り組み、特訓を重ね、あらゆる艱難辛苦を乗り越えて成長を遂げてライバルとの勝負に打ち勝っていくのだが、主人公が背負った苦労を強調させるために、スポーツ選手としての天性の素質を持ち容易く主人公を打ち破ることが出来るライバルの存在は必須であり、貧困層出身の主人公に対し富裕層出身のライバル、といった対比構図も盛り込まれた。\nこうした弱者が強者に努力と根性で立ち向かうストーリー構成は高度成長期に一般大衆が抱いていた「欧米諸国に追いつき追い越せ」という価値観と一致するものであり、当時の読者に支持された。\nなお、教育評論家の斎藤次郎は「スポーツの世界に生きるヒーローの世界をそれぞれの固有の面白さで味つけした程度なら単に『スポーツもの』で、『スポ根』となると悲劇的なまでに苦行が描かれなければならない」としている。\nまた、1980年代以降に少年層や女性層の人気を獲得した『週刊少年ジャンプ』の中心テーマ「友情・努力・勝利」とスポ根を同一視する例もあるが、桃山学院大学准教授の高井昌吏は「『週刊少年ジャンプ』における『男の物語』は、1970年代前後のような『禁欲的な男たちの物語』ではない。その点には注意が必要である」としている。", "qas": [ { "question": "『週刊少年ジャンプ』の中心テーマとは何ですか?", "id": "tr-167-01-000", "answers": [ { "text": "「友情・努力・勝利」", "answer_start": 416, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スポ根のジャンルで、貧困層出身の主人公の対比として登場するものとは何?", "id": "tr-167-01-001", "answers": [ { "text": "富裕層出身のライバル", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "「根性」とは元々は仏教用語で「その人が生まれながらに持ち合わせる性質」を意味する言葉だが、日本のスポーツ界において「困難な状況にあっても屈することなく物事をやり通す意思や精神力」を意味する言葉として用いられてきた。\n肯定的な用法には「根性で勝ち取った」、否定的な用法には「根性が足りない」「根性を鍛えなおす」などがある。\n日本には明治時代から欧米発祥の様々なスポーツが輸入されてきたが社会的交流の手段としての側面に関心は払われず、技術向上と勝利の追求のみに関心が払われた。\nそれらを実現するための指導法と強化体制の確立が重視されてきたが、その中で登場したのが「根性」という言葉だった。\n精神に訴えかける言葉自体は第二次世界大戦後に非科学的として敬遠されていたが、1964年に行われた東京オリンピックにおいてバレーボール全日本女子を率いた大松博文やレスリング日本代表を率いた八田一朗が精神論を前面に出した厳格な練習方法を導入して成果を挙げた。\n大松や八田の影響により厳しさに耐え抜き努力する姿勢を尊ぶ風潮が生まれ、スポーツ界のみならず一般社会においても「根性」という言葉が普及するに至った。", "qas": [ { "question": "元来、「根性」とは何用語ですか?", "id": "tr-167-02-000", "answers": [ { "text": "仏教用語", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「根性」を用いた肯定的な表現は何がありますか?", "id": "tr-167-02-001", "answers": [ { "text": "「根性で勝ち取った」", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1964年の東京五輪で女子バレーボールを指導していた人は誰ですか?", "id": "tr-167-02-002", "answers": [ { "text": "大松博文", "answer_start": 368, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1964年の東京五輪でレスリング日本代表を率いた人物は誰ですか?", "id": "tr-167-02-003", "answers": [ { "text": "八田一朗", "answer_start": 386, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一方、「根性」という言葉は時には競技に関わる上での動機づけ、厳しい練習に耐えうる忍耐力、試合に挑む上での集中力の意味で用いられるなど抽象的かつ多義的なものであった。\nスポーツ分野において精神的要素は不可欠なもので競技のレベルが高くなるほど勝敗や記録に影響を及ぼす傾向があるものの十分な科学的検証がなされてこなかったが、1990年代頃から選手が競技の場において最高の状態で能力を発揮するための自己管理を目的としたメンタルトレーニングの研究開発が行われている。", "qas": [ { "question": "メンタルトレーニングの研究開発が行われ始めたのはいつ頃からですか?", "id": "tr-167-03-000", "answers": [ { "text": "1990年代頃", "answer_start": 159, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "太平洋戦争後、連合軍総司令部(GHQ)の指示により武道教育や時代劇映画は禁止されていたが、1951年のサンフランシスコ講和条約の締結以降に相次いで解禁されると、漫画の世界でも武道を描いた作品が登場し、1952年から1954年にかけて柔道漫画『イガグリくん』(福井英一)が『冒険王』で連載された。\nこの作品は講談や時代劇などで描かれてきた伝統的な日本人的心情に則ったもので、柔道だけでなく異種格闘技戦の要素も含んだ作風は熱血スポーツ漫画のルーツとも呼ばれ、後の作品群に影響を与えることになった。\n『イガグリくん』のキャラクター設定や必殺技を擁した対決シーンは、1958年から『おもしろブック』で連載された貝塚ひろしの野球漫画『くりくり投手』へと引き継がれ、これ以降のスポーツ漫画における定石となった。\n『くりくり投手』では『イガグリくん』の手法をさらに極端化し、必殺技を身に付けるための過激な特訓の描写も登場した。\n1961年から1962年にかけて『週刊少年マガジン』では福本和也原作・ちばてつや作画による野球漫画『ちかいの魔球』が連載された。\nこの作品は実在のプロ野球の世界と必殺技の要素を併せた内容となり、後に同誌でやはり福本作・一峰大二作画で連載された『黒い秘密兵器』や、梶原一騎の『巨人の星』へと踏襲された。", "qas": [ { "question": "『くりくり投手』、『ちかいの魔球』、『イガグリくん』の中で、最も早くに連載が開始された作品はどれですか?", "id": "tr-167-04-000", "answers": [ { "text": "『イガグリくん』", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『ちかいの魔球』、『イガグリくん』、『くりくり投手』の中で、最も遅くに連載が開始された作品はどれですか?", "id": "tr-167-04-001", "answers": [ { "text": "『ちかいの魔球』", "answer_start": 456, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『イガグリくん』は何のスポーツを題材にしていますか?", "id": "tr-167-04-002", "answers": [ { "text": "柔道", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『くりくり投手』の作者は誰ですか?", "id": "tr-167-04-003", "answers": [ { "text": "貝塚ひろし", "answer_start": 301, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一方で、熱血スポーツ漫画からスポ根漫画への流れとは別に、井上一雄の野球漫画『バット君』や寺田ヒロオの野球漫画『スポーツマン金太郎』などの爽やかな作風のスポーツ漫画が存在した。\nこうした作品に代わって熱血ものが発展した経緯について漫画評論家の竹内オサムは1950年代に始まったテレビ放送の影響を挙げている。\n竹内によれば、テレビで扱われたプロ野球や大相撲やプロレスの実況放送を通じて大衆の間で「するスポーツ」ではなく「観るスポーツ」が支持を得たことの影響により漫画の世界もエンターテインメント性を強めたという。\nまた、この時代には漫画では新しい表現形式の劇画が生み出されており、劇画の写実的かつ動的な手法が後のスポ根作品において取り扱われたことで作品に現実味を与えることに貢献した。", "qas": [ { "question": "1950年代に生み出された、漫画における新しい表現形式とは何?", "id": "tr-167-05-000", "answers": [ { "text": "劇画", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1950年代頃に「するスポーツ」と「観るスポーツ」はどちらが支持を得ましたか?", "id": "tr-167-05-001", "answers": [ { "text": "「観るスポーツ」", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一般的に「スポ根」の発祥となった作品や元祖と呼ばれる作品は『週刊少年マガジン』で1965年から1971年にかけて連載された『巨人の星』(原作:梶原一騎、作画:川崎のぼる)である。\nこの作品は1930年代に人気を獲得した吉川英治の小説『宮本武蔵』のような、一つの道を究めライバルとの対決に打ち勝っていく人物を主人公とする構想をもつ編集部と、アレクサンドル・デュマ・ペールの小説『モンテ・クリスト伯』のような悲劇的な運命を背負った人物を主人公とする構想を持つ梶原とが結びついたことにより誕生した。\nこれらの要素に1960年代に社会問題となっていた苛烈な受験競争を後押しする教育ママの存在を反映し、人間教育には父親の存在は欠かせないものとし、「教育ママに対するアンチテーゼ」として父権的なキャラクターを登場させ、主人公・星飛雄馬と父・星一徹の戦いと葛藤が物語の軸となった。", "qas": [ { "question": "「スポ根」の元祖と呼ばれる作品は何ですか?", "id": "tr-167-06-000", "answers": [ { "text": "『巨人の星』", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『巨人の星』の主人公は誰ですか?", "id": "tr-167-06-001", "answers": [ { "text": "星飛雄馬", "answer_start": 357, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『宮本武蔵』を書いた小説家は誰ですか?", "id": "tr-167-06-002", "answers": [ { "text": "吉川英治", "answer_start": 109, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この作品は「一般社会に普遍化できる生き方の見本として、栄光を目指して試練を根性で耐え抜く姿を野球の世界を借りて描いたもの」とも言われ、作画を担当した川崎の発案による過剰な表現手法や、原作を担当した梶原による大仰な台詞まわしは当時から批判の声もあったが、作品自体は徐々に人気を高め『週刊少年マガジン』の部数を100万部に押し上げた。\n梶原は、その後も柔道を題材とした『柔道一直線』(作画:永島慎二・斎藤ゆずる)、プロレスを題材とした『タイガーマスク』(作画:辻なおき)、ボクシングを題材とした『あしたのジョー』(作画:ちばてつや)の原作を務めたが人生論的な要素が強い『巨人の星』とは異なる趣向を取り入れた。\n梶原の自伝によれば『柔道一直線』では技と技の応酬といったエンターテインメント性に焦点を当てる一方で立ち技優先の傾向があった当時の日本柔道界へのアンチテーゼを、『タイガーマスク』では往年の『黄金バット』のプロレス版を標榜し善と悪の二面性のあるヒーローを、『あしたのジョー』では『巨人の星』の主人公・星飛雄馬のような模範的な人物へのアンチテーゼとして野性的な不良少年・矢吹丈を主人公としアウトローぶりを意図したという。", "qas": [ { "question": "『柔道一直線』、『タイガーマスク』、『あしたのジョー』の中で作画を担当した人数が最も多い作品はどれでしょうか?", "id": "tr-167-07-000", "answers": [ { "text": "『柔道一直線』", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『あしたのジョー』の主人公の名前は何ですか?", "id": "tr-167-07-001", "answers": [ { "text": "矢吹丈", "answer_start": 485, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "また「スポ根」の手法は少女漫画にも伝播したが、このことは従来、品行方正で内向的な傾向の強かった少女漫画の作品世界に競争の原理を導入したと評される。\nバレーボールを題材とした『アタックNo.1』(浦野千賀子)や『サインはV』(原作:神保史郎、作画:望月あきら)では少年誌さながらの必殺技の応酬や根性的な特訓が描かれると共に、恋や友情や家庭の問題、思春期の悩みといった少女漫画の主要テーマが盛り込まれた。\n一方、漫画評論家の米澤嘉博は「スポーツものとは、ある意味で肉体のドラマ」とした上で「スタイル画ではない、動きや肉体を感じさせる『絵』を持たなければ、表現できないジャンル。\n肉体性を脱け落とした形では表現できなかっただろう」と評している。\nこれらの作品は「スポ根」の代表的作品と評価されており、人気作品は1969年前後に次々とアニメ化やテレビドラマ化された。", "qas": [ { "question": "「スポ根」を導入した少女漫画の代表格は『アタックNo.1』と何ですか?", "id": "tr-167-08-000", "answers": [ { "text": "『サインはV』", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『アタックNo.1』と『サインはV』で描かれているスポーツは何ですか?", "id": "tr-167-08-001", "answers": [ { "text": "バレーボール", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1973年のオイルショックを契機に高度成長から安定成長期へと移行し、人々の関心は経済的安定や社会的上昇から個々の内面的な充足や多様な価値観を求める志向へと変化すると、漫画の世界もそれと並行して日常生活の機微を反映したものへと移行した。\n1972年から1981年にかけて連載された野球漫画『ドカベン』(水島新司)では、ライバル同士の対決を描きつつも社会階層の対立軸や根性的要素は薄れ、「秘打」と呼ばれる必殺技の要素を残しつつも「魔球」の描写は排除し、現実的な試合展開と個性的な登場人物による人間ドラマが描かれた。\nまた、同時期に連載されたちばあきおの野球漫画『キャプテン』や『プレイボール』では根性や努力といった要素を残しつつも魔球などの空想的な要素を排除し、等身大の登場人物たちが部活動に打ち込む姿に焦点を当てた。", "qas": [ { "question": "『ドカベン』の連載がスタートした年はいつですか?", "id": "tr-167-09-000", "answers": [ { "text": "1972年", "answer_start": 118, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ドカベン』の作者は誰ですか?", "id": "tr-167-09-001", "answers": [ { "text": "水島新司", "answer_start": 150, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "少女誌においても、1973年から1980年にかけて連載された山本鈴美香のテニス漫画『エースをねらえ!』や、1971年から1975年にかけて連載された山岸凉子のバレエ漫画『アラベスク』では、作品序盤は旧来的な主人公とライバルとの対比構図や精神主義といった要素を残していたが、作品が進行するに従ってそれらの枠組みから脱却し登場人物たちが自立し成長する物語へと転化した。\nスポ根における特徴の一つだった魔球や必殺技の要素は1972年から1976年にかけて連載された野球漫画『アストロ球団』(原作:遠崎史朗、作画:中島徳博)においていっそう過激化し、作品終盤では超人選手によって次々に生み出された「必殺技」により多数の死傷者を生み出す、デスマッチの場と化した。\n評論家の竹熊健太郎は「『巨人の星』が貧困の克服(高度経済成長)を背景にした1960年代の神話とすれば、この作品は社会が安定し『貧困』という動機づけを喪失した1970年代の神話である」としている。\n一方、『ドカベン』の作者である水島は野球漫画『野球狂の詩』の中で魔球を存在ではなく情報として扱い、魔球という言葉により相手に精神的重圧を与える、試合における「駆け引き」の道具として描くことによって「魔球」を否定した。\nこれらの作品によってスポ根の特徴だった荒唐無稽な要素は退潮し、スポーツ漫画は現実的な作風へと転換していった。", "qas": [ { "question": "『エースをねらえ!』と『アラベスク』はどちらが先に連載が開始されましたか?", "id": "tr-167-10-000", "answers": [ { "text": "『アラベスク』", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『エースをねらえ!』、『アラベスク』、『アストロ球団』の中で2番目に早く連載がスタートしたのはどれですか?", "id": "tr-167-10-001", "answers": [ { "text": "『アストロ球団』", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "スポ根漫画の誕生と前後して日本テレビ系列では東宝とテアトル・プロの共同制作による、ラグビーやサッカーといった集団スポーツを通じた教師と生徒たちの交流を描いた『青春とはなんだ』『これが青春だ』『でっかい青春』などの青春ドラマシリーズが放送された。\nこの背景には、1964年に行われた東京オリンピックにおいてバレーボール全日本女子を優勝に導いた大松博文の影響があるとされている。\n1960年代後半から1970年代初頭にかけてスポ根漫画を原作としたテレビドラマが登場し、TBS系列で放送された柔道を題材とした『柔道一直線』やバレーボールを題材とした『サインはV』や水泳を題材とした『金メダルへのターン!』などが人気作品となった。\nその中で、『サインはV』は「稲妻落とし」「X攻撃」などの必殺技も話題となり高視聴率を記録、当時のバレーボールブームやスポ根ブームを牽引したが、原作と同様の特訓による根性的要素を表現するために出演者に対して長時間に渡る練習を課し、リハーサルを経て消耗し切った所で撮影に挑んだ。\n同作の終了から3年後の1973年には、主演を岡田可愛から坂口良子に交代した続編が放送されたが、前作ほどの人気を得ることは出来ずに終了した。", "qas": [ { "question": "『でっかい青春』などの青春ドラマシリーズが放送された背景に、影響を与えた人物は誰ですか?", "id": "tr-167-11-000", "answers": [ { "text": "大松博文", "answer_start": 170, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『サインはV』の続編では誰が主演を演じましたか?", "id": "tr-167-11-001", "answers": [ { "text": "坂口良子", "answer_start": 478, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1970年代中盤以降、中村雅俊主演の『俺たちの旅』などの青春ドラマが人気を獲得し、スポ根番組ブームは終息したが、1979年にはテレビ朝日系列でバレーボールを題材とした『燃えろアタック』(原作:石ノ森章太郎)が放送された。\nこの作品は必殺技「ヒグマおとし」やチームメイトの死など『サインはV』の影響を受けたもので、1980年モスクワオリンピック出場を目指し奮闘する内容だったが、1980年代に中華人民共和国で『排球女将』のタイトルで放送され人気を獲得した。\n1984年から1985年にTBS系列でラグビーを題材とした『スクール☆ウォーズ』が放送された。\nこの作品は、元ラグビー日本代表の山口良治が高校の弱小ラグビー部を監督就任から7年で全国優勝に導いた実話を脚色したもので、放送当時すでにスポ根的手法は「時代遅れ」という評価もあったが、いわゆる大映ドラマの特徴でもある過剰な演出やセリフ回しにより、当時の学生たちの人気を獲得した。\n主人公・滝沢賢治を演じた山下真司は「セリフは劇画調で、自分の演技もまだまだ。でも、向上心や悔しさ、苦悩や希望のつまった内容が届いたのだろう」と評している。\n1990年には滝沢らの6年後の姿を描いた続編『スクール☆ウォーズ2』が放送されたが、少年院を舞台にした非現実的な要素(原作もラグビーではなく高校野球を描いた小説である)に加え、それをかき消すほどの前作のような熱量も足りず、全16話で終了した。", "qas": [ { "question": "『燃えろアタック』の中国での作品タイトルは何ですか?", "id": "tr-167-12-000", "answers": [ { "text": "『排球女将』", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『スクール☆ウォーズ』で描かれているスポーツは何ですか?", "id": "tr-167-12-001", "answers": [ { "text": "ラグビー", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『スクール☆ウォーズ』で主人公を演じた俳優は誰ですか?", "id": "tr-167-12-002", "answers": [ { "text": "山下真司", "answer_start": 427, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『燃えろアタック』と『スクール☆ウォーズ』はどちらが後で放送されましたか?", "id": "tr-167-12-003", "answers": [ { "text": "『スクール☆ウォーズ』", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "漫画やドラマにおけるスポ根人気と東京オリンピック開催の影響もありアニメの世界でもスポ根が扱われることになった。\nその最初の作品として既に原作の漫画が人気を獲得していた『巨人の星』のアニメ版が企画されたが、当時のアニメ作品で描かれていた登場人物のキャラクターデザインの多くはデフォルメされたものであり劇画調の登場人物を取り扱った経験が不足していたことから「『巨人の星』のアニメ化は不可能」「アニメ化には相応しくない」と評されていた。\n『巨人の星』では原作と同様に過剰な表現が多用されたが、これは監督を務めた長浜忠夫が「演劇において役者が演じる大仰な演技」そのものをアニメの世界にも求めたためであり、長浜自身は「オーバーリアリズム」と称していた。\nまた『タイガーマスク』では劇画の荒々しい描線を表現するためにトレスマシンという手法が導入され、『あしたのジョー』では監督の出崎統によって当時としては実験的な「止め絵」などの表現手法や演出法の研究が行われた。\nこうした手法はスポ根アニメ全体でも用いられただけでなくスポーツ以外の分野でも用いられるなど、日本アニメの技術の進歩に貢献した。", "qas": [ { "question": "『タイガーマスク』で導入された手法とは何ですか?", "id": "tr-167-13-000", "answers": [ { "text": "トレスマシン", "answer_start": 352, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『あしたのジョー』で実験的に行われた表現技法とは何ですか?", "id": "tr-167-13-001", "answers": [ { "text": "「止め絵」", "answer_start": 400, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アニメ作品は漫画作品に比べて進行が速く漫画の連載状況に容易に追いついてしまうことからオリジナルの登場人物やエピソードが新たに追加された。\nこうした事情について『あしたのジョー』の作画を担当した漫画家のちばてつやは「自分の手元から離れた世界。親元から離れた子供のように向うの世界で良い人生を送れたらいいと割りきっていた」と証言しているが、反対にアニメの演出が自身の連載作品に影響を与えることもあったという。\n1968年から1971年にかけて放送された『巨人の星』では原作に倣った展開だけでなく主人公・星飛雄馬の姉・明子に焦点を当てたエピソードや沢村栄治などの実在選手のエピソードが挿入され、最終話のラストシーンでは原作の「飛雄馬が教会の屋根に掲げられた十字架の影を背負いながら一人で去る」といった悲愴な描写から「星親子が和解して息子が父親に背負われながら球場を去る」といった温かみのある描写へと刷新されている。", "qas": [ { "question": "『あしたのジョー』の作画担当を務めた漫画家は誰ですか?", "id": "tr-167-14-000", "answers": [ { "text": "ちばてつや", "answer_start": 100, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『巨人の星』のアニメは何年から放送されましたか?", "id": "tr-167-14-001", "answers": [ { "text": "1968年から", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1969年から1971年にかけて放送された『タイガーマスク』でも原作を追い越した際のオリジナルストーリーが追加されたほか原作とは異なる結末が描かれている。\nまた、主人公・伊達直人を支える人物として吉川英治の小説『宮本武蔵』における沢庵和尚をイメージした師匠の嵐虎之介や、虎の穴時代からの親友である大門大吾、弟分の高岡拳太郎といった登場人物が新たに創作され準レギュラーとなった。\n1970年から1971年にかけて放送された『あしたのジョー』は好評を得ながらも漫画の連載状況に追いついたため途中のエピソードで終了したが、1980年から1981年にかけて放送された続編の『あしたのジョー2』ではライバル・力石徹の死後から最終話までのエピソードが描かれた。\nこの作品を始め国内のアニメ界では、1970年代後半から1980年代初頭にかけて旧作アニメのリメイクブームが起こったが、劇画調の描線の荒々しさは減少し、背景も野性味を表すものから入射光や投射光を活かした端正なものに変化したという。", "qas": [ { "question": "『タイガーマスク』と『あしたのジョー2』はどちらが先に放送されましたか?", "id": "tr-167-15-000", "answers": [ { "text": "『タイガーマスク』", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "伊達直人の師匠は誰でしたか?", "id": "tr-167-15-001", "answers": [ { "text": "嵐虎之介", "answer_start": 129, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "「スポ根」漫画の全盛期である1960年代には多くの読者の支持を得たが、その一方で精神主義や芝居がかった演出には当時から批判的な意見があった。\n1975年から1978年にかけて『週刊少年ジャンプ』で連載された野球漫画『1・2のアッホ!!』(コンタロウ)や、1977年から1980年にかけて『週刊少年ジャンプ』で連載された野球漫画『すすめ!!パイレーツ』(江口寿史)では、そうした批判的視点を背景に従来のスポーツ漫画にギャグ漫画の要素を取り入れ、スポ根的な価値観を風刺した。\n1980年代に入ると、「直向きさ」「努力」「根性」といった価値観は格好の悪いもの、ダサいものとして見做されるようになっていたが、1984年に少女誌の『花とゆめ』で連載された野球漫画『甲子園の空に笑え!』(川原泉)では、かつてのスポ根漫画における「感動のあまり涙を流す」「仲間同士による抱擁」といった友情や絆を表す表現を「交感神経の異常」と冷めた視点でとらえ、努力や根性とは無縁の脱力的で寓話的な雰囲気のまま大会を勝ち上がる姿が描かれた。", "qas": [ { "question": "『甲子園の空に笑え!』を掲載していた漫画雑誌は何ですか?", "id": "tr-167-16-000", "answers": [ { "text": "『花とゆめ』", "answer_start": 310, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『1・2のアッホ!!』と『すすめ!!パイレーツ』はどちらが先に連載されましたか?", "id": "tr-167-16-001", "answers": [ { "text": "『1・2のアッホ!!』", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "また1980年代初頭のお笑いブームの際、コント赤信号やヒップアップなどのお笑いグループは学園ものやスポ根ものをコントに取り入れ、「不良生徒が教師に殴られて改心し、皆で夕日に向かって走っていく」や「瞳の中に燃え盛る炎」などのシーンを再現し笑いの対象としていたが、放送作家の高平哲郎は「こうしたコントで沸く若者も知らず知らず学園ものやスポ根ものに反発を感じていたのだ。いわば彼らにとって息抜きの場だった漫画なのに、父と子、根性、努力などを教育されてしまった反発がスポ根コントを笑える原動力となっているのだろう」と評した。\nかつて一般大衆の価値観を反映したといわれたスポ根は、1970年代末から勃興したギャグ化の流れの中で嘲笑の対象となり衰退した。", "qas": [ { "question": "スポ根ものが衰退したのはいつ頃ですか?", "id": "tr-167-17-000", "answers": [ { "text": "1970年代末", "answer_start": 285, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1981年から『週刊少年サンデー』で連載された野球漫画『タッチ』(あだち充)は、スポーツ漫画および少年漫画の世界に少女漫画的な手法を導入した作品と評される。\nこの作品は、登場人物間の三角関係や野球についての深刻な局面において、明るさや軽妙さを挟むことで敬遠させる「間を外す」手法が特徴的であるが、最終話では、主人公・上杉達也に対してライバル・新田明男が新しいステージでの再戦を示唆したのに対して、上杉に「もういいよ、疲れるから」と拒否する言葉を語らせている。\n漫画コラムニストの夏目房之介は1991年に出版した『消えた魔球-熱血スポーツ漫画はいかにして燃えつきたか』の中でこの場面を採り上げ「この一言で熱血スポーツものはコケた」と評し、一連の流れの終焉を見ている。\nさらに夏目は1984年から連載された水泳漫画『バタアシ金魚』(望月峯太郎)において、「(熱血、努力、根性、必殺技などの)かつての少年スポーツヒーローの条件の全てが壊れてしまった」としている。", "qas": [ { "question": "『タッチ』の作者は誰ですか?", "id": "tr-167-18-000", "answers": [ { "text": "あだち充", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『タッチ』の主人公は誰ですか?", "id": "tr-167-18-001", "answers": [ { "text": "上杉達也", "answer_start": 158, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この時代は国内のスポーツに対する価値観が、それまでの「苦しさ」から「楽しさ」へと転換しようとした時期でもあるが、1981年から『週刊少年ジャンプ』で連載されたサッカー漫画『キャプテン翼』(高橋陽一)では従来の「スポ根」の構造を逆転させ、天才型の主人公が根性や努力に支えられた精神主義を基盤とするライバル達と対峙し打ち破っていく作品となった。\nこの作品では努力や特訓の成果ではなく「サッカーの楽しさ」「自由な発想」が勝敗を決定する価値基準となり、天才型主人公の大空翼の壁を越えられずに葛藤する努力型ライバルの日向小次郎に特訓の成果ではなく「自由な発想」という作品内の価値基準に気付かせることで、追いつかせる描写がなされた。\nただし、横浜国立大学教授の海老原修は「努力より才能を重んじる作品が人気を獲得したからといって日本人の思考が変わってきたとは言えない。コミックの読者欄には努力を尊ぶ声も少なくなく、この呪縛から離脱することは生半ではない」と2000年代前半時点においてもスポ根の影響がまだまだ日本には根強い事に言及している。", "qas": [ { "question": "従来の「スポ根」の構造を逆転させサッカー漫画とは何ですか?", "id": "tr-167-19-000", "answers": [ { "text": "『キャプテン翼』", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大空翼のライバルは誰ですか?", "id": "tr-167-19-001", "answers": [ { "text": "日向小次郎", "answer_start": 253, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "爽やかな作品やコミカルな作品が台頭する影で、野球漫画『県立海空高校野球部員山下たろーくん』(こせきこうじ)や『名門!第三野球部』(むつ利之)などの根性を前面に出した作品が連載され、一部読者の支持を集めたが、評論家の米澤嘉博は両作品を「時代の華やかさに取り残された地味なもの」とした上で「『タッチ』の明るいさわやかなカッコよさの後に、泥臭い青春が描かれ支持されたことは記憶すべきかもしれない」と評している。\n一方、漫画家の島本和彦や編集者の斎藤宣彦は「スポ根冬の時代」を経て、1989年から連載されているボクシング漫画『はじめの一歩』(森川ジョージ)によってスポ根が復活したという見解を示しているが、この作品は前時代的なスポ根を踏襲したものではなく、格闘漫画『1・2の三四郎』や柔道漫画『柔道部物語』などを連載した小林まことのコミカルな作風を上手く活かしたものだと指摘している。", "qas": [ { "question": "『はじめの一歩』の連載開始は何年ですか?", "id": "tr-167-20-000", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 237, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "森川ジョージがボクシングを題材として描いた漫画は何ですか?", "id": "tr-167-20-001", "answers": [ { "text": "『はじめの一歩』", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『はじめの一歩』の作者は誰ですか?", "id": "tr-167-20-002", "answers": [ { "text": "森川ジョージ", "answer_start": 267, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "そして誰もいなくなった", "paragraphs": [ { "context": "『そして誰もいなくなった』は、1939年にイギリスで刊行されたアガサ・クリスティの長編推理小説である。\n\n本作はアガサ・クリスティをベストセラー小説家にした作品の一つである。同著者の最も多く出版された作品で、1億冊以上が出版され、世界中のミステリ作品の中で最も販売されたベストセラー本であり、2009年時点で『聖書』を1位とするすべての書籍の中で6番目に多く販売されていた。本作の評価はクリスティ作品中でも特に高く、代表作に挙げられることが多い。\n\n「絶海の孤島」を舞台にしたクローズド・サークルの代表作品であると同時に、見立て殺人の代表的作品とも評される。孤島の兵隊島を舞台にして、10人の登場人物が童話「十人の小さな兵隊さん」の詩になぞらえて殺されていく。10人全員が死亡することで題名の『そして誰もいなくなった』を回収する。物語はエピローグに続き、警察の捜査では迷宮入りとなった後に真犯人による独白手記が見つかり、真相が明かされることで終結する。\n\n初期のイギリス版の題名はTenLittleNiggersだったが、1940年にアメリカ版が出版された際にAndThenThereWereNoneとなった。日本語訳は1939年に雑誌『スタア』で清水俊二が「死人島」として連載したのが初出で、1955年6月に早川書房から『そして誰もいなくなった』として刊行された。\n\n作者自身により戯曲化されている。また、ルネ・クレール監督の映画を初めとして、多数の映画化作品や舞台化作品、テレビドラマ化作品がある。", "qas": [ { "question": "『そして誰もいなくなった』はどの国で刊行された小説ですか。", "id": "tr-168-00-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『そして誰もいなくなった』のジャンルは何ですか。", "id": "tr-168-00-001", "answers": [ { "text": "長編推理小説", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『そして誰もいなくなった』の初期のイギリス版の題名は何でしたか。", "id": "tr-168-00-002", "answers": [ { "text": "TenLittleNiggers", "answer_start": 440, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『そして誰もいなくなった』を戯曲化した人の名前は何ですか。", "id": "tr-168-00-003", "answers": [ { "text": "アガサ・クリスティ", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "イギリス、デヴォン州の兵隊島に、年齢も職業も異なる8人の男女が招かれた。2人の召使が出迎えたが、招待状の差出人でこの島の主でもあるオーエン夫妻は、姿を現さないままだった。やがてその招待状は虚偽のものであることがわかった。\n\n不安に包まれた晩餐のさなか、彼らの過去の罪を告発する謎の声が響き渡った。告発された罪は事故とも事件ともつかないものだった。その声は蓄音機からのものとすぐに知れるのだが、その直後に生意気な青年アンソニー・ジェームズ・マーストンが毒薬により死亡する。\n\nさらに翌朝には、召使の女性エセル・ロジャースが死んでしまう。残された者は、それが童謡「10人のインディアン」を連想させる死に方であること、また10個あったインディアン人形が8個に減っていることに気づく。その上、迎えの船が来なくなったため、残された8人は島から出ることができなくなり、完全な孤立状態となってしまう。\n\nさらに老将軍ジョン・ゴードン・マッカーサーの撲殺された死体が発見され、人形もまた1つ減っているのを確認するに至り、皆はこれは自分たちを殺すための招待であり、犯人は島に残された7人の中の誰かなのだ、と確信する。\n\n誰が犯人かわからない疑心暗鬼の中で、召使のトマス・ロジャースが斧で後頭部を割られて撲殺。続いて、老婦人のエミリー・キャロライン・ブレントは毒物を注射されて、蜂に刺されたように見せかけられて毒殺されてしまう。\n\nそして、元判事のローレンス・ジョン・ウォーグレイヴは、判事の正装に見立てた格好にされたうえで銃殺。医師のエドワード・ジョージ・アームストロングは嵐の海に突き落とされ溺死により死亡し、次々と彼らに見立てた人形も減っていく。\n\nそして、残された3人のうち元警部の探偵ウィリアム・ヘンリー・ブロアは熊の形をした大理石の置物を脳天に落とされて死亡。元陸軍大尉のフィリップ・ロンバードは、互いに疑心暗鬼に陥った末に女性教師のヴェラ・エリザベス・クレイソーンに隙をつかれて銃を奪われて射殺される。\n\n最後の1人となったヴェラも、犯人がわからないまま精神的に追いつめられて自殺し、......そして誰もいなくなった。", "qas": [ { "question": "一番最後まで残ったのは誰?", "id": "tr-168-01-000", "answers": [ { "text": "ヴェラ", "answer_start": 859, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "最初に死んだのは誰?", "id": "tr-168-01-001", "answers": [ { "text": "アンソニー・ジェームズ・マーストン", "answer_start": 207, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "インディアン人形は最初は何個ありましたか。", "id": "tr-168-01-002", "answers": [ { "text": "10個", "answer_start": 308, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "二番目の死んだのは誰?", "id": "tr-168-01-003", "answers": [ { "text": "エセル・ロジャース", "answer_start": 250, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ボトルの中の手紙は真犯人による告白文であった。真犯人は被害者の1人と思われた招待客の1人、ローレンス・ウォーグレイヴ判事であり、事件で不明だった犯行方法・犯行動機などすべての謎に対する真相をボトルの中の手紙に記していた。\n\nウォーグレイヴ判事は幼少より、「生物を殺すことに快楽を感じる性質」を持っていたが、同時に正義感や罪なき人間を傷付けることへの抵抗感も強かったため、判事として罪人に死刑を言い渡すという迂遠な手段で殺人願望を満たしていた。\n\nしかし、病を患ったことを機に「自らの手で人を殺したい」という欲望を抑えきれなくなったウォーグレイヴ判事は、欲望を満たしかつ正義を行えることとして、法律では裁かれなかった殺人を犯した9人の人間を集めて、1人ずつ殺していく計画を実行したのである。\n\nウォーグレイヴ判事は作中で殺害されることになるが、それは巧妙な偽装死であり、すべてが終わった後に告白文を書き、海に流して本当に自殺した。真犯人が最後のページで死ぬことを語ることによって幕を閉じる。", "qas": [ { "question": "ボトルの中には何が入っていましたか。", "id": "tr-168-02-000", "answers": [ { "text": "真犯人による告白文", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "真犯人は誰なの?", "id": "tr-168-02-001", "answers": [ { "text": "ローレンス・ウォーグレイヴ判事", "answer_start": 45, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "オーエン夫妻は兵隊島の持ち主だ。招待客8人と使用人2人は会ったことがない。\n夫はユリック・ノーマン・オーエン、妻はユナ・ナンシー・オーエンと名乗って、招待客への招待状の差出人になっている。最初の日の夕食後、レコードに記録した音声(謎の声)で島にいる10人全員の罪状を述べあげた。略すとどちらもU.N.Owen、UNKNOWN(何者とも判らぬ者)とかけられている。", "qas": [ { "question": "兵隊島の持ち主は誰?", "id": "tr-168-03-000", "answers": [ { "text": "オーエン夫妻", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユリック・ノーマン・オーエンの妻の名前は何?", "id": "tr-168-03-001", "answers": [ { "text": "ユナ・ナンシー・オーエン", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オーエン夫妻の名前を略すと何になりますか。", "id": "tr-168-03-002", "answers": [ { "text": "U.N.Owen", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「十人の小さな兵隊さん」は、作中に登場する童謡である。\n\n詩は、マザーグースの1つとして分類される童謡「10人のインディアン」を元としている。童謡の作者が明らかなため厳密にはマザーグースではないという見方もある。原曲のTenLittleInjunsは、1868年にアメリカのセプティマス・ウィナーがミンストレル・ショー向けに作詞・作曲したが、1869年にはイギリスのフランク・グリーンが全ての行で韻を踏んだ歌詞に書き換えたTenLittleNiggersを作成している。その後も歌詞やリズムの改変が続き、現代の「10人のインディアン」は原曲と比較すると別物になっている。\n\n『そして誰もいなくなった』の初版ではフランク・グリーンのTenLittleNiggersが使われていたが、歌詞の改変が何度か行われて最終的にアガサ・クリスティのオリジナルの詞となり、題名をTenLittleSoldierBoysとして歌詞も原曲のものとも現代のものとも異なっている。", "qas": [ { "question": "「十人の小さな兵隊さん」は何を元にしたものですか。", "id": "tr-168-04-000", "answers": [ { "text": "「10人のインディアン」", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "TenLittleInjunsの作曲は誰がしたの?", "id": "tr-168-04-001", "answers": [ { "text": "セプティマス・ウィナー", "answer_start": 137, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『そして誰もいなくなった』は1939年の発表当時の原題はTenLittleNiggersであった。これは作中に登場する童謡の題名を引用したものである。しかし、niggerは、アフリカ系アメリカ人に対する差別用語であり、黒人への差別表現に厳しいアメリカでは原題は不適切なものであった。\n\nそのため米版は1940年の発行にあたって、題名をTenLittleNiggersからAndThenThereWereNoneへ改題した。その後、1964年に話の鍵となる童謡をTenLittleNiggersからTenLittleIndiansへ、10体の人形は黒人の少年からインディアンの少年へ、島の名前はNiggerIsland(ニガー島、または黒人島)からIndianIsland(インディアン島)へ改編した。しかし、インディアンもまた差別用語であるとして米版は、童謡をTenLittleSoldiers(十人の小さな兵隊さん)へ、10体の人形は兵隊の少年へ、島の名前はSoldiersIsland(兵隊島)へ改編した。\n\n繰り返した改題と改編の結果、題名はTenLittleNiggersからAndThenThereWereNoneへ、島名はNiggerIslandからSoldierIslandへ、童話はTenLittleNiggersからTenLittleSoldierBoysへ、人形はLittleNiggerからLittleSoldierへ改題・改編された。\n\n日本においても2010年発行の青木久恵訳クリスティー文庫版ではインディアン島は兵隊島、インディアンは小さな兵隊さん、インディアン人形は兵隊人形へと変更されている。", "qas": [ { "question": "『そして誰もいなくなった』の発表当時のタイトルは何でしたか。", "id": "tr-168-05-000", "answers": [ { "text": "TenLittleNiggers", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『そして誰もいなくなった』は何年にアメリカで発行されましたか。", "id": "tr-168-05-001", "answers": [ { "text": "1940年", "answer_start": 150, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "島名はNiggerIslandから何に変更されたか。", "id": "tr-168-05-002", "answers": [ { "text": "SoldierIsland", "answer_start": 531, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『そして誰もいなくなった』は1990年に英国推理作家協会が選出した『史上最高の推理小説100冊』で19位に評価されている。同著者作品では他に、5位に『アクロイド殺し』、83位に『死が最後にやってくる』が選出されている。\n\n1995年にアメリカ探偵作家クラブが選出した『史上最高のミステリー小説100冊』の本格推理もののジャンルで1位、総合では10位に評価されている。同著者作品では他に、12位に『アクロイド殺し』、19位に『検察側の証人』、41位に『オリエント急行の殺人』が選出されている。\n\n日本各誌の海外ミステリー・ベストテンでは、1975年『週刊読売』で2位、1985年『週刊文春』(東西ミステリーベスト100)で4位、1999年『EQ』で3位、2005年『ジャーロ』で3位、2006年『ミステリ・マガジン』で3位、2010年『ミステリが読みたい!』(海外ミステリオールタイム・ベスト100forビギナーズ)で1位、2012年『週刊文春』(東西ミステリーベスト100)で1位と、近年においても高評価を維持している。\n\n作者ベストテンでは、1971年の日本全国のクリスティ・ファン80余名による投票、および1982年に行われた日本クリスティ・ファンクラブ員の投票のいずれにおいても、本書は1位に挙げられている。\n\nEntertainmentWeeklyで2014年に「NineGreatChristieNovels」の1作に『そして誰もいなくなった』が挙げられた。\n\nクリスティ自身がお気に入り作品10作のうちのひとつに挙げている作品である。なお、この10作品に順位は付けられていない。", "qas": [ { "question": "『そして誰もいなくなった』は1990年に英国推理作家協会が選出した『史上最高の推理小説100冊』で何位に評価されましたか。", "id": "tr-168-06-000", "answers": [ { "text": "19位", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『そして誰もいなくなった』は1995年にアメリカ探偵作家クラブが選出した『史上最高のミステリー小説100冊』の本格推理もののジャンルで何位に評価されましたか。", "id": "tr-168-06-001", "answers": [ { "text": "1位", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "サレカット・イスラム", "paragraphs": [ { "context": "サレカット・イスラム(SarekatIslam)は、20世紀初頭、オランダ領東インド(現インドネシア)で結成されたイスラーム系大衆団体である。日本語では「イスラム同盟」と訳される例も多い。略称はSIである。", "qas": [ { "question": "サレカット・イスラムの略称は、何?", "id": "tr-169-00-000", "answers": [ { "text": "SI", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サレカット・イスラムの日本語式表記は、何ですか?", "id": "tr-169-00-001", "answers": [ { "text": "イスラム同盟", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サレカット・イスラムが結成されたのは、いつのことか?", "id": "tr-169-00-002", "answers": [ { "text": "20世紀初頭", "answer_start": 26, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サレカット・イスラムは、どこで結成されたか?", "id": "tr-169-00-003", "answers": [ { "text": "オランダ領東インド", "answer_start": 33, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "サレカット・イスラムは、当初、華人系商人に対抗するムスリムの商人組織として結成されたが、組織の拡大とともに植民地支配に抵抗する急進的な民族主義団体としての性格を強め、1910年代から1920年代初頭にかけて、当時としては空前の規模の動員力を誇った。1923年にはサレカット・イスラム党、さらに1929年にインドネシア・サレカット・イスラム党(PSII)と改名した。", "qas": [ { "question": "サレカット・イスラムは、当初、どんな人々により結成されたの?", "id": "tr-169-01-000", "answers": [ { "text": "ムスリムの商人", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サレカット・イスラムは、当初、どんな人々に対抗するために結成されましたか?", "id": "tr-169-01-001", "answers": [ { "text": "華人系商人", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サレカット・イスラム党とインドネシア・サレカット・イスラム党のうち、どちらの党名がより早く使われたか?", "id": "tr-169-01-002", "answers": [ { "text": "サレカット・イスラム党", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "サレカット・イスラム党の名称が使われ始めたのは、何年からか?", "id": "tr-169-01-003", "answers": [ { "text": "1923年", "answer_start": 124, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "サレカット・イスラム(SI)の前身は、バタヴィア(現ジャカルタ)と西ジャワのバイテンゾルフ(現ボゴール)で、それぞれ1909年と1910年に結成されたサレカット・ダガン・イスラム(イスラム商業同盟、SarekatDagangIslam,以下SDI)である。この団体を結成したのは、ジャワ貴族出身のジャーナリスト、ティルトアディスルヨであり、彼の目的は同じムスリムであるアラブ人商人と「原住民」商人が手を結び、当時の東インドで活発な経済活動をおこなっていた華人系商人に対抗することだった。", "qas": [ { "question": "サレカット・イスラムの前身とされるのは、バタヴィアと何?", "id": "tr-169-02-000", "answers": [ { "text": "バイテンゾルフ", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バタヴィアの創立年度は、何年ですか?", "id": "tr-169-02-001", "answers": [ { "text": "1909年", "answer_start": 58, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バイテンゾルフの創立年度は、何年か?", "id": "tr-169-02-002", "answers": [ { "text": "1910年", 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{ "text": "サマンフディ", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サマンフディの後をついだのは、誰か?", "id": "tr-169-03-002", "answers": [ { "text": "チョクロアミノト", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "SIの勢力拡大を果たしたのは、誰か?", "id": "tr-169-03-003", "answers": [ { "text": "チョクロアミノト", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1910年代前半にSIが急速に組織を拡大させた最大の要因は、組織の紐帯としてイスラームを前面に押し出したことであった。東インドにおけるムスリム人口は全体の9割前後であり、その潜在的な動員力は既存の各種団体のそれを上回るものだった。そして組織の拡大とともに、その主導権は、SDIにおける商人たちから、貴族階級出身でオランダ語教育を受けた知識人層へと移っていった。", "qas": [ { "question": "SIが急速に成長したのは、いつ頃のことなの?", "id": "tr-169-04-000", "answers": [ { "text": "1910年代前半", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東インドの人口割合を見ると、どのような人々の比率が最も大きいですか?", "id": "tr-169-04-001", "answers": [ { "text": "ムスリム", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "当時、東インドには、どのような人々が最も多く住んでいましたか?", "id": "tr-169-04-002", "answers": [ { "text": "ムスリム", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "SIが成長するとともに、その主導権は、どのような教育を受けた知識人層に移ったか?", "id": "tr-169-04-003", "answers": [ { "text": "オランダ語", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "設立当初のSIは、植民地政府と良好な関係を保とうとしており、オランダ支配下での現地住民の福祉向上をはかり、現地住民の声を代弁する議会の開設を政治的要求の一つに掲げていた。また、植民地政府の側も、当初はSIの活動を容認していた。1912年11月、SIが植民地政府に合法団体としての承認を要請すると、1913年6月30日、植民地政府はSIの地方支部を個別に承認するという方針を打ち出した。そして最終的には、1916年、植民地政府は中央SIを正式に承認したのである。", "qas": [ { "question": "SIが植民地政府に合法団体としての承認を要請したのは、いつのことなの?", "id": "tr-169-05-000", "answers": [ { "text": "1912年11月", "answer_start": 113, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1912年11月のSIの要請に、植民地政府が少し変わった方針を打ち出したのは、いつのことですか?", "id": "tr-169-05-001", "answers": [ { "text": "1913年6月30日", "answer_start": 148, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1912年11月にSIが植民地政府に対し、合法団体としての承認を求めたのは、何年になってこそ正式に受け入れられたか?", "id": "tr-169-05-002", "answers": [ { "text": "1916年", "answer_start": 201, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "植民地政府が1912年11月のSIの要請を正式に受け入れたのは、何年のことか?", "id": "tr-169-05-003", "answers": [ { "text": "1916年", "answer_start": 201, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "その中でも、労働組合運動で頭角を現した青年活動家スマウンによって牽引されるSIスマラン支部は急進的だった。当時のスマランは新興工業都市であり、各種組織による労働組合運動が盛んだった。このスマランでは、1914年5月、東インド在住のオランダ人、欧亜混血児らによって、東インド社会民主主義同盟(ISDV)という共産主義政党が結成された。後のインドネシア共産党(PKI)の前身である。", "qas": [ { "question": "急進的な性向を持っていたSIの地方支部は、何だったの?", "id": "tr-169-06-000", "answers": [ { "text": "SIスマラン支部", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "急進的な性向を持っていたSIの地方支部は、誰がけん引していましたか?", "id": "tr-169-06-001", "answers": [ { "text": "スマウン", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東インド社会民主主義同盟が創立されたのは、いつのことか?", "id": "tr-169-06-002", "answers": [ { "text": "1914年5月", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "東インド社会民主主義同盟を前身とする政党は、何か?", "id": "tr-169-06-003", "answers": [ { "text": "インドネシア共産党", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "SIスラマン支部に属する17歳のスマウンが、このISDVのオランダ人活動家ヘンドリクス・ヨセフ・フランシス・スネーフリートを慕い、彼の勧めによってISDVに加入したのは1915年のことである。SI会員がISDVにも加入する「二重党籍」となったわけだが、当時、複数の政治組織に加入する例は珍しくはなかった。スネーフリートの戦略は、既存の他組織に党員を参加させ、その組織内で共産主義者の影響力を高め、組織全体をISDVの影響下に置くことであったが、ムスリムでないスネーフリートはSIに加入できないため、スマウンを通して、SIスマラン支部を「赤化」することに成功したのである。", "qas": [ { "question": "スマウンがISDVに加入したのは、いつのことなの?", "id": "tr-169-07-000", "answers": [ { "text": "1915年", "answer_start": 84, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スマウンがISDVに加入したのは、誰から影響を受けたからですか?", "id": "tr-169-07-001", "answers": [ { "text": "ヘンドリクス・ヨセフ・フランシス・スネーフリート", "answer_start": 37, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1915年の時点でスマウンは、何歳だったか?", "id": "tr-169-07-002", "answers": [ { "text": "17歳", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スマウンは、何歳の時にISDVに加入したか?", "id": "tr-169-07-003", "answers": [ { "text": "17歳", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "こうした地方支部における急進派の影響を受けて、1917年10月に開かれたSIの第2回大会では、反植民地主義を掲げて、自治権の獲得を謳う綱領が採択された。また、この綱領では植民地支配の根拠となっている資本主義を敢えて「罪深い資本主義」と呼び、これを非難しつつも、民族ブルジョワジーをその非難の対象から外し、彼らの支持を失わないよう努めた。綱領の文言は激しい調子で彩られていたが、闘争の基本路線としては合法的活動であるべきという姿勢を放棄したわけではなかった。", "qas": [ { "question": "SIの第2回大会が開催されたのは、いつのことなの?", "id": "tr-169-08-000", "answers": [ { "text": "1917年10月", "answer_start": 23, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "慕いSIの第2回大会では、どの主義の話を主にとらえましたか?", "id": "tr-169-08-001", "answers": [ { "text": "反植民地主義", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1918年5月には東インドに植民地議会(Volksraad)が開設され、SIからは総督任命議員としてチョクロアミノトが選ばれ、またSI副議長アブドゥル・ムイスも選出議員として議席を得た。チョクロアミノトらは、この植民地議会での活動を足がかりに、植民地政府に対して「原住民」の地位向上と住民自治の拡大をもとめていこうとしたが、SI内の急進派は、そうした中央SI首脳の活動を微温的であるとして満足しなかった。", "qas": [ { "question": "東インドに植民地議会が開設されたのは、いつのことか?", "id": "tr-169-09-000", "answers": [ { "text": "1918年5月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チョクロアミノトは、どの勢力の者か?", "id": "tr-169-09-001", "answers": [ { "text": "SI", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "チョクロアミノトは、東インドの植民地議会で何に選出されたか?", "id": "tr-169-09-002", "answers": [ { "text": "総督任命議員", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ブドゥル・ムイスは、東インドの植民地議会で何に選出されたか?", "id": "tr-169-09-003", "answers": [ { "text": "選出議員", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1918年9月、10月に開かれた第3回大会では、ISDVにも在籍するSIスマラン支部のスマウンがSI中央運営委員会委員、ダルソノが宣伝局員、そしてアリミンも中央SI指導部入りし、従来のSIの微温的な活動方針を転換し、より過激な方針を取るよう、指導部を突き上げた。これを受けてチョクロアミノトは同年11月、植民地議会に対して、遅くとも1921年末までに、住民の選挙によって公正に選出された立法院、その議会に責任を持つ政府を作れとの動議を提出、植民地政府に対する要求をさらに先鋭化させていくことになった。", "qas": [ { "question": "第3回大会は、何年度に開催されたの?", "id": "tr-169-10-000", "answers": [ { "text": "1918年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第3回大会にて地位上昇が果たされ、その時以来、従来のSIの微温的な活動方針を転換し、より過激な方針を取るよう、指導部を突き上げたのは、スマウンとダルソノ、そしてだれですか?", "id": "tr-169-10-001", "answers": [ { "text": "アリミン", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スマウンがSI中央運営委員会委員入りを果たしたのは、第何回大会でか?", "id": "tr-169-10-002", "answers": [ { "text": "第3回大会", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第3回大会でダルソノは、どこに配属されたか?", "id": "tr-169-10-003", "answers": [ { "text": "宣伝局", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1923年2月、SIはISDVによる支部の侵食に対抗するため、組織をサレカット・イスラム党PartaiSarekatIslam(略称SI党)に改編し、党としての体裁を整えることになった。また、急進的な路線を取ることで大衆の支持を獲得しようと試み、1924年8月の党大会では植民地政府、植民地議会への非協力路線を採択したが、政府との対決は避け、氾イスラーム主義に訴えて、党勢の維持、拡大を図ろうとした。", "qas": [ { "question": "SIがサレカット・イスラム党と呼ばれるようになったのは、いつからのことなの?", "id": "tr-169-11-000", "answers": [ { "text": "1923年2月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サレカット・イスラム党へと改編されてから初めて開かれた党大会は、いつ開かれましたか?", "id": "tr-169-11-001", "answers": [ { "text": "1924年8月", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "サレカット・イスラム党の前身となる組織は、どの組織か?", "id": "tr-169-11-002", "answers": [ { "text": "SI", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サレカット・イスラム党へと改編したのは、何に対抗するためだったか?", "id": "tr-169-11-003", "answers": [ { "text": "ISDVによる支部の侵食", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "そのころ、民族主義運動を主導していたのは、1927年にスカルノらによって結成されたインドネシア国民党(PNI)であった。インドネシアの独立を掲げて植民地政府との対決姿勢をアピールしたPNIは、主にジャワの都市部を中心に支持を広げたが、1929年末にスカルノら党幹部が逮捕されると、PNIは1931年に解散した。植民地政府が民族主義運動に対して強硬路線を敷き、民族主義運動をめぐる環境がきびしさを増していくなかで、1934年12月にチョクロアミノトが死去し、PSII自身も運動のありかたについて、植民地政府への非協力路線を継続するか、それとも協調路線に転じるか、という深刻な内部対立をかかえていた。", "qas": [ { "question": "インドネシア国民党が成立したのは、何年のことなの?", "id": "tr-169-12-000", "answers": [ { "text": "1927年", "answer_start": 21, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "インドネシア国民党の創立者として名前が挙げられているのは、誰ですか?", "id": "tr-169-12-001", "answers": [ { "text": "スカルノ", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "インドネシア国民党は、何主義のもとに結成された政党であるか?", "id": "tr-169-12-002", "answers": [ { "text": "民族主義", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "インドネシア国民党の創立者であり、党幹部でもある人が逮捕されたのは、いつだと書かれているか?", "id": "tr-169-12-003", "answers": [ { "text": "1929年末", "answer_start": 117, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "エドガー・アラン・ポー", "paragraphs": [ { "context": "エドガー・アラン・ポーは、アメリカ合衆国の小説家、詩人、評論家である。\n\nマサチューセッツ州ボストンに生まれる。旅役者であった両親を早くに失い(父親は蒸発、母親は死亡)、名づけ親の商人アラン家に引き取られ、幼少期の一時期をロンドンで過ごした。帰国後17歳でヴァージニア大学に進む。学業成績は極めて優秀で、詩人としても認められるが、賭博、大酒で悪名を馳せる。養父アランと賭博の借金が原因で仲たがいになり退学。家を出て陸軍に入隊。いったん除隊して養父とのよりを戻し、こんどは士官学校に入学するもなじめず、規則違反行為で退学処分。その後、文筆で身をたてるべく詩や短編小説を創作し始める。ゴシック風の恐怖小説「アッシャー家の崩壊」「黒猫」、世界初の推理小説と言われる「モルグ街の殺人」、暗号小説の草分け「黄金虫」など多数の短編作品を発表、また1845年の詩「大鴉」でも評判を取った。また同時に有能な雑誌編集者であり、文芸批評家でもあったが、飲酒の悪癖などでトラブルを起こす癖はなおらず、いくつもの出版社を渡り歩いた。1833年、当時まだ13歳だった従妹ヴァージニア・クレムと結婚するが、1847年に貧苦の中で結核によって彼女を失い、その2年後にポー自身も謎めいた死を遂げた。", "qas": [ { "question": "エドガー・アラン・ポーはどの国人なの?", "id": "tr-170-00-000", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 13, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エドガー・アラン・ポーはどの州で生まれたか。", "id": "tr-170-00-001", "answers": [ { "text": "マサチューセッツ州", "answer_start": 37, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エドガー・アラン・ポーは何歳の時、ヴァージニア大学に進学しましたか。", "id": "tr-170-00-002", "answers": [ { "text": "17歳", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「アッシャー家の崩壊」の著者は誰ですか。", "id": "tr-170-00-003", "answers": [ { "text": "エドガー・アラン・ポー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "エドガー・アラン・ポーは1809年、マサチューセッツ州ボストン市に、女優エリザベス・ポーと俳優デイヴィッド・ポーの息子エドガー・ポーとして生を受けた。両親は共にスコットランド系アイルランド人で、父方の祖父のデイヴィッド・ポーは独立戦争時に活躍して歩兵から少佐に昇級し、私財を投じて独立軍のために食料を賄ったことから兵士たちに「ポー将軍」と尊称されていた人物であった。ポーの父デイヴィッドは彼の名を継いだ四男であり、当初は法律を学んだもののその後演劇を志し、ボルティモアの素人劇団で俳優として活動していた。一方母エリザベス・ポーはこの頃ボルティモアの「新劇場」で活躍しており、1802年頃に同じ一座で活動していたチャールズ・ホプキンスと結婚するも1年で離婚、その後一座に出演するようになったデイヴィッド・ポーと1806年に結婚した。\n\nエドガー・ポーは次男であり、兄に2つ上のウィリアム・ヘンリー・レナードがおり、また1年後にやや知恵遅れの妹ロザリーが生まれるが、巡業に忙しい両親は子育てをしている暇がなく、幼い兄弟はボルティモアの父の実家に預けられていた。「エドガー」の名は、おそらく、両親が1809年に公演したシェイクスピア『リア王』から取られたものと思われる。", "qas": [ { "question": "エドガー・アラン・ポーは何年生まれですか。", "id": "tr-170-01-000", "answers": [ { "text": "1809年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウィリアム・ヘンリー・レナードとエドガー・ポーと誰がもっと先に生まれたの?", "id": "tr-170-01-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ヘンリー・レナード", "answer_start": 387, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「エドガー」の名はどの作品から取られたものと思われるか。", "id": "tr-170-01-002", "answers": [ { "text": "『リア王』", "answer_start": 513, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ボストン市はどの州に属されているの?", "id": "tr-170-01-003", "answers": [ { "text": "マサチューセッツ州", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかし1810年10月、バージニア州リッチモンドでの公演を終えた直後に、エドガー・ポーの父デイヴィッドが突如家族を捨て失踪してしまう。当時エドガー・ポーの母エリザベスは長女ロザリーを身ごもっており、また夫の実家からエドガーのみを引き取ってきた後だったが、出産の準備のために収入が途絶え、出産の前後は貧困生活に苦しまねばならなかった。産後の肥立ちも悪く、1811年1月には舞台に復帰していたが、結核にかかり同年12月に他界する。両親を失った子供たちは、兄ウィリアムが父方の実家に、エドガーが両親と親交のあったリッチモンドのアラン家に、ロザリーがアランの友人宅にそれぞれ引き取られることになった。\n\nエドガーを引き取ったジョン・アランは成功した商人であり、タバコや織物、小麦、墓石から奴隷まで幅広い商品を扱う輸入業者であった。彼は1803年にフランセス・ヴァレンタインと結婚していたが子宝に恵まれず、自身たちと同じスコットランド系の孤児を望んでいた夫人が特に希望してエドガーを養子にしたいと申し出たのである。ポーはこの際に「エドガー・アラン・ポー」の名が与えられるが、しかし養子とするための正式な手続きは行なわれていなかった。", "qas": [ { "question": "両親が死んだあと、エドガーを引き取ったのは誰なの?", "id": "tr-170-02-000", "answers": [ { "text": "ジョン・アラン", "answer_start": 308, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エドガー・ポーの母は何年に亡くなりましたか。", "id": "tr-170-02-001", "answers": [ { "text": "1811年", "answer_start": 176, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エドガー・ポーの母は何年に舞台に復帰しましたか。", "id": "tr-170-02-002", "answers": [ { "text": "1811年", "answer_start": 176, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エドガー・ポーの母が亡くなったのはどんな病気にかかったせいですか。", "id": "tr-170-02-003", "answers": [ { "text": "結核", "answer_start": 196, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1815年、前年に対英戦争が終結し時局が安定したため、アラン一家は事業拡大のためイギリスに渡った。ポーはアランの生まれ故郷であるスコットランドのアーヴィンで短期間グラマー・スクールに通った後、1816年に一家とともにロンドンに移りここで寄宿舎生活を送った。しかし養母フランセスが健康を害したため転地療養を繰り返し、これに併せてポーも転校を余儀なくされた。1817年の秋季からはロンドン郊外のストーク・ニューイーストンにあるマナー・ハウス学校に通った。ここでの寄宿舎生活はのちに「ウィリアム・ウィルソン」で生かされることになる。\n\n1820年になるとアランのロンドンでの事業拡大が失敗に終わったことがはっきりし、6月に一家はリッチモンドに戻ることになった。アメリカに戻ったポーはアイルランド人の経営する英語・古典学校に通い、ここでフランス語、ギリシャ語、ラテン語や古典文学を学んだ。ポーは外国語では抜群の成績を収めており、また詩作もこの頃に始めている。一方義父アランはリッチモンドでの経営も思わしくなく、1825年には商会を解散したうえ自宅も売却せざるを得なくなった。しかしちょうどその頃にアランの伯父にあたるウィリアム・ゴールドが死去し、アラン家に75万ドルと見積もられる莫大な遺産が転がり込んだ。アラン家はふたたび金満家になり、その祝いにリッチモンドの本通りに豪奢な2階建ての家を購入することができた。", "qas": [ { "question": "1815年、対英戦争が終結し時局が安定したため、アラン一家はどこに移りましたか。", "id": "tr-170-03-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 40, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アランの生まれ故郷はどこなの?", "id": "tr-170-03-001", "answers": [ { "text": "スコットランドのアーヴィン", "answer_start": 64, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アラン一家とポーはアーヴィンで過ごしたあと、何年にロンドンに移りましたか。", "id": "tr-170-03-002", "answers": [ { "text": "1816年", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1820年、アランのロンドンでの事業拡大は失敗したか、成功したか。", "id": "tr-170-03-003", "answers": [ { "text": "失敗", "answer_start": 289, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1826年、ポーは前年に開校したばかりのヴァージニア大学に入学した。大統領から退いたトマス・ジェファーソンが設立し自ら総長を任じていた大学で、学生の自主的活動を重んじ、学課も自由選択制をとっていた。ポーはここの学生寮で生活しながら、ギリシア語、ラテン語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語を学び、そのほか古代地理、美文学、修辞学なども受講し、文学ではウェルギリウス、トゥキディデス、ユウェナリス、ホメロス、ヘシオドスといった古典文学の他、シュレーゲル兄弟、ノヴァーリス、ティーク、ホフマン、ゲーテ、シラーなどのドイツ文学に親しみ、図書館にも熱心に通った。\n\nしかし、大学生活は心楽しいことばかりではなかった。ポーは大学に入る前年、近所に住む美少女サラ・エルマイラ・ロイスターと恋に落ち、密かに婚約を交わしていたのだが、大学に入って以降に彼女へ送った恋文の返事がまったく来なかったのである。ポーは知らなかったのだが、彼の送った手紙はエルマイラの父親に破り捨てられていたのである。その後、エルマイラは父親により豪商の息子に嫁がされることが決まった。\n\n失恋に続き金銭面での問題が起こった。義父アランからの送金が遅れたために生活が困窮し始め、ポーは小遣い銭を得るためにトランプ賭博に手を出すようになった。その後義父の送金が届いてからも賭博をやっては負け続け、その負債額は2000ドルに及んだ。事情を知ったアランはポーの生活費の借金は返済してやったが、賭博の負けは絶対に返済しようとしなかった。", "qas": [ { "question": "1826年、ポーはどの大学に入学したか。", "id": "tr-170-04-000", "answers": [ { "text": "ヴァージニア大学", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴァージニア大学を設立した人は誰ですか。", "id": "tr-170-04-001", "answers": [ { "text": "トマス・ジェファーソン", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポーは大学に入る前、誰に恋をしていたの?", "id": "tr-170-04-002", "answers": [ { "text": "サラ・エルマイラ・ロイスター", "answer_start": 328, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "借金を抱え大学を辞めざるをえなくなったポーは、1827年3月に家出同然にリッチモンドの実家を出てボストンに向かった。ボストンに着いてからはアンリ・ル・ランネという偽名を使い、店員や新聞記者のアルバイトをして生活費を得ていたが、5月になってエドガー・A・ペリーという偽名を使い、また年齢も18歳を22歳と偽って、アメリカ合衆国陸軍に入隊した。最初の配属先はボストン港内にある砦で、給与は月5ドルであった。その一方で、ポーはボストンで自分の詩集を出版するための印刷業者を探し、同年7月に第一詩集『タマレーン、その他の詩集』を出版している。しかし「一ボストン人」の名で出版された40ページのこの詩集は、事実上何の反響も起こさなかった。", "qas": [ { "question": "ポーは、1827年3月に家出同然にリッチモンドの実家を出てどこに向かったか。", "id": "tr-170-05-000", "answers": [ { "text": "ボストン", "answer_start": 48, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーはボストンに着いてから、どんな名前を使って店員や新聞記者のアルバイトをしましたか。", "id": "tr-170-05-001", "answers": [ { "text": "アンリ・ル・ランネ", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーは何年に第一詩集『タマレーン、その他の詩集』を出版したか。", "id": "tr-170-05-002", "answers": [ { "text": "1827年", "answer_start": 23, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アメリカ合衆国陸軍に入隊した時、ポーは何歳と偽ったか。", "id": "tr-170-05-003", "answers": [ { "text": "22歳", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1827年11月、ポーの連隊はウォールタム号に乗ってサウスカロライナ州のムールリ砦に移動した。ポーは大砲の弾を準備する特別技術兵に昇進し、給与も二倍になった。1828年にはヴァージニア州にあるモンロー要塞に移り、ポーは翌年1月、下士官が到達できる最高の階級である特務曹長に昇進した。しかしポーは5年ある勤務期間の早期除隊を希望するようになり、指揮官のハワード中尉に自分の本名と年齢を明かした上で相談した。彼はポーに、義父のジョン・アランに連絡を取るよう指示し、ポーはアランに手紙を送ったが、この手紙は無視された。しかし1829年2月28日に義母のフランセスが死去し(ポーは電報を受けてリッチモンドに戻ったが、既に死去した後だった)、このことがアランの態度を和らげたのか、彼はようやくポーの希望通り除隊の上でウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学することを許可した。", "qas": [ { "question": "ポーは大砲の弾を準備する特別技術兵に昇進したことで給与が何倍になりましたか。", "id": "tr-170-06-000", "answers": [ { "text": "二倍", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1829年1月、ポーはどんな快急に昇進したか。", "id": "tr-170-06-001", "answers": [ { "text": "特務曹長", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "下士官が到達できる最高の階級は何でしたか。", "id": "tr-170-06-002", "answers": [ { "text": "特務曹長", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーの義母は何年に亡くなりましたか。", "id": "tr-170-06-003", "answers": [ { "text": "1829年", "answer_start": 259, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1830年7月、ポーは入学試験を経てウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学した。しかしここでの生活はポーが想像したほど自由なものではなく、詩も小説も読むことを禁じられていた。この年の10月、義父ジョン・アランはルイザ・パターソンと再婚するが、この結婚と、さらに彼が別の恋人との間に婚外子をもうけていた問題でポーと口論になり、その結果義父により勘当が言い渡された。遺産相続の可能性がなくなったポーは士官学校を去ることを決意、1831年1月にアランへ手紙でその旨を伝えた後、意図的な怠業を行なって軍法会議にかけられ、放校処分となった。\n\n2月にウェストポイントを出たポーは、3月中ごろまでニューヨークの安ホテルに滞在し、エラム・ブリス社を訪れた。エラム・ブリスはウェストポイントに出入りしていた業者で、ポーの評判を聞いて詩集の出版を引き受けたのである。出版費用はウェストポイント士官学校の生徒のカンパで賄われており、一人につき75セントずつ、合計で170ドルに達した(彼らはこの詩集を、ポーが以前書いて見せたような上官に対する風刺詩を集めたものと思っていたらしい)。ポーの第三詩集『ポー詩集』は「アル・アーラーフ」や「タマレーン」を再録していたほか、「ヘレンへ」「海の中の都市」「イスラフェル」などの新詩を含んでいたが、あまり好評は得られなかった。", "qas": [ { "question": "ポーはいつウェスト・ポイント陸軍士官学校に入学したの?", "id": "tr-170-07-000", "answers": [ { "text": "1830年7月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーの義父ジョン・アランは何年にルイザ・パターソンと再婚するか。", "id": "tr-170-07-001", "answers": [ { "text": "1830年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポーの第三詩集のタイトルは何?", "id": "tr-170-07-002", "answers": [ { "text": "『ポー詩集』", "answer_start": 487, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「アル・アーラーフ」、「タマレーン」、「ヘレンへ」のうち、『ポー詩集』に初めて収録された作品は何ですか。", "id": "tr-170-07-003", "answers": [ { "text": "「ヘレンへ」", "answer_start": 522, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ポーはジャーナリズムの活発なボルティモアを生活の場に定め、クレム叔母の家に居候をしながら(実兄のウィリアム=ヘンリーは結核で1831年8月に死去していた)短編小説の執筆を始めた。1832年の1月、『サタデー・クオリア』誌に「メッツェンガーシュタイン」が採用され、以後同誌に「オムレット侯爵」「エルサレムの物語」「息の喪失」「バーゲンの損失(のち「ボンボン」として改筆)」が掲載、1833年からは『サタデー・ヴィジター』誌に詩や短文を掲載した。この頃ちょうど同『サタデー・ヴィジター』誌が短編と詩の懸賞を打ち出したため、ポーは『フォーリオ・クラブ物語』と名づけた短編6編と詩を投稿、このうち短編「壜の中の手記」が最優秀作に選ばれ賞金50ドルを獲得した。\n\nさらにポーは、このとき審査員を務めていたボルティモアの著名な政治家であり作家であった、ジョン・P・ケネディと親しくなり、彼の斡旋でリッチモンドの『サザン・リテラリー・メッセンジャー』誌に作品を掲載するようになった。さらにその後同誌の編集長が退職すると、ケネディの推薦で『メッセンジャー』誌の主筆編集者として迎えられることになった。しかしこの頃、ポーはまだ少女であった従妹のヴァージニアへ求婚し、それを叔母マライアに拒絶されていたことから飲酒の量が増えるなどして心情が荒れており、『メッセンジャー』誌の職を短期間で辞してしまった。しかし度重なるポーの説得にマライアが折れ、1833年9月にボルティモアの郡裁判所から結婚許可を受けた。当時ポーは26歳、ヴァージニアはまだ結婚不可能な13歳1か月であったが、結婚誓約書には21歳と記されていた。", "qas": [ { "question": "『サタデー・クオリア』誌に「メッツェンガーシュタイン」が採用されたのはいつですか。", "id": "tr-170-08-000", "answers": [ { "text": "1832年の1月", "answer_start": 89, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーは何年から『サタデー・ヴィジター』誌に詩や短文を掲載し始めましたか。", "id": "tr-170-08-001", "answers": [ { "text": "1833年", "answer_start": 189, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポーは「壜の中の手記」が最優秀作に選ばれるこどで賞金いくらを獲得することができましたか。", "id": "tr-170-08-002", "answers": [ { "text": "50ドル", "answer_start": 315, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1833年9月、ポーは何歳だった?", "id": "tr-170-08-003", "answers": [ { "text": "26歳", "answer_start": 647, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "その後ポーは『メッセンジャー』誌の創刊者トマス・ホワイトに再就職の希望を伝えて受け入れられ、10月に妻となったヴァージニアと叔母マライアとともにリッチモンドに移り住んだ。『メッセンジャー』主筆としてポーは自作の短編を発表していっただけでなく、毎号広い分野におよぶ論壇時評を書き、また苛烈な作品評を行なって評判を取った。『メッセンジャー』はポーが主筆になったことによって、500程度だった発行部数が3500まではね上がり、南部の主導的な文芸雑誌の地位にまでのし上がった。仕事が軌道に乗ったことから、1836年5月にポーはクレム叔母やホワイト、トマス・クリーランド知事など9名を招いてヴァージニアとの公開の結婚式を挙げた。\n\n『メッセンジャー』誌は好評を取り続けたが、しかしポーは実績に見合った昇給をしてもらえず、また編集に口出しがされ始めたことで創刊者のホワイトと不仲になり始めた。就職から1年経った1837年1月、ポーは『メッセンジャー』を辞し、2月末に家族を連れてニューヨークに移った。ここで編集の仕事をするつもりだったのだが、しかし依頼しておいた『ニューヨーク評論』編集のポストが不採用になり、代わりに以前『メッセンジャー』に2度掲載した長編『アーサー・ゴードン・ピムの物語』の完成に力を注いだ。翌年7月に出版された『ピムの物語』はアメリカの20誌以上の新聞・雑誌に言及するなど話題作となったものの売り上げは伸びず、すでに収入減からフィラデルフィアに移っていた一家の生活はみるみる窮乏していった。", "qas": [ { "question": "『メッセンジャー』誌の創刊者は誰なの?", "id": "tr-170-09-000", "answers": [ { "text": "トマス・ホワイト", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーとヴァージニアの公開結婚式はいつ行われたの?", "id": "tr-170-09-001", "answers": [ { "text": "1836年5月", "answer_start": 248, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ポーは何年に『メッセンジャー』を辞めたの?", "id": "tr-170-09-002", "answers": [ { "text": "1837年", "answer_start": 399, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ポーの長編『アーサー・ゴードン・ピムの物語』は『メッセンジャー』に何度掲載されたか。", "id": "tr-170-09-003", "answers": [ { "text": "2度", "answer_start": 515, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ポーは『アメリカン・ミュージアム』誌に「ライジーア」などいくつかの作品を発表したのち、1839年、喜劇俳優ウィリアム・バートンが創刊した雑誌『ジェントルマンズ・マガジン』に依頼され、週給10ドルでこの雑誌の編集者となった。ポーは『メッセンジャー』時代の編集の経験を生かしつつ、「ウィリアム・ウィルスン」「アッシャー家の崩壊」などの短編や詩を同誌に掲載していき、その傍らリー・アンド・ブランチャード社より初の小説作品集『グロテスクとアラベスクの物語』を同年9月に刊行した。25編からなるこの作品集は非常に多数の雑誌が書評を行なったが、評価は賛否両論であった。\n\nその後バートンと編集方針などで対立したため、翌年6月にポーは『ジェントルマンズ・マガジン』を辞めるが、バートンが雑誌を弁護士ジョージ・グレアムに譲渡し新たに『グレアムズ・マガジン』が創刊されるとポーは新雑誌の編集者として迎えられた。こうして11月に創刊した『グレアムズ・マガジン』では「群集の人」「モルグ街の殺人」「メエルシュトレエムに呑まれて」などの短編のほか多数の評論を発表し、1年半後には『グレアムズ・マガジン』は発行部数3万7000部を誇る、アメリカ合衆国最大の雑誌へと成長した。なおポーは『グレアムズ・マガジン』時代の1842年3月には、渡米してきたチャールズ・ディケンズと面会を果たしている。", "qas": [ { "question": "『ジェントルマンズ・マガジン』の創刊者は誰ですか。", "id": "tr-170-10-000", "answers": [ { "text": "ウィリアム・バートン", "answer_start": 53, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ウィリアム・ウィルスン」を書いた人は誰なの?", "id": "tr-170-10-001", "answers": [ { "text": "ポー", "answer_start": 111, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーは何月に『ジェントルマンズ・マガジン』を辞めたの?", "id": "tr-170-10-002", "answers": [ { "text": "6月", "answer_start": 304, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バートンは誰に雑誌を譲渡したの?", "id": "tr-170-10-003", "answers": [ { "text": "ジョージ・グレアム", "answer_start": 342, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『グレアムズ・マガジン』を去った後も、ポーは『ダラーズ・ニュースペーパー』の懸賞で「黄金虫」により100ドルの賞金を受けた他、「マリー・ロジェの謎」「落し穴と振り子」などの作品を各誌に発表し、1843年9月には作品集『散文物語集』を刊行するが、依然として生活は窮乏していた。新規まき直しを図るため1844年6月にニューヨークに移り、「軽気球夢譚」(『ザ・サン』紙にまるで実話であるかのように掲載され大当たりを取った)「早すぎた埋葬」「催眠術の掲示」などを発表していき、1845年10月には週刊誌『イヴニング・ミラー』の記者として迎えられた。1845年にポーが同誌に発表した詩「大鴉」は絶賛を博し、他誌にも次々に掲載されポーの文名を大いに高めたが、この詩の出版に対しポーに支払われた報酬はわずか9ドルであった。", "qas": [ { "question": "ポーはいつ作品集『散文物語集』を刊行しましたか。", "id": "tr-170-11-000", "answers": [ { "text": "1843年9月", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1845年、ポーどの雑誌に詩「大鴉」を発表したか。", "id": "tr-170-11-001", "answers": [ { "text": "『イヴニング・ミラー』", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1845年2月よりポーは『ブロードウェイ・ジャーナル』に職場を移し、自作を寄稿したほか文芸時評を担当した。同誌でポーはヘンリー・ワーズワース・ロングフェローを剽窃者として論難しており、ロングフェローの擁護者との間での論争に発展したが、この論争はポーの分が悪いままに終わっている。6月には作品集『物語集』を出版して予想外の売り上げを収めた。文名が高まるとともに雑誌経営への希望を依然として持ち続けていたポーは、12月に『ブロードウェイ・ジャーナル』の経営権を譲り受けたが、しかし資金繰りに苦しんだ結果わずか1ヶ月で手放さなければならなくなった(翌年に廃刊)。生活は窮乏し、1846年には妻を連れてブロンクス区にある木造家屋に転居した。1847年1月、ヴァージニアは貧苦の最中この小屋で息を引き取った。\n\nこの年よりポーは「散文詩」と銘うった壮大な宇宙論『ユリイカ』の完成に精力を傾けた。しかし翌年この論文をもとに行なった講演は明らかな失敗に終り、7月に刊行された書籍も売れ行きは伸びなかった。この頃、ポーは夜会で出合ったサラ・ヘレン・ホイットマン夫人や、講演で出合ったアニー・リッチモンド夫人と恋愛関係を持った。特にホイットマン夫人に対しては再三の求婚を行い、ポーが酒を絶つことを条件に9月に婚約が成立したものの、その後文学愛好家とバーで酒を飲んだことが夫人の耳に入り、このために婚約は破談となってしまった。1849年、ポーは仕事のために戻ったリッチモンドで青年時代の恋人で未亡人となっていたエルマイラ・ロイスターと再会し、再三の求婚の後に彼女と婚約した。", "qas": [ { "question": "ポーは何月に作品集『物語集』を出版したの?", "id": "tr-170-12-000", "answers": [ { "text": "6月", "answer_start": 139, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヴァージニア何年に死んだの?", "id": "tr-170-12-001", "answers": [ { "text": "1847年", "answer_start": 316, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ポーは何年にエルマイラ・ロイスターと婚約したか。", "id": "tr-170-12-002", "answers": [ { "text": "1849年", "answer_start": 603, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーとホイットマン夫人との婚約は何月に成立したか。", "id": "tr-170-12-003", "answers": [ { "text": "9月", "answer_start": 542, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "10月に結婚式を控えた1849年9月、ポーは自分の選集の出版準備を始め、それに関してルーファス・グリズウォールドの協力を得るために、久しぶりにニューヨークに戻ることにした。27日にリッチモンドを出、48時間の船旅のあとにボルティモアに着くと、ポーはなぜかそこに数日滞在した。ちょうどメリーランド州議会選挙のまっただ中であり、10月3日が投票日に当たっていた。\n\n1849年10月3日、ポーはライアン区第4投票所にあたる「グース・サージャンツ酒場」にて異常な泥酔状態に陥っているところを旧知の文学者にたまたま発見され、ただちにワシントン・カレッジ病院に担ぎ込まれたが、4日間の危篤状態が続いたのち、1849年10月7日早朝5時に帰らぬ人となった。その間ポーは理路整然とした会話ができる状態でなく、なぜそのような場所で、そのような状態に陥っていたのかは誰にもわからないままとなった。その上奇妙なことに、ポーは発見されたとき他人の服を着せられており、また死の前夜には「レイノルズ」という名を繰り返し呼んでいたが、それが誰を指しているのかも分からなかった。一説にはポーの最後の言葉は「主よ、私の哀れな魂を救いたまえ」(\"Lordhelpmypoorsoul\")であったという。死亡証明書を含め、ポーの診断書は現在ではすべて紛失してしまっている。新聞各紙はポーの死を「脳溢血」や「脳炎」のためと報道したが、これは当時、アルコールなどのような外聞の悪い死因を婉曲に伝えるためにしばしば用いられた言葉でもあった。", "qas": [ { "question": "ポーは死の前夜にどんな名前を繰り返し呼んでいたか。", "id": "tr-170-13-000", "answers": [ { "text": "「レイノルズ」", "answer_start": 430, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "快楽の園", "paragraphs": [ { "context": "『快楽の園』、または『悦楽の園』は、初期フランドル派の画家ヒエロニムス・ボスが描いた三連祭壇画だ。ボスが40歳から60歳の1490年から1510年の20年間のいずれかの時期の作品で、1939年からスペインのマドリードにあるプラド美術館に所蔵されている。ボスの作品の中でも最も有名な作品で、かつ最も大がかりな作品である。この絵画はボスが画家としての最盛期にあったときに描かれ、この作品のように複雑な寓意に満ち、生き生きとした表現で描かれているボスの作品は他に存在しない。", "qas": [ { "question": "『快楽の園』を描いた人は誰?", "id": "tr-171-00-000", "answers": [ { "text": "ヒエロニムス・ボス", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ボスの作品のうち、複雑な寓意に満ち、生き生きとした表現で描かれている唯一のものは何ですか。", "id": "tr-171-00-001", "answers": [ { "text": "『快楽の園』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ボスの『快楽の園』はどの美術館に所蔵されているか。", "id": "tr-171-00-002", "answers": [ { "text": "プラド美術館", "answer_start": 111, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『快楽の園』は板に油彩で描かれたもので、長方形の両翼を閉じると中央パネルを完全に隠す(いわば三面鏡のような)構造になっており、両翼裏面それぞれに半円ずつ描かれた天地創造の地球、(当然ではあるが描かれている地球は当時の人々の考える(すなわち天動説を基にした)地球の姿である)のグリザイユが現れる。三枚のパネルに描かれている絵画はおそらく左翼、中央パネル、右翼へと展開する物語になっているが、必ずしも左翼から観なければならないというわけではない。左翼には神がアダムにイヴを贈る場面、中央パネルには猥雑で人目を引く裸体の人物、空想上の動物、巨大な果物、石などが積み上げられた構造物などの広大な情景、右翼には地獄で拷問を受ける罪人などがそれぞれ描かれている。\n\n美術史家や評論家は『快楽の園』を誘惑からの危険に対する警告を意図した作品であると解釈することが多い。しかしながら、特に中央パネルに描かれた複雑な象徴的意味が何を表しているのかが何世紀にもわたって学術論争の的になってきた。20世紀の美術史家の間では、祭壇画の中央パネルには道徳的な警告が描かれていると解釈する研究者と、失楽園が描かれていると解釈する研究者との二派に大きく分かれている。アメリカ人作家のピーター・S・ビーグルは「不道徳で享楽的な雰囲気に満ちあふれ、観る者全てを窃視症にするかのような性的狂乱が描かれている」としている。", "qas": [ { "question": "『快楽の園』を「不道徳で享楽的な雰囲気に満ちあふれ、観る者全てを窃視症にするかのような性的狂乱が描かれている」と評価した人は誰なの?", "id": "tr-171-01-000", "answers": [ { "text": "ピーター・S・ビーグル", "answer_start": 526, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ボスは画家としてのキャリアを通じて、3点の大きな三連祭壇画を制作した。どの祭壇画もそれぞれのパネルに描かれた題材が重なり合い、全体として一つの意味が表現される構成になっている。これら3点の祭壇画に共通して言えることは、どれも特定の歴史や信仰に直接関連するテーマを扱ったものではないということである。当時の三連祭壇画は左翼、中央パネル、右翼へと物語が流れていき、両翼にはエデンと最後の審判が描かれ、中央パネルには何らかの寓意を秘めた作品が多かった。『快楽の園』が教会の装飾用として制作されたのかどうかははっきりとしていない。しかし、中央パネルと右翼に描かれている極端な内容からすると教会や修道院で使用されていたとは考えにくく、一般信徒の依頼に応じて制作された可能性が高い。", "qas": [ { "question": "ボスは生涯、何点の大きな三連祭壇画を制作したか。", "id": "tr-171-02-000", "answers": [ { "text": "3点", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "トーキー", "paragraphs": [ { "context": "トーキーは、映像と音声が同期した映画のことを言う。この語は「talkingpicture」から出たもので、「movingpicture」をmovieと呼んだのにならったものである。サイレント映画の対義語として「トーキー映画」と呼ばれることもあるが冗語である。無声映画の対義語としては「発声映画」と呼ばれる。音声が同期した映画が一般的な現在では、あえて「トーキー」と呼ぶことはない。発声映画が最初に上映されたのは1900年のパリでのことだったが、商業的に成り立つにはさらに10年以上を要した。当初は映画フィルムとは別にレコード盤に録音したものを使っていたため同期が難しく、しかも録音や再生の音質も不十分だった。サウンドカメラの発明によって同期が簡単になり、1923年4月にニューヨークで世界で初めてその技術を使った短編映画が一般上映された。", "qas": [ { "question": "無声映画の対義語は何ですか。", "id": "tr-172-00-000", "answers": [ { "text": "「発声映画」", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "映像と音声が同期した映画を何といいますか。", "id": "tr-172-00-001", "answers": [ { "text": "トーキー", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "発声映画はどこで最初に上映されたの?", "id": "tr-172-00-002", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 211, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "発声映画の商業化への第1歩はアメリカ合衆国で1920年代後半に始まった。トーキーという名称はこのころに生まれた。当初は短編映画ばかりで、長編映画には音楽や効果音だけをつけていた。長編映画としての世界初のトーキーは、1927年10月公開のアメリカ映画『ジャズ・シンガー』(ワーナー・ブラザース製作・配給)であり、ヴァイタフォン方式だった。これは、前述のレコード盤に録音したものを使う方式で、その後はサウンド・オン・フィルム方式(サウンドトラック方式)がトーキーの主流となった。翌1928年に、サウンドトラック方式を採用したウォルト・ディズニー・プロダクション製作の『蒸気船ウィリー』が公開される。『蒸気船ウィリー』は短編ながら、初のクリックトラックを採用した映画である。しかし、世界初のトーキーアニメーション映画に関しては、1926年に、フライシャー・スタジオの『なつかしいケンタッキーの我が家』がすでに公開されている。\n\n1930年代に入るとトーキーは世界的に大人気となった。アメリカ合衆国ではハリウッドが映画文化と映画産業の一大中心地となることにトーキーが一役買った。ヨーロッパや他の地域では無声映画の芸術性がトーキーになると失われると考える映画製作者や評論家が多く、当初はかなり懐疑的だった。日本映画では1931年の『マダムと女房』が初の本格的なトーキー作品である。しかし、活動弁士が無声映画に語りを添える上映形態が主流だったため、トーキーが根付くにはかなり時間がかかった。インドの映画はトーキーの到来によって急速に成長し、1960年代以降はアメリカを抜き、世界一の映画製作数を誇るようになった。", "qas": [ { "question": "発声映画の商業化への第1歩は1920年代後半、どこで始まったの?", "id": "tr-172-01-000", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "長編映画としての一番古いトーキーは何ですか。", "id": "tr-172-01-001", "answers": [ { "text": "『ジャズ・シンガー』(ワーナー・ブラザース製作・配給)", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "トーキーが世界的に大人気となったのはいつからなの?", "id": "tr-172-01-002", "answers": [ { "text": "1930年代", "answer_start": 411, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本映画の初の本格的なトーキー作品は何ですか。", "id": "tr-172-01-003", "answers": [ { "text": "『マダムと女房』", "answer_start": 560, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "映像と同時に音を録音するというアイデアは、映画そのものと同じくらい古くからある。1888年2月27日、先駆的写真家エドワード・マイブリッジはトーマス・エジソンの研究所にほど近い場所で講演を行い、この2人の発明家は個人的に会った。マイブリッジは商業映画が誕生する6年前のこのときに、彼の発明したズープラクシスコープの動画とエジソンの蓄音機の技術を組合せ、発声映画を作ることを提案したと後に主張している。合意に達することはなかったが、その1年以内にエジソンは覗き込む方式のキネトスコープを開発し、これに円筒型蓄音機の音楽を組み合わせた興行を行った。この2つを組み合わせたキネトフォンが1895年に作られたが、フィルム映写方式が成功したことで覗き見方式はすぐに廃れることになった。1899年、スイス生まれの発明家フランソワ・デュソーの発明に基づく映写式発声映画システム「キネマクロノグラフ」または「フォノラマ」がパリで公開された。これはキネトフォンと同様、観客がイヤホンをつける必要があった。フランスのClément-MauriceGratiouletとHenriLioretは発声映画システムPhono-Cinéma-Théâtreを開発し、1900年のパリ万国博覧会で演劇、オペラ、バレエなどを扱った短編映画を上映した。フィルムを映写し、音をスピーカーで鳴らすという形の世界初の上映とされている。パリ万博では他に前述のフォノラマやテアトロスコープというシステムも公開された。", "qas": [ { "question": "発明家フランソワ・デュソーの母国はどこですか。", "id": "tr-172-02-000", "answers": [ { "text": "スイス", "answer_start": 343, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "Clément-MauriceGratiouletとHenriLioretは何を開発しましたか。", "id": "tr-172-02-001", "answers": [ { "text": "発声映画システムPhono-Cinéma-Théâtre", "answer_start": 486, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "映像と音声を別々に記録・再生する方式には、3つの大きな問題があった。最大の問題は同期である。別々に記録してあるため、完全に同時にスタートさせ、常に同期をとるのは非常に難しい。また十分な音量で再生することも難しかった。映像の方はすぐに大きなスクリーンに映写できるようになったが、真空管による電気的増幅が可能になるまで、観客席全体に響くような大音量を出すことはできなかった。最後の問題は録音の音質である。当時の録音システムでは、演奏者が面倒な録音装置の目の前で演奏しない限り、極めて聞き取りにくい音声しか録音できなかった。そのため、撮影と同時に録音する場合、映画の題材が限られることになった。", "qas": [ { "question": "映像と音声を別々に記録・再生する方式の最大の問題は何でしたか。", "id": "tr-172-03-000", "answers": [ { "text": "同期", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "映像と音声を別々に記録・再生する方式の最後の問題は何でしたか。", "id": "tr-172-03-001", "answers": [ { "text": "録音の音質", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "様々な方式で同期問題の根本的対処が試みられた。多くのシステムが蓄音機とレコードを利用しており、これをサウンド・オン・ディスク技術と呼ぶ。円盤式レコード自体は発明者のエミール・ベルリナーに因んで「ベルリナー盤」と呼ばれた。1902年、レオン・ゴーモンが独自のサウンド・オン・ディスク方式Chronophoneを公開した。これには映写機と蓄音機を電気的に接続する特許が使われていた。4年後、ゴーモンはイギリスの発明家HoraceShortとCharlesParsonsの開発したAuxetophoneに基づいた圧縮空気による増幅システムElgéphoneを開発した。期待を集めたものの、ゴーモンの技術革新は商業的にはあまり成功しなかった。発声映画の3つの問題を完全に解決したわけではなく、その上高価だった。そのころ、ゴーモンのライバルとしてアメリカの発明家E・E・ノートンのCameraphoneがあった(円筒式なのか円盤式なのか資料によってまちまちである)。こちらもChronophoneと似たような理由で成功には至らなかった。", "qas": [ { "question": "サウンド・オン・ディスク技術には蓄音機とまた何が用いられますか。", "id": "tr-172-04-000", "answers": [ { "text": "レコード", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "円盤式レコード自体は発明者のエミール・ベルリナーに因んで何と呼ばれましたか。", "id": "tr-172-04-001", "answers": [ { "text": "「ベルリナー盤」", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "増幅システムElgéphoneを開発した人の名前は何?", "id": "tr-172-04-002", "answers": [ { "text": "ゴーモン", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴーモンのライバルは誰でしたか。", "id": "tr-172-04-003", "answers": [ { "text": "E・E・ノートン", "answer_start": 376, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1913年、エジソンは1895年のシステムと同じくキネトフォンと名付けた映写式の発声映画システムを開発した。蓄音機は映写機内の複雑に配置された滑車と接続されており、理想的条件下では同期できた。しかし実際の上映が理想的条件でなされることは滅多にないため、この改良型キネトフォンは1年ほどで姿を消した。1910年代中ごろには、発声映画の商業化の熱が一時的に低下した。エホバの証人は人類の起源についての自説を広めるため、1914年からアメリカ合衆国各地を巡回してThePhoto-DramaofCreationを上映した。これは8時間もの超大作で、別に録音された説教と音楽を蓄音機で同時に再生していた。", "qas": [ { "question": "エジソンが1895年のシステムと同じくキネトフォンと名付けた映写式の発声映画システムを開発したのは何年のことですか。", "id": "tr-172-05-000", "answers": [ { "text": "1913年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ThePhoto-DramaofCreationは何年から上映されましたか。", "id": "tr-172-05-001", "answers": [ { "text": "1914年", "answer_start": 207, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ThePhoto-DramaofCreationの上映時間は何時間でしたか。", "id": "tr-172-05-002", "answers": [ { "text": "8時間", "answer_start": 261, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『ジャズ・シンガー』は1928年9月27日にロンドンのピカデリー・シアターでヨーロッパ初公開となった。映画史家RachaelLowによれば「多くの業界人がトーキーへの転換は避けられないと悟った」という。1929年1月16日、ヨーロッパ初の長編トーキーが公開になった。ドイツ映画の『奥様お手をどうぞ』である。ただし台詞はなく、RichardTauberが歌を数曲披露しているだけだった。この映画では、トリ=エルゴンを引き継いだドイツ-オランダ系企業Tobisが開発したサウンド・オン・フィルム方式を採用していた。Tobisはヨーロッパにトーキー市場が出現することを見越して参入し、ドイツの有力電機企業2社の合弁会社Klangfilmと同盟を結んだ。1929年初めにはTobisとKlangfilmは録音・再生技術の売り込みを開始した。ERPIがヨーロッパ各地の劇場でトーキー設備の設置を開始すると、Tobis-Klangfilmはウェスタン・エレクトリックがトリ=エルゴンの特許を侵害していると主張し、アメリカの技術が各地に設置されるのを阻止した。ちょうどRCAが録音システムを売り込めるように映画産業に参入してトーキー化を推進したように、Tobisも自ら映画スタジオを設立した。", "qas": [ { "question": "『ジャズ・シンガー』は1928年9月27日、ロンドンのどの劇場で初公開されましたか。", "id": "tr-172-06-000", "answers": [ { "text": "ピカデリー・シアター", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヨーロッパ初の長編トーキーはいつ公開されたか。", "id": "tr-172-06-001", "answers": [ { "text": "1929年1月16日", "answer_start": 101, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨーロッパ初の長編トーキーのタイトルは何ですか。", "id": "tr-172-06-002", "answers": [ { "text": "『奥様お手をどうぞ』", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1929年、ヨーロッパの映画会社の多くはトーキーへの転換のためハリウッドと手を組んだ。このころのヨーロッパのトーキーは外国で製作されることが多かった。これは、自国のスタジオをトーキー用に改修していたという面もあるが、同時に自国語以外の外国語で映画を製作して海外に売るという思惑もあった。ヨーロッパ初の2つの長編トーキーのうちの1つTheCrimsonCircleは、複雑な経緯で国際的な製作となった。元々は監督FriedrichZelnikによりEfzet-Filmが製作した無声映画DerRoteKreisとしてドイツで1928年に公開された。イギリスのBritishSoundFilmProductions(BSFP)がこれに後から英語の台詞を追加した。BSFPはド・フォレストのフォノフィルムの子会社である。これが1929年3月にイギリスで公開された。同時期に公開されたTheClueoftheNewPinはイギリスで全編製作された部分トーキーでBritishPhotophoneと呼ばれるサウンド・オン・ディスク方式を使用している。BlackWatersはイギリスの映画会社がハリウッドで全編製作したもので、ウェスタン・エレクトリックのサウンド・オン・フィルム方式を採用していた。これらはいずれも大きな影響を与えることはなかった。", "qas": [ { "question": "1929年、ヨーロッパの映画会社の多くはトーキーへの転換のため何と協力し始めたか。", "id": "tr-172-07-000", "answers": [ { "text": "ハリウッド", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "BSFPはどの会社の子会社ですか。", "id": "tr-172-07-001", "answers": [ { "text": "フォノフィルム", "answer_start": 342, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヨーロッパ映画で最初に成功したトーキーとしては、イギリスの『恐喝』がある。監督は当時29歳のアルフレッド・ヒッチコックで、この映画はロンドンで1929年6月21日に公開された。本来は無声映画として撮影されたが、会話シーンを追加し、音楽や効果音を追加して公開となった。BritishInternationalPictures(BIP)による製作で、録音はRCAフォトフォンで行われた。実は、ゼネラル・エレクトリックはTobis-Klangfilmの市場に関与するためにその親会社であるAEGの株式を取得していた。『恐喝』はかなりのヒット作となった。評論家も概ね好意的だった。例えば辛口で知られた評論家HughCastleは「我々が見たこともない音と静けさのおそらく最も知的な混合物」と評した。", "qas": [ { "question": "ヨーロッパ映画で初めて成功したトーキーは何ですか。", "id": "tr-172-08-000", "answers": [ { "text": "『恐喝』", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『恐喝』の監督の名前は何ですか。", "id": "tr-172-08-001", "answers": [ { "text": "アルフレッド・ヒッチコック", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『恐喝』はいつロンドンで公開されたの?", "id": "tr-172-08-002", "answers": [ { "text": "1929年6月21日", "answer_start": 71, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『恐喝』に対して「我々が見たこともない音と静けさのおそらく最も知的な混合物」という評価を残した評論家の名前は何ですか。", "id": "tr-172-08-003", "answers": [ { "text": "HughCastle", "answer_start": 299, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1929年8月23日、オーストリア初のトーキーG’schichtenausderSteiermarkが公開された。9月30日には全編ドイツ製作の長編トーキーDasLandohneFrauenが公開になった。TobisFilmkunstの製作で、全体の4分の1ほどに台詞があり、音楽や効果音とはかぶらないよう厳密に分離されていた。ただし、興行的には失敗した。スウェーデン初のトーキーKonstgjordaSvenssonは同年10月14日に公開された。その8日後、パリ近郊のスタジオで撮影されたLeCollierdelareineが公開されている。元々は無声映画として撮影されたもので、Tobisにより音楽と会話シーンが1カ所だけ追加された。これがフランスの長編映画初の会話シーンとなった。10月31日に公開となったLesTroismasquesは、パテ-ナタン・フィルムの製作である。これがフランス初の長編トーキーとされることが多いが、撮影はロンドン郊外エルストリーのスタジオ(『恐喝』と同じ)で行われた。その制作会社はRCAフォトフォンと契約を結んでいた。同じスタジオで数週間後にLaRouteestbelleも撮影されている。パリの映画スタジオの多くはトーキー対応の改修が1930年まで伸び、それまでフランスのトーキーの多くはドイツで撮影された。ドイツ初の完全トーキー長編Atlantikは10月28日にベルリンで公開された。これもロンドン郊外のエルストリーで撮影された映画であり、LesTroismasquesやLaRouteestbelleがフランス的と言えるほどドイツ映画らしくなかった。BIPはイギリス人脚本家とドイツ人監督で英語版のAtlanticを製作した。完全なドイツ製トーキーDichhabichgeliebtはその3.5週間後に公開され、アメリカ合衆国でBecauseILovedYouとして公開され、アメリカで公開された初のドイツ製トーキーとなった。", "qas": [ { "question": "オーストリア初のトーキーのタイトルは何ですか。", "id": "tr-172-09-000", "answers": [ { "text": "G’schichtenausderSteiermark", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "DasLandohneFrauenはどの国で制作されたトーキーですか。", "id": "tr-172-09-001", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 66, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカで公開された初のドイツ製トーキーは何ですか。", "id": "tr-172-09-002", "answers": [ { "text": "Dichhabichgeliebt", "answer_start": 748, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "10月31日に公開となったLesTroismasquesの制作しゃはどこなの?", "id": "tr-172-09-003", "answers": [ { "text": "パテ-ナタン・フィルム", "answer_start": 374, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1930年、サウンド・オン・ディスク方式のポーランド初のトーキーMoralnośćpaniDulskiejが3月に、完全トーキーNiebezpiecznyromansが10月に公開された。イタリアの映画界はかつて盛んだったが1920年代末には瀕死の状態だった。イタリア初のトーキーLaCanzonedell'amoreは1930年10月に公開され、イタリア映画界は約2年で復活を遂げることになった。最初のチェコ語のトーキーTonkaŠibeniceも1930年に公開された。ヨーロッパ映画界ではマイナーなベルギー、デンマーク、ギリシャ、ルーマニアといった国々でもトーキーを制作している。ソビエト連邦では1930年12月に公開されたジガ・ヴェルトフのノンフィクションEntuziazmが最初だが、これは台詞がなく実験的なものだった。AbramRoomのドキュメンタリー映画Planvelikikhrabotには音楽とナレーションが入っている。これらはいずれも独自のサウンド・オン・フィルム方式を使っていた。当時、世界中に200ものトーキーの方式が乱立していた。1931年6月に公開されたNikolaiEkkの劇映画Putevkavzhiznがソビエト連邦初の完全トーキーとなった。", "qas": [ { "question": "サウンド・オン・ディスク方式のポーランド初のトーキーは何ですか。", "id": "tr-172-10-000", "answers": [ { "text": "MoralnośćpaniDulskiej", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Putevkavzhiznはいつ公開されたか。", "id": "tr-172-10-001", "answers": [ { "text": "1931年6月", "answer_start": 479, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最初のチェコ語のトーキーは何ですか。", "id": "tr-172-10-002", "answers": [ { "text": "TonkaŠibenice", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヨーロッパでは劇場のトーキー設備設置が映画製作よりも遅れたため、サイレント版も並行して制作するか、トーキーを単に音なしで上映した。イギリスでは1930年末までに60%の劇場がトーキー対応となった。これはアメリカ合衆国とほぼ同程度のペースである。一方フランスでは1932年後半になっても半数以上の劇場がトーキー未対応だった。ColinG.Crispによれば、フランスの映画業界は1935年ごろまで無声映画が芸術としても商業としてもまだまだ見込みがあると見ており、しばしば無声映画への回帰が起きるのではないかという懸念を表明していたという。このような見方はソビエト連邦でも根強かった。1933年5月の時点でソビエト連邦内の映写機にトーキー設備が設置されたのは2%ほどだった。", "qas": [ { "question": "イギリスで劇場の60%がトーキー対応となったのはいつでしたか。", "id": "tr-172-11-000", "answers": [ { "text": "1930年末", "answer_start": 71, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1920年代から1930年代の日本は世界でも有数の映画製作本数で、アメリカ合衆国に迫る勢いだった。トーキーの製作はかなり早かったが、映画全体がトーキーに完全に移行するのに要した期間は西洋よりも長かった。日本初のトーキーは小山内薫の『黎明』でド・フォレストのフォノフィルム方式を使っていたが、技術的問題から公開には至らなかったともいわれている。サウンド・オン・フィルム方式のミナ・トーキー(=フォノフィルム)を使い、日活は1929年に2本の部分トーキー『大尉の娘』と『藤原義江のふるさと』(監督は溝口健二)を製作した。次いで松竹は1931年に初の国産サウンド・オン・フィルム方式(土橋式トーキー)での製作をおこなった。その間に2年の月日が流れているが、当時の日本の映画はまだ8割が無声映画だった。当時の日本映画界をリードしていた2人の監督、成瀬巳喜男と小津安二郎がトーキーを製作したのはそれぞれ1935年と1936年のことである。1938年になっても日本では3分の1の映画が無声映画だった。", "qas": [ { "question": "日本初のトーキーは『黎明』はどの方式を使ったものでしたか。", "id": "tr-172-12-000", "answers": [ { "text": "フォノフィルム方式", "answer_start": 128, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本初のトーキーのタイトルは何?", "id": "tr-172-12-001", "answers": [ { "text": "『黎明』", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "合成ダイヤモンド", "paragraphs": [ { "context": "合成ダイヤモンド(ごうせいダイヤモンド、英:syntheticdiamond)または人工ダイヤモンド(じんこうダイヤモンド、英:artificialdiamond)は、地球内部で生成される天然ダイヤモンドに対して、科学技術により人工的に作製したものである。\n主に高温高圧合成(HPHT)や化学気相蒸着(CVD)法により合成される。\n研究所製造ダイヤモンド(英:lab-growndiamond)という呼び名もある。\n1879年から1928年にかけて、合成が試みられたが、全て失敗している。\n1940年代には、アメリカ合衆国、スウェーデン、そしてソビエト連邦がCVD法とHPHT法を用いた合成を体系的に研究し始め、1953年頃に最初の再現可能な合成方法を発表した。\n現在はこの2つの方法で主に合成されている。\nCVD法、HPHT法以外では、1990年代後半に炭素元素を含む爆薬を使用し、爆轟(デトネーション)によるナノダイヤモンド合成法が開発された。\nさらに高出力の超音波を用いてグラファイトを処理するキャビテーション法もあるが、未だ商業的には利用されていない。", "qas": [ { "question": "合成ダイヤモンドの再現可能な合成方法が初めて発表されたのはいつ?", "id": "tr-173-00-000", "answers": [ { "text": "1953年頃", "answer_start": 306, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "研究所製造ダイヤモンド、人工ダイヤモンドのもう1つの別名は何?", "id": "tr-173-00-001", "answers": [ { "text": "合成ダイヤモンド", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1990年代後半に開発された新たな合成法とは?", "id": "tr-173-00-002", "answers": [ { "text": "ナノダイヤモンド合成法", "answer_start": 406, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "特性は合成方法により異なり、硬さや熱・電気伝導性、電子移動度が天然のものよりも優れる特性を有する。\nこのため研磨材、切削工具、ヒートシンク(放熱板)などに広く使われる。\nまた、発電所の高電圧開閉器、高周波電界効果トランジスタと発光ダイオードとしての利用が進められている。\nHPHT法やCVD法で合成されたものは宝石としても利用される。\n天然ダイヤモンドの取引会社にとっては、重大な関心事であり、天然のものと区別するために、分光装置を開発するなど様々な対策が施されている。", "qas": [ { "question": "合成ダイヤモンドを宝石として利用できるのは、HPHT法と何法で合成されたものですか?", "id": "tr-173-01-000", "answers": [ { "text": "CVD法", "answer_start": 142, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "合成ダイヤモンドの優れた熱伝導性を活かした部品とは何?", "id": "tr-173-01-001", "answers": [ { "text": "ヒートシンク", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "合成ダイヤモンドと天然ダイヤモンドを区別するために何が開発されましたか?", "id": "tr-173-01-002", "answers": [ { "text": "分光装置", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "合成ダイヤモンドと天然ダイヤモンドでは、どちらが電子移動度が劣っていますか?", "id": "tr-173-01-003", "answers": [ { "text": "天然ダイヤモンド", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1797年にダイヤモンドは炭素のみで構成されていることが発見されると、科学者らは安価な炭素材料を用いての合成を試みた。\n1879年にジェームス・バランタイン・ハネイが初めて合成に成功し、1893年にアンリ・モアッサンも続いて合成している。\n彼らの方法は、炭素を含む鉄製のるつぼに木炭を3,500°Cまで加熱し合成させる方法であった。\nハネイは炎熱管を用いたが、モアッサンは新しく改良したアーク炉を使用した。\n溶融した鉄は水に浸すと急激に冷やされ、恐らくその鉄が凝固した際に発生した体積の収縮が、グラファイト(黒鉛)の変化に十分な高圧力を発生させたのではないかと考えられた。\nモアッサンは1890年代に研究論文を発表しているが、当時の実験を再現しても温度や圧力が足らず、モアッサンが行った実験と同等の結果は得られないとされており、同じ作業を延々と繰り返され根が尽きた助手が実験の切り上げを決断するように天然のものの粒を混ぜたのではないか、という説が存在する。", "qas": [ { "question": "炭素を含む鉄製のるつぼに木炭を3,500°Cまで加熱し合成させる方法を最も早く行った人物は誰ですか?", "id": "tr-173-02-000", "answers": [ { "text": "ジェームス・バランタイン・ハネイ", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "天然のダイヤモンドの構成物質は何ですか?", "id": "tr-173-02-001", "answers": [ { "text": "炭素", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "炭素材料を用いた合成にアーク炉を使った人は誰?", "id": "tr-173-02-002", "answers": [ { "text": "モアッサン", "answer_start": 180, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハネイとモアッサンが行った合成方法では、木炭を何°Cまで加熱させましたか?", "id": "tr-173-02-003", "answers": [ { "text": "3,500°C", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "多くの科学者がモアッサンの実験を再現しようと試みた。\nウィリアム・クルックス卿が1909年に成功し、またオットー・ルフが1917年に合成したものが直径7mmまでに成長したと報告したが、後にそれを撤回している。\nマクファーソン大学のウィラード・ハーシー博士はモアッサンとルフの実験を再現し合成させた。\nその試料はアメリカ・カンザス州のマクファーソン博物館に展示している。\nしかし他の実験者は、3人の実験方法を試しても合成することが出来なかった。", "qas": [ { "question": "ウィラード・ハーシー博士が再現したモアッサンとルフの実験試料は、どこに展示されていますか?", "id": "tr-173-03-000", "answers": [ { "text": "マクファーソン博物館", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "モアッサンの実験を再現し、成功した人は誰ですか?", "id": "tr-173-03-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム・クルックス", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "蒸気タービンを発明したことで知られる技術者のチャールズ・アルジャーノン・パーソンズ卿が、最も信頼できる合成方法を確立させた。\n彼は40年の歳月と財産の大部分を費やし、ハネイとモアッサンの実験を行ったが、結果的には彼独自の合成方法を編み出した。\n彼は労を惜しまず研究を続け、几帳面に実験結果を記録していた。\n現在彼が作成した全ての試料は、さらなる分析を行うために保存されている。\nまた彼は高温高圧合成法を用いて小さなダイヤモンドの合成に成功し、それに関する多数の論文を書き上げた。\nしかし、モアッサンやパーソンが行った全ての実験では合成できないと明言した論文が、1928年にC.H.デッシュ博士により発表された。\nデッシュは、当時合成されたとされるダイヤモンドの多くは合成スピネルと類似した物質であろう、と推測した。", "qas": [ { "question": "高温高圧合成法を用いて小さなダイヤモンドの合成に成功した人の名前は何ですか?", "id": "tr-173-04-000", "answers": [ { "text": "チャールズ・アルジャーノン・パーソンズ", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "チャールズ・アルジャーノン・パーソンズがダイヤモンドの合成の研究に費やした年数は?", "id": "tr-173-04-001", "answers": [ { "text": "40年", "answer_start": 65, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "当時合成されたダイヤモンドのほとんどが合成スピネルの類似物質であると推測した博士は誰ですか?", "id": "tr-173-04-002", "answers": [ { "text": "デッシュ", "answer_start": 306, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "デッシュによれば、当時合成されたダイヤモンドの多くは何という物質に似ていたのですか?", "id": "tr-173-04-003", "answers": [ { "text": "合成スピネル", "answer_start": 333, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1941年に合成のさらなる改良を目指して、ゼネラル・エレクトリック(GE)社、ノートン社、カーボランダム社の3社合同で研究を始めた。\n彼らは数秒間の3.5GPaの圧力下で3,000°Cまで炭素を加熱させることに成功したが、その後の第二次世界大戦により計画を中断せざるを得なくなった。\n1951年にニューヨーク州のスケネクタディ研究所で再開し、トレイシー・ホール率いる高圧合成ダイヤモンド研究チームが結成された。\nこの研究所のダイヤモンドアンビルセルが、1946年にノーベル物理学賞を受賞したパーシー・ブリッジマンによって設計・改善された。\nGEは炭化タングステン製アンビルを用いて、カトリナイトの容器に入れた試料に圧力をかける方法を使用し、偶然にもその方法で合成されたが再現性は得られなかった。\n後にそれは結晶核として用いられた天然ダイヤモンドと判明した。", "qas": [ { "question": "ゼネラル・エレクトリック社、ノートン社、カーボランダム社の3社合同の研究は、第二次世界大戦後にどこの研究所で再開されましたか?", "id": "tr-173-05-000", "answers": [ { "text": "スケネクタディ研究所", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ダイヤモンドアンビルセルの設計者は誰ですか?", "id": "tr-173-05-001", "answers": [ { "text": "パーシー・ブリッジマン", "answer_start": 245, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ダイヤモンドアンビルセルがある研究所はどこの地域にありますか?", "id": "tr-173-05-002", "answers": [ { "text": "ニューヨーク州", "answer_start": 148, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "パーシー・ブリッジマンがノーベル物理学賞を受賞したのはいつ?", "id": "tr-173-05-003", "answers": [ { "text": "1946年", "answer_start": 226, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1954年12月16日に、ホールはベルトプレス型アンビルを用いて最初の商業的な合成に成功し、1955年2月15日に公表された。\nこのアンビル内では温度2000°C以上、圧力10GPa以上の状態を作り出すことができ、溶融したニッケル・コバルト・鉄で溶解したグラファイトを葉ろう石の容器に入れ使用する。\n融解した金属は\"触媒\"のような役割を果たし、グラファイトを溶かすだけでなく、ダイヤモンドへ変化させる速度を上げている。\n彼が合成したものは最大でも直径0.15mmで、それはあまりにもサイズが小さく宝石としては不完全なものであったが、工業用研磨材として利用できた。\nホールの同僚たちも合成することに成功し、研究結果を科学専門誌ネイチャーに掲載した。\nホールは再現・証明可能な合成を行い、また十分な裏付けのある合成過程を創出した人物となった。\n彼は1955年にGEを退社、3年後新しく合成用アンビルを開発し、これまでの研究成果を讃えられアメリカ化学会賞を受賞している。", "qas": [ { "question": "ホールが合成した小さなダイヤモンドは何に利用されたの?", "id": "tr-173-06-000", "answers": [ { "text": "工業用研磨材", "answer_start": 266, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ホールが初めて商業的な合成に成功したのはいつ?", "id": "tr-173-06-001", "answers": [ { "text": "1954年12月16日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカ化学会賞を受賞した人の名前は?", "id": "tr-173-06-002", "answers": [ { "text": "ホール", "answer_start": 324, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ホールがアメリカ化学会賞を受賞する3年前に退社した会社は何?", "id": "tr-173-06-003", "answers": [ { "text": "GE", "answer_start": 378, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "前述のGE社の他に、1953年2月16日にスウェーデンの大手電気機器メーカーASEA社も独自に完成した。\n1949年に\"QUINTUS\"というコードネームで呼ばれた極秘ダイヤモンド合成プロジェクトとして、5人の科学者と技術者を雇い研究に着手した。\n彼らは大きな分割球装置を使用し、装置内の圧力を1時間で8.4GPa維持することに成功した。\nしかし宝石としてはサイズも質も劣る非常に小さなダイヤモンドしか生成できず、1980年代まで研究結果の報告を行わなかった。\n1980年代において新たな競争相手が現れた。\nそれは韓国のイルジン・ダイヤモンドという会社で、数百社の中国企業もそれに続いた。\nしかし、この会社は元GEの韓国人社員によるGE社の企業秘密を不正流用した開発技術による合成だったと言われている。", "qas": [ { "question": "QUINTUSの新たなライバル会社の名前は?", "id": "tr-173-07-000", "answers": [ { "text": "イルジン・ダイヤモンド", "answer_start": 260, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "QUINTUSはどこの国で立ち上がったの?", "id": "tr-173-07-001", "answers": [ { "text": "スウェーデン", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "QUINTUSを立ち上げた会社は何という名前なの?", "id": "tr-173-07-002", "answers": [ { "text": "ASEA社", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ASEA社の極秘ダイヤモンド合成プロジェクトがスタートした年はいつ?", "id": "tr-173-07-003", "answers": [ { "text": "1949年", "answer_start": 53, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1970年にGE社は、宝石と同等の質をもつものを最初に開発し、1971年にこの研究結果を発表した。\n方法としては、葉ろう石の筒型容器の両端にダイヤモンド粒子を種付けし、グラファイトを容器の中心に、またニッケルを用いた金属溶媒をグラファイトとダイヤの種晶を植え付けた容器の端との間に設置した。\nこの容器を加熱し、さらに5.5GPaまで加圧した。\n結晶は容器の中心から両端に向けて析出し、時間の経過とともに結晶もより長く成長した。\n当初は一週間かけて実験を行っても、宝石として価値のあるのは大きさ約5mm、質量1カラット(0.2g)のダイヤモンドしか生成せず、合成条件は可能な限り安定にしなければならなかった。\nそのため、目的の結晶の形に遥かに制御しやすくするよう、原料であるグラファイトはダイヤモンド粒子に変更された。\n初期の宝飾用は、不純物として窒素が含まれるため、常に黄色や褐色を呈していた。\n窒素を除去し、アルミニウムやチタンを加えると無色透明になり、ホウ素では青色を示した。", "qas": [ { "question": "GE社が開発した当初のダイヤモンドの質量は何カラットだったの?", "id": "tr-173-08-000", "answers": [ { "text": "1カラット", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "宝飾用ダイヤモンドを無色透明にするために除去した元素とは何?", "id": "tr-173-08-001", "answers": [ { "text": "窒素", "answer_start": 398, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "原料をダイヤモンド粒子に変更する前は何を用いていましたか?", "id": "tr-173-08-002", "answers": [ { "text": "グラファイト", "answer_start": 336, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "GE社が作製したものとと天然のものとは化学的に同一であるが、物理的性質は異なっていた。\n無色のダイヤに短波長の紫外線を照射すると、蛍光と燐光を発生するが、比較的長波長の紫外線ではこれらの現象は起こりにくい。\n希少で天然の青色ダイヤもこのような特性を示す。\n天然のものと違い、GE社が合成したものにX線を向けると、濃黄色の蛍光を発した。\nデビアス社ダイヤモンド研究所で、高温高圧法で6週間合成し続けて高品質の25カラット(5.0g)のものの合成に成功した。\nしかし、経済的な理由も考慮して、1.0-1.5カラット(200-300mg)の大きさが最良であると結論づけた。", "qas": [ { "question": "GE社が作製した合成ダイヤモンドにX線を向けると、何色の蛍光を発しますか?", "id": "tr-173-09-000", "answers": [ { "text": "濃黄色", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "合成ダイヤモンドのベストの大きさは何mgですか?", "id": "tr-173-09-001", "answers": [ { "text": "200-300mg", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "高品質で25カラットの合成に成功したのはどこの機関ですか?", "id": "tr-173-09-002", "answers": [ { "text": "デビアス社ダイヤモンド研究所", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1950年代、旧ソ連とイギリスは800°Cの比較的低い温度で炭化水素ガスの熱分解による合成の研究を開始した。\nこの低温度による合成方法は化学気相蒸着(CVD)法という。\n1953年のウィリアム・G・エバーソールによれば、ダイヤモンド基板上にダイヤの蒸着した膜が生成すると報告しているが、1962年まで研究結果が発表されなかった。\nしかし、1968年にアンガスとその同僚らが、1970年にもデリャーギンとフェドセーエフが独自にダイヤモンド膜の合成に成功した。\nエバーソールとアンガスは高価で単結晶の大きなダイヤモンドを基板として使用したが、デリャーギンらはケイ素や金属の基板上で生成している。\n1980年代はデリャーギンらの研究成果により、いかに安価なダイヤモンド膜を堆積させるか、研究開発が急速に進められた。", "qas": [ { "question": "化学気相蒸着法は低温度であるというが、それは何°Cですか?", "id": "tr-173-10-000", "answers": [ { "text": "800°C", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "それぞれ独自にダイヤモンド膜の合成に成功したフェドセーエフ、アンガス、デリャーギンの中で、最も早く成功した人は誰?", "id": "tr-173-10-001", "answers": [ { "text": "アンガス", "answer_start": 175, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "誰の研究成果により、低コストでダイヤモンド膜を堆積させるかという研究が進められましたか?", "id": "tr-173-10-002", "answers": [ { "text": "デリャーギン", "answer_start": 303, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "合成方法は、幾つかの方法が挙げられる。\n初期の方法では高温高圧法(HighPressureandHighTemperature,HPHT)が用いられ、低予算で合成できるため、現在でも広く使用されている。\nHPHT法は1500°Cで5GPaの高圧力を発生させるのに数百トンの力を必要とする。\nその次は化学気相蒸着法(ChemicalVaporDeposition,CVD)による合成で、基板上に形成するため、炭素をプラズマ状態に変化させ炭素原子を堆積させる方法である。\nまた爆轟(デトネーション)による生成、超音波処理による方法も存在する。", "qas": [ { "question": "デトネーションによる生成、化学気相蒸着法、高温高圧法、超音波処理による方法の中で現在でも広く使用されている合成方法は何?", "id": "tr-173-11-000", "answers": [ { "text": "高温高圧法", "answer_start": 27, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "合成に必要な圧力と温度を供給するために、主に3種類の高圧装置が用いられている。\nそれはベルト型、キューブ型、そして分割球型である。\nベルト型は元来、GE社のトレーシー・ホールによって開発された装置である。\n装置内に試料の入った筒状セルが設置され、上下アンビルから油圧で圧力が加えられる。\n「ベルト」といわれる線材によりセルに巻き、あらかじめ圧力を加える。\n2つのアンビルは電極の役割を果たし、セルの内蔵ヒーターに電流を流し、高温高圧の状態を生み出すことができる。\n今日においても、ベルト型が使用され、初期の装置よりも巨大な圧力装置が製造されている。\nキュービック型圧力装置は、6つのアンビルを用い立方体型のセルの6面全てに圧力をかけるマルチアンビル装置である。\n最初のマルチアンビルは正四面体構造の圧力装置で、圧力が四面体のセルに集中するように、4つのアンビルを使用していた。\nその後すぐに、その装置を利用してセル内容積を増加させるためキュービック型圧力装置が作られた。\n装置の大きさはベルト型よりもキュービック型が小さいが、ダイヤモンドを合成するのに適した圧力と温度に達する時間が速いのがキュービック型である。\nしかしながら、キュービック型装置は一般的には簡単に大きな容積を確保できない。\nよりアンビルが大きくなれば、加圧できる空間も広くなるが、同じ圧力を掛けるためには、プレスする力も強くしなければならない。\nそのためには、正十二面体のような面の多い正多面体上に配置したより多くのアンビルにより、圧力をかけられる空間の体積に対する表面積の比を小さくすればよい。\nしかし、このような装置はあまりにも複雑で、開発することは非常に困難である。\n\nそして分割球装置(BARS装置)がベルト型とキュービック型装置より最もコンパクトで、効率よく、さらに経済的にもダイヤモンドを合成できる。\nこの装置の中心には、容積約2cm3のセラミックス製の小さな円筒容器が配置されている。\nこの合成容器を葉ろう石等の立方体の圧力伝達物質の中に入れ、さらに炭化タングステン等の超硬合金製の内部アンビルで、そしてそれを最も外側にある8つの鋼鉄製外部アンビルにより加圧する。\n直径1mのチャンバー内に固定され、この中に油が満たされ、反応容器に熱と圧力を同時に加えていく。\n同軸グラファイト加熱装置により合成容器を熱し、温度を熱電対により計測する。", "qas": [ { "question": "ベルト型とキュービック型では、どちらの方が装置が大きいですか?", "id": "tr-173-12-000", "answers": [ { "text": "ベルト型", "answer_start": 443, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベルト型装置、キュービック型圧力装置、分割球装置の中で、小規模だが効率が良く、低コストでダイヤモンドを合成できる装置は何?", "id": "tr-173-12-001", "answers": [ { "text": "分割球装置", "answer_start": 725, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "キュービック型圧力装置では、元々いくつのアンビルを使用していましたか?", "id": "tr-173-12-002", "answers": [ { "text": "4つ", "answer_start": 373, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ベルト型装置の開発者は誰ですか?", "id": "tr-173-12-003", "answers": [ { "text": "トレーシー・ホール", "answer_start": 78, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "炭化水素の混合気体による化学気相蒸着(CVD:chemicalvapordeposition)を用いるもの。\n1980年代初頭、この方法は世界中の科学機関により研究対象にされ、容易で順応性の高いCVD装置は研究機関の間では人気がある。\n利点としては、様々な種類の基板上で広範囲にダイヤを成長させることができる点と、化学的な不純物の種類と量を細かく制御でき、それにより特性を自由に変化させたダイヤモンドの合成が可能な点である。\n大量生産には、前節の高温高圧法がより適しているが、高圧力環境を必要とせず、一般的に27kPa未満でダイヤモンドの成長が行われる。\nCVD法では、合成基板の前処理と、チャンバー内の混合気体の種類とその比率が重要である。\nまず基板は、合成に適した材料とその結晶方位を選択しなければならない。\n基板の合成面をダイヤモンド粉末で傷付け処理を施し、ダイヤモンド成長に最適な基板表面温度(約800°C)を設定する。\n次に、合成ガスはメタンなどの炭素を含む気体と水素(メタンと水素の割合は1対99)を必要とする。\n非ダイヤモンド炭素をエッチングにより選択的に除去するため、水素は不可欠である。\nそして混合ガスはマイクロ波、熱フィラメント、アーク放電、電子ビームなどの方法で化学的に活性なラジカルへ励起させる。\n注意点としては、プラズマ状態の気体によりチャンバー内の物質がエッチングされ、成長中のダイヤモンド内に取り込まれる点で、とくに気相合成ダイヤモンドには、装置に取り付けている透明の石英窓由来のケイ素が不純物として混入することがある。\n防止するには石英窓のない装置で合成するか、窓から基板を遠ざければよい。\nまた、チャンバー内に非常に低濃度であってもホウ素を含む物質が存在すると、純粋なダイヤモンド合成には適さない。", "qas": [ { "question": "様々な種類の基板上で広範囲にダイヤを成長させることができる装置は何ですか?", "id": "tr-173-13-000", "answers": [ { "text": "CVD装置", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "CVD法と高温高圧法ではどちらが大量生産に向いていますか?", "id": "tr-173-13-001", "answers": [ { "text": "高温高圧法", "answer_start": 223, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "金属製のチャンバー内で炭素を含む爆発物による合成により直径5nmのダイヤモンド結晶が生成できる。\nこの様に合成したものは「デトネーション・ナノダイヤモンド」と呼ばれる。\n爆発の間、爆薬の炭素からダイヤモンドへと変換可能な高い圧力と温度が発生する。\n水中に沈めると、爆発合成後のチャンバーは急冷され、生成されたばかりのダイヤモンドがより安定した相であるグラファイトに変化するのを抑制できる。\nこの他に、グラファイト粉末を満たした金属管をチャンバー内にセットし、爆発により高い圧力と温度により生成する方法もある。\n生成した物質にはグラファイトや非ダイヤモンド炭素が多く付着しているため、約250°Cの熱硝酸で1日間それらを溶解させる。\nこのナノダイヤモンド粉末は研磨材等として利用される。\n主に中国、ロシア、ベラルーシで生産され、2000年代初めまでに大規模に市場で取引され始めた。", "qas": [ { "question": "金属製のチャンバー内で炭素を含む爆発物による合成で、生成された結晶は何と呼ばれますか?", "id": "tr-173-14-000", "answers": [ { "text": "「デトネーション・ナノダイヤモンド」", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナノダイヤモンドはロシア、中国の他にどこで生産されていますか?", "id": "tr-173-14-001", "answers": [ { "text": "ベラルーシ", "answer_start": 352, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "超音波キャビテーション法とは、超音波によるキャビテーションを行うことで、標準状態下の有機溶媒中で分散したグラファイトからマイクロメートル(μm)サイズのものの合成が可能である。\n生産収率は、初めのグラファイトの質量の約10%しかない。\nまたこの方法では、高温高圧法によりも非常に結晶性の悪いものが生成される。\n比較的簡素な設備と合成手順で生成可能であるが、2か所の研究機関からの報告のみで、2009年現在でも産業用の利用はない。\nグラファイト粉末の前処理、超音波の強さ、合成時間、溶媒などの多くのパラメータは未だ最適化されていない。\nそして生産効率の向上と生産コストの課題も残されたままである。", "qas": [ { "question": "超音波キャビテーション法と高温高圧法では、どちらが結晶性の良いものが生成されますか?", "id": "tr-173-15-000", "answers": [ { "text": "高温高圧法", "answer_start": 127, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "超音波キャビテーション法での生産収率は、初めのグラファイトの質量の約何%ですか?", "id": "tr-173-15-001", "answers": [ { "text": "約10%", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "罪と罰(椎名林檎の曲)", "paragraphs": [ { "context": "「罪と罰」(つみとばつ)は、日本のシンガーソングライター椎名林檎の6枚目のシングル。\nこの楽曲は「ギブス」とともに椎名の2作目のスタジオ・アルバム『勝訴ストリップ』からの先行シングルとして東芝EMIより2000年1月26日に日本で同時発売された。\n楽曲は「ここでキスして。」のリリース後に椎名が過労から化膿性炎症を発症し全ての活動を休止、自宅療養していた際に書かれた。\n音楽性としては1970年代風のロック・バラードであると指摘されており、椎名はこの楽曲を巻き舌と絶叫に近い掠れ声を用いて歌っている。\n楽曲にはゲスト・ミュージシャンとしてBLANKEYJETCITY(当時)の浅井健一がギターで参加している。", "qas": [ { "question": "「罪と罰」を歌っている歌手は誰ですか?", "id": "tr-174-00-000", "answers": [ { "text": "椎名林檎", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「罪と罰」のゲスト・ミュージシャンは誰でしたか?", "id": "tr-174-00-001", "answers": [ { "text": "浅井健一", "answer_start": 288, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「罪と罰」の発売日はいつでしたか?", "id": "tr-174-00-002", "answers": [ { "text": "2000年1月26日", "answer_start": 101, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "浅井健一が所属していたバンド名とは何ですか?", "id": "tr-174-00-003", "answers": [ { "text": "BLANKEYJETCITY", "answer_start": 269, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この楽曲は大衆的に成功を収めており、オリコンシングル・チャートで最高位4位を記録。\nシングルは累計で54万枚以上を売り上げている。\n楽曲のミュージック・ビデオは木村豊が監督を務め、ビデオは\"クルマを切る\"というコンセプトの元で制作された。", "qas": [ { "question": "「罪と罰」はどれくらいの売り上げを記録しましたか?", "id": "tr-174-01-000", "answers": [ { "text": "54万枚以上", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「罪と罰」のオリコンシングル・チャートの最高位は何位でしたか?", "id": "tr-174-01-001", "answers": [ { "text": "4位", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「罪と罰」のミュージック・ビデオのコンセプトは何でしたか?", "id": "tr-174-01-002", "answers": [ { "text": "\"クルマを切る\"", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「罪と罰」のミュージック・ビデオの監督は誰でしたか?", "id": "tr-174-01-003", "answers": [ { "text": "木村豊", "answer_start": 80, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ビデオで椎名は眉を全剃りし両目の周りが真っ黒に塗られた容貌で刀を一振りし、車を真っ二つにする、という設定。\nこのビデオは評価を受け、2000年のSPACESHOWERMusicVideoAwardsでは最優秀女性アーティストビデオ賞を受賞した。\n更に、「罪と罰」は1999年の先攻エクスタシーツアーにて初披露されたほか、2000年の下剋上エクスタシーツアーや2003年の雙六エクスタシーツアー、2008年に行われたライブ林檎博など複数回にわたってライブ・パフォーマンスされている。", "qas": [ { "question": "先攻エクスタシーツアー、雙六エクスタシーツアー、下剋上エクスタシーツアーの中で、一番遅く行われたツアーはどれですか?", "id": "tr-174-02-000", "answers": [ { "text": "雙六エクスタシーツアー", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "このビデオが最優秀女性アーティストビデオ賞を受賞した年は?", "id": "tr-174-02-001", "answers": [ { "text": "2000年", "answer_start": 66, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「罪と罰」が初披露されたツアーの名前は?", "id": "tr-174-02-002", "answers": [ { "text": "先攻エクスタシーツアー", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "下剋上エクスタシーツアーと雙六エクスタシーツアーはどちらが先に行われたの?", "id": "tr-174-02-003", "answers": [ { "text": "下剋上エクスタシーツアー", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "「罪と罰」は、セカンド・アルバム『勝訴ストリップ』からの先行シングルである。\nこの楽曲は『無罪モラトリアム』を引っさげての初の全国ツアー先攻エクスタシーツアー初日である1999年4月1日に椎名の地元福岡公演で初披露された。\n椎名はその際のMCにおいて、博多弁で「でまったくリリース予定のない曲やけん、もし、これがシングルで出て欲しいと思った人は、東芝EMIに手紙でも書いてください」と話し、ファンに対して楽曲のシングル化を訴えている。\n後に椎名はこの呼びかけを自分の地元福岡だけでのリップサービスのつもりだったと語っている。\nしかしながら、ファンはこの呼びかけに反応した。\n実際にEMIに対し楽曲のシングル化を要望する運動が起こり、リリース嘆願のための署名運動が行われる事態とまでに発展した。", "qas": [ { "question": "椎名のセカンド・アルバムのタイトルは何?", "id": "tr-174-03-000", "answers": [ { "text": "『勝訴ストリップ』", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "椎名の出身地は?", "id": "tr-174-03-001", "answers": [ { "text": "福岡", "answer_start": 99, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「罪と罰」が初披露された日は?", "id": "tr-174-03-002", "answers": [ { "text": "1999年4月1日", "answer_start": 84, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「罪と罰」をリリースしたレコード会社とは?", "id": "tr-174-03-003", "answers": [ { "text": "東芝EMI", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "同じ頃、EMIは「本能」に続く新しいシングルのリリース計画を立てていた。\nその中で「ギブス」とこの楽曲「罪と罰」がシングル候補に上がっていたが、椎名、EMIスタッフともにどちらをシングルにするのか絞り切れずにいた。\n椎名はこの件について、電子版フリー・ペーパー\"電脳RATVol.12\"のなかで「どっちを出そうかすごく悩んで、もう自分で決められなくなっちゃって。それでスタッフに任せたら、スタッフの人達も決められなかったらしく(笑)。」と語っている。\nシングル化の選択は最後まで決着せず、結果「罪と罰」は「ギブス」と共に同時リリースされる運びとなった。\nまた、椎名は2枚同時リリースについてはあんまり意味はないとしている。", "qas": [ { "question": "「罪と罰」と同じ発売日である楽曲は何ですか?", "id": "tr-174-04-000", "answers": [ { "text": "「ギブス」", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ギブス」と同じ発売日である楽曲は何ですか?", "id": "tr-174-04-001", "answers": [ { "text": "「罪と罰」", "answer_start": 246, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "「罪と罰」は、「ここでキスして。」のリリース後に過密スケジュールからくる過労によって急性化膿性炎症にかかった椎名が全ての活動を休止して自宅で療養していた1999年1月頃に制作された。\n「罪と罰」はその時に受けたインスピレーションを元に書かれており、椎名は楽曲について「歌詞は病棟での日記ですね。病気になっちゃったのは罰なんだって自分を責めている。その気持ちが振り切れちゃっている。いっつも人のいうことを聞かないからこうなったっていう」と語っている。", "qas": [ { "question": "「ここでキスして。」のリリース後に椎名が患った病気とは?", "id": "tr-174-05-000", "answers": [ { "text": "急性化膿性炎症", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「罪と罰」が制作された時期は?", "id": "tr-174-05-001", "answers": [ { "text": "1999年1月頃", "answer_start": 76, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "椎名が急性化膿性炎症になった原因は?", "id": "tr-174-05-002", "answers": [ { "text": "過労", "answer_start": 36, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "レコーディングでは、椎名の憧れていたBLANKEYJETCITY(当時)の浅井健一がゲスト・ミュージシャンとしてギターで参加している。\n椎名は「『罪と罰』は絶対浅井さんにギター弾いて欲しかった」と語り、ギターパートのみを外して収録したMDのデモテープとこの曲に対する気持ちと自身の電話番号を書いた手紙を同封して浅井に送ったところ、後日浅井健一から連絡が入り、「カッコイイ曲だね、弾くよ」と快諾し今回の参加が実現した。\n「罪と罰」は浅井とのセッションによって楽曲が盛り上がり、元の収録予定時間に対してアウトロが伸びる結果となった。\nまたアウトロには浅井による歯笛も挿入されている。", "qas": [ { "question": "浅井健一は何の楽器演奏で「罪と罰」のレコーディングに参加しているの?", "id": "tr-174-06-000", "answers": [ { "text": "ギター", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "椎名の憧れのバンドマンとは誰でしたか?", "id": "tr-174-06-001", "answers": [ { "text": "浅井健一", "answer_start": 37, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "「罪と罰」は椎名によって作詞作曲され、編曲は長年コンビを組んできた亀田誠治と二人で行っている。\n音楽性的に「罪と罰」はヘヴィー級の重厚感のある1970年代風のロック・バラードであると指摘されており、椎名は楽曲を絶叫に近い掠れ声と巻き舌で歌っている。\n収録時間がシングル版では4分43秒であるのに対して、アルバム収録版では5分32秒と大幅に伸びている。\n歌詞は、本人曰く\"病床に伏してた時の私の日記\"。\n元々病弱気味だった椎名が「ここでキスして。」のリリース後に体調を崩し寝込んでいる最中に気分が落ち込み、ネガティブな状態だった気持ちを書いたもので、同じ時期に「病床パブリック」の歌詞も書かれた。\n更に前作「本能」と今作「罪と罰」の歌詞はワンセットになっており、また「罪と罰」は歌詞で語られている以上に別の意味も持っているという。\n椎名はこの点について、「『本能』の歌詞みたいな自己顕示欲とか嫉妬心とかの本能に対しての罰。だから、『本能』と『罪と罰』は同じことをいってる。本能を肯定するか、罰だとするかという違い。」", "qas": [ { "question": "「罪と罰」の編曲者は誰ですか?", "id": "tr-174-07-000", "answers": [ { "text": "亀田誠治", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「罪と罰」はシングル版とアルバム収録版のどちらの収録時間が長いですか?", "id": "tr-174-07-001", "answers": [ { "text": "アルバム収録版", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「本能」と「罪と罰」はどちらが先に作られましたか?", "id": "tr-174-07-002", "answers": [ { "text": "「本能」", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「罪と罰」と同時期に書かれた歌詞のタイトルは何?", "id": "tr-174-07-003", "answers": [ { "text": "「病床パブリック」", "answer_start": 279, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この楽曲はフィジカルでは1月26日にシングル・リリースされた。\nシングルは2000年2月第1週付の発売初週のオリコンシングル・チャートにて365,910枚を売上げ、4位で同チャートに初登場した。\nこの週はチャートのレベルが高く、1位のサザンオールスターズの「TSUNAMI」、2位のモーニング娘。の「恋のダンスサイト」までの売上が60万枚を超え、同時リリースされ3位となった椎名の「ギブス」も40万枚を超えた。\nシングルは2週目も63,840枚を売上げ、11位を記録している。\n「罪と罰」は同シングル・チャートで最高位4位を記録し、計11週にわたってチャート・インし、累積では54.6万枚を売り上げている。", "qas": [ { "question": "「ギブス」、「恋のダンスサイト」、「TSUNAMI」の中で最も順位が高かったのは何ですか?", "id": "tr-174-08-000", "answers": [ { "text": "「TSUNAMI」", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「恋のダンスサイト」と「ギブス」の売り上げ枚数が多いのはどちらですか?", "id": "tr-174-08-001", "answers": [ { "text": "「恋のダンスサイト」", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「罪と罰」の発売初週と2週目の売り上げ枚数はどちらが少なかったですか?", "id": "tr-174-08-002", "answers": [ { "text": "2週目", "answer_start": 211, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「恋のダンスサイト」は誰が歌っていましたか?", "id": "tr-174-08-003", "answers": [ { "text": "モーニング娘。", "answer_start": 141, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この楽曲のミュージック・ビデオは、前作「本能」で評価を得た木村豊が引き続き監督を務めている。\nこのビデオを撮るにあたって椎名はビデオ監督の選択についてこだわりを持って取り組んでおり、『LAWSONTICKET』でのインタビューにおいて彼女は「ライブでずっとやり続けてきた曲だから、私の中ではとにかく演奏シーンだったんですよ。それでそういうのをカッコよく撮れる監督っていないかなって探しててくるりの『青い空』とかブランキーの『デリンジャー』のビデオが好きで、私が言ったら実はその2つを撮った監督は同じ人だったんですね。じゃあ、ぜひ頼みたいって思って。」と語っている。\nこのビデオは、PV集『性的ヒーリング〜其ノ弐〜』並びにシングルPV全集『私の発電』に収録されている。", "qas": [ { "question": "この楽曲のミュージック・ビデオが収録されているPV集のタイトルは何ですか?", "id": "tr-174-09-000", "answers": [ { "text": "『性的ヒーリング〜其ノ弐〜』", "answer_start": 293, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この楽曲のミュージック・ビデオが収録されているシングルPV全集のタイトルは何ですか?", "id": "tr-174-09-001", "answers": [ { "text": "『私の発電』", "answer_start": 318, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『デリンジャー』のビデオ監督は誰ですか?", "id": "tr-174-09-002", "answers": [ { "text": "木村豊", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『青い空』は誰の楽曲ですか?", "id": "tr-174-09-003", "answers": [ { "text": "くるり", "answer_start": 194, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "このミュージック・ビデオ「罪と罰」は\"自分のクルマを切る\"というコンセプトで制作された。\nビデオには椎名が中古で購入した私物の辛子色の1970年代製メルセデス・ベンツ・W114の半身が使用された。\nこの車は頻繁に故障するため廃車処分しようか考えていたところ、その話を知ったビデオ監督から「どうせだったらプロモに使ったら?」「今、車切る人いないよ」と持ちかけられ承諾。\nベンツは2000万円の費用をかけて解体され、CDのジャケット写真とビデオに使用されることになった。\nその後椎名はビデオの撮影でスタジオに入った際、ベンツが縦半分に切られた姿を見て可哀想になり涙を零したという。\nなお、PV集『性的ヒーリング〜其ノ弐〜』のエンディングソングの「依存症」の映像では、富士山の麓の高原で撮影したベンツの爆破シーンが納められている。\nこの映像は「依存症」のサビの音声を使った1分30秒ほどのもので、「依存症」の音声を背景に髪を結い、喪服を着て三味線を弾く椎名の後方に置かれたベンツの半身が弔われている。\n撮影終了後も廃車とはされず、東芝EMIの美術倉庫に保管されることとなった。\nビデオの中で椎名は黒のインナーに赤のジャケットを着て眉毛を全剃りし、左右両目の周りを真っ黒に塗って刀を一振りし、車を真っ二つにしている。\n音楽ライターの丹生敦は、このメイクを\"マリリン・マンソンみたいなゴス・メイク\"だと指摘し、更に刀で車を斬るシーンについては\"刀で切ったという設定はルパン3世の五右衛門からインスパイアされたものか。\"とコメントしている。\n2000年のSPACESHOWERMusicVideoAwardsでは、このビデオは最優秀女性アーティストビデオ賞を受賞している。", "qas": [ { "question": "このミュージック・ビデオで使用された車種は何ですか?", "id": "tr-174-10-000", "answers": [ { "text": "メルセデス・ベンツ・W114", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『性的ヒーリング〜其ノ弐〜』の最後に収録されている歌は何?", "id": "tr-174-10-001", "answers": [ { "text": "「依存症」", "answer_start": 320, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "撮影終了後にベンツはどこの会社の倉庫に保管されたの?", "id": "tr-174-10-002", "answers": [ { "text": "東芝EMI", "answer_start": 462, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「依存症」の映像の中で、椎名が演奏している楽器とは?", "id": "tr-174-10-003", "answers": [ { "text": "三味線", "answer_start": 417, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "「罪と罰」は、椎名初のツアーでライブハウス・ツアーとなった先攻エクスタシーツアーの初日、1999年4月の福岡公演にて初披露された。\nこのツアーでは、舞台を暗くし、その両端に炎を灯すという演出が行われた。\n椎名は頭にティアラをのせ、赤いシースルーのコートに、黒のキャミソールとガーターベルト、編みタイツという装いでパフォーマンスを行った。\n1999年6月16日、椎名は第218回赤坂ライブに出演した。\nこれはこの年の初頭に彼女が急性化膿性炎症にかかり全ての活動をキャンセルしたことに伴う振り替え公演で、楽曲はライブの1曲目に演奏され、この時ライブのラストでは「ギブス」も披露されている。\n「罪と罰」は、ライブ・ツアー下剋上エクスタシーツアーでもパフォーマンスされている。\nこのツアーはアルバム『勝訴ストリップ』を受けてのライブ・ツアーで、2000年4月から6月までの間に行われた。\nこのツアーではアンコール2曲を含む全22曲がパフォーマンスされ、楽曲は14曲目の「幸福論」に続くライブ15曲目に演奏された。\nツアーのセットリストは全公演共通であるが、東京のNHKホールでの公演のみ、セットリストが異なっている。\nこの公演ではアンコール1曲を含む全24曲が演奏され、「罪と罰」は16曲目の「警告」に続く17曲目で演奏・パフォーマンスされている。\nこのツアーで椎名は病院の手術室をテーマに組まれた心電図や人体模型、生命維持装置が並ぶセットの中で、長い髪を垂らし、白いロングドレスを身に着けてライブ・パフォーマンスを行った。\nこの時、楽曲はバンドスタイルで演奏されている。\nこのライブの模様は録音されており、ツアーと同名の『下剋上エクスタシー』のタイトルで2000年12月7日に日本でVHSとDVDの2規格により発売されている。", "qas": [ { "question": "「罪と罰」初披露の日の衣装で、椎名は頭に何を付けましたか?", "id": "tr-174-11-000", "answers": [ { "text": "ティアラ", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第218回赤坂ライブでの「罪と罰」の演奏は何曲目でしたか?", "id": "tr-174-11-001", "answers": [ { "text": "1曲目", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "下剋上エクスタシーツアーでは全何曲が演奏されましたか?", "id": "tr-174-11-002", "answers": [ { "text": "22曲", "answer_start": 408, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2003年に行われた『加爾基精液栗ノ花』のサポート・ツアー\"雙六エクスタシー\"でも楽曲は演奏された。\nこの時椎名は白と水色の模様の着物に身を包み、後に東京事変として正式にデビューする亀田誠治、晝海幹音、ヒイズミマサユ機、畑利樹をバック・バンドに随えて「罪と罰」のパフォーマンスを行った。\nツアーでは全23曲が演奏され、「罪と罰」は1曲目の「幸福論(悦楽編)」に続く2曲目に演奏されている。\n椎名は1曲目の「幸福論」ではライブ前の客電が点いた状態のままでパフォーマンスし、2曲目の「罪と罰」のパフォーマンスで初めて会場の照明を消し、暗転。\n演奏が始まると再び照明を点灯させた。\nVIBE-NET.COMはパフォーマンスについて、\"巧妙な演出によって誰もが驚きに包まれているさ中、情念の塊のように歌い上げる椎名林檎の姿と声は、おそらく強烈なインパクトをもって会場すべての人に鳥肌を立たせただろう。\"とコメントした。\n更に\"やはり凄まじい声だ。\"と付け加えている。\nこのツアーの模様は、2003年9月27日に日本武道館で行われた公演が『ElectricMole』として日本にて2003年12月17日にDVD規格で発売されている。", "qas": [ { "question": "\"雙六エクスタシー\"で「罪と罰」は何曲目に演奏されましたか?", "id": "tr-174-12-000", "answers": [ { "text": "2曲目", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ElectricMole』の発売はいつでしたか?", "id": "tr-174-12-001", "answers": [ { "text": "2003年12月17日", "answer_start": 485, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2007年には、NHKによる『椎名林檎お宝ショウ@NHK』のなかで椎名は指揮者斎藤ネコと共にオーケストラを従えてストリングス・ヴァージョンの「罪と罰」のパフォーマンスを行った。\n2008年に音楽フェスRISINGSUNROCKFESTIVAL2008に出演した際にも楽曲は演奏された。\nこの時も『お宝ショウ』同様斎藤ネコと共同でライブ・パフォーマンスをし、斎藤はヴァイオリン2本とチェロ、ビオラによる斎藤ネコカルテットを従えて、椎名はピアノを弾くという編成でパフォームされている。", "qas": [ { "question": "『椎名林檎お宝ショウ@NHK』で披露された「罪と罰」は何ヴァージョンで演奏されましたか?", "id": "tr-174-13-000", "answers": [ { "text": "ストリングス・ヴァージョン", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『椎名林檎お宝ショウ@NHK』で「罪と罰」を指揮した人は誰ですか?", "id": "tr-174-13-001", "answers": [ { "text": "斎藤ネコ", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "RISINGSUNROCKFESTIVAL2008で斎藤が連れて来たグループは何ですか?", "id": "tr-174-13-002", "answers": [ { "text": "斎藤ネコカルテット", "answer_start": 200, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "RISINGSUNROCKFESTIVAL2008での「罪と罰」の演奏で、椎名が担当した楽器は何でしたか?", "id": "tr-174-13-003", "answers": [ { "text": "ピアノ", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "更に、2008年11月28日から29、30日の計3日間にかけて行われた椎名のデビュー10周年記念ライブ「椎名林檎(生)林檎博'08〜10周年記念祭〜」でもパフォーマンスされ、楽曲はライブの全26曲のうち12曲目に演奏されている。\n椎名はこの時胸あたりまである髪と眉まで前髪のある黒のウィッグに、前身ごろを白、後身頃を黒のワンピースに身を包んでパフォーマンスを行った。\nこのライブは最終日2008年11月30日の公演が録音され、『RingoEXPO08』としてDVD規格で2009年3月11日に日本で発売されている。\n椎名は2009年6月24日に放送されたNHKの『SONGS』でも「罪と罰」をパフォーマンスしている。\n2008年には、日本の3ピース・バンドGENERALHEADMOUNTAINがアルバム『月かなしブルー』の中でカバーした。\n『CDジャーナル』はこのカバーについて、\"彼ら流に昇華\"とコメントしている。", "qas": [ { "question": "「罪と罰」をカバーしたバンドは何ですか?", "id": "tr-174-14-000", "answers": [ { "text": "GENERALHEADMOUNTAIN", "answer_start": 328, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「椎名林檎(生)林檎博'08〜10周年記念祭〜」で「罪と罰」は何曲目に歌われましたか?", "id": "tr-174-14-001", "answers": [ { "text": "12曲目", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ばね", "paragraphs": [ { "context": "ばねとは、力が加わると変形して力を取り除くと元に戻るという、物体の弾性という性質を利用する機械要素である。\n広義には、弾性の利用を主な目的とするものの総称ともいえる。\n英語名はspringで、日本語でもスプリングという名でよく呼ばれる。\n発条(はつじょう)ともいう。\nばねの形状や材質は様々で、日用品から車両、電気電子機器、構造物に至るまで、非常に多岐にわたって使用される。", "qas": [ { "question": "spring、発条(はつじょう)などと呼ばれ、弾性の利用を主な目的とする機械要素は何ですか?", "id": "tr-175-00-000", "answers": [ { "text": "ばね", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ばねは日本語では他にどのように表現されていますか?", "id": "tr-175-00-001", "answers": [ { "text": "スプリング", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ばねの種類の中ではコイルばねがよく知られ、特に圧縮コイルばねが広く用いられている。\n他には、板ばね、渦巻ばね、トーションバー、皿ばねなどがある。\nばねの材料には金属、特に鉄鋼が広く用いられているが、用途に応じてゴム、プラスチック、セラミックスといった非金属材料も用いられている。\n空気を復元力を生み出す材料とする空気ばねなどもある。\nばねの荷重とたわみの関係も、荷重とたわみが比例する線形のものから、比例しない非線形のものまで存在する。\nばねばかりのように荷重を変形量で示させたり、自動車の懸架装置のように振動や衝撃を緩和したり、ぜんまい仕掛けのおもちゃのように弾性エネルギーの貯蔵と放出を行わせたりなど、色々な用途のためにばねが用いられる。", "qas": [ { "question": "ばねの種類は多種多様で、その中でも特に多用されている種類は何?", "id": "tr-175-01-000", "answers": [ { "text": "圧縮コイルばね", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ばねの材料で多く使用されているのは何?", "id": "tr-175-01-001", "answers": [ { "text": "鉄鋼", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "人類におけるばねの使用の歴史は太古に遡り、原始時代から利用されてきた弓はばねそのものである。\nカタパルト、クロスボウ、機械式時計、馬車の懸架装置といった様々な機械や器具で利用され、ばねは発展を遂げていった。\n1678年にはイギリスのロバート・フックが、ばねにおいて非常に重要な物理法則となるフックの法則を発表した。\n産業革命後には、他の工業と同じくばねも大きな発展を遂げ、理論的な設計手法も確立していった。\n今日では、ばねの製造は機械化された大量生産が主だが、一方で特殊なばねに対しては手作業による製造も行われる。\n現在のばねへの要求は多様化し、その実現に高度な技術も求められるようになっている。", "qas": [ { "question": "人類における最初のばねの使用は何だといえますか?", "id": "tr-175-02-000", "answers": [ { "text": "弓", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ばねにおける非常に重要な物理法則を発表した人は誰?", "id": "tr-175-02-001", "answers": [ { "text": "ロバート・フック", "answer_start": 116, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "物体には弾性と呼ばれる、力が加わって変形しても元に戻ろうとする性質がある。\nばねの広い意味での定義は、この弾性という性質の利用を主な目的とするものの総称といえる。\nばねが持っている、あるいはばねに求められる特性としては、大きく分けて、復複元力を持つ、エネルギーの蓄積と放出ができる、固有の振動数を持つ、という3つの特性が挙げられ、これらは「ばねの3大特性」とも呼ばれる。\nばねと呼ばれる部品や物以外にもこれら3つの特性は備わっているが、これらの特性を特に上手く利用しているのがばねともいえる。\n他にもばねの基本的な性質や働きの分け方はあるが、ここではこの3つの大別に沿って、ばねの基本的特性について説明する。", "qas": [ { "question": "復複元力を持つ、エネルギーの蓄積と放出ができる、固有の振動数を持つという特性の通称は何?", "id": "tr-175-03-000", "answers": [ { "text": "「ばねの3大特性」", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ばねは、力を加えられると変形し、力を取り除くと元の形に戻るという性質を持っている。\nこのように力が加わって変形しても元に戻ろうとする性質を持つことが、ばねの基本的性質であり、必要条件である。\n元の形に戻ろうとする力は「復元力」と呼ばれ、復元力の存在がばねの大きな特性の1つ目に挙げられる。\n復元力は物質の「弾性」という性質に起因し、力を取り除くと元の形に戻る変形は「弾性変形」と呼ばれる。\nしかし、力(正確には応力)が材料の限界を超えて加わると、力を除いても変形(正確にはひずみ)が残るようになる。\nこの性質は「塑性」と呼ばれ、塑性という性質によって元に戻らない変形のことを「塑性変形」と呼ぶ。\n変形が弾性変形に留まる最大の応力は「弾性限度」と呼ばれる。\nばねは元に戻ることを前提して使われるものであるため、塑性変形が起こることは好ましくなく、一般にばねに加わる力が弾性限度を超えない範囲で使用される。", "qas": [ { "question": "ばねの基本的性質で、必要条件である元の形に戻ろうとする力を何と言うの?", "id": "tr-175-04-000", "answers": [ { "text": "「復元力」", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "力(正確には応力)が材料の限界を超えて加わると、力を除いても変形(正確にはひずみ)が残るようになる性質を何と呼ぶ?", "id": "tr-175-04-001", "answers": [ { "text": "「塑性」", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ばねの変形のことや変形量のことを「たわみ」と呼ぶ。\nたわみの物理単位には、変位(長さの変化)と回転角(ねじり角や曲げ角の変化)の2種類がある。\n長さが変化することを利用する圧縮コイルばねでは、たわみの単位は変位で表される。\n棒のねじり角度が変化することを利用するトーションバーでは、たわみの単位は回転角(ねじり角)である。\nたわみの物理量に対応して、たわみを起こす負荷にもいくつかの種類が考えられる。\n変位であれば荷重(純粋な力)であり、ねじり角であればねじりモーメントが考えられる。\n実際のばねでは、変位や回転変形が組み合わさった複雑なたわみを起こすものもある。\nこのような荷重とたわみがある一定関係を持っていることが、ばねが持つ基本的性質や機能の一つともいえる。\nばねが示す荷重とたわみの関係のことを「ばね特性」「荷重-たわみ特性」「荷重特性」などと呼ぶ。\n最もよく利用されるばねのばね特性は、線形であることが多い。\n線形とはたわみが荷重に比例して増減するということで、ばねに10kgの重りを吊るすとばねが1cm伸び、20kgの重りを吊るすと2cm伸びるという具合である。\nこの関係は「フックの法則」としても知られる。", "qas": [ { "question": "「たわみ」の物理単位で角の変化を表す単位を何と言いますか?", "id": "tr-175-05-000", "answers": [ { "text": "回転角", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「たわみ」の物理単位のうち、長さの変化を表す単位を何と言うの?", "id": "tr-175-05-001", "answers": [ { "text": "変位", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ばねに10kgの重りを吊るすとばねが1cm伸び、20kgの重りを吊るすと2cm伸びるという具合にたわみが荷重に比例して増減する関係を何と言いますか?", "id": "tr-175-05-002", "answers": [ { "text": "「フックの法則」", "answer_start": 494, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "荷重とたわみが比例しないばねも存在し、そのような関係を非線形と呼ぶ。\n非線形特性のばねでは、例えば、ばねに10kgの重りを吊るすと1cm伸びるが、20kgの重りを吊るしても1.2cmしか伸びないという具合である。\nさらに、荷重を加えるときと取り除くときで荷重とたわみの関係が異なり、荷重-たわみ曲線がヒステリシスループを描くばねもある。\n皿ばねや圧縮コイルばねの内の特殊なものが、非線形特性のばねの例として挙げられる。", "qas": [ { "question": "ばねに10kgの重りを吊るすと1cm伸びるが、20kgの重りを吊るしても1.2cmしか伸びないという具合に荷重とたわみが比例しない関係を何と言うの?", "id": "tr-175-06-000", "answers": [ { "text": "非線形", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ばねが変形するとき、弾性エネルギーという形でエネルギーがばねに蓄えられる。\n蓄えられたエネルギーを放出させれば、ばねに機械的な仕事をさせることができる。\nこの「エネルギーの蓄積と放出」という働きが、ばねの大きな特性の2つ目として挙げられる。\n例えば、弓によって矢を放つのは、このエネルギーの蓄積と放出を利用している。\n手で弦を引くことで弾性エネルギーを蓄え、手を放すことで弾性エネルギーを矢を飛ばす力に変える。\nぜんまい時計では、ぜんまいに蓄えられたエネルギーを放出させながら時計が動いている。\n弓と比較すると、ぜんまい時計の場合は弾性エネルギーを徐々に放出させながら利用している。\n自動車の懸架装置用ばねの場合は、路面から伝わる衝撃をばねが受け、衝撃力をばねの弾性エネルギーに変化させて緩衝している。\n\nばねに蓄えられる弾性エネルギーは、その弾性変形を起こす荷重によってなされた仕事に等しい。\n荷重-たわみ線図では、曲線と横軸で囲まれた面積が弾性エネルギーに相当する。", "qas": [ { "question": "ばねが変形した時に蓄えられたエネルギーを放出させることで、ばねに機械的な仕事をさせることのできる働きを何と言いますか?", "id": "tr-175-07-000", "answers": [ { "text": "「エネルギーの蓄積と放出」", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "弓において、弾性エネルギーを蓄えたものを矢を飛ばす力に変える行為は何か?", "id": "tr-175-07-001", "answers": [ { "text": "手を放すこと", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "弓とぜんまい時計を比較して、弾性エネルギーを瞬時に放出させているのはどちらか?", "id": "tr-175-07-002", "answers": [ { "text": "弓", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "蓄えられた弾性エネルギーをゆっくりと放出させながら動いているのは何?", "id": "tr-175-07-003", "answers": [ { "text": "ぜんまい時計", "answer_start": 206, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "先端に重りを付けたばねを天井に吊るし、重りを下に引っ張り、力を放す。\nすると重りは一定の振動数で上下に振動する。\nこの一定の振動数は「固有振動数」と呼ばれる。\nこのような固有振動数を持つことが、ばねの大きな特性の3つ目である。\n一般的にも、ばねが硬いほど固有振動数が大きくなり、ばねが柔らかいほど固有振動数が小さくなる。\n固有振動数は実際上のあらゆる振動の問題に関係し、固有振動数は振動の問題を考えるときの最重要の物理量ともいわれる。\n特に、大きさや向きが周期的に変動するような力が質点に加わったり、ばねを支える基礎自体が周期的に揺れ動くとき、このような外からの振動数が固有振動数に一致すると「共振」と呼ばれる質点が激しく振動する現象が発生する。\n共振を積極的に利用する機械・道具もあるが、通常は共振を避ける必要がある。\n共振が起こると、機械の動作が不安定になったり、故障の原因となったり、最悪は破壊事故を引き起こすこともある。\nこのため、固有振動数と外からの振動数をずらすように機械や構造物を設計することが求められる。", "qas": [ { "question": "先端に重りを付けたばねを天井に吊るし、重りを下に引っ張り、力を放す時に重りが一定の振動数で上下に振動する、この一定の振動数を何と言いますか?", "id": "tr-175-08-000", "answers": [ { "text": "「固有振動数」", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ばねは、柔らかいほど固有振動数がどうなるの?", "id": "tr-175-08-001", "answers": [ { "text": "小さくなる", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "外からの振動数が固有振動数に一致する時に質点が激しく振動する、この現象を何と言いますか?", "id": "tr-175-08-002", "answers": [ { "text": "「共振」", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方で、ばねの固有振動を持つ性質を利用することで、振動の伝達を緩和することもできる。\n固有振動数が外からの振動数よりも十分小さいとき、振動がばねが支える質点に伝わりにくくなる。\nこれを利用することによって、ばねが支える物体の振動を和らげることができる。\n振動を伝わりにくくする一般的な目安としては、固有振動数が外からの振動数の1/3以下となるようにするのが望ましいとされる。\n例えば鉄道車両では、金属ばねに比べてばね定数を小さくすることができる空気ばねを採用し、乗り心地を良くしている。", "qas": [ { "question": "振動の伝達を緩和する例として、鉄道車両では何を使用することで乗り心地を良くしていますか?", "id": "tr-175-09-000", "answers": [ { "text": "空気ばね", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "金属ばねと空気ばねではどちらがばね定数を小さくすることができるの?", "id": "tr-175-09-001", "answers": [ { "text": "空気ばね", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ばねの復元力を生み出す材料には様々なものがある。\n原理的には、弾性を持つ材料全てがばねの材料となりえる。\n金属と非金属にばね材料を分けると、金属ばねが特殊な場合を除いて一般的に用いられている。\nコストが安いながらも、大きな力を受けることができたり、大きなたわみ量を確保できたりするのが金属ばね全般における利点である。\n金属材料の中でも、強度と汎用性の高さから特に鉄鋼材料が広範囲で用いられている。\nばね用の鋼材は「ばね鋼」という名称でも呼ばれ、弾性限度を上げるために一般的な鋼材よりも材料中の炭素濃度が高められている。\nばね鋼は大きく分けて冷間成形用と熱間成形用がある。\n冷間成形とは材料が常温の状態でばねの形へ加工することで、比較的小型のばねの成形に適している。\n熱間成形とは材料を高温に熱した状態でばねの形へ加工することで、比較的大型のばねの成形に適している。\nばね鋼の種類としては、炭素を主な添加元素とする炭素鋼、あるいは炭素以外の元素を特別に加える合金鋼が使われる。\n他の鉄鋼材料としては、耐食性と耐熱性に優れたステンレス鋼が用いられている。", "qas": [ { "question": "ばねの材料で一般的に幅広く使われているのは金属ばねか、それとも非金属のばねか?", "id": "tr-175-10-000", "answers": [ { "text": "金属ばね", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "比較的小型のばねの成形に適している加工は冷間成形と熱間成形のどちら?", "id": "tr-175-10-001", "answers": [ { "text": "冷間成形", "answer_start": 286, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "炭素鋼や合金鋼以外の鉄鋼材料として、耐食性と耐熱性に優れた何がありますか?", "id": "tr-175-10-002", "answers": [ { "text": "ステンレス鋼", "answer_start": 460, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "比較的大型のばねの成形に適している加工は冷間成形と熱間成形のどちら?", "id": "tr-175-10-003", "answers": [ { "text": "熱間成形", "answer_start": 333, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ばねに使われる非鉄金属の材料としては、黄銅、リン青銅、洋白、ベリリウム銅といった銅合金材料が一般的である。\n銅合金の電気伝導性の良さを利用して、コネクタなどで抵抗や発熱を減らすために使われる。\n他には耐食性や非磁性も長所として持っているが、鋼材料と比べるコストが高い欠点もある。\n他の非鉄金属材料としては、耐食性、耐熱性ならびに耐寒性が優れたニッケル合金もばね材料として用いられている。\n特にインコネルがニッケル合金の中でも一般的である。\n400°C以上の高温領域で使用されるようなばねで、ニッケル合金材料が用いられている。\n鋼と比較して大きな軽量化が可能な材料として、チタン合金もばねに使用されている。\nチタン合金は鋼と比較して弾性率と比重が小さいため、ばねの軽量化が可能となる。\n一方でコストが高いという欠点もある。", "qas": [ { "question": "ばねに使われる非鉄金属の材料の中で、電気伝導性が良いのは何?", "id": "tr-175-11-000", "answers": [ { "text": "銅合金", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ばねに使われる非鉄金属の材料の中で、耐食性、耐熱性、耐寒性に優れているものは何?", "id": "tr-175-11-001", "answers": [ { "text": "ニッケル合金", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ばねに使われる非鉄金属の材料は、費用面においてどういった共通点がありますか?", "id": "tr-175-11-002", "answers": [ { "text": "コストが高い", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ニッケル合金の中で代表的な存在であり、耐熱性に優れたばねは何?", "id": "tr-175-11-003", "answers": [ { "text": "インコネル", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "金属材料では実現できない機能や特性を得たいとき、非金属材料がばね材料として使われる。\nプラスチックやゴムといった高分子材料も、ばね材料として利用される。\nゴムの弾性を利用するばねは、特に「ゴムばね」と呼ばれる。\nゴムの弾性は非線形であり、ひずみが小さい範囲でのみ線形とみなせる。\n具体的な材料としては、汎用に使われる天然ゴム、対候性の高いクロロプレンゴム、振動減衰特性が良いブチルゴムなどが使われている。\n金属ばねと比較すると、ばね定数を方向に応じて自由に調整できる、ゴムの内部摩擦によって変形時に減衰力が生まれる、といった長所を持っている。\n車両用や産業機械用の防振ゴムとして広く利用されている。\n一方で、高温・低温で性能が劣化しやすい、長期間の大荷重負担でクリープが生じやすい、といった短所もある。\nさらに、ゴムばねの挙動は明確には計算できないので、おおよその範囲で計算する必要がある。", "qas": [ { "question": "非金属材料として、ゴムという高分子材料を利用するばねを何と言いますか?", "id": "tr-175-12-000", "answers": [ { "text": "ゴムばね", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "金属ばねと比較してばね定数を方向に応じて自由に調整できるのは何?", "id": "tr-175-12-001", "answers": [ { "text": "ゴムばね", "answer_start": 356, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "温度の変化に弱いのは金属ばねとゴムばねのどちら?", "id": "tr-175-12-002", "answers": [ { "text": "ゴムばね", "answer_start": 356, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "プラスチック材料もばねに用いられる。\n金属ばねと比較すると、プラスチック製ばねには軽量、錆びない、成形が容易といった長所がある。\n一方で、ゴムのようにクリープが起こりやすい、鋼材と比較すると強度や弾性率が小さいといった短所がある。\nプラスチック材料の中では、エンジニアリングプラスチックがばね用として一般的である。\n例としてはポリエーテルエーテルケトン(PEEK)製のコイルばねなどが、耐薬品性が必要な個所で活用されている。", "qas": [ { "question": "プラスチック製ばねと金属ばねでは、どちらが重いですか?", "id": "tr-175-13-000", "answers": [ { "text": "金属ばね", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プラスチック製ばねと金属ばねでは、どちらが錆びやすいの?", "id": "tr-175-13-001", "answers": [ { "text": "金属ばね", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プラスチック製ばねと金属ばねでは、どちらが成形に手間がかかるの?", "id": "tr-175-13-002", "answers": [ { "text": "金属ばね", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プラスチック製ばねの材料としてよく使われているものは何?", "id": "tr-175-13-003", "answers": [ { "text": "エンジニアリングプラスチック", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "プラスチックの強度の低さを克服するために、強化繊維を含有させた繊維強化プラスチック(FRP)もばね用材料として使われている。\nばね材料として用いられるFRPには、ガラス繊維強化プラスチック(GFRP)と炭素繊維強化プラスチック(CFRP)の2つがある。\n強化繊維の配向によって、FRPは力を受ける向きによって強度や弾性率が異なるという特徴がある。\nそのため、ばね定数を最適化したり、FRPが持つ高い強度を生かすためには、適切な配向でばねを設計する必要がある。\n軽量化のためにGFRP製の板ばねが自動車懸架装置用として実用化されたことがあるが、コストが高い・リサイクルしづらいといった欠点により定着はしていない。\nCFRPも、板ばねとしての利用が代表例である。\n他の材料と比較すると、CFRPは比強度や比弾性率が特に優れており、加えて疲労強度も高いという長所を持つ。\nこれらの長所を生かして、他の材料では不可能な用途にCFRP製ばねを適用することが試みられている。", "qas": [ { "question": "比強度や比弾性率に優れ、疲労強度が高いという長所を持つCFRPの正式名称は何?", "id": "tr-175-14-000", "answers": [ { "text": "炭素繊維強化プラスチック", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "FRPの種類の中で、コストが高くリサイクルしづらいという短所のある材料は何?", "id": "tr-175-14-001", "answers": [ { "text": "ガラス繊維強化プラスチック", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "無機材料のセラミックスもばねとして利用されている。\n既存の金属ばねでは対応不可能な700°Cから1000°Cの高温下でも実用できる耐熱性を持つ。\nセラミックスは脆性材料であり、小さな欠陥でも破壊に至り、強度のばらつきが大きいため、ばね用材料としては不適当と以前は考えられていた。\nその後の製造技術の進歩によって、高強度のセラミックスが誕生し、ばねとして実用可能となった。\n実際の使用例としては、高温下使われる治具用ばねに窒化ケイ素が使われている。", "qas": [ { "question": "金属ばねでは対応出来ない700°Cから1000°Cの高温下でも実用できる耐熱性を持つばねの材料は何があるの?", "id": "tr-175-15-000", "answers": [ { "text": "セラミックス", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "セラミックスのばねの実用例として、治具用ばねには何が用いられているの?", "id": "tr-175-15-001", "answers": [ { "text": "窒化ケイ素", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "気体や液体の流体を利用するばねも存在し、特に空気の弾性を利用したばねは「空気ばね」と呼ばれる。\n一定温度下では気体の体積は圧力に逆比例するというボイルの法則が、空気ばねの弾性を生み出す基本原理となる。\nばねの高さ・受けることができる荷重・ばね定数が独立に設定できる、絞りを設けることで減衰力を発生させることができる、調整弁を設けることでばね高さを一定に保つことができる、といった長所を持っている。\n特に、一つ目の長所により、同じ条件下の金属ばねと比較してばね定数を小さくでき、車両の懸架装置として用いた場合は乗り心地を良くすることができる。\n形状によって、ベローズ形とダイヤフラム形の2種類に大きく分けられる。\n欠点としては、金属ばねと比較して構造が複雑で、空気ばね以外の付属装置も必要となり、コストが高い。", "qas": [ { "question": "金属ばねと空気ばねを比べて構造が複雑でないのはどちら?", "id": "tr-175-16-000", "answers": [ { "text": "金属ばね", "answer_start": 313, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "同じ条件下で金属ばねと比べるとばね定数が小さく、車両の懸架装置として用いた場合に、乗り心地を良くすることができるばねを何と呼んでいるの?", "id": "tr-175-16-001", "answers": [ { "text": "空気ばね", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "空気ではなく、アルゴンやヘリウムなどの不活性ガスを利用するばねもあり、このようなばねは「ガスばね」と呼ばれる。\nばね特性設定の自由度が高く、省スペースで大きな荷重を働かすことができるといった長所がある。\n一方で使用温度に制約があり、ガス漏れのおそれがあるといった短所がある。", "qas": [ { "question": "ばね特性設定の自由度が高く、省スペースで大きな荷重を働かすことができるといった長所がある反面、使用温度に制約があり、ガス漏れのおそれがあるという短所があるばねを何と言いうの?", "id": "tr-175-17-000", "answers": [ { "text": "「ガスばね」", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "弾性を利用するものではないが、磁石の磁気力を復元力として利用する「磁気ばね」と呼ばれるばねもある。\n磁石の同極を近づけると反発力が発生するので、圧縮方向に復元力を持つばねとして利用できる。\n磁石の異極を対向させる場合は、磁石が横方向にずれたときに吸引力が発生するので、横方向に復元力を持つばねとして利用できる。\n物体同士の接触を避けることができる、質量を持たないばねなので後述のサージングが発生しない、といった長所がある。", "qas": [ { "question": "物体同士の接触を避けることができ、質量を持たないためにサージングが発生しないばねは何?", "id": "tr-175-18-000", "answers": [ { "text": "「磁気ばね」", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "磁石の磁気力を復元力として利用するばねは何と言われているの?", "id": "tr-175-18-001", "answers": [ { "text": "「磁気ばね」", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ばねの特性や機能を活かして、ばねは幅広い分野にわたって使われている。\n身近な器具から大型機械・構造物まで、昔ながらの機器から現代的な機器まで、ばねの利用は広範囲に及んでいる。\n身の回りの日用品の中にも様々なばねが存在する。\n文房具では、紙や書類を挟むためのクリップもばねの一種といえる。\n線を折り曲げて成形されたゼムクリップは、線細工ばねの一種である。\n紙や書類を綴じるためのステープラーには、板ばねとコイルばねが使われている。\n針を前に押し出す機構にはコイルばねが使われ、針を押し出す薄板は板ばねになっている。\nノック機構を持つボールペンでは、ペン先の出し入れにコイルばねを利用している。\nボールペンの中には、ペン先のボールを1mm程度の小さなばねで支える機構を持つものもある。\n衣服を干すための洗濯ばさみでもばねが使われている。\n洗濯ばさみには、ねじりコイルばねを利用するものと、輪っかの形のばねを利用するものがある。\n重さを量る秤にもばねを利用する種類がある。\nばねばかりは引張コイルばねを利用するもので、計量の仕組みはフックの法則の見本といえる。", "qas": [ { "question": "文房具において、板ばねとコイルばねが使用されているものは何かな?", "id": "tr-175-19-000", "answers": [ { "text": "ステープラー", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "機械式時計では2種類の渦巻ばねが用いられている。\n1つは接触形渦巻ばねのぜんまいで、時計の針を進める動力を生み出している。\nもう1つは非接触形渦巻ばねのひげぜんまいと呼ばれる部品で、時計の調速脱進機で使われる。\nてんぷという部品に取り付けられたひげぜんまいに往復運動をさせることで、正しい時刻を刻むように針を動かしている。\nおもちゃもばねの様々な性質を利用している。\nびっくり箱はフタを開けると人形などがばねの復元力で飛び出る古典的なおもちゃである。\nオルゴールは、渦巻ばねを動力として音を出している。\nエネルギーを弾性エネルギーとして蓄積して徐々に放出させる、ばねの使い方の例である。\nミニカーのチョロQも渦巻ばねが走りの動力原である。\nスリンキーという変わった動きをするばね状のおもちゃもある。", "qas": [ { "question": "機械式時計で用いられている2種類の渦巻ばねのうち、時計の針を進める動力を生み出しているものは何?", "id": "tr-175-20-000", "answers": [ { "text": "接触形渦巻ばねのぜんまい", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "機械式時計のてんぷの部分に取り付けられて、正しい時刻を刻むように針を動かす役割を果たしている部品は何?", "id": "tr-175-20-001", "answers": [ { "text": "ひげぜんまい", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "プリエ", "paragraphs": [ { "context": "プリエ(plié)は、フランス語で腕や膝などを「曲げる、折る」ことを意味するplierという他動詞の過去分詞形が名詞化した言葉である。バレエにおいては、両脚、または片脚を外旋(アン・ドゥオール)させた状況で膝を曲げていく動作、または曲げられた膝の状態を指す。\n\nプリエには大きく分けてドゥミ・プリエとグラン・プリエの2種類があり、膝を曲げる深さによって区別される。ドゥミ・プリエの「ドゥミ」には「半分」という意味合いがあり、両脚をその付け根から外旋させた状態で立ち、かかとは床面から離さずにアキレス腱を伸ばして膝を曲げる。\n\n対するグラン・プリエは、「大きい」を意味する「グラン」の言葉どおりにドゥミ・プリエの場合よりさらに腰を下げて膝を曲げていくが、しゃがむ体勢とは違って臀部にかかとが接触したり、大腿部とふくらはぎが密着したりしてはいけない。膝を曲げる角度が深くなるにつれて、かかとは床面から離れていく。ただし、2番ポジションからのグラン・プリエのみはかかとは床面から離さずに実行する。\n\n単に「プリエ」というときは、多くの場合両脚の膝をゆっくりと曲げていく動作を指す。片脚での場合、ジュテやシソンヌなど跳ぶパにおいて着地する足はドゥミ・プリエの状態となる。\n\nプリエは日常のバレエレッスンでの最も重要な基本動作である。原則として、バーでのプリエの練習から始めて体を暖め、それからフロアでのレッスンに移る。", "qas": [ { "question": "フランス語のplierは日本語でどんな意味を表しますか。", "id": "tr-176-00-000", "answers": [ { "text": "「曲げる、折る」", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プリエは大きく何種類に分けられますか。", "id": "tr-176-00-001", "answers": [ { "text": "2種類", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "グラン・プリエとドゥミ・プリエと、もっと腰を下げて膝を曲げるのはどっちなの?", "id": "tr-176-00-002", "answers": [ { "text": "グラン・プリエ", "answer_start": 266, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日常のバレエレッスンでの最も重要な基本動作は何ですか。", "id": "tr-176-00-003", "answers": [ { "text": "プリエ", "answer_start": 533, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "プリエはバレエにおいてすべての動きに付随し、ジャンプや回転などさまざまな動作のプレパラシオンとして重要な技法である。とりわけ跳ぶパでは跳躍する際のばねの役割とともに着地する際にはその衝撃を和らげる働きを持つ。\n\nバレエレッスンでは、プリエを習得することによってアン・ドゥオールの姿勢を体得するとともに、体幹部を意識することで腹部などの引き締め効果のあるエクササイズ法ともなる。アキレス腱を最大限に伸ばす必要があるために足首の柔軟性が要求され、アキレス腱部分のストレッチ効果ももたらされる。日常のレッスンでは、単に膝を曲げるのではなく、股関節、膝、そして爪先ができるだけ外側に開いていき、アン・ドゥオールの姿勢を保つことが理想である。", "qas": [ { "question": "プリエのとき、何を最大限に伸ばす必要がありますか。", "id": "tr-176-01-000", "answers": [ { "text": "アキレス腱", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "スペイン料理", "paragraphs": [ { "context": "スペイン料理の特徴として素材を生かした調理があり、地方にはそれぞれの地域の特産品を生かした独特の料理がある。イベリア半島は「ヨーロッパの尾」「アフリカの頭」と言われ、古来から異なる民族・文化・宗教が交差しており、スペインの食文化はイベリア半島の歴史的背景の影響を受けている。スペインは地方によって気候や風土、文化、習慣が異なるため、材料やその調理方法は様々で、事実上スペイン料理として一括りにはできない。スペイン料理の地域差を表した言い回しに「スペインのどこに行ってもあるものはワイン、オルチャータ、クァハダ(素焼きの壺に入れられたヨーグルト)だけ」というものがある。「北では煮込み、中部では焼きもの、南部ではフライ」と、地域ごとの調理法の違いを表した言葉もある。しかし、スペイン料理の根底には、同じイベリア半島のポルトガル料理と同じく、各家庭ごとに異なるレシピを持つ「デル・プエブロ(民衆の料理、delpueblo)」の精神が根付いている。", "qas": [ { "question": "「ヨーロッパの尾」「アフリカの頭」というあだ名が与えられた地域はどこなの?", "id": "tr-177-00-000", "answers": [ { "text": "イベリア半島", "answer_start": 54, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "世界一歴史の古いソースと言われるアリオリソースをはじめ、焼いた鶏肉からにじみ出る油を使ったチリンドロンなど、多くのソースが料理に使われている。特にバスク、アラゴンといったスペイン北東部は、特徴的なソースが使われる地域として知られる。しばしばスペイン料理は香辛料がふんだんに使われている印象をもたれるが、こうした先入観とは裏腹に香辛料はあまり使われない。しかし、18世紀以前のスペイン料理には過剰とも言われるほどの香辛料が使われていた。スペインには変わり種のパンは存在していないが、ミガスなどの残り物のパンを生かした多くの料理が生まれている。固くなってしまったパンは「石」を意味するピエドラ(Piedra)と呼ばれるが、「固くなったパンもスープに入れれば美味しくなる」という意味の「石でも煮れば柔らかくなる」という格言が存在する。スペイン人は食生活に対して保守的な傾向があると言われているが、20世紀末になって珍しい外国の料理を供するレストランが大都市で増加し、若年層を中心に人気を博している。タパスやピンチョスなどの伝統的なスペインのファーストフードとは異なる、ハンバーガーやフライドチキンなどの外来のファーストフードも若年層に好まれているが、児童の肥満の原因がファーストフードにあるという指摘も出されている。", "qas": [ { "question": "世界で最も古いと言われているソースは何?", "id": "tr-177-01-000", "answers": [ { "text": "アリオリソース", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "食生活に対して保守的な傾向があると言われているスペインに珍しい外国の料理を供するレストランが大都市で増えてきたのはいつですか。", "id": "tr-177-01-001", "answers": [ { "text": "20世紀末", "answer_start": 395, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スペインで、児童の肥満の原因だと指摘されているのは何?", "id": "tr-177-01-002", "answers": [ { "text": "ファーストフード", "answer_start": 467, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペインで固くなってしまったパンを表すピエドラはどんな意味ですか。", "id": "tr-177-01-003", "answers": [ { "text": "「石」", "answer_start": 282, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "紀元前、古代ギリシャ人によってオリーブが、フェニキア人によってワインの原料となるブドウがイベリア半島に持ち込まれる。また、古代ギリシャ時代のスペインでは、肉、魚を塩漬けにして調理・保存する技術が発達していた。ローマ帝国の時代に、スペイン料理の基盤が形成される。ローマ人によって、スペイン料理に欠かせないオリーブオイルの製法とニンニク、パンの原料となる小麦、ブタがイベリア半島にもたらされた。具の形が崩れるほど煮込んだ料理、加熱前に時間をかけて食材に下味をつけるスペイン料理の調理法には、ローマ人の影響が見られる。ローマ時代の記録には、ハモン・セラーノに連なる伝統的な肉の塩漬けの記述が現れている。", "qas": [ { "question": "スペイン料理に欠かせないオリーブオイルの製法とニンニク、パンの原料となる小麦などをイベリア半島に渡したのは誰ですか。", "id": "tr-177-02-000", "answers": [ { "text": "ローマ人", "answer_start": 130, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "具の形が崩れるほど煮込んだ料理、加熱前に時間をかけて食材に下味をつけるスペイン料理の調理法に影響を与えたのは?", "id": "tr-177-02-001", "answers": [ { "text": "ローマ人", "answer_start": 243, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1世紀の地理学者ストラボンはトゥルデタニアについて、「ワイン、穀物、オリーブオイルの輸出地であり、多くの家畜が飼われている」と記し、これに対して内陸部の食生活について「ドングリとそれを加工したパンを食べ、ワインではなくビールを飲み、オリーブオイルの代わりにバターを使う」と記録している。4世紀のゲルマン民族の大移動によって西ゴート族がイベリア半島に移り、彼らはビールの原料となるホップを持ち込んだ。8世紀にイベリア半島に到達したイスラム教徒の手を経て、スペインに米がもたらされた。イスラム教徒は米のほかに灌漑農業、ナスやタマネギなどの蔬菜を伝え、パン食中心のキリスト教徒の食生活は大きく変化した。新大陸由来のものを除き、スペイン南部で使われる食材のほとんどはイスラム支配時代に起源を持つ。アラブ由来の菓子としては砂糖とアーモンドを使ったマサパンがあり、15世紀初頭のアラゴン王国では砂糖を使った菓子が名物として知られていた。", "qas": [ { "question": "トゥルデタニアについて、「ワイン、穀物、オリーブオイルの輸出地であり、多くの家畜が飼われている」と記録を残した人は誰ですか。", "id": "tr-177-03-000", "answers": [ { "text": "ストラボン", "answer_start": 8, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ストラボンによると、トゥルデタニアの人々はワイン、穀物、そして何を輸出していましたか。", "id": "tr-177-03-001", "answers": [ { "text": "オリーブオイル", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "8世紀にスペインに米を渡したのは誰?", "id": "tr-177-03-002", "answers": [ { "text": "イスラム教徒", "answer_start": 214, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "パンが主食だったのはイスラム教徒とキリスト教徒とどっちなの?", "id": "tr-177-03-003", "answers": [ { "text": "キリスト教徒", "answer_start": 279, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アッバース朝のハールーン・アッ=ラシードに仕えていた宮廷音楽家ジルヤーブ(ズィリアーブ)がコルドバの宮廷に身を寄せた時、バグダードの料理書と大量のシナモンのほかに、食卓の調度品などのアラブ料理の文化がイベリア半島に伝わった。最初にスープ、次に肉類、最後にデザートを出す、スペインの庶民の間で一般的な三部構成のコースは、ジルヤーブの与えた影響が強いと考えられている。食材、料理、調度品以外に、アラビア語から食に関する言葉も輸入された。ユダヤ教徒の食文化もスペイン料理に影響を与え、ユダヤ料理のアダフィナは、オリャ・ポドリーダなどの煮込み料理の基礎となった。カタルーニャ出身の料理人は中世ヨーロッパで高い評価を受け、1324年にイギリス宮廷に仕えていたカタルーニャの料理人が『サント・ソヴィの書』という料理書を著した。", "qas": [ { "question": "スペインの庶民の間で一般的な三部構成の食事コースで、二番目に何を食べますか。", "id": "tr-177-04-000", "answers": [ { "text": "肉類", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スペインの庶民の間で一般的な三部構成の食事コースに大きい影響を与えたのは誰?", "id": "tr-177-04-001", "answers": [ { "text": "ジルヤーブ", "answer_start": 159, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『サント・ソヴィの書』の著者はどこの人なの?", "id": "tr-177-04-002", "answers": [ { "text": "カタルーニャ", "answer_start": 277, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『サント・ソヴィの書』の著者であるカタルーニャの料理人はどこに勤めていましたか。", "id": "tr-177-04-003", "answers": [ { "text": "イギリス宮廷", "answer_start": 312, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "大航海時代、新大陸からもたらされたトマトやトウガラシは、スペインの食生活全体に影響を与えた。ジャガイモ、トマト、カボチャ、ピーマンなどの新大陸由来の野菜が多く使われるチャンファイナソースはクリストファー・コロンブスがもたらしたソースと言われる。15世紀から17世紀にかけてのスペイン黄金世紀にはスペイン宮廷で華やかな宴会が開かれていたが、財政が厳しくなった17世紀半ばからは、十分な食事を用意できなかった日もあった。黄金世紀の民衆は飢餓と隣り合わせの状況に置かれており、17世紀に農民の窮乏は極まり、粗末な食事しか口にできなかった。飢饉と隣り合わせの状況、多くの人間が行き交うイベリア半島の立地より、スペインでは保存・携行に長けた料理が好まれるようになった。ハモン、ソーセージ、バカラオ、チーズなどの保存食が好まれ、発達を遂げる。16世紀初頭、スペイン初の総合的な料理書であるルペルト・デ・ノラの『料理の書』がカタルーニャ語とスペイン語で出版される。1611年にフェリペ4世に仕えた料理人フランシスコ・マルティネス・モンティーニョが著した『厨房、菓子、カステラ、保存食品の技』はノラの『料理の書』以上の人気を博し、1800年までに20版近く出版された。", "qas": [ { "question": "ルペルト・デ・ノラの『料理の書』がカタルーニャ語とスペイン語で出されたのはいつですか。", "id": "tr-177-05-000", "answers": [ { "text": "16世紀初頭", "answer_start": 365, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『厨房、菓子、カステラ、保存食品の技』を書いた人は誰なの?", "id": "tr-177-05-001", "answers": [ { "text": "フランシスコ・マルティネス・モンティーニョ", "answer_start": 444, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "当時、『厨房、菓子、カステラ、保存食品の技』と『料理の書』とどっちの方がもっと人気だった?", "id": "tr-177-05-002", "answers": [ { "text": "『厨房、菓子、カステラ、保存食品の技』", "answer_start": 469, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "16世紀から18世紀にかけては国と教会がスペインのカトリック化のため豚肉食を推奨し、豚肉を忌避するイスラム教徒やユダヤ教徒を迫害した。イスラームとユダヤ両方の戒律に反する煮込み料理コシードを食べることがカトリック教徒の倫理的名誉とされ、イスラム教徒追放後はパエリアに豚肉、魚介類が使われるようになり、料理にも反イスラームの意思が示された。イスラム教徒を祖先とするモリスコが多いアンダルシア地方では、現在コシードにイスラームで忌避される豚肉を入れないのが一般的になっている。18世紀のボルボン朝成立後、スペイン宮廷の食文化はフランスの影響を大きく受ける。フェリペ5世の妃エリザベッタ・ファルネーゼを通して、イタリアの食文化がスペイン宮廷にもたらされた。この世紀にコース料理におけるスープとデザートの位置づけが確立され、一般の食卓でフォークが使われるようになった。1839年にマドリードにスペインで最初の本格的なレストランが開店する。しかし、19世紀末には民衆の飢餓は社会問題化しており、中産階級が十分に形成されていないマドリードの外食産業の発展には限りがあった。", "qas": [ { "question": "イスラームとユダヤとカトリックのうち、煮込み料理コシードが戒律に反していないのはどれ?", "id": "tr-177-06-000", "answers": [ { "text": "カトリック", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スペイン宮廷にフランスの食文化の影響が大きく及ぼしたのは何世紀のことですか。", "id": "tr-177-06-001", "answers": [ { "text": "18世紀", "answer_start": 236, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スペイン宮廷でにコース料理におけるスープとデザートの位置づけが確立され、一般の食卓でフォークが使われるようになったのはどこからの影響があったためか。", "id": "tr-177-06-002", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 302, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フェリペ5世の妻は誰なの?", "id": "tr-177-06-003", "answers": [ { "text": "エリザベッタ・ファルネーゼ", "answer_start": 284, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "フランコ政権下、1950年代初頭まで民衆は窮乏し、食料不足が続いた。窮状の中から既存の料理の食材を別のもので代用したスセダネオが考案され、カフェ・デ・マルタ(大麦のコーヒー、Cafédemalta)、卵の代わりに水で溶いたヒヨコマメの粉を使った卵抜きオムレツが生まれた。スペイン内戦後の全国一律の配給制度による食材の普及、闇市の隆盛により、スペイン人の食生活は大きな変化を迎える。食材不足のためにいくつかの伝統的な料理があまり作られなくなり、自家製のハムとソーセージは店で購入できる既製品に代わられていった。農民がラードの代わりにオリーブオイルを料理に使うようになったのもこの時期である。1960年代、スペインは急激な経済発展を遂げる。観光産業と外食産業の発展に伴って地方料理が見直され、地方料理を紹介する書籍が続けて出版された。地方からマドリードやバルセロナなどの大都市への人間の移動が進むとともに、移住者の出身地の地方料理が大都市で普及し、ガリシアのポルボ・ア・フェイラやアストゥリアスのファバダなどが国民料理の地位を獲得していく。フランコ独裁政権の後、スペイン人の多くはマスメディアを通して栄養、衛生についての観念を吸収し、栄養と健康を意識した食生活が志向されるようになる。貧困の中からスセダネオのいくつかは、ベジタリアンフードとして再評価を受けるようになった。また、1970年代にフランスで起きたヌーベル・キュイジーヌの動きに触発され、バスク地方で伝統から脱した新しい料理を研究する運動が始まった。1980年代の「なんでもあり(Valetodo)」の時代、スペインは急速に他国の文化を取り入れ、この影響は食文化にも及んだ。", "qas": [ { "question": "スペインで観光産業と外食産業の発展に伴って地方料理が見直され、地方料理を紹介する書籍が続けて出版されたのはいつなの?", "id": "tr-177-07-000", "answers": [ { "text": "1960年代", "answer_start": 294, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バスク地方で伝統から脱した新しい料理を研究する運動が始まったきっかけになったのは何?", "id": "tr-177-07-001", "answers": [ { "text": "ヌーベル・キュイジーヌの動き", "answer_start": 602, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "スペイン人は朝食、午前の間食、昼食、午後の間食、夕食と1日に5回の食事を採るといわれているが、食事の回数は地域ごとに差異がある。朝食は簡素なコンチネンタル・ブレックファストの形態をとり、カフェ・コン・レチェ、菓子パン、甘味の無いラスクが食べられている。チュロス、ポーラなどの揚げパンとホット・チョコレートを一緒に摂ることも多い。朝食と昼食の間にボカディーリョ(フランスパンを使ったサンドイッチ、bocadillo)などの軽食を取り、1日の食事のメインである昼食に備える。ほか、網焼きのソーセージ、トルティージャ、ヤリイカのフライなどが軽食とされる。昼食はスープ、米料理や麺、メインディッシュに加えてデザートやコーヒー、紅茶がそろったフルコースの体裁をとり、会話を楽しみながらゆっくりと食事をとる。昼食の後にメリエンダをつまみ、夜9時以降に軽めの夕食を採る。メリエンダはコーヒーと菓子だけで手軽に済まされるが、客が訪れた時には肉料理や魚料理などの手間の掛かるものが供されることもある。夕食時には仲間や夫婦で居酒屋に行き、あるいは家族と一緒にスープと卵料理ほどの料理を食べる。スペイン人が夕食時に利用する居酒屋(バル、メソン、タスカ、タベルナ)のカウンターには、アンダルシア発祥の一皿サイズの酒肴(タパ、複数形のタパスの語で知られる)が多く並ぶ。居酒屋で安価なタパを取って様々な種類の郷土料理を少しずつ食べる「タペオ(タパをつまむ楽しみ、tapeo)」の文化は、スペインの食文化に欠かせない一要素となっている。食事の時間が遅い理由についてははっきりしておらず、20世紀初頭までは昼食を正午、夕食を午後7時頃に採っていた。", "qas": [ { "question": "チュロス、ポーラなどの揚げパンとホット・チョコレートの組み合わせは朝食、昼食、夕食のうち、何によく用いられますか。", "id": "tr-177-08-000", "answers": [ { "text": "朝食", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スペインは20世紀初頭まで夕食を何時にとったと知られていますか。", "id": "tr-177-08-001", "answers": [ { "text": "午後7時頃", "answer_start": 696, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "スペインはヨーロッパの中でも特に魚介類の消費量が多い国として知られている。スペインにおいては、脂の少ない淡白な魚が好まれ、エビやカニ類の人気が高い。ローマ帝国時代のスペインはガルムと呼ばれる魚醤の特産地として知られていたが、イベリア半島のローマ帝国の勢力が衰退した後はガルムを使う習慣は廃れていった。豚肉を忌避するイスラム教徒とユダヤ教徒は「うろこのある魚」を多く食べ、カトリック教徒はイスラム教とユダヤ教で忌避される「うろこの無い魚」、イカ、タコ、エビ、貝も食べていた。また、かつては大斎、小斎というカトリックの精進日には肉類の代わりに魚が食べられていた。周囲を海に囲まれた立地とも相まって、時代が進むにつれて魚介類は精進食から祝祭に無くてはならない食材となった。魚は白身魚と青身魚に分類され、鮮度が重要視される白身魚は高級品として扱われ、安価な青身魚は加工品にされるものを除いて漁港で消費される向きがある。スペイン料理の素材には、北海で獲れたタラ、メルルーサのほか、マイワシ、クロダイ、カレイ、ヒラメ、アンコウなどの魚がある。魚の中ではメルルーサの人気が高く、貝はムール貝とアサリがよく食べられている。スズキ、クロダイ、マダイといった白身魚がメルルーサに次いで人気が高く、マドリードにはクリスマス・イブにベスーゴ・アル・オルノを食べる習慣が定着している。アンコウは「庶民のイセエビ」と呼ばれ、特にアンダルシア、ムルシアを含むレバンテ地方で好まれている。ムール貝は生息する場所が汚いため、スペインの料理人は貝殻を使うことを嫌がり、殻を外した状態で料理に入れられる。", "qas": [ { "question": "イカ、タコ、エビを食べるのはカトリック教徒なの、ユダヤ教徒なの?", "id": "tr-177-09-000", "answers": [ { "text": "カトリック教徒", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マドリードでは12月24日に何を食べますか。", "id": "tr-177-09-001", "answers": [ { "text": "ベスーゴ・アル・オルノ", "answer_start": 554, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スペインで高級品として扱われる魚は白身魚ですか、青身魚ですか", "id": "tr-177-09-002", "answers": [ { "text": "白身魚", "answer_start": 335, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スペインでスズキ、クロダイ、マダイ、メルルーサの中で最も人気が高いのを選びなさい。", "id": "tr-177-09-003", "answers": [ { "text": "メルルーサ", "answer_start": 523, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "スペイン料理に使用される野菜はコロンブスのアメリカ大陸発見後にヨーロッパにもたらされたものと、それ以前から使われていたものに大別できる。コロンブスによってスペインにもたらされた野菜はスペイン料理に定着し、スペインを通してヨーロッパ各地に伝わった。野菜の煮込みであるメネストラなどの伝統的な家庭料理には、多くの野菜が使われている。生野菜のサラダ、メロン、オレンジジュースなどがエントゥレメスにされ、乾燥した気候のカスティーリャでは、かつてはタマネギの輪切りが前菜の中心となっていた。タマネギ、トマト、レタスがサラダの組み合わせの基本であり、各自が好みの量のオリーブオイルや酢をサラダにかけて食する。タマネギはコロンブスのアメリカ大陸発見以前から料理に使用されていた野菜の代表格に挙げられており、スペイン料理を特徴づける重要な要素となっている。中世にはタマネギを生のまま食べることが多かったと考えられているが、現代スペイン料理ではタマネギを生で食べることは少なく、加熱して調理に使われることが多い。タマネギ、ニンニクなどを刻んだものをオリーブオイルで時間をかけて加熱したものはソフリートと呼ばれ、ソフリートを基にして多くのスペイン料理が作られる。タマネギの辛みを抑え、かつ焦がさないことで香ばしさを加えず、甘みを強調したソフリートの風味を生かすために、スペイン料理では香辛料の使用が控えられていると言われている。", "qas": [ { "question": "スペイン料理に使用される野菜を大別する基準は何ですか。", "id": "tr-177-10-000", "answers": [ { "text": "コロンブスのアメリカ大陸発見", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スペインで生のタマネギを食べることが一般的であったのは中世のことですか、現代のことですか。", "id": "tr-177-10-001", "answers": [ { "text": "中世", "answer_start": 370, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "新大陸で粥やガレットにして食べられていたトウモロコシは、古くからヨーロッパで食べられていたキビ、アワ、ソバと同じ食べ方をされていたため、スペインの農民たちに容易に受け入れられた。17世紀には、トウモロコシはキビやアワに代わる農民の主食となるが、トウモロコシとは逆にトマトは普及にいくらかの時間を要した。しかし、後にスペインは世界有数のトマトの産地となり、「トマトの時期に料理下手無し」と言われている。トマトは魚料理、野菜の煮込み料理の味付けや肉料理のソースに使われ、トマトを使った豆の煮込みは多くの地方で好まれている。19世紀初頭のスペインで「サラダ」という調理が広まり始めると、それまでに栽培されていた煮込み料理用のトマトに加えて、生食用のトマトの生産量が増加していった。", "qas": [ { "question": "17世紀のスペインの主食はトウモロコシ、キビ、アワの中、どれでしたか。", "id": "tr-177-11-000", "answers": [ { "text": "トウモロコシ", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "スペインでは酒は料理と一緒に飲むものであり、食事や会話をより楽しむために供される。早朝のカフェではエスプレッソコーヒーにコニャックやアニス酒を加えたカラヒージョがしばしば飲まれ、昼食時にはビールが出されることもある。スペインは世界有数のワインの産地として知られており、良質のワインを安価で購入できる。スペイン産ワインの中心は赤ワインであるが、比較的涼しい気候での白ワイン、カバなどのスパークリングワイン、シェリーなどの酒精強化ワイン、サングリアなどのフレーバードワインと、様々なタイプのワインが生産されている。中でもリオハの赤ワインは、フランスのボルドーワインと並んで高い評価を受けている。ガリシアでは、地元の海産物と相性のいい白ワインが多く生産されている。イベリア半島で生産されるワインはローマ帝国時代には高い評価を受けており、イスラム教徒の支配下でもワインは飲まれ続けられた。1860年代にフィロキセラ禍を避けたボルドーのワイン業者がリオハに移り、リオハでボルドーワインに近い芳醇な風味のワインが造られるようになった。", "qas": [ { "question": "カラヒージョはエスプレッソコーヒーに何が添加されたものですか。", "id": "tr-177-12-000", "answers": [ { "text": "コニャックやアニス酒", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "近代までのスペインワインの評価は一部を除いて高いとは言えなかったが、20世紀末から脚光を浴びる。著名な産地には、テンプラニーリョ種による赤ワインが有名なリオハやリベラ・デル・ドゥエロ、シェリーのヘレス・デ・ラ・フロンテーラ、アルバリーニョ種による白ワインで知られるリアス・バイシャス、リオハとともに特選原産地呼称産地に認定されているプリオラートなどがある。スペイン国内のワインの年間消費量は減少したものの、高級志向が高まりつつある。かつてのスペインで手に入る大衆的なワインは酸味が強く、水割り、あるいは蜂蜜を入れて酸味を和らげる必要があった。大衆食堂ではカセーラでワインを割って飲むことが一般的になっている。ワインをジュースで割り果物を浮かべたサングリアはスペイン独特の飲料として知られている。若者の間ではテーブルワインを多量の炭酸水で割ったティント・デ・ベラーノは、アルコール度数が低い飲み物として若者や女性からの人気が高い。スペインでは地元の人間が飲む地ビールが多く造られているが、地域性は徐々に薄れつつある。エストレージャ・ガリシアを除いたスペインの大手ビールメーカーのほとんどは外国資本の傘下に入っている。アストゥリアスやバスクでは、少量ながらシドラが作られている。18世紀から19世紀にかけてイギリスの統治下に置かれたメノルカ島ではジンの生産が始められ、スペイン領に戻った後もジンの製造が続けられている。", "qas": [ { "question": "リアス・バイシャスを作るとき使われるブドウの品種は?", "id": "tr-177-13-000", "answers": [ { "text": "アルバリーニョ種", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "マリ・キュリー", "paragraphs": [ { "context": "マリア・スクウォドフスカ=キュリーは、現在のポーランド出身の物理学者・化学者である。フランス語名はマリ・キュリー。キュリー夫人として有名である。\n\n1867年11月7日、ワルシャワ生まれである。放射線の研究で、1903年のノーベル物理学賞、1911年のノーベル化学賞を受賞し、パリ大学初の女性教授職に就任した。1909年、アンリ・ド・ロチルドからキュリー研究所を与えられた。\n\n放射能という用語は彼女の発案による。", "qas": [ { "question": "マリ・キュリーはいつ生まれましたか。", "id": "tr-178-00-000", "answers": [ { "text": "1867年11月7日", "answer_start": 74, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マリ・キュリーの誕生日はいつなの?", "id": "tr-178-00-001", "answers": [ { "text": "11月7日", "answer_start": 79, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "マリ・キュリーの生誕時の名前はマリア・サロメア・スクウォドフスカである。\n\n父ブワディスカ・スクウォドフスキは下級貴族階級出身で、帝政ロシアによって研究や教壇に立つことを制限されるまではペテルブルク大学で数学と物理の教鞭を執った科学者である。父方の祖父ユゼフ・スクウォドフスキも物理・化学の教授であり、ルブリンで若い頃のボレスワフ・プルスも師事した。母ブロニスワバ・ボグスカも下級貴族階級出身で、女学校の校長を務める教育者だった。\n\nマリは5人兄弟の末っ子で、姉ゾフィア、ブロニスワバ、ヘラ、兄ユゼフがいる。その中でもマリは幼少の頃から聡明で、4歳の時には姉の本を朗読でき、記憶力も抜群だった。\n\nだが当時、ポーランドはウィーン会議にて分割され、ワルシャワ公国はポーランド立憲王国として事実上帝政ロシアに併合された状態にあり、独立国家の体をなしていなかった。帝政ロシアは知識層を監視して行動に制約をかけた。マリ6歳の時、父ブワディスカが密かに講義を行っていたことが発覚して職と住居を失った。さらに母ブロニスワバも身体を壊してしまった。投機への失敗も重なり貧窮した一家は移り住んだ家で小さな寄宿学校を開いたが、1876年に生徒が罹患したチフスが一家に移り、姉ゾフィアが亡くなった。それから2年後の1878年5月9日、母ブロニスワバが結核で他界した。10歳のマリは深刻な鬱状態に陥り、母に倣ったカトリックの信仰を捨て、不可知論の考えを持つようになったという。", "qas": [ { "question": "マリ・キュリーのお父さんの名前は何?", "id": "tr-178-01-000", "answers": [ { "text": "ブワディスカ・スクウォドフスキ", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マリ・キュリーのお父さんはどの大学で数学と物理を教えていたの?", "id": "tr-178-01-001", "answers": [ { "text": "ペテルブルク大学", "answer_start": 93, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マリ、ゾフィア、ブロニスワバ、ヘラのうち、一番年下は誰なの?", "id": "tr-178-01-002", "answers": [ { "text": "マリ", "answer_start": 217, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マリ・キュリーのお母さんはいつ死んだの?", "id": "tr-178-01-003", "answers": [ { "text": "1878年5月9日", "answer_start": 547, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マリ・キュリーは1883年6月12日にギムナジウムを優秀な成績で卒業した。しかし当時、女性には進学の道は開かれていなかった。父は、マリを1年間、親戚やかつての教え子が住む田舎で息抜きさせ、彼女は自然の中でのんびりした生活を堪能した。\n\nその後ワルシャワに戻ってチューターなどを務めていたが、ピャセツカという女性教師の紹介で非合法の「さまよえる大学」で学ぶ機会を得た。その頃、姉ブロスニワバがパリで薬学修学のために貯金をしていたため、マリは申し出て働き、姉を援助することを決めた。1885年からマリは住み込みの家庭教師を始めた。最初はクラクフの法律家一家で、その後チェハヌフで農業を営む父方の親戚筋に当るゾラフスキ家でガヴァネスとなった。ここで勉学に打ち込んだ彼女に、ワルシャワ大学で数学を学んでいた一家の長男カジュミェシュ・ゾラフスキが惹かれ、ふたりは恋仲となった。しかし、カジュミェシュが結婚の希望を両親に告げると、社会的地位の違いを理由に猛反対された。彼女は失意のまま契約の2年間を終えるとチェハヌフを去り、バルト海沿岸にあるソポトの町に住むフックス家でさらに1年間家庭教師の仕事を続けた。", "qas": [ { "question": "マリ・キュリーが1883年6月12日に卒業した学校は?", "id": "tr-178-02-000", "answers": [ { "text": "ギムナジウム", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マリとブロスニワバとどっちの方がもっと年上なの?", "id": "tr-178-02-001", "answers": [ { "text": "ブロスニワバ", "answer_start": 188, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マリはいつから住み込みの家庭教師を始めたの?", "id": "tr-178-02-002", "answers": [ { "text": "1885年", "answer_start": 239, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1890年3月、数か月前に医師カジュミェシュ・ドウズキと婚約した姉ブロスニワバがパリで一緒に住むよう誘う手紙がマリに届いた。だが彼女は断る。父や姉の元にいると決めたこと、ワルシャワの家庭教師の仕事が順調で、ワルシャワ移動大学での勉学に楽しさを感じていること、留学するには蓄えが充分ではないこと、そしてカジュミェシュ・ゾラフスキを忘れられずにいたことが理由であった。彼女は家庭教師をする傍ら、オールドタウン近郊のクラクフ郊外通り66にある農工博物館の実験室で科学研究の技能習得に努めた。この実験室はサンクトペテルブルクでロシアの著名な化学者ドミトリ・メンデレーエフの助手を務めたこともあるいとこのユゼフ・ボグスキーが管理しており、またロベルト・ブンゼンに学んだN.Milicerも彼女を指導した。", "qas": [ { "question": "ブロスニワバは誰と婚約したの?", "id": "tr-178-03-000", "answers": [ { "text": "カジュミェシュ・ドウズキ", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "転機は1891年秋に、彼女にとって決して幸福ではない形で訪れた。結婚は認められなかったが、カジュミェシュ・ゾラフスキとマリは連絡を取り合っていた。そして9月、2人はザコパネで避暑の旅行を共にした。もうすぐ24歳になるマリは膠着した人生に変化を期待したが、彼は優柔不断で何も決断できずにいた。そのため2人は喧嘩別れしてしまい、マリは自らフランス行きを決意した。\n\n一方のカジュミェシュ・ゾラフスキは、博士号取得後に数学者としての履歴を積み、またヤギェウォ大学の学長、ワルシャワ教育庁の長官まで上り詰めた。だが晩年には、1935年に建てられたマリ・キュリーの銅像の前に座り込んで何かの想いにふける、ワルシャワ工科大学の老教授となった彼の姿が見られたという。", "qas": [ { "question": "9月、カジュミェシュ・ゾラフスキとマリはどこへ旅行に行ったの?", "id": "tr-178-04-000", "answers": [ { "text": "ザコパネ", "answer_start": 82, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カジュミェシュ・ゾラフスキと喧嘩別れした後、マリはどこへ行くことに決めたか。", "id": "tr-178-04-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 167, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "3日間の汽車の旅を経て、1891年10月、マリはパリに移り住んだ。当時、女性でも科学教育を受講可能な数少ない機関の1つであったソルボンヌ大学の登録用紙には名前を「マリア」からフランス語風に「マリ」と書き、物理、化学、数学を学ぶ日々が始まった。スラブ系の美しい顔立ちに明るいブロンド、グレーの瞳のマリは学内でも人目を引き、彼女自身も義兄を通じて若きイグナツィ・パデレフスキなどパリ在住ポーランド人らとも親交を持った。\n\nしかし、将来はポーランドに戻ると決めていた自分には時間がないことに気づき、姉夫婦の元を離れてパリによくあった7階建石造りアパートの屋根裏部屋を借りて引っ越した。マリは昼に学び、夕方はチューターを務める一日を送った。生活費に事欠いて食事もろくに取らず、暖房もなかったため寒い時には持っている服すべてを着て寝る日々を過ごしながら勉学に打ち込んだ。ついには倒れて医師である義兄の面倒になったこともあったが、努力を重ねた結果1893年7月には物理学の学士資格を得た。この年、貯蓄が底をつき一度は諦めたが、同郷の学友が彼女のために奨学金を申請し勉学を続けることができた。", "qas": [ { "question": "マリはいつ物理学の学士資格を得たの?", "id": "tr-178-05-000", "answers": [ { "text": "1893年7月", "answer_start": 417, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マリはパリに来るとき、何日間汽車の中で過ごしたの?", "id": "tr-178-05-001", "answers": [ { "text": "3日間", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マリが物理学の学士資格をとった大学は?", "id": "tr-178-05-002", "answers": [ { "text": "ソルボンヌ大学", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "学士を獲得後、それまでの蓄えに頼る生活を変えてマリはフランス工業振興協会の受託研究を行い、わずかながらも収入を得るようになった。相変わらず屋根裏の貧乏生活は続いたが、その中で貯蓄し奨学金を全額返納した。\n\nしかし、受託した鋼鉄の磁気的性質の研究は大学や勤めていたガブリエル・リップマンの工業試験場で行うには手狭で困っていた。そんな頃、チェハヌフ時代に知り合った女性が新婚旅行でパリに来て、マリを訪ねてきた。彼女の夫であるフリブール大学物理学教授のユゼフ・コヴァルトスキが悩みを聞き、場所の提供を頼めそうな人物を紹介する運びとなった。それが、フランス人科学者・ピエール・キュリーだった。\n\nピエール・キュリーは当時35歳だった。パリ市立工業物理化学高等専門大学の教職に就いていた。当時のピエールはフランスでは無名に近かったが、彼はイオン結晶の誘電分極など電荷や磁気の研究で成果を挙げており、キュリー天秤開発や後にキュリーの法則へつながる基本原理などを解明していた。1893年にはイギリスのウィリアム・トムソン(ケルヴィン卿)がわざわざ面会に訪ねるほど、フランス国外では既に天才の呼び声が高かった。", "qas": [ { "question": "ピエール・キュリーの国籍はどこなの?", "id": "tr-178-06-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 270, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マリとピエール・キュリーが知り合ったとき、ピエール・キュリーは何歳だったの?", "id": "tr-178-06-001", "answers": [ { "text": "35歳", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "しかしピエール・キュリー自身は出世や女性との交際など念頭に置いていなかった。勲章を断り、薄給と粗末な研修設備に甘んじながら無心に研究に打ち込む日々を送っていた。異性観について、ピエールは日記に「女性の天才などめったにいない」と、自身の学問的探求心を理解してはくれないと考えていた。\n\n1894年春、初対面のピエールを見た第一印象を、マリは「長身で瞳は澄み、誠実で優しい人柄ながら、どこか奔放な夢想家の雰囲気を湛えていた」と振り返り、科学や社会のことを語り合った際には自分と共通するところを多く感じたという。そしてピエールも同じように感じており、彼はマリに惹かれた。後に娘夫婦を加えると家族で通算5度のノーベル賞を受賞することになるキュリー夫妻はこうして出逢い、磁気とコヴァルトスキ教授が二人の天才を引き合わせたキューピッド役となった。", "qas": [ { "question": "マリとピエール・キュリーはいつ初めて会ったの?", "id": "tr-178-07-000", "answers": [ { "text": "1894年春", "answer_start": 142, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピエール・キュリーに対して「長身で瞳は澄み、誠実で優しい人柄ながら、どこか奔放な夢想家の雰囲気を湛えていた」と評価した人は誰なの?", "id": "tr-178-07-001", "answers": [ { "text": "マリ", "answer_start": 166, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マリとピエール、そして彼らの娘夫婦を加えて、何度ノーベル賞を受賞しましたか。", "id": "tr-178-07-002", "answers": [ { "text": "5度", "answer_start": 297, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ピエールは一念発起して学位取得を目指し、仕上げた「対称性保存の原理」(キュリーの原理)論文の写しを彼女に贈り、2人の距離は縮まった。そしてマリは自分の屋根裏部屋に彼を招待し、ピエールは貧しく慎ましい彼女に打たれた。お互いに尊敬し信頼し合う親密な間柄になった2人だが、マリはいつかポーランドに帰ると誓っていた。1894年7月に数学の学士資格を得たマリは夏季休暇を利用してワルシャワに里帰りしたが、ふたたびフランスに戻るかどうか決めかねていた。彼女は働き口を探してみたが、ヤギェウォ大学は女性を雇い入れなかった。その間、ピエールはマリに、求婚の手紙を何度も送り、10月にマリはパリに帰ってきた。ピエールは熱意を直接マリに語り、一緒にポーランドに行ってもよいとまで伝えた。彼女が彼のプロポーズを受諾したのは1895年7月になった。\n\n1895年7月26日、質素な結婚式が行われた。新婦のドレスは義兄の母が贈ったもの。教会での誓いも、指輪も、宴もない式にはポーランドから父や姉たちもかけつけた。祝福の中で式を終えた2人は、祝い金で購入した自転車に乗ってフランス田園地帯を巡る新婚旅行に出発した。こうしてマリは、新しい恋、人生の伴侶、そして頼もしい科学研究の同志を得た。", "qas": [ { "question": "マリはいつ数学の学士資格を得たの?", "id": "tr-178-08-000", "answers": [ { "text": "1894年7月", "answer_start": 154, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マリはいつピエールのプロポーズを受諾したの?", "id": "tr-178-08-001", "answers": [ { "text": "1895年7月", "answer_start": 350, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マリとピエールの結婚式はいつでしたか。", "id": "tr-178-08-002", "answers": [ { "text": "1895年7月26日", "answer_start": 364, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マリとピエールは結婚式の祝い金で何を購入しましたか。", "id": "tr-178-08-003", "answers": [ { "text": "自転車", "answer_start": 465, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マリとピエールはグラシエール通りのアパートで新生活が始まった。マリはESPCIで研究を続けながら家事もこなした。裁縫は前から得意だったが、独身の頃はろくにやらなかった料理もどんどん腕を上げた。収入を助けるために中・高等教育教授の資格を取得した。1897年9月12日には長女イレーヌに恵まれ、その出産と育児には義父で医師のウジェーヌ・キュリーが彼女を助けた。同年末には鉄鋼の磁化についての研究論文を仕上げた。\n\nマリは夫と話し合い、博士号取得という次の段階へ進む検討に入った。2人はここで、1896年にフランスの物理学者アンリ・ベクレルが報告した、ウラン塩が放射するX線に似た透過力を持つ光線に着目した。これは燐光などと異なり外部からのエネルギー源を必要とせず、ウラン自体が自然に発していることが示されたが、その正体や原理は謎のままベクレルは研究を放棄していた。マリとピエールは、論文作成のためこの研究を目標に据えた。", "qas": [ { "question": "マリとピエールが生活したアパートはどこにありましたか。", "id": "tr-178-09-000", "answers": [ { "text": "グラシエール通り", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マリとピエールの長女の名前は何ですか。", "id": "tr-178-09-001", "answers": [ { "text": "イレーヌ", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イレーヌのお母さんは誰なの?", "id": "tr-178-09-002", "answers": [ { "text": "マリ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アンリ・ベクレルがウラン塩が放射するX線に似た透過力を持つ光線について報告を行ったのはいつですか。", "id": "tr-178-09-003", "answers": [ { "text": "1896年", "answer_start": 244, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マリの探究心はとどまることを知らず、次にEPCIにあるさまざまな鉱物サンプルの放射能評価を始めた。やがて、2種類のウラン鉱石について調べた結果、トルベルナイトの電離がウラン単体よりも2倍になり、ピッチブレンドでは4倍に相当することが分かり、しかもそれらはトリウムを含んでいなかった。測定が正しければ、これらの鉱石にはウランよりも遥かに活発な放射を行う何かしらの物質が少量ずつ含まれると彼女は考察した。マリは「できるだけ早急にこの仮説を確かめたくなる熱烈な願望にかられた」と後に述べた。", "qas": [ { "question": "トルベルナイトの電離はウラン単体より何倍に相当しますか。", "id": "tr-178-10-000", "answers": [ { "text": "2倍", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1898年4月14日、夫妻はピッチブレンドの分析にかかり、100グラムの試料を乳棒と乳鉢ですり潰す作業に着手した。ピエールはマリの考察の正しさを確信し、やがて取り組んでいた結晶に関する研究を中断して彼女の仕事に加わった。1898年7月、キュリー夫妻は連名で論文を発表した。これはポロニウムと名づけた新元素発見に関するものだった。さらに12月26日には、激しい放射線を発するラジウムと命名した新元素の存在について発表した。\n\n夫妻の発表に学会の反応は冷淡だった。物理学者は新元素の放射線がどのような現象から生じるのかが不明な状態では賛同しづらく、化学者は新元素ならばその原子量が明らかでなければならないと考えていた。そのためには純粋な新元素の塊を得なければならない。マリはそれに挑む決意をした。しかしピッチブレンドは非常に高価で、それを入手する資金などなかった。熟考の末、ガラス製造時に着色目的で使うウラン塩を抽出した後の廃棄物を利用する方法を思いつき、主生産地であるオーストリアのボヘミア・ザンクト・ヨアヒムスタール鉱山へ伝を頼って問い合わせたところ、無償で提供を受けられることになった。しかし運送費は夫妻が負担しなければならず、家計を圧迫する要因となった。", "qas": [ { "question": "キュリー夫はいつポロニウムに関する論文を発表したか。", "id": "tr-178-11-000", "answers": [ { "text": "1898年7月", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポロニウムとラジウムと何が先に発表されたの?", "id": "tr-178-11-001", "answers": [ { "text": "ポロニウム", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ポロニウムは化学的性質がビスマスに近く、鉱石の中でビスマス様物質を探すことで比較的簡単にたどりついた。しかしラジウムの発見は一筋縄ではいかなかった。化学的性質が近い元素にバリウムがあるが、鉱石にはバリウムとラジウムの両方が含まれていた。1898年の時点で夫妻はラジウムの痕跡を掴んではいたが、純粋な状態で充分な量を確保するには至らなかった。\n\n劣悪な環境と過酷な作業、逼迫した家計を賄うための教職の多忙は夫妻の健康状態にも悪影響を及ぼし、ピエールは精製作業を一時中断すべきとも考えた。しかしマリは少しずつ着々と進む作業に希望を見出していた。1トンのピッチブレンドから分離精製できたラジウム塩化物は0.1グラムにしかならなかったが、放射性元素は着々と濃縮され、やがて試験管や蒸発皿から発光が見られるようになっていった。マリはこれを「妖精のような光」と形容した。1902年3月には濃縮に効果的な試薬を発見し、これを用いて精製した試料のスペクトルがラジウム固有のものであることを突き止め、夫妻は純粋ラジウム塩の青い光に感動を覚えた。夫妻は、有意な純粋ラジウム塩を得るまでに11トンのピッチブレンドを処理した。", "qas": [ { "question": "夫妻は、有意な純粋ラジウム塩を得るまでに何トンのピッチブレンドを処理したか。", "id": "tr-178-12-000", "answers": [ { "text": "11トン", "answer_start": 483, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "さらに、1900年にドイツの医学者ヴァルクホッフギーゼルが、放射線が生物組織に影響を与えるという報告がなされた。早速ピエールはラジウムを腕に貼り付け、火傷のような損傷を確認した。医学教授らとの協同研究の結果、細胞を破壊する効果が確認され、皮膚疾患や悪性腫瘍を治療する可能性が示唆された。これは後にキュリー療法と呼ばれる。こうしてラジウムは「妙薬」として知られるようになった。第一次大戦後、科学者の間で放射線被曝による人体影響への危険が徐々にではあるが認知されるようになった。当時の放射性物質を取り扱う科学者らは、鉛を用いて放射線を遮蔽し、白衣は使い捨てるなどの対策を採っており、マリも研究所員らに手袋を用いるように厳しく指導していたが、当の本人は放射性物質を素手で扱うことが多く、防護対策を殆ど行わなかった。そのためマリの手はラジウム火傷の痕だらけで干しスモモのような皺が残っていたという。", "qas": [ { "question": "ドイツの医学者ヴァルクホッフギーゼルは、いつ放射線が生物組織に影響を与えるという報告をしましたか。", "id": "tr-178-13-000", "answers": [ { "text": "1900年", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "放射性物質の研究は、元々はマリの博士号取得を目的に始められたが、多忙のために準備には遅々として進まなかった。しかしそれもやっとまとめられ、アンリ・ベクレルの後押しを受けて1903年6月に論文審査を受けた。夫と義父、姉、教え子たちが見守る中、3人の論文審査教授陣は、マリにパリ大学の理学博士(DSc)を授けた。その日の夕食会には、知り合いの他にたまたまパリに来ていて訪問したアーネスト・ラザフォード夫妻も加わっていた。\n\n夫妻の業績を最も早く評価したのはイギリスだった。1903年6月、王立研究所は夫妻を正式にロンドンへ招待し、講演を依頼した。ピエールは実験を交えた講演で喝采を浴び、マリは研究所会合に初めて出席した女性となった。ケルヴィン卿やウィリアム・クルックス、ジョン・ウィリアム・ストラットらとも親交を持った。さらに11月には王立協会からデービーメダルが授与された。そして1903年12月、スウェーデン王立科学アカデミーはピエールとマリそしてアンリ・ベクレルの3人にノーベル物理学賞を授与する決定を下した。その理由は「アンリ・ベクレル教授が発見した放射現象に対する共同研究において、特筆すべきたぐいまれな功績をあげたこと」であった。こうしてマリは、女性初のノーベル賞授与者となった。夫妻はストックホルムの授賞式には出席できなかったが、賞金の7万フランは一家の経済状態を救っただけでなく、金銭的に恵まれない知人や学生たちのためにも役立てられた。", "qas": [ { "question": "王立研究所はいつ夫妻に正式にロンドンへ招待し、講演を依頼したか。", "id": "tr-178-14-000", "answers": [ { "text": "1903年6月", "answer_start": 234, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "夫妻が王立協会からデービーメダルを貰ったのはいつなの?", "id": "tr-178-14-001", "answers": [ { "text": "11月", "answer_start": 361, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "女性初のノーベル賞授与者は誰ですか。", "id": "tr-178-14-002", "answers": [ { "text": "マリ", "answer_start": 523, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1906年に入り、教授職とともに得た新しいキュヴィエ通りの実験室が動き始めた。手狭で交通に不便な郊外だったが、助手と手伝いが加わった上にマリが実験主任に任命され、給与も支払われた。夫妻は相変わらず多忙だった。マリはセーブル女子学校の教師を続け、ピエールは科学者そして大学教授としてのさまざまな雑務に追われていた。\n\nそれは4月19日木曜日に起こった。雨模様の日、ピエールはさまざまな予定をこなし、馬車が行き交う狭いドフィーヌ通りを横断していた際に6トンの荷物を積んだ荷馬車に轢かれ、46歳で死亡した。野次馬は被害者が有名な科学者だと気づいた。すぐさま大学に電話で連絡がなされ、学部長と教授のジャン・ペランがキュリー家に向かった。その時マリは不在で、義父が彼らを招き入れて沈痛な時を待った。午後6時、イレーヌを連れて帰宅したマリはその知らせに凍りつき、暫くは誰の問いかけにも何の反応を示さなかった。遺体や遺品を受け入れたマリがとめどなく涙を流したのは、翌日に駆けつけた義兄ジャックの姿を見たときだった。この不慮の事故は世界中に報道された。しかし、21日に生家のソーで行われた葬儀では、代表団の派遣も弔辞も大げさな行列もマリは断り、質素な式となった。義父や義兄ジャックらは、感情がそぎ落ちたような彼女を心配していた。この当時のマリは日記に「同じ運命をくれる馬車はいないのだろうか」とまで書いている。その後も彼女は沈黙に沈んだまま、時に悲鳴を上げるなど不安定な精神状態にあり、日記には悲痛な言葉が並んだ。", "qas": [ { "question": "ピエールは何歳に死亡しましたか。", "id": "tr-178-15-000", "answers": [ { "text": "46歳", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピエールが死んだ日は何曜日でしたか。", "id": "tr-178-15-001", "answers": [ { "text": "木曜日", "answer_start": 166, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ピエールの葬式は何日に行われましたか。", "id": "tr-178-15-002", "answers": [ { "text": "21日", "answer_start": 472, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "5月13日、パリ大学(ソルボンヌ)物理学部はピエールに用意した職位と実験室における諸権利をマリのために維持することを決めた。葬儀の翌日に申し入れられた国の遺族年金はきっぱりと断ったマリだったが、この件は回答を保留した。色々なことが頭をよぎったが、彼女は「重い遺産」を受け継ぎ、ピエールにふさわしい研究所を作ることが自分のやるべきことと決断し、大学の職位と実験室の後任を受諾した。こうして、パリ大学初の女性教授が誕生した。\n\n夏の間、住居をピエールの実家であるソーに移して大学講義の準備に費やした。そして11月5日午後1時30分、マリは万雷の拍手を受けてソルボンヌの教壇に立った。どんな挨拶が語られるのかと興味津々の生徒や聴衆たちの前で、マリが最初に話した言葉は、ピエールが最後となった講義を締めくくった一文だった。淡々としながら、彼の志を受け継ぐマリに観衆は感動を覚えたという。", "qas": [ { "question": "パリ大学初の女性教授になった人は誰ですか。", "id": "tr-178-16-000", "answers": [ { "text": "マリ", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "研究に復帰したマリが最初に取り組んだのは、長年ピエールを支援したケルヴィン卿を論破することだった。あえて『ロンドンタイムズ』を選んで発表したケルヴィン卿の理論とは、ラジウムが元素ではなく化合物だというものだった。彼女は実験結果で反論しようと、夫妻の同僚らとともにウランの約300倍の放射能を持つ純粋なラジウム金属0.0085グラムの分離に取り組み、1910年に成し遂げて卿の誤りを立証した。同年2月25日、義父ウジューヌ・キュリーが亡くなった。息子が連れてきた貧乏な異国の女を何の偏見もなく受け入れ、さまざまな困難に遭ったときには支え、何より娘たちの良き祖父であった彼の死に家族は悲しみに沈んだ。\n\n1907年からのアンドリュー・カーネギーの資金援助もあり、研究所は10人ほどの研究員を抱えるまでになった。この年にはそれまでの研究をまとめた『放射能概論』を出版し、またラジウム放射能の国際基準単位を定義する仕事も行った。1911年に決定されたこの単位は、夫妻の姓から「キュリー」と名づけられた。", "qas": [ { "question": "何年にマリの義父ウジューヌ・キュリーが亡くなりましたか。", "id": "tr-178-17-000", "answers": [ { "text": "1910年", "answer_start": 174, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ラジウム放射能の国際基準単位は何ですか。", "id": "tr-178-17-001", "answers": [ { "text": "「キュリー」", "answer_start": 433, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ラジウム放射能の国際基準単位が決定されたのはいつですか。", "id": "tr-178-17-002", "answers": [ { "text": "1911年", "answer_start": 410, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "父方も、母方も、マリの一族はポーランド人の国民運動の中で地位や財産を失った。これはマリや彼女の兄や姉たちにも苦難として襲いかかるものとなった。小学校では査察官が来ては生徒にロシア皇帝の賛辞をしゃべらせる。優秀なマリはたびたびこの役を指名されたが、それは大変な屈辱だった。マリの父はロシア人上司と対立し公職を追われ、貧窮に落ちた生活苦が母と姉の一人を亡くす要因となった。\n\nそれでも愛着があるポーランドで生涯を過ごすことを考えていたマリは、パリに出てからも帰国するつもりでいた。彼女はピエール・キュリーという伴侶を得てフランスに定着するが、故郷を忘れることはなかった。1898年、マリは初めて見つけた新元素にポロニウムと名づけた。これは、18世紀中に彼女の故郷はロシアやプロイセン・オーストリアなどに蹂躙され独立できずにいるポーランドへ世界の目を向けようとする考えがあった。マリによって、ポロニウムは政治的な意図を含んだ名称がつけられた初めての元素となった。\n\nフランス世論は外国人に向ける目は厳しく、差別の対象にもなっていた。その背景にはドレフュス事件が影響したとも言われる。ピエール一家など常に彼女の味方をした人々もいたが、後半生のマスコミとの対立には苦しめられた。それでも矜持を忘れず、また娘たちにもポーランド語を習得させるなどの教育を施した。\n\nしかし、マリは決してフランスを蔑ろにした訳ではなく、第一次世界大戦時の活動や戦債購入などで示される通り、フランスを「第二の故郷」と考えていた。ポーランドに戻る機会は何度もあったが、ピエールの研究所を世界随一にするために努力し、彼女は骨をフランスに埋めた。", "qas": [ { "question": "1898年、マリが見つけた新元素の名前は何ですか。", "id": "tr-178-18-000", "answers": [ { "text": "ポロニウム", "answer_start": 303, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "政治的な意図を含んだ名称がつけられた初めての元素は何ですか。", "id": "tr-178-18-001", "answers": [ { "text": "ポロニウム", "answer_start": 393, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マリが「第二の故郷」と考えていた国はどこですか。", "id": "tr-178-18-002", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 586, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アメリカの旅は大成功を修め、研究所はラジウム以外にも多くの鉱石サンプルや分析機器類、そして資金を得た。だが彼女はこの旅で、自分の名声や影響力が想像以上に大きくなってしまい、もはや研究や実験に没頭することは許されないことを悟った。ならばと、マリはパリのラジウム研究所を立派な放射能研究の中心に育てようとした。\n\nまた、1922年にはユネスコの前身に当る国際知的協力委員会(InternationalCommitteeonIntellectualCooperation,ICIC)メンバー12人のひとりに加わった。相変わらず着飾ることなどしなかったため、新渡戸稲造は第1回会合時の彼女の印象を「見栄えもしない愛想のない人物」と自著に残した。\n\n研究所は性別・国籍を問わない多様なスタッフを抱え、マリは彼らの指導に多くの時間を割いた。毎朝のように彼女の周りには研究や実験の指針や進捗を相談し、論文の校正などを願う研究員らが集った。マリは適切な指示や指導を与え、成果が上がった際には祝いのお茶会を開くなど彼らを導き、その実力を伸ばした。アルファ粒子のエネルギーが一定ではないことを示したサロモン・ローゼンブルム、真空中のX線観察を行ったフェルナン・オルウェック、フランシウムを発見したマルグリット・ペレーなどが研究所から出た。その中でも際立ったものは、娘イレーヌとその夫フレデリック・ジョリオ=キュリーの人工放射能の研究であり、夫妻は1935年にノーベル化学賞を受賞した。1919年から1934年の間、研究所から発表された論文は483件になった。", "qas": [ { "question": "マリはいつ国際知的協力委員会(InternationalCommitteeonIntellectualCooperation,ICIC)メンバーになったの?", "id": "tr-178-19-000", "answers": [ { "text": "1922年", "answer_start": 158, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イレーヌの夫は誰ですか。", "id": "tr-178-19-001", "answers": [ { "text": "フレデリック・ジョリオ=キュリー", "answer_start": 581, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "研究所は再開したが、それは設備も試料にも事欠く状態であった。1920年にロスチャイルド家が出資したキュリー財団が設立され、放射線治療の研究を支援したが、物理や化学の研究にはほとんど費用が回らなかった。\n\nこの年の5月、アメリカの女性雑誌『ディリニエター』編集長のマリ・マッティング・メロニーからの申し入れを受けて、マリはインタビューに応じた。この席で今何が欲しいかという質問に、1グラムのラジウム金属と答えた。その価格は既に5万ドルに相当したが、アメリカの恵まれた科学研究所を知るメロニーにとって驚きの回答だった。彼女は帰国後にキャンペーンを行い、マリにラジウムを贈呈する資金を集めた。\n\n彼女の求めに応じ、1921年5月、マリは娘ふたりとアメリカ渡航を決めた。そのスケジュールに多くの大学などへの歴訪から、アメリカ大統領との式典までもが準備されていると知ったフランス政府は慌て、自国が何ら名誉を与えていない不細工さを補おうとまたもレジオンドヌール勲章を授与しようとした。しかし以前と同じ理由でマリは断った。研究から離れたこの宣伝活動は気の進まないものだったが、マリは各地で大歓迎を受け、5月20日、大統領ウォレン・ハーディングから直々にラジウム授与が行われた。ただし彼女はこれを個人への贈与ではなく研究所への寄贈と扱ってもらい、個人の財物にはしなかった。\n\n1929年には再渡米し、マリは1925年にワルシャワに姉妹と設立したキュリー研究所に導入する機器類の資金を得るのに成功した。", "qas": [ { "question": "1920年、雑誌『ディリニエター』の編集長は誰でしたか。", "id": "tr-178-20-000", "answers": [ { "text": "マリ・マッティング・メロニー", "answer_start": 131, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アメリカの女性雑誌『ディリニエター』のインタビューで、マリは何が欲しいと答えましたか。", "id": "tr-178-20-001", "answers": [ { "text": "1グラムのラジウム金属", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "システィーナの聖母", "paragraphs": [ { "context": "『システィーナの聖母』あるいは『サン・シストの聖母』は、盛期ルネサンスの巨匠ラファエロ・サンティが、その晩年1513年から1514年頃に描いた絵画である。祭壇画の一翼として描かれ、ラファエロが描いた最後の聖母マリアであり、ラファエロが自身だけで完成させた最後の絵画でもある。1754年にドイツのドレスデンに持ち込まれ、その後ドイツの美術界に大きな影響を与え続けた。第二次世界大戦後にモスクワへと持ち去られたが、10年後にドイツに返還されて、現在はアルテ・マイスター絵画館の最重要なコレクションの一つになっている。", "qas": [ { "question": "『システィーナの聖母』は誰が描いたの?", "id": "tr-179-00-000", "answers": [ { "text": "ラファエロ・サンティ", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ラファエロが描いた最後の聖母マリアは何ですか。", "id": "tr-179-00-001", "answers": [ { "text": "『システィーナの聖母』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『システィーナの聖母』は現在どこに所蔵されていますか。", "id": "tr-179-00-002", "answers": [ { "text": "アルテ・マイスター絵画館", "answer_start": 223, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ラファエロが1人で完成させた最後の絵画は何ですか。", "id": "tr-179-00-003", "answers": [ { "text": "『システィーナの聖母』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『システィーナの聖母』では、聖シクストゥスと聖バルバラを両脇にして、聖母マリアが幼児キリストを抱きかかえている。マリアは曖昧に描かれた何十もの天使を背景に雲の上に立ち、画面下部には両翼を持つ、頬杖をついた特徴的な天使が描かれている。アメリカ人作家、歴史家リック・スティーヴスは、通常では慈愛に満ちた表情で描かれるマリアがこの絵画では厳しい顔をして描かれているのは、もともとの祭壇画では中央にキリスト磔刑画が描かれていたことを反映しているためではないかとしている。", "qas": [ { "question": "『システィーナの聖母』では、聖母マリアが誰を抱きかかえているか。", "id": "tr-179-01-000", "answers": [ { "text": "幼児キリスト", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "渋谷黎子", "paragraphs": [ { "context": "渋谷黎子は、日本の農民運動家、社会運動家、女性活動家だ。夫は同じく農民運動家の渋谷定輔だ。福島県伊達郡粟野村出身だ。出生名は池田ムメ、または池田ウメ子、池田ウメ、池田梅、池田梅子。結婚後の別名は渋谷ムメ、土方黎子。\n\n財産家に生まれて何不自由ない暮しを送りながら、そのすべてを捨てて出奔し、昭和初期の農民運動に挺身し、特に農村婦人の組織化に尽力した。全国農民組合の支部結成に係る弾圧を受けた末に、満25歳で死去した。", "qas": [ { "question": "渋谷黎子の夫の名前は何?", "id": "tr-180-00-000", "answers": [ { "text": "渋谷定輔", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "渋谷定輔の妻の名前は何?", "id": "tr-180-00-001", "answers": [ { "text": "渋谷黎子", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "渋谷黎子は何歳で亡くなったか。", "id": "tr-180-00-002", "answers": [ { "text": "満25歳", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "女学校へ入学後、黎子は社会科学の研究に精進した。この在学中より黎子は、身を粉にして働く小作人たちと父とを比較せずにはおられず、自分たちの豊かな生活が小作人たちの過酷な労働の上に成り立っていることを感じていた。先述のように放蕩と贅沢三昧を尽くす父、それに耐え忍ぶ母という家庭の姿に義憤を抱いてもいた。\n1924年頃より、そうした苦悩の解決の道を、社会主義思想に求めた。中でも特に、資本家対労働者、地主対小作人という構図を説くマルクス主義は、当時の現実を理解するのに役に立った。後に夫となる渋谷定輔宛ての手紙においても、黎子は「女学校3年からマルクス主義一点張り」と語っている。", "qas": [ { "question": "女学校に入学した黎子はどの学問の研究に精進しましたか。", "id": "tr-180-01-000", "answers": [ { "text": "社会科学", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ハワイ併合", "paragraphs": [ { "context": "ハワイ併合(ハワイへいごう)または米布併合(べいふへいごう、英語:UnitedStatesAnnexationofHawaii)は、1898年にアメリカ合衆国によって行われたハワイ共和国(布哇共和国、現在のアメリカ合衆国ハワイ州)の併合である。\n本項では、ハワイを併合するまでの経過とその影響について説明する。", "qas": [ { "question": "ハワイが併合されたのは何年のことですか?", "id": "tr-181-00-000", "answers": [ { "text": "1898年", "answer_start": 66, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハワイはどこの国に併合されたの?", "id": "tr-181-00-001", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 72, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハワイ共和国とは現在のどこのことですか?", "id": "tr-181-00-002", "answers": [ { "text": "ハワイ州", "answer_start": 110, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ハワイ王国は、1839年にイギリスのマグナ・カルタを基本とした「権利宣言」を公布、翌1840年10月8日にはハワイ王国憲法を公布して立憲君主政を成立させた。\n1840年の憲法制定後、諸外国とのあいだで独立承認交渉が進められ、1842年、アメリカのジョン・タイラー大統領がハワイ王国を独立国として承認した。\nしかし、ジェームス・クック以降の18世紀後半から交流の歴史があったイギリスの賛同が得られず、カウイケアオウリ(カメハメハ3世)がイギリス領事と交渉を行うが決裂した。\nこの決裂を受けて、メキシコ沿岸の軍艦を統括していたイギリス海軍のジョージ・ポーレットが、軍艦を率いて1843年2月にホノルルに入り、威圧的な状況下でカメハメハ3世との会談を強行し、会談後にポーレットによる臨時政府が成立させた。\nこの臨時政府によりハワイ政庁にはイギリスの国旗(ユニオンジャック)が揚げられたが、アメリカ政府による抗議と間接的な圧力に加えてフランス政府の動きから臨時政府は短命に終わり、同年7月にハワイ王国に主権が戻った。\nその後に宗教問題など英米仏からの干渉を解決し、ヴィクトリア女王のイギリス、ルイ・フィリップのフランス王国の承認を得る。", "qas": [ { "question": "ハワイ王国が立憲君主政を成立させたのはいつ?", "id": "tr-181-01-000", "answers": [ { "text": "1840年10月8日", "answer_start": 42, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハワイ王国が18世紀後半から交流をもっていた国はどこ?", "id": "tr-181-01-001", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 186, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1842年当時にハワイ王国を統治していた人は誰?", "id": "tr-181-01-002", "answers": [ { "text": "カウイケアオウリ", "answer_start": 199, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カメハメハ3世との会談の後、臨時政府を置いた人は誰ですか?", "id": "tr-181-01-003", "answers": [ { "text": "ジョージ・ポーレット", "answer_start": 268, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし、欧米文化の流入になじめない先住ハワイ人に対し、ハワイに帰化した欧米人はハワイ王国内での政治的発言力を強め、1844年にはハワイへの帰化を条件とした欧米系白人の政府要職への着任が認められた。\n1845年には基本法により行政府として国王、摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職を置き、15名の世襲議員と7名の代議員からなる立法議会が開かれた。\n1852年の新しいハワイ王国憲法では、アメリカでリンカーンが奴隷解放宣言を発する以前の段階で奴隷禁止条項を盛りこむなど、進歩的な内容を含んでいた。", "qas": [ { "question": "立法議会に参加した世襲議員と代議員の人数はどちらが多かったですか?", "id": "tr-181-02-000", "answers": [ { "text": "世襲議員", "answer_start": 151, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アメリカよりも先にハワイ王国憲法に含まれていた条項とは何?", "id": "tr-181-02-001", "answers": [ { "text": "奴隷禁止条項", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "こうした欧米化は、従来のアフプアアを軸とした土地概念にもおよび、ハワイ社会でも土地私有の観念が広く受け入れられた。\n1848年制定の土地法により、ハワイの土地は王領地、官有地、族長領地に分割されたが、1850年にクレアナ法が制定され、外国人の土地私有が認められるようになると、対外債務を抱えていたハワイ政府は土地売却によって外債を補填するようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島全体の約4分の3に達する面積の土地が外国人所有となって、先住ハワイ人の生活基盤が損なわれるようになった。\nいっぽうアメリカ国内のジャーナリズムは、すでに1849年頃には、ハワイ諸島をアメリカに併合し、ハワイ州として連邦に加えるべきだと主張し始めており、1852年、この提案が議会に提出されて検討に付された。\nなお、この間カリフォルニアが1850年に州への昇格を果たしている。", "qas": [ { "question": "カリフォルニアがアメリカの州に加わったのはいつですか?", "id": "tr-181-03-000", "answers": [ { "text": "1850年", "answer_start": 362, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハワイで外国人の土地私有が認められるようになったのはいつですか?", "id": "tr-181-03-001", "answers": [ { "text": "1850年", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハワイの古来から続く土地概念のことを何といいますか?", "id": "tr-181-03-002", "answers": [ { "text": "アフプアア", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "カウイケアオウリの甥のアレクサンダー・リホリホ(カメハメハ4世)が王位に就いた1855年頃のハワイ王国政府には、アメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの政治的グループが形成され、たがいに対立していた。\nアレクサンダー・リホリホは、前王が付与した一般成年男子の参政権が王権の失墜を招くのではないかと怖れ、兄のロト・カメハメハと協力して王権の強化と貴族主義的な君主政の確立を目指した。\nアレクサンダー・リホリホは、増大するアメリカ人実業家の勢力を制限してアメリカ世論におけるハワイ併合への動きを牽制するとともに、1860年、「ハワイアン改革カトリック教」という名の聖公会をハワイに設立し、英国よりトーマス・ステイリーをはじめとするイングランド国教会の聖職者を招いた。\nこれには、息子のアルバートを洗礼させ、ヴィクトリア女王を教母として立てることで列強諸国と対等の関係を築こうとした政治的意図があったといわれている。\nしかし、1862年にはアルバート王子が、翌1863年11月には王自身が死去して、この計画は頓挫した。\n王位は兄のロト・カメハメハが継承し、カメハメハ5世として即位した。", "qas": [ { "question": "アレクサンダー・リホリホの次に王位に就いたのは誰ですか?", "id": "tr-181-04-000", "answers": [ { "text": "ロト・カメハメハ", "answer_start": 466, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アルバート王子とカメハメハ4世はどちらが先に死去しましたか?", "id": "tr-181-04-001", "answers": [ { "text": "アルバート王子", "answer_start": 421, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "王権復古と「異教復活」を掲げた新王ロト・カメハメハ(カメハメハ5世)は、1864年8月、新しいハワイ王国憲法を公布した。\n歴代王の親英政策により、ハワイ王国がイギリスに傾斜することを怖れたアメリカ合衆国は、秘密裏にハワイ王国の併合計画をすすめた。\nこの間、かつての捕鯨業は衰退に向かい、製糖業が発展に向かった。\n特に1860年代は、南北戦争で大打撃を受けたアメリカ本土に代わってハワイ諸島においてサトウキビ栽培が大いに拡大した時期であった。\nしかし、一方で白人が持ち込んだ感染症のために先住ハワイ人(ポリネシア人)の人口が激減し、サトウキビ農場での労働力不足を補うため、中国系ないし日系の移民が多数ハワイに流入した。\n1871年(明治4年)8月には日本との間に日布修好通商条約が締結されている。", "qas": [ { "question": "カメハメハ5世とは誰のことなの?", "id": "tr-181-05-000", "answers": [ { "text": "ロト・カメハメハ", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "白人が持ち込んだ何が原因でハワイの先住民の人口が激減しましたか?", "id": "tr-181-05-001", "answers": [ { "text": "感染症", "answer_start": 236, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1860年代にハワイで拡大した栽培物とは何?", "id": "tr-181-05-002", "answers": [ { "text": "サトウキビ", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1872年、次の王位継承者を指名することなくロト・カメハメハが急死した。\n王位の決定は議会に委ねられ、選挙により親米派のルナリロが王位継承者となって、翌1873年1月、即位した。\nルナリロはアメリカ人を閣僚にすえ、アメリカからの政治的・経済的援助を求める政策を採用した。\nアメリカとの間に互恵条約を結ぶことを目標にして外交交渉もなされたが、ルナリロが肺結核とアルコール依存症によって没したため、王位は再び議会に委ねられた。\n候補者のひとりが故カメハメハ4世アレクサンダー・リホリホの王妃エマであり、もうひとりは、ハワイを統一したカメハメハ1世(大王)の有力な助言者だった大宮司ケイアウェアヘウルの子孫にあたるデイヴィッド・カラカウアであった。\nエマ王妃とカラカウアが「国王選挙」で争った結果、カラカウアが当選、1874年2月13日に即位した。", "qas": [ { "question": "ルナリロの次に王位に就いた人のフルネームは?", "id": "tr-181-06-000", "answers": [ { "text": "デイヴィッド・カラカウア", "answer_start": 304, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルナリロの後の国王決定には何の手段が選ばれたの?", "id": "tr-181-06-001", "answers": [ { "text": "「国王選挙」", "answer_start": 333, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "カラカウアは、王位を継承してすぐに自分の後継者として弟のレレイオホクを指名して国王選挙の前例が繰り返さないよう手をうち、1874年中にハワイ国王として最初にアメリカ本土を訪れ、貿易関税撤廃相互条約(米布互恵条約)を締結した。\nこれによりハワイの全ての生産品は非課税でアメリカ合衆国本土への輸出が可能となったが、第4条に「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」との文言が組み込まれ、ハワイのアメリカ傾斜に拍車がかかることとなった。\nいっぽう、製糖業を支える外国人をハワイ王国の市民として受け入れる政策をとり、これは製糖業を独占していたアメリカ人商人には不評であった。\nカラカウアはウォルター・マリー・ギブスンという人物を政治顧問とし、内閣を指導させた。", "qas": [ { "question": "カラカウアがハワイ国王として最初にアメリカ本土を訪問したのは何年ですか?", "id": "tr-181-07-000", "answers": [ { "text": "1874年", "answer_start": 60, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カラカウアが政治顧問に置いた人とは誰?", "id": "tr-181-07-001", "answers": [ { "text": "ウォルター・マリー・ギブスン", "answer_start": 307, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "カラカウアは、1879年にホノルルでイオラニ宮殿の建設に着手し、1881年、幼なじみの白人ウィリアム・N・アームストロングらを伴って「おしのび」での世界一周旅行をおこなった。\nカラカウアの世界一周はサンフランシスコにはじまって日本、中国、シャム、シンガポール、ビルマ、インド、エジプト、イタリア、フランス、イギリス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、スペイン、ポルトガルとつづいた約10か月の旅であった。\nその理由は移民の促進交渉と表敬訪問、そして各国の王室を見学することであった。\n日本では明治天皇に会見し、日本人のハワイ移民促進を要請するとともに、王の姪で王位継承者のカイウラニ王女と皇族のひとり山階宮定磨王(のちの東伏見宮依仁親王)の縁談をもちかけた。", "qas": [ { "question": "カラカウアは何カ月の世界一周旅行をしましたか?", "id": "tr-181-08-000", "answers": [ { "text": "約10か月", "answer_start": 189, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本の皇族に縁談をもちかけたハワイ国王とは誰ですか?", "id": "tr-181-08-001", "answers": [ { "text": "カラカウア", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カラカウアの世界一周旅行に同伴した幼なじみとは誰?", "id": "tr-181-08-002", "answers": [ { "text": "ウィリアム・N・アームストロング", "answer_start": 45, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "米布互恵条約の有効期限が近づいた1883年、アメリカでは互恵条約は合衆国内のコメや砂糖の生産者の利益を損なうとの批判があり、その失効を主張する声もあったが、ジョン・タイラー・モーガン上院議員ら帝国主義者によって「その他の、より高次元な益がある」とする更改賛成意見が反対意見を上まわり、従前よりモーガンが主張していた真珠湾の独占使用権を獲得することを条件に1887年11月に条約の更新がなされた。\nカラカウア王自身はアメリカに真珠湾の独占使用権をあたえることに反対であり、王の妹リリウオカラニも反対したが、アメリカ上院の姿勢は強硬であり、トーマス・ヘンリー・カーターらの働きかけもあって、7年という期限付きでの独占使用を認めた。\nハワイではカラカウアを「アメリカに国益を売りわたす王」として批判も多かったが、カラカウアは砂糖産業の安定こそがハワイの繁栄を保障するという判断にもとづいていたのではないかとする見解がある。", "qas": [ { "question": "カラカウアはアメリカに真珠湾の独占使用権を何年与えましたか?", "id": "tr-181-09-000", "answers": [ { "text": "7年", "answer_start": 293, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カラカウアの妹の名は?", "id": "tr-181-09-001", "answers": [ { "text": "リリウオカラニ", "answer_start": 238, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1887年、ハワイ王国の野党議員ロリン・サーストンが中心となって急進的な改革を志向する秘密結社ハワイアンリーグが結成された。\n同年6月30日、ハワイアンリーグはハワイの白人市民義勇軍ホノルルライフルズと協力して、首相ウォルター・ギブスンの退陣と新憲法の採択を王に対して要求した。\nこれに対し、カラカウア王はかつて自ら組閣した内閣を解散することで抵抗した。\nギブスンは国外退去に処された。", "qas": [ { "question": "ハワイアンリーグの中心人物とは誰ですか?", "id": "tr-181-10-000", "answers": [ { "text": "ロリン・サーストン", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "その後、ハワイアンリーグは、ホノルルライフルズなどが起草した新憲法を半ば強引にカラカウアに承認させた。\nそれが1887年7月に採択された、1887年憲法(通称「ベイオネット憲法」)である。\n「ベイオネット」とは「銃剣」を意味し、威嚇のもとに強制的に調印された憲法であった。\nこの憲法はすべてのアジア系移民から一切の投票権を奪い、かつ、投票権の有資格者として収入や資産などの一定の基準を設けたため、大多数の先住ハワイ人とごく少数の欧米人から成る貧しい人びとは選挙権を剥奪され、ごく少数のハワイ人エリートや富裕な欧米系住民の発言力が飛躍的に高まった。\nまた、王権は制限され、枢密院や内閣は強い影響力をもつようになった。\nカラカウアはベイオネット憲法の廃案を画策し、1889年には混血ハワイ人で王国の軍人ロバート・ウィリアム・ウィルコックスらの抵抗もあったが失敗に終わった。\n1891年1月20日、カラカウアは志半ばで保養先のサンフランシスコで死去した。", "qas": [ { "question": "カラカウアが死去したのはいつですか?", "id": "tr-181-11-000", "answers": [ { "text": "サンフランシスコ", "answer_start": 410, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ベイオネット憲法」ではどういった人達から一切の投票権を奪いましたか?", "id": "tr-181-11-001", "answers": [ { "text": "アジア系移民", "answer_start": 146, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この間、アメリカ本国では1890年に連邦議会が新たに関税法案を通過させたため、ハワイの製糖業は大打撃を受けた。\nハワイから輸入した砂糖は無関税であったが、アメリカ国内で生産された砂糖には奨励金がつけられたため、ハワイの砂糖生産はふるわなくなり、サトウキビ農園の地価も暴落し農園労働者の賃金も低下、さらには失業者もあらわれた。\nこうして、あらゆるものが砂糖に依存していたハワイ経済は深刻な不況に陥った。\nとりわけ、農園を所有して製糖業を経営していた者の多くがアメリカ人であったため、本国の関税法案通過に対して不満をつのらせ、アメリカの保護領となるか、編入してもらうかして事態を解決するよりほかに道はないと考えるようになった。\n1891年1月、カラカウアの後任としてその妹リリウオカラニが王位に就いた。\nしかし、リリウオカラニの指名した閣僚は再三にわたり入閣を拒否して内閣が機能しないという事態に陥った。\n1892年11月、ようやく組閣のための閣僚承認がなされて政治危機を脱した。", "qas": [ { "question": "何年からハワイ経済が深刻な不況に陥りましたか?", "id": "tr-181-12-000", "answers": [ { "text": "1890年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1891年1月に王位に就いたのは誰ですか?", "id": "tr-181-12-001", "answers": [ { "text": "リリウオカラニ", "answer_start": 334, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "リリウオカラニは山積する問題のうち、財政難打破の対策として宝くじやアヘンの売買を認可制とする政策を打ち出したが、これに対しては、アメリカ系白人勢力より道徳的見地からの批判が噴出した。\nまた、ベイオネット憲法に不満を募らせる王党派ハワイ人たちは、1864年の憲法をもとにして女王に多くの権力を集中させる新憲法制定を計画して親米派に対抗しようとした。\nこうした動きに危機感を覚えたアメリカの駐ハワイ公使ジョン・L・スティーブンスはロリン・サーストンやサンフォード・ドールらと接触し、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立を計画した。\n1892年春、親米派は「併合クラブ」と称する秘密結社をつくった。\n中心メンバーは、サンフォード・ドール、ロリン・サーストン、W.R.カースル、S.M.デーモンであった。", "qas": [ { "question": "サンフォード・ドール、ロリン・サーストン、W.R.カースル、S.M.デーモンが中心となって動いていた組織とは何?", "id": "tr-181-13-000", "answers": [ { "text": "「併合クラブ」", "answer_start": 273, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "王党派ハワイ人たちに対して親米派がつくった秘密結社とは何?", "id": "tr-181-13-001", "answers": [ { "text": "「併合クラブ」", "answer_start": 273, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1893年1月14日、サーストンらの呼びかけによってホノルルに「公安委員会」と名乗る組織がつくられ、翌15日、「公安委員会」はホノルル市民に対し、ホノルルライフルズ部隊本部で市民集会を開く旨呼びかけた。\nこれに対し、王党派の閣僚は反逆罪の適用を検討したが、衝突を避けるべきとの意見をもつアメリカ系閣僚の声もあり、反対集会をイオラニ宮殿で行うことが決定された。\n反対集会の目的は「リリウオカラニによる新憲法を公布しない」という声明を発表することによって、これ以上の混乱を防止しようというものであった。\nリリウオカラニは宮殿外で待機する群衆に、憲法の施行をしばらく延期することを発表した。", "qas": [ { "question": "反対集会はどこで行われましたか?", "id": "tr-181-14-000", "answers": [ { "text": "イオラニ宮殿", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "翌1月16日、ホノルルライフルズで開始された集会でサーストンは女王を糾弾し、自由の獲得を市民に訴えた。\nこの動きに呼応し、スティーブンスは米国軍艦ボストン艦長ギルバート・ウィルツに対し「ホノルルの非常事態を鑑み、アメリカ人の生命および財産の安全確保のため海兵隊の上陸を要請する」と通達した。\n同日午後5時、将校を含む武装したアメリカ海兵隊164名がホノルル港へ上陸した。\n1月17日、サンフォード・ドールは新政府樹立の準備のため、判事を辞任した。\n午後2時、政府庁舎に「公安委員会」一同が集結すると、ヘンリー・E・クーパーによりハワイ王国の終結および暫定政府の樹立が宣言された。\nハワイ王国の政府庁舎および公文書館はホノルルライフルズによって占拠され、戒厳令が布かれた。\nドールは暫定政府代表として各国の外交使節団およびリリウオカラニに対し、暫定政府の樹立を通達した。\nリリウオカラニはスティーブンスに特使を派遣し、アメリカが暫定政府を承認しないよう求めたが、スティーブンスは「暫定政府は承認され、アメリカはハワイ王国の存在を認めない」と回答した。", "qas": [ { "question": "ハワイ王国の終結と暫定政府の樹立が宣言されたのは何月何日ですか?", "id": "tr-181-15-000", "answers": [ { "text": "1月17日", "answer_start": 186, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハワイ王国の終結を宣言した人は誰?", "id": "tr-181-15-001", "answers": [ { "text": "ヘンリー・E・クーパー", "answer_start": 250, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "親米派によるハワイ暫定政府樹立宣言後、ドイツ、イタリア、ロシア、スペイン、スウェーデン、オランダ、デンマーク、ベルギー、メキシコ、ペルー、イギリス、日本、中国などの国々が暫定政府を事実上の政府として承認した。\nハワイをアメリカの保護下に置くよう併合交渉を進めていた暫定政府に対し、2月1日、スティーブンスは米国公使としてその要求を承認し、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲揚された。\nしかし、リリウオカラニの抵抗やアメリカ国内における女王支持派の存在、およびスティーブンスがこのクーデタでとった強引な手法に対する世論の反発などにより、併合は見送られた。\n当時、第24代アメリカ合衆国大統領に就任したばかりのグロバー・クリーブランドは、1890年の「フロンティア消滅」を受けてアメリカの「マニフェスト・デスティニー」は既に果たされているという認識に立っており、海外進出には抑制的で、スペインからの独立運動のつづくキューバにも不介入の方針を採った。", "qas": [ { "question": "第24代アメリカ合衆国大統領は誰ですか?", "id": "tr-181-16-000", "answers": [ { "text": "グロバー・クリーブランド", "answer_start": 299, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "クリーブランド大統領は、ハワイの状況視察のためジェームズ・ヘンダーソン・ブラントを現地に派遣した。\nブラントは、親米派グループが君主制を転覆させるような過激な行動をとるべき口実は何も存在しなかったこと、一外交官が軍隊を上陸させて友好的な政府を倒す手助けをしたことを大統領に報告し、ハワイ政庁の星条旗を下ろし、アメリカ海兵隊を船にもどすよう指示した。\nクリーブランドはブラントの報告を受け、革命家たちの行動を「ホノルルの無法な占拠」と批判し、スティーブンス公使の更迭を決め、新任公使にアルバート・ウィリスを任命した。\nこれに対し、当時のニューヨークの新聞にクリーブランドが当時の流行歌をもじって「リリウオカラニはわたしの恋人」と歌っている漫画が掲載されるなど、多くのアメリカ国民は革命家たちやスティーブンスに同情を寄せた。", "qas": [ { "question": "クリーブランドの命令で役職を交代させられた人は誰?", "id": "tr-181-17-000", "answers": [ { "text": "スティーブンス", "answer_start": 220, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スティーブンスの後任者は誰?", "id": "tr-181-17-001", "answers": [ { "text": "アルバート・ウィリス", "answer_start": 241, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "新公使アルバート・ウィリスは、リリウオカラニが革命家たちを処罰しないことを条件に復位させるというクリーブランドの指示のもと、暫定政府の取り消しと女王復位の道を模索した。\n1893年11月4日、ウィリスはリリウオカラニが軟禁されているホノルルへ赴き、国家を転覆させた反逆者の処遇をどのように希望するかを確認した。\nリリウオカラニは「法律上は死刑であるが、恩赦を認め、国外追放に止めるべきである」との見解を表明した。\nしかし、後日の新聞紙面上には「女王が暫定政府首脳の死刑を求める」の文字が躍った。\nこの捏造報道はその後訂正がなされ、ウィリスは12月20日、ドールに対し、「リリウオカラニを正式なハワイの統治者であることを認め、現地位と権力の全てから退くこと」というクリーブランドのメッセージを伝えた。\nしかし現実には、リリウオカラニには死刑であれ恩赦であれ、そうした処分を実行する力がもはやなかった。", "qas": [ { "question": "リリウオカラニが軟禁されていた土地はどこ?", "id": "tr-181-18-000", "answers": [ { "text": "ホノルル", "answer_start": 116, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "こうした諸状況から、ドールらはクリーブランド在任中の併合は不可能であると判断し、12月23日、「過ちがあったのはアメリカ政府の機関であり、暫定政府とは無関係である。クリーブランド政権の要求は内政干渉にあたる」との声明文を発した。\nさらに、暫定政府を恒久的な政府として運営するため、「ハワイ共和国」と改称し、1894年7月4日、新憲法の発布と新国家成立を宣言した。\n共和国大統領にはサンフォード・ドールが就任したが、結果としては、ハワイ共和国の最初で最後の大統領となった。\nアメリカ独立記念日に公布されたハワイ共和国憲法は多くの点でアメリカ合衆国憲法に似ていた。\n新憲法は、東洋人に対し選挙権や市民権を与えず、公職勤務を禁じる一方、白人団体が多くの点で権力を保持できるよう配慮されていた。", "qas": [ { "question": "「ハワイ共和国」が成立した日はいつですか?", "id": "tr-181-19-000", "answers": [ { "text": "1894年7月4日", "answer_start": 153, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "新憲法で有利になった人種とは?", "id": "tr-181-19-001", "answers": [ { "text": "白人", "answer_start": 315, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハワイ共和国最初の大統領は誰?", "id": "tr-181-19-002", "answers": [ { "text": "サンフォード・ドール", "answer_start": 190, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ハワイ事変に際し、王党派は日本の援助を求め、駐日ハワイ公使は日布修好通商条約の対等化を申し出た。\n日本政府はハワイ公使の申し出を受け入れ、両国は1893年(明治26年)4月に改正条約を締結した。\nこれは、日本にとってメキシコに次いで2つ目の対等条約であった。\n日本政府はアメリカによるハワイ併合の動きを牽制するため、1893年11月、邦人保護を理由に東郷平八郎率いる防護巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇させた。\nこの入港は米国軍艦のボストンなど三艦が停泊中の出来事であった。\nこの行為については、女王を支持する先住ハワイ人たちが涙を流して歓喜したと言われる。\n日本海軍は、翌年には「浪速」を「高千穂」と交替させている。\nしかし、1894年3月、日本政府は巡洋艦高千穂の撤収を決めた。\n日本の軍艦派遣は、米布併合の牽制には一定の成果をあげたものの、かつての親日的なハワイ王国政府を復活させることはできなかった。", "qas": [ { "question": "日本が2つ目の対等条約を結んだのはどこですか?", "id": "tr-181-20-000", "answers": [ { "text": "ハワイ", "answer_start": 54, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本政府の命を受けて防護巡洋艦を率いてハワイに来た人は誰ですか?", "id": "tr-181-20-001", "answers": [ { "text": "東郷平八郎", "answer_start": 175, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1895年1月6日、王政復古を目指し、ロバート・ウィリアム・ウィルコックスをはじめとする先住ハワイ人たちが共和国に対し武装蜂起した。\nワイキキでの小さな衝突が発端であった。\n2週間で武装蜂起は鎮圧されたが、政府軍にも死亡者が出た。\nリリウオカラニはこの件に直接関与していなかったが、反乱を知りながら黙っていたことから問題視され、1月16日、弾薬や銃器を隠し持っていたという理由で他の王族とともに反逆罪によって逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。\nこの蜂起のなかで多くの先住ハワイ人が虐殺されたという。\n1月22日、リリウオカラニは約200人の命と引き換えに王位請求を断念し、今後はハワイ共和国への忠誠を誓い、一般市民として余生を送る趣旨の宣言書に署名した。\nこうしてハワイ王国は名実ともに滅亡した。\nリリウオカラニは2月27日、反乱に加担した罪で5,000ドルの罰金と5年間の重労働の判決を受けたが、9月6日に釈放された。", "qas": [ { "question": "先住ハワイ人たちによる共和国への武装蜂起はいつ起こりましたか?", "id": "tr-181-21-000", "answers": [ { "text": "1895年1月6日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "先住ハワイ人たちの武装蜂起の目的は何でしたか?", "id": "tr-181-21-001", "answers": [ { "text": "王政復古", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1894年、アメリカ連邦議会は国内産の砂糖に対する特別補助金の打ち切りを決めて外国産砂糖に課税し、ハワイ産砂糖には互恵制度を復活させて無関税としたため、ハワイ製糖業は再び活況を呈した。\n1897年にアメリカの新大統領に選出されたウィリアム・マッキンリーは「海のフロンティア」開拓を推進する帝国主義政策を採り、同年、アメリカ合衆国上院にハワイ併合条約を上程した。\nハワイ上院はそれに呼応してただちに賛成の意を表明したが、ワシントンD.C.のアメリカ上院では条約の批准には3分の2以上の賛成が必要であり、可決は困難とみられた。\nただし、議会の合同決議であれば上下それぞれの院で過半数の支持があれば可決されるという規定になっていたため、1898年3月16日、合同決議案が議会に出された。", "qas": [ { "question": "ハワイ製糖業が再び好景気となった年はいつですか?", "id": "tr-181-22-000", "answers": [ { "text": "1894年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハワイ併合条約を上程したアメリカ大統領は誰でしたか?", "id": "tr-181-22-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム・マッキンリー", "answer_start": 114, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィリアム・マッキンリーは何年にハワイ併合条約を上程したの?", "id": "tr-181-22-002", "answers": [ { "text": "1897年", "answer_start": 93, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "進化論裁判", "paragraphs": [ { "context": "進化論裁判(しんかろんさいばん)とは、アメリカ合衆国で制定された、進化論を学校教育の場で教えることを制限する法律、いわゆる反進化論法に対する一連の裁判のことをいう。\n特に有名な裁判として1925年のスコープス裁判、1982年のアーカンソー州の授業時間均等法裁判などがある。\nまた1982年の裁判に関わった科学者のひとりであるナイルズ・エルドリッジの著作物『TheMonkeyBusiness:AScientistLooksatCreationism』の邦題でもある。", "qas": [ { "question": "授業時間均等法裁判とスコープス裁判はどちらが先に行われた裁判ですか?", "id": "tr-182-00-000", "answers": [ { "text": "スコープス裁判", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『TheMonkeyBusiness:AScientistLooksatCreationism』の邦題とは?", "id": "tr-182-00-001", "answers": [ { "text": "進化論裁判", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『TheMonkeyBusiness:AScientistLooksatCreationism』の著者は誰?", "id": "tr-182-00-002", "answers": [ { "text": "ナイルズ・エルドリッジ", "answer_start": 162, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1925年に行われた有名な進化論裁判の呼称は何ですか?", "id": "tr-182-00-003", "answers": [ { "text": "スコープス裁判", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "進化論とキリスト教右派の対立は、科学と宗教の対立としてしばしば取りあげられる。\n特にアメリカ合衆国における反進化論運動はその顕著な例として知られている。\nアメリカは伝統的に聖書を重視するプロテスタントの信者が多いが、なかでも聖書の字句を一字一句正しいものとして扱う聖書無誤説をとる福音主義の保守派がその活動の中心となっており、アメリカにおけるキリスト教原理主義の潮流を形成している。\nファンダメンタリストが進化論を問題視するようになったのは、20世紀初頭にアメリカではじまった公立学校教育が始まりとされる。\n児童を集めて全員に同じカリキュラムを教える公立学校において、生物の時間に進化論を扱うようになったためである。", "qas": [ { "question": "ファンダメンタリストが進化論を問題視するようになった時期はいつからですか?", "id": "tr-182-01-000", "answers": [ { "text": "20世紀初頭", "answer_start": 221, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカで信者が多いキリスト教の宗派とは何?", "id": "tr-182-01-001", "answers": [ { "text": "プロテスタント", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "聖書無誤説では、『創世記』の天地創造に書かれていることも歴史的事実として扱われる(そのため近代聖書批評学の見解を否定する)。\nすべての生き物はゴッド(『創世記』ではエロヒム)が創造し、海の魚、空の鳥、家畜、地の全ての獣・這うものを人間に治めさせ、人間の祖アダムとイヴはゴッド(ヤハウェ)によって創造されたものなのである(この考え方を創造論といい、これを正しいと主張する人を創造論者という)。\nしたがって、自然界の進化の結果として人が誕生したという結論を導く進化論は、これらの人々にとって言語道断の代物であった。\nそれまでは進化論の存在自体をないものとしていたファンダメンタリストは、自分たちの子供が進化論を教えられることに反対し、学校教育の場で進化論を教えることを以後様々な手段で阻止していくようになったのである。", "qas": [ { "question": "聖書無誤説では、アダムとイヴの創造者は誰となっていますか?", "id": "tr-182-02-000", "answers": [ { "text": "ゴッド", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "全ての生物はゴッドによって創造されたという考え方を何といいますか?", "id": "tr-182-02-001", "answers": [ { "text": "創造論", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "創造論の主張者を何と呼んでいますか?", "id": "tr-182-02-002", "answers": [ { "text": "創造論者", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "原理主義者の活動は、堀江洋文によると、1920年代頃から見られリベラル派の影響下で社会のみならず教会自体が自由主義化、世俗化の方向へ向かっていることに危惧を覚え、聖書の真理や主要教理が蔑ろにされている状況を是正しようとし、進化論論争を始めに運動を展開したという。\n1923年から1924年に、ニューヨークを舞台に「進化論対創造説」議題に論争が交わされた。\n論者はジョン・ローチ・ストラットン(JohnRoachStraton)(1875-1929)とチャールズ・フランシス・ポッター(CharlesFrancisPotter)(1885-1962)であった。\n「創造説」の論者であったストラットンはカルパリ・パプテスト教会の牧師であり、ファンダメンタリストであった。\n一方、「進化論」の論者のポッターはウエストサイド・ユニテリアン教会の牧師であり,モダニストであった。", "qas": [ { "question": "長生きしたのは、ジョン・ローチ・ストラットンとチャールズ・フランシス・ポッターのどちらですか?", "id": "tr-182-03-000", "answers": [ { "text": "チャールズ・フランシス・ポッター", "answer_start": 225, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ストラットンはどこの教会の牧師を務めていたの?", "id": "tr-182-03-001", "answers": [ { "text": "カルパリ・パプテスト教会", "answer_start": 299, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ポッターはどこの教会の牧師を務めていたの?", "id": "tr-182-03-002", "answers": [ { "text": "ウエストサイド・ユニテリアン教会", "answer_start": 351, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "創造論者だったのはストラットンとポッターのどちら?", "id": "tr-182-03-003", "answers": [ { "text": "ストラットン", "answer_start": 292, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1日目は「聖書無謬説」を中心に討論された。\n「創造説」の論拠となった「聖書無謬説」は、1880年代にプリンストン神学校にて生まれたものであった。\n「聖書無謬説」は「聖書は、神が著者に霊感を与えて書かせたものであり、故に一語一句に至るまで正しい絶対的・超自然的権威」としていたファンダメンタリストが受け入れていた。\nしかし、聖書の無謬性を示す諸々の証拠であるとするものを提示したのに対して,「聖書無謬説」は「高等批評」(HigherCriticism)の高等批評家によって聖書の誤りや矛盾が次々と発見されていた。\nポッターは「聖書無謬説」の問題点に対し高等批評的見地から反論を展開し,聖書無謬説の脆さを示したまた、聖書の超自然的起源を否定しそれをある時代の人間による創作であると位置付けることによって,聖書の絶対的基盤を崩していた。", "qas": [ { "question": "「聖書無謬説」が生まれた時期はいつですか?", "id": "tr-182-04-000", "answers": [ { "text": "1880年代", "answer_start": 43, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「聖書無謬説」が生まれた学校はどこでしたか?", "id": "tr-182-04-001", "answers": [ { "text": "プリンストン神学校", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1日目は何について討論が繰り広げられましたか?", "id": "tr-182-04-002", "answers": [ { "text": "「聖書無謬説」", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2日目は「進化論」を中心に討論が展開された。\nチャールズ・ダーウィンによって体系づけられた科学理論であった。\n伝統的キリスト教を現代社会に適応させた「モダニスは「進化論」を」が支持していた。\n進化論の論点は、科学的な妥当性、証拠の信憑性などを討論された。\n進化の「起因」の妥当性の問題があり、獲得形質遺伝を主張したラマルク説、自然選択を主張したダーウィン説、双方とも支持されなくなっていた。\n地質学的証拠の信憑性の問題があり、進化論に対し聖書を裏付ける科学的根拠としてジョージ・プライスによる「岩層の配列が「非現実的で不自然な方法」で年代別に分類されてきたと主張し,進化論に代わる「より合理的な」仮説として,かつて世界規模の洪水があったという聖書的見解」を示した。\nまた、「無数の中間種」がほとんど存在しない問題があった。\n第一回目の討論では高等批評的見地から反論を展開したポッターが勝利し。\n2回目の討論では確実性の欠く進化論の証拠を反証したストラットンが勝利した。", "qas": [ { "question": "「進化論」を始めに唱えた人は誰ですか?", "id": "tr-182-05-000", "answers": [ { "text": "チャールズ・ダーウィン", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポッターが勝ったのは何日目の討論でしたか?", "id": "tr-182-05-001", "answers": [ { "text": "ポッター", "answer_start": 387, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2回目の討論に勝った人は誰でしたか?", "id": "tr-182-05-002", "answers": [ { "text": "ストラットン", "answer_start": 422, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "当初ファンダメンタリストの動きはそれほど組織立ったものではなかった。\nその状況を変化させたのが、ウィリアム・ジェニングズ・ブライアンの登場だった。\nブライアンは民主党の大統領候補に3度選ばれた人物であり、アメリカに婦人参政権と累進課税を導入するよう働きかけた大衆運動家である。", "qas": [ { "question": "アメリカに婦人参政権を導入するよう働きかけた人物のフルネームは何?", "id": "tr-182-06-000", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ジェニングズ・ブライアン", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アメリカに累進課税を取り入れる働きをした人のフルネームとは?", "id": "tr-182-06-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ジェニングズ・ブライアン", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ブライアンはリベラルな思想の持ち主であったが、進化論は、敵を排除することで自分だけが生き残ろうとする非道徳的でキリスト教に反する悪魔の理論とみなしていた。\nチャールズ・ダーウィンの自然選択説に対する典型的な誤解であるが、これには当時ダーウィニズムの隠喩を社会に当てはめて解釈しようとする社会ダーウィニズムの影響も大きかった。\n社会ダーウィニズムはその当時、ナチス・ドイツやアメリカなどでの人種差別論や優生学の正当化の根拠となっていたのである。\nブライアンは社会ダーウィニズムから導かれるそのような思想がアメリカに広がることに危機感をもっていた。\nそして、反キリスト教的理論(進化論)が広まることを阻止するためファンダメンタリストと結びつき、アメリカ各州に公立学校教育の場で進化論を教えることを禁止する法律をつぎつぎと成立させていったのである。", "qas": [ { "question": "アメリカ各州に公立学校教育の場で進化論を教えることを禁止する法律を成立させた人は誰でしたか?", "id": "tr-182-07-000", "answers": [ { "text": "ブライアン", "answer_start": 222, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブライアンが悪魔の理論とみなしていた考えとは何ですか?", "id": "tr-182-07-001", "answers": [ { "text": "進化論", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "これらの反進化論法に対し、裁判の場で争って廃止しようとする動きを主導したのが、アメリカ自由人権協会(ACLU、AmericanCivilLibertiesUnion、アメリカ市民自由連合、全米自由人権協会)だった。\nACLUは表現の自由など様々な市民の自由を守るための活動を続けている団体である。", "qas": [ { "question": "裁判の場で反進化論法を廃止しようとリードした団体は何ですか?", "id": "tr-182-08-000", "answers": [ { "text": "アメリカ自由人権協会", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ACLUは進化論教育を禁じる法律を裁判にもっていくために、進化論を実際に公立学校で教えて逮捕される志願者を広告で募集した。\nそして実際に教育の場で進化論を教えたとして逮捕されたのがテネシー州デイトンにあるレイ・セントラル高校の理科と体育の教師ジョン・スコープス(1900年8月3日-1970年10月21日)だった。\nもっともスコープス自身は、科学的使命に燃えて殉教者となったわけではなかった。\n実際にACLUの広告に応募したのは裁判によって町の知名度をあげようとした町の顔役たちであり、スコープスは彼らに頼まれて臨時の生物の授業のときに進化論の話をしたという証言をしただけである。\nまた、スコープスはケンタッキー大学法学部を卒業しているが、生物学や理科教育の専門的なトレーニングを受けていなかった。\nスコープスは本来レイ・セントラル高校フットボールチームのコーチとして招聘されたのであり、教師としてのキャリアは1924年の年度末に2週間ほど理科の代用教員を務めただけであった。", "qas": [ { "question": "スコープスが逮捕された当時、彼はどこの学校に勤務していたの?", "id": "tr-182-09-000", "answers": [ { "text": "レイ・セントラル高校", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スコープスが大学で専攻していた科目は何だったの?", "id": "tr-182-09-001", "answers": [ { "text": "法学", "answer_start": 308, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "レイ・セントラル高校はどこに位置していたの?", "id": "tr-182-09-002", "answers": [ { "text": "テネシー州デイトン", "answer_start": 90, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スコープスの生年月日は?", "id": "tr-182-09-003", "answers": [ { "text": "1900年8月3日", "answer_start": 131, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "検察側の代表としてW・J・ブライアンが、そして弁護側の代表として有名な弁護士だったクラレンス・ダロウがでることになった結果、この裁判は全米の注目を集めることになった。\nこれが1925年7月10日から21日まで計10日間、テネシー州デイトンで行われたスコープス裁判(ScopesTrial)である。\nアメリカでは、通称モンキー裁判(MonkeyTrial)として知られている。", "qas": [ { "question": "スコープス裁判の通称は何ですか?", "id": "tr-182-10-000", "answers": [ { "text": "モンキー裁判", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スコープス裁判は合計何日間行われましたか?", "id": "tr-182-10-001", "answers": [ { "text": "10日間", "answer_start": 105, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スコープス裁判はいつから始まりましたか?", "id": "tr-182-10-002", "answers": [ { "text": "1925年7月10日", "answer_start": 87, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スコープス裁判において弁護側の代表者は誰でしたか?", "id": "tr-182-10-003", "answers": [ { "text": "クラレンス・ダロウ", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "結局、この裁判は進化論教育が行われたかどうかではなく、「聖書の正しさを主張する検察側と進化論の正しさを主張する弁護側のプロパガンダ合戦」となった。\nスコープスは有罪となり、罰金100ドルが科せられた。\n弁護側は控訴審で法律の可否を争うつもりだったのである。\nしかし、控訴した州最高裁では、罰金額がテネシー州の規定に違反して不当に高いとしてこの裁判自体が無効とされることになった。\n裁判終了後、スコープスは教職を退き、シカゴ大学の大学院で地質学の学位を取得。\n地質測量技師として石油業界に転身し、1963年に引退するまで勤め上げた。\nスコープスは引退後の1970年に死去している。", "qas": [ { "question": "スコープスの判決は何でしたか?", "id": "tr-182-11-000", "answers": [ { "text": "有罪", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スコープスが教員を辞めた後に就いた職業とは何?", "id": "tr-182-11-001", "answers": [ { "text": "地質測量技師", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スコープスは石油業界で何年まで勤務しましたか?", "id": "tr-182-11-002", "answers": [ { "text": "1963年", "answer_start": 247, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スコープスにはいくらの罰金が科せられたの?", "id": "tr-182-11-003", "answers": [ { "text": "100ドル", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一般にはこの裁判は、ダロウがブライアンに、神が実際に6日間で世界を創造したわけではないかも知れないと認めさせたことから、ダロウの勝ちとされている。\nしかし、ダロウが罰金額に対して異議を唱えなかったために裁判自体がないものとされてしまい、裁判によって法律を廃止しようとしたACLUの思惑はくずれてしまうことになってしまった。\n結局1967年にこの法律の廃止が決定されるまで、40年以上もの間、反進化論法が存続することになるのである。", "qas": [ { "question": "この裁判の勝者は一般的に誰だと認識されていますか?", "id": "tr-182-12-000", "answers": [ { "text": "ダロウ", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "こうした状況が変化したきっかけが1957年のスプートニクショックであった。\n当時のソビエト(現在のロシア)に人工衛星の打ち上げで先をこされたことが、全米に衝撃を与え、アメリカ政府の科学政策そのものが問い直されるということが起こったのである。\n教育界に対する批判も同様にしておこり、公立学校における科学教育の見直しが行われることになった。\nその結果、1967年にはスコープス裁判で争われたテネシー州の反進化論法(通称バトラー法)が廃止され、さらには1968年のアーカンソー州の公立学校における進化論教育を禁止した法律に対する裁判(エパーソン対アーカンソー州事件)において、聖書に一致しないという理由で進化論を教授することを禁止することは、特定の理論を抹消しようとする試みであり、合衆国憲法修正第1条(表現の自由や信教の自由などをあつかっている)に違反するとする、初の連邦最高裁判所の判断を引き出すことに成功するのである。", "qas": [ { "question": "先に人口衛生の打ち上げに成功した国はソビエトとアメリカのどちらでしたか?", "id": "tr-182-13-000", "answers": [ { "text": "ソビエト", "answer_start": 41, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "テネシー州の反進化論法は何年に廃止されたの?", "id": "tr-182-13-001", "answers": [ { "text": "1967年", "answer_start": 174, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1968年の裁判によって進化論を教えることを禁ずる法律は違憲とされたわけであるが、その後のアメリカの保守化の流れによって、再びファンダメンタリストは反進化論法と呼べる法律を成立させることに成功する。\nそれが1981年にアーカンソー州とルイジアナ州で制定された、公立学校教育において進化論と創造科学を均等な授業時間で教えることを定めた法律である。\n創造科学は1968年の判決をうけて創造論者が生み出した、創造論を科学的理論で説明しようとする主張である。\n一見科学理論のようにみえるが、実際にはすべての発端が神の御業によるものとするため検証が行えない学説である。\nしかしファンダメンタリストはこれを科学理論として進化論と同じ扱いをするよう求めたのである。", "qas": [ { "question": "創造論を科学的理論で説明しようとする主張やその学説を何といいますか?", "id": "tr-182-14-000", "answers": [ { "text": "創造科学", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "進化論と創造科学の授業時間均等法が定められたのは何年でしたか?", "id": "tr-182-14-001", "answers": [ { "text": "1981年", "answer_start": 103, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1981年に起こったこの裁判では、創造科学は科学なのか、あるいは進化論は科学といえるのかということが争点となった。\n創造論者は当初創造科学は科学であるとしていたが、次第に弁護が苦しくなると、逆に進化論は科学理論とは言えず宗教と同じものであるという主張をするようになっていった。\nこれに対し、この裁判を担当した連邦判事ウィリアム・オヴァートンは、創造科学を科学ではないと結論し、特定の宗教の教義を助けるものだとして、1982年1月5日、アーカンソー州法に違憲判決を下した。\n彼は判決文のなかで、「科学理論とは不変のものでなく、その理論に一致しない事実や反証などによって、つねに改訂または破棄されうるものである。その理論の用語によって教義化され、絶対的で、決して改訂されることがないものは科学理論ではない。」と述べた。", "qas": [ { "question": "アーカンソー州法に違憲判決を下した人は誰?", "id": "tr-182-15-000", "answers": [ { "text": "ウィリアム・オヴァートン", "answer_start": 158, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "残るもう一つの反進化論法であるルイジアナ州の授業時間均等法は、連邦最高裁判所まで争われることになった。\n1982年に類似の法律に判決が出ているため、それを追認するかどうかが問題点であった。\n1987年、連邦最高裁判所は7対2の票差でルイジアナ州法に違憲判決を下した(反対票を投じたのはレーガン大統領に任命された保守系の判事であった)。\nその結果、1920年代に始まった進化論裁判に、一つの区切りがついたのである。", "qas": [ { "question": "ルイジアナ州の授業時間均等法裁判の判決結果はどうなりましたか?", "id": "tr-182-16-000", "answers": [ { "text": "違憲判決", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence 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"text": "知的な存在", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1989年に出版された『パンダとヒトについて』という子供向けの本は、この知的デザイン論の入門書として知られているが、そのなかでは聖書の出来事は一切触れられていない。\n創造論者はこれらの本を教科書として採用するよう教育委員会に強く働きかけているのである。\n1987年、最高裁判所にて公立校における「創造科学」教育に対し違憲判決以降、1990年代には「創造論運動」は選挙により教育委員を送りこむことで、生物進化の教育の阻止を目指した。\n1990年代後半には、生物進化の教育を巡って、州レベルの教育委員会で議論が起こっている。\nテキサス州教育委員会では生物学教科書、ネブラスカ州、ニューメキシコ州では科学教育のガイドライン、アラバマ州では教科書の見返し、カンザス州では「科学カリキュラム基準」を巡って創造論と進化論を巡る議論が行われていた。\nアメリカにおいて、生物の授業で進化論に言及したがらない教師が存在するのは、教育委員会や一部の親からの抗議などが無言の圧力になっているとされている。", "qas": [ { "question": "1989年に出版された知的デザイン論の入門書的な著書とは何?", "id": "tr-182-18-000", "answers": [ { "text": "『パンダとヒトについて』", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1991年に行われた「ギャロップ調査によれば、今でも47%のアメリカ人(大学卒でも4分の1)は「神がこの一万年のある時点で人間をほぼ現在の形につくった」と信じている」という。\n1990年代にも反進化論運動は衰えていなかったといわれている。", "qas": [ { "question": "1991年の調査結果では、何%のアメリカ人が人間の創造者は神であると信じていましたか?", "id": "tr-182-19-000", "answers": [ { "text": "47%", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "パタゴン", "paragraphs": [ { "context": "パタゴンは、南アメリカ南端にいたとされる伝説の巨人族で、16世紀の探検家マゼランによって名付けられた人々である。現在の南米パタゴニアの地名は「パタゴンの住む土地」の意からきている。\n\nパタゴンあるいはパタゴニアの巨人は、16世紀から18世紀、まだパタゴニアの陸や海の様子が良く知られていない時代に最初に訪れたヨーロッパ人探検家たちによってヨーロッパに伝えられた伝説の巨人族である。彼らの身長は少なくとも普通の人間の2倍はあるとされ、いくつかの伝聞ではその身長は12-15フィートとも、あるいはそれ以上とも伝えられたとされている。18世紀末に否定されるまで、今から見ると現実にはありえそうも無いこの巨人達についての伝説がヨーロッパでは250年もの間にわたって語り継がれていた。", "qas": [ { "question": "南アメリカ南端にいたとされる伝説の巨人族を何といいますか。", "id": "tr-183-00-000", "answers": [ { "text": "パタゴン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パタゴンの身長は普通の人間の何倍だとされていますか。", "id": "tr-183-00-001", "answers": [ { "text": "2倍", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "パタゴンの伝説はヨーロッパで何年間語り継がれていたか。", "id": "tr-183-00-002", "answers": [ { "text": "250年", "answer_start": 316, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "パタゴンについての最初の言及は1519年に人類初の世界一周の航海に出発し、その途中で南アメリカの海岸を訪れたマゼランとその艦隊の乗組員達によるものだった。マゼラン遠征のわずかな生き残りの1人でマゼラン探検隊についての証言者であるアントニオ・ピガフェッタはそこで出会った先住民は普通の2倍の背丈であったと報告している。\n\n「停泊地の近くの海岸で、ある日突然、我々は踊り歌い頭に粉を振りまいていた裸の巨人を見た。提督(マゼラン)は部下の一人を彼のところに行かせ、友好を示すために同じ動作をさせた。その男は提督が待つ小島に巨人を連れてきた。巨人が提督のところに来たとき、巨人は大いに驚き、指を上にむけ、我々が空から来たのだと信じているようだった。彼は我々が腰までしか届かないほど背が高く、均整のとれた体つきをしていた」とアントニオ・ピガフェッタは書き残している。", "qas": [ { "question": "マゼラン遠征のわずかな生き残りの1人でマゼラン探検隊についての証言者である人の名前は何ですか。", "id": "tr-183-01-000", "answers": [ { "text": "アントニオ・ピガフェッタ", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1579年、フランシス・ドレークの艦隊の船長、フランシス・フレッチャー(FrancisFletcher)はとても背の高いパタゴニア人に遭ったことを書いている。1590年代にはアンソニー・ニベット(AnthonieKnivet)はパタゴニアで12フィートの長さの死体を見たと主張している。さらに1590年代にはオランダ船に乗っていたイギリス人ウィリアム・アダムス(三浦按針)はパタゴニア南部の島ティエラ・デル・フエゴを回っているときに船員と不自然に背の高い原住民との間に暴力的な出会いがあったと報告している。1766年にはジョン・バイロン(Johnbyron)が指揮するHMSドルフィン号が世界一周の航海からイギリスに帰ってきたとき、その船員によってパタゴニアで9フィート(2.7メートル)の背丈の現地部族を見たとのうわさが流れた。しかし、1773年に出された航海についての最終報告改訂版ではパタゴニア人たちは1.98メートルとされ背は高いが巨人というほどではないと記録されている。\n\nバイロンによれば、可能性として彼らはパタゴニアの先住民族、今で言うテウェルチェ族に出会ったのだろうとされている。後世ではパタゴニアの巨人伝説は初期のヨーロッパ人航海者達の悪ふざけ、少なくとも誇張や誤報であったと考えられている。", "qas": [ { "question": "フランシス・フレッチャーがとても背の高いパタゴニア人に遭ったこと書いたのは何年ですか。", "id": "tr-183-02-000", "answers": [ { "text": "1579年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1590年代にアンソニー・ニベットが見たと主張したパタゴニアの死体は何フィートでしたか。", "id": "tr-183-02-001", "answers": [ { "text": "12フィート", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1773年に出された航海についての最終報告改訂版ではパタゴニア人たちは何メートルだと記録されているか。", "id": "tr-183-02-002", "answers": [ { "text": "1.98メートル", "answer_start": 404, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バイロンによれば、パタゴニア人は何族に出会ったのだとされていますか。", "id": "tr-183-02-003", "answers": [ { "text": "テウェルチェ族", "answer_start": 475, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マゼランの航海では、マゼラン自身は旅の途中で死に、出発時約270人いた乗組員たちの中で世界一周を達成して生還できたのはわずか18人であり、その18人の生き残りの中でもっとも著名で詳細な報告を行った者がピガフェッタである。歴史上初めての世界一周は当時も当然注目の的でありピガフェッタは教皇クレメンス7世に面会しマントヴァ宮廷にも招かれ人類初の世界周航の話をしている。ピガフェッタがロードス騎士団長(後のマルタ騎士団)にあてた書簡による記録はもっとも詳細な報告であり、ヨーロッパの各地でこれが改竄を受けながら出版されていた。このピガフェッタの記録には出合った巨人のこととマゼランが彼らにパタゴンと名付けたことが記載されていて、ヨーロッパにパタゴンあるいはパタゴニアの巨人伝説が起こり、また南米南端の地にパタゴニアの地名が付くきっかけとなった。", "qas": [ { "question": "マゼランの航海で、生き残って世界一周を達成したのはわずか何人しかいませんでしたか。", "id": "tr-183-03-000", "answers": [ { "text": "18人", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "黒田硫黄", "paragraphs": [ { "context": "黒田硫黄(くろだいおう、男性、1971年1月5日-)は、日本の漫画家。\n男女の双子で誕生。\n東日本出身。\n一橋大学法学部・社会学部卒業、経済学部中退。\n1993年『月刊アフタヌーン』にてデビュー。\n『月刊アフタヌーン』『月刊IKKI』『COMICCUE』などに筆による作品を発表している。\n2002年、『セクシーボイスアンドロボ』により第6回文化庁メディア芸術祭マンガ部門大賞文部科学大臣賞を受賞。\nペンネームの由来は「黒田」+オモチャの「火星大王」から。\n愛称は「大王」。", "qas": [ { "question": "黒田硫黄が大学で中退した学部とは何?", "id": "tr-184-00-000", "answers": [ { "text": "経済学", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ペンネームの硫黄の部分はオモチャの何から取ったものなの?", "id": "tr-184-00-001", "answers": [ { "text": "「火星大王」", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "黒田の出身大学は?", "id": "tr-184-00-002", "answers": [ { "text": "一橋大学", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "黒田がデビューした漫画雑誌の名前は?", "id": "tr-184-00-003", "answers": [ { "text": "『月刊アフタヌーン』", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "生まれは札幌市であるが、幼少期は10回を超える引越しで東日本を転々としたため、「東日本出身」としばしば表現している。\n麻布高校時代にアニメ研究会に所属、2分ほどの紙製アニメやリレーマンガを他の部員たちと制作していた。\n一橋大学では漫画研究会に所属。\n教養課程野崎歓ゼミナール(映画論)、法学部村井敏邦ゼミナール(刑事法)、社会学部湊博昭ゼミナール(精神医学)などに参加。\n大学の同じゼミナールに、後に漫画家となった倉田真由美がいた。\n出版社への数度の持ち込みを経て、在学中の1993年にアフタヌーン四季賞秋のコンテストにて「蚊」、「熊」、「南天」、「遠浅」の4編により四季大賞を受賞し、漫画家としてデビューする。", "qas": [ { "question": "黒田が漫画家デビューしたのは何年?", "id": "tr-184-01-000", "answers": [ { "text": "1993年", "answer_start": 237, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "黒田が1993年に受賞した賞は何?", "id": "tr-184-01-001", "answers": [ { "text": "四季大賞", "answer_start": 284, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "翌年より『月刊アフタヌーン』にて『大日本天狗党絵詞』を連載。\n連載終了後の1998年、この作品に注目していたよしもとよしともから合作の話を持ちかけられ、よしもと原作、黒田作画による「あさがお」を『COMICCUE』に掲載。\nこれを端緒として同誌に短編作品を発表していく。\n1999年に作品集『大王』を刊行、帯に大友克洋、寺田克也、よしもとよしとも三名からの推薦文が寄せられた。", "qas": [ { "question": "「あさがお」で原作を担当した漫画家は誰?", "id": "tr-184-02-000", "answers": [ { "text": "よしもとよしとも", "answer_start": 54, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「あさがお」で作画を担当した漫画家は誰?", "id": "tr-184-02-001", "answers": [ { "text": "黒田", "answer_start": 83, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『大日本天狗党絵詞』の次に掲載された黒田の合作漫画作品とは何?", "id": "tr-184-02-002", "answers": [ { "text": "「あさがお」", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「あさがお」を掲載した漫画雑誌は何?", "id": "tr-184-02-003", "answers": [ { "text": "『COMICCUE』", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2000年から2003年にかけて『月刊アフタヌーン』にて『茄子』を連載、平行して『月刊IKKI』に『セクシーボイスアンドロボ』を連載する。\n『茄子』のうちの一編「アンダルシアの夏」は単行本帯にて宮崎駿に「このおもしろさが判る奴は本物だ」と絶賛されたのち、2003年に高坂希太郎監督により劇場アニメ化。\nまた、2007年には続編である「スーツケースの渡り鳥」が同監督によりOVA化された。\nまた『セクシーボイスアンドロボ』は2007年に日本テレビにてTVドラマ化されている。", "qas": [ { "question": "『茄子』を連載しながら、他雑誌で何を連載したの?", "id": "tr-184-03-000", "answers": [ { "text": "『セクシーボイスアンドロボ』", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宮崎駿が高評価した黒田の一編とは何?", "id": "tr-184-03-001", "answers": [ { "text": "「アンダルシアの夏」", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「アンダルシアの夏」の劇場アニメ版を監督した人は誰?", "id": "tr-184-03-002", "answers": [ { "text": "高坂希太郎", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「スーツケースの渡り鳥」をOVA化した時に監督を務めた人は誰?", "id": "tr-184-03-003", "answers": [ { "text": "高坂希太郎", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2003年以降しばらく目立った活動がなかったが、2005年より『月刊アフタヌーン』に復帰し、2006年より同誌で『あたらしい朝』の連載を開始。\nしかし急病により同誌2007年6月号より中断し、1年の長期休載を経て2008年9月号より再開した。\n体調不良が続いており、色素性絨毛結節性滑膜炎の治療や、気管支喘息での入院等でたびたび休載となっている。", "qas": [ { "question": "『あたらしい朝』を連載した漫画雑誌は何?", "id": "tr-184-04-000", "answers": [ { "text": "『月刊アフタヌーン』", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『あたらしい朝』の連載がスタートしたのは何年?", "id": "tr-184-04-001", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 46, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "急病により黒田はどれくらいの期間長期休載したの?", "id": "tr-184-04-002", "answers": [ { "text": "1年", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "毎日新聞で黒田を取り上げた宮本大人は、「線の引き方、コマの割り方、構図の取りかた、話の展開、キャラクターの造形、言葉の選択、それらの一つ一つが今目の前にある形になるまでに、どんな選択肢があり、どういう理由で他の選択肢が落とされたのかが、いちいち分かった(気がした)のである」とそのセンスを評価した。", "qas": [ { "question": "宮本大人はどの新聞上で黒田を高評価したの?", "id": "tr-184-05-000", "answers": [ { "text": "毎日新聞", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "毎日新聞で黒田を評価した人物は誰?", "id": "tr-184-05-001", "answers": [ { "text": "宮本大人", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "文芸評論家の大庭萱朗は「黒田硫黄のマンガのすべてのコマ、すべてのページに、観ることと描くことの歓び、そして生きることの瑞々しさが横溢している」と評した上で、漫画の「観る体験を味わう媒体としての側面を捉えた」という点で、黒田を手塚治虫、大友克洋、高野文子の系譜に連なる作家と位置づけている。", "qas": [ { "question": "手塚治虫などの系譜に連なる作家と位置づけて、黒田を評価した人物は誰?", "id": "tr-184-06-000", "answers": [ { "text": "大庭萱朗", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大庭萱朗の肩書は何?", "id": "tr-184-06-001", "answers": [ { "text": "文芸評論家", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "『ユリイカ』の特集号に評をよせた斎藤環は、「作品の端正なまでの倫理性」という点で「手塚治虫の正統的系譜」に位置づけられるとし、さらに「作家自身を戯画化し薀蓄を語るスタイル」や小綺麗さとは無縁な絵のスタイル、飛翔シーンの多さや「出立」を作品のモチーフとして繰り返し描いているなどの点で宮崎駿との類似性を見出している。\nまた黒田が一部で女性であると誤解を受けていたことを取り上げ、本来女性作家に特徴的な人物同士の関係性に注目する作風(「関係性への配慮」)がその誤解に一役買ったのではないかと分析している。", "qas": [ { "question": "黒田の絵のスタイルや描写が宮崎駿と似ていると評価した人物は誰?", "id": "tr-184-07-000", "answers": [ { "text": "斎藤環", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "斎藤環はどの雑誌で黒田を評価した?", "id": "tr-184-07-001", "answers": [ { "text": "『ユリイカ』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "上記のようにコマ割りのセンスが評価されている黒田だが、デビュー前の持ち込みの時には編集者からコマ割りを酷評されたことがあり、これをきっかけに一年ほどコマ割りの研究をしたのだと語っている。\nまた大学の漫画研究会では、大島渚の『忍者武芸帳』を題材に「コマ割りと時間の関係」について分析し、コマの面積と読み手の感じる作品内の時間の長さは比例するのではないか、という仮説を立てたという。\nもっともその後のインタビューではキャラクターを中心に読まれる漫画への憧れも語り、「コマ割りに凝れば凝るほど、“コマ割りがいい”という漫画の楽しみ方は貧しいなと思い知りました」とのコメントも寄せている。", "qas": [ { "question": "黒田が「コマ割りと時間の関係」を分析した際、題材にした作品は何?", "id": "tr-184-08-000", "answers": [ { "text": "『忍者武芸帳』", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「コマ割りと時間の関係」を分析したのは、黒田が何に属していた時のこと?", "id": "tr-184-08-001", "answers": [ { "text": "漫画研究会", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しばしば黒田の特徴とされる筆の使用は、もともとは早く描けるからという理由で使い始めたもの。\n石神井の職人によるものを愛用しており、墨は自分で磨って使っているが、忙しいときには筆ペンも使っている。\nまた「筆で描く漫画家」のように間口を狭めるのが嫌で作品によってはペンも使用している。\n連載作品の中では『茄子』の大部分がペンによって描かれている。", "qas": [ { "question": "黒田が愛用している筆はどこで作られたものですか?", "id": "tr-184-09-000", "answers": [ { "text": "石神井", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大半がペンで描かれている黒田の作品とは何?", "id": "tr-184-09-001", "answers": [ { "text": "『茄子』", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "黒田に時間がない時、漫画製作で使用している文具とは何?", "id": "tr-184-09-002", "answers": [ { "text": "筆ペン", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "黒田はデビュー時から作品にスター・システムを取り入れており、同じ外見のキャラクターを複数の作品でそれぞれ別の役どころで登場させている。\nなかでも中年男性「高間」は『大日本天狗党絵詞』『茄子』で同じ名前で登場するなどやや特殊な位置付けがなされている。\n以前の公式ホームページには「キャラクターとは役者であります」という言葉で始まる「俳優図鑑」という各キャラクターの解説もあった。", "qas": [ { "question": "黒田がデビュー当時から使用している表現スタイルとは何?", "id": "tr-184-10-000", "answers": [ { "text": "スター・システム", "answer_start": 13, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『大日本天狗党絵詞』と『茄子』に共通して登場する中年男性とは?", "id": "tr-184-10-001", "answers": [ { "text": "「高間」", "answer_start": 76, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「俳優図鑑」はどこに載っていたの?", "id": "tr-184-10-002", "answers": [ { "text": "公式ホームページ", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "黒田は藤子・F・不二雄のファンであり、『Comickers』では藤子の『21エモン』が漫画家となるきっかけだったかも知れないと語っている。\n『QuickJapan』では新沢基栄や徳弘正也などに言及、小説家では学生時代に筒井康隆を愛読していたと語っている。", "qas": [ { "question": "黒田が好きな漫画家は?", "id": "tr-184-11-000", "answers": [ { "text": "藤子・F・不二雄", "answer_start": 3, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "黒田が漫画家になるきっかけとなった漫画作品とは何?", "id": "tr-184-11-001", "answers": [ { "text": "『21エモン』", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "黒田が学生時代に好んで呼んでいた作家とは誰?", "id": "tr-184-11-002", "answers": [ { "text": "筒井康隆", "answer_start": 109, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "「象の散歩」「象夏」(『大王』所収)「象の股旅」(『黒船』所収)など、黒田は象を好んで作品の題材に取り上げており、また象印の架空のビール「パオパオビール」を複数の作品で登場させている。\n黒田は象について「とくにアジア象だと人間との関係の文化があるので面白い話がいっぱい掘り出せます」とコメントしている。", "qas": [ { "question": "象が登場し、『黒船』に収められている作品とは何?", "id": "tr-184-12-000", "answers": [ { "text": "「象の股旅」", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "黒田が好んで作品に登場させている動物とは何?", "id": "tr-184-12-001", "answers": [ { "text": "象", "answer_start": 1, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「象の散歩」、「象の股旅」、「象夏」の中で、『大王』に収められていない作品はどれ?", "id": "tr-184-12-002", "answers": [ { "text": "「象の股旅」", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "黒田が象をモチーフにして考えた架空のビールとは何?", "id": "tr-184-12-003", "answers": [ { "text": "「パオパオビール」", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "自転車レースを描いた「アンダルシアの夏」で自転車レースファンである宮崎駿から賛辞を受けた黒田だが、このほかにも「わたしのせんせい」「自転車フランケン」など作中にしばしば自転車を登場させている。\n2003年には『Comickers』春号にて自転車レース漫画『シャカリキ!』の作者曽田正人と対談した。\nまたスタジオジブリ主催のツール・ド・信州にも参加している。\n『茄子』のアニメ化を記念してつくられた特集本では、すぎむらしんいちやあさりよしとおなど自転車好きの漫画家からイラストを寄せられた。", "qas": [ { "question": "「アンダルシアの夏」と「わたしのせんせい」に共通して登場する乗り物とは何?", "id": "tr-184-13-000", "answers": [ { "text": "自転車", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『シャカリキ!』を描いた人は誰?", "id": "tr-184-13-001", "answers": [ { "text": "曽田正人", "answer_start": 138, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "カメラは『大日本天狗党絵詞』などに小道具として登場した。\n四季賞の賞金ではカメラを買い、大学の写真サークルで現像の方法などを一通り学んだという。\nそのとき「自分の外側のものをいかに取り込んでいくか」という点で写真の才能がないことがわかったが、ゾーンシステムや露出の感覚などが絵を描く上での勉強になったと語っている。\n黒田自身の撮影した写真は『天狗党』カバー見返しや巻末付録などで見ることができる。", "qas": [ { "question": "黒田が四季賞の賞金で購入した物とは何?", "id": "tr-184-14-000", "answers": [ { "text": "カメラ", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "幼少時に『鉄腕アトム』『マジンガーZ』を好んで観ていたという黒田は、古いタイプのロボットへの憧憬を語っており、今後ロボットものを描きたいとも語っている。\n「THEWORLDCUP1962」(『大王』所収)では人類崩壊後に巨大ロボットが戦う光景を描き、『セクシーボイスアンドロボ』ではロボットオタクの青年「ロボ」を登場させた。", "qas": [ { "question": "「THEWORLDCUP1962」が収められているのは何?", "id": "tr-184-15-000", "answers": [ { "text": "『大王』", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "食事・料理シーンの多さは黒田の作品の特徴のひとつであり、『茄子』作中では茄子を食材にした様々な料理を登場させ、単行本ではそのレシピも紹介している。\n『CUTiECOMIC』(宝島社)では2ページの料理漫画を連載(『肉じゃがやめろ!』全5回、『黒船』収録)。\nインタビューでは「僕は登場人物が何を食っているのか分からないようなマンガはだめだと思ってるんです」と語っている。", "qas": [ { "question": "茄子を食材にした多彩な料理が登場した黒田の作品は何?", "id": "tr-184-16-000", "answers": [ { "text": "『茄子』", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『CUTiECOMIC』に連載された料理漫画のタイトルは何?", "id": "tr-184-16-001", "answers": [ { "text": "『肉じゃがやめろ!』", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『肉じゃがやめろ!』の連載ページ数は?", "id": "tr-184-16-002", "answers": [ { "text": "2ページ", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『肉じゃがやめろ!』は全部で何回連載された?", "id": "tr-184-16-003", "answers": [ { "text": "5回", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "小原慎司は黒田と同時期にデビューした漫画家である。\n黒田からの呼びかけで2000年に『COMICCUE』掲載の『課外授業』で合作を行なった(小原原作、黒田作画、『黒船』所収)。\n『ユリイカ』特集号にイラストとコメントを寄せており、「多分、ボクは日本で一番目か二番目に黒田硫黄の才能にシットした漫画家なのではないか」と書いている。\n一方黒田は『黒船』巻末の作品解説にて「氏はリリカルというかおたくというかおもろい漫画を描く人」で「私にはリリカルさが足りないなあと思った」とコメント。\n「リリカルさ」を意識してか『課外授業』は単行本収録時に描き足され、余韻をもった結末に変えられている。", "qas": [ { "question": "『課外授業』で原作を担当した人物のフルネームは?", "id": "tr-184-17-000", "answers": [ { "text": "小原慎司", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "小原慎司が嫉妬した才能ある漫画家とは誰?", "id": "tr-184-17-001", "answers": [ { "text": "黒田硫黄", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小原慎司と黒田の合作漫画とは何?", "id": "tr-184-17-002", "answers": [ { "text": "『課外授業』", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『課外授業』で作画を担当したのは誰?", "id": "tr-184-17-003", "answers": [ { "text": "黒田", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "国土交通省直轄ダム", "paragraphs": [ { "context": "国土交通省が管理や施工を行うダム事業は「河川整備基本計画」又は「河川工事実施基本計画」に基づく「河川総合開発事業」として建設される。一部のダムを除き、通常は国土交通大臣によって計画から建設、そして管理まで一元的に行われる特定多目的ダムがほとんどであるが、直轄ダムの中には河川法第17条による「兼用工作物」として管理が複数の利水事業者と行われているダムもある。近年では洪水調節のみを目的とした治水ダムも近年では事業計画がなされている。多目的・治水何れのダムについても、最大の目的は洪水調節、すなわち治水である。", "qas": [ { "question": "治水ダムとは何を防ぐために建てられたダムですか。", "id": "tr-185-00-000", "answers": [ { "text": "洪水", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "国策として建設されるため水没住民に対する補償対策は特に重視され、1973年の水源地域対策特別措置法の施行に伴い、特に大規模なダム事業に関してはほぼ例外なく法を適用し、水源地域住民への対応を行っている。さらに国土交通省は従来の閉鎖的管理からの転換を図り、直轄ダム・水資源機構管理ダムを地元の観光資源として積極的に一般に開放する方向へ転換を行った。この施策は1994年に「地域に開かれたダム」施策として実施され、ダムの周辺整備やPR施設の建設、町興しへの積極的参加や社会科見学の誘致等の基本計画を各ダムごとに提出させた。これにより宮ヶ瀬ダムや御所ダムのように年間100万人を超える観光客が訪問するダムも出てきている。", "qas": [ { "question": "水源地域対策特別措置法の施行が行われたのはいつですか。", "id": "tr-185-01-000", "answers": [ { "text": "1973年", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "なお、茨城県・東京都・山梨県・香川県・宮崎県には、国土交通省が管理・施工しているダムや堰は現在存在しない。また、かつては国土交通省が施工したダムの中には各地方自治体に管理を移管したダム、または地方自治体が管理していたダムが国土交通省直轄ダムとなったダムも存在する。2008年5月に福田内閣は都道府県内で完結する一級水系について原則地方自治体へ移管する方針を示したが、今後国土交通省直轄ダムの中にはこうした河川の管理移譲に伴い、都道府県営ダムに管理主体が変更される可能性がある。2009年10月9日、前原誠司国土交通大臣は、建設中の国土交通省直轄ダム56事業のうち、改修事業を除く48事業について「2009年度は新たな段階に入らない」ことを表明、ダム建設事業を全面的に見直す立場を示した。今後、事業を継続すべきか否かの妥当性について再検証が行われることとなり、12月に具体的な「凍結」ダム事業が発表された。対象となった直轄ダムはサンル・新桂沢・三笠ぽんべつ・平取・田川・成瀬・鳥海・八ッ場・万座・利賀・設楽・新丸山・足羽川・大戸川・横瀬川・山鳥坂・大分川・城原川・本明川・立野・七滝・川辺川・奥間の23ダム事業である。", "qas": [ { "question": "国土交通省が管理・施工しているダムや堰は現在存在しないところは、茨城県、東京都、山梨県、香川県そして何があるか。", "id": "tr-185-02-000", "answers": [ { "text": "宮崎県", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "前原誠司国土交通大臣が建設中の国土交通省直轄ダム56事業のうち、改修事業を除く48事業について「2009年度は新たな段階に入らない」と述べ、ダム建設事業を全面的に見直す立場を示したのはいつですか。", "id": "tr-185-02-001", "answers": [ { "text": "2009年10月9日", "answer_start": 238, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "北海道開発局管内では直轄ダムが運用16、施工中5の計21ダムを管理・施工している。北海道開発局は国土交通省の地方支分部局として国土交通省の発足時に統合されたが、農林水産省の地方農政局機能も担当している。このため土地改良法に基づく国営農業水利事業によって建設された大夕張ダムと川端ダムも直轄管理しているが、両ダムは農林水産省直轄ダムとしての扱いを受け、国土交通省直轄ダムには該当しない。北海道は1950年5月に北海道開発法が施行され、同法に基づき北海道開発庁と北海道開発局が設立された。以後数次にわたる北海道総合開発計画に沿って河川総合開発事業を展開していた。1952年からの第一次北海道総合開発計画において道内最大の河川・石狩川水系の河川総合開発事業が初めて盛り込まれ、利水目的の事業として雨竜川の鷹泊ダムが1953年に完成するが、治水目的として計画されたのが三笠市を流れる幾春別川の桂沢ダムと、空知川支流芦別川の芦別ダムである。電源開発などとの共同事業で計画された両ダムは、双方をトンネル導水路で連結して治水のほか上水道供給、灌漑、水力発電を目的とし、1957年に道内初の直轄ダムとして完成した。", "qas": [ { "question": "北海道開発法が行われたのは何月のことか。", "id": "tr-185-03-000", "answers": [ { "text": "5月", "answer_start": 201, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "雨竜川の鷹泊ダムが完工したのはいつですか。", "id": "tr-185-03-001", "answers": [ { "text": "1953年", "answer_start": 354, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "桂沢ダムと芦別ダムが完成したのは何年?", "id": "tr-185-03-002", "answers": [ { "text": "1957年", "answer_start": 477, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "石狩川以外では日本第4の大河である天塩川水系で本流に岩尾内ダムが1971年完成した。十勝川水系では電源開発による十勝糠平系電源一貫開発計画により糠平ダムなどの水力発電事業が先行していたが、1962年の大水害を契機に十勝川水系の総合開発計画が実施され、本流に十勝ダム、支流札内川に札内川ダムが完成したほか、十勝川中流部の洪水流下阻害要因となっていた千代田堰堤地点の流下能力強化を図るため放水路である千代田新水路と、水路の水位調節を図る千代田分流堰が2006年に完成した。またオホーツク海に注ぐ常呂川では北見市などの治水安全度と上水道供給向上を目的に鹿ノ子ダムが、日高では沙流川流域に二風谷ダム、清流として知られる後志利別川には美利河ダムがそれぞれ完成している。留萌川水系では1988年の洪水で留萌市全世帯の4分の1が浸水した大水害を契機にダム計画が進められ、支流のチバベリ川に留萌ダムが完成している。", "qas": [ { "question": "留萌市全世帯の4分の1を浸水させた大水害だった洪水はいつ起こったか。", "id": "tr-185-04-000", "answers": [ { "text": "1988年", "answer_start": 336, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "支流のチバベリ川に留萌ダムが建設されるようになったきっかけの災害は何でしたか。", "id": "tr-185-04-001", "answers": [ { "text": "洪水", "answer_start": 342, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "施工中のダムとして石狩川水系では新桂沢、三笠ぽんべつの2ダム、天塩川水系では支流名寄川の二次支流であるサンル川にサンルダム、沙流川では支流の額平川に平取ダムがあるが、国土交通省によるダム事業再検証の対象となりその後事業が再開になった経緯がある。またダム事業に対する地元との摩擦については二風谷ダムにおいて萱野茂と貝沢正が起こしたダム建設差し止め訴訟が知られる。ダム建設差し止め自体は却下されたがアイヌ民族の先住性が裁判で認められ、1997年には差別的法律であった北海道旧土人保護法の廃止とアイヌ文化振興法の制定につながった。", "qas": [ { "question": "アイヌ文化振興法が定められたのは何年度のことですか。", "id": "tr-185-05-000", "answers": [ { "text": "1997年", "answer_start": 215, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "北海道開発局において、中止となった直轄ダム事業としては鵡川本流に計画されていた赤岩ダムと、石狩川本流に計画されていた石狩ダムがある。赤岩ダムについては1950年代、鵡川上流にある景勝地・赤岩青巌峡の一番瀬付近に高さ103メートルの重力式コンクリートダムを計画した。治水と日高電源一貫開発計画に沿った形での水力発電目的を以って計画が行われていた。完成すれば総貯水容量が3億5000万立方メートルに達し朱鞠内湖を越える大人造湖が出現するが、トマム・ニニウを含め占冠村の大部分が水没するため占冠村官民挙げて反対運動が巻き起こった。最終的に1961年に開発局が計画を白紙撤回し、中止された。一方石狩ダムは大雪ダムの前身として、北海道電力との共同事業として1960年代より層雲峡に計画されていた。高さ118.2メートル、総貯水容量1億4200万立方メートルの中空重力式コンクリートダムとして計画され、完成すれば石狩川水系最大規模の多目的ダムであったが、その後の計画変更により現在の大雪ダム地点にダム計画が移転し、1975年に現在の規模で完成している。", "qas": [ { "question": "計画上の石狩ダムは高さ何メートルでしたか。", "id": "tr-185-06-000", "answers": [ { "text": "高さ118.2メートル", "answer_start": 343, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "計画通り完成すれば、石狩川水系最大規模の多目的ダムは何だったと予想されるか。", "id": "tr-185-06-001", "answers": [ { "text": "石狩ダム", "answer_start": 293, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "石狩ダムはいつ完成されたの?", "id": "tr-185-06-002", "answers": [ { "text": "1975年", "answer_start": 451, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "東北地方整備局管内では既設ダム・堰23基、施工中ダム4基の合計27基を直轄管理・施工している。これは全ての地方整備局の中で最多である。また、総貯水容量が1億立方メートルを超える大人造湖を擁するダムが既設・施工併せて8基あり、これもまた地方整備局の中では随一である。ただし東北地方の直轄ダムにおいて、阿賀野川水系と荒川水系にあるダムについては本流河口が新潟県に位置するため、水系一貫管理の観点から北陸地方整備局の管理となっている。なお仙台市などの水源でもある釜房ダムの人造湖である釜房湖は人造湖としては唯一、湖沼水質保全特別措置法に指定されており、厳重な水質管理が行われている。事業については河川法第17条に基づく兼用工作物として鳴瀬川中流堰が国土交通省と農林水産省の共同事業として建設されている。東北地方は日本でも早期より多目的ダムによる河川総合開発事業が積極的に進められていた。青森県は多目的ダムとして日本最初の施工例となった沖浦ダムや十和田湖の総合開発事業を1938年より実施した。河川総合開発の父である物部長穂の故郷・秋田県も田沢湖・玉川の総合開発を1939年より実施するなど他の都道府県に先駆けて河川開発を進めていた。当時河川行政を管轄した内務省も1941年より国直轄の河川総合開発を計画し、北上川と名取川が東北では対象とされ田瀬ダムが直轄ダム日本第一号として施工を開始、さらに田瀬ダムなど5ダムを北上川本支流に建設する北上川五大ダム計画がこの時成立した。また釜房ダムの計画も進められたが、太平洋戦争により事業は中断した。", "qas": [ { "question": "物部長穂はどこの出身ですか。", "id": "tr-185-07-000", "answers": [ { "text": "秋田県", "answer_start": 462, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "戦後東北では1947年のカスリーン台風、翌1948年のアイオン台風で北上川や名取川、雄物川などが致命的な水害を引き起こし多数の死者を出した。治水対策が急務となった建設省は北上川と支流の江合川、および鳴瀬川を対象とした河川改訂改修計画を立案しダムによる治水を盛り込む。さらに戦後の食糧・電力不足にも対応するため1950年の国土総合開発法に基づく特定地域総合開発計画が実施され、東北では岩木川・奥入瀬川を対象とした「十和田岩木川」、北上川・鳴瀬川を対象とした「北上」、名取川を対象とした「仙塩」、米代川・雄物川を対象とした「阿仁田沢」、最上川・赤川を対象とした「最上」そして阿賀野川・只見川・信濃川を対象とした「只見」と東北6県全てが特定地域の対象となった。", "qas": [ { "question": "カスリーン台風とアイオン台風と、どちらの方が先に発生しましたか。", "id": "tr-185-08-000", "answers": [ { "text": "カスリーン台風", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "直轄ダムで施工中のダムは4基あるが、ダム再開発事業として津軽ダムがある。完成すれば直上流にある目屋ダムは水没する。既に浅瀬石川ダムにより沖浦ダムが、長井ダムにより管野ダムが、胆沢ダムにより石淵ダムがそれぞれ湖底に水没した。この他施工中のダムには鳥海ダム、成瀬ダムがあり、何れもダム事業再検証の対象となったが事業再開されている。また筒砂子ダムは田川ダムを統合拡大する形で計画された。ダム事業と住民の摩擦については住民軽視の補償交渉が後年批判の的となった石淵ダム補償問題のほか、胆沢ダムと津軽ダムでは石淵・目屋ダムで移転を余儀なくされた住民が、再び移転を余儀なくされる例も現れている。また、度重なる大地震による施設被害も起こり、岩手・宮城内陸地震では石淵ダムの堤体が損傷、東日本大震災では沿岸を襲った大津波が河川を遡上したことで北上大堰、阿武隈大堰、馬淵大堰などが被害を受けている。なお、東北の直轄ダムにおける技術的特徴として、石淵ダムはロックフィルダム施工の日本第一号であり、鳴子ダムは日本人だけで手掛けられた最初のアーチ式コンクリートダムである。また堰では鳴瀬堰は大河川を堰き止めた最初のゴム引布製起伏堰であり、最上川さみだれ大堰はゴム引布製起伏堰として日本最大級である。", "qas": [ { "question": "ロックフィルダム施工で作られた日本最初のダムは何ですか。", "id": "tr-185-09-000", "answers": [ { "text": "石淵ダム", "answer_start": 412, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本人だけで施工した最初のアーチ式コンクリートダムは何ですか。", "id": "tr-185-09-001", "answers": [ { "text": "鳴子ダム", "answer_start": 437, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "東北地方整備局管内における中止したダム事業は、旧建設省時代を含めると6事業がある。大別すると特定地域総合開発計画において計画され、諸事情で立ち消えになったダムと、1990年代以降の公共事業見直しの中で中止されたダムという二つの要因がある。前者の例では、阿仁田沢特定地域総合開発計画における雄物川河川総合開発計画の中心事業として、鎧畑ダム、皆瀬ダムと共に「雄物川四大ダム」として計画された肴沢ダムと川井ダムがある。肴沢ダムは現在の秋田県雄勝郡東成瀬村肴沢、国道342号肴沢橋付近に建設が予定されていたが諸元は不明である。川井ダムは現在の秋田県湯沢市川井、国道108号新川井橋付近に建設が予定されており、完成すれば鎧畑ダムとほぼ同等の規模を有するダムであった。しかし両ダム共1960年代には計画が自然消滅し、その後の雄物川水系における直轄事業としてのダムは玉川ダムと、肴沢ダム地点よりも上流の成瀬ダムが新たに加わった。役内川にはダムは計画されていない。後者の例としては天然湖沼開発の小川原湖総合開発事業がある。同事業は小川原湖より流出する高瀬川と高瀬川放水路に河口堰を建設して小川原湖をダム化し、淡水化することで治水と灌漑、むつ小川原開発地域への上水道と工業用水道供給を目的としていたが、水需要の低下などにより中止された。", "qas": [ { "question": "東北地方整備局管内におけるダム事業の中、6事業が中止となった要因を大別すると、いくつありますか。", "id": "tr-185-10-000", "answers": [ { "text": "二つ", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "漆沢ダム完成後も水害や水需要の拡大が続き、建設省は支流である田川に田川第一ダムと田川第二ダムを建設して田川・鳴瀬川の治水と鳴瀬川流域農地への灌漑用水供給、および上水道・工業用水道供給を図る目的で鳴瀬川総合開発事業を1992年より着手した。しかしその後の水需要の変化などで事業が縮小されて田川第二ダムは中止、第一ダムは田川ダムと名称を変更しさらに工業用水道供給目的を廃止した。隣接する二ッ石川流域よりバイパストンネルによる洪水導水路を田川ダムに連結して、田川・二ッ石川および鳴瀬川下流域の治水と灌漑・上水道供給目的を以って計画された。しかしダム事業再検証対象となり多くの代替案を検討したところ、同時期に宮城県が補助多目的ダムとして計画しやはり再検証対象となっていた筒砂子ダム計画を大幅に拡張して田川ダムを統合し、合わせて漆沢ダムを治水ダムとして洪水調節目的に特化した方が費用対効果で最適であるという結論に達した。これに伴い田川ダム事業と宮城県補助事業としての筒砂子ダム事業は中止され、直轄事業としての「新」筒砂子ダム事業・漆沢ダム再開発事業を両軸とした鳴瀬川総合開発事業として事業自体は継続になった。", "qas": [ { "question": "鳴瀬川総合開発事業は何年から始まったか。", "id": "tr-185-11-000", "answers": [ { "text": "1992年", "answer_start": 107, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "田川第一ダムと田川第二ダムと、どちらが田川ダムと名称が変更されましたか。", "id": "tr-185-11-001", "answers": [ { "text": "田川第一ダム", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "田川第一ダムと田川第二ダムと、中止になったのはどっち?", "id": "tr-185-11-002", "answers": [ { "text": "田川第二ダム", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "北陸地方整備局管内では、既設ダム・堰が12基、施工中ダム1基の計13基が存在する。日本最長の河川・信濃川を始め阿賀野川、荒川の各水系を一貫管理する関係上、本来は東北地方整備局管内である山形県の横川ダム、福島県の大川ダムや中部地方整備局管内である長野県の大町ダムは北陸地方整備局管理の直轄ダムである。反面北陸地方でも福井県を流域に持つ九頭竜川水系と北川水系は、近畿地方整備局の管轄となっている。事業形態としては河川法第17条における兼用工作物規定に基づき、管内最大規模の直轄ダムである手取川ダムは電源開発、北陸電力、石川県との共同事業で建設され現在は電源開発との共同管理である。また新潟県長岡市に建設された妙見堰は治水目的のほか国道17号バイパスとしての渋滞緩和、東日本旅客鉄道の小千谷・新小千谷発電所の放流水均等化目的も有することから、旧建設省の河川管理部局と道路管理部局および東日本旅客鉄道の三者による共同事業として建設されている。", "qas": [ { "question": "日本で最も長い川は何?", "id": "tr-185-12-000", "answers": [ { "text": "信濃川", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "近畿地方整備局管轄の最大規模の直轄ダムは何?", "id": "tr-185-12-001", "answers": [ { "text": "手取川ダム", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "妙見堰旧建設省の河川管理部局と道路管理部局と、またどことの共同事業で建設されましたか。", "id": "tr-185-12-002", "answers": [ { "text": "東日本旅客鉄道", "answer_start": 331, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "北陸地方を流域に持つ河川は融雪による豊富な水量、北アルプスや三国山脈といった急峻な山岳地帯を流れるため急流かつ高落差であるという水力発電の好条件を備える河川が多く、大正時代から水力発電事業が各河川で盛んに実施された。だが水力発電に適した河川は大雨が降れば容易に洪水を引き起こし、信濃川の戌の満水や横田切れなど流域に甚大な被害を与える水害を度々もたらしていた。こうした中で実施された国直轄の河川事業で早期に行われたものとして信濃川大河津分水事業が挙げられる。享保年間より構想された分水計画は1896年7月22日の横田切れを機に急速に進められ、放水路である大河津分水と信濃川の流量を調節する大河津洗堰が1922年完成する。しかし1927年の洪水で分水側の堰が破壊されたことから、1931年大河津可動堰が完成し分水本来の目的が強化された。しかし完成から70年以上経過して老朽化が著しく、治水安全上施設を改良する必要性が生じた。このため2000年に大河津洗堰が改築され、続いて大河津可動堰の改築が2014年にそれぞれ実施された。何れも旧堰地点とは別に新堰を建設し、旧堰の機能を継承・向上させる目的である。", "qas": [ { "question": "大河津洗堰はいつ完工されましたか。", "id": "tr-185-13-000", "answers": [ { "text": "1922年", "answer_start": 299, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大河津洗堰の分水側の堰が洪水で破壊されたのはいつですか。", "id": "tr-185-13-001", "answers": [ { "text": "1927年", "answer_start": 312, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "戦後、国土総合開発法に基づく特定地域総合開発計画のうち、北陸地方の河川に関連するものとしては只見川を中心とした阿賀野川、信濃川水系が対象の只見特定地域総合開発計画、神通川、常願寺川、庄川水系を対象とした飛越特定地域総合開発計画があるが、何れも主目的は電力会社が事業主体の水力発電であり治水は常願寺川の砂防事業程度であった。活発な水力発電開発により黒部ダムを筆頭に日本屈指の規模を持つダムが多く建設されたが、他地域で盛んに実施されていた河川総合開発事業に基づく治水が主目的の多目的ダム事業は一級河川では富山県が神通川水系の支流で実施した程度であった。しかし1967年に新潟県下越地方・山形県置賜地方を襲った羽越豪雨は特に荒川流域に致命的な被害を与え、1969年8月の前線による集中豪雨は信濃川・黒部川流域に大きな被害をもたらした。これら水害を機に新たな河川整備が計画され、荒川では二級河川だった河川等級を1968年に一級河川に昇格させ大石・横川ダムが、信濃川水系では関屋分水・蒲原大堰などといった下流部治水事業に加え支流魚野川流域に三国川ダムと犀川流域に大町ダムが建設され、水力発電専用ダムしか存在しなかった黒部川水系にも宇奈月ダムが建設された。一方石川県最大の河川・手取川では手取川ダムを巡り旧建設省の治水事業、電源開発・北陸電力の水力発電事業、石川県による水道事業が競合していたが一本化され、河川法第17条に基づき四事業者の共同事業による手取川総合開発事業として1979年完成した。", "qas": [ { "question": "只見特定地域総合開発計画と飛越特定地域総合開発計画の主目的は水力発電ですか、それとも治水ですか。", "id": "tr-185-14-000", "answers": [ { "text": "水力発電", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "新潟県下越地方・山形県置賜地方に致命的な被害を与えた羽越豪雨は、いつ発生しましたか。", "id": "tr-185-14-001", "answers": [ { "text": "1967年", "answer_start": 277, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "内閣府沖縄総合事務局管内では既設ダム8基、施工中ダム1基の合計9基が直轄管理・施工されている。沖縄県は九州地方整備局の管轄外であり、直轄ダムの施工と管理は沖縄総合事務局が行っている。1972年の沖縄返還により沖縄の施政権は琉球列島米国民政府より日本政府へと継承された。しかし日本本土に比べ沖縄県のインフラストラクチャー整備は遅れており、本土とは別に国の強力な支援による一体的な措置を講じる必要性が生じた。復帰前年に現在の沖縄振興特別措置法の前身に当たる沖縄振興開発特別措置法が成立し、沖縄返還後の1972年5月15日には沖縄開発庁と地方支分部局である沖縄総合事務局が設置され、2001年の省庁再編により現在の内閣府沖縄総合事務局となった。沖縄総合事務局は北海道開発局と同様に道路、河川、農地開発などの施策を一体的に実施する役割を持ち、国土交通省地方整備局の業務は沖縄総合事務局開発建設部が担当している。", "qas": [ { "question": "内閣府沖縄総合事務局管内でのダムは施工中のダムまで合わせて、全部でいくつありますか。", "id": "tr-185-15-000", "answers": [ { "text": "9基", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "沖縄総合事務局管内で中止されたダム事業は3ダム存在する。最初に中止された座津武ダムは1992年より計画されたが、2003年に国土交通省が事業再評価を行い中止された。比地ダムと奥間ダムは沖縄本島北西部を流れる比地川水系と大保川水系に3箇所の多目的ダムを建設し、沖縄本島の水供給を補強する目的で計画された沖縄北西部河川総合開発事業において、比地川水系の治水と沖縄本島への利水供給を目的に1987年より計画された。しかし利水事業者である沖縄県企業局が事業から撤退、2010年に両ダムは事業が中止された。ただし残る大保ダムについては両ダムが中止された翌年の2011年に完成している。", "qas": [ { "question": "座津武ダム、比地ダム、奥間ダムのうち、最初に中止されたダムは何?", "id": "tr-185-16-000", "answers": [ { "text": "座津武ダム", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "大保ダム、座津武ダム、比地ダム、奥間ダムのうち、完成されたダムは何?", "id": "tr-185-16-001", "answers": [ { "text": "大保ダム", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "座津武ダム、比地ダム、奥間ダムのうち、最も遅く計画されたのはどれですか。", "id": "tr-185-16-002", "answers": [ { "text": "座津武ダム", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "九州地方整備局管内で中止されたダム事業としては、旧建設省時代を含めると11ダム事業がある。筑後川、緑川、大野川水系に中止事業が集中しているのが特徴である。九州最大の河川・筑後川水系では昭和28年西日本水害を機に筑後川改訂改修計画が全面変更になり、1958年に筑後川水系治水基本計画が策定された。これにより松原・下筌ダムが建設されたが、両ダム建設計画が決定するまで複数地点においてダム計画が立案されていた。これらの中で着手に至ろうとしていたダム計画に久世畑ダム計画がある。松原ダムよりも下流、現在の国道212号千丈橋付近に高さ79メートル、総貯水容量1億900万立方メートルのダムを建設する計画であり、筑後川上流のダム計画地点5箇所で真っ先に検討された地点であった。ところが水没戸数が573戸にも及び1953年10月には日田郡大山村が村民大会を開いてダム建設絶対反対を決議した。この結果、久世畑ダム計画は松原ダム計画へ変更となり、現在に至る。また下筌ダムの前身であった簗瀬ダム計画は、地質的な問題が解決できず調査自体が中断された。さらに1969年の北部九州水資源開発マスタープランにおいて、筑後川本流の杖立温泉付近に杖立ダム、支流玖珠川最上流部に猪牟田ダムと天ヶ瀬温泉下流付近に玖珠川ダム、花月川流域に3ダムを建設する計画が立てられたが猪牟田ダム以外は立ち消えとなった。猪牟田ダムは1973年より事業に着手したが、灌漑用水供給域である国東半島の灌漑計画が進捗せず、さらにダム予定地の地質問題が解決できなかったことで2000年中止された。現在ダム予定地跡に石碑が建立されている。このほか久留米市を流れる支流・高良川上流に高良川ダムの計画構想が1980年代初頭に持たれていたが、立ち消えとなっている。", "qas": [ { "question": "計画通りだと、久世畑ダムは高さ何メートルに建設される予定だったか。", "id": "tr-185-17-000", "answers": [ { "text": "高さ79メートル", "answer_start": 260, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "計画通りだと、久世畑ダムの設立によって没水する戸数はいくらに予想されましたか。", "id": "tr-185-17-001", "answers": [ { "text": "573戸", "answer_start": 341, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "久世畑ダムに対する建設絶対反対が決議されたのはいつですか。", "id": "tr-185-17-002", "answers": [ { "text": "1953年10月", "answer_start": 349, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "九州地方整備局管内では既設ダム・堰16基、工事中・再開発中ダム6基の合計22基を直轄管理・施工している。なお沖縄県は沖縄振興特別措置法に基づき国直轄河川事業は内閣府沖縄総合事務局が担当しているため、九州地方整備局の管轄外である。台風の常襲地帯である九州地方は、古くから加藤清正や成富茂安などによる治水事業が手掛けられており、流域の治水に寄与していた。だが1953年6月に九州北部を襲った梅雨前線豪雨・昭和28年西日本水害はそれら営々と積み重ねた治水事業をご破算にし、死者・行方不明者1,001名を出す戦後九州最悪の水害となった。この水害を契機に、旧建設省や九州の各県は河川総合開発事業を計画し、多目的ダムの建設に乗り出した。", "qas": [ { "question": "昭和28年の西日本水害による死者・行方不明者は何人にいたるか。", "id": "tr-185-18-000", "answers": [ { "text": "1,001名", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1953年は昭和何年ですか。", "id": "tr-185-18-001", "answers": [ { "text": "昭和28年", "answer_start": 200, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "九州最大の河川である筑後川水系では1949年に筑後川改訂改修計画が策定され、筑後川支流の玖珠川と津江川に治水ダムを建設する計画が立案された。しかし昭和28年の西日本水害を受けて全面改訂され、1958年に筑後川水系治水基本計画を定め、大規模堤防建設・放水路整備などと共に多目的ダムによる治水計画が加わる。検討の結果、筑後川本流に松原ダムと支流津江川に下筌ダムが計画され、1972年に完成した。だがこの時期は高度経済成長期に当たり、九州最大の都市・福岡市を中心とする福岡都市圏の人口増加や北九州工業地帯の拡充、さらに筑後平野の農地拡大による農業用水不足といった利水に対する問題が発生した。これに対処すべく1964年筑後川水系は水資源開発促進法に基づく水資源開発水系に指定され、以降水資源開発公団が河川総合開発を主に担当し江川、寺内、筑後大堰、大山といったダム・堰を施工・完成させた。一方建設省は公団事業とは別に筑後川と佐賀県を流れる嘉瀬川を連結する導水路・佐賀導水事業に1974年より着手した。これは筑後川、城原川、巨勢川、嘉瀬川を水路でつないで内水氾濫防除を含む洪水調節と、流域市町村に対する上水道供給、さらに水質汚濁が進行した佐賀市内の河川へ河川浄化用水を供給するなどの目的を持った、河川の流量を用水路で調節する「流況調整河川事業」である。佐賀導水事業の中で、巨勢川や周辺の中小河川の洪水を貯留し、ポンプで嘉瀬川へ排水する治水目的を有した巨勢川調整池が建設され、2009年導水路と共に完成した。また日田市への上水道供給や筑後川の流量改善を図る目的で1977年より松原・下筌ダム再開発事業が行われ、1986年に完成している。", "qas": [ { "question": "筑後川改訂改修計画が決定されたのはいつですか。", "id": "tr-185-19-000", "answers": [ { "text": "1949年", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "筑後川改訂改修計画が前面修訂されたきっかけは何でしょうか。", "id": "tr-185-19-001", "answers": [ { "text": "昭和28年の西日本水害", "answer_start": 73, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "昭和28年西日本水害で大きな被害をもたらした筑後川以外の遠賀川、矢部川、山国川、嘉瀬川、六角川、菊池川水系といった一級河川では、上水道・工業用水道需要の増大に対処するため、利水目的の総合開発を治水事業と一体化して促進させる目的で建設省、農林省、通商産業省の地方支分部局、九州・山口経済連合会と地元経済団体、そして福岡県・佐賀県・熊本県・大分県が北部九州水資源開発協議会を1963年に結成した。北部九州を流れる7水系の河川総合開発指針である北部九州水資源開発マスタープランを1969年に策定した。マスタープランで提示されたダム計画候補の中で、後に治水事業計画である工事実施基本計画にも明記され直轄事業として施工、完成したダム事業としては遠賀川河口堰、耶馬溪ダム、嘉瀬川ダム、六角川河口堰、竜門ダムがあり、平成大堰を含め北部九州の治水・利水に資している。これ以外では鹿児島県最大の河川である川内川に1965年鶴田ダムが完成、九州最大の直轄ダムとして治水のほか多目的ダムに付随する水力発電所としては出力が九州では最大の川内川第一発電所による水力発電が行われている。また緑川には本流に緑川ダム、松浦川には支流の厳木川に厳木ダムがそれぞれ完成し、流域の治水と利水に貢献している。さらに塩害防除や河川流下能力の向上を図るため堰を新築・改修する事業なども行われ、瀬高堰・松原堰、嘉瀬川大堰、松浦大堰、六間堰が建設または改築された。", "qas": [ { "question": "北部九州水資源開発マスタープランが決定されたのはいつですか。", "id": "tr-185-20-000", "answers": [ { "text": "1969年", "answer_start": 236, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鶴田ダムはいつ完工されましたか。", "id": "tr-185-20-001", "answers": [ { "text": "1965年", "answer_start": 397, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "九州最大の直轄ダムは何ですか。", "id": "tr-185-20-002", "answers": [ { "text": "鶴田ダム", "answer_start": 402, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "四国地方整備局管内における中止したダム事業は、旧建設省時代を含めると11ダム事業に上る。大別すると吉野川総合開発計画の策定において計画され、中止もしくは立ち消えとなった事業と、1990年代以降の公共事業見直し政策において中止となった事業に分けられる。前者については、1949年の吉野川改訂改修計画において早明浦ダムが初めて計画された際に現在のさめうら湖を二分割する形でダム計画が立案され、現在吉野川と瀬戸川が合流する直下に桃ヶ谷ダムを計画したが、早明浦ダム計画に統合された。その後吉野川総合開発計画において、吉野川水系のダム計画は吉野川本流に早明浦ダムと、名勝である小歩危出口付近に計画された小歩危ダムを軸として銅山川には現在の賢見温泉付近に岩戸ダムを建設し、それらの水を池田ダムより香川県へ導水するというものであった。小歩危・岩戸の2ダムは何れも現在の早明浦ダムに匹敵する規模の貯水容量を有し、殊に小歩危ダムは原案の通り完成すれば小歩危、大歩危のみならず県境を越えて現在の高知県長岡郡本山町中心部まで水没する長大な人造湖を形成する。その後事業者の建設省、経済安定本部、電源開発により様々な案が提出、検討されたがこの中には小歩危・岩戸両ダムの統合案として大佐古ダム計画という超巨大ダム計画も存在した。これは吉野川と祖谷川合流点付近に高さ146メートルのダムを建設するものだが、貯水容量は実に6億7600万立方メートルと現在日本最大の人造湖を擁する岐阜県の徳山ダムを凌駕する規模となる。しかし最終的には早明浦・池田の両ダムを軸にした総合開発計画に修正され、小歩危ダム計画は電源開発が水力発電専用に規模を大幅に縮小したものの大歩危・小歩危水没に対する反対が強く、1971年9月16日の第56回電源開発調整審議会において小歩危ダムを取水元とする吉野川第一・第二発電所計画が中止されたことで、ダム事業も中止された。また岩戸ダム計画は自然消滅したが、ダム上流部に新宮ダムが1975年完成している。", "qas": [ { "question": "テキストに従うと、現在日本最大の人造湖はどんなダムに属されていますか。", "id": "tr-185-21-000", "answers": [ { "text": "徳山ダム", "answer_start": 627, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第56回電源開発調整審議会はいつ行われましたか。", "id": "tr-185-21-001", "answers": [ { "text": "1971年9月16日", "answer_start": 729, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "四国地方整備局管内では管理中のダムが5基、施工・ダム再開発事業中のダムが4基、合計9基のダムが管理・施工されている。なお、管内の直轄ダムの型式は全て重力式コンクリートダムであり、地方整備局では唯一である。四国地方における直轄の河川開発は、四国最大の河川である吉野川において開始された。1949年に内閣経済安定本部は日本の主要10水系において、大規模治水計画の策定を旧建設省に求めた。10水系に吉野川水系も対象として挙げられ、吉野川改訂改修計画が成立する。この時に吉野川水系でもダムによる治水計画が導入され、吉野川本流に現在「四国のいのち」と称される四国最大のダム・早明浦ダムが、支流の銅山川に柳瀬ダムが計画された。さらに翌1950年には、治水のみならず灌漑や水力発電といった吉野川水系の河川総合開発計画が立案され、経済安定本部、建設省、農林省、通商産業省、電源開発、四国電力および四国四県が参加する吉野川総合開発計画が開始された。", "qas": [ { "question": "四国地方整備局管内では施工及び再開発事業中のダムまで合わせて、全部で幾つのダムがありますか。", "id": "tr-185-22-000", "answers": [ { "text": "9基", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "四国地方整備局管内では管理中のダムと施工・再開発中のダムと、どちらの方が多いですか。", "id": "tr-185-22-001", "answers": [ { "text": "管理中のダム", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "中国地方整備局管内における中止したダム事業は、旧建設省時代を含めると9ダム事業がある。中国地方で国直轄のダム計画が最初に立てられた江の川では1947年に内閣経済安定本部が河川総合開発調査を実施し、江の川本流に3ダム、支流西城川に1ダムを建設する計画が1949年に立案された。このうち島根県邑智郡都賀行村に計画された治水と灌漑、出力11万9000キロワットの水力発電を目的とする都賀行ダムは、総貯水容量が5億8010万立方メートルと岐阜県の徳山ダムに匹敵する巨大ダム計画だった。だが建設が行われると水没範囲は県境を越えて広島県三次市にまで達し、水没戸数1,614戸という沼田ダム計画に匹敵する大規模な水没補償となる。このため経済性や地元への影響などが勘案され4ダム計画の調査は1952年を以って打ち切りとなり、全て白紙となった。しかし白紙となった事業のうち江の川本流の下土師ダム計画は後に復活し、土師ダムとして完成している。また、斐伊川水系総合開発の一環として斐伊川筋と支流の三刀屋川に合計3ダムを建設する計画も立ち消えとなったが、尾原ダム計画は昭和47年7月豪雨により斐伊川・神戸川総合開発計画の主要事業として復活し、完成している。", "qas": [ { "question": "尾原ダム計画が斐伊川・神戸川総合開発計画の主要事業として復活したきっかけは何ですか。", "id": "tr-185-23-000", "answers": [ { "text": "昭和47年7月豪雨", "answer_start": 472, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一方、太田川本流に計画されていた吉和郷ダムは、1975年策定の太田川水系工事実施基本計画において温井ダムと共に太田川の治水・利水を担う役割を持っていたが、調査のみで立ち消えとなった。ところが2005年の台風14号で太田川水系が大きな被害を受けたのを機に治水計画の見直しが検討された。中国地方整備局の諮問機関である太田川河川整備懇談会では治水・利水の新指針となる太田川水系河川整備計画策定作業において、温井ダム以外は発電用ダムしかない太田川水系既設ダム群の運用改善検討に加え、太田川本流を始め滝山川、柴山川などの主要支流における治水目的を持つ新規のダム建設について可否を検討した。過去の豪雨における降雨特徴や流域における宅地の分布状況、環境や景観への影響などを参考に検討した結果、台風14号の主要な降雨地帯でもある太田川本流や柴山川、滝山川といった上流域北西部・南西部が建設に有利との見解をまとめた。建設が有利とされた太田川上流域にかつての吉和郷ダム計画地点があることから、吉和郷ダム計画復活を匂わせる新聞報道もなされたが、現状では計画の復活があるかは未定である。", "qas": [ { "question": "太田川水系工事実施基本計画と台風14号と、どちらの方が先ですか。", "id": "tr-185-24-000", "answers": [ { "text": "太田川水系工事実施基本計画", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "なお、中国地方の一級河川において天神川、高津川、旭川、高梁川の各水系には直轄ダムが建設されておらず、このうち高津川水系には本支流を含めダムが一つも建設されていない。これは流域の水需要が他水系に比べ河川水のほか地下水などでも賄えるため逼迫しておらず、河川総合開発の必要性に乏しいためであり国土交通省が策定した高津川水系河川整備計画においても治水事業は堤防整備と河道掘削で対処すると明記され、ダム計画は将来的にも考えられていない。残る水系のうち天神川水系を除く河川では流域の地方自治体により旭川・湯原、千屋などの補助多目的ダムが建設されている。中国地方の直轄ダムにおける技術的特徴としては、島地川ダム施工におけるRCD工法の導入が挙げられる。この工法は、セメント量を極力少なくした超固練りのコンクリートを、ブルドーザーや振動ローラといった重機で締め固める工法であり、アメリカ陸軍工兵司令部やパキスタンのタルベラダム放流トンネルで試験的に導入されていたが、島地川ダムにおいて、世界で初めて本格的な施工法として採用した。事業費削減や工期短縮に有用であり、日本におけるダムの主流な施工法の一つになっている。", "qas": [ { "question": "セメント量を極力少なくした超固練りのコンクリートを、ブルドーザーや振動ローラといった重機で締め固める工法で、島地川ダムにおいて世界で初めて本格的な施工法として採用された工法は何ですか。", "id": "tr-185-25-000", "answers": [ { "text": "RCD工法", "answer_start": 304, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "緑茶", "paragraphs": [ { "context": "緑茶は、チャノキの葉から作った茶のうち、摘み取った茶葉を加熱処理して発酵を妨げたものである。もしくはそれに湯を注ぎ、成分を抽出した飲料のこと。\n\n中国は全世界の緑茶の約75パーセントを供給する主要生産国である。中国国内で生産される茶類のうち60パーセント以上を緑茶類が占め、多くの人々が緑茶を常飲している。また、日本茶(煎茶、ほうじ茶、抹茶など)はその多くが緑茶であり、緑茶は日本でもっとも良く飲まれている茶である。", "qas": [ { "question": "チャノキの葉から作った茶のうち、摘み取った茶葉を加熱処理して発酵を妨げたものを何といいますか。", "id": "tr-186-00-000", "answers": [ { "text": "緑茶", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "全世界の緑茶の約75パーセントを供給する国はどこですか。", "id": "tr-186-00-001", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 73, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中国国内で生産される茶類のうち60パーセント以上を占めているのは何ですか。", "id": "tr-186-00-002", "answers": [ { "text": "緑茶類", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "紀和町花井", "paragraphs": [ { "context": "紀和町花井(きわちょうけい)は、三重県熊野市の大字だ。\n熊野市が公表する2019年(令和元年)8月1日現在の人口は0人であり、元住民が地区外の本宅から通いながら住宅や墓を維持している。\n北山川を挟んで向かい合う熊野川町九重(和歌山県新宮市)とは密接なつながりがあり、近世の初頭には同じ村として扱われていた。\n住民はいなくなってしまったが、地名にまつわる百夜月の伝説や優れた自然に魅せられて訪問する者がある。", "qas": [ { "question": "紀和町花井の現在の居住人数は何人ですか?", "id": "tr-187-00-000", "answers": [ { "text": "0人", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "紀和町花井は何市にある地名ですか?", "id": "tr-187-00-001", "answers": [ { "text": "熊野市", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "熊野市の南西部、紀和町の西部に位置し、北山川上流部の左岸(東岸)の山麓に展開する。\n北は奈良県十津川村、西は和歌山県新宮市(旧熊野川町)と接する県境の集落である。\n三重県に所属するものの1984年(昭和59年)まで道路が整備されず、和歌山県側から北山川を船で渡らねばならなかった。\n北は奈良県吉野郡十津川村竹筒(たけとう)および和歌山県新宮市熊野川町嶋津、東は三重県熊野市紀和町湯ノ口・紀和町大河内(おこち)、南は三重県熊野市紀和町小船、西は和歌山県新宮市熊野川町四瀧(したき)・熊野川町九重と接する。", "qas": [ { "question": "紀和町花井と北側で接している村は何ですか?", "id": "tr-187-01-000", "answers": [ { "text": "十津川村", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "紀和町花井の西隣りに位置してる市は何ですか?", "id": "tr-187-01-001", "answers": [ { "text": "新宮市", "answer_start": 58, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "紀和町花井は何年まで道路整備されなかったのですか?", "id": "tr-187-01-002", "answers": [ { "text": "1984年", "answer_start": 93, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "百夜月(ももよづき、北緯33度52分9.6秒東経135度51分36.2秒)は、三重県熊野市紀和町花井にある小地名だ。\n江戸時代までは九重村(現・和歌山県新宮市熊野川町九重)の所属であったが、明治政府が北山川の左岸を三重県、右岸を和歌山県としたため、花井の一部になった。\n2006年(平成18年)に最後の住民が脳梗塞で倒れ、病院に緊急搬送されて以降、常住者はいない。\n2020年(令和2年)現在、最後の住民であった男性の息子が毎週通っている。\n最盛期には10数戸あった百夜月には、1軒の住宅とその周囲の庭(畑)、紅梅寺が残るのみで、未だに船でしか到達することができない。\n庭は上述の男性によって維持・管理されており、その美しさに魅せられる人や「百夜月」という地名に惹(ひ)かれた人が時折百夜月を訪れている。", "qas": [ { "question": "百夜月はどこに所在しているの?", "id": "tr-187-02-000", "answers": [ { "text": "三重県熊野市紀和町花井", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "百夜月の最後の住民は何年にその地を離れましたか?", "id": "tr-187-02-001", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 135, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "現在、百夜月には何軒の住宅がありますか?", "id": "tr-187-02-002", "answers": [ { "text": "1軒", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "百夜月が花井の一部になる以前はどこの村に属していたの?", "id": "tr-187-02-003", "answers": [ { "text": "九重村", "answer_start": 66, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "「花井」という地名は鎌倉時代には既に存在したとされる。\n近世以前は日足村(現・和歌山県新宮市熊野川町日足)に拠点を構えた日足氏の所領であった。\n江戸時代には紀伊国牟婁郡川内組に属し、当初は紀州藩の配下であったが、元和5年(1619年)から新宮城主・水野氏の所領となった。\nまた花井は三之村組・川内組・敷屋組の3組から成る花井荘に所属していた。\nなお江戸時代初頭の花井は九重村の枝郷とされ、独立した花井村となったのは寛文6年(1666年)のことである。\n当時の花井村は近代以降の花井とは範囲が異なり、九重村の南にある村という位置付けで、北山川を挟んで右岸・左岸の両方に広がる集落を「花井村」と呼んでいた。", "qas": [ { "question": "近世以前に花井を領地としていた人は誰でしたか?", "id": "tr-187-03-000", "answers": [ { "text": "日足氏", "answer_start": 60, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "花井村が独立した村となったのは西暦何年でしたか?", "id": "tr-187-03-001", "answers": [ { "text": "1666年", "answer_start": 212, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "花井村では慶長の頃に製紙技術が伝えられ、「花井紙」として地域の産業になった。\n村高は『新宮領分見聞記』によると九重村の分を含めて80石、『旧高旧領取調帳』によると33石であった。\n花井村には北山一揆の鎮圧の功で200石を得た僧侶の長訓の屋敷があった。\n慶応4年(1868年)、新宮藩領となり、同年の『紀勢和州御領分御高村名帳』による村高は65石であった。", "qas": [ { "question": "花井村の村高が多く記録されていたのは『新宮領分見聞記』と『旧高旧領取調帳』のどちらですか?", "id": "tr-187-04-000", "answers": [ { "text": "『新宮領分見聞記』", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『紀勢和州御領分御高村名帳』、『新宮領分見聞記』、『旧高旧領取調帳』の中で花井村の村高が多く記されているのはどれ?", "id": "tr-187-04-001", "answers": [ { "text": "『新宮領分見聞記』", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『紀勢和州御領分御高村名帳』、『新宮領分見聞記』、『旧高旧領取調帳』の中で花井村の村高が2番目に多く記されているのはどれ?", "id": "tr-187-04-002", "answers": [ { "text": "『紀勢和州御領分御高村名帳』", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "慶長の頃に花井村で地域の産業になった物は何でしたか?", "id": "tr-187-04-003", "answers": [ { "text": "「花井紙」", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "江戸時代の花井村では和紙生産が盛んで、「花井紙」として知られていた。\n隣接する九重村でも生産され、同じく花井紙と呼ばれた。\n花井紙は関ヶ原の戦いで西軍方に付いて敗北した武将の姫が、貞流尼公という名の尼僧となって花井に住み、布教の傍ら紙漉きの方法を伝授し、生産方法が普及したと伝えられる。\n花井紙生産は江戸時代を通して花井の村人の生業ないしは副業として続き、永代保存用の証文、紙衣、蚊帳(紙帳)、布団、和傘などに利用された。\n特に花井紙の紙衣は『和漢三才図会』で奥州白石、駿州ノ阿部川、摂州大坂と並び最高品質であると評されたほどで、熊野市育生町尾川に伝わる大庄屋文書群の中に「花井紙の紙衣を3着送ってほしい」という江戸からの書状が含まれている。", "qas": [ { "question": "江戸時代に花井村と九重村で生産されていた和紙の名前は何ですか?", "id": "tr-187-05-000", "answers": [ { "text": "「花井紙」", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "花井紙の生産方法を伝授した人の名前は何?", "id": "tr-187-05-001", "answers": [ { "text": "貞流尼公", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "花井紙を生産していた村は花井村とどこですか?", "id": "tr-187-05-002", "answers": [ { "text": "九重村", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1881年(明治14年)に東京・上野公園で開かれた第2回内国勧業博覧会に「十文字紙」として花井紙が出品されたという記録がある。\nこの記録によれば、花井紙の原料は花井村で生産したコウゾの皮であった。\nしかし近代以降、洋紙・洋傘の普及により市場を失い、花井紙の生産は衰退し、第二次世界大戦前までには全戸が廃業した。", "qas": [ { "question": "花井紙の原料は何?", "id": "tr-187-06-000", "answers": [ { "text": "コウゾの皮", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第2回内国勧業博覧会に出品された「十文字紙」とは実は何でしたか?", "id": "tr-187-06-001", "answers": [ { "text": "花井紙", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "花井紙の生産が衰退したのはいつからですか?", "id": "tr-187-06-002", "answers": [ { "text": "近代以降", "answer_start": 102, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1871年(明治4年)7月、花井村は和歌山県の管轄となったが、同年11月に度会県へ移管し、1876年(明治9年)に度会県が三重県に編入されたことで同県の所属となった。\nこれは、廃藩置県の際に北山川を境に右岸(西岸)を和歌山県、左岸(東岸)を度会県(三重県)にすると決定されたためであり、右岸は九重村、左岸は花井村となった。\n当時の村人は明治政府の意向に対し、従来通り両岸とも花井村とすることを望んだが、要望は聞き入れられず、左岸のみが花井村となった。\nこのため、花井村だった西の峯が九重村に移った一方、九重村だった百夜月が花井村となった。\nまた1879年(明治12年)に牟婁郡が南北に分かたれ、南牟婁郡花井村となり、1889年(明治22年)には周辺村と合併し、上川村の大字となった。", "qas": [ { "question": "九重村と花井村の境界には何がありますか?", "id": "tr-187-07-000", "answers": [ { "text": "北山川", "answer_start": 95, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "廃藩置県が行われる以前は、百夜月はどこの村に属していたの?", "id": "tr-187-07-001", "answers": [ { "text": "九重村", "answer_start": 241, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "廃藩置県によって西の峰はどこの村に移動したの?", "id": "tr-187-07-002", "answers": [ { "text": "九重村", "answer_start": 241, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "一方で花井の子供は北山川対岸(和歌山県側)の九重小学校(1876年〔明治9年〕開校)へ通学し、1908年(明治41年)には九重と花井が共同出資して校舎を新築し、「九重花井尋常小学校」に改称した。\nこの頃の花井では、花井紙の生産は大幅に縮小し、農林業が生業となっていた。\nなお当時の田の面積は1町2反(≒11.9ha)、畑の面積は5町6反(≒55.5ha)であった。\n大正時代になると養蚕が盛んになった。", "qas": [ { "question": "1908年頃の花井にあった田と畑の面積はどちらが広かったですか?", "id": "tr-187-08-000", "answers": [ { "text": "畑", "answer_start": 159, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "大正時代に花井で盛んになった産業は何ですか?", "id": "tr-187-08-001", "answers": [ { "text": "養蚕", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "明治初期頃には花井紙の生産に代わって何の産業が主流となりましたか?", "id": "tr-187-08-002", "answers": [ { "text": "農林業", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "近代のうちに道路の整備はなされず、三重県内の他の集落から孤立していた花井の住民は各自船を所有して、対岸の九重に渡っていた。\nただし棹と櫂を使って船を操るのは難しく、操船技術を持たない住民は操船の可能な住民と相乗りして川を渡っていた。\n相乗りのタイミングが合わず、九重で対岸の自宅を見つめながら半日待った経験を持つ住民もいたという。", "qas": [ { "question": "花井住民の主な移動手段は何でしたか?", "id": "tr-187-09-000", "answers": [ { "text": "船", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "戦後になると九重との間に渡船ができ、交通条件は多少改善された。\nとはいえ北山川が増水すると川を越えることができず、急病人や怪我人が出ても九重の診療所へ連れていくこともできない状況は変わらなかった。\nこのため周辺地域の人々の間では「舟で渡らないと行けない所には嫁に行くな」と言われることもあった。\n1949年(昭和24年)には役場から紹介を受けた人々が百夜月に入植し、山を切り崩し田畑を開拓した。\n百夜月に渡船はなく、子供達は親が漕ぐ木造船で対岸の学校へ通学した。\n1964年(昭和39年)、百夜月に電気が通り、ラジオを付けるとちょうど東京オリンピックを中継していたという。", "qas": [ { "question": "花井の交通状況が少し改善されたのはいつ?", "id": "tr-187-10-000", "answers": [ { "text": "戦後", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "百夜月に初めて電気が通ったのは何年でしたか?", "id": "tr-187-10-001", "answers": [ { "text": "1964年", "answer_start": 232, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1980年(昭和55年)になっても花井には自動車が通れる道路が建設中という有様で、地域住民は和歌山県側から北山川の渡船を利用するしかなかった。\nこの頃、地元の新聞が百夜月の住民が植えた1万株超に及ぶショウブやハスの美しさを紹介して、各地から観光客が訪れるようになった。\n百夜月への交通手段は船しかないため、ショウブなどを植えた住民自らが観光客を船で送迎した。", "qas": [ { "question": "1980年の花井住民の移動手段は何でしたか?", "id": "tr-187-11-000", "answers": [ { "text": "渡船", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1984年(昭和59年)になってようやく林道が開通し、三重県内から花井へアクセスできるようになった。\nしかし百夜月まで道路が整備されることはなかった。\nこの頃には、花井の人口は25人まで減少しており、最後まで残ったのは4世帯のみとなった。\n百夜月の方は1997年(平成9年)時点で2戸4人となっていた。\n最後まで残った4世帯の住民も最終的には花井を離れる選択をし、2人の男性を残して和歌山県新宮市や三重県御浜町・紀宝町へ転居した(挙家離村)。\nこの4世帯は花井にある住宅や墓、ミカン畑を維持するために、盆や正月に帰省するという生活を送るようになった。\n2000年(平成12年)6月25日に実施された第42回衆議院議員総選挙兼参議院議員三重選挙区補欠選挙の際の花井の有権者は10人で、うち花井集落が5人、百夜月が5人であったと中日新聞が報じている。\n投票所は花井の区長宅で、縁側に候補者名を書く記載台と投票箱が置かれ、投票立会人4人は座敷から投票を見守った。\n投票者は7人(すなわち投票率は70%)で、うち3人は百夜月から船で投票に訪れた。", "qas": [ { "question": "1984年頃の花井の人口は何人でしたか?", "id": "tr-187-12-000", "answers": [ { "text": "25人", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1997年当時の百夜月の人口は何人でしたか?", "id": "tr-187-12-001", "answers": [ { "text": "4人", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2000年6月25日に実施された第42回衆議院議員総選挙兼参議院議員三重選挙区補欠選挙の際の花井集落の有権者数は何人でしたか?", "id": "tr-187-12-002", "answers": [ { "text": "5人", "answer_start": 348, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2006年(平成18年)、百夜月の最後の住民であった男性が病で倒れ、故郷に帰ることなく2011年(平成23年)に亡くなった。\n2011年(平成23年)7月には花井の最後の住民であった男性が亡くなり、事実上無人地区となった。\n同年9月3日には台風12号(紀伊半島豪雨災害)が襲来して北山川が氾濫し、花井の住宅が流され、跡にはがれきが残った。\nこの時、住宅を復興すると朝日新聞の取材に答えたのは2世帯にとどまった。\n2020年(令和2年)7月23日、テレビ東京系列のテレビ番組『ナゼそこ?』で、百夜月とそこに暮らす男性が取り上げられた。", "qas": [ { "question": "花井の最後の住民は何年に亡くなりましたか?", "id": "tr-187-13-000", "answers": [ { "text": "2011年", "answer_start": 63, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "花井に常住者はなく、元住民は新宮市や御浜町・紀宝町に生活拠点を置き、墓や元居宅、寺などを維持するために盆・正月に花井へ帰る。\n特に花井の最後の住民であった男性の弟は1か月の半分ほどを花井で寝泊まりして過ごしていたという。\nこの男性は2011年(平成23年)の紀伊半島豪雨災害の時も花井におり、家ごと流されるも何とか生還するという経験をした。", "qas": [ { "question": "紀伊半島豪雨災害は何年に発生しましたか?", "id": "tr-187-14-000", "answers": [ { "text": "2011年", "answer_start": 116, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また百夜月の最後の住民であった男性の息子が毎週百夜月に通い、庭の手入れなどを行っている。\nこの男性は、築70年の自宅に住み、自宅裏から天然水をホースで引いて生活用水とし、近くの川で獲れる天然ウナギを取って食べる。\n男性の父は入院して以降も「集落に戻り花の手入れがしたい」と亡くなる直前まで語っていたことから、父のハスを絶やしたくないと毎週百夜月に通っている。\n百夜月の最寄りのバス停は熊野御坊南海バス(旧・熊野交通)「百夜月」であり、バス停から河原に至る階段を下ると船着き場がある。\n電気は集落内に引かれている。\n北山川で水運が盛んであった頃には、筏師や団平船の乗員として生計を立てる住民が数人おり、中国の鴨緑江へ筏指導に行った者もいたという。", "qas": [ { "question": "百夜月の最寄りのバス停名は何ですか?", "id": "tr-187-15-000", "answers": [ { "text": "「百夜月」", "answer_start": 208, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "百夜月には、次のような地名の由来にまつわる伝説がある。\n昔、紅梅寺に美しい尼僧がおり、村の若い男性の間で憧れの存在となっていた。\nその中の1人が夜に川を渡り尼僧に会いに行こうとするも、月が明るくて船を出せなかった。\n若者は毎晩出航を試みるも月は明るく照らし出し、川を渡ることはできなかった。\nこれを99夜繰り返した末、若者は母に事情を打ち明けた。\n母は「あの方は仏様を守る使命を持っているので、お前が好きになってはいけない。月は村人が悪さをしないように明るく照らしているから、お前が100日待っても無駄だよ。」と息子を諭した。\nこの一件以来、村人はこの地を百夜月と呼ぶようになった。", "qas": [ { "question": "若者が川を渡ろうと試みたのは何夜でしたか?", "id": "tr-187-16-000", "answers": [ { "text": "99夜", "answer_start": 149, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この伝説には、更に次のような地名由来伝説が続く。\n紅梅寺の尼僧は仏法を広めるべく、周囲の村に寺宝を配り、祀ってもらうことにした。\n紅梅寺対岸の村には九重の重箱を、下流の村には花瓶を、上流の村には竹の筒を配った。\nこのため、重箱を贈られた村は九重(後の和歌山県新宮市熊野川町九重)、花瓶を贈られた村は花井(後の三重県熊野市紀和町花井)、筒を贈られた村は竹筒(後の奈良県吉野郡十津川村竹筒)という地名になった。\nこの伝説に登場する尼僧はその後、都から戦を避けて逃れてきた人や素性を明かさずに宿を求めた高僧を受け入れるなどし、次第に年を重ねて静かに息を引き取ったという。", "qas": [ { "question": "紅梅寺の尼僧は下流の村に何を配ったの?", "id": "tr-187-17-000", "answers": [ { "text": "花瓶", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "紅梅寺の尼僧は上流の村に何を配ったの?", "id": "tr-187-17-001", "answers": [ { "text": "竹の筒", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "紅梅寺の尼僧は対岸の村に何を配ったの?", "id": "tr-187-17-002", "answers": [ { "text": "九重の重箱", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2015年(平成27年)6月3日にはこの伝説を題材として、シンガーソングライターの小田純平の歌唱による楽曲「百夜月」(作詞:伊藤美和、作曲:小田純平)が発売された。\n百夜月の地名の由来には上記の伝説のほか、南北朝時代にこの地に住んだ武将・百井安友の名が変化したという異説もある。\nまた、花井についても、華森神社(稲荷社)で気比(けひ)神を祀っていたことに由来するという別の説がある。", "qas": [ { "question": "百夜月の伝説をモチーフとした楽曲は何ですか?", "id": "tr-187-18-000", "answers": [ { "text": "「百夜月」", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「百夜月」の歌い手は誰ですか?", "id": "tr-187-18-001", "answers": [ { "text": "小田純平", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「百夜月」を作詞した人は誰ですか?", "id": "tr-187-18-002", "answers": [ { "text": "伊藤美和", "answer_start": 62, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "異説における百夜月の地名の由来となった人物とは誰ですか?", "id": "tr-187-18-003", "answers": [ { "text": "百井安友", "answer_start": 119, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "陸路で花井に達するには険しい峠越えを行い、林道を30分ほど自動車で走行しなければならない。\nまた、百夜月へは未だに陸路で訪問することはできない。\nこうした交通不便のため住民がいなくなってしまった半面、逆に人々を魅了する要素にもなっている。\n公共交通としては熊野市による「山間部(紀和町)乗合タクシー」があり、予約制で市が指定した目的地に行くか、目的地から自宅に帰る場合に利用できる。\n交通機関というよりは観光目的で就航しているものに、ウォータージェット船がある。\n熊野交通が「世界遺産川の熊野古道ミニ体験クルーズ」と称して和歌山県新宮市熊野川町日足の志古乗船場と百夜月の間を往復する30-40分程度のクルージングを毎日1便提供している。\nこのほか、「百夜月軌道等運搬施設」という名称の物資輸送用の軌道が敷設されている。", "qas": [ { "question": "陸路で花井に行く場合、林道を何分ほど車で走らなければならないですか?", "id": "tr-187-19-000", "answers": [ { "text": "30分ほど", "answer_start": 24, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「世界遺産川の熊野古道ミニ体験クルーズ」はどれくらいの頻度で提供されているの?", "id": "tr-187-19-001", "answers": [ { "text": "毎日1便", "answer_start": 307, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "華森神社(稲荷社)は花井の地名の由来になったという説のある神社。\n祭神は稲荷大明神だ。\n1908年(明治41年)、上川神社に合祀された。\nこれに伴い、華森神社の氏子であった九重在住の住民18戸が九重の厳島神社の氏子になった。", "qas": [ { "question": "華森神社に祀られている神様は何ですか?", "id": "tr-187-20-000", "answers": [ { "text": "稲荷大明神", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "華森神社が上川神社に合祀されたのは何年ですか?", "id": "tr-187-20-001", "answers": [ { "text": "1908年", "answer_start": 44, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "世界遺産", "paragraphs": [ { "context": "世界遺産は、「顕著な普遍的価値」を有する文化遺産や自然遺産などであり、1972年に成立した世界遺産条約に基づき、世界遺産リストに登録された物件を指す。世界遺産条約はユネスコ成立以前、20世紀初頭から段階的に形成されてきた国際的な文化財保護の流れと、国立公園制度を最初に確立したアメリカ合衆国などが主導してきた自然保護のための構想が一本化される形で成立したものである。世界遺産は、政府間委員会である世界遺産委員会の審議を経て決定される。その際、諮問機関として、文化遺産については国際記念物遺跡会議(ICOMOS)が、自然遺産については国際自然保護連合(IUCN)がそれぞれ勧告を出し、両方の要素を備えた複合遺産の場合には、双方がそれぞれ勧告する。潜在的ないし顕在的に、保存にとって脅威となる状況に置かれている遺産は、危機遺産リストに登録され、国際的な協力を仰ぐことになる。それ以外の世界遺産も、定期報告を含む保全状況の確認が、登録後にも行われる。適切な保護活動が行われていないなど、世界遺産としての「顕著な普遍的価値」が失われたと判断された場合には、世界遺産リストから抹消されることもありうる。実際、2007年にはアラビアオリックスの保護区が初めて抹消された物件となった。", "qas": [ { "question": "国際的な文化財保護の流れと自然保護のための構想が一体化されたものが成立したのは、何年ですか?", "id": "tr-188-00-000", "answers": [ { "text": "1972年", "answer_start": 35, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "顕著な普遍的価値を有する文化遺産や自然遺産などの登録は、どの会により決定されるの?", "id": "tr-188-00-001", "answers": [ { "text": "世界遺産委員会", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "国際記念物遺跡会議と国際自然保護連合の双方が勧告を出す遺産のことは、何か?", "id": "tr-188-00-002", "answers": [ { "text": "複合遺産", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "世界遺産としての顕著な普遍的価値が失われたと初めて判断されたのは、何か?", "id": "tr-188-00-003", "answers": [ { "text": "アラビアオリックスの保護区", "answer_start": 506, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "その一方で、世界遺産条約締約国は190か国を超え、2015年には世界遺産リスト登録物件が1,000件を超えた。世界遺産条約は最も成功した国際条約と呼ばれることもしばしばであるが、反面、その登録件数の増加に対しては、保護・管理といった本来の趣旨に照らして懸念を抱く専門家たちもいる。のみならず、専門家の勧告を覆す政治的決定の増加、都市開発と遺産保護の相克、過度の観光地化など、知名度が高くなったからこその問題も持ち上がっている。また、複数国で共有する「国境を越える世界遺産」は国際平和に貢献しうるものではあるが、領土問題や歴史認識が関わる審議では、国際的あるいは国内的に物議をかもすこともあり、武力衝突に繋がったことさえある(タイとカンボジアの国境紛争)。世界遺産を守っていくためには教育や広報の重要性も指摘されており、ユネスコは若者を対象にした教材の開発や国際フォーラムの開催なども実施してきた。大学などの研究者には「世界遺産学」という学際的な学問を提唱する者たちもおり、大学・大学院によっては世界遺産に関する学科や専攻が設置されている場合があるほか、関連する講座が開講されている大学もある。世界遺産は有形の不動産を対象としており、同じユネスコの遺産でも、無形文化遺産や世界の記憶(世界記憶遺産)とは異なる制度である。ただし、日本語の文献や報道では、これらがまとめて「ユネスコ三大遺産事業」などと呼ばれることもある。", "qas": [ { "question": "世界遺産リスト登録物件が1,000件を超えたのは、何年のこと?", "id": "tr-188-01-000", "answers": [ { "text": "2015年", "answer_start": 25, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "世界遺産をめぐった武力衝突としてこの文書で紹介されているのは、タイとどの国の間でのことですか?", "id": "tr-188-01-001", "answers": [ { "text": "カンボジア", "answer_start": 315, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "世界遺産を守っていくために提唱された学問は、何か?", "id": "tr-188-01-002", "answers": [ { "text": "世界遺産学", "answer_start": 409, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本では世界遺産と無形文化遺産、世界の記憶をまとめて呼ぶこともあるが、その呼称とは何か?", "id": "tr-188-01-003", "answers": [ { "text": "ユネスコ三大遺産事業", "answer_start": 584, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ユネスコの第8代事務局長松浦晃一郎は2008年に世界遺産について叙述した際、1978年から1991年を「第一期」、1992年から2006年を「第二期」、2007年からを「第三期」と位置づけていた。以下ではこの区分に準じて、世界遺産の歴史を叙述する。国際的に文化遺産を保護しようという動きは、戦時における記念建造物などの毀損を禁じた1907年ハーグ条約から始まったとされる。その後、レーリッヒ条約(英語版)、アテネ憲章なども整備されたが、第一次世界大戦、第二次世界大戦では文化財にも多大な損害がもたらされた。1945年に国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)が設立されると、その憲章には、「世界の遺産である図書、芸術作品並びに歴史及び科学の記念物の保存及び保護を確保し、且つ、関係諸国民に対して必要な国際条約を勧告すること」(第1条・抜粋)と明記された。ユネスコは文化遺産保護の制度を整備していき、1951年には「記念物・芸術的歴史的遺産・考古学的発掘に関する国際委員会」が設立された。この委員会の勧告をもとに、ユネスコ総会での採択を踏まえて1959年に設立されたのが、文化財保存修復研究国際センター(英語版)(ICCROM)である。そして、国際委員会そのものは、1931年のアテネ憲章を発展的に継承したヴェネツィア憲章(1964年)を踏まえて、1965年に国際記念物遺跡会議(ICOMOS)となった。また、ユネスコが「1907年ハーグ条約」を発展させるために検討した結果を踏まえ、武力紛争の際の文化財の保護に関する条約、いわゆる「1954年ハーグ条約」が採択され、武力紛争の際にも文化財などに対する破壊行為を行うべきでないことが打ち出された。これ以降も、ユネスコは文化財保護に関する勧告や条約を次々と採択していった。", "qas": [ { "question": "ユネスコの第8代事務局長松浦晃一郎は世界遺産の歴史を三つに分けて叙述したが、それでは彼がその区分について叙述した時は、第何期に当たりますか?", "id": "tr-188-02-000", "answers": [ { "text": "第三期", "answer_start": 85, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "松浦晃一郎が第8代事務局長に務めた機関は、何年設立されたの?", "id": "tr-188-02-001", "answers": [ { "text": "1945年", "answer_start": 253, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1964年の憲章により、国際記念物遺跡会議となった委員会は、何年に設立されたものか?", "id": "tr-188-02-002", "answers": [ { "text": "1951年", "answer_start": 397, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1951年に設立された委員会が1965年に新たな機関として改設されたのは、何年にあった憲章によることか?", "id": "tr-188-02-003", "answers": [ { "text": "1964年", "answer_start": 559, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "こうした流れの中で重要だったのが、ヌビア遺跡保存国際キャンペーンである。エジプト政府はナイル川流域でのアスワン・ハイ・ダム建設を1950年代から計画し始めていた。このダムが完成した場合、アブ・シンベル神殿をはじめとするヌビア遺跡が水没することが懸念され、それを受けて1960年から国際キャンペーンが展開されたのである。ヌビア遺跡救済は、ダム建設を決定したエジプト大統領ナセル自身がユネスコに要請したものであったが、スエズ運河国有化に対する欧米諸国の反発、アスワン・ハイ・ダム建設へのソ連の支援といった背景により、難航が予想された。しかし、フランス文化大臣アンドレ・マルローの名演説などもあって、50か国から、総事業費の半額に当たる約4,000万ドルの募金が集まり、日本からも28万ドルが寄せられた(日本政府が1万ドル、朝日新聞社が27万ドル)。成功裏に終わったこのキャンペーンは、その後も続く国際キャンペーンの嚆矢となり、続いて北イタリアの水害を受けてフィレンツェとヴェネツィアの文化財を保護するためのキャンペーンが1966年に行われた。そして、同じ年のユネスコ総会では、世界的価値を持つ文化遺産を保護するための枠組み作りを始めることが決議され、これが世界遺産条約に繋がる土台の一つとなった。これが「普遍的価値を有する記念工作物、建造物群及び遺跡の国際的保護のための条約」と称された案で、1970年のユネスコ総会にて、次回の総会(総会は2年に1回開催)で提出されることが決まった。なお、この案では、国際的な援助が要請される遺産のリストのみが想定されていた。それに対応するのは現在の世界遺産リスト全体ではなく、「危機にさらされている世界遺産リスト」のみといえる。", "qas": [ { "question": "1960年から展開された国際キャンペーンは、何の建設によりヌビア遺跡が水没することを懸念したことにより展開されたのか?", "id": "tr-188-03-000", "answers": [ { "text": "アスワン・ハイ・ダム", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヌビア遺跡保存国際キャンペーンは、どの国の文化大臣の演説により成功することができたのか?", "id": "tr-188-03-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 269, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヌビア遺跡保存国際キャンペーンのための日本からの募金のうち、最も多くの金額を出したのは誰か?", "id": "tr-188-03-002", "answers": [ { "text": "朝日新聞社", "answer_start": 359, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「普遍的価値を有する記念工作物、建造物群及び遺跡の国際的保護のための条約」は、現在の何に当たるか?", "id": "tr-188-03-003", "answers": [ { "text": "「危機にさらされている世界遺産リスト」", "answer_start": 704, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "他方、1948年設立の国際自然保護連合(IUCN)でも、アメリカ合衆国が主導する形で、主として自然遺産保護のための条約作りが進められていた。アメリカではホワイトハウス国際協力協議会自然資源委員会が1965年に「世界遺産トラスト」を提唱し、優れた自然を護る国際的な枠組みが模索されており、その具体化作業がIUCNを通じて行われていたのである。アメリカはイエローストーン国立公園設立(1872年)によって世界で最初に国立公園制度を確立した国であり、大統領リチャード・ニクソンは「環境に関する教書」(1971年)において、国立公園誕生100周年(1972年)を期して、世界遺産トラストを具体化することの意義を説いた。そうしてできたのが、「普遍的価値を有する自然地域と文化的場所の保存と保護のための世界遺産トラスト条約」と称された案で、こちらの案にもりこまれた「世界遺産登録簿」案が現在の世界遺産リストに繋がった。", "qas": [ { "question": "1965年に「世界遺産トラスト」を提唱し、国際自然保護連合の自然遺産保護のための条約作りを主導していた国は、どの国か?", "id": "tr-188-04-000", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 28, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "世界で最初に国立公園制度を確立した国が1965年に提唱したのは、何ですか?", "id": "tr-188-04-001", "answers": [ { "text": "世界遺産トラスト", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アメリカが世界で最初に国立公園制度を確立した国になれたのは、どの国立公園を設立したからか?", "id": "tr-188-04-002", "answers": [ { "text": "イエローストーン国立公園", "answer_start": 175, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現在の世界遺産リストの根源となるのは、何か?", "id": "tr-188-04-003", "answers": [ { "text": "世界遺産トラスト", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "上述の2つの流れは、国際連合人間環境会議(1972年)に先立つ政府間専門会議でのユネスコ事務局長ルネ・マウ(英語版)の提案もあり、一本化されることで合意された。その結果、同年11月16日、パリで開催された第17回ユネスコ総会(議長萩原徹)にて、一本化された「世界の文化遺産および自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)が採択された。翌年アメリカ合衆国が最初に批准し、1975年9月17日に締約国が20か国に達した。これによって発効の要件を満たしたため、3か月後の12月17日に正式に発効した。1976年11月には第1回世界遺産条約締約国会議が開かれた。締約国会議はユネスコ総会に合わせる形で(つまり2年に1回)開催され、世界遺産委員会の委員国選出や世界遺産基金への各国の分担金額の決定が行われる。その第1回会議で最初の世界遺産委員会の委員国が選出され、翌年には第1回世界遺産委員会が開催された。この委員会で採択されたのが、世界遺産登録の基準なども含む「世界遺産条約履行のための作業指針」(TheOperationalGuidelinesfortheImplementationoftheWorldHeritageConvention,以下「作業指針」と略記)であり、この「作業指針」はその後も改定を重ねることとなる。", "qas": [ { "question": "世界遺産委員会の委員国の選出は、何年何月の会議で行われたのか?", "id": "tr-188-05-000", "answers": [ { "text": "1976年11月", "answer_start": 248, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "世界遺産条約締約国会議は何年に1回行われますか?", "id": "tr-188-05-001", "answers": [ { "text": "2年", "answer_start": 301, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1976年11月に行われた会議に参加した国々が締結した条約とは、どの会議で採択された条約なのか?", "id": "tr-188-05-002", "answers": [ { "text": "第17回ユネスコ総会", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "そして、1978年の第2回世界遺産委員会で、エクアドルのガラパゴス諸島や西ドイツのアーヘン大聖堂など12件(自然遺産4、文化遺産8)が、最初の世界遺産リスト登録を果たした(いわゆる「世界遺産第1号」)。翌年の第3回世界遺産委員会では、世界遺産制度のきっかけとなったヌビア遺跡なども含む45件が登録され、一気に5件ずつ登録したエジプトとフランスが保有国数1位となった。この第3回世界遺産委員会は、最初の複合遺産(ティカル国立公園)が誕生した会合であるとともに、直近の大地震で大きな被害を受けたコトルの自然と文化歴史地域(ユーゴスラビア社会主義連邦共和国)が最初の危機遺産リスト記載物件になった会合でもある。その後は、1980年の第4回世界遺産委員会におけるワルシャワ歴史地区登録(後述)など、議論になる案件もあったものの、締約国、登録件数とも増加していった。", "qas": [ { "question": "世界遺産第1号としてリストに登録されたもののうち、この文書で紹介されているもので、西ドイツにあるものは何ですか?", "id": "tr-188-06-000", "answers": [ { "text": "アーヘン大聖堂", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第2回世界遺産委員会と第3回世界遺産委員会のうち、より多くのものが世界遺産として登録されたのはどれなの?", "id": "tr-188-06-001", "answers": [ { "text": "第3回世界遺産委員会", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "最初の危機遺産と最初の複合遺産が誕生したのは、第何回世界遺産委員会でのことか?", "id": "tr-188-06-002", "answers": [ { "text": "第3回世界遺産委員会", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第2回世界遺産委員会では、自然遺産と文化遺産のうち、より多くのものがリストに登録されたのは、どちらか?", "id": "tr-188-06-003", "answers": [ { "text": "文化遺産", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "世界遺産に関する業務の増大を踏まえ、1992年には、世界遺産の事務局に当たる世界遺産センターがユネスコ本部内に設置された。当初はユネスコの文化遺産部との棲み分けが十分になされていなかったが、のちに世界遺産センターは有形の文化遺産を、ユネスコ文化遺産部は主に無形の文化遺産を担当する形で業務分担された。1992年は「作業指針」に文化的景観の概念が導入された年でもある。詳しくは後述するが、この概念は、より多様な文化遺産に世界遺産登録への道を開くものであり、登録件数の多い欧米と、それ以外の地域との間の、不均衡の是正にも寄与することが期待された。1992年は日本が世界遺産条約を批准した年でもあり、先進国では最後にあたる125番目の締約国となった(同年の6月30日に受諾書を寄託、9月30日に発効)。日本の参加が他の国と比べて遅れた理由は、いくつか指摘されている。例えば、文化財保護法などの独自の保護関連法制が整っていて必要性が認識されづらかったこと、参加した場合の煩瑣な行政手続きや国内法の修正作業への懸念があったこと、重要性に対する認識が希薄な中で国会審議の優先順位が高くなかったこと、冷戦下でアメリカを刺激したくなかったこと、世界遺産基金の分担金拠出に関する議論が決着しなかったこと、省庁の縦割り行政の弊害があったことなどが挙げられている。", "qas": [ { "question": "1992年にユネスコ本部内に設置されたもので、のちには主に有形の文化遺産を担当することになったのは、どこなの?", "id": "tr-188-07-000", "answers": [ { "text": "世界遺産センター", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "世界遺産条約の締約国が125か国となったのは、何年ですか?", "id": "tr-188-07-001", "answers": [ { "text": "1992年", "answer_start": 271, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「作業指針」に文化的景観の概念が導入された年に締約国となった国は、どの国か?", "id": "tr-188-07-002", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "世界遺産センターがユネスコ本部内に設置された年に締約国となった国は?", "id": "tr-188-07-003", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "国内では紆余曲折あった日本の参加だが、参加してすぐに重要な議論を本格化させることになる。それは「木の文化をどう評価するか」ということである。日本の世界遺産のうち、最初の文化遺産は姫路城と法隆寺地域の仏教建造物である(いずれも1993年登録)。これらはいずれも解体修理の手法で現代に伝えられてきた建造物であり、基本的にそのような修理を必要としない「石の文化」の評価基準になじまない側面があったために議論となり、それが「真正性に関する奈良文書」の成立に繋がった(後述参照)。これは、アジアやアフリカに多い木、日干し煉瓦、泥の建築物など、多様な世界遺産を増やすことに繋がり、世界遺産の歴史の中で重要な意義を持った。", "qas": [ { "question": "日本の最初の文化遺産が登録されたのは、何年ですか?", "id": "tr-188-08-000", "answers": [ { "text": "1993年", "answer_start": 112, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「真正性に関する奈良文書」とは、どの文化に対する評価基準の議論から発展したものなの?", "id": "tr-188-08-001", "answers": [ { "text": "木の文化", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "木の文化をどう評価するかという議論の本格化と思われる文書は、何か?", "id": "tr-188-08-002", "answers": [ { "text": "「真正性に関する奈良文書」", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "多様な世界遺産を増やすことに繋がり、世界遺産の歴史の中で重要な意義を持つ文書とは何か?", "id": "tr-188-08-003", "answers": [ { "text": "「真正性に関する奈良文書」", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "世界遺産は毎年その件数が増えていく中で、上限に関する議論なども見られ始める(後述)。その一方で、登録物件から「顕著な普遍的価値」が失われた場合などには、その物件は世界遺産リストから抹消される規定が存在していたが、その様な事例は長らく存在していなかった。しかし、2007年の第31回世界遺産委員会でアラビアオリックスの保護区が初めて抹消され、続いて2009年の第33回世界遺産委員会ではドレスデン・エルベ渓谷が抹消された。松浦晃一郎は、最初の抹消事例が出た2007年以降を、保全や保護に対する重要性が一層増した時期と見なしている。そのように様々な課題を抱える一方で、世界遺産の数は増加し続けている。産業遺産や文化の道など、比較的新しい文化遺産のカテゴリーも取り込みつつ、2010年にはハノイのタンロン皇城の中心区域(ベトナムの世界遺産)をもって世界遺産登録件数が900件を突破、2014年にはオカバンゴ・デルタ(ボツワナの世界遺産)の登録をもって1,000件を突破した。2019年の第43回世界遺産委員会終了時点での条約締約国は193か国、世界遺産の登録数は1,121件(167か国)となっている。その締約国数、人気、知名度などから、しばしば国際条約の中でも最も成功した部類に数えられている。", "qas": [ { "question": "世界遺産に登録されるためには、該当の物件は何を有しなければいけないのか?", "id": "tr-188-09-000", "answers": [ { "text": "「顕著な普遍的価値」", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "世界遺産から抹消された2番目の物件は何か?", "id": "tr-188-09-001", "answers": [ { "text": "ドレスデン・エルベ渓谷", "answer_start": 192, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "世界遺産に登録された900番目の物件は何か?", "id": "tr-188-09-002", "answers": [ { "text": "タンロン皇城の中心区域", "answer_start": 345, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "世界遺産に登録された1,000番目の物件は何か?", "id": "tr-188-09-003", "answers": [ { "text": "オカバンゴ・デルタ", "answer_start": 395, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "文化遺産(culturalheritage)は世界遺産条約第1条に規定されており、記念工作物、建造物群、遺跡のうち、歴史上、芸術上あるいは学術上顕著な普遍的価値をもつものを対象としている。しばしば世界文化遺産と呼ばれる。基本的なカテゴリーは上記の3種のままだが、それらに内包されるカテゴリーとして、上述のように1992年に文化的景観の概念が追加され、以降、産業遺産、文化の道など多様なカテゴリーが加わった。文化遺産は研究の深化とともに範囲が広がっており、それゆえICOMOSも、世界文化遺産の一覧は「開いた一覧」となる見通しを示している。自然遺産(naturalheritage)は世界遺産条約第2条に規定されている。その定義では「無生物又は生物の生成物又は生成物群から成る特徴のある自然の地域であって、鑑賞上又は学術上顕著な普遍的価値を有するもの」「地質学的又は地形学的形成物及び脅威にさらされている動物又は植物の種の生息地又は自生地として区域が明確に定められている地域であって、学術上又は保存上顕著な普遍的価値を有するもの」「自然の風景地及び区域が明確に定められている自然の地域であって、学術上、保存上又は景観上顕著な普遍的価値を有するもの」が挙げられている。しばしば世界自然遺産と呼ばれる。文化遺産の場合は、ICOMOSによるテーマ別研究によって多様な文化遺産の模索がなされてきたが、IUCNは少なくとも第39回世界遺産委員会(2015年)の時点では、財政事情から自然遺産のテーマ別研究はしていないことを明かしている。ただし、そもそも自然遺産は文化遺産と違い、その価値の評価は当初から安定していた。IUCNは1982年にはグローバル目録を作成し、自然遺産として登録が望まれる類型の網羅を終えていた。それゆえIUCNは自然遺産(および複合遺産)を「閉じた一覧」とすることを志向し、その限界は250から300と考えられている。", "qas": [ { "question": "文化遺産の基本的なカテゴリーに、産業遺産、文化の道などの多様なカテゴリーが加わったのは、何年のこと?", "id": "tr-188-10-000", "answers": [ { "text": "1992年", "answer_start": 155, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "文化遺産と自然遺産の定義で共通している項目とは、何上の顕著な普遍的価値を有するということか?", "id": "tr-188-10-001", "answers": [ { "text": "学術上", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "IUCNは自然遺産を「閉じた一覧」とすることを志向した一方、文化遺産を「開いた一覧」としたのは、どの機関なの?", "id": "tr-188-10-002", "answers": [ { "text": "ICOMOS", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "IUCNが自然遺産を「閉じた一覧」とすることを志向したことと反対の意味への志向が見られたのは、どの遺産か?", "id": "tr-188-10-003", "answers": [ { "text": "文化遺産", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "複合遺産(mixedheritage)は文化と自然の両方について、顕著な普遍的価値を兼ね備えるものを対象としている。1979年には最初の複合遺産が登録されていたものの、世界遺産条約に直接的な規定はなく、作業指針でも長らく明記されてこなかった。しかし、2005年の改訂の際に「作業指針」第46段落で定義付けられた。複合遺産には最初からそのように登録されたものだけでなく、自然遺産として登録されたものの文化的側面が追認されて複合遺産になったり、逆に文化遺産の自然的側面が追認されて複合遺産になる場合もある。後者に該当する例で最初に登録されたのはカンペチェ州カラクムルの古代マヤ都市と熱帯保護林(メキシコ、2014年拡大)だが、この審議が難航したことを踏まえて、諮問機関の情報交換のやり方などが変更された。内容上の分類ではないが、後世に残すことが難しくなっているか、その強い懸念が存在する登録物件は、危機にさらされている世界遺産リスト(危機遺産リスト,ListofWorldHeritageinDanger)に加えられ、別途保存や修復のための配慮がなされることになっている(世界遺産条約第11条4項および「作業指針」第177段落-第191段落)。危機遺産については、世界遺産条約や「作業指針」でも詳しく規定されており、制度の中核的概念と位置づけられている。世界遺産リストへの推薦が各国政府しか行えないのに対し、危機遺産リストへの登録の場合は、きちんとした根拠が示されれば、個人や団体からの申請であっても受理、検討されることがある。2013年にはシリア内戦などを理由にシリアの世界遺産が6件全て、2016年にはリビア内戦などを理由にリビアの世界遺産が5件全て登録されるなどし、2019年の第43回世界遺産委員会終了時点での危機遺産登録物件は53件となっている。しかし、保有国の中には、危機遺産登録を不名誉なものと捉えて強い抵抗を示す国もあり、危機遺産リストに登録されるべき場合であってさえも、容易に登録が実現しない現実がある。リストに正式登録された危機遺産以外に、そのような「かくれた危機遺産」の増加を懸念する意見もある(後述)。", "qas": [ { "question": "自然遺産として登録されたものの文化的側面が追認された最初のものは、どの国にあるものか?", "id": "tr-188-11-000", "answers": [ { "text": "メキシコ", "answer_start": 295, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "複合遺産が最初に登録されたのはいつか?", "id": "tr-188-11-001", "answers": [ { "text": "1979年", "answer_start": 58, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シリアとリビアのうち、2016年まで危機遺産に登録された物件の数がより多いのは、どちらか?", "id": "tr-188-11-002", "answers": [ { "text": "シリア", "answer_start": 669, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2013年にシリアのすべての世界遺産が、2016年にはリビアのすべての世界遺産が危機遺産として登録された理由は、各国で何があったからか?", "id": "tr-188-11-003", "answers": [ { "text": "内戦", "answer_start": 672, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "バレエ", "paragraphs": [ { "context": "バレエは、西ヨーロッパで発生し広まった、歌詞・台詞を伴わない舞台舞踊である。及びその作品を構成する個々のダンス。音楽伴奏・舞台芸術を伴いダンスによって表現する舞台である。物語性をもち、複数の幕をもつ舞踊劇が多い。しかし20世紀以降には物語性を否定する作品も生まれた。一方で短い小品でありながら優れた物語性をもつものもある。事前に振付家によってバレエ独特の所作を指定されたものを演じ、即興作品は少ない。振付の仕方を振付術という。", "qas": [ { "question": "バレエはどこで発生した舞台舞踊ですか。", "id": "tr-189-00-000", "answers": [ { "text": "西ヨーロッパ", "answer_start": 5, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バレエの物語性を否定する作品が出てきたのはいつからですか。", "id": "tr-189-00-001", "answers": [ { "text": "20世紀以降", "answer_start": 109, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バレエの振付の仕方を何というか。", "id": "tr-189-00-002", "answers": [ { "text": "振付術", "answer_start": 206, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ルネッサンス期のイタリアに起源を発する。当時、宮廷では余興として詩の朗読、演劇などが演じられていたが、その一部としてバロと呼ばれるダンスが生まれた。宮廷の広間で貴族たちが歩きながら床に図形を描いていくもので、それをバルコニーから眺めるのが当時の楽しみ方であった。\n\n1463年、グリエルモ・エブレオ『舞踏芸術論』のなかでBallettoという語が初めて用いられている。\n\n1496年にはレオナルド・ダ・ヴィンチが衣裳と装置を担当した「楽園」が初演された。\n\n16世紀、ジョヴァンニ・ジャコモ・ガストルディにより世俗合唱曲が流行すると、その歌に踊りを加えたバレットが生まれ、やがてバレッティと呼ばれるようになった。\n\nドメニコ・ダ・ピアチェンツァなど舞曲の作曲家や、ドメニコ・ダ・フェッラーラなどの舞踏教師が登場し、イタリアの貴族が盛んに舞踏会を開催したことが分かる。", "qas": [ { "question": "ルネッサンス期のイタリアでは、バロと呼ばれるダンスはどこで眺めるのが楽しみ方でしたか。", "id": "tr-189-01-000", "answers": [ { "text": "バルコニー", "answer_start": 107, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Ballettoという語が最初に登場した書籍は何ですか。", "id": "tr-189-01-001", "answers": [ { "text": "『舞踏芸術論』", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1496年に初演された「楽園」は誰が衣裳と装置を担当していましたか。", "id": "tr-189-01-002", "answers": [ { "text": "レオナルド・ダ・ヴィンチ", "answer_start": 193, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "16世紀、ジョヴァンニ・ジャコモ・ガストルディにより流行した世俗合唱曲に踊りが加えたものを何と呼びますか。", "id": "tr-189-01-003", "answers": [ { "text": "バレット", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1533年、イタリア、フィレンツェのメディチ家からフランス王室に嫁いだカトリーヌ・ド・メディシスによりバレッティがフランスにもたらされ、バレと呼ばれた。\n\n1573年「ポーランド人のバレエ」が初めてバレと称している。\n\n1581年の「王妃のバレエ・コミック」は、完全に記録に残っている最初のバレエ作品である。これらを皮切りに、バレエは宮廷において盛んに踊られるようになり、16世紀末から17世紀初頭の20年間で約800のバレエが上演されたと言われる。\n\n1643年、ルイ14世が5歳でフランス国王に即位した際には、数時間にも及ぶ豪華絢爛なバレエが催され、ルイ14世自らが出演した。ルイ14世はバレエに熱中し、1653年15歳の時に『夜のバレエ』のアポローン役で本格的に舞台デビュー。よりバレエの質を上げようと、1661年に王立舞踏アカデミーを創立した。ルイ14世の舞踏教師ピエール・ボーシャンによってポジションが定められ、舞踏符が確立されるなど、バレエがダンスとして体系づけられたのもこの頃である。", "qas": [ { "question": "バレッティをフランスにもたらせた人は誰でしたか。", "id": "tr-189-02-000", "answers": [ { "text": "カトリーヌ・ド・メディシス", "answer_start": 35, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バレッティはフランスで何と呼ばれるようになりましたか。", "id": "tr-189-02-001", "answers": [ { "text": "バレ", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "完全に記録に残っている最初のバレエ作品は何ですか。", "id": "tr-189-02-002", "answers": [ { "text": "「王妃のバレエ・コミック」", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バレエが宮廷において盛んに踊られるようになったのはどの作品がきっかけでしたか。", "id": "tr-189-02-003", "answers": [ { "text": "「王妃のバレエ・コミック」", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1670年にルイ14世が舞台から引退すると、バレエは宮廷から劇場に移り、職業ダンサーのダンスに変化していった。\n\n1671年、オペラ座が設立された。\n\n1681年、『愛の勝利』で最初の女性ダンサー、ラ・フォンテーヌが劇場に登場し、18世紀に入るとマリー・カマルゴ、マリー・サレなど女性職業ダンサーが続々とオペラ座からデビューした。宮廷バレエでは男性ダンサーが中心だったが、1726年、マリー・カマルゴが足先の見える衣装と踵を取り去った靴を用いて、男性のみの技法であった跳躍をし、女性ダンサーが人気を博するようになった。\n\n1700年に最初のバレエ教本、ラウール=オージェ・フイエによる『舞踊術、あるいは記号、絵、記号による舞踊記述法』が出版され、1713年にはオペラ座にバレエ学校が創設されるなど、バレエ教育が確立。バレエの技法も複雑化していった。\n\n1760年、ジャン=ジョルジュ・ノヴェールが『舞踊とバレエについての手紙』にてバレ・ダクシオン(balletd'action)を提唱した。これにより、バレエはオペラから独立し、台詞のない身振りによる舞台演劇として確立した。", "qas": [ { "question": "ルイ14世は何年に舞台から引退しましたか。", "id": "tr-189-03-000", "answers": [ { "text": "1670年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オペラ座は何年に設立されましたか。", "id": "tr-189-03-001", "answers": [ { "text": "1671年", "answer_start": 57, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "どの作品で最初の女性ダンサーが登場しましたか。", "id": "tr-189-03-002", "answers": [ { "text": "『愛の勝利』", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮廷バレエでは男性ダンサーが中心でしたか、女性ダンサーが中心でしたか。", "id": "tr-189-03-003", "answers": [ { "text": "男性ダンサー", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "18世紀後半にフランス革命が起こると、伝統や権威に反発し自由で神秘的なものを重んじるロマン主義がヨーロッパを席巻し、ロマンティック・バレエが誕生した。「ラ・シルフィード」「ジゼル」に代表され、妖精や悪魔が登場する幻想的なもの、エキゾチックな異国趣味のものが多い。くるぶし丈のふんわりとしたチュチュを着た女性ダンサーの、ポワントの技法による軽やかな動きが特徴だ。ロマンティック・バレエで用いられるチュチュは、特にロマンティック・チュチュと呼ばれる。\n\nロマンティック・バレエは現在踊られているバレエの中で最も古い形式のものであり、ロマンティック・バレエによりバレエは現在のものとほぼ同じものに完成した。バレエ・ダクシオンの提唱もあり、後に誕生するクラシック・バレエよりも、踊りによってストーリーを表現する演劇としての要素は強い。", "qas": [ { "question": "フランス革命が起こったのはいつですか。", "id": "tr-189-04-000", "answers": [ { "text": "18世紀後半", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロマンティック・バレエで用いられるチュチュは何と呼ばれますか。", "id": "tr-189-04-001", "answers": [ { "text": "ロマンティック・チュチュ", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現在踊られているバレエの中で最も古い形式のものは何ですか。", "id": "tr-189-04-002", "answers": [ { "text": "ロマンティック・バレエ", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ラ・シルフィード」や「ジゼル」はどのバレエの代表作ですか。", "id": "tr-189-04-003", "answers": [ { "text": "ロマンティック・バレエ", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "エドガー・ドガがバレエダンサーを描いていた頃、バレエダンサーは現在と違い地位の低い人が身を立てるためにやっていたため、バレエダンサーは蔑まれていた。主役以外のダンサーは薄給で生活しており、パトロン無しでは生活するのが困難だったとされる。パトロン達は当然男性が多く、女性ダンサーを娼婦の如く扱っていたと言われる。かくして、フランスのバレエ界から男性ダンサーはいなくなり、フランスのバレエは低俗化することになる。\n\n1832年「ラ・シルフィード」でマリー・タリオーニが本格的にポワントで踊り、オペラ座で大成功をおさめた。この作品によりロマンティック・バレエが確立されたと言われる。ヨーロッパ中で人気を博すも、フランスのバレエの低俗化と、ロマン主義の衰退と共にロマンティック・バレエは衰退し、1870年の「コッペリア」などを最後にフランスではバレエそのものが演じられないようになる。", "qas": [ { "question": "ロマンティック・バレエはどの作品により確立されたと言われてますか。", "id": "tr-189-05-000", "answers": [ { "text": "「ラ・シルフィード」", "answer_start": 211, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランスの最後のバレエ作品となったのは何ですか。", "id": "tr-189-05-001", "answers": [ { "text": "「コッペリア」", "answer_start": 349, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ロシアではフランスの宮廷バレエが伝わり、1730年頃にはフランスのジャン=バティスト・ランデによりサンクトペテルブルクにバレエ学校が創立された。フランスでロマン主義が衰退した19世紀後半、後進国であるロシアではロマンティック・バレエが踊り続けられており、その後独自の発展をした。ドラマ主体のロマンティック・バレエに、物語とは無関係のダンスシーンを取り入れたことから、クラシック・バレエと言う。\n\nクラシック・バレエでは技法はどんどん複雑になり、動きやすいように丈の短いチュチュが考案された。これをクラシック・チュチュと呼ぶ。ロマンティック・バレエでは1回回るのがやっとだったが、32回のフェッテ(連続回転)まで演じられるようになった。2人で踊るグラン・パ・ド・ドゥなどの様式も成立した。ダンスとマイムが分離されて演じられるようになり、現在のバレエの構成が完成した。\n\n1888年、サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場の監督であるウセヴィロジュスキーは、フランスから招いた振付家マリウス・プティパの振付けのもと、ピョートル・チャイコフスキーに「眠れる森の美女」の作曲を依頼した。この作品が1890年に上演、大成功をおさめると、続いて「くるみ割り人形」(1892年、振付:レフ・イワノフ、台本:マリウス・プティパ)、「白鳥の湖」(1895年、振付:レフ・イワノフ、マリウス・プティパ)が上演された。これらは3大バレエと呼ばれる。チャイコフイスキーの3大バレエであると同時に(彼はこの3つしかバレエ音楽を書いていないが)、上演・演奏人気において、すべてのバレエにおける3大バレエでもある。", "qas": [ { "question": "サンクトペテルブルクにバレエ学校を創立したのは誰なの?", "id": "tr-189-06-000", "answers": [ { "text": "ジャン=バティスト・ランデ", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランスでロマン主義が衰退したのはいつですか。", "id": "tr-189-06-001", "answers": [ { "text": "19世紀後半", "answer_start": 87, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クラシック・バレエで用いられる丈の短いチュチュは何と呼ばれますか。", "id": "tr-189-06-002", "answers": [ { "text": "クラシック・チュチュ", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "グラン・パ・ド・ドゥは何人で踊る様式なの?", "id": "tr-189-06-003", "answers": [ { "text": "2人", "answer_start": 317, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1888年、サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場の監督であるウセヴィロジュスキーは、フランスから招いた振付家マリウス・プティパの振付けのもと、ピョートル・チャイコフスキーに「眠れる森の美女」の作曲を依頼した。この作品が1890年に上演、大成功をおさめると、続いて「くるみ割り人形」、「白鳥の湖」が上演された。これらは3大バレエと呼ばれる。チャイコフイスキーの3大バレエであると同時に、上演・演奏人気において、すべてのバレエにおける3大バレエでもある。", "qas": [ { "question": "ピョートル・チャイコフスキーに「眠れる森の美女」の作曲を依頼したのは誰?", "id": "tr-189-07-000", "answers": [ { "text": "ウセヴィロジュスキー", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1888年、サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場の監督は誰だった?", "id": "tr-189-07-001", "answers": [ { "text": "ウセヴィロジュスキー", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「眠れる森の美女」、「くるみ割り人形」、「白鳥の湖」を何と呼びますか。", "id": "tr-189-07-002", "answers": [ { "text": "3大バレエ", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "3大バレエには「眠れる森の美女」、「くるみ割り人形」、そして何が含まれていますか。", "id": "tr-189-07-003", "answers": [ { "text": "「白鳥の湖」", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マリウス・プティパにより確立されたクラシック・バレエだが、その古典的な世界に不満を持つ者もいた。その1人、ミハイル・フォーキンはイサドラ・ダンカンに衝撃を受け、クラシック・バレエにない新しいステップや民族舞踊を採り入れた、革新的な振付をした。そのモダン・ダンスの要素を取り込んだバレエをモダン・バレエと言う。\n\nミハイル・フォーキンはセルゲイ・ディアギレフに見出され、1907年にバレエ発祥の地・パリで公演を行い、バレエ・ブームを巻き起こした。アンナ・パヴロワ、ヴァーツラフ・ニジンスキー、タマーラ・カルサヴィナなどのダンサーたちが大人気となり、セルゲイ・ディアギレフはバレエ・リュスを結成する。\n\n1912年のバレエ・リュスの公演で、ヴァーツラフ・ニジンスキーが「牧神の午後」で振付家としてデビューすると、モダン・バレエは決定的な革新を迎える。これまでの美しいバレエとは異なる、独自の表現は非常に衝撃を与え、イーゴリ・ストラヴィンスキー作曲の「春の祭典」では警官が介入するほど論議の的となった。", "qas": [ { "question": "クラシック・バレエは誰によって確立されたか。", "id": "tr-189-08-000", "answers": [ { "text": "マリウス・プティパ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミハイル・フォーキンは何に衝撃を受けた?", "id": "tr-189-08-001", "answers": [ { "text": "イサドラ・ダンカン", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "モダン・ダンスの要素を取り込んだバレエを何といいますか。", "id": "tr-189-08-002", "answers": [ { "text": "モダン・バレエ", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「春の祭典」の作曲者は誰?", "id": "tr-189-08-003", "answers": [ { "text": "イーゴリ・ストラヴィンスキー", "answer_start": 405, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "モダン・バレエが確立してからも、ドラマティック・バレエ、アブストラクト・バレエなどの革新的なバレエが誕生している。これらのバレエは、モダン・ダンス、ポスト・モダンダンス、コンテンポラリー・ダンス、コンタクト・インプロヴィゼーションなどのダンスに含まれることもあり、曖昧である。20世紀以降はそれらの現代的なバレエと古典的なバレエが踊られている。現代的なバレエの振付家としては、モーリス・ベジャールやローラン・プティ、ウィリアム・フォーサイス、イリ・キリアンがいる。またフィギュアスケートの動きはバレエの影響を強く受けており、フィギュアスケートの選手はバレエの訓練も受けることが多い。さらにバレエの影響はフィギュアスケートにとどまらず、新体操やアーティスティックスイミングの選手もバレエの訓練を受けることがある。また、宝塚音楽学校をはじめとして、舞台俳優を養成する組織ではバレエの基礎は必修に近い扱いを受けている。", "qas": [ { "question": "モダン・バレエ、ドラマティック・バレエ、アブストラクト・バレエのうち、一番先に誕生したバレエは何ですか。", "id": "tr-189-09-000", "answers": [ { "text": "モダン・バレエ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "モーリス・ベジャールは現代的なバレエの振付家なの、古典的なバレエの振付家なの?", "id": "tr-189-09-001", "answers": [ { "text": "現代的なバレエ", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "バレエはフランスで発達したため、バレエの振付用語は基本的にはフランス語である。近代バレエの特徴は爪先立ちを多用することにある。これをポワントまたは英語のトーという。このために履く特製の靴がトウシューズである。その性質上、足首が固いと非常にバレエには不向きとなる。また、爪先立ちを多用するために、爪先を様々な形で痛めることがあり、日常生活に影響が出るレベルにまでなり、バレエダンサーとしても活動できなくなるケースは少なくない。\n\nポワントで立たず足を舞台につけて立つ立ち方は6つに分類される。これをポジションと呼ぶ。振付においては特に詳述せずポジション名で呼ぶ。\n\nバレエ舞踏の重要な技法としては跳躍と回転がある。これもフランス語で呼び、たとえば片足を前方に投げ出しその方向へ飛ぶことをジュテと呼び、空中での足の位置や跳躍の大きさによってジュテは細分される。一方物語り進行上の感情を表すのにはマイムを用いる。マイムが過度に多い作品はしばしば「バレエ的でない」と批判されることからも、バレエが舞踊芸術であることが理解される。", "qas": [ { "question": "バレエはどこで発達しましたか。", "id": "tr-189-10-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 4, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポワントで立たず足を舞台につけて立つ立ち方はいくつに分類されますか。", "id": "tr-189-10-001", "answers": [ { "text": "6つ", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポワントのために履く靴を何といいますか。", "id": "tr-189-10-002", "answers": [ { "text": "トウシューズ", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "片足を前方に投げ出しその方向へ飛ぶバレエの技術を何と呼びますか。", "id": "tr-189-10-003", "answers": [ { "text": "ジュテ", "answer_start": 342, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "七年戦争", "paragraphs": [ { "context": "七年戦争(しちねんせんそう、英語:SevenYears'War、ドイツ語:SiebenjährigerKrieg)は、1754年から1763年まで(主な戦闘は1756年から1763年まで)行われた戦争である。ハプスブルク家がオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンをプロイセンから奪回しようとしたことが直接の原因であったが、そこに1754年以来の英仏間の植民地競争が加わり世界規模の戦争となった。イギリス・プロイセン側とその他の列強(フランスとオーストリアとロシア、スペイン、スウェーデン)に分かれてオスマン帝国を除く当時の欧州列強が全て参戦しており、戦闘はヨーロッパ以外にも拡大した。またインドではムガル帝国がフランスの支持をうけて、イギリスによるベンガル地方の侵攻を阻止しようとした。この戦争の前にフランスとオーストリアは、台頭してきたイギリスとプロイセンを抑えるために古くからの因縁を捨てて同盟を組んだ(外交革命)。しかし戦争の結果、墺仏の外交努力は英普側が勝利したことで水泡と化し、イギリスの飛躍とフランスのヨーロッパにおける優位性の喪失、オーストリアの神聖ローマ帝国内での権威低下を招き、ヨーロッパの勢力均衡を変える結果となった。", "qas": [ { "question": "七年戦争は、何年に終わったの?", "id": "tr-190-00-000", "answers": [ { "text": "1763年", "answer_start": 66, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "七年戦争が世界規模の戦争と発展したのは、何年以来の英仏間の植民地競争が加わったからでありますか?", "id": "tr-190-00-001", "answers": [ { "text": "1754年", "answer_start": 166, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムガル帝国とイギリスのベンガル地方を巡った戦いにおいて、フランスはどの国を支援したか?", "id": "tr-190-00-002", "answers": [ { "text": "ムガル帝国", "answer_start": 301, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "七年戦争の前に、台頭してきたイギリスとプロイセンに対抗するため、フランスと同盟を組んだのは、どの国か?", "id": "tr-190-00-003", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 357, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イギリス・フランス間の紛争は1754年から1756年にイギリスがフランスの北アメリカにおける植民地を攻撃して、フランス商船を数百隻拿捕したことではじまった。一方、勢力が増大しているプロイセンはオーストリアとドイツ内外における主導権をめぐって争っていた。1756年、外交革命が行われた。戦争が差し迫ったことでプロイセンは予防戦争としてザクセンに侵攻、蹂躙した。この行動に全ヨーロッパが騒然とした。オーストリアがフランスと同盟してオーストリア継承戦争で失ったシュレージエンを奪回しようとしたため、プロイセンはイギリスと英普同盟を締結した。帝国諸侯の多くは嫌々ながらも帝国議会の議決に従ってオーストリア側で参戦した。ただし、英普同盟側にもいくつかの帝国諸侯が参加している。スウェーデンは以前プロイセンに奪われたポンメルンの奪回を狙って、反プロイセン側で参戦した。スペインは第三次家族協約に従いフランス側で参戦したが、両国が1762年におこしたポルトガル侵攻は大敗に終わった。ロシア帝国ははじめプロイセンのポーランドへの野心を恐れてオーストリア側で参戦したが、1762年にピョートル3世がツァーリに即位するとプロイセンに味方した。", "qas": [ { "question": "イギリス・フランス間の紛争は、どこにおけるフランスの植民地がイギリスにより攻撃されたことから始まったの?", "id": "tr-190-01-000", "answers": [ { "text": "北アメリカ", "answer_start": 37, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "外交革命が行われたのは、何年のことですか?", "id": "tr-190-01-001", "answers": [ { "text": "1756年", "answer_start": 126, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オーストリアとフランスの同盟に対抗するため、プロイセンはどの国と同盟を組んだか?", "id": "tr-190-01-002", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 252, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "以前の戦争と違い、ヨーロッパの中小国の多くは一方の参戦国との紛争を抱えていたが、七年戦争に巻き込まれることは避けようとした。フレデリク5世治下のデンマーク=ノルウェーがその一例で、ピョートル3世が即位したときは危うくフランス側で参戦しかけたが、両国間の戦争が勃発する前にピョートル3世が廃位された。長らくイギリスの同盟国であったオランダはイギリスとプロイセンとヨーロッパ列強の間の戦いに巻き込まれることを恐れて中立を堅持し、一時はイギリスがインドを支配下に置くことを防ごうとした(チンスラーの戦い(英語版))。ナポリ王国、シチリア王国、サルデーニャ王国は心情的にはブルボン家を支持したが、イギリスを恐れて同盟加入を拒否した。ロシアでは戦争による増税があった上、1759年にエリザヴェータ女帝が冬宮殿増築のために塩税とアルコール税を徴収したことは民を苦しめた。スウェーデンと同じく、ロシアはプロイセンと単独講和した。", "qas": [ { "question": "ナポリ王国、シチリア王国のほかに、心情的にはブルボン家を支持したが、イギリスを恐れて同盟加入を拒否した国には、どの国があるの?", "id": "tr-190-02-000", "answers": [ { "text": "サルデーニャ王国", "answer_start": 268, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書によると、当時中立を宣言した国は、どの国ですか?", "id": "tr-190-02-001", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 164, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フレデリク5世は、どの国の王であるか?", "id": "tr-190-02-002", "answers": [ { "text": "デンマーク=ノルウェー", "answer_start": 72, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "七年戦争に巻き込まれることを避けようとしたヨーロッパの中小国の例として、この文書ではどの国の例が取り挙げられたか?", "id": "tr-190-02-003", "answers": [ { "text": "デンマーク=ノルウェー", "answer_start": 72, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "戦争は1763年、フランス・スペイン・イギリス間のパリ条約とザクセン・オーストリア・プロイセン間のフベルトゥスブルク条約で終結した。イギリスは北アメリカのヌーベルフランスの大半、スペイン領フロリダ、西インド諸島のいくつかの島、西アフリカ海岸のセネガル植民地、インドにおけるフランス交易地に対する優越を獲得した。アメリカ先住民は条約に参加できず、それを不満としてポンティアック戦争をおこしたが、七年戦争前の状態に戻すことには失敗した。ヨーロッパにおいてはプロイセンは苦戦を強いられ続けたが、運も味方してフリードリヒ大王はシュレージエンの領有を確実なものとした。プロイセンはこれで欧州列強の一角を占めるようになる。オーストリアは本来の目的であったシュレージエンの回復を達成できなかったが、その軍事力を各国に示すことができた。ポルトガル、スペイン、スウェーデンは参戦したものの得るものは無く、大国の地位を取り戻すことはできなかった。フランスは多くの植民地を失った上、巨額の債務を抱え込む結果となり、元々脆弱だった財政をさらに悪化させた。スペインはフロリダを失ったがフランス領ルイジアナを獲得、それ以外の植民地であるキューバやフィリピンは一時イギリスに占領されたものの和約により返還された。フランスとスペインは1778年にアメリカ独立戦争に参戦することでイギリスに報復し、その覇権を一挙に潰そうとした。", "qas": [ { "question": "1763年に締結された条約のうち、フランスが参加しなかった条約は、何?", "id": "tr-190-03-000", "answers": [ { "text": "フベルトゥスブルク条約", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリードリヒ大王は、どの国の王ですか?", "id": "tr-190-03-001", "answers": [ { "text": "プロイセン", "answer_start": 226, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プロイセンは、どこの領有を確実なものにしたことにより、欧州列強の一角を占めるようになったか?", "id": "tr-190-03-002", "answers": [ { "text": "シュレージエン", "answer_start": 259, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シュレージエンを自分の領域内に収めたのは、プロイセンとオーストリアのうち、どちらの国か?", "id": "tr-190-03-003", "answers": [ { "text": "プロイセン", "answer_start": 226, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "七年戦争はおそらく真の意味ではじめての世界大戦であり、第一次世界大戦から160年前におきたこの戦争は世界中に影響を及ぼした。戦争はヨーロッパにおける政治再編を引き起こしただけでなく、19世紀のパクス・ブリタニカ、プロイセンのドイツにおける地位の上昇、アメリカ合衆国の独立とフランス革命の遠因となった。", "qas": [ { "question": "世界中に影響を及ぼした初めての世界大戦とは、どの戦争であるの?", "id": "tr-190-04-000", "answers": [ { "text": "七年戦争", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "七年戦争を除いた時の最初の世界大戦は、何ですか?", "id": "tr-190-04-001", "answers": [ { "text": "第一次世界大戦", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第一次世界大戦は、七年戦争から何年後に起きた戦争か?", "id": "tr-190-04-002", "answers": [ { "text": "160年", "answer_start": 36, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカ合衆国の独立とフランス革命の遠因となった戦争は、何か?", "id": "tr-190-04-003", "answers": [ { "text": "七年戦争", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "七年戦争は参戦諸国の史観でそれぞれの戦場に応じて名付けられた。アメリカではフレンチ・インディアン戦争、フランス系カナダ人は「征服戦争」(フランス語:GuerredelaConquête)、ほかにはポメラニア戦争(スウェーデン語:Pommerskakriget、スウェーデン・プロイセン間、1757年-1762年)、第三次カーナティック戦争(インド亜大陸、1757年-1763年)、第三次シュレージエン戦争(プロイセン・オーストリア間、1756年-1763年)などの呼称もある。この戦争ははじめての「世界大戦」と評されたが、それ以前の八十年戦争、三十年戦争、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争やそれ以降のナポレオン戦争でも同じような批評がなされることがある。また、18世紀のほぼ全時期を通して世界中で敵対したフランスとイギリスの間の戦争は百年戦争になぞらえて第2次百年戦争とも呼ばれる。", "qas": [ { "question": "アメリカでは、七年戦争のことを何と呼ぶの?", "id": "tr-190-05-000", "answers": [ { "text": "フレンチ・インディアン戦争", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "七年戦争は、フランス系カナダ人からは何と呼ばれますか?", "id": "tr-190-05-001", "answers": [ { "text": "征服戦争", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フレンチ・インディアン戦争と征服戦争は、どの戦争を呼ぶ別称であるか?", "id": "tr-190-05-002", "answers": [ { "text": "七年戦争", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1740年から1748年までのオーストリア継承戦争において、プロイセン王のフリードリヒ大王はオーストリアから富饒なシュレージエン地方を奪取したが、オーストリアの「女帝」マリア・テレジアは1748年に軍の再建と同盟を組むための時間稼ぎとしてアーヘンの和約に署名した。オーストリア継承戦争において各国は伝統的な敵対関係に基づいて同盟を組んだ。フランスの宿敵イギリスとオーストリアはルイ14世時代と同じく手を組み、フランスはドイツにおける反ハプスブルクであるプロイセンとバイエルンを支持した。しかし、どちらの同盟でも同盟間の不満を残した。イギリスはオーストリアに資金援助したものの、オーストリアがイギリスの利益にならず、オーストリアにとってもイギリスの援助はシュレージエン奪回に結びつかなかった。プロイセンはいざシュレージエンを確保するとフランスを顧みずにオーストリアとの単独講和に走った。それでも、フランスは1747年にプロイセンと防衛同盟を締結し、英墺同盟はイギリス首相ヘンリー・ペラムの兄で北部担当国務大臣でもあったニューカッスル公爵が必要と判断したこともあって継続した。しかし、数年後に両同盟は倒れ、外交革命と呼ばれる事態が起こった。", "qas": [ { "question": "オーストリア継承戦争は、何年に始まったの?", "id": "tr-190-06-000", "answers": [ { "text": "1740年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランスとプロイセンが防衛同盟を締結したのは、何年のことですか?", "id": "tr-190-06-001", "answers": [ { "text": "1747年", "answer_start": 402, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "英墺同盟が必要であると判断したイギリスの人物は、誰の兄であるか?", "id": "tr-190-06-002", "answers": [ { "text": "ヘンリー・ペラム", "answer_start": 434, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "英墺同盟が必要であると判断したイギリスの人物は、どの職に務めていたか?", "id": "tr-190-06-003", "answers": [ { "text": "北部担当国務大臣", "answer_start": 445, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1756年、オーストリアはプロイセンとの戦争を見越して軍を整備した。それ以前の1746年6月2日、オーストリアとロシアは防衛同盟を締結して、共同で両国とポーランド=リトアニア共和国の領土をプロイセンとオスマン帝国の侵攻から守るとしていた。また秘密条項ではプロイセンと戦争になった場合、ロシアはオーストリアにブレスラウ条約で割譲した地域の回復を支援するとした。同盟の真の目的はフリードリヒ2世を徹底的に潰してその領土をブランデンブルク選帝侯領に限定し、東プロイセンをポーランド領とする(まず東プロイセンをロシアに割譲させ、続いてポーランドのクールラントと交換させる)ことにあった。エリザヴェータ女帝の治世においてロシアの大宰相を務めたアレクセイ・ベストゥージェフ=リューミン伯爵はフランスとプロイセンに敵意を持っていたが、プロイセンの背後にフランスの支持があったためオーストリア宰相カウニッツの説得に失敗、攻守同盟とはならなかった。", "qas": [ { "question": "オーストリアとロシアが防衛同盟を結んだのは、何年のこと?", "id": "tr-190-07-000", "answers": [ { "text": "1746年", "answer_start": 39, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オーストリアとロシアの間で結ばれた防衛同盟の目的は、両国とポーランド=リトアニア共和国の領土を、プロイセンとどの国の侵攻から守ることでありましたか?", "id": "tr-190-07-001", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オーストリアとロシアの間で結ばれた防衛同盟の真の目的は、どの国を確実に潰すことであったか?", "id": "tr-190-07-002", "answers": [ { "text": "プロイセン", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1756年、オーストリアはどの国との戦争に備え、軍を整備したか?", "id": "tr-190-07-003", "answers": [ { "text": "プロイセン", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ハノーファー朝のイギリス王ジョージ2世は祖国ハノーファーの維持に熱心であったが、この意向はイギリスの植民地政策と衝突していた。フランスとの植民地戦争を再開する場合、まずハノーファーをフランス・プロイセン連合軍による攻撃から守らなければならなかった。フランスも植民地の拡張に興味を持ち、対イギリス戦争においてハノーファーの脆弱さを利用するつもりでいたが、プロイセンのために中央ヨーロッパへ派兵する用意はなかった。", "qas": [ { "question": "ジョージ2世は、どの王朝の者なの?", "id": "tr-190-08-000", "answers": [ { "text": "ハノーファー朝", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時のイギリス王が守ることを大事にした地域であり、フランスにとっては、対イギリス戦争において攻略すべきの地域であったのは、どこですか?", "id": "tr-190-08-001", "answers": [ { "text": "ハノーファー", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イギリスとともに植民地政策を大事にしていた国は、どの国か?", "id": "tr-190-08-002", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 63, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イギリスと対立していたのは、フランスとどの国か?", "id": "tr-190-08-003", "answers": [ { "text": "プロイセン", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フランスの政策はルイ15世の秘密外交機関スクレ・ドゥ・ロワの存在により複雑になっていた。ルイ15世は外務大臣に知らせずにヨーロッパ中に諜報員のネットワークを張り巡らせて自分の政治目的を果たそうとし、時にはフランスが公的に宣言していた政策と矛盾していた。スクレ・ドゥ・ロワの政策の一例としてルイ15世の親族、コンティ公ルイ・フランソワ1世をポーランド王につかせる試みやポーランド、スウェーデン、オスマン帝国を(ロシアとオーストリアの国益に反して)フランスの従属国にする試みがあった。", "qas": [ { "question": "ルイ15世の秘密外交機関の政策の中には、誰をポーランドの王につかせようとするようなこともあったの?", "id": "tr-190-09-000", "answers": [ { "text": "ルイ・フランソワ1世", "answer_start": 158, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルイ15世の秘密外交機関の政策の中には、どの国を自国領下に置こうとするようなこともありましたか?", "id": "tr-190-09-001", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スクレ・ドゥ・ロワとは、誰により作られた秘密外交機関のことであるか?", "id": "tr-190-09-002", "answers": [ { "text": "ルイ15世", "answer_start": 8, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フリードリヒ2世はザクセンや西プロイセンに野心を持っていたが、侵略戦争を起こした場合、フランスの支持を得ることは期待薄であった。しかし、ハノーファー併合を視野に入れてフランスに味方すると、今度はオーストリアとロシアの攻撃に晒される可能性がある。ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世はポーランド王も兼ねていたが、ザクセンとポーランドの間にはブランデンブルクとシュレージエンがあった。両国とも大国に成長する可能性は低く、ザクセン軍は2万3千人しかいない(うち3千はポーランドに駐留)ためプロイセンとボヘミアの間の緩衝国に成り下がっていた。ポーランドはリトアニアと連合していたが、国内で親仏派と親露派が分裂していた。このため、プロイセンではオーストリアからボヘミアを強奪してザクセンと交換する作戦もあった。", "qas": [ { "question": "フリードリヒ2世が野心を持っていた地域は、ザクセンとどの地域なの?", "id": "tr-190-10-000", "answers": [ { "text": "西プロイセン", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フリードリヒ・アウグスト2世はザクセンとどの国を統治していましたか?", "id": "tr-190-10-001", "answers": [ { "text": "ポーランド", "answer_start": 144, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プロイセンとボヘミアの間の緩衝国に成り下がっていたのは、どの国か?", "id": "tr-190-10-002", "answers": [ { "text": "ザクセン", "answer_start": 211, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時、ポーランドの国内では、どの国との親交を主張する派が親仏派と対立していたか?", "id": "tr-190-10-003", "answers": [ { "text": "ロシア", "answer_start": 104, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "イギリスはオーストリアをひとまず満足させるために皇帝選挙におけるハノーファー選帝侯の票をマリア・テレジアの息子ヨーゼフ大公に投じることを承諾したが、フランスとプロイセンはこの決定に失望した。さらに、イギリスはオーストリア・ロシアの同盟に参加したが、事態は複雑であった。イギリスが同盟に参加する目的はハノーファーをフランスから守ることであったが、同時にカウニッツがフランスと対ハノーファー同盟を築こうとした。しかし、フランスはロシアがオーストリア継承戦争においてオーストリア側に就いたためロシアを嫌っており、またプロイセンを解体すると中央ヨーロッパが不安定になる恐れもあった。", "qas": [ { "question": "イギリスがオーストリア・ロシアの同盟に参加した目的は、フランスからどこを守ることであったの?", "id": "tr-190-11-000", "answers": [ { "text": "ハノーファー", "answer_start": 149, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランスがロシアを嫌っていたのは、どの戦争において、フランスの味方しなかったからですか?", "id": "tr-190-11-001", "answers": [ { "text": "オーストリア継承戦争", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリスは、ロシアとどの国の同盟に参加したか?", "id": "tr-190-11-002", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 104, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カウニッツは数年間フランス・オーストリア同盟を推進していた。彼はハノーファーの政治に介入することを極力避け、オーストリアによるシュレージエン奪回をフランスが支援する代わりにオーストリア領ネーデルラントを割譲することすら厭わなかった。イギリスはこの決定に怒り、またオランダが中立を堅持したこともあってロシアに接近した。1755年9月30日、イギリスは財政援助をする代わりにロシア軍5万をリヴォニアとリトアニアの境界に駐留させた。イギリスの狙いはこのロシア軍が有事のときにハノーファーを防衛できる点だったが、ベストゥージェフはこの準備が対プロイセンのためであると勘違いし、援助金もあって易々と承諾した。またジョージ2世は秘密裏にプロイセン王フリードリヒ2世に同盟を提案し、オーストリアとロシアの侵攻を恐れたフリードリヒ2世はイギリスと和解して1756年1月15日にウェストミンスター条約を締結し、お互いの援助を約した。両国は条約によりヨーロッパの和平と安定を維持しようとした。", "qas": [ { "question": "カウニッツは、オーストリアとどの国の間の同盟を推進したの?", "id": "tr-190-12-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 9, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カウニッツの動きに失望したイギリスは、どの国に接近しましたか?", "id": "tr-190-12-001", "answers": [ { "text": "ロシア", "answer_start": 149, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリスがロシアへの財政援助を約束し、ロシア軍5万をリヴォニアとリトアニアの境界に駐留させたのは、いつのことか?", "id": "tr-190-12-002", "answers": [ { "text": "1755年9月30日", "answer_start": 158, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリスがロシアへの財政援助の約束までして、ロシア軍5万をリヴォニアとリトアニアの境界に駐留させたのは、有事の時にロシア軍にどこを守ってもらうためだったか?", "id": "tr-190-12-003", "answers": [ { "text": "ハノーファー", "answer_start": 234, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "条約の内容は各国を刺激しないよう慎重に書き上げられたが、ヨーロッパ諸国はやはり激昂した。ロシアのエリザヴェータ女帝はイギリスの二元外交に激怒した。フランスは唯一の同盟国プロイセンが突如裏切ったことに怒りと恐怖を感じた。オーストリア、特にカウニッツはこの状況を利用してフランスに同盟を迫り、フランスは孤立を恐れて同意し、1756年5月1日にヴェルサイユ条約を締結した。条約では両国が攻撃される場合お互いに軍勢2万4千を提供することが定められた。ウェストミンスター条約もヴェルサイユ条約も防衛同盟であったが、両同盟の行動により戦争が不可避になり、この外交革命は結果的に戦争のきっかけとなった。", "qas": [ { "question": "エリザヴェータはどの国の女帝であるの?", "id": "tr-190-13-000", "answers": [ { "text": "ロシア", "answer_start": 44, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "神岡水電", "paragraphs": [ { "context": "神岡水電株式会社(かみおかすいでんかぶしきがいしゃ)は、大正から昭和戦前期にかけて存在した日本の電力会社である。\n大手電力会社の大同電力と三井財閥に属する三井鉱山の共同出資により1922年(大正11年)に発足した。\n神通川水系にて電源開発を手がけ、水力発電所を運営した。\nまた軌道(通称神岡軌道)を経営する軌道事業者でもあった。\n1942年(昭和17年)に解散した。", "qas": [ { "question": "神岡水電株式会社は電力会社でありながら何を経営していましたか?", "id": "tr-191-00-000", "answers": [ { "text": "軌道", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "神岡水電株式会社に出資したのは大同電力と何でしたか?", "id": "tr-191-00-001", "answers": [ { "text": "三井鉱山", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "神岡水電株式会社は昭和何年に解散したの?", "id": "tr-191-00-002", "answers": [ { "text": "昭和17年", "answer_start": 171, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "神岡水電株式会社は、当時神岡鉱山(神岡鉱業所、岐阜県)を経営していた三井鉱山(2009年日本コークス工業に改称)と、木曽川などで電源開発を手がけた大手電力会社大同電力の共同出資によって設立された電力会社である。\n1922年8月に設立した。\n三井鉱山によって建設された水力発電所を神岡水電が譲り受けて運転する、という形で、岐阜県北部から富山県にかけて流れる神通川水系の河川(高原川や跡津川など)にて電源開発を進めた。\n最終的には3か所、出力合計3万150キロワットの発電所を運転し、年間約2億3100万キロワット時の電力を発電した。\n発電した電力のうち神岡鉱業所の必要分は低廉な料金で三井鉱山に供給し、余剰分は大同電力へと売電した。", "qas": [ { "question": "神岡水電株式会社が発足したのはいつ?", "id": "tr-191-01-000", "answers": [ { "text": "1922年8月", "answer_start": 106, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "神岡水電株式会社が電源開発を手掛けたのはどこの河川ですか?", "id": "tr-191-01-001", "answers": [ { "text": "神通川水系の河川", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "神岡水電株式会社が運転した発電所の合計出力はいくつですか?", "id": "tr-191-01-002", "answers": [ { "text": "3万150キロワット", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "神岡水電株式会社が運転した3つの発電所は、1年間に何キロワット時の電力を発電しましたか?", "id": "tr-191-01-003", "answers": [ { "text": "約2億3100万キロワット時", "answer_start": 242, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "電気事業のほか軌道事業も営み、神岡軌道を運営して神岡鉱業所の物資輸送などに従事し、両事業を通じて年間約60万円の利益金を上げていた。\nしかし日中戦争下において電力国家管理政策が強化されると、1941年(昭和16年)に事業の柱であった発電所2か所に対して国策電力会社日本発送電への出資が指示される。\n翌1942年9月には残る発電所1か所と軌道事業を三井鉱山へと譲渡し、神岡水電は解散した。\n神岡水電から日本発送電へと出資された2か所の発電所はその後、戦後日本発送電が解体されるにあたって北陸電力が継承している。", "qas": [ { "question": "電力国家管理政策が強化された時の時代背景には何がありましたか?", "id": "tr-191-02-000", "answers": [ { "text": "日中戦争", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "神岡水電が運営していた2カ所の発電所の出資先はどこでしたか?", "id": "tr-191-02-001", "answers": [ { "text": "日本発送電", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "残り1カ所の発電所は神岡水電に替わってどこが運営を引き継ぎましたか?", "id": "tr-191-02-002", "answers": [ { "text": "三井鉱山", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "岐阜県北部の飛騨地方に位置する神岡鉱山は、2001年(平成13年)に採掘が中止されるまで亜鉛・鉛鉱山として栄えた鉱山である。\n三井グループに属する三井金属鉱業(三井金属鉱業神岡鉱業所)が操業していたが、1986年(昭和61年)に子会社神岡鉱業が設立されて鉱山経営に当たるようになり、採掘終了後も同地で引き続き亜鉛の製錬所を操業している。\n三井金属鉱業による経営となったのは1950年(昭和25年)に石炭・金属両部門の分割により三井金属鉱業が成立して以降のことで、明治から大正、昭和戦前期を通じて神岡鉱山を経営したのは三井財閥系の三井鉱山株式会社であった。\n三井財閥による神岡鉱山の経営は、1873年(明治6年)に当時の三井組が一部鉱区を取得したことに端を発する。\n以降、三井組は順次買収などにより鉱区を拡大し、1889年(明治22年)に神岡鉱山全体を掌中に収めた。\n1892年(明治25年)には三井鉱山合資会社、後の三井鉱山株式会社が設立され、鉱山経営は三井組から同社に移っている。", "qas": [ { "question": "三井金属鉱業が神岡鉱山を経営する前は、どこの会社が経営していましたか?", "id": "tr-191-03-000", "answers": [ { "text": "三井鉱山株式会社", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1986年以降に神岡鉱山を経営した会社は何ですか?", "id": "tr-191-03-001", "answers": [ { "text": "神岡鉱業", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "やがて鉱山の外、船津の町においても、民間の船津電灯という会社の手によって1910年(明治43年)から電気の供給が始まる。\n同社は供給に余力があったことから神岡鉱山はここから26キロワットの電力を受電することになり、機械動力の電化が始まった。\n生産の増加に呼応して1917年(大正6年)には出力240キロワットの割石発電所が完成した。\n同発電所の完成により、導入がすでに始まっていた空気削岩機に電動空気圧縮機が使用できるようになり、機械による鉱山採掘が本格化した。\n1919年(大正8年)には出力800キロワットの土(第一)発電所も建設されている。", "qas": [ { "question": "神岡鉱山に26キロワットの電力を供給した会社は何ですか?", "id": "tr-191-04-000", "answers": [ { "text": "船津電灯", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "何という発電所が出来たことにより、神岡鉱山で機械による鉱山採掘が本格化しましたか?", "id": "tr-191-04-001", "answers": [ { "text": "割石発電所", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "土(第一)発電所と割石発電所はどちらが出力が小さいですか?", "id": "tr-191-04-002", "answers": [ { "text": "割石発電所", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "土(第一)発電所と割石発電所はどちらが先に建設されましたか?", "id": "tr-191-04-003", "answers": [ { "text": "割石発電所", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "以上のように明治時代から三井鉱山が利用してきたのは、跡津川(土第一発電所を建設)など神岡鉱山の麓を流れる高原川(神通川水系)の支流にあたる河川であったが、大正時代、第一次世界大戦が終息する頃になると高原川本流の開発にも目が向けられるようになる。\nその契機は逓信省による水力調査であった。\n神通川を含む飛騨山脈(北アルプス)を水源とする水量豊富な富山県下の諸河川は、明治末期以降に水力発電事業が本格化するとその適地として業界の注目を浴びていた。\n逓信省においてもこれに着目し、臨時発電水力調査局を置いて水力調査を進めた。\n同局が1914年(大正3年)、時の大隈内閣により行政整理の一環として廃止されると、三井鉱山は神通川・黒部川などの調査を担当していた技師田中吉政を逓信省から迎える。\n田中は逓信省の了解を得た上で担当していた河川に関する調査資料を入社した三井鉱山に提供したことから、三井の水力発電計画は急速に具体化し、その後数年間にわたる水量測定、気象観測、地形測量を行って、三井鉱山は神通川水系ならびに黒部川水系において水利権(水利使用許可申請)を出願した。\n出願地点は、神通川水系では高原川4地点をはじめとする計5地点、黒部川水系では計5地点であった。\n高原川および黒部川における水利権を出願した三井鉱山であったが、黒部川の開発は実現しなかった。\nこれは、アメリカ資本の導入によるアルミニウム製錬を企画する高峰譲吉が水利権の競願者として現れたためである。\nこの競願に対して政府当局は、三井鉱山に高原川、高峰側に黒部川の水利権をそれぞれ許可する意向を示したことから、電力の提供を条件として1918年(大正7年)に三井鉱山は黒部川における水利権出願を撤回。\n黒部川の水利権は高峰らの東洋アルミナムに許可され、以降、同社や1928年(昭和3年)に同社を吸収する日本電力の手によって黒部川開発が進むことになる。", "qas": [ { "question": "跡津川の本流となる川名は何ですか?", "id": "tr-191-05-000", "answers": [ { "text": "高原川", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "三井鉱山は高原川と黒部川における水利権を出願したが、実際に開発しなかったのはどちらか?", "id": "tr-191-05-001", "answers": [ { "text": "黒部川", "answer_start": 535, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "黒部川の水利権の競願者は三井鉱山と誰でしたか?", "id": "tr-191-05-002", "answers": [ { "text": "高峰譲吉", "answer_start": 605, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "高峰譲吉は黒部川の水利権を得て何をしようと考えていたのか?", "id": "tr-191-05-003", "answers": [ { "text": "アルミニウム製錬", "answer_start": 592, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "黒部川の開発を断念した後、三井鉱山は出願していた高原川4地点における水利権のうち、「高原川第四水力」の水利権許可を1919年(大正8年)7月に取得。\nこの許可以前に跡津川など高原川支流にて4地点の水利権を得ており、これですべての発電所が完成した暁には3万キロワット以上の発電が可能となった。\nだが、高原川第四水力の出願目的であった亜鉛の電解精錬は品質上の問題から断念されて実現しなかった上、土第一発電所が完成して鉱山への供給も間に合っていたため、神岡鉱山では大量に電力を消費する需要は存在しなかった。\nこのことから、三井鉱山は開発にあたって余剰電力の販路を確保する必要が生じた。\nこうした中、電力の販売先として浮上したのが日本水力株式会社である。\n同社は、三井物産出身の実業家山本条太郎や、関西の電力会社大阪電灯・京都電灯によって1919年10月に設立された新興の電力会社で、関西への電力供給を計画していた。\n三井鉱山はこの日本水力との間に、高原川開発の共同経営と最大4万7000キロワットの電力販売を契約した。\n日本水力は岐阜県の船津から富山・金沢・福井・敦賀・琵琶湖西岸・京都を経て大阪へといたる長距離送電線の建設許可を得ていたので、この送電線を利用して発生電力を関西へと送電することとなった。", "qas": [ { "question": "三井鉱山が余剰電力の販売先に選んだ会社はどこですか?", "id": "tr-191-06-000", "answers": [ { "text": "日本水力株式会社", "answer_start": 311, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "三井鉱山は日本水力と最大何キロワットの電力販売を契約したの?", "id": "tr-191-06-001", "answers": [ { "text": "4万7000キロワット", "answer_start": 434, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "関西への送電線建設に至る前に日本水力は福澤桃介率いる木曽電気興業・大阪送電との合併して1921年(大正10年)2月に大同電力株式会社となったが、日本水力の権利義務は大同電力に引き継がれたので、三井鉱山の高原川開発の提携先は大同電力に変わった。\nそして翌1922年(大正11年)8月1日、三井鉱山が許可を取得ないし出願中の高原川本流・同支流の水利権を基礎として電気事業ならびに附帯事業を共同経営する目的で、三井鉱山と大同電力の共同出資により神岡水電株式会社が設立された。\n資本金は500万円。\n代表取締役会長には三井鉱山の牧田環が就任し、取締役には大同電力の増田次郎など三井・大同から2名ずつ、監査役には両社から1名ずつが送られた。\n一方で新会社の職員はすべて三井鉱山からの出向であった。\n本社は東京市日本橋区室町2丁目に置いた。\nなお、資本金は1929年(昭和4年)7月の増資により1000万円となった。", "qas": [ { "question": "神岡水電株式会社の資本金はいくらだったの?", "id": "tr-191-07-000", "answers": [ { "text": "500万円", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "神岡水電株式会社の資本金は設立時の1922年と1929年ではどちらの方が多かったですか?", "id": "tr-191-07-001", "answers": [ { "text": "1929年", "answer_start": 372, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "神岡水電株式会社の本社の住所地は?", "id": "tr-191-07-002", "answers": [ { "text": "東京市日本橋区室町2丁目", "answer_start": 347, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "神岡水電株式会社の代表取締役会長に就いた人は誰?", "id": "tr-191-07-003", "answers": [ { "text": "牧田環", "answer_start": 260, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "神岡水電の設立に先立つ1920年(大正9年)4月21日、三井鉱山は神岡鉱業所内に「神岡水電建設事務所」を開設し、高原川支流の「跡津川第一水力」の開発に着手、同じく支流の「ソンボ谷川水力」と高原川本流の「高原川第四水力」の建設準備を始めた。\n跡津川第一水力、すなわち跡津発電所の工事は1920年下期より開始された。\nそして同発電所は1924年(大正13年)12月に落成して運転を開始した。\n跡津発電所の建設工事はすべて三井鉱山の名義で行われ、運転開始後の1925年(大正14年)7月になって三井鉱山から神岡水電に譲渡されている。\n三井鉱山が発電所を建設し、それを神岡水電が譲り受けて運転する、というこの特殊な事業構造はその後の発電所にも適用された。\n跡津発電所の発生出力は、三井鉱山神岡鉱業所への供給分を除いて発電所渡しにて大同電力へと売電された。\nこの時点ではまだ関西方面への送電線は建設されておらず、この電力は大同電力の手によって同社傍系の立山水力電気へと供給された。", "qas": [ { "question": "跡津発電所を建設したのはどこの会社ですか?", "id": "tr-191-08-000", "answers": [ { "text": "三井鉱山", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "跡津発電所を運転したのはどこの会社ですか?", "id": "tr-191-08-001", "answers": [ { "text": "神岡水電", "answer_start": 280, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "跡津発電所で発電した電力は、大同電力系のどの会社に供給されましたか?", "id": "tr-191-08-002", "answers": [ { "text": "立山水力電気", "answer_start": 421, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "跡津発電所に続いて1925年11月、高原川支流のソンボ谷川水力、すなわち中山発電所の建設が三井鉱山により着手された。\n中山発電所は1926年(大正15年)7月に完成した。\n後述の猪谷発電所に建設工事用の電力を供給するための発電所であり、猪谷発電所予定地までの1.6キロメートルに送電線を架設して同年10月より送電を開始した。\n中山発電所は猪谷発電所の完成後、同発電所とともに1931年(昭和6年)1月に三井鉱山から神岡水電へ譲渡された。", "qas": [ { "question": "中山発電所が送電を開始したのは何年ですか?", "id": "tr-191-09-000", "answers": [ { "text": "1926年", "answer_start": 65, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中山発電所から猪谷発電所予定地の間に架けられた送電線の距離は?", "id": "tr-191-09-001", "answers": [ { "text": "1.6キロメートル", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中山発電所はどこの河川に位置する発電所ですか?", "id": "tr-191-09-002", "answers": [ { "text": "ソンボ谷川", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "三井鉱山が1919年7月に水利権を得た「高原川第四水力」では、同社の手により猪谷発電所が1923年(大正12年)10月に着工された。\n岐阜県吉城郡船津町大字土(現・飛騨市神岡町土)にて高原川本流にダムを構築し、富山県上新川郡大沢野村大字猪谷(現・富山市東猪谷)まで導水して同地に発電所を設ける設計である。\n1929年(昭和4年)6月に完成し、7月1日より発電を開始した。\n前述の通り、完成後の1931年1月に中山発電所とともに三井鉱山から神岡水電へと譲渡されている。\n猪谷発電所と中山発電所の発生電力は三井鉱山では消化できないため、すべて発電所渡しにて大同電力に売電された。\nなお、大同電力は神岡水電から受電した電力を立山水力電気に供給していたが、1927年(昭和2年)上期からは日本電力を通じて大阪方面へと送電するようになり、次いで日本水力の計画が元となっている昭和電力北陸送電幹線が1929年6月に富山県から大阪府まで完成すると、昭和電力が発電所渡しにて神岡水電から電力を購入、大阪で大同電力へと供給する体制へと変更された。", "qas": [ { "question": "中山発電所とともに三井鉱山から神岡水電へと譲渡されたもう1つの発電所は何?", "id": "tr-191-10-000", "answers": [ { "text": "猪谷発電所", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "猪谷発電所の建設にあたって高原川本流に構築されたものは何?", "id": "tr-191-10-001", "answers": [ { "text": "ダム", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "猪谷発電所の完成後、神岡鉱山の需要増に応ずるため三井鉱山は跡津川の土第一発電所の出力を増強するとともに、1935年(昭和10年)には出力1,100キロワットの土第二発電所を建設した。\nただしこれらの発電所は神岡水電に譲渡されていない。\n一方神岡水電は高原川上流や支流双六川などでの水利調査を続け、1934年(昭和9年)には蔵柱川の水利権を出願した。\n神岡水電はその後開発計画を再検討し、かねてより申請していた高原川の水利権(高原川第二・第三水力)と蔵柱川の水利権を統合、発電所を1か所に絞って開発する計画を立案して1937年(昭和12年)9月に工事実施認可を申請する。\nこれに対して当局は工期や資材の関係から分割して発電所を2つとするよう内示したため、神岡水電は上流側を「東町発電所」と命名しここを先に建設することとした。", "qas": [ { "question": "神岡水電が上流側に建設した発電所は何という名称ですか?", "id": "tr-191-11-000", "answers": [ { "text": "「東町発電所」", "answer_start": 335, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "神岡水電に譲渡されなかった発電所は土第二発電所とどこですか?", "id": "tr-191-11-001", "answers": [ { "text": "土第一発電所", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "東町発電所の建設準備中であった1938年(昭和13年)に電力管理法が公布され、8月には関連する勅令により着工されていない出力5,000キロワット以上の新規水力発電所はすべて国策会社日本発送電が行うこととなった。\n東町発電所は出力3万1300キロワットであるため、これにより権利が神岡水電から日本発送電に移った。\n日本発送電は1939年(昭和14年)10月、東町発電所の建設命令を受けるが、建設要員の準備を終えていた神岡水電が同社に代って出願手続きや施工監督の一切を請け負い、神岡水電の手で1940年(昭和15年)3月に着工。\n1942年(昭和17年)4月に1号機、9月に2号機を完成させ、日本発送電に引き渡した。\nなお、上流側の東町発電所に対して下流側は「牧発電所」と命名され、神岡水電ではなく日本発送電が直接起工した上で1942年に運転を開始している。", "qas": [ { "question": "1942年に運転を開始した下流側の発電所は何ですか?", "id": "tr-191-12-000", "answers": [ { "text": "「牧発電所」", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本発送電が運営を行うこととなる新規水力発電所の出力の限度はいくつ以上でしたか?", "id": "tr-191-12-001", "answers": [ { "text": "5,000キロワット以上", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "神岡水電は1932年(大正7年)1月、猪谷(富山県婦負郡細入村)と東町(岐阜県吉城郡船津町)を結ぶ三井鉱山の軌道を譲り受ける許可を得て、同年3月8日付でこれを実施した。\n「神岡軌道」と呼ばれた同線は、明治末期から大正にかけて敷設された神岡鉱山の馬車軌道が前身で、1923年(大正12年)に軌道法に準拠する軌道となった後、1927年(昭和2年)から三井鉱山が運営していた。\n神岡水電がこの軌道を運営したのは、ダム建設により不可能になる河川を用いた木材流送(流材)を代替するためである。", "qas": [ { "question": "猪谷と東町を結ぶ三井鉱山の軌道を何といいますか?", "id": "tr-191-13-000", "answers": [ { "text": "「神岡軌道」", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「神岡軌道」は神岡水電の前はどこが運営していましたか?", "id": "tr-191-13-001", "answers": [ { "text": "三井鉱山", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "河川を用いた木材流送が出来なくなる原因は何?", "id": "tr-191-13-002", "answers": [ { "text": "ダム建設", "answer_start": 203, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "三井鉱山が高原川第四水力(猪谷発電所)の水利権を得た当初、会社は流材への配慮を義務付けられていた。\n水利権の許可条件にダムへの流木路設置ならびに使用水量1,100立方尺(30.61立方メートル)のうち400立方尺(11.13立方メートル)の放流が盛り込まれていたのである。\nしかしこれでは発電事業として採算がとれないので、岐阜県・富山県当局や高原川上流地域の国有林を管轄する大阪営林局と交渉し、官材をすべて神岡軌道にて陸送し流材を代替する、大阪営林局と陸送に関する協定を締結する、という条件で流木路設置・使用水量制限の許可条件解除の許可を得た。\nそして実際に大阪営林局との協定の交渉を進める都合上、神岡軌道を自社の所有とする必要があったため、神岡水電は前述の通り1932年にこれを譲り受けた。\n譲り受け価格は57万5000円であった。", "qas": [ { "question": "神岡水電は神岡軌道をいくらで譲り受けたの?", "id": "tr-191-14-000", "answers": [ { "text": "57万5000円", "answer_start": 354, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1938年(昭和13年)4月、昭和に入って以来の懸案であった電力国家管理問題が決着、電力の国家管理をうたう「電力管理法」が公布されるに至った。\nこれによって全国の電気事業者から火力発電所と主要送電線を現物出資させて翌1939年(昭和14年)4月に国策電力会社日本発送電株式会社を設立することが決定した。\nその後出資すべき設備の範囲が確定し、33の事業者を対象に発送電設備の現物出資が指示されたが、この時点では神岡水電は対象に含まれなかった。\nしかしながら親会社の大同電力は全固定資産の4割に相当する設備の出資を命ぜられ、最終的にすべての資産・負債を日本発送電へと継承させる道を選んだため、1939年4月2日付で解散した。\n大同電力の解散により同社が保有する神岡水電の株式は日本発送電に継承され、電力の供給先も同社へと切り替わった。\nまた電力管理法の影響により新規の水力開発が不可能になり、建設準備を進めていた東町発電所の権利が日本発送電へと移行したのは前述の通りである。", "qas": [ { "question": "電力国家管理問題を解決するために公布されたものは何ですか?", "id": "tr-191-15-000", "answers": [ { "text": "「電力管理法」", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本発送電株式会社の出現によって解散の道を歩んだ神岡水電の親会社は何ですか?", "id": "tr-191-15-001", "answers": [ { "text": "大同電力", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本発送電株式会社が設立されたのは昭和何年ですか?", "id": "tr-191-15-002", "answers": [ { "text": "昭和14年", "answer_start": 114, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "日本発送電の発足後、日中戦争が拡大する中で政府は電力国家管理の強化を指向し、水力発電所を含む主要電力設備を日本発送電に帰属させることを決定。\n勅令により電力管理法施行令を改正し、1941年(昭和16年)5月・同年8月の2度にわたり全国の電気事業者に対して設備の出資命令を発した。\n出資期日は1941年10月1日(=第1次出資)か翌1942年(昭和17年)4月1日(=第2次出資)のいずれかで、第1次出資には27、第2次出資には23の事業者がそれぞれ指定され、第1次・第2次合計で水力発電所292か所、火力発電所9か所、送電設備297路線、変電設備25か所に及ぶ電力設備の出資が命ぜられた。", "qas": [ { "question": "第1次出資と第2次出資では、どちらが多く事業者が指定されましたか?", "id": "tr-191-16-000", "answers": [ { "text": "第1次出資", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第1次・第2次の合計を見て、どの電力設備が最も多くの出資を命ぜられましたか?", "id": "tr-191-16-001", "answers": [ { "text": "送電設備", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第1次・第2次の合計を見て、どの電力設備の出資が最も少ないですか?", "id": "tr-191-16-002", "answers": [ { "text": "火力発電所", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第1次・第2次の合計を見て、どの電力設備の出資が3番目に少ないですか?", "id": "tr-191-16-003", "answers": [ { "text": "水力発電所", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "一家四人死刑事件", "paragraphs": [ { "context": "一家四人死刑事件は、1914年に新潟県中蒲原郡で発生した殺人事件である。一審の新潟地裁では一家4人による共犯として、被害者の妻と義母、そして2人の息子の全員に死刑判決が下された。しかし、東京控訴院での控訴審では一転して被害者長男による単独犯と認定され、他の3人の判決は無罪へと覆った。1人死刑を維持された長男は、事件は外部犯によるものとして大審院へ上告するも棄却され、その後も冤罪を訴え続けたが1917年に処刑された。", "qas": [ { "question": "一家四人死刑事件の一審で、何人が死刑判決を受けたか。", "id": "tr-192-00-000", "answers": [ { "text": "4人", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "一家四人死刑事件は何年に発生した事件なの?", "id": "tr-192-00-001", "answers": [ { "text": "1914年", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1914年12月30日の朝、新潟県中蒲原郡横越村の農家で、一家の父(当時50歳または49歳)が納屋で撲殺されているのを、養女(当時14歳)が発見した。屋外に積もった雪には外部からの侵入の跡がなかったこと、血の付いた服が屋根裏に隠されていたことなどから、通報を受けた当局は家族による犯行と断定し、同日中に被害者の長男(当時23歳または21歳)、次男(当時19歳または17歳)、妻(当時45歳)、義母(被害者妻の養母。当時68歳)の4人を検挙した。翌31日の予審において、次男は父の殺害を自白した。次男の自白によると、4人が父の殺害を計画したのは犯行前日の29日の晩とされる。話を切り出したのは祖母であったが、父は働きもせず酒を飲み、借金を作るばかりか生命保険にも加入していたので、他の3人もそれに同意したという。そして、翌30日の朝5時半、日課の米搗きのために納屋へやって来た父を待ち構え、自らが杵で滅多打ちにするとともに、兄が襟巻きで首を絞めて殺害したという。しかし、他の3人はそのような共犯関係を否認し、次男も直後には自白を撤回した。次男は、取調べ中も母や祖母が拷問を受けて泣いているのが聞こえ、それに耐えられず自白した、と主張した。ところが、翌1915年1月15日の第2回予審になって今度は長男が、他の3人は事件に無関係であり、父は自分1人で殺害したとの自白を行った。自白によると、長男は遊女を買う金欲しさに家の米を盗んで売ろうとしたが、納屋へ忍び込んだところへ父が現われたため、咄嗟に杵で滅多打ちにして撲殺したという。だが、やはり長男もほどなく自白を撤回した。長男は、監獄の外に残された幼い弟妹を気にかけ、加えて70歳近い祖母が獄死するのではないかと恐れて、自分一人で罪を被ろうとしたのである、と主張した。", "qas": [ { "question": "次男の自白によると、4人が父の殺害を計画したのは何日でしたか。", "id": "tr-192-01-000", "answers": [ { "text": "29日", "answer_start": 276, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "犯行に対して、最初に自白をしたのは誰でしたか。", "id": "tr-192-01-001", "answers": [ { "text": "次男", "answer_start": 234, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "次男と長男と、誰がもっとあとで自白したの?", "id": "tr-192-01-002", "answers": [ { "text": "長男", "answer_start": 547, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "4人全員が犯行を否認し、自白も兄弟間で食い違うなか、予審判事は次男の自白に沿い、母と祖母を殺人罪で、兄弟を尊属殺人罪で新潟地裁へ起訴した。そして、およそ半年後の同年6月2日、裁判長の岡崎善太は次男の自白を全面的に採用し、事件を保険金目当ての4人による共犯と認定、被告人全員に死刑判決を言い渡した。一審弁護人を務めた今成留之助によれば、検事は弁護側の証人申請にもほとんど同意せず、裁判長も即決同様に判決を下してしまったという。", "qas": [ { "question": "被告人全員に死刑判決を受けたのは、誰の自白を採用した結果ですか。", "id": "tr-192-02-000", "answers": [ { "text": "次男", "answer_start": 96, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "南極の気候", "paragraphs": [ { "context": "南極の気候(なんきょくのきこう)は、南極大陸およびその周辺部における気候についての記事である。\n南極は地球上で最も寒冷な地域(=寒極)とされている。\n地球上で今までに記録された中で最も低い気温である−89.2°Cは南極のボストーク基地で1983年7月21日観測された。\nこれにより、南極は地球の寒極とされている。\nまた、2010年8月10日にはドームA付近の氷原において、地表面温度が-93.2°Cに達した。\n殆どの地域では、月平均気温は夏でも0°Cを超えない。\nそれと同時にとても乾燥している。\n年間降水量は平均166mmであり、降水量だけを考慮すれば砂漠に分類される。\n南極上空の大気は南極大陸性気団(cA)に覆われていて均質なため、前線はめったに大陸内部まで入り込まない。\n大陸のほとんどの部分で氷はまず融けず、圧縮され氷床を構成する氷河になる。\n南極のほぼ全ての地域は氷雪気候(ケッペンの気候区分ではEF)で、年間を通じて極めて寒冷で、かつとても乾燥した気候である。\n外縁の海岸地帯だけはツンドラ気候(ケッペンの気候区分ではET)であり、短い夏の間は平均気温が0°C以上となる。\nまた、内陸部よりも降水量が多い。", "qas": [ { "question": "ボストーク基地で観測史上最も低い気温は何°Cでしたか?", "id": "tr-193-00-000", "answers": [ { "text": "−89.2°C", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "南極で−89.2°Cが観測されたのはいつでしたか?", "id": "tr-193-00-001", "answers": [ { "text": "1983年7月21日", "answer_start": 118, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南極の年間平均降水量はどれくらいですか?", "id": "tr-193-00-002", "answers": [ { "text": "平均166mm", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "南極の内陸部と海岸地帯はどちらが降水量が多いですか?", "id": "tr-193-00-003", "answers": [ { "text": "海岸地帯", "answer_start": 441, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "北極の気候と比べると、南極の気候は寒く、より乾燥している。\nこれは、南極の地形や海陸分布によるところが大きい。\nまず、南極は北極と違って大陸であり、気候は気温の上下が大きい大陸性である。\nまた、内陸のほとんどが分厚い氷河の上にあり標高も高いため、標高の低い北極点付近に比べ気温が更に低くなる。\nそれに加え、南極は周囲の大陸から孤立し、南極点を中心に位置している。\nこのため、南極付近の冷たい空気と、その周囲の海上・陸上にある暖かい空気の温度差が非常に大きくなり、気圧差も大きくなる。\n高気圧側の南極(極高圧帯)から吹き出す風は、南極海で発達する低気圧や前線を通って上昇気流となり、上空で南極に戻っていく循環コースをたどる。\n低気圧が発達するとジェット気流や偏西風も発達するため、南極と北側の温かい空気はこの強風帯によって隔てられる。\nまた、同じように海流も南極を取り巻くように流れており、暖かい海水が南極付近に流れ込みにくい構造となっている。\nこれら、海と大気両方の壁によって、南極の寒さが保たれている。\n一方の北極は、海陸分布が崩れていること、北大西洋海流が北極海に流入していることなどから、寒さは維持されにくい。", "qas": [ { "question": "北極と南極はどちらが乾燥しているの?", "id": "tr-193-01-000", "answers": [ { "text": "南極", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "北極と南極はどちらが標高が高いですか?", "id": "tr-193-01-001", "answers": [ { "text": "南極", "answer_start": 59, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "北極の周りに流れ込んでいる海流は何ですか?", "id": "tr-193-01-002", "answers": [ { "text": "北大西洋海流", "answer_start": 473, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "北極と南極はどちらが標高が低いですか?", "id": "tr-193-01-003", "answers": [ { "text": "北極", "answer_start": 128, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "およそ2億年前、南極は南米、アフリカ、アラビア半島、インド、オーストラリアなどとともに、ゴンドワナ大陸と呼ばれる一つの巨大な大陸をなしていた。\nその頃南極大陸には氷床は無く、温暖な気候だった。\nそして樹木と大型動物が数多く生息していた。\n現在では、氷河の下の地層と化石だけが南極が暖かかったことを証明している。\n特に、炭層の分布は森林があったことを示している。\nプレートテクトニクス理論によると、南極大陸はゴンドワナ大陸から分裂し、ゆっくりと現在の位置、つまり南極点の辺りへ移動した。\nしかし移動後も、現在よりは温暖な気候だった。\n南極が寒冷化したのは、およそ3000万年前に南極が南アメリカ大陸からも分かれ、ドレーク海峡ができたことによる。\n西から東への風が常に周回するようになり、海流も同じように南極海を周回する南極環流ができた。\nこの取り囲む気流と海流が熱の移動を妨げ、南極を冷やした。\nおよそ500万年前、鮮新世が始まった頃に南極は氷に覆われた。", "qas": [ { "question": "2億年前の南極は何という大陸でしたか?", "id": "tr-193-02-000", "answers": [ { "text": "ゴンドワナ大陸", "answer_start": 44, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2億年前の南極はどのような気候でしたか?", "id": "tr-193-02-001", "answers": [ { "text": "温暖な気候", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "南極の寒冷化の原因は何ができたからですか?", "id": "tr-193-02-002", "answers": [ { "text": "ドレーク海峡", "answer_start": 305, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドレーク海峡ができたのは何年前ですか?", "id": "tr-193-02-003", "answers": [ { "text": "およそ3000万年前", "answer_start": 277, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "南極大陸は非常に寒冷であり、2018年には気温が−97.8°Cに達したことが報告されている。\n観測史上の最高気温は、2020年2月6日に南極半島北端にあるアルゼンチン管轄のエスペランサ基地で観測された18.3°Cである。\n緯度と標高と海からの距離によって気温は異なる。\n内陸部の寒極では年平均気温は−57°Cと推定され、寒極に近いボストーク基地では−55.3°C、南極点では−49.5°Cである。\n海岸はこれより温暖であり、海岸に近い昭和基地の年平均気温は−10.5°Cである。\nまた、緯度が比較的高く、かつ海沿いのマクマード基地では、月平均気温は8月が最も低く−27°Cで1月が最も高く−3°Cである。\nなお、南極点での観測史上最高気温は−13.6°Cである。", "qas": [ { "question": "年平均気温が低いのはボストーク基地と南極点のどちらですか?", "id": "tr-193-03-000", "answers": [ { "text": "ボストーク基地", "answer_start": 165, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ボストーク基地と昭和基地の年平均気温が高いのはどちらですか?", "id": "tr-193-03-001", "answers": [ { "text": "昭和基地", "answer_start": 217, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マクマード基地の月平均気温が最も低いのは何月ですか?", "id": "tr-193-03-002", "answers": [ { "text": "8月", "answer_start": 274, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エスペランサ基地はどこの国の管轄下に置かれていますか?", "id": "tr-193-03-003", "answers": [ { "text": "アルゼンチン", "answer_start": 77, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "東南極は、西南極よりも標高が高いので、気温が低い。\n一方、海に近い地域では、夏に当たる1月の最高気温の平均はめったに0°Cを下回らない。\n南極半島は、緯度が低く、周囲を海に囲まれている影響で、南極の中で一番気候が穏やかである。\n南極半島先端にあるエスペランサ基地の年平均気温は−5.2°Cで、前述のように南極大陸の最高気温を記録したこともある。\n通常、高度が上がるにつれ気温は逓減するが、内陸部の高地においては特に冬季に20度を超えるような逆転層が生じる。\nこれは風が弱いときに放射冷却が起こると著しく現れる。", "qas": [ { "question": "東南極と西南極はどちらが気温が高いですか?", "id": "tr-193-04-000", "answers": [ { "text": "西南極", "answer_start": 5, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "南極の中で一番気候が穏やかな地域はどこ?", "id": "tr-193-04-001", "answers": [ { "text": "南極半島", "answer_start": 69, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "南極半島の先端に位置している基地は何ですか?", "id": "tr-193-04-002", "answers": [ { "text": "エスペランサ基地", "answer_start": 123, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "東南極と西南極はどちらが標高が高いですか?", "id": "tr-193-04-003", "answers": [ { "text": "東南極", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "南極大陸全体の平均年間総降水量はおよそ166mmである(Vaughanetal.,Jclimate,1999年)。\n実際には降水量には地域によってかなり差がある。\n大陸内部の高地では少なく、一年に50mmくらいである。\n逆に南極半島の辺りでは多い。\nちなみに、乾燥限界未満の降水量であれば乾燥帯に分類されるが、寒帯ではこの分類が適用されない。\n南極のほぼ全域では、降水現象というと雪のみであり、雨が降らない。\n降水量は実際に降った雪の深さ(降雪量)ではなく、同量の水が降ったもの(降水量)として記録する。\n南極の空気は、低温のためもともと飽和水蒸気量が少なく、唯一の水である氷はほとんど蒸発しないため、湿度が低く、とても乾燥している。\nそのため、科学者や探検家といった現地に滞在する者にとっては、肌の乾燥や唇のひび割れがつきものの問題となる。", "qas": [ { "question": "南極での降水現象とは何が降ることを指しますか?", "id": "tr-193-05-000", "answers": [ { "text": "雪", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大陸内部の高地は一年でどれくらいの降水量を記録していますか?", "id": "tr-193-05-001", "answers": [ { "text": "50mm", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "南極大陸全体の平均年間総降水量はどれくらいですか?", "id": "tr-193-05-002", "answers": [ { "text": "およそ166mm", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大陸内部と南極半島ではどちらが降水量が多いですか?", "id": "tr-193-05-003", "answers": [ { "text": "南極半島", "answer_start": 112, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "南極大陸の沿岸部は滑降風が強い。\n南極における滑降風とは、大陸内部の氷床によって大気が冷え、重くなり、標高の高い中央部から低い沿岸部へと滑り落ちることにより吹く強風のことである。\nその風速は、昭和基地ではおよそ秒速10メートル、沿岸の基地全般では平均およそ秒速11メートル、1912年から1913年にかけてのデニソン岬では年間平均風速が秒速19.5メートル、最大風速は100メートルほどに達した。\n南極の滑降風にはさまざまな特徴がある。\n風向きが決まっている、ほぼ毎日、主に午前中に吹く、積雪を巻きあげて地吹雪となることが多い、沿岸に低気圧があるとさらに強まる、などである。", "qas": [ { "question": "南極の滑降風が吹く時間帯はいつですか?", "id": "tr-193-06-000", "answers": [ { "text": "午前中", "answer_start": 237, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "滑降風の風速が大きいのは昭和基地と沿岸の基地全般のどちらですか?", "id": "tr-193-06-001", "answers": [ { "text": "沿岸の基地全般", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1912年から1913年にかけて年間平均風速が秒速19.5メートルを記録した地域はどこですか?", "id": "tr-193-06-002", "answers": [ { "text": "デニソン岬", "answer_start": 154, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南極大陸の沿岸部には何という風が強く吹きますか?", "id": "tr-193-06-003", "answers": [ { "text": "滑降風", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "南極大陸のほぼ全ては氷床に覆われていて、平均の厚さは少なく見積もっても約1.6km、体積はおよそ3000万立方キロメートルである。\n南極には全世界の氷の90%と、全世界の淡水の70%以上が存在するといわれている。\nもしも、南極を覆う陸上の氷が全て融解した場合、世界の海面は60m以上上昇すると予想されている。\n地球温暖化によって氷床が融解し、海面上昇を加速することが懸念されている。", "qas": [ { "question": "南極大陸に存在する氷床の平均の厚さはどれくらいですか?", "id": "tr-193-07-000", "answers": [ { "text": "約1.6km", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "南極大陸に存在する氷床の体積はどれくらいですか?", "id": "tr-193-07-001", "answers": [ { "text": "およそ3000万立方キロメートル", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "南極の氷が全て解けたら、世界の海面はどれくらい上昇しますか?", "id": "tr-193-07-002", "answers": [ { "text": "60m以上", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "南極における気象観測は1950年代に遡る。\n数十年以上の観測記録がある基地は比較的少なく、観測網は充分でなかった。\n衛星による赤外線観測によれば、南極大陸および周辺海域の地面・雪氷・水面の表面温度は、多くの部分で上昇している。\n場所によっては、1981~2007年の間に、平均して0.1°C/年以上の上昇も観測された。\nその一方で大陸中央部から東南極地域にかけては殆ど温度が変わらないか、むしろ下降している地域も見られた。\nこのように地域によって表面温度の変化傾向が異なる理由としては、複数の要因が提唱されている。\nたとえば、周囲の海の温暖化により降雪量が増え、その雪が表面温度を下げている可能性、紫外線を吸収するオゾン層の消失により成層圏が寒冷化し、南極点の周りを回転する極循環を強め、その極渦がより温暖な気団の内陸部への進入を妨げている可能性等が指摘されている。", "qas": [ { "question": "南極での気象観測はいつ頃始まりましたか?", "id": "tr-193-08-000", "answers": [ { "text": "1950年代", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オゾン層の役割は何?", "id": "tr-193-08-001", "answers": [ { "text": "紫外線を吸収する", "answer_start": 299, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "南極では周囲の海の温暖化により何の量が増えましたか?", "id": "tr-193-08-002", "answers": [ { "text": "降雪量", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南極大陸の地面・雪氷・水面の表面温度は多くの部分でどうなっていますか?", "id": "tr-193-08-003", "answers": [ { "text": "上昇", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "表面温度同様、地表面付近の温度変化の傾向には南極の中でも地域差がある。\n東南極では比較的変化が乏しく、温暖化・寒冷化の判断の別は報告間や解析対象とした季節で異なる。\n一方、西南極や南極半島では温暖化傾向が報告されている。\n南極全体の近年の地表面付近気温の傾向については観測データが少なく、過去の気温変化の再構築結果は、少なくとも2008年頃までは温暖化・寒冷化両方の報告が見られた。\n2002年のDoranら、2007年のChapmanらはそれぞれ南極全体では寒冷化していると見積もった。\n2008年のMonaghanらは計算条件により寒冷化・温暖化両方の傾向を見積もった。\n2009年のSteigらはDoranら、Chapmanら、Monaghanらによる再構築の欠陥を指摘し、温暖化していると見積もった。\n2012年のSchneiderらは新しいデータを用いて、Chapmanら、Monaghanら、Steigらの主要な3つの手法でそれぞれ再構築を行った結果、どの手法を用いても、この半世紀は平均約0.1°C/10年のペースで温暖化しているとの見積もりになると報告している。", "qas": [ { "question": "東南極と西南極はどちらが温暖化の傾向が強いですか?", "id": "tr-193-09-000", "answers": [ { "text": "西南極", "answer_start": 86, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "DoranとChapmanはどちらが先に南極の寒冷化を算出しましたか?", "id": "tr-193-09-001", "answers": [ { "text": "Doran", "answer_start": 198, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "南極の寒冷化・温暖化両方の傾向を見積もった人は誰ですか?", "id": "tr-193-09-002", "answers": [ { "text": "Monaghan", "answer_start": 251, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2012年に南極の温暖化を報告した人は誰?", "id": "tr-193-09-003", "answers": [ { "text": "Schneider", "answer_start": 361, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1979年に人工衛星による観測が始まって以来、南極の海氷の総量は増加してきた。\n2008年の海氷は記録的な量を観測し、2009年も平年より著しく多いと報告されている。\nこれは積もった雪が表面を断熱することによる短期的な効果で、中長期的には海氷も減少すると予測されている。", "qas": [ { "question": "南極で人工衛星による観測が始まったのはいつですか?", "id": "tr-193-10-000", "answers": [ { "text": "1979年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1979年以降、南極では何の総量が年々増えてきていますか?", "id": "tr-193-10-001", "answers": [ { "text": "海氷", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2007年のIPCC第4次評価報告書によるまとめでは、ほぼ全ての気候モデルが降水量(降雪)の増加を予想している。\nこれによって増えた雪が大幅に融解しない場合は、これは海水準を下げる方向に作用する。\n一方2007年時点では、降水量に明確な変化が見られないと報告されている。\n2009年の英国南極調査研究所によるまとめでは、南極氷床中央部における氷雪の増加により、海面上昇量が数cm抑えられると見積もっている。", "qas": [ { "question": "IPCC第4次評価報告書は何年に発表されましたか?", "id": "tr-193-11-000", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南極氷床中央部における氷雪の増加により、海面上昇量が数cm抑えられると見積もった研究所はどこですか?", "id": "tr-193-11-001", "answers": [ { "text": "英国南極調査研究所", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "これまでの氷床の増減については、2007年のIPCC第4次評価報告書による既存の報告のまとめでは、いずれも西南極においては減少、東南極においては増加もしくは横ばいで推移してきたと見積もられた。\n南極半島周辺では、広範囲で氷河が後退していると見られることが報告された。\n一方で1961~2003年の間の南極全体での増減の見積もりについては、平均年間100Gtの増加から200Gtの減少まで幅があった。", "qas": [ { "question": "南極半島周辺では、広範囲で氷河が後退していると見られることが報告されたのは何年ですか?", "id": "tr-193-12-000", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 16, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2007年の報告で、氷床が減少しているとされたのは南極の西か東どちらですか?", "id": "tr-193-12-001", "answers": [ { "text": "西", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "近年は雪氷や氷床の減少が複数報告され、IPCC第4次評価報告書の見積もりよりも海面上昇幅が大きくなる可能性が指摘されている。\n2007年には雪氷の融解地域の拡大等が確認されている。\n2009年には既に融解が観測されていた西南極氷床だけではなく、安定していると見られていた東南極氷床でも氷量の減少が報告されている。\nまたラーセン棚氷のような大規模な棚氷の崩壊によって陸上の氷が海に流入・融解する速度が速まることが懸念されている。\n2010年の報告では、世界の海面上昇量がIPCC第4次評価報告書の記載値(最大59cm)を上回り、今世紀中に1~2mを超える可能性が指摘されている。", "qas": [ { "question": "雪氷の融解地域の拡大が確認されたのは何年ですか?", "id": "tr-193-13-000", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 63, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東南極氷床でも氷量の減少が報告されたのは何年ですか?", "id": "tr-193-13-001", "answers": [ { "text": "2009年", "answer_start": 91, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2010年の報告では、世界の海面上昇量が今世紀中に何mを超える可能性が指摘されていますか?", "id": "tr-193-13-002", "answers": [ { "text": "1~2m", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "世界の海面上昇量が今世紀中に1~2mを超える可能性があると報告されたのは何年ですか?", "id": "tr-193-13-003", "answers": [ { "text": "2010年", "answer_start": 214, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] } ] }