{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "ヴェルトハイム", "paragraphs": [ { "context": "ヴェルトハイム(ドイツ語:Wertheim)は、ドイツ連邦共和国バーデン=ヴュルテンベルク州マイン=タウバー郡に属する市。\nバーデン=ヴュルテンベルク州で最も北に位置する都市で、バイエルン州との州境に直接面している。\nフランクフルト・アム・マインの南約71km、ヴュルツブルクの西約30kmにあたる。\nこの街はマイン=タウバー郡最大の都市であり周辺市町村の中級中心都市である。\nまた、1976年1月1日以降、ヴェルトハイムは大規模郡都市になっている。", "qas": [ { "question": "バーデン=ヴュルテンベルク州で最北に位置する都市とは?", "id": "de-029-00-000", "answers": [ { "text": "ヴェルトハイム", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヴェルトハイムから距離が遠いのはフランクフルト・アム・マインとヴュルツブルクのどちらですか?", "id": "de-029-00-001", "answers": [ { "text": "フランクフルト・アム・マイン", "answer_start": 109, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マイン=タウバー郡最大の都市とは?", "id": "de-029-00-002", "answers": [ { "text": "ヴェルトハイム", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヴェルトハイムはどこの州と隣接しているの?", "id": "de-029-00-003", "answers": [ { "text": "バイエルン州", "answer_start": 89, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヴェルトハイムはバーデン=ヴュルテンベルク州最北の都市で、タウバー川がマイン川に注ぐ河口部のオーデンヴァルトの突出部に位置する。\nマイン川の対岸はシュペッサルトである。\n以下の市町村がヴェルトハイムと境を接する。\n東から時計回りに列記する。\nホルツキルヒェン、ヘルムシュタット、ノイブルン(以上、バイエルン州ヴュルツブルク郡)、ヴェルバッハ、キュルスハイム(ともにマイン=タウバー郡)、ノインキルヒェン(バイエルン州ミルテンベルク郡)、フロイデンベルク(マイン=タウバー郡)、シュタットプロツェルテン、ファウルバッハ(ともにミルテンベルク郡)、ハスロッホ、クロイツヴェルトハイム、ティーフェンシュタイン(以上、バイエルン州マイン=シュペッサルト郡)である。", "qas": [ { "question": "ヴェルトハイムは何の川がマイン川に注いでいる地域ですか?", "id": "de-029-01-000", "answers": [ { "text": "タウバー川", "answer_start": 29, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヴェルトハイムとシュペッサルトの間にある川は何ですか?", "id": "de-029-01-001", "answers": [ { "text": "マイン川", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヴェルトハイムと境を接しているバイエルン州ヴュルツブルク郡の地域はホルツキルヒェン、ヘルムシュタットともう1つはどこですか?", "id": "de-029-01-002", "answers": [ { "text": "ノイブルン", "answer_start": 139, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヴェルトハイムと境を接しているバイエルン州ミルテンベルク郡の地域は何ですか?", "id": "de-029-01-003", "answers": [ { "text": "ノインキルヒェン", "answer_start": 193, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヴェルトハイムの市域は、ケルンシュタット(中核区)と15のオルトシャフト(郊外区)、5つのシュタットタイル(都市区)からなる。\n15の郊外区は1970年代の市町村再編によりヴェルトハイムに合併した旧町村である。\nベッティンゲン、デルティンゲン、ディーテンハン、デルレスベルク、グリューネンヴェルト、ヘーエフェルト、ケムバッハ、リンデルバッハ、モントフェルト、ナッシヒ、ライヒョルツハイム、ザクセンハウゼン、ゾンダーリート、ウアファール、ヴァルデンハウゼンである。", "qas": [ { "question": "オルトシャフトとシュタットタイルはどちらの方が数が多いですか?", "id": "de-029-02-000", "answers": [ { "text": "オルトシャフト", "answer_start": 29, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "デルレスベルクはケルンシュタット、それともオルトシャフトのどちらですか?", "id": "de-029-02-001", "answers": [ { "text": "オルトシャフト", "answer_start": 29, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウアファールはオルトシャフトとシュタットタイルのどちらに含まれますか?", "id": "de-029-02-002", "answers": [ { "text": "オルトシャフト", "answer_start": 29, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "5つの郊外区は1939年までに合併した旧町村(ベシュテンハイト、アイヒェル/ホーフガルテン・ウント・フォッケンロート)あるいはこれらへの入植完了後に新たに独立して形成された地区(ベシュテンハイダー・ヘーエ、ラインハルツホーフ、ヴァルトベルク)からなる。\nラインハルツホーフは米軍撤退後も軍事目的のペーデン・バラック兵舎があったのだが、1990年代の中頃にラインハルツホーフ区として入植が行われた。\n最も新しい市区は、ラインハルツホーフ区、ヴァルトベルク区、ベシュテンハイト区の間に新しく造られた住宅地ベシュテンハイダー・ヘーエである。\nヴェルトハイムは、ハイルブロンを上級中心都市とするハイルブロン=フランケン地域連合内の中級中心となっている。\nヴェルトハイム中級中心管区には、ヴェルトハイムの他にバイエルン州の隣接町村と密接な関係にあるフロイデンベルクが含まれる。", "qas": [ { "question": "最も新しい市区はどこですか?", "id": "de-029-03-000", "answers": [ { "text": "ベシュテンハイダー・ヘーエ", "answer_start": 250, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "後から郊外区に含まれた地区はベシュテンンハイトとヴァルトベルクのどちらですか?", "id": "de-029-03-001", "answers": [ { "text": "ヴァルトベルク", "answer_start": 113, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ヴェルトハイムは、おそらく7-8世紀に創設された。\nこの入植地はマイン川右岸、現在のバイエルン州に属すクロイツヴェルトハイムにまで及んだ。\n12世紀の初めから貴族一門レギンボードン家の分家筋がヴェルトハイム家を名乗った。\nヴェルトハイム伯はマイン川左岸、タウバー川の河口の右岸に城を築いた。\nこの防衛施設の麓に新しい入植地が造られ、やはりヴェルトハイムと称した。\n1192年に\"SuburbiumcastriWertheim\"(ヴェルトハイム城の城下町)として初めて記録され、1200年頃には\"oppidum\"、1244年には\"civitas\"として記録されている。", "qas": [ { "question": "ヴェルトハイムはいつ創設されたといわれていますか?", "id": "de-029-04-000", "answers": [ { "text": "7-8世紀", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヴェルトハイム家を名乗った者は、元々何家から分家した人達ですか?", "id": "de-029-04-001", "answers": [ { "text": "レギンボードン家", "answer_start": 83, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "\"civitas\"、\"SuburbiumcastriWertheim\"、\"oppidum\"の中で2番目に記録されているものはどれ?", "id": "de-029-04-002", "answers": [ { "text": "\"oppidum\"", "answer_start": 246, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ヴェルトハイムは同名の伯領の中心地に発展し、16世紀以降はレーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム伯(後に侯)の統治下に置かれた。\nこの侯領は1806年まで存続し、ライン同盟により陪臣化された。\nヴェルトハイム市とマイン川左岸の周辺地域はバーデン大公国に属した。\nマイン川右岸地域はダールベルク首座大司教のアシャッフェン侯領、後のフランクフルト大公領に属した。\nこれが廃止された後、1815年にヴェルトハイムはバイエルン王国領に移された。\nヴェルトハイムはいくつかのアムトの所在地となり、1819年にベツィルクスアムト・ヴェルトハイムに組み込まれた。", "qas": [ { "question": "ヴェルトハイム伯が統治した侯領は何年まで続きましたか?", "id": "de-029-05-000", "answers": [ { "text": "1806年", "answer_start": 69, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ライン同盟による陪臣化後、ヴェルトハイム市はどこに属しましたか?", "id": "de-029-05-001", "answers": [ { "text": "バーデン大公国", "answer_start": 117, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランクフルト大公領となる前の侯領名は何でしたか?", "id": "de-029-05-002", "answers": [ { "text": "アシャッフェン侯領", "answer_start": 151, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランクフルト大公領の廃止後、ヴェルトハイムはどこの領地として移されたの?", "id": "de-029-05-003", "answers": [ { "text": "バイエルン王国領", "answer_start": 203, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "国家社会主義の時代、1933年3月に長年市長の職にあったハンス・バードンが辞任した。\nその理由として、職務遂行不可能を証明する診断書が提出された。\n3度にわたって懲戒処分請求が失敗した後、ナチス党員はついに市長の交代に成功したのであった。\nバードンは辞任前の1931年の夏に神経虚脱の状態にあった。\nこれはおそらくNSDAP所属の市議らによる過激な行動が原因と考えられている。\nこのために彼は何度も執務を中断しなければならず、しかも事態は一向に改善しなかった。\nバードンは、国会議員選挙の際にハーケンクロイツの旗を掲げた場所での投票を要求するNSDAPの代表者と激しい論争を行った。\nこの提案は、選挙の2日前の市議会で7対5で否決された。\nまた、ヒトラーにヴェルトハイムの名誉市民号を贈るという要求は選挙後まで先送りにされた。\n1933年3月4日、市議会議員のシュスラー、メンツ、シュヴェーベル(NSDAP)は、市長のバードンに前日の議事運営について苦情を述べた。\n市議会での議決を無視して3月4日と5日に市庁舎に旗を掲げるようバードンは要求された。\nそれは「安寧秩序」のために必要なことであり、さもなくば「好ましくない示威行為」がなされるだろうと脅迫されたのである。\nバードンはこの要求を拒否した。\n脅迫的な示威行為は行われなかった。\nだが、バーデンの統制(NSDAPによる独裁体制)によってNSDAPはヴェルトハイムでも権力を掌握したのであった。\nバードンは3月20日に辞任を申し入れ、3日後に市議会はこれを了承した。\nバードンには功労金や特別な手当は適用されず、4月1日付けの給与規定に従った給与だけを支払うとするNSDAPの提案は6対2(棄権1)で採択された。", "qas": [ { "question": "1933年3月に市長職を辞任した人は誰ですか?", "id": "de-029-06-000", "answers": [ { "text": "ハンス・バードン", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "NSDAPの党員はバードンに何の旗を掲げるように要求したの?", "id": "de-029-06-001", "answers": [ { "text": "ハーケンクロイツ", "answer_start": 246, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バードンを辞任させ、ヴェルトハイムで権力を掌握したのは何の組織ですか?", "id": "de-029-06-002", "answers": [ { "text": "NSDAP", "answer_start": 580, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "NSDAPはヴェルトハイムにヒトラーに何の称号を与えるように要求しましたか?", "id": "de-029-06-003", "answers": [ { "text": "名誉市民号", "answer_start": 336, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヴェルトハイムは、ドイツ国大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクとドイツ国首相アドルフ・ヒトラーに名誉市民号を贈呈した最初の都市の一つである。\nNSDAPの提案はヒトラーについてのみであったが、1933年3月3日の市議会でのNSDAP以外の議員による主張に基づき、両名に拡大されたものであった。\n採決は為されなかった。\nNSDAPの議員は3月6日付の新聞広告で、ヒトラーに対して名誉市民号が3月8日に贈呈されると発表した。\n3月7日には同じく新聞広告で、大統領と首相が『水曜日の朝、我々の街の名誉市民になります。\nヴェルトハイム旧市街の住民や州・市の機関は朝早くから土曜日まで旗を掲げるようお願いします』と呼びかけた。\nNSDAPとDNVPが提案した旗の掲揚要求は承認され、さらに2つの通りの名称変更も可決された。\nバーンホーフ通り(駅前通り)はヒンデンブルク通りに、ポスト通り(郵便局通り)はアドルフ・ヒトラー通りに改名された。\n1945年12月7日にヒトラーとヒンデンブルクの名誉市民号は剥奪された。\n1936年にベツィルクスアムト・ヴェルトハイムは廃止され、ヴェルトハイムはベツィルクスアムト・タウバービショフスハイムに編入された。\nこれは1939年にタウバービショフスハイム郡に改称された。", "qas": [ { "question": "ヒトラーに名誉市民号を贈った最初の都市はどこ?", "id": "de-029-07-000", "answers": [ { "text": "ヴェルトハイム", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アドルフ・ヒトラー通りは元々何という名前でしたか?", "id": "de-029-07-001", "answers": [ { "text": "ポスト通り", "answer_start": 383, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヒンデンブルク通りの本来の名前は何だったの?", "id": "de-029-07-002", "answers": [ { "text": "バーンホーフ通り", "answer_start": 357, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベツィルクスアムト・タウバービショフスハイムはその後どのような地名に改称されたの?", "id": "de-029-07-003", "answers": [ { "text": "タウバービショフスハイム郡", "answer_start": 528, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1945年1月、ヴェルトハイムはイギリス軍により空爆を受けるはずであった。\nこの時は天候の悪化で飛行機は引き返さなければならなかった。\nだが同じ年のイースターの週末に市は戦争と直面することとなった。\n3月24日の朝4時頃、ヴェルトハイムのアルブレヒト・エングラートは西部戦線総司令官のアルベルト・ケッセルリンク元帥の無線通信を受信した。\n「フランクフルト・アム・マインからオクゼンフルトまでのすべてのマイン川渡河地点は砲弾の用意をし、接近する敵軍を駆逐せよ」というものであった。\nさらにアシャッフェンブルク-ミルテンベルク-ヴェルトハイム-エーバーバッハのラインには「可及的速やかに防衛陣地を造営せよ」そして「この地域に入る急行軍と合流せよ」との命令が下された。", "qas": [ { "question": "ヴェルトハイムが戦争と直面したのは1945年の何月でしたか?", "id": "de-029-08-000", "answers": [ { "text": "3月", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "西部戦線総司令官を務めた人は誰ですか?", "id": "de-029-08-001", "answers": [ { "text": "アルブレヒト・エングラート", "answer_start": 119, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "続く枝の主日に低空飛行の米軍飛行部隊が初めてこの街に飛来し。\nNSDAPの地区指導者ヘルマン・シュミットによるヒトラーユーゲントの行事を妨害した。\nこの威嚇の際に「皆さん、路地に避難して下さい」と呼びかけた。\n敵機の襲来は翌日も引き続き行われた。\n3月27日火曜日、現在のギムナジウムに相当する青年上級学校が戦争のために閉鎖され、ここに軍司令所が設けられた。\nアイヒェル水門付近の全船舶はその日のうちに退去するよう命令された。\n3月30日、近隣のナッシヒが米軍の攻撃を受け、夕方には戦車警報がヴェルトハイムに発令された。\n23時頃に丘の上に達した戦車からマイン川右岸に向けて3、4発の砲弾が発射され、その後ラインハルツホーフの空軍基地がドイツ駐留部隊によって一部爆破された。\n続いて3時から4時の間にマイン川に架かる道路橋と鉄道橋も爆破された。\n市の砲撃は翌土曜日も散発的に続けられ、午後には市の守備隊に対する勧告がなされた。", "qas": [ { "question": "米軍飛行部隊によって何の行事が出来なくなりましたか?", "id": "de-029-09-000", "answers": [ { "text": "ヒトラーユーゲント", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "枝の主日にヒトラーユーゲントの行事を主導していた人は誰ですか?", "id": "de-029-09-001", "answers": [ { "text": "ヘルマン・シュミット", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ナッシヒ占領後、第42歩兵部隊を伴った米軍第12戦車部隊は復活祭の日曜日にヴェルトハイム周辺を占領した。\n1945年4月1日の日曜日に、都市防衛のために国民突撃隊を参集させようという試みがなされた。\n同じ日の午後にタウバー川に架かる道路橋が爆破された。\nしかし橋は2m程度の亀裂ができただけだったので、引き続き通行することが可能だった。\nこの時点ですでに米軍戦車はヴァルトベルクにまで迫っており、この市を通ってマイン渓谷方面を封鎖した。\n教区監督のハインリヒ・シェーファーはヴェルトハイムのプロテスタント教会の死亡録に、アイヒェルの砲撃で4人のドイツ兵が死亡し、1人が重傷を負ったとメモした。\n焼夷弾による被害を目の当たりにしたアントン・ディンケルとハインリヒ・ヘルツは市長に城の主塔に白旗を掲げるよう要求した。\n議論がなされ、市長が退任した後、16:25に白旗が揚げられた。\nこれによりヴェルトハイムの砲撃は停止された。\nディンケルとヘルツの発議を讃えて2005年に城の中に記念プレートが掲げられた。", "qas": [ { "question": "ヴェルトハイム周辺を占領する前に米軍が占領した地域はどこでしたか?", "id": "de-029-10-000", "answers": [ { "text": "ナッシヒ", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アイヒェルの砲撃によるドイツ兵の死亡と重傷はどちらの方が人数が多く記録されましたか?", "id": "de-029-10-001", "answers": [ { "text": "死亡", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1972年以後、周辺の15町村が合併した。\n1973年1月1日に郡域再編があり、タウバービショフスハイム郡は新たに設けられたマイン=タウバー郡に編入された。\n同時に、やはり新設されたシュトゥットガルト行政管区フランケン地域連合(現在のハイルブロン=フランケン地域連合)に属すこととなった。\nこれによりかつてはバーデン領の都市であったヴェルトハイムは、これ以後ヴュルテンベルクの都市シュトゥットガルトの管理下に置かれることとなった。\n1975年の合併でヴェルトハイム市の人口は2万人を超えた。\n市当局はこれを承けて大規模郡都市への昇格を申請し、バーデン=ヴュルテンベルク州当局は1976年1月1日にこれを発効させた。", "qas": [ { "question": "ヴェルトハイム市の大規模郡都市への昇格が発効されたのはいつでしたか?", "id": "de-029-11-000", "answers": [ { "text": "1976年1月1日", "answer_start": 288, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1975年に合併されたヴェルトハイム市の人口は何人となりましたか?", "id": "de-029-11-001", "answers": [ { "text": "2万人", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ヴェルトハイムは初めヴュルツブルク司教区のカールシュタット/マイン助祭長区に属した。\n1522年からルター派の教義に基づく宗教改革が徐々になされ、1530年に完了した。\nこれ以後、ヴェルトハイムは何世紀もの間プロテスタントの都市であった。\nルター派の他にもいくつかの教義が許されていた。\n三十年戦争の時代に対抗改革がなされたが、徹底されなかった。\n1806年のバーデンへの移行後、ヴェルトハイムは教区監督の所在地となった。\nその管轄区域はヴェルトハイム市内の全教会組織を含む。\n中心となる教会は参事会教会である。\nこの他に宗教改革直後にもう一つ教区が設けられていた。\nこの教区は1955年にベシュテンハイトのマルティン・ルター教会に移管された。\n3つめの教区は1800年にヴァルデンハウゼンと合併した。\nヴァルトベルク区には1974年に全キリスト教徒のための教会センターが設けられた。\nベッティンゲン、デルティンゲン、ディーテンハン、アイヒェル=ホーフガルテン、グリューネンヴェルト、ヘーエフェルト、ケムバッハ、リンデルバッハ、ナッシヒ、ザクセンハウゼン、ゾンダーリート、ヴァルデンハウゼンにはそれぞれ教会組織(一部は支教会)があり、ほとんどが新しい教会堂を有している。\nウアファール区にはロマネスク様式の防衛教会である聖ヤーコプ教会がある。", "qas": [ { "question": "宗教改革以後、ヴェルトハイムではどの宗派を信仰する都市となりましたか?", "id": "de-029-12-000", "answers": [ { "text": "プロテスタント", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1806年以降、ヴェルトハイムの中心的教会はどこでしたか?", "id": "de-029-12-001", "answers": [ { "text": "参事会教会", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "聖ヤーコプ教会は何区にありますか?", "id": "de-029-12-002", "answers": [ { "text": "ウアファール区", "answer_start": 536, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "19世紀にヴェルトハイムにカトリックが再興したが、19世紀中頃までその信者は人口の1/5程度であった。\nこの組織指導者は当初、1673年からカトリックが流布していたライヒョルツハイム教区に属した。\n1844年にヴェルトハイムに聖ヴェナンティウス教区が設けられ、1842年建造のネオゴシック様式の教会堂を有した。\nベシュテンハイト区にも1953年に聖エリーザベト教会堂が設けられ、1970年に教区教会に昇格した。\nアイヒェル区には1968年に聖リオバ教会が設けられ、ヴェルトハイム市東部を統括・管轄している。\nデルティンゲン区はマリア・ローゼンクロイツケーニヒ支部教会がある。\nデルレスベルク区はライヒョルツハイムと同じく1674年から再びカトリックが再興し、1721年建造の教会を有している。\nモントフェルト区もカトリックが優勢な市区である。\nここには、古い箇所は1887年建造の聖マルティン教会が建つ。\nヴェルトハイム市内の教区はいずれもフライブルク大司教区タウバービショフスハイム首席司祭区に属す。\n二大教会を別にして、ヴェルトハイムには自由教会も存在する。\n自由イエズス教会の他にバプチスト教会信者の集会所や福音自由教会の集会所もある。\nさらに新宗教のエホバの証人や新使徒派教会もある。", "qas": [ { "question": "聖リオバ教会と聖エリーザベト教会堂はどちらが先に設けられましたか?", "id": "de-029-13-000", "answers": [ { "text": "聖エリーザベト教会堂", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "聖マルティン教会は何区にあるの?", "id": "de-029-13-001", "answers": [ { "text": "モントフェルト区", "answer_start": 347, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヴェルトハイム市東部を統括、管轄している教会とは何ですか?", "id": "de-029-13-002", "answers": [ { "text": "聖リオバ教会", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴェルトハイムにカトリックが再興した時期はいつですか?", "id": "de-029-13-003", "answers": [ { "text": "19世紀", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1222年にこの街のユダヤ人に関する最初の記録が遺されている。\n1298年のユダヤ人排斥運動及び1349年のペスト禍の際にはヴェルトハイムでもユダヤ人が殺害された。\nヴェルトハイムのユダヤ人墓地は中世にはすでに存在していた。\n1406年の記録が遺されている。\nこれはバーデン=ヴュルテンベルク州で最も古い、現在も使われているユダヤ人墓地である。\n1622年には16戸のユダヤ人家族がこの町に住んでいた。\n18世紀の終わりまで平均で10から12家族がこの街で暮らした。\n1885年頃、この街のユダヤ人は221人であった。\n1827年から1885年まで、ヴェルトハイムはラビ教区本部の所在地であった。\n教区本部はその後モースバッハに移された。\n1933年頃まで多くの貿易商や一般業者がユダヤ人の所有であった。\n1933年頃、ナチスのユダヤ人迫害・殺戮運動がヴェルトハイムにも及び、ヴェルトハイムに住んでいた92人のユダヤ人のうち少なくとも35人が命を落とし、29人がその後すぐに街を離れた。\n1938年の晩夏、ユダヤ人組織の代表者ジギスムント・カーンはシナゴーグを市に売却した。\nこのため、その直後に起こった11月の襲撃でもこの建物は放火されずに済んだ。\nゲルバーガッセ18番とシュピッツ・トゥルムの間の市壁にこうした歴史の記念碑が1976年に設けられた。\n1940年10月22日、いわゆるヴァーグナー=ビュッケル・アクションによって19人のヴェルトハイム市民がGurs強制収容所に送られた。\nこのうち7人が終戦まで生き延びた。", "qas": [ { "question": "ヴェルトハイムに住むユダヤ人の人数が多かったのは1622年と1885年頃のどちらですか?", "id": "de-029-14-000", "answers": [ { "text": "1885年頃", "answer_start": 234, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "Gurs強制収容所に送られたヴェルトハイム市民のうち、何人が終戦まで生き延びましたか?", "id": "de-029-14-001", "answers": [ { "text": "7人", "answer_start": 649, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バーデン=ヴュルテンベルク州で最古であり、現在も使用されているユダヤ人墓地はどこにあるの?", "id": "de-029-14-002", "answers": [ { "text": "ヴェルトハイム", "answer_start": 83, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1933年頃のユダヤ人迫害運動によってヴェルトハイムに居住していたユダヤ人は何人亡くなりましたか?", "id": "de-029-14-003", "answers": [ { "text": "35人", "answer_start": 417, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ヴェルトハイムには連邦アウトバーンA3号フランクフルト-ヴュルツブルク線(ヴェルトハイム=レングフルト・インターチェンジ)を使って到達できる。\nこの他、市内には州道や郡道が走っている。\nヴェルトハイム駅は鉄道アシャッフェンブルク-ミルテンベルク-ヴェルトハイム-ラウダ=ケーニヒスホーフェン-クライルスハイム線の駅である。\nヴェルトハイムへはマイン川から船で行くこともできる。\n公共交通では、マイン=タウバー交通会社が多くのバス路線を運行している。\nその運賃はライン=ネッカー交通連盟の料金体系に従う。", "qas": [ { "question": "船に乗ってヴェルトハイムに行きたい場合、どこの川を利用しますか?", "id": "de-029-15-000", "answers": [ { "text": "マイン川", "answer_start": 171, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "アレクサンダー・グラハム・ベル", "paragraphs": [ { "context": "アレクサンダー・グラハム・ベル(AlexanderGrahamBell、1847年3月3日-1922年8月2日)は、スコットランド生まれの科学者、発明家、工学者である。世界初の実用的電話の発明で知られている。", "qas": [ { "question": "アレクサンダー・グラハム・ベルは、どこで生まれたの?", "id": "de-030-00-000", "answers": [ { "text": "スコットランド", "answer_start": 58, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アレクサンダー・グラハム・ベルは、何の業績で著名ですか?", "id": "de-030-00-001", "answers": [ { "text": "世界初の実用的電話の発明", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アレクサンダー・グラハム・ベルの職業としては、科学者、発明家と何が挙げられているか?", "id": "de-030-00-002", "answers": [ { "text": "工学者", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "世界で初めて電話を発明したことで有名なのは、誰か?", "id": "de-030-00-003", "answers": [ { "text": "アレクサンダー・グラハム・ベル", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アレクサンダー・グラハム・ベルは、1847年3月3日、スコットランドのエディンバラに生まれる。生家のあった場所には、2012年現在石碑が立っている。メルヴィル・ジェームズ・ベル(1845年-1870年)とエドワード・チャールズ・ベル(1848年-1867年)という2人の兄弟がいたが、2人とも結核で若くして亡くなった。", "qas": [ { "question": "アレクサンダー・グラハム・ベルは、いつ生まれたの?", "id": "de-030-01-000", "answers": [ { "text": "1847年3月3日", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アレクサンダー・グラハム・ベルは、どの町で生まれましたか?", "id": "de-030-01-001", "answers": [ { "text": "エディンバラ", "answer_start": 35, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アレクサンダー・グラハム・ベルには、何人の兄弟がいたか?", "id": "de-030-01-002", "answers": [ { "text": "2人", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アレクサンダー・グラハム・ベルの2人の兄弟は、2人ともどの病で死去したか?", "id": "de-030-01-003", "answers": [ { "text": "結核", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アレクサンダー・グラハム・ベルの父は大学教授のアレクサンダー・メルヴィル・ベル、母はイライザ・グレイス(旧姓はシモンズ)である。ベルが生まれたときの名前にはミドルネームがなかったが、10歳のときに父に兄弟たちのようなミドルネームが欲しいと懇願した。11歳の誕生日、父はその願いを聞き入れ\"Graham\"というミドルネームを与えた。", "qas": [ { "question": "アレクサンダー・グラハム・ベルの父親は、誰なの?", "id": "de-030-02-000", "answers": [ { "text": "アレクサンダー・メルヴィル・ベル", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アレクサンダー・グラハム・ベルの母親は、誰ですか?", "id": "de-030-02-001", "answers": [ { "text": "イライザ・グレイス", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ベルにミドルネームが与えられたのは、彼が何歳のころだったか?", "id": "de-030-02-002", "answers": [ { "text": "11歳", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ベルにミドルネームには、何のミドルネームが与えられたか?", "id": "de-030-02-003", "answers": [ { "text": "Graham", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アレクサンダー・グラハム・ベルは幼いころから好奇心旺盛で、植物標本を集めたり、実験したりしていた。そのころの親友ベン・ハードマンの家では製粉所などを営んでいた。若きベルは製粉所で困ったことはないかと訊ねた。そして、製粉前の脱穀が重労働だということを知り、12歳のアレックは回転パドルとブラシを組み合わせた単純な脱穀機を作り、それが何年も実際に使われたという。お返しにベンの父ジョン・ハードマンは2人の少年に「発明」のための作業場を与えた。", "qas": [ { "question": "この文書では、アレクサンダー・グラハム・ベルの幼年期を、何の言葉で表現しているの?", "id": "de-030-03-000", "answers": [ { "text": "好奇心旺盛", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "幼いころのアレクサンダー・グラハム・ベルは、植物標本の収集と何に興味深かったか?", "id": "de-030-03-001", "answers": [ { "text": "実験", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "幼いころのアレクサンダー・グラハム・ベルの親友は、誰でしたか?", "id": "de-030-03-002", "answers": [ { "text": "ベン・ハードマン", "answer_start": 56, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "幼いころのアレクサンダー・グラハム・ベルは、誰の息子と親友だったか?", "id": "de-030-03-003", "answers": [ { "text": "ジョン・ハードマン", "answer_start": 187, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "幼少期のアレックは兄弟たちと同様、自宅で父から教育を受けた。それ以外に早くからエディンバラのRoyalHighSchoolに入学したが、最初の4学年まで修了した15歳のときに退学している。", "qas": [ { "question": "幼いころのアレックは、誰から教わったの?", "id": "de-030-04-000", "answers": [ { "text": "父", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "幼いころのアレックは、どこで教育を受けましたか?", "id": "de-030-04-001", "answers": [ { "text": "自宅", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "幼いころのアレックは、どの学校に通ったことがあるか?", "id": "de-030-04-002", "answers": [ { "text": "RoyalHighSchool", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アレックがRoyalHighSchoolを退学したのは、彼が何歳のことだったか?", "id": "de-030-04-003", "answers": [ { "text": "15歳", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "退学後、アレックはロンドンへ行き祖父のもとに身を寄せた。祖父と過ごす間に向学心が湧き上がり、真剣な議論や学習に時間を費やすようになる。祖父はベルを教師にするために必要な信念と明瞭な話法を教え込んだ。16歳のとき、スコットランドマレーのエルギンにあるウェストンハウス学院で弁論術と音楽の教師の職を得た。同時に学生としてラテン語とギリシャ語を学びつつ教師も務め、1回の授業あたり10ポンドの給料を得ていた。翌年、兄メルヴィルが前年に入学したエディンバラ大学に入学した。カナダに移住する直前の1868年、ロンドン大学の入学試験に合格している。", "qas": [ { "question": "アレックの祖父は、どこに住んでいたの?", "id": "de-030-05-000", "answers": [ { "text": "ロンドン", "answer_start": 9, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メルヴィルとアレックのうち、エディンバラ大学により早く入学したのは、どちらですか?", "id": "de-030-05-001", "answers": [ { "text": "メルヴィル", "answer_start": 205, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アレックがロンドン大学の入学試験に合格したのは、何年のことか?", "id": "de-030-05-002", "answers": [ { "text": "1868年", "answer_start": 243, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アレックはどこで生活する際に、勉強への意欲を持つようになったか?", "id": "de-030-05-003", "answers": [ { "text": "ロンドン", "answer_start": 9, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1863年、父はアレックの科学への関心を育てるため、ヴォルフガング・フォン・ケンペレンの業績に基づいてチャールズ・ホイートストンが開発したオートマタを見せに連れ出した。このオートマタは人間の声を真似てしゃべる機械だった。ベルはこの機械に魅了され、ケンペレンのドイツ語の著作を手に入れて苦労して翻訳し、兄メルヴィルとともにオートマタの頭部を作りはじめた。", "qas": [ { "question": "アレックの父は、アレックが何について関心を持っているのを知り、それを育てようとしたの?", "id": "de-030-06-000", "answers": [ { "text": "科学", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アレックがオートマタを初めて見たのは、何年のことですか?", "id": "de-030-06-001", "answers": [ { "text": "1863年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オートマタは、誰が発明したか?", "id": "de-030-06-002", "answers": [ { "text": "チャールズ・ホイートストン", "answer_start": 51, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チャールズ・ホイートストンが発明したものは、どのような機会だったか?", "id": "de-030-06-003", "answers": [ { "text": "人間の声を真似てしゃべる機械", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1865年、ベル一家はロンドンに引っ越したが、アレック本人はウェストンハウス学院に助手として戻り、空いた時間で最小限の実験器具を使って音響についての実験を続けた。おもに電気で音声を伝送する実験を行い、のちに自分の部屋から友人の部屋まで電信線を引いた。1867年後半には極度の疲労で健康を害している。", "qas": [ { "question": "ベル一家がロンドンに引っ越したのは、何年のことなの?", "id": "de-030-07-000", "answers": [ { "text": "1865年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1865年からベルは、どこで音響についての実験を続けましたか?", "id": "de-030-07-001", "answers": [ { "text": "ウェストンハウス学院", "answer_start": 30, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ベルが主に行った実験は、どのような実験だったか?", "id": "de-030-07-002", "answers": [ { "text": "電気で音声を伝送する実験", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ベルが主に行った実験とは、音声を何で伝送するものだったか?", "id": "de-030-07-003", "answers": [ { "text": "電気", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1867年後半には極度の疲労で健康を害している。弟エドワードも結核にかかり、同様に寝たきりとなった。アレックは翌年には回復し、イングランドのバースにあるサマーセット大学で講師を務めたが、弟の病状は悪化した。結局エドワードはそのまま亡くなり、アレックはロンドンに戻っている。", "qas": [ { "question": "エドワードが結核にかかったのは、何年だと予測できるの?", "id": "de-030-08-000", "answers": [ { "text": "1867年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エドワードとアレックのうち、病状が悪化し死んでしまったのは、どちらですか?", "id": "de-030-08-001", "answers": [ { "text": "エドワード", "answer_start": 105, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アレックが健康を崩し、寝たきりになったのは、何年のことか?", "id": "de-030-08-002", "answers": [ { "text": "1867年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1868年に病状から回復したのは、エドワードとアレックのうち、どちらか?", "id": "de-030-08-003", "answers": [ { "text": "アレック", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ベルの兄メルヴィルは結婚して実家を出ている。ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンで学位を得るという目標を定め、学位試験のための勉強をし、空いた時間も実家での勉強に充てた。", "qas": [ { "question": "ベルとメルヴィルのうち、どちらが年上なの?", "id": "de-030-09-000", "answers": [ { "text": "メルヴィル", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メルヴィルが結婚して実家を出たころ、ベルはどの学校に通っていましたか?", "id": "de-030-09-001", "answers": [ { "text": "ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに在学中のベルは、どの試験に通過することが第一のも目標だったか?", "id": "de-030-09-002", "answers": [ { "text": "学位試験", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンに在学中にベルは、どこで生活していたか?", "id": "de-030-09-003", "answers": [ { "text": "実家", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1870年、23歳のとき、ベルと兄の未亡人キャロラインと両親はネストリアン号という船でカナダに向かった。ケベック・シティーに到着すると列車でモントリオールに向かい、さらに一家の友人トーマス・ヘンダーソン牧師のいるオンタリオ州パリに滞在した。まもなく近くのブラントフォードに程近い10.5エーカー(4万2,000平米)の農場を購入。農場には、果樹、大きな屋敷、馬小屋、豚小屋、鶏小屋、車庫があり、エリー湖に注ぐグランド川に面していた。", "qas": [ { "question": "ベルの兄は、誰と結婚したの?", "id": "de-030-10-000", "answers": [ { "text": "キャロライン", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベル一家がカナダに引っ越したのは、何年のことですか?", "id": "de-030-10-001", "answers": [ { "text": "1870年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベル一家がカナダに引っ越したのは、ベルが何歳のころだったか?", "id": "de-030-10-002", "answers": [ { "text": "23歳", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オンタリオ州パリには、誰が住んでいたか?", "id": "de-030-10-003", "answers": [ { "text": "トーマス・ヘンダーソン", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1873年、ベルはボストン大学で発声生理学と弁論術の教授になる。このころ、ボストンとブラントフォードを行ったり来たりという生活で、夏はブラントフォードの家で過ごした。", "qas": [ { "question": "1873年の時点でベルの職場は、どの大学だったの?", "id": "de-030-11-000", "answers": [ { "text": "ボストン大学", "answer_start": 9, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ボストン大学の教授職についていた頃のベルは、ボストンとどこを往来する生活を送りましたか?", "id": "de-030-11-001", "answers": [ { "text": "ブラントフォード", "answer_start": 42, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ボストンとブラントフォードのうち、ベルはどちらで夏を過ごしたか?", "id": "de-030-11-002", "answers": [ { "text": "ブラントフォード", "answer_start": 42, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ボストン大学でベルは、弁論術とどの学問の教授として働いたか?", "id": "de-030-11-003", "answers": [ { "text": "発声生理学", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1874年、harmonictelegraphに関する研究は、ボストンの研究施設(賃貸)とカナダの実家で新たな段階に入った。同年夏、ベルはブラントフォードにてフォノトグラフを使った実験を行った。フォノトグラフはススを塗布したガラスに音の波形を描くペンのような装置である。そこからベルは音波と同じ波形の電流を生成できるかもしれないと考えた。", "qas": [ { "question": "ベルがフォノトグラフを使った実験に熱心だったのは、何を生成するためでありましたか?", "id": "de-030-12-000", "answers": [ { "text": "音波と同じ波形の電流", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ヒトに由来する生薬", "paragraphs": [ { "context": "有史以前のはるか古来より、人類は様々な物質を薬として用いてきたと考えられている。有史以降の現存する薬に関する書物としては、紀元前2000年頃のメソポタミア文明時代の粘土板を最古として、紀元前1550年頃の古代エジプトの『エベルス・パピルス』、紀元前3世紀頃の古代中国の『神農本草経』、紀元1世紀の古代ギリシャの『薬物誌』などの存在が知られている。科学的知見や医学的知識がほとんど存在しなかった当時、これらの薬の多くは実際に服用した先人による経験則や、呪術的な見地(形態学的に特異な物や疾患との対応性など)、ホメオパシー的見地、あるいは珍奇さから見出されてきたものであった。神話においては、中国の三皇五帝の1人である神農が、日々七十数種の植物を身を舐めて試し、薬となるかどうかを判別したとの伝説が知られている。", "qas": [ { "question": "『神農本草経』と『薬物誌』と、どっちの方が古いの?", "id": "de-031-00-000", "answers": [ { "text": "『神農本草経』", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "近代になり科学が進歩してくると、薬として用いられていた生薬から薬効成分を分離しようとする試みがなされるようになった。なお、実際に薬効成分としての化合物が初めて分離されたのは、ドイツ人薬剤師のフリードリヒ・ゼルチュルナーによるアヘンからのモルヒネ単離であり、19世紀初頭の1804年のことである。それから現在に至るまで、数多くの薬効成分が単離報告されているが、民間薬や伝統医療で用いられている生薬の有効成分の調査は現在でも活発に行われている。その中には、明らかに呪術的見地から選ばれていたであろう生薬から、具体的な薬効成分が見出された例も数多く知られており、これらはセレンディピティの例として示される場合がある。", "qas": [ { "question": "薬効成分としての化合物が初めて分離された人は誰ですか。", "id": "de-031-01-000", "answers": [ { "text": "フリードリヒ・ゼルチュルナー", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フリードリヒ・ゼルチュルナーはアヘンから何を分離しましたか。", "id": "de-031-01-001", "answers": [ { "text": "モルヒネ単離", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "現在では医学的な実用性の見地や倫理学的見地などから、ヒト由来の生薬が用いられている例は知られておらず、また、『日本薬局方』の生薬総則に規定される生薬にも勿論のことながら収載されていない。しかしながら、20世紀以降の近年においても、難病治療のための万能薬として墓場の遺体を盗掘する例も存在する。近年規制の緩い旧ソビエト連邦や東ヨーロッパの法医学施設で遺族をだまして採取した死体の組織がドイツに密輸され、大手企業によって歯科インプラントや美容形成、スポーツ医療用製品に加工された上でアメリカ合衆国に輸出され、そこからさらに世界30カ国以上に輸出されていることが明らかになった。\n\nなお近年では、ヒト胎盤抽出エキスを用いたプラセンタや、臓器移植、輸血、iPS細胞などの人体組織由来の医療法は、ある程度一般的に使用されているが、これには人体の商品化という面からの問題提起がなされている。\n\n以下の項目では、人体を薬として使用する例を最も体系的に記述した李時珍の『本草綱目』第52巻および、本草綱目収録品の和名を収載した林羅山の『多識編』、あるいは『和名抄』を中心とした記述を行っている。なお、本草綱目には35の部位(と、他民族に関する項が2つ)が記載されているが、以下ではそのうちの主だった記載内容のみを扱っている。", "qas": [ { "question": "『本草綱目』の著者は誰?", "id": "de-031-02-000", "answers": [ { "text": "李時珍", "answer_start": 422, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "「髪髲」は『神農本草経』の上巻や『新修本草』に収載が見られ、『和名抄』には「加美」の名で記載されるほか、『多識編』には「曽里加美」の名前で記載されている。また、髪を梳いて得られたものは『本草綱目』では「乱髪」、『多識編』では「久志計豆里加美」として扱われている。さらに、黒焼きにしたものは乱髪霜の名で知られ、現代の日本でも使用例が見られる。体内の余分な水分を排出する作用(利水道)や、止血作用があるとされ、応用例には、五癃(一般的な5種類の尿路疾患)、大人痓(大人の破傷風による剛直様症状)、小児驚癇(子供のひきつけ)、大小便の不通、霍乱(激しい下痢や嘔吐)に用いられた。漢方処方では、髪灰散(髪を焼いた灰を用いる)や無憂散(当帰、川芎、白芍薬、枳殻、乳香、木香、甘草、髪灰)、乱髪膏などの処方が知られている。また現代の中医学では血余炭として使用されている。", "qas": [ { "question": "髪を梳いて得られたものを『本草綱目』では何として扱われていますか。", "id": "de-031-03-000", "answers": [ { "text": "「乱髪」", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "髪は現代の中医学では何として使用されていますか。", "id": "de-031-03-001", "answers": [ { "text": "血余炭", "answer_start": 365, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "爪は四肢先端にある指先の角質が変化して形成される硬い組織だ。主成分はケラチンである。\n\n「爪甲」:平安時代初期に記された現存する日本最古の薬物辞典である『本草和名』に「豆女」の名で収載されている。『本草綱目』にも収載されているほか、『多識編』では「豆米」の名で記されている。利小便(利尿)や催生(陣痛促進)に効果があるとされ、応用例では、淋病や脚気、胞衣不下(胎盤が降りてこない症状)、鼻血、に用いられた。\n\nなお、西洋の民間療法では、ヒトの爪は病気の治療に用いられたほか、歯の痛みを癒すために手足の爪を交互に切ることが行われていたという。", "qas": [ { "question": "爪の主成分は何ですか。", "id": "de-031-04-000", "answers": [ { "text": "ケラチン", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "西洋の民間療法では、歯の痛みを癒すために何を交互に切ることが行われていましたか。", "id": "de-031-04-001", "answers": [ { "text": "手足の爪", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ミイラとは、乾燥により腐敗せずに残った(あるいは人為的加工により残した)死体であり、古代エジプトやアンデスのものがよく知られるほか、日本や中国では即身成仏により僧侶が入定したものなどが残されている。16-17世紀においては、西洋ではミイラを医薬品として用いるのが一般的となるほど流行し、これが日本へも輸入されていたことが知られている。", "qas": [ { "question": "乾燥により腐敗せずに残った死体を何といいますか。", "id": "de-031-05-000", "answers": [ { "text": "ミイラ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "君沢形", "paragraphs": [ { "context": "君沢形(きみさわがた、くんたくがた)とは、幕末に日本の戸田村などで建造された西洋式帆船の型式である。原型は、下田沖で難破したロシア船員帰国用に戸田村で建造された「ヘダ号」で、同型船10隻を日本で使用するために量産した。帆装形式はスクーナーに分類される。ヘダ号の名は戸田村に由来し、君沢形の名前は戸田村が属した君沢郡に由来する。ヘダ号及び君沢形の建造は、日本人にとって、洋式船の建造技術を実地で習得する重要な機会となった。なお、「君沢形」の名は、同型船に限らずスクーナー全般をさす一般名詞としても用いられることがある。", "qas": [ { "question": "君沢形の読み方は「きみさわがた」以外に何がありますか。", "id": "de-032-00-000", "answers": [ { "text": "くんたくがた", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "君沢形という名前は何に由来しますか。", "id": "de-032-00-001", "answers": [ { "text": "君沢郡", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ヘダ号」はどこで作られましたか。", "id": "de-032-00-002", "answers": [ { "text": "戸田村", "answer_start": 71, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "君沢形の原型は何?", "id": "de-032-00-003", "answers": [ { "text": "ヘダ号", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1854年10月21日(嘉永7年8月30日)、日露和親条約の締結交渉のため、ロシア帝国のエフィム・プチャーチン提督はフリゲート「ディアナ」で来日した。しかし、下田沖で碇泊中の同年12月23日(嘉永7年11月4日)に安政東海地震に見舞われて「ディアナ」は津波で大破、修理のため戸田村へ回航中に嵐で航行不能となり、1855年1月17日(安政元年12月2日)に沈没してしまった。プチャーチンは、帰国のために洋式船を新造することを即座に決意し、1855年1月24日(安政元年12月7日)に幕府の同意を取り付け、戸田村で建造準備に着手した。設計はロシア人乗員のアレクサンドル・コロコリツォフ少尉(後に中将)やアレクサンドル・モジャイスキー(後に飛行機の開発に取り組み、ロシアでは飛行機による有人動力飛行に世界で初めて成功した人物とされている)らが担当し、日本側が資材や作業員などを提供、支援の代償として完成した船は帰国後には日本側へ譲渡する契約となった。幕府は、韮山代官の江川英龍(江川太郎左衛門)と勘定奉行の川路聖謨を日本側の責任者に任命している。まずは船台を建築した後に、船体を起工。日本側には洋式船の建造経験は乏しかったにもかかわらず、日露の共同作業はおおむね順調で、起工より約3カ月後の4月26日(安政2年3月10日、ロシア暦4月14日)には無事に進水式を終え、建造地の戸田(へだ)にちなんで船名を「ヘダ」(ヘダ号)と命名された。艤装も速やかに行われ、5月2日(安政2年3月16日、ロシア暦4月20日)には戸田から初航海に出た。建造費用は、労賃を除いて3100-4000両かかった。", "qas": [ { "question": "1854年10月21日、ロシア帝国のエフィム・プチャーチン提督がフリゲート「ディアナ」で来日したのは何が目的でしたか。", "id": "de-032-01-000", "answers": [ { "text": "日露和親条約の締結交渉", "answer_start": 23, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "下田沖で碇泊中だった「ディアナ」が安政東海地震に見舞われて津波で大破したのは何年のことですか。", "id": "de-032-01-001", "answers": [ { "text": "1854年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ディアナ」が津波で大破した原因となった地震は何ですか。", "id": "de-032-01-002", "answers": [ { "text": "安政東海地震", "answer_start": 107, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "一方、「ヘダ」の建造を洋式造船技術習得の好機と見た幕府は、「ヘダ」の建造許可のわずか15日後の1855年2月8日(安政元年12月22日)には、川路聖謨に対して同型船1隻の戸田での建造を指示した。後に佐賀藩、水戸藩等も技術習得のため、幕府の許可を得て藩士を派遣している。その後「ヘダ」が無事に進水すると、同年5月6日(安政2年3月20日)には1隻の追加建造を命令。同年6月6日(安政2年4月22日)にも2隻の追加を指示。同年9月16日(安政2年8月6日)には、戸田でさらに3隻のほか、石川島造船所でも4隻の建造を命じた。戸田製の6隻は1856年1月頃(安政2年12月)までには完成している。これらの同型スクーナーを、幕府は1856年5月29日(安政3年4月26日)に「君沢形」と命名した。以上のほか、箱館奉行所にも君沢形建造指示が出されたが、箱館奉行所では独自設計を行って別型の二檣スクーナー「箱館丸」などを完成させ、これを箱館形と呼称している。", "qas": [ { "question": "同型スクーナーに「君沢形」という名称が与えられたのは何年のことなの?", "id": "de-032-02-000", "answers": [ { "text": "1856年", "answer_start": 310, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヘダの同型船1隻を戸田で建造するように幕府から命令されたのは誰?", "id": "de-032-02-001", "answers": [ { "text": "川路聖謨", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1855年2月8日、幕府が川路聖謨に対して同型船1隻の戸田での建造を指示したのは何のためですか。", "id": "de-032-02-002", "answers": [ { "text": "洋式造船技術習得", "answer_start": 11, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "戸田製の6隻の建造はいつ終わりましたか。", "id": "de-032-02-003", "answers": [ { "text": "1856年1月頃", "answer_start": 266, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "「ヘダ」および君沢形各船は、比較的に小型の洋式帆船で、帆装形式は2本のマストに縦帆を張った二檣スクーナー(当時は「スクーネル」「シコナ」「ヒコナ」などと呼んだ)に分類される。「ヘダ」と君沢形は同型とされるが、資料によって若干異なった要目が記録されている。「ヘダ」は全長81尺1寸(24.6m)、甲板長12間(21.8m)、幅23尺2寸(7.0m)、深さ9尺9寸(3.0m)とされ、排水量は87.52トンまたは100トンとの数値がある。君沢形については、右掲の松平文庫所蔵の絵図によると全長12間3尺(22.7m)、幅3間2尺(6.1m)、深さ8尺5寸(2.6m)となっている。設計が変更されたとする見方がある一方、浅川道夫はバウスプリットが含まれるか否かなどの測定法の違いにすぎないと推論している。また、石井謙治によれば、「ヘダ」の要目と称する数字のうち幅と深さは過大な誤った記録に思われ、君沢形の記録とほぼ同じ数値が比率として自然だという。設計の基礎となったのは、クロンシュタット軍港司令官ファビアン・ゴットリープ・フォン・ベリングスハウゼンのヨットとして建造された試作スクーナーである。「ディアナ」に積み込まれていたロシア海軍の機関誌『モルスコイ・ズボルニク』(1849年1月号)に図面が掲載されていた。この試作スクーナーは全長69フィート(21.0m)、幅21フィート(6.4m)、75総トンの要目であった。", "qas": [ { "question": "記録上、ヘダと君沢形のうち、どっちの方がもっと全身が長い?", "id": "de-032-03-000", "answers": [ { "text": "ヘダ", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヘダと君沢形の記録上での数値が異なっていることに対して、浅川道夫は何の違いによるのだと言いましたか。", "id": "de-032-03-001", "answers": [ { "text": "測定法", "answer_start": 330, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ディアナ」で発見されたロシア海軍の機関誌のタイトルは?", "id": "de-032-03-002", "answers": [ { "text": "モルスコイ・ズボルニク", "answer_start": 520, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヘダと君沢形の記録上での数値が異なっていることに対して、ヘダの要目と称する数字のうち幅と深さは過大な誤った記録に思われ、君沢形の記録とほぼ同じ数値が比率として自然だと主張する人は誰ですか。", "id": "de-032-03-003", "answers": [ { "text": "石井謙治", "answer_start": 352, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「ヘダ」の船体は木骨木皮で、竜骨と主肋材35組および副肋材11組で支えられている。船底は生物付着防止のため銅板で被覆されている。部品は日本で製造され、木材は天領各地から切り出した松やクスノキを使用、金具のうち水線上のものは銅製、その他は鉄製だった。調達の難しい帆布やロープは最小限の量に抑えられ、例えば帆は船首の三角帆と各マストにガフセイル1枚ずつの計3枚のみで、予備帆は持たなかった。補助推進設備として和式の艪6丁が備えられており、これだけで3.5ノットの速力を得られた。武装は「ヘダ」には実装されなかった。もっとも、ボート・ホイッスル(艦載用の小型榴弾砲)など8門を装備できるように、火砲の設置場所が確保されていた。これに対して、自国用に建造された君沢形量産船では、大砲が搭載されて射撃演習にも使用されていた。「ヘダ」と同じく小型砲8門程度が装備可能だったと推定される。作業のうち、材木の加工は日本の大工によって手際よく進められたが、ボルトなど慣れない金属部品の製造は困難があった。また、舵の構造が和船と大きく異なるため、日本側の作業員が船体の一部に不必要な切開をしてしまう混乱もあった。日本の船大工や役人たちの知識欲は旺盛で、作業用の定規を個人ごとに製作したり、艤装の仕方を細かく記録していた。西洋式の進水作業が一瞬で終わったことは、日本人たちを驚かせた。なお、ロシア側は、日本の大工道具のうち墨壺の便利さを称賛している。", "qas": [ { "question": "ヘダの船底が銅板で被覆されているのは何のためですか。", "id": "de-032-04-000", "answers": [ { "text": "生物付着防止", "answer_start": 44, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "当時、日本の大工道具のうちロシア人に好評だったのは何?", "id": "de-032-04-001", "answers": [ { "text": "墨壺", "answer_start": 600, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヘダは小型砲何門程度が装備可能だったと推定されるか。", "id": "de-032-04-002", "answers": [ { "text": "小型砲8門程度", "answer_start": 365, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "プチャーチンら48人を乗せた「ヘダ」は、1855年5月2日(ユリウス暦4月20日、安政2年3月16日)に戸田を出港、不具合個所の手直しを行うと5月8日(ユリウス暦4月26日、安政2年3月22日)に密かに日本を離れた。5月21日(ユリウス暦5月9日)にロシア領カムチャッカ半島のペトロパブロフスクへと寄港、さらに航海を続け6月20日(ユリウス暦6月8日)にニコラエフスクへ到着した。そこでプチャーチンらは下船し、無事に本国帰還を果たしている。なお、小型の「ヘダ」だけでは「ディアナ」の全乗員は収容できず、他の乗員は外国商船を雇って帰国の途に就いている。「ヘダ」は、1856年11月(安政3年10月11日)、元「ディアナ」乗り組みのコンスタンチン・ポシエト(ポシエート、ポシェット、ポシェト)大佐(「ディアナ」乗艦時は少佐でプチャーチンの参謀)が条約批准書交換のためコルベット「オリヴツァ」で来日した際に随伴し、約束通り幕府の手に引き渡された。このとき「ヘダ」にはロシア側により建造時よりも上等な改装が施されていた。ただし、駐日アメリカ公使のタウンゼント・ハリスの手記によれば、引き渡されたのはニコラエフスクで建造した代船だったという。日本では君沢形各船は、主に幕府海軍の航海練習船及び運送船として使用された。1番船から順に「君沢形一番」「君沢形二番」という番号式の船名を与えられた。このうちの「君沢形一番」が、返還された「ヘダ」(またはその代船)である。戸田製の6隻は、1856年1月頃(安政2年12月)に品川へ回航された。1856年8月頃(安政3年7月)には、長州藩と会津藩に2隻ずつ譲渡するよう指示が出されている。東京湾防備の品川台場の付属砲艦としても、縮小型の韮山形と合わせて12隻が一時期配備されたようである。", "qas": [ { "question": "1855年5月2日に戸田を出港したヘダには何人が搭乗していましたか。", "id": "de-032-05-000", "answers": [ { "text": "48人", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1855年6月20日、ヘダはどの地域に着きましたか。", "id": "de-032-05-001", "answers": [ { "text": "ニコラエフスク", "answer_start": 177, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ヘダ」と「ディアナ」のうち、どちらの方が収容人数が多いですか。", "id": "de-032-05-002", "answers": [ { "text": "ディアナ", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "プチャーチンら48人が下船したところはどこですか。", "id": "de-032-05-003", "answers": [ { "text": "ニコラエフスク", "answer_start": 177, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "君沢形は、ジョン万次郎の提案により捕鯨船として使うことも計画された。万次郎の指揮する「君沢形一番」は1859年4月(安政6年3月)に品川を出港して小笠原諸島へと向かったが、暴風雨により損傷し、航海は中止となった。なお、万次郎は、君沢形では船型が過小であるとして別の船でも小笠原での捕鯨を試みているが、やはり成果を挙げなかった。「君沢形一番」は、その後に箱館戦争で使用されたとする説もある。1872年(明治5年)にアレクセイ・アレクサンドロヴィチ大公(アレクサンドル2世の子)が来日した際、今度は随行員としてやってきた元「ディアナ」乗り組みのコンスタンチン・ポシエト中将は、函館港で廃船となっているかつての「ヘダ」を見かけこれを懐かしみ、日本側に対して保存措置を取るよう要望している。しかし、同船が保存されることは無く、その後の消息は不明。", "qas": [ { "question": "1859年4月、「君沢形一番」の指揮官は誰でしたか。", "id": "de-032-06-000", "answers": [ { "text": "万次郎", "answer_start": 34, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「君沢形一番」はどの戦争で使われたという説がありますか。", "id": "de-032-06-001", "answers": [ { "text": "箱館戦争", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "コンスタンチン・ポシエト中将は廃船になったヘダをどこで見かけましたか。", "id": "de-032-06-002", "answers": [ { "text": "函館港", "answer_start": 286, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "廃船になったヘダを見かけ、日本に保存措置を要求した人物は誰なの?", "id": "de-032-06-003", "answers": [ { "text": "コンスタンチン・ポシエト中将", "answer_start": 270, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "君沢形の建造は、日本への洋式船建造技術の導入に関し、非常に大きな役割を果たしたと勝海舟や栗本鋤雲らによって評価されてきた。勝らによると、君沢形以前の「鳳凰丸」などの洋式船国産化の試みは外見だけのもので、「ヘダ号」と君沢形こそが真の最初の国産洋式船であるという。竜骨からの組み上げ手順や、松からの木タールの抽出法、船底銅板を張る際にタールを用いる技法などが実地で学び得られた成果として挙げられる。もっとも、後に発見された「鳳凰丸」の造船史料などを研究した石井謙治や安達裕之は、君沢形の成果は過大評価されてきたと主張している。石井らによると、「鳳凰丸」などは外見だけの船ではないにもかかわらず、勝海舟らはことさらに軽視しているという。竜骨や船底銅板も「鳳凰丸」などで実用済みであり、君沢形において新技術と言える点は少ない。君沢形建造の意義は、現場の作業技術習得と、内航に適したスクーナー導入の契機に限られるという。そして、君沢形では造船理論の習得が欠けており、理論面も踏まえた長崎海軍伝習のほうが重要な役割を果たしたと評している。", "qas": [ { "question": "勝海舟や栗本鋤雲などが日本最初の国産洋式船と評価しているのは「ヘダ号」以外に何がありますか。", "id": "de-032-07-000", "answers": [ { "text": "君沢形", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "勝海舟や栗本鋤雲などに反対の意見を持っている人物は石井謙治意外に誰がいるの?", "id": "de-032-07-001", "answers": [ { "text": "安達裕之", "answer_start": 231, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "勝海舟と石井謙治のうち、君沢形に対して否定的な立場をとっているのは誰ですか。", "id": "de-032-07-002", "answers": [ { "text": "石井謙治", "answer_start": 226, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "いずれにしても、君沢形の建造に携わった船大工たちは、習得した技術を生かして日本各地での洋式船建造に活躍した。その一人の上田寅吉は、長崎海軍伝習所に入学し、1862年には榎本武揚らとオランダへ留学、帰国後、榎本と共に箱館戦争に参加したが、明治維新後も横須賀造船所の初代工長として維新後初の国産軍艦「清輝」の建造を指揮している。また、高崎伝蔵は長州藩に招聘され、戸田村などで学んだ長州の船大工の尾崎小右衛門とともに、君沢形と同規模のスクーナー式軍艦「丙辰丸」を萩で建造した。幕府は韮山代官の江川英敏(江川太郎左衛門)に命じて、君沢形を小型化したスクーナー6隻を建造させ、韮山形と命名している。1866年に幕府が竣工させた国産初の汽走軍艦である「千代田形」も帆装形式は君沢形同様のスクーナーであり、建造現場にも君沢形関係者が多く参加している。また、君沢形は、日本の内航海運へのスクーナー導入の契機となった。逆風帆走性能に優れ、少人数でも運航可能、小型船に適したスクーナーは、明治から大正にかけて日本の内航海運で洋式船の多くを占めた。さらに、和船の船体にスクーナー帆装を取り入れた和洋折衷の合いの子船は、洋式船に課されていた検査を回避できる制度上の利点もあって真正のスクーナー以上に普及し、機帆船登場前の内航海運の主力を担うことになった。", "qas": [ { "question": "上田寅吉が留学に行った国は?", "id": "de-032-08-000", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 90, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "上田寅吉と高崎伝蔵などの職業は?", "id": "de-032-08-001", "answers": [ { "text": "船大工", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本の内航海運へスクーナーが導入するようになった契機となったのは何?", "id": "de-032-08-002", "answers": [ { "text": "君沢形", "answer_start": 371, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "君沢形と韮山形のうち、より規模が小さいのは何ですか。", "id": "de-032-08-003", "answers": [ { "text": "韮山形", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "姫路城", "paragraphs": [ { "context": "姫路城(ひめじじょう)は、兵庫県姫路市にある日本の城である。\n江戸時代初期に建てられた天守や櫓等の主要建築物が現存し、国宝や重要文化財に指定されている。\nまた、主郭部を含む中堀の内側は「姫路城跡」として国の特別史跡に指定されている。\nまた、ユネスコの世界遺産リストにも登録され、日本100名城などに選定されている。\n別名を白鷺城(はくろじょう・しらさぎじょう。詳細は名称の由来と別名を参照)という。", "qas": [ { "question": "姫路城の別名は何ですか?", "id": "de-033-00-000", "answers": [ { "text": "白鷺城", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "姫路城はユネスコの世界遺産リストに登録されながらも、国内では何に選定されているの?", "id": "de-033-00-001", "answers": [ { "text": "日本100名城", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "姫路城の位置する場所は?", "id": "de-033-00-002", "answers": [ { "text": "兵庫県姫路市", "answer_start": 13, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "姫路城が国宝や重要文化財に指定されているのは、何時代に建てられた天守や櫓が現存しているからですか?", "id": "de-033-00-003", "answers": [ { "text": "江戸時代初期", "answer_start": 31, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "姫路城は播磨国飾磨郡のち飾東郡姫路、現在の姫路市街の北側にある姫山および鷺山を中心に築かれた平山城で、日本における近世城郭の代表的な遺構である。\n江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の一つで、中堀以内のほとんどの城域が特別史跡に、現存建築物の内、大天守・小天守・渡櫓等8棟が国宝に、74棟の各種建造物(櫓・渡櫓27棟、門15棟、塀32棟)が重要文化財に、それぞれ指定されている。\n1993年(平成5年)12月にはユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。\nこの他、「国宝五城」や「三名城」、「三大平山城・三大連立式平山城」の一つにも数えられている。", "qas": [ { "question": "姫路城が築かれている山は何?", "id": "de-033-01-000", "answers": [ { "text": "姫山および鷺山", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "姫路城は何に分類されている城なの?", "id": "de-033-01-001", "answers": [ { "text": "平山城", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "姫路城の天守は何に指定されていますか?", "id": "de-033-01-002", "answers": [ { "text": "国宝", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "姫路城の中で重要文化財に指定されている建造物の中で、最も数が多いのはどの部分ですか?", "id": "de-033-01-003", "answers": [ { "text": "塀", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "姫路城の始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力で、『姫路城史』や姫路市ではこの説を採っている。\n一方で赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもので、城郭に相当する規模の構築物としては戦国時代後期に西播磨地域で勢力を持っていた小寺氏の家臣、黒田重隆・職隆父子による築城を最初とする説もある。", "qas": [ { "question": "姫路城の始まりは誰による築城が有力とされているのか?", "id": "de-033-02-000", "answers": [ { "text": "赤松貞範", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "黒田重隆の息子の名前は?", "id": "de-033-02-001", "answers": [ { "text": "職隆", "answer_start": 150, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "戦国時代後期から安土桃山時代にかけて、黒田氏や羽柴氏が城代になると、山陽道上の交通の要衝・姫路に置かれた姫路城は本格的な城郭に拡張され、関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって今日見られる大規模な城郭へとさらに拡張された。\n江戸時代には姫路藩の藩庁となり、更に西国の外様大名監視のために西国探題が設置されたが、城主が幼少・病弱な場合には牽制任務を果たせないために城主となる大名が頻繁に交替している。\n池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や親藩の松平氏が配属され、池田輝政から明治新政府による版籍奉還が行われた時の酒井忠邦まで約270年間、6氏31代(赤松氏から数えると約530年間、13氏48代)が城主を務めた。", "qas": [ { "question": "戦国時代後期から安土桃山時代にかけて姫路城は交通の要衝である何という道の上に置かれていましたか?", "id": "de-033-03-000", "answers": [ { "text": "山陽道", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "池田輝政が姫路城主になったのは何という戦が終わってからですか?", "id": "de-033-03-001", "answers": [ { "text": "関ヶ原の戦い", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "姫路城主を務めたのは江戸幕府成立時代以前から含めると全部で何代となりますか?", "id": "de-033-03-002", "answers": [ { "text": "48代", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "明治時代には維新の初期に払い下げが行われ、百円で落札されたが、取り壊し費用が莫大であったことから落札者が願い下げした。\nその後陸軍の兵営地となり、歩兵第10連隊が駐屯していた。\nこの際に多くの建物が取り壊されたが、陸軍の中村重遠工兵大佐の働きかけによって大小天守群・櫓群などが名古屋城とともに国費によって保存される処置がとられた。\n昭和に入り、太平洋戦争において姫路も2度の空襲被害があったものの、大天守最上階に落ちた焼夷弾が不発弾となる幸運もあり奇跡的に焼失を免れ、現在に至るまで大天守をはじめ多くの城郭建築の姿を残している。\n昭和の大修理を経て、姫路公園の中心として周辺一帯も含めた整備が進められ、祭りや行事の開催、市民や観光客の憩いの場になっているほか、戦国時代や江戸時代を舞台にした時代劇などの映像作品の撮影が行われることも多く、姫路市の観光・文化の中核となっている。", "qas": [ { "question": "明治時代に姫路城に駐屯していた陸軍の名前は何ですか?", "id": "de-033-04-000", "answers": [ { "text": "歩兵第10連隊", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "姫路城の他に国費によって保存処置を受けることが出来たのは何城?", "id": "de-033-04-001", "answers": [ { "text": "名古屋城", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "姫路城の大小天守群・櫓群などが国費によって保存できるように働きかけたのは誰?", "id": "de-033-04-002", "answers": [ { "text": "中村重遠", "answer_start": 110, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1333年(元弘3年)、元弘の乱で護良親王の令旨を奉じて播磨国守護の赤松則村が挙兵し、上洛途中の姫山にあった称名寺を元に縄張りし、一族の小寺頼季に守備を命じた。\n南北朝の争乱で足利尊氏に呼応した則村が再度挙兵し、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)、次男の赤松貞範が称名寺を麓に移し姫山に築城し姫山城とした。\n1349年(南朝:正平4年、北朝:貞和5年)、貞範が新たに庄山城(しょうやまじょう)を築城して本拠地を移すと、再び小寺頼季が城代になって以後は小寺氏代々が城代を務める。", "qas": [ { "question": "赤松貞範が姫山に築城したのは何年ですか?", "id": "de-033-05-000", "answers": [ { "text": "1346年", "answer_start": 106, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南北朝の争乱で足利尊氏に呼応して挙兵した赤松貞範の父の名は?", "id": "de-033-05-001", "answers": [ { "text": "則村", "answer_start": 97, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "貞範が姫山城から本拠地を移した城の名は何でしょう?", "id": "de-033-05-002", "answers": [ { "text": "庄山城", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1441年(嘉吉元年)、嘉吉の乱で赤松満祐・教康父子に対して山名宗全が挙兵、赤松父子は城山城で自害し赤松氏は断絶、赤松満祐に属していた城代の小寺職治は討死した。\nその後、山名氏が播磨国守護に、山名氏の家臣・太田垣主殿佐が城代になった。\n1458年(長禄2年)、長禄の変で後南朝から神爾を取り戻した功績で赤松政則(満祐の弟の孫)の時に赤松氏再興が許された。\n1467年(応仁元年)、応仁の乱で山名氏に対立する細川勝元方に与した政則が弱体化した山名氏から播磨国を取り戻し、当城に本丸・鶴見丸・亀居丸を築いた。", "qas": [ { "question": "嘉吉の乱で死んだ城代は誰ですか?", "id": "de-033-06-000", "answers": [ { "text": "小寺職治", "answer_start": 70, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "姫路城の本丸・鶴見丸・亀居丸が築かれたのは応仁の乱が起こった何年ですか?", "id": "de-033-06-001", "answers": [ { "text": "1467年", "answer_start": 178, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小寺職治の次に城代を務めた人物は、何氏の家臣でしたか?", "id": "de-033-06-002", "answers": [ { "text": "山名氏", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1469年(文明元年)、則村が隣国の但馬国に本拠地がある山名氏に備えるため新たに築いた置塩城に本拠地を移し、小寺豊職が城代になった。\n1491年(延徳3年)、豊職の子・政隆が城代になり、御着城(姫路市御国野町御着)を築城開始。\n1519年(永正16年)、政隆が御着城に本拠地を移し、子の則職が城代になった。", "qas": [ { "question": "1469年に小寺豊職が城代となったが、その後彼の孫も城代になっている。名前を何というか?", "id": "de-033-07-000", "answers": [ { "text": "則職", "answer_start": 143, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1469年から1519年の間に城代になった人物は3人いるが、その中で小寺氏最後の城代は誰でしょう?", "id": "de-033-07-001", "answers": [ { "text": "則職", "answer_start": 143, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1545年(天文14年)、則職が御着城に移り、家臣の黒田重隆に城を預ける。\n黒田重隆・職隆父子が主君で御着城主の小寺政職(則職の子)の許可を受けて、御着城の支城として1555年(天文24年)から1561年(永禄4年)の間に、現在よりも小規模ではあるが居館程度の規模であったものから姫山の地形を生かした中世城郭に拡張したと考えられている。\n姫路(姫山)に城があったと確認できる一次史料は、永禄4年の『正明寺文書』に「姫道御溝」の記述や『助太夫畠地売券』に城の構えがあるという記述で、これらを根拠に姫路城の始まりという説もある。\n職隆は百間長屋を建てて貧しい者や下級武士、職人、行商人などを住まわせるなどして、配下に組み入れたり情報収集の場所としていた。", "qas": [ { "question": "城を中世城郭に拡張したとされる人物の内、父親の方を何といいますか?", "id": "de-033-08-000", "answers": [ { "text": "黒田重隆", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "姫路城の始まりを確認出来る史料として、城の構えがあるという事が記載されている書物は何でしょう?", "id": "de-033-08-001", "answers": [ { "text": "『助太夫畠地売券』", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1567年(永禄10年)、職隆の子・孝高が城代になった。1568年(永禄11年)、青山・土器山の戦いで赤松政秀軍の約3,000人に対して黒田軍(職隆・孝高父子)は約300人という劣勢で姫路城から撃って出て赤松軍を撃退する。\n以後、1573年(天正元年)まで孝高(官兵衛・如水)が城代を務めた。", "qas": [ { "question": "青山・土器山の戦いで激突した二つの軍の内、人数が少なかったのは何軍ですか?", "id": "de-033-09-000", "answers": [ { "text": "黒田軍", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "青山・土器山の戦いに参加した軍の中で、規模の大きい軍を率いていたのは誰ですか?", "id": "de-033-09-001", "answers": [ { "text": "赤松政秀", "answer_start": 51, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "官兵衛や如水といった別名を持つ人物の名は?", "id": "de-033-09-002", "answers": [ { "text": "孝高", "answer_start": 128, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "孝高が城代となったのは日本の元号でいつのことですか?", "id": "de-033-09-003", "answers": [ { "text": "永禄10年", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1576年(天正4年)、中国攻めを進める織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、播磨国内は織田氏につく勢力と中国路の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。\nただし小寺氏の家臣でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高はそのまま秀吉に仕えることとなった。\n1577年(天正5年)、孝高は二の丸に居を移し本丸を秀吉に譲った。", "qas": [ { "question": "羽柴秀吉を播磨に進駐させたのは誰の命令によるものだったの?", "id": "de-033-10-000", "answers": [ { "text": "織田信長", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "播磨国内で対立していた2つの勢力の内、敗北したのは何氏の勢力?", "id": "de-033-10-001", "answers": [ { "text": "毛利氏", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "織田氏と毛利氏の対立が決着した後、小寺氏から秀吉の家臣に変わった人は誰?", "id": "de-033-10-002", "answers": [ { "text": "黒田孝高", "answer_start": 139, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1580年(天正8年)、三木城・英賀城などが落城し播磨が平定されると孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言し姫路城を献上、自らは市川を挟んで姫路城の南西に位置する国府山城(こうやまじょう)に移った。\n秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行った大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守(3層と伝えられる)を建築し姫路城に改名する。\nあわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。\nこの際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、城南の城下町を通るようにも改めている。\n同年10月28日、龍野町(たつのまち)に、諸公事役免除の制札を与える。\nこの最初の条文において、「市日之事、如先規罷立事」とあることから、4月における英賀城落城の際に、姫路山下に招き入れ市場を建てさせた英賀の百姓や町人達が龍野町に移住したとする説がある。\n1581年(天正9年)、秀吉は姫路城で大茶会を催した後、鳥取城攻略へ出陣した。", "qas": [ { "question": "姫路城を近世城郭として様々な改修を行った人物は?", "id": "de-033-11-000", "answers": [ { "text": "秀吉", "answer_start": 108, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "秀吉は姫路城の城郭を何で囲いましたか?", "id": "de-033-11-001", "answers": [ { "text": "石垣", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "孝高から姫路城を献上された秀吉が城代についた年はいつですか?", "id": "de-033-11-002", "answers": [ { "text": "1580年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "姫路城の南に大規模な城下町が形成された際に、わざわざ城下町を通るように改められた道は何ですか?", "id": "de-033-11-003", "answers": [ { "text": "山陽道", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1582年(天正10年)6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人の地位へ駆け上っていく。\nこのため1583年(天正11年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟・豊臣秀長が入ったが1585年(天正13年)には大和郡山へと転封した。\n替わって木下家定が入った。", "qas": [ { "question": "秀吉の次の次に姫路城代になった人は何という人ですか?", "id": "de-033-12-000", "answers": [ { "text": "木下家定", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "山崎の戦いの後に、秀吉が本拠地とした城はどこですか?", "id": "de-033-12-001", "answers": [ { "text": "大坂城", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1583年から1585年までの間、姫路城代を務めた人物は誰?", "id": "de-033-12-002", "answers": [ { "text": "豊臣秀長", "answer_start": 109, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1600年(慶長5年)、池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功により三河吉田15万石から播磨52万石(播磨一国支配)で入城した。\n輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて1601年(慶長6年)から8年掛けた大改修で姫山周辺の宿村・中村・国府寺村などを包括する広大な城郭を築いた。\n中堀は八町毎に門を置き、外堀からは城下と飾磨津を運河で結ぶ計画であったが輝政の死去と地形の高低差の問題を解決できず未完に終わる。\n運河計画は後の本多忠政の時代に船場川を改修して実現することになる。\n普請奉行は池田家家老の伊木長門守忠繁、大工棟梁は桜井源兵衛である。\n作業には在地の領民が駆り出され、築城に携わった人員は延べ4千万人-5千万人であろうと推定されている。\nまた、姫路城の支城として播磨国内の明石城(船上城)・赤穂城・三木城・利神城・龍野城(鶏籠山城)・高砂城も整備された。", "qas": [ { "question": "池田輝政が播磨52万石をもらえる程の功績を残せた戦はどこでありましたか?", "id": "de-033-13-000", "answers": [ { "text": "関ヶ原", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "徳川家康の命を受けて姫路城代についた人は誰なの?", "id": "de-033-13-001", "answers": [ { "text": "池田輝政", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "池田輝政の運河計画は、その後誰の時代に実現したの?", "id": "de-033-13-002", "answers": [ { "text": "本多忠政", "answer_start": 218, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "明石城(船上城)・赤穂城・三木城・利神城・龍野城(鶏籠山城)・高砂城は姫路城の何の役割を果たしていたの?", "id": "de-033-13-003", "answers": [ { "text": "支城", "answer_start": 337, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1617年(元和3年)、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、山陽道の要衝を任せるには不安であることを理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。\n忠政は城の西側を流れる妹背川を飾磨津までの舟運河川に改修し船場川と改名した。\n1618年(元和4年)には千姫が本多忠刻に嫁いだ化粧料を元に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。", "qas": [ { "question": "1617年に姫路城に入城した本多忠政はどこから来たか?", "id": "de-033-14-000", "answers": [ { "text": "伊勢桑名", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "船場川の改名前の名前は何だったの?", "id": "de-033-14-001", "answers": [ { "text": "妹背川", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家と目まぐるしく入れ替わる。\n1749年(寛延2年)に上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。\nしかし、姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職の責務も相まって藩の経済を圧迫していた。", "qas": [ { "question": "目まぐるしく入れ替わった姫路藩主の中で、3度も藩主を務めたのは何家ですか?", "id": "de-033-15-000", "answers": [ { "text": "越前松平家", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "姫路藩主家が安定したのは、酒井氏が入城したいつのこと?", "id": "de-033-15-001", "answers": [ { "text": "1749年", "answer_start": 82, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "幕末期、鳥羽・伏見の戦いにおいて姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属し将軍徳川慶喜とともにあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩と龍野藩を主体とする新政府軍の兵1,500人に包囲され、車門・市ノ橋門、清水門に兵を配置されている。\nこの時、輝政の子孫・池田茂政の率いる岡山藩の部隊が景福寺山に設置した大砲で姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行っている。\nその中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。\n両者の緊張は高まり、新政府軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風荘右衛門貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上してこれを食い止めた。\nこの間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定し、城の明け渡しで新政府に恭順する。\nこうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避された。", "qas": [ { "question": "姫路城をめぐる攻防戦があった幕末期の戦を何と言った?", "id": "de-033-16-000", "answers": [ { "text": "鳥羽・伏見の戦い", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "新政府軍による姫路城総攻撃を阻止できたのは、新政府軍に財を献上した事によるものである。それをしたのは誰ですか?", "id": "de-033-16-001", "answers": [ { "text": "北風荘右衛門貞忠", "answer_start": 261, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ワルシャワ・ゲットー蜂起", "paragraphs": [ { "context": "ワルシャワ・ゲットー蜂起(ワルシャワ・ゲットーほうき、英:WarsawGhettoUprising,波:Powstaniewgetciewarszawskim,イディッシュ語:ווארשעווערגעטאאויפשטאנד,独:AufstandimWarschauerGhetto)は、第二次世界大戦中の1943年4月から5月にかけて、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人レジスタンスたちが起こしたナチス・ドイツに対する武装蜂起である。", "qas": [ { "question": "ワルシャワ・ゲットー蜂起は、何に対する武装蜂起だった?", "id": "de-034-00-000", "answers": [ { "text": "ナチス・ドイツ", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ワルシャワ・ゲットー蜂起は、いつからいつにかけて起こった武装蜂起ですか?", "id": "de-034-00-001", "answers": [ { "text": "1943年4月から5月", "answer_start": 152, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第二次世界大戦がはじまり、東ヨーロッパの諸都市がドイツ軍に占領されると、それらの都市で暮らすユダヤ人たちはゲットーに隔離されるようになった。しかし1942年から1943年にかけてナチス親衛隊(SS)は「ラインハルト作戦」を開始し、ゲットーのユダヤ人たちを続々と絶滅収容所に移送するようになった。ワルシャワ・ゲットーでも過酷な移送作戦が行われ、数多くのユダヤ人がトレブリンカ絶滅収容所へ移送されて殺害された。", "qas": [ { "question": "ラインハルト作戦は、どの部隊により行われた作戦か?", "id": "de-034-01-000", "answers": [ { "text": "ナチス親衛隊", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ラインハルト作戦は、何年から何年にかけて行われたものか?", "id": "de-034-01-001", "answers": [ { "text": "1942年から1943年", "answer_start": 73, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ユダヤ人の「追放」が始まった当初、ユダヤ人の抵抗組織のメンバーは会合を持ち、ドイツに対して戦わないことを決定していた。これは、ユダヤ人が殺されるのではなく、労働キャンプに送られるだけだと信じていたからであった。しかし、1942年の終わりには、「追放」と言うものが死の収容所へ送られることだとわかり、残ったユダヤ人は戦うことを決定した。", "qas": [ { "question": "ユダヤ人の抵抗組織がドイツに対して戦わないと決定したのは、何に送られるだけだと思ったからか?", "id": "de-034-02-000", "answers": [ { "text": "労働キャンプ", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユダヤ人がドイツに対して戦うと決定したのは、何年のことか?", "id": "de-034-02-001", "answers": [ { "text": "1942年", "answer_start": 109, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "更なる移送作戦を阻止するため、モルデハイ・アニエレヴィッツ指揮下の「ユダヤ人戦闘組織」とダヴィド・アプフェルバウム指揮下の「ユダヤ人軍事同盟」が1943年4月19日から5月16日にかけてナチスに対して武装蜂起を起こした。反乱を起こしたユダヤ人たちは貧弱な武装と劣悪な補給にもかかわらず粘り強く戦ったが、最終的にはユルゲン・シュトロープSS少将率いる武装SS・ドイツ秩序警察・ドイツ国防軍などから成る混成部隊によって完全に鎮圧された。", "qas": [ { "question": "ユダヤ人戦闘組織を率いたのは、誰なの?", "id": "de-034-03-000", "answers": [ { "text": "モルデハイ・アニエレヴィッツ", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ユダヤ人軍事同盟を率いたのは、誰ですか?", "id": "de-034-03-001", "answers": [ { "text": "ダヴィド・アプフェルバウム", "answer_start": 44, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ユダヤ人戦闘組織とユダヤ人軍事同盟がナチスに対して武装蜂起を起こしたのは、いつからいつにかけてのことか?", "id": "de-034-03-002", "answers": [ { "text": "1943年4月19日から5月16日", "answer_start": 72, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユダヤ人戦闘組織とユダヤ人軍事同盟が起こした武装蜂起は、誰の率いる部隊により鎮圧されたか?", "id": "de-034-03-003", "answers": [ { "text": "ユルゲン・シュトロープ", "answer_start": 156, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1939年9月のドイツ軍のポーランド侵攻によってワルシャワはドイツ軍に占領された。ドイツ当局は1940年10月から11月にかけてワルシャワ・ゲットーを創設した。同ゲットーの人口は最も多い時期で45万人であり、これはナチスが創設したゲットーの中でも最大であった。ゲットーの環境は劣悪であり、移送作戦までに約8万3000人のユダヤ人が伝染病や飢餓によってゲットー内で命を落とした。", "qas": [ { "question": "ドイツがポーランドを侵攻したのは、いつのこと?", "id": "de-034-04-000", "answers": [ { "text": "1939年9月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ワルシャワ・ゲットーは、いつからいつにかけて創設されましたか?", "id": "de-034-04-001", "answers": [ { "text": "1940年10月から11月", "answer_start": 47, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ポーランド総督府領内のユダヤ人を絶滅させるための「ラインハルト作戦」が1942年3月中旬からオディロ・グロボクニクSS少将の指揮の下に実行された。ワルシャワ・ゲットーでは1942年7月22日から9月10日にかけて最初の移送作戦が行われ、「労働不能者」を中心に約30万人のゲットー住民がトレブリンカ絶滅収容所へ移送されてガス室で殺害された。この移送作戦によりワルシャワ・ゲットーの住民数はせいぜい7万人になった。", "qas": [ { "question": "ラインハルト作戦の指揮を執ったのは、誰か?", "id": "de-034-05-000", "answers": [ { "text": "オディロ・グロボクニク", "answer_start": 46, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ラインハルト作戦が行われたのは、いつからか?", "id": "de-034-05-001", "answers": [ { "text": "1942年3月中旬", "answer_start": 35, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1942年7月22日から9月10日にかけての最初の移送作戦でトレブリンカ絶滅収容所へ移送され、ガス室で殺害されたのは、約何万人にも至ったか?", "id": "de-034-05-002", "answers": [ { "text": "約30万人", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ワルシャワ・ゲットーからトレブリンカ絶滅収容所への最初の移送作戦により、ワルシャワ・ゲットーに残った住民数は何万人だったか?", "id": "de-034-05-003", "answers": [ { "text": "7万人", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "移送作戦が開始された直後の1942年7月23日にゲットー内の地下組織の指導者の会合があった。この席上シオニスト左派諸政党は武装抵抗を主張したが、他の出席者は移送されるのは恐らく数万人程度にとどまるだろうと考える者が多く、武装抵抗はかえって全ゲットー住民を危険に晒すとして反対論が相次いだ。結局7月28日にシオニスト左派諸政党だけで武装抵抗組織「ユダヤ人戦闘組織」(ŻOB)を創設したが、各政党は移送作戦から自らの組織を守ることに手いっぱいで他党と会合を持ってる暇は無く、ユダヤ人戦闘組織も実際的にはほとんど機能せず、移送作戦に対して有効な抵抗はできなかった。", "qas": [ { "question": "1942年7月23日に行われたゲットー内の地下組織の指導者の会合では、どの派が武装蜂起を主張したの?", "id": "de-034-06-000", "answers": [ { "text": "シオニスト左派", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユダヤ人戦闘組織が結成されたのは、いつのことですか?", "id": "de-034-06-001", "answers": [ { "text": "7月28日", "answer_start": 146, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1943年1月9日にSS全国指導者ハインリヒ・ヒムラー自らがワルシャワを訪れた。まだ4万人のユダヤ人がゲットーにいること(実際にはもう少し多くいた)を報告されたヒムラーは、さらに8000人のユダヤ人を移送するよう命じた。ヒムラーの命を受けてSS・警察部隊は1月18日から第二次移送作戦を開始した。これにより6500人のユダヤ人が移送され、1171人のユダヤ人が殺害された。", "qas": [ { "question": "1943年1月9日にワルシャワを訪れたのは、誰か?", "id": "de-034-07-000", "answers": [ { "text": "ハインリヒ・ヒムラー", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ワルシャワ・ゲットーでの第二次移送作戦は、誰の命により行われたか?", "id": "de-034-07-001", "answers": [ { "text": "ハインリヒ・ヒムラー", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第二次移送作戦の結果としては、移送と殺害のうち、どちらに該当するユダヤ人の人数がより多かったか?", "id": "de-034-07-002", "answers": [ { "text": "移送", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ワルシャワ・ゲットーでの第二次移送作戦は、いつから開始されたか?", "id": "de-034-07-003", "answers": [ { "text": "1月18日", "answer_start": 128, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1943年4月18日にドイツ当局が武力でゲットーを制圧して移送作戦を再開するとの情報がユダヤ人戦闘組織に伝わった。ただちにゲットー全住民に警告を発するとともに地下壕にこもって戦闘準備を開始した。4月19日(過越祭の始まる日だった)午前3時頃、「ワルシャワ」親衛隊及び警察指導者であるフェルディナント・フォン・ザンメルン・フランケネックSS准将率いる2000人ほどのSS・警察部隊によってゲットーが包囲された。このSS・警察部隊は武装SSの2個訓練・補充大隊、秩序警察の第22警察連隊に属する2個大隊、トラヴニキ強制労働収容所の警備にあたっていたウクライナ人民兵による1個大隊、それからわずかな保安警察からの分遣隊によって編成されていた。武装SS部隊は訓練不足の者や負傷から回復したばかりの者で構成されており、また秩序警察部隊の方は退役者や総督府ポーランド警察やポーランド消防隊も動員されていた。動員された戦車はわずかな数のフランス製軽戦車(大砲なし)のみであった。", "qas": [ { "question": "ドイツ当局は、移送作戦を再開するための、武力によるゲットー制圧をいつ行うと計画していたの?", "id": "de-034-08-000", "answers": [ { "text": "1943年4月18日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1943年4月19日午前3時頃、ワルシャワ・ゲットーは、誰の率いる部隊により包囲されましたか?", "id": "de-034-08-001", "answers": [ { "text": "フェルディナント・フォン・ザンメルン・フランケネック", "answer_start": 141, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "4月19日午前8時にフォン・ザンメルン・フランケネックは解任されてユルゲン・シュトロープSS少将が新しい鎮圧部隊の指揮官となった。ヒムラーはシュトロープに対して「ワルシャワ・ゲットーでの狩り集めは容赦のない決意と出来る限り冷酷な方法で実行しろ。攻撃は強力であればある程良い。ここ最近の事例はユダヤ人がいかに危険であるかを示している」という命令を下した。しかしシュトロープもこの日に戦況を変えることはできなかった。ユダヤ人レジスタンスの粘り強い抵抗の末、午後5時にはドイツ軍は戦車1台と装甲車1台を失ってゲットーから一時撤収し、この日の戦闘は終了した。", "qas": [ { "question": "フォン・ザンメルン・フランケネックの後を継ぎ、ワルシャワ・ゲットー蜂起鎮圧部隊の責任者となったのは、誰か?", "id": "de-034-09-000", "answers": [ { "text": "ユルゲン・シュトロープ", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "4月19日の戦闘は、誰の勝利で終わったか?", "id": "de-034-09-001", "answers": [ { "text": "ユダヤ人レジスタンス", "answer_start": 206, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかしユダヤ人たちの勝利は4月19日だけだった。4月20日、ドイツ国防軍ワルシャワ上級野戦司令官フリッツ・ロッスム(FritzRossum)少将の派遣した応援部隊がシュトロープの手元に到着した。この国防軍応援部隊は1個軽高射砲中隊と曲射砲小隊を中心としていた。シュトロープはゲットーの建物に火を放って隠れたユダヤ人たちをあぶり出す焦土作戦に切り替えた。シュトロープは「非人間と暴徒を地上にあぶり出すにはそれが唯一の方法であった」と日誌に書き記している。", "qas": [ { "question": "ワルシャワ・ゲットー蜂起鎮圧部隊に対する応援部隊が到着したのは、いつのこと?", "id": "de-034-10-000", "answers": [ { "text": "4月20日", "answer_start": 24, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ワルシャワ・ゲットー蜂起鎮圧部隊に対し、応援部隊が派遣されたのは、いつの戦闘で負けたからですか?", "id": "de-034-10-001", "answers": [ { "text": "4月19日", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "4月20日、ドイツ軍は火炎放射器をもって再びゲットーへの侵入を開始した。軽高射砲と曲射砲によるゲットーの建物への砲撃も行われた。4月22日までにはゲットーの複数の地域が炎上していた。ドイツ軍はゲットー包囲を強化し、電気や水、ガスを完全に止めた。水がないため火を消すことはできなかった。レジスタンスたちは徐々に持ち場を放棄して地下壕に撤退せざるを得なくなった。蜂起開始から2週目には地下壕が戦闘の中心となっていた。ドイツ軍は一つずつ地下壕を発見していって手りゅう弾や催涙ガスを地下壕に放り投げ、ユダヤ人たちが這い出てきたところを掃討して片づけていった。", "qas": [ { "question": "4月20日、ドイツ軍は何をもって再びゲットーへの侵入を開始したか?", "id": "de-034-11-000", "answers": [ { "text": "火炎放射器", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "4月20日、ドイツ軍は火炎放射器と軽高射砲のほか、何を用いて反乱の鎮圧を開始したか?", "id": "de-034-11-001", "answers": [ { "text": "曲射砲", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "蜂起開始から2週目には、どこが戦闘の中心となったか?", "id": "de-034-11-002", "answers": [ { "text": "地下壕", "answer_start": 190, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "電気と水、ガスのうち、どちらが止められたことが、ユダヤ人レジスタンスにとって最悪の状況であったか?", "id": "de-034-11-003", "answers": [ { "text": "水", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ゲットーの外からの支援は限られていた。しかしゲットー外のポーランド人レジスタンス組織である国内軍(AK)と人民軍がまったく協力しなかったわけではない。ゲットーの壁近くで警備部隊を攻撃し、武器や弾薬を内部に送る努力を試みた。この武器・弾薬の支援を受けるためのユダヤ人側の交渉役はイツハク・ツケルマンであった。また国内軍自身も4月19日から4月23日までの間、塀の外のあちこちでゲットーに侵入する試みでドイツ軍と交戦を行った。", "qas": [ { "question": "物足りないことはあったが、ゲットー外からは、国内軍とどの軍からの支援があったの?", "id": "de-034-12-000", "answers": [ { "text": "人民軍", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "外部からの武器・弾薬の支援を受けるためのユダヤ人側の交渉役は、誰でしたか?", "id": "de-034-12-001", "answers": [ { "text": "イツハク・ツケルマン", "answer_start": 138, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヘンリク・イヴァンスキ少佐指揮下の国内軍の一部隊、PaństwowyKorpusBezpieczeństwa(国民保安軍団の意)は、ユダヤ人軍事同盟とともにゲットーの内側で戦い、最終的には塀の外、「アーリア人の領域」へ撤退した。国内軍はポーランド国内と、連合国へ無線通信を介して、ゲットーのユダヤ人に関する情報と、彼らへの援助を求める連絡を行った。ŻOBの一部のパルチザンと指揮系統の一部はポーランドの支援の元、運河を通り脱出した。イヴァンスキの行動が最も有名であったが、これは、ポーランドの抵抗勢力が行ったユダヤ人を助けるための多数の行動の1つであった。", "qas": [ { "question": "ユダヤ人軍事同盟とともにゲットーの内側で戦った国内軍の指揮は誰がとっていたか?", "id": "de-034-13-000", "answers": [ { "text": "ヘンリク・イヴァンスキ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ユダヤ人軍事同盟はユダヤ人戦闘組織より装備が良かったこともあり、ゲットーの中心であるムラノウスキー広場(MuranowskiSquare)付近の拠点を長い期間持ちこたえて戦った。しかし4月27日の戦闘でユダヤ人軍事同盟指導者ダヴィド・アプフェルバウムが負傷した。同日、ヘンリク・イヴァンスキ少佐率いる国内軍の部隊がゲットー外から地下道を通ってユダヤ人軍事同盟の負傷者の運び出しに駆け付けたが、アプフェルバウムはゲットーから離れることを拒否し、翌28日に死亡している。", "qas": [ { "question": "ダヴィド・アプフェルバウムが負傷を負ったのは、いつのことか?", "id": "de-034-14-000", "answers": [ { "text": "4月27日", "answer_start": 92, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ダヴィド・アプフェルバウムが死んだのは、何月の28日だったの?", "id": "de-034-14-001", "answers": [ { "text": "4月", "answer_start": 92, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ユダヤ人軍事同盟の負傷者の運び出しに駆け付けた国内軍の部隊の指揮者は、誰でしたか?", "id": "de-034-14-002", "answers": [ { "text": "ヘンリク・イヴァンスキ", "answer_start": 134, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "5月8日にはミワ18番地にあったユダヤ人戦闘組織の地下壕がドイツ軍に包囲された。ガス弾や手りゅう弾や爆薬を投げ込まれ、ユダヤ人レジスタンスは次々と戦死した。生き残った者たちももはやこれまでと判断し、その日のうちにお互いに銃を向けあって集団自決した。モルデハイ・アニエレヴィッツもここで死亡した。", "qas": [ { "question": "ミワ18番地にあったユダヤ人戦闘組織の地下壕がドイツ軍に包囲されたのは、いつのことなの?", "id": "de-034-15-000", "answers": [ { "text": "5月8日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "5月8日からの戦闘で、優位を取ったのは、ユダヤ人レジスタンスとドイツ軍のうち、どちらの組織ですか?", "id": "de-034-15-001", "answers": [ { "text": "ドイツ軍", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "生き残ったユダヤ人レジスタンスは勝てないと判断し、どのような決断をしたか?", "id": "de-034-15-002", "answers": [ { "text": "集団自決", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2日後、数十名のユダヤ人レジスタンスたちがポーランド人共産主義者の協力で下水道を通ってゲットーを脱出した。その後も数個の戦闘部隊がゲットーに残り、戦闘を継続していたが、5月15日までには戦闘は散発的となった。5月16日にシュトロープは「もはやワルシャワにゲットーは存在せず」と報告書を書いている。同日午後8時15分、シュトロープは鎮圧記念にワルシャワ・シナゴーグ(WarsawSynagogue)を爆破解体させた。", "qas": [ { "question": "ユダヤ人レジスタンスたちの脱出に力を貸したのは、どんな人々なの?", "id": "de-034-16-000", "answers": [ { "text": "ポーランド人共産主義者", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ワルシャワにゲットーでの戦闘は、いつまで続けられましたか?", "id": "de-034-16-001", "answers": [ { "text": "5月15日", "answer_start": 84, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シュトロープがワルシャワ・シナゴーグを爆破解体させたのは、何月何日のことか?", "id": "de-034-16-002", "answers": [ { "text": "5月16日", "answer_start": 104, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ユルゲン・シュトロープSS少将の報告書によると「検挙されたユダヤ人5万6065人のうち、7000人がゲットーでの作戦中に死亡。さらに6929人はトレブリンカへ移送して殺害した。あわせて1万3929人が命を落とした。この5万6065人とは別にさらに5000人から6000人が火災で焼け死んだ」という。しかし5万6065人のうち死亡した1万3929人をのぞく4万2136人の運命についてはシュトロープの報告書はまったく触れていない。しかし別の証言や資料から見て、どうやらマイダネク(ルブリン強制収容所)、もしくはトラヴニキやポニアトーヴァなどの強制労働収容所へ送られたようである。。もともと「労働不能者」と看做されたゲットー住民はとっくにトレブリンカへ送られて殺されていたのだから蜂起の時点でゲットーに残っている者たちはほとんどが「労働可能者」である。したがってほとんどが労働力として利用されたのであろうと考えられる。とはいえ結局この後にマイダネクで行われた「収穫祭作戦」によって大多数は殺されてしまったようである。", "qas": [ { "question": "ユルゲン・シュトロープの報告書によると、何人のユダヤ人が検挙されたの?", "id": "de-034-17-000", "answers": [ { "text": "5万6065人", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユルゲン・シュトロープの報告書によると、検挙されたユダヤ人のうち、何人が生き残りましたか?", "id": "de-034-17-001", "answers": [ { "text": "4万2136人", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "検挙され、生き残ったユダヤ人がマイダネクや強制労働収容所に送られたとの資料の根拠は、労働不能者はどこに移送され、ゲットー内には労働可能者しかいなかったことであるか?", "id": "de-034-17-002", "answers": [ { "text": "トレブリンカ", "answer_start": 317, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書に挙げられている強制労働収容所は、トラヴニキと何か?", "id": "de-034-17-003", "answers": [ { "text": "ポニアトーヴァ", "answer_start": 260, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ドイツ側の損害についてシュトロープの報告書は「16名が殺害され、85名が負傷した」としているが、この数は日々の損害報告とまったく一致していない。実際にはドイツ側ももっと多くの犠牲を出していたはずである。自軍の優位性を示すために損害を控えめに発表したものと思われる。とはいえユダヤ人側の損害の方が圧倒的に多かったことは間違いないと思われる。", "qas": [ { "question": "シュトロープの報告書によると、殺害と負傷のうち、どちらに該当するドイツ軍の数がより多かったの?", "id": "de-034-18-000", "answers": [ { "text": "負傷", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "シュトロープの報告書にドイツ軍の損害が実際より少なく記録されているのは、何を示すためであったと予測されますか?", "id": "de-034-18-001", "answers": [ { "text": "自軍の優位性", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "アメリカ合衆国における東アジア人のステレオタイプ", "paragraphs": [ { "context": "アメリカ合衆国における東アジア人のステレオタイプ(アメリカがっしゅうこくにおけるひがしアジアじんのステレオタイプ、英語:StereotypesofEastAsians)は、アメリカ合衆国での中国、日本、韓国、ベトナムなど東アジアからの移民1世、およびその子孫についての民族的ステレオタイプ。\n他の民族的ステレオタイプ同様、メディア、文学、映画などにしばしば登場する。\nこれらのステレオタイプはアメリカ国内で広く集合的に内在し、移民およびその子孫たちに日常の交流、時事、政治において広くネガティブな影響を与えることもある。\nメディアでの東アジア人の描かれ方は、現実的で真実味のある文化、衣裳、行動というよりもむしろアメリカ文化中心主義を反映していることが多い。\n東アジア人は差別され、外国人嫌悪の増大により民族的ステレオタイプに関連してヘイトクライムの犠牲者となることもある。", "qas": [ { "question": "アメリカ合衆国における東アジア人のステレオタイプにおける東アジアとは中国、日本、韓国の他にどこの国が含まれていますか?", "id": "de-035-00-000", "answers": [ { "text": "ベトナム", "answer_start": 104, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "エドワード・サイードによると、「オリエンタリズム」は西洋が独自に解釈、あるいは「外国」、「未知」、「オリエント」、「東洋」と遭遇および経験したことからきている。\nサイードは「オリエント」はエキゾチシズム、ロマンス、貴重な経験を味わえる東アジアを表すヨーロッパ人による造語で、西洋の人々との対比の意味もあると語った。\n西洋文化でのオリエンタリズムの影響には東アジア人および東アジア系アメリカ人の「アザリング」(他人化)を含む。\n西洋の習慣を「オーディナリー」(普通)とする一方、アジアの文化や生活習慣を「エキゾチック」(異国風)としている。\nまた西洋文化が近代化で変化しやすいとされる一方、東アジア文化は伝統的であるとされることもある。", "qas": [ { "question": "「オリエント」は貴重な経験を味わえる東アジアを表すヨーロッパ人による造語だと言った人は誰?", "id": "de-035-01-000", "answers": [ { "text": "サイード", "answer_start": 81, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "西洋文化が変化しやすいとされる一方で、東アジア文化はどう認識されていますか?", "id": "de-035-01-001", "answers": [ { "text": "伝統的である", "answer_start": 301, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "東アジア人は未熟で幼稚に描かれ、真面目に受け取られない。\nジョン・チョーは「アジア人の赤ん坊はとても可愛いと思われており、自分を含めてアジア人は皆ある程度幼く見られている。男性も女性も幼く見える。赤ん坊であればさらに幼く見せることができる。白人の赤ん坊よりも可愛らしく見せることもできる」と語った。\n幼く見えることによりアジア人は社会的自律性に乏しいと見なされる。\nアジア人は賢く物静かで他の民族に比べて攻撃的ではないと評価されることもある。\nアジア人は幼く見えるため、非力で行動性や管理能力に欠けると見なされることもある。", "qas": [ { "question": "アジア人は幼く見られているのだと語った人は誰ですか?", "id": "de-035-02-000", "answers": [ { "text": "ジョン・チョー", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "19世紀終盤にピークとなった「黄禍論」は白人によるアジア人に対する脅威のことであり、特にオーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、カナダ、アメリカに居住する白人は大量に流入してきた東アジア人により圧倒され、外国文化や不可解な言語が国中に蔓延し、職を奪われ、最終的に西洋文化、生活様式、文化、価値が奪われ壊されるのではないかと危惧していた。\nまた東アジア人社会が西洋社会に侵略および攻撃し、戦争が起こり、最終的に根こそぎ絶滅させられるのではないかと恐れていた。\nこの頃、特にアメリカ合衆国西海岸の政治家、作家から多くの反アジア感情が表現され、「TheYellowPeril」(黄色い危機、『ニューヨーク・タイムズ』(1886年))、「ConferenceEndorsesChineseExclusion」(中国人排斥を承認、『ニューヨーク・タイムズ』(1905年))などの見出しがつけられ、そしてのちに日本人排斥運動に繋がった。\n1924年、アジア人は「有害な」民族であると考えられ、アジア人排除法ができた。", "qas": [ { "question": "『ニューヨーク・タイムズ』で反アジア感情が表現された見出しとは、「ConferenceEndorsesChineseExclusion」と何ですか?", "id": "de-035-03-000", "answers": [ { "text": "「TheYellowPeril」", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アジア人排除法が成立したのはいつですか?", "id": "de-035-03-001", "answers": [ { "text": "1924年", "answer_start": 416, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「TheYellowPeril」と「ConferenceEndorsesChineseExclusion」の見出しはどちらが先に『ニューヨーク・タイムズ』で使われましたか?", "id": "de-035-03-002", "answers": [ { "text": "「TheYellowPeril」", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "オーストラリアでも同様の恐れがあり、1901年から1973年まで移民を制限する白豪主義が実施され、1980年代まで一部残存していた。\n2002年2月12日、ニュージーランドの首相ヘレン・クラークは「これまで人頭税を払ってきたのに差別されてきた中国人の方々そしてその子孫の方々」に向けて謝罪した。\nまた中国人コミュニティへの支援および公平な扱いになるための和解として移民家族の代理人となるべく移民局大臣に任命されたことを発表した。\n20世紀初頭、カナダでは東アジア人移民には入国税が実施されていたが、2007年、政府は生存する入国税納税者およびその子孫に賠償し、公式に謝罪した。", "qas": [ { "question": "オーストラリアで白豪主義が実施されたのは何年から何年までですか?", "id": "de-035-04-000", "answers": [ { "text": "1901年から1973年まで", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2002年2月の時点でニュージーランドの首相を務めた人は誰ですか?", "id": "de-035-04-001", "answers": [ { "text": "ヘレン・クラーク", "answer_start": 89, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アジア系アメリカ人は「アメリカ人」ではなく、「永住外国人」と広く見なされている。\nアジア系アメリカ人は自身や祖先がアメリカにどのくらいの期間住んでいるか、あるいはその社会の一部であるにも関わらずしばしば他のアメリカ人から「元々どこの出身なのか」と聞かれることが報じられている。\nアジア系アメリカ人の多くはアメリカで生まれ育ち、移民ではない。\nアジア系アメリカ人は居住期間や市民権の有無に関わらずアメリカ社会の多くから同化することができない「永住外国人」として見なされ、扱われ、描かれている。\nカリフォルニア大学バークレー校のアジア系アメリカ学名誉教授リン・チー・ワンは同様の視点について語った。\nアメリカでのアジア人コミュニティの主要メディアでの描かれ方は常に酷いと言い切った。\nまた「主要メディアおよび為政者の視点では、アジア系アメリカ人は存在しないことになっている。彼らのレーダーでは感知しない。政治でも同様だ」と語った。\nカリフォルニア大学ロサンゼルス校の研究者たちによるアジア系アメリカ人司法センター(AAJC)の研究『AsianPacificAmericansinPrimeTime』(プライムタイムのアジア太平洋系アメリカ人)によると、アジア系アメリカ人俳優はテレビであまり登場する機会がない。\nアメリカの総人口のうち5%がアジア系アメリカ人であるにも関わらず、テレビでは2.6%しか登場しない。\nニューヨークやロサンゼルスなどアジア系の割合が高い都市が舞台となってもアジア人役は少ない。", "qas": [ { "question": "アジア系アメリカ人は何と見なされていますか?", "id": "de-035-05-000", "answers": [ { "text": "「永住外国人」", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アジア系アメリカ人の多くはどこの出生ですか?", "id": "de-035-05-001", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 143, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アジア系アメリカ人は「モデル・マイノリティ」として好意的なステレオタイプにもなっている。\nアジア人は一般的に勤勉、政治に攻撃的でない、勉強家、博識、生産的、無害であるとしてその社会的地位を上げている。\nしかしアジア系アメリカ人の一部はそうあるべきと要求されているように感じ、不正確であるとしてこのステレオタイプを排除する行動をする。\n学者、活動家、アメリカの主要メディアの多くはこのステレオタイプと実態は逆であるとして、アジア系アメリカ人の成功を誇張し誤認しているとしている。\nこの誤認を明かそうとする者によると、モデル・マイノリティのステレオタイプはアジア系アメリカ人を他の少数民族から隔て、現在のアメリカでまだ正されていないアジア系アメリカ人の問題や欠如を覆い隠している。\n例えばアジア系アメリカ人が平均以上の収入を得ていると問題を目立たなくし、「竹の天井」のように経営者や重役などの最高レベルへの出世が阻害されるとの概念が広がっており、実際アジア系アメリカ人は白人の同僚と同じだけの給料を得るにはより高い学歴、より多くの労働時間が必要となる。", "qas": [ { "question": "同じ労働時間でも給料が高いのはアジア系アメリカ人と白人のどちらですか?", "id": "de-035-06-000", "answers": [ { "text": "白人", "answer_start": 433, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "モデル・マイノリティのイメージはアジア系アメリカ人の学生にもダメージを与える。\n問題がないと思い込まれることは、実際に教育者に学問上困っているアジア系アメリカ人の学生を見落とさせる。\nアジア系アメリカ人で25歳以上の25.2%が学士取得者であるのに対し、アメリカ人全体では15.5%しか学士取得者がいない。\nそのためアジア系アメリカ人が成功しているとの印象を与えている。\nしかしカンボジア系は6.9%、ラーオ族系は6.2%しか学士を取得していない。\n研究者によると、これはそれぞれの国の内戦からくる深刻な精神的問題や貧困に起因している。\nアジア系アメリカ人が成功していると見なすステレオタイプにも関わらず、モン族系アメリカ人、難民や亡命者からなるアジア系アメリカ人の8割が失業している。", "qas": [ { "question": "カンボジア系とラーオ族系はどちらの方が学士取得者が多いですか?", "id": "de-035-07-000", "answers": [ { "text": "カンボジア系", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アメリカ人全体とアジア系アメリカ人の学士取得者の割合を比較すると、どちらが多いですか?", "id": "de-035-07-001", "answers": [ { "text": "アジア系アメリカ人", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アジア系アメリカ人の犯罪率は、アメリカ国内の他の人種や民族と比較して極端に低い。\nしかしモデル・マイノリティに反した犯罪や非倫理的行動をすることもある。\n2007年、アジア系アメリカ人は不正行為、銃乱射事件、政治腐敗に携わった。\nチョ・スンヒによりバージニア工科大学銃乱射事件が起こされ、チョ自身を含む33名が亡くなった。\nコリアンアメリカンが起こした銃乱射事件にアメリカ社会は震撼した。", "qas": [ { "question": "バージニア工科大学銃乱射事件は何年に起こったの?", "id": "de-035-08-000", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 77, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バージニア工科大学銃乱射事件の犯人は誰でしたか?", "id": "de-035-08-001", "answers": [ { "text": "チョ・スンヒ", "answer_start": 115, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "チョ・スンヒの民族的区分は何ですか?", "id": "de-035-08-002", "answers": [ { "text": "コリアンアメリカン", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "他に、ヒラリー・クリントンへの巨額献金を行なった中国系のノーマン・シュー、サンフランシスコ行政官の中国系のエド・ジュウ、韓国の大統領李明博のビジネス・パートナーとなったロサンゼルス市議のKimKyungJoonなどの逮捕が話題になった。\nまた2007年、デューク大学フューク・スクール・オブ・ビジネスの経営学修士の主に東アジア系の学生34名が不正行為に携わった。\nうち9名が退学処分、15名が1年間の停学、残りが落第となった。", "qas": [ { "question": "東アジア系の学生34名による不正行為事件において、最も人数が多かった処罰は何でしたか?", "id": "de-035-09-000", "answers": [ { "text": "1年間の停学", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "東アジア系の学生34名による不正行為事件において、2番目に人数が多かった処罰は何でしたか?", "id": "de-035-09-001", "answers": [ { "text": "落第", "answer_start": 206, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "KimKyungJoonのビジネスパートナーだった韓国大統領とは?", "id": "de-035-09-002", "answers": [ { "text": "李明博", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2013年、モデル・マイノリティのイメージは、ハーバード大学の3名が逮捕されるなどアジア系アメリカ人の学生によって失墜させられた。\nうちEldoKimは最終試験の回避のため、ハーバード大学のキャンパスへの爆破予告で逮捕され、全国ニュースとなった。\nミシガン大学卒業生BosungShimは医学大学院進学適性テストの点数を書き換えるためウエブサイトをハッキングし、連邦刑務所に処せられた。\n他の影響としては、アジア系アメリカ人にはまだ差別の問題があるにも関わらず、まるでないかのような扱いを受けることがある。\n人種差別のヒエラルキーが構築されており、アジア系アメリカ人は他の人種と比べて差別に関してそれほど重要視されていないことを問題としている。\nアジア系アメリカ人の成功および好意的なステレオタイプにより、人種差別やアメリカ社会において問題に直面していないと見なされ、アジア系アメリカ人のコミュニティは経済的平等、高学歴と考えられている。", "qas": [ { "question": "EldoKimはどこの大学に爆破予告をして捕まりましたか?", "id": "de-035-10-000", "answers": [ { "text": "ハーバード大学", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "BosungShimが行った犯罪行為とは?", "id": "de-035-10-001", "answers": [ { "text": "ハッキング", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フー・マンチューとチャーリー・チャンはアメリカ文化史において最も重要でよく知られた架空の東アジア人登場人物の2人となっている。\n20世紀初頭、フー・マンチューはサックス・ローマー、チャーリー・チャンはアール・ダー・ビガーズとどちらも白人作家により創作された。\nフー・マンチューは皮肉的、博識で世界征服をたくらむ中国人殺人者で、東アジア人の移民の未知からくる脅威の具象化であった。\n一方チャーリー・チャンは控えめで従順な中国系ハワイ先住民の探偵で、白人のアメリカ人により多くの差別的な侮辱を投げつけられつつ丁寧に問題を解決する、アメリカ人が考える典型的「良い」東アジア人である。\nどちらのキャラクターも多くの小説や映画で広く人気を獲得した。", "qas": [ { "question": "サックス・ローマーによって創作された架空の東アジア人とは?", "id": "de-035-11-000", "answers": [ { "text": "フー・マンチュー", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アール・ダー・ビガーズによって創作された架空の東アジア人とは?", "id": "de-035-11-001", "answers": [ { "text": "チャーリー・チャン", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フー・マンチューとチャーリー・チャンはどちらもどの人種の作家から創作されましたか?", "id": "de-035-11-002", "answers": [ { "text": "白人", "answer_start": 116, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フー・マンチューとチャーリー・チャンはどちらが犯罪者ですか?", "id": "de-035-11-003", "answers": [ { "text": "フー・マンチュー", "answer_start": 130, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フー・マンチューと、彼を止めようとするイギリスのエージェントのデニス・ネイランド・スミスが登場する小説13作、、中編1作がある。\nイギリスとアメリカで何百万部も売り上げ、アメリカでは雑誌、映画、コミック、ラジオ、テレビなどにも登場した。\n大人気キャラクターとなり、フー・マンチューのイメージは典型的な「悪い」東アジア人として浸透していった。\n『TheInsidiousDoctorFu-Manchu』でサックス・ローマーはフー・マンチューを残酷で狡猾な男として描き、顔はサタンのようで黄禍論の具象化となっている。", "qas": [ { "question": "フー・マンチューとデニス・ネイランド・スミスが登場する小説と中編は、どちらの方が作品数が多いですか?", "id": "de-035-12-000", "answers": [ { "text": "小説", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "サックス・ローマーは悪役のフー・マンチューと「黄色い危機(黄禍論)」の姿をした全ての東アジア人を表裏一体として描いている。\nまたフー・マンチューには神秘主義およびエキゾチシズムの要素も描かれている。\nフー・マンチューは殺人をする際、実用性はない絹のロープなど東アジアの作法や特産品を用いて不必要に念入りに残酷な方法で行なう。\n満州民族であるが、その残酷さや狡猾さは全ての東アジア人の描写として誇張されている。\n露骨な差別的台詞が(当時は差別と見なされていなかった)白人の主要登場人物により発せられる。\nフー・マンチューの独創的な殺人方法など、白人主要登場人物のデニス・ネイランド・スミスは東アジア人の知的、神秘的、エキゾチック、そしてとても残酷なステレオタイプの誇張された理知に不本意ながら敬意を表している。", "qas": [ { "question": "フー・マンチューの民族的区分は何ですか?", "id": "de-035-13-000", "answers": [ { "text": "満州民族", "answer_start": 163, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "実在の中国系ハワイアン警官チャン・アパナ(1871年-1933年)を大まかに基にし、作家アール・ダー・ビガーズが架空の人物チャーリー・チャンを創作した。\n1925年から1981年の間に小説10作、映画40作の他、コミック・ストリップ、ボードゲーム、カードゲームが作られ、1970年代にはアニメ化もされた。\n映画でのチャーリー・チャン役はウォーナー・オランド、シドニー・トラー、ロランド・ウィンターズなど通常白人俳優により演じられてきた。", "qas": [ { "question": "チャーリー・チャンのモデルとなった実在の人物とは?", "id": "de-035-14-000", "answers": [ { "text": "チャン・アパナ", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チャーリー・チャンの小説と映画はどちらの方が数が多いですか?", "id": "de-035-14-001", "answers": [ { "text": "映画", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "チャン・アパナの職業は何だった?", "id": "de-035-14-002", "answers": [ { "text": "警官", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "映画でチャーリー・チャンを演じた俳優はウォーナー・オランド、ロランド・ウィンターズの他に誰がいますか?", "id": "de-035-14-003", "answers": [ { "text": "シドニー・トラー", "answer_start": 179, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "中国人の悪役フー・マンチューと正反対に、東アジア系アメリカ人チャーリー・チャンは典型的「良い」東アジア人として描かれている。\n『鍵のない家』でチャーリー・チャンは「とても太っているが、女性のような軽やかで優美な歩きをする。頬は赤子のように丸々とし、肌は象牙のような色合いで、黒髪は短く整えられ、琥珀色の目は吊り上がっている」と描写されている。\n強い訛りのある英語で、文法も間違いだらけだが、大げさなほど丁寧で恐縮しがちである。\nボストンの女性から差別的に侮辱された際、チャンは深くお辞儀をして大げさにへりくだって切り抜けた。", "qas": [ { "question": "典型的な「良い」東アジア人として描かれたキャラクターは誰ですか?", "id": "de-035-15-000", "answers": [ { "text": "チャーリー・チャン", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "チャーリー・チャンは知性や能力を備えているにも関わらず、態度の柔らかさ、控えめさ、そして申し訳なさそうな外見や行動により、主流の観客にとって脅威とならない東アジア人男性像と見られた。\nチャーリー・チャン作品の多くのプロットは、チャンが白人上司や差別主義者によって過小評価され、探偵捜査を成功させることでそれをひっくり返すという形を取る。\n多くの現代の批評家、特にアジア系アメリカ人批評家は、チャーリー・チャンには当時の白人探偵キャラクターが普通持っていた大胆さ、自己主張、恋愛体質に欠けると主張し、それによって「白人主義のアメリカは...安心して私たち[アジア系]を、男として扱わないでおくことができる」と語った。\nチャーリー・チャンに多くの美点が与えられたことをフランク・チンやジェフリー・チャンは「差別者からの愛」と呼び、チャンがモデル・マイノリティであり、「ごますり野郎」だと主張している。", "qas": [ { "question": "チャンが「ごますり野郎」だと主張した人はジェフリー・チャンと誰?", "id": "de-035-16-000", "answers": [ { "text": "フランク・チン", "answer_start": 332, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "チャンというキャラクター自体がステレオタイプを固定化することもあった。\nチャンは小説作品の結末で毎回、中国の故事だとされる架空の金言を述べる。\nたとえば「万里の長城を建てた秦の始皇帝は「過去の栄光を語って今日という日を無駄にする者は、明日には誇れるものが何もない」と語った」というものである。\nフレッチャー・チャンは、ビガーズの小説のチャンは白人にこびへつらったりしないと述べている。\n『シナの鸚鵡』ではチャンは差別的発言を聞いて怒り、殺人犯を暴き出してから「ことによると、チャイナマンの話に耳を貸しても恥ずかしくはないのかもしれませんね」と言ってのける。", "qas": [ { "question": "チャンは小説作品の結末で、毎回どこの国の名文句を述べますか?", "id": "de-035-17-000", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 51, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ハリウッド映画の初期の頃、早川雪洲などの東アジア人男性が魅了させていたが、嫉妬に遭うことがあった。\n1800年代中期、中国人労働者たちはアメリカ人が考える「女性の仕事」をしており、その外見から軟弱なイメージが存在していた。\n中国人労働者は中国で強制されていた辮髪を施し、絹の長い服を着ている者もいた。\n中国人男性は白人労働者の経済的脅威とされ、中国人が多くの「男性の仕事」に就くことを禁じる法案が可決され、当時中国人はクリーニング、料理人、保育士など白人が「女性の仕事」とみなす職業にしか就けなかった。\nこれはハリウッドで早川雪洲がセックス・シンボルとされていたことへの反動として広がっていったとされる。\n早川がハリウッドでセックス・シンボルとなり、見た目の良い彼が恋愛映画で主演して何百万人ものアメリカ人女性が早川との出会いを夢見て、彼の人気、セックス・アピール、贅沢な生活がアメリカ社会の白人や黒人の反発を招き、アジア人男性の容姿や魅力が劣るという差別的なステレオタイプが作り上げられ、黄禍論に発展していったとされる。", "qas": [ { "question": "ハリウッド映画の初期の頃に活躍した日本人俳優は誰ですか?", "id": "de-035-18-000", "answers": [ { "text": "早川雪洲", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "早川雪洲はハリウッドでどのような象徴として注目を集めましたか?", "id": "de-035-18-001", "answers": [ { "text": "セックス・シンボル", "answer_start": 266, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ドキュメンタリー『TheSlantedScreen』(2006年)の中で、フィリピン系アメリカ人監督GeneCajayonは、『ロミオとジュリエット』を基にし、アリーヤがジュリエット役、ジェット・リーがロメオ役を務めたアクション映画『ロミオ・マスト・ダイ』(2000年)のエンディングの改訂について語った。\nオリジナルのエンディングではアリーヤが中国人俳優リーにキスをするのだが、都会の観客には合わなかった。\nそのため映画会社は固いハグに変更した。監督によると、アメリカでは東アジア人男性の性的なシーンを見るのを好まれない。\nアメリカのメディアではアジア人男性はフェミニン、あるいは性的なことを感じさせず描かれることが多い。", "qas": [ { "question": "『ロミオとジュリエット』を土台にして制作したアクション映画とは何?", "id": "de-035-19-000", "answers": [ { "text": "『ロミオ・マスト・ダイ』", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ロミオ・マスト・ダイ』でヒロインを演じた女優は誰?", "id": "de-035-19-001", "answers": [ { "text": "アリーヤ", "answer_start": 80, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジェット・リーは『ロミオ・マスト・ダイ』の中で何の役を務めたの?", "id": "de-035-19-002", "answers": [ { "text": "ロメオ役", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "東アジア人男性は白人女性を脅かす存在に描かれることがある。\n20世紀になっても東アジア人男性は好色で攻撃的に描かれていた。\nダイムノヴェルやメロドラマ映画において白人女性が奴隷にされることへの脅威が広められた。\n第二次世界大戦前の1850年から1940年の間、大衆メディアやプロパガンダの双方で中国人役には人間味ある役、日本人役には兵隊の他、安全上の脅威や白人女性への性的危機を与える役で描かれた。\n女性の体はその民族の家や国のシンボルとして認知されていたのである。\n1916年の映画『Patria』で、狂信的な日本人グループが白人女性をレイプするためにアメリカに侵略する。\n『Patria』はウィリアム・ランドルフ・ハーストから資金提供を受けた自主映画であったが、ハーストの新聞社は黄禍論を公表したことで知られていた。\nその後アメリカは第一次世界大戦に突入していった。", "qas": [ { "question": "『Patria』の映画の種類とは何?", "id": "de-035-20-000", "answers": [ { "text": "自主映画", "answer_start": 323, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『Patria』は誰からの資金提供を受けて制作された映画でしたか?", "id": "de-035-20-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ランドルフ・ハースト", "answer_start": 297, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『風雲のチャイナ』では白人女性を騙す「オリエント」として描かれた。\nメーガン・デイヴィス(バーバラ・スタンウィック)が宣教師ロバート・ストライク(ギャヴィン・ゴードン)と結婚し、彼の仕事を助けるため中国に向かう。\n駅で離ればなれとなり、メーガンはエン将軍(ナイルス・アスター)により助けられるがそのままさらわれる。\nメーガンは亡くなったものと思われたが、エン将軍はメーガンに夢中になり別荘に監禁する。", "qas": [ { "question": "『風雲のチャイナ』でメーガンを監禁した人は誰?", "id": "de-035-21-000", "answers": [ { "text": "エン将軍", "answer_start": 177, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "メーガンを演じた女性は?", "id": "de-035-21-001", "answers": [ { "text": "バーバラ・スタンウィック", "answer_start": 45, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "東アジア人男性はミソジニーで女性に対し無神経、無礼というステレオタイプもある。\n東アジア人男性は白人男性より男女同権であるという研究結果も出ているが、東アジア人男性は西洋のメディアでは男性優越主義者として描かれることが多い。\nこれはマイケル・クライトン著『ライジング・サン』、映画『ウルヴァリン:SAMURAI』でも描かれている。\nエイミ・タン著『ジョイ・ラック・クラブ』は批評家の称賛を受けている一方、アジア人男性の差別的ステレオタイプが永続するとしてフランク・チンなどアジア系アメリカ人から批判されている。\n近年東アジア人男性の描かれ方は伝統的ステレオタイプから変化してきている。\nテレビ番組『LOST』では国際色豊かになり、テレビでの東アジア人の描かれ方が多次元的、複合的になっていくことを推し進めている。", "qas": [ { "question": "『ライジング・サン』の著者は誰ですか?", "id": "de-035-22-000", "answers": [ { "text": "マイケル・クライトン", "answer_start": 116, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東アジア人男性が男性優越主義者として描かれている映画のタイトルは?", "id": "de-035-22-001", "answers": [ { "text": "『ウルヴァリン:SAMURAI』", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ジョイ・ラック・クラブ』の著者は?", "id": "de-035-22-002", "answers": [ { "text": "エイミ・タン", "answer_start": 166, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "東アジア人女性は攻撃的、性的日和見主義、金目当てで女の武器を使うと描かれることもある。\n西部劇の映画や文学でこのような狡猾な「ドラゴン・レディ」としての東アジア人女性が度々描かれている。\nドラゴン・レディは「芙蓉娘」、「チャイナ・ドール」、「ゲイシャ・ガール」、戦争花嫁などの控えめなステレオタイプのイメージとは一線を画している。\n近現代、ドラゴン・レディのステレオタイプはコメディ・ドラマ『アリーmyLove』(1997年-2002年)でルーシー・リュー演じるリン・ウーによって描かれた。\nリンは冷淡、残忍な中国語を話す中国系アメリカ人弁護士であり、アメリカで知られていない快楽の知識を持っている。\n当時、この役がテレビに登場する唯一の主要な東アジア人女性役で、このステレオタイプに抗議する者は誰もいなかった。\nそのためリン・ウーの描き方は学術的注目を浴びた。\nワイオミング大学アジア系アメリカ学教授ダレル・ハマモトはカリフォルニア大学デービス校にてリンについて「ソファでリラックスしながら平凡で無気力な日常から一時的に逃れるため、白人男性が作り上げたネオ・オリエンタリストの自己満足的なファンタジー」としつつ、「東アジア系アメリカ人女性は簡単な女ではないと白人主義のアメリカに力強いメッセージを送った」と語った。\n近年、ルーシー・リューはリン・ウー役を演じたことによってこのステレオタイプを広めたとして非難されている。", "qas": [ { "question": "東アジア人女性を攻撃的で狡猾だということを表現した言葉は何?", "id": "de-035-23-000", "answers": [ { "text": "「ドラゴン・レディ」", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『アリーmyLove』でドラゴン・レディとして描かれた役の名前は何?", "id": "de-035-23-001", "answers": [ { "text": "リン・ウー", "answer_start": 231, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "オーストラリアワイン", "paragraphs": [ { "context": "オーストラリアの2009年-10年のブドウ栽培面積は156,632ヘクタールであり、2010年には世界第12位だった。2009年-10年のワイン生産量は15億3200万リットルであり、2010年にはイタリア、フランス、スペイン、アメリカ、アルゼンチン、中国に次ぐ7位だった。2004年には6位だったが、2010年には躍進著しい中国に抜かれている。概してワイン産地はより冷涼な南部にあり、2012年-13年には南オーストラリア州(46%)、ニューサウスウェールズ州(31%)、ビクトリア州(19%)の3州でオーストラリア全体の96%のワインを生産した。オーストラリアにはワイン生産に適した固有種は存在しないため、ヨーロッパから持ち込まれたブドウの樹が使用されている。様々な品種が栽培されているが、樹の本数という点ではオーストラリア全体の約1/4がシラーズ種である。1965年にはオーストラリアのワイン生産者がカスクワインについての特許を世界で初めて取得した。また、オーストラリアはワイン生産の主要国の中で最初にスクリューキャップを導入した国である。従来のオーストラリア産ワインは低価格ワインが主体だったが、2000年代以降には高級ワインの生産にも力がいれられるようになり、国内で生産されるワインの価格・品質・味は多様である。ワイン産業はその生産、雇用、輸出、観光を通じてオーストラリアの経済に大きく貢献している。", "qas": [ { "question": "オーストラリアの2009年-10年のワイン生産量は?", "id": "de-036-00-000", "answers": [ { "text": "15億3200万リットル", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2009年−10年を基準に、オーストラリアと中国と、どちらのワイン生産量の方が多いですか。", "id": "de-036-00-001", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 126, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2004年から2010年にかけて、急激にワイン生産量が増えた国はどこなの?", "id": "de-036-00-002", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 163, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2012年-13年を基準に、南オーストラリア州と、ニューサウスウェールズ州と、ビクトリア州の中で、ワインを一番多く生産するところはどこなの?", "id": "de-036-00-003", "answers": [ { "text": "南オーストラリア州", "answer_start": 204, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "オーストラリア大陸(約900万km2)の面積はヨーロッパ大陸(約1000万km2)とほぼ同等であり、比較的平坦(最高地点は2,228m)なのが特徴である。オーストラリア大陸北部の大部分は熱帯であり、ブドウ栽培には暑すぎるし乾燥しすぎている。ブドウ栽培に適しているのは大陸の南東部または南西部であり、これらの地域は地中海性気候となる。オーストラリアは緯度的には冷涼な気候のワイン産地ではないが、標高の高さや海との近さによって冷涼な気候の地域も存在する。オーストラリア大陸はその巨大さから、ほぼすべての気候や土壌がみられる。これが理由で、赤ワイン、白ワイン、酒精強化ワイン、デザートワイン、スパークリングワインと、多様な種類のワインを生産している。西オーストラリア州のダーリング崖、南オーストラリア州のマウント・ロフティ山脈、オーストラリア東部のグレートディヴァイディング山脈と、3つの主要な山脈がブドウ栽培に影響を与えている。ダーリング崖は標高約400mの断層であり、西オーストラリア州最良のワイン産地はこの断層上にある。マウント・ロフティ山脈周辺にはアデレード・ヒルズ、バロッサ・ヴァレー、エデン・ヴァレーなどのワイン産地がある。グレートディヴァイディング山脈はワイン産地に標高をもたらし、熱帯の降水システムからブドウ畑を守る障壁となる。ハンター・ヴァレーは山脈の「間違った」側にあり、気候的にはブドウ栽培には恵まれていない。", "qas": [ { "question": "オーストラリア大陸とヨーロッパ大陸とどちらの方がより面積が広いか。", "id": "de-036-01-000", "answers": [ { "text": "ヨーロッパ大陸(約1000万km2)", "answer_start": 23, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オーストラリアでブドウ栽培により適しているのは大陸の南東部ですか、北部ですか。", "id": "de-036-01-001", "answers": [ { "text": "南東部", "answer_start": 136, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オーストラリアのブドウ栽培に影響を与えている3つの主要な山脈は、ダーリング崖、マウント・ロフティ山脈、そして何?", "id": "de-036-01-002", "answers": [ { "text": "のグレートディヴァイディング山脈", "answer_start": 370, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1788年のファースト・フリート(1788年にオーストラリアに着いた最初の囚人船団、「最初の植民船団」)とともに、ブドウの樹もオーストラリアに持ち込まれた。アーサー・フィリップ初代総督は、ブラジルのリオデジャネイロや南アフリカのケープタウンでブドウの挿し木を積み込み、ニューサウスウェールズ地方の流刑地に植えた。降水量の多いシドニーの気候はブドウ栽培とワイン生産に不向きであり、フィリップ総督は良好な土壌と乾燥気候の内陸部にブドウ畑を移動させた。1791年にはシドニーの西25kmのパラマッタ川沿いに約1ヘクタールのブドウ畑を築き、フランス人戦争捕虜がブドウ栽培にあたった。フィリップ総督は1792年にイギリス本国に帰国しているが、1795年にはオーストラリアで初めてワインが生産されたとされている。1820年代までにはオーストラリアの植民地内向けのワインの販売が可能となった。1820年から1840年にかけて、ニューサウスウェールズ地方、西オーストラリア地方、ビクトリア地方、最後に南オーストラリア地方に、入植者たちが徐々にブドウ畑を設立していった。", "qas": [ { "question": "1788年にオーストラリアに着いた最初の囚人船団のことを何と呼びますか。", "id": "de-036-02-000", "answers": [ { "text": "ファースト・フリート", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フィリップ総督がイギリスに帰ったのはいつなの?", "id": "de-036-02-001", "answers": [ { "text": "1792年", "answer_start": 295, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オーストラリアで最初にワインが生産されたとされているのはいつなの?", "id": "de-036-02-002", "answers": [ { "text": "1795年", "answer_start": 316, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "グレゴリー・ブラックスランドはケープタウンから持ち込んだブドウの木をシドニー西方のパラマッタ・ヴァレーに植え、ボルドースタイルのワインを生産した。1822年には136リットルのワインを船に積んでロンドンに向かい、1823年にはこの酒精強化ワインが商工業奨励会によって銀賞を授与された。ブラックスランドは海外で賞を勝ち得たオーストラリア初のワイン生産者である。カリフォルニアワインが初めて輸出されたのは1840年であり、オーストラリアはカリフォルニアに18年先んじている。5年後にはさらに多くのワインを積み込んでヨーロッパに赴き、今度は金賞を獲得した。これはオーストラリア産ワインが国際ワインコンクールで獲得した初の金賞である。1792年にオーストラリアにやってきたジョン・マッカーサーは、国外追放を命じられた後にフランスでブドウの木を収集して栽培技術を習得し、1817年に再びオーストラリアに渡った。1820年にはシドニー南方のカムデンで、後にはシドニー西方のペンリスでワインを生産した。マッカーサーはオーストラリアで初めて商業ベースのワイン生産を行った人物であり、1827年には9万リットルのワインを生産した。ジョンの息子ウィリアム・マッカーサーは1844年に『ブドウの栽培、発酵及びワインの貯蔵に関する書簡』を出版している。", "qas": [ { "question": "オーストラリでは初めて海外で賞を勝ち取ったワイン生産者は?", "id": "de-036-03-000", "answers": [ { "text": "ブラックスランド", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カリフォルニアワインとオーストラリアと、どちらの方がより早くワインの輸出を始めたか。", "id": "de-036-03-001", "answers": [ { "text": "カリフォルニア", "answer_start": 179, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カリフォルニアはオーストラリアより何年早くワインの輸出を始めましたか。", "id": "de-036-03-002", "answers": [ { "text": "18年", "answer_start": 225, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウィリアム・マッカーサーのお父さんは誰なの?", "id": "de-036-03-003", "answers": [ { "text": "ジョン", "answer_start": 506, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "「オーストラリアワインの父」と呼ばれるジェームズ・バズビーは1824年にイギリスからオーストラリアに渡り、シドニー近郊のハンター・ヴァレーでワインを生産した。1828年にウィンダム・エステートが設立されたハンター・ヴァレーはオーストラリア最初の商業ワイン産地である。1825年には『ブドウ栽培法及びワインの製造技術』を、1830年には『NSW州におけるブドウの栽培とワインの製造に関するマニュアル』を出版した。1831年からはフランスとスペインのブドウ畑を視察して発酵法を学び、各地のブドウの木の収集を行った。650品種をオーストラリア行きの船に積み込むと、1833年にオーストラリアに戻った時には362品種が長旅を耐えた。シドニー、カムデン、アデレードの各植物園や兄が経営するブドウ畑などにこれらの木が植えられた。バズビーの尽力の結果、ハンター・ヴァレーには1852年に186ヘクタールのブドウ畑があり、年間27万2000リットルのワインと4,500リットルのブランデーを生産。アデレード植物園に植えられた木から得られた苗木が南オーストラリア地方の各地に伝わった。オーストラリアで古くから栽培されている品種の多くはバズビーのコレクションにルーツを求めることができる。", "qas": [ { "question": "「オーストラリアワインの父」というあだ名を持っている人は誰なの?", "id": "de-036-04-000", "answers": [ { "text": "ジェームズ・バズビー", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ブドウ栽培法及びワインの製造技術』と『NSW州におけるブドウの栽培とワインの製造に関するマニュアル』と、どっちの方が出版が早かった?", "id": "de-036-04-001", "answers": [ { "text": "『ブドウ栽培法及びワインの製造技術』", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1840年までには、イタリア人によってリヴェラーナに、スイス人によってビクトリア地方に、ダルマチア人によって西オーストラリア地方に、ルター派ドイツ人によって南オーストラリア地方にブドウ畑が設立された。1844年には南オーストラリア地方のアデレード・ヒルズで生産されたワインがイギリス本国のビクトリア女王に送られたが、女王がオーストラリア産ワインを注文した証拠は残っていない。1850年までには今日のほとんどの州で商業ブドウ畑が設立されている。1854年には6,291リットルのワインが、オーストラリア産ワインとして初めてイギリスに輸出された。1852年にはオーストラリア東部で金鉱が発見され、一時的にニューサウスウェールズ地方とビクトリア地方の労働者がブドウ畑から鉱山に移った。しかし、人口が拡大するにつれてブドウ栽培・ワイン生産も拡大した。植民地における土地選択法が制定されると、1860年から1872年にはブドウ畑が急速に拡大した。1851年に2,510ヘクタールだったブドウ畑は1871年には6,880ヘクタールとなり、1854年から1863年の期間に年平均31,850リットルだったイギリスへの輸出量は1863年から1885年の期間に年平均145,600リットルにまで劇的に増加した。", "qas": [ { "question": "1854年、イギリスにオーストラリア産ワインとして最初に輸出されたワインは何リットルだったの?", "id": "de-036-05-000", "answers": [ { "text": "6,291リットル", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1851年と1871年と、オーストラリアのブドウ畑の面積がより広かったのはいつですか。", "id": "de-036-05-001", "answers": [ { "text": "1871年", "answer_start": 442, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1851年、オーストラリのブドウ畑の面積は何ヘクタールでしたか。", "id": "de-036-05-002", "answers": [ { "text": "2,510ヘクタール", "answer_start": 424, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "6,291リットルのワインが、オーストラリア産ワインとして初めてイギリスに売り出されたのはいつですか。", "id": "de-036-05-003", "answers": [ { "text": "1854年", "answer_start": 221, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "初期の生産者はなじみのないオーストラリアの気候などのために多くの困難に直面したが、最終的には成功を収めている。1873年のウィーン万国博覧会ではフランスの審査員がブラインドテイスティングを行い、ビクトリア州産のワインを称賛した。しかし、このワインの出所が明らかにされると、これだけ良質なワインの産地はフランスであるに違いないとして、審査員は抗議とともに審査を取り消した。オーストラリア産ワインはフランスで開催されたワインコンクールで好成績を残し続けた。ビクトリア地方産のシラーズ種ワインは1878年のパリ万国博覧会で、ボルドーのシャトー・マルゴーに例えられた。1882年のボルドー国際博覧会ではあるオーストラリア産ワインが金賞を受賞し、1889年のパリ万国博覧会では別のオーストラリア産ワインが金賞を受賞した。これらはすべて、フィロキセラの流行でオーストラリアのワイン産業が破壊的な影響を受ける前のことだった。", "qas": [ { "question": "テキストに従うと、ウィーン万国博覧会、パリ万国博覧会、ボルドー国際博覧会のうち、最も先に開催されたのは何ですか。", "id": "de-036-06-000", "answers": [ { "text": "ウィーン万国博覧会", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "第二次世界大戦後には、ブドウ栽培の知識を持つフランス、イタリア、ドイツからの移民が急成長の起爆剤となった。オーストラリアに新たな技術が導入されたり開発され、ワインの品質が向上したことでワイン消費量が成長した。1950年代頃の生産と消費の中心は酒精強化ワインだったが、海外に旅行した若者が持ち帰った知識や、戦後に多く受け入れた南欧系移民などの影響で、1960年代には生産も消費もスティルワインへの転換が進んだ。白ワインの生産技術が向上したことで白ワインブームが生じ、日常消費用のカスクワインが家庭に普及。1970年代中頃にはテーブルワインの消費量が50%を超え、1975年には白ワインの消費量が赤ワインを超えた。1960年代には供給過剰や販売不振に対抗する手段として、豊作時に生産されるノンラベルのクリーンスキンワインがオーストラリアに導入されている。1960年代末から1970年代初頭、オーストラリアのワイン業界は国際市場での競争力を高めるために、多額の投資を行って生産技術の向上に努めた。1970年代後半から1980年代にかけてワイン生産者の統合が進み、ワイン産業以外からの資本参加や海外資本の参入が行われ、家族経営のワイナリーが大きく減少した。1980年代末にはワイン用ブドウの過剰供給を乗り越えるために、オーストラリア政府が農家に奨励金を支払ってブドウの株の引き抜きを行った。1980年代後半から1990年代には輸出が急速に拡大し、1985年に1000万リットル程度だった輸出量は1993年には1億リットルを超え、1994年には1億8000万リットルに達した。1994年の輸出量は世界第6位であり、アメリカの約1.6倍である。オーストラリアのワイン業界は巨大ではあったが、1970年代末まではもっぱら甘口ワインと酒精強化ワインからなっていた。しかしそれ以後には、オーストラリアは急速に質と量の両面で世界を牽引する存在となった。1990年代から2000年代前半には輸出量が急上昇し、ブドウの植樹ブームが起こった。例えばアメリカ合衆国への輸出量は、1990年の57万8000ケースから2004年には2000万ケースにまで増加し、2000年にはイギリスへの輸出量が史上初めてフランスワインを上回った。", "qas": [ { "question": "テキストに従うと、1975年、白ワインと赤ワインと、どちらの消費量が多かったか。", "id": "de-036-07-000", "answers": [ { "text": "白ワイン", "answer_start": 287, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オーストラリアのワイン輸出量が1億リットルを超えたのはいつですか。", "id": "de-036-07-001", "answers": [ { "text": "1993年", "answer_start": 643, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1994年、オーストラリアのワイン輸出量は世界で何位だったの?", "id": "de-036-07-002", "answers": [ { "text": "第6位", "answer_start": 695, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1994年、オーストラリアとアメリカと、どっちの方のワイン輸出量多かった?", "id": "de-036-07-003", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 555, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アデレードにある国立ワインセンターや国立ワイン醸造・ブドウ栽培センターは、世界を代表するワイン研究機関・教育機関である。この大学ではブドウ栽培とワイン醸造を学ぶことができ、卒業生は世界中から引く手あまたである。高等教育機関のブドウ栽培・ワイン醸造学過程を修了した人材が増えており、他業種出身者や退職者が経営する小規模なブティックワイナリーもオーストラリア中に見られる。今日のワイナリーはエノツーリズムの対象地となっている。テイスティング・オーストラリアというオーストラリア最大のワインフェスティバルは隔年開催だが、一般的にワイン産地では毎年ワインフェスティバルが開催される。2000年代には再び赤ワインが白ワインの生産量を上回っている。1996年にはブドウ栽培・ワイン生産に関する新戦略を策定し、オーストラリア産ワインの世界的な認知度向上や、生産量・販売量・市場占有率などに関する具体的な数値目標を掲げたが、2025年を基準としたその新戦略は20年も早く2005年に達成してしまった。", "qas": [ { "question": "オーストラリアで最も大きい規模のワインフェスティバルは何ですか。", "id": "de-036-08-000", "answers": [ { "text": "テイスティング・オーストラリア", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2000年代には赤ワインと白ワインとどちらの方が生産量が多かったか。", "id": "de-036-08-001", "answers": [ { "text": "赤ワイン", "answer_start": 297, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2000年代にはイギリスの輸入業者がオーストラリア産ワインの価格上昇に抵抗を示した。2008年には輸出量が初めて前年を下回ったうえに、2012年にはバルクワインがボトルワインの輸出量を上回った。2005年の輸出単価は3.98豪ドル/リットルだったが、2010年度には2.7豪ドル/リットルに低下した。これらは世界的な経済危機の影響に加えて、国内の生産過剰がバルクワインの輸出に回ったことも理由に挙げられる。強い通貨の影響でニュージーランド産ワインも多く流入しており、2000年代にはオーストラリアでもっとも販売額の大きい銘柄がニュージーランド産という逆転現象まで起こった。近年には世界的なトレンドであるブドウの有機栽培およびバイオダイナミック農法によるワインの人気が高まっている。2004年には第1回国際バイオダイナミックワイン会議がビクトリア州ビーチワースで開催され、オーストラリアに世界中のバイオダイナミックワイン生産者が集まった。特にヨーロッパ市場で高価格ワインの生産者がオーストラリアの有機栽培・バイオダイナミック栽培によるブドウを買い付けてくれることから、ブドウの生産過剰にもかかわらず、多くの有機栽培・バイオダイナミック農法農家が需要を享受している。", "qas": [ { "question": "2012年、バルクワインとボトルワイン輸出量が多かったのはどっちなの?", "id": "de-036-09-000", "answers": [ { "text": "バルクワインが", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2005年と2010年度と輸出単価がより高いのはどっち?", "id": "de-036-09-001", "answers": [ { "text": "2005年", "answer_start": 97, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "オーストラリア産ワインの主要品種としては、シラーズ(シラー)種、カベルネ・ソーヴィニヨン種、メルロー種、シャルドネ種、ソーヴィニヨン・ブラン種、セミヨン種、リースリング種がある。樹の本数という点ではオーストラリア全体の約1/4がシラーズ種である。これらヨーロッパブドウ種の品種は18世紀末から19世紀初頭にヨーロッパや南アフリカから導入された。オーストラリアに固有種は存在しないが、シエンナ種やタランゴ種などいくつかの品種はオーストラリア人ブドウ栽培家によって生み出されている。オーストラリアの商業ワイン生産者は約130品種のブドウを使用してワインを生産している。近年になって、多くのワイン生産者が上述の品種の代替品種を模索しており、フランスから導入されたプティ・ヴェルド種、ピノ・グリーリョ種、ピノ・ノワール種、ヴィオニエ種、イタリアから導入されたサンジョヴェーゼ種、スペインから導入されたテンプラニーリョ種などがより一般的となっている。オーストラリアのワイン生産者は印象的な結果を残しており、シャルドネ種やシラーズ種などの品種で世界的に優れた指標となっている。さらにオーストラリア人はキャノピー種の管理方法やその他のブドウ栽培やワイン生産の技術などを刷新した。オーストラリアのワイン生産者は熟練季節労働者として世界中のワイン産地を駆けめぐり、オーストラリアでのワインカレンダーのオフシーズンには北半球に居を構える。彼らはワインのグローバリゼーションにおける重要な資源であり、ワイン評論家のマット・クレイマーは、オーストラリアが「今日のワイン産業におけるもっとも力強い影響力」を発していると述べている。", "qas": [ { "question": "プティ・ヴェルド種、ピノ・グリーリョ種、ピノ・ノワール種、サンジョヴェーゼ種のうち、フランスから導入された品種ではないものはどれか。", "id": "de-036-10-000", "answers": [ { "text": "サンジョヴェーゼ種", "answer_start": 375, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ピノ・グリーリョ種、サンジョヴェーゼ種、テンプラニーリョ種のうち、フランスから導入された品種を選びなさい。", "id": "de-036-10-001", "answers": [ { "text": "ピノ・グリーリョ種", "answer_start": 338, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オーストラリアが「今日のワイン産業におけるもっとも力強い影響力」を発していると主張した人は誰ですか。", "id": "de-036-10-002", "answers": [ { "text": "マット・クレイマー", "answer_start": 646, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "フランスでシラー(Syrah)と呼ばれる品種は、オーストラリアではシラーズ(Shiraz)と呼ばれる。世界的にはフランスと同じくシラーと呼ばれることが多かったが、オーストラリアでのこの品種の目覚ましい成功を受けて、世界中の生産者がこの品種のワインにシラーズというラベルを用いるようになっている。この一方で、この品種から爽やかなワインを作るオーストラリアの生産者は、フランスに敬意を表してシラーと表示することもある。シラーズ種は1833年にジェームズ・バズビーが導入したとされる品種であり、オーストラリアの暑い気候に適しているとされる。早くから普及した黒品種であり、ペンフォールズ社の「グランジ」など、オーストラリアを代表する銘柄にも使用されている。樹齢100年以上のシラーズ種の古樹が国中に点在している。", "qas": [ { "question": "ペンフォールズ社の「グランジ」など、オーストラリアを代表する銘柄にも使用されているブドウの品種は何ですか。", "id": "de-036-11-000", "answers": [ { "text": "シラーズ種", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "カベルネ・ソーヴィニヨン種はオーストラリア産ワインの黎明期にバズビーらによって導入された。この国の暑さや干ばつなどが理由で適応に時間を有し、長らく忘れ去られた存在だったが、第二次世界大戦後に見直しが進んだ。1970年代から1980年代に栽培面積が劇的に増加し、特にクナワラやマーガレット・リヴァーで名声を博している。現在では高級品種として様々な地域で栽培されている。産地によって味わいや香り、品質の幅は多様であり、バロッサ・ヴァレーでは深い色合いで酸味の強いワインが、クナワラでは色が明るく酸味の弱い軽快なワインが生産されている。他品種とブレンドされることが多く、マーガレット・リヴァーでは一般的にメルロー種がブレンドパートナーであるが、ラングホーン・クリークやバロッサ・ヴァレーでは伝統的にシラーズ種とブレンドされる。", "qas": [ { "question": "1970年代から1980年代に栽培面積が劇的に増加し、特にクナワラやマーガレット・リヴァーで名声を博しているというブドウの品種は何ですか。", "id": "de-036-12-000", "answers": [ { "text": "カベルネ・ソーヴィニヨン種", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "他品種とブレンドされることが多く、マーガレット・リヴァーでは一般的にメルロー種がブレンドパートナーであるが、ラングホーン・クリークやバロッサ・ヴァレーでは伝統的にシラーズ種とブレンドされるブドウの品種は何ですか。", "id": "de-036-12-001", "answers": [ { "text": "カベルネ・ソーヴィニヨン種", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "グルナッシュ種は温暖な地域に適しているため、オーストラリアの気候にも適応した。1950年代には生産量最大の赤ワイン用品種はグルナッシュ種だったが、カベルネ・ソーヴィニヨン種とピノ・ノワール種の台頭で栽培面積を減少させ、今日では低価格のカスクワインなどに使用されることが多い。かつては酒精強化ワインやブレンド用がほとんどだったが、今日ではその香りを生かしたセパージュワインも生産されている。2000年代初頭に世界的にメルロー種の人気が高まり、オーストラリアでも特に内陸部で栽培面積が劇的に増加した。カベルネ・ソーヴィニヨン種とのブレンドに使用されることが多い。最良のメルロー種はマーガレット・リヴァーで生産される。マルベック種の人気は2000年代から落ち込んでおり、大半の地域ではブレンド用で終わる。テンプラニーリョ種は2001年に50ヘクタールだったが、2012年には710ヘクタールにまで急増した。セパージュワインとなることもあるが、一般的には赤ワインのブレンド用に使用される。プティ・ヴェルド種はオーストラリアの一部の産地では特に成熟が遅い品種であるものの、この国に適した品種といえる。カベルネ・ソーヴィニヨン種をベースにしたブレンドに使用されることが多いが、マクラーレン・ヴェイルなどではセパージュワインとなる。", "qas": [ { "question": "グルナッシュ種は温暖な地域に適しているか、するとも寒冷な地域に適しているか。", "id": "de-036-13-000", "answers": [ { "text": "温暖な地域", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "かつては酒精強化ワインやブレンド用がほとんどだったが、今日ではその香りを生かしたセパージュワインの生産にも使われているブドウの品種は何ですか。", "id": "de-036-13-001", "answers": [ { "text": "グルナッシュ種", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "メルロー種は何とのブレンドに使用されることが多いですか。", "id": "de-036-13-002", "answers": [ { "text": "カベルネ・ソーヴィニヨン種", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "グルナッシュ、シラーズ、ムールヴェードルの黒ブドウ3品種をブレンドしたワインは一般的に「GSM」と呼ばれる。本来、GSMブレンドはシャトーヌフ=デュ=パプを含む南ローヌ地方で用いられていたブレンドである。グルナッシュ種は3品種の中でもっとも軽やかであり、口当たりの良いベリーの香りやわずかな辛味を持つ、淡い赤色の水色のワインとなる。ブレンドの素材としては、アルコール度数、暖かみ、果実味を与える。シラーズ種は深いコク、黒い果実やコショウの香りに寄与する。また、シラーズ種はワインに色合い・骨格・タンニンを与え、ブレンドが必要とするバランスをもたらす。ムールヴェードル種は優雅さ・構造・酸味に寄与し、甘いプラム・焙ったジビエ・かすかなタバコの香りを与えている。", "qas": [ { "question": "「GSM」はグルナッシュ、シラーズ、そして何がブレンドされたワインですか。", "id": "de-036-14-000", "answers": [ { "text": "ムールヴェードル", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "グルナッシュ、シラーズ、ムールヴェードルのうち、最も軽やかなのは何?", "id": "de-036-14-001", "answers": [ { "text": "グルナッシュ種", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "シャルドネ種は1833年にバズビーによってオーストラリアに持ち込まれたが、長らくの間ほとんど栽培されていなかった品種である。1970年代にハンター・ヴァレーでシャルドネ種のワインが生産され始めると、アメリカのカリフォルニア州同様に高級品種に成長した。オーストラリアにはシャルドネ種には樽熟成させないほうが適しているとする意見があり、ブルゴーニュ地方とは対照的にオーク樽で熟成されずに出荷されている。リースリング種は白ブドウ品種として最大の栽培面積を有していたが、1990年代前半にシャルドネ種に抜かれ、その後セミヨン種とソーヴィニヨン・ブラン種にも抜かれている。リースリング種の産地としてはバロッサ・ヴァレーが知られており、この品種がオーストラリアにおける白ワインの消費拡大に貢献した。一般的には樽熟成させずに出荷される。セミヨン種はかつてハンター・ヴァレーの白ワインの中心的品種であり、ハンター・リヴァー・リースリングという別名を持つ。ニューサウスウェールズ州ではセミヨン種から貴腐ワインが生産されている。1970年代中頃にはソーヴィニヨン・ブラン種が栽培されはじめ、比較的冷涼な南オーストラリア州のアデレード・ヒルズやビクトリア州のヤラ・ヴァレーで栽培されている。", "qas": [ { "question": "1990年代以降、リースリング種、シャルドネ種、セミヨン種の中で栽培面積が最も狭いのはどれだと予測されますか。", "id": "de-036-15-000", "answers": [ { "text": "リースリング種", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "オーストラリアでもっとも有名なワインはペンフォールズ社の「グランジ」である。偉大な1955年のヴィンテージは1962年以降にいくつものワインコンクールで50以上の金賞を獲得した。1978年にフランスで開催されたワイン・オリンピックでは、1971年のヴィンテージがシラー/シラーズ部門で第1位に輝いた。1990年のヴィンテージは1995年にワイン・スペクテーター誌によって年間最優秀赤ワインに選ばれ、1998年のヴィンテージは同誌の採点で100点満点中99点を獲得した。イギリス人ワイン評論家のヒュー・ジョンソンはグランジをボルドーワインの一級畑と比較して「南半球唯一の一級畑」と呼んだ。影響力のあるアメリカ人ワイン評論家のロバート・パーカーはボルドーの愛好家として知られているが、グランジを「世界でもっとも魅惑的で凝縮されたワインであるペトリュスにとって代わる存在である」と書いた。その他に国際的な注目を集める赤ワインには、グレイスのヘンチキ・ヒル、クレアンドン・ヒルズ・アストラリス、ダーレンベルグ・デッドアーム、トーブレック・ラン・リグなどがある。オーストラリアには約2,000のワイン生産者が存在し、その大部分は小規模なワイナリーを経営している。国内のワイン市場は少数の大手ワイン会社によって支配されており、生産量の90%が上位10社、輸出量の75%が上位3社、アコレード・ワインズ、トレジャリー・ワイン・エステーツ、カセラ・ワインズによるものである。2000年代には業界再編の動きがあり、ブランドワインの販売を行うオーストラリア最大のワイン会社は2001年から2003年がトレジャリー・ワイン・エステーツ、2004年と2005年がハーディ・ワイン・カンパニーであった。ハーディは世界最大のワイン会社であるコンステレーション・ブランズの一部であり、ハーディは2001年から2005年まで所有するブドウ畑面積とブドウ収穫量で国内最大だった。", "qas": [ { "question": "オーストラリアでもっとも知られているワインは何ですか。", "id": "de-036-16-000", "answers": [ { "text": "「グランジ」", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1978年のワイン・オリンピックはどこで開かれましたか。", "id": "de-036-16-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 95, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1998年のヴィンテージが100点満点中99点を獲得したのはどの雑誌の評価でしたか。", "id": "de-036-16-002", "answers": [ { "text": "ワイン・スペクテーター誌", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "グランジをボルドーワインの一級畑と比較して「南半球唯一の一級畑」と評価したのは誰ですか。", "id": "de-036-16-003", "answers": [ { "text": "ヒュー・ジョンソン", "answer_start": 246, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アメリカ合衆国ではカセラワインズが銘柄「イエローテール」でワインを飲まない層を開拓し、爆発的なヒットを記録した。「イエローテール」はオーストラリア産ワインの知名度を一気に高め、オーストラリアはアメリカ合衆国の市場占有率で1、2を争う国となった。その後はより安価なチリワインが台頭し、オーストラリア産ワインの優位性は失われている。安価なワインを大量輸出するマーケティング戦略の結果、オーストラリア産ワインの認知度が確実に高まった一方で、「果実味溢れる口当たりの良い安価なワイン」という固定観念を生む結果にもなった。2008年には北アメリカのワイン市場でオーストラリア産ワインは17%のシェアを占めており、31%のフランスワイン、28%のイタリアワインに次ぐ第3位のシェアを有していた。", "qas": [ { "question": "2008年、北アメリカのワイン市場で2位を記録したのはどこのワインなの?", "id": "de-036-17-000", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 317, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アメリカやイギリスなどの既存市場で苦戦を強いられたため、オーストラリアのワイン業界は未開拓のアジアを重視した戦略に切り替え、2000年代には中国向けの輸出量が急激に増加した。2011年時点の中国国内の輸入ワインに占める国別シェアでは、量ベースでは22%でチリとフランスに次ぐ第3位、金額ベースでは21%でフランスに次ぐ第2位だった。2012年の習近平体制移行後には官僚の贅沢禁止令によって一時的にオーストラリア産ワインの輸出量が減少したが、2014年にはオーストラリアと中国の間で自由貿易協定が締結され、再び輸出量が増加に転じた。セッペルツフィールドと南山集団が年間1500万リットルの輸出入の契約を結ぶなど、両国のワイン関連企業の連携が深まっている。", "qas": [ { "question": "2011年時点の中国国内の輸入ワインに占める国別シェアで、量ベースで最も低いパーセンテージを記録したのはチリ、フランス、オーストラリのうちどれか。", "id": "de-036-18-000", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 28, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2011年時点の中国国内の輸入ワインに占める国別シェアで、金額ベースで2位を記録した国は?", "id": "de-036-18-001", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 28, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オーストラリアの1992年の1人あたりワイン消費量は19リットル/年であり、65リットル/年のフランスなどと比べると少ないものの、10リットル/年のイギリス、7リットル/年のアメリカなど同じアングロ・サクソン諸国の中では群を抜いて多かった。2010年の1人あたりワイン消費量は25リットル/年であり、独立国家としては第15位だった。9リットル/年のアメリカや21リットル/年のイギリスなどよりも多く、旧世界のドイツをも上回っている。オーストラリア本土とニュージーランドとの間にあるタスマン海に浮かぶノーフォーク島では、1人あたり54リットル/年のワインを消費しており、1人あたり消費量ではバチカンに次いで世界第2位の地域だった。2010年代のオーストラリアの1人あたりワイン消費量は、1960年の5倍以上に達している。消費量の約1/3はカスクワインであり、カスクワインはバーベキューの必需品である。総生産量のうち国内消費量は約40%である。オーストラリアの人口は約2300万人に過ぎないが、2011年には5億3750リットルを国内で消費し、国内消費量は世界第10位だった。オーストラリアで販売されるワインのうち、他国から輸入されたワインはわずか16.6%にすぎない。2007年のオーストラリアのワイン市場は2億8000万豪ドルであり、9%の伸びを示した。", "qas": [ { "question": "1992年を基準に、オーストラリアとフランスと、どちらの方が1人あたりワイン消費量が多いですか。", "id": "de-036-19-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1992年を基準に、1人あたりワイン消費量がもっとも多い国はフランス、イギリス、アメリカのうちどれか。", "id": "de-036-19-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "日立鉱山の鉱害問題", "paragraphs": [ { "context": "日立鉱山の鉱害問題(ひたちこうざんのこうがいもんだい)では、茨城県日立市にあった日立鉱山で発生した、鉱毒に汚染された排水と亜硫酸ガスを含んだ排煙による鉱害問題とともに、鉱害解消に向けて採られた様々な対策と鉱山経営者と鉱害被害者との交渉によって問題の解決へと導いた経緯について記述する。", "qas": [ { "question": "日立鉱山はどこに位置しているの?", "id": "de-037-00-000", "answers": [ { "text": "茨城県日立市", "answer_start": 30, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "日立鉱山の前身である赤沢銅山は、1625年(寛永2年)頃から銅の採掘を開始したと考えられている。\nそして17世紀前半の採掘開始当初から、赤沢鉱山は近隣にかなり深刻な鉱毒水被害を発生させていた。\n赤沢銅山での寛永年間の採掘は、1640年(寛永17年)頃まで続けられた。\n享保年間以降に書かれたと推定される古文書と1907年(明治40年)に編纂された「赤沢銅山沿革史」によれば、鉱毒水が水田に流れ込むことによる減収のため、1646年(正保3年)以降、宮田川流域の約60石分に当たる水田の年貢が免除となった。\n1650年(慶安3年)には被害水田のうち47石あまりは鉱毒に汚染された土の除去を行うなどの土壌改良を行ったため、3ヵ年の年貢免除の上、1653年(承応2年)に年貢率の低い水田に格付けされた。\nそして17世紀には1640年(寛永17年)以降も永田茂衛門とその息子である永田勘衛門による赤沢銅山開発の試みが3回行われたが、やはり宮田川流域の水田に鉱毒被害を発生させたことなどが原因で開発は頓挫した。", "qas": [ { "question": "赤沢鉱山は採掘開始当初から、近隣にどのような被害を与えていたの?", "id": "de-037-01-000", "answers": [ { "text": "鉱毒水被害", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "赤沢銅山の鉱毒水被害を受けていた川は何ですか?", "id": "de-037-01-001", "answers": [ { "text": "宮田川", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "永田茂衛門親子による赤沢銅山の開発は何回行われたの?", "id": "de-037-01-002", "answers": [ { "text": "3回", "answer_start": 403, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "鉱毒水が水田に流れ込むことから、水田の年貢が免除になったと記録している書物のタイトルは何?", "id": "de-037-01-003", "answers": [ { "text": "「赤沢銅山沿革史」", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1705年(宝永2年)には、幕府の後援を受けて豪商の紀伊國屋文左衛門らが参画した赤沢銅山の銅採掘が行われた。\nこの時も宮田村の水田に鉱毒水が流れ込み、2割以上の水田が著しい不作のために年貢が免除される事態に陥るなど、かなり大規模な鉱害が発生したこともあって開発は中止に追い込まれた。\n度重なる鉱害により、その後水戸藩は赤沢銅山の開発申請が出されても、鉱害問題を理由に許可を出さないようになった。", "qas": [ { "question": "1705年の赤沢銅山の銅採掘に参加していた主な人物は誰ですか?", "id": "de-037-02-000", "answers": [ { "text": "紀伊國屋文左衛門", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "水戸藩が赤沢銅山の開発を許可したのは、幕末の1861年(文久元年)、大塚源吾衛門の開発申請時である。\nこの時も地元では鉱毒水問題の再発を懸念して鉱山開発の反対意見が出されたが、藩は以前と比べて採鉱、選鉱、精練などの技術が進歩していること、そして万一鉱毒水問題が発生した場合、経営者の大塚源吾衛門に補償させることを約束して反対意見を説得し、赤沢銅山の開発が行われることになった。\n鉱害問題を鉱山経営者の補償で解決するという判断がこの時点で成立していたのは注目され、江戸時代に鉱毒被害を受けた水田の年貢減免が実施されていたことと併せて、鉱毒問題は補償で解決を図るという慣習が成立していったことは、その後の鉱山の発展に伴って鉱害の被害拡大した際の事態解決に影響するようになった。", "qas": [ { "question": "幕末期に赤沢銅山の開発申請をした人で、もし鉱毒水問題が発生した場合に補償を背負うはめになったのは誰ですか?", "id": "de-037-03-000", "answers": [ { "text": "大塚源吾衛門", "answer_start": 34, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "天狗党の乱のために大塚源吾衛門の赤沢銅山開発は1864年(元治元年)に頓挫する。\nその後明治に入って副田欣一が赤沢銅山開発に乗り出し、赤沢から峠を越えた入四間村でも銅山開発が行われたが、ともに経営が軌道に乗ることなく休山となった。\nそれから赤沢銅山の経営権は譲渡が繰り返されたが、実際に鉱山経営が行われることはなかった。\nそのような中、1892年(明治25年)に赤沢銅山付近の鉱業権を得た平野良三は日立村村長らと鉱山稼動に関する契約を締結し、鉱山経営再開への意欲を見せた。\n契約の中で鉱害が発生した場合、鉱業主である平野が賠償を行うことを約束していることが注目される。\nしかし平野は実際の鉱山経営に乗り出すことはなく、1894年(明治27年)に高橋元長と城野琢磨に鉱業権を譲渡した。", "qas": [ { "question": "大塚源吾衛門が赤沢銅山の開発を中途挫折する原因となった争いは何ですか?", "id": "de-037-04-000", "answers": [ { "text": "天狗党の乱", "answer_start": 0, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大塚源吾衛門の次に赤沢銅山の開発に取りかかった人は誰?", "id": "de-037-04-001", "answers": [ { "text": "副田欣一", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日立村村長らと共に鉱山経営を再開しようと前向きに取り組んだ人物は誰ですか?", "id": "de-037-04-002", "answers": [ { "text": "平野良三", "answer_start": 194, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "高橋と城野は、副田以来久しぶりに赤沢銅山経営に乗り出し、日清戦争時の銅需要の高まりもあって鉱山経営は順調であった。\nそこで1896年(明治29年)10月には鉱区の拡大を出願して経営の規模拡大を図った。\nすると鉱山の規模拡大に伴って鉱害が激しくなることを懸念した地域住民の頑強な反対運動が発生した。\n同年11月、茨城県知事からの照会を受けた日立村長は、古くからの銅山開発に伴う鉱害で水田の鉱害被害が続いており、また昨今の鉱山からの排水により川に魚影が見られなくなってきていることを説明し、増区を出願している区域は田の用水の源であり、増区が認められれば更なる被害の発生は必至として反対の答申を行った。\nそれに対して東京鉱山監督署の監督官の現地調査では、現地では田畑の開墾地は少なく、鉱毒水が含まれる宮田川から農業用水を取水している田畑も少なく他に用水を求めることも容易であり、更に鉱毒そのものも鉱山の排水ではなく硫化鉱の大きな露頭が原因であると断じ、増区に問題はないとの復命書が提出された。\nしかし東京鉱山監督署の監督官の復命書に対して、日立村側は現地に開墾地は多く、そして多くの田畑は宮田川から取水していること、鉱毒の被害は天保年間の検地でも認められていて、地租改正時にも引き続き認められていること、更には宮田川の支流では魚が多く生息しているのに、本流と合流してからは魚の姿が見えなくなるのは明らかに鉱毒水の影響であり、現に地域住民は鉱毒に汚染されている水を飲料水として利用している状態であると、鉱害の発生事実について逐一説明をし、茨城県知事に対して再度の調査を強く要請する答申を提出した。", "qas": [ { "question": "高橋と城野の経営時に、銅の需要が高まったのは何の戦争が影響していたの?", "id": "de-037-05-000", "answers": [ { "text": "日清戦争", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "赤沢銅山の鉱区拡大に対して反対運動を起こしたのは誰ですか?", "id": "de-037-05-001", "answers": [ { "text": "地域住民", "answer_start": 130, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "このような地元の激しい反対運動に直面した高橋と城野は、1898年(明治31年)7月、坑内からの排水と選鉱物から出される排水を、新たに建設する鉱毒予防施設によって処理することと、飲料水についても鉱害による被害が認められる場合、井戸を新たに掘るという計画を東京鉱山監督署に上申した。\n再び照会を受けた日立村では、高橋と城野の提案に加えて、宮田川を飲料水に用いている住民のために各所に井戸を掘ることと、水田に被害が発生した場合、水田の所有者に対して賠償を行うことを条件に増区を認めるとの意見書を答申し、1899年(明治32年)4月、ようやく増区は認められることになった。\nしかし高橋と城野は、鉱害対策費など鉱山経営を継続するために必要とされる資金調達に失敗し、1900年(明治33年)、横浜の貿易商であるボイエス商会に鉱業権を譲渡することになる。", "qas": [ { "question": "赤沢銅山の鉱区拡大が認められたのはいつ?", "id": "de-037-06-000", "answers": [ { "text": "1899年", "answer_start": 248, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "高橋と城野は鉱業権をどの組織に渡しましたか?", "id": "de-037-06-001", "answers": [ { "text": "ボイエス商会", "answer_start": 349, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ボイエス商会が赤沢銅山の鉱業権を握ったのはいつですか?", "id": "de-037-06-002", "answers": [ { "text": "1900年", "answer_start": 327, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ボイエス商会は「赤沢鉱業合資会社」を設立し、赤沢銅山の開発を積極的に進めた。\nその結果赤沢銅山の銅生産量は大きく伸び、鉱山の発展が見られるようになった。\n鉱山の拡大はまた鉱毒水の被害拡大をもたらすことになった。\n1904年(明治37年)5月の地元新聞には、鉱毒水によって水田の被害や川水が飲めなくなるといった被害が年々拡大を続けており、地元住民は被害防止のために奔走しているといった記事が掲載された。\n実際、1903年(明治36年)11月には鉱山監督署から鉱毒予防命令が出されていたが、1904年(明治37年)7月には、ボイエス商会から大橋真六、松村清吉らに赤沢銅山の経営権が移ったことと、鉱毒予防施設の設計に不備があるとの理由によって、再度の予防命令が出されることになった。\n1899年(明治32年)に高橋元長と城野琢磨が建設を約束した鉱毒予防施設がこの時点になっても建設されていなかった。", "qas": [ { "question": "ボイエス商会によって赤沢銅山の銅生産量は増大したが、それに伴って拡大したものは何ですか?", "id": "de-037-07-000", "answers": [ { "text": "鉱毒水の被害", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1904年の時点において未建設だったものは何ですか?", "id": "de-037-07-001", "answers": [ { "text": "鉱毒予防施設", "answer_start": 369, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ボイエス商会は何を設立して赤沢銅山の開発を進行させましたか?", "id": "de-037-07-002", "answers": [ { "text": "「赤沢鉱業合資会社」", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "鉱毒水問題と並んで地域住民と赤沢鉱業合資会社との対立を招いたのが宮田川上流の立木伐採問題であった。\n宮田川上流の立木については早くも明治初年の副田欣一の経営下で鉱山の規模拡大と銅精練などのための薪炭用として伐採を申請したが、水源地の森林を保全する必要があるとして申請を却下された経緯があった。\n1903年(明治36年)12月、赤沢鉱業合資会社は宮田川上流部森林の事業権を取得し、立木の伐採を開始した。\n赤沢銅山によって水源地の森林が伐採されていることを知った地域住民は、鉱毒水問題とともに立木伐採反対運動を起こすことになった。", "qas": [ { "question": "鉱毒水問題と並行して、地域住民と赤沢鉱業合資会社が対立した新たな問題は何でしたか?", "id": "de-037-08-000", "answers": [ { "text": "立木伐採問題", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "立木伐採問題では、どの地域の森林が伐採されていたのですか?", "id": "de-037-08-001", "answers": [ { "text": "宮田川上流", "answer_start": 32, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1904年(明治37年)7月、地域住民は赤沢銅山の事務所に押しかけ、立木伐採の中止と鉱毒予防施設の建設終了まで鉱山の操業停止を要求した。\n赤沢鉱業はこれらの要求を拒否したため、地域住民は「鉱毒除害立木禁伐請願期成同盟会」を組織し、農商務大臣や内務大臣、鉱山監督署長、そして東京大林区署などに陳情を行った。\n鉱山の操業停止についての訴えが通ることはなかったが、鉱毒予防施設の建設については地域住民の運動開始後に建設が急がれ、1905年1月に完成した。\nしかし鉱毒予防施設は実際の鉱毒予防にはほとんど役立たなかった。", "qas": [ { "question": "鉱毒予防施設が完成したのはいつでしたか?", "id": "de-037-09-000", "answers": [ { "text": "1905年1月", "answer_start": 211, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方、立木伐採問題に関しては赤沢鉱業側が鉱山の経営規模拡大のために新たに国有林の払い下げ願いを提出し、対立が更に激化した。\n地域住民は該当山林を水源涵養のために保安林編入を申請し、1905年(明治38年)12月、茨城県庁に設置された森林会は該当山林を「水源涵養の地」であると認め、保安林設置申請を許可した。\n鉱害問題と立木伐採問題で地域住民との激しい対立を招いた赤沢鉱業は、鉱石の銅品位の低下や鉱毒予防施設の建設などで収支が悪化しており、経営者である大橋真六、松村清吉らは経営意欲を失っていった。\nそのような中、赤沢銅山に可能性を見い出した久原房之助によって買収されることになった。", "qas": [ { "question": "鉱害問題と立木伐採問題を抱えていた赤沢銅山を買収した男は誰?", "id": "de-037-10-000", "answers": [ { "text": "久原房之助", "answer_start": 270, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1905年(明治38年)12月、久原房之助は赤沢銅山を買収し、同年、日立鉱山と改名した。\n日立鉱山は創業当初は様々な困難にぶつかり粗鉱産出量も伸び悩んだが、1907年(明治40年)頃からは次々と有望な新鉱床が発見され、新しい技術の積極的な導入もあって粗鉱産出量は急速に伸びていった。\nしかし産出量の急速な増加にもかかわらず鉱毒水への対策は十分ではなく、1906年(明治39年)頃の状況は、粉鉱は野積み状態で放置され、廃石に至っては宮田川の渓谷に投棄していて、野積みの粉鉱や渓谷に投棄された廃石から重金属など鉱害の原因となる物質が宮田川に流出した。\nそのため鉱山の規模が拡大を開始する1907年(明治40年)には、宮田川沿いの宮田地区では鉱毒水のために苗代が大きな被害を受け、約80パーセントもの水田が作付け不能に陥った。", "qas": [ { "question": "赤沢銅山は何という名前に改められましたか?", "id": "de-037-11-000", "answers": [ { "text": "日立鉱山", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鉱毒水被害により1907年では宮田地区の何パーセントの水田が作付け不能となりましたか?", "id": "de-037-11-001", "answers": [ { "text": "約80パーセント", "answer_start": 337, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1908年(明治41年)3月、地元選出の政友会の衆議院議員である根本正は、日立鉱山の鉱毒水問題に関する質問主意書を提出した。\nそして根本は質問主意書に基づき、帝国議会で農商務大臣と内務大臣に質問を行った。\n根本の質問主意書と帝国議会での質問内容からも宮田川流域で鉱毒被害が拡大している事実が明らかになるが、質問主意書に対する農商務大臣の答弁書から、日立鉱山側は一部の水田に宮田川以外の水源から水を引くための用水路を設け、また土地所有者に借地料を支払ったり損害を補償するなどの対策を講じていることが判明する。\n実際、日立鉱山での粗鉱産出量が増大する1907年(明治40年)には宮田川流域の農民に対して、鉱毒水問題に関しては金銭補償を行い、更に土地の売却を地主が望む場合には地価よりも高額で鉱山が買収する義務を負うかわりに、契約を結んだ土地の鉱害予防のために措置を講じる必要性がない旨を明記した契約を結んだ例があることが明らかになっている。\nまた土地の買収以外に日立鉱山が鉱毒水の被害に遭った土地を借りる形の契約も広く行っており、その結果鉱毒水の被害地である宮田川流域の多くの土地が日立鉱山によって買収ないしは借り上げがなされた。\n特に宮田地区では明治末までに6割を超える土地が占有されたと考えられている。", "qas": [ { "question": "日立鉱山の鉱毒水問題に関する質問主意書を提出した議員は誰ですか?", "id": "de-037-12-000", "answers": [ { "text": "根本正", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "収や借り上げによって日立鉱山に占有された土地は、鉱毒水の被害を受けていたこともあって当初、多くが荒地として放置されていた。\n耕作がなされなくなった荒地に1909年(明治42年)と翌1910年(明治43年)、コオロギが大量発生し、残存していた農地に大きな被害を与えた。\nこのときコオロギの駆除に要した費用は日立鉱山が負担した。\nまたこの頃になると鉱山の発展に伴って周辺地域から多くの農産物が鉱山にもたらされるようになっており、宮田川流域から生産される農産物の売れ行きに影響を与えるようになった。\nこれらの事態は宮田川流域の農民の営農意欲の更なる低下をもたらした。\n結局宮田川流域の農業は、病気に強い苗であるとの高い評価を受けるようになった杉苗など一部の例外を除き、衰退の一途を辿った。\nなお杉苗が高評価を受けるに至った理由としては、海辺に近い産地であったために苗の病気にかかりにくかったこと、後に触れる日立鉱山が設立した試験農場の苗木生産技術が活用されたこと、そして日立鉱山からの亜硫酸ガスなどの煙害が逆に杉苗の病気発生を防いだ可能性が指摘されている。", "qas": [ { "question": "1909年から2年連続で大量発生し、農地に多大な被害を与えたものとは何?", "id": "de-037-13-000", "answers": [ { "text": "コオロギ", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大量発生したコオロギ駆除の費用はどこから出ましたか?", "id": "de-037-13-001", "answers": [ { "text": "日立鉱山", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日立鉱山側に占有された宮田川流域の土地には、電練工場、芝内製作所(後の日立製作所山手工場)、日立鉱山専用電気鉄道や、鉱山病院、鉱山住宅、小学校など、鉱山や鉱山で働く労働者関連の施設が相次いで建設されていくことになる。\n日立鉱山の急速な発展によってそれら鉱山関連施設が宮田川流域に数多く立ち並ぶこととなった。\n一部の例外を除いて宮田川流域の農業が衰退し、鉱山関連の施設が立ち並ぶようになった結果、宮田川流域の鉱毒水問題は社会問題としては一定の解決がなされた。\nこれは日立鉱山の経営者となった久原房之助は、赤沢銅山時代の経営者とは比べものにならない資本力があり、多くの宮田川流域の土地占有が可能であったことと、何よりも日立鉱山がある宮田川最上流部から河口まで約8キロしかなく、鉱毒水の汚染地域が比較的狭い地域に限定されていたという地理的な好条件が大きかった。", "qas": [ { "question": "久原房之助と赤沢銅山時代の経営者たちとでは、どちらが資本力がありましたか?", "id": "de-037-14-000", "answers": [ { "text": "久原房之助", "answer_start": 244, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日立製作所山手工場の元々の名前は何でしたか?", "id": "de-037-14-001", "answers": [ { "text": "芝内製作所", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日立鉱山からの鉱毒水は宮田川河口付近の海の汚染を発生させ、漁業に被害を与えた。\n日立沿岸では20世紀初頭にはカツオ、アワビなどの漁業が盛んに行われていたが、日立鉱山の発展に伴い1910年頃から鉱毒水によって磯焼けが発生し、アワビの不漁が続くようになった。\n漁業関係者は日立鉱山と茨城県に調査を要請し、1914年(大正3年)には日立鉱山側と漁業組合との間に補償交渉が妥結した。\nその後も戦後まで日立鉱山側から地元漁業関係者への補償は継続された。", "qas": [ { "question": "農業の他に鉱毒水によって被害を受けた産業は何ですか?", "id": "de-037-15-000", "answers": [ { "text": "漁業", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日立沿岸でのアワビの不漁が続くようになったのはいつ頃からですか?", "id": "de-037-15-001", "answers": [ { "text": "1910年頃", "answer_start": 88, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日立鉱山側から地元漁業関係者への補償はいつから始まりましたか?", "id": "de-037-15-002", "answers": [ { "text": "1914年", "answer_start": 150, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日立鉱山から発生した鉱害問題で、最も大きな被害をもたらしたのは鉱石の精錬に伴い排出される排煙によって発生した煙害であった。\nまだ赤沢銅山時代であった1904年(明治37年)7月に行われた地元住民の鉱山操業停止要求に伴う陳情書の中に煙害についても触れられており、鉱山周辺では当時から煙害が発生していたことがわかるが、煙害問題が深刻な問題となるのは1905年(明治38年)の日立鉱山創業以降、鉱山が急速に発展するようになってからである。\n特に鉱山の中心地に近い中里村入四間村では1906年(明治39年)に煙害が発生し、鉱山の発展に伴いその被害は深刻さを増すようになった。", "qas": [ { "question": "煙害問題がより一層深刻化したのは何年以降になりますか?", "id": "de-037-16-000", "answers": [ { "text": "1905年", "answer_start": 172, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日立鉱山から発生した鉱害問題で、周辺に最大の被害を与えたのは何でしたか?", "id": "de-037-16-001", "answers": [ { "text": "煙害", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1908年(明治41年)11月には、手狭となった鉱山中心部である本山から大雄院へ精錬所が移転されたことに伴い、日立鉱山で産出された鉱石ばかりではなく、日本各地から購入した鉱石を精錬する買鉱を積極的に推進することとなり、生産量は飛躍的に伸びていった。\nその結果煙害もまた急速に拡大し、被害の内容も深刻化した。\n制限溶鉱と大煙突の建設による被害の軽減がみられるようになった1915年(大正4年)直前には煙害は茨城県北部の広い範囲、当時の4町30ヵ村にまで拡大した。\n1909年(明治42年)1月、日立鉱山は煙害など鉱害問題に対応する地所係を創設した。\n地所係では煙害などの被害調査、補償交渉の他に、農業・林業における煙害を研究するための農事試験場を設置し、また気象観測を行って煙害被害の軽減に努めた。\n更に植林・砂防そして被害地域の農林業振興の支援という活動も行うなど、幅広く日立鉱山の鉱害被害軽減を目指す業務をこなした。\nそして日立鉱山は煙害による被害を蒙った地域に対して、学校新設や増築、道路や橋脚の補修、青年団への寄付などを積極的に行った。\n鉱山事業以外でも、鉱山でまかなう電力を発電するために建設した石岡第一発電所、石岡第二発電所で発電された電力の一部を地域で使用できるように、日立電気株式会社を設立して1914年(大正3年)5月に送電を開始し、日立鉱山の病院も伝染病対策など地域医療に携わるなど、鉱山当局は地域との融和に努めた。", "qas": [ { "question": "鉱害問題の対応をし、煙害被害の軽減にも努めた部署の名前は何?", "id": "de-037-17-000", "answers": [ { "text": "地所係", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日立鉱山が設立した電気会社の名称は何?", "id": "de-037-17-001", "answers": [ { "text": "日立電気株式会社", "answer_start": 541, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "日立鉱山の煙害問題の特徴としては、加害者である日立鉱山側が煙害発生の原因は精錬所の排煙に含まれる亜硫酸ガスなどの有害物質によるものであるとの責任を認め、被害者とのトラブルは頻発したものの、基本的には被害者との交渉を通し、煙害に対する損害賠償を行い平和的な手段で問題を解決していったことにある。\nまた甚大な被害にもかかわらず暴動も発生せず平和的な問題解決が行われた原因としては、日立鉱山側が比較的丁寧な対応を行ったことともに、最も被害が甚大であった入四間村が煙害問題の交渉責任者であった関右馬允(せきうまのじょう)を主として、第三者の介入や政治問題化を避け、日立鉱山側と被害者との直接交渉を通して問題解決に徹したことが大きかった。\nしかし鉱山側の被害補償の姿勢は入四間村など鉱山近隣には手厚く、鉱山から離れた場所については放任に近い面も見られた。\n経営者である久原房之助が唱える「一山一家」という経営家族主義を基本とする日立鉱山が鉱山の近隣を重視する考え方を取っていたため、このようなことになったと考えられる。", "qas": [ { "question": "煙害発生の原因となる主な有害物質は何?", "id": "de-037-18-000", "answers": [ { "text": "亜硫酸ガス", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日立鉱山側が被害者との問題解決に徹する上で、重視していた手段とは何ですか?", "id": "de-037-18-001", "answers": [ { "text": "直接交渉", "answer_start": 289, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "久原房之助が提唱していた経営家族主義を簡潔に言うとどうなりますか?", "id": "de-037-18-002", "answers": [ { "text": "「一山一家」", "answer_start": 388, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "入四間村での煙害問題の交渉責任者は誰が務めていましたか?", "id": "de-037-18-003", "answers": [ { "text": "関右馬允", "answer_start": 242, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "入四間村では1907年(明治40年)5月、日立鉱山と第一回目の煙害に関する交渉が行われた。\n当時、足尾銅山の鉱毒問題が社会問題化しており、鉱害に対する世論の高まりもあって、被害を蒙った入四間村では強硬な意見が噴出し、鉱山事務所や県庁へ押しかけようとの動きもあったが、結局日立鉱山側が補償金の支払いを行うことで交渉は妥結し、同年の8月と12月に補償金が支払われた。\nまた日立鉱山からの煙害を受けた他の地区でも、ほぼ同じ頃から被害に対する補償を日立鉱山側から受けるようになったと考えられる。", "qas": [ { "question": "日立鉱山と入四間村の第一回目の煙害に関する交渉が行われた後に、最初に補償金が支払われたのは何月ですか?", "id": "de-037-19-000", "answers": [ { "text": "8月", "answer_start": 164, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1907年当時に、日立鉱山以外で鉱毒問題が深刻化していた鉱山はどこですか?", "id": "de-037-19-001", "answers": [ { "text": "足尾銅山", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "日立鉱山の発展に伴い煙害は激化の一途を辿った。\n1911年(明治44年)には入四間村住民は日立鉱山側と煙害問題の交渉を担う「煙害交渉委員会」を設置した。\n委員長には当時23歳の関右馬允が選ばれ、関はその後鉱山側との補償交渉など、煙害問題解決のために尽力をする。\n関の問題解決の方針は、当時大きな社会問題となっていた足尾銅山の鉱毒問題とは異なり、日立鉱山側に操業停止は求めず被害の損害賠償を要求すること、日立鉱山と被害者農民との直接交渉で問題解決を図り第三者の介入や政治的解決を行わないといったものであった。\nこの関の方針は日立鉱山側の、交渉で問題解決を進める方針と合致し、日立鉱山側と被害者と共同で被害状況の確認を進めて補償問題解決を図り、また日立鉱山側から煙害問題軽減のための農業技術指導を受けるなど、煙害問題の平和的解決が進められることになった。\nこの結果、被害者側加害者側双方が納得する煙害被害の損害賠償が決定されることになり、また農業技術指導は農作物の煙害軽減に役立った上に入四間村の農業技術向上に寄与することにも繋がった。", "qas": [ { "question": "「煙害交渉委員会」の委員長は誰が務めたの?", "id": "de-037-20-000", "answers": [ { "text": "関右馬允", "answer_start": 88, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "関の問題解決の方針と日立鉱山側の問題解決の方針では、どういった手段をとる点が合致していたの?", "id": "de-037-20-001", "answers": [ { "text": "交渉", "answer_start": 268, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "入四間村は日立鉱山に近く煙害が最も激しかった地域であったが、日立鉱山側と被害者側との間でおおむね円満な問題解決が図られたため、甚大な被害にもかかわらず比較的平穏であった。\nこのため現在の常陸太田市周辺の2町16村で組織された連合煙害調査会は、激甚被害地である入四間村を加入させることによって運動の活発化を図ることをもくろみ、再三調査会への加入の勧誘がなされたが、入四間村では勧誘を拒絶し鉱山側との独自の交渉を継続した。\n入四間村での冷静な対応による煙害問題解決の成果はやがて近隣被害地にも影響を及ぼし、煙害問題の交渉による平和的解決は次第に被害地全体に広まっていった。", "qas": [ { "question": "連合煙害調査会からの勧誘を断り続けた村はどこですか?", "id": "de-037-21-000", "answers": [ { "text": "入四間村", "answer_start": 129, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "交渉による問題解決の方針が、被害者である入四間村住民と加害者の日立鉱山側との間で共有されていたとしても、鉱山に近接し甚大な煙害被害地である入四間村と日立鉱山側との間に全く緊張関係がなかったわけではない。\n1912年(明治45年)の7月半ばの激しい煙害では、憤激した入四間村住民は抗議のために日立鉱山事務所に押しかける寸前の事態が発生した。\nまた鉱山の発展に伴い鉱石の精練量も増加しており、様々な対策にもかかわらず煙害は激化し続け、入四間村など鉱山近隣では田畑のみならず山林も甚大な被害を受けてはげ山状態となってしまった。\n当時の農家は山林から入手する堆肥を主に肥料として使用していたため、煙害による田畑の直接的被害の上に山林の煙害によって肥料入手も困難となり、まさにダブルパンチを受けることになった。\n農業継続が困難に追い込まれた入四間村側では他地への集団移転を日立鉱山側に要求したが、入四間村が希望した近隣での移転先は見つからず、鉱山側からは那須野への集団移転を提案された。\nこれには入四間村住民の間で賛否両論が出され話はまとまらなかった。\n結局1915年(大正4年)3月1日の大煙突の完成によって鉱山近隣である入四間村の煙害は減少し、煙害問題は軽減されることになった。\n大煙突完成後、煙害は軽減したが気象状況の影響で発生することもあった。\n入四間村では継続して煙害被害の補償金を鉱山側から受け取るとともに、煙害交渉委員会の委員長である関は、はげ山と化した山林復興のために鉱山側に苗木の無償交付を要求し、これを認めた日立鉱山側は入四間村に約17万本の苗木を無償供与した。", "qas": [ { "question": "大正4年3月1日に煙害問題を軽減させるものが完成したが、それは何?", "id": "de-037-22-000", "answers": [ { "text": "大煙突", "answer_start": 490, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "農作物への煙害の中でもとりわけ問題となったのが、茨城県北部で広く栽培され「水府タバコ」と呼ばれ特産品となっていたタバコへの被害であった。\nタバコは作物の中でも煙害に弱かったが、日立鉱山近隣でのタバコの栽培面積は狭く、被害発生当初は大きな問題とはならなかった。\nしかし鉱山の発展に伴い煙害が拡大する中、茨城県北部一帯に甚大な被害を与えるようになり、タバコは単一の農作物としては最大の煙害被害補償額を費やした。\n水府煙草生産同業組合は太田町周辺の2町16村で組織された連合煙害調査会とともに煙害被害糾弾の急先鋒となり、1913年(大正2年)7月には日立鉱山側に対して「早急に煙害防止工事を実施するかタバコ生育期間である5月から9月にかけての精練を中止をするよう」などといった要求を行うに至った。\nその後も被害の目立った軽減が見られないため、水府煙草生産同業組合は他地域の組合への応援要請を行い、日立鉱山幹部への直談判、更には知事、専売局長を通じて大蔵大臣そして農商務大臣への陳情を計画した。\nまたタバコは当時の国税の中で大きなウエイトを占めていたため、日立鉱山の排煙によるタバコの被害は大きな問題とされ、1912年(大正元年)9月には水戸専売支局長から日立鉱山の煙害問題に関して遺憾の意が表明されるに至った。", "qas": [ { "question": "煙害被害補償額が最大であった単一の農作物とは何?", "id": "de-037-23-000", "answers": [ { "text": "タバコ", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "茨城県北部で広く栽培された特産品のタバコとは?", "id": "de-037-23-001", "answers": [ { "text": "「水府タバコ」", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1912年当時の国税の内訳で大部分を占めていた製品とは何?", "id": "de-037-23-002", "answers": [ { "text": "タバコ", "answer_start": 446, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "煙害の激化に伴う損害賠償額の増大は日立鉱山の経営に影響を及ぼすようになった。\n1914年(大正3年)には総額約24万円の補償金を支払い、これは鉱山の銅売上高の3.3パーセントとなった。\nまた鉱山周囲の環境の悪化も顕著であった。\nまず鉱山周辺の山林は完全なはげ山と化して土砂の崩落や山火事が頻発するようになり、鉱山本体の操業にも悪影響をもたらすようになっていた。\nそして激しい煙害は精錬所で働く労働者やその家族たちも直撃した。\n特に政府からの命令煙突(別名阿呆煙突)の使用開始後、気象状況によってはたちこめる排煙のために精錬所の操業が不能になる事態が発生し、日立鉱山で働く労働者たちが住む鉱山住宅からも苦情が出るようになり、また小学校からも生徒たちの健康に悪影響が現れているとして煙害対策を求められた。", "qas": [ { "question": "1914年に支払われた補償金の総額は、鉱山の銅売上高の何パーセントに等しかったですか?", "id": "de-037-24-000", "answers": [ { "text": "3.3パーセント", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "サフランの取引と利用", "paragraphs": [ { "context": "サフランは、3千年以上もの間、調味料、香料、染料、医薬として使われ続けてきた。\nこの記事では、そうした、サフランの取引と利用(サフランのとりひきとりよう)について解説する。\n香辛料のサフランは、サフランの柱頭(めしべの先端)から得られ、1グラムあたりでは最も高価な香辛料の1つである。\nめしべを乾燥した糸状のものには苦味があり、干草に似た香りがする。\nサフランは西南アジア原産であるが、最初に本格的に栽培されたのはギリシャである。\nサフランの最大生産国はイランであり、世界の総収穫量の半分を占める。\n古代でも現代でも、飲食用に使われる場合がほとんどである。\nこの習慣は、アフリカ、アジア、ヨーロッパへと広がっていった。\n南北アメリカでは焼き物、カレー、酒に使われた。\n古代には、サフランは医薬として、胃腸薬、ペスト、天然痘などに幅広く使われた。\n近代の臨床試験では、抗がん剤、老化防止にも効果がある可能性が示されている。\nまた、サフランは織物などの染色にも使われた。\nその色は、多くの場合、宗教的や階級的に重要であるとされてきた。", "qas": [ { "question": "サフランはどこの部分から採取することが出来るの?", "id": "de-038-00-000", "answers": [ { "text": "柱頭", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サフランの栽培が最も早く開始された国はどこ?", "id": "de-038-00-001", "answers": [ { "text": "ギリシャ", "answer_start": 207, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "古代から現代までほぼ変わらず、サフランは何用として使用されている事が多いの?", "id": "de-038-00-002", "answers": [ { "text": "飲食用", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サフランのめしべを乾燥させ、糸状にしたものはどんな味がするの?", "id": "de-038-00-003", "answers": [ { "text": "苦味", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "サフランの栽培は、地中海南西部からカシミール、中国までのユーラシア大陸南部地帯で幅広く行われた。\n特にイラン、スペイン、インド、ギリシャが世界への供給源となった。\nアメリカ大陸では、ペンシルベニア州のシュヴェンクフェルト派の教会で栽培が始められた。\n近年では、ニュージーランド、オーストラリアタスマニア州、アメリカ合衆国カリフォルニア州でも栽培されている。", "qas": [ { "question": "アメリカ大陸でサフランの栽培が始まったのはどこの州からなの?", "id": "de-038-01-000", "answers": [ { "text": "ペンシルベニア州", "answer_start": 91, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "近年、サフランを栽培しているのはアメリカ合衆国、オーストラリア以外でどこの国があるの?", "id": "de-038-01-001", "answers": [ { "text": "ニュージーランド", "answer_start": 130, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "サフランは、西は地中海から東はカシミールまでの広いベルト地帯で生産されている。\nその他の地域でも、南極大陸以外ではある程度生産されている。\n世界の年間生産高は、糸状・粉状を合わせて約3百トンである。\nこの内、最高級とされる「クーペ(coupe)」の生産高は、1991年実績で50トンである。\nイラン、スペイン、インド、ギリシャ、アゼルバイジャン、モロッコ、イタリアの順に生産量が多く、イランとスペインだけで世界生産量の80%を占める。\nその他、オーストリア、イギリス、ドイツ、スイスなど中北部ヨーロッパでも生産されている。\nこの内、スイスヴァレー州のムント村では、年間数キログラムしか収穫が無い。\nこのような極少量生産は、タスマニア(オーストラリア)、中国、エジプト、フランス、イスラエル、メキシコ、ニュージーランド、トルコ(特にサフランにちなんで名付けられたサフランボル)、カリフォルニア(アメリカ合衆国)、そしてイラン系アメリカ人によるアフリカ中部でも行われている。", "qas": [ { "question": "サフランの栽培が全くされていない地域はどこ?", "id": "de-038-02-000", "answers": [ { "text": "南極大陸", "answer_start": 49, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サフランの生産量の半分以上を占めている2つの国は、イランとどこ?", "id": "de-038-02-001", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 150, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "サフランの世界生産量第3位となる国はどこ?", "id": "de-038-02-002", "answers": [ { "text": "インド", "answer_start": 155, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "サフランが高価なのは、多数の柱頭を手で摘み取るときに、熟練を必要とするからである。\nサフランの柱頭にだけ、あの独特の香りと味がある。\nその上、それを商取引するには、ある程度の量を確保しなければならない。\n1ポンド(0.45kg)の乾燥サフランを取るには、約5万本の花が必要で、その耕作面積はサッカーのフィールドと同じ位の面積(約60m角)が必要である。\n7万5千本が必要とする資料もある。\nこれは、サフランの品種によって、柱頭の大きさが異なるためもある。\nしかも、収穫は、サフランの花が満開となる一時期に行わなければならない。\n1kgの乾燥サフランを得るには約40時間が必要であり、そのため収穫期には驚異的な忙しさとなる。\n例えばカシミールでは、何千もの農作業者が1週間から2週間の間、昼夜を通したシフト勤務で収穫を行う。", "qas": [ { "question": "サフランの独特の香りと味はどの部分以外無いのですか?", "id": "de-038-03-000", "answers": [ { "text": "柱頭", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サフランの花が満開の時に行われる収穫作業は、カシミールの地方ではどれくらいの期間を要するの?", "id": "de-038-03-001", "answers": [ { "text": "1週間から2週間の間", "answer_start": 332, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サフランの品種によって柱頭の大きさが異なるため、ある資料では1ポンド(0.45kg)の乾燥サフランを取るのに何本のサフランが必要とされているの?", "id": "de-038-03-002", "answers": [ { "text": "7万5千本", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "採取した柱頭は、すぐに乾燥が必要であり、それを怠ると売り物にならなくなる。\n伝統的な乾燥方法では、細かい網の目の上に広げ、炭か木で加熱した30°Cから35°Cのオーブンの中に10時間から12時間入れる。\n乾燥後は、ガラス容器に密閉する。\n通常のサフランは、おしべとめしべを混ぜたものである。\nおしべには香辛料の効果がなく、着色料の役割を果たす。\n色は黄色というよりも、赤かオレンジに近い。\n比較的低級のサフランでも500米ドル/ポンド(1100ドル/kg)であり、西洋では1000米ドル/ポンドである。\n小売価格はその10倍になる。\nもっとも、どの用途でも必要な量は少しである。\n医薬として使われる場合は数グラム、料理に使う場合には糸数本分である。\n1ポンドあたりの糸数は、およそ7万から20万である。", "qas": [ { "question": "立派な売り物とするためにサフランの柱頭を採取した後、即時に行わないといけないことは何?", "id": "de-038-04-000", "answers": [ { "text": "乾燥", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "香辛料の効果がないのはおしべとめしべのどちら?", "id": "de-038-04-001", "answers": [ { "text": "おしべ", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サフランの伝統的な乾燥方法では、最大何時間オーブンの中に入れますか?", "id": "de-038-04-002", "answers": [ { "text": "12時間", "answer_start": 93, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サフランの伝統的な乾燥方法に使用するオーブンの最高温度は何°Cですか?", "id": "de-038-04-003", "answers": [ { "text": "35°C", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "良質のサフランを入手するには、熟練が必要である。\n糸が鮮やかな真紅をしており、わずかな潤いがあり、弾力があるものが上質である。\n逆に商人から敬遠されるのは、赤レンガ色をしているもの(古い)、ビンの底に粉があるもの(古く乾いて脆くなっている)である。\nこのようなものは端境期の6月に多く出回る。\n小売業者が前年のものを売り切ろうとするからである。\nそのため、信頼できる卸業者は、必要な量だけ買うように勧める。\n端境期が年の途中にあるため、信頼できる卸業者・小売業者が取り扱うサフランには、「2002/2003」のように2年分の年が記入されている。\nこの例は、2002年後半の収穫であることを意味する。", "qas": [ { "question": "サフランの商人が好まない古いサフランとは何色をしているの?", "id": "de-038-05-000", "answers": [ { "text": "赤レンガ色", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "古いサフランが市場に出回るのは何月のころ?", "id": "de-038-05-001", "answers": [ { "text": "6月", "answer_start": 137, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「2002/2003」の表示の意味は?", "id": "de-038-05-002", "answers": [ { "text": "2002年後半の収穫", "answer_start": 278, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小売業者が前年のものを売り切ろうとする時期はサフランのどういう時期といえるか?", "id": "de-038-05-003", "answers": [ { "text": "端境期", "answer_start": 133, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "サフランが料理に使われるのは、インド、アラブ、中央アジア、ヨーロッパ、モロッコなどである。(ポルトガル料理、モロッコ料理、キューバ料理、メキシコ料理などを参照。)\nその香りは調理師や料理評論家によって、ハチミツ、芝生、干草、金属などに例えられている。\n味は干草に例えられることが多いが、基本的には苦い。\n色は、黄かオレンジの蛍光色であり、同時に使われる食材もその色に染まる。\nこれらの特徴を生かすため、焼き物、チーズ、菓子類、カレー、酒、肉料理、スープなどに入れられる。\nインド、イラン、スペインなどでは、米料理によく使われる。", "qas": [ { "question": "サフランの味は基本的にどんな味なの?", "id": "de-038-06-000", "answers": [ { "text": "苦い", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "インド、イラン、スペインではサフランは何料理に多く用いられるの?", "id": "de-038-06-001", "answers": [ { "text": "米料理", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サフランの味は何に似ていると言われることが多いの?", "id": "de-038-06-002", "answers": [ { "text": "干草", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "スペイン料理には、サフランの風味を付けたサフランライスが使われることが多い。\n例えば、香辛料を加えた米とひき肉で作られたバレンシア風パエリア、魚のシチューであるサルスエラなどの料理が有名である。\nファバダ(アストゥリアス風白いんげん豆の煮込み)にも使われる。\nフランス料理ではブイヤベース(マルセイユの魚のシチュー)、イタリア料理ではミラノ風リゾット、スウェーデンのパンの一種ルセカッテ(サフランバン)、それを模倣したイングランドコーンウォールのrevelbunにもサフランが使われる。", "qas": [ { "question": "スウェーデンのサフランパンを真似したイングランドの食べ物は何?", "id": "de-038-07-000", "answers": [ { "text": "revelbun", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サフランが使用される料理ファバダに入る豆は何?", "id": "de-038-07-001", "answers": [ { "text": "白いんげん豆", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "イラン人は、国民的一皿であるチェロウ・ケバブにサフランを使う。\nウズベク人は結婚式に出されるプロフ(=ピラフ)にサフランを使う。\nモロッコ人は煮込料理タジンにサフランを使い、そのバリエーションにケフタ(kefta,トマトと肉団子)、ムクアリ(mqualli,シトロンとチキン)、ムロージア(mrouzia,プラムとアーモンドと子羊)がある。\nサフランはモロッコの混合香辛料チャラモーラの成分でもあり、さまざまなモロッコ料理の味付けに使われる。\nインド料理では米料理のビリヤーニー(Biryani)にサフランを使うこともある。\n例えばハイデラーバード・ビリヤーニーの一種パッキである。\nミルクを使ったデザートに使われることもある。\nその例として、グラブ・ジャムン、クルフィ、ダブルカミータ、サフランラッシーなどがある。", "qas": [ { "question": "チェロウ・ケバブにサフランを使って食すのは何人?", "id": "de-038-08-000", "answers": [ { "text": "イラン人", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サフランはモロッコでは何の混合香辛料の成分なの?", "id": "de-038-08-001", "answers": [ { "text": "チャラモーラ", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミルクを使用したデザートにサフランを使うのは何料理?", "id": "de-038-08-002", "answers": [ { "text": "インド料理", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "サフランは高価なため、料理ではベニバナ、ウコンを混ぜるか、あるいは完全に代用させることも多い。\n共にサフランと似た色になるが、味は全く異なる。\nサフランは、特にイタリアで、菓子や酒に使われる。\nシャルトリューズ、イザラ、ストレガは、サフランで色と香りを付けた酒である。\nサフランを調理済みの料理に加える場合には、料理に加える前に、砕いて、10分ほど水やシェリー酒に浸すとよい。\nすると、液にサフラン糸の色と味が抽出される。\nただし粉状のサフランはそのまま使ったほうが良い。\nその抽出液を、暖かく調理された皿に加える。\nそうすれば、焼いて調理した料理や、濃いソースをかけた料理にもサフランの色と香りをつけることができる。", "qas": [ { "question": "サフランと似た色にはなるが、味が全く異なる代用品はベニバナと何?", "id": "de-038-09-000", "answers": [ { "text": "ウコン", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ストレガはサフランを使用したどこの国のお酒?", "id": "de-038-09-001", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 80, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "悪性腫瘍に対するサフランの薬理学的効果は、invitro(試験管内)およびinvivo(生体内)での研究が発表されている。\nその研究によると、サフランは、各種悪性腫瘍(ドルトンのリンパ腫腹水(DLA)、エールリッヒ腹水癌(EAC)、S-180肉腫)を移植したマウスの寿命を伸ばした。\nマウスの体重1kgあたり200mgのサフランエキスを経口で投与した場合、投与しないマウスに比べて寿命が111.0%、83.5%、112.5%となった。(これは無投与マウスと有意差があるとは言えないことに注意。)\nまたサフランエキスは、培養されたDLA、EAC、P38B、S-180肉腫に対して細胞毒性を示す。\nこのように、サフランは新しい癌治療薬の開発につながるシード化合物としての可能性がある。", "qas": [ { "question": "悪性腫瘍に対するサフランの薬理学的効果を追求する実験では、サフランは悪性腫瘍を移植したマウスの寿命をどのようにした?", "id": "de-038-10-000", "answers": [ { "text": "寿命を伸ばした", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "近年の研究から、サフランは何の治療薬の開発に大きく貢献する可能性がある?", "id": "de-038-10-001", "answers": [ { "text": "癌治療薬", "answer_start": 311, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "傷の治療、制癌作用の他、酸化防止剤の役割も果たす。\n酸化防止剤はラジカルを中和するため、老化防止の効果も期待されている。\n例えば、サフランのメタノール抽出物は、高い比率でDPPHのラジカルを中和する。\nこれは、サフランに含まれるサフラナールとクロシンが活発にプロトン供与体として作用するためである。\n500および1000ppmの濃度で、ラジカルの50%、65%が無効化された。\nなおサフラナールの作用はクロシンよりも小さかった。\nこのような酸化防止特性により、医薬や化粧品、健康補助食品への応用が期待できる。\nただし、サフランは毒性も高い。\n煎じ薬として与える場合、毒性の指標であるLD50は20.7g/kgである。", "qas": [ { "question": "サフランは、医薬や化粧品、また健康補助食品への応用が期待できる反面どういった性質が高いの?", "id": "de-038-11-000", "answers": [ { "text": "毒性", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サフランは酸化防止剤の役割も果たすため、どういった効果が期待できますか?", "id": "de-038-11-001", "answers": [ { "text": "老化防止", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "サフランが高価であるにも関わらず、特に中国とインドではサフランを繊維の染料として用いた。\nその色は不安定であり、当初は鮮やかなオレンジあるいは黄色を見せるが、すぐに褪色して青白くあるいはクリーム色になる。\nサフランのおしべは、少量でも明るい黄色あるいはオレンジ色を呈する。\nサフランの量を増やすと、濃い赤の色相となる。\n伝統的に、サフランによる染色は、上位階級専用であった。\nヒンドゥー教、仏教の僧は、サフランで染色した朱と黄土色のローブをまとっていた。\n中世アイルランドやスコットランドでは、裕福な修道士がléineと呼ばれるサフランで染められた長い麻のシャツを着ていた。\n組織学では、顕微鏡観察用の細胞の染色に、ヘマトキシリン、フロキシン、サフランの混合物を利用したHPS染色法が使用される。", "qas": [ { "question": "サフランは褐色しなければどのような色を見せるの?", "id": "de-038-12-000", "answers": [ { "text": "オレンジあるいは黄色", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヒンドゥー教や仏教の僧、中世アイルランドやスコットランドでの裕福な修道士といった上位階級者がまとっていた衣類は何の染色によるものですか?", "id": "de-038-12-001", "answers": [ { "text": "サフラン", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サフランを繊維の染料として活用していた国はインドとどこ?", "id": "de-038-12-002", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "サフラン色を、安価な染料で呈色する試みもなされてきた。\nまず食品にはウコン、ベニバナなどが使われてきたが、サフランの明るい黄色がかった色を再現することはできなかった。\nその後、クチナシ属の一種で実にクロシンを含むものが見つかり、それをサフラン染料代替物として使用する研究が中国で行われている。\nヨーロッパでは、糸状サフランはアロマオイルの一種crocinum(サフラン油)の原料として欠かせないものであった。\ncrocinumはアルカネット(alkanet)、ドラゴンズブラッド、ワインなどから作られる。\ncrocinumは髪につける香水として使われた。\nまた、サフランとワインを混ぜた芳香剤がローマの劇場におびただしく使われた。", "qas": [ { "question": "crocinum(サフラン油)の原料として必須だったものは何?", "id": "de-038-13-000", "answers": [ { "text": "糸状サフラン", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ローマの劇場で使用されていた芳香剤はサフランと何を混合させて作られていたの?", "id": "de-038-13-001", "answers": [ { "text": "芳香剤", "answer_start": 293, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ブルゴーニュのブドウ畑のクリマ", "paragraphs": [ { "context": "ブルゴーニュのブドウ畑のクリマは、フランスの世界遺産の一つであり、ブルゴーニュワインの主産地に形成されたブドウ栽培地の文化的景観を対象としている。登録名にある「クリマ」(Climat)とは、ブルゴーニュのブドウ畑の小さな栽培区画を指しており、世界遺産には、1,247箇所のクリマだけでなく、ワイン流通の中心地であったボーヌ市街や、ブドウ栽培地の行政を司ってきたブルゴーニュ公国時代の首都ディジョンの歴史地区も含まれている。\n\nフランス語のClimatはギリシア語のklimaに由来し、その原義は「(赤道から極へ向かっての)大地の傾斜」だった。それが現在では、気候や風土を意味する語として使われている。また、古代ローマ時代にはclimaという単語が一定の面積の土地の単位を示す言葉として使われており、古フランス語のclimatも「60ピエ四方の土地の単位」で使われた。\n\nしかし、ブルゴーニュ地方ではそれらの意味合いから派生し、土地台帳に記載されたブドウ栽培地の小区画の意味で使われる。クリマには、土質やそこに見られる動植物の名前などに基づいて、それぞれ固有の名前がつけられており、しばしば石垣や生け垣などで仕切られている。そのごく細かい区画ごとの条件(日当たり、風、土壌など)が異なると、収穫できるブドウの品質が異なるとされ、地質学、土壌学、気候学などからも裏付けられている。そして隣同士であろうと、クリマが異なれば、そのワインの味わいも香りも違ったものになるのである。\n\n日本語では「銘柄畑」などの訳語をあてることもある。", "qas": [ { "question": "フランス語のClimatはギリシア語の何に由来しますか。", "id": "de-039-00-000", "answers": [ { "text": "klima", "answer_start": 232, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現在、気候や風土を意味するフランス語は何ですか。", "id": "de-039-00-001", "answers": [ { "text": "Climat", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ブルゴーニュ地方でのブドウ栽培は、西暦1世紀にまで遡る。当初は平原での栽培だったが、5世紀ないし6世紀頃には傾斜地での栽培が始まったと推測されている。\n\n中世を通じて、ブルゴーニュには多く修道院が建てられ、修道士たちがワイン栽培とその進歩の多くを担った。コート・ド・ニュイのニュイ=サン=ジョルジュにも、1098年にシトー会の修道院が建てられている。コート・ド・ニュイのヴージョにしても、周辺を開墾し、研究を重ねて模範的なブドウ園へと成長させたのは、シトー会修道士たちであった。\n\nさて、この地はかつてブルゴーニュ公国が栄えた地でもある。その最盛期は、同時にブルゴーニュワインの名声が高まった時期でもあった。1395年にフィリップ豪胆公は、当時ブルゴーニュで主に栽培されていた2種の赤ワイン用ブドウ品種のうち、質で優るピノ・ノワールのみを栽培させることとし、収量で優ろうとも質で落ちるとされたガメの栽培を禁じた。もっとも、後にはガメが盛り返し、19世紀にはガメがコート・ドールの栽培面積を85%以上を占めた時期もあったが、現代のコート・ドールで使われる赤ワイン品種はピノ・ノワールである。", "qas": [ { "question": "ブルゴーニュ地方でのブドウ栽培はいつから始まりましたか。", "id": "de-039-01-000", "answers": [ { "text": "西暦1世紀", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現代のコート・ドールで使われる赤ワイン品種は何ですか。", "id": "de-039-01-001", "answers": [ { "text": "ピノ・ノワール", "answer_start": 483, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "聖職者がブドウ栽培地の多くを保有する時代は、1789年のフランス革命によって終わりを告げた。それを契機に農民たちが細分化して保有する形になり、その土地は相続によって更に細分化されていった。現代ブルゴーニュのドメーヌの保有農地は、平均4haほどと言われる(世界遺産登録対象のうち、コート地区の場合は5haほど、従来評価が低かったオート・コート地区は10-15haほどだという)。こうした経緯ゆえ、しばしばブルゴーニュのワインの特徴は「一つのクリマを複数の生産者が細分して所有していること」だと言われている。フランスを代表するもうひとつのワイン産地ボルドーの場合、亡命貴族たちの帰還とともに元に戻ったとされており、現代においても、ボルドーのシャトーには、数十ヘクタールの農地を保有するものがある。", "qas": [ { "question": "フランス革命は何年にありましたか。", "id": "de-039-02-000", "answers": [ { "text": "1789年", "answer_start": 22, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ブルゴーニュにおけるブドウ栽培は、19世紀に2つの病虫害によって苦しめられた。最初のものはうどんこ病で、これは硫黄粉末を利用した駆除法によって切り抜けることが出来た。しかし、もうひとつのブドウネアブラムシは、フランス南西部・南部のブドウ栽培に壊滅的被害をもたらし、1878年から15年ほどは、フランス全体のワイン年間生産量がそれまでの半分以下に落ち込むほどであった。ブルゴーニュも例外ではなく、コート・ドールでは1816年の24,000haから1875年の33,745haへと拡大していたブドウ畑が、1929年までに12,112haへと激減した。この苦境は試行錯誤の末に、アメリカ産の台木に接木する手法で切り抜けることができ、その途上で収量の多いピノ種の開発や栽培方法の改良など、さらなる進歩も見られたのである。", "qas": [ { "question": "ブルゴーニュにおけるブドウ栽培は、19世紀にいくつの病虫害によって苦しめられたか。", "id": "de-039-03-000", "answers": [ { "text": "2つ", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブルゴーニュにおけるブドウ栽培は、19世紀に2つの病虫害によって苦しめられたが、その二つとはうどんこ病とまた何でしたか。", "id": "de-039-03-001", "answers": [ { "text": "ブドウネアブラムシ", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ヘンリー・キャヴェンディッシュ", "paragraphs": [ { "context": "ヘンリー・キャヴェンディッシュは、イギリスの化学者・物理学者である。貴族の家に生まれ育ち、ケンブリッジ大学で学んだ。寡黙で人間嫌いな性格であったことが知られている。遺産による豊富な資金を背景に研究に打ち込み、多くの成果を残した。\n\n金属と強酸の反応によって水素が発生することを見出した。電気火花を使った水素と酸素の反応により水が生成することを発見し、水が化合物であることを示した。この結果をフロギストン説に基づいて解釈している。\n\n彼の死後には、生前に発表されたもののほかに、未公開の実験記録がたくさん見つかっている。その中には、ジョン・ドルトンやジャック・シャルルによっても研究された気体の蒸気圧や熱膨張に関するものや、クーロンの法則およびオームの法則といった電気に関するものが含まれる。これらの結果はのちに同様の実験をした化学者にも高く評価された。(ただしこれらは、未公開であったがゆえに、科学界への影響はほとんどなかった。「もし生前に公開されていたら」と、ひどく惜しまれた。)\n\nハンフリー・デービーはキャヴェンディッシュの死に際し、彼をアイザック・ニュートンに比して評価した。19世紀には彼の遺稿や実験結果が出版され、彼の名を冠したキャヴェンディッシュ研究所が設立されている。", "qas": [ { "question": "ヘンリー・キャヴェンディッシュはどの大学で勉強したの?", "id": "de-040-00-000", "answers": [ { "text": "ケンブリッジ大学", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "電気火花を使った水素と酸素の反応により水が生成することを発見し、水が化合物であることを示した科学者は誰ですか。", "id": "de-040-00-001", "answers": [ { "text": "ヘンリー・キャヴェンディッシュ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハンフリー・デービーはヘンリー・キャヴェンディッシュと誰を比較して評価したか。", "id": "de-040-00-002", "answers": [ { "text": "アイザック・ニュートン", "answer_start": 472, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ヘンリーは他人とかかわるのを極度に嫌う性格であったため、生涯については分からない点が多い。しかし、家系については良く知られている。ヘンリーの祖先であるジョン・キャヴェンディッシュは1366年にエドワード三世により英国の首席裁判官に任命され、その息子はナイトの爵位を得た。そしてその後キャヴェンディッシュ家はデヴォンシャー公の称号を得た。ヘンリーの父親であるチャールズ・キャヴェンディッシュは第二代デヴォンシャー公ウィリアムの息子であり、物理関係の研究を行っていた。一方、ヘンリーの母親のアン・グレイはケント公の4女である。アンは病弱であったため、ヘンリーは英国内ではなく、療養先のニースでの出生となった。しかしアンは2年後、二男のフレデリックを産んだあとに死去した。\n\nヘンリーは1742年、当時貴族の子供の教育に定評のあったニューカム博士の学校に入学した。卒業後の1749年には、18歳でケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに入学した。大学では物理学と数学において優れた成績を収めていたが、そこでは学位をとることなく、1753年に退学した。退学の理由は明らかにされていないが、学位授与式における宗教上の問題を回避したためと推測されている。\n\n退学後、ロンドンに住む父親の住居で生活するようになった。1760年から王立協会会員となり、1766年以降、同会においていくつかの論文を発表した。", "qas": [ { "question": "ジョン・キャヴェンディッシュは1366年、何に任命されたの?", "id": "de-040-01-000", "answers": [ { "text": "英国の首席裁判官", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘンリーは何歳で大学生になったの?", "id": "de-040-01-001", "answers": [ { "text": "18歳", "answer_start": 391, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヘンリーは何年にケンブリッジ大学を退学したか。", "id": "de-040-01-002", "answers": [ { "text": "1753年", "answer_start": 460, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヘンリーが大学を退学したのは何にを避けるためだったと推測されていますか。", "id": "de-040-01-003", "answers": [ { "text": "学位授与式における宗教上の問題", "answer_start": 489, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヘンリーの父親は多くの財産を所有していたが、息子に生活費として与える金額は年間500ポンドに過ぎなかったので、ヘンリーはつつましい生活をしていた。ところが1783年に父親が死去すると、長男であるヘンリーには多額の遺産が入りこんだ。そのため以後は生活に不自由することなく研究に打ち込めるようになった。ジョルジュ・キュヴィエやジャン=バティスト・ビオによれば、父親の遺産を相続する前にも、インドで財をなした伯父から財産を相続したとされており、ビオによるとその金額は年間30万ポンドとされている。さらにトマス・トムソンは、伯母がキャヴェンディッシュに多くの財産を残したと述べている。そのためキャヴェンディッシュは父の生前から巨額の富をもっていたという証言もあるが、キャヴェンディッシュ家の系図にはその伯父や伯母に該当する人物を見つけ出すことはできないため、その真偽は定かではない。\n\n父親の死後、キャヴェンディッシュはモンタギュー広場とガウアー街の角にある屋敷に引っ越した。さらに資料を置くための別邸、および郊外のクラパムの別荘を所有した。別邸は図書館として一般にも開放した。またクラパムの別荘は、実験室と工作室として使用した。", "qas": [ { "question": "ヘンリーの父はいつ亡くなったか。", "id": "de-040-02-000", "answers": [ { "text": "1783年", "answer_start": 77, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ヘンリー・キャヴェンディッシュは寡黙であり、また大変な人間嫌いでほとんど誰とも言葉を交わすことがなかったといわれる。他人と会う機会は、王立協会の会合などに限られた。その会合では、彼の機嫌が良く、近くで他人が興味のある話をしている時は、話に加わることがあった。しかし彼に直接話しかけて、答えが返ってくることはほとんど無かった。それにもかかわらず、キャヴェンディッシュの深い知識と高い才能は周囲に広く知られていた。ハンフリー・デービーは「ニュートンの死以来、キャヴェンディッシュの死ほどイギリスが大きな損失を被ったことはない」と讃えている。とはいえ、王立協会の会合には毎週欠かさず出席し、50年間会員であり続け、27年間に渡って協会の評議員を務めている。\n\nまた、キャヴェンディッシュは女性を嫌い、会うことを極力避けた。女性の使用人に夕食の注文をするときも、メニューをノートに書き、ホールのテーブルの上に置いて知らせ、直接顔を合わせないよう心がけた。屋敷内で彼の前に姿を見せてしまったために解雇された使用人もいた。しかし一方では、暴れまわる牛に追われている婦人を、散歩中のキャヴェンディッシュが救ったというエピソードも伝えられている。", "qas": [ { "question": "ヘンリーの死のことをニュートンの死以来、イギリスの大きな損失だと述べたのは誰でしたか。", "id": "de-040-03-000", "answers": [ { "text": "ハンフリー・デービー", "answer_start": 205, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヘンリーは王立協会の評議員を何年間続けましたか。", "id": "de-040-03-001", "answers": [ { "text": "27年間", "answer_start": 304, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヘンリーは1766年の論文で、亜鉛・鉄・スズに硫酸あるいは塩酸を加えると、可燃性の気体が発生すると発表した。この気体こそが水素である。しかしキャヴェンディッシュはフロギストン説を支持していたため、この気体は金属から発生したフロギストンであると考えた。さらにキャヴェンディッシュはこの気体の性質を調べ、これは通常の空気と比べて11分の1の質量しかもたないと発表した。\n\nこの実験において、硫酸や塩酸の代わりに硝酸を使用しても気体が発生することを確かめた。しかしこの気体は可燃性をもたなかった。この結果については、金属から出たフロギストンが、硝酸と結合することで可燃性を失うからだと考えた。", "qas": [ { "question": "ヘンリーが亜鉛・鉄・スズに硫酸あるいは塩酸を加えると、可燃性の気体が発生すると発表したのは何年の論文ですか。", "id": "de-040-04-000", "answers": [ { "text": "1766年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "亜鉛・鉄・スズに硫酸あるいは塩酸を加えることで発生する可燃性の気体は何ですか。", "id": "de-040-04-001", "answers": [ { "text": "水素", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "水素と通常の空気と、どっちの方が質量が少ないか。", "id": "de-040-04-002", "answers": [ { "text": "水素", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ヘンリーは1797から1798年にかけて、いわゆる「キャヴェンディッシュの実験」を行い、地球の比重を測定し、その結果を1798年に発表した。後年の科学者は、この実験の結果と万有引力の法則から万有引力定数が算出できることに気付いた。キャヴェンディッシュ自身は万有引力定数を算出したわけではないが、今日ではこの実験は「地球の密度を測定した」というよりは「万有引力定数を測定した」と捉えられていることが多い。", "qas": [ { "question": "ヘンリーが1797から1798年にかけて行った実験は何でしたか。", "id": "de-040-05-000", "answers": [ { "text": "「キャヴェンディッシュの実験」", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「キャヴェンディッシュの実験」の結果はいつ発表されたか。", "id": "de-040-05-001", "answers": [ { "text": "1798年", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「キャヴェンディッシュの実」の結果と万有引力の法則から何を算出することができますか。", "id": "de-040-05-002", "answers": [ { "text": "万有引力定数", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヘンリーは存命中は王立協会の『フィロソフィカル・トランザクションズ』に18報の論文を発表したにすぎないが、未発表の原稿の中にはのちに日の目を見る優れた実験記録も残された。それらの論文の一部が初めて公表されたのは1839年のことだった。この年、英国科学振興協会会長のハーコートは、バーリントン伯爵が持っていた遺稿を読み、そのうちの化学や熱に関する論文の一部を「英国科学振興協会報告」の中で発表した。\n\nキャヴェンディッシュの遺稿はその後、バーリントン伯からウィリアム・スノー・ハリス卿に引き継がれた。ハリスはその中の電気の研究に関して、キャヴェンディッシュが同時代あるいは後世の科学者の発見を先取りしていたことに気付き驚いた。また、ウィリアム・トムソンもハリスを通じてその遺稿を読み、これらの原稿は非常に価値があると評し、完全な形での出版を望んだ。", "qas": [ { "question": "ヘンリーの未発表論文の一部が最初に公開されたのはいつなの?", "id": "de-040-06-000", "answers": [ { "text": "1839年", "answer_start": 105, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "キャヴェンディッシュの遺稿はバーリントン伯から誰に引き継がれた?", "id": "de-040-06-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム・スノー・ハリス卿", "answer_start": 227, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1867年、ハリスが死去し、原稿はごく一部が出版されたが、大部分はそのままデヴォンシャー公の元に戻った。デヴォンシャー公は1870年、自らの財産でケンブリッジに実験物理学の研究所を作る計画を立て、その研究所の教授をジェームズ・クラーク・マクスウェルに依頼した。マクスウェルはこれを受諾し、1871年に着任、1874年に研究所の建物が竣工すると、初代所長になった。この研究所はキャヴェンディッシュ研究所と命名された。このときデヴォンシャー公はマクスウェルに、キャヴェンディッシュの原稿を手渡した。\n\nマクスウェルはこの原稿を整理したうえで実験を再現し、1879年『ヘンリー・キャヴェンディシュ電気学論文集』として刊行した。キャヴェンディッシュの死から69年後に出された同書により、キャヴェンディッシュの電気に関する研究内容の全貌が初めて明らかになり、その研究の先進性が広く知られるようになった。", "qas": [ { "question": "キャヴェンディッシュ研究所はいつ竣工されましたか。", "id": "de-040-07-000", "answers": [ { "text": "1874年", "answer_start": 153, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "キャヴェンディッシュ研究所の初代所長は誰なの?", "id": "de-040-07-001", "answers": [ { "text": "マクスウェル", "answer_start": 130, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ヘンリー・キャヴェンディシュ電気学論文集』はいつ刊行されたの?", "id": "de-040-07-002", "answers": [ { "text": "1879年", "answer_start": 275, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1777年から1779年に、蒸気圧をさまざまな温度条件で測定した。この実験は1805年にドルトンによっても行われ、1830年代まではドルトンの測定値が一般に使われていた。しかしドルトンは高温では測定をしていなかったため、測定結果はキャヴェンディッシュのほうが正確だった。\n\nまた1779年から1780年に、いくつかの気体の熱膨張率を測定した。その結果、膨張率は気体の種類によらず、温度が華氏1度上昇するごとに体積が370分の1だけ膨張することを示した。これはシャルルの法則であり、1787年にシャルルによって発見され、ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックによって1802年に発表されたため、キャヴェンディッシュはそれとは独立に発見したことになる。", "qas": [ { "question": "シャルルの法則は何年に発見されたか。", "id": "de-040-08-000", "answers": [ { "text": "1787年", "answer_start": 240, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "コウイカ", "paragraphs": [ { "context": "コウイカSepiaesculenta(甲烏賊)は十腕形上目(イカ類)コウイカ目に属する頭足類の一種である。\n日本近海において最も普通のコウイカ類で、水産上重要である。\n他のコウイカ類と同様に外套膜に囲まれた胴体の背側に、石灰質の甲を持つ。", "qas": [ { "question": "コウイカを漢字で書くとどうなりますか?", "id": "de-041-00-000", "answers": [ { "text": "甲烏賊", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "越中ではカイカと呼ばれる。\nまた、ハリイカSepiamadokaiAdam,1939と混同され、本種もハリイカと呼ばれることがある。\n逆にハリイカS.madokaiの方はコウイカモドキとも呼ばれる。\nハリイカは胴の先端に硬い甲殻の針(棘)が突き出ているためだとされる。\nその他、スミイカ(墨烏賊)やマイカ(真烏賊)と呼ばれることも多い。\n「スミイカ」は墨袋(墨汁嚢)が発達しているためだとされる。\n「マイカ」は混称で、その地域の主流のイカを意味しており、地域によりスルメイカやケンサキイカ、シリヤケイカもこの名で呼ばれることがある。", "qas": [ { "question": "越中での呼び名は何ですか?", "id": "de-041-01-000", "answers": [ { "text": "カイカ", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種と間違われやすいイカとは何?", "id": "de-041-01-001", "answers": [ { "text": "ハリイカ", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハリイカの別名は何?", "id": "de-041-01-002", "answers": [ { "text": "コウイカモドキ", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "真烏賊の読み方は?", "id": "de-041-01-003", "answers": [ { "text": "マイカ", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "河野(1973)では、「コウイカ」を「胴の中に舟形をした骨があるイカの総称」とし、本種を「マイカ(真烏賊)」、別名に甲があるため「甲イカ」としている。\nまた、東京では大型のものをモンゴウ(紋甲)と呼び、関西ではホシイカ(星烏賊)というとある。\n現在は「モンゴウイカ」はカミナリイカやトラフコウイカ、また輸入されるヨーロッパコウイカの市場名だとされることが多い。\n「ホシイカ」は灰褐色の背面に白色斑点が散在しているためであるという。\nまた河野(1973)では「カミナリイカ」や「シリヤケ」、「シリクサリ」という地方もあるとするが、現在これらはカミナリイカSepialycidasGray,1849およびシリヤケイカSepiellajaponicaSasaki,1929と別種に当てられており、混同されている。", "qas": [ { "question": "「コウイカ」を「胴の中に舟形をした骨があるイカの総称」とした人は誰?", "id": "de-041-02-000", "answers": [ { "text": "河野", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "モンゴウの呼び名を使う地域はどこですか?", "id": "de-041-02-001", "answers": [ { "text": "東京", "answer_start": 79, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ホシイカの呼び名を使う地域はどこ?", "id": "de-041-02-002", "answers": [ { "text": "関西", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "トラフコウイカの市場名とされる名前は何?", "id": "de-041-02-003", "answers": [ { "text": "「モンゴウイカ」", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "十腕形上目(イカ類)は伝統的に、底生で甲を持つコウイカ類(底生で甲は退化するダンゴイカ類を分けることも多い)と遊泳性で石灰質の甲を持たないツツイカ類に二分され、そのうちの前者に属している。\nまた、コウイカ科はVoss(1977)、Khromovetal.(1998)、Youngetal.(1998)などに基づけば、甲の形状等の形態形質により3属に分けられ、うち最大のコウイカ属Sepiaに属している。\nコウイカ属はヨーロッパ近海に棲息しているヨーロッパコウイカSepiaofficinalisLinnaeus,1758をタイプ種とするが、最近の分子系統の結果ではヨーロッパコウイカは本種コウイカやトラフコウイカSepiapharaonisEhrenberg,1831といったアジアに産するコウイカ類とは近縁でなく、むしろシリヤケイカSepiellajaponicaSasaki,1929に近いことが判っており、属は系統を反映しておらず未整理である。", "qas": [ { "question": "コウイカ類とツツイカ類は何目に含まれているの?", "id": "de-041-03-000", "answers": [ { "text": "十腕形上目", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "コウイカ科の中で最も大きいものは何属ですか?", "id": "de-041-03-001", "answers": [ { "text": "コウイカ属", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヨーロッパコウイカに近い種類は何?", "id": "de-041-03-002", "answers": [ { "text": "シリヤケイカ", "answer_start": 361, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、歴史的にコウイカ属は複数の亜属や種群に分けられてきた。\nNaef(1923)は本種をタイプ種にPlatysepia属を設立したが、Khromovetal.(1998)はコウイカ属を6つの種群speciescomplexに分け、本種をその中のAcanthosepion種群に置いた。\n奥谷(1987;2015)やWoRMSでは、Platysepia亜属に置かれている。\nOrtmannはSepiahoyleyOrtmann,1888という種を設立したが、Sasaki(1929)によればこれは自身の所有している本種の若い標本と非常によく似ており、本種と同一種であると考えられる。", "qas": [ { "question": "コウイカ属を6つの種群に分けた人は誰?", "id": "de-041-04-000", "answers": [ { "text": "Khromovetal.", "answer_start": 68, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "Hoyle(1885),AnnalsandMagazineofNaturalHistory,5,16,p.188にて、SepiaesculentaHoyle,1885として記載された。\nタイプ産地は日本の横浜市場である。\nシンタイプがロンドン自然史博物館にあり、1個体の雄(1889.4.24.69、外套長160mm)と1個体の雌(1889.4.24.70、外套長143mm)である。", "qas": [ { "question": "1個体の外套長が大きいのは雄と雌のどちらですか?", "id": "de-041-05-000", "answers": [ { "text": "雄", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ハリイカは本種と混同され、市場名においてコウイカと呼ばれることがある。\nまた、甲はともに卵形で、同亜属のPlatysepiaに置かれることもある。\nしかし、本種はS.esculentaに比べハリイカS.madokaiは体長約8cmと小さいうえ、甲の内円錐がコウイカS.esculentaでは丸襟状に立つのに対し、この種S.madokaiでは逆V字型になり、横線面前縁はコウイカS.esculentaでは逆V字型なのに対し、この種S.madokaiでは逆U字型になる。", "qas": [ { "question": "ハリイカの体長はどれくらいですか?", "id": "de-041-06-000", "answers": [ { "text": "約8cm", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "シャムコウイカは本種と似ているが、本種S.esculentaは触腕掌部に10-16列の吸盤を持つのに対し、この種S.brevimanaはそれがより少ないこと、鰭基底に沿って肉質突起がないこと、また内円錐が色付くことにより区別される。", "qas": [ { "question": "吸盤の数が多いのはシャムコウイカと本種のどちらですか?", "id": "de-041-07-000", "answers": [ { "text": "本種", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ミナミハリイカも本種S.esculentaと混同されるが、以下の点で識別できる。\n本種S.esculentaの交接腕は6列の縮小した吸盤に続いて5から6列の普通のサイズの吸盤を持つのに対し、ミナミハリイカS.ellipticaでは基部に7から8列の普通サイズの吸盤、中間に7列の縮小した吸盤、そして腕末端に普通サイズの吸盤を持つ。\n交接腕の吸盤の背側の2列は腹側の縮小した吸盤よりも小さく、縮小した吸盤は普通の吸盤よりほんの僅かに小さいのみである。\n本種S.esculentaでは背側と腹側の保護膜は触腕掌部の基部と接続しないが、この種S.ellipticaでは背側と腹側の保護膜は触腕掌部の基部と接続する。\n本種S.esculentaでは甲の後方が鈍く丸まり、横線(striae)は逆V字型で内円錐側肢は後方で厚くなる。\nこの種S.ellipticaでは張り出しはより薄く平たく、前方は尖って、房錐の後端を覆っている。\nDuc(1978,1993)はベトナムの近海でミナミハリイカS.ellipticaを報告したが、ミナミハリイカS.ellipticaはインド洋のみで見つかるため本種コウイカS.esculentaの誤同定と推測される。", "qas": [ { "question": "吸盤の列数で区別される本種との類似イカは何?", "id": "de-041-08-000", "answers": [ { "text": "ミナミハリイカ", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ミナミハリイカの生息域はどこですか?", "id": "de-041-08-001", "answers": [ { "text": "インド洋", "answer_start": 478, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "外套長は最大約18cm、体重は約600gの中型のコウイカ類。\n外套膜の概形は粗い楕円形で、後端は貝殻の棘があるため、多少円錐形になる。\n最大外套幅は背側外套長の半分よりも大きく、その位置は中心付近にある。\n外套膜の腹縁は僅かに湾入し、背縁は広く三角状に、外套長の1/7程度突出する。\n体色は、外套背側には黒褐色の帯状斑(虎斑)が横に走り、黄色の小顆粒状突起がある。\n鰭の基部に沿って銀帯(白線)が走る。\nこの銀帯の内側に沿って黄色くやや細長い突起が断続的に並んでいる。\n外套膜腹面は蒼白色であるが、鰭基底の銀帯は腹面からも明らかに観察できる。", "qas": [ { "question": "本種の体重はどれくらいですか?", "id": "de-041-09-000", "answers": [ { "text": "約600g", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "本種の外套長は最も大きくて何cmありますか?", "id": "de-041-09-001", "answers": [ { "text": "約18cm", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鰭の基部沿いにある模様は何ですか?", "id": "de-041-09-002", "answers": [ { "text": "銀帯", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "外套膜腹面は何色ですか?", "id": "de-041-09-003", "answers": [ { "text": "外套膜腹面", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "鰭は前端から数mmのところから始まり、外套側縁の90%近くを覆う。\n鰭後端は両葉間に僅かな間隔があく。\n鰭幅は胴体の1/6-1/5(片葉幅は外套幅の約13%)で、ほぼ等幅で後方にやや広がる。\n漏斗器は普通の大きさで、第4腕の間の角度より僅かに小さく拡がる。\n背側の漏斗器は逆V字型で太く、腹側器は卵円形。\n漏斗軟骨器は豌豆型で、前方はやや持ち上がっており、溝は深い。\n外套軟骨器は細い半月形。", "qas": [ { "question": "腹側器はどんな形をしているの?", "id": "de-041-10-000", "answers": [ { "text": "卵円形", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "外套軟骨器はどんな形をしているの?", "id": "de-041-10-001", "answers": [ { "text": "半月形", "answer_start": 192, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "頭部は幅広く、外套膜の開口部分と同じくらいの幅であり、外套幅(外套膜の最大幅)より狭く、外套長の30%程度。\n頭部背面から腕反口側に沿って淡紅色の条が走る。\n囲口膜には縁に7個の吸盤のない突起があるが、雌では腹側の2個は完全に丸くなっている。\n雌成体では、囲口膜の腹側部分の突起は顕著な卵形のspermpadで、これは末端が滑らかで、基部は深く皺が寄り、1対の羽状の受精托(seminalreceptacle)がある。\n精莢は長く、その長さは17mmである。", "qas": [ { "question": "頭部背面にある条の色は何色ですか?", "id": "de-041-11-000", "answers": [ { "text": "淡紅色", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "精莢の長さはどれくらいですか?", "id": "de-041-11-001", "answers": [ { "text": "17mm", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "十腕類の名の通り、コウイカの腕は10本あるが、うち2本(1対)は触腕と呼ばれ、ポケットの中に完全に収納することができる。\n触腕は他の腕とは違って吸盤は先端の触腕掌部(tentacleclub)にしかなく、伸び縮みさせることができる。\n残りの腕を、甲のある背側の中心の1対から順に、第1腕(I)、第2腕(II)、第3腕(III)、そして腹側の1対を第4腕(IV)と呼ぶ。", "qas": [ { "question": "コウイカが持つ収縮可能な腕を何といいますか?", "id": "de-041-12-000", "answers": [ { "text": "触腕", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "触腕に吸盤が付いている部分の名前は?", "id": "de-041-12-001", "answers": [ { "text": "触腕掌部", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "触腕は何本ある?", "id": "de-041-12-002", "answers": [ { "text": "2本", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コウイカの腕は全部で何本あるの?", "id": "de-041-12-003", "answers": [ { "text": "10本", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "腕の長さはほぼ等長で、腕長式はIV>I>III>IIまたはIV>I>II>IIIである。\n最長の第4腕は背側外套長の半分の長さ(50%)程度。\n反口側の英膜が第1腕から第4腕に向かって次第に顕著になるため、特に第3腕・第4腕は反口側の表面に沿って顕著に張り出し、扁平になっている。\n保護膜は発達は普通で肉柱は弱々しい。\n腕の吸盤は、先端から基部まで明確に4横列(quadserial)で、ほぼ一様だが、末端に向かうにつれほんの少しずつ小さくなる。\nまた、第1腕・第2腕の吸盤は35-40列、第3腕・第4腕では60-65列ある。\n傘膜の発達は悪く、第4腕を除く腕の内側から4-6列目の吸盤まで展開している。", "qas": [ { "question": "吸盤の列数が多いのは第3腕・第4腕と第1腕・第2腕のどちら?", "id": "de-041-13-000", "answers": [ { "text": "第3腕・第4腕", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "触腕の長さは様々であるが、状態の良い標本では普通頭部と胴体を合わせた長さ程度である。\n触腕柄は腕より少し細く、反口側は丸く、口側は平らである。\n触腕泳膜は狭い。\n触腕掌部は平たく、外形は三日月形または半月形に拡がり、触腕の約1/8を占める。\n触腕掌部の吸盤は12列(10~16列)で特に大きい吸盤はなく、微小等大で約200個ある。\nSasaki(1929)では、触腕掌部の吸盤は一見縦10列に見えるが、斜めに16列並んでいるとしている。", "qas": [ { "question": "触腕掌部にある微小等大の吸盤は何個ありますか?", "id": "de-041-14-000", "answers": [ { "text": "約200個", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "触腕掌部の吸盤は何列ありますか?", "id": "de-041-14-001", "answers": [ { "text": "12列", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "雄の左第4腕は交接腕化し、これは属の典型である。\n交接腕化の影響があるのは末端よりも基部(頭側)に近く、基部寄りの4~5列目までは正常で、続く6列の吸盤が縮小している。\n特に6列目と7列目の吸盤は幾分か小さくなる程度で、8列目以降の4列の吸盤が交接腕化した部分で痕跡器官となり、これより末端は正常に戻る。", "qas": [ { "question": "交接腕化した腕を持つのは雄と雌のどちらですか?", "id": "de-041-15-000", "answers": [ { "text": "雄", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "何列の吸盤が縮小しているの?", "id": "de-041-15-001", "answers": [ { "text": "6列", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "奥谷(2017)では腕吸盤の角質環に30-40の小歯があり、触腕掌部吸盤の角質環はほぼ平滑となるとある。\nSasaki(1929)では基部付近の角質環は全ての縁で無数の細い面取りされた小歯が互いにきつく癒合しているため、先端の縁の外形はでこぼこしている。\n末端の吸盤では小歯は角質環の縁で互いに分かれているが、基部の縁では未だ癒合したままであることも多い。\nこれらの吸盤の分かれた末端の小歯は10-20個あり、延長する。\n触腕の角質環は縁に沿って鋸歯状になり、30-40の小歯が数えられ、小歯の間の間隔程度に鈍いとある。\n稀に腕が分岐する奇形の報告がある。\n1929年6月22日、動物学教室の学生(IchizoAsami)により発見され、東京帝国大学動物学教室博物館に持ち込まれ岡田要によって報告された本種の右第4腕は2度分岐し、3本となっていた。", "qas": [ { "question": "腕が奇形化したコウイカが発見されたのはいつでしたか?", "id": "de-041-16-000", "answers": [ { "text": "1929年6月22日", "answer_start": 279, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "腕が奇形化したコウイカが持ち込まれた場所はどこでしたか?", "id": "de-041-16-001", "answers": [ { "text": "東京帝国大学動物学教室博物館", "answer_start": 319, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "腕が奇形化したコウイカを報告した人は誰でしたか?", "id": "de-041-16-002", "answers": [ { "text": "岡田要", "answer_start": 339, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "コウイカの甲(sepion,cuttlebone)は貝殻(shell)とも呼ばれ、主に炭酸カルシウムからなっている。\n本種の甲は幅広く、貝殻長(背側外套長と同じ)の1/3-2/5の幅であり、形は卵形(長楕円形)で極めて薄い。\n背側表面は後方ではアーチ状で、前方では平らになり、裸縁を除き、何本もの集中した線状に並んだ多数の顆粒に覆われている。\nまた背側表面には3本の弱い肋がある。\n横線面と終室の境界は逆V字型に近く、外円錐の後方は僅かに広がる。\n内円錐は全体の1/4のところから始まり、後端は前方に張り出して広い丸襟状になる。\nDoratosepion亜属とは異なり、内円錐と外円錐は癒着する。\n室率は30で、佐々木(1910)は室率に大きな変異があることを認めている。", "qas": [ { "question": "コウイカの甲の主な主成分は何ですか?", "id": "de-041-17-000", "answers": [ { "text": "炭酸カルシウム", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コウイカの甲はどのような形をしているの?", "id": "de-041-17-001", "answers": [ { "text": "卵形", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "本種は通常、水深10-100m程度の砂泥質の海底近くに棲息している。\n本種の寿命は1年と考えられている。\n7月に孵化した個体は孵化後約100日で貝殻長5-10cm、孵化後約200日で貝殻長10-15cmとなり、その後の成長は著しく鈍くなるといわれている。", "qas": [ { "question": "本種は水深何mの海底付近で生息していますか?", "id": "de-041-18-000", "answers": [ { "text": "10-100m程度", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種は何年生きる?", "id": "de-041-18-001", "answers": [ { "text": "1年", "answer_start": 41, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "底生の本種はエビやカニ、小魚を好んで食べる。\n普段は腕を揃え、流線型をしているが、餌を見るときは腕を下に下げ、両眼で立体的視野を得る。\nそして体を餌に対し真っ直ぐに向けるアテンション(attention)という行動をとり、適切な距離に近づくポジショニング(positioning)し、それから触手を伸ばして狩る(アタック,attack)。\n獲物の注意を引き付けるため、第1腕を昆虫やエビの触角のように伸ばすこともある。\n餌の捕食を視覚に頼るため、ガラス容器に餌を入れても同様の行動をするが、発射した触腕がガラスに衝突して痛むため、このエサは取れないということを学習する。", "qas": [ { "question": "触手を伸ばして狩りをする行為を何と言いますか?", "id": "de-041-19-000", "answers": [ { "text": "アタック", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "獲物の注意を引くために使用するのは何ですか?", "id": "de-041-19-001", "answers": [ { "text": "第1腕", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "他のコウイカ類同様に本種は産卵・交接に先立ってディスプレイをすることが知られている。\n雄は第1腕を高く掲げ、雌に接近する。\nこのときは外套膜背側の帯状斑や鰭基部の白線が鮮明となる。\n奥谷(1979)に拠れば、このディスプレイの目的は主に競争者の雄に対しての示威行為と考えられ、水槽中に1個体だけ収容された場合はこのような行動は見られない。", "qas": [ { "question": "産卵や交接を行う前に本種が行う行動を何といいますか?", "id": "de-041-20-000", "answers": [ { "text": "ディスプレイ", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "交接姿勢は雌雄が人間が両手の指を組み合わせたように腕を組み合わせる。\n交接行動はその体勢を保ったまま約5分間続き、交接開始後約1分半後雄は雌に精子を受け渡す。\n交接により渡された精子は嚢内に詰められた状態でポケットに付着し、活性が保たれる。\n産卵は交接後ただちに開始される。\n本種は早春~初夏にかけ、内湾などの沿岸に寄り、島嶼付近の岩石や海藻、沈木、ソフトコーラル、漁網などに産卵する。\n卵は1粒ずつ生み出される。\n外套長12-15cmの韓国産の個体では、産卵数は2,000-2,500粒である。\n親イカは産んだ卵に砂を吹き付けて、カモフラージュする行動が見られる。", "qas": [ { "question": "本種の産卵時期はいつ?", "id": "de-041-21-000", "answers": [ { "text": "早春~初夏", "answer_start": 141, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "産卵後の卵に親イカは何をかけて隠しますか?", "id": "de-041-21-001", "answers": [ { "text": "砂", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "韓国産の個体の外套長はどれくらいですか?", "id": "de-041-21-002", "answers": [ { "text": "12-15cm", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "韓国産の個体はどれくらいの数の卵を産みますか?", "id": "de-041-21-003", "answers": [ { "text": "2,000-2,500粒", "answer_start": 232, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "赤血球", "paragraphs": [ { "context": "赤血球は血液細胞の一つで色は赤く血液循環によって体中を回り、肺から得た酸素を取り込み、体の隅々の細胞に運び供給する役割を担い、また同様に二酸化炭素の排出も行う。赤血球の内部には鉄を含む赤いタンパク質ヘモグロビンが充満しており、赤血球はヘモグロビンに酸素を取り込む。大きさは直径が7-8μm、厚さが2μm強ほどの両面中央が凹んだ円盤状であり、数は血液1μLあたり成人男性で420-554万個、成人女性で384-488万個程度で血液の体積のおよそ4-5割程度が赤血球の体積である。標準的な体格の成人であれば全身におよそ3.5-5リットルの血液があるため、体内の赤血球の総数はおよそ20兆個であり、これは全身の細胞数約60兆個の1⁄3である。体内の細胞にくまなく酸素を供給するために膨大な数の赤血球が存在する。骨髄では毎日2000億個弱程度の赤血球が作られているが、その寿命は約120日で、120日の間におよそ20-30万回に渡って体を循環して酸素を供給し、古くなると脾臓や肝臓などのマクロファージに捕捉され分解される。赤血球は体の隅々の細胞にまで酸素を供給するため、柔らかく非常に変形能力に富み、自分の直径の半分以下の径の狭い毛細血管にも入り込み通過することができる。赤血球は成熟する最終段階で細胞核やミトコンドリア・リボゾームなどの細胞内器官を遺棄する。酸素の運搬には不要な細胞核や酸素を消費するミトコンドリアを捨て去り、乾燥重量の約9割がヘモグロビンである赤血球はいわばヘモグロビンを閉じ込めた柔軟な袋であり、ヘモグロビンによる酸素運搬に特化した細胞といえる。ミトコンドリアを持たないため、細胞の活動に必要なエネルギーは嫌気性解糖系と呼ばれる酵素によって糖(グルコース)を分解して得る。", "qas": [ { "question": "赤血球を構成する赤いタンパク質とは、何か?", "id": "de-042-00-000", "answers": [ { "text": "ヘモグロビン", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "体の隅々の細胞に供給される酸素は、赤血球のうち、何に取り組まれているの?", "id": "de-042-00-001", "answers": [ { "text": "ヘモグロビン", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "細胞核とミトコンドリアを捨て去った後の赤血球を構成する物質の中で、最も多くを占めるのは何か?", "id": "de-042-00-002", "answers": [ { "text": "ヘモグロビン", "answer_start": 619, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "赤血球の役割は酸素と二酸化炭素の運搬であり、その構造は表面の赤血球膜と内部の細胞質に分けられるが、赤血球細胞膜を通して酸素と二酸化炭素が交換され、細胞質のヘモグロビンと酵素の働きで酸素と二酸化炭素は輸送される。通常の細胞が持つ核などの細胞内器官を捨て去っているため、細胞質は水とヘモグロビンで容積のほとんどを占め、それ以外は解糖系やペントースリン酸経路に関わる酵素、炭酸脱水酵素、グルコース、炭酸、Na+,Ca2+,K+,Cl-などのイオンなどわずかであり、正常な赤血球の細胞質には顕微鏡観察で目に付く構造はない。形状は両面中央が凹んだ円盤状であるが、それは同じ体積の球に比べ表面積が30-40%大きく、その大きな表面積のため酸素・二酸化炭素の交換が球状の場合よりも有利であると考えられている。また赤血球は毛細血管では折り曲げられたり変形したりして通過するが、球に比べて両面が凹んだ円盤状だと体積に比べ表面の赤血球細胞膜に余裕があるため、変形のひずみの力に対して細胞膜にかかる力が小さくなると考えられている。成熟した赤血球は、通常の細胞が持つ核やミトコンドリア、リボゾーム、ゴルジ体、小胞体などを捨て去り、酸素の輸送に特化した細胞であるので、細胞の運動能やタンパク質・脂質の合成能を持たず、通常の細胞のようには多くのエネルギーを必要としない(そのために酸素を消費してエネルギーの産出を担うミトコンドリアを捨て去ることができる)。しかし、赤血球でもATPを用いての陽イオンの輸送や細胞膜やヘモグロビンなどの各タンパク質の維持のために(通常の細胞よりは少ないものの)エネルギーを必要とする。エネルギーはグルコースを分解することで得られるが、グルコースの90%は嫌気性解糖系と呼ばれる多数の酵素によるATP合成経路であるエムデン-マイヤーホフ経路によって消費されATPを産出する。このATPはNa+やK+などの陽イオンの輸送や膜タンパクのリン酸化、解糖系自身の維持などに使われる。残りのグルコース10%はNADPHを産出するためにペントースリン酸経路を経由することで消費される。NADPHはヘモグロビンなどの各タンパク質が酸化されることを防ぎ、保護する。", "qas": [ { "question": "赤血球が果たしている役割とは、酸素と何の運搬なの?", "id": "de-042-01-000", "answers": [ { "text": "二酸化炭素", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "赤血球が酸素を供給し、二酸化炭素は吸い取る役割を果たすのに、大きく貢献しているのは、何か?", "id": "de-042-01-001", "answers": [ { "text": "赤血球細胞膜", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "赤血球が通常の細胞のようには多くのエネルギーを必要としないのは、何に特化したからか?", "id": "de-042-01-002", "answers": [ { "text": "酸素の輸送", "answer_start": 503, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "赤血球が酸素の輸送に特化した細胞といわれるのは、通常の細胞が有する物質は捨て去って何だけ持っているからか?", "id": "de-042-01-003", "answers": [ { "text": "ヘモグロビン", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヘモグロビンは赤血球細胞質の主要な構成物質であり、肺から全身へ酸素を運搬する役割を担っているタンパク質である。ヘモグロビンはポルフィリン核に鉄を持つ4つのヘムと4つのグロビンからなり、ヘムは中心に1つの鉄原子を持ち、酸素1分子を結合することができるので、ヘモグロビン1分子で4個の酸素分子と結合することができる。標準的な体格の成人が持つ赤血球に含まれるヘモグロビンの総量は約750gであり、1gのヘモグロビンは酸素1.39mLと結合することができるので、総量としておよそ1Lの酸素と結合することができる。赤血球の幼若な段階である赤芽球には豊富なミトコンドリアやポリリボソームが存在し、それらによって赤芽球は盛んにヘモグロビンの合成を行い、細胞が成熟するにつれて細胞質はヘモグロビンで充填されていくが、赤血球成熟の最終段階でミトコンドリアやポリリボソームが抜け落ち、成熟し完成した赤血球ではもはやヘモグロビンの合成は行われない。赤芽球のミトコンドリアではヘムの骨格を成すポルフィリン環が作られ、ポルフィリン環に鉄原子が組み込まれてヘムが作られる。一方、mRNAに複数のリボソームが連結したポリリボソームはアミノ酸を組み立ててたんぱく質であるグロビンを作る。ミトコンドリアが作ったヘムとポリリボソームが作ったグロビンが細胞質内で出会い、ヘモグロビンになる。", "qas": [ { "question": "ヘモグロビンには、ヘムとグロビンがいくつずつあるの?", "id": "de-042-02-000", "answers": [ { "text": "4つ", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミトコンドリアのほかに、赤芽球の段階ではヘモグロビンの合成を行うために存在していたが、赤血球成熟の最終段階になると抜け落ちる物質とは、何ですか?", "id": "de-042-02-001", "answers": [ { "text": "ポリリボソーム", "answer_start": 280, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic 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"成熟した赤血球は骨髄から血管内に移動し、血液循環によって肺から組織・組織から肺を巡る。組織内では細胞の活動により二酸化炭素が発生し血漿や組織液に溶け込んでいるが、細胞膜を通して二酸化炭素は赤血球内に取り込まれる。赤血球内で二酸化炭素(CO2)と水(H2O)は炭酸脱水酵素によって重炭酸イオン(HCO−3)と水素イオン(H+)になり、水素イオンが増加することにより酸性が強くなった赤血球内では、酸素とヘモグロビンが結びついたオキシヘモグロビンから酸素分子が遊離し、細胞膜を通って体細胞に酸素が供給される(ボーア効果)。酸素を放出したヘモグロビンは水素イオンと結びついて赤血球内が極端に酸性に傾くのを防ぐ。血液中の二酸化炭素のほとんどは赤血球内に取り込まれ、二酸化炭素の約70%は赤血球内の炭酸脱水酵素によって重炭酸イオンに変換され、重炭酸イオンの多くはバンド3(band3)と呼ばれる赤血球膜を縦貫する膜輸送たんぱく質によって塩素イオンと交換に赤血球外に出され血漿に溶け込んで肺に循環する。二酸化炭素の15-20%は酸素を放出したヘモグロビンに結びつきカルバミノヘモグロビンとして赤血球により肺に運ばれ、約10%はそのまま血漿に溶け込んで肺に循環する。人の場合だと肺では酸素分圧はほぼ100mmHgであり二酸化炭素はほとんどないので赤血球の酸素飽和度はほぼ100%になる。酸素を含んだ赤血球は組織に循環するが、組織内の酸素分圧は組織によって違い、一般的な組織内では40mmHg、活動中の筋肉内では20mmHg程度になる。酸素分圧の差でも赤血球は酸素を放出するが二酸化炭素が存在せず酸素分圧の差のみであると、赤血球は持っている酸素の内10-30%程度しか赤血球外へ放出できない。しかし組織内に二酸化炭素が発生していると二酸化炭素が炭酸に変換されることでpHが低下し、pHの低下によっておきるボーア効果で赤血球は大半の酸素を放出することができるようになる。", "qas": [ { "question": "赤血球により組織に酸素が供給され、二酸化炭素は吸い取られるような効果が起こるのは、組織内に何が低下したからか?", "id": "de-042-03-000", "answers": [ { "text": "pH", "answer_start": 774, "answer_type": 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"酸素に富み二酸化炭素の少ない肺では、赤血球は逆の行程で重炭酸イオンを二酸化炭素に戻して吐き出し、酸素を取り込む。つまり、二酸化炭素の少ない肺では赤血球内の二酸化炭素が出て行くが、赤血球内の二酸化炭素濃度が下がると炭酸脱水酵素は組織内のときとは逆に水素イオンと重炭酸イオン(HCO−\n3)から二酸化炭素(CO2)と水を生成して、赤血球内の細胞質のpHは上昇する。また赤血球内の重炭酸イオンが減少したことで赤血球外の重炭酸イオンが塩素イオンと交換で取り込まれ、二酸化炭素に変換されて再び放出される。pHが上昇した赤血球内では酸素を取り込みやすくなり、もともと酸素に富んだ肺組織内であるのでヘモグロビンはいっぱいに酸素を取り込む。酸素飽和度が上がった赤血球は、再び末端の組織細胞に酸素を運搬する。過剰な酸素は細胞を傷つけるが、赤血球に酸素を取り込み末端組織内で酸素を吐き出す過程では二酸化炭素の存在によって酸素が供給されるので、二酸化炭素の濃度が濃い(一般に活動の盛んな細胞ほど二酸化炭素の排出が多い)ほど赤血球が供給する酸素の量が増えてくるので酸素を必要とする細胞に必要とする適量の酸素を供給することができる。この点が液体に酸素を溶かし込んで供給するシステムとの大きな違いである。", "qas": [ { "question": "何が過剰であると、細胞が傷つきますか?", "id": "de-042-04-000", "answers": [ { "text": "酸素", "answer_start": 348, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヘモグロビンの酸素親和性の調節では前述のように血液循環で肺と組織を巡る間でH+の作用(pHの変化)によるボーア効果によって酸素の親和性が変化し赤血球は二酸化炭素の少ない肺では酸素を取り込みやすく、二酸化炭素が発生している組織内では酸素を放出しやすくなる。だが、ヘモグロビンの酸素親和性の調節にはpHの変化だけでなく2,3-BPG(2,3-ビスホスホグリセリン酸あるいは2,3-DPG2,3-ジホスホグリセリン酸とも表記する)も関わる。精製したヘモグロビンは赤血球中のヘモグロビンよりも酸素親和性が高い。赤血球には2,3-BPGが含まれるが2,3-BPGはヘモグロビンの酸素親和性を弱める。人が空気の薄い高山に行くと酸素不足状態に陥るが、1日ほどで相当に適応することができる。高地に行き低酸素状態になると数時間ほどで血液中の2,3-BPG濃度が上昇し酸素親和性が低下する。酸素親和性の低下は肺でよりも組織内での効果が大きく、そのため組織内での酸素放出量を増やすことができる。人では高地適応の例だけではなく、貧血や心不全・呼吸不全などによる低酸素血症でも、2,3-BPG濃度を上昇させて血液の低酸素状態に対してある程度の対応を行うことができる。胎児の赤血球に含まれるヘモグロビンFは成人のヘモグロビン(ヘモグロビンA)よりも2,3-BPGに対する結合が弱く、そのため酸素親和性が高い。これは胎盤内で母親側から酸素を受け取らなければならないために、胎児のヘモグロビンは母親のヘモグロビンよりも高い酸素親和性が必要なためである。", "qas": [ { "question": "ヘモグロビンが肺では酸素を取り込みやすく、組織内では酸素を放出しやすくなるのは、どんな効果のためであるの?", "id": "de-042-05-000", "answers": [ { "text": "ボーア効果", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "胎盤内で母親側から酸素を受け取るために、胎児のヘモグロビンは何に対する結合が成人のものより弱いですか?", "id": "de-042-05-001", "answers": [ { "text": "2,3-BPG", "answer_start": 560, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヘモグロビンにおいて2,3-BPGに対する結合が弱いと、ヘモグロビンの酸素親和性は高いか、もしくは、低いか?", "id": "de-042-05-002", "answers": [ { "text": "高い", "answer_start": 587, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "赤血球は自分の直径の半分以下の径の微小な毛細血管にも入り込まなければならないので非常に柔軟な変形能力を持ち、また120日間の寿命の間、絶えず循環し繰り返しの変形に耐える安定性が求められる。その赤血球を構成している赤血球細胞膜は、主にリン脂質が隙間なく並んだ層が二重の層を形成している膜脂質二重層と、鎖状のタンパク質が網状に連結され細胞膜を裏打ちして支持している膜骨格、脂質二重層と膜骨格の連結し保持する膜縦貫タンパク質やアンカータンパク、細胞膜を貫通し物質の細胞内外の交換の役割を果たすポンプ・キャリア・チャネルと呼ばれる膜縦貫タンパク質や情報のやり取りのためのレセプター、表面を産毛のように覆い細胞間の情報伝達や、他の細胞との接着・分離にも関係する糖鎖などからなっている。", "qas": [ { "question": "赤血球細胞膜を構成するものの中、細胞膜を貫通し物質の細胞内外の交換の役割を果たすのは、何と呼ばれるの?", "id": "de-042-06-000", "answers": [ { "text": "ポンプ・キャリア・チャネル", "answer_start": 243, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "主にリン脂質が隙間なく並んだ層が二重の層を形成したものは、何か?", "id": "de-042-06-001", "answers": [ { "text": "膜脂質二重層", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "親水性のリン酸部分の頭部に疎水性である脂肪酸が2本の尾部が付いたのがリン脂質分子である。赤血球の内外は主に水で満たされているのでリン脂質分子は頭部を外側に、水に反発する尾部を内側に厚さが3.5-5.6nm程度の厚さの二重層を自発的に作って並ぶ(右の各図で丸い頭に2本足で描かれているのがリン脂質分子で、それが無数に並んでいるのが二重層である)。二重層の両外側は親水性なので膜全体は赤血球内外の環境になじみ、内側には疎水性の脂肪酸が充満しているので細胞の内外をしっかり遮断することができる、単位時間、単位面積あたりに透過する水分子の数は少ない。このリン脂質二重層は電気的に中性で極めて小さな分子、例えば酸素分子や二酸化炭素分子は通すが、極性を持つ水分子は通りにくく、大きな分子やイオンは通ることができない。リン脂質分子同士の結合は緩いので、各リン脂質分子はリン脂質二重層の中を横方向に自由に移動することができ、細胞の変形や細胞分裂などでも2重層構造が破けることはない、さらに血漿中のリン脂質分子が脂質二重層に入り込んだり、逆に血漿中に抜け出ることも可能である。また脂質2重層を貫通している膜縦貫タンパクやレセプターなども膜脂質二重層上を移動することができる(膜骨格にアンカーされているものは膜骨格の自由度の範囲内で動ける)、実際、マウスとヒトの細胞を融合させる実験では細胞膜上の分子は移動しマウス由来の分子とヒト由来の分子が混ざり合うことが確認されている。このリン脂質分子はリン酸の先に付いた分子によりホスファチジルコリン(PC)、スフィンゴミエリン(SM)、ホスファチジルエタノールアミン(PE)、ホスファチジルセリン(PS)などがあり、赤血球の膜脂質二重層ではPCが21%、PSとPEが併せて29%、SMが21%、コレステロールが26%、他が数%で構成される。並んだリン脂質分子の間にコレステロールが入り込むと分子が動ける自由度は低下し、膜は硬くなり柔軟性が弱くなる。膜脂質二重層の多くの部分ではコレステロールは多くはないのでリン脂質分子は比較的自由に動けるが、次に解説する膜脂質ラフト部分ではリン脂質の間に入り込んだコレステロールが非常に多くなる。これらのPCやPS,PE,SMなどは二重層の外側(血漿側)と内側(細胞質側)で分布にムラがあり、外側にはPC,SMと糖脂質が多く、内側にはPE,PSが多く非対称分布を成している。リン脂質分子の膜の表裏間の移動(フリップフロップ)は3種類の酵素が関わっており、flippaseはPE、PSを膜の外側(血漿側)から内側(細胞質側)に移動させ、floppaseはすべての脂質分子を内側から外側に移動させ、scramblaseはすべての分子を両方向に混同する。これらの酵素の働きによって膜内外のリン脂質の非対称分布がなされていると考えられている。非対称分布の一つの理由として、主なリン脂質の中でPSは陰性荷電を持ち、細胞質内のタンパク質が持つ陽性荷電と相互作用しやすいことが細胞膜の機能に好都合であるからだと考えられている。", "qas": [ { "question": "赤血球の膜脂質二重層の構成物質のうち、その量が二番目に多いのは、何か?", "id": "de-042-07-000", "answers": [ { "text": "コレステロール", "answer_start": 758, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "赤血球の膜脂質二重層の構成物質のうち、その量がPCと同じであるのは、何?", "id": "de-042-07-001", "answers": [ { "text": "SM", "answer_start": 675, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "リン脂質二重層を通過できるものとしてこの文書に書かれているのは、酸素分子のほかに何か?", "id": "de-042-07-002", "answers": [ { "text": "二酸化炭素分子", "answer_start": 305, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "PCとPEのうち、二重層の外側に分布している量がより少ないのは、PEと何か?", "id": "de-042-07-003", "answers": [ { "text": "PE", "answer_start": 936, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "リン脂質二重層膜上には他の部分より少し厚さが厚く少し硬い脂質二重層上を移動することができる領域があり、海に浮かぶ筏に例えられ脂質ラフト(LipidRaft)と呼ばれている。ラフト部分ではリン脂質は主にスフィンゴミエリン(SM)で構成され、SM分子の間にコレステロール分子が非常に多く入り込んで分子間の結合を強化している。スフィンゴミエリンの脂肪酸部分はPCやPS,PEより長いのでラフトは若干厚さを増し、コレステロールが分子間結合を強化するので硬くなる。ラフトではSMとコレステロールの他に、膜縦貫タンパクやレセプター、糖脂質なども多く存在している。多くの積荷を積んだ筏のようなイメージでラフトと通称されているが、通常の脂質二重層もラフトも、どちらもリン脂質を主要構成分子にしている点は海上に浮かぶ筏とは違う。ラフトの直径は数十nm程度で赤血球膜状には多数あり、タンパク質や糖鎖など多種の分子を多く載せているラフトは赤血球の機能に大きく関わっている部分だと考えられている。", "qas": [ { "question": "ラフト部分でリン脂質は主に何で構成されているのか?", "id": "de-042-08-000", "answers": [ { "text": "スフィンゴミエリン", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "他の部分より少し厚さが厚く少し硬い脂質二重層上を移動することができる、リン脂質二重層膜上の領域を何と呼びますか?", "id": "de-042-08-001", "answers": [ { "text": "脂質ラフト", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "α鎖スペクトリン(Spectrin)とβ鎖スペクトリンが連結した一本の線状のタンパク質が並んで2本絡まった長さ200nmのひも状のタンパク質(α鎖2本β鎖2本の4量体スペクトリン)が、4.1タンパク(Band4.1)やアクチン(Actin)などのタンパク質によって連結され網状になり脂質二重層に接するように存在するのが膜骨格である。スペクトリンは収縮性に富み、伸びきると4量体で200nmの長さが普段はスプリングのように40nm程度に収縮し、その収縮したスペクトリンが網状に連結された膜骨格はアンキリン(Ankyrin)や4.1タンパクによって膜縦貫タンパク質・バンド3タンパク(Band3)やグリコフォリン(Glycophorin)に結合され脂質二重層にぶら下がるように接している。この膜骨格は赤血球が狭い毛細血管に入り込むときに変形するとスプリングが伸びたような状態で赤血球の変形に対応し毛細血管をくぐり抜けた後には収縮して赤血球の形を保つ。この脂質二重層の細胞膜を膜骨格が裏打ち補強している構造が赤血球膜の柔軟性と安定性をもたらしている。", "qas": [ { "question": "膜骨格にはα鎖スペクトリンが何本含まれているの?", "id": "de-042-09-000", "answers": [ { "text": "2本", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "膜骨格を構成するα鎖2本β鎖2本の4量体スペクトリンの長さは、いくらですか?", "id": "de-042-09-001", "answers": [ { "text": "200nm", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "造血幹細胞から分化し始めた幼若な血液細胞は盛んに分裂して数を増やしながら少しずつ分化を進めていく。最終的に赤血球に分化・成熟する場合は造血幹細胞、骨髄系幹細胞(骨髄系前駆細胞)、赤芽球・巨核球系前駆細胞、前期赤芽球系前駆細胞(BFU-E)、後期赤芽球系前駆細胞(CFU-E)、前赤芽球、好塩基性赤芽球、多染性赤芽球、正染性赤芽球、(網赤血球)、赤血球と成熟していく。骨髄系幹細胞(骨髄系前駆細胞)、赤芽球・巨核球系前駆細胞、前期赤芽球系前駆細胞(BFU-E)、後期赤芽球系前駆細胞(CFU-E)などの前駆細胞の段階では、細胞は非常に活発に細胞分裂して数を増やすが、顕微鏡による形態観察では赤血球系との判別は困難である。前赤芽球の段階から形態的にも赤血球への分化の方向がはっきりしてくる。赤血球系と判別できるようになった前赤芽球から多染性赤芽球までの細胞も前駆細胞ほど盛んではないが細胞分裂能を持ち、1つの前赤芽球は多染性赤芽球の段階までに3-4回細胞分裂を起して8-16個の細胞に増える。前赤芽球は直径が20-25μmで前の段階の前駆細胞より大きくなり、赤血球への分化・成熟の段階で一番大きい細胞であり、顕微鏡観察で赤血球への分化の方向が明らかな最初の段階の細胞であり、核構造は繊細で、細胞質は塩基性が強く、リボゾームが多い。好塩基性赤芽球では大きさは前赤芽球より小さくなり(この後の段階でさらに小さくなり続ける)16-18μmほどであり、前赤芽球ほどではないが細胞質は塩基性であり、核構造はやや粗くなる。多染性赤芽球ではヘモグロビンの合成が開始され、ヘモグロビン量が増えるにつれ細胞質の塩基性は弱くなり、細胞はさらに小さくなり、核構造は凝縮しさらに粗くなる。この段階でも弱いながらも細胞分裂能を残している。正染性赤芽球では細胞分裂能は失われ細胞核は凝縮し細胞質は赤血球に近くなる。直径は10-15μmでやがて細胞核が脱落して赤血球に成熟する。", "qas": [ { "question": "ヘモグロビンの合成が開始される段階のものを何と言うの?", "id": "de-042-10-000", "answers": [ { "text": "多染性赤芽球", "answer_start": 653, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "前赤芽球と正染性赤芽球のうち、その直径がより長いのは、どちらですか?", "id": "de-042-10-001", "answers": [ { "text": "前赤芽球", "answer_start": 444, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "細胞核が脱落する段階のものは、何と呼ばれるか?", "id": "de-042-10-002", "answers": [ { "text": "正染性赤芽球", "answer_start": 754, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "前赤芽球と多染性赤芽球、好塩基性赤芽球のうち、塩基性が最も弱いのは、どちらか?", "id": "de-042-10-003", "answers": [ { "text": "多染性赤芽球", "answer_start": 653, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "これらの幼若な段階の細胞、造血幹細胞、前駆細胞、赤芽球は骨髄にのみ存在する。骨髄にはバリアがあり、幼若な血液細胞は骨髄から出ることができず、脱核して赤血球になって初めて血液中に出ることができるため、通常は末梢血では有核の赤芽球は観察されない。正染性赤芽球から核が脱したばかりの若い赤血球では、まだリボゾームが残っており、ニューメチレンブルーによる超生体染色を行うとタンパク質とRNAの複合体であるリボソームがその他の細胞内小器官を巻き込みながら網状に凝集し、凝集したリボソームのRNAが青く染まり、顕微鏡観察では網状に見えるので網赤血球と呼ぶ。網赤血球の段階でも10%-30%ほどのヘモグロビンが合成される。網赤血球は骨髄内に2日ほど留まり、その後血液中に移動して1-2日ほどでリボソームやミトコンドリアが抜け落ちて成熟し完成した赤血球になる。通常、網赤血球は赤血球の0.5-1.5%程度であるが、造血が盛んになると若い出来立ての赤血球である網赤血球の割合が増え、骨髄での造血機能が衰えると網赤血球の割合が減る。赤血球は骨髄で造血幹細胞から作られるが、その分化・成熟には骨髄においてマクロファージが大きく関わっている。骨髄において、赤血球の幼若な段階である赤芽球はマクロファージを中心にその回りを取り囲むように数個から数十個が集団で寄り集まっている。中心に存在するマクロファージは赤芽球に接し、ヘモグロビンの合成に不可欠な鉄や細胞の生育に必要な物質を供給し、成熟をコントロールし、また脱核させた核の処理や、不要になった赤血球細胞の除去にも関与している。この、骨髄内においてマクロファージを中心に赤芽球が集まり、赤血球の形成に関わっている細胞集団を赤芽球島もしくは赤芽球小島という。", "qas": [ { "question": "網赤血球が赤血球に成熟していく段階で脱落するのは、ミトコンドリアのほかに、何?", "id": "de-042-11-000", "answers": [ { "text": "リボソーム", "answer_start": 339, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "赤芽球に接し、その成熟をコントロールしながら、その中で脱落する核や不要な赤血球細胞の処理に関与するものは、何か?", "id": "de-042-11-001", "answers": [ { "text": "マクロファージ", "answer_start": 582, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "赤芽球島とは、骨髄内において何を中心にを中心に赤芽球が集まり、赤血球の形成に関わっている細胞集団を言いますか?", "id": "de-042-11-002", "answers": [ { "text": "マクロファージ", "answer_start": 686, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "以上で説明しているのは出生後のヒトの造血であるが、胎児の造血は出生後とは様相が違う。まずは胎生15-18日頃に卵黄嚢において一次造血が始まり胚型赤血球が産出される。胚型赤血球は胎生4週以降血液循環を行って酸素を運搬する。一次造血で産出される胚型赤血球は胎生5-6週頃から始まる二次造血による胎児型赤血球および成体型(出生後の)赤血球とは大きく異なる。胎生初期に卵黄嚢で作られる胚型赤血球は胎児型赤血球および成体型赤血球と比べて4-5倍の大きさがあり、成熟しても脱核はせず有核である。形態的には赤芽球に似るが、胚型赤血球のヘモグロビンは胎児型ヘモグロビンとも出生後の赤血球のヘモグロビンとも違うものである。この胚型赤血球は胎生10週頃には消滅する。ヒトでは胎生5-6週目辺りから肝臓での造血が始まる。この肝臓で始まる造血で生み出される赤血球は成人の赤血球と同じ造血幹細胞から産出され、同じ大きさ・構造であり、赤血球の細胞核は脱核する。この胎児型赤血球はヘモグロビンこそ主として胎児型ヘモグロビンで成体型とは違うものの出生後の造血に直接繋がるものであってこれを二次造血という。肝臓での造血は3-6ヶ月頃は造血の中心であり、胎生6-7ヶ月で肝臓での造血はピークに達する。また脾臓での造血も加わる。これらの肝臓・脾臓での造血はピークを迎えた後に減少し出生時には終了する。骨髄での造血は胎生4ヶ月頃から始まり徐々にその役割を増していく。6-7ヶ月以降は骨髄が造血の中心となり出生時には唯一の造血器官となる。胎児の赤血球では妊娠のごく初期には胚型ヘモグロビンを含むが、まもなく胎児の赤血球は胎児型ヘモグロビン(HbF)を含むようになる。妊娠期間の大部分では胎児の赤血球のヘモグロビンは胎児型ヘモグロビン(HbF)が大半を占め、成体型ヘモグロビン(HbA)はわずかであるが、出生が近づいていくにつれ成体型ヘモグロビン(HbA)は急激に割合を増していく。妊娠中期にはヘモグロビンのほとんどを占めていたHbFは、出生時にはヘモグロビンの60-80%になり、あるいは別の資料では妊娠末期の臍帯血のヘモグロビンでは平均で83%がHbFであるとされるが、出生後には急激にHbAに置き換わっていき、生後6ヶ月ではHbFは3%程度まで減り、成人のヘモグロビンではHbAが97%、HbA2が2%、HbFは1%以下の割合になる。HbFはHbAより高い酸素親和性を持ち、胎内での低い酸素濃度下での酸素運搬に適している(HbAは酸素濃度の高い環境(肺呼吸)での酸素運搬に適している)。", "qas": [ { "question": "一次造血と二次造血のうち、産出される赤血球の大きさがより大きいのは、どちら?", "id": "de-042-12-000", "answers": [ { "text": "一次造血", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "胚型赤血球と成体型赤血球のうち、成熟するにつれて核が脱落するのは、どちらですか?", "id": "de-042-12-001", "answers": [ { "text": "成体型赤血球", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "胚型赤血球は、胎生何週になると消滅するか?", "id": "de-042-12-002", "answers": [ { "text": "10週頃", "answer_start": 312, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "出生時の胎児のヘモグロビンでその量が最も多いのは、何か?", "id": "de-042-12-003", "answers": [ { "text": "胎児型ヘモグロビン", "answer_start": 736, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "骨髄では1日あたり2000億個弱の赤血球を生み出すが、骨髄にはこれの3-5倍の赤血球産出能力があり、貧血などで低酸素状態になると赤血球の産出は盛んになる。造血幹細胞から赤血球などの血液細胞の分化・増殖には40種類以上の因子が関わるが、とくに赤血球の増殖にはエリスロポエチン(EPO)が大きく関わる。エリスロポエチンは分子量約34kDaの糖蛋白質であり主に腎臓(一部は肝臓)で産出される。貧血や慢性の肺疾患、空気の薄い高地での生活などで慢性の低酸素状態になると腎臓ではエリスロポエチンを盛んに産出するようになる。赤血球の造成の途中の段階であるCFU-E(後期赤血球系前駆細胞)は非常にエリスロポエチンの感受性が高くエリスロポエチンを受け取ると細胞分裂能を高め、赤血球の数的増加に結びつく。やがて赤血球の数量が増え、貧血などの低酸素状態が改善されると腎臓ではエリスロポエチンの産出が減少し、したがって骨髄での赤血球産出も落ち着くようになる。しかし慢性腎不全などで腎臓の機能が低下している患者ではEPOの産出が減り、貧血になっても赤血球の産出が亢進されず貧血が改善されない。", "qas": [ { "question": "慢性腎不全の患者において貧血が改善されないのは、どの臓器の機能が低下したからか?", "id": "de-042-13-000", "answers": [ { "text": "腎臓", "answer_start": 429, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "赤血球の増殖に大きく関わるのは、何か?", "id": "de-042-13-001", "answers": [ { "text": "エリスロポエチン", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "赤血球は血液中で約120日働くと老化し、老化した赤血球は脾臓でマクロファージに捕捉・貪食され分解される。分解された赤血球の構成材のアミノ酸の多くや鉄は回収され再利用されるが、ヘムの分解代謝物であるビリルビンは胆汁もしくは尿として排出される。赤血球が老化すると嫌気性解糖系のエネルギー産出が衰え、そのために細胞膜上のNa+,K+ATPaseタンパク質やCa2+ATPaseタンパク質が働かなくなりイオンバランスが崩れるため細胞質は水分が減少し赤血球の変形能も衰えてくる。すると老化赤血球は脾臓や肝臓・骨髄の血管内に張り巡らされている網内系と呼ばれる血管内腔を覆う細網細胞と付随する細網線維による網目構造状の組織につかまるが、そこには老化赤血球を捕捉・貪食するマクロファージが待ち構えている。赤血球の細胞膜に存在する膜縦貫タンパク質であるバンド3は若い赤血球では間隔を空けて存在し、バンド3から赤血球表面に露出している糖鎖には、それに対応する自然抗体(抗バンド3IgG抗体)が存在するが、この自然抗体はバンド3の糖鎖が十分な間隔を置いている場合(単独の糖鎖)には親和性が低く結合することができない。しかし、赤血球が老化してくるとヘモグロビンの酸化物(この酸化物は、ヘムに酸素を取り入れたオキシヘモグロビンではない)が増え、ヘモグロビン酸化物はバンド3の細胞質側に結合する。さらにバンド3に結合したヘモグロビンの酸化物はお互いに架橋し、バンド3を凝集させる。バンド3が凝集すると細胞表面の糖鎖も凝集し、凝集した糖鎖は抗バンド3IgG抗体との親和性が高いので抗体が結合することができるようになる。脾臓には抗バンド3IgG抗体に対するレセプターを持つマクロファージが存在し、凝集糖鎖に抗バンド3IgG抗体が結合した老化赤血球はマクロファージに容易に認識・捕捉されるようになる。このような過程で老化した赤血球は取り除かれると考えられている。また、若い赤血球では脂質2重層を構成するリン脂質であるホスファチジルセリン(PS)は2重層では赤血球膜内面・細胞質側に多く存在するが、赤血球が老化し嫌気性解糖系のエネルギー産出が衰えてくるとホスファチジルセリンを膜内面側に移動させていた酵素flippaseの働きも衰えホスファチジルセリンは膜表面に多く現れる。この赤血球膜外面側表面に多く現れたホスファチジルセリンもマクロファージによる貪食の標的になると考えられている。", "qas": [ { "question": "赤血球が老化すると分解されるが、分解された赤血球の構成材のうち、再利用されないのは、何?", "id": "de-042-14-000", "answers": [ { "text": "ビリルビン", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "赤血球の変形能が衰えるのは、どのようなバランスが崩れるからでありますか?", "id": "de-042-14-001", "answers": [ { "text": "イオンバランス", "answer_start": 197, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ホスファチジルセリンが赤血球膜表面に多く現れるのは、赤血球の何によることか?", "id": "de-042-14-002", "answers": [ { "text": "老化", "answer_start": 885, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "赤血球は血液中で何日働いたら、変形能を失っていくのか?", "id": "de-042-14-003", "answers": [ { "text": "約120日", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "他の細胞と同様に、赤血球は、水やタンパク質あるいは脂質といった物質から構成されている。一方で一部の微量な栄養素が、赤血球を生成する上で重要な役目を担っているとされる。特に体内で合成することのできない鉄、ビタミンB12、および葉酸は臨床上重要な栄養素とされる。成人の体内には3-4gの鉄があるがその2/3はヘモグロビンの構成材として赤血球中にあり、古くなった赤血球は脾臓や肝臓で壊されるが、その際に鉄は回収され、失われるのは1日あたり数mgに過ぎない。しかし、出血などで鉄を多く失うとヘモグロビンの合成に必要な鉄分が不足し、一般的には鉄欠乏性貧血の典型として赤血球は小型であったり低色素型になる。ビタミンB12はコバルトを含むビタミンの総称で、ある種のバクテリアしか生産することはできないが、食物連鎖によって動物は十分な量のB12を体内に持っており、ヒトも肉類、魚類、乳製品などの動物性食品を食することでB12を取り入れるので普通の状態では体内に数年分の量のB12を貯えている。B12は食物ではタンパク質と結び付いているが、胃酸によってタンパク質から遊離し、胃壁から分泌される内因子(IF)とB12とが膵液の作用によって結び付くことでB12は回腸から吸収されるようになる。したがって胃の切除者、萎縮性胃炎での内因子分泌障害(悪性貧血)などで内因子が不足したり、あるいは腸の吸収障害、あるいは極端な菜食主義者などでは数年ののちにB12は不足する。B12が不足すると細胞のDNAの合成が障害されて、赤血球系造血では巨赤芽球(その名の通り巨大な赤芽球)が産生され、それは正常な赤血球に分化できないため無効造血となり巨赤芽球性貧血に陥る。葉酸はレバー、緑黄色野菜、果物などに含まれている水溶性ビタミンであるが、B12と共に働いて赤血球の成熟に関わる。通常では葉酸は食物から酵素の働きで空腸から吸収され、体内に数か月分の量が貯えられているが、何らかの理由で不足するとB12の不足と同様に赤血球はDNAの合成が阻害され、正常な成熟ができずに巨赤芽球性貧血になる。", "qas": [ { "question": "成人の体内にある3~4gの鉄のうち、最も多い量の鉄を含んでいるのは?", "id": "de-042-15-000", "answers": [ { "text": "赤血球", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "何を含むビタミンが不足すると、赤血球系造血で巨赤芽球が産生されます?", "id": "de-042-15-001", "answers": [ { "text": "コバルト", "answer_start": 305, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "B12と何が不足すると、巨赤芽球性貧血になるか?", "id": "de-042-15-002", "answers": [ { "text": "葉酸", "answer_start": 714, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "水銀の遺産アルマデンとイドリヤ", "paragraphs": [ { "context": "水銀の遺産アルマデンとイドリヤ(すいぎんのいさんアルマデンとイドリヤ)は、スペインのアルマデンとスロベニアのイドリヤにそれぞれ残る水銀鉱山と、それらに関連する旧市街や産業遺産群を対象とした国際連合教育科学文化機関(UNESCO)の世界遺産リスト登録物件である。\nアルマデンとイドリヤで産出された水銀は、かつて何世紀もの間、ラテンアメリカで産出される銀の精錬に不可欠の存在であり、ヨーロッパへの大量の銀流入を陰で支える役割を果たした。\nそのため、アメリカ大陸での水銀需要は増加の一途を辿り、それに対応するためにアルマデンやイドリアでは増産の努力が重ねられた。\n現在残る町並みや施設群は、そうした鉱業の発展と大陸間交易の様子を今に伝えるものである。", "qas": [ { "question": "ラテンアメリカで産出される銀の精錬に欠くことが出来なかったものは何?", "id": "de-043-00-000", "answers": [ { "text": "水銀", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アルマデンがあるのはどこの国ですか?", "id": "de-043-00-001", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 37, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アルマデンとイドリヤはともに何の産業遺産が残っていますか?", "id": "de-043-00-002", "answers": [ { "text": "水銀鉱山", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アルマデンとイドリヤの水銀鉱山は何の世界遺産リストに登録されていますか?", "id": "de-043-00-003", "answers": [ { "text": "国際連合教育科学文化機関", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "スペイン帝国の植民地のうち、ヌエバ・エスパーニャ副王領のサカテカスやグアナフアトなどの銀山と、ペルー副王領のポトシ銀山は銀の産出地として重要なものであった。\nアメリカ大陸での銀の精錬には当初、木炭を大量に消費する溶鉱法が用いられていたが、1550年代に水銀のアマルガムを利用する精錬法が導入され始めると、それが急速に広まっていった。\nそれは「パティオ精錬法」と呼ばれるもので、中庭(パティオ)の砕鉱機で細かく砕いて泥状にした銀鉱石に塩を混ぜ、状況に応じて石灰や黄銅鉱なども混ぜる下準備をほどこした塊に、水銀を混ぜて踏むことでアマルガムを作り、その攪拌や加熱によって銀を取り出すというものであった。\n従来の銀の精錬が大量に木材を使うものであり、サカテカス銀山も開発によって山林が大規模な伐採に遭ったのに対し、パティオ精錬法は最終工程の一部を除いては加熱の必要がないため、禿山の銀鉱山でも精錬ができるとして普及した。", "qas": [ { "question": "アメリカ大陸での銀の精錬は、木炭よりも何を利用した鍛錬法が普及しましたか?", "id": "de-043-01-000", "answers": [ { "text": "アマルガム", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "水銀のアマルガムを利用する精錬法は何と呼ばれていた?", "id": "de-043-01-001", "answers": [ { "text": "「パティオ精錬法」", "answer_start": 170, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "パティオとは何を表しているの?", "id": "de-043-01-002", "answers": [ { "text": "中庭", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical 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"アルマデンはスペインのカスティーリャ=ラ・マンチャ州シウダ・レアル県にある鉱山町である。\nその水銀生産は古代ローマ時代にまで遡り、ローマに辰砂を供給していたという記録もあるが、16世紀以前の詳しい鉱山開発については未詳であるという。\n1511年から1524年までは国王会計のもと、個人との開発契約を結ぶ形で開発が行われたが、1524年にスペイン王カルロス1世が債権者であるフッガー家に開発権を譲渡した。\n途中、アウグスブルクの別の金融業者に開発権が渡ったり、フッガー家が再経営に乗り出した後に火災で一時閉山されるなどもあったが、1563年からスペイン政府は再びフッガー家と契約を結んだ。\nこのときに付けられた条件は、産出される水銀をすべてヌエバ・エスパーニャ副王領に送付することであった。", "qas": [ { "question": "古代ローマ時代にアルマデンからローマに提供していたとされる鉱物は何ですか?", "id": "de-043-03-000", "answers": [ { "text": "辰砂", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アルマデンでの水銀生産はいつから始まっていたとされますか?", "id": "de-043-03-001", "answers": [ { "text": "古代ローマ時代", "answer_start": 52, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フッガー家が再びアルマデンの開発契約を結んだのはいつですか?", "id": "de-043-03-002", "answers": [ { "text": "1563年", "answer_start": 264, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スペイン政府がフッガー家と再度契約を結んだ時の条件とは、産出される水銀を全てどこに送付させるものでしたか?", "id": "de-043-03-003", "answers": [ { "text": "ヌエバ・エスパーニャ副王領", "answer_start": 319, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アルマデンの水銀鉱山では、スペイン帝国が終焉を迎えたのちも採掘が行われており、20世紀末には国有企業によって採掘されていたが、年間1500トンを生産する世界最大の水銀生産地であると同時に、約4トンが大気中に放出される汚染源になっていたという問題点も抱えており、生産規模を縮小しつつ、2004年に完全に操業が停止された。\nなお、閉鎖後、EU域内での規制強化の結果、各企業などで使用されないまま残された水銀の保管場所としてアルマデンの鉱山を利用する案が浮上したが、見送られた。\nアルマデンが約2000年間に世界に供給した水銀の量は、全体量の約3分の1に及んだと見積もられている。", "qas": [ { "question": "アルマデンの水銀生産が完全にストップしたのはいつですか?", "id": "de-043-04-000", "answers": [ { "text": "2004年", "answer_start": 141, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "世界最大の水銀生産地はどこなの?", "id": "de-043-04-001", "answers": [ { "text": "アルマデン", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アルマデンの水銀鉱山では、年間どれくらいの量が大気中に放出されて問題となっていましたか?", "id": "de-043-04-002", "answers": [ { "text": "約4トン", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アルマデンでは、以下の物件が世界遺産を構成している。\nアルマデン旧市街の世界遺産登録範囲は48.98haである。\nアルマデンの旧市街は、水銀鉱山からコンスティトゥシオン広場までを指している。\nかつての町はレタマル城を中心として放射線状に発達し、次第に拡大していった。\nレタマル城はもともとアラブ人たちが支配していた時代の城塞が前身となっており、町の名前アルマデンも、「鉱山の城塞」を意味するアラビア語名の一部が転訛したものである。\n旧市街から鉱山にかけては、かつてセビリアに水銀を運ぶときに使った街路、1645年建設のサン・ミゲル礼拝堂、現在は博物館になっている水銀の販売所、17世紀のカルロス門と18世紀のカルロス4世門、鉱山アカデミー、旧監督官邸宅、辰砂を溶かすための17世紀の旧式の炉の遺構と1720年のブスタマンテ炉など、水銀生産にゆかりのある施設をはじめとする歴史的建造物群が多くある。", "qas": [ { "question": "アルマデンの旧市街の中心にあった建造物とは何ですか?", "id": "de-043-05-000", "answers": [ { "text": "レタマル城", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カルロス4世門とカルロス門はどちらが古い建造物になりますか?", "id": "de-043-05-001", "answers": [ { "text": "カルロス門", "answer_start": 293, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アルマデンはもともと、どこの人々が支配していたの?", "id": "de-043-05-002", "answers": [ { "text": "アラブ人たち", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アルマデンの語源は何語?", "id": "de-043-05-003", "answers": [ { "text": "アラビア語", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ミナ・デル・カスティリョの建造物群の世界遺産登録範囲は0.22haである。\nアルマデンのミナ・デル・カスティリョ(城の鉱山)には、18世紀以来使われてきたサン・ミゲル縦坑が存在している。\nこの縦坑は20世紀半ばになっても機能していた唯一の喚起坑で、時代が進むごとにどんどん深く掘られるようになり、木製の塔やエントランスにあたる建物などが整備されていった。\n王立強制労働刑務所の世界遺産登録範囲は0.11haである。\n16世紀半ば以降、アルマデンには鉱夫として囚人たちが送り込まれており、1799年の王令で廃止されるまでに約2000人が強制労働に従事したと見積もられている。\n強制労働刑務所は1754年に建造されたものだが、鉱業技術大学を建設するために取り壊され、当時のまま伝わっているのは一部の遺構だけである。", "qas": [ { "question": "ミナ・デル・カスティリョの建造物群と王立強制労働刑務所の世界遺産登録範囲が狭いのはどちらですか?", "id": "de-043-06-000", "answers": [ { "text": "王立強制労働刑務所", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "20世紀半ばにも機能していたという唯一の喚起坑は何?", "id": "de-043-06-001", "answers": [ { "text": "サン・ミゲル縦坑", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "強制労働刑務所はいつ廃止されたの?", "id": "de-043-06-002", "answers": [ { "text": "1799年", "answer_start": 243, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミナ・デル・カスティリョの建造物群の世界遺産登録範囲はどれくらいあるの?", "id": "de-043-06-003", "answers": [ { "text": "0.22ha", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "サン・ラファエル王立鉱夫病院の世界遺産登録範囲は0.1haである。\n既述の通り、18世紀には水銀生産量が急増したが、その結果、アルマデンの鉱夫の数は、囚人や季節労働者も含めて、増加の一途を辿った。\n結果として何らかの病気に罹る者の数も増えたため、それへの対応として病院の建設が必要となった。\n建設を推進したのは監督官のフランシスコ・ハビエル・デ・ビリェガス(FranciscoJavierdeVillegas)で、レンガの粗石積みのこの病院は1755年に建設が始まり、1773年に完成した。\n現在はアルマデン鉱山の博物館と古文書館に使われている。\n闘牛場の世界遺産登録範囲は0.25haである。\nサン・ラファエル王立鉱夫病院の着工と同じ1755年に建設が始まり、1757年に完成した闘牛場で、スペイン国内では2番目に古い。\n建設はサン・ラファエル病院と同じく監督官のフランシスコ・ハビエル・デ・ビリェガスが推進したもので、この闘牛場は、併設した季節労働者向けの賃貸住宅と闘牛そのものとから得られる収益を、病院の建設費などにあてるために建てられた。", "qas": [ { "question": "サン・ラファエル王立鉱夫病院と闘牛場では、世界遺産登録範囲が広いのはどっちかな?", "id": "de-043-07-000", "answers": [ { "text": "闘牛場", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "サン・ラファエル王立鉱夫病院と闘牛場はどちらが短期間で完成したの?", "id": "de-043-07-001", "answers": [ { "text": "闘牛場", "answer_start": 341, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "サン・ラファエル王立鉱夫病院も闘牛場も、建設を推進した監督官は誰だったの?", "id": "de-043-07-002", "answers": [ { "text": "フランシスコ・ハビエル・デ・ビリェガス", "answer_start": 383, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サン・ラファエル王立鉱夫病院が完成した年はいつ?", "id": "de-043-07-003", "answers": [ { "text": "1773年", "answer_start": 234, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "イドリヤはスロベニア西部のプリモルスカ地方の鉱山町で、1490年代に水銀鉱山が発見された。\n16世紀の時点ではその鉱山で水銀があまり多くは採れなかったが、17世紀以降増加し、1689年には2000キンタール程度の水銀を産出していた。\nしかし、同じ時期のアルマデンは1万キンタール程度、ウアンカベリカは15000キンタール以上であり、前述のようにその位置付けは補助的なものだった。\nイドリヤの水銀はヌエバ・エスパーニャに回された時期が多かったが、17世紀前半においては、ヌエバ・エスパーニャで水銀が不足している際にも、ペルーに優先的に回されていた。\nこれはヌエバ・エスパーニャがスペイン王に支払っていたのが10分の1税だったのに対し、ペルーが5分の1税を支払っていたことなどと関係があったのではないかと指摘されている。", "qas": [ { "question": "1689年頃に産出された水銀の量が2番目に多いのはイドリヤ、アルマデン、ウアンカベリカの中でどこですか?", "id": "de-043-08-000", "answers": [ { "text": "ウアンカベリカ", "answer_start": 142, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イドリヤで水銀の産出が増加し始めたのはいつ以降ですか?", "id": "de-043-08-001", "answers": [ { "text": "17世紀以降", "answer_start": 77, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1689年頃にアルマデンで産出された水銀の量はどれくらいありましたか?", "id": "de-043-08-002", "answers": [ { "text": "1万キンタール程度", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1689年頃の水銀産出量が少ないのはアルマデン、ウアンカベリカのどちらですか?", "id": "de-043-08-003", "answers": [ { "text": "ウアンカベリカ", "answer_start": 142, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "前述の通り、あくまでもアルマデンとウアンカベリカの補助的位置付けであったが、18世紀にウアンカベリカの生産量が下落すると、これを上回るようになった。\n水銀生産量は時期による乱高下が激しいが、参考までにいくつかの数値を示しておくと、1760年ごろのアルマデンの年平均生産量は9334キンタール、ウアンカベリカのそれは5901キンタール、これに対してイドリヤの1760年の生産量は3224キンタールであった。\nしかし、1790年ごろの年平均はアルマデンが16800キンタール、ウアンカベリカが2268キンタールに対し、イドリヤの1790年の生産量は10967キンタールであった。\n世界遺産としての価値を調査したICOMOSの評価書では、アルマデンに次いで世界で2番目に大きい水銀鉱山と位置付けられている。\nこの鉱山での採掘はアルマデンに先んじて1994年に停止されたが、イドリヤがそれまでの約500年間に世界に供給した水銀の量は、全体量の約8分の1に及ぶと見積もられている。", "qas": [ { "question": "1760年ごろの水銀の年平均生産量が最も少ない産地はどこですか?", "id": "de-043-09-000", "answers": [ { "text": "イドリヤ", "answer_start": 173, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1760年ごろの水銀の年平均生産量が2番目に少ない産地はどこですか?", "id": "de-043-09-001", "answers": [ { "text": "ウアンカベリカ", "answer_start": 146, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イドリヤがウアンカベリカの水銀生産の年平均量を上回ったのはいつ頃ですか?", "id": "de-043-09-002", "answers": [ { "text": "1790年ごろ", "answer_start": 207, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1790年ごろの水銀の年平均生産量が最も少ない産地はどこですか?", "id": "de-043-09-003", "answers": [ { "text": "ウアンカベリカ", "answer_start": 236, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "イドリヤでは、以下の物件が世界遺産を構成している。\nイドリヤ旧市街の世界遺産登録範囲は47.33haである。\n旧市街に含まれるのは、鉱物取引所、鉱山劇場、市庁舎、フランツ縦坑、アントニウスの中心坑道などである。\n鉱物取引所(Mine’swarehouse)は1764年に建設された建物で、スロベニアに残るバロック建築の中では最古の部類に属している。\n鉱山劇場(Mine’sTheater)は1769年に建てられたスロベニア最古の石造劇場であり、イドリヤの水銀鉱夫たちの文化的な面を伝えている。\n市庁舎(TownHall)は1898年に建設されたもので、ゼツェシオン様式を始め、ゴシック・リヴァイヴァルやルネサンス・リヴァイヴァルなど、多彩な建築様式が折衷された建築物である。\nフランツ縦坑は1792年に掘削が始まった縦坑で、現存する中ではイドリヤ鉱山で最古の部類に属する施設である。\nその名前は掘削が始まった年に神聖ローマ皇帝の座についたフランツ2世の名前にちなんでいる。\nアントニウスの中心坑道(Anthony’sMainRoad)は、鉱山事故に対する守護聖人でもあるパドヴァのアントニウスにちなんで命名された坑道で、その掘削は1500年に始まったものである。\n18世紀後半以降、中心坑道の地下の端に聖三位一体礼拝堂と、聖アントニウスの彫像、聖バルバラ(鉱山の守護聖人)の彫像などが相次いで建てられるようになった。", "qas": [ { "question": "フランツ縦坑の名前の由来は何ですか?", "id": "de-043-10-000", "answers": [ { "text": "フランツ2世", "answer_start": 419, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "市庁舎、鉱山劇場、鉱物取引所の中で最も遅く建設されたものは何ですか?", "id": "de-043-10-001", "answers": [ { "text": "市庁舎", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スロベニアで最も古い石造劇場とは何ですか?", "id": "de-043-10-002", "answers": [ { "text": "鉱山劇場", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "鉱物取引所の建築様式は何ですか?", "id": "de-043-10-003", "answers": [ { "text": "バロック建築", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イドリヤの精錬施設の世界遺産登録範囲は0.6haである。\n精錬施設はウアンカベリカやアルマデンの技術から影響を受けたものもあり、18世紀にはアルマデンのブスタマンテ炉が導入されたが、これはイドリヤでは「スペイン炉」と呼ばれた。\n精錬施設は場所自体が何度か変わったが、1880年に建設された木材の運搬などに水力を利用するイドリツァ川右岸の精錬施設は、イドリヤの鉱山が操業停止になるまで使われ続け、停止後は間もなく国定の記念物に指定された。\n水銀鉱山にとって木材は必要不可欠のものだった。\n坑内の補強のためには梁が必要になるし、道具には木製のものがしばしばある。\nさらには、水銀の精錬には加熱する工程が存在するため、燃料として大量の薪が必要になるのである。\nイドリヤではそうした木材の調達にイドリツァ川をはじめとする近隣の川や水路を利用し、その運搬を調整するための施設としてあちこちに堰や水門を作った。", "qas": [ { "question": "「スペイン炉」はどこから導入されたものですか?", "id": "de-043-11-000", "answers": [ { "text": "アルマデン", "answer_start": 42, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "イドリヤは市内に残る関連遺産の世界遺産登録に向けた準備を2006年に開始した。\n当初の計画ではスペインの大陸間道路であるカミノ・レアル(王の道)との関連から、ペルーのウアンカベリカの水銀鉱山との連携が模索された。\n続いて、銀の採掘との関連から、メキシコの銀鉱山の町サン・ルイス・ポトシとの連携に焦点が当てられた。\n2007年にスペイン、スロベニア、メキシコの3か国の世界遺産の暫定リストに掲載された時には、それぞれ大陸をまたぐカミノ・レアルの水銀の道のアルマデン、大陸をまたぐカミノ・レアルの水銀の道のイドリヤ、大陸をまたぐカミノ・レアルの水銀と銀の道のサン・ルイス・ポトシという名称での記載だった。", "qas": [ { "question": "イドリヤが世界遺産登録に向けて準備し出したのはいつ?", "id": "de-043-12-000", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 28, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大陸をまたぐカミノ・レアルの水銀の道のイドリヤという名称で世界遺産の暫定リストに掲載したのはいつ?", "id": "de-043-12-001", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 157, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "それらは第33回世界遺産委員会(2009年)で審査されたときは「大陸をまたぐカミノ・レアルの水銀と銀の二名法:アルマデン、イドリヤ、サン・ルイス・ポトシ」(TheMercuryandSilverBinomialontheIntercontinentalCaminoReal.Almadén,IdrijaandSanLuisPotosí)というひとまとめの名称で、上記3か国の推薦だった。\nそれに対する世界遺産委員会の決議は「情報照会」だった。\n情報照会とされた理由は、アマルガム法を使っていた他のメキシコ(旧ヌエバ・エスパーニャ副王領)の銀山との比較を行なった上でサン・ルイス・ポトシの位置づけを再考すべきことと、推薦名も大陸をまたぐカミノ・レアル(王の道)を基軸とするのではなく、アルマデンとイドリヤという二大水銀産地を重視した名称に直すべきことなどであった。", "qas": [ { "question": "第33回世界遺産委員会で審査された際に、メキシコの銀山との比較をした上で、どこの位置づけを再考すべきだと決議されましたか?", "id": "de-043-13-000", "answers": [ { "text": "サン・ルイス・ポトシ", "answer_start": 282, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "続いて第34回世界遺産委員会(2010年)で「水銀と銀の二名法。サン・ルイス・ポトシを伴うアルマデンとイドリヤ」(MercuryandSilverBinomial.AlmadénandIdrijawithSanLuisPotosí)というごくわずかに修正された名称で再審議されたときは、水銀鉱山遺跡をめぐる比較研究や顕著な普遍的価値について詳しい議論が展開されたものの、推薦資産の中でのサン・ルイス・ポトシの位置づけを再考すべきことなどの理由から、前年の決定よりも一段階下の「登録延期」の決定がなされた。\nなお、メキシコの推薦予定資産であったサン・ルイス・ポトシの歴史地区については、同じ年に別の世界遺産である「カミノ・レアル・デ・ティエラ・アデントロ」(2001年暫定リスト記載、2010年正式登録)の一部として、世界遺産リストに登録された。", "qas": [ { "question": "第34回世界遺産委員会で決定された内容は何?", "id": "de-043-14-000", "answers": [ { "text": "「登録延期」", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2010年にメキシコで世界遺産リストに登録された遺産は何ですか?", "id": "de-043-14-001", "answers": [ { "text": "「カミノ・レアル・デ・ティエラ・アデントロ」", "answer_start": 305, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "最後に焦点が当てられたのは、水銀採掘業をアルマデンとイドリヤの経済的・文化的発展に影響した技術的・産業的な進展との関連から捉えることだった。\nそれらの鉱山は世界最大級のものであるがゆえに、水銀生産史上の重要な技術集積などが行われてきた場所でもあったのである。\n新たな推薦ではサン・ルイス・ポトシが構成資産から外れ、それに伴いメキシコは推薦国から外れた。\nスペインとスロベニアによって、水銀生産とその影響に的を絞った推薦理由の練り直しが行われ、それに基づく推薦書が2011年2月に再提出された。\nそれに対して世界遺産委員会の諮問機関であるICOMOSは「登録」を勧告し、第36回世界遺産委員会(2012年)で正式に登録された。\nこの物件は、スペインの世界遺産の中ではコア渓谷とシエガ・ベルデの先史時代の岩絵遺跡群に続いて、スロベニアの世界遺産の中ではアルプス山脈周辺の先史時代の杭上住居群に続いて、それぞれの国にとって2件目の国境を越える世界文化遺産となった。\n\nなお、植民地時代に独占的に水銀を供給した3鉱山の最後のひとつであるウアンカベリカについては、ICOMOSの勧告書の中では世界遺産としての「顕著な普遍的価値」を強化しうるものとは認められたが、管理・保存計画の欠如や、完全性の証明の困難さが指摘されていた。\n2013年4月の時点では、ペルーの暫定リストにウアンカベリカ鉱山の名前はない。", "qas": [ { "question": "スペイン、メキシコ、スロベニアの中で世界遺産登録の推薦から外れた国はどこですか?", "id": "de-043-15-000", "answers": [ { "text": "メキシコ", "answer_start": 162, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アルマデンとイドリヤが正式に世界遺産登録されたのは何年ですか?", "id": "de-043-15-001", "answers": [ { "text": "2012年", "answer_start": 296, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "世界遺産委員会の諮問機関の名前は何?", "id": "de-043-15-002", "answers": [ { "text": "ICOMOS", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "スージー(チンパンジー)", "paragraphs": [ { "context": "スージー(英:Susie、1948年頃-1969年3月20日)は、恩賜上野動物園で飼育されていたメスのチンパンジーである。\n自転車乗りや竹馬、ローラースケートなどをこなす芸達者として知られ、上野動物園を代表する人気者としてしばしばマスコミに取り上げられた。\n1956年には、上野動物園を訪問した昭和天皇と握手を交わしている。", "qas": [ { "question": "スージーはどこで飼育されていたの?", "id": "de-044-00-000", "answers": [ { "text": "恩賜上野動物園", "answer_start": 33, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スージーの性別は?", "id": "de-044-00-001", "answers": [ { "text": "メス", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スージーはいつ生まれたの?", "id": "de-044-00-002", "answers": [ { "text": "1948年頃", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "上野動物園で飼育されていたメスのチンパンジーの名前は?", "id": "de-044-00-003", "answers": [ { "text": "スージー", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "上野動物園では、第2次世界大戦前に4頭のチンパンジーを導入した記録がある。\n最初の2頭はドイツからの輸入で、当時4歳のオスとメスがタンチョウ2つがいとの交換で1938年1月28日に来園した。\nオスは「ラインハルト」、メスは「バビーナ」という名で、自転車乗りなどの芸を披露して人気を博することになった。\nしかし、2頭は結核に罹患したために1939年6月と9月に相次いで死亡してしまった。\n次の2頭も1941年に同じくドイツから購入された。\nこのときの内訳はオス2頭、メス1頭であったが、そのうちオスの1頭は熊本市動植物園に送られている。\n残った2頭は上野動物園の人気者となったがやはり短命で、オスが1943年5月2日に肺炎で死亡し、メスも1945年7月に死亡している。", "qas": [ { "question": "「ラインハルト」は何年に死亡しましたか?", "id": "de-044-01-000", "answers": [ { "text": "1939年", "answer_start": 168, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1941年にドイツから購入されたチンパンジーの内訳はオスとメスどちらが多かったですか?", "id": "de-044-01-001", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1941年にドイツから購入された上野動物園のチンパンジーのうち、オスとメスはどちらが長生きしましたか?", "id": "de-044-01-002", "answers": [ { "text": "メス", "answer_start": 315, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「ラインハルト」と「バビーナ」の死因は何だったの?", "id": "de-044-01-003", "answers": [ { "text": "結核", "answer_start": 158, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "スージーが上野動物園に来園したのは、第2次世界大戦の終了後、1951年のことであった。\n当時3歳のスージーは、オスのチンパンジーで当時7歳の「ビル」(Bill)とともにアメリカ合衆国カリフォルニア州ハーモサビーチのマリン・エンタープライズという動物商を通して同年5月18日に上野動物園に到着した。\nスージーは、1950年10月に同じ動物商から購入されたカリフォルニアアシカのオス「ポチ」とともに、1952年の上野動物園開園70周年記念祭のステージで芸を披露すべく訓練されることになった。\nスージーとポチの訓練を担当した飼育係2人にはともに動物の調教の経験はなく、兵庫県の宝塚動植物園まで出向いて調教の心得を学ぶほどであった。\nこのときの調教計画では、スージーは「ピアノ弾き、自転車乗り、食事、手押し車、棒渡り、竹馬」、ポチには「アルプス越え、拍手、輪投げ、横転、逆立ち、傘乗り」が教え込まれることに決まった。", "qas": [ { "question": "スージーと「ビル」はどちらが先に生まれたの?", "id": "de-044-02-000", "answers": [ { "text": "「ビル」", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "上野動物園開園70周年記念祭のステージで芸を披露することになったのはスージーと誰ですか?", "id": "de-044-02-001", "answers": [ { "text": "ポチ", "answer_start": 249, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スージーとポチはどちらが先に上野動物園に来園しましたか?", "id": "de-044-02-002", "answers": [ { "text": "ポチ", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ポチは何の動物でしたか?", "id": "de-044-02-003", "answers": [ { "text": "カリフォルニアアシカ", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "訓練期間中は2人の飼育係は班を組み、一方の休務日にはもう一方が相手の動物の面倒を見ていた。\nスージーもポチも普段は従順だったが、飼育係が代番となると反抗することがあり、2人の飼育係はともに生傷が絶えないありさまだった。\n担当の飼育係にも時には従わないことがあって、飼育係がスージーに一輪車を教えこんでいる際に、スージーは隙を見て逃げ出した。\n飼育係は当然スージーを追いかけたが、1.5メートルの高さがあるステージから飛び下りた際にかかとをくじいてしまい、翌日から半月ほど休養を余儀なくされた。\n賢いスージーは飼育係の負傷を目の当たりにして反省したようで、代番の飼育係にも反抗するようなことはなくなった。\n負傷が回復した飼育係が訓練を再開すると、スージーは一輪車に熱心に取り組んで自分の得意芸とした。\n上野動物園開園70周年記念祭の当日、スージーとポチは飼育係の熱心な訓練の成果もあって見事な芸を披露し、ステージは大成功を収めた。\n記念祭の終了後も、引き続き野外劇場で芸を見せ、本放送が開始されて間もないころのテレビにも出演してスージーとポチは一層の人気を博することになった。", "qas": [ { "question": "スージーの得意芸は何に乗ることですか?", "id": "de-044-03-000", "answers": [ { "text": "一輪車", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スージーは一輪車以外にも竹馬、自転車、綱渡りやローラースケートなどの多彩な芸を習得していた。\nステージ初出演の昭和27年度(1952年)にスージーが見せた芸はピアノ弾き、三輪車乗り、食事だったが、翌年には自転車乗り、ベル鳴らし、お茶入れ、マリ投げ、綱渡りなどと芸域を広げていた。\nスージーが愛用していた自転車は、特別製のものであった。\n人間の子供が乗るサイズの自転車ではサドルの位置が低くて観客に見えづらいため、サドルとペダルの位置をスージーに合わせて高い位置に付け直したが、この改造は自転車の製造業者泣かせの難題となった。\nそのため、上野動物園側ではサドルの下に製造業者の名前を入れた円板を広告代わりに取り付けてせめてもの埋め合わせとした。", "qas": [ { "question": "スージーのステージ初出演は西暦何年でしたか?", "id": "de-044-04-000", "answers": [ { "text": "1952年", "answer_start": 62, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "昭和27年度にスージーが見せた芸はピアノ弾き、三輪車乗りと何でしたか?", "id": "de-044-04-001", "answers": [ { "text": "食事", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "自転車乗り、ピアノ弾き、綱渡りの中で昭和27年度にスージーが見せた芸は何ですか?", "id": "de-044-04-002", "answers": [ { "text": "ピアノ弾き", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ピアノ弾き、三輪車乗り、お茶入れの中で1953年にスージーが見せた芸は何ですか?", "id": "de-044-04-003", "answers": [ { "text": "お茶入れ", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スージーはこの自転車に乗って、住居としていた類人猿舎と野外劇場の間を往復していた。\n野外劇場でのステージが終わると、飼育事務所に立ち寄って、当時飼育課長を務めていた林寿郎(後に上野動物園園長及び多摩動物公園初代園長となった)から10円玉1個を受け取り、売店に立ち寄ってキャラメルを購入することを日課にしていた。\n売店でもスージーの用件を心得ていて、キャラメルとおつりを手渡した。\nスージーは飼育事務所に戻ると、おつりを付き添っていた飼育係に渡し、それからキャラメルの箱を開けていた。\nスージーのこの行動は、飼育係が売店でキャラメルを購入するのを見ていて覚えたものだった。\nスージーは購入したキャラメルを時折他の飼育係にもプレゼントすることがあったが、その対象者は限られており、いつしか飼育係たちの間ではスージーからのキャラメルプレゼントがステータスシンボルとなっていた。\n当時上野動物園に獣医として勤務していた中川志郎(後に多摩動物公園園長、上野動物園園長、茨城県自然博物館館長、日本博物館協会会長などを歴任した)は、1954年7月29日に突然スージーからキャラメルを差し出されて驚いたという。\n後に中川は著書で「あんなに美味しいキャラメルを食べたことがない」とその感激を記している。", "qas": [ { "question": "ステージ終了後にスージーは誰から10円玉をもらっていたの?", "id": "de-044-05-000", "answers": [ { "text": "林寿郎", "answer_start": 82, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ステージ終了後にスージーが購入していたものとは?", "id": "de-044-05-001", "answers": [ { "text": "キャラメル", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中川志郎がスージーからキャラメルをプレゼントされたのはいつ?", "id": "de-044-05-002", "answers": [ { "text": "1954年7月29日", "answer_start": 459, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "多摩動物公園園長、上野動物園園長、茨城県自然博物館館長を歴任した人物とは?", "id": "de-044-05-003", "answers": [ { "text": "中川志郎", "answer_start": 405, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スージーは1956年に野外劇場のステージから引退することになり、11月3日に引退興行と2代目スージーこと「メリー」の襲名披露興行が開催された。\n引退後の1957年1月20日からは、ビルと同居を始め、関係は良好であった。\nただし人間に育てられたビルは交尾を嫌い、2頭の間には子供は生まれなかった。", "qas": [ { "question": "スージーが野外劇場のステージから引退したのはいつですか?", "id": "de-044-06-000", "answers": [ { "text": "1956年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2代目スージーの名前は?", "id": "de-044-06-001", "answers": [ { "text": "「メリー」", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "引退後にスージーは誰と同居したの?", "id": "de-044-06-002", "answers": [ { "text": "ビル", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スージーの引退興行はいつ行われたの?", "id": "de-044-06-003", "answers": [ { "text": "11月3日", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "スージーは野外劇場に出演中だった1955年7月に「大腸瘻」という病気に罹患した。\nこの病気は大腸炎の結果腸に穴ができ、そこから腸の内容物が腹腔内に入って腹膜炎を起こして大きな膿瘍ができるというもので、罹患の原因は不明だった。\n類人猿に属するスージーの治療には人間の医師が獣医よりも適切であろうとの判断から、上野動物園は都立駒込病院の医師に手術の執刀を依頼した。\n手術は成功し、スージーの「模範患者」としての振る舞いは執刀にあたった医師を驚かせるほどであった。\nスージーは約2か月の入院生活を過ごし、無事に回復している。\nしかし1969年3月にこの病気が再発し、再び手術を受けたものの、3月20日に死亡した。\n最期を看取った増井光子によれば、こん睡状態だったスージーは最期に一瞬だけ意識を回復して目を開けた。\nそれは長年スージーと苦楽を共にした飼育係が駆けつけて、その名を呼んだからであった。\nスージーは飼育係の顔を見つめ、叫び声をあげるとそのまま絶命した。\n飼育係は「スージーが、さよなら!って言ったんだよ」と言っていた。", "qas": [ { "question": "スージーの死亡原因となった病気は何?", "id": "de-044-07-000", "answers": [ { "text": "「大腸瘻」", "answer_start": 24, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スージーの最期を看取った女性は誰ですか?", "id": "de-044-07-001", "answers": [ { "text": "増井光子", "answer_start": 311, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大腸瘻が再発したのはいつですか?", "id": "de-044-07-002", "answers": [ { "text": "1969年3月", "answer_start": 263, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1955年に患った大腸瘻の手術で、スージーはどれくらいの期間入院したの?", "id": "de-044-07-003", "answers": [ { "text": "約2か月", "answer_start": 235, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "スージーの死後、ビルは1992年7月22日に48歳の高齢で死亡した。\n1969年8月29日に来園したメスの「ベレー」とも交尾することはなく、1985年1月24日に誕生したメスの「ルビー」は人工授精を試みた結果の子であった。\nルビーは1988年12月1日にインドのニューデリー動物園に贈られ、残ったベレーも1993年11月2日に多摩動物公園に移動して、上野動物園でのチンパンジーの飼育展示は終了することになった。", "qas": [ { "question": "スージーとビルはどちらが先に死亡したの?", "id": "de-044-08-000", "answers": [ { "text": "スージー", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビルの子の名前は?", "id": "de-044-08-001", "answers": [ { "text": "「ルビー」", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ルビー」の母親チンパンジーの名前は?", "id": "de-044-08-002", "answers": [ { "text": "「ベレー」", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベレーの移動先はどこでしたか?", "id": "de-044-08-003", "answers": [ { "text": "多摩動物公園", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "スージーの名をさらに高めたのは、引退した年、1956年4月20日に昭和天皇が上野動物園を訪問したときに起こったハプニングであった。\n昭和天皇は1950年11月15日の訪問を最初として、第2次世界大戦終戦後の上野動物園への訪問は合計で6回を数え、このときは2回目の訪問であった。\n昭和天皇と香淳皇后は、当時上野動物園園長を務めていた古賀忠道の案内で園内を観覧し、野外劇場でのステージで行われた動物たちの舞台を楽しんでいた。\nステージの終了後、古賀の先導でサル山方面に向かっていた昭和天皇と香淳皇后一行の前に、白のベレー帽と同色のブラウス、チェック模様の赤いスカートという舞台衣装のままで、スージーが自転車に乗って現れた。\n当初の予定では、スージーは一行から10メートルほど離れた位置で見送りを務める予定だった。\nしかし、見物人たちがスージーの出現で大きく道をあけるかたちとなったため、スージーは昭和天皇に近寄っていき、ひょいとその手を差し出した。\n昭和天皇は一瞬戸惑いの表情を見せたものの、すぐにスージーに手を差し出して、しっかりと握手を交わした。", "qas": [ { "question": "スージーと握手を交わした天皇とは誰ですか?", "id": "de-044-09-000", "answers": [ { "text": "昭和天皇", "answer_start": 423, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "昭和天皇と握手をした時、スージーは何を被っていましたか?", "id": "de-044-09-001", "answers": [ { "text": "白のベレー帽", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1956年4月の時期に上野動物園の園長を務めていた人は誰ですか?", "id": "de-044-09-002", "answers": [ { "text": "古賀忠道", "answer_start": 165, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1956年4月20日に昭和天皇が上野動物園を訪問したのは何回目となりますか?", "id": "de-044-09-003", "answers": [ { "text": "2回目", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "実は、このハプニングをおぜん立てしたのは当時上野動物園で報道陣の担当を務めていた小森厚(後に多摩動物公園と上野動物園で飼育課長を務めた)であった。\n昭和天皇と香淳皇后の上野動物園訪問にあたって、東京都の広報担当者が指定した撮影場所は報道陣に不評だった。\n昭和天皇と動物が一緒にいる場面を撮影したいのに、この場所では昭和天皇の後ろ姿しか写せないというのがその理由であった。\n小森は報道陣に「よい場所を設定するから、そのチャンスを逃がさないように」と約束した。\n小森はスージーの飼育係と示し合わせて、自転車に乗ったスージーを昭和天皇一行の前に進めさせた。\nしかし、スージーと昭和天皇が握手を交わすことまでは小森も予期していなかった。\n報道カメラマンたちは、絶好のシャッターチャンスを逃がさなかった。\n昭和天皇とスージーが握手を交わす場面の写真は、その日の夕刊各紙の紙面を大きく飾った。\n翌日、園長室に前日付の夕刊紙の束を抱えた自転車の製造業者社長が訪れた。\n紙面には、昭和天皇とスージーの他に、製造業者の名前入りの円板もしっかりと写りこんでいた。\n社長は大喜びで、「今後、スージー様の自転車は、一切わが社で作らせていただきます」と請け合い、その後スージーの自転車が新調されるたびに、無償で提供されるようになった。\nこの当時はチンパンジーの性質や凶暴性についてはまだ未解明であり、動物園でもチンパンジーを擬人化して展示したり、観客に直に接せさせたりすることが一般に行われていた。\nまたスージーが雌でまだ幼獣であったことも天覧に至った理由と考えられる。", "qas": [ { "question": "当時の上野動物園で報道陣の担当を務めていた人は誰ですか?", "id": "de-044-10-000", "answers": [ { "text": "小森厚", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "このハプニングをおぜん立てした人は誰だったの?", "id": "de-044-10-001", "answers": [ { "text": "小森厚", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小森厚が飼育課長を務めたのは多摩動物公園とどこですか?", "id": "de-044-10-002", "answers": [ { "text": "上野動物園", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "国崎町", "paragraphs": [ { "context": "国崎町(くざきちょう)は、三重県鳥羽市の町名。\n国崎は文字通り「くにざき」と読むこともある紀伊半島および志摩半島の最東端に位置し、それが町名の由来となった。\n2010年10月1日現在の面積は3.572644km2だ。\n伊勢神宮の神饌として代表的なアワビはこの国崎町で調製されている。\n「石鏡女に国崎男」と言われ、国崎町には美男が多いとされている。", "qas": [ { "question": "2010年10月1日当時の国崎町の面積はどれくらいだったの?", "id": "de-045-00-000", "answers": [ { "text": "3.572644km2", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "三重県鳥羽市の美男が多いとされる町とはどこ?", "id": "de-045-00-001", "answers": [ { "text": "国崎町", "answer_start": 156, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "伊勢神宮の神饌として代表的な食材は何?", "id": "de-045-00-002", "answers": [ { "text": "アワビ", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "鳥羽市南東部に位置し、離島部を除けば鳥羽市の最東端にある。\n大王崎などと並ぶ海の難所として知られた地域である。\n東側が太平洋に面し、沿岸は海岸侵食によって形成された断崖が多い。\n集落は南東部の前之浜から丘陵部にかけて広がる。\n海岸段丘に集落が展開し、その背後には畑作地があり、水田はわずかな窪地や谷あいに帯状に形成された。\n畑地の奥は広大な森林地帯であるが、土地の栄養分が貧弱なため用材を生産する林業は発達していない。", "qas": [ { "question": "国崎町と共に海の難所として知られている地域はどこですか?", "id": "de-045-01-000", "answers": [ { "text": "大王崎", "answer_start": 30, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "北および西は浦村町、北東は石鏡町(いじかちょう)、南は相差町(おうさつちょう)と接する。\n国崎町は海間谷(かいまだに)と里谷(さとだに)の2つのタニ(谷)に分けられ、それぞれのタニはさらに2つのハイ(配)に分かれる。\nハイは他の地域のクミ(組)と同じである。", "qas": [ { "question": "海間谷はいくつのハイに分かれていますか?", "id": "de-045-02-000", "answers": [ { "text": "2つ", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "里谷はいくつのハイに分かれているの?", "id": "de-045-02-001", "answers": [ { "text": "2つ", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "国崎町の南に隣接している町とは?", "id": "de-045-02-002", "answers": [ { "text": "相差町", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "国崎町の北東に隣接している町とは?", "id": "de-045-02-003", "answers": [ { "text": "石鏡町", "answer_start": 13, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "少なくとも古代より、伊勢神宮に奉納する熨斗鮑(のしあわび)をはじめとする御贄を産出する地であった。\n神代には倭姫命が巡幸した地であると言われ、海女・お弁が命に獲った鮑を献上したとされる。\n鎧崎や大津など5か所で遺跡が見つかっており、古くからの人々の居住が窺える。\n古記録では「国崎神戸」(国崎本神戸、国崎嶋とも)と書かれ、志摩国に3か所ある朝夕御饌の供進地の1つであった。", "qas": [ { "question": "お弁が倭姫命に捧げたものとは何だったの?", "id": "de-045-03-000", "answers": [ { "text": "鮑", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "国崎では御贄をどこに献上していたの?", "id": "de-045-03-001", "answers": [ { "text": "伊勢神宮", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "古い記録での国崎の地名は何とされていましたか?", "id": "de-045-03-002", "answers": [ { "text": "「国崎神戸」", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "天永2年(1111年)の記録『国崎神戸文書』では、内宮や外宮への供祭物として水取鮑・玉抜鮑・甘掻鮑・津布・荒蠣・塩を、直会料や六節御贄として魚貝類若干を納めたほか、「丁部」として労役が課されていた。\n国崎の船に関する記録がいくつか残されており、文明13年(1481年)には勢田川を通航する国崎舟に対して「新役」が課されたことを内宮に訴え、同17年(1485年)に国崎船が北畠氏によって一志郡矢野浦で拿捕(だほ)される事件が発生し、永禄8年(1565年)には大湊へ3艘の国崎船が入港していることが分かっている。", "qas": [ { "question": "国崎船が北畠氏によって一志郡矢野浦で拿捕される事件が発生したのは西暦何年でしたか?", "id": "de-045-04-000", "answers": [ { "text": "1485年", "answer_start": 174, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "内宮や外宮への供祭物の記録がされている書物は何ですか?", "id": "de-045-04-001", "answers": [ { "text": "『国崎神戸文書』", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大湊へ3艘の国崎船が入港したのは西暦何年でしたか?", "id": "de-045-04-002", "answers": [ { "text": "1565年", "answer_start": 220, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "中世に入ると、それまで別個の地域として扱われてきた大津と合併して「大津国崎神戸」となったようである。\nまた大津集落は明応7年(1498年)に発生した明応地震による津波で流失した。\n鎌倉時代には伊勢神宮の権力が低下し、各地の神戸が神宮の支配に抵抗し、その支配から離脱したにもかかわらず、国崎では多少の抵抗や代償を要求することはあっても積極的に神宮から離脱しようとはしなかった。\nこれは、抵抗によって調進量を減少させることに成功した上、神宮の威を借りて豊かな漁場を住民が独占的に利用できたことや上述の国崎船に関する事件の際に神宮が対処したことが理由として考えられる。", "qas": [ { "question": "中世での国崎の地名はどのように変わりましたか?", "id": "de-045-05-000", "answers": [ { "text": "「大津国崎神戸」", "answer_start": 32, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大津集落が流失した原因は何だったの?", "id": "de-045-05-001", "answers": [ { "text": "津波", "answer_start": 81, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "伊勢神宮の権力が低下したのはいつの時代からですか?", "id": "de-045-05-002", "answers": [ { "text": "鎌倉時代", "answer_start": 90, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "江戸時代には、志摩国答志郡国府組に属し、国崎村として鳥羽藩の配下にあった。\n17世紀には神領への復帰を2度申し立てたが、石鏡村との境界争いで神宮が国崎村を有利に導けなかったことから、次第に鳥羽藩と神宮の二重支配への疑問が村人の中から挙がり、調進を停止する旨を神宮に通告した。\nその後は神宮から対価を得て調進したり、山田奉行や鳥羽藩からの圧力を受ける形で調進を続けた。", "qas": [ { "question": "江戸時代に国崎はどこの藩に入っていたの?", "id": "de-045-06-000", "answers": [ { "text": "鳥羽藩", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "村高は延享3年(1746年)時点では176石余だったが、天保(1830年から1844年)には168石余に減少している。\n毎年6月1日には、国崎村をはじめとして神島・菅島・答志・石鏡・相差・安乗の7村から海女が集まる「御潜神事」が挙行され、アワビ採取を行った。\n神事に集まる海女の滞在費用は国崎村持ちであり、重い負担であった。\n神事は明治4年まで続いた。\n宝永地震(宝永4年=1707年)では津波によって大半の漁船・漁具が流され、生活は困窮、捕鯨ができなくなったという。", "qas": [ { "question": "村高が多かったのは1746年と1830年から1844年のどちらですか?", "id": "de-045-07-000", "answers": [ { "text": "1746年", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「御潜神事」は毎年いつ行われていたの?", "id": "de-045-07-001", "answers": [ { "text": "6月1日", "answer_start": 62, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「御潜神事」で採取されていたものは何?", "id": "de-045-07-002", "answers": [ { "text": "アワビ", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「御潜神事」はいつまで継続されていたの?", "id": "de-045-07-003", "answers": [ { "text": "明治4年", "answer_start": 166, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "明治維新期は1874年(明治7年)に国崎戸長役場、1878年(明治11年)に三重県第十六区的矢組戸長役場、1879年(明治12年)に石鏡村国崎村戸長役場、1882年(明治15年)に国崎村戸長役場、1884年(明治17年)に相差村外五ヶ村戸長役場と目まぐるしく所属を変えたが、町村制施行時には相差村などと合併して長岡村の大字国崎となり、昭和の大合併により鳥羽市の1町・国崎町となった。\n伊勢神宮の御厨からの御贄貢進は1871年(明治4年)に制度としては廃止されたが、国崎の熨斗鮑の献上が絶えることはなかった。\n明治20年代(1887年-1897年)になると海女の集団出稼ぎが始まり、北海道の利尻島・礼文島・宗谷、三陸海岸の釜石、伊豆半島や南紀でのテングサ採取、竹島でのアワビ採取に従事し、明治中期以降「出稼ぎにいってこなければ一人前でない」と言われるほど女性の間で一般化した。\n出稼ぎの発達の背後にはボラ網漁の衰退があり、1939年(昭和14年)には完全にボラ網漁が中止された。\n旧漁業法により1901年(明治34年)、国崎漁業組合が発足し、その後名称を変えながらも国崎の自治組織と付かず離れずの関係を維持してきた。", "qas": [ { "question": "国崎戸長役場の次はどこに所属していたの?", "id": "de-045-08-000", "answers": [ { "text": "三重県第十六区的矢組戸長役場", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "海女の集団出稼ぎが始まった時期はいつですか?", "id": "de-045-08-001", "answers": [ { "text": "明治20年代", "answer_start": 254, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "国崎村戸長役場の前はどこに所属していたの?", "id": "de-045-08-002", "answers": [ { "text": "石鏡村国崎村戸長役場", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "国崎村戸長役場の次はどこに所属していたの?", "id": "de-045-08-003", "answers": [ { "text": "相差村外五ヶ村戸長役場", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "戦後は観光業が盛んになり、旅館や民宿などの宿泊施設が多く開業し、パールロードには鳥羽展望台が建設された。\n鳥羽展望台は三重県庁の外郭団体である財団法人三重ビジターズ推進機構が運営していたが、2002年(平成14年)から有限会社ノアの運営となった。\n国崎町内にあった鳥羽市立国崎小学校は、2011年(平成23年)3月31日に廃校となり、弘道小学校へ統合された。\n旧国崎小学校校舎は、2013年(平成25年)4月から鳥羽市立相差保育所の仮園舎として利用される。", "qas": [ { "question": "戦後に盛んになった産業は何ですか?", "id": "de-045-09-000", "answers": [ { "text": "観光業", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "鳥羽市立国崎小学校が廃校になったのは何年でしたか?", "id": "de-045-09-001", "answers": [ { "text": "2011年", "answer_start": 143, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "鳥羽市立国崎小学校は廃校後、どこに統合されたの?", "id": "de-045-09-002", "answers": [ { "text": "弘道小学校", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "現在、鳥羽展望台を運営している会社は何ですか?", "id": "de-045-09-003", "answers": [ { "text": "有限会社ノア", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "生活慣行においては、両墓制と隠居制度が行われていた。\n地縁・血縁・年齢階梯によって生活秩序が保たれ、階層間の支配関係はほとんど見られない。\n海女の関係する祭りとして、1月2日に「磯端はじめ」としてアワビ採取の真似を行って1年の豊漁を願う。\n1月5日には八幡祭、11月18日には二船祭を執り行う。", "qas": [ { "question": "先に行われる祭りは二船祭と八幡祭のどちらですか?", "id": "de-045-10-000", "answers": [ { "text": "八幡祭", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "八幡祭よりも先に行われる海女の祭りとは何?", "id": "de-045-10-001", "answers": [ { "text": "「磯端はじめ」", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "八幡祭の開催日はいつですか?", "id": "de-045-10-002", "answers": [ { "text": "1月5日", "answer_start": 120, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "二船祭、八幡祭、「磯端はじめ」の中で最も遅く行われる祭りは何ですか?", "id": "de-045-10-003", "answers": [ { "text": "二船祭", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1月6日に「海の七草」を家長が刻み、翌1月7日に七草粥にして食す「ナナクサタタキ」という風習がある。\n2017年(平成29年)1月に国崎町の「くざき鰒おべん企業組合」がワカメ、黒海苔、アオサ、ヒジキ、アラメ、アカモク、メカブの「七草」を乾燥・粉末化し、炊き込みご飯にして食べる商品を開発、販売開始した。", "qas": [ { "question": "「ナナクサタタキ」に入れる食材とは何ですか?", "id": "de-045-11-000", "answers": [ { "text": "「海の七草」", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "七草粥を食す前日に家長は何を刻みますか?", "id": "de-045-11-001", "answers": [ { "text": "「海の七草」", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "海の七草を乾燥・粉末化させて食品を開発した組織は何ですか?", "id": "de-045-11-002", "answers": [ { "text": "「くざき鰒おべん企業組合」", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "基幹産業は水産業である。\n農業も行われ、戦前までは主として自給用であったが、戦後は米・タマネギ・サツマイモなどを町外に販売できるまでに規模を拡大した。\n水産業は国崎町の重要な産業であり、1980年代初頭には93%が漁業に従事していたが、専業漁家はなかったという。\n1960年(昭和35年)には専業漁家が14世帯存在し、町内総生産の74%を漁業が占めた。\n農業生産上優位にある家庭では漁業生産上も優位にある傾向が見られ、国崎では農業と漁業が不可分であることを示す。\n男性は刺網などの沿岸漁業、女性は海女漁業に従事する。\nまた近隣の集落では見られない男性の海士も存在する。\n三重県教育委員会による調査では、2010年(平成22年)現在、女性の海女が62名、男性の海士が5名であった。\n1937年(昭和12年)には男性の海士だけで50名いた。", "qas": [ { "question": "専業漁家の数が多かったのは1960年と1980年代初頭のどちらでしたか?", "id": "de-045-12-000", "answers": [ { "text": "1960年", "answer_start": 132, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "男性の海士の人数が多かったのは1937年と2010年のどちらですか?", "id": "de-045-12-001", "answers": [ { "text": "1937年", "answer_start": 340, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2010年における女性の海女と男性の海士はどちらの方が人数が多かったですか?", "id": "de-045-12-002", "answers": [ { "text": "女性の海女", "answer_start": 316, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "国崎町の女性は何の事業に従事することが多いですか?", "id": "de-045-12-003", "answers": [ { "text": "海女漁業", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "国崎の地先漁場は南北約4km、東西(沖合)約1kmであり、北から順に、上境・あらめした・ながま・鎧崎・前浜・みじもの・まえあらめ・下境と呼ばれる8つの区画に細分されている。\n国崎ではこれらの区画を輪番で使用し、禁漁区に規定以下のアワビを放流することで水産資源の保護に努めてきた。\nこうした「漁場輪番制」は1925年(大正14年)に制度化された。\n海女漁業は1960年代の国崎町の漁業生産の大部分を占め、4分の3はアワビであった。\n海女の年間出漁日数は100日と鳥羽市内では桃取町に次いで多い。\nアワビの採取が行われる「口開け」は年間約40日であり、この間は男女を問わずほぼすべての労働力がアワビ採取に投入されていた。\n1年の操業は、水揚げ量の合計が規定量に達すると停止していたが、資源の減少により規定は撤廃されている。\nまた乱獲防止のためウェットスーツは1戸につき1着まで、という規定があったが、廃止された。", "qas": [ { "question": "国崎の地先漁場は南北と東西のどちらの距離が長いですか?", "id": "de-045-13-000", "answers": [ { "text": "南北", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "国崎の地先漁場はいくつの区画に分かれていますか?", "id": "de-045-13-001", "answers": [ { "text": "8つ", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鳥羽市内で海女の年間出漁日数が最も多い町はどこ?", "id": "de-045-13-002", "answers": [ { "text": "桃取町", "answer_start": 236, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "鳥羽市内で海女の年間出漁日数が2番目に多い町はどこ?", "id": "de-045-13-003", "answers": [ { "text": "国崎", "answer_start": 87, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "国崎漁港(くざきぎょこう)は、三重県鳥羽市国崎町にある第1種漁港だ。\n1953年(昭和28年)3月5日に漁港指定を受け、鳥羽市が管理する。\n海の難所であり、長い間漁港を築くことが困難であった。\n築港に当たっては、住民による無報酬のアワビ採取が行われた。\n1963年(昭和38年)度の「整備計画漁港」指定以来、24年をかけて港の修築が行われ、2001年(平成13年)度からは沖合防波堤の建設を進めている。\n2009年(平成21年)の属地陸揚量と属人漁獲量はともに134.6t、属地陸揚金額は95百万円である。", "qas": [ { "question": "国崎漁港を管理しているのはどこですか?", "id": "de-045-14-000", "answers": [ { "text": "鳥羽市", "answer_start": 60, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "国崎町にある第1種漁港とは何ですか?", "id": "de-045-14-001", "answers": [ { "text": "国崎漁港", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2009年の属地陸揚量はどれくらいでしたか?", "id": "de-045-14-002", "answers": [ { "text": "134.6t", "answer_start": 230, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2009年の属地陸揚金額はいくらでしたか?", "id": "de-045-14-003", "answers": [ { "text": "95百万円", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "海士潜女神社は鎧崎にある神社で、倭姫命にアワビを献上したお弁を「潜女神」として祀る。\n常福寺は海間谷にある、曹洞宗の仏教寺院。\n山号は宝剣山だ。\n元は大津にあったが明応地震による津波で集落ごと滅失し、小字里中に移り、後廃寺となったが正保元年(1645年)に厳州によって再興された。\n1919年(大正8年)に里谷にあった海蔵寺の本尊・不動明王が常福寺に移された。", "qas": [ { "question": "常福寺の山号は何?", "id": "de-045-15-000", "answers": [ { "text": "宝剣山", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "どんぐりころころ", "paragraphs": [ { "context": "「どんぐりころころ」は、大正時代に作られた唱歌、広義の童謡だ。作詞は青木存義、作曲は梁田貞が担当した。七五調四行詩のいわゆる今様の形式の作品であり、2番まである歌詞は起承転結のはっきりとした物語性のある構成となっている。青木の没後、終戦直後の1947年に小学校用の教科書(音楽)で使用されたことを契機に広く歌われるようになり、その普及ぶりから金田一春彦に「日本の三大童謡の一つ」とも評されている。2007年に「日本の歌百選」に選ばれた。作詞、作曲ともに著作権の保護期間が満了しており、パブリックドメインとなっている。", "qas": [ { "question": "「どんぐりころころ」の作曲は誰がやったの?", "id": "de-046-00-000", "answers": [ { "text": "梁田貞", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2007年、「どんぐりころころ」は何に選ばれたか。", "id": "de-046-00-001", "answers": [ { "text": "「日本の歌百選」", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "金田一春彦に「日本の三大童謡の一つ」とも評された歌は何ですか。", "id": "de-046-00-002", "answers": [ { "text": "「どんぐりころころ」", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "大正時代に青木存義によって作られた唱歌集『かはいい唱歌』が初出である。発表年は2説ある。これは初出の『かはいい唱歌二冊目』の奥付が、初版本とその後の重版本とで異なることに起因する。巷に比較的現存している部数が多い重版本では、「一冊目」と同一日付の「大正十年十月」発行との記載があり、この1921年10月であるとする説が主流である。もう1説は、初版本に由来する。青木の故郷である松島町では昭和後期から青木の歌を歌い継ごうとする動きが活発となり、そうした活動を通じて地元の郷土史家らが青木家の関係者から本作が掲載されている「二冊目」を譲り受けた。この初版本の奥付には「大正十一年五月」との記載があるとされる。", "qas": [ { "question": "唱歌集『かはいい唱歌』は誰が作った?", "id": "de-046-01-000", "answers": [ { "text": "青木存義", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "唱歌集『かはいい唱歌』の発表年は幾つの説かあるか。", "id": "de-046-01-001", "answers": [ { "text": "2説", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「どんぐりころころ」が掲載された『かはいい唱歌』は「幼稚園又は小学校初年級程度」の子どもを対象として作成されている。青木は当時「文部省図書監修官」及び「小学校唱歌教科書編纂委員」の任にあったものの、この唱歌集は私的に民間の出版社から出したものであり、いわゆる文部省編纂の「文部省唱歌」にはあたらない。「一冊目」「二冊目」ともに10編、計20編が収録されており、本作品は「二冊目」の第7番目に掲載されている。作詞は全て青木自身であり、青木の詞に曲をつけた作曲者は計12名、本作品の作曲者である梁田貞は『兎と狸』と併せ計2曲の作曲を担当している。青木の前職は東京音楽学校の教授であり、作曲者は主にその在学生、卒業生、そして同学校で教鞭を執った者で構成されている。梁田も卒業生である。だが作曲の依頼が、青木自身によって成されたものかは不明である。青木と梁田の個人的接点が見つからないため、作曲者の選定及び依頼は、青木ではなく当時音楽関連の書籍を多く出版していた出版社(共益商社書店)が主導で行ったのではないかと考える研究者もいる。", "qas": [ { "question": "「どんぐりころころ」が掲載されている唱歌集のタイトルは何?", "id": "de-046-02-000", "answers": [ { "text": "『かはいい唱歌』", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「どんぐりころころ」の歌詞は誰が書いたの?", "id": "de-046-02-001", "answers": [ { "text": "青木", "answer_start": 208, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "戦後においては一般に広義の童謡にカテゴライズされる「どんぐりころころ」は、初出本の題名にもあるとおり青木自身は「唱歌」であるとし、「学校や家庭で」歌ってもらえれば本懐であるとしている。しかし発表当時の教育現場では、本作品を歌うことは原則上はできなかった。これは1894年12月に出されていた文部省の訓令により、小学校の授業で使用できる唱歌は文部大臣の認可を受けたものに限ると制限が加えられていたためである。本作品が小学校で正規に歌うことが可能となったのは、昭和に入ってからである。昭和初期は文部省自らが新たな唱歌を教材として提供することは殆どなく、民間が検定出願した作品も15年に1度許可される程度で、教育現場では新鮮味の失せた古い楽曲での指導を余儀なくされていた。そうした状況を改善するべく東京高等師範学校付属小学校の教師らが、教材として使用できる楽曲を探し集め、1,600余りの曲から厳選した101曲を1927年に文部省に一括して出願し、翌1928年の3月14日に71曲が認可された。この71作品のうち、「尋常1、2年程度」として認可された曲の1つが本作品である。", "qas": [ { "question": "「どんぐりころころ」は、戦後において一般に何にカテゴライズされていたか。", "id": "de-046-03-000", "answers": [ { "text": "広義の童謡", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東京高等師範学校付属小学校の教師らが、教材として使用できる楽曲を探し集め、厳選した101曲を文部省に一括して出願したのは何年のことか。", "id": "de-046-03-001", "answers": [ { "text": "1927年", "answer_start": 403, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "「どんぐりころころ」の普及において、大きな転機を迎えたのは終戦直後である。終戦によって1945年に国定教科書が廃止され、教育現場では墨塗り教科書、次いで1946年に国定教科書から不適当な教材を削除した暫定教科書を発行して混乱期をしのぎながら、戦後の新しい教科書作成を急ピッチで進めていた。終戦から2年後の1947年に文部省は、俗に最後の国定教科書とも呼ばれる「文部省著作教科書」を発行した。「音楽」の教科書には、歌曲が各学年22編ずつ収録されており、選曲は刷新され戦前の教科書には登場しなかった外国曲や童謡が大幅に採用された。本作品も小学校2年生用の音楽教科書『二年生のおんがく』の13番目の歌曲(11月指導用)として初掲載され、これが本作品が急速に世に浸透する発端となった。この文部省著作教科書は、2年後の1949年に検定教科書が発行されたことにより短い役目を終えたが、楽曲の選定等は民間の検定教科書の雛形とされ、本作品は民間から出版された教科書の多くでも引き続き採用された。その後も本作品は多くの教科書で継続的に使用され続け「日本の三大童謡の一つ」と言われるまでの普及を遂げたが、昭和末期頃から徐々に教科書から姿を消しはじめ、平成期に入って以降の掲載は殆ど無くなっている。", "qas": [ { "question": "「どんぐりころころ」の普及において、大きな転機を迎えたのはいつなの?", "id": "de-046-04-000", "answers": [ { "text": "終戦直後", "answer_start": 29, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "国定教科書が廃止されたのは何年?", "id": "de-046-04-001", "answers": [ { "text": "1945年", "answer_start": 43, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「文部省著作教科書」が発行されたのはいつなの。", "id": "de-046-04-002", "answers": [ { "text": "1947年", "answer_start": 152, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "本作品が発表された大正期は、漢字に振り仮名を振る形式が主流であり、本作品も題名(団栗ころころ)を含め、全ての歌詞が漢字にルビを振っての記載形式であった。また1番後半部は「今日は!坊ちゃん一緒に遊びませう」と括弧で括られ、セリフであることがより明確にわかる表現となっている。しかし昭和期に入り1938年に内務省警保局から児童の読み物への振り仮名が原則禁止とする指示が出され、戦後においても1946年(昭和41年)の当用漢字表の告示の際に「ふりがなは原則として使わない」とされたことで、文部省著作教科書(前述)掲載時には「山」を除いた全ての歌詞が仮名表記となった。その後も時代や媒体により、漢字、平仮名、片仮名の使用部分は各種の揺れが見られる。", "qas": [ { "question": "内務省警保局から児童の読み物への振り仮名が原則禁止とする指示が出されたのは何年?", "id": "de-046-05-000", "answers": [ { "text": "1938年", "answer_start": 145, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "マー・ワラー・アンナフル", "paragraphs": [ { "context": "マー・ワラー・アンナフルとは、中央アジア南部のオアシス地域の歴史的呼称である。", "qas": [ { "question": "中央アジア南部のオアシス地域の歴史的呼称は、何?", "id": "de-047-00-000", "answers": [ { "text": "マー・ワラー・アンナフル", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マー・ワラー・アンナフルは、どの地域のことを呼ぶ歴史的呼称でありますか?", "id": "de-047-00-001", "answers": [ { "text": "中央アジア南部のオアシス地域", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "マー・ワラー・アンナフルは、アラビア語で「川の向うの土地」を意味する言葉で字義通りにはアム川北岸の地域を指し、ギリシア語やラテン語で書かれたヨーロッパの史料に見られる「トランスオクシアナ(Transoxiana、オクサス川(アム川)より向こうの地)」と同じ意味を持つ。日本では、英語読みの「トランスオキジアナ」と表記されることもある。実際にはアム川とシル川の間の地域を指す言葉として使われ、その領域には、今日のウズベキスタンとタジキスタン、それにカザフスタンの南部とクルグズスタンの一部が含まれている。北はカザフステップ、西にカスピ海、南東に天山山脈とパミール高原が位置し、西南にキジルクム砂漠とカラクム砂漠が広がる。北から南、西から東へ向かうにつれて海抜高度が上がり、一年を通じて乾燥した気候にあり、気温の年較差は大きい。", "qas": [ { "question": "マー・ワラー・アンナフルは、実際に、アム川とどの川の間の地域を指す言葉であるか?", "id": "de-047-01-000", "answers": [ { "text": "シル川", "answer_start": 175, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マー・ワラー・アンナフルの日本語式表記は、何か?", "id": "de-047-01-001", "answers": [ { "text": "トランスオキジアナ", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マー・ワラー・アンナフルと呼ばれる領域には、今日のウズベキスタンとタジキスタン、そしてカザフスタンの南部とどこの一部が含まれるか?", "id": "de-047-01-002", "answers": [ { "text": "クルグズスタン", "answer_start": 233, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マー・ワラー・アンナフルは、どの言語からなっている表現か?", "id": "de-047-01-003", "answers": [ { "text": "アラビア語", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "「マー・ワラー・アンナフル」と呼ばれる地域は、イスラーム以前のサーサーン朝がアケメネス朝の行政単位をそのまま用いてソグディアナと呼んでいた領域とほぼ重なる。また、サマルカンドやブハラなどのマー・ワラー・アンナフル南部の地域はかつてのソグディアナの名称がそのまま残り、特に「スグド地方(بلادسغدbilād-iSughd)」とも呼ばれ、現在のタジキスタンのソグド州に名称が受け継がれている。", "qas": [ { "question": "サーサーン朝が使用していた、ソグディアナという表現とほぼ重なる表現は、何?", "id": "de-047-02-000", "answers": [ { "text": "マー・ワラー・アンナフル", "answer_start": 1, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ソグディアナという表現を初めて使用したのは、どの王朝ですか?", "id": "de-047-02-001", "answers": [ { "text": "アケメネス朝", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "「マー・ワラー・アンナフル」は主としてイスラーム化後の時代を指して使用される語であり、イラン(イーラーン)と対峙する地域であるトゥーラーン(تورانTūrān)と呼ばれた地域とほぼ同一である。ティムール朝の時代にはマー・ワラー・アンナフルとトゥーラーンの呼称が併用され、トゥーラーンはアム川からホータンの境界に至る広範な地域を指し示していた。", "qas": [ { "question": "マー・ワラー・アンナフルとほぼ同じ領域を呼ぶ表現は、何か?", "id": "de-047-03-000", "answers": [ { "text": "トゥーラーン", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マー・ワラー・アンナフルとトゥーラーンの呼称が併用されたのは、どの王朝の時代だったか?", "id": "de-047-03-001", "answers": [ { "text": "ティムール朝", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "7世紀以降、アラビア語、ペルシア語の地理書などでは、マー・ワラー・アンナフルの領域はおおよそアム川(ジャイフーン川)を西境とし、東はシル川(サイフーン川)までの地域を指す場合が多かった。マー・ワラー・アンナフルの北限は不明確であり、イスラーム時代の初期にはアラブの征服地の範囲とほぼ一致し、15世紀のティムール朝の歴史家ハーフィズ・アブルーはシル川より北の地域をマー・ワラー・アンナフルに含めていた。テュルク(トルコ)系民族の諸勢力が多いシル川よりも北の地域は「トルキスタン」と呼ばれ、10世紀末からマー・ワラー・アンナフルのテュルク化が進行すると、シル川以北の地域と同じようにトルキスタンと呼ばれるようになる。シル川以北の「東トルキスタン」に対して、この地域は「西トルキスタン」と呼称されることもある。トルキスタンの地名が広まった後、「マー・ワラー・アンナフル」の呼称は雅称としても使われるようになる。", "qas": [ { "question": "7世紀以降のアラビア語、ペルシア語の地理書によると、マー・ワラー・アンナフルの東西領域は、アム川からどの川までであったの?", "id": "de-047-04-000", "answers": [ { "text": "シル川", "answer_start": 66, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "7世紀以降のアラビア語、ペルシア語の地理書によると、マー・ワラー・アンナフルの東西領域のうち、東はどの川まででありましたか?", "id": "de-047-04-001", "answers": [ { "text": "シル川", "answer_start": 66, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハーフィズ・アブルーは、どの王朝の者だったか?", "id": "de-047-04-002", "answers": [ { "text": "シル川", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シル川より北の地域をマー・ワラー・アンナフルに含めていたのは、誰か?", "id": "de-047-04-003", "answers": [ { "text": "ハーフィズ・アブルー", "answer_start": 160, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ザラフシャン川やカシュカ川、アム川に流入する支流の流域ではオアシスが形成され、農業が営まれていた。アム川やシル川、ザラフシャン川などの河川の流域にサマルカンドやブハラなどに代表される都市や村落群と耕地が開発され、定住地域の周辺に広がる草原や砂漠には遊牧民が闊歩する地であった。また中国内地とを結ぶシルクロードが発達し、テュルク系民族やソグド人などが交易などを通じて東西を結んだ。", "qas": [ { "question": "何が形成された地域で、農業が盛んに行われたの?", "id": "de-047-05-000", "answers": [ { "text": "オアシス", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オアシスが形成された地域には、どの産業が発達しましたか?", "id": "de-047-05-001", "answers": [ { "text": "農業", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "紀元前6世紀にトランスオクシアナはアケメネス朝のキュロス2世によって征服され、ソグド州に区画される。アケメネス朝期のソグド州でどのような統治が敷かれたかは明らかになっていないが、アラム語・アラム文字が導入され、アラム文字はソグド文字の原型となったと考えられている。アケメネス朝を滅ぼしたマケドニア王国のアレクサンドロス3世に対してトランスオクシアナの住民は一度は降伏するも反乱を起こし、紀元前329年から紀元前327年までの間およそ50,000のマケドニア兵が反乱の鎮圧に動員された。アレクサンドロス3世による征服の後、ヘレニズム文化がトランスオクシアナにもたらされる。", "qas": [ { "question": "キュロス2世がトランスオクシアナを征服したのは、いつのことか?", "id": "de-047-06-000", "answers": [ { "text": "紀元前6世紀", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "キュロス2世は、どの王朝の者か?", "id": "de-047-06-001", "answers": [ { "text": "アケメネス朝", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アケメネス朝を滅ぼしたのは、どの国か?", "id": "de-047-06-002", "answers": [ { "text": "マケドニア王国", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アケメネス朝を滅ぼしたのは、誰か?", "id": "de-047-06-003", "answers": [ { "text": "アレクサンドロス3世", "answer_start": 151, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アレクサンドロス3世の死後、トランスオクシアナはセレウコス朝、バクトリア王国の支配下に入り、バクトリアの貨幣を模した貨幣が鋳造されはじめる。紀元前2世紀にバクトリア王国が大月氏によって滅ぼされた頃、トランスオクシアナは遊牧民族の康居によって支配されていたと言われている。トランスオクシアナと中国を結ぶ交易路は大月氏や匈奴などのタリム盆地に勢力を有する遊牧勢力に阻まれていたが、前漢の武帝によるフェルガナ(大苑)遠征の結果、紀元前2世紀から交易が開始される。トハーリスターンに建国されたクシャーナ朝はトランスオクシアナを支配下に置き、クシャーナ朝が衰退した後のトランスオクシアナにはオアシス都市の連合国家が成立する。5世紀半ばにトランスオクシアナを含むパミール高原以西のオアシス地帯は、遊牧民族のエフタルの支配下に入る。", "qas": [ { "question": "セレウコス朝、バクトリア王国以前、トランスオクシアナを支配したのは、誰なの?", "id": "de-047-07-000", "answers": [ { "text": "アレクサンドロス3世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アレクサンドロス3世の死後、トランスオクシアナを支配したのは、セレウコス朝とどの国ですか?", "id": "de-047-07-001", "answers": [ { "text": "バクトリア王国", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バクトリア王国が滅亡したのは、いつのことか?", "id": "de-047-07-002", "answers": [ { "text": "紀元前2世紀", "answer_start": 70, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バクトリア王国を滅びたのは、どの国か?", "id": "de-047-07-003", "answers": [ { "text": "大月氏", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "イスラーム化前のトランスオクシアナはイラン系のソグド人の根拠地であり、「ソグディアナ」と呼ばれていた。ソグディアナは中央アジアの肥沃な地域の一つに数えられ、中心地であるサマルカンドに居住するソグド人はザラフシャン川の水を利用して農業を発達させた。ソグディアナはペルシア文化圏に属し、イランのサーサーン朝からの影響を強く受けていた。オアシス都市は城砦(quhandiz)と市街地(shahristān)から成り立ち、規模の大きいオアシスは市街地の外に広がる郊外(rabad)を有していた。それらのオアシス都市は周辺の村落や農地とともに一人の領主によって支配され、中国の史料にはソグディアナに存在していた康国(サマルカンド)、安国(中安国。ブハラ)などの都市国家が挙げられている。", "qas": [ { "question": "イスラーム化前のトランスオクシアナは、何と呼ばれていたの?", "id": "de-047-08-000", "answers": [ { "text": "ソグディアナ", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イスラーム化前のトランスオクシアナは、どのような人々の根拠地でありましたか?", "id": "de-047-08-001", "answers": [ { "text": "イラン系のソグド人", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ソグディアナは、どの文化圏に属していたか?", "id": "de-047-08-002", "answers": [ { "text": "ペルシア文化圏", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ソグディアナには、どの王朝が強い影響を及ぼしたか?", "id": "de-047-08-003", "answers": [ { "text": "サーサーン朝", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "7世紀後半までの約2世紀の間、ソグディアナはテュルク系の遊牧民族突厥の支配下に置かれていた。木汗可汗の指導下でエフタルを破った突厥はソグディアナを征服し、583年に東西に分裂した突厥のうち、西突厥はソグディアナを支配下に置いた。ソグド人は遊牧勢力の支配下で商業活動に従事し、河西回廊から東トルキスタン、セミレチエからソグディアナにはソグド人の植民都市が作られた。ソグド人の商業活動によって中央アジアの珍品が中国にもたらされ、中国の諸王朝は西方との国交を樹立するために盛んに使者を送った。", "qas": [ { "question": "7世紀後半までの約2世紀の間、ソグディアナを支配していたのは、どの国なの?", "id": "de-047-09-000", "answers": [ { "text": "突厥", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "突厥が東西に分裂したのは、何年のことですか?", "id": "de-047-09-001", "answers": [ { "text": "583年", "answer_start": 77, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "突厥は東西に分裂したが、東と西のうち、どちらがソグディアナを支配したか?", "id": "de-047-09-002", "answers": [ { "text": "西", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エフタル征服のために出征した突厥軍を指揮したのは、誰か?", "id": "de-047-09-003", "answers": [ { "text": "木汗可汗", "answer_start": 46, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "8世紀初頭のウマイヤ朝の将軍クタイバ・イブン・ムスリムの征服後にマー・ワラー・アンナフルのイスラーム化が本格的に進展し、イスラーム化と並行して近世ペルシア語が広まっていった。この地域は13世紀にモンゴル人に侵されるまでイスラム文化の一中心地であり続ける。", "qas": [ { "question": "マー・ワラー・アンナフルにおいて、イスラーム化が本格的に進んだのは、どの王朝により征服されてからのことなの?", "id": "de-047-10-000", "answers": [ { "text": "ウマイヤ朝", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウマイヤ朝によりマー・ワラー・アンナフルが支配され始めたのは、いつのことですか?", "id": "de-047-10-001", "answers": [ { "text": "8世紀初頭", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マー・ワラー・アンナフル遠征を行ったウマイヤ朝軍の指揮者は誰だったか?", "id": "de-047-10-002", "answers": [ { "text": "クタイバ・イブン・ムスリム", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マー・ワラー・アンナフルは、何世紀までイスラム文化の一中心地であり続けたか?", "id": "de-047-10-003", "answers": [ { "text": "13世紀", "answer_start": 92, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "651年にサーサーン朝を滅ぼしたアラブ人の軍隊は653年にホラーサーン地方を征服し、654年に初めてマー・ワラー・アンナフルに現れる。略奪、貢納の徴収を目的とするアラブ人の侵入が繰り返された後、705年からクタイバによって実施された中央アジア征服をきっかけに、マー・ワラー・アンナフルのアラブ支配・イスラーム化が始まった。クタイバによってブハラ、サマルカンドなどの都市にモスク(寺院)が建立され、遠征に従軍したアラブ兵の移住と征服地の住民のイスラームへの改宗が推進されたといわれている。クタイバの死後、715年から737年までの間、マー・ワラー・アンナフルは突騎施によって占領される。マー・ワラー・アンナフルの支配権を巡って毎年のように続くウマイヤ軍とソグド諸国・突騎施連合軍の戦争から逃れるため、多くのソグド人が東方に避難した。739年にウマイヤ朝のホラーサーン総督ナスル・イブン・サイヤールはシル川の河畔で突騎施の指導者莫賀達汗を捕らえ、ソグド諸国と和平を締結し、マー・ワラー・アンナフルの奪回に成功した。", "qas": [ { "question": "654年に初めてマー・ワラー・アンナフルに現れたのは、どんな軍隊だったの?", "id": "de-047-11-000", "answers": [ { "text": "アラブ人の軍隊", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アラブ人の軍隊が滅ぼしたのは、どの王朝ですか?", "id": "de-047-11-001", "answers": [ { "text": "サーサーン朝", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サーサーン朝が滅亡したのは、何年のことか?", "id": "de-047-11-002", "answers": [ { "text": "651年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アラブ人の軍隊は、サーサーン朝とホラーサーン地方のうち、どちらへの遠征をより早く行ったか?", "id": "de-047-11-003", "answers": [ { "text": "サーサーン朝", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ウマイヤ朝のカリフ・ヒシャームの治世にソグド人の反乱が鎮圧され、アラブのマー・ワラー・アンナフル支配は確固たるものになる。そして、751年にアッバース朝がタラス河畔の戦いで高仙芝の率いる唐軍に勝利を収め、中央アジアにおける唐の勢力は大きく後退した。アッバース朝のカリフ・マアムーンの奪権に貢献したサーマーン朝は、マアムーンの委任を受けてマー・ワラー・アンナフルからホラーサーンにまたがる領域を支配した。サーマーン朝の元では、イラン文化の復興が推進される。", "qas": [ { "question": "ヒシャームはどの王朝の統治者だったの?", "id": "de-047-12-000", "answers": [ { "text": "ウマイヤ朝", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "タラス河畔の戦いは、アッバース朝とどの国の間で行われた戦闘でありますか?", "id": "de-047-12-001", "answers": [ { "text": "唐", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "タラス河畔の戦いは、何年に行われた戦闘であるか?", "id": "de-047-12-002", "answers": [ { "text": "751年", "answer_start": 65, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "タラス河畔の戦いで唐軍を指揮したのは、誰か?", "id": "de-047-12-003", "answers": [ { "text": "高仙芝", "answer_start": 86, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "サーマーン朝は東方から進出してきたテュルク系のカラハン朝に滅ぼされ、サマルカンドやブハラはカラハン朝の王族たちによって統治された。10世紀末から11世紀にかけてカザフスタンからシル川までの地域に居住していたテュルク系遊牧民族のオグズがシル川を越えて南下し、テュルク系民族の移動はマー・ワラー・アンナフルでの「トルキスタン」成立の契機となる。パミール高原西部のテュルク化はすでに6世紀後半の西突厥の時代から始まっており、8世紀初頭のムグ文書にはテュルクの言葉に由来する定住民の人名や地名が確認できる。カラハン朝の時代からマー・ワラー・アンナフルは天山ウイグル王国が支配する「東トルキスタン」に対する「西トルキスタン」と化し、支配者の言語としてテュルク諸語が浸透していった。イランに移動したオグズの一団がセルジューク朝を建国した後、マー・ワラー・アンナフルはテュルク・イスラム圏の東方地域を形成していた。ティムールが台頭する14世紀までに、この地域のテュルク化はほぼ完了していたとされている。", "qas": [ { "question": "サーマーン朝はどの王朝の攻撃を受け、滅亡したの?", "id": "de-047-13-000", "answers": [ { "text": "カラハン朝", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オグズの南下は、マー・ワラー・アンナフルでの何の成立の契機となりましたか?", "id": "de-047-13-001", "answers": [ { "text": "トルキスタン", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オグズは10世紀末から11世紀にかけてカザフスタンからどの川までの地域に居住していたか?", "id": "de-047-13-002", "answers": [ { "text": "シル川", "answer_start": 88, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オグズは、いつからいつにかけてカザフスタンからシル川までの地域に居住していたか?", "id": "de-047-13-003", "answers": [ { "text": "10世紀末から11世紀", "answer_start": 65, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カラハン朝は13世紀初頭、ホラズム・シャー朝のアラーウッディーン・ムハンマドによって滅ぼされ、サマルカンドは一時ホラズム・シャー朝の首都になった。しかし、程なく1219年、モンゴル高原から勃興したチンギス・カン率いるモンゴル帝国によってマー・ワラー・アンナフル全域は侵攻を受け、サマルカンドやブハラなどの諸都市はモンゴル帝国軍の攻撃によって破壊され、あるいは降伏後に城壁が破却されるなどした。モンゴルの侵入はマー・ワラー・アンナフルの経済に多大な打撃を与え、後述するティムール朝の時代に入ってかつての繁栄を回復する。", "qas": [ { "question": "カラハン朝が滅亡したのは、いつ頃のことなの?", "id": "de-047-14-000", "answers": [ { "text": "13世紀初頭", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カラハン朝が滅亡したのは、どの王朝によることでしたか?", "id": "de-047-14-001", "answers": [ { "text": "ホラズム・シャー朝", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "松江騒擾事件", "paragraphs": [ { "context": "松江騒擾事件(まつえそうじょうじけん)は、1945年(昭和20年)8月24日未明、日本の島根県松江市で青年グループ「皇国義勇軍」数十人が武装蜂起し、県内主要施設を襲撃した事件である。\nこの事件により、民間人1名が死亡した。\n松江騒擾事件という名称は取締当局によるものであり、皇国義勇軍事件、島根県庁焼き打ち事件とも呼ばれる。", "qas": [ { "question": "松江騒擾事件が起きた場所は日本のどこ?", "id": "de-048-00-000", "answers": [ { "text": "島根県松江市", "answer_start": 44, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "松江騒擾事件の犯行は誰によるものだったか?", "id": "de-048-00-001", "answers": [ { "text": "「皇国義勇軍」", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "皇国義勇軍事件、島根県庁焼き打ち事件は一般的に何事件と呼ばれているの?", "id": "de-048-00-002", "answers": [ { "text": "松江騒擾事件", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この事件は、太平洋戦争敗戦直後に各地で発生した無条件降伏に反対する騒擾事件の一つである。\n地方都市である松江市で発生した事件であるが、大日本帝国憲法下における全国的規模の騒乱を目的とした最後のクーデターであり、大審院で裁かれた最後の事件でもある。\n1945年(昭和20年)8月15日、ポツダム宣言の受諾による日本の降伏が玉音放送によって国民に発表されると、その2日後の8月17日、東京では降伏に反対する尊攘同志会の会員らが愛宕山に篭城、全国に決起を呼びかけた(愛宕山事件)。", "qas": [ { "question": "日本各地で起こった騒擾事件というのは何に反対した事件なのでしょうか?", "id": "de-048-01-000", "answers": [ { "text": "無条件降伏", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "松江騒擾事件を裁いた裁判所はどこ?", "id": "de-048-01-001", "answers": [ { "text": "大審院", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "太平洋戦争による日本の降伏を国民に発表した時に使った手段は何だったでしょう?", "id": "de-048-01-002", "answers": [ { "text": "玉音放送", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "松江騒擾事件は、この愛宕山事件に呼応する形で発生した。\n8月24日未明、尊攘同志会会員であった岡崎功(当時25歳)を中心とした20歳前後の男女数十人が「皇国義勇軍」を名乗って武装蜂起し、各隊員が分担して県内の主要施設を襲撃した。\n島根県庁は焼き討ちされ、新聞社・発電所もその機能を一部破壊された。\n事前の計画では、知事・検事正の暗殺も企図されていたが、足並みが揃わず失敗した。\n一味は各地を襲撃後、全国に決起呼びかけを行うため放送局に集結したが、放送局長はこれを固く拒否した。\n押し問答が続く間に警官・軍隊が放送局を包囲し、その結果全員が検挙され鎮定された。", "qas": [ { "question": "「皇国義勇軍」のリーダーは誰?", "id": "de-048-02-000", "answers": [ { "text": "岡崎功", "answer_start": 47, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "松江騒擾事件の標的物の中で、焼き討ちされた施設は何?", "id": "de-048-02-001", "answers": [ { "text": "島根県庁", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「皇国義勇軍」が計画はしたものの失敗した事は何?", "id": "de-048-02-002", "answers": [ { "text": "知事・検事正の暗殺", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "事件を起こした皇国義勇軍のメンバーは、全て主犯の岡崎功(当時満25歳)の影響を受けていた。\nまたサブリーダーの長谷川文明(当時24歳)と行動隊長格の波多野安彦は、大東塾の影山正治を崇拝していたとされる。\nこの岡崎・長谷川・波多野の3人は、事件発生の約半年前から、島根県松江市内の大日本言論報国会島根支部を介して知り合い、敗色の濃い戦局のなかで「昭和維新・一斉決起」の謀議を行っていたが、そのまま1945年(昭和20年)8月15日の終戦を迎えた。", "qas": [ { "question": "皇国義勇軍のメンバーである長谷川文明と波多野安彦が崇拝していた人物は何という名ですか?", "id": "de-048-03-000", "answers": [ { "text": "影山正治", "answer_start": 85, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "岡崎・長谷川・波多野の出会いのきっかけとなった場は何?", "id": "de-048-03-001", "answers": [ { "text": "大日本言論報国会島根支部", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "主犯の岡崎功(本名・岡崎允佐夫、1920年(大正9年)7月17日-2006年(平成18年))は、島根県に生まれ、1939年(昭和14年)3月に松江中学校を卒業後、2年間満州の三井物産奉天支店に勤務中、国粋主義に感化された。\n1942年(昭和17年)11月に日本に戻り、僧侶を目指して立正大学専門部に入学するかたわら、中学時代の親友である広江孤文がいた国家主義団体の勤皇まことむすびにも所属、国家革新運動に参加していった。\n当時の岡崎が影響を受けた書籍としては、満田巌『昭和風雲録』、松永材『皇国体制』、天野辰夫『国体皇道』などがある。", "qas": [ { "question": "岡崎功の本名は何ですか?", "id": "de-048-04-000", "answers": [ { "text": "岡崎允佐夫", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "岡崎功は海外のどこに滞在していたことがありますか?", "id": "de-048-04-001", "answers": [ { "text": "満州", "answer_start": 84, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本に帰国後、岡崎が参加した運動は何ですか?", "id": "de-048-04-002", "answers": [ { "text": "国家革新運動", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "岡崎が影響を受けた書籍『国体皇道』を著したのは誰ですか?", "id": "de-048-04-003", "answers": [ { "text": "天野辰夫", "answer_start": 251, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "岡崎は私財を投じて府立高校隣接地(後の東京都立大学(1949-2011)・当時東京府目黒区高前町)に「一心寮」を設置し、そこで毎晩、拓殖大学2年生の斉藤(実藤とする資料もある)直幸ら7、8人とともに為政者・軍閥を批判し激論を交わしていた。\n当時は太平洋戦争における日本の敗色が濃厚な時期であり、東條英機内閣の打倒や暗殺が様々なグループによって画策されていた。\n内大臣の木戸幸一や中野正剛らも、首相・陸相・海相を刷新する秘密工作を行っていた。\nしかしこれを察知した東條が先手を打ち、新首相候補とされていた宇垣一成が勾留される事態に発展した。\nこれを知った岡崎は、東條が陸海軍の協調を阻害しており、話し合いでは事態が進展しないと考え、東條や一木喜徳郎の暗殺を計画、早稲田大学の配属将校から手榴弾・短銃を入手しその機会を待った。\nしかしこの企ても、岡崎とは別に斉藤らが企てた東條打倒計画が事前に憲兵隊に露見し、そこから芋づる式に岡崎も連行された。\n1943年(昭和18年)7月、放火殺人予備・爆発物取締罰則違反で連行され、巣鴨拘置所に1年半勾留の後、1944年(昭和19年)9月に懲役2年(執行猶予3年)の判決を受けた。", "qas": [ { "question": "毎晩のように仲間と共に激論を交わした、岡崎自身が設置したものは何でしょう?", "id": "de-048-05-000", "answers": [ { "text": "「一心寮」", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「一心寮」の当時の所在地は?", "id": "de-048-05-001", "answers": [ { "text": "東京府目黒区高前町", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "岡崎が暗殺を計画していた当時の内閣総理大臣は誰?", "id": "de-048-05-002", "answers": [ { "text": "東條英機", "answer_start": 147, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "岡崎が1943年に拘留されたのはどこ?", "id": "de-048-05-003", "answers": [ { "text": "巣鴨拘置所", "answer_start": 458, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "岡崎は同年11月に釈放されたが、飯島与志雄が結成した尊攘同志会に直ちに参加、特別高等警察から要注意人物としてマークされ続けた。\n島根県松江市に帰郷したのちは昭和維新運動の指導的人物として活動を続ける一方で、勤労動員署傭員となった。\n岡崎が太平洋戦争の内実をみることになったのは、この勤労動員署勤務時の体験による。", "qas": [ { "question": "尊攘同志会を結成した人物は何といいますか?", "id": "de-048-06-000", "answers": [ { "text": "飯島与志雄", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "岡崎が松江に帰郷してから参加した運動は何?", "id": "de-048-06-001", "answers": [ { "text": "昭和維新運動", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1945年(昭和20年)4月、岡崎は大日本言論報国会島根支部(以下、報国会島根支部)に入った。\n当時は東京大空襲や硫黄島の玉砕などが発生し、戦局はさらに絶望的となっていた。\n「神州不滅」「一億玉砕」が流行語となり、日本国民は本土決戦に向け動員されていた。\n島根県では敵上陸に対する武器として、高等女学校生には千枚通しの常時携帯が決定され、子どもには少年用竹槍が配布された。", "qas": [ { "question": "1945年に日本の戦局が絶望的となった出来事は硫黄島の玉砕と何ですか?", "id": "de-048-07-000", "answers": [ { "text": "東京大空襲", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本国民が本土決戦に対する意識から流行語となったものには「神州不滅」ともう1つは何がある?", "id": "de-048-07-001", "answers": [ { "text": "「一億玉砕」", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "報国会島根支部は、松江市内の和田珍頼弁護士事務所の一室と、深田屋旅館(松江市殿町、「深田旅館」とする資料もある)別館2階を事務所としていた。\nこの旅館は、報国会島根支部長である桜井三郎右衛門(当時満41歳)の常宿でもあった。\n岡崎は尊攘同志会と連絡を取りつつ、波多野安彦(尊攘同志会所属)、長谷川文明(当時24歳、大東塾所属)、森脇昭吉(島根県立農業技術員養成所所属)、白波瀬登らと、敗色の濃い戦局に焦り「昭和維新・一斉決起」を謀議していた。\n支部長の桜井は決起に際して、民間だけではなく軍隊との連携も提案したが、岡崎はこれに反論した。\n連絡を取る余裕はなく、民間から立ち上がれば軍も追従するとして昭和維新の捨て石となるべきと述べた。\nこの考えが波多野や長谷川など若い世代からの支持を得た。", "qas": [ { "question": "報国会島根支部が事務所として利用した旅館はどこにあったか?", "id": "de-048-08-000", "answers": [ { "text": "松江市殿町", "answer_start": 35, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "深田屋旅館に報国会島根支部の事務所が設けられたのは、支部長の誰が常宿していたからでしょう?", "id": "de-048-08-001", "answers": [ { "text": "桜井三郎右衛門", "answer_start": 88, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "岡崎が「昭和維新・一斉決起」を一緒に謀議した仲間の中で、大東塾所属に所属していたのは誰?", "id": "de-048-08-002", "answers": [ { "text": "長谷川文明", "answer_start": 145, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1945年(昭和20年)8月15日の正午、玉音放送によってポツダム宣言の受諾が国民に伝えられた。\n翌8月16日付『島根新聞』社説では、これを「休戦の詔勅」と伝えた。\n国民に「国体の護持」を告げた鈴木貫太郎内閣は総辞職し、17日には東久邇宮内閣が発足した。\n政治的激動を迎えるなか、島根県知事であり島根県国民義勇隊本部長でもある山田武雄は15日に告諭を発し、内省・痛恨の銘記と、自暴自棄や嫉視で一億同胞に亀裂が生じないよう県民に求めた。\n翌日16日には「祖国復興」「皇国の復興」のために県民の結束を勝ち取るという目的から「県民指揮方策大綱」を決定し、その冒頭では「今次外交折衝の経過、内容及び戦争終結の止むなきに至った事態を出来る限り県民に発表」するという方針が掲げられた。", "qas": [ { "question": "玉音放送の二日後に発足したのは何内閣?", "id": "de-048-09-000", "answers": [ { "text": "東久邇宮内閣", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "太平洋戦争終戦時に島根県知事を務めていた人は?", "id": "de-048-09-001", "answers": [ { "text": "山田武雄", "answer_start": 163, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「県民指揮方策大綱」を決定したのは県民の何を勝ち取る目的がありましたか?", "id": "de-048-09-002", "answers": [ { "text": "結束", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この8月15日の終戦を前後して、軍隊の内部では宮城事件や霞ヶ浦航空隊・厚木航空隊の抗戦呼びかけ・基地占拠などの動きがあり、また民間では愛宕山での尊攘同志会会員の立てこもり・自爆があった。\nこれらはいずれも22日までには鎮圧されたが、島根県松江市では8月17日から19日にかけて、隣県の鳥取県美保航空隊基地から飛来した海軍機が「断固抗戦」のビラを撒き、市内にも「ソ連打倒・聖戦完遂」の張り紙がなされた。\nまた鹿足郡柿木村では20日、新村長選任に際して本土決戦が意識されている。\n東京・大阪などの空襲の惨状をみれば、日本に戦争遂行の能力がなかったことはあきらかだが、このような戦災を受けなかった山陰地方では、本土決戦はまだ可能かにみえた。\nそのことが、事件発生の素地のひとつになっている。", "qas": [ { "question": "終戦直後の松江市に上空からビラを撒いたのはどこからの海軍機でしたか?", "id": "de-048-10-000", "answers": [ { "text": "鳥取県美保航空隊基地", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "島根県が位置するのは何地方ですか?", "id": "de-048-10-001", "answers": [ { "text": "山陰地方", "answer_start": 295, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "終戦直後の松江市に張られた張り紙には何と書いてありましたか?", "id": "de-048-10-002", "answers": [ { "text": "「ソ連打倒・聖戦完遂」", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この事件の初公判は1945年(昭和20年)11月5日、三瀬忠俊を裁判長として松江地方裁判所で開かれた。\n被告人は皇国義勇軍の主要メンバー15人であり、岡崎は大島紬の着物・羽織・袴姿で入廷し、裁判長に一礼した。", "qas": [ { "question": "松江騒擾事件の初公判は1945年の何月に開かれましたか?", "id": "de-048-11-000", "answers": [ { "text": "11月", "answer_start": 21, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "松江騒擾事件の初公判で裁判長を務めた人は誰ですか?", "id": "de-048-11-001", "answers": [ { "text": "三瀬忠俊", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "松江騒擾事件の初公判が開かれたのはどこ?", "id": "de-048-11-002", "answers": [ { "text": "松江地方裁判所", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "地裁ではこの事件は12月20日に結審し、判決では岡崎功が無期懲役となったほか、全員に懲役刑が言い渡された。\n戦時刑事特別法の適用を受けたため控訴審がなく、弁護側、検事側ともに大審院に上告した。\n大審院では弁護側の上告は棄却され、量刑が軽いとする検事側の上告のみが受け入れられた。\n1947年(昭和22年)5月2日、大審院の判決では、長谷川ら7人に地裁判決より重い刑が科された。\nこの判決は、大日本帝国憲法下における大審院最後の審判であり、この翌日には日本国憲法が施行された。", "qas": [ { "question": "地裁で岡崎に下った判決は何でしょうか?", "id": "de-048-12-000", "answers": [ { "text": "無期懲役", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "松江騒擾事件において、弁護側と検事側が上告したのはどこですか?", "id": "de-048-12-001", "answers": [ { "text": "大審院", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "松江騒擾事件は何の適用を受けたために大審院に上告となりましたか?", "id": "de-048-12-002", "answers": [ { "text": "戦時刑事特別法", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ゾング号事件", "paragraphs": [ { "context": "ゾング号事件とは、1781年にイギリスの奴隷船ゾング号の船員がアフリカ人奴隷を船から海に落として死亡させた事件だ。この事件で奴隷合計132人が死亡した。ゾング号が運んでいた奴隷には保険がかけられており、ゾング号の所有者は保険金の支払いを求めて裁判を起こした。ゾング号側は水不足が原因であり、奴隷の全滅を防ぐために衰弱した奴隷から「投荷」を行い処分したのだと主張したが、最終的に水不足については船員の過失が原因だと判断されゾング号側が敗訴した。だが、船員が殺人罪に問われることはなかった。この事件はイギリスにおける奴隷廃止運動に影響を及ぼし、1788年には奴隷貿易を規制する初の法律ドルベン法が制定された。", "qas": [ { "question": "1781年にイギリスの奴隷船ゾング号の船員がアフリカ人奴隷を船から海に落として死亡させた事件を何といいますか。", "id": "de-049-00-000", "answers": [ { "text": "ゾング号事件", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゾング号事件で奴隷合計何人が死亡したか。", "id": "de-049-00-001", "answers": [ { "text": "132人", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "最終的に水不足については何が原因だと判断されましたか。", "id": "de-049-00-002", "answers": [ { "text": "船員の過失", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドルベン法はいつ制定されたか。", "id": "de-049-00-003", "answers": [ { "text": "1788年", "answer_start": 270, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ゾング号事件とは、イギリスの奴隷船ゾング号で船員がアフリカ人奴隷を海に捨てて死亡させた事件である。1781年11月29日から合計132人の奴隷が死亡した。この事件は奴隷貿易の恐ろしさを示す実例として扱われ、またいくつかの芸術作品や文学作品の題材となった。\n\nリヴァプールを拠点とするグレグソンら奴隷商人の集団はゾング号を購入すると大西洋奴隷貿易に使用した。奴隷442人を乗せたゾング号は1781年8月18日にアフリカのアクラを出航したが、11月末にジャマイカを別の島だと誤認して通り過ぎてしまった。その後、ゾング号の船員は11月29日から数日間にわたり奴隷を海に捨てて死亡させた。12月22日にジャマイカのブラック・リバーに到着したときには、ゾング号の奴隷は出航前の半分以下、208人しか残っていなかった。", "qas": [ { "question": "ゾング号事件で合計何人の奴隷が死亡したか。", "id": "de-049-01-000", "answers": [ { "text": "132人", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゾング号事には何人の奴隷が搭乗していましたか。", "id": "de-049-01-001", "answers": [ { "text": "442人", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゾング号がブラック・リバーに到着したとき、奴隷は何人しか残っていませんでしたか。", "id": "de-049-01-002", "answers": [ { "text": "208人", "answer_start": 338, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "船の所有者は奴隷に保険をかけており、奴隷の全滅を防ぐために一部の奴隷を「投荷」、つまり海に捨てた場合は保険の補償対象となっていた。そこで、ゾング号の所有者らは死んだ奴隷の分の保険金を支払うよう求めた。だが、保険を引き受けたリヴァプールの商人らは支払いを拒否し、ゾング号側が提訴してこの事件は海上保険の支払いをめぐる法廷闘争となった。コリングウッド船長はジャマイカ到着後に既に死亡しており、乗客のロバート・スタブスと一等航海士のジェームズ・ケルサルの2人が証人となった。第一審では奴隷を海に捨てる行為自体は馬を海に捨てることと変わらないとして問題視されず、「投荷」を行う必然性が争点となったがゾング号側が勝訴した。だが、王座裁判所に上告した後、大雨が降って水を集めた後にも奴隷を海に捨てていたことが判明し、最終的に主席裁判官の初代マンスフィールド伯ウィリアム・マレーは保険金を支払う法的責任はないと判決を下した。\n\n第一審の後、解放奴隷のオラウダ・イクイアーノが奴隷貿易廃止運動家のグランビル・シャープにこの事件を知らせ、この事件は彼の関心を引くことになった。シャープは船員を奴隷を殺害した罪で裁こうとしたが、彼の取り組みは失敗に終わった。だが、法廷闘争によりこの事件に関心をもつ人々が増え、18世紀後半から19世紀初期のイギリスにおける奴隷廃止運動に影響を及ぼした。1787年の奴隷貿易廃止協会設立に続いて、1788年には奴隷貿易を規制する初の法律ドルベン法が議会で可決されて船に乗せる奴隷の人数に上限が設けられ、1794年の改正では奴隷にかける保険の補償対象が制限された。", "qas": [ { "question": "第一審で勝訴したのはどっちなの?", "id": "de-049-02-000", "answers": [ { "text": "ゾング号側", "answer_start": 295, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "奴隷貿易を規制する初の法律は何ですか。", "id": "de-049-02-001", "answers": [ { "text": "ドルベン法", "answer_start": 624, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ゾング号は積載量110トンの角型船尾の船だった。この船の以前の所有者はオランダのミデルブルフ貿易会社であり、この会社では「ゾルフ」号という名前が付けられていた。この船はオランダのミデルブルフを拠点に奴隷船として運用され、1777年の航海では南アメリカのスリナム沿岸まで奴隷を輸送した。1781年2月10日、このオランダ船は英国の16門ガンブリッグ、アラート号に拿捕され、2隻は2月26日までにガーナのケープ・コースト城に到着した。当時この城は王立アフリカ会社(RAC)が他の城塞や城と共に管理しており、またRACの地方本部として使用されていた。", "qas": [ { "question": "ゾング号の積載量は何トンなの?", "id": "de-049-03-000", "answers": [ { "text": "110トン", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1781年3月上旬、ウィリアム号の船長がリヴァプールの商人らの代理としてゾング号を購入した。ゾング号の所有者となった商人の集団には、エドワード・ウィルソン、ジョージ・ケース、ジェームズ・アスピナル、ウィリアム・グレグソン、ジェームズ・グレグソン、ジョン・グレグソンがいた。ウィリアム・グレグソンは1747年から1780年にかけて50回の奴隷貿易の航海に出資していた。彼は1762年にリヴァプール市長に就任し、また亡くなるまでに彼が経済的利害関係を有していた船によって58201人のアフリカ人が奴隷としてアメリカ大陸に輸送された。\n\nゾング号はすでに積み込まれていた244人の奴隷と共に買い取られ、代金は為替手形で支払われた。出航時点ではゾング号には保険がかけられておらず、航海開始後に保険がかけられることになった。リヴァプールの別の商人らの集まりがゾング号と奴隷の保険を引き受け、奴隷の推定市場価格の約半分にあたる8000ポンドが補償金の上限額とされた。", "qas": [ { "question": "1781年3月上旬、誰がリヴァプールの商人らの代理としてゾング号を購入したか。", "id": "de-049-04-000", "answers": [ { "text": "ウィリアム号の船長", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィリアム・グレグソンは1747年から1780年にかけて何回の奴隷貿易の航海に出資していたか。", "id": "de-049-04-001", "answers": [ { "text": "50回", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィリアム・グレグソンはいつリヴァプール市長に就任したか。", "id": "de-049-04-002", "answers": [ { "text": "1762年", "answer_start": 185, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ルーク・コリングウッド船長は指揮をとる立場になるのはゾング号が初めてであり、それ以前はウィリアム号で船医として働いていた。コリングウッド船長は航法と指揮を経験したことがなかったが、船医は一般的にアフリカで購入する奴隷を選ぶときに必要とされており、彼らの医学知識は捕虜の「商品価値」を決定する根拠となっていた。船医から不合格とされた捕虜は「商業的死」、つまり無価値なものとされ、アフリカ人の奴隷管理者に殺害されることも多かった。このような奴隷の殺害は時折医師の立会いの下で行われることがあった。コリングウッドが既に奴隷の大量殺害を目にしていた可能性は十分に考えられる。歴史家のジェレミー・クリクラーが言うように、これによりコリングウッド船長は心理的にゾング号で発生した虐殺を許容するだけの心構えができていたのかもしれない。ゾング号の一等航海士はジェームズ・ケルサルであり、彼もまたウィリアム号に勤務していた人物だった。", "qas": [ { "question": "ルーク・コリングウッド船長が初めて指揮をとる立場になったのはどの船ででしたか。", "id": "de-049-05-000", "answers": [ { "text": "ゾング号", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルーク・コリングウッド船長はゾング号の指揮をとる以前、どの船で船医として働いていたか。", "id": "de-049-05-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム号", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ゾング号の唯一の乗客ロバート・スタブスは奴隷船船長を務めた経験があった。1780年の初めに、RACのアフリカ委員会はスタブスをガーナのケープ・コースト城に近いイギリスの要塞アノマボの総督に任命した。スタブスはこの地位に就いたことで、RACのケープ・コースト城評議会の副議長になった。だがケープ・コースト城の総督ジョン・ロバートとの対立と不適格とみなされたことにより、スタブスは9カ月後にRACの評議会によってアノマボ総督を解任された。RACアフリカ委員会が集めた証言では、スタブスは要塞での奴隷貿易を正しく管理できておらず、識字能力に問題のある酔っ払いだと非難されており、素行の悪さが解任につながった。彼はイギリスに帰国するため乗船した。コリングウッド船長はスタブスの奴隷船での経験が役に立つだろうと考えていたのかもしれない。\n\nゾング号がアフリカを出航した時点で船員は17人いたが、船の衛生状態を適切に保つには人数があまりにも少なすぎた。奴隷船には病気や奴隷の反乱のリスクがあり、それを厭わない船乗りを英国で集めるのは難しく、船がアフリカ沿岸で拿捕されたオランダ船だと知られるとさらに困難になった。結局、ゾング号にはオランダの元船員の残り、ウィリアム号の船員、アフリカ沿岸の村落から雇われた失業していた船乗りが乗船することになった。", "qas": [ { "question": "ゾング号の唯一の乗客は誰でしたか。", "id": "de-049-06-000", "answers": [ { "text": "ロバート・スタブス", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロバート・スタブスは何年にアノマボの総督として任命されたか。", "id": "de-049-06-001", "answers": [ { "text": "1780年", "answer_start": 36, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゾング号がアフリカを出航した時点で船員は何人でしたか。", "id": "de-049-06-002", "answers": [ { "text": "17人", "answer_start": 385, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1781年8月18日、ゾング号は奴隷442人を乗せてアクラを出航したが、乗船人数は安全に航行できる人数の2倍を超えていた。1780年代、イギリス製の船は1トンあたり1.75人の奴隷を乗せるのが一般的だったが、ゾング号の場合は1トンあたり約4人を積み込んでいた。この時代のイギリスの奴隷船は1隻あたり193人前後の奴隷を輸送しており、比較的サイズの小さいゾング号がこれだけの大人数を輸送していたのは極めて異例のことだった。中間航路での奴隷の死亡率が平均的な数値におさまったのが不思議なほどの相当厳しい環境であった。\n\nサントメで飲料水を積み込んだ後、9月6日にゾング号は出航して大西洋を横断してジャマイカへ向かう航路をとった。カリブ海海域に到達するまでに、ゾング号では奴隷60人以上と船員7人が死亡していた。奴隷の死亡率は約13%と中間航路としては平均的な数字だったが、船員の死亡率が約4割と高いことから明星大学の児島秀樹は他に何か別の事件が起きていたかもしれないと推測している。11月の18日か19日にゾング号はカリブ海のトバゴ島付近を通過したものの、寄港に失敗して水を補給することができなかった。", "qas": [ { "question": "1781年8月18日、アクラを出航したゾング号には何人の奴隷が搭乗していたか。", "id": "de-049-07-000", "answers": [ { "text": "442人", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゾング号の場合は1トンあたり約何人を積み込んでいたか。", "id": "de-049-07-001", "answers": [ { "text": "約4人", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "11月29日、船員らが集まって奴隷の一部を海に捨てる案について検討した。ジェームズ・ケルサルの主張によれば、彼は当初計画に反対していたが、すぐに満場一致で可決されたという。この日、女性と子供54人が海に捨てられた。12月1日に42人の男性奴隷が船外へ捨てられ、その後数日間でさらに36人が捨てられた。また、奴隷船での非人道的行為に反発した奴隷10人が海へと飛び込んだ。水中へと放り込まれる犠牲者たちの悲鳴を聞いて、海へ投げ込むくらいなら残りのアフリカ人の食事と水を一切断ってほしいと1人の奴隷が懇願したが、船員はその懇願を無視した。12月9日までに合計132人のアフリカ人奴隷が海に捨てられた。王座裁判所の報告書によれば、1人の奴隷がよじ登って何とか船に戻ったという。\n\n1781年12月22日、ゾング号はジャマイカのブラック・リバーに到着したが、奴隷は当初の半分以下の208人になっていた。ゾング号が運んできた奴隷は1人あたり平均36ポンドで売却された。コリングウッド船長はジャマイカ到着の数日後に死亡し、ゾング号は新たな船長の指揮下でリヴァプールに戻った。ジャマイカの植民地海事裁判所は英国がオランダからゾング号を拿捕したことは合法だと確認し、組合はこの船を「リチャード・オブ・ジャマイカ号」に改名した。", "qas": [ { "question": "11月29日、何人の奴隷が海に捨てられたか。", "id": "de-049-08-000", "answers": [ { "text": "54人", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "12月1日には何人の奴隷が海に捨てられましたか。", "id": "de-049-08-001", "answers": [ { "text": "42人", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "12月9日までに合計何人の奴隷が船外へ捨てられましたか。", "id": "de-049-08-002", "answers": [ { "text": "132人", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゾング号が運んできた奴隷は1人あたり平均いくらで売却されたか。", "id": "de-049-08-003", "answers": [ { "text": "36ポンド", "answer_start": 416, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ゾング号事件はいくつかの文学作品の題材となった。FredD'Aguiarの1997年の小説『FeedingtheGhosts』では、ゾング号から船外へ捨てられて生き残ったアフリカ人奴隷Mintahの物語が描かれている。文化史学者のAnitaRupprechtによれば、この作品は事件に対するアフリカ人の無言の声を表現しているという。M.NourbeSePhilipの2008年の詩集『Zong!』はこの事件を取り巻く出来事に基づいており、王座裁判所での審問を主な題材としている。2007年にはNitrotheatrecompanyの企画によりMargaretBusbyの劇『AnAfricanCargo』がグリニッジ劇場で上演された。この劇はゾング号事件と1783年の裁判を題材としていた。テレビドラマ『Garrow'sLaw』では、2010年にゾング号事件の法廷闘争を元にしたエピソードが放送された。ただし、ドラマの主人公ウィリアム・ガロウは史実ではこの事件に関与していなかった。", "qas": [ { "question": "『FeedingtheGhosts』はいつ発表された小説ですか。", "id": "de-049-09-000", "answers": [ { "text": "1997年", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "詩集『Zong!』は誰のものですか。", "id": "de-049-09-001", "answers": [ { "text": "M.NourbeSePhilip", "answer_start": 166, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『Garrow'sLaw』の、ゾング号事件の法廷闘争を元にしたエピソードは何年に放送されたか。", "id": "de-049-09-002", "answers": [ { "text": "2010年", "answer_start": 367, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『Garrow'sLaw』の主人公は誰?", "id": "de-049-09-003", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ガロウ", "answer_start": 412, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "江戸開城", "paragraphs": [ { "context": "江戸開城(えどかいじょう)は、江戸時代末期(幕末)の慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)にかけて、明治新政府軍(東征大総督府)と旧幕府(徳川宗家)との間で行われた、江戸城の新政府への引き渡しおよびそれに至る一連の交渉過程をさす。\n江戸城明け渡し(えどじょうあけわたし)とも江戸無血開城(えどむけつかいじょう)ともいう。\n徳川宗家の本拠たる江戸城が同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから、同年から翌年にかけて行われた一連の戊辰戦争の中で、新政府側が大きく優勢となる画期となった象徴的な事件であり、交渉から明け渡しに至るまでの過程は小説・演劇・テレビドラマ・映画などの題材として頻繁に採用される。\n※以下、日付はすべて旧暦(天保暦)によるものである。", "qas": [ { "question": "江戸開城が行われた際に、国内で起こっていた戦争とは何?", "id": "de-050-00-000", "answers": [ { "text": "戊辰戦争", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "江戸開城が行われた年は?", "id": "de-050-00-001", "answers": [ { "text": "1868年", "answer_start": 31, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "慶応3年(1867年)10月大政奉還により政権を朝廷へ返上した15代将軍徳川慶喜は、新設されるであろう諸侯会議の議長として影響力を行使することを想定していたが、討幕派の公家岩倉具視や薩摩藩の大久保利通・西郷隆盛らが主導した12月初旬の王政復古の大号令とそれに続く小御所会議によって自身の辞官納地(官職・領土の返上)が決定されてしまう。\n慶喜はいったん大坂城に退くが、公議政体派の山内容堂(前土佐藩主)・松平春嶽(前越前藩主)・徳川慶勝(前尾張藩主)らの工作により、小御所会議の決定は骨抜きにされ、また慶喜も諸外国の公使に対して外交権の継続を宣言するなど、次第に列侯会議派の巻き返しが顕著となってきた。\n大政奉還の少し前の慶応3年10月13日そして14日には討幕の密勅が薩摩と長州に下される。\n江戸薩摩邸の活動も討幕の密勅を受けて活発化して定め書きを書いて攻撃対象を決めた。\n攻撃対象は「幕府を助ける商人と諸藩の浪人。志士の活動の妨げになる商人と幕府役人。唐物を扱う商人。金蔵をもつ富商」の四種に及んだ。\n江戸薩摩藩邸の益満休之助・伊牟田尚平に命じ、相楽総三ら浪士を集めて攪乱工作を開始。\nしかし、慶応3年10月14日、同日に大政奉還が行われ、討幕の実行延期の沙汰書が10月21日になされ、討幕の密勅は事実上、取り消された。\n既に大政奉還がなされて幕府は政権を朝廷に返上したために倒幕の意味はなくなり薩摩側も工作中止命令を江戸の薩摩邸に伝える。\nただそれでも江戸薩摩藩邸の攘夷派浪人は命令を無視して工作を続けていた。\n江戸市中警備の任にあった庄内藩がこれに怒り、12月25日、薩摩藩および佐土原藩(薩摩支藩)邸を焼き討ちするという事件が発生した。", "qas": [ { "question": "大政奉還を行った江戸幕府の将軍は誰?", "id": "de-050-01-000", "answers": [ { "text": "徳川慶喜", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大政奉還はいつ行われたの?", "id": "de-050-01-001", "answers": [ { "text": "慶応3年10月14日", "answer_start": 498, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この報が12月28日大坂城にもたらされると、城内の強硬派が激昂。\n薩摩を討つべしとの主戦論が沸騰し、「討薩表」を携えた幕府軍が上京を試み、慶応4年正月3日鳥羽(京都市)で薩摩藩兵と衝突し、戦闘となった(鳥羽・伏見の戦い)。\nしかし戦局は旧幕府軍が劣勢に陥り、朝廷は薩摩・長州藩兵側を官軍と認定して錦旗を与え、幕府軍は朝敵となってしまう。\nそのため淀藩・津藩などが旧幕府軍から離反し、慶喜は6日、軍を捨てて大坂城を脱出、軍艦開陽丸で海路江戸へ逃走した。\nここに鳥羽・伏見の戦いは幕府の完敗で終幕した。\n新政府は7日徳川慶喜追討令を発し、10日には慶喜・松平容保(会津藩主、元京都守護職)・松平定敬(桑名藩主、元京都所司代)を初め幕閣など27人の「朝敵」の官職を剥奪し、京都藩邸を没収するなどの処分を行った。\n翌日には諸藩に対して兵を上京させるよう命じた。\nまた21日には外国事務総督東久世通禧から諸外国の代表に対して、徳川方に武器・軍艦の供与や兵の移送、軍事顧問の派遣などの援助を行わないよう要請した。\nこれを受け25日諸外国は、それぞれ局外中立を宣言。\n事実上新政府軍は、かつて諸外国と条約を締結した政府としての徳川家と、対等の交戦団体として認識されたことになる。", "qas": [ { "question": "鳥羽・伏見の戦いは幕府軍と何藩の戦いでしたか?", "id": "de-050-02-000", "answers": [ { "text": "薩摩藩", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鳥羽・伏見の戦いの敗者は誰ですか?", "id": "de-050-02-001", "answers": [ { "text": "幕府", "answer_start": 238, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "慶喜が江戸に逃げ帰った時に乗っていた軍艦の名前は?", "id": "de-050-02-002", "answers": [ { "text": "開陽丸", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "正月11日、品川に到着した慶喜は、翌12日江戸城西の丸に入り今後の対策を練った。\n慶喜はひとまず13日歩兵頭に駿府(現静岡市)警備、14日には土井利与(古河藩主)に神奈川(現横浜市)警備を命じ、17日には目付を箱根・碓氷の関所に配し、20日には松本藩・高崎藩に碓氷関警備を命令した。\nさらに親幕府派の松平春嶽・山内容堂らに書翰を送って周旋を依頼するなど、さしあたっての応急処置を施している。\n鳥羽・伏見敗戦にともなって新政府による徳川征伐軍の襲来が予想されるこの時点で、徳川家の取り得る方策は徹底恭順か、抗戦しつつ佐幕派諸藩と提携して形勢を逆転するかの2つの選択肢があった。", "qas": [ { "question": "慶喜の対策として、神奈川警備を行った人物とは?", "id": "de-050-03-000", "answers": [ { "text": "土井利与", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "勘定奉行兼陸軍奉行並の小栗忠順や、軍艦頭の榎本武揚らは主戦論を主張した。\n小栗の作戦は、敵軍を箱根以東に誘い込んだところで、戦力的に勝る徳川海軍が駿河湾に出動して敵の退路を断ち、フランス式軍事演習で鍛えられた徳川陸軍で一挙に敵を粉砕、海軍をさらに兵庫・大阪方面に派遣して近畿を奪還するというものであったが、恭順の意思を固めつつあった慶喜の容れるところとならず、小栗は正月15日に罷免されてしまう。\n19日には在江戸諸藩主を召し、恭順の意を伝えて協力を要請、翌日には静寛院宮(和宮親子内親王)にも同様の要請をしている。\n続く23日、恭順派を中心として配置した徳川家人事の変更が行われた。", "qas": [ { "question": "小栗忠順が陸軍奉行と兼任していた役職とは何ですか?", "id": "de-050-04-000", "answers": [ { "text": "勘定奉行", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "徳川陸軍はどこの国の方式に習って鍛えられていましたか?", "id": "de-050-04-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 89, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "和宮親子内親王の別名は何ですか?", "id": "de-050-04-002", "answers": [ { "text": "静寛院宮", "answer_start": 232, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "後に若年寄には高家の今川範叙も兼任するが、このうち、庶政を取り仕切る会計総裁・大久保一翁と、軍事を司る陸軍総裁・勝海舟の2人が、瓦解しつつある徳川家の事実上の最高指揮官となり、恭順策を実行に移していくことになった。\nこの時期、フランス公使レオン・ロッシュがたびたび登城して慶喜に抗戦を提案しているが、慶喜はそれも退けている。\n27日、慶喜は徳川茂承(紀州藩主)らに隠居・恭順を朝廷に奏上することを告げた。\nここに至って徳川家の公式方針は恭順に確定したが、それに不満を持つ幕臣たちは独自行動をとることとなる。\nさらに2月9日には鳥羽・伏見の戦いの責任者を一斉に処分、翌日には同戦いによって新政府から官位を剥奪された松平容保・松平定敬・板倉勝静らの江戸城への登城を禁じた。\n12日、慶喜は江戸城を徳川慶頼(田安徳川家当主、元将軍後見職)・松平斉民(前津山藩主)に委任して退出し、上野寛永寺大慈院に移って、その後謹慎生活を送った。", "qas": [ { "question": "徳川家の事実上の最高指揮官の1人であった陸軍総裁とは誰?", "id": "de-050-05-000", "answers": [ { "text": "勝海舟", "answer_start": 56, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "恭順策を実行に移した人物とは、勝海舟と誰?", "id": "de-050-05-001", "answers": [ { "text": "大久保一翁", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "慶喜に抗戦を提案していた外国人とは誰?", "id": "de-050-05-002", "answers": [ { "text": "レオン・ロッシュ", "answer_start": 119, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical 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"answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "新政府はすでに東海道・東山道・北陸道の三道から江戸を攻撃すべく、正月5日には橋本実梁を東海道鎮撫総督に、同9日には岩倉具定を東山道鎮撫総督に、高倉永祜を北陸道鎮撫総督に任命して出撃させていたが、2月6日天皇親征の方針が決まると、それまでの東海道・東山道・北陸道鎮撫総督は先鋒総督兼鎮撫使に改称された。\n2月9日には新政府総裁の熾仁親王が東征大総督に任命(総裁と兼任)される。\n先の鎮撫使はすべて大総督の指揮下に組み入れられた上、大総督には江戸城・徳川家の件のみならず東日本に関わる裁量のほぼ全権が与えられた。\n大総督府参謀には正親町公董・西四辻公業(公家)が、下参謀には広沢真臣(長州)が任じられたが、寛典論の広沢は12日に辞退し、代わって14日強硬派の西郷隆盛(薩摩)と林通顕(宇和島)が補任された。\n2月15日、熾仁親王以下東征軍は京都を進発して東下を開始し、3月5日に駿府に到着。\n翌6日には大総督府の軍議において江戸城進撃の日付が3月15日と決定されたが、同時に、慶喜の恭順の意思が確認できれば一定の条件でこれを容れる用意があることも「別秘事」として示されている。\nこの頃にはすでに西郷や大久保利通らの間にも、慶喜の恭順が完全であれば厳罰には及ばないとの合意ができつつあったと思われる。\n実際、これらの条件も前月に大久保利通が新政府に提出した意見書にほぼ添うものであった。", "qas": [ { "question": "東山道鎮撫総督に任命された人は誰ですか?", "id": "de-050-07-000", "answers": [ { "text": "岩倉具定", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "橋本実梁と岩倉具定は、場所は違っていても、どちらが先に鎮撫総督の役職に就きましたか?", "id": "de-050-07-001", "answers": [ { "text": "橋本実梁", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "新政府総裁と東征大総督を兼任した人は誰ですか?", "id": "de-050-07-002", "answers": [ { "text": "熾仁親王", "answer_start": 163, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2月5日には伝習隊の歩兵400名が八王子方面に脱走(後に大鳥圭介軍に合流する)。\nまた2月7日夜、旧幕府兵の一部(歩兵第11・12連隊)が脱走。\nこれらは歩兵頭古屋佐久左衛門に統率されて同月末、羽生陣屋(埼玉県羽生市)に1800人が結集し、3月8日には下野国簗田(栃木県足利市梁田町)で東征軍と戦って敗れた(梁田の戦い)(古屋はのちに今井信郎らと衝鋒隊を結成し、東北戦争・箱館戦争に従軍する)。\nまた、新選組の近藤勇・土方歳三らも甲陽鎮撫隊と称して、甲州街道を進撃し、甲府城を占拠して東征軍を迎撃しようと試みるが、3月6日勝沼で東征軍と戦闘して敗れ(甲州勝沼の戦い)、下総流山(千葉県流山市)へ転戦した。\nこれらの暴発は、陸軍総裁・勝海舟の暗黙の承認や支援を得て行われており、いずれも兵数・装備の質から東征軍には全く歯が立たないことを見越したうえで出撃していた。\nまた、恭順路線に不満を抱いた主戦派を江戸から排除することを目的とする意味もあったと思われる。", "qas": [ { "question": "甲州街道の進撃に参加した新選組は土方歳三と誰ですか?", "id": "de-050-08-000", "answers": [ { "text": "近藤勇", "answer_start": 205, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "衝鋒隊を結成したのは古屋佐久左衛門と誰ですか?", "id": "de-050-08-001", "answers": [ { "text": "今井信郎", "answer_start": 167, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "甲陽鎮撫隊と東征軍の戦いは何と呼ばれていますか?", "id": "de-050-08-002", "answers": [ { "text": "甲州勝沼の戦い", "answer_start": 275, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "13代将軍・徳川家定正室として江戸城大奥の総責任者であった天璋院(近衛敬子)は、薩摩の出身で島津斉彬の養女であり、また明治天皇の叔母にあたる14代将軍・徳川家茂正室の静寛院宮(和宮)も東征大総督有栖川宮とかつて婚約者であり、かつ東海道鎮撫総督の橋本実梁と従兄妹の間柄であったことから、それぞれ大総督府首脳部との縁故があった。\nまた上野寛永寺には前年に輪王寺門跡を継承した公現入道親王(後の北白川宮能久親王)がおり、慶喜はこれらの人物を通じて、新政府や大総督府に対し助命ならびに徳川家存続の歎願を立て続けに出している。", "qas": [ { "question": "徳川家定の正室は誰でしたか?", "id": "de-050-09-000", "answers": [ { "text": "天璋院", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "和宮は誰の養女でしたか?", "id": "de-050-09-001", "answers": [ { "text": "島津斉彬", "answer_start": 46, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "和宮の夫は誰でしたか?", "id": "de-050-09-002", "answers": [ { "text": "徳川家茂", "answer_start": 76, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "正月21日、静寛院は慶喜の歎願書に伯父・橋本実麗、従兄・実梁父子宛の自筆歎願書を添え、侍女の土御門藤子を使者として遣わした。\n東海道先鋒総督の橋本実梁は、2月1日に在陣中の桑名(三重県桑名市)でこの書状を受け取る。\nしかし、下参謀西郷隆盛はいかに和宮からの歎願であったとしても所詮は賊徒からの申し分であるとして歯牙にもかけず、知らせを受けた京都の大久保もまた同意見であった。\n土御門藤子はやむなく上京し、6日に入京、議定長谷信篤・参与中院通富らに静寛院の歎願を訴えた結果、万里小路博房から岩倉具視へも伝わり、16日橋本実麗に対して口頭書ながら徳川家存続の内諾を得、18日に京都を発った藤子は2月30日に江戸へ戻り、静寛院に復命している。", "qas": [ { "question": "橋本実梁の下参謀は誰が務めていましたか?", "id": "de-050-10-000", "answers": [ { "text": "西郷隆盛", "answer_start": 115, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "橋本実梁に歎願書を届けた人は誰ですか?", "id": "de-050-10-001", "answers": [ { "text": "土御門藤子", "answer_start": 46, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一方の輪王寺宮公現入道親王は2月21日、江戸を発って東海道を西に上り、3月7日には駿府で大総督熾仁親王と対面し、慶喜の謝罪状と自身の歎願書を差し出したが、参謀西郷隆盛・林通顕らがかえって甲陽鎮撫隊による抗戦を厳しく咎め、12日には大総督宮から歎願不採用が申し下された。\nまた、天璋院は慶喜個人に対してはあまり好感情を持っていなかったといわれるが、徳川家存続には熱心であり、「薩州隊長人々」に宛てて歎願書を記し、さらに3月11日には東征軍への使者として老女を遣わしている。\n天璋院の使者たちは13日に西郷隆盛と面会し、同19日には西郷から天璋院に嘆願を受け入れる旨の連絡があった。\nなお、山岡鉄舟はこれらの使者の働きがほとんど影響を与えなかったと考えていたようである。\nこれらの歎願は、下参謀西郷隆盛らに心理的影響を与えた可能性があり、幕末の大奥を題材とした小説やドラマなどでは、積極的にエピソードとして採用されている。", "qas": [ { "question": "天璋院からの使者は、東征軍にほとんど影響を与えなかったと評した人は誰ですか?", "id": "de-050-11-000", "answers": [ { "text": "山岡鉄舟", "answer_start": 293, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "差し迫る東征軍に対し、寛永寺で謹慎中の徳川慶喜は護衛していた高橋泥舟に恭順の意を伝えてほしいと述べる。\n高橋は義弟で精鋭隊頭の山岡鉄太郎(鉄舟)を推薦しする。\n山岡は徳川慶喜の使者として、3月9日慶喜の意を体して、駿府まで進撃していた大総督府に赴くこととなった。\nよく山岡は勝海舟の使者と説明されているが、徳川慶喜直々に命じられた使者である。\n山岡は西郷を知らなかったこともあり、まず陸軍総裁勝海舟の邸を訪問する。\n勝は山岡とは初対面であったが、一見してその人物を大いに評価し、進んで西郷への書状を認めるとともに、前年の薩摩藩焼き討ち事件の際に捕らわれた後、勝家に保護されていた薩摩藩士益満休之助を護衛につけて送り出した(山岡と益満は、かつて尊王攘夷派の浪士清河八郎が結成した虎尾の会のメンバーであり、旧知であった)。\n山岡と益満は駿府の大総督府へ急行し、下参謀西郷隆盛の宿泊する旅館に乗り込み、西郷との面談を求めた。\nすでに江戸城進撃の予定は3月15日と決定していたが、西郷は勝からの使者と聞いて山岡と会談を行い、山岡の真摯な態度に感じ入り、交渉に応じた。\nここで初めて東征軍から徳川家へ開戦回避に向けた条件提示がなされたのである。\nこのとき江戸城総攻撃の回避条件として西郷から山岡へ提示されたのは以下の7箇条である。", "qas": [ { "question": "慶喜の使者として、駿河の西郷のもとへ赴いた人物のフルネームは?", "id": "de-050-12-000", "answers": [ { "text": "山岡鉄太郎", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "江戸城総攻撃の回避条件は何箇条ありましたか?", "id": "de-050-12-001", "answers": [ { "text": "7箇条", "answer_start": 553, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "勝は東征軍との交渉を前に、いざという時の備えのために焦土作戦を準備していたという。\nもし東征軍側が徳川家の歎願を聞き入れずに攻撃に移った場合や、徳川家臣の我慢の限度を越えた屈辱的な内容の条件しか受け入れない場合には、敵の攻撃を受ける前に、江戸城および江戸の町に放火して敵の進軍を防いで焦土と化す作戦である。\n1812年にナポレオンの攻撃を受けたロシア帝国がモスクワで行った作戦(1812年ロシア戦役を参照)を参考にしたというが、それとは異なりいったん火災が発生した後はあらかじめ江戸湾に集めておいた雇い船で避難民をできるだけ救出する計画だったという。\n勝は焦土作戦を準備するにあたって、新門辰五郎ら市井の友人の伝手を頼り、町火消組、鳶職の親分、博徒の親方、非人頭の家を自ら回って協力を求めたという。\nこれらは後年の勝が語るところであるが、勝は特有の大言癖があるため、どこまでの信憑性があるかは不明である。\nしかし、西郷との談判に臨むにあたってこれだけの準備があったからこそ相手を呑む胆力が生じたと回顧している。", "qas": [ { "question": "勝が準備していた焦土作戦は、どこの国の戦法を参考にしたものですか?", "id": "de-050-13-000", "answers": [ { "text": "ロシア帝国", "answer_start": 172, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "焦土作戦の対象となる町はどこでしたか?", "id": "de-050-13-001", "answers": [ { "text": "江戸の町", "answer_start": 125, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "山岡の下交渉を受けて、徳川家側の最高責任者である会計総裁・大久保一翁、陸軍総裁・勝海舟と、大総督府下参謀・西郷隆盛との江戸開城交渉は、田町(東京都港区)の薩摩藩江戸藩邸において、3月13日・14日の2回行われた。\n小説やドラマなどの創作では演出上、勝と西郷の2人のみが面会したように描かれることが多いが、実際には徳川家側から大久保や山岡、東征軍側から村田新八・桐野利秋らも同席していたと思われる。\n勝と西郷は元治元年(1864年)9月に大坂で面会して以来の旧知の仲であり、西郷にとって勝は、幕府の存在を前提としない新政権の構想を教示された恩人でもあった。\n西郷は徳川家の総責任者が勝と大久保であることを知った後は、交渉によって妥結できるであろうと情勢を楽観視していた。\nこの間、11日には東山道先鋒総督参謀の板垣退助(土佐藩)が八王子駅に到着した。\n12日には同じく伊地知正治(薩摩藩)が板橋に入り、13日には東山道先鋒総督岩倉具定も板橋駅に入って、江戸城の包囲網は完成しつつあり、緊迫した状況下における会談となった。\nしかし西郷は血気にはやる板垣らを抑え、勝らとの交渉が終了するまでは厳に攻撃開始を戒めていた。", "qas": [ { "question": "2回行った江戸開城交渉の1日目はいつでしたか?", "id": "de-050-14-000", "answers": [ { "text": "3月13日", "answer_start": 89, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "江戸城を包囲するために最も早く到着した人は誰?", "id": "de-050-14-001", "answers": [ { "text": "板垣退助", "answer_start": 354, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "江戸城を包囲するのに最も遅く到着した人は誰?", "id": "de-050-14-002", "answers": [ { "text": "岩倉具定", "answer_start": 412, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "江戸に到着したばかりの西郷と、西郷の到着を待望していた勝との間で、3月13日に行われた第一回交渉では静寛院宮(和宮)の処遇問題と、以前山岡に提示された慶喜の降伏条件の確認のみで、突っ込んだ話は行われず、若干の質問・応答のみで終了となった。", "qas": [ { "question": "第一回交渉はいつ行われましたか?", "id": "de-050-15-000", "answers": [ { "text": "3月13日", "answer_start": 33, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "3月14日の第二回交渉では、勝から先般の降伏条件に対する回答が提示された。\n徳川慶喜は故郷の水戸で謹慎する。\n慶喜を助けた諸侯は寛典に処して、命に関わる処分者は出さない。\n武器・軍艦はまとめておき、寛典の処分が下された後に差し渡す。\n城内居住の者は、城外に移って謹慎する。\n江戸城を明け渡しの手続きを終えた後は即刻田安家へ返却を願う。\n暴発の士民鎮定の件は可能な限り努力する。\nこれは、以前に山岡に提示された条件に対する全くの骨抜き回答であり、事実上拒否したに等しかったが、西郷は勝・大久保を信頼して、翌日の江戸城進撃を中止し、自らの責任で回答を京都へ持ち帰って検討することを約した。\nここに、江戸城無血明け渡しが決定された。\nこの日、京都では天皇が諸臣を従えて自ら天神地祇の前で誓う形式で五箇条の御誓文が発布され、明治国家の基本方針が示されている。", "qas": [ { "question": "第二回交渉では、慶喜の謹慎場所はどこだと提示されましたか?", "id": "de-050-16-000", "answers": [ { "text": "水戸", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "江戸城無血明け渡しが成された日はいつですか?", "id": "de-050-16-001", "answers": [ { "text": "3月14日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "西郷が徳川方の事実上の骨抜き回答という不利な条件を飲み、進撃を中止した背景には、英国公使ハリー・パークスからの徳川家温存の圧力があり、西郷が受け入れざるを得なかったとする説がある。\n正月25日の局外中立宣言後、パークスは横浜に戻り、治安維持のため、横浜在留諸外国の軍隊で防備する体制を固めたのち、東征軍および徳川家の情勢が全く不明であったことから、公使館通訳アーネスト・サトウを江戸へ派遣して情勢を探らせる一方、3月13日(1868年4月5日)午後には新政府の代表を横浜へ赴任させるよう要請すべくラットラー号を大阪へ派遣している。", "qas": [ { "question": "西郷に徳川家温存の圧力をかけたとされる人物は誰ですか?", "id": "de-050-17-000", "answers": [ { "text": "ハリー・パークス", "answer_start": 44, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "東征軍が関東へ入ると、東征軍先鋒参謀木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)は、横浜の英国公使館へ向かい、来るべき戦争で生じる傷病者の手当や、病院の手配などを申し込んだ。\nしかし、パークスはナポレオンさえも処刑されずにセントヘレナ島への流刑に留まった例を持ち出して、恭順・謹慎を示している無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは万国公法に反するとして激昂し、面談を中止したという。\nまたパークスは、徳川慶喜が外国に亡命することも万国公法上は問題ないと話したという。\nこのパークスの怒りを伝え聞いた西郷が大きく衝撃を受け、江戸城攻撃中止への外圧となったというものである。\nただしパークスの発言が実際に、勝と交渉中の西郷に影響を与えたかどうかについては不明である。\nそもそも上記のパークス・木梨の会談が行われたのがいつのことであるかが鮮明ではない。\n主に3月13日説をとる史料が多いが、14日説をとるもの、日付を明示していないものもある。\nしかし、いずれもパークスが先日上方へ軍艦を派遣した後に面会したと記載されている。", "qas": [ { "question": "ナポレオンが流罪となった場所は?", "id": "de-050-18-000", "answers": [ { "text": "セントヘレナ島", "answer_start": 112, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "戦争に備えて病院等の申請をしに、英国公使館に行った東征軍先鋒参謀とは誰ですか?", "id": "de-050-18-001", "answers": [ { "text": "木梨精一郎", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "パークスによる軍艦派遣は西洋暦4月5日すなわち和暦3月13日であることが確実なため、会談自体は3月14日以降に行われたと考えざるをえない。\nとなると、前述の3月14日夕刻まで行われた第2回勝・西郷会談と同日になってしまうため、事前にパークスの発言が西郷の耳に届いていたとは考えがたい。\nそのため萩原延壽は、「パークスの圧力」は勝・西郷会談の前に西郷へ影響を与えたというよりは、会談後に西郷の下にもたらされ、強硬論から寛典論に180度転じた西郷が、同じく強硬派だった板垣や京都の面々にその政策転換を説明する口実として利用したのではないかと述べている。\n事実、板垣は総攻撃中止の決定に対して猛反対したが、パークスとのやりとりを聞くとあっさり引き下がっている。\nパークスの話を西郷に伝えた渡辺清も、後に同様の意見を述べている。\n水野靖夫は横浜開港資料館に保管されていた英国公文書を照合した結果、『サトウ回想録』を丹念に読めば、サトウが最初に江戸に派遣された時には勝に会っていないことが分かる。\n勝は、西郷・勝会談以前にアーネスト・サトウに会ってはおらず、したがって西郷との会談において、サトウを介してイギリス公使パークスから西郷に、慶喜の助命、江戸総攻撃中止の圧力をかけてもらうという工作はできなかった。\nすなわち勝は、西郷との会談において「パークスの圧力」を利用することはできなかったと論じている。", "qas": [ { "question": "江戸開城の際に、パークスの圧力は利用できなかったと解いている人は誰?", "id": "de-050-19-000", "answers": [ { "text": "水野靖夫", "answer_start": 361, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "江戸開城の交渉以前に、勝とサトウは会ったことがなかったと分かる書物は何ですか?", "id": "de-050-19-001", "answers": [ { "text": "『サトウ回想録』", "answer_start": 394, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "勝との会談を受けて江戸を発った西郷は急ぎ上京し、3月20日にはさっそく朝議が催された。\n強硬論者だった西郷が慶喜助命に転じたことは、木戸孝允・山内容堂・松平春嶽ら寛典論派にも驚きをもって迎えられた。\n西郷の提議で勝の出した徳川方の新条件が検討された。\n第一条、慶喜の水戸謹慎に対しては政府副総裁の岩倉具視が反対し、慶喜自ら大総督府に出頭して謝罪すること、徳川家は田安亀之助(徳川慶頼の子)に相続させるが、北国もしくは西国に移して石高は70万石ないし50万石とすることなどを要求した。\nしかし結局は勝案に譲歩して水戸謹慎で確定された。\n第二条に関しても、田安家に江戸城を即刻返すという勝案は却下されたものの、大総督に一任されることになった。\n第三・四条の武器・軍艦引き渡しに関しては岩倉の要求が通り、いったん新政府軍が接収した後に改めて徳川家に入用の分を下げ渡すことになった。\n第五・七条は原案通りであった。\n第六条の慶喜を支えた面々の処分については副総裁三条実美が反対し、特に松平容保・松平定敬の両人に対しては、はっきり死罪を求める厳しい要求を主張した。\n結局は会津・桑名に対して問罪の軍兵を派遣し、降伏すればよし、抗戦した場合は速やかに討伐すると修正された。\nこの決定が後の会津戦争に繋がることになる。\n修正・確定された7箇条を携えて、西郷は再び江戸へ下ることとなった。", "qas": [ { "question": "第六条に関して、死罪の対象人物だったのは松平定敬と誰か?", "id": "de-050-20-000", "answers": [ { "text": "松平容保", "answer_start": 438, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "慶喜の水戸謹慎に反対意見を述べた人物は誰?", "id": "de-050-20-001", "answers": [ { "text": "岩倉具視", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "勝の新条件において、原案通りとなったのは何条か?", "id": "de-050-20-002", "answers": [ { "text": "第五・七条", "answer_start": 388, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この間の3月23日、東征軍海軍先鋒大原重実が横浜に来航し、附属参謀島義勇(佐賀藩士)を派遣して徳川家軍艦の引き渡しを要求したが、勝は未だ徳川処分が決定していないことを理由にこれを拒否している。\n勝としては交渉相手を西郷のみに絞っており、切り札である慶喜の身柄や徳川家の軍装に関して、西郷の再東下より前に妥協するつもりはなかったためである。\n3月28日、西郷は横浜にパークスを訪問し、事の経緯と新政権の方針を説明している(なおその前日には勝もパークスを訪問している)。\nパークスは西郷の説明に満足し、ここに「パークスの圧力」は消滅した。", "qas": [ { "question": "島義勇による徳川家軍艦の引き渡しの要求はいつありましたか?", "id": "de-050-21-000", "answers": [ { "text": "3月23日", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "江戸へ再来した西郷は勝・大久保らとの間で最終的な条件を詰め、4月4日には大総督府と徳川宗家との間で最終合意に達し、東海道先鋒総督橋本実梁、副総督柳原前光、参謀西郷らが兵を率いて江戸城へ入城した。\n橋本らは大広間上段に導かれ、下段に列した徳川慶頼・大久保一翁・浅野氏祐らに対し、徳川慶喜の死一等を減じ、水戸での謹慎を許可する勅旨を下した。\nそして9日には静寛院宮が清水邸に、10日には天璋院が一橋邸に退去した。\n11日には慶喜は謹慎所の寛永寺から水戸へ出発し、同日をもって江戸城は無血開城、大総督府が接収した。\nそれより前、4月8日に東征大総督熾仁親王は駿府を発し、同21日江戸城へ入城。\nここに江戸城は正式に大総督府の管下に入り、江戸城明け渡しが完了した。\nまた京都では4月9日、明治天皇が紫宸殿において軍神を祀り、徳川慶喜が謝罪し、江戸を平定したことを報告している。", "qas": [ { "question": "静寛院宮が退去した屋敷名は何ですか?", "id": "de-050-22-000", "answers": [ { "text": "清水邸", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "静寛院宮と天璋院は、どちらが先に退去しましたか?", "id": "de-050-22-001", "answers": [ { "text": "静寛院宮", "answer_start": 176, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "百済", "paragraphs": [ { "context": "百済(くだら/ひゃくさい、朝鮮語:백제)、旧字体:百濟、4世紀前半-660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家である。百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城時代(475年まで)、熊津時代(475-538年)、泗沘時代(538年から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都として泗沘を建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。", "qas": [ { "question": "百済の歴史を漢城時代、熊津時代、泗沘時代に分類する基準となるのは、何?", "id": "de-051-00-000", "answers": [ { "text": "首都の移動", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "百済が漢城を首都としていた時期のことを、何と呼びますか?", "id": "de-051-00-001", "answers": [ { "text": "漢城期", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "漢城期の百済を一時的でも滅亡させたのは、どの国か?", "id": "de-051-00-002", "answers": [ { "text": "高句麗", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "朝鮮半島において、百済と高句麗、新羅、多数の伽耶諸国が共存していた時代のことを、何と呼ぶか?", "id": "de-051-00-003", "answers": [ { "text": "三国時代", "answer_start": 407, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "中国の南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。", "qas": [ { "question": "日本ではどの書籍によって百済がよく知られているの?", "id": "de-051-01-000", "answers": [ { "text": "『日本書紀』", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "武寧王陵はどこにありますか?", "id": "de-051-01-001", "answers": [ { "text": "宋山里古墳群", "answer_start": 144, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "武寧王陵が発見されたのは、何世紀のことか?", "id": "de-051-01-002", "answers": [ { "text": "20世紀", "answer_start": 170, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "百済と密接な関係を築いていた、当時中国に存在した国は、どの国か?", "id": "de-051-01-003", "answers": [ { "text": "南朝", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立するといち早く関係を結んだが、ついで唐が成立すると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。", "qas": [ { "question": "百済が滅亡したのは、いつ?", "id": "de-051-02-000", "answers": [ { "text": "660年に", "answer_start": 97, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "百済を滅亡させたのは、唐とどの国の連合でしたか?", "id": "de-051-02-001", "answers": [ { "text": "新羅", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "百済復興運動を支援した国は、どの国か?", "id": "de-051-02-002", "answers": [ { "text": "倭国", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "唐が新羅と手を組んでまで百済を滅亡させたのは、どの国を征服するために背後を採ろうとしたからか?", "id": "de-051-02-003", "answers": [ { "text": "高句麗", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "百済の国名の由来はわかっていない。『三国史記』「百済本紀」に記載される神話では初代王である温祚王が夫余の地から遷って建国した際、10人の家臣の助力を得たことから国号を十済とし、その後温祚王の兄の沸流に従っていた人々が温祚王の国に合流した際に、百姓が楽しみ従ったことから国号を百済と改めたという。朝鮮史研究者の井上秀雄は、『三国史記』の訳注にて、これを事実とは認めがたいとしている。詳細は「建国神話節」を参照。また、『隋書』「百済伝」は、移動の際に百家で海を済ったので、それに因んで百済という国名となったと伝えている。", "qas": [ { "question": "百済の初代王は、誰?", "id": "de-051-03-000", "answers": [ { "text": "温祚王", "answer_start": 45, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "百済における建国当時の国号は、何ですか?", "id": "de-051-03-001", "answers": [ { "text": "十済", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "十済という建国当時の国号は、何から成立されたか?", "id": "de-051-03-002", "answers": [ { "text": "10人の家臣の助力を得たこと", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『三国史記』や「百済本紀」に記されている百済の国名の由来について、事実とは認めがたいと述べた日本の朝鮮史研究者は、誰か?", "id": "de-051-03-003", "answers": [ { "text": "井上秀雄", "answer_start": 154, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "百済は『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国を母体として、少なくとも4世紀前半頃までには漢城(現在のソウル)を中心として成立していたと見られ、日本の学界ではこの4世紀前半頃の成立とする説が定着している。後に編纂された『三国史記』(1143年成立)の記載に基づくと、百済の建国は紀元前18年となり、韓国の学界では1976年に千寛宇、李鍾旭らがこれを史実と定義して以来、現在でも有効な説の1つである。ただし、李丙燾が1985年に3世紀後半の成立とする説を提唱して以来、3世紀後半に置く説が現在の韓国で最も有力な説となっている。更に4世紀前半とする説もあるが、どちらの場合でも、中央集権的な国家の出現は4世紀半ば以後のことと見られている。", "qas": [ { "question": "百済は、どの国を由来にしているとされるの?", "id": "de-051-04-000", "answers": [ { "text": "馬韓諸国", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『三国史記』の記載に基づくと、百済は何年に建国されましたか?", "id": "de-051-04-001", "answers": [ { "text": "紀元前18年", "answer_start": 139, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "紀元前18年と3世紀後半のうち、どちらを百済の建国時期とする説が、韓国で最も有力な説であるか?", "id": "de-051-04-002", "answers": [ { "text": "3世紀後半", "answer_start": 213, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "百済の建国時期を巡って争う様々な説で、共通しているところは、いつ以後の百済を中央集権的な国家として認めることか?", "id": "de-051-04-003", "answers": [ { "text": "4世紀半ば", "answer_start": 299, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "漢城を都とした百済の初期の歴史を記す史料は主として『三国史記』である。『三国史記』「百済本紀」の記事では、第12代契王以前の記録は伝説的・神話的な説話や後世の創作であることが疑われる記事が中心であり、そこから歴史上の出来事を復元するのは困難である。百済は4世紀後半の近肖古王(『三国史記』によれば第13代)の治世下、371年に高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させる戦果をあげた。この頃から百済は外国史料に登場しはじめる。平壌占領の翌年には百済の使者が初めて東晋に入朝し、近肖古王は鎮東将軍領楽浪太守として封建された。ほぼ同時期に倭国との通交も始まり、七支刀(七枝刀ななつさやのたち)と呼ばれる儀礼用の剣が倭国へ贈られたことが『日本書紀』に見える。この刀は現存しており、銘文の分析から369年(近肖古王治世第24年)に作成されたと考えられている。同じく『日本書紀』に見える百済の照古王は近肖古王を指すと考えられる。また、『三国史記』によれば近肖古王の治世に博士高興が百済に文字を伝え、初めて記録がされるようになったという。これらから、近肖古王の治世は百済が朝鮮半島における有力な国家の1つとして台頭する画期であり、国家体制が整備された時代と見なされている。時代が進むと、周辺諸国との関係を通じて百済には多様な集団が関わるようになった。後の時代には倭国との連携強化と関わって百済の権力層に倭国系の姓氏を帯びる集団(倭系百済官僚)が登場し、また楽浪遺民・帯方遺民などの中国系人士をはじめとする外来の多様な集団を権力内部に取り込まれ、これらを通じて百済は発展を遂げた。", "qas": [ { "question": "様々な史料の中、漢城を都とした百済の初期の歴史が最も多く記されているのは、何?", "id": "de-051-05-000", "answers": [ { "text": "『三国史記』", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "百済が高句麗の平壌城を陥落させたのは、何年のことですか?", "id": "de-051-05-001", "answers": [ { "text": "371年", "answer_start": 158, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "誰の時代にあった百済が高句麗の平壌城を陥落させたか?", "id": "de-051-05-002", "answers": [ { "text": "近肖古王", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "近肖古王の平壌攻撃により戦死した高句麗の王は、誰か?", "id": "de-051-05-003", "answers": [ { "text": "故国原王", "answer_start": 176, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第15代枕流王の治世には南朝を経由して西域の僧侶摩羅難陀が百済に渡り、王から丁重な歓待を受けた。翌年には彼のために漢城(漢山)に仏寺が建設され、これが公式には最初の百済への仏教伝来とされている。", "qas": [ { "question": "摩羅難陀が百済にやってきたのは、誰が百済の王であった時代なの?", "id": "de-051-06-000", "answers": [ { "text": "枕流王", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "公式に最初の百済への仏教伝来とされるのは、誰の時代のことですか?", "id": "de-051-06-001", "answers": [ { "text": "枕流王", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "漢城時代の百済は北側で勢力を拡大する高句麗と武力衝突を繰り返した。391年に広開土王(好太王)が高句麗王に即位すると、彼は以前に百済が占領した領土の回復を図り、396年には漢江以北、大同江以南の地域が高句麗に奪回された。高句麗の圧力が増大する中、倭国からの支援が求められ、阿莘王6年(397年)には太子腆支が倭国へ人質として出され、引き換えに倭国の軍事的な介入が行われたと見られる。この間の事情は広開土王碑文に詳しく、それによれば391年以来、倭が海を渡り百済と新羅を臣民としたが、高句麗は396年に百済を破り百済王を服属させた。しかし399年に百済王が誓約を破り倭国と和通したため、翌400年には新羅へ出兵して倭軍を駆逐し、404年には帯方に侵入した倭を撃退、407年にも百済へ出兵して6城を奪ったという。この碑文の解釈を巡っては諸説入り乱れており、史実性を巡って議論があるが、百済と高句麗が倭国も交えて長期に渡り戦いを続けていたこと自体は間違いがない。", "qas": [ { "question": "漢城時代の百済と武力衝突を繰り返したのは、どの国なの?", "id": "de-051-07-000", "answers": [ { "text": "高句麗", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "広開土王が高句麗王に即位したのは、何年のことですか?", "id": "de-051-07-001", "answers": [ { "text": "391年", "answer_start": 33, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "高句麗が百済の漢江以北、大同江以南の地域を奪還したのは、何年か?", "id": "de-051-07-002", "answers": [ { "text": "396年", "answer_start": 80, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "三国時代の朝鮮半島の国々のうち、倭国と親密な関係を保っていた国は、どの国か?", "id": "de-051-07-003", "answers": [ { "text": "百済", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "王都漢城を失った475年当時、王子文周は救援を求めるために新羅に派遣されていた。彼は新羅の援軍を連れて帰還したが、既に漢城は陥落しており、翌月に文周王として即位した。彼は都を南方の熊津(現・忠清南道公州市)に遷し、百済を復興した。この時、高句麗から逃れた中央の貴族たちが熊津に流入し、王族と共に中央の主要官職を抑えていた解氏なども加わっていた。文周王は王弟昆支を内臣佐平、解仇を兵官佐平にあてたが、昆支が死ぬと解仇が実権を握り、478年には解仇によって暗殺された。太子三斤が即位したが、わずかに13歳であり、軍事的、政治的な権限は完全に解仇の手に渡った。にも関わらず、翌年には解仇が恩率(第二等官位)燕信とともに反乱を起こした。三斤王はかつて腆支王の即位に反対したため権力から遠ざけられていた別の貴族真氏を登用してこれを討伐した。", "qas": [ { "question": "救援を要請するために、475年に新羅に派遣された百済の者は、誰なの?", "id": "de-051-08-000", "answers": [ { "text": "文周", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "漢城陥落後、百済王に即位したのは、誰ですか?", "id": "de-051-08-001", "answers": [ { "text": "文周王", "answer_start": 72, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "王都を熊津に遷し、百済の復興を果たした王は、誰か?", "id": "de-051-08-002", "answers": [ { "text": "文周王", "answer_start": 72, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "文周王が死去したのは、何年か?", "id": "de-051-08-003", "answers": [ { "text": "478年", "answer_start": 214, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "479年、東城王が即位すると、百済は復興へ向けて大きく変化し始めた。一つは漢城時代に権勢をふるった解氏、真氏などの伝統的な中央氏族に代わり、新たな氏族が多数高位官職に進出し始めるとともに、王権が強化され王族や貴族への王の統制力が向上したと見られることであり、今一つは南方地域への拡大である。東城王は新羅と結んで高句麗の軍事的圧迫に対抗する一方、小国が分立していた伽耶地方への拡大を図った。", "qas": [ { "question": "479年に百済王に即位したのは、誰なの?", "id": "de-051-09-000", "answers": [ { "text": "東城王", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東城王即位後の百済の変化には、新たな氏族の高位官職への進出による王権強化と、何があるか?", "id": "de-051-09-001", "answers": [ { "text": "南方地域への拡大", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東城王の時代の百済が高句麗の軍事的圧迫に対抗するために手を組んだのは、どの国ですか?", "id": "de-051-09-002", "answers": [ { "text": "新羅", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "東城王が図った南方地域への拡大とは、どの地方への拡大を意味するか?", "id": "de-051-09-003", "answers": [ { "text": "伽耶地方", "answer_start": 181, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "権力闘争の中で東城王が暗殺された後、501年に即位したのが武寧王である。彼は1971年に発見された武寧王陵から多様な副葬品が出土した事で名高い。熊津を中心とする百済を更に発展させるため、武寧王は南朝および倭国との関係を深め、更に領内の支配強化を目指した。彼は領内に22の拠点を定め、王の宗族を派遣して地域支配の強化を進め、南西方面での勢力拡張を図った。『日本書紀』には、この頃に日本から百済へ任那四県を割譲したという記録があり、これは百済の政策と関係するものと考えられている。ただしこの頃に実際に倭国が任那四県に支配力を及ぼしていたかどうかについては、懐疑的な見方が強い。513年には伽耶地方の有力国伴跛から己汶、帯沙を奪い、朝鮮半島南西部での支配を確立すると東進して伽耶地方の中枢に迫った。", "qas": [ { "question": "東城王の跡を継いだのは、誰なの?", "id": "de-051-10-000", "answers": [ { "text": "武寧王", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "熊津を中心とする百済を更に発展させるため、武寧王が関係を深めようとしたのは、南朝とどの国ですか?", "id": "de-051-10-001", "answers": [ { "text": "倭国", "answer_start": 102, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "武寧王は領内の支配強化を目指し、領内に22の拠点を定め、そこにどのような人々を派遣したか?", "id": "de-051-10-002", "answers": [ { "text": "王の宗族", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "武寧王は、熊津を中心とする百済の更なる発展ため、倭国および南朝との親密な関係構築のほか、何を目指したか?", "id": "de-051-10-003", "answers": [ { "text": "領内の支配強化", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "武寧王はこの時期には対外活動も活発に行っており、南朝の梁に新羅使を同伴して入朝し、新羅や伽耶諸国を付庸していることを語り、倭国へは南方進出の了解や軍事支援と引き換えに五経博士を派遣し始めた。以後、倭国への軍事支援要請と技術者の派遣は百済の継続的な対倭政策となっていく。", "qas": [ { "question": "百済の対倭政策は、何と倭国への軍事支援要請のことを言うか?", "id": "de-051-11-000", "answers": [ { "text": "技術者の派遣", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "武寧王の跡を継いだ聖王は回復した国力を背景に538年都を熊津から泗沘(現・忠清南道扶余郡)に遷した。泗沘は熊津と同じく錦江沿いにある都市であるが、山に迫る要害の地であり防御に適した熊津に対し、泗沘は錦江下流域の沖積平野を見下ろす丘陵地帯であり、水陸の交通の要衝であった。国号も南扶余と改められた。この国号は国際的に定着することはなかったが、百済には高句麗と同じく夫余を祖とするという伝承があり、高句麗への対抗意識を明瞭にした国号であった。", "qas": [ { "question": "武寧王の跡を継いだのは、誰?", "id": "de-051-12-000", "answers": [ { "text": "聖王", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "百済の首都が熊津から泗沘に移されたのは、何年のことですか?", "id": "de-051-12-001", "answers": [ { "text": "538年", "answer_start": 22, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "泗沘遷都後、百済の国号は何に変わったか?", "id": "de-051-12-002", "answers": [ { "text": "南扶余", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "高句麗と百済の両国ともに祖とする国は、どの国か?", "id": "de-051-12-003", "answers": [ { "text": "夫余", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また、伽耶地方では百済が西側から勢力を広げる一方、同じく伽耶の東方から勢力を拡張していた新羅との間で軋轢が生まれた。更に伽耶地方を一種の藩屏と見做す倭国、生き残りを図る伽耶諸国の間で複雑な外交が繰り広げられたと考えられる。伽耶地方の中心的国家であった金官国は524年に始まった新羅の伽耶地方侵攻に対し、倭国へ救援要請を行った。これを受けた倭国は近江毛野臣を派遣したが、527年に九州で発生した磐井の乱により渡海できず、到着は529年になった。同じく伽耶の一国である安羅に到着した毛野臣は調停を目指して百済と新羅の双方に参会を求めたが、百済は新羅共々、倭国の調停に大きな期待を置いておらず、毛野臣は最終的に有効な手段を講じることはできないまま、532年には金官国が滅亡した。一方、安羅は倭国に頼るのを諦め毛野臣を排除するとともに、百済に援軍を要請し、結果531年に百済軍が安羅に駐屯することとなった。", "qas": [ { "question": "百済と新羅の間では、どの地方を巡った葛藤が生まれたの?", "id": "de-051-13-000", "answers": [ { "text": "伽耶地方", "answer_start": 3, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "伽耶地方の中心的国家であったのは、どの国ですか?", "id": "de-051-13-001", "answers": [ { "text": "金官国", "answer_start": 125, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "金官国は新羅の侵攻に対抗するため、どの国へと救援を求めたか?", "id": "de-051-13-002", "answers": [ { "text": "倭国", "answer_start": 151, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "北越急行ほくほく線", "paragraphs": [ { "context": "ほくほく線(ほくほくせん)は、新潟県南魚沼市の六日町駅を起点とし、新潟県上越市の犀潟駅(さいがたえき)までを結ぶ、北越急行が運営する鉄道路線である。\n北陸方面への短絡線の役割を有する日本国有鉄道(国鉄)の予定線「北越北線」として1968年(昭和43年)に着工され、紆余曲折の末、北越急行によって1997年(平成9年)3月22日より営業を開始した。\n開業以来、上越新幹線と連絡する列車の運行が行われており、2015年(平成27年)3月14日の北陸新幹線の長野駅-金沢駅間延伸開業までは、首都圏と北陸を結ぶメインルートとして特急「はくたか」が同線を経由して運転された。", "qas": [ { "question": "ほくほく線の起点となる駅が位置する場所は?", "id": "de-052-00-000", "answers": [ { "text": "新潟県南魚沼市", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ほくほく線は着工開始から約30年後に営業を開始しました。何年のことですか?", "id": "de-052-00-001", "answers": [ { "text": "1997年", "answer_start": 147, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world 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"特急「はくたか」が運行していた期間の中で、2番目にスピードが速かった時の時速は?", "id": "de-052-01-001", "answers": [ { "text": "150km/h", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2015年に運行を終了した特急「はくたか」に代わる速達列車として、表定速度日本最速の何という列車が運転されていますか?", "id": "de-052-01-002", "answers": [ { "text": "「超快速スノーラビット」", "answer_start": 319, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「はくたか」に代わる速達列車として運転されている列車の内、最高速度110km/hの営業列車は何?", "id": "de-052-01-003", "answers": [ { "text": "HK100形", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ほくほく線の中間付近にあたる松代村(まつだいむら。現十日町市の一部)では、1920年(大正9年)4月15日に松代自動車株式会社が設立されて、バスやトラックの運行を開始した。\nこの会社は1932年(昭和7年)に売却されて頸城自動車となる。\nしかし、この時代には道路の除雪体制がまったく整っておらず、その整備が本格化する1960年(昭和35年)頃までは、道路交通が5月上旬まで完全に不能となり各集落が孤立状態となるのが常であった。\nほくほく線建設が進められていた1980年代になってもなお、十日町と松代を結ぶ国道253号の薬師峠は毎年雪で不通となり、直線距離で13キロメートル(km)のところを、柏崎・直江津を通る120kmもの迂回をしなければ行き来ができなかった。\n冬には道路交通がまったく役に立たなくなるために、鉄道の重要性・必要性を痛感していた地元の関係者は、1931年(昭和6年)に当地を訪れた朝日新聞の記者が「この不便な山間地を開くには鉄道を貫通させなくては」と発言したことに刺激され、民間中心の鉄道誘致運動が開始された。\nその口火を切ったのは、松代自動車の設立者の柳常次であった。", "qas": [ { "question": "柳常次が設立した松代自動車株式会社は、売却された後何になりましたか?", "id": "de-052-02-000", "answers": [ { "text": "頸城自動車", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "松代村付近は、冬になると雪の影響で道路交通が大変不便になることから鉄道の重要性と必要性を痛感し、昭和6年にはどんな運動が始まった?", "id": "de-052-02-001", "answers": [ { "text": "鉄道誘致運動", "answer_start": 451, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "民間中心の鉄道誘致運動を切り出したのは誰ですか?", "id": "de-052-02-002", "answers": [ { "text": "柳常次", "answer_start": 486, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "十日町と松代を結ぶ国道253号は、直線距離で何キロメートルなの?", "id": "de-052-02-003", "answers": [ { "text": "13キロメートル", "answer_start": 278, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "既に1916年(大正5年)5月4日には、頸城鉄道(くびきてつどう)が新黒井-浦川原間を全通させていた。\n当初はこの頸城鉄道とつなぎ松代まで伸ばす形での「東頸城縦貫鉄道」の建設請願を1932年(昭和7年)8月に国会へ提出した。\nこの時点では松代から信越本線(直江津)側へ結ぶだけの鉄道で、十日町や六日町と結ぶという構想は(急峻な地形のために実現が困難と判断されたのか)なかった。\nその後さらに発展的な構想として、北陸地方と東京を結ぶ「上越西線」という構想となり、魚沼三郡や東頸城郡の町村長が六日町-直江津間に鉄道を敷設する陳情書を国会に提出した。\n1938年(昭和13年)4月になると時勢から軍事用の役割が付加されて、軍都と呼ばれた高田を起点とする「北越鉄道」の構想が打ち出され、国防にも役立つという位置づけとされた。\n1937年(昭和12年)8月から9月にかけて、鉄道省による路線測量と経済調査が実施され、路線案の比較検討が行われるとともに、地元による国会への請願が繰り返された。", "qas": [ { "question": "「東頸城縦貫鉄道」は新黒井からどこまでの鉄道となるか?", "id": "de-052-03-000", "answers": [ { "text": "松代", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「東頸城縦貫鉄道」の発展的な構想である「上越西線」の構想は、北陸地方とどこを結ぶものですか?", "id": "de-052-03-001", "answers": [ { "text": "東京", "answer_start": 210, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「上越西線」の構想での鉄道敷設の区間はどこからどこまでとなりますか?", "id": "de-052-03-002", "answers": [ { "text": "六日町-直江津間", "answer_start": 244, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "軍事用の役割が付加された「北越鉄道」の構想が提案されたのは昭和何年ですか?", "id": "de-052-03-003", "answers": [ { "text": "昭和13年", "answer_start": 279, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この時点までは、路線の北側は直江津案と高田案の2案があったが、南側については六日町で統一されていた。\nしかし1940年(昭和15年)になり、南側を越後湯沢駅とする案が持ち上がった。\nこれはスキーをしに松之山温泉に来ていた鉄道省の技師が、越後湯沢と直江津を結ぶ経路の方が有力であるかのように話したことが発端であるとされるが、真偽ははっきりしていない。\nこの年の10月から11月にかけて越後湯沢案に基づく路線の経済調査が実施され、両案の資料が揃うことになった。\n1942年(昭和17年)から両案の誘致活動が繰り広げられたが、第二次世界大戦中でもありこの時点ではそこまで厳しい対立ではなかった。\n1944年(昭和19年)には、国鉄信濃川発電所のある千手町(川西町を経て2005年の合併で十日町市の一部)と十日町を結ぶ工事用の軽便鉄道を延長する形で松代までを結ぶ路線の建設が決まり、工事予算1800万円が計上されたが、翌年の敗戦により計画は中止された。", "qas": [ { "question": "路線の南側は六日町であったが、後に南側を六日町ではなくどこに変更する案が上がったの?", "id": "de-052-04-000", "answers": [ { "text": "越後湯沢駅", "answer_start": 73, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1944年に十日町から千手町、さらには松代までを結ぶ路線建設が決まっていたが、結局中止となりました。何が原因でしたか?", "id": "de-052-04-001", "answers": [ { "text": "翌年の敗戦", "answer_start": 405, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "第二次世界大戦後は、高田と結ぶ軍事路線という動きは消滅し、佐渡航路ならびに北陸本線との連絡という観点から直江津起点とすることで決着して、直江津と上越線を結ぶ鉄道とすることになった。\n1950年(昭和25年)9月3日に、北陸上越連絡鉄道(上越西線)期成同盟会の発会式が高田市(1971年の合併により上越市の一部)で行われ、戦後の鉄道建設運動が開始された。\nしかしルートの一本化はできず、起点は直江津とされたものの終点は六日町と越後湯沢の双方の案が会則に併記される形となった。\n以降、「北越北線」案と「北越南線」案の間で14年に渡る鉄道誘致合戦「南北戦争」が勃発することになった。", "qas": [ { "question": "「北越北線」案も「北越南線」案も起点はどこからなの?", "id": "de-052-05-000", "answers": [ { "text": "直江津", "answer_start": 195, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "終点を六日町とするか越後湯沢とするかで対立した鉄道誘致合戦は通称何といいますか?", "id": "de-052-05-001", "answers": [ { "text": "「南北戦争」", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "終点を六日町とするか越後湯沢とするかで対立した鉄道誘致合戦は何年に及びましたか?", "id": "de-052-05-002", "answers": [ { "text": "14年", "answer_start": 258, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "北線案の利点は、新潟県内の主要都市を結び産業開発や経済面で優れ、採算性に優れること、地すべり地帯がなく防災上有利であることであり、これに対して南線案の利点は首都圏から直江津までの距離を短縮することができること、勾配を北線の25パーミルに対して20パーミルに抑えられ輸送力を大きくできること、苗場や高倉の森林および地下資源、三国、清津の温泉の開発ができることであるとされた。", "qas": [ { "question": "新潟県内の主要都市を結び産業開発や経済面で優れているという利点を持つのは北線案かそれとも南線案か?", "id": "de-052-06-000", "answers": [ { "text": "北線案", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北線案と南線案の利点の内、輸送力に関連する利点があるのはどちら?", "id": "de-052-06-001", "answers": [ { "text": "南線案", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "その後も両派の争いは続いたが、1962年(昭和37年)に事態は動いた。\nこの頃、南線案の予定通過地である松之山町の中心部で地すべり災害が発生しており鉄道の通過ルートとしてふさわしくないとされたことと、道路交通の発達でそれほど鉄道にこだわる必要がなくなったことなどから、一方の路線が採択された際にはもう一方の路線側から鉄道へ連絡する道路を整備するということを条件に、国鉄に裁定を一任することになった。\n1962年(昭和37年)4月22日に鉄道建設審議会が上越西線を予定線に採択することを決定し、5月12日に鉄道敷設法1条別表第55ノ3に「新潟県直江津より松代附近を経て六日町に至る鉄道及松代附近より分岐して湯沢に至る鉄道」が追加されて、南北両案が鉄道予定線となった。", "qas": [ { "question": "南線案が鉄道経路として不適切だとされたのは、当時南線案の予定通過地で何が発生したから?", "id": "de-052-07-000", "answers": [ { "text": "地すべり災害", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "南北両案による鉄道予定線というのは、新潟県直江津からどの地点を分岐点として六日町と湯沢に至る鉄道のことを言いますか?", "id": "de-052-07-001", "answers": [ { "text": "松代附近", "answer_start": 276, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1962年(昭和37年)7月から、国鉄では人口分布や産業構成などの経済調査を新潟県に依頼して実施した。\n地元でも、従来の上越西線期成同盟会を発展的に解消して新たに北越線連合期成同盟会を1963年(昭和38年)6月27日に発足させ、工事線への昇格に向けて積極的な運動を行った。\n1964年(昭和39年)4月22日に運輸大臣は北越北線を調査線に指示し、続いて9月28日には工事線に格上げした上で、南線は北線によって効用を満たし得るとの判断から、調査線から南線を削除した。\nこうして北越北線が正式に採択され、南北戦争は終結することになった。\nなおちょうどこの頃、1964年(昭和39年)3月に日本鉄道建設公団(鉄道公団、以下公団と略す)が設立され、国鉄の新線建設事業は公団が引き継ぐことになって、北越北線も公団に引き継がれた。", "qas": [ { "question": "北越線連合期成同盟会は元々は何でしたか?", "id": "de-052-08-000", "answers": [ { "text": "上越西線期成同盟会", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "南北戦争は、北越北線と北越南線のどちらが正式採用されることで終結しましたか?", "id": "de-052-08-001", "answers": [ { "text": "北越北線", "answer_start": 238, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本鉄道建設公団は国鉄のどんな事業を引き継いだ?", "id": "de-052-08-002", "answers": [ { "text": "新線建設事業", "answer_start": 324, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1964年(昭和39年)9月28日に運輸大臣が定めた基本計画では、北越北線は起点を直江津市、終点を南魚沼郡六日町とし、単線非電化で、線路等級は乙線とされていた。\nこれを基に工事実施計画の指示が行われた。\n設計にあたっては、日本有数の豪雪地帯を通ることから雪崩や地すべりの起こらないような場所を選んでルートの設定を行い、将来的に貨物列車や急行列車の運行を行う優等線とすることを考えて勾配や曲線を少なくするようにした。", "qas": [ { "question": "1964年の基本計画は誰によって定められたの?", "id": "de-052-09-000", "answers": [ { "text": "運輸大臣", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北越北線が雪災害が起きにくいルートを選定し勾配や曲線を少なくしたのは、将来的にどのような路線とする目的があってそのような設計をしましたか?", "id": "de-052-09-001", "answers": [ { "text": "優等線", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "工事再開後も、鍋立山トンネル等の工事難航に伴い、開業も当初予定より遅れが生じていた。\nそのような中、1988年(昭和63年)になり、北越北線を高速化してスーパー特急を走らせる計画が運輸省から打ち出された。\n当時、北陸新幹線は整備新幹線問題の関係で計画凍結は解除されたものの着工されておらず、1988年(昭和63年)のいわゆる「運輸省案」では長野以南の建設を優先し、高崎-軽井沢間のみフル規格、軽井沢-長野間はミニ新幹線、糸魚川-魚津間、高岡-金沢間については構造物を新幹線と同じ規格で建設し、線路を在来線と同じ軌間にするスーパー特急方式とする計画が提案されているに過ぎなかった。", "qas": [ { "question": "1988年に北越北線を高速化して走らせようとしたものは何?", "id": "de-052-10-000", "answers": [ { "text": "スーパー特急", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「運輸省案」によりミニ新幹線で建設する提案があったのはどの区間ですか?", "id": "de-052-10-001", "answers": [ { "text": "軽井沢-長野間", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「運輸省案」により、唯一フル規格で建設する提案があったのはどの区間だった?", "id": "de-052-10-002", "answers": [ { "text": "高崎-軽井沢間", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "北越北線はこの時点で路盤は完成していたが、軌道敷設は行われておらず、もともと優等列車の運転を想定して高い規格で建設されていたこともあり、翌1989年(平成元年)5月31日に高速化・電化に伴う工事実施計画の変更が申請され、路線の軌道は、最高速度200km/hも視野に入れた高規格路線での建設が開始された。\nこれにより、JRと直通の特急列車を走らせることとなり、高速化事業に要するとされた310億円は、建設に当たっていた公団の地方新線工事費から70億円、幹線鉄道活性化事業費補助金が42億円、北越急行出資金が40億円、JR東日本の負担金が158億円とされた。\nJR東日本の負担分は、北越北線の利用権という無形財産取得名目として実施された。", "qas": [ { "question": "北越北線の路線の軌道は、最高速度時速何kmを可能とする規格で建設されていた?", "id": "de-052-11-000", "answers": [ { "text": "200km/h", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "北越北線の高速事業化において最低金額の出資をしたのはどこ?", "id": "de-052-11-001", "answers": [ { "text": "北越急行", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "北越北線の高速事業化において最も高額を負担したのはどこ?", "id": "de-052-11-002", "answers": [ { "text": "JR東日本", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "最終的に総工費は、地方新線建設費として1026億円、高規格化255億円の合計1281億円となった。\n工事期間中、死者は10名、負傷者は54名であった。\nこの間、開業の5年前の1992年(平成4年)に路線の正式名称が「ほくほく線」に決定した。\nこれは、北越急行と沿線自治体が沿線住民を対象に実施したアンケートから、「温かいイメージで親しみやすく、呼びやすい」という理由で選ばれたものである。\n異例の早い時期の路線名決定は、工事再開後もトンネル工事の遅延と高規格化工事で開業が遅れた結果である。", "qas": [ { "question": "北越北線の総工費の内、最も多くかかった費用は何?", "id": "de-052-12-000", "answers": [ { "text": "地方新線建設費", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "北越北線の工事で犠牲になった人数は64名で、その中に死者は何名含まれている?", "id": "de-052-12-001", "answers": [ { "text": "10名", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「温かいイメージで親しみやすく、呼びやすい」という理由で選ばれた北越北線の正式名称は?", "id": "de-052-12-002", "answers": [ { "text": "「ほくほく線」", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "試運転は施設が完成した1996年(平成8年)9月から開始されたが、狭軌での160km/h運転や狭小・単線・長大トンネルでの高速走行などは前例・基準が存在しなかったため、ほくほく線を用いた諸試験が北越急行のほか、鉄道技術研究所、鉄道建設公団、運輸省、JR東日本、JR西日本によって実施され、同年10月7日からは681系2000番台による160km/h運転試験が開始された。\n結果は比較的良好ではあり特段の問題は見られず、監督官庁から設計最高速度160km/hの認可を付与された。\nしかし、後述するように単線トンネルでの気圧変動が車体に及ぼすダメージが経年とともに顕在化する恐れがあったため、北越急行自らの判断でさらなる技術的な検討を待ってから実際の160km/h運転を開始することにとし、当初の特急列車の最高速度は140km/hとされた。", "qas": [ { "question": "ほくほく線を用いた諸試験が多数行われた中で、160km/h運転の試験をしたのは何ですか?", "id": "de-052-13-000", "answers": [ { "text": "681系2000番台", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ほくほく線は監督官庁から設計最高速度160km/hの認可をもらったが、安全面を考慮して当初の最高速度は時速何kmとされた?", "id": "de-052-13-001", "answers": [ { "text": "140km/h", "answer_start": 356, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "先述のように、ほくほく線は数回の工事計画の変更を経て、全線単線、直流1500V電化で建設されている。\nしかし、高速運転を実施し、1日の間に数十センチの積雪があるほどの豪雪地帯を通過するため、各種の対策が施されている。\n開業当時の線内最高速度は160km/hで、これは新幹線を除く鉄道では京成電鉄成田空港線(成田スカイアクセス線)の「スカイライナー」とともに日本では最速、狭軌では単独の国内最速であった。\nこのため、後述のように各種設備はそれに対応して設計された。\n160km/hに設定された背景には、国鉄時代に湖西線で行われた高速走行試験の目標が160km/hであったことや、「新幹線の在来線の軌間の比率を考えると、200km/hに対して160km/hとなる」という考えもあったことが挙げられる。\n「140km/hでも十分」という意見もあったが、関係者や技術者の多くは「絶対に在来線鉄道の将来に役立つ」と協力を惜しまなかったという。", "qas": [ { "question": "ほくほく線と匹敵する高速運転出来る路線はどこ?", "id": "de-052-14-000", "answers": [ { "text": "成田空港線", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "狭軌においては単独で国内最速を誇る路線は何?", "id": "de-052-14-001", "answers": [ { "text": "ほくほく線", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1947年に定められた鉄道運転規則に基づき、どんな場合でもブレーキ開始から走行600m以内に停止できること(600m条項)が、在来線では必須とされてきた。\n2009年現在でも、新幹線以外の鉄道ではこの停止距離が標準的な要求となっている。\nほくほく線の車両も600m以内での停止要求は実現できていないが、ほくほく線は後述する原則踏切を排した完全立体の線路、ATS-P形式の自動列車停止装置、GG信号等が導入され、特例措置として160km/h走行が認められた。", "qas": [ { "question": "2009年においても鉄道の停止距離は、ブレーキ開始から走行何m以内とされているの?", "id": "de-052-15-000", "answers": [ { "text": "600m", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "600m条項が定められている鉄道運転規則は何年に制定されたの?", "id": "de-052-15-001", "answers": [ { "text": "1947年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし、1996年から開始された開業前の試運転の際には、高速走行時の車内で予想以上の気圧変動が発生しており、気密構造でなかった681系を使用した試運転で窓の接着部分には指が入るほどの隙間ができてしまったことすらあった。\nこれらの現象は、ほくほく線のトンネルが単線断面であり、かつトンネル断面が複雑であることが要因であり、ほくほく線で高速運転を行う特急形車両については、客室扉が閉じた際に車体に圧着させるなどの対策を施した簡易気密構造の車両に限定されることになった。\nその後の半年にわたる試運転で安全性は立証されたものの、万全を期して、開業当初の最高速度は140km/hとした。\nその2年後に行われた特急形車両の重要部検査時には、車両の構体に亀裂などがないかを微細に確認した上で、1998年12月8日から150km/h運転を開始した。\nさらに2年後に行われた全般検査時にも構体に対して同様の確認を行い、2000年11月21日には160km/h運転の試運転を行った上で問題がないことを確認、2002年3月23日から160km/h運転が開始されている。", "qas": [ { "question": "ほくほく線での開業当初の最高速度は140km/hだったが、その後運転開始が可能となった時の最高速度は時速何km?", "id": "de-052-16-000", "answers": [ { "text": "150km/h", "answer_start": 351, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ほくほく線での160km/h運転が始まったのはいつ?", "id": "de-052-16-001", "answers": [ { "text": "2002年3月23日", "answer_start": 443, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "160km/hの運転が開始される4年前に150km/hの運転開始が認められた。何年のこと?", "id": "de-052-16-002", "answers": [ { "text": "1998年", "answer_start": 339, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "北陸新幹線開業後の2015年3月14日以降は特急列車の160km/h運転を終了し、国土交通省運輸局への申請最高運転速度を160km/hから引き下げている。\nなお、営業列車は基本的に110km/hで運転する普通列車のみとなったが、E491系検測車や485系などのJR車両を運転するため、申請最高運転速度は130km/hとしている。\nなお、160km/h運転に関わる技術は成田スカイアクセス線へ継承されており、日本鉄道運転協会から北越急行に対して、160km/hによる運転の実績と京成電鉄への技術承継を評価する「東記念賞」が授与されている。", "qas": [ { "question": "北越急行が受賞した賞は何?", "id": "de-052-17-000", "answers": [ { "text": "「東記念賞」", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "みんなの森ぎふメディアコスモス", "paragraphs": [ { "context": "みんなの森ぎふメディアコスモスは、岐阜県岐阜市にある岐阜市立中央図書館を中核施設とする複合施設である。2015年7月18日開館した。\n\nメディアコスモスは図書館機能・地域交流機能を持つ複合施設・公益文化施設であり、岐阜大学医学部・附属病院跡地の市街地再開発事業として整備された。JR岐阜駅や名鉄岐阜駅から約2km北に位置し、岐阜城がそびえる金華山のふもとに位置する。敷地の南側には公的機関が集積している。", "qas": [ { "question": "みんなの森ぎふメディアコスモスの開館日はいつなの?", "id": "de-053-00-000", "answers": [ { "text": "2015年7月18日", "answer_start": 51, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "みんなの森ぎふメディアコスモスの所在県はどこですか。", "id": "de-053-00-001", "answers": [ { "text": "岐阜県", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "みんなの森ぎふメディアコスモスはJR岐阜駅や名鉄岐阜駅から北に約何km離れていますか。", "id": "de-053-00-002", "answers": [ { "text": "約2km", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1958年に開館した岐阜市立図書館本館は開館から50年以上が経過していた。エレベーターがないなどバリアフリーに対応しておらず、図書館の専用駐車場はなく、午前10時から午後6時という開館時間は勤め人にとって利用しにくかった。閲覧席は少なく、建物の老朽化が深刻だった。\n\n1996年に加納分室が加納図書室となった以降の岐阜市には岐阜市立図書館本館といくつかの図書室があったが、2002年1月には加納図書室を移転して、JR岐阜駅東高架下のハートフルスクエアーGに岐阜市立図書館分館が開館した。2002年度の分館の蔵書数は、約16万冊の本館に対して約7万冊だったが、貸出冊数は約16万冊の本館に対して約50万冊、利用者数は約5万人の本館に対して約18万人と、新しくて立地のよい分館は新たな利用者層を掘り起こした。一方で2002年度の本館の貸出冊数は、蔵書数約5万冊の長森図書室をも下回った。\n\n2004年の岐阜市立図書館本館の蔵書数は約20万冊であり、同じ岐阜市内にある岐阜県立図書館の約1/5だった。ひとつの分館といくつかの図書室があるものの、借りた館でしか図書の返却ができなかった。1995年以前から書庫不足の状態が続いており、1年間に8,000冊を購入しても7,000冊を廃棄せざるをえない状況だった。全国にある人口20万以上の133自治体の中で、本館の延床面積は122位、蔵書数は123位と、いずれも下位に低迷していた。", "qas": [ { "question": "2002年、岐阜市立図書館本館と岐阜市立図書館分館と蔵書数がもっと多かったのはどっちなの?", "id": "de-053-01-000", "answers": [ { "text": "岐阜市立図書館本館", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2002年、岐阜市立図書館本館と岐阜市立図書館分館と貸出冊数がもっと多かったのはどっちなの?", "id": "de-053-01-001", "answers": [ { "text": "岐阜市立図書館分館", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2004年、岐阜県立図書館と岐阜市立図書館本館と蔵書数がより多かったのはどちらですか。", "id": "de-053-01-002", "answers": [ { "text": "岐阜県立図書館", "answer_start": 431, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2002年、岐阜市立図書館本館と長森図書室と貸出冊数がより多かったのはどちらですか。", "id": "de-053-01-003", "answers": [ { "text": "長森図書室", "answer_start": 379, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "岐阜市は公共施設の再集約や中心市街地の活性化などを図る「つかさのまち夢プロジェクト」を計画した。プロジェクトの第1期には岐阜大学医学部跡地に新図書館を建設し、第2期には新図書館の南側に岐阜市役所新庁舎を建設し、第3期には現行の岐阜市役所本庁舎跡に市民文化ホールを建設する。プロジェクトの財源には、国からの補助金、蓄えてきた基金、有利な起債を最大限に利用している。\n\n2005年度に基本構想を策定し、2010年度に基本計画を策定して設計者を選出した。設計プロポーザルには全国から70人の応募があり、まずは選考委員会が3者に絞ると、2011年2月6日の公開プレゼンテーションで伊東豊雄建築設計事務所を設計者に選出した。伊東は仙台市民図書館を内包するせんだいメディアテークや多摩美術大学八王子図書館の設計者でもあり、後の2013年にはプリツカー賞を受賞している。2012年度時点では総工費を100億円と見込んでおり、国からの補助金などを活用することで、岐阜市の負担は約30億円となる予定だった。しかし、最終的な総事業費は125億円に膨らんだ。", "qas": [ { "question": "岐阜大学医学部跡地に新図書館を建設するのは「つかさのまち夢プロジェクト」の第何期に対する説明ですか。", "id": "de-053-02-000", "answers": [ { "text": "第1期", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2012年度時点で、総工費において、国からの補助金などと岐阜市の負担とどっちの方がより少ないお金を払う予定だったの?", "id": "de-053-02-001", "answers": [ { "text": "岐阜市の負担", "answer_start": 423, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2013年6月の岐阜市議会では、メディアコスモス関連の議案が賛成多数によって可決されたが、日本共産党議員などからは、巨額の予算をかけることに疑問の声が上がっている。5月30日に行われた2度目の入札では、戸田建設・大日本土木・市川工務店・雛屋建設社共同事業体の落札が決定し、7月に施工を開始した。\n\n2014年2月の岐阜市長選挙では、現職の細江茂光以外の2候補が「(メディアコスモス関連事業の)検証が必要」と訴えたが、細江は僅差で4期目5選を果たしている。メディアコスモスの整備に多額の費用を投じるため、岐阜市の2014年度一般会計予算案は過去最高の約1583億円となった。格子状の屋根の組み立ては2014年6月末から9月末まで約100日間を要しており、約8,500人工が参加している。建物は2015年2月12日に竣工し、その後内装工事が行われて書籍が運び込まれた。", "qas": [ { "question": "2013年6月の岐阜市議会で、メディアコスモス関連の議案に対して賛成が多かったの、反対が多かったの?", "id": "de-053-03-000", "answers": [ { "text": "賛成", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "岐阜市の2014年度一般会計予算案が過去最高を記録したのは何に多額の費用が投じることになったからですか。", "id": "de-053-03-001", "answers": [ { "text": "メディアコスモスの整備", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2014年まで、岐阜市の一般会計予算案が一番高かった時は約何円を記録したの?", "id": "de-053-03-002", "answers": [ { "text": "約1583億円", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2011年度には施設名称の全国公募を行った。1,386点の応募作品の中から「メディアコスモス」に決定し、その後岐阜市によって「みんなの森」が添えられている。オープン後の館内表示・案内サインへの活用のほか、施設及び施設が行うイベント等の広報ツールとして、2013年8月8日から9月27日にかけて「ロゴ」及び「シンボルマーク」を募集され、3名の外部選考委員により選考された作品に一部修正を加えたものに決定した。\n\n館長も全国公募が行われ、2015年4月には吉成信夫が就任した。吉成はこの時まで岩手県のNPO法人「岩手子ども環境研究所」で理事長を務めており、2003年から7年間は岩手県立児童館いわて子どもの森の館長を務めている。2015年3月29日には岐阜市立図書館本館が閉館し、移転準備期間に入った。", "qas": [ { "question": "2011年度行われた施設名称の全国公募には何点の作品が応募されましたか。", "id": "de-053-04-000", "answers": [ { "text": "1,386点", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2011年度行われた施設名称の全国公募の結果、施設名称は何に決定されたの?", "id": "de-053-04-001", "answers": [ { "text": "「メディアコスモス」", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2015年4月から「メディアコスモス」の館長として勤めるようになった人は誰なの?", "id": "de-053-04-002", "answers": [ { "text": "吉成信夫", "answer_start": 226, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "吉成信夫は「メディアコスモス」の館長に就任するまでどこの理事長を務めていたの?", "id": "de-053-04-003", "answers": [ { "text": "「岩手子ども環境研究所」", "answer_start": 253, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "メディアコスモスの開館日の2015年7月18日は悪天候だったが、約300人が開館時間を待って行列を作り、この日には家族連れなど約7,700人の来館者でにぎわった。晴天となった7月20日には約300台の駐車場がほぼ満車となり、岐阜市外から訪れる人も多かった。7月18日から20日の3連休中には約25,000人が訪れており、開館から20日間で計10万人を超える来館者があった。\n\n開館から1か月時点で、新図書館の1日あたり貸出冊数は4,400冊だった。旧館時代の2014年度は1日あたり580冊であり、新館の貸出冊数は旧館の7.5倍に上っている。ホールなどを含めた施設全体の入場者は約167,000人であり、1日平均は5,300人に達した。開館から1か月半で新規登録者数は1万人を越えた。40歳以下の貸出者率は59.6%であり、2014年度の29.7%から倍増している。開館3か月の貸出冊数は旧館の約7.4倍となり。40歳以下の割合が60.7%で旧館の2倍以上となった。この期間中の新規登録者数は約16,500人であり、うち4割は22歳以下である。開館からの3か月間には、教育委員会など60を超す団体が視察や見学で訪れた。10月16日までの約3か月間の図書館の入館者数は380,776人であり、1日平均では4,327人だった。", "qas": [ { "question": "メディアコスモスの開館日から20日の3連休中に約何人の人がメディアコスモスを訪れましたか。", "id": "de-053-05-000", "answers": [ { "text": "約25,000人", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "旧館と新館と、貸出冊数が多いのはどっちなの?", "id": "de-053-05-001", "answers": [ { "text": "新館", "answer_start": 249, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "メディアコスモスの構造は鉄筋コンクリート構造・鉄骨構造・木造の混構造であり、2階の床面までは鉄筋コンクリート造、2階の鉄骨マリオン柱と外周のT型柱で木造屋根を支持している。壁面は鉄筋コンクリート耐震壁と鋼板耐震壁を併用している。建築面積は7,363.84m2、延床面積は15,295.04m2である。建物は東西90m・南北80m、地下1階・地上2階建であり、高さは16.09mである。ワンフロアが80m×90mという広さにもかかわらず、2階は壁のないワンルームとなっている。近くに長良川があって地下水が豊富なため、伏流水を使用した輻射冷暖房を採用している。メディアコスモスは地下水・太陽光・太陽熱をエネルギー源として利用しており、1990年の同規模建物に比べて消費エネルギーを半分に抑えている。", "qas": [ { "question": "メディアコスモスの建築面積は何m2なの?", "id": "de-053-06-000", "answers": [ { "text": "7,363.84m2", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "メディアコスモスは岐阜市立中央図書館を中核施設とし、その他に市民活動交流センターや多目的ホールなどを備える。施設全体の総事業費は125億円であり、開館初年度の目標入場者数は年間100万人だった。岐阜県出身の物理学者・益川敏英が名誉館長に就任している。施設全体の職員数は岐阜市立図書館本館時代の20人から71人に増えており、人件費だけで年間2億9000万円と、旧館より2億円増加した。維持管理費約3億円、イベント事業費約1億円などをふくめて、メディアコスモスの運営には年間最低7億円を必要とする。\n\n開館1か月半時点では68%が自家用車で来場しており、バス利用者は5%にすぎなかったため、渋滞の解消や公共交通機関の利用促進などが課題とされている。1階にはコンビニエンスストアのローソンとコーヒーチェーン店のスターバックスが進出している。2014年6月には岐阜県においても経済産業省が主導するよろず支援拠点(地域経済課題支援機関)が開始されたが、2015年7月には拠点をメディアコスモス内に移した。相談時に司書が同席するなど、図書館ならではの対応を行っており、主婦や若者が起業相談に訪れるなど利用者層には変化がみられるという。", "qas": [ { "question": "メディアコスモスの施設全体の総事業費はいくらなの?", "id": "de-053-07-000", "answers": [ { "text": "125億円", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "メディアコスモスの開館1か月半時点で、自家用車と、バスと、どちらを利用する訪問客が多かったの?", "id": "de-053-07-001", "answers": [ { "text": "自家用車", "answer_start": 263, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "メディアコスモスの1階はホールやギャラリーなどを備えた市民の活動や交流の場であり、施設外は遊歩道が整備された広場となっている。1階の中央部は書庫となっており、その周囲に職員の業務スペースが設けられている。展示ギャラリー、多目的ホール、市民活動交流センターなど、市民活動のためのスペースは通路を挟んだ外周にある。\n\n1階の「ドキドキテラス」は床面が周囲よりも一段低くなっており、岐阜市出身の日比野克彦や伊東豊雄建築設計事務所などによる市民向けワークショップで用途が検討された。1階にある「みんなのホール」は最大230席であり、音楽コンサート・芝居・落語・講演会などを開催している。1階のギャラリーでは絵画や美術品の展示会が開かれている。市民活動を支援する交流センター、国際交流や多文化共生を進める交流プラザなどもあり、有料貸出のスタジオ4室はセミナー・シンポジウム・ダンス器楽演奏・会合などに使用されている。", "qas": [ { "question": "「ドキドキテラス」はメディアコスモスの何階に位置していますか。", "id": "de-053-08-000", "answers": [ { "text": "1階", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「みんなのホール」の座席は幾つありますか。", "id": "de-053-08-001", "answers": [ { "text": "230席", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "織田信長", "paragraphs": [ { "context": "織田信長(おだのぶなが、天文3年5月12日〈1534年6月23日〉-天正10年6月2日〈1582年6月21日〉)は、日本の戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。\n三英傑の一人。\n織田信長は、織田弾正忠家の当主・織田信秀の子に生まれ、尾張(愛知県西部)の一地方領主としてその生涯を歩み始めた。\n信長は織田弾正忠家の家督を継いだ後、尾張守護代の織田大和守家、織田伊勢守家を滅ぼすとともに、弟の織田信行を排除して、尾張一国の支配を徐々に固めていった。\n永禄3年(1560年)、信長は桶狭間の戦いにおいて駿河の戦国大名・今川義元を撃破した。\nそして、三河の領主・徳川家康(松平元康)と同盟を結ぶ。\n永禄8年(1565年)、犬山城の織田信清を破ることで尾張の統一を達成した。", "qas": [ { "question": "三英傑の一人で1582年6月21日に亡くなった人とは?", "id": "de-054-00-000", "answers": [ { "text": "織田信長", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "織田信長の父親の名前は?", "id": "de-054-00-001", "answers": [ { "text": "織田信秀", "answer_start": 111, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "信長が尾張統一を果たしたのは何年?", "id": "de-054-00-002", "answers": [ { "text": "1565年", "answer_start": 306, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "信長に殺された弟の名は?", "id": "de-054-00-003", "answers": [ { "text": "織田信行", "answer_start": 200, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一方で、室町幕府将軍足利義輝が殺害された(永禄の政変)後に、足利将軍家の足利義昭から室町幕府再興の呼びかけを受けており、信長も永禄9年(1566年)には上洛を図ろうとした。\n美濃の戦国大名・斉藤氏(一色氏)との対立のためこれは実現しなかったが、永禄10年(1567年)には斎藤氏の駆逐に成功し(稲葉山城の戦い)、尾張・美濃の二カ国を領する戦国大名となった。\nそして、改めて幕府再興を志す意を込めて、「天下布武」の印を使用した。\n翌年10月、足利義昭とともに信長は上洛し、三好三人衆などを撃破して、室町幕府の再興を果たす。\n信長は、室町幕府との二重政権(連合政権)を築いて、「天下」(五畿内)の静謐を実現することを目指した。\nしかし、敵対勢力も多く、元亀元年(1570年)6月、越前の朝倉義景・北近江の浅井長政を姉川の戦いで破ることには成功したものの、三好三人衆や比叡山延暦寺、石山本願寺などに追い詰められる。\n同年末に、信長と義昭は一部の敵対勢力と講和を結び、ようやく窮地を脱した。", "qas": [ { "question": "稲葉山城の戦いと姉川の戦いはどちらが先に起こりましたか?", "id": "de-054-01-000", "answers": [ { "text": "稲葉山城の戦い", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "姉川の戦いで敗北したのは朝倉義景と誰ですか?", "id": "de-054-01-001", "answers": [ { "text": "浅井長政", "answer_start": 350, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "元亀2年(1571年)9月、比叡山を焼き討ちする。\nしかし、その後も苦しい情勢は続き、三方ヶ原の戦いで織田・徳川連合軍が武田信玄に敗れた後、元亀4年(1573年)、将軍・足利義昭は信長を見限る。\n信長は義昭と敵対することとなり、同年中には義昭を京都から追放した(槇島城の戦い)。\n将軍不在のまま中央政権を維持しなければならなくなった信長は、天下人への道を進み始める。\n元亀から天正への改元を実現すると、天正元年(1573年)中には浅井長政・朝倉義景・三好義継を攻め、これらの諸勢力を滅ぼすことに成功した。\n天正3年(1575年)には、長篠の戦いでの武田氏に対して勝利するとともに、右近衛大将に就任し、室町幕府に代わる新政権の構築に乗り出した。\n翌年には安土城の築城も開始している。\nしかし、天正5年(1577年)以降、松永久秀、別所長治、荒木村重らが次々と信長に叛いた。", "qas": [ { "question": "信長が義昭を京都から追放したのは何年?", "id": "de-054-02-000", "answers": [ { "text": "1573年", "answer_start": 75, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "三方ヶ原の戦いの勝者は誰でしたか?", "id": "de-054-02-001", "answers": [ { "text": "武田信玄", "answer_start": 60, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "天正の前の元号は何でしたか?", "id": "de-054-02-002", "answers": [ { "text": "元亀", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "天正8年(1580年)、長きにわたった石山合戦(大坂本願寺戦争)に決着をつけ、翌年には京都で大規模な馬揃え(京都御馬揃え)を行い、その勢威を誇示している。\n天正10年(1582年)、甲州征伐を行い、武田勝頼を自害に追いやって武田氏を滅亡させ、東国の大名の多くを自身に従属させた。\n同年には信長を太政大臣・関白・征夷大将軍のいずれかに任ずるという構想が持ち上がっている(三職推任)。\nその後、信長は長宗我部元親討伐のために四国攻めを決定し、三男・信孝に出兵の準備をさせている。\nそして、信長自身も毛利輝元ら毛利氏討伐のため、中国地方攻略に赴く準備を進めていた。\nしかし、6月2日、重臣の明智光秀の謀反によって、京の本能寺で自害に追い込まれた(本能寺の変)。", "qas": [ { "question": "信長を自害に追い込んだ家来とは誰でしたか?", "id": "de-054-03-000", "answers": [ { "text": "明智光秀", "answer_start": 292, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "信長が命を落とした場所とはどこ?", "id": "de-054-03-001", "answers": [ { "text": "本能寺", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一般に、信長の性格は、極めて残虐で、また、常人とは異なる感性を持ち、家臣に対して酷薄であったと言われている。\n一方、信長は世間の評判を非常に重視し、家臣たちの意見にも耳を傾けていたという異論も存在する。\nなお、信長は武芸の鍛錬に励み、趣味として鷹狩り・茶の湯・相撲などを愛好した。\n南蛮などの異国に興味を持っていたとも言われる。\n政策面では、信長は室町幕府将軍から「天下」を委任されるという形で自らの政権を築いた。\n天皇や朝廷に対しては協調的な姿勢を取っていたという見方が有力となっている。", "qas": [ { "question": "信長が好んだものとは、茶の湯や相撲の他に何がありますか?", "id": "de-054-04-000", "answers": [ { "text": "鷹狩り", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "江戸時代には、新井白石らが信長の残虐性を強く非難したように、信長の評価は低かった。\nとはいえ、やがて信長は勤王家として称賛されるようになり、明治時代には神として祀られている。\n第二次世界大戦後には、信長はその政策の新しさから、革新者として評価されるようになった。\nしかし、このような革新者としての信長像には疑義が呈されつつあり、2010年代の歴史学界では、信長の評価の見直しが進んでいる。\n現代の日本において、歴史上の人物の中でも特に知名度が高い。\n例えば、2020年7月22日に放送された『水曜日のダウンタウン』の「古今東西日本人知名度ランキング」では、10位(92.4%)にランクインした。\nこれは歴史上の人物としてはトップだった。", "qas": [ { "question": "現代の日本において、歴史上の人物の中で最も知名度が高い人は誰?", "id": "de-054-05-000", "answers": [ { "text": "信長", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「古今東西日本人知名度ランキング」を行った番組名は何?", "id": "de-054-05-001", "answers": [ { "text": "『水曜日のダウンタウン』", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「古今東西日本人知名度ランキング」で信長は何位でしたか?", "id": "de-054-05-002", "answers": [ { "text": "10位", "answer_start": 278, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "歴史学者の池上裕子は、同時代人による信長についての「もっとも的確でまとまった人物評」は、宣教師ルイス・フロイスのものであると述べている。\n信長について「きわめて稀に見る優秀な人物であり、非凡の著名なカピタン(司令官)として、大いなる賢明さをもって天下を統治した者であったことは否定し得ない」とも述べたフロイスによれば、信長は次のような人物であった。\nフロイスの描くこのような「絶対君主」的な信長像は、信長の実際の言動と矛盾しない適切な描写であると池上裕子は言う。\n他方、歴史学者の神田千里によれば、こうした信長の人物像は日本の史料で確認できない部分も多く、以下で述べるとおり、このフロイスによる信長の評価を鵜呑みにすることは問題も多い。", "qas": [ { "question": "池上裕子が、同時代人で信長のことを最も的確に見極めた人物は誰だとしましたか?", "id": "de-054-06-000", "answers": [ { "text": "ルイス・フロイス", "answer_start": 47, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ルイス・フロイスの職業は何でしたか?", "id": "de-054-06-001", "answers": [ { "text": "宣教師", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "池上裕子によれば、信長は自身に敵対する者を数多く殺害し、必要以上の残虐行為を行った。\nそうすることで信長は「鬱憤を散じ」たのだと、自ら書状に記している。\nそうした事例の一つが、長島一向一揆殲滅における男女2万人の焼殺であり、信長はこの行為によって気を晴らしたのである。\nまた、岩村城への対応などに見られるように、信長は、しばしば降伏を条件として敵方の城内の者の助命を約束しているものの、降伏後にはその約束を反故にして虐殺を実行している。\nもっとも、敵対勢力に対する虐殺行為は、当時の戦国大名の間で広く行われていたもので、信長だけが行ったわけではない。\nまた、信長の一向一揆殲滅については、江戸時代初期の島原の乱における大虐殺との類似性が指摘されている。\n横田冬彦によれば、このような殺戮行為は近世成立期固有の事象であって、信長の残虐性という「専制者の個性」によって生じたと考えるのは妥当ではない。\n信長の残虐性を示す逸話としてしばしば触れられるのが、天正2年(1574年)正月の酒宴である。\n『信長公記』によれば浅井久政・長政父子と朝倉義景の3人の首を薄濃(はくだみ)にしたものを「他国衆退出の已後、御馬廻ばかり」の酒宴の肴として披露した。\n信長は非常に上機嫌であったという(『信長公記』巻七)。\n桑田忠親はこれを「信長がいかに冷酷残忍な人物であったかがわかる」と評している。\nこの桑田の見解に対して、宮本義己は敵将への敬意の念があったことを表したもので、改年にあたり今生と後生を合わせた清めの場で三将の菩提を弔い新たな出発を期したものであり、桑田説は首化粧の風習の見落としによる偏った評価と分析している。", "qas": [ { "question": "信長は長島一向一揆殲滅において何人を殺しましたか?", "id": "de-054-07-000", "answers": [ { "text": "2万人", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "信長が薄濃した首とは浅井久政親子と誰ですか?", "id": "de-054-07-001", "answers": [ { "text": "朝倉義景", "answer_start": 466, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "『信長公記』に記されているように、少年時代の信長は奇行で知られ、「大うつけ」と呼ばれた。\n異様な見た目の服装で街を歩き、栗や柿、瓜を食べながら歩いたという。\nさらに父の葬儀の際には、位牌に向かって抹香を投げるという暴挙に出ている。\nこのような奇行はしばしば信長の天才性の象徴とされてきた。\nしかし、神田千里は、成人した信長については、このような奇行を行う人物ではなかったと述べる。\n足利義昭に対する十七か条の異見書や佐久間信盛に対する折檻状などに見られるように、信長自身の残した文書からは、信長が世間の評判を非常に重視していたことが伺える。\nそして、信長はその時代の常識に則った行動を取り、人々からの支持を得ようと努めていたという。", "qas": [ { "question": "少年時代の信長は何と呼ばれていましたか?", "id": "de-054-08-000", "answers": [ { "text": "「大うつけ」", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "明智光秀や細川藤孝のようなごく一部の例外を除けば、信長は尾張出身の譜代ばかりを重要な地位に登用した。\nこれら譜代の人々で信長を裏切った者はいない一方で、松永久秀・荒木村重・明智光秀といった「外様」に当たる人々はやがて信長に反逆している。\n池上裕子は、久秀や光秀らの造反の要因の一つとして、信長の譜代重用に対する反発を挙げている。\nまた、松永久秀、別所長治、荒木村重らの反乱は、信長の苛烈ともされる性格に起因しているという説もある。\n己を恃むところが多く、実に気まぐれであり性格は猜疑心が強く執念深く、それが多くの謀反につながったと指摘する研究者もいる。\n前述のフロイスの人物評に見られるように、家臣たちは信長への絶対服従を求められ、異議を唱えることも許されなかったともされる。", "qas": [ { "question": "信長はどの地域の出身者を優先に重要な地位を与えましたか?", "id": "de-054-09-000", "answers": [ { "text": "尾張", "answer_start": 28, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "信長に反逆した外様の家臣は松永久秀、明智光秀の他に誰がいますか?", "id": "de-054-09-001", "answers": [ { "text": "荒木村重", "answer_start": 81, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "松永久秀、別所長治、荒木村重の中で、外様でなかった家臣は誰ですか?", "id": "de-054-09-002", "answers": [ { "text": "別所長治", "answer_start": 173, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "信長の性格が原因で反逆したとされている家臣は、別所長治、荒木村重の他に誰がいますか?", "id": "de-054-09-003", "answers": [ { "text": "松永久秀", "answer_start": 168, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "他方で、こうした見方には異論も存在する。\n神田千里によれば、信長は家臣の意見をある程度までは重んじ、また家臣の取扱いにも慎重だった。\n前者について神田はいくつかの例を挙げているが、例えば、中国攻略における羽柴秀吉の独断での決定を信長は追認しているし、また、佐久間信盛の異議に従って武将の三ヶ頼連を赦免している。\n従来は家臣に絶対服従を求めたものだと理解されていた「越前国掟」という文書も、信長の意見が間違っていれば、憚ることなく指摘すべきだという文言がある。\nそして、家臣の意が妥当なものなら、信長はそれを採用することを約束している。\n当時の戦国大名は家臣たちの合議を重んじていたが、信長も例外ではなく、家中の合議を必要なものだと考えていたという。", "qas": [ { "question": "信長は家臣の意見をある程度まで重んじていたと指摘した人は誰ですか?", "id": "de-054-10-000", "answers": [ { "text": "神田千里", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "信長の家臣との関係については、しばしば譜代の重臣の佐久間信盛が追放されたことが注目される。\nこの追放は、一般的には、信長は能力の足りない家臣を容赦なく追い出した事件だと評価されている。\n例えば、池上裕子は「譜代・重臣であっても(中略)切り捨てる非情さ」の現れだと表現している。\nしかし、神田によれば、追放前に信盛には名誉回復の機会が与えられていることや、信盛が高野山で平穏に余生を送ったと考えられることなどからすると、信長の対応は冷酷とまでは言えないという。\nそして、信長が家臣の扱いに気を配ったことは、信長が信盛追放の理由の一つとして信盛家中に対する過大な負担を挙げていることからも裏付けられるという。", "qas": [ { "question": "信長が追放した譜代の重臣とは誰ですか?", "id": "de-054-11-000", "answers": [ { "text": "佐久間信盛", "answer_start": 25, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "佐久間信盛は追放後どこで過ごしましたか?", "id": "de-054-11-001", "answers": [ { "text": "高野山", "answer_start": 180, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "前述した『フロイス日本史』の記述から、信長は無神論者であり、神仏を否定していたと一般には考えられている。\nしかし、実際には、寺社にたびたび戦勝祈願を行っていたことが多数の一次史料から分かり、このフロイスの記述は信憑性が乏しいことが指摘されている。\n熱田神宮のいわゆる「信長塀」は、信長が桶狭間の戦いの戦勝の礼として奉納したという伝承がある。\nこの熱田神宮や、津島神社、織田剣神社といった織田氏と縁の深い神社に対しては、信長は熱心に支援を行っている。\nまた、信長は、「南無妙法蓮華経」と書かれた軍旗を用い、京都では法華宗寺院を宿所に選ぶなど、一定の範囲で法華宗も信仰していた形跡が伺えるという。\nこのように、信長はごく普通に神仏に対して信仰心を持っていたものの、迷信による弊害を嫌った。\nこのことを示すのが、無辺という旅僧にまつわる天正8年の出来事である(『信長公記』巻十三)。\n無辺は石馬寺の栄螺坊の宿坊に住み着き、不思議な力を持つと人々の間で評判となった。\n信長は無辺を引見し、出身地などをいくつか質問するが、無辺はわざと不思議な答えをした。\n信長が「どこの生まれでもない者ということは妖怪かもしれぬ。火であぶってみよう、火を用意せよ」と脅すと、無辺はやむを得ず今度は事実を正直に答えた。\n無辺は不思議な霊験も示すことはできなかったので、信長は無辺の髪の毛をまばらにそぎ落とし、裸にして縄で縛って町中に放り出し追放した。\nさらに、無辺が迷信を利用して女性に淫らな行いをしていたことが判明したため、信長は無辺を処刑させたという。", "qas": [ { "question": "「信長塀」はどこに奉納されましたか?", "id": "de-054-12-000", "answers": [ { "text": "熱田神宮", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "信長が少なからず信仰していたであろう仏教とは何?", "id": "de-054-12-001", "answers": [ { "text": "法華宗", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "信長は無辺に対して最終的にどういった処置を取りましたか?", "id": "de-054-12-002", "answers": [ { "text": "処刑", "answer_start": 655, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "前述のフロイスの人物評でも言及されているように、信長は武芸の鍛錬に熱心であった。\n若き日の信長は、馬術の訓練を欠かさず、冬以外の季節は水泳に励んでいたという。\nさらに、平田三位などの専門家を師として、兵法や弓術、砲術といった事柄を修めた。\n信長の趣味として、後述する茶の湯、相撲とともに鷹狩が知られる。\n『信長公記』首巻にはすでに鷹狩の記述がみられ、青年期からの趣味であったことがわかる。\n天下の政治を任されるようになってからも三河や、摂津での陣中、京都の東山などで鷹狩を行った。\n天正7年(1579年)の2~3月には太田牛一が『信長公記』に「毎日のように」と記すほど頻繁に行い、翌天正8年(1580年)の春にもやはり「毎日」鷹狩りを行った。\n前述したとおり、信長は馬術の鍛錬にも励んでいたようで、天正9年(1581年)には安土、岐阜の各城下に馬場を設けている。\n足利義昭を京都から追放し、自ら天下の政治を取り仕切るようになった天正年間になると、全国の大名・領主から信長のもとに馬や鷹が献上されるようになった。\nこのように天正年間には、多くの大名、領主から信長の許へ鷹や馬が献上された。\n信長はこれらの献上の対価として分国を安堵した。\nまたこうした献上行為は信長の政策が全国の大名・領主に受け入れられた結果でもあった。", "qas": [ { "question": "信長が兵法、弓術、砲術などを教わった先生は誰ですか?", "id": "de-054-13-000", "answers": [ { "text": "平田三位", "answer_start": 84, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "信長が鷹狩を行うようになったのはいつからですか?", "id": "de-054-13-001", "answers": [ { "text": "青年期", "answer_start": 175, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『信長公記』に信長が毎日鷹狩を行っていたことを記した人は誰ですか?", "id": "de-054-13-002", "answers": [ { "text": "太田牛一", "answer_start": 259, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "信長は茶の湯に大きな関心を示した。\n信長がいつ茶の湯を嗜むようになったかは定かではないものの、上洛後の永禄12年(1569年)以降、名物茶道具を収集する「名物狩り」を行うようになった。\nこの名物狩りは、「東山御物」のような足利将軍家由縁のものを集めることで、自身の権威付けを目的としたものであったという。\nそして、こうして手に入れた茶道具は、家臣に恩賞として与えられ、政治的な目的でも利用された(いわゆる「御茶湯御政道」)。\n甲斐攻略で戦功を上げた滝川一益が信長に対し、珠光小茄子という茶器を恩賞として希望したが、与えられたのは関東管領の称号と上野一国の加増でがっかりしたという逸話もある。\n『信長公記』『太閤記』『四度宗論記』『安土問答正伝記』等によれば、天正7年(1579年)5月27日には、安土宗論で勝利した浄土宗高僧の貞安に、後醍醐天皇御製の薄茶器「金輪寺」(きんりんじ/こんりんじ)の本歌(原品)を与えたという。\nただし、信長は単に茶の湯を政治的に利用したわけではなく、純粋に茶の湯を楽しんでいた面もあるようである。", "qas": [ { "question": "「名物狩り」とは何を集めることですか?", "id": "de-054-14-000", "answers": [ { "text": "名物茶道具", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、相撲見物も好んだ。\n当時、相撲の風習があったのは西国のみであり、信長も尾張時代には相撲に関心はなかったと考えられる。\nしかし、上洛以後は、相撲見物が大の好物となり、安土城などで大規模な相撲大会をたびたび開催していたことが『信長公記』に散見する。\n相撲大会では、成績の優秀な者は褒美を与えられ、また青地与右衛門などのように織田家の家来として採用されることもあったという。\n具体的な例として、天正6年(1578年)8月に行われた相撲大会においては、信長は優秀な成績を収めた者14名をそれぞれ100石で召し抱え、彼らには家まで与えたという。\n幸若舞や小歌を愛好したことも知られる一方で、舞と比べると、能楽にはあまり興味を持たなかった。\nその他、天正3年(1575年)3月に京都相国寺で今川氏真と会見し、氏真に蹴鞠を所望し、披露してもらったというエピソードがあり、また同年7月の誠仁親王主催の蹴鞠の会も見学するなど、蹴鞠にも関心を持っていた可能性がある。", "qas": [ { "question": "信長が大規模な相撲大会を開催した城はどこですか?", "id": "de-054-15-000", "answers": [ { "text": "安土城", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "織田家の家来として採用された力士の名前は?", "id": "de-054-15-001", "answers": [ { "text": "青地与右衛門", "answer_start": 151, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "信長がより好んだのは幸若舞と能楽のどちら?", "id": "de-054-15-002", "answers": [ { "text": "幸若舞", "answer_start": 271, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "信長は新しいものに好奇心をもち、各種の行事の際には風変わりな趣向を凝らした。\n脇田修はこれを信長の「風流の精神」であると位置付けている。\n例えば、正月に「左義長」として安土の町で爆竹を鳴らしながら大量の馬を走らせたり、お盆に安土城に明かりを灯して楽しむといったことをしている。\n後者については『フロイス日本史』と『信長公記』の双方に記録があり、城下町には明かりをつけることを禁じる一方で、安土城の天守のみを提灯でライトアップし、さらに琵琶湖にも多くの船に松明を載せて輝かせ、とても鮮やかな様子だったという。\n信長はこの安土城を他人に見せることを非常に好み、他大名の使者など多くの人に黄金を蔵した安土城を見学させた。\n特に、天正10年(1582年)の正月には、安土城の内部に大勢の人々を招き入れて存分に楽しませた後、信長自らの手で客1人につき100文ずつ礼銭を取り立てたという。", "qas": [ { "question": "安土城の近くにある湖とは何?", "id": "de-054-16-000", "answers": [ { "text": "琵琶湖", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "安土城に明かりを灯して楽しんだことが記録されている書物は『信長公記』と何ですか?", "id": "de-054-16-001", "answers": [ { "text": "『フロイス日本史』", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イエズス会の献上した地球儀・時計など、西洋の科学技術に関心を持った。\nフロイスから目覚まし時計を献上された際は、興味を持ったものの、扱いや修理が難しかろうという理由で返したという。\n信長が西洋科学に関心を持っていたことは信長自身の書状からもわかり、病気の松井友閑の治療のためにイエズス会の医師を派遣させている。\n信長は宣教師のアレッサンドロ・ヴァリニャーノに安土城を描いた屏風絵(狩野永徳作「安土城図」)を贈っており、この屏風絵は、信長死後の1585年(天正13年)にローマ教皇グレゴリウス13世に献上されている。\nただし、この屏風贈呈は、信長の個性に起因するものというより、中国の皇帝に対して行われていたような異国への屏風絵贈呈の伝統に基づくものであると考えられる。\nまた、ヴァリニャーノの使用人であったアフリカ(現・モザンビーク)出身の黒人に興味を示して譲り受け、「弥助」と名付けて側近にしたことも知られる。\n南蛮とは別に、中国に対する強い憧れを有していたという説もある。\n宮上茂隆は、安土城建築のあり方から信長の中国趣味が伺えると主張しているという。\n信長の中国への強い関心のため、安土城天守閣の多くの部分では唐様建築が採用されたといい、また、信長の建てた摠見寺は中国の山水画の画題・瀟湘八景のうち「遠時晩鐘」を現したものであるともいう。\nただし、谷口克広は、信長が中国への憧れを持っていたという説は根拠不十分であると述べている。", "qas": [ { "question": "弥助は信長に使える前は誰の使用人でしたか?", "id": "de-054-17-000", "answers": [ { "text": "ヴァリニャーノ", "answer_start": 338, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "安土城建築のあり方から、信長が関心を抱いてた国とはどこだと伺えますか?", "id": "de-054-17-001", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 459, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "安土城天守閣にはどのような建築スタイルが多く採用されていましたか?", "id": "de-054-17-002", "answers": [ { "text": "唐様建築", "answer_start": 508, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "信長が建て、「遠時晩鐘」を現した建築物とは何ですか?", "id": "de-054-17-003", "answers": [ { "text": "摠見寺", "answer_start": 531, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "信長がその妻や側室たちとどのような関係にあったかを具体的に伝える史料は乏しい。\n近年では、歴史学者の勝俣鎮夫が、明智光秀の妹が信長の側室であり、信長の「意思決定になんらかの影響を与える存在」であったのではないかという説を立てている。\nなお、羽柴秀吉が子に恵まれない正室・ねねに対して辛く当たっていることを知ると、ねねに対して励ましの手紙を送っていることが知られる。\n信長が男色を嗜んだかどうかについては、直接的証拠は無い。\n『利家夜話』には、若き日の前田利家が信長と同衾していたという男色を示唆する逸話がある。\nしかし、谷口克広は、この逸話を指摘しつつも、信長と利家・森蘭丸ら近習たちとのあいだに肉体関係があったことは、確実だとは言えないと述べる。\nとはいえ、谷口によれば、当時の風習などを考えても、信長たちがいわゆる男色関係にあった可能性は非常に高い。", "qas": [ { "question": "信長が男色だった可能性が高いと述べている人物の氏名は?", "id": "de-054-18-000", "answers": [ { "text": "谷口克広", "answer_start": 260, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『利家夜話』で信長と男色関係にあったとされる人物は誰ですか?", "id": "de-054-18-001", "answers": [ { "text": "前田利家", "answer_start": 225, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "信長の肖像は、現在肖像画23点、肖像彫刻5点が確認されている。\n代表的な作品として、狩野永徳の弟・宗秀が信長一周忌に描いたとされる、愛知県豊田市の長興寺所蔵のもの(重要文化財)、同じく一周忌に描かれた古渓宗陳讃をもつ衣冠束帯姿の神戸市立博物館本(重要文化財)、狩野永徳筆の可能性が濃厚で信長三回忌に描かれた大徳寺の肖像、近衛前久が信長七回忌に描かせ、追善のため六字名号を書き出しの一字に加えた和歌の賛がある京都市上京区報恩寺所蔵のもの、および兵庫県氷上町が所蔵する坐像などが、信長の肖像画として伝えられている。\nこのうち、長興寺所蔵の肖像画は竹の紙に描かれており、水墨画によく使われている竹の紙を彩色画に使った意図は判明していない。\n太平洋戦争中の1944年から1945年に大阪市立美術館で修復が行われ、また2016年から2019年までにも文化庁主導の下で修復作業が行われた。\nまた大徳寺所蔵の肖像画は、2008年から2009年にかけて京都国立博物館主導で行われた修復作業により、当初は小袖が鮮やかな柄で脇差も2本描かれ、顔つきも雄々しいものであったことが判明した。", "qas": [ { "question": "現在確認されている信長の肖像画と肖像彫刻はどちらの数が多いですか?", "id": "de-054-19-000", "answers": [ { "text": "肖像画", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "狩野永徳の弟の名前は?", "id": "de-054-19-001", "answers": [ { "text": "宗秀", "answer_start": 49, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大徳寺にある肖像は信長の何回忌に描かれたものですか?", "id": "de-054-19-002", "answers": [ { "text": "三回忌", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大徳寺にある信長の肖像画は誰が描いた可能性が高いですか?", "id": "de-054-19-003", "answers": [ { "text": "狩野永徳", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] } ] }