{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "東大寺の仏像", "paragraphs": [ { "context": "本項東大寺の仏像では、奈良県奈良市にある聖武天皇ゆかりの寺院・東大寺に伝来する仏像について説明する。\n\n8世紀に日本の首都であった奈良を代表する寺院である東大寺は、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。東大寺には、「奈良の大仏」として知られる、高さ約15メートルの盧舎那仏像をはじめ、日本仏教美術史を代表する著名作品が多く所蔵されている。\n\n本項では東大寺に所在する仏像彫刻について概観する。なお、東大寺の概要については「東大寺」の項を、大仏については「東大寺盧舎那仏像」の項を参照のこと。", "qas": [ { "question": "8世紀に日本の首都はどこでしたか。", "id": "de-000-00-000", "answers": [ { "text": "奈良", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「奈良の大仏」の高さは何メートルなの?", "id": "de-000-00-001", "answers": [ { "text": "約15メートル", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "東大寺は、8世紀に聖武天皇の発願で造立された盧舎那仏像、いわゆる「奈良の大仏」を本尊とする寺院である。仏教による国家鎮護を願った聖武は、天平15年10月15日に「盧舎那仏造立の詔」を発した。大仏は当初近江国紫香楽で造り始められたが、計画を変更し、2年後の天平17年から大和国添上郡山金里であらためて大仏造立が始められた。大仏開眼供養が行われたのは天平勝宝4年4月9日のことである。国力を結集して造立した大仏は、治承4年の平重衡の南都焼討と永禄10年の三好・松永の兵火で罹災し、その都度復興された。現存する大仏は上記の2度の兵火で甚大な被害を受けており、奈良時代のオリジナルは脚部や台座などのごく一部に残るのみで、その他の大部分は中世および近世の補作である。大仏を安置する金堂は、18世紀の再建であるが、伝統工法による木造建築としては世界最大級のものである。", "qas": [ { "question": "盧舎那仏像は誰の発願で造立されたの?", "id": "de-000-01-000", "answers": [ { "text": "聖武天皇", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「盧舎那仏造立の詔」はいつ発されたか。", "id": "de-000-01-001", "answers": [ { "text": "天平15年10月15日", "answer_start": 68, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大仏開眼供養が行われたのはいつでしたか。", "id": "de-000-01-002", "answers": [ { "text": "天平勝宝4年4月9日", "answer_start": 173, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "戒壇院四天王像は国宝だ。奈良時代。塑造。像高持国天160.5センチ、増長天162.2センチ、広目天169.9センチ、多聞天164.5センチである。国宝指定名称は「塑造四天王立像」だ。天平勝宝7年(755年)、唐僧鑑真によって設立された東大寺戒壇院の中心堂宇である戒壇堂に安置される。戒壇堂内の壇上中央に多宝塔があり、これを護るように壇上四隅に四天王像が立つ。現存する戒壇堂と多宝塔は享保18年(1733年)の再建であるが、四天王像は奈良時代の作である。ただし、戒壇堂に本来安置されていた四天王像は銅造であったことが史料からわかっており、現在安置されている四天王像(塑造)は材質が異なるため、後世他所から移入された像であることが明らかである。壇上、東南隅に東方を守護する持国天像が立ち、以下、西南隅に南方守護の増長天像、西北隅に西方守護の広目天像、東北隅に北方守護の多聞天像が立つ。", "qas": [ { "question": "戒壇院四天王像の国宝指定名称は何?", "id": "de-000-02-000", "answers": [ { "text": "「塑造四天王立像」", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "イタセンパラ", "paragraphs": [ { "context": "イタセンパラ(板鮮腹、Acheilognathuslongipinnis)は、コイ科のタナゴ亜科タナゴ属に分類される淡水魚の一種。\n別名はビワタナゴ(琵琶鱮、琵琶鰱)。", "qas": [ { "question": "ビワタナゴの正式名称は何?", "id": "de-001-00-000", "answers": [ { "text": "イタセンパラ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イタセンパラを漢字表記するとどうなりますか?", "id": "de-001-00-001", "answers": [ { "text": "板鮮腹", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イタセンパラは何科の魚類ですか?", "id": "de-001-00-002", "answers": [ { "text": "コイ科", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本固有種。\n淀川水系・富山平野・濃尾平野の3か所に分布するが、それぞれ生息地は限定的で個体数も減少しており絶滅が危惧されている。\n日本海側を含むそれぞれ離れた地域に限局して生息するという特異な分布状況は生物地理学的見地からも貴重である。\nDNA解析とマイクロサテライト分析により、各地域個体群はそれぞれ固有の遺伝的組成をもつことが判明している。", "qas": [ { "question": "イタセンパラの分布地域は富山平野、濃尾平野ともう1つはどこですか?", "id": "de-001-01-000", "answers": [ { "text": "淀川水系", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "かつては琵琶湖の内湖や巨椋池に多く生息したが、いずれも戦前までに絶滅した。\n1941年に干拓で消滅した巨椋池の名残と考えられる京都競馬場内の池が京都府により1999年に生態調査されたが本種は確認されなかった。\nビワタナゴの別名は本種の模式産地である琵琶湖に由来する。\nしかし1936年以降琵琶湖およびその周辺での確認例はなく、現在生息する可能性はない。\n国立科学博物館や東京大学には琵琶湖産個体の標本が保存されている。", "qas": [ { "question": "ビワタナゴの名前の由来は何ですか?", "id": "de-001-02-000", "answers": [ { "text": "琵琶湖", "answer_start": 124, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ビワタナゴは何年以降、琵琶湖での確認例がないですか?", "id": "de-001-02-001", "answers": [ { "text": "1936年以降", "answer_start": 137, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "体色は褐色を帯びた銀白色で、鰓ぶた後部(第5側線鱗付近)に暗色小斑がある。\n体側の縦条はないかきわめて不明瞭。\n側線は完全で、側線有孔鱗数は35-37。\n近縁種のゼニタナゴは側線が不完全な点で区別される。\n口ひげはない。\n咽頭歯数1列5-5、脊椎骨数33-35。\n消化管はきわめて細長く渦巻き状。\n染色体数は2n=44。", "qas": [ { "question": "側線有孔鱗数はいくつありますか?", "id": "de-001-03-000", "answers": [ { "text": "35-37", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "染色体数は?", "id": "de-001-03-001", "answers": [ { "text": "2n=44", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "オスの婚姻色は鮮やかで、鰓ぶたから背にかけて淡紫色に、体側前半部は淡紅色に染まり、腹部下端は黒くなる。\n背鰭と尻鰭は黒で縁取られ、くっきりとした黒と白の点列が2-3本現れる。\n小型の1歳魚では発色が淡い傾向があり、また地域個体群によっても発現様態に差異がみられる。\n一方、メスは明らかな婚姻色を呈することはなく褐色味が抜けてより明るめの銀白色となり、腹部が膨らむとともに淡灰色の産卵管を2-3cmほど伸ばす。\n産卵管は最長時でも尻鰭後端をわずかに超す程度で、他のタナゴ類に比べ太く短い。", "qas": [ { "question": "鮮やかな婚姻色になるのはオスとメスのどちらですか?", "id": "de-001-04-000", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "産卵管は何色ですか?", "id": "de-001-04-001", "answers": [ { "text": "淡灰色", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "本種の形態的特徴は大陸原産のオオタナゴにきわめて類似している。\nたとえばオオタナゴの種小名macropterusとは「大きな鰭」の意で、本種の種小名と由来が共通する。\nそのため1939年に朝鮮総督府水産試験場の研究者である内田恵太郎により、本種は日本固有種ではなくオオタナゴの異名同種とする見解が示された。\nしかし後年の研究で、口ひげや縦条の有無・食性・繁殖期・卵形が異なることが判明したためこの見解は否定された。\nDNA分析によれば本種とオオタナゴの遺伝的距離はゼニタナゴより遠い。\nなお稚魚はカネヒラやバラタナゴにも似るが、背鰭の稚魚斑によって判別される。", "qas": [ { "question": "形態的特徴が本種と非常によく似ている魚類は何ですか?", "id": "de-001-05-000", "answers": [ { "text": "オオタナゴ", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種の稚魚はバラタナゴと何に似ていますか?", "id": "de-001-05-001", "answers": [ { "text": "カネヒラ", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「イタセンパラ」の和名は濃尾平野における地方名に由来し「板のように平たい体形で、色鮮やかな腹部をもつ魚」の意である。\n濃尾平野のセンパラまたはセンパ・センペラは本種を含むタナゴ類一般に対する混称で、「びた銭に見える」ことを由来とする説もある。\n原記載由来のビワタナゴではなく一方言が標準和名となっていることについては、以前はともかく現在では本種が生息しないと考えられる琵琶湖にちなむ呼称は不適当であるためとされる。", "qas": [ { "question": "「イタセンパラ」の和名はどこの地方名に由来しているの?", "id": "de-001-06-000", "answers": [ { "text": "濃尾平野", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「イタセンパラ」の和名の意味は?", "id": "de-001-06-001", "answers": [ { "text": "「板のように平たい体形で、色鮮やかな腹部をもつ魚」", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "河川のワンドやタマリ(河跡湖)・池沼・ため池といった、水流がないかもしくは緩やかでヨシやガマなどが繁茂する浅瀬、およびそれに繋がる水路に生息する。\n水中に餌となる藻類が豊富で水底に産卵床となる二枚貝類が生息することも必須条件である。\n流れが強く水深のある河川本流部は生息に適さないと考えられ、淀川では本流にはまったく生息せず過去の確認例もない。", "qas": [ { "question": "本種の産卵床となるものは何?", "id": "de-001-07-000", "answers": [ { "text": "二枚貝類", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "仔稚魚は主に動物プランクトンを捕食するが、成長にしたがい藻類主体の植物食性へと変化していく。\n成魚はもっぱら付着藻類を餌とし、このため本種の腸は日本産タナゴ類としては最も長い。\n野生個体は配合飼料にはなかなか餌付かず、本種の飼育が困難とされる要因のひとつである。\nただし仔稚魚から飼育された個体はアユ用配合飼料を摂食し、屋外の池で自然発生する藻類を餌として飼育された個体に比べ摂食量は少ないが成長はやい。", "qas": [ { "question": "本種の仔魚が食べるものは何ですか?", "id": "de-001-08-000", "answers": [ { "text": "動物プランクトン", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "成長に伴って本種の食べ物は何に変わりますか?", "id": "de-001-08-001", "answers": [ { "text": "藻類", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "成魚の主食は何ですか?", "id": "de-001-08-002", "answers": [ { "text": "付着藻類", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本産タナゴとして最も長い本種の臓器とは何ですか?", "id": "de-001-08-003", "answers": [ { "text": "腸", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "繁殖期は秋で、9-11月(盛期は10月中旬-下旬)にイシガイ・ドブガイ・ササノハガイなどイシガイ科の淡水生二枚貝を産卵母貝として繁殖行動をとる。\n秋に産卵するコイ科魚類は希少で、タナゴ類では本種とカネヒラ・ゼニタナゴの3種が秋産卵型である。\n貝種による選好性はイシガイ>ササノハガイ>小型のドブガイ>その他の順で、産卵管が短いことから殻高の低いイシガイやササノハガイをより好み、殻高が高いドブガイでは小型の個体のみを選択する。", "qas": [ { "question": "秋に産卵するタナゴ類とは本種の他にゼニタナゴと何がありますか?", "id": "de-001-09-000", "answers": [ { "text": "カネヒラ", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オス同士は二枚貝をめぐり激しく縄張り争いをし、確保した貝に産卵管を伸長させたメスを誘い込む。\nメスはしばらく貝から数cm斜め上方で倒立ぎみに静止して出水管を注視し、水が出ているかどうかで貝の生死を確認すると、出水管へ産卵管を挿入し鰓葉内に卵を産み付ける。\nメスの産卵は0.2秒ほどの瞬間に行われるため目視での観察は難しい。\n1個の母貝に対する産卵個数は30-40個、1個体の産卵回数は2-5回である。\n産卵終了直後、オスは貝の入水管へ接近し尾鰭側を下げた姿勢で放精するが、産卵開始前からさかんに放精を行うオスも頻繁にみられる。\n複数のオス同士による闘争中メスは貝に近づけないが、オス達が貝から離れた隙に産卵してしまうこともあり、その場合は各オスが一斉に放精する。\n精子は入水管から吸い込まれ、卵は貝体内で受精する。", "qas": [ { "question": "メスの産卵時間はどれくらいですか?", "id": "de-001-10-000", "answers": [ { "text": "0.2秒", "answer_start": 134, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "卵は約3.4×1.3mmの細長い米粒形をしており、不透明な黄色で弱い粘着力をもつ。\n17-25°Cの水温では受精から90時間ほどで孵化するが仔魚はそのまま母貝内にとどまり、ほどなく発生をほぼ停止して前期仔魚(ウジ状の発生段階)のまま越冬する。\n越冬時の仔魚は干上がりに耐性をもち、水がほとんどなくなってしまうような場所でも泥中に潜った母貝が無事ならば生存可能である。\n本種の人工繁殖研究の結果、仔魚の成長には秋〜冬〜春の水温変動が必須条件であり、5°C程度の低水温期を経過しないと発生が再開しないことが判明している。", "qas": [ { "question": "卵のサイズはどれくらいですか?", "id": "de-001-11-000", "answers": [ { "text": "約3.4×1.3mm", "answer_start": 2, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "卵は何色ですか?", "id": "de-001-11-001", "answers": [ { "text": "黄色", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "全長2-2.5cmほどの幼魚に成長すると体高がまだ低いことを除いて成魚とほぼ同様の形態的特徴をそなえ、沖合の底層に移動して藻類食に移行する。\n初夏になると最も活発に摂餌して急速に成長し、秋口には5-6cmの大きさとなりオスメスともに成熟する。\n摂食活動は次第に鈍化し繁殖期にはほぼ停止して繁殖行動に専念するようになる。\n寿命はおおむね1-2年で、繁殖を終えた冬に斃死する個体が多く、越冬した成魚も2年目の繁殖後にはほぼ死滅する。", "qas": [ { "question": "本種が急成長する季節はいつですか?", "id": "de-001-12-000", "answers": [ { "text": "初夏", "answer_start": 71, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1950-60年代にかけ、生息地となる河川のワンドやタマリ・岸辺の湿地帯・ため池などの多くが河川改修や圃場整備といった高度経済成長期の開発によって消滅した。\n都市化にともなう生活・工業排水による水質汚濁や河川用水路への農薬流出といった要因も重なり、産卵床となる二枚貝類は減少あるいは絶滅し、本種が生息可能な水域は著しく狭められ個体数が激減した。", "qas": [ { "question": "本種の生息地が消滅したのはいつの年代ですか?", "id": "de-001-13-000", "answers": [ { "text": "1950-60年代", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "富山平野では、主要な生息地であった放生津潟が富山新港として開発され海水が流入し周辺水路も護岸化されたため、1958年を最後に生息確認例が皆無となった。\n淀川では水質汚濁が著しく1960年代初頭を最後に生息が確認されなくなった。\nこのため1960年代後半になると富山平野と淀川からは絶滅したものと考えられるようになった。\n濃尾平野では木曽川水系下流域の一部で生息確認が得られていたものの、やはり生息域・個体数とも減少が続いた。\n1950年頃には大垣市付近の水路やため池に多数生息していたが、タイリクバラタナゴ増殖の影響を受け次第に姿を消していった。", "qas": [ { "question": "淀川で本種の生息が最後に確認されたのはいつでしたか?", "id": "de-001-14-000", "answers": [ { "text": "1960年代初頭", "answer_start": 88, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "生息確認例が途絶え絶滅したともみられていた淀川であるが、1971年3月、比較的良好な自然環境が残る城北(しろきた)ワンド群の城北公園裏ワンドで市岡高校生物部の生徒達によって再発見された。\nその後の調査により淀川左岸のワンド23か所で生息が確認されたが、水質が悪い右岸のワンドでは確認されなかった。", "qas": [ { "question": "淀川で本種の生息が再発見されたのはいつでしたか?", "id": "de-001-15-000", "answers": [ { "text": "1971年3月", "answer_start": 28, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種が再発見されたのは淀川のどの地域でしたか?", "id": "de-001-15-001", "answers": [ { "text": "城北公園裏ワンド", "answer_start": 62, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この再発見を契機として次第に保護の機運が高まり、関東平野のミヤコタナゴとともに1974年6月、日本の文部大臣(当時)により文化財保護法に基づき国の天然記念物に指定された。\n淀川のワンド群は最大の生息地とされ、詳細な調査研究の対象となり生態の解明が進んだ。\nまた行政と保護団体が連携し、環境保全活動や人工ワンド建設などの保護増殖策も実施されることとなった。\nこうした保護活動は淀川ではいったん奏功し、母貝が移植された右岸のワンドでも生息が確認されるようになった。\n個体数も増加し、この年代における城北ワンド群の仔稚魚総数は数万から数十万匹であったと推計される。", "qas": [ { "question": "本種と同じ時期に天然記念物に指定された生物は何ですか?", "id": "de-001-16-000", "answers": [ { "text": "ミヤコタナゴ", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本種が天然記念物に指定されたのはいつでしたか?", "id": "de-001-16-001", "answers": [ { "text": "1974年6月", "answer_start": 39, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1989年、富山県氷見市の万尾川で近畿大の学生4人がオス1匹を発見し、翌1990年に大阪教育大でその個体がイタセンパラと同定され、同川に生息することが確認された。\n富山県における生息確認はおよそ30年ぶりのことであった。\n発見後ただちに実施された調査の結果、氷見市では万尾川から十二町潟、隣接する仏生寺川に生息することが判明した。\n1996年には愛知県日進市の天白川水系で発見され、過去に本種の確認例がない同水系で初めて生息が確認された。", "qas": [ { "question": "富山県で30年ぶりにイタセンパラの生息が確認されたのは何年のことでしたか?", "id": "de-001-17-000", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "天白川水系で初めてイタセンパラが発見されたのは何年でしたか?", "id": "de-001-17-001", "answers": [ { "text": "1996年", "answer_start": 166, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "国の天然記念物として保護を受けるようになり、淀川ではワンドに生息する魚種の第4位を占めるまでに個体数が増加するなどの成果もみられた。\nしかし年代が進むにつれブラックバス・ブルーギルの食害やタイリクバラタナゴとの競合といった外来魚の圧迫が増大し、加えて人間による観賞魚としての飼育や売買を目的とする密漁も横行したため、個体数は年々減少し生息地も縮小していった。\n淀川では1983年に完成した淀川大堰の影響で平時水位が50cm上昇して二枚貝類の繁殖に重要な水深30cm以下の浅瀬が1/4に減少し、また水位変動がなくなり氾濫原がダム湖のように湛水域と化したため、さらに生息が圧迫された。\n人工ワンドや保護池でも環境の撹乱が不足して次第に水底の状態が悪化し、当初定着していた二枚貝が死滅するなどして生息不能な状態となっていった。", "qas": [ { "question": "本種と競合した外来魚は何ですか?", "id": "de-001-18-000", "answers": [ { "text": "タイリクバラタナゴ", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "淀川大堰の完成年はいつですか?", "id": "de-001-18-001", "answers": [ { "text": "1983年", "answer_start": 184, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "氷見市では1993年に万尾川改修工事が実施され、それにともない十二町潟では水が抜かれて魚類生息不可能な状態となった。\n半年後に十二町潟の水位は降雨により回復したが、万尾川からは遮断され十二町潟水郷公園として整備されたため生息地として再生する見込みはなくなった。\n仏生寺川からも姿を消しており、生息地は万尾川ただ1か所を残すのみとなった。\n1995年、本種は環境庁(当時)により種の保存法に基づき国内希少野生動植物種に指定され、翌1996年には関係4省庁が合同で「イタセンパラ保護増殖事業計画」を策定、行政主導の保護活動が本格化した。\n絶滅危惧IA類(環境省レッドリスト)。", "qas": [ { "question": "環境省レッドリストでは本種は何に分類されていますか?", "id": "de-001-19-000", "answers": [ { "text": "絶滅危惧IA類", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "氷見市における本種の生息地はどこだけになりましたか?", "id": "de-001-19-001", "answers": [ { "text": "万尾川", "answer_start": 150, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "国交省近畿地方整備局淀川河川事務所が1994年から毎年実施している生息調査では、2005年を最後に4年連続で稚魚が1匹も確認されなくなった。\nこの危機的状況をうけ同事務所は、淀川大堰の操作によって自然に近い水位変動を人為的に発生させてワンドの環境改善を図るとともに、2017年をめどにワンドの倍増をめざす計画案を策定した。\nまた同事務所と大阪府水生生物センターは2009年秋、現状の淀川における生息環境適性の把握をねらいとして、以前に淀川で捕獲して人工繁殖させたイタセンパラ500匹の再放流を実施した。\n場所などの詳細は非公開とされたが、2010年度の調査では5年ぶりに稚魚133匹を確認したと公表、放流個体が繁殖したものと推定されている。\nしかし大阪市の経費削減策により2012年に大阪市水道記念館が休館し、ここで飼育しているイタセンパラについても飼育は継続しないこととなり、2015年7月末までに繁殖事業が中止されることになった。\n2018年5月に最後の一匹が死に、市の飼育が終了したため、市は文化庁に「天然記念物滅失届出書」を提出した。\n一方、2019年に淀川河川事務所と大阪府立環境農林水産総合研究所が共同で行った調査によると、城北ワンド群で11677匹の稚魚が確認され、放流した500匹は淀川に定着したことが確認された。", "qas": [ { "question": "2019年に城北ワンド群で生息確認された本種の稚魚は何匹でしたか?", "id": "de-001-20-000", "answers": [ { "text": "11677匹", "answer_start": 525, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2009年、淀川にイタセンパラは何匹再放流されたの?", "id": "de-001-20-001", "answers": [ { "text": "500匹", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1998年に仏生寺川で再発見され、生息地は万尾川とあわせて2か所となっており、調査では毎年多数の稚魚が確認されている。\nただし仏生寺川では2001年から、万尾川では2004年から本種生息地でオオクチバスが確認されており、捕食による個体数減少が懸念される。\n2008年12月、オオクチバスに捕食されていることが胃の内容物(捕食された消化前の小魚)のDNA解析で裏づけられたと報道された。\nなお射水市・高岡市・富山市など旧来の生息地では最後の確認例から50年以上が経過しており、再発見される可能性はほぼなくなった。", "qas": [ { "question": "オオクチバスの生息確認が早かったのは仏生寺川と万尾川のどちらですか?", "id": "de-001-21-000", "answers": [ { "text": "仏生寺川", "answer_start": 63, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "仏生寺川と万尾川で本種の個体数が減少している原因とは何の生物ですか?", "id": "de-001-21-001", "answers": [ { "text": "オオクチバス", "answer_start": 95, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "マルセル・プルースト", "paragraphs": [ { "context": "ヴァランタン=ルイ=ジョルジュ=ウジェーヌ=マルセル・プルーストは、フランスの小説家である。畢生の大作『失われた時を求めて』は後世の作家に強い影響を与え、ジェイムズ・ジョイス、フランツ・カフカと並び称される20世紀西欧文学を代表する世界的な作家として位置づけられている。\n\n立身出世した医学者の父親と富裕なユダヤ人家系の母親の息子としてパリで生まれたマルセル・プルーストは、病弱な幼少期を過ごし、9歳の時に発症した喘息の持病を抱えながら文学に親しみ、リセから進んだパリ大学で法律と哲学を学んだ後はほとんど職には就かず、華やかな社交生活を送り、幾つかの習作を経た30代後半から51歳の死の直前まで、長篇『失われた時を求めて』を書き続けた。", "qas": [ { "question": "『失われた時を求めて』は誰の作品なの?", "id": "de-002-00-000", "answers": [ { "text": "ヴァランタン=ルイ=ジョルジュ=ウジェーヌ=マルセル・プルースト", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヴァランタン=ルイ=ジョルジュ=ウジェーヌ=マルセル・プルーストは何歳の時、喘息が発症しましたか。", "id": "de-002-00-001", "answers": [ { "text": "9歳", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヴァランタン=ルイ=ジョルジュ=ウジェーヌ=マルセル・プルーストは何歳の時亡くなりましたか。", "id": "de-002-00-002", "answers": [ { "text": "51歳", "answer_start": 287, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヴァランタン=ルイ=ジョルジュ=ウジェーヌ=マルセル・プルーストが生まれた都市はどこなの?", "id": "de-002-00-003", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 168, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "マルセル・プルーストは、1871年7月10日にパリ16区オートゥイユ地区のラ・フォンテーヌ街96番地で、フランス人の父・アドリヤンと、ユダヤ人の母・ジャンヌの長男として生を受けた。\n\n父・アドリヤン・プルーストは、カトリックの雰囲気の色濃い田舎町イリエの平凡な家の出身で、少年時代は僧侶を目指したこともあったが、公衆衛生を専門とする医学博士となり、衛生局総監まで務めた。アドリヤンは、「防疫線」という理論に基づいて、ヨーロッパ大陸へのペスト侵入を防ぐなど、華々しい功績を持ち、医学アカデミー会員やソルボンヌ大学教授を務めるなど世界的な名声を得た人物であった。一方、母・ジャンヌは、パリに住む裕福なユダヤ人の株式仲買人の娘であった。有力なヴェイユ家はシュトゥットガルトに近いドイツの一地方からアルザス経由でパリに来たユダヤの一族であり、同一族からはフランス第三共和政下の有力政治家アドルフ・クレミューなどを輩出している。", "qas": [ { "question": "マルセル・プルーストはいつ生まれたか。", "id": "de-002-01-000", "answers": [ { "text": "1871年7月10日", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マルセル・プルーストの誕生日はいつなの?", "id": "de-002-01-001", "answers": [ { "text": "7月10日", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジャンヌの夫は誰なの?", "id": "de-002-01-002", "answers": [ { "text": "アドリヤン", "answer_start": 60, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アドリヤン・プルーストは、何を専門として医学博士を取得したの?", "id": "de-002-01-003", "answers": [ { "text": "公衆衛生", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "マルセル・プルーストの母ジャンヌは、古典文学を愛好し、非常に文学的教養の高い女性であった。マルセル・プルーストは、芸術に対する繊細な感性をこの母から受けついだ。一家は日頃、母方の祖父母と行き来していたが、通常は新興住宅街のパリ8区のロワ街8番地のアパルトマンで暮し、病弱だったマルセルは母や祖母にとても可愛がられて育った。\n\n母は、結婚後もユダヤ教を守り続けたが、夫妻は子供には父親の家系に倣って、ローマ・カトリックの信仰を持たせることに決め、生まれたばかりのマルセルに1871年8月、サン・ルイ・ダンタン教会で洗礼を受けさせた。マルセル誕生の2年後の1873年5月24日には、生涯にわたって彼と親しい関係を保ち続けた弟ロベールが生まれた。ロベールは兄マルセルとは対照的に、身体が丈夫で明朗な性格であった。", "qas": [ { "question": "マルセルはどこで洗礼を受けたか。", "id": "de-002-02-000", "answers": [ { "text": "サン・ルイ・ダンタン教会", "answer_start": 243, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マルセルは何年に洗礼を受けたか。", "id": "de-002-02-001", "answers": [ { "text": "1871年", "answer_start": 235, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マルセルの方が年上なの、ロベールの方が年上なの?", "id": "de-002-02-002", "answers": [ { "text": "マルセル", "answer_start": 265, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ロベールとマルセルと、どっちの方が健康だった?", "id": "de-002-02-003", "answers": [ { "text": "ロベール", "answer_start": 320, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "一家は、マルゼルブ通り9番地などに何度か転居をしながらも、高級官僚の多く住むパリ8区に住み続けた。プルーストは成人してからも、当時の思い出を大事にするために、晩年の数年間を除いてほとんどの時期をこの8区で過ごしている。\n\nパリ市内には他に母方の祖父母のいるフォーブール・ポワソニエール(この地区にはユダヤ人が多く住んでいた)の家や、母の叔父にあたるルイ・ヴェイユが住むオートゥイユの別荘(プルーストと弟はこの家で誕生した)があった。特に叔父の別荘には春から初夏にかけて長い期間滞在するのがプルースト家の習慣になっていた。\n\nまた、パリ南西100キロメートルほどの場所には、父の出身地である田舎町イリエがあり、ロワール川が近くに流れる豊かな自然に囲まれたこの場所にも、一家はたびたびバカンスに出かけた。この町がのちの『失われた時を求めて』の主要な舞台となるコンブレーのモデルとなった土地である。同地はこの作品にちなんで「イリエ=コンブレー」が正式名称となり、プルースト巡礼の聖地となっている。しかし、1881年春に9歳のマルセルは、ブローニュの森を散策後に喘息の発作を起こした。それ以来、花粉と外気が体に障ることを心配した父の判断で、イリエに行くことを禁じられてしまった。喘息の持病はプルーストに生涯付きまとい、このために彼は自由に旅行することができず、また花を愛していたにも関わらず、彼自身は生花に近づくことができなかった。弟ロベールの方は健康に育ち、父と同じ医学の道を継ぐことになるが、病弱なマルセルは『千夜一夜物語』、『アンナ・カレーニナ』などの文学に親しむようになる。", "qas": [ { "question": "『失われた時を求めて』のコンブレーのモデルとなった土地はどこですか。", "id": "de-002-03-000", "answers": [ { "text": "イリエ", "answer_start": 297, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マルセルは何歳に喘息の発作を起こしたか。", "id": "de-002-03-001", "answers": [ { "text": "9歳", "answer_start": 456, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1881年春、マルセルは何歳でしたか。", "id": "de-002-03-002", "answers": [ { "text": "9歳", "answer_start": 456, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロベールとマルセルと、どっちの方が健康だった?", "id": "de-002-03-003", "answers": [ { "text": "ロベール", "answer_start": 613, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "マルセル・プルーストは、パープ・カルパンチエ初等学校で2年過ごした後、1882年10月にセーヌ河の右岸にあるブルジョア気質のフォンターヌ高等中学に入学した。このリセ(高等中学)は、自由主義的な気風で知られる名門校であり、プルーストの学友にはエッフェルの息子や、ビゼーの息子のジャック・ビゼー、ロスチャイルド家の子息、劇作家リュドヴィク・アレヴィの息子のダニエル・アレヴィ、ジャック・エミール・ブランシュなどが混じっていた。\n\nプルーストの成績は悪くはなかったがむらがあり、また病気のために欠席が多く、このために1年の留年も経験している。15歳の頃には、オーギュスタン・ティエリの著書を熱心に読んだ。教師の中では、最終学年に習った哲学科のアルフォンス・ダルリュ教授に深く影響された。後にはダルシュの個人授業も受けて(病気のため家庭教師が何人かついた)、その唯心論的な哲学に大いに感化を受けた。授業が午後3時に終わると、プルーストは他の少年たちとシャンゼリゼ公園に行き木立の回りを走り回って遊んでいた。中には少女も混じっており、その中には『失われた時を求めて』で語り手の初恋相手ジルベルトのモデルになったポーランド貴族の娘マリー・ド・ベナルダキもおり、マリーに強い愛情を抱いた。", "qas": [ { "question": "マルセル・プルーストは、1882年10月、どの学校に入学したか。", "id": "de-002-04-000", "answers": [ { "text": "フォンターヌ高等中学", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プルーストは何歳の時、オーギュスタン・ティエリの著書にはまっていたの?", "id": "de-002-04-001", "answers": [ { "text": "15歳", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『失われた時を求めて』に出てくるジルベルトは誰をモデルにしたキャラクターですか。", "id": "de-002-04-002", "answers": [ { "text": "マリー・ド・ベナルダキ", "answer_start": 509, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『失われた時を求めて』の語り手の恋愛相手は誰なの?", "id": "de-002-04-003", "answers": [ { "text": "ジルベルト", "answer_start": 487, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1889年10月にバカロレアを取得したプルーストはパリ大学で学ぶことになるが、その前にオルレアンで1年間の兵役に就いた。当時フランスには自発的に志願すれば3年間の兵役が1年に短縮される恩典制度があり、プルーストの一家はこれを利用したのである。当時フランスの軍人(特に将校)は社交界にも出入りできる存在であった。プルーストは厳しい訓練を喘息のために(あるいは父親が手を回したためか)免れたこともあって優雅な軍人生活を送り、このためにプルーストはフランスの作家の中でもとりわけ軍隊に友好的な文学者となった。\n\n軍隊除隊後、1890年11月にパリ大学に入学したプルーストはパリ大学法学部に籍を置き、その後自由政治学院、文学部にも通い、1895年までに法学と哲学と文学の学士号を取得している。1892年には、ジャック・ビゼー、ダニエル・アレヴィ、ロベール・ドレフュス、フェルナン・グレーグらと同人雑誌『饗宴』を創刊し、書評や習作、短篇を発表した。『饗宴』には、アンリ・バルビュス、レオン・ブルム、ガストン・アルマン・ド・カイヤヴェ(アルマン・カイヤヴェ夫人の息子)も寄稿していた。", "qas": [ { "question": "当時フランスには自発的に志願すれば兵役が何年に短縮されたか。", "id": "de-002-05-000", "answers": [ { "text": "1年", "answer_start": 84, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プルーストは何年にパリ大学に入学したか。", "id": "de-002-05-001", "answers": [ { "text": "1890年", "answer_start": 259, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プルーストが取得した学士は法学と哲学と、そして何?", "id": "de-002-05-002", "answers": [ { "text": "文学", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "プルーストの家には十分な資産があったが、当時のブルジョワ階級の常で両親はプルーストに職を持つことを望んでいた。そのため、プルーストは、1893年に公証人の研修を受けるなどしているが早々に放棄し、またパリを離れたくなかったことから、外務省に入れることを考えていた父の意向も敬遠している。1895年には父の伝手をたどりマザリーヌ図書館で無給司書助手となったが、休暇届けを濫発して結局ほとんど勤めに出ないまま1899年に退職し、以後は一切職に就かず文学に専心することになった。\n\nプルーストは1896年6月には初の著作集『楽しみと日々』を出版し、また1895年からは『失われた時を求めて』の前身とも言える自伝小説『ジャン・サントゥイユ』の執筆を始めていたが1899年頃に中断した。1900年からはイギリスの思想家ジョン・ラスキンの研究の発表も始めている。", "qas": [ { "question": "プルーストの最初の著作集は何ですか。", "id": "de-002-06-000", "answers": [ { "text": "『楽しみと日々』", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『失われた時を求めて』の前身と言える小説のタイトルは何ですか。", "id": "de-002-06-001", "answers": [ { "text": "『ジャン・サントゥイユ』", "answer_start": 303, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "20世紀に入ると、プルーストの生活に大きな変化が起こった。まず1903年2月に弟ロベールが結婚して独立後、同年11月3日に父が勤務先で倒れそのまま26日に死去した。そして1905年9月26日には、夫の死の衝撃から癒えぬまま癌を再発した母ジャンヌが死去した。特に母親から愛情を受けて育ったプルーストは彼女の死に大きな精神的打撃を受け、しばらくの期間を無為と療養の日々を過ごした。\n\nその後1906年12月に、プルーストは1人で住むには広すぎるそれまでの家から、オスマン通り102番地にあるアパルトマンの2階に転居する。19世紀の大作家の文体模写(パスティッシュ)などを発表後、批評家サント・ブーヴに反論する意図から執筆していた物語式の評論が原型となり1908年から書き始められた『失われた時を求めて』は、その大部分がこの住居で書かれることになった。このアパルトマンは大伯父ジョルジュ・ヴェイユが以前に所有していたもので、母の残り香のような思い出が残っていたからであった。", "qas": [ { "question": "プルーストの父は何年に亡くなりましたか。", "id": "de-002-07-000", "answers": [ { "text": "1903年", "answer_start": 31, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "プルーストの母はいつ亡くなったか。", "id": "de-002-07-001", "answers": [ { "text": "1905年9月26日", "answer_start": 85, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、健康状態が回復したことで、1907年から毎年ノルマンディーの避暑地カブールに出かけるようになり、教会建築を廻るため雇った自動車の交代運転手の中に青年アルフレッド・アゴスチネリがいた。この避暑地カブールが『失われた時を求めて』に書かれる架空の土地バルベックのモデルとなり、アゴスチネリが主人公の恋人アルベルチーヌ・シモネのモデルとなっていく。\n\n『失われた時を求めて』は、1912年に第1篇『スワン家のほうへ』の原稿がようやく出来上がり、いくつかの出版社に断られた後、グラッセ社から1913年11月に刊行されて各紙で好評となった。特にジッドやシュランベルジェら新進作家を擁していた『新フランス評論』(NRF)では、先の出版拒否に対する強い反省が内部で起こり、1914年にはジッドからプルースト宛てに謝罪の手紙が送られている。", "qas": [ { "question": "『失われた時を求めて』のアルベルチーヌ・シモネは誰をモデルにして作られましたか。フルネームで書きなさい。", "id": "de-002-08-000", "answers": [ { "text": "アルフレッド・アゴスチネリ", "answer_start": 77, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『失われた時を求めて』の第一編のタイトルは何?", "id": "de-002-08-001", "answers": [ { "text": "『スワン家のほうへ』", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "NRFはプルーストに打診して『失われた時を求めて』の第2巻以降を自社ガリマール社で出版することに決め、第1巻の出版権もグラッセ社から買取ることにした。1919年6月に刊行された第2巻目の『花咲く乙女たちのかげに』は、新進作家ロラン・ドルジュレスの『木の十字架』を押さえてその年のゴンクール賞に輝いた。晩年はジャン・コクトー、ポール・モーラン、ヴァルター・ベリー、フランソワ・モーリヤックなどの若手作家などとも親交を持った。病弱であったプルーストは日々健康を悪化させていき、全篇の清書を仕上げていた1918年頃から発話障害と一時的な顔面麻痺が時おり起こるようになった。そして1922年11月18日、『失われた時を求めて』第5巻以降の改稿作業の半ばに、喘息の発作と風邪による肺炎併発のため51歳で息を引き取った。遺体は、両親と同じくパリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬された。", "qas": [ { "question": "プルーストは何歳に亡くなったか。", "id": "de-002-09-000", "answers": [ { "text": "51歳", "answer_start": 342, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プルーストの両親の遺体はどこに埋葬されたか。", "id": "de-002-09-001", "answers": [ { "text": "ペール・ラシェーズ墓地", "answer_start": 367, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "また、プルーストは、大変な美食家であったが、食事の量は非常に少なく、1日に1食しか食べなかった。特に好んで食べたのは舌平目のフライで、その他にロシア風サラダや油をよく切ったフライドポテト等を好み、またカフェオレと一緒にクロワッサンを食べる事も多かった。ワインや強い酒は決して飲まなかったが、冷えたビールは別で、また時々フライドポテトをつまみにリンゴ酒を飲む事もあった。晩餐に知人を呼ぶ事もあったが、その時はベッドの脇に小さなテーブルを用意して知人に食事を勧め、自分の方は決して手をつけなかった。\n\nプルーストは、流行に関心を持ってはいたものの、それは作品に役立てるためであり、自身は物持ちのよかったこともあって、使い古した服を好んで着続けていた。また、病的な寒がりであった彼は、夏にも常に厚着をしていて、あるときは海に行くためと称してコートを2着作らせたこともある。第一次世界大戦後にホテル・リッツで晩餐会をともにしたイギリス大使のダービー卿は、プルーストが夕食中も毛皮のコートを脱がないままだったことに驚いたと記していた。", "qas": [ { "question": "プルーストは1日に何食を取りましたか。", "id": "de-002-10-000", "answers": [ { "text": "1食", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "プルーストがより好んだのはワインとビール、どちらでしたか。", "id": "de-002-10-001", "answers": [ { "text": "ビール", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "特にプルーストはマドレーヌ・ルメール夫人のサロンで、『失われた時をもとめて』のゲルマント公爵夫人の主要なモデルとなるグレフュール伯爵夫人や、後にプルーストが恋心を寄せ、また同作の高級娼婦オデットのモデルにもなった作曲家レイナルド・アーン、そして社交界に非常に大きな権勢を誇っていた大貴族で、同作のシャルリュス公爵のモデルとなったロベール・ド・モンテスキュー伯爵などと知り合っている。プルーストは、こうした社交界(ル・モンド)での交流に伴って、ドゥミ・モンド(半社交界)と言われる、貴族やブルジョワに囲われた婦人たち(ココットという別名もある)との付き合いもあった。最も親しく付き合っていたのはプルーストの友人ルイ・ダルビュフラの恋人で端役女優であったルイザ・ド・モルナンで、彼女はプルーストの死後、彼との間には「愛情めいた友情」があったとインタビューで語っている。\n\nまたプルーストの大伯父ジョルジュ・ヴェイユの囲い者で、大伯父の死後もプルーストとの付き合いが続いたロール・エーマンという女性は、『失われた時を求めて』の高級娼婦オデットの主要なモデルになっている。彼女とプルースト家との関係は、お互い遠慮があったものの悪くはなく、プルーストの父親の葬儀にも花を贈ったりしていた。", "qas": [ { "question": "グレフュール伯爵夫人は『失われた時をもとめて』のどのキャラクターのモデルに当たりますか。", "id": "de-002-11-000", "answers": [ { "text": "ゲルマント公爵夫人", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ロール・エーマンは、『失われた時を求めて』でどのキャラクターの主要なモデルになっているか。", "id": "de-002-11-001", "answers": [ { "text": "オデット", "answer_start": 464, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "斎藤智恵子", "paragraphs": [ { "context": "斎藤智恵子は、日本の実業家だ。東京都台東区浅草のストリップ劇場であるロック座の元社長、後に会長、名誉会長。昭和中期に「東八千代(あずまやちよ)」の芸名で踊り子として活動した後、経営者に転向し、日本一といわれる劇場チェーンを築き上げた。その男勝りの性格や様々な武勇伝から「伝説の女傑」「浅草のドン」「浅草のゴッドマザー」とも呼ばれた。勝新太郎ら数多くの芸能人の支援、ビートたけしとの交友でも知られた。宮城県白石町出身である。", "qas": [ { "question": "斎藤智恵子の芸名は何?", "id": "de-003-00-000", "answers": [ { "text": "「東八千代(あずまやちよ)」", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本一といわれる劇場チェーンを築きあげた人物は誰ですか。", "id": "de-003-00-001", "answers": [ { "text": "斎藤智恵子", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "斎藤智恵子はどこ出身なの?", "id": "de-003-00-002", "answers": [ { "text": "宮城県白石町", "answer_start": 199, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「伝説の女傑」「浅草のドン」「浅草のゴッドマザー」とは全部誰を指す言葉なの?", "id": "de-003-00-003", "answers": [ { "text": "斎藤智恵子", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "斎藤智恵子は白石町の魚屋に誕生した。男勝りの母譲りで、幼少時より姉御肌の活発な性格であった。\n\n1943年に、宮城県白石高等女学校を卒業した。翌1944年に母方の伯母を頼って上京し、洋裁専門学校である青山学院専門学校へ入学した。家業の魚の生臭さを嫌ったことに加え、当時は太平洋戦争の最中であり、戦中を生き抜くには手に職をつけるべきとの考えによる。浅草には大衆演劇や多くの劇場があり、そうした場所で働きたいとの希望もあった。\n\n夏季休暇に帰省した際、旅一座の座長に一目惚れした。1946年、母の死で性格が荒れたことや、妊娠したこともあり、専門学校を中退した。同年に周囲の反対を押し切って、座長と結婚した。籍は入れていないため、事実婚であった。以降は大きくなる腹を抱えつつ、一座全員の炊事や洗濯を引き受け、時には役者として舞台に上がりつつ、一座と共に日本全国を回った。\n\n翌1947年、長男の斎藤恒久を出産した。この1947年は、後に親交を持つビートたけしの誕生した年であり、ストリップの元祖といわれる額縁ショーが開催された年であり、日本初のストリップ専門劇場としてロック座が開設された年でもある。", "qas": [ { "question": "斎藤智恵子は何年に宮城県白石高等女学校を卒業したか。", "id": "de-003-01-000", "answers": [ { "text": "1943年", "answer_start": 48, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "斎藤智恵子は何年に青山学院専門学校へ入学したか。", "id": "de-003-01-001", "answers": [ { "text": "1944年", "answer_start": 72, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "斎藤智恵子は何年に旅一座の座長と結婚しますか。", "id": "de-003-01-002", "answers": [ { "text": "1946年", "answer_start": 238, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "斎藤智恵子の長男の名前は何?", "id": "de-003-01-003", "answers": [ { "text": "斎藤恒久", "answer_start": 394, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1949年には斎藤智恵子の長女が誕生。終戦から数年が経ったに過ぎず、まだ白米だけの飯などありえず、ジャガイモや麦を入れた粥がご馳走という時代に、斎藤智恵子はそれだけで子供たちを育てた。1954年、夫の女性関係の問題から離婚し、一座からも退団した。子供2人は夫に預け、北海道夕張炭鉱での出稼ぎを経て、一座の伝手による愛知県豊橋市の会社の勤務などで生活していた。\n\n1959年頃には東京で、裁縫や日本舞踊の教室でどうにか生活していた。後に幡ヶ谷の舞踊研究所で日本舞踊を教える仕事にありついた。それまでは大衆演劇で身につけた知識と技術だけで踊っており、資金不足から名取を取っていなかったが、雇用主の好意で藤間流の名取をとることができた。その後、浅草の奥山劇場が当時ストリップを始めていたことから、劇場主からの依頼により、振付師として踊り子たちを相手に日舞を教えた。", "qas": [ { "question": "斎藤智恵子は1959年ごろにどこで生活していたの?", "id": "de-003-02-000", "answers": [ { "text": "東京", "answer_start": 189, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "斎藤智恵子は何が原因で離婚したの?", "id": "de-003-02-001", "answers": [ { "text": "夫の女性関係", "answer_start": 98, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "斎藤智恵子は何年に離婚した?", "id": "de-003-02-002", "answers": [ { "text": "1954年", "answer_start": 92, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1960年、斎藤智恵子は奥山劇場の社長に、ストリップへの転向を勧められた。すでに30歳過ぎ、しかも2人の子持ちの身で、まして人前で裸になることには抵抗があった。しかし、踊りの師匠としての収入は1か月1人2千円であったところが、ストリップの舞台に立って20日間踊れば約3万円の収入に繋がると聞かされた。これは当時の大卒初任給の倍に値する額である。斎藤は、子供たちの育児費のために舞台に立つことを決心した。芸名の「東八千代」は、奥山の社長と共に「『東』の字は開いていて良い」「開くといえば『八」も良い」と話し合いながら名づけられた。\n翌1961年、本番の舞台に立った。当時はストリップとはいえ乳房をわずかに見せるだけで、それ以上の露出はご法度であった。しかし恥ずかしさを隠すために日本酒を煽って舞台に立った斎藤は、着物を脱いだとき、床に落とした帯に足を取られて転倒、かつらが頭から外れて吹っ飛び、大股を開いて陰部をさらけ出し、観客たちの大爆笑を浴びた。大恥の出来事であったが、「面白い踊り子がいる」と話題を呼ぶことになった。斎藤自身にとっても、これが舞台度胸に繋がった。\n\n踊り子としての現役時代は、もっぱら地方巡業、いわゆるドサ回りが中心だった。同1961年には一座を率いて北海道公演を行ない、札幌市、旭川市、函館市など、北海道内各地を回った。", "qas": [ { "question": "斎藤智恵子にストリップへの転向を勧めた人はどの劇場の社長ですか。", "id": "de-003-03-000", "answers": [ { "text": "奥山劇場", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "斎藤智恵子の芸名は何?", "id": "de-003-03-001", "answers": [ { "text": "「東八千代」", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "北陸線列車雪崩直撃事故", "paragraphs": [ { "context": "北陸線列車雪崩直撃事故とは、1922年2月3日に鉄道省北陸本線親不知駅-青海駅間の勝山トンネル西口で、雪崩の直撃によって発生した列車脱線事故である。この事故で列車の乗員乗客200名のうち、一般乗客1名、作業を終えた帰路の除雪作業員88名、鉄道職員1名のあわせて90名が死亡した。\n\n日本国内で発生した雪崩による鉄道事故の犠牲者数では、2018年6月現在に至るまで最悪の数字である。", "qas": [ { "question": "北陸線列車雪崩直撃事故いつ発生したの?", "id": "de-004-00-000", "answers": [ { "text": "1922年2月3日", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北陸線列車雪崩直撃事故によって死亡した人は全部何人か。", "id": "de-004-00-001", "answers": [ { "text": "90名", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "親不知は、飛騨山脈の日本海側の端に当たり、飛騨山脈の端が海の浸食作用によって断崖となった地形が連なる。西端の市振地区から親不知駅のある歌集落までが親不知、歌集落から東の勝山地区までが子不知と呼ばれており、合わせて親不知子不知とも呼ばれ、市振から勝山までは約15キロメートル程の距離である。断崖絶壁が連なる地形のため、波打ち際を通行しなければならないことから北陸道最大の難所といわれ、さまざまな遭難悲話が伝わっている。\n\n1912年10月15日、北陸線は富山県の泊駅から青海駅まで延伸開業した。親不知・子不知を通る鉄道路線の部分は、当時は単線・通票閉塞式で断続的にトンネルが連なり、断崖と海岸線の間を縫うような形で列車が運行されていた。\n\nこの事故が発生した1922年は雪の多かった年で、海岸沿いに位置する糸魚川町でも「電線で首を吊る」と形容されたほどの多量の降雪があった。そのように形容された理由は、軒まで埋まった家から雪の階段を作って戸外に出ると、電線が胸の高さにあって「首を吊る」ような事態になるからであった。1月27日の積雪は市振・梶屋敷で1丈約3.03メートル、青海・親不知で約2.73メートルを記録し、1月28日13時頃には親不知駅と青海駅の間で列車が雪崩に乗り上げ、機関車が脱線したが、除雪作業の結果2時間後に復旧した。", "qas": [ { "question": "1月28日、何時ごろ親不知駅と青海駅の間で列車が雪崩に乗り上げ、機関車が脱線しましたか。", "id": "de-004-01-000", "answers": [ { "text": "13時頃", "answer_start": 511, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北陸線は1912年何月何日に富山県の泊駅から青海駅まで延伸開業しましたか。", "id": "de-004-01-001", "answers": [ { "text": "10月15日", "answer_start": 215, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "西端の市振地区から親不知駅のある歌集落まで、そして歌集落から東の勝山地区までを合わせて何と呼びますか。", "id": "de-004-01-002", "answers": [ { "text": "親不知子不知", "answer_start": 106, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1月28日13時頃に脱線した列車は何時間後復旧されましたか。", "id": "de-004-01-003", "answers": [ { "text": "2時間後", "answer_start": 556, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "北陸線列車雪崩直撃事故の発生当日となった2月3日の天候は、明け方から気温が上昇して雪から雨に変わった。1922年当時では糸魚川町近辺で2月に雨が降ることは珍しかった上に、夕刻の17時過ぎからは雨脚が強くなった。このような気象条件は、傾斜面全部の雪が崩落する「全層雪崩」が発生しやすくなるものであった。\n\nその日の13時30分頃、北陸線の市振駅と親不知駅の間で雪崩が発生したために北陸線は不通となった。雪崩は本来、山岳地帯で発生する現象であり、海岸地帯ではあまり例がないが、海岸のすぐそばまで山脈が断崖絶壁となって迫る親不知のような地形の場合は、たとえ小規模な雪崩の発生であっても被害が出やすかった。そして北陸線は軍事上や物資輸送上で重要な幹線だったため、新潟県知事、鉄道省、そして陸軍省は関係各町村長宛に青年団や在郷軍人分会を動員しての復旧作業を要請した。", "qas": [ { "question": "北陸線列車雪崩直撃事故は何月何日に発生したか。", "id": "de-004-02-000", "answers": [ { "text": "2月3日", "answer_start": 20, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "北陸線列車雪崩直撃事故は、1915年5月22日に発生したイギリス・スコットランドのキンティンスヒル鉄道事故に次いで当時世界で2番目の惨事と報道された。長野赤十字病院が事故の救援のために外科医と看護婦たちを派遣したのを始め、鉄道省側と応援団体からも多くの人々が駆けつけた。その人数は2月4日から2月8日までの5日間で、鉄道省側1592名、応援団体3602名を数えた。ただし、鉄道省側と応援団体の間はうまくいかなかった。鉄道路線の復旧を優先しようとする鉄道省側の態度は、応援団体や地元の住民たちからは冷酷に見えた。やがてこの事故の影響もあって、鉄道の除雪作業に応募しようとする住民はほとんどいなくなるありさまだった。", "qas": [ { "question": "イギリス・スコットランドのキンティンスヒル鉄道事故はいつ発生したか。", "id": "de-004-03-000", "answers": [ { "text": "1915年5月22日", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "アポロ計画", "paragraphs": [ { "context": "冷戦下の米ソ宇宙開発競争のさなかの1961年5月、アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディは、1960年代中に人間を月に到達させるとの声明を発表した。1969年7月20日、宇宙飛行士ニール・アームストロングおよびバズ・オルドリンがアポロ11号で月面に着陸したことにより、その公約は実現される。アポロ計画ではその後5回の月面着陸が行われ、1972年にすべての月飛行計画は終了した。\n\nアポロ計画は、NASAによるマーキュリー計画、ジェミニ計画に続く三度目の有人宇宙飛行計画であり、そこで使用されたアポロ宇宙船やサターンロケットは、後のスカイラブ計画やアポロ・ソユーズテスト計画で使用された。そのため、これらの後続計画も、しばしばアポロ計画の一環であると見なされている。", "qas": [ { "question": "1960年代中に人間を月に到達させるとの声明を発表したアメリカの大統領の名前は?", "id": "de-005-00-000", "answers": [ { "text": "ジョン・F・ケネディ", "answer_start": 35, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジョン・F・ケネディが人間を月に到達させたのは何年のことですか?", "id": "de-005-00-001", "answers": [ { "text": "1969年", "answer_start": 75, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アポロ計画はNASAによる何度目の有人宇宙飛行計画ですか?", "id": "de-005-00-002", "answers": [ { "text": "三度目", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アポロ計画では、人間を月に送り、安全に帰還させるという当初の目的を達成するにあたり、途中で二つの大きな事故があった。一つは、アポロ1号における予行演習中の発射台上での火災事故で、ガス・グリソム、エドワード・ホワイト、ロジャー・チャフィーの3名の飛行士が死亡している。もう一つは、アポロ13号において、月に向かう軌道上で機械船の酸素タンクが爆発した事故である。これにより月面着陸は断念せざるを得なくなったが、乗組員たちは地上の管制官や技術者たちの援助と、そして何よりも彼ら自身の優れた危機管理能力により、無事に地球に帰還することができた。\n\nアポロ8号で人間は初めて地球以外の天体の周囲を周回し、17号は現在までのところ、人類が他の天体の上に降り立った最後の事例となっている。\n\nアポロ計画は、ロケットや有人宇宙船の開発にともなう関連技術の発展に拍車をかけ、特に電子工学や遠隔通信、コンピュータなどの分野において大きく貢献した。またいくつもの部分から構成された複雑な機器の信頼性を検査するために、統計的な手段を用いる手法を開拓するなど、多くの工学の分野の発展にも繋がった。有人宇宙飛行のために必要不可欠な構成物であった事物や機器は、文明、技術、電子工学の表章として今も残されている。計画で使用された多くの事物や遺物が、国立航空宇宙博物館をはじめとする世界各地の様々な場所で展示されている。", "qas": [ { "question": "アポロ1号における予行演習中の発射台上での火災事故で亡くなった飛行士は何人ですか?", "id": "de-005-01-000", "answers": [ { "text": "3名", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アポロ13号の酸素タンクが爆発した事故はどこで起きましたか?", "id": "de-005-01-001", "answers": [ { "text": "月に向かう軌道上", "answer_start": 150, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "人が地球以外の天体の周囲を周回した最初の事例は何ですか?", "id": "de-005-01-002", "answers": [ { "text": "アポロ8号", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アポロ計画は、1960年初頭アイゼンハワー政権下において、マーキュリー計画の後継のプロジェクトとして着想された。マーキュリー宇宙船は、一人の飛行士を乗せて低軌道を周回させることしかできなかったものの、アポロ宇宙船では三人の飛行士を乗せ月を周回し、さらに月面に着陸することが目標とされた。計画名は当時のNASA長官エイブ・シルバースタイン(英語版)が、ギリシャ神話の太陽神アポロンにちなんで名づけたものである。後に彼は「まるで自分の子供に命名するような気持ちで名づけた」と語っている。\n\nしかし、NASAが立案を開始した時点では予算の見通しは立っておらず、特にアイゼンハワー大統領の有人宇宙飛行に対する態度もあいまいなものであった。\n\n1961年1月20日、ジョン・F・ケネディがアメリカ合衆国第35代大統領に選出された。選挙期間中、ケネディは宇宙開発やミサイル防衛の分野においてアメリカをソビエト連邦に優越たらしめることを公約としていた。宇宙開発を国家の威信の象徴とし、ミサイル・ギャップ(当時の米ソ間に想定されていた弾道ミサイルの技術および配備状況の格差)について警鐘をならすとともに、アメリカをこれに勝利させることを約束した。", "qas": [ { "question": "アポロ計画の計画名を命名した人物の名前は何ですか?", "id": "de-005-02-000", "answers": [ { "text": "エイブ・シルバースタイン", "answer_start": 156, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジョン・F・ケネディが選挙当時、宇宙開発と共に公約としたものは何ですか?", "id": "de-005-02-001", "answers": [ { "text": "ミサイル防衛", "answer_start": 376, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジョン・F・ケネディはアメリカの何代目の大統領ですか?", "id": "de-005-02-002", "answers": [ { "text": "第35代", "answer_start": 346, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし、この言葉とは裏腹に、大統領に選出された後もケネディはアポロ計画について直ちに決定を下すことはなかった。彼は宇宙開発技術の詳細についてよく知らず、また有人月面着陸に必要とされる莫大な予算に対し二の足を踏んでいたのである。NASAの長官ジェイムズ・ウェッブが13パーセントの予算増額を要求した際、ケネディはNASAの大型ロケットの開発促進は支持したものの、より大きなレベルでの決断は先延ばしにしていた。\n\n1961年4月12日、ソ連の宇宙飛行士ユーリ・ガガーリンが、ボストーク1号で史上初の有人宇宙飛行を成功した。これを目の当たりにしたアメリカ国民はソ連との宇宙開発競争において立ち後れているという不安を増大させた。ガガーリンの飛行の翌日に開かれた下院科学・宇宙航行学委員会(英語版)では、アメリカがソ連に確実に追いつくことを目的とした緊急プログラムの支持を多数の議員が表明した。\n\nしかし、ここでもケネディは慎重な反応を示しソ連に対するアメリカの対応については明確にすることはなかった。\n\n4月20日にはケネディはリンドン・ジョンソン副大統領に覚書を送り、アメリカの宇宙開発の現状と、NASAに追いつく可能性を与えられる計画について検討するよう指示した。ジョンソンは翌日の返答で、「我々はいまだ、合衆国を世界の先頭に立たせるためのいかなる最大限の努力も果たしていないし、成果も出してはいない」との見解を示し、また有人月着陸の実現は近くはない将来であり、だからこそアメリカが世界で初めて達成できる可能性があると結論づけた。", "qas": [ { "question": "人類史上初の宇宙飛行者は?", "id": "de-005-03-000", "answers": [ { "text": "ユーリ・ガガーリン", "answer_start": 224, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ケネディの在任期間の副大統領の名前は何ですか?", "id": "de-005-03-001", "answers": [ { "text": "リンドン・ジョンソン", "answer_start": 460, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1961年の初めまでは、NASA内部では直接降下方式が支持されていた。多くの技術者たちにとっては、地球周回軌道上においてすらいまだ行なわれたことのないランデブーやドッキングを、月周回軌道上で実現させることへの不安が大きかった。しかしながらラングレー研究所のジョン・フーボルトなどの反論者たちは、LOR方式によって得られる大幅な重量削減という利点を強調した。60年から61年にかけ、フーボルトはLORこそが最も確実で実践的な方式であると、各方面に訴えて回った。NASA内部の階級を飛び越え、副長官のロバート・シーマンズのところにも一連の文書を送った。フーボルトは、シーマンズが以前「(計画について)いろいろと雑音を発する者がいる」などと発言していたことを知っていたが、LOR方式を検討から外すべきではないと嘆願した。", "qas": [ { "question": "1961年の初めまでNASA内部で優勢だった着陸方式はなんですか?", "id": "de-005-04-000", "answers": [ { "text": "直接降下方式", "answer_start": 20, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "LOR方式を主張したジョン・フーボルトはどこ所属の人物でしたか?", "id": "de-005-04-001", "answers": [ { "text": "ラングレー研究所", "answer_start": 119, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "そんな中で、シーマンズが1961年7月にゴロヴィン(Golovin)委員会を立ち上げたことが、計画の方針を決定するひとつの転機となった。この特別委員会にはアポロ計画で使用すべきロケットが推薦されることになっていたが、その判断をするためには、まず月着陸の方式を決定することが重要な要素であると考えられた。委員会は当初、地球周回方式と月周回方式の混成案を推薦していたが、フーボルトらの陰の働きかけもあり、LOR方式の検討が、着陸方式の実現可能性を公表する際の重要な役割を果たすようになった。1961年の終わりから1962年のはじめにかけ、ヒューストン有人宇宙センター内のNASA宇宙任務グループ(SpaceTaskGroup,1958年に創設された、技術者たちの集団からなる有人宇宙飛行計画のNASA内部研究グループ)もLOR支持に意見を変えはじめ、マーシャル宇宙飛行センターの技術者たちもやがて月周回ランデブー方式のメリットを確信するようになり、彼らの方針転換は1962年7月に、ウェルナー・フォン・ブラウン博士によって非公式に発表された。NASAがLOR方式採用を正式に表明したのは、同年11月のことであった。これについて宇宙開発史研究家のジェームズ・ハンセンは、「もし1962年に頑迷なNASAがこのささやかな変更を受け入れなかったとしても、アメリカは月面に到達していただろうが、ケネディが公約した「1960年代中に月に到達させる」という目標はほぼ確実に達成されることはなかっただろう」と述べている。\n\nちなみにLOR方式への変更は、ずっと後になってアポロ13号が月軌道の途中で酸素タンクの爆発事故を発生させた時、吉と出ることとなった。もしこの時、独自の生命維持装置を持つ月着陸船が存在していなければ、飛行士たちは確実に命を落としていたところであった。", "qas": [ { "question": "ゴロヴィン委員会の設立者は誰ですか?", "id": "de-005-05-000", "answers": [ { "text": "シーマンズ", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゴロヴィン委員会はもともと何を決定するためのものか?", "id": "de-005-05-001", "answers": [ { "text": "アポロ計画で使用すべきロケット", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "NASA宇宙任務グループが創立されたのは何年ですか?", "id": "de-005-05-002", "answers": [ { "text": "1958年", "answer_start": 311, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "司令船(CommandModule,CM)は円錐形をしており、三人の宇宙飛行士を月軌道に乗せ、また宇宙から帰還させ海上に着水するように設計されている。CMに搭載されている主なものは、反動姿勢制御装置、ドッキング用トンネル、航法装置、誘導コンピューターなどである。CMの下部には、メイン・ロケットや姿勢制御用ロケットおよびその燃料、燃料電池、通信用アンテナ、水や酸素のタンクなどを搭載した機械船(ServiceModule,SM)が接続されている。アポロ15・16・17号では各種科学測定装置なども搭載されていた。機械船は飛行中のほとんどの時間を司令船に接続された状態にあり、大気圏に再突入する直前に投棄される。司令船底部には再突入時の激しい高温から機体および乗員を保護する耐熱シールドが貼られており、再突入時にはパラシュートを展開して十分に速度を落とした後、安全に海洋上に着水する。\n\nCSM開発の契約は宇宙工学者ハリソン・ストームズ(英語版)をリーダーとするノース・アメリカン航空が獲得した。同社とNASAの関係はアポロ計画の進行中、特に飛行士三人を犠牲にしたアポロ1号の火災事故が発生したことなどにより、緊張したものになった。事故の原因は司令船内の電気配線のショートによるものであると断定されたが責任の所在は混沌としており、調査委員会は「司令船の設計・技術・品質管理において欠陥が存在した」と結論づけている。", "qas": [ { "question": "司令船が宇宙から戻るときにどこに着くように設計されていますか?", "id": "de-005-06-000", "answers": [ { "text": "海上", "answer_start": 57, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "酸素タンク載せられているのはどこですか?", "id": "de-005-06-001", "answers": [ { "text": "機械船", "answer_start": 193, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "機械船が司令船から離れるのはいつか?", "id": "de-005-06-002", "answers": [ { "text": "大気圏に再突入する直前", "answer_start": 287, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "月着陸船(LunarModule,LM)は、月面への着陸と司令・機械船が待機する月周回軌道までの帰還のみを目的に設計されている。地球の重力圏では運用しないことが前提であるため、耐熱板は限定的なものであり、また徹底して軽量化が図られている。定員は二名で、上昇段と下降段の二つの部分から構成されている。下降段には、アポロ月面実験装置群や月面車などを搭載するスペースが設けられている。\n\n開発契約はグラマン社が獲得し、トム・ケリーが計画全体を監督するが、着陸船は開発の遅れという個別のトラブルを抱えることとなる。各種試験の遅延のためにアポロ計画全体の進行にも深刻な影響を与えはじめ、LMは「お荷物」(pacingitem)とさえ呼ばれることとなった。このためNASAは、当初は8号で行われるはずだった有人試験飛行を9号に延期せざるを得なくなった。", "qas": [ { "question": "月着陸船の開発の契約を取った会社の社名は?", "id": "de-005-07-000", "answers": [ { "text": "グラマン社", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アポロ計画において、有人試験飛行であるはずだったのは何号でしたか?", "id": "de-005-07-001", "answers": [ { "text": "8号", "answer_start": 335, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "8号で運用するはずだった有人試験飛行は結局、何号になりましたか?", "id": "de-005-07-002", "answers": [ { "text": "9号", "answer_start": 354, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フォン・ブラウン博士に率いられる技術者たちのチームがアポロ計画を立ち上げた当初、ロケットはどのようなものを使用すべきかという点については不透明であった。このうち直接降下方式を採用するためには、計画中のノヴァのような巨大なペイロードを持つロケットが必要だった。やがてNASAが月周回ランデブー方式の採用を決定したことにより、マーシャル宇宙飛行センターはサターンIBおよびサターンVの開発へと向かうこととなった。これらのロケットはノヴァと比較すれば小型であったが同時期の他のロケットより遥かに大型であり、特にサターンVは初打ち上げから40年以上が経過した2013年現在においても、実用化に至った最大のロケットの座を保持し続けている。", "qas": [ { "question": "結局NASAが採用したランデブー方式は何ですか?", "id": "de-005-08-000", "answers": [ { "text": "月周回ランデブー方式", "answer_start": 137, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2010年の時点で実用化に至った最大のロケットは何でしたか?", "id": "de-005-08-001", "answers": [ { "text": "サターンV", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2013年の時点の実用化に至った最大のロケットが開発されたのはどこですか?", "id": "de-005-08-002", "answers": [ { "text": "マーシャル宇宙飛行センター", "answer_start": 161, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "サターンVは、3段のロケットおよびその3段目最上部(ペイロードを含まない、サターンV単体としての最頂部)に搭載された自動飛行制御装置によって構成されている。\n\n第1段S-ICは十字型に配置された5基のF-1ロケットエンジンを搭載し、全体で約3,400トンの推力を発生する。燃焼はわずか2分30秒で終了し、機体を時速約9,600km(秒速2.68km)にまで加速する。開発期間中、F-1はずっと燃焼の不具合に見舞われてきた。エンジンへの燃料の供給がスムーズに行われなければ推力のゆらぎが発生し、やがてそれは大きな振動となってエンジン自体を破壊してしまう。この問題は、燃焼中のエンジンの内部で小規模な爆発を発生させて燃焼のばらつきを相殺するなどの数多くの実験を行い、試行錯誤を積み重ねた結果、最終的には解決された。\n\n第2段S-IIは5基のJ-2ロケットエンジンを搭載し、およそ6分間の燃焼で機体を時速約24,000km(秒速6.84km)、高度185kmにまで到達させる。その後は第3段S-IVBが引き継ぎ、宇宙船を地球周回軌道に乗せる。S-IVBにはJ-2エンジンが1基だけ搭載されていて、軌道上で再点火して月へと向かう軌道に乗る。", "qas": [ { "question": "サターンVの構成は3段のロケットと何でできていますか?", "id": "de-005-09-000", "answers": [ { "text": "自動飛行制御装置", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第1段S-ICに載せられたF-1ロケットエンジンの数は?", "id": "de-005-09-001", "answers": [ { "text": "5基", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "S-IVBのJ-2エンジンは全部何基付いてる?", "id": "de-005-09-002", "answers": [ { "text": "1基", "answer_start": 483, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "サターンIBは、初期のサターンI(サターン1型ロケット)の発展型である。第1段は8基のH-1ロケットエンジンを搭載し、第2段にはサターンVの第3段と同じS-IVBロケットが使用される。第1段の推力は725トンしかないが、アポロ司令・機械船および月着陸船を地球周回軌道に乗せる能力を持っている。サターンIBは各種の試験飛行および宇宙ステーションスカイラブへの人員の搬送、そしてアポロ・ソユーズテスト計画で使用された。1973年にはS-IVBを改造したスカイラブが、サターンVによって打ち上げられた。", "qas": [ { "question": "サターンIBの初期モデルは何ですか?", "id": "de-005-10-000", "answers": [ { "text": "サターンI", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サターンIBの第2段に使われたのは何ですか?", "id": "de-005-10-001", "answers": [ { "text": "S-IVBロケット", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アポロ計画のための準備は、有人飛行が行われる以前に始まっていた。サターンIの試験発射は1961年10月に始まり、1964年9月まで続けられた。このうちの3回の飛行では、模擬の司令・機械船を搭載していた。また1963年と1965年には、宇宙船の緊急離脱用ロケットの発射実験がホワイト・サンズミサイル基地において行われた。\n\n公式に「アポロ」の名が冠されているものの中で、無人試験飛行が行われたのは4、5、6号のみである。アポロ4号はサターンVの初の試験飛行で、1967年11月9日に行われた。これはジョージ・ミューラーが提唱した「全段一斉試験方式」を例証するものであった。それまでは開発中の多段式ロケットの発射試験をする場合は、各段を別々に行うのが通例だったが、サターンVでは初めて全段を一度にまとめて発射した。実験はきわめて上首尾に終わった。およそ6km離れた地点からその様子を中継していたCBSキャスターのウォルター・クロンカイトによると、あまりにも強烈な騒音と振動で天井のタイルがはがれ落ち、窓が激しく揺さぶられたため、窓ガラスが割れないように手で抑えながら中継を続けなければならなかったという。この実験により、サターンの発射時には近辺にある構造物を振動から保護するための対策が必要であることが明らかになった。これ以降は発射台に直接緩衝機構を設置するようになり、これによって騒音と振動は大幅に低減された。\n\nアポロ計画最後の無人試験飛行は6号で、1968年4月4日に発射され、約10時間後の21:57:21UTCに地球に帰還した。", "qas": [ { "question": "サターンIの最初の試験発射は何年にありましたか?", "id": "de-005-11-000", "answers": [ { "text": "1961年", "answer_start": 43, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "宇宙船の緊急離脱用ロケットの2回の発射実験のなかで、あとで行われた方の実験は何年ですか?", "id": "de-005-11-001", "answers": [ { "text": "1965年", "answer_start": 109, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アポロ6号の着陸時刻は何時ですか?", "id": "de-005-11-002", "answers": [ { "text": "21:57:21UTC", "answer_start": 647, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "有人飛行は、すべて船長・司令船操縦士・月着陸船操縦士の三名によって行われた。月面着陸をする際には、船長と着陸船操縦士のみが降下し、司令船操縦士はその間月周回軌道上で待機していた。\n\nアポロ計画における最初の有人飛行は、1968年10月11日に発射されたアポロ7号であった。計画の目的は、アポロ1号の死亡火災事故を受けて全面的に再設計された司令船を、地球周回軌道上で11日間にわたって試験することであった。サターンIBロケットが人を乗せて打ち上げられるのも、またアメリカの宇宙開発において三人の飛行士が同時に宇宙に行くのも、この飛行が初めてであった。", "qas": [ { "question": "有人飛行の3人のうち、月面に辿り着けない者は誰ですか?", "id": "de-005-12-000", "answers": [ { "text": "司令船操縦士", "answer_start": 65, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "死亡火災事故を受けて全面的に司令船を設計し直しましたが、その事故が起きたのは何号のことですか?", "id": "de-005-12-001", "answers": [ { "text": "アポロ1号", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1968年の夏頃には、この年に行われるアポロ8号の飛行には月着陸船の完成が間に合わないことが明らかになった。そのためNASAは計画を変更し、8号を単なる地球周回軌道に乗せるのではなく、月に向かわせ、クリスマス期間中に月を周回させることを決定した。これは当時のアポロ宇宙船計画室マネージャーだったジョージ・ロウの発案によるもので、しばしば「この変更はソ連が有人のゾンド宇宙船で月を周回しようとしていることに対抗したものである」と言われることがあるが、ソ連にそのような計画があったことをうかがわせる証拠は存在しない。NASAはもちろんゾンドの飛行を知ってはいたが、ゾンド計画の時期とアポロ8号の決定に関するNASAの広範囲な記録は、必ずしも一致しない。結局のところ8号の計画変更は、別に月飛行でソ連に先を越されることを恐れたからではなく、単に着陸船の開発の遅れに起因するものと見るのが妥当である。", "qas": [ { "question": "1968年当時のアポロ宇宙船計画室マネージャーは誰ですか?", "id": "de-005-13-000", "answers": [ { "text": "ジョージ・ロウ", "answer_start": 147, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "8号の計画をクリスマス期間中に月を周回させることに変更したのはジョージ・ロウ曰く何に対抗するためですか?", "id": "de-005-13-001", "answers": [ { "text": "ゾンド宇宙船", "answer_start": 180, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アポロ計画の成功を受け、NASAおよびその関連企業はアポロのハードウェアを利用した月飛行後の応用計画について、いくつかの案を検討した。「アポロ拡張計画」(後に『アポロ応用計画』と改称された)と呼ばれたこの計画では、地球周回軌道を回る13種類の案が提示されていた。そのうちの多くは、サターン・ロケットの月着陸船が搭載されていたスペースに、科学機器を乗せて打ち上げるというものであった。\n\nこれらのうち、実現されたのはスカイラブ計画(1973年5月-1974年2月)とアポロ・ソユーズテスト計画(1975年7月)だけであった。スカイラブの機体はサターンIBの第二段を改造して作られ、月着陸船をベースにした太陽望遠鏡が設置されていた。本体は一部を改造されたサターンVによって軌道上に打ち上げられ、三名の乗組員はサターンIBに搭載された司令・機械船で地上とラブの間を往復した。最後の飛行士が機体を離れたのは1974年2月8日のことで、スカイラブはその後1979年に、予定よりも早く大気圏に再突入して分解した。アポロ計画に関わった物体としては、その時点においてこれが最も古いものであった。", "qas": [ { "question": "「アポロ拡張計画」で使ったアポロ計画が残した物とは?", "id": "de-005-14-000", "answers": [ { "text": "アポロのハードウェア", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「アポロ拡張計画」のなかで実現できたのはスカイラブ計画の他何がありますか?", "id": "de-005-14-001", "answers": [ { "text": "アポロ・ソユーズテスト計画", "answer_start": 232, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "バヤズィト1世", "paragraphs": [ { "context": "バヤズィト1世(トルコ語:I.Beyazıt、1360年-1403年3月8日もしくは3月9日)は、オスマン帝国の第4代皇帝(在位:1389年-1402年)である。日本語ではバヤジット1世とも表記される。ムラト1世の子である。", "qas": [ { "question": "バヤズィト1世は、どの国の者なの?", "id": "de-006-00-000", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バヤズィト1世は、オスマン帝国の第何代皇帝でありますか?", "id": "de-006-00-001", "answers": [ { "text": "第4代皇帝", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バヤズィト1世の日本語式表記は、何か?", "id": "de-006-00-002", "answers": [ { "text": "バヤジット1世", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バヤズィト1世の父親は、誰か?", "id": "de-006-00-003", "answers": [ { "text": "ムラト1世", "answer_start": 101, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "バヤズィト1世は、1360年にオスマン皇帝ムラト1世とバルカン半島の奴隷出身の妃ギュルチチェク・ハトゥンの子として産まれ、幼少時代を第二宮廷のあったアナトリア半島のブルサで過ごしている。", "qas": [ { "question": "バヤズィト1世の母親は、どこ出身であるの?", "id": "de-006-01-000", "answers": [ { "text": "バルカン半島", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バヤズィト1世は、何年に生まれましたか?", "id": "de-006-01-001", "answers": [ { "text": "1360年", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バヤズィト1世は、幼少時代をどの半島で過ごしたか?", "id": "de-006-01-002", "answers": [ { "text": "アナトリア半島", "answer_start": 74, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バヤズィト1世の母親は、誰か?", "id": "de-006-01-003", "answers": [ { "text": "ギュルチチェク・ハトゥン", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "バヤズィト1世は、王子時代より戦場で活躍し、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の皇子アンドロニコスと共謀して反乱を起こした長兄サヴジが処刑されると、彼がムラト1世の後継者に指名される。ムラトが取り決めた政略結婚によりゲルミヤン侯国の王女と結婚、婚資としてゲルミヤンの首都であるキュタヒヤなどの都市がオスマンに譲渡された。", "qas": [ { "question": "バヤズィト1世とサヴジのうち、どちらが年上だったの?", "id": "de-006-02-000", "answers": [ { "text": "サヴジ", "answer_start": 60, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "反乱のため、サヴジはどの国に対し、手助けを求めましたか?", "id": "de-006-02-001", "answers": [ { "text": "ビザンツ帝国", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サヴジの反乱を支援したビザンツ帝国の者は、誰か?", "id": "de-006-02-002", "answers": [ { "text": "アンドロニコス", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バヤズィト1世とゲルミヤン侯国の王女の政略結婚により、ゲルミヤンからオスマンに譲渡された都市として挙げられているのは、どこか?", "id": "de-006-02-003", "answers": [ { "text": "キュタヒヤ", "answer_start": 135, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1389年6月15日、コソボの戦いの最中、ムラトがセルビア人の貴族によって暗殺されると、6月16日にバヤズィトが即位した。コソボの戦いには彼以外にヤクブら弟たちも従軍していたが、即位後直ちにバヤズィトは人望の厚いヤクブをはじめとする弟たちを処刑し、スルタンの地位を確かなものとした。この弟たちの粛清が、彼の治世以降のオスマン帝位継承に伴って起きる兄弟殺しの先例となる。", "qas": [ { "question": "ムラトが死去したのは、いつのことなの?", "id": "de-006-03-000", "answers": [ { "text": "1389年6月15日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バヤズィトが即位したのは、何年のことですか?", "id": "de-006-03-001", "answers": [ { "text": "1389年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムラトは、どのような人々により殺害されたか?", "id": "de-006-03-002", "answers": [ { "text": "セルビア人の貴族", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バヤズィトがヤクブとその弟たちを処刑したのは、何を固め、その権力を強化しようと思ったからか?", "id": "de-006-03-003", "answers": [ { "text": "スルタンの地位", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ムラトが暗殺された時点のオスマン軍は、左翼がセルビア騎兵隊に撃破された危機的な状況にあったが、跡を継いだ彼は体勢を立て直してセルビアを破り、セルビア公ラザル・フレベリャノヴィチら捕虜とした貴族を処刑した。この時にバヤズィトは自ら武器を取って敵軍に突撃し、血路を開いたと言われる。1390年、バヤズィトはセルビア公ラザルの娘オリベーラ・デスピナを娶り、義弟ステファン・ラザレヴィチもバヤズィトに臣従し、以後セルビアはオスマン帝国の属国として存続することとなった。", "qas": [ { "question": "ムラトが暗殺されると、オスマン軍はセルビア騎兵隊により大きな被害を受けていたが、誰が即位するとともに、その危機を機会に変えていましたか?", "id": "de-006-04-000", "answers": [ { "text": "バヤズィト", "answer_start": 106, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ラザル・フレベリャノヴィチが捕まったのは、誰が即位してからなの?", "id": "de-006-04-001", "answers": [ { "text": "バヤズィト", "answer_start": 106, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "セルビア軍の主力部隊は、どのような部隊だったか?", "id": "de-006-04-002", "answers": [ { "text": "騎兵隊", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "何年を基点に、セルビアがオスマン帝国の属国として存続するようになったか?", "id": "de-006-04-003", "answers": [ { "text": "1390年", "answer_start": 139, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "バヤズィトの即位に際して、ビザンツの宮廷でも政変が起きる。セリュンブリアを統治していたアンドロニコスの子ヨハネス7世がオスマンに臣従を誓い、バヤズィトはオスマンに完全に服従していなかった皇子マヌエルの対立帝としてヨハネス7世を擁立した。オスマンに加えてジェノヴァの支援を受けたヨハネス7世は反乱を起こして1390年4月に即位、ヨハネス7世の治世は5か月余りであったが、ヨハネス7世が帝位を追われた後もビザンツ帝位はオスマンの影響下に置かれる。", "qas": [ { "question": "オスマン帝国についたビザンツ帝国の者は、誰だったの?", "id": "de-006-05-000", "answers": [ { "text": "ヨハネス7世", "answer_start": 52, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "反乱を起こして1390年4月に即位したビザンツ帝国の者は、誰ですか?", "id": "de-006-05-001", "answers": [ { "text": "ヨハネス7世", "answer_start": 138, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨハネス7世の在位期間は、何か月しか続かなかったか?", "id": "de-006-05-002", "answers": [ { "text": "5か月余り", "answer_start": 173, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、オスマン帝国とどの国の関係について説明しているか?", "id": "de-006-05-003", "answers": [ { "text": "ビザンツ", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アナトリアにおける最大のライバルであるカラマン侯国の君主であり、バヤズィトの義弟でもあるアラー・アッディーンはサルハン侯国、アイドゥン侯国、メンテシェ侯国と共にオスマン領に侵入、ゲルミヤンの君主でバヤズィトの義兄弟であるヤクブ2世もオスマンに割譲された都市を奪回する動きを見せていた。", "qas": [ { "question": "アナトリアにおけるオスマン帝国の最大のライバルは、どの国だったか?", "id": "de-006-06-000", "answers": [ { "text": "カラマン侯国", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時、カラマン侯国の君主には、誰がついていましたか?", "id": "de-006-06-001", "answers": [ { "text": "アラー・アッディーン", "answer_start": 44, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サルハン侯国、アイドゥン侯国、メンテシェ侯国にオスマン帝国と戦うことを提案したのは、どの国だったか?", "id": "de-006-06-002", "answers": [ { "text": "カラマン侯国", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アラー・アッディーンがオスマン帝国攻撃のために力を合わせようとした国は、サルハン侯国、アイドゥン侯国と、どの国か?", "id": "de-006-06-003", "answers": [ { "text": "メンテシェ侯国", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "バヤズィトはセルビアと和約を結んでアナトリアに渡り、1390年より父の征服事業を引き継いでのアナトリア遠征を開始する。遠征軍にはビザンツ帝国、セルビア、ブルガリア、アルバニアなどのバルカン半島の臣従国も参加しており、アナトリアに残っていた最後のビザンツ領であるフィラデルフィア攻略にはビザンツの皇子マヌエルも従軍していた。", "qas": [ { "question": "アナトリアの勢力との戦いに備えるために、バヤズィトはどの国と和約を締結したの?", "id": "de-006-07-000", "answers": [ { "text": "セルビア", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バヤズィトは、何年からアナトリア遠征を行いましたか?", "id": "de-006-07-001", "answers": [ { "text": "1390年", "answer_start": 26, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オスマン帝国主導のアナトリア遠征に参加した国としては、ビザンツ帝国、セルビア、ブルガリアとどの国が挙げられているか?", "id": "de-006-07-002", "answers": [ { "text": "アルバニア", "answer_start": 82, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、バヤズィトのどこへの遠征を説明しているか?", "id": "de-006-07-003", "answers": [ { "text": "アナトリア", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "遠征によってサルハン、アイドゥン、メンテシェ、ハミド侯国といったアナトリアのベイリクを征服し、ヤクブ2世を逮捕してイプサラに送り、ゲルミヤンも支配下に置いた。1391年にカラマンの首都コンヤを包囲し、アラー・アッディーンにアクシュヒル、ニーデ、アクサライの割譲を認めさせての有利な和約を結ぶ。", "qas": [ { "question": "サルハンとゲルミヤンのうち、どこへの攻撃をより早く行ったの?", "id": "de-006-08-000", "answers": [ { "text": "サルハン", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "この文書では、アナトリアの国々を合わせて何と表現していますか?", "id": "de-006-08-001", "answers": [ { "text": "アナトリアのベイリク", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コンヤ包囲戦が始まったのは、何年のことか?", "id": "de-006-08-002", "answers": [ { "text": "1391年", "answer_start": 79, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時、コンヤはどの国の首都だったか?", "id": "de-006-08-003", "answers": [ { "text": "カラマン", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1391年にビザンツ皇帝ヨハネス5世が没すると、アナトリア遠征に従軍していたマヌエルはバヤズィトに無断でブルサを脱出し、コンスタンティノープルに帰還し帝位に就いた。マヌエルの帰還後に7か月の間コンスタンティノープルの包囲するが、ハンガリーが軍事活動を開始する動きを見せると、貢納と引き換えにマヌエルの即位を認めて包囲を解除した、1393年末よりモレアス専制公テオドロス1世がオスマンの従臣を攻撃して領地を広げると、マヌエル兄弟の反逆行為に激怒したバヤズィトはバルカン半島の従臣を召喚して彼ら兄弟に処罰を与えようとした。", "qas": [ { "question": "ヨハネス5世が死去したのは、何年のことなの?", "id": "de-006-09-000", "answers": [ { "text": "1391年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マヌエルがビザンツ帝国の帝位についたのは、何年のことですか?", "id": "de-006-09-001", "answers": [ { "text": "1391年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "どこの軍事活動が見られたことが、マヌエルの即位をオスマン帝国が認める原因となったか?", "id": "de-006-09-002", "answers": [ { "text": "ハンガリー", "answer_start": 114, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コンスタンティノープルの包囲は、マヌエルが即位してから何か月も続いたか?", "id": "de-006-09-003", "answers": [ { "text": "7か月", "answer_start": 91, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "こうしたバルカン半島でのオスマン帝国の勢力拡大に対して、バルカン半島の国家だけでなく西欧も不安を覚え、ハンガリー王ジギスムントは教皇庁に十字軍を要請した。", "qas": [ { "question": "オスマン帝国がどこへとその勢力を拡大していったのが、ヨーロッパ全域に不安を覚えさせたの?", "id": "de-006-10-000", "answers": [ { "text": "バルカン半島", "answer_start": 4, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オスマン帝国の勢力がどこまで至ったことにより、ヨーロッパでは十字軍を要請する国々が現れましたか?", "id": "de-006-10-001", "answers": [ { "text": "バルカン半島", "answer_start": 4, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "教皇庁に十字軍を要請したのは、どの国だったか?", "id": "de-006-10-002", "answers": [ { "text": "ハンガリー", "answer_start": 51, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時、ハンガリー王には、誰がついていたか?", "id": "de-006-10-003", "answers": [ { "text": "ジギスムント", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ローマ教皇ボニファティウス9世とアヴィニョンの教皇ベネディクトゥス13世はフランス、イングランド、サヴォイアなどの西欧諸国に十字軍の結成を呼び掛け、西欧より王族、貴族、騎士が参加を表明した。1396年7月下旬から8月上旬にかけて十字軍はブダに集結、ワラキアの軍隊と共にジギスムント率いるハンガリー軍に合流し、ヴィディンもオスマンへの臣従を破棄して十字軍に参加した。", "qas": [ { "question": "当時のローマ教皇は誰だったの?", "id": "de-006-11-000", "answers": [ { "text": "ボニファティウス9世", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時のアヴィニョンの教皇は誰でしたか?", "id": "de-006-11-001", "answers": [ { "text": "ベネディクトゥス13世", "answer_start": 25, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書で紹介している勢力のうち、オスマン帝国に臣従していたが、それを放棄し十字軍に参加したのは、どの勢力か?", "id": "de-006-11-002", "answers": [ { "text": "ヴィディン", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "十字軍はどこに集結したか?", "id": "de-006-11-003", "answers": [ { "text": "ブダ", "answer_start": 118, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1397年から2年以上にかけて行った第三次コンスタンティノープル包囲では、コンスタンティノープル内にトルコ人の居住区とモスクを設け、イスラムの法廷と法官(カーディー)を設置することを認めさせる。1400年にマヌエル2世が西欧諸国に援助を求めに出国するとバヤズィトは4度目の包囲を開始、1402年に至っても包囲は続けられた。", "qas": [ { "question": "第三次コンスタンティノープル包囲は、何年から始まったの?", "id": "de-006-12-000", "answers": [ { "text": "1397年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第四次コンスタンティノープル包囲が始まったのは、何年からですか?", "id": "de-006-12-001", "answers": [ { "text": "1400年", "answer_start": 97, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "アルトン・エリス", "paragraphs": [ { "context": "アルトン・ニーアマイア・エリスは、ジャマイカ出身の歌手、ソングライター、音楽プロデューサー、レーベル経営者である。\n\nジャマイカで発祥したポピュラー音楽ジャンル、ロックステディを確立した音楽家の一人であることからゴッドファーザー・オブ・ロックステディと、またジャマイカにおけるリズムアンドブルース(R&B)及びソウルミュージックの第一人者であることとその歌唱法からミスター・ソウル・オブ・ジャマイカという異名を持つ。\n\n1994年にはジャマイカ名誉勲章を受賞した。2006年にはインターナショナル・レゲエ・アンド・ワールドミュージック・アワード殿堂入りした。", "qas": [ { "question": "アルトン・ニーアマイア・エリスはどこ出身なの?", "id": "de-007-00-000", "answers": [ { "text": "ジャマイカ", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミスター・ソウル・オブ・ジャマイカとは誰を指す名称ですか。", "id": "de-007-00-001", "answers": [ { "text": "アルトン・ニーアマイア・エリス", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アルトン・ニーアマイア・エリスはいつジャマイカ名誉勲章を受賞したの?", "id": "de-007-00-002", "answers": [ { "text": "1994年", "answer_start": 210, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アルトン・ニーアマイア・エリスがインターナショナル・レゲエ・アンド・ワールドミュージック・アワード殿堂入りしたのはいつですか。", "id": "de-007-00-003", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 232, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アルトン・エリスは1938年、ジャマイカ・キングストンのゲットー・エリアであるトレンチタウン地区で生まれた。生家は音楽一家であり、幼い頃からピアノを習っていた。エベニーザー・アンド・ボーイズ・タウン・スクール(EbenezerandBoys'Townschools)に入学すると、音楽とスポーツ(特に卓球、クリケット、ボクシング)の非凡な才能を見せた。エリスは学校祭でミュージカル映画『皇太子の初恋』(1954年、アメリカ)の劇中歌を歌い、学友に喝采を浴びて以来歌うことに興味を持ち始めた。\n\n1955年に学校を卒業後、『ヴェレ・ジョンズ・オポチュニティ・アワー(VereJohns'OpportunityHour)』というタレントショーに最初はダンサーとして、後に歌手として出場した。歌手転向後、プラターズやロスコー・ゴードン、シャーリー&リーのカバーソングを歌い数回の準優勝に輝いたエリスはプロの道に進むことを決意し、1957年に同郷の友人エディ・パーキンス(EddiePerkins)とアルトン&エディ(Alton&Eddie)というデュオを結成する。", "qas": [ { "question": "アルトン・エリスは何年生まれですか。", "id": "de-007-01-000", "answers": [ { "text": "1938年", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アルトン・エリスはエベニーザー・アンド・ボーイズ・タウン・スクールをいつ卒業したか。", "id": "de-007-01-001", "answers": [ { "text": "1955年", "answer_start": 247, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アルトン・エリスは何年にアルトン&エディ(Alton&Eddie)というデュオを結成したか。", "id": "de-007-01-002", "answers": [ { "text": "1957年", "answer_start": 411, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アルトン・エリスが入学した学校の名前は?", "id": "de-007-01-003", "answers": [ { "text": "エベニーザー・アンド・ボーイズ・タウン・スクール(EbenezerandBoys'Townschools)", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アルトン&エディは1957年から1960年にかけてコクソン・ドッドのワールディスクやヴィンセント・チンのランディーズといったレーベルで数曲のR&Bを録音する[11]。そのうちトレンチタウンの友人ジョージが作曲し1957年に録音され、1959年に発表されたラブソング「ミュリエル(\"Muriel\")」が彼らのデビュー作となり、ジャマイカとイギリスでヒットした。なお「ミュリエル」はプロデューサーのコクソン・ドッドにとっての最初のヒット曲でもあり、録音時のミュージシャンであるジョニー・ムーア、ロイド・ニブ、ロイド・ブリヴェット、ローランド・アルフォンソらは、後に結成されるスカタライツの主要メンバーとなった。また、エリスは後年コンサートでこの曲を歌うときには「この曲が一番好きなんだ」というMCをしばしば入れていた。\n\nアルトン&エディは「ミュリエル」の他に「マイ・ヘヴン(\"MyHeaven\")」、「ララバイ・エンジェル(\"LullabyeAngel\")」、「アイ・ノウ・イット・オール(\"IKnowItAll\")」、「アイム・ネヴァー・ゴナ・クライ(\"I'mNeverGonnaCry\")」、「ユアーズ(\"Yours\")」の少なくとも5曲をドッドの元で、「マイ・ラヴ・ディヴァイン(\"MyLoveDivine\")」など数曲をランディーズで録音した。しかし、国際的ヒット曲となった「ミュリエル」に対して支払われたギャランティーがわずか15ポンドであったなど、ドッドから十分な報酬が受け取れなかったことに失望したエリスは、一時的に音楽の世界から離れ、キングストンの印刷会社スティーブンズ・プリンター社で2年間印刷工の仕事に就いた。エリスが音楽から離れている間、パーキンスはジャマイカのタレントショー『スター・イズ・ボーン(\"AStarIsBorn\")』に優勝し、アメリカの人気テレビ番組『エド・サリヴァン・ショー』に出演する機会を得てアメリカに長期滞在したため、アルトン&エディのデュオは自然消滅となってしまった。", "qas": [ { "question": "「マイ・ヘヴン(\"MyHeaven\")」、「ララバイ・エンジェル(\"LullabyeAngel\")」、「アイ・ノウ・イット・オール(\"IKnowItAll\")」は誰の歌なの?", "id": "de-007-02-000", "answers": [ { "text": "アルトン&エディ", "answer_start": 359, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エリスが2年間働いた印刷会社の名前は何?", "id": "de-007-02-001", "answers": [ { "text": "スティーブンズ・プリンター社", "answer_start": 685, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エリスがアメリカに長期滞留するきっかけとなった番組のタイトルは何?", "id": "de-007-02-002", "answers": [ { "text": "『エド・サリヴァン・ショー』", "answer_start": 792, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "エリスはデュオ解散後も印刷会社で働いていたが、歌手になるという夢を諦めきれず、ある日オーディションを受けるため会社を無断欠勤してしまう。エリスはこれを理由に印刷会社を解雇されてしまったが、それを期に音楽活動にさらに没頭するようになる。1964年ごろエリスはジョン・ホルトとのデュオを結成し、ランディーズへ「ラム・バンパー(\"RumBumper\")」など数曲を残した。しかしホルトはパラゴンズの新メンバーとして引き抜かれてしまったため、エリスとホルトとのコンビは短命に終わった。そのためエリスは弟のレスリーと、友人のノエル・\"スカリー\"・シムズ、ベイビーG、ロニーと共に新しいグループ、アルトン・エリス&ザ・フレイムス(AltonEllis&TheFlames)を結成、同時にスタジオ・ワンからデューク・リードのトレジャー・アイルへとレーベルを移籍し、「ドント・トラブル・ピープル(\"Don'tTroublePeople\")」、「ダンス・クラッシャー(\"DanceCrasher\")」、「クライ・タフ(\"CryTough\")」といった楽曲を発表し、ヒットさせた。この時期のジャマイカの音楽業界では性急なテンポを特徴とする新たなジャンル・スカが誕生し、ウェイラーズやプリンス・バスター、デリック・モーガンによる攻撃的なルードボーイ賛歌が人気を博していたが、アルトン・エリス&フレイムスによる上記楽曲群は彼らとは対照的に平和とアンチ・ルードボーイを訴えたものだった。\n\nなお、レーベル移籍によって心機一転を計ったエリスであったが、金銭的には不遇なままであった。", "qas": [ { "question": "エリスがジョン・ホルトとのデュオを結成したのはいつですか。", "id": "de-007-03-000", "answers": [ { "text": "1964年", "answer_start": 117, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エリスとレスリーと誰がもっと年上なの?", "id": "de-007-03-001", "answers": [ { "text": "エリス", "answer_start": 242, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "性急なテンポを特徴とする新たなジャンル・スカはどこで誕生したか。", "id": "de-007-03-002", "answers": [ { "text": "ジャマイカ", "answer_start": 485, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "エリスが1965年12月にトレジャー・アイルに録音した「ガール・アイヴ・ガット・ア・デート(\"GirlI'veGotaDate\")」はテンポこそスカと同様のアップテンポだが、スカの特徴であるウォーキングベース(ベースが均等に4分音符を弾く奏法)ではなくシンコペーション感覚のあるベースラインがあり、その特有のフィーリングをもって最初のロックステディ楽曲の一つと広く認識されている。同楽曲が1966年にジャマイカのラジオチャート一位を獲得して以降、ジャマイカでは約2年間スカよりも遥かに遅いテンポと甘い雰囲気を持つ音楽ロックステディが流行したが、この2年間はエリスの黄金期と一致する。なお、このジャンル名自体も1966年にエリスが発表した「ロックステディ(\"Rocksteady\")」という楽曲に由来している。\n\nこの時期、エリスは自ら「(ロックステディの)最終到着地点」と評した「ブレイキング・アップ(イズ・ハード・トゥ・ドゥ)(\"BreakingUp(IsHardToDo)\")」をはじめとする多くのオリジナル曲を発表したほか、タイロン・デイヴィス「キャン・アイ・チェンジ・マイ・マインド(CanIChangeMyMind)」、ジーン・チャンドラー「デューク・オブ・アール(DukeofEarl)」、ルーサー・イングラム「エイント・ザット・ラヴィン・ユー(\"Ain'tThatLovingYou\")」、デルフォニックス「ララは愛の言葉(La-La(MeansILoveYou))」、プロコル・ハルム「青い影」、チャック・ジャクソン「ウィロー・ツリー(\"WillowTree\")」といった英米音楽のカバーや、フィリス・ディロンやヘプトーンズ、妹ホーテンスとのデュエットなど、ラブソングを中心に多彩な作品を発表した。", "qas": [ { "question": "「ガール・アイヴ・ガット・ア・デート(\"GirlI'veGotaDate\")」は誰が録音した曲なの?", "id": "de-007-04-000", "answers": [ { "text": "エリス", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スカとロックステディと、テンポがもっと遅いジャンルはどっちなの?", "id": "de-007-04-001", "answers": [ { "text": "ロックステディ", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「ブレイキング・アップ(イズ・ハード・トゥ・ドゥ)(\"BreakingUp(IsHardToDo)\")」が「(ロックステディの)最終到着地点」であると評したのは誰ですか。", "id": "de-007-04-002", "answers": [ { "text": "エリス", "answer_start": 361, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "特に1965年から1967年にかけてのロックステディ期におけるエリスの活動は、そのソウルフルかつ滑らかな歌唱法を受け継いだデニス・ブラウン、フレディ・マクレガー、シュガー・マイノットら多くのレゲエ歌手をはじめ、世界中の音楽家に影響を与えている。マクレガーは「私は彼を手本にして尊敬していました。いつもアルトン・エリスのように歌いたいと思っていました。デニス・ブラウンのことも尊敬していましたが、アルトンは別格でした」と語っている。\n\nプリンス・バスターのヒット曲「WreckAPumPum」はエリスが考えた冗談を基に制作されている。\n\n2009年にはジャマイカの歌手ロメイン・ヴァーゴ(RomainVirgo)がエリスの曲「ブレイキング・アップ」、「エイント・ザット・ラヴィング・ユー」、「ウィロー・ツリー」をメドレーにした「アルトンズ・メドレー(\"Alton'sMedley\")」を発表した。", "qas": [ { "question": "「私は彼を手本にして尊敬していました。いつもアルトン・エリスのように歌いたいと思っていました。デニス・ブラウンのことも尊敬していましたが、アルトンは別格でした」という話をしたのは誰なの?", "id": "de-007-05-000", "answers": [ { "text": "マクレガー", "answer_start": 122, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「アルトンズ・メドレー(\"Alton'sMedley\")」は誰の曲なの?", "id": "de-007-05-001", "answers": [ { "text": "ロメイン・ヴァーゴ(RomainVirgo)", "answer_start": 283, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "エリスが1965年に発表した「ガール・アイヴ・ガット・ア・デート」は1969年、ハリー・J・オールスターズによって「リキデイター」としてカバーされ、全英シングルチャート9位を獲得するヒットとなった。同楽曲は2010年現在もイギリスのサッカークラブウルヴァーハンプトン・ワンダラーズFC、チェルシーFCの応援歌として演奏され続けている。また、同楽曲のヴァージョンは1970年には初のディージェイによるヒット曲として知られるU・ロイ「ウェイク・ザ・タウン(\"WakeTheTown\")」にも使用された。さらに、アメリカ合衆国のゴスペル・ソウル・グループ、ザ・ステイプル・シンガーズが1972年6月3日にBillboardHot100チャート1位を獲得した楽曲「アイル・テイク・ユー・ゼア(\"I'llTakeYouThere\")」も「ガール・アイヴ・ガット・ア・デート」のリフとメロディーを引用している。", "qas": [ { "question": "「ガール・アイヴ・ガット・ア・デート」はいつ発表された曲なの?", "id": "de-007-06-000", "answers": [ { "text": "1965年", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "オーストラリアの歴史", "paragraphs": [ { "context": "本項では、オーストラリアの歴史について記述する。\n\n地理的に他の大陸から隔絶されたオーストラリアは、長きにわたって西洋文明の影響を受けずにいたが、度重なる航海の結果、その存在はヨーロッパの人々の知るところとなった。はじめ流刑植民地とされた同地は、1851年の金鉱発見以来、一攫千金を夢見る多くの人々を惹き付けた。これをゴールドラッシュという。こうした過程で侵略者と先住民の、あるいは者や移民同士の軋轢を経験しつつ、オーストラリアはヨーロッパ人が侵略し植民地にした国から連邦国家へと変貌を遂げるに至った。\n\n連邦成立後は、旧宗主国イギリスと新興国アメリカ合衆国との狭間で揺れながらも独自性の模索を続け、主にアジア地域との関係強化を図っている。", "qas": [ { "question": "オーストラリアで初めて金鉱が発見されたのは何年のことですか。", "id": "de-008-00-000", "answers": [ { "text": "1851年", "answer_start": 123, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オーストラリアで初めて金鉱が発見され、一攫千金を夢見る多くの人々を惹き付けたことを何といいますか。", "id": "de-008-00-001", "answers": [ { "text": "ゴールドラッシュ", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オーストラリアは連邦成立後、主にどの地域との関係強化を図っていますか。", "id": "de-008-00-002", "answers": [ { "text": "アジア地域", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "約5万年前、更新世末期のオーストラリア大陸は、現在に比べて海水面が100m以上低かったため、ニューギニア島やタスマニア島を包含していた。また、ジャワ島やスマトラ島、ボルネオ島はアジアと地続きになり、スンダランド(Sundaland)の一部を構成していた。このため、両者を分かつ海域は現在に比して狭く、航行も比較的容易であった。オーストラリア先住民、いわゆるアボリジナルはこの頃、スンダランドから海を渡ってオーストラリアに到来したものとみられている。アボリジナルは長くオーストラロイドに分類されてきたが、遺伝子の分析や頭蓋骨の測定の結果から、広義のモンゴロイドに属するとの見方が浮上し、オセアニア系モンゴロイドに分類されるようになった。さらには従来の「人種」の概念を否定したより新しい人類集団の分類では、ニューギニアのパプア人と同じくサフール人に分類され、広くは従来モンゴロイドとされた東ユーラシア人(東・東南アジア人)及び南北アメリカ人(アメリカ先住民)と共に「環太平洋人」とする新しい学説もある。", "qas": [ { "question": "約5万年前、更新世末期のオーストラリア大陸は、現在に比べて海水面が何m以上低かったですか。", "id": "de-008-01-000", "answers": [ { "text": "100m以上", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アボリジナルはどこの先住民ですか。", "id": "de-008-01-001", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 163, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2014年時点で発見されているオーストラリア最古の人類の化石は、約4万年前のムンゴマンと呼ばれる男性である。\n\n更新世以後長きに亘り、オーストラリアの歴史はアボリジナルの歴史となるが、詳しいことは判っていない。遺構から発見された人骨や洞穴に描かれた絵画、語り継がれた神話から推し量る以外に術はない。オーストラリアが歴史の舞台に現れるのは、西洋人との接触の時代まで待たねばならない。\n\nオーストラリア大陸が現在のような状況になって以降は、ヨーロッパ人の到来まで、オーストラリアは外界から隔絶された場所だったという認識が強い。しかし、近年はこれを覆す研究結果がいくつかある。約4000年前には豪州大陸へと渡った古代のインド人とアボリジニとが混血していたという研究結果がある。アボリジニの伝承には、ヨーロッパ人の来訪以前からも、どこからかやってきた黒人や白人たちと交流があったとの話が伝わっており、中東やアフリカからオーストラリア北部を訪れる船乗りがいたと推測する者もいる。\n\n2世紀に描かれたプトレマイオスの世界地図が示すように、西洋の人々は古くから、南方に大陸が存在するとの考えを持っていたようであるが、彼らがオセアニアの海域に到来するのはいわゆる大航海時代になってからのことである。", "qas": [ { "question": "2014年時点で発見されているオーストラリア最古の人類の化石の性別は何ですか。", "id": "de-008-02-000", "answers": [ { "text": "男性", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オーストラリア最古の人類の化石は何と呼ばれる男性でありますか。", "id": "de-008-02-001", "answers": [ { "text": "ムンゴマン", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1588年にスペインの無敵艦隊が敗れてから、凋落したスペインに代わってオランダ、ポルトガル、イギリス、フランスが東洋での覇権争いに名乗りを上げた。\n\nヨーロッパ人航海者がオーストラリア大陸に最初に到達したのは1606年のことである。オランダ東インド会社のウィレム・ヤンスゾーン(WillemJanszoon)がケープヨーク半島の西側を視認して上陸し、周辺の海岸を海図に記した。同年にはスペイン人ルイス・バーエス・デ・トーレス(LuisVáezdeTorres)がニューギニア島との間の海峡を航海した。オーストラリア大陸を見ることはなかったものの、ニューギニアとオーストラリアが地続きでないことが明らかとなり、この海峡は彼の名を取って「トレス海峡」と呼ばれるようになった。1616年には喜望峰を回ってバダヴィアに向かうオランダ東インド会社の船長ダーク・ハートッグ(DirkHartog)がオーストラリア西岸をヨーロッパ人として初めて目にし、今日彼の名前で呼ばれるダークハートッグ島に上陸した。\n\nオランダ人アベル・タスマン(AbelJanszoonTasman)は1642年、西海岸を回って南部に達してタスマニア島を発見し、さらに東進してニュージーランドを発見した。のちの植民地時代、タスマンの命名に従い、前者は「ヴァン・ディーメンズ・ランド(VanDiemen'sLand)」、後者は「ステイテン・ランド(StatenLand)」と呼ばれた。", "qas": [ { "question": "スペインの無敵艦隊は何年に敗れたの?", "id": "de-008-03-000", "answers": [ { "text": "1588年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨーロッパ人航海者は何年にオーストラリア大陸に最初に到達したの?", "id": "de-008-03-001", "answers": [ { "text": "1606年", "answer_start": 104, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペイン人ルイス・バーエス・デ・トーレス(LuisVáezdeTorres)がニューギニア島との間の海峡を航海したのは何年のことですか。", "id": "de-008-03-002", "answers": [ { "text": "1606年", "answer_start": 104, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オランダ人アベル・タスマンは何年にタスマニア島を発見したか。", "id": "de-008-03-003", "answers": [ { "text": "1642年", "answer_start": 481, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1644年の航海では、タスマンはニューギニア島からトレス海峡を縦断し、オーストラリア北部の沿岸を周航した。しかし、航海の最大の目的である、有望な貿易商品(香料など)の発見は叶わなかった。\n\nイギリスからは、海賊ウィリアム・ダンピア(WilliamDampier)が17世紀末に西海岸に上陸した。ダンピアの報告を受け、王立協会は改めて調査船を現地へ派遣した。\n\n\n時代は下り1766年、イギリスはジェームズ・クック(JamesCook)を船長とする観測隊をタヒチ島に派遣した。1769年6月3日、予定通り金星の太陽面通過を観測した一行は太平洋を南下した。10月7日にニュージーランドを発見した一行は、同地を探検したのち進路を西に変え、1770年4月20日にオーストラリア東海岸に到達した。4月29日、シドニーの南方に位置するボタニー湾に上陸した。\n\nクックは、大陸の東海岸一帯を国王ジョージ3世の名において領有すると宣言し、この地を「ニュー・サウス・ウェールズ」と命名した。なお、クックが領有を宣言した範囲は現在のニュー・サウス・ウェールズ州よりも広く、現在のビクトリア州、クイーンズランド州、タスマニア州などを含んでいた。", "qas": [ { "question": "ジェームズ・クックは何年にタヒチ島に派遣されましたか。", "id": "de-008-04-000", "answers": [ { "text": "1766年", "answer_start": 186, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ニュー・サウス・ウェールズ」という地名は誰が作ったの?", "id": "de-008-04-001", "answers": [ { "text": "クック", "answer_start": 374, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1914年7月に第一次世界大戦が起こると、オーストラリアはイギリスと共に連合国の側に付いて参戦した。\n\n7月31日に「最後の1人、最後の1シリングまで(ourlastmanandourlastshilling)」イギリスと共に戦わねばならぬと訴えた労働党党首アンドリュー・フィッシャー(AndrewFisher)は首相に就任すると、海軍を派遣して南太平洋のドイツ領を占領した。また中近東やヨーロッパには義勇兵(ニュージーランド軍との合同部隊)が向かい、各地を転戦した。この部隊はオーストラリア・ニュージーランド軍団の頭文字を取ってアンザック(ANZAC)と通称された。ANZACは1915年、オスマン帝国(現在のトルコ)のガリポリ半島上陸作戦に失敗(「ガリポリの戦い」の項を参照)し、8,141名の戦死者を出す大損害を蒙ったが、作戦決行日の4月25日は以後ANZACの日(ANZACDay)として記念された。", "qas": [ { "question": "第一次世界大戦はいつ勃発したか。", "id": "de-008-05-000", "answers": [ { "text": "1914年7月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ANZACの日は何月何日なの?", "id": "de-008-05-001", "answers": [ { "text": "4月25日", "answer_start": 370, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "死傷者数の増加に伴い、義勇兵に頼っての戦争遂行は次第に困難となった。連邦防衛法は正規軍の海外派兵を禁じていたが、首相ウィリアム・ヒューズ(WilliamHughes)はこれを改めるべく、1916年に国民投票を実施して、海外派遣を伴う徴兵制導入の是非を問うた。この一件は労働党内でも意見が集約できず、国論も二分したが、結局僅差で否決された。労働党から不信任されたヒューズは、自派の議員らと共に離党してナショナリスト党(NationalistPartyofAustralia)を結成、再度国民投票を実施したが、これも否決された。\n\n第一次世界大戦で、オーストラリアは約40万人を動員した。総人口が500万に満たない当時のオーストラリアにとっては、かなりの動員数であったといえよう。このうち死者数は、59,258人を数えた。\n\nパリ講和会議には、首相ヒューズが全権代表として参加した。太平洋の旧ドイツ領諸島の帰属については、日本と激しく争った末に、赤道を挟んで北側を日本が、南側をオーストラリアがC式委任統治領として確保することで妥結した。また、日本が提案した人種平等案(国際連盟規約への人種差別撤廃条項挿入)に対してはカナダと共に反対し、これを阻止した。白豪主義は堅持され、オーストラリア国内ではナショナリズムが高揚した。", "qas": [ { "question": "第一次世界大戦で、オーストラリアは何人を動員したか。", "id": "de-008-06-000", "answers": [ { "text": "約40万人", "answer_start": 281, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第一次世界大戦で動員されたオーストラリア人のうち、死者数は何人でしたか。", "id": "de-008-06-001", "answers": [ { "text": "59,258人", "answer_start": 347, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1929年10月に発生した世界恐慌はオーストラリアにも及び、深刻な失業問題を生んだ。この大恐慌と時を同じくして政権に就いた労働党のジェームズ・スカリン(JamesScullin)は、輸入制限や財政支出の削減、通貨の25%切り下げなどによる事態の収拾を図ったが、景気は好転しなかった。右翼組織「オーストラリア帝国連盟」はスカリン政権を指弾し、労働党内では経済政策の是非を巡る内紛が起こった。政権に反発してインフレ抑制を訴えたジョゼフ・アロイシアス・ライオンズ(JosephAloysiusLyons)ら右派は脱党し、ナショナリスト党の議員らと共に統一オーストラリア党(UnitedAustraliaParty)を結成した。ライオンズは翌1932年、政権を掌握した。\n\n恐慌は、世界的な経済ブロック形成の動きを促した。スターリング・ブロックに入ったオーストラリアはイギリスの綿製品を優遇し、日本製品やアメリカ製品の輸入を制限した。日本は通商擁護法を発動し、オーストラリア産の羊毛を締め出して報復した。この緊張は、1938年の日豪通商協定締結によって一応の収拾をみた。\n\n外交面でも、日本に対する警戒の目が向けられた。ライオンズ内閣の外相ジョン・レイサム(JohnLatham)は東アジア諸国を歴訪し、日本にも訪れた。表向きは貿易促進のためとされたが、真の目的は、日本が中国大陸に関心を寄せたことで南進の恐れが低下したのか否かを見極めるためであった。", "qas": [ { "question": "世界恐慌はいつ発生したの?", "id": "de-008-07-000", "answers": [ { "text": "1929年10月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ライオンズは何年に政権を掌握したの?", "id": "de-008-07-001", "answers": [ { "text": "1932年", "answer_start": 317, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヨーロッパでは1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まった。首相ロバート・メンジーズ(RobertGordonMenzies)は第一次大戦時と同様、イギリスの参戦によって自動的にオーストラリアも戦争状態に入ったと表明した。直ちにイギリス側に立って参戦することを決定し、まず中東・地中海沿岸に、次いで北アフリカ地域に志願兵を派遣した。\n\n1941年12月に日本軍が真珠湾攻撃を行うと、首相ジョン・カーティン(JohnCurtin)は日本に対する宣戦を布告した。日本軍はビルマ(現ミャンマー)やオランダ領東インドを次々に攻略し、殊に1942年2月15日のシンガポール陥落はオーストラリアに衝撃を与えた。本土の危機に直面したオーストラリアは、中東の兵を回収した。苦戦を強いられるイギリスはオーストラリアに満足な支援を行う余裕を持たず、失望したオーストラリア国民の間からは、アメリカを頼る声が高まった。\n\n1942年3月、フィリピンから脱出したダグラス・マッカーサーがオーストラリアに赴き、西南太平洋連合軍最高司令官として戦争を指揮した。1942年は、オーストラリアの対外政策の主軸がイギリスからアメリカに転換する画期となった。\n\n日本軍は1942年の2月から7月にかけてダーウィン、ブルーム、タウンズビルなど大陸北部の爆撃を繰り返し、5月には特殊潜航艇を用いてシドニー港を攻撃した。また、アメリカとオーストラリアの間のシーレーンを奪取し、オーストラリアと休戦に持ち込む米豪遮断作戦も発動されたが、ミッドウェイ海戦での敗北以後、次第に劣勢となった日本軍は「転進」を余儀なくされ、本土上陸が行われることはなかった(帝国海軍によってオーストラリア北岸地域の占領が計画されていた)。", "qas": [ { "question": "ヨーロッパではいつ第二次世界大戦が発生したか。", "id": "de-008-08-000", "answers": [ { "text": "1939年9月1日", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オーストラリアはどっち側に立って第二次世界大戦に参戦したの?", "id": "de-008-08-001", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1942年3月、ダグラス・マッカーサーはどこから脱出したの?", "id": "de-008-08-002", "answers": [ { "text": "1942年3月", "answer_start": 412, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "飛騨川流域一貫開発計画", "paragraphs": [ { "context": "飛騨川流域一貫開発計画とは、岐阜県を流れる一級河川である木曽川の支流、飛騨川を中心として行われた大規模な水力発電計画である。1962年より開始されたこの計画は、古くは1911年より日本電力、東邦電力、日本発送電を経て中部電力により進められ、飛騨川の本流・支流に多数の水力発電所を建設した。発生した電力を主に名古屋市を中心とした中京圏へ送電することを目的としており、23箇所の水力発電所で総出力114万3530キロワットの電力を生み出している。", "qas": [ { "question": "飛騨川流域一貫開発計画により発生した電力は主にどの市を中心に送電することを目的としていますか。", "id": "de-009-00-000", "answers": [ { "text": "名古屋市", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "飛騨川流域一貫開発計画が開始したのはいつですか。", "id": "de-009-00-001", "answers": [ { "text": "1962年", "answer_start": 62, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "日本電力と東邦電力による飛騨川の電力開発競争は、まず日本電力が一歩先に開発に着手した。小林が計画した瀬戸第一・馬瀬川・小坂・久々野の4発電所計画を1911年岐阜県庁に申請し、1920年に申請が許可され直ちに工事が開始された。まず瀬戸第一発電所の工事用動力源となる竹原川発電所の工事に着手、益田郡竹原村を流れる飛騨川支流の竹原川に取水堰を設けて最大920キロワットの電力を発生させ、瀬戸第一発電所の工事現場に送電するという目的であった。", "qas": [ { "question": "飛騨川の電力開発競争において、日本電力と東邦電力のうち、どちらの方がより早めに開発し始まったか。", "id": "de-009-01-000", "answers": [ { "text": "日本電力", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "飛騨川流域の水力発電事業を継承した中部電力は、日本発送電が調査していた朝日発電所とダム工事に着手する。当時電力施設は空襲による破壊や酷使による故障、新規開発の停滞により十全の電力供給を図れなかった。反面電力需要は民需用電力の使用制限が解除されたことで爆発的に増加、結果需給バランスが崩壊して頻繁な停電を伴う深刻な電力不足に陥った。このため大規模な貯水池を有する水力発電所を建設することで年間を通じ安定した電力供給を行い、当時石炭不足で稼働率の低かった火力発電所に代わる主力設備として大規模なダムを擁する水力発電所の建設が日本各地で盛んに行われるようになった。さらに流域間で効率的な水の利用を行うことで既に運転している水力発電所の出力や年間発生電力量を増加させることも電力供給上重要となった。このため飛騨川流域でも戦前とは異なり流域全体で水力発電開発計画を進める必要が生じ、朝日発電所の建設などを経て1962年流域全体の大規模水力開発計画を立てた。飛騨川流域一貫開発計画である。", "qas": [ { "question": "飛騨川流域一貫開発計画は何年度に立てられましたか。", "id": "de-009-02-000", "answers": [ { "text": "1962年", "answer_start": 399, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "戦後の河川開発において重要だったのは電力開発だけではなく、カスリーン台風を皮切りに連年日本を襲った水害に対応するための治水と、極端な食糧不足に対処するための灌漑整備があった。経済安定本部は木曽川のほか日本の主要10水系を対象に1949年多目的ダムを軸とした治水対策である河川改訂改修計画を、農林省は1948年より国営農業水利事業を策定し1河川単独ではなくテネシー川流域開発公社(TVA)を模範とした水系全体での河川開発を志向していた。第3次吉田内閣はこうした河川総合開発事業をより強力に推進するため、1951年国土総合開発法を制定し日本各地で22地域を選定した特定地域総合開発計画を立案する。", "qas": [ { "question": "河川開発において重要だったのは、電力発展、治水、そして何?", "id": "de-009-03-000", "answers": [ { "text": "灌漑整備", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "現在飛騨川流域に存在する水力発電所は23箇所に上り、その総出力は114万3530キロワットに達し大規模新鋭火力発電所1基に匹敵する。飛騨川流域が持つ包蔵水力は1956年に通商産業省が実施した第四次水力開発調査によれば116万7560キロワットあり、新上麻生発電所完成とその後の発電所改修により調査で示された包蔵水力の97.9パーセントが開発され、ほぼ水力資源は開発され尽くしている。従って現時点で新規に開発が予定されている水力発電所計画は存在しない。また支流の佐見川に高さ117.0メートルの佐見川ダムを建設し出力1万5700キロワットを発電する新佐見川発電所計画を始め、新朝日・新東上田・濁河・小原・新名倉・中麻生などの水力発電所計画があったが、費用対効果や地元の了承が得られないなどの理由で構想のみ、あるいは計画が中止している。飛騨川流域一貫開発計画は所定の目的がほぼ達成され、新上麻生発電所の運転開始を以って、事実上完了した。また、険阻な飛騨川の地形や厳しい気候環境の中で実施された大規模な開発計画であり、この計画遂行により合計138名の労務者が労働災害で殉職している。名古屋市など東海地方の発展に寄与した計画の影で、飛騨川に命を散らした人々がいたことは、記憶に留めておく事実である。", "qas": [ { "question": "現在、飛騨川流域の水力発電所の総出力は何キロワットに達しますか。", "id": "de-009-04-000", "answers": [ { "text": "114万3530キロワット", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1969年には高根第一発電所建設に伴い、超高圧送電線として高根幹線が建設される。この幹線は全長91キロメートル、27万ボルト二回線、鉄塔222基の送電線網であり、高根第一発電所から馬瀬川第一発電所を経て岐阜県関市の関開閉所へと至る。さらに1970年10月には高根第一発電所を起点とする高根中信一号線が完成する。これは高根第一発電所から野麦峠を越えて長野県塩尻市にある中信変電所へ電力を送電する全長48キロメートルの送電線網であり、完成によって今度は長野県へも飛騨川の電力が送電されることになった。1973年には二号線が増設されている。これにより高根幹線は長野県塩尻市から飛騨川流域最大級の水力発電所である高根第一・馬瀬川第一発電所を経由して岐阜県関市へ至る長大送電線網になった。", "qas": [ { "question": "高根幹線の長さは?", "id": "de-009-05-000", "answers": [ { "text": "91キロメートル", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "高根第一発電所から野麦峠を越えて長野県塩尻市にある中信変電所へ電力を送電する全長48キロメートルの送電線網は何か。", "id": "de-009-05-001", "answers": [ { "text": "高根中信一号線", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1968年8月18日、折からの集中豪雨によって飛騨川沿いの国道41号を走っていた観光バス2台が上麻生ダム直下の飛騨川に転落、104名の死者を出す日本のバス事故史上最悪の事故が発生した。飛騨川バス転落事故である。この事故に際し、人命救助の観点から飛騨川流域一貫開発計画で建設されたダム・発電所が異例とも言える操作を行っている。事故当時の飛騨川は台風崩れの豪雨によって水位が大幅に増水しており、かつ飛水峡という険阻な峡谷にバスが転落していたため、バスの引き上げと乗客の救助活動は難航を極めていた。陸上自衛隊守山駐屯地を始め岐阜県警、消防などが救助活動に当たっていたが、飛騨川流域のダムや発電所を管理する中部電力も要請を受けて岐阜支店長を本部長として社員延べ380名、管理用舟艇350艘を動員して支援体制に入っていた。しかし濁流渦巻く飛騨川の救助活動が難航を極めていることもあり、事故翌日の8月19日に上麻生発電所の全取水発電を行ってダム下流の水位を下げ、転落した2台のうち1台の引き上げを支援した。しかし川の中に没している残り1台の救助は水位がかなり低下しない限り困難であった。", "qas": [ { "question": "集中豪雨によって飛騨川沿いの国道41号を走っていた観光バス2台が上麻生ダム直下の飛騨川に転落、104名の死者を出したバス事故を何と呼びますか。", "id": "de-009-06-000", "answers": [ { "text": "飛騨川バス転落事故", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "飛騨川バス転落事故での死亡者は何人でしたか。", "id": "de-009-06-001", "answers": [ { "text": "104名", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "飛騨川バス転落事故の翌日、引き揚げたバスは何台ですか。", "id": "de-009-06-002", "answers": [ { "text": "1台", "answer_start": 434, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "これらの理由で電力会社と流木業者の紛争はしばしば激しいものとなった。特に知られているのが、庄川において浅野総一郎率いる庄川水力電気と飛州木材が、小牧ダム建設と慣行流木権の有無を巡り長期にわたって法廷闘争にまで発展した庄川流木事件である。この庄川流木事件に先んじ、飛州木材は飛騨川においても日本電力との間で慣行流木権を巡り激烈な紛争を1920年から1924年まで繰り広げていた。これを益田川流木事件と呼ぶ。契機となったのは日本電力が瀬戸第一発電所を建設する際に、河川管理者である岐阜県知事から流木権保全のため冬季の流木シーズンには毎秒400立方尺の放流義務を許可条件としたことに始まる。", "qas": [ { "question": "庄川流木事件と益田川流木事件、どちらの方が先に起こりましたか。", "id": "de-009-07-000", "answers": [ { "text": "益田川流木事件", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "エアバスA320", "paragraphs": [ { "context": "エアバスA320(AirbusA320)は、欧州のエアバス社が開発・製造している単通路の双発ジェット旅客機である。A320を基本型として、長胴型のエアバスA321および短胴型のエアバスA319とエアバスA318が開発され、エアバスA320ファミリーを構成している。A320ファミリーは二世代に分けることができ、当初型はA320ceoファミリー、エンジンを刷新した第二世代はA320neoファミリーと呼ばれる。A320ceoは1988年にエールフランスにより路線就航を開始し、A320neoは2016年にルフトハンザ・ドイツ航空により初就航した。A320は旅客機として世界で初めてデジタル式フライ・バイ・ワイヤ操縦システムやサイドスティックを採用し、エアバス機の新時代を切り開いた。米国メーカーの単通路機と世界で競合しながらシェアを拡大し、エアバスがボーイングと肩を並べるまでに成長する立役者となった。", "qas": [ { "question": "A320neoファミリーの登場により、従来のA320とA321、A319、A318は何と呼ばれるようになったの?", "id": "de-010-00-000", "answers": [ { "text": "A320ceoファミリー", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "世界で初めてデジタル式フライ・バイ・ワイヤ操縦システムやサイドスティックを採用した旅客機は、何ですか?", "id": "de-010-00-001", "answers": [ { "text": "A320", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A320ceoは何年に初めて商業運航を行ったか?", "id": "de-010-00-002", "answers": [ { "text": "1988年", "answer_start": 212, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A320ファミリーの基本型から胴体を延長した機種は何か?", "id": "de-010-00-003", "answers": [ { "text": "エアバスA321", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A320は低翼配置の主翼下に左右1発ずつターボファンエンジンを装備し、尾翼は低翼配置、降着装置は前輪配置である。全長は37.57メートル、全高は11.76メートル、全幅は最大で35.80メートルである。最大離陸重量は66トンから77トンで最大巡航速度はマッハ0.82である。2018年末までの総納入数は、A320単体で5,213機、A320ファミリー全体で8,525機である。2019年10月現在、A320ファミリーの関係した機体損失事故および事件は、航空事故が30件、テロ等の事件が7件、その他駐機中の火災等によるものが7件発生している。30件の事故により951人、7件の事件により441人、1件のハイジャックにより犯人が死亡している。A320単体では、航空事故は25件、テロ等の事件が5件、その他駐機中の火災等によるものが6件である。11件の事故により計816人、2件の事件により計216人死亡しているほか、ハイジャック1件で犯人1人が死亡している。", "qas": [ { "question": "A320ファミリーのうち、納入数が最も多いのは、どの機種なの?", "id": "de-010-01-000", "answers": [ { "text": "A320", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2019年10月までのA320ファミリーの関係した、航空事故とテロ等の事件のうち、その件数がより多いのは、どちらですか?", "id": "de-010-01-001", "answers": [ { "text": "航空事故", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2019年10月までのA320ファミリーの関係した、航空事故とテロ等の事件のうち、より多くの死亡者が出たのは、どちらか?", "id": "de-010-01-002", "answers": [ { "text": "航空事故", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2019年10月までのA320ファミリーの関係した航空事故において、件数の最も多い機種は、何か?", "id": "de-010-01-003", "answers": [ { "text": "A320", "answer_start": 319, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "米国の航空機メーカーに対抗するため、欧州の航空機メーカーは1970年12月に企業連合「エアバス・インダストリー」(以下、エアバス)を設立し、世界初の双通路(ワイドボディ)双発ジェット旅客機となるA300を開発した。A300は1972年10月に初飛行し、1974年5月に路線就航を開始した。続けて1980年代前半にかけてエアバスは、A300の発展型となるA310やA300-600を開発した。A310やA300-600は、いわゆるグラスコックピットを採用するとともにシステムにコンピュータを導入して自動化することで、操縦士2人のみで運航可能なワイドボディ機の先駆けとなった。こうしてエアバスは一定の成功を収めたものの、既に米国のボーイングやマクドネル・ダグラスは、単通路機(ナローボディ機)からワイドボディの長距離機まで圧倒的な製品群を展開していた。これまで双発ワイドボディ機という独自路線で他社との競合を避けてきたエアバスだが、旅客機メーカーとしての確固たる地位を確立するためには、米国メーカーが独占する市場に参入して積極的にシェアを獲得する必要があった。", "qas": [ { "question": "エアバス製の航空機にグラスコックピットが採用され始めたのは、A310とどの機種からなの?", "id": "de-010-02-000", "answers": [ { "text": "A300-600", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エアバスが旅客機メーカーとしての確固たる地位を確立するために参入し、シェアを確保する必要があった市場とは、どの国の旅客機メーカーが独占している市場でしたか?", "id": "de-010-02-001", "answers": [ { "text": "米国", "answer_start": 441, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "他社との競合を避けたがっていたエアバスは、独自路線としてどのような航空機だけに集中しましたか?", "id": "de-010-02-002", "answers": [ { "text": "双発ワイドボディ機", "answer_start": 378, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A310とA300-600の基となった旅客機は、何か?", "id": "de-010-02-003", "answers": [ { "text": "A300", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一方そのころ、単通路機市場では150席級の新型旅客機が求められつつあった。727や737-200、DC-9、BAC1-11、シュド・カラベルといった中近距離用の中小型機を更新する時期に差し掛かりつつあった。それに加えて航空旅客需要が順調に伸びており、150席級の旅客機は今後20年で3,000機の需要があると見込まれた。各国の航空機メーカーはこの市場を狙って熱心に新型機の研究を行った。欧州のメーカー間でも単独あるいは共同事業での開発構想が複数立ち上がった。また、米国の航空機メーカーはエアバス・コンソーシアムの切り崩しを図り、欧州の航空機メーカーに共同開発を持ちかけた。", "qas": [ { "question": "当時の予測では、今後20年で150席級の旅客機の需要が何機もなると見込まれ、150席級の旅客機の開発に各国の航空機メーカーが目を向けるようになりましたか?", "id": "de-010-03-000", "answers": [ { "text": "3,000機", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "727や737-200、DC-9は、どんな距離向けの中小型機であるの?", "id": "de-010-03-001", "answers": [ { "text": "中近距離", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "米国メーカーによる切り崩し戦術の効果は限定的で、開発構想が実現することはなかった。むしろ、米国に対抗する機会を逃すまいと欧州のメーカーは新たな共同開発プロジェクトを1977年に立ち上げた。このプロジェクトはJET(JointEuropeanTransport)と名付けられ、参加メンバーはアエロスパシアル、MBB、VFW-フォッカー、そしてブリティッシュ・エアロスペース(BAe)であった。JET計画はエアバスと別のプロジェクトとして進行していたが、参加メンバーの大半はエアバス構成メンバーであり、唯一エアバスに不参加だったBAe社も1979年にエアバスに加盟した。これによりJET計画はエアバス・コンソーシアムに継承され、単通路(SingleAisle)を意味するSA計画と名付けられた。SA計画ではSA1からSA3まで3種類の機体案が作られ、座席数はそれぞれ125席、150席、180席とされた。", "qas": [ { "question": "JET計画のメンバーのうち、参加決定がなされたばかりの時期にはエアバスに参加していなかった会社は、どの会社なの?", "id": "de-010-04-000", "answers": [ { "text": "BAe社", "answer_start": 262, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "JET計画のメンバーのうち、エアバスには最も遅く参加したのは、どの会社ですか?", "id": "de-010-04-001", "answers": [ { "text": "BAe社", "answer_start": 262, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "JET計画は、エアバス・コンソーシアムに継承されることにより、何計画と改称されたか?", "id": "de-010-04-002", "answers": [ { "text": "SA計画", "answer_start": 333, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "SA計画のうち、座席数の最も多い案とは、何席級のものであるか?", "id": "de-010-04-003", "answers": [ { "text": "180席", "answer_start": 391, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "航空会社の反応を踏まえ、エアバスは150席級のSA2に注力することとし、1981年2月に機体名をA320と定めた。この頃1979年の第二次石油危機により燃料価格が高騰し、航空会社は燃費対策に追われていた。米国のデルタ航空やユナイテッド航空は、燃費性能に優れた150席級旅客機の要求仕様をそれぞれ策定した。これらの要求にまさに合致するようA320の仕様がまとまった。", "qas": [ { "question": "エアバスは、最終的に何席級の安を採用したの?", "id": "de-010-05-000", "answers": [ { "text": "150席級", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "デルタ航空やユナイテッド航空が燃費性能を重視するようになったのは、1979年にどのような事件があったからですか?", "id": "de-010-05-001", "answers": [ { "text": "第二次石油危機", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "エアバス参加国でもイギリスのブリティッシュ・エアウェイズやドイツのルフトハンザ航空はA320に消極的だった。ブリティッシュ・エアウェイズは保有機の入れ替えが急務となっており、これから開発するA320では間に合わないと判断してボーイング機を発注した。ルフトハンザは150席級ナローボディ機よりも、長距離路線向けワイドボディ機の開発を優先するよう求めた。一方で、エールフランスはA320計画を歓迎し、1981年6月のパリ航空ショーにおいてオプションを含め50機を発注すると発表した。フランス政府もA320の開発費の負担を約束した。", "qas": [ { "question": "ブリティッシュ・エアウェイズがA320の代わりに採用したのは、どの航空機メーカーのものか?", "id": "de-010-06-000", "answers": [ { "text": "ボーイング", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A320は、ナローボディ機とワイドボディ機のうち、どちらに該当する機種であるか?", "id": "de-010-06-001", "answers": [ { "text": "ナローボディ機", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ブリティッシュ・エアウェイズとルフトハンザ航空、エールフランスのうち、A320に積極的であったのは、どちらですか?", "id": "de-010-06-002", "answers": [ { "text": "エールフランス", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "エールフランスが早々に発注を決め潜在需要も確実視されていたにもかかわらず、A320の正式開発が決定するまでここから3年を要した。苦しい財政状況にあったドイツ政府とイギリス政府が開発費負担に難色を示したためである。特にイギリスの状況は複雑であった。航空機エンジンメーカーのロールス・ロイス(以下R-R)が参画しイギリス政府も出資していた英日共同開発エンジンの先行きが不透明となり、新しい開発計画に転換するための追加出資を求められていた。新たな計画は日本とイギリスを含む5か国の国際共同事業で、インターナショナル・エアロ・エンジンズ社を設立しV2500を開発するというものだった。V2500エンジンはA320の搭載エンジンとして有望視されており、エンジンを商業的に成功させるためにイギリス政府はA320へも出資を迫られた。", "qas": [ { "question": "苦しい財政状況にあり、A320の開発費負担に難色を示したのは、ドイツとどの国の政府であるの?", "id": "de-010-07-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 81, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "インターナショナル・エアロ・エンジンズ社は、何か国の国際共同事業計画の下で、設立されたか?", "id": "de-010-07-001", "answers": [ { "text": "5か国", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A320のエンジンとして搭載されると有望視されていたエンジンとは、どの会社制のものであるか?", "id": "de-010-07-002", "answers": [ { "text": "インターナショナル・エアロ・エンジンズ社", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "やむをえずエアバスは日本やカナダにも参加を呼びかけたが、日本は当時ボーイングとの共同開発構想があったため断り、カナダも採算が見合わないとしてギリギリのところで参加を見送った。このような状況下で、1984年の初めにフランスのミッテラン大統領、イギリスのサッチャー首相、ドイツのコール首相が会談し、A320への直接・間接の金融支援を行うことが確認された。それを受けて同年2月にドイツ政府は必要経費の90パーセントに相当する15億マルク(約1352億円)の支出を決定した。イギリス政府も苦慮の末、エンジンと機体の双方への出資を決めた。ただしA320については4億3,700万ポンドの当初要求に対して2億5,000万ポンド(約875億円)の出資とし、不足分はBAe社が自己調達することとなったようやく資金の目処がついたことで1984年3月2日、エアバスはA320の正式開発・製造を決定した。この時点までに、エールフランスに加えてエールアンテール、ブリティッシュ・カレドニアン航空、アドリア航空、キプロス航空の5社からオプション含めて96機の受注を獲得していた。", "qas": [ { "question": "1984年の会談でA320への直接・間接の金融支援を行うことを確認したのは、イギリスとドイツの政府のほかに、どの国の政府なの?", "id": "de-010-08-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 106, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A320の開発に必要な経費を最も多く負担したのは、どの国の政府ですか?", "id": "de-010-08-001", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 186, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A320の正式開発・製造が決定されるまでに、何機の受注を獲得したか?", "id": "de-010-08-002", "answers": [ { "text": "96機", "answer_start": 462, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "営業活動と並行して機体の設計も進められた。A320の操縦システムには、旅客機として世界初となるフライ・バイ・ワイヤ技術が本格導入された。フライ・バイ・ワイヤ方式では、パイロットの操縦操作は電気信号に変換されコンピュータに入力される。そしてコンピュータで計算処理された結果が電気信号として各操縦翼面のアクチュエータに伝達される。これにより、従来の操縦装置でコクピットから操縦翼面までを繋いでいたケーブル(索)やロッド、プーリーといった機械部品を削減でき、機体重量や整備負荷を軽減できる利点がある。旅客機のような機体サイズで機械式の操縦装置を用いる場合、操舵力を適切な範囲に収めるためには大型の操縦輪を正面に配置する方式が適している。これに対してフライ・バイ・ワイヤの場合は、操縦入力を電気信号に変換することから、操縦桿の形態や配置の自由度が高くなる。そこでA320では操縦輪に代わりサイドスティックが採用された。サイドスティックは操縦室の左右に配置され、機長は左手で、副操縦士は右手で操作することとなった。操縦室はいわゆるグラスコックピット化され、計器類は6面のCRTディスプレイに集約された。", "qas": [ { "question": "世界で初めて旅客機の操縦システムにフライ・バイ・ワイヤ技術が導入された機種は、どの機種なの?", "id": "de-010-09-000", "answers": [ { "text": "A320", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フライ・バイ・ワイヤ技術の導入により軽減できたのは、機体重量と何ですか?", "id": "de-010-09-001", "answers": [ { "text": "整備負荷", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A320では操縦輪の代わりに、何が採用されたか?", "id": "de-010-09-002", "answers": [ { "text": "サイドスティック", "answer_start": 390, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "フライ・バイ・ワイヤやサイドスティックの全面採用はA320の商品力向上にとどまらず、エアバスにとって戦略上の重要な意味を持っていた。エアバスは今後開発する全ての旅客機にA320と同様のシステムを搭載し、小型機から大型長距離機に至るまで操縦性を共通化する方針を立てていた。従来の機械式の操縦系統では、機種ごとに異なる取り扱い特性を統一するのは困難であった。そこでエアバスは、コンピュータ制御の本格的なフライ・バイ・ワイヤ技術を導入することで、全機種の操縦操作や操縦感覚を揃えることにした。これにより、後に開発されるA320ファミリー機(派生型)の操縦資格は共通化され、さらに開発構想があったワイドボディ機のA340やA330への資格移行訓練も短時間で済むと見込まれる。小型機から大型機までをエアバス機で揃えれば航空会社は運航を大幅に合理化できるようになるため、エアバスの強力な強みとなる。そして、フライ・バイ・ワイヤなどの革新技術を実用化する最初の機種として、A320は適していた。短距離機のA320は整備拠点の近郊で運航されることから、重大な不具合が見つかった場合に対処しやすいとエアバスは考えたのである。", "qas": [ { "question": "エアバス製の航空機として初めてフライ・バイ・ワイヤやサイドスティックを採用した機種は、どれなの?", "id": "de-010-10-000", "answers": [ { "text": "A320", "answer_start": 429, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "従来の機械式の操縦系統では期待できなかった、全機種の操縦資格の共通化を実現できるものとしたのは、何の導入ですか?", "id": "de-010-10-001", "answers": [ { "text": "フライ・バイ・ワイヤ技術", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A320の設計段階ですでに開発構想があった機種は、A330とどの機種か?", "id": "de-010-10-002", "answers": [ { "text": "A340", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A320のコックピットの設計はフランスのアエロスパシアル社が担当した。同社をはじめとするエアバス参加企業は、これまでにコンコルドでアナログ式フライ・バイ・ワイヤを実用化し、A310ではデジタルコンピュータの導入を実現しているほか、軍用機開発でも経験を蓄積していた。さらにアエロスパシアル社はA320の開発が決まる前から、次世代コックピットの研究開発に取り組んでいた。これらの経験や研究成果がA320のシステム開発に活かされた。エアバスはA300の3号機を試験機として、フライ・バイ・ワイヤ操縦システムの開発を行なった。サイドスティックについてもA300の試験機に実装され、航空会社のパイロットも含む多くの操縦士により延べ136時間の飛行試験が行われた。これらの評価の結果、問題がないとの結論が得られてA320への導入が決定した。", "qas": [ { "question": "A320のコックピットの設計は、どの会社が担当していたの?", "id": "de-010-11-000", "answers": [ { "text": "アエロスパシアル社", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A320のコックピットの設計を担当していた会社は、A320の開発が決まる前から何に取り組んでいましたか?", "id": "de-010-11-001", "answers": [ { "text": "次世代コックピットの研究開発", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A320のシステム開発に活かされたとされているのは、何の開発経験と次世代コックピットの研究開発の成果であるか?", "id": "de-010-11-002", "answers": [ { "text": "軍用機", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "A320の機体構成は典型的な旅客機と同じく、低翼の主翼下にターボファンエンジンを1発ずつ配置し、尾翼も通常配置となった。A320の機体構造は、A300およびA310の開発を通じて得られたデータやノウハウを活用して設計された。そして、中短距離の運航に適した構造強度とし、腐食防止、構造品質の長期保証、整備性の向上、部品点数の削減が図られた。部材には改良型のアルミニウム合金やチタン合金が採用されたほか、複合材料の使用範囲も拡大された。主翼の設計はイギリスのBAe社が担当した。A320の設計上の巡航速度は、A300やA310より若干低くマッハ0.79から0.8に設定された。航続距離は3,000海里(約5,556キロメートル)と設定され、このサイズの旅客機としては短くない値だった。主翼の厚みは空力的には薄い方がよく、一方で翼内燃料タンク容量と構造強度を十分確保するためには厚い方が良い。エアバスがA300で実用化したリア・ローディング翼型は様々な利点があったものの、翼の後方が薄いことから、A320の機体サイズではフラップを取り付ける空間をいかに確保するかが課題となった。これらの要求を満たすよう、コンピュータによる三次元解析を活用して主翼が設計された。出来上がったA320の主翼は、翼厚比こそA310と近い値だったものの、翼型は大きく異なり後縁側の厚みが確保された。主翼の平面形は浅い後退角と大きなアスペクト比を持つこととなった。フラップはシンプルな1段のファウラー・フラップとし、動翼には複合材料を多用することで軽量化が図られた。", "qas": [ { "question": "部材には改良型のアルミニウム合金と何が採用されたの?", "id": "de-010-12-000", "answers": [ { "text": "チタン合金", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A320の主翼は、どの会社により設計されましたか?", "id": "de-010-12-001", "answers": [ { "text": "BAe社", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A320とA310において、差のより大きいところは、翼厚比と翼型のうち、どちらか?", "id": "de-010-12-002", "answers": [ { "text": "翼型", "answer_start": 562, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A320の設計では、動翼に何を多用することで軽量化が図られたか?", "id": "de-010-12-003", "answers": [ { "text": "複合材料", "answer_start": 646, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "胴体断面は2つの円構造を結合した「ダブル・バブル構造」とし、単通路機として最も太い胴体幅とされた。これにより機体重量が増えるものの、競合機より余裕のある客室と貨物室が実現した。さらに貨物室の扉を大型の外開きとして航空貨物コンテナを搭載可能にしたことで、貨物輸送の面でも競合機と差別化が図られた。A320の原型型は最大離陸重量が66トンで、乗客164人が搭乗した場合の航続距離は1,750海里(約3240キロメートル)という仕様であった。これに対して、航空会社はもう少し航続距離を延ばすよう求めた。そこで、最大離陸重量を72トンに引きあげて主翼中央翼内に燃料タンクを追加するとともに主翼端にウイング・チップ・フェンスを装備して、航続距離を3,200海里(約5,930キロメートル)に延長するタイプが計画された。原型型はA320-100、重量増加型がA320-200と名付けられた。", "qas": [ { "question": "A320-100とA320-200のうち、航続距離延長型は、どちらなの?", "id": "de-010-13-000", "answers": [ { "text": "A320-200", "answer_start": 373, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "航続距離を延長するタイプの開発を計画したエアバスは、何を追加し、最大航続距離を引き上げることにより航続距離を伸ばそうとしましたか?", "id": "de-010-13-001", "answers": [ { "text": "燃料タンク", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "胴体断面を「ダブル・バブル構造」とすることで収容力を向上させた機種は、何か?", "id": "de-010-13-002", "answers": [ { "text": "A320", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A320-100の航続距離が1,750海里であるのに対し、A320-200の航続距離は、いくらか?", "id": "de-010-13-003", "answers": [ { "text": "3,200海里", "answer_start": 318, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "エンジン選定はA320の開発初期における大きな課題だった。当初は150席級旅客機に相応しいエンジンが存在せず、CFMインターナショナル(以下CFMI)社のCFM56-2エンジンをひとまず主候補とし、そのほか開発中のエンジン数種が候補に挙げられた。その後CFM56の改良型となるCFM56-4の開発が決定したことで、1983年に同エンジンの採用が決まった。先に述べたIAE社のV2500エンジンも1984年に開発が決定し、A320に採用されることになった。ライバルとなるV2500が登場したことでCFMI社はCFM56-4では性能が不十分と判断し、推力を増強したCFM56-5に改めた。これにより、A320の装備エンジンはCFM56-5とV2500の2種からの選択式となった。ボーイングやマクドネル・ダグラスの競合機は、エンジンが1種類のみの設定であり、この機体サイズではエンジンを選択できるのはエアバスのA320のみであった。", "qas": [ { "question": "CFM56-4がA320のエンジンとして採用されたのは、何年のことなの?", "id": "de-010-14-000", "answers": [ { "text": "1983年", "answer_start": 157, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "CFM56-4とV2500エンジンのうち、より早く開発が決定されたのは、どちらですか?", "id": "de-010-14-001", "answers": [ { "text": "CFM56-4", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "どのエンジンとの競争で勝ち残るために、CFM56-5の開発が決定されたか?", "id": "de-010-14-002", "answers": [ { "text": "V2500エンジン", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A320と同じ機体サイズの仕様で、複数のエンジンオプションを持っていたのは、ボーイングとマクドネル・ダグラス、エアバスのうち、どちらの航空機メーカーであるか?", "id": "de-010-14-003", "answers": [ { "text": "エアバス", "answer_start": 397, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "キャプテン翼", "paragraphs": [ { "context": "『キャプテン翼』(キャプテンつばさ)は、高橋陽一による日本のサッカー漫画。\nおよび、それを原作にした派生作品。\n「ボールが友達」が信条の主人公・大空翼をはじめ、ひた向きにサッカーに打ち込む少年達の姿を描き、連載時に日本国内でサッカーブームを起こすと、後にプロサッカー選手となる多くの選手達に影響を与えた。\n略称は「キャプ翼」(キャプつば)、「C翼」など。", "qas": [ { "question": "キャプつばとは何を略した言葉ですか?", "id": "de-011-00-000", "answers": [ { "text": "キャプテン翼", "answer_start": 1, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "キャプテン翼の作者は?", "id": "de-011-00-001", "answers": [ { "text": "高橋陽一", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "キャプテン翼の主人公は誰?", "id": "de-011-00-002", "answers": [ { "text": "大空翼", "answer_start": 72, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "キャプテン翼で扱われているスポーツは何?", "id": "de-011-00-003", "answers": [ { "text": "サッカー", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "「ボールは友達」が信条の主人公・大空翼の活躍と成長を描いたサッカー漫画である。\n翼が後にチームメイトとなる若林源三らとの出会いを経て、さまざまなライバル達との戦いを制し、やがて国外へと活躍の場を広げていく姿を描いた。\nサッカーの楽しみや魅力を伝えることに重点が置かれた爽やかな作風は、従来のスポ根漫画に代わる新しいスタイルのスポーツ漫画として読者に受け入れられた。\n1983年にアニメ化されると日本国内でサッカーブームを起こし、それまでマイナーな競技と見做されていたサッカーの人気と競技人口拡大に寄与した。", "qas": [ { "question": "キャプテン翼がアニメ化されたのは何年ですか?", "id": "de-011-01-000", "answers": [ { "text": "1983年", "answer_start": 183, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "Jリーグ発足に伴うサッカー人気の高まりにより連載が再開され、1994年から1997年までFIFAワールドユース選手権での活躍を描いた『キャプテン翼ワールドユース編』が連載された。\n2000年代に入ると掲載誌を『週刊ヤングジャンプ』に移し、2002FIFAワールドカップ開催に合わせる形で2001年から2004年まで『キャプテン翼ROADTO2002』、2005年から2008年までは『キャプテン翼GOLDEN-23』、2009年から2011年までは『キャプテン翼海外激闘編』が連載された。\n2013年からは掲載誌を『グランドジャンプ』に移し『キャプテン翼ライジングサン』を連載している。\nこれらの作品では、翼たち主要登場人物たちがスペイン、イタリア、ドイツ、日本などの各国リーグのプロ選手として活躍する姿が描かれている。", "qas": [ { "question": "『キャプテン翼海外激闘編』、『キャプテン翼ライジングサン』、『キャプテン翼ワールドユース編』の中で2番目に早く連載されたタイトルは何ですか?", "id": "de-011-02-000", "answers": [ { "text": "『キャプテン翼海外激闘編』", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『キャプテン翼海外激闘編』、『キャプテン翼ライジングサン』、『キャプテン翼ワールドユース編』の中で最も遅く連載されたタイトルは何ですか?", "id": "de-011-02-001", "answers": [ { "text": "『キャプテン翼ライジングサン』", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2007年11月までに出版された全シリーズの日本国内累計発行部数が、単行本・文庫本合わせて7000万部を突破した。\nまた、国外での累計販売部数は、正式に出版契約を交わしている翻訳本で約1000万部。\n2017年6月に出版された『キャプテン翼ライジングサン』第6巻においてシリーズ通算100巻を達成した。", "qas": [ { "question": "シリーズ通算100巻を達成した単行本は、『キャプテン翼ライジングサン』の第何巻ですか?", "id": "de-011-03-000", "answers": [ { "text": "第6巻", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本国内累計発行部数と国外での累計販売部数はどちらが数が多いですか?", "id": "de-011-03-001", "answers": [ { "text": "日本国内累計発行部数", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "作者の高橋は子供のころから野球をはじめとしたスポーツに親しみ、小学時代は徒競走を得意とし、中学時代は卓球部に、高校時代は軟式野球部に所属していた。\nその一方で、小学校高学年から『巨人の星』や『あしたのジョー』などといったスポーツ漫画に影響を受けて漫画を描き始めた。\nサッカーについては少年時代から「ごっこ遊び」を通じて興味を抱いていたが、高校3年生の時にアルゼンチンで開催された1978FIFAワールドカップをテレビ観戦したことを契機に注目するようになった。\n高橋によると「少年時代からサッカーという競技は知っていましたけど、ワールドカップのアルゼンチン大会をテレビで見て、『サッカーってこんなに面白いスポーツだったんだ』というのを再発見した」という。", "qas": [ { "question": "高橋が中学生の時に所属していた部活動は何でしたか?", "id": "de-011-04-000", "answers": [ { "text": "卓球部", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "何をテレビ観戦したことにより、高橋はサッカーの面白さを再発見出来たの?", "id": "de-011-04-001", "answers": [ { "text": "1978FIFAワールドカップ", "answer_start": 189, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1978年夏、高校卒業後の進路として漫画家を志し、新人漫画家の登竜門とされる手塚賞に応募するための短編を執筆した。\nこの作品はそれまで描き続けていたスポーツものではなくSFものだったが、後に高橋の初代担当編集となる鈴木晴彦は可能性を感じ、一線級の漫画家のアシスタントに推薦することを約束した。\nさらに高橋に対してSFは不向きであると諭し、彼が最も得意とするスポーツを題材として作品を執筆し、新人賞に応募するように提案した。\nこれを受けて高橋は、自身がプレー経験のある野球と他の新人が採用しない題材としてサッカーを選び、交互に作品を制作した。\nサッカーを漫画の題材として選んだ理由については「野球マンガといえばスポーツマンガの王道で、水島新司さんはじめ、描き尽くされた感もあったんです。僕は新人だし、ほかの人のやらないものを」と語っている。", "qas": [ { "question": "高橋が手塚賞に応募したSF作品に可能性を感じた人物は誰ですか?", "id": "de-011-05-000", "answers": [ { "text": "鈴木晴彦", "answer_start": 107, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "高橋にSFは不向きだと諭した人物は誰?", "id": "de-011-05-001", "answers": [ { "text": "鈴木晴彦", "answer_start": 107, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "平松伸二のアシスタントを務めながら作品作りに取り組み、1980年にサッカーを題材とした『キャプテン翼』が月例賞で入選し、同年18号に読切として掲載され漫画家デビューを果たした。\nなおこの作品は中学サッカーを題材としており、主人公の名前は「翼太郎」であるが、「南葛」「修哲」「若林」「石崎」といった、後の連載版のベースとなる設定や登場人物も登場した。\nただし、鈴木によれば後の連載版に描かれた爽快さとは若干異なる内容となっており、「キャラクターの個性が上手くはじけなかった」と評している。\nこの作品を基にして連載化するにあたり高橋は、読切短編と同様に中学生を主人公とした設定や、山奥に住む自然児を主人公にした設定を考案したが行き詰まり、試行錯誤を経て、後の作品へと繋がる「サッカーに情熱を燃やす小学生」を主人公とした構想へと転換した。", "qas": [ { "question": "高橋が漫画家デビューした年はいつ?", "id": "de-011-06-000", "answers": [ { "text": "1980年", "answer_start": 27, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "高橋は誰のアシスタントを担当していたの?", "id": "de-011-06-001", "answers": [ { "text": "平松伸二", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "連載開始時にあたる1980年代初頭の日本サッカー界は、サッカー日本代表がFIFAワールドカップ予選やオリンピック予選での早期敗退が続き、日本サッカーリーグの人気が低迷していたことから、「冬の時代」と呼ばれていた。\n毎年冬に行われる高校選手権の人気が高まっていたものの選手の多くは将来の目標を見出せず、ある時期に差し掛かると競技から遠ざかっていく状況が続いていた。\nまた、長い伝統と充実した練習環境を有する欧米のサッカー界に対して、日本にはプロサッカーリーグは存在せず、練習設備や育成システムの整備が立ち遅れていた。\nこうした状況から、代表チームがFIFAワールドカップへの出場が叶わないことは無理もないと考えられるなど、世界と日本との間には距離感が存在したともいわれる。", "qas": [ { "question": "サッカーの高校選手権はいつ開催されているの?", "id": "de-011-07-000", "answers": [ { "text": "毎年冬", "answer_start": 107, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1980年代初頭の日本サッカー界は何と呼ばれていたの?", "id": "de-011-07-001", "answers": [ { "text": "「冬の時代」", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その一方で日本サッカー界全体としては競技を普及させるために各地に少年サッカークラブや、従来の学校スポーツの枠組みとは異なる読売クラブや三菱養和SCのようなクラブチームが誕生し、静岡県清水市(後の静岡市清水区)のように大人から子供まで町ぐるみでサッカーに取り組む動きがあり、人気が盛り上がる土壌は築かれつつあった。\n当時の小学生のサッカー受容について教育評論家、漫画評論家の斎藤次郎は「少なくとも小学生にとってはまださほど人気のある種目ではなかった。逆にそれだけ、手垢にまみれた野球などより新鮮に受けとられた、ともいえよう」と指摘している。", "qas": [ { "question": "町全体でサッカーに取り組んでいた地域はどこでしたか?", "id": "de-011-08-000", "answers": [ { "text": "静岡県清水市", "answer_start": 88, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "本作品では、読者にサッカーの魅力を伝えるために世界のサッカーを意識し、登場人物達に世界のトップ選手顔負けの超人的なプレーを実践させた。\n高橋によれば、連載当初から「読者の印象に残るポイントとなるシーン」を意識して描いていたといい、実例を挙げると第1話の「翼が若林宅にボールをけり込むシーン」や、第2話の「街中を走行するバスの真下にシュートを放つシーン」などがある。\n第4話において翼がロベルト本郷に触発されてオーバーヘッドキックに挑戦するシーンについては、後の展開の中で盛り込むことを予定していたが、読者アンケートの結果が不調だったことを受けて、原稿を全て書き直して掲載した。\n第4話のアンケート結果が好評だったこともあり、高橋は「ストーリーが大事なのはもちろんですが、単純にすごいプレーとか、驚くような動きを読者は求めているのかな」と考えたという。", "qas": [ { "question": "翼は誰に影響を受けてオーバーヘッドキックに挑戦したの?", "id": "de-011-09-000", "answers": [ { "text": "ロベルト本郷", "answer_start": 192, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、当時は「サッカー漫画はヒットしない」という定説があり、野球漫画とは異なり参考となり得る作品が少なかったことなどから、サッカーという競技を作品内でいかに表現するかに苦慮した。\n高橋によれば「野球だと、なかなか主人公の所まで打順が回ってこなかったりとか、九回までに決着をつけなければいけないとか、ルール上の制約がありますよね。サッカーだと九十分間何をやっても構わないというか、打順に関係なく自分のところにボールが回ってきたり、野球のバントのような決まり事も少なくて、自分の発想でプレーを組み立てていける。そういう野球とサッカーの違いをマンガで描ければいいな」と考えたといい、第4話での「オーバーヘッドキック」への反響と、最初の試合となった「南葛小対修哲小の対抗戦」を描き切ったことが連載を継続する上で自信に繋がったと語っている。", "qas": [ { "question": "サッカーの試合時間は何分?", "id": "de-011-10-000", "answers": [ { "text": "九十分", "answer_start": 170, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スポーツ漫画では、一つのページの中で個々に独立したコマをいかに連続性のあるものとして関係付けるのか、実際には動くことがない平面な絵を画面描写により動的なものとして表現するのかが焦点となるとされているが、本作品では漫画の基本である「コマ割り」を大きく崩した表現手法を多用することでサッカー競技の持つ流動性やダイナミックな動きを表現しようと試みられた。\n一例をあげると以下のようなものである。", "qas": [ { "question": "本作品で多用された表現方法とは何の技法を大きく崩したの?", "id": "de-011-11-000", "answers": [ { "text": "「コマ割り」", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "関西大学教授の杉本厚夫によれば、こうした手法は往年のスポ根の代表作である『巨人の星』や『あしたのジョー』、あるいは1990年代にバスケットボールを扱って人気を獲得した『SLAMDUNK』では見られないという。\n連載当時の1980年代のスポーツ界は少年スポーツが盛んになった時期であり、それと同時に指導者の強い管理下に置かれ旧来的な指導が行われていた時期であるが、杉本は「コマ割り」を大きく崩した表現手法を多用することで従来の堅苦しく暑苦しいスポーツの既成概念を漫画表現を通じて打破しようとしたのではないか、重圧感を打ち破る隠喩として用いたのではないかと指摘している。", "qas": [ { "question": "『SLAMDUNK』は何のスポーツを題材にした漫画なの?", "id": "de-011-12-000", "answers": [ { "text": "バスケットボール", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "本作品では『週刊少年ジャンプ』の中心テーマである「友情・努力・勝利」の要素を押さえ、「チームメイトやライバルとの友情と交流」、「誰からの強制でない『スポーツを楽しむ』ための自発的努力」、「全国大会や国際大会という舞台で技を競い合い勝利を目指す」といった要素が描かれている。\n天性の才能を有し難易度の高い技術も容易く身に付けることができる主人公・大空翼に対しては彼の柔和な気質もあり賞賛が与えられている。\n彼の周囲からは従来の「スポ根」では定番ともいえる「泥臭さ」「苦行」といった要素は排除され、ひたすら好きなサッカーのため、楽しみのために技術を磨き「プロサッカー選手になり、日本代表をFIFAワールドカップで優勝に導く」という単純明快かつ大きな目標を掲げている。", "qas": [ { "question": "『週刊少年ジャンプ』の中心テーマとなる要素とは?", "id": "de-011-13-000", "answers": [ { "text": "「友情・努力・勝利」", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "翼と周囲の仲間たちとの間には、彼の個性に引きずられるようにコミュニケーションの輪が形成され、チームワークが形成されていく。\n連載初期に翼の前に立ちはだかる若林源三は街の名士の子息であり、専属コーチの下で指導を受けるなど恵まれた練習環境を有する一方で、翼とは相反するかのようなプライドの高さを有していたが、彼の個性に影響されて次第に寛容さを見せるようになる。\nその一方で天才型の主人公に対し、同世代の最大のライバルである日向小次郎については小学生編では貧困から抜け出す手段として家計を助けながら練習に取り組む姿が、中学生編では血のにじむような秘密特訓に励み必殺シュート「タイガーショット」を編み出す姿が描かれている。\nまた、ライバルの一人である松山光についても雪国という練習環境や才能の欠如を努力によって補おうと練習に励むなど、努力型の主人公が描かれる傾向があった従来の「スポ根」の構造を逆転させている。", "qas": [ { "question": "翼の同世代最大のライバルとは誰?", "id": "de-011-14-000", "answers": [ { "text": "日向小次郎", "answer_start": 209, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「タイガーショット」は誰の技?", "id": "de-011-14-001", "answers": [ { "text": "日向小次郎", "answer_start": 209, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "翼と松山光はどちらが努力型の人物ですか?", "id": "de-011-14-002", "answers": [ { "text": "松山光", "answer_start": 321, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "また、高橋は本作品について『ドカベン』などを手掛けた水島新司の描き方を参考にして野球からサッカーへと置き換えたものだとも語っており、三ツ谷誠著の『「少年ジャンプ」資本主義』では「南葛を『ドカベン』における明訓高校、大空翼と岬太郎を山田太郎と里中智だと考えれば構造は更に似てくる」としている。\nその一方で三ツ谷は、『ドカベン』を本作と同様に際立った才能を持つ主人公とそれを囲む個性豊かな脇役群の作品としつつも、これらの登場人物たちが向日性豊かかといえばそうではなく「意外にもそれぞれに鬱屈を抱えている」とし、本作については「主要キャラクターの中で日向小次郎だけは(中略)ハングリーなキャラクターとなっているが、実際にはその影はあまり見えず、翼以下の肯定的な向日性に溢れたキャラクター群の中に埋没してしまっている。また、翼に匹敵する天才として描かれる三杉が心臓病であるという設定があるが(中略)、本当は彼の中に渦巻くだろう、激しい怒りや嘆きはまるで見えない。つまり『キャプテン翼』は、そのように重さに満ちた人生をサッカーの中に引きずっていないのだ。かつまた、サッカーというゲーム自体の面白さ・純粋さが前面に出すぎて、それぞれの人生などというものはストーリーに花を添えるもの・書割にしかなっていない」と指摘している。", "qas": [ { "question": "『「少年ジャンプ」資本主義』の著者は誰ですか?", "id": "de-011-15-000", "answers": [ { "text": "三ツ谷誠", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『ドカベン』の舞台となる高校の名前は何?", "id": "de-011-15-001", "answers": [ { "text": "明訓高校", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "小学生編や中学生編では静岡県南葛市という架空の都市を舞台としているが、「南葛市」「南葛SC」「南葛中学校」などの名称は高橋の出身校である東京都立南葛飾高等学校に、若林らが小学校時代に所属していた「修哲小学校」の名称は修徳高等学校に因んでいる。\nこの他にも作品内には土手のある河川敷など、葛飾区内の風景が色濃く描写されているという。\n小学生編の全日本少年サッカー大会の会場としてよみうりランドのサッカー場でのプレーが描かれたが実際の大会においても2000年代まで、このサッカー場が使用された。", "qas": [ { "question": "物語の舞台は何県なの?", "id": "de-011-16-000", "answers": [ { "text": "静岡県", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "高橋の出身高校は?", "id": "de-011-16-001", "answers": [ { "text": "東京都立南葛飾高等学校", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「修哲小学校」はどこの学校をモデルにして名づけましたか?", "id": "de-011-16-002", "answers": [ { "text": "修徳高等学校", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中学生編の第16回全国中学生サッカー大会の会場としてさいたま市大宮公園サッカー場(当時の名称は埼玉県営大宮公園サッカー場)でのプレーが描かれた。\n実在の全国中学校サッカー大会では1970年の第1回大会から1981年の第12回大会までは同サッカー場をメイン会場として使用していたが、第13回大会からは単一の会場ではなく地域ブロックによる持ち回り制に変更している。\n高橋は「連載当時の国内では数少ないサッカー専用スタジアムであり、ピッチとスタンドの距離が近いため試合が観やすく、漫画にする際には描きやすかった」と評している。", "qas": [ { "question": "第1回から第12回までの全国中学校サッカー大会のメイン会場はどこでしたか?", "id": "de-011-17-000", "answers": [ { "text": "さいたま市大宮公園サッカー場", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "また、続編の『キャプテン翼ROADTO2002』以降はスペインのバルセロナを舞台にしているが、これについて高橋は「自分がスペインが好きだった」「1998年にフランスで行われた1998FIFAワールドカップを観戦に訪れた際に、フランス国内で宿が確保できず、バルセロナのホテルに宿泊した。バルセロナ滞在中にカンプ・ノウスタジアムを訪れたところ「翼がここで毎試合プレーをしたら楽しいだろう」とイメージが湧いた」ことを理由に挙げている。", "qas": [ { "question": "1998FIFAワールドカップの際に、高橋はどこのホテルに宿泊したの?", "id": "de-011-18-000", "answers": [ { "text": "バルセロナ", "answer_start": 32, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カンプ・ノウスタジアムはどこの国にあるの?", "id": "de-011-18-001", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1981年から1988年にかけての『キャプテン翼』連載時には少年少女を問わず反響があり、1983年に開始されたテレビアニメの影響もあって、サッカーブームが到来した。\n子供たちは作品内に登場する「オーバーヘッドキック」「ドライブシュート」「翼と岬のコンビネーションプレー」「タイガーショット」「スカイラブハリケーン」などのプレーを実際に模倣し、スポーツ用品店からはサッカーボールが品切れとなり、サッカー少年団への入部希望者が急増するなどの社会現象が発生した。\nこの作品に影響され、サッカーを始めた少年たちは数多く存在しており、連載開始時の1981年に行われた調査では日本サッカー協会に登録された小学生の選手数は約11万人だったのに対し、連載終了時の1988年に行われた調査では約2倍となる24万人に増加した。\n当時のサッカーブームについてサッカー解説者であり指導者のセルジオ越後は次のように評している。", "qas": [ { "question": "日本サッカー協会に登録された小学生の選手数が多かったのは1981年と1988年のどちらですか?", "id": "de-011-19-000", "answers": [ { "text": "1988年", "answer_start": 323, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『キャプテン翼』の連載終了年はいつですか?", "id": "de-011-19-001", "answers": [ { "text": "1988年", "answer_start": 323, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "これまでテレビアニメが4回、映画が5回、OVAが1回、発表されている。\n1983年から放送された第1作目のアニメでは原作『キャプテン翼』の小学生編から中学生編までが描かれたが、テレビ東京開局以来のヒットと称され最高視聴率21.2%を記録し、日本国内にサッカーブームを起こした。\nまた、世界50か国以上でテレビ放送されるなど世界中で親しまれている。", "qas": [ { "question": "発表された回数が最も多かったのは、アニメ、OVA、映画のうちどれですか?", "id": "de-011-20-000", "answers": [ { "text": "映画", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『キャプテン翼』のアニメはどこの放送局で放映されたの?", "id": "de-011-20-001", "answers": [ { "text": "テレビ東京", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1994年から放送された第2作目のアニメでは原作の『キャプテン翼』小学生編から『キャプテン翼ワールドユース編』のアジアユース編まで、2001年から放送された第3作目のアニメでは原作の『キャプテン翼』、『キャプテン翼ワールドユース編』の一部、『キャプテン翼ROADTO2002』の一部に相当するエピソードが描かれた。\n2018年4月から放送される第4作目のアニメでは設定を現代に移し、原作を忠実に描く予定となっている。", "qas": [ { "question": "アニメの設定が現代であるものは第何作目ですか?", "id": "de-011-21-000", "answers": [ { "text": "第4作目", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第2作目のアニメは何年から放送されたの?", "id": "de-011-21-001", "answers": [ { "text": "1994年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1985年から1986年に公開された4本の映画は全てオリジナル作品で、原作『キャプテン翼』の小学生編から中学生編の時期を舞台に全日本選抜と外国チームとの対決が描かれた。\n1989年から1990年にかけて発売されたOVAでは原作の『キャプテン翼』のジュニアユース編に相当するエピソードが描かれ、1994年に「ジャンプ・スーパーアニメツアー'94」のために製作された映画では「最強の敵!オランダユース」編が描かれた。", "qas": [ { "question": "1986年までに公開された映画の中での対戦相手はどこでしたか?", "id": "de-011-22-000", "answers": [ { "text": "外国チーム", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ゲーム版は1988年4月28日にテクモから発売されたファミリーコンピュータ専用ソフト『キャプテン翼』を皮切りにバンダイやコナミから複数のシリーズが発売された。\nまた、携帯電話向け事業を扱うKLabからもソーシャルゲームサービスが提供されている。\nその多くは原作漫画に準拠した内容だが、1990年代に発売されたテクモ版のシリーズ作品は原作漫画の終了後のオリジナルストーリー、オリジナルキャラクター、オリジナル必殺シュート、オリジナルの名セリフが描かれるなど独自の進化を遂げ、一部ファンの間で支持を集めたといわれている。", "qas": [ { "question": "最初にゲーム版の『キャプテン翼』を発売した会社はどこですか?", "id": "de-011-23-000", "answers": [ { "text": "テクモ", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "小説版は第1巻が2013年12月5日に集英社みらい文庫より刊行された。\nこの作品は翼らの小学生時代の活躍を描いたもので、執筆は『おおかみこどもの雨と雪』のアニメ絵本を手がけたワダヒトミが担当している。\nなお、2014FIFAワールドカップが開催される2014年6月までに全3巻が刊行された。\n続編として中学生編が上下巻で2018年12月21日(上巻)・2019年1月24日(下巻)に発売された。", "qas": [ { "question": "小説版の執筆を担当した人は誰?", "id": "de-011-24-000", "answers": [ { "text": "ワダヒトミ", "answer_start": 87, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小説版の第1巻が発売されたのはいつ?", "id": "de-011-24-001", "answers": [ { "text": "2013年12月5日", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小説版は全部で何巻あるの?", "id": "de-011-24-002", "answers": [ { "text": "3巻", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2017年に「超体感ステージ『キャプテン翼』」として舞台化された。\n同作が舞台化されるのは初であり、ダンス・マーシャルアーツ・イリュージョン・バーチャルリアリティなどを駆使し五感で楽しめるステージとなる。\n総合演出は蛯名健一が務める。\n脚本・演出アドバイザーは加世田剛が手掛け、振付は松永一哉が担当する。", "qas": [ { "question": "「超体感ステージ『キャプテン翼』」の総合監督を務めた人は誰?", "id": "de-011-25-000", "answers": [ { "text": "蛯名健一", "answer_start": 108, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「超体感ステージ『キャプテン翼』」で振付を担当した人は誰?", "id": "de-011-25-001", "answers": [ { "text": "松永一哉", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「超体感ステージ『キャプテン翼』」の脚本を書いた人は誰?", "id": "de-011-25-002", "answers": [ { "text": "加世田剛", "answer_start": 130, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2010年6月、神奈川県横浜市中区に多目的フットサルコートの「キャプテン翼スタジアム」が開設された。\nこのコートは土地契約上の問題のため3年間の期間限定で運営されたもので2013年1月に閉鎖されたが、2016年の時点では東京都北区に「キャプテン翼スタジアム東京北」、横浜市中区に「キャプテン翼スタジアム横浜元町」、大阪府大阪市淀川区に「キャプテン翼スタジアム新大阪」、同天王寺区の天王寺公園内に「キャプテン翼スタジアム天王寺」が運営されている。", "qas": [ { "question": "「キャプテン翼スタジアム」が閉鎖されたのはいつ?", "id": "de-011-26-000", "answers": [ { "text": "2013年1月", "answer_start": 85, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「キャプテン翼スタジアム新大阪」の所在地はどこ?", "id": "de-011-26-001", "answers": [ { "text": "大阪府大阪市淀川区", "answer_start": 157, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ジョゼフ・フーリエ", "paragraphs": [ { "context": "ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエ男爵(JeanBaptisteJosephFourier,Baronde、1768年3月21日-1830年5月16日)は、フランスの数学者・物理学者である。", "qas": [ { "question": "ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエは、どの爵位が与えられた人物であるの?", "id": "de-012-00-000", "answers": [ { "text": "男爵", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエは、どの国の者ですか?", "id": "de-012-00-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 80, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエの職業としては、物理学者と何が挙げられているか?", "id": "de-012-00-002", "answers": [ { "text": "数学者", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジャン・バティスト・ジョゼフ・フーリエが得意だった学問としては、物理学とどの学問が挙げられているか?", "id": "de-012-00-003", "answers": [ { "text": "数学", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フーリエは1768年3月21日に、フランス中部、ヨンヌ県のオセールで仕立屋の9番目の息子として生まれた。8歳のときに父親の死去によって孤児となり、地元のベネディクト派司教のもとへあずけられた。", "qas": [ { "question": "フーリエは何年生まれなの?", "id": "de-012-01-000", "answers": [ { "text": "1768年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フーリエは、どの町で生まれましたか?", "id": "de-012-01-001", "answers": [ { "text": "オセール", "answer_start": 29, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フーリエの父親は、彼が何歳のころに死去したか?", "id": "de-012-01-002", "answers": [ { "text": "8歳", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フーリエは、何歳になった時点で孤児となったか?", "id": "de-012-01-003", "answers": [ { "text": "8歳", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ベネディクト派司教はフーリエを同じくベネディクト派の僧侶が経営する陸軍幼年学校へ入学させた。そこで彼は早くも数学に興味を示し、夜中になってから蝋燭の燃えさしを集めて一人で勉強に没頭した。", "qas": [ { "question": "孤児になったフーリエは、どの派の司教のもとで育ったの?", "id": "de-012-02-000", "answers": [ { "text": "ベネディクト派", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "幼いころのフーリエは、どの学校に通いましたか?", "id": "de-012-02-001", "answers": [ { "text": "陸軍幼年学校", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フーリエを陸軍幼年学校に入学させたのは、誰だったか?", "id": "de-012-02-002", "answers": [ { "text": "ベネディクト派司教", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フーリエは幼いころから何に興味深かったか?", "id": "de-012-02-003", "answers": [ { "text": "数学", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "当時数学を教える学校は士官学校しかなかった。フーリエは貧乏な身分で軍人になれなかったため、卒業後彼は僧侶たちの勧めに従ってサン・ブノワ修道院(聖ベネディクト修道院)で修道士として修行を始めた。修道院でも、並行して数学を学んだ。", "qas": [ { "question": "土官学校は、何を養成する学校でしたか?", "id": "de-012-03-000", "answers": [ { "text": "軍人", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "学校を卒業したフーリエは、何として活動したの?", "id": "de-012-03-001", "answers": [ { "text": "修道士", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "学校を卒業したフーリエは、何として活動しながら、そこで数学の勉強も続けたか?", "id": "de-012-03-002", "answers": [ { "text": "修道院", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1789年、フーリエは『定方程式の解法』と題した論文を発表するためパリへ向かい、そこでフランス革命に遭遇した。身分から解放されたフーリエは、故郷の友人たちのはからいで幼年学校の数学教師になった。当時の政治状況から、彼はオセールの革命委員会に加わり、その委員長となった。ロベスピエールの政府との対立から、フーリエは要注意人物とされ、逮捕されるなど政治的弾圧を受けることになる。", "qas": [ { "question": "フーリエが『定方程式の解法』と題した論文を発表するためパリへ向かったのは、何年のことなの?", "id": "de-012-04-000", "answers": [ { "text": "1789年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フーリエがフランス革命に遭遇したのは、何年のことですか?", "id": "de-012-04-001", "answers": [ { "text": "1789年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1789年の時点でフランスは、どの事件により混乱状態に陥ていたか?", "id": "de-012-04-002", "answers": [ { "text": "フランス革命", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フーリエは幼年学校にて、何を教えたか?", "id": "de-012-04-003", "answers": [ { "text": "数学", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フランス革命後の恐怖政治によって、多くの科学者が処刑されたり亡命したりしていた。しかし科学の復興が必要と考えた革命政府は学校の設立を奨励し、パリにエコール・ノルマル・シュペリュールやエコール・ポリテクニークといった新しい高等教育機関(グランゼコール)が創設された。", "qas": [ { "question": "フランス革命後のフランス社会は、どのような政治体制により弾圧されていたの?", "id": "de-012-05-000", "answers": [ { "text": "恐怖政治", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時のフランスの革命政府が学校設立に力を入れたのは、何の復興が必要だと考えたからですか?", "id": "de-012-05-001", "answers": [ { "text": "科学", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エコール・ノルマル・シュペリュールとエコール・ポリテクニークの共通点としては、同じくどこに置かれているとのことが挙げられるか?", "id": "de-012-05-002", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 70, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エコール・ノルマル・シュペリュールのほかに、科学の復興のため、パリに新しく設立された高等教育機関は、何か?", "id": "de-012-05-003", "answers": [ { "text": "エコール・ポリテクニーク", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1794年、フーリエはエコール・ノルマル・シュペリュールに第一期生として入学した。エコール・ノルマル・シュペリュールは翌年一時閉鎖されてしまうが、才能を認められたフーリエはラグランジュやモンジュのもとでエコール・ポリテクニークの築城学の助講師に、のち解析数学の教授になった。ここの講義の中で、彼は代数方程式の実数解の個数に関するフーリエの定理を証明した。", "qas": [ { "question": "フーリエがエコール・ノルマル・シュペリュールに入学したのは、何年のことなの?", "id": "de-012-06-000", "answers": [ { "text": "1794年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エコール・ノルマル・シュペリュールに初めて学生が入ってきたのは、何年のことですか?", "id": "de-012-06-001", "answers": [ { "text": "1794年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フーリエはエコール・ノルマル・シュペリュールにて、築城学とどの学問の授業に関わるほど、才能を認められたか?", "id": "de-012-06-002", "answers": [ { "text": "解析数学", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フーリエはエコール・ノルマル・シュペリュールにて、築城学と解析数学のうち、どの学問においてより高い地位にあったか?", "id": "de-012-06-003", "answers": [ { "text": "解析数学", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1798年、ナポレオンはイギリスとインドの連絡を絶つため、「不幸な人民を救い、文明の恩恵を与える」ことを口実にエジプトへ遠征した。フーリエはこのとき編成された文化使節団の一員に選ばれ、モンジュやベルトレらとともにナポレオンに随行した。", "qas": [ { "question": "ナポレオンがエジプト遠征に出かけたのは、何年のことなの?", "id": "de-012-07-000", "answers": [ { "text": "1798年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナポレオンがエジプト遠征に出かけたのは、どの国を牽制するためでしたか?", "id": "de-012-07-001", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "粘着式鉄道", "paragraphs": [ { "context": "粘着式鉄道(ねんちゃくしきてつどう、英:adhesionrailway.adhesiontraction)は、駆動力が車輪にかかって車輪とレールの間の静摩擦に頼って走行する鉄道を指す言葉である。粘着(adhesion)という言葉は摩擦という意味で使われ、レールに車輪がくっつくという意味ではない。多くの粘着式鉄道では、鉄のレールと鉄の車輪の組み合わせが用いられ、車輪とレールの間の転がり抵抗および摩擦係数は極めて小さい。転がり抵抗が少ないことからエネルギー浪費が他の交通機関と比べて極めて小さいという長所を備えている。一方で摩擦係数が小さく車輪がスリップしやすいため、急な加速や減速が難しく、急勾配に弱いという短所もある。このことから、線路の敷設ルートに制限を受けることになる。コンクリートの路盤をゴムタイヤで走行する新交通システムなども粘着式鉄道のうちであり、摩擦係数が大きくなるため鉄輪鉄軌条式に比べて大きな勾配を許容できる。一方で転がり抵抗は鉄輪鉄軌条式に比べると大きく、エネルギー浪費は増加する。", "qas": [ { "question": "粘着式鉄道とは、車輪とレールの間の何を利用して走行する鉄道のことを指すの?", "id": "de-013-00-000", "answers": [ { "text": "静摩擦", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "粘着式鉄道は他の交通機関と比べて、何が少ないという長所がありますか?", "id": "de-013-00-001", "answers": [ { "text": "エネルギー浪費", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "粘着式鉄道は何に弱いという短所を持っているか?", "id": "de-013-00-002", "answers": [ { "text": "急勾配", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ラック式鉄道やケーブルカー(鋼索式鉄道)、索道(ロープウェイ)、磁気浮上式鉄道、鉄輪式リニアモーターカーなどは、駆動力と制動力が摩擦以外の方式で伝達され、粘着式鉄道ではない。こうした鉄道はエネルギー消費量が増加する欠点はあるものの(リニア誘導モーターの電力消費が従来の回転型電動機に比べて大幅に多いためと、ラックレールの抵抗によるエネルギーの損失がきわめて大きいため)、勾配を大きく取れるので、登山鉄道で多く見られる。例えばスイスのベルナーオーバーラント鉄道は粘着式鉄道とラック式鉄道の区間が両方ある。雨や露、油、落ち葉、摩耗くずなどがレールに付着した際や湿気の影響などにより、粘着が低下する。粘着式鉄道では多くの機関車が砂撒き装置あるいはセラミック噴射装置を備えており、滑りやすい状態では砂を撒いて粘着状態を改善する。落ち葉によって粘着が低下した状態に対処する方法としては、レールの洗浄列車を走らせたりウォータージェットを設置して吹き飛ばしたり、長期間にわたる線路際の植生管理をしたりといった方法がある。電動機やエンジンで車輪を駆動している時に粘着が失われると空転となり、ブレーキをかけている時に粘着が失われると滑走となる。空転・滑走を止めて再度正しく駆動・制動力がかかるように粘着状態に戻す制御を空転滑走再粘着制御と呼ぶ。", "qas": [ { "question": "スイスのベルナーオーバーラント鉄道には、何とラック式鉄道の区間が両方存在するの?", "id": "de-013-01-000", "answers": [ { "text": "粘着式鉄道", "answer_start": 230, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スイスのベルナーオーバーラント鉄道において、ラック式鉄道とケーブルカー、粘着式鉄道のうち、その区間が存在しないのは、どちらですか?", "id": "de-013-01-001", "answers": [ { "text": "ケーブルカー", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "粘着式鉄道では、雨や露、油などにより粘着が低下することを防ぐために、何を利用して粘着状態を改善する仕組みがなされているか?", "id": "de-013-01-002", "answers": [ { "text": "砂", "answer_start": 311, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "空転・滑走を止めて再度正しく駆動・制動力がかかるように粘着状態に戻す制御のことを、何と呼ぶか?", "id": "de-013-01-003", "answers": [ { "text": "空転滑走再粘着制御", "answer_start": 550, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一般的な鉄輪鉄軌条式の鉄道においては、車輪とレールはどちらもわずかに歪んで接触している。例えば新幹線に用いられている新品の車輪を新品の60kgレールに載せると、1輪あたりの重量8tの条件で、14mm×12mm程度の進行方向前後方向に長い楕円形状の領域で接触する。この楕円形状の領域に発生する力によって列車が支えられ、走行している。駆動または制動に際しては、車輪とレールの間で前後水平方向に力が働く。レールに対して車輪が滑らずに力を伝達できている時は、摩擦の現象でいう静摩擦力にあたり、滑っている時には動摩擦力にあたる。鉄道では車輪を滑らせずに走行することが基本であるため、静摩擦力の範囲で用いるように考慮されている。車輪とレールの間に働く摩擦力のことを鉄道では粘着力、あるいは接線力、クリープ力などと呼ぶ。静摩擦力の最大値である最大静摩擦力は、垂直抗力に静摩擦係数を掛けた値として求めることができ、これを超えた力が働くと物体は滑り始める。鉄道の場合垂直抗力は車輪に掛かっている車体の重量であり、輪重と呼ぶ。粘着力を輪重で割った値を接線力係数と呼び、このうち最大のものを粘着係数と称する。粘着係数が静摩擦係数に相当することになる。この時の粘着力を特に粘着限界と呼んでいる。", "qas": [ { "question": "粘着力を垂直抗力で割った値を何と呼ぶの?", "id": "de-013-02-000", "answers": [ { "text": "接線力係数", "answer_start": 465, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "粘着力を垂直抗力で割った最大値のことを、何と呼びますか?", "id": "de-013-02-001", "answers": [ { "text": "粘着係数", "answer_start": 484, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "粘着力を垂直抗力で割った最大値が静摩擦係数に相当する時の粘着力のことを、何と呼ぶか?", "id": "de-013-02-002", "answers": [ { "text": "粘着限界", "answer_start": 524, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "車輪とレールは、一見お互いに全く滑っていないように思われても、正確に測定するとわずかに滑っていることが分かる。車輪の回転数を測定してこれに車輪の円周長を掛けると、その間の移動距離に正確に一致するはずであるが、実際には一致しない。この微小な滑りのことをクリープ(creep)と呼ぶ。この言葉は一定の負荷が掛かった時の材料の挙動であるクリープとは異なり、また鉄道においてもレールが地面に対してずれる現象をクリープと呼んでいるがこれとも異なる現象である。このクリープ現象に対してすべり率あるいはクリープ率が定義される。すべり率は、円周速度と車両速度の差を車両速度で割った値として定義される。円周速度は車輪の回転速度という意味である。円周速度と車両速度が完全に等しい時が滑りが全く無い時であり、この時すべり率は0になる。車輪とレールが接触する楕円形状の領域のうち、弾性変形した状態の領域である固着領域(粘着領域)が進行方向の前側にあり、進行方向後ろ側には車輪とレールが接触していながら相対的に滑った状態にある滑り領域がある。すべり率が増加していくと、固着領域が相対的に減少していき、また接線力係数が増加して得られる粘着力が増加していく。最大の粘着力が得られるのは、完全に滑っていない時ではなく、わずかながら滑っている時であることになる。しかしすべり率がある限界を超えると接線力係数は減少に転じる。この時固着領域は完全に失われて全体がすべり領域となっている。粘着力が最大になる点が粘着限界であり、これよりすべり率が小さい領域を微小すべり領域、大きい領域を巨視すべり領域という。", "qas": [ { "question": "クリープとは、車輪の回転数に輪の円周長を掛けた値と何の間で生じる、ほんの少しの差のことをいうの?", "id": "de-013-03-000", "answers": [ { "text": "移動距離", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ここですべり率とは、円周速度と車両速度の差を何で割った値のことをいいますか?", "id": "de-013-03-001", "answers": [ { "text": "車両速度", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "円周速度と何の値が完全に一致する時に、すべり率は0になるか?", "id": "de-013-03-002", "answers": [ { "text": "車両速度", "answer_start": 318, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "微小すべり領域と巨視すべり領域のうち、すべり率がより大きい領域のことを呼ぶのは、どちらか?", "id": "de-013-03-003", "answers": [ { "text": "巨視すべり領域", "answer_start": 672, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "微小すべり領域にあるうちは、粘着力はほぼ静摩擦力として取り扱うことができる。巨視すべり領域に入ると粘着力は動摩擦力とみなされることになる。一度巨視すべり領域に入ってしまうと、すべり率が上がるにつれて粘着が低下してさらに滑るようになる悪循環になってしまうため、空転や滑走を引き起こすことになる。この場合一旦駆動力や制動力を緩めるなどの手段をとらない限り微小すべり領域に戻すことはできない。巨視すべり領域に入ったものを微小すべり領域に戻すための制御が空転滑走再粘着制御である。", "qas": [ { "question": "微小すべり領域と巨視すべり領域のうち、粘着力が静摩擦力とみなされるのは、どちらの領域でか?", "id": "de-013-04-000", "answers": [ { "text": "微小すべり領域", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "粘着力を予測するために粘着現象の理論の発展が行われてきた。鉄道分野におけるクリープ理論は、イギリス人の機関車技術者であったフレデリック・ウィリアム・カーターによるものが始まりとされる。以下、クリープ理論の発達の歴史を主な研究と共に記す。1874年に、オズボーン・レイノルズにより、ベルトやストラップによる動力伝達の研究の中でクリープの考え方が初めて説明された。レイノルズはクリープは鉄道車輪にも同じく適用できると述べている。その後1916年、カーターにより、鉄道車輪におけるクリープの基本コンセプトが導入され、粘着力がクリープに比例するという仮定が発表された。さらに1926年、カーターにより、ラヴのヘルツ接触に基づく接触弾性理論を用いて、機関車の粘着力について解析を行った論文が発表された。この研究の中で、摩擦を伴う転がり接触による2次元理論(前後、鉛直方向)による鉄道のクリープ問題への考察が行われ、クリープ力を接触面の凝着領域とすべり領域で分けて計算する考え方が初めて考案された。", "qas": [ { "question": "鉄道分野におけるクリープ理論の創始者と考えられる人は、どの国の人か?", "id": "de-013-05-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 45, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オズボーン・レイノルズとカーターのうち、クリープについての研究をより早く進めたのは、誰なの?", "id": "de-013-05-001", "answers": [ { "text": "オズボーン・レイノルズ", "answer_start": 125, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1926年にカーターは、何に基づく接触弾性理論を用いて、機関車の粘着力について解析を行った論文を発表しましたか?", "id": "de-013-05-002", "answers": [ { "text": "ヘルツ接触", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カーターの研究の後、この理論を基により現実的な複雑な問題へ理論を拡張する試みが続けられた。1958年、ケネス・L・ジョンソンにより、カーターの2次元理論が3次元理論(前後、左右、鉛直方向)へ拡張された。この理論では問題を球と平面の接触と近似し、スピンによるクリープは考慮していない。しかし、同じ1958年、ジョンソンにより、スピンの影響が初めて研究された。これによるとスピンによる左右方向の接線力が無視できない場合があることが示唆された。その後1963年、HainesとOllertonにより、接触面を楕円と考え、前後方向に細長い一片(Strip)ずつに分割してカーターのクリープ則を適用する方法が考案された。このような近似計算方法をStripTheoryと呼ぶ。また1964年、Vermeulenとジョンソンにより、1958年の彼らの研究と同様な仮定に基づき、接触楕円の半軸値に基づき粘着力を計算できるような3次元理論が発展された。種々の理論の拡張の後、オランダ人の機械工学者であったヨースト・ジャック・カルカーにより集大成化される。1967年、カルカーにより、Hainesの理論を基にして、ポアソン比も考慮にいれた3次元理論が発表された。また、この研究の中で、すべり領域の影響が無視できるほどクリープが小さい範囲で線形近似した理論についても考案されており、非線形理論と区別してカルカーの線形理論などと呼ばれる。クリープが大きくなく線形性が成り立つ範囲においては、このカルカーの線形理論が車両運動解析でも使用されている。1967年以後も、粘着力がクリープに単純比例しない領域までを考慮する非線形理論の発展がなされてきた。非線形理論数を使用した場合の計算時間を短縮するために、ヘルツ接触を仮定した近似・単純化が理論に加えられ、特にカルカーにより考案されたものはカルカーの単純化理論またはカルカーの単純化非線形理論などと呼ばれる。この非線形理論とその計算アルゴリズムとしてはFASTSIM、その改訂版のROLLENなどがよく知られている。また、非ヘルツ接触まで扱う厳密理論とその計算アルゴリズムとしては、KalkerのCONTACTなどがよく知られている。", "qas": [ { "question": "Hainesとケネス・L・ジョンソンのうち、カーターの理論をもとにより早く研究を行ったのは、誰なの?", "id": "de-013-06-000", "answers": [ { "text": "ケネス・L・ジョンソン", "answer_start": 51, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Hainesと誰が、StripTheoryを考案しましたか?", "id": "de-013-06-001", "answers": [ { "text": "Ollerton", "answer_start": 235, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1958年にケネス・L・ジョンソンとともに、カーターの理論を3次元のものにするための研究を行ったのは、誰か?", "id": "de-013-06-002", "answers": [ { "text": "Vermeulen", "answer_start": 340, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヨースト・ジャック・カルカーは、何年に登場した理論を3次元のものにするための研究を行ったか?", "id": "de-013-06-003", "answers": [ { "text": "1963年", "answer_start": 222, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "粘着係数(粘着限界÷輪重)は一定ではなく、様々な条件によって変化する。以下にその要因を示す。車輪がレールと接触する面を「踏面」(とうめん)という。踏面は見た目には綺麗に整っているように思われても、実際には細かく見ると微小な突起物がたくさんあるでこぼこした表面になっている。レールの側も同様であり、この突起物同士が接触している地点で接線力を伝達している。鉄道では多くの車両で踏面ブレーキという、制輪子を踏面に押し当てて制動力を得るブレーキが用いられている。この制輪子のうち、鋳鉄制輪子や特殊鋳鉄制輪子の場合は、踏面の荒さを適度に保つため粘着係数を維持する効果がある。一方合成制輪子(レジン制輪子)は踏面を綺麗に磨き上げて表面粗さが失われてしまい、粘着係数が減少する傾向がある。また雨が降るなどしてレール表面が濡れると粘着が低下する。これは車輪とレールの隙間に水が入り込んで、水が輪重の一部を負担するようになり、車輪とレールの突起物同士の間に働く輪重が減少してしまうからである。また、突起物が水に埋もれてしまい、突起物のうちレールと接触するものの数も減少する。さらに表面に付着した液体の粘度が高いほど粘着係数が小さくなる傾向があり、水は水温が低いほど粘度が高いため、低温では粘着係数が大きく低下する。レール表面に付着している汚れ成分によっても粘着係数が変化し、特に雨が降り始めた初期には汚れ成分が水に溶け出して界面化学作用が起きて粘着係数が低下することがある。長い編成の列車では、先頭車両がレール面上の水を弾くため後方の車両では水が粘着係数に与える影響が少なくなる。おおむね3両目以降では空転や滑走が起きづらくなり、新幹線の500系や700系ではこの効果を積極的に利用している。", "qas": [ { "question": "この文書では、車輪がレールと接触する面を細かく見ると、何がたくさんあると言っているの?", "id": "de-013-07-000", "answers": [ { "text": "突起物", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "車輪がレールと接触する面に制輪子を押し当てて制動力を得るブレーキのことを、何と呼びますか?", "id": "de-013-07-001", "answers": [ { "text": "踏面ブレーキ", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "レール表面が濡れると粘着が低下するのは、レールと接触する突起物の数の減少と何の減少が原因であるか?", "id": "de-013-07-002", "answers": [ { "text": "車輪とレールの突起物同士の間に働く輪重", "answer_start": 404, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "長い編成の列車においては、後方の車両で水が粘着係数に与える影響が少なくなる効果を利用した実例としては、新幹線700系と何系が挙げられるか?", "id": "de-013-07-003", "answers": [ { "text": "500系", "answer_start": 710, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "列車の速度も粘着係数に影響を与える。レールが十分乾燥した状態では速度との関係はあまりないが、レールが湿潤状態になると速度が上がるにつれて粘着係数が低下する。接触面に入り込んだ水が膜状になり、この水膜が速度の0.6乗におおむね比例して厚くなることから、高速ではより大きく輪重を負担するようになるためである。水の他に、湿度、レール上の落ち葉、ほこり、油類、踏切において自動車が持ち込む泥などが粘着に影響を与える。粘着係数が高くなる場合としては、熱処理レールを使用した場所で酸化鉄(III)がレール表面に形成されていると0.7に達することもある。これは、1tの輪重に対して700kgの粘着力が得られるということである。ただしこれは例外的な高い値であり、かえってレールの波状磨耗やきしり音などの問題を引き起こすことがある。通常のレールと車輪の状態では乾燥した箇所で0.25-0.30、濡れた状態では0.18-0.22、油が付着した状態では0.15-0.18、みぞれや雪が付着した状態では0.10-0.15である。また、ゴムタイヤコンクリート軌道式の新交通システムでは、状態がよければ1.0を超え、通常でも0.50-0.60程度あり鉄輪鉄軌条式に比べて粘着が優れているが、降雨・降雪時に大きく粘着が低下する傾向があり、粘着係数の天候に対する安定性の観点では鉄輪鉄軌条式の方が優れている。", "qas": [ { "question": "レールがどんな状態であるときに、列車の速度が粘着係数に影響を与えるの?", "id": "de-013-08-000", "answers": [ { "text": "湿潤状態", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "水と踏切において自動車が持ち込む泥、レール上の落ち葉、ほこり、油類のほかに、粘着係数に変化をもたらすのは、何ですか?", "id": "de-013-08-001", "answers": [ { "text": "湿度", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "雨が降る時に、列車の速度は粘着係数に影響を与えるか?", "id": "de-013-08-002", "answers": [ { "text": "与える", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "電車や電気機関車で従来から用いられてきた抵抗制御では、マスター・コントローラー(主幹制御器)でモーターの出力を次第に上げて運転している。この際に制御器にノッチと呼ばれる刻みがあって、その段階ごとに出力が設定されている。同じ出力では速度が上がるにつれてモーターが車輪を駆動して発揮する引張力(列車を引っ張り前進させる力)が下がっていくので、ある点でノッチを1段階上げて大きな出力にすることで再度引張力を増加させる。しかし引張力の最大値が粘着限界を超えると空転してしまうので、最大値がこれを超えないようにしなければならない。したがって図示したように引張力がのこぎり状に変化するように次第にノッチを上げていくことになる。ノッチの段階を増やして細かく制御できるようにすると、全体として平均引張力は上昇することになるので、粘着力を有効利用できる。後により技術が進歩して、サイリスタ位相制御やチョッパ制御、可変電圧可変周波数制御が利用されるようになった。これらの制御では多段制御からさらに進んで連続的な制御を行うことができ、粘着限界を一杯に活用することができる。こうしたことから、これらの制御を利用した車両では実質的に粘着係数が向上している。", "qas": [ { "question": "ノッチの段階を増やして細かく制御できるようにすると、全体的に何が上昇し、粘着力を有効利用できるようになるの?", "id": "de-013-09-000", "answers": [ { "text": "平均引張力", "answer_start": 338, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "電車や電気機関車では、何でモーターの出力を次第に上げて運転していたか?", "id": "de-013-09-001", "answers": [ { "text": "マスター・コントローラー", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "今になって、連続的な制御を行い、粘着限界を最大限活用できるようになったのは、サイリスタ位相制御とチョッパ制御のほかに、どのような制御技術が開発されたからか?", "id": "de-013-09-002", "answers": [ { "text": "可変電圧可変周波数制御", "answer_start": 397, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "日本語訳聖書", "paragraphs": [ { "context": "聖書の日本語訳は、断片的な試みも含めれば、16世紀半ばのキリスト教伝来時より行われてきた。ただし、江戸幕府による禁教以前の翻訳は、若干の断片を除いて伝わっていない。その後、19世紀半ば以降、プロテスタント宣教師によって次々と翻訳が試みられた。初期の翻訳はギュツラフ、ヘボンなどの外国人宣教師が中心であったが、最初の組織的な翻訳である委員会訳(いわゆる「明治訳」。新約1880年、旧約1887年)では日本人協力者の貢献も小さくはなかった。明治訳の新約部分は大正時代に改訳版(いわゆる大正改訳、1917年)が出され、日本語表現にも多大な影響を与えた名訳として、今なお愛好する人々がいる。ほか、太平洋戦争以前には、カトリックのいわゆるラゲ訳や日本正教会訳の新約聖書なども刊行された。戦後になると日本聖書協会が口語訳聖書、ついでカトリックとプロテスタントによる共同訳聖書(1978年)、新共同訳聖書(1987年)を刊行した。新共同訳聖書は20世紀末から21世紀初頭の日本では最も広く用いられる聖書となった。日本聖書協会以外からも、カトリックではバルバロ訳、フランシスコ会訳などが、プロテスタントでは新改訳などがそれぞれ刊行されており、ほかにも宗派的な不偏性を謳う岩波委員会訳など、様々な観点での組織訳・個人訳などが、部分訳も含めれば数え切れないほどに刊行されている。", "qas": [ { "question": "委員会訳、共同訳聖書、新共同訳聖書のうち最も古いのはどれですか。", "id": "de-014-00-000", "answers": [ { "text": "委員会訳(いわゆる「明治訳」。新約1880年、旧約1887年)", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "20世紀末から21世紀初頭にかけて、日本で最も広く読まれた聖書は何ですか。", "id": "de-014-00-001", "answers": [ { "text": "新共同訳聖書", "answer_start": 408, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "キリスト教は、1549年に日本へ伝えられた。フランシスコ・ザビエルの日本布教のきっかけとなったヤジロウの書簡から、ヤジロウがマタイによる福音書を翻訳した可能性はあるものの、実物は残っていない。1563年頃までには、イエズス会士のフアン・フェルナンデスが、『新約聖書』のうちの四福音書を翻訳していたらしいが、平戸の北部にある度島での火災で原稿が焼失してしまった。その後、『日本史』などの著作で知られるルイス・フロイスが、典礼用に四福音書の3分の1ほどを訳すなど作業を続け、1613年頃までにはイエズス会が京都で『新約聖書』全体を出版したらしいことも確認されている。しかし、このイエズス会訳新約聖書は現存しない。日本語訳聖書の現存する最古の断片は、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが編纂した『日本のカテキズモ』の訳稿に近い和文で、ポルトガルのエヴォラ図書館の古屏風の下張りから発見された。1580年前後と推測される最古の断片には、旧約聖書のコヘレトの言葉、イザヤ書、シラ書の断片が含まれる。他にも、福音書の受難物語部分をまとめた『御主ゼスキリシト御パッションの事』はフェルナンデスの訳稿焼失の前後にその写本が各地の教会で読まれていたらしいことが窺われる。これは1591年にバレトがまとめた、いわゆる「バレト写本」や、1607年に長崎で刊行されたローマ字本『スピリツアル修行』の中にも見出すことが出来る。これら二書に収められた『御主ゼスキリシト御パッションの事』はほぼ同一であり、フェルナンデス訳とは別に某イエズス会士によって訳されたらしいが、名前は伝わっていない。以下、『スピリツアル修行』から、『御主ゼスキリシト御パッションの事』を一部引用する。", "qas": [ { "question": "キリスト教が日本い渡来したのはいつですか。", "id": "de-014-01-000", "answers": [ { "text": "1549年", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イエズス会士のフアン・フェルナンデスが翻訳した『新約聖書』のうちの四福音書が現在残っていない原因は何ですか。", "id": "de-014-01-001", "answers": [ { "text": "火災", "answer_start": 165, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "現在実存する日本語訳聖書の最も古い断片を編纂した人は誰ですか。", "id": "de-014-01-002", "answers": [ { "text": "アレッサンドロ・ヴァリニャーノ", "answer_start": 322, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『バレト写本』には、福音書の様々な抜粋が含まれており、その分量は福音書全体のおよそ3分の1に及ぶ。ほか、カテキズムをまとめた『どちりなきりしたん』なども刊行された。しかし、日本におけるキリスト教は、前述のイエズス会訳新約聖書の出版がなされた頃から厳しく禁止された。1630年にはキリスト教関係の書物輸入が禁じられ、少なくとも表面上キリスト教文献は消えた。もっとも、漢籍やオランダ書のキリスト教文献が小規模ながらも密輸されており、聖書に関する知識は細々と日本に入っていた。また当時、ヨーロッパ由来の歴史書には世界の起源を聖書に依拠している例も少なからずあり、その影響を強く受けた山村昌永の西洋史叙述は幕末までの西洋史書の土台となった。のみならず、蘭学者にはキリスト教に理解を示していた例が見られ、中には、平戸藩領主・松浦静山のように、聖書の注解書を手に入れて密かに蘭学者に翻訳させていた例もある。また、復古神道の大成者である平田篤胤が著した『本教外篇』の中には、山上の垂訓そっくりの記述が現れる。これは、漢籍のキリスト教文献からの剽窃であることが実証されている。", "qas": [ { "question": "『本教外篇』の著者は誰ですか。", "id": "de-014-02-000", "answers": [ { "text": "平田篤胤", "answer_start": 411, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "19世紀になると、中国や日本の開国とキリスト教解禁を睨んで、プロテスタント宣教師たちが日本国外で聖書の漢訳・和訳事業を進めた。たとえば、カール・ギュツラフは、マカオで漢訳『神天聖書』などを参照しながら日本人漂流民音吉らの協力を得て『ヨハネによる福音書』を翻訳し、『約翰福音之伝』(1837年、約翰はヨハネの音訳)として、アメリカ聖書協会の経済的支援によりシンガポールのアメリカン・ボード出版局堅夏書院より出版した。このギュツラフ訳が実質的に最古の日本語訳聖書と位置づけられることもしばしばである。ちなみに、音吉たちは尾張国の出身であったため、この聖書にはアスコ(あそこ)、アヨブ(あるく)、アーヌイテ(見あげて)などの尾張方言が見られる。この翻訳は現存する刊本の校合から、少なくとも3刷を数えたものと推測されている。この訳業は、時期と熱意は評価されているものの、訳文そのものの評価は高くない。それでも、『基督教研究』誌で1938年に復刻されたのをはじめ、長崎書店(1941年)、新教出版社(1976年)、雄松堂書店(1977年)などによって何度も復刻されている。また、ギュツラフは同じ年にヨハネ書簡の翻訳(『約翰上中下書』)も公刊しているが、『約翰福音之伝』が開国まもない頃の日本に持ち込まれたのに対し、『約翰上中下書』は持ち込まれることがなかった。なお、1911年の英国外国聖書協会図書館の目録には、ギュツラフが新約全体と旧約の一部の翻訳を完成させていたという記述がある。従来、この記述を裏付けるような痕跡は見つかっていなかったが、2012年に吉田新がボドリアン図書館付属日本研究図書館で調査した際に、ギュツラフが訳した可能性がある『ローマの信徒への手紙』の逸文を発見した。これはイギリス国教会の司祭でもあった東洋学者ソロモン・マランの手稿に転記されていたものである。", "qas": [ { "question": "長崎書店、新教出版社、雄松堂書店の中で『基督教研究』誌の復刻が最も早かったのは?", "id": "de-014-03-000", "answers": [ { "text": "長崎書店(1941年)", "answer_start": 427, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『約翰福音之伝』と『約翰上中下書』のうち、日本に持ち込まれたことがなかったのはどっちですか。", "id": "de-014-03-001", "answers": [ { "text": "『約翰上中下書』", "answer_start": 503, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イギリス国教会の司祭でもあった東洋学者ソロモン・マランの手稿に転記されていたものは何ですか。", "id": "de-014-03-002", "answers": [ { "text": "『ローマの信徒への手紙』の逸文", "answer_start": 717, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "また、サミュエル・ウィリアムズも、マカオで『馬太(マタイ)福音伝』を1830年代末に訳している。この稿本は、後に託されたサミュエル・ロビンス・ブラウンの自宅火災などによって失われたが、肥後国出身の在マカオ漂流民、原田庄蔵の手による写本(1850年)が1938年に長崎で発見されており、それによって内容が伝わっている。また、この写本にはウィリアムズによるヨハネ福音書の試訳も5章9節まで収められている。これは神を「テンノツカサ」と訳すなどの違いはあるものの、その表題(『約翰之福音伝』。ギュツラフ訳とは「之」の位置が異なる)も含めて、ギュツラフの訳文と酷似している。なお、ウィリアムズは創世記も訳したらしいが、その草稿は伝わっていない。\n\n禁教下の琉球王国で強引に布教を始めたバーナード・ジャン・ベッテルハイムは、1847年にルカ福音書から始めて、1851年までに四福音書、続けて使徒言行録(使徒行伝)、ローマの信徒への手紙(ローマ書、ロマ書)を琉球語に訳した。しかし、琉球王国から退去を余儀なくされ、1855年に香港で上記の琉球語訳を『路加(ロカ)伝福音書』、『約翰伝福音書』、『聖差言行伝』、『保羅寄羅馬人書』として出版した。この時点でのベッテルハイムは琉球語訳が日本本土の布教に使えると考えていたのだが、本土の日本人には理解が難しいことを悟ると方向転換し、漢和対訳の新約聖書翻訳を企画した。そして、1858年にイギリス聖書協会より、漢和対訳『路加(ルカ)伝福音書』を出版した。この著作は、明治初期の日本伝道で活用された。ベッテルハイムは、この後も残りの福音書を出版するつもりであったが、既に別途に聖書翻訳事業にとりかかっていたジェームス・カーティス・ヘボンが否定的な意見を述べたこともあって出版が遅れた。ベッテルハイムの日本語訳には琉球語が混じっており、日本人にも理解が困難とされたのである。出版されないままだった草稿のうち、マタイ伝、マルコ伝はイギリス聖書協会に残っていることが知られていた。残るヨハネ伝の草稿は行方不明のままだが、前出のマランの手稿(1853年)に転記されている。ベッテルハイムはその後、シカゴで知り合った日本人の協力を受けて翻訳・改訳を進めており、死後の出版になるが、1873年に『約翰伝福音書』、『路加(ロカ)伝福音書』、翌年には『使徒行伝』がオーストリアで出版されることとなる。前出のマランの手稿には、マラン自身が訳したと思われるヤコブの手紙の全訳も含まれる。これはヤコブの手紙の通説的な初訳時期を大幅に遡るだけでなく、ギュツラフやベッテルハイムと違い、日本上陸をせず、日本人協力者の手すらも借りずにヨーロッパ人が独力でなしとげた点でも特異である。なお、この底本は欽定訳聖書であったと考えられている。", "qas": [ { "question": "長崎で発見され、ウィリアムズによるヨハネ福音書の試訳も5章9節まで収められていると写本は何の写本ですか。", "id": "de-014-04-000", "answers": [ { "text": "『馬太(マタイ)福音伝』", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『馬太(マタイ)福音伝』の写本はどこで発見されたの?", "id": "de-014-04-001", "answers": [ { "text": "長崎", "answer_start": 131, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1855年に香港で琉球語訳の『路加(ロカ)伝福音書』、『約翰伝福音書』、『聖差言行伝』、『保羅寄羅馬人書』を出版した人は誰ですか。", "id": "de-014-04-002", "answers": [ { "text": "バーナード・ジャン・ベッテルハイム", "answer_start": 337, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "日本は1854年に日米和親条約、1858年に安政五カ国条約を結び、開国に至った。幕末の日本はまだ禁教下ではあったものの、宣教師たちが続々と入国し、日本伝道がいずれ解禁される時のための準備が進められた。この伝道準備の中の重要課題は、聖書翻訳であった。当初、日本に滞在した宣教師たちは、漢訳のキリスト教書籍を持ち込んで密かに頒布し、布教に努めた。ヘボンの見立てでは「すべての教養ある日本人は、我々がラテン語を読むのと全く同様に、困難もなくシナ語の聖書を読むことができる」とされたからである。他方で、ヘボンは該当する日本人を成人全体の50分の1以下と見積もっており、漢文の読めない大多数の一般人に布教するには、平易な日本語訳聖書を必要とした。\n\n日本国内で最初に翻訳聖書を出版したのは、バプテスト派の宣教師で1860年に入国したジョナサン・ゴーブルである。ゴーブルは、極貧のうちにあって靴直しで糊口をしのぎながら、ギリシャ語本文からの口語和訳に挑んだ。原典翻訳を称してはいるが、彼は所属していた団体の欽定訳聖書改訳運動に影響されており、特にコナントが刊行した詳注付き新約聖書(欽定訳改訳の試訳版)への依存度が大きかった。このコナント版の刊行は1864年のことで、彼の翻訳は同じ年に始まっている。彼が訳したマタイ福音書は、1871年に『摩太(マタイ)福音書』として東京で出版された。版木屋は中身が聖書であることを知らずに引き受けたという。ゴーブルの方針は、新約聖書で用いられているギリシャ語が日常語であることに鑑み、俗語も交えた平易な日常語で訳すというものであった。その訳業は、バプテスト派の漢訳聖書『聖經新遺詔全書』(1853年)を書き下すことから始まったとされるが、平仮名書きのその文体には漢訳聖書の影響は希薄である。\n\nゴーブルは他の宣教師と折り合いが悪く、単独での日本語訳権をアメリカ聖書協会に請求して拒否される一幕もあった。これはアメリカ聖書協会が、特定の教派に偏らない翻訳方針を示していたヘボンの反対意見を受け入れたためで、ゴーブルは上述のように独立独歩でバプテスト派の解釈に基づく翻訳を行った。彼は、四福音書全体と使徒言行録も訳したとされるが、その稿本は残っていない。彼の翻訳は俗語交じりであることから、その訳文はあまり評価されていない。なお、ゴーブルの聖書翻訳作業は、1873年に日本での活動を開始したバプテスト派宣教師、ネイサン・ブラウンに引き継がれた。", "qas": [ { "question": "日米和親条約と安政五カ国条約と、どちらの方が先に締結されましたか。", "id": "de-014-05-000", "answers": [ { "text": "日米和親条約", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本国内での最初の翻訳聖書を出版した人は誰なの?", "id": "de-014-05-001", "answers": [ { "text": "ジョナサン・ゴーブル", "answer_start": 361, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴーブルの聖書翻訳作業を続けてやった人は誰なの?", "id": "de-014-05-002", "answers": [ { "text": "ネイサン・ブラウン", "answer_start": 1015, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本キリスト教史上の大立者であり、ヘボン式ローマ字の考案者として知られるジェームス・カーティス・ヘボンは、アメリカ合衆国長老教会外国伝道局の宣教師であり、ギュツラフの『約翰(ヨハネ)福音之伝』を携えて1859年に自費で日本に渡り、活動した。医師業の傍ら、同年より日本で宣教していたサミュエル・ロビンス・ブラウンとともに聖書翻訳事業を開始し、1861年ごろからマルコ福音書の翻訳に取り掛かった。ヘボンもブラウンも中国宣教経験があって漢文が読めたことから、翻訳は漢訳聖書の読み下しから始まった。底本と推測されているのは「代表訳」と呼ばれる漢訳『新約全書』(1852年)、およびブリッジマンとカルバートソンの漢訳『新約全書』(1859年)で、ヘボンによるマタイ福音書の訳語には、後者の影響の強さが指摘されている。1860年代の前半には他の福音書や創世記、出エジプト記の一部が訳されたらしいが、この時期の訳稿は現存していない。ヘボン、ブラウンの訳業には、バラ、タムソンら宣教師および日本人の矢野隆山、奥野昌綱らが協力した。ヘボン、ブラウンらはこの翻訳に何度も改訂を加えていったが、前述のゴーブルが個人訳を出版したことから協力者たちと共に彼らの翻訳の完成を急いだらしい。途中、ブラウン宅の失火による原稿焼失などのトラブルを乗り越えつつ、奥野昌綱の奔走などもあって、まだ禁教下であった1872年に『新約聖書馬可(マコ)伝』『新約聖書約翰(ヨハネ)伝』、禁教が解かれた1873年に『新約聖書馬太(マタイ)伝』を出版している。漢文直訳調を避けて一般人に分るようにしながら、それでいて文語の格調を失わないように工夫することが志向された。確かに文語表現に成熟が見られ、文体の統一も進んだことは評価されるが、他方で漢文訓読体が残存している要素なども指摘されている。", "qas": [ { "question": "ヘボン式ローマ字は誰のアイデアからできたものなの?", "id": "de-014-06-000", "answers": [ { "text": "ジェームス・カーティス・ヘボン", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『新約聖書馬可(マコ)伝』と『新約聖書馬太(マタイ)伝』とどっちの方が先に出版された?", "id": "de-014-06-001", "answers": [ { "text": "『新約聖書馬可(マコ)伝』", "answer_start": 592, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "さて、明治訳を評価する声もあったとはいえ、完成直後から改訳の声が上がっていた。これは、明治訳が外国人宣教師たちの委員会による訳であり、不自然な日本語がまだまだ多かったこと、誤訳が散見されたこと、そして底本であった欽定訳も1885年に改訳され、改訂版聖書が公刊されたことなどによる。その結果、様々な立場から改訳が試みられ始めた。そんな中、1906年に福音同盟会が教会同盟に改組されるのに合わせて、改訳のために委員が選出された。前出の外国人宣教師を中心とする聖書常置委員会や3聖書会社からもこれに協力していく意向が示されたが、教会同盟の正式発足が先送りされたことに対応し、結局は常置委員会が主導する改訳委員会が1910年に成立した。とはいえ、その委員はグリーン、ダンロップら外国人宣教師4人と松山高吉、別所梅之助、川添万寿得、藤井寅一の日本人4人となっており、最初から日本人が正規委員として関与した点で明治訳とは異なっている。新約聖書の底本としてはネストレ版のギリシャ語校訂版とされたが、当初は入手できておらず、暫定的にウェストコット・ホート版で代用された。また、その翻訳に際し、問題箇所の読みはRVを参照することに決められており、ほかにシェルシェウスキーの漢訳、前出のN・ブラウン訳、日本正教会訳、ラゲ訳なども参考文献とされた。この改訳作業では、まず試訳として『マコ伝福音書』が刊行された。この試訳に対しては「マコ」を「マルコ」とすべきことなども含め、色々な意見が寄せられた。委員会はそれらの意見も参照して、1917年に新約聖書全体の改訳を完成させ、『改訳新約聖書』として出版した。これは「改訳」、「大正訳」、「大正改訳」などと呼ばれる。\n\n明治元訳に比べて学問的な正確さが向上したことはもちろんだが、漢文調から和文を主とする文章に改められ、漢語に無理なルビを振ることは避けられ、日本語として読みやすくなったことが評価されている。また、それまで一定していなかったキリスト教用語もこの訳で安定したとされており、教会外の人にも多く読まれた結果、「狭き門より入れ」のように日本語のことわざ同然に使われている文章も改訳の中には数多くある。成句が使用される頻度についてはその後の改訳聖書も及ばないとされており、「日本の文学作品として十分に古典の位置を占めている」とも評されている。", "qas": [ { "question": "「大正改訳」と明治元訳と、学問的な正確さが向上したのはどっちなの?", "id": "de-014-07-000", "answers": [ { "text": "「大正改訳」", "answer_start": 704, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「大正改訳」と明治元訳と、読みやすいと評価されているのはどっちなの?", "id": "de-014-07-001", "answers": [ { "text": "「大正改訳」", "answer_start": 704, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "それまで一定していなかったキリスト教用語もこの訳で安定したとされており、教会外の人にも多く読まれた結果、「狭き門より入れ」のように日本語のことわざ同然に使われている文章も改訳の中には数多くあるという評価を受けたのは「大正改訳」なの、明治元訳なの?", "id": "de-014-07-002", "answers": [ { "text": "「大正改訳」", "answer_start": 704, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "第二次世界大戦後も、日本聖書協会は文語での旧約聖書の改訂を継続しており、詩篇(第1巻1948年、全訳1951年)、ヨブ記(1950年)の二書のみは文語改訂版が出版された。この詩篇の翻訳で、明治訳の「ヱホバ」が「主」に訳し直された。しかし、この改訳作業は中断され、口語訳へと切り替えられることとなった。その理由として日本聖書協会が挙げたのは、戦後教育で採用された「新かなづかい」と「漢字制限」に対応することであった。ただし、これに加えて、改訂標準訳(RSV,新約1946年、旧約1952年)が現れたことが影響したという見解もある。1950年に口語訳聖書作成が決定され、翌年、松本卓夫、山谷省吾、高橋虔(以上、新約)、都留仙次、遠藤敏雄、手塚儀一郎(以上、旧約)が改訳委員に任命され、他にコンサルタントが任命された。先に刊行されたのは新約聖書で、1952年から1953年にかけて各福音書と使徒行伝が分冊で刊行された後、残りも含めた全訳が1954年に公刊された。その底本はネストレ版で、19版(1949年)から始まり、翻訳中に届いた20版(1950年)、21版(1952年)も参照したという。ただし、日本聖書協会では公式に認められていないが、その訳文の一致などからは、RSVが重要な参考文献の一つであり、それをそのまま訳出したと思われる箇所も少なくないことが指摘されている。旧約聖書のほうは1953年に創世記と出エジプト記が分冊で刊行され、全訳は1955年に公刊された。その底本はルドルフ・キッテルのビブリア・ヘブライカ第3版で、こちらについてはRSVの旧約部分が公刊される前に、アメリカ聖書協会の好意で未定稿を送ってもらい、大いに参考にしたことが公表されている。新約と旧約の合冊版はその年の内に刊行され、同年の毎日出版文化賞特別賞を受賞した。これは明治訳、大正改訳と違い、日本人の手でなしとげた最初の翻訳と言える。なお、口語体で書かれた和訳聖書はこの他にもカトリックのバルバロ訳など多種あるが、単に「口語訳」と言った場合には普通この1954年/1955年の日本聖書協会版を指す。ただし、「協会訳」、「協会口語訳」といった呼び方も存在する。", "qas": [ { "question": "口語訳聖書作成が決まったのはいつですか。", "id": "de-014-08-000", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 264, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "単に「口語訳」というと、一般的に何を指すのか。", "id": "de-014-08-001", "answers": [ { "text": "1954年/1955年の日本聖書協会版", "answer_start": 864, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "聖書の日本語訳には、現代日本のいわゆる標準語以外の翻訳も存在する。方言で作成することを企図したものではないものの、鎖国中のプロテスタントによる訳は、上述のように限られた漂流民の協力によって成り立っていたため、その出身地の言葉が混じっていると指摘されている。実質的に最古の日本語訳とされるギュツラフの『約翰福音之伝』にしても、協力者音吉らの南知多方言の反映が指摘されている。\n\nまた、ベッテルハイムが日本伝道の第一歩として、一部の福音書・パウロ書簡や『使徒言行録』の琉球語訳を刊行したことと、それが日本本土での布教に活用できないと判断されて中断したことは上で触れたとおりである。\n\nさらに、日本語の方言とはいえないものの、日本国内の言語ということでは、明治時代に聖公会のジョン・バチェラー(JohnBachelor,CMS)がアイヌ語訳を刊行している。アイヌへの伝道に強い熱意を持っていたバチェラーは、1878年からアイヌの集落でその言葉を学び、1889年に『蝦(か)英和対訳辞書及文法』を公刊し、同じ年から聖書のアイヌ語訳を分冊で刊行し始めた。祈祷書に含まれた旧約聖書の詩篇に至っては、韻文でのアイヌ語訳がなされている。また、彼は少なくとも新約聖書については全訳を完成させ、聖書協会委員会から『ChikoroUtarapaveYESUKIRISTOAshiriAeuaknupOMAKAMBI.TheNewTestamentofourLordandSaviourJesusChristinAinu』の題で1897年に刊行した。これは1981年に日本聖書協会から再版されたことがある。", "qas": [ { "question": "最古の日本語訳とされるギュツラフの『約翰福音之伝』はどの方言が反映されていると言われていますか。", "id": "de-014-09-000", "answers": [ { "text": "南知多方言", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "明治時代にアイヌ語訳を刊行した人物は誰ですか。", "id": "de-014-09-001", "answers": [ { "text": "ジョン・バチェラー(JohnBachelor,CMS)", "answer_start": 334, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "聖書協会委員会から『ChikoroUtarapaveYESUKIRISTOAshiriAeuaknupOMAKAMBI.TheNewTestamentofourLordandSaviourJesusChristinAinu』の題で1897年に刊行したものはいつ日本聖書協会から再版されますか。", "id": "de-014-09-002", "answers": [ { "text": "1981年", "answer_start": 666, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "現代の方言による翻訳例には、山浦玄嗣による『ケセン語訳新約聖書』(福音書のみの4分冊。イー・ピックス出版、2002年-2003年)がある。これは岩手県の気仙方言によるもので、NHKのこころの時代でとりあげられたことで地元の小さな出版社から出た本としては大反響を呼んだという。山浦は当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世に手紙を送り、後に直々に献上する機会を得た。さらに山浦は『ガリラヤのイェシュー日本語訳新約聖書四福音書』(イー・ピックス出版、2011年)にて、ガリラヤ、エルサレム、ローマなどの出身や立場に応じてケセン語以外に京言葉、大阪弁、津軽弁などを使い分けた翻訳を試みている。これは著者の自宅や版元が東日本大震災で被災した直後に刊行されたものであり、2012年の「キリスト教本屋大賞」を受賞した。山浦の方言訳については「単なる翻訳の領域を超えた新しい文化的価値を持つもの」として評価する声がある。その一方、ケセン語訳のもつ独特の味わい深さを評価しつつも、山浦の観点に基づいたイエス像を押し付けている可能性を指摘する声もある。\n\n方言による翻訳の例には、他にも大阪弁に翻訳された『コテコテ大阪弁訳「聖書」』(ナニワ太郎&大阪弁訳聖書推進委員会、データハウス、2000年)もある。これは「マタイはんの福音書」のみを新共同訳聖書を参考にして大阪弁に「翻訳」したものである(ただし、第1章の系譜など一部省略)。この翻訳について、関西学院大学宗教主事の前川裕は好意的に言及している。また、日本聖書協会翻訳部の島先克臣も、こうしたケセン語訳や大阪弁訳について興味深い翻訳の例として言及している。", "qas": [ { "question": "2012年の「キリスト教本屋大賞」を受賞した人は誰だなの。", "id": "de-014-10-000", "answers": [ { "text": "山浦玄嗣", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "関西学院大学宗教主事の前川裕は何について好意的に言及しましたか。", "id": "de-014-10-001", "answers": [ { "text": "『コテコテ大阪弁訳「聖書」』", "answer_start": 490, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『コテコテ大阪弁訳「聖書」』に対して興味深い翻訳の例だと言及したのは誰ですか。", "id": "de-014-10-002", "answers": [ { "text": "島先克臣", "answer_start": 651, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "芥川龍之介賞", "paragraphs": [ { "context": "芥川龍之介賞は大正時代を代表する小説家の一人・芥川龍之介の業績を記念して、友人であった菊池寛が1935年に直木三十五賞とともに創設し以降年2回発表される。第二次世界大戦中の1945年から一時中断したが1949年に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には、正賞として懐中時計、副賞として100万円が授与され、受賞作は『文藝春秋』に掲載される。\n\n選考委員は、小川洋子・奥泉光・川上弘美・島田雅彦・平野啓一郎・堀江敏幸・松浦寿輝・山田詠美・吉田修一の9名である。選考会は、料亭『新喜楽』の1階で行われる。受賞者の記者会見と、その翌月の授賞式は、長く東京會舘で行われていたが、同館の建て替えに伴い、現在は帝国ホテルで行われている。", "qas": [ { "question": "小説家の芥川龍之介が活動したとき、日本の元号は何だった?", "id": "de-015-00-000", "answers": [ { "text": "大正", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "芥川龍之介賞は1年に何回発表されるの?", "id": "de-015-00-001", "answers": [ { "text": "2回", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第二次世界大戦中一時中断した芥川龍之介賞が復活したのはいつですか。", "id": "de-015-00-002", "answers": [ { "text": "1949年", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "芥川龍之介の選考会はどこで行われますか。", "id": "de-015-00-003", "answers": [ { "text": "『新喜楽』の1階", "answer_start": 273, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1934年、菊池寛は『文藝春秋』4月号に掲載された連載コラム「話の屑籠」にてこの年の2月に死去した直木三十五、1927年に死去した芥川龍之介の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。1924年に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『文学界』の編集者であった川崎竹一の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎がゴンクール賞やノーベル賞など海外の文学賞を紹介したついでに日本でも権威のある文学賞を設立するべきだと書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている。このとき菊池は川崎に文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や永井龍男らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され正式に両賞が設立された。設立当時から賞牌として懐中時計が贈られるとされており、当時の副賞は500円であった。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として川端康成、佐藤春夫、山本有三、瀧井孝作ら11名があたることになった。", "qas": [ { "question": "菊池寛が『文藝春秋』4月号に掲載した連載コラムのタイトルは何ですか。", "id": "de-015-01-000", "answers": [ { "text": "「話の屑籠」", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "芥川龍之介はいつ死亡しましたか。", "id": "de-015-01-001", "answers": [ { "text": "1927年", "answer_start": 55, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『文藝通信』が発行されたのはいつなの?", "id": "de-015-01-002", "answers": [ { "text": "1934年", "answer_start": 243, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている。1954年に受賞した吉行淳之介は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており、1955年に受賞した遠藤周作も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは1956年の石原慎太郎「太陽の季節」の受賞である。作品のセンセーショナルな内容や学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく「太陽族」という新語が生まれ石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり1957年下半期に開高健、1958年上半期に大江健三郎が受賞した頃には新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた。今日においても話題性の高さは変わらず特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。", "qas": [ { "question": "「太陽の季節」は誰が書いたの?", "id": "de-015-02-000", "answers": [ { "text": "石原慎太郎", "answer_start": 304, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「慎太郎カット」とは誰の髪型を真似したものですか。", "id": "de-015-02-001", "answers": [ { "text": "石原慎太郎", "answer_start": 304, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新人作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。戦中から戦後にかけて芥川賞が4年間中断していた時期に野間宏、中村真一郎、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、三島由紀夫ら「戦後派」と呼ばれる作家たちが登場して注目を浴びたが1949年の芥川賞復活後、彼らは新人ではないと見なされて候補に挙がることさえなかった。また島木健作や田宮虎彦、後述する井上光晴のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしばあった。第23回に田宮が候補となったとき、坂口安吾は「芥川賞復活の時に、三島君まではすでに既成作家と認めて授賞しない、というのが既定の方針であったが、田宮君が授賞するとなると、三島君はむろんのこと、梅崎君でも武田君でも(中略)かく云う私も、候補に入れてもらわなければならない」と述べて反対している。他方、第5回に受賞した尾崎一雄は受賞時すでに新人とは言えないキャリアを持っていたが、「一般的には埋もれている」(瀧井孝作)と見なされて受賞に至っている。第38回に開高健と競って僅差で落選した大江健三郎はその後の半年間にも次々と話題作を発表し、続く第39回でも候補となったが作品のレベルでは群を抜いていたにも関わらず新人といえるかどうかが議論の的となった。大江の受賞が決定した時には、選考委員の佐藤春夫は「芥川賞は今日以後新人の登竜門ではなく、新進の地位を安定させる底荷のような賞と合点した」と皮肉を述べている。\n\n現在ではデビューして数年経ち、他の文学賞を複数受賞しているような作家が芥川賞を受賞することも珍しくなくなっている。近年ではデビューして10年たち伊藤整文学賞、毎日出版文化賞と権威ある賞を受けていた阿部和重が作家的地位も確立していた2004年下半期に芥川賞を受賞し「複雑な心境。新人に与えられる賞なので、手放しで喜んでいられない」とコメントした。", "qas": [ { "question": "椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、田宮虎彦のうち、「戦後派」に属さない人は誰ですか。", "id": "de-015-03-000", "answers": [ { "text": "田宮虎彦", "answer_start": 205, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「芥川賞は今日以後新人の登竜門ではなく、新進の地位を安定させる底荷のような賞と合点した」という発言をした人は誰ですか。", "id": "de-015-03-001", "answers": [ { "text": "佐藤春夫", "answer_start": 607, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第5回の芥川賞を受賞した人は誰ですか。", "id": "de-015-03-002", "answers": [ { "text": "尾崎一雄", "answer_start": 422, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2004年下半期に芥川賞を受賞した人は誰なの?", "id": "de-015-03-003", "answers": [ { "text": "阿部和重", "answer_start": 766, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "芥川賞は短編・中編作品を対象としており長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた石川達三は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回(1964年上半期)受賞の柴田翔「されどわれらが日々―」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった。第50回(1963年下半期)芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の石川淳は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している。また国際的にも評価の高い村上春樹は芥川賞を受賞していないが村上の場合は中篇作品で2度候補となった後、すぐに長編に移行したことが理由の一つに挙げられる。\n\nなお「作品の短さ」は本になったときに読みやすくまた値段も安くなることから、直木賞に比べて作品の売り上げが伸びやすい理由となっている。300枚未満で連作ではないもの、何らかの雑誌で掲載済みのものならノミネートの対象になる。", "qas": [ { "question": "芥川賞第1回の受賞者は誰なの?", "id": "de-015-04-000", "answers": [ { "text": "石川達三", "answer_start": 91, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "柴田翔、石川達三、村上春樹のうち、芥川賞を貰ったことのない人は誰ですか。", "id": "de-015-04-001", "answers": [ { "text": "村上春樹", "answer_start": 324, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "純文学の新人賞として設けられている芥川賞であるが、大衆文学の賞として設けられている直木三十五賞(直木賞)との境界があいまいになることがしばしばある。第6回(1937年下半期)直木賞には純文学の作家として名をなしていた井伏鱒二が受賞しており、直木賞選考委員の久米正雄は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている。のちに社会派推理作家として一般に認知された松本清張は、「或る『小倉日記』伝」で1952年下半期に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった。第46回(1961年下半期)の両賞では宇能鴻一郎が芥川賞を、伊藤桂一が直木賞をとり、このとき文芸評論家の平野謙は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている。同様の事態は第111回(1998年上半期)にも起こり、このときには私小説の作家であった車谷長吉が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた花村萬月、ハードボイルド調の作品を書いていた藤沢周が芥川賞を取ったことで話題となった。\n\n芥川賞に比べて直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、檀一雄、柴田錬三郎、山田詠美、角田光代、島本理生などのように芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。1950年代までは柴田錬三郎「デスマスク」(第25回・1951年上半期)、北川荘平「水の壁」(第39回・1958年上半期)など芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。", "qas": [ { "question": "第46回の芥川賞と直木賞に対して、両賞が逆になったのではないかと錯覚すると言った文学評論家は誰ですか。", "id": "de-015-05-000", "answers": [ { "text": "平野謙", "answer_start": 365, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「デスマスク」の著者は誰なの?", "id": "de-015-05-001", "answers": [ { "text": "柴田錬三郎", "answer_start": 624, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "芥川賞のジャーナリスティックな性格はしばしば批判の的となるが、設立者の菊池自身は「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりと商業的な性格があることを認めている。菊池は賞に公的な性格を与えるため1937年に財団法人日本文学振興会を創設し両賞をまかなわせるようになったが同会の財源は文藝春秋の寄付に拠っており、役員も主に文藝春秋の関係者が就任している(事務所も文藝春秋社内)。また設立当初には選考委員に選ばれている作家の偏りが批判されたが、これに対し菊池は「芥川賞の委員が偏しているという非難をした人があるが、あれはあれでいいと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である(中略)プロレタリア文学の傑作のためには、小林多喜二賞といったものが創設されてよいのである」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年2月号)という見方を示している。\n\n文学賞に対する批判本『文学賞メッタ斬り!』を著した大森望、豊崎由美は現在の芥川賞の問題点として選考委員が「終身制」で顔ぶれがほとんど変わらないこと、選考委員が必ずしも現在の文学に通じている人物ではないこと、選考委員の数が多すぎて無難な作品が受賞しがちなこと、受賞作が文藝春秋の雑誌である『文学界』掲載作品に偏りがちであることなどを挙げている。また豊崎は改善策として選考委員の任期を4年程度に定め、選考委員の3分の1は文芸評論家にするなどの案を示している。", "qas": [ { "question": "芥川賞の設立者は誰ですか。", "id": "de-015-06-000", "answers": [ { "text": "菊池", "answer_start": 35, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大森望、豊崎由美が書いた、文学賞に対する批判本のタイトルは何ですか。", "id": "de-015-06-001", "answers": [ { "text": "『文学賞メッタ斬り!』", "answer_start": 468, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "豊崎由美は、芥川賞の選考委員の任期は何年程度が適当であると主張しましたか。", "id": "de-015-06-002", "answers": [ { "text": "4年程度", "answer_start": 648, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "津島市立図書館", "paragraphs": [ { "context": "津島市立図書館(つしましりつとしょかん)は、愛知県津島市の公共図書館である。\n名称変更13回、所在地変更12回を数える。\n1895年に凱旋紀念書籍館として創設された図書館を起源とし、1897年の津島高等小学校図書館時代に公共図書館として認可された。\n津島高等小学校図書館は愛知県で初めて認可された公共図書館であり、全国で31番目に認可された公共図書館である。\n本館のほかに神守分室と神島田分室がある。", "qas": [ { "question": "津島市立図書館が行った回数が多かったのは名称変更と所在地変更のどちらですか?", "id": "de-016-00-000", "answers": [ { "text": "名称変更", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "愛知県で最初の公共図書館になったのは何という図書館ですか?", "id": "de-016-00-001", "answers": [ { "text": "津島高等小学校図書館", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "全国で31番目に認可された公共図書館の現在の名称は何?", "id": "de-016-00-002", "answers": [ { "text": "津島市立図書館", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1889年(明治22年)10月1日には愛知県が市制と町村制を実施しており、尾張地方西部に位置する海部郡(当時は海東郡と海西郡)では同日に津島村と蟹江村の2自治体が町制を施行した。\n津島神社の門前町である津島町は海東西郡の中心地であり、片岡春吉が純毛織物の生産を開始した明治31年以後には繊維産業で栄えた。\n1895年(明治28年)12月22日、海東海西郡教育会は日清戦争の勝利を記念して、海東郡39ヶ町村学校組合立津島高等小学校(現・津島市立南小学校)内に海東海西郡教育会附属凱旋紀念書籍館(しょじゃくかん)を創設した。\n教育会が軍人の子弟に支給する学費のために会員から募った寄付金の余剰金を開館資金に充てているが、運営資金には苦労している。\n明治30年代には日本各地に教育会付属図書館(私立図書館)が設置されたが、凱旋紀念書籍館はその最初期の図書館であり、また日清戦争の戦勝記念として建設された日本唯一の図書館だった。\n紀念書籍館には787点の蔵書があったが、97.2%にあたる765点は寄贈書であり、新規に購入した図書は22点に過ぎなかった。\n本棚は3個しかなく、1895年度(約3か月間)の閲覧者はわずか12人だった。\n海東海西郡教育会は当初から資金力を不安視しており、公立移管が望ましいという見解を持っていた。", "qas": [ { "question": "凱旋紀念書籍館の開館当初、本棚はいくつしかなかったですか?", "id": "de-016-01-000", "answers": [ { "text": "3個", "answer_start": 477, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "凱旋紀念書籍館は、寄贈書と新規に購入した図書のどちらの蔵書数が多かったですか?", "id": "de-016-01-001", "answers": [ { "text": "寄贈書", "answer_start": 445, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "凱旋紀念書籍館は何戦争による戦勝記念として建てられたの?", "id": "de-016-01-002", "answers": [ { "text": "日清戦争", "answer_start": 381, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "翌1896年(明治29年)に海東西郡が東西に分割されると、海東郡教育会に蔵書721点、海西郡教育会に蔵書100点が分割された。\n凱旋紀念書籍館の建物は海東郡教育会の附属となり、海東郡教育会附属凱戦紀念書籍館に改称したが、分割騒動、蔵書の縮小、水害などによって1896年度は図書館としてほとんど機能していなかったとされる。", "qas": [ { "question": "分割された蔵書数が多かったのは海東郡教育会と海西郡教育会のどちらですか?", "id": "de-016-02-000", "answers": [ { "text": "海東郡教育会", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "凱旋紀念書籍館の改称後の施設名は何ですか?", "id": "de-016-02-001", "answers": [ { "text": "海東郡教育会附属凱戦紀念書籍館", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "海東郡教育会が運営費用を捻出できなかったために、1897年(明治30年)9月には海東郡39ヶ町村学校組合に移管され、学校組合立の津島高等小学校図書館となった。\n学校組合は図書館規則や予算を定め、これによって文部省から公共図書館として認可された。\n明治政府が全国の自治体に図書館の設置を促す図書館令を出す前のことであり、愛知県初の公共図書館、全国初の町村組合立図書館、全国31番目の公共図書館である。\n当時の利用者数は1日あたり1人程度だった。", "qas": [ { "question": "公共図書館としての認可を受けたのは何年でしたか?", "id": "de-016-03-000", "answers": [ { "text": "1897年", "answer_start": 24, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1900年(明治33年)、学校組合は図書館を海東図書館に改称し、個人の蔵書を設置してもらう委託図書制度、館外貸出に際する保証金の撤廃、図書館費の大幅増加などの施策を打った。\n1901年(明治34年)4月には海東郡図書館に改称し、海東郡図書館の初代館長には衆議院議員や愛知県議会議員を務めた加藤喜右衛門が就任した。\n1902年(明治35年)には多数の愛知県議が関与した収賄事件に巻き込まれて加藤が辞職し、後に津島町長を務める大橋武左衛門が館長に就任した。", "qas": [ { "question": "加藤喜右衛門の次に海東群図書館の館長を務めたのは誰ですか?", "id": "de-016-04-000", "answers": [ { "text": "大橋武左衛門", "answer_start": 211, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "海東郡図書館の改称前の名前は何でしたか?", "id": "de-016-04-001", "answers": [ { "text": "海東図書館", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "海東郡図書館の初代館長は誰が務めましたか?", "id": "de-016-04-002", "answers": [ { "text": "加藤喜右衛門", "answer_start": 144, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "加藤が海東郡図書館の館長を辞めたのはいつでしたか?", "id": "de-016-04-003", "answers": [ { "text": "1902年", "answer_start": 157, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1904年(明治37年)には蟹江町と甚目寺村が独自の高等小学校を設置したため、39ヶ町村学校組合は1903年度末で解散。\n1904年4月には海東郡立図書館に改称した。\n1906年には愛知県知事の主導でいわゆる「明治後期の大合併」が実施され、海東郡は41町村から12町村まで統合が進んだ。\nこの段階で地方公共団体としての「町」であったのは津島町と蟹江町だけであり、あとの10自治体は「村」であった。", "qas": [ { "question": "12町村のうち「町」は蟹江町とどこでしたか?", "id": "de-016-05-000", "answers": [ { "text": "津島町", "answer_start": 168, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1907年(明治40年)4月15日には海東郡立戦勝紀念図書館に改称。\n1909年(明治42年)には各自治体が町村立小学校に高等科を設置したため、津島町外4ヶ村学校組合が解散して津島高等小学校が廃校となった。\n図書館は同一敷地内の女子高等小学校校舎に移転し、この女子高等小学校は1909年4月から藤里尋常高等小学校今市場仮教場となっている。\n藤里尋常高等小学校今市場仮教場は、尾西鉄道(現・名鉄尾西線)津島駅の南西、津島街道と興禅寺に挟まれた場所にあった。", "qas": [ { "question": "1907年4月15日に図書館の名前は何に変わりましたか?", "id": "de-016-06-000", "answers": [ { "text": "海東郡立戦勝紀念図書館", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "海東郡立戦勝紀念図書館はどこの校舎に移転したの?", "id": "de-016-06-001", "answers": [ { "text": "女子高等小学校校舎", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1910年(明治43年)4月には巡回文庫を開始。\n図書館外に設けた配本所に毎月数十冊の図書を置くものであり、当時としては珍しい試みだった。\n1911年の蔵書数は4,600点超、利用者数は15,628人であり、愛知県下9図書館の中でも圧倒的に利用者数が多かった。\n1913年(大正2年)に海東郡と海西郡が合併して海部郡となると、西柳原町の海部郡役所に移転して海部郡立図書館に改称。\n海部郡立図書館は海部郡内の18町村すべてに巡回文庫を設置するという先駆的な試みを行った。\n1923年(大正12年)から1926年(大正15年)の名称は海部郡教育会附属図書館である。\n1926年に郡役所が廃止されると、海部郡立図書館は一時的に廃館となり、蔵書の30%に相当する約2,500冊が失われた。", "qas": [ { "question": "巡回文庫がスタートしたのは何年からですか?", "id": "de-016-07-000", "answers": [ { "text": "1910年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "先に使われた名称は海部郡教育会附属図書館と海部郡立図書館のどちらですか?", "id": "de-016-07-001", "answers": [ { "text": "海部郡立図書館", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1911年の利用者数は何人でしたか?", "id": "de-016-07-002", "answers": [ { "text": "15,628人", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1926年に海部郡立図書館は何冊の図書を失いましたか?", "id": "de-016-07-003", "answers": [ { "text": "約2,500冊", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "廃館後には旧海部郡立図書館の蔵書が八開村に引き継がれたものの、津島町はその蔵書を買い取った。\n1927年(昭和2年)6月には旧海部郡図書館の建物に6,252冊の蔵書が運び込まれ、7月には津島町長の足立弥四郎が町長と兼任で館長に就任、愛知県から図書館設置の了承を得た。\n図書館規定や規則を制定し、10月15日に津島町立図書館の開館式典が執り行われた。\n延床面積は閲覧室81m2、書庫35m2、事務室40m2で計156m2だった。\n愛知県図書館協会が1928年に刊行した『愛知県下公私立図書館記念写真帖』は、津島市立図書館の開館年を1895年(凱戦紀念書籍館の開館年)や1897年(津島高等小学校図書館の開館年)ではなく1927年であるとしている。\n1930年(昭和5年)に足立が館長を退任すると、津島町助役の木村復一が助役と兼任で館長に就任、図書館長は津島町長やそれに準ずる地位の人物が兼任する名誉職としての地位が続いた。\n1931年(昭和6年)3月20日には図書館に隣接していた海部郡農業館(89m2)に移転した。\nこれは暫定的な移転であり、1932年(昭和7年)3月9日には農業館から元の建物に戻っている。", "qas": [ { "question": "閲覧室、書庫、事務室の中で延床面積が最も広かったのはどこですか?", "id": "de-016-08-000", "answers": [ { "text": "閲覧室", "answer_start": 180, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "閲覧室、書庫、事務室の中で延床面積が最も狭かったのはどこですか?", "id": "de-016-08-001", "answers": [ { "text": "書庫", "answer_start": 188, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "津島町長を務めながら図書館長を引き受けた人は誰ですか?", "id": "de-016-08-002", "answers": [ { "text": "足立弥四郎", "answer_start": 98, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『愛知県下公私立図書館記念写真帖』を刊行した機関はどこですか?", "id": "de-016-08-003", "answers": [ { "text": "愛知県図書館協会", "answer_start": 214, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "天王川公園の堤防北側、南門前町には津島町公会堂があった。\n1935年(昭和10年)には津島町公会堂1階にあった商品館を廃止して、411円43銭の移転費で旧海部郡図書館の建物から移転した。\n公会堂全体の建築面積は109坪(360m2)であり、図書館の館内面積は移転前の2倍以上となっている。\n津島町立図書館時代には元津島町長の小島音三郎や元市江村長の江上定義が嘱託(事実上の館長)として図書館整備に努めている。\n小島は図書館内に津島町史編纂所を移設し、町史編纂の過程で収集した郷土資料を逐次図書館に移管した。\n小島は岡崎市立図書館や三重県の亀山町立図書館(現・亀山市立図書館)を視察し、また『図書分類目録』の原版を作成している。\n昭和初期の図書館利用者は1日平均約10人だった。", "qas": [ { "question": "旧海部郡図書館の建物からどの施設に移転したの?", "id": "de-016-09-000", "answers": [ { "text": "津島町公会堂", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『図書分類目録』の原版作成者は誰?", "id": "de-016-09-001", "answers": [ { "text": "小島", "answer_start": 254, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2年後の1937年(昭和12年)4月には津島町公会堂の売却が決定されたため、5月17日から近隣の津島第二尋常小学校(現・津島市立西小学校)の旧校舎内への移転を開始し、5月27日に再開館した。\n1938年(昭和13年)には図書館内で編纂作業が行われていた『津島町史』が刊行され、印刷開始から1か月で売り切れるほどの反響があった。\n9月には精力的に活動していた小島が退任し、町史編纂に携わっていた江上が嘱託に就任。\n江上は座談会・講演会・資料展覧会などを開催し、また小学校などへの巡回文庫を16年ぶりに復活させて利用者の増加に努めた。", "qas": [ { "question": "小島が図書館の嘱託を退任したのは何年でしたか?", "id": "de-016-10-000", "answers": [ { "text": "1938年", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "江上が編纂に携わっていた刊行物のタイトルとは何?", "id": "de-016-10-001", "answers": [ { "text": "『津島町史』", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1939年(昭和14年)には津島尋常第二小学校の敷地内に図書館専用建物が建設され、10月10日に旧校舎内から移転した。\nこの建物は49坪(162m2)であり、書庫、男女別の閲覧室、応接室、事務室、小吏室などがあった。\n1940年(昭和15年)には江上が大垣市立図書館を視察、同年には館外貸出に対する保証金を緩和して館外貸出を奨励したとされる。\n1941年(昭和16年)には津島町出身の詩人ヨネ・ノグチを顕彰し、ノグチの著作物や関連図書を収集した野口文庫を設置した。\n1942年(昭和17年)3月末日には『津島町図書館図書分類目録』を完成させた。\n10月20日に愛知県図書館協会が巡回用貸出文庫の制度を施行すると、津島町立図書館はすぐさまこの制度を活用している。", "qas": [ { "question": "津島尋常第二小学校の敷地内に建設された図書館専用建物は何坪でしたか?", "id": "de-016-11-000", "answers": [ { "text": "49坪", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "野口文庫の野口とは誰のことですか?", "id": "de-016-11-001", "answers": [ { "text": "ヨネ・ノグチ", "answer_start": 194, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヨネ・ノグチの功績を称えて図書館に設置されたものとは何ですか?", "id": "de-016-11-002", "answers": [ { "text": "野口文庫", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "太平洋戦争時には閉館を余儀なくされる公共図書館もあったが、津島町は戦火に見舞われることもなく、閲覧者は減少したものの活動が続けられた。\n戦時中には特高警察による検閲や没収も経験している。\n1944年(昭和19年)8月以降には出征者が増加し、児童・学生の勤労奉仕が活発となったため、男性利用者数が激減し、図書館の歴史上初めて女性利用者が男性を上回った。\n1945年(昭和20年)3月20日には南門前町から天王通り5丁目の職業安定所跡地に移転した。\n1947年(昭和22年)3月1日には津島町が市制施行して津島市となり、津島市立図書館に改称した。\n同年11月16日には南門前町の旧館に再移転している。\n1948年(昭和23年)には市制施行を記念して『津島市図書館図書目録』を刊行したが、戦後しばらくは利用者数が極めて少なかった。\n1949年(昭和24年)頃には図書館内にはCIE図書室が設置されている。", "qas": [ { "question": "1944年8月以降の時点で、図書館の利用者は男性と女性のどちらが多かったですか?", "id": "de-016-12-000", "answers": [ { "text": "女性", "answer_start": 161, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "天王通り5丁目にはかつて何がありましたか?", "id": "de-016-12-001", "answers": [ { "text": "職業安定所", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "南門前町の旧館に再移転したのは何年でしたか?", "id": "de-016-12-002", "answers": [ { "text": "1947年", "answer_start": 223, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1949年頃に図書館内に設置されたものとは何?", "id": "de-016-12-003", "answers": [ { "text": "CIE図書室", "answer_start": 384, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1951年(昭和26年)4月1日には津島市立図書館から津島市立津島図書館に改称。\n1950年(昭和25年)10月27日には図書館の前庭にヨネ・ノグチの銅像が設置されたが、図書館利用者の少なさが原因で市民の目に触れなかったことから、2年後の1952年(昭和27年)8月には天王川公園の中ノ島に移設された。\n1957年(昭和32年)には津島町出身の生化学者である杉浦兼松から1万円の寄付を受けて杉浦兼松文庫を設置、以後も杉浦から寄付を受ける度に文庫を拡大させた。\n1958年(昭和33年)には本格的に館外貸出サービスを開始し、この年からは館外貸出冊数を独立した統計としている。\n1959年(昭和34年)9月に東海地方を襲った伊勢湾台風では浸水被害こそなかったものの、屋根の破損、天井の崩落、土壁の剥落などの被害(被害額17万円)が生じた。\n屋根の損傷による雨漏りが原因で、約17,000冊の蔵書のうち約300冊が水に濡れて損害を受け、さらに貸出中の300冊も水濡れ被害を受けるか流出した。\n津島市内の他の公共施設と比べて復旧が遅れ、1960年(昭和35年)2月11日まで長期休館を余儀なくされた。", "qas": [ { "question": "ヨネ・ノグチの銅像が最初に設置されていた場所は図書館のどこですか?", "id": "de-016-13-000", "answers": [ { "text": "前庭", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "杉浦兼松文庫は杉浦自身からいくらの寄付をもとに設置されましたか?", "id": "de-016-13-001", "answers": [ { "text": "1万円", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "伊勢湾台風で図書館が負った被害総額はいくらでしたか?", "id": "de-016-13-002", "answers": [ { "text": "17万円", "answer_start": 357, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1959年9月に東海地方に大被害を与えた自然災害とは何でしたか?", "id": "de-016-13-003", "answers": [ { "text": "伊勢湾台風", "answer_start": 310, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1961年(昭和36年)6月24日-27日には梅雨前線豪雨(三六災害)が愛知県西部を襲い、日光川・領内川・目比川など近隣の河川が軒並み氾濫、尾西市・祖父江町・津島市などは広範囲に渡って冠水した。\n図書館の玄関前の水位も約60cmに達したが、図書館の建物入口にはこれを上回る高さの階段があったため、床上浸水は免れている。\n7月2日には水が引いたものの、後片付けなどのために7月13日まで休館した。\n1962年(昭和37年)2月には津島町出身でアメリカ・ロサンゼルス在住の武藤竹代から洋書184冊の寄贈を受け、武藤文庫を設置した。\n1964年(昭和39年)4月1日には津島市立津島図書館から津島市市立図書館に改称した。\n9月には図書館専用の電話回線が開設された。\n同年には津島市青少年問題協議会が「悪書」13トンを回収して古紙再生業者に売却し、図書館はその売上金で購入された300冊の寄贈を受けた。", "qas": [ { "question": "1961年6月24日-27日に愛知県西部に大被害を与えた自然災害とは何でしたか?", "id": "de-016-14-000", "answers": [ { "text": "梅雨前線豪雨", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "武藤竹代はどのようなジャンルの書物を図書館に寄贈したの?", "id": "de-016-14-001", "answers": [ { "text": "洋書", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "寄贈冊数が多かったのは武藤竹代と津島市青少年問題協議会のどちらからですか?", "id": "de-016-14-002", "answers": [ { "text": "津島市青少年問題協議会", "answer_start": 334, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "津島市青少年問題協議会が300冊の寄贈を行ったのは何年でしたか?", "id": "de-016-14-003", "answers": [ { "text": "1964年", "answer_start": 264, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1967年(昭和42年)に市制20周年を迎えた津島市は、記念事業の一環として同一敷地内に図書館を新築した。\n1966年(昭和41年)12月1日には木造館が閉館、1967年3月31日に鉄筋コンクリート造の新図書館が竣工し、4月9日に開館した。\n鉄筋コンクリート造平屋建、延床面積364m2であり、総工費は1040万円であった。\nこの新館は一般室、児童室、新聞雑誌コーナーなどからなり、ニューアーク方式による利用者登録制度を導入した。\n津島ライオンズクラブからの寄付金75万円を元に図書を購入して、新館には津島ライオンズクラブ文庫が設置された。", "qas": [ { "question": "新図書館で導入されたのは何式の利用者登録制度?", "id": "de-016-15-000", "answers": [ { "text": "ニューアーク方式", "answer_start": 191, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "津島ライオンズクラブからいくらの寄付金をもらいましたか?", "id": "de-016-15-001", "answers": [ { "text": "75万円", "answer_start": 232, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "新図書館の建物には何の建材が使用されたの?", "id": "de-016-15-002", "answers": [ { "text": "鉄筋コンクリート", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "新図書館の総工費はいくらでしたか?", "id": "de-016-15-003", "answers": [ { "text": "1040万円", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1968年(昭和43年)10月から1969年(昭和44年)4月まで長期休館し、361m2の2階部分を増築。\n閲覧室、読書室、集会室、展示室、書庫などが設けられた。\nこれによって延床面積は725m2となり、後の閉架書庫増築によって771m2となっている。\n延床面積は約2倍に増加し、蔵書数は尾張地方屈指の多さとなったものの、長期休館の影響もあって利用者は低迷。\n小中高校生以外の一般利用者がほとんどいないと関係者が嘆く状況だった。\n1968年に行われた閲覧情報調査によると、学生が58%、児童が25%、一般が17%であり、利用者数がもっとも多かったのは児童・生徒の夏休みと重なる7月・8月だった。", "qas": [ { "question": "1968年に行われた閲覧情報調査で最も利用者が多かった対象者は何ですか?", "id": "de-016-16-000", "answers": [ { "text": "学生", "answer_start": 236, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "エリザベス1世", "paragraphs": [ { "context": "エリザベス1世はヘンリー8世の王女として生まれたが、2年半後に母アン・ブーリンが処刑されたため、庶子とされた。弟のエドワード6世はジェーン・グレイへの王位継承に際して姉たちの王位継承権を無効としている。続くカトリックのメアリー1世の治世ではエリザベスはプロテスタントの反乱を計画したと疑われて1年近く投獄されたものの、1558年にメアリー1世が死去すると王位を継承した。", "qas": [ { "question": "エリザベス1世の父は誰か。", "id": "de-017-00-000", "answers": [ { "text": "ヘンリー8世", "answer_start": 8, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エリザベス1世の母は誰か。", "id": "de-017-00-001", "answers": [ { "text": "アン・ブーリン", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エドワード6世とエリザベス1世ともっとあとで生まれのは誰かな。", "id": "de-017-00-002", "answers": [ { "text": "エドワード6世", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エリザベス1世の直前に王位を継承したのは誰なの?", "id": "de-017-00-003", "answers": [ { "text": "メアリー1世", "answer_start": 109, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "統治においてエリザベスは父や弟、姉よりも穏健であった。彼女のモットーの一つは「私は見る、そして語らない」あった。この方策は顧問団からは苛立ちをもって受けとめられたが、しばしば政略結婚から彼女を救っている。1588年のスペイン無敵艦隊に対する勝利と彼女の名は永遠に結びつけられ、英国史における最も偉大な勝利者として知られることになった。エリザベスの没後20年ほどすると彼女は黄金時代の統治者として称えられるようになった。\n\nエリザベスの治世は、ウィリアム・シェイクスピアやクリストファー・マーロウといった劇作家によるイギリス・ルネサンス演劇や、フランシス・ドレークやジョン・ホーキンスなど優れた航海士の冒険者たちが活躍したエリザベス時代として知られる。\n\n一部の歴史家たちはエリザベスを運に恵まれた短気な、そしてしばしば優柔不断な統治者と捉えている。治世の終わりには一連の経済的・軍事的問題によって彼女の人気は衰え、臣下たちは彼女の死に安堵している。エリザベスは政府が弱体で、王権が限定された時代、また近隣諸国の王家ではその王座を脅かす国内問題に直面していた時代におけるカリスマ的な実行者、そして粘り強いサバイバーとして知られる。弟と姉の短期間の治世を経た彼女の44年間の在位は、王国に好ましい安定をもたらし、国民意識を作り出すことになった。", "qas": [ { "question": "「私は見る、そして語らない」は誰のモットーだったか。", "id": "de-017-01-000", "answers": [ { "text": "エリザベス", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1588年のスペイン無敵艦隊に対する勝利によって英国史における最も偉大な勝利者として知られている人物は誰ですか。", "id": "de-017-01-001", "answers": [ { "text": "エリザベス", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence 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"アンは王妃の通例と異なり、妊娠中に聖エドワード王冠を戴冠している。歴史家アリス・ハントは、これはアンの妊娠が戴冠式の時点で既に明瞭になっており、彼女は男子を妊娠していると予想されていたためであったと指摘している。アンは1533年9月7日午後3時から4時頃にグリニッジ宮殿で女子を出産し、祖母に当たるエリザベス・オブ・ヨークおよびエリザベス・ハワードにちなんで名づけられた。期待する男子ではなかったが、エリザベスはヘンリー8世にとっての存命する2人目の嫡出子であり、誕生と同時に彼女はイングランド王位推定相続人となった。一方、前王妃キャサリン・オブ・アラゴンとの娘である姉メアリーの嫡出子としての地位は失われていた。\n\nエリザベスの洗礼式は9月10日にグリニッジ宮殿で挙行された。大主教トマス・クランマーが名親にノーフォーク公爵未亡人そしてドーセット侯爵夫人、エクセター侯爵夫人が代母となった。", "qas": [ { "question": "エリザベスの洗礼式はいつ行われたの?", "id": "de-017-03-000", "answers": [ { "text": "9月10日", "answer_start": 319, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "エリザベスの洗礼式はどこで行われたの?", "id": "de-017-03-001", "answers": [ { "text": "グリニッジ宮殿", "answer_start": 325, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アンはエリザベスをいつ出産したの?", "id": "de-017-03-002", "answers": [ { "text": "1533年9月7日", "answer_start": 109, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "エリザベスの誕生後、アンは男子を産むことができなかった。彼女は1534年と1536年に少なくとも2度の流産に見舞われた後に逮捕されロンドン塔に送られた。アンは捏造された不義密通の容疑による有罪が宣告され、1536年5月19日に斬首刑に処されている。\n\nこの時、2歳8か月だったエリザベスは庶子とされ、王女の称号を剥奪された。アン・ブーリンの死の11日後にヘンリー8世はジェーン・シーモアと再婚したが、彼女はエドワード王子を生んだ12日後に死去している。エリザベスはエドワード王子の邸宅に住まい、彼の洗礼式の際には白衣または洗礼衣を捧持している。\n\nその後、ヘンリー8世は2度の離婚を経て1543年にキャサリン・パーを王妃に迎えた。同年、最後の王妃となったキャサリン・パーの説得により第三王位継承法が発令され、メアリーとエリザベスに、庶子の身分のままではあったが、王位継承権が復活された。キャサリン・パーとエリザベスは親密になり、1544年にエリザベスはフランス語の宗教詩『罪深い魂の鏡』を英訳してキャサリン・パーへ贈呈したが、刺繍を施したその本の装丁はエリザベス自身が作製したという。", "qas": [ { "question": "アンはいつ死んだの?", "id": "de-017-04-000", "answers": [ { "text": "1536年5月19日", "answer_start": 102, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アン・ブーリンの死から何日経って、ヘンリー8世はジェーン・シーモアと再婚したか。", "id": "de-017-04-001", "answers": [ { "text": "11日後", "answer_start": 172, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "エリザベスの最初の養育係のマーガレット・ブライアン夫人は彼女は「覚えの良い子供のようであり、そして私の知る限りのすこやかに成長されている」と書き記している。1537年秋からエリザベスはトロイ公爵夫人ブランチ・ハーバートに養育され、彼女は引退する1545年または1546年まで養育係を務めている。キャサリン・チャンパーノウン(結婚後のキャット・アシュリーの名でより知られている)は1537年にエリザベスの女家庭教師に任命され、彼女が死去してブランチ・パーリーが女官長を引き継ぐ1565年までエリザベスの友人であり続けた。彼女は優れた初期教育をエリザベスに施しており、1544年にウィリアム・グリンダルが家庭教師になったときには、エリザベスは英語、ラテン語そしてイタリア語を書くことができた。優秀で熟練した教師であるグリンダルの元でエリザベスはフランス語とギリシャ語を学んでいる。グリンダルが1548年に死去すると、エリザベスはグリンダルの師でラテン語の権威の教師ロジャー・アスカムから教育を受けた。1550年に正式な教育を終えた時、彼女は同時代における最も教養のある女性になっていた。", "qas": [ { "question": "エリザベスの最初の養育係は誰なの?", "id": "de-017-05-000", "answers": [ { "text": "マーガレット・ブライアン夫人", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウィリアム・グリンダルがエリザベスの家庭教師になったのはいつなの?", "id": "de-017-05-001", "answers": [ { "text": "1544年", "answer_start": 282, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1547年、エリザベスが13歳の時に父ヘンリー8世が死去し、幼い異母弟のエドワード6世が即位した。母方の伯父ハフォード伯エドワード・シーモアがサマセット公爵そして保護卿となって実権を握り、その弟のスードリー男爵トマス・シーモアは海軍卿になった。プロテスタント貴族に取り巻かれたエドワード6世は急進的なプロテスタント化政策を推し進めることになる。\n\nヘンリーの最後の王妃であったキャサリン・パーは程なくトマス・シーモアと再婚する。夫妻はエリザベスをチェルシーの邸宅に引き取った。ここで彼女は情緒的危機に直面し、歴史家の中にはこの事件が彼女の人生に悪影響を残したと考える者もいる。シーモアは40歳に近かったが魅力的で「強いセックスアピール」を有しており、14歳のエリザベスは、キャサリンの説得により自らの王位継承権が復活され、自身も残っている手紙の中でキャサリンを「大好きなお母様」と呼んでいたにも拘らず、シーモアと騒々しく遊び、悪ふざけをした。シーモアは寝間着姿でエリザベスの寝室に入り込んだり、馴れ馴れしく彼女の臀部を叩いたりすることもあった。ある日、キャサリン・パーが抱き合っている2人を見つけ、彼女はこの状況を終わりにさせた。1548年5月にエリザベスは追い出されている。", "qas": [ { "question": "父が死んだとき、エリザベスは何歳だったの?", "id": "de-017-06-000", "answers": [ { "text": "13歳", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘンリーの最後の王妃は誰だったの?", "id": "de-017-06-001", "answers": [ { "text": "キャサリン・パー", "answer_start": 188, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "キャサリン・パーの再婚相手は誰?", "id": "de-017-06-002", "answers": [ { "text": "トマス・シーモア", "answer_start": 200, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "シーモアは王室支配のための企てを続けていた。同年9月5日にキャサリン・パーが産褥熱で死去すると、彼はエリザベスへ再び関心を向け、彼女との結婚を意図した。彼の兄サマセット公と枢密院にとって、これは我慢の限界であり、1549年1月にシーモアはエリザベスとの結婚により兄の打倒を企てた容疑で逮捕された。トマス・シーモアとエリザベスとの関係の詳細についてはキャット・アシュリーとエリザベスの金庫役・トマス・パリーへの訊問で明らかにされている。ハットフィールド・ハウスに住んでいたエリザベスは関与を認めなかった。彼女の強情さは訊問者ロバート・ティルウィト卿を憤慨させ、彼は「私は彼女の顔を見て、彼女は有罪だと理解した」と報告している。同年3月20日にシーモアは斬首刑に処された。\n\n1552年にサマセット公が失脚して処刑され、ノーサンバランド公ジョン・ダドリーが実権を握った。ノーサンバランド公は第三王位継承法を退けてメアリーとエリザベスの王位継承権を剥奪し、ヘンリー8世の妹メアリー・テューダーの孫にあたるジェーン・グレイを王位継承者とするようエドワード6世に提案した。カトリックのメアリーが王位を継ぐことを恐れたエドワード6世はこれを承認する。", "qas": [ { "question": "ヘンリー8世とメアリー・テューダーと、誰がもっと先に生まれた?", "id": "de-017-07-000", "answers": [ { "text": "ヘンリー8世", "answer_start": 425, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "メアリー・テューダーとジェーン・グレイと、もっと年上なのは誰?", "id": "de-017-07-001", "answers": [ { "text": "メアリー・テューダー", "answer_start": 433, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヘンリー8世とメアリー・テューダー、ジェーン・グレイのうち、誰が一番年上かな?", "id": "de-017-07-002", "answers": [ { "text": "ヘンリー8世", "answer_start": 425, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1553年7月6日、エドワード6世は15歳で死去した。枢密院によってジェーン・グレイの女王即位が宣言されたが彼女への支持はたちまち崩れ、彼女は僅か9日間の在位で廃位され、ノーサンバランド公とジェーン・グレイは処刑された。エリザベスはメアリーとともに意気揚々とロンドンへ乗り込んだ。\n\n見せかけの姉妹の結束は長くは続かなかった。イングランドで初めて異論のない女王となったメアリーはエリザベスが教育を受けたプロテスタント信仰の粉砕を決意し、全ての者がミサへ出席するよう命じた。これにはエリザベスも含まれており、彼女は表面上はこれに従った。メアリーが神聖ローマ皇帝カール5世の皇子フェリペとの結婚を計画していることが知れ渡ると当初の彼女への人気は衰えた。\n\n国内に急速に不満が広まり、多くの人々がメアリーの宗教政策に対抗する存在としてエリザベスに注目した。そして、1554年1月から2月にかけてイングランドとウェールズの各地でトマス・ワイアットに率いられた反乱が発生する。", "qas": [ { "question": "エドワード6世は何歳に死んだの?", "id": "de-017-08-000", "answers": [ { "text": "15歳", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1555年4月17日、エリザベスはメアリーの出産に立ち会うために宮廷に召喚された。もしも、メアリーと彼女の子が死ねば、エリザベスは女王となる。一方で、もしも、メアリーが健康な子を生めばエリザベスが女王となる機会は大きく後退することになる。結局、メアリーが妊娠していないことが明らかになり、もはや彼女が子を産むと信じる者はいなくなった。エリザベスの王位継承は確実になったかに見られ、メアリーの夫のフェリペでさえ、新たな政治的現実を認識するようになり、この頃から彼はエリザベスと積極的に交わるようになった。彼はもう一人の王位継承候補者であるスコットランド女王メアリー(フランスで育ち、王太子フランソワの婚約者)よりもエリザベスが好ましいと考えた。\n\nメアリーは1556年にスペイン王に即位した夫フェリペの要請により、1557年にフランスとの戦争に参戦するが、大陸に唯一残されていた領土カレーを失う結果を招いてしまう。\n\n1558年にメアリーが病に倒れると、フェリペはエリザベスと協議すべくフェリア伯を派遣した。10月までにエリザベスは彼女の政府のための計画を作成している。11月6日にメアリーはエリザベスの王位継承を承認し、その11日後の11月17日に彼女はセント・ジェームズ宮殿で死去した。議会は第三王位継承法に基づきエリザベスの王位継承を承認した。", "qas": [ { "question": "メアリーと彼女の子が死ねば、次に女王になるのは誰ですか。", "id": "de-017-09-000", "answers": [ { "text": "エリザベス", "answer_start": 59, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "メアリーの夫フェリペはいつスペイン王に即位したか。", "id": "de-017-09-001", "answers": [ { "text": "1556年", "answer_start": 328, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "メアリーは何月何日にエリザベスの王位継承を承認したか。", "id": "de-017-09-002", "answers": [ { "text": "11月6日", "answer_start": 484, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "メアリーが死んだのは何月何日ですか。", "id": "de-017-09-003", "answers": [ { "text": "11月17日", "answer_start": 517, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "エリザベスの治世の初めから彼女の結婚が待望されたが、誰と結婚するかが問題となっていた。数多くの求婚があったものの彼女が結婚することはなく、その理由は明らかではない。歴史家たちはトマス・シーモアとの一件が彼女に性的関係を厭わせた、もしくは自身が不妊体質であると知っていたと推測している。\n\nエリザベスは統治のための男性の助けを必要とせず、また、姉のメアリーに起きたように、結婚によって外国の干渉を招く危険もあった。未婚でいることによって外交を有利に運ぼうという政策が基本にあったという政治的な理由や母アン・ブーリンおよび母の従姉妹キャサリン・ハワードが父ヘンリー8世によって処刑され、また最初の求婚者トマス・シーモアも斬首されたことから結婚と「斧による死」が結びつけられた心理的な要因とする説もある。一方で、結婚は後継者をもうけ王家を安泰にする機会でもあった。\n\n彼女は50歳になるまで、幾人かの求婚者に対して考慮している。最後の求婚者は22歳年下のアンジュー公フランソワである。", "qas": [ { "question": "エリザベスの最後の求婚者は誰なの?", "id": "de-017-10-000", "answers": [ { "text": "アンジュー公フランソワ", "answer_start": 424, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エリザベスの最後の求婚者はエリザベスより何歳下だった?", "id": "de-017-10-001", "answers": [ { "text": "22歳", "answer_start": 418, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エリザベスとアンジュー公フランソワと誰がもっと年上なの?", "id": "de-017-10-002", "answers": [ { "text": "エリザベス", "answer_start": 144, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "エリザベスは(しばしば外交上の策略にしか過ぎない)結婚問題を公にし続けた。ダドリーの求婚は別として、エリザベスは結婚問題を外交政策として扱った。彼女はスペイン王フェリペ2世の求婚は1559年に拒否したものの、数年に亘り彼の従弟のオーストリア大公カール2世との婚姻を交渉している。\n\n議会は繰り返し結婚を請願したが、彼女は常に言葉を濁して答えていた。1563年に彼女は帝国の使節にこう語っている。「もしも私が私本来の意向に従うならば、『結婚した女王よりも、独身の乞食女』ということです」。同じ年にエリザベスが天然痘に罹ると後継者問題が激化した。議会は彼女の死による内戦を防ぐために女王に結婚か後継者の指名を迫った。その4月に彼女は議会を閉会させ、1566年に課税への支持を必要とするまで再開させなかった。庶民院は彼女が後継者を示すことに同意するまで特別補助金を差し控えると脅した。1566年議会でロバート・ベルがエリザベスの制止にもかかわらず、大胆にもこの問題を追及すると、彼は彼女の怒りの標的になり「ベル氏とその共犯者は貴族院で意見を開陳して、彼らを納得させなさい」と言われている。", "qas": [ { "question": "エリザベスがスペイン王フェリペ2世の求婚を断ったのは何年のことですか。", "id": "de-017-11-000", "answers": [ { "text": "1559年", "answer_start": 90, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エリザベスは何年に「もしも私が私本来の意向に従うならば、『結婚した女王よりも、独身の乞食女』ということです」という言葉を残しましたか。", "id": "de-017-11-001", "answers": [ { "text": "1563年に", "answer_start": 174, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エリザベスが天然痘にかかり、後継者問題が激化したのはいつですか。", "id": "de-017-11-002", "answers": [ { "text": "1563年", "answer_start": 174, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1568年にハプスブルクとの関係が悪化すると、代わりにエリザベスはフランスのヴァロワ家の2人の王子との結婚を考えた。最初はアンジュー公アンリであり、その後は彼の弟のアンジュー公フランソワである。この最後の提案は南ネーデルラントを支配していたスペインに対抗するためのフランスとの同盟構想と結びついていた。1579年にアンジュー公フランソワは求婚のため来英してエリザベスと面会しており、エリザベスは彼が噂されていたよりは「それほど醜くはない」ので、彼に「蛙(frog)」の愛称をつけた。エリザベスはこの求婚を真剣に考慮していたようで、アンジュー公が彼女へ贈った蛙形のイアリングを身につけている。カトリックのフランス王族との結婚には反対論が非常に強く、結局、この縁談は成立しなかった。1584年にアンジュー公フランソワは若くして死去し、この報を受けたエリザベスは悲しみ喪に服した。\n\nエリザベスの未婚は処女性の崇拝を生じさせた。詩や肖像画において、彼女は普通の女性ではなく処女や女神として描写された。当初はエリザベスの処女性を美徳とするものであった。1559年に彼女は庶民院において「大理石の墓石にこの時代を治めた女王、処女として生き、死んだと刻まれれば満足です」と発言している。これ以降、とりわけ1578年以降、詩人や作家たちはこの題材を取り上げ、エリザベスを称揚するイコンに転じた。隠喩(metaphor)や奇想(conceit)の時代、神の加護の元に彼女は王国そして臣民と結婚した者として描かれた。1599年にエリザベスは「私のよき臣民、すべてが私の夫だ」と語っている。", "qas": [ { "question": "アンジュー公アンリとアンジュー公フランソワと誰が年上なの?", "id": "de-017-12-000", "answers": [ { "text": "アンジュー公アンリ", "answer_start": 61, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エリザベスがアンジュー公フランソワにつけた愛称は何?", "id": "de-017-12-001", "answers": [ { "text": "「蛙(frog)」", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エリザベスが「私のよき臣民、すべてが私の夫だ」と語ったのはいつのことですか。", "id": "de-017-12-002", "answers": [ { "text": "1599年", "answer_start": 649, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1589年にプロテスタントのアンリ4世がフランス王位を継承すると、エリザベスは彼に援軍を送った。これは1563年に失敗に終わったル・アーブル占領以来のフランスへの軍事的冒険だった。アンリ4世の継承はカトリック同盟とフェリペ2世から強く異議を唱えられており、エリザベスは海峡諸港をスペインに奪われることを恐れていた。しかしながら、この後のフランスにおけるイングランド軍の軍事行動は秩序を欠き、効果のないものだった。\n\n兵4,000を率いるウィラビー卿は、エリザベスの命令を無視して行動し、ほとんど戦果もなく北フランスを徘徊しただけだった。彼は半数の兵を失い、1589年12月に無秩序に撤退した。1591年に兵3,000を率いてブルターニュで戦ったジョン・ノリスはより悲惨な結果に終わっている。これらの遠征において、エリザベスは司令官たちの補給や増援の要請を出し渋っていた。ノリスは自らロンドンへ赴き支援を嘆願している。彼の不在中の同年5月にカトリック同盟はクランの戦いで英軍の残余を撃滅した。", "qas": [ { "question": "アンリ4世がフランス王位を継承したのはいつなの?", "id": "de-017-13-000", "answers": [ { "text": "1589年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "エリザベスが老い、結婚もありえそうになくなると、彼女のイメージは次第に変わっていった。彼女はエドマンド・スペンサーの詩集『妖精の女王』ではベルフィービまたはアストライアーそしてアルマダの海戦以後は永遠に老いることのない女王グロリアーナとして描写されている。彼女の肖像画は次第に写実的ではなくなり、実際の彼女よりも若く見えるより謎めいたイコンとして描かれるようになっていった。実際の彼女の肌は1562年に罹患した天然痘の痕が残り、髪は半ば禿げあがり、カツラと化粧に頼っていた。ウォルター・ローリー卿は彼女を「時間が驚かされた貴婦人」と呼んだ。しかしながら、彼女の美貌がより失せるとともに、廷臣たちはより一層、褒め称えるようになった。\n\nエリザベスはこの役を演じることを楽しんだが、彼女の人生の最後の10年間に彼女は自らの演技を信じ込むようになり始めた可能性がある。彼女は魅力的な、だが無作法な若者であるエセックス伯ロバート・デヴァルーを溺愛して甘やかすようになり、彼は傍若無人に振る舞った。エセックス伯が戦場で無能ぶりを晒し続けるにもかかわらず、彼女は彼を幾度も軍事的な地位につけている。1599年にエセックス伯がアイルランドの戦場から逃亡すると、エリザベスは彼を自宅軟禁に置き、翌年には彼の独占特許状を奪い取った。1601年2月にエセックス伯はロンドンで反乱を起こして女王の拘束を企てたが、彼を支持する者は僅かしかいなく反乱は失敗に終わり、彼は2月25日に斬首された。エリザベスは自らの判断の誤りが、この事態を招く一端になったと感じた。「彼女の喜びは闇に閉ざされ、しばしばエセックスのために嘆き悲しみ涙を流した」と1602年のある観察者は記録している。", "qas": [ { "question": "エセックス伯は何月何年に死ぬか。", "id": "de-017-14-000", "answers": [ { "text": "2月25日", "answer_start": 622, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『妖精の女王』は誰の作品ですか。", "id": "de-017-14-001", "answers": [ { "text": "エドマンド・スペンサー", "answer_start": 46, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エドマンド・スペンサーの詩集『妖精の女王』でベルフィービまたはアストライアーそしてアルマダの海戦以後は永遠に老いることのない女王グロリアーナとして描写されている人物は誰か。", "id": "de-017-14-002", "answers": [ { "text": "エリザベス", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「彼女の喜びは闇に閉ざされ、しばしばエセックスのために嘆き悲しみ涙を流した」という記録は何年に書かれたものか。", "id": "de-017-14-003", "answers": [ { "text": "1602年", "answer_start": 707, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1598年8月4日にエリザベスの首席顧問官バーリー卿が死去した。彼の政治的責務は彼の息子ロバート・セシルに引き継がれ、彼はすぐに政府首班となった。彼に課せられた任務の一つが円滑な王位継承の準備であった。エリザベスが後継者の指名をしなかったため、セシルは秘密裏に進めざるをえなかった。それ故に彼は有力だが公認されていない王位継承権を持つスコットランド王ジェームズ6世との暗号を使った秘密交渉に入った。\n\n1602年秋まで女王の健康状態は良好だったが、友人たちの死が続き、彼女は深刻な鬱病に陥った。1603年2月のノッティンガム伯爵夫人キャサリン・ハワードの死去はとりわけ衝撃となった。3月に彼女の健康状態が悪化し「座り込み、そして拭いがたい憂鬱」のままとなる。4日間座り続け、1603年3月24日午前2時か3時、エリザベスはリッチモンド宮殿で死去した。69歳没。", "qas": [ { "question": "エリザベスが死んだ場所は?", "id": "de-017-15-000", "answers": [ { "text": "リッチモンド宮殿", "answer_start": 361, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ノッティンガム伯爵夫人キャサリン・ハワードはいつ死亡したか。", "id": "de-017-15-001", "answers": [ { "text": "1603年2月", "answer_start": 247, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "エリザベスは哀悼されたが、多くの人々は彼女の死に安堵した。ジェームズ国王に対する期待は高く、当初、人々は1604年のスペインとの戦争の終結と減税によって報われている。1612年のロバート・セシルの死まで、政府は従来の政策を踏襲していた。だが、ジェームズが国政を寵臣に委ねるようになると人気は衰え、そして1620年代に郷愁的なエリザベス崇拝が復活する。エリザベスはプロテスタント主義と黄金時代のヒロインとして賞賛された。エリザベスの治世の晩年に培った勝利者のイメージ(背景にあった派閥闘争や軍事的、経済的な苦境に反してだが)が額面通りに受け取られ、彼女の評判が膨れ上がった。グロスター主教ゴッドフリー・グッドマンは「スコットランド人の政府を経験すると、女王は復活するように思われた。その時は彼女の記憶がとても拡大していた。」と語っている。エリザベスの治世は国王、教会そして議会がバランスよく機能していた時代だったかのように理想化された。", "qas": [ { "question": "ロバート・セシルは何年に死んだか。", "id": "de-017-16-000", "answers": [ { "text": "1612年", "answer_start": 83, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「スコットランド人の政府を経験すると、女王は復活するように思われた。その時は彼女の記憶がとても拡大していた。」と語ったのは誰ですか。", "id": "de-017-16-001", "answers": [ { "text": "グロスター主教ゴッドフリー・グッドマン", "answer_start": 286, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "エリザベスの治世はユグノーと結びついてイングランドの国際的な地位を高めた。教皇シクストゥス5世は「彼女は単なる女、島の半分の女主人に過ぎない」「にもかかわらず、彼女はスペイン、フランス、帝国、そして全ての者たちから恐れられる存在となった」と驚嘆している。エリザベスの下で、国民は新たな自信と(分裂したキリスト教世界での)独立意識を得た。エリザベスは、国王は民衆の同意によって統治すると認識した初めてのテューダー家の人物であった。それ故に彼女は、常に議会や真実を彼女に伝えると信頼しうる顧問たちとともに働いた。これはステュアート家の後継者たちが理解するのに失敗した統治様式である。一部の歴史家は、彼女を幸運であったと言う。彼女は神が彼女を加護していると信じていた。自らを「純粋なイングランド人である」と誇り、彼女は神と誠実な助言、そして統治の成功のための臣下たちの愛を信じていた。礼拝において、エリザベスは神に感謝を捧げてこう語っている。", "qas": [ { "question": "エリザベスに対して「彼女は単なる女、島の半分の女主人に過ぎない」という言葉を残した人は誰ですか。", "id": "de-017-17-000", "answers": [ { "text": "教皇シクストゥス5世", "answer_start": 37, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "エリザベスの棺は夜間に松明を灯した艀に乗せられて川を下りホワイトホール宮殿へ運ばれた。4月28日の葬儀では棺は4頭の馬に曳かれた霊柩車に乗せられてウェストミンスター寺院へ移された。\n\n他に幾人かの王位継承権者がいたが、権力の移管は円滑に進められた。ジェームズの王位継承はヘンリー8世の第三王位継承法とヘンリーの妹メアリー・テューダーの系統が優先されるヘンリーの遺言を無視していた。これを調整するために議会は1603年王位継承法を可決した。議会が法令によって王位継承を統制できるか否かは17世紀を通じての議論となっている。", "qas": [ { "question": "エリザベスの葬式は何月何日でしたか。", "id": "de-017-18-000", "answers": [ { "text": "4月28日", "answer_start": 43, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1588年のアルマダの戦いでの勝利の後、エリザベスには新たな困難がもたらされ、それは彼女の治世の終わりまで15年間続いた。「囲い込み」によって発生した大量の難民に対処しきれず、発布した「エリザベス救貧法」も効果がなかった。またスペインやアイルランドとの戦争はだらだらと長引き、税はより重くなり、経済は凶作と戦費によって打撃を受けた。物価が高騰し、生活水準は低下した。\n\nこの時期、カトリックへの弾圧が激しくなり、1591年にはカトリック世帯の訊問と監視する権限が与えられた委員会が設置されている。平和と繁栄の幻影を維持するために、彼女は次第にスパイとプロパガンダに依存するようになった。治世の最後の数年間の批判の増大は民衆の彼女への好意の衰えを反映している。", "qas": [ { "question": "アルマダの戦いは何年度に起こったの?", "id": "de-017-19-000", "answers": [ { "text": "1588年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エリザベスはアルマダの戦いで勝利したか、敗戦したか。", "id": "de-017-19-001", "answers": [ { "text": "勝利", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "条約改正", "paragraphs": [ { "context": "条約改正(じょうやくかいせい、英語:TreatyRevision)とは、江戸時代末期の安政年間から明治初年にかけて日本と欧米諸国との間で結ばれた不平等条約を対等なものに改正することである。\nまた、そのためにおこなった明治政府の外交交渉の経過とその成果をさす。\n西ヨーロッパ諸国は、18世紀から19世紀にかけて西欧内の主権国家間の政治的・経済的な摩擦や対立を回避するため、互いに外交使節を派遣し、国家主権の独立や主権対等などを原則とする友好通商条約を結び、アメリカ合衆国の独立後はそれを新大陸にも押しひろげた。\n19世紀に入って、西欧各国が社会的状況や文化・伝統の異なるトルコ帝国やペルシア、中国、シャム、日本などアジアの国々との接触を深めると、武力を背景にしてこれらの国々に強制的に「開国」を認めさせ、みずからの条約システムに編入していった。", "qas": [ { "question": "19世紀に西欧各国がアジア諸国に接触し、強制的に認めさせたこととは何ですか?", "id": "de-018-00-000", "answers": [ { "text": "「開国」", "answer_start": 341, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本と欧米諸国との間で結ばれた不平等条約を対等なものに改正することを何といいますか?", "id": "de-018-00-001", "answers": [ { "text": "条約改正", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その場合、その国に住む欧米人が犯罪を犯したとき条約相手国の国法に服さずともよいこととし、外交官ではあっても本来は裁判官ではない領事や領事館職員が本国の法によって裁判することを可とした。\nまた、相互に貿易される商品の関税を当該国が自由に決定する権利を認めず、すべて外交交渉の結果むすばれた協定によることとし、さらに、西欧のある国が当該国との条約で得た権利は、自動的に他の欧米の国にも適用されてその恩恵が均霑されるという規定(片務的最恵国待遇)が設けられることが多く、これらの点でいずれも不平等な性格をもつものであった(不平等条約)。\nなお、以上のうち、関税に関しては強者による弱者の収奪以外の何物でもなかったが、領事裁判権については、少なくとも先進国側の論理からすれば彼我の風俗・習慣の違い、法律・刑罰・裁判の内容やそれらに対する考え方・姿勢の相違、また、監獄内の生活環境や治安状態の低劣さなどから居留民を保護するために必要と主張されるものであった。", "qas": [ { "question": "不平等条約では、その国に住む欧米人が犯罪を犯したとき条約相手国の何に服従しなくてもよいのですか?", "id": "de-018-01-000", "answers": [ { "text": "国法", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "江戸幕府が安政5年(1858年)にアメリカ合衆国、ロシア、オランダ、イギリス、フランスと結んだ通商条約(安政五カ国条約)は、\n外国に領事裁判権を認め、外国人犯罪に日本の法律や裁判が適用されないこと(治外法権)、日本に関税自主権(輸入品にかかる関税を自由にきめる権限)がなく、外国との協定税率にしばられていること、無条件かつ片務的な最恵国待遇条款を承認したこと、などの諸点で日本側に不利な不平等条約であった。\n特に慶応2年(1866年)、列強が弱体化した幕府に圧力をかけて結ばせた改税約書の調印以降は、それまでの従価税から従量税方式に改められ、関税率5パーセントの低率に固定された状態となったため、安価な外国商品が大量に日本市場に流入して貿易不均衡を生んだ。", "qas": [ { "question": "改税約書に調印させられたのはいつですか?", "id": "de-018-02-000", "answers": [ { "text": "1866年", "answer_start": 211, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1878年(明治11年)、駐英公使の上野景範がイギリス政府に指摘したところによれば、日本の関税は一律5パーセントであるのに対し、「自由貿易の旗手」を自任し、欧米諸国のなかで最も関税が低く抑えられているはずのイギリスでさえ、その対日輸入関税率は、無税品を含めても平均10パーセントを超えていた。\nその結果、日本の歳入に占める関税収入はわずか4パーセントにとどまったのに対し、イギリスのそれは26パーセントにおよんだ。\nまた、明治時代の法学者で政治家でもある小野梓の推計によれば、各国の歳入の中心にしめる関税額の比率は、イギリス22.1パーセント、アメリカ53,7パーセント、ドイツ55.5パーセントであるのに対し、日本は3.1パーセントにすぎなかった。\nさらに、明治・大正期に政治家・ジャーナリストとして活躍した島田三郎によれば、日本は一律5パーセントの関税を外国なみの11パーセントに引き上げることができれば、醤油税(年120万円の国家歳入)、車税(同64万円)、菓子税(同62万円)、売薬税(同45万円)など、主として農民がその大部分を負担した重い間接税を全廃できたという。", "qas": [ { "question": "関税額の比率が最も高かった国はどこでしたか?", "id": "de-018-03-000", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 272, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "関税額の比率が最低だった国はどこでしたか?", "id": "de-018-03-001", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 306, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "歳入に占める関税収入を比較すると、日本とイギリスではどちらが多かったですか?", "id": "de-018-03-002", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 186, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "外国人居留地は、安政条約で開港場とされた5港(箱館、横浜、長崎、新潟、神戸)および開市場となった2市(江戸の築地、大坂の川口)に設けられ、幕府(のち政府)当局と外国の公使・領事の協議によって地域選定や拡張がなされ、日本側の負担で整地し、道路・水道などの公共財を整備することとなっていた。\n居留地では、領事裁判権が認められ、外国人を日本の国内法で裁くことができず、また、日本人が居留地に入るには幕府(政府)の官吏でも通行印が必要であった。\nその一方、外国人も行動範囲が「遊歩規定」によって制限されており、一般の外国人が日本国内を自由に旅行することは禁止され、外国人が遊歩区域(居留地外で外国人が自由に行動できた区域)のさらに外に出るには、学問研究目的や療養目的に限られ、その場合も内地旅行免状が必要であった。\n居留地の外国人が居留地外で商取引をすることは禁じられていたが、その国の領事等を通じて日本当局から土地を借り受け、一定の借地料(地税)を支払うこととなっていた。\nこの借地権は永代借地権と称し、永久の権利とされ、他者に売買したり譲渡することが可能であった。", "qas": [ { "question": "日本人が居留地に入る時に必要なものは何だったの?", "id": "de-018-04-000", "answers": [ { "text": "通行印", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "安政条約で開市場となった西日本の都市はどこ?", "id": "de-018-04-001", "answers": [ { "text": "大坂の川口", "answer_start": 57, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "安政条約で開港場とされた5港の中で、最北の都市はどこですか?", "id": "de-018-04-002", "answers": [ { "text": "箱館", "answer_start": 23, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "不平等条約の締結は、金の流出やインフレーションによる経済の混乱を引き起こすこととなり(幕末の通貨問題)、尊皇攘夷運動の激化とそれにつづく討幕運動を招いたが、実際のところ幕末期にあって問題視されたのは不平等性そのものというよりは、むしろ日米修好通商条約をはじめとする五カ国条約が朝廷の許しを得ない無勅許条約だった点にあった(これは江戸幕府はその成立期に禁中並公家諸法度により朝廷を統制し政治権力を剥奪しており、単独で条約を締結しても問題がなかったにもかかわらず、幕末に至って幕府の権威が揺らいでいたことから条約締結の正当性を担保するため、朝廷の承認を求めたところ、案に相違して朝廷から拒否されたこと、その事実を反幕府勢力に利用され、喧伝されたことに端を発する)。\n慶応3年(1867年)の大政奉還と王政復古の大号令によって江戸幕府が倒れ、薩摩藩・長州藩など西南雄藩の下級武士や倒幕派公家などを中心に明治新政府が成立した(明治維新)。\n慶応4年1月15日(1868年2月8日)、列国公使に「王政復古」と「開国和親」を伝えた新政府は、幕府から外交権を引き継ぎ、詔勅をもって「これまで幕府が諸外国と取り結んだ条約のなかには弊害の無視できないものもあるので改正したい」旨の声明を発した。\n戊辰戦争のさなかの3月14日、新政府は明治天皇が神々に誓うかたちで五箇条の誓文を明らかにし、公議輿論の尊重と開国和親の方針を宣言した。", "qas": [ { "question": "明治維新はいつ起こりましたか?", "id": "de-018-05-000", "answers": [ { "text": "1867年", "answer_start": 336, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "幕末の通貨問題は何が原因で引き起りましたか?", "id": "de-018-05-001", "answers": [ { "text": "不平等条約の締結", "answer_start": 0, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "五箇条の誓文を行った人物は誰ですか?", "id": "de-018-05-002", "answers": [ { "text": "明治天皇", "answer_start": 558, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "不平等条約締結時に実際に問題視されていたのはどういった点でしたか?", "id": "de-018-05-003", "answers": [ { "text": "無勅許条約だった点", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "戊辰戦争が新政府優勢の戦況で推移し、日本の正統な政権であることがしだいに諸外国に認められるようになると、新政府は、明治元年12月23日(1869年2月4日)に諸外国に対し、旧幕府の結んだ条約は勅許を得ずに締結したものであることを改めて指摘し、将来的な条約改正の必要性について通知した。\nいっぽう、明治2年正月に北ドイツ連邦とむすんだ条約では、安政条約にない沿岸貿易の特権を新たにドイツにあたえ、同2年9月14日(1869年10月18日)、オーストリア・ハンガリー帝国を相手に結んだ日墺修好通商航海条約では、それまで各国との条約で日本があたえた利益・特権をすべて詳細かつ明確に規定し、従来解釈揺れのあった条項はすべて列強側に有利に解釈し直された。\nこの条約では、領事裁判権について、従来の条約以上に日本側に不利な内容が規定に盛りこまれたが、これらは、いずれも五カ国条約中の片務的最恵国待遇の規定によって他の欧米列強にも自動的に適用された。\n以来、不平等条約の集大成ともいえる日墺修好通商航海条約が条約問題交渉の際の標準条約とされた。\nこれは、条約改正の観点からみればむしろ日本側の後退を意味していた。", "qas": [ { "question": "新政府が諸外国へ条約改正の必要性を通知したのは西暦でいつ?", "id": "de-018-06-000", "answers": [ { "text": "1869年2月4日", "answer_start": 68, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本がオーストリア・ハンガリー帝国と結んだ条約名は何?", "id": "de-018-06-001", "answers": [ { "text": "日墺修好通商航海条約", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "明治4年7月(1871年9月)、日本側全権伊達宗城、清国側全権李鴻章の間に結ばれた日清修好条規は対等条約であったが、制限的な領事裁判権を相互に認める規定などを含み日清両国がそれぞれ欧米列強と結んだ不平等条約を互いに承認しあう性格にとどまっていた。\n政府は明治4年11月(1871年12月)、右大臣岩倉具視を全権大使、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山口尚芳を副使とする遣外使節団を米欧に派遣し、相手国の元首に国書を捧呈して聘問(訪問)の礼を修めさせ、海外文明の情況を視察させた。\n安政の諸条約は明治5年5月26日(1872年7月1日)が協議改定期限となっており、使節団は、その条約改正に関する予備交渉と欧米の文物・諸制度の視察とを目的としていた。", "qas": [ { "question": "遣外使節団が欧米に向けて出発したのは西暦でいつでしたか?", "id": "de-018-07-000", "answers": [ { "text": "1871年12月", "answer_start": 135, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "遣外使節団の全権大使を務めた男は誰ですか?", "id": "de-018-07-001", "answers": [ { "text": "岩倉具視", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "当初、大使一行の渡米の目的は、ユリシーズ・グラントアメリカ合衆国大統領に謁見し、アメリカ国務省でハミルトン・フィッシュ国務長官と会見して、万国公法(国際法)にもとづく国内法が日本で整備されるまで条約改正交渉開始の延期を要望し、その意向を打診することにあった。\n当時の日本はまだ廃藩置県を終えたばかりであり、国内体制が十分に整わないうちに改正交渉に臨めば結果的に従前より不利な方向での改訂が進められる可能性も考えられたためであった。\nまた、予備交渉の機会をむしろ活用して、将来の条約改正を念頭におき、政府首脳が外国の諸法制・諸機構についての知見を深めるねらいもあった。\nところが、チャールズ・デロング駐日アメリカ公使と駐米日本代表の森有礼代理公使は、合衆国に来てから勢いづいている副使の伊藤博文に対して、条約改正の本交渉に入ることを進言、伊藤もその旨を大使岩倉具視に提案した。\nデロングは、西部出身の弁護士で、アメリカの中央政界に打って出る機会をうかがっており、駐日英国公使のハリー・パークスとは対日外交上のライバル関係にあった。\n開化論者であった森は26歳ながら、その率直で積極的な性格によりフィッシュ国務長官にかわいがられ、その知遇もあってワシントンの有力者からの評判もよかったが、外交経験には乏しかった。\n伊藤は、米国滞在中、ユタ州ソルトレイクシティにおいて条約改正交渉についての意見書をまとめて大使・副使に示して意思統一を図るなど、意欲的であった。", "qas": [ { "question": "ハリー・パークスと対日外交上のライバルだった人のフルネームは?", "id": "de-018-08-000", "answers": [ { "text": "チャールズ・デロング", "answer_start": 289, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "遣外使節団が渡米した当時の大統領は誰でしたか?", "id": "de-018-08-001", "answers": [ { "text": "ユリシーズ・グラント", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "遣外使節団が渡米した当時に日本で終わっていた行政改革とは?", "id": "de-018-08-002", "answers": [ { "text": "廃藩置県", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "伊藤が条約改正交渉についての意見書をまとめた時に滞在していた都市はどこでしたか?", "id": "de-018-08-003", "answers": [ { "text": "ユタ州ソルトレイクシティ", "answer_start": 565, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "伊藤の提案を聞いた岩倉、大久保利通、木戸孝允らは、本交渉をすすめれば案外うまくいくかもしれないと考えた。\nもしかしたら、合衆国においては改正調印まで一挙に持ち込めるのではないかと期待したのである。\nサンフランシスコからワシントンまでの合衆国のいたる所で、朝野にわたって大歓迎を受けて、いささか甘い見通しに傾いた使節団は、フィッシュ国務長官に本交渉の開始を申し出た。\nしかし、フィッシュは交渉に入るには明治天皇からの委任状がどうしても必要であると答え、使節団一行は、全権大使であることを強調しても頑然と委任状の必要性を訴えたので、大久保と伊藤はやむなく委任状を発行してもらうため急遽東京に立ち戻った。\n2人は渋る留守政府にかけあい委任状を求めたが、体面上ようやく発行された委任状には使用不可の条件がつけられた。\n一方、アメリカに残留した岩倉と木戸に対しては、駐日ドイツ公使のマックス・フォン・ブラントと駐日イギリス代理公使のフランシス・アダムズが片務的最恵国待遇の規定などを持ち出して日米単独交渉を論難した。\nさらに、英国留学中の尾崎三良は、わざわざアメリカに赴いて岩倉や木戸に条約改正の危険性について意見具申をおこなっている。\nアメリカとの交渉でも内地雑居や日本の輸出税撤廃を求められた。\nこうしてアメリカとの本交渉は中止となり、使節団が以後訪れたヨーロッパ諸国との間でも具体的交渉はなされなかった。\nただし、一行がイギリスに滞在しているとき、このころ条約改正に一定の進展がみられたといわれるオスマン帝国に対しては一等書記官福地源一郎を派遣し、同国の裁判制度などを研究させており、これには僧侶島地黙雷が同行した。", "qas": [ { "question": "使節団が条約改正に関する交渉を持ち掛けた相手は誰でしたか?", "id": "de-018-09-000", "answers": [ { "text": "フィッシュ国務長官", "answer_start": 160, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "岩倉と木戸に条約改正の危険性を述べた人は誰ですか?", "id": "de-018-09-001", "answers": [ { "text": "尾崎三良", "answer_start": 464, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "岩倉と木戸に対面した駐日ドイツ公使は誰でしたか?", "id": "de-018-09-002", "answers": [ { "text": "マックス・フォン・ブラント", "answer_start": 386, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "岩倉一行は欧米近代国家の政治や産業の発展状況を視察したのち明治6年(1873年)9月に帰国した。\n帰国後の会議では、留守政府の首脳であった西郷隆盛や板垣退助らが朝鮮の開国問題解決のためには武力行使もあえて辞さないという強硬論(征韓論)を唱えたのに対し、海外事情を実見した大久保や木戸らは内治優先論を唱えて反対、征韓論は否決された。\nそのため、西郷・板垣・江藤新平・副島種臣ら征韓派の参議がそろって辞職し、いっせいに下野している(明治六年政変)。\n以上、岩倉使節団の交渉は不首尾に終わったものの、この前後には、明治政府は旧幕府がアメリカに与えた江戸・横浜間の鉄道敷設権、プロイセン(北ドイツ連邦)に与えた北海道亀田郡七重村(現在の渡島総合振興局七飯町)約300万坪の99年間の租借権(ガルトネル開墾条約事件)、また、長崎県高島炭鉱の鉱山利権の回収には成功しており、1875年(明治8年)1月には英仏両国軍側から横浜駐屯軍撤退を申し出ている。", "qas": [ { "question": "征韓論を唱えた主な人物は西郷隆盛と誰ですか?", "id": "de-018-10-000", "answers": [ { "text": "板垣退助", "answer_start": 74, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "征韓論の否決が原因で、西郷と板垣はいつ辞職しましたか?", "id": "de-018-10-001", "answers": [ { "text": "明治六年", "answer_start": 214, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1875年(明治8年)11月、外務卿の寺島宗則は、条約改正交渉開始を太政大臣であった三条実美に上申し、1876年(明治9年)には交渉を開始して外国からの輸入を減らすことを主目的として関税自主権回復を目指した。\nこれは、大蔵省租税頭の松方正義による強い要望もあって、税権回復によって西南戦争後の財政難を解消する一方、殖産興業を推進し、国内産業の保護を通じて政府の歳入増加を図る見地から特に優先すべき課題とみられたからであった。\n同じころ地租改正反対一揆も各地で頻発しており、歳入に占める地租依存度を軽減することは、緊急の課題だったのである。\n一方の法権、すなわち領事裁判権の方は、各国がこれに応じることなく、逆にエジプトのムハンマド・アリー朝におけるような混合裁判制度を採用することを示唆したため、政府が同制度を調べた結果、改訂によって特に日本の利益となることはないとして、これを断念した。\nなお、この年、朝鮮とのあいだに日朝修好条規が結ばれているが、これは日本側に有利で朝鮮に不利な内容の不平等条約であった。", "qas": [ { "question": "関税自主権回復を目標とした当時の外務卿は誰でしたか?", "id": "de-018-11-000", "answers": [ { "text": "寺島宗則", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日朝修好条規が結ばれた年はいつ?", "id": "de-018-11-001", "answers": [ { "text": "1876年", "answer_start": 51, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1876年以降、寺島外務卿は、アメリカ合衆国、イギリス、ロシア帝国の対日政策の歩調に乱れが生じた間隙を捉え、税権の回復ならば応じる用意があるというアメリカを相手に単独交渉した。\nこの時期のアメリカは、欧州諸国の帝国主義外交とは一定の距離を置いており、東アジア・太平洋地域におけるヨーロッパ優位の情勢を牽制する意図もあって、英仏両国よりも日本に対し好意的であった。\n1873年(明治6年)に結ばれた日米郵便条約などは、日本にとっては欧米諸国と結んだ最初の対等条約であった。", "qas": [ { "question": "日本にとって欧米諸国と結んだ最初の対等条約とは何ですか?", "id": "de-018-12-000", "answers": [ { "text": "日米郵便条約", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1873年に結ばれた対等条約とは何?", "id": "de-018-12-001", "answers": [ { "text": "日米郵便条約", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "改正事業を実効性あるものとするために、アメリカとばかりではなくヨーロッパ諸国との交渉も同時進行で進める必要を感じた寺島は、1878年(明治11年)2月9日、イギリス公使上野景範、フランス公使鮫島尚信、ドイツ公使青木周蔵、ロシア公使榎本武揚に交渉開始の訓令を発した。\n5月上旬、鮫島はワダントン(fr)フランス外務大臣と、上野はイギリス外相のソールズベリー侯と、青木はフォン・ビューロー(de)ドイツ外相と、榎本はロシア外務次官ギールスとそれぞれ交渉に入った。\n英・仏・独・露で条約改正交渉が開始されてまもなく、パリのブルボン宮殿で第2回万国郵便連合大会議が開催され、ヨーロッパの20数カ国が参加、日本も鮫島がサミュエル・ブライアン(駅逓局のお雇い外国人。アメリカ人)とともに会議に出席して6月1日に万国郵便連合条約に調印、連合にとってはアジアで初の連合加盟国となり、郵便主権を回復した。", "qas": [ { "question": "万国郵便連合に加盟したアジアで最初の国とはどこですか?", "id": "de-018-13-000", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 298, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1878年の5月からドイツ外相と交渉を開始した人の氏名は何ですか?", "id": "de-018-13-001", "answers": [ { "text": "青木周蔵", "answer_start": 105, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1878年の5月からギールスと交渉をした人の氏名は何ですか?", "id": "de-018-13-002", "answers": [ { "text": "榎本武揚", "answer_start": 115, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "一方アメリカとの交渉は実を結び、1878年(明治11年)7月、駐米公使の吉田清成とアメリカのエヴァーツ国務長官との間で税権回復を含む新条約(吉田・エヴァーツ条約)が成立した。\nこれは、全10か条より成り、アメリカの領事裁判権を日本側が認めるかわりにアメリカは日本の関税自主権を認めるというもので、輸出税の廃止や日本沿海における日本の貿易権の独占なども盛られており、当時の日本としてはほぼ希望通りの内容であった。\nまた、第7条では「互相の理」に基づき、新たに下関港を含む2港を開くことが定められていた。\n同条約の成立が翌1879年(明治12年)7月に公表されると、ロシアとイタリアはこれに好意的な姿勢を示したものの、日本との貿易額が諸国中最も多いイギリスは、日本が保護貿易政策を企図しているとして自由貿易の立場からこれを非難し、また、イギリスの頭越しに日米間で秘密裡に改正交渉が進められていたことに不快感を表明して各国共同の連合談判形式の採用を迫った。\n駐日英国公使のハリー・パークスは、日本がイギリスにとって重要な製品輸出市場と考え、執拗に反対活動を展開した。", "qas": [ { "question": "吉田・エヴァーツ条約の吉田の本名は何ですか?", "id": "de-018-14-000", "answers": [ { "text": "吉田清成", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "吉田・エヴァーツ条約の成立年は?", "id": "de-018-14-001", "answers": [ { "text": "1878年", "answer_start": 16, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本側が新たに2港を開くことが定められていたのは、吉田・エヴァーツ条約の第何条ですか?", "id": "de-018-14-002", "answers": [ { "text": "第7条", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1879年当時、日本との貿易額が最も多かった国はどこでしたか?", "id": "de-018-14-003", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 322, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "鮫島尚信は、ワダントン外務大臣との会談のなかで、近年ヨーロッパにおいては互いに関税税率を国家間で協定しあう通商条約が実施されており、フランスでさえも自由に税則を変更することができないと伝えられており、これを受けて、鮫島・上野・青木らは新協定税率にもとづく通商条約の締結を寺島外務卿に提案し、改正交渉の場をヨーロッパとすべきことを具申した。\nこれは、パークスら日本駐在の外交官の動きを封じることができるうえに、フランスが必ずしもイギリスと同意見ではないとの手応えがあったためである。\nしかし、寺島は税権の完全回復にこだわり、東京での国別談判の方針を採用、これを押し切って交渉を進めたが難航した。\n結局、ドイツ・フランス・イタリアがイギリスに同調して、日本の関税自主権回復に反対し、また、法権の優先を求める国内世論の反対もあって条約改正交渉は挫折し、寺島は外務卿を辞職した。\n吉田・エヴァーツ条約は、その第10条において、批准に及んでも他の国々がこの規定を認めなければ発効せず、他国も同様の条約を結ぶことが条件となっていたため、結局、効力を発しなかった。\nアメリカ以外の国も同様の条約を締結しなければ、アメリカ商品のみに高関税がかけられて競争力を失い、通商上著しい被害が予想されるため、アメリカとしてはやむを得ない措置であった。\nこれが、二国間交渉による条約改正の難しさであり、その後も日本は二国間で交渉を進めるか、多国間交渉でいくかで揺れ動くこととなる。", "qas": [ { "question": "イギリスに同調して日本の関税自主権回復に反対した国は、ドイツとフランス、もう一ヵ国はどこですか?", "id": "de-018-15-000", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 309, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "これに前後して1877年(明治10年)、イギリス商人ジョン・ハートレーによる生アヘン密輸事件が発覚した。\nこれは修好通商条約付属の貿易章程に違反していたが、翌1878年2月、横浜英国領事裁判所は生アヘンを薬用のためであると強弁するハートレーに対し無罪の判決を言い渡した(ハートレー事件)。\nまた、1877年から78年にかけてコレラが流行し、当時はコレラ菌も未発見で特効薬もなかったところから、1878年8月、各国官吏・医師も含めて共同会議で検疫規則を作ったが、駐日英国公使ハリー・パークスは、日本在住イギリス人はこの規則に従う必要なしと主張、翌1879年(明治12年)初夏、コレラは再び清国から九州地方に伝わり、阪神地方など西日本で大流行したことに関連してヘスペリア号事件が起こっている。", "qas": [ { "question": "横浜英国領事裁判所はハートレーにどのような判決を下しましたか?", "id": "de-018-16-000", "answers": [ { "text": "無罪の判決", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1877年から78年にかけて日本で流行した疫病は何?", "id": "de-018-16-001", "answers": [ { "text": "コレラ", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1879年に起こったコレラの検疫を巡る外国との事件は何でしたか?", "id": "de-018-16-002", "answers": [ { "text": "ヘスペリア号事件", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハートレー事件では、何の密輸が問題視されましたか?", "id": "de-018-16-003", "answers": [ { "text": "生アヘン", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヘスペリア号事件(ドイツ船検疫拒否事件)とは、西日本でのコレラの大流行を受けて、1879年7月、当局がドイツ汽船ヘスペリア号に対し検疫停船仮規則によって検疫を要求したところ、ヘスペリア号はそれを無視して出航、砲艦ウルフの護衛のもと横浜入港を強行した事件である。\nその結果、横浜・東京はじめ関東地方でもコレラが流行し、コレラによる死者は1879年だけで10万人に達している。\n一方、福沢諭吉・馬場辰猪・小野梓らによる民間の条約改正論がいっそう高まり、自由民権運動においても地租軽減などと並んで条約改正による国権回復が叫ばれた。\n福沢諭吉は、早くも1875年(明治8年)の段階で、『文明論之概略』において「自国の独立」を論じ、人民相互の同権とともに外交上の同権(不平等条約の改正)を論じており、馬場辰猪は1876年(明治9年)10月、英文でみずから著述した『条約改正論』をロンドンで出版している。", "qas": [ { "question": "ヘスペリア号事件の結果、関東地方で流行してしまった疫病は何ですか?", "id": "de-018-17-000", "answers": [ { "text": "コレラ", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1879年のコレラによる死亡者は何人ですか?", "id": "de-018-17-001", "answers": [ { "text": "10万人", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『条約改正論』はどこで出版されましたか?", "id": "de-018-17-002", "answers": [ { "text": "ロンドン", "answer_start": 384, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『文明論之概略』の著者は誰ですか?", "id": "de-018-17-003", "answers": [ { "text": "福沢諭吉", "answer_start": 263, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日本の知識人の多くがハートレー事件やヘスペリア号事件により、法権の回復がなければ国家の威信も保たれず、国民の安全や生命も守ることのできないことを知るようになった。\n実際問題として、領事裁判においては、一般の民事訴訟であっても日本側当事者が敗訴した場合、上訴はシャンハイやロンドンなど海外の上級裁判所に対しておこなわなければならず、一般国民にとって司法救済の道は閉ざされていたのも同然であった。\n開港以来の横浜居留地での生糸を中心とした貿易においても、外国人商人の商品代金踏み倒しなど不正な取引も頻発したが、治外法権によって護られていたこともあって、世論は、経済的不利益の主原因はむしろ治外法権にあると主張し、法権回復を要求しはじめた。\nなお、民権運動興隆の状況を目にした参議山縣有朋が、1879年(明治12年)、民心安定のために国会開設が必要であるとの建議を提出したのを契機として、政府は参議全員に意見書の提出を求めたが、それに対し、伊藤博文は条約改正を視野に入れての立憲政体の導入が必要だとの意見書を提出した。\n国会開設の詔が出されたのは、明治十四年の政変後の1881年(明治14年)のことであった。", "qas": [ { "question": "国会開設が必要であるとの建議を提出した人は誰ですか?", "id": "de-018-18-000", "answers": [ { "text": "山縣有朋", "answer_start": 337, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "立憲政体の導入が必要だとの意見書を提出した人は誰ですか?", "id": "de-018-18-001", "answers": [ { "text": "伊藤博文", "answer_start": 417, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "国会開設の詔が出されたのはいつですか?", "id": "de-018-18-002", "answers": [ { "text": "1881年", "answer_start": 481, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ジャンヌ・ダルク", "paragraphs": [ { "context": "ジャンヌ・ダルク(フランス語:Jeanned'Arc、古綴:JehanneDarc、IPA:[ʒandaʁk]、英:JoanofArc、ユリウス暦1412年ごろ1月6日-1431年5月30日)は、15世紀のフランス王国の軍人。\nフランスの国民的ヒロインで、カトリック教会における聖人でもある。\n「オルレアンの乙女」(フランス語:laPucelled'Orléans/英:TheMaidofOrléansとも呼ばれる。\nジャンヌは現在のフランス東部に、農夫の娘として生まれた。\n神の啓示を受けたとしてフランス軍に従軍し、イングランドとの百年戦争で重要な戦いに参戦して勝利を収め、のちのフランス王シャルル7世の戴冠に貢献した。\nその後ジャンヌはブルゴーニュ公国軍の捕虜となり、身代金と引き換えにイングランドへ引き渡された。\nイングランドと通じていたボーヴェ司教ピエール・コーションによって「不服従と異端」の疑いで異端審問にかけられ、最終的に異端の判決を受けたジャンヌは、19歳で火刑に処せられてその生涯を終えた。", "qas": [ { "question": "ジャンヌ・ダルクは何歳で命を落としましたか?", "id": "de-019-00-000", "answers": [ { "text": "19歳", "answer_start": 433, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジャンヌ・ダルクの出身国はどこですか?", "id": "de-019-00-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 217, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジャンヌは何戦争に参戦しましたか?", "id": "de-019-00-002", "answers": [ { "text": "百年戦争", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "百年戦争ではフランスとどこの国が争っていましたか?", "id": "de-019-00-003", "answers": [ { "text": "イングランド", "answer_start": 259, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ジャンヌが死去して25年後に、ローマ教皇カリストゥス3世の命でジャンヌの復権裁判が行われた結果、ジャンヌの無実と殉教が宣言された。\nその後ジャンヌは1909年に列福、1920年には列聖され、フランスの守護聖人の一人となっている。\nジャンヌは、王太子シャルル(後のシャルル7世)を助けてイングランドに占領されていたフランス領を奪還せよという神の「声」を聞いたとされている。\nこれを信じた王太子は、イングランド軍に包囲されて陥落寸前だったオルレアンへとジャンヌを派遣し、オルレアン解放の任にあたらせた。\nオルレアンでは古参指揮官たちから冷ややかな態度で迎えられたが、わずか9日間で兵士の士気を高めることに成功したジャンヌは徐々にその名声を高めていった。\nそしてジャンヌは続く重要ないくつかの戦いの勝利にも貢献し、劣勢を挽回した。\n結果、王太子はランスでフランス王位に就くことができフランス王シャルル7世となることができた。\nフランスを救い、シャルル7世の戴冠に貢献したことから、ジャンヌは西洋史上でも有名な人物の一人となった。\nナポレオン1世以降、フランスでは派閥を問わず、多くの政治家たちがジャンヌを崇敬しているといわれる。\n世界的に著名な作家、映画監督、作曲家たちがジャンヌを主題とした作品を制作している。", "qas": [ { "question": "王太子シャルルは後にどこの国の王になりましたか?", "id": "de-019-01-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 374, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "歴史家ケリー・デヴリーズは、ジャンヌが歴史に登場した時代について「彼女(ジャンヌ)を落胆させるものがあったとしたら、1429年当時のフランスの情勢がまさにそれだったであろう」としている。\n1337年に勃発した百年戦争は、王位をめぐるフランス国内の混乱に乗じてイングランド王がフランス王位継承権に介入しようとしたことが発端だった。\nほとんどすべての戦いがフランス国内で行われ、イングランド軍の焦土作戦によってフランス経済は壊滅的な打撃を受けていた。\nまた当時のフランスは黒死病によって人口が減っており、さらに対外貿易も途絶えて外貨が入ってこない状況に置かれていた。\nジャンヌが歴史に登場したのは、フランス軍が数十年間にわたって大きな戦いに勝利しておらず、イングランドがフランスをほぼ掌中に収めかけていた時期だった。\nデヴリーズは当時の「フランス王国にはその前身だった13世紀の(カペー朝の)面影すらなかった」と記している。", "qas": [ { "question": "百年戦争は何年に始まりましたか?", "id": "de-019-02-000", "answers": [ { "text": "1337年", "answer_start": 94, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フランスの人口減少の原因となった感染症は何でしたか?", "id": "de-019-02-001", "answers": [ { "text": "黒死病", "answer_start": 234, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ジャンヌが生まれた1412年ごろのフランス王はシャルル6世だったが、精神障害に悩まされており、国内統治がほとんど不可能な状態だった。\n王不在ともいえるこのような不安定な情勢下で、シャルル6世の弟のオルレアン公ルイと、従兄弟のブルゴーニュ公ジャン1世(無怖公)がフランス摂政の座と王子たちの養育権をめぐって激しく対立した。\nそして1407年にオルレアン公が無怖公の配下に暗殺されたことで、フランス国内の緊張は一気に高まった。\nオルレアン公と無怖公を支持する派閥は、それぞれアルマニャック派とブルゴーニュ派と呼ばれるようになっていった。\nイングランド王ヘンリー5世は、このフランス国内の混乱を好機ととらえてフランスへと侵攻した。\nイングランド軍は1415年のアジャンクールの戦いで大勝し、フランス北部の多くの都市をその支配下に置くに至る。\nそしてのちにフランス王位に就くシャルル7世は、4人の兄が相次いで死去したために14歳のときから王太子と目されていた。\n王太子が果たした最初の重要な公式活動は、1419年にブルゴーニュとの間に和平条約を締結しようとしたことである。\nしかしながら王太子が安全を保証した会合の席で、無怖公はアルマニャック派の支持者たちに殺害されてしまう。\n無怖公の後を継いでブルゴーニュ公となった息子のフィリップ3世(善良公)は王太子を激しく非難し、フランスとの和平条約締結を白紙に戻してイングランドと同盟を結んだ。\nそしてイングランドとブルゴーニュの連合軍は、多くのフランス領土をその支配下に置いていった。", "qas": [ { "question": "オルレアン公ルイの兄は誰でしたか?", "id": "de-019-03-000", "answers": [ { "text": "シャルル6世", "answer_start": 89, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オルレアン公を支持する派閥は何と呼ばれましたか?", "id": "de-019-03-001", "answers": [ { "text": "アルマニャック派", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シャルル6世が患っていたものとは何?", "id": "de-019-03-002", "answers": [ { "text": "精神障害", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1420年にシャルル6世妃イザボーは、シャルル6世が死去したあとのフランス王位を王太子ではなく、イングランド王ヘンリー5世とその後継者に譲るという内容のトロワ条約にサインした。\nこの条約の締結は、王太子がシャルル6世の子ではなく、イザボーと王弟オルレアン公ルイの不倫の関係によって生まれた子であるという噂を再燃させることになった。\nヘンリー5世は1422年8月に、シャルル6世も2か月後の10月に相次いで死去し、ヘンリー5世の嫡子ヘンリー6世がイングランド王位とトロワ条約に則ってフランス王位を継承した。\nただし、ヘンリー6世はまだ1歳にも満たない乳児だったために、ヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョンが摂政として国政を司った。\n1429年の初めごろにはフランス北部のほぼすべてと、フランス南西部のいくつかの都市がフランスの手を離れていた。\nブルゴーニュはフランス王室と関係が深いランスを支配下に置いた。\nランスは歴代フランス王が戴冠式を行った場所であり、フランスがこの都市を失った意味は大きかった。\nパリとルーアンを占領したイングランド軍は、王家に忠誠を誓う数少なくなった都市であるオルレアンを包囲した(オルレアン包囲戦)。\nロワール川沿いに位置し戦略上の要衝地でもあったオルレアンは、フランス中心部への侵攻を防ぐ最後の砦であり「オルレアンの趨勢が全フランスの運命を握っていた」のである。\nそしてオルレアンが陥落するのも時間の問題だとみなされていた。", "qas": [ { "question": "シャルル6世とヘンリー5世はどちらが先に亡くなりましたか?", "id": "de-019-04-000", "answers": [ { "text": "ヘンリー5世", "answer_start": 166, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヘンリー6世が幼かったために、誰が摂政を務めましたか?", "id": "de-019-04-001", "answers": [ { "text": "ベッドフォード公ジョン", "answer_start": 291, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ジャンヌはジャック・ダルクとイザベル・ロメの娘として生まれた。\n父ジャック・ダルク(1380年-1440年)がロメと呼ばれていたイザベル・ヴトン(1387年-1468年)と結婚したのは1405年のことで、2人の間にはジャクマン、ジャン、ピエール、ジャンヌ、カトリーヌの5人の子が生まれている。\nジャンヌが生まれたのはバル公領の村ドンレミで、当時のバル公領は、マース川西部がフランス領、マース川東部が神聖ローマ帝国領で、ドンレミはマース川西部のフランス領に属していた。\nバル公領はのちにロレーヌ公国に併合され、ドンレミはジャンヌの別称である「オルレアンの乙女(ラ・ピュセル・ドルレアン(laPucelled'Orléans)」にちなんでドンレミ=ラ=ピュセルと改名されている。\nジャンヌの両親は20ヘクタールほどの土地を所有しており、父ジャックは農業を営むとともに、租税徴収係と村の自警団団長も兼ねていた。\n当時のドンレミはフランス東部の辺鄙な小村で、周囲をブルゴーニュ公領に囲まれてはいたが、フランス王家への素朴な忠誠心を持った村だった。\nジャンヌが幼少のころにドンレミも何度か襲撃に遭い、焼き払われたこともあった。", "qas": [ { "question": "ジャック・ダルクは何年に亡くなっていますか?", "id": "de-019-05-000", "answers": [ { "text": "1440年", "answer_start": 48, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジャンヌの母親の正式名は何ですか?", "id": "de-019-05-001", "answers": [ { "text": "イザベル・ヴトン", "answer_start": 64, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジャンヌが出生した村の名前は何?", "id": "de-019-05-002", "answers": [ { "text": "ドンレミ", "answer_start": 164, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジャンヌは何人兄弟でしたか?", "id": "de-019-05-003", "answers": [ { "text": "5人", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "のちにジャンヌは異端審問の場で自分は19歳くらいだと発言しており、この言葉の通りであればジャンヌは1412年ごろに生まれたことになる。\nさらにジャンヌが初めて「神の声」を聴いたのは1424年ごろのことで、当時12歳だったと証言している。\nこのとき一人で屋外を歩いていたジャンヌは、大天使ミカエル、アレクサンドリアのカタリナ、アンティオキアのマルガリタの姿を幻視し、イングランド軍を駆逐して王太子シャルルをランスへと連れていきフランス王位に就かしめよという「声」を聴いたという。\n聖人たちの姿はこの上なく美しく、3名が消えたあとにジャンヌは泣き崩れたと語っている。", "qas": [ { "question": "ジャンヌが初めて「神の声」を聴いたのはいくつでしたか?", "id": "de-019-06-000", "answers": [ { "text": "12歳", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1428年、ジャンヌは16歳のときに親類のデュラン・ラソワに頼み込んでヴォクルール(現在のムーズ県)へと赴き、当地の守備隊隊長でありバル公の後継者ルネ・ダンジューの顧問官でもあったロベール・ド・ボードリクール伯にシノンの仮王宮を訪れる許可を願い出た。\nボードリクールはジャンヌを嘲笑をもって追い返したが、ジャンヌの決心が揺らぐことはなかった。\n翌1429年1月に再びヴォークルールを訪れたジャンヌは、ジャン・ド・メスとベルトラン・ド・プーランジという2人の貴族の知己を得た。\nこの2人の助けでボードリクールに再会したジャンヌは、オルレアン近郊でのニシンの戦いでフランス軍が敗北するという驚くべき結果を予言した。", "qas": [ { "question": "ジャンヌは16歳の時に、ニシンの戦いで何軍が敗れるという内容の予言をしましたか?", "id": "de-019-07-000", "answers": [ { "text": "フランス軍", "answer_start": 280, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ボードリクールは、ニシンの戦いに関するジャンヌの予言が的中したことを前線からの報告で聞き、協力者を連れてのジャンヌのシノン訪問を許可した。\nジャンヌは男装し、敵であるブルゴーニュ公国の占領地を通りながらシャルル7世の王宮があるシノンへと向かった。\nシノンの王宮に到着してまもないジャンヌと余人を払って面会したシャルル7世は、ジャンヌから強い印象を受けた。\n当時、シャルル7世の妃マリーとルネの母でアンジュー公ルイ2世妃のヨランド・ダラゴンが、オルレアンへの派兵軍を資金的に援助していた。\nジャンヌは派兵軍との同行と騎士の軍装の着用をヨランドに願い出て許された。\nジャンヌは甲冑、馬、剣、旗印などの軍装と、ジャンヌの協力者たちの軍備一式を寄付によって調達することに成功した。\nフランス王族がジャンヌに示した多大なる厚遇について、歴史家スティーヴン・リッチーは「崩壊寸前のフランス王国にとって、ジャンヌが唯一の希望に思えたからだろう」としている。", "qas": [ { "question": "ジャンヌにシノン訪問を許可した人物は誰ですか?", "id": "de-019-08-000", "answers": [ { "text": "ボードリクール", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シャルル7世の妻は誰でしたか?", "id": "de-019-08-001", "answers": [ { "text": "マリー", "answer_start": 189, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "神の声を聴いたと公言するジャンヌの登場は、長年にわたるイングランドとフランスとの戦いに宗教戦争的な意味合いを帯びさせ始めた。\nしかしながら、ジャンヌの存在は大きな危険をもはらんでいた。\nシャルル7世の顧問たちは、ジャンヌの宗教的正当性が疑問の余地なく立証されたわけではなく、ジャンヌが異教の魔女でありシャルル7世の王国は悪魔からの賜物だと告発されかねないことに危機感を抱いた。\nジャンヌを異端とみなす可能性を否定してその高潔性を証明するために、シャルル7世はジャンヌの身元調査の審議会と、ポワチエでの教理問答を命じた。\nそして1429年4月にジャンヌの審議にあたった委員会は、ジャンヌの「高潔な暮らしぶり、謙遜、誠実、純真な心映えのよきキリスト教徒であることを宣言」した。\n一方で教理問答に携わったポワチエの神学者たちは、ジャンヌが神からの啓示を受けたかどうかは判断できないとした。\nただし、ジャンヌの役割の聖性を創りあげるに足る「有利な憶測」をシャルル7世に伝えた。", "qas": [ { "question": "ジャンヌの身元調査審議会を行った結果、よきキリスト教徒であると宣言が出たのはいつでしたか?", "id": "de-019-09-000", "answers": [ { "text": "1429年4月", "answer_start": 263, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "これらの結果だけでシャルル7世にとって十分なものだったが、顧問たちはジャンヌを王宮に呼び戻してシャルル7世自らがジャンヌの正当性を正式に認める義務があるとし「証拠もなく彼女(ジャンヌ)が異端であると疑い、無視するのは聖霊の否定であり、神の御助けを拒絶するも同然」だと主張した。\nジャンヌの主張が真実であると認定されたことは、オルレアン派遣軍の士気を大いに高めることにつながった。\n3月22日、ジャンヌはシャルル7世が派遣したジャン・エローに依頼してオルレアンのイングランド軍指揮官(サフォーク伯ウィリアム・ド・ラ・ポール、ジョン・タルボット、トーマス・スケールズなど)に向けた降伏勧告文を口述筆記させた(実際に書簡が送られたのは4月24日から27日の間)。\nイングランド軍が包囲していたオルレアンにジャンヌがラ・イル、ジル・ド・レらとともに到着したのは1429年4月29日だった。\n当時オルレアン公シャルルはイングランドの捕虜となっており、異母弟ジャン・ド・デュノワがオルレアン公家の筆頭としてオルレアンを包囲するイングランドに対する攻略軍を率いていた。\n当初デュノワはジャンヌが作戦会議へ参加することを認めず、交戦の状況もジャンヌに知らせようとはしなかった。\nしかしながら、このようなデュノワの妨害を無視して、ジャンヌは多くの作戦会議に出席し、戦いにも参加するようになった。", "qas": [ { "question": "3月22日にジャンヌの口述筆記を担当した人は誰でしたか?", "id": "de-019-10-000", "answers": [ { "text": "ジャン・エロー", "answer_start": 212, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オルレアン公シャルルはどこの国に捕らえられていましたか?", "id": "de-019-10-001", "answers": [ { "text": "イングランド", "answer_start": 404, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ジャンヌに軍事指揮官としての能力があったかどうかは歴史的な論争になっている。\nエドゥアール・ペロワのような伝統的保守的な歴史家たちは、ジャンヌは旗手として戦いに参加し、兵士の士気を鼓舞する役割を果たしたとしている。\nこの説は、ジャンヌが剣を振るうよりも旗を持つことを選んだと、のちの異端審問の場で証言したとされていることを根拠としている。\nこの説に対し、異端審問の無効性を重視する立場の現代の研究者は、ジャンヌが優れた戦術家で、卓越した戦略家として軍の指揮官たちから尊敬されていたと主張している。\nスティーヴン・リッチーもジャンヌが優れた指揮官だったとしている研究者で「彼女(ジャンヌ)がフランス軍を率い、その後の戦いに奇跡的な勝利をおさめ続けて戦争の趨勢を完全に逆転した」としている。\nただし、どちらの説をとる研究者でも、ジャンヌが従軍していたときのフランス軍が快進撃を続けたという点では一致している。", "qas": [ { "question": "ジャンヌが優れた指揮官だったとする研究者は誰ですか?", "id": "de-019-11-000", "answers": [ { "text": "スティーヴン・リッチー", "answer_start": 249, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "保守的な歴史家たちは、ジャンヌは剣を振るうよりも何を持つことを選んだと根拠付けていますか?", "id": "de-019-11-001", "answers": [ { "text": "旗", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ジャンヌはそれまでフランス軍の指揮官たちが採用していた消極的な作戦を一新した。\nジャンヌが参戦するまでのオルレアン包囲戦では、オルレアン守備軍が積極策を試みたのはわずかに一度だけであり、この作戦は大失敗に終わっていた。\nジャンヌのオルレアン到着後の5月4日にフランス軍が攻勢に出て、オルレアン郊外で東のサン・ルー要塞を攻略し、5月5日にはジャンヌが軍を率いて、放棄されていた南のサン・ジャン・ル・ブラン要塞を占拠した。\n翌日に開かれた作戦会議でジャンヌはデュノワの慎重策に反対し、イングランド軍へのさらなる攻撃を主張している。\nデュノワはこれ以上の戦線拡大を防ぐために、攻略軍が布陣する市街の城門閉鎖を命令したが、ジャンヌは市民と兵卒たちを呼び集め、当地の行政責任者に城門を開けさせるように働きかけることを命じた。\n結局ジャンヌはある一人の大尉の手引きでこの市街を抜け出し、サン・オーギュスタン要塞の攻略に成功している。", "qas": [ { "question": "サン・ルー要塞を攻略したのはいつでしたか?", "id": "de-019-12-000", "answers": [ { "text": "5月4日", "answer_start": 124, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サン・ルーの次に占拠した要塞はどこですか?", "id": "de-019-12-001", "answers": [ { "text": "サン・ジャン・ル・ブラン要塞", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この夜に、ジャンヌは自身が参加していなかった作戦会議で、援軍が到着するまでこれ以上の軍事行動を見合わせることが決められたことを知った。\nしかしながらジャンヌはこの決定を無視し、5月7日にイングランド軍主力の拠点である「レ・トゥレル」への攻撃を主張した。\nジャンヌと行動をともにしていた兵士たちは、ジャンヌが首に矢傷を負ったにもかかわらず戦列に復帰して最終攻撃の指揮を執るのを目の当たりにしてから、ジャンヌのことを戦の英雄だと認識していった。\nオルレアンでの劇的な勝利が、さらなるフランス軍の攻勢の発端となった。\nイングランド軍はパリの再占領かノルマンディー攻略を目指していた。\n予想以上の勝利をあげた直後、ジャンヌはシャルル7世を説き伏せて、自身をアランソン公ジャン2世の副官の地位につけることと、ランスへと通じるロワール川沿いの橋を占拠して、シャルル7世のランスでの戴冠の幕開けとするという作戦に対する勅命を得た。\nしかしながらランスへの進軍は、ランスまでの道程がパリへの道程のおよそ2倍であることと、当時のランスがイングランド占領地の中心部にあったことから無謀ともいえる作戦の提案だった。", "qas": [ { "question": "イングランド軍主力の拠点はどこでしたか?", "id": "de-019-13-000", "answers": [ { "text": "「レ・トゥレル」", "answer_start": 108, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "イングランド軍に勝利してオルレアンを解放したフランス軍は、6月12日にジャルジョーの戦い、6月15日にモン=シュル=ロワールの戦い、6月17日にボージャンシーの戦いと、イングランド軍に占領されていた領土を次々と取り戻していった。\nジャンヌの上官ジャン2世は、ジャンヌが立案するあらゆる作戦をすべて承認した。\nそして当初はジャンヌを冷遇していた指揮官であるデュノワたちもジャンヌのオルレアンでの戦功を認め、ジャンヌの支持者となっていった。\nジャン2世はジョルジョー解放戦で、間近で起こる砲撃を予見して自身の生命を救ったジャンヌを高く評価していた。\nこのジョルジョー解放戦では、攻城梯子を登っていたジャンヌの冑に投石器から発射された石弾が命中して、梯子から転落しそうになったこともあった。\n戦役中、フランス軍に続々と援軍に加わる将官が現れ、ギー14世・ド・ラヴァル・アンドレ・ド・ラヴァル兄弟やアルテュール・ド・リッシュモンなどが参加した。\nリッシュモンは宮廷で疎まれ遠ざけられていたため、復帰を阻止したいシャルル7世と側近の命令がジャンヌらに届けられていた。\nしかし、他の武将たちはリッシュモンの力量を買っていたためジャンヌに彼と協力することを説得、受け入れたジャンヌもリッシュモンと会見して協力を誓った。", "qas": [ { "question": "モン=シュル=ロワールの戦いとボージャンシーの戦いはどちらが先にありましたか?", "id": "de-019-14-000", "answers": [ { "text": "モン=シュル=ロワールの戦い", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ジャンヌの上官は誰でしたか?", "id": "de-019-14-001", "answers": [ { "text": "ジャン2世", "answer_start": 122, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "6月18日にジョン・ファストルフ卿が率いる援軍が加わったイングランド軍と、フランス軍との間にパテーの戦いの戦端が開かれた。\nフランス軍が大勝したこのパテーの戦いとイングランド軍が大勝した1415年のアジャンクールの戦いとは比較されることがある。\nパテーの戦いではリッシュモンの指揮のもと、ラ・イルとジャン・ポトン・ド・ザントライユらフランス軍前衛が、イングランド軍が誇る長弓部隊の準備が整う前に攻撃を開始した。\nこれによりイングランド軍は総崩れとなり、イングランド軍主力も壊滅的被害を受けて多くの指揮官が戦死あるいは捕虜となった。\nファストルフはわずかな護衛とともに戦場を離脱したが、のちにこの屈辱的な敗戦の責めを負わされている。\n一方でこのパテーの戦いでフランス軍が被った被害は最小限に留まった。", "qas": [ { "question": "パテーの戦いの敗者は何軍でしたか?", "id": "de-019-15-000", "answers": [ { "text": "イングランド軍", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アジャンクールの戦いの敗者は何軍でしたか?", "id": "de-019-15-001", "answers": [ { "text": "フランス軍", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フランス軍は6月29日にジアン=シュール=ロワールからランスへ向けて進軍を開始し、7月3日にはオセールを占領していたブルゴーニュ公国軍が条件つき降伏を申し出ている。\nランスへの進軍路にあった各都市も抵抗せずにフランスに忠誠を誓い、シャルル7世はフランスの領土を回復していった。\nシャルル7世のフランス王位継承権を剥奪する条約が締結されたトロワも、4日間の包囲の末に戦わずして降伏した。\nまた、トロワに近づいたころのフランス軍が抱えていた問題は食糧の補給不足だった。\nこの問題の解決に貢献したのはトロワで世界の終末を説いていたブラザー・リチャードという巡礼修道士で、リチャードは成長の早い豆類を栽培してフランス軍に給するよう、トロワ市民たちを説得することに成功した。\nそして豆が食べられるようになったころに、食料不足に悩んでいたフランス軍がトロワに到着したのである。", "qas": [ { "question": "フランス軍が抱えていた食糧の補給不足問題を解決に導いた人は誰でしたか?", "id": "de-019-16-000", "answers": [ { "text": "ブラザー・リチャード", "answer_start": 262, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ランスは7月16日にフランス軍に城門を開き、シャルル7世の戴冠式が翌17日の朝に執り行われた。\nジャンヌとジャン2世はパリへと進軍することを主張したが、シャルル7世たちはブルゴーニュ公国との和平条約締結の交渉を優先しようとした。\nしかしながらブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)は和平交渉を反故にし、短絡的な作戦ではあるが、パリの守りを固めるためにイングランド軍に援軍を送った。\nブルゴーニュ公国との和平交渉に失敗したフランスはパリへ兵を進めることを決め、進軍途上の都市を平和裏に陥落させながらパリ近郊に迫った。\nイングランド軍の司令官ベッドフォード公ジョンが率いるイングランド軍とフランス軍が対峙したのは8月15日で、戦線はそのまま膠着状態となった。\nフランス軍がパリへ攻撃を開始したのは9月8日である(パリ包囲戦)。\nこの戦いでジャンヌは石弓の矢が当たって脚を負傷したが、最後まで戦場に残って軍の指揮を直接執り続けた。\nしかしながらジャンヌは9月9日の朝に、ギュイーヌ伯ジョルジュ・ド・ラ・トレモイユの意を汲んだシャルル7世からの撤退命令を受けた。\n多くの歴史家が、シャルル7世の寵臣で宮廷侍従長だったラ・トレモイユがシャルル7世戴冠後に犯した政治的失策を非難している。\n10月にジャンヌはサン=ピエール=ル=ムイエ包囲戦で軍に復帰した。\n続いて11月から12月のラ=シャリテ=シュール=ロワール包囲戦にも従軍したがこの包囲戦は失敗している。\nそして、12月29日にジャンヌとその家族は貴族に叙せられた。", "qas": [ { "question": "シャルル7世の戴冠式は7月の何日に行われましたか?", "id": "de-019-17-000", "answers": [ { "text": "17日", "answer_start": 34, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジャンヌが軍に復帰したのは何戦でしたか?", "id": "de-019-17-001", "answers": [ { "text": "サン=ピエール=ル=ムイエ包囲戦", "answer_start": 548, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "フランスとイングランドとの間で休戦協定が結ばれ、その後の数か月の間ジャンヌにはほとんどすることがなかった。\n1430年3月23日にジャンヌは、カトリックの分派フス派への書簡を書き取らせた。\nフス派はカトリック教会の教義の多くを否定し、異端として迫害されていた改革派だった。\nジャンヌの書簡には「あなたたちの妄執と馬鹿げた妄信はお止めなさい。異端を捨てるか生命を捨てるかのどちらかです」と書かれていた。\nフランスとイングランドとの休戦協定は間もなく失効、ジャンヌは5月にコンピエーニュ包囲戦の援軍としてコンピエーニュへ向かった。\n1430年5月23日にジャンヌが率いる軍がマルニーに陣取っていたブルゴーニュ公国軍を攻撃し、この短時間の戦いでジャンヌはブルゴーニュ公国軍の部将リニー伯ジャン2世の捕虜となってしまう。\nブルゴーニュ公国軍に6,000人の援軍が到着したことから、ジャンヌは兵士たちにコンピエーニュ城塞近くへの撤退を命じ、自身はしんがりとなってこの場所で戦いぬく決心をした。\nしかしながらブルゴーニュ公国軍はジャンヌの退路を断ち、ジャンヌは一筋の矢を受けて馬から転がり落ちつつも、最後まで戦いを諦めなかった。", "qas": [ { "question": "コンピエーニュ包囲戦でジャンヌを捕まえたのは誰ですか?", "id": "de-019-18-000", "answers": [ { "text": "ジャン2世", "answer_start": 340, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "当時は敵の手に落ちた捕虜の身内が身代金を支払って、身柄の引き渡しを要求するのが普通だったが、ジャンヌの場合は異例の経過をたどることになった。\n多くの歴史家が、シャルル7世がジャンヌの身柄引き渡しに介入せず見殺しにしたことを非難している。\n母国フランスから見捨てられたも同然だったジャンヌは、幾度か脱走を試みている。\nブルゴーニュ公領のアラスに移送されたときには、監禁されていたヴェルマンドワの塔から21メートル下の堀へと飛び降りたこともあった。\n水面下ではイングランドとブルゴーニュ公フィリップ3世および配下のリニー伯が交渉を行い、イングランドのシンパだったフランス人司教ピエール・コーションがイングランドの要人ベッドフォード公とウィンチェスター司教ヘンリー・ボーフォート枢機卿と相談、最終的にイングランドがリニー伯に身代金を支払ってジャンヌの身柄を引き取った。\nそしてコーションがこれら一連の交渉ごとと、その後のジャンヌの異端審問に重要な役割を果たすことになる。", "qas": [ { "question": "ジャンヌがアラスで監禁されていた場所はどこですか?", "id": "de-019-19-000", "answers": [ { "text": "ヴェルマンドワの塔", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ジャンヌの異端審問は政治的思惑を背景としていた。\nベッドフォード公は、甥のイングランド王ヘンリー6世の名代としてシャルル7世のフランス王位継承に異議を唱えた。\nジャンヌはシャルル7世の戴冠に力を貸した人物であり、これはトロワ条約に則ったフランス王位継承の正当性を揺るがす行為だったと激しく糾弾していたのである。\nそして1431年1月9日に、イギリスの占領統治府が置かれていたルーアンで、ジャンヌの異端審問裁判が開始された。\nしかしながら一連の訴訟手続きは異例尽くめなものだった。", "qas": [ { "question": "ジャンヌの異端審問裁判はいつから開始されましたか?", "id": "de-019-20-000", "answers": [ { "text": "1431年1月9日", "answer_start": 159, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジャンヌの異端審問裁判はどこで行われたの?", "id": "de-019-20-001", "answers": [ { "text": "ルーアン", "answer_start": 187, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ジャンヌの裁判における大きな問題点として、審理を主導した司教コーションが当時の教会法に従えばジャンヌの裁判への司法権を有していなかったことがあげられる。\nコーションの審理は、この裁判を開いたイングランドの意向に完全に沿ったものだった。\nジャンヌに対する証言の吟味を委任された教会公証人のニコラ・バイイも、ジャンヌを有罪とするに足る証言、証拠を見つけることができなかった。\n物的証拠も法廷を維持する法的根拠もないままに、ジャンヌの異端審問裁判は開始されたといえる。", "qas": [ { "question": "ジャンヌの裁判で審理を主導したのは誰ですか?", "id": "de-019-21-000", "answers": [ { "text": "コーション", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "さらに教会法で認められていた弁護士をつける権利さえもジャンヌには与えられなかった。\n公開裁判となった初回の審議でジャンヌは、出席者が自身に敵対する立場(親イングランド、ブルゴーニュ)の者ばかりであり、「親フランスの聖職者」も法廷に出席すべきだと主張した。\nこの法廷の裁判記録にはジャンヌの驚くべき思考力が記録されている。\nもっとも有名なものは「神の恩寵を受けていたことを認識していたか」と尋問されたときの返答である。\nこの尋問はジャンヌに仕掛けられた神学的陥穽だった。\n教会の教理では神の恩寵は人間が認識できるものではないとされていた。\nジャンヌが尋問に対して肯定していれば自身に異端宣告をしたことになり、否定していれば自身の罪を告白したことになるのである。\n公証人ボワギヨームは、法廷でジャンヌがこの返答をしたときに「この質問を彼女にした尋問者は呆然としていた」とあとになって証言している。\n20世紀の劇作家ジョージ・バーナード・ショーはこの問答記録を目にしたときに深い感銘を受け、ジャンヌの裁判記録を『聖女ジョウン』として戯曲に仕立て上げた。", "qas": [ { "question": "『聖女ジョウン』を作った人は誰ですか?", "id": "de-019-22-000", "answers": [ { "text": "ジョージ・バーナード・ショー", "answer_start": 405, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジャンヌの裁判記録をモデルとした戯曲は何ですか?", "id": "de-019-22-001", "answers": [ { "text": "『聖女ジョウン』", "answer_start": 452, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "さらに数名の法廷関係者がのちに、裁判記録の重要な箇所がジャンヌに不利になるよう改ざんされていると証言している。\n裁判出席者の多くが強制的に召集された聖職者だった。\n審問官のジャン・ル・メートルも意に沿わぬ裁判に集められた一人で、中にはイングランドから死をもって脅された聖職者もいた。\nまた、異端審問裁判で定められた手順では、ジャンヌは教会の罪人として修道女など女性の監視のもとで監禁されることになっていた。\nしかしながらイングランドはジャンヌを世俗の罪人として扱い、イングランドの男性兵卒をジャンヌの監視役の任に就けた。\nコーションはジャンヌが望んだ、当時開催されていたキリスト教の最高会議であるバーゼル公会議や教皇への請願など、自身が主導する審理を妨げるような要求をすべて却下した。\n裁判で明らかになったとされているジャンヌに対する12の罪状は、改ざんされた裁判記録と明らかに矛盾している。\nジャンヌは文盲だったため、自身が署名した供述宣誓書が死刑宣告にも等しい危険な書類だったことを理解していなかった。\n異端審問法廷は裁判の公式記録に基づいた宣誓供述書ではなく、ジャンヌが異端を認めたという内容に改ざんした宣誓供述書にすりかえて、ジャンヌに署名させていた。", "qas": [ { "question": "強制的に召集された審問官は誰でしたか?", "id": "de-019-23-000", "answers": [ { "text": "ジャン・ル・メートル", "answer_start": 86, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "当時異端の罪で死刑となるのは、異端を悔い改め改悛したあとに再び異端の罪を犯したときだけだった。\nジャンヌは改悛の誓願を立てたときに、それまでの男装をやめることにも同意していた。\n女装に戻ったジャンヌだったが、数日後に「大きなイギリス人男性が独房に押し入り、力ずくで乱暴しようとした」と法廷関係者に訴えた。\nこのような性的暴行から身を守るためと、ジャン・マシューの供述によればドレスが盗まれてほかに着る服がなかったために、ジャンヌは再び男物の衣服を着るようになった。\nジャンヌは敵軍の占領地を無事に通過するために小姓に変装し、戦場では身体を守るために甲冑を身につけた。\n『乙女の記録』には、ジャンヌが男装していたことが、戦場でのジャンヌに対する性的嫌がらせを抑止していたと記されている。\nジャンヌの処刑後に開かれた復権裁判で証言することになるある聖職者は、ジャンヌが性的嫌がらせや性的暴行から身を守るために、獄中でも男装していたと証言している。\n貞操を守るために男装するというのはもっともな理由であり、男装のジャンヌを見慣れた男たちは、徐々にジャンヌを性的な対象とは見なさなくなっていった。", "qas": [ { "question": "ジャンヌは何のために男装していましたか?", "id": "de-019-24-000", "answers": [ { "text": "貞操を守るため", "answer_start": 422, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジャンヌが戦場で身につけていたものは何ですか?", "id": "de-019-24-001", "answers": [ { "text": "甲冑", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ジャンヌは男装をしていた理由を問われたときに、以前のポワチエでの教理問答を引き合いに出している。\nポワチエで行われたジャンヌの教理問答に関する記録は残っていないが、さまざまな状況からポワチエの聖職者たちはジャンヌの男装を認めていたと考えられている。\nジャンヌの役目は本来であれば男性がなすべきことであり、ジャンヌにしてみれば男装が自身の役割にふさわしい格好だった。\nジャンヌは戦場にいたときも監禁されていたときも髪を短く整えていた。\n神学者ジャン・ジェルソンなどジャンヌの支持者たちは、のちに復権裁判でフランス異端審問官長ジャン・ブレアルが擁護したように、ジャンヌの短髪を弁護している。\nしかしながら、1431年に行われた異端審問の再審理で、ジャンヌが女装をするという誓いを破って男装に戻ったことが異端にあたると宣告され、異端の罪を再び犯したとして死刑判決を受けた。", "qas": [ { "question": "ジャンヌを支持していた神学者とは誰ですか?", "id": "de-019-25-000", "answers": [ { "text": "ジャン・ジェルソン", "answer_start": 220, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジャンヌの復権裁判でフランス異端審問官長を務めた人は誰ですか?", "id": "de-019-25-001", "answers": [ { "text": "ジャン・ブレアル", "answer_start": 261, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジャンヌはどんなヘアスタイルでしたか?", "id": "de-019-25-002", "answers": [ { "text": "短髪", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1431年5月30日に執行されたジャンヌの火刑の目撃証言が残っている。\n場所はルーアンのヴィエ・マルシェ広場で、高い柱に縛りつけられたジャンヌは、立会人のマルタン・ラドヴニューとイザンヴァル・ド・ラ・ピエールの2人の修道士に、自分の前に十字架を掲げて欲しいと頼んだ。\n一人のイングランド兵士も、ジャンヌの服の前に置かれていた小さな十字架を立てて、ジャンヌに見えるようにした。\nそして火刑に処せられて息絶えたジャンヌが実は生き延びたと誰にも言わせないために、処刑執行者たちが薪の燃えさしを取り除いて、黒焦げになったジャンヌの遺体を人々の前に晒した。\nさらにジャンヌの遺体が遺物となって人々の手に入らないように、再び火がつけられて灰になるまで燃やされた。\n灰になったジャンヌの遺体は、処刑執行者たちによってマチルダと呼ばれる橋の上からセーヌ川へ流された。\nジャンヌの処刑執行者の1人ジョフロワ・セラージュはのちに「地獄へ落ちるかのような激しい恐怖を感じた」と語っている。", "qas": [ { "question": "ジャンヌが火あぶりにされた日はいつですか?", "id": "de-019-26-000", "answers": [ { "text": "1431年5月30日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "大西洋横断電信ケーブル", "paragraphs": [ { "context": "大西洋横断電信ケーブル(たいせいようおうだんでんしんケーブル)とは、大西洋を通る電信用の海底ケーブルである。最初のケーブルは1858年、大英帝国のヴァレンティア島(現在のアイルランド領)とアメリカのニューファンドランド島(現在のカナダ領)の間に敷設され、実用可能な最初のケーブルは1866年に敷設された。", "qas": [ { "question": "最初の大西洋横断電信ケーブルは、大英帝国とどの国の間に敷設されたの?", "id": "de-020-00-000", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 94, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1830年代の後半、英国のウィリアム・クックとチャールズ・ホイートストン、アメリカのサミュエル・モールスらにより、電信が実用化された。やがて電信はモールス信号を用いた通信が一般的になり、1840年代にはヨーロッパやアメリカで陸上の電信網が急速に普及していった。これに対し海底の電信は、電線を覆う絶縁物質に適した材料を選び出す必要があったので、陸路に比べて敷設が遅れていた。しかし、マレー半島の樹木から採れるガタパーチャと呼ばれる樹液が使用できるということが分かり、海底ケーブル敷設の道は開けた。初の海底ケーブルは、1850年、ブレット兄弟(兄JohnWatkinsBrett、弟JacobW.Brett)によりドーバー海峡に敷かれた。このケーブルは不慮の事故により翌日切断されたが、翌1851年に再び敷設され、英国とフランスをケーブルで結ぶことに成功した。この成功によって海底ケーブルはブームとなり、英国からアイルランド、ベルギー、オランダへのルート、そして地中海、黒海など、1855年の時点で25本の海底ケーブルが敷かれた。しかしこの時点で大西洋にはまだケーブルが敷設されておらず、情報伝達は未だに蒸気船に頼っていた。", "qas": [ { "question": "1830年代の後半に電信の実用化を成し遂げたイギリス人は、誰ですか?", "id": "de-020-01-000", "answers": [ { "text": "ウィリアム・クック", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "初の海底ケーブルが敷設されたのは、何年のこと?", "id": "de-020-01-001", "answers": [ { "text": "1850年", "answer_start": 257, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "英国とどの国を結ぶケーブルの敷設に成功したことが、海底ケーブルのブームを呼び起こしたか?", "id": "de-020-01-002", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 358, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "海底ケーブルのブームを呼び起こした、最初の海底ケーブルとは、どこに敷かれたケーブルか?", "id": "de-020-01-003", "answers": [ { "text": "ドーバー海峡", "answer_start": 305, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アメリカの実業家サイラス・フィールドは、大西洋にケーブルを通すことを計画した。しかし、この事業は困難が予想された。当時の海底ケーブルで最も長いものは黒海に敷設された574kmのケーブルであったが、大西洋を結ぶにはそれをはるかに上回るおよそ3000kmのケーブルが必要であり、さらにケーブルは深さ3000mの深海を通すことになる。これは初の試みであったため、無事に開通できるかどうか不確定な要素が多かったのである。この疑問を解消すべく、サイラス・フィールドは海底の地形に関して、海洋学の権威であったマシュー・フォンテーン・モーリーに相談した。モーリーはジョン・ブルックの装置を使い計測した北大西洋の地形図を所持しており、敷設予定の地形は平坦だという確認が取れていたため、ケーブルの敷設には問題ないと回答した。フィールドはさらに他の問題に関しても専門家や海底ケーブルの製造会社に問い合わせ、計画は実現できるという確信を得た。そこでサイラス・フィールドは1856年、大西洋横断電信ケーブルの事業を行うため、アトランティック・テレグラフ社を創立した。資金35万ポンドはフィールドが4分の1を出資し、残りを英国の事業家が出資した。会社は副会長にサミュエル・モールスをあて、主任技師にはエドワード・ホワイトハウスとチャールズ・ブライトを起用した。また、ウィリアム・トムソン(後のケルヴィン卿)も役員に名を連ねた。", "qas": [ { "question": "アトランティック・テレグラフ社の創立に最も多くの資金を出資したのは、どの国の人なの?", "id": "de-020-02-000", "answers": [ { "text": "英国", "answer_start": 498, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "大西洋横断電信ケーブルの事業のために1856年に創立された会社は、いくらの出資を受け、創立されたのか?", "id": "de-020-02-001", "answers": [ { "text": "35万ポンド", "answer_start": 473, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アトランティック・テレグラフ社の創立者は、どの国の人ですか?", "id": "de-020-02-002", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "創立当時のアトランティック・テレグラフ社の副会長は、誰だったか?", "id": "de-020-02-003", "answers": [ { "text": "サミュエル・モールス", "answer_start": 517, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ただしトムソンは、この計画の技術的な問題点を指摘した。トムソンは1855年、マイケル・ファラデーの研究を元に電信方程式を発表していたが、この式によると、通信の速度はケーブルの断面積に比例し、長さの二乗に反比例する。つまり長い距離のケーブルでは伝送速度が遅くなってしまうことになる。これを防ぐために、計画よりも太いケーブルを作らなければならないと主張したのである。しかしこの意見はフィールドには受け入れられないものであった。ケーブルを太くすればその分費用もかさみ、敷設するのにも3隻の船が必要になってしまう。第一、すでにケーブルの一部は製作されていた。また、主任技師のホワイトハウスもトムソンの意見を「学者の作り話」と否定した。ホワイトハウスはモールスと共に、陸上で長さ3000kmのケーブルを使用して通信テストを行い、トムソンの主張する現象は起こらないことを確かめた。また、ホワイトハウスはファラデーから、「トムソンの主張は完全に正しくはなかったのではないか」というコメントを引き出し、これをトムソン説否定の根拠とした。こうしてトムソンの意見は無視される形となった。トムソン自身はその後もこの事業に関わり、敷設のための航海にもすべて参加することとなるのだが、技術的な指揮は基本的にホワイトハウスがとるようになった。一方、資金は順調に集まり、ケーブル製造は急ピッチで進められた。そして1857年7月にケーブルは完成し、敷設の準備は整った。", "qas": [ { "question": "トムソンがマイケル・ファラデーの研究を元に電信方程式を発表したのは、何年のこと?", "id": "de-020-03-000", "answers": [ { "text": "1855年", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "モールスと共に、陸上で長さ3000kmのケーブルを使用して通信テストを行ったのは、誰ですか?", "id": "de-020-03-001", "answers": [ { "text": "ホワイトハウス", "answer_start": 313, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ケーブル敷設のための航海は1857年8月に行われた。ケーブルは1隻の船では積みきれないため、英国の軍艦アガメムノンと米国の軍艦ナイアガラの2隻に分けられた。ブライトは敷設にかかる時間を短くするため、大西洋の真ん中から両端に向かって2隻で敷設する案を出したが、最終的にはヴァレンティア島から一方向に敷設することになった。この方法は時間がかかるが、敷設中にケーブルで本土と通信ができるという利点があった。ヴァレンティア島を起点に、先にナイアガラがケーブルを敷設しつつ大西洋を進み、海上でアガメムノンと合流してケーブルを接続する予定だった。ところがナイアガラが540km敷設したところで、ケーブルの繰り出し速度が速すぎることに気づきブレーキをかけたところ、ケーブルが切断されてしまった。ケーブルはそのまま深海へと沈み、当時はこれを引き上げる技術は無かったため、工事は断念せざるを得なかった。", "qas": [ { "question": "ケーブル敷設のための航海が行われたのは、いつか?", "id": "de-020-04-000", "answers": [ { "text": "1857年8月", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "英国とどの国の軍艦がケーブル敷設に用いられたか?", "id": "de-020-04-001", "answers": [ { "text": "米国", "answer_start": 58, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フィールドらは翌年2度目の敷設工事を行った。前回の失敗の原因であったブレーキを改良し、一定の力以上が出ないよう作り変えた。ケーブルは前回の敷設用に製造したものの大部分が残っていたのでこれをそのまま使用し、切断された分と予備のケーブルのみを新たに製作した。工事は6月に始まった。今回はブライトの案が採用され、はじめに大西洋の真ん中でアガメムノンとナイアガラがケーブルを接続してから、両端へ向かってケーブルを敷設してゆくという方法をとった。しかし、この航海は順調には進まなかった。大西洋の接続予定地点へ向かう航海中、記録的な暴風雨が両方の船を襲った。アガメムノンは時に45度傾き、沈没の危機におちいった。この暴風雨は7日間続き、船員の負傷とケーブルの損傷をまねいたが、6月26日、アガメムノンとナイアガラはようやく海上で落ち合い、ケーブルの接続を行うことができた。その後、アガメムノンは東へ、ナイアガラは西へとケーブルを敷設していったが、途中で何度かケーブルの切断が起こり、そのたびに両者の船は合流地点まで戻って接続をやり直さなければならなかった。その作業を繰り返している間に、食料や、燃料である石炭が不足してきたため、作業を続けることが出来ず、船は一旦アイルランドへ戻らなければならなかった。", "qas": [ { "question": "最初のケーブル敷設工事は、何が原因で失敗したの?", "id": "de-020-05-000", "answers": [ { "text": "ブレーキ", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2度目のケーブル敷設工事において、問題となったのは、何ですか?", "id": "de-020-05-001", "answers": [ { "text": "記録的な暴風雨", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アガメムノンとナイアガラを襲った暴風雨は、何日間続いたか?", "id": "de-020-05-002", "answers": [ { "text": "7日間", "answer_start": 306, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ケーブル敷設工事に用いられた軍艦のうち、記録的な暴風雨に襲われ、沈没の危機におちいったのは、どれですか?", "id": "de-020-05-003", "answers": [ { "text": "アガメムノン", "answer_start": 273, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "必要資材を確保した両船は、さっそく3度目の敷設工事に挑んだ。接続の方法は2度目と同じである。7月29日に大西洋上でケーブルの接続を行い、ナイアガラはそのまま順調にニューファンドランド島へと到着した。一方のアガメムノンは、再び嵐に見舞われ、さらに一時はケーブルの原因不明の障害という事態にも陥ったが、これを乗り越え、8月5日、ヴァレンティア島へと到着した。ヨーロッパとアメリカ大陸がケーブルで結ばれた瞬間であった。この吉報は英米両国に伝わり、町は喜びに包まれた。新聞各紙は大々的に報じ、ニューヨークでは15,000人の祝賀行進が行われた。技師長だったチャールズ・ブライトには爵位が授けられた。また、ヴィクトリア女王からアメリカのブキャナン大統領あてに祝電が送られた。女王の99語のメッセージは16時間半かかってアメリカへ伝わった。", "qas": [ { "question": "ヨーロッパとアメリカ大陸がケーブルで結ばれたのは、何月何日のことなの?", "id": "de-020-06-000", "answers": [ { "text": "8月5日", "answer_start": 157, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナイアガラとアガメムノンは、ヨーロッパとどの大陸をケーブルで結ぶ工事に用いられた軍艦であるか?", "id": "de-020-06-001", "answers": [ { "text": "アメリカ大陸", "answer_start": 183, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヨーロッパとアメリカ大陸をケーブルで結ぶ工事は、何度の失敗を経てようやく成功に至ったか?", "id": "de-020-06-002", "answers": [ { "text": "2度", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ようやく開通したケーブルだったが信号の減衰が著しく、正確に伝達させるには再送信を繰り返したり、打鍵速度を落となければならなかった。ホワイトハウスは電圧を上げて対処しようとしたが、事態はさらに悪化し、10月20日には全く通信できなくなった。こうして、このケーブルはわずか2か月あまりで役目を終えた。この間に送られた電報は732通であった。減衰の原因は主に、ケーブルが海中でコンデンサーとなり、信号電流が漏洩する現象による。コンデンサーは導体で薄い不導体を挟んだものだが、海水は電気を通すため、電線と海水に挟まれたケーブルの被覆がコンデンサーを形成する。モールス信号のような直流パルスは交流の性質を持つので、その電荷を蓄えたり放出したりを繰り返す。放出は両側へ起きるので漏洩となり、さらに充放電により波形が丸くなる。それが信号の減衰をまねいたのである。対策としては信号を送る速度を遅くする以外になく、トムソンの指摘が的中した形となった。不通の原因は、絶縁性能の劣化だと考えられている。ケーブルの大部分は最初の工事前に作られ、2回目の工事が始まるまで屋外に放置されていた。このため、被覆材(ガタパーチャ、ゴムに似た天然樹脂)が酸化・劣化し、そこにホワイトハウスが2000Vという高電圧を加えたため、絶縁破壊が起こってしまったと推定されている。", "qas": [ { "question": "ケーブルは何か月近くの間、使用されたことだけで、その役目を終えたの?", "id": "de-020-07-000", "answers": [ { "text": "2か月", "answer_start": 134, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ケーブルはその役目を終えるまで、何通の電報の伝達に用いられましたか?", "id": "de-020-07-001", "answers": [ { "text": "732通", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ケーブルの信号が減衰するとの予測とその原因について指摘した人は、誰か?", "id": "de-020-07-002", "answers": [ { "text": "トムソン", "answer_start": 398, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "度重なる失敗によって、株主は50万ポンドを失った。さらに、翌年に行った紅海横断ケーブルも失敗に終わったため、海底ケーブル事業は抜本的な見直しを迫られた。1859年、英国政府は特別委員会を設置し、専門家を集めて失敗の原因を探った。そして委員会は、これまでの事業の失敗は事前の調査を行っていれば防げたもので、大西洋ケーブル自体は技術的には実現可能だという報告を出した。この報告を受けたサイラス・フィールドは、再び大西洋横断ケーブル事業へ挑戦することを決意した。資金集めには苦労をしいられたが、英国の資本家から28.5万ポンド、米国の資本家から8万ポンドを集め、残りを新たに作られたケーブル製造会社であるTELCON社(TelegraphConstruction&Maintenance)からの出資で補うことで、必要資金を確保した。また、フィールドはホワイトハウスを解雇し、トムソンを後任に据えた。トムソンは以前からの主張に沿って、銅線および絶縁部の断面積を増やし、強度も上げた新しいケーブルを製作するよう指示した。ケーブルは綿密な研究や実験を行った上で設計された。またトムソンは、今までの航海でケーブルが幾度も断線したのは、海底の深さが正確に分からなかったからだと考えた。今まではおもりのついたケーブルを海底に降ろして水深を測っていたのだが、それでは不十分だと考えたトムソンは、新たにケミカルチューブと呼ばれる測深機を発明した。これは海底の水圧から水深を測定するための道具で、以前の方法と比べて正確で効率的だったため、以後の敷設工事に使われるようになった。", "qas": [ { "question": "一度失敗した大西洋横断ケーブル事業に再び挑むことを決意した人は、誰なの?", "id": "de-020-08-000", "answers": [ { "text": "サイラス・フィールド", "answer_start": 190, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "英国と米国のうち、サイラス・フィールドが再び大西洋横断ケーブル事業に挑もうとした時、より多くの資金を出資したのは、どちらの国の資本家らか?", "id": "de-020-08-001", "answers": [ { "text": "英国", "answer_start": 244, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "サイラス・フィールドの大西洋横断ケーブル事業において、ホワイトハウスの後任者は誰ですか?", "id": "de-020-08-002", "answers": [ { "text": "トムソン", "answer_start": 384, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "紅海横断ケーブル事業とともに失敗した海底ケーブル事業は、どこを横断するケーブル設置事業か?", "id": "de-020-08-003", "answers": [ { "text": "大西洋", "answer_start": 204, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "4度目の敷設工事は1865年に行われることになった。今までの経験から、海上でのケーブルの接続作業には危険が伴うことが予想された。しかし幸いにも、イギリスの技術者イザムバード・キングダム・ブルネルが設計した当時最大の蒸気客船グレート・イースタンが使用できたので、ケーブルの接続の必要はなく1隻で大西洋を横断することが可能になった(ケーブルの重量が増したため、グレート・イースタンが使えなかった場合は3隻の船が必要になっていた)。グレート・イースタンは7月14日に英国を出港し、アメリカへ向けて敷設作業を行った。途中、ケーブルがショート(短絡)するという事故が2度起こった。これは、ケーブルを覆う鉄線が切れて絶縁部を貫通したことによるものだと分かったため、一旦ケーブルを引き上げ、該当部分を除去する作業を行うことで対処した。その後は順調に進んだが、全体の3分の2まで敷設を行った段階でケーブルが切断され、ケーブルの端は海底へと沈んでいった。ケーブルを引き上げようとしたが、道具が足りず、グレート・イースタンは一旦英国へと戻らなければならなくなった。", "qas": [ { "question": "4度目の敷設工事に用いられた当時最大の蒸気客船を設計したのは、誰なの?", "id": "de-020-09-000", "answers": [ { "text": "イザムバード・キングダム・ブルネル", "answer_start": 80, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "7月14日に英国を出港し、アメリカへ向けて敷設作業を行った蒸気客船を設計したのは、どの国の技術者ですか?", "id": "de-020-09-001", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 72, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "4度目の敷設工事が開始されたのは、何年のことか?", "id": "de-020-09-002", "answers": [ { "text": "1865年", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "4度目の工事も失敗に終わったが、道具さえあればケーブルを引き上げることは可能であった。また、航海中に行われた通信から、このケーブルは性能面でも優れていることが分かった。報告を受けたフィールドは、新たに大西洋にケーブルを敷設し、さらに海底に沈んだケーブルも引き上げるという決断を下した。これが両方実現すれば、大西洋には2本のケーブルが敷かれることになる。新しいケーブルの敷設は7月13日から行われ、27日、ケーブルはニューファンドランド島に到着した。こうして、敷設作業は成功した。そして8月5日から一般の通信事業を開始した。さらにグレート・イースタンは、前年に落下したケーブルの引上げ作業に着手した。この作業は困難を極めたが、8月31日にケーブルの引き上げに成功した。このケーブルもニューファンドランドまで接続し、計画通り、2本のケーブルを敷設することに成功した。2本目のケーブルは9月8日から通信を始めた。こうして、大西洋横断電信ケーブルは完成した。タイムズ紙は、「世界は急速に、巨大な一つの都市になりつつある」と論じた。トムソンらには爵位が授けられた。フィールドはアメリカ人であったため爵位は与えられなかったが、米国議会は感謝決議を満場一致で採択することでその功績をたたえた。このケーブルは商業的にも成功し、最初の半年で2万9千ポンド、次の半年で43万ポンドの収入を得た。", "qas": [ { "question": "大西洋横断電信ケーブルは何度の失敗を経て、ついに完成したか?", "id": "de-020-10-000", "answers": [ { "text": "4度", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "5度目の大西洋横断電信ケーブル敷設工事は、何月何日をもって終わりましたか?", "id": "de-020-10-001", "answers": [ { "text": "8月31日", "answer_start": 312, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "5度目の大西洋横断電信ケーブル敷設工事は、何本のケーブルを敷設する計画で行われたの?", "id": "de-020-10-002", "answers": [ { "text": "2本", "answer_start": 361, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "大西洋横断ケーブルを成し遂げた英国は、1870年、ロンドンからインドへ到る海底電信ケーブルを敷設、1902年には太平洋横断電信ケーブルを敷設した。こうして英国は当時の植民地を結ぶ大きなケーブル網(AllRedLine)を完成させた。このことによって英国は情報伝達面において圧倒的な力を得た。大西洋においては、最初に敷設した2本のケーブルはどちらも1870年代に不通になったが、アングロアメリカン・テレグラフ社によって新たに数本のケーブルがヴァレンティア-ニューファンドランド間に敷設され、さらに他の会社でも敷設が行われるなど、本数を増やしていった。また、1874年にはブラジルのペルナンブーコからマデイラ諸島(ポルトガル)を経由しカルカヴェロス(ポルトガル、リスボン近郊)へと至る南大西洋線も敷設した。", "qas": [ { "question": "大西洋と太平洋のうち、より早く横断ケーブルが敷設されたのは、どこ?", "id": "de-020-11-000", "answers": [ { "text": "大西洋", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大西洋と太平洋に横断ケーブルを敷設したのは、どの国ですか?", "id": "de-020-11-001", "answers": [ { "text": "英国", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一方、他国も大西洋横断電信ケーブルを引くようになった。フランスは1869年、フランスのブレストからアメリカのケープコッドまでのケーブルを敷設した。これは英国以外の国によって敷設された最初のケーブルであった(ただしこのケーブルを保有していた会社は1873年に英国企業に買収される)。さらに1879年にはブレストからサンピエールを経由してケープコッドへ至るケーブルを敷設し、その後もフランス-アメリカ間のケーブルの敷設を行った。ドイツは1882年、エムデンからヴァレンティアまでのケーブルを敷設したが、ヴァレンティアからの大西洋区間は英国のアングロアメリカン・テレグラフ社のケーブルを使用していた。しかし、1900年にボルクムからアゾレス諸島を経由してニューヨークへ至るケーブルを敷設し、1904年から1905年にかけて同じ経路でもう1本ケーブルを増設した。このように各国でケーブルの増設は続き、1901年には北大西洋上に15本のケーブルが敷かれていた。しかし、これらのケーブルは途中で英国のケーブルを経由しなければならなかったので、通信内容は英国に筒抜けであった。そのため英国の優位はしばらく続いた。20世紀に入ると、英国のケーブルへの依存から脱却する動きがフランスやドイツなどで強まり、さらに無線通信が実用化されたことで英国の優位性は弱まっていった。そして1956年の大西洋横断電話ケーブル(TAT)の敷設によって、電信ケーブル自体の重要性も薄らいだ。1988年には大西洋横断光ケーブルも施設されている。しかし、19世紀後半から20世紀前半において大西洋横断電信ケーブルは多くの分野に影響を与え、この時代における世界の一体化に大きな役割を果たした。", "qas": [ { "question": "世界初のケーブルは、どの国により敷設されたのか?", "id": "de-020-12-000", "answers": [ { "text": "英国", "answer_start": 76, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フランスとドイツのうち、より早くケーブルを敷設した国は、どちらか?", "id": "de-020-12-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "英国の優位性が弱まった原因としては、フランスやドイツなどで英国のケーブルへの依存から脱却する動きが強まったことと、何の実用化が挙げられるか?", "id": "de-020-12-002", "answers": [ { "text": "無線通信", "answer_start": 546, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大西洋横断電話ケーブルと大西洋横断光ケーブルのうち、より早く敷かれたのは、どちらか?", "id": "de-020-12-003", "answers": [ { "text": "大西洋横断電話ケーブル", "answer_start": 584, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "海底ケーブル網の広がりによって、情報伝達にかかる時間は大幅に短縮された。このことによって、経済市場の拡大、商品価格の低下と地域格差の減少などの効果を生み出し、さらにケーブルは国家戦略の面においても重要な要素となった。また、通信速度を上げるため、通信技術も向上していった。これらは当然大西洋横断電信ケーブルにも当てはまるが、ここでは特に大西洋横断電信ケーブルに関わりの深いことがらを挙げる。大西洋横断電信ケーブルの政治や経済への活用は、1858年に敷設されたケーブルですでに行われている。前述のように、このケーブルは約2ヶ月しか使われなかったが、その間にいくつかの重要なメッセージをやりとりしている。1858年、英国はインド大反乱を抑えるため、カナダから軍隊を派遣する計画であったが、戦況が変化したためその必要は無くなった。その旨をケーブルを通してカナダへ伝えることで、軍隊の輸送費5万ポンドを節約することができた。また、このケーブルは、プロイセン開院式勅語の全文を送信するなど、当時の世界に海底ケーブルの効果を示した。大西洋横断電信ケーブルが本格的に使用できるようになると、ロンドンとニューヨークの株式取引所の通信としても活用されるようになった。取引時間中に交わされる電報は1時間に25,000語に達した。スターリング・ポンドの愛称である「ケーブル」は、この大西洋横断電信ケーブルに由来する。", "qas": [ { "question": "大西洋横断電信ケーブルはロンドンとどこの株式取引所の通信としても活用されたの?", "id": "de-020-13-000", "answers": [ { "text": "ニューヨーク", "answer_start": 492, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1858年、英国はインド大反乱を抑えるために、どの国から軍隊を派遣してもらおうとしましたか?", "id": "de-020-13-001", "answers": [ { "text": "カナダ", "answer_start": 321, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "海底ケーブル網の広がりによって、何が大幅に短縮されたか?", "id": "de-020-13-002", "answers": [ { "text": "情報伝達にかかる時間", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "英国がインド大反乱の時、カナダに軍隊を派遣しなくてもよいとの旨を伝えるために使ったケーブルは、何年に敷設されたものか?", "id": "de-020-13-003", "answers": [ { "text": "1858年", "answer_start": 217, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "大西洋横断電信ケーブルがきっかけとなって生み出された計測機器に、ミラーガルバノメータ(鏡検流計)がある。これはトムソンが大西洋横断電信ケーブルの受信のために作り出した。この検流計は微弱な信号を読み取ることが可能で、これまで使用されていた電磁リレー方式と比べて高速に通信することができた。例えば、1858年に送られた女王からブキャナン大統領へのメッセージは、電磁リレー方式を使用したため16時間半かかったが、メッセージ内容の確認のために直後に同じメッセージを英国側へ送った時は、ミラーガルバノメータを使用して受信したため67分で済んでいる。しかし、この時点ではトムソンにはケーブル事業への大きな権限は与えられていなかったため、ミラーガルバノメータは1866年までは正式に採用されなかった。また、ミラーガルバノメータを使用するにあたっては、電流値の読み取りと、モールス符号からの復元の2工程が必要で、通信記録を直接残せないという欠点があった。この問題を解決するため、トムソンは1867年に通信記録が残るサイフォンレコーダーを発明した。このサイフォンレコーダーはアメリカ側で1873年に、英国側で1880年に採用された。", "qas": [ { "question": "サイフォンレコーダーをより早く採用したのは、英国とアメリカのうち、どちらですか?", "id": "de-020-14-000", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 478, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ミラーガルバノメータとサイフォンレコーダーのうち、より早く発明されたのは、どちらか?", "id": "de-020-14-001", "answers": [ { "text": "ミラーガルバノメータ", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "多くの大西洋横断電信ケーブルは、電流を流す銅線をガタパーチャで覆い、さらにケーブルを保護するためその周りを鉄線で覆うという構造になっている。これは元々1851年にドーバー海峡横断電信ケーブルで採用された構造である。以降、20世紀始めに装荷ケーブルが開発されるまで、大西洋横断電信ケーブルに限らずほとんどの海底ケーブルでこの構造が採用されていた。1857年に作られたケーブルは、銅線のまわりを3層のガタパーチャで覆い、さらにヘンプヤーン(麻糸)をらせん状に巻いてから18本の鉄線で覆っている。ケーブルの外径は16mm、重量は1kmあたり549kgであった。1865年に作られたケーブルは、信号の伝送速度を上げるために銅線の断面積を3倍にし、そしてガタパーチャは4層にして厚みを1.5倍にした。外径は28mm、重量は1kmあたり946kgであった。また、浅瀬に敷設するケーブルは深海のものに比べて磨耗が激しいため、さらに丈夫にした2重外装ケーブルを使用している。1866年に製造したケーブルも基本的には1865年のものと同じだが、4度目の敷設工事の際に発生した鉄線の貫通事故を教訓として、よりやわらかい鉄線を使い、それを亜鉛メッキしたものを外装に使用している。さらに時代が進むと、信号の減衰を抑えることのできる装荷ケーブルが採用されるようになり、通信速度が向上した。1926年に敷設されたケーブルはそのすべてが装荷されており、毎分2400字の通信能力を持っていた。", "qas": [ { "question": "装荷ケーブルが開発されるまでは、電流を流す銅線を何で覆うような構造が採用されていましたか?", "id": "de-020-15-000", "answers": [ { "text": "ガタパーチャ", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1857年と1865年のうち、何年に作られたケーブルの外径がより大きいですか?", "id": "de-020-15-001", "answers": [ { "text": "1865年", "answer_start": 277, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1857年と1865年のうち、何年に作られたケーブルの1kmあたりの重量がより大きいですか?", "id": "de-020-15-002", "answers": [ { "text": "1865年", "answer_start": 277, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1866年に製造したケーブルは、1857年と1865年のうち、何年に作られたケーブルをもとに作られましたか?", "id": "de-020-15-003", "answers": [ { "text": "1865年", "answer_start": 449, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "アレクサンドル・ゴルチャコフ", "paragraphs": [ { "context": "アレクサンドル・ゴルチャコフはロシア帝国領エストニアに名門貴族の軍人の息子として生まれる。1817年からロシア外務省に入省して外交官となる。ロンドン、ベルリン、ウィーンなどのロシア大使館で勤務した後、1850年から1854年にかけてドイツ連邦議会にロシア全権大使として参加した。クリミア戦争中の1854年から1856年にかけては駐オーストリア大使を務めた。\n\nクリミア戦争直後の1856年に皇帝アレクサンドル2世より外相に任命され、以降アレクサンドル2世の在位中を通じて外相に在職した。クリミア戦争の敗北で結ばされたパリ条約の黒海における艦隊保有禁止条項の撤廃を目指し、ロシアと対立関係にあるイギリスやオーストリア帝国を牽制するため、皇帝ナポレオン3世のフランス帝国に接近を図った。しかしナポレオン3世は1863年のロシア領ポーランドにおけるポーランド人の蜂起を支援したことから露仏関係は疎遠となった。代わりに宰相オットー・フォン・ビスマルクが指導するプロイセン王国との連携を深めていった。1871年に普仏戦争でプロイセンが勝利したことで、パリ条約撤廃にこぎつけた。", "qas": [ { "question": "アレクサンドル・ゴルチャコフは何年に外交官になったか。", "id": "de-021-00-000", "answers": [ { "text": "1817年", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アレクサンドル・ゴルチャコフは1798年6月4日、ロシア帝国エストニア行政区ハープサルにミハイル・アレクセーエヴィチ・ゴルチャコフ公爵少将の息子として生まれる。\n\nロシア帝国首都サンクト・ペテルブルクのギムナージヤで学んだ後、1811年にツァールスコエ・セローのリツェイに入学した。\n\nこの学校での同級生に詩人アレクサンドル・プーシキンがいる。彼との交友を通じて自由主義的な影響を受け、啓蒙絶対主義に感銘を受けるようになったという。", "qas": [ { "question": "アレクサンドル・ゴルチャコフはいつ生まれましたか。", "id": "de-021-01-000", "answers": [ { "text": "1798年6月4日", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アレクサンドル・ゴルチャコフはいつツァールスコエ・セローのリツェイに入学した?", "id": "de-021-01-001", "answers": [ { "text": "1811年", "answer_start": 113, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アレクサンドル・ゴルチャコフは1817年にロシア外務省に入省し、外交官となった。1820年から1822年にかけてはトロッパウやライバッハ、ヴェローナで開催された神聖同盟の会議に参加した。1824年から駐ロンドン大使館に一等書記官として勤務し、1827年には駐ローマ大使館に転勤となり、更にその後ベルリンやウィーンの大使館にも勤務した。\n\n1841年に駐シュトゥットガルト公使に任じられる。1850年には1848年革命で中断されていたドイツ連邦議会が自由都市フランクフルト・アム・マインで再開されたが、ドイツ連邦内の二大国プロイセン王国とオーストリア帝国の対立が深まるばかりであった。法律上ドイツ連邦の保証者であったロシア皇帝ニコライ1世は、神聖同盟の崩壊を防ぐため、ゴルチャコフを駐シュトゥットガルト公使在任のまま、ドイツ連邦議会ロシア全権大使に任じて、普墺両国の関係を取り結ぶことを命じた。", "qas": [ { "question": "アレクサンドル・ゴルチャコフは何年に外交官になったか。", "id": "de-021-02-000", "answers": [ { "text": "1817年", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アレクサンドル・ゴルチャコフは何年から駐ロンドン大使館に一等書記官として勤務した?", "id": "de-021-02-001", "answers": [ { "text": "1824年", "answer_start": 93, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アレクサンドル・ゴルチャコフは駐ロンドン大使館と駐ローマ大使館と、どっちでもっと早い時期に勤務したの?", "id": "de-021-02-002", "answers": [ { "text": "駐ロンドン大使館", "answer_start": 100, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "神戸外国人居留地", "paragraphs": [ { "context": "神戸外国人居留地(こうべがいこくじんきょりゅうち)は、安政五カ国条約に基づき、1868年1月1日(慶応3年12月7日)から1899年(明治32年)7月16日までの間、兵庫津の約3.5km東に位置する神戸村(後の兵庫県神戸市中央区)に設けられた外国人居留地である。\n神戸居留地ともいう。\n東を(旧)生田川(後のフラワーロード)、西を鯉川(後の鯉川筋)、南を海、北を西国街道(後の花時計線)に囲まれた広さ約7万8,000坪(約258,000平方メートル)の区域が合理的な都市計画に基づいて開発され、「東洋における居留地としてもっともよく設計されている」と評された。\n一定の行政権・財政権などの治外法権が認められ、居留外国人を中心に組織された自治機構によって運営された。\n運営は円滑に行われ、日本側と外国側との関係もおおむね良好であったと評価されている。\n貿易の拠点、西洋文化の入り口として栄え、周辺地域に経済的・文化的影響を与えた。", "qas": [ { "question": "「東洋における居留地としてもっともよく設計されている」と評された兵庫県にある外国人居留地の名称は?", "id": "de-022-00-000", "answers": [ { "text": "神戸外国人居留地", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "神戸外国人居留地は何という条約に基づいて設けられたの?", "id": "de-022-00-001", "answers": [ { "text": "安政五カ国条約", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "神戸外国人居留地の区域の中で道路に面していない方角はどちら?", "id": "de-022-00-002", "answers": [ { "text": "南", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1858年7月29日(安政5年6月19日)、江戸幕府はアメリカとの間に日米修好通商条約を締結した。\n江戸幕府は同条約第6条において日本におけるアメリカの領事裁判権を認め、第3条において1863年1月1日(文久2年11月12日)に兵庫(兵庫津。かつての大輪田泊)を条約港として開港し、外国人の居住・経済活動のために貸与する一定の地域(外国人居留地)を設けることを約した。\n江戸幕府は間もなくオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の内容の条約(安政五カ国条約)を締結したが、これらの条約に関する勅許が得られず、諸外国と交渉を行った結果、兵庫開港の期日を5年遅らせ、1868年1月1日(慶応3年12月7日)とした。\n朝廷側は御所のある京都に近い兵庫を開港することに難色を示し、1865年12月22日(慶応元年11月5日)に安政五カ国条約についての勅許を与えた後も許そうとせず、延期された開港予定日を約半年後に控えた1867年6月26日(慶応3年5月24日)になってようやく勅許が与えられた。", "qas": [ { "question": "日本がアメリカの領事裁判権を認めたのは日米修好通商条約の第何条においてですか?", "id": "de-022-01-000", "answers": [ { "text": "第6条", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1863年に兵庫を条約港として開港することを約したが、実際に開港したのは何年ですか?", "id": "de-022-01-001", "answers": [ { "text": "1868年", "answer_start": 283, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "江戸幕府は勅許を得る前から兵庫開港に向けた交渉を諸外国と行っており、1867年5月16日(慶応3年4月13日)にイギリス・アメリカ・フランスとの間に「兵庫港並大坂に於て外国人居留地を定むる取極」(兵庫大阪規定書)を締結した。\n同取極第1条には「日本政府において条約済の各国人兵庫に居留地を神戸町(神戸村)と生田川との間に取極め...」と規定され、兵庫津の約3.5km東に位置する神戸村に居留地が設けられることになった。\nそしてそれに伴い、神戸村の海岸に建設される新たな港が外国に開放されることになった(新たな港は1892年(明治25年)に勅令により神戸港と名付けられた)。", "qas": [ { "question": "江戸幕府が「兵庫港並大坂に於て外国人居留地を定むる取極」を締結した3つの国の中で、ヨーロッパに属さない国はどこか?", "id": "de-022-02-000", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 61, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "居留地が設けられた村の名前は何?", "id": "de-022-02-001", "answers": [ { "text": "神戸村", "answer_start": 148, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "居留地は兵庫津からどのくらいの距離に位置している?", "id": "de-022-02-002", "answers": [ { "text": "約3.5km東", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "神戸村の海岸に建設された新たな港は、後に何と名付けられましたか?", "id": "de-022-02-003", "answers": [ { "text": "神戸港", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "「兵庫開港」において、兵庫津ではなく後の神戸港が開放されることになった理由・経緯を示す資料は存在しないが、複数の推測がなされている。\n楠本利夫『増補国際都市神戸の系譜』は、江戸幕府側が外国人を敬遠する住民感情を考慮し、衝突が起こらないようにとの配慮から、すでに港として栄え(兵庫津は当時大坂の外港として機能し、取引の盛んな港であった)往来の激しい兵庫津の開放を避けたと推測している。\nまた、『新修神戸市史歴史編3』および『増補国際都市神戸の系譜』は、人口の多い兵庫津周辺よりも神戸村のほうが用地の確保が容易であり、1865年(元治2年)に閉鎖された神戸海軍操練所の施設を活用できたためと推測している。\nさらに『増補国際都市神戸の系譜』は、1865年11月(慶応元年9月/10月)に兵庫津付近の海域を測量したイギリス公使ハリー・パークスの随行員が「兵庫の旧市内からやや離れたところにある」居留地の予定地について「十分な水深もあり、天然の優れた投錨地となっている小さな湾に面している」と評価した記録を残していることを取り上げ、「兵庫の旧市内からやや離れたところにある予定地」とは神戸村を指しており、外国側も兵庫津より神戸村のほうが開港場に適しているという認識を持っていたと推測している。\nなお、神戸港の港域は1892年(明治25年)に拡大され、兵庫津を含むようになった。", "qas": [ { "question": "神戸開港において活用した、神戸村にあった施設名は何ですか?", "id": "de-022-03-000", "answers": [ { "text": "神戸海軍操練所", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "外国側も兵庫津より神戸村のほうが開港場に適しているという認識を持っていた、と分かるのは誰が予め兵庫津周辺を調査したからですか?", "id": "de-022-03-001", "answers": [ { "text": "ハリー・パークス", "answer_start": 359, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "江戸幕府は柴田剛中を兵庫奉行に任命して居留地と港の造成にあたらせた。\n柴田は神戸村に着任すると直ちに造成の指揮を執ったが、開港日である1868年1月1日(慶応3年12月7日)までに完成したのは運上所(税関)の施設と3か所の埠頭、3棟の倉庫のみであった。\nこの時期は江戸幕府から明治政府への政権移行期に当たり、1867年11月9日(慶応3年10月14日)には大政奉還が行われた。\n当初、兵庫開港に関する事務は引き続き江戸幕府が担当することとされたが、開港から2日後の1月3日(慶応3年12月9日)に王政復古の大号令が発令され、同月27日(慶応4年1月3日)に起こった鳥羽・伏見の戦いで江戸幕府軍が敗れ徳川慶喜が大阪城から江戸へ退却すると柴田剛中も江戸へ引き上げ、工事は中断を余儀なくされた。\n残る工事は明治政府の下で行われ、道路や溝渠の工事が終わり南北8本・東西5本の街路からなる碁盤の目状の区画が完成したのは1872年(明治4年/5年)頃のことである。", "qas": [ { "question": "江戸幕府から居留地と港の造成に任命された人物は誰ですか?", "id": "de-022-04-000", "answers": [ { "text": "柴田剛中", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "居留地の工事が中断となった時の将軍は誰でしたか?", "id": "de-022-04-001", "answers": [ { "text": "徳川慶喜", "answer_start": 299, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "居留地はその後何の政権の下で完成を遂げましたか?", "id": "de-022-04-002", "answers": [ { "text": "明治政府", "answer_start": 350, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "外国人による土地所有を認めない方針を採る明治政府は、居留地内の土地を永代借地(無期限の借地。事実上の所有)として外国人に貸与することとし、被貸与者は競売によって決定された。\n永代借地権は居留地返還後も、1942年(昭和17年)まで存続した。\n競売代金の約半分は政府側が収納し、残りは自治行政を行うための最高議決機関として政府が認めた居留地会議の運営費として積み立てられた。\n居留地住民による自治行政は居留地が廃止されるまで続いた。\n約30年にわたり居留地は円滑に運営され、日本側と外国側との関係も概ね良好であったと評価されている。\nただし日本人は居留地内での居住が禁止され、立ち入りも制限された。\nなお居留地造成の遅れを受け、明治政府は区域を東は(旧)生田川、西は宇治川、南は居留地南の海岸、北は山辺(山麓)と限定した上で、外国人が居留地外に居住することを認めた。\nこの区域を雑居地といい、居留地返還まで存続した。", "qas": [ { "question": "居留地内の永代借地権はいつまで存続した?", "id": "de-022-05-000", "answers": [ { "text": "1942年", "answer_start": 101, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "外国人が居留地以外に居住することが認められた区域を何というか?", "id": "de-022-05-001", "answers": [ { "text": "雑居地", "answer_start": 388, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "開港後居留地は合理的な都市計画の下で整備され、前述のように1872年(明治4年/5年)頃には道路や溝渠の工事が完了し、土地の競売も1873年(明治6年)2月7日までに終わった。\n居留地の都市計画は、「神戸は東洋における居留地としてもっともよく設計されている」と評された(1871年4月17日付の英字新聞「TheFarEast」)。\n一方、周辺地域は必ずしも計画的に開発されたわけではなかった。\n居留地の東北には外国人が経営する工場が、西には会社や銀行が開設され、北西には清国人街が形成されるといった具合にある程度傾向を帯びながらも、居留地の発展とともに周辺地域の人口が増加し、雑然と市街地が形成されていった。\n市街地の規模は、1890年代初めには兵庫津周辺と一続きとなるまでに拡大し、居留地が置かれた神戸村の人口は開港当時約3600人であったが、周辺の村との合併を経て1889年(明治22年)に神戸市が誕生した際には約13万4700人にまで増加した。\nなお居留外国人数は1871年(明治3年/4年)の時点で400人余り(イギリス・ドイツ・フランス・オランダ・清の5か国)であったが、1890年には2,000人を超えている。", "qas": [ { "question": "約20年で5倍の人数となったのは何を対象とした人数か?", "id": "de-022-06-000", "answers": [ { "text": "居留外国人数", "answer_start": 428, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "居住地の中で銀行が開設されたのはどの方角か?", "id": "de-022-06-001", "answers": [ { "text": "西", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "神戸村の人口は明治22年の時点で何人になりましたか?", "id": "de-022-06-002", "answers": [ { "text": "約13万4700人", "answer_start": 408, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "居留外国人の出身国の内、アジアに位置する国はどこでしょう?", "id": "de-022-06-003", "answers": [ { "text": "清", "answer_start": 479, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "開港当初は設備が貧弱で、自然海岸に近かった兵庫(神戸)港の整備も進められた。\n1868年4月から7月(明治元年4月から5月)にかけて(旧)生田川・宇治川間の海岸に改めて4つの埠頭が建設され、さらに明治4年(1871年/1872年)に防波護岸・埠頭拡張の工事が行われた。\nまた、1871年4月29日(明治4年3月10日)から同年7月26日(明治4年6月9日)にかけて行われた(旧)生田川の付け替え工事は、居留地周辺の水害を防ぐだけでなく、港の中心部への土砂の流入を防ぐ効果ももたらした。\n後に「天然の良港」と呼ばれる神戸港の基盤はこうして整えられていった。\nなお、神戸港が日本有数の国際貿易港として飛躍するきっかけになったと評価されている大規模な修築事業(第一期修築工事)は、居留地返還後の1907年(明治39年)に決定し、翌1908年(明治40年)に起工した。", "qas": [ { "question": "居留地周辺の水害と、港の中心部への土砂の流入を防ぐ効果をもたらした工事は何年に始まりましたか?", "id": "de-022-07-000", "answers": [ { "text": "1871年", "answer_start": 138, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "明治時代の整備や工事によって、後に神戸港は何と呼ばれましたか?", "id": "de-022-07-001", "answers": [ { "text": "「天然の良港」", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "明治政府は、江戸幕府が締結した安政五カ国条約の改正を目指す中で欧化主義政策を採った。\nその一環として東京の鹿鳴館では舞踏会が盛んに催されたが、神戸でも盛んに開催された。\nそんな中、1887年(明治20年)には「神戸未曾有の大夜会」と称し、大阪府と兵庫県の知事主催による舞踏会が神戸レガッタアンドアスレチッククラブ(KRAC。)の体育館で催された。", "qas": [ { "question": "東京と同じくらい神戸でも盛んに開催されたパーティーは何?", "id": "de-022-08-000", "answers": [ { "text": "舞踏会", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「神戸未曾有の大夜会」は明治何年に開催された?", "id": "de-022-08-001", "answers": [ { "text": "明治20年", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1894年(明治27年)、明治政府はイギリスとの間に日英通商航海条約を締結し、領事裁判権の撤廃と外国人居留地の返還を実現した。\n政府はその後同じ内容の条約をアメリカ、フランスなど14ヵ国と締結した。\nこれら一連の条約は1899年(明治32年)7月17日に発効し、同日をもって神戸外国人居留地は日本側に返還された。\nこれにより居留地は神戸市へ編入され、外国人に認められていた行政権と財政権は解消し、日本人が自由に立ち入り、居住することが可能となった。\n居留地内にあった警察隊(居留地会議によって組織)は廃止され、消防隊(居留地住民が自主的に組織)は消防組として神戸市へ移管された。\n返還に際して日本側は、行事局局長を兵庫県および神戸市の嘱託職員とし、行事局のあった場所に市の派出所を置く、治外法権撤廃に伴う紛争防止のために外国人が相談委員会(後に神戸国際委員会と改称)を設置することを認めるなど、外国人に対し一定の配慮をした。", "qas": [ { "question": "日本が領事裁判権の撤廃と外国人居留地の返還を実現させるという内容の条約を14ヵ国と締結したが、その中で一番初めに結んだ国はどこ?", "id": "de-022-09-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "居留地は返還後何市に編入されたのですか?", "id": "de-022-09-001", "answers": [ { "text": "神戸市", "answer_start": 166, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "前述のように、外国人による土地所有を認めない方針をとる明治政府は、居留地内の土地を永代借地(無期限の借地。事実上の所有)として外国人に貸与した。\n永代借地権は居留地返還後も存続したが、返還後日本側は永代借地の上に建つ家屋に課税する方針を打ち出した。\nこれに対し外国側はすでに地税が徴収されているにもかかわらずさらに家屋への課税を行うことは二重課税に当たり不当であると反発し、1902年(明治35年)に日本政府が常設仲裁裁判所に提訴する事態に発展した。\nこの提訴は1905年(明治38年)に日本側の申し立てが棄却される結果に終わり、日本側は永代借地上の家屋には一切の課税ができないことになった。", "qas": [ { "question": "外国人が永代借地上に家屋を立てると日本側は課税できるか、できないか?", "id": "de-022-10-000", "answers": [ { "text": "できない", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "明治政府が居留地内の土地を無期限で外国人に貸した権利を何と言いますか?", "id": "de-022-10-001", "answers": [ { "text": "永代借地権", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "居留地上の家屋への課税は二重課税に当たると反発した外国側が、既に支払っていた税は何ですか?", "id": "de-022-10-002", "answers": [ { "text": "地税", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "税の徴収が不可能となった神戸市は1933年(昭和8年)より永代借地権撤廃に向けて行動を開始し、1936年(昭和11年)9月に同様の問題を抱えていた横浜市、長崎市とともに協議会を発足させると、両市と協力して外国側との折衝を行った。\nその結果1937年(昭和12年)3月に、1942年(昭和17年)4月1日をもって永代借地権を消滅させ土地所有権に切り替え、その代わり切り替え後5年間は地税を免除することで合意が成立した。\n条約上の居留地返還は1899年(明治32年)7月17日であるが、居留地の完全な消滅、居留地の歴史の終焉は永代借地権が解消された1942年4月1日であるとされる。", "qas": [ { "question": "永代借地権をめぐる問題を抱えていた都市は神戸市の他に横浜市とどこか?", "id": "de-022-11-000", "answers": [ { "text": "長崎市", "answer_start": 77, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "永代借地権から切り替わったのは何という権利?", "id": "de-022-11-001", "answers": [ { "text": "土地所有権", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "永代借地権から土地所有権に切り替わる際に、地税免除となった期間は切り替え後の何年間?", "id": "de-022-11-002", "answers": [ { "text": "5年間", "answer_start": 186, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "事実上、居留地が消滅した日はいつとされている?", "id": "de-022-11-003", "answers": [ { "text": "1942年4月1日", "answer_start": 272, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "返還された居留地(旧居留地)には大正から昭和初期にかけて日本の商社や銀行が多く進出し、ビジネス街として発展した。\n一方、外国商館は第一次世界大戦を境に衰退を見せた。\nとりわけ大戦において日本と敵対したドイツ人所有の不動産は強制的に日本人に売却され、旧居留地においても日系商社がドイツ系商社にとって代わった。\n1931年(昭和6年)の時点で、外国人が永代借地する旧居留地内の区画は126区画中47区画にまで減少した。", "qas": [ { "question": "返還された居留地内の外国商館が衰退していった契機となるものは何?", "id": "de-022-12-000", "answers": [ { "text": "第一次世界大戦", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1931年において外国人は旧居留地内の区画をいくつ永久借地していた?", "id": "de-022-12-001", "answers": [ { "text": "47区画", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "第二次世界大戦期の1945年6月に神戸大空襲によって7割の区画が破壊されると、終戦後も復興はなかなか進まず、加えて昭和30年代に東京への本社機能移転や神戸市における都心の東進化が生じたことで、旧居留地の経済的な位置付けは低下した。\nしかし昭和50年代に入り旧居留地内に残された近代洋風建築物や歴史的景観が再評価されるようになると、そうした要素を活用した店舗が新たに開設され、旧居留地はビジネス街とショッピング街の機能を併せ持つ区域として活況を呈するようになった。", "qas": [ { "question": "旧居留地の半分以上が破壊された原因となったのは何の被害に遭ったから?", "id": "de-022-13-000", "answers": [ { "text": "神戸大空襲", "answer_start": 17, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "神戸大空襲はいつ起こった?", "id": "de-022-13-001", "answers": [ { "text": "1945年6月", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "旧居留地内に残っていた近代洋風建築物や歴史的景観が再評価されるようになったのはいつですか?", "id": "de-022-13-002", "answers": [ { "text": "昭和50年代", "answer_start": 119, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "明治政府は1868年8月7日(慶応4年6月19日)に成立した「大阪兵庫外国人居留地約定書」において、外国人に対して居留地における一定の行政権と財政権を認めた。\n具体的には居留地内のインフラ整備・治安維持を中心とする自治行政を行うための最高議決機関として居留地会議を創設し、その運営費用には居留地の競売代金の一部と地税・警察税(地税と警察税の徴収は居留地側が行うことができた)を充てることを認めた。\n居留地住民による自治行政は居留地が廃止されるまで続いた(なお、長崎や横浜の居留地にも当初は自治権があったが、途中で放棄されている)。\nまた、各国政府は神戸外国人居留地周辺に領事館を開設し、自国の経済的利益と国民を保護し領事裁判権を行使する領事を置いた。", "qas": [ { "question": "明治政府は外国人の居留地での行政権と財政権を何において認めましたか?", "id": "de-022-14-000", "answers": [ { "text": "「大阪兵庫外国人居留地約定書」", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "居留地会議の運営費用に充てられた対象の中で、土地と関連していないものは何でしょう?", "id": "de-022-14-001", "answers": [ { "text": "警察税", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "神戸、長崎、横浜の各居留地の中で、居留地住民による自治行政が、居留地廃止の時まで続いた都市はどこでしょうか?", "id": "de-022-14-002", "answers": [ { "text": "神戸外国人居留地", "answer_start": 274, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "最高議決機関である居留地会議は、各国の領事と兵庫県知事、選挙によって選ばれた居留地の住民代表(行事)3名によって構成された。\n居留地会議議長は領事の代表が務めることが多かった。\n居留地会議の会議は英語で行われ、議事録は新聞で公表された。\n居留地会議の執行機関として行事局が設置された。\n行事局には3名の委員がおり、行事局長によって統括された。\n初代の局長はC・H・コブデンで、後任のヘルマン・トロチックが1872年(明治4年/5年)から居留地返還まで局長を務めた。\nトロチックは1874年(明治7年)4月に居留地警察署が設置されるとその署長を兼務した。\n重要案件については居留地会議の下に設けられた委員会において検討され、その報告を基に居留地会議が決定を下すというプロセスが採られた。", "qas": [ { "question": "居留地会議の構成員である居留地の住民代表は何で選ばれた?", "id": "de-022-15-000", "answers": [ { "text": "選挙", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "行事局長でありながら、居留地警察署長も兼任した人物は誰かな?", "id": "de-022-15-001", "answers": [ { "text": "ヘルマン・トロチック", "answer_start": 191, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "居留地会議で使用していた言語は何?", "id": "de-022-15-002", "answers": [ { "text": "英語", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "外国人による自治が認められたことで、居留地内において立ち入りや警察権の行使など日本側の権利・権限は制限された。\nまた、日本と欧米諸国との間で結ばれた不平等条約によって領事裁判権が認められ、条約の適用対象となる居留外国人が当事者である法的紛争については外国領事による裁判が行われた(自治権については属地主義が採られ居留地内にのみ及んだのに対し、領事裁判権については属人主義が採られ、居留地外の紛争にも及んだ。もっとも実際には、外国人が居留地外においても居留地内と同様の治外法権を主張し、日本側とトラブルに発展することもあった)。", "qas": [ { "question": "外国人に自治が認められたことで、まず一つ日本側の何の権力が制限されたでしょう?", "id": "de-022-16-000", "answers": [ { "text": "警察", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "領事裁判権による居留外国人の裁判は日本領事によって行われたか、それとも外国領事によって行われたか?", "id": "de-022-16-001", "answers": [ { "text": "外国領事", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本人は居留地内での居住が禁止され、開港当初は居留地への立ち入り自体も禁じられていたが、1869年(明治元年/2年)以降は鑑札を所持する者については許可された。\nなお、居留地内で活動した警察組織には数人の日本人が警察官として所属していた。", "qas": [ { "question": "1869年以降に居留地への立ち入り、居住が許された日本人が所持していたものは何?", "id": "de-022-17-000", "answers": [ { "text": "鑑札", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "前述の「大阪兵庫外国人居留地約定書」では警察目的の税(警察税)の徴収が認められていたため、外国側は警察権について、居留地会議に帰属すると考えていた。\nしかし兵庫県は県に警察権が帰属するという見解を取っていた。\nこの見解の相違が原因で1871年7月2日(明治4年5月15日)、「女王対ウォータース事件」と呼ばれる事件が起こった。\n\n1871年7月2日(明治4年5月15日)、兵庫県所属の警察官が居留地内にいた女性を売春婦と疑い、警察詰所に連行した。\n取り調べの結果女性は居留地在住のイギリス人ウォータースの使用人であると判明して釈放されたが、これに怒ったウォータースは翌3日(明治4年5月16日)、使用人を連行したと思しき警察官2名を屋敷内に監禁した。\nこの事件は領事裁判権に基づきイギリス領事A・J・ガワーが裁くこととなったが、判決においてガワーは、日本の警察官は居留地内で警察権を行使することはできず、身柄の拘束はもちろんパトロールを行う権限もないのであって、ウォータースの警察官に対する公務執行妨害罪は成立しない(単に私人に対する逮捕・監禁罪が成立するに過ぎない)という判断を示した。\nこの判決によって、居留地内においては、行事局を統括する行事局長指揮下の居留地警察のみが警察権を行使することができるということが明確になった。\n兵庫県は1899年(明治32年)の返還まで居留地内において警察権を行使することができなかった。", "qas": [ { "question": "居留地内の警察権の行使をめぐって発生した事件は何と言われていますか?", "id": "de-022-18-000", "answers": [ { "text": "「女王対ウォータース事件」", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウォータースの警察官に対する公務執行妨害罪は成立しないという判断を示したのは誰か?", "id": "de-022-18-001", "answers": [ { "text": "A・J・ガワー", "answer_start": 346, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "LED照明", "paragraphs": [ { "context": "LED照明(エルイーディーしょうめい、英:LEDlamp,LEDlightbulb)は、発光ダイオード(LED)を使用した照明器具のことである。2017年現在、照明器具の主力光源となっている。LEDを使用しているため、低消費電力で長寿命といった特徴を持つ。定格範囲内で使用する限り発光素子自身は比較的長寿命であり、熱による劣化が寿命の決定要因となる。LED照明に求められる白色の発色には青色の光源が必要なため、1990年代に青色LEDが発明されるまでは可視光LEDを使ったLED照明を作ることは現実的ではなかった。ブルーライトを伴った高輝度のLED照明が普及し環境や健康に有害であるため、2016年にはアメリカ医師会が、運転や睡眠、生態系に与える影響を低減するためのガイダンスを作成している。", "qas": [ { "question": "2017年現在、照明器具の主力光源となっているのは、何ですか?", "id": "de-023-00-000", "answers": [ { "text": "LED照明", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "LED照明から見たLEDの特徴には、低消費電力のほかに、何があるの?", "id": "de-023-00-001", "answers": [ { "text": "長寿命", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "LED照明は、蛍光灯や白熱電球といった従来型の照明器具と比較すると長寿命・高信頼性と低消費電力・低発熱性、高価格、RoHSに対する高い順応性、耐衝撃性、小型・点光源、高速応答性、直流低電圧駆動などの特徴を備える。他の特徴として、内蔵した各色LEDの発光を切り替えることで、発光色を容易に変えられる。そのほか、赤外線を出さないため、放射熱も出さない。また、紫外線を出さないことで紫外線を好む虫類がほとんど寄ってこないなどの利点がある。", "qas": [ { "question": "LED照明と従来型の照明器具のうち、より低価格で提供されるのは、何か?", "id": "de-023-01-000", "answers": [ { "text": "照明器具", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "LED素子の帯域はレーザーのような線スペクトルほどではないが、既存の光源に比べるとずっと狭く、単一のLEDで白色光を出すことはできない。ただし、蛍光体により短波長の光を長波長の光に変換することができるので、LED自体は青色のみにして他の色は蛍光によって出すこともできる。いずれも青色LEDが必須であり、青色LEDの発明によって初めてLED照明は現実的となった。青色LEDと黄色発光体を使ったものが最も普及している。青色LEDと赤色・緑色発光体を使ったものもあり、演色性には優れるが、高価でエネルギー効率に劣る。蛍光の帯域は広く、帯域が広いほうが演色性に優れた良質な照明なので、照明には主に蛍光体が使われる。", "qas": [ { "question": "LED自体は青色のみにしても、何があれば他の色が出せますか?", "id": "de-023-02-000", "answers": [ { "text": "蛍光", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "最も普及している照明は、何と黄色発光体を使ったものなの?", "id": "de-023-02-001", "answers": [ { "text": "青色LED", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "エネルギー効率が良いため、様々な場面で従来の照明から、高輝度のLED照明に置き換えられているが、その明るさや、白色光に見られるブルーライトは環境や健康に有害であるため、2016年にはアメリカ医師会がガイダンスを作成している。青色が豊富な強烈な光は、運転手の視力に影響を与え、安全性を低下させる。夜間に(睡眠を司るホルモン)メラトニンの分泌を抑制し、大規模調査は、住居における夜間の明るい照明は、睡眠時間の減少、睡眠の質の低下、眠気、昼間の機能の低下、また肥満に関連することが判明している。過剰な照明は闇を必要とする鳥、昆虫、亀、魚など他の生物の生態にも影響する。このため、まぶしさの低減とブルーライトの制御が必要である。蛍光灯やLED照明には近視の進行を防ぐバイオレット光が含まれないため、蛍光灯やLED照明を使用すると生活環境からバイオレット光が欠如してしまう。蛍光灯やLED照明の使用と近視の世界的な増加に関係がある可能性が慶応大学医学部により指摘されている。", "qas": [ { "question": "蛍光灯やLED照明の使用が近視の世界的な増加に繋がる可能性があるとの指摘があったのは、蛍光灯やLED照明には何が含まれていないからか?", "id": "de-023-03-000", "answers": [ { "text": "バイオレット光", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バイオレット光は、何の進行を防ぐ機能があるものか?", "id": "de-023-03-001", "answers": [ { "text": "近視", "answer_start": 321, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "住居における夜間の明るい照明は、主に何について悪影響を与えると言っているの?", "id": "de-023-03-002", "answers": [ { "text": "睡眠", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "この文書では、LED照明が生態や人体においてどうだと言っていますか?", "id": "de-023-03-003", "answers": [ { "text": "有害", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "表面実装型は多様な形状が存在する。2009年現在登場している「パワーLED」と呼ばれる新たな照明用LEDのパッケージは、放熱性や発光特性に考慮して各社で異なるため、それらの形状はまちまちである。パッケージの背面に放熱板(ヒートシンク)が密着して取り付けられるので、放熱には有利となる。基本的に表面実装型では、配線が描かれた小型基板の上にリフレクタが取り付けられ、その中央に素子が置かれてダイ・ボンディングされ、素子と基板の間がワイヤ・ボンディングで接続される。蛍光体と樹脂がリフレクタで囲まれた上に注がれ素子を覆っている。小型基板は樹脂、金属、セラミックが使用される。表面実装型(SMD型)は、一般にフェース・アップ実装とフリップチップ実装のものがある。これらの他に、チップの新たな構造として、張り合わせタイプがある。", "qas": [ { "question": "「パワーLED」が登場したのは、何年ですか?", "id": "de-023-04-000", "answers": [ { "text": "2009年", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フェース・アップ実装とフリップチップ実装のもののほかに、表面実装型に含まれるものとして書かれているのは、何?", "id": "de-023-04-001", "answers": [ { "text": "張り合わせタイプ", "answer_start": 347, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "表面実装型で、上にリフレクタが取り付けられるところには、樹脂、金属のほかに、何が使用されるか?", "id": "de-023-04-002", "answers": [ { "text": "セラミック", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フェース・アップ実装では、素直に素子上面を外面に向けてパッケージのリードやサブストレートに実装し、ワイヤ・ボンディングするものである。樹脂の熱歪でワイヤが断線する危険がある。ワイヤが邪魔で発光効率を下げる。発光素子のサファイヤ基板は熱伝導率が低いため放熱はボンディングされたワイヤにも頼るが、それでも熱を外に逃がし難い。フリップチップ実装では、発光素子をサブマウント上にフリップチップ実装した後、サブマウントをパッケージのリードやサブストレートに実装する。ワイヤ・ボンティングはサブマウントに対して行う。発光素子は上下が逆になるため、光はサファイヤ基板を透過して外面に向かう。発光によって熱が生じる活性層はサブマウント近くになるため、バンプを通じての放熱が行いやすい。ただし発光素子をバンプでサブマウントに付ける時に、熱と超音波振動が加えられるために素子や周辺に負担がかかる。", "qas": [ { "question": "フェース・アップ実装では、何が邪魔になり発光効率を下げますか?", "id": "de-023-05-000", "answers": [ { "text": "ワイヤ", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "発光素子をサブマウント上にフリップチップ実装した後、サブマウントをパッケージのリードやサブストレートに実装するのは、フェース・アップ実装とフリップチップ実装のうち、どれか?", "id": "de-023-05-001", "answers": [ { "text": "フリップチップ実装", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フェース・アップ実装とフリップチップ実装のうち、放熱の面でより優れているのは、どちらか?", "id": "de-023-05-002", "answers": [ { "text": "フリップチップ実装", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "バンプは金線を使用したワイヤ・ボンディングを利用して作る。トーチで金線の先端を加熱しボールを作る。ボールをキャピラリで発光素子の配線パッド上に押し付け、荷重と超音波、加熱により配線パッドと金線を合金化するとともにバンプを形成する。キャピラリを配線パッドから離し、バンプだけを残す。加熱はバンプ形成では約230°Cである。張り合わせタイプではフリップチップの素子に似ているが形状が少し異なり、フリップした時に外部を向くサファイヤ層は除かれて反対に基部になる層として導電性基板が貼り付けられる。", "qas": [ { "question": "バンプは、何を利用して作るの?", "id": "de-023-06-000", "answers": [ { "text": "金線を使用したワイヤ・ボンディング", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バンプが形成される過程では、約何°Cほどの加熱が必要ですか?", "id": "de-023-06-001", "answers": [ { "text": "約230°C", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フリップチップ実装によってセラミック製のパッケージに直接実装する方法も採られている。セラミック製のパッケージに直接実装すれば、サブマウントを省くことで工程の簡略化や信頼性の向上になる。このようなものはCOB(Chiponboard)と呼ばれ、複数の素子を1つの大きなパッケージに直接実装したモジュールとすることで放熱性が高められる。", "qas": [ { "question": "セラミック製のパッケージに直接実装することにより得られる利点は、工程の簡略化と何か?", "id": "de-023-07-000", "answers": [ { "text": "信頼性の向上", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "マルチチップLEDは1つのパッケージ内に複数個のLED発光素子を搭載した複合構造のLEDである。マルチチップの実装では、表面実装型とそのほかの多様な形態のパッケージがある。シングルチップでは素子(チップ)は高光出力で大きさも1mm角以上と大きめのラージサイズチップが使用されることが多いが、マルチチップでは0.6mm角程度のミドルサイズチップや0.35mm角程度のノーマルサイズチップが使用されることが多い。マルチチップでは素子自身の発光色の組み合わせによって2通りの構成がある。その一つが「すべて青色発光を行い、黄色系と赤色系の蛍光体からの色も含めた混色で白色を得る」もので、残りの一つが「複数の発光素子を利用してRGB各色の発光を行い、それらの混色で白色を得る」ものである。前者は演色性に問題が少なく、一般照明用途に向く。後者は各色のスペクトルが狭く演色性に問題がある。一般照明用途に向かないがカラー液晶用のバックライトには適している。マルチチップでは発熱源が分散できるが発熱が増えるのでシングルチップ以上に放熱が求められる。また、発熱部分が集中して温度が部分的に上昇し過ぎないように留意する必要がある。蛍光体を使用する白色LEDでは、蛍光体はリフレクタによる作られるくぼみなどに充填される。沈降などで発光素子の近くにだけ蛍光体の分子が濃密に分布しないよう均質に分散している必要があり、充填量もどの製品でも等しく正確な量でなければならない。これらが守られないと、製品は色ムラによる不良となる。", "qas": [ { "question": "サイズが0.35mm角程度のチップは、ノーマルサイズチップとミドルサイズチップのうち、どちらに該当するの?", "id": "de-023-08-000", "answers": [ { "text": "ノーマルサイズチップ", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "複数の発光素子を利用してRGB各色の発光を行い、それらの混色で白色を得るものは、演色性に問題があるか、ないか?", "id": "de-023-08-001", "answers": [ { "text": "ある", "answer_start": 384, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "複数の発光素子を利用してRGB各色の発光を行い、それらの混色で白色を得るものは、一般照明用途に向く、向かないか?", "id": "de-023-08-002", "answers": [ { "text": "向かない", "answer_start": 394, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "シングルチップとマルチチップでは形態だけでなく特性や用途も異なってくる。シングルチップのラージサイズチップでは比較的高出力が得られるが、発光効率は低くなる。反対にマルチチップのノーマルサイズチップは1つずつは高出力は得られないが、発光効率は高くなる。マルチチップでは放熱設計が楽になる傾向がある。シングルチップは光源が1つであるため光学設計が単純でありレンズや反射鏡を使用する照明に向いている。マルチチップは光源が複数になるので集光する用途などには向かないが、面を照らす照明や人の目に触れる照明には点光源ごとの輝度が低いので向いている。強い光を放つ点光源では影が強く出て、用途によっては嫌遠され、導光板や拡散板を使って面光源とすることもある。半導体素子は同じプロセスを経ているものでもバッチごとに微妙に特性が変化する。シングルチップを照明用途で並べる場合を考えれば発光色の波長や光強度にバラツキがあると使用に差し支えるため、製造工程でチップの発光特性を均一に保つようにしなければならない。チップをパッケージに実装する前に電流を流して光を分析して分別を行い、それぞれの特性を調整する蛍光体を加える必要がある。マルチチップでの1つのパッケージ内のチップ同士でも同様の問題があるが、特性の異なる複数のチップを組み合わせることで解決でき、手間のかかる蛍光体による調整は必要ない。", "qas": [ { "question": "シングルチップのラージサイズチップとマルチチップのノーマルサイズチップのうち、より高い出力を得られるのは、どちらなの?", "id": "de-023-09-000", "answers": [ { "text": "シングルチップのラージサイズチップ", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シングルチップのラージサイズチップとマルチチップのノーマルサイズチップのうち、発光効率がより低いのは、どちらですか?", "id": "de-023-09-001", "answers": [ { "text": "シングルチップのラージサイズチップ", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シングルチップとマルチチップのうち、光源がより多いのは、どちらか?", "id": "de-023-09-002", "answers": [ { "text": "マルチチップ", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "この文書では、シングルチップとマルチチップを、用途と工程での差のほかに、何において比較しているか?", "id": "de-023-09-003", "answers": [ { "text": "特性", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "LEDは、極性のある直流によって発光し、適正電圧と耐圧がともに低いため、使用には専用の電源が必要となる。LEDはダイオードであるため、順方向電流と順電圧には相関があり、数ボルト程度の低い耐圧に応じた順電圧が少し上昇するだけで過大な順方向電流が流れて容易に損傷を受ける。これを回避するために、電流制限抵抗や定電流素子(定電流ダイオードや定電流ICなど)をLEDに直列に挿入して、電圧変動による影響を少なくする必要がある。一般にLED照明では複数のLED素子を使用するため、それらの接続方式には直列方式と並列方式、直並列方式の3種類がある。", "qas": [ { "question": "LEDを使用するのに専用の電源が必要であるのは、適正電圧と何がともに低いためなの?", "id": "de-023-10-000", "answers": [ { "text": "耐圧", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "複数のLED素子を接続する3種の方式のうち、直列の接続方式を全く使わないのは、どれですか?", "id": "de-023-10-001", "answers": [ { "text": "並列方式", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "直列方式とは複数のLEDを直列に接続する方式のことを言う。電流制限抵抗はただ1つを直列に挿入する。この直列接続方式では個別の電源回路や配線を設けずに済むが、1つがショートモードで故障すると順電圧の総和が下がって順電流が増加し、1つがオープンモードで故障するとその回路全体が消灯してしまう。ショート時の順電流増加を防ぐため、電流制限抵抗よりも定電流素子のほうが良い。並列方式とは複数のLEDを並列に接続する方式のことを言う。電流制限抵抗は各LED素子ごとに1つずつ挿入する。一つの素子が故障しても、他の回路への影響が少ない。直並列方式とは、直列方式と並列方式の両方式を取り入れ、いくつかの並列接続した群を直列に接続することで回路がハシゴ状になる方式のことを言う。LED素子の1つがショートモードで故障しても他の並列群が発光を続け、1つがオープンモードで故障しても故障した以外のLED素子が発光を維持できることが期待できる。上記のLED素子の単体の故障時に、たとえ発光が維持できても、規定した電流・電圧からは外れるため、照度や寿命を考慮すれば、故障したLED素子を交換する方が良い。また、LEDの順電圧の総和が、電源電圧に近くなる数だけ直列接続すれば、電源回路を省いて100Vの交流商用電源に、そのまま接続することは可能であるが、素子数の制約だけでなく、LED素子は極めて耐圧が低いため、ちょっとしたサージで簡単に損傷する可能性があり、商用電源周波数の影響をまともに受け、人によってはチカチカと点滅を繰り返した照明となるため、商品としての設計には向いていない。", "qas": [ { "question": "直列に接続する方式を全然使わないのは、直列方式と並列方式、直並列方式のうち、どれなの?", "id": "de-023-11-000", "answers": [ { "text": "並列方式", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ただ1つの電流制限抵抗を直列に挿入する方式は、何か?", "id": "de-023-11-001", "answers": [ { "text": "直列方式", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "一つの素子の故障が他の回路に及ばす影響がより少ないのは、直列方式と並列方式のうち、どちらですか?", "id": "de-023-11-002", "answers": [ { "text": "並列方式", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "この文書では、何を接続する3種の方式について説明しているかを答えなさい。", "id": "de-023-11-003", "answers": [ { "text": "複数のLED", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "LEDの駆動には電圧変動を少なくするために、定電圧回路による駆動が考慮される。また、順電圧には負の温度特性があり、温度が上がると順電圧が下がるので、温度特性による光量変化が避けたい場合には定電流回路で駆動することも考えられる。他の照明器具では考慮する必要がないが、LEDは微弱な電流でもそれに相当する弱い光を放つため、消灯時には電源回路からの漏れ電流がLEDに加わらないようにする必要がある。数μA程の微弱な電流でも暗闇では点灯が判別できるので、電源回路の設計には注意が求められる。それ自身が発熱する電源回路は、熱に弱いLED素子の放熱を阻害しないように離して設置する必要があるが、供給電圧が低い場合にあまり両者を離すと、給電用電線の抵抗で電圧降下を起こしエネルギー損失と共に予定した光度が得られない可能性があるので、注意が求められる。", "qas": [ { "question": "LEDの駆動には、何が高いために定電圧回路を利用することが考慮されるのか?", "id": "de-023-12-000", "answers": [ { "text": "電圧変動", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "LEDでは、消灯時に何がLEDに加わらないようにする必要があるの?", "id": "de-023-12-001", "answers": [ { "text": "電源回路からの漏れ電流", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "それ自身が発熱する電源回路は、何との距離が近くても遠くても問題が生じうるため、設置場所の選定に注意が求められますか?", "id": "de-023-12-002", "answers": [ { "text": "LED素子", "answer_start": 260, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "LED照明の使用中、電源回路からは電源コイルが発する磁力の影響により、ノイズが発生することが多い(回路によっては定電流ダイオード(CRD)を使用し、ノイズが発生しない構成を取るものもある)。そのため電源回路にはノイズが漏洩しないよう、フィルタ回路で適切な電磁両立性(EMC)対策を施すことが求められる。2012年7月より、日本国内においてはLED関連器具(LEDランプおよびLED電灯器具)が、電気用品安全法(PSE)の規制対象となり、製品安全試験に加え不要輻射(EMI測定)が必須要求となった。規制前は、主に格安製品を中心に、適切なEMC対策が施されていない物も少なくなかった。このような製品は、LED照明が点灯している間は常にノイズが発生するため、中にはテレビ・ラジオなど無線通信の受信に悪影響が出る場合もあり、街路灯の光源を全てLED電球に交換したところ、テレビへの混信が発生したため、不要輻射対策品への再交換を行った事例もある。", "qas": [ { "question": "電源回路においてフィルタ回路で適切な電磁両立性対策を施すことが求められるのは、何の影響により発生するノイズが漏洩しないようにするためですか?", "id": "de-023-13-000", "answers": [ { "text": "電源コイルが発する磁力", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2012年7月から日本国内では何の法でLED関連器具を規制しているの?", "id": "de-023-13-001", "answers": [ { "text": "電気用品安全法", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "LED関連器具が日本国内において法により規制され始めたのは、いつからか?", "id": "de-023-13-002", "answers": [ { "text": "2012年7月", "answer_start": 151, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "定格範囲内で使用する限り発光素子自身は比較的長寿命である。ただし、発光素子を取り囲む樹脂材料は強い光や発熱で劣化するため発光素子が正常でも比較的早期に透明度が失われて実用には適さなくなる。また発光部(LED)以外、例えば電源回路の受動部品(コンデンサ等)や電源供給用半導体、基板・配線等も主に温度・湿度の変化を受けて照明器具の寿命を決める要素となる。照明器具全体での温度や湿度に対する耐久性が求められるが、その全体の寿命は発光部や電源回路だけでなく、スイッチや電線なども経年変化を受けるため、他の電気機器と同様に10年程度を目処に交換することが推奨される。白色LEDが登場した初期には、従来の赤色LEDと同様にエポキシ樹脂が用いられていたが、定格動作しただけで蛍光灯と同等かそれよりも早く劣化が進み、白色LEDの出力向上では一層それは顕著となった。いまではシリコーン樹脂を封止材料に選ぶことでかなりの改善が見られるが、依然として熱による劣化と透明度の低下がLED素子の寿命を決定している。従来のLEDが状態表示等に使われている限りは明るさの低下はその装置全体の性能の決定的な要素ではなかったが、照明器具としての白色LEDでは明るさの低下は使用者の利便を損なうだけでなくエネルギーの無駄となるため、明るさ低下の許容範囲は自ずと限られる。従来のLEDは電子部品の寿命として「輝度が初期の50%となるまで」と定義されているが、照明用途ではとても許容できない。例えば一般の蛍光灯では光束が初期の70%になるまでと定義されており、おそらく同様の規定になると考えられる。", "qas": [ { "question": "定格範囲内で使用した時のLED素子自身の寿命は?", "id": "de-023-14-000", "answers": [ { "text": "比較的長寿命", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "比較的長いLED素子の寿命に影響を及ばしさらに短くするのは、何の劣化とそれによるLED素子の透明度の低下であるか?", "id": "de-023-14-001", "answers": [ { "text": "樹脂材料", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "現在、白色LEDにおいて早く劣化が進むことを改善するために、封止材料に採用されているのは、何ですか?", "id": "de-023-14-002", "answers": [ { "text": "シリコーン樹脂", "answer_start": 378, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "従来のLEDと一般の蛍光灯のうち、寿命に対しより緩やに規制されていたのは、何か?", "id": "de-023-14-003", "answers": [ { "text": "従来のLED", "answer_start": 567, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1990年代に青色発光ダイオードが開発されて以降は、LEDによる白色光照明の実用可能性が高まり、局所照明を中心に徐々に市販製品が登場している。野村総合研究所の予測では白色LED照明は世界全体で2012年には2009年の3倍近くの約4782億円相当になるとされる。富士経済では日本国内のLED照明市場は、2008年の全照明市場4494億円の内の約3%分133億円程度から、2012年には全照明市場4880億円の内の約12%分578億円程度になると予測している。白熱電球は世界的にも環境対策や省エネルギー政策の観点から使用中止が求められる傾向があり、日本国内では環境省と経済産業省が2012年までに白熱電球の販売自粛を要請しており、大手メーカーも積極的な販売を控えているため、代替が出来ない製品を除いて、生産を縮小した。大韓民国では「15/30プロジェクト」という2015年までに全照明の30%をLED照明に切り替える計画を進めている。中華人民共和国では「10都市街灯普及プロジェクト」によって国内21都市でLED街灯を試験的に設置する。中華民国政府は、2008年間からの4年間で総額20億台湾元をLED関連の研究開発支援に投資する。", "qas": [ { "question": "野村総合研究所と富士経済によるLED照明市場の成長に対する予測は、同じく何年までの予測であるの?", "id": "de-023-15-000", "answers": [ { "text": "2012年", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大韓民国では、何年までにLED照明の占める割合が全照明の30%になるようにするとの計画が出されたの?", "id": "de-023-15-001", "answers": [ { "text": "2015年", "answer_start": 380, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "世界的に環境対策や省エネルギー政策の観点から使用中止が求められた照明器具は、何か?", "id": "de-023-15-002", "answers": [ { "text": "白熱電球", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "政府が2008年間からの4年間で総額20億台湾元をLED関連の研究開発支援に投資すると発表したのは、どの国か?", "id": "de-023-15-003", "answers": [ { "text": "中華民国", "answer_start": 467, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "中華民国と同様に、中国、米国もLED照明の開発に政府が多額の資金援助を行っている。日本でも、国内立地の推進事業等を通して、LED(他にはリチウムイオン電池・太陽光発電等)の事業・工場の立地が進んだ。照明器具産業は、製品技術や市場変化の点で長い間大きな変化がなく、白熱電球や蛍光灯管という光源を作る幾つかのメーカーとそれを取り付ける器具メーカーがあり、両方行う総合照明メーカーも含めて棲み分けを行い成熟した市場で安定的な関係を構築してきた。特に光源メーカーとして新規参入する機会は乏しかったが、LED照明の登場で産業構造に変化の兆しがある。半導体を使用したLEDの光源は、半導体産業からの光源メーカーの参入機会を作りだす。新規参入と古参のいずれのメーカーでも、小型で調光が比較的容易なLED照明ならではの製品を市場に提案しており、電球の置き換え市場だけを狙っている訳ではない。また、今後は白熱電球だけでなく直管型蛍光灯の置き換えも視野に入っている。新規参入企業の多くが白熱電球型ではなく直管型蛍光灯の代替用途での製品開発と販売を進めている。直管型LED照明は器具の全てがLED照明専用であるものから、既設の直管型蛍光灯器具から安定器やインバータ部を取り外して配線をつなぐもの、既設の直管型蛍光灯器具から安定器やインバータ部を取り外さずにそのまま取り付けるもの、の3通りがある。ただし、既設器具から安定器等を撤去する行為は器具メーカーの保証を受けられなくなるほか、再度蛍光管に切り替える際に安定器を再設置する必要があるなどリスクが大きい。また、安定器を残置できるタイプのものは直管型LED照明に搭載する部品が増えるため、後述の問題を増大させる。", "qas": [ { "question": "照明器具産業において、光源を作る作業を行わないのは、器具メーカーと総合照明メーカーのうち、どちらか?", "id": "de-023-16-000", "answers": [ { "text": "器具メーカー", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "照明器具産業において、作られた光源を取り付ける作業を行わないのは、光源メーカーと、器具メーカー、総合照明メーカーのうち、どちらですか?", "id": "de-023-16-001", "answers": [ { "text": "光源メーカー", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "今後、LED照明により置き換えられるとの計画が立たれているのは、白熱電球と何に対して?", "id": "de-023-16-002", "answers": [ { "text": "直管型蛍光灯", "answer_start": 402, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "白熱電球と直管型蛍光灯のうち、新規参入企業では主にどちらの代替用途でのLED照明の製造開発と販売を進めているか?", "id": "de-023-16-003", "answers": [ { "text": "直管型蛍光灯", "answer_start": 442, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "小林一茶", "paragraphs": [ { "context": "小林一茶(こばやしいっさ、宝暦13年5月5日(1763年6月15日)-文政10年11月19日(1828年1月5日))は、日本の俳人。\n本名は小林弥太郎、一茶とは俳号である。\n別号は圯橋、菊明、新羅坊、亜堂。\n庵号は二六庵、俳諧寺。\n信濃国柏原で中農の子として生まれた。\n15歳の時に奉公のために江戸へ出て、やがて俳諧と出会い、「一茶調」と呼ばれる独自の俳風を確立して松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳諧師の一人となった。", "qas": [ { "question": "小林一茶の本名は何?", "id": "de-024-00-000", "answers": [ { "text": "小林弥太郎", "answer_start": 70, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "一茶が江戸に出て来たのは何歳の時だったの?", "id": "de-024-00-001", "answers": [ { "text": "15歳", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "一茶の出生地は?", "id": "de-024-00-002", "answers": [ { "text": "信濃国柏原", "answer_start": 116, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "小林一茶は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)に北信濃の北国街道の宿場町、柏原に生まれた。\n小林家は柏原では有力な農民の家系であり、一茶の家族も柏原では中位クラスの自作農であった。\n幼い頃に母を失った一茶は、父が再婚した継母との関係が悪く、不幸な少年時代を過ごす。\n一茶を可愛がっていた祖母の死後、継母との仲は極度に悪化し、父は一茶と継母を引き離すことを目的として15歳の一茶を江戸に奉公に出す。\nこの継母との確執は一茶の性格、そして句作に大きな影響を与えた。", "qas": [ { "question": "一茶が江戸に出た理由は誰との接触を避けるためだったの?", "id": "de-024-01-000", "answers": [ { "text": "継母", "answer_start": 152, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "15歳で江戸に奉公へ出たあと、俳諧師としての記録が現れ始める25歳の時まで一茶の音信は約10年間途絶える。\n奉公時代の10年間について、後に一茶は非常に苦しい生活をしていたと回顧している。\n25歳の時、一茶は江戸の東部や房総方面に基盤があった葛飾派の俳諧師として再び記録に現れるようになる。\n葛飾派の俳諧師として頭角を現しだした一茶は、当時の俳諧師の修業過程に従い、東北地方や西国に俳諧行脚を行った。\nまた自らも俳諧や古典、そして当時の風俗や文化を貪欲に学び、俳諧師としての実力を磨いていった。\n39歳の時に一茶は父を失い、その後足かけ13年間、継母と弟との間で父の遺産を巡って激しく争うことになる。", "qas": [ { "question": "父が亡くなったのは一茶が何歳の時でしたか?", "id": "de-024-02-000", "answers": [ { "text": "39歳", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "40台に入る頃には、一茶は主に房総方面への俳諧行脚で生計を維持するようになった。\nまた夏目成美ら、葛飾派の枠を超えて当時の実力ある俳諧師との交流を深めていった。\nその中で大衆化の反面、俗化著しかった当時の俳壇の中にあって独自の「一茶調」と呼ばれる作風を確立していく。\nやがて一茶の名は当時の俳句界で広く知られるようになった。\nしかし俳諧行脚で生活する一茶の生活は不安定であった。\n生活の安定を求めた一茶は、遺産相続問題で継母と弟と交渉を続けるとともに、故郷の北信濃で俳諧師匠として生活していくために一茶社中を作っていく。", "qas": [ { "question": "一茶が確立したスタイルは何と呼ばれていた?", "id": "de-024-03-000", "answers": [ { "text": "「一茶調」", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "一茶社中はどこで作られたの?", "id": "de-024-03-001", "answers": [ { "text": "北信濃", "answer_start": 229, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "51歳の時になってようやく遺産相続問題が解決し、一茶は故郷柏原に定住することになる。\n俳諧師として全国的に名が知られるようになった一茶は、北信濃に多くの門人を抱えた俳諧師匠となり、父の遺産も相続して待望の生活の安定を得ることが出来た。\n52歳にして結婚を果たしたが、初婚の妻との間の4人の子どもは全て夭折し、妻にも先立たれた。\n再婚相手との結婚生活は早々に破綻し、身体的には中風の発作を繰り返し、64歳の時に3度目の結婚をするものの、65歳で亡くなる数カ月前には火事で自宅を焼失するなど、後半生も不幸続きの人生であった。\nまた一茶は弟との遺産相続問題などが尾を引いて、故郷柏原では必ずしも受け入れられず、一茶自身も故郷に対して被害意識を最後まで持ち続けた。", "qas": [ { "question": "一茶は何歳で再々婚をしましたか?", "id": "de-024-04-000", "answers": [ { "text": "64歳", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "遺産相続問題が解決したのは一茶が何歳の時でしたか?", "id": "de-024-04-001", "answers": [ { "text": "51歳", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最初の妻との間には何人の子どもが生まれましたか?", "id": "de-024-04-002", "answers": [ { "text": "4人", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一茶の死後も俳句界ではその名声は落ちなかった。\nしかし門人たちの中から一茶の後継者は現れず、一茶調を引き継ぐものもなく、俳句界における一茶の影響力は小さいものに留まった。\n明治時代中期以降、正岡子規らに注目されるようになり、その後、自然主義文学の隆盛にともなって一茶の俳句は大きな注目を集めるようになり、松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代を代表する俳人としての評価が固まっていく。", "qas": [ { "question": "明治時代中期以降に一茶に注目し、評価した人とは誰ですか?", "id": "de-024-05-000", "answers": [ { "text": "正岡子規", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "江戸時代を代表する俳人とは松尾芭蕉、小林一茶とあと一人は誰?", "id": "de-024-05-001", "answers": [ { "text": "与謝蕪村", "answer_start": 157, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一茶の俳句は「生」をテーマとしていると言われている。\n句作の特徴としてはまず2万句以上という多作であったこと、内容的には苦労続きの人生を反映した、生活苦や人生の矛盾を鋭く捉えた句、童謡を思わせる子どもや小動物を詠んだ句などが代表的なものとされ、表現方法では擬声語、擬態語、擬音語といったオノマトペの多用が特徴として挙げられる。\n作風の俗っぽさなどに対する根強い批判もあるが、「生」をテーマとする句は多くの人々に受け入れられ、小説や音楽のテーマとされ、故郷の柏原(長野県信濃町)などでは一茶にちなんだ行事が行われており、一茶をテーマとした記念館も建設されている。", "qas": [ { "question": "一茶の俳句のテーマは何ですか?", "id": "de-024-06-000", "answers": [ { "text": "「生」", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "擬声語、擬態語、擬音語を総じて何といいますか?", "id": "de-024-06-001", "answers": [ { "text": "オノマトペ", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "小林一茶の故郷である北信濃の柏原は、長野市中心部から北へ約25キロメートルの標高700メートル近い地である。\n周囲にある黒姫山、飯縄山、妙高山が望め、野尻湖も近いところにある。\n柏原は北国街道の宿場町であった。\n北国街道の宿場は慶長16年(1611年)に指定されており、柏原は北陸方面と信濃、そして江戸とを結ぶ交通の要衝として発展して、物資の中継地として地域の中心となっていた。\n交通の要衝の柏原には江戸からの文化も流入してきた。\n江戸時代、庶民の文化として発展をしてきた俳諧も、18世紀半ばの宝暦年間には柏原で行われていたことが確認されており、柏原の諏訪神社では例年歌舞伎や相撲の興行が催されていた。", "qas": [ { "question": "長野市中心部と柏原は何キロメートル離れていますか?", "id": "de-024-07-000", "answers": [ { "text": "約25キロメートル", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "柏原の近くにある湖は何?", "id": "de-024-07-001", "answers": [ { "text": "野尻湖", "answer_start": 75, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "北信濃は戦国時代後期、川中島の戦いに代表されるように武田信玄と上杉謙信が激しい勢力争いを繰り広げるなど、戦乱が続いた影響で農地も荒廃した。\nやがて北信濃の戦乱が終息すると農村の復興が始まり、江戸時代に入ると復興は本格化し、新田開発も盛んになっていった。\n一茶の先祖はこのような北信濃の柏原に移住してきた一農民であった。\n一茶が生きていた時代の柏原は戸数約150戸、人口約700名であった。\n一茶が生まれ育った柏原の特徴のひとつとして、当時、柏原に住んでいた人々のほとんどが浄土真宗の信者であったことが挙げられる。\n一茶の一族も全て浄土真宗の信者であり、父、弥五兵衛は臨終の床にあって最期まで念仏を唱え続けた敬虔な浄土真宗信者で、一茶自身も熱心な信者であった。\n浄土真宗の教えもまた、一茶の作品に大きな影響を与えている。", "qas": [ { "question": "川中島の戦いで戦った武将は上杉謙信と誰ですか?", "id": "de-024-08-000", "answers": [ { "text": "武田信玄", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "一茶が信仰していた仏教とは?", "id": "de-024-08-001", "answers": [ { "text": "浄土真宗", "answer_start": 265, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "一茶の父親名は?", "id": "de-024-08-002", "answers": [ { "text": "弥五兵衛", "answer_start": 278, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "一茶が生存していた時の柏原の人口は何名でしたか?", "id": "de-024-08-003", "answers": [ { "text": "約700名", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "前述のように一茶が生まれ育ち、そして生涯を終えることになる柏原は北国街道の宿場町であった。\n宿場は人馬を常備して公の業務に備える義務を負っていた。\n公の業務には佐渡金山で産出された金銀の輸送業務、朱印状などの公文書の輸送業務、そして加賀藩の前田家に代表される北陸方面の大名の参勤交代時、円滑に北国街道を通行するように人馬を手配するといったものがあった。\nこれらの業務負担は決して軽いものではなく、見返りとして地子の免除という特典が与えられた。\n柏原宿ではこの地子免除の特典を受けられる北国街道沿いの約878メートルの地域を伝馬屋敷と呼んだ。\n伝馬屋敷の境界線には土手が設けられており、宿場の発展によって伝馬屋敷の外にも家々が立ち並ぶようになっても、地子免除の特典は土手の内側の伝馬屋敷住民にしか許されなかった。\n後述のように勤勉であった一茶の父、弥五兵衛はこの伝馬屋敷内の家を購入した。", "qas": [ { "question": "地子免除の特典を受けられる北国街道沿いの約878メートルの地域を何と呼んだの?", "id": "de-024-09-000", "answers": [ { "text": "伝馬屋敷", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "伝馬屋敷の距離はどれくらいあったの?", "id": "de-024-09-001", "answers": [ { "text": "約878メートル", "answer_start": 249, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "宿場町の義務として課せられた公の業務負担は重かったが、一方では民間の物資輸送、通行者も北国街道を盛んに利用するようになる。\n柏原宿は街道沿いに所狭しと家々が立ち並び、活況を呈していた。\n宿場沿いの家々の多くは馬を飼っており、一茶の父も農業の傍ら、持ち馬を使用して北国街道を通る物資の輸送業を営んでいた。\n江戸時代の柏原で一番の名家は、名主を世襲した中村嘉左衛門家と本陣を世襲した中村六左衛門家であった。\n両中村家は江戸時代初期の中村利茂(肝煎清蔵)を共通の先祖を持つ親戚同士であった。\n中村六左衛門家は慶安2年(1649年)に仁之倉新田、寛文5年(1665年)には熊倉新田、中村嘉左衛門家は明暦2年(1656年)に大久保新田、寛文2年(1662年)には赤渋新田の開墾を主導した。\n新田開発の成功に伴い柏原は発展していった。\nなお、本陣の中村六左衛門家は与右衛門家、徳左衛門家、兵左衛門家といった柏原で有力な家柄となる分家を輩出した。\nなお、中村徳左衛門家は一茶の最晩年、思いもかけぬ形で一茶に影響を与えることになる。", "qas": [ { "question": "中村嘉左衛門家と中村六左衛門家の共通の先祖とは誰?", "id": "de-024-10-000", "answers": [ { "text": "中村利茂", "answer_start": 214, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中村嘉左衛門家が先に開墾の主導を行ったのは赤渋新田と大久保新田のどちらですか?", "id": "de-024-10-001", "answers": [ { "text": "大久保新田", "answer_start": 307, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "中村六左衛門家が先に開墾の主導を行ったのは熊倉新田と仁之倉新田のどちらですか?", "id": "de-024-10-002", "answers": [ { "text": "仁之倉新田", "answer_start": 263, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "小林一茶は宝暦13年5月5日(1763年6月15日)、現在の長野県信濃町柏原に生まれた。\n本名は弥太郎。\n一茶が5月5日生まれであることは、自著である寛政三年紀行の中に明記されており定説となっている。\nしかし一茶が所有していた年代記の宝暦13年の部分には、9月4日(1793年10月10日)に一茶が生まれたとの書き込みがなされている。\nこの年代記には一茶以外の人物による書き込みもあり、問題の9月4日生まれとの記述が一茶本人のものであるかはっきりとしないため、定説とされていない。\n平成16年(2004年)には、一茶が生年月日を「宝暦13年5月5日」と自書した新資料が発見されており、一茶が宝暦13年5月5日に生まれたことはほぼ確実視されている。\n一茶の誕生時、父親の弥五兵衛は31歳、母のくには生年を示す資料が無く、一茶誕生時の年齢は不明である。\n一茶は両親の第一子で長男、家族としては他に父方の祖母のかながいた。\n一茶の家族の暮らし向きは、誕生当時、柏原では中の上クラスであったと考えられている。", "qas": [ { "question": "確実視されている一茶の誕生日は和暦の何月何日ですか?", "id": "de-024-11-000", "answers": [ { "text": "5月5日", "answer_start": 270, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "弥五兵衛が何歳の時に一茶が生まれたの?", "id": "de-024-11-001", "answers": [ { "text": "31歳", "answer_start": 339, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "弥五兵衛の母親の名前は何?", "id": "de-024-11-002", "answers": [ { "text": "かな", "answer_start": 402, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一茶の先祖については、柏原村の名主を務めた中村権左衛門家に伝えられた文禄元年(1592年)に近隣の芋川(現・長野県飯綱町)から柏原に移住してきたという系図と、やはり柏原村の本陣であった中村六左衛門家に伝えられた元和2年(1616年)に越後の長森村(現・新潟県南魚沼市)から移住してきたとの系図の2つの伝承があるが、いずれにしても安土桃山時代ないし江戸時代初頭に柏原の地へ移住してきた農民であったと考えられている。\n一茶の一族である小林家は、戦国時代の混乱期が終わった直後に柏原へやってきた柏原でも有数の旧家であり、名主を務めた中村権左衛門家、本陣であった中村六左衛門家に代表される中村一族に次ぐクラスの家柄と目されていた。\n事実、一茶と同時代に小林家の本家筋の家長であった小林弥市は、要職は中村一族にほぼ独占されていた柏原において組頭を務めていた。\nなお、一茶の一族は小林という姓を名乗っているが、近世、多くの庶民は苗字を持っていたのが実態であり、特に小林姓を名乗っていたことと身分との関連性は無い。", "qas": [ { "question": "柏原で名主を務めた家はどこですか?", "id": "de-024-12-000", "answers": [ { "text": "中村権左衛門家", "answer_start": 263, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中村一族の次に有力とされていた家とはどこ?", "id": "de-024-12-001", "answers": [ { "text": "小林家", "answer_start": 215, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "先祖についての確実な記録は、明和8年(1771年)に一茶の大叔父にあたる弥五右衛門が建立した、小林家一族の墓に刻まれた延宝9年(1681年)没の善右衛門まで遡れる。\n善右衛門は一茶の高祖父にあたる。\n一茶の曾祖父、弥兵衛は分家であったと考えられ、また祖父である弥五兵衛も享保18年(1733年)に、兄であり小林一族の墓を建立した弥五右衛門から分家したことが伝えられている。\n当時、北信濃の山間部は兄弟同士で遺産を均分して相続する均分相続の習慣があり、一茶の祖父である弥五兵衛は兄の弥五右衛門と耕地をほぼ均等に分割している。", "qas": [ { "question": "小林一族の墓を建立した人は誰?", "id": "de-024-13-000", "answers": [ { "text": "弥五右衛門", "answer_start": 164, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "善右衛門の玄孫は誰ですか?", "id": "de-024-13-001", "answers": [ { "text": "一茶", "answer_start": 88, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "明和2年8月17日(1765年10月1日)、一茶がわずか3歳の時に母、くにが亡くなった。\n母の死後、一茶の養育は健在であった祖母かなが主に担った。\nくにの死後、父弥五兵衛はしばらくやもめ暮らしをしていたが、明和7年(1770年)、一茶8歳の年に近隣の倉井村(長野県飯綱町)から、後妻のはつが嫁いできた。\nはつは弥五兵衛との婚姻時は27歳で、勝ち気で働き者の女性であった。\n明和9年(1772年)には一茶の腹違いの弟となる仙六が生まれた。\n祖母にはかわいがられた一茶であったが、継母のはつとの関係は険悪であった。\n一茶の回想によればはつは性格がきつく、事あるごとに一茶に厳しく当たったという。\nそれでも祖母のかなが健在であるうちは間に立ってくれたものの、一茶が14歳の安永5年8月14日(1776年9月26日)、かなは亡くなった。\n一茶を継母から守ってくれていた祖母の死は、一茶と継母との関係をますます悪化させた。\nまた祖母の死にショックを受けた一茶は重い病気にかかり、一時は重体となった。\n一茶と継母との関係の極度の悪化を見た父弥五兵衛は、やむを得ず一茶を江戸へ奉公に出すことにした。", "qas": [ { "question": "一茶の継母の名前は?", "id": "de-024-14-000", "answers": [ { "text": "はつ", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "弥五兵衛の再婚相手は誰でしたか?", "id": "de-024-14-001", "answers": [ { "text": "はつ", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "一茶の異母弟の名前は?", "id": "de-024-14-002", "answers": [ { "text": "仙六", "answer_start": 210, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "一茶とはつの中間に立っていた人とは誰?", "id": "de-024-14-003", "answers": [ { "text": "かな", "answer_start": 303, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一茶が江戸へ奉公に出る前、柏原でどのくらいの教養を身に付けていたのかはかっきりとしない。\n一茶自身の回想によれば、少年時代の一茶は農繁期の昼は終日農作業や馬の世話などに追われ、夜は夜で藁打ちや草鞋作りをせねばならず、とても学ぶ余裕など無かったとしている。\nしかし一茶の故郷は雪深い北信濃であり、雪に降り込められる冬季には各地で寺子屋が開設されていた。\n子どもたちは主に冬季、寺子屋で読み書きを学んでいたのである。\n一茶が少年時代を過ごした18世紀後半になると、農村での生活の中でも読み書き能力の必要性が高まっていた。\n実際、一茶の父の弥五兵衛も異母弟の仙六も、きちんとした文章を書ける能力を身に付けていた。\n一茶も江戸奉公に出るまでには基礎的な読み書き能力は身に付けていたものと推察されている。", "qas": [ { "question": "子どもが読み書きを学んだ場とはどこ?", "id": "de-024-15-000", "answers": [ { "text": "寺子屋", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "柏原の子どもたちが読み書きを学んでいた時期はいつ?", "id": "de-024-15-001", "answers": [ { "text": "冬季", "answer_start": 184, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一茶の故郷である柏原では、農家の子弟が江戸に奉公に出ること自体は珍しいことではなかった。\nしかしその多くは経済的に貧しい家庭の子弟であり、一茶のような中の上クラスの農民の、しかも長男が江戸に奉公に出ることは異例なことであった。\nもちろんその原因は継母との不仲であり、結果として一茶は継母のことを憎むようになった。\n江戸に奉公へ出ざるを得なくなった経緯は一茶の性格、そして句作に影響をもたらすことになる。", "qas": [ { "question": "一茶が憎んだ相手とは誰?", "id": "de-024-16-000", "answers": [ { "text": "継母", "answer_start": 123, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一茶は安永6年(1777年)の春に故郷柏原を離れ、江戸へ奉公へ出た。\n一茶を奉公に出すことを決めた父、弥五兵衛とすれば、一茶と継母もいったん距離を置くことによって関係が改善するのではないかとの思いがあった。\n一茶は江戸へ向かう柏原の村人に連れられて江戸へ出発した。\n父、弥五兵衛は一茶を隣の牟礼宿まで見送った。\n後に一茶は父から「毒なものは食うなよ、人に悪く思われるな、早く帰って元気な顔を見せておくれよ」。と言われて別れたと追想している。\nまだ15歳で長男でもある一茶を江戸に奉公に出したことは、父にとっては負い目となった。", "qas": [ { "question": "一茶が江戸に出たのは西暦何年でしたか?", "id": "de-024-17-000", "answers": [ { "text": "1777年", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "江戸へ奉公に出た一茶の消息は、10年後の天明7年(1787年)までぷっつりと途絶える。\n奉公先についてはいくつかの言い伝えはあるものの、どれも確証はない。\n晩年の回想によれば江戸奉公は厳しい日々が続き、奉公先は一か所ではなく転々としており、住まいも安定しなかった。\n当時、信濃から江戸へは多くの労働者が働きに出ていた。\n労働者たちの多くはきつい肉体労働に従事し、ひとたび不況となると職を失い、住居のない無宿人同様の境遇になる者も少なくなかった。\n一茶もまた江戸奉公時代、住居が安定しないということは無宿人に近い境遇になった可能性もある。\nそして江戸の住民たちの多くは信濃からの労働者たちを蔑み、ムクドリと揶揄した。", "qas": [ { "question": "江戸の人は信濃からの労働者たちを何と言ってからかいましたか?", "id": "de-024-18-000", "answers": [ { "text": "ムクドリ", "answer_start": 297, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一茶の江戸奉公時代の確たる消息は皆無に近い。\nただ文化3年(1806年)、一茶は房総半島行脚の帰途、浦賀の専福寺に立ち寄って香誉夏月寿信女という女性の墓参りに訪れている。\n一茶は香誉夏月寿信女が亡くなったのは天明2年6月2日(1782年7月11日)と記している。\n天明2年は一茶20歳の時であり、一茶とどのような関係にあったのかは不明であるが、一茶の江戸奉公の時期、この香誉夏月寿信女と何らかの縁があったことは確かである。", "qas": [ { "question": "1782年当時の一茶の年齢は何歳でしたか?", "id": "de-024-19-000", "answers": [ { "text": "20歳", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1806年に一茶は誰の墓参りをしたの?", "id": "de-024-19-001", "answers": [ { "text": "香誉夏月寿信女", "answer_start": 62, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "江戸に奉公に出た一茶は、やがて俳諧に出会う。\n一茶は芭蕉の友人、山口素堂を始祖とする俳諧グループ、葛飾派に所属することになる。\n葛飾派は芭蕉の句とは異なり通俗的な作句が特徴的であったが、芭蕉の作風を引き継いでいると自任しており、江戸の俳壇において名門意識を持っていた。\n渭浜庵執筆一茶の意味であるが、渭浜庵は俳句の葛飾派宗匠であった溝口素丸の庵号である。\n素丸は本職は書院番を務めた旗本であり、本職の傍ら葛飾派の俳句を学び、やがて葛飾派の3代目宗匠となり、自派を「葛飾蕉門」と称し江戸俳壇でその勢力を伸ばした。\n執筆とは俳諧を行う際の書記のことであり、俳諧のルールや運営方法を理解していなければならず、俳諧の実力が高い人物が務める役割であった。\nまた執筆は師匠の庵に同居して内弟子兼雑用を務めるのが通例であった。\nそのため俳諧師を目指す弟子の中でもその能力が認められた人物が選ばれており、25歳の一茶は葛飾派のリーダー素丸からその能力が認められていたことと、少なくとも天明7年の2~3年前には素丸に入門していたことが推測される。", "qas": [ { "question": "一茶は何派の俳諧グループに属したの?", "id": "de-024-20-000", "answers": [ { "text": "葛飾派", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "葛飾派のリーダーは誰でしたか?", "id": "de-024-20-001", "answers": [ { "text": "素丸", "answer_start": 409, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "真砂古が刊行された天明7年(1787年)春、葛飾派の重鎮、二六庵竹阿が約20年の大坂暮らしを終えて江戸へ戻ってきた。\n竹阿はしばしば西日本各地を巡っており、その中で関西との縁が深まって約20年間、大坂暮らしをするようになった。\nしかし竹阿と同じく関東の出身で親友であった石漱が関東に帰ることになり、その上、竹阿を大坂に誘った門人が死去したこともあって、江戸へ戻ることになった。\n竹阿は西日本各地に多くの門人がおり、後に一茶が俳諧修行のために西日本各地を行脚した際、竹阿の門人を尋ねて廻ることになる。\n一茶は天明7年(1787年)11月、二六庵で竹阿所蔵の「白砂人集」を書写している。\nなおこの時の名乗りは小林圯橋であり、一茶ではなかった。\n当時竹阿は78歳、一茶は素丸からの推薦もあって二六庵に住み込んで竹阿の内弟子となるとともに、高齢の竹阿の世話をするようになったと考えられる。\n後述のように竹阿の教えは一茶に大きな影響を与えており、一茶は寛政2年(1790年)3月13日、81歳で亡くなった竹阿の最期を看取ったと見られている。", "qas": [ { "question": "竹阿が死去したのは西暦何年?", "id": "de-024-21-000", "answers": [ { "text": "1790年", "answer_start": 426, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "一茶が竹阿の内弟子になった際に、住み込みした場所はどこですか?", "id": "de-024-21-001", "answers": [ { "text": "二六庵", "answer_start": 343, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "竹阿はいくつの時、一茶を内弟子にしましたか?", "id": "de-024-21-002", "answers": [ { "text": "78歳", "answer_start": 325, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "チェーザレ・ボルジア", "paragraphs": [ { "context": "ヴァレンティーノ公チェーザレ・ボルジア(イタリア語:CesareBorgia,ducadiValentino発音:[ˈtʃɛzareˈbɔrdʒa]、スペイン語:CésarBorgia(セサル・ボルヒア)またはCésarBorja(セサル・ボルハ)、バレンシア語:CèsarBorja、1475年9月13日(14日説有)-1507年3月12日)は、イタリア・ルネサンス期の軍人・政治家である。\nなお、イタリアにおいては単に「チェーザレ」という名前は一般にガイウス・ユリウス・カエサル(ガイオ・ジュリオ・チェーザレ)を指すため、チェーザレ・ボルジアは現地では「ヴァレンティーノ公」(ilValentino)と呼ばれることが多い。", "qas": [ { "question": "チェーザレ・ボルジアはイタリアではどのような呼ばれ方をすることが多いですか?", "id": "de-025-00-000", "answers": [ { "text": "「ヴァレンティーノ公」", "answer_start": 278, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "チェーザレ・ボルジアが死去したのはいつですか?", "id": "de-025-00-001", "answers": [ { "text": "1507年3月12日", "answer_start": 161, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ロドリーゴ・ボルジアとヴァノッツァ・カタネイの子としてローマで生まれた。\nチェーザレの同腹の妹弟としてフアン、ルクレツィア、ホフレ、異母兄としてペドロ・ルイスらが知られている。\nまた、ミケランジェロ・ブオナローティやジョヴァンニ・デ・メディチ(後の教皇レオ10世)がチェーザレと同じ1475年にイタリアで誕生している。\nチェーザレの幼年期より、ロドリーゴは枢機卿にまで昇進し、ボルジア家の発祥の地でもあったスペイン・バレンシアではガンディア公位をペドロ・ルイスが承継していたものの、チェーザレは父の目の届くローマで暮らし、やがてピサやペルージャの大学で法律等を学んだ。\nそのいっぽうで狩猟や武芸全般にも精を出した。\nチェーザレは灰色の目及びオレンジ色の髪の毛を持つ大変な美男子だったといわれ、後にマキャヴェッリも「容姿ことのほか美しく堂々とし、武器を取れば勇猛果敢であった」とチェーザレの印象を書き残している。", "qas": [ { "question": "チェーザレの出生地はどこですか?", "id": "de-025-01-000", "answers": [ { "text": "ローマ", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フアン、ペドロ・ルイス、ホフレ、ルクレツィアの中でチェーザレにとって腹違いの兄となるのは誰ですか?", "id": "de-025-01-001", "answers": [ { "text": "ペドロ・ルイス", "answer_start": 72, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チェーザレの容姿の美しさを書き残した人は誰ですか?", "id": "de-025-01-002", "answers": [ { "text": "マキャヴェッリ", "answer_start": 348, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チェーザレの父親は誰でしたか?", "id": "de-025-01-003", "answers": [ { "text": "ロドリーゴ・ボルジア", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1492年8月に父ロドリーゴがアレクサンデル6世として教皇の座を得たこの年に、チェーザレはバレンシア大司教として異例の抜擢を受けた。\n1493年9月に開かれた枢機卿会議において、アレクサンデル6世は会議の賛同を得て、チェーザレをバレンシア枢機卿に任命した。\nこれにより、アレクサンデル6世が教会内での自らのボルジア家の後継者を暗示する形となった。", "qas": [ { "question": "ロドリーゴの教皇名は何でしたか?", "id": "de-025-02-000", "answers": [ { "text": "アレクサンデル6世", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "チェーザレがバレンシア枢機卿に任命されたのはいつですか?", "id": "de-025-02-001", "answers": [ { "text": "1493年", "answer_start": 67, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1494年、フランス国王シャルル8世は、アレクサンデル6世に教皇選挙で敗れたジュリアーノ・デッラ・ローヴェレらフランスへ逃れた枢機卿や、ミラノ公国のルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)らと共謀し、王位継承問題が浮上していた親ボルジア派のナポリ王国の王位継承権の行使(ナポリ王家と縁戚関係にあった)を主張して、フランス軍をイタリアへと侵攻させた(イタリア戦争)。\nフランスがミラノやフェラーラ等のイタリア諸国の協力も取り付けていたこともあり、ナポリ軍は敗北、フランス軍はルッカ、シエーナ等を押さえた。\n有力なイタリア諸邦であったフィレンツェ共和国もロレンツォ・デ・メディチ死後のメディチ家の内紛状態により余力を失っていたことから、同年12月31日にシャルル8世は難なくバチカンへの入城を果たした。\nこの際に、チェーザレはアレクサンデル6世の特使として、シャルル8世との間を行き来したと伝わっている。", "qas": [ { "question": "イタリア戦争が始まった年はいつですか?", "id": "de-025-03-000", "answers": [ { "text": "1494年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イタリア戦争を仕掛けたフランス国王は誰でしたか?", "id": "de-025-03-001", "answers": [ { "text": "シャルル8世", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1495年1月、シャルル8世とアレクサンデル6世が「バチカンが預かっていたオスマン帝国の帝位継承者でもあったジェムの身柄をフランスが引き受けること」や「チェーザレをフランス軍の元に置くこと」等の内容の協定を結んだことから、チェーザレはバチカンを退去するフランス軍と共に南下してナポリ王国の占領にも立ち会う格好となったが、同月中にチェーザレはフランス軍の隙を見て、逃亡に成功した。\n以降、アレクサンデル6世はイタリア諸国と同盟を結んで、フランス軍へ対峙した。\nこの間のチェーザレはローマに滞在したともされるが、その動向は掴み難い。\n1497年6月、ボルジア家の旧領にあたるガンディアの公爵と教皇軍最高司令官を兼任していたフアン・ボルジアがピアッツァ・デッラ・ジュディッカ(ローマ市内のゲットー)で殺害される事件が起こった。\nフアンと激しい敵対関係にあった枢機卿アスカーニオ・スフォルツァ(イル・モールの弟)やグイドバルド・ダ・モンテフェルトロ(ウルビーノ公)らと共に、チェーザレもフアンの殺害犯として噂された。\nこれによってボルジア家の政治や軍事部門を担当する人物が消える事となった。\nフランチェスコ・グイチャルディーニは自著で、アレクサンデル6世がフアンを溺愛したことにチェーザレが嫉妬したのが主たる原因、としている。\nなお、フアン殺害の同時期にフィレンツェの修道士ジロラモ・サヴォナローラの破門がアレクサンデル6世より公表された。", "qas": [ { "question": "チェーザレがフランス軍から逃げ出したのはいつのことですか?", "id": "de-025-04-000", "answers": [ { "text": "1495年1月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フアンの殺害現場はどこでしたか?", "id": "de-025-04-001", "answers": [ { "text": "ピアッツァ・デッラ・ジュディッカ", "answer_start": 318, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1497年6月頃に破門されたフィレンツェの修道士は誰でしたか?", "id": "de-025-04-002", "answers": [ { "text": "ジロラモ・サヴォナローラ", "answer_start": 583, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1498年7月、枢機卿会議においてチェーザレは「枢機卿及びバレンシア大司教の地位を返上する」と表明し、会議において全会一致で承認された。\nこれに先立って、アレクサンデル6世とフランス国王ルイ12世(チェーザレとも因縁があったシャルル8世は1498年4月に死亡)は、「チェーザレにヴァランス等の公爵として領土を与えること」「チェーザレの要望に応じて軍事的な支援を行うこと」「聖ミカエル騎士団(モン・サン=ミシェルで知られる)の騎士の称号を与えること」等の協定を結び、10月に協定履行の為に腹心のミケロット・コレッラらと共にフランスへ渡って、しばらくの間フランス国内に滞在することとなる。\n10月12日にマルセイユ到着後は、教皇特使としての業務を終えた後、自らの領土ヴァランスを始め、アヴィニョン、リヨン等を訪れた。", "qas": [ { "question": "シャルル8世が死去したのはいつでしたか?", "id": "de-025-05-000", "answers": [ { "text": "1498年4月", "answer_start": 119, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チェーザレは誰と一緒にフランスに行きましたか?", "id": "de-025-05-001", "answers": [ { "text": "ミケロット・コレッラ", "answer_start": 246, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チェーザレの右腕となる部下は誰でしたか?", "id": "de-025-05-002", "answers": [ { "text": "ミケロット・コレッラ", "answer_start": 246, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1499年5月、ルイ12世の後ろ盾もあって、チェーザレはナバーラ王フアン3世の妹シャルロット・ダルブレと結婚し、アンボワーズ城で挙式を行った。\nその後、聖ミカエル騎士団の騎士にも叙され、フランス王家との養子縁組も行って、以降チェーザレはチェーザレ・ボルジア・ディ・フランチア(CésarBorgiadeFrancia,セザール・ボルジア・ド・フランシア)と称することとなった。\n全ての儀式を終えたチェーザレは、「ヴァランス公爵」(ヴァレンティーノ公爵)としてフランス軍に参加するためにミラノへ向けてフランスを出立した。\nシャルロットとの生活はチェーザレが7月にフランス国外へ出るまでの2か月に過ぎなかったが、翌年5月17日に娘ルイーザが生まれた。\nミラノ公国とフランスの戦いはあっさりと決着がついて、10月にチェーザレはフランス軍と共にミラノへ入城した。", "qas": [ { "question": "チェーザレの妻となった女性は誰ですか?", "id": "de-025-06-000", "answers": [ { "text": "シャルロット・ダルブレ", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "チェーザレとシャルロットの間で生まれた子供の名前は何ですか?", "id": "de-025-06-001", "answers": [ { "text": "ルイーザ", "answer_start": 313, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フランス王家との養子縁組後、チェーザレは何と称されましたか?", "id": "de-025-06-002", "answers": [ { "text": "チェーザレ・ボルジア・ディ・フランチア", "answer_start": 118, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1499年11月、アレクサンデル6世の宣戦布告を受けて、チェーザレはフランスからの応援部隊(ルイ12世との協約による)及びスイスやスペイン、イタリア各地のコンドッティエーレ(傭兵)から構成された15,000の兵を率いて、カテリーナ・スフォルツァの治めるイーモラ及びフォルリへ向けて進軍した。\nカテリーナはチェーザレの侵攻前に教皇アレクサンデル6世宛に毒薬入りの手紙を送ったものの、アレクサンデル6世には届かずに未遂に終わったと伝わっている。\nなお、カテリーナはチェーザレの侵攻を前に自らの子供や財産をフィレンツェに送った上で、防戦に向けた準備に入ったが、国内は親チェーザレ・反チェーザレに2分された。\n結局、イーモラでは一部の砦で抵抗があったものの、チェーザレは陥落させて、イーモラを手中に収めた。\n12月、フォルリへ到着したチェーザレはフォルリ近郊の砦に籠城するカテリーナ軍への攻撃を開始した。\nカテリーナは激しく抵抗したが、2か月にわたる戦闘の末に最後はチェーザレ軍がカテリーナを捕縛した事で、勝利を収めた。\n裏切り者による仕業とも示唆されている。", "qas": [ { "question": "イーモラを統治していた女性は誰でしたか?", "id": "de-025-07-000", "answers": [ { "text": "カテリーナ・スフォルツァ", "answer_start": 110, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チェーザレ軍とカテリーナ軍との戦いはどちらが勝利しましたか?", "id": "de-025-07-001", "answers": [ { "text": "チェーザレ軍", "answer_start": 429, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1500年2月、チェーザレは軍の一部を率いてローマへ入城。\n同時期に行われた謝肉祭にて、チェーザレ自身の先の戦功に関連付ける形で、11頭立ての馬車から構成された古代ローマのガイウス・ユリウス・カエサルが行った凱旋式と同様の催しを挙行した。\n3月、バチカンにてアレクサンデル6世は、イーモラとフォルリの統治権をチェーザレに与えることを公布すると共に、チェーザレを教会軍総司令官に任命した。\n7月、ルクレツィアの夫であったアルフォンソが何者かによって襲撃される事件(8月に死去)が発生した。\nフランスと微妙な関係にあったナポリ王家の一員であったアルフォンソの死によって、最も利益を得る立場にあったチェーザレが真犯人として疑われたものの、真相は闇の中に消える事となった。", "qas": [ { "question": "イーモラとフォルリの統治権は誰に託されましたか?", "id": "de-025-08-000", "answers": [ { "text": "チェーザレ", "answer_start": 154, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チェーザレはローマで、過去に誰がした事と同じ行事を行いましたか?", "id": "de-025-08-001", "answers": [ { "text": "ガイウス・ユリウス・カエサル", "answer_start": 86, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アルフォンソが命を落としたのはいつでしたか?", "id": "de-025-08-002", "answers": [ { "text": "8月", "answer_start": 231, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1500年7月に誰が襲われるという事件が起こりましたか?", "id": "de-025-08-003", "answers": [ { "text": "アルフォンソ", "answer_start": 209, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1500年8月、チェーザレは内紛状態にあったチェゼーナを、軍を動かすことなく手に入れた。\n更にアレクサンデル6世によりマラテスタ家(Malatesta,リミニ)、マンフレディ家(ファエンツァ)、スフォルツァ家(ペーザロ)を破門・宣戦布告したことを受けて、チェーザレはイーモラ攻撃時と同様にフランスの応援部隊及び傭兵から成る12,000の兵を率いて、リミニへ向けて進軍した。\n10月、リミニを支配していたパンドルフォ4世マラテスタがチェーザレ到着を前にチェーザレに降伏を申し出て国外へ退去し、チェーザレはリミニへの無血入城を果たした。\n続いてペーザロへ進軍したが、ペーザロを支配していたジョヴァンニ・スフォルツァもチェーザレ到着前に遁走しており、やはり無血入城を果たした。\n更にファーノへ向かって進軍しこれを降伏させた。", "qas": [ { "question": "チェーザレが果たしたリミニとペーザロでの無血入城は、どちらの地域が先に行われましたか?", "id": "de-025-09-000", "answers": [ { "text": "リミニ", "answer_start": 191, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "リミニ、ペーザロ、ファーノの中で2番目にチェーザレが進軍したのはどこでしたか?", "id": "de-025-09-001", "answers": [ { "text": "ペーザロ", "answer_start": 270, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1500年時にリミニを支配していた人は誰でしたか?", "id": "de-025-09-002", "answers": [ { "text": "パンドルフォ4世マラテスタ", "answer_start": 201, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "11月、アストール3世マンフレディを当主とするファエンツァに到着したが、ファエンツァはチェーザレの降伏勧告を拒否して抵抗する姿勢を示した。\nファエンツァの抵抗は激しく、チェーザレの再三にわたる攻撃を退けたものの、1501年4月にアストールの命を保証することを条件にファエンツァはチェーザレに降伏した。\n後にアストールはローマへ送られ、1502年1月にサンタンジェロ城で暗殺された。\nファエンツァ陥落を受けて、アレクサンデルはチェーザレをロマーニャ公爵に任じた。", "qas": [ { "question": "アストール3世マンフレディはいつ暗殺されましたか?", "id": "de-025-10-000", "answers": [ { "text": "1502年1月", "answer_start": 167, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "チェーザレに降伏後、アストールが送られた地はどこでしたか?", "id": "de-025-10-001", "answers": [ { "text": "ローマ", "answer_start": 159, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1501年5月、チェーザレはフィレンツェ共和国との国境沿いまで進軍したが、アレクサンデル6世の要請やルイ12世の仲裁もあってフィレンツェ攻略を断念し、資金面での提供を受けること等を条件として和約を結んだが、チェーザレがフィレンツェを去った後を任されたヴィテロッツォ・ヴィテッリは、フィレンツェ南方のキアーナ渓谷一帯を略奪すると共に同地区での反乱を煽動した。\n6月、ルイ12世の要請により、ナポリ王国攻略を目指すフランス軍にチェーザレは協定に基づいて参加した。\nカプアの攻撃を任されたチェーザレは、7月に陥落させた。\nなお、フランス軍は8月までにナポリ全土を征服しており、ナポリ王家(アラゴン家)は没落することとなった。", "qas": [ { "question": "チェーザレがフィレンツェ攻略をあきらめたのはいつでしたか?", "id": "de-025-11-000", "answers": [ { "text": "1501年5月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1501年9月、ナポリ王家の結びつきを背景としてローマ近郊に勢力を保っていたコロンナ家やサヴェッリ家が、アラゴン家の没落により影響力を失いつつあったことから、これらを駆逐するべく、チェーザレはカステル・ガンドルフォ等のコロンナ家の所領を攻撃してこれを征服し、ボルジア家(及び教皇領)の所領に組み入れた。\n同じく9月、フィレンツェの南にあるピオンビーノを攻撃してこれを征服した。\n12月、フェラーラ公アルフォンソ1世・デステとルクレツィアの結婚式が行われ、これによりフェラーラからの脅威が抑えられることとなった。\n1502年5月にピサ、6月にアレッツォを影響下に収めた。", "qas": [ { "question": "1501年12月にルクレツィアと結婚した人は誰でしたか?", "id": "de-025-12-000", "answers": [ { "text": "アルフォンソ1世・デステ", "answer_start": 199, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1502年6月、チェーザレはそれまでの戦争で傭兵としてチェーザレ軍として従軍していたウルビーノ公国を電撃的に包囲した。\nウルビーノ公グイドバルド・ダ・モンテフェルトロは抵抗することなくマントヴァへと落ち延び、チェーザレはウルビーノに入城した。\nまた、ウルビーノ攻略と同時期にフィレンツェ政府の使節としてフランチェスコ・ソデリーニとマキャヴェッリがチェーザレと会談し、ヴィテロッツォによるキアーナ渓谷一帯での行為について抗議し、チェーザレはヴィテロッツォを呼び戻す代わりにフィレンツェから年間傭兵料を受け取ることで協定を結んだ。", "qas": [ { "question": "フィレンツェ政府の使節としてチェーザレと会談したのはマキャヴェッリと誰ですか?", "id": "de-025-13-000", "answers": [ { "text": "フランチェスコ・ソデリーニ", "answer_start": 151, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ウルビーノ征服の後、サンマリノ共和国がチェーザレに降伏した。\nカメリーノのシニョーレであったジュリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノ(GiulioCesaredaVarano)は抵抗したものの、カメリーノも陥落した。\nチェーザレはジュリオ及びその3人の息子ヴィンツェンツォ(Vincenzo)、アンニバーレ(Annibale)、ピッロ(Pirro)を処刑した。\nなお、7月から8月にかけてレオナルド・ダ・ヴィンチがチェーザレの許を訪れた。\n一方でミラノにて、ペーザロのジョヴァンニ・スフォルツァやウルビーノのグイドバルド、カメリーノ・ヴァラーノ一族(en)で唯一生き残ったジャンマリーア(GiovanniMariadaVarano)らがマントヴァ侯爵フランチェスコ2世・ゴンザーガを中心として、ルイ12世にチェーザレの「横暴」に対して対処するように請願したものの、ルイ12世はチェーザレとの関係を優先する事を表明したため、「反チェーザレ同盟」の構想は瓦解した。\nまた、この際に同盟の中心であったフランチェスコ2世の息子とチェーザレの娘・ルイーズの婚約が決まった。\nその後、チェーザレは自身の統治する「ロマーニャ公国」の首都機能を次の標的ともされたボローニャとの国境沿いのイーモラへ移した。", "qas": [ { "question": "7月から8月にかけてチェーザレの許に訪れた人物とは誰ですか?", "id": "de-025-14-000", "answers": [ { "text": "レオナルド・ダ・ヴィンチ", "answer_start": 192, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴィンツェンツォ、アンニバーレ、ピッロの父親のフルネームは何?", "id": "de-025-14-001", "answers": [ { "text": "ジュリオ・チェーザレ・ダ・ヴァラーノ", "answer_start": 46, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1502年10月、チェーザレ軍の内部の傭兵隊長(コンドッティエーレ)らがチェーザレに対して反旗を翻した。\nなお、反乱に参加したメンバーは、ヴィテロッツォ・ヴィテッリ(チッタ・ディ・カステッロのシニョーレ(僭主))、パオロ・オルシーニ(オルシーニ家)、フランチェスコ・オルシーニ(グラヴィーナ公,オルシーニ家)、ジャンパオロ・バリオーニ(ペルージャのシニョーレ)、オリヴェロット・ダ・フェルモ(フェルモのシニョーレ)の5名が中心であり、いずれもチェーザレ軍に参加していたコンドッティエーレであった。\nその他、シクストゥス4世の時期に枢機卿となったジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニ、シエナのパンドルフォ・ペトゥルッチ、ボローニャのジョヴァンニ2世ベンティヴォーリョ、グイドバルド(元ウルビーノ公)、ジャンマリーア(カメリーノ、ヴァラーノ家)らが参加。\n後に反乱軍が最初に会合を開いたマジョーネ(ペルージャ領内、トラジメーノ湖畔にある寒村。会合自体は9月に行われた)の名を採って一連の事件を「マジョーネの乱」と称することとなる。", "qas": [ { "question": "チェーザレ軍のコンドッティエーレがチェーザレに反乱したのはいつでしたか?", "id": "de-025-15-000", "answers": [ { "text": "1502年10月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "反乱軍が最初に会合を開いた場所はどこでしたか?", "id": "de-025-15-001", "answers": [ { "text": "マジョーネ", "answer_start": 392, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「マジョーネの乱」の中心メンバーは何名いましたか?", "id": "de-025-15-002", "answers": [ { "text": "5名", "answer_start": 208, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "グイチャルディーニは反乱が起こった理由について、「(反乱者は)チェーザレの際限のない支配欲を恐れ、反乱者達の領土が全て教会領に属することから、将来チェーザレから攻撃される可能性を恐れたため」としている。\n反乱軍(「マジョーネ連合」)はウルビーノで決起して、旧ウルビーノ公国領土を制圧した。\n更にベンティヴォーリオ率いるボローニャが反乱に呼応して、チェーザレが滞在するイーモラへ向けて進軍した。\n反乱軍が制圧したウルビーノでグイドバルドが、カメリーノでジャンマリーノがそれぞれ当主に復帰した。\n10月17日にフォッソンブローネでオルシーニ軍がチェーザレ軍を打ち破り、チェーザレ軍のミケロット・コレッラは敗走、ウーゴ・ディ・カルドナは捕虜となった。", "qas": [ { "question": "オルシーニ軍がチェーザレ軍を打ち破った月日はいつでしたか?", "id": "de-025-16-000", "answers": [ { "text": "10月17日", "answer_start": 246, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "当初の戦局を優位に進めた反乱軍であったが、反チェーザレを標榜した反乱軍内部の意思疎通は欠けていた。\nヴィテロッツォやオルシーニ党がチェーザレ軍に属した時期にフィレンツェを攻撃した件をフランス王から弁明を求められたにも拘らずこれを黙殺したことから、フランスはチェーザレ側へと組した。\nまた、その他の周辺の諸国(フィレンツェ等)からもチェーザレが暗黙の支持を取り付けたことや軍事面での増強を進めたことに加えて、教皇軍最高司令官としてアレクサンデル6世の威光をバックとしていることもあって、反乱軍の一部は独自でチェーザレとの和睦交渉を行った。\nまとまった和睦内容を巡って、ヴィテロッツォらとパオロ・オルシーニらが激しく対立し、オルシーニ一族らが個別にチェーザレとの和睦に調印するなど、結束は崩れた。\nグイドバルドは再びウルビーノから亡命せざるを得なくなり、ジャンマリーノはチェーザレとの交渉によってカメリーノを退去することで合意した。\nボローニャはチェーザレと個別に傭兵契約を結んだことで、反乱軍から距離を置いた。\n反乱から約1ヵ月後にマキャヴェッリがフィレンツェ政府に対して「チェーザレが勝利するに違いないと考えている」との内容の書簡を送っており、チェーザレ優位に事態は進みつつあった。", "qas": [ { "question": "フィレンツェ政府にチェーザレが勝利するという内容の書簡を送った人は誰でしたか?", "id": "de-025-17-000", "answers": [ { "text": "マキャヴェッリ", "answer_start": 465, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1502年12月26日、チェーザレの側近としてロマーニャ公国内の内政を任されていたラミーロ・デ・ロルカの真っ二つに斬られた遺体が、チェゼーナの広場で発見された。\nこの事件について、マキャヴェッリは「ロルカの冷酷な統治によって領内の民衆が反感を抱いていたのをチェーザレが察知し、冷酷な統治はチェーザレの施策ではなく、ロルカの人間性によるものと思わせるために行った」と論じている。", "qas": [ { "question": "1502年12月26日に遺体で発見されたチェーザレの部下は誰でしたか?", "id": "de-025-18-000", "answers": [ { "text": "ラミーロ・デ・ロルカ", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1502年12月31日、チェーザレは反乱側の5人のコンドッティエーレから、反乱軍が既に制圧していたシニガッリア(Sinigaglia、現:セニガッリア)で交渉を持ちかけられ、チェーザレおよび病を理由に欠席したバリオーニ以外の4人のコンドッティエーレが、シニガッリアへ軍を率いて集合した。\nチェーザレは穏和な態度で4人と相対して油断させ、4人が自軍から離れてシニガッリアの城内に入ったところを、ミケロットらに命じて捕縛させた。\nこれと同時に、4人が率いた軍をチェーザレは攻撃して、これらを壊走させた。", "qas": [ { "question": "チェーザレが反乱軍の4人を捕獲した都市はどこでしたか?", "id": "de-025-19-000", "answers": [ { "text": "シニガッリア", "answer_start": 49, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "尋問の後にヴィテロッツォ及びオリヴェロットはそれぞれ「教皇に自らの罪業の大赦を願いたい」「ヴァレンティーノ公に反逆したのはヴィテロッツォが唆したためである」の言葉を残し、反逆罪によってその場で処刑された。\nパオロ及びフランチェスコは即時に処刑はされず、ローマでチェーザレの弟ホフレらが指揮を取る教皇軍がジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニやフィレンツェ大司教リナルド・オルシーニらを逮捕すると共にオルシーニ一党を討伐したのを聞いた後、1503年1月18日にカステッロ・デラ・ピエーヴェでパオロらを処刑した。\nなお、ジョヴァンニ・バッティスタは後に獄死、リナルドは釈放された。\nチェーザレは1503年1月より、反乱に加担した一味の壊滅を掲げて進軍、ヴィテロッツォの本拠地チッタ・ディ・カステッロを陥落させ、チェーザレの誅殺から逃れたバリオーニの本拠地ペルージャでは反乱の失敗に絶望したバリオーニが逃走して、ペルージャはチェーザレへの降伏を願い出た。\n更にシエナもチェーザレの圧力に屈して、パンドルフォ・ペトゥルッチはフランスへと落ち延びていった(ペトゥルッチはルイ12世の干渉により1503年3月にシエナのシニョリーアへ復帰した)。\nバリオーニやグイドバルドもフランスへ逃れた。\nなお、フェルモはチェーザレの攻撃に晒されなかった。\nその後、ローマへ進軍してオルシーニ党の勢力を攻撃したが、フランス寄りのオルシーニ家の処遇を巡ってチェーザレはフランスと対立、その後の暗転へつながることとなった。", "qas": [ { "question": "ヴィテロッツォとオリヴェロットが処刑された罪は何でしたか?", "id": "de-025-20-000", "answers": [ { "text": "反逆罪", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "パオロとフランチェスコはいつ処刑されましたか?", "id": "de-025-20-001", "answers": [ { "text": "1503年1月18日", "answer_start": 218, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "逮捕されたジョヴァンニ・バッティスタ・オルシーニとリナルド・オルシーニのうち、後に釈放された人は誰ですか?", "id": "de-025-20-002", "answers": [ { "text": "リナルド・オルシーニ", "answer_start": 180, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1503年7月、チェーザレは軍を率いてローマへ入ったが、8月にアレクサンデル6世と共に原因不明の重病に陥った。\n現在ではマラリアに感染したとの説が有力であるが、グイチャルディーニやヤーコプ・ブルクハルトは「毒入りワインを飲んだことが原因である」としている。\n8月18日、アレクサンデル6世が死去したものの、チェーザレはいまだ病の床におり、状況の変化への機敏な対応が出来なかった。\nこの機を捉えて、グイドバルドやバリオーニらが元々の領土の当主の座に戻った一方で、イーモラやフォルリはカテリーナ・スフォルツァの帰還を拒んでチェーザレにつくことを示した。", "qas": [ { "question": "チェーザレとアレクサンデル6世はどちらが先に死にましたか?", "id": "de-025-21-000", "answers": [ { "text": "アレクサンデル6世", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アレクサンデル6世の後継教皇となったピウス3世は即位後1か月弱で死去、ピウス3世の後継となったのはかつて父と教皇の座を激しく争ったジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ(ユリウス2世)であった。\nその際にチェーザレは「教皇軍最高司令官」及び「ロマーニャ公」の地位の確保をユリウス2世と密約して、教皇就任を後押しした。\n11月、チェーザレはローマからロマーニャへの帰路についたが、密約を反故にしたユリウス2世の命によってチェーザレは捕縛され、ローマへと移送されることとなった。\nなお、この時のチェーザレの判断をマキャヴェッリは「誤った選択をし、チェーザレが破滅した最終的な原因となった」と記している。\n12月、ミケロット・コレッラ率いる軍勢がフィレンツェ共和国軍と戦ったものの敗北し、ミケロットは捕虜となった。", "qas": [ { "question": "アレクサンデル6世の次の次に教皇になったのは誰ですか?", "id": "de-025-22-000", "answers": [ { "text": "ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ", "answer_start": 65, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "チェーザレ捕獲の命令をしたのは誰ですか?", "id": "de-025-22-001", "answers": [ { "text": "ユリウス2世", "answer_start": 194, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジュリアーノ・デッラ・ローヴェレの教皇名は何ですか?", "id": "de-025-22-002", "answers": [ { "text": "ユリウス2世", "answer_start": 82, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "チェーザレが捕らわれた後、移された土地はどこでしたか?", "id": "de-025-22-003", "answers": [ { "text": "ローマ", "answer_start": 166, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "天洋丸級貨客船", "paragraphs": [ { "context": "天洋丸級貨客船(てんようまるきゅうかきゃくせん)とは、かつて東洋汽船および日本郵船が所有していた貨客船のクラスの一つである。\n日本における貨客船のクラスにおいて初めて1万トンを超えたクラス、またタービン機関の使用を選択した最初のクラスとして、日本船舶史上の一大マイルストーンとなっている。\n本級の実現には東洋汽船を率いていた浅野財閥創始者浅野総一郎の熱意が大きく影響しており、競合船主との対抗上、当時の日本では前代未聞の大プロジェクトとして浅野の音頭取りによって建造が実現した。\n天洋丸級貨客船の存在が東洋汽船の経営にプラスになったかどうかはさておき、日本の船舶界、とりわけ造船業への影響と貢献は莫大なものがあった。\n3隻就航したが、1隻は海難事故により不幸にして早く失われ、残る2隻は東洋汽船の経営難から日本郵船に移籍の上、後継の浅間丸級貨客船と入れ替わるようにリタイアし、船舶改善助成施設の解体見合い船としてその生涯を全うした。", "qas": [ { "question": "天洋丸級貨客船を実現するにあたって大きな影響を与えた人物とは誰ですか?", "id": "de-026-00-000", "answers": [ { "text": "浅野総一郎", "answer_start": 169, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "天洋丸級貨客船は、初めて何の使用を選びましたか?", "id": "de-026-00-001", "answers": [ { "text": "タービン機関", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "天洋丸級貨客船の所有会社は日本郵船と何ですか?", "id": "de-026-00-002", "answers": [ { "text": "東洋汽船", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "天洋丸級貨客船の3隻中1隻が早くに失われた原因は何ですか?", "id": "de-026-00-003", "answers": [ { "text": "海難事故", "answer_start": 320, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1896年(明治29年)6月に創業した東洋汽船(浅野財閥)は、パシフィック・メイル社(PM社)およびオリエンタル・アンド・オクシデンタル社(OrientalandOccidental)との提携によりサンフランシスコと香港間の航路を、パシフィック・メイルおよびオリエンタル・アンド・オクシデンタルの船舶6隻と自己の船舶3隻で開設する。\nこの航路のために用意されたのが日本丸級貨客船であり、経営も比較的順調に推移していた。", "qas": [ { "question": "東洋汽船を運営した財閥は何ですか?", "id": "de-026-01-000", "answers": [ { "text": "浅野財閥", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サンフランシスコと香港間の航路開発の際に、パシフィック・メイルおよびオリエンタル・アンド・オクシデンタルの船舶と自己の船舶ではどちらが数が少なかったですか?", "id": "de-026-01-001", "answers": [ { "text": "自己の船舶", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本丸級貨客船が用意されたのは、どことどこの航路間を航行するためですか?", "id": "de-026-01-002", "answers": [ { "text": "サンフランシスコと香港間", "answer_start": 99, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "東洋汽船の提携会社はオリエンタル・アンド・オクシデンタル社とどこですか?", "id": "de-026-01-003", "answers": [ { "text": "パシフィック・メイル社", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ところが、提携先の一つであるパシフィック・メイル社と、後発組の、ジェームズ・ジェローム・ヒル率いるグレート・ノーザン汽船会社は、ともに1万トンを越える大型船の建造に乗り出す。\nパシフィック・メイル社の「コリア」(S.S.Korea)と「サイベリア」(S.S.Siberia)は太平洋航路では初めての1万トン超の貨客船であり、続いて建造された「モンゴリア」(S.S.Mongolia)と「マンチュリア」(S.S.Manchuria)は1万3千トン級に、グレート・ノーザン汽船会社の「ミネソタ」(S.S.Minnesota)と「ダコタ」(S.S.Dakota)にいたっては2万トンを超える大きさであった。", "qas": [ { "question": "「サイベリア」、「ミネソタ」、「マンチュリア」の中で最も大きい船はどれですか?", "id": "de-026-02-000", "answers": [ { "text": "「ミネソタ」", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「コリア」、「モンゴリア」、「サイベリア」の中で最も大きい船はどれですか?", "id": "de-026-02-001", "answers": [ { "text": "「モンゴリア」", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「ミネソタ」、「ダコタ」、「サイベリア」、の中で最小なのはどの船ですか?", "id": "de-026-02-002", "answers": [ { "text": "「サイベリア」", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "グレート・ノーザン汽船会社の中心的人物は誰ですか?", "id": "de-026-02-003", "answers": [ { "text": "ジェームズ・ジェローム・ヒル", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1万トン超の大型船の威力は凄まじく、例えば「亜米利加丸」はホノルルですでに確保していた船客40名を「コレア」に取られたほどであった。\n日本丸級貨客船の陳腐化を目の当たりにし、大型船建造の決議をしていた東洋汽船ではあったが、日露戦争の行く末がある程度つかめるようになるまで計画は実行に移されなかった。\nそんな中、浅野総一郎はパシフィック・メイル社社長エドワード・ヘンリー・ハリマンから、「日本丸級貨客船程度の船舶では太刀打ちできないだろうから、日本丸級貨客船をパシフィック・メイル社に売り渡すか、パシフィック・メイル社の持ち船全てを購入するか」という内容の交渉を持ちかけられた。\n浅野総一郎はハリマンからの話をとりあえずはやり過ごし、遼陽会戦が終わったあとの1904年9月から大型船の建造を具体化させ、日本海海戦に勝利した直後の1905年6月に三菱長崎造船所と大型船2隻の建造契約を結び、のちに1隻を追加発注した。\nこれが天洋丸級貨客船である。", "qas": [ { "question": "浅野総一郎は誰から日本丸級貨客船の売却話を持ち掛けられましたか?", "id": "de-026-03-000", "answers": [ { "text": "エドワード・ヘンリー・ハリマン", "answer_start": 174, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "浅野総一郎がまず2隻の大型船の建造契約をしたのはいつですか?", "id": "de-026-03-001", "answers": [ { "text": "1905年6月", "answer_start": 363, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "三菱長崎造船所に追加発注した1隻は後に何という名称になりましたか?", "id": "de-026-03-002", "answers": [ { "text": "天洋丸級貨客船", "answer_start": 410, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エドワード・ヘンリー・ハリマンはどこの会社の社長を務めていましたか?", "id": "de-026-03-003", "answers": [ { "text": "パシフィック・メイル社", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "浅野総一郎の構想は、当時の認識では実に破天荒ともいうべき壮大なものであった。\nトン数は1万2千トン、使用する機関は当時の日本で何の実績もなかったタービン機関を導入するという画期的な天洋丸級貨客船の建造計画に対して、三菱側は尻ごみをするばかりであった。\n天洋丸級貨客船の発注までに三菱長崎造船所で建造された最大の船舶は日本郵船の「丹後丸」(7,463トン)であったが、トン数での比較では天洋丸級貨客船は「丹後丸」のおよそ2倍に相当した。\nタービン機関にしても、「天洋丸」と「地洋丸」が起工した時点の日本において蒸気タービンのノウハウが全くなく、海外に目を転じても北大西洋航路の就航船にようやく導入されたばかりであった。\nもっとも、第一船「天洋丸」の建造が3年近くにおよんだため、「日本初の蒸気タービン船」の称号は、イギリスのウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社で建造され日本に回航された日本鉄道の「比羅夫丸」(1,480トン)のものとなった。\nタービン機関の採用の背景には、浅野総一郎が石油事業で懇意にしていたサミュエル商会と縁が深かったこともあり、その縁を使ってカリフォルニア産の石油を調達し運用しようと目論んだ節があった。", "qas": [ { "question": "「丹後丸」と「比羅夫丸」はどちらのトン数が大きいですか?", "id": "de-026-04-000", "answers": [ { "text": "「丹後丸」", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "天洋丸級貨客船の2分の1のトン数となる日本郵船の船は何ですか?", "id": "de-026-04-001", "answers": [ { "text": "「丹後丸」", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「日本初の蒸気タービン船」の名前は何ですか?", "id": "de-026-04-002", "answers": [ { "text": "「比羅夫丸」", "answer_start": 399, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "浅野総一郎の構想では、天洋丸級貨客船のトン数をいくらにしようとしていましたか?", "id": "de-026-04-003", "answers": [ { "text": "1万2千トン", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "三菱側は造船所所長の荘田平五郎が浅野総一郎に会って建造計画の再考、具体的には船型の縮小や主機関のレシプロへの変更などを促したが浅野の意思は固く、浅野の主張通りに建造が進められることとなった。\nもっとも、浅野総一郎は三菱側の負担を少しでも和らげるべく、タービン機関などの建造資材などを自前で輸入して三菱側に提供する配慮を見せた。\n第一船「天洋丸」の船価は最終的に492万円、そのうち造船奨励法に基づく補助金がトン当たり20円であった。\n東洋汽船が輸入した資材は約151万4000円におよび、これは当初見積もられた船価の3分の1に近い額であった。\n船名については浅野総一郎はその由来を『易経』に求め、その一節「天玄而地黄」から「天」と「地」を選んだのち、「玄洋」は黒い海を意味するため忌避して、「春」の字を選んだ。", "qas": [ { "question": "浅野総一郎に建造計画の再考や変更等を呼びかけた人物は誰ですか?", "id": "de-026-05-000", "answers": [ { "text": "荘田平五郎", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「天洋丸」の建造に必要な資材を輸入した金額はいくらですか?", "id": "de-026-05-001", "answers": [ { "text": "約151万4000円", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "浅野総一郎は船名の文字を何から拝借しましたか?", "id": "de-026-05-002", "answers": [ { "text": "『易経』", "answer_start": 290, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「天洋丸」の船価はいくらでしたか?", "id": "de-026-05-003", "answers": [ { "text": "492万円", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "天洋丸級貨客船では、日本の貨客船では初めてとなる居室、寝室および浴室が一体化した特別室や、飲酒も喫煙も自由なラウンジが設けられた。\n冷房装置についても、1901年竣工の貨客船「熊野丸」(日本郵船、5,076トン)に部分的に装備されていたサーモタンク式装置を大々的に取り入れ、食堂や喫煙室、読書室などに導入された。\n船内用発電機は75キロワット出力のものが2基装備され、自動式閉鎖装置付きの防水扉やテレフンケン式電信機なども導入されたが、これらも日本最初のものであった。\n船内装飾は、当初は「五穀豊穣」をイメージしたものが用意され、最終的には基本をアール・ヌーヴォーの様式に、欄間部やステンドグラス、張地などの工芸部門に日本文化を基調とした装飾が施されることとなった。\nもっとも、当時の日本の家具工業技術は裂地類を除けば内装を整えるレベルに達しておらず、すべてイギリス製であった。\n「天洋丸」の上等室入口には和田英作の手による油絵が掲げられていた。\n二番船「地洋丸」と三番船「春洋丸」の船内装飾は日本での設計に切り替えられ、「春洋丸」の食堂には東郷平八郎の立像が設置されていた。", "qas": [ { "question": "天洋丸級貨客船には日本初となる何式の電信機が導入されたの?", "id": "de-026-06-000", "answers": [ { "text": "テレフンケン式", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東郷平八郎の立像が設置されていた貨客船の名前は何?", "id": "de-026-06-001", "answers": [ { "text": "「春洋丸」", "answer_start": 436, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "和田英作の油絵が飾られた貨客船の名前は何?", "id": "de-026-06-002", "answers": [ { "text": "「天洋丸」", "answer_start": 390, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本郵船が造船した冷房装置のある貨客船の名は何?", "id": "de-026-06-003", "answers": [ { "text": "「熊野丸」", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "天洋丸級貨客船の特徴の一つであるタービン機関はパーソンス式反動タービンのものであり、「天洋丸」と「地洋丸」は輸入品を、「春洋丸」は三菱長崎造船所製のものが据えられた。\n導入に際しては、パーソンス社から支配人と3名の監督官が来日し、据え付け運転はもちろんのこと、監督官に関しては就航後に機関士として乗船した。\nボイラーは三菱長崎造船所製のスコッチ・ボイラーであったが、ライバルのタービン船とくらべると若干非力であり、しかも本来は石炭焚きのものであって石油焚きの装置は後でつけられたものであった。\n燃料油用ディープ・タンクは石炭庫に切り替えることもでき、そのためのマンホールもあらかじめ設置されていた。", "qas": [ { "question": "輸入品でないタービン機関を取り付けた貨客船は何?", "id": "de-026-07-000", "answers": [ { "text": "「春洋丸」", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "天洋丸級貨客船にはどのようなタービンが取り付けられましたか?", "id": "de-026-07-001", "answers": [ { "text": "パーソンス式反動タービン", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "天洋丸級貨客船での採用が、日本の貨客船で最後になったものもある。\n食堂は、36人用の長テーブル3脚、8人用の小テーブル6脚が2組の計12脚のテーブルが用意され、200人の船客が一斉に食事がとれるようになっていた。\nもっとも、長テーブルのスタイルではマナーの問題、特に上座・下座の問題が続出し、天洋丸級貨客船以降の貨客船では小テーブル散在式に切り替えられた。\n「天洋丸」、「地洋丸」と「春洋丸」とでは建造時期が異なったことにより目立った違いがある。\n「春洋丸」は建造時期が後述の東洋汽船の不調期にあたっていたせいか、船内装飾が著しく簡素化され、甲板材も遊歩甲板にチークを使った以外はマツを使用していた。\nまた、「天洋丸」と「地洋丸」は有事の際には仮装巡洋艦に改装する計画があったのか、舵頭が水線上に露出しない構造になっていたが、「春洋丸」は一般商船同様に舵頭が水線上に出ている構造となっていた。", "qas": [ { "question": "天洋丸級貨客船では、36人用の長テーブルと8人用の小テーブルのどちらが多く用意されましたか?", "id": "de-026-08-000", "answers": [ { "text": "8人用の小テーブル", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "船内装飾がいたってシンプルだった貨客船の名前は何ですか?", "id": "de-026-08-001", "answers": [ { "text": "「春洋丸」", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "一般商船同様に舵頭が水線上に出ている構造だったのは何のですか?", "id": "de-026-08-002", "answers": [ { "text": "「春洋丸」", "answer_start": 363, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "天洋丸級貨客船での採用が、日本の貨客船で最後になったものとは、何テーブルの様式ですか?", "id": "de-026-08-003", "answers": [ { "text": "長テーブル", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "天洋丸には本格的な無線設備が設置され、銚子市川口夫婦鼻に整備された銚子無線電信局との間で交信が可能であった。\nこれが日本で最初に公衆通信に電波を利用した事例であり、天洋丸電波局長の米村嘉一郎が日本で最初の船舶無線通信士とされる。\nなお当時の日本では無線の運用ノウハウは皆無に等しく、開設当初は湾内ならばなんとか交信できたものの、湾外へ出ると房総半島が障害となって交信不可能となる等のトラブルが多発した。\n後にノウハウが蓄積されるとシアトルに着く前日にアメリカの無線局から港や気象の状況を聞き取ったり、洋上で日本から送ってもらったニュースを纏めた「船内新聞」を発行することも出来るようになった。", "qas": [ { "question": "日本初の船舶無線通信士とは誰?", "id": "de-026-09-000", "answers": [ { "text": "米村嘉一郎", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "天洋丸と交信していた電信局はどこ?", "id": "de-026-09-001", "answers": [ { "text": "銚子無線電信局", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "第一船「天洋丸」は1908年(明治41年)4月22日に竣工し、5月には横浜港に回航されて大臣や貴族院、衆議院両議員など数千人の観覧に供された。\n来客は船内装飾の豪華さに驚き、東洋汽船の今後の経営を危ぶむ者もいたほどであった。\nまた、別の者は「東洋汽船の株は売りだ」と叫んだりもした。\n11月には二番船「地洋丸」が就航して、日本丸級貨客船のうち「亜米利加丸」と「香港丸」は南米航路に移された。", "qas": [ { "question": "「天洋丸」が回航された場所はどこですか?", "id": "de-026-10-000", "answers": [ { "text": "横浜港", "answer_start": 35, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「天洋丸」の次に就航した貨客船は何?", "id": "de-026-10-001", "answers": [ { "text": "「地洋丸」", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかし、東洋汽船はサンフランシスコ航路と南米航路の定期航路以外は有力な航路を持っておらず、貨物船隊も揃っていなかった。\n実際、「天洋丸」就航直後に創立以来初めての赤字を出し、1910年(明治43年)に遠洋航路補助を受けるまでの間は、天洋丸級貨客船の減価償却やアメリカの移民抑制策などに悩まされて経営が苦しい状況が続くこととなった。\n経営不振は三番船「春洋丸」の建造に大きな影響を与え、建造期間が間延びする結果となった。\nまた、天洋丸級貨客船の特徴の一つであった蒸気タービンも期待したほどの成果を挙げなかった。\n前述のように浅野総一郎はかねてから石油の有用性を説き、また建造当時のカリフォルニア原油の相場がトン当たり6.7円、日本産石炭がトン当たり8円だったこと、浅野総一郎が取引のほかに石油精製事業を手掛けていたことが蒸気タービン導入の大きな伏線となっていたが、「天洋丸」就航直後に原油関税が引き上げられた結果、「安い原油で運航する」という浅野総一郎の目論みは大きく崩れ去る結果となってしまった。\n機関そのものも発展途上で先行のレシプロ機関にはかなわず、ライバルの「コリア」と比べても燃料消費量が35パーセント余分にかかる結果となった。\n石炭焚きに切り替えざるを得なかったとはいえ完全な石炭焚きにはしなかったらしく、2本の煙突からはそれぞれ違った色の煙が出ていた。\n遅れて竣工した「春洋丸」のタービン機関用のボイラーは、この理由により初めから石炭専焼であった。\n浅野総一郎個人に起因しない理由もあるとはいえ、日本郵船が一割配当していたのとは対照的な東洋汽船の経営危機に株主は不満を持ち、株主総会では浅野総一郎の退陣を要求するまでになった。\n自決を要求する者もいた。\n経営危機は、浅野総一郎の音頭取りで成立した遠洋航路補助法による補助金により、当面去ることとなる。", "qas": [ { "question": "「天洋丸」建造当時のカリフォルニア原油と日本産石炭はトン当たりどちらが安かったですか?", "id": "de-026-11-000", "answers": [ { "text": "カリフォルニア原油", "answer_start": 289, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「天洋丸」と「コリア」の燃料消費量を比較すると、どちらがよりたくさんの燃料を消費しましたか?", "id": "de-026-11-001", "answers": [ { "text": "「天洋丸」", "answer_start": 381, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "東洋汽船の経営難は、何年に遠洋航路補助を受けるまで続きましたか?", "id": "de-026-11-002", "answers": [ { "text": "1910年", "answer_start": 87, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "第一次世界大戦の時期は、天洋丸級貨客船にとっては天国と地獄を見た時期でもある。\nヨーロッパの戦乱を避けてアジア回りでアメリカに向かう船客が増加し、天洋丸級貨客船の一等および二等船室は常に満員という状況となった。\nところが、1916年(大正5年)3月31日、マニラから香港に向かっていた「地洋丸」が霧中を航行中に香港沖タンカン島に座礁し、5日後に船体が折れて全損に帰するという事故に見舞われた。\n以降、天洋丸級貨客船は「天洋丸」と「春洋丸」の2隻体制となる。", "qas": [ { "question": "全損事故を起こしたのは天洋丸級貨客船3つのうちの何ですか?", "id": "de-026-12-000", "answers": [ { "text": "「地洋丸」", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「地洋丸」が事故を起こした時に向かっていた先はどこでしたか?", "id": "de-026-12-001", "answers": [ { "text": "香港", "answer_start": 133, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1920年代に入ると東洋汽船の経営危機問題が再燃し、これに加えてカナダ太平洋鉄道系の船会社であるカナダ・パシフィック・ライン(CPL)が「エンプレス・オブ・カナダ」(21,517トン)などの2万トン超の貨客船を送り込むと、苦境は一層深まることとなった。\nそのさなかに発生した1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では、「春洋丸」が神戸から横浜への支援物資の輸送に活躍した。\nその翌年の1924年(大正13年)から1925年(大正14年)にかけては「天洋丸」が主機関をパーソンス式タービン機関からギアード・タービン機関に換装する工事を受けた。\nしかし、「天洋丸」と「春洋丸」の老いは隠せるものではなく、さりとて東洋汽船に「天洋丸」と「春洋丸」の代替船を建造する体力はもはや残っていなかった。\n進退窮まった東洋汽船は政府の斡旋により、1926年(大正15年)2月にサンフランシスコ航路、南米航路とその使用船を新会社「第二東洋汽船」に承継させて分離し、次いで3月11日に第二東洋汽船は日本郵船に合併されて「天洋丸」と「春洋丸」も日本郵船に移籍した。\nその後、後継の浅間丸級貨客船の建造と就航により「天洋丸」は1930年(昭和5年)、「春洋丸」は1932年(昭和7年)に引退し、船舶改善助成施設の解体見合い船として「天洋丸」は1933年(昭和8年)、「春洋丸」は1936年(昭和11年)にそれぞれ解体されて姿を消した。\nなお、「天洋丸」の代船として建造されたのがN型貨物船四番船の「能代丸」(7,189トン)、「春洋丸」の代船として建造されたのがA型貨物船ネームシップの「赤城丸」(7,189トン)である。", "qas": [ { "question": "関東大震災の際に支援物資の輸送で活躍したのは何ですか?", "id": "de-026-13-000", "answers": [ { "text": "「春洋丸」", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「天洋丸」と「春洋丸」はどちらが先に引退しましたか?", "id": "de-026-13-001", "answers": [ { "text": "「天洋丸」", "answer_start": 498, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「春洋丸」の代船としては建造されなかった7,189トンの船の名は何ですか?", "id": "de-026-13-002", "answers": [ { "text": "「能代丸」", "answer_start": 639, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "東洋汽船からサンフランシスコ航路、南米航路とその使用船を継承された会社はどこですか?", "id": "de-026-13-003", "answers": [ { "text": "「第二東洋汽船」", "answer_start": 408, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "天洋丸級貨客船は「浅野の子」と言っても過言ではないほど浅野総一郎が心血を注いだ船であり、天洋丸級貨客船が横浜を出帆する日は、浅野総一郎は必ず人力車で横浜港に赴いてその船出を見送っていたほどであった。\n造船関係海外コンサルタントの三浦昭男が「浅野総一郎の決断がTKKの経営に大きく貢献したかどうかは疑問が残るが」と評しているように、東洋汽船の航路数は決して多くなく会社の維持も安定せず、常にライバル船会社の脅威と対峙し続ける状況であった。\nそういう状況を誰よりも知る浅野総一郎の企業家精神と夢が、日本で初めての1万トン超の船舶建造を周囲の懸念や反対を押し切って推進し、実現させたと言えよう。\n造船業の観点から見ても、日本で初めての5000トン超の貨客船「常陸丸」(日本郵船、6,172トン)を三菱長崎造船所が竣工させたのが1898年(明治31年)のことであり、それから10年で「常陸丸」の倍にあたる大きなの船舶を建造できる技術力を持ったということになる。", "qas": [ { "question": "「常陸丸」の建造から何年で2倍近く大きい天洋丸級貨客船が建造されましたか?", "id": "de-026-14-000", "answers": [ { "text": "10年", "answer_start": 383, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、天洋丸級貨客船の日本の船舶史上における立ち位置は一種のターニングポイントでもあり、実際に天洋丸級貨客船を見知っている海事史家の山高五郎は「同時代の一般邦船の水準と、天洋丸級のそれをくらべてみると、その優秀ぶりは実に顕著なものがあった」と回想している。\n山高は後継の浅間丸級貨客船を「事前の掛け声が大きかった割に大したことがない」という趣旨の評価を与えており、それだけに天洋丸級貨客船の出現は日本の船舶界に大きなインパクトを与えた。\n三浦も、「天洋丸こそが同時代の欧米のレベルに最も近付いた客船」と評している。", "qas": [ { "question": "天洋丸級貨客船を高く評価した海事史家は誰ですか?", "id": "de-026-15-000", "answers": [ { "text": "山高五郎", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "松阪市図書館", "paragraphs": [ { "context": "松阪市は2005年(平成17年)1月1日に市町村合併によって発足し、1912年(明治45年)4月15日に飯南郡図書館として開館した松阪市立図書館と1999年(平成11年)7月8日に開館した嬉野町図書館を引き継いで松阪市図書館とした。\nこの時、貸出冊数を10冊に統一、三重県全体に貸し出し対象者を拡大するという変更を行ったが、図書館システムの統一は2007年(平成19年)4月1日まで行われなかった。", "qas": [ { "question": "松阪市立図書館と嬉野町図書館はどちらが先に開館したの?", "id": "de-027-00-000", "answers": [ { "text": "松阪市立図書館", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "松阪市立図書館の元々の名称は何だった?", "id": "de-027-00-001", "answers": [ { "text": "飯南郡図書館", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2009年(平成21年)4月に指定管理者に管理が移行し、図書館流通センターが管理を行うことになった。\n2012年1月よりインターネットによる予約サービスを開始、2014年(平成26年)8月よりナクソスミュージックライブラリーを導入した。\n図書館流通センターの指定管理は更新が続き、2016年(平成28年)の更新により少なくとも2021年(令和3年)3月31日まで継続することが決定している。", "qas": [ { "question": "2009年4月から管理者はどこになりましたか?", "id": "de-027-01-000", "answers": [ { "text": "図書館流通センター", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "インターネットによる予約サービスをスタートしたのはいつからですか?", "id": "de-027-01-001", "answers": [ { "text": "2012年1月", "answer_start": 51, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2017年(平成29年)4月1日から2018年(平成30年)3月31日まで松阪図書館は改修工事のため休館し、同年4月1日にリニューアルオープンした。\nこれに伴い、自動貸出機・本の消毒機・読書手帳・電子図書館を導入した。\n2019年(平成31年)3月31日には三雲公民館図書室を閉室し、同年4月3日に松阪市立天白小学校の学校図書館と一体化した松阪市コミュニティ図書館(仮称)として再開した。\n松阪市コミュニティ図書館(仮称)は開館後に名称を公募し、2019年8月7日に「三雲みんなの図書館コミュカル」とすることが決定した。", "qas": [ { "question": "「三雲みんなの図書館コミュカル」の名称が付いたのはいつですか?", "id": "de-027-02-000", "answers": [ { "text": "2019年8月7日", "answer_start": 223, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "松阪市松阪図書館(まつさかしまつさかとしょかん)は、三重県松阪市川井町772番地10にある公立図書館。\n建物は鉄骨造3階建てで、床面積は約2,900m2、敷地面積は1,509.03m2である。\n「図書館まつり」と称する行事を開催しており、これまでにお話し会や古本市、ビブリオバトルなどを行ってきた。\n松阪市ゆかりの人物についての資料を揃えており、その情報を「松阪再発見」のページを設けウェブサイトで公開している。", "qas": [ { "question": "松阪市松阪図書館の床面積は?", "id": "de-027-03-000", "answers": [ { "text": "約2,900m2", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "松阪市松阪図書館の敷地面積は?", "id": "de-027-03-001", "answers": [ { "text": "1,509.03m2", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "松阪市松阪図書館の所在地は?", "id": "de-027-03-002", "answers": [ { "text": "三重県松阪市川井町772番地10", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2018年4月1日のリニューアルによりICタグを導入し、自動貸出機、予約図書受け取り室を設置したほか、図書消毒機や、と図書館利用カードで利用状況が分かる学習室座席管理システムも導入した。\nまた、Wi-Fiの設置を行い、タブレット端末5台で商用データベースやインターネットを利用できるインターネットコーナーも開設した。", "qas": [ { "question": "図書館でICタグが導入されたのはいつ?", "id": "de-027-04-000", "answers": [ { "text": "2018年4月1日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1910年(明治43年)11月15日、時の皇太子(後の大正天皇)が松阪公園(松坂城跡)へ行啓したことを記念して同年12月3日の町村会において記念事業の実施を検討したが慎重に進めるべきとしていったん散会し、次の会までに各町村で意見をまとめることとした。\nその結果1911年(明治44年)1月11日に図書館の設置が建議され、1月19日に建設委員60人が任命された。\nちょうど同じころ、飯南郡同窓会も図書館建設計画を持っていたため、両者の計画を統合し、図書館を松阪公園内の空地に設置することを決定した。", "qas": [ { "question": "皇太子の行啓を記念して何を設置することが決まりましたか?", "id": "de-027-05-000", "answers": [ { "text": "図書館", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "図書館の建設場所はどこに決まりましたか?", "id": "de-027-05-001", "answers": [ { "text": "松阪公園内の空地", "answer_start": 227, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1911年(明治44年)7月25日、建設資金の寄付が相次いでいることから図書館を2階建てに変更し、建設予定地も松阪町所有の竹林に変更することにした。\nそして、松阪公園の北西の竹林を整地し着工、1912年(明治45年)3月12日に本館・倉庫が竣工、その他の建物も4月13日までにすべて完成した。\nそして4月15日午前10時30分に開館式を挙行、本館・倉庫・新聞雑誌縦覧所などの建物からなる飯南郡図書館として開館した。\n建設費4,702円89銭はほぼ住民からの寄付で賄われ、往時の松阪の繁栄が窺える。\nまた開館時の蔵書5,083冊のうち寄贈本が3,625冊、図書館への寄託本が865冊を占め、整地作業に約200人が無償で奉仕するなど住民に支えられての開館となった。\nこの図書館には少年時代の小津安二郎が通い、小津少年の日記には図書館で昼寝をしたことが記されている。", "qas": [ { "question": "図書館の建設費用はいくらでしたか?", "id": "de-027-06-000", "answers": [ { "text": "4,702円89銭", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "誰からの寄付金が最も多かったですか?", "id": "de-027-06-001", "answers": [ { "text": "住民", "answer_start": 223, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "開館時の蔵書のうち寄贈本と寄託本はどちらの数が多かったですか?", "id": "de-027-06-002", "answers": [ { "text": "寄贈本", "answer_start": 266, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1922年(大正11年)3月31日、飯南郡図書館は松阪町へ移管し、松阪記念館となった。\n松阪記念館は1階を図書部として図書館業務を行い、2階は貸し会議室として利用された。\n1932年(昭和7年)11月15日に松阪町立図書館へ改称、続いて1933年(昭和8年)2月1日に松阪市立図書館へ改称した。\n1945年(昭和20年)4月1日に一時休館、1946年(昭和21年)4月1日に再開した。\n戦後の1953年(昭和28年)10月31日、増改築が行われた。\nこの頃の利用者数は25,000人前後、貸出冊数は5万冊前後で推移している。", "qas": [ { "question": "改称前の松阪市立図書館の名称は何?", "id": "de-027-07-000", "answers": [ { "text": "松阪町立図書館", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1953年頃の利用者数は何人?", "id": "de-027-07-001", "answers": [ { "text": "25,000人前後", "answer_start": 234, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1953年頃の貸出冊数は何冊?", "id": "de-027-07-002", "answers": [ { "text": "5万冊前後", "answer_start": 249, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1961年(昭和36年)9月6日、市町村合併で編入した地域の住民の利便性向上のため、松阪市内の公民館にサービスステーションを設置して図書館と同様に利用できるようにした。\n最終的には18か所設置することを目標としながら初年度は予算の都合で与原・漕代・大石・東黒部の4か所にステーションを置き、各ステーションに100冊を備え、その蔵書を年4回ステーション間で入れ替えるという仕組みを取っていた。\nステーションでの貸し出しは1人1冊1週間であり、松阪市立図書館で借りるのと同条件であった。\n1971年(昭和46年)策定の『三重県松阪地区広域市町村圏計画』では、当時の蔵書は約32,000冊で充実が必要であることや建物の老朽化が指摘された。\nまた松阪市立図書館を核として、飯高町・飯南町・三雲村・明和町・多気町・勢和村を巡回し図書を貸し出すことが打ち出された。\nこうして松阪地区7ケ市町村広域図書館が1972年(昭和47年)4月1日に発足し、松阪市が事業を受託した。", "qas": [ { "question": "与原・漕代・大石・東黒部に設けられた各ステーションの蔵書数は?", "id": "de-027-08-000", "answers": [ { "text": "100冊", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ステーションと松坂市立図書館は1人何冊まで貸出可能でしたか?", "id": "de-027-08-001", "answers": [ { "text": "1冊", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1976年(昭和51年)8月より2億2千万円をかけて松阪市社会教育センター(現在の松阪公民館、松阪市殿町1563)の建設が開始され、翌1977年(昭和52年)6月1日にその1階に松阪市立図書館は移転した。\nこの図書館には児童閲覧室・一般閲覧室・開架室・郷土資料室・点字コーナーを設置していた。\n旧館は松阪市立歴史民俗資料館に転用された。\n移転した1977年(昭和52年)の利用者数は77,004人を記録したが、以降は年3-4万人で推移した。\n1987年(昭和62年)4月1日、同じ社会教育センター内にあった郷土資料室(旧市史編纂室)を図書館の分室とした。", "qas": [ { "question": "移転当時の利用者は何人でしたか?", "id": "de-027-09-000", "answers": [ { "text": "77,004人", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1986年(昭和61年)7月28日より総工費3億3870万円をかけて新図書館の建設を開始、1987年(昭和62年)3月25日に完成した。\nそして6月21日に現在地へ移転し、蔵書66,700冊で再出発した。\nこの時コンピュータを導入している。\n1991年(平成3年)2月1日にふるさとコーナーを設置、1994年(平成6年)5月1日より貸出冊数を従来の3冊から5冊に増加させた。\n1997年(平成9年)5月14日増築工事に着手、1998年(平成10年)1月20日に完了した。\n同年2月24日より増築部分に蔵書を移動するため休館に入り、3月2日に竣工式を挙行、3月3日より再開館した。\n2004年(平成16年)12月31日、市町村合併により新しい松阪市が発足するのを前に1972年(昭和47年)から継続してきた広域図書館を廃止した。", "qas": [ { "question": "新図書館は蔵書何冊で再スタートしましたか?", "id": "de-027-10-000", "answers": [ { "text": "66,700冊", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1994年5月1日以降、貸出冊数は何冊まで可能となったの?", "id": "de-027-10-001", "answers": [ { "text": "5冊", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "新図書館にコンピュータが導入されたのは何年でしたか?", "id": "de-027-10-002", "answers": [ { "text": "1986年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2005年(平成17年)1月1日に松阪市は嬉野町・三雲町・飯南町・飯高町と新設合併し新・松阪市となり、松阪市松阪図書館に改称した。\n同時に貸出冊数を10冊に増やし、三重県全体に貸し出し対象者を拡大する変更を行った。\nこの時、嬉野図書館も松阪市の管理運営となるが、システム統合が行われたのは2007年(平成19年)4月1日のことである。\n2009年(平成21年)4月に指定管理者制度を導入し、図書館流通センターの管理に移行した。\n2013年(平成25年)11月に入館者カウンターを設置した。", "qas": [ { "question": "2005年1月1日から貸出冊数は何冊まで可能となったの?", "id": "de-027-11-000", "answers": [ { "text": "10冊", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2009年4月以降、図書館の管理を担うようになった機関とはどこ?", "id": "de-027-11-001", "answers": [ { "text": "図書館流通センター", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2013年(平成25年)4月、松阪市長の山中光茂は佐賀県の武雄市図書館・歴史資料館を模範とした図書館改革に着手し、武雄市から樋渡啓祐市長を招くなどして研究を重ねたが、ツタヤによる販売との併用に関して市民や識者の反対で取りやめることになった。\n代替案として山中はPFIの導入を含めた改革案を提示、松阪市の民間委託等検討委員会は建設費12億5千万円というコンサルタントの調査結果を2014年(平成26年)8月に了承した。", "qas": [ { "question": "2013年4月当時に松坂市長を務めていた人は誰?", "id": "de-027-12-000", "answers": [ { "text": "山中光茂", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2013年4月当時に佐賀県武雄市長を務めていた人は誰?", "id": "de-027-12-001", "answers": [ { "text": "樋渡啓祐", "answer_start": 62, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかしPFI導入案は「優位性が認められない」として松阪市議会で2度に渡って否決され、2014年(平成26年)12月に山中は辞意を表明した。\nその後、山中は「市議会が歩み寄るなら撤回もありうる」、「議会のリコール運動を見届けてから」などと辞任を先送りし、2015年9月に辞職した。\n同年10月4日に行われた市長選で、元三重県議会議員の竹上真人が山中に後継と名指しされた候補を約1,500票の僅差で破り新市長に就任した。\n結局、従来通り指定管理者の公募が行われ、松阪図書館は改修を行う方向で議論が進められた。\n2017年(平成29年)4月1日より松阪図書館は改修工事のため長期休館に入った。\n図書館学習室の代替として、松阪公民館と松阪市立松江小学校に学習室が設置されていたが、図書館そのものの代替施設は設置されず、休館中は嬉野図書館を利用するよう市当局は求めていた。\n松阪市議会議員の海住恒幸によれば、代替施設の設置は当初予定されていたものの突然計画が中断したといい、代替サービスを求める要請書が3人の市議から市長の竹上真人らに提出された。", "qas": [ { "question": "山中が完全に辞任したのはいつ?", "id": "de-027-13-000", "answers": [ { "text": "2015年9月", "answer_start": 126, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "山中の次に市長に就任した人は誰?", "id": "de-027-13-001", "answers": [ { "text": "竹上真人", "answer_start": 166, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "竹上は山中の後継者と言われた候補者と何票差をつけて当選したの?", "id": "de-027-13-002", "answers": [ { "text": "約1,500票", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2017年(平成29年)7月から本格的な工事が開始され、当初の工期は2018年(平成30年)2月までとなっていた。\n総工費は約6億5千万円。\n工事中松阪公民館に保管されていた26万冊の蔵書は、段ボール320箱に入れられて改修後に運び込まれる予定だった。\n2018年(平成30年)4月1日、オープニングセレモニーが行われ、リニューアルオープンした。", "qas": [ { "question": "図書館の工事にかかった費用の総額は?", "id": "de-027-14-000", "answers": [ { "text": "約6億5千万円", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "工事中に松坂公民館に保管されていた蔵書は何冊でしたか?", "id": "de-027-14-001", "answers": [ { "text": "26万冊", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "松阪図書館のアクセスは、JR東海紀勢本線・近鉄山田線松阪駅より徒歩約25分。\n三重交通路線バス「文化会館」停留所下車、徒歩約1分。", "qas": [ { "question": "松阪図書館から歩いて先に到着するのは近鉄山田線松阪駅と「文化会館」停留所のどちらですか?", "id": "de-027-15-000", "answers": [ { "text": "「文化会館」停留所", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "JR東海紀勢本線松阪駅から松坂図書館までは歩いてどれくらいかかりますか?", "id": "de-027-15-001", "answers": [ { "text": "約25分", "answer_start": 33, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「文化会館」停留所から松坂図書館までは歩いて何分ですか?", "id": "de-027-15-002", "answers": [ { "text": "約1分", "answer_start": 61, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "松阪市嬉野図書館(まつさかしうれしのとしょかん)は、三重県松阪市嬉野町1429番地1の松阪市嬉野生涯学習センターにある公立図書館である。\n建物は鉄筋コンクリート構造2階建てで、1階に嬉野図書館、2階に嬉野公民館がある。\n設計・監理は東畑建築事務所名古屋事務所、施工は大日本土木三重営業所が担当し、総工費は1,489,161,000円であった。\n延床面積は2,795.3m2(うち図書館部分は1,660.32m2)、敷地面積は9,258.0m2である。\n図書館を使った調べる学習チャレンジ教室やクリスマス会などの行事を主催し、市民団体によるお話し会が盛んに開催されている。\n嬉野生涯学習センターの構成は以下の通り。\nユニバーサルデザインのまちづくりを推進する市民団体「UDうれしの」は「利便性に優れ明るく落ち着いた雰囲気」と評している。", "qas": [ { "question": "嬉野図書館の上の階は何となっていますか?", "id": "de-027-16-000", "answers": [ { "text": "嬉野公民館", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "松阪市嬉野図書館の住所地は?", "id": "de-027-16-001", "answers": [ { "text": "三重県松阪市嬉野町1429番地1", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "嬉野図書館の総工費はいくらでしたか?", "id": "de-027-16-002", "answers": [ { "text": "1,489,161,000円", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "嬉野図書館の延床面積と敷地面積はどちらが狭いですか?", "id": "de-027-16-003", "answers": [ { "text": "延床面積", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1989年(平成元年)8月、当時の嬉野町は町の広報紙で町の活性化に関するアンケートを実施し、図書館を併設した中央公民館の整備を求める声が多く寄せられた。\nそこで嬉野町では1996年(平成8年)7月に生涯学習センター建設検討推進委員会を設置、翌1997年(平成9年)2月にセンターの設計プロポーザルを実施し東畑建築事務所名古屋事務所を選定、1998年(平成10年)3月から着工した。\n同年6月、未開館ながら日本図書館協会と三重県図書館協会に加盟した。", "qas": [ { "question": "日本図書館協会に加盟したのは何年でしたか?", "id": "de-027-17-000", "answers": [ { "text": "1998年", "answer_start": 169, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "三重県図書館協会に加盟したのは何年でしたか?", "id": "de-027-17-001", "answers": [ { "text": "1998年", "answer_start": 169, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1999年(平成11年)3月30日に竣工式を挙行、7月8日に開館記念式典を行い、嬉野町図書館として開館した。\n2001年(平成13年)4月には貸出冊数を5冊から10冊に増加させ、2002年(平成14年)5月からは久居市・一志町(どちらも現・津市)・松阪市の住民にも貸し出しを開始した。", "qas": [ { "question": "嬉野町図書館の開館当時の貸出可能冊数は何冊でしたか?", "id": "de-027-18-000", "answers": [ { "text": "5冊", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2001年4月からは何冊まで貸出が可能となったの?", "id": "de-027-18-001", "answers": [ { "text": "10冊", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2005年(平成17年)1月1日に嬉野町は松阪市・三雲町・飯南町・飯高町と新設合併し新・松阪市となり、松阪市嬉野図書館に改称した。\n同時に三重県全体に貸し出し対象者を拡大した。\nこの時、松阪図書館も松阪市の管理運営となるが、システム統合が行われたのは2007年(平成19年)4月1日のことである。\n2009年(平成21年)4月に指定管理者制度を導入し、図書館流通センターの管理に移行した。", "qas": [ { "question": "新・松阪市の誕生に伴い嬉野町図書館は何と改称したの?", "id": "de-027-19-000", "answers": [ { "text": "松阪市嬉野図書館", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "三重県全体に貸し出し対象者を拡大したのは何年からですか?", "id": "de-027-19-001", "answers": [ { "text": "2005年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "はつゆきさくら", "paragraphs": [ { "context": "『はつゆきさくら』は、SAGAPLANETSにより開発され、株式会社ビジュアルアーツより2012年2月24日に発売されたWindows用18禁恋愛アドベンチャーゲームだ。\n\n本作は、復讐に囚われた少年少女が自分や親しい人の卒業を経て成長する、冬から春にかけての恋物語である。春・夏・秋をそれぞれ舞台とした『Coming×Humming!!』・『ナツユメナギサ』・『キサラギGOLD★STAR』に続く四季シリーズの最後を飾る作品で、SAGAPLANETSの第17作目である。\n\n企画とシナリオを手掛けたのは、四季シリーズの全作品に関わっている新島夕である。メインキャラクターの原画は、ほんたにかなえ・とらのすけ・ちまろが担当した。主題歌はI'veとfripSideが制作し、BGMは水月陵が制作した。\n\nGetchu.comの2012年の美少女ゲーム売り上げランキングで10位になった。また、2012年の美少女ゲーム人気投票ではGetchu.comによる集計において、総合部門・シナリオ部門・音楽部門のすべてで1位を達成した。さらに、複数の美少女ゲーム雑誌にて、本作のキャラクターデザイン・シナリオに対して好意的なコメントが掲載された。\n\n2012年には角川書店から出版されている漫画雑誌・『月刊コンプエース』に漫画が掲載され、後に単行本が発売された。2013年には本作の小説が発売された。\n\n2017年3月23日にエンターグラムよりPlayStationVita版が発売された。2019年12月19日にはPlayStation4版も発売。", "qas": [ { "question": "SAGAPLANETSの第17作目は何ですか。", "id": "de-028-00-000", "answers": [ { "text": "『はつゆきさくら』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『はつゆきさくら』はいつ発売されましたか。", "id": "de-028-00-001", "answers": [ { "text": "2012年2月24日", "answer_start": 44, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『はつゆきさくら』はGetchu.comの2012年の美少女ゲーム売り上げランキングで何位を記録しましたか。", "id": "de-028-00-002", "answers": [ { "text": "10位", "answer_start": 384, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『はつゆきさくら』の小説は何年に発売されたか。", "id": "de-028-00-003", "answers": [ { "text": "2013年", "answer_start": 575, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『はつゆきさくら』に出現するMAP移動や選択肢により物語の展開が変化する恋愛アドベンチャーゲームである。初回のプレイでは特定の物語にしか進めないが、この物語を結末まで読むと、他の物語へ分岐する選択肢が出現する。ヒロイン全員の物語を結末まで読むと、Graduationという物語に進めるようになり、本作の真相がそこで明かされる。短い物語も含めると、本作にはエンディングが10個あり、その他にもバッドエンドが存在する。ゲームを1回以上クリアすると、起動直後のトップメニューにCGやBGMを閲覧できるメニューが追加される。", "qas": [ { "question": "『はつゆきさくら』にはいくつのエンディングがありますか。", "id": "de-028-01-000", "answers": [ { "text": "10個", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『はつゆきさくら』は、ヒロイン全員の物語を結末まで読むと、何という物語に進むことができるか。", "id": "de-028-01-001", "answers": [ { "text": "Graduation", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『はつゆきさくら』で、起動直後のトップメニューにCGやBGMを閲覧できるメニューが追加されるためには、何回以上ゲームをプレイしないといけませんか。。", "id": "de-028-01-002", "answers": [ { "text": "1回以上", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『はつゆきさくら』は幽霊が蔓延る架空都市・内田川邊市が舞台のゲームである。主人公である河野初雪は、2つの復讐を心に秘めながら市内にある白咲学園に通っている。\n\n物語の舞台である内田川邊市は、物語が始まる10年前に内田市と川邊市が合併してできた都市である。市の中心部にはターミナル駅があり、かなり栄えているが、旧内田市の領域はゴーストタウンと化すほど廃れてしまっている。市内には、主人公やヒロインたちが通う白咲学園という進学校がある。この学園では、2月14日にバレンタイン祭という文化祭が行われる。これは恋愛がテーマの学園祭で、校長の勧めで毎年行われている。\n\n本作では、幽霊が物語に深く関わってくる。内田川邊市では幽霊が至るところに紛れており、生きている人間を連れ去って幽霊にすると噂されている。また、本作では幽霊と関わりのある反魂香という香が登場する。この香は死者の霊を呼んだり、生霊を生じさせたりすることができる。花が焼けるような甘い香りがかすかにするのが特徴である。多くの人間にはその香りは認識できないが、異常な量の香が焚かれていれば認識できる。", "qas": [ { "question": "『はつゆきさくら』はの主人公は誰?", "id": "de-028-02-000", "answers": [ { "text": "河野初雪", "answer_start": 43, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『はつゆきさくら』の主人公が通っている学校はどこなの?", "id": "de-028-02-001", "answers": [ { "text": "白咲学園", "answer_start": 67, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "内田川邊市は内田市とどこが合併してできた都市ですか。", "id": "de-028-02-002", "answers": [ { "text": "川邊市", "answer_start": 90, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "白咲学園では、2月14日に何という文化祭が開かれますか。", "id": "de-028-02-003", "answers": [ { "text": "バレンタイン祭", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "内田川邊市では、物語が始まる10年前にホテルで爆発が起きた。当時そのホテルでは祝賀会が行われており、多くの犠牲者が出た。主人公の河野初雪とその家族も爆発に巻き込まれ、母親は即死し、父親は瀕死となる。初雪の父親は死ぬ間際に、爆発は故意に引き起こされたと初雪に伝え、初雪に復讐を促す。父親に復讐を刷り込まれた初雪は、爆発事件の犠牲者の幽霊たちに取り憑かれ、それらを率いる幽霊の王・ゴーストチャイルドとなる。\n\n物語が始まる2年前に、初雪にもう一つの復讐心が芽生える。当時の初雪は、ランという少女と廃ホテルで暮らしていた。天涯孤独となった初雪にとって彼女は家族のような存在であり、口うるさい彼女に毒づきながらも内心では慕っていた。しかしある日、ランがコノハサクヤと名乗る少女に魂を狩られて言葉を発さない人形となる。初雪はコノハサクヤを恨み、復讐をするために彼女を探し始める。", "qas": [ { "question": "ランが言葉を発さなくなったのは誰のせいですか。", "id": "de-028-03-000", "answers": [ { "text": "コノハサクヤ", "answer_start": 322, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "Prologueでは初雪の境遇が語られ、ヒロインたちとの交流が始まる。\n\n爆発事件から10年、ランの魂が狩られてから2年経ったところから物語が始まる。初雪は未だにランの仇を見つけ出せずにいた。白咲学園の3年生となった初雪は、卒業を控えたある雪の夜に、桜という、ウサギを連れた少女と出会う。桜は内田川邊市で、幽霊の王・ゴーストチャイルドを探している。復讐のためにコノハサクヤを探している初雪は、自分がゴーストチャイルドであることを隠しながら彼女と協力することになる。\n\n初雪は学園の教師から、進路指導委員会への参加を命じられる。そこで初雪は希や夜と一緒に、学園内の様々な問題を解決する。その最中に、桜と共にいるウサギのネムがコノハサクヤの変身姿であることを初雪は知る。初雪は桜との交流を続け、復讐の機会を窺う。しかし、バレンタイン祭やデートを経て、初雪は桜への恋心を自覚する。初雪は、自分がゴーストチャイルドであることを桜に告白し、別れを告げてしまう。\n\n物語の共通部分であるPrologueはここで終わり、Prologue中に選んだ選択肢によって各ルートに分岐する。", "qas": [ { "question": "Prologueは爆発事件から何年経った時点で始まるか。", "id": "de-028-04-000", "answers": [ { "text": "10年", "answer_start": 43, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "初雪は白咲学園の何年生ですか。", "id": "de-028-04-001", "answers": [ { "text": "3年生", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゴーストチャイルドは誰なの?", "id": "de-028-04-002", "answers": [ { "text": "初雪", "answer_start": 192, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "桜と共にいるウサギのネムは本当は何ですか。", "id": "de-028-04-003", "answers": [ { "text": "コノハサクヤの変身姿", "answer_start": 311, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "綾の物語は、初雪と桜が会う1年前の話である。その頃の初雪は衣食住に困っており、アキラという少年に雇われて不良たちへの復讐をおこなったり、学園の剣道場で野宿したりしていた。野宿姿を当時の生徒会長である綾に見つかり、彼女の紹介で初雪はカフェに住み込みで働くようになる。2人が親密になっていく中、初雪は綾とアキラが姉弟であることを知る。\n\nバレンタイン祭という白咲学園の文化祭が始まる数日前。ファントムと名乗る人物から学園に脅迫状が届く。初雪はその内容から、差出人であるファントムはアキラだと考える。バレンタイン祭当日にはファントムを名乗る不審者たちが現れ、学園内で暴動を起こす。ファントムを探す初雪は、剣道場でアキラを見つける。初雪はアキラから、本当に憎いのは不良たちではなく、姉である綾だと告げられる。\n\n綾と恋仲になった初雪は、彼女に自分の身の上話をする。綾に受け入れられて安堵した初雪は、後にアキラの正体を知る。アキラはすでに死んでおり、初雪が出会ったアキラは綾が反魂香を用いて呼び出した幽霊だった。初雪は剣で綾と戦い、綾に取り憑くアキラを消滅させる。しかし、アキラの消滅と共に、綾はアキラが取り憑いていた期間の記憶を失い、初雪のことを忘れてしまう。白咲学園の卒業式当日、初雪は自分のことを忘れてしまった綾が卒業を迎える姿を影から見届ける。", "qas": [ { "question": "綾の物語は、初雪と桜が会う何年前の話ですか。", "id": "de-028-05-000", "answers": [ { "text": "1年前", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "綾とアキラはどんな関係ですか。", "id": "de-028-05-001", "answers": [ { "text": "姉弟", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バレンタイン祭の数日前、何と名乗る人物から学園に脅迫状が届いたか。", "id": "de-028-05-002", "answers": [ { "text": "ファントム", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アイスダンス選手である夜の周りでは、中傷などの嫌がらせや不幸な事故が続いていた。初雪は夜のことを心配し、彼女と会う回数を増やしていく。ある日、初雪は夜に呼び出され、藤枝ミクという少女を紹介される。初雪は彼女にアプローチをかけられるが、彼女の目的が夜への嫌がらせであることを見抜く。夜にはライバルの選手に呪いをかけたという噂があり、ミクはそれを信じていた。\n\n様々な嫌がらせから不登校になった夜を心配して、初雪は夜が通うスケートリンクを訪れる。そこで初雪は、氷上にナイトメアという幽霊を見つける。ナイトメアの正体は、反魂香によって出現した夜の生霊であり、中傷をする人々に復讐をしようと企んでいた。初雪はナイトメアを通じて夜に復讐を止めるように諭し、アイスダンス大会を目指して努力する夜を恋人として支える。\n\nアイスダンス大会の当日も野次を飛ばされる夜は、復讐を願うナイトメアを再出現させてしまう。夜を助けるために会場に駆けつけた初雪は、藤枝ミクを唆した真犯人と対峙する。一方、氷上で滑る夜は、会場には野次だけではなく応援する声もあることを知り、復讐心の塊であるナイトメアは消滅する。復讐心を克服した夜は見事な演技を行い、野次に包まれていた会場は静まり返る。", "qas": [ { "question": "夜は何の選手なの?", "id": "de-028-06-000", "answers": [ { "text": "アイスダンス", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "不登校になった夜を心配して、夜が通うスケートリンクを訪れた初雪は、何という幽霊を見つけますか。", "id": "de-028-06-001", "answers": [ { "text": "ナイトメア", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "初雪はカフェで「ロシア出身のシロクマ」と名乗る少女と共に働いている。仕事のできないシロクマに呆れる初雪だったが、彼女と行動するうちに徐々に親しくなっていく。ある日、初雪はシロクマの素性を幽霊たちから聞く。シロクマは爆発事件の主要人物の孫娘だった。初雪は幽霊たちにシロクマを人質にしろと唆されるが、自分の復讐に巻き込みたくないと考え、幽霊の誘惑を断ち切る。\n\n受験生であるシロクマが受験先も決めていないことを知り、初雪は白咲学園を見学させる。シロクマは白咲学園を気に入り、初雪に家庭教師をしてもらいながら白咲学園への入学を目指す。シロクマは一度受験に失敗するが、初雪に応援され、後期試験も受験する。後期試験では見事に白咲学園に合格する。シロクマの合格を見届けた初雪は姿を消してしまう。\n\n2年後にシロクマは初雪と再会するが、初雪はシロクマが知る彼とは変わっていた。悪霊たちに感化され、放火や自爆テロも躊躇わない人間になっていた。初雪はシロクマの祖父を呼び出すために彼女を人質に取る。しかし、自分を健気に信じるシロクマを見て初雪は正気を取り戻し、復讐を諦め姿を消してしまう。やがて春が訪れ、白咲学園を卒業したシロクマはロシアに留学する。それは、昔についた嘘を本物にしていけば、今では幻のように思える楽しかった日々が戻ってくると信じるからだった。", "qas": [ { "question": "白咲学園を卒業したシロクマはどこに留学しますか。", "id": "de-028-07-000", "answers": [ { "text": "ロシア", "answer_start": 507, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "初雪に認められたい希は、進路指導委員会への依頼を一人で解決しようとする。希を心配する初雪は、仲間と共に依頼に取り組み、徐々に希を好きになる。希の方も、初雪に対する想いが日に日に増していく。しかし、その想いが友情なのか恋なのか希には分からなかった。バレンタイン祭という文化祭をきっかけに、希は自分の想いが恋であることを知り、初雪に告白をする。初雪はそれを受け入れ、2人は付き合い始める。\n\nある日、学園に怪文書が届く。手紙には「卒業式の日、学園に死者が蘇るだろう」と書かれていた。卒業式の前日、希の兄である東雲妻と剣道部員たちが体育館を占拠する。彼らは、学生が起こした暴行事件の身代わりとなり、学園から去った恩師の汚名返上のために、暴行事件の真実を公開することを要求する。希は兄の間違いを正すために彼と対決し、初雪は剣道部員たちの罪をすべて被ると消えてしまう。翌日の卒業式。希は在校生の代表として、卒業できない人のことを想いながら、立派に送辞を読む。", "qas": [ { "question": "バレンタイン祭の時、希は誰に告白したの?", "id": "de-028-08-000", "answers": [ { "text": "初雪", "answer_start": 161, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東雲妻の方が年下なの、希の方が年下なの?", "id": "de-028-08-001", "answers": [ { "text": "希", "answer_start": 246, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "Graduationは物語の真相が明らかになるルートで、初雪の復讐の結末や、桜の正体などが明かされる。\n\n桜からメールで告白をされた初雪は、彼女への恋心を自覚する。やがて初雪と桜は結ばれ、2人は廃ホテルで一緒に暮らし始める。進路指導委員会では、恋人同士となった2人の思い出作りのために写真を撮る。しかし、写真の中の桜はどれも白く霞んでいた。写真を見て桜が幽霊ではないかと疑いを持った初雪は、彼女を問いただして真実を知る。桜は、自分は幽霊で初雪と過ごすことが夢だったと語る。そして、桜は幽霊としての時間がないことを初雪に告げ、直後に消滅してしまう。\n\n桜を失ったことで歯止めが掛からなくなった初雪は、悪霊たちに唆され、復讐のために自爆テロを起こそうとする。初雪の仲間たちは、彼を止めるために悪霊たちを消滅させようとする。しかし、そこに1年前の記憶を取り戻した綾が現れ、初雪に肩入れをする。仲間たちは初雪と綾に対峙し、少しずつ初雪の中の悪霊を消し去っていく。しかし、初雪の中には亡き父の執念が取り込まれており、なかなか解放されない。仲間や桜の想いを知った初雪は、父親の執念からついに逃れ、自爆テロによる復讐を諦めて生きることを選ぶ。\n\n時は流れ、初雪の卒業式の日。初雪は3年間の思い出を胸に、学園内を見て回る。最後に卒業の記念写真を撮ると、そこには幸せそうに笑う桜が写っていた。", "qas": [ { "question": "初雪の復讐の結末や、桜の正体などが明かされるルートは何ですか。", "id": "de-028-09-000", "answers": [ { "text": "Graduation", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "桜は何で初雪に告白したの?", "id": "de-028-09-001", "answers": [ { "text": "メール", "answer_start": 56, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "桜の本当の正体は何でしたか。", "id": "de-028-09-002", "answers": [ { "text": "幽霊", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『はつゆきさくら』のテーマは「卒業」と「復讐」である。「卒業」は誰でも体験していて共感しやすいこと、四季シリーズの最後にふさわしいことからテーマに選ばれた。テーマが「卒業」であるため、主人公は卒業間近の3年生という設定である。卒業に価値を見出だせない主人公が、ヒロインに触発されて卒業を意識するようになるという物語になっている。各ヒロインルートにおいても「卒業」が様々な角度から描かれており、主人公自身が卒業を迎えるルートや主人公が親しい人の卒業を経験するルートなどがある。もう1つのテーマである「復讐」は、主人公の根幹を成す感情である。主人公が抱える復讐心が、季節が冬から春に変わるのに合わせて溶けてなくなるという物語になっている。各ヒロインルートでも「復讐」の要素が取り込まれており、死者の復讐心に狂わされる少女を描いた話や、自身の悪評を流されて復讐心を抱く少女の話などがある。\n\n『はつゆきさくら』のタイトルは紆余曲折を経て決定された。新島夕は初め、企画名を「GhostGraduation」として提出したが、スタッフから猛反対された。そこでキャッチコピーの「初雪から桜まで、卒業おめでとう——」を省略した「はつゆきさくら」を提案し、ようやくスタッフから賛成された。どうしても「GhostGraduation」を推したい新島夕がサブタイトルに「GhostGraduation」を入れていたところ、ビジュアルアーツの広報からも反対され、サブタイトルは「WhiteGraduation」になり、「Ghost」の文字はタイトルからは消失した。", "qas": [ { "question": "『はつゆきさくら』のテーマは「復讐」と何?", "id": "de-028-10-000", "answers": [ { "text": "「卒業」", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "新島夕は初め、どんな企画名を提案しましたか。", "id": "de-028-10-001", "answers": [ { "text": "「GhostGraduation」", "answer_start": 432, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『はつゆきさくら』のサブタイトルは何ですか。", "id": "de-028-10-002", "answers": [ { "text": "「WhiteGraduation」", "answer_start": 627, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『はつゆきさくら』の発表は、2011年5月に発売されたゲーム情報誌(『PUSH!!』の2011年7月号や『DENGEKIHIME』の2011年7月号など)で行われた。2011年8月には公式サイトが公開され、後に公式サイト上でホームページやブログ用の応援バナーやTwitter用の素材が配布された。2011年11月25日からはゆずソフトの作品である『DRACU-RIOT!』との合同バナーキャンペーンが始まった。販売促進活動の一環として、イベント用のコスプレ衣装が制作され、2011年10月23日のDreamParty大阪で初披露された。2011年12月末には本作の体験版が公開され、内容が重いということで話題となった。というのも、体験版が出るまでは第二のテーマである「復讐」や幽霊などの設定は伏せられていたからである。これは、SAGAPLANETSの代表であるふるが、一部だけ設定を公開して物語を勘違いされるよりも体験版という形で一気に公開した方がいいと考えたためである。", "qas": [ { "question": "『はつゆきさくら』の公式サイトは何月に公開された?", "id": "de-028-11-000", "answers": [ { "text": "8月", "answer_start": 88, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『はつゆきさくら』の体験版はいつ公開されたの?", "id": "de-028-11-001", "answers": [ { "text": "2011年12月末", "answer_start": 268, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『はつゆきさくら』は美少女ゲームを対象とした月間・年間売り上げランキングでそれぞれ最高2位と最高10位を獲得した。\n\n発売月(2012年2月)の美少女ゲーム売り上げランキングでは、『PUSH!!』による集計で2位を、『Getchu.com』・『TECHGIAN』による集計で3位を獲得した。『Getchu.com』の売り上げランキングでは、翌月の2012年3月でも29位にランクインした。\n\n2013年の美少女ゲーム年間売り上げランキングでは、『Getchu.com』による集計で10位を、『BugBug』による集計で18位を獲得した。本作の具体的な販売本数は各売り上げランキングや『はつゆきさくらビジュアルファンブック』でも公表されていない。", "qas": [ { "question": "『はつゆきさくら』は美少女ゲームを対象とした月間売り上げランキングで、最高何位を記録しましたか。", "id": "de-028-12-000", "answers": [ { "text": "最高2位", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『はつゆきさくら』は2013年の美少女ゲーム年間売り上げランキングでは、『Getchu.com』による集計で何位を獲得したか。", "id": "de-028-12-001", "answers": [ { "text": "10位", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] } ] }