{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "恋人たちのクリスマス", "paragraphs": [ { "context": "『恋人たちのクリスマス』(こいびとたちのクリスマス、英:AllIWantforChristmasIsYou)は、マライア・キャリーが1994年に発表したクリスマスソングである。\n原題は「クリスマスに欲しいのはあなただけ」という意味である。\nこの曲はシンガーソングライターであるキャリーとウォルター・アファナシェフの共筆で書かれ、キャリーにとって4枚目のスタジオアルバムかつ初めてのホリデーアルバムである『メリー・クリスマス』(1994年)のリード・シングルとして、1994年11月1日にコロムビア・レコードから発売された。\n曲はアップテンポのラブソングで、ベル・チャイムやバック・コーラス、シンセサイザーなどが使われている。", "qas": [ { "question": "『恋人たちのクリスマス』の原題の意味は何?", "id": "tr-435-00-000", "answers": [ { "text": "「クリスマスに欲しいのはあなただけ」", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『恋人たちのクリスマス』の発売日は?", "id": "tr-435-00-001", "answers": [ { "text": "1994年11月1日", "answer_start": 232, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『恋人たちのクリスマス』の曲を歌っている歌手は誰?", "id": "tr-435-00-002", "answers": [ { "text": "マライア・キャリー", "answer_start": 56, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『恋人たちのクリスマス』のレコードレーベルは何ですか?", "id": "tr-435-00-003", "answers": [ { "text": "コロムビア・レコード", "answer_start": 243, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この曲には、キャリーと当時の夫トミー・モトラが出演するホームムービー風映像と、白黒映像でザ・ロネッツ風の衣装を着たキャリーを映すミュージック・ビデオが存在する。\nキャリー自身はテレビの生放送で何回もこの曲を披露しているほか、長年ツアーでも歌唱している。\n2010年には2作目のホリデー・アルバムである『メリー・クリスマスIIユー』のために再録音したほか、カナダ出身の歌手ジャスティン・ビーバーのアルバム『アンダー・ザ・ミスルトウ』(2011年)では彼とのデュエットを披露した。\n他にも、キャリー以外の多くのアーティストにカバーされ続けている。", "qas": [ { "question": "『恋人たちのクリスマス』のミュージック・ビデオに登場するキャリーの旦那の名前は何?", "id": "tr-435-01-000", "answers": [ { "text": "トミー・モトラ", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "キャリーが『恋人たちのクリスマス』を再録音したのはいつ?", "id": "tr-435-01-001", "answers": [ { "text": "2010年", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『アンダー・ザ・ミスルトウ』の発売年はいつ?", "id": "tr-435-01-002", "answers": [ { "text": "2011年", "answer_start": 216, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『アンダー・ザ・ミスルトウ』でキャリーがデュエットした歌手とは誰?", "id": "tr-435-01-003", "answers": [ { "text": "ジャスティン・ビーバー", "answer_start": 185, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "最初のリリースから何年も経っているが、曲には絶賛が寄せられ続けており、『ザ・ニューヨーカー』誌では、「ホリデーソングの名曲集に加える価値のある数少ない現代曲のひとつ」(英:\"oneofthefewworthymodernadditionstotheholidaycanon\")と評された。\n曲はクリスマスの定番曲と考えられており、毎年のクリスマス毎に人気が再燃する。\n商業的にも成功し、チェコ、ハンガリー、オランダ、ノルウェー、スロヴェニア、スペインでチャート1位、オーストラリア、日本、イギリスでチャート2位に入ったほか、多くの国でトップ10入りを果たした。\n中でも日本では、1994年秋放送の『29歳のクリスマス』主題歌に起用され、彼女の人気を押し上げる一因となった。\nシングルの売り上げは世界11位の1,600万枚以上にのぼり、キャリー最大のヒット作である。\n2017年段階で、この曲は6,000万ドルもの印税を稼ぎ出しているとの報道もある。\n2018年12月24日には、Spotifyでの再生回数が24時間に1,081万9,009回を記録し、XXXテンタシオン「SAD!」が2018年7月19日に記録した約1,040万回を塗り替えた。\n2019年12月16日、リリースから25年後についにBillboardHot100でNo.1となった。", "qas": [ { "question": "『恋人たちのクリスマス』が主題歌となった日本のドラマとは?", "id": "tr-435-02-000", "answers": [ { "text": "『29歳のクリスマス』", "answer_start": 298, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『恋人たちのクリスマス』のシングルの売り上げは何枚にのぼりますか?", "id": "tr-435-02-001", "answers": [ { "text": "1,600万枚以上", "answer_start": 353, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『恋人たちのクリスマス』がリリースの25年後に1位になった人気チャートの名前とは何?", "id": "tr-435-02-002", "answers": [ { "text": "BillboardHot100", "answer_start": 548, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Spotifyにおける再生回数が少ないのは、『恋人たちのクリスマス』と「SAD!」のどちらですか?", "id": "tr-435-02-003", "answers": [ { "text": "「SAD!」", "answer_start": 484, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1993年に発表し、自身最高の売り上げを記録した『ミュージック・ボックス』での成功に続き、キャリーと彼女のマネジメントを担当するコロムビア・レコードの職員は、次なるプロジェクトの企画・戦略を考えようとしていた。\nキャリーが当時結婚していたトミー・モトラは、コロムビアの親レーベルであるソニー・ミュージックエンタテインメントの長で、彼女のキャリア絶頂期において、次にどんな計画を打ち出すべきか検討を始めた。\nキャリー本人や、彼女と4年以上仕事をしてきた共執筆者のウォルター・アファナシェフを交え、クリスマスを題材にしたアルバムの制作が話し合われたが、その中では、キャリア絶頂期の人間がホリデー・アルバムを出すのは得策ではなく、落ち目のミュージシャンがキャリアの終わりにやることではないかという不安が出された。", "qas": [ { "question": "『ミュージック・ボックス』の発売された年は?", "id": "tr-435-03-000", "answers": [ { "text": "1993年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "キャリーと4年以上仕事をしてきた共執筆者は誰ですか?", "id": "tr-435-03-001", "answers": [ { "text": "ウォルター・アファナシェフ", "answer_start": 230, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ミュージック・ボックス』の次のアルバム制作では、何を題材にしようと話し合われましたか?", "id": "tr-435-03-002", "answers": [ { "text": "クリスマス", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "コロムビアの親レーベルとなるレコード会社は何?", "id": "tr-435-03-003", "answers": [ { "text": "ソニー・ミュージックエンタテインメント", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アファナシェフは、ホリデー・アルバムに関する最初の会議での心証として、「あの時は、クリスマス・アルバムを出しているアーティストはそう多くなかった。あの時はその術も全く知られていなかったし、新しい人気のクリスマスソングなんて作った人は誰もいなかった。そういう訳で、自分たちは毎日の出来事みたいに、『やあ、知ってるだろ、クリスマスアルバムを出すんだ。大したことじゃないさ』というような感じに〔アルバムを〕発売した」と回想している。\n結局、モトラの粘り強さと、アファナシェフが言うキャリーの「リスク取り」(英:\"risk-taker\")なイニシアチブが勝って、この曲と収録アルバムの『メリー・クリスマス』は1994年半ばに完成した。\nアルバム用の録音は6月に始まったが、キャリーとアファナシェフがこの曲を書き上げて録音したのは8月遅くのことだった。\n2人はコードや曲構成、メロディをわずか15分で書き上げたと言われており、アファナシェフも大枠をすらすらと書き上げたことを認めている。\nアファナシェフは更に、「あれは確かに白鳥の湖じゃない。でも、とても単純で楽しいからこそ、あれだけ人気なんだ」(英:\"It'sdefinitelynot'SwanLake,'Butthat'swhyit'ssopopular―becauseit'ssosimpleandpalatable!\")と述べている。\n自身を陽気な人物と評し、日頃からクリスマス関連のものが大好きだと明らかにしていたキャリーは、レコーディングに合わせて、モトラとニューヨーク北部でシェアしていた家(個人の録音スタジオもあった)を、クリスマスの飾りや、ホリデー風の装身具で飾り付け始めた。", "qas": [ { "question": "『恋人たちのクリスマス』を録音したのは何月だったの?", "id": "tr-435-04-000", "answers": [ { "text": "8月", "answer_start": 360, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『メリー・クリスマス』が完成した時期はいつですか?", "id": "tr-435-04-001", "answers": [ { "text": "1994年半ば", "answer_start": 300, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この曲はアップテンポで、ポップス、ソウル、コンテンポラリー・R&B、ゴスペル、ダンス・ポップ、リズミック・アダルト・コンテンポラリーの影響を受けた構成になっている。\n8月初めまでにキャリーとアファナシェフは、「悲しくバラード風の」(英:\"sadandballd-y\")『ミス・ユー・モスト(アット・クリスマス・タイム)』\"MissYouMost(AtChristmasTime)\"と、「ゴスペル調で宗教的な」(英:\"Gospel-tingedandreligious\")『ジーザス・ボーン・オン・ディス・デイ』\"JesusBornonThisDay\"の2曲を既に書き上げていた。\nアルバムに収録される3曲目のオリジナル曲について、ふたりはこれをアルバムの中心に据えることと、「フィル・スペクター、古いロックンロール、60年代風のクリスマス・ソング」の雰囲気が感じられるようにすることを決めた。", "qas": [ { "question": "アルバムに収録された「ゴスペル調で宗教的な」曲タイトルは何ですか?", "id": "tr-435-05-000", "answers": [ { "text": "『ジーザス・ボーン・オン・ディス・デイ』", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "曲は、「アンティークのオルゴールや風変わりなスノーグローブに似た」(\"thatresemblesanantiquemusicboxorawhimsicalsnowglobe\")、「きらめくような」(\"sparking\")打楽器から始まり、キャリーのアカペラ歌唱が入った後、お祝いの教会のようなベルや、快活なスレイベルの音、また「馬かトナカイをゆったりと走らせるリズムのような、後ろに聞こえるリズミックなビート」など、この季節を表すパーカッションの音が聞こえる。\nこれらの音作りに対しては、「この音は、どちらの方向に明らかに舵を切りすぎてしまうことなく、宗教的にも非宗教的にも響き、〔この音のおかげで〕曲はアップビートの楽しい雰囲気になる」と評されている。", "qas": [ { "question": "曲の始めにキャリーはどのような歌唱をしていますか?", "id": "tr-435-06-000", "answers": [ { "text": "アカペラ", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "曲の始まりに使用されている楽器の種類は何ですか?", "id": "tr-435-06-001", "answers": [ { "text": "打楽器", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1994年のインタビューで、キャリーはこの曲を「楽しく」(\"fun\")、「とても伝統的で、古風なクリスマスだ。とてもレトロで、60年代風」(英:\"It'sverytraditional,old-fashionedChristmas.It'sveryretro,kindof'60s.\")だと述べている。\nアファナシェフは曲の音楽要素について分析し、「キーボードによる豪勢な土台は、小規模なウォール・オブ・サウンドを思い出させ、この曲の陽気なリズムの上に乗る一方で、魂の籠もったボーカル・コーラスは、断固とした驚きと、緊張感を作る対旋律、お祝い気分のハーモニーを曲に加える。それでも最も目立っているのは、陽気なピアノ・コードとメロディで、この曲が愉快に弾んでいることだ」と述べている。", "qas": [ { "question": "キャリーはインタビューで、この曲は何年代風だと述べましたか?", "id": "tr-435-07-000", "answers": [ { "text": "60年代風", "answer_start": 63, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "歌詞では、プレゼントは要らないからクリスマスに最愛の人と共に過ごしたいと切望する気持ちが描かれている。\n曲ではピアノ、ドラムス、ヴァイオリン、オーボエ、フルート、ベルチャイム、バスドラム、カウベルなどの楽器音が使われている。\nまた、ブリッジを含め、全編でバック・ボーカルが重ねられている。\nソニーATVミュージックパブリッシングのMusicnotes.comが出版した楽譜によれば、この曲は4分の4拍子で、キーはト長調(Gメジャー)であり、キャリーの声域はG3からG5までに及ぶ。\nキャリーはこの曲の作詞・作曲を行い、アファナシェフが編曲に加え、シンセサイザーで作ったコンピュータ音源と録音を合わせて曲を完成させた。", "qas": [ { "question": "『恋人たちのクリスマス』の作詞、作曲者は誰ですか?", "id": "tr-435-08-000", "answers": [ { "text": "キャリー", "answer_start": 241, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『恋人たちのクリスマス』のアレンジを担当したのは誰ですか?", "id": "tr-435-08-001", "answers": [ { "text": "アファナシェフ", "answer_start": 259, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "この曲でのキャリーの声域は何か何までに及んでいますか?", "id": "tr-435-08-002", "answers": [ { "text": "G3からG5まで", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この曲でのキャリーの声域はどこまで出ていますか?", "id": "tr-435-08-003", "answers": [ { "text": "G5", "answer_start": 232, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "批評では、この曲は1940年代・50年代・60年代の音楽から影響を受けており、キャリーの歌声やシンプルなメロディと共に成功の理由だったと評されている。\n『スレート』誌のラグシーは、コード進行と曲のスタイルを論じながら、この曲を「20世紀後半に書かれたクリスマス・ソングの中で、唯一グレイト・アメリカン・ソングブックに値する曲」(英:\"theonlyChristmassongwritteninthelasthalf-centuryworthyofinclusionintheGreatAmericanSongbook.\")だと絶賛したほか、『A.V.クラブ』のアニー・ザレスキは、この曲が不朽の人気を誇る理由を、特定の年代に限定されることのない歌詞の曖昧な表現に見出している。\nまた、ジュディ・ガーランドやナット・キング・コールの曲を少し思わせる部分があることも指摘されているほか、「ジャクソン5やスティーヴィー・ワンダーのような、60年代や70年代にモータウンが出した戦前のクリスマス定番曲カバー」(\"'60sand'70sMotowncoversofprewarChristmasclassics,suchasTheJackson5's[and]StevieWonder\".)を思わせるともされている。\n『スレート』誌のラグシーは、この曲が「40年代に書かれてブリル・ビルディングの金庫にしまわれていたような感じ」([\"AllIWantForChristmasIsYou\"]\"soundslikeitcouldhavebeenwritteninthe'40sandlockedinaBrillBuildingsafe.\")だと認めている。\nまた『ヴォーグ』誌には、「フランク・シナトラが歌ったような歌詞だ—フランクじゃないかもしれないが、それなら当時の別の歌手だったのだろう。あの曲は不朽で、最高級のものだ」(\"thoselyricscouldhavebeensungbyFrankSinatra―well,maybenotFrank,butanothersingerbackthen.Ithinkthat'swhatgivesitthattimeless,classicquality.\")との批評が掲載された。", "qas": [ { "question": "この曲の人気の理由に、特定の年代に限定されない歌詞の曖昧な表現によるものだと述べた人は誰ですか?", "id": "tr-435-09-000", "answers": [ { "text": "アニー・ザレスキ", "answer_start": 280, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「20世紀後半に書かれたクリスマス・ソングの中で、唯一グレイト・アメリカン・ソングブックに値する曲」だと絶賛コメントが掲載された雑誌は何ですか?", "id": "tr-435-09-001", "answers": [ { "text": "『スレート』", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『恋人たちのクリスマス』には3本のミュージック・ビデオが作られた。\n最初の1本は、スーパー8mmフィルムを用いたホーム・ムービー風で撮影され、1993年のクリスマスシーズンに、キャリー自身の監督・撮影で制作された。\nこのビデオは、キャリーがクリスマスツリーの飾り付けをしているシーンから始まり、雪の山辺ではしゃいでいるシーンに繋がる。\n外のシーンはニュージャージー州のフェアリー・テイル・フォレスト(英:theFairyTaleForest)で撮影され、キャリーが当時結婚していたトミー・モトラがサンタクロース役でカメオ出演している。\nその後、キャリーが自身のアルバムのカバー写真を撮ろうとしているシーン、また飼い犬のジャックと共に過ごすシーンに移る。\n最後にはサンタクロースがキャリーと共に、プレゼントの入った袋を持って、手を振るシーンになる。\nこのミュージック・ビデオは2009年にYouTubeのアカウントで公開されたが、2017年12月段階で、再生回数は3億回を突破している。\nもう1本のミュージック・ビデオはザ・ロネッツに影響を受けたもので、キャリーは1960年代風のスタジオで、ゴーゴーダンサーに囲まれて歌う。\n1960年代風の設定に合わせ、映像は白黒で、キャリーは白いブーツに長く梳いた髪である。\nこの映像もキャリーが監督したもので、2つの編集版がある。", "qas": [ { "question": "『恋人たちのクリスマス』の最初のミュージック・ビデオに登場する飼い犬の名前は何ですか?", "id": "tr-435-10-000", "answers": [ { "text": "ジャック", "answer_start": 309, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1本目のミュージック・ビデオは、2017年12月の時点でYouTubeの再生回数が何回になりましたか?", "id": "tr-435-10-001", "answers": [ { "text": "3億回", "answer_start": 431, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1本目のミュージック・ビデオの監督は誰ですか?", "id": "tr-435-10-002", "answers": [ { "text": "キャリー", "answer_start": 115, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "もう1本のミュージック・ビデオは、何から影響を受けて制作されましたか?", "id": "tr-435-10-003", "answers": [ { "text": "ザ・ロネッツ", "answer_start": 459, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "「ソー・ソー・デフ・リミックス」用にもミュージック・ビデオが作られたが、これにはキャリーやこの曲を演奏するヒップホップミュージシャンは実写で登場しない。\n代わりにアニメを用い、キャリーが1999年に発表した『ハートブレイカー』のビデオから1シーンが使われている。\nまた、キャリーやジャーメイン・デュプリ、バウ・ワウ、ルイス・ミゲル(キャリーの当時の恋人)、キャリーの飼い犬のジャック、サンタクロースがアニメになって登場している。\nこの映像の監督には、サンタクロースを意味する「クリス・クリングル」(英:KrisKringle)の名前がクレジットされている。\n2009年からは、ESPN(『NBAonESPN』)と姉妹局のABC(『NBAonABC』)でクリスマスに放送されるNBAクリスマス・ゲームズ用のミュージック・ビデオも作られている。\nジャスティン・ビーバーとのデュエット版では、ニューヨークの百貨店・メイシーズでミュージック・ビデオを撮影し、ビーバーが友人たちと買い物をする一方で、キャリーがサンタクロースの格好をして歌う姿が収録されている。\nこのミュージックビデオは1億4000万回以上再生されている。", "qas": [ { "question": "1億4000万回以上再生されたミュージックビデオで、キャリーとデュエットした歌手は誰?", "id": "tr-435-11-000", "answers": [ { "text": "ジャスティン・ビーバー", "answer_start": 371, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1999年当時のキャリーの恋人は誰だったの?", "id": "tr-435-11-001", "answers": [ { "text": "ルイス・ミゲル", "answer_start": 158, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "NBAクリスマス・ゲームズ用のミュージック・ビデオが制作された年は?", "id": "tr-435-11-002", "answers": [ { "text": "2009年", "answer_start": 279, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "キャリーはこの曲を、自身のコンサートだけでなくテレビ生放送でも何度となく歌っている。\n1996年のデイドリーム・ワールド・ツアー日本公演、1998年のバタフライ・ワールド・ツアー、2002年から2003年のチャームブレスレット・ワールド・ツアー、2006年のアドヴェンチャーズ・オブ・ミミで、この曲がセットリストに加えられた。\n以来キャリーは、ツアーの日本公演ではクリスマスの時期でなくとも、アンコールでは必ずこの曲を歌うほどである。\nこれに加え、キャリーは2004年のウォルト・ディズニー・ワールド・クリスマス・デイ・パレードで歌い、この様子はABCで放送された。", "qas": [ { "question": "バタフライ・ワールド・ツアー、アドヴェンチャーズ・オブ・ミミ、デイドリーム・ワールド・ツアー日本公演の中で、2番目に行われたツアーは何ですか?", "id": "tr-435-12-000", "answers": [ { "text": "バタフライ・ワールド・ツアー", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "キャリーが『恋人たちのクリスマス』をディズニーランドのクリスマスパレードで歌唱したのはいつですか?", "id": "tr-435-12-001", "answers": [ { "text": "2004年", "answer_start": 229, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "彼女は「ソー・ソー・デフ・リミックス」を、2009年の大晦日に行われたエンジェルス・アドヴォケート・ツアーの初日公演で歌った。\n2010年11月9日には、この曲をクリスマス・スペシャル・ライブで録音し、2010年12月13日にこの時の映像がABCで放送された。\nまたキャリーは、2010年のクリスマスに合わせて『オー・サンタ!』とこの曲を歌い、クリスマスの昼にかけてESPNとABCで放送された。\n同年12月3日には、この2曲をウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートのマジック・キングダムで歌い、録画された映像は『ウォルト・ディズニー・ワールド・クリスマス・デイ・パレード・オン・ABC』(\"WaltDisneyWorldChristmasDayParadeonABC\")の中で放送された。\nまた、キャリーはこの2曲を、この日両曲で放送されるNBAの試合のプロモーションとしてミュージック・ビデオにして歌った。", "qas": [ { "question": "キャリーは「ソー・ソー・デフ・リミックス」を何年の大晦日に歌いましたか?", "id": "tr-435-13-000", "answers": [ { "text": "2009年", "answer_start": 21, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "キャリーは、ニューヨークのビーコン・シアターで行った初の年次クリスマス・コンサートでアンコール曲にこれを選んだが、\"AllIWantforChristmasIsYou,aNightofJoyandFestivity\"(en)と銘打たれたこの公演はチケット完売を記録した。\nキャリーは2016年12月15日に放送されたジェイムズ・コーデンの『レイト×2ショーwithジェームズ・コーデン』に出演し、番組の人気企画『カープール・カラオケ』でこの曲を披露した。\nこの回ではアデル、レディー・ガガ、デミ・ロヴァート、ニック・ジョナス、エルトン・ジョン、セレーナ・ゴメス、グウェン・ステファニー、クリス・マーティン、レッド・ホット・チリ・ペッパーズなどが出演した。\nこの映像はすぐにネット配信され、24時間以内に200万回以上、また3週間以内に2,500万回以上再生された。", "qas": [ { "question": "キャリーが『レイト×2ショーwithジェームズ・コーデン』に出演したのはいつですか?", "id": "tr-435-14-000", "answers": [ { "text": "2016年12月15日", "answer_start": 141, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『恋人たちのクリスマス』は音楽批評家に絶賛された。\n『オールミュージック』のロッシュ・パリジーンは楽器用法とメロディを褒め称え、「数年続く炸裂」(\"ayear-longbanger\")と評した。\nまた『ボストン・グローブ』紙の編集者であるスティーヴ・モースは、キャリーの歌声には魂が強く感じられると書いた。\n『スタイラス・マガジン』のバリー・シュワルツは、「この曲を今の名曲と言うなんて、この曲の凄さを捉え切れていない。これは現代の定番曲で、楽しく、うきうきさせ、声高で、願い事を仄めかしすらする」と述べ、歌詞については「美しいフレーズだ」(\"beautifullyphrased\")としたほか、キャリーの声は「ゴージャス」(\"gorgeous\")で「誠実」(\"sincere.\")だと絶賛した。", "qas": [ { "question": "『恋人たちのクリスマス』を絶賛した『ボストン・グローブ』紙の編集者は誰ですか?", "id": "tr-435-15-000", "answers": [ { "text": "スティーヴ・モース", "answer_start": 119, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『恋人たちのクリスマス』の楽器用法とメロディを褒め称えた人は誰ですか?", "id": "tr-435-15-001", "answers": [ { "text": "ロッシュ・パリジーン", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "キャリーの声は「ゴージャス」で「誠実」だと絶賛したのは誰ですか?", "id": "tr-435-15-002", "answers": [ { "text": "バリー・シュワルツ", "answer_start": 167, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "MTVのカイル・アンダーソンは、この曲が「チャイム、スレイベル、ドゥーワップの装飾楽句、決定的な弦楽器、またキャリーのキャリア史上最もダイナミックで澄んだ歌声で溢れる、壮麗な聖歌」だと述べた。\n2009年のリミックス版を批評して、『アイドレーター』のベッキー・ベインは、曲を「不朽の名曲」(\"timelessclassic\")と評し、「クリスマス・ツリーを飾り、メノーラーに火を灯しながら、私たちはこの曲を愛している」と述べた。", "qas": [ { "question": "2009年のリミックス版を批評した人は誰ですか?", "id": "tr-435-16-000", "answers": [ { "text": "ベッキー・ベイン", "answer_start": 125, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "スコットランドの『ヘラルド』紙では、ショーナ・クレイヴンが、「楽天主義と楽しさの曲で、多分、飽くまで多分、クリスマスの本当の意味を仄めかしているのかもしれない」と述べた。\n彼女はまた、この曲が大成功を収めた主因について、歌詞中に登場する「あなた」の存在だとし、「もしかしたらこの曲が大ヒットを飛ばしたのは、全ての人に向けた歌だという事実が原因かもしれない」(英:\"Perhapswhatmakesthesongsuchahugehitisthefactthatit'sforabsolutelyeveryone.\")と述べた。\nまたクレイヴンは、「ビング・クロスビーが墓に入っているのは当然だが、1980年代の子どもたちは、マライア・キャリーの素晴らしい曲『恋人たちのクリスマス』が、この国いちの祝歌になってチャートを躍り上がるところを見ても全く驚かないだろう」(英:\"BingCrosbymaywellbeturninginhisgrave,butnochildofthe1980swillbesurprisedtoseeMariahCarey'ssublimeAllIWantForChristmasIsYouboundingupthechartsafterbeingnamedthenation'stopfestivesong.\")とまで述べている。", "qas": [ { "question": "ショーナ・クレイヴンは、この曲の成功主因は何の存在だと述べましたか?", "id": "tr-435-17-000", "answers": [ { "text": "「あなた」の存在", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スコットランドの『ヘラルド』紙でこの曲を絶賛した女性は誰ですか?", "id": "tr-435-17-001", "answers": [ { "text": "ショーナ・クレイヴン", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1994年にシングルとして発売された時、作られたリミックスはインストゥルメンタル版だけだったが、これもシングルには収録されなかった。\nキャリーは2000年に日本でこの曲を再発売し、「ソー・ソー・デフ・リミックス」(英:theSoSoDefremix)と銘打った新リミックス版を収録した。\nリミックス版ではボーカルが新収録されたほか、アフリカ・バンバータ&ソウルソニック・フォースの『プラネット・ロック』のサンプルを含む、より激しくアーバンなビートに編曲され、ゲスト・ボーカルとしてジャーメイン・デュプリとバウ・ワウが参加した。\nこのリミックスは、2001年のコンピレーション・アルバム『グレイテスト・ヒッツ』に特典トラックとして収録された。", "qas": [ { "question": "キャリーが日本でこの曲を再発売した年はいつ?", "id": "tr-435-18-000", "answers": [ { "text": "2000年", "answer_start": 72, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ソー・ソー・デフ・リミックス」でゲスト・ボーカルとして参加したのはジャーメイン・デュプリと誰?", "id": "tr-435-18-001", "answers": [ { "text": "バウ・ワウ", "answer_start": 252, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "アーサー・バルフォア", "paragraphs": [ { "context": "初代バルフォア伯爵アーサー・ジェイムズ・バルフォア(英:ArthurJamesBalfour,1stEarlofBalfour,KG,OM,PC,DL、1848年7月25日-1930年3月19日)は、イギリスの政治家、哲学者、貴族である。", "qas": [ { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、どの国の者なの?", "id": "tr-436-00-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 100, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアの職業としては、政治家と何が挙げられますか?", "id": "tr-436-00-001", "answers": [ { "text": "哲学者", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、どの身分の者か?", "id": "tr-436-00-002", "answers": [ { "text": "貴族", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "初めてバルフォア伯爵の位についたのは、誰か?", "id": "tr-436-00-003", "answers": [ { "text": "アーサー・ジェイムズ・バルフォア", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、ソールズベリー侯爵引退後の保守党を指導し、1902年から1905年まで首相を務めた。政権交代後も自由党の長期政権下で6年ほど野党保守党の党首を務めたが、1911年には党首の座をアンドルー・ボナー・ローに譲る。", "qas": [ { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、保守党の指導者として活動する前にどの官職についていたの?", "id": "tr-436-01-000", "answers": [ { "text": "ソールズベリー侯爵", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、どの党の指導者として活動しましたか?", "id": "tr-436-01-001", "answers": [ { "text": "保守党", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアがイギリス首相を務めたのは、何年から何年までのことか?", "id": "tr-436-01-002", "answers": [ { "text": "1902年から1905年", "answer_start": 39, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアのあとをつぎ、保守党の党首になったのは、誰か?", "id": "tr-436-01-003", "answers": [ { "text": "アンドルー・ボナー・ロー", "answer_start": 106, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、1848年に大富豪・大地主の息子としてスコットランド・ホィッティンガムに生まれる。ケンブリッジ大学で哲学を学んだ後、1874年に保守党の庶民院議員に初当選した。1878年、叔父である外務大臣第3代ソールズベリー侯爵の議会担当秘書官を務めた。", "qas": [ { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、何年生まれなの?", "id": "tr-436-02-000", "answers": [ { "text": "1848年", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、スコットランドのどこで生まれたか?", "id": "tr-436-02-001", "answers": [ { "text": "ホィッティンガム", "answer_start": 45, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアが政界進出を果たしたのは、何年のことか?", "id": "tr-436-02-002", "answers": [ { "text": "1874年", "answer_start": 76, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアの父親は、叔父は第何代ソールズベリー侯爵だったか?", "id": "tr-436-02-003", "answers": [ { "text": "第3代", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、1848年7月25日、スコットランドのイースト・ロージアン州ホィッティンガムに生まれた。", "qas": [ { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、いつ生まれたの?", "id": "tr-436-03-000", "answers": [ { "text": "1848年7月25日", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、スコットランドのどの州で生まれましたか?", "id": "tr-436-03-001", "answers": [ { "text": "イースト・ロージアン州", "answer_start": 37, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアの父ジェイムズ・メイトランド・バルフォアは大富豪・大地主であり、また庶民院議員も務めた人物だった。バルフォア家はスコットランドの旧家であり、18世紀末に祖父ジェイムズがイギリス東インド会社の貿易で莫大な富を築いた。スコットランドに広大な土地を購入し、ホィッティンガムをその本拠とするようになった家柄である", "qas": [ { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアの父親は、誰か?", "id": "tr-436-04-000", "answers": [ { "text": "ジェイムズ・メイトランド・バルフォア", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアの祖父は、誰か?", "id": "tr-436-04-001", "answers": [ { "text": "ジェイムズ", "answer_start": 94, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、どの家のものか?", "id": "tr-436-04-002", "answers": [ { "text": "バルフォア家", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バルフォア家が大富豪・大地主と呼ばれたのは、誰が莫大な富を蓄積したからか?", "id": "tr-436-04-003", "answers": [ { "text": "ジェイムズ", "answer_start": 94, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアの母ブランチェ・メアリー・ハリエット嬢(LadyBlancheMaryHarriet)は第2代ソールズベリー侯爵ジェイムズ・ガスコイン=セシルの娘だった。ソールズベリー侯爵家は代々ハットフィールドを領してきた名門貴族である。", "qas": [ { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアの母方の祖父は、誰だったの?", "id": "tr-436-05-000", "answers": [ { "text": "ジェイムズ・ガスコイン=セシル", "answer_start": 72, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアの母親は、誰でしたか?", "id": "tr-436-05-001", "answers": [ { "text": "ブランチェ・メアリー・ハリエット嬢", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアの母方の祖父は、どの官職についていたものか?", "id": "tr-436-05-002", "answers": [ { "text": "ソールズベリー侯爵", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアの母と父のうち、どちらが名門貴族家に当たるものだったか?", "id": "tr-436-05-003", "answers": [ { "text": "母", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、1874年1月の総選挙でハートフォード選挙区から保守党候補として出馬して当選した。", "qas": [ { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアが政界進出を成し遂げたのは、何年の総選挙でなの?", "id": "tr-436-06-000", "answers": [ { "text": "1874年", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、どの選挙区において政界進出を成し遂げましたか?", "id": "tr-436-06-001", "answers": [ { "text": "ハートフォード選挙区", "answer_start": 30, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1874年1月の総選挙でアーサー・ジェイムズ・バルフォアは、どの選挙区の候補として出馬したか?", "id": "tr-436-06-002", "answers": [ { "text": "ハートフォード選挙区", "answer_start": 30, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アーサー・ジェイムズ・バルフォアは、どの党に属するものだったか?", "id": "tr-436-06-003", "answers": [ { "text": "保守党", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1885年7月にグラッドストン自由党政権が議会で敗北したことにより、第一次ソールズベリー侯爵内閣が成立した。バルフォアは自治大臣として入閣した。", "qas": [ { "question": "第一次ソールズベリー侯爵内閣が成立したのは、何年のことなの?", "id": "tr-436-07-000", "answers": [ { "text": "1885年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第一次ソールズベリー侯爵内閣でバルフォアは、どの官職につきましたか?", "id": "tr-436-07-001", "answers": [ { "text": "自治大臣", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第一次ソールズベリー侯爵内閣が成立するきっかけとなったのは、いつの出来事か?", "id": "tr-436-07-002", "answers": [ { "text": "1885年7月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第一次ソールズベリー侯爵内閣において自治大臣には、誰が任命されたか?", "id": "tr-436-07-003", "answers": [ { "text": "バルフォア", "answer_start": 54, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1886年7月に第二次ソールズベリー侯爵内閣が成立すると、叔父の引き立てで初めスコットランド担当大臣として入閣したが、1887年3月にヒックス・ビーチがアイルランド担当大臣を辞職したため、バルフォアがその後任となった。", "qas": [ { "question": "第二次ソールズベリー侯爵内閣が成立したのは、いつのことなの?", "id": "tr-436-08-000", "answers": [ { "text": "1886年7月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バルフォアがスコットランド担当大臣となったのは、いつ成立した内閣でか?", "id": "tr-436-08-001", "answers": [ { "text": "1886年7月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "いつ元アイルランド担当大臣が辞職し、その後任としてバルフォアが選ばれましたか?", "id": "tr-436-08-002", "answers": [ { "text": "1887年3月", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第二次ソールズベリー侯爵内閣が成立したばかりのころ、アイルランド担当大臣には誰がついていたか?", "id": "tr-436-08-003", "answers": [ { "text": "ヒックス・ビーチ", "answer_start": 67, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "バルフォアがアイルランド担当相に就任した時、アイルランド問題は深刻化していた。1886年9月にアイルランド国民党党首チャールズ・スチュワート・パーネルが議会に提出したアイルランドの地代を半減させる法案が否決されて以降、アイルランドでは小作人同士が協定を結んで勝手に地代を減額し、地主がそれを承諾して受け取ればよし、受け取らねば、その地主が小作人を強制立ち退きさせた時の抵抗運動に備えて供託するという闘争が行われていたのである。これにより強制立ち退きと暴動の危険が高まっていた。", "qas": [ { "question": "1886年の時点で国民党党首には、誰がついていたの?", "id": "tr-436-09-000", "answers": [ { "text": "チャールズ・スチュワート・パーネル", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1886年の時点でアイルランドでは、何の減額を巡った問題が生じていましたか?", "id": "tr-436-09-001", "answers": [ { "text": "アイルランドの地代", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "いつ提出された法案が不定されたことにより、アイランドでは政府と小作人の間での対立が深刻化したか?", "id": "tr-436-09-002", "answers": [ { "text": "1886年9月", "answer_start": 39, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "誰が提出された法案が不定されたことにより、アイランドでは政府と小作人の間での対立が深刻化したか?", "id": "tr-436-09-003", "answers": [ { "text": "チャールズ・スチュワート・パーネル", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1887年9月9日、アイルランド・コーク県ミッチェルスタウンで警官と農民が衝突し、農民3人が警察官に銃殺される事件が発生した。", "qas": [ { "question": "1887年9月9日にどの町で警官と農民が衝突し、農民3人が警察官に銃殺される事件が発生したの?", "id": "tr-436-10-000", "answers": [ { "text": "ミッチェルスタウン", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミッチェルスタウンで警官と農民の衝突の結果、農民3人が殺される事件は、いつ発生しましたか?", "id": "tr-436-10-001", "answers": [ { "text": "1887年9月9日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1891年、死去したウィリアム・ヘンリー・スミスの後任として第一大蔵卿および庶民院院内総務に抜擢された(これは第一大蔵卿が首相と異なる最後の例であった)。バルフォアはアイルランド民族運動を激しく弾圧したことで保守党庶民院議員たちから人気を集めており、その声にソールズベリー侯爵が応えた人事だった。", "qas": [ { "question": "バルフォアが第一大蔵卿および庶民院院内総務に抜擢されたのは、何年のことか?", "id": "tr-436-11-000", "answers": [ { "text": "1891年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1891年にバルフォアが選ばれた職務の前任は誰だったか?", "id": "tr-436-11-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ヘンリー・スミス", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1891年に第一大蔵卿および庶民院院内総務に抜擢されたのは、誰か?", "id": "tr-436-11-002", "answers": [ { "text": "バルフォア", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "保守党内でバルフォアを支持する声が高まったのは、何の弾圧をバルフォアが積極的に行ったからか?", "id": "tr-436-11-003", "answers": [ { "text": "アイルランド民族運動", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "翌1892年に保守党が下野したが、この後の3年間の野党時代にもバルフォアは保守党庶民院院内総務に在職し続けた。1895年に保守党が自由統一党と連立して政権を奪回し、第三次ソールズベリー侯爵内閣を発足させると再び第一大蔵卿・庶民院院内総務に就任した。首相ソールズベリー侯は自邸暮らしをするようになり、ダウニング街10番地にはバルフォアが入った。", "qas": [ { "question": "1892年に下野した保守党は、政権を取り戻すのに何年もかかったの?", "id": "tr-436-12-000", "answers": [ { "text": "3年", "answer_start": 21, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1892年に下野した保守党が政権を取り戻すのには、どの党との連立の影響が大きかったか?", "id": "tr-436-12-001", "answers": [ { "text": "自由統一党", "answer_start": 65, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第三次ソールズベリー侯爵内閣が成立したのは、何年のことか?", "id": "tr-436-12-002", "answers": [ { "text": "1895年", "answer_start": 55, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第三次ソールズベリー侯爵内閣が成立すると、バルフォアはどの官職に任命されましたか?", "id": "tr-436-12-003", "answers": [ { "text": "第一大蔵卿・庶民院院内総務", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "さらに1898年にソールズベリー侯が病となると、甥であるバルフォアがその代理を務めることが増えていった。", "qas": [ { "question": "バルフォアがソールズベリー侯の代理として活動し始めたのは、何年のことなの?", "id": "tr-436-13-000", "answers": [ { "text": "1898年", "answer_start": 3, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1898年から実質的に権力を握ったのは、誰だと言えますか?", "id": "tr-436-13-001", "answers": [ { "text": "バルフォア", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "ナカプリバイン", "paragraphs": [ { "context": "ナカプリバインとは、東京都北区にある有限会社中村印刷所が製作したノートの商品名である。\n開いたときに中央部分が水平になることから水平開きノートと名付けられている。\n2016年、「おじいちゃんのノート」として話題になった。", "qas": [ { "question": "ナカプリバインが「おじいちゃんのノート」として注目を集めた年はいつですか?", "id": "tr-437-00-000", "answers": [ { "text": "2016年", "answer_start": 82, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ナカプリバインの製作会社は?", "id": "tr-437-00-001", "answers": [ { "text": "有限会社中村印刷所", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "水平開きノートの正式な商品名は何?", "id": "tr-437-00-002", "answers": [ { "text": "ナカプリバイン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "水平開きノートが話題になった時の呼称は何だった?", "id": "tr-437-00-003", "answers": [ { "text": "「おじいちゃんのノート」", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "中村印刷所が2014年10月に販売を開始した。\n通常のノートは開いたときに中央部分がふくらんでしまうが、本ノートでは180度水平に開く。\nそのため、見開き2ページを1枚のノートとして使用することができる。\nまた、コピーを取るときに中央部分に影が映ることもない。\nこの利点は、ノート本紙と表紙とをつなぐ接着剤を工夫したことによって生み出されている。\n本ノートでは、粘度の異なる2種類の接着剤を使用し、最初に粘度の低い接着剤を塗っている。\nこうすることで、接着剤層の弾性・柔軟性が向上し、それにともなって各ページの自由度が増して水平に開けるようになったと考えられている。", "qas": [ { "question": "ナカプリバインを見開いた時の角度は?", "id": "tr-437-01-000", "answers": [ { "text": "180度", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ナカプリバインの販売開始はいつ?", "id": "tr-437-01-001", "answers": [ { "text": "2014年10月", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "一般のノートだと、コピーの際にどの部分に影が出来るの?", "id": "tr-437-01-002", "answers": [ { "text": "中央部分", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナカプリバインの利点が生じたのは何を工夫したことによりますか?", "id": "tr-437-01-003", "answers": [ { "text": "接着剤", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "本ノートの製造方法は中村印刷所が出願人となり2014年11月27日に特許出願がなされ、2015年5月15日に特許5743362号として登録されている。\n特許の【請求項1】を参考に、製造方法の一例を概略として示す。\n最初に、表紙材に2本のスジまたは折り目を入れる。\n次に、表紙材を2本のスジまたは折り目のうちの1本の部分で折り曲げて2つに折り、折り目を本文用紙の側面にそろえて重ねる。\n次に、表紙材の折り目と本文側面に第1の接着剤を塗る。\n次に、第1の接着剤が乾いたら、その上から、より粘度の高い第2の接着剤を塗る。\n次に、表紙材で本文をくるんでノートの形としてから、背面を押し当てた状態で乾燥させる。\n最後に、重ね合わせ、接着の工程は中村印刷所の社員による手作業である。\n1日当たり300冊を生産していたが、2016年に注目を集めるようになってからは1000冊に増やした。\nその後、契約先の製本会社でも製作するようになった。\n紙を正確にそろえて重ねるには修行が必要で、これまで4-5人の職人が挫折してきたという。", "qas": [ { "question": "本ノートの特許登録番号は?", "id": "tr-437-02-000", "answers": [ { "text": "特許5743362号", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本ノートは2016年を境に1日の生産量が何冊に増加されたの?", "id": "tr-437-02-001", "answers": [ { "text": "1000冊", "answer_start": 375, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本ノートの製作にあたって、何人の職人が挫折したの?", "id": "tr-437-02-002", "answers": [ { "text": "4-5人", "answer_start": 438, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "話題になる前の本ノートの生産量は1日何冊でしたか?", "id": "tr-437-02-003", "answers": [ { "text": "300冊", "answer_start": 341, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "中村印刷所は1938年に創業した印刷会社であったが、印刷業界の斜陽化にともない、2010年から2011年ごろにかけて経営状態が悪化していった。\nそこで社長の中村輝雄は再起をかけて、付加価値のあるオリジナル商品の販売に取り組むことを決めた。\nそしてその頃、会社をたたむことにしていた製本会社の経営者を社員として呼び寄せ、2人でオリジナルノートの開発を始めた。\n2013年、中村印刷所は東京都北区の産業展に出展し、「旅行の想い出帖」「都電ノート」といったオリジナルノートを展示した。\nこれらのノート自体は会場であまり話題を呼ばなかったが、その中でノートを手に取った来客の1人が、ノートは真ん中が膨らむから書きにくい、と話して立ち去って行った。\nそれを聞いた社長の中村は、ノートとはそういうものだと思ったが、元製本会社の社員は、手作業で手間はかかるが真ん中が膨らまないノートは作れると言った。\nこの言葉に興味を持った社長の中村は、よそが真似できない、うちだけのノートを作ろうと決意し、2人で「水平開きノート」の開発に取り組むことにした。", "qas": [ { "question": "「水平開きノート」の開発に取り組んだのは何人だったの?", "id": "tr-437-03-000", "answers": [ { "text": "2人", "answer_start": 439, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中村印刷所の社長のフルネームは何?", "id": "tr-437-03-001", "answers": [ { "text": "中村輝雄", "answer_start": 78, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中村印刷所の経営状態が特に悪かったのは何年から何年のこと?", "id": "tr-437-03-002", "answers": [ { "text": "2010年から2011年ごろ", "answer_start": 40, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中村印刷所が「都電ノート」を出展した展示会はどこで開催されていたの?", "id": "tr-437-03-003", "answers": [ { "text": "東京都北区", "answer_start": 191, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "開発にあたっては、最適な接着剤を見つけ出すのが最大の課題で、ホームセンターなどで数十種類の接着剤を入手して、それらを組み合わせて試験を繰り返した。\nそして2年にわたる開発期間の末、水平に開き、強度にも優れたノートを作り出すことに成功した。\n2014年11月には特許も出願し、早期審査請求制度を利用して、2015年5月に登録となった。\n2015年8月には東京都の「トライアル発注認定制度」にも選ばれた。\n販売は2014年10月から始め、2015年にこのノートはナカムラ・プリンティング・バインダーの略称で「ナカプリバイン」と名付けられた。\n自らのつてや中小企業振興公社からの紹介を頼りに、50-60社を回ったが、取扱先は思うように増えなかった。\n展示会にも出品し、そこで商品の良さが理解され購入されることもあった。\nしかしそこから販路が拡大することはなかった。\n大量の発注依頼もあったが、その後に大幅な商品価格の値下げを要求されたこともあって契約には至らず、結局2015年の年末には8,000冊の在庫が積みあがった。\n社長の中村は土地を売って田舎に引っ越すことも考えていた。", "qas": [ { "question": "「ナカプリバイン」の略す前の名称とは何?", "id": "tr-437-04-000", "answers": [ { "text": "ナカムラ・プリンティング・バインダー", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2015年の年末に残っていたナカプリバインの在庫冊数はいくつ?", "id": "tr-437-04-001", "answers": [ { "text": "8,000冊", "answer_start": 440, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ナカプリバインの特許出願をしたのはいつ?", "id": "tr-437-04-002", "answers": [ { "text": "2014年11月", "answer_start": 120, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ナカプリバインが2015年8月に選出されたものとは?", "id": "tr-437-04-003", "answers": [ { "text": "「トライアル発注認定制度」", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2016年1月1日、元製本会社の社員は、なかなか販売数の伸びないノートに対し、「使ってもらえば、良さがわかってもらえる」と思い、新年のあいさつに来ていた専門学校生の孫に、友達にあげてくれと、ノートを手渡した。\n孫は、周りには使う人がいないだろうがTwitter上での知り合いの絵描きには需要があるかもしれないと思い、その場でノートの写真を撮り、Twitterで「うちのおじいちゃんノートの特許とってた...」「宣伝費用がないから宣伝できないみたい。Twitterの力を借りる!」などとツイートし、ノートを紹介した。\nこのツイートは大きな反響を呼び、リツイート数は3万を超え、購入を希望する声が多数寄せられた。\n商品を販売していた通販サイトではすぐに在庫切れとなった。\nまた、中村印刷所の公式サイトへのアクセス数は、それまで4千数百だったのが、その日のうちに十万を超えた。", "qas": [ { "question": "孫がノートの宣伝に利用したSNSの種類は何?", "id": "tr-437-05-000", "answers": [ { "text": "Twitter", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "孫のツイートによって中村印刷所の公式サイトへのアクセス数はいくつまで増えましたか?", "id": "tr-437-05-001", "answers": [ { "text": "十万", "answer_start": 378, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "元製本会社の社員が自分の孫にノートを渡したのはいつでしたか?", "id": "tr-437-05-002", "answers": [ { "text": "2016年1月1日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ノートの宣伝をした孫のリツイート数はどこまで増えましたか?", "id": "tr-437-05-003", "answers": [ { "text": "3万", "answer_start": 281, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "中村社長はその日初詣に行っており、帰宅後、知り合いの中小企業診断士からかかってきた電話でこの騒動を知った。\nそして1月3日以降になると、注文の電話が会社に殺到し、さらに商品を求めた客が店に次々と押し掛ける事態になった。\nまた、テレビや雑誌の取材依頼もあった。\n突然の変化に、中村は当時の状況を「とにかく怖かった」「喜びよりも怒りの感情の方が強かった」と語っている。\nノートの注文は2-3日で3万部を超え、通販サイトにおいても、アマゾンのノート部門でのランキング1位となり、ヨドバシドットコムの文房具・オフィス用品のランキングでも1位となった。\n積みあがっていた店の在庫は無くなり、しばらくは品切れ状態となった。", "qas": [ { "question": "ノートの注文が殺到した際の中村は、喜びと怒りどちらの方が強かったですか?", "id": "tr-437-06-000", "answers": [ { "text": "怒り", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ノートの注文が会社に殺到したのはいつからですか?", "id": "tr-437-06-001", "answers": [ { "text": "1月3日以降", "answer_start": 57, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ノートの注文は、何日かかって3万部オーバーとなりましたか?", "id": "tr-437-06-002", "answers": [ { "text": "2-3日", "answer_start": 190, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "大量の注文に対応するため、会社は生産部数を増やし、社長と従業員は朝から深夜まで製作に追われるようになった。\nそれでも手が回らなくなったため、2つ折りの用紙を外部発注に切り替えた。\n会社は創業以来最高の売上を達成し、3月、4月の売り上げは前年同月比6倍に達したが、外注先の選定や費用の交渉をする余裕が無かったため、ほとんど利益は出なかったという。\n夏近くになると余裕ができ、利益率も上向くようになった。\n中村印刷所は、技術の継承のため、東京都の多摩地区にある製本会社と契約を結び、2016年に同社の工場でのノート製作を開始した。\n社長の中村は2016年の取材で、本ノートの技術を受け継ぐ会社が現れ、1人でも多くの人にノートが使われることを願っていると語った。\n「ジャポニカ学習帳」で知られるショウワノートの開発担当者はこの記事を読み、中村印刷所との提携を申し入れた。\nそして数度にわたる話し合いの結果、2016年6月30日、中村印刷所とショウワノートは、小学生向けの水平開きノートを製造・販売する契約を結んだ。\nショウワノートでは、同年秋口から実証研究を始め、2017年春の商品化を目指すと発表した。\n開発にあたっては、大量生産するノートの品質を安定させるのに時間を要し、中村印刷所はショウワノートの試作品に対して2回NGを出した。\n2017年に商品が完成し、ショウワノートは同年11月13日に、本ノートを「水平開きノート」の名称で販売すると発表した。\n2019年1月、中村社長がTwitterのアカウントを取得。\n商品紹介だけに留まらず自らの日常なども投稿して人気を集めている。", "qas": [ { "question": "小学生向けの水平開きノートが完成したのはいつ?", "id": "tr-437-07-000", "answers": [ { "text": "2017年", "answer_start": 566, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中村印刷所が技術継承のために、東京のどこの製本会社と契約をしましたか?", "id": "tr-437-07-001", "answers": [ { "text": "多摩地区", "answer_start": 221, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中村印刷所が小学生向けの水平開きノートを開発するために提携した会社はどこ?", "id": "tr-437-07-002", "answers": [ { "text": "ショウワノート", "answer_start": 417, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ショウワノートの代表商品は何?", "id": "tr-437-07-003", "answers": [ { "text": "「ジャポニカ学習帳」", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "狐の嫁入り", "paragraphs": [ { "context": "狐の嫁入り(きつねのよめいり)は、日本の本州・四国・九州に伝わる怪異。\n「狐の嫁入り」といわれるものには、昭和中期頃までの嫁入り行列の提灯の群れを思わせる夜間の無数の怪火、俗にいう天気雨、古典の怪談、随筆、伝説などに見られる異様な嫁入り行列などがある。\nいずれも伝承上で人間を化かすといわれたキツネと密接な関連があり、平成以降の現代においても、それらにちなんだ神事や祭事が日本各地で開催されている。\n本項ではそれぞれについて述べる。\n宝暦時代の越後国(現・新潟県)の地誌『越後名寄』には、怪火としての「狐の嫁入り」の様子が以下のように述べられている。", "qas": [ { "question": "キツネが関係し、日本の多くの地域で伝承されるミステリーとは何?", "id": "tr-438-00-000", "answers": [ { "text": "狐の嫁入り", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『越後名寄』は現在の何県の地誌ですか?", "id": "tr-438-00-001", "answers": [ { "text": "新潟県", "answer_start": 228, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『越後名寄』は何時代の地誌ですか?", "id": "tr-438-00-002", "answers": [ { "text": "宝暦時代", "answer_start": 217, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『越後名寄』に記載されている「狐の嫁入り」の現象は何ですか?", "id": "tr-438-00-003", "answers": [ { "text": "怪火", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ここでは夜間の怪火が4キロメートル近く並んで見えることを「狐の婚」と呼ぶことが述べられており、同様に新潟県中頚城郡や同県魚沼地方、秋田県、茨城県桜川市桜川市、同県西茨城郡七会村(現・城里町)、同県常陸太田市、埼玉県越谷市や同県秩父郡東秩父村、東京都多摩地域、群馬県、栃木県、山梨県北杜市武川村、三重県、奈良県橿原市、鳥取県西伯郡南部町などで、夜間の山野に怪火(狐火)が連なって見えるものを「狐の嫁入り」と呼ぶ。\n地方によっては様々な呼び名があり、同様のものを埼玉県草加市や石川県鳳至郡能都町(現・鳳珠郡能登町)では「狐の嫁取り(きつねのよめとり)」といい、静岡県沼津市などでは「狐の祝言(きつねのしゅうげん)」とも呼ぶ。", "qas": [ { "question": "新潟県で夜間の怪火が4キロメートル近く並んで見えることを何と言いますか?", "id": "tr-438-01-000", "answers": [ { "text": "「狐の婚」", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "日本で結婚式場の普及していなかった昭和中期頃までは、結婚式においては結婚先に嫁いでゆく嫁が夕刻に提灯行列で迎えられるのが普通であり、連なる怪火の様子が松明を連ねた婚礼行列の様子に似ているため、またはキツネが婚礼のために灯す提灯と見なされたためにこう呼ばれたものと考えられている。\n嫁入りする者がキツネと見なされたのは、嫁入りのような様子が見えるにもかかわらず実際にはどこにも嫁入りがないことを、人を化かすといわれるキツネと結び付けて名づけられた、または、遠くから見ると灯りが見えるが、近づくと見えなくなってしまい、あたかもキツネに化かされたようなため、などの説がある。\nかつて江戸の豊島村(現・東京都北区豊島、同区王子)でも、暗闇に怪火が連続してゆらゆらと揺れるものが「狐の嫁入り」と呼ばれており、これは同村に伝わる「豊島七不思議」の一つにも数えられている。", "qas": [ { "question": "結婚先に嫁いでゆく嫁が夕刻に提灯行列で迎えられるという習慣はいつ頃までありましたか?", "id": "tr-438-02-000", "answers": [ { "text": "昭和中期頃まで", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "現在の東京都北区豊島は、かつて何という村でしたか?", "id": "tr-438-02-001", "answers": [ { "text": "豊島村", "answer_start": 291, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "江戸の豊島村では暗闇に連続して見える怪火のことを何と呼んでいましたか?", "id": "tr-438-02-002", "answers": [ { "text": "「狐の嫁入り」", "answer_start": 334, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "新潟県の麒麟山にもキツネが多く住み、夜には提灯を下げた嫁入り行列があったといわれる。\nこの新潟や奈良県磯城郡などでは、狐の嫁入りは農業と結び付けて考えられており、怪火の数が多い年は豊年、少ない年は不作といわれた。\nこれについては、狐火がリンの発光と考えられていたことから、狐火の多い時期には、農作物の生育に必要不可欠なリンが土中に多く生成されていたとも考えられている。\n地域によっては怪火が見えるだけではなく、実際に嫁入りの痕跡が見られるという伝承もある。\n埼玉県行田市では、谷郷の春日神社に狐の嫁入りがよく現れるといい、そのときには実際に道のあちこちにキツネの糞があったという。\n岐阜県武儀郡洞戸村(現・関市)では、怪火が見えるだけではなく、竹が燃えて裂ける音が聞こえるなどが数日続き、確かめてもそんな痕跡はないといわれた。", "qas": [ { "question": "農作物が豊年となるのは怪火の数が少ない年か、それとも多い年か?", "id": "tr-438-03-000", "answers": [ { "text": "多い年", "answer_start": 86, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "狐火の正体は何が発光したものだとされていましたか?", "id": "tr-438-03-001", "answers": [ { "text": "リン", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "谷郷の春日神社はどこにありますか?", "id": "tr-438-03-002", "answers": [ { "text": "埼玉県行田市", "answer_start": 229, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "徳島県では、こうした怪火を嫁入りではなくキツネの葬式とし、死者の出る予兆としている。\nこれらの怪火の正体については、実際の灯を誤って見たか、異常屈折の光を錯覚したものとも考えられている。\nまた戦前の日本では「虫送り」といって、農作物を病害から守るため、田植えの後に松明を灯して田の畦道を歩き回る行事があり、狐の嫁入りが田植えの後の夏に出現する、水田を潰すと見えなくなったという話が多いことから、虫送りの灯を見誤ったとする可能性も示唆されている。", "qas": [ { "question": "怪火をキツネの葬式としている県はどこですか?", "id": "tr-438-04-000", "answers": [ { "text": "徳島県", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「虫送り」が行われていた時期はいつ?", "id": "tr-438-04-001", "answers": [ { "text": "戦前", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「虫送り」には何の灯りが使用されているの?", "id": "tr-438-04-002", "answers": [ { "text": "松明", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "関東地方、中部地方、近畿地方、中国地方、四国、九州など、日本各地で天気雨のことを「狐の嫁入り」と呼ぶ。\n怪火と同様、地方によっては様々な呼び名があり、青森県南部地方では「狐の嫁取り」、神奈川県茅ヶ崎市芹沢や徳島県麻植郡山類では「狐雨(きつねあめ)」、千葉県東夷隅郡では同様に「狐の祝言」という。\n千葉県東葛飾郡でも青森同様に「狐の嫁取り雨(きつねのよめどりあめ)」というが、これは、かつてこの地域の農家では嫁は労働力と見なされ、一家の繁栄のために子孫を生む存在として嫁を「取る」ものと考えられていたことに由来する。", "qas": [ { "question": "青森県南部地方では「狐の嫁入り」ではなく何と呼ばれていますか?", "id": "tr-438-05-000", "answers": [ { "text": "「狐の嫁取り」", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「狐雨」の呼び名で通用しているのは神奈川県茅ヶ崎市芹沢とどこですか?", "id": "tr-438-05-001", "answers": [ { "text": "徳島県麻植郡山類", "answer_start": 103, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "千葉県東夷隅郡では、天気雨のことを何と呼んでいますか?", "id": "tr-438-05-002", "answers": [ { "text": "「狐の祝言」", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "青森と同じく「狐の嫁取り雨」と呼んでいる地域はどこですか?", "id": "tr-438-05-003", "answers": [ { "text": "千葉県東葛飾郡", "answer_start": 148, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "天気雨をこう呼ぶのは、晴れていても雨が降るという嘘のような状態を、何かに化かされているような感覚を感じて呼んだものと考えられており、かつてキツネには妖怪のような不思議な力があるといわれていたことから、キツネの仕業と見なして「狐の嫁入り」と呼んだともいう。\nほかにも、天気雨のときにはキツネの嫁入りが行なわれているとも、山のふもとは晴れていても山の上ばかり雨が降る天気雨が多いことから、山の上を行くキツネの行列を人目につかせないようにするため、キツネが雨を降らせると考えられたとも、めでたい日にもかかわらず涙をこぼす嫁もいたであろうことから、妙な天気である天気雨をこう呼んだとも、日照りに雨がふるという異様さを、前述の怪火の異様さを転用して呼んだともいう。\n狐の嫁入りと天候との関連は地方によって異なることもあり、熊本県では虹が出たとき、愛知県では霰が降ったときに狐の嫁入りがあるという。", "qas": [ { "question": "虹が出たときに狐の嫁入りがあると言われている地域はどこですか?", "id": "tr-438-06-000", "answers": [ { "text": "熊本県", "answer_start": 356, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "霰が降ったときに狐の嫁入りがあると言われている地域はどこ?", "id": "tr-438-06-001", "answers": [ { "text": "愛知県", "answer_start": 368, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "前述までのように嫁入りを思わせる自然現象だけではなく、江戸時代の古書や、地方によっては伝説上にも、実際に嫁入りが見られたという話がある。\n寛永時代の随筆『今昔妖談集』には江戸の本所竹町、文政時代の草紙『江戸塵拾』には同じく江戸の八丁堀、寛政時代の怪談集『怪談老の杖』には上州(現・群馬県)神田村で、それぞれ奇妙な嫁入り行列が目撃され、それが実はキツネだったという話がある。\nこのようにキツネ同士の婚礼をそれとなく人間たちに見せる話は、全国的に分布している。\n一例として民間の伝承においては、埼玉県草加市の伝承で、戦国時代、ある女性が恋人と結婚を約束したにもかかわらず病死してしまい、その無念さがキツネに乗り移り、女性の葬られた場所の付近で狐の嫁入り行列が見られるようになったという伝説がある。\nまた信濃国(現・長野県)の民話では、ある老人が子ギツネを助けたところ、やがて成長したキツネが婚礼を迎え、老人に礼として引出物を持参したという話がある。\nこうした嫁入りの話では、前述までのような自然現象および超自然の「狐の嫁入り」が舞台装置のように機能しており、日中の嫁入りは天気雨の中、夜間の嫁入りは怪火の中で行なわれることが多い。", "qas": [ { "question": "『今昔妖談集』は何時代の随筆ですか?", "id": "tr-438-07-000", "answers": [ { "text": "寛永時代", "answer_start": 69, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『江戸塵拾』は何時代の草紙ですか?", "id": "tr-438-07-001", "answers": [ { "text": "文政時代", "answer_start": 93, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『怪談老の杖』は何時代の怪談集ですか?", "id": "tr-438-07-002", "answers": [ { "text": "寛政時代", "answer_start": 118, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "江戸の本所竹町で目撃された奇妙な嫁入り行列の正体は何でしたか?", "id": "tr-438-07-003", "answers": [ { "text": "キツネ", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "特定の動作を行なうことで狐の嫁入りが見えるという伝承も各地にあり、福島県では旧暦10月10日の夕方にすり鉢を頭にかぶり、腰にすりこぎをさしてマメガキの下に立つ、愛知県では井戸に唾を吐き、指を組み合わせてその穴から覗くと、狐の嫁入りが見えるという。\n江戸時代頃には、こうした「狐の嫁入り」の伝承が信じられていたことから、人間がキツネに仮装して「狐の嫁入り」を演じたとしても、庶民にはそれを見破ることができなかったとして、人為的な仕掛けで会った可能性も示唆されている。\nキツネ同士の結婚ではなく、人間の男性のもとにメスのキツネが嫁ぐ話もあり、代表的なものとしては、人形浄瑠璃にもなり、平安時代の陰陽師・安倍晴明の出生にまつわるものとしても知られる『葛の葉』が挙げられる。\nこのほかにも『日本現報善悪霊異記』や、1857年(安政4年)の地誌『利根川図志』などに同様の話がある。\n後者は、関東の諸葛孔明と喩えられる実在の武将・栗林義長にまつわるもので、茨城県牛久市の女化町の名の由来でもあり、同県龍ケ崎市に女化神社としてキツネが祀られている。", "qas": [ { "question": "人間の男性のもとにメスのキツネが嫁ぐ話があるのは『利根川図志』の他に何がありますか?", "id": "tr-438-08-000", "answers": [ { "text": "『日本現報善悪霊異記』", "answer_start": 340, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "安倍晴明の役職は何でしたか?", "id": "tr-438-08-001", "answers": [ { "text": "陰陽師", "answer_start": 295, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『利根川図志』には誰に関する記述がありますか?", "id": "tr-438-08-002", "answers": [ { "text": "栗林義長", "answer_start": 409, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "安倍晴明が存在していた時代はいつですか?", "id": "tr-438-08-003", "answers": [ { "text": "平安時代", "answer_start": 290, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また『今昔物語集』や、1689年(元禄2年)の『本朝故事因縁集』、1696年(元禄9年)の怪談集『玉掃木』には、既婚の男のもとに、キツネがその妻に化けて現れる話がある。\nちなみに1677年(延宝5年)の怪談集『宿直草』では逆に、オスのキツネが人間の女性に惚れ、その女の夫に化けて契り、異形の子供が生まれる話がある。", "qas": [ { "question": "『玉掃木』と『本朝故事因縁集』はどちらが先に世の中に出ましたか?", "id": "tr-438-09-000", "answers": [ { "text": "『本朝故事因縁集』", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『玉掃木』、『本朝故事因縁集』、『宿直草』の中で最も早くこの世に出た書物は何ですか?", "id": "tr-438-09-001", "answers": [ { "text": "『宿直草』", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『玉掃木』、『宿直草』、『本朝故事因縁集』の中でオスのキツネが夫に化けて登場する話はどれですか?", "id": "tr-438-09-002", "answers": [ { "text": "『宿直草』", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『玉掃木』、『宿直草』、『本朝故事因縁集』の中で怪談集でないものはどれですか?", "id": "tr-438-09-003", "answers": [ { "text": "『本朝故事因縁集』", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "江戸時代の浮世絵師・葛飾北斎による『狐の嫁入図』では、天気雨のときにはキツネの嫁入りがあるという俗信に基き、キツネの嫁入り行列と、突然の天気雨に驚いて農作物を取り込む人々の様子が描かれている。\nこのように、空想上の情景としてキツネたちと現実の農村風俗とを同時に絵画の中に描くことは珍しい例と指摘されている。\n同時代の俳諧師・小林一茶の句にも「秋の火や山は狐の嫁入雨」とある。\n明治時代の俳人・歌人である正岡子規は短歌で「青空にむら雨すぐる馬時狐の大王妻めすらんか」と読んでいる。\n人形浄瑠璃『壇浦兜軍記』(1732年初演)でも「たつた今までくわんくわんした天気であったが、ええ聞こえた、狐の嫁入のそばえ雨」とあり、戦後では時代小説『鬼平犯科帳』に「狐雨」と題した1篇がある。", "qas": [ { "question": "『狐の嫁入図』を描いた人は誰ですか?", "id": "tr-438-10-000", "answers": [ { "text": "葛飾北斎", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『狐の嫁入図』で描かれている天気は何ですか?", "id": "tr-438-10-001", "answers": [ { "text": "天気雨", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「秋の火や山は狐の嫁入雨」を詠んだ人は誰?", "id": "tr-438-10-002", "answers": [ { "text": "小林一茶", "answer_start": 162, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "狐の嫁入の場面がある人形浄瑠璃の題目は何ですか?", "id": "tr-438-10-003", "answers": [ { "text": "『壇浦兜軍記』", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "そのほかに1785年(天明5年)の『無物喰狐婿入』(北尾政美画)、1796年(寛政8年)の『昔語狐娶入』(北尾重政画)、1799年(寛政11年)の『穴賢狐縁組』(十返舎一九画)などの江戸時代の草双紙や黄表紙、『祝言狐のむこ入』『絵本あつめ草』といった江戸時代の上方絵本にも、擬人化されたキツネが嫁入りを行なう「狐の嫁入り」が描かれている。\nこれらは擬人化された動物の嫁入りを描いた「嫁入り物」と呼ばれる種類の作品だが、キツネたちに江戸の具体的な稲荷神の名前が付けられているという特徴がある。\nこのことは、稲荷信仰と嫁入り物の双方が江戸の庶民に深く浸透していたことを示すものと見られている。\n民間では、高知県の赤岡町(現・香南市)などで、「日和に雨が降りゃ狐の嫁入り」という童歌があり、天気雨の日には実際にキツネの嫁入り行列が見られるといわれた。", "qas": [ { "question": "『無物喰狐婿入』と『穴賢狐縁組』はどちらが先に描かれましたか?", "id": "tr-438-11-000", "answers": [ { "text": "『無物喰狐婿入』", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『昔語狐娶入』、『穴賢狐縁組』、『無物喰狐婿入』の中で最初に描かれたものはどれですか?", "id": "tr-438-11-001", "answers": [ { "text": "『無物喰狐婿入』", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『穴賢狐縁組』の作者は誰?", "id": "tr-438-11-002", "answers": [ { "text": "十返舎一九", "answer_start": 81, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『昔語狐娶入』、『穴賢狐縁組』、『無物喰狐婿入』の中で同一の作者でない作品はどれ?", "id": "tr-438-11-003", "answers": [ { "text": "『穴賢狐縁組』", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "前述の新潟県の麒麟山の嫁入り行列に由来する祭事として、同県東蒲原郡阿賀町津川地区では「狐の嫁入り行列」が行われている。\nもとは狐火の名所として、昭和27年頃から狐火に関するイベントが行われており、一度は途絶えたこのイベントが、1990年に嫁入り行列を主体とした観光イベントとして復活されたもので、毎年4万人もの観光客で賑わっている。", "qas": [ { "question": "「狐の嫁入り行列」は何年に復活したの?", "id": "tr-438-12-000", "answers": [ { "text": "1990年", "answer_start": 113, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "阿賀町津川地区の「狐の嫁入り行列」に毎年訪れる観光客は何人?", "id": "tr-438-12-001", "answers": [ { "text": "4万人", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "山口県下松市の花岡福徳稲荷社でも、毎年11月3日の稲穂祭で「きつねの嫁入り」が行われている。\nこちらは同神社で古くから行なわれていた豊作祈願の稲穂祭が、戦後の混乱期に途絶えていたところを、地元の有志たちが、同神社で白いキツネの夫婦が失せ物捜しや五穀豊穣・商売繁盛の神として祀られていたことを参考にして、キツネ夫婦の結婚式を再現したものとも、江戸時代に寺の住職が、夢枕に現れた白いキツネ夫婦の依頼で供養をしたところ、紛失していた数珠が見つかったという伝説にちなんで、1950年(昭和25年)から始まったともいう。\n下松市民の中からキツネ夫婦を演じる市民が選ばれるが、新婦役となった女性は良縁に恵まれることから、同神社は縁結びの利益もあるといわれている。", "qas": [ { "question": "花岡福徳稲荷社の「きつねの嫁入り」行事は何年から始まったの?", "id": "tr-438-13-000", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 232, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "花岡福徳稲荷社の「きつねの嫁入り」は何の祭りで行われているの?", "id": "tr-438-13-001", "answers": [ { "text": "稲穂祭", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "花岡福徳稲荷社の「きつねの嫁入り」は何月何日に行われているの?", "id": "tr-438-13-002", "answers": [ { "text": "11月3日", "answer_start": 19, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "三重県四日市市海山道の海山道稲荷神社でも、毎年節分に「狐の嫁入り道中」の神事が行われる。\nこちらも江戸時代に追儺として行われていたものが、やはり戦後に甦ったもので、その年の厄年の男女が、神使の総本家での子ギツネと、海山道稲荷神社の神使の家の娘のキツネに扮し、嫁入りの様子が再現され、大勢の参拝客の賑わいを見せている。", "qas": [ { "question": "「狐の嫁入り道中」はいつ行われているの?", "id": "tr-438-14-000", "answers": [ { "text": "毎年節分", "answer_start": 21, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「狐の嫁入り道中」はどこの神社で行われているの?", "id": "tr-438-14-001", "answers": [ { "text": "海山道稲荷神社", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "吾妻鏡", "paragraphs": [ { "context": "『吾妻鏡』または『東鑑』(あずまかがみ、あづまかがみ)は、鎌倉時代に成立した日本の歴史書。\n鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝から第6代将軍・宗尊親王まで6代の将軍記という構成で、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの幕府の事績を編年体で記す。\n成立時期は鎌倉時代末期の1300年頃、編纂者は幕府中枢の複数の者と見られている。\n後世に編纂された目録から一般には全52巻(ただし第45巻欠)と言われる。\n編纂当時の権力者である北条得宗家の側からの記述であることや、あくまでも編纂当時に残る記録、伝承などからの編纂であることに注意は必要なものの、鎌倉時代研究の前提となる基本史料である。\n日本における武家政権の最初の記録と、研究者の吉永博彰には評される。", "qas": [ { "question": "『吾妻鏡』の成立時期は、西暦何年頃ですか?", "id": "tr-439-00-000", "answers": [ { "text": "1300年頃", "answer_start": 139, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『吾妻鏡』は全部で何巻あると言われているの?", "id": "tr-439-00-001", "answers": [ { "text": "全52巻", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『吾妻鏡』は、鎌倉幕府の初代から第何代までの将軍記となっていますか?", "id": "tr-439-00-002", "answers": [ { "text": "第6代", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『吾妻鏡』は、治承4年(1180年)から文永3年(1266年)までの87年間を描く。\nその記述は治承4年(1180年)4月、以仁王の令旨が伊豆の北条館に届くところから始まり、文永3年(1266年)7月20日に第6代将軍・宗尊親王が京都に到着して将軍を辞官するところで終わる。\n主な内容は治承・寿永の乱と平氏政権の滅亡、鎌倉幕府の成立、承久の乱、執権政治の始まり、寛元4年(1246年)の宮騒動と翌年の宝治合戦、得宗支配の確立などである。\n全体は将軍の年代記として記述されており、その日記風の文体は変体漢文の一種で吾妻鏡体とも呼ばれる。\n収録範囲は当初から宗尊親王の将軍辞官までとする予定だったと見られるが、編纂自体はおそらく未完のままそれ以前の時点で中断したと見る説が有力である。\n編集者の姿勢には偏りがあり、源氏三代に対する評価はしばしば手厳しいが、北条得宗家の活躍は強調される。\nこの傾向は特に北条泰時に関する記述に著しい。", "qas": [ { "question": "『吾妻鏡』に描かれている年数は?", "id": "tr-439-01-000", "answers": [ { "text": "87年間", "answer_start": 34, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鎌倉幕府の6代将軍は誰だったの?", "id": "tr-439-01-001", "answers": [ { "text": "宗尊親王", "answer_start": 110, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "編纂における参考文献は、大江氏、三善氏、二階堂氏ら文筆の家に残る記録、右筆等の筆録、日記を中心に、北条諸家や縁のある御家人の家伝、訴訟の証拠として提出された偽文書をも含む書類、さらに寺社の記録、可能な場合は『明月記』などの公家の記録などである。\nこのように雑多な参考文献の非同時代性から、記述には編纂者の主観に基づく部分が多いと考えられる。\n一部には明らかに編纂時の曲筆と見られる部分もあり、特に前半の源氏三代記については『愚管抄』や『玉葉』など同時代の公家の日記との比較を要する。", "qas": [ { "question": "『明月記』に記録されている人の身分は何でしたか?", "id": "tr-439-02-000", "answers": [ { "text": "公家", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "本書の写本のうち、最も有名な「北条本」の目録では巻数は全52巻であり、第24巻までが源氏三代で、そのうち15巻が頼朝将軍記である。\n源氏三代記以降の主人公は、北条得宗家である。\nただし第45巻は欠落し、それ以外にも巻数すらふられずに年単位で欠けている部分が計12年もあり、そのうち連続する3年分は「吉川本」や「島津本」などの写本には残っている。\nしたがって全52巻とは本来の巻数ではない。\n「北条本」の目録は、ほぼ南北朝時代に金沢文庫で作られたと見られるが、その段階で既に『吾妻鏡』の散逸が始まっており、室町時代には既に揃いの完本の形では伝えられず、断片的な抄出本や数年分の零本の形で伝わるのみであったと推測されている。\nそれを複数の者が別々に収集しながらまとめていったものが、現在知られる複数の写本である。\n編纂当時の本書名は不明であるが、室町時代には『吾妻鏡』と呼ばれ、『東鑑』と呼ぶのは江戸時代初期の古活字本からである。", "qas": [ { "question": "前半の24巻中、半分以上はどの将軍についての記述になっていますか?", "id": "tr-439-03-000", "answers": [ { "text": "頼朝", "answer_start": 56, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『吾妻鏡』の源氏三代以外の主人公とは誰ですか?", "id": "tr-439-03-001", "answers": [ { "text": "北条得宗家", "answer_start": 79, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "源氏三代記の中で、最も長く描かれている人は誰ですか?", "id": "tr-439-03-002", "answers": [ { "text": "頼朝", "answer_start": 56, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『吾妻鏡』の呼称がついたのは何時代からですか?", "id": "tr-439-03-003", "answers": [ { "text": "室町時代", "answer_start": 371, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "江戸時代の吾妻鏡研究で有名なのは林羅山(道春)であり、徳川家康の為に『東鏡綱要』上下2冊を作成した。\nまた黒田藩の家臣に書き与えた「東鑑考」は漢文325字の短文ながら的を射た解説を行っている。\nこの時代に『吾妻鏡』を研究していたのは主に儒家、国学者であり、主に有職故実、武家故実の面からの研究であり、『吾妻鏡』についての著述のある伊勢貞丈、榊原長俊、大塚嘉樹は江戸時代に知られる有職故実の大家である。\n校訂の面では古活字本寛永版の菅聊卜(かんりょうぼく)の功績は現在の国史大系本にまで及び、伊勢貞丈、榊原長俊、大塚嘉樹らはいわば「吾妻鏡辞典」とも言えるような注解を行い、難解な『吾妻鏡』の理解を助けた。\nしかしながら、徳川光圀によって開始された『大日本史』などでも『吾妻鏡』を採用してはいるが、星野恒によれば参照の仕方があまり正確ではなく『吾妻鏡』の影響はそれほど大きいものとは見られない。", "qas": [ { "question": "江戸時代の有名な吾妻鏡研究者は誰でしたか?", "id": "tr-439-04-000", "answers": [ { "text": "林羅山", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "徳川光圀によって開始された日本の歴史書とは?", "id": "tr-439-04-001", "answers": [ { "text": "『大日本史』", "answer_start": 322, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "近代の『吾妻鏡』研究の出発は、星野恒が1889年(明治22年)の『史学雑誌』創刊号に発表した『吾妻鏡考』からである。\n星野恒が『吾妻鏡』を取り上げたのはそれまで支配的だった『平家物語』などを元にした歴史観に対する反証としてだったが、当時は国史編纂をめぐっての星野、重野安繹(しげのやすつぐ)、久米邦武らと、川田剛や国学系・水戸学系歴史家との対立があり、星野の論調は『平家物語』や『太平記』の資料価値を否定し、『吾妻鏡』は『玉葉』や『明月記』などの当時の公家の日記と同様の信頼を置くものだった。\nそれに対し9年後の1898年(明治31年)、当時20代後半だった原勝郎が「史学雑誌」第9編第5,6号に『吾妻鏡の性質及其史料としての價値』を発表し、歴史研究における「史料批判」の重要性を強調した。", "qas": [ { "question": "近代において『吾妻鏡』研究開始のきっかけとなった人物は誰ですか?", "id": "tr-439-05-000", "answers": [ { "text": "星野恒", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『平家物語』や『太平記』の資料価値を否定した人物の氏名は?", "id": "tr-439-05-001", "answers": [ { "text": "星野恒", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "その後、大正時代に入って、当時の帝国大学史料編纂掛(現在の東京大学史料編纂所)の二人の研究者、和田英松と八代国治が、それまでは知られていなかった「吉川本」その他の諸本を紹介しながら、『吾妻鏡』が当初思われていたような同時代の記録ではなく、鎌倉幕府の政所や問注所に残る記録のみならず、京の公家の日記類まで参照しながら後世に編纂されたものであり、またそのなかには多くの誤りや曲筆が含まれることを明らかにする。\n八代国治が1913年(大正2年)に著した『吾妻鏡の研究』は、以降の研究のベースとなった。", "qas": [ { "question": "『吾妻鏡の研究』の著者は誰ですか?", "id": "tr-439-06-000", "answers": [ { "text": "八代国治", "answer_start": 203, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『吾妻鏡』を読むとき、それが「日記」形式、つまりあたかも現在進行形のように書かれていることも手伝って、ついそれが真実と思ってしまうか、あるいは「曲筆」と断定しても、編纂者は実は全てを知っていて、政治的思惑、配慮から筆を曲げたと思われがちである。\nしかし、鎌倉時代後期の編纂者が集めた原史料は、ある意味玉石混淆で、リアルタイムな史料、原本そのものもあれば、何世代もの筆を経た鎌倉時代後期における認識や、先祖の遺徳顕彰の加わったもの、ほとんど物語の様な記述など、異質な史料を「日記」形式にまとめていったものと見られる。\nその中で、後世の編纂物や伝承から採ったと思われる実例には以下のものがある。", "qas": [ { "question": "『吾妻鏡』はどのような形式で書かれていますか?", "id": "tr-439-07-000", "answers": [ { "text": "「日記」形式", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "治承・寿永の乱(源平合戦)については、鎌倉方が直接関与する部分とそうでない部分とでは、情報の正確さにかなりの開きがあり、特に、源義仲(木曾義仲)の北陸地方における動向などは、かなり後の時代の京都方資料により補っていると見られる。\n例えば『吾妻鏡』では、養和元年(1181年)8月13日条の記述に、木曾義仲追討の宣旨が出されたとある。\n『吾妻鏡』と同様に、鎌倉時代後期の成立とされる『百錬抄』にも同様の記述がある。\nしかし当時の公家の日記、例えば『玉葉』の養和元年(1181年)8月6日条や、『吉記』の同15日条、翌16日条などには「信乃の国逆徒」とあるだけで木曾義仲の名はない。\nこの段階で京が注視していたのは、信濃国に侵出していた甲斐源氏であり、義仲の名が登場するのはそれから2年後の『玉葉』寿永2年(1183年)5月16日条が初見である。", "qas": [ { "question": "『吾妻鏡』と同じく木曾義仲追討に関する記述がある書物とは何ですか?", "id": "tr-439-08-000", "answers": [ { "text": "『百錬抄』", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "源義仲の別名は何ですか?", "id": "tr-439-08-001", "answers": [ { "text": "木曾義仲", "answer_start": 67, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "頼朝は挙兵直後、石橋山の戦いに敗れて船で房総の安房に渡るが、治承4年(1180年)8月29日条以降、同年10月6日条の鎌倉入りまで、頼朝の右筆・藤原邦通も北条親子も同行していない。\nこのとき大武士団を率いて馳せ参じ、その後明暗を分けた二人の有力御家人が居る。\n上総介広常と同族の千葉常胤である。\n上総介広常は、後に頼朝の命により殺されたが、その理由も事件のあらましも『吾妻鏡』では明らかではない。\nただし上総介広常は後に殺されることを予感させるような人物像として描かれている。\nその代表例は治承4年(1180年)9月19日条の、上総介広常が初めて頼朝に会ったときの話である。\n『将門記』の古事をひきながら、広常は場合によっては頼朝を討ってやろうと「内に二図の存念」を持っていたが、頼朝の毅然とした態度に「害心を変じ、和順を奉る」という下りである。\n広常が内心思ったことが後世の編纂者にまで伝えられたと見るのは不自然である。\nまた、このとき上総介広常が率いてきた軍勢は、『吾妻鏡』によれば2万騎であるが、『延慶本平家物語』には1万騎、『源平闘諍録』には千騎とあり、『吾妻鏡』が一番誇張が大きい。", "qas": [ { "question": "上総介広常が率いてきた軍勢の数が2番目に多く記述されている書物とは、『吾妻鏡』、『延慶本平家物語』、『源平闘諍録』の中でどれですか?", "id": "tr-439-09-000", "answers": [ { "text": "『延慶本平家物語』", "answer_start": 451, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "上総介広常と千葉常胤のうち、頼朝の命令で殺された人物はどちら?", "id": "tr-439-09-001", "answers": [ { "text": "上総介広常", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "それと対照的なのが千葉常胤の記述である。\n治承4年(1180年)9月9日条で常胤は「源家中絶の跡を興せしめ給うの條、感涙眼を遮り、言語の覃ぶ所に非ざるなり」と感動して涙ぐむ。\nそして、頼朝はなぜ鎌倉を選んだのかという話に必ず引用されるのも、このときの千葉常胤の献策である。\nしかし、千葉常胤にとっては、頼朝の父・源義朝は「御恩」を感じるような相手でないことは相馬御厨についての古文書で明らかになっている。\n千葉常胤の一族、そして上総介広常が頼朝に加担したのは、『吾妻鏡』が描くように両氏が累代の源氏の郎等であったからではなく、彼らにとっては上総介となった平家の家人・藤原忠清や、平家と結んだ下総の藤原氏、そして常陸の佐竹氏の圧迫に対して、頼朝を担ぐことによってそれを押し返し、奪い取られた自領を復活するための起死回生の賭けであったと解されている。\nそれは、関東で頼朝の元に参じた他の有力領主達にしても同じである。", "qas": [ { "question": "上総介広常と対照的な記述である人物とは誰ですか?", "id": "tr-439-10-000", "answers": [ { "text": "千葉常胤", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "建久3年(1192年)8月5日条には、征夷大将軍となった頼朝の政所始めにおいて、それまでの頼朝の安堵状を回収して政所発給の下文を新たに与えようとしたところ、千葉常胤は「頗る確執」し「常胤が分に於いては、別に御判を副え置」いて欲しいと主張して、特別に頼朝花押の下文を貰ったとあり、千葉常胤を顕彰するその下文の文面が載せられている。\n『吾妻鏡』には記載はないが、小山朝政もまた特別に頼朝の花押付きの下文を貰ったらしく、その実物が発見されている。\nそちらは極めて簡潔な安堵状らしいものであるに対して、『吾妻鏡』に載る千葉常胤へのものは、文言が下文としてはあまりにも異様である。\n以上各点などを考え合わせて、この期間を詳細に伝えられる家である千葉氏が、先祖顕彰の家伝を資料として提出した可能性が高く、あるいはそれらを元に「頼朝挙兵記」のような形で原型が出来上がっていた可能性も指摘されている。\nなお、千葉氏の他にこの間頼朝に同行していたのは三浦一族であり、後に一族が滅んだ宝治合戦で北条側に付いて生き残った佐原三浦氏の祖・佐原義連の顕彰記事も、上総介広常に絡んで治承5年(1181年)6月19日条などに見られる。", "qas": [ { "question": "千葉常胤が頼朝から特別にもらったものとは何?", "id": "tr-439-11-000", "answers": [ { "text": "花押の下文", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "千葉常胤と同じく頼朝から花押付きの下文をもらった武将は誰?", "id": "tr-439-11-001", "answers": [ { "text": "小山朝政", "answer_start": 179, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "大江広元に関して、これまで最も注目されてきたのは、文治元年(1185年)11月12日条の、広元が「守護地頭」設置を献策したという下りである。\nかつてはこれが「守護地頭」の始まりとされた。\nそして、同年11月28日条には、北条時政がその「守護地頭」の設置を朝廷に要求したとある。\nしかし、同じ事実を書き記した九条兼実の日記『玉葉』には、「守護地頭」とは書かれていない。\nそこには「件の北條丸以下郎従等、相分ち五畿・山陰・山陽・南海・西海諸国を賜う。庄公を論ぜず、兵粮(段別五舛)を宛て催すべし。啻に兵粮の催しに非ず。惣て以て田地を知行すべしと」とある。\n1960年に石母田正は、「鎌倉幕府一国地頭職の成立」などでこの問題に鋭く切り込み、「諸国平均に守護地頭を補任し」は鎌倉時代の後期には他の史料にも見えることから、これは幕府独自の記録によったものではなく、鎌倉時代後期の一般的な通説に基づく作文ではないかと指摘した。\nそして、この石母田の分析に端を発して、守護・地頭の発生、位置づけについて活発な議論が巻き起り、この「守護地頭」設置の時期は「国地頭制」として守護制の前段階と解されるようになった。", "qas": [ { "question": "「守護地頭」設置を献策した人物は誰だとされていましたか?", "id": "tr-439-12-000", "answers": [ { "text": "大江広元", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "北条時頼について八代国治が指摘するのは、弘長3年(1263年)11月22日条の卒去の記述である。\n時頼の「頌云」の「業鏡高懸、三十七年、一槌撃砕、大道坦然」は、『増集続伝燈録妙堪』の伝記にある遺曷の年齢を変えただけのものである。\n八代国治はこれを編纂者の「舞文潤飾」と断定する。\nしかし別人の遺曷を本人の遺曷として紹介することは、後世の史料にはよく見られることである。\nその例としては、『扶桑五山記』にある蘭渓道隆の遺曷があり、そこでも妙堪の遺曷が使われている。\n当然ながら蘭渓道隆が人の遺曷の盗作を行ったわけではなく、蘭渓道隆本人の遺曷は別に存在する。\n北条時頼の遺曷に戻れば、『吾妻鏡』とそれほど深い関係があるとは見られていない『鎌倉年代記』にも北条時頼の遺曷として『吾妻鏡』と同じく妙堪のものを載せており、益田宗は「時頼が死んだ弘長3年(1263年)から、吾妻鏡の編纂時期まで3〜40年ある以上、巷間に作られていた時頼遺曷なるものを、編纂者がそのまま本文に採用したと考えるのが当たっているのではあるまいか」とする。", "qas": [ { "question": "北条時頼が死去した年は?", "id": "tr-439-13-000", "answers": [ { "text": "1263年", "answer_start": 372, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『吾妻鏡』に北条得宗家の顕彰、そしてその為の曲筆が非常に多いことは古くから指摘されており、例えば江戸時代後期の国学者大塚嘉樹(よしき)は『東鑑別注』において、文治2年(1186年)4月8日条の静御前に鶴岡八幡宮で舞をさせたときの記事、文治5年4月18日条の北条時房(当初時連)の元服記事、1192年(建久3年)5月26日条の北条泰時の記事などを挙げて『吾妻鏡』編纂者による北条氏顕彰の為の曲筆と断定した。\nまた土佐の宮地仲枝は「東鑑の考」において、1201年(建仁元年)10月6日条の記述を紹介し「此文などかの家の記録とあらずとせんや」としている。", "qas": [ { "question": "北条時房の元服記事は、日本の元号で何年の何月何日条として記されていましたか?", "id": "tr-439-14-000", "answers": [ { "text": "文治5年4月18日条", "answer_start": 117, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "『吾妻鏡』の曲筆のもっとも甚だしいのが頼家将軍記である。\n源氏が三代で終わったのはこういう不肖の息子が居たからだと誰しも思うが、それが真実の姿であった証拠は何もなく、曲筆と疑われるものは無数にある。\n曲筆の確実なものは、源頼家の最期である。\n頼家が将軍の座を降りたのは『吾妻鏡』によると建仁3年(1203年)9月2日の比企能員の変の直後、9月7日条での頼家出家であり、9月10日条で源実朝が将軍を継ぐことを決定したとある。\nそして、その頼家の死については翌年の7月19日条において、飛脚から頼家死去の報があった事を短く記すのみである。", "qas": [ { "question": "『吾妻鏡』の中で最も強烈ないかさま話があるのはどの部分ですか?", "id": "tr-439-15-000", "answers": [ { "text": "頼家将軍記", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "紛れもない曲筆の部分は何ですか?", "id": "tr-439-15-001", "answers": [ { "text": "源頼家の最期", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "しかし、建仁3年(1203年)9月1日に頼家が病死したという鎌倉からの使者が、同年9月7日早朝に京の朝廷に到着し、実朝を次期征夷大将軍に任命するよう要請していることが、近衛家実の『猪隅関白記』、藤原定家の『明月記』、白川伯王家業資王の『業資王記』などによって知られている。\n『吾妻鏡』によれば頼家が存命どころか、まだ出家(引退)もしていないにもかかわらずである。\nこの当時の鎌倉と京は、普通の使者ならば2週間、至急の知らせでも約1週間かかり、早馬を乗り継いでも9月1日か2日に鎌倉を出発していなければならない。\n仮に9月2日に鎌倉を発ったとしても、比企能員の変は同日夕方近くに起きた事件であり、頼家の将軍廃立は当初より予定されたことが解る。\nまた、頼家殺害当日の日付の『愚管抄』によると、入浴中を襲撃され激しく抵抗した頼家の首に紐を巻き付け、睾丸(ふぐり)を掴んで、ようやく刺し殺したとある。", "qas": [ { "question": "『猪隅関白記』の作者は誰ですか?", "id": "tr-439-16-000", "answers": [ { "text": "近衛家実", "answer_start": 84, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『業資王記』を記した人は誰ですか?", "id": "tr-439-16-001", "answers": [ { "text": "白川伯王家業資王", "answer_start": 108, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "『吾妻鏡』の中では、畠山重忠の乱で人望厚い畠山重忠を追い落とした人物は、北条時政の後妻で悪名高き牧の方とされ、北条義時は元久2年(1205年)6月21日条で畠山重忠の謀殺に反対し、父時政に「今何の憤りを以て叛逆を企つべきや、もし度々の勲功を棄てられ、楚忽の誅戮を加えられば、定めて後悔に及ぶべし」と熱弁をふるう。\nこれはその後北条政子と北条義時が父時政を追放したという「背徳」を正当化する伏線となっている。\n原勝郎はこれを評して「若同年閏七月の事變に際する二人の態度を考へば、始めに處女にして終りに脱兎たる者か、怪むべきの至なり。\n換言すればかゝる矛盾を來す所以は『吾妻鏡』の編者が強て義時を回護せんと欲するの念よりしてかゝる曲筆を弄するに至りしに外ならざるべし」と述べている。", "qas": [ { "question": "牧の方は誰の後妻ですか?", "id": "tr-439-17-000", "answers": [ { "text": "北条時政", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『吾妻鏡』では、畠山重忠を追い落とした人物誰だと記されていますか?", "id": "tr-439-17-001", "answers": [ { "text": "牧の方", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "文治元年(1185年)11月25日から文治2年(1186年)3月27日頃まで、北条時政は頼朝の代官として在京していた。\nこの頃より文治3年(1187年)頃までは、京と鎌倉の間で緊迫した政治折衝が行われていた時期であり、『吾妻鏡』には院奏や院宣、頼朝から公卿への手紙などが多数掲載されている。\nそうした院宣のひとつに、後白河法皇が北条時政を褒める一文が間に挟まっている。\n文治2年(1186年)5月13日条にある5月6日付けの院宣である。\nこの時政顕彰の文を飛ばして読むと、非常に文意のはっきりした院宣らしい文章になり、龍福義友は、これを「時政顕彰の為の捏造」と推定する。\nまた、それとも関連する文治2年(1186年)5月18日条にある頼朝の院奏の趣旨の前半は『吾妻鏡』編纂者が想像で補ったものであり、これには物的証拠がある。\n同年4月20日に頼朝が出した院奏の実物が、九条家の古文書の中から発見されているのである。\n『吾妻鏡』の記述と院奏の実物はテーマは同じであるものの、主張している内容は全く異なる。\nそれらの事から、同年5月6日の院宣に出てくる「去月廿日の御消息」は編纂者の元にはなく、しかしそれに言及しなければ話はつながらないと想像で補った(偽造した)ものであろうと見られている。\nこの時期は鎌倉幕府の性格を決定する非常に重要な時期であり、『吾妻鏡』はその最も重要なまとまった史料であるが、そのなかには以上のような例も混在し、非常に注意深く読んでいかなければならない箇所とされる。", "qas": [ { "question": "文治元年11月25日から約4カ月の間、北条時政はどこに滞在していたの?", "id": "tr-439-18-000", "answers": [ { "text": "京", "answer_start": 53, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "後白河法皇が北条時政を褒める一文とは、何日付けの院宣のことなの?", "id": "tr-439-18-001", "answers": [ { "text": "5月6日付け", "answer_start": 205, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "北条泰時の顕彰で象徴的なものが正治2年(1200年)4月8日条である。\n女院殿上人であった若狭前司保季(藤原保季)が、御家人の郎従(武士)の妻と白昼密通していたところへ、夫が六波羅から帰ってきた。\n怒ったその武士が太刀を取って保季を追い、斬り殺した。\nその武士を捕らえてあるが、どう裁いたらよいだろうと京の六波羅から鎌倉に早馬が来る。\nそれに対して大江広元から意見を求められた北条泰時は、「郎従の身として諸院宮昇殿の者を殺害するなど、武士の本分にもとる行為だ。\nそれも白昼路上で行うなどもってのほか。直ちに厳罰に処すべきである」と言ったとある。\nこの記述は盗作である。\nこの事件は、実は藤原定家の日記『明月記』同年3月29日条に書かれており、泰時が語ったという台詞は藤原定家の感想(憤慨)を写したものである。", "qas": [ { "question": "正治2年4月8日条の北条泰時の顕彰は、藤原定家の何という書物にも書かれていますか?", "id": "tr-439-19-000", "answers": [ { "text": "『明月記』", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "北条泰時の顕彰において泰時が語った台詞は、実際は誰の感想を写したものでしたか?", "id": "tr-439-19-001", "answers": [ { "text": "藤原定家", "answer_start": 293, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "仁治2年(1241年)11月29日条と翌30日条にはこう書かれている。\n有力御家人の三浦氏と小山氏との間で、ささいなことからあわや一戦にという事件が起った。\n北条経時は、この事件で一応理のある三浦氏を助勢しようと、配下の者を武装させて差し向けた。\nそれに対して経時の弟の北条時頼は、酒の場での喧嘩だからと静観していた。\n二人の祖父である北条泰時は「各々将来御後見の器なり」、つまり二人とも将来執権になろうという者であるのに、兄の経時は「諸御家人の事に対し、爭か好悪を存ぜんか。所為太だ軽骨(軽率)なり、暫く前に来るべからず」と怒った。\n一方、弟の時頼には「斟酌頗る大儀に似たり。追って優賞有るべし」と褒めて領地を与えたというのである。\n時頼が15歳のときである。\n兄の北条経時は、祖父泰時の後を継いで19歳で第4代執権となるが、4年後に弟北条時頼に執権を譲り出家、その直後に死亡する。\nそして『吾妻鏡』は、そもそも時頼の方が優れていて、泰時の眼鏡にも適っていたのだと言っている。", "qas": [ { "question": "鎌倉幕府の第4代執権は誰でしたか?", "id": "tr-439-20-000", "answers": [ { "text": "北条経時", "answer_start": 334, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "北条経時の次に執権になったのは誰ですか?", "id": "tr-439-20-001", "answers": [ { "text": "北条時頼", "answer_start": 369, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "経時と時頼の祖父の氏名は何ですか?", "id": "tr-439-20-002", "answers": [ { "text": "北条泰時", "answer_start": 168, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "経時と時頼はどちらが先に死にましたか?", "id": "tr-439-20-003", "answers": [ { "text": "経時", "answer_start": 336, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "吾妻鏡の原資料の全体像について際だった研究を行ったのは、大正時代の八代国治と最近では五味文彦である。\n五味文彦は『吾妻鏡』の原史料として3つの類型「幕府事務官僚の日記・筆録」「後に提出された文書」「幕府中枢に残る公文書類」が浮かび上がるとする。\nここでは説明の都合上「後に提出された文書」「幕府中枢に残る公文書類」に「京系の記録」を追加して先に説明し、最後に将軍記毎に「幕府事務官僚の日記・筆録」を見ていく。\n地頭・御家人、寺社などから、訴訟の証拠や由緒として提出されたと思われる文書である。\nしかし訴訟の証拠書類だろうと思われるものの中には、明らかに偽文書と思われるものが混じっている。\n元久2年(1205年)閏7月29日条にある河野通信に与えたとされる三代将軍源実朝の御教書はその代表例である。\nそれらのことから幕府の中に保管されていた文書は実はほとんど無く、後世に提出された書類から採録したものがかなりの量に及ぶだろうと推測される。\n有力御家人の伝承の項で触れた建久3年(1192年)8月5日条などは千葉氏の家伝と思われる。", "qas": [ { "question": "八代国治と五味文彦はどちらが先に吾妻鏡の研究をしたの?", "id": "tr-439-21-000", "answers": [ { "text": "八代国治", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "偽文書と思われるものの代表例に出てくる将軍名とは?", "id": "tr-439-21-001", "answers": [ { "text": "源実朝", "answer_start": 332, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "最近の吾妻鏡原資料の研究者とは誰?", "id": "tr-439-21-002", "answers": [ { "text": "五味文彦", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "次は公文書類である。\nそれらは政所などの役所に保管されていたものもあろうが、その文を書いた事務官僚の下書きが、あるいは得宗家の寄合での決定が、政所や問注所の執事の家に伝えられて『吾妻鏡』の編纂時に利用されたと思われる。\n寛喜4年12月5日条に、北条泰時が「所処に散在」してしまった大江広元時代の記録を集めさせ、広元の孫の長井泰秀に送ったとあり、その記事自体が、長井泰秀の家に保管されていた記録が『吾妻鏡』に利用されたであろうことを物語っている。\n頼朝将軍記に多数見られる朝廷からの院宣などもそこに含まれていたと思われる。\n文治元年(1185年)12月6日条にある「院奏の折紙状」は『玉葉』が情報源とも見られていたが、平田俊春はこれを詳細に検討して、幕府政所にあった案文に拠ったのであろうと推定し、以降それが定説となっている。", "qas": [ { "question": "北条泰時が大江広元時代の記録を集めさせた記録があるのは日本の元号で何年の何月何日条でしたか?", "id": "tr-439-22-000", "answers": [ { "text": "寛喜4年12月5日条", "answer_start": 110, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "大正時代初期の八代国治は、『吾妻鏡』と諸史料との突き合わせを行い、公卿の日記その他京系の多く史料が原史料となっていることを見つける。\nそして『吾妻鏡』の該当箇所と、オリジナルであろうとするものの該当箇所計29ヶ所を具体的に紹介した。\nその内、藤原定家の『明月記』が史料として使われている部分が非常に多く、14ヶ所とほぼ半分を占める。それらのことから、『吾妻鏡』は日記の体裁を取りながらも、明らかに後世の編纂物であると八代は断定した。\n八代国治が指摘した文献との関係については、先に触れた通り『玉葉』については否定され、また五味文彦は『平家物語』や『承久記』、そして平田俊春が戦前に主張した『六代勝事記』も使われた形跡は無く、それらの元となった史料合戦記などを利用したのではないかとする。\nそうした修整はあるものの『明月記』の他、『金槐和歌集』からの引用などは確かに確認され、後に佐藤進一は『飛鳥井教定記』も原史料のひとつに加えている、五味文彦は『十訓抄』なども二階堂行光の顕彰記事に利用された可能性があるとする。", "qas": [ { "question": "『吾妻鏡』が後世の編纂物であると断定した人物の氏名は何ですか?", "id": "tr-439-23-000", "answers": [ { "text": "八代国治", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『吾妻鏡』の中で、史料として使われた部分が非常に多かった書物は何ですか?", "id": "tr-439-23-001", "answers": [ { "text": "『明月記』", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "最後に一番重要な、ベースとなる原史料「幕府事務官僚の日記・筆録」を、各将軍記毎の特徴と合わせて見ていくと次のようになる。\nベースとなる原史料の種類・著者を推定することの最も困難な時期が、ちょうど源平合戦の時代、治承4年(1180年)から治承8年/元暦元年(1184年)頃である。\nこの時期は非常に物語性が強く、読み物としても面白いが、それだけに原資料の姿が現れ難い部分である。\nこの時代全般に渡って、いくつかの御家人の家に伝わる文書や家伝のようなもの、場合によっては「頼朝挙兵記」とでもいうような、既に出来上がっていた物語などが相当利用されていると推定されている。\n挙兵当時からの右筆として藤原邦通が知られるが、治承8年/元暦元年(1184年)頃から藤原俊兼、二階堂行政、大江広元、三善康信ら、朝廷に仕えていた中・下級実務官僚が相次いで鎌倉に下り、後に政所となる公文所や、問注所の担い手となる。\nその中で五味文彦は奥州合戦で軍奉行でもあった二階堂行政の筆録がベースと推定する。", "qas": [ { "question": "『吾妻鏡』の最も重要な土台となる原史料は何ですか?", "id": "tr-439-24-000", "answers": [ { "text": "「幕府事務官僚の日記・筆録」", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "頼朝挙兵時の右筆だった人物の名は何ですか?", "id": "tr-439-24-001", "answers": [ { "text": "藤原邦通", "answer_start": 295, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ビアトリクス・ポター", "paragraphs": [ { "context": "ヘレン・ビアトリクス・ポター(英:HelenBeatrixPotter[ˈbiːətrɪksˈpɒtə]、1866年7月28日-1943年12月22日)は、ピーターラビットの生みの親として知られるイギリスの絵本作家である。\nヴィクトリア時代の上位中産階級に生まれ、遊び相手も少ない孤独な環境で育つ。\n教育は家庭で行われ生涯学校に通うことはなかった。\n幼いころから絵を描くことを好み、多くのスケッチを残している。\nさまざまな動物をペットとして飼育し、キノコにも興味を持ち学会に論文を提出したこともあった。\n絵本作家としての原点は、1902年に出版された『ピーターラビットのおはなし』で、これは元家庭教師の子どもに描いて送った手紙が元になっている。\n39歳で婚約するが、わずか1か月後に婚約相手が死去する。\nその後、たびたび絵本にも登場する湖水地方において念願の農場を手に入れ、47歳で結婚した。\n結婚後は創作活動も少なくなり農場経営と自然保護に努めた。\n死後、遺灰はヒル・トップに散骨されている。", "qas": [ { "question": "ピーターラビットを生み出したイギリスの絵本作家とは誰ですか?", "id": "tr-440-00-000", "answers": [ { "text": "ヘレン・ビアトリクス・ポター", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビアトリクス・ポターが結婚した年齢は?", "id": "tr-440-00-001", "answers": [ { "text": "47歳", "answer_start": 387, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ビアトリクスはどこの地域の農場を手に入れましたか?", "id": "tr-440-00-002", "answers": [ { "text": "湖水地方", "answer_start": 368, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ピーターラビットのおはなし』が出版されたのはいつですか?", "id": "tr-440-00-003", "answers": [ { "text": "1902年", "answer_start": 264, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "創作活動の期間は十数年と長いものではなかったが、ピーターラビットの絵本シリーズは児童文学の古典として、世界各国で親しまれている。\n持ち前の観察力により生き生きとした動物を描き、秀れた絵と文で構成された作品の裏側にはポターの束縛と抑圧からの解放、自由への憧れが込められていると見るものもいる。\n自身のプライバシーを守ることに厳しく、散骨場所は夫にさえ教えなかったため不明となっている。\n関連商品の販売を提案、積極的な著作権の管理など実際家としての一面も持つ。\n湖水地方特有の羊、ハードウィック種の保護、育成に尽力し、羊の品評会では数々の賞を獲得するなど畜産家としても成功を収めた。\n生前から設立されて間もないナショナル・トラストの活動を支援しており、遺言によりナショナル・トラストに寄付された土地は4000エーカー以上であった。", "qas": [ { "question": "ビアトリクスの死後、ナショナル・トラストに寄付された土地はどれくらいの広さでしたか?", "id": "tr-440-01-000", "answers": [ { "text": "4000エーカー以上", "answer_start": 348, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヘレン・ビアトリクス・ポターは1866年7月28日に、ロンドンのサウス・ケンジントン、ボルトン・ガーデンズ2番地において、父ルパートと母ヘレンの長女として生まれた。\n当時は産業革命が起こり、イギリスは世界の工場と呼ばれた時代であった。\nビアトリクスは、この時代に台頭してきた上位中産階級の裕福な家庭に生まれている。\n父方の祖父であるエドマンドは世界最大のキャラコ捺染工場の経営者であり、国会議員にもなった人物であった。\n母方の家系も木綿で財を成しており、ビアトリクスが生まれたころは5人の使用人を雇っており、さらに幼いビアトリクスのために新しく乳母(ナース)を雇い入れている。\nビアトリクスのファーストネームは母親と同じヘレンであったため、彼女はセカンドネームのビアトリクスで呼ばれ、親しい者にはBと呼ばれていた。", "qas": [ { "question": "ヘレン・ビアトリクス・ポターが生まれた国はどこですか?", "id": "tr-440-02-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 95, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ビアトリクスの父方の祖父の名前は?", "id": "tr-440-02-001", "answers": [ { "text": "エドマンド", "answer_start": 166, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "父親のルパートは法廷弁護士の資格を取得していたが、弁護士としての仕事は一切せずに紳士クラブに通い、趣味に明け暮れる毎日であった。\n父は当時実用になり始めた写真を趣味としており、このおかげで幼い頃のビアトリクスの写真も残されている。\nまた『オフィーリア』で著名な画家、ジョン・エヴァレット・ミレーとも親しくしており、ミレーのために背景用の風景写真やモデルの撮影を行っている。\nミレーが自身の孫を描いた『しゃぼん玉』はルパートの写真を参考に制作されている。\nビアトリクスは少女のころミレーに絵を見てもらったことがあり、ミレーはポターに対し「絵の描ける人間は多いが、あなたと私の息子ジョンには観察力がある」と評価している。\n両親はともにキリストの神性を信じないユニテリアン派キリスト教徒であった。\nそのためクリスマスは寂しくつまらないものであったようで、他家のクリスマスをうらやむ描写がポターの日記に存在する。\nロンドンにあった4階建ての生家は、第二次世界大戦のときに爆撃を受けたため破壊されてしまい、跡地にはバウスフィールド小学校(BousfieldPrimarySchool)が建っている。", "qas": [ { "question": "『オフィーリア』を描いた画家の名は何ですか?", "id": "tr-440-03-000", "answers": [ { "text": "ジョン・エヴァレット・ミレー", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビアトリクスの生家の跡地には何が建っていますか?", "id": "tr-440-03-001", "answers": [ { "text": "バウスフィールド小学校", "answer_start": 452, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ビアトリクスの生家が消滅したのは、何の戦争が原因ですか?", "id": "tr-440-03-002", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦", "answer_start": 420, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ビアトリクスは乳母と家庭教師(ガヴァネス)によって教育され、4階の子ども部屋から階下の両親に会いに来るのは特別なときか「おやすみなさい」を言うときだけであった。\n親が認めない子と遊ぶことも許されないため、ビアトリクスは弟のバートラムが生まれる5歳までは、遊び相手が存在しなかった。\nしかしこれは当時の中流階級の家庭では特段珍しいものではなかった。\n良家の女児は学校へは行かず、家庭教師によって教育が行われることが一般的であり、ポターもまた例外ではなかった。\n一度も学校に通わなかったポターであったが、後年「学校に行かなくて良かった。行っていれば独自性が潰されてしまっていただろう」と述べており、学校に行けなかったことを後悔する節はない。\n少女時代は飼っているペットを観察しスケッチに残すか、他の何かの絵を描いていることが多かった。\n孤独で変化に乏しい毎日であったがポターは従順にそれを受け入れている。\nしかし、成長するにつれ抑圧された自我は吐け口を求め、15歳から31歳まで独自の暗号を使った日記に日々のことを書き綴っている。\nどこかに出かけた話や、誰かから聞いたジョーク、出会った人物の批評、時事問題などさまざまなことが記されており、非常に細かなところまで詳細に記されており、ポターが若い頃から鋭い観察眼を持った女性であったことがわかる。\nこの暗号日記はポターの死後10年以上も解読されずにいたが、1958年にレズリー・リンダーが解読に成功しており、それまで不明だったポターの若いころのことが一挙に明らかになっている。\n日記の内容はわざわざ暗号にするほどのものではなく、なぜ暗号を使ったかについてはさまざまな考察があるが、猪熊葉子や灰島かりは、抑圧された環境で自我を形成していく上で、秘密を持つことそのものが重要だったのではないかとしている。", "qas": [ { "question": "ビアトリクスの家庭教師は誰でしたか?", "id": "tr-440-04-000", "answers": [ { "text": "ガヴァネス", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポターの暗号日記を解読した人は誰ですか?", "id": "tr-440-04-001", "answers": [ { "text": "レズリー・リンダー", "answer_start": 606, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "弟が生まれた時、ビクトリアスはいくつでしたか?", "id": "tr-440-04-002", "answers": [ { "text": "5歳", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ポター家は毎年夏になるとスコットランドの避暑地へ行き、3か月から4か月ほど過ごしていた。\nしかし、1882年に避暑地のオーナーが代わり家賃を値上げしてきたため、新しい避暑地を探すこととなった。\n一家はスコットランドを諦め、イングランド北部の湖水地方、ウィンダミア湖の湖畔に建つレイ・カースルという城のような大きな屋敷を借りることにした。\nこれが後にポターと深いつながりを持つ湖水地方との最初の出会いとなった。\n作家として、また自然保護運動家としてのポターに大きな影響を与えたハードウィック・ローンズリーにもこの時に出会っている。\n社交的な父、ルパートは常に客と会話を楽しんでいたが、その中に地区の教区牧師であったローンズリーもいた。\nローンズリーは牧師をつとめるうちに湖水地方の美しい自然を愛するようになり、ナショナル・トラストの前身である湖水地方防衛協会を準備しているところであった。\n18世紀に始まった産業革命が自然の破壊をもたらし、これに危機感を持った人々が自然を保護し次世代へ伝えようとする運動が起こり始めた時代であった。\nローンズリーも危機感を持った人間の一人で、鉄道の敷設や大型四輪馬車道路の建設などに反対運動を起こしていた。\nローンズリーが語る自然保護の理想にポターは賛同していった。\n父ルパートも大いに共感し、後の1895年にローンズリーらが設立したナショナル・トラストの第1号終身会員となっている。", "qas": [ { "question": "ポター家が毎年夏に訪れていたのはどこですか?", "id": "tr-440-05-000", "answers": [ { "text": "スコットランド", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ポター家が湖水地方で借りた大きな屋敷の名前は何ですか?", "id": "tr-440-05-001", "answers": [ { "text": "レイ・カースル", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ポターは幼いころから自分の部屋でペットを飼い、動物たちを観察しスケッチに残してきた。\n時には死んだ動物を解剖したり剥製にして骨格を観察することすらあった。\n博物館に行き化石のスケッチも多く残したが、ポターが特に興味を惹かれたのは菌類、キノコであった。\n当時のイギリスでは各家庭に顕微鏡が存在するほど、一般市民の間で博物学の大流行が起きていた。\n女性の高等教育はまだ一般的ではなく、ようやくその必要性が認められはじめた時代であったが、女性がキノコの観察やスケッチを行うのはそれほど珍しいことではなかった。\nポターはキノコの精緻なスケッチを描き続け、叔父にあたる化学者ヘンリー・ロスコーの計らいにより、ついにはキュー王立植物園で自由に観察・研究できるようになった。\n他の研究者もポターを歓迎していたが、ポターが胞子の培養に成功すると態度は突然冷たくなっていった。\nアマチュアとしての研究ならば女性であっても認められていたが、大多数の専門家はポターのようなアマチュア研究者が自分たちの領域に入り込むことを疎ましく思っていた。\n王立植物園から疎外されたポターは、ロスコーの勧めもあって1897年に「ハラタケ属の胞子発生について―ミス・ヘレン・B・ポター」と題した論文をロンドン・リンネ学会に提出した。\nしかし女性が学会に参加することは認められず、論文は植物園副園長が代理で読み上げた。\n一説にはタイトルだけしか読み上げられなかったともいわれている。\nポターは日記にその無念さを書き残している。\nポターはその後もキノコの研究を続けたが、やがて研究からは遠ざかっていった。\n『ピーターラビットの野帳』の著者、アン・スチーブンソン・ホッブスは1900年以降にはキノコがスケッチにほとんど登場していないと指摘している。\nもし、こうした事件が起こらなければポターは研究者として名を残したかもしれず、ピーターラビットも生まれなかったという者もいる。\n彼女が残した絵は、死後の1967年に発行された『路傍と森林の菌類(WaysideandwoodlandFungi)』に挿画として使われている。\n1997年の4月にリンネ学会は、性差別があったことを公式に謝罪した。", "qas": [ { "question": "ポターが特に関心を持った菌類とは何ですか?", "id": "tr-440-06-000", "answers": [ { "text": "キノコ", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ロンドン・リンネ学会に提出したポターの論文のタイトルは何でしたか?", "id": "tr-440-06-001", "answers": [ { "text": "「ハラタケ属の胞子発生について―ミス・ヘレン・B・ポター」", "answer_start": 494, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ポターの叔父の名前は?", "id": "tr-440-06-002", "answers": [ { "text": "ヘンリー・ロスコー", "answer_start": 282, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ポターが自身の作品で初めて収入を得たのは、ポターがまだキノコに夢中になっているころの1890年であった。\n印刷機の購入資金について難儀していたポターは叔父のロスコーに相談し、親族らに贈っていたクリスマスカードを販売するよう助言を受けた。\nポターは、ベンジャミン・バウンサー(ベンジャミン・バニー)と名づけたペットのベルギーウサギをモデルに6枚のカードをデザインした。\n出版社に持ち込んだ絵は1社には断られたものの、次の出版社はポターのイラストにその場で6ポンドを支払った。\n結局ポターの作品はクリスマスと新年用のカード、それとフレデリック・ウェザリーの詩集『幸せな二人づれ(AHappyPair)』の挿絵として使われた。\nポターはこの結果を喜び、モデルとなってくれたベンジャミンに麻の実をカップ一杯与えている。", "qas": [ { "question": "ポターが飼っていたウサギの名前は何ですか?", "id": "tr-440-07-000", "answers": [ { "text": "ベンジャミン・バウンサー", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "自信をつけたポターは出版社数社にスケッチや小型本を送ったが、これは出版には至らなかった。\nポターの最初の本『ピーターラビットのおはなし』は子どもに宛てた手紙がきっかけとなって出版された。\nポターは自分の元家庭教師アニー・ムーア(旧姓カーター)とその家族と親しくしており、たびたびムーア家の子どもたちに絵手紙を送っていた。\n1893年9月4日にはアニーの5歳の男の子ノエルにウサギの話を送っている。\nポターはアニーの勧めもあり、これらの話を本として出版することに決め、親しくしていたローンズリーに出版について相談した。\nローンズリーは詩作などの創作活動も行っていたことから出版社に顔が広く、ポターの作品は彼が紹介した出版社、少なくとも6社に持ち込まれた。\nポターは小型本での発行を望み、また子どもが購入できるよう安価にしたいと考えていたが、それは出版社の望むところではなく、出版の承諾はひとつたりとも得られなかった。\nポターは自費出版することに決め、1901年12月16日に初版250部が完成した。\n完成した『ピーターラビットのおはなし(TheTaleofPeterRabbit)』は知人や親戚にクリスマスプレゼントとして贈り、残ったものは1冊1シリングに郵送料を加えた価格で販売した。\nこの小さな本は評判となり1、2週間で売切れてしまった。\n購入者にはアーサー・コナン・ドイルもおり、内容について高い評価を与えている。\n追加で200部が増刷され、その後一部語句を改め表紙の色を変えた1902年2月版を発行した。", "qas": [ { "question": "『ピーターラビットのおはなし』の初版は何部で出版されましたか?", "id": "tr-440-08-000", "answers": [ { "text": "250部", "answer_start": 438, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポターが本の出版に関して相談した人は誰でしたか?", "id": "tr-440-08-001", "answers": [ { "text": "ローンズリー", "answer_start": 240, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ノエルの母親のフルネームは何?", "id": "tr-440-08-002", "answers": [ { "text": "アニー・ムーア", "answer_start": 106, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ローンズリーはこの間、商業的に出版できる会社を探し出そうとしており、ポターの散文を自身の韻文に改めて出版社に持ち込んでいた。\nローンズリーの持ち込んだフレデリック・ウォーン社は絵本作家のレズリー・ブルックに相談し、「成功間違いなし」との返答を得ると、『ピーターラビットのおはなし』の出版を引き受けることとなった。\nただし韻文から散文に戻すことと、挿絵を30点に絞り全てカラーにすることが条件であった。\n1902年10月2日、『ピーターラビットのおはなし』の初版8,000部が発行された。\n初版は1シリングの厚紙装丁版と1シリング6ペンスのクロース装丁版が存在した。\n8,000部は予約で売り切れ、年内に2度増刷し、1903年末までには5万部を売り上げる結果となった。\nウォーン社はアメリカで出版する際に版権を取らなかったため、1904年には海賊版が出回る事態となっている。\nポターはアニーの別の子どもに、仕立て屋の話をクリスマスプレゼントとして贈っていた。\nポターはこの話も本にすることに決めたが、まだ『ピーターラビットのおはなし』の結果が出ていないことと、自分の望む形の内容で出版したかったことから、またも自費出版で出すことに決めた。\n1902年5月に『グロースターの仕たて屋』は500部印刷された。\nウォーン社は内容に少し手を加え、第3作目の『りすのナトキンのおはなし』とともに1903年に出版した。\nこれ以降、およそ年に2冊の割合でポターの作品がウォーン社から出版されるようになる。", "qas": [ { "question": "『ピーターラビットのおはなし』を出版した会社名は何ですか?", "id": "tr-440-09-000", "answers": [ { "text": "フレデリック・ウォーン社", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ピーターラビットのおはなし』と『りすのナトキンのおはなし』はどちらが後で出版されましたか?", "id": "tr-440-09-001", "answers": [ { "text": "『りすのナトキンのおはなし』", "answer_start": 573, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『ピーターラビットのおはなし』は1903年末までに何部を売り上げましたか?", "id": "tr-440-09-002", "answers": [ { "text": "5万部", "answer_start": 317, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フレデリック・ウォーン社は創業者の息子3人によって経営される家族経営の会社であった。\nポターと連絡を取り合っていたのは一番下のノーマン・ウォーンであった。\nノーマンとは毎日のように手紙のやり取りを交わしており、ウォーン社にもたびたび出向いていたため、ポターはウォーン家と親しくなっていった。\nポターにとって実家は窮屈で居心地が良くなかったこともウォーン家に親しみを感じる一因となった。\n次第にポターとノーマンはお互いに惹かれあうようになり、ノーマンが営業で会社を離れているときは、ポターはウォーン社とまともに連絡を取り合おうとしない有様だった。\n二人の親密さは深まる一方であったがポターの母ヘレンは快く思ってはいなかった。\n『2ひきのわるいねずみのおはなし』に登場する人形の家をスケッチするため、ノーマンとポターは2人で出かけることを計画したが、ポターの母親は2人だけの外出を許そうとはせず、結局スケッチは写真を見て行うことになった。\n母親の束縛に落胆するポターであったが、本の売れ行きは順調であったのでいつか自立できるに違いないと将来を明るく考えてもいた。", "qas": [ { "question": "フレデリック・ウォーン社の経営者の中で、特にポターと親しくなった人は誰ですか?", "id": "tr-440-10-000", "answers": [ { "text": "ノーマン・ウォーン", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1905年7月25日ノーマンからポターへ結婚を申し込む手紙が届いた。\n無論ポターはこのプロポーズを喜んだが、ポターの両親の反応は全く違うものであった。\n両親は自分たちの娘が商売人と結婚するようなことを認めなかった。\n自分たちの先祖も商人であったにもかかわらず、家の格が違うことを気にしたのである。\nしかし、ポターも当時39歳であり決意も固く、両親の反対を押し切りプロポーズを受けることにした。\nただし両親が条件として出した「婚約のことはごく限られたものだけにしか知らせず、ノーマンの兄弟にも知らせない」という約束を守らねばならなかった。\nところがプロポーズの手紙から1か月後の8月25日、ノーマンはリンパ性白血病のため37歳でこの世を去った。\nポターは悲しみに暮れたが秘密の婚約であったため、誰にもその胸の内を明かすことはできなかった。", "qas": [ { "question": "ノーマンの死因は何だったの?", "id": "tr-440-11-000", "answers": [ { "text": "リンパ性白血病", "answer_start": 299, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポターがノーマンからプロポーズの手紙をもらったのはいつ?", "id": "tr-440-11-001", "answers": [ { "text": "1905年7月25日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "フィアンセを失ったポターであったが、思い切って湖水地方のニア・ソーリーにあるヒル・トップの農場を購入することに決めた。\n以前に湖水地方に来たときからニア・ソーリーを気に入っており、いつか物件を購入したいと願っていたのである。\nまた当時の日記には、農場での仕事がノーマンの死の悲しみを癒してくれると記されている。\nこのころの作品には湖水地方に実在する建物や人物がたびたび登場する。\n『こねこのトムのおはなし』ではヒル・トップの家や庭が舞台となっている。\n絵本は順調に売り上げを伸ばし印税収入も着実に増えてくると、ポターはナショナル・トラストを支援するため湖水地方の土地や建物を購入していった。\n不動産の購入だけでなく、水上飛行機の飛行場ができるという噂が立ったときは、抗議文を雑誌へ投稿したり、建設反対の署名運動も行っている。\nこうした自然保護活動のために購入した土地や建物が増えると、その管理には弁護士が必要となりポターはウィリアム・ヒーリスという弁護士に売買契約や諸手続きを依頼することにした。\nヒーリスはポターの自然保護運動に共感し、不動産取引のやり取りが増えるにつれ二人の仲は深まり、ついに1912年6月ヒーリスはポターに結婚を申し込んだ。\n結婚について聞かされたポターの両親はまたしても格の違いを理由に結婚に反対した。\nこのときポターは46歳であった。\n困り果てたポターを救ったのは弟のバートラムであった。\nスコットランドで農夫として生活していたバートラムは実は11年前に結婚しており、それを初めて家族に打ち明けたのであった。\n娘の結婚に対する反対はやがて弱まり、1913年10月15日にウィリアム・ヒーリスとビアトリクス・ポターはロンドンにあるセント・メアリー・アボット教区教会で結婚式を挙げた。", "qas": [ { "question": "ポターにプロポーズした2人目の男性は誰でしたか?", "id": "tr-440-12-000", "answers": [ { "text": "ヒーリス", "answer_start": 449, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ポターとバートラムはどちらが先に結婚しましたか?", "id": "tr-440-12-001", "answers": [ { "text": "バートラム", "answer_start": 627, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウィリアム・ヒーリスの職業は何でしたか?", "id": "tr-440-12-002", "answers": [ { "text": "弁護士", "answer_start": 398, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポターが結婚式を行った教会名は何?", "id": "tr-440-12-003", "answers": [ { "text": "セント・メアリー・アボット教区教会", "answer_start": 727, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "結婚の慌しい時期に作られたのが『こぶたのピグリン・ブランドのおはなし』である。\nこの作品はポターには珍しく男女の愛が描かれた作品となっており、ポターは友人への手紙でこの作品のモデルは私たちではないと、わざわざ断りを入れている。\nしかしながら多くのものはこの作品をポターの幸せな日々と重ねて見ている。\nビアトリクスの結婚から1年も経たない、1914年5月8日に父のルパートが亡くなった。\n父親は癌に罹患しポターは見舞いのため4か月間で8度も実家とニア・ソーリーを往復している。\n残された母親のため、ポターはニア・ソーリーに新たに家を借り入れている。\nまた、4年後の1918年には最愛の弟バートラムが農作業中に脳溢血で死去している。\nポターはこの悲しみをローンズリーに手紙でつづっている。", "qas": [ { "question": "ルパートとバートラムはどちらが先に亡くなりましたか?", "id": "tr-440-13-000", "answers": [ { "text": "ルパート", "answer_start": 181, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ルパートの死因は何でしたか?", "id": "tr-440-13-001", "answers": [ { "text": "癌", "answer_start": 196, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バートラムの死因は何でしたか?", "id": "tr-440-13-002", "answers": [ { "text": "脳溢血", "answer_start": 303, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ポターとウォーン社とのやり取りは続いており、ノーマンの代わりに一番上の兄弟ハロルドがポターを担当していた。\nハロルドとは作中の言葉をめぐって対立するなどノーマンほどの信頼関係は築けず、またウォーン社から金銭の支払いが滞ることがたびたび起こっていた。\n支払いが滞っている原因はハロルドにあった。\n彼はウォーン社とは別に漁業会社も受け継いでおり、その運営のためにウォーン社の資金が流用されていた。\nハロルドは資金調達のために詐欺も働いており、1917年に偽造罪で逮捕され出版業から追放されてしまった。\nウォーン社の経営は次男のフルーイングがとることとなったが、ウォーン社は今にも倒産の危機にあった。\nポターは『アプリィ・ダプリィのわらべうた』『こねこのトムのぬりえ帖』を提供し、ウォーン社の再建を手助けしている。", "qas": [ { "question": "ノーマンの死後、ポターの担当者は誰でしたか?", "id": "tr-440-14-000", "answers": [ { "text": "ハロルド", "answer_start": 37, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハロルドは何の罪で逮捕されましたか?", "id": "tr-440-14-001", "answers": [ { "text": "偽造罪", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハロルドの逮捕後、ウォーン社を経営した人は誰ですか?", "id": "tr-440-14-002", "answers": [ { "text": "フルーイング", "answer_start": 261, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ポターはニア・ソーリーでの農村生活を楽しむ一方、創作活動への情熱は失われつつあった。\n理由のひとつには目が悪くなったこともあった。\nニア・ソーリーに電気が通ったのは1933年のことで、それまでポターは目に負担のかかるロウソクやランプの明かりで制作を行っていた。\nまた、農場経営にやりがいを見出したのも理由の一つであったかもしれない。\nそのような中、ニューヨーク公共図書館の児童図書責任者であり、児童文学評論家でもあるアン・キャロル・ムーアの来訪はポターを喜ばせた。\nポターの作品は売り上げこそ良かったものの、その文学的評価はイギリスではまだ高くなく、権威ある立場のムーアが評価してくれたことはポターにとって大きな喜びと創作活動への刺激となった。\n新しいアメリカの友人ムーアとの出会いは『セシリ・パセリのわらべうた』の制作再開へとつながり、この本は1922年に出版された。\n1929年には、ポターはアメリカの出版社デイヴィッド・マケイの要請に応えて『妖精のキャラバン』を出版した。\n蚊帳の外に置かれたウォーン社は不満を募らせ、次回作の『こぶたのロビンソン』はアメリカ・イギリス両方で発売されることになった。\n1932年には『妹アン』がまたアメリカのみで出版されたが、挿画はキャサリン・スタージスが担当した。\nこの作品はポター自身も子ども向きとは思っておらず、友人のアン・キャロル・ムーアも手厳しく批評している。\nこの年の冬に母親のヘレンが93歳で亡くなっている。", "qas": [ { "question": "ヘレンが死去したのは何年でしたか?", "id": "tr-440-15-000", "answers": [ { "text": "1932年", "answer_start": 503, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『妖精のキャラバン』と『セシリ・パセリのわらべうた』はどちらが先に出版されましたか?", "id": "tr-440-15-001", "answers": [ { "text": "『セシリ・パセリのわらべうた』", "answer_start": 342, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1924年には2,000エーカー以上の広さを持つ大農場トラウトベック・パークを購入した。\nポターはこれ以外にもニア・ソーリーに3つの農場を所有しておりこの地方の大地主となった。\nポターはトム・ストーリーという羊飼いを雇い、1927年にヒル・トップ農場の管理と品評会に出すヒツジの世話を行わせた。\nヒル・トップの農場には湖水地方原産のハードウィック種が飼育されていた。\nハードウィック種は個体数が減少しており、それを憂慮したローンズリーは1899年に「ハードウィック種綿羊飼育者協会」を設立し、保護に努めていた。\nローンズリーを敬愛していたポターもハードウィック種の保護、育成に取り組んでいった。\n品評会では毎年数々の賞を勝ち取り、後の1943年にポターは「ハードウィック種綿羊飼育者協会」の次期会長に選出されている。\nポターは就任前に死去してしまったが就任していれば初めての女性会長となっていた。", "qas": [ { "question": "ヒル・トップ農場の管理者は誰が行っていましたか?", "id": "tr-440-16-000", "answers": [ { "text": "トム・ストーリー", "answer_start": 93, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ハードウィック種綿羊飼育者協会」が設立されたのは何年でしたか?", "id": "tr-440-16-001", "answers": [ { "text": "1899年", "answer_start": 218, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ポターは小さな頃から体が弱く、20代にはリウマチも患っていた。\n心臓も弱く晩年には「少女のころにリューマチ熱を患ってから、私の心臓は、一度も正常だったためしがないのです」と述べている。\n1938年には10日間入院することになり、その3か月後には子宮摘出の手術を受けている。\n術後の経過は順調で、ガールズガイドに77歳の誕生日を祝ってもらうこともあったが、1943年の11月からは気管支炎にかかり病床に臥した。\n1943年12月22日、死期が近いことを知ったポターはトム・ストーリーを呼びつけ、自分が死んだ後のことを託した。\nポターはその晩に亡くなった。\n遺灰はポターの遺言どおりにストーリーがヒル・トップの丘に散骨した。\nポターの財産のほとんどは夫のウィリアムに残され、フレデリック・ウォーン社の株はノーマンの甥、フレデリック・ウォーン・スティーブンズに遺贈された。\nポターの著作権や印税もウィリアムの死後は彼に譲られることになった。\n湖水地方の4000エーカー以上の土地と15の農場、そして建物はナショナル・トラストに寄贈された。\nポターが初めて購入し、もっとも大事にしていた場所ヒル・トップは現状を維持し貸し出しをしないよう言い残している。\n散骨した場所はポターが秘密とすることを望んだため不明となっている。", "qas": [ { "question": "ポターの遺灰が散骨された場所はどこでしたか?", "id": "tr-440-17-000", "answers": [ { "text": "ヒル・トップの丘", "answer_start": 296, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポターが亡くなったのはいつですか?", "id": "tr-440-17-001", "answers": [ { "text": "1943年12月22日", "answer_start": 205, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ビアトリクス・ポターはルイス・キャロルを除けば、その人物像や作品に対し研究が最も行われた児童文学者である。\n学術団体であるビアトリクス・ポター学会(TheBeatrixPotterSociety)は1980年に設立されている。\n先駆的な研究を行った者としてマーガレット・レインとレズリー・リンダーが挙げられる。\nレインは1946年に最初のポターの伝記『TheTaleofBeatrixPotter』を著した人物である。\nまた、1978年に発行された『ビアトリクス・ポターの生涯』の著者でもある。\nリンダーはポター作品の書誌的研究や資料の収集整理、そして暗号日記の解読など、後のポター研究の礎を築き上げた。\nリンダーは元々エンジニアとして滑車装置の設計などを行っていたが、ある時教会の児童図書室の管理を任されたのを機にポター研究を開始した。\nリンダーが解読した日記は、ポターの管財人や出版社、またリンダー自身により、出版するには好ましくないと考えられた部分が削除されている。\nこの削除については断り書きもなく、ほとんどのジョークが削除されたことでポターのユーモアセンスが見えなくなっていると、後にビアトリクス・ポター学会の代表を務めたジュディ・テイラーからの批判も出ており、テイラーはこれを補った改訂版を1989年に出版している。\nまた、テイラーはポターの伝記を執筆する際にレインに連絡を取り未公表の資料を確認したが、レインの返信によれば新資料はこれ以上存在しないということであった。\nしかしテイラーが調査するにつれ、ポターと過ごした人物たちに聞き取りが行われていないことや、ウォーン社に残されていた手紙が見逃されていたことが明らかになっていった。\nこれらの事実からテイラーは、結婚と同時に絵本作家としての「魔法の年月は終わった」というレインの見解を「ビアトリクスの創作の魔力は、依然として失われていませんでした」と否定している。", "qas": [ { "question": "『TheTaleofBeatrixPotter』と『ビアトリクス・ポターの生涯』はどちらが早く出版されましたか?", "id": "tr-440-18-000", "answers": [ { "text": "『TheTaleofBeatrixPotter』", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『ビアトリクス・ポターの生涯』の著者は誰ですか?", "id": "tr-440-18-001", "answers": [ { "text": "マーガレット・レイン", "answer_start": 128, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "日本における研究ではビアトリクス・ポター学会初の日本人会員となった吉田新一が著名である。\nまた、大東文化大学は英米文学科が中心となってビアトリクス・ポター資料館を運営している。\n2014年には大東文化大学の河野芳英の研究により、ポターは少女時代に二代目歌川広重の絵手本『諸職画通三編』の表紙や浮世絵の模写を行っていることが明らかとなったが、作画に及ぼした影響は不明である。", "qas": [ { "question": "日本でポターの研究者として有名な人は誰ですか?", "id": "tr-440-19-000", "answers": [ { "text": "吉田新一", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ポターが子供の時に模写を行った日本の本とは何ですか?", "id": "tr-440-19-001", "answers": [ { "text": "『諸職画通三編』", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ライナス・ポーリング", "paragraphs": [ { "context": "ライナス・カール・ポーリングは、アメリカ合衆国の量子化学者、生化学者だ。彼自身は結晶学者、分子生物学者、医療研究者とも自称していた。\n\nポーリングは20世紀における最も重要な化学者の一人として広く認められている。量子力学を化学に応用した先駆者であり、化学結合の本性を記述した業績により1954年にノーベル化学賞を受賞した。また、結晶構造決定やタンパク質構造決定に重要な業績を残し、分子生物学の草分けの一人とも考えられている。ワトソンとクリックが1953年にDNAの生体内構造である「二重らせん構造」を発表する前に、ポーリングはほぼそれに近い「三重らせん構造」を提唱していた。多方面に渡る研究者としても有名で、無機化学、有機化学、金属学、免疫学、麻酔学、心理学、弁論術、放射性崩壊、核戦争のもたらす影響などの分野でも多大な貢献があった。\n\n1962年、地上核実験に対する反対運動の業績によりノーベル平和賞を受賞した。ノーベル賞を2度受賞した4人の1人。初めてのキュリー夫人に次いで2人目だ。化学賞と平和賞という全く異なる分野に及ぶ唯一の受賞者。\n\n後年、大量のビタミンCや他の栄養素を摂取する健康法を提唱し、更にこの着想を一般化させて分子矯正医学を提唱、それを中心とした数冊の本を著してこれらの概念、分析、研究、及び洞察を一般社会に紹介した。", "qas": [ { "question": "ライナス・カール・ポーリングは何年にノーベル化学賞を受賞したの?", "id": "tr-441-00-000", "answers": [ { "text": "1954年", "answer_start": 142, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ライナス・カール・ポーリングは何年にノーベル平和賞を受賞したの?", "id": "tr-441-00-001", "answers": [ { "text": "1962年", "answer_start": 369, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ライナス・カール・ポーリングはノーベル化学賞とノーベル平和賞とどっちの方をもっと先に受賞したの?", "id": "tr-441-00-002", "answers": [ { "text": "ノーベル化学賞", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "初めてノーベル賞を2度受賞したのは誰ですか。", "id": "tr-441-00-003", "answers": [ { "text": "キュリー夫人", "answer_start": 429, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ライナス・カール・ポーリングはオレゴン州ポートランドに生まれる。父はミズーリ州コンコーディア出身のハーマン・ヘンリー・ウィリアム・ポーリング、母はオレゴン州ローンロック出身のルーシー・イザベル・ダーリングだ。父ハーマンは薬剤師だったが仕事がうまく行かず、1903年から1909年まで家族を連れてオレゴン州内の都市を転々と移り、最終的にポートランドに戻った。父は1910年、母とライナスたち兄妹を残して穿孔性潰瘍で他界した。ライナスにはポーリン・ポーリングとルシル・ポーリングの二人の妹弟がいた。ポーリンは後に、ニュージャージー州ミルヴィル出身のトーマス・ジョセフ・ネイと結婚している。", "qas": [ { "question": "ライナス・カール・ポーリングの父の死因は何でしたか。", "id": "tr-441-01-000", "answers": [ { "text": "穿孔性潰瘍", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ライナス・カール・ポーリングの母の名前は何なの?", "id": "tr-441-01-001", "answers": [ { "text": "ルーシー・イザベル・ダーリング", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポーリン・ポーリングは誰と結婚したの?", "id": "tr-441-01-002", "answers": [ { "text": "トーマス・ジョセフ・ネイ", "answer_start": 272, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トーマス・ジョセフ・ネイはどこ出身ですか。", "id": "tr-441-01-003", "answers": [ { "text": "ニュージャージー州ミルヴィル", "answer_start": 255, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ポーリングは幼少の頃、熱心な読書家だった。ある時、父は地方紙宛に手紙を送り、ポーリングが熱中しそうな本を何冊か紹介して欲しいと依頼したほどであった。ポーリングが小学校に通っていた頃、父の友人ロイド・ジェフレスは寝室に小さな化学の実験室を持っており、そこで室内実験を学んだポーリングは、化学工学の道へ進む夢を抱いた。\n\nその後、ポートランドのワシントン高校に進学したポーリングは化学の実験を続けた。機材は祖父が夜警員として働いていた仕事場近くの廃棄鉄工場から借用していた。\n\nポーリングは家計を助けるアルバイトに明け暮れて出席日数が足りないため、必修のアメリカ史の単位を取ることができず、高校の卒業証書を授与される資格が得られなかった。同高校が卒業証書を授与したのは45年後の1962年、ポーリングが2つのノーベル賞を受賞した後のことである。", "qas": [ { "question": "ポーリングは誰の実験室で室内実験を学んだか。", "id": "tr-441-02-000", "answers": [ { "text": "ロイド・ジェフレス", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーリングが通った高校はどこですか。", "id": "tr-441-02-001", "answers": [ { "text": "ワシントン高校", "answer_start": 170, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーリングがワシントン高校の卒業証書をもらったのはいつでしたか。", "id": "tr-441-02-002", "answers": [ { "text": "1962年", "answer_start": 337, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポーリングが高校の卒業証書を授与されなかったのは、どの科目の単位が取れなかったからですか。", "id": "tr-441-02-003", "answers": [ { "text": "アメリカ史", "answer_start": 275, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1917年、ポーリングはコーバリスのオレゴン農業大学に入学した。オレゴン農業大学に在学中、ポーリングはデルタ・ユプシロン・フラタニティのオレゴン農業大学支部を創設。経済的な理由により、大学の講義に出席する傍ら、フルタイムで働く生活を余儀なくされた。入学して2年が経った後、ポーリングは母を養うためにポートランドで職を探そうとしていたが、大学側は彼に定量分析を教える職を提供した。これにより、彼は学生を続けることができるようになった。\n\nオレゴン農業大学での最後の2年間で、ポーリングはギルバート・ルイスとアーヴィング・ラングミュアによる原子の電子構造と分子を形成する原子間結合についての研究を知る。これにより、物質の物理的及び化学的性質とそれを構成する原子構造の関係の研究に集中することを決心した。後には量子化学という新分野の開拓者の一人となった。\n\n1922年、ポーリングは化学工学で学士号を授与されオレゴン農業大学を卒業した。カリフォルニア州パサデナのカリフォルニア工科大学に進学し、ロスコー・ディッキンソンに師事する。卒業研究はX線回折を用いた結晶構造決定に関するものであった。同大学在学中に、鉱物の結晶構造に関する7報の論文を発表した。1925年、最優等で修了し物理化学と数理物理学で博士号を授与された。", "qas": [ { "question": "1917年、ポーリングはどの大学の学生になりましたか。", "id": "tr-441-03-000", "answers": [ { "text": "オレゴン農業大学", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ポーリングは何年に数理物理学で博士号を授与されたか。", "id": "tr-441-03-001", "answers": [ { "text": "1925年", "answer_start": 522, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーリングはオレゴン農業大学を卒業してからどの学校に進学したか。", "id": "tr-441-03-002", "answers": [ { "text": "カリフォルニア工科大学", "answer_start": 428, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポーリングはどの大学に在学していた時、鉱物の結晶構造に関する7報の論文を発表したの?", "id": "tr-441-03-003", "answers": [ { "text": "カリフォルニア工科大学", "answer_start": 428, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "大学4年生の時、ポーリングは「家政学科のための化学」という3年生のコースを教えていた。そこでエヴァ・ヘレン・ミラーと出会い、1923年6月17日に結婚した。彼らの間には3人の息子と1人の娘が生まれた。\n\nポーリングはその後、グッゲンハイム奨学金を使ってヨーロッパに渡り、ミュンヘンでドイツ人物理学者のアルノルト・ゾンマーフェルトに、コペンハーゲンでデンマーク人物理学者のニールス・ボーアに、そしてチューリッヒでオーストリア人物理学者のエルヴィン・シュレーディンガーにそれぞれ師事した。これら3人の物理学者は、物理学の諸分野に加えて量子力学という新分野を専門にしていた。オレゴン農業大学に在学中、ポーリングは量子論、量子力学の考え方に触れ、それらがどのように原子と分子の電子構造の理解に応用されるのかに興味を持った。ヨーロッパでポーリングは、ヴァルター・ハイトラーとフリッツ・ロンドンが行った水素分子中の結合の量子力学的解析のひとつに触れる。ポーリングは2年間のヨーロッパ滞在をこの仕事に費やし、これを将来研究の焦点にすることを決めた。これにより、量子化学の最初期の研究者、および量子論を分子構造論へ応用した草分け的存在となる。1927年、カリフォルニア工科大学で理論化学の助教に就任した。", "qas": [ { "question": "ポーリングは大学何年生の時エヴァ・ヘレン・ミラーと出会ったか。", "id": "tr-441-04-000", "answers": [ { "text": "大学4年生", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エヴァ・ヘレン・ミラーとポーリングの間には何人の娘が生まれましたか。", "id": "tr-441-04-001", "answers": [ { "text": "1人", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エヴァ・ヘレン・ミラーとポーリングの間には娘の方が多いですか、息子の方が多いですか。", "id": "tr-441-04-002", "answers": [ { "text": "息子", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ポーリングは何年にカリフォルニア工科大学で理論化学の助教に就任したの?", "id": "tr-441-04-003", "answers": [ { "text": "1927年", "answer_start": 513, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ポーリングはカリフォルニア工科大学で教員活動を開始したが、最初の5年間は非常に実りが多く、X線結晶学の研究と、原子や分子の量子力学計算を続けた。この5年間で彼はおよそ50の論文を発表し、ポーリングの法則として知られる5つの法則を発見した。1929年、彼は准教授に昇任し、1930年には教授に就任した。1931年までにアメリカ化学会よりラングミュア賞(30歳以下の人物による純粋化学で最も重要な研究に贈られる)を受賞した。1932年、ポーリング自身が最も重要なものとみなしていた論文、すなわち、原子軌道の混成の概念を打ち出し、それにより四価である炭素原子の電子構造を説明する論文を発表した。\n\nカリフォルニア工科大学で、ポーリングは理論物理学者のロバート・オッペンハイマーと親交を結ぶ。オッペンハイマーはカリフォルニア大学バークレー校の教授だったが、毎年研究や講義で一部の時間をカリフォルニア工科大学で過ごしていた。ポーリングは睡眠中に歌を歌うことで知られており、そのために、一度夜中に歌を歌い迷惑罪で逮捕されたことがあった。2人は共同で化学結合の本質を暴くことを計画した。つまり、オッペンハイマーが数学の部分を担当し、ポーリングがその結果を解釈していたようである。しかしこの関係は、オッペンハイマーが妻エヴァ・ヘレンに近付きすぎているとポーリングが疑いを持ったため、次第にほころびていった。これが原因でポーリングとオッペンハイマーの関係は冷えていく。オッペンハイマーは原子爆弾計画の際、ポーリングを化学部門のトップに招いたが、ポーリングは自分が平和主義者であることを理由に辞退した。\n\n1930年の夏、ポーリングは再びヨーロッパに渡り、電子線回折法を学んだ。カリフォルニア工科大学で彼は学生のブロックウェイと共に電子線回折装置を構築し、多くの分子構造解析に活用した。\n\n1932年、電気陰性度の概念を発表した。結合開裂エネルギーや分子の双極子モーメントなど、分子の様々な性質を用いて、彼は物質の多くの情報を記述する「ポーリングの電気陰性度」を確立させた。この電気陰性度は、分子中の原子間の結合の性質を予測するのに役立つものである。", "qas": [ { "question": "ポーリングは何年に准教授に昇任したの?", "id": "tr-441-05-000", "answers": [ { "text": "1929年", "answer_start": 119, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポーリングの妻の名前は何なの?", "id": "tr-441-05-001", "answers": [ { "text": "エヴァ・ヘレン", "answer_start": 551, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポーリングが発見した5つの法則は何と知られいていますか。", "id": "tr-441-05-002", "answers": [ { "text": "ポーリングの法則", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポーリングは1932年、何を発表したの?", "id": "tr-441-05-003", "answers": [ { "text": "電気陰性度の概念", "answer_start": 791, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1930年代、ポーリングは化学結合の性質に関する論文を発表し始め、1939年にはこの分野の有名な教科書を出版した。ポーリングは1954年に「化学結合の本性、ならびに複雑な分子の構造研究」でノーベル化学賞を受賞するが、この受賞理由は主にこの分野の研究に基づくものである。1939年には化学結合に関する研究の成果を『化学結合の本性TheNatureoftheChemicalBond』という著作にまとめた。この本は化学界に非常に大きな影響を与え、初版が出版されてから30年間のうちに引用された回数は16,000を超えた。今日においても、重要な学術雑誌に掲載される多くの論文がこの著作を引用している。\n\nポーリングの化学結合の研究の一部は、軌道の混成という概念の導入への道標を与えた。原子内の電子はsやpなどの型を持つ軌道として記述されるのが普通だが、分子内の結合を記述する際には、これら軌道のうちいくつかの性質を帯びた関数を組み立てると都合が良いことがわかった。具体的に言えば、炭素原子が持つ1つの2s軌道と3つの2p軌道は、「sp3混成軌道」と呼ばれる4つの等価な軌道を形成し、メタンなどの炭素化合物を適切に説明する軌道となる。また、2s軌道は2つの2p軌道と混成して(この場合には1つの2p軌道が非混成のまま残される)、「sp2混成軌道」と呼ばれる3つの等価な軌道を形成する場合もある。これはエチレンなどある種の不飽和炭素化合物を説明する際に適切な軌道である。さらに異なる軌道の混成も、他の種類の分子では確認されている。", "qas": [ { "question": "ポーリングはどの研究で1954年にノーベル賞を受賞したか。", "id": "tr-441-06-000", "answers": [ { "text": "「化学結合の本性、ならびに複雑な分子の構造研究」", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『化学結合の本性TheNatureoftheChemicalBond』の著者は誰なの?", "id": "tr-441-06-001", "answers": [ { "text": "ポーリング", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1965年10月15日、ポーリングは原子核のクロース-パックト・スフェロン模型をScienceとProc.Natl.Acad.Sci.誌上で発表した。他界する1994年までのほぼ30年間、ポーリングはスフェロン・クラスター・モデルに関する多くの論文を発表した。\n\n現代の核物理学の本でポーリングのスフェロン原子核模型を扱ったものはほとんど無いが、一流の科学雑誌で発表されたこの模型は、基本的な「核子の塊」が既存の量子力学と矛盾せずに殻構造を形成する仕組みについて斬新な視点を与えるものであった。ポーリングは量子力学について熟知しており、この分野の最初の教科書「IntroductiontoQuantumMechanicswithApplicationstoChemistrybyLinusPauling,E.BrightWilson,1935」の共著者でもある。2006年に出版された原子核の諸モデルの再考で、著者はポーリングのスフェロン模型について次のように述べている。", "qas": [ { "question": "ポーリングはいつ、原子核のクロース-パックト・スフェロン模型をScienceとProc.Natl.Acad.Sci.誌上で発表したか。", "id": "tr-441-07-000", "answers": [ { "text": "1965年10月15日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "量子力学の一番目の教科書は何なの?", "id": "tr-441-07-001", "answers": [ { "text": "「IntroductiontoQuantumMechanicswithApplicationstoChemistrybyLinusPauling,E.BrightWilson,1935」", "answer_start": 279, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ポーリングは元々政治には殆ど関心が無かったが、第二次世界大戦が起きると彼の生き方は大きく変わり、平和活動家になった。マンハッタン計画が始まって間もない頃、ロバート・オッペンハイマーから計画の化学部門に招聘を受けたが、ポーリングは平和主義者であることを理由に辞退した。1946年、アルベルト・アインシュタインが議長を務める「原子力科学者による非常委員会」に出席した。この委員会の任務は、核兵器の開発に付随する危険性を一般社会に警告することだった。ポーリングの平和活動は、1950年にマッカーシズムの攻撃対象となり、上院議会の教育調査委員会に証人として召喚された。彼は事前の記者会見で共産主義者でないことを宣言したうえで委員会では証言を拒否した。しかし1952年には国務省が彼のパスポートを差し押さえた事件が起こった。同年、彼は招かれたロンドンの科学会議で講演をする予定だった。パスポートは1954年、ストックホルムで彼が初めてノーベル賞を受賞した授賞式の直前に返還された。1955年、アインシュタインやバートランド・ラッセルら第一級の科学者や知識人が参加する中、ポーリングはラッセル=アインシュタイン宣言に署名した。", "qas": [ { "question": "ポーリングはどの戦争をきっかけに平和活動家となりましたか。", "id": "tr-441-08-000", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「原子力科学者による非常委員会」の議長は誰でしたか。", "id": "tr-441-08-001", "answers": [ { "text": "アルベルト・アインシュタイン", "answer_start": 139, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーリングは何年にパスポートを返還されたの?", "id": "tr-441-08-002", "answers": [ { "text": "1954年", "answer_start": 393, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーリングは何年にラッセル=アインシュタイン宣言に署名したの?", "id": "tr-441-08-003", "answers": [ { "text": "1955年", "answer_start": 435, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1957年、ポーリングは生物学者のバリー・コモナーと協力して署名運動を始めた。コモナーは北米各地の子供の乳歯から検出される放射性物質のストロンチウム90を研究し、地上核実験が放射性降下物の形で公衆衛生に危険をもたらしたと結論付けていた。また彼は原子物理学者のエドワード・テラーと公開討論に参加し、放射性降下物が突然変異を引き起こす実際の可能性を訴えた。1958年、ポーリング夫妻は国際連合に核兵器実験の根絶を訴え11,000人以上の科学者が署名した請願書を提出した。その後、公共圧力は地上核兵器実験を一時停止へ導き、これに続いて1963年にはジョン・F・ケネディとニキータ・フルシチョフが部分的核実験禁止条約に署名した。同条約が発効された日、ノーベル委員会は「核兵器実験や、軍備拡大、またはそれらの使用だけに止まらない、国際紛争の手段とした全武力衝突に反対した活動を1946年から絶え間無く続けてきたライナス・カール・ポーリング」と述べ、彼にノーベル平和賞を授与した。カリフォルニア工科大学化学科はポーリングの政治観を警戒しており、ポーリングに正式な祝辞さえも述べなかった。しかし、同大学生物学科は小さなパーティを開いてポーリングを招待し、彼の放射能変異に関する研究に対して彼らはより深く理解し共鳴していることを示した。\n\nポーリングが化学に与えた貢献を享受した科学者を含め、批評家の多くは彼の政治姿勢に同意せず、彼をソビエト連邦共産党の純粋な代弁者であると受け止めていた。ポーリングが上院国内治安小委員会に出席を命じられた時、委員会は彼を「この国における共産主義的な平和攻勢の主要活動のほぼ全てに顔を出しているナンバーワンの学名」と呼んだ。ライフ誌はポーリングのノーベル平和賞を「ノルウェーからの奇妙な侮辱」と呼んだ。ポーリングは1970年にソヴィエト連邦から国際レーニン平和賞を授与された。", "qas": [ { "question": "1957年、ポーリングは誰と協力して署名運動を始めたの?", "id": "tr-441-09-000", "answers": [ { "text": "バリー・コモナー", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジョン・F・ケネディとニキータ・フルシチョフは何年に部分的核実験禁止条約に署名したの?", "id": "tr-441-09-001", "answers": [ { "text": "1963年", "answer_start": 264, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーリングは何年にソヴィエト連邦から国際レーニン平和賞を授与されたか。", "id": "tr-441-09-002", "answers": [ { "text": "1970年", "answer_start": 766, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーリングはノーベル平和賞と国際レーニン平和賞と、どっちの方をもっとあとで受賞したの?", "id": "tr-441-09-003", "answers": [ { "text": "国際レーニン平和賞", "answer_start": 781, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1950年代末期、ポーリングは大気汚染問題、特にロサンジェルスで深刻化していたスモッグ問題に関心を持つようになった。当時、殆どの科学者はスモッグの原因はガソリン・エンジン廃棄物ではなく化学プラントやケミカル・リファイナリーによるものだと信じていた。ポーリングはカリフォルニア工科大学のアリー・ジャン・ハーゲン=スミットらと共に研究を行い、スモッグが工場汚染ではなく自動車汚染の産物であることを示した。この発見のすぐ後に、実用的で一般的で安価な電気自動車の研究開発に取り掛かった。ポーリングは、ヘニー・キロワット―世界最初のスピード調節可能な電気自動車―を開発中のユーレカ・ウィリアムズ・カンパニーの技師達が所属する団体に参加した。初期のキロワット推進システムに内在する電気物理学を調査した結果、ポーリングは因習的な鉛酸蓄電池では既存のガソリン車に張り合うだけの性能を電気自動車に与えることが不可能だと判断した。彼はヘニー・キロワットの最高速度の低さと走行距離の短さでは実用的とは言えず人気が出ないと予想した。彼は市場に出す前にヘニー・キロワットをもっと実用的にするよう訴え、適切な電池が市販されるまでプロジェクトの中断を提言した。一方、ユーレカ・ウィリアムズ・カンパニーは電気自動車の生産計画の続行を主張し、結果として、ポーリングが予想したようにそのモデルは惨憺たる売上不振に悩まされた。", "qas": [ { "question": "ポーリングがスモッグ問題に関心を持つようになったのはいつ頃ですか。", "id": "tr-441-10-000", "answers": [ { "text": "1950年代末期", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1941年、40歳だったポーリングはブライト病と呼ばれる重い腎臓病と診断された。当時の専門家達は治療不能と信じていた病である。ポーリングはスタンフォード大学のトーマス・アディスの助力を受け、低タンパク無塩食という当時としては奇抜な方法で病気を抑制することが出来た。アディスは自分の全患者にビタミンとミネラルを処方していた。\n\n1951年、ポーリングは「分子医学MolecularMedicine」と題した講演を行った。1950年代末、ポーリングは精神疾患の原因の一つに酵素の機能障害があるのではないかと疑い、脳機能における酵素の役割を研究していた。ビタミンが欠乏症予防以外に重要な生化学的効果を持つ可能性に気が付いたのは、ポーリングが1965年にエイブラム・ホッファー著『精神医学におけるナイアシン療法』を読んだ時のことであった。1968年、ポーリングはサイエンス誌に「分子矯正精神医学」と題した簡単な論文を書き、1970年代に流行し物議を醸したビタミン大量療法運動の原理を与えた。ポーリングの造語である分子矯正とは、病気の抑制や治療の際に体内物質の濃度を操作する手法を意味する。この概念が中核を担っている分子矯正医学は、今日でも一部を除き効果的な治療法として未だ科学的な立証は進んでおらず、強い批判を浴びることもある。", "qas": [ { "question": "1941年、ポーリングは何歳だった?", "id": "tr-441-11-000", "answers": [ { "text": "40歳", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "40歳だったポーリングはどんな質病と診断されたか。", "id": "tr-441-11-001", "answers": [ { "text": "ブライト病", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『精神医学におけるナイアシン療法』は誰が書いた?", "id": "tr-441-11-002", "answers": [ { "text": "エイブラム・ホッファー", "answer_start": 323, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1973年、ポーリングは2人の研究者と共にカリフォルニア州のメンローパークに分子矯正医学研究所を設立、間もなくしてライナス・ポーリング科学医学研究所に改称した。ポーリングはビタミンC研究の指揮を執ったが、化学や物理の理論的研究も1994年に前立腺癌で死去するまで続けた。晩年、アテローム性動脈硬化症予防で推測されるビタミンCの働きに興味を持ち、狭心症治療におけるリシンとビタミンCの使用に関する3本の事例報告を発表した。\n\n1996年、ライナス・ポーリング研究所はカリフォルニア州パロアルトからオレゴン州コーバリスに移転し、オレゴン州立大学の一機関になった。現在でも疾病予防及び治療に用いる微量栄養素やフィトケミカル、その他の食事成分の研究を続けている。", "qas": [ { "question": "ライナス・ポーリング科学医学研究所はポーリング以外に何人の研究者と共に設立されたの?", "id": "tr-441-12-000", "answers": [ { "text": "2人", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ライナス・ポーリング研究所がオレゴン州コーバリスに移転し、オレゴン州立大学の一機関になったのは何年のことか。", "id": "tr-441-12-001", "answers": [ { "text": "1996年", "answer_start": 212, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ポーリングは1994年8月19日に前立腺癌のため93歳で他界した。遺体はアメリカ合衆国オレゴン州レイク・オスウィーゴのオスウィーゴ・パイオニア墓地に埋葬された。\n\n今日、ポーリングが残した科学への貢献は多くの人によって称えられている。イギリスのニューサイエンティスト誌による「史上最も偉大な20人の科学者」で、アルベルト・アインシュタインと共に選ばれた唯一の20世紀の科学者である。ネイチャー誌のミレニアム・エッセイの著者であるGautamR.Desirajuは、ポーリングをガリレオ、ニュートン、アインシュタインに続くこの1000年で最も偉大な思想家、思弁家の一人であると2000年に主張した。", "qas": [ { "question": "ポーリングは何歳で亡くなったか。", "id": "tr-441-13-000", "answers": [ { "text": "93歳", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポーリングを死に至らせた質病は何でしたか。", "id": "tr-441-13-001", "answers": [ { "text": "前立腺癌", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イギリスのニューサイエンティスト誌による「史上最も偉大な20人の科学者」で、アルベルト・アインシュタインと共に選ばれた唯一の20世紀の科学者は誰なの?", "id": "tr-441-13-002", "answers": [ { "text": "ポーリング", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "GautamR.Desirajuは誰をガリレオ、ニュートン、アインシュタインに続くこの1000年で最も偉大な思想家、思弁家の一人であると主張したか。", "id": "tr-441-13-003", "answers": [ { "text": "ポーリング", "answer_start": 232, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "生前、フランシス・クリックに業績を認められたポーリングはしばしば「分子生物学の父」の渾名で称えられた。鎌状赤血球病を「分子病」とした彼の発見は、遺伝子的突然変異を分子レベルで検査する手法を開拓した。\n\n学界はポーリングのビタミンに関する医療研究の結論や著作に賛同しなかったが、彼の論議への突入は、ビタミンやミネラルなど疾病予防に効く栄養素の重要性を一般社会に知らしめた。ポーリングの姿勢は他の研究者にこれらの分野への活発な調査を促し、それらの研究は今日でも存続している。\n\nアメリカ化学会は功績を讃えて1966年にライナス・ポーリング賞を創設し、その第1回授賞者に選んだ。", "qas": [ { "question": "ライナス・ポーリング賞はいつ創設されたの?", "id": "tr-441-14-000", "answers": [ { "text": "1966年", "answer_start": 251, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "第1回印象派展", "paragraphs": [ { "context": "第1回印象派展は、印象派の画家たちによる最初のグループ展である。1874年4月15日から5月15日まで開催され、30名の画家たちが165品を展示した。主な出品者に、クロード・モネ、エドガー・ドガ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、カミーユ・ピサロがいる。正式名称は「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」である。", "qas": [ { "question": "印象派の画家たちによる最初のグループ展は何ですか。", "id": "tr-442-00-000", "answers": [ { "text": "第1回印象派展", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第1回印象派展には何名の画家たちが参加したか。", "id": "tr-442-00-001", "answers": [ { "text": "30名", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第1回印象派の正式名称は何?", "id": "tr-442-00-002", "answers": [ { "text": "「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "のちに「印象派」と呼ばれる画家たちは、それぞれ小さなグループを形成していた。クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、ポール・セザンヌ、アルマン・ギヨマンはシャルル・シュイスの開いた画塾、アカデミー・シュイスで学び友情関係で結ばれた。モネはシャルル・グレールの画塾にも顔を出し、フレデリック・バジール、ピエール=オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーらと交友を深めた。この2つの小さなグループはモネが仲立ちとなって、交友を結んでいった。その後、画家たちは、モンマルトルのバティニョール街にあったカフェ・ゲルボアに集まり、絵画について議論をするようになった。\n\nエドゥアール・マネは、1863年のサロンに落選した『草上の昼食』が大スキャンダルとなった一方、彼の周囲には若い芸術家たちが集まるようになり、1866年頃からカフェ・ゲルボアで週に1度の会合をもつようになった。エミール・ゾラらの文学者、ルイ・エドモン・デュランティ、テオドール・デュレといった批評家、画家ではモネ、バジール、ドガ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、彫刻家で詩人のザカリー・アストリュク、版画家のフェリックス・ブラックモンやマルスラン・デブータン、写真家のナダールといった人びとが、新しい芸術を生み出すべく、議論を重ねた。彼らはカフェのある街路にちなみ「バティニョール派」、または中心人物の名にちなんで「マネ派」と呼ばれた。", "qas": [ { "question": "エドゥアール・マネの『草上の昼食』は何年のサロンに落選しましたか。", "id": "tr-442-01-000", "answers": [ { "text": "1863年", "answer_start": 292, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「バティニョール派」の異名は何ですか。", "id": "tr-442-01-001", "answers": [ { "text": "「マネ派」", "answer_start": 591, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「バティニョール派」の中心人物は誰なの?", "id": "tr-442-01-002", "answers": [ { "text": "エドゥアール・マネ", "answer_start": 281, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "第1回印象派展以前は、フランス美術アカデミーの主導するサロンが、一般市民に作品を公開する画家たちの数少ない場であった。当時、構成や形式を重んじる理論化された古典主義がフランス美術アカデミーの掲げる美の象徴であった。そのため、サロンに出品する画家らは、古典主義の規範に則ることを余儀なくされた。これとは対照的に、のちに「印象派」と呼ばれる画家たちが出品した作品は、このような美術アカデミーの規範とは相容れず、しばしば落選の憂き目に遭った。\n\nことにナポレオン3世がフランス皇帝となって政治体制の強化に乗り出すと、それに並行してアカデミーも保守性を強めた。1863年のサロンでは、それまで美術アカデミーが管轄していたエコール・デ・ボザールの校長を帝室美術大臣が任命することとなるなど、美術教育の権限を芸術アカデミーから美術行政に移す改革が断行されたこともあって、美術アカデミーによる審査はいっそう厳格になり、応募作品5000点のうち5分の3もの作品が落選した。ナポレオン3世は、落選者たちが不満の声をあげていることを知ると、苦情の正当性を民衆に委ねるべくサロンの開催に伴い落選者展を組織させた。この落選者展によって、美術アカデミーの原則的な審査方法によって落選した作品は一般市民の目に映る機会を得た。上述の『草上の昼食』(マネ)のほか、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの『白いシンフォニー』も厳しい批判を浴びた。\n\n1863年に美術総監に任命されたのがエミリアン・ド・ニューウェルケルク伯爵であった。美術アカデミーやサロンはこの美術総監の指揮下に入り、彼の意向によりフランスの美術界はいっそう保守性を増した。1867年、ニューウェルケルク伯爵は美術界の権威を損なうとして、「落選者展」の開催を拒否した。\n\n落選者展はスキャンダルを生んだ一方で、結果としてサロン批判を高める動きにつながり、1860年代半ばから、描く対象の輪郭や固有の色よりも、周囲の光や空気の微妙な変化を正確にとらえようとする新たな芸術運動がしだいに広がっていった。", "qas": [ { "question": "1863年、誰が美術総監に任命されましたか。", "id": "tr-442-02-000", "answers": [ { "text": "エミリアン・ド・ニューウェルケルク伯爵", "answer_start": 626, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1867年のサロンにおいて落選した画家たちは、ニューウェルケルク伯爵が落選者展を開催しないという措置に対して、抗議したが受け入れられなかった。バティニョール派(マネ派)の画家たちは、行政の方針によって左右されるサロンの審査方法に疑問を抱いていた。そこで同派の画家たちに、クロード・モネを筆頭としたグループ展の開催の構想が浮かぶ。そこで、ギュスターヴ・クールベのパリ万国博覧会のパビリオンを利用してグループ展を開こうと計画したが、経済上の理由で開催には至らなかった。再度の落選者展を求めるアーティストたちの請願は、1867年につづき1872年にも拒否された。\n\n1870年から71年にかけては、普仏戦争が起こり、プロイセン軍がフランスに侵入して、パリも危うくなった。マネは兵役につき、モネとシスレーはロンドンに避難し、セザンヌはプロヴァンスに、ピサロはポントワーズにそれぞれ移った。バジールはこの戦争で戦死している。\n\n初めてバティニョール派独自のグループ展が開催される頃には、各々の画家らは懇意にしてくれる蒐集家に恵まれ、以前よりも経済的な援助にもめぐまれるようになっていた。ところが、1873年にフランスが北米発の恐慌(1873年恐慌)に見舞われると、バティニョール派の支持者で作品の流通に尽力していた画商のポール・デュラン=リュエルが同派の画家たちへの支援を打ち切らなければならない事態となった。バティニョール派の仲間たちは、サロンよりも安定した作品の発表方法を求め、再びグループによる展覧会の開催を計画した。", "qas": [ { "question": "普仏戦争は何年に始まったか。", "id": "tr-442-03-000", "answers": [ { "text": "1870年", "answer_start": 280, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バジールはどの戦争で戦死したか。", "id": "tr-442-03-001", "answers": [ { "text": "普仏戦争", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ドガはこの展覧会を中立的なものにすべく、グループの名前にナダールのアトリエのあったカピュシーヌ大通りの名にちなんで「ラ・カピュシーヌ」[とすることを提案した。ルノワールも同様の意見で、明確な意味合いを持った名前に反対した。最終的に、「画家、版画家、彫刻家等、芸術家の共同出資会社」という名前になった。\n\n「画家、版画家、彫刻家等、芸術家の共同出資会社」は、1873年12月27日に設立され、年会費60フランを支払えば参加できるものとした。創設当初の主なメンバーは、モネ、ルノワール、シスレー、ドガ、ピサロ、ギヨマン、ピエール・プラン、エドゥアール・ベリアール、レオポルド・ルヴェール、女性画家ベルト・モリゾ、ドガの友人であったルピックとアンリ・ルアールらで合計16人、暫定マネージャーはピエール=フィルマン・マルタンであった。1874年1月17日には、美術雑誌「ラ・クロニク・デ・ザール・エ・ド・ラ・キュリオジテ(仏:LaChroniquedesartsetdelacuriosité)」にて、この会社の設立について掲載され、公衆に発表がなされた。", "qas": [ { "question": "「画家、版画家、彫刻家等、芸術家の共同出資会社」はいつ設立されたの?", "id": "tr-442-04-000", "answers": [ { "text": "1873年12月27日", "answer_start": 178, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「画家、版画家、彫刻家等、芸術家の共同出資会社」の年会費はいくらだった?", "id": "tr-442-04-001", "answers": [ { "text": "60フラン", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1874年4月15日に、サロンから独立したグループによる展覧会が開かれた。30名の芸術家が合計165点の作品を展示した。この展覧会は、同年のサロン開催の2週間前であったことから、サロンを意識して開催されたと考えられる。期間は1か月で、場所はカピュシーヌ大通り35番地で、かつて写真家のナダールが使用していたアトリエであった。午前10時から夕方の6時までと夜8時から10時まで開催していた。入場料は1フラン、カタログの値段は50サンティームであり、作成はルノワールの弟のエドモン・ルノワールが行った。展覧会の正式名称は、開催以前には「印象派」という名称がなかったため、「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」であった。\n\n委員たちが展示会を仕切ったが、ルノワールを除くほかの委員は積極的に参加しなかった。そのため、実質的にはルノワール一人の手で、展覧会の構成がなされた。作品の出品場所は、どの芸術家も平等に得られるように、サイズごとに分類した後、抽選でそれぞれの展示場所が決まった。", "qas": [ { "question": "1874年4月15日の展覧会には、何点の作品が展示されましたか。", "id": "tr-442-05-000", "answers": [ { "text": "165点", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "入場料はいくらだった?", "id": "tr-442-05-001", "answers": [ { "text": "1フラン", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "私作る人、僕食べる人", "paragraphs": [ { "context": "『私作る人、僕食べる人』は、1975年に放送されたハウス食品工業のテレビCMである。CM内の台詞が性別役割分担の固定化につながるとして婦人団体から抗議を受け、約2か月で放送中止となった。日本においてジェンダーの観点から広告が社会的に問題視された最初の事例として知られている。第16回ACCCMフェスティバル話題賞受賞作だ。", "qas": [ { "question": "『私作る人、僕食べる人』は何年に放送されたCMなの?", "id": "tr-443-00-000", "answers": [ { "text": "1975年", "answer_start": 14, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本においてジェンダーの観点から広告が社会的に問題視された最初の事例として知られているのは何ですか。", "id": "tr-443-00-001", "answers": [ { "text": "『私作る人、僕食べる人』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第16回ACCCMフェスティバル話題賞受賞作は何ですか。", "id": "tr-443-00-002", "answers": [ { "text": "『私作る人、僕食べる人』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『私作る人、僕食べる人』はハウス食品工業が1975年に放送したインスタントラーメンのテレビCMである。ラーメンの置かれたテーブルの前で、女性が「私作る人」と言い、続いて男性が「僕食べる人」と言うものであった。\n\n放送開始から約1か月後の9月30日、「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」(「行動を起こす女たちの会」)が、この台詞は「男女の役割分担を固定化するものである」として抗議。これを受けてハウス食品工業は10月一杯で放送中止とした。ジェンダーの観点から問題が指摘された日本で最初の広告とされており、日本社会にジェンダーに関する認識を広げる契機となった。\n\n「行動を起こす女たちの会」の主張に対してはさまざまな立場からの意見表明があり社会的な議論を巻き起こしたが、当時の社会の反応は、むしろ同会の行動に冷ややかで、揶揄や嘲笑するものが多かった。これに対して「行動を起こす女たちの会」は、抗議活動を揶揄する記事を掲載した週刊誌の一つに謝罪広告と慰謝料を求める裁判を起こし、同会の制作した反論記事を掲載する「同一誌面」の提供で和解した。これは、批判された側に反論の機会を保障するアクセス権(反論権)による名誉回復を図ったものとして注目された。", "qas": [ { "question": "『私作る人、僕食べる人』はどんな商品を知らせるために制作されたCMですか。", "id": "tr-443-01-000", "answers": [ { "text": "インスタントラーメン", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジェンダーの観点から問題が指摘された日本で最初の広告は何ですか。", "id": "tr-443-01-001", "answers": [ { "text": "『私作る人、僕食べる人』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『私作る人、僕食べる人』はハウス食品工業が発売したインスタントラーメン「ハウスシャンメンしょうゆ味」のテレビCMとして、1975年8月末から放送された。30秒のものと15秒のものの2つのバージョンがある。企画制作は、東急エージェンシーとキャット(現東急エージェンシープロミックス)。出演は、女性が結城アンナ、男性が佐藤佑介、少女は服部ひろえだ。企画や演出などを担当した西山貴也によると、企画にあたって子どもたちに商品がどう受け止められているかを調査した際の「家では私がみんなにつくってあげる」という小学校4・5年生女子の回答がヒントになったという。「女の子が男の子に、ラーメンをつくってあげる優しさを表現」し、「つくる人の愛情が加わると、ラーメンがよりおいしくなる」というメッセージを込めた。視聴者からは、「かわいいじゃない、あのCM」「あのCMは見るたびにユーモアを感じている」など、おおむね好評であった。", "qas": [ { "question": "「ハウスシャンメンしょうゆ味」はどの企業から発売されたか。", "id": "tr-443-02-000", "answers": [ { "text": "ハウス食品工業", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『私作る人、僕食べる人』は幾つのバージョンがありますか。", "id": "tr-443-02-001", "answers": [ { "text": "2つ", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『私作る人、僕食べる人』で女性役は誰が演じたの?", "id": "tr-443-02-002", "answers": [ { "text": "結城アンナ", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence 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"作家の遠藤周作は10月6日付の『毎日新聞』で、このCMが女性に不快感を与えるのであれば撤回し「その代りに、その社のシャンメンを男と女が店屋で食べて(中略)女『わたし、食べる人』男『ぼく、払う人』といえばいい」と書いた。時事通信社は10月18日付の『時事解説』に、「『国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会』の活動は、ともすればエキセントリックに走りがちで、説得力に乏しい。家庭の主婦やOLなど、多くの女性がこれにソッポを向いていることが、その何よりの証拠である。テレビ批判の一環として『私(女性)作る人』『ボク(男性)食べる人』という食品会社のCMに”男女の役割を固定するもの”としてクレームをつけたことなど、被害もう想としかいいようがなく、話題となってその会社を喜ばせるだけに終わっている。」「女性の地位向上ということを、市川さんたちは何か勘違いしているのではなかろうか」などとするコラムを掲載した。放送中止を報じる『朝日新聞』の記事には、作家の上坂冬子が「差別CM、というのも一つの見方かもしれないが、茶の間の大多数の主婦は、そんなものに神経をいらだたせてはいない。そんな感覚では、男女差別の本当のポイントからはずれてしまう。」というコメントを寄せた。一方で、同記事には「あの告発のやり方に、からかい半分の議論がありましたが、ともかく問題の所在を明らかにした点に注目すべきでしょう」とする鍛冶千鶴子のコメントも掲載されている。", "qas": [ { "question": "10月6日付の『毎日新聞』で「その代りに、その社のシャンメンを男と女が店屋で食べて(中略)女『わたし、食べる人』男『ぼく、払う人』といえばいい」と書いたバカの名前は何?", "id": "tr-443-04-000", "answers": [ { "text": "遠藤周作", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ミハイル・アレクサンドロヴィチ(1878-1918)", "paragraphs": [ { "context": "ミハイル・アレクサンドロヴィチは、ロシア大公だ。ロシア皇帝アレクサンドル3世と皇后マリア・フョードロヴナの第4皇子だ。一般にはミハイル大公として知られる。\n\n1878年にアレクサンドル3世の第4皇子としてアニチコフ宮殿に生まれる。3年後の1881年3月13日、祖父アレクサンドル2世が暗殺されたことにより、父が皇帝に即位した。即位後、アレクサンドル3世は家族の身の安全を確保するため、ミハイルたちをサンクトペテルブルク南西のガッチナ宮殿に移した。ミハイルは両親や兄妹から「ミーシャ」と呼ばれ育った。ミハイルは兄妹たちと共に厳しい生活を送り、夜明けとともに起床し冷水で顔を洗い質素な朝食を食べていた。また、乳母エリザベス・フランクリンの教育を受け、彼女から英語を学んだ。", "qas": [ { "question": "ミハイル・アレクサンドロヴィチの父は誰?", "id": "tr-444-00-000", "answers": [ { "text": "ロシア皇帝アレクサンドル3世", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ロシア皇帝アレクサンドル3世の妻は誰なの?", "id": "tr-444-00-001", "answers": [ { "text": "マリア・フョードロヴナ", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ミハイル・アレクサンドロヴィチはどこで生まれたの?", "id": "tr-444-00-002", "answers": [ { "text": "アニチコフ宮殿", "answer_start": 102, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミハイル・アレクサンドロヴィチは兄弟から何と呼ばれたの?", "id": "tr-444-00-003", "answers": [ { "text": "「ミーシャ」", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ミハイルは妹オリガ大公女と仲が良く、ガッチナ宮殿の周辺の森に頻繁にハイキングに出かけていた。また、この頃には馬術などの教育も受けていた。普段は質素な生活だったが、クリスマス、復活祭、四旬節の時は肉や乳製品を食べることが許され、夏は家族と共にペテルゴフ宮殿で母方の祖父母クリスチャン9世、ルイーゼ王妃と過ごしていた。\n\nしかし、1894年は父の体調不良のためペテルゴフ宮殿に行くことが出来ず、父は11月1日に崩御した。このため、長兄ニコライ2世が皇帝に即位し、ミハイルの幼少時代は終わりを迎えた。アレクサンドル3世の死後、母マリアはミハイルとオリガを連れてアニチコフ宮殿に戻った。", "qas": [ { "question": "ミハイルとオリガ大公女と誰がもっと年が多い?", "id": "tr-444-01-000", "answers": [ { "text": "ミハイル", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ミハイルの母の父は誰?", "id": "tr-444-01-001", "answers": [ { "text": "クリスチャン9世", "answer_start": 134, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミハイルの父は何月何日に亡くなったか。", "id": "tr-444-01-002", "answers": [ { "text": "11月1日", "answer_start": 197, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミハイルの父の次に皇帝に即位したのは誰なの?", "id": "tr-444-01-003", "answers": [ { "text": "ニコライ2世", "answer_start": 215, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ミハイルは他の皇族と同じくロシア帝国陸軍に入隊し、砲術学校を卒業した1897年に親衛騎砲隊に配属された。1899年に次兄ゲオルギー大公が急死すると帝位継承権第一位となったが、ツェサレーヴィチの称号は与えられなかった。これはニコライ2世には娘しかおらず、後継者たる男子がいなかったための処置であり、1900年にアレクサンドラ皇后が妊娠した際には男子が生まれることを強く望んだ。この際、アレクサンドラは夫が急死した場合は摂政として胎児に代わり政務を執ることを提案したが、政府に反対されミハイルが決定通り帝位継承者と定められた。しかし、周囲の期待とは裏腹に、アレクサンドラが生んだのは女子だった。\n\n1901年にヴィクトリア女王が崩御した際にはロシア代表として国葬に参列してバス勲章を授与され、翌1902年のエドワード7世の戴冠式にも参列してガーター勲章を授与された。同年6月に騎兵中隊長に任命され、ガッチナに配属される。ミハイルは国内最大規模の砂糖精製工場を所有し、ポーランドに広大な領地を所有し経済的にも自立していた。\n\n1904年8月12日、ニコライ2世に念願の男子(アレクセイ皇子)が誕生したことに伴い、帝位継承権第一位の座から退くことになった。しかし、ミハイルはニコライ2世が死去した際にはアレクサンドラと共に共同摂政を務める権利が認められた。", "qas": [ { "question": "ミハイルは何年に砲術学校を卒業したの?", "id": "tr-444-02-000", "answers": [ { "text": "1897年", "answer_start": 34, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴィクトリア女王は何年に亡くなったの?", "id": "tr-444-02-001", "answers": [ { "text": "1901年", "answer_start": 297, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ミハイルは何年に騎兵中隊長に任命されたか。", "id": "tr-444-02-002", "answers": [ { "text": "1902年", "answer_start": 345, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヴィクトリア女王が崩御した際、ロシア代表として国葬に参列したのは誰?", "id": "tr-444-02-003", "answers": [ { "text": "ミハイル", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1902年、ミハイルはザクセン=コーブルク=ゴータ公国のベアトリス公女と恋に落ちた。ミハイルは流暢な英語とフランス語を話し、互いに英語で文通を行った。二人は結婚の約束を交わしたが、ベアトリスの母がアレクサンドル3世の妹マリア大公女であったことから、原則としていとこ同士の結婚を認めていないロシア正教会の教会法によりニコライ2世の許可が得られず、この結婚話は立ち消えとなった。\n\nベアトリス公女との悲恋の後、ミハイルの周囲は妹オルガの女官を務め「ダイナ」の愛称で慕われていたアレクサンドラ・コッシコフスカヤとの関係に注目を集めた。しかし、彼女の父ウラジーミル・コッシコフスキーは平民出身の弁護士であり、彼女との結婚は貴賤結婚に該当するため実現は難しかった。ミハイルの友人たちは結婚を諦め愛人の一人としてダイナと交際するように勧めたが、ミハイルはこれを拒否し、1906年7月にニコライ2世に手紙を送り結婚の許可を求めた。手紙を読んだニコライ2世と母マリアは衝撃を受け、ロシア皇室の法に従い貴賤結婚を認めようとせず、許可なく結婚した場合には軍人俸給の停止とロシアからの出国を禁止すると迫った。また、母マリアはミハイルがデンマークに出かけている9月中旬までにダイナを罷免し、宮廷から追い出した。", "qas": [ { "question": "1902年、ミハイルは誰と恋に落ちたの?", "id": "tr-444-03-000", "answers": [ { "text": "ベアトリス公女", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1907年12月、ミハイルは将校仲間の妻であるナターリア・ヴリフェルトと知り合い、1908年から友人関係を始めた。彼女もまた平民出身で、さらに離婚歴を持つ子持ちだった。二人は8月に交際を始め、1909年11月に彼女は二度目の離婚をし、以降はモスクワのアパートでミハイルの仕送りを受けながら暮らしていた。交際を知ったニコライ2世は二人を遠ざけるため、ミハイルをモスクワから遠いオーレルの第17軽騎兵チェルニゴフ連隊長に任命したが、彼はナターリアに会うため月に数回モスクワを訪れた。1910年7月にナターリアはミハイルの息子を生み、彼は死んだ次兄にちなみゲオルギーと名付けた。ミハイルは出生日を離婚前の日付にするように配慮し、ニコライ2世はゲオルギーに「ブラソフ」の姓を名乗らせるように命令した。\n\n1911年5月、ニコライ2世はナターリアにモスクワから移動することと「ブラソヴァ」の姓を名乗ることを許可した。1912年5月、ミハイルは伯父フレゼリク8世の国葬に参列するためコペンハーゲンを訪問した。国葬を終えフランスで休暇を過ごしていたミハイルとナターリアは、オフラーナによってサンクトペテルブルクに連れ戻された。ミハイルはサンクトペテルブルクでナターリアと暮らし始めるが、彼女は貴族社会から疎外されたため、数カ月後に彼女をガッチナの別荘に移した。", "qas": [ { "question": "ミハイルはいつからナターリア・ヴリフェルトと知り合ったの?", "id": "tr-444-04-000", "answers": [ { "text": "1907年12月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミハイルとナターリアは何月から交際を始めたか。", "id": "tr-444-04-001", "answers": [ { "text": "8月", "answer_start": 87, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナターリアの1909年11月の離婚は何度目の離婚なの?", "id": "tr-444-04-002", "answers": [ { "text": "二度目", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナターリアとミハイルの息子は何年に生まれたか。", "id": "tr-444-04-003", "answers": [ { "text": "1910年", "answer_start": 239, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1912年9月、ミハイルとナターリアは海外に休暇に出かけるが、常にオフラーナの監視が同行していた。ベルリン滞在時に二人は突然カンヌにドライブに行くことを決め、監視には列車でカンヌに来るように指示した。オフラーナは事前に列車で同行するように指示を受けていたためミハイルの指示に従ったが、これはミハイルの意図したことだった。二人はカンヌに向かう途中でウィーンに立ち寄り、10月16日にセルビア正教会の聖サヴァ教会で結婚した。結婚にはナターリアの前々夫との娘が立ち合い、ミハイル夫妻はヴェネツィア、ミラノに立ち寄った後にカンヌに到着した。\n\n二週間後、ミハイルはニコライ2世と母マリアに対し、結婚を報告する手紙を送った。ニコライ2世と母マリアはミハイルの報告にショックを受け、母は「あらゆる想像を絶する酷さ」と述べ、兄は「弟は彼女と結婚しないという誓いを破った」と激怒した。この頃、ニコライ2世の息子アレクセイは血友病が悪化して危険な状態となっており、ニコライ2世は万が一の場合にはミハイルに帝位を継承させるつもりだったため特に怒りを見せた。一方のミハイルも、アレクセイが死に再び帝位継承権第一位になり、ナターリアと結婚できなくなってしまうことを恐れていた。そのため、ミハイルはナターリアとの結婚を強行することで、再び帝位継承権第一位になることを阻止した。ニコライ2世の怒りは収まらず、1912年12月から1913年1月にかけて勅令を出し、ミハイルのロシアからの追放、国内資産の没収、摂政の権利を取り消すことを決定した。これに対し、貴族社会からはミハイルとナターリアに同情する声が挙がった。", "qas": [ { "question": "ニコライ2世の息子アレクセイの命を脅かした質病は何でしたか。", "id": "tr-444-05-000", "answers": [ { "text": "血友病", "answer_start": 403, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アレクセイが死んだことで帝位継承権第一位になったのは誰?", "id": "tr-444-05-001", "answers": [ { "text": "ミハイル", "answer_start": 471, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第一次世界大戦が勃発すると、ミハイルはニコライ2世に対し、「ロシアに戻り軍務に復帰したい」と手紙を送った。ニコライ2世は希望を受け入れ、ミハイルはノルウェー・スウェーデン・フィンランド大公国を経由してペトログラードに戻った。ミハイルはサセックスに新たに土地を購入し、以前に契約した邸宅の賃貸期間終了と同時にサセックスで暮らすことを考えていた。そのため、調度品などをサセックスの邸宅に移し、以前の邸宅はイギリス軍に提供した。ナターリアがロマノフ家の宮殿に住むことを許されていなかったため、ミハイルはガッチナの別荘で暮らすことにした。\n\n軍に復帰したミハイルは少将に昇進し、北カフカーズの6つの民族から編成されたカフカーズ土着騎兵師団の師団長に任命された。師団は志願兵のみで編成され強力な戦闘力を発揮したが、異なる民族の集団のため統制を執ることが難しかった。ミハイルは部隊を的確に統率し、1915年1月14日から15日にかけてカルパチア山脈での戦闘に勝利し、四等聖ゲオルギー勲章を授与された。同時期、ミハイルは「息子ゲオルギーを認知し、自分が死んだ際には財産を譲りたい」という請願をニコライ2世に対して行った。ニコライ2世はミハイルの戦時中の武勲により、3月26日の勅令でゲオルギーを伯爵に叙し、ナターリヤにも「伯爵夫人」の称号を与えた。", "qas": [ { "question": "ニコライ2世は3月26日の勅令でナターリヤにどの称号を与えたか。", "id": "tr-444-06-000", "answers": [ { "text": "「伯爵夫人」", "answer_start": 553, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "少将に昇進したミハイルはどの師団の師団長になったか。", "id": "tr-444-06-001", "answers": [ { "text": "カフカーズ土着騎兵師団", "answer_start": 304, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1915年6月、ミハイルの部隊は劣勢に立たされ戦線を後退し、同月に死去したコンスタンチン大公の葬儀に参列出来なかった。ミハイルはこれを後悔したが、ナターリアは「葬儀のために軍務を放棄する方が間違っている」と夫を慰めた。7月にジフテリアに感染するが、間もなく回復している。\n\n戦況悪化を受け、8月にニコライ2世が全軍総司令官に就任し親征を始めるが、この動きは将軍たちからは歓迎されなかった。10月、ミハイルはようやくニコライ2世から資産を返却され、1916年2月には第2騎兵師団長に任命された。同年7月に中将に昇進するが、他の大公たちと異なり皇帝の侍従武官に任命されないなど不当な扱いを受けた。夏にはブルシーロフ攻勢が行われたが、ロシア軍はパーヴェル大公の無策により甚大な被害を被った。対照的にミハイルの部隊は彼の指揮下で戦功を挙げ、二等聖ウラジーミル勲章を授与されると同時に皇帝の侍従武官に任命された。しかし、戦争の長期化はミハイルとナターリアの会う時間を奪った。同年10月、ミハイルは胃潰瘍を患い、クリミアで休暇を取るように命じられた。", "qas": [ { "question": "コンスタンチン大公は何月に亡くなったか。", "id": "tr-444-07-000", "answers": [ { "text": "6月", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ミハイルはいつ第2騎兵師団長に任命されたの?", "id": "tr-444-07-001", "answers": [ { "text": "1916年2月", "answer_start": 223, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミハイルは何年に中将に昇進したの?", "id": "tr-444-07-002", "answers": [ { "text": "1916年", "answer_start": 223, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミハイルは何年に胃潰瘍を患ったの?", "id": "tr-444-07-003", "answers": [ { "text": "1916年", "answer_start": 223, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ミハイルはアレクサンドル大公、ニコライ大公、ゲオルギー大公、ドミトリー大公、エリザヴェータ大公妃ら皇族たちと同様に、人々の不満の原因はドイツ出身のアレクサンドラを洗脳して国政を動かすグリゴリー・ラスプーチンにあると考えていた。ミハイルたちはラスプーチンの排除を訴えるが、皇帝夫妻は聞く耳を持たず、ラスプーチンは1916年12月にフェリックス・ユスポフとドミトリー大公によって暗殺された。ミハイルは家族と過ごしていた時にラスプーチン暗殺の報告を受けた。フランス大使によると、12月28日にはアレクサンドラ暗殺に失敗した者が逮捕され、翌日絞首刑に処されたという。ニコライ2世はドゥーマとの対決姿勢を強め、人々は皇帝夫妻の醜聞を流すことを止めようとしなかった。\n\n1917年1月にミハイルは前線に復帰し、同月29日には騎兵総監に任命されガッチナに駐留した。この頃、アレクセイ・ブルシーロフが「即時かつ抜本的な部隊の改革」をニコライ2世に求めるようにミハイルに請願したが、「私は既に皇帝への影響力を持ってはいない」と返答している。", "qas": [ { "question": "ラスプーチンは何年に殺された?", "id": "tr-444-08-000", "answers": [ { "text": "1916年", "answer_start": 155, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ミハイルは人々の不満の原因は誰だと思っていましたか。", "id": "tr-444-08-001", "answers": [ { "text": "グリゴリー・ラスプーチン", "answer_start": 91, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ラスプーチンんを暗殺したのはドミトリー大公と誰なの?", "id": "tr-444-08-002", "answers": [ { "text": "フェリックス・ユスポフ", "answer_start": 164, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1917年2月23日、二月革命が勃発すると、ミハイルはアレクサンドル大公、ドゥーマ議長ミハイル・ロジャンコと共にニコライ2世に新内閣の発足を求めた。暴動は激化し、27日にはロシア軍の一部が暴動に加わる事態となった。これに対し、ニコライ2世はドゥーマを解散させたが、議員たちはこれに反発してロシア国会臨時委員会を樹立した。ミハイルはマリインスキー宮殿でロジャンコと会談した後、ニコライ2世にニコライ・ゴリツィン内閣の罷免と臨時委員会の承認を求めた。彼の意見はミハイル・アレクセーエフやスタフカの参謀たちに支持されたが、ニコライ2世は提案を拒否し、ロシア軍に暴動を鎮圧するように命令した。\n\nミハイルは直ちにロジャンコに会うためガッチナに戻ろうとしたが、革命派に道を阻まれてしまう。革命派は体制派の人間を次々に拘束し、道を封鎖していた。ミハイルは安全性の高い冬宮殿に向かい、そこから海軍本部と連絡を取った。ペトログラードに戻ったミハイルは、プチャーチン侯爵家のアパートに避難した。隣のアパートでは侍従のニコライ・ストルイピンと聖務会院の司祭が革命派に拘束され、さらに隣のアパートではスターケルベルク男爵が暴徒に殺害されていた。3月1日にロジャンコの派遣した警備隊がプチャーチン侯爵家のアパートに到着し、ミハイルはロジャンコとパーヴェル大公が作成した立憲君主制草案に署名した。しかし、新たに発足したペトログラード・ソヴィエトは草案を拒否し、人々は帝政の廃止を要求した。", "qas": [ { "question": "二月革命はいつ勃発したか。", "id": "tr-444-09-000", "answers": [ { "text": "1917年2月23日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1917年3月2日、ニコライ2世はドゥーマや将軍たちの圧力を受け、アレクセイを新皇帝、ミハイルを摂政とすることを決め退位宣言書に署名した。しかし、夜になってニコライ2世は新皇帝について再考した。彼はアレクセイが新皇帝に即位した場合、夫妻の元から隔離されることを恐れていた。\n3月3日早朝、各都市で「皇帝ミハイル2世」の即位が宣言されたが、人々からは歓迎されなかった。ロシア軍の一部からは新皇帝への忠誠を誓う声が挙がったが、大半の人々はこの動きに無関心だった。また、臨時委員会に代わり樹立されたロシア臨時政府もミハイルの即位を拒否した。ミハイルはこれらの動きを一切知らされておらず、臨時政府の代表団がプチャーチン侯爵家のアパートを訪れた際に初めて事態を知った。同日午前、ミハイルはロジャンコ、ゲオルギー・リヴォフ、パーヴェル・ミリュコーフ、アレクサンドル・ケレンスキーと会談し、昼食後には新しい政策の草案を作るためノリデ男爵とウラジーミル・ナボコフが訪問した。討議の末に新しい草案が完成したが、その際にミハイルは明確に帝位の継承を拒否した。", "qas": [ { "question": "ニコライ2世はいつ退位宣言書に署名したか。", "id": "tr-444-10-000", "answers": [ { "text": "1917年3月2日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロシア臨時政府は誰の即位を拒否したか。", "id": "tr-444-10-001", "answers": [ { "text": "ミハイル", "answer_start": 254, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロシア臨時政府は何の代わりに樹立されたの?", "id": "tr-444-10-002", "answers": [ { "text": "臨時委員会", "answer_start": 232, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ケレンスキーの助言者だったフランス大使モーリス・パレオローグは、ミハイルの宣言を「高貴で愛国的」と称賛したが、ニコライ2世は「制憲議会に首を垂れた」と非難し、「ゴミのような宣言」と吐き捨てた。多くの君主主義者は選挙後にミハイルが即位することを期待していたが、これによりロマノフ朝は名実ともに崩壊した。また、既に臨時政府に代わってペトログラード・ソヴィエトが勢力を拡大させていた。\nミハイルはガッチナに戻るが、以降は行動の自由を制限され、4月5日に陸軍から除隊させられた。7月21日、リヴォフに代わり、ケレンスキーが臨時政府首相に就任した。8月、ケレンスキーはニコライ2世一家を「ペトログラードでは人々の注目を集め過ぎる。人気のない場所に隔離するべき」としてトボリスクに追放した。ニコライ2世一家がトボリスクに出発する前日、ミハイルは兄との面会を求め、ケレンスキーは自身が同席することを条件に面会を許可した。ケレンスキーは面会の様子について、「二人は非常によそよそしい態度で会話を交わし、別れの間際に互いの軍服のボタンを相手に渡した」と記している。ミハイルがニコライ2世一家と会うのは、これが最後となった。", "qas": [ { "question": "ミハイルの宣言に対して肯定的な反応を見せたのはモーリス・パレオローグでしたか、ニコライ2世でしたか。", "id": "tr-444-11-000", "answers": [ { "text": "モーリス・パレオローグ", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ミハイルの宣言に対して「ゴミのような宣言」と評価したのは誰なの?", "id": "tr-444-11-001", "answers": [ { "text": "ニコライ2世", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "9月1日、ケレンスキーは国号を「ロシア共和国」に改めた。ミハイルはこの日の日記に「今日起きると、ロシアの共和制が宣言されたことを聞かされた。正義や秩序が保たれるならば、政府がどのような形であっても問題はないだろう」と記している。二週間後にミハイルの軟禁が解除されるが、翌10月に十月革命が発生し、ケレンスキーに代わりボリシェヴィキが政権を掌握した。ミハイルは元同僚でペトログラード警備隊司令官だったピョートル・ポロトソフと連絡を取り、家族を連れてフィンランドに脱出することを計画した。ミハイルは脱出の準備を進めるが、ボリシェヴィキの同調者に計画が露見して再び軟禁状態に置かれ、彼の自動車も没収された。\n\n11月に軟禁が解かれ、1918年1月に制憲議会が発足した。ボリシェヴィキは議会の少数派だったが要職を独占して主導権を握り、3月3日に中央同盟国との間にブレスト=リトフスク条約を締結した。4日後の3月7日、ミハイルとジョンソンはペトログラード・チェーカー長官モイセイ・ウリトスキーの命令で逮捕され、ペトログラード・チェーカー本部のスモーリヌイ学院に投獄される。", "qas": [ { "question": "9月1日、ケレンスキーは国号を何に改めたか。", "id": "tr-444-12-000", "answers": [ { "text": "「ロシア共和国」", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "制憲議会はいつ発足したか。", "id": "tr-444-12-001", "answers": [ { "text": "1918年1月", "answer_start": 313, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブレスト=リトフスク条約は何月何日に締結されたか。", "id": "tr-444-12-002", "answers": [ { "text": "3月3日", "answer_start": 363, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ナターリアは当初の亡命計画を断念し、子供たちを連れてウクライナ国・キエフに向かいドイツ軍の保護を受け脱出した。しかし、ドイツ革命によってドイツ帝国が崩壊したため、ナターリアはイギリス海軍の保護を受けイギリスに脱出した。彼女は1951年にパリの病院で無一文の状態で死去した。息子ゲオルギーは1931年にフランスのサンスで交通事故を起こし、20歳で死去した。ゲオルギーの死でアレクサンドル3世の男系子孫は絶えることになる。義理の娘ナターリア・マモントヴァは生涯で三度結婚を経験し、1940年に回顧録を出版した。\n\nミハイルの死から91年経った2009年6月8日、ロシア当局は「不当な逮捕によって弾圧を受けた」として、ミハイルとジョンソンの名誉回復を発表した。", "qas": [ { "question": "ナターリアは何年に亡くなったか。", "id": "tr-444-13-000", "answers": [ { "text": "1951年", "answer_start": 112, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナターリアの息子は何歳で亡くなったか。", "id": "tr-444-13-001", "answers": [ { "text": "20歳", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ロシア当局はいつミハイルとジョンソンの名誉回復を発表したか。", "id": "tr-444-13-002", "answers": [ { "text": "2009年6月8日", "answer_start": 269, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "アウステルリッツの戦い", "paragraphs": [ { "context": "アウステルリッツの戦い(アウステルリッツのたたかい、仏:Batailled'Austerlitz、独:SchlachtvonAusterlitz、露:БитваподАустерлицем)は、1805年12月2日(露暦11月20日、フランス革命暦フリメール11日)にオーストリア領(現チェコ領)モラヴィアのブルノ近郊の町アウステルリッツ(現在のスラフコフ・ウ・ブルナ)郊外で、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍(大陸軍)が、ロシア・オーストリア連合軍を破った戦いである。", "qas": [ { "question": "アウステルリッツの戦いは、フランス軍とどの軍との間で行われた戦闘であるの?", "id": "tr-445-00-000", "answers": [ { "text": "ロシア・オーストリア連合軍", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アウステルリッツの戦いは、いつ行われた戦闘でありますか?", "id": "tr-445-00-001", "answers": [ { "text": "1805年12月2日", "answer_start": 97, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アウステルリッツの戦いは、フランス皇帝ナポレオン1世、オーストリア皇帝フランツ1世(神聖ローマ皇帝フランツ2世)、ロシア皇帝アレクサンドル1世の3人の皇帝が参加したことから三帝会戦(さんていかいせん、仏:batailledesTroisEmpereurs、独:Dreikaiserschlacht、露:битватрёхимператоров)とも呼ばれる。なお、実際にはフランツ2世は戦場から離れた場所にいた。", "qas": [ { "question": "アウステルリッツの戦いの別称は何?", "id": "tr-445-01-000", "answers": [ { "text": "三帝会戦", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アウステルリッツの戦いにおいて、実際には戦場にいなかったのは、どの国の皇帝ですか?", "id": "tr-445-01-001", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1805年、オーストリアはロシア、イギリスなどと第三次対仏大同盟を結成し、バイエルンへ侵攻した。ナポレオン率いるフランス軍はウルムの戦いでオーストリア軍部隊を降伏させ、11月13日にウィーンへ入城した。フランツ1世はモラヴィアへ後退し、アレクサンドル1世とクトゥーゾフの率いるロシア軍と合流した。", "qas": [ { "question": "オーストリアがバイエルンへ侵攻したのは、何年のことか?", "id": "tr-445-02-000", "answers": [ { "text": "1805年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウルムの戦いで勝利したのは、どの国か?", "id": "tr-445-02-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 56, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナポレオンがウィーンを陥落させたのは、いつのことか?", "id": "tr-445-02-002", "answers": [ { "text": "11月13日", "answer_start": 84, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第三次対仏大同盟に加盟していなかったのは、どの国か?", "id": "tr-445-02-003", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 56, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ナポレオンもドナウ川を渡ってモラヴィアへ進出し、アウステルリッツ西方へ布陣した。そのころ、いまだイタリア方面にはカール大公のオーストリア軍部隊がほぼ無傷で残っており、これらの部隊が集結する前にロシア・オーストリア連合軍主力を叩く必要があった。そこでナポレオンは、敵の攻撃を誘うため、罠を仕掛けた。ナポレオンの戴冠式から1周年の記念日にあたる1805年12月2日午前8時、ロシア・オーストリア連合軍約85,000はアウステルリッツ西方のプラツェン高地へ進出し、優勢な兵力をもってフランス軍への攻撃を開始した。", "qas": [ { "question": "ロシア・オーストリア連合軍がプラツェン高地へ進出したのは、いつなの?", "id": "tr-445-03-000", "answers": [ { "text": "1805年12月2日午前8時", "answer_start": 170, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プラツェン高地へ進出したロシア・オーストリア連合軍は、約何人に至るほどの大軍でしたか?", "id": "tr-445-03-001", "answers": [ { "text": "約85,000", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フランス軍は73,000と劣勢であった。またその布陣は、後方との連絡線確保のうえで重要な右翼(南側)が手薄であった。アレクサンドル1世はこれを好機とみて、主力をプラツェン高地からフランス軍右翼へと向かわせた。フランス軍右翼を守るダヴーの第3軍団は攻撃に耐え切れずに押し下げられたかに見え、さらに多くの連合軍部隊がフランス軍の陣前を横切ってフランス軍右翼へ殺到した。", "qas": [ { "question": "プラツェン高地へと進軍してきたロシア・オーストリア連合軍は、約85,000人に至るほどの大軍であったことに対し、フランス軍は、何人しかいなかったか?", "id": "tr-445-04-000", "answers": [ { "text": "73,000", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "連合軍部隊は、誰が率いていたか?", "id": "tr-445-04-001", "answers": [ { "text": "アレクサンドル1世", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "だが、ナポレオンは、手薄になった連合軍の中央部にニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトの第4軍団を突入させた。中央を守っていたクトゥーゾフはロシア近衛軍団を投入し、フランス軍と激戦を繰り広げたが、ベルナドットの第1軍団の援護とナポレオンによる近衛隊の投入によってプラツェン高地の連合軍は突破された。中央突破に成功したスルト軍団は、ダヴー軍団と協力して、フランス軍右翼へ殺到していた連合軍部隊を挟撃した。夕刻までに、連合軍は15,000人の死傷者と多数の捕虜を出し、散り散りになって敗走した。", "qas": [ { "question": "手薄になった連合軍の中央部に突入したフランス軍は、誰が率いていたの?", "id": "tr-445-05-000", "answers": [ { "text": "ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プラツェン高地を巡った戦闘では、どの軍が勝利しましたか?", "id": "tr-445-05-001", "answers": [ { "text": "フランス軍", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールトとクトゥーゾフのうち、誰への援軍がより早く到着したか?", "id": "tr-445-05-002", "answers": [ { "text": "ニコラ=ジャン・ド・デュ・スールト", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プラツェン高地を巡った戦闘で勝利したのは、連合軍とフランス軍のうち、どちらの軍か?", "id": "tr-445-05-003", "answers": [ { "text": "フランス軍", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "12月26日、オーストリアはプレスブルクの和約を締結してフランスへ屈服し、第三次対仏大同盟は崩壊した。フランツ2世は神聖ローマ皇帝位から退位した。神聖ローマ帝国は解体され、ドイツにはライン同盟が成立した。", "qas": [ { "question": "プレスブルクの和約はいつ締結されたの?", "id": "tr-445-06-000", "answers": [ { "text": "12月26日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第三次対仏大同盟の崩壊は、どの国がフランスに屈服したことによることですか?", "id": "tr-445-06-001", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第三次対仏大同盟の崩壊、フランツ2世の退位および神聖ローマ帝国の解体は、どの国がフランスに屈服したことによる結果であるか?", "id": "tr-445-06-002", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オーストリアは、どの和約を締結することで、フランスに屈服したか?", "id": "tr-445-06-003", "answers": [ { "text": "プレスブルクの和約", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アウステルリッツの戦いとそれまでの戦役はヨーロッパ政治の性格を大きく変えた。3ヶ月間でフランス軍はウィーンを占領し、2カ国の軍隊を打ち破り、オーストリア帝国を屈服させた。アウステルリッツの戦いは10年近くに及ぶフランスによるヨーロッパの覇権を容易にしたが、より直接的な影響は翌1806年の対プロイセン戦役である。", "qas": [ { "question": "フランス軍がウィーンを占領し、2カ国の軍隊を撃退し、オーストリア帝国を屈服させたことは、わずか何ヶ月間で起きたことなの?", "id": "tr-445-07-000", "answers": [ { "text": "3ヶ月間", "answer_start": 38, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アウステルリッツの戦いの結果、ヨーロッパの覇権を握ったのは、どの国ですか?", "id": "tr-445-07-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 105, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1792年に勃発したフランス革命戦争以降、ヨーロッパは騒乱状態にあった。戦争5年目の1797年にフランス共和国は第一次対仏大同盟を屈服させた。1798年に第二次対仏大同盟が結成されたが、1801年までにこの同盟も敗退し、イギリスのみが新たに成立したフランス統領政府の敵として残された。1802年にフランスとイギリスはアミアンの和約を結んだ。", "qas": [ { "question": "フランス革命戦争は、いつ勃発したの?", "id": "tr-445-08-000", "answers": [ { "text": "1792年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランス共和国が第一次対仏大同盟を屈服させたのは、何年のことですか?", "id": "tr-445-08-001", "answers": [ { "text": "1797年", "answer_start": 42, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第二次対仏大同盟が結成されたのは、何年のことか?", "id": "tr-445-08-002", "answers": [ { "text": "1798年", "answer_start": 71, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第二次対仏大同盟がフランスに屈服したのは、何年のことか?", "id": "tr-445-08-003", "answers": [ { "text": "1801年", "answer_start": 93, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "この10年間で初めて全てのヨーロッパ諸国に平和がもたらされたが、両陣営には依然として多くの問題が残されており、和約の実施は困難だった。イギリス政府は1793年以降の植民地征服のほとんどを無効にされたことに憤っていた。一方、ナポレオンはイギリス軍がマルタから撤収しないことに腹を立てていた。この緊張状態はナポレオンがハイチ革命を鎮圧すべく派兵したことで更に悪化する。1803年、イギリスはフランスに対して宣戦布告した。", "qas": [ { "question": "ナポレオンは、イギリス軍がどこから撤収しないことに対し、不満を抱いていたの?", "id": "tr-445-09-000", "answers": [ { "text": "マルタ", "answer_start": 123, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イギリスがフランスに対して宣戦布告したのは、何年のことですか?", "id": "tr-445-09-001", "answers": [ { "text": "1803年", "answer_start": 182, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1804年12月に締結されたイギリス=スウェーデン協定が第三次対仏大同盟の端緒となった。イギリス首相ウィリアム・ピットは1804年から1805年にかけて新たな対仏同盟を結成すべく活発な外交を展開し、1805年4月にロシアとの同盟を成立させた。二度に渡りフランスに敗北を喫し、復仇を望んでいたオーストリアも8月9日に同盟に加わった。", "qas": [ { "question": "どの協定が第三次対仏大同盟の結成にまで繋がったか?", "id": "tr-445-10-000", "answers": [ { "text": "イギリス=スウェーデン協定", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "いつ締結された協定が第三次対仏大同盟の結成にまで繋がったか?", "id": "tr-445-10-001", "answers": [ { "text": "1804年12月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イギリスとロシアの間で対仏同盟が結成されたのは、いつのことか?", "id": "tr-445-10-002", "answers": [ { "text": "1805年4月", "answer_start": 99, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オーストリアが対仏同盟に加盟したのは、いつのことか?", "id": "tr-445-10-003", "answers": [ { "text": "8月9日", "answer_start": 152, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ナポレオンは第三次対仏大同盟が結成されるよりも前にイギリス侵攻軍を編成し、北フランスのブローニュに6箇所の野営地をつくっていた。ナポレオンはこの軍隊でイギリスを撃破することを考えており、彼はイギリス征服を記念するメダルを製作させるほど成功を確信していた。ナポレオンの兵隊がイギリスの土を踏むことはなかったが、彼らはあらゆる作戦に対応できるよう、入念かつ重要な訓練を受けていた。兵士の間ではしばしば倦怠気分が引き起こされたが、ナポレオンは頻繁に彼らの元を訪問し、士気を高めるための軍事パレードを催している。", "qas": [ { "question": "ナポレオンはイギリス侵攻のため、ブローニュに何箇所の野営地をつくったの?", "id": "tr-445-11-000", "answers": [ { "text": "6箇所", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "このブローニュの兵士たちが後に大陸軍(LaGrandeArmée)と呼ばれる軍隊の中核となった。当初、このフランス軍は7個軍団から成る約20万人で、各軍団は36から40門の大砲を有し、他の軍団が来援するまで単独で戦う能力を有していた。1個軍団は(もしも適切な防御拠点に配置されていたなら)支援なしで丸1日戦い続けることができ、このことは全ての戦役において大陸軍に計り知れない戦術的選択肢を与えることになる。これらの軍隊に加えて、ナポレオンは22,000人の予備騎兵部隊を創設しており、これは2個胸甲騎兵師団、4個乗馬龍騎兵師団、1個下馬龍騎兵師団、1個軽騎兵師団から成り、各々が砲24門を装備していた。1805年時点で、大陸軍は35万人に拡大しており、装備状況は良好で、よく訓練されており、優れた指揮官に率いられていた。", "qas": [ { "question": "ブローニュに駐屯していた部隊は、のちに何と呼ばれるようになるか?", "id": "tr-445-12-000", "answers": [ { "text": "大陸軍", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "後に大陸軍と呼ばれるようになる部隊とは、約何万人にも至ったか?", "id": "tr-445-12-001", "answers": [ { "text": "約20万人", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナポレオンの予備騎兵部隊を構成する、胸甲騎兵師団、乗馬龍騎兵師団、下馬龍騎兵師団、軽騎兵師団の4種の師団のうち、その数が最も多いのは、どちらか?", "id": "tr-445-12-002", "answers": [ { "text": "乗馬龍騎兵師団", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ナポレオンの予備騎兵部隊を構成する4種の師団のうち、胸甲騎兵師団と乗馬龍騎兵師団を比べれば、その数がより多いのは、どちらか?", "id": "tr-445-12-003", "answers": [ { "text": "乗馬龍騎兵師団", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1805年時点のロシア軍は旧体制組織(AncienRégime)の性格を色濃く残しており、連隊より上には恒常的な編制はなく、上級将校は主に貴族階層から採用されており、任官は能力によるものではなく売官によるものであった。ロシア人兵士は訓練が不足しており、そして(18世紀の基準でも)頻繁に鞭打たれ、「修練を注入するために」手荒く扱われていた。加えて、将校の多くは能力不足であり、戦闘に必要な複雑な機動を兵士たちに実行させることは難しかった。しかしながら、ロシア軍は優秀な砲兵部隊を有しており、砲兵たちは大砲が敵の手に落ちぬよう常に勇敢に戦った。", "qas": [ { "question": "この文書では、1805年時点のロシア軍は、どんな性格が強かったと言っているの?", "id": "tr-445-13-000", "answers": [ { "text": "旧体制組織", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1805年時点のロシア軍において、最も高い軍隊編成であるのは、何ですか?", "id": "tr-445-13-001", "answers": [ { "text": "連隊", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1805年時点のロシア軍において、将校の多くが能力不足だと評されたのは、主にどの階層から採用され、任官自体も売官によるものであったからか?", "id": "tr-445-13-002", "answers": [ { "text": "貴族階層", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "色々と弱まりつつ、停滞していたロシア軍において、ほぼ唯一に優秀であった部隊とは、どの兵科の部隊だったか?", "id": "tr-445-13-003", "answers": [ { "text": "砲兵部隊", "answer_start": 234, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ロシア軍の兵站は現地調達と同盟軍のオーストリアに依るところが大きく、ロシア軍の補給の7割はオーストリアが提供していた。ロシア軍は確固とした兵站組織を欠き、その上に補給線が伸びきった状態であり、兵士たちは士気と健康を維持することが難しかった。", "qas": [ { "question": "ロシア軍の兵站は、現地もしくはどの国からの調達に頼っていたの?", "id": "tr-445-14-000", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ロシア軍の補給において、その背負っている量が最も多かったのは、誰ですか?", "id": "tr-445-14-001", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "カール大公(オーストリア皇帝の弟)は1801年に軍制改革に着手し、宮廷戦争会議(Hofkriegsrat:オーストリア軍の意思決定を行う政治軍事会議)から実権を奪った。カール大公はオーストリア軍では最優秀の指揮官であったが、宮廷内では人気がなく、彼の意見に反して対仏開戦が決定された際には影響力を失っていた。代わってカール・マック将軍が新たな総司令官となった。戦争の直前に彼は連隊の編制をこれまでの6個中隊から成る大隊が3個から、4個中隊から成る大隊4個に改編させた。この突然の改編に対応する士官の訓練は全く行われておらず、この結果、新編制の部隊は以前と同様の指揮統率をすることができなくなっていた。オーストリア騎兵はヨーロッパ最良と見なされていたが、騎兵部隊は多数の歩兵部隊に分遣されており、集中運用されたフランス騎兵に比してその有効性を減じていた。", "qas": [ { "question": "カール大公が軍制改革に着手したのは、何年のことか?", "id": "tr-445-15-000", "answers": [ { "text": "1801年", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1801年以前、オーストリア軍の実権を握っていたのは、どのような人々か?", "id": "tr-445-15-001", "answers": [ { "text": "宮廷戦争会議", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カール・マック将軍による軍の新編制において、6個中隊から成る大隊と4個中隊から成る大隊のうち、その数がより多かったのは、どちらか?", "id": "tr-445-15-002", "answers": [ { "text": "4個中隊から成る大隊", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "元々ヨーロッパ最良の騎兵と見なされていたのは、どの国の騎兵部隊か?", "id": "tr-445-15-003", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 300, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1805年8月、ナポレオン(前年12月にフランス皇帝に即位)は新たに現れたオーストリアおよびロシアの脅威に対処すべく、軍の目標をイギリス海峡からライン川へ振りかえた。9月10日にオーストリア軍がフランスの同盟国であるバイエルンに侵攻した。これに対して、ナポレオンは元老院においてバイエルン救援を宣言する。", "qas": [ { "question": "ナポレオンが軍の目標をイギリス海峡からライン川へ振りかえたのは、いつのこと?", "id": "tr-445-16-000", "answers": [ { "text": "1805年8月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1805年9月10日にオーストリア軍が侵攻したところは、どの国の同盟国でありましたか?", "id": "tr-445-16-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 97, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "騎士戦争", "paragraphs": [ { "context": "騎士戦争(ドイツ語:Ritterkrieg)は、1522年秋から1523年春にかけて、宗教改革期のドイツ南西部で起きた戦乱である。フランツ・フォン・ジッキンゲン(1481-1523)とウルリヒ・フォン・フッテン(1488-1523)が在地の騎士を率いてトリーア大司教に対して起こした争いである。", "qas": [ { "question": "騎士戦争とは、いつからいつにかけて起きた戦乱のことなの?", "id": "tr-446-00-000", "answers": [ { "text": "1522年秋から1523年春", "answer_start": 24, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "騎士戦争は、フランツ・フォン・ジッキンゲンと誰がトリーア大司教に対して起こした争いでありますか?", "id": "tr-446-00-001", "answers": [ { "text": "ウルリヒ・フォン・フッテン", "answer_start": 92, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "中世のドイツで戦場の花形として活躍した騎士は、火薬の登場による戦術の変化や、貨幣経済の普及に伴う封建制度の崩壊、神聖ローマ帝国内の法整備と領邦の成長によって没落していった。特にドイツ南西部のライン川上流域(オーベルライン地方)では、小さな領地しか持たない下級貴族や領邦君主が乱立していた。その地方の中でも有力騎士であるジッキンゲンは、しばしば近隣の諸侯や都市を攻撃しては賠償金を捲きあげていた。フッテンもこの地方の騎士階級の出身だが、神学や文学を学び、詩人として諸国をまわっているうちに人文主義に感化された。フッテンは教会に対する反発とドイツに対する愛国心から反ローマ主義者となっていった。", "qas": [ { "question": "中世の騎士が没落した原因としては、何の登場による戦術の変化が挙げられるの?", "id": "tr-446-01-000", "answers": [ { "text": "火薬", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "中世の騎士が没落した原因には、何の普及に伴う封建制度の崩壊の影響もありましたか?", "id": "tr-446-01-001", "answers": [ { "text": "貨幣経済", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジッキンゲンとフッテンの両者とも、どの川上流域の出身か?", "id": "tr-446-01-002", "answers": [ { "text": "ライン川", "answer_start": 95, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フッテンは、何に対する反発とドイツに対する愛国心を抱いていたか?", "id": "tr-446-01-003", "answers": [ { "text": "教会", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1517年にルターによる宗教改革がはじまり、宗教界が分裂して対立が始まると、1522年秋にジッキンゲンとフッテンは同郷の没落騎士を率い、ルターを奉じてカトリック教会を駆逐すると称して、近隣のトリーア大司教領に攻めかかった。しかし、翌1523年春に周辺諸侯によってすぐに鎮圧された。", "qas": [ { "question": "ルターによる宗教改革がはじまったのは、いつのこと?", "id": "tr-446-02-000", "answers": [ { "text": "1517年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジッキンゲンとフッテンが同郷の没落騎士を率い、トリーア大司教領に攻めかかったのは、いつのことですか?", "id": "tr-446-02-001", "answers": [ { "text": "1522年秋", "answer_start": 38, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジッキンゲンとフッテンの蜂起が鎮圧されたのは、いつか?", "id": "tr-446-02-002", "answers": [ { "text": "1523年春", "answer_start": 116, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1517年から始まった宗教改革の中心人物は、誰か?", "id": "tr-446-02-003", "answers": [ { "text": "ルター", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "神聖ローマ帝国では、15世紀に国政改革が進められ、帝国支配に関する法制度の整備が行われた。1495年にマクシミリアン1世が定めたラント平和令(永久ラント平和令)によって、この制度は一定の完成をみた。この平和令は帝国内の諸々の自立勢力と皇帝が取り交わした協約の形をしており、帝国内には法と秩序に基づく支配体系が確立されるとともに、諸勢力によって構成される帝国議会の位置づけが明確にされた。", "qas": [ { "question": "ラント平和令を定めたのは、誰なの?", "id": "tr-446-03-000", "answers": [ { "text": "マクシミリアン1世", "answer_start": 51, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "15世紀に神聖ローマ帝国で行われた帝国支配に関する法制度の整備は、誰が進めたことですか?", "id": "tr-446-03-001", "answers": [ { "text": "マクシミリアン1世", "answer_start": 51, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ラント平和令が定められたのは、何年のことか?", "id": "tr-446-03-002", "answers": [ { "text": "1495年", "answer_start": 45, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "「ラント平和令」というものは、1495年以前にも度々発布されたものである。そのもともとの趣旨は、神聖ローマ帝国内における「フェーデ」(私闘)を禁じるためのものだった。フェーデというのは合法性をもつ決闘の一種で、元来は適切な手続きによって問題解決を武力で行う権利(フェーデ権)であったが、やがて身代金目的の誘拐や略奪の方便として横行するようになった。これを禁止するために「ラント平和令」がしばしば発布されたのだが、実際にはあまり効果はなかった。。1495年の「永久ラント平和令」は、この措置を恒久化しようという名目で結ばれたものだった。これにより帝国内の司法権が確立され、その司法権を維持するために各領邦君主の権利や義務が法制化されたのだった。", "qas": [ { "question": "ラント平和令のもともとの趣旨は、帝国内における何を禁じるための基だったの?", "id": "tr-446-04-000", "answers": [ { "text": "「フェーデ」", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "永久ラント平和令が発布されたのは、いつですか?", "id": "tr-446-04-001", "answers": [ { "text": "1495年", "answer_start": 222, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "どの平和令により、神聖ローマ帝国内の司法権が確立されたか?", "id": "tr-446-04-002", "answers": [ { "text": "永久ラント平和令", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "永久ラント平和令により、大衆を直接支配し、税を徴収したり徴兵を行ったりするのは領邦(世俗諸侯である領邦君主や聖界諸侯である大司教など)や帝国自由都市が担うことになった。この意味で、帝国の直属下にあるのは領邦であり、大衆は間接的な臣民ということになった。この制度が出来上がるまでには有力な諸侯の意向が働いており、大諸侯ほど有利に領邦国家を形成していったのに対し、中小諸侯の力は弱められていった。とりわけ下級貴族である騎士層の身分の取り扱いはあいまいで、彼らは「帝国騎士」と位置づけられて帝国直属ではあるようだったが、きちんと定められていなかった。彼らは帝国直属の身分であるにも関わらず、帝国議会の票決権も有していなかった。オーベルラインと呼ばれるライン川の上流域、すなわちドイツの南西部は、とりわけこうした帝国騎士や小領邦が多かった。", "qas": [ { "question": "永久ラント平和令により、大衆を直接支配し、税を徴収したり徴兵を行ったりするのは、領邦とどこが担うことになったの?", "id": "tr-446-05-000", "answers": [ { "text": "帝国自由都市", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "帝国の中で騎士層は、何と位置付けられていましたか?", "id": "tr-446-05-001", "answers": [ { "text": "帝国騎士", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "どの川の上流域に、帝国直属の身分であるにも関わらず、帝国議会の票決権は与えられなかった帝国騎士が多かったか?", "id": "tr-446-05-002", "answers": [ { "text": "ライン川", "answer_start": 322, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この時代には、火薬の登場に代表される技術の進歩と発展によって戦術が大きく変わった。戦場で決着をつけるのは、勇敢な騎士ではなく、性能の良い大砲や鉄砲になった。それを操るのは市民兵である。皇帝マクシミリアン1世が「最後の騎士」と呼ばれたように、15世紀の終わりから16世紀にかけて、騎士の時代は終わりを迎えつつあった。貨幣経済の普及と都市の発展がこれに拍車をかけた。かつては騎士に対する報酬は土地と農民(農奴)だったが、金で雇う傭兵が用いられるようになると、皇帝や君主たちは、傭兵に払う金の出どころである都市の市民を重視することになり、そのことも封建的な騎士階級の地位を引き下げることにつながった。しかし騎士が領邦に仕えようにも、そこで重用されるのは大学教育を受けた知識階級であり、騎士は居場所が無くなっていった。", "qas": [ { "question": "この文書で紹介している時代に成し遂げられた技術発展の代表例とされるのは、何の登場なの?", "id": "tr-446-06-000", "answers": [ { "text": "火薬", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マクシミリアン1世は、何と呼ばれましたか?", "id": "tr-446-06-001", "answers": [ { "text": "最後の騎士", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書では、何世紀の終わりから何世紀にかけて、騎士の時代は終わりを迎えつつあったとしているか?", "id": "tr-446-06-002", "answers": [ { "text": "15世紀の終わりから16世紀", "answer_start": 120, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "騎士の時代は終わりに拍車をかけたのは、貨幣経済の普及と何か?", "id": "tr-446-06-003", "answers": [ { "text": "都市の発展", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ウルリヒ・フォン・フッテン(1488-1523)は、フランケン地方とヘッセン方伯領の境界付近、ステッケルベルク城生まれの下級貴族である。騎士身分を持っていたとはいえ、フッテン家は明らかに落ち目だった。フッテンは10歳で神学校に入れられて、ドイツ各地で神学の勉強をして育った。しかし18歳の頃にブランデンブルク選帝侯領のフランクフルト・オーデル(ドイツ東部のオーデル川の畔にある都市。ドイツ中部の大都市フランクフルトではない。)の大学で文学に触れると、神学校を中退して文学の道に入り、ライプツィヒ大学に学んだ。そこで人文主義に目覚めるのだが、まもなくライプツィヒを流行病が襲い、フッテンはライプツィヒを離れて数年間の旅に出た。1年ほど北海を放浪したあと、ボヘミア、ウィーン、北イタリアでのパヴィーアやボローニャを周った。この間、フッテンは学生と傭兵として生活を送っていたという。", "qas": [ { "question": "ウルリヒ・フォン・フッテンは、どこで生まれたの?", "id": "tr-446-07-000", "answers": [ { "text": "ステッケルベルク城", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウルリヒ・フォン・フッテンが文学に初めて触れたのは、彼が何歳の頃ですか?", "id": "tr-446-07-001", "answers": [ { "text": "18歳", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウルリヒ・フォン・フッテンが人文主義に目覚めたのは、どの大学でか?", "id": "tr-446-07-002", "answers": [ { "text": "ライプツィヒ大学", "answer_start": 241, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウルリヒ・フォン・フッテンは、17歳までは何を学んでいたか?", "id": "tr-446-07-003", "answers": [ { "text": "神学", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1514年にドイツに戻ると、フッテンはエラスムスの知遇を得て、エラスムスの助手をしながら数年を共に過ごしたという。その間、フッテン自身も著作を行っていて、『Epistulaeobscurorumvirorum』(1516年)などの作品が知られている。これは人文主義の立場から教会を批判するものであったが、教義や教皇を直接攻撃するほどの内容ではなく、組織に対する批判を述べたようなものだった。翌1517年には、マクシミリアン1世によって桂冠詩人の誉れを授けられている。このあとフッテンはマクデブルク大司教のアルブレヒトに仕えた。このマクデブルク大司教アルブレヒトは、まもなくマインツ大司教となり、贖宥状の販売でルターによる教会批判の引き金となる人物である。しかしまもなくフッテンは反ローマ的な著作のせいでアルブレヒトのもとを去らなければいけなくなった。", "qas": [ { "question": "フッテンの作品として挙げられているのは、何?", "id": "tr-446-08-000", "answers": [ { "text": "『Epistulaeobscurorumvirorum』", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "人文主義の立場から教会を批判する内容のフッテンの作品として挙げられているのは、何ですか?", "id": "tr-446-08-001", "answers": [ { "text": "『Epistulaeobscurorumvirorum』", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フッテンは誰の助手をしながら自身の作品も出したか?", "id": "tr-446-08-002", "answers": [ { "text": "エラスムス", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フッテンが出会ったマクデブルク大司教の名前を答えなさい。", "id": "tr-446-08-003", "answers": [ { "text": "アルブレヒト", "answer_start": 252, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "その後もフッテンは大司教アルブレヒトや、新皇帝カール5世にたびたび手紙を出して、カトリック教会の改革の必要性を説いた。しかしそれは無視された。やがてフッテンは激しい愛国心とローマに対する敵愾心を露わにし、教会に対する革命的闘争を企図するようになっていった。その著作は初めはラテン語だったが、後にはドイツ語で著すようになり、1520年には『対話集』を著した。これはドイツの愛国主義とローマ教会批判の性格を強く帯びたものだった。フッテンは人文主義者の中で、政治家として最も目立つ存在となっていった。", "qas": [ { "question": "フッテンは、アルブレヒトと誰に、カトリック教会の改革の必要性についての手紙を送ったの?", "id": "tr-446-09-000", "answers": [ { "text": "カール5世", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カトリック教会の改革の必要性についての手紙を送ったにもかかわらず、無視されたフッテンは、何を企画するようになりましたか?", "id": "tr-446-09-001", "answers": [ { "text": "教会に対する革命的闘争", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フッテンが『対話集』を著したのは、いつのことか?", "id": "tr-446-09-002", "answers": [ { "text": "1520年", "answer_start": 161, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フッテンは、アルブレヒトとカール5世に、何についての手紙を送ったか?", "id": "tr-446-09-003", "answers": [ { "text": "カトリック教会の改革の必要性", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "その頃教会批判を始めたルターに対し、フッテンは書簡を送り、その中で「どんなことがおころうとも私が傍についております。われらは共通の自由を擁護しようではありませんか」と述べ、ルターを強く支持することを表明していた。しかしフッテンは本物のルター派ではなかったと考えられている。フッテンは教義の面ではルターとは考えの合わない部分もあったが、教会改革を実現するためにはルターの力が必要と考えていた。1521年のヴォルムス帝国議会にルターの召喚が決まると、フッテンはさかんにカール5世に手紙を出して、ルターの考えを容れるように訴えた。", "qas": [ { "question": "フッテンとは考えの合わないところもあったが、フッテンと同じく教会改革が必要だとは考えていた人物は、誰なの?", "id": "tr-446-10-000", "answers": [ { "text": "ルター", "answer_start": 147, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴォルムス帝国議会が開かれたのは、何年のことですか?", "id": "tr-446-10-001", "answers": [ { "text": "1521年", "answer_start": 195, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フッテンは誰の考えが帝国の上層部から受け入れられることを望んでいたか?", "id": "tr-446-10-002", "answers": [ { "text": "ルター", "answer_start": 211, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フッテンは、教会改革を成し遂げるためには、誰の力が必要だと考えていたか?", "id": "tr-446-10-003", "answers": [ { "text": "ルター", "answer_start": 147, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この後の宗教改革の動きは、ルターの意図に反して急進的で過激な方向に進んでいった。ルター自身は寛容さと忍耐によってゆっくり着実な改革を望んでいたのだが、ヴォルムス帝国議会に出席して帝国アハト刑を宣告されたルターがその直後に「失踪」してしまったことで、指導者を失った宗教改革派が過激化してしまったのである。フッテンは「剣と筆の闘士」として、そうした過激な蜂起の精神面を担う立場になっていった。", "qas": [ { "question": "ルターは、宗教改革の動きが、どんな方向に進むことを望んでいなかったの?", "id": "tr-446-11-000", "answers": [ { "text": "急進的で過激な方向", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴォルムス帝国議会でルターは、何を宣告されましたか?", "id": "tr-446-11-001", "answers": [ { "text": "帝国アハト刑", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宗教改革派の指導者は、誰だったか?", "id": "tr-446-11-002", "answers": [ { "text": "ルター", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ルターは、どこにて帝国アハト刑を宣告されたか?", "id": "tr-446-11-003", "answers": [ { "text": "ヴォルムス帝国議会", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フランツ・フォン・ジッキンゲン(1481-1523)はドイツ南西部(オーベルライン地方)のクライヒガウ出身の帝国騎士だった。その本拠はヴォルムスの西方のエーベレンベルク城で、その領地はアルザス地方にまで及んでいた。領内には鉄や水銀の鉱山があり、その収入によってライン地方の最大の帝国騎士の地位を築いていた。", "qas": [ { "question": "フランツ・フォン・ジッキンゲンは、どこ生まれの者なの?", "id": "tr-446-12-000", "answers": [ { "text": "クライヒガウ", "answer_start": 45, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また、ジッキンゲンは武芸に秀でており、1517年からは皇帝マクシミリアン1世の軍事指揮官に任じられている。1519年にドイツ南部の有力諸侯の一人、ヴュルテンベルク公国のウルリヒと、ドイツ南部の諸侯によるシュヴァーベン同盟とが対立した戦いでは、ジッキンゲンがウルリヒ追放軍の主力を担った。", "qas": [ { "question": "1517年からマクシミリアン1世の軍事指揮官に任じられたのは、誰ですか?", "id": "tr-446-13-000", "answers": [ { "text": "ジッキンゲン", "answer_start": 3, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1519年のウルリヒとシュヴァーベン同盟の間での戦いで、ジッキンゲンはどちら側に立ち、戦ったか?", "id": "tr-446-13-001", "answers": [ { "text": "シュヴァーベン同盟", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウルリヒとシュヴァーベン同盟の間での戦いは、何年に行われたか?", "id": "tr-446-13-002", "answers": [ { "text": "1519年", "answer_start": 53, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかしジッキンゲンは性格に難があり、周囲との諍いが絶えなかった。ジッキンゲンは何かと口実をつけて近隣諸侯に武力攻撃をしかけたが、これは実際には賠償金目当てのフェーデだった。1515年から1518年には帝国自由都市ヴォルムス市、ヘッセン方伯フィリップ1世が治める領邦都市ダルムシュタットやロートリンゲン公アントワーヌを攻撃して金貨35,000枚をせしめ、メッツ市を約2万の兵で包囲して金貨20,000枚を脅し取った。これらの都市や大司教領に出入りする行商人や隊商を襲うこともあった。1519年に後ろ盾となっていたマクシミリアン1世が死ぬと、次期皇帝の選挙まっただ中の帝国自由都市フランクフルト市にさえフェーデをしかけた。", "qas": [ { "question": "マクシミリアン1世が死んだのは、何年のことなの?", "id": "tr-446-14-000", "answers": [ { "text": "1519年", "answer_start": 240, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジッキンゲンがフランクフルト市にフェーデをしかけたのは、何年のことですか?", "id": "tr-446-14-001", "answers": [ { "text": "1519年", "answer_start": 240, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "抗酸化物質", "paragraphs": [ { "context": "抗酸化物質(こうさんかぶっしつ、antioxidant)とは、抗酸化剤とも呼ばれ、生体内、食品、日用品、工業原料において酸素が関与する有害な反応を減弱もしくは除去する物質の総称である。特に生物化学あるいは栄養学において、狭義には脂質の過酸化反応を抑制する物質を指し、広義にはさらに生体の酸化ストレスあるいは食品の変質の原因となる活性酸素種(酸素フリーラジカル、ヒドロキシルラジカル、スーパーオキシドアニオン、過酸化水素など)を捕捉することによって無害化する反応に寄与する物質を含む。この反応において、抗酸化物質自体は酸化されるため、抗酸化物質であるチオール、アスコルビン酸またはポリフェノール類は、しばしば還元剤として作用する。\n\n抗酸化物質には、生体由来の物質もあれば、食品あるいは工業原料の添加物として合成されたものもある。抗酸化物質の利用範囲は酸素化反応の防止にとどまらず、ラジカル反応の停止や酸化還元反応一般にも利用されるため、別の用途名を持つ物も少なくない。本稿においては、好気性生物の生体内における抗酸化物質の説明を中心に、医療あるいは食品添加物としての抗酸化剤を説明する。", "qas": [ { "question": "チオール、ポリフェノール類の他還元剤としても作用する抗酸化物質は何ですか?", "id": "tr-447-00-000", "answers": [ { "text": "アスコルビン酸", "answer_start": 279, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "酸素化反応の防止や酸化還元反応一般以外に、抗酸化物質が使われる場合とは?", "id": "tr-447-00-001", "answers": [ { "text": "ラジカル反応の停止", "answer_start": 390, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チオール、ポリフェノール類などの抗酸化物質が還元剤としても作用する理由は何ですか?", "id": "tr-447-00-002", "answers": [ { "text": "抗酸化物質自体は酸化されるため", "answer_start": 250, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "まず、生物化学的観点に立つと、多くの好気的生物では生体内の分子状酸素は、そのほとんどがミトコンドリアでのATP産生において消費され、最終的には酵素的に還元されて水分子に変換され(詳細は記事ミトコンドリアや電子伝達系を参照のこと)、少量の酸素がヒドロキシル化代謝反応のオキシゲナーゼ酵素の基質として利用される。また特筆すべきは活性酸素種ですら、白血球が貪食した細菌に示す殺菌作用物質として白血球内部で発生したり、活性酸素シグナリングのように局所的な化学伝達物質として利用されるなど、存在場所と反応対象を代謝系が制御している状態で積極的に酸素が利用されることである。\n\n酸素が関与する酸化反応は生命にとって極めて重要であるが、化学種としての分子状酸素は反応性が高いために活性酸素種に変換される。このプロセスは非生物化学的であり必ずしも生物物質や酵素の関与だけに限定される現象ではない。なので環境が整えば、それは生体でもそうだし、精肉など食品でもそうだが、酸素は活性酸素プロセスを通じて周囲の水、不飽和脂質、その他の容易に酸化される生体物質に対して変質や不都合な化学反応を引き起こす。この場合の活性酸素プロセスはラジカル連鎖反応であり、生体内で最も豊富に存在する水を起点として連鎖的に他の物質をラジカル化する(詳細は活性酸素を参照)、発生した過酸化脂質あるいは過酸化脂質ラジカルは周囲の生体物質とさらに反応して細胞膜やタンパク質を変性させたりDNA切断を引き起こすなど、細胞に損傷を与える。このような生体反応は酸化ストレスとして知られており、細胞損傷や細胞死の原因の一助となる。", "qas": [ { "question": "生体内の分子状酸素のほとんどがATP産生に消費されるが、この反応はどこで行われますか?", "id": "tr-447-01-000", "answers": [ { "text": "ミトコンドリア", "answer_start": 43, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ATP産生に消費された酸素は最終的にどういう形で変換されますか?", "id": "tr-447-01-001", "answers": [ { "text": "水分子", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "細胞損傷や細胞死の原因として知られている生体物質に対して変質や不都合な化学反応は何ですか?", "id": "tr-447-01-002", "answers": [ { "text": "酸化ストレス", "answer_start": 652, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この時、抗酸化物質が存在する生化学システム上の意義は、活性酸素とその関連する物質をシステムから排除するために、不都合に発生した活性酸素種やそれが生体物質と反応したラジカル中間体と反応することで酸素由来の有害反応を停止させることにある。あるいは直接、抗酸化物質が活性酸素種などと反応するのではなく、触媒的に分解代謝する抗酸化酵素とも称される一連の酵素が存在する。酵素は基質特異性を持ち、活性酸素の分子の種類が異なれば、関与する酵素も異なるし、ある活性酸素種の分子を基質する酵素についても複数存在し、その散在部位も酵素の種類によって異なる。具体例を挙げるならば活性酸素種の一つである過酸化水素は酵素であるカタラーゼの作用で水と分子状酸素に分解されるということである。あるいはスーパーオキシドディスムターゼ、ペルオキシダーゼ類など有害な酸素由来の生成物を無害化する酵素が存在する。低分子の抗酸化物質のいくつかはこれらの酵素の基質あるいは補欠分子族として有害反応の制御に関与する。たとえばカタラーゼは単独で過酸化水素を分解排除するが、抗酸化物質として知られているグルタチオンは、過酸化水素や過酸化脂質を代謝するグルタチオンペルオキシターゼの基質として消費される。", "qas": [ { "question": "抗酸化物質の生化学的意義は活性酸素種と何かとの有害反応の停止であるが、その何かとは?", "id": "tr-447-02-000", "answers": [ { "text": "ラジカル中間体", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "過酸化水素に対応する酵素は何ですか?", "id": "tr-447-02-001", "answers": [ { "text": "カタラーゼ", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "活性酸素の発生部位として代表的なものにミトコンドリアおよび葉緑体が挙げられる。いずれも金属を酵素活性中心に持つ「電子伝達系」と呼ばれるオキシターゼの複合体が効率的に酸化還元反応を繰り返しエネルギー代謝の根幹をなしている。とはいえ、わずかの代謝損失が存在し、それはおもに副反応であるフェントン反応により、中心金属が活性酸素種を生成する。\n\nこのよう活性酸素種が原因の酸化ストレス順応の化学進化は様々な生体内の抗酸化物質を生み出してきた。海洋生物から陸生生物への進化一環として、陸生植物はアスコルビン酸(ビタミンC)、ポリフェノール類、フラボノイド類およびトコフェロール類のような海洋生物には見られない抗酸化物質の産生を始めた。さらに、ジュラ紀後期以降に地上で繁栄した被子植物は、多くの抗酸化色素を多様化させた。それは光合成時に発生する活性酸素種の障害に対する防御化学物質が多様化し、より精巧になったことを意味する。", "qas": [ { "question": "ミトコンドリアや葉緑体などで、金属を酵素活性中心に持つ「電子伝達系」と呼ばれる物は何ですか?", "id": "tr-447-03-000", "answers": [ { "text": "オキシターゼの複合体", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "海洋生物から陸生生物への進化一環として生み出すようになった物質は?", "id": "tr-447-03-001", "answers": [ { "text": "抗酸化物質", "answer_start": 299, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "次に、栄養学や食品化学的観点に立つと、酸素は保存中の食品の金属イオンを酸化することで生体内へ吸収しにくくしたり、食品の成分を変質させることで、香りや見た目を損なう。それだけでなく、植物油中の必須脂肪酸は分子状酸素のラジカル反応により、変色、固化しさらに毒性を示す酸敗と称される不都合な反応を引き起こす。このような食品としての品質劣化を防止する目的で、食物由来の食品添加物であるアスコルビン酸やα-トコフェロールが一般的に利用されている。\n\nこのような抗酸化物質は食品のみならず医薬品や化粧品の変質防止のための酸化防止剤としても利用される。また工業的には酸化防止剤のBHAやBHTおよびその誘導体がゴムや合成樹脂、ガソリンの酸化による劣化を防ぐ目的で広く使われている。", "qas": [ { "question": "植物油中の必須脂肪酸は分子状酸素のラジカル反応により、変色、固化する反応の名称は?", "id": "tr-447-04-000", "answers": [ { "text": "酸敗", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "抗酸化物質が工業的にどういう役割をになっていますか?", "id": "tr-447-04-001", "answers": [ { "text": "酸化防止剤", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "酸化ストレスはヒトの多くの病気で原因の一つとして注目されており、疾患の予防や健康維持の目的で医薬品候補や栄養補給食品の候補として広く研究ないしは利用されている。たとえば脳卒中、神経変性病の治療に対する研究が顕著である。しかし、現状では酸化ストレスが病気の原因であるのかそれとも結果であるのかも不明であり、抗酸化物質は医薬分野では研究中の域を出ない。\n\n一方、栄養補助食品の分野では多数の物質が製品化され、抗酸化物質が、健康維持や悪性腫瘍、冠状動脈性心臓病、高山病の予防の目的で広く利用されている。しかしながらいくつかのサプリメントでは、初期の研究ではサプリメントの抗酸化物質が健康を増進させる可能性があると提案されたが、後の臨床試験ではその効果が見つからない例も見られる。さらに過剰摂取が有害である可能性が報告されるものもある。", "qas": [ { "question": "抗酸化物質が医薬品として働くためには、酸化ストレスが病気の原因であるべきかそれとも結果であるべきか?", "id": "tr-447-05-000", "answers": [ { "text": "原因", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "抗酸化物質が製品化され、悪性腫瘍、高山病などの予防目的で利用されていますが、その他抗酸化物質で予防できるとされる病名は何ですか?", "id": "tr-447-05-001", "answers": [ { "text": "冠状動脈性心臓病", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "初め、抗酸化物質という語は酸素の消費を抑える化学種を指すために用いられた。19世紀後期から20世紀初頭には大規模に研究され、金属の腐食防止やゴムの加硫反応の制御(架橋反応の停止)、あるいは燃料の酸化重合による変質やそれに起因する内燃機関のピッチ汚れなどの対策として、各種工業において抗酸化物質が使われるようになった。\n\nそれに対して、生物化学上の抗酸化物質の役割は、生体内の生物化学的、分子生物学的理解が発展する20世紀中葉以降までは詳細は不明であった。それゆえ、疾患の原因物質のように生物の外見上の特性から必須性や重要性が判明した生体物質が、後に研究の発展により抗酸化物質として再発見される例も少なくない。代表的な例としてα-トコフェロールを挙げる。", "qas": [ { "question": "抗酸化物質が初めて使われたのは、何を現す言葉でしたか?", "id": "tr-447-06-000", "answers": [ { "text": "酸素の消費を抑える化学種", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "19世紀後期から20世紀初頭に各種工業の場で利用された抗酸化物質がゴムにおこる", "id": "tr-447-06-001", "answers": [ { "text": "加硫反応", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "α-トコフェロールは、食餌中から人為的に欠損させるとネズミに不妊症を引き起こすことから、妊娠を維持するために必須な物質『ビタミンE』として発見された。生物化学あるいは細胞生物学の研究が進展し、ネズミの不妊症の原因が、酸化ストレスによる胎児の妊娠中死亡が原因と判明することで、ビタミンEの抗酸化物質としての位置付けが明らかとなった。さらにビタミンEが過酸化脂質ラジカルを補足することで抗酸化作用を発現することが証明されたのは20世紀後半である。\n\n同様にして生体外でビタミンAやビタミンCの抗酸化物質としての機能が再発見されている。さらに生物化学でエネルギー代謝系やオキシダーゼの作用機序など生体内での微量の物質変化が解明されるに従い、抗酸化物質としての役割も多岐にわたることが判明してきた。\n\nこのような生物化学的な発見は、栄養学、食品科学にも応用され、食品の変質防止やミネラルの吸収促進など、多くの天然由来の抗酸化物質が酸化防止剤やサプリメントとして開発、利用されている。事実として、ビタミンCやビタミンEはビタミン欠乏症の治療薬としてよりは、食品添加物の酸化防止剤として大量に消費されている。\n\nさらに医学領域については活性酸素種と酸化ストレスとの関係が注目を集めている。すなわち脳虚血回復後の神経損傷や、動脈硬化叢で過酸化脂質が炎症反応を介してアテロームの沈着を増悪するなど、酸化ストレスが様々な疾患や老化現象に直接関与していることが発見されている。このことは抗酸化物質が脳卒中や動脈硬化症あるいはアンチエイジングに利用可能であると期待されるため、既存の抗酸化物質の薬理研究や新規の抗酸化物質の発見など、抗酸化物質は盛んに様々な研究が進行する分野でもある。", "qas": [ { "question": "α-トコフェロールは最初、何と誤認されましたか?", "id": "tr-447-07-000", "answers": [ { "text": "『ビタミンE』", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "α-トコフェロールに欠損ができたネズミに見られる不妊症の原因は何ですか?", "id": "tr-447-07-001", "answers": [ { "text": "酸化ストレスによる胎児の妊娠中死亡", "answer_start": 108, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ビタミンCやビタミンEがより多く使用される分野は何ですか?", "id": "tr-447-07-002", "answers": [ { "text": "食品添加物の酸化防止剤", "answer_start": 473, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "抗酸化物質にはビタミンCやEのように、酸素が関与する有害な反応を単独で抑制する物質が知られている。このような抗酸化物質は低分子の抗酸化物質に多く認められ、多くの場合は酸素ラジカルあるいはそれから派生したラジカルを停止させる反応を起こす。低分子抗酸化物質の多くは容易に酸化される良い還元剤であるため、直接ラジカルと反応するだけでなく、後述するように酵素が関与する抗酸化反応を補助する場合も多い。低分子の抗酸化物質が直接に反応に関与する場合は反応の選択性は低く、様々なオキシダントと抗酸化物質とが反応する。一方、酵素が関与する抗酸化反応は酵素により反応するオキシダントが決定され、低分子の抗酸化物質は還元剤としての役割を果たす。\n\n高分子の抗酸化物質は大きく分けるとオキシターゼとミネラル輸送・貯蔵タンパク質とに大別することができる。すなわち生体内には多種多様なオキシダーゼが存在し、活性酸素種自体を基質として代謝する酵素もあれば、発生した有害な過酸化物を分解代謝する酵素もある。またオキシダントと反応して酸化型となったビタミンCやEのような『活性を失った抗酸化物質』を、還元型に戻してリサイクルする酵素も存在する。したがって、直接あるいはリサイクルに関与し間接的に抗酸化作用を示す一部のオキシダーゼも抗酸化物質の一つと見なされる。", "qas": [ { "question": "酵素が関与する抗酸化反応で反応するオキシダント何によって決定されますか?", "id": "tr-447-08-000", "answers": [ { "text": "酵素", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "酵素が関与する抗酸化反応で低分子の抗酸化物質が担う役割とは?", "id": "tr-447-08-001", "answers": [ { "text": "還元剤", "answer_start": 298, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "高分子の抗酸化物質を二つに分類するとミネラル輸送・貯蔵タンパク質と何に分けられますか?", "id": "tr-447-08-002", "answers": [ { "text": "オキシターゼ", "answer_start": 331, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "このような抗酸化物質と見なされるオキシダーゼの多くはグルタチオンやビタミンCといった電子受容体を基質として消費する。すなわち酵素による過酸化物質の代謝には還元剤としての抗酸化物質の存在が必須である。これは「酵素反応は可逆反応であり、ただ反応速度を増大させるのみである」という酵素の特性に留意する必要がある。つまり生体内では電子受容体が豊富に存在するために逆反応は問題にはならない。しかし、栄養学や食品科学など非生体的な条件下においては、条件によっては生体では抗酸化物質と見なされるオキシダーゼであっても、食品に加工された状態においては酸素が関与する逆反応を加速することで抗酸化物質を消費し尽したり、活性酸素種を発生させ、それにより食品の鮮度、品質を低下させる場合もある。\n\nこれらのオキシダーゼの多くは酵素活性中心には微量ミネラルである、鉄、マンガン、銅、セレン原子などが存在している。これらの金属元素は容易に酸化還元反応を受けやすい。", "qas": [ { "question": "抗酸化物質と見なされるオキシダーゼが気質として消費するものは何ですか?", "id": "tr-447-09-000", "answers": [ { "text": "電子受容体", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "生体内では逆反応は問題にはならない理由は何ですか?", "id": "tr-447-09-001", "answers": [ { "text": "電子受容体が豊富に存在するため", "answer_start": 161, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方、これらの微量ミネラルの体内でのADMEは特定の酸化状態であることが必要である。たとえば、鉄は鉄(III)イオンは特定の膜トランスポーターに依存するので生体に吸収されないが、鉄(II)イオンがキレート(ラクトフェリンのように高分子の場合もあればクエン酸など低分子の場合もある)を形成して取り込まれる。さらに体内ではトランスフェリンは鉄(III)イオンに結合して貯蔵、輸送される。このような酸化状態の特異性は、ほかの微量ミネラルでも同様に見ることができる。つまり、微量ミネラルは低分子あるいは特定のタンパク質がキレートすることで、それぞれの状況に有利な酸化状態で輸送、貯蔵される。微量ミネラル元素でも鉄イオンは酵素と結合して酵素補欠因子にならなくても、生体内の環境で金属イオンが酸化還元機能を持つ場合もある。しかし多くの場合は微量ミネラルは、生体内の環境では酵素補欠因子として酵素の活性中心に配置されて初めて酸化還元機能をもつ。いずれにしろ微量ミネラル元素を取り込んだオキシターゼは基質特異的に抗酸化作用を触媒するので、微量ミネラル元素はオキシターゼが関与する抗酸化生体システムのカギである。そのオキシターゼの存在量も、微量ミネラル元素を輸送・貯蔵に関与する分子、それは低分子あるいは高分子の微量金属元素をキレートする生体物質であるが、それらのキレート物質が欠乏すれば酵素の存在量を変動させ間接的には生体の抗酸化機能に変動をもたらす。したがってトランスフェリンやフェリチンのようなキレート物質は生体システムの観点においては抗酸化物質と見なされる。", "qas": [ { "question": "微量ミネラルの体内でのADMEのためには微量ミネラルがどんな特定の状態である必要があるの?", "id": "tr-447-10-000", "answers": [ { "text": "状況に有利な酸化状態", "answer_start": 271, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オキシターゼが抗酸化作用を触媒するに必要なものは何ですか?", "id": "tr-447-10-001", "answers": [ { "text": "微量ミネラル元素", "answer_start": 421, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "活性酸素種は細胞において過酸化水素(H2O2)およびヒドロキシルラジカル(·OH)とスーパーオキシドアニオン(O-)2のようなフリーラジカルを形成する。ヒドロキシルラジカルは特に不安定であり、即座に非特異的に多くの生体分子との反応を起こす。この化学種はフェントン反応のような金属触媒酸化還元反応によって過酸化水素から形成する。これらの酸化物質は化学的連鎖反応を開始させることにより脂肪やDNA、タンパク質を酸化させ細胞を損傷させる。DNA修復機構は稀な頻度で修復ミスを発生するので突然変異や癌の原因となり、タンパク質への損傷は酵素阻害、変性、タンパク質分解の原因となる。", "qas": [ { "question": "ヒドロキシルラジカルはどこから形成されますか?", "id": "tr-447-11-000", "answers": [ { "text": "過酸化水素", "answer_start": 151, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヒドロキシルラジカルが過酸化水素から形成される反応は何ですか?", "id": "tr-447-11-001", "answers": [ { "text": "金属触媒酸化還元反応", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "電子伝達系など代謝エネルギーの合成機構において酸素が使われる局所では副反応として活性酸素種が発生する。つまりスーパーオキシドアニオンが電子伝達系において副生成物として生成する。特に重要なのは複合体IIIによる補酵素Qの還元で、中間体として高反応性フリーラジカル(Q·−)が形成する。この不安定中間体は電子の\"漏出\"を誘導し、通常の電子伝達系の反応ではなく電子が直接酸素に転移し、スーパーオキシドアニオンを形成させる。また、ペルオキシドは複合体Iでの還元型フラボタンパク質の酸化からも発生する。これらの酵素群は酸化物質を合成することができるが、ペルオキシドを形成するその他の過程への電子伝達系の相対的重要性は不明である。また、植物、藻類、藍藻類では、活性酸素種は光合成の間に生じるが、特に高光度条件のときに生成する。この効果は光阻害ではカロテノイドにより相殺されるが、それには抗酸化物質と過還元状態の光合成反応中心との反応が伴い、活性酸素種の形成を防いでいる。", "qas": [ { "question": "代謝エネルギーの合成機構で、酸素が使われる局所で副反応として発生するものは何ですか?", "id": "tr-447-12-000", "answers": [ { "text": "活性酸素種", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "食物で活性酸素種が生じるのは、何をする時なのか?", "id": "tr-447-12-001", "answers": [ { "text": "光合成", "answer_start": 330, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "酸化ストレスはアルツハイマー型認知症、パーキンソン病、糖尿病合併症、関節リウマチ、運動ニューロン病による神経変性など広範囲の病気の進行に寄与していると考えられている。これらの多くの場合において、酸化物質が病気の要因になっているのか、それとも病気と一般的な組織の損傷から二次的に酸化物質が作り出されているのか、不明確である。しかし、心血管疾患については酸化ストレスが関連していることがよく分かっている。低比重リポタンパク質(LDLコレステロール)の酸化がアテロームの発生を誘発し、それがアテローム性動脈硬化症となり、最終的には心臓血管の疾患に繋がるのである。またフリーラジカルとDNA損傷の関連より、癌に対する抗酸化物の予防効果についても研究されている。", "qas": [ { "question": "パーキンソン病、関節リウマチなどの病気の信仰に影響を及ぼすとされるのは何ですか?", "id": "tr-447-13-000", "answers": [ { "text": "酸化ストレス", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "血中の酸化型LDLコレステロールは心臓疾患の原因になると考えられ、また、1980年代アメリカを対象とした疫学研究からビタミンEの摂取により心臓疾患の発現のリスクを下げることが分かっていた。これに対し、1日に50から600mgのビタミンEを摂取させ、その効果を調査する大規模な治験が少なくとも7回行われたが、死亡総数および心臓疾患による死亡率ともにビタミンEの影響は見られなく、その他の研究でもまた結果は同様で、これらの試験または多くの栄養補助食品の使用が酸化ストレスによる疾患の予防になっているかどうかは明確ではない。総合的に、心臓血管疾患には酸化ストレスが関わっているにもかかわらず、抗酸化ビタミンを使った試験では心疾患発現リスクおよび既に発現した疾患の進行を抑える効果は認められなかった。", "qas": [ { "question": "心臓疾患の原因とされているのは何ですか?", "id": "tr-447-14-000", "answers": [ { "text": "酸化型LDLコレステロール", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "心臓血管疾患とビタミンEの摂取との関係についての実験は最低何回行われましたか?", "id": "tr-447-14-001", "answers": [ { "text": "7回", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "脳はその高い代謝率と高濃度の多価不飽和脂肪のために酸化的損傷に非常に弱く、抗酸化物質は脳損傷治療の薬剤として広く使われている。スーパーオキシドジスムターゼ模倣薬としては、チオペンタールとプロポフォールが脳虚血疾患の後遺症である再かん流傷害や外傷性脳損傷に、実験的薬剤としてはジスフェントン(NXY-059)とエブセレンが脳卒中の治療に応用されている。これらの化合物は、ニューロンの酸化ストレス、アポトーシスおよび神経損傷を予防しているように見える。また、抗酸化物質は、アルツハイマー型認知症、パーキンソン病、筋萎縮性側索硬化症のような神経変性の病気の治療、音響性外傷の予防についての研究がなされている。", "qas": [ { "question": "脳が酸化的損傷に極めて弱い理由は何ですか?", "id": "tr-447-15-000", "answers": [ { "text": "高い代謝率と高濃度の多価不飽和脂肪のため", "answer_start": 4, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "エブセレン、チオペンタール、プロポフォールのなかで、外傷性脳損傷に適用されていないのはどれですか?", "id": "tr-447-15-001", "answers": [ { "text": "エブセレン", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "血漿あるいは血清中の尿酸、α-トコフェロール、カロチノイド量とヒトを含めた哺乳動物の最長寿命を比較したデータによると、これら抗酸化成分の濃度が高いほど最長寿命が長い傾向にあった。これに対してビタミンC、グルタチオン、ビタミンA濃度と最長寿命との相関は認められないと言われている。", "qas": [ { "question": "ビタミンC、α-トコフェロール、グルタチオンで哺乳動物の最長寿命との相関が認められているのはどの物質か?", "id": "tr-447-16-000", "answers": [ { "text": "α-トコフェロール", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "果物と野菜の多い食事では抗酸化物質が多く摂取されることにより健康を増進させ老化の影響を減らすとされるが、抗酸化ビタミンの補給は老化作用に対して検知できるような効果はないため、果物と野菜の効果はその抗酸化物質の含有量とは関係がないかもしれない。その理由として、ポリフェノールやビタミンEのような抗酸化分子はその他の代謝過程を変化させ、それらの変化の方が抗酸化物質の栄養素としての重要性の真の理由である、という可能性がある。\n\n線虫での研究では、適度な酸化ストレスは活性酸素種への防御反応を誘導することによって寿命を延ばすことさえ示唆されている。この、寿命が延びるのは酸化ストレスの増加が原因であるという示唆は、出芽酵母(Saccharomycescerevisiae)での結果と矛盾する。この矛盾について哺乳類ではさらに曖昧である。それでもやはり、抗酸化物質の栄養補助食品がヒトの寿命を延ばしているようには見えない。\n\nビタミンは、生物の生存・生育に必要な栄養素のうち、炭水化物やタンパク質、脂質、ミネラル以外の栄養素であり、微量ではあるが生理作用を円滑に行うために必須な有機化合物であり、各種ビタミン欠乏症は寿命を縮めることがあるが、過剰なビタミンが寿命を延ばすとの報告はほとんどない。", "qas": [ { "question": "適度な酸化ストレスが結果、寿命を延ばす効果があるとの研究は何を対象として行われましたか?", "id": "tr-447-17-000", "answers": [ { "text": "線虫", "answer_start": 212, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "酸化ストレスの増加が寿命を延ばす効果があるという線虫での研究結果はどこでの研究と矛盾してますか?", "id": "tr-447-17-001", "answers": [ { "text": "出芽酵母", "answer_start": 304, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "抗酸化物質が多く含まれている食品類は何ですか?", "id": "tr-447-17-002", "answers": [ { "text": "果物と野菜", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "活性酸素種の違いによって活性も異なるため抗酸化物質の測定はその物質により多様である。食品科学では、酸素ラジカル吸収能(ORAC)が食品、飲料および食品添加物の抗酸化物質濃度を評価する最新の業界標準になっている。米国食品医薬品局(USDA)が食品中のORACの値をかつて公開していたが、USDAは、食物に含まれる抗酸化物質の強さが体内の抗酸化作用に関連しているという証拠がないため、SelectedFoodsRelease2(2010)表の酸素ラジカル吸収能(ORAC)を示す表を2012年に削除した。この他にフォリン-チオカルトー試薬を用いる方法やトロロックス等価抗酸化能力分析法(TEAC法)がある。\n\n抗酸化物質は野菜、果物、穀物、卵、肉、マメ、木の実などの食品に多量に含まれている。リコペンやアスコルビン酸のようないくつかの抗酸化物質は長期貯蔵または長時間の調理によって分解するものがある。一方、全粒小麦や茶などに含まれるポリフェノール系抗酸化物質は安定である。また、野菜に含まれる数種のカロテノイド類のように抗酸化物質の生物学的利用能を増加させることもできるため調理や加工による影響は複雑である。一般に、加工の過程で酸素に晒されるため、加工食品は非加工食品よりも抗酸化物質が少ない。", "qas": [ { "question": "食品科学分野での抗酸化物質濃度を評価する最新の業界標準は何ですか?", "id": "tr-447-18-000", "answers": [ { "text": "酸素ラジカル吸収能", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "米国食品医薬品局がSelectedFoodsRelease2表のORACを示す表を削除したのは何年の事なのか?", "id": "tr-447-18-001", "answers": [ { "text": "2012年", "answer_start": 239, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "全粒小麦に含まれている抗酸化物質は何ですか?", "id": "tr-447-18-002", "answers": [ { "text": "ポリフェノール系抗酸化物質", "answer_start": 414, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポリフェノール系抗酸化物質とアスコルビン酸の中で分解されにくい方はどれか?", "id": "tr-447-18-003", "answers": [ { "text": "ポリフェノール系抗酸化物質", "answer_start": 414, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "その他のビタミンは体内で合成させる。例えば、ユビキノール(補酵素Q)は腸で吸収されにくく、ヒトではメバロン酸経路にて合成される。また、グルタチオンはアミノ酸から合成される。グルタチオンは腸ではシステインとグリシンとグルタミン酸に分解されてから吸収されるため、グルタチオンの経口投与は体内のグルタチオン濃度にはほとんど影響がない。アセチルシステインのような含硫アミノ酸が高濃度であることによりグルタチオンが増加するが、グルタチオン前駆体を多く摂取することが成人健常者において有益であるという根拠はない。前駆体を多く摂取することは急性呼吸窮迫症候群、蛋白エネルギー栄養障害の治療、もしくはアセトアミノフェンの過剰摂取によって生じる肝臓障害の予防に役立つと考えられている。\n\n食品中のある成分は酸化促進剤(プロオキシダント)として作用することにより抗酸化物質の含有量を経時的に低減させることがある。抗酸化物質が消耗した食品を摂取することで酸化ストレスが惹起される時には、身体は抗酸化防衛能を高めるように反応することがある。イソチオシアン酸やクルクミンなどは異常細胞の癌性細胞への変質を遮断したり、既存の癌細胞を殺したりする予防についての機能性化学種であると考えられている。\n\n各種飲み物の抗酸化能を調査した中で、赤白双方のワインの抗酸化能が高いと報告した例がある。", "qas": [ { "question": "経口投与したグルタチオンはどこまで分解されずに移動しますか?", "id": "tr-447-19-000", "answers": [ { "text": "腸", "answer_start": 93, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "本文に記されている、抗酸化能が高いとされる飲み物は何ですか?", "id": "tr-447-19-001", "answers": [ { "text": "ワイン", "answer_start": 558, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "抗酸化物質は食品の劣化を防ぐ食品添加物として使われている。食品は主に酸素と日光が酸化の要因になるため、暗所で保管し容器で密閉して保存するが、酸素は植物の呼吸にも必要で、植物性の素材を嫌気性の環境におくとその香りや色が劣化する。そのため、果物および野菜には8%未満の酸素を含ませて包装している。冷凍・冷蔵食品は、細菌類・菌類による劣化よりも、酸化の方が比較的早く進むため抗酸化物質は保存料の一つとして重要である。これらの保存料には天然の抗酸化物質ではアスコルビン酸(AA,E300)やトコフェロール類(E306)、合成された抗酸化物質では没食子酸プロピル(PG,E310)、tert-ブチルヒドロキノン(TBHQ)、ブチル化ヒドロキシアニソール(BHA,E320)、ブチル化ヒドロキシトルエン(BHT,E321)が含まれる。\n\n栄養学や食品科学の分野では、酸化による攻撃対象となる成分は不飽和脂肪が、特に問題とされる。すなわち微量でも酸化により悪臭を持つようになり、ついには毒性を持つに至る。酸化した脂肪は大抵は変色し、金属または硫黄臭のような不快な風味を持つようになるため、特に脂肪が多い食品の酸化を防止することは重要である。ゆえに保存加工の方法として(大量の酸素に晒すことになる)通風乾燥させることはほとんどない。代わりに密閉され酸素が少ない環境での加工である薫製や塩漬け、発酵が使われる。果物など脂肪が少ないものは空気乾燥する前に硫黄を含む酸化防止剤(抗酸化物質)が噴霧される。酸化は金属によって触媒されるため、バターなどの脂肪製品は金属製容器で保存してはならない。オリーブオイルなどいくつかの脂肪食品は天然の抗酸化物質により酸化から保護されているが、光酸化には過敏なままである。また、抗酸化物質の保存料は脂肪をベースとした口紅や保湿剤などの化粧品にも添加されている。", "qas": [ { "question": "食品に酸化を起こす原因には酸素のほか何が挙げられますか?", "id": "tr-447-20-000", "answers": [ { "text": "日光", "answer_start": 37, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "植物性の食品の香りや色が劣化する環境は何がかけている環境ですか?", "id": "tr-447-20-001", "answers": [ { "text": "酸素", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "栄養学や食品科学で酸化によるダメージが特に問題となる成分は何ですか?", "id": "tr-447-20-002", "answers": [ { "text": "不飽和脂肪", "answer_start": 392, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "酸素と日光でどっちの要因でオリーブオイルは酸化されやすいか?", "id": "tr-447-20-003", "answers": [ { "text": "日光", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "抗酸化物質は頻繁に工業製品に添加される。主に燃料と潤滑油の安定剤として用いられ、ガソリンが重合してエンジンが目詰まりを起こすのを防ぐ。2007年現在、工業的抗酸化剤の世界市場は約88万トンである。これは約37億米ドル(24億ユーロ)の市場規模である。\n\n抗酸化物質はゴム、プラスチック、接着剤などポリマー製品の強度や柔軟性の低下の原因となる酸化分解の防止のために広く用いられる。天然ゴムやポリブタジエンなどのポリマーはその主鎖に二重結合を含み、酸化やオゾン分解の影響を受けやすい。これらは抗酸化物質で保護することが可能である。また、紫外線は結合を壊すことによりフリーラジカルを作り出すため、酸化と紫外線劣化は強く関係している。フリーラジカルは酸素と反応することによりペルオキシラジカルが生成し、連鎖反応を起こし、さらなる製品の劣化を引き起こす。そのほか、ポリプロピレンとポリエチレンも酸化の影響を受ける。前者は繰り返し単位中に一級炭素原子、二級炭素原子、三級炭素原子が存在するが、フリーラジカルになったときの安定性が最も高い「三級炭素原子」が攻撃を受ける。ポリエチレンの酸化は低密度ポリエチレンの分枝部分(三級炭素原子)など、結合の弱い部分で起こる傾向がある。", "qas": [ { "question": "抗酸化物質の工業製品での主な役割は何ですか?", "id": "tr-447-21-000", "answers": [ { "text": "潤滑油の安定剤", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "名張牛汁", "paragraphs": [ { "context": "名張市を代表する食材と言えば伊賀牛であるが、同じ三重県の銘柄牛の松阪牛と比べれば低価格であるとはいえ、ステーキやすき焼きといった既存の伊賀牛料理は決して気軽に食べられる価格ではなく、伊賀牛の知名度も今ひとつであった。そこで伊賀牛を観光客へ売り出すご当地グルメにできないかと名張市観光協会の事務局長だった人物が、2008年より畜産業者3社と共同で商品開発に乗り出した。牛丼や牛肉コロッケなどさまざまな商品を試した中で、名張商工会議所青年部のメンバーの1人が「祖母が伊賀牛のくず肉ですまし汁を作ってくれた」と話したことをきっかけに、牛汁にたどり着いた。牛汁は伊賀地方の精肉店で賄い料理として食べられてきたすまし汁をもとに名張商工会議所青年部が「あっさりと食べやすい味にこだわって」開発し、2008年に商品として完成した。青年部のメンバーは完成した牛汁を携え、三重県内外のイベントで積極的に販売したものの、知名度不足から多くても数十杯しか売れず、汁の中におにぎりを投入してボリューム感を増すなど改良を重ねる日々がしばらく続いた。", "qas": [ { "question": "伊賀牛と松阪牛とどちらの方が安い方なの?", "id": "tr-448-00-000", "answers": [ { "text": "松阪牛", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "牛汁が商品として完成したのはいつですか。", "id": "tr-448-00-001", "answers": [ { "text": "2008年", "answer_start": 342, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "牛汁を店舗のメニューに加えてもらうにあたり、景勝地である赤目四十八滝周辺の事業者の多くがうどんを取り扱っていることに注目し、「肉うどんのうどんなしの要領で」と依頼することで業者に新メニューの負担感を軽減する作戦が採られた。こうして名張牛汁は伊賀牛を使いながらも安価であり、名張市の観光事業者の間で期待の一品として登場した。2009年4月28日より赤目四十八滝周辺の旅館や飲食店7事業者が赤いのれんを店頭に掲げて提供を開始した。千手滝の前の店舗が単品で提供するほかは、「牛汁定食」や「牛汁御膳」の名前でセットメニューとして売り出した。赤目四十八滝周辺のみでの提供から始まったが、当初から将来的な名張市全域での提供を目標としていた。一方、名張牛汁の宣伝活動はあえて名張市内では行わず、地域外での宣伝に注力し、結果的に成功することとなる。\n2010年4月4日、四日市市諏訪栄町のグリーンモール商店街で開かれた第2回三重県ご当地グルメ大会に出場し、独自のマイクパフォーマンスで客の関心を惹いたが、出場した四日市とんてき、亀山みそ焼きうどん、津ぎょうざの中で最下位に終わった。同年11月7日には名張商工会議所青年部が第3回三重県ご当地グルメ大会を名張に誘致し、名張市上本町のサンロードで開催、焼きおにぎりを加えるという工夫をほどこして前回の雪辱を果たし優勝した。この大会には前回の出場料理に加え熊野さんま寿司も出場した。この年には提供店舗が10店に増え、赤目四十八滝周辺以外にも広がった。", "qas": [ { "question": "2010年4月4日、四日市市諏訪栄町のグリーンモール商店街で開かれた第2回三重県ご当地グルメ大会で、四日市とんてき、亀山みそ焼きうどん、津ぎょうざ、名張牛汁の中、最下位を記録したのは何ですか。", "id": "tr-448-01-000", "answers": [ { "text": "名張牛汁", "answer_start": 317, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第3回三重県ご当地グルメ大会が開かれたのは何年ですか。", "id": "tr-448-01-001", "answers": [ { "text": "2010年", "answer_start": 367, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2011年、名張商工会議所青年部と名張市観光協会、名張市の3団体30人で隠牛汁協会を立ち上げた。同時にB級ご当地グルメでまちおこし団体連絡協議会(愛Bリーグ)に準会員(支部会員)として参加した。協会では東日本大震災で被災した宮城県塩竈市へ赴き、5月17日に桂島、野々島、塩竈市公民館で牛汁と伊賀牛コロッケを作り、かた焼きなどの名張市の製菓業者が製造した菓子類を被災者に提供する炊き出しボランティアを行った。\n\nまた同年9月の「2011中日本・東海B-1グランプリin豊川」への出場が決まると、協会は7月7日に名張市武道交流館で勉強会を開いてより美味な牛汁作りに挑んだ。その結果、みそ味の焼きおにぎりと細かく切ったトマト、コラーゲンゼリーが会員の高評価を得た。こうした努力もあり、中日本・東海B-1グランプリでは4位に入賞し、更に1位から3位も三重県の団体が占めるという成果を収めた。このグランプリでの4位入賞は牛汁協会構成員の士気を高めることとなり、12月21日に名張市が発表した「今年の十大ニュース」に選ばれた。", "qas": [ { "question": "「2011中日本・東海B-1グランプリin豊川」への出場が決まったのは何年のことですか。", "id": "tr-448-02-000", "answers": [ { "text": "2011年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ウルグ・ベク", "paragraphs": [ { "context": "ウルグ・ベクは、ティムール朝の第4代君主(在位:1447年-1449年)である。ティムールの四男シャー・ルフの長男であり、幼名はムハンマド・タラガイ(MuhammadTāraghay)である。", "qas": [ { "question": "ウルグ・ベクは、どの王朝の者なの?", "id": "tr-449-00-000", "answers": [ { "text": "ティムール朝", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウルグ・ベクは、幼いころ何と呼ばれましたか?", "id": "tr-449-00-001", "answers": [ { "text": "ムハンマド・タラガイ", "answer_start": 64, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウルグ・ベクの父親は誰か?", "id": "tr-449-00-002", "answers": [ { "text": "シャー・ルフ", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウルグ・ベクの祖父は誰か?", "id": "tr-449-00-003", "answers": [ { "text": "ティムール", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "文人・学者の保護者となったウルグ・ベクは自身も優れた天文学者・数学者・文人であり、統治者としての事績よりも学者としての事績を高く評価されている。ウルグ・ベクによって統治されたサマルカンドでは王族や有力者による建設事業が盛んに行われ、町に集まった多くの学者が天文学、数学、暦学などの分野で成果を挙げた。ウルグ・ベクの治世はトルキスタン文化の黄金期と呼ばれている。", "qas": [ { "question": "ウルグ・ベクは、統治者と学者のうち、どちらの立場においてより高く評価されるの?", "id": "tr-449-01-000", "answers": [ { "text": "学者", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウルグ・ベクが統治し、王族や有力者による建設事業が盛んに行われたのは、どこの話ですか?", "id": "tr-449-01-001", "answers": [ { "text": "サマルカンド", "answer_start": 87, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウルグ・ベクが統治していたサマルカンドでは、どのような事業が盛んに行われたか?", "id": "tr-449-01-002", "answers": [ { "text": "建設事業", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウルグ・ベクの治世は、どの文化の黄金期と呼ばれるか?", "id": "tr-449-01-003", "answers": [ { "text": "トルキスタン文化", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1394年にシャー・ルフとガウハール・シャード・アーガーの長男として、スルターニーヤで生まれる。シャー・ルフは息子を祖父の名前にちなんだムハンマド・タラガイと名付けたが、ティムールの意向によってテュルクの言葉で「偉大な指揮官」を意味する「ウルグ・ベク」に改名される。", "qas": [ { "question": "ウルグ・ベクは、どこで生まれたの?", "id": "tr-449-02-000", "answers": [ { "text": "スルターニーヤ", "answer_start": 35, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウルグ・ベクは、何年に生まれましたか?", "id": "tr-449-02-001", "answers": [ { "text": "1394年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ムハンマド・タラガイという名前は、誰の名前からとった名前か?", "id": "tr-449-02-002", "answers": [ { "text": "祖父", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウルグ・ベクという名前は、どのような意味を持っていたか?", "id": "tr-449-02-003", "answers": [ { "text": "偉大な指揮官", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "幼少期のウルグ・ベクは、ティムール第一の正室であるサラーイ・ムルクの下で養育される。1404年にティムールによって、ウルグ・ベクと彼の従姉妹のエケ・ベグムの結婚が取り決められる。同年夏にサマルカンド郊外の牧草地で二人の結婚式が開かれ、式は2か月にわたるものになったといわれている。ティムールの中国遠征にはウルグ・ベクも従軍しており、ティムール死後の内戦においてはシャー・ルフの部下のシャー・マリクとともにバルフ近郊のアンドゥフドとシバルガンの統治を命じられた。", "qas": [ { "question": "ウルグ・ベクとエケ・ベグムの結婚が取り決められたのは、何年のことなの?", "id": "tr-449-03-000", "answers": [ { "text": "1404年", "answer_start": 42, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウルグ・ベクとエケ・ベグムの結婚は、何か月も行われましたか?", "id": "tr-449-03-001", "answers": [ { "text": "2か月", "answer_start": 119, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ティムール死後の内戦において、アンドゥフドとシバルガンの統治を命じられたのは、ウルグ・ベクと誰か?", "id": "tr-449-03-002", "answers": [ { "text": "シャー・マリク", "answer_start": 191, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ティムール死後の内戦において、ウルグ・ベクとシャー・マリクは、アンドゥフドとどこの統治を命じられたか?", "id": "tr-449-03-003", "answers": [ { "text": "シバルガン", "answer_start": 215, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "13歳のときにホラーサーン地方の一部とカスピ海南岸のマーザンダラーンの総督に任じられる。1409年に王位継承戦を制したシャー・ルフがサマルカンドを制圧すると、ウルグ・ベクはサマルカンド知事に命じられる。これによりウルグ・ベクを統治者とする地方政権がサマルカンドに成立し、支配期間は40年近くに及んだ。", "qas": [ { "question": "ウルグ・ベクがホラーサーン地方の一部とカスピ海南岸のマーザンダラーンを統治するようになったのは、何歳のころでしたか?", "id": "tr-449-04-000", "answers": [ { "text": "13歳", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウルグ・ベクはサマルカンドの地方政権を何年間も掌握したか?", "id": "tr-449-04-001", "answers": [ { "text": "40年近く", "answer_start": 140, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シャー・ルフがサマルカンドを制圧したのは、何年か?", "id": "tr-449-04-002", "answers": [ { "text": "1409年", "answer_start": 44, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1419年にジョチ・ウルスの王族バラクがウルグ・ベクに支援を求め、ウルグ・ベクはバラクに援助を与える。また、ウルグ・ベクはワイスとの内争に敗れたモグーリスタン・ハン国のシール・ムハンマドに援助を与え、バラクとシール・ムハンマドはそれぞれの国で君主の地位に就いた。ウルグ・ベクは2人を通した間接支配を計画していたが、1426年にバラクはシル川中流域のティムール帝国領を占領して敵対し、シール・ムハンマドもウルグ・ベクに従属の意思を見せなかった。", "qas": [ { "question": "ウルグ・ベクがバラクへ支援を送ったのは、何年のことなの?", "id": "tr-449-05-000", "answers": [ { "text": "1419年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1419年にウルグ・ベクに支援を求めてきたのは、誰ですか?", "id": "tr-449-05-001", "answers": [ { "text": "バラク", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウルグ・ベクから支援をもらい、君主の地位を手にしたのは、バラクと誰か?", "id": "tr-449-05-002", "answers": [ { "text": "シール・ムハンマド", "answer_start": 84, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バラクとウルグ・ベクが敵対するようになったのは、何年からか?", "id": "tr-449-05-003", "answers": [ { "text": "1426年", "answer_start": 157, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1425年に2月にウルグ・ベクはモグーリスタン遠征を実施し、同年5月にモグール軍に勝利を収めた。遠征軍は天山山中のユルドゥズ草原(バインブルク草原)に到達し、帰国した。1427年にウルグ・ベクはシャー・ルフから派遣された援軍と共に北方のウズベク族の討伐に向かうが、敗北する。シャー・ルフは遠征の失敗に非常に落胆し、一時はウルグ・ベクからサマルカンドの統治権を没収しようと考えていたといわれている。ウズベク遠征の失敗以後、ウルグ・ベクは対外政策に消極的な姿勢をとるようになる。", "qas": [ { "question": "ウルグ・ベクは、モグールとウズベクのうち、どちらへの遠征に出かけた時期がより早かったか?", "id": "tr-449-06-000", "answers": [ { "text": "モグール", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウルグ・ベクは、モグールとウズベクのうち、どちらへの遠征で敗北しましたか?", "id": "tr-449-06-001", "answers": [ { "text": "ウズベク", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウルグ・ベクは、何の失敗をきっかけに、対外政策における姿勢が変わったか?", "id": "tr-449-06-002", "answers": [ { "text": "ウズベク遠征", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1447年にシャー・ルフが没した後に各地で王族たちの反乱が発生し、ウルグ・ベクの母のガウハール・シャードは孫(ウルグ・ベクにとっての甥)のアラー・ウッダウラを擁立した。ウルグ・ベクはアラー・ウッダウラに捕らえられた長子のアブドゥッラティーフを解放するため、彼と和約を結んだ。", "qas": [ { "question": "シャー・ルフが死んだのは、何年のことなの?", "id": "tr-449-07-000", "answers": [ { "text": "1447年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アラー・ウッダウラが君主の地位についたのは、何年のことですか?", "id": "tr-449-07-001", "answers": [ { "text": "1447年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウルグ・ベクがアラー・ウッダウラと和約を結んだのは、誰の開放のためだったか?", "id": "tr-449-07-002", "answers": [ { "text": "アブドゥッラティーフ", "answer_start": 110, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アラー・ウッダウラが君主の地位につくのに貢献したのは、だれか?", "id": "tr-449-07-003", "answers": [ { "text": "ガウハール・シャード", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "取り決めに従ってアブドゥッラティーフは解放されたが他の条件は履行されず、ウルグ・ベクとアラー・ウッダウラの戦争は再開される。1448年にウルグ・ベクはアラー・ウッダウラに勝利してマシュハドを占領し、アブドゥッラティーフはヘラートの制圧に成功した。しかし、ウルグ・ベクの遠征中にサマルカンドがウズベクの襲撃を受け、町は破壊と略奪の被害を受ける。ウルグ・ベクはシャー・ルフが本拠地としていたヘラートからサマルカンドに首都機能を移転しようと考え、シャー・ルフの遺体をサマルカンドのグーリ・アミール廟に移して帰国する。", "qas": [ { "question": "1448年にウルグ・ベクの勢力が占領したのは、マシュハドとどこだったの?", "id": "tr-449-08-000", "answers": [ { "text": "ヘラート", "answer_start": 110, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウルグ・ベクがマシュハドとヘラートへの遠征を行っていた時に、サマルカンドを攻撃してきたのは、どのような人々ですか?", "id": "tr-449-08-001", "answers": [ { "text": "ウズベク", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウルグ・ベクがマシュハドとヘラートへの遠征を行っていた時に、ウズベクにより攻撃されたのは、どこか?", "id": "tr-449-08-002", "answers": [ { "text": "サマルカンド", "answer_start": 138, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シャー・ルフが本拠地としていたところを占領したのは、誰の率いるウルグ・ベク軍だったか?", "id": "tr-449-08-003", "answers": [ { "text": "アブドゥッラティーフ", "answer_start": 99, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ウルグ・ベクは占星術に強い関心を持ち、占いで自分の息子に殺される結果が出た後にアブドゥッラティーフを遠ざけるようになり、次男のアブドゥルアズィーズを後継者にするように考え始めたといわれている。ヘラートがトルクメン人の襲撃を受けて破壊された時、バルフに駐屯していたアブドゥッラティーフはウルグ・ベクに対して反乱を起こす。", "qas": [ { "question": "ウルグ・ベクは長男ではなく誰を後継者にすることまで考えたの?", "id": "tr-449-09-000", "answers": [ { "text": "アブドゥルアズィーズ", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウルグ・ベクは何につよい関心を持っていたが、そこから出た結果により長男と距離を取るような悪い結果を呼んできましたか?", "id": "tr-449-09-001", "answers": [ { "text": "占星術", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "どのような人々がヘラートを攻撃してきたか?", "id": "tr-449-09-002", "answers": [ { "text": "トルクメン人", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "トルクメン人のヘラート襲撃が行われた時、誰が反乱を起こしたか?", "id": "tr-449-09-003", "answers": [ { "text": "アブドゥッラティーフ", "answer_start": 131, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1449年秋にアブドゥッラティーフの軍はサマルカンドに接近し、ウルグ・ベクはアブドゥルアズィーズとともに迎撃に出るが敗北する。ウルグ・ベクはアブドゥッラティーフにメッカ巡礼を願い出て許されるが、サマルカンドを発った後にアブドゥッラティーフが派遣した刺客によって殺害される。1941年にウルグ・ベクの墓陵から、彼の頭蓋骨が発見された。", "qas": [ { "question": "アブドゥッラティーフの軍がサマルカンドに接近してきたのは、いつのことなの?", "id": "tr-449-10-000", "answers": [ { "text": "1449年秋", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1449年秋のサマルカンドでの戦闘では、誰の勢力が勝利を収めましたか?", "id": "tr-449-10-001", "answers": [ { "text": "アブドゥッラティーフ", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アブドゥルアズィーズは、アブドゥッラティーフとウルグ・ベクのうち、誰についていたか?", "id": "tr-449-10-002", "answers": [ { "text": "ウルグ・ベク", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウルグ・ベクの墓陵から、彼の頭蓋骨が発見されたのは、何年のことか?", "id": "tr-449-10-003", "answers": [ { "text": "1941年", "answer_start": 136, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "サマルカンド総督となったウルグ・ベクは37年にわたってマー・ワラー・アンナフル地方を統治し、平和な時代が続いた。ウルグ・ベクは原則的にはヘラートのシャー・ルフからの指示に従っていたが、シャー・ルフの指示に現れていない独自の政策も実施されていた。", "qas": [ { "question": "当時、マー・ワラー・アンナフル地方を統治したのは、どの官職の者だったの?", "id": "tr-449-11-000", "answers": [ { "text": "サマルカンド総督", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウルグ・ベクのマー・ワラー・アンナフル地方における統治は、何年も続きましたか?", "id": "tr-449-11-001", "answers": [ { "text": "37年", "answer_start": 19, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シャー・ルフはどこに拠点を持っていた勢力か?", "id": "tr-449-11-002", "answers": [ { "text": "ヘラート", "answer_start": 68, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウルグ・ベクは原則的には誰からの指示に従っていたか?", "id": "tr-449-11-003", "answers": [ { "text": "シャー・ルフ", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ウルグ・ベクの治世には新しい貨幣が鋳造され、商業の発達が促進された。ウルグ・ベク時代のサマルカンドにはティムール時代と同様の自由で享楽的な空気が流れ、美と人生の楽しみを好む性格と学術上の事績からルネサンス的な君主にも例えられる。", "qas": [ { "question": "ウルグ・ベクの治世の業績としては、新しい貨幣の鋳造と何の発達の促進があげられるか?", "id": "tr-449-12-000", "answers": [ { "text": "商業", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウルグ・ベクの時代には何が新しく造られたか?", "id": "tr-449-12-001", "answers": [ { "text": "貨幣", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "タチアナ(虎)", "paragraphs": [ { "context": "タチアナ(Tatiana、2003年6月27日-2007年12月25日)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州のサンフランシスコ動物園で飼育されていたメスのシベリアトラである。\nタチアナはその生涯中に2回人間を襲い、2回目の事件では1名死亡、2名負傷という惨事を引き起こした。\n2回目の事件後、タチアナは警察官の発砲によって射殺されている。", "qas": [ { "question": "タチアナは何の動物なの?", "id": "tr-450-00-000", "answers": [ { "text": "シベリアトラ", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "タチアナはどこで飼育されていたの?", "id": "tr-450-00-001", "answers": [ { "text": "サンフランシスコ動物園", "answer_start": 54, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2回目の事件での死亡と負傷者数はどちらが少なかったの?", "id": "tr-450-00-002", "answers": [ { "text": "死亡", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "タチアナの最後はどのように処分されたの?", "id": "tr-450-00-003", "answers": [ { "text": "射殺", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "タチアナは2003年6月27日に、コロラド州のデンバー動物園で誕生した。\nシベリアトラは絶滅危惧種であり、世界各国の動物園で保護と繁殖に取り組んでいる。\nそのため2005年12月16日に、サンフランシスコ動物園に移動して、同園で飼育されている当時14歳のオス「トニー」と繁殖の可能性を探ることになった。\nタチアナの前に同園にいたメスのトラ「エミリー」は、2005年の後半に脾臓ガンで死亡していた。\nタチアナは、第1の事件を起こすまで人に危害を加えたことはなかったという。", "qas": [ { "question": "タチアナはどこの動物園で生まれたの?", "id": "tr-450-01-000", "answers": [ { "text": "デンバー動物園", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "タチアナと「トニー」はどちらが先に生まれたの?", "id": "tr-450-01-001", "answers": [ { "text": "「トニー」", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "タチアナと「エミリー」はどちらが先に死んだの?", "id": "tr-450-01-002", "answers": [ { "text": "「エミリー」", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "デンバー動物園はどこに位置しているの?", "id": "tr-450-01-003", "answers": [ { "text": "コロラド州", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第1の事件は、2006年12月22日に発生した。\n事件当日、ベテランの飼育係、ロリー・コメヤンはトラの飼育場で公開のエサやりに従事していた。\nこのときタチアナは檻の隙間からコメヤンの右腕に噛みつき、深い裂傷を負わせた。\nこの事件についてカリフォルニア州労働安全衛生局(en:CaliforniaOccupationalSafetyandHealthAdministration)は安全上の不注意及び従事者のトレーニング不足によって起こったものとして、サンフランシスコ動物園に18,000ドルの罰金を科した。", "qas": [ { "question": "第1の事件でサンフランシスコ動物園が支払った罰金はいくらだったの?", "id": "tr-450-02-000", "answers": [ { "text": "18,000ドル", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第1の事件の犠牲者は誰だったの?", "id": "tr-450-02-001", "answers": [ { "text": "ロリー・コメヤン", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第1の事件はいつ発生したの?", "id": "tr-450-02-002", "answers": [ { "text": "2006年12月22日", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "タチアナはコメヤンの体のどこを噛みついたの?", "id": "tr-450-02-003", "answers": [ { "text": "右腕", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "サンフランシスコ動物園ではタチアナを殺処分しないことを決め、当時の園長マヌエル・モリネドも「このトラは通常のトラと同様にふるまっていた」との見解を述べた。\nコメヤンは数回の手術と皮膚移植を受けたが、右腕に深い傷跡と障害が残ることになった。\nコメヤンはトラの飼育場が危険な状態で放置されていたままだったために受傷したと主張し、2008年12月12日にサンフランシスコ市当局と動物園側を相手取って裁判を起こした。\nなお、トラの飼育場は2007年9月に改築されて再開していた。\nこの裁判は和解が成立したが、その内容は非公表とされた。\nコメヤン側の弁護士、マイケル・マンデルは「円満に解決した」と述べたが、サンフランシスコ市当局はコメントを発表しなかった。\n和解金はサンフランシスコ市当局ではなく保険会社から支払われたが、その金額は明らかにされていない。", "qas": [ { "question": "サンフランシスコ動物園の園長は誰だったの?", "id": "tr-450-03-000", "answers": [ { "text": "マヌエル・モリネド", "answer_start": 35, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コメヤンを弁護した人は誰でしたか?", "id": "tr-450-03-001", "answers": [ { "text": "マイケル・マンデル", "answer_start": 274, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "コメヤンはいつ裁判を起こしましたか?", "id": "tr-450-03-002", "answers": [ { "text": "2008年12月12日", "answer_start": 162, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "和解金の支払いはどこからでしたか?", "id": "tr-450-03-003", "answers": [ { "text": "保険会社", "answer_start": 344, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第2の事件は、2007年12月25日に発生した。\n閉園間近の午後5時ごろ、タチアナは飼育場から脱走して来園者に襲いかかった。\n襲撃を受けたのは3人の若い男性で、そのうちカルロス・ソーサ(CarlosEduardoSousaJr、当時17歳)が死亡し、ソーサの友人であるクルビル・ダルワリ(KulbirDhaliwal、当時23歳)とポール・ダルワリ(Amritpal\"Paul\"Dhaliwal、当時19歳)の兄弟が負傷した。\n負傷した兄弟は、トラの飼育場から約300ヤード(270メートル)離れたところにある動物園のカフェまで逃げて救助を要請した。\nポールは閉店直後で施錠されていたカフェの外から大声で助けを求めたが、カフェの扉は開かなかった。\nカフェの責任者は園側の警備責任者に電話し、園側は午後5時7分に警察に通報した。\nただし、カフェの責任者はこの通報が精神状態が不安定な者によってなされたという疑念を表明したために警察の出動が遅れた。\n警察と救助隊員が動物園にようやく到着したとき、トラの園内からの逃走を防ぐために警備を強化していた動物園側の体制によってさらに警察と救助隊員は園内に入るのが妨げられた。\nトラの飼育場では当時4頭が飼育されていたが、脱走したのはタチアナのみであった。", "qas": [ { "question": "第2の事件でタチアナに襲われたのは何人でしたか?", "id": "tr-450-04-000", "answers": [ { "text": "3人", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カルロス・ソーサ、ポール・ダルワリ、クルビル・ダルワリの中で最年長の青年は誰でしたか?", "id": "tr-450-04-001", "answers": [ { "text": "クルビル・ダルワリ", "answer_start": 134, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "クルビル・ダルワリ、カルロス・ソーサ、ポール・ダルワリの中で最年少は誰でしたか?", "id": "tr-450-04-002", "answers": [ { "text": "カルロス・ソーサ", "answer_start": 84, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ポール・ダルワリ、クルビル・ダルワリ、カルロス・ソーサの中で死亡したのは誰でしたか?", "id": "tr-450-04-003", "answers": [ { "text": "カルロス・ソーサ", "answer_start": 84, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ソーサは救助隊員の到着前に、トラの飼育場近くで動物園の従業員によって発見された。\n当初の通報から13分後、警察と救助隊員はソーサのいる場所まで辿り着いた。\nソーサは喉に深い傷を負っていて、後の検死結果によると頭、首、胸部、頭蓋骨及び脊椎の骨折と頸静脈が切断されていた。\n警官4名と動物園の射撃部隊がタチアナを見つけたとき、そのそばにクルビルがいたためすぐに射殺することはできなかった。\n混乱の後にタチアナは警官たちの方に向き直ったため彼らは銃を撃ち、タチアナは絶命した。\nタチアナの頭部と足、尾はサンフランシスコ警察の法医学調査のために切断され、胃の内容物も検査された。\nその結果、タチアナは前頭部への銃撃で死亡し、胃の内容物からは人体組織は発見されなかったことが判明した。\n生き残ったダリワル兄弟は、頭、首、腕などに咬傷とひっかき傷を負った。\n2人とも怪我の程度は軽く、12月29日に病院から退院した。\nこの事件は、サンフランシスコ動物園開園以来、初の動物による来園者の死亡という結果になった。\n園側は2008年1月3日まで閉園したが、2007年12月31日に園内のホールで予定されていた結婚披露宴のみは日程の通りに挙行されている。\n開園後もトラとライオンの公開はしばらくの間中止されていた。", "qas": [ { "question": "通報からから何分後に警察が来たの?", "id": "tr-450-05-000", "answers": [ { "text": "13分後", "answer_start": 48, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ダリワル兄弟はいつ退院したの?", "id": "tr-450-05-001", "answers": [ { "text": "12月29日", "answer_start": 386, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "事件を受けて、サンフランシスコ動物園はいつまで閉園したの?", "id": "tr-450-05-002", "answers": [ { "text": "2008年1月3日まで", "answer_start": 452, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "駆け付けた警官は何名でしたか?", "id": "tr-450-05-003", "answers": [ { "text": "4名", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ダリワル兄弟は事件発生後警察に敵対的な態度を取り、2日間黙秘して自分たちやソーサの身元を明かさず、事件の詳細について公に話すことはなかった。\n事件発生の翌日にサンフランシスコ警察当局は、タチアナの脱走に人間の関与があったかどうか捜査を行っていることを明らかにした。\n記者会見で警察当局は、サンフランシスコ動物園を「犯行現場」として扱っていると説明して、何者かがトラを檻から出した可能性について示唆した。\n動物園の広報担当者は警察が捜査中であり、タチアナがなぜ外に出たかについてのコメントはできないと述べた。\n事件直後、サンフランシスコ動物園の責任者は「タチアナは多分怒ったのであろう」と発言し、タチアナを動揺させた上に何らかの手段で脱走させたと示唆し、トラが1回のみの跳躍で脱走できる可能性はないため、ある種の「助力」があったことを推測した。\n2008年1月3日付のサンフランシスコ・クロニクル紙は、来園者の女性が事件当日、閉園時間間近に少年数人がトラをからかっているのを見たと警察当局に証言した。\n後に女性はその少年たちの中に被害者のソーサがいたと特定したが、ソーサ自身はトラをからかっていなかったと述べた。", "qas": [ { "question": "事件発生後警察に敵対的な態度を取ったのは誰ですか?", "id": "tr-450-06-000", "answers": [ { "text": "ダリワル兄弟", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ダリワル兄弟は何日間黙秘を続けましたか?", "id": "tr-450-06-001", "answers": [ { "text": "2日間", "answer_start": 25, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "トラをからかっていた少年の中にいた被害者とは誰ですか?", "id": "tr-450-06-002", "answers": [ { "text": "ソーサ", "answer_start": 468, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "来園者の女性が警察に証言した内容が報じられたのはいつですか?", "id": "tr-450-06-003", "answers": [ { "text": "2008年1月3日", "answer_start": 372, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "警察の記録によると、負傷した兄弟の車からウォッカの瓶を発見したことと、タチアナに投げつけられたと推定される松ぼっくりと棒切れを発見したことを報じた。\n3人とも大麻を吸引していて、動物園まで飲酒の上で車を運転していた。\nソーサの血中アルコール濃度は0.02に達していて、ダリワル兄弟も事件当時酔っていたことが示唆されていた。\nクルビルの所持する車からは少量のマリファナが発見された。\n警察は飼育舎の囲いに靴跡を発見したことを発表し、被害者の靴跡と一致するかの法医学的分析を行った。\n2008年1月15日には、警察への通報記録とその録音が公表された。", "qas": [ { "question": "クルビルの所持車から発見されたものは何だったの?", "id": "tr-450-07-000", "answers": [ { "text": "マリファナ", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "事件当日のソーサの血中アルコール濃度はいくつでしたか?", "id": "tr-450-07-001", "answers": [ { "text": "0.02", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "兄弟の車から発見されたものは何でしたか?", "id": "tr-450-07-002", "answers": [ { "text": "ウォッカの瓶", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "警察への通報記録が公表されたのはいつですか?", "id": "tr-450-07-003", "answers": [ { "text": "2008年1月15日", "answer_start": 240, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1996年にサンフランシスコ動物園に来園した女性が、トラが跳躍して飼育場の壁の上まで前脚が届いたものの滑り落ちていたことを報告していた。\n女性は動物園の従業員がこのことについて定期的に発生しているものとして退けた上に、動物園側への投書についても返事がなかったと証言した。\n当初動物園側ではトラの飼育場と客を隔てる壁の高さを18フィート(約549センチメートル)と発表していたが、実際にはこの壁の高さは12.5フィート(381センチメートル)しかなかったことを後に認めた。\n動物園・水族館協会(AZA)の基準では、壁には16.5フィート(約503センチメートル)の高さが求められていた。\nタチアナの前脚を調べたところ爪からコンクリート片が検出され、飼育場を囲む堀から跳躍して塀を登ったことが推定された。", "qas": [ { "question": "実際のトラの飼育場の壁の高さはいくらでしたか?", "id": "tr-450-08-000", "answers": [ { "text": "12.5フィート", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "AZAによる壁の基準となる高さはどれくらいですか?", "id": "tr-450-08-001", "answers": [ { "text": "16.5フィート", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "18フィートは何センチメートルですか?", "id": "tr-450-08-002", "answers": [ { "text": "約549センチメートル", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "12.5フィートは何センチメートルのことですか?", "id": "tr-450-08-003", "answers": [ { "text": "381センチメートル", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "AZAは飼育場の欠陥以外にも、動物園側の職員に対する安全教育と管理に問題があったことを指摘した。\n事件発生日はクリスマス休暇の直前で職員の多くが早めに退勤し、居残った職員は非常事態対応用のショットガンや園内を移動するための車の鍵の場所を知らされていなかった。\n動物園のカフェなどに勤務する非常勤職員への緊急事態に対応する安全教育もなされていなかった。\n動物園側はトラの飼育場を改装し、壁を高くした上で熱線センサーなどを設置して2008年2月16日にトラを再公開した。\nさらにポータブル拡声器を設置し、午後5時の閉園時には速やかに退園するように呼びかけることとし、AZAの指摘した問題点の多くについて改善した。\nただし、多くの問題点を抱えながらもAZAの定期検査を合格していた点について、検査の基準にも問題が内包されていたことが示唆された。", "qas": [ { "question": "この動物園の閉園時刻は何時ですか?", "id": "tr-450-09-000", "answers": [ { "text": "午後5時", "answer_start": 250, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "動物園でトラが再公開されたのはいつですか?", "id": "tr-450-09-001", "answers": [ { "text": "2008年2月16日", "answer_start": 213, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トラの再公開にあたって飼育場に設置したものとは何ですか?", "id": "tr-450-09-002", "answers": [ { "text": "熱線センサー", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "熱線センサーの他に園内に設置したものとは何ですか?", "id": "tr-450-09-003", "answers": [ { "text": "ポータブル拡声器", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "被害者のダリワル兄弟は、2008年1月1日にマーク・ゲラゴスという弁護士を雇用してサンフランシスコ市と動物園を訴えることにした。\n2008年3月27日に、兄弟はサンフランシスコ市と動物園を相手取り、損害賠償を求める訴訟を起こした。\n訴訟の内容は、動物園の安全管理が不十分だったことと、被害者側がタチアナをけしかけたという事実ではない発表をして名誉毀損をしたというものだった。\nゲラゴスは事件当時の目撃者の証言にもかかわらず被害者側がタチアナにいたずらした事実を否定した。\n2009年5月、兄弟に90万ドルを支払うことで訴訟は終結した。", "qas": [ { "question": "ダリワル兄弟が雇った弁護士の名前は何なの?", "id": "tr-450-10-000", "answers": [ { "text": "マーク・ゲラゴス", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ダリワル兄弟が起こした訴訟はいつ終わったの?", "id": "tr-450-10-001", "answers": [ { "text": "2009年5月", "answer_start": 236, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ダリワル兄弟はいつ訴訟を起こしたの?", "id": "tr-450-10-002", "answers": [ { "text": "2008年1月1日", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ダリワル兄弟に支払われた損害賠償はいくらだったの?", "id": "tr-450-10-003", "answers": [ { "text": "90万ドル", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "死亡したソーサの両親も、サンフランシスコ市と動物園を告訴した。\n両親はサンフランシスコ市に損害賠償を申し立てていたが、市が責任を否定したため法廷で争うことになった。\n市は事件の責任はサンフランシスコ動物園と動物園の保険会社にあるとしたことに対し、弁護士は動物園の安全を確保しなかったのは市の責任と主張した。\nこの訴訟は2009年に和解したが、その条件は非公開であった。", "qas": [ { "question": "ソーサの両親が起こした訴訟はいつ和解したの?", "id": "tr-450-11-000", "answers": [ { "text": "2009年", "answer_start": 159, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ソーサの両親は動物園と何を相手に告訴したの?", "id": "tr-450-11-001", "answers": [ { "text": "サンフランシスコ市", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "タチアナの死後1年に当たる2008年12月25日、サンフランシスコの彫刻家ジョン・エングダールはタチアナの記念像を公開した。\n記念像はコンクリート、タイルとワイヤー製で、ほぼ実物大の大きさであった。\nエングダールは取材に対して「篤志事業でした」と述べた上で像の設置がサンフランシスコ市の許可を得ていないことを認め、「サンフランシスコ市が像の撤去を求めるのなら従います。しかし、誰も気にかけるとは思いません」と言った。\nタチアナを射殺したサンフランシスコ警察の警官4名は、2009年2月4日に表彰を受けた。\nなお、被害者の1人ポールは2012年7月に24歳で死去したが、それに関する声明などは遺族から公表されていない。", "qas": [ { "question": "タチアナの記念像を製作した人は誰ですか?", "id": "tr-450-12-000", "answers": [ { "text": "ジョン・エングダール", "answer_start": 37, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポールは何歳で亡くなったの?", "id": "tr-450-12-001", "answers": [ { "text": "24歳", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ポールはいつ亡くなったの?", "id": "tr-450-12-002", "answers": [ { "text": "2012年7月", "answer_start": 266, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "タチアナを射殺した警官4名はいつ表彰されましたか?", "id": "tr-450-12-003", "answers": [ { "text": "2009年2月4日", "answer_start": 235, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "平松のウツクシマツ自生地", "paragraphs": [ { "context": "平松のウツクシマツ自生地(ひらまつのウツクシマツじせいち)は、滋賀県湖南市平松にある国の天然記念物に指定された、ウツクシマツの自生地である。\nウツクシマツ(美し松、学名Pinusdensifloraf.umbraculifera)とは、根元近くから幹が放射状に分かれて上方へ伸び、まるで剪定された庭木のような樹形をもつアカマツの変種であるが、このような樹形のマツが群生し、1ヶ所にまとまって生育している要因は劣性遺伝によるものと判明しており、自然状態で交配を重ね自生地を形成しているのは、この湖南市(旧甲西町)平松地区にある、美松山(びしょうざん)南東斜面に位置する「平松のウツクシマツ自生地」のみである。", "qas": [ { "question": "平松のウツクシマツ自生地の所在地はどこですか?", "id": "tr-451-00-000", "answers": [ { "text": "滋賀県湖南市平松", "answer_start": 31, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "平松のウツクシマツ自生地はどの山に位置していますか?", "id": "tr-451-00-001", "answers": [ { "text": "美松山", "answer_start": 263, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウツクシマツは漢字でどう書きますか?", "id": "tr-451-00-002", "answers": [ { "text": "美し松", "answer_start": 78, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウツクシマツが1ヶ所に自生している要因は、何遺伝によるものですか?", "id": "tr-451-00-003", "answers": [ { "text": "劣性遺伝", "answer_start": 204, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "平松のウツクシマツ自生地は東海道五十三次の水口宿と石部宿の中間、石部宿寄りの街道沿いにほど近く、東海道を往来する人々にも松の名所として古くより知られており、その優美な姿から「美松」「美し松」と呼ばれて大切にされ、1921年(大正10年)3月3日に国の天然記念物に指定された。\n国の天然記念物に指定されたエリアには幼木から樹齢300年超の老木が生育しているが、近年、急速にマツ枯れが進んでおり、地元住民による保護活動や湖南市により保全計画が策定され保護保全対策が行われている。", "qas": [ { "question": "平松のウツクシマツ自生地に近い宿場はどこですか?", "id": "tr-451-01-000", "answers": [ { "text": "石部宿", "answer_start": 25, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "平松のウツクシマツ自生地の近くを通る五街道は何ですか?", "id": "tr-451-01-001", "answers": [ { "text": "東海道", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "平松のウツクシマツ自生地は滋賀県南部、湖南市平松地区の小高い丘陵地にある美松山(びしょうざん、標高227メートル)の南東側斜面にあり、標高180メートルから225メートルにかけた山腹斜面の約1.89ヘクタールが国の天然記念物に指定されている。\nこの場所はJR草津線甲西駅の南方を東西方向に走る旧東海道から南西側の美松山方面へ1キロメートルほど登った、丘陵地を造成した新興住宅地に隣接した位置にある。", "qas": [ { "question": "平松のウツクシマツ自生地が国の天然記念物に指定された範囲面積はどれくらいですか?", "id": "tr-451-02-000", "answers": [ { "text": "約1.89ヘクタール", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "美松山の標高はどれくらいですか?", "id": "tr-451-02-001", "answers": [ { "text": "227メートル", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ウツクシマツはアカマツの変種で、葉型や樹皮は通常のアカマツとほぼ同じであるが、根元に近い位置から複数本に分かれた幹が上方へ高く伸び、上部の樹冠全体が傘を広げたように見える珍しい樹形をしている。\n高さは約7-10メートル、幹囲は2.5-2.8メートルほどのものが大半を占めており、中には樹高15メートルに達する個体もある。\nなお、樹形が類似するものに多行松(タギョウショウ)があるが、これは接ぎ木による園芸品種であり、新宿御苑や兼六園などの公園や庭園に植樹されているが、樹高が高く成長するウツクシマツと異なり、高さは5メートル未満の低木がほとんどである。", "qas": [ { "question": "ウツクシマツは何の変種ですか?", "id": "tr-451-03-000", "answers": [ { "text": "アカマツ", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "樹高が高く成長するのはタギョウショウとウツクシマツのどちらですか?", "id": "tr-451-03-001", "answers": [ { "text": "ウツクシマツ", "answer_start": 243, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウツクシマツは一般的にどれくらいの高さまで成長しますか?", "id": "tr-451-03-002", "answers": [ { "text": "約7-10メートル", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウツクシマツはどれくらいの幹囲まで成長しますか?", "id": "tr-451-03-003", "answers": [ { "text": "2.5-2.8メートルほど", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "平松のウツクシマツの樹形には、いくつかのバリエーションがあり、湖南市教育委員会が作成した現地解説板によれば、扇型(上方山形)という根元から約1.5-2メートル付近で複数の幹に分岐し扇状になり、樹冠上部が山形になっているもの、扇形(上方やや円形)という扇型と同型で樹冠上部が丸みがかったもの、傘型という地表付近から幹が多数分岐し、樹冠が傘状に広がったもの、ホウキ型という幹の分岐は傘型と同じであるが、樹冠の広がりが狭いため全体的に箒状に見えるもの、以上の4タイプに分類されている。\nこのような樹形になる要因は長らく不明で、当地の土質が砂礫の混ざった赤土で、一部には岩盤が露出するような層の浅い土壌の影響などが考えられてきたが、確定的なものは無いままであった。\n滋賀県庁の出先機関である滋賀県森林センターでは、平松のウツクシマツの遺伝様式を解明するため1973年(昭和48年)より研究を開始した。", "qas": [ { "question": "平松のウツクシマツの樹形は何タイプに分かれていますか?", "id": "tr-451-04-000", "answers": [ { "text": "4タイプ", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "平松のウツクシマツの研究が始まったのは何年からですか?", "id": "tr-451-04-001", "answers": [ { "text": "1973年", "answer_start": 374, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "平松のウツクシマツの樹形全体が箒状に見えるタイプ名は何?", "id": "tr-451-04-002", "answers": [ { "text": "ホウキ型", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "樹冠上部に丸みがあるタイプの名前は何?", "id": "tr-451-04-003", "answers": [ { "text": "扇形", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "まず最初に、自生するウツクシマツから採種して育てた複数の実生木(第1世代、F1、雑種第一代)は、普通のアカマツとウツクシマツの2種類に分かれた。\nこれらを用いて人工交配を行い第2世代(F2)以降の交配検証を重ねた結果、第2世代以降の個体には、普通のアカマツのもつ「主幹1本だけを伸ばす機能」が崩れた遺伝子が含まれており、独特の樹形をもつ要因は劣性遺伝によるものであることが判明した。", "qas": [ { "question": "第何世代以降の個体を交配した検証結果から、独特の樹形をもつ要因が劣性遺伝によるものだと判明したの?", "id": "tr-451-05-000", "answers": [ { "text": "第2世代", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ウツクシマツ同士を交配すると、その子は100%ウツクシマツ。\nウツクシマツと普通のアカマツを交配すると、その子は100%アカマツ(F1)。\nアカマツ型F1同士を交配すると、その孫は25%がウツクシマツ、75%がアカマツ。\nこれらの事実が2002年(平成14年)に突き止められ、ウツクシマツの樹形はメンデルの法則にしたがって劣性遺伝することが証明された。", "qas": [ { "question": "アカマツ型F1同士の交配で孫に出る割合が多いのはウツクシマツとアカマツのどちらですか?", "id": "tr-451-06-000", "answers": [ { "text": "アカマツ", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "マツは数十年かけ成長するため、第1世代第2世代と続く交配研究には数十年単位の長期間が必要であり、ウツクシマツも全てがその形状に育つのではなく、その見極めには7年ほどかかるため、滋賀県森林センターは1973年の調査開始から30年弱をかけて解明したことになった。\nウツクシマツの遺伝様式が劣性遺伝であったことは、後述する松くい虫に対する抵抗性を高める研究に有用な知見となった。", "qas": [ { "question": "ウツクシマツの形状を見分けられるようになるまでに何年かかりますか?", "id": "tr-451-07-000", "answers": [ { "text": "7年ほど", "answer_start": 78, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "劣性遺伝の解明は調査開始から何年かかりましたか?", "id": "tr-451-07-001", "answers": [ { "text": "30年弱", "answer_start": 110, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "平松のウツクシマツのある美松山の麓に鎮座する松尾神社(湖南市平松)には、ウツクシマツにまつわる次のような伝説が残されている。\n平安時代初期の文徳天皇の頃、体調を崩した京都の藤原頼平という公家が養生のため、ここ平松の山麓に家を建て静養の日々を過ごしていた。\nある日、松林のある山の方面から美しい娘たちが現れ、自分たちは京の松尾大明神(松尾大社)に仕えるもので、あなた様をお護りするよう大明神様がおっしゃり、その仰せに従い参上いたしましたと言い、娘たちは美しい声で歌い舞い踊り、松の間を戯れたという。\nふと気づくと娘たちの姿は無く、目の前の松がすべて見た事のないような美しい姿に変わっており、感嘆した頼平は筆をとり文徳天皇に事の次第を伝えると、朝廷から大納言が勅使として頼平の元へ下向し、松の木々を目にした大納言は、その美しさに「美し松」と名付けたという。\n体調が回復して京都へ戻った頼平は、早速松尾大社へ参拝し分霊を戴いて平松の地へ帰り、そこへ松尾神社を創建したという。\n平松の地名は頼平の「平」と松尾神社の「松」からきたものと伝えられ、うつくし松は当松尾神社の神木になっている。", "qas": [ { "question": "松尾神社はどこの山に位置しているの?", "id": "tr-451-08-000", "answers": [ { "text": "美松山", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウツクシマツの伝説に出てくる公家は誰ですか?", "id": "tr-451-08-001", "answers": [ { "text": "藤原頼平", "answer_start": 86, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウツクシマツの伝説の中で頼平が文を送った天皇とは誰ですか?", "id": "tr-451-08-002", "answers": [ { "text": "文徳天皇", "answer_start": 305, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "松尾神社の創建者は誰ですか?", "id": "tr-451-08-003", "answers": [ { "text": "頼平", "answer_start": 390, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "江戸時代後期の1797年(寛政9年)に刊行された『伊勢参宮名所図会』、および1815年(文化12年)刊行の『近江名所図会』には、「平松村此村の右の方の山に美し松といふあり。一山凡二町餘の間不殘(あいだのこらず)雌松にて、其生ふる形一樹にして根本より數十幹を出す。甚奇観なり。」と記され、東海道沿いの名所として知られていた様子が分かる。\nまた、歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』の水口宿で描かれた浮世絵の2作品に「うつくし松」は描かれており、画中に「平松山美松」、「名松平松山の麓」の副題が添えられており、特に「平松山美松」では複数の幹が放射状に分岐する特徴的なウツクシマツの樹形が描かれている。", "qas": [ { "question": "この文書内で、刊行されたのが早かったと記載されているのは、『伊勢参宮名所図会』と『近江名所図会』のどちらですか?", "id": "tr-451-09-000", "answers": [ { "text": "『伊勢参宮名所図会』", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "水口宿で描かれた『東海道五十三次』は何作品ありますか?", "id": "tr-451-09-001", "answers": [ { "text": "2作品", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『東海道五十三次』で描かれた「うつくし松」のサブタイトルは「名松平松山の麓」と何ですか?", "id": "tr-451-09-002", "answers": [ { "text": "「平松山美松」", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウツクシマツが東海道沿いの名所として記述された江戸時代の書籍とは『伊勢参宮名所図会』と何ですか?", "id": "tr-451-09-003", "answers": [ { "text": "『近江名所図会』", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1921年(大正10年)3月3日にウツクシマツの自生地として、当地の当時の村名である三雲村(みくもむら)を冠した三雲村美松自生地の名称で国の天然記念物に指定され、同村が1955年(昭和30年)4月に岩根村と合併して甲西町となった2年後の1957年(昭和32年)7月31日に、今日の指定名である平松のウツクシマツ自生地へ名称が変更された。", "qas": [ { "question": "変更前の名称は何でしたか?", "id": "tr-451-10-000", "answers": [ { "text": "三雲村美松自生地", "answer_start": 56, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ウツクシマツのある湖南市平松地区では、古来よりの名所であるウツクシマツの自生地を守ろうと、地元平松地区住民らが中心となり1963年(昭和38年)に「平松ウツクシマツ自生地保護会」が結成され、その保護に取り組みはじめた。\n平松地区在住児童通学区域の湖南市立三雲小学校(1874年(明治7年開校)の校歌の歌詞にもウツクシマツは歌われるなど、地域の人々との結び付きが強いものであったが、1978年(昭和53年)に日本全国で発生した松くい虫(マツノセンザイチュウ)によるマツ枯れ被害を受け始めたため、翌1979年(昭和54年)に当時の甲西町では「天然記念物平松のウツクシマツ自生地保護対策委員会」を設置し、薬剤の樹幹への注入による虫の除去が行われ、マツ枯れの進行は一時的に沈静化した。", "qas": [ { "question": "マツ枯れ被害の原因となった生物は何ですか?", "id": "tr-451-11-000", "answers": [ { "text": "松くい虫", "answer_start": 212, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "湖南市立三雲小学校が開校したのは西暦何年ですか?", "id": "tr-451-11-001", "answers": [ { "text": "1874年", "answer_start": 133, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "その後も地域住民らによって消毒等の保全活動が継続されたが、松くい虫による被害は終わらず、毎年平均7本のウツクシマツが枯死し続けたが、2010年代に入り、急速に松枯れが進み、1980年(昭和55年)に255本あったウツクシマツは2016年(平成28年)に115本に減り、2018年(平成30年)6月には97本、同年11月には82本と被害が拡大し、このままでは数年のうちに消滅しかねない危機的状況に陥ってしまった。", "qas": [ { "question": "ウツクシマツの数が多かったのは1980年と2016年のどちらですか?", "id": "tr-451-12-000", "answers": [ { "text": "1980年", "answer_start": 86, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウツクシマツの数が多かったのは、2018年の6月と11月のどちらですか?", "id": "tr-451-12-001", "answers": [ { "text": "6月", "answer_start": 146, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "事態を重く見た湖南市では平成30年度から国の支援を受け、有識者を交えた保存計画策定委員会を設置し会合を重ね、2021年(令和3年)3月末までに新たな保存計画を策定する予定で、計画策定委員長の大阪産業大学の前迫ゆかり教授は「想像以上に危機的な状況で、生態系を見極めた対策を早急に行う必要がある」としている。\n滋賀県も計画を支援をする構えで、同県知事の三日月大造は「ウツクシマツの自生地はわが国を代表する植生として、その価値が高く評価されており、県としてもその価値を後世に向けて守り伝えていく使命があると」発言している。", "qas": [ { "question": "保存計画策定委員会の委員長を務めている人は誰?", "id": "tr-451-13-000", "answers": [ { "text": "前迫ゆかり", "answer_start": 102, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "三日月大造は何県の知事を務めていますか?", "id": "tr-451-13-001", "answers": [ { "text": "滋賀県", "answer_start": 153, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "滋賀県森林センターでは、前述した実生木から交配を重ね明らかになった劣性遺伝の性質を利用した、松くい虫に抵抗性のあるウツクシマツを作る研究を甲賀市にある圃場で行っている。\n具体的には、ウツクシマツ型F1およびF2と松くい虫抵抗性を持つアカマツを交配すると抵抗性のある子F3が出来たが、メンデルの法則から予想されたとおり、ウツクシマツ型のF3は1本もなかった。\nそのため更にF3同士、またはF3とウツクシマツ型F2を交配させて出来るF4苗を作り、このF4苗の苗木に対して人為的に松くい虫を接種したところ、F3同士を交配したF4苗159本中、枯死したのは9本、異常を示したのは37本、健全な状態であったのは114本と、完全ではないものの、松くい虫に対して抵抗性を持つ苗が76.1パーセントに達した。\nただし、これら品種改良されたウツクシマツは文化財保護法の観点から、指定地へ移植することはできない。", "qas": [ { "question": "松くい虫に抵抗性のあるウツクシマツを作る研究は何市で行われているの?", "id": "tr-451-14-000", "answers": [ { "text": "圃場", "answer_start": 75, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "F3同士を交配したF4苗159本中、異常を示したのは何本でしたか?", "id": "tr-451-14-001", "answers": [ { "text": "37本", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "F3同士を交配したF4苗159本中、異常なく健全だったものは何本でしたか?", "id": "tr-451-14-002", "answers": [ { "text": "114本", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "F3同士を交配したF4苗159本中、枯死したのは何本でしたか?", "id": "tr-451-14-003", "answers": [ { "text": "9本", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "このように保全に向けて、官民でさまざまな取り組みが行われており、2010年(平成22年)には地元の高齢者らによる「平松長寿会」が保全活動をはじめ、自生しているウツクシマツ1本ずつの状態を確認し、採種した種を育成する活動が続いている。\n同会ではこれまでに約80本を植樹したが、松は成長するのに数十年が必要なため、高齢者が主体の同会では次世代へ活動を受け継いでいくことが重要であるとして、2017年(平成29年)には前述したウツクシマツが校歌にも歌われている三雲小学校の児童と一緒に種まきをし、地域の大切な遺産を若い世代に継いでいく活動が行われている。", "qas": [ { "question": "地元の高齢者によって立ち上がったウツクシマツの保全活動の集まりとは何?", "id": "tr-451-15-000", "answers": [ { "text": "「平松長寿会」", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「平松長寿会」がウツクシマツを植樹したトータルの本数は?", "id": "tr-451-15-001", "answers": [ { "text": "約80本", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "平松のウツクシマツ自生地の所在地は滋賀県湖南市平松541。\n交通情報はJR草津線甲西駅下車。\n車5分、徒歩25分。", "qas": [ { "question": "平松のウツクシマツ自生地まで最寄り駅から歩いてかかる時間は?", "id": "tr-451-16-000", "answers": [ { "text": "25分", "answer_start": 53, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "平松のウツクシマツ自生地の所在地はどこ?", "id": "tr-451-16-001", "answers": [ { "text": "滋賀県湖南市平松541", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "平松のウツクシマツ自生地の最寄り駅となる駅はどこ?", "id": "tr-451-16-002", "answers": [ { "text": "甲西駅", "answer_start": 40, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "平松のウツクシマツ自生地まで最寄り駅から車でかかる時間は?", "id": "tr-451-16-003", "answers": [ { "text": "5分", "answer_start": 48, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "中小坂鉄山", "paragraphs": [ { "context": "中小坂鉄山(なかおさかてつざん)は、群馬県甘楽郡下仁田町にあった鉄鉱山で、上信電鉄下仁田駅周辺の下仁田町中心部から約2.5キロ北西側の、下仁田方面から長野県佐久市方面へと抜ける中山道のかつての脇往還であり、現在の国道254号沿いに位置している。\n中小坂鉄山は江戸時代末期に発見されたと考えられ、幕末には水戸藩が設立した反射炉で使用される鉄を供給したり、江戸幕府による溶鉱炉建設予定地ともなった。\n明治維新後は、明治7年(1874年)にはイギリス人技師を雇い入れ、洋式高炉などの近代的な製鉄設備の建設を開始し、イギリス人技師とスウェーデン人技師の技術指導のもとで本格的な近代製鉄を始業し、民間経営で良質な鉄を比較的安価に生産することに成功して日本の製鉄業の草分けとなった。\nその後は昭和36年(1961年)まで断続的に操業が行われた。\n中小坂鉄山の東約2キロのところに、中小坂鉄山とほぼ同時期の江戸時代末期に発見され、昭和期まで採鉱が断続的に続けられた近江山鉱区があり、西側約1キロの場所には春日田鉱区があって、ともに中小坂鉄山と同じ鉄鉱石を採掘し、特に昭和の戦前期には中小坂鉄山と一体として鉱山経営が進められた。\nこの記事内では近江山鉱区、春日田鉱区についても適宜触れていく。", "qas": [ { "question": "近江山鉱区と春日田鉱区はどちらが中小坂鉄山に近いですか?", "id": "tr-452-00-000", "answers": [ { "text": "春日田鉱区", "answer_start": 445, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "中小坂鉄山は昭和何年まで操業が行われましたか?", "id": "tr-452-00-001", "answers": [ { "text": "昭和36年", "answer_start": 340, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中小坂鉄山で外国人技師が雇われたのはいつですか?", "id": "tr-452-00-002", "answers": [ { "text": "1874年", "answer_start": 210, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本の製鉄業の先駆けとなった鉄山はどこですか?", "id": "tr-452-00-003", "answers": [ { "text": "中小坂鉄山", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中小坂鉄山は、上信電鉄下仁田駅周辺の下仁田町中心部から西方へ流れる森沢川流域から、東側は南蛇井駅周辺まで広がる南蛇井層と呼ばれる地層と、南蛇井層の北部に貫入した平滑花崗岩とが接する付近にある。\n南蛇井層と平滑花崗岩は領家帯に属しており、南蛇井層は検出された放散虫からジュラ紀後期の海生層由来で、日本列島に付加した付加体であり、平滑花崗岩は約6400万年前に南蛇井層に貫入したマグマが固まったものと考えられている。\n南蛇井層は泥岩と砂岩が交互に堆積した形態を基本とし、砂岩がレンズ状に堆積した箇所も多く、またチャートや石灰岩がレンズ状に分布した部分も見られ、一部はメランジュ状になっている。\nその南蛇井層に平滑花崗岩となるマグマが貫入したことが引き金となって、磁鉄鉱が主体である中小坂鉄山の鉱床が形成されたと考えられているが、鉱床形成のメカニズムは現在のところはっきりとしていない。", "qas": [ { "question": "中小坂鉄山の近くを通っている路線の鉄道会社は何?", "id": "tr-452-01-000", "answers": [ { "text": "上信電鉄", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "南蛇井層の北側に貫入している岩石の種類は何?", "id": "tr-452-01-001", "answers": [ { "text": "平滑花崗岩", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "泥岩と砂岩が互い違いに堆積した形態を基本とする中小坂鉄山の地層の名は?", "id": "tr-452-01-002", "answers": [ { "text": "南蛇井層", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中小坂鉄山が発見された時期については、文献によれば早いものでは天保年間(1830年-1844年)、続いて弘化年間(1844年-1848年)、そして嘉永2年(1849年)、嘉永3年(1850年)、嘉永6年(1853年)とするものが見られる。\n現在のところ中小坂鉄山の発見時期は確定できないが、嘉永年間(1848年-1854年)との説が有力である。\n江戸時代末期に発見されたと考えられる中小坂鉄山は、続いて鉱山開発が開始された。\nまず鉱山近隣のカベッチャラという場所でたたら製鉄を行ったと考えられる溶鉱炉を仮設し、製鉄を開始したところ良好な結果が出たため、多くの職工を雇い入れ上で字反替戸という場所で本格的な製鉄を開始したが、鉱山経営に不慣れであった上に、設備の不十分さと交通の便の悪さなどにより数年で失敗したと伝えられている。", "qas": [ { "question": "中小坂鉄山の発見時期は、何年から何年という説が有力候補として挙がっていますか?", "id": "tr-452-02-000", "answers": [ { "text": "1848年-1854年", "answer_start": 150, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中小坂鉄山の鉱山開発でたたら製鉄を行った場所はどこですか?", "id": "tr-452-02-001", "answers": [ { "text": "カベッチャラ", "answer_start": 220, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中小坂鉄山が発見された時期で、最も早いとされているのはいつからいつまでの期間ですか?", "id": "tr-452-02-002", "answers": [ { "text": "1830年-1844年", "answer_start": 36, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中小坂鉄山が発見され、鉱山開発が開始された幕末期は、諸外国との緊張が高まりを見せており、1850年代、とりわけ嘉永3年1853年のペリー来航以降、幕府や諸大名が大砲鋳造に取り組むようになってきた。\nすでに18世紀末の段階で欧米では旧来の青銅製の大砲ではなく、鉄製の大砲が用いられているようになっていたが、1840年代、高島秋帆そして江川英龍らが鉄製の大砲の採用を進言した。\nしかし1850年代以降、各地で反射炉が建設されて鉄製の大砲が鋳造されたが、せっかく鋳造された大砲の多くが不良品であった。\n鉄製大砲の鋳造が上手くいかない原因は、これまでの日本の製鉄原料となっていた砂鉄が大砲の砲身の材料鉄としては不向きで、岩鉄すなわち鉄鉱石の鉄を用いる必要があると考えられた。", "qas": [ { "question": "欧米で鉄製の大砲が使われるようになる前は、何製の大砲を用いていましたか?", "id": "tr-452-03-000", "answers": [ { "text": "青銅製", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "江川英龍たちが鉄製の大砲を採用することを提案したのはいつ頃ですか?", "id": "tr-452-03-001", "answers": [ { "text": "1840年代", "answer_start": 152, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大砲の砲身材料としてふさわしくない原料は何ですか?", "id": "tr-452-03-002", "answers": [ { "text": "砂鉄", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "当時、水戸藩の徳川斉昭は強硬な攘夷思想を持っており、攘夷を果たすことを目的として反射炉を建設して鉄製の大砲を鋳造することにした。\nしかし斉昭の強硬な攘夷思想の影響もあって、水戸藩内には蘭学など西洋の技術を学んだ人材がいなかったため、南部藩士の大島高任など、藩外部から人材の派遣を受けて反射炉の建造を進めることになった。\n大島高任は鉄製大砲の鋳造には鉄鉱石の鉄を用いる必要があると判断していた。\n安政3年(1856年)、大島は中小坂鉄山の鉄鉱石を鑑定し、大砲鋳造用の鉄の原料として極めて優秀な鉱石であるとした。\nそこで中小坂鉄山の鉄、約1800貫目が数回に分けて那珂湊に建設された水戸藩の反射炉で用いるために運ばれることになった。", "qas": [ { "question": "徳川斉昭が鉄製大砲を鋳造した目的は何でしたか?", "id": "tr-452-04-000", "answers": [ { "text": "攘夷を果たすこと", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "鉄製大砲を鋳造するために斉昭が招き入れた水戸藩外の男とは誰?", "id": "tr-452-04-001", "answers": [ { "text": "大島高任", "answer_start": 121, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "水戸藩の反射炉が建設された場所はどこ?", "id": "tr-452-04-002", "answers": [ { "text": "那珂湊", "answer_start": 280, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "安政3年7月22日(1856年8月22日)、那珂湊の反射炉で中小坂鉄山の銑鉄354貫目が装入されたが、炉内で上手く融解が進まず中小坂鉄山の鉄では大砲鋳造は成功しなかった。\n同じく安政3年(1856年)、水戸藩より中小坂鉱山の現地に調査が行われ、鉄鉱石の精練を行うための高炉建設を、中小坂鉱山の現地と水戸藩領内のどちらで行うのが有利であるかについて調査が行われた。\n調査は鉱石を運搬する費用、木炭や石炭の価格、そして人件費を比較して、中小坂と水戸藩領内のどちらがコスト的に安価に済むか検討がなされた。\nしかし水戸藩の財政難のために中小坂鉱山の鉄鉱石を利用する高炉建設は行われることがなく、安政5年(1858年)からの安政の大獄の中で、水戸藩の反射炉を用いた大砲鋳造事業は中断されることになった。\n中小坂鉄山では、水戸藩の反射炉で大砲を鋳造するための鉄を得るための採掘等は安政5年(1858年)以降行われなくなったと考えられるが、安政5年(1858年)から文久年間(1861年-1864年)にかけて、中小坂鉄山は試掘が続けられていたことを示す文書が残されている。", "qas": [ { "question": "水戸藩の反射炉を使った大砲鋳造事業が一旦中止になったのはいつ?", "id": "tr-452-05-000", "answers": [ { "text": "1858年", "answer_start": 298, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1856年8月に那珂湊の反射炉に装入された中小坂鉄山の銑鉄の量はどれくらいだったの?", "id": "tr-452-05-001", "answers": [ { "text": "354貫目", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "万延元年遣米使節の目付として渡米した小栗忠順は、ワシントン海軍工廠などの見学を通じて、日本に鉱工業を興す必要性を痛感した。\n小栗の進言によって慶応元年(1865年)横須賀造船所の建設が開始され、横須賀造船所で用いる鉄の供給元として中小坂鉄山が注目されることになった。\n慶応元年(1865年)5月、小栗忠順らは中小坂鉄山の開発と溶鉱炉の建設を行うよう建議を行った。\n建議の中で小栗らは、まず当時の情勢は軍備増強が望まれている状況であり、そのため鉄山を開発する重要性が高まっており、小幡藩領内の中小坂には良質な鉄鉱石が大量に存在し、また小幡藩主も幕府の高炉建設に賛成していることを述べていた。\n建議の結果、慶応元年(1865年)閏5月には中小坂鉄山に溶鉱炉を建設するための見分が武田斐三郎らによって実施された。\n見分の結果、中小坂鉄山の鉄鉱石は埋蔵量が豊富である上に品位が極めて高いため、中小坂に溶鉱炉を建設することとしたいが、近くで採掘される石炭は十分な供給量が見込めないため、当面木炭を使用する方針であること。\n予算の都合でまず半鉱炉1基を建造することが望ましいとの報告がなされた。", "qas": [ { "question": "横須賀造船所で用いる鉄の供給元として目がつけられた場所はどこ?", "id": "tr-452-06-000", "answers": [ { "text": "中小坂鉄山", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中小坂鉄山に溶鉱炉の建設を行うように意見した男は誰ですか?", "id": "tr-452-06-001", "answers": [ { "text": "小栗忠順", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小栗忠順は何の団体メンバーとして渡米したの?", "id": "tr-452-06-002", "answers": [ { "text": "万延元年遣米使節", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小栗忠順の提案によって建設された造船所は何ですか?", "id": "tr-452-06-003", "answers": [ { "text": "横須賀造船所", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "慶応元年10月12日(1865年11月29日)、幕府は中小坂鉄山の領主である小幡藩主に対して、中小坂鉄山に溶鉱炉を建設するよう通達が出され、同年中に陸軍奉行から勘定奉行に対し、中小坂鉄山の半鉱炉で使用するための炭を確保するため、御用林の使用について相談がなされている。\n続く慶応2年(1866年)には溶鉱炉建設のための水運についても調査が行われたが、慶応3年10月14日(1867年11月9日)には大政奉還が行われ、江戸幕府の手による中小坂鉱山の溶鉱炉建設は日の目を見ることはなかった。", "qas": [ { "question": "慶応3年10月14日に日本で成立したものとは何?", "id": "tr-452-07-000", "answers": [ { "text": "大政奉還", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "明治維新後の中小坂鉄山は、まず土御門家の家臣であった内藤建十郎が明治3年(1870年)3月、小幡藩に対して鉱山開発願を行い、小幡藩より民部省に届出された内藤の開発願は受理され、4月には許可が下りた。\nしかし内藤は早くも同年5月には坪内半助、稲垣静雄、野村誠一郎の三名に権利を譲渡してしまった。\n坪内半助、稲垣静雄、野村誠一郎の三名は、中小坂の村方の承諾を受けた上で改めて小幡藩に届出を行い、民部省からの鉱山開発許可は7月に下りた。\n坪内、稲垣、野村は職工を雇用して溶鉱炉の建設に取り掛かる直前になって、野村が他の二名に無断で小諸へ行ってしまったため、建設は中断された。\nやがて野村は小諸から戻ってきたが、まもなく金策のために渋川へ行き、その後やはり金策のため東京へ向かった。\nところが野村からなかなか連絡がないため、東京の野村のところへ使者を立てて意向を尋ねたところ、野村は和式の製鉄法では十分な成果が望めないため中小坂鉱山開発から手を引く意向を示した。\nそのような中、もともと一橋家の家臣であった稲垣は徳川宗家が移住していた駿府へ向かい、坪内も金策に困ったことが原因と思われる「故障」のために事業から撤退した。\nすると12月になって突如野村が仲間を連れて中小坂に戻り、村人に無断で溶鉱炉を建設し始めた。", "qas": [ { "question": "明治に入ってすぐに小幡藩に鉱山開発願を行った人は誰?", "id": "tr-452-08-000", "answers": [ { "text": "内藤建十郎", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "内藤建十郎が坪内半助らに鉱山開発の権利を譲ったのは1870年の何月のことですか?", "id": "tr-452-08-001", "answers": [ { "text": "5月", "answer_start": 111, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "坪内半助、稲垣静雄、野村誠一郎の中で一橋家の家臣だった人は誰ですか?", "id": "tr-452-08-002", "answers": [ { "text": "稲垣静雄", "answer_start": 120, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "坪内半助、稲垣静雄、野村誠一郎の中で、鉱山開発の金策のためにあちこち移動した人物は誰?", "id": "tr-452-08-003", "answers": [ { "text": "野村誠一郎", "answer_start": 125, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "明治4年(1871年)5月には溶鉱炉が完成した。\nこのとき完成した溶鉱炉は洋式を模したものであるが、基本的な構造はたたら炉であったものと考えられている。\n当時の溶鉱炉の操業場所や、水車送風を行っていたとの説はあるものの溶鉱炉の詳細な状況は現在のところ不明である。\n明治4年(1871年)8月には製鉄を開始し、250貫目の銑鉄が出銑したが、溶鉱炉が破損してしまい同年中は補修に費やされた。\n明治5年(1872年)1月以降もしばらくは不調が続いたが、5月以降は銑鉄の生産に成功するようになった。\nそして生産された銑鉄と中小坂鉄山の鉄鉱石の一部は、オーストリア=ハンガリー帝国のウイーンで開催される万国博覧会への出品候補とするために群馬県を通して工部省に送られた。", "qas": [ { "question": "溶鉱炉が完成し、3か月後に開始されたのは何ですか?", "id": "tr-452-09-000", "answers": [ { "text": "製鉄", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "生産された銑鉄と中小坂鉄山の鉄鉱石は、何の行事の出品候補にしようとしたの?", "id": "tr-452-09-001", "answers": [ { "text": "万国博覧会", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "明治5年(1872年)8月になって、野村誠一郎は新川県の官吏に任命されたために中小坂鉄山の経営を離れ、鵜飼五郎兵衛、竹林市右衛門、小島市助、繁沢庄兵衛、酒井謙次郎の五名に権利を譲った。\n明治5年(1872年)には中小坂鉄山ではかなりの鉄を生産しており、50名から150名、多いときには170名の人々が働いていた記録が残っている。\n生産された銑鉄は下仁田、上田、東京などへ売却されたが、溶鉱炉建設の費用や諸経費が利益を上回り、中小坂鉄山の経営は赤字経営が続いていた。\nそのような中、中小坂鉄山の経営にトラブルが発生した。\nかつていったん「故障」のために中小坂鉄山の経営から手を引いた坪内半助が、矢野正恭、松本文吉、佐々木順治の四名で明治5年(1872年)11月に中小坂鉄山の鉱山開拓願を提出し、明治6年(1873年)2月には東京府から許可が下りてしまった。\nしかし中小坂鉄山は鵜飼ら五名の手によって稼動されており、ここに許可が重複してしまった。\n群馬県は工部省に伺いを立てたところ、工部省は双方の示談による解決を求め、群馬県が仲裁に入るよう依頼した。\n群馬県そして明治6年(1873年)6月15日以降は熊谷県の仲裁によって、明治6年(1873年)7月には双方は合併し、一つの会社組織となった。\nしかし明治6年(1872年)12月には経営権は丹羽正庸へ譲渡された。\n丹羽の手によって中小坂鉱山は新たな発展を遂げることになる。", "qas": [ { "question": "鵜飼五郎兵衛ら五名に中小坂鉄山の経営権利を譲り渡した人は誰?", "id": "tr-452-10-000", "answers": [ { "text": "野村誠一郎", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "坪内らと鵜飼らによる中小坂鉄山の経営トラブルを仲裁し、合併させたのはどこですか?", "id": "tr-452-10-001", "answers": [ { "text": "熊谷県", "answer_start": 500, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "坪内らと鵜飼らが1つの組織に合併したが、結局経営権は誰に渡りましたか?", "id": "tr-452-10-002", "answers": [ { "text": "丹羽正庸", "answer_start": 569, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中小坂鉄山では最大何人の労働者がいましたか?", "id": "tr-452-10-003", "answers": [ { "text": "170名", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "丹羽正庸は三条家の諸大夫を勤めていた丹羽家の生まれで、正庸も三条実万、三条実美に仕えてきた。\n明治初年、丹羽正庸は森寺常徳と共に三条家の金銭出納を担っていた。\n明治6年(1873年)12月に中小坂鉄山の経営権の譲渡を受けた丹羽正庸は、明治7年(1874年)2月から3月にかけて、「坑業譲請願」を各所に提出した。\n3月には工部卿であった伊藤博文の名で許可が下り、丹羽は東京府知事などを勤めた由利公正と、三浦安の支援を受けつつ、本格的な中小坂鉄山の開発に乗り出すことになった。", "qas": [ { "question": "丹羽による中小坂鉄山の開発支援をした東京府知事は誰ですか?", "id": "tr-452-11-000", "answers": [ { "text": "由利公正", "answer_start": 194, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "丹羽正庸はまずイギリス人鉱山技師であるエラスムス・H・M・ガールを招聘し、これまで使用していた溶鉱炉を廃止した上で、高さ約16メートル、炉の基部の直径約5.5メートルの新たな溶鉱炉と蒸気機関の建設を進めた。\nガールは明治7年(1874年)5月には丹羽正庸が経営していた北品川のガラス工場の技師に転出したが、引き続き同じくイギリス人鉱山技師であるジョセフ・ウォートルスを雇い入れ、輸入した資材を用いてイギリス式の溶鉱炉、蒸気機関、熱風炉など全ての製鉄設備等を完成させ、また中小坂鉄山の鉄鉱石採掘方法の改善も図られた。\nまた明治8年(1875年)12月からはスウェーデン人高炉技師のアドルフ・R・ベルギレンを雇い、ウォートルス、ベルギレンの技術指導のもと、中小坂鉄山は当時の日本最先端の設備を備えた鉄山として稼動されるようになった。", "qas": [ { "question": "丹羽正庸が雇った2人目の外国人鉱山技師は誰ですか?", "id": "tr-452-12-000", "answers": [ { "text": "ジョセフ・ウォートルス", "answer_start": 172, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリス人以外の外国人鉱山技師に誰がいましたか?", "id": "tr-452-12-001", "answers": [ { "text": "アドルフ・R・ベルギレン", "answer_start": 289, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ガール、ウォートルスの指導により、主に輸入した資材で建設された中小坂鉄山の鉱山施設と製鉄所は、極めて効率的に設計されていた。\nまず鉱山施設については、中小坂鉱山は標高約440メートルの山の尾根付近にある露頭から、3本の鉱脈が山体内を下降しており、約500万トンの鉄鉱石が埋蔵されていると推定された。\n中小坂鉄山での鉄鉱石の採掘は、まず山の尾根にある露頭から坑道掘りで採掘が行われ、採掘された鉄鉱石は坑道内の立坑に設けられたシュートを用いて、標高約320メートルの位置に掘削された運搬用の坑道に落とされ、運搬用の坑道内で鉄鉱石はトロッコに入れられて搬出された。", "qas": [ { "question": "中小坂鉱山に埋蔵されている鉄鉱石の推定量はいくらだったの?", "id": "tr-452-13-000", "answers": [ { "text": "約500万トン", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ガール、ウォートルスの指導により建設された中小坂鉄山では、日本で初の蒸気機関、そして熱風の高炉内への送風を行うという方式で西洋式の高炉操業を実現し、更に高炉で生産された銑鉄を、パドル炉によって錬鉄とし、更に鍛鉄、そして銑鉄の鋳造設備も完備されており、高炉での銑鉄生産にとどまらず製品まで生産した総合的な製鉄所であるという特徴があった。\n1870年代当時、欧米の製鉄では転炉、平炉による鋼鉄製造がようやく広まり始めた時期であり、まだ中小坂鉄山に建設された方式と同様の、高炉、パドル炉による錬鉄製造、そして鍛鉄の製造という製鉄方法が主流であった。\nこのような欧米で主流であった設備は当時の日本の技術力では製作が困難であったと見られ、中小坂鉄山と製鉄所の設備の多くは輸入に頼ることになった。\n例えば高炉の耐火レンガはイギリス製であったことが判明している。\nまた鉱山と製鉄所の運営、管理も外国人であるウォートルス、ベルギレンの指導によって行われることになった。", "qas": [ { "question": "中小坂鉄山にあった高炉の耐火レンガは何製のものでしたか?", "id": "tr-452-14-000", "answers": [ { "text": "イギリス製", "answer_start": 355, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "中小坂鉄山のもう一つの特徴としては、鉱山での鉄鉱石採掘から鉄製品の製造に至るまでの一貫した設備を、民間資本の手によって比較的少額で建設したという点にある。\n丹羽正庸経営時の中小坂鉄山の建設費は、鉄鉱山と製鉄所の合計で約7万円であり、明治8年(1875年)に建設が開始された官営釜石製鉄所の建設費用に総額約237万円が費やされたことに比べて著しく安価であった。\n巧みに建設された鉱山設備等で省力化が図られていたこともあって、中小坂鉄山の銑鉄一トンあたりの製造単価は約36円となり、当時外国から輸入されていた銑鉄一トンあたり約50円という単価を下回ることが出来た。\nこのような当時の日本で最新鋭の設備を備えた中小坂鉄山で生産された鉄は、上、中、下の三種類に分別され、上は海軍省、中は高崎製鉄造所、東京鉄管製造に販売されたとの記録が残っている。\n明治から大正期に陸軍砲工学校で用いられた教科書には、当時世界的な鉄の産地として知られていたウエールズ南東部のブレナヴォン製鉄所製の鉄インゴットとともに、中小坂鉄山のインゴットが紹介されており、中小坂鉄山の鉄が高く評価されていたことを示している。\nまた中小坂の製鉄所で鋳造された鉄瓶、鉄釜、火鉢などといった鉄製品も今に遺されている。", "qas": [ { "question": "中小坂鉄山の建設費と官営釜石製鉄所の建設費はどちらが低価格でしたか?", "id": "tr-452-15-000", "answers": [ { "text": "中小坂鉄山", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "中小坂鉄山の銑鉄と外国輸入の銑鉄の一トンあたりの製造単価が安いのはどちらですか?", "id": "tr-452-15-001", "answers": [ { "text": "中小坂鉄山の銑鉄", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "当時の日本としては最新鋭の設備を備え、比較的安価な建設費用と省力化によって良質な製品を安価に製造することに成功した中小坂鉄山であったが、その経営が軌道に乗ることはなかった。\n明治6年(1873年)の世界恐慌の影響で鉄の価格は大きく下落しており、その上にトン当たり約36円というコストで銑鉄生産に成功した中小坂鉄山に対抗して、外国からの鉄輸入業者はダンピングを行い、中小坂鉄山の鉄価格よりも更に安い価格で鉄を供給するようになった。\n当時の日本は不平等条約のために関税自主権がなく、外国からの安価な鉄の流入に対抗する効果的な手段は無かった。\n日本の鉄全体の関税率は当時の国際基準より低く定められていた上に、特に船舶のバラスト用に積み込まれた鉄材の関税率は極めて低く、恐慌の影響で安価となっている上に低関税、更にダンピングによって極めて安価な鉄が日本に輸入される状況下では中小坂鉄山の鉄は対抗出来なかった。\nまた耐火レンガなど輸入品によって建設された鉄山と製鉄所の設備の更新のため、高価な物資の輸入を続けなければならなかった点も経営を圧迫した。", "qas": [ { "question": "明治6年に鉄の価格が大幅下落した原因は何でしたか?", "id": "tr-452-16-000", "answers": [ { "text": "世界恐慌", "answer_start": 99, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "明治9年(1876年)7月、中小坂鉄山を経営していた丹羽正庸は約10万円の借財を負って経営から手を引き、由利公正と三浦安が経営を引き継いだ。\n経営の再建を急いだ由利らは、明治9年(1876年)11月に東京府瓦斯局からガス用鋳鉄管を大量受注をした。\nこの受注については、東京府瓦斯局のフランス人技師であるアンリ・プレクランが中小坂鉄山と製鉄所を視察した結果、生産される鋳鉄そのものの品質の高さは認めたものの、鋳鉄管を製造する設備と技術者の不足を厳しく指摘し、ガス用鋳鉄管の製造は不可能であるとした報告を無視して行われた。\n果たして中小坂鉄山で製造された鋳鉄管のほとんどが著しい不良品で、東京府から前渡金として渡されたガス管製造代金と内務省勧商局からの借入金の返済に窮することになった。\n経営に行き詰った由利公正らは明治10年(1877年)11月、中小坂鉄山と製鉄所を官営とし、併せて東京府や内務省勧商局などの返済すべき借財を政府に肩代わりを依頼する願を工部省に提出した。\n由利らの願は認められ、明治11年(1878年)5月、中小坂鉄山は官営となることが決定された。", "qas": [ { "question": "中小坂鉄山が正式に政府の経営となったのは何年ですか?", "id": "tr-452-17-000", "answers": [ { "text": "1878年", "answer_start": 452, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "丹羽正庸はいくらの借金を背負って経営をリタイアしましたか?", "id": "tr-452-17-001", "answers": [ { "text": "約10万円", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "丹羽正庸の後に中小坂鉄山の経営を担ったのは由利公正と誰ですか?", "id": "tr-452-17-002", "answers": [ { "text": "三浦安", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "明治11年(1878年)6月26日、中小坂鉄山は正式に官営となり、鉱山局中小坂分局となった。\n官営となった中小坂鉄山であったが、設備面では熱風炉を一基増設し、高炉の補修を行ったのみで、基本的にこれまでの民営時代の設備をそのまま使用した。\n操業体制については木炭の製造、運搬をこれまで農閑期の農民の出稼ぎに頼っていたものを専属職員を置くように改め、木炭の運搬用に役牛を購入、更には木炭用の森林を新たに確保した。\nそして採鉱、運搬、土木工事に囚人を使役するなどという変更が加えられたが、民営時代と比較して最も大きな変化は、外国人技術者を雇うことなく日本人のみによって操業が行なわれた点である。\n官営での操業準備が整った1879年7月1日より中小坂鉄山は操業が再開された。", "qas": [ { "question": "官営となった中小坂鉄山が雇わなくなったのは何ですか?", "id": "tr-452-18-000", "answers": [ { "text": "外国人技術者", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "官営となった中小坂鉄山が操業を再開したのはいつ?", "id": "tr-452-18-001", "answers": [ { "text": "1879年7月1日", "answer_start": 307, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "官営時代の中小坂鉄山の経営は不振を極めた。\n不振の最大の原因は、国産品を使用するようになった高炉の耐火レンガの耐火性が不足していたため、高炉操業のたびに耐火レンガの溶解や破損が発生したことであった。\n明治14年(1881年)7月には官営として経営を継続するか否かについて審査が行うため、工部省から係員が中小坂鉄山に派遣され、官営としては廃業が適当であるとの審査結果が出されたことにより、1882年1月16日、官営廃業と民間への払い下げが決定された。\nしかし払い下げ希望者が現れたにも関わらず、中小坂鉄山の払い下げはすぐには行なわれなかった。\nこれは陸軍省と海軍省が中小坂鉄山の官営継続を工部省に要請したためで、兵器の充実を図るために鉄資源の必要性が増していた陸軍と海軍が、官営鉄鉱山である中小坂鉄山の維持を考えたものとされている。\n陸軍省と海軍省の要請に基づき工部省は官営の可否について再調査を行なったが、やはり官営の維持は困難であるとの結論となり、明治17年(1884年)8月19日、中小坂鉄山は坂本弥八に払い下げられた。", "qas": [ { "question": "中小坂鉄山の経営不振により、官営廃業が決定されたのはいつですか?", "id": "tr-452-19-000", "answers": [ { "text": "1882年1月16日", "answer_start": 193, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中小坂鉄山は誰に払い下げられましたか?", "id": "tr-452-19-001", "answers": [ { "text": "坂本弥八", "answer_start": 449, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "中小坂鉄山の払い下げを受けた坂本弥八は、長野県の大日向鉱山とともに鉄鉱山経営に乗り出したが、やはり思うように経営がはかどらず、数年後には製鉄業は休止され、採鉱のみが継続されることになった。\n明治26年(1893年)、上信電鉄の創始者である小沢武雄が鉱山経営を引き継ぎ、その後も短期間で経営者が交代した。\n明治39年(1906年)になって休止されていた製鉄所の経営が再開されたが、明治41年(1908年)には製鉄所の操業は再び中止され、鉱山自体も翌明治42年(1909年)に廃業となった。\nそして中小坂鉄山のほとんどの製鉄所設備は大正7年(1918年)に撤去された。", "qas": [ { "question": "坂本弥八の次に誰が中小坂鉄山の鉱山経営を引き継いだのでしょうか?", "id": "tr-452-20-000", "answers": [ { "text": "小沢武雄", "answer_start": 119, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "天色*アイルノーツ", "paragraphs": [ { "context": "『天色*アイルノーツ』は、ゆずソフトによって開発され、株式会社オーバーから2013年7月26日に発売された、Windows専用の18禁恋愛アドベンチャーゲームである。本作はゆずソフトの第7作目となる作品で、前作の『DRACU-RIOT!』から1年半ぶりの新作である。\n\n物語の舞台は、エルフやセリアンスロープ(獣人)などの架空の種族が住む空に浮かぶ島である。本作のコンセプトは「キャラ萌え」であり、シナリオは、空に浮かぶ島で教鞭を執る主人公が生徒や同僚の女性たちと恋仲になるという展開である。\n\n2013年に発売された美少女ゲームの中で、本作は一二を争う売り上げを達成している。また、2013年に発売された美少女ゲームが対象の人気投票では、総合部門で最高5位を達成している。\n\n2013年から2014年にかけ、KADOKAWAから出版されている漫画雑誌・『コミックアライブ』に本作の漫画版が掲載され、後に単行本が発売された。", "qas": [ { "question": "『天色*アイルノーツ』はいつ発売されたか。", "id": "tr-453-00-000", "answers": [ { "text": "2013年7月26日", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゆずソフトの第7作目の作品は何ですか。", "id": "tr-453-00-001", "answers": [ { "text": "『天色*アイルノーツ』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『天色*アイルノーツ』の漫画版はどの雑誌に掲載されましたか。", "id": "tr-453-00-002", "answers": [ { "text": "『コミックアライブ』", "answer_start": 377, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『天色*アイルノーツ』のコンセプトは何?", "id": "tr-453-00-003", "answers": [ { "text": "「キャラ萌え」", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『天色*アイルノーツ』は、作中に出現する選択肢により各ヒロインの好感度が加算され、ストーリー展開が変化する恋愛アドベンチャーゲームである。初回のプレイではメインヒロイン4名のいずれかしか攻略できず、そのストーリーをエンディングまで見ると、次回以降のプレイではサブヒロイン2名のストーリーへ分岐する選択肢が出現する。ヒロインの好感度の値によっては、誰とも結ばれないノーマルエンドとなる場合もある。ゲームを1回以上クリアすると、起動直後のトップメニューにCGやBGMを鑑賞できるメニューが追加される。またクリアしたヒロインのアフターストーリーがプレイ可能となる。", "qas": [ { "question": "『天色*アイルノーツ』は、最初のプレイでは何人のヒロインしか攻略できませんか。", "id": "tr-453-01-000", "answers": [ { "text": "4名", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "起動直後のトップメニューにCGやBGMを鑑賞できるメニューを追加するためには、ゲームを少なくとも何回プレイしないといけませんか。", "id": "tr-453-01-001", "answers": [ { "text": "1回", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『天色*アイルノーツ』は、エルフやセリアンスロープなど現実には存在しない種族と人間が共存する「ライゼルグ」という架空の島が舞台のゲームである。この島には、主人公とヒロインたちが通うフェン・シクリッド女学院がある。\n\nライゼルグは、日本の上空に浮かびさまざまな種族が住む島で、観光地として知られている。物語が始まる数十年前に日本近海の上空に突如現れた後、日本との交渉の末にライゼルグは独立国家として認められ、ライゼルグ市国という国が設立された。ライゼルグ内は中世ヨーロッパ風の町並みで、機械ではなく魔法道具が普及している。ライゼルグにはヒト・エルフ・セリアンスロープなど多種多様な種族が住んでいる。日本からはパスポートなしで入国でき、移動にはゴンドラが用いられる。ただし、日本とライゼルグの行き来には時間がかかり、日帰りには向かない。宿泊施設が多く観光に力を入れているが、移住には慎重で厳しい審査が行われる。\n\nライゼルグ内には、フェン・シクリッド女学院というさまざまな種族が通う教育機関が存在する。この学院はライゼルグにある唯一の学院であり、設立からまだ5年と経っていない。校舎は広いが、学生数は約100人で、そのうち留学生は10人ほど。ヒト・エルフ・セリアンスロープなど、多種多様な種族が通っている。日本の教育を見習って高いレベルの教育が行われており、留学先として人気がある教育機関である。主人公やヒロインたちが通う学院でもある。\n\n本作では、エルフやセリアンスロープという架空の種族が登場する。エルフはヒトよりも耳が長く、伝統文化を重んじるという特徴がある。伝統文化を守るため、他の種族との交際には消極的な種族である。セリアンスロープには獣のような耳と尻尾が生えており、身体能力はヒトよりも遥かに高い。また、セリアンスロープは恋を我慢し続けると二度と恋ができなくなるという性質を持つ。", "qas": [ { "question": "『天色*アイルノーツ』の舞台となる島の名前は何?", "id": "tr-453-02-000", "answers": [ { "text": "「ライゼルグ」", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フェン・シクリッド女学院はどの島に位置しているか。", "id": "tr-453-02-001", "answers": [ { "text": "「ライゼルグ」", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ライゼルグにある唯一の学院の名前は何ですか。", "id": "tr-453-02-002", "answers": [ { "text": "フェン・シクリッド女学院", "answer_start": 414, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エルフとヒトと、どっちの方が耳が長い?", "id": "tr-453-02-003", "answers": [ { "text": "エルフ", "answer_start": 649, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "『天色*アイルノーツ』の主人公・鷺ノ森透は、とある事件から教師を続ける自信を失っていたが、恩師から誘いを受けてライゼルグにあるフェン・シクリッド女学院で教師として働き始める。透はエルフやセリアンスロープが住むライゼルグで、6人の女性——優等生で同人活動を行うシャーリィ・ウォリック、献身的な留学生の天霧夕音、再会した従妹で留学生の白鹿愛莉、セリアンスロープかつ酒場の看板娘である真咲・ガイヤール、透の同僚教師でエルフのティア・ホーエンヴェルフェン、記憶喪失の少女である火宮木乃香——と出会う。透は教師生活を送りながら、やがてある女性と親密な仲になっていく。", "qas": [ { "question": "『天色*アイルノーツ』の主人公の名前は何?", "id": "tr-453-03-000", "answers": [ { "text": "鷺ノ森透", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "シャーリィはとある出来事からトラウマを思い出し、自室にこもるようになる。透はシャーリィの元を訪れ、彼女に「世界の温かさ」を教える。トラウマを克服したシャーリィは、透の人柄に魅了されて恋に落ちる。\n\n透と付き合い始めたシャーリィは、透が教師を続ける自信をなくした原因を知る。透は以前にいた学園で、教え子・上月奈津美が受けていたいじめに対して有効な対策ができなかった。そのことを知ったシャーリィは、「世界温暖化計画」と称して透を立ち直らせるために奔走する。シャーリィは奈津美から本音を引き出し、それを透に届ける。奈津美からの感謝の言葉を聞いた透は、見事に自信を取り戻す。", "qas": [ { "question": "シャーリィに「世界の温かさ」を教えた人は誰?", "id": "tr-453-04-000", "answers": [ { "text": "透", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「世界温暖化計画」は誰の頭から出てきたアイデアなの?", "id": "tr-453-04-001", "answers": [ { "text": "シャーリィ", "answer_start": 190, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『天色*アイルノーツ』の企画は前作『DRACU-RIOT!』が発表された2011年の秋頃から始まり、2012年5月から本格的に開発が始まった。第7作目は、本作の企画とミリタリー系の企画の2つ(どちらも天宮りつが提案)でどちらにするか揉めたが、『DRACU-RIOT!』がシリアスな話だったため、第7作目はかわいい系の作品にしようということで、本作の企画が採用された。企画の方向性が「現代がベースのファンタジー学園モノ」に決まり、この方向性に合うシナリオライターで実績の高い鏡遊と紺野アスタをゆずソフトは起用した。初期案では、主人公は教師ではなく、舞台となる島も空に浮かんではいなかった。しかし、過去作と意図的に設定を変えるため(特に島という設定は前作『DRACU-RIOT!』と同じため)、主人公を教師に、ゲームの舞台を空に浮かぶ島に天宮りつが企画を変更した。作品のコンセプトは「キャラ萌え」であり、必要以上にシリアスな展開にならないように気をつけながら制作された。島の内部は中世ヨーロッパ風の景観と決まり、煎路・ろどがドイツ南部に1週間ほどの取材を行った。", "qas": [ { "question": "『天色*アイルノーツ』と『DRACU-RIOT!』と、どっちの方が先に発表されたの?", "id": "tr-453-05-000", "answers": [ { "text": "『DRACU-RIOT!』", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『天色*アイルノーツ』企画の方向性は何に決まりましたか。", "id": "tr-453-05-001", "answers": [ { "text": "「現代がベースのファンタジー学園モノ」", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『天色*アイルノーツ』のコンセプトは何?", "id": "tr-453-05-002", "answers": [ { "text": "「キャラ萌え」", "answer_start": 389, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『天色*アイルノーツ』と『DRACU-RIOT!』と、もっとシリアスな話はどっちですか。", "id": "tr-453-05-003", "answers": [ { "text": "『DRACU-RIOT!』", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "『天色*アイルノーツ』のタイトルは2012年の夏頃に決まった。始めに煎路が「天色」という名称を考えだし、もう少し長い名称にしようということになり、むりりんが「アイルノーツ」という名称を考案した。「アイルノーツ」は、「島(Isle)」+「乗組員(Nauts)」を組み合わせ、「天色の空に浮かぶ島に住んでいる人たち」を意味している。また、タイトルにあるアスタリスク(*)は、6人のヒロインたちを指しており、「小さな星」という意味が込められている。", "qas": [ { "question": "『天色*アイルノーツ』の(*)は何を指しますか。", "id": "tr-453-06-000", "answers": [ { "text": "6人のヒロインたち", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『天色*アイルノーツ』のタイトルはいつ決まりましたか。", "id": "tr-453-06-001", "answers": [ { "text": "2012年の夏頃", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『天色*アイルノーツ』の「アイルノーツ」を考案したのは誰ですか。", "id": "tr-453-06-002", "answers": [ { "text": "むりりん", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『天色*アイルノーツ』の「アイルノーツ」は「島(Isle)」と何を合わせた言葉ですか。", "id": "tr-453-06-003", "answers": [ { "text": "「乗組員(Nauts)」", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "メインヒロイン4人は美少女ゲーム雑誌上でキャラクターデザインの経緯が明かされている。シャーリィのデザインは、メインヒロインらしく華やかで地味にならないように気をつけながら行われた。デザインに一番時間がかかったヒロインであり、髪の毛のボリュームとパーマのかかり具合でスタッフ間で意見が一致せず、何度も微修正が行われた。夕音は「大和撫子」「潜在的なサディスト」というコンセプトでデザインが行われた。夕音はしっとりとした黒髪に見えるように描かれた。愛莉は、スタッフから「ふわふわとしたツインテールの少女になるように」と注文を受けて原画担当のこぶいちがデザインした。それだけだと地味に見えるので、カーディガンを着せたりネクタイをリボン風にしたりとこぶいちは工夫を凝らした。愛莉の髪の色には、彼女の慎ましい性格を考慮して、薄い青色が採用された。真咲は、明るく元気な感じにデザインされている。真咲の獣耳と尻尾は狼を参考にして描かれた。この獣耳という設定は、ディレクターである煎路の「ファンタジー世界では耳キャラが必須」という意見により決まった。メインヒロイン4人が通うフェン・シクリッド女学院の制服は、開発初期の真咲の服デザインが流用され、色はスタッフ間で話し合って決められた。", "qas": [ { "question": "デザインに一番時間がかかったヒロインは誰なの?", "id": "tr-453-07-000", "answers": [ { "text": "シャーリィ", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "愛莉のデザインは誰が担当したの?", "id": "tr-453-07-001", "answers": [ { "text": "こぶいち", "answer_start": 267, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "愛莉の髪は何色なの?", "id": "tr-453-07-002", "answers": [ { "text": "薄い青色", "answer_start": 356, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『天色*アイルノーツ』は広報活動として、美少女ゲーム雑誌と公式サイトでの情報公開や、キャラクターソングの発売、スマートフォン向け時計アプリの配布、他ブランドとの合同キャンペーン、コミックアライブでの漫画の連載が行われた。本作の発表は2013年2月に行われた。2013年2月末発売の美少女ゲーム雑誌にて、本作の情報が公開された。2013年2月21日には公式サイトが公開され、後にホームページやブログ用の応援バナーやTwitter用の素材が配布された。2013年4月から5月にかけ、メインヒロイン4人のキャラクターソングが発売された。2013年5月12日には、iOS向けの時計アプリ・「天色*時計」が無料で配布された。2013年6月14日からは、SAGAPLANETSの作品である『カルマルカ*サークル』との合同バナーキャンペーンが行われた。『コミックアライブ』では、2013年9月号から2014年3月号まで本作の漫画版が連載された。", "qas": [ { "question": "『天色*アイルノーツ』の発表はいつ行われたか。", "id": "tr-453-08-000", "answers": [ { "text": "2013年2月", "answer_start": 116, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『天色*アイルノーツ』の公式サイトはいつ公開されたか。", "id": "tr-453-08-001", "answers": [ { "text": "2013年2月21日", "answer_start": 163, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『天色*アイルノーツ』のメインヒロイン4人のキャラクターソングは何月に発売されたの?", "id": "tr-453-08-002", "answers": [ { "text": "4月", "answer_start": 229, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『天色*アイルノーツ』の漫画版はいつから掲載されたか。", "id": "tr-453-08-003", "answers": [ { "text": "2013年9月", "answer_start": 382, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『天色*アイルノーツ』のオープニングテーマ・エンディングテーマとしてそれぞれ「Blue-LoveChime」・「天色」という歌謡曲があり、ゲーム中には演出としてBGMが流れる。オープニングテーマである「Blue-LoveChime」は、作詞・作曲・編曲をそれぞれ神代あみ・Famishin・森まもるが担当した。ボーカルを担当したのはnaoであり、榊原ゆいが主題歌を担当しない初めてのゆずソフト作品となった。エンディングテーマである「天色」は、作詞・作曲・編曲をそれぞれ中山マミ・Famishin・井ノ原智が担当した。「天色」は、Famishinの要望により、メインヒロイン4人の声を担当した声優が歌っている。「天色」の作曲は、エンディングらしさがあり、斉唱ができる曲という意図で行われた。「天色」の歌詞は、Famishinによれば「ゲーム後に聞くとぐっとくる内容」になっている。BGMは全てFamishinによって作曲された。BGMは前作『DRACU-RIOT!』から少し増え41曲となっており、生楽器を使用して収録された曲がある。オープニングテーマ・エンディングテーマ・BGMは全て『天色*アイルノーツオリジナル・サウンドトラック』に収録されている。", "qas": [ { "question": "『天色*アイルノーツ』のオープニングテーマは何?", "id": "tr-453-09-000", "answers": [ { "text": "「Blue-LoveChime」", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『天色*アイルノーツ』のエンディングテーマは何?", "id": "tr-453-09-001", "answers": [ { "text": "「天色」", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『天色*アイルノーツ』のエンディングテーマの作曲は誰がやった?", "id": "tr-453-09-002", "answers": [ { "text": "Famishin", "answer_start": 239, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『天色*アイルノーツ』のBGMは全部誰が作曲した?", "id": "tr-453-09-003", "answers": [ { "text": "Famishin", "answer_start": 395, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『天色*アイルノーツ』は、月間と年間の売り上げランキングで1位を獲得した。発売月(2013年7月)の美少女ゲーム売り上げランキングでは、『PUSH!!』・『Getchu.com』・『TECHGIAN』・『BugBug』の全てで1位となった。『Getchu.com』の売り上げランキングでは、翌月の2013年8月でも11位にランクインした。2013年の美少女ゲーム年間売り上げランキングでは、『BugBug』による集計で1位を、『PUSH!!』と『Getchu.com』による集計で2位を獲得した。本作の具体的な販売本数は各売り上げランキングや『天色*アイルノーツオフィシャルビジュアルファンブック』でも明かされていない。", "qas": [ { "question": "2013年の美少女ゲーム年間売り上げランキングで、『BugBug』による集計で1位をした作品は何ですか。", "id": "tr-453-10-000", "answers": [ { "text": "『天色*アイルノーツ』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "佐久間ダム", "paragraphs": [ { "context": "佐久間ダム(さくまダム)は、静岡県浜松市天竜区佐久間町と愛知県北設楽郡豊根村にまたがる一級河川・天竜川本流中流部に建設されたダムである。電源開発(J-POWER)が管理する高さ155.5メートルの重力式コンクリートダム。日本第9位の高さと第8位の総貯水容量を有する日本屈指の巨大ダムであり、戦後日本の土木技術史の原点となった日本のダムの歴史に刻まれる事業である。佐久間発電所と新豊根発電所により最大147万5000キロワットを発電する水力発電を主目的とし、副次的に豊川用水の水源にもなっているほか、2004年(平成16年)より洪水調節目的を付加して多目的ダムとするダム再開発事業が国土交通省によって進められている。ダムによって形成された人造湖は佐久間湖と命名され、ダム湖百選に選定されたほか天竜奥三河国定公園に指定されており、地域の主要な観光地になっている。", "qas": [ { "question": "日本第9位の高さと第8位の総貯水容量を有するダムとは、何?", "id": "tr-454-00-000", "answers": [ { "text": "佐久間ダム", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "佐久間発電所と新豊根発電所による水力発電を主目的とし、2004年からは多目的ダムとする再開発が行われているのは、何ですか?", "id": "tr-454-00-001", "answers": [ { "text": "佐久間ダム", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "佐久間ダムが再開発されているのは、該当のダムの役割に何を加えて多目的ダムとするためであるか?", "id": "tr-454-00-002", "answers": [ { "text": "洪水調節", "answer_start": 263, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ダムのある天竜川は諏訪湖を水源とし、木曽山脈と赤石山脈の間を縫うようにして南に流れる。上流より泰阜(やすおか)ダム、平岡ダムが建設されており、佐久間ダムはその下流に建設された。ダムは天竜川が大きく蛇行する大千瀬川との合流点の直上流部、静岡県と愛知県の県境に建設されている。ダムが建設された当時の所在地は磐田郡佐久間村であったが、ダム完成直後昭和の大合併で佐久間町となり、平成の大合併によって浜松市に編入、政令指定都市となったことから現在は天竜区となっている。高さ100メートル以上のダムがある政令指定都市は浜松市のほか札幌市(豊平峡・定山渓ダム)と静岡市(畑薙第一・井川ダム)がある。なお、佐久間湖を含めた場合には静岡県・愛知県のほか長野県下伊那郡天龍村にも掛かっており、3県にまたがるダムも日本では稀少である。", "qas": [ { "question": "泰阜ダムのほかに、天竜川の上流に建設されているダムは何ですか?", "id": "tr-454-01-000", "answers": [ { "text": "平岡ダム", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "もともと所在地が磐田郡佐久間村であったが、昭和の大合併などを経て現在は天竜区所在となっているダムは、どの湖を水源としているの?", "id": "tr-454-01-001", "answers": [ { "text": "諏訪湖", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "高さ100メートル以上のダムがある政令指定都市には、札幌市と静岡市のほかに、どの市があるか?", "id": "tr-454-01-002", "answers": [ { "text": "浜松市", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "天竜川は赤石・木曽の両山脈に挟まれており、夏季の多雨と冬季の降雪によって年間を通じて水量は豊富であり、かつ中流部の長野県飯田市から静岡県浜松市天竜区、旧天竜市付近に至る約80キロメートル区間は天竜峡などを始めとして険阻な峡谷を刻む急流となる。このため水力発電を行う上で理想的な河川であることから、大正時代より水力発電開発の構想が持たれていた。最初に水力発電所が建設されたのは、福澤桃介が設立した天竜川電力による大久保ダム・大久保発電所(出力1,500キロワット)であり、1927年(昭和2年)に完成した。続いて南向ダム・南向発電所(2万4100キロワット)が1929年(昭和4年)、泰阜ダム・泰阜発電所(5万2500キロワット)が1937年(昭和12年)にそれぞれ完成、天竜川の水力発電事業は加速してゆく。しかし、1939年(昭和14年)、国家による電力統制を目論む軍部の意向で、第1次近衛内閣が電力管理法を施行したのに伴い、日本発送電が発足。天竜川の水力発電所を逐次接収しながら、1940年(昭和15年)より、当時としては天竜川最大規模のダムであった平岡ダムと平岡発電所(4万1000キロワット)の建設を開始するが、太平洋戦争の激化に伴い中断を余儀なくされた。戦時中は民需への電力供給が制限されていたが、敗戦後その制限が解かれ、一挙に電力需要は増大した。しかし発電所や変電所などの送電施設は、空襲による破壊や酷使による設備故障で従前の発電能力を発揮できず、また新規開発事業の中断もあって電力供給が著しく衰微した。このため電力需給のバランスが崩壊し、日本は極端な電力不足に陥り、頻繁に停電が起こった。天竜川では日本発送電により平岡発電所の建設が再開されていたが、1948年(昭和23年)に日本発送電が過度経済力集中排除法の対象に指定され、1951年(昭和26年)にはポツダム政令に基づく電気事業再編成令により9電力会社に分割・民営化され、天竜川水系の発電用水利権と水力発電所の一切は中部電力に移譲された。しかし中部電力を含む9電力会社は発足間もないため経営基盤が弱く、電力不足を根本的に解消するだけの大規模な電力開発を行うだけの余裕がなかった。", "qas": [ { "question": "天竜川での最初のダムおよび水力発電所が完成したのは、何年か?", "id": "tr-454-02-000", "answers": [ { "text": "1927年", "answer_start": 235, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "天竜川で二番目に建設されたダムおよび水力発電所は?", "id": "tr-454-02-001", "answers": [ { "text": "南向ダム・南向発電所", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "天竜川で三番目に建設されたダムおよび水力発電所が完成したのは、いつですか?", "id": "tr-454-02-002", "answers": [ { "text": "1937年", "answer_start": 315, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1940年の当時としては天竜川最大の規模であったが、太平洋戦争の激化に伴い建設が中断されたダムは、何か?", "id": "tr-454-02-003", "answers": [ { "text": "平岡ダム", "answer_start": 476, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "このため当時経済政策全般を管掌していた経済安定本部は、慢性的な電力不足による停電が及ぼす産業復興阻害や治安悪化を懸念し、当時課題であった水害頻発と食糧不足にも対応するため、戦前物部長穂が提案した河川総合開発事業を軸にした河川開発で治水と電力・食糧供給の改善を図ろうとした。天竜川流域では長野県が林虎雄知事(当時)により支流の三峰(みぶ)川で治水と発電を目的とした三峰川総合開発事業を1949年(昭和24年)より着手し、下流では農林省(のちの農林水産省)により三方原台地や愛知県渥美半島への灌漑を目的とした土地改良事業を計画するなど、多方面にわたる開発が企図されていた。第3次吉田内閣はこのような河川を利用した大規模地域開発を推進するため1951年(昭和26年)に国土総合開発法を施行し、全国22地域を対象にした「特定地域総合開発計画」を発足させた。天竜川水系もこの22地域に選ばれ、治水と灌漑、そして水力発電開発を軸とした天竜東三河特定地域総合開発計画が1954年(昭和29年)6月11日に閣議決定された。この計画は天竜川上流部には美和ダム・高遠ダム(三峰川)を建設して治水・発電及び伊那盆地への灌漑を行い、中流部では大規模な発電用ダムを建設して大出力の水力発電を行う一方で、ダムを水源として豊川用水や三方原用水などを通じ静岡県西部と愛知県東部の灌漑を行うことが骨子であった。このため天竜川中流部に大規模なダムを建設する必要が生まれ、白羽の矢が立ったのがダム地点である佐久間地点である。この地点は両岸が険しい断崖でV字谷を形成し、地質も良好であったため大規模ダム建設には理想的な地点であった。既に1921年(大正10年)より当時の名古屋電灯が水利権を獲得し、同社を吸収した東邦電力や日本発送電が継承して調査を行い、戦後は中部電力が東京電力と共同で開発計画を立てていたが何れも陽の目を見なかった。佐久間地点が着手に至らなかったのは、土木技術的な問題とそれを支える資金面の問題が複合したからであり、これを解決しない限り佐久間地点のダム建設は不可能であったことから、何れの事業者も結局構想のままで終わっていた。", "qas": [ { "question": "天竜東三河特定地域総合開発計画を決定した内閣は?", "id": "tr-454-03-000", "answers": [ { "text": "第3次吉田内閣", "answer_start": 284, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "佐久間地点のダム建設が実行には至らなく、構想のまま終わったのは、どのような問題とそれを支える資金面の問題があったからですか?", "id": "tr-454-03-001", "answers": [ { "text": "土木技術的な問題", "answer_start": 815, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "河川総合開発事業を提案したのは、誰か?", "id": "tr-454-03-002", "answers": [ { "text": "物部長穂", "answer_start": 88, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時経済政策全般を管掌していたのは、どこか?", "id": "tr-454-03-003", "answers": [ { "text": "経済安定本部", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし電力不足解消と天竜東三河特定地域総合開発計画の根幹として佐久間地点のダム建設計画は避けて通ることが出来なかった。このため政府は1952年(昭和27年)に発足した特殊法人である電源開発に天竜川中流部の水力発電開発を委ねる。その根拠となったのが同年7月31日に施行された電源開発促進法の第3章第13条である。同法に基づき只見特定地域総合開発計画や北上特定地域総合開発計画、吉野熊野特定地域総合開発計画に電源開発は電気事業者として参入するが、天竜川中流部・佐久間地点もこの1と2に該当するため電源開発の開発対象地域となり天竜東三河特定地域総合開発計画に参入、発電用水利権を中部電力より移管した上で同年10月20日、会社が発足してわずか1ヵ月後に佐久間ダム・佐久間発電所の建設を正式に発表した。", "qas": [ { "question": "電源開発促進法が施行されたのは、何年か?", "id": "tr-454-04-000", "answers": [ { "text": "1952年", "answer_start": 66, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "佐久間ダム・佐久間発電所の建設が正式に発表されたのは、何年?", "id": "tr-454-04-001", "answers": [ { "text": "1952年", "answer_start": 66, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "佐久間ダムは田子倉ダム(只見川)・御母衣ダム(庄川)と共に電源開発発足当初から主要な計画として進められた。だが、計画通りダムが建設されると上流の平岡ダムの直下流まで水没範囲が広がる。この付近は山あいのわずかな平地を利用して集落が点在しておりダムによって248戸が直接水没、工事用用地建設により48戸が移転、合計で296戸が移転を余儀なくされる。また宅地76ヘクタール、農地446ヘクタール、山林4,408ヘクタールが水没するという大規模補償事案となった。しかも水没物件が多い上に静岡県だけではなく愛知県豊根村・富山村、長野県天龍村と三県にまたがる広範囲な水没地域となることから、補償交渉は難航が予想された。1953年(昭和28年)1月電源開発は元南満州鉄道副総裁で、当時は電源開発補償担当理事の平島敏夫を本部長とする「佐久間補償推進本部」を設置した。補償交渉の下地となる補償基準の作成に取り掛かった。だが、水没住民の抵抗のみならず慣行水利権の問題から、静岡・愛知・長野三県の当局者はダム建設に対し冷淡な姿勢を取り、積極的な協力体制を見せなかった。また、ダム建設に伴い天竜川沿いを走る国鉄飯田線の約18キロメートル区間や豊根発電所が水没するほか、林業が盛んであったことでいかだ流しによる流木が途絶する。このため住民への補償のほか鉄道補償、発電補償、流筏(りゅうばつ)補償も山積し、平島以下補償推進本部の所属員は「血の小便を流す」ほどの苦難であったと伝えられている。政府は同年5月、電源開発に伴う水没その他による損失補償要綱を閣議決定し、発電用ダム建設に伴う補償対策について電力行政を所管する通商産業省(のちの経済産業省)が援護する施策を採った。翌1954年(昭和29年)1月より、まとめられた補償基準を元に住民との補償交渉が始まった。水没住民はダム建設の重要性を知っていたことから「銀座一等地並みの地価で補償しろ、そうでなければよそでダムを造れ」というように難題を持ちかけた。父祖伝来の土地が水没する瀬戸際であることから、住民も真剣勝負であった。これに対し平島は概ね住民の要求に沿った補償を行う姿勢を採った。", "qas": [ { "question": "佐久間ダムが計画通りに建設されるとき、多くの世帯の移転が余儀なくされていたが、ダムと工事用用地建設のうち、より多くの世帯の移転の理由となるのは、何ですか?", "id": "tr-454-05-000", "answers": [ { "text": "ダム", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "佐久間ダムが計画通りに建設されるとき、水没されると予測された範囲がより広いのは、農地と宅地のうち、どちらなの?", "id": "tr-454-05-001", "answers": [ { "text": "農地", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "佐久間補償推進本部が設置されたのは、何年か?", "id": "tr-454-05-002", "answers": [ { "text": "1953年", "answer_start": 303, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "政府が電源開発に伴う水没その他による損失補償要綱を閣議決定したのは、何が設置されたのと同年のことか?", "id": "tr-454-05-003", "answers": [ { "text": "佐久間補償推進本部", "answer_start": 359, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "まず佐久間村、豊根村、富山村、天龍村の各町村にそれぞれ対策委員会を設置して団体交渉を行い、個人交渉による不透明な補償を排して透明性の高い交渉を基本とした。その上で家屋補償では建築技師に1軒ごとの測量と製図、家屋の材料を吟味させて補償価格を決定。農地と山林については作柄に応じて坪単価・用材別単価で価格を算定した。また流筏業者を始め、ダム建設によって転業や廃業を余儀なくされる住民には推進本部に所属する社員が木目細やかな対応を行い、就職先斡旋や生活設計相談に応じた。さらに公共補償については学校、道路、橋梁などの公共物の新築・移築・増築を全て電源開発が請負い、当時の額で17億円を投じてインフラストラクチャー整備を行った。この佐久間ダムにおける電源開発の補償姿勢は同時期の田子倉ダム補償事件と同様に高額な補償額での妥結を主としており、河川行政を担当し多目的ダム建設を各地で進めていた建設省(のちの国土交通省)は、補償額高騰による事業費の圧迫を嫌う立場から特に異議を唱えた。当時の建設省による水没補償に対する姿勢は、例えば1953年に建設された石淵ダム(胆沢川)における水没住民への態度が1963年(昭和38年)に科学技術庁(現在の文部科学省)発行の『石淵貯水池の水没補償における実態調査報告』において、「国益を強調し自らの立場を高める権威主義と強制収用をちらつかせる強圧的態度を貫き、水没住民を思い遣る態度は全く見られない」と厳しく批判されており、同時期施工中だった藤原ダム(利根川)や鎧畑ダム(玉川)などでも住民との軋轢が生じた。だが電源開発は建設省の異議に対し「補償交渉は一片のペーパープラン通りには進まない」として住民本位の補償交渉を進めた。電源開発の補償に対する姿勢は当時総裁であった高碕達之助の強い意志によるもので、御母衣ダムにおける「幸福の覚書」や荘川桜の移植などダム・発電所建設における基本方針となり、1968年(昭和43年)に施工された九頭竜ダム(九頭竜川)において「補償交渉が完了するまではダム工事には着手しない」という「九頭竜補償方式」が確立された。一方国による水没住民への明確な補償指針が示されるのは、蜂の巣城紛争を経た1973年(昭和48年)の水源地域対策特別措置法を待たなければならなかった。", "qas": [ { "question": "補償対象の各町村にそれぞれ対策委員会を設置して団体交渉を行ったのは、何が高い交渉を行うためだった?", "id": "tr-454-06-000", "answers": [ { "text": "透明性", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "佐久間ダムにおける電源開発の保証姿勢が高額な補償額での妥結を主としていたのは、何事件と同じ様相でありましたか?", "id": "tr-454-06-001", "answers": [ { "text": "田子倉ダム補償事件", "answer_start": 335, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "高額な補償額による事業費の圧迫を嫌い、電源開発の補償対策に対して異議を持っていたのは、どのような機関か?", "id": "tr-454-06-002", "answers": [ { "text": "建設省", "answer_start": 390, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "電源開発の補償対策に不満を持っていた機関が厳しく非難された報告とは、どの機関で発行したものか?", "id": "tr-454-06-003", "answers": [ { "text": "科学技術庁", "answer_start": 505, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "住民本位の補償交渉を行った電源開発の姿勢は次第に住民の態度を軟化させ、同年11月に富山村の141世帯との補償交渉が妥結したのを皮切りに、1955年(昭和30年)には296世帯全ての補償交渉が妥結した。漁業補償や流筏補償も妥結。飯田線については従来天竜川沿いを走っていた路線を佐久間駅から峰トンネルで国道152号(秋葉街道)沿いに大きく迂回させ、水窪町(静岡県浜松市天竜区水窪)中心部を経て大原トンネルで再度天竜川沿いに戻し、大嵐(おおぞれ)駅に通じる代替路線を整備した。新しい飯田線は1953年12月から1955年11月までの約2年間を掛け、佐久間ダム総工事費の6分の1にあたる60億円を投じて付替え工事を終了した。豊根発電所については発電所建屋と取水口を移設した上で運転を継続したが、1972年(昭和47年)に廃止され代替施設として新豊根発電所が建設されている。住民の一部は新天地を求め、電源開発が斡旋した愛知県豊橋市の代替地に41戸が集団移転した。ダムは1956年(昭和31年)10月完成したが、296戸の住民の犠牲の上に高度経済成長の礎が築かれたことも事実である。ダム完成の翌1957年(昭和32年)10月28日、昭和天皇・香淳皇后が佐久間ダムに行幸した。この際天皇・皇后は御製・御歌を認めたがその内容はダム建設に関連して苦労を重ねた水没住民・事業者など全ての関係者を労わる内容のものであった。佐久間ダムの建設は地元佐久間村を始め周辺地域に対し、父祖伝来の土地を沈めるという痛みを与えたが一方で公共施設や道路整備、補償や政府の自治体財政支援による経済効果をもたらした。この一連の状況はユネスコ日本国内委員会の要請で日本人文科学会が編集した『佐久間ダム-近代技術の社会的影響』という報告書で詳述された。さらにダム完成の半年後、佐久間村は浦川町、山香村、城西村と合併して新制佐久間町となったが、この合併も佐久間ダムの建設が間接的な影響を及ぼしている。", "qas": [ { "question": "296世帯全ての補償交渉が妥結したのは、何年なの?", "id": "tr-454-07-000", "answers": [ { "text": "1955年", "answer_start": 68, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "佐久間ダムが完成されたのは、何年ですか?", "id": "tr-454-07-001", "answers": [ { "text": "1956年", "answer_start": 429, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1956年に完成されたダムに行幸した天皇は、誰か?", "id": "tr-454-07-002", "answers": [ { "text": "香淳皇后", "answer_start": 515, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "佐久間村が佐久間町となったのは、何年のことか?", "id": "tr-454-07-003", "answers": [ { "text": "1957年", "answer_start": 491, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "佐久間ダム・発電所の構想は先述の通り1921年名古屋電灯が最初に発案したが、当初は現在の佐久間湖区域を三分割して佐久間・山室・小汲発電所を建設する計画であり、佐久間発電所の出力も3万5000キロワットと小規模であった。大ダム計画に変化したのは1947年(昭和22年)に日本発送電東海支店が発表したダム案からであり、この時には高さ140メートル、出力42万キロワットの計画に上方修正されている。そして電源開発による正式な開発が決定した段階で高さ160メートル、出力36万キロワットとなり、後に高さを4.5メートル低くした現在の規模となった。それでもこの規模は当時工事中ではあるが日本一の高さであった栃木県の五十里ダム(男鹿川)の112メートルを一挙に43.5メートルも上回り、当時としては世界第7位、日本最大の高さを有する巨大ダム計画となった。従来の工法では少なくとも完成までには10年は必要とされたが、当時の日本は高度経済成長にひた走る時期であり、電力需要は急上昇の一途をたどっていた。従って電力開発は国家の至上命令でもあり、当時の電源開発は昭和30年度財政投融資において国鉄の約240億円、日本電信電話公社の約75億円、郵政事業特別会計や日本航空の約10億円に比べ約269億円が融資されており、佐久間ダムは一刻も早い完成を求められた。", "qas": [ { "question": "今まで佐久間ダム・発電所のダム案を出した3つの機関のうち、その規模が最も小さかったのは、どこで出したダム案なの?", "id": "tr-454-08-000", "answers": [ { "text": "名古屋電灯", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "佐久間ダムが建設される前の日本一の高さであったのは、どのダムですか?", "id": "tr-454-08-001", "answers": [ { "text": "五十里ダム", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本発送電東海支店が発表した佐久間ダムのダム案と五十里ダムを比べた時、その高さがより低いのは、どちらか?", "id": "tr-454-08-002", "answers": [ { "text": "五十里ダム", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "もともと小規模のダム案であった佐久間ダムのダム案が大ダム計画に変化したのは、何年の発表からか?", "id": "tr-454-08-003", "answers": [ { "text": "1947年", "answer_start": 121, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "総裁であった高碕達之助は大規模な重機を駆使した近代化工法の採用が、ダム建設を最短で終わらせる唯一の策と考えた。日本におけるダム技術は庄川の小牧ダムにおいて近代的なコンクリート打設工法が導入されていたが、大型重機運用の導入はまだ緒についたばかりだった。日本においては木曽川の丸山ダムにおいて日本国産油圧ショベルとダンプカーによる大型重機の機械化工法が導入されていたが、日本人の操作技術が未熟だったため故障が続出した。導入した重機の稼働率は半分程度であった。このため高碕は当時最先端の土木技術を有していたアメリカ合衆国に活路を見出そうとした。1952年11月に渡米した高碕は当時建設されていたパインフラットダム(英語版)を視察する。アメリカ陸軍工兵司令部が施工していた高さ130メートル、総貯水容量約12億3300万立方メートルの巨大ダムであるが、ダム本体規模が佐久間ダムと同程度でありながら重機が整然と動いており、これを佐久間の参考とした。その後日本興業銀行の保証を得てバンク・オブ・アメリカから3年期限・無担保で総額900万ドルの借款を得た。その資金援助を背景に、アメリカの土木業者・コンサルタントと提携しアメリカ製大型重機を使用する条件を以って国際入札を翌1953年(昭和28年)1月に発表した。この結果最も入札額が安く、かつ先に視察したパインフラットダムで使用されていた重機をそのまま移送して使用するという条件提示をしたアトキンソン社・間組・熊谷組連合が落札し、ダム本体工事を間組、発電所工事を熊谷組が担当することになった。", "qas": [ { "question": "佐久間ダムの建設において参考となったのは、どの国のダム?", "id": "tr-454-09-000", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 250, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "佐久間ダムの以前に大型重機の機械化工法が導入されたとして、この文書で紹介されているダムはどのダムですか?", "id": "tr-454-09-001", "answers": [ { "text": "丸山ダム", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカのパインフラットダムを施工したのは、どの組織だったか?", "id": "tr-454-09-002", "answers": [ { "text": "アメリカ陸軍工兵司令部", "answer_start": 314, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "佐久間ダム建設における国際入札の背景となった資金援助とは、どこからのことか?", "id": "tr-454-09-003", "answers": [ { "text": "バンク・オブ・アメリカ", "answer_start": 434, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "一方、佐久間発電所で使用される水車発電機についても高碕は国際入札を導入した。発電所で使用される水車発電機は9万6000キロワットの出力を有する水車と9万3000キロボルトアンペアの出力を有する発電機を各4台導入する計画であり、何れも当時最大規模の設備だったことから日本国内の電機メーカーはその行方を注視していた。しかし高碕が国際入札を導入すると発表したところ、電機業界は外資導入に強く反発。さらには政府や与党である自由党も反対した。当時の内閣総理大臣であった吉田茂は高碕に国際入札を中止するよう圧力を掛けたが、高碕は総裁就任時に吉田と交わした「会社の方針に政府は介入しない」という約束を盾にこれを突っぱね、入札を行った。参加したのは日立製作所・東芝・三菱電機・電業社機械製作所・三菱重工の国内企業連合、富士電機・シーメンス連合、ゼネラル・エレクトリック社などの外資連合の三つであったが、最終的に社内見積りよりも入札額が安い国内企業連合が落札した。この国際入札について当時参議院議員・電源開発顧問で、後に民社党委員長となった佐々木良作は高碕の態度について「談合を避けて真剣に入札させるには、毒(外資)を以って毒(談合)を制する以外にない。しかし日本が勝つ。賭けてもいい」という趣旨の話をしたと証言している。事業費が国民の税金である以上、経費圧縮は必要であり、企業家精神は特殊法人であっても不可欠という高碕の強い信念がうかがえる。また日本の河川開発の見本であったテネシー川流域開発公社(TVA)の創始者、デビッド・リリエンソールは1953年の自著『TVA-総合開発の歴史的実験』において「(TVAは)民間企業の融通性と独創力を併存させた特殊法人」と力説しており、高碕の目指す電源開発の企業像もTVAと軌を一にしていた。だが一連の国際入札問題が尾を引き、高碕は第5次吉田内閣によって電源開発総裁職を1954年7月19日に更迭させられた。なお高碕はダム完成式典において、第3次鳩山内閣の経済企画庁長官として出席している。", "qas": [ { "question": "佐久間発電所で使用された発電機とは、どんな発電機だった?", "id": "tr-454-10-000", "answers": [ { "text": "水車発電機", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "高碕が水車発電機についても国際入札を導入すると発表したら、圧迫をかけた当時の内閣とは誰が内閣総理大臣でありましたか?", "id": "tr-454-10-001", "answers": [ { "text": "吉田茂", "answer_start": 229, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "高碕が電源開発総裁職を更迭させられたのは、いつか?", "id": "tr-454-10-002", "answers": [ { "text": "1954年7月19日", "answer_start": 796, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "企業家精神は特殊法人であっても不可欠との信念を持っていた人が総裁であったのは何か?", "id": "tr-454-10-003", "answers": [ { "text": "電源開発", "answer_start": 788, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "入札を含む工事の開始は、水没住民に配慮し佐久間補償対策本部による補償交渉が開始されたのを見計らって着手された。まず大型重機や建設用資材を運搬するための工事用道路の建設に着手した。ダム現場のすぐ近く、約3キロメートルのところに国鉄飯田線中部天竜駅があり、遠方からの運搬は鉄道輸送で賄えたが工事現場は先に述べた通り両岸が絶壁に近い峡谷であるため、右岸の川沿いと左岸の山中に道路を敷設する計画が取られた。しかし一刻も早く工事に着手する必要があったことから、道路が完成するまでは大型重機を川舟に乗せて工事現場まで輸送する策が取られた。幅員6.5メートル、全長3キロメートルの道路が完成したことで、重機やコンクリートなどの資材運搬はきわめて円滑に行われるようになり、工期の短縮に貢献する。この工事用道路のうち左岸部の道路は佐久間ダム連絡道路として現在でも利用されているが、右岸の道路は廃道となりダム直下流にある飛龍橋にその痕跡を留めているのみである。", "qas": [ { "question": "工事用道路の建設中に一刻も早くダムを完成させるために取った対策とは、大型重機を何に乗せて工事現場まで輸送する策だったか?", "id": "tr-454-11-000", "answers": [ { "text": "川舟", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時敷設した工事用道路うち、現在でも利用されているのは、左岸部の道路なの、もしくは、右岸の道路なの?", "id": "tr-454-11-001", "answers": [ { "text": "左岸部の道路", "answer_start": 349, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "佐久間ダム建設に必要な資材のうち、遠方からの資材はどの駅まで輸送されたのか?", "id": "tr-454-11-002", "answers": [ { "text": "中部天竜駅", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "道路完成後天竜川の流路を変更する仮排水路トンネル工事が1953年12月より開始されたが、融雪や大雨による洪水被害を回避するために翌年3月までの完成が必須だった。春季以降にずれ込めば最大で毎秒数千立方メートルの鉄砲水が工事現場を襲い、現場復旧に時間が掛かり工期が遅れるためである。しかしアメリカから導入されたガードナー・デンバー社製ドリルジャンボなどの大型重機は1日最大掘削量872立方メートルという当時世界第二位のトンネル掘削となり、ユークリッド社製の大型ダンプカーとキャタピラー製のブルドーザーによる土砂運搬もあいまって予定通り翌1954年3月には完了した。天竜川の河水はトンネルを通って工事現場下流に迂回され、水が無くなった工事現場では川底の深さ25メートルにも及ぶ膨大な砂利堆積物をビサイラス・エリー社製の大型油圧ショベルなどで掘削・運搬。堅い基礎地盤が露出したことでダム本体のコンクリート打設が1955年(昭和30年)1月より開始された。このコンクリート打設もウィスコ社製の高速度ケーブルクレーンやコンクリート運搬車などの大型重機が威力を発揮し、1日のコンクリート打設量5,180立方メートルは当時の世界記録として、日本国外の雑誌にも紹介された。", "qas": [ { "question": "天竜川の流路を変更する仮排水路トンネル工事は何年3月完了を目標として開始されたの?", "id": "tr-454-12-000", "answers": [ { "text": "1954年", "answer_start": 266, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "当時の仮排水路トンネル工事に用いられたブルドーザーはどの会社が作ったものですか?", "id": "tr-454-12-001", "answers": [ { "text": "キャタピラー", "answer_start": 234, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "仮排水路トンネル工事が完了したのはいつか?", "id": "tr-454-12-002", "answers": [ { "text": "1954年3月", "answer_start": 266, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "コンクリート打設中の1955年12月には貯水が開始され、翌1956年(昭和31年)4月23日には佐久間発電所で23万キロワットの一部運転が開始された。7月にはダムの放流による巨大なエネルギーを相殺するため減勢工に建設される副ダムが完成した。この副ダムは高さ30メートルであり、独立したダムとして認められている神奈川県の宮ヶ瀬副ダム(中津川)に匹敵する規模の大きさである。そして同年9月、5門からなるゲートが閉じられてダムは完成。佐久間発電所も出力35万キロワットの全面運転を開始した。巨大なダムでありながら工事に着手して、わずか3年という短期間で完成しているが、その原動力となったドリルジャンボは佐久間ダムにおいて日本で初めて導入され、また日本国外製の大型ダンプカーやブルドーザー、油圧ショベルなどといった重機を始めとした土木の最新技術が日本人技術者に伝えられ、以後急速に日本国内で普及した。", "qas": [ { "question": "ドリルジャンボが日本で初めて導入されたのは、何の建設でか?", "id": "tr-454-13-000", "answers": [ { "text": "佐久間ダム", "answer_start": 298, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "佐久間ダムが完成されたのは、何年のことか?", "id": "tr-454-13-001", "answers": [ { "text": "1956年", "answer_start": 29, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "両生類の減少", "paragraphs": [ { "context": "両生類の減少(りょうせいるいのげんしょう)とは、両生類の生息数減少、個体群消滅、および、地域的絶滅などが発生する現象である。\n劇的な両生類の減少は、1980年代以降世界各地で注目されている。\nまた両生類生息数の減少は、グローバルな生物多様性に対する最も重大な脅威のひとつとみなされている。\n生息地の破壊と改変・乱獲・汚染・外来種・気候変動・有害紫外線(UVB)の増加・疾病など、多くの原因があると考えられている。\nしかし、両生類減少の原因は多くが未だよく理解されておらず、現在進行中の多くの研究のトピックとなっている。", "qas": [ { "question": "両生類が急速に減少し始めたのはいつ頃からですか?", "id": "tr-455-00-000", "answers": [ { "text": "1980年代以降", "answer_start": 74, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1980年代以降、世界各地で急激に生息数が減少している生物とは何?", "id": "tr-455-00-001", "answers": [ { "text": "両生類", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "過去30年間、両生類(無尾類・有尾類・無足類を含むグループ)の生息数の減少が世界中で起こっていた。\n2004年の両生類学者の国際会議で、世界の両生類種の1/3が危機に晒されており、また1980年代以降120種以上が絶滅したようだと発表された。\n両生類の絶滅事例は世界的に発生しているが、特にアメリカ合衆国西部・中央アメリカ・南アメリカ・オーストラリア東部・フィジーで減少は深刻だとされている。\n人類の活動は世界の生物多様性に多くの損失を引き起こしているが、両生類は他の生物種よりはるかに大きな影響をこうむっているように見える。\n一般的に両生類は水生(幼生)と陸生(成体)の2ステージの生活環を持つため、陸上・水中両方の環境的要因に敏感となる。\n両生類の皮膚は浸透性が高く、鳥類や哺乳類のような他の生物種よりも環境中の毒物に脆弱であるのかもしれない。\n多くの科学者は両生類が「炭鉱のカナリア」としての役目を果たしていると信じている。\nすなわち、両生類の生息数と種の減少は、他の動植物のグループが危機に晒されるのが近いことを示していると考えている。", "qas": [ { "question": "1980年代以降、何種類の両生類が絶滅した?", "id": "tr-455-01-000", "answers": [ { "text": "120種以上", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "幼生時の両生類はどこで生活するの?", "id": "tr-455-01-001", "answers": [ { "text": "水中", "answer_start": 304, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "成体時の両生類はどこで生活するの?", "id": "tr-455-01-002", "answers": [ { "text": "陸上", "answer_start": 301, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「炭鉱のカナリア」としての役目を果たしている生物は何ですか?", "id": "tr-455-01-003", "answers": [ { "text": "両生類", "answer_start": 382, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "両生類の生息数の減少が最初に認識されたのは、1980年代に両生爬虫類学者の大規模な集会で、地球全体で両生類が減少していることが報告されたときである。\nこれらの種の中で特に重要な役割を演じたのは、モンテベルデ(コスタリカ)のオレンジヒキガエル(Bufoperiglines)であった。\nオレンジヒキガエルは1987年に個体数が急激に減少し、1989年に完全に見られなくなるまで科学的調査の対象となっていた。\nモンテベルデハーレクインフロッグ(Atelopusvarius)を含むモンテベルデの他の種も同時に姿を消した。\nこれらの種はモンテベルデ雲霧林保護区に所在し絶滅に地域の人間活動が関係することがありえなかったため、生物学者たちの関心を大いに集めた。", "qas": [ { "question": "オレンジヒキガエルが全く目撃されなくなったのは何年?", "id": "tr-455-02-000", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 169, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オレンジヒキガエルの数が劇的に減り始めたのは何年?", "id": "tr-455-02-001", "answers": [ { "text": "1987年", "answer_start": 152, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "モンテベルデはどこの国の地域?", "id": "tr-455-02-002", "answers": [ { "text": "コスタリカ", "answer_start": 104, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "モンテベルデでオレンジヒキガエルと同時に姿を消した種類は何?", "id": "tr-455-02-003", "answers": [ { "text": "モンテベルデハーレクインフロッグ", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1980年代末、両生類減少が保全の問題として最初に提起されたとき、幾人かの科学者たちはこの問題の真実性と重大性に半信半疑のままだった。\n何人かの生物学者は、両生類を含めほとんどの生物種の個体数は時間によって変動するのが当然と主張し、両生類生息数の長期的データが無いため、生物学者に報告された減少が、はたして保全の努力に要する(しばしば限られた)時間と金銭に値するのか決定するのが困難であると述べた。\nしかし、この最初の懐疑論を越えて、生物学者たちは両生類生息数の減少が生物多様性に対する現実の、そして深刻な脅威であるという合意に達した。\nこのコンセンサスが形成されたのは、両生類生息数をモニターした研究の増加、明白な原因を欠く未開地での大量死の直接観察、両生類生息数減少が自然界において真に地球規模で起きていることに気付いたことによる。", "qas": [ { "question": "両生類の減少が最初に問題提起されたのはいつだった?", "id": "tr-455-03-000", "answers": [ { "text": "1980年代末", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "両生類減少に対する仮説は多数提出されてきた。\nこれらの仮説のほとんど、ないし全てが生息数減少のうちいくつかに関係するだろうと考えられている。\nそして個々の原因はある状況では影響しているが、他の場合には当たらない場合もあるとされる。\n原因のうち多くはよく理解されており、両生類と同様に他の生物種にも影響を及ぼしていると思われる。\nこれらの原因は、生息地の改変または分断化・捕食者または競合種の移入・外来種・汚染・乱獲などである。\nしかし、両生類の減少・絶滅は、上記の影響が起こっていないであろう、未開の生息地でも多数発生している。\nこちらの減少の原因は複雑だが、疾病・気候変動・紫外線の増加・汚染化学物質の風による長距離飛散に起因するといえる。", "qas": [ { "question": "両生類減少の長距離飛散に起因する原因とは、疾病・気候変動・紫外線の増加の他に何が挙げられる?", "id": "tr-455-04-000", "answers": [ { "text": "汚染化学物質の風", "answer_start": 295, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "生息地の破壊と改変は、世界規模で両生類の種に影響を与える最も劇的な原因のひとつである。\n一般に両生類は生存に水中と陸上に生息地が必要であるため、いずれかの生息地への脅威が生息数に影響しうる。\n従って、両生類は1つの生息地しか必要でない生物種よりも生息地改変に脆弱であると言える。", "qas": [ { "question": "両生類と1つの生息地しか必要でない生物種とは、どちらが生息地改変に弱いの?", "id": "tr-455-05-000", "answers": [ { "text": "両生類", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "生息地分断化は生息地が改変によって孤立するようなとき発生する。\n森林の小規模なエリアが農園に完全に取り囲まれるような場合である。\nこのような分断された生息地で生存する小さな個体群は、しばしば近親交配・遺伝的浮動・環境のわずかな変動による絶滅を被る。", "qas": [ { "question": "生息地の改変によって孤立するときに生じる減少とは?", "id": "tr-455-06-000", "answers": [ { "text": "生息地分断化", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "在来種でない捕食者や競合種もまた、その生息地のカエルの生存に影響を及ぼす。\nカリフォルニア州のシエラネバダ山脈の湖沼群に生息しているmountainyellow-leggedfrogは、遊漁のため放流された外来魚(マス)のため減少した。\n成長中の幼生と小蛙が多数魚によって捕食された。\n3年間にわたりカエルの変態は阻害され、それらの生態系全体にわたる明白な衰退を引き起こした。\nサンフランシスコ州立大学の生物学者バンス・ブリーデンバーグはこの状況の実地調査を行い、その結果報告を受けて、アメリカ合衆国国立公園局は漁網による外来魚の駆除作業を行っている。", "qas": [ { "question": "mountainyellow-leggedfrogの絶滅の原因となった生物名は何?", "id": "tr-455-07-000", "answers": [ { "text": "マス", "answer_start": 107, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "mountainyellow-leggedfrogが生息していた山脈とはどこ?", "id": "tr-455-07-001", "answers": [ { "text": "シエラネバダ山脈", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シエラネバダ山脈は何州に位置しているの?", "id": "tr-455-07-002", "answers": [ { "text": "カリフォルニア州", "answer_start": 38, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シエラネバダ山脈の湖沼群に生息するカエルの実地調査を行った人物とは誰?", "id": "tr-455-07-003", "answers": [ { "text": "バンス・ブリーデンバーグ", "answer_start": 206, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "汚染物質がカエルに発生上の奇形(過剰肢や奇形眼)を引き起こしていることの明白な証拠がある。\n汚染物質はカエルにさまざまな影響を与える。\nあるものは中枢神経系を変化させ、アトラジンのような他のものはホルモンの生産と分泌を攪乱する。\n実験研究により、ラウンドアップのような一般に用いられている除草剤あるいはマラチオンやカルバリルのような殺虫剤への接触がオタマジャクシの死亡率を大幅に増加させることも証明した。\nまた他の研究では、両生類の陸生の成体がラウンドアップ(特にPOEA、それ自体は殺虫剤ではなく界面活性剤)に弱いことが示された。\nアトラジンはアフリカツメガエルのオスの幼生に作用し雄性器と雌性器の両方を発達させることが示された。\nこのような雌性化は世界各地で報告されている。", "qas": [ { "question": "カエルの奇形を引き起こす原因となっている物質とは何?", "id": "tr-455-08-000", "answers": [ { "text": "汚染物質", "answer_start": 0, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ホルモンの生産と分泌を攪乱する有機化合物とは何?", "id": "tr-455-08-001", "answers": [ { "text": "アトラジン", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "両生類の陸生の成体が弱いものとは何?", "id": "tr-455-08-002", "answers": [ { "text": "ラウンドアップ", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "殺虫剤の影響のほとんどは地域的で農業地区の近辺に限られるように見える一方、合衆国西部のシエラネバダ山脈での、カリフォルニア州のヨセミテ国立公園のような自然地区への殺虫剤の長距離飛散の証拠もある。\n最近ではオゾンが世界的な両生類減少に寄与している要因である可能性の証拠もいくつかある。\n両生類の卵や幼生は池や川の酸性度に敏感である。\nまた成体も、土壌の酸性度の影響を受ける。\nこのため、酸性雨による陸水や土壌の酸性化の影響も指摘されている。", "qas": [ { "question": "陸水や土壌が酸性化する原因となるものは何?", "id": "tr-455-09-000", "answers": [ { "text": "酸性雨", "answer_start": 192, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "多くの疾病が両生類の大量死や生息数減少に影響している。\n赤足病(原因菌Aeromonashydrophila)、ラナウイルス感染症(Iridiviridae科)、Anuraperkinsus属による感染症、カエルツボカビ症などである。\nなぜ複数の疾病が急に両生類の個体数に影響するようになったのかははっきりと判っていないが、いくつかの証拠が示唆するところでは、これらの病気は人間によって拡散したのかも知れないし、また他の環境要因と結びついてより毒性を増したのかもしれない。\nストレスの増加は疾病に対する抵抗力を下げるため、環境破壊・汚染・気候変動などが間接的に疾病の増加をもたらしているかもしれない。", "qas": [ { "question": "赤足病の原因菌は何?", "id": "tr-455-10-000", "answers": [ { "text": "Aeromonashydrophila", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "扁形動物の寄生性吸虫(ジストマ)が、いくつかの地域での両生類の異常発育と生息数減少に関係しているという考慮すべき証拠がある。\nRibeiroia属であるこれらの吸虫は、3種の宿主をもつ複雑な生活環を有する。\n最初の宿主は水生巻貝の多数の種を含む。\n吸虫は幼生期の初期に水生オタマジャクシへ移動し、そこではメタケルカリア幼生は手足芽が発生する際に包嚢に包まれる。\n包嚢に包まれた生活段階は、変態後の過剰肢や欠損肢を含む発育異常を引き起こす。\nこれらの奇形によりカエルが吸虫の最終宿主である水鳥に捕食される確率が高まる。", "qas": [ { "question": "吸虫が幼生期の最初の段階で宿主とするのは何?", "id": "tr-455-11-000", "answers": [ { "text": "水生オタマジャクシ", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "吸虫の最期の宿主は何?", "id": "tr-455-11-001", "answers": [ { "text": "水鳥", "answer_start": 243, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1998年、オーストラリアと中央アメリカでのカエルの大量死について研究チームは同じ結論に到達した。\nかつて記載されていなかった種の病原菌、Batrachochytriumdendrobatidisである。\nいまやオーストラリアとアメリカでの最近の両生類の大量絶滅がこの菌と関連していることは明らかである。\nこの菌類は一般的には病原性でないツボカビとしてしられるSaprobes科に属する。\nBatrachochytriumdendrobatidisによって引き起こされる疾病はカエルツボカビ症(chytridiomycosis)と呼ばれる。\nこの病気に感染したカエルは皮膚の損傷と角質化を引き起こし、皮膚を通じた呼吸を不可能にして死に至らしめると考えられている。\n感染から死までの期間は、実験によって1–2週間であると判っている。", "qas": [ { "question": "オーストラリアと中央アメリカでカエルが大量に死んだ病原菌となるものは何?", "id": "tr-455-12-000", "answers": [ { "text": "Batrachochytriumdendrobatidis", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カエルツボカビ症の病原菌は何?", "id": "tr-455-12-001", "answers": [ { "text": "Batrachochytriumdendrobatidis", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カエルツボカビ症に感染すると、どれくらいの期間で死んでしまうの?", "id": "tr-455-12-002", "answers": [ { "text": "1–2週間", "answer_start": 350, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "それに続く研究により、この菌はオーストラリアでは遅くとも1978年、北米では1970年代に出現したと確証された。\n最初に感染が記録されているカエルはアフリカツメガエル(Xenopuslaevis)である。\nツメガエルは世界中のペットショップで売られ、研究室で使われているため、ツボカビがアフリカから移出されたというのはありうることである。", "qas": [ { "question": "最初に感染が記録されているカエルは何?", "id": "tr-455-13-000", "answers": [ { "text": "アフリカツメガエル", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ツボカビはどこから移出されたと考えられるの?", "id": "tr-455-13-001", "answers": [ { "text": "アフリカ", "answer_start": 143, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オーストラリアでツボカビの菌が出現したのはいつ?", "id": "tr-455-13-002", "answers": [ { "text": "1978年", "answer_start": 28, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "北米でツボカビの菌が出現したのはいつ?", "id": "tr-455-13-003", "answers": [ { "text": "1970年代", "answer_start": 38, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2008年11月14日朝日新聞の記事によると麻布大・宇根有美准教授らが海外の論文を調べ、漁業に被害をもたらしているラナウイルスがカエルにも感染し、死因の多くを占めていると発表したという。\nまた、2009年6月11日読売では、前年9月にウシガエルの大量死が確認されラナウイルスの感染が確認されたとの記事が掲載され、更に同年11月アサヒ・ドットコムの記事では、2008年初夏にカスミサンショウウオへの感染と集団死が発見されており、ウシガエルの件発生地とは35キロ圏内とされていた。", "qas": [ { "question": "宇根有美准教授らは、カエルの死因の大半は何によるものだと発表しましたか?", "id": "tr-455-14-000", "answers": [ { "text": "ラナウイルス", "answer_start": 57, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宇根有美は2008年当時、どこの大学の准教授でしたか?", "id": "tr-455-14-001", "answers": [ { "text": "麻布大", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ウシガエルの大量死とカスミサンショウウオの集団死の記事は、どちらが先に早く出ましたか?", "id": "tr-455-14-002", "answers": [ { "text": "ウシガエルの大量死", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウシガエルの大量死からラナウイルスの感染確認がとれた、という記事が載ったのは何新聞でしたか?", "id": "tr-455-14-003", "answers": [ { "text": "読売", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "熱帯雨林のような生態系は驚異的な比率で破壊されており、利用可能な生息地を減少させている。\nまた汚染物質はオゾン層を破壊し、カエルの敏感な皮膚に太陽光による損害をもたらし、さらに免疫系にも影響を与えている。\n中南米では、エルニーニョによる乾燥が問題視されている。\n1988年から1990年にかけての乾燥が、オレンジヒキガエルなどの繁殖に悪影響を与えた可能性がある。", "qas": [ { "question": "汚染物質は地球の何を破壊しているの?", "id": "tr-455-15-000", "answers": [ { "text": "オゾン層", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "中南米で問題となっている乾燥は何が原因となっているの?", "id": "tr-455-15-001", "answers": [ { "text": "エルニーニョ", "answer_start": 109, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オレンジヒキガエルの繁殖に悪影響を与えた可能性があるのは何年から何年にかけての乾燥ですか?", "id": "tr-455-15-002", "answers": [ { "text": "1988年から1990年にかけて", "answer_start": 131, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "多くのほかの生物と同じく両生類も成層圏のオゾン層破壊による紫外線(UVB)の増加に害を被っている。\n損害の規模は生命段階、種、他の環境要因によって異なる。\nしたがっていくつかの種には紫外線は卵や幼生のような初期の段階で害を与え、他の種では成体時により有害(たとえば眼の損傷)である。\n紫外線照射はある種や生命段階を殺さないかもしれないが、亜致死障害を引き起こすかもしれない。\n紫外線は気候変動・汚染物質・疾病と共同的に作用するかもしれない。\n両生類は外温性であり、熱帯以外では体温を上げるために日光浴をする。\nこのため、内温性動物より紫外線の影響を強く受ける。\n特に高山性のカエルは多くの紫外線を受けることになる。", "qas": [ { "question": "オゾン層が破壊されると何が増加するの?", "id": "tr-455-16-000", "answers": [ { "text": "紫外線", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "紫外線の影響を強く受けるのは内温性動物と両生類のどちらですか?", "id": "tr-455-16-001", "answers": [ { "text": "両生類", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "熱帯以外の地域では、カエルはどのような方法で体温を上げますか?", "id": "tr-455-16-002", "answers": [ { "text": "日光浴", "answer_start": 247, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "特にたくさんの紫外線を受けるのは何性のカエルですか?", "id": "tr-455-16-003", "answers": [ { "text": "高山性", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "両生類に対する紫外線の影響についてのほとんどの論文に関する最近の総説によると、自然なレベルの紫外線に晒された幼生には重大な致死性は見られなかったことがわかっている。\nさらに紫外線照射後の死亡率増加を報告する少数の研究は、種の生活史を考慮すると非現実的な実験条件で行われていた。\n例えば、通常倒木や石の下に産卵尾するサンショウウオの一種の卵は浅い水の中で直接日光に晒された。\n泳ぐことも隠れ家を見つけることも出来るオタマジャクシは避難場所を見つける可能性もないまま長期間紫外線を照射された。\n全体として、両生類は自然のレベルの紫外線からはいくつかの要因によって保護されている。\nすなわち卵の中の光回復酵素(フォトリアーゼ)、卵と幼生のメラニン色素、卵と発生段階の幼生を包むゼリーコートなどである。\n特に有効なのは、両生類が産卵するために使う湖や池の水の上層数センチメートルに含まれ、水をにごらせ紫外線を減する有機物である。", "qas": [ { "question": "卵の中にある紫外線を防御する成分とは何?", "id": "tr-455-17-000", "answers": [ { "text": "光回復酵素", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "卵と発生段階の幼生を包むものとは何?", "id": "tr-455-17-001", "answers": [ { "text": "ゼリーコート", "answer_start": 335, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "何百万年もの間、両生類は紫外線の害に対する効果的な防御を進化させてきた。\n自然な状況下での紫外線による死や変異は1種の両生類でさえも報告されていない。\n大気のオゾン減少による紫外線のいくらかの増加にも関わらず、紫外線を両生類減少の要因とする証拠は極めて弱い。", "qas": [ { "question": "両生類減少の要因として証拠が極めて弱いものとは何?", "id": "tr-455-18-000", "answers": [ { "text": "紫外線", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オゾン層の減少に反して、増加するものとは何?", "id": "tr-455-18-001", "answers": [ { "text": "紫外線", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "無尾類の発声は高度に発達しており、彼らの繁殖行動は多くの場合音声を使用する。\nこのことは人類の活動による騒音レベルの増大が減少に関連しているかもしれないことを示唆している。\nタイでの研究では、環境の騒音レベルの増加はいくつかの種では減少、他の種では増加に繋がることが示された。\nしかし広範囲の減少の原因であることを示してはいない。", "qas": [ { "question": "環境の騒音レベルによって、種の数が変動すると分かったのはどこの国の研究によるものですか?", "id": "tr-455-19-000", "answers": [ { "text": "タイ", "answer_start": 87, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "無尾類の多くが繁殖行動の時に使用しているものとは何?", "id": "tr-455-19-001", "answers": [ { "text": "音声", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "江戸時代の三貨制度", "paragraphs": [ { "context": "江戸時代の三貨制度(えどじだいのさんかせいど、Tokugawacoinage)とは、江戸時代の日本において金(小判、一分判)、銀(丁銀、豆板銀)および銭(寛永通寳)という基本通貨が併行流通した貨幣制度のことである。\nこれらの金貨、銀貨および銭貨の間には幕府の触書による御定相場も存在したが、実態は互いに変動相場で取引されるというものであり、両替商という金融業が発達する礎を築いた。\n金・銀・銭とは別に、藩札などの紙幣も流通していたが、日本全国で通用する紙幣はなかった。\n幕府は公式に「三貨制度」として触書を出したわけではないが、「三貨」という用語は文化12年(1815年)に両替屋を営んでいた草間直方が貨幣学研究の集大成として刊行した『三貨図彙』に見られる。", "qas": [ { "question": "三貨制度を構成していた基本通貨とは金、銀と何ですか?", "id": "tr-456-00-000", "answers": [ { "text": "銭", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『三貨図彙』を刊行した人は誰?", "id": "tr-456-00-001", "answers": [ { "text": "草間直方", "answer_start": 296, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "なお、「江戸時代の三貨制度」と呼ばれているものの、江戸時代の期間は徳川家康が征夷大将軍に任命されて幕府を樹立した慶長8年(1603年)から、慶応から明治に改元された明治元年(1868年)とするのが主流の学説であるのに対し、三貨制度が用いられた期間は関ヶ原の戦いの直後(慶長5年(1600年)ないし慶長6年(1601年))から明治4年(1871年)の新貨条例が制定されるまでの270年間にも及ぶため、実際には江戸時代を(前後数年程度とはいえ)超えた期間に渡って使われたことになる。", "qas": [ { "question": "江戸幕府が開かれたのは西暦何年ですか?", "id": "tr-456-01-000", "answers": [ { "text": "1603年", "answer_start": 61, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "三貨制度は何年まで用いられていたの?", "id": "tr-456-01-001", "answers": [ { "text": "1871年", "answer_start": 167, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "三貨制度は徳川幕府により確立されたものであり、織田信長も既に金1両=銀7.5両=銭1500文とする三貨制度の構想を持っていたが、戦乱の時代にあってこの頃の武将らには貨幣阿堵物観が強く貨幣制度の整備にはそれほど積極的でなかった。\n豊臣秀吉も天正期に金銀貨の鋳造を命じているが、これも恩賞用の域を出るものではなかった。\n大口取引に秤量貨幣としての金銀貨を使用する貨幣経済はこの頃より商人を中心として発展し始め、また貴族および寺院が貢租や賜物として取得した金銀を銭貨に両替し、あるいは遠隔地への支払いおよび諸物の購入のための判金の需要が生じ、金屋(かねや)および銀屋(かねや)といった金銀の精錬および両替を行うものが現れ始めた。\n江戸幕府においても貨幣の鋳造という業務を商人に委託したのもこういった背景があった。", "qas": [ { "question": "信長の構想では、金1両は銀何両と等しかったですか?", "id": "tr-456-02-000", "answers": [ { "text": "7.5両", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "金の精錬と両替を行っていた者を何と呼んでいた?", "id": "tr-456-02-001", "answers": [ { "text": "金屋", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "銀の精錬と両替を行っていたことを何と呼んでいたの?", "id": "tr-456-02-002", "answers": [ { "text": "銀屋", "answer_start": 278, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また貨幣経済の拡大に伴い銭貨では取引に限界が生じ、また銭貨は長年の流通により鐚銭が多くを占めるようになったことから撰銭の慣行が出始めたため、貴金属による価値の裏付のある金貨および銀貨の需要が高まったとの説もある。\n家康がまず金貨および銀貨の整備を行ったのは、戦国大名にとって金山および銀山を手中に納めることが戦力を増強し天下を掌握する重要な戦略の一つであったという背景がある。\nそのため銭貨の整備は約35年遅れることとなり、渡来銭を駆逐し寛永通寳が充分に行き渡ったのはようやく寛文年間のことであった。\n一方金銀貨についても特に銀の貿易による流出などにより慶長金銀が全国的に充分行き渡る状況にはなく、依然として領国貨幣の流通が並行し、領国貨幣を回収して通貨の統一を達成したのは元禄の吹替えのときであった。\n古くは760年に恵美押勝(藤原仲麻呂)が鋳造を命じた萬年通寳、太平元寳および開基勝寳があり、これを三貨と呼ぶこともあるが、貨幣経済の発達が充分でなかった時代にあって、太平元寳および開基勝寳は銅銭の名目価値を高く設定するための金貨および銀貨であり一般に流通させる目的のものではなかった。", "qas": [ { "question": "萬年通寳の鋳造を命じた人は誰でしたか?", "id": "tr-456-03-000", "answers": [ { "text": "恵美押勝", "answer_start": 360, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "萬年通寳の鋳造が命じられたのは何年でしたか?", "id": "tr-456-03-001", "answers": [ { "text": "760年", "answer_start": 355, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "金貨の通貨単位は両(りょう)であり、補助単位として1/4両にあたる分(ぶ)、1/4分にあたる朱(しゅ)があり、この4進法の通貨単位は、武田信玄が鋳造を命じたとされる甲斐国の領国貨幣である甲州金の通貨体系を踏襲したものであった。\n基本通貨は計数貨幣である金一両の小判とその1/4の量目の一分判であるが、元禄期には小判の1/8の二朱判が登場し、江戸時代後半には小判に対し金含有量の劣る、五両判、二分判、二朱判および一朱判も発行された。\nさらに明和期に登場した南鐐二朱銀を皮切りに一分銀および一朱銀など本来金貨の単位であった、分および朱を単位とする計数貨幣が発行されるに至った。\nこれらは「金代わり通用の銀」あるいは「金称呼定位銀貨」とも呼ばれる。\n現代の古銭収集においては、二分判(二分金)、一分判(一分金)、二朱判(二朱金)および一朱判(一朱金)といった、長方形(一朱判は正方形)の金貨を総称して「分金」、一分銀、南鐐二朱銀および一朱銀といった長方形の金貨単位の銀貨を総称して「分銀」、これらをまとめて「分金銀類」と呼ぶことがある。", "qas": [ { "question": "金貨の通貨単位の中で、最も最少額を表す単位は何?", "id": "tr-456-04-000", "answers": [ { "text": "朱", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "甲州金の鋳造を命じた人は誰?", "id": "tr-456-04-001", "answers": [ { "text": "武田信玄", "answer_start": 67, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "分と朱はどちらが金額が高い?", "id": "tr-456-04-002", "answers": [ { "text": "分", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "長方形の金貨単位の銀貨を総じて何と呼んでいた?", "id": "tr-456-04-003", "answers": [ { "text": "「分銀」", "answer_start": 437, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中世の日本において東北地方を中心に砂金の採取が行われるようになり、砂金を目方に応じて高額取引に使用したのが金貨の流通の始まりであった。\nやがて砂金を鎔融して吹金あるいは練金と呼ばれる金錠が用いられるようになり、さらに中身まで金でできていることを証明するために叩き伸ばし判金としたものが用いられるようになった。\n戦国時代は金貨は大判が主流を占め、これは恩賞、贈答あるいは高額の借金を大判として返すしきたりがあるなど、特殊な用途に限られていたが、徳川家康は1600年頃、産金の増大に加えて中国からの金錠の輸入により金準備が整ったとして、より小額で、墨書を極印に改め、一般流通を目的とした小判を発行するに至ったとされる。\nなお大判は金一枚(四十四匁)を単位とするもので恩賞および贈答に用いられるものであり、本来通貨として一般流通する目的のものではなかったが、市場に流れることもあり相場に応じて取引された。", "qas": [ { "question": "一般流通を目的として発行された通貨は何?", "id": "tr-456-05-000", "answers": [ { "text": "小判", "answer_start": 291, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小判を発行させた人は誰?", "id": "tr-456-05-001", "answers": [ { "text": "徳川家康", "answer_start": 221, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "銀貨は量目不定の丁銀および豆板銀と、天秤で目方を定めて通用する秤量貨幣が基本通貨であり、通貨単位は天秤秤による測定値、すなわち質量単位である、貫(かん)、匁(もんめ)および分(ふん)が用いられた。\n銀1貫は銀1000匁、銀1匁は銀10分である。\nまた「銀20匁」など下一桁が0である場合、「銀20目」と表すのが一般的であった。\n特に丁銀は裸銀として使用されることはほとんどなく、500匁毎に和紙で包んだ包銀として用いられることが多かった。\n一方豆板銀は携帯に便利な銀秤を用いて取引に用いられることもしばしばであった。\n明和年間の計数銀貨の登場により、丁銀および豆板銀の発行は次第に衰退し、銀目取引は手形および藩札に中心が移っていった。", "qas": [ { "question": "銀1貫は銀何匁となりますか?", "id": "tr-456-06-000", "answers": [ { "text": "1000匁", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "銀貨も中世の頃から灰吹銀およびそれに極印を打った極印銀が目方に応じて高額取引に使用され、金貨と同様にこれらを打ち伸ばしたのであるが、金と異なり不純物の関係で銀は脆く、薄い板に延ばそうとするとひび割れるため、譲葉あるいはナマコ型の丁銀となった。\nこのような丁銀の鋳造を行う銀座は秀吉が堺、京都の銀吹屋を集めて大坂に常是座を設けたことにより始まったとされる。\nまた灰吹法の導入により16世紀後半から石見銀山を始めとして日本各地で銀の産出が増大し、さらに生糸などの貿易先として重要であった中国において銀錠が大口取引に使用されていたことも影響して、銀が大坂を中心とする商人により盛んに使用されるようになった。\n家康はこのような銀を取引の中心とする商人の力を無視することができず、金貨の使用を強制するよりは既存の体制を継承して貨幣制度の整備を進める道を選択した。\n恩賞および贈答には銀一枚(四十三匁)とする単位の包銀が用いられた。", "qas": [ { "question": "秀吉は常是座をどこに設けましたか?", "id": "tr-456-07-000", "answers": [ { "text": "大坂", "answer_start": 153, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "丁銀の鋳造を行う店を何と言いますか?", "id": "tr-456-07-001", "answers": [ { "text": "銀座", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本のいたるところで銀が多く産出した時期はいつでしたか?", "id": "tr-456-07-002", "answers": [ { "text": "16世紀後半", "answer_start": 189, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "銀の使用が多かった都市はどこでしたか?", "id": "tr-456-07-003", "answers": [ { "text": "大坂", "answer_start": 272, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "銭貨は鋳造による穴銭一枚を一文(もん)とする計数貨幣であり、銭1000文を銭1貫文(かんもん)とする通貨単位であった。\n通貨単位としての文の歴史は古く日本では皇朝十二銭より始まるが、この頃はまだ全国的に広く流通するというものではなかった。\n皇朝十二銭の鋳造が途絶えてしばらくして、経済が発達するにつれ貨幣の需要が高まるが、その後の鎌倉幕府および室町幕府は貨幣を発行するまでには至らず、貿易により宋銭を始めとする中国の銭貨が多量に輸入され流通するという、渡来銭の時代が数百年続いた。", "qas": [ { "question": "渡来銭はどこの国から来ましたか?", "id": "tr-456-08-000", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 205, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "金貨および銀貨が家康により関ヶ原の戦いの直後から整備されたのに対し、銭貨については江戸時代初期に慶長通寳および元和通寳の発行はあったものの、これらは少量にとどまり依然渡来銭の流通は続いた。\nまた、経済の中心であった上方では鐚銭が用いられており、永楽銭を通用させてきた徳川氏領国(=関東地方)は特殊な存在であった。\nこのため、家康は鐚銭を銭貨の基準に充てて、徳川氏領国で用いられてきた永楽銭の使用を停止していく方針を採り、慶長通寶も鐚銭と同価値で鋳造され、寛永通寶へと継承されていく。\n寛永通寳が本格的に幕府主導で発行されるようになったのは3代の徳川家光の時代、すなわち寛永13年(1636年)以降であった。", "qas": [ { "question": "関ケ原の戦いの直後に整備されなかった通貨は金貨、通貨、銭貨のどれですか?", "id": "tr-456-09-000", "answers": [ { "text": "銭貨", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "寛永通寶が幕府の主導で発行されるようになったのはどの将軍の時でしたか?", "id": "tr-456-09-001", "answers": [ { "text": "徳川家光", "answer_start": 272, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "基本通貨は銅一文銭であるが、銅地金の逼迫あるいは幕府の財政事情により寳永通寳の10文銭の発行が企てられたり、明和期以降は寛永通寳真鍮四文銭および鉄一文銭が定着し、幕末には100文銭である天保通寳が流通の主流を占めるようになった。\n銭貨は穴を紐に通してまとめた銭緡(ぜにさし)として用いられることもあり、96枚を100文として用いる省陌法が一般的な慣行であった。", "qas": [ { "question": "寛永通寳真鍮四文銭と天保通寶はどちらが先に流通しましたか?", "id": "tr-456-10-000", "answers": [ { "text": "寛永通寳真鍮四文銭", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "寳永通寳と天保通寶はどちらが10文銭ですか?", "id": "tr-456-10-001", "answers": [ { "text": "寳永通寳", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "江戸時代に貨幣の鋳造を担ったのは、金貨は金座、銀貨は銀座、銭貨は銭座であった。\n金座は後藤庄三郎を御金改役として江戸を中心とし、京都、佐渡にも鋳造所が設けられ、銀座は大黒常是が御銀改役となり京都を中心として江戸京橋でも鋳造が行われ、大坂、長崎にも役所が置かれていたが、寛政年間以降は江戸蛎殻町に集約された。\n銭座は日本各地に設置されたが、常設のものではなかった。\nまた大判座は当初後藤宗家のあった京都に開設されていたが、明暦期あるいは元禄期以降は江戸の後藤役所が中心となり、やはり常設のものではなかった。\nこれらの機関は勘定奉行の監督下に置かれたが、直接発行を担ったのは幕府ではなく、金座は後藤家および金座人、銀座は大黒常是および銀座人と、特許を得た御用達町人であり、銭座は銭貨需要が生じる毎に公募された町人による請負事業であった。", "qas": [ { "question": "金座の中心地はどこでしたか?", "id": "tr-456-11-000", "answers": [ { "text": "江戸", "answer_start": 56, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "金座の御金改役は誰が務めていましたか?", "id": "tr-456-11-001", "answers": [ { "text": "後藤庄三郎", "answer_start": 43, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "銀座の御銀改役を務めていた人は誰ですか?", "id": "tr-456-11-002", "answers": [ { "text": "大黒常是", "answer_start": 83, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "金貨および銀貨の鋳造は天領の金山(佐渡金山)および銀山(石見銀山、生野銀山など)から産出される地金を金座および銀座が預り、貨幣に鋳造し勘定所に納め、その一部を分一金あるいは分一銀として金座および銀座が受取る御用達形式と、金座人あるいは銀座人が自己責任で金銀地金を買い集め貨幣に鋳造し一部を運上として幕府に納める自家営業方式があった。\n銭座については銭貨材料を自己責任で買い集めて銭貨を鋳造して両替屋に売却し、一部を幕府に運上するというものであった。\n慶長金銀は小判師あるいは銀細工師らが自宅で貨幣の形に加工したものを後藤役所あるいは常是役所に持参し品位、量目の改めた上で極印打ちを受ける「手前吹」形式であったが、元禄金銀では本郷の大根畑に吹所を設けて職人を集めて鋳造を行う「直吹」方式となった。\n本郷における鋳造は火災により元禄11年(1698年)に終了したが以降、職人らは金座および銀座に集められ鋳造が行われた。\n請負い形式であった銭座も明和2年(1765年)以降、金座および銀座の監督下に置かれ、幕府による統制が強化された。\nさらに松平定信による寛政の改革の一環として金座では寛政2年(1790年)頃、銀座では寛政12年(1800年)に粛正が実施され、幕府による統制が強化された。", "qas": [ { "question": "本郷における鋳造が1698年に終了した原因は何でしたか?", "id": "tr-456-12-000", "answers": [ { "text": "火災", "answer_start": 357, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "幕府による粛正の実施が早かったのは金座と銀座のどちらですか?", "id": "tr-456-12-001", "answers": [ { "text": "金座", "answer_start": 486, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「直吹」方式で鋳造を行ったのは、慶長金銀と元禄金銀のどちらですか?", "id": "tr-456-12-002", "answers": [ { "text": "元禄金銀", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "元禄金銀はどのような方式で鋳造を行っていましたか?", "id": "tr-456-12-003", "answers": [ { "text": "「直吹」方式", "answer_start": 336, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "「江戸の金遣い」とされる通り金貨は主に江戸を中心として流通し、大名および上級武士が大口取引のために小判を使用した。\nまた、西日本の端にあった薩摩藩は銀遣いが一般的な西日本において金遣いを採用していた例外地域であったが、清などとの対外交易では銀貨を用いていた。\n一方「上方の銀遣い」とされる通り秤量銀貨は大坂を中心とする西日本から東北の広い範囲で流通し、銀貨は主に商人が大口取引に用い、商品相場は銀建で表されるのが常であった。\n大口取引にはこのように金貨および銀貨が用いられたが、一般の小売には銭貨が主として用いられ、庶民は銭貨および稀に豆板銀を手にする程度であった。\nこのような住み分けは決して制度として確立されたものではなく自然発生的に形成されたものであった。", "qas": [ { "question": "大名と上級武士が大口取引の際に使用していたものとは何だったの?", "id": "tr-456-13-000", "answers": [ { "text": "小判", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "銀貨を大口取引に使用していたのは誰ですか?", "id": "tr-456-13-001", "answers": [ { "text": "商人", "answer_start": 181, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "西日本の中で、金を主流として使用していた藩はどこでしたか?", "id": "tr-456-13-002", "answers": [ { "text": "薩摩藩", "answer_start": 70, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大名や上級武士は何を行う時に小判を使用していたの?", "id": "tr-456-13-003", "answers": [ { "text": "大口取引", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、銭貨は金遣いの地域、銀遣いの地域の両方で通用する貨幣であり、単なる小口貨幣・補助貨幣の役割を越えて、全国通貨としての性格も有した。\n銭貨の場合には重量があり元来は遠隔取引には向かなかったが、海運の発展により船舶に大量の銅銭を載せて航行する事も可能になり、例えば銀遣いの地域である九州の船持商人が大量の銭を載せて金遣い地域の松前に向かい銭貨によって現地の産品を購入することで両替の手間を省くようなことも行われた。\n以下に『新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書』に基づく金貨および銀貨の時代別流通高および『図録日本の貨幣』による銭貨鋳造高の推定値を示す。\n元禄・宝永の吹替えにより宝永3年(1706年)から正徳4年(1714年)にかけて通貨量が拡大し、正徳の吹替えによりデフレーションに陥り元文元年(1736年)に通貨量が縮小した状況が窺える。\nまた文政年間以降は小判および丁銀の流通高が減少し、代わって定位貨幣が増加すると共に通貨量が著しく拡大したことが判る。", "qas": [ { "question": "通貨量の拡大が始まった年は西暦で何年でしたか?", "id": "tr-456-14-000", "answers": [ { "text": "1706年", "answer_start": 295, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "通貨量が拡大したのは西暦何年にかけてでしたか?", "id": "tr-456-14-001", "answers": [ { "text": "1714年", "answer_start": 308, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "通貨量が縮小した年は西暦何年でしたか?", "id": "tr-456-14-002", "answers": [ { "text": "1736年", "answer_start": 350, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "金一両とは京目一両(4.4匁)の金が本来の定義である。\nしかし慶長小判の金含有量においても1割弱の金座における鋳造手数料が差し引かれたものとなっている。\n一方、当時の金および銀地金の取引相場については、例えば最高品位の銀地金は品位80%の慶長丁銀の1割増を持って買い入れるなど価格が定められていたが、江戸時代の金銀地金の取引というものは金座および銀座という、利益の独占的収受という特許を得た組織によるものであった。\n強いていうならば京目一両の金をもって金一両とするというのが金平価と言うべきものであるが、この時代、幕府は金本位制および銀本位制を特に定めたわけではなく、金銀含有量に基づく相場が形成されたことは本位貨幣制度的なものが自然に形成されたと解釈できる。\nまた江戸時代の貨幣は何れも通用制限額が設定されることはなかった。", "qas": [ { "question": "本来の定義では、金一両は何匁ですか?", "id": "tr-456-15-000", "answers": [ { "text": "4.4匁", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また元禄小判以降の産金の減少および幕府の財政事情により金品位が低下した小判においても、建前上は一両は一両として慶長小判と等価に通用すべきものとして定められた。\n丁銀においても同様で銀品位は低下しても銀は銀として建前上は慶長丁銀と等価に通用すべきものであった。\n品位の下げられた金貨および銀貨には丸枠に「元」あるいは「文」など年代印が打たれ区別に便宜が図られ、その一方で正徳金銀および享保金銀は基本的に慶長金銀と同位であるから年代印は打たれなかった。\nこのような貨幣の品位の低下を伴う吹替えは、寛文年間頃より仕事の減少した金座および銀座から申し出があったものを、荻原重秀が正式に採用し元禄8年(1695年)に初めて行われたのであるが、重秀の「貨幣は国家の造る所、瓦礫を以て之にかえるといえども行うべし。今鋳るところの銅は悪薄といえども、なお紙鈔に勝れり。之を行ひとぐべし」という、国家権力をもって通貨の価値を維持し通用させるという今日の管理通貨制度の下では当然のこととされるこの政策も、実質価値を重視する商人が経済を牛耳っていた当時としては斬新過ぎ、時期尚早であった。", "qas": [ { "question": "元禄小判以降、金の産出はどうなりましたか?", "id": "tr-456-16-000", "answers": [ { "text": "減少", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "元禄の改鋳では品位は低下しても新旧差別無きよう通用させる触書であったが、現実にはグレシャムの法則が作動し、高品位の慶長金銀は退蔵され、低品位の元禄金銀のみ流通するといった現象が見られ、品位の高い貨幣に対し増歩通用を認めて初めて旧貨も流通した。\nまた享保期に品位の異なる元禄銀、宝永銀および慶長・正徳銀が混在通用した際、それぞれ銀含有量に基づいて通用価値が決まった例を筆頭に、江戸時代の金銀貨というものは額面よりもむしろ金銀含有量に基づく実質価値に近い形で自然に相場が形成されていくのが常であった。\n敢えて言うならば貨幣に含まれる金銀量と相場に基づく取引価格が金銀地金の自由相場に近いものということになる。\n額面表記による名目貨幣である一分銀のような貨幣が定着し、貨幣が地金価値に依存しない額面により通用するようになったのは、金貨を中心とした貨幣制度が確立した天保期以降であったとの見方もある。\nしかしこの信用貨幣としての貨幣体系もその後、安政6年(1859年)の開港に伴う小判流出により瓦解することとなる。\n依然、当時の世界の大勢は信用貨幣としての金銀貨が認められる状況になく、その後、近代に入っても銀本位制および金本位制の時代が続く状勢にあった。", "qas": [ { "question": "高品位の慶長金銀は退蔵され、低品位の元禄金銀のみ流通するといった現象を何の法則に基づいていますか?", "id": "tr-456-17-000", "answers": [ { "text": "グレシャムの法則", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "貨幣の品位および量目を変更し、旧貨幣を回収して新たに鋳造した新貨幣と引替えることを吹替え(ふきかえ)といい、現在では改鋳(かいちゅう)とも呼ばれる。\n貨幣吹替えが行われる度、幕府は引替および通用に関する触書を公布するのが常であるが、時に宝永期の永字銀、三ツ宝銀および四ツ宝銀のように勘定奉行が銀座と結託して、正規の手続きを経ることなく闇に通貨が発行されるといった事態も発生した。\n吹替えに伴い、新金および新銀を円滑に流通させ、旧貨幣の回収を促すため、幕府は旧貨幣の通用停止の期限を定めて告知し、引替えるよう度々触書を出したが、地金価値の低下を補償する増歩が低く設定されることが多かったため引替は思うように進捗せず、期限は度々延期されるのが常であった。\nもっとも金貨および銀貨は通用停止となっても地金価値が存在するため無価値となるわけではなく、期限を過ぎても金座および銀座において潰し値(つぶしね、地金再生価格)において売却することは可能であった。\nこの旧貨回収業務は主に本両替が担当を命ぜられ、回収された金銀貨は金座および銀座に送られて新貨の材料とされた。\n貨幣吹替えによる金座および銀座の営業方式は御用達方式に準ずるものであった。", "qas": [ { "question": "古い貨幣を回収し、新たに鋳造した新しい貨幣と引替えることを何と言いますか?", "id": "tr-456-18-000", "answers": [ { "text": "吹替え", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "吹替えを現在では何といいますか?", "id": "tr-456-18-001", "answers": [ { "text": "改鋳", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "貨幣吹替えによる金座と銀座の営業方式は何の方式を基準としていましたか?", "id": "tr-456-18-002", "answers": [ { "text": "御用達方式", "answer_start": 500, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また品位低下を伴う吹替えの度、商人らは品位の高い旧銀を退蔵し、しばしば銀相場の高騰を招いた。\n元文元年(1736年)の吹替えの際も商人が旧銀を退蔵し銀相場を吊り上げているとして町奉行の大岡忠相は両替商を呼びつけ、御定相場を守るよう通達を出して対立したが、この年、忠相が寺社奉行に昇格したのは商人が裏で手を回すことによる敬遠人事であったとする説もある。\n吹替えのうち元禄期、宝永期および天保期は財政再建を主目的とし、元禄期および元文期は通貨量増大の目的もあったとされるが、実質的に通貨量が増大したかについてはその意味や効果の究明を行わずに簡単に結論を出せるものではなく、例えば中国人は長崎において日本の丁銀を南鐐銀である銀錠に改鋳して用い、これに伴い大坂の両替商など商人らの取引に於いても貨幣の素材価値を交換の媒体として重視し、当時の通貨の未発達な段階に於いて品位を低下させ名目価値を増大させても、実質価値としての通貨増大という経済的意義にはつながっていなかった。\nまた文政期のものは放漫財政の結果による赤字補填を主とするものであり、安政から万延期のものは1859年の開港に伴う小判流出を抑制する目的のものであった。", "qas": [ { "question": "大岡忠相が寺社奉行に昇格した年は西暦何年でしたか?", "id": "tr-456-19-000", "answers": [ { "text": "1736年", "answer_start": 52, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "元禄期、宝永期、天保期の吹替えの主な目的は何でしたか?", "id": "tr-456-19-001", "answers": [ { "text": "財政再建", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "中国人は、どこで日本の丁銀を南鐐銀である銀錠に改鋳していたの?", "id": "tr-456-19-002", "answers": [ { "text": "長崎", "answer_start": 291, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "赤羽台トンネル", "paragraphs": [ { "context": "赤羽台トンネル(あかばねだいトンネル)は、東北新幹線上野駅-大宮駅間および東北本線支線(通称埼京線)赤羽駅-北赤羽駅間にある総延長585メートルの複々線鉄道トンネルである。\nトンネル全体が東京都北区にある。", "qas": [ { "question": "赤羽台トンネルが位置しているのはどこですか?", "id": "tr-457-00-000", "answers": [ { "text": "東京都北区", "answer_start": 94, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "赤羽台トンネルは東北新幹線の上野駅から何駅までの区間ですか?", "id": "tr-457-00-001", "answers": [ { "text": "大宮駅", "answer_start": 30, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "赤羽台トンネルの長さはどれくらいありますか?", "id": "tr-457-00-002", "answers": [ { "text": "585メートル", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "東北本線支線の赤羽駅から北赤羽駅を結ぶトンネル名は何?", "id": "tr-457-00-003", "answers": [ { "text": "赤羽台トンネル", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1970年(昭和45年)に全国新幹線鉄道整備法が制定され、翌1971年(昭和46年)には基本計画が定められ、東北新幹線が着工されることになった。\n赤羽駅から荒川を渡るまでの区間では、当初の工事実施計画では東北本線や京浜東北線に並行して北上し、そこから赤羽台の台地を回り込んで、板橋区舟渡に設定された荒川渡河地点まで直線的に進む経路が想定されていた。\nしかし、沿線に利益をもたらさないのに騒音だけをもたらすとして新幹線の建設に反対運動が起こり(東北・上越新幹線反対運動)、新幹線建設の代償として新幹線に並行して通勤路線(通勤別線と称された)を建設する構想が打ち出されることになった。\n新幹線に通勤別線を併設するからには、北区内でも通勤別線に駅を設置できる経路でなければ意味がないことになり、赤羽から荒川までの間に北赤羽駅と浮間舟渡駅を設置することとして経路が変更されることになった。\nこうして1978年(昭和53年)12月16日に新しい経路に変更する工事実施計画(その3)が承認された。\nこの経路変更により、赤羽から荒川の間の東京起点13キロ000メートルから17キロ807メートルまでの範囲で大きく西側に膨らませるように線形が修正され、線路長が245メートル増加した。\nまたこれにより、赤羽台の台地の下を通り抜けるトンネルが必要となり、本トンネルの建設につながった。\n一方で、市街地の中を新幹線が通り抜けることになり、北区内での反対運動を激化させることにもつながった。", "qas": [ { "question": "東北新幹線の建設に地域住民が起こした運動とは?", "id": "tr-457-01-000", "answers": [ { "text": "反対運動", "answer_start": 212, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "通勤別線が経路変更される際に設置された駅は北赤羽駅と何駅ですか?", "id": "tr-457-01-001", "answers": [ { "text": "浮間舟渡駅", "answer_start": 360, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "東北新幹線の建設は、日本国有鉄道(国鉄)本社新幹線建設局が担当した。\nその中で赤羽台トンネルを含む区間は東京第三工事局の管轄で、実際に担当したのは北・板橋工事区である。\n北・板橋工事区の管内には工事着手上の難問が山積していたこともあり、きめ細かな対応を実施するために1983年(昭和58年)10月1日に北・板橋工事区から赤羽台工事区が分離新設され、以降赤羽台工事区が赤羽台トンネルの区間を担当した。\n工事を請け負ったのは、起点側が清水建設、終点側が戸田建設であった。", "qas": [ { "question": "赤羽台トンネルの終点側の工事を担当した会社は何ですか?", "id": "tr-457-02-000", "answers": [ { "text": "戸田建設", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "北・板橋工事区から分離新設されて、赤羽台トンネルの区間を担当したのは何ですか?", "id": "tr-457-02-001", "answers": [ { "text": "赤羽台工事区", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "赤羽台トンネルの起点側の工事を担当した会社は何ですか?", "id": "tr-457-02-002", "answers": [ { "text": "清水建設", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "東北新幹線は赤羽駅構内西側の埼京線(赤羽線)高架ホームの上部を通過した後、25パーミル下り勾配で北上しながら西へ向きを変え、武蔵野台地の辺縁部となる台地を下り列車に対して左へ半径約800メートルの曲線を描きながらトンネルで抜ける。\nこのトンネルが赤羽台トンネルである。\n埼京線は赤羽駅高架ホームを出て新幹線高架橋の直下から東側へ出て、勾配を下ってきた新幹線と赤羽台トンネル入口付近でほぼ同レベルに並び、以降並行して走る。\nこのため、トンネル付近においては下り列車進行方向に対して左側から東北新幹線下り線、上り線、埼京線下り線、上り線の順で線路が並んでいる。\nトンネルは箱型の断面で、新幹線の複線と埼京線の複線を収める箱が横に並んでいる。", "qas": [ { "question": "赤羽台トンネルには東北新幹線と何線の線路が並んでいますか?", "id": "tr-457-03-000", "answers": [ { "text": "埼京線", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "赤羽台トンネルの断面はどんな形をしているの?", "id": "tr-457-03-001", "answers": [ { "text": "箱型", "answer_start": 284, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "赤羽台の台地は周辺低地に対して約14メートルの高さがある。\n台地の前後では道路と高架橋が立体交差する必要があることから、新幹線・埼京線の高架橋の高さをあまり下げることができず、結果として赤羽台トンネルの土被りは浅いものとならざるを得なかった。\nできるだけ土被りを増やすために、トンネル起点側は25パーミル勾配で下り、途中から15パーミル勾配で上るV字形の縦断勾配を採用することになった。\n結果として土被りは入口部で約0.5メートル、中央部のもっとも深い場所で約5.5メートル、出口部で約2メートルである。", "qas": [ { "question": "赤羽台トンネルの土被りが最も浅いのは、入口部、中央部、出口部のどの部分ですか?", "id": "tr-457-04-000", "answers": [ { "text": "入口部", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "赤羽台トンネルの勾配が大きいのは起点側と途中からのどちらですか?", "id": "tr-457-04-001", "answers": [ { "text": "起点側", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "トンネル入口から約50メートルの間は八幡神社境内を通り、続いて約300メートルの間を星美学園敷地内を通過して、赤羽台四丁目住宅地区の地下を通り抜けて出口へ至る。\n沿線には星美学園の教育施設・社会福祉施設に加えて国立王子病院(現在の東京北医療センター)もあって厳しい振動対策が求められた。\n防振対策として通常より壁厚を大きくし、上面および側面は1.2メートル、床板は1.5メートルとした。\nトンネル内面の高さは7.3メートル、新幹線トンネルの内面幅は10.8メートル、埼京線トンネルの内面幅は場所により9.35メートルから14.43メートルである。\n地質は地面の表面から約7メートルが関東ローム層に覆われており、その下は本郷層および東京層という礫混じりの砂層があり、30メートル以上の深さに東京礫層がある。\n地下水位はトンネル掘削面より下であったため掘削中の出水はほとんどなかった。", "qas": [ { "question": "赤羽台トンネルの沿線にある病院は何?", "id": "tr-457-05-000", "answers": [ { "text": "国立王子病院", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "赤羽台トンネルの内面幅が一定数であるのは新幹線トンネルと埼京線トンネルのどちらですか?", "id": "tr-457-05-001", "answers": [ { "text": "新幹線トンネル", "answer_start": 212, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "防振対策である壁厚がより厚いのは上面と床板のどちらですか?", "id": "tr-457-05-002", "answers": [ { "text": "床板", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "赤羽台トンネルの内面幅が場所によって違うのは新幹線トンネルと埼京線トンネルのどちらですか?", "id": "tr-457-05-003", "answers": [ { "text": "埼京線トンネル", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "トンネルが通過する赤羽台は、夜間には騒音が40-45ホン以下となるような静かな住宅街であり、そういった地区を通過する新幹線計画には当初から強い反対運動が起こり、法廷闘争ともなった。\nトンネルが敷地内を通過する星美学園は、1947年(昭和22年)に現在地に移転し、以降星美学園小学校、星美学園中学校・高等学校、星美学園短期大学などを運営してきた。\n1971年(昭和46年)10月14日に発表された当初計画の経路では、新幹線は敷地直下を通らず東側の在来線に近い敷地をかすめて通る程度であったが、新幹線の騒音・振動の影響を懸念して学園側は反対の陳情を始めた。\nその後、十数回に渡り国鉄と学園の間で話し合いを継続したが、1978年(昭和53年)12月16日の経路変更により、新幹線の経路は学園直下をトンネルで通過するものへと変わり、この計画変更を一方的なものであるとして学園側は面会を断るようになった。\nそして1980年(昭和55年)3月12日には、赤羽・荒川間の建設工事および荒川橋梁建設工事の中止を求める仮処分申請を学園側が行うに至った。\n法廷において交渉が続けられた結果、騒音・振動により環境が阻害されないように措置すること、建設工事で支障を及ぼさないこと、区分地上権を設定すること、相当額の用地譲渡と建物補償に応じることを条件として、1982年(昭和57年)11月25日に和解が成立した。", "qas": [ { "question": "赤羽台トンネルの建設を強く反対した教育機関は何ですか?", "id": "tr-457-06-000", "answers": [ { "text": "星美学園", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "一方北区沿線の反対派住民は、北区新幹線対策連合協議会を結成し、200名余りが1980年(昭和55年)9月に工事差し止め請求を行った。\nこのうち、25名の原告が赤羽台トンネル直上部の居住であった。\nしかし時とともに理解が得られるようになり、戦時中に崖下から台地へ向けて掘られた防空壕を調査して埋め戻すことを条件として土砂運搬導坑の掘削が認められるようになった。\n1984年(昭和59年)6月末にトンネル上部の支障住宅の移転が完了し、8月8日には地元と工事に関する協定書が正式に調印された。\n裁判も10月3日に和解が成立し、全体の着工が可能となった。", "qas": [ { "question": "赤羽台トンネル全体の着工が可能となった年はいつですか?", "id": "tr-457-07-000", "answers": [ { "text": "1984年", "answer_start": 180, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "工事差し止め請求を行った25人の原告は、どこに居住していましたか?", "id": "tr-457-07-001", "answers": [ { "text": "赤羽台トンネル直上部", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "赤羽台トンネルの工事差し止め請求を行った団体の名前は何ですか?", "id": "tr-457-07-002", "answers": [ { "text": "北区新幹線対策連合協議会", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "開削工法であるため、トンネル上にある建物の一時移転が必要となった。\n移転対象となったのは、八幡神社社務所、星美学園小学校校舎・体育館・受付棟・司祭館・星美ホーム、都営住宅および一般住宅約70戸であった。\n星美学園内では、4階建て鉄筋コンクリート造の中高特別教室棟のみはアンダーピニングを行って建物下にトンネル構築を行うことになったが、それ以外の9棟延べ床面積約1万平方メートルがトンネル工事に支障することになり、校舎の移転再配置の計画を練った。\nその結果、トンネル工事終了後にトンネル上に短大校舎を建設することにし、それ以外のトンネル上の土地はグラウンドとして利用することになった。\n支障移転計画の策定と代替施設の建築工事、支障建物の撤去工事、埋蔵文化財の調査を終えて、星美学園内の工事に全面着工できたのは1984年(昭和59年)9月上旬であった。\n八幡神社社務所については、移転場所がなかったためトンネル本体を手前に伸ばして、その上に社務所を再建した。", "qas": [ { "question": "星美学園では、どの教育機関の校舎が移転対象となりましたか?", "id": "tr-457-08-000", "answers": [ { "text": "小学校", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "トンネル工事終了後、星美学園がトンネル上に建設することにしたのは何ですか?", "id": "tr-457-08-001", "answers": [ { "text": "短大校舎", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "トンネルの防振対策が様々な観点で検討された。\n軌道構造としては弾性被覆材を介してPC枕木をコンクリート路盤上に固定するB型弾直軌道が採用された。\nまた路盤構造としては、通常はトンネルの底盤をそのまま路盤とするが、路盤をトンネル底面から浮かせるフローティングスラブ構造を採用することにした。\n路盤をコンクリート製の桁構造とし、トンネル底盤に設置したゴムシューで桁を支えるものである。\nまたトンネル躯体の寸法を厚くすることにし、質量・剛性の増大により振動を抑えることにした。\n加えて掘削時の土留壁を連続地中壁として、トンネル完成後も存置することで地中振動遮断壁として利用することにした。\nさらにトンネル上部に建設される校舎については、トンネルを跨ぐ架台を構築してその上に校舎の基礎を載せることで、トンネルと校舎を絶縁する対策が採られることになった。", "qas": [ { "question": "赤羽台トンネルでは何という軌道構造が採用されたの?", "id": "tr-457-09-000", "answers": [ { "text": "B型弾直軌道", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "赤羽台トンネルで採用された路盤構造の名称は何?", "id": "tr-457-09-001", "answers": [ { "text": "フローティングスラブ構造", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トンネルと校舎を絶縁する対策として何を構築しましたか?", "id": "tr-457-09-002", "answers": [ { "text": "トンネルを跨ぐ架台", "answer_start": 315, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "開業までの工程を考えると、星美学園内の掘削作業に使える工期は2か月程度しかないと見積もられた。\nこの間に搬出が必要な土砂の総量は約8万立方メートルに上るものと見込まれ、1日当たり約1,500立方メートル、ダンプトラックにして200台あまりとされた。\nこれは先の大型車両通行制限に抵触してしまうことになる。\nそこで1984年(昭和59年)3月から、在来線の東北本線側から星美学園のグラウンドの下をトンネルルートに向かって作業導坑を約400メートルに渡って掘削した。\nこの作業導坑にベルトコンベアを設置し、作業導坑を出た後は在来線の線路の敷地を利用して北へベルトコンベアを伸ばし、新河岸川の河川敷にダンプトラックに積み替えるためのホッパーを設置した。\nベルトコンベアは全長約950メートル、ベルト幅約900ミリ、速度120メートル/分、最大で1日約2,000立方メートルの土砂を搬送した。\nトンネルルート上の作業導坑に沿って約30メートル毎に立坑が設置され、掘削作業によって出た土砂をこの立坑から落とし込むことで土砂の搬出を行った。\n作業導坑は後で星美学園側が再利用できるように新オーストリアトンネル工法(NATM)で掘削され、11月までに土砂の搬出を完了した。", "qas": [ { "question": "星美学園のグランド下に掘削された作業導坑には、何が設置されましたか?", "id": "tr-457-10-000", "answers": [ { "text": "ベルトコンベア", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ベルトコンベアは最大で1日どれくらいの量の土砂を搬送しましたか?", "id": "tr-457-10-001", "answers": [ { "text": "約2,000立方メートル", "answer_start": 371, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "星美学園内の掘削作業で必要だった作業導坑は、どのような工法で掘削されましたか?", "id": "tr-457-10-002", "answers": [ { "text": "新オーストリアトンネル工法", "answer_start": 487, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "星美学園中高特別教室棟は前述の通り、アンダーピニングにより既存の建物の下にトンネルを構築することになった。\nそのためにトンネルを跨ぐコンクリートスラブ方式の架台に校舎の荷重を受け替えてからその下を掘削することになった。\nまず地面を覆う覆工板を敷設する必要があったが、許された工期は1983年(昭和58年)7月21日から8月31日の約40日間のみであった。\nその上、埋蔵文化財の調査後に工事にかからなければならないという制約があったが、遺跡が少なく天候にも恵まれたため、無事工期内に覆工作業を完了した。\nこの覆工の下で以降のアンダーピニング作業を進めることになったが、資材の搬入や掘削土の搬出のために覆工の一部を開けておくことは許されなかった。\nそこで、起点側の先に工事が行われていた部分からトンネル本坑断面内に約100メートルに渡って幅2.7メートル×高さ2.0メートルの作業用導坑を掘削した。\nアンダーピニング作業時に出る土砂は、作業用導坑内からベルトコンベアで起点側に搬出した。\n校舎を支える架台の基礎は場所打ち杭で径2.0メートル、長さ25.5メートルのものをTBH工法で施工した。\n作業場所の高さが制約されているため、鉄筋かごを3.0-4.0メートル毎に継ぎ手を設けて繋ぎながら立て込んでいった。\nこれにより架台を構築した後、油圧ジャッキを利用して校舎基礎の杭24基を受け替えた。\n受け替え完了後にトンネルの底面までの掘削を行った。\n受け替えた校舎のトンネルルート上の部分の重量は約6,000トンであった。", "qas": [ { "question": "アンダーピニングによる覆工作業の工期はどれくらいありましたか?", "id": "tr-457-11-000", "answers": [ { "text": "約40日間", "answer_start": 165, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アンダーピニングにより建物の下にトンネルを構築することになった、その建物とは何?", "id": "tr-457-11-001", "answers": [ { "text": "星美学園中高特別教室棟", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方、トンネル工事終了後にトンネル直上部に短大校舎が建築されることになっており、この区間についてはトンネルのボックス構造を構築後にコンクリートスラブで建物基礎となる架台をトンネルを跨ぐように施工した。\nここでは、架台の基礎となる連続地中壁が掘削時の土留壁を兼ねる構造とし、またトンネル上床版は架台を構築する際の型枠支保工基盤となる構造で建設された。\n出口側の工事は、1984年(昭和59年)3月から着工され、BW工法で厚さ500ミリ、長さ17-20メートルの連続地中壁を構築する方法で建設が進められた。\n通常、開削工法で掘削する土砂はトンネル上部で積み込んで搬出するが、赤羽台トンネルでは付近の道路が狭く大型車両通行禁止であり、この方法は利用できなかった。\nそこで出口側でも同様にトンネル本坑断面内に導坑を掘削してここにベルトコンベアを設置し、この上に立坑を5か所に設置して、ブルドーザーやバックホーで立坑に土砂を落とし込む形で掘削を行った。\n土砂は出口側に設けた工事用車路からダンプカーで搬出した。", "qas": [ { "question": "赤羽台トンネルの出口側の工事では、土砂運びに何を設置して行いましたか?", "id": "tr-457-12-000", "answers": [ { "text": "ベルトコンベア", "answer_start": 360, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "赤羽台トンネルの出口側の工事は何月から着手されましたか?", "id": "tr-457-12-001", "answers": [ { "text": "3月", "answer_start": 195, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1984年(昭和59年)12月21日に赤羽台トンネルおよび高架橋桁連結式が行われた。\nこの時点でトンネル内のフローティングスラブのコンクリート打設は12月18日に終わっていたが、トンネル上床版の施工が完了したのは12月27日のことであった。\nこの赤羽台トンネルの完成が、東北新幹線上野-大宮間で最後の土木工事の完成であった。\n1985年(昭和60年)1月9日、上野-大宮間のレール締結式も赤羽台トンネル内にて開催された。\n軌道・電気工事、諸試験、訓練運転が急ピッチで進められ、東北新幹線は1985年(昭和60年)3月14日に上野開業を迎えた。\n通勤別線については、乗り入れ先路線の計画変更に伴い東北新幹線との同時開業ができなくなり、ほぼ半年遅れて9月30日に開業となった。", "qas": [ { "question": "東北新幹線上野-大宮間で最後の土木工事の完成となった土木建造物は何?", "id": "tr-457-13-000", "answers": [ { "text": "赤羽台トンネル", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "通勤別線の開業日はいつですか?", "id": "tr-457-13-001", "answers": [ { "text": "9月30日", "answer_start": 323, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "海王星", "paragraphs": [ { "context": "海王星は、太陽系の第8惑星で、太陽系の惑星の中では一番外側を公転している。直径は4番目、質量は3番目に大きく、地球の17倍の質量を持ち、太陽系のガス惑星としては最も密度が高い。海王星は組成が類似し直径がやや大きい天王星の質量(地球の15倍)よりもわずかに大きい。164.8年かけて公転しており、太陽からは平均30.1au離れている。名称は、ローマ神話における海神ネプトゥーヌスに因んで命名され、惑星記号「♆」はネプトゥーヌスが持つ三叉槍を様式化したものである。\n\n肉眼で観望することは出来ず、太陽系において唯一、経験的観測でなく数学的予測によって発見された惑星である。フランスの天文学者アレクシス・ブヴァールは、天王星の軌道の予期せぬ変化から、天王星の軌道が未知の惑星の重力による摂動のために生じているという推論を導いた。その後、ユルバン・ルヴェリエによって予測された範囲内の位置で1846年9月23日にヨハン・ゴットフリート・ガレが望遠鏡を用いて発見した。海王星の衛星では最大のトリトンは、その後間もなく発見された。現在では他に13個の衛星が知られているものの、地球から海王星までの距離が大きく地上からの観測が困難なため、それらの存在が明らかとなったのは20世紀以降のことである。1989年8月25日、宇宙探査機ボイジャー2号が海王星を訪れ、フライバイを行った。ハッブル宇宙望遠鏡や補償光学機能を備えた大型の地上望遠鏡の登場によって、近年は遠方からの更なる観測が可能になっている。", "qas": [ { "question": "太陽系の第8惑星は何ですか。", "id": "tr-458-00-000", "answers": [ { "text": "海王星", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "海王星という名称は何に因んで命名されたの?", "id": "tr-458-00-001", "answers": [ { "text": "海神ネプトゥーヌス", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "太陽系のガス惑星としては最も密度が高いのは何?", "id": "tr-458-00-002", "answers": [ { "text": "海王星", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "太陽系において経験的観測でなく数学的予測によって発見された唯一の惑星は何?", "id": "tr-458-00-003", "answers": [ { "text": "海王星", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "望遠鏡を通じて記録されたこれまでで最も初期の観測記録の一部である、1612年12月28日と1613年1月27日にガリレオ・ガリレイが描いた図面には、海王星が位置していた地点が記されていた。しかし、どちらの場合もガリレオは海王星を、合を起こしている木星の近くにある恒星と誤って認識していたとされている。したがって、ガリレオは海王星を発見したとはみなされていない。彼が最初に観測を行った1612年12月ごろは海王星は逆行し始めたばかりで、見かけ上の動きが小さかったため、ガリレオの小型望遠鏡では検出できなかったと考えられている。しかし2009年7月に、メルボルン大学の物理学者DavidJamiesonは、少なくともガリレオが観測した「星」が背景の恒星に対して相対的に動いているのを認知していたことを示唆する新たな証拠を発表している。", "qas": [ { "question": "物理学者DavidJamiesonが所属している大学は何ですか。", "id": "tr-458-01-000", "answers": [ { "text": "メルボルン大学", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1821年に、アレクシス・ブヴァールは海王星の1つ内側を公転している天王星の天文表を発表した。その後行われた観測で、天王星の位置が表と実質的に異なっていることが明らかになり、ブヴァールは未知の天体の重力作用によって天王星の軌道が乱されているという仮説を導いた。1843年、イギリスの数学者ジョン・クーチ・アダムズは彼が所持していたデータを使って天王星の軌道の研究を始めた。ケンブリッジ天文台の所長ジェームズ・チャリスを介して、彼は1844年2月にそのデータを受け取ったジョージ・ビドル・エアリーからの追加データを要求した。アダムズは1845年から1846年にかけて作業を続け、新しい惑星に関するいくつかの異なる推定を立てた。\n\n1845年から1846年にかけて、アダムズとは無関係に、フランスの数学者ユルバン・ルヴェリエは自身の計算方法を開発したが、彼の同胞にその熱意は伝わらなかった。1846年6月に、ルヴェリエが最初に発表した惑星の経度の推定値とアダムズの推定値との類似性を見て、エアリーはチャリスに惑星を探索するように説得させ、チャリスは8月から9月にかけて捜索を行った。", "qas": [ { "question": "アレクシス・ブヴァールが海王星の1つ内側を公転している天王星の天文表を発表したのはいつですか。", "id": "tr-458-02-000", "answers": [ { "text": "1821年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1843年、所持していたデータを使って天王星の軌道の研究を始めたイギリスの数学者は誰ですか。", "id": "tr-458-02-001", "answers": [ { "text": "ジョン・クーチ・アダムズは", "answer_start": 144, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユルバン・ルヴェリエはどの国の学者ですか。", "id": "tr-458-02-002", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 342, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その間、ルヴェリエは手紙でベルリン天文台の天文学者ヨハン・ゴットフリート・ガレに天文台の屈折望遠鏡で未知の惑星を捜索するように促した。天文台の学生だったハインリヒ・ダレストはルヴェリエが予測した領域を描いた図面と実際の観測結果とを比較することで、恒星とは異なる、未知の惑星の変位特性を求められることをガレに示した。ガレが手紙を受け取った1846年9月23日の夜、彼はルヴェリエが予測していた地点から1°以内、アダムズが予測していた地点から約12°の領域内で海王星を発見した。後にチャリスは8月4日と8月12日に自身も海王星を観測していたことが判明したが、当時彼が所持していた星図が最新のものではなく、また同時に行っていた彗星の観測に気を取られていたため、海王星を惑星と認識することはできなかった。\n\n海王星の発見をきっかけに、フランスとイギリスの間で海王星の発見に値するのは誰なのかについて多くの民族主義的な対立が発生したが、結局、海王星はルヴェリエとアダムズの両方が発見したという国際的コンセンサスが定着した。1966年以来、アメリカの天文学者DennisRawlinsはアダムズの共同発見の主張の信頼性について疑問を投げかけ、1998年にグリニッジ王立天文台に歴史文書の「Neptunepapers」が返却されたことで歴史家による再評価が行われた。文章を検討した後、彼らは「アダムズは、海王星の発見に関してルヴェリエと同等の信用に値するものではない。その信用は、惑星の位置を予測することとそれを捜索することを天文学者に納得させることの両方に成功した者にのみ属する。」としている。", "qas": [ { "question": "ハインリヒ・ダレストはルヴェリエが予測した領域を描いた図面と実際の観測結果とを比較することで、未知の惑星の変位特性を求められることを誰に示したか。", "id": "tr-458-03-000", "answers": [ { "text": "ガレ", "answer_start": 150, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アダムズの共同発見の主張の信頼性について疑問を投げかけたアメリカの天文学者は誰なの?", "id": "tr-458-03-001", "answers": [ { "text": "DennisRawlins", "answer_start": 473, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "発見直後、海王星は単に「天王星の外側の惑星」や「ルヴェリエの惑星」と呼ばれていた。最初に提案された名称はガレが提案した「ヤーヌス(Janus)」というものだった。イギリスでは、チャリスが付与した「オーケアノス(Oceanus)」という名称が用いられていた。\n\nルヴェリエは彼の発見した惑星に名称を付与する権利を主張し、すぐにこの新たな惑星にNeptuneという名称を提案したが、フランス経度局によって正式に承認されたという誤った内容を述べていた。10月、彼は自身の名に因んで新たな惑星をLeVerrierと命名することを求め、この提案は当時の天文台長であったフランソワ・アラゴからも支持を得ていたが、フランス国外からはこの提案に対して多くの反発が上がった。フランスの年鑑はすぐに、天王星が発見された後に発見者のウィリアム・ハーシェルに因んで使用されていたHerschelという名称を天王星に再導入し、新たな惑星にLeVerrierという名称を導入した。\n\n天文学者フリードリッヒ・フォン・シュトルーベは、1846年12月29日に帝国サンクトペテルブルク科学アカデミーにてNeptuneという名称を支持することを表明した。その後すぐに、Neptuneという名称は国際的に受け入れられるようになっていった。ローマ神話では、名称の元となったネプトゥーヌス(Neptūnus)はギリシア神話のポセイドーン(Poseidōn)と同一視される海の神である。この神話に基づく命名の提案は惑星の命名法と一致しており、地球以外の全ての惑星はギリシア神話とローマ神話の神々から命名されている。", "qas": [ { "question": "海王星に提案された最初の名称は何でしたか。", "id": "tr-458-04-000", "answers": [ { "text": "「ヤーヌス(Janus)」", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "天文学者フリードリッヒ・フォン・シュトルーベは、1846年12月29日、どんな名称を支持することを表明したか。", "id": "tr-458-04-001", "answers": [ { "text": "Neptune", "answer_start": 485, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ヤーヌス(Janus)」という名称は誰が提案したの?", "id": "tr-458-04-002", "answers": [ { "text": "ガレ", "answer_start": 52, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Herschelという名称は誰の名前に因んだものですか。", "id": "tr-458-04-003", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ハーシェル", "answer_start": 355, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "今日において、ほとんどの言語でNeptuneという名称が使用されている。中国語、ベトナム語、日本語、朝鮮語ではこの名称は「海王星」と訳されるようになった。モンゴル語では、海の支配者である同名の神の役割を反映して、DalainVan(Далайнван)と呼ばれている。現在のギリシャ語では、海王星はネプトゥーヌスのギリシャ語にあたるPoseidon(Ποσειδώνας,Poseidonas)と呼ばれる。ヘブライ語では、海王星の正式名称として、2009年にヘブライ語アカデミーで管理されていた詩篇に登場する海の怪物に因んだ\"Rahab\"(רהב)という名称が選定された。既存のラテン語では、一般的にNeptu(נפטון)という名称が使用されている。マオリ語ではマオリ神話に登場する海の神に因んでTangaroaと呼ばれている。ナワトル語ではTlāloccītlalliと呼ばれており、これは雨の神トラロックに因んでいる。タイ語では、海王星はヒンドゥー教において月の交点に存在するとされるケートゥ(केतु)を西洋化した、DaoNepjun(ดาวเนปจูน)もしくはDaoKetu(ดาวเกตุ,StarofKetu)という名称が用いられる。", "qas": [ { "question": "モンゴルでは「海王星」を何と呼んでいますか。", "id": "tr-458-05-000", "answers": [ { "text": "DalainVan(Далайнван)", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "現在のギリシャ語で海王星を何と言いますか。", "id": "tr-458-05-001", "answers": [ { "text": "Poseidon(Ποσειδώνας,Poseidonas)", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ナワトル語のTlāloccītlalliは何に因んだ名称ですか。", "id": "tr-458-05-002", "answers": [ { "text": "雨の神トラロック", "answer_start": 397, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マオリ語では「海王星」を何といいますか。", "id": "tr-458-05-003", "answers": [ { "text": "Tangaroa", "answer_start": 349, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1846年の発見から1930年の冥王星の発見まで、海王星は最も外側にある惑星として知られていた。発見された時は冥王星は惑星とみなされ、楕円軌道によって冥王星が海王星よりも太陽に接近した1979年から1999年までの20年間を除き、海王星は2番目に遠い惑星となった。1992年にエッジワース・カイパーベルトが発見されたことによって、冥王星を惑星とみなすべきか、それともカイパーベルトの一部とみなすべきかについて、多くの天文学者たちの間で議論が交わされた。2006年に国際天文学連合(IAU)は初めて惑星の定義を制定したことにより、冥王星は準惑星に再分類され、海王星は再び太陽系で最も外側にある惑星となった。", "qas": [ { "question": "1846年から1930年まで、最も外側にある惑星として知られていたのは何でしたか。", "id": "tr-458-06-000", "answers": [ { "text": "海王星", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2006年以降、太陽系で最も外側にある惑星となったものは何ですか。", "id": "tr-458-06-001", "answers": [ { "text": "海王星", "answer_start": 278, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "海王星の質量は1.0243×1026kgで、これは地球の17倍、木星の19分の1に相当し、地球とより大きな巨大ガス惑星の中間の規模を持つ。気圧1barでの重力加速度は地球の1.14倍に相当する11.15m/s2で、これは太陽系内の惑星では木星に次いで大きい値である。赤道半径は地球の約4倍の24,764kmである。海王星は天王星と似ており、木星や土星よりも小型で、含まれている揮発性物質の濃度が高いことから木星型惑星のサブクラスである天王星型惑星(巨大氷惑星)に分類される。太陽系外惑星の探査では、英語名の「Neptune」は比喩的に使用されている。科学者たちが太陽系外で発見された様々な天体を「Jupiters」と呼ぶように、海王星と同等の質量を持つ天体はしばしば「Neptunes」と呼ばれる。", "qas": [ { "question": "海王星の質量は地球の何倍なの?", "id": "tr-458-07-000", "answers": [ { "text": "17倍", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "海王星の気圧1barでの重力加速度は地球の何倍なの?", "id": "tr-458-07-001", "answers": [ { "text": "1.14倍", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "海王星、木星、土星のうち、何が一番小さい?", "id": "tr-458-07-002", "answers": [ { "text": "海王星", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "太陽系外で発見された様々な天体は何と呼ばれますか。", "id": "tr-458-07-003", "answers": [ { "text": "「Jupiters」", "answer_start": 297, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "海王星の内部構造は天王星と似ている。海王星の大気は全質量の5~10%を占め、大気圏の厚さは核に向かって全体の半径の10~20%にまで広がっていると考えられる。大気圏の最下層での大気圧は約10GPa、すなわち地球上の大気圧の約10万倍に達する。大気圏の下層に近づくに従い、メタン・アンモニア・水の濃度が上昇する。マントルの質量は地球の10~15倍に相当し、水やアンモニア、メタンが豊富に含まれている。惑星科学分野の習慣では、このような状態は高温で高密度な液体であるにもかかわらず「氷」と呼ばれる。この高い電気伝導率を持つ液体は、しばしば「水とアンモニアの海(water-ammoniaocean)」と呼ばれる。マントルは水分子が水素および酸素のイオンに分解されてできた「イオン水」(ionicwater)の層によって構成され、さらに深部では酸素が結晶化し、水素イオンがその結晶格子の中を漂う「超イオン水(superionicwater)」の状態にある層から成っているとされる。深さ7,000kmの深度では、マントル中のメタンがダイヤモンドの結晶へと分解され、雹のような形で中心核に向かって降り注いでいる状態になっているかもしれない。ローレンス・リバモア国立研究所での超高圧実験では、マントルの最上部は浮遊固体の「ダイヤモンド」を含む液体炭素の海になっている可能性が示唆されている。海王星の核は、鉄やニッケル、ケイ酸塩で構成され、内部モデルでは地球の核の1.2倍の質量を持つことが示されている。中心部の圧力は7Mbar(700GPa)で、これは地球の中心部の約2倍に相当し、温度は約5,400Kとされている。", "qas": [ { "question": "海王星の内部構造は何に似ている?", "id": "tr-458-08-000", "answers": [ { "text": "天王星", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "海王星の大気は全質量の何%を占めていますか。", "id": "tr-458-08-001", "answers": [ { "text": "5~10%", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "海王星の核は地球の核の何倍の質量を持っていますか。", "id": "tr-458-08-002", "answers": [ { "text": "1.2倍", "answer_start": 625, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "海王星の中心部の圧力はいくらなの?", "id": "tr-458-08-003", "answers": [ { "text": "7Mbar(700GPa)", "answer_start": 652, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "海王星の上層の大気には、水素が80%、ヘリウムが19%、そして微量のメタンが含まれている。顕著なメタンの吸収帯は、スペクトル上の赤および赤外部分において、600nmを超える波長を示す部分に存在している。天王星の穏やかなシアン色と海王星の鮮やかなアジュール色とに違いはあるが、天王星と同じく、大気中に含まれるメタンによる赤色の光の吸収によって青い色合いになっている。しかし、大気中に含まれるメタンの含有量は天王星と類似しているため、天王星に比べより青みが深い理由はいくつかの未知の化合物によるものと考えられている。\n\n海王星の大気は、高度と共に温度が下がる下層の対流圏と高度と共に温度が上がる上層の成層圏の2つの領域に分けられる。その境界である対流圏界面での気圧は0.1bar(10kPa)になっている。さらに上層になると、成層圏の気圧は10-5~10-4bar(1~10Pa)以下になり熱圏となる。熱圏よりさらに上層になると徐々に外気圏へと変わる。", "qas": [ { "question": "天王星の穏やかなシアン色は大気中に含まれている何によるのですか。", "id": "tr-458-09-000", "answers": [ { "text": "メタン", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "海王星の上層の大気には、水素とヘリウムとどっちの方が多く含まれている?", "id": "tr-458-09-001", "answers": [ { "text": "水素", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "海王星には14個の既知の衛星が存在している。トリトンは海王星最大の衛星で、海王星の周回軌道上において全質量の99.5%以上を占めており、回転楕円体になっている唯一の天体である。トリトンは海王星の発見から17日後にウィリアム・ラッセルによって発見された。太陽系内の他の大型衛星とは異なって逆行軌道を描いており、このことはトリトンが海王星と共に形成されたのではなく、外部から捕獲された天体であることを示している。捕獲されるまでは、カイパーベルト内に位置する準惑星規模の天体であったとされている。自転と公転の同期(潮汐固定)を受けるのには充分に海王星に近く、さらに海王星の自転に対して逆行しているため潮汐減速によって海王星に向かってゆっくりと螺旋軌道を描き、徐々に海王星へと接近している。このため、今後約36億年以内に、トリトンは海王星のロッシュ限界に達して崩壊してしまうと考えられている。1989年、トリトンは太陽系で最も表面温度が低い天体であると測定され、その推定温度は38K(-235°C)であった。", "qas": [ { "question": "海王星の既知の衛星は何個存在しますか。", "id": "tr-458-10-000", "answers": [ { "text": "14個", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "海王星最大の衛星は何ですか。", "id": "tr-458-10-001", "answers": [ { "text": "トリトン", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1989年、太陽系で最も表面温度が低い天体であると測定されたのは何ですか。", "id": "tr-458-10-002", "answers": [ { "text": "トリトン", "answer_start": 398, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トリトンを発見した人の名前は何?", "id": "tr-458-10-003", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ラッセル", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1989年7月から9月にかけて、ボイジャー2号は新たに海王星の衛星を6個発見した。これらのうち、不規則な形状をした衛星プロテウスは、自身の重力で球状になることができない最大級の大きさの天体として注目されている。海王星では2番目に大きな衛星であるが、質量はトリトンのわずか0.25%しかない。海王星で最も内側を公転している4つの衛星、ナイアド、タラッサ、デスピナ、ガラテアは海王星の環の中に入るほど海王星に近い。次に近いラリッサは、1981年に恒星を掩蔽したことで発見された。当時は、この掩蔽は環に起因しているとされたが、1989年にボイジャー2号が海王星を観測した際にラリッサがそれを引き起こしたことが確認された。2002年から2003年までの間に新しく発見された5個の不規則衛星が、2004年に発表された。2013年には、ハッブル宇宙望遠鏡によって撮影された複数の画像を組み合わせた結果、海王星の衛星の中では現時点で最も小さな新衛星ヒッポカンプ(S/2004N1)が発見された。海王星の名称の由来はローマ神話の海の神に因むため、海王星の衛星には、より小さな海の神に因んで命名される。", "qas": [ { "question": "自身の重力で球状になることができない最大級の大きさの天体として注目されている衛星は何ですか。", "id": "tr-458-11-000", "answers": [ { "text": "プロテウス", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "海王星では2番目に大きな衛星は何ですか。", "id": "tr-458-11-001", "answers": [ { "text": "プロテウス", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "トリトンとプロテウスと、どっちの方が質量が大きい?", "id": "tr-458-11-002", "answers": [ { "text": "トリトン", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "海王星の衛星の中では現時点で最も小さな衛星は何ですか。", "id": "tr-458-11-003", "answers": [ { "text": "ヒッポカンプ(S/2004N1)", "answer_start": 417, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ボイジャー2号は海王星を訪れた唯一の宇宙探査機で、海王星に最も接近したのは1989年8月25日だった。海王星はボイジャー2号が訪れる最後の主要天体で、今後の探査機の軌道への影響を考慮する必要が無かったため、ボイジャー1号が土星の衛星タイタンに接近したように、衛星トリトンへの接近飛行が行われた。ボイジャー2号から地球に中継された画像は、1989年の公共放送サービスの終夜番組、NeptuneAllNightの基礎となった。\n\n海王星に接近中、探査機からの信号が地球に到達するには246分を要した。したがって、ボイジャー2号の任務のほとんどは、海王星の接近のためにあらかじめ組み込まれていたコマンドに頼っていた。8月25日にボイジャー2号が海王星の大気上空4,400km以内に接近する前に衛星ネレイドに近接接近し、そして同日遅くに最大の衛星トリトンの近くを通過した。\n\nボイジャー2号は海王星を取り巻く磁場の存在を確認し、磁場が中心からずれており、天王星の磁場と同じように傾いていることが判明した。海王星の自転周期は電波放射の測定値を用いて求められ、また海王星には驚くほど活発な大気活動があることも示された。また、海王星の衛星を新たに6個発見し、複数本の環が存在していることも確認された。", "qas": [ { "question": "海王星を訪れた唯一の宇宙探査機は何ですか。", "id": "tr-458-12-000", "answers": [ { "text": "ボイジャー2号", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ボイジャー2号はいつ海王星に最も接近した?", "id": "tr-458-12-001", "answers": [ { "text": "1989年8月25日", "answer_start": 37, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ボイジャー2号が訪れる最後の主要天体は何でしたか。", "id": "tr-458-12-002", "answers": [ { "text": "海王星", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "池上競馬場", "paragraphs": [ { "context": "池上競馬場は、東京・池上に、明治時代末期の1906年(明治39年)から1910年(明治43年)までの5年間だけ開設された、1周1マイルの競馬場である。池上競馬場の位置は現在の大田区池上6〜8丁目あたり(池上駅の南方の一帯)になる。池上競馬場では日本人の手によるはじめての馬券が発売され、日本競馬の新しい時代である馬券黙許時代を切り開いた競馬場である。\n\n所有者並びに運営者は東京競馬会であった。東京競馬会は加納久宜と補佐役の安田伊左衛門が中心となって1906年に設立され、池上競馬場は政府と陸軍の支援を受けて開場した。政府は後続の競馬場の模範たるべく、また賭博の弊害を生まぬよう、さらに池上競馬場を上品な競馬場にすべく、観客は紳士・淑女に限るとし、入場料を高額にさせ、東京競馬会は池上競馬場に玉座や高級料理店などを設置した。", "qas": [ { "question": "池上競馬場が設立された年は和暦でいつですか?", "id": "tr-459-00-000", "answers": [ { "text": "明治39年", "answer_start": 27, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本人による最初の馬券が発売されたのはどこですか?", "id": "tr-459-00-001", "answers": [ { "text": "池上競馬場", "answer_start": 115, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "池上競馬場を営業・所有ステイタ組織の中心人物で、補佐役を務めた人物はだれですか?", "id": "tr-459-00-002", "answers": [ { "text": "安田伊左衛門", "answer_start": 212, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "競馬は毎年春と秋の2シーズンに各4日間、1日に9〜12レースほどが行われた。競走馬は雑種か馬種を特定できない内国産馬(日本国内で生まれた馬)とサラブレッド系が中心の豪州(オーストラリア)産馬(いわゆる濠サラ)が主体で騎手は東京競馬会が免許を発行した騎手で主に日本人が務めた。池上競馬場以外の競馬場所属馬も出場し、一般レースのほかに初期には軍馬と軍人によるレースも行われている。\n\n池上競馬場は大盛況で東京競馬会は高収益を上げたが、池上競馬場の盛況をみて日本各地に競馬場が乱立して混乱を招いた。1908年(明治41年)に馬券は再禁止され、馬券の売り上げ収入が無くなった日本の競馬は政府の補助金によって運営される補助金競馬時代に移り、1910年(明治43年)東京競馬会を含む東京周辺の競馬4団体が合同して目黒競馬場に集合し、池上競馬場は廃止された。", "qas": [ { "question": "日本で馬券が再禁止されたのは何年ですか?", "id": "tr-459-01-000", "answers": [ { "text": "1908年", "answer_start": 246, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "池上競馬場が廃止されたのは何年ですか?", "id": "tr-459-01-001", "answers": [ { "text": "1910年", "answer_start": 315, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "池上競馬場で競馬が行われたのはどの季節ですか?", "id": "tr-459-01-002", "answers": [ { "text": "春と秋", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1908年から競馬は何をもとに運営されますか?", "id": "tr-459-01-003", "answers": [ { "text": "補助金", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "明治初期の日本では、横浜の外国人居留地で盛んに競馬が行われ(横浜競馬場)、神戸外国人居留地でも競馬は行われていた(神戸居留地競馬)。また、日本人の手による競馬も東京の招魂社競馬や三田、戸山、上野のほか札幌、函館、鹿児島など地方でも行われていた。とくに1884年(明治17年)に開設された上野不忍池競馬は、国家的祭典とも屋外の鹿鳴館とも位置付けられるものであった。しかし、当時の日本では馬券は非合法で、売ることはできず、経営難の為に1892年(明治25年)に上野不忍池競馬は閉鎖された。上野に限らず、日本人による競馬場は厳しい経営状況であった。東京では競馬場は1898年(明治31年)までにすべて閉鎖され、地方でも函館、札幌などで有志の努力によって細々と競馬が行われていただけだった。\n\n1906年(明治39年)までの日本の競馬では、横浜競馬場でのみ馬券は発売されていたが、それは1899年(明治32年)までは治外法権によって、それ以降も既得権益と外交上の配慮によって馬券発売が黙許されていたことによる。ちなみに、横浜競馬を主催する日本レースクラブの会長はイギリス大使の兼任で、日本レースクラブの主力はイギリス人であったため、当時世界最強国だったイギリスの感情を損ねることや、1902年(明治35年)に結ばれた日英同盟に影響を及ぼすことを政府は恐れた。\n\n横浜競馬場以外の日本の競馬がすべて経営難に陥り、東京では競馬が全滅したのと比較して、経営も安定し順調に開催を続ける横浜競馬場の事例を見れば、競馬の開催・維持に馬券発売による利益確保が必須であることは誰の目にも明らかになっていた。", "qas": [ { "question": "明治時代の東京で最後の競馬場が閉鎖されたのは何年ですか?", "id": "tr-459-02-000", "answers": [ { "text": "1898年", "answer_start": 279, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "横浜競馬場はどの組織の主催で行われたか?", "id": "tr-459-02-001", "answers": [ { "text": "日本レースクラブ", "answer_start": 465, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1906年までの日本で唯一、馬券販売が可能だった馬場はどこですか?", "id": "tr-459-02-002", "answers": [ { "text": "横浜競馬場", "answer_start": 366, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "自動車が本格的に普及するまでの軍隊では騎兵、大砲曳馬、輜重車曳馬と馬は重要な戦力だったが、日清戦争、義和団の乱、日露戦争と日本軍が大陸に進出するたびに、日本馬の体格の貧弱さと気質の荒さが露呈した。諸外国の軍人からは「日本軍は馬のようなものに乗っている」「日本軍の馬は家畜ではなく野獣である」などと馬鹿にされ、日本軍自身も日本馬の質の低さに頭を抱えた。特に日本にとっての大戦である日露戦争で、日本の馬の劣悪さは国運さえ揺るがしかねないものと認識された。\n\n日露戦争中の1904年(明治37年)4月、明治天皇は諸官に馬匹の改良を命じた。すぐさま馬政を統括する馬政局の設置計画が進み、馬政の諸計画がなされ、1906年(明治39年)6月には馬政局は設置され馬政30年計画が推し進められた。その過程で競馬が注目される。\n\n良質な洋種馬と繁殖牝馬を輸入し良馬を量産する動機付けには、軍馬の需要だけでは足りなかったのである。良い馬を量産するには馬産農家の意欲が必要、馬産農家に意欲を出させるには良馬の価格を上げ馬産で儲かることが必要、良馬の価格を上げるには高く買う者が必要、良馬を高く買える者を作るのは馬券発売を伴い利益が望める競馬が最適という論理である。実際に当時の馬産地青森・岩手・宮城での馬の平均価格は池上競馬以前の1905年(明治38年)には1頭が35〜42円だったのに対し、馬券黙許時代の最盛期の明治41年には60〜78円に上昇し、馬券再禁止後の補助金競馬時代の1909年(明治42年)には39〜70円になっている。\n\n農商務省、陸軍、宮内省を中心に馬券発売許可への意識が醸成されていく。1905年(明治38年)秋には馬券黙許の方針は内定していたと言われている。その背景には横浜競馬場ですでに馬券が「黙許」されていた前例も影響している。", "qas": [ { "question": "良い馬を生産するため最終的に必要なものは何ですか?", "id": "tr-459-03-000", "answers": [ { "text": "競馬", "answer_start": 507, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「日本軍の馬は家畜ではなく野獣である」と評したのは日本の馬のどのような性質を持ってのことか?", "id": "tr-459-03-001", "answers": [ { "text": "気質の荒さ", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "馬政局が設置されたのは和暦で何年?", "id": "tr-459-03-002", "answers": [ { "text": "明治39年", "answer_start": 306, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "馬匹の改良を命じた明治天皇の馬政勅諚を錦の御旗に、農商務省、陸軍、宮内省は馬券発売を伴う競馬の開催に突き進むが、馬券の賭博性を問題にする司法・内務省はそれに抵抗した。\n\n東京競馬会の馬券発売に対して黙許の言質を与える1905年(明治38年)12月の「競馬賭事に関する農商務、陸軍、内務、司法四大臣合議書」に内務、司法両次官が注文を付ける。それは「競馬に関する凡ての賭博行為は、黙許することは得ざるは勿論なれど、単に馬匹の速度力量技能その他に関する知識の優劣を争う為め、其確保手段として多少の金銭等を賭する如きは刑法に所謂賭戯賭奕の行為にあらざるものと信ぜらるるを以て、其趣意を内達すること差支えなし」という付箋として反映された。それはつまり、「馬券は馬匹改良の目的のために馬匹鑑定技術向上の手段として認めるのであって、馬券が節度を越えて賭博行為となったらいつでも馬券を再禁止できる」というレトリックを盛り込んだのである。実際、発売された馬券は甚だしく賭博性を発揮し、わずか2年余りで馬券は再禁止されてしまった。\n\n馬券を売りたい勢力と、賭博を何が何でも禁止したい勢力の微妙な折り合いの上に、馬券は公認ではなく黙許されることになった。また、横浜競馬場を馬券黙許の前例とした馬券推進側に対して、司法側は過去の不平等条約・治外法権の好ましくない残滓である横浜競馬場の特別扱いも、他の競馬を同格にすることで特別扱いではなくなるとの思惑も絡んでいたと考えられている。実際に1908年(明治41年)の馬券の再禁止は横浜競馬場も含まれ、横浜競馬場は不平等条約・治外法権以来の既得権益を失った。", "qas": [ { "question": "競馬に関して反対した勢力はどこですか?", "id": "tr-459-04-000", "answers": [ { "text": "司法・内務省", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "司法・内務省が競馬を反対した理由とは?", "id": "tr-459-04-001", "answers": [ { "text": "馬券の賭博性", "answer_start": 56, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "馬券が馬匹改良の目的のために馬匹鑑定技術向上の手段であればそれを黙許するという合議がなされたのは何年ですか?", "id": "tr-459-04-002", "answers": [ { "text": "1905年", "answer_start": 108, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "農商務省、陸軍、宮内省を中心に醸成された馬券発売黙許の雰囲気のなかで子爵加納久宜がそれを実現させ、加納と陸軍から派遣されてきた安田伊左衛門らを中心に池上競馬場が開場された。安田は後に日本競馬界の父と呼ばれる存在になり、現在も東京競馬場で行われる重賞競走安田記念にその名を残している。\n\n加納久宜は元上総一宮藩主で、全国農事会会長やかつて競馬が盛んで馬産地だった鹿児島の知事を経験していた。加納は鹿児島県知事時代に鹿児島競馬を盛り上げ、鹿児島県の馬産を振興させた実績を持つ。その経験から加納は馬匹の改良には競馬が最善の手段であるとの信念を持っていた。信念に基づき加納はすでに1904年(明治37年)ごろから東京での競馬開催を政府に熱心に働きかけている。加納は最初は馬匹改良の趣旨に賛同する会員から一人500円づつ会費を集めて競馬を催す計画だったが、当時の500円は大金であったため、馬匹改良の趣旨に賛同する者でさえ出資には躊躇した。そのため、加納は馬券発売を願い出、会員からは利益が出たら配当するということで、一口500円の出資を募り、競馬場の開設費を集めた。\n\n日露戦争を機に高まった馬匹改良の声を受け、また政府内でも馬券黙許の雰囲気が高まる中で、加納が計画する東京競馬会は政府から内意を受けた。内意は「政府は賭金(馬券)を黙許する方針であること」と「全国に8か所の競馬場を設置する計画で、東京に置く競馬場はその模範たるべし」、そのためには「多少の金銭援助も行う」とのことであった。この内意は1905年(明治38年)12月である。この内意を東京競馬会が受けたのは加納の熱意の賜物であるとされている。", "qas": [ { "question": "加納久宜が当初馬匹改良の趣旨に賛同する会員から集めようとした競馬設立資金は一人あたりいくらでしたか?", "id": "tr-459-05-000", "answers": [ { "text": "500円", "answer_start": 349, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本競馬界の父と呼ばれる池上競馬場会場の中心人物は誰です?", "id": "tr-459-05-001", "answers": [ { "text": "安田伊左衛門", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日露戦争以降、政府が馬券販売を黙許する最初の馬場はどこですか?", "id": "tr-459-05-002", "answers": [ { "text": "池上競馬場", "answer_start": 74, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "加納は競馬場地を東京からほど近く、当時競馬が盛んだった横浜からも通える池上に決め、競馬運営団体名を東京競馬会と定めた。競馬の開催を1906年(明治39年)2月公表し、政府は同年4月これを許可する。\n\n池上競馬場を運営する東京競馬会の設立趣意書では、発起人は加納久宜、賛同者は元陸軍中将で男爵の大蔵平三、外務大臣等を歴任し東京競馬会の設立直前には大蔵大臣だった曽禰荒助、明治天皇の侍従で馬政に大きくかかわった藤波言忠、農商務省農務局長だった酒匂常明、諸大臣を歴任し、東京競馬会の設立直前には農商務大臣を務め後に総理大臣になる清浦奎吾となっており、東京競馬会は陸軍・農商務省・宮内省ら政府の支援の元に設立されたことが伺える。\n\n東京競馬会会長にはそのまま加納が就任し、他の理事は東京府知事尾崎行雄、安田伊左衛門、松平容大、木村利右衛門、森謙吾、千家尊福、石井千太郎、山県勇三郎や、S・アイザックスなど日本レースクラブの外国人達が務めた(東京府知事尾崎行雄はすぐに理事を園田実徳に交代した)。\n\n加納を陸軍から派遣された安田が補佐し競馬場建設は進んでいく。\n\nコースの設計やルール、馬券規則、競馬番組の作成、施設の維持管理などは先行する横浜競馬場に倣った。池上競馬場に続く日本の競馬場も多くは横浜を模範としたので、現在も中央競馬には横浜競馬場と同じく右回りの競馬場が多い。ことに池上競馬場は横浜競馬場の影響を強く受けている。", "qas": [ { "question": "政府が池上の馬場での競馬を許可したのは何月ですか?", "id": "tr-459-06-000", "answers": [ { "text": "4月", "answer_start": 88, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東京競馬会の設立趣意書に書かれていた賛同者の名前の中、行く行く総理になる人は誰ですか?", "id": "tr-459-06-001", "answers": [ { "text": "清浦奎吾", "answer_start": 261, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "森謙吾、千家尊福、曽禰荒助、石井千太郎のなかで、東京競馬会東京府知事でない人物はどれですか?", "id": "tr-459-06-002", "answers": [ { "text": "曽禰荒助", "answer_start": 179, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "安田伊左衛門はどの機関出身のものですか?", "id": "tr-459-06-003", "answers": [ { "text": "陸軍", "answer_start": 448, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "明治天皇は馬に関心が深く、また1904年(明治37年)の馬政勅諚が池上競馬や馬券発売黙許のきっかけとなったが、池上競馬場にも明治天皇は関心を持っている。加納は天皇の来場を期待して馬見所には玉座を設けた。明治天皇自身の池上競馬観覧こそはなかったものの名代を派遣されて池上競馬の様子を聞き、また毎回皇族を派遣している。\n\n明治天皇は競馬の目的は馬の見た目の美しさを求めるものではなく、馬の速力など馬の能力の優劣を競うべしとの考えで、池上競馬の成績表(タイム・斤量などの比較データ)を取り寄せた。1906年(明治39年)11月、加納は宮内大臣に「御賞典」の下賜を要望した。天皇は池上競馬場の初開催から御賞典を下賜している。天皇の御賞典は池上競馬場と横浜競馬場では各開催シーズンごとに下賜され、帝室御賞典競走と名付けられたこの競走は後の天皇賞へとつながっていった。", "qas": [ { "question": "加納が明治天皇の来場を見込んで作ったものは何すか?", "id": "tr-459-07-000", "answers": [ { "text": "玉座", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "加納の要望により天皇から池上競馬場へ下賜されたものは何すか", "id": "tr-459-07-001", "answers": [ { "text": "「御賞典」", "answer_start": 269, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現在の天皇賞の前身となった競争は?", "id": "tr-459-07-002", "answers": [ { "text": "帝室御賞典競走", "answer_start": 343, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "今日の天皇賞の前身にあたる帝室御賞典競走は池上競馬場では1906年(明治39年)秋、1907年(明治40年)春、秋、1908年(明治41年)春、秋、1909年(明治42年)秋に行われ、それぞれ距離は1マイル(1609メートル)内国産馬限定のレースとして行われた(横浜競馬場や他の競馬場でも帝室御賞典競走は行われている)。\n\n池上での初となる1906年(明治39年)秋3日目の帝室御賞典競走は内国産馬第1レースで7頭立て。1着は12歳の雑種騸馬のカツラ(馬主槙田吉一郎)が勝ち、天皇下賜の銀製花盛鉢と賞金400円を得た。1マイルの勝ち時計は2分7秒35。\n\n1907年(明治40年)春の池上競馬帝室御賞典競走は3日目の内国産馬第2レースで6歳牡馬のハナゾノ(馬主園田実徳)が1分56秒63で勝利し、同年の秋2日目第8競走5頭立てではホウエン(馬主園田実徳)が2分04秒の時計で勝利し、御賞典を獲得、1908年(明治41年)春の池上競馬帝室御賞典競走は2日目の内国産馬第1レースで7歳牡馬のスイテン(馬主安田伊左衛門)が1分52秒71で勝った。\n1908年(明治41年)秋は2日目内国産馬第1レースが帝室御賞典競走で勝ち馬はフクゾノ、時計は1分58秒48。\n1909年(明治42年)秋は2日目に行われ、ウラカワが勝っている。(明治の馬名は漢字で表記されることもあったが、ここではカタカナで統一した)", "qas": [ { "question": "池上競馬場で1906年秋から1909年秋まで行われた帝室御賞典競走で1シーズン抜けている年は何年ですか?", "id": "tr-459-08-000", "answers": [ { "text": "1909年", "answer_start": 74, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "池上競馬場第1回目の帝室御賞典競走で1位をとった馬の主人は誰ですか?", "id": "tr-459-08-001", "answers": [ { "text": "槙田吉一郎", "answer_start": 228, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "池上競馬場の第3回目の帝室御賞典競走で優勝した馬の名前って何だっけ?", "id": "tr-459-08-002", "answers": [ { "text": "ホウエン", "answer_start": 365, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第5回目池上競馬場での帝室御賞典競走は何年に行われてましたか?", "id": "tr-459-08-003", "answers": [ { "text": "1908年", "answer_start": 58, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "明治の日本では一切の賭博は禁止され、わずかに横浜でのみ例外的に馬券が売られている状況で、一気に全国で無制限の馬券を伴う競馬が開催され出したのである。それまでは非合法なものでしかなかった賭博を公然と行えるようになった日本人は一気に賭博の「興奮と熱狂」につつまれていった。仕事を放りだして競馬場に通い詰める者が続出し、身の丈を超えて多額の馬券を買って破産し娘を売る者、店の金に手を付ける者、泥棒に及ぶ者、競馬で財産を失って首を吊る者が現れた。\n\n競馬場側も金儲けに走り、粗雑な運営でクレームが続出し観客が暴れる騒動が頻発する。審判や発馬なども不手際が多く観客の騒ぎになることもあり、競走で八百長すら行われ、それを嗅ぎ取った観客がやはり暴れる、といった騒ぎが続出した。特に営利目的が露骨で粗末な設備と運営が行われた松戸競馬場では競馬場側が配当をごまかすなどの不正な行為を行い、抗議する観客のクレームをやくざを雇って封殺するなどということにまで及んだ。鳴尾では競馬会の内紛や詐欺などが発覚した。そもそも競馬場の許可自体にも贈収賄の噂すら立った。各競馬場の模範たるべしと期待された池上競馬場でも払い戻しにおける紛争が起きている。政府は場当たり的に様々な規制を行うが効果なく、大手新聞を始めマスコミは一斉に競馬を攻撃し、マスコミの攻撃は競馬場のみならず馬券を黙許した政府にも及んだ。加納や一部の政治家・官僚は馬匹改良のために馬券を伴う競馬開催は必要だと訴えるが馬券への世論の風当たりは強く、1908年(明治41年)10月、政府は馬券を禁止した。", "qas": [ { "question": "競馬場側が配当をごまかして大騒ぎになった競馬場はどこですか?", "id": "tr-459-09-000", "answers": [ { "text": "松戸競馬場", "answer_start": 354, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "政府がまた馬券の売買を禁止したのは何年ですか?", "id": "tr-459-09-001", "answers": [ { "text": "1908年", "answer_start": 639, 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"馬券の禁止に東京競馬会を含む各地の競馬会は動揺し開催を延期した。延期して開催された池上競馬場の1908年(明治41年)秋場所は競馬としては遅い時期の12月18,19,20に3日間と日程も短縮して行われた。馬券を発売しない競馬は観客からそっぽを向かれ、秋場所初日は1等入場券が5枚、2等入場券が7枚しか売れず、招待客を入れても競馬場は閑古鳥が鳴いた。馬券収入が無くなったので賞金額も前場所の42,000円余りから2500円へと激減した。\n\n馬券が禁止された直後の1908年(明治41年)秋の池上競馬には、政府から補助金が25,000円が出された、他、各地の競馬会にも補助金は出されたが、競馬の運営に25,000円程度では到底足りる金額ではなかった。そのため全国の競馬関係者は一斉に馬券復活運動に立ち上がる。補助金による競馬ではなく馬券を売る競馬を求める各競馬会は明治42年春場所は開催しなかった。国会が開かれていた東京に全国から競馬関係者が集合し、政府に馬券復活の請願活動を行う。この運動は激しくついに1909年(明治42年)春の衆議院では議員立法で提出された馬券を認める法案が通過した。しかし、政府と貴族院の抵抗は強く貴族院の反対によって結局は馬券禁止は覆ることはなかった。この後の日本競馬は政府の補助金によって行われる補助金競馬時代に移行する(馬券発売が認められるのは1923年(大正12年)の競馬法成立を待たなければならなかった)。\n\n1909年(明治42年)春の開催をあきらめて行った馬券復活運動は実らず、補助金競馬時代に移行した同年秋に3日間開催したのが、結果的には池上競馬場の最終回となった。", "qas": [ { "question": "1908年、1等入場券が5枚、2等入場券が7枚売れた池上競馬場の秋場所の競馬は何月何日ですか?", "id": "tr-459-10-000", "answers": [ { "text": "12月18", "answer_start": 74, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1908年、池上競馬場の秋場所の競馬の賞金額はいくらですか?", "id": "tr-459-10-001", 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