{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "手塚治虫", "paragraphs": [ { "context": "手塚治虫(てづかおさむ、本名:手塚治(読み同じ)、1928年(昭和3年)11月3日-1989年(平成元年)2月9日)は、日本の漫画家、アニメーター、アニメ監督である。\n戦後日本においてストーリー漫画の第一人者として、漫画表現の開拓者的な存在として活躍した。\n\n兵庫県宝塚市出身(出生は大阪府豊能郡豊中町、現在の豊中市)同市名誉市民である。\n大阪帝国大学附属医学専門部を卒業。\n医師免許取得のち医学博士(奈良県立医科大学・1961年)。", "qas": [ { "question": "戦後日本のストーリー漫画の第一人者で、医学博士の一面もある漫画家は誰?", "id": "tr-000-00-000", "answers": [ { "text": "手塚治虫", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "手塚治虫の出身地はどこになりますか?", "id": "tr-000-00-001", "answers": [ { "text": "兵庫県宝塚市", "answer_start": 130, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "大阪帝国大学附属医学専門部在学中の1946年1月1日に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』(『少国民新聞』連載)で漫画家としてデビューした。\n1947年、酒井七馬原案の描き下ろし単行本『新寶島』がベストセラーとなり、大阪に赤本ブームを引き起こす。\n1950年より漫画雑誌に登場、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『リボンの騎士』といったヒット作を次々と手がけた。\n\n1963年、自作をもとに日本初となる30分枠のテレビアニメシリーズ『鉄腕アトム』を制作、現代につながる日本のテレビアニメ制作に多大な影響を及ぼした。\n1970年代には『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』などのヒット作を発表。\nまた晩年にも『陽だまりの樹』『アドルフに告ぐ』など青年漫画においても傑作を生み出す。\nデビューから1989年の死去まで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。\n\n藤子不二雄(藤子・F・不二雄、藤子不二雄A)、石ノ森章太郎、赤塚不二夫、横山光輝、水野英子、矢代まさこ、萩尾望都などをはじめ数多くの人間が手塚に影響を受け、接触し漫画家を志した。", "qas": [ { "question": "手塚治虫の漫画家としてのデビュー作は何かな?", "id": "tr-000-01-000", "answers": [ { "text": "『マアチャンの日記帳』", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1947年に大阪に赤本ブームが起こったのはなぜ?", "id": "tr-000-01-001", "answers": [ { "text": "『新寶島』がベストセラーとなり", "answer_start": 90, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本で一番初めに30分枠のテレビアニメとなった作品名は何?", "id": "tr-000-01-002", "answers": [ { "text": "『鉄腕アトム』", "answer_start": 213, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "手塚治虫の代表作である『鉄腕アトム』、『リボンの騎士』、『アドルフに告ぐ』の中で、最も遅く発表された作品名は何?", "id": "tr-000-01-003", "answers": [ { "text": "『アドルフに告ぐ』", "answer_start": 314, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1941年、大阪府立北野中学校(現在の大阪府立北野高等学校)に入学した。\n時節柄軍事色が強まっていった時期であり、小学校時代とは一転し、漫画を描いているのを学校教練の教官に見つかり殴られるなどしている。\nこの時期、仲間内で作った同好会の会誌などで漫画を執筆する一方で、手塚版「原色甲蟲圖譜」などイラストレーションによる図鑑を自作するなど精力的に活動する。\n\n1944年夏には体の弱い者が入れられる強制修練所に入れられる。\n9月からは学校に行く代わりに軍需工場に駆り出され、ここで格納庫の屋根にするスレートを作った。\n\n1945年3月、戦時中の修業年限短縮により北野中学を4年で卒業。\n旧制浪速高等学校(現在の大阪大学)を受験したものの、漫画ばかり描いていたため、不合格となった。\n6月、勤労奉仕で監視哨をしていたときに大阪大空襲に遭遇、頭上で焼夷弾が投下されるも九死に一生を得る。\nこの空襲は手塚の原体験ともいうべきものとなり、後に『紙の砦』(1974年)や『どついたれ』(1979年-1980年)などの自伝的作品の中にその様子が描かれている。\nこの体験以降、手塚は工場に行くのをやめ、家にこもってひたすら漫画を描くようになった。\n\n同年7月、手塚は大阪帝国大学附属医学専門部の試験を受け、入学を許可された。\n医学専門部は、戦争の長期化に伴い、軍医速成のため正規の医学部とは別に臨時に大阪帝国大学の学内に付設されたもので、学制上は旧制医学専門学校であり、従って旧制中学校からの入学が可能であった。\n大阪大学(旧・大阪帝国大学)附属医学専門部は1951年に廃止されている。\nなお後述の通り医師国家試験についてはジャングル大帝や鉄腕アトムなど連載の執筆をしながら合格している。", "qas": [ { "question": "手塚治虫が軍事色が強かった時期にも関わらず、精力的に漫画活動を行った学校の名前は?", "id": "tr-000-02-000", "answers": [ { "text": "大阪府立北野中学校", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『紙の砦』や『どついたれ』などの自伝的作品の中にも描写されている手塚治虫にとって命を落としていたかもしれなかった出来事は何ですか?", "id": "tr-000-02-001", "answers": [ { "text": "大阪大空襲", "answer_start": 359, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『紙の砦』と『どついたれ』の作品はどちらが早く描かれたの?", "id": "tr-000-02-002", "answers": [ { "text": "『紙の砦』", "answer_start": 416, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "終戦後、学生である手塚は戦時中に描き溜めた長編の中から『幽霊男』(『メトロポリス』の原型)という長編を選んで描き直し、毎日新聞学芸部へ送った。\nこれは音沙汰無しに終わったが、その後、隣に住んでいた毎日新聞の印刷局に勤める女性からの紹介で、子供向けの『少国民新聞』(現在の毎日小学生新聞)学芸部の程野という人物に会い、彼の依頼を受けて『少国民新聞』の大阪版に4コマ漫画『マアチャンの日記帳』を連載(1946年1月1日-3月31日)、この作品が手塚のデビュー作となった。\nこの『マアチャン』はローカルながら人気があり、人形や駄菓子のキャラクターに使用されたという記録も残っている。\n『マアチャン』に続けて4月から『京都日日新聞』に4コマ漫画『珍念と京ちゃん』を連載しており、これらと平行して4コマ形式の連載長編作品『AチャンB子チャン探検記』『火星から来た男』『ロストワールド』(後述するものとは別物)なども各紙に描かれているが、4コマ連載という形式に限界があり、後2者はどちらも中断に近い形で終わっている。", "qas": [ { "question": "『マアチャンの日記帳』の連載期間はいつからいつまで?", "id": "tr-000-03-000", "answers": [ { "text": "1946年1月1日-3月31日", "answer_start": 198, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "漫画家としてデビューする前の1945年頃、2代目桂春団治が地方での自主興行を行う際のポスター画を提供した(現物は宝塚市立手塚治虫記念館に展示されている)。\n2代目春団治が宝塚市清荒神在住ということもあり、親交を重ねるうち、手塚の漫画家志望という進路を案じ、落語家になるよう勧めたという。\n\n1946年、同人誌『まんがマン』の例会を通じて後見役の酒井七馬と知り合い、酒井から長編ストーリー漫画の合作の話を持ちかけられる。\nこれは戦後初の豪華本の企画でもあり、それまで長編漫画を描き溜めていた手塚としては願ってもない話であった。\nこうして大雑把な構成を酒井が行い、それを元に手塚が自由に描くという形で200ページの描き下ろし長編『新寶島』が制作された。\n1947年1月に出版されると、当時としては異例のベストセラーとなった。\n映画的な構成とスピーディな物語展開を持つ『新寶島』は、一般に戦後ストーリー漫画の原点として捉えられている。", "qas": [ { "question": "『新寶島』の漫画を合作しようと手塚に持ち掛けた人物は?", "id": "tr-000-04-000", "answers": [ { "text": "酒井七馬", "answer_start": 172, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ベストセラーとなる『新寶島』が出版された年は何年?", "id": "tr-000-04-001", "answers": [ { "text": "1947年", "answer_start": 325, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ベストセラーとなった『新寶島』は大阪に赤本ブームを起こし、手塚はこれに乗って描き下ろし単行本の形で長編作品を発表できるようになった。\n手塚は忙しくなり、これまでに描き溜めてきた長編を基に、学業の傍ら月に1、2冊は作品を描き上げなければならなくなった。\n1947年に発表された『火星博士』『怪人コロンコ博士』『キングコング』などは子供向けを意識したB級映画的な作品であったが、1948年の『地底国の怪人』からは悲劇的な展開も取り入れるようになり、SF、冒険などを題材に作品中でさまざまな試みが行なわれた。\n同年末に描かれた『ロストワールド』では様々な立場の人物が絡み合う地球規模の壮大な物語が描かれ、続く『メトロポリス』(1949年)『来るべき世界』(1951年)とともに手塚の初期を代表するSF三部作をなしている。\n1949年の西部劇『拳銃天使』では児童漫画で初のキスシーンを描く。\n1950年には文豪ゲーテの『ファウスト』を漫画化したほか、「映画制作の舞台裏をお見せします」という導入で始まる『ふしぎ旅行記』、自身の漫画手法を体系化して示した漫画入門書の先駆的作品『漫画大学』などを発表している。", "qas": [ { "question": "『新寶島』のベストセラーは大阪に何をもたらした?", "id": "tr-000-05-000", "answers": [ { "text": "赤本ブーム", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『火星博士』『怪人コロンコ博士』『キングコング』『地底国の怪人』の中で、最も遅く発表された作品は何ですか?", "id": "tr-000-05-001", "answers": [ { "text": "『地底国の怪人』", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "手塚の初期のSF三部作で最後に描かれたものは何?", "id": "tr-000-05-002", "answers": [ { "text": "『来るべき世界』", "answer_start": 316, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1950年に手塚が漫画化した、『ファウスト』という作品の作者は誰か分かりますか?", "id": "tr-000-05-003", "answers": [ { "text": "ゲーテ", "answer_start": 401, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "漫画執筆が忙しくなると大学の単位取得が難しくなり、手塚は医業と漫画との掛け持ちは諦めざるを得なくなった。\n教授からも医者になるよりも漫画家になるようにと忠告され、また母の後押しもあって、手塚は専業漫画家となることを決める。\nもっとも学校を辞めたわけではなく、1951年3月に医学専門部を卒業(5年制、1年留年。この年に専門部が廃止されたため最後の卒業生となった)、さらに大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務め、1952年3月に第十二回医師国家試験に合格、1953年9月18日に医籍登録されている。\nこのため、後に手塚は自伝『ぼくはマンガ家』の中で、「そこで、いまでも本業は医者で、副業は漫画なのだが、誰も妙な顔をして、この事実を認めてくれないのである」と述べている。", "qas": [ { "question": "手塚自身は、本業は医者であると述べているが、世間の人は手塚の本業は何だと思っていますか?", "id": "tr-000-06-000", "answers": [ { "text": "マンガ家", "answer_start": 269, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "漫画執筆と大学単位の取得の両立が困難な中、大学教授からは何を選ぶようにアドバイスされましたか?", "id": "tr-000-06-001", "answers": [ { "text": "漫画家", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "手塚が医学専門部を卒業後、1年間インターンを務めた所はどこでしょう?", "id": "tr-000-06-002", "answers": [ { "text": "大阪大学医学部附属病院", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "手塚は大阪で赤本漫画を描く傍ら、東京への持ち込みも行なっている。\n当初期待した講談社では断られたが、新生閣という出版社で持ち込みが成功し、ここでいくつか読み切りを描いた後、新創刊された雑誌『少年少女漫画と読み物』に1950年4月より『タイガー博士の珍旅行』を連載、これが手塚の最初の雑誌連載作品となった。\n同年11月より雑誌『漫画少年』(学童社)にて『ジャングル大帝』の連載を開始、1951年には『鉄腕アトム』(1952年-)の前身となる『アトム大使』を『少年』(光文社)に連載するなど多数の雑誌で連載を始め、この年には少年漫画誌のほとんどで手塚の漫画の連載が開始された。\n1953年には『少女クラブ』(講談社)にて『リボンの騎士』の連載を開始した。\n宝塚歌劇やディズニーからの影響を受けたこの作品は、以後の少女雑誌における物語漫画の先駆けとなった。\n1954年には『ジャングル大帝』連載完結の後を受けて『漫画少年』に『火の鳥』の連載を開始した。\n『火の鳥』のシリーズはその後も休刊等によりCOM、マンガ少年、野性時代と掲載誌を変えながら長年に描き継がれ,手塚のライフワークとなった。", "qas": [ { "question": "宝塚歌劇やディズニーの影響を受け、後の少女雑誌の物語漫画の先駆けとなった手塚作品は何かな?", "id": "tr-000-07-000", "answers": [ { "text": "『リボンの騎士』", "answer_start": 308, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "休刊等も含め、掲載誌を変えながらも長年に渡って描き続けられ、手塚のライフワークともなった作品シリーズのタイトルは何?", "id": "tr-000-07-001", "answers": [ { "text": "『火の鳥』", "answer_start": 424, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ジャングル大帝』『鉄腕アトム』『アトム大使』『リボンの騎士』の中で、2番目に連載を開始した作品は何?", "id": "tr-000-07-002", "answers": [ { "text": "『アトム大使』", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "大阪で漫画執筆をしながら、東京への持ち込みをし、その成果が実って掲載された手塚作品初の雑誌連載の題名は?", "id": "tr-000-07-003", "answers": [ { "text": "『タイガー博士の珍旅行』", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "私生活の面では、1952年に宝塚から東京に移住し、さらに翌1953年に『漫画少年』編集部からの紹介で豊島区のトキワ莊に入居、その後トキワ荘には手塚に続いて寺田ヒロオ、藤子不二雄が入居した。\n手塚は自分が住んでいた14号室を藤子不二雄の二人に譲ってトキワ荘から転居したが、その後も石森章太郎(後に石ノ森章太郎に改名)、赤塚不二夫など後に著名な漫画家となる者たちが続々と入居したトキワ莊は漫画家の梁山泊となった。\nこの時期、手塚はトキワ莊の漫画家に映画をたくさん観るようにと薦めており、手塚自身も十数年間は年に365本を必ず観ていたという。\nなお、1953年に手塚は関西の長者番付の画家の部でトップとなったが、仕事場が木造2階建て建築のトキワ莊であったため、取材に来た新聞記者に呆れられたので、以後は意識して高級品を買い込むようにしたと語っている。", "qas": [ { "question": "手塚治虫をはじめ、藤子不二雄や石ノ森章太郎が入居したトキワ荘は東京都の何区に位置していたか?", "id": "tr-000-08-000", "answers": [ { "text": "豊島区", "answer_start": 50, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "前述のとおり、幼少期からディズニー映画を愛好していた手塚は、もともとアニメーション(注:1960年代ぐらいまでは世間一般では漫画映画と呼ばれていた)に強い関心を持っており、アニメーションの制作は念願の仕事であった。\n特に影響を受けた作品はディズニーの『バンビ』(1942年米国公開)だが、これは日本では戦後の1951年になって公開された(ディズニーの『白雪姫』(米国公開1937年)や『ピノキオ』(米国公開1940年)も日本での公開は戦後になってのことである)。\n日本は戦時中はディズニーやフライシャー兄弟など米国のアニメーションの公開を禁止していたが、1942年(昭和17年)に戦時中の日本において初めて公開された動画作品であるアジア初の劇場用長編動画作品『西遊記鉄扇公主の巻』(中国、1941年、73分、モノクロ)を観て感動した。\n戦後ずいぶん経った1980年に中国を訪れた際には上海美術映画製作所で監督の万籟鳴と対面を果たして孫悟空とアトムが握手するイラストを制作した。\n手塚はプロの漫画家になる前の敗戦の年である1945年に、焼け残った大阪の松竹座に於いて海軍省製作の長編漫画映画『桃太郎海の神兵』を観て感涙し、このとき将来必ず自分の手で漫画映画を作ることを決意したという。\n戦後の1946年(昭和21年)に上京した際にアニメータ募集の張り紙をみて漫画映画製作会社「芦田漫画製作所」(芦田巌)に出向いて採用を志願したが断られている。\n漫画は手塚にとってアニメーション制作の資金を得るための手段だった。\n評論家の大宅壮一から(華僑のように出身地の大阪を離れて東京で稼ぐという意味で)「阪僑」と嘲評されるほど漫画を描いて稼ぎまくった。\nまた自らを「ディズニー狂い」と称した。\nまた前述のとおり、東映動画から請われて嘱託の仕事を受けてもいる。", "qas": [ { "question": "『バンビ』『白雪姫』『ピノキオ』の中で、1番遅く米国公開された映画は何?", "id": "tr-000-09-000", "answers": [ { "text": "『バンビ』", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『バンビ』『白雪姫』『ピノキオ』の中で、最も早く米国で公開された映画は何?", "id": "tr-000-09-001", "answers": [ { "text": "『白雪姫』", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "幼少期からディズニー映画を愛好していた手塚は自らを何と称したか?", "id": "tr-000-09-002", "answers": [ { "text": "「ディズニー狂い」", "answer_start": 725, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1961年、手塚は自分のプロダクションである手塚プロダクションに動画部を設立。\n当初は6人のスタッフから始まった。\n最初に制作した作品『ある街角の物語』はスタッフの給料から制作費まですべてを手塚の描いた漫画の原稿料で賄い、1年をかけて40分のカラー長編アニメーション作品で、ブルーリボン賞や文部省芸術祭奨励賞など数々の賞を受賞する。\nその後1962年に動画部は「虫プロダクション」と改名した。\n(虫プロダクションは最盛期には400人を超えた数の正社員を擁していたという。)", "qas": [ { "question": "手塚プロダクションの動画部は後に何に改名したかな?", "id": "tr-000-10-000", "answers": [ { "text": "「虫プロダクション」", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "最盛期に400人以上の正社員を抱えた虫プロダクションの元となった手塚プロダクションでは、何人のスタッフから始まった?", "id": "tr-000-10-001", "answers": [ { "text": "6人", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "たとえリミテッド・アニメの手法を用いるにしてもテレビ放送の30分枠用に(最低レベルで)1本あたり2,000枚分の動画を動画家(アニメーター)5名で担当し、一人が1日66枚を仕上げるという苛酷な労働状況が作られることとなった。\nまた作品を1本につき55万円という破格の製作費で売り込んだことが制作部の首を絞めることになった。\n手塚がアニメの値段を安くして売り込んだのは、当時の普通のテレビ番組の制作費が50万程度であったことと、安くすればスポンサーに受け入れられやすくなることや、他者の競争参入を阻める考えたからであったと語るが、これは後に手塚自身が「大失敗だった」と認めたように、結果的に大誤算であった。『アトム』の大成功を見て他者がこの分野に次々と参入を開始して低予算で多くの番組が制作され放映されることになったのである。\nしかし当初は経営が苦しかった虫プロも『アトム』が大ヒットすると版権(マーチャンダイジング)収入で莫大な利益が上がるようになり、また海外に向けて作品の放映権+派生商品を展開する権利を販売できたことなどにより、急速に規模が拡大してゆき(最盛期には社員総数が一時は400名から最大550名の規模となり)、『アトム』は虫プロダクションを黒字にさせた。\n放送が4年間続いた『鉄腕アトム』は放映開始から1年半で手塚の漫画原作をほぼ使い切ってしまい、その後に虫プロ文芸部のスタッフが独自に作ったエピソードは人気を得るための戦闘が描かれる傾向が強まり、「鉄腕アトム」から手塚の好んだアニメーションらしいユーモアが失われていった。", "qas": [ { "question": "アニメ作品1本を、破格の製作費で売り込んだことにより、制作部の首をしめることになった金額はいくら?", "id": "tr-000-11-000", "answers": [ { "text": "55万円", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スタッフの意向により、人気を得るための戦闘が描かれる傾向が強まった『鉄腕アトム』から失われていったものは何ですか?", "id": "tr-000-11-001", "answers": [ { "text": "アニメーションらしいユーモア", "answer_start": 646, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アニメ制作に乗り出して以降も、手塚は漫画作品を精力的に発表していた。\n虫プロの成立時期は漫画作品もアニメと関連した企画が多くなっており、アニメーションと平行して『鉄腕アトム』原作版の連載や、日本初のカラーテレビアニメ『ジャングル大帝』に連動しての同作品リメイク版の連載、当初アニメ化の企画もあった『マグマ大使』の連載などが1963年-1965年にかけて行なわれている。\n他のアニメ作品と関連して『W3』連載雑誌でのいざこざが起こったW3事件も1965年の出来事である。", "qas": [ { "question": "手塚の『W3』連載雑誌でのいざこざが起こったW3事件は何年に起こった?", "id": "tr-000-12-000", "answers": [ { "text": "1965年", "answer_start": 221, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本初のカラーテレビアニメのタイトルは何か知っていますか?", "id": "tr-000-12-001", "answers": [ { "text": "『ジャングル大帝』", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1973年に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で連載開始された『ブラック・ジャック』も、少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、壁村耐三編集長の厚意で始まったものであった。\nしかし、連綿と続く戦いで読み手を惹き付けようとするような作品ばかりであった当時の少年漫画誌にあって、『ブラック・ジャック』の毎回読み切り形式での連載は新鮮であり、後期の手塚を代表するヒット作へと成長していくことになった。\nさらに1974年、『週刊少年マガジン』(講談社)連載の『三つ目がとおる』も続き、手塚は本格的復活を遂げた。\n1976年、中断されたままであった『火の鳥』が『マンガ少年』(朝日ソノラマ)の創刊によって再開。\n1977年時点で、手塚は『ブラック・ジャック』『三つ目がとおる』『ブッダ』『火の鳥』『ユニコ』『MW』と6つの連載を抱えていた。\nまた、同時期の漫画文庫本ブームに伴い手塚の過去の作品も続々と再刊されており、さらに同年6月からの講談社『手塚治虫漫画全集』刊行によって、手塚は「漫画の第一人者」、「漫画の神様」という評価を確かなものにしていった。", "qas": [ { "question": "少年誌・幼年誌で人気が低迷していた手塚の最期を看取ってやろうという、壁村耐三編集長の厚意で始まった漫画だったが、毎回の読み切り形式が新鮮で、後期の手塚を代表するヒット作にまでなった作品名は?", "id": "tr-000-13-000", "answers": [ { "text": "『ブラック・ジャック』", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1977年の時点で、手塚が抱えていた6つの連載の中で、『ブラック・ジャック』が掲載された雑誌の名前は何でしょう?", "id": "tr-000-13-001", "answers": [ { "text": "『週刊少年チャンピオン』", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1980年代になると、幕末から明治までの時代に自身のルーツをたどった『陽だまりの樹』(ビッグコミック)や、アドルフ・ヒトラーを題材に一般週刊誌で連載された『アドルフに告ぐ』(週刊文春)など、青年漫画の新たな代表作を手がけることになる。\n「陽だまりの樹」は第29回小学館漫画賞、「アドルフに告ぐ」は第10回講談社漫画賞一般部門を受賞したが1988年3月に胃を壊し、一度目の手術を受ける。\n5月に退院し、以前とまったく変わらない多作振りを見せた。\nしかし同年11月、中華人民共和国上海市でのアニメーションフェスティバルに出席した後に倒れ(制止された際に「これは国際問題です」と病身をおして訪れた)、帰国と同時に半蔵門病院に入院。\n医師の診断ではスキルス胃癌であった(しかし当時の日本の医療の慣習により、直接本人には告知されなかった)。\n翌1989年1月21日に手塚プロ社長の松谷孝征が見舞に来た時には、「僕の病状は何なんだ、君聞いてきてくれ」と頼んでいたという。\n胃癌ということは伏せたうえで聞いた事を話すと「そうか...」と一言言ったという。\n100歳まで描き続けたいと言っていた手塚は、病院のベッドでも医者や妻の制止を振り切り漫画の連載を続けていた。", "qas": [ { "question": "1980年代に描かれた青年漫画の新たな代表作で、第29回小学館漫画賞を受賞した作品は?", "id": "tr-000-14-000", "answers": [ { "text": "「陽だまりの樹」", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『アドルフに告ぐ』で、手塚がモデルとした歴史上の人物は誰?", "id": "tr-000-14-001", "answers": [ { "text": "アドルフ・ヒトラー", "answer_start": 53, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "手塚はスキルス胃癌で亡くなったが、本人に告知されたなかったのはなぜか?", "id": "tr-000-14-002", "answers": [ { "text": "当時の日本の医療の慣習により", "answer_start": 334, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "半蔵門病院の病室で、1989年(平成元年)2月9日午前10時50分死去した。\n死に立ち会った松谷によるとこの「頼むから仕事をさせてくれ」が手塚の最後の言葉であったという。\n通夜は2月11日、東久留米市の自宅で、葬儀は3月2日、東京都港区の青山葬儀所で手塚プロダクションの社葬として、それぞれ営まれた。\n『グリンゴ』『ルードウィヒ・B』『ネオ・ファウスト』などの作品が未完のまま遺された。\nまた、梅原猛の小説『ギルガメシュ』のアニメ化に意欲的だったが、構想中のままに終わった。\n亡くなる3週間前(1989年1月15日)まで書かれていた自身の日記には、その時の体調状態や新作のアイデアなどが書き連ねられていた。\n周りの人間は誰も手塚に胃癌であることを伝えず、手塚自身は生き続けるということに何も疑問は持たなかったとされる。\nしかし、手塚が病院で描いていた遺作の一つ「ネオ・ファウスト」では主要な人物が胃癌にかかり、医者や周りは気遣って胃癌であることを伝えないが、本人は胃癌であることを知っていて死亡するという内容が描かれている。", "qas": [ { "question": "平成元年が始まったのは西暦何年ですか?", "id": "tr-000-15-000", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "手塚の遺作の一つで、主要な人物が手塚本人と同じような死に方をする内容が描かれている作品名は何?", "id": "tr-000-15-001", "answers": [ { "text": "「ネオ・ファウスト」", "answer_start": 380, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "手塚は幼少期から独自の漫画を描いており、田河水泡『のらくろ』、横山隆一『フクちゃん』の模写をするようになったが、7歳の頃に出た謝花凡太郎によるミッキーマウスの海賊版単行本に夢中になり、この本の模写をするようになった(手塚によれば「本家のディズニーに送ってやりたい程」そっくりの絵だったという)。\n手塚の絵柄は、劇画の影響を受ける1955年頃まではディズニーの影響が強い丸っこい絵柄で、「ディズニースタイル」とも呼ばれていた。\nディズニーのアニメーションに出会ったのは9歳のときで、毎年正月に大阪の朝日会館で行なわれる「漫画映画大会」で上演されたものであった。\n父が家庭用映写機を購入した時には、上演用フィルムの中に『ミッキーの汽車旅行』もあった。\n以来ディズニーのアニメーションに心酔し、1950年にディズニーの『白雪姫』が封切られた時には映画館で50回、次の『バンビ』は80回以上観たという。\n\n手塚は「尊敬する映画人」として、チャールズ・チャップリンとウォルト・ディズニーを挙げている。", "qas": [ { "question": "ディズニーの影響を受けた手塚が、80回以上観たというディズニー映画の題目は何?", "id": "tr-000-16-000", "answers": [ { "text": "『バンビ』", "answer_start": 380, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "手塚が見たディズニー映画『白雪姫』と『バンビ』のうち、見た回数が少ないのはどちら?", "id": "tr-000-16-001", "answers": [ { "text": "『白雪姫』", "answer_start": 356, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "手塚が挙げる「尊敬する映画人」の中で、手塚の絵柄に影響を与えた人は何という名前?", "id": "tr-000-16-002", "answers": [ { "text": "ウォルト・ディズニー", "answer_start": 428, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "また、手塚の担当編集者でマネージャーも務めた手塚プロ社長の松谷孝征は手塚が最も愛して尊敬したのは万籟鳴であり、手塚はディズニーの影響を受けていると多くの人が認識するも実際は中国アニメ、特に万籟鳴の影響を受けており、その時期はディズニーよりも早くて影響も深いと述べている。\n病で倒れる直前の1988年に第1回上海国際アニメフェスの審査員として中国を訪れた際も古希を迎えた万籟鳴と再会しており、1989年8月27日に手塚プロが制作し、日本テレビの24時間テレビ「愛は地球を救う」で放映された『手塚治虫物語ぼくは孫悟空』でも中国で万籟鳴と会った場面が再現されており、病床の手塚が草案をしたためたものの完成を見ずに放送年の2月に手塚は死去したために遺作の1つとなった。", "qas": [ { "question": "手塚プロ社長の松谷孝征は、手塚が最も愛して尊敬したのは誰だと述べていますか?", "id": "tr-000-17-000", "answers": [ { "text": "万籟鳴", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "手塚の遺作の中で、中国で万籟鳴と会った場面が再現されている作品名は何だろうか?", "id": "tr-000-17-001", "answers": [ { "text": "『手塚治虫物語ぼくは孫悟空』", "answer_start": 243, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "夏目房之介は、赤本時代の手塚漫画の達成として「コマの読み方」を変えたことを挙げている。\nそれまでの日本の漫画は、現在の4コマ漫画と同じように、1ページ内で右側に配置されたコマを縦に読んで行き、次に左側に移りまた縦に読んでいく、という形で読まれていた。\nしかしこの読み方ではコマ割りの方法が大幅に制限されるため、手塚は赤本時代に、上の段のコマを右から左に読んで行き、次に下の段に移りまた右から左に読む、という現在の読み方を少しずつ試み浸透させていった。\nこれに加えて、初期の手塚は登場人物の絵柄をより記号化し、微妙な線の変化を用いて人物造形や表情のヴァリエーションを格段に増やした。\n流線や汗、擬音などの漫画的な記号も従来に比べて格段に増やしており、このような表現の幅の広さが、多数の人物が入り組む複雑な物語を漫画で描くことを可能にし、また絵柄の記号化を進めたことは、絵を学ばずとも記号表現を覚えることで、誰でも漫画を描くことができるという状況を作ることにもなった。\nまた物語という点において戦前の漫画と手塚漫画の物語を隔てるものは「主人公の死」などを始めとする悲劇性の導入であり、死やエロティシズムを作品に取り入れていったことで多様な物語世界を描くことを可能にし、以降の漫画界における物語の多様さを準備することになった。", "qas": [ { "question": "赤本時代の手塚漫画の達成として「コマの読み方」を変えたことを挙げたのは誰でしょう?", "id": "tr-000-18-000", "answers": [ { "text": "夏目房之介", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "初期の手塚は登場人物の絵柄をどうすることにより、人物造形や表情のヴァリエーションを格段に増やす事に成功したか?", "id": "tr-000-18-001", "answers": [ { "text": "記号化", "answer_start": 249, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "多様な物語世界を描くことを可能にするために、手塚が導入したものは何?", "id": "tr-000-18-002", "answers": [ { "text": "悲劇性の導入", "answer_start": 480, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "フランツ・カフカ", "paragraphs": [ { "context": "フランツ・カフカ(FranzKafka,ときにチェコ語:FrantišekKafka,1883年7月3日-1924年6月3日)は、出生地に即せば現在のチェコ出身のドイツ語作家。\nプラハのユダヤ人の家庭に生まれ、法律を学んだのち保険局に勤めながら作品を執筆、どこかユーモラスで浮ついたような孤独感と不安の横溢する、夢の世界を想起させるような独特の小説作品を残した。\nその著作は数編の長編小説と多数の短編、日記および恋人などに宛てた膨大な量の手紙から成り、純粋な創作はその少なからぬ点数が未完であることで知られている。\n生前は『変身』など数冊の著書がごく限られた範囲で知られるのみだったが、死後中絶された長編『審判』『城』『失踪者』を始めとする遺稿が友人マックス・ブロートによって発表されて再発見・再評価をうけ、特に実存主義的見地から注目されたことによって世界的なブームとなった。\n現在ではジェイムズ・ジョイス、マルセル・プルーストと並び20世紀の文学を代表する作家と見なされている。", "qas": [ { "question": "『変身』の作者は誰?", "id": "tr-001-00-000", "answers": [ { "text": "フランツ・カフカ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランツ・カフカの出生地はどこですか?", "id": "tr-001-00-001", "answers": [ { "text": "プラハ", "answer_start": 89, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランツ・カフカの数多くの遺稿を発表した彼の友人とは誰?", "id": "tr-001-00-002", "answers": [ { "text": "マックス・ブロート", "answer_start": 325, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランツ・カフカが誕生したのはいつ?", "id": "tr-001-00-003", "answers": [ { "text": "1883年7月3日", "answer_start": 43, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フランツ・カフカは、1883年、オーストリア=ハンガリー帝国領プラハにおいて、高級小間物商を営むヘルマン・カフカ(1852年-1931年)とその妻ユーリエ(1856年–1934年)との間に生まれた。\n両親は、ともにユダヤ人である。\n父ヘルマン・カフカは、南ボヘミアの寒村ヴォセクの畜殺業者ヤーコプ・カフカの息子であった。\nチェコ語を母語とし、ユダヤ人向けの初等学校でドイツ語を習得したが、後年になってもドイツ語を完全に操ることはできなかった。\n彼は、ユダヤ社会で成人の1年後にあたる14歳の時に独り立ちし、田舎の行商をしていたが、20歳の時にオーストリア軍に徴兵され、2年間の兵役を勤めた後、都市プラハに移った。\n1882年、裕福な醸造業者の娘ユーリエ・レーヴィと結婚し、彼女の財産を元手にして小間物商を始めた。", "qas": [ { "question": "フランツ・カフカの父親の名前は?", "id": "tr-001-01-000", "answers": [ { "text": "ヘルマン・カフカ", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヘルマン・カフカとユーリエはどちらが先に死去しましたか?", "id": "tr-001-01-001", "answers": [ { "text": "ヘルマン・カフカ", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フランツ・カフカの父方の祖父の名前は?", "id": "tr-001-01-002", "answers": [ { "text": "ヤーコプ・カフカ", "answer_start": 144, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヘルマン・カフカとユーリエ・レーヴィは何年に結婚しましたか?", "id": "tr-001-01-003", "answers": [ { "text": "1882年", "answer_start": 307, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "父ヘルマンがチェコ語を母語としていたのに対し、母方のレーヴィ家はドイツ風の慣習に馴染み、ドイツ語を話す同化ユダヤ人であった。\nレーヴィ家は、ユダヤ社会の名門であり、祖先には学識の高いラビやタルムード学者のほか変人、奇人も多く存在する。\nカフカは、自分の資質について、父方よりも母方の血に多くを負っていると感じており、日記やメモではもっぱらこの母方の祖先について言及した。\n母ユーリエ・レーヴィには3人の兄と2人の義弟がおり、長兄アルフレートはスペイン鉄道の支配人となりカフカの最初の就職の手助けをしている(カフカ家では「マドリードの伯父」と呼ばれていた)。\n上の義弟ジークフリートは、学識と機知に富む変わり者であり、メーレンの田舎町トリーシュで医者をして生活していた。\nカフカは、この叔父を気に入り、晩年までしばしば叔父のもとを訪れ滞在している。\n母方の5人の叔父のうち、この2人を含む3人が独身であった。", "qas": [ { "question": "カフカが気に入っていた叔父とは何という名前ですか?", "id": "tr-001-02-000", "answers": [ { "text": "ジークフリート", "answer_start": 283, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジークフリートの職業は何ですか?", "id": "tr-001-02-001", "answers": [ { "text": "医者", "answer_start": 322, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "母方の5人の叔父のうち、既婚と独身の人数が多いのはどちらですか?", "id": "tr-001-02-002", "answers": [ { "text": "独身", "answer_start": 396, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "フランツ・カフカは長男であり、彼が生まれた2年後に次男ゲオルクが、さらに2年後に三男ハインリヒが生まれたが、いずれも幼くして死去している。\n両親には続いてガブリエル、ヴァリー、オティリーの3人の娘が生まれた。\n幼いころは妹3人で固まってしまい、また両親はいつも仕事場にいたためカフカは孤独な幼少期を送ったが、晩年に病にかかってからは三女のオティリー(愛称オットラ)と親しくした。\nカフカ家には他に料理女や乳母が出入りしており、カフカは主に乳母を通じてチェコ語を覚えた。", "qas": [ { "question": "オティリーのニックネームは何ですか?", "id": "tr-001-03-000", "answers": [ { "text": "オットラ", "answer_start": 177, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カフカが晩年に仲良くなった妹とは誰ですか?", "id": "tr-001-03-001", "answers": [ { "text": "オティリー", "answer_start": 169, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1889年9月、カフカは6歳でフライシュマルクトの小学校に入学した。\n父ヘルマンは息子を学校に行かせるにあたり、プラハにおいて多数の話者を持つチェコ語の学校ではなく、支配者階級の言葉であるドイツ語の学校を選んだ。\nこの学校の生徒は主にユダヤ人で、カフカの担任教師は1、3、4年がユダヤ人、2年がチェコ人、校長はユダヤ人だった。\nカフカの送り迎えは料理女が担当したが、彼女は意地が悪く、幼いフランツに「家での悪さ」を学校の先生に言いつけると毎日のように脅かしていたという。\nカフカは4年間の修学期間を優等生として過ごし、またこの学校で終生の友人となるフーゴ・ベルクマンと出会った。", "qas": [ { "question": "カフカが入学した小学校は何語の学校ですか?", "id": "tr-001-04-000", "answers": [ { "text": "ドイツ語", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カフカが小学校時代に出会った一生の友人とは?", "id": "tr-001-04-001", "answers": [ { "text": "フーゴ・ベルクマン", "answer_start": 274, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "4年間のうち、カフカの担任教師はユダヤ人とチェコ人のどちらが多かったですか?", "id": "tr-001-04-002", "answers": [ { "text": "ユダヤ人", "answer_start": 117, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1893年春、入学試験を受けてプラハ旧市ギムナジウムに入学。\n商業を学ぶための実科学校ではなく、大学入学資格を得ることができるギムナジウムに進んだ。\n授業は3分の1をラテン語と古代ギリシア語の授業が占めており、カフカはここでホメロスなどの古典作品を習い覚えた。\n入学後3年間は優等生であったが次第に成績が落ち、1901年に受けた卒業試験(アビトゥーア)ではかろうじて「可」の成績で合格している。\n苦手な教科は数学であり、一方選択科目ではフランス語や英語を捨てて体育を取り、実技でボートを漕いでいた。\n上級生になってからは父にせがんで自前のボートを買ってもらうなどしている。\n同級生にはベルクマンのほか、後に著名な美術史家となるオスカー・ポラックがおり、彼らとは大学まで一緒に進んだが、ポラックとは大学時代の後半から疎遠になっていった。", "qas": [ { "question": "ギムナジウムに入学後、カフカが苦手とした教科は何?", "id": "tr-001-05-000", "answers": [ { "text": "数学", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ギムナジウム時代のカフカはスピノザ、ダーウィン、ヘッケル、ニーチェなどの著作に関心を抱き、また実証主義、社会主義に興味を持っていた(もっともこれは当時の一般的の傾向でもあった)。\nすでにギムナジウムの初学年の頃には将来作家になる夢を抱いており、そのことをベルクマンに語っている。\nドイツ文学ではこの頃ゲーテ、クライスト、グリルパルツァー、シュティフターなどを読み影響を受けており、卒業の際にはドイツ語・演説演習として「ゲーテの『タッソー』の結末をどう解釈すべきか」というテーマを選んでいる。\nこのときゲーテをテーマに選んだのはカフカ一人で、ゲーテに対しては批判的な意識を持ちつつも、大学を卒業した後も強い関心を抱いていた。", "qas": [ { "question": "カフカが卒業の際のドイツ語・演説演習でテーマに選んだ作家とは誰?", "id": "tr-001-06-000", "answers": [ { "text": "ゲーテ", "answer_start": 250, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1901年7月、ギムナジウムを卒業したカフカは北海へ卒業旅行へ行き、叔父ジークフリートと共にノルデルナイ島に数週間滞在した。\nこの年の秋、プラハ大学に入学。\n当初は哲学専攻を希望していたが、父ヘルマンから「失業者志望」と冷笑され、ベルクマン、ポラックと共に化学を専攻した。\nしかし実験中心の授業はカフカの性に合わず、父の希望でもあった法学専攻へと早々に切り替えている。\nベルクマン、ポラックも間もなく哲学、美術史へとそれぞれ専攻を変えていった。\nもっとも法学の無味乾燥な講義もカフカは気に入らず、1902年の夏学期には美術史とドイツ文学の講義を受けた。\n更にドイツ文学を研究する為、ミュンヘン大学への移籍も計画していたが、結局実現には至らず、法学の勉強に戻っている。", "qas": [ { "question": "カフカがプラハ大学に入学したのは何年?", "id": "tr-001-07-000", "answers": [ { "text": "1901年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カフカはプラハ大学で最初に何の学問を専攻したの?", "id": "tr-001-07-001", "answers": [ { "text": "化学", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "学期中はしばしばドイツ語、チェコ語の演劇を見に出かけた。\nまた、学期が始まってすぐに学生組織「プラハ・ドイツ学生の読書・談話ホール」(以下「談話ホール」)に入会しており、この組織の主催する朗読会、講演会にもよく参加した。\n「談話ホール」は450人の会員ほぼ全てがユダヤ人で、この時、学生委員会の委員長をカフカの又従兄弟にあたるブルーノ・カフカが務めていたが、カフカは彼との交流の跡は残していない。\n1902年10月、「談話ホール」を通じて、後にカフカの文学活動に対し、大きな役割を担う事になるマックス・ブロートと知り合う。\nブロートはカフカより1歳年下であったが、当時すでに新進作家として名を成していた。\nブロートは談話ホールの主催で「ショーペンハウアー哲学の運命と未来」と題する講演を行い、この際にニーチェを詐欺師と呼んだ事に対し、カフカが反駁した事が最初の出会いであった。\nまた、この時期ポラックを介してフランツ・ブレンターノの哲学を信奉するサークルに加わった。\nサークルにはベルクマンやブロートも加わっていたが、カフカはその会合にはそれほど熱心ではなかった。\n1904年秋にはブロートから盲目の作家オスカー・バウム、哲学生フェーリクス・ヴェルチュを紹介され、週末に4人で集まって自作の原稿を読み合う様になった。\nこの頃カフカはフローベール、トーマス・マン、ホーフマンスタール等に愛着を抱く様になっており、特にフローベールは、その後、長い間カフカの愛読する作家となった。", "qas": [ { "question": "ブロートとカフカはどちらが年上ですか?", "id": "tr-001-08-000", "answers": [ { "text": "カフカ", "answer_start": 267, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カフカにオスカー・バウムとフェーリクス・ヴェルチュを紹介した人は誰ですか?", "id": "tr-001-08-001", "answers": [ { "text": "ブロート", "answer_start": 491, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1906年6月、大学終了試験に合格。\nカフカは試験勉強に苦労し、ブロートに助けられて5人の試験官の内、3人から「可」をもらい、かろうじて試験を通っている。\n卒業に先立ち、4月から弁護士リヒャルト・レーヴィの元で無給見習いを始めており、10月からはプラハ地方裁判所にて1年間の司法研修を受けた。\nまた、この年の夏、長期休暇を利用して、長編にするつもりだった作品『田舎の婚礼準備』の執筆に着手している。\nすでに1904年から「ある戦いの記録」の執筆も試みていたが、これらはいずれも未完のまま放棄された。", "qas": [ { "question": "『田舎の婚礼準備』の執筆をスタートさせた年はいつ?", "id": "tr-001-09-000", "answers": [ { "text": "1906年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『田舎の婚礼準備』と「ある戦いの記録」はどちらが先に執筆が開始されましたか?", "id": "tr-001-09-001", "answers": [ { "text": "「ある戦いの記録」", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カフカを無給見習いとして雇った弁護士とは誰?", "id": "tr-001-09-002", "answers": [ { "text": "リヒャルト・レーヴィ", "answer_start": 92, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "司法研修を終えたカフカは、母方の叔父アルフレートに推薦を頼み、1907年10月にイタリアの保険会社「アシクラツィオーニ・ジェネラリ(一般保険会社)」のプラハ支店に入社した。\nしかし、この伸び盛りの総合保険会社では、毎日10時間の勤務に加え、時間外労働と日曜出勤も加わる等の過酷な労働を強いられた。\nその為、入社数ヶ月で別の職場を探し始めている。\n1908年8月、有力者であったマックス・ブロートの父親に推薦を頼み、プラハ市内にある半官半民の「労働者傷害保険協会」に職場を移した。\nこの職場では勤務時間が8時から14時までで昼食を取らずに働くという、当時のハプスブルク家の官僚体制で「単一勤務」と呼ばれていたシステムを取っていた。\nその為、残った午後の時間を小説の執筆に当てる事が出来た。\n入社に先立って、プラハ商業専門学校で労働者保険講座を受けている。\nこの時の講師の一部は、労働者傷害保険協会の幹部であり、入社後にカフカの上司となった。\nこの頃、事故による保険金支払いを抑制する為に、現在、工事現場等で使われている安全ヘルメットを発明した。", "qas": [ { "question": "カフカは誰の伝手で「アシクラツィオーニ・ジェネラリ」に入社しましたか?", "id": "tr-001-10-000", "answers": [ { "text": "アルフレート", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「アシクラツィオーニ・ジェネラリ」を辞めて最就職したのはどこですか?", "id": "tr-001-10-001", "answers": [ { "text": "「労働者傷害保険協会」", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "就職の前後の1908年3月、マックス・ブロートの仲介により、フランツ・ブライの編集する文芸誌『ヒュペーリオン』創刊号にカフカの作品が掲載された。\nこの時発表したのは『観察』と題する小品8編である。\nちなみに、カフカの文学作品が活字になったのは、これが初めてである。\nまた、翌年の第8号にも『ある戦いの記録』から抜粋した2編の作品を載せている。\nこの雑誌の寄稿者には他にカロッサ、デーメル、ホーフマンスタール、ムジール、リルケ等がいた。\nこの年、11月にブロートが友人を亡くした事をきっかけに彼との仲が深まり、1908年から1912年にかけてはブロートと連れ立って北イタリア、パリ、ヴァイマル等へ頻繁に旅行をしている。\n1909年にマックス・ブロートと彼の弟オットー・ブロートと3人で北イタリアへ旅行へ行った際には、その途上でブレシアの町の飛行機ショーを見物した。\nカフカは、この体験を元にルポルタージュ「ブレシアの飛行機」を執筆し、日刊紙『ボヘミア』9月26日朝刊に掲載している。\nこれは飛行機についてドイツ語で書かれた最も早い文章の一つである。", "qas": [ { "question": "カフカの文学作品が初めて掲載された文芸誌の名前は何?", "id": "tr-001-11-000", "answers": [ { "text": "『ヒュペーリオン』", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『観察』が文芸誌に掲載されたのはいつでしたか?", "id": "tr-001-11-001", "answers": [ { "text": "1908年3月", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブレシアでの飛行機ショーを見物した事を、執筆した作品は何ですか?", "id": "tr-001-11-002", "answers": [ { "text": "「ブレシアの飛行機」", "answer_start": 401, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1911年11月、カフカはガリツィアからやってきていたイディッシュ語劇団に興味を持ち、カフェで行われていた、この劇団の公演に毎日の様に足を運んだ。\n劇団のリーダーである青年イツハク・レーヴィとも親しくなり、彼を家に招いたり、また、公演の為に友人、知人に働きかけて便宜を図る等、公私に渡る深い関わりを持った。\nこの交流は翌年の春、劇団がドイツへ旅立つまで続き、カフカがユダヤの民族性への意識に目覚めるきっかけとなった。", "qas": [ { "question": "イディッシュ語劇団のリーダーは誰ですか?", "id": "tr-001-12-000", "answers": [ { "text": "イツハク・レーヴィ", "answer_start": 86, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1912年8月12日、カフカは初めて出版される作品集『観察』の作品配列について相談する為にブロートの家を訪れ、ここで自動筆記機械の宣伝・販売の仕事をしていた4歳年下のユダヤ人女性フェリーツェ・バウアーと出会った(彼女の従兄弟とブロートの姉とが婚姻関係にあった)。\nカフカは、この女性に非常に強い印象を受け、最初の出会いから1ヶ月経った9月末に突然手紙を送り、10月末から両者の間で活発な文通が始まった。\nまた、最初の手紙を送った2日後の9月22日夜から翌日にかけて短編「判決」を一気に書き上げており、この作品には翌年6月の出版の際に「フェリーツェ・Bに」との献辞が付けられている。\n1913年にはイースター休暇の際に初めてベルリンに住む彼女の元を訪れ、11月と聖霊降臨祭の時にもフェリーツェを訪問した。\nまた、フェリーツェへの手紙では、11月から12月にかけて執筆した『変身』や、その前後に着手していた『失踪者』の進捗状況を逐一知らせている。", "qas": [ { "question": "カフカとフェリーツェはどちらが年上ですか?", "id": "tr-001-13-000", "answers": [ { "text": "カフカ", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カフカとフェリーツェの間で活発に行われていた事とは何?", "id": "tr-001-13-001", "answers": [ { "text": "文通", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "しかしフェリーツェの家族に会う等して結婚が現実味を帯びてくると、カフカは交際に躊躇する様になり、次第にフェリーツェとの間に溝が出来る様になった。\nこじれかけた仲を取り持つ為、フェリーツェの友人グレーテ・ブロッホが仲介に入ると、カフカはフェリーツェよりも彼女に向けて多数の手紙を書く様になった。\n1914年6月、フェリーツェと正式に婚約が交わされ、双方の親と共に新居の準備が進められた。\nしかし結婚によって執筆が妨げられるという不安が消えず、7月12日、ホテル「アスカニッシャー・ホーフ」にてフェリーツェ、グレーテと会談し、婚約を解消する。\n尚、この後もグレーテと頻繁な文通があり、一時親密な関係にあったと推測されている。", "qas": [ { "question": "カフカとフェリーツェの婚約解消の話はどこで行われたの?", "id": "tr-001-14-000", "answers": [ { "text": "「アスカニッシャー・ホーフ」", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カフカとフェリーツェの間を仲介した人は誰?", "id": "tr-001-14-001", "answers": [ { "text": "グレーテ・ブロッホ", "answer_start": 96, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "婚約破棄の直後、カフカはバルト海の保養地へ友人エルンスト・ヴァイスと共に旅行に出かけている。\nこの時カフカはヴァイスに励まされ、初めて勤めを辞めて小説で身を立てる事を考えた。\n両親にもその決意を手紙で知らせているが、この計画は間もなく勃発した第一次世界大戦により阻害された。\nカフカは傷害保険協会からの申請によって徴兵を免れており、また、当時の日記には執筆中の『審判』に関する記述がほとんどで、カフカの戦争への言及は少ない。\n1915年1月末、経緯は定かではないが、カフカはボーデンバッハの町でフェリーツェと再会し、再び彼女と交際する様になった。\n翌年7月にはマリーエンバートの保養地で10日間を2人で過ごし、11月にカフカがミュンヘンの書店で「流刑地にて」の朗読を行なった際にはフェリーツェも朗読会に訪れている。\n1917年7月、フェリーツェと2度目の婚約を交わす。\nしかし勤務と長時間の執筆による無理がたたり、8月に喀血。\n9月に肺結核と診断され、12月末、病気を理由に再び婚約を解消する。", "qas": [ { "question": "カフカが再度フェリーツェと婚約したのはいつ?", "id": "tr-001-15-000", "answers": [ { "text": "1917年7月", "answer_start": 358, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フェリーツェと再び婚約を解消した原因は、カフカが何を患ったから?", "id": "tr-001-15-001", "answers": [ { "text": "肺結核", "answer_start": 417, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "結核を発症したカフカは1917年9月に長期休暇を取り、療養の為、妹のオットラが農地を借りていた小村チェーラウに移り、ここに8ヶ月間滞在した。\nチェーラウではチェコ語やフランス語の本を多く読み、キルケゴールの自伝的著作に親しんだ。\nまた、ヘブライ語の勉強も、この時期に始めている。\n10月末からはノートに一連のアフォリズム風の短文を書き始めており、これはカフカの死後、ブロートによって『罪、苦悩、希望、真実の道についての考察』の題で刊行された。\n日中は散歩や日光浴を楽しみ、ここでの田舎生活は後に書かれる『城』に反映される事になった。\n妹オットラと共に過ごしたチェーラウでの8ヶ月間を、カフカは後に「自分の人生で最もやすらぎに満ちていた時」と述べている。", "qas": [ { "question": "カフカはどこで長期休暇を取りましたか?", "id": "tr-001-16-000", "answers": [ { "text": "チェーラウ", "answer_start": 49, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "チェーラウでの8ヶ月間の療養生活は何の作品に反映されましたか?", "id": "tr-001-16-001", "answers": [ { "text": "『城』", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1918年4月末、カフカはプラハに戻り職場に復帰するが、これ以降は長期療養と職場復帰とを何度も繰り返す事になる。\nこの年11月にはスペイン風邪にかかり、治りかけていた肺に大きな打撃を与える事になった。\nこの時は医師の勧めに従ってシュレーゼンの保養地に出かけ、翌年4月まで滞在した。\nカフカはここで、同じく肺を病んで療養中だった4歳年下のユダヤ人女性ユーリエ・ヴォリツェクと出会い、交際を始めている。\n4月には彼女と婚約するが、貧しい家柄を嫌った父ヘルマンから猛反対を受けた。\nカフカは父との関係改善を図り、11月から12月半ばまで再びシュレーゼンに滞在した時に、長文の「父への手紙」を書いている。\nしかしこれは、受け取った母親の判断で父の手には渡らなかった。\nユーリエとの結婚の目途が立たないまま、カフカは1920年からチェコ人のジャーナリスト・翻訳家でユダヤ人の夫を持つミレナ・イェセンスカと親しくなった。\n彼女がカフカの「火夫」をチェコ語に翻訳したいと申し出たのがきっかけで(これはカフカ作品の最初の翻訳であった)、文通を通じて親しい交際が始まり、7月にはユーリエとの婚約を解消した。\nしかしミレナは夫と別れる決心が付かず、彼女との仲も次第に冷えていった。", "qas": [ { "question": "カフカがプラハに戻って患った流行り病とは何だったの?", "id": "tr-001-17-000", "answers": [ { "text": "スペイン風邪", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シュレーゼンの保養地で出会ったユダヤ人女性とは誰?", "id": "tr-001-17-001", "answers": [ { "text": "ユーリエ・ヴォリツェク", "answer_start": 174, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1922年7月、勤務が不可能になり、労働者傷害保険協会を退職、年金生活者となった。\n1923年7月、妹のエリ一家と共にバルト沿岸のミューリツに滞在、ここで最後の恋人となるドーラ・ディアマントと出会う。\nドーラはポーランドのハシディズム信者の家庭に生まれた当時25歳の女性で、この時ミューリツのユダヤ民族ホームに勤めていた。\nその後、親しい手紙のやり取りがあり、9月末にベルリンで再会、敗戦によるインフレーションで混乱の最中にあったベルリンで共同生活を始めた。\nしかし生活が困窮する中で病状が急激に悪化し、翌年3月、叔父ジークフリートから説得を受け、ドーラとマックス・ブロートに付き添われながらプラハの実家に戻った。", "qas": [ { "question": "カフカとドーラ・ディアマントとの出会いはいつでしたか?", "id": "tr-001-18-000", "answers": [ { "text": "1923年7月", "answer_start": 42, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カフカがドーラ・ディアマントと出会った当初、彼女は何歳でしたか?", "id": "tr-001-18-001", "answers": [ { "text": "25歳", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1923年4月、ウィーン大学付属病院に入院、4月末からウィーン郊外のキーアリングにあるサナトリウムに移る。\n病床のカフカにはドーラと共に、晩年に親しくなった医学生の青年ローベルト・クロップシュトックが付き添い、マックス・ブロートが見舞いに訪れた。\n咽頭結核にかかっていたカフカは会話を禁じられ、彼らとは筆談で会話を行っている。\n1924年6月3日、同地で死去。\n41歳の誕生日の一ヶ月前であった。\n遺体はプラハに送られ、この地のユダヤ人墓地に埋葬された。", "qas": [ { "question": "カフカが亡くなったのはいつでしたか?", "id": "tr-001-19-000", "answers": [ { "text": "1924年6月3日", "answer_start": 164, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "生前のカフカについては友人、知人たちによる多くの証言が残っている。\nそれらによればカフカは至って物静かで目立たない人物であった。\n人の集まる場では大抵聞き役に回り、たまに意見を求められるとユーモアを混じえ、時には比喩を借りて話し、意見を言い終わると、また聞き役に戻った。\n職場では常に礼儀正しく、上司や同僚にも愛され、敵は誰一人いなかった。\n掃除婦に会った際にも挨拶を返すだけでなく、相手の健康や生活を案じるような一言二言を必ず付け加えたという。\n掃除婦の一人はカフカについて「あの方は、ほかのどの同僚とも違っていました。まるきり別の人でした」と話している。\n晩年は年少者の人の相談や対話の相手をする事も多く、1919年にサナトリウムで出会った少女ミンツェ・アイスナーとは死の年まで文通が続いた。\n1920年には職場の同僚の息子で作家志望の青年であったグスタフ・ヤノーホと知り合い、後々まで彼の対話の相手となった。\nヤノーホは後に、この体験を回想して『カフカとの対話』(1951年)を執筆し、後のカフカ受容に影響を与える事になる。\n1921年からは16歳年下の医学生ローベルト・クロプシュトックとも親しくなり、作家に憧れて進路に悩んでいた彼の相談相手になった。", "qas": [ { "question": "『カフカとの対話』の著者のフルネームは何?", "id": "tr-001-20-000", "answers": [ { "text": "グスタフ・ヤノーホ", "answer_start": 376, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カフカが亡くなる年まで行っていた文通の相手は誰?", "id": "tr-001-20-001", "answers": [ { "text": "ミンツェ・アイスナー", "answer_start": 324, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "グスタフ・ヤノーホとローベルト・クロプシュトックのうち、カフカと先に出会ったのは誰ですか?", "id": "tr-001-20-002", "answers": [ { "text": "グスタフ・ヤノーホ", "answer_start": 376, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "カフカは就職した後も長い間、両親の家を生活の場としていた。\n勤めは8時から14時までで、仮眠を挟んで夜の時間を小説の執筆に当てている。\n食事は健康を考えて菜食主義を摂り、両親と共に食事をする際には心配する母親を気遣って少量の肉を口にしたものの、それ以外はパンや野菜、果物を中心とした食事を摂っていた。\nまた、体操、散歩を日課にし、時にはマックス・ブロートと連れ立ってプラハの町を歩いて回り、この街の路地や建物を知悉していた。\n趣味としてはスポーツを好み、ギムナジウム時代にはボートを漕ぎ、大学ではテニスをし、勤めを持ってからも度々市民プールに水泳に出かけた。\n晩年には北部のサナトリウムでスキーにも興じている。\nまた、当時誕生したばかりの産業であった映画を好んで見に出かけており、日記や手紙に感想を記していた(カフカの初期の作品『田舎の婚礼準備』や『失踪者』の風景描写、語りの構造等には、しばしば映画からの影響も指摘されている)。\n長期休暇には学生時代から好んで各地のサナトリウムを訪れており、ここで様々な健康法、療養法を見聞きし、しばしば、つかの間の恋愛も体験した。\n晩年にはこれが病気療養を兼ねる事になる。", "qas": [ { "question": "カフカが大学時代に趣味としていたスポーツは何?", "id": "tr-001-21-000", "answers": [ { "text": "テニス", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1915年には初めて家を借り、結核を発病するまで一人で暮らした(もっとも食事は家族と取っていた)。\n1916年末には夜間の執筆の為、妹オットラが借りた錬金術通りにある部屋に通い、翌年にかけて「田舎医者」等の一連の作品をここで執筆した。\n1917年から借りていたシェーンボルン地区の家には暖房がなく、外套を着込み、足に布団を包んで寒さに耐えながらの執筆であった。\n夜半から夜明けまでかかる事もしばしばあり、こうした無理な生活がたたったものとして、カフカは自身の結核を「自ら招き寄せた病」と呼んだ。", "qas": [ { "question": "「田舎医者」の執筆を始めた時期は?", "id": "tr-001-22-000", "answers": [ { "text": "1916年末", "answer_start": 50, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1917年からはどこの家を借りましたか?", "id": "tr-001-22-001", "answers": [ { "text": "シェーンボルン地区", "answer_start": 130, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "パウル・フォン・ヒンデンブルク", "paragraphs": [ { "context": "パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク(PaulLudwigHansAntonvonBeneckendorffundvonHindenburg、1847年10月2日-1934年8月2日)は、ドイツの軍人、政治家である。軍人としての最後の階級は元帥である。ドイツ国(ヴァイマル共和政)第2代大統領(在任:1925年-1934年)を務めた。", "qas": [ { "question": "パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルクは、どの国の者なの?", "id": "tr-002-00-000", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 124, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルクの職業としては、軍人と何があげられていますか?", "id": "tr-002-00-001", "answers": [ { "text": "政治家", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴァイマル共和政時代のドイツにおいて、二番目に大統領を務めたのは、誰か?", "id": "tr-002-00-002", "answers": [ { "text": "パウル・ルートヴィヒ・ハンス・アントン・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "パウル・フォン・ヒンデンブルクは、第一次世界大戦のタンネンベルクの戦いにおいてドイツ軍を指揮してロシア軍に大勝利を収め、ドイツの国民的英雄となった。大戦後期には参謀総長を務めた。", "qas": [ { "question": "パウル・フォン・ヒンデンブルクは、どの戦いで大勝利を収めたことがきっかけでドイツの国民的英雄とされたの?", "id": "tr-002-01-000", "answers": [ { "text": "タンネンベルクの戦い", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "タンネンベルクの戦いでは、誰がドイツ軍を統率しましたか?", "id": "tr-002-01-001", "answers": [ { "text": "パウル・フォン・ヒンデンブルク", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "タンネンベルクの戦いは、ドイツとどの国の間で行われた戦闘であったか?", "id": "tr-002-01-002", "answers": [ { "text": "ロシア", "answer_start": 48, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パウル・フォン・ヒンデンブルクがドイツ軍参謀総長を務めたのは、どの戦争の後期のことか?", "id": "tr-002-01-003", "answers": [ { "text": "第一次世界大戦", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "パウル・フォン・ヒンデンブルクはプロイセン王国・ポーゼンでユンカーの家に長男として生まれる。父はプロイセン第18歩兵連隊に所属する少尉ロベルト・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルク(RobertvonBeneckendorffundvonHindenburg)であり、母は軍医の娘ルイーゼ(Luise)(旧姓シュヴィカルト(Schwickart))である。", "qas": [ { "question": "パウル・フォン・ヒンデンブルクはどの都市で生まれたの?", "id": "tr-002-02-000", "answers": [ { "text": "ポーゼン", "answer_start": 24, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロベルト・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルクの初子は、誰ですか?", "id": "tr-002-02-001", "answers": [ { "text": "パウル・フォン・ヒンデンブルク", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ロベルト・フォン・ベネッケンドルフ・ウント・フォン・ヒンデンブルクは、誰と結婚したか?", "id": "tr-002-02-002", "answers": [ { "text": "ルイーゼ", "answer_start": 150, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パウル・フォン・ヒンデンブルクの父親は、どの部隊に所属していたか?", "id": "tr-002-02-003", "answers": [ { "text": "第18歩兵連隊", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "魚道", "paragraphs": [ { "context": "魚道(ぎょどう)は、魚の遡行が妨げられる箇所で、遡行を助けるために川に設ける工作物である。\n通常はダム、堰、床止めなどの施設に付属して設ける。\n魚道形式としては河床の段差部が比較的小さい場合はその一部から下流側の河床に向けて突き出した形状で設けられる突出型魚道、下流側の河床に向けて扇状に設けられる扇形魚道、河川幅の横断方向の全体に設置する全断面魚道などがある。\nまた、砂防ダムなど段差部の高低差が比較的大きな箇所に設ける専用の魚道としては無かったため、段差部が比較的小さな箇所に設ける「突出型魚道」に使用する魚道製品を利用して折り返して設置したり、螺旋状に積み上げて設置してきた建設例がある。\n最近になり、砂防ダムなど高低差が比較的大きな箇所の専用魚道として開発された新型魚道は、砂防ダムや側壁など河川構造物の壁面の前面に直接取り付けることで壁面に沿って縦方向に組上げる魚道形式であり既に設置されている。\n高低差がより大きなダムなどに設ける魚道としては機械力を用いたエレベーター式魚道方式も挙げられる。", "qas": [ { "question": "高低の差が激しい場所に設置し、機械の力を使う魚道方式を何というの?", "id": "tr-003-00-000", "answers": [ { "text": "エレベーター式魚道方式", "answer_start": 434, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "魚が上流に遡って泳いでいくのをサポートする工作物とは何か?", "id": "tr-003-00-001", "answers": [ { "text": "魚道", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "扇状をしている魚道の名称は何?", "id": "tr-003-00-002", "answers": [ { "text": "扇形魚道", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "川に棲息する魚類の中には、サケのように一生の間に川の上流と下流・海を行き来する(回遊する)種がある。\nしかし、川にダムや堰などの障害物が設置された場合には、魚の遡上が妨げられるため、それらの回遊する種は川に住めなくなり、その川から絶滅してしまう。\n歴史的には、魚道はそのような事態を防ぐために設けられ、サケ・マス・アユなどの漁業資源を保つために作られたのが始まりである。\n近年では生態系保全の観点から、あらゆる魚と水生生物が対象に含められる傾向にある。\n川に棲む生き物は、大きな回遊をしない場合でも成長にともなう小規模の生活圏移動を行っている。\n特に最近になって、通常の生活域は常時水のある河川や水路であっても、河川の増水時に水没する川べりのヨシ原やかんがい(灌漑)が行われる水田など、一時的に水没する水域(一時的水域)で繁殖を行うという魚が多い、ということが判明してきた。", "qas": [ { "question": "昔は漁業資源を保つという目的から魚道を設けましたが、近年ではどのような観点で魚道を重要視していますか?", "id": "tr-003-01-000", "answers": [ { "text": "生態系保全の観点", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サケ・マス・アユの共通点は何?", "id": "tr-003-01-001", "answers": [ { "text": "回遊する", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "最近になって河川の増水時に、どこで繁殖を行う魚が多いことが判明しましたか?", "id": "tr-003-01-002", "answers": [ { "text": "一時的水域", "answer_start": 354, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "治水のために行われる川岸の護岸はヨシ原を消失させ、魚の繁殖にとって問題となる。\nまた、圃場整備に伴う用排分離(これ自体は用水水質維持のために必要とされるが)によって、水路部分と水田部分の魚類の行き来が阻害されることが、メダカやドジョウ、ナマズ、絶滅危惧種のアユモドキ、イトヨといった魚類や、トキ・コウノトリ・サシバなど湿地・水田(里山)を生息域にする鳥類の減少・絶滅の原因であることが広く知られるようになってきている。\nまた、洪水で流された生物が元の場所に復帰遡行できなければ、河川内で生活圏の後退が起こる。\nそのため、堰などで遮断された地点から上流の生態系は貧弱になる傾向がある。", "qas": [ { "question": "魚の繁殖に必要な、川岸にある場所は何?", "id": "tr-003-02-000", "answers": [ { "text": "ヨシ原", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "水田や水路に生息する魚類や鳥類の減少、絶滅の原因となる整備形態とは?", "id": "tr-003-02-001", "answers": [ { "text": "用排分離", "answer_start": 50, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "今日の日本の河川は、経済目的のダムや砂防ダムによって非常に細かく分断されており、先述のように一時的水域と恒常的水域の間も分断が強まっている。\nこうした状況下で漁業資源の保全のみならず生態系の保全をも行うために、サケ・マスのような大型で力が強い魚だけでなく、小さな魚やエビ、カニといった無脊椎動物まで対象にする魚道が構想され、施工されている。\nそうした中には、水路や河川と水田を結ぶ水田魚道と呼ばれるものや、海から遡上するエビやカニの幼体が這い上がれるように、底面に人工芝などの足場を張ったものなどがある。\n変わったものではウナギのためにブラシを並べたウナギ用魚道がある。\nなお、現状では大規模な貯水池を持つダムへの魚道の付設事例は多くない。\nダムは高落差ゆえ、魚を上流に上げるのが困難だが、下ってきた魚を広大な貯水池から魚道の上流口に導くのは、それ以上に困難となる。", "qas": [ { "question": "今日の日本の河川状況を汲み、魚類以外のどのような動物をも対象とした魚道が構想されていますか?", "id": "tr-003-03-000", "answers": [ { "text": "無脊椎動物", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "水路や河川と水田を結ぶ魚道の呼称は何ですか?", "id": "tr-003-03-001", "answers": [ { "text": "水田魚道", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "魚道内を自然流下で流す形式には大別してプール式、ストリーム式がある。\n前者は魚道内を多数の比較的大規模な隔壁で仕切って流速を抑える形式であり、隔壁の間には低流速の湛水域(プール)が出来る。\n後者はプール式よりも小規模な障害物で流れを抑える形式であり、プール式のような湛水域は生じない。\nしかし、障害物の大きさによってはプール式、ストリーム式の中間的な流れになる場合もあり、また、同じ魚道でも水深の増減によってプール式からストリーム式の流れに変わる場合もある。\nこのような流れの変化を積極的に活用したものとしてハイブリッド式と呼ばれるものもある。\n一方、エレベータ、フィッシュポンプ、閘門などの機械力によって魚を上流に引き上げる魚道形式もあり、これらは総括してオペレーション式と呼ばれる。\nまた、自然石等を用いて自然河川のように魚道を構築したものもあり、これらは近自然型もしくは多自然型魚道と呼ばれる。\n前者はより自然に近づけた魚道という意味合いがあり、後者は魚道内に自然的要素を増やすという意味合いがある。\nこれらの形式も自然流下を基本とするので、魚道内の流れはプール式、ストリーム式などと同様になる。", "qas": [ { "question": "魚道内に自然的要素を増やすという意味のある魚道の名称は?", "id": "tr-003-04-000", "answers": [ { "text": "多自然型魚道", "answer_start": 388, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "近自然型魚道の意味は?", "id": "tr-003-04-001", "answers": [ { "text": "自然に近づけた魚道", "answer_start": 406, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "魚道内を多数の比較的大規模な隔壁で仕切って流速を抑える形式とは何か?", "id": "tr-003-04-002", "answers": [ { "text": "プール式", "answer_start": 19, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プール式よりも小規模な障害物で流れを抑える形式とは何でしょう?", "id": "tr-003-04-003", "answers": [ { "text": "ストリーム式", "answer_start": 24, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「突出型魚道」の基本として共通した構造は、コンクリートの三面張り水路の中に一定間隔で仕切壁としてプール壁が設けられた構造となっている。\n水路内に設けるプール壁の各種形状により階段式、アイスハーバー式、バーチカルスロット式、潜孔式、粗石付き斜路式、デニール式などの魚道方式の名称がある。", "qas": [ { "question": "階段式、アイスハーバー式、バーチカルスロット式、潜孔式、粗石付き斜路式、デニール式などの魚道方式は、何の違いで名称分けされていますか?", "id": "tr-003-05-000", "answers": [ { "text": "プール壁の各種形状", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「突出型魚道」の基本的な共通構造として、水路内に設けているものは何ですか?", "id": "tr-003-05-001", "answers": [ { "text": "プール壁", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "水路の中に多数の仕切壁(隔壁)を連ね、その間に低流速の湛水域(プール)を設けた魚道をプール式魚道と言う。\nこの魚道では、隔壁により水路内の流速を抑えられ、隔壁間の低流速域で魚が休息出来る。\n隔壁部で水をどう流すかで、越流式、バーチカルスロット式、潜孔式に区分される。\n越流式は隔壁上から水を越流させる方式であり、バーチカルスロット式は隔壁に空けた縦溝から水を流す方式である。\n一方、潜孔式は隔壁下部に空けた穴から水を流下させる方式である。", "qas": [ { "question": "越流式、バーチカルスロット式、潜孔式は、どのような方法で区分されるの?", "id": "tr-003-06-000", "answers": [ { "text": "隔壁部で水をどう流すか", "answer_start": 95, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "越流式、バーチカルスロット式、潜孔式といったこれらの魚道は、何式魚道とみなされるの?", "id": "tr-003-06-001", "answers": [ { "text": "プール式魚道", "answer_start": 42, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "越流式には階段式、アイスハーバー式等がある。\n前者は古くから用いられている形式で隔壁上に段差を付けたものが多い。\n後者は隔壁の一部を高くして非越流としたもので、その両脇または片脇で水が越流するようにしたものである。\n非越流壁の後ろを安全な休息場として確保し、乱流を抑えることを狙っている。\n階段式、アイスハーバー式いずれの魚道でも洪水時にプール内に溜まる土砂、石レキを排除するため、隔壁下端に潜孔を設ける場合が多い。\nその際、アイスハーバー式では、流れの安定ともう一つの副次的な遡上経路にすることをねらって大きめの潜孔にする。", "qas": [ { "question": "越流式の階段式、アイスハーバー式はどちらが早くから用いられている形式なの?", "id": "tr-003-07-000", "answers": [ { "text": "階段式", "answer_start": 5, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "隔壁の一部を高くして非越流としたもので、その両脇または片脇で水が越流するような越流式の種類は何?", "id": "tr-003-07-001", "answers": [ { "text": "アイスハーバー式", "answer_start": 9, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "階段式とアイスハーバー式では、どちらの方が潜孔がより小さいの?", "id": "tr-003-07-002", "answers": [ { "text": "階段式", "answer_start": 145, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "プール式魚道の隔壁部での流れは概して速く、魚にとって遡上の難所となる。\n特に魚道上流の水位が上がると、隔壁部の流速も上がるので遡上は困難になる。\nこの流速上昇はバーチカルスロット式、潜孔式では越流式ほど大きくなく、潜孔式では流速に加え、流量変動も抑制されるので、魚道内の流況は比較的安定する。\n反面、これらの魚道では隔壁部の流速を十分抑えるために、隔壁上下流の水位差を越流式よりも小さくしなければならず、このため、魚道の勾配は緩やかになり、長大な魚道となってしまう。\nこれは建設費の増大につながり、魚道配置の適正化にとってもマイナスとなる。\nまた、これらの魚道では、隔壁部のゴミづまり等の問題にも注意を要す。\n例えば、バーチカルスロット式では浮遊ゴミでスロット閉塞すれば、局所的に水位差増大、流速増大となり、遡上の難所が出来る。\n一方、潜孔式では流下石レキによる閉塞が問題になりうるが、潜孔上流の接近流速は概して速くないので、大きな問題にならない可能性もある。\n例えば、階段式魚道でも土砂排除用に潜孔が設けられるが、この部分に石レキが詰まって水位差増大となった事例はない。", "qas": [ { "question": "建設費が増大し、魚道配置の適正化にマイナスとなるのはどのような魚道か?", "id": "tr-003-08-000", "answers": [ { "text": "長大な魚道", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バーチカルスロット式において、局所的に水位差と流速が増大し、遡上の難所が出来るというのは、何によるスロット閉塞が原因となるのか?", "id": "tr-003-08-001", "answers": [ { "text": "浮遊ゴミ", "answer_start": 321, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "階段式魚道とは、日本国内では遊泳魚用及び底生魚用として多い形式である。\n魚道内の流量が少なくても機能するように設計可能であるが、水位変化に対応させるため流量の調節機能が必要になるとされている。\nまた、土砂が堆積しやすく、対策あるいは管理が必要となる。", "qas": [ { "question": "土砂堆積への対策や管理、また流量の調節機能を必要とする魚道形式は何ですか?", "id": "tr-003-09-000", "answers": [ { "text": "階段式魚道", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "傾斜をつけた水路を設け、魚にこの流れを一気に上らせるもの。\n単なる傾斜水路では途中で流れが加速して急流になるため、魚道内にイボ型、桟型の突起を設けたり、阻流板と呼ばれる板を立てて流れを妨げ、流速を落とす。\n突起を設けたものとしては粗石付き斜路式魚道があり、阻流板を用いたものとしては、いくつかの派生型を持つデニール式魚道がその典型である。\nデニール式は、凹字型の板を斜め上流側に傾けて水路に差しこんだ独特の形状をした魚道で、水面付近が激流になるが、底の流れが緩い。\nストリーム式(水路タイプ)の魚道はプール式のように流れを大きく遮る隔壁を設けないので、概して勾配が緩やかになるが、デニール式はその中でも急勾配化が可能な形式である。\n反面、急勾配化のためには水路断面に対し、阻流板を大きくしなければならないので、ゴミづまりの問題が生じやすくなる。\nストリーム式魚道では、プール式のように低流速のプールがないので、魚道の途中に休息プールを設けなければならないことも多々ある。", "qas": [ { "question": "魚道内の流れを遅くするために突起を設けた形式の魚道を何というの?", "id": "tr-003-10-000", "answers": [ { "text": "粗石付き斜路式魚道", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "低流速のプールがある形式の魚道は何ですか?", "id": "tr-003-10-001", "answers": [ { "text": "プール式", "answer_start": 384, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ストリーム式とデニール式では、どちらがゴミづまりの問題が生じやすいの?", "id": "tr-003-10-002", "answers": [ { "text": "デニール式", "answer_start": 290, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "「粗石付き斜路式魚道」の課題である「途中に休息プールを設ける必要がある」を解決するために開発された魚道である。\nストリーム式魚道では魚道内に一定間隔で休息プールを設ける必要があるが、プール水深が30cm以上に大きくなると魚類がプール内で休息し過ぎる(留まる)傾向が報告されている。\n開発された「自然石スロープ魚道」は、魚道表面に直径30cm~50cm程度の自然石(玉石)をランダムに配置し、その石の下流側に直径30cm~50cm、深さ10cm程度の凹部を設けて「休息プール」とする構造でストリームタイプの流れの魚道である。\nこの魚道底面の突起部となる自然石は流速を和らげる効果があり、休息プールとなる凹部など魚道底面全体が径25mm~40mmの細かな自然石の凹凸で覆われている。\nこの細かな自然石の凹凸は、魚道底面付近(底面から4cm~5cm程度)の水深を流れる流速を和らげる減速効果と、カニやカメが移動する際にこの細かな自然石の凹凸に爪を掛けることができるなどの特長を有している。\nこれらの特長は後述の「自然石パノラマ魚道」に備わった特長である。\n「自然石パノラマ魚道」が設置された後の追跡調査や実験により、その形状の有効性が立証されたため「自然石スロープ魚道」を開発するにあたり採用されたものである。", "qas": [ { "question": "粗石付き斜路式魚道の課題である、魚道途中に休息プールの設置が必要である点を解決するために開発された魚道とは?", "id": "tr-003-11-000", "answers": [ { "text": "「自然石スロープ魚道」", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「自然石スロープ魚道」に配置された自然石は、どのような効果があるの?", "id": "tr-003-11-001", "answers": [ { "text": "流速を和らげる効果", "answer_start": 279, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「自然石スロープ魚道」に配置された自然石のおかげで、魚以外にカニや何が移動しやすくなったの?", "id": "tr-003-11-002", "answers": [ { "text": "カメ", "answer_start": 397, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "「扇形魚道」は河川横断施設の越流部の一部を中心点として下流側の河床に向けて扇形に180度~90度の扇形に設置される。\nただしこの中心点が1箇所の場合は少ない。\n扇形魚道の中心点が1箇所の場合、上流から流れてくる水を受け入れる幅(左右の90度の扇形部に挟まれた中央部の幅)が無いため魚道内へ受け入れる流量が不足する。\n魚道内へ十分な水を受け入れるためには扇形の中心点を間隔を開けて2箇所とする。\n左右2箇所の中心点に挟まれた箇所を「中央部」として水を受け入れるための十分な幅を確保する必要がある。\n河川幅や段差部の高低差の大きさにもよるが、5m~20m程度の中央部の幅を設けてその左右端部の上流角で河川構造物の段差部と接合する箇所をそれぞれ中心として90度に広がる扇形の遡上経路が設けられる。\n中央部魚道とその左右に設けられた90度の扇形魚道全体で「扇形の魚道」となる。", "qas": [ { "question": "扇形魚道は一般的に中心点が何箇所の魚道が多いの?", "id": "tr-003-12-000", "answers": [ { "text": "2箇所", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中心点が2箇所ある扇形魚道は扇形部分の遡上経路の角度が何度になっているの?", "id": "tr-003-12-001", "answers": [ { "text": "90度", "answer_start": 324, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中心点が2箇所ある扇形魚道の中心部は大体どれくらいの長さに設けられていますか?", "id": "tr-003-12-002", "answers": [ { "text": "5m~20m程度", "answer_start": 269, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この左右側面からの遡上経路を備えている構造は「突出型魚道」には無い重要な構造である。\nこの特長により遡上環境に優れた魚道として注目されたが、旧来の扇形魚道は中心点が1箇所でしかも一定勾配で設計されたため、流れが下流側の河床に向けて広がるにつれ流下する水が分散されて水深が浅くなった。\nこのため一定の河川流量の時にしか魚道として機能できない結果となり、自然河川の流量の増減変化に対応できない魚道として低く評価された。\n突出型魚道には備わっていない左右側面からの遡上経路の利点を活かしつつ、この水深の課題を解決した新型の扇型魚道が開発されその景観から「自然石パノラマ魚道」と命名された。", "qas": [ { "question": "突出型魚道には無い、扇型魚道の利点として備わっている構造とは何?", "id": "tr-003-13-000", "answers": [ { "text": "左右側面からの遡上経路", "answer_start": 2, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「自然石パノラマ魚道」では、扇型魚道の何の課題が解決されましたか?", "id": "tr-003-13-001", "answers": [ { "text": "水深の課題", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この魚道は全体が一定勾配であった旧来の扇形魚道の勾配を見直し変化を持たせた。\n縦断方向(川の流れの方向)より横断方向の勾配を急にしたことで、平水時には横断方向へ流れが集まって流下するため遡上に必要な水深が十分に確保されるようになった。\n平水位の場合は扇形魚道の下流先端までは流れが到達しないが、増水すると魚道の下流先端まで流れが到達することになる。\n流量の増減により魚道内の流況も変化するが、魚道内の上流部は流量も流速も大となり、下流部は流量も流速も小となる。\n魚類をはじめとする水棲生物は自分の体力にあった流況を選んで遡上することができる。\n減水時には床固工などの河川構造物の直下の魚道部分に設けられた「集水溝(幅20cm~30cm程度、深さ10cm~15cm程度)」に水が集まって流下する。\nこのため段差部に突き当たった魚類が滞留しながら横断方向へ移動して遡上経路を探す過程で集水溝を流下する水が「呼び水」となるため、それに誘われて遡上経路(集水溝)に到達し遡上することができる。", "qas": [ { "question": "減水時の自然石パノラマ魚道内では、魚は何という遡上経路を通って遡上するの?", "id": "tr-003-14-000", "answers": [ { "text": "集水溝", "answer_start": 390, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "減水時には、集水溝を流れる水が魚にとっては何となるの?", "id": "tr-003-14-001", "answers": [ { "text": "「呼び水」", "answer_start": 400, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "もうひとつの代表的な扇形魚道として「棚田式魚道」が挙げられる。\n同じく扇形の魚道表面(底面)に配置する自然石は扇形の魚道の輪郭に沿って並べられ、順次上流側に向かって間隔をおいて階段状に配置されている。\n各段の自然石の配列は階段式のプール壁を年輪状に形成されている。\n魚道全体として原風景の「棚田」を連想させる構造である。\nこの魚道のプール水深は20cm程度としてある。\n従来の魚道のプール水深が60cm~80cm以上とされてきたのに比べ浅く設定してあるが、この水深については各種の実験結果などにより、アユの遡上行動、跳躍行動、メンテナンスフリーなどにおいて良好な成果が報告されている。\nまた、自然石を連続して並べて自然石と自然石の間に隙間のあるプール壁としてある。\nこの隙間の部分を魚類をはじめ水棲生物が移動経路として通過していくのが確認されている。\n魚類をはじめとする生物は棚田式魚道の底面に沿って魚道内を遡上することになるため、従来のように幾つものプール壁を乗り越えなくても良い魚道となっている。\nこの隙間付きのプール壁は「スリット付きプール壁」と称されている。", "qas": [ { "question": "棚田式魚道のプール水深と従来の魚道のプール水深を比較すると、どちらの水深が深いですか?", "id": "tr-003-15-000", "answers": [ { "text": "従来の魚道", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "棚田式魚道の魚道表面にある自然石はどのような形状で配置されているの?", "id": "tr-003-15-001", "answers": [ { "text": "階段状", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アユの遡上行動、跳躍行動、メンテナンスフリーなどにおいて、良好な成果をもたらしている棚田式魚道のプール水深はいくつ?", "id": "tr-003-15-002", "answers": [ { "text": "20cm程度", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「棚田式魚道」においても、魚道の表面勾配は縦断方向より横断方向を急に設計してある。\n中央部とそれを挟んだ左右の扇状の側面からの遡上経路や、河川構造物直下の魚道に設ける「集水溝」、魚道底面全体に設けられた細かな自然石の凹凸形状などは前述の「自然石パノラマ魚道」と同様な構造となっており、その有効性についても実験や調査の成果が報告されている。\n棚田式魚道の左右側面に設けられた扇状の遡上経路の有効性については、実際に設置された幾つかの棚田式魚道において、遡上調査を行って実証してある。\n左右の扇状部をそれぞれ「左岸側」、「右岸側」とし、それに挟まれたエリアを「中央部」として区分し網で囲って、それぞれの上り口に到達した魚類がそのまま魚道上流部の出口に到達した位置で水中ビデオ撮影を行い、後日それぞれのエリア毎の遡上匹数をカウントした調査結果が報告されている。", "qas": [ { "question": "棚田式魚道のように、左右の扇状の側面にある遡上経路や「集水溝」の設置、自然石の凹凸形状などの点が同じ構造である魚道は何?", "id": "tr-003-16-000", "answers": [ { "text": "「自然石パノラマ魚道」", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "中央部は段差部から下流方向に直角に突き出た構造であるため、従来の「突出型魚道」として取り扱い、左右の扇状の遡上経路は扇形魚道の特長である左右からの遡上経路を備えた扇形魚道の構造として取り扱い検証してある。\n天然アユをはじめとする様々な生物の遡上経路の調査では、いづれの棚田式魚道の遡上調査においても左右の扇状部を遡上経路とした魚類の合計の匹数が、中央部を含めた魚道全体の遡上匹数の3分の2以上に及んでいる結果が報告されている。\n突出型魚道にあたる中央部からの遡上匹数は全体の3分の1以下となっている。\nある棚田式魚道では、アユなどの泳ぎが得意な魚類のほかヨシノボリなどの泳ぎが得意ではない底生魚についても良好な遡上が確認されている。\n大変多くの底生魚がアユなどと同様に側面からの遡上経路を選んで多く通過していることが報告されている。\nこれらの実験により左右の側面からの遡上経路を備えていない突出型魚道の構造に対し、左右の側面からの遡上経路を備えている扇形構造の優位性・有効性が報告されている。\n「棚田式魚道」もまた前述の「自然石パノラマ魚道」と同様に現場打ち施工が困難であるため、棚田式魚道に適した自然石の配置がしてあるコンクリート二次製品が開発され、誰が施工した場合においても魚道としての一定以上の品質が確保できるように図られている。", "qas": [ { "question": "棚田式魚道の遡上調査において、左右の扇状部と中央部の遡上経路ではどちらの方が遡上匹数が多いの?", "id": "tr-003-17-000", "answers": [ { "text": "左右の扇状部", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "棚田式魚道では、多くの魚類はどこからの遡上経路を多く選択して遡上しているの?", "id": "tr-003-17-001", "answers": [ { "text": "側面からの遡上経路", "answer_start": 334, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "近自然型魚道ともいい、自然の川を模してあらゆる水生生物が通れるように配慮したもの。\n多自然型迂回水路などがある。\n魚の遡行を妨げないための人工構造物という魚道のもともとの概念を離れ、多自然型川づくりを魚道に持ち込んだものと言える。\n条件しだいで自然の川と見まがう水路ができるが、自然に任せればうまくいくというものではなく、細かく配慮した設計と施工が必要になる。\nまた、自然な流れで魚を遡上させるには、概して人工的な魚道よりも勾配を緩やかにする必要があり、その分、長大な魚道となって建設コストは嵩む。\n場所も多くとる。\nさらに魚道内の植物繁茂等も生じやすく、維持管理の手間・コストもかかる。\n魚道内の石組み、石の大きさ等を工夫すれば、それなりに急勾配化は可能だが、その場合の流れは、プール式魚道などの人工的な魚道と同様になる。\n総じて多自然化、近自然化の度合いを高めるほど、見た目の美しさ、親水性、自然への接近という利点は増進するものの、建設費、維持管理の手間などのコスト面の問題も増し、また、魚道効果の持続性に十分な配慮が必要となる。", "qas": [ { "question": "多自然型川づくりの概念を取り入れた魚道を何と言いますか?", "id": "tr-003-18-000", "answers": [ { "text": "近自然型魚道", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "これまで、砂防ダムなど高低差が比較的大きな箇所に設置する専用魚道は無かったため、高低差が小さな箇所に設ける突出型魚道の製品を使用して折返し型で設置された。\nしかし設置には広い面積を要したり施工期間も長期を要するという課題があった。\nまた同様な製品を螺旋状に積み上げた設置例もある。\nこの螺旋式魚道は流下する水が一定方向に旋回しながら流下するため、下流に向かうほど流れが加速され魚類の遡上が困難になる事例が報告されている。\nこのような課題を解決するため、最近では砂防ダムなどの河川構造物の壁面に直接取り付け縦方向に組上げて魚道を構成する高低差が比較的大きな箇所専用の新型魚道が開発されて設置されている。", "qas": [ { "question": "螺旋式魚道は、結果的に魚類の遡上がどうなるのか?", "id": "tr-003-19-000", "answers": [ { "text": "困難になる", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この魚道は河川構造物の壁表面に縦方向に設置されることから「たて型壁面魚道」と称される。\nこの魚道のパーツは大きく3種類から成る。\n「右の折返し部」と「左の折返し部」及びそれらをつなぐ「樋部」である。\n螺旋式魚道が一定方向に旋回を繰り返すことで流れに加速が生じる報告がされているため「たて型壁面魚道」の折り返し部の旋回方向は「右旋回」と「左旋回」を交互に繰り返し、全体としてS字状の流れがブレーキをかけて加速現象を防ぐ構造となっている。\nこの鋼製魚道のプール壁の形状は「棚田式魚道」の丸みのある自然石に挟まれた「スリット部」の形状や間隔が、アユをはじめとする水棲生物の通過に良好な成果が報告されているため、その形状を鋼製で模して製作してある。\n設置方法についても、ダム本提及び側壁などの河川構造物の壁面に直接ボルトを使用して3種類のパーツ毎に単体で取り付ける工法を用いている。\nこのため上部の魚道の重量が下部の魚道に荷重としてかからない構造であるため何層もの設置が可能となる。\n魚道を河川構造物の壁面に直接取付けるため、魚道用として河川構造物以外の用地が必要ない。\nまた、建設費が安価で施工期間も大幅に短縮された施工例が報告されている。", "qas": [ { "question": "「右の折返し部」、「左の折返し部」、「樋部」という3つのパーツから成る魚道の名称は何?", "id": "tr-003-20-000", "answers": [ { "text": "「たて型壁面魚道」", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「たて型壁面魚道」で流れの加速を抑える効果を果たしているのは、全体としてどのような形状をしているからですか?", "id": "tr-003-20-001", "answers": [ { "text": "S字状", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「たて型壁面魚道」では、何という魚道の構造を踏まえて流れの加速を防ぐ構造を作りましたか?", "id": "tr-003-20-002", "answers": [ { "text": "螺旋式魚道", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "フェルディナンド・マゼラン", "paragraphs": [ { "context": "フェルディナンド・マゼランは、大航海時代のポルトガルの航海者、探検家である。\n\n1519年に始まる航海でスペインの艦隊を率いた。マゼラン自身は航海半ばの1521年に亡くなったものの、部下のスペイン人フアン・セバスティアン・エルカーノが艦隊の指揮を引き継ぎ、1522年に史上初となる世界周航を達成した。\n\nポルトガル語名(本名)はフェルナン・デ・マガリャンイス、スペイン語名はフェルナンド・デ・マガリャネスだ。スペイン語圏・ポルトガル語圏以外の多くの国ではMagellanと綴るのが一般的である。\n\n英名の発音は「マゲラン」「マジェラン」だが日本語では慣用的に「マゼラン」と呼びならわしている。これにならい、この項における呼称も「マゼラン」で統一する。", "qas": [ { "question": "フェルディナンド・マゼランは何年に死亡したか。", "id": "tr-004-00-000", "answers": [ { "text": "1521年", "answer_start": 76, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フェルディナンド・マゼランのスペイン語名は何?", "id": "tr-004-00-001", "answers": [ { "text": "フェルナンド・デ・マガリャネス", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マゼランはヨーロッパから東洋の香料諸島への西回りでの渡航ルート発見を目指して旅立ったポルトガル人航海者である。1519年スペイン王の信任を得てスペイン船5隻の艦隊を率いてスペイン・セビリアを出発したマゼランは南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を発見して太平洋に到達し、マゼランは途中1521年フィリピンで戦死したが、残された艦隊が1522年に史上初めての世界一周を達成した。マゼラン自身は世界一周を成し遂げてはいないものの、人類初の世界一周航海(周航)を達成した艦隊は「マゼランの艦隊」として後世に名を残している。マゼラン海峡のほか大マゼラン雲・小マゼラン雲、マゼランペンギン、宇宙探査機マゼランなど多くの物が航海者マゼランの名にちなんで名付けられ、また南米パタゴニアや太平洋の名はマゼランが名付けたとされる。マゼランの功績は太平洋の広大さの発見により地球の概ねの大きさを示し、世界の地誌の確立に大きく貢献したことである。", "qas": [ { "question": "マゼランはどこで死亡したか。", "id": "tr-004-01-000", "answers": [ { "text": "フィリピン", "answer_start": 145, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1519年までのマゼランの記録は確かなものは少なく確実なことはあまり分かっていないが、1480年ごろにポルトガル北部ミーニョ地方ポルト近郊ポンテ・ダ・バルカの下級貴族である父ルイ・マガリャンイスと母アルダ・デ・メスキータの間に生まれたとされている。1492年、王妃レオノール・デ・ヴィゼウの小姓としてポルトガル宮廷に入る。このポルトガル宮廷小姓時代にコロンブスの新世界発見やバスコ・ダ・ガマのインド航路発見の業績を知ることになり航海への関心を深めたと言われる。バスコ・ダ・ガマのインド航路発見を受けて1500年からポルトガルは次々にインド洋へ艦隊を送り出すが、1505年インド洋の覇権をポルトガルの物にするべくフランシスコ・デ・アルメイダの20隻の艦隊がポルトガルを出発した。このアルメイダの艦隊に25歳のマゼランは希望して加わり、これがマゼランの初の航海となった。", "qas": [ { "question": "アルダ・デ・メスキータの夫の名前は何?", "id": "tr-004-02-000", "answers": [ { "text": "ルイ・マガリャンイス", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マゼランはいつポルトガル宮廷に入ったの?", "id": "tr-004-02-001", "answers": [ { "text": "1492年", "answer_start": 124, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "アイザック・アシモフ", "paragraphs": [ { "context": "アイザック・アシモフ(IsaacAsimov、1920年1月2日–1992年4月6日)は、アメリカの作家、生化学者(ボストン大学教授)である。\nその著作は500冊以上を数える。\n彼が扱うテーマは科学、言語、歴史、聖書など多岐にわたり、デューイ十進分類法の10ある主要カテゴリのうち9つにわたるが、特にSF、一般向け科学解説書、推理小説によってよく知られている。\n日本語では「アシモフ」と「アジモフ」などの片仮名表記があり、前者での表記が一般的であるが、本人が望んでいた読みは後者の発音に比較的近い[ˈaɪzəkˈæzɪmɒv]である。\nジュブナイル作品ではポール・フレンチという筆名を用いた。\n1942年発表のSF短編TimePussyではGeorgeE.Daleという筆名を用いた。\n1971年の著書TheSensuousDirtyOldManではDr.Aという筆名を用いた。", "qas": [ { "question": "アイザック・アシモフはどこの国の作家ですか?", "id": "tr-005-00-000", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 45, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アイザック・アシモフは1992年に72歳で亡くなったので、生まれたのは何年になりますか?", "id": "tr-005-00-001", "answers": [ { "text": "1920年", "answer_start": 23, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アシモフは1920年1月2日、当時のロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のペトロヴィッチにおいて、父ユダ・アジモフ(JudahAzimov、JudahOzimov)と母アンナ・レイチェル(AnnaRachelAzimov、AnnaRachelOzimov)の間にユダヤ系ロシア人イサアーク・ユードヴィチ・オジモフ(ИсаакЮдовичОзимов)として生まれた。\n生年月日については記録が不十分であり、暦の違いもあるため正確にこの日付かは不確実だが、誕生日がこの日より遅いことはない。\nソビエト連邦成立後、3歳の時に家族とともにアメリカに移住し、ニューヨーク・ブルックリンで育った。", "qas": [ { "question": "アシモフは3歳の時にどこからアメリカに移住した?", "id": "tr-005-01-000", "answers": [ { "text": "ペトロヴィッチ", "answer_start": 36, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アシモフが生まれた当時のロシアは何主義の政治体制だったか?", "id": "tr-005-01-001", "answers": [ { "text": "社会主義", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アシモフがニューヨークに移住した時には、ロシアでは既に何が成立していた?", "id": "tr-005-01-002", "answers": [ { "text": "ソビエト連邦", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "10歳のころ、SF雑誌『アメージング・ストーリーズ』によりSFファンとなる。\n本人によれば、父親の経営するキャンデーストアにはパルプ・マガジンが置いてあったが、アシモフはこれらに興味を持ったものの読むことを許されなかったため、アシモフは雑誌名に「サイエンス」の語が含まれることから教育的なものであると父親を説き伏せ、彼の了承を得ることに成功したという。", "qas": [ { "question": "アシモフが父親から読むことを禁止されていたものは何?", "id": "tr-005-02-000", "answers": [ { "text": "パルプ・マガジン", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "パルプ・マガジンの中でも、アシモフが読む許可を得た雑誌に記載されていた単語は何?", "id": "tr-005-02-001", "answers": [ { "text": "「サイエンス」", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『アメージング・ストーリーズ』で扱われているテーマは何?", "id": "tr-005-02-002", "answers": [ { "text": "SF", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "家庭は裕福ではなかったが学業成績は優秀で、公立校や高校を飛び級で卒業して1935年に15歳でコロンビア大学へ入学した。\n1938年に初めての作品をSF雑誌『アスタウンディング』に持ち込み、採用はされなかったが編集者ジョン・W・キャンベルの指導を受けるようになった。\n1939年には『アメージング』誌に「真空漂流」が掲載され作家としてデビューした。", "qas": [ { "question": "アシモフは大学入学の3年後に初めての作品を書き、何に持ち込んだ?", "id": "tr-005-03-000", "answers": [ { "text": "『アスタウンディング』", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アシモフのデビュー作は何?", "id": "tr-005-03-001", "answers": [ { "text": "「真空漂流」", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アシモフを指導した編集者は何という人?", "id": "tr-005-03-002", "answers": [ { "text": "ジョン・W・キャンベル", "answer_start": 107, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「真空漂流」を掲載した雑誌名は何と言いますか?", "id": "tr-005-03-003", "answers": [ { "text": "『アメージング』", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1939年にアシモフはコロンビア大学を卒業し、同大学大学院で化学を専攻した。\nこの頃すでに『われはロボット』所収のロボット工学三原則物やファウンデーションシリーズの諸作品、出世作『夜来たる』など初期の代表作を発表しているが、当時はまだSF自体の社会的地位や市場規模が限られていたこともあり専業作家になることは全く考えておらず、大企業に就職して高給取りの研究員となることを目指していた。", "qas": [ { "question": "アシモフはどこで化学を学んだ?", "id": "tr-005-04-000", "answers": [ { "text": "大学院", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アシモフが大学院生の時に発表した作品の中で、ロボット工学三原則が示されている作品は何?", "id": "tr-005-04-001", "answers": [ { "text": "『われはロボット』", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1942年にはガートルードという女性と結婚、第二次世界大戦の勃発を理由に大学院を休学し、フィラデルフィア海軍造船所に技術者として勤務した。\nここでは予備役の技術士官として勤務していたロバート・A・ハインラインとL・スプレイグ・ディ・キャンプに出会った。\n終戦直後に徴兵され、化学の学位を持っていることを理由にビキニ環礁でのクロスロード作戦に技術兵として加えられ、ハワイまで行ったが結局参加せずに9か月で除隊した。", "qas": [ { "question": "アシモフが大学院を休学した理由は何?", "id": "tr-005-05-000", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦の勃発", "answer_start": 22, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アシモフがロバート・A・ハインラインと出会ったのはどこでしょう?", "id": "tr-005-05-001", "answers": [ { "text": "フィラデルフィア海軍造船所", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アシモフがクロスロード作戦に技術兵として加わったのは、何を持っていたから?", "id": "tr-005-05-002", "answers": [ { "text": "化学の学位", "answer_start": 137, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クロスロード作戦が実施された場所はどこかな?", "id": "tr-005-05-003", "answers": [ { "text": "ビキニ環礁", "answer_start": 154, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1946年に大学院に復学し、1948年には博士号を取得したものの就職口は得られず、コロンビア大学で1年間博士研究員を務めた後に、1949年からボストン大学医学部の生化学の講師となった。\n大学では講義と研究の他に共同で教科書の執筆を行い、一般向けのノンフィクションを書くきっかけとなった。\nこの頃にはアシモフはSF界の第一人者として認められており、またSFの地位向上や新雑誌の登場により市場規模や稿料が増加し、1950年にダブルデイ社から初めての単行本『宇宙の小石』が出版され、さらに『われはロボット』やファウンデーションシリーズなど過去に雑誌で発表した作品の書籍化やアンソロジーへの再録が相次ぎ、雑誌の原稿料に加えて印税でも収入を得られるようになった。", "qas": [ { "question": "アシモフが1946年に大学院に復学した2年後に取得したものが何か分かりますか?", "id": "tr-005-06-000", "answers": [ { "text": "博士号", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アシモフの収入に新たに加わったものは何ですか?", "id": "tr-005-06-001", "answers": [ { "text": "印税", "answer_start": 308, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "過去の作品が書籍化されたアシモフのシリーズの名称は何?", "id": "tr-005-06-002", "answers": [ { "text": "ファウンデーションシリーズ", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アシモフが講義と研究の他に教科書の執筆を行っていたのはどこの大学にいた時ですか?", "id": "tr-005-06-003", "answers": [ { "text": "ボストン大学", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1953年から1954年にはSFミステリ『鋼鉄都市』を発表した。\nまた化学のノンフィクションの作品を出版するようになり、講演者としての活動も行うようになった。\n1955年に准教授となり終身の在職権を得たが、この頃になると執筆活動への傾倒が進んで学内で上司や一部の教授たちから不興を買い度々トラブルが発生していた。\n既に著作や講演で十分な収入を得ていたこともあり、1958年に肩書きのみを保持することで合意し、教壇を降りた。\nその後は専業の作家・講演者となり、化学以外のノンフィクションの分野へも活動を広げていった。\n1979年7月、ボストン大学教授に昇任する。", "qas": [ { "question": "1953年から1954年にかけて発表されたアシモフのSFミステリの題目は何ですか?", "id": "tr-005-07-000", "answers": [ { "text": "『鋼鉄都市』", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "講演者としての活動を行うようになったのは、どのような分野のノンフィクション作品を出版するようになったからですか?", "id": "tr-005-07-001", "answers": [ { "text": "化学", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アシモフがボストン大学の教授に昇任したのは何年何月のこと?", "id": "tr-005-07-002", "answers": [ { "text": "1979年7月", "answer_start": 258, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1951年に息子、1955年に娘が生まれていたが、1970年から妻子と別居し、ボストンから再びニューヨークへ移り住んだ。\n1973年にガートルード夫人と正式に離婚し、同年に心理分析医のジャネット・ジェプスン(後にSF作家)と再婚した。\nアシモフとジャネットはノービー(Norby)シリーズなどの共著を残している。", "qas": [ { "question": "ノービー(Norby)シリーズなどを共著したアシモフの再婚相手は誰ですか?", "id": "tr-005-08-000", "answers": [ { "text": "ジャネット・ジェプスン", "answer_start": 92, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ガートルード夫人と離婚する前にアシモフが移り住んだ場所はどこ?", "id": "tr-005-08-001", "answers": [ { "text": "ニューヨーク", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジャネット・ジェプスンは、SF作家になる前は何の職業だった?", "id": "tr-005-08-002", "answers": [ { "text": "心理分析医", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アシモフは次第に科学の解説者として知られるようになり、特に1957年のスプートニク・ショックがアシモフの執筆活動を後押しした。\n科学を概観した『知識人のための科学入門』(TheIntelligentMan'sGuidetoScience)が1961年の全米図書賞ノンフィクション部門にノミネートされ、1965年にはアメリカ化学会から化学についての報道を表彰するジェイムズ・T・グラディー賞を受賞した。\n1962年にメンサの会員になったが数年後に退会した。\n1972年に再び会員になり、1974年にはメンサの講演のためにイギリスへ旅行した。\nその際、同じくメンサ会員で親睦の深かったアーサー・C・クラークと再会し、共に講演に参加している。", "qas": [ { "question": "アシモフが二度目のメンサ会員になったのは何年?", "id": "tr-005-09-000", "answers": [ { "text": "1972年", "answer_start": 228, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アシモフが最初の入会から10年の期間を経て再び入会したものは何?", "id": "tr-005-09-001", "answers": [ { "text": "メンサ", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アシモフがアメリカ化学会から表彰されたものは何でしょう?", "id": "tr-005-09-002", "answers": [ { "text": "ジェイムズ・T・グラディー賞", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アシモフが1974年にイギリスへ旅行したのは何に参加するためだったの?", "id": "tr-005-09-003", "answers": [ { "text": "メンサの講演", "answer_start": 249, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1970年ごろから『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』にて純粋なミステリの『黒後家蜘蛛の会シリーズ』の連載を開始した。\nSFでは1972年に久々の長編である『神々自身』を出版し、ヒューゴー賞長編小説部門とネビュラ賞長編小説部門を受賞した。\n1982年には、ファンや編集者の要望に抗しきれず執筆したファウンデーションシリーズの30年ぶりの新作『ファウンデーションの彼方へ』がベストセラーとなり、以後再びSF長編を執筆し、同シリーズとロボットシリーズを統合した。", "qas": [ { "question": "同じ長編小説部門でヒューゴー賞とネビュラ賞を受賞した作品は何?", "id": "tr-005-10-000", "answers": [ { "text": "『神々自身』", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ファウンデーションの彼方へ』はシリーズの何年ぶりの新作だったのか?", "id": "tr-005-10-001", "answers": [ { "text": "30年", "answer_start": 166, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1970年頃に連載を開始したSF分野でない作品は何?", "id": "tr-005-10-002", "answers": [ { "text": "『黒後家蜘蛛の会シリーズ』", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アシモフは1992年4月6日に没した。\n死因は後天性免疫不全症候群(エイズ)によるもので、1983年に受けた心臓バイパス手術の際に使用された輸血血液がHIVに汚染されていたことが原因である。\nアシモフの死因は、彼の死から10年後に出版されたジャネット夫人の自伝It'sBeenaGoodLife(我が良き生涯)で明らかにされた。\nアシモフは生涯で500冊以上の著書を執筆した。", "qas": [ { "question": "アシモフの死因はなんですか?", "id": "tr-005-11-000", "answers": [ { "text": "後天性免疫不全症候群(エイズ)", "answer_start": 23, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アシモフの死因を明かした本のタイトルは何ですか?", "id": "tr-005-11-001", "answers": [ { "text": "It'sBeenaGoodLife", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "It'sBeenaGoodLife(我が良き生涯)は誰による自伝ですか?", "id": "tr-005-11-002", "answers": [ { "text": "ジャネット夫人", "answer_start": 120, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アシモフの代表的SFシリーズであるファウンデーションシリーズは、エドワード・ギボンの『ローマ帝国衰亡史』をヒントにした、未来の宇宙における巨大な銀河帝国の崩壊と再生の物語である。\n1942年に第一作『ファウンデーション』がアスタウンディング誌に掲載、以後1949年まで中短編の形で同誌で発表され、のちに『ファウンデーション』(1951年)、『ファウンデーション対帝国』(1952年)、『第二ファウンデーション』(1953年)の3冊にまとめられた。\n現在は「初期3部作」と呼ばれるこの3冊は、1966年にヒューゴー賞過去最優秀長編シリーズ賞を受賞した。", "qas": [ { "question": "ファウンデーションシリーズの初期3部作の中で、2番目の作品タイトルは何でしょう?", "id": "tr-005-12-000", "answers": [ { "text": "『ファウンデーション対帝国』", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ファウンデーションシリーズの初期3部作の中で、最後の作品は何年に書かれた?", "id": "tr-005-12-001", "answers": [ { "text": "1953年", "answer_start": 206, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ファウンデーションシリーズは何の作品をヒントに書かれたもの?", "id": "tr-005-12-002", "answers": [ { "text": "『ローマ帝国衰亡史』", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1982年、ファンや編集者の続編を求める声に抗えなくなったアシモフは、新作『ファウンデーションの彼方へ』を発表、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに名を連ねると共に、1983年のヒューゴー賞長編小説部門を受賞した。\n以後その続編『ファウンデーションと地球』(1986年)、時代をさかのぼりハリ・セルダンの半生を描いた『ファウンデーションへの序曲』(1988年)、『ファウンデーションの誕生』(1992年)が書かれ、ロボットシリーズとの世界観の融合もなされた。\nアシモフの死後、SF作家グレゴリー・ベンフォード、デイヴィッド・ブリン、グレッグ・ベアの3人が続編として『新・銀河帝国興亡史』3部作(SecondFoundationtrilogy)を発表した。", "qas": [ { "question": "『ファウンデーションの彼方へ』の続編の中で、ハリ・セルダンの半生を描いた作品は何年に書かれたか?", "id": "tr-005-13-000", "answers": [ { "text": "1988年", "answer_start": 179, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "グレゴリー・ベンフォードとデイヴィッド・ブリンは、もう1人誰と協力して『新・銀河帝国興亡史』3部作を発表した?", "id": "tr-005-13-001", "answers": [ { "text": "グレッグ・ベア", "answer_start": 271, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ロボットものもファウンデーション3部作と同じ頃に書き始められた。\nその多くは後に短編集『われはロボット』(I,Robot,1950年)、『ロボットの時代』(1964年)として出版された。\nこの作品群により、ロボット・人工知能の倫理規則(いわゆるロボット工学3原則)が世に広められた。\nこの規則は、他の作家や思想家がこの種の話題を扱うに際して大きな影響を与えている。\nまた中編『バイセンテニアル・マン』(1976年)は1977年のヒューゴー賞中編小説部門と1977年のネビュラ賞中編小説部門、ローカス賞長篇部門を受賞し、1999年にロビン・ウィリアムズ主演で映画化された(日本では『アンドリューNDR114』のタイトルで公開)。", "qas": [ { "question": "ロボットものの短編集の中で、2番目に出版された作品タイトルは何でしょう?", "id": "tr-005-14-000", "answers": [ { "text": "『ロボットの時代』", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『バイセンテニアル・マン』は、日本では何というタイトルで公開されました?", "id": "tr-005-14-001", "answers": [ { "text": "『アンドリューNDR114』", "answer_start": 289, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『バイセンテニアル・マン』が受賞した3つの賞の中で、長編部門で獲得した賞は何?", "id": "tr-005-14-002", "answers": [ { "text": "ローカス賞", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "一連の作品は、ロボットが一見して三原則に反するような行動を取り、その謎を解決するというミステリ仕立ての作品が多く、中でも長編『鋼鉄都市』と続編『はだかの太陽』は、3原則の盲点を利用した巧妙な殺人トリックを描いたSFミステリの傑作としても知られている。\nファウンデーションとロボットの2つの潮流は、『ロボットと帝国』(1985年)によってひとつの未来史としてまとめられた。\nまた没後に『アンドリューNDR114』および『アイ,ロボット』の2本の映画が公開されている。", "qas": [ { "question": "3原則の盲点を利用し巧妙な殺人トリックを描いたSFミステリの傑作品の中で、続編として書かれた作品は何?", "id": "tr-005-15-000", "answers": [ { "text": "『はだかの太陽』", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アシモフの死後に公開された映画は何本あるのか?", "id": "tr-005-15-001", "answers": [ { "text": "2本", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アシモフはテレビ番組化されることを期待して、『天狼星の侵略』(1952年)などジュヴナイルの長編小説「ラッキー・スター」シリーズを執筆、この際に低品質なテレビ番組になる場合を懸念してポール・フレンチという筆名を用いた。\n結局TV化は実現せず、後期の作品ではロボット工学三原則を出すなどして自ら正体を示唆し、再版時には実名に戻している。", "qas": [ { "question": "アシモフが用いたペンネームは何といったでしょう?", "id": "tr-005-16-000", "answers": [ { "text": "ポール・フレンチ", "answer_start": 91, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "クウェート共和国", "paragraphs": [ { "context": "クウェート共和国(クウェートきょうわこく)は、1990年のイラクによるクウェート侵攻の結果、クウェートに樹立された国家である。事実上イラクの傀儡国家であり、わずか1週間で消滅した。", "qas": [ { "question": "クウェート共和国が建国されたのは、何年のこと?", "id": "tr-006-00-000", "answers": [ { "text": "1990年", "answer_start": 23, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "クウェート共和国は、どの事件の結果、建国された国でありますか?", "id": "tr-006-00-001", "answers": [ { "text": "クウェート侵攻", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "クウェート共和国は、建国されてからいくら立った時点で消滅したか?", "id": "tr-006-00-002", "answers": [ { "text": "1週間", "answer_start": 81, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クウェート侵攻とは、どの国により行われた侵攻のことか?", "id": "tr-006-00-003", "answers": [ { "text": "イラク", "answer_start": 29, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1990年8月2日、クウェート国内で革命を起こした反政府勢力に要請されたという形をとってイラクはクウェートに軍事侵攻し、同日中にクウェート国政府の打倒とクウェート暫定自由政府の樹立を宣言した。しかし暫定政府の詳細は明らかにされず、当初からイラクの傀儡であるとみなされていた。暫定政府は8月4日になって閣僚名簿を発表したものの、主張とは裏腹にクウェート人にはほぼ馴染みのない、イラク人と思われる名前ばかりが並ぶものだった。8月7日に暫定政府は首長制の廃止と共和制の導入を宣言し国名がクウェート共和国に変更されたが、8月8日にイラクがクウェートを併合し消滅した。国際社会からの承認は得られず、またイラク側も承認を求めることはなかった。", "qas": [ { "question": "イラクのクウェート侵攻は、いつ行われたの?", "id": "tr-006-01-000", "answers": [ { "text": "1990年8月2日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クウェート侵攻とは、イラクが、クウェート国政府と反政府勢力のうち、どちらの味方をしてクウェートを侵攻した事件でありますか?", "id": "tr-006-01-001", "answers": [ { "text": "反政府勢力", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クウェート暫定自由政府が樹立されたのは、いつのことか?", "id": "tr-006-01-002", "answers": [ { "text": "1990年8月2日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1990年8月2日にイラクによりクウェートに樹立された政府の名称が変更されたのは、いつのことか?", "id": "tr-006-01-003", "answers": [ { "text": "8月7日", "answer_start": 210, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1990年8月1日、イラクとクウェートとの間で行われていた石油採掘交渉が決裂し、翌8月2日、イラクは軍をクウェートに派兵し武力制圧した。イラクは武力侵攻の理由について、クウェートにおいて「若き革命家たち」による革命が起こり、革命政府の求めに応じて軍を派遣したと説明し、同日中にイラクは国営放送でクウェート国のジャービル3世政権打倒と、自由クウェート革命の成就を宣言した。現地時間の午後2時になってクウェート反政府勢力によるクウェート暫定自由政府の樹立を宣言し、暫定政府による声明文を読み上げた。", "qas": [ { "question": "イラクとクウェートの間で行われていた石油採掘交渉が決裂したのは、いつのこと?", "id": "tr-006-02-000", "answers": [ { "text": "1990年8月1日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イラクが国営放送でクウェート国のジャービル3世政権打倒と、自由クウェート革命の成就を宣言したのは、いつのことですか?", "id": "tr-006-02-001", "answers": [ { "text": "8月2日", "answer_start": 41, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イラクはクウェートを武力侵攻した理由として、どのような人々で構成されている革命政府からの要請があったからだと説明したか?", "id": "tr-006-02-002", "answers": [ { "text": "「若き革命家たち」", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時、クウェート国の統治者は、誰だったか?", "id": "tr-006-02-003", "answers": [ { "text": "ジャービル3世", "answer_start": 154, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イラク政府はクウェート暫定政府に対する支持を表明し、暫定政府の求めがあれば数日か数週間程度で軍を撤退させられると表明、クウェートに第三国が介入する場合には攻撃を加えるという方針も発表した。また従来のクウェート国営放送の周波数は、8月2日のうちに暫定政府に取って代わられた。", "qas": [ { "question": "クウェート国営放送を掌握したのは、誰だったの?", "id": "tr-006-03-000", "answers": [ { "text": "暫定政府", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "暫定政府がクウェート国営放送を掌握できたのは、誰のおかげでしたか?", "id": "tr-006-03-001", "answers": [ { "text": "イラク政府", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "しかし暫定政府の方針や、構成する具体的な人物の名前などが公表されなかったため、国際社会からは当初から実態はイラクの傀儡であるとみなされていた。一方でクウェートは1,000人を超す王族が政官財界の要職を占める変則的支配となっており、反政府勢力の受け皿となる不満分子には事欠かないともされた。8月4日夜になってようやくアラー・フセイン・アリー大佐を首班とする閣僚名簿が発表されたが、後述するとおり全員がイラク人で構成されるイラク傀儡政権であるとみなされていた。また同時に、イラクとの領土交渉を行う用意があることも表明した。", "qas": [ { "question": "クウェートの閣僚名簿が発表されたのは、いつのことか?", "id": "tr-006-04-000", "answers": [ { "text": "8月4日夜", "answer_start": 144, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クウェートの閣僚名簿には、皮肉にもどの国の人々でしか構成されていなかったか?", "id": "tr-006-04-001", "answers": [ { "text": "イラク", "answer_start": 199, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クウェートの暫定政府がイラクの傀儡であったことを証明する、確実な証拠となったのは、何か?", "id": "tr-006-04-002", "answers": [ { "text": "閣僚名簿", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "クウェートの暫定政府からイラクとの領土交渉を行う用意があるとのことが表明されたのは、いつのことか?", "id": "tr-006-04-003", "answers": [ { "text": "8月4日夜", "answer_start": 144, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "8月3日夜、イラク政府はクウェートにおける軍の役割は終わったとして、国外に逃れた旧ジャービル3世政権幹部が帰国しないなどの条件をつけた上で、クウェート暫定政府の同意を得て5日から撤退を開始すると発表した。クウェート暫定政府も、情勢安定に伴って「イラクの兄弟愛的指導を受け、勇敢な」軍隊が5日に日程表に従って撤退することで合意したと発表した。ただし撤退後も旧政権の復権はなく、暫定政府がクウェートを統治するとした。", "qas": [ { "question": "イラク政府がクウェートから撤退することを発表したのは、いつのこと?", "id": "tr-006-05-000", "answers": [ { "text": "8月3日夜", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イラク政府は、何日にクウェートから撤退すると発表しましたか?", "id": "tr-006-05-001", "answers": [ { "text": "5日", "answer_start": 85, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クウェートの旧政権とは、誰の政権のことを指すか?", "id": "tr-006-05-002", "answers": [ { "text": "ジャービル3世", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジャービル3世の政権の後、誰がクウェートを統治したか?", "id": "tr-006-05-003", "answers": [ { "text": "暫定政府", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかし撤退前日の8月4日、クウェート暫定政府はクウェートの政治・国防機能を完全に掌握したと宣言した上で、新たに国防組織として人民軍を組織することを発表した。これは従来の正規軍とは異なる組織で、クウェート人兵士が中心ではあるが他のアラブ人など、どの国籍でも参加可能であるとされた。この「他のアラブ」は主にイラクをさすとされ、イラク軍のクウェートからの撤退は見せかけで、名前を変えて駐留し続けるイラクの意思が明白となった。実際、この人民軍にはイラク軍の予備役兵や退役軍人を中心として14万人以上志願している。当時、クウェート内に進駐したイラク軍兵士は10万人で、人民軍はこれを4万人も上回る見込みであった。またクウェートでは政治経済の要職につく支配階級の第一級市民は約6万人規模で、人民軍創設はイラクからクウェートへの大量植民という側面も持っていた。", "qas": [ { "question": "クウェート暫定政府が人民軍の組織を発表したのは、いつのこと?", "id": "tr-006-06-000", "answers": [ { "text": "8月4日", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "従来の正規軍と人民軍のうち、より多国籍的な性格を持った組織は、どちらか?", "id": "tr-006-06-001", "answers": [ { "text": "人民軍", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イラク政府は、公式的にはクウェートからの軍の撤退を見せかけつつも、合法的にクウェートに駐留できるようにするため、どのような組織を編成したか?", "id": "tr-006-06-002", "answers": [ { "text": "人民軍", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この文書によると、クウェートを支配しようとするイラクの意思が明白に込まれていたのは、何の編成であったか?", "id": "tr-006-06-003", "answers": [ { "text": "人民軍", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "8月6日午後、国際連合安全保障理事会は対イラク貿易を全面的に停止するなどの経済制裁を含む決議661を反対ゼロ(棄権2票)で採択した。これはイラクだけでなく、クウェート暫定政府も対象とするものであった。また、この決議はクウェート暫定政府を承認しないという内容も含まれていた。暫定政府は8月7日を期して市民生活の正常化を呼びかけた。", "qas": [ { "question": "国際連合安全保障理事会で決議661が採択されたのは、いつのこと?", "id": "tr-006-07-000", "answers": [ { "text": "8月6日午後", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "決議661の採択を通して、イラクのクウェート占領に対する反感を示したのは、どの機関ですか?", "id": "tr-006-07-001", "answers": [ { "text": "国際連合安全保障理事会", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イラク以外に、決議661の対象となったのは、誰だったか?", "id": "tr-006-07-002", "answers": [ { "text": "クウェート暫定政府", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "決議661に対する反対票の数は、いくらだったか?", "id": "tr-006-07-003", "answers": [ { "text": "ゼロ", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "8月7日、アリー暫定政府首相がイラクの首都バグダードを訪れ、フセイン大統領と会談する様子をイラク国営放送が公開した。アリーはクウェート国民の蜂起にイラクとイラク軍が支援を行ったことに対して感謝し、フセインはクウェートをアラブ社会に復帰させた暫定政府の功績は大きいと表明した。クウェートへの攻撃には両国が敢然と立ち向かうことで合意した。同日夕方、クウェート暫定政府はイラク国営放送を通じて声明を発表し、クウェートは首長制を今後永久に廃止し共和制を宣言、国名を「クウェート共和国」に変更するとした。また、イラクはクウェート暫定政府と通貨統合を行うことを打ち出した。", "qas": [ { "question": "イラクの大統領は、誰だった?", "id": "tr-006-08-000", "answers": [ { "text": "フセイン", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "8月7日、フセインのところに訪れたのは、誰でしたか?", "id": "tr-006-08-001", "answers": [ { "text": "アリー", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クウェート共和国の首相は、誰だったか?", "id": "tr-006-08-002", "answers": [ { "text": "アリー", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アリーとフセインの階段の様子を放送したのは、イラクとクウェートのうち、どちらだったか?", "id": "tr-006-08-003", "answers": [ { "text": "イラク", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "8月8日、イラク革命評議会は「クウェート暫定政府が、息子が大きな家族に帰るように、偉大なるイラクへの復帰を望んだ」ことを理由にクウェートの併合を決定、クウェート共和国は消滅した。イラクはクウェートが自国の一部であることを歴史が証明したと主張し、「全面的統一」を宣言した。暫定政府を承認した国家はなく、またイラク側も承認を求めることはなかった。", "qas": [ { "question": "イラク革命評議会がクウェートの併合を決定したのは、いつのことか?", "id": "tr-006-09-000", "answers": [ { "text": "8月8日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クウェート共和国は、いつを基点になくなったか?", "id": "tr-006-09-001", "answers": [ { "text": "8月8日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イラク革命評議会は、クウェート共和国を併合することを何に比喩したか?", "id": "tr-006-09-002", "answers": [ { "text": "息子が大きな家族に帰る", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イラク革命評議会は、クウェート共和国の併合が誰からの望みから決定されたことであると表明したか?", "id": "tr-006-09-003", "answers": [ { "text": "クウェート暫定政府", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "クウェート暫定政府の樹立宣言に対し、政権を追われサウジアラビアに逃亡したジャービル3世は政権の存続を主張した。サアド首相は抵抗を呼びかけ、クウェート軍による散発的な抵抗が続いた。当初、クウェート国民は統一感に欠け、指導者層に対する反発があったことから、暫定政府に対する本格的な抵抗運動が発生するか疑問視する声もあがったが、不服従運動による抵抗が見られた。", "qas": [ { "question": "クウェート暫定政府が樹立され、クウェートから逃亡したジャービル3世は、どこに滞留していたの?", "id": "tr-006-10-000", "answers": [ { "text": "サウジアラビア", "answer_start": 24, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クウェート暫定政府に対する散発的な抵抗が続いたのは、誰の影響でしたか?", "id": "tr-006-10-001", "answers": [ { "text": "サアド", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イラクによるクウェート暫定政府の樹立宣言直後、アメリカ合衆国のジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、暫定政府は非合法であるとして承認しない考えを表明し、緊急招集された国際連合安全保障理事会もイラクに対しクウェートから即時撤退するよう決議を採択した(国際連合安全保障理事会決議660)。また決議661では、クウェート暫定政府を傀儡政権と位置づけ、承認しないとしている。", "qas": [ { "question": "暫定政府について非合法であるとの考えを表明したのは、どの国の大統領か?", "id": "tr-006-11-000", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 23, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時、アメリカ合衆国の大統領は誰だったか?", "id": "tr-006-11-001", "answers": [ { "text": "ジョージ・H・W・ブッシュ", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "日本でも栗山尚一外務事務次官がアル・リファイ駐日イラク大使を外務省に呼び遺憾の意を伝えたが、リファイは侵攻という表現は適切ではなく、クウェートの革命で樹立された新政府の要請に基づいた行動だとするイラクの立場を説明した。しかし栗山は革命が起きたという認識は誤っていると指摘し、リファイはクウェート新政府が干渉を受けなくなればイラクは軍を引き上げる可能性があると表明し、日本政府の意向を本国に伝えるとした。", "qas": [ { "question": "当時、日本の外務事務次官は誰だった?", "id": "tr-006-12-000", "answers": [ { "text": "栗山尚一", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本政府の考えをイラクに伝えるために、駐日イラク大使と会談を行ったのは、誰ですか?", "id": "tr-006-12-001", "answers": [ { "text": "栗山尚一", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "栗山尚一との会談で駐日イラク大使は、革命による新政府の樹立に対して、何の表現が適切ではないと言ったか?", "id": "tr-006-12-002", "answers": [ { "text": "侵攻", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "栗山尚一とアル・リファイの会談は、どの国で行われたか?", "id": "tr-006-12-003", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "8月4日にアラブ連盟は緊急外相会談をカイロで開催し、イラクの傀儡政権を承認しないと声明した。8月4日、欧州共同体(EC)はローマで緊急会議を開催し、クウェート暫定政府は認められないと声明した。8月8日、ヨルダンのムダル・バドラン首相はクウェート共和国を承認しないと表明した。", "qas": [ { "question": "8月4日に開かれたアラブ連盟の緊急外相会談は、どこで行われたの?", "id": "tr-006-13-000", "answers": [ { "text": "カイロ", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "8月4日に開かれた欧州共同体の緊急会議は、どこで行われましたか?", "id": "tr-006-13-001", "answers": [ { "text": "ローマ", "answer_start": 61, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アラブ連盟と欧州共同体、ヨルダンのうち、クウェート暫定政府のことを認めないと表明したのは、最も遅かったのは、どちらか?", "id": "tr-006-13-002", "answers": [ { "text": "ヨルダン", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "この文書に挙げられている三つの勢力のうち、組織ではなくたった一国で、クウェート共和国を認めないという意思を明らかにしたのは、どちらか?", "id": "tr-006-13-003", "answers": [ { "text": "ヨルダン", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "アクロン(オハイオ州)", "paragraphs": [ { "context": "アクロンは、アメリカ合衆国オハイオ州北東部に位置する都市だ。クリーブランドの南約55kmに位置する。人口は199,110人(2010年国勢調査)で、オハイオ州ではコロンバス、クリーブランド、シンシナティ、トレドに次ぐ第5の都市である。アクロンに郡庁を置くサミット郡、およびその東に隣接するポーテージ郡の2郡からなる都市圏は703,200人(2010年国勢調査)の人口を抱えている。より広域的には、アクロンはクリーブランドの広域都市圏に含まれており、その人口は350万人を超える。\n\nアクロンは1825年に創設され、その初期から運河交通の要所となり、様々な産業が興った。南北戦争前後から20世紀初頭にかけては、北軍の食糧となったオーツ麦のバー、全米初のパトロールカー、ヨードを添加した食塩など、次々と発明品が生み出された。同じ頃、グッドリッチ、グッドイヤー、ファイアストン、ゼネラルタイヤと、タイヤメーカーが相次いで創業し、これらタイヤメーカーが労働者用の住宅地開発にあたったこともあって、1910年代の10年間で人口は3倍増、工業都市として高成長を遂げたアクロンは「世界のゴムの都」と呼ばれた。20世紀も後半に入るとタイヤメーカーは買収や移転で次々とアクロンを離れ、グッドイヤーを残すのみとなったが、残された研究インフラの存在によって、アクロンはポリマー産業の中心地へと変貌を遂げてきている。", "qas": [ { "question": "アクロンはどの州に位置しているの?", "id": "tr-007-00-000", "answers": [ { "text": "オハイオ州", "answer_start": 13, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2010年国勢調査によると、アクロンの人口は何人ですか。", "id": "tr-007-00-001", "answers": [ { "text": "199,110人", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2010年国勢調査を基準に、アクロン、コロンバス、クリーブランドのうち、人口が一番少ないのはどこなの?", "id": "tr-007-00-002", "answers": [ { "text": "アクロン", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アクロンは何年に創設されたの?", "id": "tr-007-00-003", "answers": [ { "text": "1825年", "answer_start": 246, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1811年、現在のアクロン市ではブフテル・アベニューとブロードウェイ・ストリートの交差点があるあたりに、コネチカット土地会社の測量家ポール・ウィリアムズと、コネチカット西部保留地の将軍サイモン・パーキンスが入植し、当時掘削中であったオハイオ・アンド・エリー運河の最高点であったこの地に入植地の創設を提案した。入植地の名は、ギリシア語で「頂上」もしくは「高いところ」を意味するἄκρονから付けられた。その後1825年、現在のサウスアクロン地区に相当する地域が区画され、オハイオ運河の掘削に携わったアイルランド系労働者たちの小屋、およそ100棟がその近くに建てられた。その後、1833年にはエリアキム・クロスビーが「ノースアクロン」を創設し、1836年にサウスアクロン・ノースアクロンの2つが合併して、アクロンという1つの村として正式に法人化された。\n1840年、ポーテージ、メダイナ、およびスターク各郡のそれぞれ一部を分割・再編する形で、サミット郡が創設されると、翌1841年には、サミット郡議会がカヤホガフォールズを郡庁所在地に指定したが、州議会がこれを覆し、郡庁所在地は住民投票に基づいて決めるようにと差し戻した。その結果、郡庁はアクロンに置かれることになった。その頃、アクロンからペンシルベニア州ビーバーへと通ずるペンシルベニア・アンド・オハイオ運河が開通し、炻器、下水管、漁具、農作業道具などの産業が興った。1847年には、アクロン学校法が成立し、今日ではアメリカ合衆国全土で用いられている、K-12の学年制による教育の先駆けとなった。", "qas": [ { "question": "「ノースアクロン」は誰が創設したの?", "id": "tr-007-01-000", "answers": [ { "text": "エリアキム・クロスビー", "answer_start": 294, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アクロン学校法が成立したのは何年のこと?", "id": "tr-007-01-001", "answers": [ { "text": "1847年", "answer_start": 608, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "南北戦争前夜のアクロンでは2人の著名な奴隷制度廃止運動家が活躍した。1844年、ジョン・ブラウンは、共同事業者であったサイモン・パーキンスの豪邸と道1本を隔てた対面側に自身の家を移し、アクロンを事業活動の拠点とした。1851年には、オハイオ女性の権利大会がアクロンで開催され、ソジャーナ・トゥルースが原稿無しで、後に「私は女ではないの?」と名付けられることになる演説を行った。\n\n1870年、地元実業家にして博愛主義者であったジョン・R・ブフテルの出資で、アクロン大学の前身となる、ユニバーサリスト教会系のブフテル・カレッジが創立した。また、この頃、ルイス・ミラーとウォルター・ブライスの2人の博愛主義者と建築家ジェイコブ・スナイダーは、アクロン・プランというデザインパターンを確立し、1872年に初めてこの様式を用いてアクロンのファースト・メソジスト監督教会堂を建てた。その後、第一次世界大戦時に至るまで、会衆派、バプテスト、長老派などの多数の教会堂が、この様式を用いて建てられた。", "qas": [ { "question": "オハイオ女性の権利大会がアクロンで開催されたのは何年ですか。", "id": "tr-007-02-000", "answers": [ { "text": "1851年", "answer_start": 108, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「私は女ではないの?」は誰の演説ですか。", "id": "tr-007-02-001", "answers": [ { "text": "ソジャーナ・トゥルース", "answer_start": 138, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アクロン大学の前身となる学校は何ですか。", "id": "tr-007-02-002", "answers": [ { "text": "ブフテル・カレッジ", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アクロンのファースト・メソジスト監督教会堂に用いられたデザインパターンは何ですか。", "id": "tr-007-02-003", "answers": [ { "text": "アクロン・プラン", "answer_start": 319, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "南北戦争と前後して、アクロンでは次々と発明品が生まれ、近代的な産業も興っていった。フェルディナンド・シューマッハーは1856年に工場を買収し、オーツ麦のバーを大量生産し、南北戦争時には北軍に供給した。南北戦争の終結後も、このバーに対する需要は高いものとなった。1883年には、地元のジャーナリストがアクロン・トイ・カンパニーを設立し、近代的な玩具製造事業を始めた。翌1884年には、サミュエル・C・ダイクが粘土製のビー玉を大量生産に乗せた。これらの他、アクロンではゴム風船、アヒルの玩具、人形、ボール、乳母車の緩衝装置、茶色の小瓶などが発明された。1895年には、アクロンとクリーブランドを結ぶ、全長35.5マイル(57.1km)のインターアーバン、アクロン・ベッドフォード・アンド・クリーブランド鉄道が開通した。1899年には、市当局は地元警察に、全米初となるパトロールカーを配備した。1916-20年にかけては、10,000人の女学生が、食塩にヨードを添加することで甲状腺腫を予防する、後に「アクロン実験」として知られることになる実験に参加した。この実験は成功を収め、後に世界中でヨード欠乏症による甲状腺腫を激減させることにつながった。ボストン・デイリー・グローブ紙はこの頃、アクロンをSummitCity(頂点の街)と呼んだ。", "qas": [ { "question": "ジャーナリストは何年にアクロン・トイ・カンパニーを設立したか。", "id": "tr-007-03-000", "answers": [ { "text": "1883年", "answer_start": 130, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "SummitCity(頂点の街)ってどの都市を指すの?", "id": "tr-007-03-001", "answers": [ { "text": "アクロン", "answer_start": 540, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アメリカ合衆国においてトラック運送業が生まれた頃、アクロンはRubberCapitaloftheWorld(世界のゴムの都)と呼ばれた。1870年に創業したグッドリッチを皮切りに、1898年創業のグッドイヤー、1900年創立のファイアストン(現ブリヂストン傘下、ブリヂストン・アメリカズ)、そして1915年創立のゼネラルタイヤ(現コンチネンタルタイヤ)と、4社のタイヤメーカーが相次いで創業し、本社をアクロンに置いた。これらのタイヤメーカーは膨れ上がった住宅需要に応えて住宅地を開発し、労働者用の安価な住宅を建てた。グッドイヤーの創業社長、フランク・セイバーリングは自社従業員用の住宅を建てるべく、グッドイヤー・ハイツ地区を開発した。同様に、ハーベイ・ファイアストンはファイアストン・パーク地区を開発した。\n\n1917年、グッドイヤーは子会社グッドイヤー・ツェッペリンを創立し、ツェッペリン型飛行船の建造を開始した。同社の建造した飛行船はまず、第一次世界大戦において敵地の爆撃および偵察に用いられたが、その一方で同社も自社製品の宣伝に用いていた。第二次世界大戦中には、同社は104隻の軍用飛行船を建造した。第二次世界大戦終結後は、同社の飛行船は専ら宣伝に用いられた。飛行船のうち1隻は当地にちなんでアクロンと命名された。", "qas": [ { "question": "アメリカでトラック運送業が生まれた頃、アクロンは何と呼ばれたの?", "id": "tr-007-04-000", "answers": [ { "text": "RubberCapitaloftheWorld(世界のゴムの都)", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "グッドリッチの創業年度はいつなの?", "id": "tr-007-04-001", "answers": [ { "text": "1870年", "answer_start": 68, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "グッドリッチの本社はどの都市にありますか。", "id": "tr-007-04-002", "answers": [ { "text": "アクロン", "answer_start": 200, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファイアストンとグッドイヤー・ツェッペリンと、どっちの方が創立が遅かった?", "id": "tr-007-04-003", "answers": [ { "text": "グッドイヤー・ツェッペリン", "answer_start": 371, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1910年代の10年間で、アクロンは人口増加率201.8%を記録し、全米で最も高い成長を遂げた都市となった。1920年の国勢調査では、アクロンの人口は208,435人を数え、全米で32位、州内ではトレド(243,164人、全米26位)やコロンバス(237,031人、全米28位)に肉薄した。当時のアクロンの人口の約1/3は移民、もしくはその子孫で、その中にはクラーク・ゲーブルもいた。1928年には、アクロンは住民投票の結果に基づいてケンモアを合併し、その人口をさらに増やした。\n\nしかし、工業都市としての高成長の陰で労働問題も起きた。劣悪な環境で、低賃金での労働を強いられていたアクロンのタイヤ工場労働者は、1935年にユナイテッド・ラバー・ワーカーズという労働組合を立ち上げた。翌1936年、グッドイヤーが賃金カットと増産の計画を発表すると、同社の労働者はこれへの抗議として、工場内での座り込みによるストライキを行った。工場を占拠されたため、いわゆる「スト破り」の労働者を臨時に雇って生産を続けることもできず、経営側は工場施設の破壊を恐れて警備員を派遣することにも消極的にならざるを得なかった。市長は警察を動員して事態の収拾を図ったが、警官が出動を拒否した。やがて、グッドイヤーはユナイテッド・ラバー・ワーカーズを認め、より労働者側に有利な条件での労使交渉に臨まざるを得なくなった。", "qas": [ { "question": "アクロンが住民投票の結果に基づいてケンモアを合併したのは何年のこと?", "id": "tr-007-05-000", "answers": [ { "text": "1928年", "answer_start": 192, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "グッドイヤーが賃金カットと増産の計画を発表したのは何年のことですか。", "id": "tr-007-05-001", "answers": [ { "text": "1936年", "answer_start": 342, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第二次世界大戦後の1950年代、モータリゼーションに伴うタイヤの需要増加で、アクロンは20世紀前半に比較するとその速度は鈍化したもののさらに成長し、1960年には人口290,351人でピークに達した。しかし、その後はラストベルト内に位置する他の多くの工業都市と同様に、アクロンは衰退し、人口は減少に転じていった。アクロンの地域経済を支えたタイヤ製造業も、買収などによってアクロンの街を去り、21世紀に入るまでアクロンに残ったのはグッドイヤーただ1社のみとなった。\n\n\n\nしかし、タイヤ製造業はアクロンの街に研究インフラという遺産を残した。この研究インフラの存在によって、アクロンはタイヤやプラスチックのみならず、潤滑剤や超強力繊維、液晶ディスプレイにも応用される、ポリマーの街へと変貌を遂げている。21世紀に入り、アクロンは400社のポリマー関連企業が集中する「ポリマー・バレー」の中心都市となり、アクロンの市域内だけでも94社が立地している。アクロン大学のキャンパス内にはグッドイヤー・ポリマー・センターが立地し、研究者がハイテク分野への応用を目指して研究を進めている。\nまた、2007年には、アメリカ合衆国の都市としては初めて、アクロンはドイツのシュマック・バイオガス社と共同で、下水道のヘドロからバイオガスを生成し、発電する施設が建てられた。この施設で生成されたバイオガスはメタンを約60%、二酸化炭素を約35%含んでいる。\n\n2008年には、アクロンは3度目の全米都市賞を受賞し、これを契機にCityofInvention(発明の街)と呼ばれるようになった。2008-12年にかけては、長年の工業都市化の間に自浄能力を失い、「ドブ川」化し、下流のカヤホガ川の水質悪化の元凶ともなっていたリトル・カヤホガ川の改修が行われ、水質が改善した。しかしその一方で、4年制大学はおろか、コミュニティ・カレッジやテクニカル・カレッジの卒業率すら低く、技能のある労働者が不足しているなど、問題も抱えている。", "qas": [ { "question": "1960年のアクロンの人口は何人でしたか。", "id": "tr-007-06-000", "answers": [ { "text": "290,351人", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカ合衆国の都市としては初めて、ドイツのシュマック・バイオガス社と共同で、下水道のヘドロからバイオガスを生成し、発電する施設を建てたところはどこなの?", "id": "tr-007-06-001", "answers": [ { "text": "アクロン", "answer_start": 516, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2008年には、アクロンは3度目の全米都市賞を受賞したことで、何と呼ばれるようになったか。", "id": "tr-007-06-002", "answers": [ { "text": "CityofInvention(発明の街)", "answer_start": 650, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アクロンは北緯41度4分23秒西経81度31分4秒に位置している。市は五大湖地域のオハイオ州北東部、エリー湖岸からは南へ約63km、州北東部の中心都市であるクリーブランドからは南へ約55kmである。\n\nアメリカ合衆国国勢調査局によると、アクロン市は総面積161.54km2である。そのうち160.66km2が陸地で0.88km2が水域である。総面積の0.55%が水域となっている。市域はアルゲイニー台地の西縁に位置しており、その地形は起伏に富んでいるため、標高は地域によって異なるが、ダウンタウンの標高は306mである。", "qas": [ { "question": "アメリカ合衆国国勢調査局によると、アクロン市の総面積は何km2ですか。", "id": "tr-007-07-000", "answers": [ { "text": "161.54km2", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アクロン市のダウンタウンの標高は何mなの?", "id": "tr-007-07-001", "answers": [ { "text": "306m", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アクロンの気候は四季がはっきりしており、特に冬の厳しい寒さと降雪に特徴付けられる、大陸性の気候である。最も暑い7月の平均気温は約22°C、最高気温の平均は約28°Cで、日中32°Cを超えることは平年で月に1-2日程度である。最も寒い1月の平均気温は氷点下3°C、最低気温の平均は氷点下7°Cで、月のほとんどの日は気温が氷点下に下がる。降水量は1年を通じてほぼ平均しており、月間70-110mm程度であるが、冬季の1月・2月はやや少なく、月間55-65mm程度である。年間降水量は1,000mm程度である。また、冬季の12月から3月にかけての月間降雪量は20-27cm、年間降雪量は120cmに達する。ケッペンの気候区分では、アクロンは中西部の大部分に分布する亜寒帯湿潤気候に属する。", "qas": [ { "question": "アクロン市が最も暑いのは何月ですか。", "id": "tr-007-08-000", "answers": [ { "text": "7月", "answer_start": 55, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アクロン市が最も寒いのは何月ですか。", "id": "tr-007-08-001", "answers": [ { "text": "1月", "answer_start": 116, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アクロンの年間降水量は何mm程度なの?", "id": "tr-007-08-002", "answers": [ { "text": "1,000mm程度", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アクロンの年間降雪量は何cmに達しますか。", "id": "tr-007-08-003", "answers": [ { "text": "120cm", "answer_start": 290, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アクロンのダウンタウンは西に州道59号線、東に州道8号線、北にリトル・カヤホガ川、南に州間高速道路I-76/77に囲まれた地域に形成されている。起伏に富む地形のため、アクロンの街路はダウンタウンにおいても複雑に入り組んでいる。ダウンタウンにおいて東西に通る通りはメイン・ストリートを境に西(W)と東(E)に、また南北に通る通りはマーケット・ストリートを境に北(N)と南(S)に分かれている。ダウンタウンの東側にはアクロン大学のキャンパスが広がっている。\n\nアクロンで最も高い建物は、ダウンタウンのミル・ストリートとメイン・ストリートの南東角に建つ、高さ100.6m、27階建てのファーストメリット・タワーである。このアール・デコ様式の超高層ビルは1931年に完成した。ファーストメリット・タワーは、2007年に国家歴史登録財に登録された。", "qas": [ { "question": "アクロンで一番高い建物は何?", "id": "tr-007-09-000", "answers": [ { "text": "ファーストメリット・タワー", "answer_start": 289, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ファーストメリット・タワーは何年に完成したか。", "id": "tr-007-09-001", "answers": [ { "text": "1931年", "answer_start": 323, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ファーストメリット・タワーは、何年に国家歴史登録財に登録されたか。", "id": "tr-007-09-002", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 349, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アクロンは市長制を採っている。市長は市の公式な長であると同時に行政の最高責任者であり、1)市議会の採択した法令・条例の施行、2)予算案の作成および市議会への提出、3)市の財政状況および要望の市議会への報告、4)市職員の任命および罷免、5)市政府各局の管理・監督、6)市が関与している、もしくは契約している事項についての条件の閲覧、および7)条例の導入およびその議論への参加について権利を有し、また義務を負う。市長は全市からの選挙で選出され、その任期は4年である。多選には特に制限は設けられておらず、例えば、1987年に市長に就任したドナルド・プラスケリックは7選し、2015年5月31日に辞任するまで、28年間にわたって市長を務めた。\n\n市の立法機関である市議会は13人の議員から成っている。そのうち10人は市を10区にわけた小選挙区から1人ずつ選出され、残りの3人は全市から選出される。市議会議長は議員の中から選出される。また、書記官は市議員とは別に、市議会によって任命される。小選挙区選出、全市選出のいずれであっても、市議員の任期は4年である。", "qas": [ { "question": "ドナルド・プラスケリックは何年間市長を務めたか。", "id": "tr-007-10-000", "answers": [ { "text": "28年間", "answer_start": 301, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アクロンの市議会は何人の議員から成っているか。", "id": "tr-007-10-001", "answers": [ { "text": "13人", "answer_start": 332, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アクロンの市議員の任期は何年?", "id": "tr-007-10-002", "answers": [ { "text": "4年", "answer_start": 468, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アクロンにはフォーチュン500に入る企業2社、グッドイヤーおよびファーストエナジーが本社を置いている。グッドイヤーはアクロンのみならず、アメリカ合衆国を代表する、そしてブリヂストンおよびミシュランと共に世界3大に数えられるタイヤメーカーで、1999年10月まではダウ工業株30種平均の構成銘柄の1つでもあった。20世紀中盤までアクロンの地域経済を共に支え、アクロンを「世界のゴムの都」と呼ばせしめた他のタイヤメーカーが買収や移転で次々とアクロンを去る中で、同社はただ1社アクロンに残った。同社は2013年、老朽化した本社旧社屋からI-76を隔てた南側に新社屋を建て、移転した。\nファーストエナジーは1997年にオハイオ・エジソンがセンテリアを吸収合併したことにより設立された電力会社で、その後GPUとアルゲイニーエナジーを合併して全米最大の電力会社となった。また、同社はダウ公共株15種を構成する銘柄の1つでもある。同社はその傘下に10社の電力会社を持っており、オハイオ州をはじめ、ペンシルベニア、ウェストバージニア,、バージニア、メリーランド、ニュージャージー、およびニューヨークの7州にまたがる、170,000km2を超える地域に600万棟以上の顧客を持っている。", "qas": [ { "question": "グッドイヤーの本社はどの都市に位置しているか。", "id": "tr-007-11-000", "answers": [ { "text": "アクロン", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファーストエナジーはオハイオ・エジソンがどんな会社を吸収合併したことで設立された会社なの?", "id": "tr-007-11-001", "answers": [ { "text": "センテリア", "answer_start": 315, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アクロンは地域の医療の中心地にもなっている。ダウンタウンの東に立地するアクロン・シティ病院から、州道8号線を隔てた西側に広がるアクロン大学のキャンパス、そのすぐ西に立地するアクロン小児病院、そしてそのさらに西、州道59号線沿いに立地するアクロン総合医療センターを結ぶ線は、市当局が2010年にBiomedicalCorridorと定めており、医療や関連する研究開発および人材育成に地区内の土地、建物や施設を用いることを奨励している。\n\n1914年に開院したアクロン総合医療センターは、もともと州内で10位以内に入る評価を受けている病院であった。2015年、同院を持つ医療法人、アクロン総合保健システムは、全米でも5本の指に入る評価を受けている病院、クリーブランド・クリニックの傘下に入った。", "qas": [ { "question": "アクロン総合医療センターは何年に開院したの。", "id": "tr-007-12-000", "answers": [ { "text": "1914年", "answer_start": 218, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アクロン小児病院は1890年に保育園として始まったが、やがて州北東部最大の小児科専門病院へと発展していった。1974年、同院の医師ハワード・イーゲルおよびアーロン・フリーマンは、世界で初めて、火傷の治療に用いるための人間の皮膚を実験室で培養することに成功した。同院はUSニューズ&ワールド・レポート誌の病院ランキングでは、7つの診療分野で全米50位以内に入る評価を受けている。\n\nアクロン・シティ病院は1892年に開院した病院で、現在では重傷の患者に対し24時間体制で救急医療を施すことのできる、レベルIのトラウマ・センターに指定されている。一方、セント・トーマス病院はカトリックのクリーブランド司教区の婦人会衆、シスターズ・オブ・チャリティーズ・オブ・セント・オーガスティンが1922年に設立した病院である。同院は全米で初めて、アルコール依存症を疾患として認め、その治療を始めた病院で、アルコホーリクス・アノニマスの発祥の地でもある。両院は1989年に合併し、サンマ保健システムとなった。同システムはその後、南西郊のバーバートンに立地するバーバートン病院を加え、バイブラ・ヘルスケアとの合弁でアクロン・シティ病院の東隣にリハビリテーション病院を、またウェスタン・リザーブ病院パートナーズとの合弁でカヤホガフォールズにウェスタン・リザーブ病院をそれぞれ開院した。", "qas": [ { "question": "アクロン・シティ病院は何年に開院したの?", "id": "tr-007-13-000", "answers": [ { "text": "1892年", "answer_start": 201, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "セント・トーマス病院は誰が設立したの?", "id": "tr-007-13-001", "answers": [ { "text": "シスターズ・オブ・チャリティーズ・オブ・セント・オーガスティン", "answer_start": 307, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカで初めて、アルコール依存症を疾患として認め、その治療を始めた病院はどこですか。", "id": "tr-007-13-002", "answers": [ { "text": "セント・トーマス病院", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "世界で初めて、火傷の治療に用いるための人間の皮膚を実験室で培養することに成功した人はハワード・イーゲルと誰?", "id": "tr-007-13-003", "answers": [ { "text": "アーロン・フリーマン", "answer_start": 77, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アクロン美術館はダウンタウン、ハイ・ストリートとマーケット・ストリートの南東角に立地している。同館は1922年に、ギャラリーと芸術教室を兼ねたアクロン・アート・インスティテュートとしてアクロン・サミット郡公立図書館旧館の地下で開館した。その後1960年代以降、芸術教室よりも美術品の収集に力を入れるようになり、1980年にアクロン美術館に改称、翌1981年には改装された旧郵便局に移転し、2007年にはジョン・S・アンド・ジェームズ・L・ナイト・ビルディングを加えて増床した。2015年には、同館南側のオープン・スペースに野外ギャラリーでもあるバド・アンド・スージー・ロジャース・ガーデンという庭園が開園した。同館の収蔵品は年代的には1850年代から2000年代まで、ジャンル的には風景画・肖像画から抽象画・ポップアートまで、そして絵画・写真・彫刻・版画と多岐にわたっており、館内のみならずオンラインでも展示・公開している。", "qas": [ { "question": "アクロン美術館は何年に開館したの?", "id": "tr-007-14-000", "answers": [ { "text": "1922年", "answer_start": 50, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アクロン・アート・インスティテュートがアクロン美術館に改称したのは何年のことですか。", "id": "tr-007-14-001", "answers": [ { "text": "1980年", "answer_start": 155, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "E・J・トーマス演技芸術ホールはアクロン大学のキャンパス内に立地している。このホールは1973年にアクロン大学と地元有志によって建てられたもので、同学の学生および教職員が利用するほか、地元オーケストラのアクロン交響楽団の本拠地にもなっている。このホールは3階層に分かれて配置された2,955席を有し、年間集客数40万人を数える。\n\nダウンタウンのチャーチ・ストリートとメイン・ストリートの突き当たりにはアクロン・シビック・シアターが立地している。この劇場は1929年にマーカス・ロウによって建てられ、当初はロウズ・シアターと呼ばれた。2001年6月から翌2002年11月にかけては、老朽化した施設の全面的な改修が行われた。アクロン・シビック・シアターは、1973年に国家歴史登録財に登録された。\n\nまた、アクロン・シビック・シアターの南西に隣接する第3閘門公園には野外劇場があり、メモリアル・デーからレイバー・デーまでの夏季期間中、80以上のコンサートなどのイベントが行われる。", "qas": [ { "question": "E・J・トーマス演技芸術ホールはどの大学の中に位置しているか。", "id": "tr-007-15-000", "answers": [ { "text": "アクロン大学", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アクロン・シビック・シアターは誰によって建てられたか。", "id": "tr-007-15-001", "answers": [ { "text": "マーカス・ロウ", "answer_start": 234, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アクロン・シビック・シアターは1973年、何に登録されたか。", "id": "tr-007-15-002", "answers": [ { "text": "国家歴史登録財", "answer_start": 333, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "現代アメリカ合衆国の食文化を代表するもののいくつかはアクロンで生まれた。1851年にドイツからアクロンに移入したフェルディナント・シューマッハーは、この地で雑貨屋を始めたが、その商品のうちの1つであるオーツ麦だけはどうしても売れ行きを伸ばすことができなかった。というのも、当時のこの地においては、オーツ麦は人間の食糧としてではなく、家畜の餌として栽培されていたに過ぎなかったからであった。そこでシューマッハーは1854年、オーツ麦を砕いて、1オンスの正方形に成形した。これがオートミール、ひいてはシリアル食品の誕生であった。こうして食べやすくしたオーツ麦は瞬く間に広がり、1856年には工場を買収して大量生産を始め、南北戦争時には北軍の食糧にもなり、オーツ麦の需要は膨れ上がった。終戦後、シューマッハーの更なる研究によってオーツ麦のフレークも生みだされ、全米でヒット商品になった。やがてシューマッハーは、クエーカーオーツカンパニーの前身の1つであるアメリカン・シリアル・カンパニーの初代社長に就任した。", "qas": [ { "question": "フェルディナント・シューマッハーはどの国からアクロンに移入したの?", "id": "tr-007-16-000", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 42, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シューマッハーは、どの会社の初代社長に就任したか。", "id": "tr-007-16-001", "answers": [ { "text": "アメリカン・シリアル・カンパニー", "answer_start": 424, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1885年、チャールズとフランクのメンチズ兄弟は、ニューヨーク州西端のエリー郡、バッファロー南郊のハンバーグ村で開かれたエリー・カウンティ・フェアでソーセージパティをはさんだサンドイッチを調理・販売していたところ、ソーセージパティが足りなくなり、しかし地元の精肉店でも豚挽肉を調達できなくなって、仕方なく、当時は格が下がるとされた牛挽肉を使い、味を調えるためにコーヒーの粉末やブラウン・シュガーを入れたパティを焼き、はさんで出したところ、これが好評となった。フランクが客から料理名を尋ねられた時に、見上げたバナーに記されていたハンバーグという村の名から、とっさに「ハンバーガー」と答えた。これがハンバーガーの始まりだとしているのがアクロン説である。このことから、アクロンでは毎年8月中旬に、第3閘門公園で全米ハンバーガー祭が開かれる。毎年2万人以上が来場するこのイベントでは、出店したハンバーガー店が腕を競い合うほか、10分の制限時間内にどれだけハンバーガーを食べられるかを競うハンバーガー大食いコンテスト、ケチャップで満たされたビニールプールの中からハンバーガーを口のみでつかみ取りするボビング・フォー・バーガーズ、ハンバーガー・フェスティバル・クイーン・ページェントというミス・コンテストなどのコンテストや、コンサートが行われる。", "qas": [ { "question": "全米ハンバーガー祭は何月に開催されますか。", "id": "tr-007-17-000", "answers": [ { "text": "8月", "answer_start": 339, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "日本語", "paragraphs": [ { "context": "日本語(にほんご、にっぽんご)は、主に日本国内や日本人同士の間で使用されている言語である。\n\n日本は法令によって公用語を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令において日本語を用いることが規定され、学校教育においては「国語」として学習を課されるなど、事実上、唯一の公用語となっている。\n\n使用人口について正確な統計はないが、日本国内の人口、および日本国外に住む日本人や日系人、日本がかつて統治した地域の一部住民など、約1億3千万人以上と考えられている。統計によって前後する場合もあるが、この数は世界の母語話者数で上位10位以内に入る人数である。\n\n日本で生まれ育ったほとんどの人は、日本語を母語とする。日本語の文法体系や音韻体系を反映する手話として日本語対応手話がある。\n\n2019年4月現在、インターネット上の言語使用者数は、英語、中国語、スペイン語、アラビア語、ポルトガル語、マレー語、フランス語に次いで8番目に多い。", "qas": [ { "question": "2019年4月時点で、インターネット上の言語使用者数はランキングで日本語は何番めですか?", "id": "tr-008-00-000", "answers": [ { "text": "8番目", "answer_start": 418, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2019年4月時点で、インターネット上の言語使用者数で3位にある言語は何ですか?", "id": "tr-008-00-001", "answers": [ { "text": "スペイン語", "answer_start": 385, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "日本語の音韻は、「っ」「ん」を除いて母音で終わる開音節言語の性格が強く、また標準語(共通語)を含め多くの方言がモーラを持つ。アクセントは高低アクセントである。\n\nなお元来の古い大和言葉では、原則として\n\n「ら行」音が語頭に立たない(しりとり遊びで『ら行』で始まる言葉が見つけにくいのはこのため。『らく(楽)』『らっぱ』『りんご』『れい(礼)』などは大和言葉でない)、\n濁音が語頭に立たない(『だ(抱)く』『どれ』『ば(場)』『ばら(薔薇)』などは後世の変化)、\n同一語根内に母音が連続しない(『あお(青)』『かい(貝)』は古くは『あを/awo/』,『かひ/kapi/』)\nなどの特徴があった。\n\n文は、「主語・修飾語・述語」の語順で構成される。修飾語は被修飾語の前に位置する。また、名詞の格を示すためには、語順や語尾を変化させるのでなく、文法的な機能を示す機能語(助詞)を後ろに付け加える(膠着させる)。これらのことから、言語類型論上は、語順の点ではSOV型の言語に、形態の点では膠着語に分類される。", "qas": [ { "question": "「っ」と共に日本語で母音で終わらない文字は何ですか?", "id": "tr-008-01-000", "answers": [ { "text": "「ん」", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本語の文法上、修飾語の位置は?", "id": "tr-008-01-001", "answers": [ { "text": "被修飾語の前", "answer_start": 326, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大和言葉の原則として語頭に立てないのは何行の音ですか?", "id": "tr-008-01-002", "answers": [ { "text": "「ら行」", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "「日本語」の範囲を本土方言のみとした場合、琉球語が日本語と同系統の言語になり両者は日本語族を形成する。いっぽう琉球語(琉球方言)も含めて日本語とする場合は、日本語は孤立した言語となる。\n\n日本語(族)の系統は明らかでなく、解明される目途も立っていない。言語学・音韻論などの総合的な結論は『孤立した言語』である。しかし、いくつかの理論仮説があり、いまだ総意を得るに至っていない。\n\nアルタイ諸語に属するとする説は、明治時代末から特に注目されてきた。その根拠として、古代の日本語(大和言葉)において語頭にr音(流音)が立たないこと、一種の母音調和が見られることなどが挙げられる。ただし、アルタイ諸語に属するとされるそれぞれの言語自体、互いの親族関係が証明されているわけではなく、したがって、古代日本語に上記の特徴が見られることは、日本語が類型として「アルタイ型」の言語であるという以上の意味をもたない。\n\n南方系のオーストロネシア語族とは、音韻体系や語彙に関する類似も指摘されているが、語例は十分ではなく、推定・不確定の例を多く含む。\n\nドラヴィダ語族との関係を主張する説もあるが、これを認める研究者は少ない。大野晋は日本語が語彙・文法などの点でタミル語と共通点を持つとの説を唱えるが、比較言語学の方法上の問題から批判が多い。", "qas": [ { "question": "語頭にら行が立たないことを根拠に同じ語族とされる言語は?", "id": "tr-008-02-000", "answers": [ { "text": "アルタイ諸語", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "言語学・音韻論などの総合的な結論によると、日本語に含まれることとなる言語はどれですか?", "id": "tr-008-02-001", "answers": [ { "text": "琉球語", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "大野晋が主張した日本語と関係をもつ語族とは何を示すものか?", "id": "tr-008-02-002", "answers": [ { "text": "ドラヴィダ語族", "answer_start": 467, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アイヌ語は、語順(SOV語順)において日本語と似るものの、文法・形態は類型論的に異なる抱合語に属し、音韻構造も有声・無声の区別がなく閉音節が多いなどの相違がある。基礎語彙の類似に関する指摘もあるが、例は不充分である。一般に似ているとされる語の中には、日本語からアイヌ語への借用語が多く含まれるとみられる。目下のところは系統的関連性を示す材料は乏しい。\n\n朝鮮語は、文法構造に類似点が多いものの、基礎語彙が大きく相違する。音韻の面では、固有語において語頭に流音が立たないこと、一種の母音調和が見られることなど、上述のアルタイ諸語と共通の類似点がある一方で、閉音節や子音連結が存在する、有声・無声の区別が無いなど、大きな相違もある。朝鮮半島の死語である高句麗語とは、数詞など似る語彙もあるといわれるが、高句麗語の実態はほとんど分かっておらず、現時点では系統論上の判断材料にはなりがたい。\n\nまた、レプチャ語・ヘブライ語などとの同系論も過去に存在したが、ほとんど偽言語比較論の範疇に収まる。\n\n琉球列島(旧琉球王国領域)の言葉は、日本語の一方言(琉球方言)とする場合と、日本語と系統を同じくする別言語(琉球語ないしは琉球諸語)とし、日本語とまとめて日本語族とする意見があるが、研究者や機関によって見解が分かれる。", "qas": [ { "question": "アイヌ語がもつ日本語との類似点とは何を示すものなのか?", "id": "tr-008-03-000", "answers": [ { "text": "語順", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本語にはあって、アイヌ語にはないものは何ですか?", "id": "tr-008-03-001", "answers": [ { "text": "有声・無声の区別", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "数詞など似る語彙もあるといわれる朝鮮半島の言語は何ですか?", "id": "tr-008-03-002", "answers": [ { "text": "高句麗語", "answer_start": 324, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "日本語話者は普通、「いっぽん(一本)」という語を、「い・っ・ぽ・ん」の4単位と捉えている。音節ごとにまとめるならば[ip̚.poɴ]のように2単位となるところであるが、音韻的な捉え方はこれと異なる。音声学上の単位である音節とは区別して、音韻論では「い・っ・ぽ・ん」のような単位のことをモーラ(拍)と称している。\n\n日本語のモーラは、大体は仮名に即して体系化することができる。「いっぽん」と「まったく」は、音声学上は[ip̚poɴ][mat̚takɯ]であって共通する単音がないが、日本語話者は「っ」という共通のモーラを見出す。また、「ん」は、音声学上は後続の音によって[ɴ][m][n][ŋ]などと変化するが、日本語の話者自らは同一音と認識しているので、音韻論上は1種類のモーラとなる。\n\n日本語では、ほとんどのモーラが母音で終わっている。それゆえに日本語は開音節言語の性格が強いということができる。もっとも、特殊モーラの「っ」「ん」には母音が含まれない。\n\nモーラの種類は、以下に示すように111程度存在する。ただし、研究者により数え方が少しずつ異なる。「が行」の音は、語中語尾では鼻音(いわゆる鼻濁音)の「か゚行」音となる場合があるが、「が行」と「か゚行」との違いは何ら弁別の機能を提供せず、単なる異音どうしに過ぎない。そこで、「か゚行」を除外して数える場合、モーラの数は103程度となる。これ以外に、「外来語の表記」第1表にもある「シェ」「チェ」「ツァ・ツェ・ツォ」「ティ」「ファ・フィ・フェ・フォ」その他の外来音を含める場合は、さらにまた数が変わってくる。このほか、外来語の表記において用いられる「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」については、バ行として発音されることが多いものの、独立した音韻として発音されることもあり、これらを含めるとさらに増えることとなる。", "qas": [ { "question": "「一本」という語を4単位で捉えるのは何を基準にした捉え方ですか?", "id": "tr-008-04-000", "answers": [ { "text": "音韻", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "音韻論で音を数える単位は何ですか?", "id": "tr-008-04-001", "answers": [ { "text": "モーラ", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "外来語の表記を含まず、「か行」を含めて数える日本語のモーラの種類は何種類なんすか?", "id": "tr-008-04-002", "answers": [ { "text": "111程度", "answer_start": 446, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "日本語は、一部の方言を除いて、音(ピッチ)の上下による高低アクセントを持っている。アクセントは語ごとに決まっており、モーラ(拍)単位で高低が定まる。同音語をアクセントによって区別できる場合も少なくない。たとえば東京方言の場合、「雨」「飴」はそれぞれ「ア\\メ」(頭高型)、「ア/メ」(平板型)と異なったアクセントで発音される(/を音の上昇、\\を音の下降とする)。「が」「に」「を」などの助詞は固有のアクセントがなく、直前に来る名詞によって助詞の高低が決まる。たとえば「箸」「橋」「端」は、単独ではそれぞれ「ハ\\シ」「ハ/シ」「ハ/シ」となるが、後ろに「が」「に」「を」などの助詞が付く場合、それぞれ「ハ\\シガ」「ハ/シ\\ガ」「ハ/シガ」となる。\n\n共通語のアクセントでは、単語の中で音の下がる場所があるか、あるならば何モーラ目の直後に下がるかを弁別する。音が下がるところを下がり目またはアクセントの滝といい、音が下がる直前のモーラをアクセント核または下げ核という。たとえば「箸」は第1拍、「橋」は第2拍にアクセント核があり、「端」にはアクセント核がない。アクセント核は1つの単語には1箇所もないか1箇所だけあるかのいずれかであり、一度下がった場合は単語内で再び上がることはない。アクセント核を○!で表すと、2拍語には○○(核なし)、○!○、○○!の3種類、3拍語には○○○、○!○○、○○!○、○○○!の4種類のアクセントがあり、拍数が増えるにつれてアクセントの型の種類も増える。アクセント核が存在しないものを平板型といい、第1拍にアクセント核があるものを頭高型、最後の拍にあるものを尾高型、第1拍と最後の拍の間にあるものを中高型という。頭高型・中高型・尾高型をまとめて起伏式または有核型と呼び、平板型を平板式または無核型と呼んで区別することもある。", "qas": [ { "question": "日本語の助詞のアクセントを決まるのは何ですか?", "id": "tr-008-05-000", "answers": [ { "text": "直前に来る名詞", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ア\\メと読むアメの漢字は何ですか?", "id": "tr-008-05-001", "answers": [ { "text": "雨", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "下がり目のもう1つの名前は何?", "id": "tr-008-05-002", "answers": [ { "text": "アクセントの滝", "answer_start": 392, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "平板型、頭高型、中高型、尾高型を全てもつ単語になるためには何拍以上である必要がありますか?", "id": "tr-008-05-003", "answers": [ { "text": "3拍", "answer_start": 577, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "また共通語のアクセントでは、単語や文節のみの形で発音した場合、「し/るしが」「た/ま\\ごが」のように1拍目から2拍目にかけて音の上昇がある(頭高型を除く)。しかしこの上昇は単語に固有のものではなく、文中では「あ/かいしるしが」「こ/のたま\\ごが」のように、区切らずに発音したひとまとまり(「句」と呼ぶ)の始めに上昇が現れる。この上昇を句音調と言い、句と句の切れ目を分かりやすくする機能を担っている。一方、アクセント核は単語に固定されており、「たまご」の「ま」の後の下がり目はなくなることがない。共通語の音調は、句の2拍目から上昇し(句の最初の単語が頭高型の場合は1拍目から上昇する)、アクセント核まで平らに進み、核の後で下がる。従って、句頭で「低低高高...」や「高高高高...」のような音調は現れない。アクセント辞典などでは、アクセントを「しるしが」「たま!ごが」のように表記する場合があるが、これは1文節を1つの句として発音するときのもので、句音調とアクセント核の両方を同時に表記したものである。", "qas": [ { "question": "単語や文節のみの形で発音した場合、1拍目から2拍目にかけて音の上昇するが、これを何と呼ぶのか?", "id": "tr-008-06-000", "answers": [ { "text": "句音調", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ある言語の語彙体系を見渡して、特定の分野の語彙が豊富であるとか、別の分野の語彙が貧弱であるとかを決めつけることは、一概にはできない。日本語でも、たとえば「自然を表す語彙が多いというのが定評」といわれるが、これは人々の直感から来る評判という意味以上のものではない。\n\n実際に、旧版『分類語彙表』によって分野ごとの語彙量の多寡を比べた結果によれば、名詞(体の類)のうち「人間活動―精神および行為」に属するものが27.0%、「抽象的関係」が18.3%、「自然物および自然現象」が10.0%などとなっていて、この限りでは「自然」よりも「精神」や「行為」などを表す語彙のほうが多いことになる。ただし、これも、他の言語と比較して多いということではなく、この結果がただちに日本語の語彙の特徴を示すことにはならない。", "qas": [ { "question": "旧版『分類語彙表』による「人間活動―精神および行為」に値する名詞が占める割合は?", "id": "tr-008-07-000", "answers": [ { "text": "27.0%", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "旧版『分類語彙表』による分類で名詞で一番数が多いのはどのカテゴリーですか?", "id": "tr-008-07-001", "answers": [ { "text": "「人間活動―精神および行為」", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "こうした中で、日本語に人称を表す語彙が多いことは注意を引く。たとえば、『類語大辞典』の「わたし」の項には「わたし・わたくし・あたし・あたくし・あたい・わし・わい・わて・我が輩・僕・おれ・おれ様・おいら・われ・わー・わん・朕・わっし・こちとら・自分・てまえ・小生・それがし・拙者・おら」などが並び、「あなた」の項には「あなた・あんた・きみ・おまえ・おめえ・おまえさん・てめえ・貴様・おのれ・われ・お宅・なんじ・おぬし・その方・貴君・貴兄・貴下・足下・貴公・貴女・貴殿・貴方(きほう)」などが並ぶ。\n\n上の事実は、現代英語の一人称・二人称代名詞がほぼ\"I\"と\"you\"のみであり、フランス語の一人称代名詞が\"je\"、二人称代名詞が\"tu\"\"vous\"のみ、またドイツ語の一人称代名詞が\"ich\"、二人称代名詞が\"du\"\"Sie\"\"ihr\"のみであることと比較すれば、特徴的ということができる。もっとも、日本語においても、本来の人称代名詞は、一人称に「ワ(レ)」「ア(レ)」、二人称に「ナ(レ)」があるのみである(但し『ナ』はもと一人称とも見られ、後述のこととも関係があるか)。今日、一・二人称同様に用いられる語は、その大部分が一般名詞からの転用である。一人称を示す「ぼく」や三人称を示す「彼女」などを、「ぼく、何歳?」「彼女、どこ行くの?」のように二人称に転用することが可能であるのも、日本語の人称語彙が一般名詞的であることの現れである。\n\nなお、敬意表現の観点から、目上に対しては二人称代名詞の使用が避けられる傾向がある。たとえば、「あなたは何時に出かけますか」とは言わず、「何時にいらっしゃいますか」のように言うことが普通である。", "qas": [ { "question": "フランス語、ドイツ語、英語の中で1・2人称が一番多い言語はどれですか?", "id": "tr-008-08-000", "answers": [ { "text": "ドイツ語", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本語の人称語彙はどういう性格を持っていますか?", "id": "tr-008-08-001", "answers": [ { "text": "一般名詞的", "answer_start": 600, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "敬意表現の観点で避けられる人称名詞は何ですか?", "id": "tr-008-08-002", "answers": [ { "text": "二人称代名詞", "answer_start": 639, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "また、音象徴語、いわゆるオノマトペの語彙量も日本語には豊富である(オノマトペの定義は一定しないが、ここでは、擬声語・擬音語のように耳に聞こえるものを写した語と、擬態語のように耳に聞こえない状態・様子などを写した語の総称として用いる)。\n\n擬声語は、人や動物が立てる声を写したものである(例、おぎゃあ・がおう・げらげら・にゃあにゃあ)。擬音語は、物音を写したものである(例、がたがた・がんがん・ちんちん・どんどん)。擬態語は、ものごとの様子や心理の動きなどを表したものである(例、きょろきょろ・すいすい・いらいら・わくわく)。擬態語の中で、心理を表す語を特に擬情語と称することもある。\n\nオノマトペ自体は多くの言語に存在する。たとえば猫の鳴き声は、英語で「mew」、ドイツ語で「miau」、フランス語で「miaou」、ロシア語で「мяу」、中国語で「喵喵」、朝鮮語で「야옹야옹」などである。しかしながら、その語彙量は言語によって異なる。日本語のオノマトペは欧米語や中国語の3倍から5倍存在するといわれ、とりわけ擬態語が多く使われるとされる。\n\n新たなオノマトペが作られることもある。「(心臓が)ばくばく」「がっつり(食べる)」などは、近年に作られた(広まった)オノマトペの例である。\n\n漫画などの媒体では、とりわけ自由にオノマトペが作られる。漫画家の手塚治虫は、漫画を英訳してもらったところ、「ドギューン」「シーン」などの語に翻訳者が「お手あげになってしまった」と記している。また、漫画出版社社長の堀淵清治も、アメリカで日本漫画を売るに当たり、独特の擬音を訳すのにスタッフが悩んだことを述べている。", "qas": [ { "question": "ものごとの様子や心理の動きなどを表したものは何?", "id": "tr-008-09-000", "answers": [ { "text": "擬態語", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "英語の「mew」に値する韓国語の表現は?", "id": "tr-008-09-001", "answers": [ { "text": "「야옹야옹」", "answer_start": 382, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ドギューン」「シーン」などのオノマトペで翻訳者を困らせた漫画家は誰ですか?", "id": "tr-008-09-002", "answers": [ { "text": "手塚治虫", "answer_start": 574, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日本語の語彙を品詞ごとにみると、圧倒的に多いものは名詞である。その残りのうちで比較的多いものは動詞である。『新選国語辞典』の収録語の場合、名詞が82.37%、動詞が9.09%、副詞が2.46%、形容動詞が2.02%、形容詞が1.24%となっている。\n\nこのうち、とりわけ目を引くのは形容詞の少なさである。かつて柳田國男はこの点を指摘して「形容詞饑饉」と称した。英語の場合、『オックスフォード英語辞典』第2版では、半分以上が名詞、約4分の1が形容詞、約7分の1が動詞ということであり、英語との比較の上からは、日本語の形容詞が僅少であることは特徴的といえる。\n\nただし、これは日本語で物事を形容することが難しいことを意味するものではない。品詞分類上の形容詞、すなわち「赤い」「楽しい」など「〜い」の形式を採る語が少ないということであって、他の形式による形容表現が多く存在する。「真っ赤だ」「きれいだ」など「〜だ」の形式を採る形容動詞(「〜的だ」を含む)、「初歩(の)」「酸性(の)」など「名詞(+の)」の形式、「目立つ(色)」「とがった(針)」「はやっている(店)」など動詞を基にした形式、「つまらない」「にえきらない」など否定助動詞「ない」を伴う形式などが形容表現に用いられる。\n\nもともと少ない形容詞を補う主要な形式は形容動詞である。漢語・外来語の輸入によって、「正確だ」「スマートだ」のような、漢語・外来語+「だ」の形式の形容動詞が増大した。上掲の『新選国語辞典』で名詞扱いになっている漢語・外来語のうちにも、形容動詞の用法を含むものが多数存在する。現代の二字漢語(「世界」「研究」「豊富」など)約2万1千語を調査した結果によれば、全体の63.7%が事物類(名詞に相当)、29.9%が動態類(動詞に相当)、7.3%が様態類(形容動詞に相当)、1.1%が副用類(副詞に相当)であり、二字漢語の7%程度が形容動詞として用いられていることが分かる。", "qas": [ { "question": "『新選国語辞典』の収録語で一番少ない品詞は何ですか?", "id": "tr-008-10-000", "answers": [ { "text": "形容詞", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本語の形容詞の少なさを指摘し、「形容詞饑饉」と言った人物の名は?", "id": "tr-008-10-001", "answers": [ { "text": "柳田國男", "answer_start": 155, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "現代の二字漢語約2万1千語を調査した結果によれば、一番多いカテゴリーは何ですか?", "id": "tr-008-10-002", "answers": [ { "text": "事物類", "answer_start": 726, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "日本語の語彙を出自から分類すれば、大きく、和語・漢語・外来語、およびそれらが混ざった混種語に分けられる。このように、出自によって分けた言葉の種類を「語種」という。和語は日本古来の大和言葉、漢語は中国渡来の漢字の音を用いた言葉、外来語は中国以外の他言語から取り入れた言葉である。もっとも、和語とされる「ウメ(梅)」「ウマ(馬)」「カミ(紙/簡)」「ヱ(絵/画)」などが元来中国語からの借用語であった可能性があるなど、語種の境界はときに曖昧である。\n\n和語は日本語の語彙の中核部分を占める。「これ」「それ」「きょう」「あす」「わたし」「あなた」「行く」「来る」「良い」「悪い」などのいわゆる基礎語彙はほとんど和語である。また、「て」「に」「を」「は」などの助詞や、助動詞の大部分など、文を組み立てるために必要な付属語も和語である。\n\n一方、抽象的な概念や、社会の発展に伴って新たに発生した概念を表すためには、漢語や外来語が多く用いられる。和語の名称がすでにある事物を漢語や外来語で言い換えることもある。「めし」を「御飯」「ライス」、「やどや」を「旅館」「ホテル」などと称するのはその例である。このような語種の異なる同義語には、微妙な意味・ニュアンスの差異が生まれ、とりわけ和語には易しい、または卑俗な印象、漢語には公的で重々しい印象、外来語には新しい印象が含まれることが多い。", "qas": [ { "question": "出自によって分けた言葉の種類を何と呼びますか?", "id": "tr-008-11-000", "answers": [ { "text": "「語種」", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "良いの語種は何ですか?", "id": "tr-008-11-001", "answers": [ { "text": "和語", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「めし」を漢語に言い換えればどうなりますか?", "id": "tr-008-11-002", "answers": [ { "text": "「御飯」", "answer_start": 454, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「やどや」を外来語で呼べば何?", "id": "tr-008-11-003", "answers": [ { "text": "「ホテル」", "answer_start": 474, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "一般に、和語の意味は広く、漢語の意味は狭いといわれる。たとえば、「しづむ(しずめる)」という1語の和語に、「沈」「鎮」「静」など複数の漢語の造語成分が相当する。「しづむ」の含む多様な意味は、「沈む」「鎮む」「静む」などと漢字を用いて書き分けるようになり、その結果、これらの「しづむ」が別々の語と意識されるまでになった。2字以上の漢字が組み合わさった漢語の表す意味はとりわけ分析的である。たとえば、「弱」という造語成分は、「脆」「貧」「軟」「薄」などの成分と結合することにより、「脆弱」「貧弱」「軟弱」「薄弱」のように分析的・説明的な単語を作る。\n\n漢語は、「学問」「世界」「博士」などのように、古く中国から入ってきた語彙が大部分を占めるのは無論であるが、日本人が作った漢語(和製漢語)も古来多い。現代語としても、「国立」「改札」「着席」「挙式」「即答」「熱演」など多くの和製漢語が用いられている。漢語は音読みで読まれることから、字音語と呼ばれる場合もある。\n\n外来語は、もとの言語の意味のままで用いられるもの以外に、日本語に入ってから独自の意味変化を遂げるものが少なくない。英語の\"claim\"は「当然の権利として要求する」の意であるが、日本語の「クレーム」は「文句」の意である。英語の\"lunch\"は昼食の意であるが、日本の食堂で「ランチ」といえば料理の種類を指す。\n\n外来語を組み合わせて、「アイスキャンデー」「サイドミラー」「テーブルスピーチ」のように日本語独自の語が作られることがある。また、当該の語形が外国語にない「パネラー」(パネリストの意)「プレゼンテーター」(プレゼンテーションをする人。プレゼンター)などの語形が作られることもある。これらを総称して「和製洋語」、英語系の語を特に「和製英語」と言う。", "qas": [ { "question": "和語と漢語でより細かい意味を表すのに適してるものは何ですか?", "id": "tr-008-12-000", "answers": [ { "text": "漢語", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "プレゼンテーターを元の英語ではどう呼びますか?", "id": "tr-008-12-001", "answers": [ { "text": "プレゼンター", "answer_start": 702, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "日本語の語彙は、語構成の面からは単純語と複合語に分けることができる。単純語は、「あたま」「かお」「うえ」「した」「いぬ」「ねこ」のように、それ以上分けられないと意識される語である。複合語は、「あたまかず」「かおなじみ」「うわくちびる」「いぬずき」のように、いくつかの単純語が合わさってできていると意識される語である。なお、熟語と総称される漢語は、本来漢字の字音を複合させたものであるが、「えんぴつ(鉛筆)」「せかい(世界)」など、日本語において単純語と認識される語も多い。「語種」の節で触れた混種語、すなわち、「プロ野球」「草野球」「日本シリーズ」のように複数の語種が合わさった語は、語構成の面からはすべて複合語ということになる。\n\n日本語では、限りなく長い複合語を作ることが可能である。「平成十六年新潟県中越地震非常災害対策本部」「服部四郎先生定年退官記念論文集編集委員会」といった類も、ひとつの長い複合語である。国際協定の関税及び貿易に関する一般協定は、英語では「GeneralAgreementonTariffsandTrade」(関税と貿易に関する一般協定)であり、ひとつの句であるが、日本の新聞では「関税貿易一般協定」と複合語で表現することがある。これは漢字の結合力によるところが大きく、中国語・朝鮮語などでも同様の長い複合語を作る。なお、ヨーロッパ語を見ると、ロシア語では「человеконенавистничество」(人間嫌い)、ドイツ語では「Naturfarbenphotographie」(天然色写真)などの長い語の例を比較的多く有し、英語でも「antidisestablishmentarianism」(国教廃止条例反対論。英首相グラッドストンの造語という)などの語例がまれにある。", "qas": [ { "question": "限りなく長い複合語が作れる国は日本と韓国以外に何がありますか?", "id": "tr-008-13-000", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 549, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "鉛筆は日本語に置いて単純語と複合語のどちらへ分類されますか?", "id": "tr-008-13-001", "answers": [ { "text": "単純語", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "接辞は、複合語を作るために威力を発揮する。たとえば、「感」は、「音感」「語感」「距離感」「不安感」など漢字2字・3字からなる複合語のみならず、「透け感」「懐かし感」「しゃきっと感」「きちんと感」など動詞・形容詞・副詞との複合語を作り、さらには「『昔の名前で出ています』感」(=昔の名前で出ているという感じ)のように文であったものに下接して長い複合語を作ることもある。\n\n日本語の複合語は、難しい語でも、表記を見れば意味が分かる場合が多い。たとえば、英語の「apivorous」は生物学者にしか分からないのに対し、日本語の「蜂食性」は「蜂を食べる性質」であると推測できる。これは表記に漢字を用いる言語の特徴である。", "qas": [ { "question": "apivorousってどういう意味なの?", "id": "tr-008-14-000", "answers": [ { "text": "「蜂を食べる性質」", "answer_start": 266, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "日本語の敬語体系は、一般に、大きく尊敬語・謙譲語・丁寧語に分類される。文化審議会国語分科会は、2007年2月に「敬語の指針」を答申し、これに丁重語および美化語を含めた5分類を示している。\n\n尊敬語は、動作の主体を高めることで、主体への敬意を表す言い方である。動詞に「お(ご)〜になる」を付けた形、また、助動詞「(ら)れる」を付けた形などが用いられる。たとえば、動詞「取る」の尊敬形として、「(先生が)お取りになる」「(先生が)取られる」などが用いられる。\n\n語によっては、特定の尊敬語が対応するものもある。たとえば、「言う」の尊敬語は「おっしゃる」、「食べる」の尊敬語は「召し上がる」、「行く・来る・いる」の尊敬語は「いらっしゃる」である。\n\n謙譲語は、古代から基本的に動作の客体への敬意を表す言い方であり、現代では「動作の主体を低める」と解釈するほうがよい場合がある。動詞に「お〜する」「お〜いたします」(謙譲語+丁寧語)をつけた形などが用いられる。たとえば、「取る」の謙譲形として、「お取りする」などが用いられる。\n\n語によっては、特定の謙譲語が対応するものもある。たとえば、「言う」の謙譲語は「申し上げる」、「食べる」の謙譲語は「いただく」、「(相手の所に)行く」の謙譲語は「伺う」「参上する」「まいる」である。\n\nなお、「夜も更けてまいりました」の「まいり」など、謙譲表現のようでありながら、誰かを低めているわけではない表現がある。これは、「夜も更けてきた」という話題を丁重に表現することによって、聞き手への敬意を表すものである。宮地裕は、この表現に使われる語を、特に「丁重語」と称している。丁重語にはほかに「いたし(マス)」「申し(マス)」「存じ(マス)」「小生」「小社」「弊社」などがある。文化審議会の「敬語の指針」でも、「明日から海外へまいります」の「まいり」のように、相手とは関りのない自分側の動作を表現する言い方を丁重語としている。", "qas": [ { "question": "日本語で動作の主体を高めることで敬意を表現する方法は何ですか?", "id": "tr-008-15-000", "answers": [ { "text": "尊敬語", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「言う」に対応する尊敬語は何ですか?", "id": "tr-008-15-001", "answers": [ { "text": "「おっしゃる」", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「いただく」はどの言葉の謙譲語ですか?", "id": "tr-008-15-002", "answers": [ { "text": "「食べる」", "answer_start": 507, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "丁寧語は、文末を丁寧にすることで、聞き手への敬意を表すものである。動詞・形容詞の終止形で終わる常体に対して、名詞・形容動詞語幹などに「です」を付けた形(「学生です」「きれいです」)や、動詞に「ます」をつけた形(「行きます」「分かりました」)等の丁寧語を用いた文体を敬体という。\n\n一般に、目上の人には丁寧語を用い、同等・目下の人には丁寧語を用いないといわれる。しかし、実際の言語生活に照らして考えれば、これは事実ではない。母が子を叱るとき、「お母さんはもう知りませんよ」と丁寧語を用いる場合もある。丁寧語が用いられる多くの場合は、敬意や謝意の表現とされるが、稀に一歩引いた心理的な距離をとろうとする場合もある。\n\n「お弁当」「ご飯」などの「お」「ご」も、広い意味では丁寧語に含まれるが、宮地裕は特に「美化語」と称して区別する。相手への丁寧の意を示すというよりは、話し手が自分の言葉遣いに配慮した表現である。したがって、「お弁当食べようよ。」のように、丁寧体でない文でも美化語を用いることがある。文化審議会の「敬語の指針」でも「美化語」を設けている。", "qas": [ { "question": "敬体で動詞の丁寧表現は何ですか?", "id": "tr-008-16-000", "answers": [ { "text": "「ます」", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "丁寧語を敬意や謝意の表現する他に何を表現するために使います?", "id": "tr-008-16-001", "answers": [ { "text": "心理的な距離", "answer_start": 286, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本語で敬意を表現するためには、文法・語彙の敬語要素を知っているだけではなお不十分であり、時や場合など種々の要素に配慮した適切な表現が必要である。これを敬意表現(敬語表現)ということがある。\n\nたとえば、「課長もコーヒーをお飲みになりたいですか」は、尊敬表現「お飲みになる」を用いているが、敬意表現としては適切でない。日本語では相手の意向を直接的に聞くことは失礼に当たるからである。「コーヒーはいかがですか」のように言うのが適切である。第22期国語審議会(2000年)は、このような敬意表現の重要性を踏まえて、「現代社会における敬意表現」を答申した。\n\n婉曲表現の一部は、敬意表現としても用いられる。たとえば、相手に窓を開けてほしい場合は、命令表現によらずに、「窓を開けてくれる?」などと問いかけ表現を用いる。あるいは、「今日は暑いねえ」とだけ言って、窓を開けてほしい気持ちを含意することもある。\n\n日本人が商取引で「考えさせてもらいます」という場合は拒絶の意味であると言われる。英語でも\"Thankyouforinvitingme.\"(誘ってくれてありがとう)とは誘いを断る表現である。また、京都では、京都弁で帰りがけの客にその気がないのに「ぶぶづけでもあがっておいきやす」と愛想を言うとされる(出典は落語「京のぶぶづけ」「京の茶漬け」よるという)。これらは、相手の気分を害さないように工夫した表現という意味では、広義の敬意表現と呼ぶべきものであるが、その呼吸が分からない人との間に誤解を招くおそれもある。", "qas": [ { "question": "「課長もコーヒーをお飲みになりたいですか」は、尊敬表現「お飲みになる」が尊敬表現として適切ではない理由は?", "id": "tr-008-17-000", "answers": [ { "text": "日本語では相手の意向を直接的に聞くことは失礼に当たるから", "answer_start": 159, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "京都で帰りがけの客にいうとされる表現は何ですか?", "id": "tr-008-17-001", "answers": [ { "text": "「ぶぶづけでもあがっておいきやす」", "answer_start": 521, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第22期国語審議会は何年に開催されましたか?", "id": "tr-008-17-002", "answers": [ { "text": "2000年", "answer_start": 228, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "マーシア王国", "paragraphs": [ { "context": "マーシア王国(英語:KingdomofMercia)は、中世初期イングランドの七王国のひとつであるアングル人の王国である。7世紀中ごろから9世紀初頭にかけてイングランド中部で強い勢力をもち、特に8世紀にはふたりのブレトワルダ(上王、大王)を輩出した。マーシアとは「辺境の人々」を意味するMierceをラテン語化させた後世の呼び名である。", "qas": [ { "question": "中世初期イングランドには、いくつの王国が存在したの?", "id": "tr-009-00-000", "answers": [ { "text": "七王国", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マーシア王国がイングランド中部で強い勢力を持ったのは、いつからいつにかけてですか?", "id": "tr-009-00-001", "answers": [ { "text": "7世紀中ごろから9世紀初頭", "answer_start": 61, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マーシアは、何を意味する言葉から成り立った呼び名か?", "id": "tr-009-00-002", "answers": [ { "text": "辺境の人々", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マーシア王国がブレトワルダを二人も輩出したのは、何世紀のことか?", "id": "tr-009-00-003", "answers": [ { "text": "8世紀", "answer_start": 97, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "古代ローマの力が去った中世初期イングランドでは、ブリトン人と北方のピクト人・スコット人などとの間で勢力争いが激化していた。ブリトン人諸王国は古代ローマにならい、異民族をもって異民族にあたらせた。すなわち北欧・ユトランド半島のアングロサクソン人戦士団をイングランドに招き、雇い入れて戦力として使ったのである。しかしこのことによって、アングロサクソン戦士団はブリテン島が定住に適していることに気づいた。アングロサクソンの戦士団は独立勢力となって自らの王国を築き、ブリトン人と対立するようになった。いわば、ミイラ取りがミイラになる形であった。", "qas": [ { "question": "中世初期イングランドでは、どんな人々とピクト人・スコット人の間で激しい勢力争いが起こっていたの?", "id": "tr-009-01-000", "answers": [ { "text": "ブリトン人", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブリトン人諸王国は、どの半島に住んでいる人々をイングランドに招いましたか?", "id": "tr-009-01-001", "answers": [ { "text": "ユトランド半島", "answer_start": 104, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブリトン人諸王国から招かれてイングランドにやってきたが、そこに定住すると決め、独立勢力としてブリトン人諸王国に対抗したのは、どのような人々か?", "id": "tr-009-01-002", "answers": [ { "text": "アングロサクソン人戦士団", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この文書では、ブリトン人諸王国とアングロサクソン人戦士団の関係のことを何と表現しているか?", "id": "tr-009-01-003", "answers": [ { "text": "ミイラ取りがミイラになる形", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アングロサクソンの移民はふたつの波によってもたらされたとする考え方が現在支配的である。すなわち、まず戦士団がブリトン人の王に雇われるかたちで移入し、かれらが独立勢力となって土地を切り取り、つづいて大量の一般農民を招じ入れたとする過程である。一般農民の定住によって初めて、かれらはイングランドに根ざした勢力となりえた。", "qas": [ { "question": "戦士団と一般農民のうち、どの階級のアングロサクソン人がより早くイングランドにやってきたの?", "id": "tr-009-02-000", "answers": [ { "text": "戦士団", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イングランドにやってきたアングロサクソン人は、いくつの派に分けられますか?", "id": "tr-009-02-001", "answers": [ { "text": "ふたつ", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アングロサクソン時代のイングランドは七王国時代ともいわれるが、実際のところ存在した王国は100を超えると推定される。七王国と呼ばれるようになったのは、アングロサクソン年代記などによってあと付けされたためで、実際に七王国にあげられている諸王国とそうでない王国の間に確たる差があったわけではない。これらの王国は勢力争いを繰り広げたが、負けた王国は滅ぼされるわけではなく、勝利した側に臣従することによって一種のヒエラルキー構造をなしていた。この国どうしの臣従の慣習は、上位支配権もしくは宗主権(Overlordship)と呼ばれる。", "qas": [ { "question": "アングロサクソン時代のイングランドは、実際にいくつを超えるほど、多くの国が存在したと推定されるか?", "id": "tr-009-03-000", "answers": [ { "text": "100", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アングロサクソン時代のイングランドでは、上位支配権のほかに、何と呼ばれる、国どうしの臣従の慣習が存在しましたか?", "id": "tr-009-03-001", "answers": [ { "text": "宗主権", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アングル人・サクソン人は3ないし4の身分階級を有する階級社会であった。上位支配権によって臣従した小王国の王族出身であるエアルドルマンが支配階級となり、その従士たるイェシースやセインは土地所有階級だった。その耕地は一般農民チェオルルによって耕作されていたほか、奴隷も存在していた。奴隷は敗戦国の民衆や債務者などからなり、奴隷は有力な「交易商品」でもあった。アングル人の奴隷がローマで売買されていたという記録も残っている。エアルドルマンやイェシース・セインに並んで交易商人や聖職者も特権階級を形成しており、当時の記録のなかには「祈る者、戦う者、働く者」の3階級で社会を説明するものもある。", "qas": [ { "question": "エアルドルマンとイェシース、セインのうち、同じ階級と見なされないのは、どちらか?", "id": "tr-009-04-000", "answers": [ { "text": "エアルドルマン", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アングル人・サクソン人の身分階級では、一般農民のことは、何と呼んだか?", "id": "tr-009-04-001", "answers": [ { "text": "チェオルル", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アングル人・サクソン人の身分階級で、最低階層は、どのような人々か?", "id": "tr-009-04-002", "answers": [ { "text": "奴隷", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アングル人・サクソン人において、有力な交易商品であったのは、何か?", "id": "tr-009-04-003", "answers": [ { "text": "奴隷", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マーシアの地理的条件を望見すると、北にノーサンブリア王国、南にウェセックス王国、西にウェールズのケルト諸国といった難敵に囲まれた地域であり、マーシア王国自体の版図はさほど大きくない。むしろ7世紀以降、上位支配権を得た小王国によってマーシア王国の支配地域は成り立っており、したがってマーシア王国本体が弱体化すればこれら小王国は旗色を変えて他の強国につくこともあった。こうした小王国の奪い合い、さらには強国どうしの上位支配権争いが常態化していた。ほとんどの王国を上位支配権によって臣従させた王は、のちにブレトワルダとよばれ、マーシアから2人を輩出した。", "qas": [ { "question": "マーシア王国の周辺国には、ノーサンブリア王国とウェールズのケルト諸国のほかに、どの国があったの?", "id": "tr-009-05-000", "answers": [ { "text": "ウェセックス王国", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "七王国時代は、イングランドにキリスト教が復興した時代でもあった。ローマ帝国の衰退によって、ブリテン諸島はいったんはキリスト教の圏外となった。流入してきたアングロサクソン諸部族は当初ゲルマン神話に基づく信仰を有しており、キリスト教世界からみればイングランドは蛮族の地となっていた。スタフォードシャーのウェンズベリ(Wednesbury)は主神ウォウドゥン(Woden)(北欧神話のオーディン(Odin)に相当)の名に因むほか、英語の曜日名にもゲルマン神話の残滓が見られる。諸々の王国は次第にキリスト教に改宗していったが、マーシア王国は比較的遅くまでキリスト教に改宗しなかった。", "qas": [ { "question": "七王国時代は、イングランドにどの宗教が復興した時代でもありましたか?", "id": "tr-009-06-000", "answers": [ { "text": "キリスト教", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ローマ帝国が衰退していった時期のイングランドを、何の時代と呼ぶか?", "id": "tr-009-06-001", "answers": [ { "text": "七王国時代", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アングロサクソン諸部族は、当初何に基づく信仰を持っていたか?", "id": "tr-009-06-002", "answers": [ { "text": "ゲルマン神話", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "7世紀初頭はノーサンブリア王国が北のピクト人やスコット人、ウェールズのブリトン人などを圧迫して勢力を広げ、ブレトワルダの称号を得ていた。この時期の史料として歴史家ベーダが残したものが知られているが、ベーダ自身はノーサンブリア出身であり、マーシア王国とその王に関する記述は公平を欠くものと受け止められている。ベーダがマーシア王国をきらったのにはキリスト教に改宗していないという宗教的事情もあったが、それでもマーシア王国について書かなければならないほど力をつけてきていた。ペンダ(?-655?)王の頃にはイングランド中部の覇権をかけてノーサンブリア王国としばしば争い、ハットフィールド・チェースの戦い(633)、マスターフィールドの戦い(642)に勝利してマーシアは強国にのし上がった。この勢いでブレトワルダの地位を手中に収めるかに見えた矢先、655年ウィンウェッドで決定的敗北を喫し、マーシア王ペンダが討ち死にしたばかりでなく、ノーサンブリアの傘下におさまることになった。", "qas": [ { "question": "7世紀初頭、ブレトワルダの称号を得ていたのは、どの国なの?", "id": "tr-009-07-000", "answers": [ { "text": "ノーサンブリア王国", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ノーサンブリア王国が勢力を広げ、ブレトワルダの称号を得ていた時期の史料としては、誰の史料がよく知られていますか?", "id": "tr-009-07-001", "answers": [ { "text": "ベーダ", "answer_start": 81, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ベーダがマーシア王国をきらったのは、マーシア王国がどの宗教に改宗しなかったという宗教的事情があったか?", "id": "tr-009-07-002", "answers": [ { "text": "キリスト教", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マーシアは8世紀後半にふたりのブレトワルダを輩出した。すなわちエゼルバルド(在位:716-757)とオッファ(在位:757-796)である。エゼルバルドは教会への課税を強化して国力を蓄え、西の難敵ウェセックス王国を屈服させた。こうしたエゼルバルドの積極政策は内外に敵を多く抱えることになり、エゼルバルドは自らの護衛によって暗殺された。つづくオッファの時代が、マーシア王国の絶頂期であった。永年の宿敵ノーサンブリア王国を屈服させて上位支配権を獲得したのみならず、支配下におさめていた小王国を解体させ、オッファの親族や腹心を統治者として送り込んだ。", "qas": [ { "question": "マーシアが8世紀後半に輩出した二人のブレトワルダは、エゼルバルドと誰なの?", "id": "tr-009-08-000", "answers": [ { "text": "オッファ", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エゼルバルドとオッファのうち、より早く権力を握ったのは、誰ですか?", "id": "tr-009-08-001", "answers": [ { "text": "エゼルバルド", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウェセックス王国とノーサンブリア王国のうち、マーシア王国に屈服したのがより早いのは、どちらの国か?", "id": "tr-009-08-002", "answers": [ { "text": "ウェセックス王国", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オッファの時代のマーシア王国が上位支配権を獲得できたのは、どの国を屈服させたからか?", "id": "tr-009-08-003", "answers": [ { "text": "ノーサンブリア王国", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オッファの防塁はハドリアヌスの長城にも劣らぬオッファの歴史的偉業とされる。攻めてくるブリトン人を防ぐためのものか、切り取った地域を守るためのものか、その建設意図は明らかでない。この防塁に関して分かっていることは、すでにあった「ウォットの防塁」を延伸するかたちでイングランドとウェールズの間に築かれた。さらにフランク王国とも対等な外交を展開し、このように力を示したオッファはレクス・アングロルム(RexAnglorum)、すなわち全アングル人の王と自ら名乗った。", "qas": [ { "question": "オッファの防塁は、誰により建てられたものなの?", "id": "tr-009-09-000", "answers": [ { "text": "オッファ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オッファの防塁の建設意図としては、誰を防ぐためだとの推測もできますか?", "id": "tr-009-09-001", "answers": [ { "text": "ブリトン人", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オッファの防塁は、イングランドとどこの間に築かれたか?", "id": "tr-009-09-002", "answers": [ { "text": "ウェールズ", "answer_start": 137, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オッファは、どの国とも対等な外交関係を築いたか?", "id": "tr-009-09-003", "answers": [ { "text": "フランク王国", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "オッファは死に際して後継者をエグフリスにさだめ、臣下たちから忠誠をとりつけたが、肝心の後継者エグフリスがオッファの死後141日で没してしまい、ウェセックス王国などいくつかの諸王がマーシア王国から独立した。混乱の極にあったマーシア王国をコエンウルフ(チェンウルフ)がまとめ、独立した諸国をただちに平定した。しかしウェセックス王国はマーシア王国に勝利して独立を確固たるものにし、さらに教会への課税を強制するほどの力はなくなっていた。折しもヴァイキングがブリテン島東岸に出没しはじめ、各港が襲われてきていた頃であった。", "qas": [ { "question": "オッファの跡を継ぎ、マーシア王国の王となった人は、オッファの死後何日で死んでしまったの?", "id": "tr-009-10-000", "answers": [ { "text": "141日", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オッファと、彼の後継者であるエグフリスが死んだ後、マーシア王国から独立した諸国として挙げられているのは、どの国ですか?", "id": "tr-009-10-001", "answers": [ { "text": "ウェセックス王国", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オッファと、彼の後継者であるエグフリスが死んだ後、混乱の時代に陥たマーシア王国をまとめ上げたのは、誰か?", "id": "tr-009-10-002", "answers": [ { "text": "コエンウルフ", "answer_start": 117, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴァイキングが登場した時のマーシア王国は、誰の時代だったか?", "id": "tr-009-10-003", "answers": [ { "text": "コエンウルフ", "answer_start": 117, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マーシア王国は没落への道を一直線かつ急速にたどったわけでは必ずしもないが、南西の強国ウェセックス王国はヴァイキングによる被害がほとんどなく、9世紀に入るとウェセックス王国の力に対抗しえなくなってきていた。幾度か独立を回復したこともあったが、基本的にはウェセックスの上位支配権をあおぐ形となった。825年のエランダンの戦いでマーシアはエグバートの率いるウェセックス王国に敗北し、イングランドは統一された。", "qas": [ { "question": "9世紀に入ると、マーシア王国とウェセックス王国のうち、どちらの国の勢力がより強くなったの?", "id": "tr-009-11-000", "answers": [ { "text": "ウェセックス王国", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴァイキングによる被害がより多かったのは、マーシア王国とウェセックス王国のうち、どちらの国ですか?", "id": "tr-009-11-001", "answers": [ { "text": "マーシア王国", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エランダンの戦いは、何年に勃発した戦闘であるか?", "id": "tr-009-11-002", "answers": [ { "text": "825年", "answer_start": 147, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イングランドを統一したのは、どの国か?", "id": "tr-009-11-003", "answers": [ { "text": "ウェセックス王国", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "868年にデーン人のブルグレッドがマーシア王位についたが、これが最後のマーシア王となった。ブルグレッドは874年追放され、マーシア王国はデーン人とウェセックス王アルフレッドによって分割、歴史の表舞台から姿を消した。", "qas": [ { "question": "868年にマーシア王国の王となったのは、誰なの?", "id": "tr-009-12-000", "answers": [ { "text": "ブルグレッド", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マーシア王国における最後の王は、誰ですか?", "id": "tr-009-12-001", "answers": [ { "text": "ブルグレッド", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マーシア王国が滅亡したのは、何年のことか?", "id": "tr-009-12-002", "answers": [ { "text": "874年", "answer_start": 52, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "滅亡したマーシア王国の領土は、デーン人と誰によって分割されたか?", "id": "tr-009-12-003", "answers": [ { "text": "アルフレッド", "answer_start": 80, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マーシアはアングロサクソンの社会を色濃く残し、比較的ローマやキリスト教の影響の埒外にあった。いうなれば「野蛮な」勢力のひとつで、その性格は北に隣接する大国ノーサンブリアが早くからキリスト教に改宗して華やかな文化を築いたことと対照的だった。ロンドンを勢力下に収めてからは商業に力を入れ、王の肖像と名を刻印した貨幣を多く鋳造した。", "qas": [ { "question": "キリスト教の受け入れの面において、マーシア王国とは対照的である国は、どの国なの?", "id": "tr-009-13-000", "answers": [ { "text": "ノーサンブリア", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ロンドンを勢力下に収めたマーシア王国は、どの分野に力を入れましたか?", "id": "tr-009-13-001", "answers": [ { "text": "商業", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マーシア王国が商業に力を入れ始めたのは、どこを影響下においてからのことか?", "id": "tr-009-13-002", "answers": [ { "text": "ロンドン", "answer_start": 119, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マーシア王国は、どのような社会を色濃く残したか?", "id": "tr-009-13-003", "answers": [ { "text": "アングロサクソンの社会", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "七王国時代のブリテン島は大小無数の王国が林立し、戦士団の首長として王が君臨していた。王は自らの威光を保つために戦って勝利しつづけなければならず、敗北と死は同義であるのみならず、安定的な王位継承制度など望むべくもなかった。マーシア王国の「トライバル・ハイデジ」はブレトワルダ時代に作成された徴税のための土地台帳である。マーシアは単なる戦士団としての王国から、統治機構としての王国へと変貌をとげつつあった。", "qas": [ { "question": "七王国時代のブリテン島の諸国では、どんな人が王になったの?", "id": "tr-009-14-000", "answers": [ { "text": "戦士団の首長", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "七王国時代のブリテン島の諸国の王にとって、戦いでの敗北は何を意味しましたか?", "id": "tr-009-14-001", "answers": [ { "text": "死", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マーシア王国の「トライバル・ハイデジ」は、どのような時代に作成されたか?", "id": "tr-009-14-002", "answers": [ { "text": "ブレトワルダ時代", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "CIE図書館", "paragraphs": [ { "context": "CIE図書館(シーアイイーとしょかん、英語:SCAPCIEInformationCenter,SCAPCI&EInformationCenterLibrary)は、第二次世界大戦後に連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が日本各地に設置した図書館である。\n戦後日本において連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の民間情報教育局(CIE)が、札幌、函館、仙台、秋田、東京(日比谷および新宿)、横浜、新潟、金沢、長野、静岡、名古屋、京都、大阪、神戸、岡山、広島、高松、松山、小倉(現北九州)、福岡、長崎、熊本の23か所に設置した米国式の図書館であり、日本国民の民主化や米国への理解、そして日本の公共図書館の近代化を進める役割を果たした。\n連合国軍による占領の終焉によってうち13館がアメリカ文化センター(ACC)へ移行したが、残りは廃止され、その蔵書は公共図書館に統合・寄贈された(徳島や熊本では市立図書館の前身となった)。", "qas": [ { "question": "CIE図書館を日本各地に設置させた部署は何?", "id": "tr-010-00-000", "answers": [ { "text": "民間情報教育局", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "戦後の日本に設置された米国式の図書館とは何?", "id": "tr-010-00-001", "answers": [ { "text": "CIE図書館", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アメリカ文化センターへ移行しなかったCIE図書館はどうなったの?", "id": "tr-010-00-002", "answers": [ { "text": "廃止", "answer_start": 375, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "CIEは日本国内の何か所にCIE図書館を設置したの?", "id": "tr-010-00-003", "answers": [ { "text": "23か所", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "正式な英語での名称は、1948年(昭和23年)8月以降“CIEInformationCenter”、すなわち「インフォメーション・センター」とされていたが、市民や新聞など一般には「CIE図書館」と呼ばれた。\n長崎CIE図書館では、広報用のリーフレットで自館名を「長崎CIE圖書館」「SCAPCIEINFORMATIONCENTERNAGASAKI」と表記している。\n戦後間もないこともあり、「インフォメーション」の訳語に諜報を連想させる「情報」という語を使うことを避けようとしたという逸話もある。\n別称として「CIEライブラリー」「SCAP(スキャップ)図書館」「米国図書館」など。\nなお、連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の「民間情報教育局」(CIE)のほかに、アメリカ太平洋陸軍総司令部(GHQ/USAFPAC)が管轄する各地の地方軍政部にも「民間情報課」(CIE)があり、こちらも地方の公共図書館、公民館、学校などに「CIE読書室」(CIEReadingRoom)を設置していたため、それらと混同している場合がある。\nただし、そういった地方軍政部のCIE読書室の中には、後にSCAPCIEに移管され「CIE図書館」の分室となったものもある。\nそれ以外は廃止されたか、公共図書館・公民館などに併合された。", "qas": [ { "question": "CIE図書館の正式な英語表記はどうやって書くの?", "id": "tr-010-01-000", "answers": [ { "text": "“CIEInformationCenter”", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「民間情報課」が地方の公共機関に設置したものとは何?", "id": "tr-010-01-001", "answers": [ { "text": "「CIE読書室」", "answer_start": 412, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1945年(昭和20年)8月に日本がポツダム宣言を受諾したことで第二次世界大戦(太平洋戦争)は終結し、日本は連合国軍の占領下に置かれ、1952年(昭和27年)4月に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)が発効し日本が主権を回復するまでの7年間、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)によって民主化やさまざまな改革が進められた。", "qas": [ { "question": "GHQは日本をどれくらいの期間占領したの?", "id": "tr-010-02-000", "answers": [ { "text": "7年間", "answer_start": 122, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1952年4月に日本とアメリカが結んだ条約名とは何?", "id": "tr-010-02-001", "answers": [ { "text": "日本国との平和条約", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "このGHQ/SCAPの部局の一つに、民主主義の普及と国家主義の排除、そして教育改革などを担当する民間情報教育局(CIE)があり、そこには「図書館政策」を担当する担当官も置かれていた。\n初代がフィリップ・O・キーニー、2代目がポール・J・バーネット、3代目がジェーン・フェアウェザーで、バーネットは東京(日比谷)CIE図書館の館長も務めた。\nCIEの図書館政策には、国立図書館・公共図書館・学校図書館・大学図書館といった各種図書館の改革のほか、職員養成や図書館協力や、そしてこのCIE図書館の設置・運営があった。", "qas": [ { "question": "フィリップ・O・キーニー、ポール・J・バーネット、ジェーン・フェアウェザー達が担当していた政策名とは何ですか?", "id": "tr-010-03-000", "answers": [ { "text": "「図書館政策」", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "図書館政策の2代目担当官は誰が務めましたか?", "id": "tr-010-03-001", "answers": [ { "text": "ポール・J・バーネット", "answer_start": 112, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "他国(特に占領下においた地域)に図書館を設置することは珍しいことではなく、日本も占領下の朝鮮や台湾では図書館を設置していた。\n米国も第二次世界大戦中には米国戦時情報局(OWI)が各国に図書館を展開したほか、米国国務省がナチから解放された地域に対し小規模の図書館「インフォメーション・ライブラリー」を設置した。\nただし、ドイツ・オーストリア・日本・朝鮮への図書館設置は国務省ではなく陸軍省の管轄であったため、「インフォメーション・センター」という名前であった。\n1946年(昭和21年)にCIEがアメリカ教育使節団の手引書として刊行した『日本の教育』(EducationinJapan)では、CIE図書館の目的について『日本の文筆家・学者・官僚・政治家・諸団体ならびに一般人を対象に、国際関係や第二次世界大戦についての参考資料や書物を提供し、米国の慣習・法律・社会・政治機構に根ざす活動や政策の実態を知らせようとするもの』と述べている。", "qas": [ { "question": "「インフォメーション・センター」という名称になった由来は、どこの管轄であったことが関係していたの?", "id": "tr-010-04-000", "answers": [ { "text": "陸軍省", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本が海外に設置した図書館は朝鮮とどこですか?", "id": "tr-010-04-001", "answers": [ { "text": "台湾", "answer_start": 47, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "CIE図書館の目的についての記述がある文献とは何?", "id": "tr-010-04-002", "answers": [ { "text": "『日本の教育』", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "最初のCIE図書館は、1945年(昭和20年)11月15日に、東京都麹町区(現千代田区)内幸町のNHK東京放送会館108号室を接収して設置された。\nこの時点では主にCIE関係者の利用を対象としていたが、翌1946年(昭和21年)3月に日東紅茶の喫茶室へと移転し日本人にも開放された。\n1947年(昭和22年)8月23日、CIEは京都と名古屋にCIE図書館を設置する指令SCAPIN4401-Aを発出し、その年の12月30日に発出されたSCAPIN5083-Aによりさらに14都市への設置が通達された。\nこれにより、1948年(昭和23年)までに人口20万以上ある16の地方都市にもCIE図書館が設置され計17館となった。\nさらに1950年(昭和25年)から1951年(昭和26年)にかけて、新宿・長野・松山・岡山・秋田の各館が開館し、最後に小倉市の福岡CIE図書館北九州分館が市の要望で昇格して計23館となった。", "qas": [ { "question": "日本で第一号となるCIE図書館が設置された建物は何ですか?", "id": "tr-010-05-000", "answers": [ { "text": "NHK東京放送会館", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "最初のCIE図書館の移転先はどこでしたか?", "id": "tr-010-05-001", "answers": [ { "text": "日東紅茶の喫茶室", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "SCAPIN4401-AとSCAPIN5083-Aでは、どちらの指令の時が図書館の設置通達の数が多かったですか?", "id": "tr-010-05-002", "answers": [ { "text": "SCAPIN5083-A", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1952年(昭和27年)4月に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)の発効によって日本の占領が終結したことで、CIE図書館は閉鎖され、うち13の都市では米国国務省に移管のうえ5月1日からアメリカ文化センター(ACC)と改められた。\n基本的なサービス内容はそれまで通りであったが、米国政府の広報活動の最先端を担う施設となり、映画会、展覧会、英会話教室、講演会、人事交流事業に重点が置かれるようになった。\n翌1955年(昭和30年)には国務省から米国広報・文化交流庁に移管された。\n1967年(昭和42年)以降、予算削減のため7つのセンターが閉鎖され、1972年(昭和47年)の時点で札幌、東京、名古屋、京都、大阪、福岡の6都市のみとなった。\nさらに1996年(平成8年)に京都、1997年(平成9年)に札幌のセンターも閉鎖されたが、USIAが国務省に統合された1999年(平成11年)には札幌のセンターが再開されることとなった。\n2006年(平成18年)には東京アメリカン・センターの資料室も閉鎖され、米国大使館へと移転した。", "qas": [ { "question": "サンフランシスコ講和条約の締結以降、CIE図書館の名前は何に変わりましたか?", "id": "tr-010-06-000", "answers": [ { "text": "アメリカ文化センター", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "CIE図書館が米国国務省の次に移管された機関は何ですか?", "id": "tr-010-06-001", "answers": [ { "text": "米国広報・文化交流庁", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "京都と札幌のCIE図書館は、どちらが先に閉館したの?", "id": "tr-010-06-002", "answers": [ { "text": "京都", "answer_start": 339, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "各CIE図書館の開館時の蔵書数は約4,000冊、定期刊行物が約400種という規模で、最も大きな神戸CIE図書館が302坪であった。\n収容人員では、大阪と仙台が最大でともに246名、いっぽう最小は函館の72名である。\n冷暖房も備えられていた。\n熊本CIE図書館の館長を務めたグレース・イイジマによると、CIE図書館の科学・技術分野の蔵書は米国の一般的な公共図書館のそれよりも豊富であったという。\nそれぞれのCIE図書館にはアメリカ人のプロのライブラリアンが1人ずつ館長として置かれ、その業務を日本人職員が補佐する形を取った。\n館長として来日したライブラリアンのうち、判明している者は3分の2が女性であった。", "qas": [ { "question": "開館当時のCIE図書館の蔵書数と定期刊行物数は、どちらの数が多かったですか?", "id": "tr-010-07-000", "answers": [ { "text": "蔵書数", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "仙台と函館を比較すると、CIE図書館の収容人数が少ないのはどちらの都市ですか?", "id": "tr-010-07-001", "answers": [ { "text": "函館", "answer_start": 97, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "館長として来日したライブラリアンは、男性と女性のどちらが多かったですか?", "id": "tr-010-07-002", "answers": [ { "text": "女性", "answer_start": 295, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "大阪と函館にあるCIE図書館の収容人数が多いのはどちらの都市ですか?", "id": "tr-010-07-003", "answers": [ { "text": "大阪", "answer_start": 73, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "CIE図書館では、戦前の日本の図書館ではなかった無料公開の開架方式を採用し、レファレンスサービス、図書館間相互貸借、児童サービスなどを実施、戦後日本における近代公共図書館のモデルとなった。\nそのほかにも、英会話教室、映画会、レコード・コンサート、講演会、読書会、討論会、スクウェアダンス、ペン・パルなど、CIE図書館で行われたサービスは多岐にわたる。\n利用者は、米穀通帳や学生証を提示すれば貸出証を発行してもらえた。\n図書・雑誌のほかレコードや楽譜、パンフレット類も無料で貸出を行っていた。\n貸出期間は図書が2週間、雑誌が1週間(ただし最新号は1日)であった。\n大阪CIE図書館の開設時にCIEが発表した談話では、従来の日本の公共図書館にはないCIE図書館の特徴として、入館手続き不要・入館料無料、本を自由に閲覧できる開架式、資料の検索や指導ができる職員が置かれていること、探しやすい充実したカード式図書目録、などが挙げられていた。\nCIE図書館は22都市23館だけであったが、そのほかの地域にも分室を設置してサービスを展開し、公共図書館、大学図書館、学校、工場などへの団体貸出も行った。", "qas": [ { "question": "CIE図書館での貸出期間が短いのは図書と雑誌のどちらですか?", "id": "tr-010-08-000", "answers": [ { "text": "雑誌", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "CIE図書館は、初の試みとなるどのような方式を採用しましたか?", "id": "tr-010-08-001", "answers": [ { "text": "開架方式", "answer_start": 29, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "雑誌の中で、最短の貸出期間だったものは何でしたか?", "id": "tr-010-08-002", "answers": [ { "text": "最新号", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "開館当時の東京CIE図書館の入館者数は1日あたり1,200人以上で、地方では400から500人程度となっていた。\n利用者は学生が大半であった。\n理工系雑誌の利用が最も多く、医学、土木、電気、自動車、無線、テレビ関係の雑誌は入るたびに先を争って読まれた。\n欧米の最新の科学技術を知ろうとしても、当時日本の大学図書館には戦前の文献しかなく、海外からの取り寄せも数か月かかる状況で、若い研究者たちはCIE図書館で学術雑誌を貪るように読んだという。\n利用者は学生や研究者に限らず、アメリカのファッション誌は主婦や女子高校生に非常に人気があった。\nCIE図書館の利用者であったという著名人に、小説家の大江健三郎(松山CIE図書館)、工業デザイナーの榮久庵憲司(広島CIE図書館)、精神科医の中井久夫(大阪CIE図書館)、英文学者の由良君美(東京CIE図書館)などがいる。", "qas": [ { "question": "東京と地方のCIE図書館の入館者数を比べると、どちらが少ないですか?", "id": "tr-010-09-000", "answers": [ { "text": "地方", "answer_start": 34, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "CIE図書館の利用者であった小説家の著名人とは誰ですか?", "id": "tr-010-09-001", "answers": [ { "text": "大江健三郎", "answer_start": 295, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1947年(昭和22年)10月1日付の日本読書新聞が報じた東京CIE図書館の閲覧者統計によると、1日あたりの平均閲覧者数は600人。\n男女別では男性が85%、女性が15%となっている。\n年齢別では10代以下が21%、20代が65%、30代以上が21%となっている。\n職業別では学生が55%を占め、エンジニア14%、科学者・専門技術者4%、医者3%、作家・編集者・新聞記者2%、芸術家・デザイナー2%、官吏2%、無職4%であった。", "qas": [ { "question": "日本読書新聞が報じた東京CIE図書館の閲覧者統計では、男性と女性どちらの閲覧者が多いですか?", "id": "tr-010-10-000", "answers": [ { "text": "男性", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "年齢別で最も閲覧者が多い年代は何ですか?", "id": "tr-010-10-001", "answers": [ { "text": "20代", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "職業別で2番目に閲覧者が多い職業は何ですか?", "id": "tr-010-10-002", "answers": [ { "text": "エンジニア", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "年齢別で10代以下と全く同じ割合の年代は何ですか?", "id": "tr-010-10-003", "answers": [ { "text": "30代以上", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "札幌CIE図書館は1948年(昭和23年)5月26日、北海道札幌市北1条西4丁目東邦生命ビルに設置された。\n所在地は後に北1条西5丁目の徴兵ビルへ移転している。\n開館時間は8時から17時であった。\n1948年(昭和23年)9月には市立小樽図書館に分室が開設された。\n1952年(昭和27年)、札幌CIE図書館および小樽分室がそれぞれアメリカ文化センターとその分室に改称。\n歴代の図書館長はE.M.キナー、B.メント、D.B.マンロー、L.M.クレヴェン、L.G.グローヴ、K.G.Mushake、J.A.エリオットであった。\n函館CIE図書館は1948年(昭和23年)9月4日、北海道函館市新川町14の函館共愛会館に設置された。\n1950年(昭和25年)11月1日、より広い部屋を確保するため真砂町7の専売公社ビルへ移転した。\n占領終結後は函館アメリカ文化センター(函館ACC)となったが、半年後に閉鎖通告があり、函館市と市民からの反対により札幌ACC函館分館として存続することとなった。\n図書館長は当初B.メントが任命されていたものの女性職員が滞在できる施設がなかったためエメット・K・キナーが着任した。\nその後、G.M.コーブ、次にW.K.リーパーが館長代行を務め、フレッド・J・ハーサギーJr.が館長となった。", "qas": [ { "question": "札幌CIE図書館と函館CIE図書館はどちらが早く設置されたの?", "id": "tr-010-11-000", "answers": [ { "text": "札幌CIE図書館", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "札幌CIE図書館の閉館時間は何時なの?", "id": "tr-010-11-001", "answers": [ { "text": "17時", "answer_start": 90, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "札幌CIE図書館の5代目館長は誰?", "id": "tr-010-11-002", "answers": [ { "text": "L.G.グローヴ", "answer_start": 227, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "函館CIE図書館の初代館長を務めたのは誰?", "id": "tr-010-11-003", "answers": [ { "text": "エメット・K・キナー", "answer_start": 487, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "仙台CIE図書館は1948年(昭和23年)5月28日、宮城県仙台市大聖寺裏門通3の斎藤報恩会館に設置された。\n1952年(昭和27年)2月には山形に分館が設置された。\n歴代の図書館長はM.A.ローデル、E.K.キナー。\n秋田CIE図書館は1951年(昭和26年)5月17日、秋田県秋田市の歩兵第17連隊跡に設置された。\n1950年(昭和25年)6月に地元から仙台CIE図書館のキナー館長に設置申請があり、交渉のすえ翌年3月になってようやく着工に漕ぎ着けた。\n建物は1050万円をかけて新築された冷暖房付きもので、87坪の閲覧室をはじめ20坪の児童室、60坪のステージ付き講堂、13坪の会議室、6坪の館長室などがあり、それぞれ天井や壁がアメリカ式の色や模様が(たとえば閲覧室は天井が茶色で壁が緑色に)施されていた。\n図書館長はヘレン・ホルト。\n占領終結にともないアメリカ文化センターと呼ばれるようになり、のち秋田県日米文化会館と改称。\n1961年(昭和36年)秋田市下中城町(現秋田市千秋明徳町)に秋田県立秋田図書館が建設された際に同図書館に移管され、1971年(昭和46年)に廃止された。", "qas": [ { "question": "仙台CIE図書館と秋田CIE図書館はどちらが後に設置されたの?", "id": "tr-010-12-000", "answers": [ { "text": "秋田CIE図書館", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "秋田CIE図書館の建物内で、最も広い部屋はどこですか?", "id": "tr-010-12-001", "answers": [ { "text": "閲覧室", "answer_start": 260, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "秋田CIE図書館内の閲覧室と児童室はどちらが狭いですか?", "id": "tr-010-12-002", "answers": [ { "text": "児童室", "answer_start": 271, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "秋田CIE図書館が廃止されたのはいつ?", "id": "tr-010-12-003", "answers": [ { "text": "1971年", "answer_start": 475, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "東京(日比谷)CIE図書館は1945年(昭和20年)11月15日に東京都麹町区(現千代田区)内幸町のNHK東京放送会館108号室に設置された、最初のCIE図書館である。\n当初は主にCIE関係者に利用されていたが、翌1946年(昭和21年)3月16日に有楽町一丁目12日東紅茶の喫茶室へと移転し日本人にも開放された。\n1949年(昭和24年)2月からは小説・旅行記・歴史・伝記・児童図書に限り館外貸出しを開始した。\n後にアメリカ文化センターに改称。\n関東民事部のCIEが7か所にCIE読書室を設置していたが、そのうち杉並、深川、立川、前橋の4か所にCIE図書館から2か月ごとの巡回文庫サービスを提供していた。\nまた、高崎分室(高崎市立図書館内の元CIE読書室)、巣鴨刑務所分室、桐生分室があった。\n歴代の図書館長はポール・J・バーネット、ローランド・A・マルハウザー、マイケル・C・フィンキン、ヘレン・M・ウッドであった。\n初代館長に任命されたバーネットは、一時帰国したのち再び来日し、第3代CIE図書館担当官となっている。", "qas": [ { "question": "東京CIE図書館の4代目館長は誰ですか?", "id": "tr-010-13-000", "answers": [ { "text": "ヘレン・M・ウッド", "answer_start": 396, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "新宿CIE図書館は1950年(昭和25年)8月1日、東京都新宿区内藤町87の文化会館に設置された。\n歴代の図書館長はH.ヘンケ、N.A.ファイル。\n横浜CIE図書館は1948年(昭和23年)8月31日、神奈川県横浜市中区北中通6-66の日本海運財団内に設置された。\n歴代の図書館長はH.M.ウッド、D.B.マンロー。", "qas": [ { "question": "新宿CIE図書館と横浜CIE図書館のうち、先に設置されたのはどちら?", "id": "tr-010-14-000", "answers": [ { "text": "新宿CIE図書館", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "新潟CIE図書館は1948年(昭和23年)5月8日、新潟県新潟市医学町通2番町の財務局跡に設置された。\n1953年(昭和28年)新潟アメリカ文化センターと改称された後、1955年(昭和30年)10月1日の新潟大火で類焼したため新潟県立図書館の1階に移転して仮開館。\nその後1959年(昭和34年)6月に古町中央会館の3階、さらに1963年(昭和38年)11月に新潟商工福祉会館6階と移転し、1971年(昭和46年)5月に閉鎖された。\n分館・読書室が、新潟県立新潟図書館および、長岡市、高田市、三条市、柏崎市、新発田市、加茂町、金沢村の図書館、村上町の公民館、津川町の農林学校、糸魚川町の役場内の計11か所に置かれた。\n歴代の図書館長はH.ウッド、ロゼッタ・サーストン・カードウェル、B.メント。", "qas": [ { "question": "新潟CIE図書館の2度目の移転先はどこでしたか?", "id": "tr-010-15-000", "answers": [ { "text": "古町中央会館の3階", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "新潟CIE図書館の分館と読書室が設置された市町村の中で1つだけ村があります、村名は何ですか?", "id": "tr-010-15-001", "answers": [ { "text": "金沢村", "answer_start": 263, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "金沢CIE図書館は1948年(昭和23年)6月4日、石川県金沢市西町三番丁の一村産業ビルに設置された。\n後に下本田3番町5へ移転。\n図書館長はM.O.クレー。\n講和条約発効後はアメリカ文化センターに改称された。\n1951年(昭和26年)には第1回金沢県図書館大会の会場にもなっている。\n長野CIE図書館はCIE図書館より先に、1947年(昭和22年)3月に長野県立図書館内にCIE読書室が開設され、続いて松本市、諏訪市、上田市、飯田市、岡谷市にもCIE読書室が置かれた。\n1950年(昭和25年)10月3日(6月とする資料もある)、CIE図書館が長野県長野市城山公園内のアメリカ文化館に設置された。\n図書館長はV.H.イェイツ。\n1952年(昭和27年)、長野アメリカ文化センターに改称した。", "qas": [ { "question": "金沢CIE図書館と長野CIE図書館はどちらが先に設置されたの?", "id": "tr-010-16-000", "answers": [ { "text": "金沢CIE図書館", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "M.O.クレーが図書館長を務めた図書館とはどこですか?", "id": "tr-010-16-001", "answers": [ { "text": "金沢CIE図書館", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "V.H.イェイツが図書館長を務めた図書館とはどこ?", "id": "tr-010-16-002", "answers": [ { "text": "長野CIE図書館", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "長野CIE図書館は講和条約発効後、何に改称しましたか?", "id": "tr-010-16-003", "answers": [ { "text": "長野アメリカ文化センター", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "氷貿易", "paragraphs": [ { "context": "氷貿易(英語:icetrade)は19世紀から20世紀はじめにかけて存在していた産業で、アメリカ合衆国の東海岸とノルウェーがその中心的な役割を果たした。氷の貿易とはすなわち天然の氷を収穫して販売することであり、時代が下ると人工的な氷の製造と販売も始まった。販売された氷は、食用になるだけでなく多彩な用途に使われた。氷貿易は、それまでの冷蔵保存が難しかった時代に、アメリカの食肉、野菜、果物の生産・流通に革命的な影響をもたらし、水産業においても著しい漁獲高の拡大を可能にしただけでなく、さまざまな新しい飲料や菓子が生まれる契機ともなった。凍った湖沼や河川の表面を削って収穫された氷は、貯氷庫に保管された後、船便や鉄道網によって世界中に輸送された。最終的な消費者や顧客のもとまで氷を届けるためにもっぱら利用されたのが荷馬車によるアイスマンの輸送網であった。", "qas": [ { "question": "元々の氷貿易は天然の氷しか扱わなかったが、時代の変化につれて産業はどんな方向に進んだの?", "id": "tr-011-00-000", "answers": [ { "text": "人工的な氷の製造と販売も始まった", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "氷貿易の中心的な役割を果たしたのは、アメリカ合衆国とどの国ですか?", "id": "tr-011-00-001", "answers": [ { "text": "ノルウェー", "answer_start": 56, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "氷貿易において氷の輸送に用いられたのは、鉄道と何か?", "id": "tr-011-00-002", "answers": [ { "text": "船便", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "氷貿易の歴史は1806年にニューイングランドの実業家であったフレデリック・チューダーによって始まる。チューダーは、はじめカリブ海にあるフランス領マルティニークに氷の輸出を行った。この島に住む裕福なヨーロッパの上流階級に氷を売ることを目指し、そのために自前の貯氷庫も建設した。しばらくすると、販路はキューバとアメリカ南部にも拡大し、ニューイングランドで氷の収穫と輸出をおこなう競合者も現れはじめた。1830年代から1840年代にかけて氷貿易はさらに拡大し、彼らの積荷はイギリス、インド、南アメリカ、中国、オーストラリアにまで達した。チューダーは特にインドとの貿易を通じて一財産を築き、ロンドンではマサチューセッツ州ウェナム湖産の氷がウェナム・アイスとして有名なブランドになった。", "qas": [ { "question": "氷貿易の創始者とされるのは、誰なの?", "id": "tr-011-01-000", "answers": [ { "text": "フレデリック・チューダー", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "どこへの氷の輸出が、世界初の氷の輸出となりましたか?", "id": "tr-011-01-001", "answers": [ { "text": "フランス領マルティニーク", "answer_start": 67, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "氷貿易はどの国から始まったのか?", "id": "tr-011-01-002", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 153, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ロンドンで特に有名なブランドになった氷とは、どの湖から収穫した氷であるか?", "id": "tr-011-01-003", "answers": [ { "text": "ウェナム湖", "answer_start": 306, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "しかしその後、氷貿易は急速にその性格を変え、アメリカの東海岸で成長著しかった都市の需要を満たすとともに、アメリカの中西部における市場開拓の実現を目指す産業になっていった。この頃には長く暑い夏が続くニューヨークとフィラデルフィアは氷の一大消費地になっており、需要を満たすためにハドソン川やメイン州から新たに氷が収穫されるようになった。鉄道産業が氷を利用した冷蔵車を導入したことで、シカゴやシンシナティ周辺の食肉加工業は、現地で屠畜した肉牛を精肉までして、アメリカ国内だけでなく海外の市場に輸出することが可能になった。低温保存の可能な鉄道車両や船舶も登場し、それまでは地場で野菜や果物を消費していただけのアメリカの農業は国を代表する産業となった。収獲した魚を氷によって保存できるようになったイギリスの漁師は、さらに航路を伸ばして漁獲高を増やすことができるようになった。醸造業にも、通年の営業が可能になるという大きな変化がもたらされた。アメリカによる氷の輸出は1870年以降は減少していくが、代わりに国際市場で台頭したのはノルウェーだった。ノルウェーは、船便によってイギリスやドイツに大量の氷を輸出した。", "qas": [ { "question": "ニューヨークとフィラデルフィアに販売するための氷は、どの川から収穫したの?", "id": "tr-011-02-000", "answers": [ { "text": "ハドソン川", "answer_start": 137, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "氷貿易の成長とともに成長していった産業には、鉄道産業と醸造業、漁業のほかに、どの産業が含まれますか?", "id": "tr-011-02-001", "answers": [ { "text": "農業", "answer_start": 305, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アメリカの氷貿易が縮小されつつあった時期に国際市場に台頭したのは、どの国か?", "id": "tr-011-02-002", "answers": [ { "text": "ノルウェー", "answer_start": 458, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカが担っていた氷産業の中心的な役割は、何年を基点にアメリカとノルウェーの二国が担うようになったか?", "id": "tr-011-02-003", "answers": [ { "text": "1870年", "answer_start": 427, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "19世紀末の最盛期には、アメリカにおける氷貿易は9万人の雇用を生み出し、資産規模にして2,800万ドル(2010年時点での6億6600万ドル相当)に及んだ。この頃になると、貯氷庫は25万ショートトンの氷を収蔵できる巨大なものが使われていた。ノルウェーは人工の湖を並列的に利用して、年間100万ショートトンの氷を輸出した。一方で自然氷は、徐々に人工的に製造される氷や機械による冷却装置などとの競争に晒されるようになった。はじめは信用もなく、高価であった製氷機による氷は、オーストラリアでは1850年代から、インドでは1870年代から自然氷を駆逐するようになり、1914年に第一次世界大戦が勃発する頃には、アメリカで製氷機による生産量が天然氷の収穫量を下回る年はなくなった。戦争中、一時的にアメリカでは氷の生産量が増加したが、戦間期になると世界中で氷貿易は壊滅的な状況を迎えた。今日では、氷像をつくったり雪まつりを開催するために氷が収穫されることはあっても、19世紀に存在した産業としての氷の保存や輸送の連携はほぼ消滅してしまった。", "qas": [ { "question": "製氷機による氷の需要が自然氷の需要を上回るようになった時期がより早いのは、オーストラリアとインドのうち、どの国なの?", "id": "tr-011-03-000", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 234, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アメリカでは、何年を基点に製氷機による生産量が自然氷の収穫量を上回り続けるようになりましたか?", "id": "tr-011-03-001", "answers": [ { "text": "1914年", "answer_start": 279, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "氷産業に大きな打撃を与えた戦争とは、何年に始まった戦争なのか?", "id": "tr-011-03-002", "answers": [ { "text": "1914年", "answer_start": 279, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "19世紀に氷の貿易が出現する以前にも、雪や氷を収集して、夏の間に使うために保存する習慣は世界中でみられたが、決してその規模は大きくなかった。例えば地中海沿岸や南アメリカでは、アルプス山脈やアンデス山脈の頂上付近から氷を収集することにかけて長い歴史を持っていて、商人がその氷を低地の都市まで輸送していた。同じような氷の売買は植民地時代のメキシコでも発達した。青銅器時代後期(紀元前1750年ごろ)のアッカド人の粘土板からは、彼らがユーフラテス川に貯氷庫を建てて、冬に雪深い山々から氷を集め、夏の飲料に用いていたことがわかる。ロシア人も長年にわたり、冬にネヴァ川流域から収集した氷をサンクトペテルブルクで使用していた。裕福なヨーロッパ人は、16世紀以降、冬に地方の領地から氷を集めさせる貯氷庫を持っていた。そうした上流階級では、飲料や食事を冷やすために氷が用いられていた。", "qas": [ { "question": "南アメリカと同じく、山脈の頂上付近から氷を収集することにかけて長い歴史を持っていると書かれている地域は、どこなの?", "id": "tr-011-04-000", "answers": [ { "text": "地中海沿岸", "answer_start": 73, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "植民地時代のメキシコと同じく、川から氷を調達したのは、どの国ですか?", "id": "tr-011-04-001", "answers": [ { "text": "ロシア", "answer_start": 261, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヨーロッパでは、どんな人々だけが氷を用いていたのか?", "id": "tr-011-04-002", "answers": [ { "text": "上流階級", "answer_start": 355, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "氷の貿易は、ニューイングランドの実業家であったフレデリック・チューダーの奔走の結果として1806年に始まった。彼は初めて商業的な規模で氷を輸出した人物である。ニューイングランドでも氷は高価な品であり、自前の貯氷庫を持っているような裕福な人間だけのものだった。とはいえ、1800年頃には上流階級のあいだでは貯氷庫を持つことがそれほど珍しいことではなくなり、彼らが有する土地で冬の間に凍った湖沼や河川の表面から切り出されて収穫された氷が集まり、貯氷庫はいっぱいになった。18世紀の終わりにかけて、ニューイングランドと隣接するニューヨーク周辺の地域では、夏の暑さもあり、急速に経済が発展するにしたがって、氷の需要も高まった。農民たちは地元の水辺から集めた氷を公共機関や家庭に販売し、小規模ながらそのための市場が形成されるほどであった。時にはニューヨークやフィラデルフィアからアメリカ南部(サウスカロライナ州のチャールストン行きが多かった)に氷を販売するための貨物船が出ることがあり、航行中には氷が船のバラストとして積み込まれていた。", "qas": [ { "question": "氷貿易の創始者はどこ出身の人なの?", "id": "tr-011-05-000", "answers": [ { "text": "ニューイングランド", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "18世紀末からニューヨーク周辺の地域で氷の需要が高まった理由は、急速な経済発展と何ですか?", "id": "tr-011-05-001", "answers": [ { "text": "夏の暑さ", "answer_start": 274, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "チューダーの狙いは、彼が輸出した氷が、西インド諸島やアメリカ南部諸州の富裕層たちにとって、うだるような夏に手をのばす贅沢品となることであった。自分以外の人間が追随してくるリスクもあったため、チューダーは氷の価格を維持するために、自分が目をつけた新たな市場の独占を目論んでいた。その潜在的な市場としてカリブ海に目を向けたチューダーは、ボストン周辺の農民から仕入れた氷を輸送するための帆船として一艘のブリガンティンへ出資を行った。チューダーは当時の実業界からよくても変わり者、一部では愚か者とみなされていた。", "qas": [ { "question": "チューダーが潜在的な市場として目を向けたのは、どこか?", "id": "tr-011-06-000", "answers": [ { "text": "カリブ海", "answer_start": 149, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1806年に最初の積荷が出航した。チューダーはおそらくロックウッドにある一族の地所から収穫した氷を、試験的な意味も込めてカリブ海のマルティニーク島に出荷した。しかし現地に貯蔵施設が不足していたために売り上げはふるわなかった。チューダーの在庫分もこの地の客が購入した分も貯蔵することができず、結果として氷はすぐに溶けてなくなってしまったのである。この経験に学んだチューダーは、ハバナに氷の倉庫を建造して運用した。1807年、英仏を含む諸外国との通商を禁止する法律がアメリカで制定されたが、1810年には再び貿易が可能になった。チューダーはキューバに氷を輸出する排他的権利こそ得られなかったが、現地に貯氷庫を押さえていたため独占状態を維持した。1812年には短期間だけ貿易が中断したが、しばらくして再開し、ハバナから本土への帰路に果物を輸入する事業も始めた。この果物は、売れ残りの氷を利用して新鮮な状態を維持することができた。その後、出荷先はチャールストンやジョージア州のサバンナにも広がったが、チューダーの商売敵も現れ、ニューヨークからの船便やケンタッキー州から流れを下る荷船を使ってサウスカロライナ州やジョージア州へも氷の供給が行われるようになった。", "qas": [ { "question": "世界初の氷の輸出は、何年に行われたの?", "id": "tr-011-07-000", "answers": [ { "text": "1806年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "時的に中止された氷の輸出が再開されたのは、何年のことですか?", "id": "tr-011-07-001", "answers": [ { "text": "1810年", "answer_start": 243, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "氷の輸出が再び中止されたのは、何年のことか?", "id": "tr-011-07-002", "answers": [ { "text": "1812年", "answer_start": 320, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "チューダーにより氷を積んで本土から出航し、ハバナの倉庫に向かった船舶が本土に戻ると、何でいっぱいになっていたか?", "id": "tr-011-07-003", "answers": [ { "text": "果物", "answer_start": 363, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "輸入された氷の価格は、競争の程度によって変動した。ハバナでは、チューダーの氷は1ポンドあたり25セント(2010年の3.7ドルに相当)で販売されたが、ジョージア州では高くても6セントから8セントで売られていた(2010年の0.9ドルから1.2ドル相当)。チューダーは高いシェアを握る商圏では、時々の競争相手に価格を大幅に下げることで対抗していた。そういう場合には、1ポンドあたりの価格は1セント(0.2ドル)という利益度外視の価格で氷が売られたため、ほとんどの場合、競争相手は採算のとれる価格では在庫を処分することすらできなかった。そうなれば彼らは負債を負うか、あるいは安値で売ることを拒否しているうちに氷が熱で溶けて消えてしまうのであった。そうなればチューダーは現地に保存のための倉庫を持っているため、再び値上げをすることができたのだった。1820年代の半ばには、ボストンから一年あたりおよそ3,000トンもの氷が出荷されており、実にその3分の2がチューダーの荷であった。", "qas": [ { "question": "チューダーの氷の価格がよりたかかったのは、ハバナとジョージア州のうち、どこなの?", "id": "tr-011-08-000", "answers": [ { "text": "ハバナ", "answer_start": 25, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "チューダーは高いシェアを握る商圏において、どのような対策を採り競争相手に対抗しましたか?", "id": "tr-011-08-001", "answers": [ { "text": "価格を大幅に下げること", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シェアの高い商圏において値下げ戦略を採ったチューダーが、競争相手との競合で勝ち残った後、再び値上げすることができたのは、その地域に何があったからか?", "id": "tr-011-08-002", "answers": [ { "text": "保存のための倉庫", "answer_start": 335, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1820年代の半ばの時点で、氷を最も多く出荷したのは、誰か?", "id": "tr-011-08-003", "answers": [ { "text": "チューダー", "answer_start": 425, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "価格がここまで下がったことで、氷は相応に大規模な取引がされるようになった。富裕層だけでなくさまざまな階級の消費者に氷の市場は開かれるようになり、ついには供給がおいつかなくなることすらあった。氷は直接消費されるよりも、商売人が傷みやすい品物を保存するために使われるようになった。チューダーはメイン州にまで仕入れ先を拡大したり、洋上の氷山から氷を収穫したりすることまで考えていたが、どちらも氷の供給源としては実用的ではないと判明した。代わりに、チューダーはナサニエル・ワイエスと組むことで、ボストンにおける氷の供給をより大規模なスケールで工業化しようとした。ワイエスは、1825年にこれまでよりも効率的に氷を正方形のブロックに切り出すことができるよう、馬に氷の裁断機を引かせる手法を編み出した。さらにマサチューセッツ州のフレッシュ湖から氷を納入するようにして、1ショートトン(901キログラム)あたり30セント(7.3ドル)だった収穫のコストをわずか10セント(2.4ドル)にまで低減させた。一方で氷の断熱材となるおがくずの仕入れは、年間に16,000ドル(390,000ドル)にものぼった。", "qas": [ { "question": "氷の最大販売先は、どんな人々だった?", "id": "tr-011-09-000", "answers": [ { "text": "商売人", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "洋上の氷山のほかに、チューダーが新たな仕入れ先として選んだが、氷の供給源として適切ではないとされた地域は、どの地域ですか?", "id": "tr-011-09-001", "answers": [ { "text": "メイン州", "answer_start": 144, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "チューダーは、誰と組み、ボストンにおける氷の供給をより大規模なスケールで工業化しようとしたか?", "id": "tr-011-09-002", "answers": [ { "text": "ナサニエル・ワイエス", "answer_start": 226, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マサチューセッツ州のフレッシュ湖から氷を納入することにより、収穫のコストは1ショートトン何セントまで低減されたか?", "id": "tr-011-09-003", "answers": [ { "text": "10セント", "answer_start": 423, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ニューイングランドに始まった氷の貿易は、1830年代から1840年代にかけてアメリカ東海岸一帯に事業が拡大したが、一方で世界をまたにかける新しい交易路も生まれた。最初のそして最も利益の出た新航路は、インドであった。1833年、チューダーは実業家のサミュエル・オースティンとウィリアム・ロジャースと組んで、帆船タスカニー(Tuscany)号でカルカッタ向けに氷を輸出しようとした。同年9月に氷を積んだタスカニー号がベンガル湾に入ると、これに沸いたインド在住イギリス人のエリート層は夏の暑さで氷が溶けてしまうのを少しでも減らし、一刻も早く陸揚げができるよう、通常は東インド会社の規則で禁止されていた夜間の荷下ろしをタスカニー号に許したうえ、関税の非適用まで認めた。こうして正味でおよそ100ショートトンあった氷は1ポンド(0.5キログラム)あたり3ペンスの小売価格で無事に売りさばかれ、タスカニー号の初の積荷は9,900ドル(2010年の253,000ドル相当)もの利益を生むことになった。1835年にはチューダーは、カルカッタ、マドラス、ボンベイへの定期便を事業化させるまでになった。", "qas": [ { "question": "チューダーの氷貿易において、最初の世界進出は、どの国への新航路の開拓だったの?", "id": "tr-011-10-000", "answers": [ { "text": "インド", "answer_start": 99, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "世界市場へと発展したチューダーの氷貿易において、最も高い利益が得られた市場とは、どの国でしたか?", "id": "tr-011-10-001", "answers": [ { "text": "インド", "answer_start": 99, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時、アジアとの交易などを管理していた会社とは、どれか?", "id": "tr-011-10-002", "answers": [ { "text": "東インド会社", "answer_start": 280, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1835年にチューダーは、カルカッタとマドラスのほかに、どの都市への定期便の事業化を進めたか?", "id": "tr-011-10-003", "answers": [ { "text": "ボンベイ", "answer_start": 468, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この時もまたチューダーの競争相手がすぐにインド市場に現れ、カルカッタやボンベイに海路で氷を輸出した。この地での需要はさらに高まったが、元々この地にいた氷の商売人はほとんどが駆逐された。カルカッタには現地のイギリス人コミュニティによって石造りの巨大な貯氷庫が建造され、輸入された氷が貯蔵された。この氷を使って冷やされた果物や乳製品は少量ずつ船便で出荷され、そのたびに高値がついた。イタリア人の貿易商がアルプス山脈の氷をカルカッタに輸入する取り組みをはじめたが、チューダーはカリブ海で駆使した独占手法をここでも実行し、あらゆる商売敵を市場からはじき出した。カルカッタは長いあいだ、氷の取引によって指折りの利益を生み出す市場であった。チューダー一人で1833年から1850年の間に220,000ドル(2010年の470万ドル)以上の利益を積み上げたとされる。", "qas": [ { "question": "カルカッタに輸入された氷の保管のための貯氷庫を建造したのは、誰なの?", "id": "tr-011-11-000", "answers": [ { "text": "現地のイギリス人コミュニティ", "answer_start": 99, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カルカッタの氷市場に新たに登場したが、チューダーの独占手法により市場から追い出されたのは、どの国の貿易商ですか?", "id": "tr-011-11-001", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 189, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ほかにも新しい市場が生まれつつあった。1834年には、チューダーはブラジルに氷と冷やした果物を出荷し、リオ・デ・ジャネイロに船を寄港して取引を行った。この販路では、砂糖や果物、後には綿花を積んで北アメリカに帰港することがもっぱらであった。ニューイングランド発の氷の貿易船は、1839年にはオーストラリアのシドニーに到達し、はじめは1ポンドあたり3ペンスで氷を販売していたが、後に6ペンスに値上げされた。この取引は定期化されるに至らず、この次の出荷は1840年代だった。冷やした野菜や魚、バター、卵のカリブ海や太平洋への輸出は1840年代に拡大し、これらの品物は氷を積んだ一艘の船におよそ35樽も載せて輸送された。氷を積んだ船は、ニューイングランドから香港、フィリピン、ペルシャ湾、ニュージーランド、アルゼンチン、ペルーにも到着した。", "qas": [ { "question": "1834年にチューダーが新たに開拓した新航路とは、どの都市への輸出だったの?", "id": "tr-011-12-000", "answers": [ { "text": "リオ・デ・ジャネイロ", "answer_start": 51, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1834年にチューダーが新たに開拓した新航路では、氷とともに、何の取引も行われましたか?", "id": "tr-011-12-001", "answers": [ { "text": "冷やした果物", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ニューイングランドから出航し、1839年にシドニーに着いた氷の貿易船は、そのあと、何年代になるまで就航されなくなったか?", "id": "tr-011-12-002", "answers": [ { "text": "1840年代", "answer_start": 224, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ニューイングランドの実業家たちの中には1840年代にイギリスで氷の市場を開こうとした者もいた。最初にそれに挑戦し、そして失敗したのがウィリアム・レフトウイッチであった。彼は1822年にノルウェーから氷を輸入してイギリスに輸出しようとしたのだが、彼の積荷はロンドンに届く前に溶けてしまったのである。成功例としては、フレッシュ湖に自前の供給ルートを持っていたジェイコブ・ヒッティンガーとウェナム湖に土地を持っていたエリック・ランドールのそれぞれ1842年と1844年の挑戦が挙げられる。どちらかといえば上手くいったのはランドールのほうだった。彼はイギリスに氷を輸出するための会社、ウェナム・レイク・アイス・カンパニーを設立し、ロンドンのストランドに氷を貯蔵する倉庫を建設した。ウェナム湖の氷は純度が高く冷却効果に優れているという触れ込みで、イギリスの消費者に地元の氷ではなくこの氷を舶来品として売り込むことに成功した。イギリスの水は汚染されており、健康によくないと避けられていた。当初こそ一定の成功をおさめたものの、事業は次第に縮小していった。一部にはイギリス人は北アメリカほど一般的に飲料を冷やすために氷を使わなかったということもあるが、それよりもこの貿易は長距離輸送により氷が溶ける分を計算にいれると、どうしてもコスト高になってしまうことのほうが大きかった。それでもなお、この貿易によって1840年代にアメリカからイギリスに輸送される品物は氷の積荷と一緒に運ばれるため冷蔵保存されて価値が高まるという副産物はあった。", "qas": [ { "question": "ニューイングランドの実業家たちの中で、最初にイギリスで氷の市場を開こうとしたのは、誰なの?", "id": "tr-011-13-000", "answers": [ { "text": "ウィリアム・レフトウイッチ", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ニューイングランドの実業家のうち一人が、初めてイギリスで氷の市場を開こうとしたのは、成功しましたか?", "id": "tr-011-13-001", "answers": [ { "text": "失敗した", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イギリスでの氷市場の開拓に初めて成功した、ニューイングランドの実業家は、誰か?", "id": "tr-011-13-002", "answers": [ { "text": "ジェイコブ・ヒッティンガー", "answer_start": 177, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ジェイコブ・ヒッティンガーとエリック・ランドールのうち、イギリスでの氷市場の開拓により早く成功したのは、誰か?", "id": "tr-011-13-003", "answers": [ { "text": "ジェイコブ・ヒッティンガー", "answer_start": 177, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アメリカの東海岸でも氷の消費量は増え始めていた。とりわけ、業務用、家庭用を問わず冷蔵保存という用途そのものに光が当てられたのである。氷は乳製品や新鮮な果物を保存するという目的からアメリカ北東部でも需要が高まった。氷によって冷蔵された品物は拡大しつつあった鉄道網によって各地に輸送された。1840年ごろには、氷はより少量の商品を大陸を横断してさらに西部へ輸送するためにも使われるようになった。アメリカ東部の漁師たちは氷を使って自分たちがとった魚の冷蔵を始めた。東部では企業でも家庭でも、もはや冬にかけて独自に氷を収穫することは少なくなり、商品として流通したものを利用することがほとんどであった。", "qas": [ { "question": "アメリカの東海岸では、どんな用途としての氷の消費量がどんどん高まっていたの?", "id": "tr-011-14-000", "answers": [ { "text": "冷蔵保存", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この文章では、アメリカの全域でどのような用途としての氷が脚光を浴びていたことを説明していますか?", "id": "tr-011-14-001", "answers": [ { "text": "冷蔵保存", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "事業向けの消費が伸びたことで、かつてのチューダーの独占状態は崩れたものの、取引量そのものが増大していたために彼の得る利益はいまだ莫大なものがあった。需要を満せるだけの氷を供給することこそが求められていた。1842年以降、チューダーたちはニューイングランドのウォールデン池に投資して、さらなる供給源にしようとした。フィラデルフィア・アイス・カンパニーのような新しい会社もでき始め、新たに敷設された鉄道を利用して収穫した氷が輸送されたほか、カーショー家はより優れた氷の収穫法をとりいれてニューヨーク一帯に供給した。", "qas": [ { "question": "氷の事業向けの消費が伸びたことで、チューダーの得る利益はいまだ莫大なものであったものの、彼が進めていたどんな状態が崩れたの?", "id": "tr-011-15-000", "answers": [ { "text": "独占状態", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1842年以降、チューダーたちが目を向けた新たな供給源は、どこか?", "id": "tr-011-15-001", "answers": [ { "text": "ウォールデン池", "answer_start": 128, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "中城ふみ子", "paragraphs": [ { "context": "中城ふみ子は、日本の歌人である。北海道河西郡帯広町出身だ。旧姓は野江富美子、妹の野江敦子も歌人である。中城は婚姻後の姓で、離婚後も中城を名乗った。戦後活躍した代表的な女性歌人の一人で、寺山修司とともに現代短歌の出発点であると言われている。", "qas": [ { "question": "中城ふみ子の出身地はどこですか。", "id": "tr-012-00-000", "answers": [ { "text": "北海道河西郡帯広町", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中城ふみ子の妹の名前は何?", "id": "tr-012-00-001", "answers": [ { "text": "野江敦子", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中城ふみ子の結婚前の姓は何ですか。", "id": "tr-012-00-002", "answers": [ { "text": "野江", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "戦後活躍した代表的な女性歌人の一人で、寺山修司とともに現代短歌の出発点であると言われている人は誰ですか。", "id": "tr-012-00-003", "answers": [ { "text": "中城ふみ子", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "中城ふみ子は1922年11月、北海道河西郡帯広町で生まれた。婚姻前の本名は野江富美子である。地元帯広の帯広尋常高等小学校を卒業後、北海道庁帯広高等女学校に進学する。少女時代のふみ子は文学作品を読みふける文学少女であった。また、帯広高等女学校時代から短歌を詠み始めた。高等女学校を卒業後は上京して、東京家政学院に進学する。東京家政学院時代のふみ子は恵まれた教育環境、良き友人らに恵まれて青春時代を謳歌する。その中で学院で文学を教えていた池田亀鑑から、和歌の薫陶を受ける。\n\n青春を満喫した東京家政学院時代が終わると、実家から即座にお見合いの話が持ち込まれ、婚約が成立したもののふみ子の意志で破棄をする。しかし1942年、鉄道省の札幌出張所に勤めていた中城博と婚姻することになった。中城博とは性格が合わず、結婚当初から大きな不満を抱いていたふみ子であったが、生後3か月で亡くなった次男の徹を含め、4人の子宝に恵まれた。", "qas": [ { "question": "中城ふみ子の婚姻前の名前は何でしたか。", "id": "tr-012-01-000", "answers": [ { "text": "野江富美子", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中城ふみ子が卒業した小学校はどこなの?", "id": "tr-012-01-001", "answers": [ { "text": "帯広尋常高等小学校", "answer_start": 51, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中城ふみ子は帯広尋常高等小学校を卒業したあと、どの学校に進学しましたか。", "id": "tr-012-01-002", "answers": [ { "text": "北海道庁帯広高等女学校", "answer_start": 65, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1942年、中城ふみ子は誰と結婚しましたか。", "id": "tr-012-01-003", "answers": [ { "text": "中城博", "answer_start": 324, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "夫・中城博はやがて業務上の不正行為が原因で出世コースから外れ、その上、愛人を作るようになった。夫婦仲の亀裂は徐々に深刻化していき、ふみ子は短歌に生きがいを見い出すようになる。中城博は1949年8月には国鉄を退職し、ふみ子の実家である野江家の援助を受けて帯広で高校教師の職に就くもすぐに退職してしまい、その後、建設会社で働き出したもののそこでも問題を起こし、結局1950年5月に夫婦別居となった。\n\n戦後、ふみ子は短歌結社に参加し、自作の短歌を発表していた。1949年からは帯広の「辛夷短歌会」に参加し、そこで大森卓と出会う。大森は重い結核にかかっていたが短歌に強く傾倒しており、ふみ子は短歌に傾倒する大森に激しい恋愛感情を抱き、大きな影響を受けることになる。大森は1951年9月に亡くなるが、亡くなった大森に寄せたふみ子の挽歌はその内容が高く評価されている。翌10月には別居中の夫・中城博と正式に離婚となる。", "qas": [ { "question": "中城博は国鉄を退職した次に、どんな仕事をしたの?", "id": "tr-012-02-000", "answers": [ { "text": "高校教師", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中城博は何年に国鉄を退職したか。", "id": "tr-012-02-001", "answers": [ { "text": "1949年", "answer_start": 91, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ふみ子はいつから帯広の「辛夷短歌会」に参加しましたか。", "id": "tr-012-02-002", "answers": [ { "text": "1949年", "answer_start": 228, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大森卓は何年に亡くなるか。", "id": "tr-012-02-003", "answers": [ { "text": "1951年", "answer_start": 332, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "結局、五十首応募の特選を獲得した上に、ふみ子から送られた自作集のノートを高く評価した川端康成が角川書店に強く推薦したことにより、華々しい全国歌壇デビューを飾った。ふみ子の作品はこの当時の主流であった平明な日常詠の短歌からかけ離れたものであったため、既存歌壇から激しい反発と戸惑いを持って迎えられたが、その一方で若手歌人を中心とした熱狂的な支持の声が巻き起こった。そのような毀誉褒貶の最中、ふみ子は1954年8月3日に31歳の生涯を閉じる。", "qas": [ { "question": "ふみ子はいつ亡くなりましたか。", "id": "tr-012-03-000", "answers": [ { "text": "1954年8月3日", "answer_start": 198, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ふみ子が死んだとき、彼女は何歳だったの?", "id": "tr-012-03-001", "answers": [ { "text": "31歳", "answer_start": 208, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中城ふみ子は1922年11月25日、北海道河西郡帯広町に父、野江豊作、母、野江きくゑの長女として生まれた。本名は富美子である。なお11月25日生まれとは戸籍謄本上のもので、両親の記録によれば11月15日となっている。家人の記録と戸籍謄本の誕生日のずれの理由ははっきりしない。\n\nふみ子の父、豊作は富山県西砺波郡戸出町の出身であり、干ばつとウンカの害に遭ったことがきっかけで、1897年ないし1898年に家族で十勝の河西郡売買村に入植した。母、きくゑもまた、岐阜県揖斐郡の出身であったが、両親とともに十勝に入植した。\n\n中城ふみ子が生まれ育った帯広は、広い十勝平野の中にあって、夏季は最高気温が30度を超え、冬季はマイナス30度以下を記録したこともある寒暖の差が激しい地である。また十勝は開放的で自由な北海道の開拓者精神が色濃く残っている地でもある。その一方でふみ子の両親の生まれ故郷である富山県、岐阜県にルーツを持つ住民が多く、地縁、血縁が濃厚であるとの一面もある。このような広い十勝平野、寒暖の差が激しい厳しい気象条件、開放的かつ自由な開拓者精神が残る反面、根強い地縁、血縁も残る十勝の風土は、ふみ子の人生、そして短歌に大きな影響を与えることになる。", "qas": [ { "question": "中城ふみ子の両親の記録によると、中城ふみ子の誕生日はいつですか。", "id": "tr-012-04-000", "answers": [ { "text": "11月15日", "answer_start": 95, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ふみ子の本名は何ですか。", "id": "tr-012-04-001", "answers": [ { "text": "富美子", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "野江豊作はどこ出身なの?", "id": "tr-012-04-002", "answers": [ { "text": "富山県西砺波郡戸出町", "answer_start": 148, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中城ふみ子の母の名前は何?", "id": "tr-012-04-003", "answers": [ { "text": "野江きくゑ", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ふみ子は小学校入学前の一時期、双葉幼稚園に通園した。双葉幼稚園は経済的に豊かな家庭の子どもが通園したといい、恵まれた保育環境を整備していた。しかし双葉幼稚園を卒園することは無く、途中で通園を辞めている。通園を止めた理由ははっきりとしない。\n\n前述のように1929年4月、ふみ子は帯広尋常高等小学校に入学する。尋常高等小学校時代のふみ子について、母は先生から「友だちを欲しがらずに木陰でひとりしょんぼりしていることが多かった」と言われたことを記録している。同級生によれば、学校に童話や少女小説を持ち込み、休み時間ばかりではなく授業中も読みふけっていたという。また蕗谷紅児の絵が好きで、よく王子様やお姫様の絵を描いていたという逸話も残っている。", "qas": [ { "question": "ふみ子はいつ帯広尋常高等小学校に入学しましたか。", "id": "tr-012-05-000", "answers": [ { "text": "1929年4月", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ふみ子は小学校入学前の一時期、どこに通っていましたか。", "id": "tr-012-05-001", "answers": [ { "text": "双葉幼稚園", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1935年、ふみ子は帯広高等女学校に進学する。高等女学校の成績は各教科ともほぼ80点以上で、上位クラスであった。学業優秀であったふみ子がやはり最も熱中したのが文学であった。女学校は本の持ち込みは禁止されていたが、こっそり山川弥千枝の「薔薇は生きている」、川端康成の「乙女の港」などといった本を持ち込み、隠れて友人と読んでいた。こっそり学校に持ち込んだ本の挿絵の多くは、中原淳一が描いたものであった。ふみ子は中原に憧れ、その字体を真似るようになったという。なお少女時代からの川端康成への憧れが、人生の最終期に発行を計画した歌集の序文を川端康成に依頼することに繋がったという説がある。また作文の授業でふみ子が作った詩はいつも先生に読み上げられたといい、学校ばかりではなく自宅でも読書に明け暮れ、よく妹たちに本を読み聞かせていた。", "qas": [ { "question": "ふみ子はいつ帯広高等女学校に進学しましたか。", "id": "tr-012-06-000", "answers": [ { "text": "1935年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ふみ子が最も熱中していた科目は何でしたか。", "id": "tr-012-06-001", "answers": [ { "text": "文学", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1939年、帯広高等女学校を卒業したふみ子は東京家政学院に進学する。母は進学に反対したものの、ふみ子自身のたっての希望で東京家政学院に入学することになった。千歳船橋にあった学生寮に入寮してそこから通学をしたが、当時、両親の商売は順調で毎月十分な仕送りがされていた。東京家政学院は文学は池田亀鑑、法学の穂積重遠、家政学は大江スミといった恵まれた教授陣を擁し、料理実習には上野精養軒や一流料亭から料理人がやって来た。ふみ子は料理上手であり、上野精養軒のコック直伝のチキンライスやオムライスは、その後父母が経営する店の従業員たちの食事などに提供されることになる。", "qas": [ { "question": "1939年、帯広高等女学校を卒業したふみ子はどこに進学するか。", "id": "tr-012-07-000", "answers": [ { "text": "東京家政学院", "answer_start": 22, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ふみ子が東京家政学院に進学することに対して彼女の母は賛成でしたか、反対でしたか。", "id": "tr-012-07-001", "answers": [ { "text": "反対", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "東京家政学院でふみ子に文学を教えた人は誰なの?", "id": "tr-012-07-002", "answers": [ { "text": "池田亀鑑", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "岡本かの子を理想の女性像としたふみ子は、家政学院時代から女性であることを誇りに感じており、後に死の数カ月前に「幸福な少女時代、更になほ幸福な家政学院遊学時代」と回想したように、2年間の家政学院での学生生活を満喫した。ふみ子は麹町にあった中原淳一関連のグッズ販売店「ひまわり」に通いつめ、洋服やレターセットなどを買っていた。そして級友と共にトランプやハイキングに興じ、喫茶店やレストランへ行き、映画や芝居を観覧し、買い物、そしてダンスを楽しんだ。ふみ子の人生はその後、様々な試練、苦闘に見舞われることになるが。自分らしい生き方を貫くことを求め、女性であることを誇りに思う心性を持ち続けた。", "qas": [ { "question": "ふみ子が理想の女性像として考えていた人は誰ですか。", "id": "tr-012-08-000", "answers": [ { "text": "岡本かの子", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ふみ子は家政学院を何年間通いましたか。", "id": "tr-012-08-001", "answers": [ { "text": "2年間", "answer_start": 88, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "東京家政学院時代のふみ子にはボーイフレンドもいた。ふみ子が「お兄様」と呼んだ樋口徹也である。樋口は慶應義塾大学の予科生で美男子であった。当時の友人は後に「ふみ子さんは、きれいな人でないと駄目なんですから」と評している。昭和10年代の自由な男女交際が困難であった時代、友人たちはふみ子の行動に驚いたが、在学中から樋口は航空隊に志願しており、卒業後は特別志願航空兵となったため交際は長続きしなかった。またふみ子は長女、樋口が長男であったことも二人の交際をゴールインさせることの障害になったと考えられる。\n\n東京家政学院時代、ふみ子は池田亀鑑主催の「さつき短歌会」に参加した。短歌会では池田が短歌の添削指導も行っており、ふみ子は短歌作りに熱中するようになった。短歌の世界に目が開いたふみ子が特に魅かれたのが与謝野晶子の短歌であったという。東京家政学院時代のふみ子の短歌はさつき短歌会の詠草集「ひぐらし抄」、「おち葉抄」に掲載されている。", "qas": [ { "question": "東京家政学院を通っていたとき、ふみ子の彼氏は誰だったの?", "id": "tr-012-09-000", "answers": [ { "text": "樋口徹也", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "東京家政学院時代、ふみ子は自分の彼氏のことを何と呼びましたか。", "id": "tr-012-09-001", "answers": [ { "text": "「お兄様」", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ふみ子が参加していた「さつき短歌会」の主催者は誰でしたか。", "id": "tr-012-09-002", "answers": [ { "text": "池田亀鑑", "answer_start": 264, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1941年3月、ふみ子は文字通り青春を満喫した東京家政学院を卒業する。卒業式には母のきくゑが参列した。きくゑには卒業式参列の他にもう一つ、重要な目的があった。ふみ子への縁談である。卒業式後、紹介者と合流するためにいったん父の故郷、富山に立ち寄った後、紹介者とふみ子と母は旭川に向かい、そのままお見合いをする。\n\n実のところふみ子は家政学院在学中から母のきくゑからしばしばお見合いを勧められていたが、その都度断っていた。見合いの相手は24歳の歯科医で、ふみ子の両親はこの縁談に乗り気であった。両親が歯科医の青年との縁談に乗り気であった理由としては、戦時体制が強まっていく中で両親の商売が上手く行かなくなってきたこと、若者が次々と出征していく戦時下の状況、そしてふみ子の言動を心配した等が考えられる。", "qas": [ { "question": "ふみ子はいつ東京家政学院を卒業したの?", "id": "tr-012-10-000", "answers": [ { "text": "1941年3月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "見合いの相手はふみ子のタイプではなかった。結婚を自らの意志ではなく決められてしまうことも嫌であった。そして東京時代のボーイフレンド、樋口徹也への思いも断ち切れていなかった。結局、見合い相手の歯科医と婚約することになり、婚約者の優しさは認めたものの、ふみ子の心は満たされなかった。思い悩むふみ子には戦時体制が強化されつつあった状況も圧し掛かってくる。日本の現状と自分の考え方、生き方が合致していないのではないか......ふみ子は様々に思い悩みながらも、母に婚約解消を強く訴え続けた。怒った母はふみ子に布団蒸しの折檻も加えたというが、ついにふみ子は家出を決行する。この家出は函館駅付近で知人に見つけられ、連れ戻されたが最終的に婚約は解消されることになった。\n\n帯広ではふみ子の婚約破棄は話題となった。親が選んだ恵まれた条件の青年との婚約を破棄したことは当時としては珍しい出来事であり、ふみ子と家族は周囲からの非難と好奇の目に晒されることになった。そのような中でふみ子は家業である商売を積極的に手伝ったり、得意であった料理つくりなど家事を手伝うなど懸命に働いた。この頃になると戦時体制がふみ子に大きく影響していくようになる。聖戦を称え、これまでの自分本位の生き方を反省し、自分をある程度殺して、従順かつ犠牲心を持った生き方をしていこうとしたのである。\n\nこのようなふみ子のもとに再度、お見合いの話が舞い込んできた。今度の相手は北海道帝国大学の工学部を卒業し、鉄道省の札幌出張所に勤めていた中城博であった。先に婚約破棄をした青年と比べて「財産は無く、意地っ張りで寛大でもない」が、「頭が良くきれいな」青年であった。戦時体制下、幸福になれる自信が無いとためらいを見せながらも、ふみ子は結婚を了承する。ふみ子の家族にとっても前回の婚約破棄の負い目もあった。ふみ子と中城博との結婚式は1942年4月26日、札幌神社で行われた。", "qas": [ { "question": "ふみ子の二度目のお見合い相手は誰でしたか。", "id": "tr-012-11-000", "answers": [ { "text": "中城博", "answer_start": 642, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "中城博はどの大学を卒業しましたか。", "id": "tr-012-11-001", "answers": [ { "text": "北海道帝国大学", "answer_start": 611, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ふみ子と中城博との結婚式はどこで行われたの?", "id": "tr-012-11-002", "answers": [ { "text": "札幌神社", "answer_start": 797, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ふみ子と中城博との結婚式はいつ行われたの?", "id": "tr-012-11-003", "answers": [ { "text": "1942年4月26日", "answer_start": 786, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ふみ子と夫、中城博との結婚生活は札幌市にあった鉄道省工事事務所官舎で始まった。戦時体制下、従順かつ犠牲心を持った生き方をしていこうとしていたふみ子は結婚はしたものの、まもなく深い絶望感に囚われるようになる。東京家政学院時代の親友に「私たちの結婚は不幸から出発してゐるのです」と、手紙に書いている。「私は理想主義ですし、夫は現実的でありすぎ」とも書いている。夫に離婚を切り出すものの承知してくれない。ふみ子は九州の東京家政学院時代の親友宅に逃げ出そうと計画するが、体調を崩してしまう。体調不良の原因は妊娠であった。妊娠後も心の葛藤は続いたが、結局、離婚や夜逃げは断念することとなった。\n\n1943年1月、夫、中城博は室蘭に転勤となり、5月8日には長男、孝が生まれる。翌1944年2月、夫、博は今度は函館五稜郭出張所に転勤となり、4月には五稜郭出張所所長に就任した。この頃発行された帯広高等女学校の同窓生便りにふみ子も短文を寄稿しているが、その中で「家庭に入って歌も随分作りましたけど、発表禁止でございます」と書いている。ふみ子は夫から短歌の発表を止められていたと考えられる。五稜郭出張所所長に就任するなど、夫、中城博は出世コースを歩んでおり、この頃は夫婦関係も一応安定していたと考えられる。戦時中のふみ子は国防婦人会の班長を務め、班の事務をそつなくこなし、勤労奉仕にも積極的に参加していたという。しかしまもなく夫婦関係に修復し難い亀裂が入っていくことになる。", "qas": [ { "question": "ふみ子の長男の誕生日はいつなの?", "id": "tr-012-12-000", "answers": [ { "text": "5月8日", "answer_start": 316, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ふみ子の最初の出産は何年にありましたか。", "id": "tr-012-12-001", "answers": [ { "text": "1943年", "answer_start": 293, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "中城博が函館五稜郭出張所に転勤となったのはいつですか。", "id": "tr-012-12-002", "answers": [ { "text": "1944年2月", "answer_start": 333, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "夫の転勤に伴い函館での生活を始めたふみ子は、第2子を妊娠していた。長男の誕生時は母のきくゑが室蘭へやって来てお産の説代をしたが、今度はきくゑが腎臓の手術後で函館まで行けなかったため、ふみ子は帯広の実家で里帰り出産をすることになった。8月25日、ふみ子は次男、徹を出産する。次男誕生の直後の27日、夫、徹の母が急逝する。後に中城博が発表した手記によれば、夫としては実家に帰っていて母の死を看取ることが無かった妻に大きな不満を抱いたという。そして生まれたばかりの次男の徹は病弱であり、11月8日に亡くなってしまう。\n\nそしてこの頃から夫、中城博の生活が乱れ始める。ふみ子が里帰り出産のため帯広に行っている間に、函館の土建業者が工事請負に便宜を図ってもらう見返りに、若い芸者を世話したと伝えられている。話の内容的に実態ははっきりとはしないものの、周囲の証言からこの頃から夫の生活が乱れ始めたと考えられる。", "qas": [ { "question": "徹の誕生日はいつなの?", "id": "tr-012-13-000", "answers": [ { "text": "8月25日", "answer_start": 116, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "徹はいつ死亡したか。", "id": "tr-012-13-001", "answers": [ { "text": "11月8日", "answer_start": 240, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "終戦時、ふみ子は妊娠をしていた。1946年3月11日、長女の雪子が生まれる。ふみ子は雪子の誕生後、1951年に至るまで断続的に「雪子の日記」を書いている。「雪子の日記」の中では、夫が雪子を可愛がる姿や成長を願う短歌を詠んだ穏やかな家庭生活を記したものもある。しかし夫の博は職務上の不祥事が問題となって、1946年末には五稜郭出張所所長を解任されて札幌鉄道施設部に配属となった。\n\n終戦後の食糧難と激しいインフレの中、ふみ子の家族の生活は厳しかった。雪子の日記には、博には借金があり、留萌にヤミでサッカリンを売りに行くなどといった記述が見られる。ふみ子の家庭には帯広の実家からの援助もあった。しかしそれだけでは生活が成り立たず、花嫁衣裳、嫁入り道具であったたんすなどを手放しながら、何とか生活していった。しかしそのような生活の中、夫の博は愛人を作っていた。その上、1947年9月22日には三男の潔が誕生する。幼い子を抱え、実家からの援助や花嫁衣裳を手放しながら、日々のやりくりに四苦八苦する中での夫の不貞は、ふみ子と夫との距離を更に広げていった。", "qas": [ { "question": "ふみ子の長女の名前は何?", "id": "tr-012-14-000", "answers": [ { "text": "雪子", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ふみ子はいつまで「雪子の日記」を書いたの?", "id": "tr-012-14-001", "answers": [ { "text": "1951年", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "博が札幌鉄道施設部に配属されたのはいつなの?", "id": "tr-012-14-002", "answers": [ { "text": "1946年末", "answer_start": 151, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ふみ子の三男の名前は何ですか。", "id": "tr-012-14-003", "answers": [ { "text": "潔", "answer_start": 396, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "北海道新聞函館支社とポプラに続き、ふみ子が発表の場として選んだのは短歌専門の文芸誌であった。ふみ子は1930年に小田観螢主催で創刊された、「新墾」に入社した。ふみ子の「新墾」入社時期については1946年、1947年2月、1947年4月の3説がある。ふみ子自身は1946年入社と述べているが、後に「新墾」に書かれたふみ子の略歴には1947年4月となっており、同人の中には1947年2月説を唱えている者もいる。いずれにしてもふみ子の入社時期を明記した文献が見い出されておらず、時期ははっきりとしない。しかし1946年ないし47年に入社したふみ子の短歌はしばらく掲載されることは無かった。ふみ子が詠んだ短歌が初めて「新墾」に掲載されたのは、1948年2月号であった。", "qas": [ { "question": "「新墾」はいつ創刊されたの?", "id": "tr-012-15-000", "answers": [ { "text": "1930年", "answer_start": 50, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ふみ子の短歌が初めて「新墾」に掲載されたのはいつですか。", "id": "tr-012-15-001", "answers": [ { "text": "1948年", "answer_start": 317, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1949年(昭和24年)4月、ふみ子は高松から帯広の実家に戻った。この時、三男の潔のみを連れて帰ったとの説と、3人の子ども全員を連れて帰ったとの説がある。8月には夫、博が国鉄を退職して帯広にやって来た。先にふみ子が三男のみ連れ帰ったとの説では、この時、博が上の二人の子どもを連れて帯広に来たことになっている。いずれにしても1949年8月以降、ふみ子の家族は帯広で生活を始めた。\n\nふみ子の父の野江豊作は、国鉄を退職した中城博の職探しに奔走する。結局、帯広商工学校の土木・建築科の教師の職が見つかり、10月から勤め始めた。帯広で心機一転、やり直しを図ろうとしたものの、プライドが高い博にとって、妻の実家に高校教師の職を世話されたことや、そもそも田舎である帯広での教師職自体に不満を持った。夫婦間の諍いは絶えず、この頃、博はしばしばふみ子のことを口論の末、殴っていたという。\n\n1949年の年末、博は同僚の教師たちにしきりと利殖の話を勧めていた。この利殖の話は一種のねずみ講であった。高校教師の仕事もそこそこに、博は事務所を構えて金融関係の仕事を始めた。結局1950年3月には高校を辞めてしまう。しかし金融関連の仕事は上手く行かなかった。その後、博はふみ子の実家、野江家近くにあった建設会社で働くようになるが、そこでも問題を起こしている。上手く行かなかった金融関連の仕事や、建設会社で引き起こした問題の後始末は結局、ふみ子の実家の野江家が行った。また1950年1月にふみ子は堕胎をした。生活が苦しく、これ以上子どもを持つことは出来なかった。\n\n教師を辞めた夫、博の生活は更に乱れていった。ほどなく博には愛人が出来た。結局1950年5月、ふみ子夫婦と仲人、そして両親ら親族が集まって話し合いがもたれ、夫婦の別居が決まった。", "qas": [ { "question": "博はいつ高校教師を辞めたか。", "id": "tr-012-16-000", "answers": [ { "text": "1950年3月", "answer_start": 477, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ふみ子夫婦の別居が決まったのはいつなの?", "id": "tr-012-16-001", "answers": [ { "text": "1950年5月", "answer_start": 708, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "自らを根無しの一本の茎に例えたこの句は、「辛夷短歌会」主催の野原水嶺の賞賛を受けた。「新墾」には1950年6月号に掲載されており、またふみ子自らが選句、構成し、死去直前に発行された第一歌集、「乳房喪失」の句の中で、最も早い時期に詠まれた句である。\n\nふみ子は「辛夷短歌会」で自らの運命を大きく変えることになる人物と出会う。大森卓である。ふみ子が執筆したラジオドラマ「冬の海」の中で、大森卓をモデルとした主人公「小森」について、「人間は一生のうちに自分の運命や思想をすっかり変へてしまふ程の、強い影響力を持つ人に出会ふことがある」と語っている。大森は「辛夷短歌会」の主要メンバーのひとりで、才能に恵まれた歌人であったが、ふみ子と出会った時点、既に重い結核にかかっていた。歌会で大森と出会ったふみ子は妹の敦子に「素晴らしい人に会った」と語ったという。大森のことを知る人物によれば、彼はふみ子の夫、中城博に似たところがある鋭さを感じさせる人物であり、またふみ子好みの美男子であった。", "qas": [ { "question": "「辛夷短歌会」で出会ったふみ子の運命を大きく変えることになる人物とはは誰のことですか。", "id": "tr-012-17-000", "answers": [ { "text": "大森卓", "answer_start": 161, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大森卓はどんな病気にかかっていたか。", "id": "tr-012-17-001", "answers": [ { "text": "結核", "answer_start": 324, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "カトリーヌ・ド・メディシス", "paragraphs": [ { "context": "カトリーヌ・ド・メディシスは、フランス王アンリ2世の王妃である。フランス王フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母后。\n\n1519年、イタリアのフィレンツェでウルビーノ公ロレンツォ2世・デ・メディチ(ロレンツォ・デ・メディチの孫)と、オーヴェルニュ伯ジャン3世の娘マドレーヌの間に生まれた。イタリア語名はカテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチだ。彼女を出産後に母が亡くなり、間もなく父も亡くして孤児となる。1533年、ローマ教皇クレメンス7世とフランス王フランソワ1世の間で縁組交渉がまとまり、フランスの第2王子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワと結婚する。10人の子を産むが、アンリ2世の寵愛は愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエに独占されていた。1559年に馬上槍試合での事故でアンリ2世が死去し、長男フランソワ2世の短い治世の後に幼いシャルル9世が即位すると摂政として政治を担うことになる。", "qas": [ { "question": "フランス王アンリ2世の王妃は誰なの?", "id": "tr-013-00-000", "answers": [ { "text": "カトリーヌ・ド・メディシス", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カトリーヌ・ド・メディシスのイタリア語の名前は何?", "id": "tr-013-00-001", "answers": [ { "text": "カテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カトリーヌ・ド・メディシスの母の名前は何ですか。", "id": "tr-013-00-002", "answers": [ { "text": "マドレーヌ", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カトリーヌ・ド・メディシスは何年生まれなの?", "id": "tr-013-00-003", "answers": [ { "text": "1519年", "answer_start": 63, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "国内ではユグノー(フランスのカルヴァン派)とカトリックの対立が激化しており、カトリーヌは融和政策を図るが、フランス宗教戦争(ユグノー戦争)の勃発を止めることはできなかった。休戦と再戦を繰り返した1572年にパリやフランス各地でプロテスタントの大量虐殺(サン・バルテルミの虐殺)が起こり、カトリーヌは悪名を残すことになる。シャルル9世はこの2年後に死去し、四男のアンリ3世が即位するが、内乱はカトリック陣営のギーズ公アンリ、そしてユグノー陣営のナバラ王アンリとのいわゆる「三アンリの戦い」の様相を呈し、泥沼化する。1588年にアンリ3世は強硬手段に出てギーズ公アンリを暗殺するが、病床にあったカトリーヌは息子の愚行を嘆きつつ、ほどなく死去した。カトリーヌの死の8か月後にアンリ3世はカトリック修道士に暗殺され、ヴァロワ朝は断絶した。ナバラ王アンリがアンリ4世として即位し、新たにブルボン朝が開かれた。", "qas": [ { "question": "国内ではユグノーとカトリックの対立が激化したため、カトリーヌはどんな政策を図りましたか。", "id": "tr-013-01-000", "answers": [ { "text": "融和政策", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランスの国内ではユグノーとカトリックの対立が激化したことで勃発した戦争は何ですか。", "id": "tr-013-01-001", "answers": [ { "text": "フランス宗教戦争(ユグノー戦争)の", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アンリ3世がギーズ公アンリを暗殺するのはいつのことですか。", "id": "tr-013-01-002", "answers": [ { "text": "1588年", "answer_start": 256, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アンリ3世が暗殺されたあと、アンリ4世として即位した人は誰ですか。", "id": "tr-013-01-003", "answers": [ { "text": "ナバラ王アンリ", "answer_start": 365, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ロレンツォとマドレーヌは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世に対抗するフランス王フランソワ1世と教皇レオ10世との同盟の一環として1518年にアンボワーズで結婚していた。同時代の年代記によると、カトリーヌが1519年4月13日水曜日にフィレンツェで生まれた時、両親は「まるで男子が生まれたかのように喜んだ」という。しかし彼らの喜びは長くは続かず、母マドレーヌは4月28日に、父ロレンツォ2世もまた5月4日に相次いで死去してしまう。メディチ家兄脈を正統に継ぐ唯一の人間となったカトリーヌに対し、フランソワ1世は後見人たるを望むが、教皇レオ10世はこれを拒絶した。教皇レオ10世はカトリーヌを弟の庶子であるイッポーリト・デ・メディチと結婚させてフィレンツェの共同統治者に据えることを意図していた。", "qas": [ { "question": "カトリーヌはどこで生まれたの?", "id": "tr-013-02-000", "answers": [ { "text": "フィレンツェ", "answer_start": 115, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カトリーヌの母が死んだのは何月何日ですか。", "id": "tr-013-02-001", "answers": [ { "text": "4月28日", "answer_start": 178, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カトリーヌの母と父と、誰が先に死亡したか。", "id": "tr-013-02-002", "answers": [ { "text": "母", "answer_start": 171, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "教皇レオ10世はカトリーヌを誰と結婚させる計画でしたか。", "id": "tr-013-02-003", "answers": [ { "text": "イッポーリト・デ・メディチ", "answer_start": 299, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カトリーヌは当初、父方の祖母アルフォンシーナ・オルシーニに養育された。1520年にアルフォンシーナが死去すると叔母のクラリーチェ・デ・メディチに引き取られ、従兄弟たちと育てられた。1521年に教皇レオ10世が死去し、皇帝カール5世の推すハドリアヌス6世が新教皇に選出されたことにより、メディチ家の権力は一時的に衰えたが、新教皇は短命に終わり、1523年に一門のジュリオ・デ・メディチ枢機卿が教皇に選出された。教皇クレメンス7世はカトリーヌにフィレンツェのメディチ・リッカルディ宮殿を与えた。フィレンツェの人々は彼女の公認されていないウルビーノ公位継承権を尊重して「小公女」と呼んだ。", "qas": [ { "question": "教皇レオ10世は何年に死去したか。", "id": "tr-013-03-000", "answers": [ { "text": "1521年", "answer_start": 90, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フィレンツェの人々はカトリーヌの公認されていないウルビーノ公位継承権を尊重して何と呼んだか。", "id": "tr-013-03-001", "answers": [ { "text": "「小公女」", "answer_start": 281, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カトリーヌの父方の祖母はいつ死亡したか。", "id": "tr-013-03-002", "answers": [ { "text": "1520年", "answer_start": 35, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "カトリーヌがローマを訪れた際にヴェネツィア大使は「小柄で痩せており、顔立ちに優美さはなく、またメディチ家特有の突き出た目をしている」と述べている。カトリーヌは従兄のイポリットと恋仲になっていたが、教皇クレメンス7世は野心家の彼を退けて別の婿を探した。ウルビーノ公デッラ・ローヴェレ、ミラノ公フランチェスコ2世・スフォルツァなど数多くの求婚者がいたが、1533年初めにフランソワ1世が次男オルレアン公アンリとの縁談を持ちかけると教皇クレメンス7世はこれに同意した。教会の出身者の姪であったが、メディチ家の出身のカトリーヌとフランス王族との結婚は不釣り合いと見られた。反対する意見もあったが、フランソワ1世はイタリア対策を重視してこれを押し切った。結婚した最初の年、カトリーヌは夫とほとんど会うことはなかったが、宮廷の女性たちは彼女を丁重に扱い、その知性と好意を得るための熱心さに感銘を受けている。ところが、1534年9月25日に教皇クレメンス7世が死去するとフランス宮廷におけるカトリーヌの立場は悪化した。新教皇パウルス3世はフランスとの盟約を破棄し、先代クレメンス7世が約束した巨額の持参金の支払を拒否した。フランソワ1世は「この少女は素っ裸で私のところへ来た」と嘆いている。", "qas": [ { "question": "カトリーヌがローマを訪れたとき、彼女に対して「小柄で痩せており、顔立ちに優美さはなく、またメディチ家特有の突き出た目をしている」と述べたのは誰なの?", "id": "tr-013-04-000", "answers": [ { "text": "ヴェネツィア大使", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "教皇クレメンス7世はいつ死んだの?", "id": "tr-013-04-001", "answers": [ { "text": "1534年9月25日", "answer_start": 402, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1536年、アンリの兄フランソワがテニスの試合後にひいた風邪が元で熱病に罹って死去し、アンリが王位継承者となった。王太子妃となったカトリーヌは将来の王位継承者を生むことを期待されるようになる。宮廷年代記作家ブラントームによれば「多くの人々がフランス王家の継承を安泰にするために彼女を離縁するよう王や王太子に勧めた」という。離婚が議論され、絶望的な状況に置かれたカトリーヌは妊娠するために当時知られるあらゆる手段を用いた。牛の糞と雄鹿の角を彼女の「生命の源」に貼り付けたり、騾馬の尿を飲むことまでした。1544年1月20日、彼女はついに男子を生み、王にちなんでフランソワと名づけられた。", "qas": [ { "question": "アンリの兄フランソワはいつ死んだのか。", "id": "tr-013-05-000", "answers": [ { "text": "1536年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランソワが死ぬことで王位継承者となったのは誰ですか。", "id": "tr-013-05-001", "answers": [ { "text": "アンリ", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カトリーヌがいつ初めての子を産みましたか。", "id": "tr-013-05-002", "answers": [ { "text": "1544年1月20日", "answer_start": 250, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カトリーヌの長男の誕生日はいつなの?", "id": "tr-013-05-003", "answers": [ { "text": "1月20日", "answer_start": 255, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "一度、出産を経験すると、以降カトリーヌは妊娠することに何らの支障もなくなった。これは王太子夫妻の生殖器の異常を指摘し、解決法を助言した医師ジャン・フェルネルの功績とされる。その後、カトリーヌはアンリとの間に9人の子を産み、そのうち7人が成長し、その中には将来のシャルル9世、アンリ3世そしてエルキュール・フランソワが含まれる。14世紀以降フランスを統治していたヴァロワ朝の将来は安泰かと思われた。\n\n新たに見つかった彼女の妊娠をする能力は、夫婦関係を改善することにはならなかった。アンリは18歳年上のディアーヌ・ド・ポワチエを愛妾にしており、彼女がアンリの愛情を独占していた。もっとも、アンリは配偶者としてカトリーヌの立場を尊重してはいる。1547年にフランソワ1世が死去してアンリが即位し、カトリーヌはフランス王妃となる。1549年6月、彼女はサン=ドニ大聖堂で戴冠した。", "qas": [ { "question": "カトリーヌはアンリとの間に何人の子を産みましたか。", "id": "tr-013-06-000", "answers": [ { "text": "9人", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アンリとディアーヌ・ド・ポワチエと、誰がもっと年上なの?", "id": "tr-013-06-001", "answers": [ { "text": "ディアーヌ・ド・ポワチエ", "answer_start": 250, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カトリーヌは何年にフランス王妃になったか。", "id": "tr-013-06-002", "answers": [ { "text": "1547年", "answer_start": 320, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1549年6月、カトリーヌはどこで戴冠したか。", "id": "tr-013-06-003", "answers": [ { "text": "サン=ドニ大聖堂", "answer_start": 373, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アンリ2世はカトリーヌが如何なる政治的影響力を持つことも許さなかった。国王が不在中はカトリーヌが摂政の役割を担ったが、権限を厳しく制限されており、名目的なものに過ぎなかった。アンリ2世はカトリーヌが貰い受けることを望んだシュノンソー城をディアーヌ・ド・ポワチエに与えてしまい、彼女はここを権力の中枢となしてパトロネージを施し、贈物を受け取った。\n\n神聖ローマ帝国大使は、アンリ2世は来客たちの前でディアーヌの膝に座ってギターを弾き、政治について語り、または彼女の乳房を愛撫していたと報告している。ディアーヌはカトリーヌを脅威と認識していた。彼女は国王にカトリーヌと寝室を共にして、もっと子供をつくるよう勧めた。1556年、カトリーヌは双子の娘を出産した際に死にかけている。医師たちはカトリーヌの命を救うために双子の一人の脚を折り、その子は彼女の胎内で死亡した。生き残った子も7週間後に死亡した。以後、カトリーヌが子を生むことはなくなった。", "qas": [ { "question": "カトリーヌが双子の娘を出産したのは何年度のことか。", "id": "tr-013-07-000", "answers": [ { "text": "1556年", "answer_start": 305, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カトリーヌの双子のうち、生き残った子は生まれてから何週間後、死亡したか。", "id": "tr-013-07-001", "answers": [ { "text": "7週間後", "answer_start": 387, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アンリ2世の治世にギーズ家兄弟が台頭し始めており、次男のシャルルが枢機卿となり、アンリ2世の幼馴染の長男フランソワがギーズ公となった。彼らの姉メアリー・オブ・ギーズはスコットランド王ジェームズ5世と結婚して1538年にスコットランド女王メアリーの母后となった。メアリーは5歳半の時にフランス宮廷に招かれ、王太子フランソワと婚約した。カトリーヌはメアリーを自分の子供たちとともにフランス宮廷で育て、一方でメアリー・オブ・ギーズは娘の摂政としてスコットランドの統治にあたった。\n\n1559年4月3日から4日、アンリ2世は神聖ローマ帝国およびイングランドとカトー・カンブレジ条約を締結し、長期にわたったイタリア戦争を終結させた。条約では13歳になるカトリーヌの娘エリザベートとスペイン王フェリペ2世との婚約が取り決められていた。同年6月22日にパリで挙行された代理結婚式は祭典や舞踏会、仮面劇そして5日間にわたる馬上槍試合で祝われた。", "qas": [ { "question": "スコットランド王ジェームズ5世の妻は誰か。", "id": "tr-013-08-000", "answers": [ { "text": "メアリー・オブ・ギーズ", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アンリ2世が締結したカトー・カンブレジ条約に従うと、カトリーヌの娘エリザベートは誰と結婚することになっていますか。", "id": "tr-013-08-001", "answers": [ { "text": "スペイン王フェリペ2世", "answer_start": 335, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カトー・カンブレジ条約は何年に締結されたか。", "id": "tr-013-08-002", "answers": [ { "text": "1559年", "answer_start": 238, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アンリ2世はディアーヌのシンボル・カラーである黒と白の羽根飾りを身にまとって馬上槍試合に臨んだ。アンリ2世はギーズ公とヌムール公を破ったが、若いモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュは彼を強打して落馬しかけさせた。アンリ2世はモンゴムリ伯に再戦を挑み、この時、モンゴムリ伯の槍が国王の顔面を突き刺した。アンリ2世は落馬し、顔面からは血が噴き出し、「とても大きな」破片が目や頭に突き刺さっていた。\n\nこの事態にカトリーヌ、ディアーヌそして王太子フランソワはみな卒倒した。アンリ2世はトゥルネール城に運び込まれ、ここで5つの木片が頭から引き抜かれたが、そのうち一つは眼球を貫通して脳に達していた。カトリーヌは王の枕元に侍したが、ディアーヌは、当時の年代記作家によれば「王妃によって追放される恐怖のために」、遠ざかった。続く10日間、アンリ2世の容体は揺れ動いた。手紙を口述し、音楽を聴くほど回復することもあったが、次第に彼は視力、言語能力そして意識を失い、7月10日に死去した。その日以来、カトリーヌは「これが私に涙と痛みをもたらした」(\"lacrymaehinc,hincdolor\")と刻んだ折れた槍のエンブレムを用い、アンリ2世を悼む黒い喪服を常に着用するようになった。", "qas": [ { "question": "ディアーヌのシンボル・カラーは黒と何?", "id": "tr-013-09-000", "answers": [ { "text": "白", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アンリ2世は何月何日に死去したか。", "id": "tr-013-09-001", "answers": [ { "text": "7月10日", "answer_start": 425, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アンリ2世が死んでからカトリーヌは常にどんな服を着るようになりましたか。", "id": "tr-013-09-002", "answers": [ { "text": "黒い喪服", "answer_start": 517, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "16世紀初めにドイツで始まった宗教改革の影響は、フランスにも及んだ。神聖ローマ皇帝カール5世と敵対していたフランソワ1世はプロテスタントに対して比較的寛容であったが、1534年の檄文事件を契機に弾圧に転じる。アンリ2世もこの政策を引き継ぎ、火刑法廷(lachambreardente)と呼ばれる異端審問を設置してプロテスタントを迫害した。フランスのプロテスタントはジャン・カルヴァンによって創始されたカルヴァン派が主流となり、迫害を受けたにもかかわらず、平民から貴族まで広い社会階層がプロテスタントに帰依するようになっていた。", "qas": [ { "question": "16世紀初めに起こった宗教改革の最初の発生地はどこですか。", "id": "tr-013-10-000", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "檄文事件とは何年に起こった事件ですか。", "id": "tr-013-10-001", "answers": [ { "text": "1534年", "answer_start": 83, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "このような情勢の中、フランソワ2世は15歳で即位した。この前年にフランソワ2世と結婚したスコットランド女王メアリーの叔父にあたるロレーヌ枢機卿とギーズ公フランソワがアンリ2世が死去した次の日に一種のクーデターを起こして権力を掌握し、国王夫妻とともにルーヴル宮へ移った。この数日後にイングランド大使は「ギーズ家兄弟は国王の全てを支配した」と報告している。さしあたり、カトリーヌはギーズ家兄弟とともに働かざる得なくなった。国王は既に成人していたので、彼女の宮廷内での役割は明確ではなかった。それにもかかわらず、国王は全ての国務に際して「これは我が母后が同意されるところであり、予も母后の全ての意見に同意し、故に予はこれに満足し次の命令を発する...」との言葉を添えている。", "qas": [ { "question": "フランソワ2世が即位したとき、彼は何歳でしたか。", "id": "tr-013-11-000", "answers": [ { "text": "15歳", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "熱心なカトリックであるギーズ家兄弟はプロテスタントの迫害を始めた。カトリーヌは穏健な立場をとりギーズ家による迫害に反対したが、自身はユグノーに共感していたわけではなく、そもそも彼らの信条をよく理解してはいなかった。ユグノーは当初は第一血統親王(princedusang)であるブルボン家のナバラ王アントワーヌを盟主に戴き、その後、より信仰に熱心な弟コンデ公ルイ1世を盟主としており、彼はギーズ家を武力で打倒しようとする陰謀を支援していた。ギーズ家兄弟がこれを察知すると、宮廷をアンボワーズ城へ移させた。ギーズ公は城外の森に潜んでいた反乱軍に奇襲をかけ、指導者ラ・ルノディーを含む敵の多くをその場で殺害した。生き残りは川に投げ込まれるか、カトリーヌや廷臣たちの面前で絞首刑に処された。", "qas": [ { "question": "ギーズ家兄弟の宗教は何だったか。", "id": "tr-013-12-000", "answers": [ { "text": "カトリック", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カトリーヌはギーズ家による迫害に賛成していたか、反対していたか。", "id": "tr-013-12-001", "answers": [ { "text": "反対", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1560年6月、カトリーヌはミシェル・ド・ロピタルを大法官に任命した。ロピタルは無秩序が広がりつつある状況下で、カトリーヌとともに法治体制を守るべく画策した。2人は武力行使をしていない、プロテスタントの個人的な礼拝行為は、罰する必要はないと見なしていた。同年8月、カトリーヌはフォンテーヌブロー宮に諮問会議を召集してプロテスタントに発言の機会を与えた。彼らは特定の場所での礼拝の自由を主張しており、まだ妥協の余地は残されていた。しかるに、コンデ公はこの年の秋に南部で武装蜂起をして諸都市を攻撃した。カトリーヌはコンデ公を宮廷に召還し、到着後ただちに投獄した。11月に裁判にかけられ、国王に対する反逆の罪で死刑を宣告された。だが、彼の命はフランソワ2世が中耳炎がもとで死去したことにより救われる。", "qas": [ { "question": "カトリーヌは何月にミシェル・ド・ロピタルを大法官に任命したか。", "id": "tr-013-13-000", "answers": [ { "text": "6月", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1560年6月、カトリーヌによって大法官に任命されたのは誰ですか。", "id": "tr-013-13-001", "answers": [ { "text": "ミシェル・ド・ロピタル", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カトリーヌがフォンテーヌブロー宮に諮問会議を召集してプロテスタントに発言の機会を与えたのは何年のことですか。", "id": "tr-013-13-002", "answers": [ { "text": "1560年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1563年8月17日、ルーアン高等法院はシャルル9世の成人を宣言したが、自身が統治にあたることはできず、また本人も政務にほとんど関心を示さなかった。カトリーヌはアンボワーズ勅令の実施と王室への忠誠を回復させるために「フランス大巡幸」を決意し、彼女はシャルル9世や廷臣たちとともに1564年1月から1565年5月にかけてフランス各地を巡った。カトリーヌはマコンとネラックでプロテスタントのジャンヌ・ダルブレ(ナバラ女王:ナバラ王アントワーヌの未亡人)と会見を持ち、また、彼女はスペイン国境近くのバイヨンヌで娘のエリザベートと再会した。フェリペ2世はこの機会に不在にすることを謝罪するとともに、アルバ公を派遣してカトリーヌにアンボワーズ勅令の廃棄と異端問題の断固たる解決法を見つけるよう求めた。", "qas": [ { "question": "ルーアン高等法院はいつシャルル9世の成人を宣言したか。", "id": "tr-013-14-000", "answers": [ { "text": "1563年8月17日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カトリーヌはアンボワーズ勅令の実施と王室への忠誠を回復させるために何を決意したか。", "id": "tr-013-14-001", "answers": [ { "text": "「フランス大巡幸」", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "サン・バルテルミの虐殺の2年後、カトリーヌは23歳のシャルル9世の死という新たな危機に直面した。その最後の言葉は「ああ、母上...」であった。王位継承者である弟アンジュー公がこの前年にポーランド・リトアニア共和国の国王に選出されて不在であったため、シャルル9世は死去の前日にカトリーヌを摂政に指名した。しかし、わずか3か月前にヴァヴェル大聖堂で戴冠式を挙行していたアンリは、フランス王になるためポーランド王位を放棄してフランスへ帰国した。カトリーヌはアンリにこうと書き送っている。「私はこのような出来事と彼(シャルル9世)が今際に示してくれた愛情を目にして悲歎に暮れています...私の唯一の慰みは(これはあなたの王国が必要とすることでもあります)すぐにでもあなたと会うことと、あなたの健康です。もしも、あなたを失うようなことがあったなら、私は生きたまま、あなたと埋葬されるつもりです。」。", "qas": [ { "question": "シャルル9世が死ぬ前残した最後の言葉は何でしたか。", "id": "tr-013-15-000", "answers": [ { "text": "「ああ、母上...」", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シャルル9世は何歳に死んだか。", "id": "tr-013-15-001", "answers": [ { "text": "23歳", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サン・バルテルミの虐殺はシャルル9世が死ぬ何年前に起こったか。", "id": "tr-013-15-002", "answers": [ { "text": "2年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カトリーヌの「私はこのような出来事と彼(シャルル9世)が今際に示してくれた愛情を目にして悲歎に暮れています...私の唯一の慰みは(これはあなたの王国が必要とすることでもあります)すぐにでもあなたと会うことと、あなたの健康です。もしも、あなたを失うようなことがあったなら、私は生きたまま、あなたと埋葬されるつもりです。」という内容の手紙は誰あてのものですか。", "id": "tr-013-15-003", "answers": [ { "text": "アンリ", "answer_start": 225, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1575年2月、アンリ3世は戴冠式の2日後にルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンと結婚し、その選択によって、外国の王女と政略結婚をさせようとしていたカトリーヌの計画は頓挫した。この頃、アンリ3世には子を産ませる能力がないとの噂が広まっていた。教皇使節サルヴィアーティは「今後、子が生まれると想像することは難しいです...医師や彼をよく知る者たちは彼は極端に虚弱であり、そう長くは生きられない言っています」と述べている。時が過ぎ、結婚による子が生まれる望みが薄れると、「ムッシュー」の綽名で知られるカトリーヌの末子アランソン公フランソワが王位継承者の如く振る舞い、しばしば内戦による無秩序を助長するようになった。彼女はフランソワを帰順させるために自らのあらゆる権力を用いた。ある機会には、彼女は6時間もかけて彼の破滅的な行為の危険性について教え諭している。", "qas": [ { "question": "1575年2月、アンリ3世は誰と結婚したか。", "id": "tr-013-16-000", "answers": [ { "text": "ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモン", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1月5日、カトリーヌは69歳で、おそらくは胸膜炎により死去した。「彼女に近い者たちは、彼女の命は息子の行為による苛立ちによって縮められたと信じていた」とレトワルは書き記している。パリが国王の敵に占領されていたため、カトリーヌはブロワに埋葬された。", "qas": [ { "question": "カトリーヌが死んだとき、彼女は何歳でしたか。", "id": "tr-013-17-000", "answers": [ { "text": "69歳", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ハリモグラ", "paragraphs": [ { "context": "ハリモグラ(Tachyglossusaculeatus)は、単孔目ハリモグラ科ハリモグラ属に分類される単孔類。\n本種のみでハリモグラ属を構成する。\n背面がトゲで覆われており、特有の吻と特化した舌を持ち、それを使い獲物であるアリやシロアリを素早く捕らえる。\n現存している他の単孔類であるカモノハシやミユビハリモグラ属のように、卵生であり、育児嚢や母乳で子供を育てる。\n英語では、エキドナ(Echidna)と呼ばれる。\nオーストラリアに広く自然分布し、ニューギニア島南西部の高地および海岸地帯にも分布している。\n差し迫った絶滅の危機にはないともいわれるが、狩猟や生息地の開発などの人間活動、外来種や寄生虫などにより、オーストラリアにおける分布域は減少しつつある。", "qas": [ { "question": "英語でエキドナと呼ばれる動物とは何ですか?", "id": "tr-014-00-000", "answers": [ { "text": "ハリモグラ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハリモグラが多く生息している大陸とは?", "id": "tr-014-00-001", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 208, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハリモグラの背面には何が生えているの?", "id": "tr-014-00-002", "answers": [ { "text": "トゲ", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハリモグラが捕まえて食べるのはアリと何?", "id": "tr-014-00-003", "answers": [ { "text": "シロアリ", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "インドネシア(ニューギニア島南東部)、オーストラリア(タスマニア島および南岸の島嶼を含む)、パプアニューギニア(ニューギニア島南東部)。\nオーストラリア(タスマニア島を含む)の砂漠を除くほぼ全域と、ニューギニア島南西部の高地および海岸地帯。\n模式産地はシドニー(ニューサウスウェールズ州)。\n分布域内では、餌となるアリやシロアリが豊富であれば、生息できるとされている。", "qas": [ { "question": "ハリモグラの模式産地はどこ?", "id": "tr-014-01-000", "answers": [ { "text": "シドニー", "answer_start": 126, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オーストラリアの中で唯一ハリモグラが生息していない地域はどこ?", "id": "tr-014-01-001", "answers": [ { "text": "砂漠", "answer_start": 88, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "全長30-45センチメートル、体重2-8キログラム。\n吻は約75mm。\n首は外部に見えないため首と胴が一緒になっているように見える。\n耳の穴は頭部の両側についているが、耳介は持たない。\n目は小さく、くさび形の口吻の基部にある。\n鼻孔と口は吻の先端にあり、口の開けられる大きさは5mm程度。\n体は腹部や顔・脚を除きクリーム色のトゲで覆われており、最大50mmになるこのトゲは体毛が変化したものであり、大部分は角質化したクチクラでできており、1年に1度生え替わる。\nトゲの根元(毛根)は体内に約1.5cmほどの所にあり、トゲはそれぞれ独立した筋肉により別々に動かすことができる。\nトゲの間や腹面、尾も覆っている。\n黒色や濃い赤褐色、黄褐色の体毛は断熱材の役割を果たしている。\n体毛やトゲの色のバリエーションは、場所によって様々であり、体毛には、世界最大と言われる約4mmのノミの一種Bradiopsyllaechidnaeが寄生している場合が有る。", "qas": [ { "question": "トゲの主な構成成分は何?", "id": "tr-014-02-000", "answers": [ { "text": "クチクラ", "answer_start": 208, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハリモグラの全長は?", "id": "tr-014-02-001", "answers": [ { "text": "30-45センチメートル", "answer_start": 2, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハリモグラの体重は?", "id": "tr-014-02-002", "answers": [ { "text": "2-8キログラム", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハリモグラの吻の長さは?", "id": "tr-014-02-003", "answers": [ { "text": "約75mm", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "体温は30–32°Cの間であるが、5°C近くまでに下がると不活発になったり冬眠を行う。\n汗腺がないため汗をかくことはなく、体温調整のために息を荒くすることもないため、暑い時にはシェルターを探して退避している。\n秋から冬にかけては不活性状態もしくは冬眠するが、季節にかかわらず、極端な暑さや寒さによっても不活発になる。", "qas": [ { "question": "ハリモグラの体温は何°C?", "id": "tr-014-03-000", "answers": [ { "text": "30–32°Cの間", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハリモグラが暑い時に探すものとは?", "id": "tr-014-03-001", "answers": [ { "text": "シェルター", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "多くの生理学適応性がその生活スタイルを手助けしている。\n穴に潜るので、身の回りの空気中の二酸化炭素濃度が高レベルな環境であっても生存ができる。\n耳は低周波の感知ができ、土中のアリやシロアリの動きを捉えられる。\n鼻は周囲環境の情報を収集するための機械受容器と温度受容器で覆われている。\n嗅覚も良く発達しており、仲間や捕食者を捜すのに使われている。\n良く発達した視神経をもち、視覚的分別能力と空間記憶能力はネズミのそれと同程度である。\n脳と中枢神経系は、有胎盤類の進化的比較のために手広く研究された。\n体の大きさと比較し、他の動物よりも大きな前頭前皮質を持ち、レム睡眠を行うことが知られ、脳は有胎盤類の前障と同等で、共通の祖先から分化したことを示している。\n四肢は短いが、強力な爪がついており、土を素早く掘るのに適応し、ともに5本の指があり、後足の第2指と第3指の爪は長く伸び、トゲの間を清潔に毛繕いすることができるよう、後ろ向きに曲がっており、“groomingclaw”(毛繕いをする爪)と呼ばれる。", "qas": [ { "question": "ハリモグラはどのような睡眠を行うの?", "id": "tr-014-04-000", "answers": [ { "text": "レム睡眠", "answer_start": 278, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "“groomingclaw”の意味は何?", "id": "tr-014-04-001", "answers": [ { "text": "毛繕いをする爪", "answer_start": 436, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハリモグラの指は何本?", "id": "tr-014-04-002", "answers": [ { "text": "5本", "answer_start": 361, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "顔、あご、舌の筋肉構造も独特で彼らの採食方法に特化している。\n口は5mm程度までしか開くことはできない。\n舌は長く、口吻からは約18センチメートルほど出すことができる。\n舌は粘着質の唾液で覆われる。\n舌を出す動きは、舌の形を変え、舌を前方へ出すのを強制する環状筋の収縮と、舌基部とあごの2つのオトガイ舌筋の収縮による。\n出した舌は血流が止められることにより、木や土壌を貫通することができるほど堅くなる。\n舌を引き込む動きは、2つの内部縦走筋の収縮による。\n舌の動きはとても速く、1分間に100回ほど出し入れすることができる。\n腸はアリなどの外骨格や、同時に飲み込んだ土を粉砕するために長くなっており、成獣で約3.4mの長さである。\n独特の筋肉構造をそなえており、皮筋は大量の筋からなり、皮膚の直下にあり、体全体を覆っている。\n皮筋の様々な部分の収縮により、形態を変えることができ、最も特徴的な形状は危険が迫った時にボールのように丸まることであり、腹部を守り、鋭いトゲで防御する。\n他の動物よりも全長に対し短い脊髄を持ち、胸腔をできる限り広げられる。", "qas": [ { "question": "口吻から舌をどれくらい出せるの?", "id": "tr-014-05-000", "answers": [ { "text": "約18センチメートルほど", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "オスは先端が4つに分かれた特殊な陰茎を持つ。\nメスは繁殖期が近づくと腹部の皮膚と筋肉が襞状に伸長して袋状になり(育児嚢・孵卵嚢)、この育児嚢の前端に乳腺を発達させる。\nオスはメスよりも性染色体数が少なく、メスはXXXXXXXXXX(5対)であるが、オスの最後のX染色体は対とはならず、XYXYXYXYX(4対と1つ)である。\n染色体間に不充分な同一性しかないために、減数分裂時の対合ではXXXXXとYYYYの2種類のみの精子の遺伝子型しか可能とならず、そのためにこの性染色体の複雑なシステムが保存されている。", "qas": [ { "question": "性染色体数の数が多いのはメスとオスのどちら?", "id": "tr-014-06-000", "answers": [ { "text": "メス", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "XYXYXYXYXはオスとメスのどちら?", "id": "tr-014-06-001", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1792年にジョージ・ショーにより最初に発表され、この際、南アメリカのアリクイに近縁であるとの考えから、Myrmecophagaaculeataという学名を付け、オオアリクイ属に分類した。\nこの最初の発表以来、4度に渡り変更がなされ、M.aculeataからOrnithorhynchushystrix、Echidnahystrix、Echidnaaculeata、そして最終的にTachyglossusaculeatusに決定した。\nTachyglossusとはquicktongue(素早い舌)という意味であり、採餌する際の舌の動きがとても速いことに由来しており、aculeatusはspiny(とげで覆われた)もしくはequippedwithspines(とげを備えた)という意味である。\n5亜種が確認されており、それぞれが地理的に異なった場所に分布し、体毛の量やトゲの長さおよび幅、後足にある身繕いをするための鉤爪であるグルーミング・クロー(GroomingClaw)の大きさなどに違いが見られる。", "qas": [ { "question": "Myrmecophagaaculeataという学名を付けたのは誰?", "id": "tr-014-07-000", "answers": [ { "text": "ジョージ・ショー", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハリモグラは初め何に分類されたの?", "id": "tr-014-07-001", "answers": [ { "text": "オオアリクイ属", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "M.aculeataの次の次に変更された名前とは何?", "id": "tr-014-07-002", "answers": [ { "text": "Echidnahystrix", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "生態学的研究は体系的な発表がなされていないが、生態学的行動に関するいくつかの研究はなされてきた。\n開けた森林やサバンナ・乾燥地帯・熱帯雨林など様々な環境に生息し、農耕地でみられることもある。\n食物が豊富な多湿林では行動圏が50ヘクタールに達することもある。\n単独性で、育児のための巣穴掘りを別とすると、特定のシェルターやねぐら、なわばりを持たず、広めの行動圏をもつ。\n主に薄明薄暮性だが、気温の高い時は夜行性傾向が、気温の低い時は昼行性傾向が強くなる。\n昼行性ではあるが、汗腺を持たず、体温降下目的での息を荒くすることもしないために、熱さに対処できるようにはなっておらず、暑い時には、薄明薄暮性や夜行性に、行動パターンを変化させる。\nある程度の寒さには耐えることができるが、寒冷地においては冬季は冬眠する。\n驚くと丸くなる・地面を垂直に掘ってトゲだけを地表に出す・岩の隙間や木の下に逃げ込み四肢を踏ん張りトゲを逆立たせるなどの防御行動を行う。", "qas": [ { "question": "夜行性傾向が強くなるのはどんな時ですか?", "id": "tr-014-08-000", "answers": [ { "text": "気温の高い時", "answer_start": 194, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アリやシロアリを食べる。\n吻で落ち葉や下生えを掘り起こして獲物を探す。\nアリやシロアリの巣は吻や前肢で破壊して、中にいる獲物を舐めとる。\n餌さえあればどこでも生活できるとされ、口吻の先にある感覚器を使い、匂いによって餌の場所を知り、通常はアリやシロアリを捕食する。\n獲物を掘り当てるためやシェルター用の穴を掘るために前足の爪を使い、強力に穴を掘ることができる。\nもし危険が迫り、逃げ場所が見つからなかった時にも素早く地面を掘る。\n朽木にシロアリが豊富であるオーストラリアの森林地帯では普通に見られ、農村地帯の低木地帯や草原、乾燥地帯、都市の郊外などでも見られる。\nニューギニアでの分布は余り知られておらず、西部ではメラウケから、東部ではポートモレスビーの東部にあるケルプ・ウェルシュ川の間のニューギニア南部に分布し、疎林で見られる。", "qas": [ { "question": "ハリモグラが力強く穴掘りが出来るのは、前足に何が付いているからですか?", "id": "tr-014-09-000", "answers": [ { "text": "爪", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "単独性であり、5月から9月の間に繁殖相手を探すとされるが、明確な繁殖期は地方により異なる。\nオーストラリア大陸では6-8月に交尾を行う。\nメスは総排泄孔をめくりだすようにして臭い付けを行い、この臭いによりオスがメスを追跡すると考えられている。\n繁殖期には複数個体が集まることもあり、1頭のメスに対し5頭のオスが列になって追尾していたという報告例もある。\nこの間、雌雄ともに強い匂いを発する。\n1989年に最初に観察されたのであるが、求愛行動の間、オスはメスを探し出し、追いかける。\n最大4週間続く求愛行動では、10頭ほどのオスの列が1頭のメスを追いかける様子が観察されている。\nこの求愛行動の期間も場所により様々である。\n分布域の冷温な場所、例えばタスマニアなどでは、メスは冬眠から目覚めた数時間以内に交尾を行うことがある。\n交尾の前に、オスはメスの、特に総排出口の匂いに注意して匂いをかぐ。\nオスはしばしばメスの周りを回りながら観察し、そして2頭が腹部と腹部を合わせられるように、同じような体勢をとる。", "qas": [ { "question": "オーストラリア大陸でハリモグラが交尾をする時期はいつ?", "id": "tr-014-10-000", "answers": [ { "text": "6-8月", "answer_start": 57, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "繁殖期にオスとメスは体から何を発しますか?", "id": "tr-014-10-001", "answers": [ { "text": "強い匂い", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハリモグラの求愛行動は最大でどれくらいに期間を要しますか?", "id": "tr-014-10-002", "answers": [ { "text": "4週間", "answer_start": 243, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "左右対称の、ロゼットのような、先端が4つに分かれた陰茎(爬虫類に似ている)を、射精の間は半分が閉じ、交互に使用する。\n各々約100の精子の塊がさらに高い精子の運動性を与えるようで、オス間の精子の競争の可能性がある。\nそれぞれの交尾により1つの卵が生産され、メスは繁殖期の間、ただ1度だけ交尾することが知られている。\nつまり、各々の交尾は成功する。", "qas": [ { "question": "ハリモグラの陰茎は何と類似していますか?", "id": "tr-014-11-000", "answers": [ { "text": "爬虫類", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "メスは繁殖期の間、何度交尾するの?", "id": "tr-014-11-001", "answers": [ { "text": "1度", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "受精は卵管で起こり、妊娠期間は21–28日で、その間メスは育児のための巣穴を掘る。\nこの中の気温は15°C前後に保たれるが、これは他の哺乳類の育児のための巣穴よりも低い。\n妊娠期間の後、腹部に発達させた育児嚢に、直径14–16mmの卵を1個だけ産む。\n卵はメスの腹部にある孵卵嚢の中に産みつけ。\n産卵時には仰向けの体勢になる。\n卵は約10日で孵化する。\n孵化前の幼獣は、卵歯や角質の小さな突起を使って卵殻を割る。\n生まれたばかりの幼獣は約1.5cm、体重0.3-0.4gである。", "qas": [ { "question": "育児のための巣穴は何°Cの気温で保たれるの?", "id": "tr-014-12-000", "answers": [ { "text": "15°C前後", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "卵の大きさは直径何mm?", "id": "tr-014-12-001", "answers": [ { "text": "14–16mm", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハリモグラの赤ちゃんは約何cmですか?", "id": "tr-014-12-002", "answers": [ { "text": "約1.5cm", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "どれくらいの期間でハリモグラの赤ちゃんは卵から出て来ますか?", "id": "tr-014-12-003", "answers": [ { "text": "約10日", "answer_start": 166, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "幼獣は育児嚢の中にある対になった乳腺からしみだしてくる母乳を飲む。\n授乳期間は6か月。\n孵化後の幼獣(puggle(パグル)という呼び名で知られる)は母親の乳輪を自身で探し出すが、単孔類は乳首を持たず、この乳輪は母乳が染み出してくる特化した部分である。\n母乳を飲む方法はまだ知られていないが、各々の授乳期間に多量の母乳を摂取することが観察されており、母親は5-10日間、巣穴に子供を置き去りにする。\n母乳の主成分は脂肪、プロテイン(フコシルラクトースとシアリルラクトース)、鉄分が多く含まれ、ピンク色をしている。\n生後2か月ほどで幼獣のトゲが発達し始めると、メスは幼獣を孵卵嚢に入れるのを嫌がるようになり外に追い出される幼獣は、トゲが成長する時期(最終的に2-3ヶ月)で育児嚢から出る。\n授乳は徐々に減少し、授乳期間は約200日程度で乳離れする。\n約180-240日で巣穴を去る。\n生後1年ほどで独立する。", "qas": [ { "question": "ハリモグラの赤ちゃんの通称は何ですか?", "id": "tr-014-13-000", "answers": [ { "text": "puggle", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "母乳には脂肪とプロテインの他に何が含まれているの?", "id": "tr-014-13-001", "answers": [ { "text": "鉄分", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハリモグラの赤ちゃんは生後何日で乳離れするの?", "id": "tr-014-13-002", "answers": [ { "text": "約200日程度", "answer_start": 359, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "幼獣は生後どれくらいの期間を経て独立するの?", "id": "tr-014-13-003", "answers": [ { "text": "生後1年ほど", "answer_start": 391, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "性成熟の年齢は4–5年とされていたものの不確実であったが、2003年に発表された12年間の野外研究により、5年から12年で性成熟し、繁殖頻度は2年に1回から、6年に1回であるとされる。\n寿命は野外では最大45年ほどである。", "qas": [ { "question": "ハリモグラの寿命は長くて何年生きますか?", "id": "tr-014-14-000", "answers": [ { "text": "45年ほど", "answer_start": 102, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2003年の発表により、ハリモグラは生後何年で性成熟しますか?", "id": "tr-014-14-001", "answers": [ { "text": "5年から12年", "answer_start": 53, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2003年の研究発表までは、ハリモグラの繁殖頻度はどれくらいだとされていたの?", "id": "tr-014-14-002", "answers": [ { "text": "2年に1回", "answer_start": 71, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "古くは“SpinyAnteater”(トゲアリクイの意)と呼ばれていたが、上記の発表に端をなすのみで、実際はアリクイとの生物学上の関係がないため、この表現は使われなくなった。\n分布地域での先住民の言語では様々な名前が与えられており、西オーストラリア州南西部のヌーンガー族NoongarはNyingarnと呼び、ノーザンテリトリーのアリススプリングス南西部のセントラル・オーストラリア地域では、ピチャンチャチャラ族Pitjantjatjaraが、PorcupineGrass(Triodia属)のとげに対する言葉のtjiriという言葉に由来するtjilkamataやtjiriliと呼んでいる。\nこの言葉は“のろま”という意味も有する。\nヨーク岬半島の中央部では、Pakanh語族は(minha)kekoywa(minhaは“肉”や“動物”を修飾する言葉である)と呼び、UwOykangand語族は(inh-)ekorak、UwOlkola語族は(inh-)egorag(inh-はやはり“肉”や“動物”を修飾する言葉である)と呼ぶ。\nまた、ニューギニア南西部の高地地域では、Daribi族とChimbu族によってMungweとして知られている。", "qas": [ { "question": "ヌーンガー族はハリモグラの事を何と呼んでいますか?", "id": "tr-014-15-000", "answers": [ { "text": "Nyingarn", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "tjiriliという言葉はとげに対する由来と、他に何を意味していますか?", "id": "tr-014-15-001", "answers": [ { "text": "“のろま”", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Mungweと呼んでいるのはChimbu族と何族ですか?", "id": "tr-014-15-002", "answers": [ { "text": "Daribi族", "answer_start": 487, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "大きな脅威はなく、生息数は安定し絶滅のおそれは低いと考えられている。\n一方でニューギニア島では地域によって食用や薬用の狩猟による影響が懸念されている。\nオーストラリアの温暖地域やニューギニアの低地に広く分布しており、絶滅危惧種ではない。\nオーストラリアにおける他の種よりも、餌となるアリやシロアリが豊富に生息していれば、他には特別な生息環境を必要としないため、土地開発による影響は少ない。\nトゲによる防御方法を持つにもかかわらず、猛禽類やタスマニアデビル、ディンゴ、イヌ、ネコ、キツネなど多くの捕食者がいる。\nオーストラリア先住民や初期のヨーロッパ入植者にも食べられていたが、当地の動物にとって最も普通の脅威は生息地の破壊や自動車であり、これらは地域個体群の絶滅を引き起こす可能性がある。\n移入された寄生虫であるマンソン裂頭条虫による伝染病は致命的である。\nクイーンズランド野生動物保護協会はオーストラリアの動物種を観測するEchidnaWatch(ハリモグラの監視)と呼ばれる調査をオーストラリア全土で行っている。\n飼育下繁殖は、一部の繁殖周期が珍しいため難しく、5個所の動物園だけが成功しているが、成熟するまでの成長には至っていない。\nこのことはミユビハリモグラ属Zaglossus内のハリモグラの絶滅危惧種やハリモグラに対しても少なからず、保護する意味合いをもつ。", "qas": [ { "question": "カンガルー、ディンゴ、カラスの中でハリモグラを餌として食べる動物はどれ?", "id": "tr-014-16-000", "answers": [ { "text": "ディンゴ", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "EchidnaWatchを行っている組織は何ですか?", "id": "tr-014-16-001", "answers": [ { "text": "クイーンズランド野生動物保護協会", "answer_start": 379, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハリモグラの飼育下繁殖に成功した動物園は何箇所だけですか?", "id": "tr-014-16-002", "answers": [ { "text": "5個所", "answer_start": 483, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "EchidnaWatchはどこで行われているの?", "id": "tr-014-16-003", "answers": [ { "text": "オーストラリア全土", "answer_start": 442, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "日本語の呼び名は、背中の針と、前脚の形や役割、顔つきなどがモグラに似ていることから名づけられたもので、モグラとの生物学上の共通点はない。\nハリネズミやヤマアラシとは体が針で覆われている点で共通するが、系統分類的には関係ない。\nオーストラリア先住民のアボリジナル・アートや伝承を含む自然崇拝文化を特徴づけており、西オーストラリア州のNoongar族を含むいくつかのグループにとって、トーテム(象徴)となっていた。\n多くのグループはこの動物の神話を持っている。\nある神話では、腹を空かせた若者のグループが夜間に狩りに行き、ウォンバットを発見した際にハリモグラが作られたと説明している。\n彼らはウォンバットをめがけてやりを投げたが、暗闇で投げたやりを見失ってしまった。\nウォンバットはやりを己の防具に改造し、ハリモグラへと変化したのである。\n別の神話では、食い意地の張った男が食糧を彼の部族から隠した神話を伝えている。\n戦士達は彼をやりで刺し、彼は藪の中へと這って逃げた。\nそこで彼はハリモグラへと姿を変え、やりは彼のトゲへと変化したのである。\n現代オーストラリアの象徴的な動物であり、オーストラリアの5セント硬貨、および1992年に発行された200ドル記念硬貨に描かれていることである。\n郵便公社のいくつかの発行物にも含まれている。\nオーストラリアの切手に描かれた4種のオーストラリア在来種の1つであり、1974年には25セント切手に、1987年には37セント切手に、1992年には35セント切手に描かれた。", "qas": [ { "question": "1974年、1987年、1992年に発行されたハリモグラの切手の中で、最も高額だったのは何年の切手でしたか?", "id": "tr-014-17-000", "answers": [ { "text": "1987年", "answer_start": 616, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1987年と1992年に発行されたハリモグラの切手の中で、低額だったのは何年の切手でしたか?", "id": "tr-014-17-001", "answers": [ { "text": "1992年", "answer_start": 632, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハリモグラはオーストラリアのいくらの硬貨に描かれているの?", "id": "tr-014-17-002", "answers": [ { "text": "5セント", "answer_start": 498, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1992年にはいくらの硬貨にハリモグラが描かれたの?", "id": "tr-014-17-003", "answers": [ { "text": "200ドル", "answer_start": 519, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "英西戦争(1727年-1729年)", "paragraphs": [ { "context": "英西戦争(えいせいせんそう、英語:Anglo-SpanishWar)は、グレートブリテン王国とスペイン王国の間の戦争である。戦闘は1726年夏、カリブ海で始まったが、戦争の全面勃発はヨーロッパでも戦闘が始まる1727年であった。正式な宣戦布告のないまま始まったこの戦争では全ヨーロッパがヘレンハウゼン同盟とウィーン条約の締結国という2つの陣営に分けられ、大戦前夜といえるほどの緊張を生み出したが、外交努力により全面戦争は回避された。英西戦争の主な戦闘はカリブ海における海戦に限られ、大規模な海戦はなく、ヨーロッパでも失敗に終わったジブラルタル包囲戦以外は特に戦闘もなかった。英西間の戦争は1729年11月9日にセビリア条約が締結され、戦争前の原状を回復するということで正式に終結したが、紛争の原因が解決されることはなく、わずか10年後にジェンキンスの耳の戦争が勃発した。", "qas": [ { "question": "英西戦争は、スペイン王国とどの国の間の戦争であるの?", "id": "tr-015-00-000", "answers": [ { "text": "グレートブリテン王国", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "英西戦争は、何年から始まりましたか?", "id": "tr-015-00-001", "answers": [ { "text": "1727年", "answer_start": 104, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "英西戦争では、ヘレンハウゼン同盟とどの条約の締結国の二つの陣営に分けられたか?", "id": "tr-015-00-002", "answers": [ { "text": "ウィーン条約", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "英西戦争は、どこを主な戦場としたか?", "id": "tr-015-00-003", "answers": [ { "text": "カリブ海", "answer_start": 226, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スペイン王国は18世紀のヨーロッパの勢力均衡の一角だった。1701年から1714年までのスペイン継承戦争によりスペイン・ブルボン朝が成立、フランス王ルイ14世の孫フェリペ5世がスペイン国王に即位した。その後の数十年間、フェリペ5世は衰弱したスペインの国制と軍制を改革した。しかし、フェリペ5世の性格は精力的ではなく、外交政策については野心家の王妃エリザベッタ・ファルネーゼに任せきりにすることも多かった。スペインは1713年のユトレヒト条約と1714年のラシュタット条約により、イタリアとスペイン領ネーデルラントがハプスブルク帝国に割譲され、ジブラルタルとミノルカ島がグレートブリテン王国に割譲されるなど多くの領地を失った。さらに、スペイン政府はイギリスとのアシエント締結を認めて、イギリス商人が毎年南アメリカのスペイン植民地と貿易を行うことを承認しなければならなかった。スペインはこれらの失地を回復するために四国同盟戦争を始めたが、一時サルデーニャを占領するものの結果的にはスペインが孤立するという結果のみもたらして失敗、サルデーニャは返還された。にもかかわらず、エリザベッタ・ファルネーゼは息子たちのためにイタリアでの領地を追求、ヨーロッパ外交における問題となっていた。", "qas": [ { "question": "スペイン・ブルボン朝は、何年から何年までの戦争により成立したの?", "id": "tr-015-01-000", "answers": [ { "text": "1701年から1714年", "answer_start": 29, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペイン・ブルボン朝の最初の王は、誰ですか?", "id": "tr-015-01-001", "answers": [ { "text": "フェリペ5世", "answer_start": 81, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フェリペ5世治世のスペイン王国で外交政策は誰に任せられたか?", "id": "tr-015-01-002", "answers": [ { "text": "エリザベッタ・ファルネーゼ", "answer_start": 173, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユトレヒト条約とラシュタット条約のうち、より遅く結ばれたのは、どちらか?", "id": "tr-015-01-003", "answers": [ { "text": "ラシュタット条約", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "オーストリアも同じく神聖ローマ皇帝カール6世の政策により孤立していた。彼はユトレヒト条約によりスペインの王位継承権を放棄しなければならないことに納得せず、スペインとの和解を頑なに拒否していた。イギリスやオランダなどの海洋国家とも1722年にオステンド会社を設立して競争に参入、さらにハプスブルク家領の女子継承を認める国事詔書の承認も要求した。この2つの要求により、オーストリアの外交政策は不安定となった。歴史家のハインツ・ドゥフハートによると、「四国同盟が活動を停止した後、ヨーロッパは常に全面戦争の瀬戸際にあった。ウィーンとマドリードの間の古く未解決の問題に新しい問題(オステンド会社、国事詔書)が加わり、『冷戦』といういつでも爆発しそうな雰囲気を生み出した」。1724年、ヨーロッパ諸国はカンブレー会議を開いて、カール6世とフェリペ5世の最終的な和解を実現しようとした。", "qas": [ { "question": "オーストリアが孤立していたのは、誰の政策によることだったの?", "id": "tr-015-02-000", "answers": [ { "text": "カール6世", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オステンド会社が設立されたのは、何年のことですか?", "id": "tr-015-02-001", "answers": [ { "text": "1722年", "answer_start": 114, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カンブレー会議が開かれたのは、何年のことか?", "id": "tr-015-02-002", "answers": [ { "text": "1724年", "answer_start": 332, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カンブレー会議は、カール6世と誰の最終的な和解を実現するために開かれたか?", "id": "tr-015-02-003", "answers": [ { "text": "フェリペ5世", "answer_start": 364, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "スペインではカンブレー会議に対する期待が大きかった。イギリスのスタンホープ伯爵はスペインとの交渉中にジブラルタルの返還を提案しており、1721年にはイギリス王ジョージ1世も私的な文通でジブラルタル返還を提案したが、これが議会で同意される見通しはなかった。同年には英仏墺の防御同盟が締結された。これらの提案によりスペインの会議への期待が増したが、カンブレーでの会議はオステンド会社の解散、スペインのイタリア領への請求、ジブラルタル返還などの調整に失敗、スペイン政府は目的を達成するにはウィーンの宮廷と直接交渉するしかないと考えた。オーストリアはスペインの官僚でオランダ出身のフアン・グリェルモ・リッペルダとの秘密交渉により、スペインとの合意を形成、1725年5月1日のウィーン条約につなげた。ウィーン条約によりスペインはイタリアとネーデルラントにおける領土割譲、および国事詔書を承認、カール6世はスペインのイタリア領とジブラルタル回復を承認した。またスペイン政府はオステンド会社の貿易権利について大きく譲歩した。スペイン継承戦争で敵対したカール6世とフェリペ5世がようやく和解したのはウィーン条約が締結されたときだった。条約締結の報せによりカンブレー会議は「爆弾を落とされたように」解体した。", "qas": [ { "question": "スペインに対し、ジブラルタルの返還を提案した二人の人物は、二人ともどの国の者なの?", "id": "tr-015-03-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "英仏墺の防御同盟が締結されたのは、何年のことですか?", "id": "tr-015-03-001", "answers": [ { "text": "1721年", "answer_start": 67, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウィーン条約は、いつ結ばれたか?", "id": "tr-015-03-002", "answers": [ { "text": "1725年5月1日", "answer_start": 323, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウィーン条約と英仏墺の防御同盟のうち、より早く結ばれたのは、何か?", "id": "tr-015-03-003", "answers": [ { "text": "英仏墺の防御同盟", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ロンドンにおいて、ウィーンの同盟はイギリスの貿易とジブラルタルの脅威とみなされ、首相ロバート・ウォルポールは対応策を打ち出した。彼はフランス宮廷からの支持を期待したのであった。フランスではフェリペ5世がフランス王位の継承権を主張することを恐れていたし、伝統的にオーストリアとも敵対していた。プロイセン王国もシャルロッテンブルク条約で1723年以降イギリスと同盟しており、ユーリヒ=ベルク公国をめぐってオーストリアと断交していた。プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世はロシア皇帝ピョートル1世の死(1725年初)により重要な同盟国を失っており、西欧の同盟国を探していた。これにより、三国は1725年9月3日にハノーファー条約を締結してヘレンハウゼン同盟を成立させ、同盟国の安全を保障するとともにスペインとオーストリアの強国化を防ごうとした。目標としてはオステンド会社の解散、ドイツにおけるプロテスタントの保護、そしてプロイセンのユーリヒ=ベルクへの請求の3点があった。", "qas": [ { "question": "フランスと同じく、オーストリアとの関係がよくなかった国は、どの国なの?", "id": "tr-015-04-000", "answers": [ { "text": "プロイセン王国", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プロイセンが同盟国探しのため、西欧に目を向けるようになったのは、誰の死によることですか?", "id": "tr-015-04-001", "answers": [ { "text": "ピョートル1世", "answer_start": 241, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハノーファー条約を締結した三国には、イギリスとフランスのほかに、どの国があるか?", "id": "tr-015-04-002", "answers": [ { "text": "プロイセン王国", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヘレンハウゼン同盟とは、スペインとどの国への牽制のために結成されたか?", "id": "tr-015-04-003", "answers": [ { "text": "オーストリア", "answer_start": 354, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "両同盟の成立により、ヨーロッパの情勢は一層悪化した。1725年11月5日、オーストリアとスペインは開戦した場合の軍事協定を締結した。両国とも軍隊の提供を約束したほか、フランスの分割を取り決め、政略結婚まで合意した。ヘレンハウゼン同盟のほうも軍事協定を締結、プロイセン軍がハノーファー大隊とともにシュレージエンに侵攻すること、フランスがイタリアかライン川流域を攻撃すること、イギリスが海戦を担当することが取り決められた。", "qas": [ { "question": "オーストリアとスペインが開戦した場合の軍事協定を締結したのは、いつのこと?", "id": "tr-015-05-000", "answers": [ { "text": "1725年11月5日", "answer_start": 26, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1725年11月5日にオーストリアとスペインの間の軍事協定の内容の中には、どの国の領土を分割するとのことも含まれていましたか?", "id": "tr-015-05-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 83, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヘレンハウゼン同盟では、一国だけ他の戦場に向かわせられたが、それはどの国か?", "id": "tr-015-05-002", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 162, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヘレンハウゼン同盟における海戦担当は、どの国か?", "id": "tr-015-05-003", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 186, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "両同盟ともさらなる同盟国を探し、ここにロシア帝国が大北方戦争以来再び重要な役割を果たすこととなった。1724年以降、ロシア王家であるロマノフ家はホルシュタイン=ゴットルプ家と姻戚関係を結んでおり、ホルシュタイン=ゴットルプ家領のシュレースヴィヒ=ホルシュタインが大北方戦争でデンマーク=ノルウェーに併合されたため、ロシアはシュレースヴィヒ=ホルシュタインを請求していた。英仏両国がロシアにバルト海西部への進出を許したくなかったためデンマークを支持、結果としてはロシア皇帝エカチェリーナ1世は1726年8月6日にオスマン帝国という共通した敵を有するオーストリアと同盟した。", "qas": [ { "question": "ロシア帝国とオーストリアの同盟は、いつ結成されたの?", "id": "tr-015-06-000", "answers": [ { "text": "1726年8月6日", "answer_start": 245, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ロシア帝国は、どの国に対しシュレースヴィヒ=ホルシュタインの返還を要求しましたか?", "id": "tr-015-06-001", "answers": [ { "text": "デンマーク=ノルウェー", "answer_start": 137, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "英仏両国はロシア帝国とデンマークの摩擦において、どの国を支持したか?", "id": "tr-015-06-002", "answers": [ { "text": "デンマーク", "answer_start": 215, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ロシア帝国とオーストリアの間で結ばれた同盟は、どの国を主敵としていたか?", "id": "tr-015-06-003", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "神聖ローマ帝国においてはザクセン選帝侯領(と同君連合であるポーランド=リトアニア共和国)とバイエルン選帝侯領がウィーン条約に加入した。ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト1世は皇帝を支持したことで後に見返りとして息子フリードリヒ・アウグスト2世のポーランド王位請求への支持を受けた。またネーデルラント連邦共和国はオステンド会社との競合を消すためにヘレンハウゼン同盟に加入した。英仏はオスマン帝国とも同盟しようとしたが失敗した。フランツ・ドミニク・ヘーベルリン(FranzDomincHäberlin)は後に「年末にはどんなことでも血なまぐさい戦争の勃発につながる可能性があった」と記述した。", "qas": [ { "question": "神聖ローマ帝国においてはザクセン選帝侯領とどの選帝侯領が、ウィーン条約に加入したの?", "id": "tr-015-07-000", "answers": [ { "text": "バイエルン選帝侯領", "answer_start": 45, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フリードリヒ・アウグスト1世の息子は、誰ですか?", "id": "tr-015-07-001", "answers": [ { "text": "フリードリヒ・アウグスト2世", "answer_start": 109, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ネーデルラント連邦共和国は、どの会社との競合を消すために、ヘレンハウゼン同盟に加入したか?", "id": "tr-015-07-002", "answers": [ { "text": "オステンド会社", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書で挙げられている国々のうち、ヘレンハウゼン同盟に加入しなかった国は、どの国か?", "id": "tr-015-07-003", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 192, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "イギリスでも戦争勃発が近いと予想され、慌ただしく戦争の準備を進めた。1725年8月以降、ジブラルタル総督リチャード・ケインはジブラルタルの防御工事を補強しており、1726年には首相ロバート・ウォルポールが海軍を外交カードとして使った。これにより、イギリスの地中海艦隊が増強され、チャールズ・ウェージャー提督率いるイギリス艦隊がバルト海に派遣されて1726年5月から9月までレヴァル港を封鎖、ロシア艦隊の出撃を阻止した。フランシス・ホジアー海軍少将率いるイギリス艦隊はカリブ海に派遣され、スペインの貿易を妨害しつつポルトベロを封鎖した。ウォルポールはスペインのインディアス艦隊がヨーロッパに到着できなくなることでその同盟国の財政を悪化させるほか、スペインとその植民地帝国の生存がイギリスの慈悲に依存することをフェリペ5世に示そうとした。", "qas": [ { "question": "ロシア艦隊の出撃を阻止するために、イギリスの艦隊は、どこを封鎖したの?", "id": "tr-015-08-000", "answers": [ { "text": "レヴァル港", "answer_start": 186, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic 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"フェリペ5世がユトレヒト条約第10条の無効を宣言する親書をイギリス政府に送ったのは、いつのこと?", "id": "tr-015-09-000", "answers": [ { "text": "1727年1月1日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フェリペ5世がユトレヒト条約第10条の無効を宣言した理由の一つは、誰が弾圧されたことでありますか?", "id": "tr-015-09-001", "answers": [ { "text": "カトリック教会", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宣戦布告と同様であった、フェリペ5世からイギリス政府への親書は、いつ送られたか?", "id": "tr-015-09-002", "answers": [ { "text": "1727年1月1日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジブラルタルへの攻撃が開始されたのは、いつか?", "id": "tr-015-09-003", "answers": [ { "text": "1727年2月11日", "answer_start": 205, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ホジアー少将の艦隊がカリブ海に到着した時点で、英西戦争は実質的に始まった。1726年6月16日、イギリス船15隻と兵士4,750人はバスティメントス島に到着した。ホジアーはウォルポールの命令に従い、ポルトベロを封鎖しつつ占領しないことで、インディアス艦隊が新大陸からの銀をヨーロッパに輸送することを防ごうとした。", "qas": [ { "question": "ホジアー少将の艦隊がどこに到着した時点が、英西戦争の実質的な始まりとされるの?", "id": "tr-015-10-000", "answers": [ { "text": "カリブ海", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1726年6月16日にバスティメントス島に到着したイギリス船15隻には、何人の兵士が乗っていましたか?", "id": "tr-015-10-001", "answers": [ { "text": "4,750人", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ホジアーがポルトベロを封鎖したのは、インディアス艦隊が新大陸から持ってきた何をヨーロッパに輸送することを阻止するためだったか?", "id": "tr-015-10-002", "answers": [ { "text": "銀", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1726年6月16日、イギリス船15隻と兵士4,750人は、どこに到着したか?", "id": "tr-015-10-003", "answers": [ { "text": "バスティメントス島", "answer_start": 66, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "インディアス艦隊はこのとき、ポルトベロ港にいたが、ポルトベロ総督はイギリス艦隊を警戒してホジアーに現れた理由を問いただした。ホジアーはその年にスペイン植民地と貿易していたイギリス船ロイヤル・ジョージ(RoyalGeorge)を護衛するためだと答えたが、ロイヤル・ジョージがポルトベロから出港した後も留まったためスペインは銀を載せたインディアス艦隊を出港させず、代わりに銀を下ろして陸路でベラクルスへ運んだ。ホジアーは封鎖を継続、6か月間留まったが黄熱が蔓延したため艦隊はだんだんと衰弱し、ホジアーはジャマイカにある基地に戻って船員を徴募するとともに船員の病気を治そうとし、1726年12月24日に到着した。一方のスペインはその間隙に乗じて、小規模な艦隊にポルトベロからの銀を載せてベラクルスから出航させ、ハバナまで航行することに成功した。また1726年8月13日にはアントニオ・カスタネータ率いるスペイン艦隊が兵士2千人を載せてヨーロッパからハバナに到着した。彼はベラクルスからの艦隊と合流、イギリス艦隊が気づかないうちに1727年1月24日にハバナを離れた。1727年3月8日、3,100万ペソを載せたカスタネータ艦隊はスペイン本土に到着した。", "qas": [ { "question": "ホジアーは、ポルトベロ港に現れた理由を聞かれたら、何を護衛するためだと答えたの?", "id": "tr-015-11-000", "answers": [ { "text": "ロイヤル・ジョージ", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "銀を載せたインディアス艦隊が出航できなくなったスペインは、代わりに銀をおろして陸路でどこまで運びましたか?", "id": "tr-015-11-001", "answers": [ { "text": "ベラクルス", "answer_start": 193, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペインは元々から、銀を乗せた艦隊をどこまで航海させようとしていたか?", "id": "tr-015-11-002", "answers": [ { "text": "ハバナ", "answer_start": 352, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1726年8月13日にハバナに到着したスペインの艦隊は、誰が指揮をとっていたか?", "id": "tr-015-11-003", "answers": [ { "text": "アントニオ・カスタネータ", "answer_start": 383, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ホジアー提督は1727年2月末に航行を再開、4月2日にハバナに到着したが、銀を載せたスペイン艦隊が逃げおおせた後であったため代わりにカルタヘナを巡航するも、何の成果も得られなかった。黄熱の蔓延は続き、ホジアー自身も1727年8月23日に病死した。代わって指揮を執ったスーパーブの艦長エドワード・セントローはその数週間後、ジャマイカに戻った。1728年1月29日、エドワード・ホプソン中将が指揮を執り、2月に艦隊を中央アメリカ海岸に戻したが、ホプソンも黄熱で病死したためセントローは再び指揮を執った。暫定講和が1729年3月に締結され、セントローも4月14日に病死すると、艦隊はイギリスに戻った。ホジアーの遠征により海員と兵士約4千が死亡、その大半が黄熱による病死だった。", "qas": [ { "question": "ホジアーは何が原因で死亡したの?", "id": "tr-015-12-000", "answers": [ { "text": "黄熱", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ホジアーが死んで、その艦隊の艦長となったのは、誰ですか?", "id": "tr-015-12-001", "answers": [ { "text": "エドワード・セントロー", "answer_start": 141, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ポチョムキン=タヴリーチェスキー公(戦艦)", "paragraphs": [ { "context": "ポチョムキン=タヴリーチェスキー公(ロシア語:КнязьПотёмкин-Таврическийクニャースィ・パチョームキン・タヴリーチェスキイ)は、ロシア帝国で建造された戦艦である。艦名は「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公爵」という意味。ロシア帝国海軍では当初は艦隊装甲艦(Эскадренныйброненосец)、のち戦列艦(Линейныйкорабль)に分類された。ロシア第一革命の時期に水兵による叛乱が起こったことで世界にその名を知られた。特に、ポチョムキンという略称で有名である。", "qas": [ { "question": "ポチョムキン=タヴリーチェスキー公の略称は何?", "id": "tr-016-00-000", "answers": [ { "text": "ポチョムキン", "answer_start": 232, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ポチョムキンの設計と建造指揮はセヴァストーポリ軍港のアレクサンドル・ショット艦船技師によって行われた。新しい艦隊装甲艦は前のトリー・スヴャチーチェリャに範をとっていた。これに、イギリスのマジェスティック級戦艦に似た装甲装備を持ったペレスヴェート級装甲艦の経験に基づいた変更を取り入れていた。従来の装甲板に比べ軽量化に優れる装甲板の採用により防御重量は大幅に軽減され、浮いた重量は中間砲の搭載数の倍増や艦首尾部分への中口径砲への防御装甲の装備、水平甲板の傾斜部分の増厚に充てられた。新しい艦隊装甲艦には、初めて統一的な射撃管制指揮装置が採用されていた。射撃管制は、戦闘司令塔に設置された中央管制所から行われることになっていた。艦橋両翼には、空中甲板(フライング・デッキ)が設置されていた。また、ロシア海軍では初めて、液体燃料を使用するボイラーを搭載する艦であった。", "qas": [ { "question": "ポチョムキンの設計と建造指揮を担当した人の名前は?", "id": "tr-016-01-000", "answers": [ { "text": "アレクサンドル・ショット", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポチョムキンは、ロシア海軍では初めて何を使用するボイラーを搭載していましたか。", "id": "tr-016-01-001", "answers": [ { "text": "液体燃料", "answer_start": 357, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "計画排水量は12,480tであったが、建造中の設計変更により実際には12,900tに達した。船体長は113.2m、幅は22.2m、喫水は8.4mであった。機関は、3グループに分けられた蒸気ボイラーであった。そのうち2グループは14基の石油焚きボイラーを使用したもので、残る1グループが8基の石炭焚きボイラーを使用していた。これらの蒸気ボイラーが発する高圧蒸気により、2基の直立型3段膨張式レシプロ機関を動かして10,600馬力を発生し、最高速力16.7knを発揮した。推進用プロペラシャフトは左右対称に配置され、軸先には直径4.2mのスクリュープロペラが取り付けられ回転数82rpmで推進していた。燃料搭載量は常備で950t、満載で1,100t、そのうち、石炭は340tであった。巡航速度10knでの航続距離は、3,600浬であった。飲料水の搭載量は14日分で、食料は60日分が搭載できた。", "qas": [ { "question": "食料を最大に載せると、何日間食べられるか。", "id": "tr-016-02-000", "answers": [ { "text": "60日", "answer_start": 384, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "燃料搭載量を最大に載せると、何tですか。", "id": "tr-016-02-001", "answers": [ { "text": "1,100t", "answer_start": 316, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "本艦の主砲は前級に引き続き「Pattern189530.5cm(40口径)砲」を採用した。砲弾重量は331.7kgの砲弾を仰角15度で初速は792.5m/sで撃って最大射程14,640mまで届かせられ、射程5,490mで201mmの舷側装甲を貫通できた。この砲を円筒形の連装砲塔に収めて2基4門だった。砲塔1基当たりの重さは43tで、仰能力は仰角15度・俯角5度である。旋回角度は単体首尾線方向を0度として左右135度の旋回角度を持つ、主砲身の俯仰・砲塔の旋回・砲弾の揚弾・装填は主に電力で行われ、補助に人力を必要とした。発射速度は毎分1発の設計であったが1分あたり0.75発であった。1門当たりに割り当てられた砲弾は、徹甲弾が18発、榴弾が18発、破砕弾が4発、鋳鉄弾が18発、対人散弾が2発であった。砲塔は、最大254mmの装甲を持っていた。", "qas": [ { "question": "Pattern189530.5cm(40口径)砲の重量は?", "id": "tr-016-03-000", "answers": [ { "text": "331.7kg", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Pattern189530.5cm(40口径)砲の砲弾の重さは?", "id": "tr-016-03-001", "answers": [ { "text": "331.7kg", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "副砲に「Pattern189215.2cm(45口径)速射砲」を採用した。その性能は41.4kgの砲弾を、仰角20度で初速792m/sで撃って11,520mまで届かせられ、射程5,490mで43mmの装甲を貫通できた。1門あたり重さ5tで舷側部の装甲砲座(砲廓、ケースメートとも言う)に片舷8基ずつ計16門が搭載された。砲架の俯仰能力は仰角20度・俯角5度である。旋回角度は135度で発射速度は毎分3発の設計であった。装甲砲座は、127mmの装甲を持っていた。このほか、小口径砲として75mm速射砲や甲板上や装甲砲座、47mm速射砲がマストのファイティングトップに装備された。機関銃もマスト上に装備された。魚雷発射管も装備されていた。", "qas": [ { "question": "Pattern189215.2cm(45口径)速射砲の砲弾の重さは?", "id": "tr-016-04-000", "answers": [ { "text": "41.4kg", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Pattern189215.2cm(45口径)速射砲は射程5,490mで何mmの装甲を貫通できたか。", "id": "tr-016-04-001", "answers": [ { "text": "43mm", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "本艦の防御は、艦砲射撃、機雷および魚雷攻撃への対応を考慮に入れた全体防御設計となっていた。艦の重要箇所には防御装甲が施された。すなわち、垂直方向からの砲弾に対する外面の防御として舷側と上部構造には装甲が施され、水平方向からの防御としては傾斜をつけた装甲甲板が設置された。これには、1901年竣工の防護巡洋艦ジアーナで初めて採用されたイジョール工場製の超軽量ニッケル鋼が用いられていた。装甲厚は先にペレスヴェート級より若干強化された。舷側装甲は中間部で229mm(前級では最大229mm)、司令塔も229mm(前級では最大152mm)となった。特に主砲塔の装甲は、前級の229mmから254mmに強化されていた。要目上の特徴から、ポチョムキンは建造当時のロシア艦船の中で最も強力な艦であるといえた。火力では同クラスのアメリカ合衆国製装甲艦レトヴィザンや、ずっと大型のイギリス海軍のフォーミダブル級(クイーン級)を上回っていた。ポチョムキンは速力ではそれらの戦艦に劣っていたが、ロシア海軍は16knの速力があれば黒海艦隊の装甲艦としては十分であると考えていた。", "qas": [ { "question": "ポチョムキン、フォーミダブル、ポチョムキンのうち、一番速度が遅いのは何?", "id": "tr-016-05-000", "answers": [ { "text": "ポチョムキン", "answer_start": 412, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "防護巡洋艦ジアーナが完成されたのはいつ?", "id": "tr-016-05-001", "answers": [ { "text": "1901年", "answer_start": 140, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イジョール工場製の超軽量ニッケル鋼が最初に使われた防護巡洋艦の名前は?", "id": "tr-016-05-002", "answers": [ { "text": "ジアーナ", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "主砲塔の装甲は、254mmに強化されて前、何mmだったの?", "id": "tr-016-05-003", "answers": [ { "text": "229mm", "answer_start": 284, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "艦船は1897年11月25日付けで黒海艦隊に登録、1898年10月10日付けでニコラーエフのニコラーエフ海軍工廠(現在の黒海造船工場)で起工した。1900年9月14日には進水し、「ポチョムキン=タヴリーチェスキー公」と命名された。1903年の竣工が予定された。1902年夏にはニコラーエフからセヴァストーポリへ回航され、そこで完成作業と武装類の搭載等の艤装工事が行われたが、当初予定していた完成期日は、ボイラー室で発生した火事によって遅れ、損失として一部ボイラーを石炭焚きのものに換装しなければならなくなった。主砲の試験の際には、砲塔装甲に気孔が見つかったために組み立てなおして新しいものに取り替えなければならなかったが、その準備には1904年末までかかった。結局、予定より2年近くも遅れて1905年5月20日に竣工した。", "qas": [ { "question": "ポチョムキン=タヴリーチェスキー公の竣工は何年近く遅れたか。", "id": "tr-016-06-000", "answers": [ { "text": "2年", "answer_start": 337, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "何によってポチョムキン=タヴリーチェスキー公の竣工が当初予定していた完成期日より遅れたの?", "id": "tr-016-06-001", "answers": [ { "text": "火事", "answer_start": 211, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "艦船は元々いつ完成される予定だった?", "id": "tr-016-06-002", "answers": [ { "text": "1903年", "answer_start": 115, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "本艦の起工と同時に実質的な乗員の編成に着手された。このために、第36海兵団が編成された。海兵団には、砲術士、機関士、水雷術士が含まれていた。1905年5月に艦が竣工した時点で乗員は731名を数え、そのうち26名が士官であった。1905年6月14日、艦上で水兵による武装蜂起が発生した。黒海艦隊ではかねてより武装蜂起の準備がされていたが、蜂起の計画者らは本来1905年秋に決起する計画を立てていた。しかし、ポチョムキンは突出し、計画よりずっと以前に蜂起を実行に移したのである。6月14日、ポチョムキンはテーンドル湾の沖合い停泊地にて武装の試験を行っていた。叛乱突発の原因は、昼食のボルシチに腐った肉が使われているのに不満を申し立てた水兵に対して艦の指揮官が懲罰を加えようとしたことであった。それに対し、水兵らはライフル銃を取り、士官らを武装解除した。艦長と上級士官のほか、特に憎まれていた士官は水兵によって射殺された。残る士官らは逮捕された。蜂起の指導者には、パナース・マチュシェーンコが選出された。艦を掌握すると、水兵たちは艦船委員会と指導部を選出し、武装や機関、および逮捕者の管理に関する艦の体制を整えた。", "qas": [ { "question": "本艦の起工と同時に実質的な乗員の編成に着手するために、何が編成されたの?", "id": "tr-016-07-000", "answers": [ { "text": "第36海兵団", "answer_start": 31, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第36海兵団に含まれているのは砲術士、機関士、そして何?", "id": "tr-016-07-001", "answers": [ { "text": "水雷術士", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "昼食のボルシチに腐った肉が使われているのに不満を申し立てた水兵に対して艦の指揮官が懲罰を加えようとしたことが原因で、何が発生したか。", "id": "tr-016-07-002", "answers": [ { "text": "叛乱", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "蜂起の指導者には、誰が選抜された?", "id": "tr-016-07-003", "answers": [ { "text": "パナース・マチュシェーンコ", "answer_start": 429, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "蜂起には、テーンドル停泊地にてポチョムキンの射撃試験の補助をしていた第267号水雷艇の乗員も合流した。両艦艇は、革命の象徴として赤旗を掲揚した。6月14日の14時00分、ポチョムキンの乗員は革命を宣言した。同日の夕刻には両艦艇はオデッサに到着した。オデッサでは、折しもゼネストが行われていた。ポチョムキンの水兵らとオデッサの労働者たちは大規模なデモ行進と、ポチョムキンの蜂起の最初の指導者で銃殺されたヴァクレンチュークの葬儀を行った。その後、ポチョムキンは皇帝の軍と警察に対して若干の射撃を行った。このような不徹底な、いわばたんなるデモに過ぎない行動も、短期的には驚くべき効果を発揮した。しかし、6月17日になると反乱鎮圧のため政府軍艦隊が派遣されることになった。艦隊は、黒海艦隊所属の艦隊装甲艦ドヴィエナザット・アポストロフ、ゲオルギー・ポベドノーセツ、トリー・スヴャチーチェリャ、水雷巡洋艦カザールスキイ、第255号、第258号、第272号、第273号水雷艇から編成されていた。皇帝ニコライ2世はポチョムキンの叛乱を危険なものであるとみなしており、この艦が赤旗を掲げたまま黒海を遊弋するのを許容することはできないと考えていた。そして、黒海艦隊司令官であるチュフニーン海軍中将に対して速やかに叛乱を鎮圧し、最悪の場合には叛乱艦を全乗員ごと撃沈すべしとする指令を与えた。サンクトペテルブルクにいたチュフニーンは、クリーゲル海軍中将に司令官代理として事態に対処するよう任じた。", "qas": [ { "question": "両艦艇がオデッサに到着したのは何月何日のこと?", "id": "tr-016-08-000", "answers": [ { "text": "6月14日", "answer_start": 72, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヴァクレンチュークの死因は?", "id": "tr-016-08-001", "answers": [ { "text": "銃殺", "answer_start": 195, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "黒海艦隊司令官であるチュフニーン海軍中将に対して速やかに叛乱を鎮圧し、最悪の場合には叛乱艦を全乗員ごと撃沈すべしとする指令を与えた人は誰?", "id": "tr-016-08-002", "answers": [ { "text": "皇帝ニコライ2世", "answer_start": 441, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "チュフニーンは、誰に司令官代理として事態に対処するよう命令したか。", "id": "tr-016-08-003", "answers": [ { "text": "クリーゲル海軍中将", "answer_start": 606, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "6月18日早朝、オデッサの停泊地にあったポチョムキンでは、乗員たちが町に向けて大規模な艦隊が接近しつつあるのに気づいていた。艦隊には、5隻の装甲艦と6隻の水雷艇の姿が見えた。上級指揮官クリーゲル海軍中将の将官旗を掲げた艦隊は隊形を組んで停泊地に接近し、雷撃と砲撃をもって謀反人たちを撃滅せんとしていた。ポチョムキンは艦隊に向かって出航した。ポチョムキンでは、自分から発砲しないことが決議された。水兵たちは、ほかの艦艇でも蜂起に賛同した動きが表れることを期待したのである。交渉のため艦隊に赴くようにとの申し出を拒絶したポチョムキンの水兵らは、今度は艦隊の指揮官をポチョムキンへ招く申し出をした。クリーゲル艦隊指揮官の乗った旗艦ロスチスラフ(Rostislav)では、「投錨せよ」という信号が上げられた。その返答として、ポチョムキンはロスチスラフの衝角の前に進み出た。しかし、最後の瞬間になって進路を変更し、ポチョムキンは装甲艦ロスチスラフと、ヴィシュネヴェーツキイ海軍少将の乗る副旗艦トリー・スヴャチーチェリャのあいだを航行した。そして、衝角を警戒しつつ、脇へと去った。ポチョムキンは将官の艦に砲門を向けつつ、艦隊のあいだを縫って航行した。", "qas": [ { "question": "6月18日の朝、ポチョムキンはどこにとまっていたか。", "id": "tr-016-09-000", "answers": [ { "text": "オデッサの停泊地", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヴィシュネヴェーツキイ海軍少将が搭乗していた船の名前は?", "id": "tr-016-09-001", "answers": [ { "text": "トリー・スヴャチーチェリャ", "answer_start": 441, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クリーゲル艦隊指揮官が搭乗していた旗艦の名前は何?", "id": "tr-016-09-002", "answers": [ { "text": "ロスチスラフ", "answer_start": 312, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "しかしながら、砲門が開かれることはなかった。艦隊の艦艇の水兵らは叛乱者たちを砲撃することを拒否した。そして、上官たちから禁じられていたにも拘らず、甲板上に出て接近するポチョムキンに「万歳!」の歓声を以って挨拶を送った。乗員の気運を危惧したクリーゲルは、全速力で公海上へ艦隊を移動させる指令を出した。ポチョムキンのもとには、装甲艦ゲオルギー・ポベドノーセツが留まった。ゲオルギー・ポベドノーセツの乗員は、ポチョムキンの乗員と話し合った結果、自艦の士官たちを逮捕し、蜂起に合流した。しかし、のちにゲオルギー・ポベドノーセツの水兵たちのあいだには仲間割れが生じた。そして、ポチョムキンのもとを離れ、艦を政府に引き渡した。このことが、ポチョムキンの水兵たちに重大な印象を残した。彼らのあいだに、不満が募り始めた。ポチョムキンが艦隊との2度目の遭遇からオデッサに戻ると、町は彼らに水と食料を与えることを拒否した。長い議論の末、彼らは黒海の対岸にあるルーマニアへ出航することを決議した。6月19日、ポチョムキンは第267号水雷艇を伴ってルーマニアのコンスタンツァに到着した。しかし、ルーマニア政府はポチョムキンに必要物資を提供するのを拒んだ。革命艦は、フェオドーシヤへ引き返すことになった。", "qas": [ { "question": "コンスタンツァはどの国の地域なのか。", "id": "tr-016-10-000", "answers": [ { "text": "ルーマニア", "answer_start": 462, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ポチョムキンがルーマニアのコンスタンツァに着いたのは何月何日?", "id": "tr-016-10-001", "answers": [ { "text": "6月19日", "answer_start": 437, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ルーマニア政府から食料、燃料、水の補給を拒否されたポチョムキンは、危機的な状況に陥った。海水をボイラーに補給した結果、ボイラーは故障した。フェオドーシヤにポチョムキンが辿り着いたのは1905年6月22日朝6時のことであった。そこではすでに皇帝の正規軍と憲兵団が待ち構えていた。上陸した水兵のグループは銃火を浴びせられた。そのため、艦は再びコンスタンツァに向けて出航した。ポチョムキンが6月24日にコンスタンツァへ到着すると、水兵らは艦をルーマニア政府に引渡した。翌25日には艦は赤旗を降ろし、水兵らは政治亡命者として上陸した。25日正午、ルーマニアの国旗がポチョムキンに掲揚された。第267号水雷艇の乗員は艇の引渡しを望まず、港内停泊地に錨を下ろした。同日、彼らはセヴァストーポリに向けて出航した。6月26日には、コンスタンツァへ黒海艦隊の分遣隊が到着した。翌27日、ルーマニアはロシアにポチョムキン=タヴリーチェスキー公を返還した。7月1日、艦はセヴァストーポリに到着した。", "qas": [ { "question": "ポチョムキンのボイラーが故障したのは何を入れたから?", "id": "tr-016-11-000", "answers": [ { "text": "海水", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポチョムキンがフェオドーシヤに到着したのは何月何日なの?", "id": "tr-016-11-001", "answers": [ { "text": "6月22日", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ルーマニアがロシアにポチョムキン=タヴリーチェスキー公を返還したのは何月のこと?", "id": "tr-016-11-002", "answers": [ { "text": "6月", "answer_start": 349, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "叛乱艦の名称は嫌われるため、ポチョムキン=タヴリーチェスキー公はすぐに改名されることになった。1905年9月30日付けで、正教会の著名な聖人である聖大致命者廉施者パンテレイモンに因んでパンテレイモン(Пантелеймонパンチリェーイマン)と改名された。この艦名は、1714年の聖パンテレイモンの祝日にロシア海軍がハンゲの海戦にて勝利を収めたことに由来している。しかし、ポチョムキン水兵による蜂起の伝統は艦の改名後も続いた。1905年11月に発生したセヴァストーポリの蜂起において、彼らは再び蜂起側に就いたのである。11月13日、パンテレイモンは叛乱した艦船に合流した。しかし、この叛乱もまた鎮圧され、失敗に終わった。", "qas": [ { "question": "何をモチーフに、パンテレイモンと改名したのか。", "id": "tr-016-12-000", "answers": [ { "text": "聖大致命者廉施者パンテレイモン", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポチョムキン=タヴリーチェスキー公は何と改名されたか。", "id": "tr-016-12-001", "answers": [ { "text": "パンテレイモン", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "セヴァストーポリの蜂起は何月に勃発したか。", "id": "tr-016-12-002", "answers": [ { "text": "11月", "answer_start": 218, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1907年9月27日には、海軍の新しい類別法に従って艦種を艦隊装甲艦から戦列艦(Линейныйкорабль)に改めた。1911年、セヴァストーポリにおけるパンテレイモン艦橋両翼の空中甲板やマストのファイティングトップが撤去され、戦闘司令塔覆い上に測距儀が設置されている。1910年にはオーバーホールを受け、セヴァストーポリ港にて船体と機関の修理を受けた。1911年10月2日には、コンスタンツァの沖合い停泊地から出港する際に浅瀬に乗り上げた。1912年には、セヴァストーポリ港にて水線下の修理を行った。黒海艦隊の全艦艇を圧倒できる弩級戦艦がオスマン帝国に配備される見通しが明らかになると、黒海艦隊の戦列艦はそれに対応すべく装備の改修を受けた。そして、来るべき決戦のときのために、敵艦に集中砲火を浴びせる戦術の習得訓練に勤しんだ。第一次世界大戦が勃発すると、パンテレイモンは第2戦列艦戦隊所属艦として戦闘に参加した。1914年11月5日のサールィチ岬の海戦ではいよいよオスマン帝国海軍の巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリムおよび軽巡洋艦ミディッリと対峙することになったが、パンテレイモンは煙霧のため敵艦を視認できず、発砲しなかった。", "qas": [ { "question": "1914年11月5日のサールィチ岬の海戦でオスマン帝国海軍の巡洋戦艦ヤウズ・スルタン・セリムおよび軽巡洋艦ミディッリと対峙することになったとき、パンテレイモンは何のせいで敵艦を視認できなかったのか。", "id": "tr-016-13-000", "answers": [ { "text": "煙霧", "answer_start": 493, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サールィチ岬の海戦はいつ勃発したか。", "id": "tr-016-13-001", "answers": [ { "text": "1914年11月5日", "answer_start": 409, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "その後も、パンテレイモンは他艦と交代でしばしばボスポラス海峡を遊弋した。1915年4月28日には、ヤウズとエフスターフィイのあいだで海戦が発生した。この際、エフスターフィイに同行していたパンテレイモンも敵艦目掛けて発砲したが、104鏈の距離から発射された砲弾は命中せず敵艦まで届かず、続いて発砲した第2撃が敵を脅かした。パンテレイモンのG・K・レーマン2等士官の証言によれば、パンテレイモンのある砲弾はゲーベンの艦尾から30-40サージェンの距離に着弾した。また別の砲弾は後部煙突の辺りに命中し、さらに第三の砲弾が砲塔に命中した。砲弾は濛々たる黒煙を上げて爆発し、赤い火の手が上がるのが見えた。ドイツのG・ローレイ海軍少将の証言によれば、ロシア艦の砲撃は極めて優れていた。1916年2月5日から4月18日にかけては、トラペズンド攻略作戦で活躍した。", "qas": [ { "question": "ロシア艦の砲撃は極めて優れていたと述べたドイツの少将は誰?", "id": "tr-016-14-000", "answers": [ { "text": "G・ローレイ海軍少将", "answer_start": 301, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "パンテレイモンのある砲弾がゲーベンの艦尾から30-40サージェンの距離に着弾したと述べたのは誰?", "id": "tr-016-14-001", "answers": [ { "text": "パンテレイモンのG・K・レーマン2等士官", "answer_start": 160, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1917年初めには、事実上黒海艦隊の軍事行動は停止した。パンテレイモンは、ほかの艦船とともに自分の母港であるセヴァストーポリに停泊していた。二月革命ののち、セヴァストーポリでは黒海ウクライナ軍事委員会、労農黒海艦隊中央委員会(ツェントロフロート)、軍人労働者代表会議が設置された。パンテレイモンでは、ほかの多くの艦船におけるのと同様、ウクライナ人組織が結成された。ウクライナ人水兵は、黒海艦隊のウクライナ化とウクライナ艦隊の創設の実行をウクライナ中央ラーダに対し強く要求した。1917年3月31日には、艦名はポチョムキン=タヴリーチェスキー(Потёмкин-Таврический)に改められた。これは1905年の水兵の蜂起を記念するための改称であったが、「公爵」という貴族の称号は除去された。しかし、艦名のそもそもの由来となったポチョムキン公爵がウクライナの圧政者であったこともあり、この艦名は長くは使用されなかった。4月28日には、早くも艦名はボレーツ・ザ・スヴォボードゥБорецзаСвободу(「自由の戦士」の意)に改められた。1917年10月12日には、戦列艦ヴォーリャ、司令艦ゲオルギー・ポベドノーセツとともに本艦ボレーツ・ザ・スヴォボードゥにもウクライナ国旗が掲げられた。ウクライナの国旗の下でも、艦名はそのまま(ウクライナ語ではボレーツィ・ザ・スヴォボードゥБорецьзаСвободу)であった。", "qas": [ { "question": "パンテレイモンの母港は?", "id": "tr-016-15-000", "answers": [ { "text": "セヴァストーポリ", "answer_start": 54, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポチョムキン=タヴリーチェスキーは何を記念するための名称だたか。", "id": "tr-016-15-001", "answers": [ { "text": "1905年の水兵の蜂起", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "12月には、ボリシェヴィキがウクライナへ侵攻を開始した。本艦ボレーツ・ザ・スヴォボードゥは、12月16日に赤軍の管理下に入った。その間、1918年2月21日には「社会主義の祖国は危機にある」との人民委員会議布告が出され、非常事態宣言がなされた。この布告では、「敵の工作員、投機者、泥棒、ならず者、反革命扇動者、ドイツのスパイは現場で銃殺を命令」とされており、廃止されていた死刑が全面的に復活された。セヴァストーポリにあったボレーツ・ザ・スヴォボードゥでは、この宣言に従い乗員が「すべてのブルジョワジーを根絶する」と決議し、3昼夜のあいだに高級将校や知識人ら約600人を殺害するという事態に至った。殺害は赤軍がセヴァストーポリを放棄する3月末まで続いた。当時セヴァストーポリの軍事革命委員会(ru:Военно-революционныекомитеты)議長であったユーリイ・ガーヴェンが1920年12月14日に党中央委員会へ行った報告によれば、大量殺害は彼の命令によるものであった。2月には中央ラーダが1918年2月9日のブレスト=リトフスク単独講和により中央同盟国と同盟して反撃を開始し、3月から4月にかけてのクリミア作戦でクリミア半島を奪還した。ウクライナからの撤退の準備を始めた赤軍は、3月にボレーツ・ザ・スヴォボードゥを保管状態に置き、セヴァストーポリ軍港に放置させた。", "qas": [ { "question": "「敵の工作員、投機者、泥棒、ならず者、反革命扇動者、ドイツのスパイは現場で銃殺を命令」という内容が含まれている布告は何?", "id": "tr-016-16-000", "answers": [ { "text": "人民委員会議布告", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ボレーツ・ザ・スヴォボードゥでの殺害はいつまで続いたが。", "id": "tr-016-16-001", "answers": [ { "text": "3月末", "answer_start": 317, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "これに呼応し、1918年4月にはセヴァストーポリでは港湾労働者と工場労働者による二度の反ボリシェヴィキ蜂起が発生した。艦隊の水兵は積極的に支援した。4月22日には、黒海艦隊司令官のムィハーイロ・サーブリン海軍少将によって「すべての船舶、クリミア半島にある港湾施設は、ウクライナ人民共和国の管轄下にあり。よって、必要箇所についてはすべて、ウクライナ国旗を掲揚すべし」とする宣言が発令された。1918年4月29日には、ボレーツ・ザ・スヴォボードゥに再び、ほかのすべての黒海艦隊艦船および要塞におけるのと同様、ウクライナ国旗が掲揚された。同日、ヘーチマンの政変で共和国が倒されウクライナ国が建国された。ボレーツ・ザ・スヴォボードゥは、パウロー・スコロパードシクィイの治世において、ウクライナ国海軍に所属した。しかし、ボレーツ・ザ・スヴォボードゥは1918年を通じて活動せず、長期の保管状態に置かれたままであった。一説には乗員が不足したためだとも言い、艦の一部を新しい弩級戦艦のために供出してしまったためだとも言われる。", "qas": [ { "question": "セヴァストーポリで港湾労働者と工場労働者による二度の反ボリシェヴィキ蜂起が勃発したのはいつ?", "id": "tr-016-17-000", "answers": [ { "text": "1918年4月", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヘーチマンの政変で共和国が倒され、ウクライナ国が建国されたのは何月何日?", "id": "tr-016-17-001", "answers": [ { "text": "4月29日", "answer_start": 199, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1918年11月24日になると、セヴァストーポリにあったボレーツ・ザ・スヴォボードゥは侵攻したイギリス・フランス干渉軍によって拿捕された。半年後、1919年4月22日から4月29日のあいだに、イギリス軍司令部の命令でほかの艦とともに機関を爆破され、武装を撤去された。そうして、イギリス軍はクリミアから撤退した。ボレーツ・ザ・スヴォボードゥは、激しい損傷を負ったままセヴァストーポリの南湾に放置された。1919年4月29日、ボリシェヴィキがクリミアを占領した際には、赤軍ウクライナ戦線の部隊に奪取され、ウクライナ社会主義ソヴィエト共和国赤色海軍に編入された。しかし、6月24日にはもう義勇軍によって奪取された。1920年11月15日には、最終的にソヴィエト権力がセヴァストーポリに建設されたが、現役への復帰は叶わなかった。ひどい損傷を負った旧式艦には修理するほどの意味がなかったためである。1923年には、蜂起の実情をよく覚えていたレーニンによって解体の指示が出され、「コムボスフォンドフ」に引き渡された。1925年11月21日付けで赤色海軍から除籍された。解体されたポチョムキンのマストは、ドニエプル=ブーフ潟にて灯台の基部として40年近く使用された。その後、前檣は永久保存のためレニングラード(現サンクトペテルブルク)の中央海軍博物館に委譲され、後檣はオデッサ郷土史博物館へ委譲された。そして、そこで現在まで保存展示されている。", "qas": [ { "question": "1919年4月29日、クリミアは何に占拠されていたか。", "id": "tr-016-18-000", "answers": [ { "text": "ボリシェヴィキ", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1905年の反乱に参加した水兵の大部分は、1917年の2月革命までルーマニア国内に残る事を選択した。反乱の直後にロシアに戻った水兵も居たが、少なくとも56人が反乱罪で投獄され、うち7人が首謀者として処刑されている。その一方で、下士官の中には「水兵の脅迫の下に行動したのみである」と主張して免罪を受けたものも居た。ルーマニアには約600人の水兵が残留した。首謀者の一人マチュシェーンコは1907年に恩赦の約束の下に4人の同僚と共にロシアに帰国したが、約束は反故にされ絞首刑に処された。別の首謀者の一人であるJosephDymtchenkoは、1908年に31人の元水兵と共にアルゼンチンに脱出し、彼の地に定住した。最後まで生存した元水兵はIvanBeshoffで、トルコとロンドン(彼はロンドンでレーニンに会ったと主張していた。)を経由してアイルランドに脱出、ダブリンに定住した。彼はダブリンでフィッシュ・アンド・チップスの販売店を経営し、1987年10月25日に102歳で死去した。", "qas": [ { "question": "1905年の反乱のあと、約何人の水兵がムーマニアに残ったの?", "id": "tr-016-19-000", "answers": [ { "text": "約600人", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "IvanBeshoffが死んだとき、彼は何歳だった?", "id": "tr-016-19-001", "answers": [ { "text": "102歳", "answer_start": 431, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "IvanBeshoffが死ぬまで住んでいたところはどこ?", "id": "tr-016-19-002", "answers": [ { "text": "ダブリン", "answer_start": 391, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "埴輪踊る人々", "paragraphs": [ { "context": "埴輪踊る人々は、東京国立博物館が所蔵する、踊るような姿をした大小2体の人物形象埴輪だ。俗に踊る埴輪とも呼ばれ、重要文化財等の指定はされていないが、強いデフォルメと独特の顔の表情が印象的で、一般に古墳時代の埴輪の中でもよく知られた存在である。しかし近年では、踊りではなく手綱を持ち馬を引く「馬飼」(うまかい、馬子・馬曳)を表した像とする説が有力視されている。\n\n東京国立博物館における正式な展示資料名は『埴輪踊る人々』である。考古学者の後藤守一による最初の呼称は『踊る男女』だが、一般的には『踊る埴輪』がよく定着している。", "qas": [ { "question": "埴輪踊る人々はどこに所蔵されていますか。", "id": "tr-017-00-000", "answers": [ { "text": "東京国立博物館", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "埴輪踊る人々は俗に何と呼ばれますか。", "id": "tr-017-00-001", "answers": [ { "text": "踊る埴輪", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "考古学者の後藤守一による埴輪踊る人々の最初の呼称は何でしたか。", "id": "tr-017-00-002", "answers": [ { "text": "『踊る男女』", "answer_start": 230, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この2体の埴輪は、1930年3月21日に埼玉県大里郡小原村の野原古墳群にあった「野原古墳」から農地の開墾中に出土した。発見時には遺失物法と同法に基づく「学術技芸若ハ考古ノ資料トナルヘキ埋蔵物ヲ発見シタルトキノ取扱方並埋蔵物ノ処分ニ関スル件」(明治32年10月26日内務省訓令第985号)に従って宮内省に通知された後、東京帝室博物館(後の東京国立博物館)へ転送され、欠損部を石膏で補填する修理を受けると、同年10月16日から30日にかけて同博物館の表慶館にて開催された「埴輪特別展覧会」に出品され、初めて一般公開された。その2年後の1932年、東京帝室博物館が正式に購入した。", "qas": [ { "question": "2体の埴輪はいつ出土されたか。", "id": "tr-017-01-000", "answers": [ { "text": "1930年3月21日", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2体の埴輪はどの展覧会で初公開されましたか。", "id": "tr-017-01-001", "answers": [ { "text": "「埴輪特別展覧会」", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2体の埴輪を購入した博物館は何ですか。", "id": "tr-017-01-002", "answers": [ { "text": "東京帝室博物館", "answer_start": 271, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2体の埴輪は何年に東京帝室博物館に購入されたの?", "id": "tr-017-01-003", "answers": [ { "text": "1932年", "answer_start": 265, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "埴輪踊る人々の製作年代は6世紀代とされている。省略的に表現されることが多い埴輪の中でも、この2体はより大胆な省略法に基づき製作されている。いずれも腰から下が表現されない半身立像で、復原高はそれぞれ、大きい方が63.9センチメートル、小さい方が56.5センチメートルである。先を丸めて頭部を表した寸胴な円筒形を基調に、肩の左右に粘土棒を差し込み両腕とし、左腕を上に掲げ、右腕を前方斜め下にすえることで、正面から見ると両腕を逆S字形に構えたように見える仕草をしている。口と目の部分はほぼ同じ大きさの円形にくり貫かれ、目を見開き、口を大きく開けたかのように表現されているが、これも埴輪としては珍しく、剽軽な表情に見受けられる。これは、まるで踊りながら歌っているようにもみえる。首のくびれは表現されておらず、鼻筋は一本の粘土紐を前頭部まで伸ばして貼り付けた、特徴的な人物像となっている。衣服も腰帯を締める以外に詳細な表現はない。小さい方の埴輪は頭部の両側に振り分けた粘土が貼り付けられており、これは「百姓みずら」と称される身分の低い者の髪型で、後腰に鎌とみられる道具を装備しているところから、こちらが男子像とされる。このため小さい方は男の農夫と考えらえるが、大きい方には耳や髪型の表現がない。大小2体あるため、男女を表現したものであるという説と2体ともに男性だという説があるが、この2体が男女を表したものだとすると大きい方が女性となる。", "qas": [ { "question": "埴輪踊る人々の製作年代はいつですか。", "id": "tr-017-02-000", "answers": [ { "text": "6世紀代", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "埴輪踊る人々のうち、小さい方の埴輪は何cmですか。", "id": "tr-017-02-001", "answers": [ { "text": "56.5センチメートル", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "小さい方の埴輪は頭部の両側に振り分けた粘土が貼り付けられているが、これはどんな髪型を表現したのですか。", "id": "tr-017-02-002", "answers": [ { "text": "「百姓みずら」", "answer_start": 445, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大小2体が男女を表したのなら、女性は大きい方ですか、小さい方ですか。", "id": "tr-017-02-003", "answers": [ { "text": "大きい方", "answer_start": 603, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "埴輪の研究史において、この2体を「踊っている人物」と定義したのは、当時東京帝室博物館に在籍していた考古学者の後藤守一である。\n\n後藤は、1931年発表の論文「埴輪の意義」にて、埴輪に表現される服飾や装備品、所作から分類を行い、個々の埴輪の表す職掌的性格について分析した。そこで群馬県伊勢崎市の上武士天神山古墳出土の「琴を弾く男子」と「太鼓を叩く男子」の存在から音楽を奏でる一群を見出だし、それに対応する歌舞を舞う人物の例として野原古墳出土の2体を挙げて『踊る男女』とした。この他にも「巫女」や「鷹匠」など、職掌を冠する分類、名称の設定を行った。また、これらの人物・動物・器財を表した形象埴輪群に対し、死んで古墳に葬られる首長を送る葬儀、葬列を表すものではないかとして、形象埴輪のもつ具体的な意義・解釈にも初めて言及した。\n\n後藤による「踊る男女」をはじめとする各種埴輪の分類名称は、以後の学界の埴輪研究に大きな影響を与え、水野正好が1971年に発表した、人物埴輪およびその配列の持つ意味について検討した「埴輪芸能論」などにも継承された。", "qas": [ { "question": "「踊っている人物」と定義した学者の名前は何ですか。", "id": "tr-017-03-000", "answers": [ { "text": "後藤守一", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「埴輪の意義」は何年に発表された論文なの?", "id": "tr-017-03-001", "answers": [ { "text": "1931年", "answer_start": 68, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「埴輪芸能論」を発表したのは誰ですか。", "id": "tr-017-03-002", "answers": [ { "text": "水野正好", "answer_start": 411, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「埴輪芸能論」は何年に発表されましたか。", "id": "tr-017-03-003", "answers": [ { "text": "1971年", "answer_start": 416, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "エアバスベルーガ", "paragraphs": [ { "context": "エアバスベルーガ(英:AirbusBeluga)は、エアバス・インダストリー(後のエアバス)が自社で生産する航空機のコンポーネントを空輸するために開発・製造した貨物機である。エアバスA300-600Rをベースに開発され、A300-600ST(SuperTransporter)という型式名が付けられている。胴体上半分に巨大な貨物室を備え、コックピットが胴体下側に移設されている。シロイルカに似た独特な外見であることから、シロイルカの別名である「ベルーガ」の愛称がつけられた。低翼配置の主翼下に2基のターボファンエンジンを備える。尾翼は通常式だが左右の水平尾翼端に垂直安定板が追加されている。降着装置は前輪式である。", "qas": [ { "question": "エアバスベルーガの型式名は、何?", "id": "tr-018-00-000", "answers": [ { "text": "A300-600ST", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エアバスベルーガは、何を空輸するための貨物機でありますか?", "id": "tr-018-00-001", "answers": [ { "text": "生産する航空機のコンポーネント", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A300-600STにベルーガという別称が付けられたのは、何に似ているからであるか?", "id": "tr-018-00-002", "answers": [ { "text": "シロイルカ", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ベルーガの開発・生産プロジェクトはエアバスの関連企業のSATIC(SuperAirbusTransportInternational)社によって行われ、1994年9月13日に1号機が初飛行した。計5機が生産され、エアバス関連企業のエアバス・トランスポート・インターナショナル社によって運航されている。欧州各地で分担して生産されるエアバス機のパーツを最終組み立て地へ輸送する任務についており、飛行機を作るための飛行機とも言われる。また、エアバス以外の顧客向けにチャーター輸送業務に用いられることもある。", "qas": [ { "question": "ベルーガの初飛行は、どの会社により行われたの?", "id": "tr-018-01-000", "answers": [ { "text": "エアバス・トランスポート・インターナショナル社", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ベルーガの開発・生産を担っているのは、どの会社ですか?", "id": "tr-018-01-001", "answers": [ { "text": "SATIC", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "担っている任務からなるベルーガの別称は、何か?", "id": "tr-018-01-002", "answers": [ { "text": "飛行機を作るための飛行機", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ジェット旅客機を開発・製造するエアバス・インダストリー(以下、エアバス社)は、欧州各国の航空機メーカーによるコンソーシアム(企業連合)として発足した。エアバス社はその成り立ちから、参加企業が一定の業務量を確保できるように、各社で分担して胴体や翼を生産する国際分業体制を採用した。この枠組みにおいては、欧州各地に点在する工場で生産された機体各部(コンポーネント)を最終組み立て工場のあるトゥールーズに輸送する必要があった。航空機のコンポーネントは、巨大で重量がありながら高品質で繊細、そして高価という特徴があり、相応の扱いが必要だった。そこでエアバス社は、大型貨物用の輸送機としてボーイング377「ストラトクルーザー」を改修した「スーパーグッピー」を採用した。スーパーグッピーは、アメリカ航空宇宙局(NASA)のロケットや宇宙機の巨大な部品を運ぶために開発された輸送機である。エアバス社はスーパーグッピーの運用を1971年から開始し、段階的に増備を重ねて1983年には4機体制となった。競合相手であるボーイング社の輸送機を使用したことで、「全てのエアバス機はボーイングの翼によって届けられる(EveryAirbusisdeliveredonthewingsofaBoeing)」、あるいは「全てのエアバス機はボーイングの翼で初飛行する(EveryAirbustookitsfirstflightonaBoeing)」といった冗談も生まれた。", "qas": [ { "question": "エアバス製の航空機においては、主にどこで最終組立てが行われたの?", "id": "tr-018-02-000", "answers": [ { "text": "トゥールーズ", "answer_start": 192, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エアバス社が、大型貨物用の輸送機が必要だと判断したのは、どのような体制で航空機を製造していたからですか?", "id": "tr-018-02-001", "answers": [ { "text": "国際分業体制", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アメリカ航空宇宙局のロケットや宇宙機の巨大な部品を運ぶためのボーイング製の輸送機とは、どの機種をベースに開発されたものか?その型式名を答えなさい。", "id": "tr-018-02-002", "answers": [ { "text": "ボーイング377", "answer_start": 289, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エアバスが自社製の大型貨物用の輸送機を開発するきっかけにもなった冗談とは、全てのエアバス機がどの航空機メーカーの翼によって届けられるとの冗談だったか?", "id": "tr-018-02-003", "answers": [ { "text": "ボーイング", "answer_start": 449, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ほどなくしてエアバス機の生産数が急増し輸送力強化が課題となったほか、エアバス社が採用した時点でスーパーグッピーは既に時代遅れであったため、新たな輸送手段が模索された。自動車輸送、鉄道、海上輸送が検討されたが、信頼性や所要時間の点で空輸が適していた。最終組み立て工場があるトゥールーズは、陸路や海路でのアクセスに不便な場所だった。そして何よりもトゥールーズには好条件の滑走路があり、エアバス機の生産拠点を移すという選択はありえなかった。スーパーグッピーの後継機を選定するための徹底的な研究が始まった。この当時、主翼を大型化したエアバスA340の発展型が構想されており、これを含むエアバス機の主要コンポーネントを積載できるように、後継機には十分な大きさが求められた。一方で、老朽化が進むスーパーグッピーに残された時間は限られていた。遅くとも1995年には後継機を就航させる必要があった。少なくとも4機、予備を含めると5機を調達する必要があった。", "qas": [ { "question": "航空機のコンポーネントの輸送として自動車輸送、鉄道、海上輸送が選ばれなかったのは、所要時間のほかに、どの面において空輸が適していると判断されたからか?", "id": "tr-018-03-000", "answers": [ { "text": "信頼性", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エアバスが陸路や海路ではなく、空路での航空機のコンポーネントの輸送を採用したのは、どこにある最終組立て工場までのアクセスに空輸が適していると判断したからですか?", "id": "tr-018-03-001", "answers": [ { "text": "トゥールーズ", "answer_start": 135, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スーパーグッピーの後継機を選定するための徹底的な研究が始まったころに、構想されていたのは、何の?", "id": "tr-018-03-002", "answers": [ { "text": "エアバスA340の発展型", "answer_start": 262, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "後継機の候補には、既存の航空機と新規開発の双方があげられた。既存の航空機では、ソビエト連邦からはアントノフAn-124や6発機のアントノフAn-225、アメリカからはロッキードC-5「ギャラクシー」、マクドネル・ダグラスC-17「グローブマスターIII」、ボーイング747が候補となった。それに加えてイリューシンIl-86、ボーイング767、そしてエアバスA300からの改造が検討された。しかし、これら既存の貨物機は、貨物室の空間が不足していた。既存機に収容できるようパーツを細分化した場合には、分業体制が複雑化し、コストが大幅に上昇すると懸念された。積荷を機外に搭載するピギーバック方式も検討されたが、現実的ではなかった。ボーイング社はボーイング767を改造する提案を行ったものの、それであれば、エアバスが自社の双発旅客機A300-600Rをベースに開発した方が都合が良かった。そこで1991年8月、新型輸送機の開発・製造・保守などを担うため、スーパー・エアバス・トランスポート・インターナショナル(SuperAirbusTransportInternational;SATIC)社が設立された。SATICは、エアバス参加企業であるフランスのアエロスパシアル社とドイツのDASA社が50対50で出資した経済利益団体(GIE)で、トゥールーズに拠点を置いた。A300-600Rをベースとした新型機はA300-600ST(SuperTransporter)と名付けられ正式に開発が始まった。", "qas": [ { "question": "後継機の候補として挙げられた既存の航空機は、アメリカとどの国のメーカーの航空機だったの?", "id": "tr-018-04-000", "answers": [ { "text": "ソビエト連邦", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エアバスが既存の航空機を採用せずA300-600Rをベースとした大型貨物用の航空機を開発した理由は、既存の航空機は何が足りなかったからですか?", "id": "tr-018-04-001", "answers": [ { "text": "貨物室の空間", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A300-600Rをベースとした大型貨物用の新型機は、どこで開発・製造されたか?", "id": "tr-018-04-002", "answers": [ { "text": "トゥールーズ", "answer_start": 565, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "後継機の候補となった既存の航空機のうち、その製造社から直接、改良の提案をしてきた機種は、何か?", "id": "tr-018-04-003", "answers": [ { "text": "ボーイング767", "answer_start": 319, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "A300-600STは、主翼やエンジン、胴体下半分がA300-600Rと共通で、上半分の胴体が新規設計された。新しい胴体部は極めて太い直径の円筒形であり、大型コンポーネントを搭載する貨物室にあたる。機体前方から貨物を積み下ろしできるように、貨物室最前部には上開きの扉が設置され、コックピットが胴体の下側に移された。コックピットのレイアウトや装備品などは、A300-600Rのものが踏襲された。特異な形を持つことから、コンピュータ解析や模型を用いた風洞実験が繰り返され、空力面のほか空港でのハンドリング面でも最適な形状となるよう検討された。A300-600STは新造機として生産され、ベース機同様に国際分業体制がとられた。A300から流用する部分はベース機と同じ分担とされ、A300-600ST専用のコンポーネントも各国で分担されて製造された。参加各国の主な分担については、フランスが機首部分とコックピット、中央翼、エンジンパイロン、イギリスが貨物扉と降着装置、主翼、ドイツが貨物扉と機首部分のつなぎ目、貨物室後部、垂直尾翼、前後部胴体、スペインが貨物室前部、水平尾翼、オランダが主翼動翼の生産を担当した。", "qas": [ { "question": "胴体の下半分と上半分のうち、ベース機のものが引き継がれなかったのは、どちらなの?", "id": "tr-018-05-000", "answers": [ { "text": "上半分", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "主翼とエンジン、胴体のうち、ベース機と完全共通化されなかったのは、どちらですか?", "id": "tr-018-05-001", "answers": [ { "text": "胴体", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フランスとイギリス、ドイツのうち、機首部分関連の生産に携わらなかったのは、どちらか?", "id": "tr-018-05-002", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 416, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ドイツとスペイン、オランダのうち、尾翼関連の生産に携わらなかったのは、どちらの国か?", "id": "tr-018-05-003", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 484, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A300-600STの製造は1993年から始まり、各パーツはスーパーグッピーでトゥールーズに集められ、1994年から最終組み立てが開始された。A300-600STの1号機は1994年9月13日に初飛行し、335時間におよぶ飛行試験を経て1995年10月25日に型式証明を取得した。同年にエアバス社へ引き渡しされ、2号機から5号機についても、初飛行と型式証明の取得、そして納入がそれぞれ進められた。最終組み立てが始まった頃、A300-600STは非公式に「スーパーフリッパー」という愛称で呼ばれていた。これは、テレビドラマ「わんぱくフリッパー」に登場するイルカの名前に由来するという説がある。その後、1994年6月23日、A300-600STの1号機の完成発表と同時に「ベルーガ」という愛称が発表された。ベルーガはSATICによって付けられた名前で、エアバス社本体は当初はこの愛称を気に入っていなかったが、広く浸透したことから後に認めて使用するようになった。A300-600STの生産数は5機で、そのうちの1機は当初はオプションとされたが、最終的に5機全てが生産された。", "qas": [ { "question": "A300-600STの最終組み立てが開始されたのは、何年のこと?", "id": "tr-018-06-000", "answers": [ { "text": "1994年", "answer_start": 51, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A300-600STは、何号機をもって生産されていないですか?", "id": "tr-018-06-001", "answers": [ { "text": "5号機", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A300-600STにつけられた「スーパーフリッパー」という愛称が、何に由来するとの説がありますか?", "id": "tr-018-06-002", "answers": [ { "text": "テレビドラマ「わんぱくフリッパー」に登場するイルカの名前", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A300-600STの愛称が「スーパーフリッパー」から「ベルーガ」に変えられたのは、いつか?", "id": "tr-018-06-003", "answers": [ { "text": "1994年6月23日", "answer_start": 299, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ベルーガの最初の実用飛行は、納入の翌年となる1996年1月15日に行われた。ベルーガは、欧州各地で製造されるエアバス機のパーツやコンポーネントを最終組み立て工場へ輸送する任務に従事し、全5機の導入によりスーパーグッピーは完全に退役した。ベルーガの新しい大型貨物扉や貨物搭載システムにより、スーパーグッピー時代と比べて、貨物の積み下ろしに要する人員が18人から2人に省力化され、所要時間が1時間半から45分に短縮された。", "qas": [ { "question": "スーパーグッピーがベルーガに置き換えられることによる利点としては、貨物の積み下ろしに要する人員の減少と何の短縮をあげられますか?", "id": "tr-018-07-000", "answers": [ { "text": "所要時間", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベルーガの運用が始まったのは、いつなの?", "id": "tr-018-07-001", "answers": [ { "text": "1996年1月15日", "answer_start": 22, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "エアバス社はベルーガを用いたチャーター輸送事業へも進出することとし、1996年6月30日、ベルーガの運航を担当する専門会社の設立を発表した。この専門会社は「エアバス・トランスポート・インターナショナル」(AirbusTransportInternational、以下ATI)社と名付けられ、同年9月20日に登記された。ATIは1996年11月にフランスの航空当局から航空運送事業の認可を取得し、11月24日に最初の請負輸送業務を行った。全5機のベルーガはATI社が運航するようになり、1997年には全機で合わせて年間1,400回、2,500時間の飛行を行なった。ベルーガの運航開始以降も、エアバス機の生産数は拡大の一途をたどり、2011年にエアバスは社輸送量の増加に対応するため「フライ10000」と呼ばれる計画を開始した。この計画では、積み荷、積み降ろし方法を含めた物流インフラの最適化を目的とし、2017年までにエアバス社の輸送機の年間総飛行時間を1万時間に増やすことを目指したものだった。2014年の時点では欧州11カ所の工場間を結び、1日あたり2から4便、1週間に60回以上飛行した。2017年には、1日あたり5便、週6日の飛行を行うようになり、飛行時間が8,000時間を超えたが、飛行スケジュールには遅れが目立つようになり、増便はほぼ限界に達した。", "qas": [ { "question": "1996年6月30日に設立が発表された会社が、フランスの航空当局から航空運送事業の認可を取得したのは、いつか?", "id": "tr-018-08-000", "answers": [ { "text": "1996年11月", "answer_start": 163, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2014年と2017年のうち、ベルーガの1日あたりの運航便数がより多かったのは、いつか?", "id": "tr-018-08-001", "answers": [ { "text": "2017年", "answer_start": 496, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エアバス社がチャーター輸送事業へ参入しようとの意思を正式に示したのは、いつなの?", "id": "tr-018-08-002", "answers": [ { "text": "1996年6月30日", "answer_start": 34, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ATI社は、何を用いてどのような事業に務めている会社ですか?", "id": "tr-018-08-003", "answers": [ { "text": "ベルーガを用いたチャーター輸送事業", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "以前からSATICは、ベルーガのコンセプトを他のエアバス機に適用することも検討しており、エアバスA330かA340がベース機の候補として取りざたされていた。2014年の前半には、A300-600STより飛行距離が長く、より重い貨物の輸送を可能にするベルーガ後継機の構想が報じられた。そして同年11月、エアバス社はA330をベースとした新型機「ベルーガXL」の開発を発表した。ベルーガXLの初号機は2015年12月22日に製造が開始され、2018年7月19日に初飛行に成功した。ベルーガXLは、A330の貨物型であるA330-200Fをベースとして既存の機器やコンポーネントを再利用しつつ、コックピットや貨物室、尾部などが新規開発されている。エアバス社ではベルーガXLを5機製造し、現行のベルーガはベルーガXLと順次置き換えることで2025年に退役するとしている。", "qas": [ { "question": "ベルーガ後継機の構想において候補機となったが、結局選ばれなかった機種は、どの機種なの?", "id": "tr-018-09-000", "answers": [ { "text": "A340", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ベルーガXLは既存のベルーガより積載重量と何において優れていますか?", "id": "tr-018-09-001", "answers": [ { "text": "飛行距離", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エアバス社はベルーガを、何年にはベルーガXLに完全に置き換えるとしているか?", "id": "tr-018-09-002", "answers": [ { "text": "2025年", "answer_start": 365, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベルーガ後継機の開発が発表されたのは、いつか?", "id": "tr-018-09-003", "answers": [ { "text": "2014年", "answer_start": 78, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ベルーガは、主翼を低翼位置に配した単葉機であり、左右の主翼下にターボファンエンジンを1基ずつ備える。主翼やエンジンはA300-600Rのものと同一である。水平尾翼は低翼に配置され、降着装置は前輪配置である。ベルーガは、大型貨物を搭載できるように極めて太い胴体を持ち、2014年現在において世界最大の胴体幅を持つ飛行機であった。ベルーガの胴体は2階建ての構造で、ダルマを逆さにしたような断面を持つ。A300-600Rの胴体下半分に、巨大な円筒状の貨物室を乗せたような形状で、上部胴体と下部胴体の間は直線的に結ばれている。貨物室の最大幅と最大高はともに7.10メートルで、床面の最大幅は5.11メートルである。円筒の前方と後方は、もとの機体形状に合わせてすぼめられており、完全な円筒部となる部分の長さは21.34メートル、貨物室の全長は37.70メートルである。床下貨物室にも貨物を搭載可能である。貨物室の総容量は1,400立方メートルで、積載量は47トンである。", "qas": [ { "question": "2014年の時点の世界最大の胴体幅を持つ飛行機は、何?", "id": "tr-018-10-000", "answers": [ { "text": "ベルーガ", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ベルーガの胴体は何階建ての構造になっていますか?", "id": "tr-018-10-001", "answers": [ { "text": "2階建て", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ベルーガにおいて、貨物室のほかに貨物を搭載できる空間は、どこか?", "id": "tr-018-10-002", "answers": [ { "text": "床下貨物室", "answer_start": 379, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベルーガには、少なくとも何トン以上の貨物を搭載できるか?", "id": "tr-018-10-003", "answers": [ { "text": "47トン", "answer_start": 422, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "貨物の積み下ろしを行うため、貨物室の最前部に上開き式の扉が設けられている。この扉は貨物室断面が完全に開口するまで上がるため、貨物室の寸法をフルに使用できる。扉はアルミニウム合金製で重量は2トンあり、閉じた際には機体荷重を分担する構成要素となる。扉の閉口部内側の全周にわたりラッチ構造が設けられ、閉じるとファスナーのように順次固定される。貨物扉を開いた時の最大の高さは、貨物を搭載しない状態で16.97メートルとなる。風速20ノット(約10メートル毎秒)の横風まで開口動作が可能で、開ききると30ノット(約15メートル毎秒)の横風まで耐えられる。", "qas": [ { "question": "重量は2トンであり、閉じた際には機体荷重を分担する構成要素となるとのことは、ベルーガのどこに設置された扉についての説明でありますか?", "id": "tr-018-11-000", "answers": [ { "text": "貨物室の最前部", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "貨物室の最前部に設けられた上開き式の扉を完全に開いた時の高さは、何メートルに至るの?", "id": "tr-018-11-001", "answers": [ { "text": "16.97メートル", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "前方から貨物を出し入れできるように、ベルーガのコックピットの位置は胴体下部に移されている。乗務員の乗降扉は胴体の床面下に配置され、梯子が内蔵されている。また、操縦室の後方にあたる胴体右側面に非常口が設けられている。下方に突き出すようなコックピットは、ベルーガ(シロイルカ)のような外観形状を生み出した。このコックピット配置により、電気配線や油圧配管などを切り離すことなく前方貨物扉を開口できる。油圧や電気系統を切断して機首部全体を開口する方式だったスーパーグッピーと比べ、作業時間が短縮されただけでなく、安全性の向上にもつながった。さらに、コックピットが貨物室より下側にあるため、万が一急制動をかけてもメインデッキの貨物がコックピットに干渉しないという点でも安全である。", "qas": [ { "question": "ベルーガが従来の旅客機とは異なり、文字通り、シロイルカのような外観形状をしているのは、何の配置変更によることか?", "id": "tr-018-12-000", "answers": [ { "text": "コックピット", "answer_start": 117, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベルーガでは、コックピットと貨物室のうち、どちらがより上に設けられたか?", "id": "tr-018-12-001", "answers": [ { "text": "貨物室", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "貨物室内には前後にわたって2本のレールが引かれ、動力付きローラーを有する貨物搭載システムが備わっている。これにより外部のウインチなどを使わずに、貨物を移動させることが可能となり、所要時間の短縮に資している。ベルーガに貨物の積み下ろしを行うための専用車両も用意されており、この車両は全長32メートル、最大50トンの荷物をベルーガの床面の高さまで持ち上げられ、ベルーガの機首と干渉しないような構造となっている。また、チャーター輸送時には通常の空港にある貨物取り扱い車両も使用できるような汎用性も持たされている。与圧されるのはコックピットと機体後部の小区画のみで、そこに与圧環境でのみ使用できる機器類が配置されている。貨物室は非与圧式であり、就航当時のSATICの代表は「エアバスが製造した最初の非与圧機」とも述べている。", "qas": [ { "question": "この文書では、主にベルーガのどんなシステムについて説明しているの?", "id": "tr-018-13-000", "answers": [ { "text": "貨物搭載システム", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "就航当時のSATICの代表は、ベルーガのことを何と述べていますか?", "id": "tr-018-13-001", "answers": [ { "text": "「エアバスが製造した最初の非与圧機」", "answer_start": 332, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "コックピットの設計やレイアウト、装備品はA300-600Rのものを踏襲している。ベルーガでは人工衛星や美術品といった温度管理が必要な貨物を輸送できるように、可搬式のヒーターモジュールも用意されており、コックピットからヒーターモジュールの制御が行えるようになっている。ベルーガでは、機体重量の増加に合わせてベース機よりも尾翼の構造が強化された。原型機の2倍の高さとなった胴体が垂直尾翼を覆い隠すことによる空力学的影響は風洞実験で検証された。その結果、安定性を向上させるため、そして横風への耐性を維持するため、垂直尾翼の付け根を前方に延ばすように垂直安定板の面積が拡大されたほか、水平安定版の両翼端にも垂直安定板が追加されている。エンジンはターボファンエンジンで、ゼネラル・エレクトリック製のCF6-80C2を2基装備する。巡航速度は時速780キロメートル、実用上昇限度は35,000フィート(約10,700メートル)で、航続距離は貨物を26トン搭載した場合で4,632キロメートル、40トン搭載時は2,779キロメートルである。", "qas": [ { "question": "ベルーガのコックピットの設計やレイアウト、装備品は、どの機種のものを引き継いでいるか?", "id": "tr-018-14-000", "answers": [ { "text": "A300-600R", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ベルーガのベース機となるのは、どの機種か?", "id": "tr-018-14-001", "answers": [ { "text": "A300-600R", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ベルーガでは、機体重量の増加に伴う安全性の問題を解決するため、機体のどの部分を強化したか?", "id": "tr-018-14-002", "answers": [ { "text": "尾翼", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "全5機のベルーガはATI社によって運航され、欧州各地で製造されるエアバスA320やエアバスA330、エアバスA350XWBといったエアバス機のパーツやコンポーネントを最終組み立て工場へ輸送する任務に従事している。パーツの生産地であるフランスのナントやサンナゼール、ドイツのブレーメン、スペインのマドリードやセビリヤ、ヘタフェ、イギリスのリヴァプールやブロートン、イタリアのナポリなどから、最終組み立て地のトゥールーズやドイツのハンブルクを結んでいる。総2階建ての超大型機であるエアバスA380については、ベルーガの貨物室にも収まらないため、専用の船と車両を用いた輸送がメインとなっている。", "qas": [ { "question": "エアバス機の最終組み立て地としては、トゥールーズのほかに、どの都市が選ばれたの?", "id": "tr-018-15-000", "answers": [ { "text": "ハンブルク", "answer_start": 213, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エアバスA320とエアバスA330、エアバスA350XWB、エアバスA380のうち、パーツやコンポーネントを最終組み立て地まで輸送するのにベルーガが用いられなかったのは、どちらですか?", "id": "tr-018-15-001", "answers": [ { "text": "エアバスA380", "answer_start": 238, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "Umbrella_(清水翔太のアルバム)", "paragraphs": [ { "context": "『Umbrella』(アンブレラ)は、日本のR&B歌手/ソングライター清水翔太のファースト・アルバム。\n2008年11月26日にソニー・ミュージックレコーズよりリリースされた。\n清水はこのアルバムを、10代の自分を最大限に表現することと、楽曲のリアリティを追求することの2つに重点を置いて制作した。\nこのアルバムは様々な愛の形を表現することを目指しており、収録曲はラブ・ソングが多くを占める。\n作曲は清水が収録曲の全てを手がけ、塩川満己や3rdProductions、STY、YANAGIMANといったプロデューサーと共に制作を進めた。\n音楽性としてはR&Bやソウル、ヒップホップ、ジャズ、ファンクなど様々なジャンルからの影響を強く受けた作品となっている。", "qas": [ { "question": "『Umbrella』がリリースされたのはいつ?", "id": "tr-019-00-000", "answers": [ { "text": "2008年11月26日", "answer_start": 52, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『Umbrella』をリリースしたレコード会社はどこ?", "id": "tr-019-00-001", "answers": [ { "text": "ソニー・ミュージックレコーズ", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『Umbrella』の全収録曲を作曲したのは誰?", "id": "tr-019-00-002", "answers": [ { "text": "清水", "answer_start": 200, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "清水翔太のファースト・アルバムのタイトルは何?", "id": "tr-019-00-003", "answers": [ { "text": "『Umbrella』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "多くの批評家はこのアルバムに肯定的評価を与え、清水がアルバムで目指した10代の等身大の自分を表現した点などについて言及した。\nアルバムはオリコン週間CDアルバム・チャートでは最高位2位を記録。\nオリコンは同チャートにおける平成生まれのアーティストによるトップ3入りは清水が初となったと報じた。\nアルバムは日本レコード協会からはゴールド・アルバムの認定を受けている。", "qas": [ { "question": "清水のアルバムはオリコンチャートで最高何位を記録したの?", "id": "tr-019-01-000", "answers": [ { "text": "2位", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "清水のアルバムは日本レコード協会から何の認定を受けた?", "id": "tr-019-01-001", "answers": [ { "text": "ゴールド・アルバム", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アルバムには「HOME」、「「アイシテル」」の2曲のシングル・ヒットが含まれる。\n「HOME」は日本で最高位5位を記録、日本レコード協会からはダブル・プラチナ・シングルに認定された。\n「「アイシテル」」は日本で4位を記録し、同協会からはゴールド・シングルに認定されている。\nこれらのほか「Diggin'OnU」、「MyTreasure」の2曲がシングル・カットされた。\n2009年3月からはこのアルバムを携えライブ・ツアー『UmbrellaTour』が行われている。", "qas": [ { "question": "「HOME」と「「アイシテル」」のオリコン順位が良かったのはどちら?", "id": "tr-019-02-000", "answers": [ { "text": "「「アイシテル」」", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アルバムからシングル・カットされたのは「MyTreasure」と何?", "id": "tr-019-02-001", "answers": [ { "text": "「Diggin'OnU」", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2009年3月から始まったライブ・ツアーの名前は?", "id": "tr-019-02-002", "answers": [ { "text": "『UmbrellaTour』", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "このアルバムでは、シングル楽曲4曲のうち「HOME」、「「アイシテル」」、「MyTreasure」の3曲を、加藤ミリヤ、CrystalKay、AI、MINMI作品のプロデュースなどで知られる3rdProductionsが、サード・シングルの「Diggin'OnU」はCHEMISTRY作品などで知られる塩川満己がプロデュースを担当した。\nその他シングル楽曲以外では、「WithYou」では鈴木\"Daichi\"秀行と近藤ひさしの2人によるプロダクション・チームConey'sJelly、「UNHAPPY」ではSTY、「Soulmate」ではYANAGIMANがそれぞれプロデュースというように、清水はこのアルバムで複数のプロデューサー陣と共に仕事を行っている。\nこのアルバムの発表時点までに清水はデモを含め100曲以上を制作しており、この作品ではその中からアルバムという形で聴いて欲しいと清水が思う楽曲を選んでいくかたちで選曲が行われ、スタジオ録音も行われている。\nまた『日経エンタテインメント!』によれば、アルバムの収録曲候補が予め存在していたために、アルバムそのもの自体の制作期間はわずか2ヶ月足らずという短期間であったとされている。\n更に収録曲全てをシングルカットできるクオリティに持っていくことも念頭に制作されており、既存の曲の今後の活動のためのストックの配分などは一切考えずに選曲された。\n清水は以下のように語っている。", "qas": [ { "question": "3番目のシングル曲のタイトルは何?", "id": "tr-019-03-000", "answers": [ { "text": "「Diggin'OnU」", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "3rdProductionsと塩川満己はどちらが数多く清水の楽曲プロデュースを行いましたか?", "id": "tr-019-03-001", "answers": [ { "text": "3rdProductions", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「UNHAPPY」のプロデュースを担当した人は?", "id": "tr-019-03-002", "answers": [ { "text": "STY", "answer_start": 253, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「Soulmate」のプロデュースを担当した人は?", "id": "tr-019-03-003", "answers": [ { "text": "YANAGIMAN", "answer_start": 269, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アルバムには13歳の時に制作した楽曲からデビュー後19歳になって以降に制作した楽曲までが収録されている。\nアルバムの最初の楽曲「Diggin'OnU」はライブに来てくれる人やファンに向けての感謝を込めて書かれており、そういった人たちと一緒に盛り上がりたいという思いから生まれた。\n楽曲の制作時期は2007年の夏頃とされている。\n「MyLove」は今作収録楽曲のなかで最も制作時期が古く、13歳の時に制作されている。\nその頃はまだトラックが作れなかったために歌詞とメロディだけをテープに録音していたという。\nこの楽曲はアンプラグドで録音され、清水はエクストリームの代表曲「MoreThanWords」風の編曲を希望していることをアレンジャーに伝えた。\n「LoveStory」、「Soulmate」、そしてデビュー・シングルとなった「HOME」の3曲は地元大阪時代に制作されている。\n「ソレゾレ」、「LOVINU」の2曲は地元大阪から東京へと上京して以降に制作された楽曲で、前者は清水曰くアルバムの中でも一番気に入っている楽曲。\n逆に、19歳を迎えて以降に制作されアルバム収録に至った楽曲も存在する。\nセカンド・シングルとなった「「アイシテル」」はセカンド・シングルのリリースが2008年6月と決まったことを受け新たに書き下ろされた楽曲で、2008年3月に制作されている。\nまた、「UNHAPPY」や「RainyDay'sMorning」の制作は2008年6月頃に行われている他、4作目のシングルとなった「MyTreasure」は2008年7月頃に制作が行われている。", "qas": [ { "question": "「Diggin'OnU」が制作されたのは何年?", "id": "tr-019-04-000", "answers": [ { "text": "2007年", "answer_start": 148, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アルバムの中で清水が最も気に入っている楽曲は何?", "id": "tr-019-04-001", "answers": [ { "text": "「ソレゾレ」", "answer_start": 390, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ソレゾレ」、「LOVINU」、「MyLove」の中で最も早く制作された楽曲は何?", "id": "tr-019-04-002", "answers": [ { "text": "「MyLove」", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「「アイシテル」」と「RainyDay'sMorning」はどちらが先に制作された?", "id": "tr-019-04-003", "answers": [ { "text": "「「アイシテル」」", "answer_start": 512, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "このアルバム『Umbrella』は13楽曲から構成されており、日本盤はボーナス・トラックとしてアルバムからのファースト/デビューシングル「HOME」のア・トライブ・コールド・クエストのアリ・シャーヒドによるリミックス「HOME」(HIPHOPREMIX)を足した計14曲が収録されている。\n清水は収録曲数について、デビュー・アルバムからいきなり収録曲数を多めにする気はなかったとし、それよりも1曲、1曲を大事にし、心に染み込ませられるようなアルバムにすることに重点を置いたとコメントした。\n更にR&Bやソウル、ヒップホップ、ジャズ、歌謡曲といった自身がこれまで聞いてきた様々な音楽ジャンルを挙げ、アルバムは「清水翔太の人間性や、清水翔太の音楽」といったものが結果としてしっかりと出た、反映されたアルバムになったと話している。\nアルバムのオープニングナンバー「Diggin'OnU」はライブでも必ず1曲目にパフォーマンスされるライブ・チューンとなっており、アルバムでもその流れで1曲目に配置された。\nボーナス・トラックの「HOME」(HIPHOPREMIX)については、このリミックス自体は「超自慢の一曲」としつつも、アルバムに収録したときに少しずれるかもしれないという本人の意向によりボーナス・トラック扱いでの収録となっている。\nFLYINGPOSTMANPRESSは、このアルバムを「とても四季を感じることができる一枚」だと指摘している。\nこのアルバムには特定のテーマやコンセプトなどが定められていない。\nテーマを定めない代わりにアルバムには、10代で得たものを全て詰め込むこと、更に、書きたいことや表現したいことが「リアルであること」を制約に、そしてアルバム制作時点もしくは10代時点―その時における「ひたむきさ」をいかにして素直に出し切るかということを考え制作されている。", "qas": [ { "question": "『Umbrella』の最初に収録されている曲は何?", "id": "tr-019-05-000", "answers": [ { "text": "「Diggin'OnU」", "answer_start": 378, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『Umbrella』にボーナス・トラックとして収録された楽曲は?", "id": "tr-019-05-001", "answers": [ { "text": "「HOME」", "answer_start": 459, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "清水のライブで必ず最初に披露される楽曲とは?", "id": "tr-019-05-002", "answers": [ { "text": "「Diggin'OnU」", "answer_start": 378, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この作品では清水がこれまでの人生の中で聴いてきた音楽の影響を受けており、R&B、ソウル・ミュージック、ジャズ、ヒップホップ、ファンクといったジャンルが同様にこのアルバムの中でも表現されている。\nまた、アルバム収録楽曲の殆どはデモ音源に忠実に仕上がっている。\nしかし、「Soulmate」を含め2、3曲はアレンジャーの手により大きくアレンジが変わっている。\nトラック1の「Diggin'OnU」、トラック5の「OneLastKiss」の2曲で清水はラップを行っている。\n「Diggin'OnU」は清水なりのヒップホップであると同時にヒップホップへのリスペクトが込められており、『B=PASS』のインタビュアー土屋恵介は同曲について「ソウルフルなR&B」と表現している。\n「OneLastKiss」はイントロにレコードの針のノイズの音声が加えられており、ヴァースとコーラスではピアノの音色を主軸に4つ打ちのリズムにのせ、清水がラップとキックを行っている。\n『CDジャーナル』はこの楽曲を「ヒップホップ・ソウル風ナンバー」と表現している。\nトラック6の「LoveStory」ではオートチューンが使用されている。\nトラック7の「RainyDay'sMorning」ではウッドベースを基軸にしたジャズ・テイストな表現を用いている。\nトラック8の「UNHAPPY」については、清水は自分なりのR&Bに対してアプローチを行った楽曲だと語った。\n『BARFOUT!』はこの楽曲を「バッド・ガール系の楽曲」と呼んでいる。\nトラック11の「MyLove」においてはギター1本でほかの音を一切省いたアンプラグドで録音されている。", "qas": [ { "question": "「RainyDay'sMorning」と「OneLastKiss」は、アルバムの中でどちらが収録された順番が早いですか?", "id": "tr-019-06-000", "answers": [ { "text": "「OneLastKiss」", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「MyLove」で使用された唯一の楽器とは?", "id": "tr-019-06-001", "answers": [ { "text": "ギター", "answer_start": 672, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「RainyDay'sMorning」よりも順番が後の楽曲は「LoveStory」と「UNHAPPY」のどちらですか?", "id": "tr-019-06-002", "answers": [ { "text": "「UNHAPPY」", "answer_start": 567, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「UNHAPPY」、「LoveStory」、「RainyDay'sMorning」、の中で最も早い順番に収録された曲はどれ?", "id": "tr-019-06-003", "answers": [ { "text": "「LoveStory」", "answer_start": 473, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "歌詞について、清水はアルバムを通して「愛からくる何かを守ろうとする気持ち」というものを大切にしたと話している。\nこのことは複数のインタビュアーに指摘されており、エキサイトのインタビュアー・猪又孝はアルバム収録曲について、デビュー・シングルの「HOME」を含め、ラヴ・ソングの中でも特に哀しみを含んだ表現や失恋について歌った歌詞の楽曲が多いとコメントした。\nFLYINGPOSTMANPRESSは、「愛」、「LOVE」という言葉をすごく大切にしていると指摘した。\nまたオリコンのインタビュアー・三沢千晶は、アルバム全楽曲を通して穢い表現の言葉がひとつもないと指摘。\n更に歌詞中の表現について、詞の内容が「UNHAPPY」な状況にあっても「LOVE」な言葉で溢れているとも指摘している。\nこのアルバムで沢山の「LOVE」を表現したかったと清水が語るとおり、アルバムは「WithYou」、「OneLastKiss」、「LoveStory」、「RainyDay'sMorning」、「LOVINU」、「「アイシテル」」、「MyLove」と収録曲13曲のうち、その楽曲の多くをラヴ・ソングが占めている。", "qas": [ { "question": "アルバム収録曲の大半はどのような歌が占めているの?", "id": "tr-019-07-000", "answers": [ { "text": "ラヴ・ソング", "answer_start": 483, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アルバム収録曲には哀しい表現の歌詞や失恋に関する楽曲が多いとコメントしたのは誰?", "id": "tr-019-07-001", "answers": [ { "text": "猪又孝", "answer_start": 94, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オリコンのインタビュアーでアルバムの指摘をした人は誰?", "id": "tr-019-07-002", "answers": [ { "text": "三沢千晶", "answer_start": 246, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2008年10月、清水はシングル「MyTreasure」リリース・インタビューのなかで制作中のアルバムに触れ、「僕自身を分かってもらえるような、僕を全部出し切ったアルバム」になると発言した。\n2008年11月1日、ソニー・ミュージックエンタテインメント・ジャパンは清水翔太の日本公式ウェブサイトにて清水翔太のデビュー・アルバムが2008年11月26日に日本にてリリースされることを発表した。\nその後アルバムは、発表どおりに日本にて2008年11月26日にソニー・ミュージックレコーズのMASTERSIXFOUNDATIONレーベルより発売された。\n日本以外のアジア各国では、2008年11月から年を跨いで2009年1月にかけ、大韓民国、台湾、香港などで発売されている。\nアルバムは、フィジカルではCD、DVD付の2種類、更にデジタル・ダウンロードも合わせ3規格によりリリースされている。\nこのアルバムの初回生産限定盤はDVD付の2枚組でのリリースとなっており、DVDには「Diggin'OnU」と「MyTreasure」の2曲のミュージック・ビデオ、2007年11月に清水がアポロシアターでライヴ・パフォーマンスを行った際の模様を収めたドキュメンタリー映像「ApolloTheaterDocumentaryin2007」、更に2008年3月9日に大阪城公園遊歩道で開催したフリー・ライヴの模様を収めた「大阪城公園<城天>フリーライブ」が収録されている。", "qas": [ { "question": "アルバムの初回生産限定盤には「Diggin'OnU」と何のミュージックビデオが付いていたの?", "id": "tr-019-08-000", "answers": [ { "text": "「MyTreasure」", "answer_start": 448, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アルバムタイトルについて清水は、自身がこれまでの人生で辛いときや逃げ出したいとき、悲しいとき、苦しいとき、哀しいとき、そういった境遇に遭遇したときに支えになったのが音楽であり、つまり「自分の中での雨の日」に傘(Umbrella)になってくれたのが音楽であった。\nそして自分は音楽を傘(Umbrella)にして生きてきたと前置きした上で、自身が音楽に救われ、支えられたように、自分が音楽を発信するという側に立てた今、自分の音楽が自分の音楽を聴いてくれる人たちを支えたり、助けたり、救ったりといった手段になって欲しい―聴いてくれる人達の心の傘=Umbrellaになれたらという願いを込めてこのタイトルをつけたとコメントしている。\n更に、それこそが自分がアーティストとして音楽をやる大きな理由であるとも付け加えた。\nまた支えになっただけでなく、母親のようにいつも支えてくれたのも音楽であり、音楽のおかげで出会いや大切なものが増え、成長することができ、音楽によって自身が救われたとも語り、そういった意味で音楽への恩返しをしたいとそう思ったときに最適な表現、タイトルが「Umbrella」であったとも述べた。\nその他、単純に言葉としての「Umbrella」の見た目のリズム、単語の字面のバランスが好きだったということも理由として挙げている。\nアルバムのジャケット写真についても、清水が傘を持つ写真が採用されている。", "qas": [ { "question": "清水にとって人生の苦しい時に支えになったものとは何だった?", "id": "tr-019-09-000", "answers": [ { "text": "音楽", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アルバムのジャケット写真で清水が手にしているものとは何?", "id": "tr-019-09-001", "answers": [ { "text": "傘", "answer_start": 587, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "清水は音楽を何に見立てて表現した?", "id": "tr-019-09-002", "answers": [ { "text": "傘", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『Umbrella』は、複数の音楽評論家から肯定的な評価を受けている。\n『B=PASS』はアルバムレビューのなかで、「最愛の人に出会った出逢った幸せも描けば、最愛の人との別れをいまだに後悔する主人公の揺れ動く想いを素直に綴る詞からは19歳の等身大も見え隠れする」と指摘した。\n『日経エンタテインメント!』は、収録曲の多くが日本人の歌心を刺激する「泣ける歌」で構成されている点、またアルバムは生音のギターやピアノが浮き立つシンプルな構成である点などを指摘し、このアルバムのサウンドは最先端のR&B/ヒップ・ホップというよりも古き良き時代のソウル・ミュージックを彷彿とさせるとコメントした。\n『WHAT'sIN?』のライターは、アルバム全体について既発の「HOME」、「アイシテル」、「MyTreasure」のシングル楽曲3曲にひけをとらない魅力とクオリティがあるとして好意的に評価した。\nまた、R&Bサウンドだけに捕らわれず、バンド・サウンドや50〜60年代風のジャズサウンドを取り入れた点についても高評価を与えている。\nエキサイトは、アルバム全体について「破格の実力を備えたボーカルが全編に渡って堪能できる」とし、またアルバムからは本人のブラックミュージックへの愛が感じられるとコメント、更にアルバムの楽曲におけるの一つ一つのメロディー、歌、そして音楽への誠実さについても高評価をした。\nオールミュージックは5つ星のうち3つ星をこのアルバムに与え、批評家はアルバムを肯定的に評価した。\n『CDジャーナル』はこのアルバムを「イチ押し作品」に認定したうえで、歌詞については「自分の喜びや悲しみをダイレクトに語る日本語リリックが何よりチャーミング」とコメントし、更に「この若さでなければ歌えなかった経験や記憶をシンプルに歌い上げた良作である。」と評価している。", "qas": [ { "question": "収録曲の多くが「泣ける歌」で構成されているとコメントした雑誌とは?", "id": "tr-019-10-000", "answers": [ { "text": "『日経エンタテインメント!』", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "『Umbrella』は、2008年12月8日付の日本の音楽セールス調査会社オリコンの週間CDアルバム・チャートにて発売初週に約56,000枚を売り上げ、同週発売の中島美嘉の『VOICE』に続く2位で初登場した。\nアルバムが2位を記録したことにより、10代男性ソロ歌手のファースト・アルバムのTOP3入りとしては1981年3月23日付の近藤真彦『Thank愛You』以来27年9ヶ月ぶり、更に10代男性シンガーソングライターとしては1978年4月3日付の原田真二『フィール・ハッピー』以来、30年8ヶ月ぶりにして史上2人目という記録を打ち立てている。\nチャートイン2週目には、アルバムは約26,000枚を売り上げ6位を記録し、トップ10を維持した。\nこのアルバムは合計で同アルバムチャートには20回のチャート・インを果たしている。\n加えて『Umbrella』は日本レコード協会からはゴールド・アルバムの認定を受けている。\n台湾では『Umbrella』は2008年12月にリリースされ、台湾G-MusicJ-POPチャートでは2008年同チャート第49週付のチャートにて第6位でチャート・デビューしている。", "qas": [ { "question": "2008年12月8日付のオリコン週間CDアルバム・チャートで第1位だったアルバム名は?", "id": "tr-019-11-000", "answers": [ { "text": "『VOICE』", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『VOICE』をリリースした歌手は誰?", "id": "tr-019-11-001", "answers": [ { "text": "中島美嘉", "answer_start": 81, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "発売初週と2週目の売り上げはどちらが上でしたか?", "id": "tr-019-11-002", "answers": [ { "text": "発売初週", "answer_start": 57, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "10代男性ソロ歌手のファースト・アルバムのTOP3入りはどれくらいぶりだったの?", "id": "tr-019-11-003", "answers": [ { "text": "27年9ヶ月ぶり", "answer_start": 184, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "このアルバムからは「HOME」、「「アイシテル」」、「Diggin'OnU」、「MyTreasure」の4曲がシングル・カットされている。\nアルバムからのファースト・シングルにして清水のデビュー・シングルでもある「HOME」は、2008年2月20日に日本でリリースされた。\nこの楽曲は、ビルボード・ジャパンチャートの総合シングルチャートBillboardJapanHot100で最高位3位を、オリコン週間CDシングル・チャートでは10代の男性シンガーソングライターとしては史上最高位となる最高位5位を記録した。\n日本レコード協会からは、着うたフルによる音楽配信でダブル・プラチナの認定を受けている。\n更にMTVSTUDENTVOICEAWARDS2008ではリリック賞を受賞した他、スペースシャワーTVのSPACESHOWERMusicVideoAwards2009では最優秀新人ビデオ賞を受賞、RADIOAWARDINJAPANLIFEMUSIC2008ではBESTVOICEOFLIFE、BESTNEWARTISTOFLIFEの2部門にノミネートされた。\nセカンド・シングルの「「アイシテル」」は、2008年6月4日に日本でリリースされた。\n日本レコード協会の着うたフルによる音楽配信では、ゴールドの認定を受けている。\nまた、JapanHot100では最高位6位を、オリコン週間CDシングル・チャートでは最高位4位を記録している。", "qas": [ { "question": "「「アイシテル」」の最高順位が良かったのは、JapanHot100とオリコン週間CDシングル・チャートのどちらですか?", "id": "tr-019-12-000", "answers": [ { "text": "オリコン週間CDシングル・チャート", "answer_start": 585, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「HOME」との最高順位が良かったのは、BillboardJapanHot100とオリコン週間CDシングル・チャートのどちら?", "id": "tr-019-12-001", "answers": [ { "text": "BillboardJapanHot100", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「HOME」と「「アイシテル」」はどちらが先にリリースされたの?", "id": "tr-019-12-002", "answers": [ { "text": "「HOME」", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "清水の2番目のシングル曲は何?", "id": "tr-019-12-003", "answers": [ { "text": "「「アイシテル」」", "answer_start": 490, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アルバムからのサード・シングル「Diggin'OnU」はフィジカルでのリリースはされず、デジタル・ダウンロードのみでのリリースとなった。\n2008年9月10日に日本でリリースされている。\n楽曲はJapanHot100チャートでは最高位80位を、JapanAdultContemporaryAirplayチャートでは2008年9月26日付のチャートで最高位31位を記録した。\nアルバムからの4曲目のシングル「MyTreasure」は、2008年10月22日に日本でリリースされた。\nオリコン週間CDシングルチャートでの最高位は15位で、トップ20ヒットとなった。\nJapanHot100では最高位12位を記録している。", "qas": [ { "question": "「Diggin'OnU」がリリースされたのはいつ?", "id": "tr-019-13-000", "answers": [ { "text": "2008年9月10日", "answer_start": 69, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「Diggin'OnU」の最高順位が良かったのはJapanHot100チャートとJapanAdultContemporaryAirplayチャートのどちら?", "id": "tr-019-13-001", "answers": [ { "text": "JapanAdultContemporaryAirplayチャート", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「MyTreasure」の最高位の成績が良かったのは、オリコン週間CDシングルチャートとJapanHot100のどちら?", "id": "tr-019-13-002", "answers": [ { "text": "JapanHot100", "answer_start": 281, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「MyTreasure」のリリースはいつだったの?", "id": "tr-019-13-003", "answers": [ { "text": "2008年10月22日", "answer_start": 216, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2008年10月24日には、日本のテレビ番組『ミュージックステーション』にて『Umbrella』からの先行シングル「MyTreasure」のライヴ・パフォーマンスを行った。\n2008年11月12日からは、11月26日に日本にて発売されるアルバムの発売に先がけ、タワーレコード、HMV、TSUTAYA、山野楽器、WAVEといった日本国内のレコード店129店でアルバム先行視聴が行われた。\n11月17日には、アルバムの発売に先駆けアルバムより「OneLastKiss」、「LoveStory」の2曲の日本国内向けの着うた先行配信も行われた。\nまた、アルバムの発売を前後して雑誌への露出も行った。\n『BURFOUT!』2008年12月号では、同誌の表紙を飾り小栗旬との対談も行っている。\n更には音楽イベントへ多数出演、ライヴも多く行った。", "qas": [ { "question": "『ミュージックステーション』で「MyTreasure」の歌唱を披露したのはいつ?", "id": "tr-019-14-000", "answers": [ { "text": "2008年10月24日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小栗旬との対談を行った雑誌は何?", "id": "tr-019-14-001", "answers": [ { "text": "『BURFOUT!』", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「OneLastKiss」と「LoveStory」の着うた先行配信を行ったのはいつ?", "id": "tr-019-14-002", "answers": [ { "text": "11月17日", "answer_start": 193, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2008年11月3日にはFM802が主催するイベント『MINAMIWHEEL2008』に出演、同年12月1日には世界エイズデーにあわせ、同じくFM802が主催するイベント『ActAgainstAIDS2008LIVEINOSAKA』に出演、ライヴ・パフォーマンスを行った。\n12月13日には、ケーブルテレビ局スペースシャワーTVにて「清水翔太SPECIAL」として特別番組『清水翔太のRadioUmbrella』が放映された。\n12月16日には『J-WAVECHRISTMASLIVE』に、同年12月20日にはTOKYOFMの公開放送『DHCカウントダウンジャパン』に出演。\n12月23日には、ライブイベント『ACT!Cultureofpeacebymusic!?『FriendsofPeaceMusic』』に出演。\n両イベントともに、ライヴ・パフォーマンスを行った。\n2009年3月からは、このアルバムを引っ提げてのライヴ・ツアーである『清水翔太UmbrellaTour2009』が開催された。\nこのツアーは清水にとって初となるワンマンライヴで、大阪、名古屋、東京の3ヶ所計4公演が行われている。\n2009年4月4日には、ブラック・ミュージックの祭典SPRINGROOVEでのライブ・パフォーマンスも行っている。", "qas": [ { "question": "『MINAMIWHEEL2008』と『ActAgainstAIDS2008LIVEINOSAKA』のうち、清水が先に出演したイベントはどれ?", "id": "tr-019-15-000", "answers": [ { "text": "『ActAgainstAIDS2008LIVEINOSAKA』", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『MINAMIWHEEL2008』と『ActAgainstAIDS2008LIVEINOSAKA』の共通の主催者はどこ?", "id": "tr-019-15-001", "answers": [ { "text": "FM802", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『J-WAVECHRISTMASLIVE』と『DHCカウントダウンジャパン』のうち、清水が先に出演したのはどっち?", "id": "tr-019-15-002", "answers": [ { "text": "『J-WAVECHRISTMASLIVE』", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "古代エジプト医学", "paragraphs": [ { "context": "19世紀まで、古代エジプト医学に関する情報源は新しい年代の書物であった。ホメロスは、紀元前800年ごろに『オデュッセイア』の中で「エジプトの人々は、あらゆる人間の中で最も医学にすぐれている」、「エジプト人たちは、他のどんな技術よりも医学にすぐれている」と記している。ギリシャ人の歴史家ヘロドトスは紀元前440年ごろにエジプトを訪れ、エジプト人の医学技術への広範な観察を書き記しており、大プリニウスもまた歴史的観点から好意的に記している。ヒポクラテス・ヘロフィロス・エラシストラトス・後にはガレノスもアメンホテプの神殿で学んでおり、古代エジプト医学からギリシャ医学への貢献を認めている。\n\n1822年、ロゼッタ・ストーンの解読によって、古代エジプトの碑文やパピルス上のヒエログリフの解読が可能になった。これらの中には医学に関する事柄が多数含まれていた。この結果19世紀に生じたエジプト学への関心が、エドウィン・スミス・パピルスやハースト・パピルスなど、紀元前3000年にまでさかのぼる古代医学文献のさらなる発見につながった。", "qas": [ { "question": "ホメロスはどの著書でエジプトの人々があらゆる人間の中で最も医学にすぐれていると述べましたか。", "id": "tr-020-00-000", "answers": [ { "text": "『オデュッセイア』", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1822年、古代エジプトの碑文やパピルス上のヒエログリフの解読が可能になったのは誰のおかげでしたか。", "id": "tr-020-00-001", "answers": [ { "text": "ロゼッタ・ストーン", "answer_start": 300, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ギリシャ人の歴史家ヘロドトスはいつ頃エジプトを訪問しましたか。", "id": "tr-020-00-002", "answers": [ { "text": "紀元前440年ごろ", "answer_start": 148, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "このうちエドウィン・スミス・パピルスは解剖学上の知見や、数多くの病気についての「実験・診断・処置・予後」に関する外科の教本である。紀元前1600年頃に書かれたとみられているが、数点の先行するテキストの写本であると考えられており、医学情報自体の年代は紀元前3000年までさかのぼる。エジプト第3王朝のイムホテプは、これらのパピルス文書の著者、および古代エジプト医学の創始者であると考えられている。歴史上初の外科手術は、紀元前2750年にエジプトで行われた。\n\nエーベルス・パピルスには、877の処方の他に、まじないや非衛生的な処置法も多く含まれている。いまだ理解が進んでいない古代の医学用語の解釈が正しければ、エーベルス・パピルスの記述の中には、腫瘍に関する史上初めての記述が含まれている可能性がある。その他の情報源としては、エジプトの墳墓の壁画や、それに付随する碑文などがある。現代の医学技術の進歩も、古代エジプト医学の理解に役立った。古病理学者たちは、X線撮影や後にはCTスキャンによってミイラの骨格や臓器を調べることができた。電子顕微鏡や質量分析法などの様々な法医学の技術により、4000年前のエジプトにおける健康状況の観察が可能になった。", "qas": [ { "question": "古代エジプト医学の創始者であると考えられている人物は誰ですか。", "id": "tr-020-01-000", "answers": [ { "text": "イムホテプ", "answer_start": 149, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エーベルス・パピルスには、いくつの処方が書いてありますか。", "id": "tr-020-01-001", "answers": [ { "text": "877", "answer_start": 242, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "古代エジプトの医療知識の評判は高く、他の王国の支配者はファラオに、最高の医者の派遣と寵愛する者の処置を要請することもあった。エジプト人は人体の解剖は全く行わなかったにもかかわらず、解剖学についての知識を持っていた。例えば古代のミイラ製作のプロセスの中で、ミイラ技師は鼻孔から長い鉤状の器具を挿入し、頭蓋の薄い骨を破って脳を摘出する方法を知っていた。また体腔におさまった臓器の位置に関する大まかな知見もあったようで、左鼠蹊部の小さな切り込みから内臓を摘出している。しかしこれらの知識が、治療に当たる医者に渡っていたのかどうかは不明で、また医者たちの医学理論にはあまり大きな影響はなかったようである。\n\nエジプトの医者は脈拍の存在、および脈拍と心臓の関係に気づいていた。エドウィン・スミス・パピルスの著者は、心臓の機能についてさえ大まかに知っていた。ただし循環系については把握しておらず、また血管・腱・神経の区別はできなかった(もしくは重要と考えていなかった)。医者達は空気・水・血を運ぶ「水路」について、ナイル川にたとえた理論を作り上げた。すなわち川がつまると作物は活力を失う、という原理を人体に適用したのである。具合の悪い人間に対して、エジプトの医者は「水路」のつまりを解消するため瀉下薬を用いた。", "qas": [ { "question": "古代エジプトでは、ミイラ製作のプロセスの中で、ミイラ技師は鼻孔から長い鉤状の器具を挿入し、頭蓋の薄い骨を破って何を摘出する方法を使いましたか。", "id": "tr-020-02-000", "answers": [ { "text": "脳", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "古代エジプトの医者は脈拍と何の関係に気づいていたか。", "id": "tr-020-02-001", "answers": [ { "text": "心臓", "answer_start": 320, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "古代エジプトの医者たちは空気・水・血を運ぶ「水路」のことを何にたとえましたか。", "id": "tr-020-02-002", "answers": [ { "text": "ナイル川", "answer_start": 451, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "医者を示す古代エジプト語は「swnw」である。この称号には長い歴史がある。記録上最古の医者である古代エジプトのヘシレは、紀元前27世紀の支配者ジョセル王の「歯科医および内科医主任」であった。ペセシェトは、記録上おそらく最古の女医である。アケトテップの母親とみられており、アケトテップの墳墓にあるペセシェトに捧げられた石碑にはペセシェトを指して「imy-rswnwt」と綴られている。これは「女医たちの女性監督官」と解釈されている(「swnwt」は「swnw」の女性形)。\n\n医学の分野の地位や専門分野には様々なものがあった。特権階級は専属の「swnw」や、専属の専門医さえも雇った。医者たちの監督官・職長・主任なども存在した。現在知られている古代エジプトの専門医には、眼科医・消化器科医・肛門医・歯科医・「精肉店指導医」・「液体科医(詳細は不明)」がある。古代エジプト語で肛門科医を指す「neruphuyt」は、直訳すると「肛門の庇護者」になる。\n\n「生命の家」(ペル・アンク)と呼ばれる施設がエジプト第1王朝の時代から作られていたことが知られている。PeftauawyneitやWedjahorresnetといった紀元前1千年紀中頃に生きていた医者の名が合わせて刻まれていることもあり、医療機能があったとされる。エジプト第19王朝の時代には、被雇用者は医療保険・年金・病気休暇などの福祉を受けていた。", "qas": [ { "question": "古代エジプト語の「swnw」は何を意味しますか。", "id": "tr-020-03-000", "answers": [ { "text": "医者", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "記録上、最古の女医は誰だと推測されますか。", "id": "tr-020-03-001", "answers": [ { "text": "ペセシェト", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "記録上最古の医者は誰ですか。", "id": "tr-020-03-002", "answers": [ { "text": "ヘシレ", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ミネアポリス", "paragraphs": [ { "context": "ミネアポリスは、アメリカ合衆国ミネソタ州東部に位置する都市だ。ヘネピン郡の郡庁所在地であり、州最大にしてアメリカ中西部を代表する世界都市である。\n\n人口は2010年の国勢調査では382,578人、2015年の推計では410,939人だ。市はミネソタ川がミシシッピ川に合流する地点の北側に位置している。このミネアポリスと東に隣接する州都セントポールとをあわせてTwinCities(双子の都市)とも呼ばれる。この「双子の都市」を中心にし、ブルーミントンなどを含むミネアポリス・セントポール都市圏は約330万人、さらにセントクラウドなどを含んだ広域都市圏は約370万人の人口を抱える。\n\nミネアポリスの市名はダコタ族の言葉で「水」を意味するmniとギリシア語で「都市」を意味するpolisとを組み合わせてつけられた。その名が示す通り市には水が豊富で、市域内に20の湖を持ち、ミシシッピ川や多数の小川が流れ、滝が形成されている。これらの水辺の多くは遊歩道で結ばれている。かつては世界の小麦製粉の中心地であり、また製材の中心地であった。そうした背景から、市はCityofLakes(湖の街)、MillCity(製粉の街)という別名を持っている。", "qas": [ { "question": "ミネアポリスはアメリカのどの州にありますか。", "id": "tr-021-00-000", "answers": [ { "text": "ミネソタ州", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2010年の国勢調査によると、ミネアポリスの人口は何人ですか。", "id": "tr-021-00-001", "answers": [ { "text": "382,578人", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "CityofLakes(湖の街)、MillCity(製粉の街)は全部どの都市を指すのですか。", "id": "tr-021-00-002", "answers": [ { "text": "ミネアポリス", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミネアポリスの市名はmniと何を組み合わせてつけられたの?", "id": "tr-021-00-003", "answers": [ { "text": "polis", "answer_start": 337, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1680年頃にヘネピン神父らを連れたフランス人の入植者がやってくるまで、ミネアポリスにはネイティブ・アメリカンのスー族の一派、ダコタ族のみが住み着いていた。1819年、現在ミネアポリス・セントポール国際空港がある場所の近くにスネリング砦が建てられるとこの地域の発展が始まった。ダコタ族からの土地の購入が進み、この地に到着する入植者たちが住み着きやすくなっていった。1856年、ミネソタ準州の法律によりミシシッピ川西岸に形成されていたミネアポリスは正式な町になった。1867年には、ミネアポリスは市に昇格した。この年、ミネアポリスとシカゴを結ぶ鉄道が開通した。その5年後の1872年には、ミシシッピ川東岸の町セント・アンソニーがミネアポリスと合併した。\n\nミネアポリスはミシシッピ川唯一の滝であるセント・アンソニー滝の周囲に発展した。もともと水力は紀元前1世紀から粉挽きに使われていたが、とりわけ1880年から1930年にかけてのミネアポリスは、市がthegreatestdirect-drivewaterpowercentertheworldhaseverseen.(世界史上最大の直接水力の中心地)と呼ばれ得るほどの特筆すべきものであった。また初期においては、ミネソタ州北部の森林地帯から材木を得て、滝の水力を利用した製材所で加工したことにより、製材業が発展した。1871年頃、ミシシッピ川の西岸には製粉、綿織物、毛織物、製鉄、鉄道機械、製紙、肩帯、木材加工といったさまざまな産業が興り、23の企業が立地した。グレートプレーンズの農家が生産した穀物は鉄道でミネアポリスに運ばれ、市内34ヶ所の製粉所で加工された。1905年頃、ミネアポリスにおける小麦粉の生産量は全米の10%に達していた。全盛期においては、市内の製粉所の1つ、ウォッシュバーン製粉所は1日に食パン1200万斤分の小麦粉を生産することができた。", "qas": [ { "question": "1680年頃にヘネピン神父らを連れたフランス人の入植者がやってくるまで、ミネアポリスにはどの民族が住んでいましたか。", "id": "tr-021-01-000", "answers": [ { "text": "ダコタ族", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ミネアポリスが市に昇格したのは何年のことですか。", "id": "tr-021-01-001", "answers": [ { "text": "1867年", "answer_start": 232, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミネアポリスとシカゴを結ぶ鉄道は何年に開通したか。", "id": "tr-021-01-002", "answers": [ { "text": "1867年", "answer_start": 232, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ミネアポリスにおける差別撤廃は1886年に始まっていた。この年、マーサ・リプリーは結婚している母親と未婚の母親の両方を収容する産科病院を設立した。世界恐慌で国の運命が一転した後、1934年には、その年に起こったトラック運転手のゼネスト(ミネアポリス・チームスター・ストライキ)を受けて、労働者の権利を認める法律が成立した。生涯にわたり公民権運動を支えてきた当時の市長で、後に副大統領となったヒューバート・H・ハンフリーは、1946年に市の雇用機会均等条例の制定、およびマイノリティの側に立って仲裁にあたる人間関係委員会の設立に助力した。ミネアポリスは早くから白人優位主義を排し、差別撤廃運動や公民権運動に参加し、1968年にアメリカン・インディアン・ムーブメント(AIM)を生んだ地ともなった。\n\n1950年代から1960年代にかけては、都市再開発の一環としてダウンタウンの約4割、25ブロックにわたる200棟の建物を取り壊した。ゲートウェイ地区も取り壊された。そのときに取り壊された建物の中には、メトロポリタン・ビルディングなどの有名なものも多数あった。建物を守る策は失敗に終わったが、これを機に歴史的建造物保護への機運が高まった。", "qas": [ { "question": "ミネアポリスにおける差別撤廃は何年に始まりましたか。", "id": "tr-021-02-000", "answers": [ { "text": "1886年", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マーサ・リプリーは何年に産科病院を設立したか。", "id": "tr-021-02-001", "answers": [ { "text": "1886年", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミネアポリスで、労働者の権利を認める法律が成立したのは何年ですか。", "id": "tr-021-02-002", "answers": [ { "text": "1934年", "answer_start": 89, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ミネアポリスの歴史や経済成長とは切っても切り離せない、湖沼や小川、滝など水の多い地形は最終氷期に形成された。1万年ほど前にミネソタを覆っていた氷河が後退した際、地表は侵食されてミシシッピ河床やミネハハ河床ができ、近代のミネアポリスにとって重要な滝が形成された。ミネアポリスとその周辺はほぼ平坦な地形で、その地下にはアーテシアン帯水層が広がっている。\n\nミネアポリスは北緯44度58分48秒西経93度15分51秒に位置している。アメリカ合衆国統計局によると、ミネアポリス市は総面積151.3km2である。そのうち142.2km2が陸地で9.1km2が水域である。総面積の6.01%が水域となっている。水域のうちミシシッピ川と3本の小川の水はミネアポリスの水道水源となっている。また、市内には12の湖、3つの大きな沼、および5ヶ所の湿地がある。市の標高は264mである。", "qas": [ { "question": "アメリカ合衆国統計局によると、ミネアポリス市の総面積は何km2ですか。", "id": "tr-021-03-000", "answers": [ { "text": "151.3km2", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミネアポリス市の総面積のうち、陸地は何km2なの?", "id": "tr-021-03-001", "answers": [ { "text": "142.2km2", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミネアポリスの市内には幾つの大きな沼がありますか。", "id": "tr-021-03-002", "answers": [ { "text": "3つ", "answer_start": 349, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ミネアポリスの気候は中西部でも北のほうにあたる、アッパー・ミッドウェストと呼ばれる地域における典型的な気候である。乾燥して寒い冬と温暖で時折蒸し暑くなる夏に特徴付けられ、また気温の年較差が大きいという内陸性の気候である。冬は最高気温でも摂氏0度に満たない日が続き、夜は氷点下20度以下まで下がることも少なくない。北米の都市圏では、モントリオール、オタワ、エドモントン、カルガリー、ウィニペグなどと共に非常に寒冷な気候の都市である。夏は州北東部のダルースなどとは異なり気温がかなり上がり、日中には摂氏28度に達する。ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候に属する。降水は雪、みぞれ、氷、雨、雷雨、霧などさまざまな形を取るが、年間降水量は780mm程度で、月間降水量で見ると夏季は冬季の約5倍である。11月から3月にかけては月間20cm程度の降雪がある。ミネアポリスで観測された史上最高気温は摂氏42.2度(1936年7月)、史上最低気温は氷点下40.6度(1888年1月)である。最も降雪量が多かったのは1983年から1984年にかけての冬で、降雪量250cmを記録した。ミネアポリス・セントポール都市圏の平均気温は摂氏7度ほどで、アメリカ合衆国本土の主要都市圏の中では最も低い。下表はミネアポリスにおける平均気温と降水量を月別にまとめたものである。", "qas": [ { "question": "ミネアポリスはケッペンの気候区分で、どんな気候に属しますか。", "id": "tr-021-04-000", "answers": [ { "text": "亜寒帯湿潤気候", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミネアポリスの夏は、日中には何度に達しますか。", "id": "tr-021-04-001", "answers": [ { "text": "摂氏28度", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミネアポリスの年間降水量は何mm程度なの?", "id": "tr-021-04-002", "answers": [ { "text": "780mm程度", "answer_start": 316, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "11月から3月にかけて、ミネアポリスには月間何cm程度の降雪がありますか。", "id": "tr-021-04-003", "answers": [ { "text": "20cm程度", "answer_start": 361, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ミネアポリスには5つの病院があり、そのうちアボット・ノースウェスタン病院、ヘネピン郡メディカルセンター(HCMC)、ミネソタ大学メディカルセンターの3つはUSニューズ&ワールド・レポート誌の「アメリカで最も優れた病院」ランキングにその名が載っている。その3病院はすべて19世紀から20世紀初頭までの間に設立された。市内にはこのほか、ブリトン物理療法・リハビリテーションセンターとミネソタ小児病院がある。ミネアポリス・セントポールの南東約125km、車で約2時間のロチェスターには、メイヨー・クリニックの本部がある。\n\n心臓手術はミネソタ大学のバラエティ・クラブ病院で発達した。1957年頃までの間、同病院は200人以上の患者に対し開胸手術を行い、成功させた。患者の多くは子供であった。またこの頃、外科医C・ウォルトン・リレハイとの協働のもと、メドトロニック社は携帯可能、移植可能な心臓ペースメーカーの開発に取り組んでいた。", "qas": [ { "question": "ミネアポリスには幾つの病院がありますか。", "id": "tr-021-05-000", "answers": [ { "text": "5つ", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "心臓手術はどの病院で発達したか。", "id": "tr-021-05-001", "answers": [ { "text": "バラエティ・クラブ病院", "answer_start": 271, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "HCMCは1887年に市立病院として設立された。同病院は「総合病院」という呼び名でも知られている。レベルIトラウマセンターを有するこの公立の病院は、年間の患者数350,000人、救急患者数95,000人を数える。2006年には、ミネソタ州内で行われた無償治療の18%はHCMCで行われた。\n\nミネアポリスにおける公共サービス業者は種別ごとに1社に定められている。電気はエクセル・エナジー社、ガスはセンターポイント・エナジー社、電話はクエスト社、ケーブルサービスはコムキャスト社が提供している。2007年、市は西郊のミネトンカのUSインターネットと提携し、10年契約で市全体にワイアレスネットワークを張り巡らせた。使用料は一般家庭用月20ドル、業務用月30ドルである。水道は市の管轄である。また、市はゴミの除去、リサイクル、粗大ゴミの処分に対し、月間の廃棄物処理料を徴収している。リサイクルをする住民には逆に還付される。危険物はヘネピン郡の処理場で処分される。\n\nSnowEmergency(大雪緊急事態)が発令されるほどの大雪が降ったときには、ミネアポリス公共事業局が派遣する除雪車が市内の通りの除雪作業を行う。除雪車が作業を行う通りの総延長は約1,600km、路地の総延長は約640kmにおよぶ。両車線を合算すると、その距離はミネアポリス・シアトル間往復にほぼ相当する。円滑な除雪作業のため、作業中のみならず緊急事態発令中にも、市の条例により除雪作業の行われる通りでの駐車が規制される。", "qas": [ { "question": "HCMCは何年に設立されたか。", "id": "tr-021-06-000", "answers": [ { "text": "1887年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「総合病院」という呼び名でも知られている病院は何ですか。", "id": "tr-021-06-001", "answers": [ { "text": "HCMC", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1883年創立、1915年にミネアポリスの中南部に建てられたミネアポリス美術館は、100,000点以上の常設コレクションを有するミネアポリス市最大の美術館である。マイケル・グレイヴスの設計による新館は2006年に完成した。新館はより広いギャラリーを有し、近現代の作品を展示している。ダウンタウンの近くに建つウォーカー・アート・センターは、2005年にヘルツォーク&ド・ムーロンの設計によって増築した。なおも増築は進んでおり、最終的には通りの反対側にある、ミシェル・デヴィーニュ設計のミネアポリス彫刻園を含め60,000m2まで広がる。同センターは主に現代芸術作品を展示している。ミネソタ大学のワイズマン美術館は1934年に同学の芸術学部が教育目的で設立した。現在の本館はフランク・ゲーリーによる設計で、1993年に開館した。2009年には、本館同様ゲーリーの設計による新館が開館する。", "qas": [ { "question": "ミネアポリス美術館は何年に創立されたか。", "id": "tr-021-07-000", "answers": [ { "text": "1883年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミネアポリス市最大の美術館は何ですか。", "id": "tr-021-07-001", "answers": [ { "text": "ミネアポリス美術館", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ワイズマン美術館の本館は何年に開館したか。", "id": "tr-021-07-002", "answers": [ { "text": "1993年", "answer_start": 351, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウォーカー・アート・センターは、2005年に誰の設計によって増築したか。", "id": "tr-021-07-003", "answers": [ { "text": "ヘルツォーク&ド・ムーロン", "answer_start": 175, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ミネアポリスとその周辺は人口あたりの劇場の数がニューヨークに次いで多く、全米第3位の演劇市場である。ミネアポリスにある劇場のうち著名なものとしては、シアター・デ・ラ・ジューヌ・ルネ、イリュージョン、ジャングル、ミックスト・ブラッド、ペナンブラ、ブレイブ・ニュー・ワークショップ、ミネソタ・ダンス・シアター、シアター・ラテ・ダ、イン・ザ・ハート・オブ・ザ・ビースト・シアター、チルドレンズ・シアター・カンパニーなどが挙げられる。フランス人建築家ジャン・ヌーベルは、ガスリー・シアターに3つの舞台を有する新館をデザインした。このガスリー・シアターは、もともとは1965年にニューヨークのブロードウェイの劇場をまねて作られた老舗である。ヘネピン通りの歴史ある劇場の保存を目的としたヘネピン劇場トラストにより、市はオーフェウム、ステート、パンテージズの3劇場を購入・改装した。それらの劇場はコンサートや演劇の公演などに使われている。2007年、同トラストによって改装された4番目の劇場、ヘネピン芸術センターが3館からなるミネソタ・シューバート演技芸術・教育センターの一部に加わった。同芸術センターは、もともとは1888年に建てられたフリーメイソンのロッジであったが、1979年に芸術センターとなった。同芸術センターは20の芸術団体の本拠地になっており、またWebベースの芸術教育を提供している。", "qas": [ { "question": "人口あたりの劇場の数は、ミネアポリスとニューヨークと、どっちの方が多い?", "id": "tr-021-08-000", "answers": [ { "text": "ニューヨーク", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イリュージョン、ジャングルはどの都市に位置していますか。", "id": "tr-021-08-001", "answers": [ { "text": "ミネアポリス", "answer_start": 50, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1903年に設立されたミネソタ管弦楽団は、ダウンタウンのニコレット・モールにあるオーケストラ・ホールを本拠にしている。1995年から2002年までは、大植英次が同楽団の音楽監督を務めていた。2003年、同楽団はラハティ交響楽団を世界的なシベリウス・オーケストラに育て上げたオスモ・ヴァンスカを音楽監督に迎えた。1963年に設立されたミネソタ・オペラは全米16位の規模を持つオペラ楽団で、クラシックから近現代作品まで様々なオペラの公演を行っている。マクフェイル音楽学校は、2007年に創立100周年を記念し、リバーフロント地区の近くに新たな校舎を建てた。\n\nトム・ウェイツは、ミネアポリスを舞台とした楽曲を2曲世に送り出した。1曲は「ブルー・ヴァレンタイン」収録のChristmasCardfromaHookerinMinneapolis、そしてもう1曲は「レイン・ドッグ」収録の9th&Hennepinである。またミネアポリスにはミネソタ・スポークン・ワード協会が本部を置いていることから、ラップ、ヒップホップ、スポークン・ワードのコミュニティから注目を集めている。ミネアポリスを拠点にしているアンダーグラウンド・ヒップホップ・グループのアトモスフィアは、その楽曲の歌詞の中でミネアポリス市やミネソタ州に頻繁に触れている。", "qas": [ { "question": "ミネソタ管弦楽団はいつ設立されたか。", "id": "tr-021-09-000", "answers": [ { "text": "1903年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マクフェイル音楽学校は、2007年に何を記念してリバーフロント地区の近くに新たな校舎を建てたの。", "id": "tr-021-09-001", "answers": [ { "text": "創立100周年", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "三島由紀夫", "paragraphs": [ { "context": "三島由紀夫(みしまゆきお、本名:平岡公威(ひらおかきみたけ)、1925年(大正14年)1月14日-1970年(昭和45年)11月25日)は、日本の小説家・劇作家・随筆家・評論家・政治活動家・皇国主義者である。\n血液型はA型。\n戦後の日本文学界を代表する作家の一人であると同時に、ノーベル文学賞候補になるなど、日本語の枠を超え、海外においても広く認められた作家である。\n『Esquire』誌の「世界の百人」に選ばれた初の日本人で、国際放送されたテレビ番組に初めて出演した日本人でもある。\n満年齢と昭和の年数が一致し、その人生の節目や活躍が昭和時代の日本の興廃や盛衰の歴史的出来事と相まっているため、「昭和」と生涯を共にし、その時代の持つ問題点を鋭く照らした人物として語られることが多い。\n代表作は小説に『仮面の告白』『潮騒』『金閣寺』『鏡子の家』『憂国』『豊饒の海』など、戯曲に『近代能楽集』『鹿鳴館』『サド侯爵夫人』などがある。\n修辞に富んだ絢爛豪華で詩的な文体、古典劇を基調にした人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。\n晩年は政治的な傾向を強め、自衛隊に体験入隊し、民兵組織「楯の会」を結成。\n1970年(昭和45年)11月25日、楯の会隊員4名と共に自衛隊市ヶ谷駐屯地(現・防衛省本省)を訪れ東部方面総監を監禁した。\nバルコニーでクーデターを促す演説をしたのち、割腹自殺を遂げた。\nこの一件は社会に大きな衝撃を与え、新右翼が生まれるなど、国内の政治運動や文学界に大きな影響を与えた。", "qas": [ { "question": "『潮騒』『金閣寺』などの小説が代表作にあり、政治活動家、皇国主義の一面をもつ日本文学界を代表する作家は誰でしょうか?", "id": "tr-022-00-000", "answers": [ { "text": "三島由紀夫", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "三島由紀夫を日本人として初めて「世界の百人」に選んで掲載した雑誌の名前は?", "id": "tr-022-00-001", "answers": [ { "text": "『Esquire』", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "三島が晩年に社会に大きな衝撃と、国内の政治運動、文学界に大きな影響を与えたという出来事を起こしたのは何年のこと?", "id": "tr-022-00-002", "answers": [ { "text": "1970年", "answer_start": 501, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1941年(昭和16年)1月21日に父・梓が農林省水産局長に就任し、約3年間単身赴任していた大阪から帰京。\n相変わらず文学に夢中の息子を叱りつけ、原稿用紙を片っ端からビリビリ破いた。\n公威は黙って下を向き、目に涙をためていた。\n同年4月、中等科5年に進級した公威は、7月に「花ざかりの森」を書き上げ、国語教師の清水文雄に原稿を郵送し批評を請うた。\n清水は、「私の内にそれまで眠っていたものが、はげしく呼びさまされ」るような感銘を受け、自身が所属する日本浪曼派系国文学雑誌『文藝文化』の同人たち(蓮田善明、池田勉、栗山理一)にも読ませるため、静岡県の伊豆修善寺温泉の新井旅館での一泊旅行を兼ねた編集会議に、その原稿を持参した。\n「花ざかりの森」を読んだ彼らは、「天才」が現われたことを祝福し合い、同誌掲載を即決した。\nその際、同誌の読者圏が全国に広がっていたため、息子の文学活動を反対する平岡梓の反応など、まだ16歳の公威の将来を案じ、本名「平岡公威」でなく、筆名を使わせることとなった。\n清水は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい――というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、合宿会議を回想している。\n筆名を考えている時、清水たちの脳裏に「三島」を通ってきたことと、富士の白雪を見て「ゆきお」が思い浮かんできた。\n帰京後、清水が筆名使用を提案すると、公威は当初本名を主張したが受け入れ、「伊藤左千夫(いとうさちお)」のような万葉風の名を希望した。\n結局「由紀雄」とし、「雄」の字が重すぎるという清水の助言で、「三島由紀夫」となった。\n「由紀」は、大嘗祭の神事に用いる新穀を奉るため選ばれた2つの国郡のうちの第1のものを指す「由紀」(斎忌、悠紀、由基)の字にちなんで付けられた。", "qas": [ { "question": "誰による筆名使用の提案で、最終的に「三島由紀夫」となった?", "id": "tr-022-01-000", "answers": [ { "text": "清水", "answer_start": 583, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "周囲に公威の天才ぶりを知らしめた、公威が16歳で書いた作品は何かな?", "id": "tr-022-01-001", "answers": [ { "text": "「花ざかりの森」", "answer_start": 313, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "リルケと保田與重郎の影響を受けた「花ざかりの森」は、『文藝文化』昭和16年9月号から12月号に連載された。\n第1回目の編集後記で蓮田善明は、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した。\nこの賞讃の言葉は、公威の意識に大きな影響を与えた。\nこの9月、公威は随想「惟神之道(かんながらのみち)」をノートに記し、〈地上と高天原との懸橋〉となる惟神之道の根本理念の〈まことごゝろ〉を〈人間本然のものでありながら日本人に於て最も顕著〉であり、〈豊葦原之邦の創造の精神である〉と、神道への深い傾倒を寄せた。", "qas": [ { "question": "公威の「花ざかりの森」に与えた人物2人の内、日本人は誰になりますか?", "id": "tr-022-02-000", "answers": [ { "text": "保田與重郎", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「花ざかりの森」を激賞し、公威の意識に大きな影響を与えた人物の名は何といいますか?", "id": "tr-022-02-001", "answers": [ { "text": "蓮田善明", "answer_start": 64, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "日本軍とイギリス軍やアメリカ軍との戦争が激化していく中、公威は〈アメリカのやうな劣弱下等な文化の国、あんなものにまけてたまるかと思ひます〉、〈米と英のあの愚人ども、俗人ども、と我々は永遠に戦ふべきでせう。俗な精神が世界を蔽うた時、それは世界の滅亡です〉と神聖な日本古代精神の勝利を願った。\nなお、公威は同盟国イタリアの首脳のベニート・ムッソリーニに好感を抱いていながらも、ドイツのアドルフ・ヒトラーには嫌悪感を持っていた。\n同年10月8日、そんな便りをやり取りしていた東文彦が23歳の若さで急逝し、公威は弔辞を奉げた。\n東の死により、同人誌『赤繪』は2号で廃刊となった。\n文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという。\nなお、この年に公威は杉並区成宗の堀辰雄宅を訪ね、堀から〈シンプルになれ〉という助言を受けていた。", "qas": [ { "question": "同じ同盟国でありながらも、公威が嫌悪感を抱いていたアドルフ・ヒトラーはどこの国の人物か?", "id": "tr-022-03-000", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 186, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "同じ同盟国の内、公威が好感を抱いていたムッソリーニはどこの国の首相だったか?", "id": "tr-022-03-001", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 154, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇が「人間宣言」の詔書を発し、アメリカ大使館を訪れて背広服姿でダグラス・マッカーサーと並ぶ写真が新聞に報道された。\n公威はこれについて、親友の三谷信に「なぜ衣冠束帯の御写真にしないのか」と憤懣(ふんまん)を漏らしたという。\nまた、三谷と焼跡だらけのハチ公前を歩いている時には、天皇制を攻撃し始めたジャーナリズムへの怒りを露わにし、「ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い」と強く断言したという。\n三谷は、そういう時の公威の言葉には「理屈抜きの烈しさがあった」と述懐している。\nなお、この時期ちょうど、斎藤吉郎という元一高の文芸部委員で公威が17歳の時から親交のあった人物が、同時代の詩人たちの詩集を叢書の形で出版する計画に関与し、公威の詩も叢書の一巻にしたいという話を持ちかけていた。\n公威はそれに喜んで応じ、その詩集名を『豊饒の海』とする案を以下のように返信したが、この詩集は用紙の入手難などの事情で実現しなかった。", "qas": [ { "question": "公威が「なぜ衣冠束帯の御写真にしないのか」と憤懣(ふんまん)を漏らしたのは、アメリカ大使館を訪れた誰に対してですか?", "id": "tr-022-04-000", "answers": [ { "text": "昭和天皇", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "終戦後に公威に詩集の出版を持ち掛けた人の名前は何?", "id": "tr-022-04-001", "answers": [ { "text": "斎藤吉郎", "answer_start": 278, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "戦時中に三島が属していた日本浪曼派の保田與重郎や佐藤春夫、その周辺の中河与一や林房雄らは、戦後に左翼文学者や日和見作家などから戦争協力の「戦犯文学者」として糾弾された。\n日本浪曼派の中で〈天才気取りであった少年〉の三島は、〈二十歳で、早くも時代おくれになつてしまつた自分〉を発見して途方に暮れ、戦後は〈誰からも一人前に扱つてもらへない非力な一学生〉にすぎなくなってしまったことを自覚し、焦燥感を覚える。\n戦争の混乱で『文藝世紀』の発刊は戦後も中絶したまま、「中世」は途中までしか発表されていなかった。\n三島は終戦前、川端康成から「中世」や『文藝文化』で発表された作品を読んでいるという手紙を受け取っていたが、川端がその作品の賞讃を誰かに洩らしていたという噂も耳にしていた。\nそれを頼みの綱にし、〈何か私を勇気づける事情〉も持っていた三島は、「中世」と新作短編「煙草」の原稿を携え、帝大の冬休み中の1946年(昭和21年)1月27日、鎌倉二階堂に住む川端のもとを初めて訪れた。\n慎重深く礼儀を重んじる三島は、その際に野田宇太郎の紹介状も持参した。\n三島は川端について、〈戦争がをはつたとき、氏は次のやうな意味の言葉を言はれた。「私はこれからもう、日本の哀しみ、日本の美しさしか歌ふまい」――これは一管の笛のなげきのやうに聴かれて、私の胸を搏つた〉と語り、川端の『抒情歌』などに顕著な、単に抒情的・感覚的なだけではない〈霊と肉との一致〉、〈真昼の神秘の世界〉にも深い共感性を抱いていた。\nそういった心霊的なものへの感性は、三島の「花ざかりの森」や「中世」にも見られ、川端の作品世界と相通ずるものであった。", "qas": [ { "question": "戦後に「戦犯文学者」として糾弾された作家たちの内、三島も属していた派は何と呼ばれていたか?", "id": "tr-022-05-000", "answers": [ { "text": "日本浪曼派", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "戦争の混乱で三島の作品「中世」も途中までしか発表されていなかったが、その「中世」を読んだという手紙を三島は誰から受け取っていたか?", "id": "tr-022-05-001", "answers": [ { "text": "川端康成", "answer_start": 258, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "終戦後、三島が川端康成に会いに行った場所はどこ?", "id": "tr-022-05-002", "answers": [ { "text": "鎌倉二階堂", "answer_start": 416, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "三島の「花ざかりの森」や「中世」にも見られる心霊的なものへの感性が顕著に表れている川端の作品タイトルは何?", "id": "tr-022-05-003", "answers": [ { "text": "『抒情歌』", "answer_start": 579, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "一方、「煙草」を読んだ川端は2月15日、自身が幹部を務める鎌倉文庫発行の雑誌『人間』の編集長・木村徳三に原稿を見せ、掲載決定がなされた。\n「煙草」は6月号に発表され、これが三島の戦後文壇への足がかりとなり、それ以後の川端と生涯にわたる師弟関係のような強い繋がりの基礎が形づくられた。\nしかしながら、その関係は小説作法(構成など)の指導や批判を仰いで師事するような門下生的なものではなかったため、三島は川端を「先生」とは呼ばず、「自分を世の中に出して下さった唯一の大恩人」「一生忘れられない方」という彼への強い思いから、一人の尊敬する近しい人として、あえて「川端さん」と呼び、献本する際も必ず「様」と書いた。\n川端は、三島が取りかかっていた初めての長編(盗賊)の各章や「中世」も親身になって推敲指導し、大学生でもある彼を助けた。\n臼井や中村が、ほとんど無名の学生作家・三島の作品を拒絶した中、新しい才能の発掘に長け、異質な新人に寛容だった川端が三島を後援したことにより、「新人発見の名人」という川端の称号は、その後さらに強められることになる。\n職業柄、多くの新人作家と接してきた木村徳三も、会った最初の数分で、「圧倒されるほどの資質を感知」したのは、加藤周一と三島の2人しかいないとし、三島は助言すればするほど、驚嘆する「才能の輝きを誇示」して伸びていったという。", "qas": [ { "question": "新人作家と多く接してきた木村徳三が、出会った数分で圧倒的資質を感じた人物を二人挙げているが、その中で、才能の輝きを誇示して成長していった人物の名は何というか?", "id": "tr-022-06-000", "answers": [ { "text": "三島", "answer_start": 529, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "無名の学生作家・三島を後援したことにより川端康成に何という称号がついたかな?", "id": "tr-022-06-001", "answers": [ { "text": "「新人発見の名人」", "answer_start": 434, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "三島と川端の師弟関係のように強い繋がりが出来るきっかけとなったのは、三島の何という作品があったからですか?", "id": "tr-022-06-002", "answers": [ { "text": "「煙草」", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1947年(昭和22年)4月、『古事記』と『日本書紀』の「衣通姫伝説」を題材にした「軽王子と衣通姫」が『群像』に発表された。\n三島は、前年1946年(昭和21年)9月16日に偶然に再会した人妻の永井邦子(旧姓・三谷)から、その2か月後の11月6日に来電をもらって以来何度か彼女と会うようになり、友人らともダンスホールに通っていたが、心の中には〈生活の荒涼たる空白感〉や〈時代の痛み〉を抱えていた。\n同年6月27日、三島は新橋の焼けたビルにあった新聞社・新夕刊で林房雄を初めて見かけた。\n同年7月、就職活動をしていた三島は住友(銀行か)と日本勧業銀行の入行試験を受験するが、住友は不採用となり、勧銀の方は論文や英語などの筆記試験には合格したものの、面接で不採用となった。\nやはり、役人になることを考えた三島は、同月から高等文官試験を受け始めた。", "qas": [ { "question": "「衣通姫伝説」が書かれている書物は2つあります。1つは『古事記』、もう1つの書物は何?", "id": "tr-022-07-000", "answers": [ { "text": "『日本書紀』", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「衣通姫伝説」を題材にした三島の作品が発表されたのは昭和のいつ?", "id": "tr-022-07-001", "answers": [ { "text": "昭和22年", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "三島は住友や日本勧業銀行の入行試験を受験するなどして就職活動をしていたが、役人になることを考え何を受け始めましたか?", "id": "tr-022-07-002", "answers": [ { "text": "高等文官試験", "answer_start": 358, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1947年(昭和22年)11月28日、三島は東京大学法学部法律学科を卒業した(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。\n卒業前から受けていた様々な種類の試験をクリアし、12月13日に高等文官試験に合格した三島は(成績は合格者167人中138位、12月24日から大蔵省に初登庁し、大蔵事務官に任官されて銀行局国民貯蓄課に勤務することになった。", "qas": [ { "question": "東京大学法学部法律学科を卒業した三島は、高等文官試験に合格しどこに勤務することになった?", "id": "tr-022-08-000", "answers": [ { "text": "銀行局国民貯蓄課", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "役人になったものの相変わらず文筆業を続ける息子の将来に不安を抱いた父・平岡梓は、鎌倉文庫の木村徳三を訪ね、「あなた方は、公威が若くて、ちょっと文章がうまいものだから、雛妓、半玉を可愛がるような調子でごらんになっているのじゃありませんか。あれで椎名麟三さんのようになれるものですかね」と、息子が朝日新聞に小説を連載するような一人前の作家になれるのかを聞きに来た。\n木村は、「花形作家」になれるかは運、不運によるが「一本立ちの作家」になれる力量はあると答えたが、梓は終始浮かない様子だったという。\n\n同年6月、雑誌『近代文学』の第2次同人拡大の呼びかけに応じ、三島も同人となった。\nその際、三島は天皇制を認めるなら加入してもよいという条件で参加した。\nこの第2次参加の顔ぶれには、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、安部公房らがいた。\n6月19日には、玉川上水で13日に入水自殺した太宰治の遺体が発見された。\n太宰の遺作『人間失格』は大きな反響を呼んだ。", "qas": [ { "question": "三島が天皇制を認めるなら加入するという条件で参加したのは、何という雑誌の同人拡大の呼びかけでしたか?", "id": "tr-022-09-000", "answers": [ { "text": "『近代文学』", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "三島が『近代文学』の同人参加をした同じ6月に、誰が入水自殺をしたの?", "id": "tr-022-09-001", "answers": [ { "text": "太宰治", "answer_start": 386, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "同年7月か8月、三島は役所勤めと執筆活動の二重生活による過労と睡眠不足で、雨の朝の出勤途中、長靴が滑って渋谷駅ホームから線路に転落した。\n電車が来ないうちに這い上がれたが、危なかった。\nこの事故をきっかけに息子が職業作家になることを許した梓は、「役所をやめてよい。さあ作家一本槍で行け、その代り日本一の作家になるのが絶対条件だぞ」と言い渡した。\n同年8月下旬、河出書房の編集者・坂本一亀(坂本龍一の父)と志邨孝夫が、書き下ろし長編小説の執筆依頼のために大蔵省に勤務中の三島を訪ねた。\n三島は快諾し、「この長篇に作家的生命を賭ける」と宣言した。\nそして同年9月2日、三島は創作に専念するため大蔵省に辞表を提出し、9月22日に「依願免本官」という辞令を受けて退職した。\n同年10月6日、芦田内閣総辞職の号外の鈴が鳴り響く晩、神田の喫茶兼酒場「ランボオ」の2階で、埴谷雄高、武田泰淳、野間宏、中村真一郎、梅崎春生、椎名麟三の出席する座談会(12月の同人誌『序曲』創刊号)に三島も加わった。\nその座談会の時、三島と初対面だった埴谷は、真正面に座った三島の「魅力的」な第一印象を、「数語交わしている裡に、その思考の廻転速度が速いと解るような極めて生彩ある話ぶり」だったと述懐している。", "qas": [ { "question": "神田の喫茶兼酒場「ランボオ」の2階で行われた座談会に参加した人の中で、三島と初対面でだった人は誰でしょう?", "id": "tr-022-10-000", "answers": [ { "text": "埴谷雄高", "answer_start": 379, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "役所勤めと執筆活動の二重生活による過労と睡眠不足で、三島が線路に転落してしまった駅はどこ?", "id": "tr-022-10-001", "answers": [ { "text": "渋谷駅", "answer_start": 52, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "長編小説の執筆依頼のために勤務中の三島を訪ねた二人の編集者の内、坂本龍一を息子に持つ人物は誰?", "id": "tr-022-10-002", "answers": [ { "text": "坂本一亀", "answer_start": 189, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "河出書房から依頼された長編のタイトルを〈仮面の告白〉と定めた三島は、〈生まれてはじめての私小説〉(ただし、文壇的私小説でない)に挑み、〈今まで仮想の人物に対して鋭いだ心理分析の刃を自分に向けて、自分で自分の生体解剖をしよう〉という試みで11月25日に起筆した。\n同月20日には、書き上げまで2年以上を費やした初の長編『盗賊』が真光社から刊行され、12月1日には短編集『夜の仕度』が鎌倉文庫から刊行された。\n1949年(昭和24年)2月24日、作家となってから初上演作の戯曲『火宅』が俳優座により初演され、従来のリアリズム演劇とは違う新しい劇として、神西清や岸田国士などの評論家から高い評価を受けた。\n4月24日には、「仮面の告白」の後半原稿を喫茶店「ランボオ」で坂本一亀に渡した。\n紫色の古風な袱紗から原稿を取り出して坂本に手渡す三島を店の片隅で目撃していた武田泰淳は、その時の三島の顔を「精神集中の連続のあとの放心と満足」に輝いていたと述懐している。", "qas": [ { "question": "三島は、自分にとってはじめての私小説である長編の題名を何と決めましたか?", "id": "tr-022-11-000", "answers": [ { "text": "〈仮面の告白〉", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "三島の初の長編小説『盗賊』は、書き終わるまでどれくらいの時間がかかった?", "id": "tr-022-11-001", "answers": [ { "text": "2年以上", "answer_start": 145, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "三島の初の長編『盗賊』は真光社から刊行されたけど、短編集『夜の仕度』が刊行されたのはどこから?", "id": "tr-022-11-002", "answers": [ { "text": "鎌倉文庫", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "三島にとっての〈裏返しの自殺〉、〈生の回復術〉であり、〈ボオドレエルの「死刑囚にして死刑執行人」といふ二重の決心で自己解剖〉した渾身の書き下ろし長編『仮面の告白』は同年7月5日に出版され、発売当初は反響が薄かったものの、10月に神西清が高評した後、花田清輝に激賞されるなど文壇で大きな話題となった。\n年末にも読売新聞の昭和24年度ベストスリーに選ばれ、作家としての三島の地位は不動のものとなった。\nこの成功以降も、恋愛心理小説「純白の夜」を翌1950年(昭和25年)1月から『婦人公論』で連載し、同年6月30日には、〈希臘神話の女性〉に似たヒロインの〈狂躁〉を描いた力作『愛の渇き』を新潮社から書き下ろしで出版した。\n同年7月からは、光クラブ事件の山崎晃嗣をモデルとした話題作「青の時代」を『新潮』で連載するなど、〈一息つく暇もなく〉、各地への精力的な取材旅行に励み、長編小説の力倆を身につけていった。\n8月1日、立ち退きのため、両親・弟と共に目黒区緑ヶ丘2323番地(現・緑が丘1丁目17-24)へ転居。\n同月に岸田国士の「雲の会」発足に小林秀雄、福田恆存らと参加し、年上の文学者らとの交流が広まっていった後、中村光夫の発案の「鉢の木会」にも顔を見せるようになった。\n10月には、能楽を基調にした「邯鄲」を『人間』に掲載し、劇作家としての挑戦の幅も広げていった。\nこの作品は、のちに『近代能楽集』としてまとめられる1作目となり、矢代静一を通じて前年に知り合った芥川比呂志による演出で12月に上演された。", "qas": [ { "question": "『仮面の告白』を高評価した人物のうち、花田清輝よりも早い時期に高く評価をした人の名前は?", "id": "tr-022-12-000", "answers": [ { "text": "神西清", "answer_start": 114, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『仮面の告白』は昭和24年度の何に選ばれたの?", "id": "tr-022-12-001", "answers": [ { "text": "ベストスリー", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1950年に発表した作品の中で、恋愛心理小説のタイトルは何ですか?", "id": "tr-022-12-002", "answers": [ { "text": "「純白の夜」", "answer_start": 213, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "三島が劇作家として挑戦の一歩を踏み出した作品名は何?", "id": "tr-022-12-003", "answers": [ { "text": "「邯鄲」", "answer_start": 549, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "同年11月、京都へ取材に行き、青年僧による金閣寺放火事件(1950年)を題材にした次回作の執筆に取りかかった三島は、『仮面の告白』から取り入れていた森鴎外的な硬質な文体をさらに鍛え上げ、「肉体改造」のみならず文体も練磨し〈自己改造〉を行なった。\nその双方を磨き上げ昇華した文体を駆使した「金閣寺」は、1956年(昭和31年)1月から『新潮』に連載開始された。\n1月からの連載が終り、10月に『金閣寺』が新潮社から刊行された。\n傑作の呼び声高い作品として多数の評論家から高評価を受けた『金閣寺』は三島文学を象徴する代表作となり、第8回読売文学賞も受賞した。\nそれまで三島に懐疑的だった評者からも認められ、三島は文壇の寵児となった。\nまた、この年には、「日本空飛ぶ円盤研究会」に入会し、7月末の熱海ホテル滞在中に円盤観測に挑戦した。", "qas": [ { "question": "三島由紀夫の作品「金閣寺」のモデルとなった金閣寺放火事件の犯人は誰ですか?", "id": "tr-022-13-000", "answers": [ { "text": "青年僧", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『仮面の告白』では、三島は誰による文体を取り入れていたの?", "id": "tr-022-13-001", "answers": [ { "text": "森鴎外", "answer_start": 74, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "三島が、文体も練磨し自己改造を行なったという自身の作品の題名は何ですか?", "id": "tr-022-13-002", "answers": [ { "text": "「金閣寺」", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この時期の三島は、『金閣寺』のほかにも、『永すぎた春』や『美徳のよろめき』などのベストセラー作品を発表し、そのタイトルが流行語になった。\n川端康成を論じた『永遠の旅人』も好評を博し、戯曲でも『白蟻の巣』が第2回岸田演劇賞を受賞、人気戯曲『鹿鳴館』も発表されるなど、旺盛な活動を見せ、戯曲集『近代能楽集』(「邯鄲」「綾の鼓」「卒塔婆小町」「葵上」「班女」を所収)も刊行された。\n私生活でも、1954年(昭和29年)夏に中村歌右衛門の楽屋で知り合った豊田貞子(赤坂の料亭の娘。『沈める滝』『橋づくし』のモデル)と深い交際をしていた頃で、三島の生涯において最も豊かな成功に輝いていた時期であったが、結局貞子とは破局し、1957年(昭和32年)5月、新派公演『金閣寺』を観た日を最後に別離した。", "qas": [ { "question": "『金閣寺』とほぼ同時期に発表した作品で、ベストセラーとなったものは『永すぎた春』と何?", "id": "tr-022-14-000", "answers": [ { "text": "『美徳のよろめき』", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "三島が発表した戯曲の中で、第2回岸田演劇賞を受賞したものは何か?", "id": "tr-022-14-001", "answers": [ { "text": "『白蟻の巣』", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "豊田貞子をモデルとした三島作品は『沈める滝』と何?", "id": "tr-022-14-002", "answers": [ { "text": "『橋づくし』", "answer_start": 242, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "三島とおよそ3年交際していた女性の名は?", "id": "tr-022-14-003", "answers": [ { "text": "豊田貞子", "answer_start": 223, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1958年(昭和33年)3月に、幼馴染の湯浅あつ子から見せられた女子大生・杉山瑤子(日本画家・杉山寧の長女)の写真を一目で気に入った三島は、4月にお見合いをし、6月1日に川端康成夫妻を媒酌人として明治記念館で瑤子との結婚式を挙げ、麻布の国際文化会館で披露宴が行われた。\n同年8月には雑誌に連載開始された小高根二郎の「蓮田善明とその死」を読み始め、11月末からはボディビルに加えて中央公論社の嶋中鵬二と笹原金次郎の紹介により、第一生命の道場で本格的に剣道も始めた。\n同年3月には、ニューヨーク滞在中から構想していた書き下ろし長編『鏡子の家』の執筆も開始されていた。\nこの作品は4人の青年と1人の〈巫女的な女性〉を主人公とし、〈「戦後は終つた」と信じた時代の、感情と心理の典型的な例〉を描こうとした野心作であった。\n時代背景は高度経済成長前の2年間で(昭和29年4月から昭和31年4月まで)、三島自身の青春と「戦後」と言われた時代への総決算でもあった。", "qas": [ { "question": "三島がお見合いをして2か月後に結婚式を挙げた女性は誰?", "id": "tr-022-15-000", "answers": [ { "text": "杉山瑤子", "answer_start": 37, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "長編作品『鏡子の家』の構想を三島はどこからしていた?", "id": "tr-022-15-001", "answers": [ { "text": "ニューヨーク", "answer_start": 239, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『鏡子の家』の時代背景は何年から何年までの2年間ですか?", "id": "tr-022-15-002", "answers": [ { "text": "昭和29年4月から昭和31年4月", "answer_start": 374, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "杉山瑤子との結婚式で、媒酌人となった夫妻は?", "id": "tr-022-15-003", "answers": [ { "text": "川端康成夫妻", "answer_start": 85, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "翌1959年(昭和34年)9月20日の『鏡子の家』刊行までの約1年半の間、戯曲『薔薇と海賊』の発表、結婚、国内新婚旅行、エッセイ『不道徳教育講座』、評論『文章読本』の発表、新居建設(設計・施工は清水建設の鉾之原捷夫)など多忙であった。\n大田区馬込東1丁目1333番地(現・南馬込4丁目32-8)に建設したビクトリア風コロニアル様式の新居へは5月10日に転居し、6月2日に長女・紀子が誕生した。\nちょうどこの当時、新安保条約の採決を巡る大規模なデモ隊が国会周辺で吹き荒れ、三島はそれを記者クラブのバルコニーから眺めた。\n三島の渾身作『鏡子の家』は1か月で15万部売れ、同世代の評論家の少数からは共感を得たものの、文壇の評価は総じて辛く、三島の初めての「失敗作」という烙印を押された。\n三島の落胆は大きく、この評価は作家として彼が味わった最初の大きな挫折(転機)だった。", "qas": [ { "question": "『鏡子の家』が刊行するまでの間に発表された三島のエッセイのタイトルは何?", "id": "tr-022-16-000", "answers": [ { "text": "『不道徳教育講座』", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ビクトリア風コロニアル様式の三島の新居を設計した人は誰?", "id": "tr-022-16-001", "answers": [ { "text": "鉾之原捷夫", "answer_start": 102, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "三島が作家として最初の大きな挫折となった作品は何でしょう?", "id": "tr-022-16-002", "answers": [ { "text": "『鏡子の家』", "answer_start": 265, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『鏡子の家』は1か月で何部売れた?", "id": "tr-022-16-003", "answers": [ { "text": "15万部", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "静岡県立中央図書館", "paragraphs": [ { "context": "静岡県立中央図書館(しずおかけんりつちゅうおうとしょかん)は、静岡市駿河区谷田にある公共図書館。\n静岡県が図書館法に基づき設置している。\n「調べる・考える・解決する」をスローガンに、レファレンスを軸とした静岡県内127館の図書館のネットワークづくり、資料の永年保存、地域資料の情報収集などを行い、県内図書館の中核として市町立図書館を支援している。\n静岡県立美術館に隣接し、近隣に静岡県立大学がある。\n2017年(平成29年)4月から実施された長寿命化改修の可能性調査により、2階閲覧室床部(1階書庫の天井部)にひび割れが発見され、同年7月4日から臨時休館となっていたが、同年8月1日から一部入館と資料閲覧を再開し、2018年(平成30年)1月からは事前予約資料の受け取りに関して個人利用者への貸出業務を再開している。", "qas": [ { "question": "静岡県立中央図書館のスローガンは何?", "id": "tr-023-00-000", "answers": [ { "text": "「調べる・考える・解決する」", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "静岡県立中央図書館の近くにある大学は何?", "id": "tr-023-00-001", "answers": [ { "text": "静岡県立大学", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "静岡県立中央図書館は静岡県のどこに位置しているの?", "id": "tr-023-00-002", "answers": [ { "text": "駿河区谷田", "answer_start": 34, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "静岡県立図書館の隣にある施設は何?", "id": "tr-023-00-003", "answers": [ { "text": "静岡県立美術館", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "静岡県における近代的図書館の計画は、1886年(明治19年)の第3代静岡県県令・関口隆吉による自己の蔵書を中心にした公開図書館「久能文庫」であったが、関口の急逝により実現しなかった。\n1907年(明治40年)、柴田普門、松岡友吉、三浦元利の尽力で、最初の公開通俗図書館・私立丁未図書館が瑞光寺内に開設されたが、1910年(明治43年)に静岡市教育会が通俗図書館を開設するにともない、蔵書を寄贈して閉館となった。\nさらに、同年9月、静岡市城内に設立された静岡県教育会附設図書館に合併されたが、同館は1924年(大正13年)に静岡県立葵文庫設立により閉館し、蔵書はそのまま葵文庫に引き継がれた。", "qas": [ { "question": "「久能文庫」の中心蔵書は誰のものだったの?", "id": "tr-023-01-000", "answers": [ { "text": "関口隆吉", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "私立丁未図書館と通俗図書館はどちらが先に開設されたの?", "id": "tr-023-01-001", "answers": [ { "text": "私立丁未図書館", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "通俗図書館と静岡県教育会付設図書館が合併したのは何年?", "id": "tr-023-01-002", "answers": [ { "text": "1910年", "answer_start": 155, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "私立丁未図書館はどこに開設されたの?", "id": "tr-023-01-003", "answers": [ { "text": "瑞光寺内", "answer_start": 143, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "徳川家の記念事業として、静岡県知事・関屋貞三郎の相談を受けた渋沢栄一が斡旋を行って集めた寄付により、県立図書館の設立提案が県会に議決される。\n設立費17万円で、1923年(大正12年)12月起工、1924年(大正13年)10月竣工し、1925年(大正14年)4月1日、静岡県立葵文庫として静岡市追手町249番地に開館した。\n開館記念講演は関口隆吉の子・新村出による「葵文庫の歴史的背景と其将来」。\n初代館長は貞松修蔵、開館時の蔵書は約2万2,000冊、職員数は16名であった。\n春夏季は午前8時から午後9時、秋冬季は午前9時から午後9時と労働者の夜間の来館に配慮した開館時間を設定し、使用料3円を納付すると交付される「図書携出特許証」により図書貸出を行った。", "qas": [ { "question": "静岡県立葵文庫の開館時の蔵書数は何冊だったの?", "id": "tr-023-02-000", "answers": [ { "text": "2万2,000冊", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "新村出の父親の名前は?", "id": "tr-023-02-001", "answers": [ { "text": "関口隆吉", "answer_start": 169, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "静岡県立葵文庫の初代館長は誰が務めたの?", "id": "tr-023-02-002", "answers": [ { "text": "貞松修蔵", "answer_start": 204, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "開館時間が長かったのは、春夏季と秋冬季のどちらでしたか?", "id": "tr-023-02-003", "answers": [ { "text": "春夏季", "answer_start": 239, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "葵文庫は、「館内閲覧」「貸出」「巡回文庫」「講座」を事業の4本柱として活動を開始し、「公衆に図書を閲覧させること」を使命としていた。\n1930年(昭和5年)には、昭和天皇が葵文庫に行幸したが、これは、地方の公私立の図書館で初めてのことであった。\n1935年(昭和8年)の図書館令改正により、葵文庫が静岡県の中央図書館に指定される。\nこれにより県内の図書館を指導する権限が付与され、運営や蔵書整理、講習会の開催などで町村図書館の指導育成を行った。", "qas": [ { "question": "地方の公私立の図書館で初めて昭和天皇が訪問されたのはどこ?", "id": "tr-023-03-000", "answers": [ { "text": "葵文庫", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "昭和天皇が葵文庫に来られた年は何年?", "id": "tr-023-03-001", "answers": [ { "text": "1930年", "answer_start": 67, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1937年(昭和12年)日中戦争の勃発以来、図書と図書館の機能が国論の統一と国策の徹底に利用されることになった。\n1941年(昭和16年)太平洋戦争に拡大すると、戦時体制が一層強化され、国民思想指導に基づく読書指導が図書館最大の任務となり、葵文庫においても戦時読書指導者協議会が行われる。\n展覧会や講演も、国体、時局、軍事に関するもののみ開催された。\n戦局が悪化する1945年(昭和20年)3月に、貴重図書を市外7か所に疎開、6月には、空襲を受けて講堂その他を焼失したが、加藤忠雄館長(当時)の消火活動などが功を奏し、書庫は無事だったため基本図書は守られた。", "qas": [ { "question": "1945年6月当時の館長は誰が務めていましたか?", "id": "tr-023-04-000", "answers": [ { "text": "加藤忠雄", "answer_start": 236, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "空襲の際に、火災から書庫を守った人は誰?", "id": "tr-023-04-001", "answers": [ { "text": "加藤忠雄", "answer_start": 236, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1946年(昭和21年)、疎開してあった貴重図書を回収、活動を再開する。\n戦時中は規制されていた活字を求めて、毎日多くの人が来館したという。\n1948年(昭和23年)には占領軍総司令部民間情報局が静岡CIE図書館(のちにアメリカ文化センターと改称)を設立したが、1953年(昭和28年)、葵文庫に分館として併置された。\n1956年(昭和31年)には図書館法に従って静岡県立中央図書館葵文庫に名称変更している。", "qas": [ { "question": "疎開先から貴重図書を回収したのは何年でしたか?", "id": "tr-023-05-000", "answers": [ { "text": "1946年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "葵文庫は何と名称を変えましたか?", "id": "tr-023-05-001", "answers": [ { "text": "静岡県立中央図書館葵文庫", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1960年代になると老朽化が問題となり、図書館の移転新築の要望が起こり、1963年(昭和38年)、県政の重点施策として草薙地区に図書館、美術館兼博物館、体育館、音楽ホールを内包する大規模文化エリア「県文化センター」の建設構想がまとめられる。\n1960年度(昭和40年度)には、県の広報課に文化センター建設準備室を設置、教育委員会は新図書館研究委員会を設けて、調査研究に入った。\n1961年(昭和41年)8月には、企画調整部長の意見聴取に対し同研究委員会による成果物「新図書館の望ましい姿」を教育長名で回答、翌1962年(昭和42年)9月、県会の議決を得て、12月に着工する。\n名称変更と準備期間を経て、1970年(昭和45年)4月に静岡県立美術館に隣接する現在地に移転し、静岡県立中央図書館が開館した。\n初代館長は高林静夫。", "qas": [ { "question": "新図書館の建設工事が始まったのは1962年の何月でしたか?", "id": "tr-023-06-000", "answers": [ { "text": "12月", "answer_start": 278, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "静岡県立中央図書館の初代館長は誰が就任したの?", "id": "tr-023-06-001", "answers": [ { "text": "高林静夫", "answer_start": 357, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1994年(平成6年)、電算システムを導入し、業務を開始する。\n以降、コンピュータ技術と情報メディアの革新的発展の中で、1998年(平成10年)には、「静岡県年生涯学習情報提供システム:マナビット」のインターネット化、静岡県立中央図書館ウェブサイトの開設、さらに、2000年(平成12年)に「デジタル葵文庫」、2004年(平成16年)には「静岡県横断検索システム:おうだんくん」を構築するなど、新サービスの提供を行っている。", "qas": [ { "question": "先にサービス提供が始まったのは、「デジタル葵文庫」と「静岡県横断検索システム:おうだんくん」のどちらですか?", "id": "tr-023-07-000", "answers": [ { "text": "「デジタル葵文庫」", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "しかし、かつては年間20万人あった入館者数が、1997年度(平成9年度)には15万人まで落ち込んだ。\n当然貸出数も減少し、それにともない資料費も減額される。\n当時の静岡県立図書館は、職員数、資料費、所蔵冊数等が全国的に最下位に近く、県内の市町立図書館の格差もあり、貧しい図書館事情にあった。\n1998年(平成10年)4月に鈴木善彦が館長として着任すると、利用率の低下と予算の減額の悪循環を断ち切るべく、「開かれた図書館」「信頼される図書館」「成長し続ける図書館」を3つの基本理念に据えて、3年間にわたり計画的・持続的な改革が行われた。\n具体的には、貸出冊数の増加や、貸出可能図書の範囲拡大、県外在住者への規制緩和、開館時間延長など、「調査研究活動の支援」から「県民の学習活動の支援」へサービスの重点を見直し、利用者に見える形での実践を行った。", "qas": [ { "question": "1998年4月に館長になった人は誰?", "id": "tr-023-08-000", "answers": [ { "text": "鈴木善彦", "answer_start": 161, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鈴木館長が開始した改革は何年間の見通しでしたか?", "id": "tr-023-08-001", "answers": [ { "text": "3年間", "answer_start": 244, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鈴木館長が掲げた3つの基本理念とは、「成長し続ける図書館」と「開かれた図書館」ともう1つは何?", "id": "tr-023-08-002", "answers": [ { "text": "「信頼される図書館」", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "こうした県立図書館側の変化は、県民の心も動かし、図書館協議会委員が立ち上げた「県立図書館サポーターネットワーク」を中心とした、減額の危機にあった予算の獲得のための署名活動が行われる。\n署名は2か月で1万数千名分が集まり、賛同団体29、賛同人124名によって要望書が知事に届けられた。\nそれにより、7千万円の予定だった資料費は、2001年度(平成13年度)には1億円にまで大幅増額が実現した。\nまた、図書館協議会より要望のあった児童図書の購入が2001年(平成13年)4月から開始され、その後2004年(平成16年)6月には「子ども図書研究室」が開設された。", "qas": [ { "question": "図書館の予算獲得のための署名運動では、何名が賛同しましたか?", "id": "tr-023-09-000", "answers": [ { "text": "124名", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2004年6月に開設されたものは何ですか?", "id": "tr-023-09-001", "answers": [ { "text": "「子ども図書研究室」", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "外部機関との連携としては、2007年度(平成19年度)に中国浙江図書館と姉妹図書館関係を結び、研修員の受け入れや資料の交換を継続して行っているほか、静岡県立美術館、静岡県埋蔵文化財調査研究所(現在の静岡県埋蔵文化財センター)、静岡県立大学と4機関で始めた「ムセイオン静岡」と呼ぶ文化の情報発信の協働を行っている。\n2015年(平成27年)、創立90周年をむかえ、記念事業を実施した。\n同年6月2日、富士山に関する情報発信強化を目的とし、山梨県立図書館と、富士山に関する資料の相互利用に関して、3年間の連携協定を結んでいる。\n2016年(平成28年)11月16日、静岡図書館友の会により、老朽化が進む静岡県立中央図書館の新館建設と今後の図書館サービスについての期待を盛り込んだ「静岡県立図書館の新館建設についての要望書」が静岡県教育長に提出されている。", "qas": [ { "question": "姉妹図書館関係を結んだ海外の図書館はどこですか?", "id": "tr-023-10-000", "answers": [ { "text": "中国浙江図書館", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "山梨県立図書館と連携協定を結んだのは何年でしたか?", "id": "tr-023-10-001", "answers": [ { "text": "2015年", "answer_start": 157, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "富士山に関する資料の相互利用に関して連携協定を結んだ図書館はどこですか?", "id": "tr-023-10-002", "answers": [ { "text": "山梨県立図書館", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2017年(平成29年)4月から6月に行った長寿命化改修の可能性等を検討する施設調査で、資料棟2階閲覧室の床(1階書庫の天井部)に積載荷重と劣化によるひび割れがある事が分かった。\n静岡県教育委員会は利用者の安全確保に万全を期すため、同年7月4日から3〜4ヶ月程度の臨時休館を決定、館内の所蔵資料を一旦移動させ主因となった荷重超過の状態を解消した上で、再度詳しい調査を行い対策を検討するとした。\n開館以来、前例のない全職員による大幅な蔵書移動が行われるなか、同年9月25日の静岡県議会代表質問において、川勝平太静岡県知事がJR東静岡駅南側に計画中の『文化力の拠点』に全面移転すると答弁した。\nこれを受け、新館基本構想策定に向けた各種協議や会議を行っていたが、2018年(平成30年)3月19日の静岡県教育委員会定例会で、新図書館の基本構想案が承認された。", "qas": [ { "question": "ひび割れが発見された建物は何でしたか?", "id": "tr-023-11-000", "answers": [ { "text": "資料棟", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ひび割れの発見により、臨時休館した年は何年でしたか?", "id": "tr-023-11-001", "answers": [ { "text": "2017年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "葵文庫、久能文庫、上村順太郎収集浮世絵コレクションの資料は全て電子化が完了しており、公式ウェブサイト上のデジタルライブラリー「ふじのくにアーカイブ」で公開されている。\n閲覧だけでなく、PDFファイルのダウンロードも可能となっている。\n江戸幕府が崩壊し、駿府藩に移封となった徳川氏やその家臣たちは、幕府の公的機関が所有していた膨大な貴重資料を集めた教育施設「静岡学問所」を設立した。\nこの学問所は幕臣関係者のみならず、希望者は誰でも就学可能であり、海外から教師を招へいするなど、先進的な教育を行っていた。\n学制の発布などの影響で学問所が閉鎖した後、駿府学校、静岡学校、静岡県師範学校を経て、その蔵書が引き継がれる形で、静岡県立葵文庫を設立した。\n徳川家記念事業として設立されたことにより、同家の家紋にちなんで命名されている。\n1969年(昭和44年)、静岡県立図書館が静岡市谷田に移転すると、館名から葵文庫の名は除かれたが、蔵書は特殊コレクションとして引き継がれた。", "qas": [ { "question": "徳川家の家紋は何?", "id": "tr-023-12-000", "answers": [ { "text": "葵", "answer_start": 312, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "徳川氏とその家臣が設立した教育施設は何?", "id": "tr-023-12-001", "answers": [ { "text": "「静岡学問所」", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "徳川家記念行事として設立されたものとは何?", "id": "tr-023-12-002", "answers": [ { "text": "静岡県立葵文庫", "answer_start": 308, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "多くの異なる所有元から引き継がれ収集されているため、コレクション全体を俯瞰することにより、江戸幕府が当時西洋の学問や最新技術の研究を行っていたことや、明治初頭の近代教育の様子などがうかがえる。\n和漢書は1,261冊、「昌平坂学問所」「箱館御役所」「諸術調所」などに由来し、代表的なものに後陽成天皇が印刷させた『論語』、百科事典『厚生新編』、蝦夷地の地図などがある。\n洋書は2,325冊、「蕃書調所」「洋書調所」「開成所」「外国方」などからのもので、内容は法律、経済、政治学から地図、歴史、物理、数学、反射炉の製図まで多岐にわたる。\nまた、ピカードの『英蘭辞書』、日本初のドイツ語辞書『官版独逸単語篇』など外国語の辞書も多く、兵術や戦術、軍事関係の技術書も多く収蔵している。\n和漢書・洋書あわせて3,586冊からなるコレクションである。", "qas": [ { "question": "洋書と和漢書の数が多かったのはどちら?", "id": "tr-023-13-000", "answers": [ { "text": "洋書", "answer_start": 183, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "後陽成天皇が印刷させた和漢書のタイトルは何?", "id": "tr-023-13-001", "answers": [ { "text": "『論語』", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2014年(平成26年)、映画「疎開した40万冊の図書」(2013年公開、金高謙二監督)の上映が契機となり、元静岡県立中央図書館職員の田中文雄が、「葵文庫」蔵書の戦時中の疎開先の調査を行った。\nその結果、行政資料の中に、戦時中の文庫長・加藤忠雄による「昭和20年度事務室日記」が発見され、国民学校4校と民家2軒に蔵書が運搬されたことが判明した。\n同調査では、空襲により蔵書を焼失した市民の署名や拇印がある「免除届」も発見され、約1,500冊が貸出先で焼失されたことが分かっている。\n田中は、2015年(平成27年)10月に創立90周年記念事業「葵レク貴重書講座」にて、その調査研究の成果を発表している。", "qas": [ { "question": "「疎開した40万冊の図書」で監督を務めた人は誰?", "id": "tr-023-14-000", "answers": [ { "text": "金高謙二", "answer_start": 37, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「疎開した40万冊の図書」の映画が公開された年は?", "id": "tr-023-14-001", "answers": [ { "text": "2013年", "answer_start": 29, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「葵文庫」蔵書の戦時中の疎開先の調査をした人は誰?", "id": "tr-023-14-002", "answers": [ { "text": "田中文雄", "answer_start": 67, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "田中が行った調査研究の成果は、何年に発表された?", "id": "tr-023-14-003", "answers": [ { "text": "2015年", "answer_start": 245, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "第3代静岡県県令・関口隆吉が図書館設置を目指して収集した図書・文書・記録類835部2,454冊からなる。\n隆吉が事故により急逝した後、久能山東照宮に保管されていたが、1924年(大正13年)、隆吉の長男・関口荘吉により県立図書館に寄贈され、「久能文庫」と名付けられた。\n以降、関口家から1929年(昭和4年)、1981年(昭和56年)、1984年(昭和59年)と、3回にわたり寄贈があった。\n関口は、欧米諸国を例にして、過去の古い資料が学問において尊重されていることを重視し、1886年(明治19年)当時の静岡県にとって有用な情報資源となる歴史、地理、統計、法律など諸分野の資料を網羅的に収集することを目的に掲げ、構想した。\n図書は徳川氏関係のものや、軍事、外交、農業をテーマとしたものが中心で、三条実美、大久保利通、伊藤博文、勝海舟、山岡鉄舟らの書簡文書も含まれる。", "qas": [ { "question": "「久能文庫」が誕生したのは何年?", "id": "tr-023-15-000", "answers": [ { "text": "1924年", "answer_start": 83, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "関口荘吉の父親のフルネームは?", "id": "tr-023-15-001", "answers": [ { "text": "関口隆吉", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "関口家からの2度目の寄贈は何年にありましたか?", "id": "tr-023-15-002", "answers": [ { "text": "1981年", "answer_start": 155, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "関口家からの最初の寄贈は何年にありましたか?", "id": "tr-023-15-003", "answers": [ { "text": "1929年", "answer_start": 143, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "草柳大蔵コーナーとは、静岡県ゆかりのジャーナリスト、草柳大蔵の蔵書7,148冊の蔵書を集めたコーナー。\n2003年(平成15年)3月に妻の草柳アキから県に寄贈された。\n蔵書は、社会科学、人文科学の分野が中心。\n草柳が著書の『実録満鉄調査部』を執筆する際に参考にしたという「満州読本」などの貴重書もある。\n利用は館内閲覧のみ。", "qas": [ { "question": "草柳アキの夫は誰?", "id": "tr-023-16-000", "answers": [ { "text": "草柳大蔵", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『実録満鉄調査部』の作者は誰?", "id": "tr-023-16-001", "answers": [ { "text": "草柳", "answer_start": 105, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "草柳大蔵の蔵書を県に寄贈した人は誰?", "id": "tr-023-16-002", "answers": [ { "text": "草柳アキ", "answer_start": 69, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] } ] }