{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "きさらぎ駅", "paragraphs": [ { "context": "きさらぎ駅(きさらぎえき)とは、日本のインターネットコミュニティで都市伝説として語られている架空の鉄道駅である。\n2004年にインターネット掲示板の2ちゃんねるに投稿された実況形式の怪奇体験談の舞台として登場したもので、人里離れた沿線に忽然と現れた謎の無人駅として描写されている。\n体験談の内容から静岡県浜松市の遠州鉄道沿線、またはそこから繋がった異界にあるものとされているが、以後ネット上では類似の体験談が相次いで、インターネット・ミームとしての広まりを見せている。", "qas": [ { "question": "きさらぎ駅が都市伝説としてネット上に登場したのはいつですか?", "id": "tr-633-00-000", "answers": [ { "text": "2004年", "answer_start": 57, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "きさらぎ駅の怪談が投稿された掲示板の名前は?", "id": "tr-633-00-001", "answers": [ { "text": "2ちゃんねる", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "きさらぎ駅は有人駅か、無人駅か?", "id": "tr-633-00-002", "answers": [ { "text": "無人駅", "answer_start": 126, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "きさらぎ駅は何の交通手段の駅か?", "id": "tr-633-00-003", "answers": [ { "text": "鉄道", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ひらがなで「きさらぎ駅」と表記するのが一般的であるが、のちの体験談や考察では「如月駅」や「鬼駅」などの表記も見られる。\nまた、その後都市伝説として語られるようになった類似の架空の駅を含む総称して「異界駅」と呼ぶことがある。", "qas": [ { "question": "きさらぎ駅を漢字表記すると「如月駅」や何がありますか?", "id": "tr-633-01-000", "answers": [ { "text": "「鬼駅」", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "きさらぎ駅を漢字表記すると「鬼駅」や何がありますか?", "id": "tr-633-01-001", "answers": [ { "text": "「如月駅」", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「きさらぎ駅」の登場以降、似たような架空の駅を総じてどのように呼んでいますか?", "id": "tr-633-01-002", "answers": [ { "text": "「異界駅」", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "きさらぎ駅の都市伝説がネット上で最初に語られたのは、2004年のことである。\nインターネット掲示板2ちゃんねるのオカルト板にある実況形式スレッドに、「はすみ(葉純)」と名乗る女性とみられる人物が深夜に怪奇体験の相談を投稿したのが始まりである。\n相談の内容は、新浜松駅から乗車した遠州鉄道の電車がいつもと違いなかなか停車する様子がなく、ようやく到着した駅が「きさらぎ駅」という名称の見知らぬ無人駅だったというものであった。\n以後翌日未明にかけて、投稿者「はすみ」とスレッド参加者との応答がリアルタイムで進行した。\n投稿された相談内容によると、周囲は人家などが何もない山間の草原で、直前には実在しない「伊佐貫」と言う名称のトンネルを通ったと語っている。\nその後、不意に降り立った駅の周辺では奇妙な出来事が次々に起こり、携帯電話で助けを求めてもまったく取り合ってもらえなかったという。\n途方に暮れていたところに、たまたま通りかかった車に乗せてもらった車中でスレッドへの書き込みが途絶え、以後の消息が絶たれたことになっている。", "qas": [ { "question": "「はすみ」の性別は何だと思われますか?", "id": "tr-633-02-000", "answers": [ { "text": "女性", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "相談の中で、「はすみ」はどこの駅から電車に乗ったの?", "id": "tr-633-02-001", "answers": [ { "text": "新浜松駅", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "相談の中で、「はすみ」が乗った鉄道の名前は何?", "id": "tr-633-02-002", "answers": [ { "text": "遠州鉄道", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "きさらぎ駅を舞台にした一夜限りの奇妙な体験談は、2ちゃんねるオカルト板を中心にネットコミュニティの注目を集め、それに乗ずる形できさらぎ駅や類似の架空の駅の体験談が相次いだ。\n主なものとしては、東海道本線の愛知県域にあるとされる「月の宮駅」、きさらぎ駅の隣接駅とされる「やみ駅」と「かたす駅」などが挙げられる。\n2011年には、都市伝説をテーマにしたまとめサイトのコメント欄に、オリジナル投稿者「はすみ」を名乗る人物から真偽不明の生還報告も投稿され話題になった。", "qas": [ { "question": "「月の宮駅」はどこの県にあるとされていますか?", "id": "tr-633-03-000", "answers": [ { "text": "愛知県", "answer_start": 102, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "きさらぎ駅の隣接駅とされるのは「やみ駅」と何ですか?", "id": "tr-633-03-001", "answers": [ { "text": "「かたす駅」", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "きさらぎ駅の隣接駅とされるのは「かたす駅」と何ですか?", "id": "tr-633-03-002", "answers": [ { "text": "「やみ駅」", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オリジナル投稿者「はすみ」の生還報告が投稿されたのは何年ですか?", "id": "tr-633-03-003", "answers": [ { "text": "2011年", "answer_start": 155, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その後、SNSのTwitterや動画投稿サイトのYouTubeでもきさらぎ駅に関する投稿が相次ぎ、2011年以降Twitterでは目撃談や実況体験談を寄せる利用者が続出した。\nまた2014年には、Googleマップで筑波大学構内に「きさらぎ駅」という名称のスポットが何者かによって登録され、「きさらぎ駅」への架空のルート検索ができるようになるといった珍事も起きている。", "qas": [ { "question": "2011年以降に「きさらぎ駅」に関する情報提供が数多く寄せられたSNSとは何ですか?", "id": "tr-633-04-000", "answers": [ { "text": "Twitter", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "きさらぎ駅に関する動画が投稿されたサイトは何ですか?", "id": "tr-633-04-001", "answers": [ { "text": "YouTube", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Googleマップに「きさらぎ駅」が登録されたのは何年のことでしたか?", "id": "tr-633-04-002", "answers": [ { "text": "2014年", "answer_start": 90, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「きさらぎ駅」への架空のルート検索ができるようになった検索サービスとは何ですか?", "id": "tr-633-04-003", "answers": [ { "text": "Googleマップ", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オリジナルの体験談ではきさらぎ駅の正体が明かされることはなかったが、以後ネット上にはその真相を巡って様々な空想的考察が語られている。\n当初は体験談の内容からきさらぎ駅が静岡県内にあるものと考えられていたが、その後福岡県など全国各地で目撃情報が相次いで寄せられた。\n多くの体験談では時間の歪みやGPSの異常などの異変も報告され、この世界とは別の異世界に存在するとする説が主流になっている。\nきさらぎ駅以外の各地の都市伝説で語られる架空の駅も同様に異世界に存在するものとされており、専門家の間ではこれらを総称して「異界駅」と呼ぶことがある。", "qas": [ { "question": "きさらぎ駅は初め何県にあると考えられていましたか?", "id": "tr-633-05-000", "answers": [ { "text": "静岡県", "answer_start": 84, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「異界駅」はどこに存在しているの?", "id": "tr-633-05-001", "answers": [ { "text": "異世界", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "初期にはきさらぎ駅やその他架空の駅の体験は恐怖の対象とされ、オリジナル投稿者「はすみ」が以後の消息を絶っていることから、一度降りてしまうと生きては戻れないものとされていた。\nしかし、その後の体験談では一度迷い込んだ後に生還したとの報告も寄せられ、何かを燃やして煙を出せば戻って来られるなど、オカルト的な関心からの考察もなされるようになった。\nさらに2018年に投稿された体験談では、異界の車掌や住民の善意により無事生還したとの報告もなされ、体験談や考察は恐怖よりも異世界を旅するロマンに重点が置かれるようになっている。\nなお、「きさらぎ駅」の漢字表記はオリジナルの体験談では明らかにされておらず、ネットではオリジナル通りのひらがな表記が正規のものとして定着している。\n中国語では「如月車站」という表記が一般的で、日本でも「如月駅」と表記している体験談がある。\nまた「鬼駅」など他の表記も一部の体験談や考察で見られるが、広く認められたものではない。", "qas": [ { "question": "きさらぎ駅を中国語で表記するとどうなる?", "id": "tr-633-06-000", "answers": [ { "text": "「如月車站」", "answer_start": 339, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「如月車站」は何の言語で表記されたきさらぎ駅ですか?", "id": "tr-633-06-001", "answers": [ { "text": "中国語", "answer_start": 334, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一般にきさらぎ駅の体験談は、他のネット上の怪奇体験談同様、実話の体裁をとった創作と認識されている。\n多くは作り話であることが明らかであったり、中には作り話であることを投稿者自ら明かしているものもある。\nTwitterではきさらぎ駅の体験談が写真付きで投稿されたこともあったが、のちにそれは実在するJR紀勢本線三瀬谷駅やJR赤穂線西相生駅などの写真であることが判明している。\nきさらぎ駅の都市伝説が10年以上の長きに渡り語り継がれる理由として、オカルト研究家の山口敏太郎は、実在する列車や地名を元にした巧妙な物語設定と、駅というロマンの感じられる舞台設定を挙げている。\n怪奇スポット研究家として知られる吉田悠軌は、実在する怪奇スポットに空想を傾けられなくなった現代において、人々が架空の場所にロマンを見出すようになったことが背景にあるとしている。\nまた、民俗学者の飯倉義之によると、きさらぎ駅のようにインターネットの普及によって発生した参加型の都市伝説は、ネット利用者が怪談体験の「ごっこゲーム」に参加しているという意識によって形作られ、SNSを中心に広まったものと分析している。\n一方、Twitterなどで「きさらぎ駅」に言及する投稿があるとそれに便乗した投稿が相次ぐなど、一種のネット上のジョークとして定着しているとの指摘もある。\nなお、きさらぎ駅の創作上のモデルとしては、同じく遠州鉄道の「さぎの宮駅」がモチーフなのではないかとの指摘がある。", "qas": [ { "question": "山口敏太郎の研究分野は何ですか?", "id": "tr-633-07-000", "answers": [ { "text": "オカルト", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "吉田悠軌が研究分野としているものは何ですか?", "id": "tr-633-07-001", "answers": [ { "text": "怪奇スポット", "answer_start": 284, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "きさらぎ駅の創作上のモデルはどこの駅だとされていますか?", "id": "tr-633-07-002", "answers": [ { "text": "「さぎの宮駅」", "answer_start": 596, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "きさらぎ駅は何年以上、都市伝説として語り継がれていますか?", "id": "tr-633-07-003", "answers": [ { "text": "10年以上", "answer_start": 198, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "Twitterでのブームを機にきさらぎ駅の都市伝説は一般のネット利用者に広く知られるものとなり、体験談の舞台となった遠州鉄道本社にも問い合わせが寄せられるようになった。\nまた、きさらぎ駅を題材としたフィクション作品も見られるようになり、2018年には遠州鉄道が、きさらぎ駅のエピソードを収録した漫画『裏世界ピクニック』のPR列車を運行するタイアップ企画も実現した。\n海外では、特に台湾や香港で「きさらぎ駅(中:如月車站)」は日本を代表する都市伝説として良く知られており、日本と同様に当地を舞台にした架空の駅の都市伝説が語られたり、日本の都市伝説や鉄道にまつわる話題でしばしば引き合いに出されたりしている。\n台湾のホラー作家笭菁は、自身の都市伝説シリーズで「きさらぎ駅」を主題にした長編小説を発表しており、全12巻のシリーズ中最も印象的な作品として紹介されている。", "qas": [ { "question": "「きさらぎ駅」をテーマに長編小説を書いた台湾の作家は誰?", "id": "tr-633-08-000", "answers": [ { "text": "笭菁", "answer_start": 311, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "きさらぎ駅のエピソードが収録されている漫画とは何?", "id": "tr-633-08-001", "answers": [ { "text": "『裏世界ピクニック』", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "笭菁はどこの作家ですか?", "id": "tr-633-08-002", "answers": [ { "text": "台湾", "answer_start": 303, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "フランツ・フォン・パーペン", "paragraphs": [ { "context": "フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンは、ドイツの軍人、政治家、外交官である。", "qas": [ { "question": "この文書では、誰について説明しているの?", "id": "tr-634-00-000", "answers": [ { "text": "フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペン", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンは、どの国の者か?", "id": "tr-634-00-001", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 35, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンの職業としては、軍人と政治家のほかに、何が挙げられていますか?", "id": "tr-634-00-002", "answers": [ { "text": "外交官", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンは、ヴァイマル共和政末期の1932年にクルト・フォン・シュライヒャーに擁立されてパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領の大統領内閣の首相を務めたが、パーペン内閣は半年ほどでシュライヒャーに見限られて瓦解した。", "qas": [ { "question": "パウル・フォン・ヒンデンブルクが大統領になったのは、何年のことなの?", "id": "tr-634-01-000", "answers": [ { "text": "1932年", "answer_start": 46, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パウル・フォン・ヒンデンブルクを大統領につかせたのは、誰ですか?", "id": "tr-634-01-001", "answers": [ { "text": "クルト・フォン・シュライヒャー", "answer_start": 52, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時、実権を握っていたのは、誰か?", "id": "tr-634-01-002", "answers": [ { "text": "クルト・フォン・シュライヒャー", "answer_start": 52, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンが首相についたのは、何年のことか?", "id": "tr-634-01-003", "answers": [ { "text": "1932年", "answer_start": 46, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "その後、フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)党首アドルフ・ヒトラーと接近し、彼が首相になれるよう尽力するなどナチ党の権力掌握に大きな役割を果たした。", "qas": [ { "question": "当時、国家社会主義ドイツ労働者党は誰を指導者としていたの?", "id": "tr-634-02-000", "answers": [ { "text": "アドルフ・ヒトラー", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アドルフ・ヒトラーを党首として活動していた党は、どの党ですか?", "id": "tr-634-02-001", "answers": [ { "text": "国家社会主義ドイツ労働者党", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンは、誰が権力を掌握するよう、支えていた一人であるか?", "id": "tr-634-02-002", "answers": [ { "text": "アドルフ・ヒトラー", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンは1933年のヒトラー内閣成立でヒトラーに次ぐ副首相の座に就いた。", "qas": [ { "question": "フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンが副首相の座についたのは、何年のことなの?", "id": "tr-634-03-000", "answers": [ { "text": "1933年", "answer_start": 34, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヒトラーがドイツ首相についたのは、何年のことですか?", "id": "tr-634-03-001", "answers": [ { "text": "1933年", "answer_start": 34, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1933年の時点で、ドイツで一番の権力を有していたのは、誰か?", "id": "tr-634-03-002", "answers": [ { "text": "ヒトラー", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンがドイツで二番目の権力者となったのは、何年のことか?", "id": "tr-634-03-003", "answers": [ { "text": "1933年", "answer_start": 34, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンはドイツ帝国領邦プロイセン王国ヴェストファーレン州ヴェルルに、製塩業で富をなしたErbsälzer(世襲の塩屋、程度の意味)と呼ばれる諸名家のうちのひとつに生まれる。両親の希望で陸軍幼年学校に入学し、軍人への道を進む。", "qas": [ { "question": "フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンは、どの市で生まれたの?", "id": "tr-634-04-000", "answers": [ { "text": "ヴェルル", "answer_start": 58, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンの父親は、どの業種に従事する人でしたか?", "id": "tr-634-04-001", "answers": [ { "text": "製塩業", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンが幼いころから両親は、彼が何になることを望んでいたか?", "id": "tr-634-04-002", "answers": [ { "text": "軍人", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランツ・ヨーゼフ・ヘルマン・ミヒャエル・マリア・フォン・パーペンが通った学校として書かれているのは、何か?", "id": "tr-634-04-003", "answers": [ { "text": "陸軍幼年学校", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ドイツ皇帝の側近くに仕えたのち、第5槍騎兵連隊付きを経て参謀本部に入り、1913年に大尉に昇進した。そこでクルト・フォン・シュライヒャーと知り合う。当時パーペンは巧みな馬術で名声を得ていた。", "qas": [ { "question": "パーペンは何年に、大尉に昇進したの?", "id": "tr-634-05-000", "answers": [ { "text": "1913年", "answer_start": 36, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パーペンはどの部隊の参謀本部での活躍を認められ、大尉に昇進しましたか?", "id": "tr-634-05-001", "answers": [ { "text": "第5槍騎兵連隊", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パーペンは、どの部隊にてクルト・フォン・シュライヒャーと知り合ったか?", "id": "tr-634-05-002", "answers": [ { "text": "第5槍騎兵連隊", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "当時、パーペンは何で名高かったか?", "id": "tr-634-05-003", "answers": [ { "text": "巧みな馬術", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1905年にパーペンは製陶業で有名なビレロイ&ボッホ社の創業家の娘と結婚して工場の一つを相続し(現存)、巨大な経済力を得た。財界とも太いパイプを持つようになった。一女をもうける。", "qas": [ { "question": "パーペンは、何年に結婚したの?", "id": "tr-634-06-000", "answers": [ { "text": "1905年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時、ビレロイ&ボッホ社は、どの業種で富を積んでいましたか?", "id": "tr-634-06-001", "answers": [ { "text": "製陶業", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パーペンの妻の父親について、この文書では、何と表現しているか?", "id": "tr-634-06-002", "answers": [ { "text": "製陶業で有名なビレロイ&ボッホ社の創業家", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パーペンは何年を基点に、財力を手に入れるとともに財界とのつながりを持つようになったか?", "id": "tr-634-06-003", "answers": [ { "text": "1905年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "皇帝ヴィルヘルム2世の学友だった父のコネもあり、パーペンは第一次世界大戦中の1915年までアメリカ大使館付き武官となる。フランクリン・ルーズベルトやダグラス・マッカーサーといった、後年のアメリカ合衆国指導者の知遇を得た。", "qas": [ { "question": "パーペンがアメリカ大使館付き武官となれたのは、彼の父親が誰と学友だったからなの?", "id": "tr-634-07-000", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム2世", "answer_start": 2, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時、皇帝には誰がついていましたか?", "id": "tr-634-07-001", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム2世", "answer_start": 2, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パーペンは、何年までアメリカ大使館付き武官の職についていたか?", "id": "tr-634-07-002", "answers": [ { "text": "1915年", "answer_start": 38, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パーペンがアメリカ大使館付き武官の職についていた時に知り合った、後年のアメリカ合衆国指導者としては、フランクリン・ルーズベルトと誰が挙げられているか?", "id": "tr-634-07-003", "answers": [ { "text": "ダグラス・マッカーサー", "answer_start": 74, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "第一次世界大戦の敗北後、パーペンはドイツ革命により成立したヴァイマル共和政の軍隊で働くことを潔しとせず、1919年に中佐を最後に退役した。貴族階級の社交クラブ「ヘレンクルプ(Herrenklub)」に参加した。クラブの中では馬術の達人として名の知られた人物だった。", "qas": [ { "question": "第一次世界大戦後、ドイツでは、どのような政権が樹立されたの?", "id": "tr-634-08-000", "answers": [ { "text": "ヴァイマル共和政", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヴァイマル共和政は、どの事件により樹立しましたか?", "id": "tr-634-08-001", "answers": [ { "text": "ドイツ革命", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "パーペンが軍人をやめたのは、何年のことか?", "id": "tr-634-08-002", "answers": [ { "text": "1919年", "answer_start": 52, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パーペンは、どの階級を最終階級に、軍人をやめたか?", "id": "tr-634-08-003", "answers": [ { "text": "中佐", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "相前後してパーペンは中央党(カトリック系中道政党)に入党し、1920年にカトリック系労働組合の委員長に就任した。保守系の農民組合の指導者であった。1921年にプロイセン州議会議員に当選するも、与党に属するにも関わらず社会民主党(SPD)首班のオットー・ブラウン政権を支持せず不信任案提出を繰り返し、世間の注目を集めるとともに、保守派との親交を重ねる。", "qas": [ { "question": "パーペンがカトリック系労働組合の委員長に就任したのは、何年のことなの?", "id": "tr-634-09-000", "answers": [ { "text": "1920年", "answer_start": 30, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パーペンが初めて政界入りを果たしたのは、何年のことですか?", "id": "tr-634-09-001", "answers": [ { "text": "1921年", "answer_start": 73, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "どの州の議員に選ばれたことが、パーペンにとって初めての政界入りだったか?", "id": "tr-634-09-002", "answers": [ { "text": "プロイセン州", "answer_start": 79, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "パーペンは、どの派の人々とのつながりを保つことに力を入れていたか?", "id": "tr-634-09-003", "answers": [ { "text": "保守派", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1925年の大統領選挙でもパーペンは、自党のヴィルヘルム・マルクスではなくヒンデンブルクを公然と支持した。このため党執行部はパーペンを除名しようとしたものの、党機関紙「ゲルマニア」の大株主で監査役に就任していたため除名に至らなかった。", "qas": [ { "question": "パーペンは、1925年の大統領選挙で誰を支持したの?", "id": "tr-634-10-000", "answers": [ { "text": "ヒンデンブルク", "answer_start": 37, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パーペンと同じ党に属する人物としては、誰が挙げられていますか?", "id": "tr-634-10-001", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム・マルクス", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パーペンは当時、自由党議員であったが、同じ自由党所属としては、誰が挙げられているか?", "id": "tr-634-10-002", "answers": [ { "text": "ヴィルヘルム・マルクス", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "自由党執行部がパーペンを除名できなかったのは、彼が何の大株主であったからか?", "id": "tr-634-10-003", "answers": [ { "text": "ゲルマニア", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1932年5月30日、ハインリヒ・ブリューニング内閣が瓦解すると、ヒンデンブルク大統領の側近のクルト・フォン・シュライヒャーは、パーペンを後継の首相に推薦した。当時ほとんど無名だったパーペンが推薦されたのは無経験で外見ばかり気にする彼が、シュライヒャーにとって操り人形にし易しと判断されたからという。「パーペンは人の上に立つ器ではない」という周囲の反対に対してシュライヒャーは「彼に人の上になど立たれては困るな。彼は帽子みたいなもんだ」と語ったという。シュライヒャーの推薦を受けてヒンデンブルク大統領はパーペンに首相就任を打診した。", "qas": [ { "question": "ハインリヒ・ブリューニングが首相の座から引き下ろされたのは、いつのことなの?", "id": "tr-634-11-000", "answers": [ { "text": "1932年5月30日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "パーペンが首相に推薦されたのは、何年のことですか?", "id": "tr-634-11-001", "answers": [ { "text": "1932年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パーペンを首相に推薦したのは、誰か?", "id": "tr-634-11-002", "answers": [ { "text": "クルト・フォン・シュライヒャー", "answer_start": 47, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クルト・フォン・シュライヒャーは、パーペンのことを何と表現しながら、彼の首相就任に反対する者らを説得させたか?", "id": "tr-634-11-003", "answers": [ { "text": "帽子", "answer_start": 208, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1932年7月31日に投票が行われた総選挙では、ナチ党が37.4%の得票率を得て230議席(改選前107議席)を獲得し、第一党に躍り出た。社民党は21.6%の得票率で133議席(改選前143議席)に減らした。国家人民党も37議席(改選前41議席)に減らした。中央党は激しいパーペン攻撃の成果で76議席(改選前68議席)に伸ばした。共産党も89議席(前回77議席)を獲得して躍進した。", "qas": [ { "question": "この文書では、何の結果について説明しているの?", "id": "tr-634-12-000", "answers": [ { "text": "1932年7月31日に投票が行われた総選挙", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1932年の総選挙では、どの党が第一党となりましたか?", "id": "tr-634-12-001", "answers": [ { "text": "ナチ党", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1932年の総選挙で、最も少ない議席を確保したのは、どの党か?", "id": "tr-634-12-002", "answers": [ { "text": "国家人民党", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1932年の総選挙で、第二党になったのは、どの党か?", "id": "tr-634-12-003", "answers": [ { "text": "社民党", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "HY戦争", "paragraphs": [ { "context": "HY戦争(エイチワイせんそう)は、1979年(昭和54年)頃から1983年(昭和58年)頃にかけて、本田技研工業(以下:「ホンダ」)とヤマハ発動機(以下:「ヤマハ」)がオートバイ市場において激しくしのぎを削った覇権争いを指す。", "qas": [ { "question": "HY戦争のYは何を指しているの?", "id": "tr-635-00-000", "answers": [ { "text": "ヤマハ発動機", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "HY戦争はどの市場においての争いだったの?", "id": "tr-635-00-001", "answers": [ { "text": "オートバイ市場", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "世界のオートバイ製造第1位のホンダと、同第2位のヤマハ発動機との間には深い因縁がある。\n第二次世界大戦当時、戦闘機用プロペラを製造する軍需工場となった日本楽器製造(現:ヤマハ)の社長であった川上嘉市は、金属加工技術に乏しく生産性が上がらない同社の状況に悩み、東海精機重工業(現:東海精機)の当時社長であった本田宗一郎を頼った。\n宗一郎はカッター式自動切削機を自作し、金属プロペラの製作時間はそれまでの一週間からわずか15分へと劇的に短縮された。\n嘉市は宗一郎を「日本のエジソン」と高く称賛し、特別顧問に迎えた。", "qas": [ { "question": "金属プロペラの製作時間が15分に短縮される前は、どれくらいの時間がかかっていたの?", "id": "tr-635-01-000", "answers": [ { "text": "一週間", "answer_start": 200, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "金属プロペラの製作時間を短縮可能にしたものは何?", "id": "tr-635-01-001", "answers": [ { "text": "カッター式自動切削機", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "戦争終結後、オートバイ製造に転換したプロペラ工場は、ヤマハ発動機として産声を上げた。\nここでも嘉市は助言を求め、宗一郎がこれに応える関係は続き、ヤマハ発動機創立に貢献した。\n当時、日本楽器製造は本社社長を兼ねる嘉市の長男・川上源一が就任していたが、彼は若い頃から常々宗一郎の高い能力を聞かされていたため異存を持たなかった。\nそれどころか、1977年自らが会長に退くに当たり、当時のホンダ社長・河島喜好の実弟である河島博を日本楽器製造の専務から社長に昇格させ、後任に据えた。\nこのような背景から、ホンダと日本楽器製造・ヤマハ発動機には地縁的同業という枠を越えた、一種の蜜月関係にあると業界は見ていた。", "qas": [ { "question": "戦争終結後もヤマハ側が助言を求め続けた人は誰?", "id": "tr-635-02-000", "answers": [ { "text": "宗一郎", "answer_start": 56, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "川上源一が会長を辞めたのはいつ?", "id": "tr-635-02-001", "answers": [ { "text": "1977年", "answer_start": 169, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "河島博のお兄さんは誰?", "id": "tr-635-02-002", "answers": [ { "text": "河島喜好", "answer_start": 196, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1970年代前半、オートバイの日本国内販売台数は年間110万台前後で伸び悩んでいた。\nほぼ飽和したと考えられていたスーパーカブで切り開いた商用車を除けば、オートバイは趣味的要素が強く、オイルショックの逆風も手伝い、その将来性には否定的観測が流れていた。\nホンダは新たな市場として女性層に焦点を絞り、1974年には本田技術研究所の二輪開発部隊を朝霞研究所に集約して取り組んだ。\nそして1976年、ホンダは新しいコンセプトのファミリーバイク「ロードパル」を発表した。\n辣腕の営業所長、網野俊賢らも開発に参画したロードパルは、「日本の街角を変える」というコンセプトの下、簡単な操作と求めやすい価格を実現するために、あえて自転車を開発のベースに据えたものだった。\n取得しやすい原付免許で乗れることもあり、安定成長期に入った当時の世相を背景に仕事や社交へと行動範囲を広げ始めた主婦層にはうってつけの交通手段として認知されて市場に受け入れられた。\nローマ市街を走るソフィア・ローレンを起用したCMも手伝い、ロードパルは爆発的に売れた。\n競合するヤマハ発動機は、1977年に女性向けの機能を一段掘り下げ、スカート姿でも両足を揃えて乗車できるステップスルー式の「パッソル」を発表した。\nCMでは八千草薫が手軽さをアピールした。", "qas": [ { "question": "1970年代に起こった経済的混乱は何?", "id": "tr-635-03-000", "answers": [ { "text": "オイルショック", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ロードパル」の開発ベースは何?", "id": "tr-635-03-001", "answers": [ { "text": "自転車", "answer_start": 307, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「パッソル」の前に発表した女性向けのバイクの名前は?", "id": "tr-635-03-002", "answers": [ { "text": "ロードパル", "answer_start": 447, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「パッソル」のCMに出演したのは誰?", "id": "tr-635-03-003", "answers": [ { "text": "八千草薫", "answer_start": 539, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1978年にはスズキも参入して市場をさらに活性化した。\nこれら新しいカテゴリーのオートバイを利用したのは主に主婦層だったが、副次的に中年男性層にオートバイブームを巻き起こした。\n危険な乗り物・暴走族の乗り物というイメージが付きまとうオートバイへの距離を、お洒落に乗りこなす妻の姿や、大型自動二輪車免許交付において中年層に対しては比較的簡単に認められた点などが後押しして縮めた。\nこうしてオートバイ生産は活況を呈し、1976年には130万台、1977年には160万台、1978年には198万台と、ファミリーバイクを中心に順調な伸びを示した。", "qas": [ { "question": "新しいカテゴリーのオートバイ利用の中心は主婦層だったが、二次的に影響を与えることになったのはどういった層ですか?", "id": "tr-635-04-000", "answers": [ { "text": "中年男性層", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1976年から3年間の中で、2番目にオートバイの生産台数が多かった年はいつ?", "id": "tr-635-04-001", "answers": [ { "text": "1977年", "answer_start": 220, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "3年連続で市場は拡大したが、ホンダは慎重な将来予測を立てていた。\nファミリーバイクは、メーカーが能動的に広告や広報を仕掛け、講習会や試乗会など商品に触れる機会を頻繁に設けて、需要を作り出す性格を持つ商品だとホンダは分析していた。\n過去3年間は、イメージや話題性が先行した顕在需要であり、販売台数の伸びは一旦踊り場を迎えると踏んだ。\n1978年(昭和53年)5月の新車「シャレット」発表を最後に、開発資源を中型車に据えた「M(ミドル)計画」実行に移し、並行してファミリーバイクの在庫圧縮に入った。\nそれに対してヤマハは、1978年(昭和53年)末当時、女性の運転免許証取得者は普通免許が累計約800万人、原付免許が累計約200万人、合計で1000万規模の潜在需要があると睨み、さらに男子大学生などにもユーザー層が広がると見ていた。\n増産体制を維持しつつ、新モデル開発にも力を入れ、1979年(昭和54年)春には「キャロット」「マリック」「リリック」を矢継ぎ早に投入した。", "qas": [ { "question": "1978年の時点で、ファミリーバイクの需要はまだあるだろうと見ていた会社はホンダとヤマハのどちらですか?", "id": "tr-635-05-000", "answers": [ { "text": "ヤマハ", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1978年当時の女性運転免許証取得者の人数が多いのは、普通免許と原付免許のどちらですか?", "id": "tr-635-05-001", "answers": [ { "text": "普通免許", "answer_start": 287, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「マリック」を開発したのはどこ?", "id": "tr-635-05-002", "answers": [ { "text": "ヤマハ", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「シャレット」はどの会社から発表されましたか?", "id": "tr-635-05-003", "answers": [ { "text": "ホンダ", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この両社の差は、1979年1月の生産台数統計に表れた。\n単月ベースでヤマハ発動機がホンダを抜き首位に立った。\n需要はホンダの予測どおり陰りを見せ始め、同年1-4月の出荷台数は前年比10%落ち込んでいた。\nホンダが在庫調整のため出荷を36%落としたのに対し、ヤマハやスズキは生産水準を維持した。\n6月単月のオートバイ総出荷数シェアではホンダ32%に対しヤマハ発動機は36%、上半期累計ではかろうじてホンダは40%と首位を維持したが、2位のヤマハ発動機は36%と肉薄し、ファミリーバイクに限ればホンダ34%に対しヤマハ発動機は49%と圧倒的優位に立った。", "qas": [ { "question": "1979年上半期のファミリーバイクの出荷数は、ホンダとヤマハではどちらが少ないですか?", "id": "tr-635-06-000", "answers": [ { "text": "ホンダ", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "6月単月のオートバイ総出荷数シェアでホンダとヤマハ発動機ではどちらの割合が多いの?", "id": "tr-635-06-001", "answers": [ { "text": "ヤマハ発動機", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オートバイ総出荷数シェアで上半期累計1位はどこですか?", "id": "tr-635-06-002", "answers": [ { "text": "ホンダ", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1979年、ヤマハ発動機の第2代社長、小池久雄は社内外に「チャンスが来た!オートバイ業界の盟主の座を狙う」と高らかに宣言した。\n当時ホンダの軸足は四輪自動車にあった。\n前年から建設が始まっていたアメリカ合衆国オハイオ州のオートバイ工場は自動車生産への布石であり、ブリティッシュ・レイランド(BL、現:ローバー)との提携も交渉の途上にあった。\n日本国内でも1978年に販売チャンネル「ベルノ店」を整備し、既に四輪車の売り上げが二輪車を越えていた。\n一方でヤマハ発動機は、小池自ら主導したマーケティング改革で実力を着実に伸ばしていた。\nこのような状勢の中、小池はヤマハ発動機が仕掛ければホンダは二輪車首位の座を諦めざるを得ず、そしてその地位にヤマハ発動機が着く可能性は充分にあると踏んだ。\n小池の宣言を、当初ホンダは意気高揚を狙ったプロパガンダだと捉えていた。\n本田宗一郎と川上嘉市の関係、国内4社しかもファミリーバイクに参入しなかった川崎重工業(現・川崎重工業モーターサイクル&エンジンカンパニー)を除けば寡占状態の典型のようなオートバイ市場で、ヤマハ発動機が挑戦的な行動を取るとは思えなかった。\nと言いつつもホンダも無為に過ごす訳には行かず、9月には「カレンNX50」、11月には「ロードパルS」と新製品を発売した。\nこれらの効果もありホンダはシェアを45%前後まで巻き返した。", "qas": [ { "question": "1979年当時、ホンダの開発中心軸は何でしたか?", "id": "tr-635-07-000", "answers": [ { "text": "四輪自動車", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ホンダのシェアが45%前後まで巻き返すことができた商品の中で、早い時期に発表されたのは何?", "id": "tr-635-07-001", "answers": [ { "text": "「カレンNX50」", "answer_start": 525, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1978年、ホンダの日本国内での売り上げがより多かったのは四輪車と二輪車のどっち?", "id": "tr-635-07-002", "answers": [ { "text": "四輪車", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1978年からホンダが建設していたオートバイ工場は海外のどこにあるの?", "id": "tr-635-07-003", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国オハイオ州", "answer_start": 97, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1980年、年頭にヤマハ発動機は年間販売台数95万台という計画を打ち上げた。\nこれはヤマハ発動機の本気を如実に示す数字であった。\nさらに6月、日本楽器製造社長の河島博が解任され、川上源一が社長職に返り咲いた。\nこの背景には、経営方針の相違や長男、川上浩への禅譲が遅れることを嫌った源一の意思が働いたなどとする憶測が飛び交ったが、旧本社である日本楽器製造において、ホンダとの繋がりを持つ河島博の退任は、覇権を狙うヤマハ発動機社長、小池にとっては思う存分戦うに当たって障害のひとつが取り除かれたに等しかった。\nヤマハ発動機の追撃は止まることを知らず、1980年の販売台数は83万台と、ホンダの101万台との差を20万台以下まで縮めた。\n1981年には掲げた100万台計画を11月には達成し、ホンダに迫った。\n1982年、年頭の挨拶で小池は「メドがついた。あと一息」と社員を鼓舞した。", "qas": [ { "question": "河島博の次に日本楽器製造社長に就いたのは誰?", "id": "tr-635-08-000", "answers": [ { "text": "川上源一", "answer_start": 89, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1980年の販売台数がより多かったのは、ヤマハ発動機とホンダのどちら?", "id": "tr-635-08-001", "answers": [ { "text": "ホンダ", "answer_start": 290, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1981年にヤマハ発動機が販売台数を100万台突破したのは何月のこと?", "id": "tr-635-08-002", "answers": [ { "text": "11月", "answer_start": 334, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ヤマハ発動機の本気を感じ取ったホンダではあったが、小池の予想通り迅速な対応は取れなかった。\n1979年に調印を済ませたBLとの契約は1981年には上級車種の共同開発プロジェクトチーム編成まで展開し、オハイオ工場は自動車生産開始の目途をつけつつあり、四輪車事業への注力を途切れさせることは出来なかった。\nまた、二輪車分野でもM計画に一度は振られた体制を組み替えることは容易ではなかった。\nしかし、「うちはバイク屋」という自負を持つホンダもオートバイをあきらめたわけではなかった。\n1980年から秘密裏にボストン・コンサルティング・グループと反撃策を練っていたホンダは、新モデル投入で迎撃する戦略に照準を定めた。\nCVCCエンジン開発に携わったことでも知られる、当時朝霞研究所の事実上のトップだった取締役の入交昭一郎は、二輪車開発担当を5年前の倍増に当たる1,500人まで増員し、さらに当時和光研究所(四輪車開発部隊)の事実上のトップだった川本信彦は、和光の開発用予算を朝霞に流用することまで認め、ホンダがオートバイ製造の盟主たる地位を堅守する準備を後押しした。\nこれら一連の計画は「GOGO作戦」と命名されたが、その後勃発する争いを含んで世間では「HY戦争」と呼ばれた。", "qas": [ { "question": "ホンダの「GOGO作戦」のことを、世間は何と呼びましたか?", "id": "tr-635-09-000", "answers": [ { "text": "「HY戦争」", "answer_start": 522, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「GOGO作戦」でホンダを後押しした人物は誰ですか?", "id": "tr-635-09-001", "answers": [ { "text": "川本信彦", "answer_start": 418, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "CVCCエンジンの開発に携わった人は誰?", "id": "tr-635-09-002", "answers": [ { "text": "入交昭一郎", "answer_start": 351, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1980年9月、ヤマハへの反撃に転じたホンダは、その具体策としてスクーター「タクト」を世に送り出した。\n戦後、富士産業(後の富士重工業現:SUBARU)の「ラビット」や中日本重工業(現:三菱重工業)の「シルバービジョン」などのスクーターは、手軽な移動手段としてもてはやされたが、四輪車の普及やスーパーカブの登場などに押され、1968年を最後に日本国内で製造するメーカーはなくなった。\nところが、女性という新しい購買層はスクーターの良さを再発見し、イタリア、ピアジオ製のベスパが30万円を超える高値であるにもかかわらず年間1,000台以上の販売実績をあげるようになっていた。", "qas": [ { "question": "ヤマハに対抗してホンダが出したスクーターは何ですか?", "id": "tr-635-10-000", "answers": [ { "text": "「タクト」", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ピアジオ製ベスパの購買者は主に何でしたか?", "id": "tr-635-10-001", "answers": [ { "text": "女性", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ラビット」や「シルバービジョン」の最後の製造年はいつですか?", "id": "tr-635-10-002", "answers": [ { "text": "1968年", "answer_start": 162, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ホンダはスクーターを有望な武器とみなした。\nVベルトを用いた無段変速機を、合成樹脂を多用して軽量化した車体に搭載し、加速や登坂性など機動力を高め、またデザインもベスパよりコンパクトな車体とゆとりのあるステップを確保した形に仕上げた。\n価格はファミリーバイクより若干高めながら、1台10万8千円と、ベスパの三分の一に抑えた。\nヤマハ発動機やスズキも追随する中、先鞭をつけた「タクト」は1981年には年間47万台販売され、ホンダをかろうじて業界首位の座にとどめる役に立った。", "qas": [ { "question": "ベスパと「タクト」では、価格はどちらが高いですか?", "id": "tr-635-11-000", "answers": [ { "text": "ベスパ", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「タクト」を軽量化するために多用したものとは何?", "id": "tr-635-11-001", "answers": [ { "text": "合成樹脂", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「タクト」に搭載されている無段変速機には何を用いているの?", "id": "tr-635-11-002", "answers": [ { "text": "Vベルト", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ホンダ社長の河島喜好は既に腹を据えていた。\nアメリカホンダ社長の吉沢幸一郎を呼び戻して専務取締役・国内二輪本部長に任命し、販売の陣頭指揮を取らせた。\n四輪車戦略は変わらず重要事項であったが、河島は「今、頭の中の6割を二輪車が占め、四輪車は4割でしかない」と事ある毎に公言した。\n「タクト」で先鞭をつけたホンダは、1982年のスクーター販売計画を100万台と定めた。\n業界見込みによる市場規模が年間160万台のところ、60%以上のシェアを目標に掲げたことになる。\nそのために、2月には「リード」を発売し、続けて女性向けや高級車などを市場に投入した。\nさらに、30社程存在していたオートバイ販売代理店の権益を高値で買い取り、メーカー直轄として影響力と営業対応力を高める戦略にも打って出た。\nこれには「人の心を金で買う行為」との非難も上がったが、攻撃に転じたホンダは動じなかった。\n一方ヤマハ発動機も手綱を緩めず、同年(1982年5月–1983年4月期)の全オートバイ販売計画を国内150万台、輸出220万台と策定した。\n増産に対応するため新たに約1,000人を雇用し、マツダと提携し系列自動車ディーラーを販売網に加えるなど、着々と手を打った。", "qas": [ { "question": "河島の頭の中でより多く占めていたものは二輪車と四輪車のどちら?", "id": "tr-635-12-000", "answers": [ { "text": "二輪車", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1982年5月–1983年4月期のヤマハ発動機の全オートバイ販売計画では、国内と輸出のどちらの台数を多く策定していたの?", "id": "tr-635-12-001", "answers": [ { "text": "輸出", "answer_start": 444, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「タクト」の次にホンダが発表したスクーターは何?", "id": "tr-635-12-002", "answers": [ { "text": "「リード」", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オートバイの増産をするためにヤマハ発動機はどこの会社と提携した?", "id": "tr-635-12-003", "answers": [ { "text": "マツダ", "answer_start": 482, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ホンダは1982年春から年末の間に、実に45種類の新モデルを発売した。\nこれは週あたり1-2モデルという驚異的なペースだった。\nホンダはコンピュータを用いた新しい開発手法を確立したためと説明したが、実態はデザイン段階で絞り込まれて本来はボツになるような企画の商品化や、機構はそのままに外装のみ変更して新製品として販売したものなども含んでいた。\nそれでも、川本が提供した四輪部門の研究資源を活用しなければ、このような品揃えは不可能だった。", "qas": [ { "question": "1982年の春からホンダが発表した新モデルは何種類ありましたか?", "id": "tr-635-13-000", "answers": [ { "text": "45種類", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "両社の争いは、国内のスクーター市場だけに収まらなかった。\n1982年3月、ホンダはプジョー子会社のサイクル・プジョー製自転車の輸入販売を発表した。\nこれにヤマハ発動機は強く反発した。\n元々プジョーは日本国内での販売パートナーとしてヤマハ発動機へ交渉を持ちかけ、ほぼ締結直前の段階にあった。\nこれが突然反故にされた小池は激怒し、自らフランスに乗り込んだ。\nまた、プジョー社内でもレジャー産業を持つヤマハ発動機を押す声が依然あり、事態は混乱を極めた。", "qas": [ { "question": "プジョーはどこの国の会社ですか?", "id": "tr-635-14-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 165, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ホンダが発表したサイクル・プジョー製自転車の輸入販売に対して強く反発したのはどこですか?", "id": "tr-635-14-001", "answers": [ { "text": "ヤマハ発動機", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "そもそもプジョーが日本国内での販売パートナーとして選んでいたのはどこの会社だったの?", "id": "tr-635-14-002", "answers": [ { "text": "ヤマハ発動機", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アメリカのオートバイ市場も争いの場となった。\nそれまで順調に業績を伸ばしてきたヤマハ発動機は、1981年末の新車予約状況で最高記録を達成し、50%近いシェアを持つホンダ追撃に向けた在庫積み増しを開始した。\n対抗してホンダは1982年だけで11モデルの新車を発表、その主軸となったGL1100A(ゴールドウイング)は、大型フェアリング、トランクなど豊富な収納スペース、ラジオを標準装備し、オプションでカーオーディオ搭載も可能な贅沢なつくりだった。\nさらに、水冷V型4気筒750ccエンジンの市販車初投入やターボ車など眼を見張るラインアップを揃えた。\nしかしこの年アメリカ景気は後退し、主要市場であったブルーカラー層は収入減やクレジット枠の縮小などに見舞われ、両社の販売は不振に終わった。", "qas": [ { "question": "水冷V型4気筒750ccエンジンの市販車を初投入した会社はどこ?", "id": "tr-635-15-000", "answers": [ { "text": "ホンダ", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1982年に発表された新車の中で、中心的なモデルは何だったの?", "id": "tr-635-15-001", "answers": [ { "text": "GL1100A", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1982年に入り、ホンダの国内販売優位の状況は変わらないまま、対するヤマハ発動機は徐々にその勢いを失いつつあった。\nアメリカ市場の低迷も追い討ちをかけた。\n10月末、ヤマハのアメリカ向け在庫は業界の見立てによると49万台にのぼり、これは優に販売2年分に相当した。\nホンダの在庫も30万台となっていたが、こちらは8か月分に相当するレベルであった。\n熾烈な薄利多売合戦を繰り広げ、売っても売っても利益が上がらない状況の中、強気な設備投資・新規雇用拡大・販売経費増加・積み重なる余剰在庫はヤマハの経営状態を悪化させていき、とうとう経営戦略の抜本的見直しを迫られるまで追い詰められた。\n1982年下期に入って販売計画を60%も下げる見直しを行い、同時に生産調整を実施。\n製造部門に配属される予定だった新入社員たちを販売店に出向させる配置転換が行われた。", "qas": [ { "question": "1982年10月末の段階で、アメリカ向けの在庫数が多く残っていたのはどこの会社ですか?", "id": "tr-635-16-000", "answers": [ { "text": "ヤマハ", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "しかし、1983年になってもヤマハ発動機の在庫水準は下がらず、このままでは企業存続の危機に見舞われるところまで来ていた。\n1月末、年頭の記者会見でヤマハ社長、小池はHY戦争の敗北を宣言した。\n会見を受け、ホンダ社長、河島は陣頭指揮を執る入交に製品開発の中止を指示した。\n2月10日、日本自動車工業会で両軍の将、河島と小池は9年ぶりに会い、話し合いの席を設けた。\n一時間に及ぶ会談において、小池は深く頭を垂れて戦争の終結を申し入れたという。\n両者はコメントを発表したが、今後は無用な争いを避け、問題があれば話し合い解決する事で原則合意したという内容に止まった。", "qas": [ { "question": "HY戦争の敗者はどこの会社ですか?", "id": "tr-635-17-000", "answers": [ { "text": "ヤマハ", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "HY戦争が終結したのは何年?", "id": "tr-635-17-001", "answers": [ { "text": "1983年", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "リュウグウノツカイ", "paragraphs": [ { "context": "リュウグウノツカイ(竜宮の使い、学名:Regalecusglesne)はアカマンボウ目リュウグウノツカイ科に属する魚類の一種である。リュウグウノツカイ属における唯一の種。特徴的な外見の大型深海魚。目撃されるだけで話題になる場合が多い。\n\nリュウグウノツカイは全身が銀白色で、薄灰色から薄青色の線条が側線の上下に互い違いに並ぶ。背びれ・胸びれ・腹びれの鰭条は鮮やかな紅色を呈し、神秘的な姿をしていることから「竜宮の使い」という和名で呼ばれる。全長は3mほどであることが多いが、最大では11m、体重272kgに達した個体が報告されており、現生する硬骨魚類の中では現在のところ世界最長の種である。", "qas": [ { "question": "生物学的に、リュウグウノツカイが属する目は何ですか?", "id": "tr-636-00-000", "answers": [ { "text": "アカマンボウ目", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイが属する科は何ですか?", "id": "tr-636-00-001", "answers": [ { "text": "リュウグウノツカイ科", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイ属に属する唯一の魚は何ですか?", "id": "tr-636-00-002", "answers": [ { "text": "リュウグウノツカイ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの平均的身長はいくらですか?", "id": "tr-636-00-003", "answers": [ { "text": "3m", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの最大身長として報告されたのは何メートルですか?", "id": "tr-636-00-004", "answers": [ { "text": "11m", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの、報告された最大体重は?", "id": "tr-636-00-005", "answers": [ { "text": "272kg", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの背びれ・胸びれ・腹びれの鰭条はどういう色をしていますか?", "id": "tr-636-00-006", "answers": [ { "text": "紅色", "answer_start": 182, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの学名は何ですか?", "id": "tr-636-00-007", "answers": [ { "text": "Regalecusglesne", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "リュウグウノツカイの体は左右から押しつぶされたように平たく側扁し、タチウオのように薄く細長い。体高が最も高いのは頭部で、尾端に向かって先細りとなる。下顎がやや前方に突出し、口は斜め上に向かって開く。鱗・歯・鰾を持たない。鰓耙は40-58本と多く、近縁のAgrostichthys属(8-10本)との鑑別点となっている。椎骨は143-170個である。\n\n背びれの基底は長く、吻の後端から始まり尾端まで連続する。全て軟条であり、鰭条数は260-412本と多く、先頭の6-10軟条はたてがみのように細長く伸びる。腹びれの鰭条は左右1本ずつしかなく、糸のように長く発達する。腹びれの先端はオール状に膨らみ、本種の英名の一つである「Oarfish」の由来となっている。この膨らんだ部分には多数の化学受容器が存在することが分かっており、餌生物の存在を探知する機能を持つと考えられている。尾びれは非常に小さく、臀びれは持たない。", "qas": [ { "question": "リュウグウノツカイの頭上で、前方にやや突出している部位はどこですか。", "id": "tr-636-01-000", "answers": [ { "text": "下顎", "answer_start": 74, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの口はどっちを向かって開かれますか?", "id": "tr-636-01-001", "answers": [ { "text": "斜め上", "answer_start": 88, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイが持っている鰓耙の数は?", "id": "tr-636-01-002", "answers": [ { "text": "40-58本", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイが近縁のAgrostichthys属との鑑別点となっている身体はどこですか?", "id": "tr-636-01-003", "answers": [ { "text": "鰓耙", "answer_start": 110, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの椎骨はいくつくらいありますか?", "id": "tr-636-01-004", "answers": [ { "text": "143-170個", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの背びれはどこから始まりますか?", "id": "tr-636-01-005", "answers": [ { "text": "吻の後端", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの背びれは吻の後端からどこまで連続していますか?", "id": "tr-636-01-006", "answers": [ { "text": "尾端", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの背びれを構成する鰭条のタイプは何ですか?", "id": "tr-636-01-007", "answers": [ { "text": "軟条", "answer_start": 206, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "リュウグウノツカイの背びれを構成する鰭条数は全部でどれくらいですか?", "id": "tr-636-01-008", "answers": [ { "text": "260-412本", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "先頭にたてがみのように細長く伸びている、リュウグウノツカイの鰭条は何本ですか?", "id": "tr-636-01-009", "answers": [ { "text": "6-10軟条", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの腹びれの鰭条左右何本ずつ生えていますか?", "id": "tr-636-01-010", "answers": [ { "text": "1本", "answer_start": 262, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの腹びれの先端から名をとった、リュウグウノツカイの英語名は何ですか?", "id": "tr-636-01-011", "answers": [ { "text": "「Oarfish」", "answer_start": 310, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの腹びれの先端はどういう形で発達していますか?", "id": "tr-636-01-012", "answers": [ { "text": "オール状", "answer_start": 290, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "リュウグウノツカイのオール状に膨らんでいる腹びれの先端はどういう機能を持っていますか?", "id": "tr-636-01-013", "answers": [ { "text": "餌生物の存在を探知する機能", "answer_start": 362, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイがもつ腹びれが餌生物の存在を探知する機能を持ってると考える根拠は何ですか?", "id": "tr-636-01-014", "answers": [ { "text": "多数の化学受容器", "answer_start": 339, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "リュウグウノツカイは太平洋、インド洋、大西洋など、世界中の海の外洋に幅広く分布する。海底から離れた中層を漂い、群れを作らずに単独で生活する深海魚である。\n\n本来の生息域は外洋の深海であり、人前に姿を現すことは滅多にないが、特徴的な姿は図鑑などでよく知られている。実際に生きて泳いでいる姿を撮影した映像記録は非常に乏しく、生態についてはほとんどわかっていない。通常は全身をほとんど直立させた状態で静止しており、移動するときには体を前傾させ、長い背びれを波打たせるようにして泳ぐと考えられている。\n\n食性は胃内容物の調査によりプランクトン食性と推測され、オキアミなどの甲殻類を主に捕食している。本種は5mを超えることもある大型の魚類であり、外洋性のサメ類を除き、成長した個体が捕食されることは稀と見られる。\n\n卵は浮性卵で、海中を浮遊しながら発生し、孵化後の仔魚は外洋の海面近くでプランクトンを餌として成長する。稚魚は成長に従って水深200-1000mほどの、深海の中層へ移動すると見られる。\n\n2018年(平成30年)12月、沖縄県読谷村の沖合で雌雄の個体が網に掛かった。2匹から精子と卵子を取り出して沖縄美ら島財団総合研究センターが人工授精、人工孵化させたところ20匹が孵化した。このリュウグウノツカイの人工授精と人工孵化は世界初の事例となった。", "qas": [ { "question": "リュウグウノツカイは群れを作って生活するか、単独で生活するかどっちですか?", "id": "tr-636-02-000", "answers": [ { "text": "単独", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの生息域はどこですか?", "id": "tr-636-02-001", "answers": [ { "text": "外洋の深海", "answer_start": 85, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイが移動するとき、何を使って泳ぐと考えられますか?", "id": "tr-636-02-002", "answers": [ { "text": "背びれ", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "リュウグウノツカイは主に何を餌としますか?", "id": "tr-636-02-003", "answers": [ { "text": "オキアミ", "answer_start": 275, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの食性は何ですか?", "id": "tr-636-02-004", "answers": [ { "text": "プランクトン食性", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "リュウグウノツカイはどういう卵を産みますか?", "id": "tr-636-02-005", "answers": [ { "text": "浮性卵", "answer_start": 355, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "リュウグウノツカイの仔魚は何を食べますか?", "id": "tr-636-02-006", "answers": [ { "text": "プランクトン", "answer_start": 388, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "リュウグウノツカイの雌雄の個体が発見されたのはどこの県ですか?", "id": "tr-636-02-007", "answers": [ { "text": "沖縄県", "answer_start": 462, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの雌と雄の個体が発見されたの何年ですか?", "id": "tr-636-02-008", "answers": [ { "text": "2018年", "answer_start": 446, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "リュウグウノツカイの雌と雄の個体があみにかかったのは沖縄県のどこの村ですか?", "id": "tr-636-02-009", "answers": [ { "text": "読谷村", "answer_start": 465, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "世界初のリュウグウノツカイの人工授精どこで行われましたか?", "id": "tr-636-02-010", "answers": [ { "text": "沖縄美ら島財団総合研究センター", "answer_start": 500, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの人工孵化に初めて成功したのはどこですか?", "id": "tr-636-02-011", "answers": [ { "text": "沖縄美ら島財団総合研究センター", "answer_start": 500, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "沖縄美ら島財団総合研究センターで人工孵化に成功したリュウグウノツカイは全部何匹ですか?", "id": "tr-636-02-012", "answers": [ { "text": "20匹", "answer_start": 531, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "リュウグウノツカイ科は2属2種からなり、Nelsonによる魚類分類体系において、本種はリュウグウノツカイ属を構成する唯一の種となっている。\n\nリュウグウノツカイ属の分類には様々な見解があり、日本近海からも報告のあるRegalecusrusseliiをRegalecusglesneとは別種とみなし、こちらに「リュウグウノツカイ」の和名を与える場合もある。本稿では両者をR.glesneにまとめ、R.russeliiをシノニムとして扱うNelsonの体系に基づいて記述しているが、本属の分類については再検討の必要性も指摘されている。", "qas": [ { "question": "リュウグウノツカイ属を構成する唯一の種と見なす、魚類分類体系を立てたのは誰ですか?", "id": "tr-636-03-000", "answers": [ { "text": "Nelson", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本近海で報告されるリュウグウノツカイで、Nelson魚類分類体系ではシノニムとして扱われる種名は何ですか?", "id": "tr-636-03-001", "answers": [ { "text": "Regalecusrusselii", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "リュウグウノツカイはそのインパクトの強い外見から、西洋諸国におけるシーサーペント(海の大蛇)など、世界各地の巨大生物伝説のもとになったと考えられている。その存在は古くから知られており、ヨーロッパでは「ニシンの王」と呼ばれ、漁の成否を占う前兆と位置付けられていた。属名のRegalecusもこの伝承に由来し、ラテン語の「regalis(王家の)」と「alex(ニシン)」を合わせたものとなっている。\n\n中国と台湾では「鶏冠刀魚」や「皇帯魚」と呼ばれる。", "qas": [ { "question": "西洋諸国で巨大生物伝説であるシーサーペントなどのモチーフになったと考えられる生物は何ですか?", "id": "tr-636-04-000", "answers": [ { "text": "リュウグウノツカイ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "リュウグウノツカイが元となった、西洋諸国の巨大生物伝説に登場する動物は何ですか?", "id": "tr-636-04-001", "answers": [ { "text": "シーサーペント", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヨーロッパでリュウグウノツカイはどう呼ばれましたか?", "id": "tr-636-04-002", "answers": [ { "text": "「ニシンの王」", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "リュウグウノツカイの属名は何ですか?", "id": "tr-636-04-003", "answers": [ { "text": "Regalecus", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "regalisがラテン語で意味するのは?", "id": "tr-636-04-004", "answers": [ { "text": "王家の", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの属名のRegalecusはどの言語からきたものだと考えられますか?", "id": "tr-636-04-005", "answers": [ { "text": "ラテン語", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中国と台湾で、リュウグウノツカイは「皇帯魚」のほか、どう呼ばれますか?", "id": "tr-636-04-006", "answers": [ { "text": "「鶏冠刀魚」", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中国と台湾での「鶏冠刀魚」以外のリュウグウノツカイはの名称は?", "id": "tr-636-04-007", "answers": [ { "text": "「皇帯魚」", "answer_start": 214, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "人魚伝説は世界各地に存在し、その正体は海牛類などとされるが、日本における人魚伝説の多くはリュウグウノツカイに基づくと考えられている。『古今著聞集』や『甲子夜話』『六物新誌』などの文献に登場する人魚は、共通して白い肌と赤い髪を備えると描写されているが、これは銀白色の体と赤く長い鰭を持つ本種の特徴と一致するのである。また『長崎見聞録』にある人魚図は本種によく似ている。日本海沿岸に人魚伝説が多いことも、本種の目撃例が太平洋側よりも日本海側で多いことと整合する。日本近海では普通ではないものの、極端に稀というわけでもなく、相当数の目撃記録がある。漂着したり漁獲されたりするとその大きさと外見から人目を惹き、報道されることが多い。\n\nサケガシラなど他の深海魚の浅海での目撃や海岸漂着を含めて、天変地異、特に地震の前兆(宏観異常現象)の一つとされることもあるが、魚類学者の本間義治によれば憶測に過ぎず、東海大学の研究でも否定されている。こうした日本の伝承・俗説は、インドネシアでも知られている。\n\n2014年1月に兵庫県豊岡市に漂着した個体では、市内の環境省の学習施設の職員らが解剖調査を行った後に調理して試食しており、身に臭みや癖がないことや、食感が鶏卵の白身のようであること、内臓の部位によっては味が濃厚であることなどを報告している。生きたリュウグウノツカイを漁師が銛で突き、極めて新鮮なうちに食べた記録が、長崎県壱岐諸島の『壱岐日日新聞』519号(2010年1月29日付)にある。全長約5メートル、40-50キログラムの個体で「刺身で食べたらゼラチン質がプリプリして、甘みがいっぱい。まるでエビの刺身」という。また、鍋で食べても、「身が甘くてツルッとした口触りで柔らかく、鍋一杯がアッという間になくなるほど好評だった」という。\n\n富山県では冬になると本種がしばしば定置網にかかり、漁師から「おいらん」と呼ばれている。また新潟県の柏崎では「シラタキ」と呼ばれる。", "qas": [ { "question": "日本における人魚伝説の多くが基づいている生物は何ですか?", "id": "tr-636-05-000", "answers": [ { "text": "リュウグウノツカイ", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "世界各地で存在する人魚伝説の元となる生物類は何ですか?", "id": "tr-636-05-001", "answers": [ { "text": "海牛類", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『古今著聞集』や『甲子夜話』『六物新誌』などで描写されている人魚の特徴で共通しているものは白い肌と何ですか?", "id": "tr-636-05-002", "answers": [ { "text": "赤い髪", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『古今著聞集』や『甲子夜話』『六物新誌』などで描写されている人魚の特徴で共通しているものは赤い髪と何ですか?", "id": "tr-636-05-003", "answers": [ { "text": "白い肌", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『古今著聞集』や『甲子夜話』『六物新誌』などの文献に登場する人魚の白い肌はリュウグウノツカイのどこに似ていますか?", "id": "tr-636-05-004", "answers": [ { "text": "銀白色の体", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "リュウグウノツカイの赤く長い鰭は日本文献に記述されている人魚のどこが一致していますか?", "id": "tr-636-05-005", "answers": [ { "text": "赤い髪", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サケガシラなどリュウグウノツカイ以外の深海魚の浅海での目撃はどんな風に見なされていますか?", "id": "tr-636-05-006", "answers": [ { "text": "地震の前兆", "answer_start": 350, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "深海魚の浅海での目撃が天変地異と何の関係もないと主張したのは魚類学者の本間義治のほかどこですか?", "id": "tr-636-05-007", "answers": [ { "text": "東海大学", "answer_start": 397, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2014年1月にリュウグウノツカイが漂着した市はどこですか?", "id": "tr-636-05-008", "answers": [ { "text": "豊岡市", "answer_start": 456, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2014年1月、リュウグウノツカイはどの県に漂着しましたか?", "id": "tr-636-05-009", "answers": [ { "text": "兵庫県", "answer_start": 453, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "豊岡市に漂着したリュウグウノツカイが解剖調査された機関はどこですか?", "id": "tr-636-05-010", "answers": [ { "text": "環境省", "answer_start": 472, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイの食感は何に似ていますか?", "id": "tr-636-05-011", "answers": [ { "text": "鶏卵の白身", "answer_start": 522, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "生きたリュウグウノツカイを漁師が銛で突き極めて新鮮なうちに食べた記録が残されているのはどこですか?", "id": "tr-636-05-012", "answers": [ { "text": "『壱岐日日新聞』519号", "answer_start": 610, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイを新鮮なうちに食べた記録がある『壱岐日日新聞』はいつ発刊されたものですか?", "id": "tr-636-05-013", "answers": [ { "text": "2010年1月29日", "answer_start": 623, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『壱岐日日新聞』519号に記録されているリュウグウノツカイの身長は何mですか?", "id": "tr-636-05-014", "answers": [ { "text": "5メートル", "answer_start": 642, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『壱岐日日新聞』519号に記録されているリュウグウノツカイの体重は何キロですか?", "id": "tr-636-05-015", "answers": [ { "text": "40-50キログラム", "answer_start": 648, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "富山県では、冬になると定置網にかかるリュウグウノツカイをどう呼びますか?", "id": "tr-636-05-016", "answers": [ { "text": "「おいらん」", "answer_start": 793, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "新潟県でリュウグウノツカイをどう呼びますか?", "id": "tr-636-05-017", "answers": [ { "text": "「シラタキ」", "answer_start": 817, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイを「シラタキ」と呼ぶ地域はどこですか?", "id": "tr-636-05-018", "answers": [ { "text": "新潟県", "answer_start": 809, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "リュウグウノツカイを「おいらん」と呼ぶのはどこですか?", "id": "tr-636-05-019", "answers": [ { "text": "富山県", "answer_start": 764, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "飛騨市図書館", "paragraphs": [ { "context": "飛騨市図書館(ひだしとしょかん)は、岐阜県飛騨市古川町本町にある公立図書館。\n飛騨市役所本庁舎に隣接して建ち、館内には市役所の一部機能も置かれている。\n毎月1回「おとなの時間」と題した企画を開催し、若年者への読書普及活動を推進しているほか、あまり予算をかけずにできる多様な利用者増加のための活動を展開している。\nまた2016年(平成28年)公開の新海誠監督のアニメーション映画『君の名は。』の中に登場する図書館のモデルとなっており、映画公開以後、いわゆる聖地巡礼に訪れる人が見られる。", "qas": [ { "question": "『君の名は。』に登場する図書館のモデルとはどこ?", "id": "tr-637-00-000", "answers": [ { "text": "飛騨市図書館", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『君の名は。』で監督を務めた人は誰?", "id": "tr-637-00-001", "answers": [ { "text": "新海誠", "answer_start": 173, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「おとなの時間」という企画はどれくらいの頻度で開催されているの?", "id": "tr-637-00-002", "answers": [ { "text": "毎月1回", "answer_start": 76, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "飛騨市図書館の所在地は?", "id": "tr-637-00-003", "answers": [ { "text": "岐阜県飛騨市古川町本町", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "飛騨市役所本庁舎に隣接して建ち、市役所西庁舎を取り壊した跡地に建設された。\n建物は地上4階地下1階建てで、延床面積は7,143m2、プロポーザルで株式会社金沢計画研究所が設計を担当。\n日本建築家協会優秀作品選2011および2010年優秀照明施設東海支部長奨励賞を受賞している。\n建物としての別名は「飛騨市西庁舎」、正式名称は「飛騨市図書館複合施設」である。\n飛騨市役所の一部の部署を並置するほか、多目的ホールや授乳室、会議室も設け、広く市民の交流の場となるよう整備された。\n事業費は26億4千万円。\n図書館として機能する部分は1階にあり、延床面積は2,134m2である。\n館内は木のぬくもりが感じられるように整備され、太陽光を取り込みやすく設計されている。\n2階には飛騨市高度情報センターと飛騨市教育委員会、3階には飛騨市役所の各部署や会議室がある。", "qas": [ { "question": "飛騨市図書館の事業費にはいくらかかっているの?", "id": "tr-637-01-000", "answers": [ { "text": "26億4千万円", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "図書館は建物の何階に入っているの?", "id": "tr-637-01-001", "answers": [ { "text": "1階", "answer_start": 263, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "建物の設計者はどこの会社なの?", "id": "tr-637-01-002", "answers": [ { "text": "株式会社金沢計画研究所", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2010年に建物が授賞した賞とは何?", "id": "tr-637-01-003", "answers": [ { "text": "優秀照明施設東海支部長奨励賞", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "飛騨市には本項で扱っている飛騨市図書館のほか、飛騨市神岡図書館もある。\n市図書館と神岡図書館の館長は兼任である。\n館内の図書はICタグによる管理が行われており、自動貸出機による貸し出しができる。\n所在地は岐阜県飛騨市古川町本町2番22号。\nJR高山本線飛騨古川駅より徒歩5分。\n貸出制限は飛騨市に居住・通勤・通学している者。\n貸出可能点数は図書が7冊、AV資料が2点。\n貸出可能期間は2週間。\n予約、リクエスト、複写、レファレンスサービス可能。\n返却場所はサービスカウンター、ブックポスト(閉館時のみ)。\n開館時間は9時から20時まで(ただし日曜日は17時まで)。\n休館日は月曜日(祝日の場合は翌日)、月末、年末年始。", "qas": [ { "question": "貸出可能点数が多いのは図書とAV資料のどちら?", "id": "tr-637-02-000", "answers": [ { "text": "図書", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "図書館は何時から開いているの?", "id": "tr-637-02-001", "answers": [ { "text": "9時", "answer_start": 258, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "図書館は平日何時まで開いているの?", "id": "tr-637-02-002", "answers": [ { "text": "20時", "answer_start": 262, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "飛騨市図書館の館長はどこの図書館と館長を兼任しているの?", "id": "tr-637-02-003", "answers": [ { "text": "神岡図書館", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "河合・宮川の両振興事務所管内には公民館図書室は設置されているものの、飛騨市図書館のシステムとは連動していない。\nまた飛騨市神岡図書館のある神岡町内にありながら、飛騨市立山之村小中学校の学区内では同館まで峠越えなどの交通困難を抱えている。\nそこでこの3地域では「飛ぶ図書館」と命名された移動図書館サービスが2016年(平成28年)より実施されている。\n「飛ぶ図書館」は月1回(河合振興事務所で第1木曜日に、宮川振興事務所で第3木曜日に、山之村公民館で第2木曜日に)、図書館職員が出張して貸出・返却やリクエストの受付などの図書館業務を行うものである。\n貸出は7冊まで、1か月間借りることができる。", "qas": [ { "question": "「飛ぶ図書館」での貸出は何冊まで可能ですか?", "id": "tr-637-03-000", "answers": [ { "text": "7冊", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「飛ぶ図書館」での貸出可能期間はどれくらいですか?", "id": "tr-637-03-001", "answers": [ { "text": "1か月間", "answer_start": 282, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "3地域に「飛ぶ図書館」が来るのは共通して何曜日ですか?", "id": "tr-637-03-002", "answers": [ { "text": "木曜日", "answer_start": 197, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "移動図書館の開始に伴い、河合・宮川の両振興事務所で行っていた「広域サービス」と「山之村出張貸出」は2015年(平成27年)度末で廃止された。\n「広域サービス」とは、飛騨市図書館と飛騨市神岡図書館から計100冊をそれぞれの振興事務所に配架して貸し出すサービスであった。\n配架する本は2か月ごとに入れ替えていた。\n「山之村出張貸出」は2013年(平成25年)に始まり、第2木曜日に100冊程度の本を公民館に搬入して特別に1か月貸し出すサービスであった。", "qas": [ { "question": "「山之村出張貸出」のサービス提供日はいつですか?", "id": "tr-637-04-000", "answers": [ { "text": "第2木曜日", "answer_start": 182, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「山之村出張貸出」がスタートしたのは何年からですか?", "id": "tr-637-04-001", "answers": [ { "text": "2013年", "answer_start": 165, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "飛騨市図書館の前身は、旧吉城郡古川町が設置した古川町図書館である。\n古川町は1950年(昭和25年)に青年会館を改築し古川町公民館に改め、館内に図書室を設け活動を開始した。\nそれ以前から1946年(昭和21年)に円光寺境内の建物を借用して読書指導を行っており(1947年〔昭和22年〕に廃止)、1948年(昭和23年)には警察署の武道場として利用していた建物を増築して青年会館に充当した際に2階に図書室が設置されている。\n1955年(昭和30年)になると古川警察署が移転して空き庁舎となった建物を借用して公民館分館とし、図書室をこちらへ移転した。\nこの図書室は青年団の奉仕活動として運営された。", "qas": [ { "question": "飛騨市図書館は元々何という図書館でしたか?", "id": "tr-637-05-000", "answers": [ { "text": "古川町図書館", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "古川町が最初に読書指導を行ったのは、何年でしたか?", "id": "tr-637-05-001", "answers": [ { "text": "1946年", "answer_start": 93, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1955年に移転した建物には、元々何の機関が入ってましたか?", "id": "tr-637-05-002", "answers": [ { "text": "古川警察署", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1967年(昭和42年)7月には千代の松原公園に古川町公民館が新築され、その一室に古川町公民館図書室を移転した。\n1970年(昭和45年)6月時点の蔵書は3,738冊であった。\n1971年(昭和46年)7月1日に古川町図書館となった。\nこの時から司書補を設置して本格的な図書館活動を開始し、壱之町の三島一郎から289冊の図書の寄贈を受けたり、貸し出し業務を開始するなど図書館機能が整っていった。\n古川町図書館を含めて、1976年(昭和51年)時点の岐阜県には8市6町1村に自治体立図書館が存在した。", "qas": [ { "question": "古川町図書館となった時に誰から200冊以上の図書の寄贈を受けましたか?", "id": "tr-637-06-000", "answers": [ { "text": "三島一郎", "answer_start": 149, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "図書館の機能充実とともに利用者も増え、住民の高学歴化と生涯学習の実践の点から公民館の一角では手狭となった。\nちょうど1977年(昭和52年)に岐阜県立吉城高等学校が上気多地区へ移転して校舎が空いたため、これを利用して1981年(昭和56年)7月1日に古川町図書館は新装開館となった。\n新しい古川町図書館は飛騨古川駅南東に位置し、鉄筋コンクリート構造3階建ての独立した建物となった。\n当時の蔵書は約3万冊であった。\n1985年(昭和60年)に新日本フィルハーモニー交響楽団の指揮者として古川町を訪れたことを契機に古川町と交流を持ち、1990年(平成2年)に第2回飛騨古川音楽大賞特別功労賞を受賞した小泉和裕は、受賞時に自ら選書した音楽関係の図書約500冊を古川町図書館に寄贈し、それらは「小泉文庫」となった。", "qas": [ { "question": "新装開館時の古川町図書館の蔵書は何冊でしたか?", "id": "tr-637-07-000", "answers": [ { "text": "約3万冊", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「小泉文庫」の寄贈者は誰でしたか?", "id": "tr-637-07-001", "answers": [ { "text": "小泉和裕", "answer_start": 298, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小泉和裕は古川町図書館に何冊の寄贈図書を贈りましたか?", "id": "tr-637-07-002", "answers": [ { "text": "約500冊", "answer_start": 321, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小泉和裕が新日本フィルハーモニー交響楽団で担当していた役割とは何だったの?", "id": "tr-637-07-003", "answers": [ { "text": "指揮者", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2002年(平成14年)11月から開館以来初めてとなる蔵書の整理に着手、2003年(平成15年)1月時点で42,309冊あった蔵書を最終的に約3万5千冊まで削り、残した図書にバーコードを貼り付け、2003年(平成15年)4月2日からコンピュータを利用した貸し出し業務を開始した。\n同時に児童書コーナーと一般書コーナーにコンピュータを3台設置し、インターネットからの蔵書検索も可能とした。\n同年12月2日には神岡町立図書館(後の飛騨市神岡図書館)もコンピュータを利用した貸し出しを開始し、町村合併による飛騨市発足を見据えて古川町図書館と神岡町立図書館が回線で接続された。\nこれにより、相互の蔵書が検索可能になっただけでなく、それぞれの図書館カウンターで相手の図書館の蔵書を借りられるようになった。", "qas": [ { "question": "古川町図書館と神岡町立図書館は何年にコンピュータを利用した貸し出し業務を開始しましたか?", "id": "tr-637-08-000", "answers": [ { "text": "2003年", "answer_start": 36, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2002年に始まった蔵書の整理により、何冊にまで減らしましたか?", "id": "tr-637-08-001", "answers": [ { "text": "約3万5千冊", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2004年(平成16年)2月1日に古川町は神岡町・河合村・宮川村と合併して飛騨市になり、古川町図書館と神岡町の設置した神岡町立図書館が飛騨市に引き継がれた。\n古川町図書館はこの時、飛騨市古川図書館に改称した。\n2005年(平成17年)、早船ちよの作品や蔵書を集めたコーナーが設置された。\n童話作家の早船は二之町生まれであり、三之町でも約半年間暮らしている。\n後の飛騨市図書館2階の情報フロアには早船に関する資料が展示されるようになり、2015年3月には1階の郷土資料コーナー近くに早船文庫が移設された。\n2009年(平成21年)2月8日に新しく建設された飛騨市図書館への移転準備作業のため、古川図書館は閉館することになった。", "qas": [ { "question": "古川町図書館が飛騨市古川図書館に改称した年はいつでしたか?", "id": "tr-637-09-000", "answers": [ { "text": "2004年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "二之町出身の童話作家のフルネームは何?", "id": "tr-637-09-001", "answers": [ { "text": "早船ちよ", "answer_start": 118, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "飛騨市に合併された村は宮川村と何?", "id": "tr-637-09-002", "answers": [ { "text": "河合村", "answer_start": 25, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "古川図書館は老朽化した飛騨市立古川小学校の新築移転計画地に立地したことから、図書館についても新築移転が検討されるようになり、その計画に飛騨市議会議場の整備も盛り込まれることになった。\n2007年(平成19年)2月、市議会で同年度の一般会計予算案に図書館と議場の複合施設の建設予算として10億3千万円が計上され、同年5月に着工した。\n議場は3階に設ける予定であった。\n時を同じくして市民の間から建設に反対する運動が起き、5月16日には5,738人の反対署名が飛騨市に提出された。\n反対派の主張は「議員定数減少と厳しい財政の中、新しい議場を建設するのはおかしい」、「近代的な建物で、周囲の古い町並みと合わない」というもので、図書館の建設には賛成の市民も署名に応じている。\nさらに建設工事の入札では談合情報が寄せられ、落札者が情報通りであったことや、落札率(入札予定価格に対する落札額の比率)が99.33%であったことから談合疑惑があったが、飛騨市議会は落札者と契約する議案を可決し、時の飛騨市長・船坂勝美は「粛々と建設を進める」と答弁した。\nしかし2008年(平成20年)に市長に就任した井上久則は計画変更を検討し、議場ではなく会議室とすることで決着した。\nそして2009年(平成21年)7月5日に飛騨市図書館が開館した。\n開館当時より内田洋行の図書館システム「ULiUS」を導入してICで図書の管理を行い、自動貸出機や入館ゲートも設置された。\n蔵書数は約6万冊であった。", "qas": [ { "question": "新しい議場建設に対する反対署名には、何名が署名しましたか?", "id": "tr-637-10-000", "answers": [ { "text": "5,738人", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ULiUS」を開発した会社はどこ?", "id": "tr-637-10-001", "answers": [ { "text": "内田洋行", "answer_start": 566, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "飛騨市図書館の開館時の蔵書数は何冊でしたか?", "id": "tr-637-10-002", "answers": [ { "text": "約6万冊", "answer_start": 625, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "飛騨市図書館が導入したシステムとは?", "id": "tr-637-10-003", "answers": [ { "text": "「ULiUS」", "answer_start": 578, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2010年(平成22年)11月22日、貸出図書の延滞者の個人情報4件が流出したことが公表された。\n流出先は岡山県の図書館であり、飛騨市図書館がシステム保守点検を依頼した三菱電機インフォメーションシステムズが飛騨市図書館のシステムを基に岡山でシステム設計を行ったのが原因であった。\nその後、同社のシステムを使用していた他の13市区町村でも流出していることが判明したが、流出した事実を公表し対象者に謝罪・説明したのが飛騨市だけであったことも明らかになっている。\n2011年(平成23年)に、飛騨市は前年に交付された総務省の「住民生活に光をふりそそぐ交付金」を基金化し、それを元手に専任図書館長を一般公募した。\nそこで館長に採用された西山進を中心に年間10件程度だった図書館の主催行事を大幅に増やしていった。\n2013年(平成25年)1月には図書館の公式Facebookページを開設し、各種企画の告知を開始した。", "qas": [ { "question": "貸出図書延滞者の個人情報流出先は何県でしたか?", "id": "tr-637-11-000", "answers": [ { "text": "岡山県", "answer_start": 53, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "飛騨市図書館がシステム保守点検を依頼した会社はどこでしたか?", "id": "tr-637-11-001", "answers": [ { "text": "三菱電機インフォメーションシステムズ", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "一般公募の中から専任図書館長に選ばれた人は誰?", "id": "tr-637-11-002", "answers": [ { "text": "西山進", "answer_start": 314, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2014年(平成26年)2月16日と2月17日に図書館問題研究会第40回研究集会を2階の「飛騨市高度情報センター情報発信室」で開催した。\nまた同年4月13日にはシラカバの樹液を使って飲み物や石鹸を作るワークショップ(会場の提供)、10月22日にはテリー植田を招いて本の交換会「ブクブク交換」を、11月8日には東雅夫らを招いて「ふるさと怪談」トークライブin飛騨市を、いずれも2階のにじのひろばで開催した。\n「ふるさと怪談」トークライブは古川町読書クラブが毎年開いている「飛騨市読書大会」との共催という形で実現した。\n2019年(令和元年)8月、毎年飛騨まんが王国で夏合宿を行っている賢プロダクション所属の四宮豪と冨田泰代を講師とする声優体験会を開催した。", "qas": [ { "question": "「ふるさと怪談」と「ブクブク交換」はどちらが先に開催されましたか?", "id": "tr-637-12-000", "answers": [ { "text": "「ブクブク交換」", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「ブクブク交換」でゲストとして招かれた人は誰でしたか?", "id": "tr-637-12-001", "answers": [ { "text": "テリー植田", "answer_start": 123, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ふるさと怪談」でゲストとして招かれた人は誰でしたか?", "id": "tr-637-12-002", "answers": [ { "text": "東雅夫", "answer_start": 154, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "飛騨市図書館では、利用者数の減少に対して少しでも図書館に興味を持ってもらおうとさまざまな取り組みを行っている。\n取り組みは他の図書館の企画にアレンジを施したものが多く、職員らの発案を採用して実施している。\n毎日新聞は「企画のアイディアは昼休みなどに落ち着いた環境で話し合えるようにし、あえて企画会議は開かない」と報じているが、中日新聞によると月に1回「イベント会議」を開き自由にアイディアを出し合っているという。\n図書館の利用者は30代以上の女性がおよそ半数を占めるという偏りがあり、特に中学生相当から20代の利用者が少ないことが課題となっている。\n飛騨市では「赤ちゃんからお年寄りまで一緒に利用できる図書館」を目指しており、特に子供や子育て中の両親が利用しやすい図書館にするための企画を多く行ってきた。", "qas": [ { "question": "図書館を最も多く利用する対象者は何ですか?", "id": "tr-637-13-000", "answers": [ { "text": "30代以上の女性", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "飛騨市図書館では毎月第4土曜日の夜に「おとなの時間」と題した企画を行っている。\n2015年(平成27年)6月に始まったこの企画では過去に、「モンブラン→山岳本」などの「カフェ・ビブリオテーク」シリーズや「大人向け絵本の読み聞かせ」、「図書館ジャズライブ」、薬草を研究する「魔女の集い」などを開催し、20代から40代の若年者が読書に親しむ機会を提供することを目的としている。", "qas": [ { "question": "「おとなの時間」は毎月何曜日の夜に開催されていますか?", "id": "tr-637-14-000", "answers": [ { "text": "土曜日", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2016年(平成28年)8月27日には初の試みとして「官能小説朗読ライブ」を開催した。\n朗読する作品が官能小説であったことからインターネットで話題となり多少の批判はあったものの、同館への直接の問い合わせはなかったという。\n開催にあたっては飛騨市教育委員会の公認を得ている。\nライブには当初用意したソファ席が満席になり急きょ追加の席を出すなど約70人が詰めかけ、中には飛騨市長や愛知県・三重県など遠方からの参加者もいた。\n自前の浴衣を着た司書の3人が30分ずつ3つの作品(姫野カオルコ『正調・H物語』、川上弘美『可哀相』、谷崎潤一郎『刺青』)を朗読し、参加者はコーヒーを飲みながら静かに朗読に聞き入った。\nなお「官能小説朗読ライブ」は「大人の時間」の企画が立ち上がった当初より構想が温められてきたが、読み手がなかなか見つからなかったことから開催が遅れ、最終的には司書自らが読み手を務めることになった。", "qas": [ { "question": "「官能小説朗読ライブ」の開催当初に集まった人数は?", "id": "tr-637-15-000", "answers": [ { "text": "約70人", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "水曜日と金曜日の午前中に「こどものじかん」を開催している。\n子供が館内で声を出してもいいように、大きめのオルゴール音を流している。\n2012年(平成24年)より職員のおすすめの図書を中が見えないようにして貸し出す「図書館福袋」を開催している。\n福袋の中には3冊の図書が入っており、文房具などの「お年玉」も付いている。\n同種の企画として7月に「図書館のお中元」を実施したこともある。", "qas": [ { "question": "「こどものじかん」に流れているBGMは何の音?", "id": "tr-637-16-000", "answers": [ { "text": "オルゴール音", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2011年(平成23年)より季節限定で、午後4時から館内照明をゆらぎ灯に変えて薄暗がりの非日常的な図書館を楽しんでもらう「暗がりライブラリー」という企画を行っている。\n第1回はお盆の時期(8月)に開催したものの期待したほど薄暗くならなかったため、ハロウィンの時期(10月)に変更した。\nただ薄暗くするだけでなく、バルーンアートの作家によるワークショップなどの催しを同時に開催し、手作りの仮装衣装をまとった子供の来館も増えている。\n2016年(平成28年)は10月21日に魔女に扮した職員による絵本の読み聞かせやカボチャのバルーンアート作りなどの企画が行われ、マリオの仮装をした飛騨市長の都竹淳也をはじめとして約600人が参加した。", "qas": [ { "question": "「暗がりライブラリー」の第1回目は何月に開かれましたか?", "id": "tr-637-17-000", "answers": [ { "text": "8月", "answer_start": 94, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "思い出の絵本展は、従来は飛騨市内の旅館・蕪水亭で2007年(平成19年)から実施していた市民団体の企画であったが、2010年(平成22年)から飛騨市図書館2階の「にじのひろば」で実施するようになり、飛騨市図書館も協力するようになった。\n絵本展は11月に開催され、絵本の展示を通した親子・家族・人々の交流を目的としている。\n主催者の市民団体は2011年(平成23年)11月にNPOの法人格を取得し、飛越交流事業補助金を活用した富山市立図書館の読み聞かせボランティアとの交流や、長野県小布施町で実施している「まちじゅう図書館」にヒントを得た「ぐるっと町ごと絵本館」という行事を行っている。", "qas": [ { "question": "思い出の絵本展が飛騨市図書館で実施されるようになったのは何年からですか?", "id": "tr-637-18-000", "answers": [ { "text": "2010年", "answer_start": 57, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "思い出の絵本展は毎年何月に開催されていますか?", "id": "tr-637-18-001", "answers": [ { "text": "11月", "answer_start": 122, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "思い出の絵本展は元々どこで実施されていたイベントでしたか?", "id": "tr-637-18-002", "answers": [ { "text": "蕪水亭", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "エアバスA330", "paragraphs": [ { "context": "エアバスA330(AirbusA330)は、ヨーロッパのエアバス社が開発・製造している、ワイドボディの双発ジェット旅客機である。元々は中短距離路線向けの大型旅客機として開発されたが、後に航続力を強化した派生型が追加され長距離路線にも就航するようになった。エアバスA300の胴体を延長したワイドボディ機で、低翼配置の主翼下に2発のターボファンエンジンを装備する。尾翼は低翼配置、降着装置は前輪配置である。A330シリーズには旅客型のA330-200とA330-300、貨物型のA330-200Fに加えて、軍用の多目的空中給油・輸送機であるA330MRTTがあるほか、エンジンを新型に置き換えたエアバスA330neoの開発も進められている。機体寸法や性能は各形式によるが、就航中のA330-200/-300/-200Fでは、巡航速度はマッハ0.82、全長は58.82から63.69メートル、全幅は60.30メートル、最大離陸重量は184トンから242トン、座席数は253席から440席程度である。A330ではフライ・バイ・ワイヤシステムやグラスコックピットが導入され、操縦系統が共通化されたエアバス機との間で相互乗員資格が認められている。", "qas": [ { "question": "A330シリーズの中で軍用の多目的空中給油・輸送機として開発されたのは、何?", "id": "tr-638-00-000", "answers": [ { "text": "A330MRTT", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エアバスA330は元々はどのような路線向けの大型旅客機として開発されましたか?", "id": "tr-638-00-001", "answers": [ { "text": "中短距離路線", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A330-200とA330-300、A330-200Fのうち、旅客型でないのは、何か?", "id": "tr-638-00-002", "answers": [ { "text": "A330-200F", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A330シリーズで最初に開発されたのはA330-300で、1987年に長距離4発機のエアバスA340と同時に正式開発が決定された。双発機のA330と4発機のA340の同時並行的な開発は航空技術史上において希少な取り組みとなり、両機はエンジン関係を除いて最大限共通化された。A330-300は1994年にエールアンテールによって初就航した。次に開発されたA330-200はA330の短胴・長距離型で、1995年に正式開発が決定され、1997年にカナダ3000によって初就航した。A330-200FはA330-200をベースとした貨物専用型で、2007年に正式開発が決定され、2010年にエティハド航空の貨物部門に初引き渡しが行われた。エンジンを新型に置き換えるエアバスA330neoシリーズは、2014年に正式に開発計画が発表され、2018年に路線就航を開始した。2015年7月現在、1,095機のA330が民間航空路線に就航している。運用者を地域別にみると、全体の約6割がアジア・中東・オセアニア地域の航空会社によって運用されており、中でも中国の航空会社による運用機数は約1割を占める。その次に欧州・ロシア地域の航空会社による運用機数が多く、続いて北米・南米地域、アフリカ地域の順となっている。2019年3月現在、A330の死亡事故は3件発生して338人が死亡している。A330が巻き込まれたハイジャックは2件発生し、1人が死亡している。", "qas": [ { "question": "A330シリーズの中で最初に正式開発が決定されたのは、何?", "id": "tr-638-01-000", "answers": [ { "text": "A330-300", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A330-200FとエアバスA330neoのうち、初就航がより遅かったのは、どれですか?", "id": "tr-638-01-001", "answers": [ { "text": "エアバスA330neo", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2015年7月の時点でA330の運用者が最も少ない地域は、どこか?", "id": "tr-638-01-002", "answers": [ { "text": "アフリカ", "answer_start": 532, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "米国の航空機メーカーに対抗するため、欧州の航空機メーカーは1970年12月に企業連合「エアバス・インダストリー」を設立した。エアバスは最初の製品である双発ワイドボディ機、A300の販売を軌道に乗せ、次期製品の検討を行った。この時の製品候補の中に、A330の源流となる「A300B9」(以下、B9)と呼ばれた機体案があった。B9案はA300の胴体を延長し、ダグラスDC-10やロッキードL-1011の市場に食い込むことを狙った双発の中距離機であった。B9案の他には、A300の胴体短縮型となるA300B10(以下、B10)案、そしてエンジンを4発とした長距離型のA300B11(以下、B11)案などの複数の機体案が検討されていた。しかし、当時のエアバスには同時に複数の機種を開発できるだけの資金や人員がなく、市場調査の結果をふまえて次期製品はB10案に絞られた。1978年にエアバスはB10案をA310と命名して正式に開発を開始し、B9やB11案は無期限に延期した。1980年になると、エアバスは「SA」(SingleAisle)と名付けられた単通路機(ナローボディ機)の研究を行っていることを明らかにした。同時に、ワイドボディ機の計画名には2通路を意味する「TA」(TwinAisle)が付けられ、B9案はTA9、B11案はTA11と名前を変えた。1982年のファーンボロー国際航空ショーの場で、TA9、TA11、そして新たに追加されたTA12の開発構想が発表された。TA9、TA11、TA12案は何度か変更が加えられ、TA9はA300の胴体を延長して320席を超える座席数を持つ中距離双発機、TA11はTA9より短い胴体で座席数は230席程度、10,000キロメートル以上の航続力を持つ長距離4発機、TA12はTA11と同じ胴体長・座席数で、TA11より航続距離が短い長距離双発機となった。", "qas": [ { "question": "A300B10案は、正式開発開始の時点になると何と呼ばれるようになったの?", "id": "tr-638-02-000", "answers": [ { "text": "A310", "answer_start": 396, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "SAとTAのうち、何が付けられた機種に、より多くの通路が用意されていましたか?", "id": "tr-638-02-001", "answers": [ { "text": "TA", "answer_start": 529, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "TA9とTA11、TA12のうち、航続距離が最も長いのは、何か?", "id": "tr-638-02-002", "answers": [ { "text": "TA11", "answer_start": 638, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "TA9とTA11、TA12のうち、最も多くのエンジンが装備されたのは、何か?", "id": "tr-638-02-003", "answers": [ { "text": "TA11", "answer_start": 638, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "しかし、この頃、第2次石油危機と景気後退により民間航空機市場は縮小していた。エアバスは、1984年3月にSA計画をA320と名付けて正式開発を開始した一方で、TA計画の開発決定を先送りした。双発機の開発案はTA9とTA12の2種類になっていたが、1980年代の中頃にはTA12案が取り下げられた。TA9案はTA11案とともに改良が加えられ、A320と共通のフライ・バイ・ワイヤシステムを導入し、A320同様にサイドスティック方式の操縦席を搭載する計画となった。エアバス内部では、双発機のTA9と4発機のTA11のどちらを先に開発するか議論が重ねられた。離陸重量などの条件が同等だと仮定した場合、双発機には4発機よりも強力なエンジンを装備する必要がある。また、エンジンの信頼性が低かった時代に作られた規制により、双発機はエンジン1基が停止した場合に60分以内に着陸可能な飛行場があるルートしか飛行できず、代替飛行場の少ない中長距離の洋上路線では3発機や4発機が用いられていた。しかし、双発機には、4発機より機体のシステムが簡素で整備の手間が少なく、運用コストが低く済むというメリットがある。エンジンの信頼性や性能が向上が進んだことで、低コストの双発機を洋上路線で運航したいというニーズが高まっており、1985年には、ETOPSと呼ばれる双発機の長距離運航を認める要件が策定されていた。ただし、当時のETOPSでは航路設定や運航の自由度がまだ限られていたほか、認証を得るために時間も要した。北米の航空会社はコスト面で有利な双発機を好んだ一方、長距離洋上路線を抱えるアジアの航空会社は双発機のような制約の無い4発機を必要とし、欧州の航空会社の意見は両者に二分されていた。", "qas": [ { "question": "SA計画と共通のフライ・バイ・ワイヤシステムとサイドスティック方式の操縦席を導入するよう改良されたのは、TA9案のほかに、どの案か?", "id": "tr-638-03-000", "answers": [ { "text": "TA11案", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "双発機を4発機と比較した時、双発機には何が少なく済むというメリットがありましたか?", "id": "tr-638-03-001", "answers": [ { "text": "運用コスト", "answer_start": 473, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北米とアジア、ヨーロッパのうち、4発機を好む意見がなかったのは、どの地域の航空会社か?", "id": "tr-638-03-002", "answers": [ { "text": "北米", "answer_start": 643, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1985年に策定された、双発機の長距離運航を認める要件とは、何か?", "id": "tr-638-03-003", "answers": [ { "text": "ETOPS", "answer_start": 557, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "航空業界の意見が双発機と4発機に分かれていたなかで、エアバスはTA9とTA11を同時開発する方向へ舵を切った。総開発費を抑制するため、両機の構成要素は最大限共通化するよう設計が行われた(設計過程の詳細は後述)。2機の同時開発の目処が立ち、1986年1月にエアバスはTA9とTA11をそれぞれA330、A340と命名した。A340は短胴型のA340-200と長胴型のA340-300の2モデル構成となった一方で、この時点ではA330は1モデルのみの開発とされた。A330とA340の名称は元々は逆であった。エアバスはTA11を先に開発する予定であり、A320に続く新型機ということでTA11をA330、そしてTA9をA340としていた。しかし、4発機がA3\"3\"0で双発機がA3\"4\"0では、顧客が両機を取り違えるという問題が指摘され、4発機がA340に変更された。A330の最初の発注があったのは1987年3月で、フランスのエールアンテールからであった。その年の6月までに合計10社の航空会社からA330に41機、A340に89機の注文が集まっていた。開発を進めるのに十分な受注の見込みが立ったことで、エアバスはパリ航空ショーを控えた1987年6月5日、A330とA340の正式開発を決定した。両機は姉妹機として同時に開発が決定されたが、市場調査の結果を踏まえ、A340の開発作業が先行された。", "qas": [ { "question": "1986年1月の時点でのA330とA340のうち、モデルが一つしかなかったのは、どれ?", "id": "tr-638-04-000", "answers": [ { "text": "A330", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "元々のTA9の名称は何でしたか?", "id": "tr-638-04-001", "answers": [ { "text": "A340", "answer_start": 307, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1987年6月までより多くの注文があったのは、A330か、もしくは、A340か?", "id": "tr-638-04-002", "answers": [ { "text": "A340", "answer_start": 457, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "A330の胴体は断面・長さともにA340-300と同一とされた。胴体断面はA300由来のワイドボディ機の設計で、客室の座席配置や、LD-3航空貨物コンテナを左右に並べて搭載できる床下貨物室もA300から引き継がれた。また、両機は尾部も共通化されたほか、主翼もエンジン取付部以外は構造的に同じで、システムやコックピットもエンジン関係を除いて共通化された。4発機と双発機の同時並行的な開発というのは航空技術史上において希少な取り組みとなった。ここで時間を少し巻き戻して、A330の設計過程を詳しく見てみる。A330の主翼は新規設計されたもので、A340の主翼と基本的構造が共通化された。A330とA340で最大離陸重量が同一だと仮定すると、4発機のA340の方がエンジンの重量が分散されることで主翼の付け根にかかる負荷が小さく強度の余裕ができることから、長距離向けのA340にのみ胴体に燃料タンクと中央脚(降着装置)を装備し、両機で主翼に必要な強度がほぼ等しくなるよう調整された。また、コンピュータを用いた強度計算・空力設計と風洞実験を組み合わせることで翼型、翼厚比、取付角などが緻密に検討され、エンジン取付部を除いた主翼の共通化が実現した。A330のエンジンの取り付け位置は、A340における第2、第3エンジン(主翼の付け根側のエンジン)にあたる場所とされた。", "qas": [ { "question": "A330は、胴体断面の設計や客室の座席配置において何を由来としていましたか?", "id": "tr-638-05-000", "answers": [ { "text": "A300", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "胴体に燃料タンクと中央脚を装備したのは、A330とA340のうち、どれ?", "id": "tr-638-05-001", "answers": [ { "text": "A340", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A330と同時並行的な開発されることで、A330との共通化が図られたのは、どの航空機か?", "id": "tr-638-05-002", "answers": [ { "text": "A340", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "A330とA340では尾翼も同一とされ、垂直尾翼はA310のものがほぼ流用されたが、水平尾翼は新たに設計された。A310と同様に水平安定板内には燃料タンクが設けられ、主翼や尾翼のタンク間で燃料を移動させて機体の重心位置を制御するシステムも搭載された。A330の操縦系統はA340と同一のシステムが用いられた。このシステムはエアバスがA320で実用化したシステムの改良版であり、全ての操縦翼面にフライ・バイ・ワイヤ方式が導入された。コックピットもA320と基本的な設計は同じで、6面のブラウン管ディスプレイに各種情報を表示するいわゆるグラスコックピットであり、従来の操縦桿の代わりにサイドスティックを用いるのもA320と同様である。A330のコックピット配置は、エンジンのスロットルレバーの数を除いてA340のものと事実上共通化された。エンジンの数とそれに伴う非常時の対処以外、A330とA340の操縦操作は基本的に同じであり、相互乗員資格(CrossCrewQualification,以下CCQ)と呼ばれる資格制度が認められた。これは、いずれかの機種の操縦資格を持つ操縦士は、短期間の訓練でもう一方の操縦資格を得られるという制度で、特にA340からA330への転換訓練は1日とされた。また、コックピット配置が基本的に同じA320ファミリーとの間でもCCQが適用された。A330のエンジンには、ゼネラル・エレクトリック社、プラット・アンド・ホイットニー社、ロールス・ロイス社の製品からの選択制が採用された。GE社のエンジンはA300から引き継がれたCF6-80シリーズ、P&W社からはPW4000シリーズ、R-R社からはトレント700シリーズの装備仕様が設定された。", "qas": [ { "question": "A330とA340の両機において、もともとあったものが導入されたのは、尾翼のどの部分なの?", "id": "tr-638-06-000", "answers": [ { "text": "垂直尾翼", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A330とA340に搭載された、燃料のタンク間の移動を用いた機体の重心位置制御システムと垂直尾翼は、どの機種から引き継がれましたか?", "id": "tr-638-06-001", "answers": [ { "text": "A310", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "コックピットの設計と操縦システムにおいて、A330とA340はどの機種のものを採用しましたか?", "id": "tr-638-06-002", "answers": [ { "text": "A320", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A330のエンジンとして選ばれたものの中、A300から引き継がれたものは、何か?", "id": "tr-638-06-003", "answers": [ { "text": "CF6-80シリーズ", "answer_start": 674, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A330の生産はそれまでのエアバス機と同様に国際分業体制がとられ、参加各国でパーツを分担して製造し、最終組み立てはフランスのトゥールーズで行われた。生産においてもA330とA340の共通性は極めて高く、同一ライン上で両機の組み立てが行われた。トゥールーズにはA330/A340を組み立てるための施設が新設され、最終組み立て工程の一部にはロボットが導入された。試作機の製造や試験もA340が先行して行われた。1991年10月4日にA340の1号機の完成披露式典が行われたが、ちょうどその頃、A330の試作機の最終組み立てが開始されている。A330の初号機は1992年10月14日に完成し、11月2日に初飛行を行った。当初のA330の飛行試験に用いられたのは3機で、いずれもCF6エンジン装備機だった。1993年10月21日、A330の最初の型式証明が、欧州の合同航空当局(JointAviationAuthorities)と米国の連邦航空局(FederalAviationAdministration)から同時に交付された。1993年12月末にエールアンテールに対してA330の最初の引き渡しが行われた。その後、初号機はエンジンをトレント700に換装されて1994年1月31日に初飛行し、1994年12月22日に同エンジン装備型に対する型式証明を取得した。PW4000エンジン仕様については、最初の機体が1993年10月14日に初飛行し、1994年6月2日に同エンジン装備型の型式証明を取得している。PW4000を装備した最初の機体は、型式証明の取得から間もない6月30日に試験飛行時に墜落し、搭乗していた7名全員が死亡した(エアバス・インダストリー129便墜落事故)。これは、A330で最初の墜落事故となった。", "qas": [ { "question": "PW4000エンジンとトレント700のうち、どのエンジンを装備したA330機がより早く初飛行したの?", "id": "tr-638-07-000", "answers": [ { "text": "トレント700", "answer_start": 514, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A330の最初の墜落事故とは、何月何日にあった事故ですか?", "id": "tr-638-07-001", "answers": [ { "text": "6月30日", "answer_start": 680, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "PW4000エンジンとトレント700のうち、どのエンジン装備型のA330がより早く型式証明を取得したのか?", "id": "tr-638-07-002", "answers": [ { "text": "PW4000エンジン", "answer_start": 577, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "欧州の合同航空当局のほかに、どの国の航空局から交付されたことが、A330の最初の型式証明であるか?", "id": "tr-638-07-003", "answers": [ { "text": "米国", "answer_start": 411, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1994年1月17日、エールアンテールはパリ-マルセイユ線にA330を就航させた。同社はフランス国内線専門の航空会社だったため、このときのA330の就航は陸上路線のみであった。1994年5月、アイルランドのエアリンガスによって、A330は最初の洋上路線となるダブリン-ニューヨーク線に就航した。エアバスは、長距離路線には4発のA340、中短距離はA330という売り分けを考えていたが、A330を洋上路線に就航させる需要もあったことから、A330のETOPS認証取得も進めた。1994年4月29日、GE製CF6エンジン装備仕様に対して、代替飛行場からの飛行距離が120分までとなるETOPSが認められ、1995年2月6日には180分まで拡大された。また、P&W製エンジンとR-R製エンジン装備仕様についても、1995年から1996年にかけて120分と180分のETOPSが認められた。1995年7月までに、A330の運航機数は29機となり、エールアンテールとエアリンガスに加えてLTU国際航空、キャセイパシフィック航空、マレーシア航空、タイ国際航空、香港ドラゴン航空で導入された。", "qas": [ { "question": "A330の最初の洋上路線への就航は、どの国の航空会社によることでしたか?", "id": "tr-638-08-000", "answers": [ { "text": "アイルランド", "answer_start": 96, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1995年までに運航されていたA330の機数は何機か?", "id": "tr-638-08-001", "answers": [ { "text": "29機", "answer_start": 412, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "A330の販売は、1980年代後半にまとまった受注を集めた後は、下火になっていた。航空会社は長大な航続距離性能を持つ双発機を求めるようになっていた。また、姉妹機となるA340は1993年3月に路線就航を開始していたが、その後、段階的に最大離陸重量が引き上げられて航続距離性能が強化されていた。エアバスではA330とA340との中間の航続力を持つ機種として、A330の胴体を短縮して収容力を減らす代わりに燃料搭載量を増やすことで航続力を増強した派生型の検討を始めた。この機体案はA330-200と名付けられ、1995年11月24日に正式開発が決定された。A330-200の開発に伴い、それまでのA330はA330-300と呼ばれることとなった。A330-200が最初の発注を得たのは1996年前半で、リース会社のインターナショナル・リース・ファイナンス社からであった。A330-200の胴体は、A330-300のものから主翼の前後で合わせて10フレーム短縮された。胴体の短縮により機体の重心位置から垂直尾翼までの距離が短くなることから、これを補うため、A330-200では垂直尾翼の高さ方向が拡大された。A330-200では、A340-300の重量増加型と同様に主翼が強化されて最大離陸重量が引き上げられ、胴体中央への燃料タンクが追加されたほか、エンジンが推力増加型に変更された。これらの変更により、航続距離は11,853から12,223キロメートル(6,400から6,600海里)となった。A330-200でもGE、R-R、P&Wの3社のエンジンが選択可能とされた。", "qas": [ { "question": "胴体と収容力を減らし、航続力を強化したA330の派生型は、何?", "id": "tr-638-09-000", "answers": [ { "text": "A330-200", "answer_start": 238, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "胴体と収容力を減らし、航続力を強化したA330の派生型の正式開発が決定されたのは、いつですか?", "id": "tr-638-09-001", "answers": [ { "text": "1995年11月24日", "answer_start": 253, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A330-200のエンジンとして用意されていたのは、GEとR-Rのほかに、どの会社の製品か?", "id": "tr-638-09-002", "answers": [ { "text": "P&W", "answer_start": 662, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A330-200は、エンジンを推力増加型に変更し、胴体中央に何を設けることで航続力の向上を図った機種であるか?", "id": "tr-638-09-003", "answers": [ { "text": "燃料タンク", "answer_start": 558, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A330-200の初号機はGE社のCF6エンジンを装備した機体で、1997年8月13日に初飛行した。また、同年12月4日にはP&W社のPW4000エンジンを装備した最初の機体が初飛行した。1998年3月31日、CF6エンジン装備型に対してA330-200で最初となる型式証明がJAA、FAA、そしてカナダの航空当局から同時に交付された。その後、330-200の初号機はエンジンをCF6からR-R社のトレント700に換装してトレント700装備型の型式証明取得のために試験飛行を行った。330-200の最初の引き渡しは1997年4月で、カナダのチャーター便専門会社であるカナダ3000に対して行われた(機体の保有はILFC)。この時の機体はGE製エンジン装備機であった。翌1998年にはP&W製エンジン仕様がオーストリア航空へ、1999年2月にはR-R製エンジン仕様がILFCからのリース機としてカナダのエア・トランザットに初納入された。", "qas": [ { "question": "GE社とP&W社のうち、どの会社の製品を装備したA330-200がより早く初飛行したの?", "id": "tr-638-10-000", "answers": [ { "text": "GE社", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A330-200で最初の型式証明取得は、どのエンジンを装備したものでありましたか?", "id": "tr-638-10-001", "answers": [ { "text": "CF6エンジン", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1997年5月に、カナダ3000によってA330-200は初就航した。1999年11月の時点で、スイス航空を筆頭に、サベナ・ベルギー航空、エミレーツ航空、ガルフ・エア、大韓航空、TAM航空など14の航空会社で46機のA330-200が運用され、大西洋や太平洋を横断する路線にも投入された。フライトあたりの平均飛行時間は、A330-300が1.7から3.5時間であったのに対し、A330-200では3.5から8時間であり、これはA340に近い数値であった。A330-200の導入初期のトラブルとして、前脚の旋回角度の制限によって狭い滑走路などで機体の取り回しが困難になる場合があったほか、主脚のショックアブソーバーからの油漏れなどが指摘され、エアバスでは角度範囲の見直しなどの対応を行った。また、大型化された垂直尾翼に対応するため、尾翼のロゴを照らす照明も再設計されている。A330-200でもETOPSの認可取得が進められ、1998年4月27日にGE製のCF6エンジン装備機で180分のETOPSが認められたのを最初に、1999年前半までにP&W製とR-R製のエンジン装備仕様でも180分のETOPSが認められた。", "qas": [ { "question": "A330-300とA330-200におけるフライトあたりの平均飛行時間を比較した時、その最小値がより小さいのは、どれ?", "id": "tr-638-11-000", "answers": [ { "text": "A330-300", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A330-200における最初の180分のETOPSの認可取得は、どのエンジンを装備した機であったか?", "id": "tr-638-11-001", "answers": [ { "text": "CF6エンジン", "answer_start": 427, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2000年頃になると、エアバスはDC-10、MD-11、L-1011といったワイドボディ機をベースに開発された貨物専用機の後継需要を狙い、新たな貨物型の研究を始めた。2001年6月にA330の設計を活用する計画を公表し、機体仕様などを詰める作業を進めた。インドの新興運送会社であるFlyingtonFreighters社のほか、航空機リース会社であるゲッゲンハイム・アビエーション・パートナーズ社とイントレピッド・アビエーション社から合わせて32機の受注が集まり、2007年1月17日にA330-200をベースとした貨物専用機となるA330-200Fの正式開発を決定した。", "qas": [ { "question": "正式開発が進められていない段階でのA330-200Fに対する受注は、総計何機だったか?", "id": "tr-638-12-000", "answers": [ { "text": "32機", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A330-200Fは、旅客と貨物のうち、何の専用機であるか?", "id": "tr-638-12-001", "answers": [ { "text": "貨物", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A330-200Fは、基本的にはA330-200と同じ機体フレームを用い、メインデッキ(機体上半分の客席を設ける部分)に貨物を搭載できるように大型の貨物扉の追加や床面の強化が行われたほか、旅客用設備が取り除かれた。また、ベースとなったA330-200では主脚より前脚が短く地上ではやや機首が下がった姿勢となっているが、メインデッキに貨物を搭載するA330-200Fでは前脚の取り付け位置を下げることで地上姿勢を修正された。このことにより、前脚の格納時に車輪や脚柱がはみ出してしまうため、それを収めるため機首部下面に張り出しが追加された。エンジンはR-R社のトレント700とP&W社のPW4000を装備する仕様がそれぞれ設定された。A330-200Fの初号機はPW4000エンジンを装備する機体で、2009年11月5日に初飛行して試験飛行を開始した。A330-200Fの2号機はトレント700エンジンを装備し、2010年1月20日に初飛行して試験飛行に投入された。約200時間の試験飛行の大半は初号機によって行われ、2010年4月9日に欧州航空安全機関(EASA)の型式証明を取得した。A330-200Fの引き渡しは、2009年後半に開始する予定だったが開発中にスケジュールが延び、その間に貨物市場の崩壊が発生していた。引き渡しの順番が入れ替わり、2010年8月9日、エティハド航空の航空貨物部門であるエティハド・クリスタル・カーゴ社に最初の納入が行われた。", "qas": [ { "question": "PW4000エンジンとトレント700エンジンのうち、どのエンジンを装備したA330-200Fがより早く製造されたの?", "id": "tr-638-13-000", "answers": [ { "text": "PW4000エンジン", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "PW4000エンジンとトレント700エンジンのうち、どのエンジン装備型のA330-200Fがより早く初飛行しましたか?", "id": "tr-638-13-001", "answers": [ { "text": "PW4000エンジン", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "試験飛行時間の大半に用いられたA330-200F機とは、どのエンジン装備型だったか?", "id": "tr-638-13-002", "answers": [ { "text": "PW4000エンジン", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "PW4000エンジンとトレント700エンジンのうち、どのエンジンを装備したA330-200Fが試験飛行により多く用いられたか?", "id": "tr-638-13-003", "answers": [ { "text": "PW4000エンジン", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "A330-200Fが開発された頃、A330-200をベースとした多目的空中給油・輸送機(MRTT:Multi-RoleTankerTransport)の開発も行われた。2004年12月20日にオーストラリア空軍が5機のA330MRTTを発注する契約を結び、初飛行は2007年6月15日に行われ、2011年6月1日に正式運用が開始された。2008年には、アメリカ空軍の次期空中給油機としてKC-45の名で採用が決まったが、ボーイングからの抗議を米国の会計検査院が認めたことで、選定作業は振り出しに戻った。2011年2月、米空軍は767をベースとしたKC-46の採用を決定し、結局KC-45は不採用となった。", "qas": [ { "question": "2011年6月1日に正式運用が開始された機種とは、何をベースにしているものなの?", "id": "tr-638-14-000", "answers": [ { "text": "A330-200", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A330MRTTがアメリカ空軍の次期空中給油機として用いられることが取り下げられたのは、誰の抗議によることでしたか?", "id": "tr-638-14-001", "answers": [ { "text": "ボーイング", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A330-200/-300の受注は好調に推移した。2004年4月にボーイングが新型双発中型機となる787の開発を決定した後もA330の受注は伸び続けたほか、2006年12月にエアバス自身が新型双発機のA350XWBの開発を発表しているが、A350XWBの引き渡し開始までにもA330の受注機数は増え続けている。A330とA350XWBはどちらも双発のワイドボディ機であり、市場を奪い合うようにも見えたが、長距離向けにはA350XWB、中短距離向けには機体価格が低いA330と棲み分けがなされた。A330に対するETOPSの認可範囲は段階的に広げられ、2009年にはEASAによって、A330の全タイプに対してETOPSの制限を240分とすることが認められた。A330は世界で初めて240分のETOPSを認可された機種となった。エアバスは航続力や収容力のさらなる強化を図り、2012年11月29日、A330-200/-300それぞれで最大離陸重量を242トンに増強する改良型を発表した。この改良型では空力性能やエンジンの細かい改善に加えて、A330-300では初となる中央翼燃料タンクもオプション設定された。これにより、A330-300は最大離陸重量235トンの既存仕様より500海里(約930キロメートル)、A330-200では同238トンの既存機より350海里(648キロメートル)延長される。この242トン仕様の初号機はA330-300で、2015年1月12日に初飛行し、同年5月にデルタ航空に対して最初の引き渡しが行われた。", "qas": [ { "question": "世界で初めて240分のETOPSを認可された機種は、何?", "id": "tr-638-15-000", "answers": [ { "text": "A330", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A330-300とA330-200のうち、既存仕様と改良型の航続距離を比較した時、その増加分がより大きいのは、どれですか?", "id": "tr-638-15-001", "answers": [ { "text": "A330-300", "answer_start": 509, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "既存仕様と改良型の最大離陸重量を比較した時、その増加分がより大きいのは、A330-300とA330-200のうち、どれか?", "id": "tr-638-15-002", "answers": [ { "text": "A330-300", "answer_start": 509, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A330-300とA330-200のうち、その改良型がより早く初飛行し、より早く引き渡されたのは、どれか?", "id": "tr-638-15-003", "answers": [ { "text": "A330-300", "answer_start": 612, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "ニュルンベルク", "paragraphs": [ { "context": "ニュルンベルク(標準ドイツ語:Nürnberg[ˈnʏrnbɛrk]、バイエルン語:Niamberg、上部フランケン語(東フランケン語):Nämberch)は、ドイツ連邦共和国南部に位置し、バイエルン州のミッテルフランケン行政管区に属する郡独立市である。\n人口50万人を超えるバイエルン州第2の都市(ドイツ全体では14番目)である。\n隣接するフュルト、エアランゲン、シュヴァーバッハとともにフランケン地方の経済的・文化的中心をなしている。\n中世からの伝統ある都市であり、ドイツ統一を主導したホーエンツォレルン家がニュルンベルク城伯を世襲した都市である。\nまた、ナチス政権が最初の大会を開催した都市であり、それゆえナチス政権要人を裁く「ニュルンベルク裁判」が行われたことでも知られる。\nリヒャルト・ワーグナーの楽劇『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の舞台としても知られる。\n現在も旧市街は中世の城壁で囲まれている。", "qas": [ { "question": "バイエルン州第2の都市とは?", "id": "tr-639-00-000", "answers": [ { "text": "ニュルンベルク", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ニュルンベルクのマイスタージンガー』の舞台となっている地域はどこ?", "id": "tr-639-00-001", "answers": [ { "text": "ニュルンベルク", "answer_start": 357, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナチス政権が最初の大会を開催した都市とは?", "id": "tr-639-00-002", "answers": [ { "text": "ニュルンベルク", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ニュルンベルクの人口は何人?", "id": "tr-639-00-003", "answers": [ { "text": "50万人", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ニュルンベルクはペグニッツ川の両岸に広がる。\nペグニッツ川はこの都市の北東約80kmに湧出し、市内を東西に約14kmにわたって貫いている。\n旧市街地区のこの川はすっかり運河化されている。\n隣のフュルトでペグニッツ川とレドニッツ川が合流してレグニッツ川となる。\nニュルンベルクの西部および北西部は主にペグニッツ川の堆積物によって形成された。\nニュルンベルク北部は重要な野菜の耕作地であるクノープラウフスラント(Knoblauchsland、ニンニク地方)である。\nニュルンベルクの土地はコイパー期に形成された柔らかい砂岩からなっている。\nこの町の北側は、一部は海抜600mを超える中低山地のフレンキシェ・シュヴァイツにつながっている。", "qas": [ { "question": "ニュルンベルク内で東西に流れている川とは何?", "id": "tr-639-01-000", "answers": [ { "text": "ペグニッツ川", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ペグニッツ川の出発地点はニュルンベルクからどれくらいの距離ですか?", "id": "tr-639-01-001", "answers": [ { "text": "約80km", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "クノープラウフスラントの通称は何?", "id": "tr-639-01-002", "answers": [ { "text": "ニンニク地方", "answer_start": 219, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "レグニッツ川はレドニッツ川と何の川が合流して流れているの?", "id": "tr-639-01-003", "answers": [ { "text": "ペグニッツ川", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "市域は186.38km2である。\n南部から西部にかけては建物が密集しており、西部は隣のフュルトと、南西はシュタインとほとんど一体化している。\n北部は比較的平坦で肥沃なクノープラウフスラントが広がるが、この地域は同時に、ニュルンベルク空港の西側緩衝地域にもなっている。\n北西部には高度400m今日の小さな森林地域のゼバルダー・ライヒスヴァルトが位置している。\n旧市街の北の境界はニュルンベルク城が建つ城山であり、市壁の大部分が遺されている。\n東部からペグニッツ川北岸は公園化されたレーヒェンベルクである。", "qas": [ { "question": "市の面積はどれくらいですか?", "id": "tr-639-02-000", "answers": [ { "text": "186.38km2", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "北西部に位置している小さな森林地域とは何ですか?", "id": "tr-639-02-001", "answers": [ { "text": "ゼバルダー・ライヒスヴァルト", "answer_start": 156, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ニュルンベルク市は北から時計回りに以下の市町村、あるいは市町村に所属しない地域と境を接している。\nエアランゲン(郡独立市)、ノインホーフの森、クラフツホーフの森(以上、エアランゲン=ヘーヒシュタット郡)、シュヴァイク・バイ・ニュルンベルク、ラウフアムホルツの森、ツェルツァーベルスホーフの森、フォルストホーフ地区、フィッシュバッハ地区、フォイヒト(以上、ニュルンベルガー・ラント郡)、ヴェンデルシュタイン、クラインシュヴァルツェンローエの森(以上、ロート郡)、シュヴァーバッハ(郡独立市)、ロール(ロート郡)、シュタイン、オーバーアスバッハ(以上フュルト郡)、フュルト(郡独立市)。\nニュルンベルクの飛び地ブルンには、いずれも市町村に属さない地域であるブルン、ヴィンケルハイト、フィッシュバッハ(全てニュルンベルガー・ラント郡)が隣接する。", "qas": [ { "question": "ロート郡には何の森がありますか?", "id": "tr-639-03-000", "answers": [ { "text": "クラインシュヴァルツェンローエの森", "answer_start": 203, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "森の数が多いのはエアランゲン=ヘーヒシュタット郡とロート郡のどちらですか?", "id": "tr-639-03-001", "answers": [ { "text": "エアランゲン=ヘーヒシュタット郡", "answer_start": 84, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ニュルンベルクの飛び地はどこ?", "id": "tr-639-03-002", "answers": [ { "text": "ブルン", "answer_start": 303, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ニュルンベルクは、完全な大陸性気候ではなく、完全な海洋性気候でもない、ドイツ南部に典型的な温和な中間的気候である。\n月平均気温は、1月の-1.4°Cから8月の18°Cの間を推移するが、夏の最高気温は35°Cに達することもある。\n降水量は地理的環境の割にはやや少ない。\nニュルンベルクはフランケン盆地に位置しており、この緩やかな鍋底状の地形が湿った空気をこの町から遠ざけているのである。\nしかし、時にはニュルンベルクも激しい嵐に見舞われることがある。\n近くは2006年8月28日に竜巻があり、ガルテンシュタット区の多くの建物が甚大な損傷を負った。", "qas": [ { "question": "夏場の最高気温はどれくらいまで上がりますか?", "id": "tr-639-04-000", "answers": [ { "text": "35°C", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ニュルンベルクの降水量はどうですか?", "id": "tr-639-04-001", "answers": [ { "text": "やや少ない", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "最近の出来事でニュルンベルクを襲った自然災害とは何ですか?", "id": "tr-639-04-002", "answers": [ { "text": "竜巻", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ニュルンベルクの成立は明らかでない。\nザクセン、バイエルン、東フランケン、ベーメンの境界で、1000年から1400年頃に保護された重要な街道が交わる地点から徐々に成立していったと考えられている。\nいずれにせよ、この入植地は成立初期に既に市場の開催権を得ていた。\nこの街は1050年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世のSigena-Urkundeに「nuorenberc」として記録されている。\n現在の地名の元となったこの名前は「岩山」を意味している。\nその後、ニュルンベルク城は皇帝の拠点として神聖ローマ帝国で重きをなした。\n1065年にハインリヒ4世は帝国領ニュルンベルク及びその周辺地域に高等裁判所管区及び行政管区を設けた。\nコンラート3世は裁判権と統治権を持つニュルンベルク城伯の位を新設し、ラープス家にこれを与えた。\n1190年あるいは1191年以後、この地位はツォレルン家(後のホーエンツォレルン家)に移された。", "qas": [ { "question": "「nuorenberc」の意味は?", "id": "tr-639-05-000", "answers": [ { "text": "「岩山」", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ニュルンベルクはSigena-Urkundeにどのような名前で記録されていますか?", "id": "tr-639-05-001", "answers": [ { "text": "「nuorenberc」", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ラープス家の次は誰にニュルンベルク城伯の位が渡りましたか?", "id": "tr-639-05-002", "answers": [ { "text": "ツォレルン家", "answer_start": 383, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1219年、皇帝フリードリヒ2世の大特権授与によりニュルンベルクは帝国自由都市となった。\n城伯の影響力は城とその直近に制限され、フランケン地方におけるホーエンツォレルン家の拠点はバイロイトやアンスバッハなどに移っていった。\n1427年、最後の城伯フリードリヒ6世(ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世でもあった)はニュルンベルク城の権利をニュルンベルク市参事会に売却し、城伯の地位は完全に消滅した。\nこれ以後、バイエルン王国に併合されるまで、この都市の行政権は市参事会の手に委ねられた。\n中世以来、ニュルンベルクはアウクスブルクと共にイタリアとヨーロッパ北部を結ぶ2大貿易都市であった。\n商業都市の例に漏れずユダヤ人も多く居住していたが、1298年、「リントフライシュ王」と名乗る騎士に煽動された群衆が暴徒と化して各地のユダヤ人街を襲撃し、ニュルンベルクでは698人のユダヤ人が犠牲となった。", "qas": [ { "question": "ニュルンベルク城の最後の主は誰でしたか?", "id": "tr-639-06-000", "answers": [ { "text": "フリードリヒ6世", "answer_start": 123, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ニュルンベルク以外のドイツの貿易都市とはどこ?", "id": "tr-639-06-001", "answers": [ { "text": "アウクスブルク", "answer_start": 258, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フリードリヒ6世はニュルンベルク城の権利をどこに売りましたか?", "id": "tr-639-06-002", "answers": [ { "text": "ニュルンベルク市参事会", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ニュルンベルクで698人のユダヤ人が犠牲となった事件は何年に起こりましたか?", "id": "tr-639-06-003", "answers": [ { "text": "1298年", "answer_start": 320, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "多くの皇帝がニュルンベルクを好んで居館に選んだ。\n中でもカール4世は、1356年にニュルンベルクで金印勅書を公布した。\n勅書では即位後第1回目の帝国議会をニュルンベルクで開催することと定められ、この慣例は1543年まで続けられた。\nまた、1423年にジギスムントは帝権の表象をこの街に与え、19世紀の初めまでこの街に保存されていた。", "qas": [ { "question": "ニュルンベルクで金印勅書を公布した皇帝は誰ですか?", "id": "tr-639-07-000", "answers": [ { "text": "カール4世", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "皇帝即位後の第1回目の帝国議会はどこで開催されると定められましたか?", "id": "tr-639-07-001", "answers": [ { "text": "ニュルンベルク", "answer_start": 77, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "即位後第1回目の帝国議会をニュルンベルクで開催することは何年まで続きましたか?", "id": "tr-639-07-002", "answers": [ { "text": "1543年", "answer_start": 102, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1470年から1530年までの期間にはゲッツ・フォン・ベルリヒンゲンやコンラート・ショット・フォン・ショッテンシュタインといった騎士達がフェーデや戦いを繰り広げたにもかかわらず、ニュルンベルクはその最盛期を迎えていた。\n優れた手工芸やヨーロッパの中央に位置する交易上の好条件により、この街に富がもたらされた。\nマイスタージンガーのハンス・ザックスや、画家アルブレヒト・デューラーはこの時代にニュルンベルクで活躍した人物である。\nデューラーの『四人の聖人』(いわゆる『使徒たち』:アルテ・ピナコテーク所蔵)はこの街の教会のためにこの街で描かれた。\nこの時代のニュルンベルクはケルンやプラハとならぶ神聖ローマ帝国最大の都市の1つであった。\nしかし1525年、市当局が宗教改革を受け入れたことで、皇帝との関係は次第に疎遠となり、「皇帝の街」としての権威は失われていった。\n一方でフランケン公領の創設を目論むホーエンツォレルン家と度々衝突、アンスバッハ辺境伯アルブレヒト・アヒレス、クルムバッハ辺境伯アルブレヒト・アルキビアデスとの戦争はそれぞれ第一次辺境伯戦争、第二次辺境伯戦争と呼ばれたが、いずれもホーエンツォレルン家の敗北に終わった。", "qas": [ { "question": "『四人の聖人』の作者の本名は何?", "id": "tr-639-08-000", "answers": [ { "text": "アルブレヒト・デューラー", "answer_start": 177, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ニュルンベルクの最盛期に活躍した著名人はアルブレヒト・デューラーや誰がいましたか?", "id": "tr-639-08-001", "answers": [ { "text": "ハンス・ザックス", "answer_start": 165, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『四人の聖人』はどこで描かれましたか?", "id": "tr-639-08-002", "answers": [ { "text": "ニュルンベルク", "answer_start": 195, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第一次辺境伯戦争と第二次辺境伯戦争の敗者は誰でしたか?", "id": "tr-639-08-003", "answers": [ { "text": "ホーエンツォレルン家", "answer_start": 400, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "三十年戦争の時代、ニュルンベルク周辺の地域は長年続いた陣地戦の戦場となった。\nニュルンベルク自体が征服されることはなかったものの、周辺地域の荒廃により交易が廃れ、経済的に次第に衰弱していった。\n戦後は1649年にニュルンベルクで「平和の宴」が催され、敵対していた両陣営がともに何日も祝宴を行い、平和の祝賀ムードを確かめ合った。\n帝国議会の開催地は1663年以降レーゲンスブルクに常置することが定められた。\n1700年前後に活躍したバロック期の音楽家ヨハン・パッヘルベルはこの街の出身で、晩年にこの街のゼーバルドゥス教会にオルガン奏者として戻り、そこで没している。", "qas": [ { "question": "ニュルンベルク出身のバロック期の音楽家とは誰ですか?", "id": "tr-639-09-000", "answers": [ { "text": "ヨハン・パッヘルベル", "answer_start": 224, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1663年以降の帝国議会の開催地はどこになりましたか?", "id": "tr-639-09-001", "answers": [ { "text": "レーゲンスブルク", "answer_start": 180, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ニュルンベルクの周辺地域は何の戦争によって荒廃しましたか?", "id": "tr-639-09-002", "answers": [ { "text": "三十年戦争", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1796年から1806年まで深刻な事態が出来した。\n近隣のアンスバッハを拠点としたプロイセン政府の圧力により、遂にニュルンベルクはプロイセン支配下に屈することとなった。\nしかし、この条約は履行されなかった。\nニュルンベルクの借金にプロイセンが手を引いたのである。\n同時に名門家の堕落した支配体制に対する不満がニュルンベルク住民の間で蓄積していった。\nこうした事態が帝国都市体制を根本から揺さぶり、この街に革命の機運をもたらしたのであった。", "qas": [ { "question": "プロイセンの拠点地はどこでしたか?", "id": "tr-639-10-000", "answers": [ { "text": "アンスバッハ", "answer_start": 29, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ナポレオン戦争期の1803年2月25日に行われた帝国代表者会議主要決議では、最初はそれでも独立体制を堅持したのだが、ライン同盟が結ばれ、帝国が崩壊した後、フランス軍がニュルンベルクを占領した。\n1806年9月15日、フランス軍はこの都市をバイエルン王国に引き渡し、ただちに民政の体制を整え、バイエルンの管理下に編入させた。\nこうして1806年にバイエルン王国は王国全体の借金の一部としてニュルンベルクの莫大な借金を被ることとなった。\nバイエルンはこれを整理統合して弁済に努めた。\nバイエルンの法律に基づき、それまでニュルンベルクでは冷遇されていたカトリック信者もプロテスタント信者と法的に同等の立場となった。", "qas": [ { "question": "1806年9月15日以降にニュルンベルクはどこの管理下に置かれましたか?", "id": "tr-639-11-000", "answers": [ { "text": "バイエルン", "answer_start": 119, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ニュルンベルクを占領し、その後バイエルン王国に引き渡したのは何ですか?", "id": "tr-639-11-001", "answers": [ { "text": "フランス軍", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "19世紀になるとニュルンベルクはバイエルンの工業中心都市の一つとして発展した。\n1835年にはドイツ初の旅客鉄道アドラー号がニュルンベルクからフュルトまで運行を開始した。\n19世紀後半にニュルンベルクで黄銅箔が発明された。\n戦間期の1920年代にはニュルンベルクで、政権獲得前の国家社会主義ドイツ労働党(ナチス)が党大会を開催していた。\nただしニュルンベルク自体は選挙でナチス党を勝たせなかった。\nこの都市では自由主義のDDPが有力な政党であった。\n同時に、工業都市として、バイエルンの社会民主主義の中心地でもあった。", "qas": [ { "question": "アドラー号の運行開始当初はニュルンベルクからどこまで運行されていましたか?", "id": "tr-639-12-000", "answers": [ { "text": "フュルト", "answer_start": 71, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "19世紀にバイエルンの工業都市と社会民主主義の中心地として発展した都市はどこですか?", "id": "tr-639-12-001", "answers": [ { "text": "ニュルンベルク", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ニュルンベルクで黄銅箔が発明されたのはいつ?", "id": "tr-639-12-002", "answers": [ { "text": "19世紀後半", "answer_start": 86, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイツで初めて運行した旅客鉄道の名前は何?", "id": "tr-639-12-003", "answers": [ { "text": "アドラー号", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ナチス党政権下時代、ナチス党大会が1933年から1938年にかけてニュルンベルクで行われ、その模様はレニ・リーフェンシュタールにより映画化された。\nこの街はナチスにとって「帝国党大会の街」としてプロパガンダの上で重要な都市であった。\n1935年の党大会においてユダヤ人から市民権を剥奪する法(『ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律』)が定められ、一般的にはニュルンベルク法と呼ばれている。\nナチスはこの法律により反ユダヤ主義思想の法的根拠を得たのである。\nこのようにニュルンベルクは、ナチス党政権下のドイツを象徴する都市となった。", "qas": [ { "question": "ナチスにとっての「帝国党大会の街」とはどこ?", "id": "tr-639-13-000", "answers": [ { "text": "ニュルンベルク", "answer_start": 33, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ユダヤ人から市民権を剥奪する法は通称何と呼ばれているの?", "id": "tr-639-13-001", "answers": [ { "text": "ニュルンベルク法", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナチス党大会の模様を映画化した人物とは?", "id": "tr-639-13-002", "answers": [ { "text": "レニ・リーフェンシュタール", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第二次世界大戦中、ニュルンベルクは連合国軍による空爆の優先目標であった。\nイギリス空軍とアメリカ空軍の航空機による爆撃で1945年1月2日にニュルンベルク旧市街は破壊され、全市域が甚大な被害を負った。\n同年4月の4日間に渡る地上決戦で、さらにいくつかの歴史的建造物が破壊された。\n一時はこの破壊された街を放棄して、他の場所に新しい街を創ることが真剣に検討されたほどの被害状況であった。\n同大戦期、ナチスにとってその精神性を保持する街として「神聖ローマ帝國宝物展」が開催された。\n今日コンサート会場として使われる「聖カテリーナ教会」が会場となった。\nそうした宝物の保管庫がObereSchmiedgasse(オーベレ・シュミートガッセ、上鍛冶屋小路)52番地の地下にあった。\nKunstbunker(クンストブンカー、芸術品地下保管庫)は今でも保存、公開され訪れる歴史ファンは多い。", "qas": [ { "question": "1945年4月に行われた地上決戦は何日間の戦いでしたか?", "id": "tr-639-14-000", "answers": [ { "text": "4日間", "answer_start": 106, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "爆撃によってニュルンベルク旧市街が大被害を受けたのはいつでしたか?", "id": "tr-639-14-001", "answers": [ { "text": "1945年1月2日", "answer_start": 60, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "第二次世界大戦後、1945年から戦勝国はナチス独裁政権下の指導的戦争犯罪人に対する裁判、いわゆる「ニュルンベルク裁判」を実施した。\n市の再建は、建設責任者ハインツ・シュマイスナーの指揮の下、かつての都市構造に従って街の再建を行うという方向付けがなされた。\nこのため、オリジナルの建物が広範囲に失われたにもかかわらず、たとえ実際には大部分の建物が戦後に再建されたものであるにせよ、城壁に囲まれた旧市街は中世の面影を残す美しい町並が復元され、多くの場所で中世や近世とのつながりを感じ取ることができるのである。\n1825年まで市域の面積は160.84haであった。\nその後、産業革命に伴い人口は急速な上昇を続け、市域は多くの独立した自治体や地域を合併して拡大した。\n現在の市域は186.6km2である。", "qas": [ { "question": "市の再建を任された建設責任者は誰でしたか?", "id": "tr-639-15-000", "answers": [ { "text": "ハインツ・シュマイスナー", "answer_start": 77, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1825年まで市域と現在の市域はどちらが広いですか?", "id": "tr-639-15-001", "answers": [ { "text": "現在の市域", "answer_start": 330, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "19世紀の工業化の始まりによって人口は急速に増加した。\n1812年のこの街の人口は2万6千人であったが、1880年には10万人を超えて大都市の仲間入りをした。\n1900年には25万人、1972年にはその2倍で史上最大の人口51万5千人を記録した。\n1985年に46万5千人にまで減少したが、その後再び増加に転じた。\nバイエルンの統計データ局の記録によると2005年12月31日付の公式な人口は499,237人である。\nまた、2006年11月18日に50万人目の市民が誕生した。\n50万人前後での増減があったため、これはニュルンベルクにとって3回目のできごとである。", "qas": [ { "question": "人口が少なかったのは1812年と1880年のどちらですか?", "id": "tr-639-16-000", "answers": [ { "text": "1812年", "answer_start": 28, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "人口が少なかったのは1900年と1972年のどちらですか?", "id": "tr-639-16-001", "answers": [ { "text": "1900年", "answer_start": 80, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1972年と1985年を比較して人口が少ないのはどちらの年ですか?", "id": "tr-639-16-002", "answers": [ { "text": "1985年", "answer_start": 124, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "北部諸島_(イギリス)", "paragraphs": [ { "context": "北部諸島(ほくぶしょとう、英語:NorthernIsles、スコットランド語:NorthrenIsles、スコットランド・ゲール語:Nah-EileananaTuath、古ノルド語:Norðreyjar)は、スコットランド本土の北沖合にある諸島(あるいは列島)である。\n気候は冷涼で温和であるが、周囲の海の影響を大きく受ける。\nシェトランド諸島とオークニー諸島の大きく2つの領域に別れており、合わせて26の有人島がある。\n肥沃な農業地帯が広がるオークニー諸島と比較し、北側のシェトランド諸島は荒涼としており、経済は周辺海域における漁業と採油に依存している。\n双方において再生可能エネルギー産業の開発が進められている。\nまた双方ともピクト人とノース人に関して共通の歴史を有しており、15世紀にスコットランド王国に編入され、その後近代になって連合王国の一部となった。\nこの島々は、20世紀の世界大戦において海軍関係で重要な役割を果たしている。", "qas": [ { "question": "北部諸島とはシェトランド諸島とどこを合わせた総称ですか?", "id": "tr-640-00-000", "answers": [ { "text": "オークニー諸島", "answer_start": 173, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シェトランド諸島とオークニー諸島はどちらがより北側に位置しているの?", "id": "tr-640-00-001", "answers": [ { "text": "シェトランド諸島", "answer_start": 237, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "シェトランド諸島とオークニー諸島には、ピクト人と何人に関する共通の歴史があるの?", "id": "tr-640-00-002", "answers": [ { "text": "ノース人", "answer_start": 320, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "両諸島において観光は重要な役割を担っており、独特な先史時代の遺跡がその魅力の中心と成っている。\nスコットランド本土とは定期フェリーと航空路線が運行されている。\n北欧の影響は大きく残っており、特に現地の伝承に関連が見られる。\n両諸島の結びつきは強いが、それぞれ独自の文化を有している。\n島嶼の名称はノルド語の影響が大きいが、前ケルト語の残滓も見受けられる。", "qas": [ { "question": "両諸島の観光の中心となっているものは何?", "id": "tr-640-01-000", "answers": [ { "text": "先史時代の遺跡", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "島嶼の名称に大きく影響を与えた言語とは?", "id": "tr-640-01-001", "answers": [ { "text": "ノルド語", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "「北部諸島」という言葉は、通常オークニー諸島とシェトランド諸島の主要な島々を言い表す。\nストローマ島は、スコットランド本土とオークニー諸島の間にあり、ケイスネス郡に属し、地方行政区分としてはハイランド・カウンシル・エリアに含まれ、オークニーの管轄ではない。\nしかし、明らかにスコットランドの「北部諸島」の一員である。\nフェア島とフーラ島はシェトランド諸島から離れているが、通常はシェトランド諸島の一部と見なされており、したがって北部諸島に属する。\n同様に、スール・スカリー島とスール・スタック島も大きく離れてはいるがオークニー諸島の一部であり、よって北部諸島に含まれる。\nしかし、その他のスコットランド北海岸沖合の小島はハイランドに属し、北部諸島の一部とは見なされていない。\nオークニー諸島はスコットランド本土から北に16キロメートル沖合にあり、ペントランド海峡で隔てられている。\n最大の島はメインランド島で、その面積は523.25平方キロメートルあり、スコットランドの島としては6番目の広さである2001年における島の総人口は19,245人で、最大の街はカークウォールである。", "qas": [ { "question": "オークニー諸島とスコットランド本土の間に存在する海峡とは何?", "id": "tr-640-02-000", "answers": [ { "text": "ペントランド海峡", "answer_start": 373, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オークニー諸島とスコットランド本土の間の距離はどれくらい離れているの?", "id": "tr-640-02-001", "answers": [ { "text": "16キロメートル", "answer_start": 359, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オークニー諸島の最大の街はどこ?", "id": "tr-640-02-002", "answers": [ { "text": "カークウォール", "answer_start": 478, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オークニー諸島のメインランド島は、2001年に何人の人口を記録していたの?", "id": "tr-640-02-003", "answers": [ { "text": "19,245人", "answer_start": 464, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オークニー諸島の表層を構成する岩石は、ほぼ全てが中期デボン紀に形成された旧赤色砂岩である。\n本土側で近隣のケイスネス郡では、この砂岩はモイン累層群の変成岩の上に積層しているが、この構造はオークニー諸島のメインランド島でも目にすることができ、この島内で最も古い岩石の露頭がストロムネスからイェスナビーにかけてとグレインセイ島の一部において、細長い帯状に分布している。\n中部デボン系の玄武岩質火山岩がホイ島の西部やメインランド島東部のディアネス、シェイビンセー島で見受けられる。\nホイ島の火山活動と他の2ヶ所の露頭との間に関連があるか議論となったが、その化学組成の違いから、明確な結論は得られていない。\n上部ペルム系のランプロファイア岩脈は、オークニー諸島のあちこちで見受けられる。\n氷河の擦痕や、北海の海底を起源とするチョークや燧石の迷子石の存在は、諸島の地形に対する氷河の影響を明示している。\n氷礫土も豊富に存在し、モレーンがかなりの面積を覆っている。", "qas": [ { "question": "オークニー諸島の表層を構成する岩石の種類は何?", "id": "tr-640-03-000", "answers": [ { "text": "旧赤色砂岩", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オークニー諸島の表層を構成する旧赤色砂岩が形成された時期とは?", "id": "tr-640-03-001", "answers": [ { "text": "中期デボン紀", "answer_start": 24, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中部デボン系の玄武岩質火山岩が見られるのは、ホイ島、メインランド島とどこの島?", "id": "tr-640-03-002", "answers": [ { "text": "シェイビンセー島", "answer_start": 221, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "シェトランド諸島の地質は全く異なっている。\n数多くの断層と褶曲軸が入り乱れ、非常に複雑である。\nこの島々はカレドニア造山運動の北端であり、ルイシアン複合岩帯やダルリアダンおよびモイン累層群の露頭もあり、スコットランド本土の岩石と同様の歴史を受けて生きていることがわかる。\nさらに小規模な旧赤色砂岩の堆積と、貫入花崗岩がある。\n最も独自性の高い特徴は、超塩基性オフィオライトや橄欖岩、斑糲岩で、アンスト島とフェトラー島で見ることができる。\nこういった岩石はイアペトゥス海の海底の名残である。\nシェトランド諸島の経済はその多くが周辺海域の堆積岩内の石油に依存している。", "qas": [ { "question": "シェトランド諸島はどこの国の岩石と同じ歴史を辿ってきたの?", "id": "tr-640-04-000", "answers": [ { "text": "スコットランド", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "斑糲岩、超塩基性オフィオライト、橄欖岩といった岩石はどこの海底の名残ですか?", "id": "tr-640-04-001", "answers": [ { "text": "イアペトゥス海", "answer_start": 227, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "斑糲岩、橄欖岩、超塩基性オフィオライトが存在している島はフェトラー島とどこ?", "id": "tr-640-04-002", "answers": [ { "text": "アンスト島", "answer_start": 196, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "北部諸島は冷涼で温和な気候をしており、比較的高緯度であるわりに穏やかで安定してる。\nこれは周囲の海域とメキシコ湾流の影響が大きい。\nオークニー諸島の平均年降水量は982ミリメートルで、シェトランド諸島では1,168ミリメートルである。\n風はこの地域の気候において重要な要素を占めており、夏季においてもほぼ常に一定の軟風がある。\n冬になると頻繁に強風が吹き荒れ、オークニー諸島の強風継続時間の年平均は52時間に達する。\nシェトランド諸島にあるバラデール・ウィンドファームは、660キロワットを出力するヴェスタV47型タービンを5機使用し、恒常的な強風により、2005年の1年間の発電効率が57.9パーセントを記録し世界記録を成し遂げた。\n旅行者にとって、この諸島の魅力の一つは「夜のない」夏である。\nシェトランド諸島において可照時間が最も長い日は太陽が19時間とどまり、完全に闇に包まれることはない。\nこの長い黄昏のことを北部諸島では\"simmerdim\"と呼んでいる。\n冬の夜は相応に長く、冬至の日の可照時間は6時間に満たない。\n一年のこの時期になると、時折オーロラが北の水平線上に現れ、幻想的な光景を醸し出す。", "qas": [ { "question": "平均年降水量が多いのは、オークニー諸島とシェトランド諸島のどちら?", "id": "tr-640-05-000", "answers": [ { "text": "シェトランド諸島", "answer_start": 92, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "シェトランド諸島では、可照時間が最も長い現象を何と呼んでいる?", "id": "tr-640-05-001", "answers": [ { "text": "\"simmerdim\"", "answer_start": 416, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シェトランド諸島で可照時間が長いのは夏と冬のどちら?", "id": "tr-640-05-002", "answers": [ { "text": "夏", "answer_start": 343, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オークニー諸島には重要な先史時代の遺跡が数多く存在し、特に新石器時代の4つの遺跡:スカラ・ブレイ、メイズハウ、ストーンズ・オブ・ステネス、リング・オブ・ブロッガーは、1999年にユネスコ世界遺産「オークニー諸島の新石器時代遺跡中心地」に指定された。\nパパ・ウェストレー島のナップ・オブ・ハワーという新石器時代の農場は北ヨーロッパで最も古い定住地と見られている。\nこの建物には、紀元前3700年頃から900年間人が住み続けていたが、更に古い居留地の跡に建てられていたことが明らかになっている。\nシェトランド諸島にはさらに多くの先史時代の遺跡が残存しており、発掘が行われた場所だけで5,000を越える。\nフェトラー島には”FunzieGirt“という名の顕著な新石器時代の石垣があり、4キロメートルにわたって島を横切っている。", "qas": [ { "question": "オークニー諸島の新石器時代の4つの遺跡がユネスコ世界遺産に指定されたのはいつ?", "id": "tr-640-06-000", "answers": [ { "text": "1999年", "answer_start": 83, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オークニー諸島の新石器時代の4つの遺跡は何という名前でユネスコ世界遺産に登録したの?", "id": "tr-640-06-001", "answers": [ { "text": "「オークニー諸島の新石器時代遺跡中心地」", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "”FunzieGirt“は全長どれくらいあるの?", "id": "tr-640-06-002", "answers": [ { "text": "4キロメートル", "answer_start": 340, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ブロッホを建てた文化は不明だが、鉄器時代の末期までに北部諸島はピクト人の王国に属していた。\nこの時代の主要な考古学的遺物はシンボルストーンである。\n最も有名なのはバラ・オブ・バーゼイで、伝統的なピクトのシンボルと槍と検鞘を帯びた3人の戦士の姿を見とることができる。\n聖ニニアンの島の宝物は1958年に発見された。\n銀の鉢や宝飾などの品々は西暦800年頃の製品と見られている。\nオデルは1959年の論文で、「宝物は、当時のスコットランドにおける銀細工で現存するものとしては最良」であり、「ブローチには動物の頭部や末端が円形の突起になった幾何学的形状など、様々な典型的なピクト文化の様式が見受けられる」と記載している。\nキリスト教がオークニー諸島へ到来したのは6世紀のことで、協会組織が成立したのは8世紀になってからだった。\n\"Buckquoy\"の紡錘車(Buckquoyspindle-whorl)は、バーセイのピクト遺跡で見つかったオガム文字が刻まれた加工品で、その解釈について論争が起き、現在はアイルランドのキリスト教徒に由来するものであると通常は解釈されている。", "qas": [ { "question": "最も有名なシンボルストーンとは?", "id": "tr-640-07-000", "answers": [ { "text": "バラ・オブ・バーゼイ", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オークニー諸島にキリスト教が伝来したのはいつ?", "id": "tr-640-07-001", "answers": [ { "text": "6世紀", "answer_start": 328, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鉄器時代末期の主な考古学的遺物は何でしたか?", "id": "tr-640-07-002", "answers": [ { "text": "シンボルストーン", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "8世紀は、スコットランド沿岸部においてヴァイキング襲来が始まった時代であり、彼らとともに北部諸島へ新たな文化と言語が流入し、先住民の運命が不確かになっていった。\nオークニンガ・サガによると、バイキングはその後島々をノルウェーとスコットランド本土の沿岸に対する海賊遠征の本拠地としていく。\nこれに対抗してノルウェー王ハーラル1世(ハーラル美髪王)は、875年に北部諸島を併合し、ローンヴァルド・エイステインソンがハーラル1世から、スコットランドにおける戦闘時に戦死した子息に対する補償として伯爵を受け、オークニー諸島とシェトランド諸島をその領地として与えられた(学者の中にはこの物語の出処に疑念を抱いており、後世の裸足のマグヌスの航海が元になっていると考えている者もいる)。", "qas": [ { "question": "北部諸島に新しい文化と言語がもたらされたのは誰によってですか?", "id": "tr-640-08-000", "answers": [ { "text": "ヴァイキング", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハーラル1世からオークニー諸島とシェトランド諸島をもらった人は誰?", "id": "tr-640-08-001", "answers": [ { "text": "ローンヴァルド・エイステインソン", "answer_start": 188, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オークニー諸島での経緯は多少異なっていた。\nスコットランドの事業家が殺到し、農民や漁民、商人などが集まった相異なり独立したコミュニティーが作られていった。\nそういった人々は自身を“comunitatisOrcadie”と呼び、大領主から自らの権利を守るために有効であることを大いに知らしめていった。\n17世紀には、オークニー諸島出身者がカナダのハドソン湾会社において従業員の大半を占めていた。\nオークニー諸島の厳しい気候と住人にたいする「真面目」という評判、そして彼らが有する操船技術が、カナダ北部の冷厳な環境で働く人員として理想的な候補者であった。\nこの時期、ケルプを燃やして灰を製造することが、島の経済の大黒柱となっていた。\nたとえば、シェイビンセー島では、ソーダ灰を製造するために毎年3,000トンを越える海藻が焼却され、地元経済に20,000ポンドをもたらしていた。\n農業改革は17世紀に共有地の囲い込みと同時に始まり、ヴィクトリアの治世には大規模で適切に管理された5輪作制を採用し高品質の肉牛を生産する農場が登場している。\n19世紀までは、オークニー諸島に漁船団が存在した証拠はほとんどないが、ストロンゼー島では1840年代までに700隻まで急速に膨れ上がり、その後はストロムネスが、発展の中心となっていった。\n19世紀になると、オークニー諸島の多くの漁民が北極海域で捕鯨に従事するようになったが、通常漁船はイギリスの何処かを本拠としていた。", "qas": [ { "question": "シェイビンセー島でのソーダ灰の製造により、いくらが地元経済にもたらされていたの?", "id": "tr-640-09-000", "answers": [ { "text": "20,000ポンド", "answer_start": 369, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スコットランドの事業家達が作った独立したコミュニティーの呼称とは?", "id": "tr-640-09-001", "answers": [ { "text": "“comunitatisOrcadie”", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1840年代までにストロンゼー島に存在していた漁船団はいくつだったの?", "id": "tr-640-09-002", "answers": [ { "text": "700隻", "answer_start": 520, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "19世紀にオークニー諸島の多くの漁民は、北極海域で何を捕獲していましたか?", "id": "tr-640-09-003", "answers": [ { "text": "鯨", "answer_start": 590, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オークニー諸島には、スカパ・フローに海軍基地が有り、第1次世界大戦で大きな役割を果たした。\n1918年の休戦後、ドイツ帝国大洋艦隊を一旦スカパ・フローに移し、正式な処遇は後で決めることとしていたが、ドイツの指揮官は旗下の全艦に対し止水弁を開いて自沈を命じた。\n第1次世界大戦中に、第10巡洋艦隊がシェトランド諸島のスワーバックス・ミンを基地として派遣され、1917年3月からの1年間、4,500隻を越える船舶が、護送船団の一部としてラーウィックを出港していった。\n合計で、シェトランド諸島は500名以上の人員を失い、それはイギリスの他の地域よりも人口比率が大きかった。\nそして1920年代から30年代にかけて、移民の急増が起きた。", "qas": [ { "question": "シェトランド諸島で500名以上の人員が失う原因となった戦争とは?", "id": "tr-640-10-000", "answers": [ { "text": "第1次世界大戦", "answer_start": 130, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スワーバックス・ミンはどこの諸島にあるの?", "id": "tr-640-10-001", "answers": [ { "text": "シェトランド諸島", "answer_start": 148, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第二次世界大戦が開戦してから一月後、イギリス海軍の戦艦ロイヤル・オークがスカパ・フロー内でドイツのUボートに沈められた。\nその結果、海峡の大部分を封鎖する障害物が建設された。\nこれにより、諸島内の移動がフェリーに依存することなく、島から島へと堤防道路をたどって行き来できるようになった。\nこの堤防道路はイタリア人の捕虜によって構築された。\nまた彼らは華麗なイタリアン礼拝堂も建てている。\nスカパ・フロー基地は終戦後規模が縮小され、1957年には閉鎖された。", "qas": [ { "question": "イタリア人の捕虜が構築したものは堤防道路と何?", "id": "tr-640-11-000", "answers": [ { "text": "イタリアン礼拝堂", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スカパ・フロー基地が閉鎖されたのは何年?", "id": "tr-640-11-001", "answers": [ { "text": "1957年", "answer_start": 215, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第二次世界大戦中、ノルウェー海軍艦隊が「シェトランド・バス」と渾名を付けた、ノルウェー沿岸域での作戦行動を指揮する特殊作戦執行部が1940年の秋に設立され、最初にラナ、次にスカロウェイに基地が設けられた。\nノルウェーからの難民からおよそ30隻の漁船が集められ、シェトランド・バスとして、秘密工作部隊や諜報員、難民やレジスタンスの指導者に軍事物資の輸送を行った。\nリーフ・ラーセンは200回を越える作戦航海を成し遂げ、この戦争において連合国内で最も多く勲章を授与された海軍士官となり、その数は52を数えた。\n終戦後の数年間、人口の減少は重要な問題だったが、20世紀最後の十数年で人口は回復し、島内の生活は繁栄と比較的階級がない社会の出現に目が行くようになっていった。", "qas": [ { "question": "「シェトランド・バス」が設立されたのは何年?", "id": "tr-640-12-000", "answers": [ { "text": "1940年", "answer_start": 65, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「シェトランド・バス」の2番目の基地はどこに作られた?", "id": "tr-640-12-001", "answers": [ { "text": "スカロウェイ", "answer_start": 86, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "これまでの歴史により、北部諸島はゲールよりもノース人の影響が強く、フェロー諸島やアイスランド、ノルウェーとの由緒ある絆が存在する。\n地理と歴史双方の類似性により、現在の政治状況について複数の要素で何らかの一致が見受けられる。\nオークニー諸島とシェトランド諸島は合わせて、オークニー・アンド・シェトランド選挙区として、下院に議席を1つ確保している(2015年現在、現職はアリステア・カーマイケル)。\nまた北部諸島は、スコットランド議会においてハイランド・アンド・アイランズ選挙区に属している。\nしかしながら、これ以外にオークニー諸島とシェトランド諸島とはそれぞれ小選挙区を1つ有し、議席1の議員選挙を行っている。\n各諸島は個別に地方自治体を組織しており、いずれも政治団体に属していない無所属議員が優位に立っている。\nオークニー・ムーヴメントは、オークニー諸島のスコットランドからの自治拡大を目指す政治団体であり、シェトランド諸島の同様の政党とともにオークニー・アンド・シェトランド・ムーヴメント党を組織し、1987年イギリス総選挙に立候補した。\n候補者のジョン・グッドラッドは、有権者の14.5パーセントにあたる3,095票を獲得し4位となったが、その後同様の試みは行われていない。", "qas": [ { "question": "北部諸島はスコットランド議会において何の選挙区に属しているの?", "id": "tr-640-13-000", "answers": [ { "text": "ハイランド・アンド・アイランズ選挙区", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1987年イギリス総選挙にオークニー・アンド・シェトランド・ムーヴメント党から立候補した人は誰?", "id": "tr-640-13-001", "answers": [ { "text": "ジョン・グッドラッド", "answer_start": 476, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フェリーが北部諸島とスコットランド本土を連絡している。\n主要ルートはサーソーのスクラブスター港-ストロムネス航路とアバーディーン-ラーウィック航路の2つで、双方ともサーコ・ノースリンク・フェリーが運行している。\n諸島内を結ぶフェリーはオークニー・フェリーとSICフェリーが担っており、双方とも地元の行政府によって運営されている。\n他に、ノースリンク・フェリーがラーウィック-カークウォール航路を運行している。\n諸島間の海域では風と潮流に曝され、数多くの難破船が存在している。航行を補助するため灯台が至るところに設置されている。", "qas": [ { "question": "北部諸島とスコットランド本土間を結ぶフェリーを運行しているのはどこ?", "id": "tr-640-14-000", "answers": [ { "text": "サーコ・ノースリンク・フェリー", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スクラブスター港-ストロムネス航路とアバーディーン-ラーウィック航路以外の航路は?", "id": "tr-640-14-001", "answers": [ { "text": "ラーウィック-カークウォール航路", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オークニー諸島の基幹空港はカークウォール空港で、ハイランド・アンド・アイランズ空港会社が運営している。\nFlybe傘下のローガンエアーが、スコットランド本土(アバディーンとエディンバラ、グラスゴー、インヴァネス)の空港と結んでおり、他にシェトランド諸島のサンボロー空港にも就航している。\nサンボロー空港からもスコットランド本土に向けて同様の路線を運行している。\n諸島内については、カークウォール空港からオークニー諸島のいくつかの島へ、シェトランド諸島のメインランド島からは諸島内のほとんどの有人島へ空路があり、ラーウィック郊外のティングウォール空港を使う空路もある。\nアバディーン空港からサロム・ヴォー石油備蓄基地近郊のスカッツタ空港へ向けてチャーター便が頻繁に運行されており、石油基地の従業員の移動に利用されている。\nこの小さなターミナルは、国際線乗客数においてスコットランドで5番目に多い。\nウェストレー空港とパパ・ウェストレー空港を結ぶ定期便は、飛行時間が2分しかない世界最短の航空路として有名である。", "qas": [ { "question": "ウェストレー空港とパパ・ウェストレー空港を結ぶ定期便の飛行時間は?", "id": "tr-640-15-000", "answers": [ { "text": "2分", "answer_start": 431, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "地質構造に見られる大きな差異が、2つの諸島の経済構造を相異なるものに帰着させている。\nシェトランド諸島における主な収入源は、農業に養殖業、漁業、再生可能エネルギー、石油産業(周辺海域における原油および天然ガス生産)、創造産業、観光業である。\n石油とガスがサロム・ヴォーで最初に陸揚げされたのは1978年で、その後ヨーロッパでも最大級の石油基地となった。\n石油産業からの税収入により、社会福祉、芸術・スポーツ振興、環境保全、金融対策におけるシェトランド諸島の公共部門支出が増加した。\n諸島における労働力の3/4が第3次産業に従事しており、2003年には自治体であるシェトランド諸島カウンシル単体で、産出高の27.9パーセントをたたき出している。\n現在でも漁業は諸島経済の中心を維持しており、2009年の漁獲高は75,767トンに及び、売上は7320万ポンドを超えている。", "qas": [ { "question": "ヨーロッパでも最大級の石油基地があるのは何諸島?", "id": "tr-640-16-000", "answers": [ { "text": "シェトランド諸島", "answer_start": 43, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シェトランド諸島の経済の中心となっている産業分野とは?", "id": "tr-640-16-001", "answers": [ { "text": "漁業", "answer_start": 326, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シェトランド諸島の労働力の半分以上が従事しているのは第何次産業なの?", "id": "tr-640-16-002", "answers": [ { "text": "第3次産業", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2009年の漁業による売上はいくらでしたか?", "id": "tr-640-16-003", "answers": [ { "text": "7320万ポンド", "answer_start": 369, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "対照的に、オークニー諸島では漁業が19世紀から振るわず、石油産業の勃興が与えた恩恵もさほど大きいものではなかった。\nしかし、オークニー諸島の土壌はたいていの所で極めて肥沃で、土地の大半が農場として利用されている。\n農業はオークニー諸島の基幹産業であり、労働力の4分の1がこれに従事している。\n農業用地の90パーセントが牧羊と牧牛用の牧草地で、穀物類の作付面積は4パーセント(4,200ヘクタール)に過ぎない。\n森林面積はたった134ヘクタールである。\n北部諸島では風力と海洋エネルギー資源が重要な役割をは足りており、近年では再生可能エネルギーが注目を増している。\nヨーロッパ海洋エネルギーセンターは、スコットランド政府の支援のもと、オークニー諸島のメインランド島ビリア・クルーに風力試験システムを、エディ島に潮汐力試験基地を設置している。\nこれは「特注の風力および潮汐力エネルギー装置の性能試験を行う施設であり、この種のものとしては世界でも最初のものである」", "qas": [ { "question": "オークニー諸島の中心産業は何?", "id": "tr-640-17-000", "answers": [ { "text": "農業", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オークニー諸島の森林面積は?", "id": "tr-640-17-001", "answers": [ { "text": "134ヘクタール", "answer_start": 213, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "穀物類の作付面積と牧草地はどちらが広いですか?", "id": "tr-640-17-002", "answers": [ { "text": "牧草地", "answer_start": 166, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "穀物類の作付面積と森林面積はどちらが広いですか?", "id": "tr-640-17-003", "answers": [ { "text": "穀物類の作付面積", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "温泉藻", "paragraphs": [ { "context": "温泉藻(おんせんそう、英:hotspringalgae)とは、温泉の源泉付近や流路、浴槽などに棲息する藻類のことである。\n一般的な生物であれば生育に支障をきたす50-80°Cの環境に適応した極限環境微生物である。", "qas": [ { "question": "温泉の源泉付近や流路、浴槽などに棲息する藻類の名前は何?", "id": "tr-641-00-000", "answers": [ { "text": "温泉藻", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "温泉や源泉付近に棲息し、50-80°Cの環境に適応した極限環境微生物とは何?", "id": "tr-641-00-001", "answers": [ { "text": "温泉藻", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "一般的な生物が生育に支障をきたす温度とは何°C?", "id": "tr-641-00-002", "answers": [ { "text": "50-80°C", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "温泉や源泉付近に棲息する極限環境微生物とは何?", "id": "tr-641-00-003", "answers": [ { "text": "温泉藻", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "温泉藻は基本的に単細胞生物である。\n主に原核生物である藍藻と真核生物の紅藻、珪藻から構成され、古細菌などと共に温泉特有の生態系を構築している。\n糸状群体を形成して肉眼的な大きさになる藻類はあるが、海藻のような大型の藻体を構成するものはない。\n浮遊性のものは植物プランクトンとして、水流中や水蒸気の曝露がある気相に繁茂する種は付着生物として生活する。\n主要な温泉藻である藍藻や紅藻はクロロフィルaとフィコシアニンを持ち青緑色に見えるため、温泉藻が繁殖した場所は青緑色を呈する場合が多い。", "qas": [ { "question": "浮遊性のある温泉藻はどのような生物として生活するの?", "id": "tr-641-01-000", "answers": [ { "text": "植物プランクトン", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "温泉藻を構成しているのは、珪藻と藍藻と何ですか?", "id": "tr-641-01-001", "answers": [ { "text": "紅藻", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "藍藻や紅藻は何色に見えますか?", "id": "tr-641-01-002", "answers": [ { "text": "青緑色", "answer_start": 208, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "温泉藻が青緑色の見える原因は、クロロホルムaと何があるからですか?", "id": "tr-641-01-003", "answers": [ { "text": "フィコシアニン", "answer_start": 198, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "温泉藻は好熱菌と同様、熱安定性に優れたタンパク質を持つ。\n特に強酸性の泉質を好む温泉藻では、泉中に溶解しているアルミニウムなどの金属イオンへの耐性も備える。\nまた温泉性の藍藻の特徴として、紫外線に対する防御色素であるスキトネミン(scytonemin)をあまり産生しないということが挙げられる。\nこれは、高温湿潤な環境下ではDNA修復を速やかに行えるからであると考えられている。", "qas": [ { "question": "温泉藻が好むのは何性の泉質ですか?", "id": "tr-641-02-000", "answers": [ { "text": "強酸性", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "熱安定性に優れたタンパク質を持っているのは温泉藻と何ですか?", "id": "tr-641-02-001", "answers": [ { "text": "好熱菌", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "温泉性の藍藻があまり産出しない防御色素とは何ですか?", "id": "tr-641-02-002", "answers": [ { "text": "スキトネミン", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "藍藻は温泉藻として普通に見られる生物である。\nイエローストーン国立公園をはじめ世界中の温泉地に生育している。\n多くの属が高温で生育可能であり、45°C以上に至適生育温度を持つものは好熱性と定義される。\n温泉藻として主なものを以下に挙げる。", "qas": [ { "question": "世界中の温泉地に生育している温泉藻の種類は何ですか?", "id": "tr-641-03-000", "answers": [ { "text": "藍藻", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "好熱性と定義されるのは、何°C以上の至適生育温度をもつ藍藻のことですか?", "id": "tr-641-03-001", "answers": [ { "text": "45°C以上", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "イデユアイミドリMastigocladuslaminosusは、古くはFischerella属に分類されていた。\n世界中の温泉に分布する藍藻。\n58°C以下の温泉ではほとんど全ての場所に見られる。\nこれはアキネート(akinete)と呼ばれる耐久胞子が非常に厚い細胞壁を持つためで、これが広範囲への風媒分散を可能にしている。\n水中では球形・亜球形の細胞が連なった連鎖群体となり、硫黄細菌とともにバイオフィルムを形成する。\n火山地帯の温暖な土壌にも生息する。", "qas": [ { "question": "世界中の温泉に分布する藍藻の種類は何ですか?", "id": "tr-641-04-000", "answers": [ { "text": "イデユアイミドリ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イデユアイミドリが生息出来る上限温度は何°Cですか?", "id": "tr-641-04-001", "answers": [ { "text": "58°C", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イデユアイミドリは何属に含まれていたの?", "id": "tr-641-04-002", "answers": [ { "text": "Fischerella属", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イデユアイミドリが水中で形成する膜とは何?", "id": "tr-641-04-003", "answers": [ { "text": "バイオフィルム", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "リングビア属Lyngbyaは、淡水・海水を問わず様々な環境に生息する藍藻。\n温泉や周辺の土壌に生息する種が知られている。\nミクロキスチス属Microcystisは、淡水域で大発生する浮遊性の藍藻。\n細胞内にガス胞を持ち、浮沈を制御している。\nしばしばアオコを形成して問題視される。\n温泉に見られるのはM.protea、M.thermalisなどである。", "qas": [ { "question": "淡水域のみで生息する藍藻はリングビア属とミクロキスチス属のどちらですか?", "id": "tr-641-05-000", "answers": [ { "text": "ミクロキスチス属", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アオコを形成する藍藻は何ですか?", "id": "tr-641-05-001", "answers": [ { "text": "ミクロキスチス属", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "淡水と海水に生息することのできる藍藻はミクロキスチス属とリングビア属のどちらですか?", "id": "tr-641-05-002", "answers": [ { "text": "リングビア属", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "細胞内にガス胞を持っているのはミクロキスチス属とリングビア属のどちらですか?", "id": "tr-641-05-003", "answers": [ { "text": "ミクロキスチス属", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ユレモ属Oscillatoriaは、イデユアイミドリと同様に世界中の温泉に見られる藍藻。\nリングビアに似た糸状群体を形成する。\n温泉藻としてO.geminata、O.jovis、O.lemmermannii、O.subbrevis、O.tenuisなど。\nフォルミディウム属Phormidiumはフォルミジウム属とも。\n前述のユレモに似るが、これとは異なり細胞外マトリックスとして寒天質の鞘を持つ。\nP.fragile、P.subuliforme、P.tenueなど。\nP.fragileは地熱の影響を受けた土壌にも生息する。", "qas": [ { "question": "リングビアに似た糸状群体を形成し、世界中の温泉で見ることのできるのは何属の藍藻?", "id": "tr-641-06-000", "answers": [ { "text": "ユレモ属", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "P.fragile、P.fragile、P.subuliforme、P.tenueの中で地熱の影響を受けた土壌にも生息できるものは何?", "id": "tr-641-06-001", "answers": [ { "text": "P.fragile", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "O.lemmermanniiやO.jovisは何属の温泉藻ですか?", "id": "tr-641-06-002", "answers": [ { "text": "ユレモ属", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "寒天質の鞘を持つのは何属の藍藻ですか?", "id": "tr-641-06-003", "answers": [ { "text": "ユレモ属", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "シネココッカス属Synechococcusは、様々な場所に生息する藍藻。\n温泉藻としてもS.caldasius、S.eximius、S.lividus、S.minervae、S.praelongus、S.salina、S.sublividus、S.vulcanusなど多数。\n球形から楕円形、棒状に近い形態のものまで、種や細胞の状態によって形態が異なる。\nいずれも直径数μm。\nS.lividusは70°Cの高温にも耐えるが、54°Cを下回ると生育できない。\nサーモシネココッカス属Thermosynechococcusは、T.elongatusなど、シネココッカス属から分離された種が属する。\n長さ5μm、幅1μm程度の細長い細胞。\n至適生育温度を57°Cに持つ。\n大分県別府温泉より単離されたT.elongatusBP-1株はゲノムプロジェクトが完了している。", "qas": [ { "question": "S.eximiusやS.vulcanusは何属の藍藻ですか?", "id": "tr-641-07-000", "answers": [ { "text": "シネココッカス属", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "S.lividusが生息できる下限は何°Cですか?", "id": "tr-641-07-001", "answers": [ { "text": "54°C", "answer_start": 213, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サーモシネココッカス属の至適生育温度は?", "id": "tr-641-07-002", "answers": [ { "text": "57°C", "answer_start": 325, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サーモシネココッカス属は長さがどれくらいですか?", "id": "tr-641-07-003", "answers": [ { "text": "5μm", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "紅藻は、真核温泉藻の中核を成す生物群。\n温泉藻である紅藻は海洋に生息するような大型の藻類ではなく、全てイデユコゴメ綱(Cyanidiophyceae)に分類される単細胞の紅藻である。\n本綱の紅藻は全て温泉藻である。\n紅藻の中で初期に分岐したと考えられることから、このグループを原始紅藻と呼ぶ場合もある。\nイデユコゴメ綱の紅藻は赤色の色素であるフィコエリスリンを欠くため、紅藻ではあるが藍藻と同じフィコシアニンの青緑色を呈する。\nそのため、肉眼による藍藻との判別は困難である。\nいずれも硫酸酸性の低pHの温泉を好み、世界各地に生息する。\nイデユコゴメ綱イデユコゴメ目イデユコゴメ科の3属が含まれる。", "qas": [ { "question": "フィコエリスリンは何色の色素なの?", "id": "tr-641-08-000", "answers": [ { "text": "赤色", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "紅藻は何色に見えるの?", "id": "tr-641-08-001", "answers": [ { "text": "青緑色", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "肉眼での判別が困難である藍藻とよく似た温泉藻の種類とは何?", "id": "tr-641-08-002", "answers": [ { "text": "紅藻", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "イデユコゴメ属Cyanidiumはシアニジウム属、シアニディウム属とも。\nCyanidiumcaldarium1種のみが含まれる。\n和名はイデユコゴメ(出湯小米)。\n種形容語は古代ローマの公衆浴場の高温浴室であるカルダリウムに由来する。\n細胞は球形で直径数μm〜数十μm、強固な細胞壁を持ち、さらに周囲に珪酸を沈着する。\nこの珪酸がイデユコゴメの耐熱性や耐酸性を高めているという意見もある。\n古くは藍藻や緑藻として誤同定され、分類群を変遷してきた経緯がある。\n日本では草津温泉の岩盤面に大量に繁殖している様子が観察できる。\n主に水中に棲むが、温泉の蒸気があたる岩盤表面のような気相でも生育する。", "qas": [ { "question": "イデユコゴメを漢字で書くとどうなる?", "id": "tr-641-09-000", "answers": [ { "text": "出湯小米", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イデユコゴメ属が大量に繁殖している国内の温泉地とはどこ?", "id": "tr-641-09-001", "answers": [ { "text": "草津温泉", "answer_start": 234, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イデユコゴメ属の種形容語の由来は何?", "id": "tr-641-09-002", "answers": [ { "text": "カルダリウム", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "古代ローマの公衆浴場にあった高温浴室とは何?", "id": "tr-641-09-003", "answers": [ { "text": "カルダリウム", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ガルディエリア属Galdieriaは、前述のイデユコゴメに似るが葉緑体の配置が異なる。\n細胞の直径は10μm前後。\n数種が報告されており、温泉の温度や湿潤状態などにより、同属間でもしくはイデユコゴメと棲み分けている。\nGaldieriasulphurariaはガルディエリア属の代表的な種である。\n種形容語のsulphurariaは硫黄(sulfur)に由来する。\n温泉の蒸気があたる岩盤の表面や、多孔質の岩の内部にも入り込んで生育する。\n本種のゲノムプロジェクトも進められている。\nG.partitaとG.daedalaはいずれもロシアの温泉などから採取されている。\n系統的にも両種は近縁である。\nG.maximaは他のガルディエリアとは異なったやや系統的位置を占める。\n18SrRNA系統解析ではG.partitaに近いが、rbcL遺伝子配列ではシアニディオシゾンに近縁である。", "qas": [ { "question": "ガルディエリア属の細胞の直径は?", "id": "tr-641-10-000", "answers": [ { "text": "10μm前後", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ガルディエリア属の代表種は何?", "id": "tr-641-10-001", "answers": [ { "text": "Galdieriasulphuraria", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "G.daedalaはどこの国の温泉から採れましたか?", "id": "tr-641-10-002", "answers": [ { "text": "ロシア", "answer_start": 266, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "シアニディオシゾン属Cyanidioschyzonはシアニディオシゾン(Cyanidioschyzonmerolae)1種のみが含まれる。\nイタリアナポリの温泉から発見された藻類。\n至適生育条件はpH2.0、温度42°C。\n非常に小型の藻類で、細胞の直径は1-2μm。\n細胞壁を持たないため乾燥には弱く、水中や湿潤な場所に生育する。\nモデル生物の一つであり、ゲノムプロジェクトが完了しているほか、様々な生理学的・構造生物学的研究が進められている。\nシアニディオシゾンの遺伝子を組み込んだシロイヌナズナでは、耐熱性が向上することも報告されている。", "qas": [ { "question": "イタリアナポリの温泉から発見された藻類とは何?", "id": "tr-641-11-000", "answers": [ { "text": "シアニディオシゾン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シアニディオシゾンはどこの国の温泉から発見されたの?", "id": "tr-641-11-001", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 70, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シアニディオシゾン属の至適生育温度は?", "id": "tr-641-11-002", "answers": [ { "text": "42°C", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シアニディオシゾン属の細胞の直径は?", "id": "tr-641-11-003", "answers": [ { "text": "1-2μm", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "温泉に棲む珪藻のうち、同定が進んでいるものは多くない。\nしかし日本の温泉には多くの固有種が生息していると考えられている。\n温泉藻の主なものはハネケイソウやイチモンジケイソウ(Eunotia)の仲間である。\nハネケイソウ属Pinnulariaは淡水中に普通に出現する本属であるが、2001年に出井らによって発見されたPinnulariaacidojaponicaは強酸性の温泉に生息することが知られている。", "qas": [ { "question": "主な珪藻はイチモンジケイソウの仲間や何がありますか?", "id": "tr-641-12-000", "answers": [ { "text": "ハネケイソウ", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Pinnulariaacidojaponicaの発見者は誰?", "id": "tr-641-12-001", "answers": [ { "text": "出井", "answer_start": 145, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヒトに対して特に有毒な温泉藻は報告されていない。\nしかし温泉藻やその他の好温性微生物が形成するバイオフィルムは、レジオネラなどの病原体が繁殖するための温床となる。\n従って公衆衛生の観点からは、これを除去したり、あるいは繁殖しにくい環境を維持する事が望ましいとされる。\n防藻手段としては物理的な除去の他、塩素や銅イオン系薬剤の散布などがある。\nサーモシネココッカスなどの藍藻、ガルディエリアやシアニディオシゾンなどの紅藻類は培養などの維持管理が容易なこともあり、様々な生物学的研究においてモデル生物として利用されている。\nこれらの藻類のタンパク質は高温でも安定しており、生化学的解析の対象として扱いやすい。\nまた、温泉藻が温泉環境で生育する為に保持している耐熱性や耐重金属性といった特徴を利用して、その遺伝子を高等植物に組み込むなどの応用的研究も行われている。", "qas": [ { "question": "ヒトに有毒な温泉藻はあるかないか?", "id": "tr-641-13-000", "answers": [ { "text": "ない", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "紅藻類に含まれるのはサーモシネココッカスとシアニディオシゾンのどちらですか?", "id": "tr-641-13-001", "answers": [ { "text": "シアニディオシゾン", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "レジオネラが繁殖するために温床としているのは何ですか?", "id": "tr-641-13-002", "answers": [ { "text": "バイオフィルム", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サーモシネココッカス、ガルディエリア、シアニディオシゾンの中で紅藻類でないものは何?", "id": "tr-641-13-003", "answers": [ { "text": "サーモシネココッカス", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "アトランタ", "paragraphs": [ { "context": "アトランタは、アメリカ合衆国ジョージア州北西部に位置する都市だ。同州の州都・最大都市であり、またフルトン郡の郡庁所在地である。市域の大部分はフルトン郡内にあり、一部東隣のディカーブ郡にかかっている。人口はアトランタ市域内で420,003人、フルトン郡を中心に29郡にまたがる都市圏では5,286,728人、アセンズやゲインズビル、ローム等をあわせた広域都市圏では6,054,858人を数える(すべて2010年国勢調査)。古くは鉄道交通のハブとして、また綿花産業の中心地として栄えた。やがてコカ・コーラ、デルタ航空、CNNなど多数の大企業が本社を置くようになり、ジョージア州のみならずアメリカ合衆国南部の商業・経済の中心地としての役割を担うようになった。1990年代に入ると、アトランタはアメリカ合衆国南部にとどまらず、国際的にも影響力を持つまでになり、先進国の都市の中では最も高い成長を遂げている都市の1つに数えられるようになった。経済面での国際的な影響力に加え、「世界で最も忙しい空港」と呼ばれるハーツフィールド・ジャクソン・アトランタ国際空港を前面に抱え、1996年の夏季オリンピック開催地としても世界的な知名度を有するアトランタは、2014年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第36位の都市と評価された。", "qas": [ { "question": "アトランタはどの州に位置していますか。", "id": "tr-642-00-000", "answers": [ { "text": "ジョージア州", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジョージア州の州都・最大都市はどこ?", "id": "tr-642-00-001", "answers": [ { "text": "アトランタ", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2010年国勢調査によると、アトランタ市域内の人口は何人ですか。", "id": "tr-642-00-002", "answers": [ { "text": "420,003人", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1996年の夏季オリンピック開催地はどこでしたか。", "id": "tr-642-00-003", "answers": [ { "text": "アトランタ", "answer_start": 464, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アトランタは南部特有の夏の蒸し暑さと冬の温暖さから、「ホットランタ」(Hotlanta)という異名をつけられている。アトランタの南、メーコンを拠点として活動しているバンド、オールマン・ブラザーズ・バンドは、1971年にこの異名を取った「ホットランタ」(Hot'Lanta)という楽曲を発表した。アトランタの住民は「アトランタンズ」(Atlantans)と呼ばれている。", "qas": [ { "question": "アトランタは南部特有の夏の蒸し暑さと冬の温暖さから、何という異名を持っていますか。", "id": "tr-642-01-000", "answers": [ { "text": "「ホットランタ」(Hotlanta)", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ホットランタ」(Hot'Lanta)という楽曲を発表したバンドの名前は何?", "id": "tr-642-01-001", "answers": [ { "text": "オールマン・ブラザーズ・バンド", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アトランタの住民は何と呼ばれていますか。", "id": "tr-642-01-002", "answers": [ { "text": "「アトランタンズ」(Atlantans)", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "現在アトランタという都市が存在しているこの地には、古くはスタンディング・ピーチツリーと呼ばれる、ネイティブ・アメリカンの村があった。1822年、チェロキー族とクリークス族がヨーロッパ人入植者に土地を割譲し、この地にディケーター(Decatur)という名の入植地が建設された。その後まもなく、非公式の取引所がヨーロッパ人の入植地へと発展し、スラッシャービル(Thrashersville)と名付けられた。1836年12月21日、ジョージア州議会は、この地と中西部との通商ルートを提供するため、アパラチア山脈を越えてテネシー州チャタヌーガへと通ずるウェスタン・アンド・アトランティック鉄道の建設案を可決した。一方、この一帯に住み着いていたチェロキー族は、1830年に成立したインディアン移住法の結果、強制移住によって土地を追われた。ネイティブ・アメリカンの去った土地には、鉄道を敷く余地が残された。1842年、マーサズビル(Marthasville)と名を変えたこの町には6棟の建物が建ち、30人の住民が住んでいた。その後も幾度か町名が変わった後、ジョージア鉄道の主任技術者エドガー・J・トムソンは、この地をアトランティカ・パシフィカ(Atlantica-Pacifica)という名に変えることを提案した。この名はすぐに「アトランタ」に縮められた。住民はこの名に賛同し、1847年12月29日、町はアトランタという名で正式な町になった。1854年には、アトランタとジョージア州西部、アラバマ州との州境近くの町ラグレンジとを結ぶ鉄道が開通した。1860年には、町の人口は9,554人へと増えた。", "qas": [ { "question": "現在アトランタという都市が存在しているこの地には、古くは何と呼ばれましたか。", "id": "tr-642-02-000", "answers": [ { "text": "スタンディング・ピーチツリー", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジョージア州議会は、いつウェスタン・アンド・アトランティック鉄道の建設案を可決しましたか。", "id": "tr-642-02-001", "answers": [ { "text": "1836年12月21日", "answer_start": 201, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "インディアン移住法は何年に成立されたか。", "id": "tr-642-02-002", "answers": [ { "text": "1830年", "answer_start": 325, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アトランティカ・パシフィカ(Atlantica-Pacifica)という名に変えることを提案した人の名前は何?", "id": "tr-642-02-003", "answers": [ { "text": "エドガー・J・トムソン", "answer_start": 485, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "南北戦争時には、アトランタは鉄道交通・軍需品供給の中心地として重要な地であった。1864年5月、テネシーから州境を越えた北軍は、勝利を重ねながらアトランタを目指して南へと軍を進めた。ピーチツリークリークの戦い、アトランタの戦い、エズラ教会の戦いなど、アトランタ方面作戦と呼ばれるこれら一連の戦いにおいて、アトランタとその周辺、特に北側の地域は激しい戦闘の繰り広げられる戦場と化した。1864年9月1日、南軍将軍ジョン・ベル・フッドはアトランタから逃れ、ついにアトランタは陥落した。逃亡にあたって、フッドは全ての公共の建物、および南軍の資産を破壊するように命じた。翌9月2日、市長ジェームズ・カルホーンは市を明け渡した。9月7日には、北軍将軍ウィリアム・シャーマンは民間人に対し市外への避難命令を出した。次いで11月11日には、シャーマンはさらに南への進軍にあたって、教会と病院を除いて、アトランタの町を全て焼き払うように命じた。", "qas": [ { "question": "南北戦争のとき、鉄道交通・軍需品供給の中心地として重要な地の役割をしたのはどこですか。", "id": "tr-642-03-000", "answers": [ { "text": "アトランタ", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アトランタは何年に陥落したか。", "id": "tr-642-03-001", "answers": [ { "text": "1864年", "answer_start": 191, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "南北戦争が終わると、やがて市の再建が始まった。1867年から1888年にかけては、レコンストラクションを確実なものにするため、アメリカ合衆国陸軍がアトランタの南西に立地するマクファーソン兵舎を占拠した。奴隷の身分から解放され、自由の身となったアフリカ系アメリカ人の助けとなるため、解放黒人局はアメリカ伝道師教会(AmericanMissionaryAssociation,AMA)をはじめとする解放黒人支援団体と協力体制を築いた。AMAは1866年、ストアーズ・スクールおよびサマー・ヒル・スクールという、アフリカ系の生徒のための学校を2校設立した。これらの学校は1872年にアトランタ公立学区に組み入れられた。また、AMAはアフリカ系教師養成の一環として、1865年にアトランタ大学も設立した。アトランタ大学はHistoricallyBlackCollegeと呼ばれる、アフリカ系市民に高等教育の機会を与えるために設立された大学としては、アトランタで初めて設立されたもののうちの1校である。ウォッシュバーン孤児院を設立したのもAMAであった。アトランタ第一会衆派教会(TheFirstCongregationalChurchofAtlanta)は、北部の白人、AMA、アトランタの解放黒人の協働によって生まれた。", "qas": [ { "question": "アトランタ大学はいつ設立されたか。", "id": "tr-642-04-000", "answers": [ { "text": "1865年", "answer_start": 329, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウォッシュバーン孤児院を設立した団体は?", "id": "tr-642-04-001", "answers": [ { "text": "AMA", "answer_start": 464, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1868年には州都がミレッジビルからアトランタに移された。アトランタはジョージア州の歴史において、サバンナ、オーガスタ、ルイスビル、ミレッジビルに次ぐ5番目の州都である。アトランタが州都に選定された背景には、南北戦争後のアトランタの復興と鉄道の便のよさが評価されたことに加えて、「もしもアトランタが州都に選定された場合、州会議事堂をはじめとする州の各種機関のための建物を10年間無償で提供する」とアトランタ市当局が州政府に働きかけたこともあった。1880年代に入ると、アトランタ・コンスティテューション紙の編集者ヘンリー・グレイディーは、農業への依存度を減らし、近代化した経済に根ざした「新南部」(ニュー・サウス、NewSouth)を提唱した。その実現の一環として、1885年には高度な職業訓練・工業技術訓練を主目的とする学校としてジョージア工科大学を設立した。またこの頃、南北戦争後のアトランタで初となる病院、アトランタ病院が設立された。", "qas": [ { "question": "アトランタはジョージア州の何番目の州都なの?", "id": "tr-642-05-000", "answers": [ { "text": "5番目", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジョージア州の州都はアトランタ以前にどこでしたか。", "id": "tr-642-05-001", "answers": [ { "text": "ミレッジビル", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジョージア工科大学は何年に設立されたの?", "id": "tr-642-05-002", "answers": [ { "text": "1885年", "answer_start": 333, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アトランタで初めて設立された病院の名前は何?", "id": "tr-642-05-003", "answers": [ { "text": "アトランタ病院", "answer_start": 406, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "こうしてアトランタは南北戦争から立ち直り、州の政治の中心としても、経済の中心としても発展を遂げていった。しかし、奴隷制が無くなっても人種間の緊張が無くなることはなく、むしろ高まっていった。1906年に起こったアトランタ人種暴動では、少なくとも27人の死者、70人の負傷者を出した。1913年には反ユダヤ主義を背景とした冤罪事件もこの地で起きている。\n\n1939年12月15日、「風と共に去りぬ」のプレミア公演がアトランタのロウズ・グランド・シアターで行われた。この映画はアトランタ出身の作家マーガレット・ミッチェルの小説が原作である。プレミアにはクラーク・ゲーブル、ヴィヴィアン・リー、オリヴィア・デ・ハヴィランドらも訪れた。\n\n第二次世界大戦中には、郊外のマリエッタにあったベル・エアクラフトの工場など製造業、特に軍需産業が発展し、市の人口と経済の発展に大きく寄与した。第二次世界大戦が終わった翌年、1946年には、疾病予防管理センターが設立された。", "qas": [ { "question": "1939年12月15日、アトランタのロウズ・グランド・シアターではどの公演が行われたか。", "id": "tr-642-06-000", "answers": [ { "text": "「風と共に去りぬ」", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1906年のアトランタ人種暴動では、少なくとも何人の死者が出ましたか。", "id": "tr-642-06-001", "answers": [ { "text": "27人", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "映画「風と共に去りぬ」の原作小説は誰が書いたの?", "id": "tr-642-06-002", "answers": [ { "text": "マーガレット・ミッチェル", "answer_start": 245, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "疾病予防管理センターはいつ設立されたか。", "id": "tr-642-06-003", "answers": [ { "text": "1946年", "answer_start": 401, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1954年、連邦最高裁判所がブラウン対教育委員会裁判において、公立学校における人種分離はアメリカ合衆国憲法修正第14条に反するとした判決を下すと、アトランタでも人種差別撤廃への機運が高まっていった。アトランタにおける人種間の緊張はより暴力的手段に訴えるものに変わっていった。1958年10月12日、ピーチツリー・ストリート沿いに建つユダヤ教の寺院が爆破されるという事件が起こった。このシナゴーグのラビであったジェイコブ・ロスチャイルドは人種統合の擁護者であった。この事件は、自らを「南部連合の地下組織」と呼ぶ反セム派の白人たちによるものであるとされた。\n\n1960年代に入ると、アトランタは公民権運動の中心地の1つになった。アトランタにおける公民権運動では、マーティン・ルーサー・キング牧師に加えて、地元のアフリカ系の学生たちがリーダー的な役割を果たした。公民権運動において最も重要な役割を果たした団体のうち、南部キリスト教指導者会議と学生非暴力協力委員会の2つはアトランタに本部を置いていた。しかし、公民権運動の最中における数々の抗議にも関わらず、アトランタの政治・経済のリーダーは「憎む間も無いほど忙しい都市」というイメージを作り上げていた。1961年、市長アイバン・アレン・ジュニアは、その当時の南部の白人市長としては珍しく、公立学校における差別撤廃を擁護する側に立っていた。", "qas": [ { "question": "ピーチツリー・ストリート沿いに建つユダヤ教の寺院が爆破されるという事件が起こったのはいつですか。", "id": "tr-642-07-000", "answers": [ { "text": "1958年10月12日", "answer_start": 137, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1961年、アトランタの市長は誰でしたか。", "id": "tr-642-07-001", "answers": [ { "text": "アイバン・アレン・ジュニア", "answer_start": 531, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1990年、アトランタは1996年夏季オリンピックの開催地に選定された。アメリカ合衆国の都市としてはアトランタはセントルイス、ロサンゼルスに続いて、3番目となる開催都市であった。オリンピック開催の告知に続いて、アトランタでは市の公園、スポーツ施設、および交通網の整備など、大規模な建設プロジェクトが進んだ。しかし市がオリンピックに沸く一方で、9,000人ものホームレスが不当に逮捕されたり、オリンピック関連施設の建設用地確保のためにスラムが取り壊されたりと、貧困層はしわ寄せを受けた形となった。会期中の7月27日には、センティニアル・オリンピック・パークで爆破事件が起こった。", "qas": [ { "question": "アトランタは何年に1996年夏季オリンピックの開催地に選定されたか。", "id": "tr-642-08-000", "answers": [ { "text": "1990年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカ合衆国の都市のうち、3番目の夏季オリンピックの開催地はどこ?", "id": "tr-642-08-001", "answers": [ { "text": "アトランタ", "answer_start": 50, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アトランタは北緯33度45分18秒西経84度23分24秒に位置している。アトランタの姉妹都市の1つでもある日本の福岡市とはほぼ同緯度である。アメリカ合衆国統計局によると、アトランタ市は総面積343.0km2(132.4mi2)である。このうち341.2km2(131.7mi2)が陸地で1.8km2(0.7mi2)が水域である。総面積の0.51%が水域となっている。標高は場所によってかなり異なり、概ね225-320mの範囲にある。ハーツフィールド・ジャクソン・アトランタ国際空港付近では標高約313mである。\n\nアトランタの市街はチャッタフーチー川南岸の丘陵上に広がっている。東部分水嶺はちょうどアトランタを通っている。分水界は市の南からダウンタウンまで北上し、ダウンタウンからはデカル・アベニューとCSXの線路に沿って東へと方向を変える。そのため、アトランタ市南部や東部に降った雨は大西洋へと流れていくのに対し、市北部や西部に降った雨はメキシコ湾へと流れていく。\n\nこのうちメキシコ湾に注ぐほうである、市の北西を流れるチャッタフーチー川の河岸は、川の自然がまだ多く残されており、チャッタフーチー川国立レクリエーションエリアに指定されている。しかしその下流では、渇水時の過剰取水や増水時の汚染などが、対岸のアラバマ州や河口近くのフロリダ州との間で、法的な諍いの元ともなっている。", "qas": [ { "question": "アメリカ合衆国統計局によると、アトランタ市の総面積は何km2なの?", "id": "tr-642-09-000", "answers": [ { "text": "343.0km2(132.4mi2)", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アトランタの業務・商業はダウンタウン、ミッドタウン、バックヘッドの3か所に集中している。ダウンタウンはアトランタで最も古くから発展した地域で、3か所の業務・商業集積地のうちで最大のものである。ダウンタウンにはCNNなどの企業の本社をはじめ、州政府・市政府の各種機関の施設、さらには市の名所も集中している。ダウンタウンの北約2kmに位置するミッドタウンは1987年にワン・アトランティック・センターが完成してから急速に発展した地域で、アトランタ連邦準備銀行が立地する金融センターである。ダウンタウンの北約15km、市域の北部約1/5を占めるバックヘッドは、もともとは高級住宅地であったが、1980年代から中高層のオフィスビルが建つようになり、職住近接型のオフィス街へと変貌を遂げた。また、バックヘッドは大型のショッピングモールが立地するアトランタきってのショッピング・エリアでもあり、バーやナイトクラブが立ち並ぶ歓楽街でもある。\n\nアトランタで最も高い超高層ビルはバンク・オブ・アメリカ・プラザである。ミッドタウンに建つ高さ311.8m、55階建てのこのビルはアトランタのみならず、ニューヨークとシカゴ以外のアメリカ合衆国の都市に建つビルとしては最も高い。このビルは1991-92年にかけて建設され、わずか14か月の短期間で完成した。完成当初はネイションズバンクの所有で、ネイションズバンク・ビルと呼ばれていたが、1998年にネイションズ・バンクとバンクアメリカが合併し、バンク・オブ・アメリカとなったのち、現称のバンク・オブ・アメリカ・プラザに改名された。", "qas": [ { "question": "アトランタの業務・商業は何か所に集中されているか。", "id": "tr-642-10-000", "answers": [ { "text": "3か所", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アトランタのダウンタウン、ミッドタウン、バックヘッドのうち、業務・商業集積地が最大のものであるのはどこ?", "id": "tr-642-10-001", "answers": [ { "text": "ダウンタウン", "answer_start": 44, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アトランタで一番高い超高層ビルは何?", "id": "tr-642-10-002", "answers": [ { "text": "バンク・オブ・アメリカ・プラザ", "answer_start": 431, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バンク・オブ・アメリカ・プラザは何階建てなの?", "id": "tr-642-10-003", "answers": [ { "text": "55階建て", "answer_start": 468, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "州都であるアトランタには、ジョージア州政府の機関のほとんどがその施設を置いている。ダウンタウンのサウス・セントラル・ビジネス・ディストリクトに立地するジョージア州会議事堂は、ジョージア州知事室とジョージア州議会の議場を有する、ジョージア州の政治の中枢となる施設である。1889年に建てられた、ルネサンス建築と新古典主義建築の様式が合わさったこの庁舎は、国家歴史登録財および国定歴史建造物に指定されている。ジョージア州会議事堂の近くにはアトランタ市庁舎が建っている。このゴシック復興様式の市庁舎も国家歴史登録財に指定されている。ジョージア州知事官邸はバックヘッドの高級住宅街の中に建っている。\n\nアトランタは市長制を採っている。アトランタ市長の任期は4年である。アトランタ市議会は15名の議員からなる。市は12の選挙区に分けられ、各選挙区の首位得票者、およびワイルドカードで3名が選出される。市長は市議会の決定に対して拒否権を発動できるが、市議会で2/3以上の票が得られた場合には、市議会は市長の拒否権を覆すことができる。", "qas": [ { "question": "アトランタ市長の任期は何年?", "id": "tr-642-11-000", "answers": [ { "text": "4年", "answer_start": 324, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アトランタ市議会の議員は何名?", "id": "tr-642-11-001", "answers": [ { "text": "15名", "answer_start": 339, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジョージア州の州都はどこ?", "id": "tr-642-11-002", "answers": [ { "text": "アトランタ", "answer_start": 5, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1973年にアトランタ市史上初の黒人市長としてメイナード・ジャクソンが就任して以来、30年以上にわたってアフリカ系が市長の任に就いている。2001年には南部の主要都市では初めての黒人女性市長となるシャーリー・クラーク・フランクリンが市長に就任した。2005年には、フランクリンは90%の得票率で再選を果たした。現在のアトランタ市長は、2010年に就任した民主党のカシム・リードである。\n\nフランクリンが就任する前の市長であるビル・キャンベルの時代、アトランタ市政は腐敗で悪名高かった。2006年、連邦の陪審員は、キャンベルが旅行中にギャンブルで手にした収益をめぐって、脱税3件でキャンベルに有罪判決を下した。", "qas": [ { "question": "アトランタ市史上初の黒人市長は誰ですか。", "id": "tr-642-12-000", "answers": [ { "text": "メイナード・ジャクソン", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南部の主要都市では初めての黒人女性市長となった人の名前は何ですか。", "id": "tr-642-12-001", "answers": [ { "text": "シャーリー・クラーク・フランクリン", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現在のアトランタ市長は誰なの?", "id": "tr-642-12-002", "answers": [ { "text": "カシム・リード", "answer_start": 181, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アトランタは全米でも有数の犯罪多発都市である。モーガン・クイットノー社が毎年発表している「全米の危険な都市」ランキングでは、1994年、1995年と2年連続でワースト1であったのを含め、2000年代前半までワースト5の常連であった。特に殺人の発生率が高く、人口10万人あたり30件を超えていた。アトランタにおける犯罪率の高さは、貧困率と失業率の高さが大きな要因であると考えられている。\n\n2003年にはアトランタ警察財団が設立され、130万ドルを投じて警察力を強化してきた。その成果も出て、2000年代中盤以降は、アトランタの犯罪率は低下傾向にある。連邦捜査局(FBI)のデータによると、2005年には殺人発生件数が90件、人口10万人あたり20.9件まで低下し、暴力犯罪の発生率が1969年以来の低さであった。しかし、それでもアトランタの犯罪率は全米平均よりもかなり高い水準で、暴力犯罪の発生率は全米のほとんどの主要都市における発生率よりも高い。\n\n2008年には、犯罪に結びつく貧困への対策として、バック・トゥ・バック・スクールというプロジェクトが始まった。これは、貧困家庭の子供が薬物乱用やギャングへの加入などの犯罪行為に走るのを防ぐため、教育用品や教育資源を支援しようというものである。このプロジェクトはジョージア・ジャスティス・プロジェクトという非営利団体によって行われている。この団体には弁護士やソーシャルワーカーが参加し、その活動資金は財団、企業、および個人からの寄付によってまかなわれている。", "qas": [ { "question": "モーガン・クイットノー社の「全米の危険な都市」ランキングで、1994年のワースト1はどこでしたか。", "id": "tr-642-13-000", "answers": [ { "text": "アトランタ", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アトランタ警察財団は何年に設立されたの?", "id": "tr-642-13-001", "answers": [ { "text": "2003年", "answer_start": 194, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "連邦捜査局(FBI)のデータによると、アトランタでは2005年、何件の殺人発生件がありましたか。", "id": "tr-642-13-002", "answers": [ { "text": "90件", "answer_start": 308, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バック・トゥ・バック・スクールというプロジェクトは何年に開始したか。", "id": "tr-642-13-003", "answers": [ { "text": "2008年", "answer_start": 426, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アトランタ都市圏には30以上の高等教育機関がある。中でもとりわけ知名度が高いのはアトランタ北東郊にキャンパスを構えるエモリー大学である。1836年に開校したエモリー大学はメソジスト系の中規模私立大学で、学部生約6,000人、大学院生約4,000人を抱えている。少数精鋭のリベラル・アーツ教育に特に力を入れており、USニューズ&ワールド・レポート誌の大学ランキングでは常に上位25位以内に入る高評価を受けている。メインキャンパスの60km東、エモリー大学発祥の地であるニュートン郡の小さな町オックスフォードには、創設当初の学校がエモリー大学併設の2年制リベラル・アーツ・カレッジ、エモリー大学オックスフォード・カレッジとして残っている。また、同学は経営学の分野においても高い評価を得ている。", "qas": [ { "question": "エモリー大学は何年に開校したの?", "id": "tr-642-14-000", "answers": [ { "text": "1836年", "answer_start": 68, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ミッドタウンの西にキャンパスを構えるジョージア工科大学は、1885年にアトランタ、ひいてはアメリカ合衆国南部に工業に根ざした経済の基盤を創るために設立された大学である。ジョージア工科大学はその名が示す通り、設立以来一貫して自然科学・技術に特化した教育を行ってきた。また、同学はスポーツにも力を入れている。ジョージア工科大学のスポーツチーム、イエロージャケッツは近隣のクレムソン大学やフロリダ州立大学などと共に、NCAAのディビジョンIのカンファレンス、アトランティック・コースト・カンファレンスに所属している。同カンファレンスは特に男女バスケットボールの激戦区として知られている。ミッドタウンという立地条件で、充実した体育施設を有しているため、1996年のアトランタオリンピックでは同学で多くの競技が行われ、また選手村にもなった。", "qas": [ { "question": "ジョージア工科大学は何年に設立されたか。", "id": "tr-642-15-000", "answers": [ { "text": "1885年", "answer_start": 29, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アトランタオリンピックは何年にあったの?", "id": "tr-642-15-001", "answers": [ { "text": "1996年", "answer_start": 322, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2005年10月に開館したジョージア水族館は世界最大の水族館である。水量31,000tにおよぶこの水族館の水槽ではジンベエザメ、シロイルカ、オニイトマキエイなども飼育されている。2007年5月には、リニューアルされ、水族館の近くに移転されたワールド・オブ・コカ・コーラが開館した。ワールド・オブ・コカ・コーラでは、コカ・コーラの歴史を紹介すると共に、来館者が世界中のコカ・コーラ社製品の試飲をできるようになっている。\n\nジョージア水族館やワールド・オブ・コカ・コーラのほかにも、アトランタには芸術や歴史をテーマにしたいくつもの美術館・博物館がある。アトランタ歴史センターは全米でも有数の歴史博物館である。ミッドタウンのウッドラフ・アーツ・センター内に建つハイ美術館は、常設展示品だけで11,000点の作品を展示しているアトランタ随一の美術館である。マーティン・ルーサー・キング・ジュニアが少年時代を過ごした家は、国家歴史登録財に指定されている。アトランタ・シクロラマは、南北戦争のアトランタの戦いを描いたパノラマ絵画で、同名の博物館の館内に展示されている。20世紀初めに建てられた家具王ローズの家や、「風と共に去りぬ」の原作者マーガレット・ミッチェルの家も、それぞれ国家歴史登録財に指定され、博物館になっている。子供向けの博物館としては、ファーンバンク科学センターなどがある。", "qas": [ { "question": "世界最大の水族館の名前は何?", "id": "tr-642-16-000", "answers": [ { "text": "ジョージア水族館", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アトランタ都市圏のメディア・マーケットは全米の2.0%にあたる2,310,490世帯を抱え、全米8位の規模である。そのためアトランタ都市圏内には、主要テレビ局の支局やCNNをはじめとするテレビ局や、音楽、スポーツ、トークなど幅広いジャンルをカバーするラジオ局が多数置かれている。\n\nアトランタはケーブルテレビ番組制作の一大中心地である。テッド・ターナーはこのアトランタの地にメディア帝国を創り上げた。まずターナーはUHFのテレビ局を買収し、ターナー・ブロードキャスティング・システム(TBS)を設立した。次いで、ターナーはCNNを設立し、ダウンタウンの西にCNNセンターという本社ビルを建てた。ターナーの会社が成長するにつれて、カートゥーンネットワーク、BOOMERANG、ターナー・ネットワーク・テレビジョン(TNT)、ターナー・サウス、CNNインターナショナル、CNNヘッドラインニュース、CNNエアポート・ネットワークなどのチャンネルを次々と開設した。これらのチャンネルの本局も全てアトランタに置かれた。また、ターナーとは関係が無いが、ウェザー・チャンネルの本部もアトランタの北西郊、コブ郡のカンバーランド/ガレリア地区に置かれている。", "qas": [ { "question": "アトランタ都市圏のメディア・マーケットは全米の何%を占めているか。", "id": "tr-642-17-000", "answers": [ { "text": "2.0%", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ジョージア州立大学は1913年にジョージア工科大学の商学部を分離して設立された州立大学である。同学は明確なキャンパスを持たず、ダウンタウンの中心部、ファイブ・ポインツの近くに校舎や施設を集中させている都市型大学である。前述のジョージア工科大学とこのジョージア州立大学、アセンズに本部を置くジョージア大学、およびオーガスタに立地するジョージア医学校の4校は、ジョージア大学システムの中でも研究を主とした大学として位置づけられている。\n\nこのほか、アトランタ都市圏にはオグレソープ大学、アグネス・スコット大学、クレイトン州立大学、南部工芸州立大学、ケネソー州立大学、ジョージア・ペリメーター大学などの4年制および2年制の大学がキャンパスを構えている。また、アトランタはアトランタ・ユニバーシティ・センターと呼ばれる、かつてアフリカ系の学生に高等教育の機会を与えるために設立された大学のコンソーシアムが本部を置いている。このコンソーシアムには、アトランタ初の黒人大学として1865年に設立されたアトランタ大学に起源を持つクラーク・アトランタ大学をはじめ、モアハウス大学やスペルマン女子大学などが参加している。", "qas": [ { "question": "ジョージア州立大学はジョージア工科大学のどの部を分離して設立されたの?", "id": "tr-642-18-000", "answers": [ { "text": "商学部", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アトランタ初の黒人大学は何ですか。", "id": "tr-642-18-001", "answers": [ { "text": "アトランタ大学", "answer_start": 444, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "サウスウエスト航空", "paragraphs": [ { "context": "サウスウエスト航空(サウスウエストこうくう、英語:SouthwestAirlines、NYSE:LUV)は、アメリカ合衆国(米国)テキサス州ダラス市を本拠地としている格安航空会社である。\n1967年、エア・サウスウエストとして、アメリカ合衆国テキサス州で設立され、1971年に3機のボーイング737を使用して運航開始した。\nその後、航空自由化政策(ディレギュレーション)とともに自力で路線網を少しずつ拡大したことに加えて、いくつかの格安航空会社を買収することでも路線規模を拡張しており、全米に路線網を持つ大手航空会社となった。", "qas": [ { "question": "サウスウエスト航空の設立当初の会社名は何でしたか?", "id": "tr-643-00-000", "answers": [ { "text": "エア・サウスウエスト", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サウスウエスト航空で運航がスタートしたのはいつですか?", "id": "tr-643-00-001", "answers": [ { "text": "1971年", "answer_start": 132, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サウスウエスト航空で運航が開始した際に使用された航空機の種類は何?", "id": "tr-643-00-002", "answers": [ { "text": "ボーイング737", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "格安航空会社として知られ、後述するように徹底した人件費以外のコスト削減等が図られ、収益率は他社より高い。\n1973年以来、米国の景気の動向に関わらず黒字運営を続ける全米で数少ない航空会社の1つである。\nまた、経営方針の1つとして「社員第一、顧客第二」を掲げており、米国の航空会社で唯一、アメリカ同時多発テロ事件を受けた航空産業冷え込みにもレイオフを行っていない大手航空会社でもある。\n2012年にはスイスの航空輸送格付け機関から「世界で最も安全な航空会社」の10社のうちの1社に選定されている。", "qas": [ { "question": "サウスウエスト航空の経営方針の1つとして、第一に優先されているものは何か?", "id": "tr-643-01-000", "answers": [ { "text": "社員", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アメリカ同時多発テロ事件で航空産業が低迷した時期ですらもサウスウエスト航空だけはあることをしませんでした。それは何?", "id": "tr-643-01-001", "answers": [ { "text": "レイオフ", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "サウスウエスト航空の設立のきっかけとなったのは、テキサス州の銀行家であるジョン・パーカーが、ダラス、ヒューストン、サンアントニオの3都市を仕事で回る際に、この3都市間の移動が不便かつ費用が高いと感じていたことから、サンアントニオで小規模な航空会社を経営するロリン・キングに、テキサス州内を移動するための航空会社の設立を持ちかけたのが発端である。\nそれを受けて、キングはカリフォルニア州にあるパシフィック・サウスウエスト航空(PSA)やエア・カリフォルニアを調査した。\n各都市の経済が活況であることや、都市間が適度な距離であること、またこの2社の業績が優れていることを確認した。\nこの調査結果から、テキサス州の3都市に大型旅客機を運航する航空会社の設立構想を立案した上で、1966年にキングの経営する会社の法律顧問を務めていた弁護士であるハーバート・ケレハーにこの構想を持ちかけた。", "qas": [ { "question": "ロリン・キングに航空会社の設立を提案した人は誰ですか?", "id": "tr-643-02-000", "answers": [ { "text": "ジョン・パーカー", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジョン・パーカーが3都市間の移動が不便だと言ったその都市は、ヒューストンとサンアントニオ、あともう1つはどこですか?", "id": "tr-643-02-001", "answers": [ { "text": "ダラス", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "テキサス州内に航空会社を立ち上げる話は、ジョン・パーカーからロリン・キングに、そしてロリン・キングから誰に話が行きましたか?", "id": "tr-643-02-002", "answers": [ { "text": "ハーバート・ケレハー", "answer_start": 368, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "当初、ケレハーは突飛な計画と感じたが、サンアントニオのバーで説明を受けるうちに興味をそそられ、「運賃が安く、定時運航率が優れていて便数の多い航空会社なら成功する」と予測した。\nキングと一緒にビジネスプランや運航パターンについて検討を行い、店舗に備え付けの紙ナプキンに書きなぐった。\nこのときの紙ナプキンは、ダラスの本社に額に入れて飾られている。\n1967年3月15日、ケレハーはエア・サウスウエスト(1971年3月29日にサウスウエスト航空に社名変更。以下「サウスウエスト航空」で統一する)の設立を申請した。\n当初の資本金はキングとケレハーが出資し、政治的な支援を集める活動に着手するとともに、事業に必要となる資本金の募集を開始した。\nケレハーは、法律上の闘争を招くことを予想し、募集する資本金の総額を当初予想の25万ドルから倍以上の50万ドルとし、テキサス州で影響力を有する政界や財界の人物から出資者を募ることとした。", "qas": [ { "question": "キングと一緒にビジネスプランや運航パターンについて検討したのは誰ですか?", "id": "tr-643-03-000", "answers": [ { "text": "ケレハー", "answer_start": 3, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ケレハーが予想し直した資本金の総額はいくらですか?", "id": "tr-643-03-001", "answers": [ { "text": "50万ドル", "answer_start": 367, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1967年11月27日、ケレハーはダラス、ヒューストン、サンアントニオの3都市を結ぶ航空会社の参入をテキサス州航空委員会(以下「TAC」と表記)に申請、1968年2月20日には認可された。\nところが、認可の翌日に、ブラニフ航空、トランステキサス航空・コンチネンタル航空の3社(以下、本節では「ライバル3社」と記述する)が、サウスウエスト航空への飛行許可証を発行することを禁じる内容の一方的緊急差止命令を入手したのである。\nライバル3社の主張は「サウスウエスト航空が参入しようとしている市場はすでに飽和状態で、新たな航空会社が参入する余地はない」というものであった。", "qas": [ { "question": "サウスウエスト航空のライバル3社とはトランステキサス航空、コンチネンタル航空ともう1つは何?", "id": "tr-643-04-000", "answers": [ { "text": "ブラニフ航空", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1968年夏に、テキサス州地方裁判所にこの案件が持ち込まれたことにより、両社は法廷で争うことになり、サウスウエスト航空の弁護士はケレハーが担当した。\nこの間にライバル3社は裏側で政治的な根回しを行っており、一度は認可を出したはずのTAC関係者が、審理が始まる前の新聞のインタビューで「テキサス州に新しい航空会社が必要な理由が分からない」という談話までしていたなど、サウスウエスト航空には不利な状況であった。\n裁判では両社の弁護士が感情むき出しで主張をする激しいもので、テキサス州のある新聞は「娯楽費を節約して裁判を見るほうが面白い」と評するほどであった。\n地方裁判所ではライバル3社の主張を認める判決が下され、サウスウエスト航空ではテキサス州高等裁判所へ控訴したが、7か月の審理の後に敗訴してしまった。\nこの時点で、事業に必要となるはずの資本金がすべて裁判費用に消えてしまっていたため、役員の中にはここで手を引くことを考えていたものもいたという。\nしかし、ケレハーは裁判費用を自己負担することで役員たちを説き伏せ、テキサス州最高裁判所へ上告、その結果、高等裁判所での判決は覆され、サウスウエスト航空の勝訴となった。\nライバル3社は合衆国最高裁判所へ上告したが棄却され、ようやく就航が認可されたのである。", "qas": [ { "question": "サウスウエスト航空とライバル3社の法廷争いは、最終的にどちらが勝ちましたか?", "id": "tr-643-05-000", "answers": [ { "text": "サウスウエスト航空", "answer_start": 490, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "どこの裁判所に上告した結果、サウスウエスト航空が勝訴となりましたか?", "id": "tr-643-05-001", "answers": [ { "text": "テキサス州最高裁判所", "answer_start": 457, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし、せっかく認可されたものの、運航開始するための費用はすべて訴訟に費やしてしまっていた。\nまた、運航に必要な人員を集めなければいけなかった。\n1971年1月、サウスウエスト航空は、ユニバーサル航空を退社したばかりのラマー・ミューズをCEOに招聘した。\nミューズは就任後直ちに友人や知人のつてをたどって、資金集めに奔走する一方、友人や知人で運航に携わった経験者を集めた。\nまた、資金集めの後に、過剰生産したため売れ残っていたボーイング737型機を3機購入した。", "qas": [ { "question": "サウスウエスト航空の運航開始のための費用、人員集めに奔走した人は誰ですか?", "id": "tr-643-06-000", "answers": [ { "text": "ミューズ", "answer_start": 128, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "売れ残っていたボーイング737型機を3機購入したのは誰ですか?", "id": "tr-643-06-001", "answers": [ { "text": "ミューズ", "answer_start": 128, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミューズが購入したボーイング737は、何が原因で売れ残っていたの?", "id": "tr-643-06-002", "answers": [ { "text": "過剰生産", "answer_start": 198, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "運航開始に先立ち、客室乗務員の募集が行われたが、その時の広告文面は「ラクエル・ウェルチさん募集」というもので、面接時には「脚を見せるために」という理由でホットパンツをはいてくるように要求した。\n選考にあたっては、ヒュー・ヘフナーの「PLAYBOYJET」に乗務するバニーホステスを育てた人物も、審査員に加わった。\nこうして採用された女性客室乗務員は、80パーセント以上がバトンガールやチアリーダーの経験者で、かつ強い個性を持つ社交的な女性ばかりであった。\nサウスウエスト航空では、これらの客室乗務員にホットパンツとゴーゴー・ブーツを制服として支給した。", "qas": [ { "question": "サウスウエスト航空で客室乗務員に制服として支給したボトムスは何ですか?", "id": "tr-643-07-000", "answers": [ { "text": "ホットパンツ", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サウスウエスト航空で客室乗務員に制服として支給した履物は何ですか?", "id": "tr-643-07-001", "answers": [ { "text": "ゴーゴー・ブーツ", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サウスウエスト航空で採用された女性客室乗務員の何パーセント以上がバトンガールやチアリーダーの経験者だったの?", "id": "tr-643-07-002", "answers": [ { "text": "80パーセント以上", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方、ライバルの航空会社の妨害はまだ続いていた。\nテキサスインターナショナル航空とブラニフ航空(以下、本節では「ライバル2社」と記述する)は米国民間航空委員会(CivilAeronauticsBoard,以下「CAB」と表記)に対してサウスウエスト航空の就航に抗議を申し立てる一方、ブラニフ航空はサウスウエスト航空の株式引受業者に手を引くように圧力をかけていた。\nしかし、CABはライバル2社の申し出を却下し、サウスウエスト航空は別の株式引受業者を見つけ出した。\n1971年6月8日には、ようやく最初の株式公募にこぎつけたが、一方でライバル2社は業務開始を阻止するための一方的緊急差止命令を入手した。\nこれに対して、ケレハーは職務執行令状の発布を求めるため、すぐに司法図書館で先例を調べた上、テキサス州最高裁判所に対して緊急差止命令の却下を申し出た。\n1971年6月17日、テキサス州最高裁判所はサウスウエスト航空の主張を認め、差止命令を執行しないように命じた。\nこの時点で、ようやくサウスウエスト航空は運航が可能となったのである。", "qas": [ { "question": "1971年6月8日の時点で、サウスウエスト航空のライバル2社とはブラニフ航空とどこですか?", "id": "tr-643-08-000", "answers": [ { "text": "テキサスインターナショナル航空", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "CABは何を略したものですか?", "id": "tr-643-08-001", "answers": [ { "text": "米国民間航空委員会", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1971年6月18日、ダラス・ヒューストン・サンアントニオの3都市を1日18往復する航空会社として、サウスウエスト航空の運航が開始された。\nミューズは引き続き資金集めに奔走し、700万ドルを蓄えたものの、当初の利用者数は少なく、1日の合計の旅客数が150人という日もあった。\n1972年には赤字額の合計は500万ドルに達しており、この時期にサウスウエスト航空では資金難のために3人の従業員をレイオフしている。\n会社創業以来、サウスウエスト航空が行ったレイオフはこのときの3人だけである。", "qas": [ { "question": "現在に至るまで、サウスウエスト航空がレイオフを行った人数は合計何人ですか?", "id": "tr-643-09-000", "answers": [ { "text": "3人", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1972年にサウスウエスト航空が従業員をレイオフした原因は何でしたか?", "id": "tr-643-09-001", "answers": [ { "text": "資金難", "answer_start": 181, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サウスウエスト航空が唯一レイオフをした年はいつでしたか?", "id": "tr-643-09-002", "answers": [ { "text": "1972年", "answer_start": 138, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "当初、サウスウエスト航空はヒューストンではインターコンチネンタル空港に発着していたが、ヒューストンにはもう1つ、ホビー空港が存在した。\nすでにホビー空港はすべての旅客航空会社が撤退していたが、市街地から近いことから、サウスウエスト航空が主なターゲットとするビジネス客には適した空港であった。\n1971年11月14日より試行的にホビー空港発着便を設定したところ、利用者数が急増したため、サウスウエスト航空は直ちにヒューストンでのすべての発着便をホビー空港に移した。\n都市部に近い第二空港に発着する手法は、その後格安航空会社の成功の法則の1つになっている。", "qas": [ { "question": "サウスウエスト航空が狙いを絞っていた中心的な顧客層は何ですか?", "id": "tr-643-10-000", "answers": [ { "text": "ビジネス客", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ボビー空港の地理的利点は何ですか?", "id": "tr-643-10-001", "answers": [ { "text": "市街地から近いこと", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1971年9月にはボーイング737をさらに1機追加購入し、スピードアップや州外へのチャーター便に使用する計画を立てた。\nところが、連邦地方裁判所はサウスウエスト航空に対して、州外チャーター便の運航を禁じた。\n収入は増えてきてはいるものの、まだ安定した経営状態ではなかったため、ボーイング737は1972年5月にフロンティア航空へ売却された。\n手元資金の不自由さは解消されたものの、すでに4機使用を前提で計画した運航計画を実行できるかが問題となった。\n航空機を10分で折り返しすればダイヤが維持できることが判明、以後「折り返し時間10分」がサウスウエスト航空の特徴の1つとなった。", "qas": [ { "question": "追加購入されたボーイング737を売却した会社はどこですか?", "id": "tr-643-11-000", "answers": [ { "text": "フロンティア航空", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "4機使用を前提で計画した運航計画を実行できるかは、航空機の折り返し時間を何分にすることで可能となりましたか?", "id": "tr-643-11-001", "answers": [ { "text": "10分", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "しかし、ライバル航空会社との戦いが終わったわけではなかった。\nサウスウエスト航空がホビー空港に移ると、ブラニフ航空とコンチネンタル航空は一部の路線をホビー空港発着とするとともに、サウスウエスト航空と同じ額の低運賃を派手に宣伝して対抗した。\nこれに対して、サウスウエスト航空は「サウスウエスト航空がホビー空港でサービスを始めなければ、相手の2社はホビー空港には戻ってこなかったはずだ」と広告を出して訴えた。\nサウスウエスト航空は低運賃なだけではなく、時刻どおりに運航し、便数が多く待たされることもなかったため、利用者はサウスウエスト航空を選択し、ブラニフ航空の計画は裏目に出てしまった。\nその後、1970年代半ばにブラニフ航空はホビー空港から撤退している。", "qas": [ { "question": "低運賃、運航時刻の正確性、便数が多く待ち時間が無いなどの優れた点を見て、より多くの利用者から支持された航空会社はどこですか?", "id": "tr-643-12-000", "answers": [ { "text": "サウスウエスト航空", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サウスウエスト航空に対抗して、同じく低運賃のサービスでブラニフ航空とコンチネンタル航空が利用した空港はどこですか?", "id": "tr-643-12-001", "answers": [ { "text": "ホビー空港", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ダラス・フォートワース国際空港(以下「新空港」と表記)が開港する少し前の1972年、サウスウエスト航空は新空港当局に対して、新空港に移転せずにラブフィールド空港にとどまると通告した。\n便利な市街地の近くの空港に発着することでビジネス客の要望にこたえていたので、市街地から離れた新空港に移転することは理屈に合わないと考えたためである。\nしかし、これは新空港当局やライバル航空会社から反発を受け、合同訴訟を起こされる事態になった。\nテキサス州地方裁判所・高等裁判所・最高裁判所・合衆国最高裁判所へと審理が進められたが、最終的にはサウスウエスト航空の主張が認められることになった。", "qas": [ { "question": "サウスウエスト航空が新空港に移転しない旨を通告したことで、新空港当局とライバル航空会社がサウスウエスト航空に対して起こしたことは何ですか?", "id": "tr-643-13-000", "answers": [ { "text": "合同訴訟", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "新空港当局とライバル航空会社から起こされた合同訴訟は、最終的にどこまで審理が進められましたか?", "id": "tr-643-13-001", "answers": [ { "text": "合衆国最高裁判所", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1973年になると、ようやく利益を計上するようになってきたサウスウエスト航空は、1973年1月22日よりダラスとサンアントニオを結ぶ路線の運賃を、当時の通常運賃の半額である13ドルに設定することで、同路線の乗客増を狙った。\nこれに対し、ブラニフ航空は同年2月1日より、この区間の運賃を同額の13ドルにして対抗してきた。\nしかし、この路線はサウスウエスト航空にとっては収益性の高い路線であり、絶対に負けられない路線でもあった。\nサウスウエスト航空は「しみったれた13ドルごときに打ち落とされるサウスウエスト航空ではない」と広告を出した上、同年2月2日より、通常運賃の26ドルを支払った利用者に対して、「シーバスリーガル」(スコッチ・ウイスキー)・「クラウンローヤル」(カナディアン・ウイスキー)・「スミノフ」(ウォッカ)のいずれか1本のフルボトルを無料で提供するという奇策を打ち出した。\nこの施策は、航空運賃を経費として会社に請求できるビジネス客からは大好評となり、ビジネス客はこぞって26ドルを支払った上でボトルを自宅に持ち帰った。\nこの施策が行われた2か月間で、サウスウエスト航空はテキサス州で最も多くの「シーバスリーガル」・「クラウンローヤル」・「スミノフ」をさばいたといわれている。\nこうしたサウスウエスト航空の戦いを、地元のマスコミは「ダビデとゴリアテ」の戦いになぞらえて取り上げ、テキサス州の住民にサウスウエスト航空が印象付けられることになった。", "qas": [ { "question": "1973年のダラスとサンアントニオ間を飛ぶサウスウエスト航空の通常運賃はいくらだったの?", "id": "tr-643-14-000", "answers": [ { "text": "26ドル", "answer_start": 282, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サウスウエスト航空にとって収益性の高い路線はどことどこを結ぶ路線だったの?", "id": "tr-643-14-001", "answers": [ { "text": "ダラスとサンアントニオを結ぶ路線", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "通常運賃を支払った利用客へのサービスとして、3種類のお酒の中から1本を無料提供した会社はどこですか?", "id": "tr-643-14-002", "answers": [ { "text": "サウスウエスト航空", "answer_start": 213, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フルボトル1本を無料提供するという施策は、どんな客にヒットしましたか?", "id": "tr-643-14-003", "answers": [ { "text": "ビジネス客", "answer_start": 417, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1973年、事業拡大のためテキサス州リオグランデバレーへの路線開設を行うことになり、TACにリオグランデバレーにあるハーリンゲンへの路線開設の申請を行った。\n1974年から開始された審議の際にも、ライバル航空会社のうちの1社であるテキサスインターナショナル航空は「リオグランデバレーへの路線は必要にして十分であり、他社の参入の余地はない」と主張したが、1年近い審議の後、サウスウエスト航空の参入が認められた。\nこのとき、テキサスインターナショナル航空は暫定的差止命令を入手しようとしたが、折りしもテキサスインターナショナル航空はストライキのため満足な運航が出来る状態ではなく、結局差止命令は発布されなかった。\nそして、1975年初頭から運航を開始したサウスウエスト航空は、ストライキの影響を受けて不便を蒙っていたリオグランデバレーの住民から歓迎されたのである。", "qas": [ { "question": "サウスウエスト航空が1973年に路線開設の申請をした都市はどこですか?", "id": "tr-643-15-000", "answers": [ { "text": "ハーリンゲン", "answer_start": 58, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サウスウエスト航空がリオグランデバレーへの路線運航を開始したのはいつですか?", "id": "tr-643-15-001", "answers": [ { "text": "1975年初頭", "answer_start": 309, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1973年にサウスウエスト航空が新しく広げようと申請した路線はテキサス州のどの地域ですか?", "id": "tr-643-15-002", "answers": [ { "text": "リオグランデバレー", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "さらに、この路線では他社との競争以上に重要な事実が判明した。\nサウスウエスト航空が就航する直前の1974年、リオグランデバレーとダラス・ヒューストン・サンアントニオの3都市間を移動する旅客数は年間12万3000人程度であった。\nところが、サウスウエスト航空が就航した1975年の同区間の旅客数は32万5000人にも及んだのだ。\nこれまで飛行機を利用していなかった利用者層が、サウスウエスト航空の低運賃によって、飛行機を利用するようになったのである。\nサウスウエスト航空の基本戦略である「低運賃で頻繁に運航する」という方針が正しかったことが証明され、その後次々とテキサス州への各都市へ路線を開設することになる。\n数年後には州内10都市を結ぶ航空会社となっていた。\nなお、合衆国政府は1975年2月14日に、ライバル航空会社のブラニフ航空とテキサスインターナショナル航空が共謀してサウスウエスト航空を廃業に追い込もうと、サウスウエスト航空の投資銀行や仕入先に対して圧力をかけていることなど、シャーマン法に違反した行為を行っているとして起訴した。\n2社はともに反論しなかったため、罰金として10万ドルを課せられている。", "qas": [ { "question": "リオグランデバレーとダラス・ヒューストン・サンアントニオの3都市間を移動する旅客数が少ないのは1974年と1975年のどちらですか?", "id": "tr-643-16-000", "answers": [ { "text": "1974年", "answer_start": 48, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "サウスウエスト航空の基本戦略とはどんな方針ですか?", "id": "tr-643-16-001", "answers": [ { "text": "「低運賃で頻繁に運航する」", "answer_start": 242, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ブラニフ航空とテキサスインターナショナル航空に課せられた罰金はいくらでしたか?", "id": "tr-643-16-002", "answers": [ { "text": "10万ドル", "answer_start": 492, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サウスウエスト航空が運航を開始した年、リオグランデバレーと3都市間を結ぶ区間の旅客数は何人でしたか?", "id": "tr-643-16-003", "answers": [ { "text": "32万5000人", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ジミー・カーター政権が1978年に航空自由化政策(ディレギュレーション)の導入を行ったことで、テキサス州内の航空会社として設立されたサウスウエスト航空も、テキサス州外への路線展開を行うことが可能になった。\nここで、それまでのサウスウエスト航空の基本戦略であった「短距離を低運賃・高頻度運航」という方針を今後も続けるべきかどうかが話し合われた。\nその結果、基本戦略を変更せずに事業の拡大を進めていくということになった。\n早速、同年にヒューストンとニューオーリンズを結ぶ路線を開設し、続いてダラスからニューオーリンズの路線の開設申請を行ったが、これに対して新空港当局、フォートワース市、ブラニフ航空は猛烈に反対した。\n反対者の中にフォートワース選出の下院議員であるジム・ライトがいたことから、ロビー活動合戦が繰り広げられた。\n最終的に、ラブフィールド空港からはテキサス州と隣接する州より遠い地点への路線開設が出来ないことになった。", "qas": [ { "question": "サウスウエスト航空のテキサス州外への路線展開を可能とした政策は何ですか?", "id": "tr-643-17-000", "answers": [ { "text": "航空自由化政策", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ダラスとニューオーリンズ間の路線の開設を申請する前に、既に開設されていたのは、ニューオーリンズとどの地域を結ぶ路線でしたか?", "id": "tr-643-17-001", "answers": [ { "text": "ヒューストン", "answer_start": 215, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ここでサウスウエスト航空が打ち出した方針は、他社のように「ハブ・アンド・スポーク型」と呼ばれるネットワーク形態を構築せず、保有機材であるボーイング737の航続距離や収容力を最大限に活用し、2地点間の輸送に重点を置く「ポイント・トゥ・ポイント型」の輸送に徹することであった。\nつまり、ある程度の集客が見込める短距離・中距離の路線を開設し、それらの路線を相互につなげてゆくことでネットワークを拡大する手法をとったのである。\nこの方針に従い、まずヒューストン、アルバカーキ、ラスベガス、フェニックスからの路線を開設、さらに隣接州を結ぶ路線を開設するという展開を行った。\nこの手法は、他の航空会社の採用している「ハブ・アンド・スポーク型」の路線構成によって、混雑した空港で不便な乗り継ぎを強いられることに不満を抱く利用者層から絶大な支持を得たことから、その後サウスウエスト航空の基本的な路線展開はこの方針に徹することになる。", "qas": [ { "question": "混雑した空港で不便な乗り継ぎを強いられることに不満を抱く利用者層から絶大な支持を得た路線構成は何?", "id": "tr-643-18-000", "answers": [ { "text": "「ポイント・トゥ・ポイント型」", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「ポイント・トゥ・ポイント型」では、何地点間の輸送を重要視しましたか?", "id": "tr-643-18-001", "answers": [ { "text": "2地点間", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サウスウエスト航空以外の大半の航空会社が構築していたネットワーク形態の呼称は何ですか?", "id": "tr-643-18-002", "answers": [ { "text": "「ハブ・アンド・スポーク型」", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "鉄道車両", "paragraphs": [ { "context": "鉄道車両は、線路またはそれに準じる軌道の上を走行し、鉄道の列車を運行するために用いられる車両である。国によって鉄道に関連する法規は異なっているため、鉄道車両の厳密な定義は不可能である。また、法規による規定と一般的、技術的な概念とが異なる場合もある。日本における例では、本線上を列車として走行することのないモーターカーや貨車移動機といった作業用の車両などは、法規上の正式な鉄道車両に分類されていないことも多い。日本の法規上は、線路閉鎖の手続きをしてからでなければ本線を走行できない保線車両は、鉄道車両と認められていない。本項目では、一般に公開されて旅客や貨物の輸送を行う鉄道で用いられている鉄道車両について説明する。", "qas": [ { "question": "線路またはそれに準じる軌道の上を走行し、鉄道の列車を運行するために用いられる車両のことを何と呼びますか。", "id": "tr-644-00-000", "answers": [ { "text": "鉄道車両", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "鉄道車両は、線路に沿ってのみ運行することができるという点が、自動車など他の交通機関と異なっている点である。航空機や自動車などと異なり、多くの車両を連結して同時に走らせて大量輸送をすることができる。これは線路の上を走ることから各車両での舵取りが不要であるという特性からきている。さらに他の交通機関と異なる大きな特徴として、蒸気機関車や単端式気動車の後退時やプッシュプル方式以外の機関車牽引列車の推進運転など一部の例外を除いて、双方向に同じように走ることができるという点が挙げられる。通常の航空機は飛行中に後退することができない。また多くの船や自動車では後退時の性能は前進時に比べて制限されており、基本的には向きを変えて常に前進で使用されることが前提である。これに対して鉄道車両は、どちらの向きにも同様に走ることができ、最高速度を出すことができる。双方向に同様に性能を発揮しなければならないという条件は設計上の強い制約となっており、鉄道車両の前後対称に近い形にも影響している。", "qas": [ { "question": "多くの車両を連結して同時に走らせて大量輸送をすることができるのは鉄道車両、自動車、飛行機のうち、どれに当てはまる説明ですか。", "id": "tr-644-01-000", "answers": [ { "text": "鉄道車両", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "蒸気機関車や単端式気動車の後退時やプッシュプル方式以外の機関車牽引列車の推進運転など一部の例外を除いて、双方向に同じように走ることができるという点は、何に対する特徴ですか。", "id": "tr-644-01-001", "answers": [ { "text": "鉄道車両", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "鉄道車両は、動力の有無、搭載するのが旅客か貨物か、動力の配置の仕方などで様々に分類される。まず大きく分けると旅客車、機関車、貨車の3つに分類することができる。日本標準商品分類でも車両(軌条上を走行するもの)は機関車(分類番号461)、旅客車(分類番号462)、貨物車(分類番号463)に分類される(このほか分類番号468以下に車両部品がある)。また、これ以外に事業用車を分類することもある。なお、車種以外に用途や設備により分類することができるが、これについてはそれぞれ旅客車・機関車・貨車・事業用車を参照。", "qas": [ { "question": "鉄道車両を大きく分けると、旅客車、機関車、そして何?", "id": "tr-644-02-000", "answers": [ { "text": "貨車", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "旅客車は、鉄道車両のうち主に乗客を乗せるための車両である。動力を有している車両と有していない車両がある。どちらの車両でも、接客のための設備はおおむね共通した構造を有している。動力集中方式に分類される旅客車として客車が、動力分散方式に分類される旅客車として電車と気動車が存在する。近年では、ハイブリッド車やEDC方式の登場により、電車と気動車双方に分類される車両も増えている。郵便物を輸送する郵便車や、乗客の手荷物を輸送する鉄道手荷物輸送(チッキ)において荷物を搭載するための荷物車も、一般に旅客車として分類されている。", "qas": [ { "question": "旅客車が主に乗せるのは何か。", "id": "tr-644-03-000", "answers": [ { "text": "乗客", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "電車は、動力分散方式の旅客車のうち、電力によってモーターを回して走行する車両である。モーターによって走行する動力車(電動車)と、自力では走行できずに電動車に牽引・推進されることで走行する付随車が存在する。搭載している電池の電力によって走行する方式も電車であるが、架線や第三軌条など線路に設置された給電設備から電力の供給を受けて走行することが一般的である。一方、搭載している熱機関によって発電してその電力でモーターを駆動する方式は、気動車に分類されていたが、ハイブリッド車両などの登場により電車としても気動車としても分類されるようになっている。効率の良い発電所において電気エネルギーを発生させて、それを外部から受け取って走行することのできる電車は、走行エネルギーのもととなる燃料や重く効率の低い原動機を搭載しなければならないその他の方式の車両に比べて重量当たりの性能が高く効率が良い。一方で、線路に沿って電力を送るための変電所や架線・送電線を整備しなければならず、これに費用がかかる。こうしたことから、輸送量が多く列車本数が多い線において電気運転方式が有利となる。また電車列車は動力のある車輪(動輪)の割合が高いため加速度を大きくでき、機関車のように特に重量の集中する車両がないことから線路への負担が軽く、折り返しや列車の分割・併合の利便性が高いなどの利点がある。一方で、各車両に動力があることから騒音や振動など乗り心地面で不利で、動力装置の数が増えることから費用的にも不利といった欠点がある。もともと電車は乗り心地の難点から長距離運転には向かないとされてきたが、技術革新の結果長距離列車においても用いられるようになってきている。都市交通では世界的に電車の普及が著しく、特に路面電車や地下鉄で用いられる車両はほとんどが電車である。一方、長距離でも広く電車が普及しているのが日本の鉄道の特徴であるとされている。また、モノレール、案内軌条式鉄道(新交通システム)、トロリーバス、索道(ロープウェイ)、鋼索鉄道(ケーブルカー)、磁気浮上式鉄道なども多くは電車の範疇に含まれる。日本語では、列車のことすべてを「電車」と呼ぶことがある。", "qas": [ { "question": "日本では、列車のこと普通何と呼びますか。", "id": "tr-644-04-000", "answers": [ { "text": "電車", "answer_start": 900, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本の鉄道は、どんな車両がが長距離でも一般的に普及されていますか。", "id": "tr-644-04-001", "answers": [ { "text": "電車", "answer_start": 774, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "気動車とは、旅客車・貨車・事業用車に熱機関を搭載してその動力により走行する車両である。外燃機関である蒸気機関を動力とする車両は蒸気動車と呼ばれ、それ以外の内燃機関で走行する気動車を区別する時は内燃動車と称する。内燃動車において用いられる機関としてはディーゼルエンジン、ガソリンエンジン、ガスタービンエンジンなどがある。現代では一般的には、大出力を容易に得られ燃費のよいディーゼルエンジンが気動車の原動機として用いられている。ディーゼルエンジンを用いた気動車のことをしばしばディーゼル動車あるいはディーゼルカーと呼ぶ。内燃機関を動力とする場合は通常、エンジンで直接車輪を駆動することはできず、何らかの方法で変速する必要がある。機械的な変速機を使う場合を機械式、トルクコンバータを使う場合を液体式、一旦発電して電力でモーターを駆動する場合を電気式という。ただしガスタービン動車の場合、低速でも充分なトルクがあることから変速機を介しない場合がある。気動車においても動力車と付随車が存在する。高出力の機関を少数の車両に配置して残りの車両を付随車にする方式(「集中式」および「分散集中式」)と、低出力の機関をすべての車両に分散配置する方式(「完全分散式」)とがある。一般に、高出力機関を少数車両に配置する方式が、車両の重量や新製・保守費用などの点で優れている。しかし、短い編成で運転する場合や列車の分割・併合を行う場合の都合や、機関を搭載していない車両における冷暖房の問題などから、世界的に各車両に分散する方式が主流となっている。気動車は、電車と比較した場合、変速機やエンジンの機構が複雑で経費が嵩む。また、電車が動力の変換装置を持っているだけなのに対して、燃料自体を搭載してその動力への変換を行うことから、重量が大きくなり重量あたりの性能で劣っている。一方で地上側に電力を供給する膨大な設備を設置する必要がないというメリットがあるため、地方の閑散路線などでの運行には、電車より気動車の方がコスト面で適している。", "qas": [ { "question": "気動車には蒸気動車と、また何に区別されますか。", "id": "tr-644-05-000", "answers": [ { "text": "内燃動車", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ディーゼルエンジン、ガソリンエンジン、ガスタービンエンジンなどが使用されるのは内燃動車と蒸気動車の中、どちらですか。", "id": "tr-644-05-001", "answers": [ { "text": "内燃動車", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ディーゼル動車あるいはディーゼルカーは、何を使った気動車ですか。", "id": "tr-644-05-002", "answers": [ { "text": "ディーゼルエンジン", "answer_start": 212, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "客車という言葉は、広い意味では旅客車という意味を表すこともあるが、狭い意味では動力集中方式における旅客車を指す。この意味では、客車は自身に動力装置を持たず、他の車両(機関車)に牽引・推進してもらって走行する、主に旅客を乗せるための車両である。動力装置は搭載していないが、ブレーキについては鉄道の草創期の旧式な車両を除けば装備している。機関車により推進して運転する時に用いるための運転台を備えている車両もある。また、車内の照明や空調に用いるための電力を供給する発電機を搭載していることもあり、安全に走行して旅客に快適な旅を提供するために、必要な様々な機械類が搭載されている。客車は、動力装置を搭載していないため製造・保守の経費が安く、また車内に対する騒音・振動などの面で電車や気動車に比べて有利である。一方で、動力集中方式となるため加減速度や機動性の点では不利となる。このため長距離を走行し停車駅が少なく、車内環境を重視するような、長距離優等列車や特に夜行列車などにおいて用いられる。", "qas": [ { "question": "狭い意味での客車はどんな方式が用いられた旅客車ですか。", "id": "tr-644-06-000", "answers": [ { "text": "動力集中方式", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "機関車は、動力集中方式の客車や貨車を推進・牽引して走行するための動力車である。機関車自体には動力装置とそれを運転するための運転台のみがあるのが普通で、旅客や貨物を搭載するための設備は備えていない。また動力装置以外に、客車に対する暖房用の蒸気発生装置を搭載していたり、客車の照明・空調用の電源装置を搭載していたりする。機関車は、その動力方式でさらに蒸気機関車、電気機関車、内燃機関車の3つに大別できる。それ以外にも1970年代にはアメリカ(M-497)、ソビエト(高速走行実験鉄道車両)のようなジェットエンジンによる推力を利用するターボジェット・トレインも試作されたことがあった。ガスタービンで鉄輪を駆動するガスタービン機関車とは違い、排気推力を使うため、車輪は直接駆動しない。", "qas": [ { "question": "機関車を蒸気機関車、電気機関車、内燃機関車の3つに大別する基準は?", "id": "tr-644-07-000", "answers": [ { "text": "動力方式", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "蒸気機関車は、蒸気機関を原動力として走行する機関車である。近代的な交通機関として鉄道が実用化された当初から用いられてきた機関車である。燃料を燃やし、その熱によって蒸気を発生させて、蒸気機関を駆動する。現実に存在したほとんどの蒸気機関車はレシプロ式で、ピストンの往復運動をクランクで車輪の回転運動に変換して走行していた。このほかに蒸気タービン式や、発電してモーターで走行するものなどがあった。一般には燃料として石炭を用いるが、外燃機関であるため燃えるものであればほとんど何でも燃料として使用でき、コークス、木材、重油、泥炭などが用いられることもある。またサトウキビの生産が盛んな地方では、その絞りかすのバガスを燃料にしたり、変わったものとしてスイスにはかつて、架線から電気を集電し、その電力で電熱器により蒸気を作って走る電気式蒸気機関車が存在していた。原子炉で蒸気を発生させて走行する機関車も設計されたが、実用化された例はない。無火機関車は、鉱山や火薬工場などの火気を嫌う場所で用いられる特殊な蒸気機関車で、外部に設置したボイラーからの蒸気の供給を受けて搭載している蒸気タンクに蓄積し、タンクに蒸気が残っている間だけ自走できるものである。蒸気機関車は、製作費が安く線路側の設備もあまり必要としないという長所がある。しかし、操作や保守が難しく、熱効率が低く乗務員の労働環境が悪い、煤煙が環境汚染を引き起こすといった様々な短所があり、第二次世界大戦後各国で次第に他の機関車に置き換えられていった。主に発展途上国を中心に運行を続けている蒸気機関車があるが、先進国においては保存鉄道で運行されている程度である。", "qas": [ { "question": "燃料を燃やし、その熱によって蒸気を発生させて、蒸気機関を駆動する方式の機関車のことを何と呼びますか。", "id": "tr-644-08-000", "answers": [ { "text": "蒸気機関車", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "現実に存在した蒸気機関車は一般的に何式のものか。", "id": "tr-644-08-001", "answers": [ { "text": "レシプロ式", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "テキストに従うと、現代において、蒸気機関車は先進国と発展途上国と、どちらを中心に運行されていると予想できますか。", "id": "tr-644-08-002", "answers": [ { "text": "主に発展途上国を中心に運行を続けている蒸気機関車があるが、先進国においては保存鉄道で運行されている程度である。", "answer_start": 645, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "電気機関車は、電気でモーターを回して走行する機関車である。電力は架線や第三軌条から集電して取り入れるのが一般的であるが、蓄電池を搭載してその電力で走行する機関車も電気機関車に含まれる。電車と同様の理由で、蓄電池式の電気機関車は少数である。搭載している内燃機関により発電してその電力でモーターを回して走行する機関車は、一般に内燃機関車に分類されている。また電化区間では集電して電気機関車として走行し、非電化区間では搭載している内燃機関を起動してその発電した電力によって走行するという機関車も存在しており、電気・内燃ハイブリッド機関車といえる。電気機関車は、蒸気機関車に比べて効率がよく運転もしやすい。また高速化・大出力化が容易である。一方で電車と同じように膨大な地上設備を必要としている。このため運転頻度が高い路線を中心に用いられている。日本やヨーロッパ、ロシア、中華人民共和国では幹線網の電化が進んでいるので、電気機関車が広く用いられている。一方、北アメリカやオーストラリアなどでは鉄道網があまり電化されておらず、ディーゼル機関車が主力となっている。", "qas": [ { "question": "電気機関車と蒸気機関車を比べると、どっちの方が効率が悪くて運転もしにくい?", "id": "tr-644-09-000", "answers": [ { "text": "蒸気機関車", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "電気機関車と蒸気機関車を比べると、どっちの方が高速化・大出力化が容易であるか。", "id": "tr-644-09-001", "answers": [ { "text": "電気機関車", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "内燃機関車は、内燃機関を動力源とする機関車の総称である。実際には搭載されているエンジンの種類により、ディーゼル機関車、ガソリン機関車、ガスタービン機関車などがあり、低燃費で大出力を発揮しやすいディーゼル機関車が、現代の鉄道において内燃機関車の主流となっている。気動車と同様に、機械式、液体式、電気式などの各種の変速方式がある。ディーゼル機関車は電気機関車と同様、蒸気機関車と比較して効率がよく運転しやすい。また地上の電化設備を必要としていないが、電気機関車に比べて製作と保守に費用と手間が掛かる。こうしたことから、あまり運行頻度が高くない路線を中心に用いられている。電化されていない路線では、必然的に内燃機関車が用いられることになる。", "qas": [ { "question": "内燃機関車は何を基準にディーゼル機関車、ガソリン機関車、ガスタービン機関車などに分けられるか。", "id": "tr-644-10-000", "answers": [ { "text": "エンジンの種類", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "現代の鉄道において内燃機関車の中、どの機関車が普及されていますか。", "id": "tr-644-10-001", "answers": [ { "text": "ディーゼル機関車", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ディーゼル機関車、電気機関車、蒸気機関車のうち、何が一番効率が悪くて運転しにくいの?", "id": "tr-644-10-002", "answers": [ { "text": "蒸気機関車", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "貨車は、貨物を搭載して輸送するための鉄道車両である。大半の貨車は機関車によって牽引・推進されて移動する動力集中方式の車両であるが、JR貨物M250系電車のように動力分散方式の貨車も開発されてきている。搭載される貨物に応じて、様々な形態の貨車が開発されてきた。かつては、貨車に直接貨物を積み込み・積み卸ろす輸送が行われていた。しかし、鉄道以外の交通手段との間で手作業による積み替えが発生することや、貨車の列車間での繋ぎ替え、入換作業に手間が掛かるといった問題があった。これに対して、フォークリフトのような荷役機械が開発され、第二次世界大戦後から各国でコンテナ化の動きが始まった。このためにコンテナを搭載する貨車としてコンテナ車が運用されるようになり、その上に載せるコンテナを搭載する貨物に応じて開発するようになっている。鉱山において鉱石を輸送する列車や、石油のように大量に消費される物資を輸送する列車については、その目的に専用の石炭車・ホッパ車・タンク車などの貨車が開発されて使用されている。", "qas": [ { "question": "貨車は何を乗せるための鉄道車両ですか。", "id": "tr-644-11-000", "answers": [ { "text": "貨物", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "動力集中方式の動力車である機関車は、すべての動力機能を集中して備えているため高価である。これに対して動力分散方式の車両は、動力車と付随車で異なるが、機関車よりは安価である。動力集中方式の付随車はこれよりも安い。したがって、製造費用は動力集中方式の動力車>動力分散方式の車両>動力集中方式の付随車という式が成り立つ。同じ程度の輸送力を発揮できる編成で比較すると、12両編成の場合、動力分散方式の車両がすべて動力車(12M)ならば動力分散方式の方が高く、6M6Tの場合で同等、4M8Tの場合は動力分散方式の方が安いという試算がなされている。ただしこの例では、動力集中方式の列車について折り返し駅での機回しを省略するために両端に機関車を繋いだ構成を考えているため、機回しを行うことを前提にすれば機関車を1両削減できて、動力集中方式により有利となる。", "qas": [ { "question": "動力集中方式の車両と動力分散方式の車両、どちらの方が安いか。", "id": "tr-644-12-000", "answers": [ { "text": "動力分散方式の車両", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "製造費用で、動力集中方式の動力車、動力分散方式の車両、動力集中方式の付随車の中で、二番目に高いの何?", "id": "tr-644-12-001", "answers": [ { "text": "動力分散方式の車両", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "レンブラント・ファン・レイン", "paragraphs": [ { "context": "レンブラントは、同じオランダのフェルメール、イタリアのカラヴァッジョ、フランドルのルーベンス、スペインのベラスケスなどと共に、バロック絵画を代表する画家の一人である。また、ヨーロッパ美術史における重要人物の一人である。\n\n「光の画家」「光の魔術師」の異名を持ち、油彩だけでなくエッチングや複合技法による銅版画やデッサンでも多くの作品を残した。絵画『夜警』はレンブラントの代表作として著名である。また、生涯を通じて自画像を描いたことでも知られ、これらはその時々の彼の内面までも伝えている。\n\n若くして肖像画家として成功し、晩年には私生活における度重なる不幸と浪費癖による財政的苦難に喘いだが、生前、すでに著名で高い評価を受け、オランダには比類すべき画家がいないとさえ考えられていた。フェルディナント・ボル、ホーファールト・フリンクなどはレンブラントの弟子として知られる。なお、オランダ政府観光局による片仮名表記はレンブラント・ファン・ラインとなっている。", "qas": [ { "question": "「光の画家」、「光の魔術師」とは誰を指しますか。", "id": "tr-645-00-000", "answers": [ { "text": "レンブラント", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『夜警』は誰の作品ですか。", "id": "tr-645-00-001", "answers": [ { "text": "レンブラント", "answer_start": 178, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フェルディナント・ボルの師は誰だと知られていますか。", "id": "tr-645-00-002", "answers": [ { "text": "レンブラント", "answer_start": 367, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "レンブラントのオランダ政府観光局による片仮名表記は何?", "id": "tr-645-00-003", "answers": [ { "text": "レンブラント・ファン・ライン", "answer_start": 405, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "レンブラントは1606年、スペインから独立する直前のオランダ、ライデンのウェッデステーグ3番地にて、製粉業を営む中流階級の父ハルマン・ヘリッツゾーン・ファン・レイン、都市貴族でパン屋を生業とする一家の娘である母ネールチェン・ヴィレムスドホテルファン・ザウトブルーグの間に生まれた。レンブラントは夫妻の8番目の子供で、兄は4人、長女と次女は早世し三女の姉1人と妹1人がいた。父は製粉の風車小屋をライデンを流れる旧ライン川沿いに所有しており、一家の姓ファン・レインは「ライン川の(vanRijn)」を意味する。", "qas": [ { "question": "レンブラントは何年生まれなの?", "id": "tr-645-01-000", "answers": [ { "text": "1606年", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レンブラントの母は誰?", "id": "tr-645-01-001", "answers": [ { "text": "ネールチェン・ヴィレムスドホテルファン・ザウトブルーグ", "answer_start": 105, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レンブラントには兄が何人いましたか。", "id": "tr-645-01-002", "answers": [ { "text": "4人", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レンブラントの姓は何を意味しますか。", "id": "tr-645-01-003", "answers": [ { "text": "「ライン川の(vanRijn)」", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "レンブラントは1613年にラテン語学校に入学した。1620年、14歳のレンブラントはラテン語学校から飛び級でライデン大学への入学許可を受けた。進学したのは兄弟の中でレンブラントのみであり、兄たちは家業の製粉業に就いていた。両親はレンブラントに法律家への道を期待していたが、実際にそこに籍を置いたのはわずか数箇月にすぎず、同年末もしくは翌年には画家を志向した。当時は美術学校などなく、イタリア留学経験をもつ歴史画家ヤーコプ・ファン・スヴァーネンブルフに弟子入りして絵画を学んだ。この顛末について、1641年にライデン元市長のヨハネス・オルレルスは同市の案内書の中で「(レンブラントの両親は)息子が絵画やデッサンにしか興味を持たないため、大学を退学させ、画家の下で美術を学ばせた」と記している。ただしレンブラントがスヴァーネンブルフから学んだものは絵画の基礎的な部分にとどまったと見られ、スヴァーネンブルフが得意とした都市絵画や地獄図などには手を出していない。", "qas": [ { "question": "レンブラントは何年にラテン語学校に入学したか。", "id": "tr-645-02-000", "answers": [ { "text": "1613年", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1620年、レンブラントは何歳だった?", "id": "tr-645-02-001", "answers": [ { "text": "14歳", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レンブラントの両親はレンブラントが何になって欲しがってたの?", "id": "tr-645-02-002", "answers": [ { "text": "法律家", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "3年間スヴァーネンブルフから絵画技法から解剖学まで必要な技能を学んだレンブラントは、その類稀な技術ですでに評判を得ており、ヨハネス・オルレルスの記述によると「将来を見越し、父親が有名な画家に弟子入りさせた」とある通り、1624年に18歳のレンブラントは当時オランダ最高の歴史画家と言われたアムステルダムのピーテル・ラストマンに師事した。この期間は半年だけであったが、ここでレンブラントはカラヴァッジョ派の明暗を用いる技法や物語への嗜好性、表現性など多くを学んだ。またアルブレヒト・デューラーの『人体均衡論』を深く読み、描写力に磨きをかけたともいう。", "qas": [ { "question": "レンブラントは何年間スヴァーネンブルフから絵画技などを学んだか。", "id": "tr-645-03-000", "answers": [ { "text": "3年間", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1624年に、レンブラントは何歳でしたか。", "id": "tr-645-03-001", "answers": [ { "text": "18歳", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アムステルダムから戻ったレンブラントは実家にアトリエを構え、さっそく製作に乗り出した。1625年には、時期が判明している初の作品『聖ステバノの殉教』を製作した。また、この頃に同じラストマンに弟子入りし12歳で画家として活動を始めていた神童の呼び声が高いヤン・リーフェンスと知り合い、競い合う関係が始まった。リーフェンスとは一時期共同で工房を持った。\n\n1628年にはレンブラントも弟子を指導するようになり、ヘラルト・ドウやイサーク・ジューデルヴィルらが門下に入った。弟子の一人ホーホストラーテンは1678年の著作『美術学校への招待』にて、レンブラントの指導について「知識は実践せよ。さすれば知らぬ事、学ばねばならぬ事が自明になる」という言葉を記した。このようにレンブラントは常に新たな領域へ踏み込むことに熱心であり、この頃にはエッチングに手を染め始めた。先が二股の彫刻刀を自作したり、貧者や老人の姿をテーマとした版画を数多く製作した。", "qas": [ { "question": "『聖ステバノの殉教』は誰が制作した作品なの?", "id": "tr-645-04-000", "answers": [ { "text": "レンブラント", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『美術学校への招待』は誰が書いたの?", "id": "tr-645-04-001", "answers": [ { "text": "ホーホストラーテン", "answer_start": 238, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヤン・リーフェンスは何歳の時から画家として活動を始めたの?", "id": "tr-645-04-002", "answers": [ { "text": "12歳", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この頃にはレンブラントは頭角を現し始めていた。ユトレヒトの法律家で美術評論家のファン・ブヘルは、1628年の自著『絵画』の中でレンブラントが賞賛を受けていることを記している。絵画以外にもエッチングがヨーロッパ中に流通したことも、レンブラントの名が広まる要因となった。オラニエ公フレデリック・ヘンドリックの秘書官コンスタンティン・ホイヘンス(数学者クリスティアーン・ホイヘンスの父)は、レンブラントとリーフェンスの両方に目をかけた人物である。ホイヘンスは二人を評して「創造性に優れる刺繍屋の息子(リーフェンス)と、判断力と表現力に優れる粉屋の息子(レンブラント)」と言い、いずれもが有名な画家と比肩し、そのうちにこれを超えるだろうと日記に認めた。イギリスのアンクルム侯爵がオランダを訪問した際、ホイヘンスはチャールズ1世への献上品として何枚かの絵画を渡したが、その中には二人の絵も含まれていた。この当時の作品『アトリエにいる風景』にてレンブラントはキャンバスに向かう自分の姿を描いているが、この時の衣裳は来客を迎える正装であり、すでに美術愛好家たちがレンブラントと接触を持っていたことを示す。", "qas": [ { "question": "『絵画』は誰が書いたの?", "id": "tr-645-05-000", "answers": [ { "text": "ファン・ブヘル", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ファン・ブヘルの『絵画』は何年に書かれましたか。", "id": "tr-645-05-001", "answers": [ { "text": "1628年", "answer_start": 48, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1632年、レンブラントは大きな仕事の依頼を受けた。著名な医師のニコラス・ピーデルスゾーン・トゥルプ教授が行う解剖の講義を受ける名士たちを描く集団肖像画の製作で、この絵は有力者も出入りする外科医組合会館に展示されることになっていた。これに成功すれば大きな名声を得られる彼は、驚嘆されるような前例のない絵画に取り組んだ。集団肖像画はオランダでは100年以上の伝統を持つが、その構図は各人物それぞれに威厳を持たせた明瞭な描き方をすることに注力するあまり、まるで記念写真のように動きに乏しく没個性的で、絵の主題とポーズや構図に違和感があった。レンブラントは、「解剖の講義」という主題を前面に押し出して表現するため、鉗子で腱をつまむトゥルプ教授に全体の威厳を代表させ、他の人物の熱心に語りを聴く姿から彼らの学識を表現した。この代表作かつ出世作となった『テュルプ博士の解剖学講義』によって、レンブラントは高い評価を得た。", "qas": [ { "question": "『テュルプ博士の解剖学講義』は誰の作品ですか。", "id": "tr-645-06-000", "answers": [ { "text": "レンブラント", "answer_start": 390, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "レンブラントは『テュルプ博士の解剖学講義』の依頼を何年に受けましたか。", "id": "tr-645-06-001", "answers": [ { "text": "1632年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1632年、レンブラントが受けた大きな仕事の依頼によって完成された作品のタイトルは何?", "id": "tr-645-06-002", "answers": [ { "text": "『テュルプ博士の解剖学講義』", "answer_start": 371, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アイレンブルフの家に間借りしていたレンブラントは、1633年にそこでアイレンブルフのいとこで22歳のサスキア・ファン・アイレンブルフと知り合った。彼女の父は亡くなっていたがレーワルデン市長を務めたこともある人物で、その一族は裕福であった。1633年には婚約し、翌年にはレンブラント側の親族を誰も呼ばないまま結婚式を挙げた。これで彼は正式なアムステルダム市民となり、また聖ルカ組合の一員となる。多額の持参金と富裕層へのコネクションをもたらしたサスキアは、レンブラントの絵のモデルとなり、ふくよかな姿を描いた多くの作品が残された。", "qas": [ { "question": "1633年、サスキア・ファン・アイレンブルフは何歳でしたか。", "id": "tr-645-07-000", "answers": [ { "text": "1633年", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レンブラントとサスキア・ファン・アイレンブルフはは何年に婚約したか。", "id": "tr-645-07-001", "answers": [ { "text": "1633年", "answer_start": 119, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "これらもあってレンブラントは、1635年にはアイレンブルフから独立したアトリエを構えた。\n\n富と名声を得ていたレンブラントは、弟子を教育しつつ、自らもあらゆるものを対象に描いた。妻サスキアをモデルにした『春の女神フローラに扮したサスキア』<ギャラリー>『アルテミシア』<ギャラリー>から、依頼を受けた肖像画、そして街中で見かけた物売りや乞食のデッサン、情景を空想し描いたロンドンやイタリア田園風景などを数多く描いた。その資料とするために、彼はいろいろなものを積極的に収集するようになる。美術品や、刀剣などの工芸品、多くの民族にわたる衣装や装飾品など手当たり次第と言える膨大な点数を所蔵した。そして自らにふさわしい豪邸を求め、ユダヤ人街になりつつあったヨーデンブレーストラート(聖アントニウス広小路)に、後にレンブラントの家と呼ばれることになる邸宅を1639年に年賦支払いで購入し、ここで大きな規模の工房を主宰した。これは13,000ギルダーもの費用を要し、周囲からサスキアの財産を食いつぶしているのではと非難を受けた。一方で投機にも手を出しては失敗を重ねていた。", "qas": [ { "question": "レンブラントは何年にアイレンブルフから独立したアトリエを構えたか。", "id": "tr-645-08-000", "answers": [ { "text": "1635年", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『春の女神フローラに扮したサスキア』は誰をモデルにしたものですか。", "id": "tr-645-08-001", "answers": [ { "text": "サスキア", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『アルテミシア』は誰が描いた作品なの?", "id": "tr-645-08-002", "answers": [ { "text": "レンブラント", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "レンブラントは、1640年の末に火縄銃手組合が発注した複数の集団肖像画のうち、市の名士フランス・パニング・コック率いる部隊の絵を受けた。彼は独自の主題性と動きのある構図を用いて、1642年初頭に『夜警』を完成させた。注文された絵は組合会館に掲げられたが、弟子のホーホストラーテンは『夜警』を評し「展示された他の絵が、まるでトランプの図柄のように見えてしまう」と、その傑出性に眼を見張った。\n\nしかしこの頃、彼は多くの不幸に見舞われていた。1635年12月に生まれた最初の子ロンベルトゥスは2ヶ月で死去。1638年7月生まれの長女コルネリア、1640年7月に生まれた姉と同じ名をつけた次女コルネリアはいずれも1箇月ほどの短命で亡くなる。この年9月には母も亡くなった。彼の子供のうち、成人を迎えられた者は1641年に授かった息子ティトゥスだけであった。", "qas": [ { "question": "『夜警』は何年に完成されたか。", "id": "tr-645-09-000", "answers": [ { "text": "1642年", "answer_start": 89, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『夜警』は誰が描いた作品か。", "id": "tr-645-09-001", "answers": [ { "text": "レンブラント", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "レンブラントの長女コルネリアは何年生まれなの?", "id": "tr-645-09-002", "answers": [ { "text": "1638年", "answer_start": 251, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レンブラント、レンブラントの長女、レンブラントの次女のうち、短命しないのは誰?", "id": "tr-645-09-003", "answers": [ { "text": "レンブラント", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "『夜警』の製作中、妻のサスキアが体調を崩し寝込んでしまう。レンブラントは病床の彼女を描いた素描を残している。彼女は一向に回復を見せず、1642年には遺書を用意した。それによると、4万ギルダーの遺産はレンブラントと息子ティトゥスが半分ずつ相続するが、息子が成人するまでは彼を唯一の後見人として自由に使うことを認めた。ただし、もし彼が再婚した場合、この条項は無効になった。6月14日、サスキアは29歳で亡くなった。結核が原因だったと推測される。レンブラントはアウデ教会に購入した墓地に彼女を埋葬した。", "qas": [ { "question": "サスキアは何歳で亡くなった?", "id": "tr-645-10-000", "answers": [ { "text": "29歳", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サスキアの死の原因は何だと推測されているか。", "id": "tr-645-10-001", "answers": [ { "text": "結核", "answer_start": 205, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "バビロニア", "paragraphs": [ { "context": "バビロニア(古希:Βαβυλωνία、英:Babylonia)、またはバビュロニアは、現代のイラク南部、ティグリス川とユーフラテス川下流の沖積平野一帯を指す歴史地理的領域である。南北は概ね現在のバグダード周辺からペルシア湾まで、東西はザグロス山脈からシリア砂漠やアラビア砂漠までの範囲に相当する。その中心都市バビロンは『旧約聖書』に代表される伝説によって現代でも有名である。バビロニアは古代においては更に南部のシュメール地方と北部のアッカド地方に大別され、「シュメールとアッカドの地」という表現で呼ばれていた。", "qas": [ { "question": "バビロニアは、現代のイラク南部、ティグリス川とどこを指す歴史地理的領域であるの?", "id": "tr-646-00-000", "answers": [ { "text": "ユーフラテス川下流の沖積平野一帯", "answer_start": 59, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バビロニアの別の表記は、何ですか?", "id": "tr-646-00-001", "answers": [ { "text": "バビュロニア", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バビロニアの中心には、どの都市が存在するか?", "id": "tr-646-00-002", "answers": [ { "text": "バビロン", "answer_start": 154, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バビロニアにおいて、バグダード周辺からペルシア湾までは、南北と東西のうち、どちらに当たるか?", "id": "tr-646-00-003", "answers": [ { "text": "南北", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "バビロニアは世界で最も古くから農耕が行われている地域の一つであり、前4000年期には既に中東の広い範囲との間に交易ネットワークが張り巡らされていた。前3000年期には文字が使用され始めた。初めて文字システム体系を構築したシュメール人やアッカド人たちはバビロニア南部でウルやウルク、ニップル、ラガシュなどに代表される多数の都市国家を構築し、前3000年期後半にはアッカド帝国がバビロニアを含むメソポタミア全域への支配を打ち立て、更にウル第三王朝がそれに続いた。", "qas": [ { "question": "バビロニアは世界で最も古くから、何が行われている地域の一つであるの?", "id": "tr-646-01-000", "answers": [ { "text": "農耕", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バビロニアと中東の広い範囲の間に交易ネットワークを築かれたのは、何年頃のことですか?", "id": "tr-646-01-001", "answers": [ { "text": "前4000年期", "answer_start": 33, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "文字が使われ始めたのは、何年頃のことか?", "id": "tr-646-01-002", "answers": [ { "text": "前3000年期", "answer_start": 74, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中東の広い範囲との交易ネットワークと文字のうち、より遅く使われ始めたのは、どれか?", "id": "tr-646-01-003", "answers": [ { "text": "文字", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "前2000年期に入ると、アムル人(アモリ人)と呼ばれる人々がメソポタミア全域で多数の王朝を打ち立てた。その内の一つでバビロンに勃興したバビロン第1王朝は、ハンムラビ王(在位:前1792年-前1750年)の時代にメソポタミアをほぼ統一し、バビロンが地域の中心都市となる契機を作った。前2000年期後半にはカッシート人が作った王朝(バビロン第3王朝)が支配権を握り、古代オリエント各地の国々と活発に交流を行い、または戦った。カッシート人の王朝は東のエラムとの戦いによって滅亡した。", "qas": [ { "question": "前2000年期からメソポタミア全域で多数の王朝を打ち立てたのは、どんな人々だったの?", "id": "tr-646-02-000", "answers": [ { "text": "アムル人", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アムル人がメソポタミア全域で多数の王朝を打ち立てたのは、何年頃からでしたか?", "id": "tr-646-02-001", "answers": [ { "text": "前2000年期", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "メソポタミア一帯をほぼ統一したのは、どの王朝の業績か?", "id": "tr-646-02-002", "answers": [ { "text": "バビロン第1王朝", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バビロンがメソポタミア地域の中心都市となる契機を作った王朝は、どの王朝か?", "id": "tr-646-02-003", "answers": [ { "text": "バビロン第1王朝", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "前1000年期前半にはバビロニアの王朝はアッシリアとの相次ぐ戦いの中で次第に劣勢となり、アッシリアの王ティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)によってその支配下に組み込まれた。アッシリアによるバビロニアの支配は恒常的な反乱にも関わらず、短期間の中断を挟み100年以上継続したが、前625年にカルデア人ナボポラッサル(ナブー・アピル・ウツル、在位:前625年-前605年)がアッシリア人を駆逐し、新バビロニア王国(カルデア王国)を建設したことで終わった。新バビロニアは更に前539年にアケメネス朝(ハカーマニシュ朝)の王キュロス2世(クル2世、在位:前550年-紀元前529年)によって征服され、その帝国の一部となった。アケメネス朝を滅ぼしたアレクサンドロス3世(大王、在位:前336年-前323年)は遠征の途上、バビロンに入城し、また征服の後はバビロンで死去した。", "qas": [ { "question": "バビロニアの王朝がアッシリアの支配下に置かれたのは、いつ頃のことなの?", "id": "tr-646-03-000", "answers": [ { "text": "前1000年期前半", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バビロニアの王朝を支配下に置いたアッシリアの王は、誰ですか?", "id": "tr-646-03-001", "answers": [ { "text": "ティグラト・ピレセル3世", "answer_start": 51, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "新バビロニア王国の建国者は、誰か?", "id": "tr-646-03-002", "answers": [ { "text": "ナボポラッサル", "answer_start": 158, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アレクサンドロス大王の死後、後継者(ディアドコイ)の一人セレウコス1世(在位:前305年-前281年)がバビロニアの支配者となった。彼がバビロニアに新たな拠点としてティグリス河畔のセレウキアを建設するとバビロンの重要性は次第に失われて行き、続くアルサケス朝(アルシャク朝、パルティア王国)時代にはセレウキアとその対岸の都市クテシフォン(テーシフォーン)が完全にバビロニアの中心となってバビロン市は放棄された。それに伴い、シュメール時代から続けられていた楔形文字による文字体系も失われ、古くから伝承されたシュメール語やバビロニア語の文学的伝統も途絶えた。", "qas": [ { "question": "アレクサンドロス大王の後を継ぎ、バビロニアの支配者となったのは、誰なの?", "id": "tr-646-04-000", "answers": [ { "text": "セレウコス1世", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "セレウキアを建設したのは、誰ですか?", "id": "tr-646-04-001", "answers": [ { "text": "セレウコス1世", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "何が建設されることにより、バビロンの重要性が弱化していったか?", "id": "tr-646-04-002", "answers": [ { "text": "セレウキア", "answer_start": 90, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "誰により、バビロンの重要性が弱化していったか?", "id": "tr-646-04-003", "answers": [ { "text": "セレウコス1世", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "バビロニアは法律、文学、宗教、芸術、数学、天文学などが発達した古代オリエント文明の中心地であり、多くの遺産が後代の文明に引き継がれた。政治体制は基本的に都市国家的な性格を強く残し、地域全体を包括する政治的統一が成し遂げられたのは特定の時代に限られる。アムル人、カッシート人、アラム人など外部からの頻繁な移住が行われ、地元の住民と衝突、混交した。地域の中心的な言語はシュメール語及びアッカド語(バビロニア語)からアラム語へと移り変わり、アレクサンドロス3世(大王)による征服の後にはギリシア語も普及した。", "qas": [ { "question": "アレクサンドロス3世により征服される前のバビロニアで使われていた言語には、シュメール語とアッカド語のほかに、どの言語があるの?", "id": "tr-646-05-000", "answers": [ { "text": "アラム語", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アレクサンドロス3世により征服されたバビロニアでは、ギリシア語とどの言語が使われましたか?", "id": "tr-646-05-001", "answers": [ { "text": "アラム語", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バビロニアへのギリシア語の普及に影響を及ぼしたのは、誰か?", "id": "tr-646-05-002", "answers": [ { "text": "アレクサンドロス3世", "answer_start": 217, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "使われていた中心言語がシュメール語とアッカド語からアラム語へと移り変わり、のちにギリシア語も普及されたのは、どの地域の話か?", "id": "tr-646-05-003", "answers": [ { "text": "バビロニア", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "バビロニア(バビュロニア)と言う名称は、その主邑バビロンに由来するギリシア語の名前、バビュローニアーから来ている。従ってこれは外部からの呼称であり、現地においてギリシア語のバビュローニアーに完全に対応する地理概念が当初より存在したわけではない。なお、ギリシャ人やローマ人はしばしばアッシリア(アッシュリア)とバビロニアを混同している。", "qas": [ { "question": "バビロニアという呼称は、何を由来としているの?", "id": "tr-646-06-000", "answers": [ { "text": "バビュローニアー", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バビロニアが外部からつけられた呼称であるとの根拠となるのは、その由来がどの言語からなる単語であるとのことですか?", "id": "tr-646-06-001", "answers": [ { "text": "ギリシア語", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ギリシャ人とローマ人はしばしば、アッシリアと何を混同していたか?", "id": "tr-646-06-002", "answers": [ { "text": "バビロニア", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "しばしばアッシリアとバビロニアを混同したのは、ギリシャ人とどのような人々だったか?", "id": "tr-646-06-003", "answers": [ { "text": "ローマ人", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "バビロニアに相当する地域は、現地では南部のシュメールと北部のアッカドと言う二つの地域として認識されていた。この二つの地名に由来する称号が「シュメールとアッカドの王」であり、ウル第三王朝の王ウル・ナンム(在位:前2112年-前2095年)の時代に初めて登場して以来、バビロニア、メソポタミアの広い範囲を統治する王たちによって好んで用いられた。シュメールとアッカドと言う二つの土地(シュメールとアッカドの地)からなると伝統的に認識されていた地域は、カッシート朝(バビロン第3王朝、前15世紀頃-前1155年)の時代にはカルドゥニアシュと言う名称の下で政治的統一体として認識されるようになった。アケメネス朝の王ダレイオス1世(ダーラヤワウ1世、在位:前522年-前486年)が残したベヒストゥン碑文には、彼が支配する国々の一つとしてバービル(バービルシュ、Bābiruš)と言う名でバビロニアが言及されている。", "qas": [ { "question": "ウル・ナンムとダレイオス1世のうち、より昔の人間は、誰なの?", "id": "tr-646-07-000", "answers": [ { "text": "ウル・ナンム", "answer_start": 94, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ウル第三王朝とカッシート朝、アケメネス朝のうち、最も昔に存在した王朝は、どちらですか?", "id": "tr-646-07-001", "answers": [ { "text": "ウル第三王朝", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「シュメールとアッカドの王」という称号を初めて使ったのは、誰か?", "id": "tr-646-07-002", "answers": [ { "text": "ウル・ナンム", "answer_start": 94, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「シュメールとアッカドの王」という称号は、どの王朝の王たちが自らのことをいうものであったか?", "id": "tr-646-07-003", "answers": [ { "text": "ウル第三王朝", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "バビロニアの地理的範囲は、現在のイラク、ティグリス川とユーフラテス川に挟まれたいわゆるメソポタミアの下流域である。南北は概ね現在のバグダードからペルシア湾までの範囲であり、東西はザグロス山脈からシリア砂漠やアラビア砂漠までの範囲に相当する。バビロニアの最南部は湿地帯で、人々は陸上のみならず海上で小舟の上で生活を送っていた。メソポタミアのバグダードよりも上流域の地方はアッシリアと呼ばれた。そしてバビロニアの東側、現在のイラン南西部にはエラムと呼ばれる地域があり、いずれも有力な勢力としてバビロニアの政治・文化・歴史に大きな影響を及ぼした。バビロニアの西側には砂漠地帯が広がっている。これは砂砂漠ではなく、小礫を含んだ岩砂漠地帯で、ユーフラテス川に合流する多数のワジ(涸れ河)とオアシスがあり、遊牧民の活動地帯であった。バビロニアはティグリス川とユーフラテス川の沖積平野であり、起伏に乏しい広大な平原が広がっている。バビロニアの北端部分にあたるバグダード周辺から南端部のバスラまでの高低差は極僅かで、山の迫る北部メソポタミアのアッシリア地方とは異なる景観を有している。", "qas": [ { "question": "バビロニアの地理的範囲は、どこの下流域であったの?", "id": "tr-646-08-000", "answers": [ { "text": "メソポタミア", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "南北がバグダードからペルシア湾までの範囲に収められていたのは、どの地域のことですか?", "id": "tr-646-08-001", "answers": [ { "text": "バビロニア", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バビロニアの地理的範囲において、南北の範囲はバグダードからどこまでに収められていたか?", "id": "tr-646-08-002", "answers": [ { "text": "ペルシア湾", "answer_start": 72, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バグダードからペルシア湾までの範囲は、バビロニアの地理的範囲において、南北と東西のうち、どちらに当たるか?", "id": "tr-646-08-003", "answers": [ { "text": "南北", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "バビロニアを含むメソポタミア地域の地理・気候の条件が当時どのような物であったのかと言う予測は、ほとんど現在の状況からの投影に基づいている。ただし現在見られるイラク南部の景観は少なくとも部分的には数千年に渡る人類の活動の結果である。", "qas": [ { "question": "バビロニアは、どの地域に含まれていたの?", "id": "tr-646-09-000", "answers": [ { "text": "メソポタミア", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書では、現在見られるイラク南部の景観を何の結果と言っていますか?", "id": "tr-646-09-001", "answers": [ { "text": "数千年に渡る人類の活動", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "バビロニアの気候は直近の1000年と大きく変化してはいないと予想され、年間雨量100ミリ以下という乾燥地帯であることに特徴づけられる。これは乾地農業の理論的限界を下回っており、人々は収穫を得るために灌漑農業を発達させた。灌漑のための水源はこの地域を縦断するユーフラテス川とティグリス川であった。バビロニアの農業は高い生産性を誇ったが、エジプトのナイル川と異なりこの両河川を効果的に利用するには多くの困難があった。原因の一つは両河川の増水と減水のサイクルが、農作業のサイクルと一致しなかったことである。この地域では通常10月から11月に播種し、4月から6月にかけて収穫が行われる。しかし、ティグリス・ユーフラテス両河は毎年春、3月から4月頃にかけて雪解け水によって増水・氾濫し、水量が最大になるのはティグリス川が4月、ユーフラテス川が5月である。だが、この時期は既に灌漑を必要とせず、むしろ洪水の脅威をもたらした。逆に両河川の流量が最小となるのは8月から9月にかけてであり、灌漑用水がこれから必要になる時期である。このためにバビロニアでの灌漑農業には水量が減少する時期に灌漑用水をくみ上げて農地に導入するための運河の建設とメンテナンスが欠かせないものであった。また春に多発した洪水の惨禍から畑を保護するために堤防や貯水池も準備しなければならなかった。", "qas": [ { "question": "バビロニアにおける年間雨量は、何ミリ以下であるか?", "id": "tr-646-10-000", "answers": [ { "text": "100ミリ", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バビロニアは、どのような気候的特徴を持った地帯とされるか?", "id": "tr-646-10-001", "answers": [ { "text": "乾燥地帯", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バビロニアに住む人々は、収穫を得るために、何を発達させてきたのか?", "id": "tr-646-10-002", "answers": [ { "text": "灌漑農業", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バビロニアの灌漑農業では、ユーフラテス川とどの川を水源としていたか?", "id": "tr-646-10-003", "answers": [ { "text": "ティグリス川", "answer_start": 136, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "後世バビロニアと呼ばれることになるシュメールとアッカドの地では、前3200年頃には大きな人口を抱え、複雑な社会機構を持つ都市国家が誕生していた。その後、シュメール初期王朝時代(前2900年頃-前2335年頃)にはメソポタミアと周辺の西アジア各地に都市文明が拡散していった。初期王朝時代末期の前2500年頃から、おぼろげながらも同時代史料に基づいてその歴史の一部を知ることができるようになる。バビロニアは(エジプトを除き)この時代の歴史を文字史料を通じて復元できる唯一の地域である。", "qas": [ { "question": "バビロニアは、昔のシュメールとどこの地を合わせた呼称なの?", "id": "tr-646-11-000", "answers": [ { "text": "アッカド", "answer_start": 23, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メソポタミアと周辺の西アジア各地に都市文明が拡散したのは、どの時代のことですか?", "id": "tr-646-11-001", "answers": [ { "text": "シュメール初期王朝時代", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "初期王朝時代末期にはシュメール人、アッカド人の都市国家が興亡を繰り返した。これらの都市国家の中でも有力となったものは次第に近隣都市を服属させて地域統合を果たすようになった。そのような都市国家にはキシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマ、ウルク、ウルなどがある。これらの都市国家では王権が強化され特定の家系に王位が独占されていくと共に、各国の間で領土や覇権を巡って相互に激しい争いが行われた。この時代の都市国家の争いと覇権の移り変わりは、前21世紀頃に成立した『シュメール王朝表』において、歴代王朝の覇権交代と言う形の伝承にまとめられている。ただしこれは同時代に存在していた有力な都市国家全てに触れてはいないし、またそれぞれが順番に覇権を握っていったという体裁をとるが、実際にそのように整然と勢力が交代したわけではない。", "qas": [ { "question": "近隣都市を服属させて地域統合を果たすほど有力となった都市国家としては、キシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマ、ウルク、そして、どの国があげられているか?", "id": "tr-646-12-000", "answers": [ { "text": "ウル", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "キシュ、ニップル、アダブ、シュルッパク、ウンマ、ウルク、ウルなどの国家が存在した時代は、どの時代に分類されるか?", "id": "tr-646-12-001", "answers": [ { "text": "初期王朝時代末期", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "こうした都市国家群は前24世紀半ばにウンマ王で後にウルクに拠点を遷したルガルザゲシによって大部分が征服され初めて統合された。このルガルザゲシの王国は、アッカド市(アガデ)の王サルゴン(シャル・キン)によって打倒された。サルゴンが建設した王国はアッカド帝国とも呼ばれ、一般に初の統一王朝として扱われる。バビロニアの中枢となる都市、バビロン(バーブイル/バーブ・イリBābili)は後世の史料ではこのサルゴン王によって建設されたという。しかし、これは一つの伝説であり、同時代史料におけるバビロンの初出はアッカド帝国最後の王、シャル・カリ・シャッリ(在位:前22世紀頃)の時代に建造された神殿の定礎碑文である。", "qas": [ { "question": "領土や覇権を巡って激しく争っていた都市国家らを征服し統合したのは、誰だったの?", "id": "tr-646-13-000", "answers": [ { "text": "ルガルザゲシ", "answer_start": 35, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "後世にバビロニアと呼ばれるようになる地域に存在した都市国家らを初めて統合したのは、誰でしたか?", "id": "tr-646-13-001", "answers": [ { "text": "ルガルザゲシ", "answer_start": 35, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "後世にバビロニアと呼ばれるようになる地域が初めて統合されたのは、いつのことか?", "id": "tr-646-13-002", "answers": [ { "text": "前24世紀半ば", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "後世にバビロニアと呼ばれるようになる地域を初めて統合して誕生した王国は、誰により打倒されたか?", "id": "tr-646-13-003", "answers": [ { "text": "サルゴン", "answer_start": 87, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "指宿市立図書館", "paragraphs": [ { "context": "指宿市立図書館(いぶすきしりつとしょかん)は、鹿児島県指宿市にある公立図書館。\n指宿図書館と山川図書館の2館で構成され、どちらも指定管理者として特定非営利活動法人本と人とをつなぐ「そらまめの会」が運営する。\n指宿図書館・山川図書館ともに第二次世界大戦後間もない時期の開館という長い歴史を有し、地域の読書普及に尽くしてきた。\n特に指宿図書館は児童文学者の椋鳩十の支援を受け、何度も表彰を受けた図書館であった。\nしかし、1990年代頃から活動が一時停滞し、指定管理者のそらまめの会による改革を通して利用者が増加してきている。", "qas": [ { "question": "指宿市立図書館は何県にあるの?", "id": "tr-647-00-000", "answers": [ { "text": "鹿児島県", "answer_start": 23, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "指宿市立図書館が構成している図書館は指宿図書館と何ですか?", "id": "tr-647-00-001", "answers": [ { "text": "山川図書館", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2006年(平成18年)1月1日、旧・指宿市、揖宿郡山川町、同郡開聞町が合併し、これらの市町が設置していた図書館・図書室を引き継いで指宿市立図書館が発足した。\n指宿市立図書館は指宿図書館、山川図書館、開聞図書室の2館1室で構成されていた。\n合併した自治体では、引き継いだ複数の図書館のシステムを統合しネットワークで結ぶのが通例であるが、指宿図書館はコンピュータによる貸し出しが未導入で、伝統的なカード式の貸し出しを行っていたこともあり、統合されなかった。", "qas": [ { "question": "指宿市立図書館が発足したのは何年でしたか?", "id": "tr-647-01-000", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "同年6月に指宿市は指宿・山川両図書館に対して指定管理者制度を導入することを決定した。\n表向きは民間活力の導入を目的としていたが、現実問題としては経費削減が目的であった。\n指定管理者制度の導入に危機感を抱いたのが、2005年(平成17年)に図書館ボランティアとして発足した「そらまめの会」であった。\nそらまめの会の活動により、指宿図書館では図書の整理や館内の装飾が行き渡るようになり、減少傾向にあった利用者が戻り始めていた矢先の指定管理者制度の導入決定であり、同年10月に市が指定管理者の募集を行うと、日本全国で図書館業務を行う大手企業が名乗りを挙げた。\nそらまめの会による図書館改革が始まった矢先の指定管理者制度の導入であり、会員に意見を募ったところ「NPOになって指定管理者に応募するという選択肢もある」という意見が出され、「本と人とのつながりを守りたい」という気持ちから指定管理者に応募することを決意し、少しずつ書類を揃えて10月中旬にNPOの法人格を取得し、同月末に指定管理者への応募を済ませた。\n最終的に指定管理者へは5団体が応募し、12月の指宿市議会はそらまめの会の理事長が市議会議員であったことを問題視して一旦却下したものの、予算や活動内容への反対意見はなかったため、理事長を据えなおして書類を再提出し、2名の反対議員がいたものの、賛成多数でそらまめの会が指定管理者に選定された。", "qas": [ { "question": "2005年に発足した図書館ボランティアの団体名は何ですか?", "id": "tr-647-02-000", "answers": [ { "text": "そらまめの会", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "指定管理者に応募した団体はいくつありましたか?", "id": "tr-647-02-001", "answers": [ { "text": "5団体", "answer_start": 463, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "そして2007年(平成19年)4月1日より指定管理者による運営に移行した。\n指定管理者制度導入図書館は、鹿児島県では阿久根市立図書館、徳之島町立図書館に次ぐ3館目となった。\nそらまめの会は館内のディスプレイの刷新、多彩なイベント開催、職員によるブログ「てくてくライブラリアン」の更新を通した情報発信など、公営時代は停滞気味であった図書館活動を一新した。\nこれを受けて2009年(平成21年)に行われた第2期の指定管理者の募集の際には、そらまめの会のような図書館運営は真似できないとして、そらまめの会以外の団体は応募を見送り、2010年(平成22年)4月からの第2期も引き続きそらまめの会が指定管理者となった。\nなお第2期の指定期間は5年に延長された。\n更に指宿市当局もそらまめの会の熱意を受けて、指宿図書館のコンピュータ導入の検討と、廃止された移動図書館の復活の検討に入った。", "qas": [ { "question": "職員が作成していたブログ名は何?", "id": "tr-647-03-000", "answers": [ { "text": "「てくてくライブラリアン」", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第2期の指定管理者に応募した団体は何ですか?", "id": "tr-647-03-001", "answers": [ { "text": "そらまめの会", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2011年(平成23年)5月1日、そらまめの会による図書館運営の様子をまとめた書籍『私たち図書館やってます!』が刊行された。\n同年9月1日、指宿図書館が休館に入り、翌2012年(平成24年)2月1日にコンピュータ導入を終えて再開館した。\nこの時、山川図書館とネットワークで結ばれ、インターネットからの蔵書検索や予約等もできるようになった。\n2014年(平成26年)、そらまめの会は総務省のICT地域情報化アドバイザー派遣事業を活用し、岡本真を講師に招き、ICT関連の取り組みを模索した。\nその中で移動図書館の復活を目指して2017年(平成29年)にクラウドファンディングを行うことになり、750万円の目標を達成、最終的に1170万円に達した。\nそして2018年(平成30年)4月に、ブックカフェ号「そらまMEN」と名付けられた移動図書館が走り始めた。\n2015年(平成27年)4月からの第3期(5年)もそらまめの会が指定管理者となり、少なくとも2020年(令和2年)3月31日までそらまめの会による運営が継続する予定である。", "qas": [ { "question": "『私たち図書館やってます!』は誰について書かれた書籍ですか?", "id": "tr-647-04-000", "answers": [ { "text": "そらまめの会", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "移動図書館の復活を目指して、どのような方法で資金を集めましたか?", "id": "tr-647-04-001", "answers": [ { "text": "クラウドファンディング", "answer_start": 274, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "移動図書館の名前は?", "id": "tr-647-04-002", "answers": [ { "text": "「そらまMEN」", "answer_start": 348, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第3期の指定管理者は誰ですか?", "id": "tr-647-04-003", "answers": [ { "text": "そらまめの会", "answer_start": 401, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "指宿市立図書館では「図書館は面白い」と思ってもらうことを第一と考えており、子供達の評価が得られるならば漫画やライトノベルなども良書として充実を図る方針である。\n漫画は市民からの寄贈によって蔵書の充実が図られ、漫画目当てに図書館へ通い始めた子供が次第に他の本も借りていくという効果や、子供と職員の共通の話題作りに役立っている。\n図書の配架は日本十進分類法に準拠しつつ、利用者の動線に応じた配置や、赤木かん子の協力を得て「かん子シール」による分類と表紙を見せる配架を行っている。\n館内での飲食は禁止されている。\nしかし飲食を希望する利用者が増えていること、図書館の周辺にファミリーレストランやコンビニエンスストアがないという事情から、市内のNPO法人縄文の森をつくろう会が制作した机と椅子を館外の一角に設置し、そこで飲食できるようにした。", "qas": [ { "question": "「かん子シール」のかん子とは誰のことですか?", "id": "tr-647-05-000", "answers": [ { "text": "赤木かん子", "answer_start": 197, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "飲食用の机と椅子を制作した団体は何ですか?", "id": "tr-647-05-001", "answers": [ { "text": "縄文の森をつくろう会", "answer_start": 323, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "指宿図書館(いぶすきとしょかん)は、鹿児島県指宿市十二町にある公立図書館。\n山川図書館とともに指宿市立図書館を構成する1館であり、指定管理者の特定非営利活動法人本と人とをつなぐ「そらまめの会」が運営する。\n図書館は鉄筋コンクリート構造2階建てで、1階に一般開架室や児童開架室、お話コーナーなど、2階に調査研究室、多目的集会室、資料展示コーナーなどを設置している。\n建築面積は859m2、延床面積は1,545m2で、山川図書館とほぼ同じ規模である。\n独自のコレクションとして、甘藷資料7,135冊を保有するが、十分に利活用されているとは言えない。", "qas": [ { "question": "指宿図書館の独自のコレクションとは何?", "id": "tr-647-06-000", "answers": [ { "text": "甘藷資料", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "指宿図書館の建築面積は?", "id": "tr-647-06-001", "answers": [ { "text": "859m2", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "指宿図書館の延床面積は?", "id": "tr-647-06-002", "answers": [ { "text": "1,545m2", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "指宿図書館の運営者は誰?", "id": "tr-647-06-003", "answers": [ { "text": "そらまめの会", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1924年(大正13年)1月24日に図書館費補助規定が制定されたことを受けて、同年7月1日に指宿村立図書館と今和泉村立図書館が創立した。\n指宿村立図書館は独立した建物を持ち、今和泉村立図書館は村役場に併設されていた。\n1931年(昭和6年)4月1日時点の蔵書数は指宿村立図書館が630冊、今和泉村立図書館が895冊であった。\n1933年(昭和8年)に指宿村立図書館は指宿町立図書館に改称したことは分かっているものの、第二次世界大戦中の図書館の活動記録は現存せず、混乱の中で自然消滅したものと見られている。", "qas": [ { "question": "1931年4月1日時点で、蔵書数が多かったのは指宿村立図書館と今和泉村立図書館のどちらでしたか?", "id": "tr-647-07-000", "answers": [ { "text": "今和泉村立図書館", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "独立した建物を持っていたのは今和泉村立図書館と指宿村立図書館のどちらですか?", "id": "tr-647-07-001", "answers": [ { "text": "指宿村立図書館", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1947年(昭和22年)2月、二月田駅前にあった揖宿地区農業改良普及事務所の職員らが「農民図書館」の設立に向けた活動を展開した。\n当時の指宿町は戦争から帰ってきた失業者であふれ、人々は生きるためにサツマイモを栽培したが、種芋の選別もままならぬうちに栽培したことから、黒斑病の発生が危惧された。\n同事務所はこうした黒斑病対策や作物の増収、畜産振興などの相談に応じるために連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の関与の元で設置された、鹿児島県庁農政課の出先機関であった。\nその所長を務めた田原迫靖は、農村図書館を造りたいと考えたが、時の指宿町に図書館を設置する余裕はなく、断られてしまった。\nそこで田原迫は鹿児島県立図書館の館長であった久保田彦穂に協力を求め、事務所内に「鹿児島県立図書館貸出文庫指宿出張所」として図書館を開設することにし、指宿町からも了承を得た。\nなお久保田彦穂とは、児童文学者として知られる椋鳩十のことであり、県立図書館出張所とすることを提案した張本人である。", "qas": [ { "question": "揖宿地区農業改良普及事務所の所長を務めていた人は誰?", "id": "tr-647-08-000", "answers": [ { "text": "田原迫靖", "answer_start": 241, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "椋鳩十の本名は?", "id": "tr-647-08-001", "answers": [ { "text": "久保田彦穂", "answer_start": 382, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "久保田彦穂はどこの館長を務めていたの?", "id": "tr-647-08-002", "answers": [ { "text": "鹿児島県立図書館", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "椋鳩十の文学ジャンルは何だったの?", "id": "tr-647-08-003", "answers": [ { "text": "児童文学", "answer_start": 390, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "そして、1948年(昭和23年)8月5日に同事務所内に指宿町立図書館が設置された。\nこの指宿町立図書館は自前の図書は1冊も持っておらず、「鹿児島県立図書館貸出文庫指宿出張所」として県立図書館から100冊を借用し、田原迫所長の個人蔵書と農業改良普及パンフレットなどを加えた計200冊弱で始まった。\n事務所玄関の右側には「揖宿地区農業改良普及事務所」の看板、左側には「指宿町立図書館鹿児島県立図書館貸出文庫指宿出張所」の看板が掲げられるという不思議な状況に、道行く人から「ここは何をするところか」と尋ねられることもしばしばだったという。\nこうして、一方では農業相談に慌ただしく駆け込んできた農家がいるかと思えば、他方では本を借りに来た学校帰りの賑やかな子供達がいるという状況が生まれた。\n指宿町でも「町立図書館」の看板が掲げられた以上は予算を組まざるを得なくなり、同年の補正予算で6万円を計上した。\nまさに田原迫所長と久保田館長による作戦勝ちであった。\n改良普及事務所では夜間に農業講座や一般教養講座を開講し、講座の後には関係する図書がほぼ貸し出されるという状況が続いた。", "qas": [ { "question": "指宿町立図書館の設置時の蔵書数は何冊でしたか?", "id": "tr-647-09-000", "answers": [ { "text": "200冊弱", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "事務所玄関の左側にあった看板は何だったの?", "id": "tr-647-09-001", "answers": [ { "text": "「指宿町立図書館鹿児島県立図書館貸出文庫指宿出張所」", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1948年の補正予算にいくらを計上したの?", "id": "tr-647-09-002", "answers": [ { "text": "6万円", "answer_start": 388, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1950年(昭和25年)7月29日には開館1周年記念事業を開催した。\n同年9月には今和泉村公民館図書部が発足し、既存の図書をかき集め、村内で巡回文庫を開始した。\n久保田は開館記念日に講演会の講師として現れたり、図書館に人を集めるためのアイディアを提供したりと開館後も指宿町立図書館の支援を続けた。\n特に映画技師が映写機持参で県立図書館から派遣されてきた際には、町民を大いに喜ばせたという。", "qas": [ { "question": "今和泉村公民館図書部が発足したのは何年ですか?", "id": "tr-647-10-000", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1954年(昭和29年)4月1日、揖宿郡指宿町と今和泉村の合併により指宿市が発足し、指宿町立図書館と今和泉村公民館図書部を統合して指宿市立図書館が成立した。\n実際の運用上は今和泉村公民館図書部を指宿町立図書館に統合して市立図書館とし、引き続き改良普及事務所内に設置された。\nただし、この時県立図書館出張所は廃止され、創立1年目は市民に献本を呼びかけて蔵書の充実を目指した。", "qas": [ { "question": "指宿市立図書館は何年に成立したの?", "id": "tr-647-11-000", "answers": [ { "text": "1954年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1955年(昭和30年)4月1日には自治体警察であった指宿町警察署の道場だった建物(十町241番地)に移った。\nこの頃の図書館は県立図書館から移動図書1,000冊と青年文庫50冊を借用し、読書グループの育成を進めていた。\n同年9月6日には「柳和母親読書グループ」が成立し、図書館はグループの育成に努めた。\nこの活動が評価され、翌1956年(昭和31年)2月24日に鹿児島県図書館コンクール努力賞を受賞、9月5日にはNHKの『茶の間の時間』で同グループが紹介された。\nまた10月17日には、同グループが図書館と協力して文集『柳和』を創刊し、1958年(昭和33年)から『文芸いぶすき』に改題し、指宿市全体の文芸作品集へと発展した。", "qas": [ { "question": "「柳和母親読書グループ」が成立したのは何年でしたか?", "id": "tr-647-12-000", "answers": [ { "text": "1955年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『柳和』を創刊したグループは何?", "id": "tr-647-12-001", "answers": [ { "text": "「柳和母親読書グループ」", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『文芸いぶすき』という文集名に変更したのは何年でしたか?", "id": "tr-647-12-002", "answers": [ { "text": "1958年", "answer_start": 269, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "市立図書館は読書グループの育成で優良図書館として1957年(昭和32年)と1958年(昭和33年)に連続で表彰され、1960年(昭和35年)11月22日には東京都立日比谷図書館から職員を招待して読書グループ研究会を開催した。\n県立図書館の久保田館長は読書グループの活動支援も行っており、特に「柳和母親読書グループ」の毎月の会合に鹿児島市から汽車で駆け付け、読書グループの会員は久保田館長の講話を目当てに休まず参加していたという。\n当時、読書をする女性は畑仕事を嫌う者と見なされ、「スロッパ」(怠け者)、「ガッシャサァ」(学者さん)などと呼ばれて冷たい視線を浴びたが、図書館で借りた本を隠れて読み、読書グループでの久保田館長の話を楽しみにして生活していた。\n特に『アルプスの少女ハイジ』は美しい自然と人々の自由の尊さが描かれていたことから、彼女らの心の支えとなっていた。\n読書が怠けているわけでなく、農作業にも役立つものとして住民に受容されたのは、アイリス栽培で現金収入を得て指導的農家になる女性が現れるようになってからであり、この時代から10年先のことであった。", "qas": [ { "question": "優良図書館として2度目の表彰を受けたのは何年ですか?", "id": "tr-647-13-000", "answers": [ { "text": "1958年", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「スロッパ」の意味は?", "id": "tr-647-13-001", "answers": [ { "text": "怠け者", "answer_start": 246, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ガッシャサァ」の意味とは?", "id": "tr-647-13-002", "answers": [ { "text": "学者さん", "answer_start": 260, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "読書をする女性たちの心の支えとなっていた文学作品は何でしたか?", "id": "tr-647-13-003", "answers": [ { "text": "『アルプスの少女ハイジ』", "answer_start": 330, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1961年(昭和36年)5月20日、図書館は敷地内で建物を移動した。\nこの建物は木造平屋建てで床面積は100.65m2であった。\nこの頃、図書館は指宿市民の意識に封建制の名残が認められると指摘し、これを打破するためにも不読者層の開拓を目標とした。\n具体的には女性の読書グループや既に風前の灯火となっていた青年学級参加者、次世代を担う子供を対象に読書普及を推進した。\n当時の蔵書数は9,400冊で、これに県立図書館からの貸出文庫を合わせて10,100冊が館内で利用可能であった。\nなお当時の郷土資料は50冊にすぎず、しかもそのほとんどは南部九州や鹿児島県を対象とした資料で、指宿市に関する図書はごくわずかであった。\n職員は5人で、館長を含む2人が兼務という状態だったが、指宿市今和泉支所に分館を置き、巡回文庫の配本所を27か所設置していた。\n配本所の児童図書は親子20分読書に利用することを前提としたものであった。\n1963年(昭和38年)度の本館の利用者数は11,431人、本館の貸出冊数は11,856冊、延配本冊数は16,850冊、配本所の貸出冊数は17,606冊であった。\n1967年(昭和42年)頃から幼児への読み聞かせ活動が活発化した。", "qas": [ { "question": "貸出冊数が多かったのは、本館と配本所のどちらですか?", "id": "tr-647-14-000", "answers": [ { "text": "配本所", "answer_start": 467, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "数が多かったのは、貸出冊数と延配本冊数のどちらですか?", "id": "tr-647-14-001", "answers": [ { "text": "延配本冊数", "answer_start": 453, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "移動した図書館の床面積は?", "id": "tr-647-14-002", "answers": [ { "text": "100.65m2", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "当時の職員数は何人でしたか?", "id": "tr-647-14-003", "answers": [ { "text": "5人", "answer_start": 310, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1974年(昭和49年)4月、旧指宿市役所別館に移転し、指宿市視聴覚ライブラリーも設置された。\n1975年(昭和50年)から保育園への配本を開始した。\n指宿市視聴覚ライブラリーは1976年(昭和51年)に山川町、開聞町、喜入町、頴娃町から委託を受けて揖宿地区視聴覚ライブラリーに改称し、映画やビデオ、映写機などの視聴覚教材・機材の充実を図った。\n1977年(昭和52年)、指宿市親子読書連絡協議会が発足し、機関誌『ふうりん』も創刊した。\nこの頃の指宿市の読書グループの活動は活発で、18団体1,188人が活動し、たびたび鹿児島県大会で活動について発表している。\n1983年(昭和58年)度の蔵書数は34,855冊、貸出冊数は18,888冊(うち児童への貸し出しが14,201冊)で、利用者数は7,769人(うち幼児・児童が5,081人)であった。", "qas": [ { "question": "1983年度に最も貸出冊数が多かった対象者は誰でしたか?", "id": "tr-647-15-000", "answers": [ { "text": "児童", "answer_start": 322, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1983年度の幼児・児童の利用者数は何人でしたか?", "id": "tr-647-15-001", "answers": [ { "text": "5,081人", "answer_start": 361, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1983年(昭和58年)11月8日、新図書館の建設工事の起工式が挙行され、建築費2億3247万円、外構工事費2680万円をかけて1984年(昭和59年)8月に新館が開館した。\n新館への移転作業は同年7月に行われ、当時盛んであった親子読書会の女性らが手弁当持参で応援に駆け付けた。\n新図書館では、蔵書の充実、利用者との連携強化、レファレンスサービスの充実、公民館図書室や配本所とのネットワーク確立の4つの目標を立てた。\n目標を達成すべく、1984年(昭和59年)より年4回の読書講座を開始し、1985年(昭和60年)には移動図書館「つまべに号」を導入、古典文学講座と絵本・紙芝居の読み聞かせも始まった。\n1988年(昭和63年)3月に59回開催された古典文学講座が終了し、代わって4月から市民講座「い・ぶ・す・きを学ぶ」が開講され、1996年(平成8年)3月まで続いた。", "qas": [ { "question": "新図書館に導入された移動図書館は何?", "id": "tr-647-16-000", "answers": [ { "text": "「つまべに号」", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「い・ぶ・す・きを学ぶ」が最後に開講された年はいつでしたか?", "id": "tr-647-16-001", "answers": [ { "text": "1996年", "answer_start": 365, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "多くの人の熱意によって支えられていた図書館であったが、1990年代頃から図書館は、非専門職の職員が数年置きに入れ替わりで配置される状態が続くようになった。\n司書が派遣されても改革に着手する前に異動を余儀なくされ、購入図書や寄贈図書の一部は整理されることなく、選書は企業に頼り、選書はそれでよかったが除籍はそうもいかず、蔵書数が適正値を大幅に超過していた。\nまた、専門の司書が一人しかないためサービスの提供が難しい状況が続いていた。\n利用者の目線からは、コンピュータによる蔵書管理が導入されていないため、電話による貸出延長ができない、蔵書検索ができない、借りた本をすべて同時に返さなければ新しく本を借りられないなどの不便さがあり、利用者はコンピュータ化された山川町立図書館(現・指宿市立山川図書館)へ流出していた。", "qas": [ { "question": "利用する際の図書館の不便さから、利用者はどこの図書館に流れましたか?", "id": "tr-647-17-000", "answers": [ { "text": "山川町立図書館", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2003年(平成15年)、読み聞かせ活動を再編し「ふれあいおはなし会」に変更、読書週間に「読書まつり」を開催した。\n同年度の蔵書数は101,176冊、貸出冊数は77,019冊で、利用者数は23,752人(うち移動図書館が4,346人)であった。\n1985年から開始された移動図書館車つまべに号は2005年(平成17年)3月、20年間の役目を終えた。\n同年、図書館ボランティアグループ、本と人とをつなぐ「そらまめの会」が発足した。\nそらまめの会はまず、熱意のある当時の司書とともに10年間も貼ったままであった恐竜のイラストを剥がし、館内装飾の制作を始めた。\nそらまめの会の活動以降、減少傾向にあった利用者が徐々に戻り始めた。", "qas": [ { "question": "2003年度の蔵書数は何冊でしたか?", "id": "tr-647-18-000", "answers": [ { "text": "101,176冊", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2003年度の貸出冊数は何冊でしたか?", "id": "tr-647-18-001", "answers": [ { "text": "77,019冊", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2003年度の移動図書館の利用者数は何人でしたか?", "id": "tr-647-18-002", "answers": [ { "text": "4,346人", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "梶井基次郎", "paragraphs": [ { "context": "梶井基次郎は、日本の小説家だ。感覚的なものと知的なものが融合した簡潔な描写と詩情豊かな澄明な文体で20篇余りの小品を残し、文壇に認められてまもなく、31歳の若さで肺結核で没した。\n\n死後次第に評価が高まり、今日では近代日本文学の古典のような位置を占めている。その作品群は心境小説に近く、散策で目にした風景や自らの身辺を題材にした作品が主であるが、日本的自然主義や私小説の影響を受けながらも、感覚的詩人的な側面の強い独自の作品を創り出している。\n\n梶井基次郎は当時のごくふつうの文学青年の例に漏れず、夏目漱石や森鷗外、有島武郎や志賀直哉などの白樺派、大正期デカダンス、西欧の新しい芸術などの影響を受け、表立っては新しさを誇示するものではなかったが、それにもかかわらず、梶井の残した短編群は珠玉の名品と称され、世代や個性の違う数多くの作家たち(井伏鱒二、埴谷雄高、吉行淳之介、伊藤整、武田泰淳、中村光夫、川端康成、吉田健一、三島由紀夫、中村真一郎、福永武彦、安岡章太郎、小島信夫、庄野潤三、開高健など)から、その魅力を語られ賞讃されている。\"", "qas": [ { "question": "梶井基次郎は何歳で亡くなったか。", "id": "tr-648-00-000", "answers": [ { "text": "31歳", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "梶井基次郎の死因は何でしたか。", "id": "tr-648-00-001", "answers": [ { "text": "肺結核", "answer_start": 81, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "梶井基次郎は1901年2月17日、大阪府大阪市西区土佐堀通5丁目34番地屋敷に、父・宗太郎、母・ヒサ(久)の次男として誕生した。両親は2人とも1870年の生まれで当時数え年32歳、共に明治維新後に没落した梶井姓の刀屋の出であった(ヒサは梶井秀吉の養女)。父親を早くに亡くし第三銀行大阪支店の丁稚から苦労してきた宗太郎は、貿易会社の安田運搬所に勤務し、軍需品輸送の仕事に就いていた。\n\nこの安田運搬所の西隣りに一家は住んでいた(中から行き来ができた)。宗太郎はヒサとは再婚で、婿養子であった。ヒサは明治の女子教育を受け、幼稚園の保母として勤めに出ていた。同居家族は他に、祖母・スヱ(宗太郎の母)、祖父・秀吉(ヒサの養父)、5歳上の姉・冨士、2歳上の兄・謙一がいた。\n\n基次郎が誕生した同年9月には、父・宗太郎と芸者・磯村ふくの間に、異母弟にあたる順三が生まれた。日露戦争の特需により安田運搬所は大砲の輸送で潤い、酒色を好む宗太郎は接待などで茶屋に通っては放蕩な日々を過ごしていた。1905年10月、基次郎が4歳の時に一家は大阪市西区江戸堀南通4丁目29番地に転居。翌1906年1月17日に弟・芳雄が生まれた。", "qas": [ { "question": "梶井基次郎はいつ生まれましたか。", "id": "tr-648-01-000", "answers": [ { "text": "1901年2月17日", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宗太郎は何年生まれなの?", "id": "tr-648-01-001", "answers": [ { "text": "1870年", "answer_start": 71, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "基次郎の異母弟である順三は何年に生まれましたか。", "id": "tr-648-01-002", "answers": [ { "text": "1901年", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "基次郎と順三と、誰の方がより先に生まれましたか。", "id": "tr-648-01-003", "answers": [ { "text": "基次郎", "answer_start": 333, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1907年4月、6歳の基次郎は西区の江戸堀尋常小学校に入学した。式の時は袴を着け、平素は紺絣の着流し姿で草履袋と風呂敷包みを持って登校した。同月、母・ヒサは東江幼稚園の保母を辞めて家庭に入った。\n\nしつけに厳しく教育熱心なヒサはオルガンを弾きながら歌い、子供らに和歌の『百人一首』『万葉集』や古典の『源氏物語』『平家物語』『南総里見八犬伝』を読み聞かせ、与謝野晶子や岡本かの子の文学の話をした。基次郎は成人してからも、久野豊彦の『ナターシャ夫人の銀煙管』などを母から勧められたこともあった。\n\n宗太郎は家を顧みず、金も入れないこともあったため、ヒサは子供を道連れに堀川に身を投げ自殺しようと思いつめたこともあった。基次郎は元気な子供で、夏は兄と中之島の水泳道場に通い、川に飛び込んで遊ぶのが好きであったが、1908年1月に急性腎炎に罹り、危うく死にかけた。同月21日には次弟・勇が生まれた。", "qas": [ { "question": "基次郎は何歳の時、江戸堀尋常小学校に入学したか。", "id": "tr-648-02-000", "answers": [ { "text": "6歳", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "基次郎の母・ヒサは何月に東江幼稚園の保母を辞めて家庭に入りましたか。", "id": "tr-648-02-001", "answers": [ { "text": "4月", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "勇は何月に生まれましたか。", "id": "tr-648-02-002", "answers": [ { "text": "1月", "answer_start": 358, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "基次郎は1908年1月にどんな質病で苦しみましたか。", "id": "tr-648-02-003", "answers": [ { "text": "急性腎炎", "answer_start": 361, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1909年12月上旬、父の安田商事合名会社東京本店への転勤に伴い、基次郎一家は祖父・秀吉を残して上京した。品川の旅館・若木屋に数日滞在した後、東京市芝区二本榎西町3番地の狭い借家に転居した。泉岳寺を見下ろす高台の家で、電灯もなくランプで生活していた。\n\n1910年1月、基次郎は兄・謙一と共に、芝白金の私立頌栄尋常小学校へ転入し、紺絣に袴を穿き下駄で通学した。この学校はプロテスタント系の頌栄女学校の付属校で、ハイカラな気風と西欧的な自由主義教育と英語教育がなされ、巖谷小波がアンデルセンなどのお伽話の講話を行っていた。兄弟は当初「大阪っぺ」とからかわれたが、兄が紙ヒコーキを学校に広め、基次郎も兄と一緒に徐々に東京山の手の校風に馴染んでいった。\n\n父・宗太郎は左遷されたという憤懣もあって酒びたりの日々であったが、やがて基次郎の異母弟・網干順三の親子らも上京させ、別宅で養い始めた。そのため梶井家の家計は質屋に通うほど窮迫し、母・ヒサは内職に励み、高等小学校に通う姉・冨士までレース編みの内職で家計を支えた。祖母・スヱの肺結核も進行していた。この年の9月30日に末弟・良吉が生まれた。", "qas": [ { "question": "1909年12月上旬、基次郎一家は誰を残して上京しましたか。", "id": "tr-648-03-000", "answers": [ { "text": "祖父・秀吉", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "基次郎は1910年1月からどの学校に通うことになりましたか。", "id": "tr-648-03-001", "answers": [ { "text": "私立頌栄尋常小学校", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "末弟・良吉は何年生まれですか。", "id": "tr-648-03-002", "answers": [ { "text": "1910年", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1911年5月、再び父が転勤となり、一家は三重県志摩郡鳥羽町1726番地の広い社宅に転居した。社宅は漁船が行来する入江近くの高台にあり、日和山が見えた。安田系の鳥羽造船所の営業部長となった宗太郎は羽振りがよくなり、一家は東京から来た重役の家族として地域の人から敬われた。\n\n漁師の子がみな草履の中、革靴を履いている基次郎は重役の坊ちゃんと呼ばれ、東京の頃と扱いが一変した。基次郎は姉と共に社宅の左隣の鳥羽尋常高等小学校に転入。兄・謙一は三重県立第四中学校に入学して、宇治山田市(現・伊勢市)の寄宿舎生活となった。\n\n基次郎は夏休みで帰省した兄や友だちと海で泳いでサザエを獲ったり、裏山の「おしゃぐりさん」や城跡を駆けめぐったりした。自然に囲まれた環境で健康的な少年の日々を過ごし、最も幸福で充実した日々であった。鳥羽の海の景色は遺稿の断片「海」に描かれている。しかし、兄弟たちは祖母がしゃぶっていた飴玉を貰ってなめたりしたため、やがて5人が初期感染することになる。\n\nこの年、異母弟・順三の母親・磯村ふくが腎臓病で死去し、順三とその養祖母・きくが梶井一家と同居するようになった。翌1912年4月、基次郎は6年生に進級し級長に選ばれた。同月、大阪時代の江戸堀尋常小学校6年生一行150名が鳥羽に卒業記念旅行に来た。基次郎が彼らのいる旅館を訪れると、かつての同級生と先生らは歓迎し、人気者だった基次郎をたちまち取り囲んだ。", "qas": [ { "question": "磯村ふくは何年に亡くなったか。", "id": "tr-648-04-000", "answers": [ { "text": "1911年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "磯村ふくの死因は何ですか。", "id": "tr-648-04-001", "answers": [ { "text": "腎臓病", "answer_start": 453, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1912年4月、基次郎は何年生になりましたか。", "id": "tr-648-04-002", "answers": [ { "text": "6年生", "answer_start": 502, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1913年3月、全甲の優秀な成績で小学校を卒業した基次郎は、4月に兄と同じ三重県立第四中学校へ入学し、宇治山田市一志町にある兄の下宿先に同居した。そこは兄の同級生・杉本郁之助の家で、茶人で郷土史家の杉木普斎宅であった。第四中学では、洋楽に造詣の深い音楽の先生に楽譜の読み方を習い、これが音楽愛好の基礎となった。6月5日、64歳の祖母・スヱが肺結核で死去し、祖父・秀吉は数か月前の2月に大阪で死去した。\n\n9月、鳥羽と宇治山田間の鉄道が開通し、新学期から実家の鳥羽より兄と一緒に汽車通学した。この頃、2人は近所の旧城主の老人に剣道を習っていた。10月、第四中学の懸賞短文で「秋の曙」が3等に入選し、校友会誌『校友』に掲載された。同月中旬、父が大阪の安田鉄工所の書記として転勤し、一家は大阪市北区本庄西権現町1191番地に転居した。基次郎と兄は再び、宇治山田市一志町の下宿から通学するようになった。", "qas": [ { "question": "1913年3月、基次郎はどの学校に入学したか。", "id": "tr-648-05-000", "answers": [ { "text": "三重県立第四中学校", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "祖母・スヱの死因は何だったの?", "id": "tr-648-05-001", "answers": [ { "text": "肺結核", "answer_start": 170, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "祖母・スヱは何歳で亡くなったか。", "id": "tr-648-05-002", "answers": [ { "text": "64歳", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1914年2月、一家は大阪市西区靭南通2丁目35番地の借家に移転した。4月、兄と共に名門の旧制大阪府立北野中学校の学力検定試験を受けて合格し、基次郎は2年生に転入した。学校のある北野芝田町まで30分ほどの道のりを兄と一緒に徒歩通学した。\n\n基次郎は水泳と音楽が好きな少年で、可愛げのある接し方で人気があったが、表面的には比較的大人しく目立たない生徒でもあった。翌1915年8月20日、身体の弱かった9歳の弟・芳雄が脊椎カリエスで死亡した。同月、日本はドイツに宣戦布告し第一次世界大戦に参戦した。安田鉄工所は陸軍・海軍工廠の特別指定を受け、父の仕事は多忙となった。", "qas": [ { "question": "日本がドイツに宣戦布告し第一次世界大戦に参戦したのは何月のことか。", "id": "tr-648-06-000", "answers": [ { "text": "8月", "answer_start": 186, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "芳雄の死因は何だったの?", "id": "tr-648-06-001", "answers": [ { "text": "脊椎カリエス", "answer_start": 207, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "芳雄は何歳で亡くなったか。", "id": "tr-648-06-002", "answers": [ { "text": "9歳", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1916年3月、基次郎は成績上位で3年を修了した。異母弟・順三は高等小学校を終えると、北浜の株屋に奉公に出された。道義心の強い基次郎はこれに同情し、北野中学に退学届を出して中退した。自分も筋向いのメリヤス問屋の丁稚となった(6月からは西道頓堀の岩橋繁男商店の住込み奉公に変わる)。4月に兄は大阪高等工業学校電気科に入学した。\n\n順三は基次郎に気兼ねし長崎に移っていくが、不憫に思った父が順三を家に連れ戻した。この年、祖父・秀吉の遺した金1,000円を元手に、母は父に勧めて自宅を改装し玉突き屋「信濃クラブ」(信濃橋にちなんだ名称)を開業した。店は繁盛した。\n\n1917年(大正6年)2月、基次郎も奉公をやめて家に戻り、母の説得もあって4月から北野中学4年に復学。終生の友となる同級生の宇賀康、畠田敏夫、中出丑三らと親交を持つようになった。彼らの間では基次郎の綽号は「熊」であった。またこの頃、同級で野球部の美少年・桐原真二(遊撃手)に惹かれて同性愛的思慕を持った。この年から兄・謙一は結核性リンパ腺炎で手術を重ねた。\n\n1918年4月、5年生に進級した基次郎も、潜伏していた結核性の病で寝込むようになり、1学期は33日間も欠席した。その時に兄に差し出された森鷗外の『水沫集』(舞姫、うたかたの記、文づかひ、玉を懐いて罪あり、地震を収録)、邦訳『即興詩人』を読んだのをきっかけに、読書傾向が『少年倶楽部』から文学作品に変った。", "qas": [ { "question": "基次郎は誰に同情して北野中学に退学届を出したの?", "id": "tr-648-07-000", "answers": [ { "text": "異母弟・順三", "answer_start": 25, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "玉突き屋「信濃クラブ」は何年に開業しましたか。", "id": "tr-648-07-001", "answers": [ { "text": "1916年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "宇賀康、畠田敏夫、中出丑三らの間で基次郎の綽号は何でしたか。", "id": "tr-648-07-002", "answers": [ { "text": "「熊」", "answer_start": 382, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "兄・謙一はどの質病のせいで手術を受けましたか。", "id": "tr-648-07-003", "answers": [ { "text": "結核性リンパ腺炎", "answer_start": 442, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1919年3月、基次郎は成績中位で大阪府立北野中学校を卒業した。兄も住友電線製造所に4月から入社が決まった。基次郎も兄と同じ電気エンジニアをめざし、第一志望として兄が卒業した大阪高等工業学校電気科を受験するが、不合格となった。\n\nこの頃、父の友人・池田鹿三郎の弟・竹三郎の娘への恋が募り、彼女への想いを友人らに書き送ったり、兄の同級・橋田慶蔵に打ち明けたりした。この頃、手紙の中に夏目漱石の失恋の英詩を写し書きしたりした。\n\n場所も遠く、学費のかかる第三高等学校への受験を母に懇願し承諾を得た基次郎は、猛勉強に励むと同時にますます漱石に傾倒し、兄が買ってきた再版の漱石全集を手にとり『明暗』を夢中で読んでいた。5月に出した友人の手紙には、漱石の『三四郎』の影響から〈Streysheep〉と署名し、6月には〈梶井漱石〉と署名した。", "qas": [ { "question": "基次郎はいつ大阪府立北野中学校を卒業したか。", "id": "tr-648-08-000", "answers": [ { "text": "1919年3月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "基次郎は1920年5月に発熱し、肋膜炎の診断を受けた基次郎は大阪の実家へ帰った。4か月の休学届を出し、6月は病床で小説を読み耽った。7月に落第が決定し、8月初旬から姉夫婦の住む三重県北牟婁郡船津村字上里で転地療養し、熊野にも行った。基次郎は、山里の素朴な自然の生活の中で自身の〈町人根性〉を反省したり、寮歌の作詞をしてみたりした。\n\n9月に、馬車で行った尾鷲市の医者に肺尖カタルと診断され、1年休学するように言われたが、重い病状でなく、鮎獲りやメーテルリンクの『貧者の宝』を読んだりした後に実家に帰った。堂島の回生病院でも肺尖カタルと診断され、母からも学問を諦めるように通告された。納得できない基次郎は友人に〈気楽なことでもして、生活の安固をはかれ、といふ母はふんがいに堪えん〉と訴えた。", "qas": [ { "question": "基次郎は1920年5月何の診断を受けましたか。", "id": "tr-648-09-000", "answers": [ { "text": "肋膜炎", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "基次郎は堂島の回生病院で何と診断されましたか。", "id": "tr-648-09-001", "answers": [ { "text": "肺尖カタル", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "基次郎はリプトンの紅茶を飲むのが習慣であったが、喫茶店で友人と飲む物も、レモンティーやレモンを浮かべたプレーン・ソーダを非常に好んでいた。レモンは日頃から持っていて、中谷孝雄にも「それ食ったらあかんぜ」と手垢にまみれたレモンをあげることもあった。\n\nレモン以外の果物を眺めるのも好きであった基次郎は、湯ヶ島では川端夫人から貰った林檎を夜通し磨いてピカピカにして床の間に飾っていた。その林檎を見つけた三好達治がかじると、基次郎はいきなり無言のまま三好の頭をなぐった。\n\n食べ物も当時としては贅沢な洋食を好むグルメであった。銀座でフランスパンを買い、「カフェー・ライオン」にビフテキを食べに行っていた。実家で静養中も東京暮しの時のように、昼からカツレツなどの肉食、刺身を食べた。食品のブランドにもこだわり、バターは小岩井農場、紅茶はリプトンのグリーン缶と決まっていた。お茶も、淀野隆三から贈られた高価な玉露をどっさりと惜しみなく急須に入れて飲んだ。\n\n日用品にもこだわりを持ち、丸善や鳩居堂で買った文房具やフランス製の高級石鹸、ウビガンのポマード、古道具屋で見つけた水差し、サモワール、コーヒー挽き、オランダ皿、ブライヤーのパイプなどの西洋雑貨を買って楽しんでいた。", "qas": [ { "question": "基次郎はどのブランドの紅茶を飲む習慣がありましたか。", "id": "tr-648-10-000", "answers": [ { "text": "リプトン", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "基次郎はどのブランドのバターにこだわっていたか。", "id": "tr-648-10-001", "answers": [ { "text": "小岩井農場", "answer_start": 355, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "基次郎は「カフェー・ライオン」で何を食べたの?", "id": "tr-648-10-002", "answers": [ { "text": "ビフテキ", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "死の勝利(ブリューゲル)", "paragraphs": [ { "context": "14世紀中頃にヨーロッパ全土を席巻したペストの大流行は、人々の死生観に大きな影響を与えた。有効な治療法もなく、現世のいかなる地位・武力・富も意味を成さず、あらゆる階級の人々が為す術もなく死んでいく社会情勢の中で、「メメント・モリ」の警句が言い習わされるようになった。そして、キリスト教美術における教訓画として「死の舞踏」および「死の勝利」の様式が普及していった。\n\n死の舞踏は、骸骨の姿で擬人化された「死」が生者に語りかけ、やがて老若男女や身分職業を問わずあらゆる人々の手を取り、踊りながら墓地すなわち死の世界へと導いていくという様式である。特にドイツの画家ハンス・ホルバインによる死の舞踏の木版画は著名で、ブリューゲルにも知られていたと思われる。", "qas": [ { "question": "14世紀中頃にヨーロッパ全土を席巻し、人々の死生観に大きな影響を与えた疾病は何ですか。", "id": "tr-649-00-000", "answers": [ { "text": "ペスト", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヨーロッパ全土でペストが大流行したのはいつですか。", "id": "tr-649-00-001", "answers": [ { "text": "14世紀中頃", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "14世紀中頃のヨーロッパに、キリスト教美術における教訓画として「死の舞踏」および「死の勝利」の様式が普及したきっかけとなった疾病は何ですか。", "id": "tr-649-00-002", "answers": [ { "text": "ペスト", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "死の舞踏で、骸骨は何を意味するのですか。", "id": "tr-649-00-003", "answers": [ { "text": "「死」", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一方、死の勝利は、骸骨姿の死があらゆる階級の生者へと襲いかかり、容赦なく蹂躙するという様式で、より恐怖や凄絶さにあふれたものである。このテーマは特にイタリアでフレスコ画として発達し、ピサのドゥオモ広場のカンポサントや、パレルモのスクラファーニ宮殿、クルゾーネの教会などに作例が見られる。ブリューゲルは1552年にフランスのリヨンとスイスを経てイタリア旅行へ出発し、1554年ないし55年にアントウェルペンに帰るまでイタリア各地に滞在したが、このイタリア旅行の間に前述の壁画を始めとしたいずれかの「死の勝利」の作例を目にしていた可能性が高い。\n\nこの「死の舞踏」と「死の勝利」という2つの伝統的様式を融合して描かれたのがブリューゲルの作品である。本作には年記がないが、その世界観は初期フランドル派の先人ヒエロニムス・ボスの影響を受けつつもブリューゲル独自の解釈がなされていることから、近似の作例である『悪女フリート』や『叛逆天使の墜落』に近い1562年頃の制作と推定されている。現在の所蔵館であるプラド美術館には1827年に渡った。", "qas": [ { "question": "死の勝利のフレスコ画が発達した国はどこか。", "id": "tr-649-01-000", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 74, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『悪女フリート』は誰の作品ですか。", "id": "tr-649-01-001", "answers": [ { "text": "ブリューゲル", "answer_start": 368, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "激おこぷんぷん丸", "paragraphs": [ { "context": "激おこぷんぷん丸(げきおこぷんぷんまる、激おこプンプン丸)とは、「激怒している状態」を意味する俗語である。\n2011年頃より存在していた「怒っている」ことを意味するギャル語「おこ」から派生して誕生した言葉であり、「激おこぷんぷん丸」もギャル語、もしくは女子高生言葉として報じられている。", "qas": [ { "question": "「激怒している状態」を意味する俗語とは何?", "id": "tr-650-00-000", "answers": [ { "text": "激おこぷんぷん丸", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "激おこぷんぷん丸は何を意味しているの?", "id": "tr-650-00-001", "answers": [ { "text": "「激怒している状態」", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「おこ」が使われていたのはいつ頃?", "id": "tr-650-00-002", "answers": [ { "text": "2011年頃", "answer_start": 54, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「激おこぷんぷん丸」とは何からの派生語ですか?", "id": "tr-650-00-003", "answers": [ { "text": "「おこ」", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2013年2月頃からミニブログサービスのTwitterにおいて、怒りの感情を表すギャル語「おこ」から派生した「激おこぷんぷん丸」という言葉が頻出するようになっていた。\nその最中、2013年3月2日にTwitter利用者の一人が「ギャルが怒った時に使う言葉」と題し、「おこ」を怒りの度合いに合わせて6段階に発展させたツイートを投稿したことが流行の発端になったとされ、その中の3段階目に該当する「激おこぷんぷん丸」が特に広まるようになった。\n多少の表記ゆれは存在するが、「おこ」の6段階表現は以下の通りである。", "qas": [ { "question": "「激おこぷんぷん丸」が頻出するようになった時期はいつ?", "id": "tr-650-01-000", "answers": [ { "text": "2013年2月頃", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「激おこぷんぷん丸」が頻出するようになったSNSとは?", "id": "tr-650-01-001", "answers": [ { "text": "Twitter", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「激おこぷんぷん丸」は6段階中の何段階目に値しますか?", "id": "tr-650-01-002", "answers": [ { "text": "3段階目", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「おこ」の6段階の種類がTwitterに投稿されたのはいつですか?", "id": "tr-650-01-003", "answers": [ { "text": "2013年3月2日", "answer_start": 89, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "これらの表現は「ギャル語怒りの6段活用」などと称して報じられ、3段階目の「激おこぷんぷん丸」は2013年のユーキャン新語・流行語大賞にノミネートされた。\n一部では「8段」ないし「15段活用」まで存在するとも報じられているほか、末尾の「丸」を外して「激おこプンプン」として用いられることもある。\nまた、顔文字と共に使用されることが多いとされている。\n「激おこぷんぷん丸」からの派生として、悲しい時を「ガチしょんぼり沈殿丸(ちんでんまる)」、眠い時を「激ネムスヤスヤ丸」、嬉しい時を「まじるんるん御機嫌丸」などと呼称するとの報道もある。", "qas": [ { "question": "「激おこぷんぷん丸」が候補に挙がった賞とは?", "id": "tr-650-02-000", "answers": [ { "text": "ユーキャン新語・流行語大賞", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「激おこぷんぷん丸」は、一部では最大何段活用までありますか?", "id": "tr-650-02-001", "answers": [ { "text": "「15段活用」", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「激おこぷんぷん丸」がユーキャン新語・流行語大賞の候補に挙がったのは何年ですか?", "id": "tr-650-02-002", "answers": [ { "text": "2013年", "answer_start": 47, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「激おこぷんぷん丸」から派生した、眠い時の呼称とは何ですか?", "id": "tr-650-02-003", "answers": [ { "text": "「激ネムスヤスヤ丸」", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "読売新聞では、「カム着火インフェルノォォォォオオウ」について、「come」と「着火」、およびロシア連邦の火山帯である「カムチャツカ半島」を掛けたものと報じ「ちょっと知的」であるとした上で、「明らかに表記されることを意識している言葉」と論じている。\n北海道新聞では、「激おこぷんぷん丸」について「若者言葉における感情表現で代表的なもの」と報じている。\nまた、梅花女子大学教授の米川明彦は、北海道新聞の同記事において、感情を表すフレーズが多く流行する点について「自分の思いを丁寧に説明し、周囲に理解してもらおうと努力することを『煩わしい』と敬遠する態度が伺える」と分析している。", "qas": [ { "question": "「カム着火インフェルノォォォォオオウ」の言葉に掛かっている英単語とは何?", "id": "tr-650-03-000", "answers": [ { "text": "「come」", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「カム着火インフェルノォォォォオオウ」の言葉に掛かっている地名とは何?", "id": "tr-650-03-001", "answers": [ { "text": "「カムチャツカ半島」", "answer_start": 58, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "米川明彦は何大学の教授ですか?", "id": "tr-650-03-002", "answers": [ { "text": "梅花女子大学", "answer_start": 178, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「激おこぷんぷん丸」を「若者言葉における感情表現で代表的なもの」と報じた新聞社はどこですか?", "id": "tr-650-03-003", "answers": [ { "text": "北海道新聞", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "「激おこぷんぷん丸」という剽軽な言葉の響きからか「逆に怒りが収まる」などという意見も聞かれ、日経プラスワンでは前述した「6段活用」の表現も含めて「こんなに長いフレーズ。思い出しているうちに怒りも収まる?」と論じているほか、西日本新聞のコラムでは「激怒と言うより楽しげに見えるが、そこは感性の違いか」と論じられている。\nまた、朝日新聞では「『激おこぷんぷん丸』という笑いを誘うような言葉を向けられると、不思議に怒りが収まる」という趣旨の投書が掲載されていた。\nJ-CASTニュースでは「インターネット上では広まっているが、本当にギャルの間で使われているのかと言えば、それは違うようだ」と報じており、後述するギャル向けウェブサイト「GRP(ギャル・リサーチ・プレス)」の編集長が語ったところによれば、「『イラおこ』は使うが、『激おこ』は使わない」としている。\nファッションモデルの益若つばさも同様に「使ったことがない」としており、「代わりに『イラおこプン』などを使っていた」と述べている。", "qas": [ { "question": "「GRP」の編集長が使う「おこ」の種類とは何?", "id": "tr-650-04-000", "answers": [ { "text": "『イラおこ』", "answer_start": 349, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "益若つばさの職業は何?", "id": "tr-650-04-001", "answers": [ { "text": "ファッションモデル", "answer_start": 378, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "益若つばさは「激おこぷんぷん丸」の代わりに何を使っていましたか?", "id": "tr-650-04-002", "answers": [ { "text": "『イラおこプン』", "answer_start": 418, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "コラムニストの小田嶋隆は、毎日新聞の記事およびフジテレビの自己批評番組『新・週刊フジテレビ批評』において2013年に誕生した流行語の多くを批判しているが、「激おこぷんぷん丸」は「合点承知之助」の子孫であると述べた上で、「言葉を人名風に変化させるのは江戸時代から続く伝統的な言葉遊び。これは楽しい」「実は伝統に乗っている素晴らしい必然性を備えた言葉」として肯定的に評価している。\n國學院大學教授の山西治男は、現代用語の基礎知識(2014年版)において「かつてのライオン丸、近くはおじゃる丸などの影響だろうか、2013年は精神状態を『○○丸』などと表現するのが目立った」と論じている。", "qas": [ { "question": "「激おこぷんぷん丸」は「合点承知之助」の子孫だと述べた人は誰ですか?", "id": "tr-650-05-000", "answers": [ { "text": "小田嶋隆", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic 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"岐阜大学教授の洞澤伸は、中日新聞の記事において「『おこ』という言葉には怒りを和らげる効果がある」と指摘しており、「『おこ』という可愛らしい表現を用いることによって喧嘩になるのを避ける戦略になっている」と分析している。\nまた、「とても寒かった」を「めちゃ『おこ』寒かった」などと表現するように、言葉の強調に用いられる場合もあると述べている。\nマーケティング評論家の牛窪恵は、女性セブンの記事において、適切な感情表現ができない人が増加している背景にSNSの普及があるとした上で「激おこぷんぷん丸」は時代を非常に象徴した言葉であると評価し、「『凄く怒っている』と素直に表現してしまうと『楽しい雰囲気なのに空気が読めない』と指摘され角が立ってしまうから、敢えて怒りの感情を茶化して『ネタ』にしている。SNSは周囲と同調しなければいけないツールなので、感情を押し込める必要がある」と論じている。", "qas": [ { "question": "洞澤伸はどこの大学の教授ですか?", "id": "tr-650-06-000", "answers": [ { "text": "岐阜大学", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "牛窪恵の職業は何?", "id": "tr-650-06-001", "answers": [ { "text": "マーケティング評論家", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "エッセイストの能町みね子は、週刊文春にて連載されていたコラム「言葉尻とらえ隊」において、「個人的にここしばらく若者語は不作だったと思う」とした上で「激おこぷんぷん丸」は久しぶりに活きの良い、若者らしい流行語であり「チョベリバ」以来久々のヒットの予感と述べており、お上が流行らせたようなイメージのある「KY」、流行語というより常用語として定着しそうな気配のある「ディスる」、インパクトは強いが使いどころがない「あげぽよ」と比較して「『ムカつく』と同じ意味なので誰でも使いやすい」「リズミカルな響きは耳に残る」「何より本当に流行っていることが信じられないほどインパクトのあるダサさ」を特徴として肯定的に評価している。\nそして「時代を彩る若者の流行語は、聞いた瞬間に異様なインパクトが必要。珍妙な響きで一気に流行り、しばらくして皆が我に返って一気にダサく感じるものこそ流行語である」とした上で、「『激おこぷんぷん丸』よ、流行語として笑われながら消費しつくされあっという間に消えてなくなってください!時代の徒花として刹那的に輝け!」と述べている。", "qas": [ { "question": "「言葉尻とらえ隊」の筆者は誰ですか?", "id": "tr-650-07-000", "answers": [ { "text": "能町みね子", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「激おこぷんぷん丸」を肯定的評価したエッセイストとは誰ですか?", "id": "tr-650-07-001", "answers": [ { "text": "能町みね子", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「言葉尻とらえ隊」が連載されている雑誌は何ですか?", "id": "tr-650-07-002", "answers": [ { "text": "週刊文春", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "言語学者の金田一秀穂は、小学館の雑誌サライのコラム「巷のにほん語」において「激おこぷんぷん丸」に言及し、「激おこぷんぷん丸」の「丸」はそれまでの怒りの表現をすべて穏やかな笑いに変え、「ムカ着火ファイヤー」の「着火」は怒りを冗談ごととして処置させると述べている。\nまた、金田一が学生を対象に流行語について調査したところ「『激おこぷんぷん丸』は流行語として認められているが、実際に使うことはない」という形容矛盾的な結果が得られた点を挙げ、同様に「ギャルの流行語として取り上げられたが実際にはほとんど使われていなかった」とされる「チョベリバ」との類似性を指摘し、「激おこぷんぷん丸」と「チョベリバ」は「実際に使用される言葉」ではなく「その時代の若者全体を象徴する言葉」として存在するものなのだろうと分析している。\nさらに、「チョベリバ」は「単純な否定的言辞」であるのに対し、「激おこぷんぷん丸」は「ナンセンスを強く匂わせて、退廃的で刹那的な印象を与える」「『ウケる』ことを狙って怒りの表明は無効になっている」点を指摘し、「どこかしら戦前のエログロナンセンスを想起させるところがあり、世情の反映、歴史の繰り返しがあるように思えて、おじさんをちょっぴり不安にさせてしまうのだ」とも述べている。", "qas": [ { "question": "金田一秀穂の職業は何ですか?", "id": "tr-650-08-000", "answers": [ { "text": "言語学者", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「巷のにほん語」の筆者は誰?", "id": "tr-650-08-001", "answers": [ { "text": "金田一秀穂", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「巷のにほん語」の掲載雑誌は何?", "id": "tr-650-08-002", "answers": [ { "text": "サライ", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "金田一秀穂が述べた「激おこぷんぷん丸」と類似性のある流行語とは何ですか?", "id": "tr-650-08-003", "answers": [ { "text": "「チョベリバ」", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "インターネット関連企業のクルーズが運営するウェブサイト「GRP(ギャル・リサーチ・プレス)」において、2013年に開催された「GRPAWARD2013」の「ギャル流行語トップ10」では2位であった。\nNTTコムオンライン・マーケティング・ソリューションが実施した「この発想はなかった...と感心した2013年のギャル語」のアンケートでは1位であった。\nサイバーエージェントが運営していた女子中高生向けSNS「Candy」において実施された「2013年に自分の周囲で流行っていた“言葉”」のアンケートでは3位であった。\n未来検索ブラジル主催の「ネット流行語大賞2013」では銀賞であった。", "qas": [ { "question": "「ギャル流行語トップ10」と「この発想はなかった...と感心した2013年のギャル語」のアンケートでは、「激おこぷんぷん丸」の順位が低かったのはどちらでしたか?", "id": "tr-650-09-000", "answers": [ { "text": "「ギャル流行語トップ10」", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「ネット流行語大賞2013」の主催者はどこですか?", "id": "tr-650-09-001", "answers": [ { "text": "未来検索ブラジル", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「この発想はなかった...と感心した2013年のギャル語」のアンケートを実施したのはどこですか?", "id": "tr-650-09-002", "answers": [ { "text": "NTTコムオンライン・マーケティング・ソリューション", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「この発想はなかった...と感心した2013年のギャル語」と「2013年に自分の周囲で流行っていた“言葉”」の両アンケート中、「激おこぷんぷん丸」の順位が良かったのはどちらのアンケートですか?", "id": "tr-650-09-003", "answers": [ { "text": "「この発想はなかった...と感心した2013年のギャル語」", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ビッグデータの分析を行うホットリンクの調査によれば、Twitterにて2013年に投稿された若者言葉の出現数ランキングトップ10のうち、1位の「激おこぷんぷん丸」を筆頭として、6位を除いた1位から10位までの9個が「おこ」もしくは「激おこぷんぷん丸」から派生した単語で独占されたとしている。\n同調査によれば、「激おこぷんぷん丸」が流行語としての地位を確立するようになったきっかけとして、フジテレビの情報番組『めざましテレビ』(2013年4月4日放送回)および『めざにゅ〜』(2013年4月5日放送回)の番組内において「進化するギャル語」の一つとして取り上げられた点を挙げているほか、「激おこぷんぷん丸」の元になった「おこ」という言葉が初めてTwitterに投稿された日を2011年1月17日であると分析している。", "qas": [ { "question": "Twitterの2013年に投稿された若者言葉の出現数ランキングトップ10で1位だった言葉は何ですか?", "id": "tr-650-10-000", "answers": [ { "text": "「激おこぷんぷん丸」", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「激おこぷんぷん丸」を紹介した情報番組とは?", "id": "tr-650-10-001", "answers": [ { "text": "『めざましテレビ』", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『めざましテレビ』はどこの局の番組ですか?", "id": "tr-650-10-002", "answers": [ { "text": "フジテレビ", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "トライバルメディアハウスの調査によれば、「2013ユーキャン新語・流行語大賞」ノミネート候補の中で注目度の高かった7語(「今でしょ」「じぇじぇじぇ」「倍返し」「アベノミクス」「フライングゲット」「お・も・て・な・し」「激おこぷんぷん丸」)のうち、2013年1月から11月までの期間にTwitterへ投稿された言葉で最も多かったものは「今でしょ」(約360万件)であり、2番目が「激おこぷんぷん丸」(約330万件)であったとしている。\n同調査では、「今でしょ」は幅広い年代の男性が投稿する傾向が高く、「激おこぷんぷん丸」は10代の女性が投稿する傾向が高いと分析している。", "qas": [ { "question": "2013年1月から11月までの期間にTwitterへ投稿された言葉で2番目に多かったものとは?", "id": "tr-650-11-000", "answers": [ { "text": "「激おこぷんぷん丸」", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2013年1月から11月までの期間にTwitterへ投稿された言葉で最も多かったものとは?", "id": "tr-650-11-001", "answers": [ { "text": "「今でしょ」", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「今でしょ」の次に投稿数が多かった言葉とは何?", "id": "tr-650-11-002", "answers": [ { "text": "「激おこぷんぷん丸」", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「激おこぷんぷん丸」をよく投稿した年齢層は?", "id": "tr-650-11-003", "answers": [ { "text": "10代", "answer_start": 260, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アクトゼロの調査によれば、Twitterにて2013年1月から11月までの期間に日本語を中心として投稿されたデータの10%をサンプリングした中で、「2013ユーキャン新語・流行語」ノミネート候補であった50語の出現率ランキングを作成したところ、「激おこぷんぷん丸」は8位にランクインしたとしている。\n同調査では、「激おこぷんぷん丸」は10代で最も利用傾向の高いワードであったと分析している。\nチェンジフィールドが2015年に実施したアンケートによれば、「インターネット上で使われる表現で目にするとイライラするもの」に対する回答で、最も多かった言葉は男女共に「激おこぷんぷん丸」であった(男性35%、女性43%)。\nまた、「インターネット上で使われる表現で見たことがあるもの」に対する回答では男性34.2%で7位、女性50.4%で6位(「ディスる」と同率)であった。", "qas": [ { "question": "2015年のアンケートでは、男性と女性はどちらの方が「激おこぷんぷん丸」をより多く使用しましたか?", "id": "tr-650-12-000", "answers": [ { "text": "女性", "answer_start": 299, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「インターネット上で使われる表現で見たことがあるもの」に対する回答で、男性と女性はどちらの方が順位が高かったですか?", "id": "tr-650-12-001", "answers": [ { "text": "女性", "answer_start": 356, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "バイドゥが2019年にキーボードアプリ「Simeji」の10代女性利用者を対象として実施した「もう使いたくない若者言葉・略語」のアンケート調査によれば、「激おこぷんぷん丸」は6位にランクインしている。\nLINEリサーチが2020年に実施した流行語に関する意識調査によれば、「10代が普段使っている流行語」に「激おこぷんぷん丸」はランクインせず、「以前に流行っていた言葉で印象的だった流行語」の年代別傾向として、30代回答に「激おこぷんぷん丸」が取り上げられている。", "qas": [ { "question": "2019年の「もう使いたくない若者言葉・略語」のアンケート調査で「激おこぷんぷん丸」は何位にランクインしましたか?", "id": "tr-650-13-000", "answers": [ { "text": "6位", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「Simeji」はどこの会社が開発しましたか?", "id": "tr-650-13-001", "answers": [ { "text": "バイドゥ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「もう使いたくない若者言葉・略語」のアンケート調査で「激おこぷんぷん丸」が6位にランクインしたのは何年?", "id": "tr-650-13-002", "answers": [ { "text": "2019年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "インターネット上では「激おこぷんぷん丸」を「ファミコンのゲーム名みたい」であるとする声が聞かれ、実際にゲームアプリ、BGM、攻略本の表紙デザイン、ファミコンカセットのパッケージデザイン、架空のテレビアニメのオープニングなどを創作する者も現れた。\nファミコンとの関連性を誘発するようになった要因として、「激おこぷんぷん丸」という言葉にキャラクター名や作品名を連想させるような印象があったことから「明確な『元ネタ』があるのではないか」という議論がインターネット上でなされており、その最中に「激おこぷんぷん丸は1985年に発売されたファミコンソフトである」とする架空の情報がタイトル画面と共にTwitterに投稿されたことを発端として、このようなBGMや攻略本などを創作するブームに発展したとする報道もある。\nこのブームの初期にBGMとして公開された曲の中には、実際にゲームミュージックの音楽家である並木学、サカモト教授、高西圭が制作したものがある。\n高西圭に拠れば、実際に1985年くらいを想定し当時の楽器音源をプラグインで導入して制作したとも、ファミコン初期のメモリ容量を考慮してBGMを制作したともコメントしている。", "qas": [ { "question": "Twitterに投稿された「激おこぷんぷん丸」に関するデマの情報では、何年に発売されたファミコンソフトだとされていましたか?", "id": "tr-650-14-000", "answers": [ { "text": "1985年", "answer_start": 252, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "並木学は何の分野での音楽家ですか?", "id": "tr-650-14-001", "answers": [ { "text": "ゲームミュージック", "answer_start": 381, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "エドヴァルド・ムンク", "paragraphs": [ { "context": "ムンクは1863年、ノルウェーのロイテンで医師の父のもとに生まれ、間もなく首都クリスチャニアに移った。1868年に母が病気で亡くなり、1877年には姉が亡くなるという不幸に見舞われ、後の絵画作品に影響を与えている。1880年、王立絵画学校に入学し、1883年頃から、画家クリスチャン・クローグや作家ハンス・イェーゲルを中心とするボヘミアン・グループとの交際を始めるとともに、展覧会への出品を始めたが、作品への評価は厳しかった。1889年から1892年にかけて、ノルウェー政府の奨学金を得てパリに留学した。この頃、「これからは、息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描く」という「サン=クルー宣言」を書き残している。フランス滞在中に、印象派、ポスト印象派、ナビ派など、最先端の芸術に触れ、技法を学んだ。", "qas": [ { "question": "ムンクは何年に生まれた?", "id": "tr-651-00-000", "answers": [ { "text": "1863年", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムンクの父の職業は何でしたか。", "id": "tr-651-00-001", "answers": [ { "text": "医師", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムンクの母はいつ亡くなったか。", "id": "tr-651-00-002", "answers": [ { "text": "1868年", "answer_start": 51, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ムンクの母と姉と、先に亡くなったのは誰なの?", "id": "tr-651-00-003", "answers": [ { "text": "母", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ムンクは1892年、ノルウェーに帰国してから、「生命のフリーズ」という、テーマを持った連作の構想を固め始めた。この年、ベルリン芸術家協会の招きにより個展を開いたが、これが新聞に激しく攻撃され、1週間で打ち切りとなるというスキャンダルになってしまった。その後もベルリンに住み、北欧の芸術家らと親交を深めながら『叫び』、『マドンナ』、『思春期』といった代表作を次々生み出していき、これが「生命のフリーズ」を構成する作品となった。1896年にはパリに移り住み、版画の制作などに注力した。1897年からはノルウェー海沿いの村オースゴールストランを一つの拠点とし、イタリア、ドイツ、フランスの各地と行き来しながら、「生命のフリーズ」を完結する作品を制作していった。この頃にムンクはトゥラ・ラーセンという女性と交際していたが、徐々に彼女を避けるようになっていた。ノルウェーでの評価の行き詰まりから、1902年からはドイツを中心に活動したが、この年、ラーセンと口論の末、暴発したピストルで手にけがを負うという事件があった。1903年頃からは友人のマックス・リンデのための連作を制作したり、イプセンの舞台装置の下絵を書いたりした。1908年、コペンハーゲンの精神病院に入院し、療養生活を送った。この時にはノルウェー政府から勲章を与えられたり、国立美術館がムンクの作品を購入したりして、ムンクの評価は決定的になっていた。1909年に退院するとノルウェーに戻り、クリスチャニア大学講堂の壁画や労働者シリーズを手がけた。1916年からはオスロ郊外のエーケリーに住み、制作を続けていたが1944年に亡くなった。", "qas": [ { "question": "ムンクは「生命のフリーズ」という連作の構想を固め始めた時、どの国にいたの?", "id": "tr-651-01-000", "answers": [ { "text": "ノルウェー", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1896年、ムンクはどこに移り住んだの?", "id": "tr-651-01-001", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 219, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ムンクは1902年から、どこを中心に活動した?", "id": "tr-651-01-002", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 401, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ムンクは何年に亡くなったか。", "id": "tr-651-01-003", "answers": [ { "text": "1944年", "answer_start": 681, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ムンクが代表作の多くを制作した1890年代のヨーロッパは世紀末芸術と呼ばれる時代であり、同時代の画家たちと同様、リアリズムを離れ、人間の心の神秘の追求に向かった。『叫び』に代表される作品には、説明し難い不安が通底しているが、ムンクが鋭敏な感受性をもって、人間の心の闇の世界を表現したものといえる。\n\n作品の多くはムンク美術館等の美術館に収蔵されている。その中でも、『叫び』は世界的に抜群の知名度を誇り、複数バージョンのうち個人所蔵のパステル画が、2012年にオークションで手数料込み1億1990万ドルで落札されたことは、大きなニュースとなった。", "qas": [ { "question": "ムンクの『叫び』は2012年のオークションでいくらで落札されたの?", "id": "tr-651-02-000", "answers": [ { "text": "1億1990万ドル", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "エドヴァルド・ムンクは1863年12月12日、ノルウェーのヘードマルク県ロイテンに生まれた。父クリスティアン・ムンクは医者であり、1843年から船医、1849年からは陸軍軍医を務めノルウェー各地の駐屯地を転々としていたが、1861年にラウラ・カトリーネ・ビョルスタと出逢い間もなく結婚した。2人の間にはエドヴァルドの前に長女ヨハンネ・ソフィーエが生まれていた。エドヴァルドが生まれた直後の1864年早々、一家はクリスチャニアに移り住んだ。ここで次男ペーテル・アンドレアース、次女ラウラ・カトリーネが生まれた。しかし母ラウラ・カトリーネが結核に冒され、いったん持ちこたえて三女インゲル・マリーエを産んだものの1868年12月29日に亡くなった。以後、母の妹カーレン・ビョルスタがムンク家の世話をすることになった。", "qas": [ { "question": "ムンクはいつ生まれたの?", "id": "tr-651-03-000", "answers": [ { "text": "1863年12月12日", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムンクはどこで生まれたの?", "id": "tr-651-03-001", "answers": [ { "text": "ノルウェーのヘードマルク県ロイテン", "answer_start": 23, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムンクの父の職業は何?", "id": "tr-651-03-002", "answers": [ { "text": "医者", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エドヴァルド・ムンクとヨハンネ・ソフィーエと、先に生まれたのは誰?", "id": "tr-651-03-003", "answers": [ { "text": "ヨハンネ・ソフィーエ", "answer_start": 162, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1875年、ムンク一家はクリスチャニア市内のグリューネル・ルッケン地区に引っ越した。しかしその後、ムンクは慢性気管支炎を患った。ムンクの手記によれば1876年末頃、彼は血を吐き結核だと思い自分の死が近いことを覚悟した。さらに姉のヨハンネ・ソフィーエが結核に感染し、1877年11月15日に15歳で亡くなった。ムンクにとって姉は、きょうだいの中でも特別で、亡き母に代わって愛情を注いでくれる存在であったため衝撃は大きかった。こうして身近に「死」を実感したことが後のムンクの芸術に生涯影響を与え続け、特に『病室での死』『病める子』といったムンクの初期の諸作品では直接のモチーフになっている。\n\nムンクは通っていた学校を1879年に中退している。この頃から画家になりたいという希望を持っていたが父の反対に遭い、技師になるためクリスチャニア工業学校に通うことになった。しかしムンクはリューマチ熱のため欠席が続き1880年11月8日に退学した。その日、ムンクは日記に「僕の運命は今や――まさに画家になることだ」と書いている。", "qas": [ { "question": "ムンク一家はいつクリスチャニア市内のグリューネル・ルッケン地区に引っ越したか。", "id": "tr-651-04-000", "answers": [ { "text": "1875年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨハンネ・ソフィーエは何に感染して亡くなったか。", "id": "tr-651-04-001", "answers": [ { "text": "結核", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨハンネ・ソフィーエは何歳に亡くなったの?", "id": "tr-651-04-002", "answers": [ { "text": "15歳", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムンクはいつ、クリスチャニア工業学校を退学したか。", "id": "tr-651-04-003", "answers": [ { "text": "1880年11月8日", "answer_start": 401, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ムンクは父を説得し、同年12月16日、ノルウェー王立絵画学校の夜間コースに入学した。1881年8月にフリーハンド・クラス、1882年夏頃にモデル・クラスに編入した。ムンクはこの学校で健康を取り戻し、教官の彫刻家ユーリウス・ミッデルトゥーンの指導を受けた。また、同年初め頃、友人6名とともにカール・ヨハン通りの国会広場に面して建つ「プルトステン」ビルの屋根裏にアトリエを借り、そこで画家クリスチャン・クローグの指導を受けた。ムンクは後に「私を彼の弟子の一人とみなすのはどうしても無理がある。......とはいえ、私たちはみなクローグを非常に好ましく思い、また立派な画家と考えていた。」と書いている。\n\n同年(1882年)夏、ヘードマルク県に滞在し、同年秋にはクリスチャニア西郊をスケッチして回った。1883年秋、親類の画家フリッツ・タウロウが主催するモードゥム野外アカデミーに参加して制作や討論を行った。これがきっかけで、クリスチャニア・ボヘミアンという当時の前衛作家・芸術家のグループと交際するようになる。この年、彼は産業及び芸術展覧会に油絵『習作・若い女の頭部』、第2回秋季展に『ストーブに火をつける少女』を出品した。さらに、1884年の秋季展に『朝(ベッドの端に腰掛ける少女)』を出品したが、ノルウェー国内では酷評された。", "qas": [ { "question": "ムンクは何年にモデル・クラスに編入したの?", "id": "tr-651-05-000", "answers": [ { "text": "1882年", "answer_start": 61, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ムンクは何年にフリッツ・タウロウが主催するモードゥム野外アカデミーに参加した?", "id": "tr-651-05-001", "answers": [ { "text": "1883年", "answer_start": 348, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ムンクは何年、産業及び芸術展覧会に油絵『習作・若い女の頭部』、第2回秋季展に『ストーブに火をつける少女』を出品した?", "id": "tr-651-05-002", "answers": [ { "text": "1883年", "answer_start": 348, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『朝(ベッドの端に腰掛ける少女)』、『習作・若い女の頭部』、『ストーブに火をつける少女』のうち、最も出品が遅かった作品はどれか。", "id": "tr-651-05-003", "answers": [ { "text": "『朝(ベッドの端に腰掛ける少女)』", "answer_start": 524, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "一方、フリッツ・タウロウはムンクの才能を認めており、ムンクにパリのサロンを見学する機会を提供したいと同年(1884年)3月、父クリスティアンに支援を申し出ている。ムンクの病気のためパリ行きはいったん延期されたものの、1885年5月に友人の画家エイヨルフ・ソートとともにパリに向かった。そこでサロンとルーヴル美術館に通い詰め、エドゥアール・マネの多くの作品に接して、色彩の表現や、画面の中の一点を強調する技法を学んだ。他方、サロンで尊敬を集めているアカデミズム絵画のブグローについては「ブルジョア連中の関心を引いていたにすぎない」と切り捨てている。この年の秋季展には『画家カール・イェンセン=イェル像』を出品したがこれも酷評された。\n\n同年(1885年)4月、ムンク一家はスカウ広場に面した建物に移った。ムンクはここで『春』『思春期』『病める子』『その翌朝』を描いた。亡くなった母や姉を重ね合わせた『病める子』は1年近くかけて描き上げたもので、1886年の秋季展に出展したが、これも保守系日刊紙『モルゲンブラーデ』から「当然必要な下塗りさえしていない」「近づけば近づくほど、何が何やら分からなくなり、しまいには雑多な色の斑点だけになってしまう」と書かれるなど激しく攻撃された。ムンクは後に『病める子』について、新しい道を切り開いた作品だと位置付けつつ「ノルウェーではこれほどスキャンダルを巻き起こした絵はない」と自ら記し、展覧会初日の会場で、哄笑や非難の声が聞こえてきたことを振り返っている。唯一クリスチャン・クローグだけは『病める子』を弁護してくれて、ムンクはこの絵をクローグに贈った。\n\nこの頃、クリスチャニア・ボヘミアンのリーダー格であるアナーキスト作家のハンス・イェーゲルと知り合った。伝統的なキリスト教的道徳に公然と異を唱え、自由恋愛主義を訴えるイェーゲルに、当時のクリスチャニアの若者たちが熱狂したのと同様、ムンクもその信奉者となった。ムンクにとってボヘミアン時代は、霊感と活気を与えてくれる時代であったが、同時に独断主義的なボヘミアンのメンバーに対して「反吐の出そうな馬鹿者」と嫌悪感を表してもいる。また、ムンクは1885年から数年間、人妻ミリー・タウロウとの禁じられた恋愛に陥り、苦しい思いをした。", "qas": [ { "question": "1885年5月、パリに行った時、ムンクは誰と同行したか。", "id": "tr-651-06-000", "answers": [ { "text": "エイヨルフ・ソート", "answer_start": 121, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ルーヴル美術館はどの都市に位置しているか。", "id": "tr-651-06-001", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 90, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ムンクはどの作品に対して「ノルウェーではこれほどスキャンダルを巻き起こした絵はない」と記したか。", "id": "tr-651-06-002", "answers": [ { "text": "『病める子』", "answer_start": 543, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムンクの『病める子』に対して、唯一に肯定的な反応をしたのは誰?", "id": "tr-651-06-003", "answers": [ { "text": "クリスチャン・クローグ", "answer_start": 647, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "同年(1889年)10月、ムンクに1500クローネの政府奨学金が与えられた。それと同時にパリで1年間デッサンを学ぶことを命じられ、ムンクはパリに赴いた。ところがその年の12月に突然、父クリスティアンが亡くなったことが叔母カーレンから伝えられ衝撃を受けた。ムンクはその直後、パリ郊外のサン=クルーに移ってデンマークの詩人エマヌエル・ゴルスタインと同居した。1890年にゴルスタインをモデルにして描いた『サン=クルーの夜』には孤独と不安が表れている。この頃、エドヴァルドは手帳に次のような走り書きを残しており、後の「生命のフリーズ」の構想の端緒となったものとして「サン=クルー宣言」と呼ばれている。", "qas": [ { "question": "1889年10月、ムンクは政府奨学金いくらをもらったか。", "id": "tr-651-07-000", "answers": [ { "text": "1500クローネ", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『サン=クルーの夜』のモデルは誰?", "id": "tr-651-07-001", "answers": [ { "text": "ゴルスタイン", "answer_start": 183, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『サン=クルーの夜』は何年の作品か。", "id": "tr-651-07-002", "answers": [ { "text": "1890年", "answer_start": 177, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『サン=クルーの夜』は誰の作品なの?", "id": "tr-651-07-003", "answers": [ { "text": "ムンク", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1890年、ムンクは秋季展に作品を提出し2回目の政府奨学金が認められて11月にパリへ向かった。しかし、航海中にリューマチ熱を発してル・アーヴルで下船し、2か月間入院した。\n\n1891年1月に退院すると、パリ、更に温暖な南仏ニースを訪れ「思っていたよりもはるかに美しい街です」と友人に書き送っている。夏の間、オースゴールストランに戻ったが、この時にクリスチャン・クローグの妻オーダ・クローグから誘惑を受け、クローグ夫妻とオーダ・クローグの愛人ヤッペ・ニルセンをめぐる複雑な恋愛関係に巻き込まれた。ムンクはこの人間関係を『メランコリー』に描き秋季展に提出した。ムンクは3回目の奨学金を期待したが、病気で創作活動を十分行えていないムンクが奨学金を受給することを批判する論説が新聞に載った。その冬はニースを再訪して南仏で過ごした。しかしこの頃、妹ラウラが精神病を悪化させて入院したこともあって、ムンクは精神的に追い詰められてカジノで奨学金を浪費してしまった。\n\nムンクはこうしてフランスに滞在している間に、印象派の画家たち、特にクロード・モネとカミーユ・ピサロから大きな影響を受けた。それに加えてエミール・ベルナール、エドゥアール・ヴュイヤール、フェリックス・ヴァロットン、フィンセント・ファン・ゴッホ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなどの作品から技法を学んだ。『カール・ヨハンの春の日』(1890年)『ラファイエット街』(1891年)など、印象派の影響を受けた点描風の油絵作品も多い。一方、当初デッサンを学ぶために師事したレオン・ボナとは、色彩の使い方について相容れず対立した。", "qas": [ { "question": "1890年ムンクがもらった政府奨学金は何回目だった?", "id": "tr-651-08-000", "answers": [ { "text": "2回目", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オーダ・クローグの夫は誰?", "id": "tr-651-08-001", "answers": [ { "text": "クリスチャン・クローグ", "answer_start": 173, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ムンクはクローグ夫妻とオーダ・クローグの愛人ヤッペ・ニルセンをめぐる複雑な恋愛関係に巻き込まれたことをどの作品を通して表現したか。", "id": "tr-651-08-002", "answers": [ { "text": "『メランコリー』", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『カール・ヨハンの春の日』と『ラファイエット街』と、より早い時期に描かれたのはどっち?", "id": "tr-651-08-003", "answers": [ { "text": "『カール・ヨハンの春の日』(1890年)", "answer_start": 581, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1894年、スタニスワフ・プシビシェフスキがムンクに関する最初の本を出版した。ユリウス・マイヤー=グラーフェ、フランツ・セルヴェース、ヴィリー・パストールとの共著である。4人の友人によるムンクの評論として、信頼性を持った資料となっている。\n\n1895年3月、ムンクはベルリンのウンター・デン・リンデン通りの画廊でアクセリ・ガッレン=カッレラとの共同展覧会を開いた。6月、美術評論家ユリウス・マイヤー=グラーフェがベルリンでムンクのエッチング作品集を出版し、これがムンクの最初の画集となった。また、同年10月クリスチャニアのカール・ヨハン通りのブロムクヴィスト画廊(ノルウェー語版)で大規模な作品展が開催され、『マドンナ』『手』『灰』『嫉妬』など、ベルリン時代に制作した「生命のフリーズ」の重要な作品が展示された。この時、国立美術館は『煙草を持つ自画像』の購入を決定した。劇作家のヘンリック・イプセンもこの展覧会を訪れ、後輩であるムンクに「僕を信じたまえ。敵が多ければ多いほど、味方も多いものだ。」と言って激励した。他方で、学生会館ではムンクの精神状態を論じる公開討論会が開かれ、批判派は「ムンクの絵は狂人のもの」と論じた。\n\n家族の中では、医者になっていた弟のペーテル・アンドレアースが1895年12月半ばに肺炎で亡くなり、また妹ラウラ・カトリーネも精神病で入院を続けていた。こうした不幸は改めてムンクに死と生の不安を呼び起こした。1895年に描かれた作品は、『死の床』など不吉なものばかりである。ムンクはドイツで展覧会を数多く開き、名前は知られるようになっていったが絵はほとんど売れず、ムンクや家族の生活は経済的にも厳しかった。", "qas": [ { "question": "ムンクに関する最初の本を出版したのは誰?", "id": "tr-651-09-000", "answers": [ { "text": "スタニスワフ・プシビシェフスキ", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムンクの弟であるペーテル・アンドレアースはいつ亡くなりましたか。", "id": "tr-651-09-001", "answers": [ { "text": "1895年12月半ば", "answer_start": 543, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ムンクの弟であるペーテル・アンドレアースの死亡原因は何?", "id": "tr-651-09-002", "answers": [ { "text": "肺炎", "answer_start": 554, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムンクの妹ラウラ・カトリーネはどんな病気で入院を続けていたか。", "id": "tr-651-09-003", "answers": [ { "text": "精神病", "answer_start": 575, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ムンクはパリで、ステファヌ・マラルメ邸で行われる「火曜会」に呼ばれ、パリの画家や文学者らと知り合った。また、パリに移っていたストリンドベリと再会した。ストリンドベリはアール・ヌーヴォー展でムンクに好意的な寄稿を書いたが、オカルトや錬金術にのめりこんだストリンドベリは、ムンクが刺客だと思い込むようになって連絡を断ち、2人の友人関係は終わった。\n\nムンクはこの時期に版画の技術をますます完成させ、シャルル・ボードレールの詩集『悪の華』のために挿絵を描いたりした。版画の利点は売りやすいことと、我が子のように思う絵画を手放さなくてよいことであった。ムンクはアトリエを大きな版画工房のそばに移し、職人から版画の技法を学んだ。版画のテーマの多くは旧作の油絵に基づくものであり、新たな油絵の創作はされなかった。\n\n1897年のアンデパンダン展に出品したが評価はやはり賛否両論で、絵は一向に売れずムンクはパリを去ることにした。", "qas": [ { "question": "「火曜会」はどこで行われたか。", "id": "tr-651-10-000", "answers": [ { "text": "ステファヌ・マラルメ邸", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ムンクは1897年7月、オースゴールストランにサマー・ハウスを買い、油絵の制作を再開した。クリスチャニアには、友人の画家アルフレッド・ハウゲとともにアトリエを共同で借りた。同年9月、クリスチャニアのカール・ヨハン通り、ディオラマ館で個展を開き、油絵85点、リトグラフ30点、木版9点、エッチング25点、亜鉛板5点、デッサンとスケッチ30点という大規模な展示を行った。この頃にはクリスチャニアの新聞でも好意的な批評が現れるようになってきた。\n\n1898年、トゥラ・ラーセンという女性と出会い交際を始めた。1899年4月、トゥラとともに北イタリアからローマに旅をし、ラファエロの作品に感銘を受けた。この旅に触発されて生涯唯一の宗教画『ゴルゴタ』を描いている。", "qas": [ { "question": "ムンクの生涯唯一の宗教画のタイトルは?", "id": "tr-651-11-000", "answers": [ { "text": "『ゴルゴタ』", "answer_start": 314, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ムンクが1898年、出会い交際を始めた女性は誰?", "id": "tr-651-11-001", "answers": [ { "text": "トゥラ・ラーセン", "answer_start": 227, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ムンクは何年にディオラマ館で個展を開き、油絵85点、リトグラフ30点、木版9点、エッチング25点、亜鉛板5点、デッサンとスケッチ30点という大規模な展示を行ったか。", "id": "tr-651-11-002", "answers": [ { "text": "1897年", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "それ以降、ムンクはイタリア、ドイツ、フランスと、オースゴールストランとを行き来しながら『赤い蔦』『メランコリー/ラウラ』『生命の踊り』といった作品を制作し、「生命のフリーズ」の終結に向かった。『生命の踊り』の左と右の女性はトゥラ・ラーセン、中央の女性はミリー・タウロウがモデルであると言われる。1900年にはドレスデンやクリスチャニアのディオラマ館で展覧会を開いた。1901年の夏はオースゴールストランで過ごし、9月にクリスチャニアで72点の展覧会を開き、11月にはベルリンに移り住んだ。1902年には、ベルリン分離派展で22点の作品で構成される「生命のフリーズ」を展示した。なお、この頃はまだ「生命のフリーズ」という言葉は使っていなかったが、ベルリン分離派展で「フリーズ:生のイメージの連作の展示」というタイトルを付けており、「フリーズ」という言葉により、単なる連作ではなく一つの装飾プロジェクトであるという意思を明らかにしたといえる。\n\nこの頃トゥラが結婚を迫るのに対し、ムンクは次第にトゥラを避けるようになっていった。トゥラはストーカーのようにムンクを追いかけ回したり、ムンクに対し訴訟を起こしたりし、ムンクのアトリエを訪れては制作を妨げた。", "qas": [ { "question": "『赤い蔦』は誰が制作したの?", "id": "tr-651-12-000", "answers": [ { "text": "ムンク", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『生命の踊り』の中央の女性は誰がモデルだと言われているか。", "id": "tr-651-12-001", "answers": [ { "text": "ミリー・タウロウ", "answer_start": 126, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トゥラとムンクと、誰の方が結婚に対してもっと熱意を持っているの?", "id": "tr-651-12-002", "answers": [ { "text": "トゥラ", "answer_start": 424, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ムンクは何年にベルリン分離派展で22点の作品で構成される「生命のフリーズ」を展示したか。", "id": "tr-651-12-003", "answers": [ { "text": "1902年", "answer_start": 244, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ノルウェーで評価を得られずに行き詰まったムンクは、再びベルリンにアトリエを構えて活動するようになった。この頃、ベルリン分離派のマックス・リーバーマンがムンクを支援してくれるようになり、その勧めにより1902年の分離派展に作品22展を出品した。後に「生命のフリーズ」と呼ばれる作品群が完全な形をとったのはこの時であった。この展示は大成功を収め、ムンクは日記に「あの悲惨な時代は終わった」と書いている。実業家アルベルト・コルマンからの支援も受けるようになった。さらにコルマンの紹介で、リューベックの眼科医で美術愛好家のマックス・リンデと交友するようになり、リンデの子供部屋に飾るための絵の依頼を受けて制作に取りかかった。\n\nムンクは同年夏、オースゴールストランに戻った。ある日、トゥラ・ラーセンの女友達がムンクに、トゥラが自殺を図っていると言ってトゥラと会うことを求め、ムンクはそれに応じた。この時、トゥラとムンクとの間でどのようなやり取りがあったのか詳しいことは明らかではないが、小競り合いのうちにピストルが発射され、ムンクは左手中指の第2関節を撃ち砕くけがを負うという事件が起こった。この時の中指に弾丸が刺さった様子を写したレントゲン写真が残っている。この事件で2人の関係は破局し、ムンクは1909年になっても友人のヤッペ・ニルセンに手の痛みを訴えつつ、「彼女の卑劣な行為が僕の人生を滅茶苦茶にしたんだ。」と罵っている。", "qas": [ { "question": "ムンクは1902年の分離派展に作品何展を出品したか。", "id": "tr-651-13-000", "answers": [ { "text": "22展", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムンクは1902年夏、どこに戻りましたか。", "id": "tr-651-13-001", "answers": [ { "text": "オースゴールストラン", "answer_start": 318, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1903年1月ベルリンで個展を開き、同年4月にはパリのアンデパンダン展に何点かの新作を出品し好評を得た。ムンクはこの年、イギリスの女流ヴァイオリニスト、エヴァ・ムドッチを知り、彼女を愛するようになった。彼女をモデルに『ブローチをつけた婦人』といった優れたリトグラフ作品を残している。他方でこの頃、酒に酔って人とけんか騒ぎをすることが度々あり、ムンク自身も自分の精神状態に不安を覚えるようになっていた。\n\nムンクはリンデの依頼に応じた制作を再開し、1903年にエッチング集『リンデ博士の家庭から』を完成させ、同じ年に次いで油絵『リンデ博士の4人の息子』を制作した。これらの一連の作品は「リンデ・フリーズ」と呼ばれ1904年末に全作品が完成した。もっともリンデは子供部屋にはふさわしくないと考えたためか、その引取りを拒否したが、2人の交友関係はその後も続いた。", "qas": [ { "question": "『リンデ博士の家庭から』は何年に完成されたか。", "id": "tr-651-14-000", "answers": [ { "text": "1903年", "answer_start": 223, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『リンデ博士の4人の息子』は何年に制作されたか。", "id": "tr-651-14-001", "answers": [ { "text": "1903年", "answer_start": 223, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "彼女をモデルに『ブローチをつけた婦人』は誰をモデルにして制作されたか。", "id": "tr-651-14-002", "answers": [ { "text": "エヴァ・ムドッチ", "answer_start": 76, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "第三次イタリア戦争", "paragraphs": [ { "context": "第三次イタリア戦争、または四年戦争(英語:FourYears'War)は、イタリア戦争の一部である。フランス王フランソワ1世とその同盟国ヴェネツィア共和国が神聖ローマ皇帝カール5世、イングランド王ヘンリー8世、教皇国家と戦い、最終的には敗北した。この戦争は、カール5世が1519年に神聖ローマ皇帝に選出されたことと、ローマ教皇レオ10世がマルティン・ルターに対抗するためにカール5世と同盟したことに起因する。", "qas": [ { "question": "第三次イタリア戦争は、他に何とも呼ばれるの?", "id": "tr-652-00-000", "answers": [ { "text": "四年戦争", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第三次イタリア戦争とは、フランスとヴェネツィア共和国が、神聖ローマ帝国、教皇国家、そしてどの国と戦い、敗戦した戦争でありますか?", "id": "tr-652-00-001", "answers": [ { "text": "イングランド", "answer_start": 91, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1521年、フランス軍がナバラ王国とネーデルラントに侵攻したことで戦争が勃発した。ピレネー山脈を越えて進軍してきたフランス軍はスペイン軍に撃退され、神聖ローマ帝国軍はフランス北部に逆侵攻したがそこで足止めされた。", "qas": [ { "question": "フランス軍を撃退したのは、どの国の軍だったか?", "id": "tr-652-01-000", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 63, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "教皇、皇帝、そしてヘンリー8世はすぐさまに対フランス同盟を結成、イタリア半島での戦いを再開させたが、フランソワ1世とカール5世は主戦場をフランス北東部とみなしたため、イタリアでの戦いはほとんど重きをなさなかった。1522年4月27日のビコッカの戦いで皇帝軍と教皇軍がフランス軍に勝利したことで、フランスはロンバルディアから追い出された。戦場が再びフランス本土に移動した一方、ヴェネツィアはドージェが交代したため単独講和した。イングランドは1523年にフランスを攻撃、同年相続権争いでフランソワ1世を見限ったブルボン公シャルル3世がフランソワ1世を裏切り皇帝と同盟した。フランスは翌年ロンバルディアを再度侵攻したがまたもや失敗、ブルボン公にスペイン軍を率いてプロヴァンスに侵攻する機会を与えた。", "qas": [ { "question": "教皇、神聖ローマ皇帝と同盟を結成し、フランスに対抗しようとしたのは、どの国の王なの?", "id": "tr-652-02-000", "answers": [ { "text": "イングランド", "answer_start": 212, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランスがロンバルディアから追い出されたのは、どの戦いで敗れたからでありますか?", "id": "tr-652-02-001", "answers": [ { "text": "ビコッカの戦い", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イングランドがフランスを攻撃したのは、何年のことか?", "id": "tr-652-02-002", "answers": [ { "text": "1523年", "answer_start": 219, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランソワ1世を裏切り、神聖ローマ皇帝と同盟を締結したのは、誰か?", "id": "tr-652-02-003", "answers": [ { "text": "シャルル3世", "answer_start": 258, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ここにきてフランソワ1世は親征を決行、1525年にミラノを攻撃した。しかし、パヴィアの戦いで大敗して捕虜になったことで戦争は終結を迎えた。フランスは講和を模索しなければならなかったが、フランソワはスペインで囚われていたため、彼の母ルイーズ・ド・サヴォワが外交を主導した。彼女はオスマン帝国のスレイマン1世の宮廷へ使節団を派遣、スレイマン1世に神聖ローマ帝国への最後通牒を出させた。これは後のフランス・オスマン同盟の素地となった。スレイマン1世はこの機会に乗じて1526年の夏にハンガリー王国を侵攻、モハーチの戦いでカール5世の同盟者ラヨシュ2世を戦死させた。こうした外交努力と背後からの一撃にもかかわらず、フランソワ1世はマドリード条約への署名を余儀なくされ、イタリア、フランドル、ブルゴーニュ公国を全て放棄した。しかし、フランソワ1世は解放されるや条約の履行を拒否して戦争を再開した。マドリード条約以降の戦いはコニャック同盟戦争と呼ばれる。イタリア戦争はこの後30年間続くが、最終的にはフランスのイタリア占領の野望は潰えることになる。", "qas": [ { "question": "フランソワ1世は何年にミラノを攻撃したの?", "id": "tr-652-03-000", "answers": [ { "text": "1525年", "answer_start": 19, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パヴィアの戦いで大敗したのは、誰の勢力ですか?", "id": "tr-652-03-001", "answers": [ { "text": "フランソワ1世", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "後にフランス・オスマン同盟が結成されるインフラを構築したのは、誰か?", "id": "tr-652-03-002", "answers": [ { "text": "ルイーズ・ド・サヴォワ", "answer_start": 115, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オスマン帝国がハンガリー王国に侵攻したのは、いつのことか?", "id": "tr-652-03-003", "answers": [ { "text": "1526年の夏", "answer_start": 230, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1515年9月のマリニャーノの戦いはカンブレー同盟戦争を終息へと向かわせたが、その平和は1518年までには崩れ始めた。当時の西欧大国(フランス、イングランド、スペイン、神聖ローマ帝国)はロンドン条約で相互不可侵と軍事同盟を約するなど、表面上は友好的だったが、神聖ローマ帝国の継承では意見が合わなかった。神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世はハプスブルク家の世襲体制を確固にすべく、孫のスペイン王カルロス1世(後の皇帝カール5世)を次期の皇帝に推した一方、フランス王フランソワ1世は自らを推した。しかし、両者ともそれぞれの事情があった。宗教改革の創始者マルティン・ルターが帝国貴族の間で影響力を増しつつあるため、教皇と神聖ローマ帝国は対応に追われた。イングランドが起用したウルジー枢機卿は大陸ヨーロッパでの紛争に介入する野心的な外交政策を断行して、イングランドと自分の影響力を増大させようとしたため、フランソワ1世の障害となっていた。", "qas": [ { "question": "カンブレー同盟戦争を終息へと向かわせた戦闘とは、いつに行われた戦闘なの?", "id": "tr-652-04-000", "answers": [ { "text": "1515年9月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "神聖ローマ皇帝の孫は、どの国の王でありましたか?", "id": "tr-652-04-001", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 190, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時の西欧大国の間で結ばれた、軍事同盟を約する相互不可侵条約は、何か?", "id": "tr-652-04-002", "answers": [ { "text": "ロンドン条約", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時の神聖ローマ皇帝は、何家の者だったか?", "id": "tr-652-04-003", "answers": [ { "text": "ハプスブルク家", "answer_start": 168, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "マクシミリアン1世が1519年に亡くなったことで、皇帝選挙がヨーロッパ政治の表舞台に出た。教皇レオ10世はカール5世の権力が強すぎることを恐れてフランソワ1世を支持したが、カール5世の選出を阻止し得ないことがわかると、フランソワ1世を見捨ててカール5世支持にのりかえた。選帝侯たちはザクセン選帝侯フリードリヒ3世を除いて全員がハプスブルク家とヴァロワ家の候補の両方への支持を表明した。というのも、マクシミリアン1世は生前、選帝侯たちに「カールに投票する代わりに50万フローリンを払う」という約束をし、フランソワは300万フローリンの支払いを確約、さらにカールは支持を得るためにフッガー家から大金を借入、支払い金額を釣り上げたためである。この賄賂には教皇も参加しており、レオ10世はマインツ大司教に教皇使節の位を約束している。しかし、選挙の行方を決めたのは賄賂ではなかった。民衆たちのフランス人皇帝への反感は強く、選帝侯は決められずにいたが、カールが兵隊を選挙地フランクフルトの近くへ向かわせると、選帝侯たちは意を決してカールに投票した。彼は1520年10月23日に戴冠したが、その時点ではすでにスペイン王位とネーデルラントでのブルゴーニュ公国領地を影響下に収めていた。", "qas": [ { "question": "教皇レオ10世は、もともと誰を皇帝に即位させようとしていたの?", "id": "tr-652-05-000", "answers": [ { "text": "フランソワ1世", "answer_start": 72, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カールはハプスブルク家出身であるが、それでは、フランソワは何家の者ですか?", "id": "tr-652-05-001", "answers": [ { "text": "ヴァロワ家", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1520年10月23日の時点で神聖ローマ皇帝とスペイン王位、そしてネーデルラントでのブルゴーニュ公国領地を影響下に収めることになったのは、誰か?", "id": "tr-652-05-002", "answers": [ { "text": "カール", "answer_start": 420, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "なかなか一人の候補だけを支持することが難しかった選帝侯たちが、全員カールに投票するようになった決定的な理由とは、カールが何を選挙地の近くへ向かわせたことであるか?", "id": "tr-652-05-003", "answers": [ { "text": "兵隊", "answer_start": 424, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イングランドでは外交を担当するウルジー枢機卿がヘンリー8世の大陸への影響力を増すべく、イングランド王国がフランソワ1世とカール5世の間の調停者になることを申し出た。その第一歩としてヘンリー8世とフランソワ1世が金襴の陣で会見し、その直後にカレーでウルジー枢機卿がカール5世をもてなした。この二つの会見の後の1521年12月にレオ10世が急死したため、ウルジー枢機卿はコンクラーヴェの準備としてカレーで仲裁会議を開催し、自分の名声をあげようとした。しかし、翌年4月まで続いた会議は、なんらの成果ももたらさなかった。", "qas": [ { "question": "当時のイングランドの外交を担当していた者の名前は、何?", "id": "tr-652-06-000", "answers": [ { "text": "ウルジー", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時のイングランド王国の国王は、誰でしたか?", "id": "tr-652-06-001", "answers": [ { "text": "ヘンリー8世", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヘンリー8世はフランソワ1世とどこで会見したか?", "id": "tr-652-06-002", "answers": [ { "text": "金襴の陣", "answer_start": 105, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランソワ1世とカール5世のうち、ヘンリー8世との会見の時期がより遅かったのは、誰か?", "id": "tr-652-06-003", "answers": [ { "text": "カール5世", "answer_start": 131, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1520年12月、フランスは戦争の準備をはじめた。しかし、ヘンリー8世は平和を破る者への介入を宣言したため、フランソワ1世は公的にはカール5世を直接攻撃できなかった。その代わり、彼はドイツとスペイン領への先制攻撃を支援した。まず、ロベール3世・ド・ラ・マルクがムーズ川沿岸を攻撃、同時にフランスとその同盟者であるナバラ王の連合軍がサン=ジャン=ピエ=ド=ポルを占拠、続いて(このときスペインに占領されていた)ナバラ王国全土に侵攻した。この侵攻は名目的には18歳のナバラ王アンリ・ダルブレが率いたが、実際に軍を指揮したのはアンドレ・ド・フォワであり、資金と装備はフランスが提供した。フランスの計画はすぐに破たんした。ムーズ川の攻撃はネーデルラント総督のブレダ伯ハインリヒ3世に撃退され、ド・フォワはパンプローナを占領したものの1521年6月30日のノアインの戦いで敗北してナバラからの撤退を余儀なくされた。", "qas": [ { "question": "1520年12月、フランスは、誰への攻撃の準備を始めたの?", "id": "tr-652-07-000", "answers": [ { "text": "カール5世", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ブレダ伯ハインリヒ3世により撃退されたのは、誰の率いる部隊でしたか?", "id": "tr-652-07-001", "answers": [ { "text": "ロベール3世・ド・ラ・マルク", "answer_start": 115, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ド・フォワは、どの戦闘で敗れたことで、ナバラから撤退したか?", "id": "tr-652-07-002", "answers": [ { "text": "ノアインの戦い", "answer_start": 373, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ナバラ王国への侵攻を実質的に指揮したのは、誰か?", "id": "tr-652-07-003", "answers": [ { "text": "アンドレ・ド・フォワ", "answer_start": 260, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一方の皇帝カール5世は1521年3月のヴォルムス帝国議会でマルティン・ルターを対処することに忙殺されていた。皇帝は宗教改革により帝国が解体することを恐れ、教皇レオ10世もルターが教皇の権威を否定したことにより決別、二人は手を組むことを決めた。フランツ・フォン・ジッキンゲンとザクセン選帝侯フリードリヒ3世を後ろ盾とするルターに対し、皇帝と教皇大使のジロラモ・アレアンドロは1521年5月25日にヴォルムス勅令を発布、ルターをローマ教会から破門するとともに帝国アハト刑に処した。皇帝はさらに当時フランスに占領されていたパルマとピアチェンツァをメディチ家に、ミラノ公国をスフォルツァ家に返還することを教皇に約束した。レオ10世は宗教改革に対抗するうえで帝国の支持が必要だったため、フランスをロンバルディアから追い出す手伝いに同意、これによりフランソワ1世のイタリアにおける同盟国はヴェネツィア共和国のみとなる。", "qas": [ { "question": "皇帝と教皇の共同の敵となったのは、誰なの?", "id": "tr-652-08-000", "answers": [ { "text": "マルティン・ルター", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "皇帝は、何により帝国が解体されることを恐れていましたか?", "id": "tr-652-08-001", "answers": [ { "text": "宗教改革", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マルティン・ルターにローマ教会からの破門と法益剥奪刑が下されたのは、どの勅令によることか?", "id": "tr-652-08-002", "answers": [ { "text": "ヴォルムス勅令", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "皇帝と教皇が手を組んだことにより、フランスの同盟国は、どの国が唯一となったか?", "id": "tr-652-08-003", "answers": [ { "text": "ヴェネツィア共和国", "answer_start": 388, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "6月、ブレダ伯ハインリヒ3世率いる皇帝軍はフランス北部に侵攻して、アルドルやムーゾンを破壊しトゥルネーを包囲、陥落させた。しかし、快進撃を続けた帝国軍はメジエール包囲戦でピエール・テライユとアンヌ・ド・モンモランシーの抵抗を受けて失敗、進軍が停止してしまった。フランソワ1世はすぐ軍を集めて反撃、1521年10月22日にヴァランシエンヌでカール5世自ら率いる帝国軍の主力と会戦した。ブルボン公シャルル3世の度重なる要請にもかかわらずフランソワは攻撃を躊躇い、カール5世に撤退の時間を与えた。フランソワがついに攻撃を命令したときには雨が激しくなって有効な攻撃ができず、帝国軍は戦闘を回避して戦場から離脱した。そのすぐ後、ボニヴェ領主ギヨーム・グッフィエとギーズ公クロード率いるフランスとナバラ王国の連合軍はビダソア川河口部の戦略的要所フエンテラビーアを包囲・陥落させ、その後の2年間スペイン北部に脅威を与え続けた。", "qas": [ { "question": "6月にフランス北部に侵攻した軍の指揮者は、誰だったの?", "id": "tr-652-09-000", "answers": [ { "text": "ハインリヒ3世", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "快進撃を続けた帝国軍が敗れたのは、どの戦いでですか?", "id": "tr-652-09-001", "answers": [ { "text": "メジエール包囲戦", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メジエール包囲戦で帝国軍の進撃を止めたのは、ピエール・テライユと誰か?", "id": "tr-652-09-002", "answers": [ { "text": "アンヌ・ド・モンモランシー", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1521年10月22日にフランス軍が帝国軍と戦った場所は、どこか?", "id": "tr-652-09-003", "answers": [ { "text": "ヴァランシエンヌ", "answer_start": 160, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "11月ごろにはフランスの状況は大分厳しくなっていた。カール5世、イングランド王ヘンリー8世、教皇レオ10世は11月28日に対フランソワ同盟を結成した。フランスのミラノ代官であるロートレック伯爵は帝国軍と教皇軍からミラノを守備する任務についていたが、衆寡敵せずプロスペロ・コロンナに敗れ、11月末にはミラノから追い出されアッダ川沿いまで追い詰められた。そこでスイス傭兵の増援を受けたが、支払えるお金のないロートレックは傭兵の要求を聞き入れてすぐに帝国軍との戦闘を開始した。1522年4月27日、ロートレックはコロンナ率いる帝国軍と教皇軍をミラノ近くのビコッカで攻撃した(ビコッカの戦い)。ロートレックの計画はフランス軍に優勢のある大砲で攻撃して優勢を徐々に拡大する、というものだったが、血気盛んなスイス傭兵がすぐ攻勢に出てスペインの火縄銃部隊を攻撃したのでやむを得ず大砲での攻撃を取りやめた。しかし、傭兵はペスカーラ侯爵フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァロス率いるスペイン軍とゲオルク・フォン・フルンツベルク率いるランツクネヒトに散々にやられてしまった。敗れた傭兵は出身のカントンに戻り、傭兵を失ったロートレックは防衛するだけの兵隊すら不足してロンバルディを諦めた。対抗する軍勢がいなくなったイタリアではコロンナとダヴァロスがジェノヴァを包囲、5月30日に降伏させた。", "qas": [ { "question": "対フランソワ同盟が結成されたのは、いつ?", "id": "tr-652-10-000", "answers": [ { "text": "11月28日", "answer_start": 54, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "対フランソワ同盟は、皇帝と教皇、そしてどの国の間で結成されましたか?", "id": "tr-652-10-001", "answers": [ { "text": "イングランド", "answer_start": 32, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビコッカでの戦いは、いつ行われたか?", "id": "tr-652-10-002", "answers": [ { "text": "1522年4月27日", "answer_start": 235, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペイン軍の指揮官は、誰だったか?", "id": "tr-652-10-003", "answers": [ { "text": "フェルナンド・フランチェスコ・ダヴァロス", "answer_start": 409, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ロートレックの敗北を見たイングランドは介入を決めた。1522年5月末、イングランドの大使はフランソワ1世に最後通牒をつきつけた。通牒には「スコットランド貴族の第2代オールバニ公爵ジョン・ステュアートの支持」などフランスに対する数々の非難が記されていた。フランソワ1世は疑いを全て否認した。ヘンリー8世は続いて6月26日にカール5世とウィンザー条約を締結、双方が少なくとも4万人の兵士を供出してフランスを攻撃することを確約した。カールはさらにイングランドがフランスに反旗を翻すことにより失われる年金の補償と昔の借金の返済に同意した。また同盟の証としてヘンリーの一人娘メアリーとの結婚に同意した。7月、イングランド軍はカレーから出撃してピカルディとブルターニュを攻撃、資金難で反撃に打って出ることのできないフランソワを尻目に略奪して回った。", "qas": [ { "question": "フランソワ1世にイングランドからの最後通牒が送られたのは、いつなの?", "id": "tr-652-11-000", "answers": [ { "text": "1522年5月末", "answer_start": 26, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ウィンザー条約が結ばれたのは、いつですか?", "id": "tr-652-11-001", "answers": [ { "text": "6月26日", "answer_start": 154, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "7月に出撃したイングランド軍は、ピカルディとどこに向かったか?", "id": "tr-652-11-002", "answers": [ { "text": "ブルターニュ", "answer_start": 322, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヘンリには、何人の娘がいたか?", "id": "tr-652-11-003", "answers": [ { "text": "一人", "answer_start": 279, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フランソワは資金集めにさまざまな方法を試したが、ブルボン公シャルル3世との争いを一番効果的と狙った。シャルル3世はブルボン女公シュザンヌとの結婚によりブルボン公位を得たが、シュザンヌは1521年に死去した。シュザンヌの従姉でフランソワ1世の母であるルイーズ・ド・サヴォワは血統上の優位により相続権を主張した。フランソワはブルボン公領を得られれば財政立て直しが一気に進むので母の主張を支持、ブルボン公の所領を没収した。シャルルは憤激し、王を見限ってカール5世に接近した。", "qas": [ { "question": "シャルル3世は、誰との結婚からブルボン公位を得たの?", "id": "tr-652-12-000", "answers": [ { "text": "シュザンヌ", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "シャルル3世の妻が死んだのは、何年のことですか?", "id": "tr-652-12-001", "answers": [ { "text": "1521年", "answer_start": 92, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フランソワ1世は、誰がブルボン公位の相続権において血統上の優位にあることを口実に、シャルル3世を追い詰めたか?", "id": "tr-652-12-002", "answers": [ { "text": "ルイーズ・ド・サヴォワ", "answer_start": 124, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1523年、フランスにとっての戦況は最悪であった。ヴェネツィアのドージェですでに88歳と高齢だったアントニオ・グリマーニが死去、新たに選出されたアンドレア・グリッティはカンブレー同盟戦争を戦った経験から神聖ローマ帝国とフランスのどちらにも与しないことを決めた。彼は就任してすぐカール5世との講和にとりかかり、二か月後の7月29日にヴォルムス条約を締結してヴェネツィアを戦争から離脱させた。フランスではシャルル3世がカール5世と陰謀の計画を進め、反乱を起こす代わりに資金援助と援軍派遣を約束させた。しかし陰謀は10月に発覚し、フランソワ1世はシャルル3世をリヨンに召喚した。シャルルは病を称してブザンソンに逃亡した。激怒したフランソワはシャルルの同調者を全て処刑するよう命じたが、当のシャルルの捕縛には失敗し、シャルルはカール5世側につくと公的に宣言した。", "qas": [ { "question": "就任してすぐカール5世との講和にとりかかった、ヴェネツィアの指導者は、誰ですか?", "id": "tr-652-13-000", "answers": [ { "text": "アンドレア・グリッティ", "answer_start": 72, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヴォルムス条約は、アンドレア・グリッティの就任から何か月たった時点で成立したか?", "id": "tr-652-13-001", "answers": [ { "text": "二か月", "answer_start": 154, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "埴輪挂甲武人", "paragraphs": [ { "context": "埴輪挂甲武人は、東京国立博物館が所蔵する甲冑をまとい武装した6世紀代の人物形象埴輪である。古墳時代の埴輪として初めて国宝に指定されたものであり、2020年9月30日に綿貫観音山古墳出土埴輪群が国宝となるまでは、唯一の国宝埴輪であった。\n\n『埴輪挂甲武人』は東京国立博物館での展示資料名であり、国宝指定名称は『埴輪武装男子立像』である。『挂甲の武人』となる場合もあり、「武装人物埴輪」または「武人埴輪」とも呼ばれる。\n\n群馬県太田市飯塚町の長良神社境内で出土した。出土状況など詳細は不明だが、1952年5月29日付で東京国立博物館が個人所有者から購入したという。また、破片の接合や欠損部への石膏の補填は博物館が購入する前に行われていたようで、同年以後の修理記録は存在しなかった。1958年2月8日付で重要文化財に指定、1974年6月8日付で国宝に指定された。その後、修理箇所が経年劣化してきたことから、2017年から2019年までの2年間、バンク・オブ・アメリカ・メリルリンチの文化財保護プロジェクトから助成金を受けて解体修理が行われた。古墳時代後期の武器・武具が巧みに表現されており、当時の東国武人の武装のようすを知ることができる貴重な考古資料である。", "qas": [ { "question": "古墳時代の埴輪として初めて国宝に指定されたものは何ですか。", "id": "tr-653-00-000", "answers": [ { "text": "埴輪挂甲武人", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『埴輪挂甲武人』の国宝指定名称は何ですか。", "id": "tr-653-00-001", "answers": [ { "text": "『埴輪武装男子立像』", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『埴輪武装男子立像』はいつ東京国立博物館に購入されたか。", "id": "tr-653-00-002", "answers": [ { "text": "1952年5月29日", "answer_start": 245, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『埴輪挂甲武人』はいつ国宝に指定されたか。", "id": "tr-653-00-003", "answers": [ { "text": "1974年6月8日", "answer_start": 358, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『埴輪挂甲武人』は甲冑に身を固め、大刀と弓矢をもち、完全武装した人物を表した全身立像である。像高は130.5センチメートル、最大幅39.5センチメートルで、脚部に白色・赤色の顔料がみられ、彩色されていたとみられる。\n\n頭部に頬当・錣の付いた衝角付冑をかぶり、胴には小札を縅し、身体の前面で引き合わせ、草摺(くさずり)が一体となった小札甲をまとっている。膝にも佩楯(はいだて)とみられる小札製防具を巻き、脛にも小札製の臑当(すねあて)をつける。肩甲(かたよろい)をかけた両腕には籠手(こて)をつける。左腕には籠手の上から鞆(とも)を巻き、左手には縦向きに弓を持っている(甲の胴部に密着している)。右手は大刀(たち)の柄にかけられ、抜刀するような姿勢である。背中には小さめに表現されているが、鏃(やじり)を上にして矢を収めた靫(ゆき)を背負っている。", "qas": [ { "question": "『埴輪挂甲武人』の高さは何センチメートルなの?", "id": "tr-653-01-000", "answers": [ { "text": "130.5センチメートル", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『埴輪挂甲武人』の最大幅は何センチメートルなの?", "id": "tr-653-01-001", "answers": [ { "text": "39.5センチメートル", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "黄砂", "paragraphs": [ { "context": "気象現象としての黄砂は、砂塵の元になる土壌の状態、砂塵を運ぶ気流など、大地や大気の条件が整うと発生すると考えられている。発生の頻度には季節性があり、春はそういった条件が整いやすいことから頻繁に発生し、比較的遠くまで運ばれる傾向にある。ただ、春に発生する頻度が極端に多いだけであり、それ以外の季節でも発生している。黄砂は国境をまたぐ範囲で被害を発生させ、しかもその程度や時期に地域差がある。発生地に近づくほど被害は大きくなり、田畑や人家が砂に覆われたり、周囲の見通し(視程)や日照を悪化させたり、交通に障害を与えたり、人間や家畜などが砂塵を吸い込んで健康に悪影響を与えたりするなど、多数の被害が発生する。海を隔てた日本でも、黄砂の季節になると建物や野外の洗濯物・車などが汚れるといった被害が報告されている。東アジア全体での経済的損失は、日本円に換算して毎年7,000億円を超えるとされる。", "qas": [ { "question": "黄砂が発生する条件が最も整いやすい季節は、いつか?", "id": "tr-654-00-000", "answers": [ { "text": "春", "answer_start": 74, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "黄砂の発生地から近いところと遠いところで被害の程度が異なることを、どんな差というの?", "id": "tr-654-00-001", "answers": [ { "text": "地域差", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "我々が黄砂の影響で健康に問題が生じたりするのは、何を吸い込んだからなんですか?", "id": "tr-654-00-002", "answers": [ { "text": "砂塵", "answer_start": 266, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本円に換算した、東アジア全体での経済的損失は、毎年何円を超えるほどのことか?", "id": "tr-654-00-003", "answers": [ { "text": "7,000億円", "answer_start": 377, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "発生地に近いほど砂塵の濃度は濃く、大きな粒が多く、飛来する頻度も高い傾向にある。モンゴル、中国、韓国などでは住民の生活や経済活動に多大な支障が出る場合があり、黄砂への対策や黄砂の防止が社会的に重要となっている。近年は東アジア各国で、黄砂による被害が顕著になってきているとされており、一部の観測データもこれを裏付けている。これに加えて、環境問題への関心が高まっていることなどもあり、黄砂に対する社会的な関心も高まっている。一方、黄砂が自然環境の中で重要な役割を果たしていることも指摘されている。飛来する黄砂は、洪水による氾濫堆積物や火砕物と並ぶ堆積物の一種であり、土地を肥やす効果がある。また、黄砂には生物の生育に必要なミネラル分も含まれており、陸域だけではなく海域でもプランクトンの生育などに寄与している。", "qas": [ { "question": "黄砂に対する社会的な関心が高まったのは、何への関心が高まったからか?", "id": "tr-654-01-000", "answers": [ { "text": "環境問題", "answer_start": 167, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文章には、黄砂が自然環境の中で特に土地に果たしている役割として、どんな効果があると示唆されていますか?", "id": "tr-654-01-001", "answers": [ { "text": "土地を肥やす効果", "answer_start": 281, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "飛来する黄砂により肥沃な土地が形成されるというのは、黄砂が何の一種であるからなのか?", "id": "tr-654-01-002", "answers": [ { "text": "堆積物", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "飛来する黄砂が肥沃な土地を形成させるのは、黄砂にどのような成分があるからでありますか?", "id": "tr-654-01-003", "answers": [ { "text": "ミネラル分", "answer_start": 309, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "また、芸術の分野では、黄砂のもたらす独特の景観などが文化表現にも取り入れられており、黄砂のもたらす情景を詠った古代中国の漢詩が伝えられるなどその歴史は古い。黄砂が生活に深刻な被害を与えている地域もある一方で、影響が軽微であり珍しい自然現象・季節の風物詩などとされている地域もある。「黄砂」という語でひとくくりにされているが、この語を気象学的に定義すると複数の現象が含まれている。発生地付近では黄砂の元となる「砂塵嵐」(砂嵐)、大気中を浮遊する黄砂は「エアロゾル粒子」であり、風の有無にかかわらず黄砂が空中に大量に浮遊・降下している状態は「風塵」や「煙霧」「ちり煙霧」である。また、視程障害現象にも分類される。東アジア各国では、気象機関がそれぞれ「黄砂」の定義や強弱の基準を定めているが、いずれも少しずつ異なっている(後節参照)。", "qas": [ { "question": "黄砂による被害が軽微な地域では、黄砂を珍しい自然現象のほかに、何と認識するの?", "id": "tr-654-02-000", "answers": [ { "text": "季節の風物詩", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大気中を浮遊する黄砂のことを気象学的には、何と呼びますか?", "id": "tr-654-02-001", "answers": [ { "text": "エアロゾル粒子", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "一般的には砂塵嵐とエアロゾル粒子、風塵をまとめて何と呼ぶか?", "id": "tr-654-02-002", "answers": [ { "text": "黄砂", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "気象学的な視点での黄砂の分類の中、発生地付近で発生し黄砂の元となるのは、何ですか?", "id": "tr-654-02-003", "answers": [ { "text": "砂塵嵐", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "現在、黄砂の大部分は、発生地である乾燥地帯を襲う砂塵嵐により大気中に巻き上げられると考えられている。砂塵嵐の発生の度合いは、年中乾燥した土地であればほぼ風だけで決まるが、降水のある土地では風に加えて、地形、表土の湿り具合、積雪や凍結の有無、植生(植物の繁茂)、土壌粒子の大きさ、地表の凹凸の粗さなど、地表面のさまざまな状態に左右される。土壌粒子の大きさに関しては、表土や岩石が温度変化を受けたとき、特に凍結と融解を繰り返したときに、風化により砂粒の微細化が進む。ある研究によれば、タクラマカン・ゴビ・黄土高原ともに上空10mの平均風速が5m/sを超えると、局所的に地面から砂塵が舞い上がり始める。これが激しいもの、つまり砂塵嵐に発達するときには、ゴビで10m/s、タクラマカン・黄土高原で6m/s以上の風が吹いているという研究結果がある。砂塵嵐によって砂が巻き上げられる高さは最大で上空7–8kmという報告があるが、観測装置が故障することがあるため推定である。また、強い低気圧が通過した前後などは砂塵嵐が多く発生し、黄砂の量も多くなる。", "qas": [ { "question": "黄砂の大部分において原因となるものが発生する度合いは、何の状態に左右されますか?", "id": "tr-654-03-000", "answers": [ { "text": "地表面", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "タクラマカン・ゴビ・黄土高原のうち、砂塵嵐が発生した時の最低風速が最も高いのは、どこですか?", "id": "tr-654-03-001", "answers": [ { "text": "ゴビ", "answer_start": 323, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "砂塵が舞い上がり始めるのは、タクラマカン・ゴビ・黄土高原の上空10mの平均風速が何m/sを超えてからなの?", "id": "tr-654-03-002", "answers": [ { "text": "5m/s", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "砂塵嵐により砂が巻き上げられる最大高度についての報告が推定であるのは、何の可能性もあるからか?", "id": "tr-654-03-003", "answers": [ { "text": "観測装置が故障すること", "answer_start": 408, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "また降水量との関係で言うと、発生地で降水量が少ないほど黄砂の発生は多い傾向にある。降水量によって、土壌の乾燥状態、積雪や植物の有無といった地面の状態が変化するためである。なお、砂塵嵐のことを中国語で沙塵暴(簡体字:沙尘暴、拼音:shāchénbàoシャーチェンパオ)といい、中国の市民の間では「黄砂」という言葉はほとんど使われず、「沙塵暴」をよく用いる。沙塵暴は時に猛烈に発達することがあり、中国の気象当局は、瞬間風速25m/s以上で視程が50メートル以下の砂塵嵐を「黒風暴」(ウイグル語でقارابوران、英字表記:qaraboran、日本語音写:カラボラン、「黒い嵐」「大嵐」「台風」の意)または「黒風」と規定、俗に「黒い嵐」などと呼ばれている。黒風暴は、寒冷前線の通過時などで大気が不安定になったときに、ダウンバーストやガストフロントなどの局地的な突風をきっかけに発生する。水平方向の大きさは小さいもので数百メートル、大きいものは100キロを超える。大きな渦を巻きながら移動し、これが押し寄せてくると、高さ数百メートルの「砂の壁」が迫ってくるように見える。「砂の壁」の中に入ると、急激に周りを飛ぶ砂の量が増え、(昼間であれば)次第に周囲が黄み・赤みを増しながら暗くなり、風も強まってくる。数十分ほど屋外は真っ暗となり、歩くことさえままならない状態となる一方、屋内に避難していても砂の進入によって日常生活が難しいほどになる。黒風暴の発生はごくまれではあるが、近年では1993年5月5日に発生して甚大な被害を出した(後節で詳しく解説)。また、周囲を山脈に囲まれたタクラマカン砂漠などの高低差が大きい発生地では、山谷風と呼ばれるほぼ毎日同じ時間帯に吹く強風が砂塵嵐を強める要因になっているとの指摘もある。ゴビや黄土高原からの黄砂は上空1-2キロでよく観測されるのに対し、周囲を6,000メートル級の山脈に囲まれるタクラマカンからの黄砂は上空6キロ程度によく観測される傾向にあり、夏の「バックグラウンド黄砂」のおもな発生源となっている。", "qas": [ { "question": "黄砂と降水量の関係を考えると、黄砂が多く発生する地域は、降水量が多いか、もしくは、少ないか?", "id": "tr-654-04-000", "answers": [ { "text": "少ない", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書で紹介されている、瞬間風速25m/s以上で視程が50メートル以下の砂塵嵐のきっかけとなる局地的な突風には、ダウンバーストのほかに何がありますか?", "id": "tr-654-04-001", "answers": [ { "text": "ガストフロント", "answer_start": 364, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "高低差が大きい発生地で砂塵嵐を強める要因になっているとの指摘もあったのは、何なの?", "id": "tr-654-04-002", "answers": [ { "text": "山谷風", "answer_start": 707, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "夏のバックグラウンド黄砂の主な発生源である黄砂が発生する地域で、砂塵嵐を強めるとの意見もあるのは、何か?", "id": "tr-654-04-003", "answers": [ { "text": "山谷風", "answer_start": 707, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "単に砂塵が舞い上がると言っても、砂塵の粒の大きさによってその動きはまったく違う。粒の直径が約1ミリ以上のものは回転運動、0.05ミリ(50μm)-1ミリくらいのものは躍動運動、約0.05ミリ以下のものは浮遊運動をするといわれている(右図「砂塵の飛散と移動のメカニズム」)。回転運動をする砂は発生地周辺のみに到達し、移動する砂丘を構成する。躍動運動をする砂は地面を飛び跳ねながら移動し、沙塵暴のほとんどを構成する。浮遊運動をする砂は風に乗って上空を移動し、遠くまで到達する。浮遊運動をする砂の運動を詳しく見ると、砂塵嵐によって巻き上げられたあと、日中暖まった空気が上昇することによって起きる上昇気流に乗って、上空500メートル-2キロ付近に上昇して移動する。発生地付近では、砂塵の濃度や粒子の大きさがバラバラで非常に複雑な分布であるが、離れるに従って高度1-2キロ付近に濃度が高い層ができる傾向にある。この付近の上空500メートル-2キロより下の大気は大気境界層といい、空気の流れが複雑な層である。これより上には自由大気という層があり、一部の粒子がこの層にまで上昇してくると、安定した速い気流に乗って遠くまで運ばれる。ただ、低気圧が発達しながら移動するなどして、激しい風によって空気がかき混ぜられた場合は、日本上空で最大6-7キロ程度と、もっと高い高度にも高濃度の層ができて遠くまで運ばれることもある。また、昼に発生して大気境界層を浮遊している砂塵は、夜になって大気境界層と自由大気の境界が下がってきてもそのまま同じ高度にとどまるため、一部は自由大気に入って遠くまで運ばれることになる。", "qas": [ { "question": "砂塵の粒の大きさによってその動きはまったく違うけど、最も遠くまで到達する砂はどんな運動をする?", "id": "tr-654-05-000", "answers": [ { "text": "浮遊運動", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "この文書で砂塵の粒の大きさを分類した基準の中、最も小さいと分類されるのはどのような運動をしますか?", "id": "tr-654-05-001", "answers": [ { "text": "浮遊運動", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "粒の大きさが約0.05ミリ以下である砂が上空500メートル-2キロ付近に上昇して移動するのは、何の影響か?", "id": "tr-654-05-002", "answers": [ { "text": "上昇気流", "answer_start": 294, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "発生地付近から離れるに従って形成される濃度の高い層より下にある大気のことを、何と呼ぶか?", "id": "tr-654-05-003", "answers": [ { "text": "大気境界層", "answer_start": 425, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "東アジアや中央アジアなどの広い範囲には偏西風が吹いている。しかし、地上付近では偏西風の影響が少ないため、気圧配置によって砂塵は東以外の方向にも流される。しかし、高度が高くなると偏西風の影響が強くなるため、上空高くに舞い上がった黄砂は東寄りに流される。これにより砂塵は発生地の東側の地域への到達が多い傾向にある。なお、日本へ到来する黄砂について、「ジェット気流に乗って大陸から日本へやってくる」と解説される例があるが、ジェット気流はおもに高度8-13キロを吹いている風である一方で、上述のとおり黄砂は発生源から離れると高度1-2キロに濃度が高い層が出来る傾向にある。したがって、遠方まで輸送された黄砂の事例をみると、ジェット気流よりもかなり下層で輸送されていて、ジェット気流によって輸送されたとは見なせない事例もある。こういった過程を経て粒の大きな砂から落下していく。北京では粒子の直径がおよそ4-20μm、発生後3、4日経って到達する日本では4μm前後という調査結果がある。韓国気象庁の解説では、上空に舞い上がって運ばれる黄砂は、3割が発生地に、2割が発生地の周辺地域に、5割が日本・韓国や太平洋などの遠方に運ばれて落下・沈着するという。", "qas": [ { "question": "砂塵が東以外の方向にも流されるか、流されないかは、何の影響の多少により決まりますか?", "id": "tr-654-06-000", "answers": [ { "text": "偏西風", "answer_start": 39, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "韓国気象庁によれば、上空に舞い上がって運ばれる黄砂が最も多く落下・沈着する地域は、どこか?", "id": "tr-654-06-001", "answers": [ { "text": "日本・韓国や太平洋などの遠方", "answer_start": 489, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "韓国気象庁によれば、上空に舞い上がって運ばれる黄砂が落下・沈着する割合が最も小さい地域は、どこか?", "id": "tr-654-06-002", "answers": [ { "text": "発生地の周辺地域", "answer_start": 476, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "そして、より近い発生地からの黄砂のほうが飛来の頻度が高い。たとえば、朝鮮半島で観測される黄砂は多くが西方の黄土高原・ゴビ砂漠などで発生したもので、タクラマカン砂漠で発生したものはまれである。朝鮮半島とタクラマカン砂漠は5,000キロ以上離れており、長距離運搬される条件が整ったときにしか砂塵は到達しない。また、韓国に到達する黄砂の「発生から飛来までの経過日数」と「飛来時に黄砂が分布する平均高度」を調べた韓国気象庁の資料では、タクラマカン砂漠は経過日数4-8日・高度4-8キロ、中国北部の乾燥地帯は3-5日・1-5キロ、黄土高原は2-4日・1-4キロ、中国東北部は1-3日・1-3キロなどとなっている。黄砂の年間発生量は年間2億-3億トンと推定され、対する降下量は北京で春には1か月間に1km2あたり10-20トン程度、日本で1年間に1km2あたり1-5トンと推定されている。ただしその量は、発生地の毎回の天候に左右される。なお、1998-2000年のデータでは北京の乾性降下物(乾いたばいじん)のうち8割が黄砂を含む土壌性の粒子であった。また、日本における黄砂を含めたばいじんの総降下量は国内平均で1年間に1km2あたり40トン程度(1989年)とされ、黄砂はその1割程度にあたる。", "qas": [ { "question": "朝鮮半島まで飛来する頻度が最も少ないのは、どこからの黄砂なの?", "id": "tr-654-07-000", "answers": [ { "text": "タクラマカン砂漠", "answer_start": 73, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゴビと黄土高原、タクラマカン砂漠のうち、朝鮮半島から最も遠いのは、どこですか?", "id": "tr-654-07-001", "answers": [ { "text": "タクラマカン砂漠", "answer_start": 73, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "韓国気象庁によれば、中国北部の乾燥地帯とタクラマカン砂漠の各地からの黄砂が韓国まで到達する最大経過日数を比較した時、韓国までより遅く到達するのは、どこからの黄砂か?", "id": "tr-654-07-002", "answers": [ { "text": "タクラマカン砂漠", "answer_start": 213, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "韓国気象庁によれば、黄土高原と中国東北部の各地からの黄砂が韓国まで飛来する時の黄砂が分布する平均高度を比較した時、その最大値がより高いのは、どこからの黄砂か?", "id": "tr-654-07-003", "answers": [ { "text": "黄土高原", "answer_start": 260, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "時期としては、春にもっとも多く発生する。降水量が少なく地面が乾燥する冬は、シベリア高気圧の影響で風があまり強くない穏やかな天候が続くうえ、ほとんどの乾燥地帯の表土は積雪に覆われてしまうため、黄砂が発生しにくい。春になると、表土を覆った積雪が融け、高気圧の勢力が弱まる代わりに偏西風が強まり、低気圧が発達しながら通過するなどして風が強い日が増えるため、黄砂の発生も増えると考えられている。春の中盤に入り暖かくなってくると植物が増え、夏になると雨も多くなるため、土壌が地面に固定されるようになって次第に黄砂の量は減り、秋に最少となる。発生地側の新疆ウイグル自治区での砂塵嵐の日数を調べた統計では、最多の4月に年間の約20%が集中し、3月から6月の4か月間に年間の約70%が集中する。敦煌から河西回廊での砂塵嵐の日数を調べた統計では、春の3か月間に年間の5割弱が集中する。ただし、秋にも約1割の発生があり、年間を通して発生している。", "qas": [ { "question": "冬に黄砂が発生しにくいのは、何の影響で風があまり強くないからか?", "id": "tr-654-08-000", "answers": [ { "text": "シベリア高気圧", "answer_start": 37, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "新疆ウイグル自治区の調査統計によれば、砂塵嵐が年間最も多く発生するのは何月から何月の期間ですか?", "id": "tr-654-08-001", "answers": [ { "text": "3月から6月", "answer_start": 314, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "敦煌から河西回廊での砂塵嵐の日数を調べた統計によれば、どんな季節に砂塵嵐が最も多く発生するの?", "id": "tr-654-08-002", "answers": [ { "text": "春", "answer_start": 364, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "春と夏のうち、どの季節に黄砂の量がより少ないですか?", "id": "tr-654-08-003", "answers": [ { "text": "夏", "answer_start": 215, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方、飛来地側の日本では、春にあたる2月から5月の4か月間に年間の約90%が集中し、夏にあたる7月-9月はまったくと言っていいほど観測されない。ただし、これは地上での観測をもとにした統計であり、上空を通過する薄い黄砂は夏にも観測されている。また近年、地上では視程も低下しないため黄砂として観測されないときに、自由大気(自由対流圏)と呼ばれる高層で薄い砂塵が観測されることが分かってきた。これは「バックグラウンド黄砂」と呼ばれている。普段地上でほとんど黄砂が観測されない夏や秋にも発生するほか、高山では酸性霧の中和に関与していることが解明されてきている。バックグラウンド黄砂の特徴として、発生地付近で砂塵嵐の発生がなく、砂塵を巻き上げて運ぶ低気圧さえない状態にもかかわらず、発生することが挙げられる。また、バックグラウンド黄砂の成分の特徴として、通常ではCa(カルシウム)がおもにCaSO4(硫酸カルシウム)の形で存在しているのに対して、バックグラウンド黄砂ではおもにCaCO3(炭酸カルシウム)の形で存在していることが挙げられる。これは、バックグラウンド黄砂が、地上から排出される大気汚染物質に含まれているSO42−(硫酸イオン)とほとんど混ざっていないことを意味し、普通の黄砂とは異なる経路を通ってきていることを示している。", "qas": [ { "question": "日本ではどの季節に年間最も多くの黄砂が観測されますか?", "id": "tr-654-09-000", "answers": [ { "text": "春", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "砂塵嵐が発生しなく、低気圧さえないのにも関わらず発生する黄砂で、自由大気で薄い砂塵が観測されるのを、何と呼ぶか?", "id": "tr-654-09-001", "answers": [ { "text": "バックグラウンド黄砂", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "黄砂の中のCaがどんな成分と混ざったか、混ざっていないかによって、通常の黄砂とバックグラウンド黄砂に分類されるの?", "id": "tr-654-09-002", "answers": [ { "text": "SO42−", "answer_start": 503, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "黄砂の中のどのような成分が大気汚染物質から影響を受けたか、受けなかったかにより、通常の黄砂とバックグラウンド黄砂に分類されますか?", "id": "tr-654-09-003", "answers": [ { "text": "Ca", "answer_start": 376, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "古くは、日本では少なくとも7万年前以降の最終氷期には黄砂が飛来していたと考えられている。最終氷期の初期にあたる7万年前から6万年前ごろの風送ダスト(風によって運ばれ、堆積した砂や塵のこと。黄砂もこれに含まれる)の堆積量は10cm3あたり12グラムであった。完新世にあたる1万年前から現在までは同3-4グラムである。つまり、最終氷期初期は現在の3-4倍と、かなり多かったと推定されている。このほか、1万8000年前にも黄砂の堆積量が増えたというデータがある。気候との関係については一般的認識とは逆の推定がされており、発生地域が寒冷期にあるときには、乾燥化が進むうえ、大気循環経路の変化により寒気の南下回数が増え、砂塵嵐の頻度が増えることから、黄砂が増加すると考えられる。逆に温暖期にあるときは、湿潤化が進むことなどから黄砂が減少すると考えられている。2千年紀(過去1000年)間の中国での塵の降下頻度の記録から、塵の降下頻度の増加が気温の上昇と逆相関関係にあるという研究があり、この説を裏付けている。", "qas": [ { "question": "最終氷期の初期と完新世のうち、10cm3あたりの風送ダストの堆積量がより多いのは、どちらか?", "id": "tr-654-10-000", "answers": [ { "text": "最終氷期の初期", "answer_start": 44, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "10cm3あたりの風送ダストの堆積量が現在の3-4倍である時期は、いつなの?", "id": "tr-654-10-001", "answers": [ { "text": "最終氷期の初期", "answer_start": 44, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この古い時期には発生地域が、温暖期と寒冷期のうち、どちらにあるときに黄砂の発生頻度が高かったか?", "id": "tr-654-10-002", "answers": [ { "text": "寒冷期", "answer_start": 262, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2千年紀間の中国での塵の降下頻度の記録によると、塵の降下頻度の増加と気温の上昇はどのような関係にありましたか?", "id": "tr-654-10-003", "answers": [ { "text": "逆相関関係", "answer_start": 421, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "また、現在黄砂の発生源となっている黄土高原は、250万年前から始まり200万年前から増えた風送ダストによってできたと考えられている。これら黄砂や風送ダストの量の変化は、気候変動や地殻変動によって、風や降水、地形などのパターンが変わったことによる。また、日本の南西諸島にはクチャ(学術名:島尻層泥岩)と呼ばれる厚さ約1,000メートルの泥岩層が分布しているが、この層には黄砂由来の粒子が含まれていると考えられている。島尻層泥岩は新第三紀、およそ2500万年前から200万年前ごろの地層であり、このころにも黄砂が飛来していた可能性を示唆している。さらに堆積物の分析結果から、もっとも古い時代では白亜紀後期にあたる約7000万年前から黄砂が発生していたと考えられている。", "qas": [ { "question": "250万年前から始まり200万年前から増えた風送ダストによってでき、現在黄砂の発生源となっているのは、どこについての説明であるか?", "id": "tr-654-11-000", "answers": [ { "text": "黄土高原", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "島尻層泥岩の堆積物を分析した結果、もっとも古い時代ではどの時期から黄砂が発生していたと考えられますか?", "id": "tr-654-11-001", "answers": [ { "text": "白亜紀後期", "answer_start": 295, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "黄砂由来の粒子が含まれていると考えられる、南西諸島に分布している厚さ約1,000メートルの泥岩層を何と呼ぶ?", "id": "tr-654-11-002", "answers": [ { "text": "クチャ", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "黄砂由来の粒子を含んでおり、作られた時期にも黄砂が飛来していた可能性を示唆する泥岩層を、何と呼ぶか?", "id": "tr-654-11-003", "answers": [ { "text": "クチャ", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "テイルズオブレジェンディア", "paragraphs": [ { "context": "『テイルズオブレジェンディア』(TALESOFLEGENDIA、略称:TOL/レジェンディア)は、ナムコから2005年8月25日に発売されたPlayStation2用RPGである。\n『テイルズオブ』シリーズの1つで、シリーズ内で作品ごとに掲示されるジャンル名称は「絆が伝説を紡ぎだすRPG」である。\n\n開発はこれまでのシリーズとは異なるスタッフにより新規に編成されたプロジェクトチーム・メルフェスにより行われ、様々な違いから従来作とは全体的な雰囲気を異なるものとしている。\nストーリーは「絆」をテーマとしており、街や遺跡を有し島ほどの大きさを持つ巨大な船「遺跡船」を舞台に、主人公の少年セネルがヒロインの少女シャーリィを巡る勢力同士の戦いや2つの種族の対立を描く「メインシナリオ」全7章と、セネルおよびシャーリィ以外のパーティーキャラクターたちに焦点を当てた物語「キャラクタークエスト」全6話が展開される。\n戦闘システムはこれまでと同じくアクションゲームのような操作性だが、本作ではアクションが苦手でも簡単に楽しめるシンプルなものとなっている。", "qas": [ { "question": "『テイルズオブレジェンディア』はどのゲーム機で遊べるの?", "id": "tr-655-00-000", "answers": [ { "text": "PlayStation2", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "TOLのジャンル名は何ですか?", "id": "tr-655-00-001", "answers": [ { "text": "「絆が伝説を紡ぎだすRPG」", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "TOLのメインシナリオの構成は全何章ですか?", "id": "tr-655-00-002", "answers": [ { "text": "7章", "answer_start": 341, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ストーリーは、「目的地への移動」・「敵との戦闘」・「辿り着いた場所で起こるイベント」の3つを繰り返しながら進行する。\n戦闘シーンやフィールドなどのグラフィックは3Dで描かれており、移動中・戦闘中のキャラクターのグラフィックは4頭身ほどにデフォルメされている。\nメインシナリオをクリアするとキャラクタークエストに移行し、各地の宝箱の中身が一新され、街では既存のアイテムを組み合わせ新たなアイテムを作り出す「合成屋」や、敵と戦い勝利することで賞金・賞品が得られる「闘技場」がオープンする。\nストーリーの進行具合は登場人物たちが付けている日記という設定の「あらすじ」で確認できる。\nイベントは通常、上記のデフォルメされたグラフィックで進行するが、専用の画面上にて通常の頭身のイラストで表現される「イベントスキット」が挿入されることがある(従来のように自発的に発生させ、キャラクター同士の雑談を楽しむためのスキットは本作では「フリースキット」と呼ばれ、発生の条件が限定されている。こちらが本作での「スキット」とされ、イベントスキットを考慮しない場合もある)。", "qas": [ { "question": "「敵との戦闘」・「辿り着いた場所で起こるイベント」・「闘技場」のなかでクリア後にしかできないコンテンツは?", "id": "tr-655-01-000", "answers": [ { "text": "「闘技場」", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゲームキャラが4頭身のデフォルメではなく、通常の頭身で表現されるのはどこですか?", "id": "tr-655-01-001", "answers": [ { "text": "「イベントスキット」", "answer_start": 344, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "街と各ダンジョンはフィールドに点在する赤色のワープ装置「ダクト」で行き来できる(ダクトが設置されていないダンジョンへの移動は徒歩に限られる)。\nダンジョン内に時折設置されている緑色のダクトは初めて起動させると「パズルブース」に繋がり、ここでのみ使えるアイテム「ソーサラーリング」から出る光線でスイッチに光を灯しパズルブース内のダクトを起動させ、配置されているブロックを移動させてダクトに辿り着かなければ脱出は不可能(プレイヤーが解けないときは仲間キャラクターに解いてもらう選択も可能である)。\nどのダクトも一度起動させれば以降は自由に使用可能。\nダンジョンに存在する紫色の空間「カオティックゾーン」ではエンカウント率が上昇し、名前に「ヌシ」とついた通常より強い敵と遭遇することがある。\n遭遇した敵を倒せばゾーンは消滅する。ゾーンの先には宝箱が用意されていることが多い。\nキャラクタークエストで手に入るアイテム「ソーサラースキャナー」は街やダンジョンで使用することで、隠されたアイテムやモンスターを見つけることができる。", "qas": [ { "question": "隠されたアイテムやモンスターを探索するアイテムは何?", "id": "tr-655-02-000", "answers": [ { "text": "「ソーサラースキャナー」", "answer_start": 404, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ダクト」を自由に使えるようになるためにクリアしなければならないものは?", "id": "tr-655-02-001", "answers": [ { "text": "「パズルブース」", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アイテム「ソーサラーリング」が使える唯一の場所はどこですか?", "id": "tr-655-02-002", "answers": [ { "text": "「パズルブース」", "answer_start": 104, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "本作の戦闘システムは、対戦型格闘ゲームのようにサイドビューの1ラインで戦う従来の基本的な戦闘システム「LMBS」と、ナムコの格闘ゲームから採用された戦闘システムを融合させた「X-LMBS」である。\n戦闘は「わかりやすく」ということを意識しており、そこから考案された要素として、隣接する敵の背後に回り込む行動「パッシングスルー」や、敵が特殊な行動を取ろうとする際に表示される「コーションシグナル」がある。\n\n本作の術技は、「爪術(そうじゅつ)」と言い、特技・奥義・投げ技・我流奥義を使用する「アーツ系爪術士」と、術を使用する「ブレス系爪術士」がいる。いずれの術技も発動にはTP(テクニカル・ポイント)を消費する。TPは戦闘中1秒ごとに、また戦闘勝利時に一定量自動回復する。従来と違い、戦闘不能になるとHPとともにTPも0になる。術はレベルを上げることによって手に入る「呪文書」に書かれた量の「スカルプチャ」を集めることで初めて使用可能となる。投げ技はセネルとボスキャラクターのヴァーツラフのみが使用でき、通常はダメージを与えられないダウン中の敵にダメージを与えられ、投げた敵がほかの敵に命中すると命中した敵にもダメージを与えられる。セネルは投げ技を複数持っており、敵に設定されている「重さ」に合うものでなければ効果はない。我流奥義は習得した特技・奥義を使い込むことで入手できる「極意」を組み合わせることで使用可能となり、特定の種族以外には効果は薄い(もしくは無効)が大ダメージや状態異常を与えられる。", "qas": [ { "question": "サイドビューの1ラインで戦う従来の基本的な戦闘システムをどう呼びますか?", "id": "tr-655-03-000", "answers": [ { "text": "「LMBS」", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "今作特有の戦闘システムの名称は?", "id": "tr-655-03-001", "answers": [ { "text": "「X-LMBS」", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "特技・奥義・投げ技・我流奥義・術を使うために消費するポイントは?", "id": "tr-655-03-002", "answers": [ { "text": "TP", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "相手にダメージを与えたり味方がダメージを受けたりすることで溜まる「クライマックスゲージ」を満タンにすることで、敵が一定時間無防備の状態で停止する「クライマックスモード」を任意で発動できるようになる。発動中には味方の状態異常が回復し、敵に当てた攻撃は全て連続ヒットしたものとみなされ、ゲージが多く残っているほど大きなダメージを与えられる連携攻撃「クライマックスコンボ」を繰り出すことが出来る。\n\nその他のシステムとして、「敵キャラクターの残存体力の円グラフによる表示」、敵の周囲に展開され、入ると状態異常や能力低下といった変化を引き起こす円陣「FOE(フィールドオブエフェクト)」、「術者操作時の特殊操作による詠唱時間短縮」といったものがある。\nまた従来との違いとして「マルチタップ未対応による協力プレイの不可」、「戦闘中の操作キャラクターの変更不可」という点があり、『テイルズオブエターニア』以降搭載されていたキャラクターごとの強力な術技「秘奥義」は本作では没となった。", "qas": [ { "question": "「クライマックスゲージ」を稼ぐためにはどうしますか?", "id": "tr-655-04-000", "answers": [ { "text": "相手にダメージを与えたり味方がダメージを受けたりする", "answer_start": 0, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「秘奥義」、「FOE(フィールドオブエフェクト)」、「敵キャラクターの残存体力の円グラフによる表示」のなかで本作で使えないシステムはどれですか?", "id": "tr-655-04-001", "answers": [ { "text": "「秘奥義」", "answer_start": 419, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「秘奥義」が初めて使えたシリーズのタイトルは?", "id": "tr-655-04-002", "answers": [ { "text": "『テイルズオブエターニア』", "answer_start": 383, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "物語の舞台の星には、「水の民(みずのたみ)」と「陸の民(りくのたみ)」という2つの種族が存在する。\n両者の姿形は似ているが、水の民は水中での呼吸が可能な水生民族で皆金色の髪を持ち、水中で髪が輝くことから陸の民からは「煌髪人(こうはつじん)」とも呼ばれる。\n水の民の間では「古刻語(ここくご)」という言語が使用され、彼らが苗字の代わりに使用する「誠名(まことな)」も古刻語で表現される。\n水の民は意思を持つ海「滄我(そうが)」を崇め、滄我の声を聴くことが出来る存在「メルネス」を通じて滄我との意志交感を行い生きている。\nほぼ全ての水の民は滄我の力を源とする特殊能力「爪術(そうじゅつ)」の高度な行使能力を持つ。\n陸の民はいわゆる「人類」であり、水中での生活は不可能で爪術も当初は使えなかったが、本編から数えて50年ほど前から使える者が現れ出した(その理由は不明)。\n4000年前に起きた大地の半分を海に沈めた災害「大沈下」の影響で陸の民は壊滅的な打撃を受けたが、ゲーム本編の時代では人口を増加させている。\n逆に水の民は環境の変化により個体数が極端に減少している。", "qas": [ { "question": "水の民が滄我と意志交流を行うため必要な存在は?", "id": "tr-655-05-000", "answers": [ { "text": "「メルネス」", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "陸の民に壊滅的被害を及んだ大地の半分を海に沈めた災害は何ですか?", "id": "tr-655-05-001", "answers": [ { "text": "「大沈下」", "answer_start": 405, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "爪術の使用者は「爪術士(そうじゅつし)」と呼ばれる。\n爪術の使用には滄我との意志交感が不可欠で、意志交感がより強くなると爪術の究極奥義「聖爪術(せいそうじゅつ)」を行使できる。\n爪術には体内の滄我の力を攻撃とともに放出する「アーツ系」と、使用者を取り囲んでいる滄我の力に働きかけて術を発動させる「ブレス系」の2つの系統がある。水の民が繰り出す精神の結晶体「テルクェス」は広義には爪術とされているが、水の民しか使えないため爪術との位置づけはされていない。\n\n冒険の舞台は海上を進む巨大な船「遺跡船(いせきせん)」。\n船上は陸地のようになっており、外面は自然で覆われ、遺跡や洞窟なども多数存在している。\n操舵方法などの機能は存在するものの、使用方法を知る者はいない。\n物語の始まりから数えて15年ほど前に発見され、調査や遺跡の財宝目当てに訪れた考古学者、トレジャーハンターらが築いた「灯台の街ウェルテス」には陸の民が現在生活している他、各集落にて水の民やラッコのような生物「モフモフ族」も少数ながら住んでいる。\n正確な大きさは作中では明らかにされないが、設定上は全長120キロメートル、全幅60キロメートル、全高9キロメートルとされる。", "qas": [ { "question": "爪術の使用に絶対に必要なものは何?", "id": "tr-655-06-000", "answers": [ { "text": "滄我との意志交感", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「遺跡船」の上に生活している水の民、陸の民以外の種族は?", "id": "tr-655-06-001", "answers": [ { "text": "「モフモフ族」", "answer_start": 434, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "遺跡船の上に作られた街の名前は何なの?", "id": "tr-655-06-002", "answers": [ { "text": "「灯台の街ウェルテス」", "answer_start": 389, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「爪術」と呼ばれる不思議な術の使い手セネル・クーリッジは、金色の髪を持つ少女シャーリィと霧が立ち込める海を漂流中、何かに導かれるように不思議な大地に辿り着く。規模こそ普通の島か大陸のようだが、当たり前のように植物が繁茂し、川が流れる足下は、人工の大地。2人が命からがら漂着したのは、「遺跡船」と呼ばれる巨大な船の上だった。\n\n遺跡船へ漂着した直後、シャーリィは山賊の首領にして魔獣使いのモーゼス・シャンドルに捕まる。シャーリィはセネルや、灯台の街ウェルテスの保安官ウィル・レイナード、騎士の名門ヴァレンス家の娘クロエ・ヴァレンスらにより連れ出されるが、その後も空飛ぶ男ワルターに連れ戻され、彼女をつけ狙うクルザンド王統国の王子ヴァーツラフが率いる軍隊に投降を余儀なくされるなど彼女を巡る追走劇は加速していく。セネルたち一行はトレジャーハンターの少女ノーマ・ビアッティや、紆余曲折の末に協力することとなったモーゼスを仲間に加えつつ、シャーリィを追っていく。ヴァーツラフ軍の捕虜となったシャーリィは、同じく捕まっていた少女フェニモールと親友となる。シャーリィを追う中でセネルは、死んだと思っていたシャーリィの姉にして自身の想い人であるステラが生きていたことを知る。\n\nワルターは「水の民」の指導者メルネスの力を受け継ぐシャーリィを守るため、ヴァーツラフはシャーリィのメルネスとしての力で遺跡船の兵器をコントロールしようとするため、彼女を追っていた。ヴァーツラフの野望を阻止するためにセネルたちは水の民の長マウリッツの協力を得て、新たに情報屋の少年ジェイも仲間に加える。セネルたちはヴァーツラフを倒し、遺跡船の動力源として使用されていたステラを救い出すが、ヴァーツラフは最期に遺跡船に搭載された主砲「滄我砲」を発射させ、彼の祖国クルザンドと交戦状態にある聖ガドリア王国を攻撃しようとする。ステラは最後の力を使い滄我砲を食い止め、セネルとシャーリィに見守られながら息を引き取る。", "qas": [ { "question": "遺跡船へ漂着したシャーリィを捕まえた人は誰ですか?", "id": "tr-655-07-000", "answers": [ { "text": "モーゼス・シャンドル", "answer_start": 193, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ワルターがシャーリィを追うのはなぜか?", "id": "tr-655-07-001", "answers": [ { "text": "「水の民」の指導者メルネスの力を受け継ぐシャーリィを守るため", "answer_start": 537, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「滄我砲」を食い止め死んだ人物はシャーリィとどういう関係ですか?", "id": "tr-655-07-002", "answers": [ { "text": "姉", "answer_start": 502, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「滄我砲」を食い止め死んだ人物はセネル・クーリッジとはどいう関係ですか?", "id": "tr-655-07-003", "answers": [ { "text": "想い人", "answer_start": 509, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "シャーリィは、ステラの死をきっかけに、メルネスとなるための「託宣の儀式」を行うことを決意する。儀式の最中に陸の民の軍人が現れ、シャーリィを滄我砲発射の犯人であるとして拘束及び殺害しようとし、シャーリィを庇いフェニモールが殺される。多くの仲間を殺され敵対を表明されたことでシャーリィは戦いを決意。必要となる契約を交わしメルネスとして覚醒する。力を取り戻したシャーリィは陸の民から意思を持つ海「猛りの滄我」の力である爪術を取り上げ、マウリッツやワルターとともに、契約通りセネルたち「陸の民」を滅亡させるため行動を開始する。爪術を取り上げられたセネルたちは遺跡船の地下に広がる空間「静の大地」に辿り着き、以前からいつの間にかついてきていた記憶喪失の女性グリューネを正式に仲間に加える。\n\nセネルたちは静の大地に存在するもう1つの滄我「静の滄我」にある光景を見せられる。それは遺跡船と水の民が宇宙からやってきたところ、4000年前の陸の民と水の民の争い、そしてメルネスが陸の民を滅ぼすため遺跡船の大陸造成装置「光跡翼」を使用し、世界の半分を海に沈めた大洪水「大沈下」を起こす場面だった。セネルたちはこのことから、マウリッツたちが大沈下を再現し陸の民を滅ぼそうとしているという予測を立てる。静の滄我の力を借りて爪術を復活させたセネルたちはシャーリィの元へ向かう。", "qas": [ { "question": "4000年前に「大沈下」を起こしたのは誰ですか?", "id": "tr-655-08-000", "answers": [ { "text": "メルネス", "answer_start": 426, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「託宣の儀式」の最中に陸の民の軍人に殺されたのは誰ですか?", "id": "tr-655-08-001", "answers": [ { "text": "フェニモール", "answer_start": 103, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ステラの死のあとセネルの仲間に加わった人物の名は?", "id": "tr-655-08-002", "answers": [ { "text": "グリューネ", "answer_start": 323, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マウリッツとの会話からセネルたちは、宇宙から飛来し光跡翼を用いて海しかなかった世界に陸地を作ったのが、水の民ではなく陸の民だったことを知る。仲間たちは「自分たちの先祖が来なければ何も起きなかった」と考え項垂れるが、セネルは前へ進みシャーリィに自身の想いを伝え、2人は互いの心を通わせる。水の民を代表するシャーリィが陸の民との共存に踏み切ったことで、陸の民の滅亡は回避された。しかしシャーリィを裏切り者と見なしたマウリッツが滄我の力を取り込み光跡翼を発動させようとする。メルネスではないマウリッツが滄我を取り込んだことで彼は暴走し異形の姿に変貌するが、セネルたちに倒され元の姿に戻る。シャーリィが陸の民を受け入れたことで、猛りの滄我もまた陸の民を許したことを知ったマウリッツは陸の民への憎悪をなくし、彼らとの共存を決意する。陸の民と水の民は少しずつ和解への道を歩み出し、遺跡船に平穏が戻る。", "qas": [ { "question": "海しかなかった世界に陸地を作ったのは陸の民と水の民のどっちか?", "id": "tr-655-09-000", "answers": [ { "text": "陸の民", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "水の民の代表者的な存在は誰ですか?", "id": "tr-655-09-001", "answers": [ { "text": "シャーリィ", "answer_start": 151, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "水の民と陸の民の共存を決意したシャーリィに激しく反対し暴走した人物は誰ですか?", "id": "tr-655-09-002", "answers": [ { "text": "マウリッツ", "answer_start": 205, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "遺跡船の平穏な日々が続く中、謎の魔物を生み出す黒い霧を目撃したセネルたちは遺跡船に何かが起きていると感じる。そんな中、セネルの仲間たちの回りで様々な事件が起こる。\n\nウィルは娘ハリエットとの親子関係に悩んでいたが、亡き妻アメリアとの思い出を語り合い少しずつだが和解していく。ノーマは師匠スヴェンが追い求めていた秘宝「エバーライト」を見つけ出す。クロエは両親の仇との決着を付ける。モーゼスは魔獣の避けられぬ運命「野生化」で魔物へと還っていくパートナーのギートとの絆を確かめ合う。ジェイは自身を苦しめてきた育ての親ソロンと決別する。", "qas": [ { "question": "セネルの仲間で娘との和解を遂げたのは誰ですか?", "id": "tr-655-10-000", "answers": [ { "text": "ウィル", "answer_start": 83, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ノーマの師匠が探し求めていたものとは何ですか?", "id": "tr-655-10-001", "answers": [ { "text": "「エバーライト」", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "モーゼスのパートナー魔獣の名前は?", "id": "tr-655-10-002", "answers": [ { "text": "ギート", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "これら全てに黒い霧はかかわっていた。ソロンを倒した直後、黒い霧が女性の姿を取って現れる。彼女と出会ったことで記憶を取り戻したグリューネはセネルたちに、自身と黒い霧から現れた女性シュヴァルツが太古の昔から様々な世界の存続と破壊を巡り争いを続けている神のごとき存在であることを明かす。セネルたちは自分だけで決着を付けようとするグリューネに協力するため彼女を説得する。セネルたちはシュヴァルツへの対抗手段として、猛りの滄我の力を借りることを思いつく。猛りの滄我の力を受け取ったセネルたちはシュヴァルツと対峙するが、シュヴァルツは負の感情そのものである黒い霧を操って人々の負の感情を煽り力を増していく。しかし滄我に爪術を与えられた人々が黒い霧を跳ね除けたことでシュヴァルツは負の感情の力を得られなくなり、セネルたちは弱体化したシュヴァルツを消滅させる。\n\nシュヴァルツが消滅した直後、グリューネの体も消滅を始める。二柱の女神は同じ存在であり、一方の消滅はもう一方の消滅も意味していたのである。仲間たちは嘆き悲しむが、グリューネは仲間たち1人1人に優しい言葉をかけ、自分がいなくてももう大丈夫だと諭す。「皆とは笑ってお別れしたい」というグリューネの願いを聞き届けたセネルたちは笑顔で彼女を見送る。グリューネは笑顔を返して空に消えていき、セネルたちはグリューネの言葉を胸に刻んで未来へ歩き出す。", "qas": [ { "question": "黒い霧から現れた女性の名は?", "id": "tr-655-11-000", "answers": [ { "text": "シュヴァルツ", "answer_start": 88, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シュヴァルツへの対抗手段として思いついたのは何か?", "id": "tr-655-11-001", "answers": [ { "text": "猛りの滄我の力", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シュヴァルツの力の源は何ですか?", "id": "tr-655-11-002", "answers": [ { "text": "負の感情", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "エンターブレイン調べでは発売週には242,003本を販売し、前作『テイルズオブリバース』の初動(37.3万本)には届かなかったものの8割近い消化率を記録した。\n\n『週刊ファミ通』のクロスレビューにおいては40点満点中32点を獲得した。『テイルズオブリバース』に比べ様々な点で遊びやすくなっているとされる。4人のレビュアー全員が戦闘システムについて触れ、3人がシステムの簡略化を「新規プレイヤーが入りやすくなった」「アクションが苦手でも無理なく楽しめる」と評価している一方、1人は「ボタン連打で何とかなり、単調に感じる」としている。全体的に、シリーズのファンよりも初めての人のほうが楽しめるとされている。\n\n『ゲーム批評Vol.65』においてはシンプルなサイドビュー戦闘の採用を「わかりやすく遊びやすい」と評価しているが、エフェクトの地味さが残念とも述べている。ストーリーについては、主人公が海上を漂流している場面から始まりその理由が明かされるのがかなり進んでからであることなど、プレイヤーと主人公を切り離してストーリーを楽しませるという手法を評価している。またキャラクタークエストについて「シリーズだけでなく、他のRPGでも珍しい」と述べ、「各キャラクターにエンディングが用意されていることもあり、キャラクターの魅力を引き出すという点で成功を収めた」と評価している。定番のおまけ要素がないことがシリーズファンに違和感を覚えさせるとしながらも、第1作の影響を強く受けていることを指摘し、「第1作のファンには嬉しい内容」としている。", "qas": [ { "question": "『週刊ファミ通』のクロスレビューの4人のレビュアーで戦闘システムに否定的な評価をしたのは何人か?", "id": "tr-655-12-000", "answers": [ { "text": "1人", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『週刊ファミ通』のクロスレビューで戦闘システムに肯定的な評価を下したのは全部何名ですか?", "id": "tr-655-12-001", "answers": [ { "text": "3人", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エンターブレインによる本作発売週の販売高はどれくらいですか?", "id": "tr-655-12-002", "answers": [ { "text": "242,003本", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ゲーム批評Vol.65』の評価で不評を浴びた点は何ですか?", "id": "tr-655-12-003", "answers": [ { "text": "エフェクトの地味さ", "answer_start": 360, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "「プレイステーション・ドットコム・ジャパンランキングで見る2005年」で公開された売上げランキングでは8位にランクインした。ここでは「それまでのシリーズのPS2用作品は情報量が多すぎでプレイヤーがお腹いっぱいとなってしまっていたが、本作はそこをスマートにまとめており遊びやすくなっている」と評価され、次作『テイルズオブジアビス』はシリーズファン向け、本作はシリーズ初心者向けと紹介された。\n\n『GAMESIDEVol.13』ではキャラクターデザインの違いやシリーズ定番の流れがないために、今までのファンからは評価されていないように見えるとし、レビュアー自身も「これまでと違うので本作に触れなかった」と述べている。しかし、「プレイヤーと主人公を切り離してストーリーを見せるという試み」「連作短編のようなキャラクタークエスト」「『テイルズオブファンタジア』をベースに改良された戦闘システム」などについてのレビューを行い、異色な部分が目立つことが辛口な評価につながっていることを指摘し、「初めてプレイする人にもわかりやすく親切な作り」「『テイルズオブ』の他作品にはない魅力を持っている」と評価している。", "qas": [ { "question": "「プレイステーション・ドットコム・ジャパンランキングで見る2005年」で本作の売り上げランキングは?", "id": "tr-655-13-000", "answers": [ { "text": "8位", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "本作と次作で、このシリーズを初めて楽しむ人に適しているタイトルはどれか?", "id": "tr-655-13-001", "answers": [ { "text": "本作", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『ビバ☆テイルズオブマガジンVol.2』での企画「あなたが選ぶ!『テイルズオブ』名シーンBest3」の本作の部分を執筆したライター・AOは、Best3の他に「独断と偏見」でキャラクタークエストのベスト3を紹介し、それらについての思い出を述べ、「『TOL』はある意味泣きゲー」と文を締めくくっている。シャーリィ役の広橋涼も、「台本で泣けるゲーム」と当時の思い出を語っている。\n\n海外のレビュー収集サイト「metacritic」では37のレビューから点数が計算され、100点満点中平均点は72点で、最高点は91点、最低点は33点だった。\n各レビューでは「ソウルキャリバーシリーズ」の技術を採用した戦闘システム、『キル・ビルVol.1』のアニメパートで絶賛された中澤一登によるキャラクターデザイン、オーケストラのBGM、幻想的な3Dグラフィックに好意的な評価が寄せられている。\n不満点としては、会話や演出によるゲーム全体の長さ、戦闘中の仲間のAIの性能がよくないこと、3Dのためにアクションが難しいこと、北米版のみの仕様である「キャラクタークエストのストーリー中にはボイスが存在しない」ことなどが挙げられている。", "qas": [ { "question": "『ビバ☆テイルズオブマガジンVol.2』の「あなたが選ぶ!『テイルズオブ』名シーンBest3」の本作の部分を執筆した人は誰ですか?", "id": "tr-655-14-000", "answers": [ { "text": "ライター・AO", "answer_start": 61, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "本作のキャラデザを担当したのは誰ですか?", "id": "tr-655-14-001", "answers": [ { "text": "中澤一登", "answer_start": 328, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「metacritic」で集められた本作のレビューの平均点は?", "id": "tr-655-14-002", "answers": [ { "text": "72点", "answer_start": 242, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "メタクリティックで集めた評点でもっとも高い点数は何点ですか?", "id": "tr-655-14-003", "answers": [ { "text": "91点", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "陪審制", "paragraphs": [ { "context": "陪審制(ばいしんせい、英:Jurysystem)は、刑事訴訟や民事訴訟の審理に際して、民間から無作為で選ばれた陪審員(ばいしんいん)によって構成される(裁判官を含まない)合議体が評議によって事実認定を行う司法制度である。\n\n陪審員の人数は6~12名である場合が多く、その合議体を「陪審」という。陪審は、刑事事件では原則として被告人の有罪・無罪について、民事事件では被告の責任の有無や損害賠償額等について判断する。\n\n現在は主に、アメリカ合衆国やイギリスをはじめとするコモン・ロー(英米法)諸国で運用されている。日本でも、1928年(昭和3年)から1943年(昭和18年)まで行われていた。なお、2009年に開始された日本の裁判員制度は、厳密な意味では陪審制とは異なるものである。", "qas": [ { "question": "陪審が評議によって事実認定を行う司法制度をどう呼びますか?", "id": "tr-656-00-000", "answers": [ { "text": "陪審制", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "陪審が被告人の有罪・無罪について判断するのはどのケースですか?", "id": "tr-656-00-001", "answers": [ { "text": "刑事事件", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本で陪審制が初めて導入されたのは何年ですか?", "id": "tr-656-00-002", "answers": [ { "text": "1928年", "answer_start": 260, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "陪審には、刑事事件で被疑者を起訴するか否かを陪審員が決定する大陪審(だいばいしん、grandjury、起訴陪審とも)と、陪審員が刑事訴訟や民事訴訟の審理に参加する小陪審(しょうばいしん、petitjury、審理陪審とも)がある。大陪審・小陪審の名称は、大陪審の方が小陪審よりも構成人数が多いことによる(伝統的に、大陪審は23人、小陪審は12人)。一般に陪審という場合は小陪審のことを指す。\n\n陪審員は、一般市民から無作為で選ばれ、刑事事件や民事事件の審理に立ち会った後、陪審員のみで評議を行い、結論である評決を下す。同様に一般市民が裁判に参加する制度として、参審制や、日本で実施されている裁判員制度があるが、陪審制は、裁判官が評議に加わらず、陪審員のみで事実認定と法の適用を行う点でこれらと異なる。\n\n陪審制は、イギリスで古くから発展し、アメリカ合衆国等に受け継がれたものである。\n\nアメリカでは、連邦や各州の憲法で刑事陪審及び民事陪審が保障されており、全事件数から見れば一部であるとはいえ、年に9万件以上の陪審審理が行われている。イギリスでも、刑事陪審が行われているが、現在、民事陪審はほとんど行われていない。その他、オーストラリア、カナダ、韓国、デンマーク、ニュージーランド、ロシア等で陪審制が行われている。\n\n日本でも戦前、1928年(昭和3年)から刑事陪審が実施されたが、1943年(昭和18年)に施行停止にされたまま現在に至っている。", "qas": [ { "question": "大陪審の構成人数は何人ですか?", "id": "tr-656-01-000", "answers": [ { "text": "23人", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本で実施されている一般市民が裁判に参加する制度は何ですか?", "id": "tr-656-01-001", "answers": [ { "text": "裁判員制度", "answer_start": 294, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "現在陪審制が実施されている主な国であるアメリカ(連邦、各州)及びイギリス(イングランド、ウェールズ)における一般的な陪審審理の手続は、以下のとおりである。\n\n陪審員の数は、伝統的には12人であるが、法域(国や州)によって、これより少ない人数としているところもある。陪審員は、一般市民の中から無作為で選任され、宣誓の後、法廷の中に設けられた陪審員席に着席して審理(トライアル)に立ち会う。\n\n陪審員の参加する審理においては、裁判官は法廷を主催して訴訟指揮(異議の裁定など)を行い、陪審員が偏見を与えられたり、不適切な証拠が法廷に持ち込まれたりすることを防ぐ。そして、裁判官は、審理が終わった段階で、陪審員に、どのような法が適用されるべきかという詳細な説示(instruction,charge)を行う。陪審は、法廷に提出された証拠と、裁判官の説示を踏まえ、事実認定とその事実に対する法の適用の双方について密室で評議した上で、評決(verdict)を答申する。民事陪審では、例えば被告の責任の有無だけでなく損害賠償額についても評決を答申する。刑事事件では、陪審が有罪・無罪を答申し、有罪の場合の量刑については裁判官が決定するのが原則である。評決は、伝統的に全員一致であることが必要であるが、現在では、法域によって特別多数決(11対1や10対2など)を認めるところもある。陪審員の意見が分かれ、全員一致や特別多数決の条件を満たさない場合は評決不能(hungjury)となり、新たな陪審の選任から裁判をすべてやり直す必要がある法域が多い。\n\n評決が出た場合、裁判官は、その評決に従って判決を下す。ただし、陪審員の判断が証拠を無視した著しく不適切なものであると判断したときに、裁判官が、陪審員の判断によらず判決を下すことができる場合がある。", "qas": [ { "question": "陪審員の人数は幾つですか?", "id": "tr-656-02-000", "answers": [ { "text": "12人", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "陪審員が選出される基準は何ですか?", "id": "tr-656-02-001", "answers": [ { "text": "無作為", "answer_start": 145, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "陪審の評議の評決が全員一致や特別多数決を満たさなかった場合、どう処理されますか?", "id": "tr-656-02-002", "answers": [ { "text": "評決不能", "answer_start": 616, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "陪審の起源は、少なくとも9世紀初頭のフランク王国で、国王の権利を確認するために地域の重要な者に証言させた制度(FrankishInquest)に遡ることができる。カール大帝の息子、ルートヴィヒ1世が、829年に、国王の権利について判断する際、その地方で最も優れた、最も信頼できる人物12人に宣誓の上陳述させるという制度を設けた。この制度がノルマン・コンクエスト(11世紀)を経てイングランドに伝えられたとされる。なお、こうして大陸からもたらされた制度とは別に、997年ころアングロ・サクソンの王エゼルレッド2世が、12人の騎士に、聖物に対して「いかなる無実の者も訴追することなく、いかなる有罪の者を隠すことはない」との宣誓をさせることとした法律にも、陪審の一つの起源を遡ることができるという説がある。\n\nいずれにしても、現代の陪審制の形成については、12世紀のイングランド王ヘンリー2世の設けた制度と、1215年のマグナ・カルタが大きく寄与したという点で多くの歴史家が一致している。ヘンリー2世は、司法制度に対する国王の支配を及ぼすために陪審を利用したと言われる。ヘンリー2世は、土地と相続の争いを解決するためにアサイズ(assize)という訴訟類型を設けた。そこでは、自由かつ法律上の資格のある男性12人が集められ、宣誓の下、誰が真の所有者ないし相続人であるかについて自らの知識を述べた。これは今日の民事陪審の原型といえる。ヘンリー2世は、刑事裁判でも、1166年のクラレンドン勅令において、後の大陪審に当たる訴追陪審を創設し、法律上の資格のある男たちに、宣誓の下、犯罪について疑わしい人物を誰か知らないか報告させた。当時、こうして訴追された者は神明裁判にかけられていた。", "qas": [ { "question": "陪審の起源はどの国からのものだとされていますか?", "id": "tr-656-03-000", "answers": [ { "text": "フランク王国", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘンリー2世が設けた今日の民事陪審の原型となる訴訟類型の名称は何ですか?", "id": "tr-656-03-001", "answers": [ { "text": "アサイズ", "answer_start": 506, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1215年のマグナ・カルタでは、同輩から成る陪審の判決によるのでなければ処罰されないという権利が宣言された(39条)。これは、貴族が王権を制限するためにジョン王に認めさせたものであった。同じ年、第4ラテラン公会議で、教皇インノケンティウス3世が、聖職者の神明裁判への参加を禁じたことにより、神明裁判を行うことが難しくなったこともあって、それに代わるものとして陪審による審理が広がっていった。\n\nそのころの陪審の役割は、まだ、証人として自らの知識を述べるというものであった。証拠に基づいて事実認定を行うという現代的役割を担うようになったのは、14世紀ないし15世紀になってからである。もっとも、その後も、17世紀ころまでは、陪審員は法廷に現れた証拠のほかに個人的な知識に基づいて評決を下すことができ、その点で中立性は強く要求されていなかった。", "qas": [ { "question": "マグナ・カルタに同輩から成る陪審の判決によるのでなければ処罰されないという権利が宣言されたのはどの王の時代ですか?", "id": "tr-656-04-000", "answers": [ { "text": "ジョン王", "answer_start": 76, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "聖職者の神明裁判への参加を禁じたのは誰ですか?", "id": "tr-656-04-001", "answers": [ { "text": "インノケンティウス3世", "answer_start": 110, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "また、初期の陪審制においては、陪審員が、有罪評決を答申するまで監禁されるということも行われていた。星室裁判所では、有罪評決を出すことを拒んだ陪審員に対し、土地や財産を没収して処罰したことが知られている。このような伝統からの転換点となったのが、1670年のブシェル事件(Bushel'sCase)であった。クエーカーであったウィリアム・ペンとウィリアム・ミードが集会煽動罪で訴追された際、有罪評決を出すことを拒んだ12人の陪審員は、食べ物や水も与えられずに2晩監禁され、それでも無罪評決を撤回しなかったため、罰金を納めるまでの間懲役刑に処せられた。ブシェルをはじめとする4人の陪審員は罰金を納めることを拒否し、ヘイビアス・コーパスの訴えを提起したところ、高等法院王座部の首席判事は、陪審は事実の認定について他からの干渉を受けないという画期的な判断をしてブシェルらを釈放した。\n\nこうして、17世紀ころには、陪審は被告人にとって、苛酷な刑罰からの防護壁という重要な位置付けを与えられるようになった。古くからのイングランドの刑罰は、重罪事件で有罪になればほとんどが死刑に処せられていたが、中世から18世紀にかけての裁判記録には、陪審員が多くの重罪事件の被告人を無罪としたり、烙印や鞭打ち程度で済む、より軽い罪としたりしたことが記されている。", "qas": [ { "question": "陪審が他からの干渉を受けなくなったのは何年からですか?", "id": "tr-656-05-000", "answers": [ { "text": "1670年", "answer_start": 121, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ブシェル事件での被告人は誰ですか?", "id": "tr-656-05-001", "answers": [ { "text": "ウィリアム・ペンとウィリアム・ミード", "answer_start": 161, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブシェル事件で無罪判決を出した陪審員は何人ですか?", "id": "tr-656-05-002", "answers": [ { "text": "12人", "answer_start": 206, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アメリカも、植民地時代からイギリスの陪審制を継受し、13邦ともに憲法で陪審制を保障していた。アメリカ植民地では、陪審制は、当初は重要な地位を占めていたわけではないが、18世紀半ばにイギリスの支配に対する批判が高まってくるにつれて、本国の圧制に抵抗する手段としての役割を果たすようになった。植民地においては、イギリス国王の任命した検察官が訴追を行い、国王が任命した裁判官が裁判を主宰していた中、陪審だけが同じ植民地人から構成されていたからである。1735年には、ニューヨーク植民地の総督に対する批判的記事により文書煽動罪で起訴された新聞出版業者のジョン・ピーター・ゼンガーに、事実関係に争いがなかったにもかかわらず、ニューヨークの陪審が無罪評決を下した。また、イギリスは、植民地の貿易を支配するため、植民地を出入りする商品はイギリスの船舶で運ばなければならないなどとする航海条例に基づく取締りを行ったが、陪審はしばしば無罪評決を出した。これに対し、イギリスは陪審審理を用いない特別裁判所を設置したが、これに対する不満も、アメリカ独立戦争に向かう一つの要因となった。アメリカ独立宣言でも、イギリス国王が「多くの事件で、陪審による審理の利益を奪ったこと」を非難している。", "qas": [ { "question": "18世紀半ばにアメリカの陪審はどの人たちで構成されますか?", "id": "tr-656-06-000", "answers": [ { "text": "植民地人", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジョン・ピーター・ゼンガーが起訴された罪状は何ですか?", "id": "tr-656-06-001", "answers": [ { "text": "文書煽動罪", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1788年に発効したアメリカ合衆国憲法では、刑事陪審が保障された(3条2節3項)。このとき民事陪審の保障が入らなかったのは、陪審が地元の訴訟当事者に有利に判断しがちであるということが懸念されたためであるが、民事陪審の保障に対する州の要求は強く、1791年の憲法修正条項(権利章典)で刑事陪審及び民事陪審の権利が保障された(修正6条、7条)。同時に、大陪審も保障された(修正5条)。\n\n当初は、陪審員になることができるのは十分な資力のある白人男性に限られていたが、1868年に憲法修正14条が批准された後、連邦最高裁は陪審員の資格を白人男性に限る州法は修正14条の平等保護条項に違反するとして、人種による差別を禁止した。ただ、その後も、陪審員選任の過程で黒人が排除されるという実態は根強く残った。女性も、1920年に選挙権が付与されたものの、男性と平等の条件で陪審員を務めることができるようになったのは1975年になってからであった。", "qas": [ { "question": "アメリカ合衆国憲法で民事陪審の保障されたのは何年ですか?", "id": "tr-656-07-000", "answers": [ { "text": "1791年", "answer_start": 122, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1791年に陪審員になりうる資格は何ですか?", "id": "tr-656-07-001", "answers": [ { "text": "十分な資力のある白人男性", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アメリカで女性が選挙権を得て、男性と平等の条件で陪審員を務めることができるようになったのは何年のことですか?", "id": "tr-656-07-002", "answers": [ { "text": "1975年", "answer_start": 400, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "陪審が事実認定と法の適用を行う際、その前提となる法は裁判官の説示に従うこととされている。しかし、陪審の評決は、結論のみを示し、そこに至る理由を示さない一般評決が原則であるため(ただしアメリカの民事陪審では個別評決もある)、陪審が故意に法を無視した評決を下すことが事実上可能である。これを陪審による法の無視(法の無効化とも訳す。jurynullification)という。典型的なのが、被告人の有罪を立証する証拠が十分あるにもかかわらず、その行為を処罰する法自体が正義に反すると陪審が考えた場合に、無罪の評決を出すような場合である。例えば、前記のジョン・ピーター・ゼンガー事件、禁酒法時代にアルコール規制法違反で訴追された被告人に無罪評決が多く出された例、黒人や公民権運動の関係者に対する殺害等で訴追された白人至上主義者に、全員白人の陪審が無罪評決を出した例などが挙げられている。\n\n陪審による法の無視は、民事・刑事いずれでも起こり得るが、特に刑事事件で陪審が十分な証拠にもかかわらず無罪評決を下した場合、英米法では二重の危険の禁止により検察官の上訴は許されないので、上級審が法適用の誤りを理由に再審理を命じるなどして訂正する手段がない。", "qas": [ { "question": "陪審が故意に法を無視した評決を下すことをどう呼びますか?", "id": "tr-656-08-000", "answers": [ { "text": "陪審による法の無視", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "英米法で上級審が陪審による法の無視による法適用の誤りを理由に再審理を命じることができない理由は?", "id": "tr-656-08-001", "answers": [ { "text": "二重の危険の禁止", "answer_start": 457, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "陪審による法の無視については、法律問題への陪審による不当な介入であり、当然許されないという否定的な見方と、民間人の価値観を反映することも法の健全な発展・改革にとって意味があるという肯定的な見方がある。中には、陪審には悪法を無視する権限があるとして、積極的にこれを呼びかける団体もある。\n\nアメリカの連邦最高裁の判決には、「陪審は、過酷な法を執行することを拒否することにより、より高次の正義を与えることもできる」という、陪審による法の無視を想定した表現もある。一方、連邦控訴裁判所の判決には、「陪審による法の無視は、説示された法を適用するという陪審員の宣誓に違反するものである」として、法の支配の観点から、陪審による法の無視は望ましくなく、陪審員が証拠の有無にかかわらず無罪としようとしていることが分かった場合には裁判官はその陪審員を解任できるとの判断を示したものがある。少なくとも、陪審が法を無視することができるということを、裁判官が説示の際に述べるのは不適当であるという考え方が一般的である。", "qas": [ { "question": "陪審による法の無視は法のどの原則と矛盾しているか?", "id": "tr-656-09-000", "answers": [ { "text": "法の支配", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "陪審員が個人の知識をもとに裁判を行っていた古くの陪審とは異なり、現代の陪審は法廷に現れた証拠のみによって判断しなければならず、中立公平性が強く要求される。しかし、審理(トライアル)前や審理中の報道によって将来の陪審員又は現在の陪審員に偏見が与えられると公平な審理が妨げられるので、報道による陪審への影響をいかに防ぐかが問題となる。\n\nイギリス(イングランド、ウェールズ)では、評決が下されるまでの間、事件に関する報道を厳しく制限することにより、陪審への影響の防止を図っている。すなわち、制定法やコモン・ローにより、マスメディアの事件報道に対し、重い罰金(場合によっては拘禁)などの制裁を伴う強い規制を課している。審理前には、関係者の名前や予備審問の日時・場所のような最低限の情報しか報道してはならない。予備審問等は一般に公開されているものの、その内容を広く伝えることは規則によって禁じられている。審理が始まった後も、報道は手続を正確に伝えるものでなければならず、現在又は将来の手続(まだ審理が始まっていない別件の手続も含む)に害を及ぼすようなものであってはならない。これらに違反した場合は法廷侮辱罪による処罰の対象となり(実際上、処罰されるのは審理に深刻な影響を与える実質的な危険がある場合に限られている)、時々、法廷侮辱罪による処罰が行われる例がある。スコットランド、アイルランドも概ね同様の規制を敷いており、オーストラリア、ニュージーランド、カナダでは、これより緩やかな規制をしている。", "qas": [ { "question": "昔の陪審員にもっとも求められた価値は何ですか?", "id": "tr-656-10-000", "answers": [ { "text": "個人の知識", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "現代の陪審員に一番要求されるものは何ですか?", "id": "tr-656-10-001", "answers": [ { "text": "中立公平性", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "イギリスで裁判前の報道規制の違反に適用される罪状は何ですか?", "id": "tr-656-10-002", "answers": [ { "text": "法廷侮辱罪", "answer_start": 494, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "これに対し、アメリカでは、報道の自由(憲法修正1条)の観点から、マスメディアに対する報道規制には、厳しい憲法上の制約が課せられている。もちろん、アメリカでもマスメディアによる陪審員への影響は問題となり、連邦最高裁は、関係者から事件に関する様々な情報がマスメディアに流された事案で、被告人の公平な審理を受けるというデュー・プロセスの権利が侵害されていると判断し、裁判官は適切な措置を取るべきであったとした。しかし、連邦最高裁は、1976年のネブラスカプレス事件判決で、マスメディアに対する報道禁止は表現に対する事前規制であることから、厳格な審査基準で合憲性が審査されるとしている。したがって、このような報道禁止が憲法上許されることはほとんど考えられないとされる。また、被告人の前科や、まだ証拠能力を認められていない被告人の自白などを報道することに刑事罰を科す事後規制も、厳格な審査基準で審査される。さらに、報道による将来の陪審員に対する影響を防ぐために予備審問等のトライアル前手続を非公開にすることも、限られた場合にしか認められない。予備審問手続へのアクセスには憲法修正1条の権利が及ぶためである。\n\nしたがって、アメリカでは、報道による偏見の流布を防ぐための方法としては、弁護士や検察官のマスメディアに対する発言を制限する法曹倫理規定が大きな役割を果たしている。ほとんどの州では、アメリカ法律家協会(ABA)が作成した法曹倫理模範規定の三つのバージョンのいずれかを採用している。これは、記者会見やインタビューなど、弁護士の法廷外でのメディアに対する発言を規制するものであり、これに違反すると懲戒処分を受けることとなる。連邦司法省でも、検察官を含む職員を対象に同様のルールを定めている。", "qas": [ { "question": "アメリカで事件についてマスメディアに対する報道規制ができない憲法上の根拠は何ですか?", "id": "tr-656-11-000", "answers": [ { "text": "報道の自由", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ネブラスカプレス事件判決は何年の出来事ですか?", "id": "tr-656-11-001", "answers": [ { "text": "1976年", "answer_start": 213, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカの法曹倫理模範規定はどこで作成されたものですか?", "id": "tr-656-11-002", "answers": [ { "text": "アメリカ法律家協会", "answer_start": 590, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アメリカでは、アメリカ合衆国憲法修正第1条により、審理前の報道が自由に行われるのと同様、審理後に陪審員が評議の内容を話すのも自由であり、評議の体験談をタブロイド紙、出版社、テレビ局などに売る者さえいる。このため、注目を集める事件などでは、内幕話を売ろうという思惑によって陪審員の行動がゆがめられてしまったり、記者が陪審員らに強引に取材をしたりするという問題もある。一部の裁判所では、例外的に、報道機関に対し、陪審員からの取材内容についての規制を課すこともあるが、陪審員自身に対する規制を課すことはほとんど行われない。\n\n一方、イングランド、ウェールズ、北アイルランド、カナダでは、陪審員が評議の内容を明らかにすることは禁止されている。イングランド・ウェールズでは1981年法廷侮辱罪法8条により評議内容を聞き出したり漏らしたりする行為を罰する明文規定を設けたが、これに対しては陪審制についての学術的研究の妨げになっているとの声もある。オーストラリアでは、報道機関が審理終了後に陪審員に接近する行為は法廷侮辱罪で処罰されるが、陪審員個人が自分から無償で話をすることは許されている。ニュージーランドでも、判例法により、報道機関が陪審員にインタビューをする行為は法廷侮辱罪で処罰される。", "qas": [ { "question": "評議の体験談などの本を出版するなどの行為の根拠になる法条は何ですか?", "id": "tr-656-12-000", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国憲法修正第1条", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オーストラリアで審理終了後、陪審員にインタビューを申し出るのはどの罪状で罰されますか?", "id": "tr-656-12-001", "answers": [ { "text": "法廷侮辱罪", "answer_start": 449, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アメリカ合衆国では、重罪で訴追された者は、陪審による審理を受ける憲法上の権利を有する。すなわち、アメリカ合衆国憲法3条では、「すべての犯罪の審理(トライアル)は陪審によって行われる。審理はその犯罪が行われた州で行われる。」と規定されており、さらに修正6条では「すべての犯罪の訴追において、被告人は、犯罪の行われた州及び地区の公平な陪審による、迅速かつ公開の審理を受ける権利を有する。」と規定している。これらの規定は、直接的には連邦の裁判所に適用されるものだが、修正14条1節のデュー・プロセス(適正手続)に陪審制の保障も含まれることによって州にも適用されるとするのが連邦最高裁の判例である(ダンカン対ルイジアナ州事件)。\n\n合衆国憲法上は、軽微な犯罪については陪審審理の権利はないとされ(ダンカン判決)、自由刑の上限が6か月を超えるか否かが基準とされている。すなわち、上限が6か月以下の自由刑に当たる罪の場合には、陪審審理は合衆国憲法上要求されておらず、そのような事件では各州が陪審審理を許すか否かを選択できる。\n\n合衆国憲法とは別に、ほとんどの州の憲法でも、刑事陪審の権利を保障している。\n\nなお、連邦最高裁は、被告人は、有罪か無罪かの点だけでなく、制定法や量刑ガイドラインが原則的に設けている上限を超えて被告人の刑を加重するための事実についても、陪審審理を受ける権利を有していると判断した。", "qas": [ { "question": "重罪で訴追された者が陪審による審理を受ける憲法上の権利を有すると記されている条項はどこですか?", "id": "tr-656-13-000", "answers": [ { "text": "修正6条", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2ヶ月の自由刑に値する事件の陪審審理の可否を決定するのは?", "id": "tr-656-13-001", "answers": [ { "text": "各州", "answer_start": 436, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "陪審員の人数は、連邦裁判所では原則として12人であるが、当事者双方が合意したときはそれより少ない構成とすることができる。州によっては、12人より少ない人数としているところもあり、また被告人に12人未満の構成を選択することを認める州もある。合衆国憲法上、6人にまで減らした構成も許されるとされるが、重罪事件で5人の構成とすることは被告人の陪審審理を受ける権利を侵害するもので、違憲であるとされた。\n\n連邦裁判所では、陪審員の選任方法は連邦制定法によって定められている。まず、有権者名簿その他の名簿をもとに、陪審員抽選器を用いて陪審員候補者が無作為に必要な数だけ抽出され、その候補者らには、陪審員の資格があるかを判断するための書類(jurorqualificationform)が送られる。(1)18歳以上でその管轄地域に1年以上居住しているアメリカ市民ではない場合、(2)英語の読み書きができない場合、(3)英語を話せない場合、(4)精神的・身体的疾患のため陪審員の任務を行うことができない場合、(5)係属中の刑事事件又は重罪の前科がある場合は欠格事由となり、裁判官が欠格事由の有無を判断する。欠格事由がない者は、辞退が認められる場合を除き、有資格者となり、その中から必要な時期に陪審員候補者が選ばれ、召喚状(summons)が発付される。多くの州でも同様の手続をとっている。", "qas": [ { "question": "6人未満の人で陪審を構成するのは誰に対する違法行為ですか?", "id": "tr-656-14-000", "answers": [ { "text": "被告人", "answer_start": 164, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "連邦裁判所の陪審員の選任方法はどこに記されていますか?", "id": "tr-656-14-001", "answers": [ { "text": "連邦制定法", "answer_start": 216, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "陪審員の可否を決定するのは誰ですか?", "id": "tr-656-14-002", "answers": [ { "text": "裁判官", "answer_start": 479, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "こうして集められた陪審員候補者団(venire)の中から陪審員を選ぶ際には、裁判官又は当事者(検察官・弁護人)から陪審員候補者に対する尋問が行われる。これを予備尋問(voirdire:ヴワー・ディア)という。その結果をもとに、各当事者は、陪審員候補者が偏見を持っているおそれがあるとして理由付き忌避(challengeforcause)の申立てをすることができる。これには人数の制限はないが、裁判官が申立てに根拠ありと認めた場合に限り、その陪審員候補者は除外される。また、各当事者は、一定の数に限り理由なし忌避を求めることができる。州裁判所でも、おおむね同様の手続であるが、実際の選任手続のあり方は州によって異なる。", "qas": [ { "question": "陪審員候補者団裁判官又は検察官・弁護人から行われる尋問の手続きをどう呼びますか?", "id": "tr-656-15-000", "answers": [ { "text": "予備尋問", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "裁判官は、審理が終わった段階で、陪審に対する説示を行う。説示の中では、(1)適用すべき実体法、(2)どちらが立証責任を負うかや、立証責任が果たされるに必要な証拠の程度などの証拠法の原則、(3)評決に達するための手続について説明される。その後、陪審は法廷から評議室(陪審員室)に下がり、非公開で評議を行う。裁判官、訴訟当事者を含め、陪審員以外の者は誰も評議の内容を見聞きすることはできない。評議は複数日にわたることもある。その結果、評決に達した場合は、法廷に戻り、陪審員長又は書記官が評決を読み上げる。\n\n連邦及び各州(6州を除く)では、陪審の有罪又は無罪の評決には全員の一致が必要である。評決が成立しない場合は評決不能(hungjury)となり、再度トライアルをやり直さなければならない。合衆国憲法上は、12人の陪審員のうち10人の多数決による評決を認める州法も合憲とされたが、6人の構成の場合には全員一致の評決でなければならず、5人の多数決による評決は違憲であるとされた。\n\n刑事事件では、個々の事実についての認定を示す個別評決(specialverdict)はどの法域でも行われておらず、有罪か無罪かの結論を示す一般評決(generalverdict)である。\n\n陪審から、評決に達することができないとの報告を受けた場合、裁判官は、場合によって再評議を命じたり再考を促す追加説示をしたりすることもできるが、最終的には評決不能(hungjury)による審理無効(mistrial)となり、新たな陪審の選任からの再審理(retrial)を行うこととなる。", "qas": [ { "question": "陪審の評議が行われる場所はどこですか?", "id": "tr-656-16-000", "answers": [ { "text": "評議室", "answer_start": 128, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "全員の一致が必要がない州はどれくらいいますか?", "id": "tr-656-16-001", "answers": [ { "text": "6州", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "合衆国憲法上、評決の成立に必要な最低人数は何人ですか?", "id": "tr-656-16-002", "answers": [ { "text": "6人", "answer_start": 389, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "刑事事件で行われる評決のタイプはどれですか?", "id": "tr-656-16-003", "answers": [ { "text": "一般評決", "answer_start": 508, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "陪審が有罪の評決をした場合、裁判官は量刑を行い、判決を言い渡す。陪審は有罪又は無罪の判断を行い、有罪の場合の量刑は裁判官が判断するのが原則であるが、州によっては、特に死刑事件など一部の事件で、陪審が死刑適用の当否や刑期についての意見を述べることができるなど、陪審の判断が量刑を決定ないし左右することがある。\n\n有罪の評決の場合、裁判官が被告人の申立てに基づき、必要な票数が満たされているかを調べるため、個々の陪審員に対し評決に賛同しているか否かを確認すること(polling)が可能である。\n\n陪審の無罪の評決を裁判官が覆すことは許されないが、陪審が有罪の評決をした場合に、裁判官が被告人の申立てに基づき無罪判決(judgmentofacquittal)を下すことは許されている。", "qas": [ { "question": "原則として量刑を判断するのは誰ですか?", "id": "tr-656-17-000", "answers": [ { "text": "裁判官", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "pollingは誰の申し出で実施されますか?", "id": "tr-656-17-001", "answers": [ { "text": "被告人", "answer_start": 168, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "裁判官が被告人の申立てに基づき評決を覆すことができないのは評決がどんな場合ですか?", "id": "tr-656-17-002", "answers": [ { "text": "無罪", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "民事事件で陪審審理を受ける権利は、アメリカ合衆国憲法修正7条で保障されている。すなわち、「コモン・ロー上の訴訟において、訴額が20ドルを超えるときは、陪審による裁判を受ける権利は維持(preserve)されなければならない。陪審によって認定された事実は、コモン・ローの準則によるほか、合衆国のいずれの裁判所においても再審理されることはない。」と定められている。\n\n修正7条は、陪審審理を受ける権利を新たに創設するものではなく、1791年(修正7条を含む権利章典が批准された年)の時点のコモン・ローにおいて存在した陪審審理を受ける権利を維持するものである。ここで、コモン・ローとは、アメリカがその時点でイギリスから受け継いだ法制度を意味する。1791年当時のイギリスでは、訴訟はコモン・ローの訴訟とエクイティ(衡平法)の訴訟に分かれていた。コモン・ローの訴訟においては陪審審理を受ける権利が認められていたが、エクイティの訴訟では認められていなかった。1938年に制定された連邦民事訴訟規則2条は、「民事訴訟という一つの訴訟形式のみがある」と規定しており、コモン・ローの訴訟とエクイティの訴訟の区別がなくなったが、今日でも、1791年当時コモン・ロー上のものであった訴訟には陪審審理を受ける権利が認められ、同じくエクイティ上のものであった訴訟には陪審審理を受ける権利がない。もっとも、連邦民事訴訟規則によれば、裁判所が裁量で陪審を用いることが許されている。", "qas": [ { "question": "アメリカ合衆国憲法修正7条による民事事件で陪審審理を受ける権利が保障される訴額の基準はいくらですか?", "id": "tr-656-18-000", "answers": [ { "text": "20ドル", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コモン・ローの訴訟とエクイティの訴訟の区別がなくなったのは何年ですか?", "id": "tr-656-18-001", "answers": [ { "text": "1938年", "answer_start": 424, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "審理が終わってからの説示から評議への流れは前述の刑事陪審と同様である。\n\nただし、連邦裁判所の場合、裁判官は、当事者の申立てに基づき、合理的な陪審であれば相手方に有利な判断をするだけの証拠はないであろうと判断するときは、陪審に評議を求める前に法律問題としての判決(judgmentasamatteroflaw)を下して一審手続を終局させることができる。\n\nそれ以外の場合、裁判官は、陪審に対して評議の上評決を答申するよう求めるが、その際には、原告勝訴か被告勝訴か、また原告勝訴の場合は救済内容(賠償額等)についての結論だけを答申する一般評決(generalverdict)を求めるのが一般的である。しかし、裁判所は、各争点についての結論をそれぞれ答申する個別評決(specialverdict)を求めることもできる。\n\n陪審の評決は全員一致であることが求められるのが普通であるが、連邦裁判所では、当事者が合意した場合は全員一致でなくても評決をすることができる。州裁判所でも、場合によって、全員一致を要求しないところが多い。", "qas": [ { "question": "民事事件の陪審審理で全員一致でなくても評決をすることができる条件は何ですか?", "id": "tr-656-19-000", "answers": [ { "text": "当事者が合意した場合", "answer_start": 398, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "民事事件の陪審審理の評決で救済内容について結論を出さなくてもいいのはどっちか?", "id": "tr-656-19-001", "answers": [ { "text": "被告勝訴", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { 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