{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "カナダ侵攻作戦", "paragraphs": [ { "context": "カナダ侵攻作戦(カナダしんこうさくせん、英:InvasionofCanada)は、アメリカ独立戦争初期の1775年から1776年にかけて、新設間もない大陸軍の主導によって行われた最初の作戦行動である。作戦の目的はイギリス領ケベックを軍事支配し、フランス語を話すカナダ人に13植民地の側で革命に加わるよう説得することだった。", "qas": [ { "question": "カナダ侵攻作戦は、どの戦争中に行われた作戦のことなの?", "id": "tr-562-00-000", "answers": [ { "text": "アメリカ独立戦争", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カナダ侵攻作戦は、何年から何年にかけて行われた作戦ですか?", "id": "tr-562-00-001", "answers": [ { "text": "1775年から1776年", "answer_start": 52, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カナダ侵攻作戦とは、どこを支配する目的を持った作戦だったか?", "id": "tr-562-00-002", "answers": [ { "text": "ケベック", "answer_start": 111, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時、ケベックは、どの国により占領されていたか?", "id": "tr-562-00-003", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 106, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "大陸軍から2つの遠征隊が派遣された。1隊はリチャード・モントゴメリー将軍の指揮で1775年の8月下旬にタイコンデロガ砦から出発し、9月半ばにモントリオールの南にある主要防御地点であるセントジョンズ砦の包囲を始めた。11月にこの砦を落とされた後で、イギリス軍のガイ・カールトン将軍はモントリオールを放棄してケベック市に逃亡した。モントゴメリーはモントリオールを占領したときにカールトン将軍をもう少しで捕まえるところだった。もう1隊はベネディクト・アーノルドの指揮でマサチューセッツ湾植民地のケンブリッジを出発し、メインの荒野を艱難辛苦して通り抜けてケベック市に達した。荒野を通る大変な行軍のために残っている兵士は飢えており、物資や装備も欠けていた。", "qas": [ { "question": "大陸軍から派遣された2つの遠征隊のうち、ケンブリッジから出発した遠征隊の指揮官は、誰なの?", "id": "tr-562-01-000", "answers": [ { "text": "ベネディクト・アーノルド", "answer_start": 215, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大陸軍から派遣された2つの遠征隊のうち、セントジョンズ砦を包囲した遠征隊の指揮官は、誰ですか?", "id": "tr-562-01-001", "answers": [ { "text": "リチャード・モントゴメリー", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "イギリス軍は、どこへ逃げ出したか?", "id": "tr-562-01-002", "answers": [ { "text": "ケベック市", "answer_start": 152, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "モントリオールからイギリス軍を追い出したのは、誰の率いる遠征隊だったか?", "id": "tr-562-01-003", "answers": [ { "text": "リチャード・モントゴメリー", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2隊は12月にケベック市の前で合流し、1775年の大晦日、暴風雪の中でケベック市を強襲した。この戦闘でモントゴメリーは戦死し、アーノルドは負傷したが、市を守るイギリス軍にはほとんど損失が無く、大陸軍にとって悲惨な敗北になった。その後アーノルドは無益な市の包囲を始めたが、その間に行われた情報宣伝活動によってロイヤリストを支持する声が高まり、またモントリオールでのデイビッド・ウースター将軍の失政には大陸軍を中傷する者だけでなく支持する者からも不満の声が上がった。", "qas": [ { "question": "2隊はどこで合流したの?", "id": "tr-562-02-000", "answers": [ { "text": "ケベック市", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2隊の二人の指揮官のうち、この戦闘で戦死したのは、誰ですか?", "id": "tr-562-02-001", "answers": [ { "text": "モントゴメリー", "answer_start": 51, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大陸軍とイギリス軍のうち、この戦闘による損傷があまり大きくなかったのは、どちらか?", "id": "tr-562-02-002", "answers": [ { "text": "イギリス軍", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "負傷はしたが生き残ったアーノルドは、どこの包囲をつづけたか?", "id": "tr-562-02-003", "answers": [ { "text": "ケベック市", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "イギリス軍は1776年5月にケベック地方の戦力を補強するために、ジョン・バーゴイン将軍とドイツ人傭兵を含む数千名の援軍を派遣した。増援を得たカールトンは大陸軍に反撃を試み、天然痘で弱り組織が乱れていた大陸軍を7月にはタイコンデロガ砦まで押し戻した。一方アーノルド指揮下の大陸軍はイギリス軍の歩みを遅らせることに成功し、1776年の間はタイコンデロガ砦への攻撃をできないようにした。この侵攻作戦の終了後、バーゴインがハドソン川流域の支配を目指した1777年のサラトガ方面作戦に続いた。", "qas": [ { "question": "ケベック地方への援軍が派遣されたのは、いつのことなの?", "id": "tr-562-03-000", "answers": [ { "text": "1776年5月", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ケベック地方への援軍には、ドイツ人傭兵と誰の率いる部隊が含まれましたか?", "id": "tr-562-03-001", "answers": [ { "text": "ジョン・バーゴイン", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サラトガ方面作戦は、何年に行われた作戦であるか?", "id": "tr-562-03-002", "answers": [ { "text": "1777年", "answer_start": 222, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サラトガ方面作戦は誰が行った作戦なのか?", "id": "tr-562-03-003", "answers": [ { "text": "ジョン・バーゴイン", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "大陸軍の本軍事作戦の目的地であるイギリス領ケベックは、1775年の時点では「カナダ」と呼ばれることが多かった。例えば第二次大陸会議がフィリップ・スカイラー将軍に出した侵攻作戦の承認文では、もしも「カナダ人にとって不愉快でない」のであれば、「即座にセントジョン砦、モントリオールおよびかの国の如何なる所も占領すること」、そして「カナダでは」植民地の「平和と安全を促進」する「如何なる手段も追求すること」という文言があった。この作戦を詳細に語る比較的現代の歴史書であっても、その表題にカナダを使っている。イギリスがケベックと呼んだこの領土は、フランスがフレンチ・インディアン戦争を正式に終えパリ条約でイギリスに同地を割譲する1763年までは、フランス領カナダ植民地と呼ばれていた(フランス軍は1760年にこの植民地をイギリス軍に明け渡していた)", "qas": [ { "question": "1775年の時点で「カナダ」と呼ばれることが多かったのは、どこなの?", "id": "tr-562-04-000", "answers": [ { "text": "イギリス領ケベック", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イギリス領ケベックを「カナダ」呼んだという例として、挙げられているのは、誰が出した侵攻作戦の承認文ですか?", "id": "tr-562-04-001", "answers": [ { "text": "第二次大陸会議", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "どの条約を基点に、ケベックを占領する国家が再びイギリスに変わったか?", "id": "tr-562-04-002", "answers": [ { "text": "パリ条約", "answer_start": 293, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1762年の時点でケベックを占領していたのは、どの国か?", "id": "tr-562-04-003", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 269, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1775年の春、レキシントン・コンコードの戦いを契機に、アメリカ独立戦争が始まった。だが戦況はその後すぐに膠着し、ボストンのイギリス軍に対する包囲戦が続いた。1775年5月、イギリス軍のタイコンデロガ砦は防御が手薄で、しかも重火器(大砲や火薬)が置いてあることに気付いたベネディクト・アーノルドとイーサン・アレンがタイコンデロガ砦とクラウンポイント砦を占領し、セントジョンズ砦を襲撃した。これらの砦は全て当時はほんのわずかな手勢で守られていた。タイコンデロガ砦とクラウンポイント砦は6月にベンジャミン・ハインマンの指揮するコネチカット民兵1,100名によって守られることになった。", "qas": [ { "question": "アメリカ独立戦争が始まったのは、何年なの?", "id": "tr-562-05-000", "answers": [ { "text": "1775年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカ独立戦争勃発のきっかけとなるのは、何ですか?", "id": "tr-562-05-001", "answers": [ { "text": "レキシントン・コンコードの戦い", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "タイコンデロガ砦とクラウンポイント砦、セントジョンズ砦のうち、ベネディクト・アーノルドとイーサン・アレンが率いる部隊により襲撃されたのが最も遅いのは、どこか?", "id": "tr-562-05-002", "answers": [ { "text": "セントジョンズ砦", "answer_start": 180, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "タイコンデロガ砦とクラウンポイント砦、セントジョンズ砦を襲撃したのは、ベネディクト・アーノルドと誰が率いる部隊だったか?", "id": "tr-562-05-003", "answers": [ { "text": "イーサン・アレン", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1774年に会した第一次大陸会議は、10月26日付けの公式書簡で1775年5月に開催される第二次会議にフランス系カナダ人も加わること、つまりケベック植民地も革命に参加することを招請した。第二次大陸会議も1775年5月にそのような2度目の手紙を送ったが、どちらの手紙にも実質的な反応は無かった。", "qas": [ { "question": "第一次大陸会議は、何年に開催されたの?", "id": "tr-562-06-000", "answers": [ { "text": "1774年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "第二次大陸会議は、いつ開催されると決まっていましたか?", "id": "tr-562-06-001", "answers": [ { "text": "1775年5月", "answer_start": 32, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ケベックへの革命参加招請が送られたのは、第何次大陸会議でか?", "id": "tr-562-06-002", "answers": [ { "text": "第一次大陸会議", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "最初の大陸会議は、何年に開かれたか?", "id": "tr-562-06-003", "answers": [ { "text": "1774年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "タイコンデロガ砦の奪取に続いてアーノルドとアレンは、イギリス軍がアメリカ植民地を分割しようという試みに対してタイコンデロガ砦を防御拠点とする必要性を主張し、併せてケベックの守りが薄いことも指摘した。彼らは、1,200から1,500名程度の小さな軍隊でもケベック植民地からイギリス軍を追い出すには十分なことを示して、それぞれ別にケベックに対する遠征を提案した。大陸会議は当初タイコンデロガなどの砦の放棄を命令し、ニューヨークとコネチカットの各植民地には基本的に防衛の目的で軍隊と物資を出すように促したが、ニューイングランドやニューヨーク植民地の一般大衆からは大陸会議にその姿勢を変えるよう抗議の声が上がった。このときケベック総督のガイ・カールトンがセントジョンズ砦の防御を強化しており、ニューヨーク植民地北部のイロコイ族インディアンを巻き込もうとしていることも明らかになり、大陸会議はより積極的な姿勢が必要であるとの決断を下した。1775年6月27日、大陸会議はフィリップ・スカイラー将軍にその地域を調査するよう認め、適切と考えられるならば侵略を始めることを承認した。指揮権を与えられなかったベネディクト・アーノルドはボストンに向かい、ジョージ・ワシントン将軍を説得して、アーノルドの指揮で別働隊をケベックに向けて派遣させることにした。", "qas": [ { "question": "アーノルドたちと大陸会議は、どこ防衛をめぐって対立したの?", "id": "tr-562-07-000", "answers": [ { "text": "タイコンデロガ砦", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アーノルドとともにタイコンデロガ砦を防御拠点とする必要があると主張したのは、誰ですか?", "id": "tr-562-07-001", "answers": [ { "text": "アレン", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フィリップ・スカイラーは大陸会議からいつ指揮権を与えられ、ボストンに向かったか?", "id": "tr-562-07-002", "answers": [ { "text": "1775年6月27日", "answer_start": 414, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジョージ・ワシントンは、この時、どこにいたか?", "id": "tr-562-07-003", "answers": [ { "text": "ボストン", "answer_start": 508, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カールトン将軍はセントジョンズ砦の襲撃があった後に、南から侵略される危険性を痛切に感じ取り、ボストンにいるトマス・ゲイジ将軍からの援軍を要請した。カールトンはモントリオールとケベック市の防衛のために地元の民兵隊立ち上げに取り掛かったがほとんど成功しなかった。カールトンはフランス系住民が自発的に植民地の防衛にあたることを期待していたが、当の住民の大多数は英米どちらの側にもつかず、中立であることを望んでいたためである。イギリス側はタイコンデロガ砦が奪取されセントジョンズ砦が襲われたことに反応して、モントリオールの南、リシュリュー川沿いにあるセントジョンズ砦を守る為に700名の部隊を派遣し、シャンプレーン湖で使う為の船舶建造を命令し、またその防衛を援けさせるためにモホーク族インディアン約100名も兵士として採用した。主な防御はセントジョンズ砦に頼っていたので、カールトン自身は僅か150名の正規兵を連れただけでモントリオールの防衛を監督した。ケベック市の防衛は副総督のヘクター・クラマヘの指揮に委ねた。", "qas": [ { "question": "カールトンはモントリオールとどこの防衛のために、地元の民兵隊立ち上げに取り掛かったの?", "id": "tr-562-08-000", "answers": [ { "text": "ケベック市", "answer_start": 87, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トマス・ゲイジは、この時、どこにいましたか?", "id": "tr-562-08-001", "answers": [ { "text": "ボストン", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カールトンは、南からの侵略に備えるため、誰に応援を要請したか?", "id": "tr-562-08-002", "answers": [ { "text": "トマス・ゲイジ", "answer_start": 53, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "タイコンデロガ砦とセントジョンズ砦のうち、襲撃を受けた時期がより早いのは、どちらか?", "id": "tr-562-08-003", "answers": [ { "text": "タイコンデロガ砦", "answer_start": 215, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ニューヨーク植民地モホーク川流域に住むロイヤリスト(王党派)でイギリスのインディアン代理人だったガイ・ジョンソンは、ニューヨーク植民地のイロコイ族と極めて親密にしていたが、パトリオット(愛国者)側の意見がニューヨークで支配的であることが明らかになってからは、自身と家族の身を案じていた。もはやイギリスとの商売を安全に行うことができなくなったと確信すると、200人の追随者やモホーク族の支持者等とともにニューヨークの領地を離れた。まずはオンタリオ砦に向かい、6月17日にインディアン部族の指導者達(大半はイロコイ族とヒューロン族)から、この地域での物資と通信の供給線を途絶えさせないことと、「敵による困りごと」があるときはイギリスを支援することという約束を取り付けた。そこからはモントリオールに向かい、カールトン将軍や1,500名以上のインディアンとの会談で、同様な合意を交渉し、「いつでも臨戦態勢を取れるように」戦争の帯を配った。しかし、これら合意事項に加わった者の大半はモホーク族だった。イロコイ連邦の他の部族はこれらの協議を避け、中立であろうとした。会議後もモホーク族の多くはモントリオール地域に留まった。しかし大陸軍が1775年中に本当に侵略を開始するかが不確かに思えたため、その大半は8月の中旬までに故郷に戻った。", "qas": [ { "question": "ガイ・ジョンソンはどこに住んでいたの?", "id": "tr-562-09-000", "answers": [ { "text": "モホーク川流域", "answer_start": 9, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ガイ・ジョンソンは、オンタリオ砦とモントリオールのうち、どこを先に訪れましたか?", "id": "tr-562-09-001", "answers": [ { "text": "オンタリオ砦", "answer_start": 217, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "モントリオールの会談には、ガイ・ジョンソン、カールトンと何名以上のインディアンが参席したか?", "id": "tr-562-09-002", "answers": [ { "text": "1,500名", "answer_start": 358, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "6月17日、ガイ・ジョンソンは、インディアン部族の指導者達とどこで会談を行ったか?", "id": "tr-562-09-003", "answers": [ { "text": "オンタリオ砦", "answer_start": 217, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "大陸会議はイロコイ連邦の6部族を戦争の局外に置いておこうとしていた。1775年7月、オナイダ族に影響力のあった伝道師サミュエル・カークランドが、「私たちはあなた方が故郷に留まり、どちらの軍にも加わらず、戦いの手斧を深く埋めておくことを望む」という大陸会議からの声明文を持って行った。オナイダ族やタスカローラ族は公式には中立を守ったが、オナイダ族では個人的にアメリカ側への同調を表明したものが多くいた。ジョンソンがモントリオールで会議を開いたという報せを聞いたスカイラー将軍はやはりオナイダ族に影響力があったので、オールバニでの協議会を招集し、8月半ばに開催した。この会合には約400人のインディアン(主にオナイダ族とタスカローラ族、さらに幾らかのモホーク族)が参加し、スカイラーと他のインディアン・コミッショナーがイギリスから植民地を分かつ問題を説明し、植民地人は自分達の権利を守る為に戦うこと、征服を意図しているのではないことを強調した。集まった酋長達は中立を守ることに合意し、モホーク族のある酋長は「これは家庭内の問題である」として、「じっと座ってあなた方が戦っているのを見る」ことにすると述べた。しかし、このように中立を宣言する一方で、アメリカ側からの譲歩を引き出しもし、その譲歩には彼らインディアンの土地への白人開拓者の侵入といった打ち続く苦情にアメリカ側が対処するという約束も含まれていた。", "qas": [ { "question": "公式的に中立を守っていた二つの部族のうち、個人的にアメリカ側への同調を表明したものが多かったのは、どの部族なの?", "id": "tr-562-10-000", "answers": [ { "text": "オナイダ族", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書に、オナイダ族に影響力があった人物として挙げられているのは、スカイラーのほかに、誰ですか?", "id": "tr-562-10-001", "answers": [ { "text": "サミュエル・カークランド", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オールバニで協議会が開かれたのは、何年のことか?", "id": "tr-562-10-002", "answers": [ { "text": "1775年", "answer_start": 34, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スカイラーとサミュエル・カークランドは、どの連邦に属する部族に対し、影響力があったか?", "id": "tr-562-10-003", "answers": [ { "text": "イロコイ連邦", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "侵略の主力部隊はスカイラー将軍が率い、シャンプレーン湖を上ってモントリオールとケベック市を襲撃することになった。遠征隊はニューヨーク、コネチカットおよびニューハンプシャー各植民地からの部隊で構成され、セス・ワーナーのグリーン・マウンテン・ボーイズもこれに加わり、食糧はニューヨークから供給されることになった。しかしスカイラーは過度に慎重で、兵を集め終わるのに8月末までかかるなど準備に手間取ったため、8月半ばにはカールトン将軍がモントリオール郊外に防衛陣地を強化し、イギリス軍に加担したインディアン部族もいるという報告を受け取ることになった。", "qas": [ { "question": "侵略の主力部隊は、誰が率いたの?", "id": "tr-562-11-000", "answers": [ { "text": "スカイラー", "answer_start": 8, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スカイラーの率いる主力部隊は、モントリオールとどこを侵略する目標を持っていましたか?", "id": "tr-562-11-001", "answers": [ { "text": "ケベック", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "遠征隊の食糧供給は、どこが担ったか?", "id": "tr-562-11-002", "answers": [ { "text": "ニューヨーク", "answer_start": 60, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "遠征に参加した各植民地のうち、人力だけでなく食糧も供給したのは、どの都市か?", "id": "tr-562-11-003", "answers": [ { "text": "ニューヨーク", "answer_start": 60, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "10月18日、大陸軍はイギリス軍の小さな前哨基地シャンブリー砦を落としたことで、プレストンを完全に孤立させた。セントジョンズ砦は毎日砲撃され、砦の中は着実に破壊されていったが、プレストンは砦の守備を続けた。10月30日にガイ・カールトンが砦の包囲を解こうとした試みが失敗し、結局、プレストンは10週間の包囲後の11月3日に、援軍のあてがなく、来るべき冬の厳しさに備えて住民の助命を望み降伏した。", "qas": [ { "question": "大陸軍の攻撃に対抗し続けたイギリス軍の指揮官は、誰なの?", "id": "tr-562-12-000", "answers": [ { "text": "プレストン", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "10月18日から11月3日まで、大陸軍とイギリス軍は、どこで戦いましたか?", "id": "tr-562-12-001", "answers": [ { "text": "セントジョンズ砦", "answer_start": 55, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "竹(松型駆逐艦)", "paragraphs": [ { "context": "竹(たけ)は、大日本帝国海軍の駆逐艦である。\n一等駆逐艦竹(たけ)は、日本海軍が太平洋戦争中に横須賀海軍工廠で建造した駆逐艦である。\n戦時量産型駆逐艦である松型駆逐艦(丁型駆逐艦)の2番艦であり、日本海軍の艦名としては樅型駆逐艦の「竹」に続いて2代目である。\n戦時量産型のため「雑木林」と渾名され、速力や火力などの諸性能は限定されていたが、生存性(被害極限性)は従来の日本海軍駆逐艦に比べて格段に向上していた。", "qas": [ { "question": "一等駆逐艦の竹を運用していた軍隊の正式名称は何?", "id": "tr-563-00-000", "answers": [ { "text": "大日本帝国海軍", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "竹が建造された時は何戦争の真っ只中でしたか?", "id": "tr-563-00-001", "answers": [ { "text": "太平洋戦争", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "初代「竹」は何型の駆逐艦でしたか?", "id": "tr-563-00-002", "answers": [ { "text": "樅型", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "一等駆逐艦竹の愛称は何でしたか?", "id": "tr-563-00-003", "answers": [ { "text": "「雑木林」", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1944年(昭和19年)6月16日に竣工後、「竹」は訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属して訓練や南西諸島への輸送任務に従事した。\n7月15日、新編された第43駆逐隊に所属。\n8月からは台湾・マニラ・パラオ諸島方面での輸送や船団護衛任務に従事した。\n8月20日、新編の第三十一戦隊に編入される。\n同月中旬には、軽巡洋艦「名取」や駆逐艦「五月雨」の救難に従事した。\n10月下旬より実施されたレイテ島増援輸送作戦(多号作戦)では、第三次/第四次、第五次、第七次作戦に参加した。\n「竹」は幾度か損傷しながら生還した。\n特に12月3日のオルモック湾における夜戦では、姉妹艦「桑」と共に米軍大型駆逐艦3隻と交戦、「竹」は魚雷攻撃で駆逐艦「クーパー」を撃沈した(第七次多号作戦)。\n内地帰投後の「竹」は、瀬戸内海にあって終戦まで生き残る。\n戦後は復員輸送艦としての任務にあたった。", "qas": [ { "question": "「竹」は元々どの地域への輸送任務に従事していたの?", "id": "tr-563-01-000", "answers": [ { "text": "南西諸島", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「竹」が「桑」と共に米軍の大型駆逐艦と一戦を交えた場所はどこですか?", "id": "tr-563-01-001", "answers": [ { "text": "オルモック湾", "answer_start": 261, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オルモック湾で「竹」の魚雷攻撃によって撃沈した米軍の駆逐艦は何ですか?", "id": "tr-563-01-002", "answers": [ { "text": "「クーパー」", "answer_start": 310, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「竹」が第三十一戦隊に編入されたのは、何年の8月20日ですか?", "id": "tr-563-01-003", "answers": [ { "text": "1944年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "仮称艦名第5482号艦として、横須賀海軍工廠で建造される。\n1943年(昭和18年)10月15日、起工。\n1944年(昭和19年)1月25日、「竹」と命名される。\n同日附で駆逐艦一等松型に類別。\n3月28日、進水。\n本籍を横須賀鎮守府に定められる。\n4月15日、日本海軍は重巡洋艦衣笠水雷長(昭和17年4月〜沈没時)、駆逐艦呉竹艦長等を歴任した田中弘国少佐(海兵60期)を、竹艤装員長に任命する。\n4月20日、横須賀海軍工廠に竹艤装員事務所を設置し、事務を開始した。\n5月6日、可兒祥男大尉(当時、戦艦山城分隊長)が竹艤装員として着任。\n駆逐艦天霧沈没(4月23日)後、5月16日付で横須賀鎮守府付となった天霧水雷長志賀博大尉(旧姓保坂)も、5月20日付で竹艤装員に補職される。\n当時の松型2隻(松、竹)は横須賀海軍工廠のポンツーンで艤装工事中であり、元天霧艦長の吉永源少佐は「松」に、元天霧水雷長の志賀は隣の「竹」に着任したという。\n「松」が出撃したあとは、浮桟橋に松型3番艦「桐」が係留されることになった。\n6月16日、「竹」は竣工した。\n同日付で艤装員事務所を撤去する。\n田中少佐は制式に竹駆逐艦長となる。\n主要初代幹部は、航海長高井義助中尉、砲術長可兒祥男大尉、水雷長志賀博大尉(先任将校)、機関長桜井達也中尉、主計長小林義治主計少尉、軍医長湯川真治軍医少尉などがいた。", "qas": [ { "question": "竹艤装員だった可兒祥男は「竹」の竣工後に何の役職に就きましたか?", "id": "tr-563-02-000", "answers": [ { "text": "砲術長", "answer_start": 525, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "志賀博大尉は元々何という駆逐艦に乗っていましたか?", "id": "tr-563-02-001", "answers": [ { "text": "天霧", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "制式に竹駆逐艦長となった男のフルネームは何?", "id": "tr-563-02-002", "answers": [ { "text": "田中弘国", "answer_start": 172, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "田中少佐は過去に重巡洋艦衣笠水雷長と何の艦長を務めたことがありますか?", "id": "tr-563-02-003", "answers": [ { "text": "駆逐艦呉竹", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "竣工後の「竹」は、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将・海軍兵学校41期。当時の旗艦は「長良」)に編入される。\n6月中は横須賀から動かなかった。\n7月初旬に横須賀から瀬戸内海へ移動し、「冬月」や「清霜」および松型姉妹艦と訓練をおこなう。\n7月中旬、門司で物資を搭載、南大東島への輸送作戦に参加する。\n7月15日付で、秋月型駆逐艦2隻(霜月、冬月)により第41駆逐隊が、松型駆逐艦4隻(梅、竹、松、桃)により第43駆逐隊(駆逐隊司令菅間良吉中佐)が、それぞれ編制される。", "qas": [ { "question": "竣工後「竹」は7月初旬までどこにとどまっていましたか?", "id": "tr-563-03-000", "answers": [ { "text": "横須賀", "answer_start": 63, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「竹」が松型姉妹艦と共に訓練を行った地域はどこですか?", "id": "tr-563-03-001", "answers": [ { "text": "瀬戸内海", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「竹」が南大東島への輸送作戦に参加したのはいつですか?", "id": "tr-563-03-002", "answers": [ { "text": "7月中旬", "answer_start": 122, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "第41駆逐隊と第43駆逐隊では、どちらが駆逐艦の数が少ないですか?", "id": "tr-563-03-003", "answers": [ { "text": "第41駆逐隊", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "7月8日、大本営海軍部は大海指第421号により、連合艦隊に対し陸軍兵力の南西諸島方面輸送を命じた。\nこれを「呂号輸送」(ろ号作戦輸送)と呼称する。\n輸送部隊指揮官は、第十一水雷戦隊司令官であった。\n7月16日、軽巡洋艦「長良」(第十一水雷戦隊旗艦)、重巡洋艦「摩耶」、練習巡洋艦「鹿島」、駆逐艦5隻(浦風型〈浦風、朝雲、清霜〉、秋月型〈冬月〉、松型〈竹〉)は中津沖を出撃する。\n輸送部隊は、第一輸送隊(長良、鹿島、冬月、清霜、竹)、第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風)、沖縄~大東島輸送の第三輸送隊(冬月、清霜、竹)にわかれていた。\n7月17日、呂号作戦部隊は沖縄中城湾に到着した。\n宮古島に向かった第二輸送隊は内地に帰投せず、そのままマニラ経由でリンガ泊地へ向かった。\n冬月駆逐艦長指揮下の第三輸送隊は南大東島への緊急輸送任務を行う。\nその後、第二輸送隊を除く各艦は予定の輸送任務を終えて19日午前1時に中城湾を出港し、20日-21日に呉へ帰投した。\n「ロ」号作戦輸送部隊は解散した。", "qas": [ { "question": "7月16日に中津沖を出撃した朝雲の駆逐艦の型は何ですか?", "id": "tr-563-04-000", "answers": [ { "text": "浦風型", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ろ号作戦輸送では、どの地域への輸送が命じられましたか?", "id": "tr-563-04-001", "answers": [ { "text": "南西諸島方面", "answer_start": 36, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "本土に帰ることなく、リンガ泊地まで行った部隊は何ですか?", "id": "tr-563-04-002", "answers": [ { "text": "第二輸送隊", "answer_start": 297, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "冬月、清霜、竹は何部隊に属していましたか?", "id": "tr-563-04-003", "answers": [ { "text": "第三輸送隊", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "8月1日、連合艦隊は第五艦隊(第二十一戦隊、第一水雷戦隊)と第十一水雷戦隊等により第二遊撃部隊(指揮官は第五艦隊司令長官志摩清英中将)を新編し、機動部隊に編入した。\n沖縄方面輸送を終えた「竹」と夕雲型駆逐艦「清霜」に対し、パラオ方面緊急輸送の任務が与えられた。\n8月10日、駆逐艦2隻(清霜、竹)は柱島泊地を出港し、馬公市を経由してフィリピンに進出する。\n8月16日にマニラに到着。\n8月17日からの本艦は「清霜」の指揮を受けてパラオ方面への輸送作戦とセブへの引揚者輸送任務に就く。\n翌18日午前3時頃、パラオ方面輸送作戦従事中の軽巡洋艦「名取」が、ミンダナオ島ダバオ北東北緯12度15分東経129度21分地点で、アメリカ潜水艦ハードヘッドの雷撃で大破、避退中に沈没した。\n「清霜」と「竹」は名取救援を命じられた。\nまた遭難者救援のため3隻(鬼怒、時雨、浦波)も遭難現場にむかった。\n名取捜索隊は遭難者を発見できず、セブ島に帰投した。\n「清霜」はパラオにむかう。\nこの後、「竹」は南西方面艦隊の指揮下で船団護衛任務に従事する。\nつづいてパラオ諸島北部のガルワングル環礁で座礁中に、アメリカ潜水艦バットフィッシュ(USSBatfish,SS-310)の雷撃を受けて船体断裂においこまれた駆逐艦「五月雨」(第27駆逐隊)の救援に向かう。\n8月26日夜、「竹」は五月雨生存者を収容した。\n大熊(五月雨駆逐艦長)と田中(竹駆逐艦長)は海兵同期であり、田中の説得により大熊も退艦して「竹」に移乗した。", "qas": [ { "question": "パラオ方面で「竹」が2度目に救援したのは何という駆逐艦ですか?", "id": "tr-563-05-000", "answers": [ { "text": "「五月雨」", "answer_start": 545, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハードヘッドからの雷撃に沈んだ軍艦名は何ですか?", "id": "tr-563-05-001", "answers": [ { "text": "「名取」", "answer_start": 269, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "田中の誘いを受けて「竹」に移乗した五月雨駆逐艦長とは誰?", "id": "tr-563-05-002", "answers": [ { "text": "大熊", "answer_start": 591, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ガルワングル環礁でバットフィッシュが雷撃した駆逐艦は何?", "id": "tr-563-05-003", "answers": [ { "text": "「五月雨」", "answer_start": 545, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "輸送作戦中の8月20日、日本海軍は第三水雷戦隊の残余と松型駆逐艦を基幹として、第三十一戦隊(司令官江戸兵太郎少将、海兵40期)を新編した。\n第43駆逐隊も第三十一戦隊に編入される。\n「竹」は燃料補給と「五月雨」乗組員を降ろすためセブ島に立ち寄り、その後パラオに向った。", "qas": [ { "question": "「竹」は新たに何の戦隊に入りましたか?", "id": "tr-563-06-000", "answers": [ { "text": "第三十一戦隊", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「竹」はパラオに向かう前にどこに行きましたか?", "id": "tr-563-06-001", "answers": [ { "text": "セブ島", "answer_start": 114, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "8月30日からは南西方面艦隊(司令長官三川軍一中将・海兵38期。第三南遣艦隊司令長官兼務)の指揮下に入り、マニラと各地との間で船団護衛に従事した。\n10月4日、「竹」はミリ行きのマミ11船団を護衛してマニラを出港したが、翌5日にミンドロ海峡でアメリカ潜水艦コッド(USSCod,SS-224)の雷撃により「辰城丸」(辰馬汽船、6,886トン)を失った。\n10月14日にミリに到着してマニラに帰投後、10月20日深夜23時40分には高雄行きのマタ30船団の護衛でマニラを出港した。\nこの船団は指揮艦である神風型駆逐艦「春風」の名前を取って別名「春風船団」と呼称されていた。\n10月23日夕方、マタ30船団はルソン島ボヘヤドール岬北西沖で元特設水上機母艦「君川丸」(川崎汽船、6,863トン)がアメリカ潜水艦ソーフィッシュ(USSSawfish,SS-276)の雷撃で沈没したのを手始めに、船団加入船12隻のうち9隻が潜水艦の波状攻撃により沈没する惨敗を喫した。\nこのうち「阿里山丸」には捕虜1500名が乗船していたが、米潜水艦に撃沈されてしまった。\n「竹」は残存船舶を誘導して損害を食い止め、また遭難者の救助に従事した。\n「春風」はアメリカ潜水艦シャーク(USSShark,SS-314)を撃沈して一矢報いた。\n「竹」水雷科の茂呂(水兵長)によれば、「春風」より輸送船(艦名不詳)曳航の命令があったが、曳航作業前に対象の輸送船を見失い、単艦で高雄へ向ったとしている。\nまた高雄到着後もバシー海峡に出動し、遭難者約400-500名を救助してルソン島サンフェルナンドに送り届けたと回想している。", "qas": [ { "question": "「辰城丸」と「君川丸」はどちらのトン数が大きいですか?", "id": "tr-563-07-000", "answers": [ { "text": "「辰城丸」", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マタ30船団の別名は何?", "id": "tr-563-07-001", "answers": [ { "text": "「春風船団」", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マタ30船団のうち、捕虜1500名を乗船させていた加入船の名前は何?", "id": "tr-563-07-002", "answers": [ { "text": "「阿里山丸」", "answer_start": 434, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "10月初旬にマニラを出港した時「竹」が護衛していたのは何?", "id": "tr-563-07-003", "answers": [ { "text": "マミ11船団", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "最前線にいた「竹」は10月18日夕刻発動の捷一号作戦と20日から始まったレイテ島地上戦に関わる事となり、三度にわたってレイテ島西岸オルモックへの陸軍兵力輸送作戦(多号作戦)に参加することとなった。\n作戦直前、田中少佐(竹駆逐艦長)が病気(肺結核、肋膜炎とも)で退艦、マニラ海軍病院へ入院した。\n11月3日、飯村忠彦少佐(海兵65期)が竹臨時艦長に任命される。\n飯村少佐は、レイテ島輸送作戦で同時に沈没した軽巡洋艦「鬼怒」と駆逐艦「浦波」のうち、鬼怒航海長であった。\n一方、田中少佐(竹駆逐艦長)は呉鎮守府付となる。\n日本海軍は、駆逐艦旗風航海長、吹雪型駆逐艦2隻(磯波、浦波)の水雷長等を歴任した宇那木勁少佐(海兵64期。当時、松型駆逐艦椿艤装員長)を「竹」駆逐艦長に任命した。\n宇那木は軽巡「五十鈴」や松型3番艦「梅」を乗り継いで内地からマニラへ移動しており、実際の着任は遅れた。\nこのため「竹」は飯村駆逐艦長の指揮下で多号作戦に従事する。", "qas": [ { "question": "田中少佐が病気となり、臨時の竹駆逐艦長となったのは誰?", "id": "tr-563-08-000", "answers": [ { "text": "飯村忠彦", "answer_start": 153, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "田中少佐の次に制式な竹駆逐艦長の任命を受けたのは誰?", "id": "tr-563-08-001", "answers": [ { "text": "宇那木勁", "answer_start": 298, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "飯村新艦長を迎えた翌日以降、米軍機動部隊艦上機のマニラ湾空襲により第二遊撃部隊(第五艦隊)旗艦の重巡「那智」が沈没、駆逐艦「曙」(第7駆逐隊)が大破した。\n駆逐艦「沖波」も損傷して作戦から外された。\n11月9日午前3時、「竹」は第三次多号作戦部隊に加わってマニラを出撃する。\n第三次多号作戦部隊の指揮官は、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将(海兵44期)であった。\n駆逐艦4隻(島風、初春、浜波、竹)、第46号駆潜艇および第30号掃海艇と共に輸送船5隻を護衛してマニラを出港した。\n翌10日午前10時、南西方面艦隊司令長官は「初春」と「竹」の所属部隊を入れ替えるよう下令した。\n同日午後、レイテ島からマニラへ帰投中の第四次多号作戦部隊から駆逐艦3隻(長波、朝霜、若月)を分離、第三次多号作戦部隊の駆逐艦2隻(竹、初春)と入れ替えることになった。\n11日午前5時ごろ、「初春」と「竹」は第四次多号作戦部隊と合同した。\n7隻(霞、潮、秋霜、初春、竹、沖縄、金華丸)は18時30分、「せれべす丸」や輸送艦救援に従事した2隻(占守、第13号)は同日深夜、それぞれマニラに帰投した。\nなお「竹」と「初春」が当初参加していた第三次輸送船団は、オルモック湾での対空戦闘で壊滅する。\n駆逐艦「朝霜」を残して全滅した。\n島風沈没時に早川幹夫第二水雷戦隊司令官も戦死した。\n「朝霜」は12日マニラに帰投した。", "qas": [ { "question": "「竹」が加わった第三次多号作戦部隊の指揮官は誰?", "id": "tr-563-09-000", "answers": [ { "text": "早川幹夫", "answer_start": 162, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オルモック湾での対空戦闘で唯一生き残った駆逐艦は何ですか?", "id": "tr-563-09-001", "answers": [ { "text": "「朝霜」", "answer_start": 535, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "11月12日、マニラに到着していた隼鷹輸送隊は、同行していた軽巡洋艦「木曾」を分離する。\nかわりに駆逐艦「時雨」を編入し、内地へ帰投する。\n「木曾」と「霜月」は多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された。\n11月13日、マニラ湾は再び空襲をうける。\n水雷戦隊だけでも5隻(木曾、曙、沖波、秋霜、初春)が沈没もしくは大破着底状態となる。\n竹乗組員達は「マニラに帰投して大空襲に出くわした。島風と一緒にレイテに行けば良かった。本艦は運が悪い」と自嘲したが、第三次多号船団部隊が「朝霜」を除いて全滅した事を知り、逆に「竹は強運の艦だ」という印象が広まった。", "qas": [ { "question": "マニラ湾が2度目の空襲に遭ったのは何月何日ですか?", "id": "tr-563-10-000", "answers": [ { "text": "11月13日", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "隼鷹輸送隊が分離した「木曾」の代わりに入れた駆逐艦は何ですか?", "id": "tr-563-10-001", "answers": [ { "text": "駆逐艦", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マニラ大空襲をうけて、第五艦隊司令長官志摩清英司令長官は残存艦艇の退避を南西方面艦隊(司令長官大川内伝七中将)に進言した。\n同13日深夜、第一水雷戦隊司令官が指揮する残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮、竹)はマニラを脱出した。\n「竹」はマニラからブルネイに移動する第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将・海兵41期、旗艦「霞」)および「潮」と共に南沙諸島長島に向かい、同地で南方に進出途上の第四航空戦隊(司令官松田千秋少将:戦艦日向、伊勢)や護衛艦(霜月、梅、桐)などと会合、燃料を補給してもらう。\n同地で飯村(臨時「竹」艦長)が退艦し、宇那木少佐は便乗中の戦艦「日向」から「竹」に移乗、新任駆逐艦長となる。\n飯村少佐は15日付で鬼怒航海長の職務を解かれた。\n宇那木艦長を迎えた「竹」は、リンガ泊地へむかう第五艦隊とわかれた。\nコレヒドール島沖合でアメリカ潜水艦ヘイク(USSHake,SS-256)の雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の軽巡「五十鈴」と途中ですれ違いつつ、マニラに引き返した。", "qas": [ { "question": "飯村はどこで退艦したの?", "id": "tr-563-11-000", "answers": [ { "text": "長島", "answer_start": 171, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "宇那木少佐は「竹」の前は何の戦艦に乗っていたの?", "id": "tr-563-11-001", "answers": [ { "text": "「日向」", "answer_start": 275, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "11月20日付で第一水雷戦隊は解隊され、一水戦司令官木村昌福少将は第二水雷戦隊司令官に補職される。\n同20日付で第三十一戦隊は第五艦隊に編入された。\n11月21日、マニラの日本陸海軍は、レイテ島への輸送に第三十一戦隊と高速輸送艦を活用することで一致した。\n11月24日、「竹」は第一輸送戦隊(司令官曾爾章少将・海兵44期)の指揮下に入り、第五次多号作戦に参加する。\n第一梯団と第二梯団(竹、第6号輸送艦、第9号輸送艦、第10号輸送艦)としてマニラを出撃した。\n輸送物件は、第三次多号作戦で座礁した「せれべす丸」等の陸軍部隊や、軍需品であった。\nところが先発した第一梯団はマスバテ島南東部カタイガンに避泊中で空襲をうけ、第46号駆潜艇をのぞき全滅した。\n乗組員はマスバテ島に上陸した。\nマニラへ帰投中の第46号駆潜艇も、翌25日に空襲で沈没した。", "qas": [ { "question": "カタイガンで空襲を受けて唯一生き残ったが、結局その後別の空襲を受けて沈没してしまった軍艦は何?", "id": "tr-563-12-000", "answers": [ { "text": "第46号駆潜艇", "answer_start": 309, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マニラを出撃した時、「竹」が属していた部隊の名は何?", "id": "tr-563-12-001", "answers": [ { "text": "第二梯団", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "翌25日昼、「米機動部隊が接近中」との情報で輸送部隊はタヤバス湾に浮かぶマリンドケ島北西部のバラナカン湾に避泊した。\n間もなく空襲を受けて第6号輸送艦と第10号輸送艦が沈没する。\n第9号輸送艦も損傷した(航海長袴田徳男大尉戦死、砲術長負傷、荷役装置故障)。\n「竹」も至近弾と機銃掃射で損傷し戦死者15名・負傷者60名余を出した他、ジャイロコンパスが吹き飛ばされて使用不能となった。\nレイテ島オルモック湾への突入を命じられていたため「竹」幹部は協議をおこなう。\n先任将校(志賀)は任務遂行を進言、高井義助航海長は『方位磁針を駆使してオルモック湾に向かう覚悟がある』と具申した。\n機関長は燃料流出を懸念したが「命令なら突入する」と進言、砲術長は反対した。\nしかし、第9号輸送艦(艦長赤木毅予備少佐)より『砲術長戦死、航海長負傷、大発動艇卸用ワイヤ切断』との報告を受け、再挙を期してマニラに引き返すことにした。\n沈没艦の生存者を収容し、11月26日マニラに帰投した。\nこうして第五次多号作戦は失敗した。\n宇那木艦長は南西方面艦隊司令部(参謀長有馬馨少将、先任参謀高間正義大佐)に出頭して詫びを入れた。\n「竹」は昼夜兼行で応急修理を行って次期作戦に備えたが、ジャイロコンパスは復旧されずじまいだった。\n第九号輸送艦では、マニラ空襲で沈没した駆逐艦沖波の航海長だった佐々木幸康大尉が新航海長に任命され、作戦準備を整えた。", "qas": [ { "question": "バラナカン湾で空襲を受けた際の「竹」の戦死者と負傷者はどちらが多かったですか?", "id": "tr-563-13-000", "answers": [ { "text": "負傷者", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「竹」が使用不能となったのは、空襲によって何を失ったからですか?", "id": "tr-563-13-001", "answers": [ { "text": "ジャイロコンパス", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バラナカン湾での空襲で、「竹」以外で沈没しなかった軍艦は何ですか?", "id": "tr-563-13-002", "answers": [ { "text": "第9号輸送艦", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "第六次多号作戦が予想以上の成功をおさめたので、日本軍は第七次多号作戦を実施した。\nただし第六次多号作戦部隊は揚陸地点および帰路に魚雷艇と空襲により全滅した。\n第七次多号作戦部隊は、第一梯団、第二梯団、第三梯団と第四梯団にわかれていた。\n本艦は第七次多号作戦において松型駆逐艦5番艦「桑」(駆逐艦長山下正倫中佐、海兵53期)の指揮下に入った。\n12月1日午後6時、駆逐艦2隻(桑、竹)、第9号輸送艦、第140号輸送艦、第159号輸送艦という第三梯団/第四梯団でマニラを出撃した。\n「竹」には方面軍作戦参謀田中光祐少佐他数名の陸軍将校が乗艦していたという。\nマニラ湾口で船団部隊は陸軍潜水艦(マルゆ)と遭遇した。", "qas": [ { "question": "第七次多号作戦部隊の第三梯団で竹以外の他の駆逐艦は何がありましたか?", "id": "tr-563-14-000", "answers": [ { "text": "竹", "answer_start": 189, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「桑」の駆逐艦長は誰が任されていましたか?", "id": "tr-563-14-001", "answers": [ { "text": "山下正倫", "answer_start": 148, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "12月2日昼間、敵小数機に触接されたが、空襲はなかった。\n航行中、酸素魚雷点検および訓練時の事故により魚雷1本を投棄、「竹」の残魚雷は3本となった。\nこの頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテから魚雷艇隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、11月28日夜半のオルモック襲撃に成功するなど戦果を挙げていた。\n第7艦隊司令官トーマス・C・キンケイド中将は、続いてオルモック方面に駆逐艦と掃海艇を派遣することとし、これも過去二度の作戦で潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた。\nそして、三度目の作戦としてアレン・M・サムナー(USSAllenM.Sumner,DD-692)、モール(USSMoale,DD-693)そしてクーパー(USSCooper,DD-695)がオルモック湾に差し向けられる事となったのである。\nアレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐)は18時30分にレイテ湾を出撃し、オルモック湾に急行した。\n出撃して間もなく、セブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊の月光や第一四一航空隊の瑞雲(水上爆撃機)に付きまとわれ、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した。\nまた、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた。", "qas": [ { "question": "アメリカ軍がオルモック方面に派遣していたものとは、魚雷艇隊、掃海艇ともう1つは何?", "id": "tr-563-15-000", "answers": [ { "text": "駆逐艦", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日本軍の攻撃を受けたモールは、戦死者と負傷者のどちらが少なかったですか?", "id": "tr-563-15-001", "answers": [ { "text": "戦死者", "answer_start": 514, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "12月2日夜、船団はオルモック湾に到着して揚陸を開始した。\n大発が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、「竹」には第三次多号作戦で沈没した「島風」の上井宏艦長(海兵51期)や機関長上村嵐大尉、第二水雷戦隊の松原瀧三郎先任参謀(海兵52期)などが収容されていた。\nその後、「竹」は南西方向の、「桑」は南方の哨戒を開始した。\n「桑」が担当していた南方の海上では第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった。\nオルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した。\nこの時までに「桑」も第120駆逐群を発見し、発光信号で敵艦発見を「竹」に知らせた。\n「桑」側は敵戦力を軽巡洋艦3隻と判断、照射砲撃と魚雷戦を開始した。\n12月3日午前0時30分頃より交戦がはじまる。\n最初の交戦はおよそ9分で決着がつき、駆逐艦主砲弾多数を被弾した「桑」は沈没した。\n第120駆逐群は次の目標を「竹」と定め、モール、アレン・M・サムナー、クーパーの順番で砲撃を開始した。\n「竹」は12.7cm高角砲、25mm機銃、酸素魚雷で「敵巡洋艦(駆逐艦の誤認)」に反撃を行った。\nオルモック湾内を24ノットで航行・機動するため、座礁を懸念しながら戦闘をおこなった。", "qas": [ { "question": "オルモック湾の南方を見張っていた駆逐艦は何ですか?", "id": "tr-563-16-000", "answers": [ { "text": "「桑」", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オルモック湾での交戦は何時頃から開始されましたか?", "id": "tr-563-16-001", "answers": [ { "text": "午前0時30分頃", "answer_start": 381, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オルモック湾で先に沈没した駆逐艦は何ですか?", "id": "tr-563-16-002", "answers": [ { "text": "「桑」", "answer_start": 431, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "キャラ_(コミュニケーション)", "paragraphs": [ { "context": "キャラとは、キャラクター(英:character、性格・人格)を省略した若者言葉で、コミュニケーションの場における振舞い方に関する類型的な役割を意味する。\nその具体的な役割に応じて、例えば「まじめキャラ」「バカキャラ」「へたれキャラ」「癒しキャラ」のようにさまざまなものが存在する。\nこの用法の「キャラ」という語の発祥は定かではないが、1999年の『現代用語の基礎知識』や新聞記事での使用が確認されているため、その頃から日本の若者の間で浸透した表現だと考えられる(漫画・ゲームなどのキャラクターの省略形としての「キャラ」はそれより以前からの使用が確認されている)。\n本項で説明している「キャラ」は、省略されることなく「キャラクター」といわれることもあり、実質的には和製英語といえる。\nもともと「キャラクター」という言葉には「物語の登場人物」という意味があるが、この意味での「物語」を「小さな共同体(コミュニティ)」と読み替え、「コミュニティ内での個人の位置(イメージ)」という意味で「キャラ/キャラクター」という言葉を使うような思考形式が生まれていったのだと考えられる。", "qas": [ { "question": "キャラは何を省略した言葉ですか?", "id": "tr-564-00-000", "answers": [ { "text": "キャラクター", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "キャラという言葉を良く使用している世代は?", "id": "tr-564-00-001", "answers": [ { "text": "若者", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「キャラ」は既に何年の新聞記事に使用されていたの?", "id": "tr-564-00-002", "answers": [ { "text": "1999年", "answer_start": 168, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "現代の日本の若者の間では、「キャラ」と呼ばれる類型的役割に応じて振舞うというコミュニケーション作法が浸透しており、このような現象・状況はキャラ化・キャラ的コミュニケーション・キャラ的人間関係・キャラゲーム・キャラ戦争などと表現される。\n例えば学校ではクラスが似たような傾向を持った人が集まる細かいいくつかのグループに分かれる現象がみられるが、この細分化された各々の小集団の内部でさらに個人に対して「天然キャラ」「いじられキャラ」などの具体的な役割が割り振られていくことになる。\nグループ内における各自のキャラは自身の本来の性格というより普段行動をともにしているグループのリーダーやほかのメンバーといった他者からあるいは自然発生的に与えられることが多く、場の空気による圧力として本人の意図とは無関係に強制されることもある。\n酔った勢いで羽目を外して卑猥な発言をしたのがきっかけで「エロキャラ」扱いされるようになるというように、なんらかの具体的な事件をきっかけにキャラが設定されることもあれば、交遊を深めていく中でいつからともなく自然にキャラが確立されていくこともある。", "qas": [ { "question": "類型的役割に応じて振舞うというコミュニケーション作法の呼称は何ですか?", "id": "tr-564-01-000", "answers": [ { "text": "「キャラ」", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "個人に与えられる役割分担という意味では、人類は狩猟・採集などで生活していた時代から現代に至るまでずっと分業を行っていたともいえるが、社会学者の森真一によれば「キャラ」は(生活・仕事を成り立たせるためではなく)楽しくコミュニケーションを盛り上げるために割り当てられるという点が異なるという。\n法学者の白田秀彰の表現を借りれば、若者たちが演じるキャラ(仮想的キャラ)は、大人の世界で「上司」「教師」のように社会的な文脈によって与えられる規範(社会的キャラ)と違って社会的な要素が欠如しているといえる。\nキャラ的コミュニケーションのほかに若者の間の人間関係に存在する暗黙の規範としては、摩擦を回避するために仲間内では上下関係をなるべくつけないという「対等性原則」がある。\nその意味で若者たちのキャラ化は、実際には存在している上下関係を、(例えば「いじりキャラ」と「いじられキャラ」のような形で)表面的にはフラットな関係に読み替えることによって隠蔽するという側面があるといえる。", "qas": [ { "question": "森真一の職業は何?", "id": "tr-564-02-000", "answers": [ { "text": "社会学者", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "白田秀彰の職業は何?", "id": "tr-564-02-001", "answers": [ { "text": "法学者", "answer_start": 145, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "若者たちが演じるキャラは社会的な要素が欠如していると表現した人は誰ですか?", "id": "tr-564-02-002", "answers": [ { "text": "白田秀彰", "answer_start": 149, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "キャラ的コミュニケーションに生じている原則とは何?", "id": "tr-564-02-003", "answers": [ { "text": "「対等性原則」", "answer_start": 321, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "周囲から与えられるキャラに即した振る舞いをするという意味ではキャラ的なコミュニケーションは演技性を帯びたものであるといえる。\nもっとも、人間が日常生活をおくる上でも無意識に演技の切り替えを行っているということは以前から社会学者のアーヴィング・ゴッフマンが指摘していることである。\nただし、実際に若者を対象とした調査では必ずしも意識的にキャラを演じていると答える者が多数派ということではない。\n2009年から2010年に神奈川県の公立中学校の生徒2874名に対して実施されたアンケート調査では、「自分の気持ちと違っていても、人が求めるキャラを演じてしまう」という質問に対する肯定的な回答はほぼ1/3である。\nこの調査を行った教育学者の本田由紀は、少数でない割合とはいえ6割以上はキャラをつくらずにコミュニケーションを行っていることになるため若者のキャラ演出という現象を過剰に重視すべきではないだろうと述べている。\n元お笑い芸人の研究者である瀬沼文彰による若者へのインタビュー調査でも、キャラを演じている意識があるのは58人中10人と少数であった。", "qas": [ { "question": "アーヴィング・ゴッフマンの職業は何?", "id": "tr-564-03-000", "answers": [ { "text": "社会学者", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2009年から2010年に神奈川県の公立中学校で実施されたキャラに関するアンケート調査では、何人の生徒が調査対象になりましたか?", "id": "tr-564-03-001", "answers": [ { "text": "2874名", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本田由紀が行ったキャラに関するアンケート結果で、キャラを演じていると回答した生徒は全体のどれくらいでしたか?", "id": "tr-564-03-002", "answers": [ { "text": "ほぼ1/3", "answer_start": 293, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "瀬沼文彰が以前していた仕事とは?", "id": "tr-564-03-003", "answers": [ { "text": "お笑い芸人", "answer_start": 407, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "キャラによるコミュニケーションといっても興ざめするほど演技性が見え透いてしまうのは嫌われる傾向もある。\nそのため、集団に対して行った瀬沼文彰のインタビュー調査では周囲の他者に配慮して演技していないと答えた者が多かったとも考えられる。\n演技性の無いニュートラルな状態は若者言葉で素(す)といわれるが、実際には「素という演技しない状態を演技している」あるいは「(キャラと素をはっきりと使い分けるというより)両者の配分のバランスを調整しながらコミュニケーションをとっている」という面があるともいえる。\n社会学者の太田省一によると、キャラをめぐる遊戯的なコミュニケーション(キャラゲーム)においてはキャラの演技を完遂できずに素が露呈することは織り込み済みであり、演技の破綻によって結果的に当人の素の人間性が確認されるという形で共同体への帰属意識が強化されるというような効果があるのだとしている。", "qas": [ { "question": "素とはどのような状態のことを指すの?", "id": "tr-564-04-000", "answers": [ { "text": "演技性の無いニュートラルな状態", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "演技性の無いニュートラルな状態のことを何と言いますか?", "id": "tr-564-04-001", "answers": [ { "text": "素", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "太田省一の職業は何?", "id": "tr-564-04-002", "answers": [ { "text": "社会学者", "answer_start": 248, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "キャラを演じることのメリットとして、実際の本人の性格がどうあれその場で設定されている単純なコードに合わせて振舞うことによって予定調和的なコミュニケーションを円滑化させ、またそれにより親密さを感じることができるという点がある。\n瀬沼文彰は、「ケチキャラ」「おやじキャラ」のような一見すればネガティブな属性であっても、それをキャラとして捉えてツッコミをいれて笑いに昇華することができるなど、互いが傷つかずにコミュニケーションがとれるという利点を指摘している。\nさらに別の側面としては、それが虚構的なキャラにずきないということを織り込み済みで演技的に振舞うことにより、「本当の自分」の存在が裏付けられる感覚を得ることもできる。\n他方で、人間関係の流動性の低い学校空間では、特定のキャラを強制する同調圧力が暴走して(いじられキャラがいじめられキャラになるなど)いじめにつながるなどの弊害があるほか、キャラ的人間関係への適応の困難が引きこもりと関係しているといった指摘もある。\nまた、楽しむことや衝突の回避を重視するキャラを介した人間関係は希薄で脆弱なものに過ぎないともいわれる。", "qas": [ { "question": "ネガティブな属性であっても、それをキャラとして笑いに昇華することができるなどの利点を述べている人はだれ?", "id": "tr-564-05-000", "answers": [ { "text": "瀬沼文彰", "answer_start": 113, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "哲学者の鷲田清一は、ディスコミュニケーション(コミュニケーション圏同士の断絶)の進む現代社会において「キャラ同士」ではなく「人同士」がコミュニケーションをとりあう場を用意するべきであるとし、キャラ的人間関係に対して否定的な見解を示している。\n評論家の宇野常寛も同様に現代社会における閉鎖的なトライブ間でのコミュニケーションの分断化を指摘しているが、キャラ的人間関係については、人々はそれが顕在化した時代の是非について極端な反応をしがちであるとし、その長所と短所をふまえた上でコミュニケーションがすべてを決定する社会をうまく克服していくべきだと述べている。", "qas": [ { "question": "キャラ的人間関係に対して否定的な見解を示している哲学者は誰ですか?", "id": "tr-564-06-000", "answers": [ { "text": "鷲田清一", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "鷲田清一の職業は何?", "id": "tr-564-06-001", "answers": [ { "text": "哲学者", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "宇野常寛が行っている仕事は何?", "id": "tr-564-06-002", "answers": [ { "text": "評論家", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "キャラによるコミュニケーションの特色は、その場に応じて演じられるキャラは切り替わりうるという部分にある。\n宇野常寛は、個人のコミュニケーションの結果に応じて漸次上書きされていくような(しばしばケータイ小説にみられる)現実世界でのアイデンティティのあり方を断片型キャラクター的実存と呼び、(ライトノベルなどでみられる)一貫した自己像を保ち続けようとする全人格型キャラクター的実存と対比している。\n同様に、評論家の荻上チキは、一貫した自己像にもとづいて成長していこうというアイデンティティ型自己モデルではなく、臨機応変に適応スタイルを選択するキャラ型自己モデルが現代社会には適していると整理している。\n荻上チキによれば、個人は趣味・所属する部活・職業・学歴など様々な要素と関係したキャラをあらかじめ複数ストックしており、その中から適当ないくつかを「仕事での打ち合わせ」「プライベートでの友人との交遊」といった文脈に応じて適宜呼び出してコミュニケーションを行うという「キャラ分けニーズ」が高まっているのだという。", "qas": [ { "question": "キャラによるコミュニケーションの特色として、その場に応じて演じられるキャラは切り替わりうるといった内容を述べている評論家は荻上チキと誰ですか?", "id": "tr-564-07-000", "answers": [ { "text": "宇野常寛", "answer_start": 53, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "荻上チキの職業は何?", "id": "tr-564-07-001", "answers": [ { "text": "評論家", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "社会学者の土井隆義は、キャラを自分自身の中のゆるぎない自己イメージとしての内キャラと、周囲の状況(場の空気)に適応する形で演技的に振舞う外キャラの2つにわけて論じている。\nそれによれば、「大きな物語」「超越的な他者」といったものが消失して人生の拠り所とすべき価値観・理想像が不透明になった現代社会(ポストモダン)では、アイデンティティの不安を無効化するために決して相対化されることのない準拠点として内キャラが必要とされる一方、(全体に共有されるような「大きな空気」はすでに崩壊しているため)状況に応じて様々に異なる「場の空気」に対応する必要性があり、そのためには一貫性のあるアイデンティティは邪魔になるので外キャラを用意することになるのだという。\nつまり、外キャラは他者と向き合うため、内キャラは自己と向き合うためのものといえる。", "qas": [ { "question": "外キャラと内キャラの2つに分けて論じている人は誰ですか?", "id": "tr-564-08-000", "answers": [ { "text": "土井隆義", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "他者と向き合うためのキャラクターを何と言いますか?", "id": "tr-564-08-001", "answers": [ { "text": "外キャラ", "answer_start": 328, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "自己と向き合うためのキャラクターを何と言いますか?", "id": "tr-564-08-002", "answers": [ { "text": "内キャラ", "answer_start": 343, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "キャラが所属集団といった文脈によって使い分けられるということと、前述したようにキャラが「コミュニケーションを楽しむ」ために用いられていることを考えると、キャラとは(「共同社会」に対する)「利益社会化」を表しているともいえる。\n「共同社会」とは(古代の氏族社会のように)血縁・地縁により人々が全人格的に結合され、個人が所属する集団を自由に選択できない社会を意味し、それに対する「利益社会」は仕事の達成などによる利益の共有というような紐帯により人々が断片的に結び付けられ、個人が所属する集団を自由に選択可能で流動性の高い社会を意味する。\nつまり、キャラ的人間関係とは「楽しさ」「思い出作り」といったことを目的とした利益の共有による紐帯を結ぼうとする利益社会と考えることができるのである。", "qas": [ { "question": "血縁・地縁により人々が全人格的に結合され、個人が所属する集団を自由に選択できない社会を意味するものとは何?", "id": "tr-564-09-000", "answers": [ { "text": "「共同社会」", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「共同社会」に対して述べられている社会とは何?", "id": "tr-564-09-001", "answers": [ { "text": "「利益社会」", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アーヴィング・ゴッフマンはアイデンティティを「社会的アイデンティティ」(社会的な地位に関する属性など)と「個人的アイデンティティ」(親しい間柄でのみ了解されうるもの)の2つに分けて論じているが、若者が演じるキャラは社会的文脈によって与えられるものではないということを考えれば、「個人的アイデンティティ」の方に相当することになる。\n他方で、土井隆義が内キャラと呼んだような自分らしさの信念としてのキャラには、社会的に認められる存在になりたいという願望もみられるといえる。", "qas": [ { "question": "アーヴィング・ゴッフマンが論じているアイデンティティは「個人的アイデンティティ」と何ですか?", "id": "tr-564-10-000", "answers": [ { "text": "「社会的アイデンティティ」", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "若者が演じるキャラは「社会的アイデンティティ」と「個人的アイデンティティ」のどちらに当てはまりますか?", "id": "tr-564-10-001", "answers": [ { "text": "「個人的アイデンティティ」", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "自分らしさの信念としてのキャラとは何ですか?", "id": "tr-564-10-002", "answers": [ { "text": "内キャラ", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "精神科医の斎藤環は、キャラの使い分けの現象を解離性同一性障害の患者における交代人格のようなものだと述べている。\n解離性同一性障害の発祥事例自体は、欧米と比較して日本では低いとされているが、斎藤はこれを「キャラ化することによって病理から逃れている」と解釈できると述べている。\nその一方で日本におけるキャラ文化が別の問題を引き起こすこともあるとして、引きこもりを挙げている。\n斎藤は、1990年代末に行った若者を対象としたインタビュー調査の際にそのメンタリティを「引きこもり系/原宿系(コミュニケーション能力は低いが自己イメージは安定している」と「自分探し系/渋谷系(コミュニケーション能力は高いが自己イメージが不安定)」に大別したが、自己イメージが不明確であるぶんキャラを自在に操るのは「自分探し系」の者が得意とするものであり、「引きこもり系」の者はキャラのコントロールをうまくできないと整理できる。\nキャラの使い分けと引きこもりとの関係については、森真一もキャラ的人間関係に特有の役割を演じて周囲に合わせる(空気を読む)ということに後ろめたさを感じることが優等生的な引きこもりにつながると述べている。", "qas": [ { "question": "解離性同一性障害の発祥事例が多いのは欧米と日本のどちら?", "id": "tr-564-11-000", "answers": [ { "text": "欧米", "answer_start": 73, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "キャラの使い分けの現象を解離性同一性障害の患者における交代人格のようなものだと述べた人は誰?", "id": "tr-564-11-001", "answers": [ { "text": "斎藤環", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "原宿系と渋谷系はどちらがコミュニケーション能力が高いですか?", "id": "tr-564-11-002", "answers": [ { "text": "渋谷系", "answer_start": 278, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "原宿系と渋谷系はどちらが自己イメージが安定していますか?", "id": "tr-564-11-003", "answers": [ { "text": "原宿系", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "若者が演じるキャラは、批評家の東浩紀が提示した「データベース消費」「動物化」といったキーワードと関連付けて言及されることがある。\n東浩紀は、主に日本のライトノベル・美少女ゲームなどのオタク系文化でのメディアミックス・二次創作の興隆に注目しながら、その文化圏における様々な情報を集積した「データベース」から適当にいくつかの個別的な要素を組み合わせる形でキャラクターが生成され、それらの登場する作品自体を消費しているようでいて実際にはその背後にあるデータベース(の要素)が消費の対象になっていると論じ、さらにオタクがデータベースから取り出された記号的な要素に「萌え」という脊髄反射的な反応を示すように他者を媒介した欲望を失って自己完結的な欲求のみを求めるような傾向を動物化と呼んだ。\n東浩紀自身は、「キャラを演じる」と表現されるのが(本項で述べているような)擬似人格としてのキャラであり、「キャラを立てる」という語で表現されるのが要素の組み合わせによって生じる偽者のアイデンティティとしてのキャラだと整理しているが、白田秀彰によれば若者が演じる社会的な文脈に依拠しない「仮想的キャラ」も、このデータベース消費論でいわれているように漫画・アニメなどのサブカルチャーにおいて蓄積されたキャラクター類型を参考にしそこから適当なものを呼び出すような形で生成されているという。\n社会学者の鈴木謙介は、その場で演じるキャラを決めるために対人関係のデータベースを参照しているという意味では、キャラの使い分けも(「対人関係への嗜癖」ではなく)データベースと自己を往復するだけの「自己への嗜癖」であると述べている。\n他方で太田省一は、他者との関係を伴わない個人的な欲求しか持たないという意味で、動物化した主体はキャラゲームからの離脱者であると述べている。\nただし、彼らが好むコンテンツを消費する中では、個人的な範囲でキャラの操作や構築が行われており、キャラゲームが他者との媒介を含むレベルではなく個人のレベルに変化したともいえるという。", "qas": [ { "question": "要素の組み合わせによって生じる偽者のアイデンティティとしてのキャラのことを、東浩紀はどのように表現しているの?", "id": "tr-564-12-000", "answers": [ { "text": "「キャラを立てる」", "answer_start": 392, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "擬似人格としてのキャラのことを、東浩紀はどのように表現しているの?", "id": "tr-564-12-001", "answers": [ { "text": "「キャラを演じる」", "answer_start": 347, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "鈴木謙介の職業は何?", "id": "tr-564-12-002", "answers": [ { "text": "社会学者", "answer_start": 582, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "漫画評論家の伊藤剛は、漫画・アニメなどの物語(虚構)の登場人物という意味でのキャラクターを論じる際に、「キャラクター」と「キャラ」を区別することを提唱した。\n具体的には、物語の中で独自の個性・存在感を持って描かれるものを「キャラクター」とし、単純な線画で描かれ異なる文脈への越境可能性を持った(例えば二次創作を通じて別の環境へ移植されても同一性を失わない)ものを「キャラ」と呼んでいる。\n対人関係用の仮想人格としてのキャラについて論じられるときも、この伊藤のキャラクター論と結びつけて言及されることがある。\n斎藤環は、スクールカーストものに数えられる小説『りはめより100倍恐ろしい』の解説において、作中に登場する様々な(本項で解説している意味での)「○○キャラ」の中に伊藤剛がいう意味での「キャラ」と「キャラクター」の両方が存在することを指摘している。\n具体的には、作中において「いじり」の対象が流動的に入れ替わる描写を考えれば「いじられキャラ」は「キャラ」であり、隠蔽していた元オタクであるという過去が知られたとたんに対等な人間関係から疎外されるという描写を考えれば「オタクキャラ」は「キャラクター」である、というようになる。", "qas": [ { "question": "「キャラクター」と「キャラ」を区別することを提唱した人は誰ですか?", "id": "tr-564-13-000", "answers": [ { "text": "伊藤剛", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "伊藤剛の職業は何?", "id": "tr-564-13-001", "answers": [ { "text": "漫画評論家", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「キャラクター」と「キャラ」の両方が存在している小説のタイトルとは?", "id": "tr-564-13-002", "answers": [ { "text": "『りはめより100倍恐ろしい』", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "評論家の海老原豊は、「キャラ」と「キャラクター」の成立順序に注目している。\n虚構の人物についてのキャラクター論では成立順序が「キャラ」→「キャラクター」となる(まず線画としてのキャラが描かれ、それが作品の完結とともに独自性を与えられる)が、若者のキャラ論においては成立順序が「キャラクター」→「キャラ」になる(まず生身の身体としての「キャラクター」があり、そこからのずれとして「キャラ」が割りあたられる)のだという。\n土井隆義は、例えば着せ替え人形のリカちゃんが(本来与えられていた家庭環境などの設定=物語を忘却して)ミッキーマウスなどの別のキャラクターを演じるようになった(キャラクターのキャラ化の進行)ことは、現代人が「大きな物語」を失い周囲の状況に即して臨機応変に外キャラを演じるようになったことを暗示しているように思えると述べている。", "qas": [ { "question": "「キャラ」と「キャラクター」の成立順序に注目した人物は誰ですか?", "id": "tr-564-14-000", "answers": [ { "text": "海老原豊", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "キャラを用いたコミュニケーションが顕著に現れている空間として学校(の教室)がある。\n教室内で各生徒に割り振られるキャラは、そこでの人気の序列を表すスクールカーストに如実に影響を及ぼし、印象の悪いキャラを与えられることはカーストの最底辺へ押し込まれること、さらにはいじめ(場合によってはネットいじめ)の対象となる危険性をも意味することになる。\nまた、教室内で設定されるキャラがしばしば固定的であることは、スクールカーストの固定性とも関係している。\n教室内で様々なキャラが発生する背景には、携帯電話やパソコンによるインターネット環境の普及があり、オンライン上でのコミュニケーションはオフラインでの人間関係にも影響を与えている。", "qas": [ { "question": "キャラを用いたコミュニケーションが明確に現れている空間としてどこが挙げられますか?", "id": "tr-564-15-000", "answers": [ { "text": "学校", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アイドルやお笑い芸人らが出演するテレビのバラエティ番組・お笑い番組・トーク番組も、キャラの確立が重要視される空間である。\nジャニーズ事務所所属の男性アイドルからAKB48などの女性アイドルグループまでアイドルの分野でも、(容姿・スタイルや歌唱力・演技力といったスキルの巧拙よりもむしろ)「キャラ」の確立の成否が人気を維持する上で重大な要素となっている。\n特に、なんらかの架空の星からやってきた、というような現実離れしたキャラ設定をアイドルが用いる手法は1990年代からのアイドル声優のブームから定着したものである。\nまた、若者のコミュニケーション作法自体が、お笑い芸人のそれを模倣している面があり、ゼロ年代以降のお笑い芸人・ひな壇芸人の競争においては「いかにユニークなキャラを立てるか」ということが名前を売る上で重要視されている。\nお笑い(特に漫才)の作法としては、「フリ→ボケ(→ツッコミ)」という笑いを生み出すための定式化された一連のやりとりがあるが、キャラという観点からみれば「フリ」の側は相手のキャラを把握した上でそれを生かせるようなボケに接続するきっかけを与える役目のことであり、「ツッコミ」はボケのキャラの演技を崩したり、演じれきれずに素を露呈してしまったときにそのこと自体を笑いにして軌道修正するという役目も帯びていることになる。\nまた、キャラ設定自体が一種の「フリ」になっていると解釈することも可能であり、例えば「遅刻キャラ」であればそのキャラ設定自体が一種の「フリ」であって、彼または彼女が実際に遅刻をすれば「やっぱり遅刻した」という形でパターン化された笑いが生まれることになり、さらに仮に遅刻をしなかったとしても図式からの意外なズレという意味でそれが笑いに転化する可能性がある。", "qas": [ { "question": "お笑い芸人の中で、「いかにユニークなキャラを立てるか」が重要視されるようになったのはいつから?", "id": "tr-564-16-000", "answers": [ { "text": "ゼロ年代以降", "answer_start": 299, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アイドルの分野でも重要視されているものとは、何を確立させることですか?", "id": "tr-564-16-001", "answers": [ { "text": "「キャラ」", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "インターネット空間(ブログ・チャット・電子メールなど)でも現実の人格とは必ずしも一致しない仮想人格(キャラ)によるコミュニケーションが行われている面が強く、性別を偽って振舞う「ネカマ/ネナベ」の存在や自己の分身としてのキャラクターを意味するアバターはその象徴であるといえる。\n荻上チキも、インターネット技術の発展は前述の「キャラ分けニーズ」を補助するものであるとしており、さらに若者が自身のキャラを調整・プロデュースする上で重要な役割を果たしているものとして携帯電話を挙げている。\n例えばストラップをつけたりラインストーン・シールなどで装飾を施したりすることは(工業製品として大量生産された)携帯電話に個性を持たせて自身のキャラをアピールする意味があり、プロフ・顔ちぇき!といったモバイルサイトを駆使して自分自身が演出したいキャラの設定を明確にすることもできる。\n女児向けアニメ『ふたりはプリキュア』でヒロインの少女が変身するためのキーアイテムとして携帯電話を模したキャラクターが採用されていることはその象徴といえる。", "qas": [ { "question": "インターネット空間で性別を偽って振舞っている存在を何と言いますか?", "id": "tr-564-17-000", "answers": [ { "text": "「ネカマ/ネナベ」", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "自己の分身となるキャラクターのことを何と言いますか?", "id": "tr-564-17-001", "answers": [ { "text": "アバター", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "若い世代が自身のキャラを調整・プロデュースする上で重要な役割を果たしているものとは何?", "id": "tr-564-17-002", "answers": [ { "text": "携帯電話", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "これら以外にも、キャラによるコミュニケーションは合同コンパの場や家庭・会社など大人世代にも広く浸透している。\n漫画・アニメなどの創作物の中にも、現実世界でのキャラ的人間関係を反映した描写がみられることがある。\nスクールカーストものといわれる一連の作品群においてスクールカーストと関連してキャラの確立をめぐる駆け引きが描かれているほか、少女漫画の『しゅごキャラ!』や(前述のプリキュアシリーズのひとつである)『ハートキャッチプリキュア!』において「キャラチェンジ」というコンセプトが打ち出されている。", "qas": [ { "question": "「キャラチェンジ」のコンセプトが掲げられている漫画は『ハートキャッチプリキュア!』と何ですか?", "id": "tr-564-18-000", "answers": [ { "text": "『しゅごキャラ!』", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ペルソナとは、他者とのコミュニケーションのために使い分けられるインターフェイスという意味で、ユング心理学でいうペルソナとキャラは類似した概念であるといえる。\nしかし斎藤環によると、欧米型のペルソナモデルでは背後に「欠如した単一の主体」が想定されその欠如ゆえに複数のペルソナを所有することになるが(主体とペルソナの関係は「一対多」となる)、日本型のキャラモデルの場合はキャラは単一の主体を持つものではなく、主体の複数性を背景として持ち各々の主体がその人格を得るための生成的な記号として機能している(主体とキャラの関係が「多対多」となる)という点が異なると指摘している。", "qas": [ { "question": "他者とのコミュニケーションのために使い分けられるインターフェイスのことを何と言いますか?", "id": "tr-564-19-000", "answers": [ { "text": "ペルソナ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "古代から祭や儀式で用いられる仮面は、遊戯的になにかを演じるツールという意味ではキャラと類似したものであるといえる。\nしかし、思想家のロジェ・カイヨワによる遊びの4要素である「競争」「偶然」「模擬」「眩暈」を軸に比較すると、仮面は「模擬」と「眩暈」を結合するものであるのに対し、キャラゲームでは「模擬」の要素はあっても「眩暈」の要素が無いといえる。\nすなわち、仮面をつけることは他者を演じることによって(眩暈を起こすほどの陶酔を伴うような)「自我の忘却」の状態を得ることになるが、キャラは他者を演じるのではなく自分自身を演じるという面があるため、「眩暈」の要素は欠けているのである。", "qas": [ { "question": "遊びの要素を「競争」「偶然」「模擬」「眩暈」の4つとした人は誰ですか?", "id": "tr-564-20-000", "answers": [ { "text": "ロジェ・カイヨワ", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "キャラゲームに無い要素とは何ですか?", "id": "tr-564-20-001", "answers": [ { "text": "「眩暈」", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "カール4世(神聖ローマ皇帝)", "paragraphs": [ { "context": "カール4世は神聖ローマ帝国の皇帝である。ルクセンブルク家の第2代皇帝にしてローマ王だ。ボヘミア王カレル1世としても著名である。フランス語名ではシャルルだ。\n\n文人皇帝として知られ、しばしば、最初の「近代的」君主と称される。金印勅書の発布やプラハ大学の創設、教皇のローマ帰還への尽力などで知られる。\n\nローマ皇帝ハインリヒ7世の孫で、父はボヘミア王ヨハン、母はボヘミア及びポーランドの王ヴァーツラフ2世の娘エリシュカだ。\n\nモラヴィア辺境伯、ルクセンブルク伯でもあった。\n\nチェコで流通している100コルナ紙幣に肖像が使用されている。", "qas": [ { "question": "カール4世はどこの皇帝なの?", "id": "tr-565-00-000", "answers": [ { "text": "神聖ローマ帝国", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カール4世のフランス語名は何?", "id": "tr-565-00-001", "answers": [ { "text": "シャルル", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カール4世の父は誰なの?", "id": "tr-565-00-002", "answers": [ { "text": "ボヘミア王ヨハン", "answer_start": 168, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カール4世の肖像が使用されているのはどこで流通している紙幣なの?", "id": "tr-565-00-003", "answers": [ { "text": "チェコ", "answer_start": 236, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "カール4世は1316年5月14日、ボヘミア王国の都プラハで生まれた。母はプシェミスル家最後のボヘミア王ヴァーツラフ3世の妹エリシュカである。\n\n1306年、ヴァーツラフ3世が暗殺されるとプシュミスル家の男系男子は絶え、その後様々な経緯があったものの、国内で王位継承に同意権を有していたボヘミアの有力貴族たちは、最終的にボヘミア王として、ローマ皇帝ハインリヒ7世の子であるルクセンブルク家のヨハンを選んだ。1310年、ヨハンはエリシュカと結婚してボヘミア王となったが、この2人の間に生まれた長男がカールである。カールは最初、伯父や外祖父と同じくヴァーツラフと名付けられた。\n\n\n\nルクセンブルク家とプシェミスル家の血を引くチェコ人として生まれたカールであったが、政治にかかわる父と母の確執のため、3歳の時に母の手元から引き離され、ロケト城に幽閉され、その後7歳から14歳までの間はパリの宮廷に送られてそこで養育された。これは、カペー朝最後の王となるフランス王シャルル4世の王妃マリー・ド・リュクサンブールが父ヨハンの妹だった縁による。", "qas": [ { "question": "カール4世はいつ生まれましたか。", "id": "tr-565-01-000", "answers": [ { "text": "1316年5月14日", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エリシュカとボヘミア王ヴァーツラフ3世と、誰がもっと年上なの?", "id": "tr-565-01-001", "answers": [ { "text": "ボヘミア王ヴァーツラフ3世", "answer_start": 46, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1310年、ヨハンは誰と結婚したの?", "id": "tr-565-01-002", "answers": [ { "text": "エリシュカ", "answer_start": 212, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カールは7歳から14歳までどの都市で生活しましたか。", "id": "tr-565-01-003", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 389, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "シャルル4世について、カールは後に「王自身はラテン語の知識がなかったが、ラテン語の基礎を学ばせるため、宮廷司祭を家庭教師としてわたしにつけて下さった」と自伝に記している。\n\nこの時の教師はフランス貴族出身のピエール・ロジェ、後の教皇クレメンス6世であり、カールにラテン語や神学を講じ、また帝王学を授けたといわれる。ゆきとどいた教育によって、カールは繊細で教養の高い若者に育った。また、このことは後年、カールがローマ皇帝に選出されるに際して決定的な影響をあたえる機縁となった。\n\nパリ滞在期間、彼は代父であるシャルル4世の名をとってヴァーツラフからシャルルと改名し、1329年にはフランス王族のヴァロワ伯シャルルの娘でシャルル4世の従妹であるブランシュを最初の妻に迎えた。なお、ブランシュはヴァロワ朝初代のフィリップ6世の異母妹にあたる。", "qas": [ { "question": "シャルルの以前の名前は何ですか。", "id": "tr-565-02-000", "answers": [ { "text": "ヴァーツラフ", "answer_start": 265, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "シャルル4世の従妹ブランシュは何年に結婚しましたか。", "id": "tr-565-02-001", "answers": [ { "text": "1329年", "answer_start": 282, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1330年、カールはパリを去り、翌1331年からの2年間、父ヨハンと共にイタリア遠征をおこなった。教皇庁が1309年に南フランスのアヴィニョンに移った後、イタリアにおいては、強力な皇帝による安定したイタリア統治を望む声が強まり、教皇派と皇帝派の対立が再燃した。カールはイタリア遠征のなか、ミラノを牛耳るヴィスコンティ家の手の者に毒を盛られかけたり、メディチ家率いるフィレンツェ共和国との戦いを自ら指揮したりしながら、政治上ないし軍事上の経験を積み重ね、一方では、芸術家や文人たちとの親交によってルネサンス初期の人文主義に触れた。なお、「最初の人文主義者」と称されるイタリアの詩人ペトラルカは、若きカールに期待した一人であった。", "qas": [ { "question": "ヨハンとカールのイタリア遠征は何年間続きましたか。", "id": "tr-565-03-000", "answers": [ { "text": "2年間", "answer_start": 25, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「最初の人文主義者」とは誰のことですか。", "id": "tr-565-03-001", "answers": [ { "text": "ペトラルカ", "answer_start": 289, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1333年、17歳になったカールはボヘミアに帰り、不在の父に代わってボヘミア及びその分国であるモラヴィアの経営にあたった。1334年にはモラヴィア辺境伯となり、さらには1340年からは失明した父の代理としてボヘミアを統治した。\n\nボヘミア王国の都プラハの小丘の上、プラハ城の城壁のなかに立地する聖ヴィート大聖堂がゴシック様式によって建設されたのは、カールの王子時代の1344年11月のことである。大聖堂は、北フランスのアラス出身のマテューを招いて起工された。これにともない、従来プラハには教区の統括者としてマインツ大司教座に属する司教が置かれていたが、以後は独立した大司教が置かれることとなった。\n\n王子時代における13年間におよぶボヘミア統治の経験は、父の没後の王位継承をきわめて円滑なものとした。", "qas": [ { "question": "カールは何年にモラヴィア辺境伯となったか。", "id": "tr-565-04-000", "answers": [ { "text": "1334年", "answer_start": 61, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "聖ヴィート大聖堂は何年に建てられましたか。", "id": "tr-565-04-001", "answers": [ { "text": "1344年", "answer_start": 183, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1346年、30歳となったカールは、ヴィッテルスバッハ家出身の皇帝ルートヴィヒ4世(バイエルン公)と対立する教皇クレメンス6世によって、対立王として擁立された。クレメンス6世はかつてのカールの師であり、帝国諸侯のなかにはルートヴィヒ4世の強引な所領拡大策に不満を持つ者も多く、ルクセンブルク家出身でカールの大叔父にあたるトリーア大司教バルドゥインらの選帝侯もまたカールをローマ王に選出してルートヴィヒ4世の皇帝廃位を宣言した。\n\nしかしこの時、カールはアルプス以北(後のドイツ)各地のみならずイタリアにおいても、「坊主王」と称されて軽侮と嘲笑の対象となっている。皇帝に教会保護の義務のみを負わせるという教皇庁の意向をカールがすべて受け入れ、自身のローマ王即位と引き替えに、従来皇帝の既得権とされてきた権限の多くを放棄したからであった。ローマ王としての戴冠式も、1346年にアーヘンではなくボン(ともに現ノルトライン=ヴェストファーレン州)で簡素に催された。", "qas": [ { "question": "1346年にカールは何歳でしたか。", "id": "tr-565-05-000", "answers": [ { "text": "30歳", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カールのローマ王としての戴冠式はいつ行われましたか。", "id": "tr-565-05-001", "answers": [ { "text": "1346年", "answer_start": 380, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この年、父と共にカールはフランスへ行き、百年戦争でフランス王国側に立って参戦した。ところが、父は戦争はじまって以来最大の会戦であるクレシーの戦いでフランス王太子ジャンの救援に赴いて戦死した。これにより、カールはボヘミア王及びルクセンブルク伯を継承することとなった。\n\nカールは翌1347年、プラハにおいてボヘミア王として戴冠式を挙行した。直後、廃位を宣言されていたルートヴィヒ4世も死去したため、併せて正式に単独のローマ王となった。選帝侯と先帝ルートヴィヒ4世とは1338年の協約によって、選帝侯によって選出されたローマ王は教皇の認可を待つことなく皇帝とみなされることを取り決めていた。しかし帝国においては国王の世襲を主張するヴィッテルスバッハ家をはじめとして反対勢力も根強く、一時は対立王さえ現れかねない状況だったので、カール4世は当面本拠地であるボヘミア地方を固めた。", "qas": [ { "question": "カールは百年戦争でどっち側に立って参戦したの?", "id": "tr-565-06-000", "answers": [ { "text": "フランス王国側", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カールの父はどの戦いで戦死したか。", "id": "tr-565-06-001", "answers": [ { "text": "クレシーの戦い", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カールは何年に、プラハにおいてボヘミア王として戴冠式を挙行した。", "id": "tr-565-06-002", "answers": [ { "text": "1347年", "answer_start": 139, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カール4世はローマ王となってからもチェコ人としての意識を持ち続けたといわれる。\n\n1348年4月、カール4世は開催中であった全ボヘミア領邦議会の会期にあわせて一連の勅書を発布したが、彼はこれによってローマ王の立場から自身の選帝侯及びボヘミア王としての諸特権を再確認し、一方ではボヘミア王のもとでの所領の不可分性を規定した。また、同時に発した別の勅書によって、プラハを単にボヘミアの首都であるだけでなく皇帝の都として大々的に整備することを宣言し、その一環としてプラハ大学の設立を発令した。\n\nヨーロッパにおける大学はボローニャ大学が最古でパリ大学がそれに次ぎ、イングランドではオックスフォード大学・ケンブリッジ大学、さらにイタリア南部でもサレルノやナポリには創設されたが、ライン川の東側、アルプス以北の領域には大学が一つもなかった。したがって現在のドイツにあたる地域で学問を志す若者は遠方で学ぶよりほかなかったが、幼少をパリで過ごした文化人皇帝カール4世はそのような状況の解消に努めるとともに、プラハを「東方のパリ」たらしめんことを図ったのである。ドイツ語圏初の大学は、カール4世の領国建設に資する官僚の育成を目的とするものでもあった。これにより、プラハは中欧における学問の中心として栄え、ヨーロッパ屈指の文化都市として発展した。プラハ大学そのものも上述の諸大学に比肩され、後に神学者ヤン・フスらを輩出している。プラハの旧市庁舎を建設したのもカール4世だといわれる。", "qas": [ { "question": "プラハ大学の設立を発令したのは誰?", "id": "tr-565-07-000", "answers": [ { "text": "カール4世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ヨーロッパで一番古い大学は何ですか。", "id": "tr-565-07-001", "answers": [ { "text": "ボローニャ大学", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "パリ大学、ボローニャ大学、オックスフォード大学のうち、一番古い大学は何ですか。", "id": "tr-565-07-002", "answers": [ { "text": "ボローニャ大学", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1348年は、全ヨーロッパにおいては黒死病が猖獗をきわめた年でもあったが、ここでカール4世は帝国内におけるユダヤ人迫害を阻むことができず、南独のニュルンベルクではユダヤ人家屋の撤去とシナゴーグ撤去後の跡地への聖母教会建設の許可を与えている。一方、彼はボヘミア王としては、拡張したプラハ新市街への移民としてユダヤ教徒を歓迎し、関係法令でも移民の筆頭としてユダヤ人を掲げており、その姿勢には二重性が認められる。いずれにせよ、この時プラハではペスト感染の症例自体が少なく、ユダヤ人に対する差別や迫害も起こっていない。\n\n1349年、カール4世はヴィッテルスバッハ家との和解を成立させ、ようやくアーヘンでローマ王として改めて戴冠式を挙げた。同年、モラヴィア辺境伯の地位を同母弟のヨハン・ハインリヒに与えている。", "qas": [ { "question": "1348年、全ヨーロッパにはどの質病が流行していましたか。", "id": "tr-565-08-000", "answers": [ { "text": "黒死病", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "モラヴィア辺境伯の地位を同母弟のヨハン・ハインリヒに与えたのは何年のことですか。", "id": "tr-565-08-001", "answers": [ { "text": "1349年", "answer_start": 257, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カール4世は何年にアーヘンでローマ王として改めて戴冠式を挙げたか。", "id": "tr-565-08-002", "answers": [ { "text": "1349年", "answer_start": 257, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カール4世は1353年、ルクセンブルク伯位を異母弟のヴェンツェル1世にあたえ、爵位をルクセンブルク公へと格上げした。\n\n1354年から1355年にかけてはイタリア遠征を行い、この間ミラノでイタリア王として戴冠、さらにローマではサンピエトロ大聖堂においてローマ皇帝として正式な戴冠を受け、教皇インノケンティウス6世との協約をむすぶことに成功した。両者は互いに双方の主権を尊重しあうことを確約し、皇帝は教皇庁からの干渉を排する代わりにイタリアへの干渉を放棄した。戴冠は1355年4月5日のことであり、カール4世はその日のうちにローマを離れた。また、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノなどの諸都市からは政治的妥協の見返りとして大金を供出させた。カール4世は、祖父・父あるいは歴代皇帝とは異なり、イタリアへの政治的介入をおこなわず、むしろ神聖ローマ帝国の平穏とボヘミアの発展に力を注いだのである。\n\nローマ王権にとって、教皇庁からの自由を確保することは神聖ローマ帝国における諸問題を解決していく上での前提となっており、カール4世はその確保に成功した。加えて百年戦争におけるフランスの劣勢は神聖ローマ帝国にとって西境情勢の好転を意味していた。戦争よりも外交に重きを置いたカールは、ハプスブルク、ヴィッテルスバッハ両家及び帝国諸侯らとの妥協にも成功したのである。", "qas": [ { "question": "カール4世はいつルクセンブルク伯位を異母弟のヴェンツェル1世にあたえ、爵位をルクセンブルク公へと格上げしたか。", "id": "tr-565-09-000", "answers": [ { "text": "1353年", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カール4世はパリで養育を受け、若いころにイタリアの文人との交わりを持ったこともあって、5か国語に通じ、フランス語、イタリア語、ドイツ語、チェコ語を自由にあやつり、ラテン語で自伝を著しており、当時のヨーロッパにあって最も教養の高い君主であった。神学と法学には生涯にわたって興味を持ち続け、生活ぶりは質素で、重篤な信仰心を抱いており、該博な古典の知識を有していた。\n\nカール4世はまた、自身のみならず、金印勅書第31条において、帝国は異なる複数の言語を用いる「諸国民」より構成される国家であるから、選帝侯の後継者たる者は7歳から14歳の間、ドイツ語のほか、ラテン語、イタリア語、チェコ語を習得すべしとの条項を入れた。これはカール4世の願望であり、実現には移されなかったが、「国際的君主」「学者王」に導かれたプラハの宮廷にはヨーロッパ各地より学者や芸術家が招かれ、ドイツ・フランス・イタリアの文化が移植されて、当時のヨーロッパにおいて初期人文主義の一中心としての役割を担い、一方ではボヘミア民族文化が興隆したのであった。", "qas": [ { "question": "当時のヨーロッパにあって最も教養の高い君主は誰でしたか。", "id": "tr-565-10-000", "answers": [ { "text": "カール4世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "アラー・ウッディーン・ハルジー", "paragraphs": [ { "context": "アラー・ウッディーン・ハルジー(علاءالدينخلجي,ʿAlāʾud-DīnKhaljī;1266年もしくは1267年–1316年1月2日)は、北インドを支配したデリー・スルタン朝の一つであるハルジー朝の第3代スルターンである(2代目とも数えられる)(在位1296年–1316年)。", "qas": [ { "question": "アラー・ウッディーン・ハルジーは、どの王朝のスルターンなの?", "id": "tr-566-00-000", "answers": [ { "text": "ハルジー朝", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハルジー朝の支配領域は、どこでしたか?", "id": "tr-566-00-001", "answers": [ { "text": "北インド", "answer_start": 75, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アラー・ウッディーン・ハルジーは、ハルジー朝の第何代スルターンであるか?", "id": "tr-566-00-002", "answers": [ { "text": "第3代スルターン", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アラー・ウッディーン・ハルジーは、モンゴル帝国によるインド侵入を5度に渡って撃退し、自らを「第二のアレクサンドロス大王(スィカンダル・サーニー)」と称した。", "qas": [ { "question": "アラー・ウッディーン・ハルジーが尊敬した人物は、誰なの?", "id": "tr-566-01-000", "answers": [ { "text": "アレクサンドロス大王", "answer_start": 49, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アラー・ウッディーン・ハルジーが自らを第二のアレクサンドロス大王と称した根拠となる業績としては、どの国からの攻撃を撃退したことが挙げられますか?", "id": "tr-566-01-001", "answers": [ { "text": "モンゴル帝国", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アラー・ウッディーン・ハルジーは、モンゴル帝国からの攻撃を何度に渡り撃退したか?", "id": "tr-566-01-002", "answers": [ { "text": "5度", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アラー・ウッディーン・ハルジーは、南インドに初めてイスラム勢力を拡大し、インド南部におけるイスラム教信仰の基盤を築いた。デリー・スルタン朝を「インド=トルコ人国家」から「インド=ムスリム帝国」へと方向付け、デリー・スルタン朝のインド化を進めた人物と評価されている。", "qas": [ { "question": "南インドに初めてイスラム勢力を拡大した人物は?", "id": "tr-566-02-000", "answers": [ { "text": "アラー・ウッディーン・ハルジー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "インド南部におけるイスラム教信仰の基盤を築いた人物は、誰ですか?", "id": "tr-566-02-001", "answers": [ { "text": "アラー・ウッディーン・ハルジー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "デリー・スルタン朝のインド化を進めた人物と評価される人物は、誰か?", "id": "tr-566-02-002", "answers": [ { "text": "アラー・ウッディーン・ハルジー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アラー・ウッディーン・ハルジーにより、デリー・スルタン朝はインド=トルコ人国家からどのような国へと方向付けられたか?", "id": "tr-566-02-003", "answers": [ { "text": "インド=ムスリム帝国", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アラー・ウッディーン・ハルジーは、奴隷王朝に加わったテュルク系部族集団ハルジー族の出身で、奴隷王朝を滅ぼしてハルジー朝を開いたジャラールッディーン・ハルジーの甥にあたり、娘婿でもあった。", "qas": [ { "question": "アラー・ウッディーン・ハルジーは、どの部族出身なの?", "id": "tr-566-03-000", "answers": [ { "text": "ハルジー族", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハルジー朝の創始者は、誰ですか?", "id": "tr-566-03-001", "answers": [ { "text": "ジャラールッディーン・ハルジー", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アラー・ウッディーン・ハルジーは、誰の甥にあたり、娘婿でもあったか?", "id": "tr-566-03-002", "answers": [ { "text": "ジャラールッディーン・ハルジー", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハルジー朝の創始者は、どの王朝を滅亡させたか?", "id": "tr-566-03-003", "answers": [ { "text": "奴隷王朝", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アラー・ウッディーン・ハルジーは、1292年に肥沃な土壌と高級織物の生産地であるデリー東部の都市カラーとその一帯の知事に任ぜられた。彼とジャラールッディーンの関係については、トゥグルク朝に仕官した経験もあるイブン・バットゥータが『大旅行記』で言及している。", "qas": [ { "question": "アラー・ウッディーン・ハルジーをカラーとその一帯の知事に任命したのは、誰なの?", "id": "tr-566-04-000", "answers": [ { "text": "ジャラールッディーン", "answer_start": 68, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アラー・ウッディーン・ハルジーがカラーとその一帯の知事に任命されたのは、何年のことですか?", "id": "tr-566-04-001", "answers": [ { "text": "1292年", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アラー・ウッディーン・ハルジーとジャラールッディーンの関係について記述したのは、誰か?", "id": "tr-566-04-002", "answers": [ { "text": "イブン・バットゥータ", "answer_start": 103, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アラー・ウッディーン・ハルジーとジャラールッディーンの関係について記述されている書籍は、何か?", "id": "tr-566-04-003", "answers": [ { "text": "『大旅行記』", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アラー・ウッディーンとジャラールッディーンの娘の夫婦仲は悪く、そのために義父であるジャラールッディーンとの関係もこじれたものになったと、バットゥータは説明している。彼はジャラールッディーンの寛容な施策に不満を持つ将校たちの支持を得るため、ジャラールッディーンの許可を得て1294年よりイスラム王朝の軍隊として初めてヴィンディヤ山脈を越えてデカン高原に南進し、デカンのヒンドゥー教国ヤーダヴァ朝を攻撃した。", "qas": [ { "question": "アラー・ウッディーンとジャラールッディーンの関係が悪化するきっかけとなったは、どの関係が悪化したことであるの?", "id": "tr-566-05-000", "answers": [ { "text": "アラー・ウッディーンとジャラールッディーンの娘の夫婦仲", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アラー・ウッディーンとジャラールッディーンの関係が悪化した理由について、説明しているのは、誰ですか?", "id": "tr-566-05-001", "answers": [ { "text": "バットゥータ", "answer_start": 68, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イスラム王朝の軍隊として初めてヴィンディヤ山脈を越えてデカン高原に南進し、デカンのヒンドゥー教国ヤーダヴァ朝を攻撃したのは、誰か?", "id": "tr-566-05-002", "answers": [ { "text": "アラー・ウッディーン", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アラー・ウッディーンがヤーダヴァ朝への攻撃を開始したのは、何年のことか?", "id": "tr-566-05-003", "answers": [ { "text": "1294年", "answer_start": 135, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アラー・ウッディーンは、1296年にヤーダヴァ朝の首都デーヴァギリ(現在のダウラターバード)を占領し、17250ポンドの金、200ポンドの真珠、28250ポンドの銀を戦利品として手に入れるが、デリー・スルタン朝の慣例に反してこの時に得た膨大な戦利品をジャラールッディーンに献上せず、自軍の軍費に充てた。", "qas": [ { "question": "ヤーダヴァ朝の首都は、どこだったの?", "id": "tr-566-06-000", "answers": [ { "text": "デーヴァギリ", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "デーヴァギリが占領されたのは、何年のことですか?", "id": "tr-566-06-001", "answers": [ { "text": "1296年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "デーヴァギリを占領し、手に入れた戦利品のうち、その量が最も多かったのは、何か?", "id": "tr-566-06-002", "answers": [ { "text": "銀", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アラー・ウッディーンは、デーヴァギリを占領し、手に入れた戦利品をどこに使ったか?", "id": "tr-566-06-003", "answers": [ { "text": "自軍の軍費", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アラー・ウッディーンは、1296年に自分の陣営を訪れたジャラールッディーンを暗殺し、ジャラールッディーン殺害に協力した部下にはあらかじめ約束しておいた褒賞を与え、3か月かけてゆっくりとデリーへと進軍した。一方、ジャラールッディーン暗殺の報告が届いたデリーでは、ジャラールッディーンの妃マリカイ・ジャハーンが彼女の子ルクン・ウッディーンをスルターンに擁立していた。", "qas": [ { "question": "ジャラールッディーンが死んだのは、何年なの?", "id": "tr-566-07-000", "answers": [ { "text": "1296年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジャラールッディーンの後を継ぎ、即位したのは、誰ですか?", "id": "tr-566-07-001", "answers": [ { "text": "ルクン・ウッディーン", "answer_start": 157, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ルクン・ウッディーンが即位したのは、何年か?", "id": "tr-566-07-002", "answers": [ { "text": "1296年", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジャラールッディーンの暗殺を計画したのは、誰か?", "id": "tr-566-07-003", "answers": [ { "text": "アラー・ウッディーン", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "アラーウッディーンはデリーに向かう道中でデカン遠征で得た戦利品で兵士を徴募し、沿道の住民には金銀貨をばらまいて人気取りを図るとともにデリーのマリカイ・ジャハーンの支持者を買収して彼らの寝返りを待った。デリーの貴族と軍人のほとんどがアラーウッディーンの支持に回るとデリーに入城し、ルクン・ウッディーンを盲目に、マリカイ・ジャハーンを居住に軟禁した上で、スルターンに即位した。", "qas": [ { "question": "アラーウッディーンはデリー占領のために、兵士を徴募したり、住民からの人気取りを図ったりするとともに、マリカイ・ジャハーンの支持者をどうしようとしたの?", "id": "tr-566-08-000", "answers": [ { "text": "買収", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ルクン・ウッディーンを廃位させたのは、誰ですか?", "id": "tr-566-08-001", "answers": [ { "text": "アラーウッディーン", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ルクン・ウッディーンを廃位させ、自ら即位したのは、誰か?", "id": "tr-566-08-002", "answers": [ { "text": "アラーウッディーン", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "デリーの貴族と軍人のほとんどから支持されたのは、誰か?", "id": "tr-566-08-003", "answers": [ { "text": "アラーウッディーン", "answer_start": 115, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アラー・ウッディーンの治世の初期より、チャガタイ・ハン国のハン・ドゥアの軍が頻繁に北インドに侵入し、デリーは二度陥落の危険に晒された。1298年のモンゴル軍侵入の撃退に成功して威信が大いに高まったことを利用し、かつて買収でジャラールッディーン側から寝返ったデリーの貴族を粛清した。1299年から1300年にかけてのモンゴル軍の侵入では、ドゥアの子であるクトゥルグ・ホージャの率いる20万の軍がデリー近郊にまで迫るが、アラーウッディーン自らが指揮する軍隊の奮戦によってデリー近郊で撃退した。", "qas": [ { "question": "アラー・ウッディーンの時代、彼の王国を苦しめたのは、どの国なの?", "id": "tr-566-09-000", "answers": [ { "text": "チャガタイ・ハン国", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アラー・ウッディーンの時代、チャガタイ・ハン国の権力を握っていたのは、誰ですか?", "id": "tr-566-09-001", "answers": [ { "text": "ドゥア", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "国内におけるアラー・ウッディーンの威勢が高まったのは、何年に外勢からの攻撃を撃退したことによることか?", "id": "tr-566-09-002", "answers": [ { "text": "1298年", "answer_start": 67, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "どの国が1298年に侵入してきたが、アラー・ウッディーンにより撃退されたか?", "id": "tr-566-09-003", "answers": [ { "text": "モンゴル", "answer_start": 73, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1302年の冬にアラー・ウッディーンがランタンボールに遠征していた時、12万のモンゴル軍が北インドに侵入し、デリーに包囲を布いた。デリーへの交通路はモンゴル軍に遮断されていたために援軍と食料の供給は絶たれ、帰国したアラー・ウッディーンはデリーに入城できずにやむなくデリー東北のシーリー(スィーリー)に拠点を移した。", "qas": [ { "question": "12万のモンゴル軍が北インドに侵入して来たのは、何年のことなの?", "id": "tr-566-10-000", "answers": [ { "text": "1302年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1302年にアラー・ウッディーンは、どこへの遠征を行っていましたか?", "id": "tr-566-10-001", "answers": [ { "text": "ランタンボール", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "援軍と食料の補給のための交通路が遮断されたのは、どの軍によることだったか?", "id": "tr-566-10-002", "answers": [ { "text": "モンゴル軍", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "デリーに入城できなかったアラー・ウッディーンは、どこに拠点を移したか?", "id": "tr-566-10-003", "answers": [ { "text": "シーリー", "answer_start": 138, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1310年から1311年にかけてイルハン朝のハン・オルジェイトゥより降伏を勧告する使節団が送られるが、アラー・ウッディーンは要求を容れず、18人の使節団全員を象に踏み殺させた。また、将軍のガーズィー・マリク(後のトゥグルク朝の創始者ギャースッディーン・トゥグルク)をアフガニスタンの山岳地帯に駐留させ、インド北部への侵入を繰り返すモンゴル軍を撃退させてインド北部の草原地帯の安全を確保した。", "qas": [ { "question": "イルハン朝はアラー・ウッディーンに対し、何年から何年にかけて降伏を勧告する使節団が送ってきたの?", "id": "tr-566-11-000", "answers": [ { "text": "1310年から1311年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1310年から1311年にかけて、アラー・ウッディーンに対し降伏を勧告する使節団が送ってきたのは、どの王朝でしたか?", "id": "tr-566-11-001", "answers": [ { "text": "イルハン朝", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1311年の時点でイルハン朝の君主として君臨していたのは、誰か?", "id": "tr-566-11-002", "answers": [ { "text": "オルジェイトゥ", "answer_start": 25, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アラー・ウッディーンからモンゴル軍の侵入の撃退の任務を命じられたのは、誰か?", "id": "tr-566-11-003", "answers": [ { "text": "ガーズィー・マリク", "answer_start": 94, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1299年にはグジャラートのヴァーゲーラー朝(後期チャールキヤ朝の後継国家)にムルターンのウルグ・ハーンとデリーのヌスラト・ハーンを派遣し、国王カルナ2世の軍をアーシャーパッリー(現在のアフマダーバード)近郊で破り、首都アナヒラパータカを攻略した。アラーウッディーンは征服地に長官を置かず、またヴァーゲーラー朝と臣従関係を結ぶこともなく、軍隊をデリーに引き上げさせたためにカルナ2世が従来通りグジャラートを統治するが、カルナ2世と婚姻関係を築いた後に彼が謀反を企んでいる情報が入ると、1304年に再びグジャラートに軍を進め、ヴァーゲーラー朝を滅ぼした。", "qas": [ { "question": "ヴァーゲーラー朝は、どこに拠点を置いて活動している王朝だったの?", "id": "tr-566-12-000", "answers": [ { "text": "グジャラート", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヴァーゲーラー朝を滅ぼしたのは、誰ですか?", "id": "tr-566-12-001", "answers": [ { "text": "アラーウッディーン", "answer_start": 124, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴァーゲーラー朝が滅亡したのは、何年のことか?", "id": "tr-566-12-002", "answers": [ { "text": "1304年", "answer_start": 242, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "グジャラートの統治者は、誰だったか?", "id": "tr-566-12-003", "answers": [ { "text": "カルナ2世", "answer_start": 72, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ジアゼパム", "paragraphs": [ { "context": "ジアゼパム(英語:Diazepam)は、主に抗不安薬、抗けいれん薬、催眠鎮静薬として用いられる、ベンゾジアゼピン系の化合物である。筋弛緩作用もある。アルコールの離脱や、ベンゾジアゼピン離脱症候群の管理にも用いられる。ジアゼパムは、広く用いられる標準的なベンゾジアゼピン系の一つで、世界保健機関(WHO)による必須医薬品の一覧に加えられている。また広く乱用される薬物であり、1971年の国際条約である向精神薬に関する条約のスケジュールIVに指定され、日本では処方箋医薬品の扱いである。処方・入手は医師の処方箋に限られる。(ジアゼパム錠)ジアゼパムはてんかんや興奮の治療に用いられる。また、有痛性筋痙攣(いわゆる“こむらがえり”)などの筋痙攣の治療にはベンゾジアゼピン類の中で最も有用であるとされている。鎮静作用を生かし手術などの前投薬にも用いられる。アルコールやドラッグによる離脱症状の治療にも用いられる。", "qas": [ { "question": "日本でのジアゼパムの入手には何が必ず必要なの?", "id": "tr-567-00-000", "answers": [ { "text": "医師の処方箋", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジアゼパムは、どの機関から必須医薬品として登録されたのか?", "id": "tr-567-00-001", "answers": [ { "text": "世界保健機関", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベンゾジアゼピン類の中で、筋痙攣の治療において頭角を現すのは、何?", "id": "tr-567-00-002", "answers": [ { "text": "ジアゼパム", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ジアゼパムによる有害事象としては、前向性健忘(特に高用量で)と鎮静、同時に、激昂やてんかん患者における発作の悪化といった奇異反応が挙げられる。またベンゾジアゼピン系はうつ病の原因となったり悪化させることがある。ジアゼパムも含め、ベンゾジアゼピンの長期的影響として耐性の形成、ベンゾジアゼピン依存症、減薬時のベンゾジアゼピン離脱症状がある。ベンゾジアゼピンの中止後の認知的な損失症状は、少なくとも6か月間持続する可能性があり、いくつかの損失症状の回復には、6か月以上必要な可能性があることが示されている。ジアゼパムには身体的依存の可能性があり、長期間にわたって使用すれば身体的依存による重篤な問題の原因となる。処方の慣行を改善するために各国政府に対して、緊急な行動が推奨されている。化学的には、1,4-ベンゾジアゼピン誘導体で、1950年代にレオ・スターンバックによって合成された。1960年代に広く用いられることとなった。日本での代替医薬品でない商品には、武田薬品工業のセルシンやアステラス製薬のホリゾンがあり、他に各種の後発医薬品が利用可能である。アメリカ合衆国での商品名としてValium、Seduxenなどがある。", "qas": [ { "question": "ジアゼパムを始めて合成したのは、誰か?", "id": "tr-567-01-000", "answers": [ { "text": "レオ・スターンバック", "answer_start": 370, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジアゼパムはどんな患者において、発作を悪化させる可能性がありますか?", "id": "tr-567-01-001", "answers": [ { "text": "てんかん患者", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジアゼパムが広く用いられるようになったのは、何年代からか?", "id": "tr-567-01-002", "answers": [ { "text": "1960年代", "answer_start": 390, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ベンゾジアゼピン系が長期間に渡ってヒトに及ぶ影響としては、耐性の形成と減薬時のベンゾジアゼピン離脱症状のほかに、どのような症状が挙げられるのか?", "id": "tr-567-01-003", "answers": [ { "text": "ベンゾジアゼピン依存症", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ジアゼパムを含めて、ベンゾジアゼピン系の有害事象には、前向性健忘と混乱(特に高用量において)と鎮静がある。長期間のベンゾジアゼピン系の使用は、耐性やベンゾジアゼピン依存症、ベンゾジアゼピン離脱症候群に結び付いている。他のベンゾジアゼピン系のように、ジアゼパムは新しい情報の短期記憶および学習を損なう。ベンゾジアゼピンは前向性健忘症を引き起こす可能性があるが、逆行性健忘は発生しない。すなわちベンゾジアゼピン服用以前に学習した情報は失われない。ベンゾジアゼピンの認知障害については長期使用による耐性は形成されない。高齢者はベンゾジアゼピンによる認知を損なう作用に対して過敏である。ベンゾジアゼピン停止後の認知障害は少なくとも6か月続き、この障害が6か月後に軽減するか永久的かどうかは不明である。またベンゾジアゼピンはうつ病を悪化させる。発作を管理するときなど、ジアゼパムの静脈内注射や輸液を繰り返すと、呼吸抑制・鎮静・血圧などの薬物毒性に繋がることがある。ジアゼパムを24時間以上点滴されたならば、耐性が形成される。鎮静・ベンゾジアゼピン依存症・乱用の可能性のため、ベンゾジアゼピンの使用は限定される。", "qas": [ { "question": "この文書で紹介されている、ベンゾジアゼピン系の有害事象には、前向性健忘と混乱のほかに、何があるか?", "id": "tr-567-02-000", "answers": [ { "text": "鎮静", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "前向性健忘と逆行性健忘のうち、ベンゾジアゼピン系の有害事象ではないのは、どれか?", "id": "tr-567-02-001", "answers": [ { "text": "逆行性健忘", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "若者と高齢者のうち、ベンゾジアゼピン服用の有害事象が生じた時に新しい情報が損失されやすいのは、どちらか?", "id": "tr-567-02-002", "answers": [ { "text": "高齢者", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "服用以前に学習した情報と新しい情報のうち、ベンゾジアゼピン服用による有害事象が生じた時に失われるのは、どちらか?", "id": "tr-567-02-003", "answers": [ { "text": "新しい情報", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "何時間以上点滴されると、身体においてジアゼパムに対する耐性が形成されるの?", "id": "tr-567-02-004", "answers": [ { "text": "24時間", "answer_start": 433, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ジアゼパムには、(他のベンゾジアゼピンと共通の)様々な副作用が存在する。特に頻繁なものとしては、傾眠傾向や抑うつ、吐き気、運動機能・協調運動障害、(動揺性)めまい、神経過敏、順行性健忘(特に、高用量を服用した時)などがある。ジアゼパムの通常予想される作用と反対の反応、つまり、易興奮性、筋痙攣、そして(極端な場合)憤激や暴力が起きる可能性がある。これは「奇異反応」と呼ばれる。こうした反応があった場合、ただちにジアゼパムを中止しなければならない。こうした効果から、身体における耐性と精神的な依存が引き起こされうる。長期間の投与例の30%以下には、「低用量依存」として知られるある種の薬物依存状態が引き起こされる。こうした患者はジアゼパムによって生じる「良い気分」を感じるために、用量を増加させることは必要としない。こうした患者の場合、離脱は困難を伴い、徐々に漸減する計画によってのみ離脱が達成されうる。外来患者にジアゼパムを処方する場合、機械操作・車両の運転に支障をきたす可能性に常に留意する必要がある。こうした障害は、アルコール摂取によって悪化する。どちらの薬物も中枢神経系を抑制するからである。治療の経過中に、通常は鎮静効果への耐性が出現する。まれに、白血球減少症、あるいは胆汁うっ滞性肝障害といった副作用が観察されることがある。睡眠時無呼吸症候群を有する患者には、呼吸抑制作用によって呼吸停止と死を招く可能性がある。", "qas": [ { "question": "この文書に書かれている、ジアゼパムにより特に頻繁に発生する副作用には、傾眠傾向と抑うつ、吐き気、運動機能・協調運動障害、めまい、神経過敏のほかに、何がありますか?", "id": "tr-567-03-000", "answers": [ { "text": "順行性健忘", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジアゼパムの通常予想される作用と反対の反応のことを、何と呼ぶか?", "id": "tr-567-03-001", "answers": [ { "text": "奇異反応", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジアゼパムを服用した時、呼吸抑制作用によって呼吸停止と死を招く可能性があるのは、どのような病気にかかった患者であるか?", "id": "tr-567-03-002", "answers": [ { "text": "睡眠時無呼吸症候群", "answer_start": 567, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ジアゼパムは他のベンゾジアゼピンと同様に、薬物耐性、身体依存、依存症といった要因により、ベンゾジアゼピン離脱症候群が発生する可能性がある。離脱症状は、バルビツール酸系やアルコールによって起きるものに似ている。大量また長期間の投与は不快な離脱症候を発生させるリスクを高める。離脱症候は通常量や短時間の投与でも発生し、不眠や不安、より重篤な場合には、発作や精神病などに渡る症状となる。時に、離脱症候は既存の病状に似ているため誤診されることがある。ジアゼパムはその長い半減期のため強烈な離脱症候をもたらす。ベンゾジアゼピンによる治療は可能な限り短期間に止め、徐々に中断しなければならない。", "qas": [ { "question": "この文書によると、アルコールやジアゼパムにより生じる離脱症状に似ているのは、何により起こる離脱症状であるか?", "id": "tr-567-04-000", "answers": [ { "text": "バルビツール酸系", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジアゼパムによる副作用のうち、この文書は主にどのような症状について語っていますか?", "id": "tr-567-04-001", "answers": [ { "text": "離脱症状", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "治療によって耐性が形成される。例えば抗けいれん作用に対して耐性が形成されるため、一般的にベンゾジアゼピンはてんかんの長期的な管理には推奨されていない。「投与量の増加によって耐性(分量耐性)を乗り越えても、さらなる耐性が形成され副作用が増加する。」このベンゾジアゼピンの耐性形成の機序は、受容体部位の脱共役、遺伝子発現の変化、受容体部位の下方制御、GABA作用受容体部位の脱感作などが含まれる。約4週間以上にわたりベンゾジアゼピンを服用した人の約3分の1に依存が形成され、中止時に離脱症候が起きる。離脱症状の発生率の違いは、患者の状況によって異なる。たとえば長期的なベンゾジアゼピン服用者のランダムなサンプルにおいて、約50%では離脱症状が少ないか全くなく、残りの50%に離脱症状を認めることができる。選択的な患者集団では、ほぼ100%に近い割合で離脱症状を認める。反跳性不安や原症状よりもさらに重度の不安が、ジアゼパムやベンゾジアゼピンに共通の離脱症状である。ジアゼパムは、低容量で徐々に減量しても重篤な離脱症状の危険性があるため、可能な限りの低容量で、短期間の治療が推奨される。ジアゼパムを6週間以上投与すればベンゾジアゼピン離脱症候群によって、患者に薬物依存の状態を形成する重大なリスクがある。人間への耐性は、ジアゼパムの抗けいれん作用について頻繁に発生する。", "qas": [ { "question": "ベンゾジアゼピンがてんかんの長期的な管理には向かないのは、服用する度にどんな作用に対する耐性がより強まっていくためなの?", "id": "tr-567-05-000", "answers": [ { "text": "抗けいれん作用", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "長期的なベンゾジアゼピン服用者における離脱症状の発生率を調べた時、選択的な患者集団とランダムなサンプルのうち、どちらにおいて離脱症状を認める割合がより大きいのか?", "id": "tr-567-05-001", "answers": [ { "text": "選択的な患者集団", "answer_start": 350, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ジアゼパムは、長期間の治療と短期間の治療のうち、どちらに向きますか?", "id": "tr-567-05-002", "answers": [ { "text": "短期間の治療", "answer_start": 477, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジアゼパムを低容量で服用し、さらに服用量を徐々に減量する場合、重篤な離脱症状に陥る可能性があるか、ないか?", "id": "tr-567-05-003", "answers": [ { "text": "ある", "answer_start": 461, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ジアゼパムの不適切または過剰な使用は、精神的依存/薬物依存症を形成する。アルコールや薬物について乱用や依存の既往歴のある患者や、境界性パーソナリティ障害などの深刻なパーソナリティ障害を伴う患者、感情の不安定な患者、慢性痛やその他の身体疾患を伴う患者に属する患者は、乱用の兆候や依存の形成がないかについて慎重に観察されるべきである。特にアルコールや薬物について乱用や依存の既往歴のある患者において、ジアゼパムは飲酒の欲望を増加させ、また飲酒量も増加させる。これらの兆候が少しでも見られたならば、治療は中止されなければならない。しかしながら、身体依存が形成されている場合は、重篤な離脱症状を避けるために徐々に中断しなければならない。これらの人々に対し、長期間の治療は推奨できない。ベンゾジアゼピンに対して精神的依存の疑いのある人に対しては、非常に緩やかに断薬しなければならない。まれながら、投与が長時間にわたっている場合、離脱症状が致命的となることがある。依存の形成が治療によるものか乱用によるものかを慎重に判断しなければならない。", "qas": [ { "question": "ジアゼパムの不適切または過剰な使用は、薬物依存症と何を形成する?", "id": "tr-567-06-000", "answers": [ { "text": "精神的依存", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジアゼパムが飲酒に及ぶ影響には、飲酒量の増加と何の増加がありますか?", "id": "tr-567-06-001", "answers": [ { "text": "飲酒の欲望", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ある障害を伴う患者においてはジアゼパムを用いる長期間の治療が向かないとされるが、この文書にはその障害の例として何が挙げられているのか?", "id": "tr-567-06-002", "answers": [ { "text": "境界性パーソナリティ障害", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ジアゼパムを過量に摂取した人は、傾眠の傾向、意識の昏迷、昏睡、腱反射の減弱といった徴候を示す。ジアゼパムの過量摂取は救急医療的な状態であり、救急医療関係者による迅速な発見が必要である。この場合の拮抗薬はフルマゼニル(アネキセート)である。ジアゼパムの作用が消失するには数日かかり、フルマゼニルは短期間作用型の薬剤であるためフルマゼニルの連続投与が必要になることがある。必要に応じて、気管挿管と心肺機能の管理を行うべきである。人間の、経口摂取でのジアゼパムの致死量は500mgないしそれ以上と見積もられている。300mgを経口摂取した症例でも、睡眠時間の延長と連続した傾眠傾向だけで、重篤な合併症もなく回復してしまったこともある。ただし、ジアゼパムとアルコール、その他の中枢神経抑制薬の併用では場合により致命的となる。", "qas": [ { "question": "ジアゼパムとフルマゼニルのうち、その作用が消失するにより長い時間がかかるのは、どれか?", "id": "tr-567-07-000", "answers": [ { "text": "ジアゼパム", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アルコールやその他の中枢神経抑制薬との併用が、場合により致命的であるとされているのは何ですか?", "id": "tr-567-07-001", "answers": [ { "text": "ジアゼパム", "answer_start": 318, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "動物では、ジアゼパムは大脳辺縁系、ならびに視床と視床下部に作用して鎮静作用をもたらす。作用は、特異的なベンゾジアゼピン受容体に結合することでもたらされる。この受容体結合部位をさらに詳述すると、γ-アミノ酪酸(GABA)受容体のうち、GABAA受容体-Clチャネル複合体のα部位という部分である。ここにジアゼパムが結合することで、GABAの作用が増強される。GABAの作用は抑制作用である。ジアゼパムは全身組織、ことに脂肪組織に再分布し、ベンゾジアゼピン受容体の誘導(発現増強)も引き起こす。人間では、鎮静作用に対する耐性は数週間以内に形成されるが、抗不安作用に対する耐性は誘導されない。なお、ロラゼパム、クロナゼパム、アルプラゾラムなどは、ジアゼパムよりも強い抗不安作用を持つが、これらの薬剤はジアゼパムよりもさらに強い依存のリスクを伴う。実験的な知見としては、ロシュ社(スイス)の研究施設で、ラットの脳に手術を行い、大脳辺縁系に異常な変化を与えてきわめて神経質、かつよく跳ねるラットを作成し、こうしたラットにLibrium、ないしValiumといったジアゼパム製剤を与えたところ、こうしたラットが正常に行動するとのことである。", "qas": [ { "question": "動物においてジアゼパムは、特異的なベンゾジアゼピン受容体に結合することで、どんな作用をもたらすか?", "id": "tr-567-08-000", "answers": [ { "text": "鎮静作用", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジアゼパムはどこに結合することで抑制作用を増強させますか?", "id": "tr-567-08-001", "answers": [ { "text": "GABAA受容体-Clチャネル複合体のα部位", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ロラゼパムとジアゼパムのうち、より強い抗不安作用を持つとともに、より強い依存のリスクを伴うのは、どれか?", "id": "tr-567-08-002", "answers": [ { "text": "ロラゼパム", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジアゼパムの作用である、鎮静作用と抗不安作用のうち、人間では何に対し耐性を形成するのか?", "id": "tr-567-08-003", "answers": [ { "text": "鎮静作用", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ジアゼパムは経口、経静脈、筋肉注射、坐剤の各経路で投与できる。経口投与されると速やかに吸収されて作用を発現する。筋注での作用の発現は、はるかに遅く不安定である。ジアゼパムは脂溶性に富み、そのため血液脳関門(BBB)を容易に通過する。肝臓で代謝され、二相性の半減期を示す。つまり、ジアゼパム自体の半減期は20–100時間であるが、その主な活性代謝産物であるデスメチルジアゼパムの半減期が2–5日である。ジアゼパムのその他の代謝産物としては、テマゼパム、ロラゼパムが挙げられる。ジアゼパムとその代謝産物は尿へ排泄される。一般に摂取された薬物の半減期は、ある用量の薬物を1回投与したときに、血中薬物濃度がピークの値の半分になるのに要する時間、で計測されるが、英国のニューカッスル大学名誉教授の、C・アシュトン(Ashton)(精神薬理学)は、ジアゼパム自体の半減期として20–100時間、活性代謝物の半減期として36–200時間という値を公表している。", "qas": [ { "question": "ジアゼパムが血液脳関門を容易に通過できるのは、何に富んでいるからですか?", "id": "tr-567-09-000", "answers": [ { "text": "脂溶性", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジアゼパム自体の半減期とデスメチルジアゼパムの半減期のうち、その最低値がより小さいのは、どちらか?", "id": "tr-567-09-001", "answers": [ { "text": "ジアゼパム自体の半減期", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1961年にレオ・スターンバックらのグループは以下の方法によるジアゼパムの合成を報告した。p-クロロアニリンに過剰量の塩化ベンゾイルを加えて、アミノ基をベンゾイル化し、そこに塩化亜鉛を添加して、そのまま連続的にフリーデル・クラフツ反応を行う。ここで反応物はもう1分子のp-クロロアニリンが一つのカルボニル基とイミンを形成し、もう1つのカルボニル基とはアザアセタールを形成して6員環化合物になっている。硫酸-酢酸-水による反応で、この余計なp-クロロアニリンを除去すると同時にアミノ基上のベンゾイル基を脱保護する。続いてヒドロキシルアミン塩酸塩との反応でオキシムを得る。この際に得られるオキシムは主に(Z)-体であるが、後の反応に必要なのは(E)-体であるため、異性化を行う。ギ酸によりオキシム窒素をホルミル化すると、異性化が起こると同時にギ酸のカルボニル基がアミノ基とイミンを形成した6員環化合物が得られる。水酸化ナトリウムによりこのホルミル基を除去すると、(E)-体のオキシムが得られる。次にクロロ酢酸クロリドとのショッテン・バウマン反応によりアミノ基をクロロアセチル化する。さらに水酸化ナトリウム存在下で反応させると、オキシム窒素のクロロアセチル基への求核置換が起こり、ベンゾジアゼピン骨格が形成される。なお、スターンバックらはこの化合物の合成法について、同じ文献上でいくつかの別法も報告している。ナトリウムメトキシドにより、アミド窒素上のプロトンを引き抜いた後に、ジメチル硫酸によりメチル化する。ラネーニッケル触媒を用いて1気圧の水素ガスによりN-オキシドを還元すると、ジアゼパムが得られる。なお、メチル化とN-オキシドの還元の順番は逆でも問題ない。", "qas": [ { "question": "ギ酸によりオキシム窒素をホルミル化したものから(E)-体のオキシムを得るためには、何を除去しなければなりませんか?", "id": "tr-567-10-000", "answers": [ { "text": "ホルミル基", "answer_start": 417, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ホルミル基の除去には、何を使いますか?", "id": "tr-567-10-001", "answers": [ { "text": "水酸化ナトリウム", "answer_start": 404, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オキシム窒素の何への求核置換が起こると、ベンゾジアゼピン骨格が形成されるか?", "id": "tr-567-10-002", "answers": [ { "text": "クロロアセチル基", "answer_start": 518, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ホルミル基の除去に用いられる物質の存在下でショッテン・バウマン反応が起こると、何においてクロロアセチル基への求核置換が起こるか?", "id": "tr-567-10-003", "answers": [ { "text": "オキシム窒素", "answer_start": 511, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ジアゼパムは、母体となるベンゾジアゼピンの開発者でもあるレオ・スターンバックによって1950年代に開発された化合物である。スターンバックはこの功績により2005年、アメリカ発明者栄誉殿堂に加えられている。ジアゼパムのCAS登録番号は439-14-5であり、IUPAC命名法では7-chloro-1,3-dihydro-1-methyl-5-phenyl-2H-1,4-benzodiazepin-2-oneとなる。天然においても、ジャガイモやエストラゴンにはごく微量のジアゼパムやテマゼパムが含まれている。アメリカ合衆国において、1961年にジアゼパムが臨床応用されると、過量摂取による死亡事故が後を絶たなかったバルビツール酸系薬に対する、最良の代替物であることが、直ちに判明した。ジアゼパムはバルビツールのように明らかな副作用を示さなかったので、すぐに慢性的な不安に対する処方として普及した。1962年から1982年までのアメリカで、最も売れた薬剤はジアゼパムである。現在では、かつてのようにジアゼパムには副作用がないとは考えられなくなっている。薬物乱用のリスクが認識され、アメリカでのジアゼパムの使用量は1980年から1990年代の間にほぼ半減した。一方で、すでに古典的な薬物であるジアゼパムは、近年でも一部の錐体外路疾患の補助療法、小児の不安の治療(小児に適応のある数少ない精神安定剤でもある)、そして痙性麻痺の補助療法などに適応を広げつつある。2003年、ジアゼパムを患者に知らせずに投与すると、不安を軽減する効果が認められないという内容の論文がアメリカ心理学会の雑誌Prevention&Treatmentに掲載された。同論文では、ジアゼパムによる不安の軽減はプラセボ効果と推論されている。", "qas": [ { "question": "ジアゼパムを初めて合成したのは、誰か?", "id": "tr-567-11-000", "answers": [ { "text": "レオ・スターンバック", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スターンバックが2005年、アメリカ発明者栄誉殿堂に加えられるようになったのは、何を開発した功績が認められたからか?", "id": "tr-567-11-001", "answers": [ { "text": "ジアゼパム", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1961年のジアゼパムの臨床試験では、ジアゼパムが何を代替する最良のものであると判明されたの?", "id": "tr-567-11-002", "answers": [ { "text": "バルビツール酸系薬", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書によると、何年から何年までのアメリカで、ジアゼパムが最も売れた薬剤でありましたか?", "id": "tr-567-11-003", "answers": [ { "text": "1962年から1982年まで", "answer_start": 397, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ポール・セザンヌ", "paragraphs": [ { "context": "ポール・セザンヌは、フランスの画家だ。当初はクロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールらとともに印象派のグループの一員として活動していたが、1880年代からグループを離れ、伝統的な絵画の約束事にとらわれない独自の絵画様式を探求した。ポスト印象派の画家として紹介されることが多く、キュビスムをはじめとする20世紀の美術に多大な影響を与えたことから、しばしば「近代絵画の父」として言及される。", "qas": [ { "question": "「近代絵画の父」とは誰を指すのですか。", "id": "tr-568-00-000", "answers": [ { "text": "ポール・セザンヌ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポール・セザンヌの母国はどこかな。", "id": "tr-568-00-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポール・セザンヌはいつから印象派のグループから離れるようになったか。", "id": "tr-568-00-002", "answers": [ { "text": "1880年代", "answer_start": 74, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ポール・セザンヌは南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに、銀行家の父の下に生まれた。中等学校で下級生だったエミール・ゾラと親友となった。当初は、父の希望に従い、法学部に通っていたが、先にパリに出ていたゾラの勧めもあり、1861年、絵を志してパリに出た。パリで、後の印象派を形作るピサロやモネ、ルノワールらと親交を持ったが、この時期の作品はロマン主義的な暗い色調のものが多い。サロンに応募したが、落選を続けた。1869年、後に妻となるオルタンス・フィケと交際を始めた。\n\nピサロと戸外での制作をともにすることで、明るい印象主義の技法を身につけ、第1回と第3回の印象派展に出展したが、厳しい批評が多かった。1879年頃から、制作場所を故郷のエクスに移した。印象派を離れ、平面上に色彩とボリュームからなる独自の秩序をもった絵画を追求するようになった。友人の伝手を頼りに1882年に1回サロンに入選したほかは、公に認められることはなかったが、若い画家や批評家の間では、徐々に評価が高まっていった。他方、長年の親友だったゾラが1886年に小説『作品』を発表した頃から、彼とは疎遠になった。1895年に画商アンブロワーズ・ヴォラールがパリで開いたセザンヌの個展が成功し、パリでも知られるようになった。晩年までエクスで制作を続け、若い画家たちが次々と彼のもとを訪れた。その1人、エミール・ベルナールに述べた「自然を円筒、球、円錐によって扱う」という言葉は、後のキュビスムにも影響を与えた言葉として知られる。1906年、制作中に発病した肺炎で死亡した。", "qas": [ { "question": "ポール・セザンヌの妻の名前は何?", "id": "tr-568-01-000", "answers": [ { "text": "オルタンス・フィケ", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オルタンス・フィケの故郷はどこですか。", "id": "tr-568-01-001", "answers": [ { "text": "エクス", "answer_start": 319, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オルタンス・フィケの死因は何ですか。", "id": "tr-568-01-002", "answers": [ { "text": "肺炎", "answer_start": 661, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エミール・ゾラが1886年に発表した小説のタイトルは何ですか。", "id": "tr-568-01-003", "answers": [ { "text": "『作品』", "answer_start": 467, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1839年1月19日、ポール・セザンヌは、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれた。同年2月22日、教区の教会で洗礼を受けた。父のルイ=オーギュスト・セザンヌは、最初は帽子の行商人であったが、商才があり、地元の銀行を買収して銀行経営者となった成功者であった。祖先はイタリア出身と考えられる。母アンヌ=エリザベート・オーベールは、エクスの椅子職人の娘で、もともとルイ=オーギュストの使用人であった。セザンヌの出生時には2人は内縁関係にあり、1841年に妹マリーが生まれた後、1844年に入籍した。1854年、妹ローズが生まれた。", "qas": [ { "question": "ポール・セザンヌは何年に洗礼を受けたか。", "id": "tr-568-02-000", "answers": [ { "text": "1839年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ローズ、マリー、ポールのうち、一番年下は誰なの?", "id": "tr-568-02-001", "answers": [ { "text": "ローズ", "answer_start": 258, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ポール・セザンヌの母の名前は何?", "id": "tr-568-02-002", "answers": [ { "text": "アンヌ=エリザベート・オーベール", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ポール・セザンヌの母国はどこ?", "id": "tr-568-02-003", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 22, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ポール・セザンヌは10歳の時、エクスのサン=ジョセフ校に入学した。1852年、ブルボン中等学校に入り、そこで下級生だったエミール・ゾラと友達になった。パリ生まれで親を亡くしていたゾラは、エクスではよそ者で、級友からいじめられていた。セザンヌは、村八分を破ってゾラに話しかけたことで級友から袋叩きに遭い、その翌日、ゾラがリンゴの籠を贈ってきたというエピソードを、後に回想して語っている。もう1人の少年バティスタン・バイユも併せた3人は、親友として絆を深めた。彼らは、散歩、水泳を楽しみ、ホメーロス、ウェルギリウスの詩、ヴィクトル・ユーゴー、アルフレッド・ド・ミュッセへの情熱を共有した。セザンヌは、同校に6年間在籍する間、1857年にエクスの市立素描学校に通い始め、ジョゼフ・ジベールに素描を習った。1858年11月にバカロレアに合格すると、1861年まで、父の希望に従い、エクス大学の法学部に通い、同時に素描の勉強も続けていた。そのうち、徐々に、画家になりたいという夢を持つようになった。父が1859年に購入した別荘ジャス・ド・ブッファンの1階の壁画に、四季図と父の肖像画を描いた。", "qas": [ { "question": "ポール・セザンヌは何歳の時、サン=ジョセフ校に入学したの?", "id": "tr-568-03-000", "answers": [ { "text": "10歳", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポール・セザンヌはどの学校でエミール・ゾラと知り合うようになったか。", "id": "tr-568-03-001", "answers": [ { "text": "ブルボン中等学校", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "村八分されていたのはセザンヌなの、ゾラなの?", "id": "tr-568-03-002", "answers": [ { "text": "ゾラ", "answer_start": 129, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ポール・セザンヌは誰の希望にしたがって法学の勉強をしたの?", "id": "tr-568-03-003", "answers": [ { "text": "父", "answer_start": 378, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "セザンヌは、ゾラの勧めもあって、大学を中退し、絵の勉強をするために1861年4月にパリに出た。ルーヴル美術館でベラスケスやカラヴァッジオの絵に感銘を受けた。しかし、官立の美術学校への入学が断られたため、画塾アカデミー・シュイスに通った。ここで、カミーユ・ピサロやアルマン・ギヨマンと出会った。朝はアカデミー・シュイスに通い、午後はルーヴル美術館か、エクス出身の画家仲間ジョセフ・ヴィルヴィエイユのアトリエでデッサンをしていたという。そのほか、ゾラや、同じくエクス出身の画家アシル・アンプレールと交友を持った。セザンヌは、アカデミー・シュイスで、田舎者らしい粗野な振る舞いや、仕事への集中ぶりで、周囲の笑いものになっており、ピサロによれば、「美術学校から来た無能どもがこぞってセザンヌの裸体素描をこけにしていた」という。", "qas": [ { "question": "セザンヌはどこでカミーユ・ピサロやアルマン・ギヨマンを知り合うようになったの?", "id": "tr-568-04-000", "answers": [ { "text": "画塾アカデミー・シュイス", "answer_start": 101, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "同年9月には、成功の夢が遠いのを感じ、ゾラの引き留めにもかかわらず、エクスに帰ってしまった。エクスでは、父の銀行で働きながら、美術学校に通った。後年、セザンヌは、この時の話題には触れたがらなかったようである。銀行勤めはうまく行かず、翌1862年秋、再びパリを訪れ、アカデミー・シュイスで絵を勉強した。この時、クロード・モネやピエール=オーギュスト・ルノワールと出会ったようである。また、エクス出身の彫刻家で終生の友人となったフィリップ・ソラーリとも知り合い、共同生活を送った。ロマン主義のウジェーヌ・ドラクロワ、写実主義のギュスターヴ・クールベ、後に印象派の父と呼ばれるエドゥアール・マネらから影響を受けた。この時期の作品は、ロマン主義的な暗い色調のものが多い。\n\n1863年、ナポレオン3世が開いた落選展に、マネが『草上の昼食』を出品してスキャンダルを巻き起こし、セザンヌもこれを見たと思われるが、セザンヌ自身が出品した記録はない。1865年には、サロン・ド・パリに応募したが、落選した。応募の時、ピサロに、「学士院の連中の顔を怒りと絶望で真っ赤にさせてやるつもりです」と書いている。ゾラは、同年12月、セザンヌに捧げる小説『クロードの告白』を出版し、当局の検閲に遭った。このことを機に、ゾラは『レヴェヌマン』紙に転職した。", "qas": [ { "question": "印象派の父と呼ばれる人は誰ですか。", "id": "tr-568-05-000", "answers": [ { "text": "エドゥアール・マネ", "answer_start": 285, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1863年、ナポレオン3世が開いた落選展に、マネはどの作品を出品したか。", "id": "tr-568-05-001", "answers": [ { "text": "『草上の昼食』", "answer_start": 358, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゾラは何年に小説『クロードの告白』を出版したか。", "id": "tr-568-05-002", "answers": [ { "text": "1865年", "answer_start": 417, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "セザンヌは、1866年のサロンに、友人アントニー・ヴァラブレーグの肖像画を提出したが、審査員シャルル=フランソワ・ドービニーの熱心な擁護にもかかわらず、再度落選した。セザンヌは、美術総監エミリアン・ド・ニューウェルケルク伯爵に、これに抗議し落選展の開催を求める手紙を送った。ゾラは、『レヴェヌマン』紙に連載したサロン評ではセザンヌについて一言も触れていないが、同年5月には、サロン評をまとめた『わがサロン』を刊行し、その序文でセザンヌに触れるなど、ゾラとの強い友情は続いていた。セザンヌは、同年5月から8月まで、セーヌ川沿いの小村ベンヌクールで制作活動を行ったが、ここを訪れたゾラは、「セザンヌは仕事をしている。彼はその性格の赴くままに、ますます独創的な道を突き進んでいる。彼には大いに希望が持てるよ。とはいっても、彼は向こう10年は落選するだろうとも僕らは踏んでいるんだ。今、彼はいくつかの大作を、4メートルから5メートルはある画布の作品をやろうと目論んでいる。美術批評家としての地位を確立しつつあったゾラは、マネを囲む革新的画家がたむろするカフェ・ゲルボワの常連となり、セザンヌもこれに加わった。もっとも、セザンヌは、都会の機知に富む会話の場にはなじめなかったようである。", "qas": [ { "question": "セザンヌは、1866年のサロンに、誰の肖像画を提出したか。", "id": "tr-568-06-000", "answers": [ { "text": "アントニー・ヴァラブレーグ", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1874年、セザンヌはモネ、ドガらが開いたグループ展に『首吊りの家』、『モデルヌ・オランピア』など3作品を出品した。『モデルヌ・オランピア』は、マネの『オランピア』に対抗して、より明るい色調と速いタッチで近代の絵画の姿を示そうとした作品であった。この展覧会は、後に第1回印象派展と呼ばれることになるが、モネの『印象・日の出』を筆頭に、世間から酷評された。セザンヌの『モデルヌ・オランピア』も、新聞紙上で「腰を折った女を覆った最後の布を黒人女が剥ぎとって、その醜い裸身を肌の茶色いまぬけ男の視線にさらしている」と書かれるなど、厳しい酷評・皮肉が集中した。他方、ゾラは、マルセイユの新聞「セマフォール・ド・マルセイユ」に、無署名記事で、「その展覧会で心打たれた作品は多いが、中でも、ポール・セザンヌ氏の非常に注目すべき一風景画をここに特筆しておきたい。[......]その作はある偉大な独創性を証明していた。ポール・セザンヌ氏は長年苦闘を続けているが、真に大画家の気質を示している。」と援護している。また、『首吊りの家』は、アルマン・ドリア伯爵に300フランの高値で買い上げられた。セザンヌは、この年の秋に母に書いた手紙で、「私が完成を目指すのは、より真実に、より深い知に達する喜びのためでなければなりません。世に認められる日は必ず来るし、下らないうわべにしか感動しない人々より、ずっと熱心で理解力のある賛美者を獲得するようになると本当に信じてください。」と自負心を表している。", "qas": [ { "question": "1874年、モネ、ドガらが開いたグループ展にセザンヌは幾つの作品を出品したか。", "id": "tr-568-07-000", "answers": [ { "text": "3作品", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『モデルヌ・オランピア』はどんな作品に対抗して制作されたの?", "id": "tr-568-07-001", "answers": [ { "text": "『オランピア』", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アルマン・ドリア伯爵は『首吊りの家』をいくらで買い上げましたか", "id": "tr-568-07-002", "answers": [ { "text": "300フラン", "answer_start": 471, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その後、セザンヌはパリとエクスの間を行ったり来たりした。1876年の第2回印象派展には出品していない。辛辣な批評に自信を失って出品を断ったとも言われるが、サロンに応募を続けるセザンヌの姿勢が、グループ展に参加するからにはサロンに応募すべきではないというエドガー・ドガの方針に反したためとも言われる。\n\n絵画収集家ヴィクトール・ショケの励ましもあり、1877年の第3回印象派展に、油彩13点、水彩3点の合計16点を出品した。ここには、既に、肖像画、風景画、静物、動物、水浴図、物語的構成図という、セザンヌが扱う主題が全て含まれていた。その中に含まれていたショケの肖像は再び厳しい批評にさらされたが、一方で、「『水浴図』を見て笑う人たちは、私に言わせればパルテノンを批判する未開人のようだ」と述べたジョルジュ・リヴィエールのほか、ルイ・エドモン・デュランティ、テオドール・デュレのように、セザンヌの作品を賞賛する批評家も現れた。ゾラも、「セマフォール・ド・マルセイユ」紙に「ポール・セザンヌ氏は確かに、このグループで最高の偉大な色彩画家である」との賛辞を書いている。", "qas": [ { "question": "セザンヌは1877年の第3回印象派展に全部で何点の作品を出品したの?", "id": "tr-568-08-000", "answers": [ { "text": "16点", "answer_start": 202, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1886年、ゾラが小説『作品』を発表した。ゾラはこの小説の中でセザンヌとマネをモデルにしたと見られる画家クロード・ランティエの主人公の芸術的失敗を描いた。同年4月、ゾラから献本されたこの本をエクスで受け取ったセザンヌは、ゾラに、「君の送ってくれた『作品』を受け取ったところだ。この思い出のしるしをルーゴン・マッカールの著者に感謝し、昔の年月のことを思いながら握手を送ることを許していただきたい。」という短い手紙を送った。この小説がきっかけとなり、セザンヌとゾラの友情は断たれてしまったというのが、セザンヌ研究の第一人者ジョン・リウォルドの説であり、定説化しているが、これに対しては、『作品』にはセザンヌの助言が反映されており2人の関係を破綻させるような内容ではなく、むしろメダンの館に雇われていた女性ジャンヌ・ロズロをめぐる恋愛関係が2人の距離を遠くしたとの説が唱えられている。\n\nしかし、2014年にこれまで絶交したと思われていた年より後年の交友を示す手紙(新著『大地』へのお礼と「君がパリに返ってきたら会いに行くよ」との内容)が発見されるに至り、断絶説の再考が求められている。\n\n同年4月28日、17年間同棲していたオルタンス・フィケと結婚した。同年10月、父が88歳で死去した。父から相続した遺産は40万フランであり、経済的には不安がなくなった。", "qas": [ { "question": "ジョン・リウォルドの説によると、セザンヌとゾラの関係が悪くなったきっかけとなった小説は何ですか。", "id": "tr-568-09-000", "answers": [ { "text": "『作品』", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "セザンヌとゾラの断絶説が再考されるようになった手紙は何年に発見されたか。", "id": "tr-568-09-001", "answers": [ { "text": "2014年", "answer_start": 395, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "セザンヌは何年にオルタンス・フィケと結婚したか。", "id": "tr-568-09-002", "answers": [ { "text": "1886年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "セザンヌの父は何歳で亡くなったか。", "id": "tr-568-09-003", "answers": [ { "text": "88歳", "answer_start": 533, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ルコントは、1892年の著書『印象主義者の芸術』の中で、「セザンヌは、最も平凡な対象を描く時でも常にそれを高貴なものにする。」、「限りなく柔らかな色調と、豊かな広がりをうまく抑制できる極めて単純な色彩の均一性にもかかわらず、彼の絵画には力強さがみなぎっている。」と賞賛し、ジェフロワも、1894年の『芸術生活』第3巻の一つの章をセザンヌに割いている。ギュスターヴ・カイユボットが、1894年に亡くなった時、ルーヴル美術館に入れられることを条件として、セザンヌを含む印象派の絵画コレクションを政府に遺贈したところ、アカデミーの画家やジャーナリズムから批判を浴びて大問題となり、政府が一部のみの遺贈を受け入れることで決着したが、このこともセザンヌの知名度を増すことになった。\n\n1890年頃からは、年齢と糖尿病のため、戸外制作が困難になり、人物画に重点を移すようになった。", "qas": [ { "question": "ルコントは、どの本で「セザンヌは、最も平凡な対象を描く時でも常にそれを高貴なものにする。」とセザンヌを評価したか。", "id": "tr-568-10-000", "answers": [ { "text": "『印象主義者の芸術』", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ギュスターヴ・カイユボットは何年に亡くなったか。", "id": "tr-568-10-001", "answers": [ { "text": "1894年", "answer_start": 190, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "市川一家4人殺人事件", "paragraphs": [ { "context": "市川一家4人殺人事件は1992年3月5日夕方から翌3月6日朝にかけて千葉県市川市幸二丁目にあるマンションで発生した強盗殺人・殺人・強盗強姦などの事件である。\n\n加害者少年S(事件当時19歳)は暴力団と女性関係を巡るトラブルを起こし、暴力団から要求された現金200万円を工面する目的で事件1か月前に強姦した少女(事件当時15歳)宅のマンションに侵入して一晩で少女の両親・祖母・妹の一家4人を殺害した。また、少女の家だけでなく両親が経営していた会社からも金品を奪い、殺害現場で1人残された被害者遺族の少女を強姦した。\n\n平成の少年犯罪では初の死刑確定・執行事件となった本事件は日本社会を震撼させ衝撃を与えるとともに、その重大性から少年法の在り方などに論議を呼んだ。", "qas": [ { "question": "1992年3月5日夕方から翌3月6日朝にかけて千葉県市川市幸二丁目にあるマンションで発生した強盗殺人・殺人・強盗強姦を何と呼びますか。", "id": "tr-569-00-000", "answers": [ { "text": "市川一家4人殺人事件", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "平成の少年犯罪で、初の死刑確定・執行事件となった事件は何ですか。", "id": "tr-569-00-001", "answers": [ { "text": "市川一家4人殺人事件", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "市川一家4人殺人事件の加害者少年S・T(事件当時19歳)は1973年1月30日・千葉県千葉市生まれである。事件当時は千葉県船橋市本中山二丁目在住。刑事裁判で死刑が確定し、2017年12月19日に法務大臣・上川陽子の死刑執行命令により収監先・東京拘置所で死刑を執行された(44歳没)。本項目中では実名の姓に基づくイニシャル「S」と表記する。\n\n18歳時点で身長・体重とも同じ18歳男性の平均をはるかに凌駕するまでに成長しており、逮捕当時は身長178センチメートル・体重80キログラムと大柄な体格だった。", "qas": [ { "question": "Sはいつ生まれたか。", "id": "tr-569-01-000", "answers": [ { "text": "1973年1月30日", "answer_start": 29, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Sの逮捕当時の身長は何cmでしたか。", "id": "tr-569-01-001", "answers": [ { "text": "178センチメートル", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "市川一家4人殺人事件の加害者少年Sはウナギの加工・販売業を営む母方の祖父Xの長女・母親Yと、Yと結婚して義父Xの店で働き市川市内に在住していた元サラリーマンの父親Zの間に長男として出生した。出生当時は市川市内に居住していたが、後に両親が同県松戸市内に転居したことから同市内で幼少期を過ごし、Sは1976年には3歳で幼稚園に入園した。1979年4月には転居先の松戸市内の小学校に入学し、1980年9月には東京都江東区越中島に転居したことから同区内の小学校に転校したが、父Zが莫大な借金を抱えて義父Xの経営する店に多大な損失を与えた上、暴力団員などによる厳しい借金の取り立てに遭った。また、Zは結婚後に義父Xから店を1軒任されたが、生活が落ち着いてくると仕事に精を出さずにギャンブル・飲酒・女遊びなどを優先するようになり、愛人宅への外泊や妻Yに対するドメスティックバイオレンス・自身や弟への児童虐待を繰り返したため、Sは自宅を居場所と感じられなくなっていた。Sは両親からの虐待に苦しんでいた中で敬虔なエホバの証人の信者だった親友から勧められたことがきっかけで聖書を勉強するようになったが、9歳の時に熱心に読んでいた聖書を父Zから「こんなくだらないものばかり読みやがって」と破り捨てられたことに激昂して初めて父親に歯向かい、殴る蹴るなど一方的な暴力を振るわれつつも復讐を誓った。", "qas": [ { "question": "Sの母は誰なの?", "id": "tr-569-02-000", "answers": [ { "text": "Y", "answer_start": 43, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1976年、Sは何歳でしたか。", "id": "tr-569-02-001", "answers": [ { "text": "3歳", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Sは何歳で初めて父に歯向かったか。", "id": "tr-569-02-002", "answers": [ { "text": "9歳", "answer_start": 492, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1982年12月、当時小学4年生だったSは母Y・弟とともに夜逃げして葛飾区立石のアパートへ移住した。Sは1983年1月から葛飾区立清和小学校に通学したが、両親の離婚・生活環境の劣化・転校などから学校でいじめを受けるなど、不遇な生育環境で不遇感を抱いて育った。また、このころには唯一の庇護者だった祖父Xからも見放されたことで劣等感を募らせ、万引きをするようになったほか、放課後には浅草で観光客を標的に置き引き・スリ・かっぱらい・賽銭泥棒などの非行を繰り返し「世の中は金が全てだ。貧乏を笑うようなやつらからはいくら金を盗んでもいい」と考えるようになった。", "qas": [ { "question": "Sは1983年1月からどの学校に通うようになったか。", "id": "tr-569-03-000", "answers": [ { "text": "葛飾区立清和小学校", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1982年12月、Sは小学校何年生だった?", "id": "tr-569-03-001", "answers": [ { "text": "4年生", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "Sは1985年4月には葛飾区立立石中学校へ入学したが、体格・腕力ともに大きく成長して同世代の少年を圧倒するようになったため、それまでのように一方的にいじめられることはなく、やられたらやり返すようになるとともに「たいていの場合には自分の腕力が通用する」と知った。また当時所属していた少年野球チームではエース投手兼4番打者として活躍していたが、このころから地元の不良少年たちから喧嘩の強さを褒められ仲間に誘われたことをきっかけに非行がエスカレートしていき、母親Y・弟への家庭内暴力を加えるようになった。なおこのころには祖父Xも母親Yと関係を修復し、Y一家はXから経済的な援助を受けつつ不自由なく暮らせるようになったが、Sは祖父Xを「一番辛くて寂しい時に俺を裏切って助けてくれなかった」と恨んでおり、以前のように尊敬することはできなくなっていた。中学卒業後の1988年4月には堀越高等学校普通科大学進学コースに入学したが、わずか1年後の1989年5月31日付で中退した。", "qas": [ { "question": "Sが通った中学校はどこなの?", "id": "tr-569-04-000", "answers": [ { "text": "葛飾区立立石中学校", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "Sは高校に入学してから何年後、中退したか。", "id": "tr-569-04-001", "answers": [ { "text": "1年後", "answer_start": 411, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "Sは高校中退後は祖父Xの経営していたウナギ加工・販売などの仕事を手伝っていたが、店の売上金を複数回盗んだほか、1990年1月17日には祖父Xから盗みの疑いを掛けられたことに激怒し、22時ごろに祖父X宅へ赴き就寝中だったXの顔面を蹴るなど暴行を加え、Xの左目を失明させる事件を起こした。また鰻屋の同僚には不良が多く、同僚たちから非行や喧嘩の方法を教わったほか、自分を挑発してきた同年代の同僚に対する暴力沙汰も起こした。また母や弟への家庭内暴力・不良仲間らとの徘徊行為・飲酒・喫煙を行うなど生活は荒れていった。家庭内暴力に耐えかねた母親YはSを別居させるため、1991年6月から契約金58万円余りを出して船橋市本中山のアパートで一人暮らしさせたが、その後も近隣住民とのトラブルを起こしていた。事件直前には本事件の被害者一家宅を知るきっかけとなった強姦事件を含め傷害・強姦・強姦致傷・恐喝・窃盗など多数の事件を起こしたほか、このころには鰻屋も無断欠勤して辞めていたためほぼ無職の身だった。", "qas": [ { "question": "SとXと、誰がもっと年上なの?", "id": "tr-569-05-000", "answers": [ { "text": "X", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "Sはいつから一人暮らしをするようになったか。", "id": "tr-569-05-001", "answers": [ { "text": "1991年6月", "answer_start": 278, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "Sは中学生時代から女性経験があり、中学3年時からは同級生の少女と交際していたが、互いに深夜まで出歩いたり親の財布から金を抜き取るなどしていたため、高校中退後の秋になって少女の両親がSの母親Yに「うちの娘はSにたぶらかされたせいで悪くなった。警察に訴えてやる」と苦情を入れてきた。結果、互いの親同士が協力して2人を別れさせることになったが、Sは少女の父親が彼女を自分から引き離そうと東北地方の親戚宅に預けたことに激怒し、ナイフで少女の父親を脅迫して少女を連れてくるよう迫ったことで軽犯罪法違反に問われ家庭裁判所に書類送致された。またアパートで独居を開始してからは3人の女性と同棲生活を試みたが、いずれも短期間で相手に去られたため長続きしていなかった。しかし鰻屋で働いていたころ、店の先輩から市川市内のフィリピンパブに連れて行かれたことがきっかけで複数のフィリピンパブに足繁く通うようになり、1991年7月ごろにはそのうちの1軒で働いていたフィリピン国籍の女性(当時21歳/1970年10月29日生まれ)と知り合い、やがて恋愛関係に発展して時折店外でデートをするようになった。その後、その女性とともにフィリピンまで赴いて1991年10月31日に正式に結婚し、日本へ連れ帰って自宅アパートで同居していた。しかし妻は姉の病気を心配して事件直前(1992年1月22日ごろ)にフィリピンへ帰国して二度と日本に戻らなかった。女性の帰国は夫Sの了承の下だったが、Sは「妻がいなくなったことで鬱屈した気分になった」ことから「新しい女性を引っ張り込もう」と考え、それが凶行の遠因となった。", "qas": [ { "question": "Sの妻の国籍は?", "id": "tr-569-06-000", "answers": [ { "text": "フィリピン", "answer_start": 349, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Sはいつ結婚したか。", "id": "tr-569-06-001", "answers": [ { "text": "1991年10月31日", "answer_start": 508, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "被害者一家は市川市幸二丁目の新興住宅街に建つ9階建てマンションに住んでいた。千葉地裁(1994)は判決理由で被害者一家について「慎ましくも平穏な暮らしを営んでおり、本来ならば娘2人の成長を温かく見守りつつ会社の経営を盛り立てて平穏に生活できたはずの家庭」と述べている。\n\n被害者男性Aは事件2年前の1990年ごろに寄稿していた料理雑誌『月刊食堂』(柴田書店)の元編集長・玉谷純作に対し「ベルギーのペンションを買いたい。ベルギーならドイツにもフランスにもすぐに行ける。(事件の発生した)1992年にE統合があるのであちらに拠点を持って活動したい」と話していたが、その夢はSの凶行により断ち切られた。被害者一家4人の葬儀を仕切った住職は『東京新聞』記者の取材に対し「被害者4人の遺骨はA・Dそれぞれの親族に引き取られた」と証言した。", "qas": [ { "question": "被害者一家が住んでいたマンションは何階建てでしたか。", "id": "tr-569-07-000", "answers": [ { "text": "9階建て", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "男性Aは1950年8月10日に生まれた(41歳没)。事件当日(1992年3月5日)21時40分ごろ(帰宅直後)にSにより背後から左肩を刺されて致命傷を負い、翌日(3月6日)0時30分ごろに再び包丁で背中を刺され出血多量で死亡した。\nフリーランスのカメラマンとして働いていた1985年(事件7年前)には写真週刊誌に掲載された三浦和義のプライベート写真を撮影したことがあったが、結婚後は年ごろの娘を持つようになったためにそれまでの風俗関連から離れ、事件直前まで妻Dと共に料理雑誌・旅行雑誌の仕事を中心にしてレストラン・温泉地などの写真を撮影していた。1986年ごろから後述の女性Dと同居を開始し、1987年3月にDと結婚して継子の少女Bを養子にした。同年8月には妻Dとともに行徳駅前のマンションを事務所として雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社を設立して取締役を務めており、社員を数人抱えていた。", "qas": [ { "question": "Aの性別は何?", "id": "tr-569-08-000", "answers": [ { "text": "男性", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "男性Aは何年生まれなの?", "id": "tr-569-08-001", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 4, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Dの夫は誰?", "id": "tr-569-08-002", "answers": [ { "text": "A", "answer_start": 2, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Aは何月に結婚したの?", "id": "tr-569-08-003", "answers": [ { "text": "3月", "answer_start": 301, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "少女Bは1976年3月19日生まれだ(事件当時15歳)。女性Dの長女で事件当時は船橋市内の県立高校1年生だった。一連の事件では一家殺害事件から1か月前(1992年2月12日)に加害者Sのアパートまで拉致されてSに2回強姦され、事件当日(3月5日)の帰宅直後から翌朝(Sが逮捕されるまで)までSにより自宅に監禁され、帰宅前に殺されていた祖母Cを除く家族3人(母D・父A・妹E)を目の前で惨殺されたほか、自身もその間に計3回(事件前を含めて計5回)にわたり強姦される被害を受けた。千葉地裁(1994)は判決理由にて被害者Bについて「目の前で家族を皆殺しにされ、自らもその凄惨な現場で被告人Sの通り魔ともいうべき獣欲の犠牲に供されて凌辱され、Sの一挙一動に肝を潰して神経を擦り減らし、泣訴哀願して幸いにも一命をとりとめた、身も凍るような筆舌に尽くしがたい恐怖と戦慄を味わった」と述べている。\n男性Aとは血縁関係はなく、母Dが離婚した前夫との間にもうけた子で、DがAと再婚した際にAと養子縁組した養女だったが、義父Aからも我が子同然に可愛がられていた。共働きの両親に代わり10歳以上離れた妹Eを朝夕と保育園に送迎するなど優しい性格で、通学していた県立高校では演劇部・美術部などに所属してクラスの副委員長も務め、将来は美術関係の大学進学を希望していたごく普通の女子高生だった。", "qas": [ { "question": "Bは事件当時、高校何年生でしたか。", "id": "tr-569-09-000", "answers": [ { "text": "1年生", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "女性Cは1908年7月4日生まれだ。男性Aの実母かつB・E姉妹の祖母で、事件当時は現場マンションにて息子夫婦・孫2人と同居していたが、高齢のため散歩に出るとき以外は玄関北側の自室で過ごしていたことが多かった。事件当日16時30分ごろに自宅でSに首を絞められて窒息死し、市川一家4人殺人事件で最初の犠牲者となった。\n女性Dは1955年6月19日生まれ、熊本県八代市出身だ。事件当日19時ごろ、長女Bとともに帰宅した直後に室内に隠れていたSから襲撃され、Bの目の前で包丁で刺されて出血多量で死亡した。", "qas": [ { "question": "市川一家4人殺人事件の最初の犠牲者は誰ですか。", "id": "tr-569-10-000", "answers": [ { "text": "女性C", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "女性Dは帰宅するとき誰と一緒でしたか。", "id": "tr-569-10-001", "answers": [ { "text": "長女B", "answer_start": 195, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "CとDと、誰の方がもっと先に生まれたの?", "id": "tr-569-10-002", "answers": [ { "text": "C", "answer_start": 2, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "Dは地元の高校を卒業後に隣町の男性と恋愛結婚したが、その前夫は仕事に身が入らず遊び惚けていたため、長女Bを出産した直後に(当時20歳で)離婚した。しかし前夫には慰謝料・養育費とも要求せず、誕生直後の娘Bを連れて「(Bは)自分1人で立派に育てる」と上京して証券会社事務職・建設会社経理職・ダンプカー運転手・水商売などと職を転々とした。そして1987年ごろ(当時32歳/長女Bは小学5年生)に男性A(当時37歳)と知り合い、1年間同居生活を送った。同居中にAとの第一子を妊娠するが流産してしまったため、後にEを妊娠した際にはAから「仕事は二の次でいいから体を大切にしろ」と注意されていた。そして1987年3月に幼女Eを出産して男性Aと結婚(再婚)し、1987年8月にはAとともに雑誌の出版・編集などの業務を行う株式会社を設立して代表取締役に就任し、1988年8月に夫Aとともに現場マンションへ引っ越し、家庭ではB・E姉妹を養育していた。", "qas": [ { "question": "Dの再婚相手は誰?", "id": "tr-569-11-000", "answers": [ { "text": "A", "answer_start": 313, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "Eは何年に生まれたか。", "id": "tr-569-11-001", "answers": [ { "text": "1987年", "answer_start": 295, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "Sは一家殺害事件前年の1991年10月19日16時50分ごろ、愛車のトヨタ・クラウンロイヤルサルーンを運転して東京都江戸川区上篠崎の道路(祖父Xの経営するウナギ料理チェーン店の支店付近)を走行していた際、自分の前を走行していた車両(運転手:当時34歳男性)に対し「速度が遅い」と立腹した。男性の車が赤信号に従って停車すると、Sはその車の運転席側へ駆け寄って「とろとろ走りやがって、邪魔じゃないか」などと怒鳴りつけ、開いていた窓から手を差し入れてエンジンキーを回しエンジンを停止させた。男性が車を降りるとSは突然その顔面を拳で複数回殴りつけ、男性を支店の建物内へ連れ込み、店の厨房内に置かれていた鰻焼台用鉄筋(長さ約112cm)で男性の背中・左肘を1回ずつ殴りつけ、男性に全治3週間の頭部・胸部・左肘への打撲、挫創の怪我を負わせた(罪状その1・傷害罪)。", "qas": [ { "question": "Sの愛車は何?", "id": "tr-569-12-000", "answers": [ { "text": "トヨタ・クラウンロイヤルサルーン", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Sの前を走っていた車の運転手は、Sの暴力によって全治何週間の怪我を負ったか。", "id": "tr-569-12-001", "answers": [ { "text": "全治3週間", "answer_start": 335, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "祖父Xは1992年1月ごろ、Sから危害を加えられることを避けるために店舗内で寝泊まりしていたが、Sはその店舗の窓ガラスを割って店内に侵入し、就寝中のXを起こし現金110万円などを奪い取った。1992年2月6日、Sは市川市内のスナックバーに勤めるフィリピン人のホステスを連れ出して店に無断で自宅アパートに泊め、このホステスと性的関係を持ち、ホステスをマンション自室に閉じ込めて負傷させた。その2日後(1992年2月8日)、店に帰ったホステスがこのことを店の関係者に泣きながら訴えると、激怒した店の関係者が暴力団に「落とし前」を依頼したため、それ以降Sは暴力団に追われる身となった。", "qas": [ { "question": "Sは寝ていたXから現金いくらを奪ったか。", "id": "tr-569-13-000", "answers": [ { "text": "110万円", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "Sが通りすがりの女性を強姦してから約22時間後(1992年2月12日2時ごろ)、夜遅くまで勉強していた少女Bは途中でシャープペンシルの替え芯が切れたため、替え芯を買いに自転車で自宅マンション付近のコンビニエンスストアへ行き、買い物を終えて帰宅しようとしていたところだった。当時クラウンを運転していたSは帰宅途中だったBを見つけ、マンション前の狭い路地で背後から近づき、自転車の後輪にクラウンの左前部を衝突させた。Bは自転車ごと路上に転倒して路上に投げ出され、右膝に擦り傷を負った。\n\n車から降りたSはBに「病院に連れて行く」と優しく声を掛けた上でひき逃げと訴えられないようBを車に乗せて浦安市内の救急病院で治療を受けさせた。Bは当初こそSを警戒してはいたが、治療をさせてもらった後で「自宅まで送り届けてもらう」と約束されたことで安心した。しかしSはBを自宅に送るために市川市・船橋市方面に向けて車を走行させていた途中でにわかに劣情を持ち、人気のない路肩に停車し、刃渡り約6.7cmの折り畳み式ナイフをBに突き付けた。Sはナイフの刃をBの手の指の間にこじ入れてこね回しながら「黙って俺の言うことを聞け」と脅し、抵抗したBに対し左頬・左手を切り付けて顔面挫創・左手挫創の傷害(全治約2週間)を負わせた。SはBをそのまま自分のアパートまで拉致し、同日3時ごろ-6時ごろまでの間に自室アパート内で2度にわたりBを強姦した(罪状その4・強姦致傷罪)。Sはその後、Bの手足を縛って抵抗を抑圧した上でBの所持品を物色して現金を奪ったが、その時にBが通っていた高校の生徒手帳を見つけ、住所・氏名を控えた。しかしBはSがいったん外に出てから部屋に戻るまでの間に自力で逃げ出した。", "qas": [ { "question": "Bは何を買うためにコンビニへ向かったか。", "id": "tr-569-14-000", "answers": [ { "text": "シャープペンシルの替え芯", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "Sは事件当日(1992年3月5日)、既に所持金がほとんどなかったが朝からパチンコ・ゲームセンターで時間を潰したり、午後遅くに中華そば屋でラーメン1杯を食べたりした。その後「B宅に侵入して現金・預金通帳などを窃取する」意思を最終的に固めた上で市川市幸のB宅に向かったが、この時には「ついでにBを再び強姦すれば暴力団からの追い込みで鬱屈した気持ちも晴れるだろう」とも考えていた。事件現場一帯はSの母方の祖父母の家(母親Yの実家)の付近で、幼少期によく祖父母宅に泊まっていたSは当時まだ空き地だった現場一帯で凧揚げをしたり自転車を乗り回して遊んだ記憶があったため一帯に土地勘があった。現場付近にはさらに新しい高級マンションもあったが、Sはこのマンションで金を得ようと考えた。", "qas": [ { "question": "Sは事件当日、中華そば屋で何を食べたか。", "id": "tr-569-15-000", "answers": [ { "text": "ラーメン", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "被疑者Sは逮捕直後、「少年犯罪ならどんな犯罪でも少年法により処罰は軽くなる」と考えていたため、自分が死刑になる可能性は考えておらず「これでも俺も少年院行きか」程度にしか考えていなかった。その考えの背景には当時、S自身が少年犯罪への刑罰ついてあまり知識を有していなかったことに加え、「死刑になる者は過去に殺人を犯しておきながら、刑期を終えてからか無期懲役の仮釈放中に再犯するような者ぐらいだ。前科のない自分に死刑は縁遠い」という考えや、1989年に発生・判明した女子高生コンクリート詰め殺人事件の加害者少年たちに死刑・無期懲役といった厳罰が課されていなかった事情もあった。同事件の加害者少年たちと自身の犯行を比較して「自分の犯行はコンクリート事件ほど長期間ではなく、(事件前に)凶器を準備していない」とも考え、逮捕後には自身の出所後の生活設計のため、面会に訪れた母親Yに頼んで高校時代に使っていた教科書・参考書・辞書類を差し入れさせていた。", "qas": [ { "question": "被疑者Sの母は誰?", "id": "tr-569-16-000", "answers": [ { "text": "Y", "answer_start": 382, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "女子高生コンクリート詰め殺人事件は何年に発生したか。", "id": "tr-569-16-001", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 217, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "千葉地検は論告求刑を前に上級庁である東京高等検察庁と慎重に協議を行い、1994年4月4日に千葉地裁(神作良二裁判長)で開かれた論告求刑公判(第8回公判)で被告人Sに死刑を求刑した。少年犯罪に対する死刑求刑は異例で、当時は1989年1月・名古屋アベック殺人事件の第一審(名古屋地裁)以来だった。同日の論告で検察官は殺害された被害者4人全員への確定的な殺意・強盗殺人罪の成立を主張した上で完全責任能力があることを主張し、尋問調書でBが述べた被告人Sへの極刑適用を望む言葉も読み上げた。", "qas": [ { "question": "1994年4月4日に千葉地裁でSには何が求刑されたか。", "id": "tr-569-17-000", "answers": [ { "text": "死刑", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "日本のアウトサイダー・アート", "paragraphs": [ { "context": "日本のアウトサイダー・アートの主流をなすのは、障害者の、なかでも知的障害者の美術である。これは、1930年代後半に日本で初めてアウトサイダー・アートが見出されてからすでにあった傾向であった。1950年代から山下清に世間の関心が高まり、山下が大衆的人気を得た後、美術界は長い間アウトサイダー・アートに対して沈黙していた。その後は、ほぼ福祉分野でのアプローチばかりが目立つようになる。1990年代から、「アウトサイダー・アート」、「アール・ブリュット」の用語が日本に定着し、また、エイブル・アート・ムーブメントが始まってからは、広く人気が出だした。そして美術関係者、福祉関係者双方がアウトサイダー・アートについて調査、発掘、研究と、活発に活動するようになってきている。", "qas": [ { "question": "日本のアウトサイダー・アートの主流をなすのは誰?", "id": "tr-570-00-000", "answers": [ { "text": "知的障害者", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本のアウトサイダー・アートの主流をなすのが障害者であることはいつからの傾向ですか。", "id": "tr-570-00-001", "answers": [ { "text": "1930年代後半", "answer_start": 48, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「アウトサイダー・アート」、「アール・ブリュット」の用語が日本に定着したのはいつからなの?", "id": "tr-570-00-002", "answers": [ { "text": "1990年代", "answer_start": 190, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "日本におけるアウトサイダー・アートの最初期の活動として精神科医の式場隆三郎の活動が挙げられる。式場は、1898年に生れ、さまざまな活躍をした文化人で知られるが、美術方面でもフィンセント・ファン・ゴッホの研究や啓蒙につとめ、また、日本のアウトサイダー・アートを発見したりプロデュースしたりした。その例として、二笑亭や山下清が知られる。\n\n式場は、1937年から『中央公論』11月号から二号連続で、「二笑亭綺譚」を掲載した。これは、渡辺金蔵という建築の専門知識のないものによる自邸、「二笑亭」の紹介であり、のちに単行本化し、別に「狂人の絵」というやはりアウトサイダー・アートと関係のある一篇をつけて昭森社から発行された。二笑亭は、日本のアウトサイダー・アートの「源流」と見なされている。1938年に解体されることになるこの奇妙な建物を、「誰も実行できない夢と意欲を、悠々とやりとげた逞しい力に圧倒されさうだ」と感嘆して紹介した式場の功績は、1993年に監修してちくま文庫から『定本二笑亭綺譚』を刊行した藤森照信にも、その先見性を賞賛されている。", "qas": [ { "question": "式場隆三郎は何年生まれなの?", "id": "tr-570-01-000", "answers": [ { "text": "1898年", "answer_start": 51, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "二笑亭や山下清は誰が発見・プロデュースしたの?", "id": "tr-570-01-001", "answers": [ { "text": "式場", "answer_start": 47, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「二笑亭綺譚」は誰が書いた?", "id": "tr-570-01-002", "answers": [ { "text": "式場", "answer_start": 168, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『定本二笑亭綺譚』を刊行した人は誰なの?", "id": "tr-570-01-003", "answers": [ { "text": "藤森照信", "answer_start": 449, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1938年、早稲田大学講師で心理学者の戸川行男が、早稲田大学大隈講堂小講堂で特異児童作品展をひらいた。戸川は1935年ごろから千葉県市川市の指定知的障害児施設八幡学園に通い、学園生の山下清などの作品に魅了され、これを紹介する美術展の開催を思い立ったのだった。八幡学園は、久保寺保久による設立当初の1928年ごろから、美術の時間を導入していた。この展覧会は評判を呼び、山下のちぎり絵については特に注目された(他にも、学園生の石川謙二、野田重博、竹山新作、沼祐一、苗字は分らないが義明、務、繁の作品が展示された)。『美之國』や『美術』、『みづゑ』による特集や、展覧会に対する安井曾太郎、北川民次、倉田三郎、寺田政明などの評を見ることもできる。式場は、1936年から八幡学園の顧問医師となっていて、この時から生徒の作品を知っていたと思われるが、1938年には「異常児の絵」という文で、前述した1939年発刊の『二笑亭綺譚』でも、山下の作品を図版入りで紹介している。また戸川は作品集を発行するために春鳥会『みづゑ』の大下正男の協力のもと『特異児童作品集』を発行した。安井が選者を担当したのだが、山下の作品が中心に選ばれた。", "qas": [ { "question": "戸川行男はどの大学の講師なの?", "id": "tr-570-02-000", "answers": [ { "text": "早稲田大学", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "戸川は何年ごろから千葉県市川市の指定知的障害児施設八幡学園に通った?", "id": "tr-570-02-001", "answers": [ { "text": "1935年ごろ", "answer_start": 54, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "式場は、何年から八幡学園の顧問医師となっていたの?", "id": "tr-570-02-002", "answers": [ { "text": "1936年", "answer_start": 323, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『二笑亭綺譚』は何年に発行された?", "id": "tr-570-02-003", "answers": [ { "text": "1939年", "answer_start": 393, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1939年、やはり戸川を中心に企画され、東京銀座の青樹社において、特異児童作品展が催された。12月8日から11日までの会期の予定が、12日まで延長された。というのは、この展覧会は盛況を博して来場者は二万人にも及んだためで、マスメディアもよくこれを取上げた。展示されたのは1938年と同様、八幡学園の学園生の作品で山下清のものだけではなかったが、美術界を中心に知識階級で巻起こった論争の争点は、「山下が本当に天才であるのかどうか」または、山下の作品の「芸術性」にあった。この展覧会や山下を論評した人物は、梅原龍三郎、小林秀雄、伊原宇三郎、伊藤廉、藤島武二、川端龍子、荒城季夫、谷川徹三、川端康成、戦後になって柳宗悦の名が挙げられる。\n\n一方1939年以降の式場は、アウトサイダー・アートの紹介から離れ、ゴッホの啓蒙にのめり込んで行く。服部正はその理由を、式場が、彼の言葉を借りれば「病的絵画」とこれ以上関与することによって、日本におけるゴッホの普及第一人者が式場であったため、意図しないところで、ゴッホの絵が病的なものであると誤解されるのをおそれたことにあるという。式場は、ゴッホの精神障害がてんかん性のものであると研究しており、それはゴッホの作風には影響していないという立場であった。1953年、式場は、「ゴッホ生誕百年祭」と題して次々と企画を打ち、ゴッホの存在を世に知らしめていく。この啓蒙活動は大成功するものの、美術専門家からは白眼視された。たとえば岡本謙次郎は、活況のゴッホ生誕百年記念展に出向き、その「ワイザツさ」に、「入口をのぞいただけでひきかえした」といって批判した。その後、式場の活動は、美術関係者から無視されるようになっていく。", "qas": [ { "question": "1939年の特異児童作品展は誰を中心に企画されたの?", "id": "tr-570-03-000", "answers": [ { "text": "戸川", "answer_start": 9, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "山下のことはその後、第二次世界大戦を挟んだせいもあり世間から忘れられたが、1954年1月、突然の様に山下の話題が持ち上がった。朝日新聞社会部の記者、矢田喜美雄から持ちかけられ、式場隆三郎と朝日新聞が、山下清の行方を捜すキャンペーンをはじめたのである。新聞以外に、ラジオでも広報はなされた。山下にはもともと放浪癖があって、ときどき八幡学園からいなくなるのだが、この時は鹿児島にいて、新聞掲載の四日後とすぐに見つかった。山下はキャンペーンで「日本のゴッホ」と名付けられ、有名になっていく。式場は、山下のちぎり絵とゴッホの絵を比べて、「彼(山下)自身のハリ絵が点描的なので(ゴッホの作品)と実に近似感がある」と評したが、服部は、両者の作品は似ていないし、症例も類似しないとする。三頭谷はむしろゴッホより、同じ印象派のクロード・モネとの類似を指摘する。にも拘らず山下がそう称されたのには、前年の「ゴッホ生誕百年祭」をはじめとする式場によるゴッホの啓蒙の成果があったためと服部は見る。もっとも山下自身は、ゴッホにはさほど興味がなかったようではあるが。", "qas": [ { "question": "矢田喜美雄はどの新聞の記者でしたか。", "id": "tr-570-04-000", "answers": [ { "text": "朝日新聞", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "矢田喜美雄は朝日新聞のどの部署に所属していましたか。", "id": "tr-570-04-001", "answers": [ { "text": "社会部", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "山下はキャンペーンで何と名付けられましたか。", "id": "tr-570-04-002", "answers": [ { "text": "「日本のゴッホ」", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "三頭谷は山下の作品が誰のものと類似していると指摘したか。", "id": "tr-570-04-003", "answers": [ { "text": "クロード・モネ", "answer_start": 355, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "式場はさらに、「特異児童」の絵画全体に関わっていくようになった。1955年3月に、東横百貨店で滋賀県の落穂寮の作品の展覧会を、1956年の3月から4月まで、「山下清作品展」を大丸で開催した。この山下展は、八十万人の観覧者を集めたほどの盛況ぶりだった。両作品展には知的障害者へのカウンセリングのための教育相談室が設置され、多数の相談者が訪れたという。これには、式場の、障害者教育への情熱が背景にあった。服部は、現在までの日本のアウトサイダー・アートの特色として、教育との強烈な結びつきを挙げるが、これは、式場の時代からすでに示されていた傾向だという。そして、以降、山下への、さらにはアウトサイダー・アートに対しての美術界のアプローチも、ほぼ絶えていったのであるが、その理由を服部は、山下人気の立役者である式場が前述のように美術界から無視されていたこと、はたよしこは、あまりにも式場の活動が教育よりだったために、美術界から、美術とは無関係のものであると看過されたこと、小出由紀子や三頭谷鷹史は、山下が大衆的な人気を集めるようになったことが以降の無視の一因であると指摘する。\n\n以上の様に戦後の山下ブームが戦前のブームと違う点は、その作品自体より、山下自身が人気を得たことにある。戦前でも、山下を中心とする八幡学園の生徒の障害という点は関心を持たれたのであるが、戦後においては、山下一人に人気が絞られ、また、その愛すべきキャラクターと芦屋雁之助主演のドラマなどマスメディアでの宣伝により、美術界の沈黙とは裏腹に山下清の名は日本中に大きく知れ渡った。\n\nなお、式場のほかには、精神科医の呉秀三による患者の創作文字についての報告もみられる。", "qas": [ { "question": "1956年の「山下清作品展」はどこで開催されたか。", "id": "tr-570-05-000", "answers": [ { "text": "大丸", "answer_start": 87, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "星織ユメミライ", "paragraphs": [ { "context": "『星織ユメミライ』は、2014年7月25日に発売されたWindows用18禁恋愛アドベンチャーゲームだ。\n\n本作はtonework'sによって企画と制作が行われ、株式会社ビジュアルアーツにより販売された。シナリオはスクール編とアフター編の二部構成となっており、スクール編では学園生活を通じて主人公とヒロインが恋仲になる展開が、アフター編では恋人同士となった二人が学園生活後に歩む道筋が描かれる。『星織ユメミライ』は2014年に発売された美少女ゲームの売り上げランキングにおいて20位前半に位置している。また、美少女ゲーム雑誌上で行われた、2014年に発売された美少女ゲームが対象のユーザー人気投票では、総合部門で最高4位を達成した。\n\n2016年8月10日にプロトタイプよりPlayStationVita移植版『星織ユメミライConvertedEdition』が発売され、PlayStation4版は2017年9月14日に発売された。", "qas": [ { "question": "『星織ユメミライ』はいつ発売されたか。", "id": "tr-571-00-000", "answers": [ { "text": "2014年7月25日", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "PlayStationVita移植版『星織ユメミライConvertedEdition』はいつ発売されましたか。", "id": "tr-571-00-001", "answers": [ { "text": "2016年8月10日", "answer_start": 318, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『星織ユメミライ』は恋愛アドベンチャーゲームであり、主人公である日野涼介の視点から紡がれる文章をプレイヤーは読み進めていく。文章は小説のように地の文と会話文から構成される。ゲームを進めていくことでプレイヤーは特別なCGを閲覧できる。本作にはCGやBGMを鑑賞できる機能が搭載されており、ゲームを1回以上クリアするとこの機能を使用出来るようになる。\n\n本作は選んだ選択肢により異なった結末に向かって物語が進むゲームである。ゲームを進めていくとある時点でゲームが中断し、選択肢が表示される。選んだ選択肢によって物語の道筋が変わり、ある特定の結末に物語が進む。本作の物語には主に6つの道筋があり、それぞれの物語で1人の少女の話が展開する。全ての物語を読むには、ゲームを複数回やり直して違う選択肢を選んで違う道筋に進む必要がある。\n\n『星織ユメミライ』ではtonework's前作の『初恋1/1』と同様にスマートフォンを使うシステムが組み込まれている。作中では主人公が所有するスマートフォンを用いてヒロインと通話をしたり、テキストメッセージを送り合ったりする演出がなされる。ヒロインとの会話中に他のヒロインから電話やメッセージが来るという場面も登場する。また、作中のスマートフォンでカメラ機能を使用すると、お気に入りのシーンをスクリーンショットとして残すことが出来る。PSVita版ではタッチスクリーンを用いてゲーム内のスマートフォンを操作することが出来る。", "qas": [ { "question": "『星織ユメミライ』の主人公は誰?", "id": "tr-571-01-000", "answers": [ { "text": "日野涼介", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『星織ユメミライ』のCGやBGMを鑑賞できる機能を使用するためには、ゲームを何回以上クリアしないといけませんか。", "id": "tr-571-01-001", "answers": [ { "text": "1回", "answer_start": 147, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『星織ユメミライ』にはいくつの道筋があるか。", "id": "tr-571-01-002", "answers": [ { "text": "6つ", "answer_start": 286, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "tonework'sの前作は何ですか。", "id": "tr-571-01-003", "answers": [ { "text": "『初恋1/1』", "answer_start": 387, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "建築士を目指している主人公・日野涼介は、7年ぶりに故郷である汐凪市に戻ってくる。涼介は汐凪第一学園に転入し、幼なじみとの再会や新たな少女との出会いを経験する。後に涼介は行事運営委員会に入り、6人のヒロイン達——逢坂そら・篠崎真里花・瀬川夏希・沖原美砂・鳴沢律佳・雪村透子——と交流していく。やがて涼介は一人のヒロインと親密になっていく。\n\n『星織ユメミライ』では上記の主人公・ヒロインの他にも3人のサブキャラクターが登場する。韮沢秀一は涼介の幼なじみであり、涼介が加入する行事運営委員会の委員長を務めている。我妻盛夫は涼介が憧れる建築士であり、アフター編では涼介の雇い主となる。他にも鳴沢律佳のスクール編とアフター編では、律佳の妹でプロのピアニストとして活躍している鳴沢めぐる(なるさわめぐる)というサブキャラクターが登場する。", "qas": [ { "question": "主人公の地元はどこですか。", "id": "tr-571-02-000", "answers": [ { "text": "汐凪市", "answer_start": 30, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヒロインは何人なの?", "id": "tr-571-02-001", "answers": [ { "text": "6人", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『星織ユメミライ』のサブキャラクターは何人ですか。", "id": "tr-571-02-002", "answers": [ { "text": "3人", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "行事運営委員会の委員長は誰?", "id": "tr-571-02-003", "answers": [ { "text": "韮沢秀一", "answer_start": 213, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "逢坂そらは星を愛する少女であり、天文部の唯一の部員である。涼介はそらとの出会いの後、天文部に入り浸り天体観測を行っていく。涼介が好奇心からそらに星を好きになった理由を尋ねると、幼い頃に出会った少年の影響だとそらは答える。幼い頃に七夕祭りで迷子となったそらは、出会った少年と星の話をして大いに励まされた。これをきっかけにそらは、出会いをくれる星をより好きになったという。涼介はそらの人生に大きな影響を与えた少年に対し、密かに対抗心を抱く。やがて涼介はそらへの恋心を自覚して彼女に告白する。そらは少し考えたいと告げ、返事を待つことを涼介に求める。日が経つにつれ涼介は、幼い頃にある少女と星座の話をしたことを思い出していく。後にそらが幼い頃に出会った少年とは涼介のことであると判明し、そらは涼介への想いを告白する。こうして二人は付き合い始める。\n\n初めてのデートでプラネタリウムを訪れたことをきっかけとして、そらはプラネタリウムの解説員を目指すこと、七夕祭りで天文部はプラネタリウムを公演することが決まる。涼介とそらは他のヒロイン達の手を借りながら公演の準備を進めていく。投影機を借りるための資金集めやドーム制作に取り掛かり、途中でドームが崩れるというアクシデントに見まわれつつもプラネタリウムは完成する。七夕祭り当日、プラネタリウムは行列が出来る程に盛況となる。七夕祭りが終わり、星空の下で涼介とそらがずっと一緒にいることを誓う場面でスクール編は幕を閉じる。", "qas": [ { "question": "天文部の唯一の部員は誰?", "id": "tr-571-03-000", "answers": [ { "text": "逢坂そら", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "そらが星を好きになった理由である幼い頃に出会った少年は、結局誰でしたか。", "id": "tr-571-03-001", "answers": [ { "text": "涼介", "answer_start": 326, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "涼介とそらは初めてのデートでどこへ行きましたか。", "id": "tr-571-03-002", "answers": [ { "text": "プラネタリウム", "answer_start": 379, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アフター編は涼介が大学を卒業し我妻建築事務所に入社してから5年経過した時点から始まる。涼介は独立して日野建築事務所を開業し、そらは市の科学博物館でプラネタリウムの解説員として働いていた。独立した涼介は、友人である秀一のマイホームや市の文化ホールの設計に携わる。一方そらは、流星をテーマに新しいプラネタリウムの企画を立てる。そらが勤務する科学博物館が改築に合わせて設計者を公募することになり、涼介はそれに応募する。デザインの秀逸さや知名度により、涼介は見事に設計の仕事を勝ち取る。また、プラネタリウムの新企画を成功させたそらは、プラネタリウム部門の主任へと昇格する。涼介は後にそらへとプロポーズし、ハワイ諸島のマウナ・ケアで結婚式を挙げる。式を挙げた涼介とそらは同地で天体観測を行う。それから月日が経ち、科学博物館が装い新たに開館する。そこでそらがプラネタリウムの解説を行う場面でアフター編は幕を閉じる。", "qas": [ { "question": "アフター編は涼介が建築事務所に入社してから何年経った時点から始まりますか。", "id": "tr-571-04-000", "answers": [ { "text": "5年", "answer_start": 29, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "涼とそらはどこで結婚式を挙げますか。", "id": "tr-571-04-001", "answers": [ { "text": "マウナ・ケア", "answer_start": 304, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "結婚式のあと、涼とそらは何をしますか。", "id": "tr-571-04-002", "answers": [ { "text": "天体観測", "answer_start": 333, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "篠崎真里花は涼介の幼なじみである。幼い頃は喘息持ちで学校も休みがちだったが、物語開始時点では完治している。汐凪市に戻ってきた涼介は真里花と再会し、二人は「天体水族館」という七夕祭りの企画を手伝うことになる。これは自然科学部と天文部の合同企画であり、水槽を置いた一室でプラネタリウムも同時に公演する。涼介達は準備として、水族館用の水槽と濾過装置、プラネタリウム用の投影機の自作に取り掛かる。一度は水槽を作り上げるも水漏れが生じ、涼介達は特殊なコーキング剤を手に入れて水槽を作り直す。投影機はピンホール式と決まり、制作途中で光源による熱で恒星球が溶けるというアクシデントが起こるも、光源や恒星球を取り替えることで対処する。\n\n天体水族館の準備の合間に涼介と真里花は相思相愛となり、二人は付き合い始める。涼介は真里花の家に何度も訪れるが、真里花の父親・浩二とは衝突してしまう。それは浩二は真里花と涼介の交際を認めたがらないのであった。挙句の果てに、涼介は浩二から天体水族館の展示が上手くいかなかったら真里花との交際を諦めろとまで言われてしまう。七夕祭り当日、天体水族館は大盛況となる。天体水族館には浩二も訪れ、「たいしたものだった」と涼介に感想を伝える。七夕祭りの翌日、涼介は浩二に呼び出され、真里花が今までいかに喘息に苦しんで来たかを伝えられる。涼介は真里花を必ず幸せにすると浩二に誓う。その後、涼介と真里花がお互いの夢(建築士・保育士)や、二人で幸せになる未来を語り合う場面でスクール編は幕を閉じる。", "qas": [ { "question": "篠崎真里花は幼い頃、どんな質病を持っていましたか。", "id": "tr-571-05-000", "answers": [ { "text": "喘息", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「天体水族館」とは天文部とどの部の合同企画ですか。", "id": "tr-571-05-001", "answers": [ { "text": "自然科学部", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "真里花の父親の名前は何?", "id": "tr-571-05-002", "answers": [ { "text": "浩二", "answer_start": 373, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "涼介の方が年上なの、浩二の方が年上なの?", "id": "tr-571-05-003", "answers": [ { "text": "浩二", "answer_start": 373, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アフター編は涼介が我妻建築事務所に勤め始めて3年目の時点から始まる。真里花は保育士となっていた。涼介は後に一級建築士の学科試験に合格する。涼介は製図試験にも合格したら結婚して欲しいと真里花にプロポーズし、真里花はそれを受け入れる。プロポーズ後、涼介は浩二に呼び出される。涼介は浩二から、真里花は喘息を治すためになんでも努力したことを聞く。真理花がそこまでしたのは、幼い頃に喘息が理由で涼介との思い出をあまり作れなかったためであった。話を聞き終えた涼介は、浩二に対し真里花との結婚の許可を求める。浩二は涼介のことを約束を守り誠実で真里花のことを真剣に考えてくれる人間だと評し、真理花との結婚を認める。月日は流れ、結婚式にて真里花は両親への手紙を読み上げる。後に涼介と真里花は子を授かる。こうしてアフター編は幕を閉じる。", "qas": [ { "question": "アフター編は涼介が我妻建築事務所に勤め始めて何年目の時点から始まりますか。", "id": "tr-571-06-000", "answers": [ { "text": "3年目", "answer_start": 22, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "真理花が喘息を治すためになんでも努力したのは、喘息のせいで誰との思い出を作れなかったからですか。", "id": "tr-571-06-001", "answers": [ { "text": "涼介", "answer_start": 192, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "涼介に、真里花が喘息を治すためになんでも努力したと話したのは誰ですか。", "id": "tr-571-06-002", "answers": [ { "text": "浩二", "answer_start": 138, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "瀬川夏希は卒業アルバム制作委員会に所属する少女であり、同アルバムに載せる写真を撮るためにいつもカメラを片手に校舎内を駆けずり回っている。スクール編では涼介は夏希の写真撮影を手伝うことになる。七夕祭りに向けて、自然科学部は地元に生息する海棲生物をメインにしたミニ海棲生物館を七夕祭りでやることになる。また、天文部は星座と神話をテーマにパネル展示を行うことになる。夏希はどちらの部活からも写真撮影を依頼される。夏希はまず自然科学部の依頼用に図鑑に載っているような魚の写真を撮る。しかし、その写真に満足出来なかった夏希は撮影をやり直し、魚が生きる姿を捉えた写真を撮ることに成功する。次に夏希は天文部の依頼用として星座の写真を撮るも、露光時間を長くし過ぎたために星は線状に写り、星座の写真として使えないものが出来上がる。涼介と夏希はそらから赤道儀を借りて写真を撮り直し、星座を捉えることに成功する。\n\n七夕祭りの準備の合間に、涼介と夏希は相思相愛であることを確認し二人は付き合い始める。二人はデートとして写真展を訪れる。写真展を見学後、涼介は夏希にも写真大会に出るように勧め、夏希は「七夕祭り写真大会」に出ることを決める。以前から「みんなの願いが叶う写真」を撮ることを目標にしていた夏希は、そらから再び赤道儀を借りて大会用に星空の写真を撮る。七夕祭り当日、夏希が撮った魚と星の写真は好評となる。また、夏希は写真大会で審査員特別賞を受賞する。夏希の写真は「祈りの架け橋」というタイトルで、ベガとアルタイルの間に流れた流星を捉えた写真だった。涼介と夏希は、写真の中の流星を見ながらずっと一緒にいられるようにと祈る。こうしてスクール編は幕を閉じる。", "qas": [ { "question": "瀬川夏希はどの委員会に所属していますか。", "id": "tr-571-07-000", "answers": [ { "text": "卒業アルバム制作委員会", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "夏希に写真大会に出るように勧めたのは誰ですか。", "id": "tr-571-07-001", "answers": [ { "text": "涼介", "answer_start": 464, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "以前から夏希は何を撮ることを目標にしていましたか。", "id": "tr-571-07-002", "answers": [ { "text": "「みんなの願いが叶う写真」", "answer_start": 511, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "夏希は写真大会でどんな賞を受賞しますか。", "id": "tr-571-07-003", "answers": [ { "text": "審査員特別賞", "answer_start": 604, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "涼介と夏希は学園を卒業後、それぞれ大学の建築科と写真の専門学校に進学する。後に涼介は我妻建築事務所に入り、夏希は師事する写真家の下でアシスタントを務めることになる。涼介と夏希は就職後、結婚式は挙げずに籍を入れる。夏希のアフター編は、涼介が我妻建築事務所に勤め始めて2年目の時点から始まる。涼介は事務所内のコンペで設計案を何度も提出し、徐々に認められていく。夏希は「笑顔」がテーマの写真コンテストに応募する。この頃に汐凪第一学園の同窓会が開催し、涼介と夏希はそれに参加する。同窓会の参加者は式を挙げていない涼介と夏希に対し、サプライズで結婚式を開催する。そして二人が愛を誓ってキスをする姿は、夏希の師匠である写真家によって撮影される。後日、写真コンテストの結果を見ると、夏希の作品は準グランプリに選ばれていた。そして、グランプリには涼介と夏希が結婚式にてキスをする写真が選ばれていた。こうしてアフター編は幕を閉じる。", "qas": [ { "question": "涼介の大学の専門は何ですか。", "id": "tr-571-08-000", "answers": [ { "text": "建築科", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "夏希が応募した写真コンテストのテーマは何ですか。", "id": "tr-571-08-001", "answers": [ { "text": "「笑顔」", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "夏希の作品は写真コンテストで、何に選ばれましたか。", "id": "tr-571-08-002", "answers": [ { "text": "準グランプリ", "answer_start": 340, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "沖原美砂は海と魚を愛する少女であり、自然科学部の唯一の部員である。父親は汐凪市にあるマリンピアしおなぎという水族館の館長であったが、同水族館は物語開始時点では閉鎖してしまっている。涼介と美砂の交流は、涼介が閉鎖したマリンピアしおなぎを訪れたことをきっかけとして始まる。後に涼介は学園で美砂と再会し、美砂が所属する自然科学部を行事運営委員として手助けすることになる。自然科学部は天文部と合同で七夕祭りにて「星空の水族館」を展示することが決まる。涼介達は広い展示場所を求めて旧館の使用を申請するも難色を示される。これは、マリンピアしおなぎの閉鎖により水族館自体が人気がないと思われていたためである。涼介は調査を行い、同水族館に人気があったことや閉鎖した真の理由を示す。涼介の説明により、自然科学部は旧館の使用を許可される。\n\n涼介達は企画実現に向けて水槽の準備と魚の採集を始める。涼介と美砂は採集のために訪れた無人島で相思相愛であることを知り、二人は付き合い始める。準備の過程では、停電を原因とした水槽の水温上昇と酸素不足、水槽の濁りといったトラブルが発生するが、涼介と美砂の対処により解決する。また、涼介は併設展示用にマリンピアしおなぎの建築模型を作成する。七夕祭り当日、多数の人が水族館を訪れる。美砂は来訪していた市議会議員にマリンピアしおなぎの再開にかける思いを伝える。議員は市民の要望が大きくなれば同水族館が再開する可能性もあると指摘し、地道な啓蒙活動を続けることを勧める。七夕祭り後、二人で打ち上げ花火を見ながらずっと一緒にいることを誓う場面でスクール編は幕を閉じる。", "qas": [ { "question": "自然科学部の唯一の部員の名前は何ですか。", "id": "tr-571-09-000", "answers": [ { "text": "沖原美砂", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "沖原美砂の父親は何という水族館の館長でしたか。", "id": "tr-571-09-001", "answers": [ { "text": "マリンピアしおなぎ", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アフター編は涼介と美砂の出会いから8年が経過した時点から始まる。涼介は我妻建築事務所に勤務し、美砂は大学でジュニア・フェローを務めていた。美砂は大学での研究の傍ら、月に一回は子供向けに「海のいきもの教室」を開催していた。美砂のこの教室は人気があり、地方紙に掲載されたり、市議会で取り上げられたりしていた。こうした啓蒙活動が実を結び、マリンピアしおなぎの再開が決まる。同水族館は指定管理者制度により運営されることになる。再開にあたって、我妻建築事務所が改装を担当する。美砂は大学の職を辞し、マリンピアしおなぎの学芸員となる。美砂は新しい企画として涼介と共にクラゲの展示を考え、見事に企画が採用される。開館準備が一段落した頃、涼介は美砂へプロポーズし、美砂はそれを受け入れる。後日、マリンピアしおなぎで二人が結婚式を挙げる場面でアフター編は幕を閉じる。", "qas": [ { "question": "アフター編は涼介と美砂の出会いから何年が経った時点から始まりますか。", "id": "tr-571-10-000", "answers": [ { "text": "8年", "answer_start": 17, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "美砂は月に一回、子供向けに何を開催していますか。", "id": "tr-571-10-001", "answers": [ { "text": "「海のいきもの教室」", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "美砂と涼介はどこで結婚式を挙げますか。", "id": "tr-571-10-002", "answers": [ { "text": "マリンピアしおなぎ", "answer_start": 339, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "鳴沢律佳はピアノを演奏するのが得意な少女である。両親共に高名な音楽家であり、妹のめぐるも既にプロのピアニストとして活躍している。律佳はそんな妹に対し引け目を感じている。涼介と律佳の交流は、汐凪第一学園に転入した涼介が律佳の隣の席になったことから始まる。涼介は律佳が気になり出し、彼女をキャンプに誘ったり、行事運営委員会への参加を促したりする。行事運営委員となった律佳は、七夕祭りにてコンサートの手配を担当することになる。他の行事運営委員に頼まれて、律佳は妹・めぐるを七夕祭りに呼ぶことにする。さらに律佳はめぐるとの二重奏を頼まれるも、自分のピアノに自信がないために断る。その後、涼介は律佳をデートに誘い、何度かデートを繰り返した後に二人は付き合い始める。律佳は涼介との交流を機に少しずつ変化していく。人前でピアノを弾くのが苦手だった律佳は徐々にそれを克服する。また、涼介の計らいにより自分のピアノの価値を知った律佳は、考えを改めてめぐると一緒に七夕祭りでピアノの演奏をすることを決める。\n\n七夕祭りの直前、ある学生バンドがコンサートで演奏したいと申し出る。行事運営委員会は既にプログラムを決めた後だったためその申し出を断る。七夕祭り当日、律佳は先述のバンドは今年卒業の学生のみで構成されており、七夕祭りが最後の演奏機会だったことを知る。律佳はめぐるや行事運営委員会の了承を得て、学生バンドに自分とめぐるの出場権を譲る。その後、コンサートは予定通りの時間で終了するが、涼介達は律佳とめぐるの演奏を実現させるために奔走する。教師や近隣住民との交渉の結果、涼介達はコンサート時間を延長する同意を得る。律佳とめぐるは念願叶ってピアノの連弾を行う。後日、律佳が再びプロのピアニストを目指すことを涼介に告げる場面でスクール編は幕を閉じる。", "qas": [ { "question": "鳴沢律佳は何を演奏することが得意ですか。", "id": "tr-571-11-000", "answers": [ { "text": "ピアノ", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "めぐると律佳と、どっちの方が年上なの?", "id": "tr-571-11-001", "answers": [ { "text": "律佳", "answer_start": 64, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "律佳は誰と付き合いますか。", "id": "tr-571-11-002", "answers": [ { "text": "涼介", "answer_start": 289, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アフター編は涼介と律佳が同じ大学に進み同棲生活を始める時点から始まる。大学生活の傍ら、涼介は我妻建築事務所でインターンシップを、律佳はピアノのコンクールへの出場をする。律佳は徐々に国際コンクールでも入賞するようになる。大学4年生になると、涼介は我妻から出された入社試験に取り組み、律佳は著名な国際コンクールへ向けて練習に励む。涼介は試験に合格して我妻建築事務所に入社し、律佳は国際コンクールにてグランプリに選ばれる。涼介は就職を機に律佳にプロポーズし、律佳はそれを受け入れる。その後、律佳の初リサイタルが開催し、律佳は今まで出会った人々に感謝のコメントをして最後に自作の曲を演奏する。さらに月日が経ち、律佳が子供にピアノを教えている場面でアフター編は幕を閉じる。", "qas": [ { "question": "涼介はどの会社に入社しましたか。", "id": "tr-571-12-000", "answers": [ { "text": "我妻建築事務所", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アフター編は涼介と透子が大学4年生になった時点から始まる。涼介と透子は同棲し、生活時間帯のずれから生じる寂寥を時に感じつつも二人で過ごしていた。涼介は建築科に進学し、在学中に二級建築士資格を取得するために勉強していた。一方、英文科に進学した透子は早々に内定を得ていた。しかし、透子は今後の人生を真剣に考えて内定を蹴り、涼介を支えるためにインテリアコーディネーターとなることを目指す。二人は勉学に励み、涼介は大学4年時に二級建築士、透子は翌年にインテリアコーディネーターの資格を取得する。入社時期には差が生じるが、二人は共に我妻建築事務所で働くことになる。その後、涼介は誕生日に透子からプロポーズされ、密かに用意していた婚約指輪を出して涼介からも透子へプロポーズを行う。時は流れ、二人が結婚式を迎えるところでアフター編は幕を閉じる。", "qas": [ { "question": "アフター編は涼介と透子が大学何年生になった時点から始まりますか。", "id": "tr-571-13-000", "answers": [ { "text": "4年生", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "透子はどの学科に進学したか。", "id": "tr-571-13-001", "answers": [ { "text": "英文科", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "透子と涼介はどの会社で働くようになりますか。", "id": "tr-571-13-002", "answers": [ { "text": "我妻建築事務所", "answer_start": 261, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『星織ユメミライ』の開発チームであるtonework'sは、ビジュアルアーツの20周年企画作品・『初恋1/1』の専門プロジェクトとして始まった。『初恋1/1』では専門プロジェクトということもあり、「一般的な美少女ゲームを上回る作品規模にしたい」「ユーザーさんへの恩返しをしたい」というスタッフの思いから、様々なアイディアを盛り込んだ採算度外視な作品が作られた。こうして出来た『初恋1/1』は、tonework'sの丘野塔也によれば売り上げは好調でユーザーからも大きな反響があったという。特に、ヒロインと結ばれた後を描く追加シナリオの評価が高かったという。tonework'sは設立当初は二作目を作る予定は全くなかったが、『初恋1/1』の制作終了後にスタッフ間で「もう1本作品を作りたい」という意見が上がるようになり、これが後に『星織ユメミライ』を作るきっかけとなった。\n\n本作の企画には、『初恋1/1』への評価や要望が反映されている。『初恋1/1』ではヒロインと結ばれた後を描く追加シナリオが高評価だったため、本作はヒロインと結ばれるまでの学生生活を描くスクール編とヒロインと結ばれた後を描くアフター編の二部構成となった。また、『初恋1/1』ではシリアス成分が強いという意見やもっと甘い展開が欲しいという要望が寄せられたため、本作では明るくポジティブでピュアな恋愛を目指すことになった。物語の時期が夏となったのもその一環で、さわやかな青春を描くためとされる。tonework'sの「リアリティある恋愛像」「ヒロインをより身近に描く」というコンセプトは本作でも踏襲された。作品のテーマは「将来の夢と未来への不安に揺れる年頃の少年少女たちによる、青春の絆と達成感」とされ、「プレイした後、心に幸せの残るゲーム」を目指して制作された。", "qas": [ { "question": "『星織ユメミライ』の開発チームは何ですか。", "id": "tr-571-14-000", "answers": [ { "text": "tonework's", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『星織ユメミライ』と『初恋1/1』と、どっちの方が先に発売されたの?", "id": "tr-571-14-001", "answers": [ { "text": "『初恋1/1』", "answer_start": 310, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『星織ユメミライ』の二部構成はスクール編と何に構成されていますか。", "id": "tr-571-14-002", "answers": [ { "text": "アフター編", "answer_start": 496, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『初恋1/1』と『星織ユメミライ』と、どっちの方がもっとシリアスなストーリーなの?", "id": "tr-571-14-003", "answers": [ { "text": "『初恋1/1』", "answer_start": 514, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "『星織ユメミライ』の企画・制作はtonework'sである。ディレクター業務は丘野塔也が担当し、シナリオは丘野塔也・白矢たつき・にっし~・今科理央・魁が担当した。本作のヒロインのうち、逢坂そらの原画は武藤此史、篠崎真理花の原画は恋泉天音、瀬川夏希の原画は秋野すばる、沖原美砂の原画は恋泉天音、鳴沢律佳の原画は秋野すばる、雪村透子の原画は唯々月たすくが担当した。SDイラストは柚木ガオが担当した。BGMは天門・MANYO・水月陵・碓氷悠一朗・しょうゆ・Meeon・どんまるが担当した。動画制作はgram6designが担当した。\n\n本作ではヒロイン数が『初恋1/1』の5人から6人へ増加し、ヒロイン数増加を受けて唯々月たすく・秋野すばる・恋泉天音・武藤此史の計4人の原画家が起用された。ビジュアルアーツに所属する恋泉の他に唯々月たすく・秋野すばるが起用されたのは、前作での仕事が素晴らしかったこと、前作と同じ原画家を起用することでブランドイメージを統一したかったこと、恋泉が描くキャラクターに頭身が近くかつ可愛いキャラクターを描ける人は希少であることなどが理由である。新たに武藤此史を起用したのはtonework'sの作風と原画家としての実力を考慮したためである。", "qas": [ { "question": "『星織ユメミライ』のディレクター業務は誰が担当しましたか。", "id": "tr-571-15-000", "answers": [ { "text": "丘野塔也", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『星織ユメミライ』のヒロインは何人なの?", "id": "tr-571-15-001", "answers": [ { "text": "6人", "answer_start": 287, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『星織ユメミライ』の原画家は何人でしたか。", "id": "tr-571-15-002", "answers": [ { "text": "4人", "answer_start": 329, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『初恋1/1』と『星織ユメミライ』と、ヒロインの数がもっと多いのはどっちなの?", "id": "tr-571-15-003", "answers": [ { "text": "『星織ユメミライ』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "四国同盟戦争", "paragraphs": [ { "context": "四国同盟戦争(しこくどうめいせんそう、英語:WaroftheQuadrupleAlliance)は、1718年から1720年まで行われた、スペインと四国同盟(オーストリア、イギリス、フランス、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の4カ国)およびサヴォイア公国(当時シチリア王国を称する)との間に行われた戦争のことをいう。", "qas": [ { "question": "四国同盟戦争とは、何年から何年まで行われた戦争のことを言うの?", "id": "tr-572-00-000", "answers": [ { "text": "1718年から1720年", "answer_start": 50, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "四国同盟戦争とは、どの国と四国同盟およびサヴォイア公国との間で行われた戦争のことを言いますか?", "id": "tr-572-00-001", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 69, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "スペイン継承戦争を終結させた1713年のユトレヒト条約および1714年のラシュタット条約により、スペインはネーデルラント、ミラノ公国、ナポリ王国、サルデーニャ島を神聖ローマ皇帝カール6世に、シチリア王国をサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世に割譲した。スペイン王フェリペ5世は領土回復を追求したが、当面の急務は13年間の戦争で荒廃したスペインの国力の回復であり、イタリア出身の枢機卿であるジュリオ・アルベローニがそれを推進した。1714年、アルベローニは寡夫となったフェリペ5世と21歳のエリザベッタ・ファルネーゼの縁談をまとめた。この縁談の途中でアルベローニはエリザベッタの個人的な顧問になった。1715年、アルベローニは首相に就任、スペインの財政と陸軍を改革したほかスペイン艦隊を再建した(1718年だけで戦列艦を50隻建造した)。一方のエリザベッタもファルネーゼ家の一員としてイタリアのパルマ・ピアチェンツァ公国、ひいてはトスカーナ大公国の継承権を有していたため、自分の子供であるドン・カルロス王子のためにイタリアの君主位を確保したいと望み、アルベローニの支持を得てフェリペ5世とその息子たちのイタリアに対する野心を煽った。そして、スペインはオーストリアがオスマン帝国との戦争(墺土戦争)にかかりきりになっている間に、軍隊を派遣して1717年8月にサルデーニャを占領した(スペインによるサルデーニャ侵攻)。", "qas": [ { "question": "ユトレヒト条約とラシュタット条約のうち、より早く結ばれた条約は、どちらか?", "id": "tr-572-01-000", "answers": [ { "text": "ユトレヒト条約", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スペイン継承戦争は、ユトレヒト条約とどの条約の締結により終わったか?", "id": "tr-572-01-001", "answers": [ { "text": "ラシュタット条約", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1715年、スペイン首相に就任した人物は、どの国の出身か?", "id": "tr-572-01-002", "answers": [ { "text": "イタリア", "answer_start": 184, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スペインがサルデーニャを占領した時、オーストリアはどの国との戦争に夢中になっていたか?", "id": "tr-572-01-003", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 534, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スペインはフランスとの火種も抱えていた。1715年、フランス王ルイ14世が死去してルイ15世が5歳で即位したが、夭折の可能性もあり、フェリペ5世がユトレヒト条約でフランスの王位継承権を放棄したにもかかわらずフランス摂政のオルレアン公フィリップ2世とルイ15世の継承者の位を争った。その裏にはメーヌ公妃ルイーズ・ベネディクト・ド・ブルボンが夫を唆して参加させ、スペインの駐仏大使のチェッラマーレ公爵アントニオ・デル・ジューディチェが一枚かんでいたチェッラマーレ陰謀もあり、オルレアン公を追放してフェリペ5世を摂政につかせるという陰謀があった。", "qas": [ { "question": "ルイ14世の跡を継いだのは、誰なの?", "id": "tr-572-02-000", "answers": [ { "text": "ルイ15世", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フィリップ2世とルイ15世の継承者の位を争った人は、どの条約によりフランスの王位継承権を放棄した人でありましたか?", "id": "tr-572-02-001", "answers": [ { "text": "ユトレヒト条約", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "さらに、スペインはイギリスへの牽制として、ジャコバイトとスチュアート家を支援した。1717年、イギリスがスウェーデンに宣戦布告して大北方戦争に参戦したが、スウェーデン王カール12世はジャコバイトを通してアルベローニと連絡をとった。英仏同盟はスペインとスウェーデンの共通した敵であり、イギリスのハノーファー朝国王が追放されることでスウェーデンは敵国を1つ減らし、スペインはフランスとの連合を促進、続いて東方での戦闘に手間とっているオーストリアを簡単に屈服させるができる、と考えたのだった。これに対してフランスの外務大臣ギヨーム・デュボワはイギリスからの圧力で英仏による連合交渉に同意、スペインに和議の条件としてシチリアとサルデーニャの交換、トスカーナ大公国とパルマ・ピアチェンツァ公国の継承権をエリザベッタの長男ドン・カルロスに戻すことの2条件を出した。イギリスはジブラルタルの返還まで持ちかけたが、スペインは和議を拒否した。スペインが強硬策に踏み切った背景には、フランスにおける反オルレアン公・反デュボワ・親スペイン派の存在、イギリスにおける反戦勢力である商人層(地中海と米州における貿易に悪影響を与えるため)の存在、ならびに英仏同盟が長く維持されることはないという判断があった。", "qas": [ { "question": "スペインはイギリスを牽制するために、スチュアート家とどんな勢力を支援したの?", "id": "tr-572-03-000", "answers": [ { "text": "ジャコバイト", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イギリスが大北方戦争に参戦したのは、何年のことですか?", "id": "tr-572-03-001", "answers": [ { "text": "1717年", "answer_start": 41, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペインと同じく、イギリスとフランスを敵としていた国は、どの国か?", "id": "tr-572-03-002", "answers": [ { "text": "スウェーデン", "answer_start": 125, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トスカーナ大公国とパルマ・ピアチェンツァ公国の継承権の放棄とシチリアとサルデーニャの交換のほかに、英仏同盟がスペインに和議の条件として提案したのは、どこの返還か?", "id": "tr-572-03-003", "answers": [ { "text": "ジブラルタル", "answer_start": 381, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "これらの行動は諸国に警戒され、1716年末にデュボワがオランダの説得に成功すると翌1717年1月4日に英仏蘭の間で三国同盟が結ばれた。しかしオーストリア軍は全ての資源を墺土戦争に投入しており、総指揮官のプリンツ・オイゲンはイタリアにおけるスペインとの大戦争を避けたかった。そのため、オーストリアの動きは鈍かった。やがてスペインが打って出て、1718年6月に今度は3万人の指揮をレーデ侯に任せ、さらに船350隻と大砲250門以上も加えて、シチリア島に侵攻すると、英仏は7月18日にロンドンで講和条件を記した条約を締結、オーストリア、スペイン、サヴォイア公国に3か月内の条約加盟を求めた。その3か月後にオスマン帝国とパッサロヴィッツ条約が締結して講和したオーストリアは8月2日に条約に加盟し、四国同盟が結成された。戦争の名前はこの同盟による。英仏墺の計3か国しか加盟していないにもかかわらず、「四国同盟」と呼ばれたのはオランダの加盟が予想されたためだったが、オランダはスペインとの貿易を維持しようとして条約加盟を拒否した。サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世はアルベローニと反オーストリア同盟の交渉を始めたため、一時は不明確な立場をとったが、11月に同盟に加わった。", "qas": [ { "question": "英仏同盟にオランダが加わり、三国同盟となったのは、何年のこと?", "id": "tr-572-04-000", "answers": [ { "text": "1716年", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "7月18日にロンドンで締結された条約にオーストリアが加盟したのは、いつのことですか?", "id": "tr-572-04-001", "answers": [ { "text": "8月2日", "answer_start": 332, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "墺土戦争とは、オーストリアとどの国の間で行われた戦争のことか?", "id": "tr-572-04-002", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 299, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "四国同盟と呼ばれたのは、オランダの加勢が当然なことであると予想されたからであるが、オランダは何を維持するために同盟に加盟しなかったか?", "id": "tr-572-04-003", "answers": [ { "text": "スペインとの貿易", "answer_start": 432, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "イギリスは四国同盟が締結される前にジョージ・ビング提督率いる艦隊を派遣して、スペインのシチリア島奪取を阻止しようとしたが失敗した。ビングは1718年6月に地中海西部に到着、8月11日のパッサロ岬の海戦でスペイン艦隊を壊滅させた。スペインはそれでも諦めず、イギリスは1718年12月に、フランスは1719年1月に対スペイン宣戦に踏み切った。オランダは1719年8月に宣戦した。その後、イギリス艦隊の支援を受けたオーストリア軍はシチリアに上陸したが、ミラッツォの戦い(1718年10月)とフランカヴィッラの戦い(1719年6月)とスペイン軍に連敗した。しかし、艦隊の支援がなくなったスペイン軍の状況はそれ以上に悪化しており、1719年のミラッツォでの再戦はオーストリア軍が勝利、そのまま10月にはメッシーナも占領された。", "qas": [ { "question": "スペインのシチリア島奪取を阻止ために、イギリスから派遣されたのは、誰の率いる軍だったの?", "id": "tr-572-05-000", "answers": [ { "text": "ジョージ・ビング", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イギリスとフランスのうち、スペインとの戦争に取りかけた時期がより早いのは、どちらですか?", "id": "tr-572-05-001", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 127, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "イギリス、フランス、オランダのうち、スペインに宣戦布告した時期が最も遅いのは、どちらか?", "id": "tr-572-05-002", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 169, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ミラッツォの戦いとフランカヴィッラの戦いのうち、行われた時期がより早い戦闘は、どちらか?", "id": "tr-572-05-003", "answers": [ { "text": "ミラッツォの戦い", "answer_start": 223, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アルベローニはイギリスへの妨害として「アルベローニ計画」を立て、ジャコバイトとハイランド地方におけるジャコバイトを支持、ジョージ1世を廃位してジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートを王位につかせようとした。これにより、スペインはスコットランドに海兵隊300人と第10代マーシャル伯爵ジョージ・キースなどジャコバイトの指揮官をスコットランドに上陸させた。スペイン軍は蜂起を支援するためにシーフォース卿の住処の1つであるアイリーン・ドナン城に駐留軍を配置した。", "qas": [ { "question": "「アルベローニ計画」とは、どの国への妨害として建てられた計画であるの?", "id": "tr-572-06-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「アルベローニ計画」とは、ジョージ1世を廃位して誰を王位につかせようとする計画でありましたか?", "id": "tr-572-06-001", "answers": [ { "text": "ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアート", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかしアイリーン・ドナン城はジャコバイトが出払っている間にイギリス軍に占領、破壊された(アイリーン・ドナン城占領)。また第2代オーモンド公ジェームズ・バトラー率いる軍勢7千は1719年3月にカディスから出航したが、フィニステレ岬で嵐に遭いグレートブリテン島に上陸できなかった。スペイン軍とジャコバイト軍が糾合して戦ったグレン・シールの戦いも政府軍の勝利に終わり、「ザ・ナインティーン」または「1719年の反乱」と呼ばれた1719年ジャコバイト蜂起は1回の戦闘で鎮圧された。", "qas": [ { "question": "ジェームズ・バトラー率いる軍勢7千は、どこへの上陸を目的に、カディスから出航したの?", "id": "tr-572-07-000", "answers": [ { "text": "グレートブリテン島", "answer_start": 119, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジェームズ・バトラーが率いる軍隊が、当初の目的を果たせなかったのは、航海の途中に何に遭ったためですか?", "id": "tr-572-07-001", "answers": [ { "text": "嵐", "answer_start": 115, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "シチリアでの戦闘の間、イギリスとオランダの艦隊がスペインの艦隊と通商を攻撃し、沿岸攻撃も行った。ジャコバイト蜂起の後、1719年10月にはイギリスが報復としてフェロルとサントーニャに上陸、さらにビーゴを占領、スペイン政府は動揺した。フランス軍はベリック公ジェームズ・フィッツジェームズがパンプローナの攻囲を主張したが、物資の準備が追い付かなかったため、代わりに1719年6月18日にオンダリビアを3週間の包囲を経て攻略した。フェリペ5世率いるスペイン軍はその前日にオンダリビアから2リーグほどのレサカまで来ていたが、町が占領されたことを知ると引き返した。ベリック公は続いて8月にサン・セバスティアンを降伏させたが、背後にパンプローナという強固な要塞を残して進軍することに危険を感じて撤退、カタルーニャに転じて8月31日にラ・セウ・ドゥルジェイも攻略した。しかし、続くロザス包囲戦では悪天候が続き、嵐により補給船が多数破壊されたためベリック公はやむなく撤退、冬営に入った後パリへ戻った。", "qas": [ { "question": "シチリアでの戦闘の間、スペインは、イギリスとどの国から攻撃を受けたか?", "id": "tr-572-08-000", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリスがフェロルとサントーニャに上陸してきたのは、いつのことか?", "id": "tr-572-08-001", "answers": [ { "text": "1719年10月", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジェームズ・フィッツジェームズが攻略に向かった時期がより早いのは、オンダリビアとラ・セウ・ドゥルジェイのうち、どちらか?", "id": "tr-572-08-002", "answers": [ { "text": "オンダリビア", "answer_start": 191, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "この文書で言及した地域のうち、ジェームズ・フィッツジェームズが率いるフランス軍の攻撃から、唯一に陥落されなかったのは、どこか?", "id": "tr-572-08-003", "answers": [ { "text": "ロザス", "answer_start": 383, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "新大陸においてはフランスが1719年5月にペンサコーラを占領した。同年8月、スペインの大部隊が救援に来たためフランスの小規模な駐留部隊は降伏した。しかし、9月1日に今度はフランス艦隊がきて、ペンサコーラを再び占領した。1720年2月、スペイン軍はバハマのナッソーを占領しようとしたが失敗、略奪しただけに留まった。", "qas": [ { "question": "フランスがペンサコーラを占領したのは、いつなの?", "id": "tr-572-09-000", "answers": [ { "text": "1719年5月", "answer_start": 13, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ペンサコーラを占領したフランス軍の駐留部隊が、スペインの救援部隊により敗れたのは、1719年何月のことですか?", "id": "tr-572-09-001", "answers": [ { "text": "8月", "answer_start": 35, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ペンサコーラがフランス軍により再び占領されたのは、何月何日のことか?", "id": "tr-572-09-002", "answers": [ { "text": "9月1日", "answer_start": 77, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "何回かの戦闘を経て、結局、ペンサコーラはどの国の勢力下に置かれたか?", "id": "tr-572-09-003", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 85, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1719年に開戦の報せがスペイン植民地のサンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコに届くと、植民地政府はグレートプレーンズのフランス勢力の増長を憂慮して、反撃として1720年6月にビリャスルの遠征を行ったがインディアン軍に敗れた。一方でイギリスは首脳部のスタンホープ伯爵とロバート・ウォルポールの両方が植民地遠征を支持しなかったため、スペインの植民地への遠征軍を派遣することはなかった。", "qas": [ { "question": "1719年のペンサコーラでのフランス軍との戦闘について耳にした、サンタフェ・デ・ヌエボ・メヒコにあるスペインの植民地政府は、いつ反撃を行ったの?", "id": "tr-572-10-000", "answers": [ { "text": "1720年6月", "answer_start": 76, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリスがスペイン植民地への遠征を行わなかったのは、スタンホープ伯爵と誰の反対があったからですか?", "id": "tr-572-10-001", "answers": [ { "text": "ロバート・ウォルポール", "answer_start": 130, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "スペインの勝ち目が無いことが明らかになると、アルベローニは責任を取らされて1719年12月に失脚した。イギリス、フランス、オーストリアは1719年10月にスペインが四国同盟の講和条件を認めなければカルロス王子のパルマ・ピアチェンツァ・トスカーナ三公領の継承権を取り上げると決め、フェリペ5世は折れて1720年2月17日にハーグ条約を締結、戦争が終結した。", "qas": [ { "question": "アルベローニが戦争の責任を取らされて失脚したのは、いつか?", "id": "tr-572-11-000", "answers": [ { "text": "1719年12月", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリス、フランス、オーストリアとスペインの間での戦争が終結したのは、どの条約の締結によることだったか?", "id": "tr-572-11-001", "answers": [ { "text": "ハーグ条約", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時、スペインの王は、誰だった?", "id": "tr-572-11-002", "answers": [ { "text": "フェリペ5世", "answer_start": 139, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハーグ条約が結ばれたのは、いつのことですか?", "id": "tr-572-11-003", "answers": [ { "text": "1720年2月17日", "answer_start": 149, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "エストニアの言語", "paragraphs": [ { "context": "本項では、エストニア共和国の言語状況について述べる。\n\nエストニアではエストニア語のみが国家語とされているが、ソビエト連邦による占領の経験から、エストニア国内にはエストニア語を解さないロシア語話者が多数存在する。エストニア政府は度重なる「言語法」の改訂によって彼らの排除、あるいは社会統合を企図し、その甲斐あって若年層のロシア人はエストニア語能力に向上を見せた。しかし、エストニア語能力を有さない住民は北東部イダ=ヴィル県を中心に未だ多く存在し、その社会統合は課題として残されている。また、近年では第三の言語として英語が急速に浸透しつつもある。", "qas": [ { "question": "エストニアの唯一の国家語は何ですか。", "id": "tr-573-00-000", "answers": [ { "text": "エストニア語", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "エストニア語能力を有さない住民はどこを中心に未だ多く存在しているか。", "id": "tr-573-00-001", "answers": [ { "text": "北東部イダ=ヴィル県", "answer_start": 201, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2011年国勢調査では、エストニア国内で国家語であるエストニア語を母語とする者は88万6859人であり、次いでロシア語母語話者が38万3062人、3位のウクライナ語母語話者が8012人となっている。これらを含めて25の言語に1000人以上の母語話者が存在し、その他小規模なものを含めると計157の言語がエストニアに母語話者を持つとされる。また、視覚言語としてエストニア手話にも147人の母語話者が確認されている。\n\nエストニア永住者の10.1パーセントに当たる13万1243人がエストニア語の方言を話すことができ、うちヴォロ語話者は8万7048人、サールテ語話者は2万4520人、ムルキ語話者は9698人である。これらエストニア語南部諸方言は、ソ連崩壊後に復興の気運が高まり、地方言語と認定する法案も提出されているが、成立には至っていない。とはいえ、ヴォロ語とその文化に対しては政府を通じて積極的な支援と資金援助が行われてもいる。", "qas": [ { "question": "2011年国勢調査によると、エストニア国内でウクライナ語母語話者は何位を占めていますか。", "id": "tr-573-01-000", "answers": [ { "text": "3位", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2011年国勢調査によると、エストニア国内で母語として二番目に多く使われる言語は何か。", "id": "tr-573-01-001", "answers": [ { "text": "ロシア語", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "13万1243人はエストニア永住者の何%に当たるか。", "id": "tr-573-01-002", "answers": [ { "text": "10.1パーセント", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ロシアとの国境に近い北東部イダ=ヴィル県ナルヴァではロシア語話者の割合が95パーセント以上を占め、その他イダ=ヴィル県にはロシア語話者が過半数を占める都市が散見される。この大量のロシア語話者の存在は、第二次世界大戦期のソビエト連邦によるエストニア第一共和国併合によって、ロシア人がエストニアに流入したことが原因である。\n\nエストニアにはロシア人の他にも少数民族が居住しているが、政府報告書によれば、彼らのほとんどは母語を失ってエストニア語化ないしロシア語化している。そのため、今日のエストニアに残された言語問題はその大部分がロシア語に関するものである。\n\nエストニアの言語法第11条には、「全定住者のうち過半数の使用する言語がエストニア語でない地方自治体においては、自治体内の実務言語として〔中略〕エストニア語に加えて全定住者のうち過半数を形成する少数民族の言語を使用することができる」との条文があり、ロシア人が95パーセント以上を占めるナルヴァ市議会は、これに基づいて議会でのロシア語使用許可を申請している。政府は、同市におけるエストニア語の使用が未だ保障されていない、として申請を却下したが、ロシア人の側は、非合法状態にはありながら公的領域においてもロシア語の使用を続けている。", "qas": [ { "question": "イダ=ヴィル県ナルヴァではロシア語話者の割合が何%以上を占めていますか。", "id": "tr-573-02-000", "answers": [ { "text": "95パーセント", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "今日のエストニアに残された言語問題はの大部分は何語に関係していますか。", "id": "tr-573-02-001", "answers": [ { "text": "ロシア語", "answer_start": 262, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「全定住者のうち過半数の使用する言語がエストニア語でない地方自治体においては、自治体内の実務言語として〔中略〕エストニア語に加えて全定住者のうち過半数を形成する少数民族の言語を使用することができる」というのはエストニアの言語法第何条の内容か。", "id": "tr-573-02-002", "answers": [ { "text": "第11条", "answer_start": 287, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2017年の調査では、国内の非エストニア民族のうち41パーセントがエストニア語の読み書きができると回答しており、まったく話せないと回答した者は10パーセントである。しかし、イダ=ヴィル県に限れば読み書きができるとする者は22パーセントまで減少し、まったくエストニア語能力を持たないとする者も22パーセントに増加する。世代別に見れば、74歳以上の者は24パーセントが読み書きできるが、19パーセントはまったく解さない。その一方で15歳から24歳まででは67パーセントが読み書きでき、まったく解さない者は3パーセントに留まるなど、ロシア人若年層のエストニア語能力は着実に向上している。\n\n一方、エストニア民族の側にも未だソ連時代のロシア化の影響は根強く、2017年に至ってもその48パーセントがロシア語の読み書き能力を有し、まったく話せないとする者も5パーセントに留まっている。しかし、これも世代別では15歳から24歳までの読み書き能力者は17パーセント、まったく解さない者が18パーセントであるように、若年層のエストニア民族もまたロシア化の影響から脱しつつある。\n\nまた近年では、歴史的に馴染みのない英語も急速に浸透しつつあり、2017年の時点でエストニア語とロシア語に次いで使用される言語となっている。同年の調査ではエストニア民族の37パーセント、非エストニア民族の19パーセントがその読み書き能力を有するとされる。しかし非エストニア民族の英語能力はエストニア民族に比して格段に低く、また民族問わず50歳以上ではその読み書き能力者は10パーセント程度に留まるなど、英語の浸透度合いには著しい格差が存在する。\n\n教育問題については、2017年には非エストニア民族の保護者も、ロシア語学校でも幼稚園からエストニア語を教えることに79パーセントが賛成するなど、社会統合策は熱意を持って受け入れられている。一方、以降の初等・中等・高等教育においては、エストニア民族の保護者の7割以上が子供をエストニア語学校へ通わせたいと考えるのに対し、非エストニア民族の保護者の指向はロシア語学校や民族・言語混合学校、英語学校など遙かに多様である。また、肝心のエストニア語での教授能力に長けたロシア語学校の教師の不足は、エストニア語による社会統合への妨げとなっていると指摘されている。", "qas": [ { "question": "2017年の調査で、国内の非エストニア民族のうち何パーセントがエストニア語の読み書きができると回答したか。", "id": "tr-573-03-000", "answers": [ { "text": "41パーセント", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2017年の調査によると15歳から24歳まででは何%がエストニア語を読み書きできるか。", "id": "tr-573-03-001", "answers": [ { "text": "67パーセント", "answer_start": 225, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2017年の時点でエストニア語とロシア語に次いで使用される言語は何ですか。", "id": "tr-573-03-002", "answers": [ { "text": "英語", "answer_start": 499, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "国家の成立以前、エストニア地域における公式言語はデンマーク語・ドイツ語・スウェーデン語と、支配者の移り変わりによって変遷した。同地にロシア帝国の支配が確立した後は、ロシア語が唯一公式の教授言語となった。しかし、その文化領域での支配的言語はエリートのバルト・ドイツ人が使用したドイツ語であり、17世紀にスウェーデン帝国によって設立されたタルトゥ大学も、エストニア独立までほぼ一貫してドイツ語を教授言語としていた。19世紀初頭の農奴解放令によって生まれ始めたエストニア人知識層も、やはりコミュニケーション手段としてはドイツ語を使用した。", "qas": [ { "question": "エストニア地域がロシア帝国に支配されていた時、エストニア地域の公式の教授言語は何だったか。", "id": "tr-573-04-000", "answers": [ { "text": "ロシア語", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "19世紀初頭のエストニア人知識層は何語を使用していましたか。", "id": "tr-573-04-001", "answers": [ { "text": "ドイツ語", "answer_start": 256, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "17世紀のタルトゥ大学の教諭言語は何でしたか。", "id": "tr-573-04-002", "answers": [ { "text": "ドイツ語", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "だが、多くのドイツ人やドイツ化したエストニア人が民俗学的関心や啓蒙主義・ロマン主義に基づいてエストニア語の保存・収集を行ったことは(エストフィリア)、その意図に反してエストニア人民衆の民族意識を覚醒させる方向に働いた。やがて1918年2月にエストニア第一共和国がロシアからの独立宣言をなすと、11月に制定された国語法によって、エストニア語がその「国家語」であると宣言された。これによって、出生・婚姻・死亡届や郵便物の住所もエストニア語で書かれるようになり、軍隊での公用語もエストニア語となった。\n\n一方、革命後のソビエト・ロシア政権が少数民族の言語権を保障したことに呼応し、翌12月には教育省令によって、20人以上の同一言語使用者がいる場合にはその母語を教授言語とし、20人に満たない場合でも週3時限の母語での学習が認められるようになった。また、国会など公的な場でもエストニア語に加えドイツ語とロシア語が併用され続けており、これには実用性のみならず少数言語の威信という側面もあった。1919年に成立した、姓のエストニア語化を謳う法律はさほど影響力を持たず、中等・高等教育においてはエストニア人であっても子弟を「文化的な」ドイツ語学校へ通わせる例もあった。", "qas": [ { "question": "姓のエストニア語化を謳う法律はいつ成立されたか。", "id": "tr-573-05-000", "answers": [ { "text": "1919年", "answer_start": 441, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エストニア第一共和国がロシアからの独立宣言をなしたのはいつですか。", "id": "tr-573-05-001", "answers": [ { "text": "1918年2月", "answer_start": 112, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "エストニアの外国語教育については、1920年の段階では3-4年生でドイツ語が、5-6年生でロシア語が必修とされていた。この時点では英語を第一外国語とする案もあったが、教師の不足により実現しなかった。しかし、1923年には3-6年生でドイツ語が、5-6年生で英語が必修化され、対してロシア語が初等教育から除外されている。さらに外国語教育はその後、1926年には一言語まで、1928年には5年生からと縮小した。\n\n一方、1925年には国際的にも類を見ないほどリベラルな「少数民族文化自治法」が採択され、各民族は母語で教育を行う学校を公費で設立・運営する権利を得た。1929年の時点で、国内にはロシア語100校・ドイツ語19校・スウェーデン語15校・ラトビア語7校・イングリア語3校・ユダヤ人学校3校の初等学校と、ドイツ語14校・ロシア語9校・ユダヤ人学校2校・ラトビア語1校の中等学校、そしてドイツ語とロシア語で1校ずつの高等学校が存在した(ユダヤ人学校の教授言語はロシア語→イディッシュ語→現代ヘブライ語へと転換している)。", "qas": [ { "question": "1920年の段階で、エストニアの3-4年生は必須でどんな言語を学習しましたか。", "id": "tr-573-06-000", "answers": [ { "text": "ドイツ語", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1923年、エストニアの初等教育から除外された言語は何ですか。", "id": "tr-573-06-001", "answers": [ { "text": "ロシア語", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "やがてコンスタンティン・パッツによる権威主義体制(沈黙の時代)が確立されると、1934年の教育改革によって、外国語教育は自治体および保護者の負担によってのみ設けられることとなった。これにより、1935年には初等教育全体の3分の1から外国語が排除された。また、エストニア人が少数派の自治体でもエストニア語での授業が保障されるようになった反面、自治体に少数民族が15人以下の場合には、原則としてエストニア語での授業が強制されるようになった。また、ドイツ化したエストニア人を「本来の姿に戻す」ため、親のいずれかがドイツ人でない限りドイツ語学校への入学は認められなくなった。\n\n1934年には再び姓のエストニア語化を謳う法が成立し、これによって多くの人々が改姓した。1935年には地名・街路名のエストニア語表記が強制されるようになり、従来エストニア語名を持たなかった土地にも新たにエストニア語名が与えられた。", "qas": [ { "question": "再び姓のエストニア語化を謳う法が成立したのはいつですか。", "id": "tr-573-07-000", "answers": [ { "text": "1934年", "answer_start": 285, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その後、エストニアはソ連から独立回復を達成し、1992年6月に採択した新憲法の第6条において、エストニア語はその国家語と規定された。一方、ロシア語の地位については明記されなかった。法文においては「すべての市民が国家機関あるいは地方自治機関においてエストニア語を使用し、エストニア語で回答を得る権利を持つ」とされたが、「例外的に、その地域の住民の多数が非エストニア語を使用している場合、地方自治体は地域内に流通する言語として、地域の永住民の多数派言語を使用できる」とされた。個人および集団の言語権は基本的人権として認められ、言語を理由とした差別も禁じられた。\n\nしかし、同時期にエストニア政府は、1940年6月以降に移住してきたロシア人に対しては自動的な国籍付与を認めないと決定した。さらに、復帰された1938年国籍法によってエストニア語能力が帰化要件とされたため、エストニア国内に居住する大多数のロシア人は無国籍状態に追いやられることとなった。加えて、1993年6月に可決の「外国人法」によって実質的なロシア人の国外退去までが定められるに至って、全欧安全保障協力会議(CSCE)やヘルシンキ・ウォッチ、欧州評議会などの国際調査団はエストニアに反露政策の見直しを要求した。結果、「外国人法」の修正とともに、帰化要件についても「1500語程度の日常会話能力」へと緩和がなされた。11月には、1925年の法を基にした「少数民族文化自治法」が採択され、ロシア人を含めた3000人以上の少数民族に対しても文化的自治が保障された。", "qas": [ { "question": "1992年6月に採択した新憲法の第6条において、エストニアの国家語は何に規定されましたか。", "id": "tr-573-08-000", "answers": [ { "text": "エストニア語", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「外国人法」はいつ可決されたの?", "id": "tr-573-08-001", "answers": [ { "text": "1993年6月", "answer_start": 426, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ナリタブライアン", "paragraphs": [ { "context": "ナリタブライアン(NaritaBrian、1991年5月3日-1998年9月27日)は、日本の競走馬・種牡馬。\n中央競馬史上5頭目の牡馬クラシック三冠馬であり、「シャドーロールの怪物」という愛称で親しまれた。\n1993年8月にデビューし、同年11月から1995年3月にかけて3歳牡馬クラシック三冠を含むGI5連勝、10連続連対を達成し、1993年JRA賞最優秀3歳牡馬、1994年JRA賞年度代表馬および最優秀4歳牡馬に選出された。\n1995年春に故障(股関節炎)を発症したあとは低迷し、6戦して重賞を1勝するにとどまった(GIは5戦して未勝利)が、第44回阪神大賞典におけるマヤノトップガンとのマッチレースや短距離戦である第26回高松宮杯への出走によってファンの話題を集めた。\n第26回高松宮杯出走後に発症した屈腱炎が原因となって1996年10月に競走馬を引退した。\n引退後は種牡馬となったが、1998年9月に胃破裂を発症し、安楽死の措置がとられた。\n半兄に1993年のJRA賞年度代表馬ビワハヤヒデがいる。\n1997年日本中央競馬会(JRA)の顕彰馬に選出。", "qas": [ { "question": "ナリタブライアンは死ぬ2年前に競走馬を引退してる。何年のことでしょうか?", "id": "tr-574-00-000", "answers": [ { "text": "1996年", "answer_start": 366, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナリタブライアンが競走馬の後になったものとは何?", "id": "tr-574-00-001", "answers": [ { "text": "種牡馬", "answer_start": 389, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナリタブライアンが最後に参加した競馬のレースは何?", "id": "tr-574-00-002", "answers": [ { "text": "第26回高松宮杯", "answer_start": 340, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ナリタブライアンは1991年5月3日、北海道新冠町にある早田牧場新冠支場で誕生した。\n同牧場の経営者早田光一郎や場長の太田三重によると、誕生後しばらくはこれといって目立つ馬ではなかったが、次第にその身体能力が鍛錬にあたった牧場スタッフによって高く評価されるようになった。\n1992年10月以降資生園早田牧場新冠支場で行われた初期調教において調教を担当した其浦三義は、バネや背中の柔らかさ、敏捷性において半兄のビワハヤヒデをはるかに超える素質を感じたと述べている。\nまた早田によると、初期調教が行われていた時期に複数の馬に牧場内の坂を上り下りさせる運動をさせたころ、1頭だけ全く呼吸が乱れなかった。\n一方で調教中に水たまりに驚いて騎乗者を振り落とすなど臆病な気性もみせた。", "qas": [ { "question": "初期調教において、ナリタブライアンとの身体能力を比較された馬は何という名前ですか?", "id": "tr-574-01-000", "answers": [ { "text": "ビワハヤヒデ", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "初期調教の頃、複数の馬に牧場内の坂を上り下りさせる運動をさせた中で、全く呼吸が乱れなかったという1頭の名は?", "id": "tr-574-01-001", "answers": [ { "text": "ナリタブライアン", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "初期調教においてナリタブライアンの調教担当をしたスタッフの名前は?", "id": "tr-574-01-002", "answers": [ { "text": "其浦三義", "answer_start": 177, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ナリタブライアンは庭先取引によって山路秀則に購入され、中央競馬の調教師大久保正陽の厩舎で管理されることが決定した。\n早田によるとナリタブライアンの馬主が山路に、調教師が大久保に決定した経緯は以下の通りである。\nまず家畜取引商工藤清正の仲介により大久保に紹介され、大久保が山路に購入を打診。\n山路と大久保が資生園早田牧場を訪れ購入が決定した。\n大久保は後に「ビワハヤヒデの活躍が早ければナリタブライアンは自分のところにはやってこなかった」と述懐している。\n取引価格は山路によれば「2400万か2500万」円から「100万くらい」値引きしてもらった額であったという。", "qas": [ { "question": "ナリタブライアンを購入したのは山路秀則であるが、購入を勧めた人物は誰?", "id": "tr-574-02-000", "answers": [ { "text": "大久保正陽", "answer_start": 35, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナリタブライアンは実際いくらの値引きがあって取引されたの?", "id": "tr-574-02-001", "answers": [ { "text": "「100万くらい」", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "8月15日、ナリタブライアンは函館競馬場の新馬戦で競走馬としてデビューした。\n「ビワハヤヒデの弟」として注目を集め2番人気に支持されたが2着に敗れ、中1週で再び同競馬場の新馬戦に出走して初勝利を挙げた。\nその後3戦目の重賞函館3歳ステークスと5戦目の重賞デイリー杯3歳ステークスではそれぞれ6着と3着に敗れたものの、4戦目のきんもくせい特別と6戦目の京都3歳ステークスを優秀な走破タイム(前者は当時の福島競馬場芝1700mにおける3歳馬レコードに0.1秒差、後者は京都競馬場芝1800mにおける従来の3歳馬のレコードを1.1秒更新)で優勝した。\n1番人気に支持されたGI朝日杯3歳ステークスでは序盤に馬群の中ほどにつけ第3コーナーで前方へ進出を開始する走りを見せ優勝した。\nGI初優勝を達成し、同年のJRA賞最優秀3歳牡馬に選ばれた。", "qas": [ { "question": "ナリタブライアンが初勝利を飾った競馬場はどこ?", "id": "tr-574-03-000", "answers": [ { "text": "函館競馬場", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナリタブライアンが優勝した4戦目のきんもくせい特別と6戦目の京都3歳ステークスの内、距離をより多く走ったレースはどちら?", "id": "tr-574-03-001", "answers": [ { "text": "京都3歳ステークス", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ナリタブライアンがGI初優勝となったレース名は何でしたか?", "id": "tr-574-03-002", "answers": [ { "text": "朝日杯3歳ステークス", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "デビュー後まもなく、ナリタブライアンには気性面で2つの問題が現れた。\n1つは常にテンションが高く、特にレースが近づくとそれを察知し一層興奮する傾向があったことである。\nこの問題に対処するために、大久保はローテーションの間隔を詰めて多くのレースに出走させることによって同馬のエネルギーを発散させ興奮を和らげようとした(3歳時にデビューからの4か月間に7回レースに出走したことのほか、4歳時にスプリングステークスに出走したことおよび6歳時に高松宮杯に出走したことにもそうした意図が関係していた)。\nただしこの傾向は栗東トレーニングセンター内においてのみ表れた症状であり、後にナリタブライアンが股関節炎を発症し早田牧場で休養していたときはおとなしく、様子を見るために訪れた大久保が「牧場ではこんなに穏やかで優しい目をしているのか」と言ったほどであった。", "qas": [ { "question": "ナリタブライアンが常にテンションが高く、レースが近づくと一層興奮する傾向があったのは、ある限定された場所においてのみそうでしたが、それはどこ?", "id": "tr-574-04-000", "answers": [ { "text": "栗東トレーニングセンター", "answer_start": 255, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナリタブライアンは、興奮しやすい気性を和らげる事を意図して、実際に3歳時ではデビューから何か月の間に7回もレースに出走したの?", "id": "tr-574-04-001", "answers": [ { "text": "4か月間", "answer_start": 169, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "2つ目の問題は生来臆病な性格であったために疾走中に自分の影を怖がり、レースにおいて走りに集中することができなかったことである。\n大久保はかつて父の大久保亀治が管理していたパッシングゴールが鼻にシャドーロールを装着してから成績が安定したことを思い出し、ナリタブライアンにもシャドーロールを装着させて下方の視界を遮ることによってこの問題は解決され、初めてシャドーロールが装着された京都3歳ステークス以降のレースでは競馬評論家の大川慶次郎が「精神力のサラブレッド」と評するほどの優れた集中力を発揮するようになった。\nもっともシャドーロール装着以前からナリタブライアンの関係者は同馬の素質を高く評価しており、大久保や南井は同馬が敗れたレースにおいてもその素質を賞賛するコメントを残した。", "qas": [ { "question": "ナリタブライアンがシャドーロールを装着する前に怖がっていたのものとは何?", "id": "tr-574-05-000", "answers": [ { "text": "自分の影", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナリタブライアンの臆病な性格を克服させるのに役立った馬具とは?", "id": "tr-574-05-001", "answers": [ { "text": "シャドーロール", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ナリタブライアンがシャドーロールを装着するようになったのは、成功例として何という馬が影響していますか?", "id": "tr-574-05-002", "answers": [ { "text": "パッシングゴール", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "シャドーロール装着後のナリタブライアンに対して、特に集中力の部分で高評価をした人物は誰?", "id": "tr-574-05-003", "answers": [ { "text": "大川慶次郎", "answer_start": 211, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "4歳となったナリタブライアンの緒戦には、東京優駿(日本ダービー)を見据え東京競馬場のコースを経験させておこうという大久保の意向により、1994年2月14日の共同通信杯4歳ステークスが選ばれた。\nレースでは馬群の中ほどに控え、最後の直線入り口で早くも先頭に並びかけるとそのまま抜け出して優勝した。\nなお前日には兄のビワハヤヒデが京都記念を優勝しており、兄弟による連日の重賞制覇となった(共同通信杯4歳ステークスは本来京都記念と同じ日に行われる予定であったが、積雪によって施行日が1日順延したため、兄弟による同日重賞制覇とはならなかった)。", "qas": [ { "question": "ナリタブライアンが4歳になって最初に出走したレースは何かな?", "id": "tr-574-06-000", "answers": [ { "text": "共同通信杯4歳ステークス", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1994年2月13日の京都記念で優勝したの競争馬の名は?", "id": "tr-574-06-001", "answers": [ { "text": "ビワハヤヒデ", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "共同通信杯4歳ステークスは何の理由で施行日が1日遅れてしまったの?", "id": "tr-574-06-002", "answers": [ { "text": "積雪", "answer_start": 228, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "兄弟による連日受賞制覇となった中で、初日に優勝したのは何という競走馬?", "id": "tr-574-06-003", "answers": [ { "text": "ナリタブライアン", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "共同通信杯の後、大久保はクラシック第一戦の皐月賞に向けスプリングステークスを経由して出走することを決定した。\nこの出走は前述のように気性面の問題に対処するためのものであった。\nレースでは第3コーナーで最後方からまくりをかけ優勝した。\nこの時点で中央競馬クラシック三冠の可能性が取りざたされるようになり、皐月賞では圧倒的な1番人気に支持された。\n同レースではゴール前200mの地点から抜け出すと、中山競馬場芝2000mのコースレコードを破る走破タイムで優勝し、5連勝を達成するとともにクラシック一冠を獲得した。", "qas": [ { "question": "ナリタブライアンが皐月賞の前に出走したレースは何かな?", "id": "tr-574-07-000", "answers": [ { "text": "スプリングステークス", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナリタブライアンが5連勝とクラシック一冠を獲得したレースは何なの?", "id": "tr-574-07-001", "answers": [ { "text": "皐月賞", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "続く東京優駿では皐月賞の内容がファンによって高く評価され、1番人気に支持された。\n同レースでは直線の長い東京競馬場でありながら、まくりをかけながらも出走馬の中で最も速い上がりを繰り出して優勝した。\nクラシック二冠を達成した。\nレース後、野平祐二はナリタブライアンを自身が管理したシンボリルドルフと比較し、「これからいろいろあるだろうが、現時点ではブライアンが上かな」と評した(ただし野平は股関節炎を発症した後のナリタブライアンのレースを見て、「ルドルフを超えたかな、と思った時もありました」「あらためて、シンボリルドルフという馬の真価が、わかるような気がします」と評価を改めている)。", "qas": [ { "question": "ナリタブライアンがクラシック二冠を達成したレースは何だった?", "id": "tr-574-08-000", "answers": [ { "text": "東京優駿", "answer_start": 2, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "東京優駿の結果を見て、野平祐二は何という競走馬と比較してナリタブライアンの評価を上げましたか?", "id": "tr-574-08-001", "answers": [ { "text": "シンボリルドルフ", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "東京優駿が行われた競馬場はどこ?", "id": "tr-574-08-002", "answers": [ { "text": "東京競馬場", "answer_start": 52, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナリタブライアンが股関節炎を発症した後に、再びシンボリルドルフと比較してナリタブライアンの評価を下げた人物は誰?", "id": "tr-574-08-003", "answers": [ { "text": "野平祐二", "answer_start": 118, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ナリタブライアンの秋緒戦には菊花賞トライアル競走の京都新聞杯が選択された。\nナリタブライアンは単勝支持率77.8%、単勝オッズ1.0倍の圧倒的1番人気に支持されたが、北海道から栗東トレーニングセンターへ戻った後、それほど強い調教が課されていなかったことから体調面を懸念する声もあり、「ナリタブライアンが負けるとすればこのレース」とも言われた。\nレースでは最後の直線で一時先頭に立つも内から伸びてきたスターマンに競り負けて2着に敗れ、懸念が的中する形となった。\nそして迎えた菊花賞では、京都新聞杯出走後ナリタブライアンの体調は上向いたと判断され、クラシック三冠達成への期待も相まって単勝オッズ1.7倍の1番人気に支持された。\nレースでは、早めに抜け出すと後続を突き放し、芝状態は稍重だったにも関わらず兄ビワハヤヒデが前年にマークしたレースレコードを更新する走破タイムで優勝し、日本競馬史上5頭目となるクラシック三冠を達成した。\n菊花賞でのナリタブライアンのレースぶりについて武豊は、「まず2000メートルの競馬を走って勝って、そのまま別のメンバーと1000メートルの競馬をやってブッちぎったようなもの」と評している。", "qas": [ { "question": "京都新聞杯で優勝した競走馬は?", "id": "tr-574-09-000", "answers": [ { "text": "スターマン", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナリタブライアンが菊花賞の前に出走したレースは何でしょう?", "id": "tr-574-09-001", "answers": [ { "text": "京都新聞杯", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナリタブライアンがクラシック三冠を達成したレースは何だったの?", "id": "tr-574-09-002", "answers": [ { "text": "菊花賞", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "菊花賞で、ナリタブライアンは1年前の何という競走馬のレースレコードを打ち破って優勝した?", "id": "tr-574-09-003", "answers": [ { "text": "ビワハヤヒデ", "answer_start": 350, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "古馬との初対戦となった有馬記念では単勝オッズ1.2倍(2番人気のネーハイシーザーは12.3倍)の圧倒的な1番人気に支持された。\nレースでは4コーナーで早くも先頭に立つと、そのまま突き抜けて優勝。\n1994年の通算成績を7戦6勝・GI4勝とし、同年のJRA賞年度代表馬及び最優秀4歳牡馬に選ばれた。\n年度代表馬選考において、投票総数172票のうち171票を獲得して選出されたが、1票のみノースフライトに投票されたため満票は逃した。\n最優秀4歳牡馬については、満票で選出された。\n年間総収得賞金は、史上最高額となる7億1280万2000円であった。", "qas": [ { "question": "ナリタブライアンが1994年において7戦目を出走したレースは何?", "id": "tr-574-10-000", "answers": [ { "text": "有馬記念", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "年度代表馬選考において、ナリタブライアンの他に1票だけ投票された競走馬は何?", "id": "tr-574-10-001", "answers": [ { "text": "ノースフライト", "answer_start": 192, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "野平祐二が第54回皐月賞を「大人と子供の戦い」、東京優駿を「1頭だけ別次元」と評したように、ナリタブライアンはクラシック3冠の序盤において既に同世代の競走馬を能力的に大きく凌ぐ存在として認識された。\nそのため1994年上半期の古馬中長距離路線において3戦3勝、GI2勝の成績を収めた兄ビワハヤヒデを最大のライバルとみなし、兄弟対決に期待するムードが高まった。\nビワハヤヒデの管理調教師であった浜田光正は、ナリタブライアンが皐月賞、ビワハヤヒデが天皇賞(春)を優勝した時点で「弟があんな強い勝ち方をするんだから兄の面目にかけても負けられない。年度代表馬の座を賭けることになるだろう」というコメントを出している。\n一方、2頭の生産者である早田光一郎は、ナリタブライアンが皐月賞を勝った時点で「ビワハヤヒデよりも上」と評価していた。\nまた武豊はビワハヤヒデが宝塚記念で圧勝した直後に「ナリタブライアンなら、もっとすごい勝ち方をしていたはず。現時点でもナリタブライアンの方が上。あの馬の強さはケタ違い」と語っている。", "qas": [ { "question": "ナリタブライアンとビワハヤヒデの生産者である早田光一郎が、高い評価をつけていたのはどちらの競走馬ですか?", "id": "tr-574-11-000", "answers": [ { "text": "ナリタブライアン", "answer_start": 324, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビワハヤヒデが宝塚記念で圧勝しても、ナリタブライアンの方がもっと凄いはずだと評価した人物は誰?", "id": "tr-574-11-001", "answers": [ { "text": "武豊", "answer_start": 366, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ビワハヤヒデ陣営は後半シーズン開始前にジャパンカップ不出走を表明したため、有馬記念における兄弟対決実現に期待が集まったが、ビワハヤヒデは天皇賞(秋)において発症した故障により引退を余儀なくされ、対決は実現しなかった。\n兄弟の比較について、野平祐二は「中距離では互角、長距離では心身両面の柔軟性に優れるナリタブライアンにやや分がある」と述べている。\n血統評論家の久米裕は2頭について「血統構成上は甲乙つけがたい」とした上で、1600m-2000mではビワハヤヒデが有利、2400mでは互角、3000-3200mではナリタブライアンが有利と述べている。\n競馬評論家の大川慶次郎は有馬記念における対決が実現していた場合の結果について、「ビワハヤヒデが有馬記念に出ていたら勝っていたんじゃないか」と予想している。", "qas": [ { "question": "ビワハヤヒデが引退の原因となる身体の故障が発症したレースは?", "id": "tr-574-12-000", "answers": [ { "text": "天皇賞(秋)", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ナリタブライアンとビワハヤヒデを比較すると、ビワハヤヒデが不利だと考えられるのは何mから何mの距離か?", "id": "tr-574-12-001", "answers": [ { "text": "3000-3200m", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナリタブライアンとビワハヤヒデを比較すると、ナリタブライアンが不利だと考えられるのは何mから何mの距離か?", "id": "tr-574-12-002", "answers": [ { "text": "1600m-2000m", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "有馬記念後は放牧に出さず栗東トレーニングセンター内の厩舎で調整を行い、天皇賞(春)優勝を目指した。\n緒戦の候補には阪神大賞典および大阪杯が挙がったが、「休み明けはゆったりしたペースの中で走らせたい」という大久保の意向により、長距離戦である阪神大賞典(3月12日施行)が選ばれた。\n1月に発生した兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)に伴う影響で京都で行われた同レースにおいてナリタブライアンは生涯最速の上がり(3ハロン33.9秒)を繰り出し、直線で抜け出すと独走で優勝した。\nしかしレースから11日後の3月23日、腰に疲労が蓄積しているとの診断を受けた。\n厩舎スタッフは軽めの運動をさせつつ天皇賞(春)出走を目指したが、4月7日に右股関節炎(全治2か月)を発症していることが判明した。\n天皇賞(春)への出走は断念された。", "qas": [ { "question": "阪神大賞典が京都で行われた原因は、その年に何が発生したから?", "id": "tr-574-13-000", "answers": [ { "text": "兵庫県南部地震", "answer_start": 147, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ナリタブライアンが生涯最速の上がりで優勝したレースは何?", "id": "tr-574-13-001", "answers": [ { "text": "阪神大賞典", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナリタブライアンの身体の故障故に出走が断念されたレースは何ですか?", "id": "tr-574-13-002", "answers": [ { "text": "天皇賞(春)", "answer_start": 293, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ナリタブライアンは約1か月間厩舎で静養したのち早田牧場新冠支場で療養生活を送り、7月上旬から2か月にわたって函館競馬場内において調整が行われた。\nこの時軽い運動しか行われなかったため、マスコミによって体調不安が指摘された。\nこの時期に函館競馬場でナリタブライアンを見た岡部幸雄は、「もうカムバックは難しいだろうなぁと思った」と述べている。\n9月に栗東トレーニングセンターに戻った後も約1か月間は負荷の強い調教が積極的に課されることはなく、体調不安や調教不足を指摘する声は根強かったが大久保は天皇賞(秋)への出走を決定した。\n1番人気に支持されたがレース終盤に失速し12着に敗れた。\nその後ジャパンカップ・有馬記念に出走したがそれぞれ6、4着に敗れた。", "qas": [ { "question": "ナリタブライアンのケガが回復した後、最初に出走したレースは何?", "id": "tr-574-14-000", "answers": [ { "text": "天皇賞(秋)", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ケガの回復後に出走したレースである天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念の中で、最も順位が良かったのはどのレースですか?", "id": "tr-574-14-001", "answers": [ { "text": "有馬記念", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "前述のように阪神大賞典出走後の4月7日、ナリタブライアンは右股関節炎を発症していることが判明した。\n故障を発症する2か月前の1995年2月、関西テレビ・フジテレビ系列で放送されていた視聴者参加型オークション番組『とんねるずのハンマープライス』に、関係者から提供されたナリタブライアンのたてがみ数十本が出品され、44万円で落札された。\n競馬社会では現役競走馬の馬のたてがみを切ることは縁起が悪いというジンクスが存在するが、実際に出品から2ヵ月後の同年4月にナリタブライアンは故障を発症した。\n大久保は後にそのジンクスを念頭において、「ナリタブライアンが走らなくなったのはたてがみをとられてからだ」とコメントした。", "qas": [ { "question": "現役競走馬の馬のたてがみを切ることは縁起が悪いというジンクスを実証したナリタブライアンだが、実際けがをするどれくらい前にたてがみを切られていた?", "id": "tr-574-15-000", "answers": [ { "text": "2か月前", "answer_start": 57, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1996年の緒戦には前年と同じく阪神大賞典が選択された。\nレースでは前年の年度代表馬マヤノトップガンをマッチレースの末に下し、同レース連覇を果たすとともに1年ぶりの勝利を挙げた。\nなお、この第44回阪神大賞典はしばしば日本競馬史上の名勝負のひとつに挙げられる一方、そのことを真っ向から否定する意見もある。\n阪神大賞典を勝利したことによってナリタブライアンの復活が印象づけられ、復帰した南井が騎乗した天皇賞(春)では1番人気に支持されたが、レースではサクラローレルに差されて2着に敗れた。\n大久保はこのレースにおける南井の騎乗法(折り合いを欠いたナリタブライアンを第3コーナーでスパートさせた)を「武豊が乗ったらあんなふうに掛かっただろうか」と非難した。", "qas": [ { "question": "1995年の年度代表馬となった競走馬は何?", "id": "tr-574-16-000", "answers": [ { "text": "マヤノトップガン", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1996年の天皇賞(春)で優勝した競走馬は何ですか?", "id": "tr-574-16-001", "answers": [ { "text": "サクラローレル", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1996年、ナリタブライアンが1年ぶりに優勝したレースは何?", "id": "tr-574-16-002", "answers": [ { "text": "阪神大賞典", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "天皇賞(春)の後、陣営は宝塚記念優勝を目標に据えた。\nここで大久保は宝塚記念の前に一度レースに出走させる方針を立て、芝スプリント戦のGI・高松宮杯に出走させることを決定した。\n中長距離の実績馬がスプリント戦に出走するのは極めて異例のことであったためこの出走は話題を呼んだ。\nまた、騎手は南井から武豊に変更された。\nレースでは終盤に追い上げるも4着に敗れた。\nこのレースで賞金を加算したことでナリタブライアンの通算獲得賞金は10億2691万6000円となり、史上初めてドル換算で1000万ドル($10million)以上の賞金を獲得し、メジロマックイーンを抜いて歴代1位(当時)となった。", "qas": [ { "question": "ナリタブライアンの宝塚記念優勝を目標に据えて出走したレースは何でしたか?", "id": "tr-574-17-000", "answers": [ { "text": "高松宮杯", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "高松宮杯でのナリタブライアンの騎手を務めたのは誰ですか?", "id": "tr-574-17-001", "answers": [ { "text": "武豊", "answer_start": 147, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナリタブライアンの通算獲得賞金が歴代1位になる以前に、1位の座を保っていたのは何という競走馬ですか?", "id": "tr-574-17-002", "answers": [ { "text": "メジロマックイーン", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "カミーユ・ピサロ", "paragraphs": [ { "context": "カミーユ・ピサロはカリブ海の当時デンマーク領だったセント・トーマス島の生まれだ。家業の金物屋を手伝っていたが、画家フリッツ・メルビューの誘いで1852年から1854年まで、島を出てベネズエラに旅行に出た。1855年、画家を志してパリに出て、画塾でモネ、セザンヌといった画家と知り合った。1859年にサロン・ド・パリに初入選するが、1860年代はサロンへの入選と落選を繰り返し、生活は苦しかった。当時はコローにならった画風であった。マネを中心に若手画家たちがバティニョール地区のカフェ・ゲルボワに集まり、バティニョール派と呼ばれたが、年長のピサロもこれに加わるようになった。1869年からパリ郊外のルーヴシエンヌに住み、モネ、シスレー、ルノワールと一緒に戸外制作を行ううちに、明るい色調の絵画を描くようになった。1870年の普仏戦争を避けてロンドンにわたり、画商デュラン=リュエルと知り合った。1872年からはポントワーズに住み、田園風景を描いた。サロンへの応募はせず、デュラン=リュエルの支援を受けて制作していたが、モネらとともに独自のグループ展を計画し1874年、第1回印象派展を開催した。", "qas": [ { "question": "カミーユ・ピサロが生まれた頃はセント・トーマス島はどこの領ですか。", "id": "tr-575-00-000", "answers": [ { "text": "デンマーク領", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カミーユ・ピサロはモネ、セザンヌと何年に知り合った。", "id": "tr-575-00-001", "answers": [ { "text": "1855年", "answer_start": 102, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カミーユ・ピサロがロンドンに行ったのは何を避けるためですたか。", "id": "tr-575-00-002", "answers": [ { "text": "普仏戦争", "answer_start": 361, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第1回印象派展は何年に開催されたか。", "id": "tr-575-00-003", "answers": [ { "text": "1874年", "answer_start": 477, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし当時主流だったアカデミズム絵画の立場からは受け入れられず、新聞からは酷評された。その後も、印象派展は全8回開かれたが、全てに参加したのはピサロだけである。第4回印象派展の頃から、主に風景画を描くモネ、ルノワールらの仲間と、風俗画を描くドガとの間でサロンへの立場など様々な問題について意見の対立が顕在化し、ピサロもその調停を試みたがグループの分裂を防ぐことはできなかった。第7回印象派展の開かれた1882年頃には、人物画を中心に描くようになった。1884年からは、エラニーに住んだ。1885年、若手のジョルジュ・スーラと知り合うと、その点描の技法に感化され、1880年代後半は、周囲の不評にもかかわらず、新印象主義を追求した。最後となる第8回印象派展にスーラの『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を出品させたのもピサロであるが、この展覧会は、印象派の終焉を象徴するものとなった。1890年代初めには、点描の限界を感じて新印象派を放棄した。晩年は眼の病気が悪化したこともあり、パリ、ルーアン、ル・アーヴル、ディエップという4都市で、ホテルの部屋などから都市の情景を描く「都市シリーズ」を多く制作している。\n\nピサロが生涯残した油彩画作品は1316点、版画は200点余りに上る。", "qas": [ { "question": "全8回の印象派展に全て参加した唯一の人は誰?", "id": "tr-575-01-000", "answers": [ { "text": "ピサロ", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ピサロが生涯残した作品は油彩画が多い、版画が多い?", "id": "tr-575-01-001", "answers": [ { "text": "油彩画", "answer_start": 515, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "カミーユ・ピサロは1830年、カリブ海の、当時デンマーク領だったセント・トーマス島で生まれた。父フレデリック・アブラハム・ピサロは、ボルドー出身のユダヤ教徒で、金物屋を営んでいた。母ラシェル・マンザーナ=ポミエは、セント・トーマス島生まれのフランス系ユダヤ人であった。カミーユ・ピサロは、4人兄弟の三男である。セント・トーマス島の首都シャーロット・アマリーのシナゴーグにカミーユ・ピサロの出生登録簿があり、そこには「ジャコブ・ピサロ」という名前で記録されている。\n\n1842年、ピサロが12歳の時、パリに渡り寄宿学校に入った。1847年、シャーロット・アマリーに戻り家業の手伝いを始めた。1850年、港でデンマークの画家フリッツ・メルビューと知り合い、ベネズエラ行きを誘われた。そして、1852年から1854年までメルビューとともにベネズエラを旅した。この時のことを、ピサロは後に次のように回想している。", "qas": [ { "question": "カミーユ・ピサロが生まれた頃はセント・トーマス島はどこの領ですか。", "id": "tr-575-02-000", "answers": [ { "text": "デンマーク領", "answer_start": 23, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カミーユ・ピサロは何年生まれですか。", "id": "tr-575-02-001", "answers": [ { "text": "1830年", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フレデリック・アブラハム・ピサロの妻は誰?", "id": "tr-575-02-002", "answers": [ { "text": "ラシェル・マンザーナ=ポミエ", "answer_start": 91, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1842年、ピサロはどこにある寄宿学校に入ったの?", "id": "tr-575-02-003", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 249, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1869年春から1872年まで、ピサロはパリ郊外のルーヴシエンヌに住んだ。当時、ルーヴシエンヌは落ち着いた保養地であり、文学者や画家、中産階級が散策したり、別荘を持ったりする土地であった。同じ頃、モネ、シスレー、ルノワールもルーヴシエンヌや近くのブージヴァルに住んでおり、ピサロは彼らと一緒に戸外で制作した。この頃からコロー風の画風から変化し、色調が明るくなり、絵具の塗り方は薄くなった。\n\n1869年のサロンでは、『エルミタージュ』が入選したが壁の高いところに展示され注目はされなかった。1870年のサロンでは、『秋』と『風景』の2点が入選した。これがピサロにとって最後のサロンとなった。", "qas": [ { "question": "1869年春から1872年まで、ピサロはどこに住んでいたの?", "id": "tr-575-03-000", "answers": [ { "text": "ルーヴシエンヌ", "answer_start": 25, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピサロにとって最後のサロンは何年のサロンなの?", "id": "tr-575-03-001", "answers": [ { "text": "1870年", "answer_start": 245, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1870年、普仏戦争が始まり、ピサロ一家は12月ロンドンに逃れた。モネも同じくロンドンに避難していた。ロンドンでは、ドービニーから画商ポール・デュラン=リュエルを紹介され、以後、デュラン=リュエルはピサロやモネ、その他の印象派の画家たちにとって重要な取引相手となる。ピサロは、モネとともにイギリスの風景画家ターナーやコンスタブルの絵を研究した。1871年6月14日、ピサロはジュリーと正式に結婚した。同月末、一家はルーヴシエンヌに戻ったが、自宅はプロイセン軍に荒らされており自宅に残していた作品も破壊されていた。11月22日、第4子ジョルジュ=アンリが生まれた。", "qas": [ { "question": "普仏戦争は何年に始まったか。", "id": "tr-575-04-000", "answers": [ { "text": "1870年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピサロとジュリーが正式に結婚したのはいつ?", "id": "tr-575-04-001", "answers": [ { "text": "1871年6月14日", "answer_start": 172, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジョルジュ=アンリの誕生日はいつなの?", "id": "tr-575-04-002", "answers": [ { "text": "11月22日", "answer_start": 256, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1873年4月頃から、モネとピサロを中心にグループ展の構想が具体化し始め、ピサロはエドゥアール・ベリアールなど仲間の画家たちを勧誘していった。ピサロは夏から秋にかけて、ポントワーズのパン屋の組合の条項を基に組織の規約を起草した。ピサロの草案は、民主的なものであり、組織は参加者の入会金で運営され、参加者は平等の権利を有することとされた。禁止条項や罰則も提案したようである。ただ、いくつかの点でモネやルノワールの反対を受け、長期間にわたり議論を続けている。1874年1月17日、「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社」の規約が発表された。審査も報奨もない自由な展覧会を組織することなどを目標として掲げ、その設立日は1873年12月27日とされている。参加者は、絵の売却収入の10分の1を基金に入れること、展示場所は1作品ごとにくじで決めることが合意された。ピサロは、モネとともに、運営委員の1人に指名されている。エドガー・ドガは、ピサロやモネと芸術的傾向がかなり異なっていたが、守旧的なサロンから独立した展覧会を開くという構想に共鳴し、参加した。ピサロはポントワーズの画家仲間に参加を勧め、特に、セザンヌの参加を強く主張した。他方、バティニョール派の中心人物マネは、セザンヌと関わりたくないことを口実に、参加しなかった。", "qas": [ { "question": "「画家、彫刻家、版画家等の芸術家の共同出資会社」の規約が発表されたのはいつ?", "id": "tr-575-05-000", "answers": [ { "text": "1874年1月17日", "answer_start": 227, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1877年、第3回印象派展が開かれた。カイユボットが中心となって推進し、ドガ、モネ、ピサロ、ルノワール、シスレー、モリゾ、セザンヌが賛同した。もっとも、ピサロ、セザンヌ、ギヨマンは、当初「連合」という反ブルジョア色の強い組織の展覧会に参加しようとしていたが、これを取りやめて、印象派展に参加したようである。都市風俗画を重視するドガは、「印象派」という名称を使うことに強く反対したが、ピサロを含む画家たちの主張により、初めて「印象派画家たちの展覧会」と名乗ることになり、路線の対立が顕在化した。ピサロは、支援者ピエットを印象派展に招待した。ピサロ自身は、ポントワーズとモンフーコーの風景画22点を出品した。医師ジョルジュ・ド・ベリオが、ピサロの主要作品『マチュランの庭、ポントワーズ』を購入した。批評家ジョルジュ・リヴィエールは、美術雑誌「印象派の画家」の4月14日号で、ピサロを高く評価する論評を発表した。\n\nピサロは同年5月28日、ルノワール、シスレー、カイユボットとともに競売場オテル・ドゥルオで、14点を競売に出したが、落札額は50から260フランにとどまり、失敗に終わった。ミュレはピサロを助けようと肖像画を注文し、自分の営む菓子店で福引の1等の景品にしたが、1等を引いた女中は、絵をケーキと交換してほしいと言ったという。この年には、再びセザンヌとキャンバスを並べて制作している。\n\nテオドール・デュレは1878年5月、『印象派の画家たち』と題する小冊子を出版し、モネ、シスレー、ピサロ、ルノワール、ベルト・モリゾの5人を印象派グループの先導者として選び出し、解説を書いた。", "qas": [ { "question": "第3回印象派展が開かれたのはいつ?", "id": "tr-575-06-000", "answers": [ { "text": "1877年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『印象派の画家たち』を出版した人は誰?", "id": "tr-575-06-001", "answers": [ { "text": "テオドール・デュレ", "answer_start": 596, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1879年、第4回印象派展が開かれた。この時は、ドガの主張によりサロンに応募する者は参加させないこととされ、展覧会の名称も「独立派展」とされた。ルノワール、シスレー、ベルト・モリゾ、セザンヌは、印象派展への参加を見送ったが、モリゾ以外の3人の不参加の理由は、サロンへの応募だった。他方、ドガとピサロは、ポール・ゴーギャンを誘った。ピサロ自身は、38点を出品した。日本美術に傾倒していたドガは、参加者に扇面図を描くよう求め、ピサロとジャン=ルイ・フォランだけは扇面図の出品に応じた。\n\nこの年の夏、ゴーギャンがポントワーズのピサロのところを訪ねた。ピサロはゴーギャンの才能を認め、ゴーギャンに助言と励ましを与えた。\n\n1880年、第5回印象派展が開かれた。この時もドガが中心となって開催され、前回離脱したルノワール、シスレー、セザンヌに加え、新たにサロンに応募したモネも、グループ展から離脱した[82]。ピサロは9点のエッチングを出品した。当時、ドガが版画だけで構成された雑誌『昼と夜』を計画し、ピサロもこれに賛同し版画の新しい技法を試みたが、雑誌の計画は資金不足で頓挫した。\n\nこの年、銀行から融資を受けることができたデュラン=リュエルが、再びピサロの作品を購入するようになった。\n\n1881年、第6回印象派展が開かれた。この時、カイユボットとドガの対立が激しくなり、カイユボットはピサロへの手紙でモネ、ルノワール、シスレー、セザンヌらを呼び戻すとともに、ドガが連れてくる仲間を外すべきだと主張した。しかし、ピサロはドガを擁護した。結局、カイユボット自身がグループ展から外れ、ピサロ陣営6人とドガ陣営8人の13人で開催されることになった。ピサロは28点を出品した。『3月のシューの小道』は評価が高かったが、『ロシュシュアール大通り』のパステル画は評判が悪かった。この年8月27日、ポントワーズで、第7子ジャンヌ=マルグリットが生まれた。セザンヌやゴーギャンは再びピサロのところで制作しており、ゴーギャンは、ピサロやセザンヌから影響を受けた。", "qas": [ { "question": "第4回印象派展はいつ開かれたの?", "id": "tr-575-07-000", "answers": [ { "text": "1879年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第5回印象派展はいつ開かれたの?", "id": "tr-575-07-001", "answers": [ { "text": "1880年", "answer_start": 308, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第6回印象派展はいつ開かれたの?", "id": "tr-575-07-002", "answers": [ { "text": "1881年", "answer_start": 542, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジャンヌ=マルグリットの誕生日はいつなの?", "id": "tr-575-07-003", "answers": [ { "text": "8月27日", "answer_start": 784, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1882年、第7回印象派展が開かれた。グループ内では、ドガとその仲間、特にジャン=フランソワ・ラファエリを参加させるかが大きな争いとなった。ピサロもカイユボット、ベルト・モリゾ、モネ、デュラン=リュエルなどと連絡をとりながら、ドガとの争いを調停しようと努力した。結局、デュラン=リュエルの周旋により、モネ、ルノワールらが復帰する一方で、ドガは不参加となった。モネ、ルノワール、シスレーの出品作の多くはデュラン=リュエルの所有であり、ピサロは「デュラン=リュエルの要員」による展覧会のようだと苦言を呈した。1880年代初頭から、ピサロは従来の風景画家から、人物画家へと移行しており、第7回展には、戸外の人物画を中心とする36点を出品した。しかし、こうした人物画は批評家からジャン=フランソワ・ミレーの模倣だと批判された。\n\n1882年末、ポントワーズの家の家賃が上がったことから、ピサロ一家はその北西にあるオニーに移った。1883年5月、デュラン=リュエルがマドレーヌ大通りに新しく開いた画廊で、ピサロの初の個展が開かれ、作品70点が展示された。個展は成功したが、ピサロは印象派の画風に飽き足らないものを感じていた。\n\n1883年10月から11月にかけて、ミュレがホテルを開業したルーアンを訪れ、港の風景を描いた。戸外制作のため、天気が変わると状況が一変してしまい、続きを描くことができなくなるという困難に直面しながらも17枚の絵画を仕上げ、うち7枚をデュラン=リュエルが購入した。これがピサロの都市シリーズの端緒となった。", "qas": [ { "question": "第7回印象派展はいつ開かれた?", "id": "tr-575-08-000", "answers": [ { "text": "1882年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "アンネ・フランク", "paragraphs": [ { "context": "アンネ・フランク(アンネリース・マリー・フランク、ドイツ語:AnneliesMarieFrank発音、1929年6月12日-1945年3月上旬)は、『アンネの日記』の著者として知られるユダヤ系ドイツ人の少女である。", "qas": [ { "question": "『アンネの日記』のアンネとは誰のことを指しますか?", "id": "tr-576-00-000", "answers": [ { "text": "アンネ・フランク", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アンネ・フランクの生まれた年はいつですか?", "id": "tr-576-00-001", "answers": [ { "text": "1929年", "answer_start": 51, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ドイツ国のフランクフルト・アム・マインに生まれたが、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)の政権掌握後、迫害から逃れるため、一家で故国ドイツを離れてオランダのアムステルダムへ亡命した。\nしかし第二次世界大戦中、オランダがドイツ軍に占領されると、オランダでもユダヤ人狩りが行われ、1942年7月6日に一家は、父オットー・フランクの職場があったアムステルダムのプリンセンフラハト通り263番地の隠れ家で潜行生活に入ることを余儀なくされた(フランク一家の他にヘルマン・ファン・ペルス一家やフリッツ・プフェファーもこの隠れ家に入り、計8人のユダヤ人が隠れ家で暮らした)。\nここでの生活は2年間に及び、その間、アンネは隠れ家でのことを日記に書き続けた。", "qas": [ { "question": "ナチスの正式名称は?", "id": "tr-576-01-000", "answers": [ { "text": "国家社会主義ドイツ労働者党", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アンネ家族が亡命国として選んだ国は?", "id": "tr-576-01-001", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 83, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "隠れ家で暮らした8人のうち、単身で同居した人は誰?", "id": "tr-576-01-002", "answers": [ { "text": "フリッツ・プフェファー", "answer_start": 250, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アンネの日記に書かれている期間はどれくらい?", "id": "tr-576-01-003", "answers": [ { "text": "2年間", "answer_start": 298, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1944年8月4日にナチス親衛隊(SS)に隠れ家を発見され、隠れ家住人は全員がナチス強制収容所へと移送された。\nアンネは姉のマルゴット・フランクとともにベルゲン・ベルゼン強制収容所へ移送された。\n同収容所の不衛生な環境に耐えぬくことはできず、チフスを罹患して15歳にしてその命を落とした。\n1945年3月上旬ごろのことと見られている。", "qas": [ { "question": "アンネは何の病気で亡くなりましたか?", "id": "tr-576-02-000", "answers": [ { "text": "チフス", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アンネが死没した施設は何ですか?", "id": "tr-576-02-001", "answers": [ { "text": "ベルゲン・ベルゼン強制収容所", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "隠れ家には、アンネがオランダ語でつけていた日記が残されていた。\nオットーの会社の社員で隠れ家住人の生活を支援していたミープ・ヒースがこれを発見し、戦後まで保存した。\n8人の隠れ家住人の中でただ一人戦後まで生き延びたオットー・フランクはミープからこの日記を手渡された。\nオットーは娘・アンネの戦争と差別のない世界になってほしいという思いを全世界に伝えるため、日記の出版を決意した。\nこの日記は60以上の言語に翻訳され、2,500万部を超える世界的ベストセラーになった。", "qas": [ { "question": "アンネの日記の発見者であり、戦後まで日記を保存した人は誰でしょう?", "id": "tr-576-03-000", "answers": [ { "text": "ミープ・ヒース", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アンネの日記を出版したアンネの父の名は?", "id": "tr-576-03-001", "answers": [ { "text": "オットー・フランク", "answer_start": 107, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1933年1月30日、ナチ党党首アドルフ・ヒトラーがパウル・フォン・ヒンデンブルク大統領より首相に任命され、ドイツの政権を掌握した。\nこれに危機感を抱いたユダヤ系ドイツ人たちは次々とドイツ国外へ亡命していき、1933年だけで6万3,000人あまりのユダヤ系ドイツ人が国外へ亡命している。\n1933年3月のフランクフルト市議会選挙でもナチ党が圧勝した。\n市の中心部では勝ち誇ったナチ党員たちが大規模な反ユダヤ主義デモを行った。\nユダヤ人商店のボイコット運動も激化し、ユダヤ系企業は次々と潰された。\n1933年4月7日に制定された職業官吏再建法によって反ユダヤ主義に従わない教師は次々と停職・退職させられ、学校内でもユダヤ人の子供の隔離が進められるようになった。\nアンネもマルゴーもドイツでまともな教育を受けることは不可能であった。", "qas": [ { "question": "1933年にドイツの首相に任命された人物は?", "id": "tr-576-04-000", "answers": [ { "text": "アドルフ・ヒトラー", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アドルフ・ヒトラーが首相になった年にドイツ国外へ亡命したユダヤ系ドイツ人はどれくらいだった?", "id": "tr-576-04-001", "answers": [ { "text": "6万3,000人あまり", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "反ユダヤ主義に従わない教師の定職や退職、学校内でのユダヤ人の隔離が進められたのは何が制定されてからですか?", "id": "tr-576-04-002", "answers": [ { "text": "職業官吏再建法", "answer_start": 263, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1929年夏にスイスへ移住していたアンネの叔父、エーリヒ・エリーアスは、ジャム製造に使うペクチンをつくる会社「ポモジン工業」の子会社オペクタ商会スイス支社を経営していた。\nエリーアスは義兄にあたるオットー・フランクにオランダ・アムステルダムへ亡命してそこでオペクタ商会オランダ支社を経営しないかと勧めた。\nオットーはドイツに残ることの危険性、オランダに知り合いがいたこと、オランダが難民に比較的寛容であったことなどを考慮してこの申し出をありがたく受けることにした。\nまず仕事と住居を安定させるため、1933年6月にオットーが単身でアムステルダムへ移った。\nその間、アンネは姉・マルゴーや母・エーディトとともにアーヘンで暮らすエーディトの母、ローザ・ホーレンダーの家で暮らした。\nオットーはヴィクトール・クーフレルやミープ・ヒースなど信用のできる人物を雇い、何とか事業を軌道に乗せた。\nオットーはその間、一家の住居先も探した。\nエーディトもアーヘンとアムステルダムを行き来して夫の住居探しを手伝った。\nオットーたちはアムステルダム・ザウトの新開発地区に一家4人で暮らすのにちょうどいいアパートを見つけ、そこを購入した。\n1933年12月にまずエーディトとアンネの姉マルゴーが向かい、続いて1934年2月にはアンネもそこへ移住していった。", "qas": [ { "question": "オットー・フランクにオランダへ亡命することを勧めた人は、アンネにとって何にあたりますか?", "id": "tr-576-05-000", "answers": [ { "text": "叔父", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オットーがエリーアスから任された会社の名前は何ですか?", "id": "tr-576-05-001", "answers": [ { "text": "オペクタ商会オランダ支社", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オランダで、オットーはミープ・ヒースの他に信用出来る人物として誰を雇いましたか?", "id": "tr-576-05-002", "answers": [ { "text": "ヴィクトール・クーフレル", "answer_start": 344, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オットーが移住先のアパートを見つけたのはオランダのどこですか?", "id": "tr-576-05-003", "answers": [ { "text": "アムステルダム・ザウト", "answer_start": 457, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アムステルダム・ザウト地区は当時開発中で、ドイツからナチスの迫害をのがれて移住してきたユダヤ人が多く集まってきていた。\nフランク一家もそうした家の一つである。\nフランク一家はアムステルダム・ザウト地区の一郭であるメルウェーデ広場37番地のアパートの三階で暮らしていた。\nメルウェーデ広場は二等辺三角形をした広場で、三角形の頂点には当時としては珍しい12階建てのビルがそびえ立っている。", "qas": [ { "question": "フランク一家が移り住んだアパートはアムステルダム・ザウト地区のどこに位置していた?", "id": "tr-576-06-000", "answers": [ { "text": "メルウェーデ広場37番地", "answer_start": 106, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "メルウェーデ広場はどういった形をしていますか?", "id": "tr-576-06-001", "answers": [ { "text": "二等辺三角形", "answer_start": 144, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "姉のマルゴーは普通の小学校に入学したが、アンネは、1934年に自宅の近くのニールス通りにあるモンテッソーリ・スクールの付属幼稚園に入学した。\nさらに1935年9月には幼稚園と同じ建物の中にあるモンテッソーリ・スクールに入学する。\nモンテッソーリ・スクールは自由な教育を特徴とし、時間割が存在せず、教室での行動を生徒の自主性に任せ、授業中の生徒のおしゃべりさえも推奨していた。\nアンネにモンテッソーリ・スクールを選んだのは、アンネがおしゃべりで長い間じっと座っていることができない性分であったためという。", "qas": [ { "question": "アンネが通った小学校は何といいますか?", "id": "tr-576-07-000", "answers": [ { "text": "モンテッソーリ・スクール", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "当時モンテッソーリ・スクールは革新的な学校と目されており、そのためユダヤ人の入学者が多かった。\nアンネのクラスも半分がユダヤ人であり、そのほとんどがアンネと同じドイツ系であった。\nアンネはモンテッソーリ学校で、同じくドイツから亡命してきたユダヤ人一家の子供ハンネリ・ホースラル(オランダ語愛称リース)やズザンネ・レーデルマン(愛称サンネ)と親しく遊んでいた。\nいつも仲良しの3人少女は「アンネ、ハンネ、サンネの3人組」などと呼ばれていた。\n特にハンネのホースラル家とアンネのフランク家は家族ぐるみの親しい付き合いをしていた。", "qas": [ { "question": "モンテッソーリ・スクールは革新的な学校とされていたために、何人の入学者が多かったですか?", "id": "tr-576-08-000", "answers": [ { "text": "ユダヤ人", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1938年10月にオットー・フランクはアムステルダムにもう一つの会社「ペクタコン商会」を設立した。\nソーセージの製造のための香辛料を扱う会社であった。\nヨハンネス・クレイマンをオペクタ商会とペクタコン商会の監査役とし、同じくドイツから亡命してきたユダヤ人でソーセージのスパイス商人だったヘルマン・ファン・ペルスをペクタコン商会の相談役に迎えている。\nファン・ペルス一家は1937年6月にドイツを逃れてアムステルダムへ移住してきており、フランク家の近くで暮らしていた。\nファン・ペルス一家はフランク一家と家族ぐるみの付き合いをして、のちに隠れ家でフランク一家と同居することとなる。", "qas": [ { "question": "オットーが設立した2つ目の会社は何ですか?", "id": "tr-576-09-000", "answers": [ { "text": "「ペクタコン商会」", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ヘルマン・ファン・ペルスはどこの国から亡命してきたでしょうか?", "id": "tr-576-09-001", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 112, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オットーがペクタコン商会の相談役にヘルマン・ファン・ペルスを迎えたのは、ペクタコン商会が香辛料を扱う会社で、ファン・ペルスの職業が元々何だったからですか?", "id": "tr-576-09-002", "answers": [ { "text": "ソーセージのスパイス商人", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1938年末には母・エーディトの実家であるドイツ・アーヘンのホーレンダー家が経営する「B・ホーレンダー商事会社」が「アーリア化(ドイツ政府の圧力の下にユダヤ系企業がドイツ系企業に捨て値で買い取られる)」を受け、ホーレンダー家が財産を失った。\nエーディトの兄・ユリウスは従兄弟のいるアメリカへ逃れたが、エーディトの母・ローザは当時72歳で海を渡っての長旅は不可能だった。\n結局ローザはユリウスに同行せず、1939年3月にアムステルダムのフランク家へ移ってきて、一家は5人暮らしになった。\nアンネはおばあちゃんっ子であり、よくローザに学校での話や友達とのことなどを話した。", "qas": [ { "question": "ドイツ政府のアーリア化の影響でアンネの母の実家が財産を失い、それに伴ってフランク家に新たに人が加わりました。何という名前の人物ですか?", "id": "tr-576-10-000", "answers": [ { "text": "ローザ", "answer_start": 158, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "母エーディトの実家が経営していた会社は何?", "id": "tr-576-10-001", "answers": [ { "text": "「B・ホーレンダー商事会社」", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦にオランダは中立を宣言していた。\nしかしヒトラーは「オランダはイギリス軍機がドイツ空爆のためにオランダ領空を通過していくことを黙認している。自分から中立の資格を放棄している」と主張し、1940年5月10日早朝にドイツ軍をオランダへ侵攻させた。\nこの日は金曜日で平日だったが、ドイツ軍侵攻を受けて聖霊降臨祭の休みが急遽繰り上げられ、学校は休みになり、アンネは自宅で待機した。\n一方、父・オットーは会社に出勤している。\nオットー以下オペクタ商会の社員たちは、暗澹たる空気の中でラジオ放送の混乱する情報を聞いていた。\n放送を聞くオットーの顔色は蒼白だったとミープ・ヒースは著書の中で回顧している。", "qas": [ { "question": "第二次世界大戦はドイツ軍のどこの侵攻から始まったか?", "id": "tr-576-11-000", "answers": [ { "text": "ポーランド", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1940年にヒトラーは中立を宣言していたどこの国を侵攻しましたか?", "id": "tr-576-11-001", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 63, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1940年5月10日は何曜日でしたか?", "id": "tr-576-11-002", "answers": [ { "text": "金曜日", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "5月13日にはウィルヘルミナ女王やディルク・ヤン・デ・ヘール首相以下政府閣僚がイギリスへ逃亡した。\nドイツ空軍によるロッテルダム空襲の後、5月14日夜7時、オランダ軍総司令官ヘンリー・ヴィンケルマン大将はドイツ軍に対して降伏することを発表した。\n5月15日正午にはオランダ政府はドイツ政府に対して正式に降伏文書に調印した。\n侵攻から1週間足らずでオランダ全土はドイツ軍占領地となった。", "qas": [ { "question": "ドイツのオランダ侵攻により、イギリスへ逃亡したオランダの女王は誰?", "id": "tr-576-12-000", "answers": [ { "text": "ウィルヘルミナ女王", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オランダが完全にドイツ軍の占領地となるまでには、侵攻からどれくらいの期間を有した?", "id": "tr-576-12-001", "answers": [ { "text": "1週間足らず", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オランダがドイツ軍に降伏する前にドイツ軍はオランダのどこを空襲した?", "id": "tr-576-12-002", "answers": [ { "text": "ロッテルダム", "answer_start": 58, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "占領直後のオランダはドイツ国防軍の軍政下に置かれていたが、1940年5月28日にヒトラーはオランダ駐在国家弁務官に親衛隊中将アルトゥール・ザイス=インクヴァルトを任じ、民政へ移行させた。\nザイス=インクヴァルトは占領当初「穏健」な態度をとり、オランダ社会に急激な変化をもたらさないよう気にかけた。\nオランダ政府閣僚はすでに国外逃亡していたが、事務次官以下官僚機構はそのままオランダに残っており、オランダの行政機能はこれまでとほとんど変わりなく稼働した。\nまたザイス=インクヴァルトは、反ユダヤ主義についても即時にオランダに持ち込むことはしなかった。\nそのため占領後もしばらくの間は、アンネの生活に大きな変化はなかった。\nハンネやサンネとも今まで通り遊んでいた。\nアンネはオランダ降伏には怒っていたが、このころにはまだ将来への強い不安までは感じてはいなかったという。", "qas": [ { "question": "占領直後のオランダ社会が急激に変化しないように配慮した人物は誰?", "id": "tr-576-13-000", "answers": [ { "text": "アルトゥール・ザイス=インクヴァルト", "answer_start": 62, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1940年5月28日にはベルギーがドイツに降伏、さらに6月22日にはフランスもドイツに降伏した。\nドイツの情勢が安定してきたことで、ザイス=インクヴァルトは徐々に「穏健」の仮面を脱ぎ捨ててユダヤ人迫害を開始するようになった。\nまず1940年7月にザイス・インクヴァルトより、オランダ国籍以外のユダヤ人は氏名と住所を登録せよとの命令が下った。\nさらに8月には「1933年1月1日以降にドイツからオランダへ移住したユダヤ人はその旨を登録せよ」との命令が出された。\nフランク一家はこれらの命令に従って登録を行っている。\n10月にはユダヤ人企業に登録が義務づけられた。\nオットーはこれに従ってオペクタ商会とペクタコン商会を登録する一方、「アーリア化」されることを防ぐためにヴィクトール・クーフレルとヤン・ヒース(ミープの愛人。2人は1941年7月に結婚)を仮の所有者とする偽装会社「ヒース商会」を設立した。", "qas": [ { "question": "1940年、ベルギーの次にドイツに降伏した国はどこ?", "id": "tr-576-14-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 34, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フランスがドイツに降伏する約1か月前に、ドイツに降伏した国はどこなの?", "id": "tr-576-14-001", "answers": [ { "text": "ベルギー", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベルギー、フランスがドイツに降伏した後にオランダでは何が開始されるようになったのか?", "id": "tr-576-14-002", "answers": [ { "text": "ユダヤ人迫害", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オットーは自分の会社を「アーリア化」されるのを防ぐために何という偽装会社を設立した?", "id": "tr-576-14-003", "answers": [ { "text": "「ヒース商会」", "answer_start": 386, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1941年1月9日以降には、オランダ映画館主同盟がユダヤ人の映画館入場を拒否したため、ユダヤ人は映画館に入れなくなった。\nアンネはハリウッドの有名なスターの写真を切り抜いては台紙に貼ってコレクションするような映画好きの女の子だったため、これは大事件だった。\n結局、フランク一家は自前で映写機、スクリーン、フィルムを用意して自宅で上映会を行うようになった。\n1941年5月末にユダヤ人は公園、競馬場、プール、公衆浴場、保養施設、ホテルなど公共施設への立ち入りを禁止された。\nアンネはプールに行けなくなったことを嘆き、「日焼けしようにも、あまり方法はありません。プールに入れないからです。残念ですけど、どうしようもありません」と1941年6月末にスイスにいる父方の祖母・アリーセに宛てた手紙で書いている。", "qas": [ { "question": "公共施設や娯楽施設の中で、最も早くユダヤ人の立ち入りを禁止した施設は何ですか?", "id": "tr-576-15-000", "answers": [ { "text": "映画館", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1942年6月12日の13回目のアンネの誕生日、オットーからのプレゼントでサイン帳を贈られた。\n表紙全体に赤と白のチェック模様が入っている女の子らしいサイン帳であった。\nアンネはこのサイン帳を日記帳として使用することにし、その日、最初の日記をつけている。\n後世に『アンネの日記』として世界的に知られることになる日記の執筆の始まりである。\nなおアンネは日記帳を「キティー」と名づけ、この「キティー」に手紙を書くという設定にしていた。\nなぜキティーだったかは諸説あってはっきりとしないが、当時オランダの女の子の間で人気があった少女小説の主人公の名前から取られたという説がもっとも有力である。\nあるいはアンネの友達の一人ケーテ・エヘイェディ(愛称キティー)から来ている可能性もある。", "qas": [ { "question": "『アンネの日記』の執筆開始はいつですか?", "id": "tr-576-16-000", "answers": [ { "text": "1942年6月12日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アンネが日記帳を「キティー」と名づけた諸説とされる友人の名前は何ですか?", "id": "tr-576-16-001", "answers": [ { "text": "ケーテ・エヘイェディ", "answer_start": 307, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アンネが13歳を迎える誕生日に誰からプレゼントをもらいましたか?", "id": "tr-576-16-002", "answers": [ { "text": "オットー", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1942年7月5日午後3時ごろ、マルゴーに対して7月6日にユダヤ人移民センターへの出頭を命じるナチス親衛隊(SS)からの召集命令通知がフランク家に届けられた。\nこれはマルゴーに限らずアムステルダムの15歳から16歳のユダヤ人数千人に一斉に出された召集命令であった。\n召集後はヴェステルボルク通過収容所を経てドイツ国内の強制労働収容所へ送られ、労働に従事させられることとなっていた。\n通知には持って行ける衣類とシーツ、食器類についてのリストまで付属していた。\nオットーの帰宅後、すぐにヘルマン・ファン・ペルスやヒース夫妻、クレイマンなどと連絡をとり、対策を話し合った。\n召集命令に応じるのは危険と判断したオットーたちは、すぐに潜伏生活を始めることとした。\nアンネとマルゴーも荷造りの準備を始めた。", "qas": [ { "question": "ナチス親衛隊(SS)からの召集命令通知はフランク家の誰を対象とするものですか?", "id": "tr-576-17-000", "answers": [ { "text": "マルゴー", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユダヤ人移民センターへの召集命令はアムステルダムに住む何歳から何歳のユダヤ人を対象としたものですか?", "id": "tr-576-17-001", "answers": [ { "text": "15歳から16歳", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "召集後、最初に連れていかれる場所はどことなっていたのですか?", "id": "tr-576-17-002", "answers": [ { "text": "ヴェステルボルク通過収容所", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "「後ろの家」の隠れ家の入口は正面の建物から3階に上がり、本棚の後ろに隠れた秘密の入口を通って入ることができた。\n秘密の入口を通るとすぐ右手に4階への階段があった。\n階段のすぐ横のドアはオットーとエーディトの部屋であった。\nその部屋とつながっている右側の細長い部屋がアンネとマルゴーの部屋だった(フリッツ・プフェファー合流後、プフェファーはアンネの部屋で暮らすことになり、マルゴーはオットーたちの部屋に移っている)。\nアンネたちの部屋と4階への階段の手前から洗面所に入ることができ、そこに洗面台と水道、そして水洗トイレがあった。\n4階に通じる階段を上ると大きな部屋があり、そこは隠れ家のリビングルーム、またファン・ペルス一家の部屋だった。\nまたその部屋に通じる部屋にファン・ペルス一家の長男ペーター・ファン・ペルスの部屋があり、この部屋から屋根裏部屋へ上がるはしご段があった。\n屋根裏部屋のつきあたりのアーチ形の窓からは西教会の時計塔が見え、別の窓からは中庭に立つマロニエの巨木を眺めることができた。\n隠れ家にはオットー・フランク一家(オットー、妻エーディト、長女マルゴー、次女アンネ)、1942年7月13日からヘルマン・ファン・ペルス一家(ヘルマン、妻アウグステ、長男ペーター)、1942年11月16日から歯科医のフリッツ・プフェファーも合流して合計8人が隠れ家で同居した。", "qas": [ { "question": "一番最後にアンネ達の隠れ家に合流したのは誰ですか?", "id": "tr-576-18-000", "answers": [ { "text": "フリッツ・プフェファー", "answer_start": 557, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オットー・フランク一家の他に隠れ家に住んだ家族連れは何一家ですか?", "id": "tr-576-18-001", "answers": [ { "text": "ヘルマン・ファン・ペルス一家", "answer_start": 505, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オットー・フランク一家の次に合流した家族の中で女性は誰?", "id": "tr-576-18-002", "answers": [ { "text": "アウグステ", "answer_start": 526, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "人に見つかってはならない隠れ家には厳しいルールがあった。\n昼間はできる限り静かに過ごすこと(事務所に人の出入りがあるため)、カーテンは閉めたままにすること、水を流す音が響かないようにすること、トイレの使用は早朝と事務所が閉まる夕方以降にすること、などである。\n食料の調達はミープ・ヒースで、店長がレジスタンス活動家であった食料店から購入していた。\n食料は屋根裏部屋に貯蔵された。\nしかし食料の確保はどんどん難しくなり、少なくなっていった。", "qas": [ { "question": "隠れ家生活では、誰から食料を調達していましたか?", "id": "tr-576-19-000", "answers": [ { "text": "ミープ・ヒース", "answer_start": 136, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1944年8月8日に隠れ家のユダヤ人8人はアムステルダム中央駅からオランダ北東のヴェステルボルク通過収容所へ移送された。\nオットー・フランクの回想によれば、この移送中にアンネは列車の窓から一度も離れず、外の光景を眺めていたという。\nアンネは都会っ子で田舎にはほとんど興味がなかったというが、この時には窓外の田園風景に釘付けだったという。\n1944年8月8日午後遅くにヴェステルボルク収容所に到着した。\nこのヴェステルボルクはユダヤ人をポーランドのアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ移送するまで一時的に拘留しておく通過収容所だった。\nドイツ人の収容所所長もいたが、日常業務はユダヤ人被収容者の中から出されたリーダーの自治によって行われていた。\nそのため強制収容所と比べると比較的自由に行動することが許されており、収容所内には学校や孤児院、医療施設、宗教施設、娯楽施設、スポーツ施設なども存在していた。", "qas": [ { "question": "隠れ家のユダヤ人8人がアムステルダムを離れたのは何年何月何日ですか?", "id": "tr-576-20-000", "answers": [ { "text": "1944年8月8日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "隠れ家のユダヤ人8人が連れていかれたヴェステルボルク通過収容所はどこに位置していますか?", "id": "tr-576-20-001", "answers": [ { "text": "オランダ北東", "answer_start": 33, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "箱根火山の形成史", "paragraphs": [ { "context": "箱根火山の形成史(はこねかざんのけいせいし)では、箱根火山の噴火活動史を中心とした箱根火山の成り立ちについて説明する。\nまた近年箱根火山の一部と考えられるようになった湯河原火山と真鶴半島、そして箱根火山のカルデラ湖である芦ノ湖の形成史についても併せて説明する。\n説明の中で、かつて地学の教科書等で取り上げられ、現在でも多くの研究者に引用されている久野久の箱根火山研究の概略を紹介し、久野の研究後、箱根火山の形成史がどのように修正されているのかについても触れていく。", "qas": [ { "question": "近年箱根火山の一部と考えられるようになった半島とはどこですか?", "id": "tr-577-00-000", "answers": [ { "text": "真鶴半島", "answer_start": 89, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "近年箱根火山の一部と考えられるようになった火山とはどこですか?", "id": "tr-577-00-001", "answers": [ { "text": "箱根火山", "answer_start": 64, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "箱根火山のカルデラ湖とはどこですか?", "id": "tr-577-00-002", "answers": [ { "text": "芦ノ湖", "answer_start": 110, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "箱根火山の研究は日本に近代的な科学が紹介された明治時代に始まった。\n研究開始当初から箱根火山はカルデラを持ち、またカルデラ内に中央火口丘があることについて着目され、外輪山の活動期と中央火口丘の活動期の二期に分けられると考えられたが、多くの研究者は複雑な構造をしている箱根火山の理解、特に頂上部分が比較的平坦である南東部の鷹巣山や屏風山、浅間山などについて、箱根火山の中でどのように位置づければ良いのか苦心した。", "qas": [ { "question": "箱根火山の研究が始まったのは何時代からですか?", "id": "tr-577-01-000", "answers": [ { "text": "明治時代", "answer_start": 23, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "そのような中、1930年代から1960年代にかけて行われた、久野久による研究が大きな成果を挙げた。\n久野は1923年の関東地震と1930年の北伊豆地震によって山崩れが多発した影響で、箱根に多くの地層の露頭が出来た時期、詳細な地質調査を行い、丹念な分析と考察を進めた結果、当時としては極めて優れた箱根火山の研究を発表し、その成果は広く受け入れられ、日本の火山学研究の模範とされた。", "qas": [ { "question": "発生したのが遅かったのは関東地震と北伊豆地震のどちらですか?", "id": "tr-577-02-000", "answers": [ { "text": "北伊豆地震", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "箱根火山の研究で大きな成果を挙げた人は誰?", "id": "tr-577-02-001", "answers": [ { "text": "久野久", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "久野によればまず、約50万年前から25万年前にかけて、現在の箱根火山の場所には単一の大きな、富士山のような形をした成層火山が出来たとした。\n久野の没後、1971年になされた推定では、単一の成層火山時代、箱根火山の標高は約2700メートルに達したと考えられた。\nまた成層火山の形成時、山体の北西部では側火山として金時山が、南東部では幕山の噴火活動が起こった。", "qas": [ { "question": "1971年の推定では、成層火山時代の箱根火山の標高は何メートルとされましたか?", "id": "tr-577-03-000", "answers": [ { "text": "約2700メートル", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "成層火山の形成時に何東部で噴火活動が起こった山とは何ですか?", "id": "tr-577-03-001", "answers": [ { "text": "幕山", "answer_start": 165, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "約25万年前から18万年前にかけて、マグマだまりに火山体上部が落ち込む大陥没を起こし、大きなカルデラが形成された。\nこの時に生まれたカルデラを古期カルデラと呼び、久野は当初、噴火活動以外の理由で大陥没が起こったと考えたが、やがて大規模な噴火があった事実が判明したため、大規模な噴火に伴ってカルデラが形成されたと自説を修正した。\nそして大規模なカルデラが出来た後、侵食によってカルデラは拡大して、現在の箱根外輪山が出来上がった。", "qas": [ { "question": "約25万年前から18万年前にかけて形成されたカルデラの名前は何?", "id": "tr-577-04-000", "answers": [ { "text": "古期カルデラ", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "カルデラの形成後、約13万年前から8万年前にかけて、再び噴火活動が活発化し、カルデラ内に流動性に富む溶岩が噴出して、傾斜が緩い南東部の鷹巣山や屏風山、浅間山などの楯状火山が出来た。\n約6.6万年前から4.5万年前にかけて、大噴火によって楯状火山の西半分が陥没して新期カルデラが誕生した。\n残された東側の楯状火山は新期外輪山となった。\n最後にカルデラ内部の噴火活動によって、神山などの小規模な成層火山と二子山などの溶岩円頂丘による中央火口丘が誕生して現在に至る。", "qas": [ { "question": "約6.6万年前から4.5万年前にかけて形成されたカルデラの名前は何?", "id": "tr-577-05-000", "answers": [ { "text": "新期カルデラ", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "新期外輪山となった山は何ですか?", "id": "tr-577-05-001", "answers": [ { "text": "楯状火山", "answer_start": 151, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カルデラについては、1960年代以降、箱根観光が盛んになるにつれて、箱根各地で行われるようになった温泉試掘ボーリングの試料が問題となった。\nボーリングの試料からは中央火口丘の噴出物の下の、かなり浅い場所で箱根火山が乗っかっている基盤岩が検出された。\n基盤岩がかなり浅い場所で検出されたということは、もし陥没が発生していたとしてもその深さはあまり深くなく、陥没の結果、大規模なカルデラが誕生したとの説とは矛盾する。\nそして成層火山の大陥没によってカルデラが形成された場合、当然あるべき外輪山を構成するものと同じ噴出物はほとんど見つからなかった。\nその他にも久野説の修正が必要な、新しい事実が判明していき、箱根火山の形成史は書き換えられることとなった。", "qas": [ { "question": "箱根観光が盛んになり始めたのは何年代でしたか?", "id": "tr-577-06-000", "answers": [ { "text": "1960年代以降", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "かつて箱根火山は、まず富士山のような形をした標高約2700mの、単一の大きな成層火山が出来て、それが大噴火によって陥没し、カルデラが出来たものと考えられていた。\nしかし最近の研究では、かつての箱根火山に単一の成層火山は存在せず、小ぶりの成層火山が複数存在したことが明らかになった。", "qas": [ { "question": "最近の研究では、箱根火山にはどういった火山が複数存在していたと明らかになったの?", "id": "tr-577-07-000", "answers": [ { "text": "小ぶりの成層火山", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "現在、箱根火山を形成する火山体の中で最も古いものは、約65万年前に噴出した箱根外輪山の南東方面に分布する天昭山溶岩と、箱根湯本近くの畑宿付近に分布する畑宿溶岩とされている。\n久野の研究では天昭山溶岩は第三紀のもので、箱根火山の活動開始前に噴出したものとされていたが、近年の研究では箱根火山の初期噴出物である畑宿溶岩とともに、主に玄武岩質の溶岩や火山角礫岩などから成る、ほとんど変わらぬこと性質を持つものであることが明らかになり、年代的にも約65万年前のものということが判明した。\nまた天昭山溶岩流や畑宿溶岩流は、玄武岩質の成層火山の噴出物であったと考えられている。", "qas": [ { "question": "元々天昭山溶岩はいつの時代に噴出したものと考えられていたの?", "id": "tr-577-08-000", "answers": [ { "text": "第三紀", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "約50万年前からは箱根火山の北東部に狩川溶岩グループ、北西部では大唐沢溶岩グループ、そして南部では湯河原火山の活動が始まった。\nともに玄武岩や玄武岩に近いタイプの安山岩からなる成層火山であったと考えられている。\n先に紹介した久野久の研究では、湯河原火山は箱根火山の活動が開始される前に活動した、箱根火山と異なる火山と考えたが、噴出物の内容的に区別がつけ難い点と、初期の箱根火山の活動時期と重なることから、現在では湯河原火山は箱根火山の一部であると見なされるようになった。\n成層火山の火山活動であった狩川溶岩グループ、大唐沢溶岩グループ、湯河原火山の活動と同時期、箱根火山ではタイプの異なる噴火活動が始まった。\n単成火山の活動である。\nこの時期の単成火山は主に箱根火山の南東部から南部に分布し、流紋岩質やデイサイト質の溶岩やスコリアを噴出した。", "qas": [ { "question": "約50万年前に箱根火山の南部で活動が始まった火山は何ですか?", "id": "tr-577-09-000", "answers": [ { "text": "湯河原火山", "answer_start": 49, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "約50万年前に箱根火山の北東部で活動が始まったグループは何ですか?", "id": "tr-577-09-001", "answers": [ { "text": "狩川溶岩グループ", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "約50万年前に箱根火山の北西部で活動が始まったグループは何ですか?", "id": "tr-577-09-002", "answers": [ { "text": "大唐沢溶岩グループ", "answer_start": 32, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "約35万年前からは、現在箱根外輪山を形成する金時山や明星ヶ岳などの噴火活動が開始したと考えられる。\nともに玄武岩や安山岩から成る成層火山で、地形や噴出物の内容から、金時山や明星ヶ岳とも現在はカルデラ内部となっている場所に火山体の噴出口があったと考えられている。\n金時山や明星ヶ岳の活動とほぼ同時期、現在の芦ノ湖付近に火山体の噴出口があったと考えられる山伏峠火山体、十国峠付近に火山体の噴出口があったと考えられる白糸川溶岩グループなどの活動があったと見られている。\n約30万年前からは、中央火口丘付近に火山体の噴出口があったと考えられる深良火山体などの活動があった。\nこのように箱根火山では複数の成層火山の活動が続き、成層火山群が形成されていった。", "qas": [ { "question": "金時山の噴火活動が始まったのは何年前ですか?", "id": "tr-577-10-000", "answers": [ { "text": "約35万年前", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "明星ヶ岳の噴火活動が始まったのは何年前ですか?", "id": "tr-577-10-001", "answers": [ { "text": "約35万年前", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "活動開始が早かったのは金時山と深良火山体のどちらですか?", "id": "tr-577-10-002", "answers": [ { "text": "深良火山体", "answer_start": 267, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "約27万年前から23万年前にかけて、引き続き成層火山の活動が続いていて、この時期には箱根外輪山を形成する明神ヶ岳の活動が見られ、その他にも箱根火山の西部では丸岳火山体、現在の元箱根付近に火山体の噴出口があった海の平火山体が活動した。\n27万年前からは成層火山の活動とともに単成火山の活動が活発化した。\n単成火山は箱根火山の北西部と南東部に集中し、単成火山群が構成されるようになった。\nこの時代に活動した単成火山群は、北西部は長尾峠溶岩グループ、南東部では根府川溶岩グループと呼ばれていて、ともに安山岩やデイサイト質の噴出物からなる。\n同じ時期、箱根火山体の南東部にあたる白銀山周辺でも米神溶岩グループ、江之浦溶岩グループといった活発な火山活動が確認されている。", "qas": [ { "question": "成層火山の活動とともに単成火山の活動が活発になり始めたの何万年前ですか?", "id": "tr-577-11-000", "answers": [ { "text": "27万年前", "answer_start": 117, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "米神溶岩グループや江之浦溶岩グループの火山活動が活発化したのは何万年前でしたか?", "id": "tr-577-11-001", "answers": [ { "text": "27万年前", "answer_start": 117, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "約23万年前から、箱根火山の噴火の様式は一変した。\nこれまでは比較的小型の成層火山が複数噴火活動を続けていたものが、大量の流紋岩質、デイサイト質の溶岩を噴出する大規模な火砕流を伴う噴火活動を見せるようになった。\nこのような大規模な噴火は約23万年前から約4万年前までに繰り返された。\n箱根火山のカルデラの成因についてはいくつかの説が唱えられている。\n久野は大陥没によって現在の箱根カルデラが誕生したと考えた。\n陥没の原因については、当初は火山活動以外のものを想定していたが、その後、大規模な噴火活動があったことが明らかとなったため、大噴火後に地面が一気に陥没してカルデラが誕生したとした。", "qas": [ { "question": "箱根火山で大量の流紋岩質やデイサイト質の溶岩を噴出する大規模な噴火活動を見せるようになったのは何万年前からですか?", "id": "tr-577-12-000", "answers": [ { "text": "約23万年前", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "その後、箱根カルデラはまず箱根火山の南東部が大規模に崩壊した山体崩壊が発生し、その結果、馬蹄型のカルデラが生まれ、その後、馬蹄型のカルデラ内に中央火口丘が噴出したというモデルが提唱された。\nこの説は、箱根カルデラで大規模な陥没が発生した形跡がない点や、箱根火山から噴出したと考えられる噴出物の量は、大噴火によって箱根カルデラが形成されたとしては少なすぎる点を根拠として唱えられた。\nしかし大規模な山体崩壊が発生した場合に必ず現れる、崩壊した大量の土砂の堆積物や流れ山が箱根火山周辺に全く見当たらない点が難点とされ、また噴出物の量がカルデラ形成が行われたにしては少ない点については、大磯丘陵などで大規模な噴火に伴うテフラ層が多数検出されており、大規模な噴火が箱根カルデラの成因とみて問題ないとの反論がなされている。", "qas": [ { "question": "箱根カルデラはどのような形をしていましたか?", "id": "tr-577-13-000", "answers": [ { "text": "馬蹄型", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "最近の研究では、大規模な噴火によって山体が吹き飛ばされた上に噴出物が堆積した、直径4キロメートル以下の比較的小さなカルデラが複数誕生し、それらのカルデラが浸食活動の結果繋がって、現在のような単一の大きな箱根カルデラになったものとの説が出されている。\nこの説の根拠としては、箱根カルデラ内に直径1-4キロ程度の陥没地形の跡が複数確認されること、中央火口丘付近のかなり浅い場所で基盤岩が検出されることが挙げられる。", "qas": [ { "question": "最近の研究では直径何キロメートル以下の小さなカルデラが複数誕生していたという説が出ていますか?", "id": "tr-577-14-000", "answers": [ { "text": "4キロメートル", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "箱根火山ではカルデラの形成を伴う大規模な火山活動は、約23万年前から始まった。\n中でも最も古いと考えられる活動はTm-2と呼ばれるテフラ層を形成した活動である。\n約23万年前と考えられるTm-2の活動以後、10回以上大規模な噴火活動が確認されており、ともに大規模なプリニー式噴火であったと考えられ、デイサイト質や流紋岩質のテフラや、中でも規模の大きな活動では広範囲に火砕流が流れたと考えられ、噴出物の総体積は規模が大きな活動では5-10立方キロメートルにもなった。", "qas": [ { "question": "箱根火山の最古の活動では何層が形成されたの?", "id": "tr-577-15-000", "answers": [ { "text": "テフラ層", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Tm-2とは何ですか?", "id": "tr-577-15-001", "answers": [ { "text": "テフラ層", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Tm-2の活動以降、箱根火山は何式の噴火をしましたか?", "id": "tr-577-15-002", "answers": [ { "text": "プリニー式噴火", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "サーマーン朝", "paragraphs": [ { "context": "サーマーン朝(サーマーンちょう、سامانيانSāmāniyān,873年-999年)は、中央アジア西南部のマー・ワラー・アンナフルとイラン東部のホラーサーンを支配したイラン系のイスラーム王朝である。首都はブハラであり、中央アジア最古のイスラーム王朝の1つに数えられる。ブハラ、サマルカンド、フェルガナ、チャーチュ(タシュケント)といったウズベキスタンに含まれる都市のほか、トルクメニスタンの北東部と南西部、アフガニスタン北部、イラン東部のホラーサーン地方を支配した。", "qas": [ { "question": "サーマーン朝は、マー・ワラー・アンナフルとどこを支配したイラン系のイスラーム王朝であるの?", "id": "tr-578-00-000", "answers": [ { "text": "ホラーサーン", "answer_start": 74, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サーマーン朝の首都はどこでしたか?", "id": "tr-578-00-001", "answers": [ { "text": "ブハラ", "answer_start": 104, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "サーマーン家の君主はアッバース朝の権威のもとでの地方太守の格であるアミールの称号を名乗り、アッバース朝のカリフの宗主権のもとで支配を行ったが、イスラーム世界において独立王朝が自立の証とする事業を行い、アッバース朝の東部辺境で勢力を振るった。", "qas": [ { "question": "サーマーン家の君主は、何の称号を名乗ったか?", "id": "tr-578-01-000", "answers": [ { "text": "アミール", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サーマーン家の君主は、どの王朝の権威のもとでの地方太守の格であるアミールの称号を名乗ったか?", "id": "tr-578-01-001", "answers": [ { "text": "アッバース朝", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "サーマーン朝の時代に東西トルキスタン、およびこれらの地に居住するトルコ系遊牧民のイスラーム化が進行した。英主イスマーイール・サーマーニーはウズベキスタンとタジキスタンで民族の英雄として高い評価が与えられ、タジキスタンの通貨単位であるソモニは、サーマーニーに由来している。このイスマーイールが事実上の王朝の創始者と見なされている。", "qas": [ { "question": "イスマーイール・サーマーニーが民族の英雄とされているのは、ウズベキスタンとどこでなの?", "id": "tr-578-02-000", "answers": [ { "text": "タジキスタン", "answer_start": 77, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "タジキスタンの通貨単位の由来となる人物は、タジキスタン以外に、どこでも民族の英雄とされていますか?", "id": "tr-578-02-001", "answers": [ { "text": "ウズベキスタン", "answer_start": 69, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "サーマーン朝を開いたサーマーン家は、マー・ワラー・アンナフルのイラン系土着領主(ディフカーン)の一族で、家名は8世紀前半にイスラームに改宗したサーマーン・フダーの名に由来する。サーマーン・フダーはサーサーン朝時代の貴族の末裔であると考えられており、またゾロアスター教の神官の家系の出身とも言われ、ウマイヤ朝のホラーサーン総督アサド・イブン・アブドゥッラーによってイスラームに改宗したと伝えられている。", "qas": [ { "question": "サーマーン朝は、誰の名を由来としているか?", "id": "tr-578-03-000", "answers": [ { "text": "サーマーン・フダー", "answer_start": 71, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サーマーン・フダーがイスラームに改宗したのは、何世紀のことか?", "id": "tr-578-03-001", "answers": [ { "text": "8世紀", "answer_start": 55, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サーマーン・フダーは、どの王朝時代の貴族の末裔であると考えられているか?", "id": "tr-578-03-002", "answers": [ { "text": "サーサーン朝", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サーマーン朝の由来となる人物を、イスラーム教に改宗させたのは、誰か?", "id": "tr-578-03-003", "answers": [ { "text": "アサド・イブン・アブドゥッラー", "answer_start": 162, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "サーマーンの息子アサドは、ホラーサーンから挙兵してアッバース朝のカリフ位を奪取したマアムーンに組みし、マアムーンを後援したターヒル朝の始祖でホラーサーン総督ターヒル・イブン・フサインによってマー・ワラー・アンナフルの支配を委任されるようになった。819年ごろ、マアムーンはアサドの4人の息子たちであるヌーフ、アフマド、ヤフヤー、イルヤースのそれぞれにサマルカンド、フェルガナ、チャーチュ、ヘラートの各地域の支配権を正式に委任した。827年には、アッバース朝統治下のアレクサンドリア総督にサーマーン家の人間が選ばれた。", "qas": [ { "question": "アサドは、マアムーンの味方をしたことで、どの地域における支配権を獲得したの?", "id": "tr-578-04-000", "answers": [ { "text": "マー・ワラー・アンナフル", "answer_start": 95, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アサドと同じく、マアムーンの味方をしたのは、誰ですか?", "id": "tr-578-04-001", "answers": [ { "text": "ターヒル・イブン・フサイン", "answer_start": 78, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アサドの4人の息子たちにサマルカンド、フェルガナ、チャーチュ、ヘラートの各地域の支配権が与えられたのは、何年ごろのことか?", "id": "tr-578-04-002", "answers": [ { "text": "819年ごろ", "answer_start": 123, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アレクサンドリア総督に、アサドの子孫が選ばれたのは、何年のことか?", "id": "tr-578-04-003", "answers": [ { "text": "827年", "answer_start": 215, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ターヒル朝の創始者であるターヒル・イブン・フサイン(ターヒル1世)がアッバース朝のホラーサーン総督に任命された後、サーマーン家はターヒル1世の地位を承認し、ターヒル朝では副総督の地位を獲得する。ヌーフが子をもうけずに没した後、ターヒル1世はヌーフが有していた支配権をアフマドとヤフヤーに分割し、アフマドの子孫がサーマーン家の本家筋となった。アフマドには7人の子がおり、長子のナスル・イブン=アフマド(ナスル1世)がアフマドの跡を継いだ。", "qas": [ { "question": "ターヒル朝の創始者は、誰なの?", "id": "tr-578-05-000", "answers": [ { "text": "ターヒル・イブン・フサイン", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヌーフが死ぬと、彼の支配地域は、アフマドと誰に分割されましたか?", "id": "tr-578-05-001", "answers": [ { "text": "ヤフヤー", "answer_start": 138, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アフマドの後を継いだのは、誰か?", "id": "tr-578-05-002", "answers": [ { "text": "ナスル・イブン=アフマド", "answer_start": 187, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ターヒル・イブン・フサインがホラーサーン総督に任命されると、彼は何の呼称されるようになったか?", "id": "tr-578-05-003", "answers": [ { "text": "ターヒル1世", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "こうしたイスラーム勢力の抗争のもとでサーマーン家は次第に勢力を高め、ターヒル朝が滅亡した873年を契機にナスル1世が自立する。875年にアッバース朝第15代カリフ・ムウタミドからマー・ワラー・アンナフル全域の支配権を与えられてサーマーン朝を開いた。ナスル1世は8世紀末に建国されたサッファール朝に対抗するため、ホラズム地方に勢力を広げ、サーマーン朝の基盤を築いた。", "qas": [ { "question": "ターヒル朝が滅亡したのは、何年のことなの?", "id": "tr-578-06-000", "answers": [ { "text": "873年", "answer_start": 44, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サーマーン朝が自立したのは、どの王家が滅びてからですか?", "id": "tr-578-06-001", "answers": [ { "text": "ターヒル朝", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サーマーン朝を開いたのは、誰か?", "id": "tr-578-06-002", "answers": [ { "text": "ナスル1世", "answer_start": 52, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナスル1世は、サッファール朝に対抗するため、どこにまで勢力を広げたか?", "id": "tr-578-06-003", "answers": [ { "text": "ホラズム地方", "answer_start": 155, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ナスル1世はサマルカンドを本拠に定め、874年末に弟イスマーイール・サーマーニーを混乱状態に陥っていたブハラに総督として派遣した。イスマーイールはブハラの内乱を収め、この地を拠点としてホラーサーンの征服を進めた。ナスルはブハラのイスマーイールに対して猜疑心を抱くようになり、885年に側近の進言を受けてイスマーイール討伐の軍を起こした。ホラーサーン総督ラフィの仲裁によってナスルとイスマーイールの間に和平が成立し、イスマーイールは徴税官としてブハラに留まった。", "qas": [ { "question": "イスマーイール・サーマーニーがブハラ総督になったのは、何年のこと?", "id": "tr-578-07-000", "answers": [ { "text": "874年", "answer_start": 19, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ナスル1世がイスマーイール討伐のため、軍を起こしたのは、彼がイスマーイールに対し、どのような思いを抱いていたからですか?", "id": "tr-578-07-001", "answers": [ { "text": "猜疑心", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナスル1世とイスマーイールの間の争いを仲裁したのは、誰か?", "id": "tr-578-07-002", "answers": [ { "text": "ラフィ", "answer_start": 176, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブハラの内乱を収めたイスマーイールは、そのあと、誰が総督についている地域を攻撃しようとしたか?", "id": "tr-578-07-003", "answers": [ { "text": "ラフィ", "answer_start": 176, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "翌886年にイスマーイールの反乱を疑ったナスルはブハラ遠征の準備を進めるが、888年末にイスマーイールはナスルの軍を破り、彼を捕虜とした。イスマーイールは勝者であるにもかかわらずナスルを許し、心を打たれたナスルはイスマーイールを後継者に指名した。ナスルはヒジュラ暦279年(892年-893年)に没するまでサマルカンドで君主として君臨し、イスマイールはブハラに駐屯していた。ナスルの死後、イスマーイールは首都をサマルカンドからブハラに移し、カリフ・ムウタディドからアミールの地位の継承を認められる。", "qas": [ { "question": "ナスルのブハラ遠征は、誰の勝利で終わったの?", "id": "tr-578-08-000", "answers": [ { "text": "イスマーイール", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナスルがブハラ遠征を計画したのは、誰のことを信じられないと思ったからですか?", "id": "tr-578-08-001", "answers": [ { "text": "イスマーイール", "answer_start": 69, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナスルは、西暦何年に死んだか?", "id": "tr-578-08-002", "answers": [ { "text": "893年", "answer_start": 142, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムウタディドはイスマーイールが誰の後を継ぐことを認めたか?", "id": "tr-578-08-003", "answers": [ { "text": "ナスル", "answer_start": 89, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "893年、イスマーイールは北方の草原に興ったテュルク系遊牧民の国家カラハン朝の支配下にあったタラスを征服し、多数の戦利品を獲得する。この時、イスマーイールが捕虜とした人物の中にはカラハン朝の妃が含まれ、町のキリスト教教会がモスクに改築されたと伝えられている。以来サーマーン朝はイスラーム世界東部の防壁として、イスラームに帰依していない遊牧民の進攻を抑え、各地から異教徒との戦闘を使命とする信仰の戦士(ガーズィー)が集まった。", "qas": [ { "question": "イスマーイールがタラスを征服したのは、何年のこと?", "id": "tr-578-09-000", "answers": [ { "text": "893年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "893年、イスマーイールが攻撃したところは、どの王朝から支配されている地域でしたか?", "id": "tr-578-09-001", "answers": [ { "text": "カラハン朝", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イスマーイールにより、キリスト教教会がモスクに改築されたと伝えられている町は、どこか?", "id": "tr-578-09-002", "answers": [ { "text": "タラス", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カラハン朝は、何系遊牧民の王家であったか?", "id": "tr-578-09-003", "answers": [ { "text": "テュルク系遊牧民", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "他方、ブハラの南方ではサッファール朝が勢力を拡大しており、ムウタディドはサーマーン朝とサッファール朝が互いに争って勢力を弱めるように抗争を扇動していた。900年にイスマーイールはバルフの戦いでサッファール朝の君主アムル・イブン・アル=ライスに勝利し、王朝は最盛期を迎える。イスマーイールは捕虜としたアムルをバグダードのムウタディドの元に送り、アムルはバグダードで幽閉された後に処刑される。ムウタディドはサッファール朝の拡大を抑止できる勢力の確立を望んでおり、サッファール朝を破った後にサーマーン朝はカリフからマー・ワラー・アンナフルとホラーサーンの支配を認められる。", "qas": [ { "question": "サーマーン朝が最盛期を迎えたのは、誰が王座についていた時のことですか?", "id": "tr-578-10-000", "answers": [ { "text": "イスマーイール", "answer_start": 81, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バルフの戦いは、何年に行われた戦闘か?", "id": "tr-578-10-001", "answers": [ { "text": "900年", "answer_start": 76, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バルフの戦いとは、イスマーイールが率いるサーマーン朝と誰が率いるサッファール朝の間での戦闘だったか?", "id": "tr-578-10-002", "answers": [ { "text": "アムル・イブン・アル=ライス", "answer_start": 106, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "サーマーン朝は表面上はアッバース朝に従属の意思を示していたが、実際は独立国家としてイラン・中央アジアを統治していた。946年にブワイフ朝がバグダードに入城するまでの間、慣例としてサーマーン朝の歴代君主はカリフへの貢納と引き換えにアミールの地位の承認を受けていた。", "qas": [ { "question": "サーマーン朝の統治地域はどこだったの?", "id": "tr-578-11-000", "answers": [ { "text": "イラン・中央アジア", "answer_start": 41, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サーマーン朝は、表面的には、どの王朝への忠誠を示していましたか?", "id": "tr-578-11-001", "answers": [ { "text": "アッバース朝", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ブワイフ朝がバグダードに入城したのは、何年のことか?", "id": "tr-578-11-002", "answers": [ { "text": "946年", "answer_start": 58, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サーマーン朝がバグダードの支配権を失ったのは、何年のことか?", "id": "tr-578-11-003", "answers": [ { "text": "946年", "answer_start": 58, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "サーマーン王朝はニーシャープールに配置した総督を介して、南東のホラーサーン地方を支配した。北東部ではマー・ワラー・アンナフルの東限のスィル川を境にテュルク系の遊牧民からの防備に努める一方、国境でテュルク系遊牧民の子弟を軍人奴隷(グラーム)として購入していた。サーマーン朝が遊牧民に対して実施した聖戦(ジハード)、草原地帯でのサーマーン朝王族、商人、学者、スーフィーの活動はテュルク系遊牧民のイスラームへの改宗を促した。", "qas": [ { "question": "ホラーサーン地方は、王朝の南東と北東のうち、どちらに位置していたの?", "id": "tr-578-12-000", "answers": [ { "text": "南東", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サーマーン王朝は、北東部地方では、どのような人々と対峙していましたか?", "id": "tr-578-12-001", "answers": [ { "text": "テュルク系の遊牧民", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "テュルク系遊牧民がイスラームに改宗するのに、影響を及ぼした王朝は、どの王朝か?", "id": "tr-578-12-002", "answers": [ { "text": "サーマーン朝", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、サーマーン朝とどのような人々の関係について説明しているか?", "id": "tr-578-12-003", "answers": [ { "text": "テュルク系の遊牧民", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "サーマーン王朝の最盛期は、イスマーイールから彼の孫のナスル2世の時代まで続いた。ナスル2世の在位中に王権は弱体化し、西側の領土をブワイフ朝に割譲した。910年ごろにエジプトのシーア派国家ファーティマ朝はホラーサーン地方にダーイーを派遣し、シーア派の勢力はブハラの宮廷にも進出する。高官、ナスル2世の側近、ナスル2世自身がシーア派に改宗するに及んでウラマー(神学者)やトルコ系の将校はシーア派の排撃を行い、王子ヌーフは父ナスル2世を監禁した。", "qas": [ { "question": "サーマーン朝の最盛期は、誰の時代から始まり、彼の孫の時代まで続いたの?", "id": "tr-578-13-000", "answers": [ { "text": "イスマーイール", "answer_start": 13, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サーマーン朝の最盛期の最後の王は、誰ですか?", "id": "tr-578-13-001", "answers": [ { "text": "ナスル2世", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "サーマーン朝の西側の領土がブワイフ朝に割譲されたのは、誰がサーマーン朝の王であったときか?", "id": "tr-578-13-002", "answers": [ { "text": "ナスル2世", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ナスル2世は、誰により監禁されたか?", "id": "tr-578-13-003", "answers": [ { "text": "ヌーフ", "answer_start": 204, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "八丈小島のマレー糸状虫症", "paragraphs": [ { "context": "八丈小島のマレー糸状虫症(はちじょうこじまのマレーしじょうちゅうしょう)とは、伊豆諸島南部の八丈小島(東京都八丈町)にかつて存在したリンパ系フィラリア症を原因とする風土病である。この風土病は古くより八丈小島および隣接する八丈島では「バク」と呼ばれ、島民たちの間で恐れられていた。本疾患の原因は、フィラリアの一種であるマレー糸状虫BrugiamalayiICD-10(B74.1)によるものであり、八丈小島は日本で唯一のマレー糸状虫症の流行地であった。フィラリアは、イヌの心臓に寄生する犬糸状虫Dirofilariaimmitisから、イヌの病気としても知られている。だが、かつての日本国内ではヒトが発症するフィラリア症のひとつバンクロフト糸状虫Wuchereriabancrofti、ICD-10(B74.0)による流行地が、北は青森県から南は沖縄県に至る広範囲に散在していた。特に九州南部から奄美・沖縄へかけての南西諸島一帯は、世界有数のフィラリア症流行地として世界の医学界で知られていた。", "qas": [ { "question": "八丈小島のマレー糸状虫症の原因は、何か?", "id": "tr-579-00-000", "answers": [ { "text": "マレー糸状虫", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本国内で八丈小島でしか流行しなかった疾患とは、何ですか?", "id": "tr-579-00-001", "answers": [ { "text": "マレー糸状虫症", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日本におけるフィラリア症の防圧・克服へ向けた本格的な研究は、1948年(昭和23年)から始まった東京大学付属伝染病研究所(現東京大学医科学研究所)の佐々学による八丈小島でのフィールドワークと、それに続く同島での駆虫薬スパトニンを用いた臨床試験が端緒である。この八丈小島で得られた一連の治験データや経験は、後に続く愛媛県佐田岬半島、長崎県、鹿児島県、奄美、沖縄県各所での集団治療を経て、最終的に日本国内でのフィラリア症根絶へ向かう契機となる日本の公衆衛生史上重要な意義を持つものであった。そして、1977年(昭和52年)に沖縄県の宮古諸島および八重山諸島で治療が行われた患者を最後に、ヒトに感染するフィラリア症の日本国内での発生事例は確認されなくなった。そして1988年(昭和63年)の沖縄県宮古保健所における根絶宣言により、日本は世界で初めてフィラリア症を根絶した国となった。ヒトに寄生して発症するフィラリア症はフィラリア虫の種類ごと世界各地に8種あるといわれ、そのうち日本国内のフィラリア症はバンクロフト糸状虫によるものがほとんどであった。だが、不思議なことに八丈小島のフィラリア症はバンクロフト糸状虫ではなく、東南アジアを中心とする地域で流行するマレー糸状虫によるものであり、これは日本国内では唯一の流行地であった。", "qas": [ { "question": "日本国内におけるヒトに感染するフィラリア症の最後の患者が治療を受けたのは、何年のことか?", "id": "tr-579-01-000", "answers": [ { "text": "1977年", "answer_start": 247, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本におけるフィラリア症の防圧・克服へ向けた本格的な研究は、何年から始まった八丈小島でのフィールドワークと臨床試験が糸口でありますか?", "id": "tr-579-01-001", "answers": [ { "text": "1948年", "answer_start": 30, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本国内でのフィラリア症根絶へ向かう契機となったのは、何年から始まったフィールドワークと臨床試験であるのか?", "id": "tr-579-01-002", "answers": [ { "text": "1948年", "answer_start": 30, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バンクロフト糸状虫とマレー糸状虫のうち、日本国内においてフィラリア症をより多く起こしたのは、どれか?", "id": "tr-579-01-003", "answers": [ { "text": "バンクロフト糸状虫", "answer_start": 447, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "八丈小島は伊豆諸島南部の八丈島の西北西約7.5キロメートル、東京の南約287キロメートルの海上に位置する安山岩で構成された火山島で、面積3.07km2、周囲8.7km、最高標高点616.6メートルの太平山がそびえる円錐状の島嶼である。島の海岸線は海食崖で囲まれ、平坦地はほとんどない急峻な地形であるが、かつて八丈小島は人々が居住する有人島であり2つの村が存在していた。八丈島から直接眺められる八丈小島南東側の宇津木村(うつきむら)と、八丈小島の北西側に位置するために八丈島からは直接見ることのできない鳥打村(とりうちむら)である。かつて八丈小島にはバクと呼ばれる風土病があり、島の人々を長年にわたり苦しめ続けていた。隣接する八丈島の人々はこの病気を「小島のバク」と呼んで恐れ、八丈島の漁師や海女は小島近くの海域で漁は行っても、病気を恐れて小島へは上陸しなかったという。八丈小島に伝わる民謡には、「〽わりゃないやだよこの小島にはここはバク山カブラ山」という一節がある。カブラとは大かぶのことで明治初期には島の中央にそびえる太平山の山頂付近で栽培されていたという。バク山のバクとはバク病のことであり、明治期には「バク」という呼び名の風土病が存在することが一部の医療関係者の間で知られ始めていた。", "qas": [ { "question": "八丈小島は、八丈島と東京のうち、どちらにより近いの?", "id": "tr-579-02-000", "answers": [ { "text": "八丈島", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "八丈小島には、宇津木村とどの村が存在していましたか?", "id": "tr-579-02-001", "answers": [ { "text": "鳥打村", "answer_start": 250, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "八丈小島の島民の多くは10代半ばまでに熱発作を出すといわれており、突然何の前ぶれもなく寒気と戦慄に襲われ、震え(シバリング)を起こして高熱が出る。バクだけが直接の原因となって死に至ることは無かったものの、バクにかかった島民はさまざまな症状に苦しめられた。バクは寒気や発熱に始まることが多く、おおよそ次のようなものであった。その多くが畑仕事をしているときに発症し、周囲の人々に「バクが来たぞ」と大声で知らせながら急いで家に戻り、布団に潜り込んで高熱と震えが治まるまでやり過ごしたという。熱発作は数日で自然に治まり畑仕事に戻るが、そのうちにまた激しい熱発作が起きる。この2回目以降の熱発作症状を八丈小島では「ミツレル」と呼び、ひどい場合には、1か月の間に何度もミツレル熱発作を繰り返すため、仕事や日常生活に支障をきたす。このような状態を年単位で繰り返していると、やがて足のリンパ節が腫れ始める。腫れた部位はリンパ機能が低下することから傷が治りにくくなり、小さなトゲが刺さるなど、ほんのわずかの外傷による刺激で熱発作や戦慄を何度も起こし、中には人事不省に陥るケースもあったという。数年が経過してリンパ節の痛みや腫れが治まると、今度は足が徐々に太く腫れて皮が厚くなり患部に強い痒みが起きる。耐えがたい痒みゆえに絶えず爪で掻き続けるため、掻いた部位の皮膚がさらに肥大してしまい、また掻いては太くなるという悪循環に陥る。近代医学によって原因が解明される以前の八丈小島の人々は、病気の原因は島の水に毒があるからだと考えており、誰も知らない大昔から小島の人間は皆バクにかかってきたので、バクにかかるのは仕方のないことであり、治るはずがないと諦めていたという。", "qas": [ { "question": "八丈小島でミツレルと呼ばれるものとは、何回目以降の熱発作症状のことか?", "id": "tr-579-03-000", "answers": [ { "text": "2回目", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "寒気や発熱を伴うバグは、何をしている時に多く発症するの?", "id": "tr-579-03-001", "answers": [ { "text": "畑仕事", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "近代医学によりバグの原因が解明される以前の八丈小島の人々は、その原因が何だと思っていましたか?", "id": "tr-579-03-002", "answers": [ { "text": "島の水に毒があるから", "answer_start": 638, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "八丈小島は1969年(昭和44年)の集団離島により無人島となったが、集団離島するまで電気や水道といった基本的なインフラは満足に整備されておらず、商店は1軒もなく交番も設置されていなかった。また、八丈小島には宇津木村・鳥打村ともに係留施設が整備された港湾がなく、1か月に数便しかない八丈島からの生活物資輸送も兼ねた定期船や漁船などの小型船の乗降は、下船時には甲板から船着き場の岩場へ直接跳び移って上陸し、乗船時には甲板へ跳び乗るといった方法であった。そのため、強風時や波が高い気象条件下では接岸できず頻繁に欠航になり、旅客の往来だけでなく八丈島からの生活物資の輸送や郵便物の配達も数週間にわたって途絶えてしまうことが多々あった。昭和30年代になって島内の小中学校に自家発電機が整備され、八丈島との間で無線通信が行えるようになり、島民の生活基盤は徐々に改善されつつあった。それでも一般家庭における電気・電話は1日の間に使用できる時間が限られるなど、1969年(昭和44年)の集団離島時までインフラは不完全のままであった。また、宇津木、鳥打の両村とも小中学校(小中併設校)は設置されていたが、いずれも集団離島時まで医師のいない無医村であった。", "qas": [ { "question": "八丈小島が無人島となったのは、何年の集団離島によることなの?", "id": "tr-579-04-000", "answers": [ { "text": "1969年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "八丈小島で甲板と岩場の間を直接跳び移る乗下船方法が取られたのは、何がなかったためですか?", "id": "tr-579-04-001", "answers": [ { "text": "係留施設が整備された港湾", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "島内の小中学校に自家発電機が整備されたのは、昭和何年代のことであるか?", "id": "tr-579-04-002", "answers": [ { "text": "昭和30年代", "answer_start": 313, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "八丈小島の島民にとって特に深刻であったのは水不足の問題であった。宇津木村では海岸の断崖にある洞窟の天井から滴る水滴を桶などで溜めて利用していたといい、水滴量が減少する冬季には朝から夕方まで溜めても、わずか1升5合(約2.7リットル)が溜まるに過ぎなかったという。一方の鳥打村にはごく小さな湧水が存在したものの、やはり人々の生活用水を確保するほどの湧水ではなかった。八丈小島は保水性に乏しい火山性の地質かつ急峻な地形であるため、河川は存在せず井戸水にも恵まれなかった。慢性的な水不足に加え簡易水道ですら未整備であったため、飲用水や生活用水を確保する手段はもっぱら降雨に大きく左右される天水(雨水)に頼っており、各家庭や小中学校には簡素な貯水槽や甕(かめ)桶などが設けられていたが、水量も不安定で水質も決して良くはなかった。この島民にとって生命線ともいえる天水を蓄える大小さまざまな天水桶の存在が、八丈小島の「バク」と呼ばれたマレー糸状虫症流行の間接的要因であった。", "qas": [ { "question": "この文書では、八丈小島における様々な問題のうち、特にどの問題を取り上げているの?", "id": "tr-579-05-000", "answers": [ { "text": "水不足の問題", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "宇津木村と鳥打村のうち、湧水を用いて生活を営んでいたのは、どちらの村か?", "id": "tr-579-05-001", "answers": [ { "text": "鳥打村", "answer_start": 134, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "どのような性質を持った八丈小島の地質が、島の水不足問題に寄与したとされていますか?", "id": "tr-579-05-002", "answers": [ { "text": "火山性", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "リンパ系フィラリア症はヒトのリンパ系各所に寄生虫であるフィラリア虫が寄生することにより、さまざまな症状を引き起こす寄生虫病の総称である。フィラリア虫は日本などの先進国では、イヌの心臓に寄生する寄生虫(犬糸状虫)がよく知られているが、ヒトやイヌだけでなく多種多様の脊椎動物毎に寄生するフィラリア虫が多数存在する。これらの中でヒトに寄生するタイプのフィラリア虫は、主にヒトのリンパ管やリンパ節などに寄生することから、リンパ系フィラリアと呼んでヒト以外のフィラリア症と区別している。ヒトがリンパ系フィラリア症に感染するメカニズムは、フィラリアの幼虫であるミクロフィラリア(microfilaria)を体内に宿す媒介者(ベクター)の役割を持つ蚊がヒトを吸血する際、ミクロフィラリアが人間の体内に侵入することによって成立する。媒介する蚊の種類は、イエカ属、ヤブカ属、ハマダラカ属などさまざまである。日本国内ではアカイエカCulexpipienspallensが主な媒介蚊であった。フィラリア虫の成虫はヒトのリンパ管内部に住み着き、6年とも8年とも言われる生存期間中、数百万匹ものミクロフィラリア(幼虫)を宿主の体内で産み、そのミクロフィラリアはヒトのリンパ系や血液中を循環する。媒介者の蚊は感染した終宿主であるヒトを吸血することにより、ミクロフィラリアを含む血液を取り込む。取り込まれたミクロフィラリアは蚊の体内で感染性を持つ幼虫に成長し、その蚊が再びヒトを吸血することによって感染力を持ったミクロフィラリアがヒトの体内へ侵入し、リンパ管へ移動して成虫になることで生活環が成立する。このようにリンパ系フィラリア虫の生活環(ライフサイクル)は蚊が中間宿主であり、ヒトが終宿主である。", "qas": [ { "question": "ヒトがリンパ系フィラリア症に感染する過程において、媒介者の役割を果たすのは、何か?", "id": "tr-579-06-000", "answers": [ { "text": "蚊", "answer_start": 317, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フィラリアの幼虫が人間の体内に侵入すると、何に感染しますか?", "id": "tr-579-06-001", "answers": [ { "text": "リンパ系フィラリア症", "answer_start": 241, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒトと蚊のうち、リンパ系フィラリア虫が成虫になるという過程が体内で行われないのは、どちらか?", "id": "tr-579-06-002", "answers": [ { "text": "蚊", "answer_start": 597, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヒトと蚊のうち、ミクロフィラリアの感染性を持つ幼虫への成長が体内で行われるのは、どちらか?", "id": "tr-579-06-003", "answers": [ { "text": "蚊", "answer_start": 597, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ヒトに発症するリンパ系フィラリア症の経過は、無症候期、急性期、慢性期があり、感染初期の罹患者は自覚症状がなく感染していることに気付かないことが多い(無症候期)。ただし、無症状であってもすでに罹患者はリンパ系組織各所や腎臓に障害を起こしており、人体の免疫機能への影響が始まっている。また、体内にミクロフィラリアがいても無症状のまま一生自覚症状が出ない場合もある。無症候期から急性期に進行する場合、感染から1年程度経過した頃、突然何の前触れもなく悪寒や高熱などの熱発作と戦慄を起こす。この最初の熱発作は数日間で治まるが、その後も悪寒や発熱を伴う熱発作を長期間にわたり何度も繰り返すことが多い。このようにフィラリア症と一口に言っても、その症状は一様ではない。適切な治療を行わないまま長期間放置すると、体内のフィラリア虫が成長・増殖して慢性期に入る。こうなってしまうと成虫になったフィラリア虫がリンパ管やリンパ節に居座り、リンパ液の流れを塞いでしまう。このようなリンパ液の閉塞による循環障害が引き金となり、リンパ系フィラリア症特有のさまざまな病状が現れる。リンパ系フィラリア症の慢性期には、象皮病や陰嚢水腫・乳房肥大、乳糜尿のような特有の症状が知られている。", "qas": [ { "question": "ヒトに発症するリンパ系フィラリア症において、象皮病と陰嚢水腫・乳房肥大、乳糜尿などの症状が病状が現れる時期を、何と呼ぶ?", "id": "tr-579-07-000", "answers": [ { "text": "慢性期", "answer_start": 485, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "無症候期に体内で障害が起こるのは、リンパ系組織各所のほかに、どの部位か?", "id": "tr-579-07-001", "answers": [ { "text": "腎臓", "answer_start": 108, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "慢性期になると、成虫になったフィラリア虫により何の流れが塞がるか?", "id": "tr-579-07-002", "answers": [ { "text": "リンパ液", "answer_start": 407, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "象皮病(ぞうひびょうElephantiasis)はフィラリア症の病態としては最もよく知られている。主に四肢の肥大により足や手が太く変形し、象の皮膚のように見えるのでこの名前がある。象皮病はフィラリア虫の成虫が太ももの付け根にあるリンパ管に「とぐろ」を巻いて居座ることが原因である。リンパ管内のフィラリア虫が障害となってリンパ液の流れを悪くするため、太ももより下部のリンパ液が胴体のほうへ戻りにくくなり、足に溜まったリンパ液によりリンパ浮腫(むくみ)が目立つようになることから、やがて多発した浮腫が固定化されてしまう。初期の浮腫は痒みが強いため爪などで掻くが、汚い爪で掻くとさまざまな細菌が入り、菌がリンパ液を培地として炎症を起こす。その結果、痒みはさらに激しくなり、何度も掻き続けるため同じ場所の炎症を何度も繰り返し、ついには皮下組織が厚くなり毛が抜けてしまう。度重なる炎症と浮腫によって足の肥大、皮膚のただれ、変色を起こし、まるで象の足のようになる。象皮病は日本では古くから知られている。平安末期もしくは鎌倉初期に作られたと考えられる病草紙(異本)というさまざまな病気を描いた絵巻物の中のひとつに十二単をまとった貴族と思われる若い女性が描かれている絵がある。この女性は上半身と下半身を露わにし、両足が黒く変色して皮膚がただれているように見える。付き添う2名の女官が心配そうな表情で見つめる様子が描かれており、これは今日でいう象皮病ではないかと考えられている。", "qas": [ { "question": "象皮病という病名は、ヒトの体においてどんな変化が生じ、それにより皮膚が象の皮膚のように見えることで名づけられたものなの?", "id": "tr-579-08-000", "answers": [ { "text": "四肢の肥大", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "象皮病は、足に何が溜まり、浮腫の発生・固定化が起こる病気であるか?", "id": "tr-579-08-001", "answers": [ { "text": "リンパ液", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "象皮病の原因は、何が体内、特にリンパ管に侵入することでありますか?", "id": "tr-579-08-002", "answers": [ { "text": "フィラリア虫の成虫", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "陰嚢水腫(いんのうすいしゅScrotumswelling)、乳房肥大(ちぶさひだいBreasthypertrophy)は、いずれも象皮病と同様にフィラリアの成虫によるリンパ管の閉塞が原因である。陰嚢水腫の場合は陰嚢周辺のリンパ管にフィラリア虫が定着することでリンパ液が溜まった陰嚢が大きくなる。乳房肥大もフィラリア虫による胸部リンパ管の閉塞で乳房が大きくなる。陰嚢水腫は驚くほど大きくなるケースがあり、日本国内ではよく知られた例として江戸後期の著名な浮世絵師葛飾北斎による陰嚢水腫の絵がある。北斎は1812年(文化9年)、東海道の三島宿(現、静岡県三島市)でもっこに包まれた荷物を天秤棒のようなもので担いでいる2人の男を見掛けるが、よく見ると荷物だと思ったものが片方の男の巨大な陰嚢であることに驚き、その場で矢立を取り出して描いたという。その絵は北斎漫画十二編の中で「大嚢」の題で描かれている。これは19世紀初頭の日本に陰嚢水腫、つまりリンパ系フィラリア症が存在した記録として日本国外でも知られている。また、西郷隆盛が陰嚢水腫であったこともよく知られており、1872年(明治5年)に明治天皇が鶴丸城(現、鹿児島城)へ行幸した際、陰嚢水腫であった西郷は馬に乗ることができず徒歩(かち)で行列に従ったという話や、西南戦争で自決した西郷の首のない遺体を、西郷本人であると特定させたのが陰嚢水腫であったという。", "qas": [ { "question": "陰嚢水腫と乳房肥大、象皮病の発症原因は何?", "id": "tr-579-09-000", "answers": [ { "text": "フィラリアの成虫によるリンパ管の閉塞", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "陰嚢水腫において陰嚢が驚くほど大きくなる例として挙げられている絵とは、何年に描かれたものですか?", "id": "tr-579-09-001", "answers": [ { "text": "1812年", "answer_start": 249, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "陰嚢水腫であった昔の人物の例として、この文書で紹介されているのは、誰か?", "id": "tr-579-09-002", "answers": [ { "text": "西郷隆盛", "answer_start": 454, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "乳糜尿(にゅうびにょうChyluria)は尿が粥のように白く濁る症状であり(「糜」は粥の意)、胸管にフィラリアが「とぐろ」を巻くことが原因で起きる。胸管とはリンパ液を血管に集めるリンパ管の本管であり、小腸で吸収された脂肪分を集めて首の静脈へ送る通路にもなっている。乳糜(にゅうび)とは、脂肪分が消化され小腸から吸収されたリンパ液のことであるが、胸管にフィラリアが居ついて閉塞すると、脂肪分を含んだリンパ液である乳糜は身体の上部へ行くことができなくなり、そのまま腎臓へ運ばれて尿を白く濁らせる。軽症の場合は薄く濁る程度であるが、重症になると腎臓の出血を伴う乳糜血尿や、尿がゼリー状に硬くなり最悪の場合尿閉を起こす。象皮病や陰嚢水腫・乳房肥大、乳糜尿がリンパ系フィラリア症の慢性期における主な症状であるが、他にも、リンパ管瘤、リンパ管炎、リンパ腺炎といったさまざまなリンパ系炎症反応を起こす。", "qas": [ { "question": "乳糜尿にかかると、尿の色はどうなるの?", "id": "tr-579-10-000", "answers": [ { "text": "白く", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "乳糜尿をはじめとする、リンパ系フィラリア症の慢性期に発生する症状と炎症反応を見ると、フィラリア虫が体内のどこで主に問題を起こすのか?", "id": "tr-579-10-001", "answers": [ { "text": "リンパ管", "answer_start": 355, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "フィラリア虫には非常に多くの種類があるが、ヒトに感染するフィラリア症の原因となるフィラリア虫は、リンパ系疾患以外のもの(オンコセルカ症など)を含めると世界に8種ほどあると言われている。それらの中でリンパ系フィラリア症を引き起こすものは、バンクロフト糸状虫とマレー糸状虫、チモール糸状虫の3種のリンパ系糸状虫(Lymphaticfiraria)によるものがほとんどである。", "qas": [ { "question": "ヒトに感染するリンパ系フィラリア症の原因となるフィラリア虫は、何種類あるか?", "id": "tr-579-11-000", "answers": [ { "text": "3種", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "バンクロフト糸状虫Wuchereriabancrofti(Cobbold,1877)は、バンクロフト糸状虫症の病原体となる寄生虫であり、世界中のリンパ系フィラリア症の90パーセント以上が本虫によるものである。1863年(文久3年)、フランス人医師のデマルクワイが、パリにおいて陰嚢水腫のハバナ人の水夫の血液と陰嚢に溜まった水を顕微鏡で調べた際、その中に小さな細長い糸状の虫体(幼虫)を見出した。この糸状虫の幼虫(ミクロフィラリア)が世界で最初に確認されたフィラリア虫である。フィラリアという名前は、この虫を発見したデマルクワイが「細くて糸状のもの」を表すフランス語のFilaire(電球のフィラメントも同じ語源である。)から、この虫を「ミクロフィラリア」と記述したことが、この寄生虫の名前と病名の由来である。3年後の1866年(慶応2年)にブラジルの医師オットー・エドワード・ワッシャーがブラジルの大西洋沿岸に面した港町バイーアで患者の白い尿からミクロフィラリアを見つけ、さらに1872年(明治5年)にはインドのカルカッタでイギリス人医師のルイスが患者の血液からミクロフィラリアを発見した。これらの研究により象皮病や陰嚢水腫の患者はミクロフィラリアを持つという共通点が分かり始めた。", "qas": [ { "question": "世界中でリンパ系フィラリア症を起こすの割合が最も大きい寄生虫は、何なの?", "id": "tr-579-12-000", "answers": [ { "text": "バンクロフト糸状虫", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "世界で最初にフィラリア虫の幼虫を発見したのは、誰ですか?", "id": "tr-579-12-001", "answers": [ { "text": "デマルクワイ", "answer_start": 124, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オットー・エドワード・ワッシャーとルイスのうち、ミクロフィラリアをより早く発見したのは、誰か?", "id": "tr-579-12-002", "answers": [ { "text": "オットー・エドワード・ワッシャー", "answer_start": 377, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1800年代後半当時、中国南部のアモイでマラリアの研究をしていたスコットランド出身のパトリック・マンソンは、マラリア媒介実験で使用した蚊が溺れて沈んだ水の中から偶然ミクロフィラリアを発見したことでフィラリアに興味を持ち、後述するミクロフィラリアの夜間定期出現性nocturnalperiodicityを1879年(明治12年)に発見する。その後、研究者たちはフィラリアをヒトに感染させる媒介者はおそらく蚊であろうと考え、さまざまな検証を重ねたが、しばらくの間は確証を得られないままであった。フィラリアが蚊によって媒介されることを証明したのはオーストラリアの寄生虫学者ジョセフ・バンクロフトである。バンクロフトは当時の世界中で確認されていた1600種の蚊の中から、アカイエ蚊の一種がミクロフィラリアの主要媒介蚊であることを実証し突き止めた。バンクロフトはミクロフィラリアの形態も詳しく観察し、色は乳白色で糸のように細長く滑らかに湾曲し(日本語の平仮名の「し」のような形状)、頭部がやや肥大していることや、性別があり雄より雌のほうが大きいなど、ミクロフィラリアの形態を顕微鏡の倍率を上げ可能な限り詳細にスケッチした。こうしてミクロフィラリア、すなわちフィラリア症は蚊を媒介者としてヒトに感染する寄生虫病であることが解明された。バンクロフト糸状虫の学名であるWuchereriabancroftiは以上の経緯から、オットー・エドワード・ワッシャーO.E.H.Wuchererと、ジョセフ・バンクロフトJosephBancroftの両名にちなんで命名された。", "qas": [ { "question": "フィラリアが蚊によって媒介されるとの議論を、最初に提示したのは、誰?", "id": "tr-579-13-000", "answers": [ { "text": "パトリック・マンソン", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フィラリアが蚊によって媒介されることを最初に証明したのは、誰ですか?", "id": "tr-579-13-001", "answers": [ { "text": "ジョセフ・バンクロフト", "answer_start": 283, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バンクロフト糸状虫の学名は、ジョセフ・バンクロフトと誰の名前をちなんでつけられたものか?", "id": "tr-579-13-002", "answers": [ { "text": "オットー・エドワード・ワッシャー", "answer_start": 604, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マレー糸状虫Brugiamalayi(Brug,1927)はバンクロフト糸状虫以外のリンパ系フィラリア症の残りのほとんどを占めている。1927年(昭和2年)、マレー半島やスマトラ島でミクロフィラリアを研究していたオランダ軍軍医のリヒテンシュタインLichtensteinは、採取したいくつかのミクロフィラリアがバンクロフト糸状虫と形態的に異なることに気付いた。それはバンクロフト糸状虫と比べると小さく、虫体は何か所も細かく湾曲していた。この報告を受けた同じオランダ人寄生虫学者のブルフSteffenLambertBrugは論文に新種記載し、マレー種の糸状虫Brugiamalayiと命名し報告した。マレー糸状虫症の大きな特徴は、バンクロフト糸状虫症で見られる陰嚢水腫や乳糜尿を起こす患者が認められないことである。また、リンパ浮腫や象皮病が起こる部位も下腿部のみ(膝関節から上部を超えない)のケースがほとんどである。このようなバンクロフト糸状虫症との差異の理由は解明されていないが、成虫の寄生するリンパ系の部位が異なるためだと考えられている。", "qas": [ { "question": "バンクロフト糸状虫を除き、世界中でリンパ系フィラリア症を起こすの割合が最も大きい寄生虫は、何なの?", "id": "tr-579-14-000", "answers": [ { "text": "マレー糸状虫", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マレー糸状虫が初めて発見されたのは、何年のことか?", "id": "tr-579-14-001", "answers": [ { "text": "1927年", "answer_start": 67, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "チモール糸状虫Brugiatimori(Partonoetal,1977)は1960年代になって報告され始めた。1960年代の中ごろ、チモール島の住民の血液中にマレー糸状虫に似るものの、細かな部分が異なるミクロフィラリアが存在することが報告され、チモール型フィラリアTimorfilariasisと呼ばれるようになったが、成虫の同定は1977年(昭和52年)になるまで行われなかった。チモール糸状虫は世界のリンパ系フィラリア虫全体から見ればごくわずかであり、チモール島を含むインドネシアの小スンダ列島以外では確認されていない。", "qas": [ { "question": "世界中でチモール糸状虫が発見された地域としては、どの国しかありませんか?", "id": "tr-579-15-000", "answers": [ { "text": "インドネシア", "answer_start": 237, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日本で初めてフィラリア虫が確認されたのは1876年(明治9年)のことで、お雇い外国人として東京医学校(現東京大学医学部)に招かれたドイツ人内科医のエルヴィン・フォン・ベルツ(独:ErwinvonBälz)が、来日したその年に日本人患者の血液中からミクロフィラリアを発見したのが最初である。ただし、1876年の時点でのフィラリアに関する知見は、前述したように研究の途上であり、八丈小島で最初に調査が始まった明治後期から大正初期の頃は、ミクロフィラリアと象皮病との関連性について日本国内の医学界での見解は完全には定まっておらず、1927年に新種記載されたマレー糸状虫に至っては、その存在すら知られていなかった。なお、八丈小島以外の伊豆諸島にもかつてフィラリア症は存在しており、少数ながら新島、八丈島、青ヶ島にはバンクロフト糸状虫が存在した。", "qas": [ { "question": "日本における初めてのフィラリア虫の確認は、誰によることなの?", "id": "tr-579-16-000", "answers": [ { "text": "エルヴィン・フォン・ベルツ", "answer_start": 73, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "かつての日本でバンクロフト糸状虫が存在したところは、新島、八丈島のほかに、どこか?", "id": "tr-579-16-001", "answers": [ { "text": "青ヶ島", "answer_start": 348, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "明治維新後の日本では、風土病と考えられる地域特有の疾患が日本各地で多数確認され始めており、新しい西洋医学を学んだ多くの研究者や医師らにより調査や研究が行われ始めていた時期であった。八丈小島の「バク」も、それらのひとつとして一部の医療関係者の間で知られ始めていた。しかし「八丈島に隣接する小島に古くより「バク」と呼ばれる奇病があり、島民の多くが発症する」という話が人づてに伝わるだけであった。八丈小島は「鳥も通わぬ」と言われた絶海の孤島八丈島の、さらに属島という地理的条件もあり、日本国内各所に散在する他の風土病流行地のように現地調査に赴くことが、交通事情の悪い当時は困難であった。「バク」と呼ばれたこの風土病について、近代医学的観点による現地調査が初めて行われたのは1896年(明治29年)2月のことで、調査を行ったのは当時の内務省衛生局の中浜東一郎である。中浜東一郎の実父は、幕末の1841年(天保12年)に土佐(現、高知県)から漁に出かけて遭難し、漂流中にアメリカの捕鯨船に救出されて渡米して近代科学を学び、日本へ帰国した後に日米和親条約の締結に関わったジョン万次郎(中浜万次郎)である。中浜東一郎はジョン万次郎の長男として1857年(安政4年)に江戸で生まれ、1881年(明治14年)に(旧)東京大学医学部を卒業すると、福島、岡山、金沢の各医学校の教授を務めた。当時の日本では公衆衛生に関する知識の必要性が求められており、中浜は1885年(明治18年)、内務省の命令により衛生学研究のためドイツへ留学し、日本帰国後は内務省衛生局の技師を務めた。1896年(明治29年)4月に内務省を退官後、東京衛生試験所所長、初代東京市医師会長などを歴任した。中浜が「バク」の調査のため八丈小島を訪れたのは、内務省技師を退官する2か月前の1896年(明治29年)2月で、中浜とともに調査に同行したのは、内務省技手の上村行彰、東京府庁より派遣された塩田虎尾の計3名であった。一行は同年2月5日に横浜港を出航し、丸3日をかけて八丈島の港へ到着したものの、目的地である八丈小島に着岸可能な小型船は風や波に影響を受けやすく、折しも2月は冬季の季節風の吹き荒れる時期であり、強風が何日も続き出航できずに八丈島で足止めを余儀なくされた。天候がやや安定して八丈小島へ渡れたのは、八丈島到着から10日も経過した2月18日であった。", "qas": [ { "question": "バグについて、近代医学的観点による現地調査が行われ始めたのは、何年からか?", "id": "tr-579-17-000", "answers": [ { "text": "1896年", "answer_start": 333, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "バグについての近代医学的観点による初めての現地調査を担当していた人物は、何年生まれの者ですか?", "id": "tr-579-17-001", "answers": [ { "text": "1857年", "answer_start": 514, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "もともと漁業に従事していた中浜東一郎の実父は、どの国で近代科学を学んだか?", "id": "tr-579-17-002", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 430, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "中浜は八丈島到着から何日後に八丈小島へ到着できましたか?", "id": "tr-579-17-003", "answers": [ { "text": "10日", "answer_start": 984, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "三億円別件逮捕事件", "paragraphs": [ { "context": "三億円別件逮捕事件とは、1968年に発生した三億円事件に付随して、翌1969年に発生した被疑者の誤認逮捕事件、そしてそれに続く報道被害事件である。\n\n1968年12月に東京都府中市で発生した現金輸送車襲撃事件(三億円事件)は、発生から1年が経過しても解決の目途は立っていなかった。しかし、事件からほぼ1年後の1969年12月12日、毎日新聞によるスクープを発端として犯人像と一致するところの多い元運転手の男性Aの存在が明るみに出た。警視庁は同日早朝にAを任意同行させ、軽微な脅迫事件での別件逮捕も利用してAを厳しく取調べた。また、マスメディア各社も早くからAを犯人視し、実名報道で一斉にAのプライバシーを書き立てた。\n\nところが逮捕翌日の13日夕方になって、外部からAのアリバイを証明する通報が行われ、無実が明らかになったAは同日深夜に釈放されるに至った。その後、誤認逮捕をひき起こした捜査機関と、Aの犯人視報道に徹したマスコミには各方面から強い非難が起こり、日弁連人権擁護委員会からも非難勧告が発せられた。しかし、無実が証明された後もAは世間からの好奇の目とマスコミからの絶え間ない取材に晒され続けた。やがてAは家庭崩壊の果てに精神を病み、2008年に自殺した。", "qas": [ { "question": "現金輸送車襲撃事件はいつ発生したか。", "id": "tr-580-00-000", "answers": [ { "text": "1968年12月", "answer_start": 75, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1968年に発生した三億円事件に付随して、翌1969年に発生した被疑者の誤認逮捕事件、そしてそれに続く報道被害事件を何といいますか。", "id": "tr-580-00-001", "answers": [ { "text": "三億円別件逮捕事件", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Aは何年に亡くなりましたか。", "id": "tr-580-00-002", "answers": [ { "text": "2008年", "answer_start": 521, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1968年12月10日、東京都府中市の路上において、日本信託銀行国分寺支店の現金輸送車が白バイ警官を装った人物に停車を命じられた。偽警官はダイナマイトに擬した発煙筒を用いて輸送車の乗員たちを避難させ、そのまま輸送車に乗り現場から逃走、積荷の2億9430万7500円を奪い去った。およそ3億円という空前の金額が奪われたこの事件は、世間の注目を集めたが、同時に現場には大量の物証が残されていたため、事件は早期に解決されるものと予想されていた。\n\nところが、多数の物証は逆に捜査系統を混乱させ、ゆき詰まる捜査に警察は焦りを感じていた。警察が世間の非難を浴びるなか、捜査陣には名刑事と謳われた平塚八兵衛も投入されたが、なおも事件には解決の糸口すら見出せなかった。三億円事件から1年を経た頃には、投入された捜査員は7万2000人、取調べを受けた被疑者は1万2000人にのぼっていた。", "qas": [ { "question": "偽警官が奪い去ったのはいくらでしたか。", "id": "tr-580-01-000", "answers": [ { "text": "2億9430万7500円", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "三億円事件から1年を経た頃、投入された捜査員は何人でしたか。", "id": "tr-580-01-001", "answers": [ { "text": "7万2000人", "answer_start": 352, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "朝刊が配達される前の12日朝6時過ぎ、捜査員らはAの自宅を訪れ、Aに任意同行を求めた。そして報道陣の目を避けるため、Aは捜査本部の置かれていた府中署ではなく、三鷹署へと連行された。名目こそ任意同行であったが、Aは直後の8時から深夜1時頃まで、食事の間も休みなく、事件についての取調べを受け続けた。\n\n取調べにおいてAは、1年前の12月10日、自分は池袋の宝石会社で採用試験を受けていた、と主張した。ところが、捜査員の調べでは池袋にAの主張するような会社は存在せず、この矛盾に捜査陣はAへの疑惑を深めていった。なかでも平塚は、「おまえが犯人でなくて、誰が犯人なんだよ」「やったんだろう、やったに決まっている」とAを激しく怒鳴りつけた。のみならず、Aは無実ではないかと疑問を抱いた捜査員に対しても「あれがホシでなかったら、誰がホシになるんだ、ホシに間違いないだろうが」と怒声を浴びせたという。また、取調べについてAは、髪を引き毟られ、土下座を強要され、口元を出血するほど何度も殴られた、と後に回顧している。", "qas": [ { "question": "捜査員らは何日にAの自宅を訪れたか。", "id": "tr-580-02-000", "answers": [ { "text": "12日", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Aは8時からいつまで、事件についての取調べを受けたか。", "id": "tr-580-02-001", "answers": [ { "text": "深夜1時頃", "answer_start": 113, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Aは、1年前の12月10日、どの会社で採用試験を受けていたと主張したか。", "id": "tr-580-02-002", "answers": [ { "text": "宝石会社", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "12日の夕刊は、毎日新聞のみならず各紙が、匿名ではあったがAの容疑を大々的に報じた。また、テレビとラジオも同じくこれを報道した。しかしこの段階では、朝日新聞が「アリバイが成立すれば完全に白ということになる。むしろ、その可能性の方が分があるという感じがする」との土田刑事部長の談話を載せ、サンケイ新聞は「クロシロについては五分五分だ」との武藤三男捜査一課長の談話を載せるなど、中立的なニュアンスとなっている。ところが毎日新聞は他社と論調を異にし、「ほぼ犯人に間違いない」との目撃者の証言を載せ、Aの勤務先について「犯人にとっては絶好の隠れ場所」と書くなど、クロの印象を鮮明にした報道姿勢をとった。\n\nしかし、調べによっても未だ成立しないアリバイに、警察とマスメディアはA犯人説へと傾斜してゆく。同日夜に府中署で開かれた記者会見では、「ホシ以上のゲロをしたよ」と武藤が上機嫌でコメントし、Aの犯人性を疑う発言をしたジャーナリストが、他の記者らに取り囲まれて会見場から追い出されるまでに至った。サンケイ新聞の現場キャップであった細谷洋一によれば、現場担当の記者たちはAをシロと見ていたが、警視庁記者クラブ担当はクロに近い感触を得ており、現場記者は板挟みの状況にあったという。", "qas": [ { "question": "朝日新聞、サンケイ新聞、毎日新聞のうち、Aの容疑を報道するとき、一番中立を守らなかった新聞は何?", "id": "tr-580-03-000", "answers": [ { "text": "毎日新聞", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "12日の23時半頃、Aは2件の脅迫を容疑として逮捕された。1件は1968年9月の事件で、滞納していた代金の回収に訪れた月賦百貨店の集金人と口論になり、その際に包丁を集金人に見せて追い払ったというもの。もう1件は同年12月の事件で、アパートの鍵が壊されたことを、かねてから不仲であった家主夫妻の仕業と考え、夫妻の留守中に、夫妻の部屋のタンスに包丁を突き刺して脅した、というものであった。\n\nしかしAは、前者の事件については、集金人に肩を掴まれて屋外に引き出されそうになったため、喧嘩にならないよう包丁を見せただけであり、実際に使用するつもりはなかった、と主張している。後日、集金人の上司が謝罪に訪れ、その際にAも滞納していた代金を払ったことで事件は収まったのだという。後者の事件についても、翌日に家主の母に謝罪することで円満に解決した、とAは主張している。また被害者の側も、百貨店の集金人は「その折りはビックリしたが、別に〔A〕さんがひどいとも思わなかったし、彼を罰してほしいとも思わなかった」と語り、Aを告訴したことも処罰を求めたこともない、と語っている。家主の母も、Aの別件逮捕については「私としては一年も前に起きたことであり、しかも円満に話がついていたことでもあり、大変心外に思っております」と抗議の言葉を述べている。", "qas": [ { "question": "12日の23時半頃、Aは何件の脅迫を容疑として逮捕されたか。", "id": "tr-580-04-000", "answers": [ { "text": "2件", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "三億円事件のモデルとされる小説『血まみれの野獣』の著者であり、事件発生当初から注目を集めていた作家大藪春彦は、12日の段階で「犯人が地元にそのまま住んでいること自体、不自然だし、顔もある程度モンタージュ写真に似ているだけに、かえっておかしいと思った。だいたい、〔A〕という人は、ぼくの推理する真犯人のイメージと合わない。真犯人は冷静で計画性にとみ、人の心理を読むのがうまい。鉄棒をふりあげて下宿の老婆をおどしたり事件前から金が欲しいと口ばしったり、ホンボシはそんなチンケなやつじゃない」と、Aの無実を取材陣に対し明言している。\n\n一方、免田事件の冤罪死刑囚として獄中にいた免田栄は、A逮捕の報道を読んでAクロ説の旗振り役となり、Aシロ説を主張する他の囚人らと論争になったという。しかし、Aが誤認逮捕であったという報道は検閲のため獄中には届かず、長らく免田はAが三億円事件の真犯人であると思い込んでいた。そのため、免田が再審無罪で出所した後に「人権と報道を考えるシンポジウム」でAの妻と同席した際、免田はAの妻に顔向けができなかったという。", "qas": [ { "question": "小説『血まみれの野獣』はどの事件をモチーフにして書かれたか。", "id": "tr-580-05-000", "answers": [ { "text": "三億円事件", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "小説『血まみれの野獣』を書いたのは誰なの?", "id": "tr-580-05-001", "answers": [ { "text": "大藪春彦", "answer_start": 49, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ハワイの歴史", "paragraphs": [ { "context": "有史以前は太平洋を渡ってやってきたポリネシア人たちが持ち込んだ伝統を守りつつ生活を営んでいたが、1778年のジェームズ・クックによる「発見」以降、ハワイは近代化の波へ飲み込まれることとなる。島同士の内戦を経てハワイ王国という100年に及ぶ統一国家が確立し、欧米人との接触に伴って社会は急速に変容し始める。19世紀前半より宗教的基盤の確立と経済発展を求めた欧米入植者たちとその末裔は、次第に経済的安定を保障するための政治権力を欲するようになり、その影響は時代を経るにつれて強力なものとなっていった。サトウキビ農園とその交易による莫大な土地と富を手に入れた成功者たちは更なる産業発展を求めて安価な労働力を日本を中心とする様々な地域より大量に呼び込み、ハワイ社会は多くの人種が混合した複雑な文化を育んでいった。白人勢力はやがてハワイ人国家を倒し、近代化の名の下に1900年にはアメリカ合衆国の領土として併合がなされた。さらに戦時下においては東西に台頭したアメリカと日本の確執の余波をまともに受け、太平洋上の重要な軍事拠点として開発が進む一方で、ハワイへ労働者としてやってきた大量の日本人移民は深刻な差別に曝された。現代は観光都市として発展を見せる一方で、開発による環境汚染、歴史遺構の破壊や人口増加による地価・物価の高騰、ハワイ人問題事務局が提唱しているハワイ人による自治権の獲得など、複数の問題を抱えている。ハワイは、その解決の糸口を模索しながら今日に至っている。", "qas": [ { "question": "ハワイが近代化する以前、何人が太平洋を渡ってきたの?", "id": "tr-581-00-000", "answers": [ { "text": "ポリネシア人", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハワイ王国がどの国の領土として組み込まれたのか?", "id": "tr-581-00-001", "answers": [ { "text": "アメリカ合衆国", "answer_start": 385, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アメリカと日本の対立により、ハワイで差別されたのは、どんな人?", "id": "tr-581-00-002", "answers": [ { "text": "日本人移民", "answer_start": 487, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1900年にアメリカ合衆国に併合された国は、どの国か?", "id": "tr-581-00-003", "answers": [ { "text": "ハワイ王国", "answer_start": 104, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ハワイの島々は火山の活動により海底から隆起して誕生したもので、北西部の古い島々は500万年前から100万年前、ハワイ島などの新しい島は約50万年前に形成された。他の大陸と陸続きであったことはないため無人の島であり、ジェームズ・クックがハワイに到達する以前の先住民たちは、どこかから海を渡り、この地へやってきたことになる。ハワイは他の太平洋の島々の多くがそうであったように、19世紀にアメリカの宣教師がアルファベットを伝えるまで、文字を持たない文化を形成していたため、これらの問いに応える歴史文書は存在していないが、言語学的な推測、熔岩に描かれたカハキイ(ペトログリフ)などの研究から、最初にハワイへやってきたのはオーストロネシア語族のポリネシア人であると考えられており、マオリやタヒチ人と同じ起源にさかのぼることができる。その年代については諸説があり、遺跡の放射性炭素年代測定にもとづき紀元前500年前後から3世紀頃までと考えられている。", "qas": [ { "question": "北西部の古い島々のうち、最も遅くできたのは、何年前にできたのか?", "id": "tr-581-01-000", "answers": [ { "text": "500万年前", "answer_start": 40, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハワイは人々が海を渡ってくる前に無人島であったのは、ハワイが何によりできたからか?", "id": "tr-581-01-001", "answers": [ { "text": "火山の活動", "answer_start": 7, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ハワイが初めて持つようになった文字は何か?", "id": "tr-581-01-002", "answers": [ { "text": "アルファベット", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハワイは誰により初めて文字を持つようになりましたか?", "id": "tr-581-01-003", "answers": [ { "text": "アメリカの宣教師", "answer_start": 191, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "また、ハワイに伝わる神話クムリポからも考古学的な考察と検討が行われている。クムリポは伝記(クアウハウ)、お伽話(カアオ)、歴史伝承(モオレロ)といったジャンルの神話が歌や舞踏、チャントなどで代々の王家に伝承されたものであり、1700年頃に作られたものとされている。公式な発表としては1881年にカラカウアが公表したもの、1889年にリリウオカラニによって英訳されたものなどがある。クムリポでは創作された寓話を交えつつハワイ人の起源から13世紀前後の出来事までが語られている。言語学的見地、歴史遺構や伝承神話などからの類推により、ポリネシア人はカタマランやアウトリガーカヌーを操り、マルキーズ諸島を経由してやってきたと見られ、さらに数世紀後900年ごろに、タヒチ島を中心とするソシエテ諸島からやってきたポリネシア系移民が定着したのが始まりとされている。なお、このポリネシア人たちの航海が本当に可能だったのかどうかについて、1976年から検証航海が行われた。ピウス・マウ・ピアイルグら17人の男女が乗り込んだ丸木舟「ホクレア号」は、マウイ島を出発し、31日目にタヒチに到着、1978年にはタヒチからマウイ島への航海も成功させ、ポリネシア人たちの太平洋の航海が不可能ではないことを証明した。", "qas": [ { "question": "クムリポはいつ作られたと予測されているのか?", "id": "tr-581-02-000", "answers": [ { "text": "1700年頃", "answer_start": 112, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポリネシア人がどこからどうやってハワイまで来たかは、歴史遺構や何によって類推されているの?", "id": "tr-581-02-001", "answers": [ { "text": "伝承神話", "answer_start": 249, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ポリネシア人たちの太平洋の航海が不可能ではなかったことを証明しに参加した17人のうち、この文書で紹介されているのは、誰か?", "id": "tr-581-02-002", "answers": [ { "text": "ピウス・マウ・ピアイルグ", "answer_start": 427, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書で紹介されている、ハワイの神話に関する公式な発表のうち、より早かったのは誰の発表でしたか?", "id": "tr-581-02-003", "answers": [ { "text": "カラカウア", "answer_start": 147, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ただし、なぜ彼らが移動する必要があったのかについては、ハワイの神話やペトログリフを紐解いてみても遠方への航海や交流を暗示するものはあっても、その明確な記述は無く、それまで居住していた島が手狭になった、飢饉になった、他の島との戦で追放された、等の後年の歴史家による根拠の薄い仮説が打ち立てられているに過ぎない。彼らはハワイ諸島へ定住するため、タヒチ島間を断続的に往復し、タロイモ、ココナッツ、バナナといった植物や、豚、犬、鶏といった動物をハワイ諸島へ運び込んだ。この「大航海」は14世紀頃まで続いた。フラをはじめとする古きハワイの文化も、この交流の過程でもたらされたと考えられている。12世紀頃には族長(アリイ)による土地の支配と統制がはじまり、階級社会が誕生した。アリイを頂点とし、神官(カフナ)、職人や庶民(マカアイナナ)、奴隷(カウバ)が続いた。土地の支配はアフプアアと呼ばれる制度で規律され、山頂と海岸を結ぶ二本の線を土地の基本単位とし、境界線には豚(プアア)をかたどった像(アフ)が備えられた。アリイはヘルメットを被り、羽編みのマントを身に付け、マナという特別な力を持つとされた。また、カウバは共同生活の規律を乱す犯罪者や他の土地の捕虜の階級で、顔に入墨を彫られ、他階級との交わりが禁じられていた。時にはカフナの行うまじないごとの生贄とされることもあった。", "qas": [ { "question": "ハワイに階級社会が誕生したのは、いつなの?", "id": "tr-581-03-000", "answers": [ { "text": "12世紀頃", "answer_start": 291, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハワイの階級社会でアリイを除き、最も高かった階級は何ですか?", "id": "tr-581-03-001", "answers": [ { "text": "神官", "answer_start": 341, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カウバをまじないごとの生贄としたのは、階級は何か?", "id": "tr-581-03-002", "answers": [ { "text": "カフナ", "answer_start": 556, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハワイの土地支配制度とは、何か?", "id": "tr-581-03-003", "answers": [ { "text": "アフプアア", "answer_start": 381, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1778年、イギリスの海洋探検家ジェームズ・クックによって、1月18日にオアフ島が、1月20日にカウアイ島が「発見」され、ワイメア・ベイにレゾリューション号、ディスカバリー号を投錨し、ヨーロッパ人としてハワイ諸島への初上陸を果たした。クックは、上官の海軍本部長サンドウィッチ伯爵の名から、サンドウィッチ諸島と命名した。しかし、クックがサンドウィッチ諸島と名づける以前より、現地ハワイ人の間では既にハワイという名称が定着していた。突然の見たこともない大きな船の到来と、そこに佇む異様な衣を纏う乗組員に先住民は驚きおののいた。新しい海路の発見を目指す一行は同年2月に一旦ハワイを離れ、北西へと旅立った。その後、同年11月にハワイを再訪したクックは、マウイ島とオアフ島の船上調査後、1779年1月17日、ハワイ島ケアラケクア湾へ上陸した。ハワイ島の王であったカラニオプウはクックをロノの化身と錯誤し、ヘイアウの奥に鎮座する祭壇へ案内し、神と崇めた。クックは先住民に神と間違えられる事は何度も経験しており、先住民らが望みそうな振る舞いを演じてみせた。丁度マカヒキの期間であったので、先住民らにより豊穣の神ロノを讃えるその祭が執り行われ、クックらに酒池肉林のもてなしを行う。長い航海で女に飢えていた乗組員らは現地の若い先住民の女を侍らせ、約3週間宴に興じた。", "qas": [ { "question": "ハワイ諸島をサンドウィッチ諸島と名付けた人は、どの国の人か?", "id": "tr-581-04-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 6, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハワイ島の王はクックを何と錯誤したの?", "id": "tr-581-04-001", "answers": [ { "text": "ロノの化身", "answer_start": 387, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "オアフ島とカウアイ島のうち、クックがより早く発見した島はどの島か?", "id": "tr-581-04-002", "answers": [ { "text": "オアフ島", "answer_start": 36, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1779年1月17日にクックが発見した島の王は誰だったか?", "id": "tr-581-04-003", "answers": [ { "text": "カラニオプウ", "answer_start": 376, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2月4日、クック一行は必要な物資を積み込み、北洋へ漕ぎ出したが、カワイハイ沖で遭遇した暴風雨にレゾリューション号のメインマストが破損したため、2月11日、再度ハワイ島へ戻り修繕にあたろうとした。しかし、先住民らは「クックはあまりにも人間的な肉欲を持っている」「ロノ神の乗る船があのように傷つくものだろうか」といった疑念を持ち始める。先住民らが険悪な様相でディスカバリー号のボートを奪い取ろうとしたため、クックはカラニオプウを人質として拘束した。この諍いは乱闘へ発展し、1779年2月14日、クックは4名の水兵と共に殺害されるに至った。ディスカバリー号を率いていたチャールズ・クラークは、大急ぎで船の修復を終え、イギリスへと舵を取った。クラークは同年8月に結核で死亡したため、その後はジョン・ゴアが指揮を取り、イギリスに帰還した。海軍本部、英国王立協会にクックの死、北方海路探索の失敗、そしてサンドウィッチ諸島の発見を報告し、欧米にその存在を知らしめた。この頃のハワイ諸島には大族長(アリイ・ヌイ)による島単位での統治が行われていた。ハワイ島をカラニオプウが、それ以外の島をマウイ島の大族長カヘキリが支配していた。大族長は世襲制であったため、1782年にカラニオプウが没すると息子のキワラオが王位を継承した。軍隊の指揮で頭角を現しつつあったカラニオプウの甥にあたるカメハメハはこのとき戦争の神(クカイリモク)という称号を授かり、コハラおよびコナの領地を譲り受けた。これに立腹したキワラオはカメハメハに戦争をしかけたが、モクオハイの戦闘で負傷し、逆に1790年、カメハメハによるハワイ島統一が成された。", "qas": [ { "question": "欧米にハワイの存在が知らされたのは、何号がイギリスへ帰還したからか?", "id": "tr-581-05-000", "answers": [ { "text": "ディスカバリー号", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "結局、ハワイ諸島の存在を報告したのは、誰か?", "id": "tr-581-05-001", "answers": [ { "text": "ジョン・ゴア", "answer_start": 341, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハワイ島を統一したのは、誰か?", "id": "tr-581-05-002", "answers": [ { "text": "カメハメハ", "answer_start": 643, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書で紹介されているハワイ島の王のうち、大族長でなかった人は、誰か?", "id": "tr-581-05-003", "answers": [ { "text": "カメハメハ", "answer_start": 643, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "クックのハワイ諸島発見以降、交易を求める者や植民地主義の帝国からの来航が頻繁に発生していたが、カメハメハは外交手腕に優れ、欧米列国の領土的野心を封じる先見性も持っていた。カメハメハはクックの後継者とも言えるジョージ・バンクーバーを懇意にし、1794年2月24日、ハワイにおけるイギリス人水兵の安全保障の見返りとして外国のハワイ侵略をイギリスが防衛する防衛援助協定を取り付けることに成功した。これを契機に、イギリスから仕入れた銃器を手に1795年2月、カメハメハはハワイ諸島統一に向けて動き出し、同年4月までにニイハウ島とカウアイ島を除くすべての島を制圧し、ハワイ王国を誕生させた。1800年、残りの島の制圧を目指したが嵐や疫病の発生により不調に終わった。1810年、アメリカ人ウィンシップ兄弟の協力を得てカウアイ島大族長カウムアリイとの交渉を行い、カウムアリイの終身統治を条件としてカウアイ島およびニイハウ島の割譲に成功し、ハワイ諸島の統一を成し遂げた。", "qas": [ { "question": "カメハメハがほぼすべてのハワイ諸島を手にすることができたのは、どの国との交流に力を入れたためか?", "id": "tr-581-06-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 138, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カメハメハがハワイ諸島の統一に成功したのは、どの国の協力があったからか?", "id": "tr-581-06-001", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 333, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カメハメハがイギリスと防衛援助協定を結んだのはいつなの?", "id": "tr-581-06-002", "answers": [ { "text": "1794年2月24日", "answer_start": 120, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハワイ諸島を統一したのは、誰ですか?", "id": "tr-581-06-003", "answers": [ { "text": "カメハメハ", "answer_start": 85, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "カメハメハが1819年5月8日に他界すると、長男のリホリホが王位を継承した。しかし、執政能力に不安を感じていたカメハメハは摂政(クヒナ・ヌイ)の地位を新設し、リホリホの義母にあたる妻のカアフマヌをその地位に充てた。カアフマヌは、リホリホの母であるケオプオラニと協力し12世紀以降続いていた禁令制度(カプ)の廃止を進めた。土着信仰として根付き、かつカフナたちの立場的優位性を築いてきたタブーを率先して破り、神および神官の存在を否定した。こうして古代宗教の神殿は破壊され、礼拝や生贄といった儀式も中止されることとなったが、階層構造により保たれていた秩序や規範も崩壊し、ハワイ王国は波乱の時代を迎えることとなった。1820年3月31日、アメリカ海外伝道評議会が派遣した聖職者ハイラム・ビンガム、アーサー・サーストンらを乗せたタディアス号がニューイングランドよりコハラに到着した。彼らはそこで見たハワイ先住民たちの非道徳的な振舞いに衝撃を覚える。男はマロと呼ばれるふんどしのような帯のみを身につけ、女は草で作った腰みのだけを身に付け、フラダンスという扇情的な踊りを踊り、生まれた幼児を平気で間引く彼らの文化は、無知で、野蛮で、非人道的なものであると理解するに十分であった。こうした風紀と社会秩序の乱れを回復すべく、ビンガムを主導として宣教師らはプロテスタンティズムによる社会統制を試みた。こうしたアメリカ人宣教師らの影響は次第に教育、政治、経済の各分野へ広がっていった。", "qas": [ { "question": "昔からのハワイの階級社会の変革により、なくなった階級は何なの?", "id": "tr-581-07-000", "answers": [ { "text": "神官", "answer_start": 206, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "誰がハワイ王国の王位に座っていた時代に、階級社会とともに社会秩序や規範が崩壊されましたか?", "id": "tr-581-07-001", "answers": [ { "text": "リホリホ", "answer_start": 25, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "社会秩序と規範が崩れたハワイ王国を見て、新たな社会統制制度を導入しようとしたのは、どの国の人々か?", "id": "tr-581-07-002", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 315, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カメハメハが死んでから実質的な権力を握ったのは、誰か?", "id": "tr-581-07-003", "answers": [ { "text": "カアフマヌ", "answer_start": 92, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "外交の発展により、ハワイ王国では貨幣経済が急速に浸透し、後払いによる外国製品の輸入を続けたため、みるみる負債が膨らんでいった。この状況を打破しようと、1823年11月23日、リホリホは王妃のカママルを連れ、貿易問題の解消を求めてイギリス・ロンドンへ赴いた。しかし一行は滞在先で麻疹に感染し、カママルは翌年7月8日に、リホリホは7月14日に他界してしまった。リホリホの死を受け、わずか10歳の弟、カウイケアオウリが翌1825年6月6日に大王に即位する。宣教師たちは実質的な実権を握る摂政カアフマヌに近づき、ハワイのキリスト教化をすすめることに成功した。1827年、フランスよりカトリック教会の宣教師がハワイへ上陸したが、すでにプロテスタントが浸透しつつあったハワイでの他宗派の影響による混乱を危惧し、カアフマヌは退去を命じる。しかし1837年、再びカトリック司祭が来航したことから同年12月18日、ハワイでのカトリックの布教と信仰の禁止の命がカウイケアオウリより下された。この命は1839年に解除されたが、太平洋の他の諸島と違い、ハワイにおけるプロテスタントの影響は優勢であり続けた。プロテスタントの宣教師らはまずハワイ人に読み書きから教え始め、1822年にはアルファベットによるハワイ語が確立、1834年には太平洋地域で初となる新聞『カ・ラマ・ハワイ』(1834年6月、マウイ島)、『クム・ハワイ』(1834年10月、ホノルル)が発行され、1839年には聖書が出版された。徹底した文教政策が奏功し、ハワイ住民の教育水準は飛躍的な高まりを見せ、近代化が加速度的に進行した。しかしこれは同時にハワイの伝統的な文化の断絶を意味していた。", "qas": [ { "question": "リホリホと王妃のカママルが死んでしまったのは、どんな問題の解消のためにロンドンへ向かう途中に麻疹に感染したからか?", "id": "tr-581-08-000", "answers": [ { "text": "貿易問題", "answer_start": 103, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハワイではカトリックとプロテスタントのうち、どちらの影響力が優勢であったの?", "id": "tr-581-08-001", "answers": [ { "text": "プロテスタント", "answer_start": 471, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カウイケアオウリにより禁止された宗教とは、どの国から入ってきましたか?", "id": "tr-581-08-002", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 281, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハワイで急速的な近代化とともにハワイの伝統的な文化の断絶が進行したのは、どの宗教の宣教師らによることだったのか?", "id": "tr-581-08-003", "answers": [ { "text": "プロテスタント", "answer_start": 471, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1832年、カアフマヌが没したため、摂政の後任としてカメハメハの娘にあたるキナウが就任した。ハワイ王国は西欧的社会の移入を押し進め、イギリスのマグナ・カルタを基に1839年に「権利宣言」を公布、翌1840年10月8日にハワイ憲法が公布され、立憲君主制が成立した。1845年には基本法によって行政府として王、摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職が置かれ、15名の世襲制議員と7名の代議員からなる立法議会が開かれた。しかし、なじみの浅い西欧文化に戸惑うハワイ人を他所に、ハワイに帰化した欧米の外国人がハワイ政府の要職に就く様子が見られるようになる。こうした土壌で、1852年にはハワイ新憲法が採択されることとなった。この新憲法にはエイブラハム・リンカーンが奴隷解放宣言を行うはるか前に奴隷制禁止条項が盛り込まれるなど、リベラルなものとなった。こうした西欧化はアフプアアを伝統とした土地制度にも及び、欧米的な土地私有の概念が取り込まれた。1848年には土地法が制定され、ハワイの土地は王領地、官有地、族長領地に分割された。しかし1850年、外国人による土地の私有が認められるようになると、対外債務を抱えていたハワイ政府は土地の売却で負債を補うようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島の約75%の土地が外国人の支配する土地となり、生活の基盤を失うこととなった。", "qas": [ { "question": "ハワイ王国における西欧化は、どの国により進められましたか?", "id": "tr-581-09-000", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 66, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1848年に制定された法が改正されたのは、何年か?", "id": "tr-581-09-001", "answers": [ { "text": "1850年", "answer_start": 465, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence 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"1854年、カウイケアオウリの没後、1855年1月11日、摂政であったキナウの次男アレクサンダー・リホリホが王位に就いた。この頃の行政府内にはアメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの対立したグループが形成されていた。前王が採択した一般成人男子の参政権獲得による王権の失墜を危惧したアレクサンダー・リホリホは兄のロト・カメハメハと協力し、貴族主義的な君主制の確立を目指した。イギリスの王制を高く評価していたアレクサンダー・リホリホは1860年、「ハワイアン改革カトリック教」という名のエピスコパルをハワイに設立し、イギリス本土よりトーマス・ステイリーをはじめとする英国国教会の聖職者を招聘した。この背景には息子アルバートを洗礼させ、イギリスのヴィクトリア女王を教母として立てることで列強諸国と対等の関係を築こうとした政治的思惑があったとされる。しかし、1862年に溺愛する息子を亡くし、そのショックから立ち直れぬまま翌1863年11月30日にアレクサンダー・リホリホ自身も死亡し、この目論見が未達に終わる。王位は即日兄のロト・カメハメハが継承した。ロト・カメハメハは王権復古を目指して1864年8月20日に新憲法を公布した。親英の王が続いたことでハワイ王国がイギリスに傾斜することを危惧したアメリカ合衆国は、極秘裏にハワイ王国の併合計画を始めた。こうした中、次代の王位継承者を指名することなくロト・カメハメハが1872年に急逝する。王位決定権が議会に委ねられ、親米派のルナリロが1873年1月9日に即位した。ルナリロはアメリカ人を閣僚に据え、アメリカからの政治的、経済的援助を求める政策を執った。アメリカとの互恵条約締結を目的とし、交渉がなされたが、ルナリロが結核に罹り、そのまま没したため、王位は再び議会に委ねられることとなった。選挙の結果、カメハメハの有力な助言者カメエイアモク、ケイアウェアヘウルの子孫に当たるカラカウアが当選し、1874年2月13日に即位した。", "qas": [ { "question": "アレクサンダー・リホリホが高く評価していた国の王は誰か?", "id": "tr-581-10-000", "answers": [ { "text": "ヴィクトリア女王", "answer_start": 324, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アレクサンダー・リホリホとロト・カメハメハ、ルナリロの3人の王のうち、王位継承の方法が違う一人は、誰?", "id": "tr-581-10-001", "answers": [ { "text": "ルナリロ", "answer_start": 637, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ロト・カメハメハとカラカウアのうち、ルナリロと同じ方法で王位に即位したのは、誰ですか?", "id": "tr-581-10-002", "answers": [ { "text": "カラカウア", "answer_start": 811, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ロト・カメハメハが死んでから、二人の王の王位はどのような方法により決定されたか?", "id": "tr-581-10-003", "answers": [ { "text": "選挙", "answer_start": 769, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "カラカウアは前王の意思を継ぎ、1875年6月3日、米布互恵条約締結を成し遂げた。この条約によりハワイの全ての生産品は非課税でアメリカへの輸出が可能となったが、第4条として「ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない」との文言が組み込まれ、ハワイのアメリカ傾倒へ拍車が掛かることとなった。有効期限を7年と定めていた最初の条約の期限が近づいた1883年、この条約は米や砂糖の生産業者などアメリカ国内において、合衆国の利益を損失するとして少なからぬ批判が噴出したが、上院議員ジョン・モーガンなどの帝国主義的拡張論者らにより、「その他の、より高次元な益がある」として反対勢力を押さえ込み、かねてよりモーガンが主張していた真珠湾の独占使用権を獲得することを条件として1887年11月に条約の更新がなされた。1887年、野党議員ロリン・サーストンが中心となって急進的な改革を志向する秘密結社ハワイアンリーグが設立された。同年6月30日、ハワイアンリーグはハワイの白人市民義勇軍ホノルルライフルズと協力し、カラカウアに対して首相であったウォルター・ギブソンの退陣と新憲法の採択を要求した。これに対し有効な対策が取れなかったカラカウアは自ら組閣した内閣を解散した。その後、ホノルルライフルズらが起草した新憲法を半ば強引にカラカウアに承認させ、1887年7月6日に通称ベイオネット憲法が成立し、王権の弱体化はさらに進んだ。カラカウアは強大化するアメリカ系勢力を牽制しようと日本を盟主とする東洋諸国との同盟やベイオネット憲法の廃案を画策するなど王権の復古を試みたが、1891年1月20日、志を貫徹することなくサンフランシスコにて客死した。1891年1月29日、後任としてカラカウアの妹に当たるリリウオカラニが王位に就いた。しかし、リリウオカラニの指名した閣僚が再三にわたりそれを拒否し、内閣が成立しない政治危機が続き、1892年11月8日、ようやく組閣のための閣僚承認がなされた。リリウオカラニは山積する問題のうち、財政難打破の対策として宝くじやアヘンの売買を認可制度の下に許可するという法律を制定したが、この政策に対し、アメリカ系白人勢力から道徳的観点からの批判が噴出した。また、ベイオネット憲法に不満を募らせる王権派ハワイ人たちへの対策として1864年の憲法をバックグラウンドとした新憲法の制定を計画した。こうした動きに危機感を覚えたアメリカ公使ジョン・スティーブンスはロリン・サーストン、サンフォード・ドールらと接触し、ハワイの併合に対して、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立という具体的な計画を始めた。", "qas": [ { "question": "カラカウアが1875年6月3日にアメリカと結んだ条約が更新されるとき、アメリカ側で要求した独占使用権とは、どこにおける独占使用権でしたか?", "id": "tr-581-11-000", "answers": [ { "text": "真珠湾", "answer_start": 321, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カラカウアが自ら組閣した内閣を解散したのは、誰を中心とする勢力が彼を圧迫したからか?", "id": "tr-581-11-001", "answers": [ { "text": "ロリン・サーストン", "answer_start": 373, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1864年の憲法をバックグラウンドとした新憲法の制定を計画したのは、王権派ハワイ人たちがいつ制定された憲法に不満を持っていたからか?", "id": "tr-581-11-002", "answers": [ { "text": "1887年7月6日", "answer_start": 578, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "リリウオカラニの動きに危機感を感じ、ハワイの併合のために動き始めた人物は?", "id": "tr-581-11-003", "answers": [ { "text": "ジョン・スティーブンス", "answer_start": 1030, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "スズキ", "paragraphs": [ { "context": "スズキ(鱸、学名:Lateolabraxjaponicus)は、スズキ目・スズキ亜目・スズキ科に属する魚である。海岸近くや河川に生息する大型の肉食魚で、食用や釣りの対象魚として人気がある。成長につれて呼び名が変わる出世魚である。\n\nスズキはいわゆる出世魚で、成長とともに呼び名が変わる。ただし、地方によって呼び名は様々に異なり、統一的な定義はない。\n\n例として関東では1年ものと2年もので全長20-30cm程度までのものを「セイゴ」(鮬)、2、3年目以降の魚で全長40-60cm程度までを「フッコ」、それ以上の大きさの通常4-5年もの以降程度の成熟魚を「スズキ」と呼んでいる。関西では「フッコ」の代わりに「ハネ」という呼称が使われている。東海地方では60cm程度までを一律に「セイゴ」、それ以上の大きさの成熟魚を「マダカ」と呼んで二分することが多い。宮城県周辺では小型のものを「セッパ」とも呼ぶ。有明海産は地元の人からは「ハクラ」と呼ばれている。", "qas": [ { "question": "スズキの学名は何ですか?", "id": "tr-582-00-000", "answers": [ { "text": "Lateolabraxjaponicus", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "生物学的分類で、スズキはどの科に分類されますか?", "id": "tr-582-00-001", "answers": [ { "text": "スズキ科", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "成長につれて呼び名が変わる魚をどう呼びますか?", "id": "tr-582-00-002", "answers": [ { "text": "出世魚", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "餌の種類による分類で、スズキはどこに属しますか?", "id": "tr-582-00-003", "answers": [ { "text": "肉食魚", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "全長20-30cm程度までのスズキを関東ではどうお呼びしますか?", "id": "tr-582-00-004", "answers": [ { "text": "「セイゴ」", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1年ものと2年ものスズキの関東での呼び名は何ですか?", "id": "tr-582-00-005", "answers": [ { "text": "「セイゴ」", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "関東では2、3年目以降のスズキをどう呼びますか?", "id": "tr-582-00-006", "answers": [ { "text": "「フッコ」", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "40-60cm程度まで成長したスズキを関東ではどう呼びますか?", "id": "tr-582-00-007", "answers": [ { "text": "「フッコ」", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "関東では、60cm以上の4-5年もののスズキをどう呼びますか?", "id": "tr-582-00-008", "answers": [ { "text": "「スズキ」", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "関西で「フッコ」の代わりに使われている名称は何ですか?", "id": "tr-582-00-009", "answers": [ { "text": "「ハネ」", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "関西では2、3年目以降のスズキをどう呼びますか?", "id": "tr-582-00-010", "answers": [ { "text": "「ハネ」", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大きさによって「セイゴ」、「マダカ」と二分して呼ぶ地域はどこですか?", "id": "tr-582-00-011", "answers": [ { "text": "東海地方", "answer_start": 319, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東海地方で60CM程度のスズキをどう呼びますか?", "id": "tr-582-00-012", "answers": [ { "text": "「セイゴ」", "answer_start": 337, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "東海地方では60CM以上のスズキがどう呼ばれていますか?", "id": "tr-582-00-013", "answers": [ { "text": "「マダカ」", "answer_start": 356, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宮城県周辺では小型のスズキをどんな名前で呼びますか?", "id": "tr-582-00-014", "answers": [ { "text": "「セッパ」", "answer_start": 388, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "スズキの全長は最大で1mを超える。体は細長くて平たい(側扁する)。口は大きく、下あごが上あごより前に出る。体色は背中側が緑黒色-灰緑色、体側から腹部にかけて銀白色をしている。尾びれはハート型に切れこむ。若い個体の中には背側や背びれに小黒点が散在する個体もあり、成長とともに消えるが、背びれの黒点は大きくなっても残ることがある。\n\n北海道南部から九州までの日本列島沿岸と、朝鮮半島東・南部、沿海州に分布する。冬は湾口部や河口など外洋水の影響を受ける水域で産卵や越冬を行ない、春から秋には内湾や河川内で暮らすという比較的規則的な回遊を行なう。昼間はあまり動かないが夜になると動きだす。食性は肉食性で、小魚や甲殻類などを大きな口で捕食する。\n\n産卵期は大体10月から3月で、盛期は日本の多くの場所で12月から1月である。上記の海域において直径約1.3mmの卵を生む。卵は単独で海中を漂い(分離浮性卵)、仔魚は成長に伴い湾奥や河口近くに集合する。冬から春に湾奥(干潟、アマモ場、ガラモ場、砂浜海岸)や河口付近、河川内の各浅所で仔稚魚が見られる。一部は体長2cmほどの仔稚魚期から純淡水域まで遡上する。この際、遡上前の成長がより悪い個体ほど河川に遡上する傾向がある。仔稚魚は遊泳力が非常に弱いため、潮汐の大きな有明海では上げ潮を利用して、潮汐の非常に小さい日本海では塩水遡上を利用して河川を遡上する。若狭湾で、耳石の微量元素を指標にして調べた結果によれば純淡水域を利用する個体の割合は3割強に上る。仔稚魚はカイアシ類や枝角類などの小型の生物から、アミ類、端脚類などの比較的大型の生物へとを主食を変化させながら成長する。夏になると河川に遡上した個体の一部が5cmほどになり海に下る。\n\n春〜秋にかけての水温の高い時期は浸透圧調整機能も高いため、成魚期以降も少なからぬ個体が河川の純淡水域のかなり上流まで遡上する。かつて堰やダムのなかったころは琵琶湖まで遡上する個体もいたと言われる。現在でも利根川(100km以上)をはじめ多くの河川で遡上が見られる。さいたま水族館(公益財団法人埼玉県公園緑地協会)は飼育水温を常時23度以上に維持することで、多数のスズキを淡水魚として周年、終生、生体展示することに成功している。\n\n一方で、内湾にも多くの個体が存在するが、それらの数と河川の個体の数との比や、相互の移動などについてはよくわかっていない。", "qas": [ { "question": "スズキの全長は最大何mを超えますか?", "id": "tr-582-01-000", "answers": [ { "text": "1m", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキは下あごと上あごのどっちが前に突出していますか?", "id": "tr-582-01-001", "answers": [ { "text": "下あご", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スズキは体側から腹部にかけてどういう色をしていますか?", "id": "tr-582-01-002", "answers": [ { "text": "銀白色", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキの背中側の体の色はどういう色をしていますか?", "id": "tr-582-01-003", "answers": [ { "text": "緑黒色-灰緑色", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキの尾びれはどういう形をしていますか?", "id": "tr-582-01-004", "answers": [ { "text": "ハート型", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スズキの若い個体で見られる背側と背びれの黒い黒点は、成長につれ消えるが、どこの黒点は残る場合もあると報告されましたか?", "id": "tr-582-01-005", "answers": [ { "text": "背びれ", "answer_start": 112, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本に分布いるスズキは北海道南部からどこまでの日本列島沿岸ですか?", "id": "tr-582-01-006", "answers": [ { "text": "九州", "answer_start": 172, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキが産卵をする季節はいつですか?", "id": "tr-582-01-007", "answers": [ { "text": "冬", "answer_start": 203, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキが産卵や越冬を行う水域は何に影響された水域ですか?", "id": "tr-582-01-008", "answers": [ { "text": "外洋水", "answer_start": 213, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スズキの活動時間帯は昼か夜か?", "id": "tr-582-01-009", "answers": [ { "text": "夜", "answer_start": 280, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スズキの食性はどうですか?", "id": "tr-582-01-010", "answers": [ { "text": "肉食性", "answer_start": 293, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スズキの産卵期は何月から3月までですか?", "id": "tr-582-01-011", "answers": [ { "text": "10月", "answer_start": 325, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキの産卵期は10月から何月までですか?", "id": "tr-582-01-012", "answers": [ { "text": "3月", "answer_start": 330, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキの産卵期が盛期を迎えるのはいつからいつまでですか?", "id": "tr-582-01-013", "answers": [ { "text": "12月から1月", "answer_start": 346, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキの卵の大きさは直径何mmくらいですか?", "id": "tr-582-01-014", "answers": [ { "text": "約1.3mm", "answer_start": 368, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "単独で海中を漂うような卵をどう呼びますか?", "id": "tr-582-01-015", 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"春〜秋にかけて、成魚期以降のスズキが純淡水域の上流まで遡上するのはどういう機能が高くなったためですか?", "id": "tr-582-01-020", "answers": [ { "text": "浸透圧調整機能", "answer_start": 753, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "さいたま水族館では飼育水温を何度以上に保っていますか?", "id": "tr-582-01-021", "answers": [ { "text": "23度", "answer_start": 901, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ヒラスズキは全長は最大で1mを超える。スズキによく似ているが和名のとおり体高がより高くて平たい体型をしている。他には吻がやや長くて下あごの下面に鱗があること(無いものもある)、尾びれのつけ根が太くて切れこみも浅いこと、側線下方鱗や背鰭軟条数などで他の2種と区別できる。また、頭に対し目が大きい。房総半島および能登半島から屋久島までの太平洋側および日本海側の沿岸、朝鮮半島南岸に分布する。沖縄にも生息するらしい。成魚は外洋に面した岩礁域に主に生息する。大きな内湾にはあまり侵入しないが,外洋に面した河口域には稚魚や若魚を中心に普通にみられる。産卵期は11月から4月頃と考えられるが、年によってあるいは海域によって異なるようである。土佐湾では1月ごろから仔稚魚が砂浜海岸などの沿岸浅所に出現し、河川のかなり塩分の低い(1ppt以下)水域にも進入する。種子島では10cm程の個体がスズキのように純淡水域まで遡上した記録がある。生態・生理など不明な部分が多い魚である。水産資源としてはスズキより少なく、美味とされ価格も高めである。", "qas": [ { "question": "ヒラスズキの最大身長は何mを超えますか?", "id": "tr-582-02-000", "answers": [ { "text": "1m", "answer_start": 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"タイリクスズキは全長1mほどである。日本記録は1.38m(拓寸)である。近年までスズキと同種とされていた。鰓杷数、脊椎骨数および側線鱗数で区別できる。スズキと異なり成魚でも多くの個体で黒点が目立つため「ホシスズキ」とも呼ばれるが、黒点の全くない個体もある。もとは中国沿岸、台湾、朝鮮半島西岸に分布し、日本沿岸には分布していなかったが、養殖用に輸入された個体が逃げ出して野生化した外来種である。日本で再生産を行なっているのかについては不明である。産卵期は渤海では8月から11月ごろ、上海近海および台湾では1月ごろである。淡水中での繁殖も可能であり、実際に台湾では行われている。中国では河口から400km上流まで遡上する個体もいる。天然水域での生態についてはほとんどわかっていない。", "qas": [ { "question": "タイリクスズキの大きさはどれほでですか?", "id": "tr-582-03-000", "answers": [ { "text": "1m", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "タイリクスズキの日本最大の記録は何mですか?", "id": "tr-582-03-001", "answers": [ { "text": "1.38m", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "タイリクスズキとスズキの区別は鰓杷数、脊椎骨数、黒点のほか何が根拠になりますか?", "id": "tr-582-03-002", "answers": [ { "text": "側線鱗数", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "タイリクスズキとスズキの区別にあたって、黒点、鰓杷数、側線鱗数以外に根拠になりうるものは何ですか?", "id": "tr-582-03-003", "answers": [ { "text": "脊椎骨数", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "タイリクスズキとスズキの違いは黒点、側線鱗数と脊椎骨数ほか何がありますか?", "id": "tr-582-03-004", "answers": [ { "text": "鰓杷数", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "成魚でも多くの個体で黒点が目立つためつけられたタイリクスズキの名前は?", "id": "tr-582-03-005", "answers": [ { "text": "「ホシスズキ」", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "タイリクスズキが輸入されたのはどういう目的だったか。", "id": "tr-582-03-006", "answers": [ { "text": "養殖用", "answer_start": 167, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "タイリクスズキの産卵期は何月から何月までですか?", "id": "tr-582-03-007", "answers": [ { "text": "8月から11月", "answer_start": 230, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "タイリクスズキの産卵期は何月から11月までですか?", "id": "tr-582-03-008", "answers": [ { "text": "8月", "answer_start": 230, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "タイリクスズキの産卵期は8月から何月までですか?", "id": "tr-582-03-009", "answers": [ { "text": "11月", "answer_start": 234, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "上海近海および台湾でのタイリクスズキの産卵期は何月頃ですか?", "id": "tr-582-03-010", "answers": [ { "text": "1月", "answer_start": 235, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "淡水中での繁殖が行われている地域はどこですか?", "id": "tr-582-03-011", "answers": [ { "text": "台湾", "answer_start": 276, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "有明海産スズキは成魚になっても体側に黒点がみられる個体がいること等,形態から日本のスズキL.japonicusと中国のスズキとの中間的な特徴が指摘されていた.仔稚魚期にも色素胞が少ないなど、日本の他地域のスズキとの違いがみられ,有明海のいくつかの魚類のように大陸遺存の可能性が指摘された.アイソザイムやDNAのAFLP解析の結果、スズキとタイリクスズキとの交雑個体群に由来する独特な集団であることが示された。", "qas": [ { "question": "有明海産スズキは日本とどこのスズキの中間的特性を持っていますか?", "id": "tr-582-04-000", "answers": [ { "text": "中国", "answer_start": 56, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "有明海のスズキは中国とどの国のスズキの中間的特性を持ってますか?", "id": "tr-582-04-001", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 38, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "仔稚魚期にも現れる、日本の他地域のスズキとの違いは何ですか?", "id": "tr-582-04-002", "answers": [ { "text": "色素胞が少ない", "answer_start": 85, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アイソザイムやDNAのAFLP解析によると、有明海のスズキはスズキとどの種の交雑個体群に由来しますか?", "id": "tr-582-04-003", "answers": [ { "text": "タイリクスズキ", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "有明海のスズキはタイリクスズキとどの種の交雑個体群に由来しますか?", "id": "tr-582-04-004", "answers": [ { "text": "スズキ", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "スズキは定置網、刺し網などの沿岸漁業で多く漁獲される。東京湾、伊勢湾、瀬戸内海(大阪湾含む)、有明海(別個体群)などの内湾が主な漁場である。最も漁獲量が多いのは千葉県で、兵庫県が次ぐ。また、養殖は昔から採捕種苗を用いて少量ながら行われていたが、1990年ごろから愛媛県などで主にタイリクスズキを用いた養殖が盛んになった。現在はかつてほど盛んではない。普通のエサ釣りは勿論、海のルアーフィッシングの対象魚としても人気が高い。ルアーフィッシングではスズキによく似たヨーロッパスズキ(スズキ亜目を参照)の英語名からとった「シーバス」(Seabass)の名が定着している。釣りジャーナリストの西山徹がこの名を使用しはじめたといわれる。観賞用等に飼育することも可能であるが、相応の設備が必要である。", "qas": [ { "question": "スズキの漁獲量がもっとも多い県はどこですか?", "id": "tr-582-05-000", "answers": [ { "text": "千葉県", "answer_start": 80, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキの漁獲量が2番目に多い県はどこですか?", "id": "tr-582-05-001", "answers": [ { "text": "兵庫県", "answer_start": 85, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "昔からスズキの養殖に使われたのは何ですか?", "id": "tr-582-05-002", "answers": [ { "text": "採捕種苗", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "タイリクスズキを利用するスズキの養殖はいつ頃から盛んになり始まりましたか?", "id": "tr-582-05-003", "answers": [ { "text": "1990年", "answer_start": 122, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1990年ごろから愛媛県などでのスズキの養殖にはどういう種が主に使われますか?", "id": "tr-582-05-004", "answers": [ { "text": "タイリクスズキ", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ルアーフィッシングでは定着されている名称は何ですか?", "id": "tr-582-05-005", "answers": [ { "text": "「シーバス」", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨーロッパスズキの英語名は何ですか?", "id": "tr-582-05-006", "answers": [ { "text": "Seabass", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world 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"身は血合いがほとんどない白身で、「スズキ」という和名が「すすぎ洗いしたようなきれいな身」に由来するとする説もあるほどである。身の質はタイに似て、柔らかくて癖もなくあっさりしている。関東よりも関西でよく食べられる。産卵期である冬に、内湾に産卵回遊した大型のスズキが多獲されて多く市場に出回り、そのためにスズキの旬が冬とされることがあるが、この時期には生殖腺に栄養が多く要求されるために体は痩せて肉質は非常に悪い。スズキの肉質がよくなるのは夏で、夏のスズキはよく太って非常に美味である。旬の定義をその魚が最もおいしい時期とするならば、スズキの旬は夏である。生息場所が沿岸であることから水質のよくない河川や工場排水の流れ込む場所で捕獲されるスズキは臭みがあり敬遠されることがある。河川によっては食用に耐えない臭いのする個体もいるので注意。\n\n良好な水質に生息する個体は、魚肉やアラのみならず、肝臓や心臓はソテー、腸は吸い物や煮物、刺身で余った皮は炙り焼き、骨は出汁とり等々、捨てる部分がほとんどなく無駄なく食べられる。しかし、透明度が高く一見きれいな水域であっても、とくに臓器に長期間滞留するとされるダイオキシンやポリ塩化ビフェニル(PCB)、重金属などで汚染された水域や、良好でない水域で捕獲した個体の内臓を食べることは避けるべきであり、これらの水域で捕獲した個体は魚肉であっても継続的な摂取は避けるほうが無難である。環境省が毎年発行している「化学物質と環境」(年次報告書)にはスズキのPCB等の内分泌攪乱物質濃度が公開されており、東京湾におけるスズキのPCB濃度が高くなっているので、妊婦が摂食する場合には専門家に相談することが望ましい。", "qas": [ { "question": "スズキの身はどんな色をしていますか?", "id": "tr-582-06-000", "answers": [ { "text": "白", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキの身の質はどの魚と似ていますか?", "id": "tr-582-06-001", "answers": [ { "text": "タイ", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキの産卵期の季節はいつですか?", "id": "tr-582-06-002", "answers": [ { "text": "冬", "answer_start": 112, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキが一番市場に出回ってくる季節は何ですか?", "id": "tr-582-06-003", "answers": [ { "text": "冬", "answer_start": 112, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "産卵期のスズキの肉質は非常に悪くなる理由はどこに栄養が多く要求されるためですか?", "id": "tr-582-06-004", "answers": [ { "text": "生殖腺", "answer_start": 174, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキが最もおいしい季節はいつですか?", "id": "tr-582-06-005", "answers": [ { "text": "夏", "answer_start": 271, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキの肝臓や心臓をどう食べますか?", "id": "tr-582-06-006", "answers": [ { "text": "ソテー", "answer_start": 399, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "刺身で余ったスズキの皮はどう料理して食べますか?", "id": "tr-582-06-007", "answers": [ { "text": "炙り焼き", "answer_start": 420, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキの骨はどこに使われますか?", "id": "tr-582-06-008", "answers": [ { "text": "出汁とり", "answer_start": 427, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「化学物質と環境」はどこで発刊されるものですか?", "id": "tr-582-06-009", "answers": [ { "text": "環境省", "answer_start": 607, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スズキのPCB等の内分泌攪乱物質濃度などが乗せられている環境省の年次報告書の名は?", "id": "tr-582-06-010", "answers": [ { "text": "「化学物質と環境」", "answer_start": 619, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "生きたものを調理あるいは活け締めする場合、暴れる上、鰓蓋が非常に鋭く危険であるので、頭部をたたいて失神させてから行うとよい。または、脊椎を切断しなくとも鰓の周囲を包丁でさぐり、尾の付け根の血管も切断して血がにじみ出るのを確認してからしばらく海水中に置けば締められる。\n\n特に捕獲してすぐに頭部の付け根付近の脊椎を切断、尾の付け根の血管も切断して活け締めにし、手早く薄造りにしたものを氷を入れた日本酒、または氷水で身が白濁するまで余分な脂肪分を落とした洗いが、日本料理では最も美味だとする食通、料理研究家や識者の評価が多い。\n\n大部分の魚類同様、目の周囲の脂身は眼球を動かす筋肉と旨みが凝縮された脂肪分(DHAなどヒトの健康に有益とされる栄養素を多量に含む)を堪能でき、カマや胸鰭の付け根などのアラも筋肉質で身が締まっており、煮ても焼いても美味である。\n\n旬以外でも年間を通して癖のない白身は高級食材としてフランス料理にも多用され、カルパッチョ、ムニエル、ポワレ、にも重宝されている。\n\n新鮮なものは刺身にするが、昆布じめ、膾、寿司ネタなど、刺身に手を加えて味や歯ざわりを楽しめるようにした料理もよく作られる。他にタタキ、揚げ物、炒め物、塩焼き、奉書焼、煮付、鍋物など、和洋中を問わず多種多様な料理に利用される。\n\n変わったところでは、燻製も美味である。", "qas": [ { "question": "スズキを暴れる過程で、非常に鋭く危険があるため注意が必要な部位はどこですか?", "id": "tr-582-07-000", "answers": [ { "text": "鰓蓋", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキの非常に鋭い鰓蓋のため、たたいて失神させる必要がある部位はどこですか?", "id": "tr-582-07-001", "answers": [ { "text": "頭部", "answer_start": 42, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本料理では最も美味だとする食通、料理研究家や識者の評価高いスズキの洗い方では、手早く薄造りにしたものを氷水または氷を入れた何を使って身が白濁するまで余分な脂肪分を落とすのがベストですか?", "id": "tr-582-07-002", "answers": [ { "text": "日本酒", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スズキの旨みが凝縮された脂肪分にはどういう成分が多量含まれていますか?", "id": "tr-582-07-003", "answers": [ { "text": "DHA", "answer_start": 301, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スズキがよく使われる料理はどこの料理ですか?", "id": "tr-582-07-004", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 402, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スズキを暴れる過程で、非常に鋭く危険があるため気を付けなきゃいけない部位は?", "id": "tr-582-07-005", "answers": [ { "text": "鰓蓋", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "プトレマイオス朝", "paragraphs": [ { "context": "プトレマイオス朝はグレコ・マケドニア人を中核とした古代エジプトの王朝である。アレクサンドロス3世(大王)の死後、その後継者(ディアドコイ)となったラゴスの子プトレマイオス(1世)によって建設された。建国者の父親の名前からラゴス朝とも呼ばれ、セレウコス朝やアンティゴノス朝とともに、いわゆるヘレニズム国家の一つに数えられる。首都アレクサンドリアは古代地中海世界の経済、社会、文化の中心地として大きく発展し、そこに設けられたムセイオンと付属の図書館(アレクサンドリア図書館)を中心に優れた学者を多数輩出した。対外的にはシリアを巡ってセレウコス朝と、エーゲ海の島々やキュプロス島を巡ってアンティゴノス朝と長期にわたって戦いを繰り返したが、その終焉までエジプトを支配する王朝という大枠から外れることはなかった。この王朝が残したロゼッタ・ストーンは近代のエジプト語解読のきっかけを作った。", "qas": [ { "question": "プトレマイオス朝の中核を構成していたのは、どんな人々だったの?", "id": "tr-583-00-000", "answers": [ { "text": "グレコ・マケドニア人", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プトレマイオス朝の創始者は、誰ですか?", "id": "tr-583-00-001", "answers": [ { "text": "プトレマイオス", "answer_start": 78, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プトレマイオス朝のことを呼ぶ、別の呼称は、何か?", "id": "tr-583-00-002", "answers": [ { "text": "ラゴス朝", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プトレマイオス朝とセレウコス朝とともに、ヘレニズム国家の一つとされるのは、どの王朝か?", "id": "tr-583-00-003", "answers": [ { "text": "アンティゴノス朝", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ローマが地中海で存在感を増してくると、プトレマイオス朝はその影響を大きく受け、ローマ内の政争に関与すると共に従属国的な色彩を強めていった。実質的な最後の王となったクレオパトラ7世はローマの有力政治家ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスと結んで生き残りを図ったが、アントニウス軍と共にオクタウィアヌスと戦ったアクティウムの海戦での敗北後、自殺に追い込まれた。プトレマイオス朝の領土はローマに接収され、帝政の開始と共に皇帝属州のアエギュプトゥスが設立された。", "qas": [ { "question": "ローマからの影響を強く受けた王朝は、何?", "id": "tr-583-01-000", "answers": [ { "text": "プトレマイオス朝", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プトレマイオス朝の実質的な最後の王とされるのは、誰ですか?", "id": "tr-583-01-001", "answers": [ { "text": "クレオパトラ7世", "answer_start": 81, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クレオパトラ7世は生き残りを図るが、それが失敗に終わり、どのような方法で死ぬことを選んだか?", "id": "tr-583-01-002", "answers": [ { "text": "自殺", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "クレオパトラ7世が生き残るために、誰と手を組んだか?", "id": "tr-583-01-003", "answers": [ { "text": "ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウス", "answer_start": 99, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "マケドニア王国の王、アレクサンドロス3世(大王、在位:前336年-前323年)は、当時西アジアの大半とエジプトを支配していたハカーマニシュ朝(アケメネス朝)を征服するべく、前334年に東方遠征に出発し、その途上、前332年にはエジプトに入り、これを無血平定した。彼はファロス島の対岸、ナイルデルタ西端の地点が良港であると見て、建築家デイノクラティスに都市計画を命じたという。こうしてアレクサンドリア市の建設が始まった。この都市はその後エジプト最大の都市へと発展し、プトレマイオス朝の王都として機能するようになる。アレクサンドロス3世は同年にはエジプト西部の砂漠にあるアメン神(ゼウスと同一視された)の聖所シワ・オアシスを訪れ、「人類全体の王となれるか」と質問をし、「可」という神託を受けたと伝えられる。", "qas": [ { "question": "ハカーマニシュ朝がマケドニア王国により、征服されたのは、何年のことなの?", "id": "tr-583-02-000", "answers": [ { "text": "前332年", "answer_start": 106, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マケドニア王国がハカーマニシュ朝を手に入れるのには、何年がかかりましたか?", "id": "tr-583-02-001", "answers": [ { "text": "2年", "answer_start": 109, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "のちにエジプト最大の都市へと発展したプトレマイオス朝の王都は、誰が国王の命に応じて建設したか?", "id": "tr-583-02-002", "answers": [ { "text": "デイノクラティス", "answer_start": 166, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "デイノクラティスにアレクサンドリア市の建設の命を下した王は、誰か?", "id": "tr-583-02-003", "answers": [ { "text": "アレクサンドロス3世", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アレクサンドロス3世は前331年4月にエジプトを離れてハカーマニシュ朝の残された領土の征服に向かい、生前にエジプトに戻ることはなかった。彼は前331年10月のガウガメラの戦いで勝利し、逃亡したハカーマニシュ朝の王ダーラヤワウ3世(ダレイオス3世)は部下の裏切りによって殺害された。その後、ハカーマニシュ朝の領土のほとんど全てをアレクサンドロス3世が征服したが、彼は前323年にバビロン市で病没した。残された将軍たちはアレクサンドロス3世の後継者(ディアドコイ)たるを主張して争った。一連の戦いはディアドコイ戦争と呼ばれる。当初主導権を握ったのは宰相(キリアルコス、古代ギリシア語:χιλίαρχος)のペルディッカス、有力な将軍であったクラテロス、遠征中にマケドニア本国を任されていたアンティパトロスらであった。他、メレアゲルやレオンナトス、アンティゴノス・モノフタルモス(隻眼のアンティゴノス)、そしてラゴスの子プトレマイオス(1世)らも有力な将軍の列に加わっていた。", "qas": [ { "question": "アレクサンドロス3世は、いつハカーマニシュ朝征服を開始したの?", "id": "tr-583-03-000", "answers": [ { "text": "前331年4月", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アレクサンドロス3世は、どの王朝征服に出かけて戻って来られず、そこで死去したか?", "id": "tr-583-03-001", "answers": [ { "text": "ハカーマニシュ朝", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ガウガメラの戦いは、いつ起こった戦闘のことであるか?", "id": "tr-583-03-002", "answers": [ { "text": "前331年10月", "answer_start": 70, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ガウガメラの戦いで敗れたのは、ダーラヤワウ3世とアレクサンドロス3世のうち、どちらか?", "id": "tr-583-03-003", "answers": [ { "text": "ダーラヤワウ3世", "answer_start": 106, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "プトレマイオスはマケドニアの貴族ラゴスとアルシノエの間の子である。母アルシノエはアレクサンドロス3世の父であるマケドニア王フィリッポス2世の妾であり、後にラゴスに下げ渡されてその妻となりプトレマイオスを産んだ。この経緯から、アルシノエは下げ渡された時点で既にフィリッポス2世の子を身ごもっており、即ちプトレマイオスはフィリッポス2世の落胤(アレクサンドロス3世の異母兄弟)であるという言い伝えが生まれた。これが事実であるかどうかはともかくも、プトレマイオスは世代・身分ともにアレクサンドロス3世に近く、その学友として育ち、友人(ヘタイロイ)として、また信頼厚い将軍として東方遠征で様々な任務に従事した人物であった。", "qas": [ { "question": "プトレマイオスの母親は、誰なの?", "id": "tr-583-04-000", "answers": [ { "text": "アルシノエ", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "プトレマイオスの父親は、誰ですか?", "id": "tr-583-04-001", "answers": [ { "text": "ラゴス", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "プトレマイオスはラゴスではなく、誰の子であるとのうわさもあるか?", "id": "tr-583-04-002", "answers": [ { "text": "フィリッポス2世", "answer_start": 61, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "この文書では、誰の出生、そしてそれに関連のある噂について説明しているか?", "id": "tr-583-04-003", "answers": [ { "text": "プトレマイオス", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "エジプトはギリシア人であるナウクラティスのクレオメネスの管理下に置かれていたが領土の分配と管理について話し合われたバビロン会議の後、プトレマイオス1世がエジプトの実質的な支配権を掌握した。その後、ペルディッカスがアレクサンドロス3世の異母兄アリダイオスと遺児アレクサンドロス4世を管理下に置き帝国の大部分において事実上の首位権を確保したの対し、プトレマイオスはアンティゴノス、ヘレスポントスを支配するリュシマコス、本国のアンティパトロスらと結んで対抗し、親ペルディッカスとみなしたクレオメネスを殺害した。そして自らの立場を強化するためにマケドニア本国へ輸送されるはずであったアレクサンドロス3世の遺体を奪取してエジプトに運び込み、盛大な式典と共にメンフィスに作った仮墓に埋葬した。その後遺体は、アレクサンドリアの墓所「セマ」に安置され、水晶の棺に納められたという。また、西方のギリシア人植民市キュレネも征服してリビュア方面を確保した。ペルディッカスは前321年にプトレマイオスを討つためにエジプトに出兵したがナイル川の渡河に失敗、セレウコスら部下たちに見切りをつけられ暗殺された。", "qas": [ { "question": "バビロン会議の結果、誰がエジプトの実質的な支配権を握ったの?", "id": "tr-583-05-000", "answers": [ { "text": "プトレマイオス1世", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "プトレマイオス1世がエジプトの実質的な支配権を握ることができたのは、どの会議の結果によることでしたか?", "id": "tr-583-05-001", "answers": [ { "text": "バビロン会議", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プトレマイオスと手を組んだリュシマコスは、アンティゴノスとどこの支配者だったか?", "id": "tr-583-05-002", "answers": [ { "text": "ヘレスポントス", "answer_start": 188, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プトレマイオスと手を組んだ本国の人々の指導者は、誰だったか?", "id": "tr-583-05-003", "answers": [ { "text": "アンティパトロス", "answer_start": 210, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ペルディッカスの死後、シリアのトリパラディソスで会議がもたれ、改めて各ディアドコイの領土の配分が話し合われた。この会議でもプトレマイオスはエジプトの支配権を維持した。長老格のアンティパトロスがペルディッカスに代わってアリダイオスとアレクサンドロス4世の後見を任されたが、前319年にアンティパトロスが死んだ後その地位を継承したポリュペルコンに反対して各ディアドコイたちが同盟を結び、プトレマイオスもこれに加わった。以降、アンティゴノス、カルディアのエウメネス、セレウコス、リュシマコス、アンティパトロスの子カッサンドロスと言ったディアドコイ諸侯たちとの間で同盟と対立が繰り返され、アレクサンドロス3世の帝国は次第に分割されて行くことになる。", "qas": [ { "question": "トリパラディソスで開かれた会議では、エジプトの支配権は誰に与えられたか?", "id": "tr-583-06-000", "answers": [ { "text": "プトレマイオス", "answer_start": 61, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アンティパトロスが死んだのは、何年でしたか?", "id": "tr-583-06-001", "answers": [ { "text": "前319年", "answer_start": 135, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アンティパトロスのあとを継ぎ、その地位を継承したのは、誰だったか?", "id": "tr-583-06-002", "answers": [ { "text": "ポリュペルコン", "answer_start": 163, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アレクサンドロス3世の帝国が分割されるきっかけとなったのは、誰がアンティパトロスの地位を継承した事件だったか?", "id": "tr-583-06-003", "answers": [ { "text": "ポリュペルコン", "answer_start": 163, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "以降の戦いで中心的役割を演じたのはアレクサンドロス帝国の大半に権威を確立したアンティゴノスとその息子デメトリオス・ポリオルケテス(都市攻囲者デメトリオス)である。プトレマイオスは今度はマケドニア本国を抑えたカッサンドロス、バビロニアを追われたセレウコス、リュシマコスらと結んでアンティゴノスに対抗し、シリアおよび海上でデメトリオスと戦った。プトレマイオスはこの過程で、前310年に海路でギリシアに遠征し小アジア南岸のリュキア、カリア、キュクラデス諸島の他、一時的ながらペロポネソス半島の一部を支配下に置いた。しかし、前306年にはサラミスの海戦でデメトリオスに敗れキュプロス島を奪われた。この勝利に勢いづいたアンティゴノス(1世)は、息子デメトリオス(1世)と共に同年中に王位を宣言した(アンティゴノス朝)。", "qas": [ { "question": "プトレマイオスがギリシア遠征を開始したのは、何年のことなの?", "id": "tr-583-07-000", "answers": [ { "text": "前310年", "answer_start": 184, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プトレマイオスがギリシア遠征で獲得した地域には、リュキア、キュクラデス諸島、ペロポネソス半島の一部のほかに、どの地域か?", "id": "tr-583-07-001", "answers": [ { "text": "カリア", "answer_start": 213, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サラミスの海戦は、何年に発生した戦闘でありますか?", "id": "tr-583-07-002", "answers": [ { "text": "前306年", "answer_start": 258, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サラミスの海戦でデメトリオスに敗れたのは、誰か?", "id": "tr-583-07-003", "answers": [ { "text": "プトレマイオス", "answer_start": 170, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "キュプロス島での勝利の余勢を駆ったデメトリオスはさらにエジプトに進軍したが、嵐のために大敗しシリアへと引き上げた。これを挽回するために彼がロドスを抑えるべく包囲すると、プトレマイオスはカッサンドロス、リュシマコスらとともにロドスを支援し、1年にわたる包囲(ロドス包囲戦)の末にデメトリオス軍を撃退した。この結果プトレマイオスはロドス人たちから神として祀られ、ソテル(Sōtēr、救世主)と渾名されることになる。そして前305/304年、アンティゴノス親子の後を追ってプトレマイオスも王位を宣言し(在位:前305年-前282年)、エジプトを支配する王家(プトレマイオス朝)が公式に誕生した。", "qas": [ { "question": "デメトリオスは、どの地域を中心とする勢力の指導者だったの?", "id": "tr-583-08-000", "answers": [ { "text": "シリア", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "デメトリオスのエジプト遠征の失敗の原因とされるのは、何ですか?", "id": "tr-583-08-001", "answers": [ { "text": "嵐", "answer_start": 38, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ロドス包囲戦で敗れたのは、誰の勢力だったか?", "id": "tr-583-08-002", "answers": [ { "text": "デメトリオス", "answer_start": 138, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エジプトとロドスのうち、デメトリオスは、どこの遠征のため、より早く軍を動かしたか?", "id": "tr-583-08-003", "answers": [ { "text": "エジプト", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "前301年のイプソスの戦いでアンティゴノス1世がセレウコス1世、リュシマコス、カッサンドロスの連合軍に敗れ戦死すると、それに乗じたプトレマイオス1世はアラドスとダマスカス以南のシリア、およびリュキア、キリキア、ピシディアの一部を支配下に置いた。一方、アジアではリュシマコスをも滅ぼしたセレウコス1世(セレウコス朝)がシリアからインダス川に至る広大な地域を支配下に置いて覇者となった。デメトリオス1世はマケドニアに渡り再起を図った。やがて、彼の息子のアンティゴノス2世(アンティゴノス・ゴナタス)がマケドニア本国にアンティゴノス朝を確立していく。プトレマイオス朝はこのセレウコス朝やアンティゴノス朝と共にヘレニズム王朝の1つに数えられ、これらと東地中海地域の覇権を巡って争った。", "qas": [ { "question": "イプソスの戦いは、何年に発生した戦闘なの?", "id": "tr-583-09-000", "answers": [ { "text": "前301年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アンティゴノス1世が死去したのは、何年のことか?", "id": "tr-583-09-001", "answers": [ { "text": "前301年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "リュシマコスをも滅ぼしたのは、誰か?", "id": "tr-583-09-002", "answers": [ { "text": "セレウコス1世", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この時期、アジアで最も大きな勢力を有するようになったのは、誰だったか?", "id": "tr-583-09-003", "answers": [ { "text": "セレウコス1世", "answer_start": 142, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "プトレマイオス1世は前283年に死去し、その前に共同統治者となっていた息子のプトレマイオス2世(フィラデルフォス、在位:前285年-前246年)が後継者としてエジプトを統治した。プトレマイオス2世は内乱や対外戦争では多くの苦難を味わったものの、父親が作り上げた行政機構の整備や知的活動を引き次いで組織化し、彼と続くプトレマイオス3世の時代はプトレマイオス朝の絶頂期であるとされる。", "qas": [ { "question": "プトレマイオス1世が死去したのは、何年のことなの?", "id": "tr-583-10-000", "answers": [ { "text": "前283年", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "プトレマイオス1世のあとを継いだのは、誰ですか?", "id": "tr-583-10-001", "answers": [ { "text": "プトレマイオス2世", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プトレマイオス2世が単独統治者として権力を握ったのは、何年のことか?", "id": "tr-583-10-002", "answers": [ { "text": "前283年", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プトレマイオス朝が絶頂期に入ることのできた基盤を整えたのは、誰か?", "id": "tr-583-10-003", "answers": [ { "text": "プトレマイオス2世", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "プトレマイオス2世は父王の死後セレウコス朝と激しい争いを繰り広げた。前281年にセレウコス1世がプトレマイオス・ケラウノスに暗殺された後、セレウコス朝の支配者となったアンティオコス1世は、プトレマイオス朝の勢力を弱めようと画策し、キュレネの統治者マガスに働きかけ、彼を臣下のギリシア人たちと共にプトレマイオス2世から離反させた。マガスはプトレマイオス2世の異父兄弟であり、プトレマイオス1世によってキュレネの支配者とされていた人物である。また、アンティオコス1世の娘アパマ(アパメー)と結婚していた。さらに前274年から前271年にかけて、第一次シリア戦争が戦われた。シリアに侵攻したプトレマイオス2世は敗れたが、この戦争自体は痛み分けに終わった。続いて10年後にはセレウコス朝の新王アンティオコス2世との間で第二次シリア戦争が勃発し、プトレマイオス2世はシリア、小アジア方面で大幅な後退を余儀なくされた。以降数世紀にわたって繰り返しシリア戦争が両王朝の間で戦われることになる。", "qas": [ { "question": "セレウコス1世が死去したのは、何年のことなの?", "id": "tr-583-11-000", "answers": [ { "text": "前281年", "answer_start": 34, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "セレウコス1世を暗殺したのは、誰ですか?", "id": "tr-583-11-001", "answers": [ { "text": "プトレマイオス・ケラウノス", "answer_start": 48, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "セレウコス1世がの後を継いだのは、誰か?", "id": "tr-583-11-002", "answers": [ { "text": "アンティオコス1世", "answer_start": 83, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "また、プトレマイオス2世はエーゲ海方面では小アジアやエーゲ海の拠点を強化し、アンティゴノス朝と対立するアテナイやその他のギリシア人ポリスを支援して東地中海での勢力基盤を固めようとした。前265年頃にアンティゴノス朝とアテナイ、スパルタを中心としたギリシアのポリス連合との間でクレモニデス戦争が勃発すると、海軍を派遣してアテナイ・スパルタを支援した。この戦争はリュシマコスとその妻でプトレマイオス2世の姉にあたるアルシノエ2世の息子プトレマイオスをマケドニアの支配者とすることを目論んでのものであったと言われる。しかし、この戦争も前261年にアテナイがアンティゴノス朝によって陥落させられ敗退に終わった。", "qas": [ { "question": "クレモニデス戦争が勃発したのは、何年頃のことなの?", "id": "tr-583-12-000", "answers": [ { "text": "前265年頃", "answer_start": 92, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クレモニデス戦争は、どの王朝とギリシアのポリス連合が戦った戦争でありますか?", "id": "tr-583-12-001", "answers": [ { "text": "アンティゴノス朝", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "プトレマイオス2世はクレモニデス戦争において、アンティゴノス朝とギリシアのポリス連合のうち、どちら側に立ち、戦ったか?", "id": "tr-583-12-002", "answers": [ { "text": "ギリシアのポリス連合", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "正田篠枝", "paragraphs": [ { "context": "正田篠枝は、日本の歌人、平和運動家である。本名は正田シノエだ。広島県安芸郡江田島村字秋月出身だ。広島市への原子爆弾投下による被爆者の1人だ。被爆経験を詠んだ多数の短歌により「原爆歌人」として知られており、中でも原爆批判に対する厳しい統制下で出版された歌集『さんげ』が、原爆文献中でも随一の稀覯本として知られている。弟に経済学者の正田誠一、又従兄弟に作家の小久保均がいる。", "qas": [ { "question": "正田篠枝の本名は何?", "id": "tr-584-00-000", "answers": [ { "text": "正田シノエ", "answer_start": 24, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "正田篠枝は被爆経験を詠んだ多数の短歌から何と呼ばれますか。", "id": "tr-584-00-001", "answers": [ { "text": "「原爆歌人」", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "正田誠一と正田篠枝と、誰が年下なの?", "id": "tr-584-00-002", "answers": [ { "text": "正田誠一", "answer_start": 164, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "正田篠枝は1910年に誕生した。1920年(大正9年)に広島市に転居。広島市大手町小学校卒業後、旧制安芸高等女学校に編入した。浄土真宗が盛んな広島において、同学校は真宗安芸婦人会が母体となって設立されており、後に篠枝の詠む歌に仏教思想を背景とした語句が多く用いられるなど、彼女の人生観に大きな影響を与えた。\n\n学校卒業後は父の仕事を手伝う傍ら、1929年頃より短歌誌『短歌至上主義』『香蘭』に投稿を始め、『短歌至上主義』主宰者である杉浦翠子らに師事した。1931年に結婚して一子をもうけるが、1940年に夫と死別した。", "qas": [ { "question": "正田篠枝は何年に生まれたか。", "id": "tr-584-01-000", "answers": [ { "text": "1910年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "正田篠枝の夫は何年に亡くなったか。", "id": "tr-584-01-001", "answers": [ { "text": "1940年", "answer_start": 246, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "正田篠枝は広島市大手町小学校を卒業したあと、、どの学校にに編入したか。", "id": "tr-584-01-002", "answers": [ { "text": "旧制安芸高等女学校", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "正田篠枝は何年に結婚したの?", "id": "tr-584-01-003", "answers": [ { "text": "1931年", "answer_start": 227, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "正田篠枝は1945年8月6日、広島市への原子爆弾投下の際、爆心地から1.5キロメートルの距離にあった広島市中区平野町の自宅で被爆した。\n\n1946年、被爆当時の情景、自らの体験、親戚・知人・友人たちの悲惨な被爆の様子を数々の短歌に詠んだ。師の杉浦翠子は、被爆の情景をリアルに描写したそれらの短歌を認め、自作の歌誌『不死鳥』7号に「唉!原子爆弾」と題して39首を発表した。\n\n1947年、『不死鳥』掲載の歌を原歌とした歌集『さんげ』を極秘に出版した。連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の検閲を受けず、手渡しで親類や知人に配布された。この際、弟の誠一はかつて自分の論文についてアメリカ陸軍防諜部隊の厳しい取り調べを受けた過去があるため、原爆の歌集など出版すれば死刑は免れないと忠告したが、篠枝の出版の意志は固かった。GHQの検閲を恐れて印刷を引き受ける印刷所がなかったため、印刷は広島刑務所で行なわれた。同刑務所の印刷主任を務めていた司法技官・中丸忠雄も歌の内容を見て驚き「マッカーサー司令部に知れたら殺される」と忠告したものの、篠枝の熱意に負けて出版を引き受け、一般には頒布せずに被爆者にのみ秘密裏に配布という条件のもと、150部のみ印刷された。後に出版される『耳鳴り』の手記にも、GHQの検閲が厳しく、発見されれば必ず死刑といわれたが、死刑覚悟で出版したとの記述がある。", "qas": [ { "question": "正田篠枝の自宅は爆心地から何キロメートル離れていましたか。", "id": "tr-584-02-000", "answers": [ { "text": "1.5キロメートル", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『さんげ』は何年に出版されますか。", "id": "tr-584-02-001", "answers": [ { "text": "1947年", "answer_start": 187, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "歌集『さんげ』はどこで印刷されましたか。", "id": "tr-584-02-002", "answers": [ { "text": "広島刑務所", "answer_start": 389, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "広島刑務所で歌集『さんげ』は何部印刷されましたか。", "id": "tr-584-02-003", "answers": [ { "text": "150部", "answer_start": 511, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "篠枝は、私生活では1948年に再婚して次男をもうけるが、同年に次男を夫に託して離婚した。1952年、前年に死去した父の治療費や生活費のために割烹旅館を開業した。\n\n1953年、原爆傷害調査委員会の検査により癌の徴候が確認され、数年後には原爆症の後遺症が現れ、原爆病院へ入退院を繰り返す身となった。この頃より篠枝の歌は、後述の「かりそめの貧血症なればよし原爆症と呼ばれたくなし」のように、自身の病気の方向へと内向していった。\n\n1959年には病身に鞭を打ち、第5回原水爆禁止世界大会に参加した。栗原貞子、前田とみ子らとともに「原水爆禁止広島母の会」を結成し、1961年から機関紙『ひろしまの河』を発刊を開始。同紙第1号には、篠枝は「私の苦悩と寂莫」と題し、平和を望むという当然の行為が侮蔑されていることを苦悩する文章を寄せている。しかし1963年の原水爆禁止世界大会の内部分裂の影響を受け、篠枝たちの会も組織分裂を起こし、篠枝は苦悩の日々を送ることとなった。\n\n1962年、『さんげ』の再録およびその後の新作をまとめた『耳鳴り』が出版された。岩波書店や筑摩書房に断られ続けた末、平凡社からの出版であった。短歌以外にも詩、手記、童話で構成されており、原爆の恐怖と悲しみを子供に伝えるために著した童話『ピカッ子ちゃん』や、被爆後の篠枝の生活と闘病の記録も盛り込まれた。", "qas": [ { "question": "篠枝は、何年に離婚しますか。", "id": "tr-584-03-000", "answers": [ { "text": "1948年", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1959年、何回の原水爆禁止世界大会が開催されたか。", "id": "tr-584-03-001", "answers": [ { "text": "第5回", "answer_start": 228, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『耳鳴り』は何年に出版されたか。", "id": "tr-584-03-002", "answers": [ { "text": "1962年", "answer_start": 430, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1963年、篠枝は九州大学病院での検査により、乳癌により来春までの命と宣告された。同大学経済学部の教授を務めていた弟の誠一は泣きながら余命を告げ、手術と入院治療を勧めたが、篠枝は広島へ帰り、創作活動を続行した。\n\n篠枝と同じく杉浦翠子に師事した歌人の月尾菅子から、彼女の住む東京都で当時行われていたハスミワクチンによる治療法を教えられ、同年に東京へ転居。東京滞在時、菅子を通じて歴史学者の中村孝也と出逢い、徳川家康が1日に1万の名号を書くことを日課としていたという話を聞き感銘を受け、原水爆禁止の祈りと、広島・長崎の原爆犠牲者の慰霊のために名号を書くことを日課とした。\n\n同年12月、家庭の事情などで帰郷。宣告された余命を過ぎてもなお生き続け、乳癌宣告から2年後の1965年1月には30万の名号を書き終えた。名号成就後の篠枝は精根尽き果て、筆を持つ力すらなかったという。同年4月25日、一心に名号を書き続ける篠枝の姿が、NHKで『ある人生-耳鳴り』と題して放映され、多くの視聴者に感動を与えた。", "qas": [ { "question": "篠枝の弟、誠一はどの大学の教授を務めていましたか。", "id": "tr-584-04-000", "answers": [ { "text": "九州大学", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ある人生-耳鳴り』はどの放送局から放送されたか。", "id": "tr-584-04-001", "answers": [ { "text": "NHK", "answer_start": 410, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "篠枝の死去と同年の1965年11月、NHKで『耳鳴りある被爆者の20年』と題し、篠枝の長い闘病の記録が放映された。翌1966年、篠枝の一周忌に捧げる作品として正田篠枝遺稿集『百日紅-耳鳴り以後』が発刊され、編集には篠枝と交流のあった作家陣である栗原貞子、大原三八雄、荏原肆夫、古浦千穂子らが携わった。\n\n1968年には月尾菅子の尽力により、郷里である秋月に「正田篠枝三十万名号碑」が建立され、その費用には菅子の私財が投じられた。\n\n同年、前述の童話『ピカッ子ちゃん』を含め、篠枝が生前に著した『ちゃんちゃこばあちゃん』など全7編の童話を収録した童話集『ピカッ子ちゃん』が、栗原貞子と古浦千穂子の編により、太平出版社から刊行された。『ちゃんちゃこばあちゃん』は、かつて篠枝がその構想を別の作家に話したことで、その作家のほうが別タイトルでほぼ同じ内容の作品を篠枝より先に発表し、当時の新聞記事上で盗作かアイディアの借用かと騒動になったことがあり、篠枝が自作の童話を出版したいと熱望していたことで、刊行に至った。この収録作品のうち『ちゃんちゃこばあちゃん』『お彼岸』は篠枝の代表作に数えられている。", "qas": [ { "question": "『耳鳴りある被爆者の20年』はいつ放送されたか。", "id": "tr-584-05-000", "answers": [ { "text": "1965年11月", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「正田篠枝三十万名号碑」は何年に建てられたの?", "id": "tr-584-05-001", "answers": [ { "text": "1968年", "answer_start": 152, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "童話集『ピカッ子ちゃん』には何編の童話が収録されていますか。", "id": "tr-584-05-002", "answers": [ { "text": "7編", "answer_start": 262, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "童話集『ピカッ子ちゃん』は何年に刊行されたの?", "id": "tr-584-05-003", "answers": [ { "text": "1968年", "answer_start": 152, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1983年には、月尾菅子により『さんげ』の復刻版が刊行された。\n\n1991年、前述の「広島文学資料保全の会」により「正田篠枝文学資料展女ひとり『さんげ』を生きて」が開催され、短期の開催にも関らず約2500人の来場者を得た。この際『さんげ』を読みたいとの希望が何件か寄せられたが、前述の月尾菅子による復刻版の『さんげ』すら稀覯本となっていたことから、1995年、同会により『さんげ原爆歌人正田篠枝の愛と孤独』が刊行された。これには『さんげ』の原本が収録されているが、かなづかいや漢字が原本のままであり、この例はほかには見られない。\n\n2011年には広島市内で、小久保均の保管していた『さんげ』の原本が発見された。広島市立中央図書館や広島平和記念資料館すら所蔵していなかった『さんげ』は貴重な発見であり、同年11月、市立中央図書館での企画展で展示された。また2016年7月には、北広島町の寺院で保管されていた『さんげ』が広島市に寄贈された。", "qas": [ { "question": "『さんげ』の復刻版は誰によって刊行されたの?", "id": "tr-584-06-000", "answers": [ { "text": "月尾菅子", "answer_start": 8, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『さんげ原爆歌人正田篠枝の愛と孤独』は何年に刊行されたか。", "id": "tr-584-06-001", "answers": [ { "text": "1995年", "answer_start": 174, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小久保均の保管していた『さんげ』の原本は何年に見つかったか。", "id": "tr-584-06-002", "answers": [ { "text": "2011年", "answer_start": 266, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『耳鳴り』は、原爆の悲惨さ、それを乗り越えて生きる人々の姿が健気に描かれており、広島の被爆者たちの記録ともいえる作品である。前述のように『さんげ』出版をめぐる経緯についても記されており、貴重な1冊である。幻の作品ともいえる『さんげ』は本作により一般の読者に読まれ、被爆者の惨状を生々しく伝えた歌は読者に衝撃を与えることとなった。横浜市の詩人である野木京子も、『中国新聞』紙上で「忘れられない書物」として高く評価している。\n\nまた『耳鳴り』には前述の通り『さんげ』の短歌が再録されているが、同書では語の区切りに空白を挟むわかち書きの表現に改められており、韻律のリズムが崩れ、意味的にもかなり変化を招く恐れもあるとの意見もある。これについて月尾菅子は、同書発行時は篠枝の原爆症がかなり進行しており、頻繁に呼吸困難となっていたため、苦しい息を一息一息つくように書いていたことから、わかち書きを篠枝の息そのものと語っている。", "qas": [ { "question": "『さんげ』出版をめぐる経緯についても記されている作品のタイトルは何?", "id": "tr-584-07-000", "answers": [ { "text": "『耳鳴り』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "富士山の噴火史", "paragraphs": [ { "context": "富士山の噴火史では、富士火山の噴火の様子と変遷を概説する。\n\n富士山は高さと山体の大きさに於いて日本最大の活火山である。富士山は最近10万年で急速に大きくなったと考えられており、その意味では「若い火山」に分類される。現在見えている山の外観は約1万年前から噴火活動を開始した新富士火山であり、その下に約70万年前から活動していた小御岳火山と約10万年前から約1万年前に噴火した古富士火山があると言われている。", "qas": [ { "question": "日本最大の活火山は何ですか。", "id": "tr-585-00-000", "answers": [ { "text": "富士山", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本で一番高い活火山は何ですか。", "id": "tr-585-00-001", "answers": [ { "text": "富士山", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小御岳火山と古富士火山とどっちの方がもっと昔に活動していたの?", "id": "tr-585-00-002", "answers": [ { "text": "小御岳火山", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "宝永大噴火は宝永地震の49日後に発生している。そのほかに南海トラフや相模トラフを震源とする地震や近隣地域地震の前後25年以内に、富士山に何らかの活動が発生している事例が多く、地震と富士山活動とは関連性があるとされる。\n\nまた、噴火活動ではないが、1331年の元弘地震や1792年、1891年濃尾地震では地震の震動で山体崩壊や大規模な斜面の崩落が発生したと記録されている。", "qas": [ { "question": "宝永大噴火は宝永地震の何日後に発生したか。", "id": "tr-585-01-000", "answers": [ { "text": "49日後", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "元弘地震と濃尾地震と、どっちの方が先にあったの?", "id": "tr-585-01-001", "answers": [ { "text": "元弘地震", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "メフメト2世", "paragraphs": [ { "context": "メフメト2世(トルコ語:II.Mehmet、1432年3月30日-1481年5月3日)は、オスマン帝国の第7代スルタン(皇帝、在位:1444年-1446年、1451年2月3日-1481年5月3日)である。", "qas": [ { "question": "メフメト2世は、どの国の者なの?", "id": "tr-586-00-000", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "メフメト2世は、オスマン帝国の第何代スルタンでしたか?", "id": "tr-586-00-001", "answers": [ { "text": "第7代スルタン", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "メフメト2世は、コンスタンティノープル(イスタンブール)を攻略してビザンツ帝国(東ローマ帝国)を滅ぼし、オスマン帝国の版図を大幅に広げる。30年以上に渡る征服事業から、「征服者」と呼ばれた。", "qas": [ { "question": "ビザンツ帝国を滅ぼしたのは、どの国か?", "id": "tr-586-01-000", "answers": [ { "text": "オスマン帝国", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "どこが陥落されることでビザンツ帝国の時代は、その幕を閉じたか?", "id": "tr-586-01-001", "answers": [ { "text": "コンスタンティノープル", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビザンツ帝国を滅ぼしたオスマン帝国の君主は、誰か?", "id": "tr-586-01-002", "answers": [ { "text": "メフメト2世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メフメト2世はその行方から、何と言う別称が付けられたか?", "id": "tr-586-01-003", "answers": [ { "text": "征服者", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "メフメトは30年にわたる2度目の治世において、コンスタンティノープルやバルカン半島の諸国、アナトリア半島のトルコ人の諸勢力を征服し、オスマン朝の勢力を急速に拡大させた。これによりオスマン朝は帝国と呼び得る内実を獲得することになる。", "qas": [ { "question": "オスマン朝の勢力拡張に貢献した君主として紹介されているのは、誰なの?", "id": "tr-586-02-000", "answers": [ { "text": "メフメト", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オスマン朝に帝国の呼称がつけられるようになったのは、誰の功績があったからですか?", "id": "tr-586-02-001", "answers": [ { "text": "メフメト", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メフメトの2度目の在位期間は、何年にも至るか?", "id": "tr-586-02-002", "answers": [ { "text": "30年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メフメトがオスマン朝の君主に即位したのは、何度か?", "id": "tr-586-02-003", "answers": [ { "text": "2度", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "コンスタンティノープル征服後、メフメトは「征服の父」「2つの海と2つの大陸の支配者」という称号を用いた。オスマンの勢力拡大はヨーロッパ諸国にとっての脅威であり、メフメトは「破壊者」「キリスト教最大の敵」「血にまみれた君主」と恐れられた。その征服活動よりしばしばアレクサンドロス大王と比較され、彼自身もアレクサンドロスの伝記を好んで読んでいた。", "qas": [ { "question": "メフメトが「征服の父」と称するようになったのは、どこを征服してからのことだったの?", "id": "tr-586-03-000", "answers": [ { "text": "コンスタンティノープル", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コンスタンティノープルを征服したメフメトには、「征服の父」のほかに、何の呼称がつけられましたか?", "id": "tr-586-03-001", "answers": [ { "text": "「2つの海と2つの大陸の支配者」", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メフメトの征服活動は、誰の征服活動とよく比較されたか?", "id": "tr-586-03-002", "answers": [ { "text": "アレクサンドロス大王", "answer_start": 130, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メフメトとアレクサンドロス大王は、何においてよく比較されたか?", "id": "tr-586-03-003", "answers": [ { "text": "征服活動", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "メフメト2世は、オスマン皇帝ムラト2世とヨーロッパ出身の奴隷ヒュマ・ハトゥンの子として、首都エディルネの宮殿で生まれる。幼少期は家庭教師のダイイ・ハトゥンに養育され、エディルネで過ごした。継母であるセルビア公ジュラジ・ブランコヴィチの娘マラからビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを描いた絵を見せられ、町に強い興味を抱くようになる。", "qas": [ { "question": "メフメト2世が生まれた都市は、どこなの?", "id": "tr-586-04-000", "answers": [ { "text": "エディルネ", "answer_start": 46, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メフメト2世の父親は、誰でしたか?", "id": "tr-586-04-001", "answers": [ { "text": "ムラト2世", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "幼少期のメフメト2世にとっては、誰と過ごした時間が最も多かったと予測できるか?", "id": "tr-586-04-002", "answers": [ { "text": "ダイイ・ハトゥン", "answer_start": 69, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "幼少期のメフメト2世は、どこで過ごしたか?", "id": "tr-586-04-003", "answers": [ { "text": "エディルネ", "answer_start": 83, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1443年、オスマン帝国の慣習に従ってメフメトはマニサに知事として赴任し、神学者グラニの元で勉学に励む。", "qas": [ { "question": "1443年、メフメトにはどこの知事の職が与えられたか?", "id": "tr-586-05-000", "answers": [ { "text": "マニサ", "answer_start": 24, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メフメトがマニサの知事についたのは、何年のことか?", "id": "tr-586-05-001", "answers": [ { "text": "1443年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オスマン帝国がハンガリー王国、カラマン侯国と和約を結んだ後、1444年にメフメトは父から譲位されてスルタン位に就く。ムラトは大宰相のチャンダルル・ハリル・パシャにメフメトの補佐を任せ、マニサで隠遁生活を送った。メフメトは補佐役のハリル・パシャをララ(じい)と呼んだが、打ち解けることはできなかった。", "qas": [ { "question": "オスマン帝国は、ハンガリー王国と、どの国との間で和約を締結したの?", "id": "tr-586-06-000", "answers": [ { "text": "カラマン侯国", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "メフメトがスルタンに即位したのは、何年のことですか?", "id": "tr-586-06-001", "answers": [ { "text": "1444年", "answer_start": 30, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メフメトの父親は、誰か?", "id": "tr-586-06-002", "answers": [ { "text": "ムラト", "answer_start": 58, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ムラトがスルタン位をメフメトに譲位する時、誰にメフメトの補佐を任せたか?", "id": "tr-586-06-003", "answers": [ { "text": "チャンダルル・ハリル・パシャ", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1444年9月、ハンガリーのフニャディ・ヤーノシュとポーランド王ヴワディスワフ3世が率いるヨーロッパ連合軍がトランシルヴァニア、ブルガリアに侵入したとき、ハリル・パシャはメフメトには対処が困難だと考え、ムラトに復位を求めた。", "qas": [ { "question": "1444年9月、ハリル・パシャはメフメトがムラトに復位を求めたのは、ハンガリーとどの国からの侵入を食い止めるためだったの?", "id": "tr-586-07-000", "answers": [ { "text": "ポーランド", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1444年9月、トランシルヴァニア、ブルガリアに侵入してきたのは、フニャディ・ヤーノシュと誰の勢力でありましたか?", "id": "tr-586-07-001", "answers": [ { "text": "ヴワディスワフ3世", "answer_start": 32, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハンガリーとポーランドの連合軍がメフメトの領域に侵入してきたのは、いつのことか?", "id": "tr-586-07-002", "answers": [ { "text": "1444年9月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハンガリーとポーランドの連合軍が侵入した時に、オスマン帝国を統治していたのは、誰か?", "id": "tr-586-07-003", "answers": [ { "text": "メフメト", "answer_start": 85, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ムラトはヴァルナの戦いでヨーロッパ連合軍に勝利した後に退位するが、1445年にエディルネでイェニチェリの反乱が起きた時、ムラトは再び復位を要請される。1446年にメフメトは帝位を返上し、領地のマニサに戻った。メフメトは自身を軽んじたハリル・パシャに敵愾心を抱き、ザガノス・パシャらメフメトの側近たちは敵意を煽った。", "qas": [ { "question": "他国からの侵入を食い止めるために復位したムラトは、どの戦いで勝利を収めてから再び退位したの?", "id": "tr-586-08-000", "answers": [ { "text": "ヴァルナの戦い", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "他国との戦争のため、復位したムラトは、ヴァルナの戦いで勝利を収めて再び退位したが、何年の反乱をきっかけにムラトの復位を求める声が再び出てきましたか?", "id": "tr-586-08-001", "answers": [ { "text": "1445年", "answer_start": 33, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1445年にエディルネで反乱を起こしたのは、誰か?", "id": "tr-586-08-002", "answers": [ { "text": "イェニチェリ", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムラトが再び復位したのは、何年のことか?", "id": "tr-586-08-003", "answers": [ { "text": "1446年", "answer_start": 75, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "領地に帰還したメフメトはヴェネツィア共和国の船舶を襲撃し、ネグロポンテなどのヴェネツィアの支配下にあるエーゲ海の都市や島を襲撃した。一方でイスラーム世界や西欧の知識人をマニサに呼び寄せ、過去の歴史家や哲学者についての教えを受けていた。時にはムラトの軍事行動に従軍し、1448年のコソヴォの戦いや1450年のアルバニア遠征に従軍した。", "qas": [ { "question": "当時、エーゲ海の都市や島々は、どの国の領域内に含まれていましたか?", "id": "tr-586-09-000", "answers": [ { "text": "ヴェネツィア共和国", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メフメトが従軍したムラトの軍事行動として挙げられているのは、コソヴォの戦いと何?", "id": "tr-586-09-001", "answers": [ { "text": "アルバニア遠征", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ムラトがアルバニア遠征を行ったのは、何年のことか?", "id": "tr-586-09-002", "answers": [ { "text": "1450年", "answer_start": 147, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "コソヴォの戦いとアルバニア遠征のうち、ムラトがより早く行った軍事行動は、どちらか?", "id": "tr-586-09-003", "answers": [ { "text": "コソヴォの戦い", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アルバニア遠征から帰国後、ムラトはメフメトとアナトリアのドゥルカディル侯国の王女シット・ハトゥンの婚姻を成立させる。1450年から1451年にかけての冬、エディルネで3か月にわたる結婚式が開かれた。", "qas": [ { "question": "ムラトはメフメトと誰を婚姻させたの?", "id": "tr-586-10-000", "answers": [ { "text": "シット・ハトゥン", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムラトにより成立したメフメトの婚姻は、どの国の王女との婚姻でしたか?", "id": "tr-586-10-001", "answers": [ { "text": "ドゥルカディル侯国", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メフメトとシット・ハトゥンの婚姻は、何年から何年にかけて行われたか?", "id": "tr-586-10-002", "answers": [ { "text": "1450年から1451年", "answer_start": 58, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メフメトとシット・ハトゥンの婚姻は、どこで行われたか?", "id": "tr-586-10-003", "answers": [ { "text": "エディルネ", "answer_start": 77, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1451年2月3日にムラトが急死し、メフメトは父の死を知らせる使節が現れた時、彼らを喜んで迎えたという。この時、報告を聞いたメフメトは「我を愛する者は後に続け」と叫んで馬にまたがり、エディルネに直行したと伝えられている。同日、エディルネに到着したメフメトは2度目の即位を経験する。", "qas": [ { "question": "ムラトが死去したのは、いつなの?", "id": "tr-586-11-000", "answers": [ { "text": "1451年2月3日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ムラトの時代が幕を閉じたのは、いつのことですか?", "id": "tr-586-11-001", "answers": [ { "text": "1451年2月3日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メフメトの2度目の即位式は、いつ行われたか?", "id": "tr-586-11-002", "answers": [ { "text": "1451年2月3日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "メフメトの即位式は、どこで行われたか?", "id": "tr-586-11-003", "answers": [ { "text": "エディルネ", "answer_start": 91, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "メフメトはハンガリーと3年の休戦協定を結び、ビザンツにも友好的な態度を示した。ヨーロッパの国々は停戦を求めるメフメトの消極的な態度を見て安心し、いずれオスマンは内訌で衰退すると考えた。さらにアナトリア半島のカラマン侯国はムラトの死に乗じて和約を破棄し、オスマン領に侵入した。ビザンツはコンスタンティノープルに亡命していたオスマン帝国の皇族オルハンの解放を示唆し、帝国がオルハンの監視と引き換えに支払っていた身代金の増額を要求した。メフメトはビザンツの要求を忌々しく思ったが、カラマンの攻撃に対処するために怒りを抑えてビザンツの使者を帰し、アナトリアに渡ってカラマン軍を打ち破った。", "qas": [ { "question": "メフメトは、ハンガリーやどの国と友好関係を築こうとしたの?", "id": "tr-586-12-000", "answers": [ { "text": "ビザンツ", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "メフメトはハンガリーと、何年の休戦協定を締結しましたか?", "id": "tr-586-12-001", "answers": [ { "text": "3年", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ムラトが死ぬと、オスマン帝国との和約を破り、侵略を行ったのは、どの国か?", "id": "tr-586-12-002", "answers": [ { "text": "カラマン侯国", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ムラトの死とメフメトの消極的な外交を機会ととらえ、オスマン帝国を圧迫したのは、カラマン侯国とどの国か?", "id": "tr-586-12-003", "answers": [ { "text": "ビザンツ", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1454年、セルビア公ジュラジ・ブランコヴィチに割譲した領土の返還を求めるが、ジュラジは返還を拒否する。メフメトはセルビアに遠征してジュラジに改めて臣従を誓わせ、1455年の冬からベオグラード遠征の準備を始める。", "qas": [ { "question": "メフメトは、セルビアとベオグラードのうち、どこへの遠征をより遅く進めたの?", "id": "tr-586-13-000", "answers": [ { "text": "ベオグラード", "answer_start": 90, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "メフメトは何年に、セルビアに対し、割譲した領土の返還を求めましたか?", "id": "tr-586-13-001", "answers": [ { "text": "1454年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "荒木飛呂彦", "paragraphs": [ { "context": "荒木飛呂彦(あらきひろひこ、1960年6月7日-)は、日本の漫画家。\n宮城県仙台市若林区出身。\n東北学院榴ケ岡高等学校卒、宮城教育大学中退、仙台デザイン専門学校卒。\n身長169.5cm、体重(2007年時点)61kg、血液型はB型。\n既婚者で二女の父。\n1980年(昭和55年)、「武装ポーカー」でデビュー(荒木利之名義)。\n代表作は『週刊少年ジャンプ』(集英社)1987年1・2号から連載開始された『ジョジョの奇妙な冒険』。\n同作品は複数の部に分かれ、主人公や舞台を変えながら30年以上に渡って連載され続けており、シリーズ総計124巻(2019年3月現在)、発行部数は1億部(2015年12月時点)。", "qas": [ { "question": "『ジョジョの奇妙な冒険』の作者は誰?", "id": "tr-587-00-000", "answers": [ { "text": "荒木飛呂彦", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "荒木飛呂彦の血液型は?", "id": "tr-587-00-001", "answers": [ { "text": "B型", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ジョジョの奇妙な冒険』の連載期間は?", "id": "tr-587-00-002", "answers": [ { "text": "30年以上", "answer_start": 239, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "荒木飛呂彦の最終学歴は?", "id": "tr-587-00-003", "answers": [ { "text": "仙台デザイン専門学校卒", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "中学時代に剣道部に所属。\n幼少期から「ひとりの世界」に浸るのが好きで、早くから漫画も描いていた。\n当時は梶原一騎の漫画作品『巨人の星』(川崎のぼる画)、『あしたのジョー』(ちばてつや画)などを愛読、また白土三平の忍者・歴史漫画『サスケ』と『カムイ伝』の理論的な作風に影響を受けた。\n小説では江戸川乱歩や『シャーロック・ホームズ』シリーズをよく読んでいたという。\nなお荒木には4つ下に双子の妹がおり、この2人の仲が良かったため、「家族の中で疎外感を抱いていたため、ひとりで何かを楽しむことが余計に好きになったのだと思う」とインタビューで語っている。", "qas": [ { "question": "荒木は中学の時何部に入っていたの?", "id": "tr-587-01-000", "answers": [ { "text": "剣道部", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "荒木が愛読していた小説シリーズは何?", "id": "tr-587-01-001", "answers": [ { "text": "『シャーロック・ホームズ』", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "双子の妹は荒木のいくつ下なの?", "id": "tr-587-01-002", "answers": [ { "text": "4つ下", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『サスケ』、『カムイ伝』の作者は誰?", "id": "tr-587-01-003", "answers": [ { "text": "白土三平", "answer_start": 101, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "高校時代はロードレース部に所属。\nこの頃に横山光輝のサスペンス作品を愛読する。\n特に学生服の主人公が古代遺跡を探検する『バビル2世』は『ジョジョの奇妙な冒険』Part3のモチーフに影響を与えており、インタビューでは「自分の原点」とも述べている。\n16歳の時に同い年のゆでたまごが『週刊少年ジャンプ』でデビューしたことに焦りを感じ、高校3年の時に初投稿、以後何度か投稿を重ね、専門学校在学中の1980年(昭和55年)に「武装ポーカー」で第20回手塚賞に準入選しデビュー。", "qas": [ { "question": "荒木が高校で行っていた部活動とは?", "id": "tr-587-02-000", "answers": [ { "text": "ロードレース", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "荒木が高校時代にハマっていた作家とは誰?", "id": "tr-587-02-001", "answers": [ { "text": "横山光輝", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "荒木が「自分の原点」となった作品とは?", "id": "tr-587-02-002", "answers": [ { "text": "『バビル2世』", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "荒木がデビューした年は?", "id": "tr-587-02-003", "answers": [ { "text": "1980年", "answer_start": 195, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "デビュー後は、仙台に在住したまま『週刊少年ジャンプ』で『魔少年ビーティー』を執筆していた。\n上京後は『バオー来訪者』の短期連載を経て、1987年(昭和62年)より『ジョジョの奇妙な冒険』の連載を開始し、2003年(平成15年)までに6部の物語を執筆する長期連載となった。\n2004年(平成16年)に同誌にて『ジョジョ』のPart7にあたる『スティール・ボール・ラン』の連載を開始し、連載途中の2005年(平成17年)より月刊誌『ウルトラジャンプ』に移籍。\n『ジョジョ』シリーズは2010年(平成22年)には通算100巻を達成し、達成後の2011年(平成22年)に『スティール・ボール・ラン』を完結させた後、すぐさま『ジョジョ』のPart8である『ジョジョリオン』の連載を開始し現在に至る。", "qas": [ { "question": "『魔少年ビーティー』と『バオー来訪者』はどちらが先に連載されたの?", "id": "tr-587-03-000", "answers": [ { "text": "『魔少年ビーティー』", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『バオー来訪者』の次に連載した漫画タイトルは何?", "id": "tr-587-03-001", "answers": [ { "text": "『ジョジョの奇妙な冒険』", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『スティール・ボール・ラン』と『ジョジョリオン』はどちらが後で連載されたの?", "id": "tr-587-03-002", "answers": [ { "text": "『ジョジョリオン』", "answer_start": 322, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『スティール・ボール・ラン』はどこに移籍したの?", "id": "tr-587-03-003", "answers": [ { "text": "『ウルトラジャンプ』", "answer_start": 213, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "評論家の加藤幹郎は、高度な技術で過去の作品の引用を行うその作風から荒木をマニエリスムの作家と言い表している。\n一方で連載開始時から「人間讃歌」をメインテーマとして掲げる『ジョジョの奇妙な冒険』は「ある意味で少年漫画の王道」と評されており、荒木自身「昔からある少年漫画の伝統を受け継いでいるつもり」と話している。\nしかし、荒木は「子ども向けに描いたつもりはない」とも発言している。", "qas": [ { "question": "荒木の事をマニエリスムの作家と述べている人は誰?", "id": "tr-587-04-000", "answers": [ { "text": "加藤幹郎", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "加藤幹郎は荒木の事を何の作家と述べているの?", "id": "tr-587-04-001", "answers": [ { "text": "マニエリスム", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『ジョジョの奇妙な冒険』のメインテーマとは?", "id": "tr-587-04-002", "answers": [ { "text": "「人間讃歌」", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "荒木は自身の絵柄についてルネッサンス美術、特にミケランジェロに影響を受けたと公言しており、「ジョジョ立ち」と呼ばれる独特のポージングもイタリア美術が発想の元となっている。\nまた『ヴォーグ』などのファッション雑誌が好きで、1980年代のベルサーチやフランコ・モスキーノなどが『ジョジョ』のファッションのルーツだと語っている。\n色は紫を好み、カラーイラストでも多用される。\n絵柄についてはファッション・イラストレーターのアントニオ・ロペス(en:AntonioLopez(illustrator))(例)やSF・ファンタジー画家のフランク・フラゼッタ、ヨーロッパの漫画家エンキ・ビラルやユーゴ・プラットなどからの影響も指摘されている。\nまた、絵の特徴やデザインはシンプルなほどよく、車田正美のような極限まで単純化された画面や物語が最高と語っている。", "qas": [ { "question": "荒木の絵柄は誰からの影響を受けているの?", "id": "tr-587-05-000", "answers": [ { "text": "ミケランジェロ", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ジョジョ立ち」の発想の源は何ですか?", "id": "tr-587-05-001", "answers": [ { "text": "イタリア美術", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "荒木が好きな色は?", "id": "tr-587-05-002", "answers": [ { "text": "紫", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "荒木が好きなファッション雑誌は?", "id": "tr-587-05-003", "answers": [ { "text": "『ヴォーグ』", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "荒木の作品では非対称な変形コマを多用し、ページ全体が歪んで見えるようなコマ割りがしばしば行なわれる。\n「斜めになったコマ」はそれほど珍しいものではないが、「1ページのコマ割り全体が斜めになっている」のは他にあまり例がない。\nこの変形ゴマは『ジョジョ』Part3後半より使われるようになり次第に頻度が増え、それに従いコマ外の余白が増えていったが、Part7『スティール・ボール・ラン』では全ページがタチキリ(ページの端いっぱいまで絵を入れること)で描かれるようになったため余白が激減した。\nこのタチキリの使用については、Part7の舞台である西部アメリカの広大さを意識して取られた方法ではないかと指摘されている。", "qas": [ { "question": "変形ゴマが使用されるようになった箇所はどの部分?", "id": "tr-587-06-000", "answers": [ { "text": "『ジョジョ』Part3後半", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ページの端いっぱいまで絵を入れることを何と言いますか?", "id": "tr-587-06-001", "answers": [ { "text": "タチキリ", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ジョジョ』のPart7のタイトルは何?", "id": "tr-587-06-002", "answers": [ { "text": "『スティール・ボール・ラン』", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『スティール・ボール・ラン』の舞台となった場所はどこ?", "id": "tr-587-06-003", "answers": [ { "text": "西部アメリカ", "answer_start": 270, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "台詞回しはしばしば翻訳調と言われており、荒木も「本を読んだ影響が残っているんじゃあないか」と話している。\nまた、この「じゃあないか」という口調も「じゃないか」に「あ」を加えた荒木独特のものであり、「じゃあない」、「じゃあないぜ」、「じゃあないのォ?」といったパターンも確認されており、作中の人物の特徴的な言い回しはネット上で改変されて使われることも多い。\nまた、緊迫シーンなどで「ゴゴゴゴゴゴ・・・」「ドドドドドド・・・」や「バーーーン」といった(物理的ではなく)心理的な状態を表現する独特の擬音が使われており、これらはサスペンス映画で使われるような効果音を漫画にも欲しいと思ったことが発想の元になったと述べている。\n荒木の音楽好きは広く知られており、「ズギュウン」や「ズッギャーン」など、楽器の音をイメージした擬音が多い。\nなお、登場人物が必殺技の名前を叫ぶのは車田正美の影響である。", "qas": [ { "question": "「じゃないか」という台詞を荒木独特の翻訳調に直すとどうなりますか?", "id": "tr-587-07-000", "answers": [ { "text": "「じゃあないか」", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "登場人物が必殺技の名前を叫ぶのは誰の影響からですか?", "id": "tr-587-07-001", "answers": [ { "text": "車田正美", "answer_start": 382, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ズッギャーン」は何をイメージした擬音ですか?", "id": "tr-587-07-002", "answers": [ { "text": "楽器の音", "answer_start": 345, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "荒木は漫画を描く上で最も重要な要素を「キャラクター作り」と捉えており、設定の際には履歴や家族構成、所属組織の他、趣味や癖、信条など60近い項目が存在する「キャラクター身上調査書」を用いてそのキャラクターのバックボーンを作り上げる方式を取っている。\nまた、悪役は前向きな性格にすると決めており、そうしないと「ストーリーが破綻しちゃうんで」と語っている。", "qas": [ { "question": "荒木の描く悪役は全員どんな性格ですか?", "id": "tr-587-08-000", "answers": [ { "text": "前向きな性格", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "荒木が漫画を描く上で、最も重点を置いている事は何ですか?", "id": "tr-587-08-001", "answers": [ { "text": "「キャラクター作り」", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「キャラクター身上調査書」にはいくつの項目があるの?", "id": "tr-587-08-002", "answers": [ { "text": "60近い項目", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "『ジョジョの奇妙な冒険』には登場人物に腰の極端なひねりや捻転、奇矯な手足の動きなどを加えた独特のポージングが頻出する。\nこれらのポーズは、荒木が20代のときに『北斗の拳』『リングにかけろ』『キャプテン翼』などの強い個性を持つ当時の『ジャンプ』連載陣の中で自分の独創性を模索していた頃、イタリアの彫刻芸術からヒントを得て作り上げられたものだという。\n2013年に行われた第88回箱根駅伝では、順天堂大学アンカーの選手が、ゴールの際ジョジョ立ちをして話題になった。\nエゴン・シーレやグスタフ・クリムトなどの、敬愛する画家が描いた人物そのままのポーズや顔を描く事も少なくない。", "qas": [ { "question": "『ジョジョの奇妙な冒険』での独特のポージングは、何からヒントを得て作られたの?", "id": "tr-587-09-000", "answers": [ { "text": "イタリアの彫刻芸術", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "荒木が尊敬している画家とはエゴン・シーレと誰ですか?", "id": "tr-587-09-001", "answers": [ { "text": "グスタフ・クリムト", "answer_start": 239, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "順天堂大学アンカーの選手がゴールの際にジョジョ立ちをして話題になったのは第何回の箱根駅伝でしたか?", "id": "tr-587-09-002", "answers": [ { "text": "第88回", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『リングにかけろ』や『キャプテン翼』は、荒木がいくつ頃の時に連載していた作品ですか?", "id": "tr-587-09-003", "answers": [ { "text": "20代", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "荒木の代表作である『ジョジョの奇妙な冒険』は、それまで単純な『力比べ』だけだった少年誌のバトル漫画に心理的な駆け引きやトリックによる『頭脳戦』を導入することで新たな展開をもたらしたと評価されている。\n特にPart3以降に登場する「スタンド」(様々な超能力をヴィジュアル化したキャラクター)の概念は、人物ごとに異なった能力で勝負する「能力バトル」という新形式を日本のバトル漫画全体に普及させた。\nこれらのことから「現在のバトルマンガは全て『ジョジョ』の影響下にあると言っても過言ではない」とも評されている。", "qas": [ { "question": "『ジョジョの奇妙な冒険』で新たに導入された試みとは何?", "id": "tr-587-10-000", "answers": [ { "text": "『頭脳戦』", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本のバトル漫画全体に普及させた新形式とは何?", "id": "tr-587-10-001", "answers": [ { "text": "「能力バトル」", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "作中の「波紋」(呼吸を中心とする特殊な身体技法)や「スタンド」の能力表現は、同郷の先輩である大友克洋が超能力の表現に使っていた「歪む背景」が、不可視であることに不満を持ったことが発想の元となったという(また「スタンド」に関してはつのだじろう『うしろの百太郎』にも言及している)。\nなお大友の作品に関しては、空間表現や緻密な描写などが大いに作画の勉強になったとも語っている。\nまた、荒木は週刊少年ジャンプ初連載となる『魔少年ビーティー』の人気が低迷し10回で打ち切られた後、不人気の理由を担当編集者と検討した際、なぜか最終回のアンケート結果だけが好評だったのかを探っていくと、1-9回は高い知能を持つ主人公が肉体派の敵を一方的にやり込める話だが、最終回のみライバルも力ではなく頭脳で対抗するという構図が『スリルとサスペンス』を盛り上げたためではないかと推測しており、この時点で『主人公と敵の頭脳戦』が人気をとれるという考えにいたっていた。", "qas": [ { "question": "『うしろの百太郎』の作者は誰?", "id": "tr-587-11-000", "answers": [ { "text": "つのだじろう", "answer_start": 114, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『魔少年ビーティー』は何回した連載されなかったの?", "id": "tr-587-11-001", "answers": [ { "text": "10回", "answer_start": 224, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical 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186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "荒木は毎朝何時に起きている?", "id": "tr-587-12-002", "answers": [ { "text": "10時", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『こちら葛飾区亀有公園前派出所』が連載された漫画雑誌とは?", "id": "tr-587-12-003", "answers": [ { "text": "『週刊少年ジャンプ』", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2012年時点でも荒木は手書きにこだわっており、机の上にはパソコンやモニタなどは置いていないが、画材には強いこだわりはなく、ぺんてるの筆ペンとゼブラのGペン、シャープペンシル、下書き用に青鉛筆(キャラクターを描く際のアタリを描く事に用いる。)があれば十分だという。\nまたペン入れには開明書液を使っているほか、30年前に父親が制作した卓上製図板を現在でも使い続けている。\n下書き前には、青鉛筆をカッターナイフで削る事から始める。\nこれは漫画家デビューの時から行っている行為らしく、「儀式」のようなものであると語る。\nこの行為から、執筆作業に対しての気持ちが入っていく面もあるという。\n仕事の開始前には、自分で豆を挽いてコーヒーを淹れることが習慣だという。", "qas": [ { "question": "荒木が現在も使用している卓上製図板は誰が作ったものなの?", "id": "tr-587-13-000", "answers": [ { "text": "父親", "answer_start": 159, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "単行本の著者近影は10数年間ほとんど変わらず若々しさを保っており、『ユリイカ』で10年越しにインタビューを行った斎藤環は荒木について「当時と比べてまったくお変わりないですね。むしろ若返ったくらいで驚くばかりです。さすが波紋の使い手というか......」と作品にちなんで驚きを表すも、それに対して荒木は「着実に老化しており、週刊連載が量的にきつくなったから月刊に移った」と語っている。\n体力維持のため50歳を過ぎてもジムでのトレーニングや水泳を欠かさず、ご飯はひとめぼれを食べる。\nまた独自の健康法として冬でも冷水のシャワーを浴びるというものがあったが心臓への負担の考慮から現在はやっていないと述べている。", "qas": [ { "question": "『ユリイカ』で荒木にインタビューをした人とは誰?", "id": "tr-587-14-000", "answers": [ { "text": "斎藤環", "answer_start": 56, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "荒木が食している米の種類とは何?", "id": "tr-587-14-001", "answers": [ { "text": "ひとめぼれ", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] } ] }