{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "カボチャ陳情団", "paragraphs": [ { "context": "カボチャ陳情団(カボチャちんじょうだん)は、1924年(大正13年)に存在した日本の民間団体の通称。\n北海道における鉄道省石北線(現:北海道旅客鉄道石北本線)上川駅-遠軽駅間の着工無期延期に際し、北海道遠軽村(現在の遠軽町域に相当)から延期の撤廃と工事再開を求めて上京し、国会や各界の有力者たちに陳情を行なった。\n鉄道無くしてはカボチャしか食べられない貧しい日々が続くことを知らしめるため、地元産のカボチャを弁当として持参して活動していたことから、マスコミなどからこの名で呼ばれ、日本全国で大きな話題となった。", "qas": [ { "question": "カボチャ陳情団が設立された年は?", "id": "tr-251-00-000", "answers": [ { "text": "1924年", "answer_start": 22, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カボチャ陳情団が活動の際に持参していた弁当は何でしたか?", "id": "tr-251-00-001", "answers": [ { "text": "カボチャ", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カボチャ陳情団はどこの都道府県で設立された?", "id": "tr-251-00-002", "answers": [ { "text": "北海道", "answer_start": 51, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カボチャ陳情団が工事再開を陳情した路線は、現在何という路線となっていますか?", "id": "tr-251-00-003", "answers": [ { "text": "石北本線", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "上川から遠軽にかけての鉄道は、1896年(明治29年)に当時北海道庁鉄道建設部長であった田辺朔郎らの一行が敷設調査を行っているが、1913年(大正2年)の時点にあっても、北海道の道央方面と道東各地を結ぶ鉄道は、一旦旭川まで北上し、旭川から現在の富良野線を経由し下富良野(現:富良野)に出てから、のちの根室本線を経て帯広、釧路へ至るルート、途中の池田で分岐する網走本線により、陸別などを経由して野付牛(現:北見)、網走に至るルートがあるのみであった。\nしかし同年に札幌と道東方面を短絡する釧路本線(現:根室本線)滝川駅-下富良野駅間が開通したことで旭川駅の利用客は半減し、旭川名物の売上も約3分の1に減るなど、旭川は経済的に大打撃を被った。", "qas": [ { "question": "1896年当時に北海道庁鉄道建設部長を務めていた人は誰?", "id": "tr-251-01-000", "answers": [ { "text": "田辺朔郎", "answer_start": 44, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "釧路本線が開通したのは何年でしたか?", "id": "tr-251-01-001", "answers": [ { "text": "1913年", "answer_start": 65, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "釧路本線の開通に伴い、利用客が半分に減った駅とはどこ?", "id": "tr-251-01-002", "answers": [ { "text": "旭川駅", "answer_start": 273, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "釧路本線は下富良野駅とどこを結ぶルートですか?", "id": "tr-251-01-003", "answers": [ { "text": "滝川駅", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "そこで旭川では危機を脱するため、旭川と北見地方を短絡する鉄道路線を建設させるべく「開発期成同盟」が設立された。\n折しも1916年(大正5年)には湧別軽便線(のちの名寄本線の一部。1989年廃止)が下湧別(のちの湧別)へ延伸したことで、同盟は旭川と名寄経由でつながった遠軽(のちの遠軽村)での参加を呼び掛けた。\nこの遠軽で同盟参加を求められた1人が、同地の農場管理人である市原多賀吉であった。", "qas": [ { "question": "遠軽で「開発期成同盟」への参加を求められた人物は誰でしたか?", "id": "tr-251-02-000", "answers": [ { "text": "市原多賀吉", "answer_start": 185, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1916年に湧別軽便線はどこまで線を延ばしましたか?", "id": "tr-251-02-001", "answers": [ { "text": "下湧別", "answer_start": 98, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "湧別軽便線が下湧別まで延伸したのは何年でしたか?", "id": "tr-251-02-002", "answers": [ { "text": "1916年", "answer_start": 59, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「開発期成同盟」は旭川とどこの地域を短絡する鉄道路線を敷くために作られましたか?", "id": "tr-251-02-003", "answers": [ { "text": "北見地方", "answer_start": 19, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "当時、遠軽は交通の便が悪く、生活物資の調達、役場への各種の届けなど日常生活においても、40キロメートルもの距離を徒歩か馬で往復することを強いられており、交通の便利な地へ転出する者が後を絶たない状況にあった。\n特に、西方にある白滝地域は農耕地が広大で、多くの入植者たちにより開墾されていたが、鉄道が無いために農作物の運搬費がかさみ、農民たちの努力も採算がとれずにいた。", "qas": [ { "question": "当時の遠軽で移動手段に使用されていたものは何?", "id": "tr-251-03-000", "answers": [ { "text": "馬", "answer_start": 59, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "遠軽の西側に位置する広大な農耕地のある地域はどこですか?", "id": "tr-251-03-001", "answers": [ { "text": "白滝地域", "answer_start": 112, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "市原は「人のため、社会のため」を座右の銘とし、青年時代から地方振興に強い関心を抱いていた。\n市原は、遠軽と旭川が鉄道で直接繋がれば移動時間が4時間近く短縮され、物価も安くなり、オホーツク開発の活性化にも繋がると見て、地元住民たちと共に「鉄道速成期成会」を結成し、111名分の署名と共に嘆願書を国会に提出した。\nこうして地元住民たちが国を動かし、1920年(大正9年)に石北線上川駅-遠軽駅間の鉄道工事が承認された。\n地元住民は、これにより農産物が高く売れ、物が安く買え、米が買えずにカボチャばかり食べていた生活からも解放されると、大いに喜んだ。", "qas": [ { "question": "市原の座右の銘は何だったの?", "id": "tr-251-04-000", "answers": [ { "text": "「人のため、社会のため」", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "市原が中心となって結成された組織名は何ですか?", "id": "tr-251-04-001", "answers": [ { "text": "「鉄道速成期成会」", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "国会に提出した署名は何名分でしたか?", "id": "tr-251-04-002", "answers": [ { "text": "111名分", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "国会から承認されたのは、遠軽駅とどこの駅を結ぶ鉄道工事だったの?", "id": "tr-251-04-003", "answers": [ { "text": "上川駅", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "しかし1923年(大正12年)に関東大震災が発生し、東京は未曽有の被害に見舞われた。\nこの事態に対して、首都圏の災害復旧は国にとって最大の優先事項となった。\nその代償としてあらゆる事業が延期され、莫大な国費が見込まれる石北線着工も例外ではなかった。\nこの政策には、かねてからの第一次世界大戦後の深刻な不況も背景にあった。\n1924年(大正13年)遠軽地域に、石北線工事無期延期の報せが舞い込んだ。\n鉄道工事の承認の喜びに沸いていた遠軽の人々は、国で承認されたはずの鉄道工事が覆されたことに、大きな衝撃を受けた。\n中には、明治から大正にかけて親子2代で鉄道建設を願い続けた人々もおり、工事延期に対する落胆は、筆舌に尽くしがたいものであった。", "qas": [ { "question": "石北線工事無期延期の原因になった災害とは何でしたか?", "id": "tr-251-05-000", "answers": [ { "text": "関東大震災", "answer_start": 16, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "石北線工事無期延期の知らせが地元に届いたのは何年ですか?", "id": "tr-251-05-001", "answers": [ { "text": "1924年", "answer_start": 161, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "関東大震災によって国の最大優先事項となったのはどこの復旧作業ですか?", "id": "tr-251-05-002", "answers": [ { "text": "首都圏", "answer_start": 52, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "遠軽の人々は、石北線工事が延期されれば、自分たちはいつまでも貧しい生活を強いられ続けるとして、この延期案を地方の発展を侵害する重大な問題と捉えた。\nそして国会に行って直訴すべく、陳情団の結成を決意した。\n上京資金は全額を会費で賄うことはできず、1人あたり50円が自己負担となり、それを払う勇気を持つ者が、有志として上京することになった。\n当時の50円は小学校教員の初任給に匹敵する大金であり、一家庭からの捻出は決して容易ではなかった。\nそれでもこの一大事に対し、遠軽、丸瀬布、白滝の各村から52名もの有志が、自発的に参加を名乗り出た。\n団長には、当時42歳の市原が任じられた。", "qas": [ { "question": "陳情団には何名の地元住民が参加しましたか?", "id": "tr-251-06-000", "answers": [ { "text": "52名", "answer_start": 245, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "上京資金の自己負担はいくらでしたか?", "id": "tr-251-06-001", "answers": [ { "text": "50円", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "陳情団の団長は誰でしたか?", "id": "tr-251-06-002", "answers": [ { "text": "市原", "answer_start": 279, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "市原は何歳で陳情団の団長に就任したの?", "id": "tr-251-06-003", "answers": [ { "text": "42歳", "answer_start": 275, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "市原が管理していた農場の1つに、当時の日本国内で有名なパンのブランドであるマルキパンの農場があった。\nマルキパンの創業者、「東洋のパン王」といわれた大阪の水谷政次郎(1877年〈明治10年〉1月24日-1952年〈昭和27年〉2月27日)が、石北線の開通を見込んで、パン製造の原料確保のために沿線付近に開設したものである。\n鉄道が無ければそれらの農場は無意味となり、石北線着工の延期は水谷にとっても死活問題であった。\n市原らの上京計画を知った水谷は、彼らの自己負担での上京を取りやめさせ、水谷自らが旅費の全額負担を申し出た。\nその額は1万円であり、全員分の旅費を賄うどころか、その倍以上にも昇る大金であった。\n市原は意外な形で支援を得ることができ、水谷に大いに感謝し、陳情の成功を約束した。", "qas": [ { "question": "マルキパンの創業者は誰?", "id": "tr-251-07-000", "answers": [ { "text": "水谷政次郎", "answer_start": 77, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「東洋のパン王」とは誰のこと?", "id": "tr-251-07-001", "answers": [ { "text": "水谷政次郎", "answer_start": 77, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "水谷が陳情団に支援した金額は?", "id": "tr-251-07-002", "answers": [ { "text": "1万円", "answer_start": 267, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "水谷政次郎が創業したパンのブランド会社とは?", "id": "tr-251-07-003", "answers": [ { "text": "マルキパン", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "同1924年11月10日、市原を始めとする陳情団は、地元住民たちの期待を背にして遠軽を発った。\nまず札幌に向かい、鉄道局、北海道庁、政治家たちに石北線の早期開通を陳情した。\nさらに上京し、3日かけて東京を目指した。\n当時の東京への旅程は決して短くはなかったが、郷里に鉄道を敷こうとする彼らの熱意は、その長い旅程を苦とはしなかった。\n鉄道開通の約束を取り付けるまでは、決して帰郷しない覚悟であった。", "qas": [ { "question": "陳情団が遠軽を出発したのはいつだったの?", "id": "tr-251-08-000", "answers": [ { "text": "1924年11月10日", "answer_start": 1, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "陳情団が最初に向かった都市とは?", "id": "tr-251-08-001", "answers": [ { "text": "札幌", "answer_start": 50, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "陳情団が札幌の次に向かった都市とは?", "id": "tr-251-08-002", "answers": [ { "text": "東京", "answer_start": 99, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "その頃、警視庁は陳情団の動きを察知し、上京を中止させるよう遠軽へ連絡を入れていた。\n関東大震災からまだ日が浅く、東京には家も仕事も無い人々が大勢いるという不穏な社会情勢の中、政府への不満要素が増えることを恐れていたのである。\nしかし陳情団はすでに遠軽を発ち、上京は目前であった。\nやむを得ず警視庁は、陳情団が旅費節約のために寺を宿舎に用いたいとの依頼が来るや、一同の足止めのためにそれを断った。", "qas": [ { "question": "陳情団の上京を阻止しようと動いた機関はどこ?", "id": "tr-251-09-000", "answers": [ { "text": "警視庁", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "陳情団が旅費節約のために宿舎として利用しようとしていたのはどこ?", "id": "tr-251-09-001", "answers": [ { "text": "寺", "answer_start": 162, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "陳情団が寺に宿泊するのを阻止した機関とは?", "id": "tr-251-09-002", "answers": [ { "text": "警視庁", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "東京に到着した陳情団は、寺に宿泊を断られても諦めることなく、新宿の安宿に陣取った。\n一同は到着後、長旅の疲労を癒す暇も惜しんで活動を開始した。\n郷里の遠軽では一同の応援として、貨物列車を借りきって、食料としてカボチャを大量に積んで送っており、すでに宿には大量のカボチャが届いていた。\n一同は水谷により十分に金銭的な支援を受けていたが、宿代の節約のために寺を利用しようとしたことと同様、食費の出費も惜しみ、そのカボチャを宿で煮て弁当箱に詰め、陳情の幟を掲げて活動し始めた。", "qas": [ { "question": "遠軽から大量に送られてきたものとは何?", "id": "tr-251-10-000", "answers": [ { "text": "カボチャ", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "陳情団一同はカボチャ弁当を腰に提げ、鉄道省を始め、国会、政治家の政党本部、その他の関係機関を連日訪れた。\n鉄道が無ければ一同は貧困を強いられ、毎日カボチャばかり食べるしかないと、カボチャを携えた姿によって訴えた。\n「食事がカボチャばかりでは、陳情にも力が入らない」と音を上げる者もいたが、市原は団長として「米すら食べられない貧乏なこの現状を理解してもらうため」と、一同を鼓舞した。\n私服警官たちが厳しく市原らを監視していたが、一同はなおも嘆願戦術を展開した。", "qas": [ { "question": "陳情団の動きを厳しく監視していたのは誰?", "id": "tr-251-11-000", "answers": [ { "text": "私服警官", "answer_start": 191, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "一同は国会の控室での休憩中でも、カボチャ弁当で食事をとっていた。\n日本の中枢たる国会の控室で、百姓同然の姿でカボチャを頬張る一同は、その異様な姿でたちまちマスコミの注目の的となった。\n「カボチャ団体の陳情」として人々の話題にのぼり、ついには日本全国的に有名となった。\n「カボチャ団体の陳情団」の大見出しで、東京朝日新聞などの新聞でも何度も報道された。\nやがて日を追うごとに「カボチャ陳情団」の名は人々の話題にのぼり続けた。", "qas": [ { "question": "陳情団はどのような見出しで新聞に取り上げられましたか?", "id": "tr-251-12-000", "answers": [ { "text": "「カボチャ団体の陳情団」", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "当初は東京の人々からは、一同が「謎の集団」と見なして奇異の視線を向けられていたものの、報道によって事情が理解され、支援と同情の声が集まった。\n日本全国各地から、新聞社や交通専門誌に激励の声が寄せられた。\n一同の様子をわざわざ見に来る者、激励に訪れる者も後を絶たなかった。\n市原らは、世論を味方につけて陳情を成功させることを決意していた。", "qas": [ { "question": "市原は何を味方につけて陳情を成功させることを決意していた?", "id": "tr-251-13-000", "answers": [ { "text": "世論", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "人々の支援の声に押される形で、当時の鉄道省の鉄道大臣である仙石貢との面会が実現した。\nこの陳情の正念場ともいえる面会日当日の11月15日、陳情団に対し、11人もの警察官が物々しく警備し、新聞・雑誌記者が大勢詰めかけるという、大混乱の状態であった。", "qas": [ { "question": "陳情団は誰との面会が実現したの?", "id": "tr-251-14-000", "answers": [ { "text": "仙石貢", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "当時の鉄道大臣は誰だったの?", "id": "tr-251-14-001", "answers": [ { "text": "仙石貢", "answer_start": 29, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "仙石貢との面会日はいつでしたか?", "id": "tr-251-14-002", "answers": [ { "text": "11月15日", "answer_start": 62, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "面会日当日に陳情団を警備した警察官は何人だった?", "id": "tr-251-14-003", "answers": [ { "text": "11人", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "市原は団長として仙石の前に進み出て、「石北線が無ければ米の輸送費がかさみ、貧乏な農民はいつまでも米を食べることができない」「不便な交通のために他の物資の輸送費もかさみ、農家の経済は圧迫され続けている」「鉄道が開通さえすれば、毎日カボチャばかり食べずに済む」と、現地の貧しさ、交通の不便さ、農家の経済の圧迫を、そして鉄道開通こそがその現状からの解放であることを強く訴えた。\nさらに団員の1人、白滝村の代表者である老人も飛び出して、「団長の言葉の通りです。どうか、我々を助けてください!頼みます!」と、自分たちの助けを乞うべく床に泣き伏した。\n他の団員たちも皆、声を殺して男泣きしていた。\nそれほど当時の一同にとって、北海道の鉄道建設は死活問題だったのである。\n異様な静けさに包まれる会議室の中で、悲痛なまでの市原らの熱意に、警官すらもらい泣きし、翌日の新聞を賑わす事態となった。\nこの市原らの熱意を目の当たりにして、仙石は「この場での即答はできかねるものの、工事計画を前向きに再検討する」と約束した。\n約2週間かけての一同の陳情が成功に至ったのである。\n11月22日、陳情団は東京で解団式を行ない、万歳三唱で互いの健闘を称えつつ、帰途に就いた。", "qas": [ { "question": "陳情団は東京でどれくらいの期間活動を行いましたか?", "id": "tr-251-15-000", "answers": [ { "text": "約2週間", "answer_start": 450, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "陳情団が東京を後にしたのはいつでしたか?", "id": "tr-251-15-001", "answers": [ { "text": "11月22日", "answer_start": 476, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "陳情団の解団式はどこで行われたの?", "id": "tr-251-15-002", "answers": [ { "text": "東京", "answer_start": 487, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1925年(大正14年)9月、石北線工事の延期は撤回された。\n11月には工事が再開され、その2年後の昭和2年、遠軽-丸瀬布間の鉄道が開通した。\n1929年(昭和4年)には丸瀬布-下白滝間、下白滝間-白滝、上川-中越間と続々と開通した。\nこうして工事が次々に進められる最中にも、市原は毎年、恩人である仙石貢を始めとする関係者たちにカボチャを1俵ずつ贈り、鉄道建設に対する信念を忘れさせないよう、努力を続けた。", "qas": [ { "question": "石北線工事が再開されたのは何年の11月ですか?", "id": "tr-251-16-000", "answers": [ { "text": "1925年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "遠軽-丸瀬布間と丸瀬布-下白滝間はどちらが先に鉄道が開通しましたか?", "id": "tr-251-16-001", "answers": [ { "text": "遠軽-丸瀬布間", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "上川-中越間、遠軽-丸瀬布間、丸瀬布-下白滝間の中で最初に鉄道が開通したのはどこのルートですか?", "id": "tr-251-16-002", "answers": [ { "text": "遠軽-丸瀬布間", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "市原は毎年どれくらいのカボチャを仙石貢らに送っていましたか?", "id": "tr-251-16-003", "answers": [ { "text": "1俵", "answer_start": 169, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "インドハッカ", "paragraphs": [ { "context": "インドハッカ(印度八哥、Acridotherestristis)は、カバイロハッカ(樺色八哥)の名でも知られるスズメ目ムクドリ科ハッカチョウ属に分類されるアジア産鳥類の1種である。\n英名はCommonMynaであるが、時にMynahと綴られるほか、\"IndianMyna\"とも称される。\n開けた疎林にいる雑食性の鳥で、強い縄張りの習性を持つインドハッカは、都市の環境にも非常によく適応している。", "qas": [ { "question": "インドハッカの英名は何?", "id": "tr-252-00-000", "answers": [ { "text": "CommonMyna", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "インドハッカの別名は何?", "id": "tr-252-00-001", "answers": [ { "text": "カバイロハッカ", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "インドハッカを漢字表記するとどうなる?", "id": "tr-252-00-002", "answers": [ { "text": "印度八哥", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "インドハッカは何属の鳥類ですか?", "id": "tr-252-00-003", "answers": [ { "text": "ハッカチョウ属", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "インドハッカの分布域は急速に拡大しており、IUCN(国際自然保護連合)種の保存委員会(SpeciesSurvivalCommission:SSC)が2000年に、非常に侵略的な外来種の1つであり、地球上において、その上位100種のなかでわずか3種の鳥類のうちの1種であることを発表したように、インドハッカは生物多様性ならびに農業や人的利益に対して影響を与えている。\n特に、本種はオーストラリアの生態系に深刻な脅威をもたらしており、それは「最重大有害種/問題」(\"TheMostSignificantPest/Problem\")などと名付けられている。", "qas": [ { "question": "インドハッカは特にどの国の生態系に深刻な問題をもたらしているの?", "id": "tr-252-01-000", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 189, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2000年にIUCN種の保存委員会が発表した侵略的な外来種のうち、鳥類は何種ありましたか?", "id": "tr-252-01-001", "answers": [ { "text": "3種", "answer_start": 121, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "インドハッカ(英:CommonMyna)は、インド文化の重要なモチーフとしてサンスクリットおよびプラークリットの文学の双方に見られる。\nMynaは、ヒンディー語のmaināに由来し、それは、サンスクリット語のmadanāから生じている。", "qas": [ { "question": "インド文化の重要なモチーフとなっている動物は何?", "id": "tr-252-02-000", "answers": [ { "text": "インドハッカ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "全長約23cm(22-25cm)で、同じ科のムクドリぐらいの大きさである。\nインドハッカは、褐色の体に黒色の頭頂、それに目尻の裸出した黄色の斑により、容易に識別される。\n頭部から胸は黒色で、背および体下面は濃褐色。\nくちばしと足は鮮やかな黄色。\n翼は黒褐色で、外側初列風切の基部に白斑があり、下側の下雨覆は白色。\n下腹、下尾筒および黒い尾の先端も白色である。\n飛翔時には翼の白斑が目立つ。\n雌雄同色で、よくつがいで見られる。\n雄の前頭(額)には短い冠羽が認められる。\n虹彩は赤みのある黄色である。\n幼鳥は、頭頂が淡色で灰褐色みを帯びる。\nインドハッカは、グロージャーの法則のとおり、インド北西部のほうが、インド南部の暗色の個体群に比べてより淡色となる傾向がある。", "qas": [ { "question": "インドハッカの全長はどれくらいか?", "id": "tr-252-03-000", "answers": [ { "text": "全長約23cm", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "インドハッカのくちばしは何色ですか?", "id": "tr-252-03-001", "answers": [ { "text": "黄色", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "インドハッカの個体の色がより淡色なのは、インド北西部とインド南部のどちらですか?", "id": "tr-252-03-002", "answers": [ { "text": "インド北西部", "answer_start": 291, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "インドハッカの足の色は何ですか?", "id": "tr-252-03-003", "answers": [ { "text": "黄色", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "本種はアジアに自然分布する鳥であり、当初の生息域は、イラン、アフガニスタン、パキスタン、インド、スリランカをはじめ、トルクメニスタン、タジキスタンや、ネパール、ブータン、バングラデシュ、ミャンマーから、タイ、マレーシア、シンガポール、インドシナ半島、中国南部におよぶ。", "qas": [ { "question": "本種は世界的にどの地域に自然分布する鳥ですか?", "id": "tr-252-04-000", "answers": [ { "text": "アジア", "answer_start": 3, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "日本では、飼育下から逃げ出したものが野生化し、繁殖しているが、まだ問題となる個体数は認められていない。\n本州ではこれまで千葉県、神奈川県のほか、埼玉県の記録がある。\nまた、四国や九州、南西諸島の久米島、与那国島でも記録され、石垣島においても繁殖が認められている。\nこれらは本来の自然分布域に比較的近いため、自然の飛来例であるか移入個体例であるか確定は困難だが、八重山諸島の個体については、台湾で移入繁殖した個体が渡来しているものと考えられる。", "qas": [ { "question": "本州の中で本種が確認されているのは神奈川県、埼玉県とどこですか?", "id": "tr-252-05-000", "answers": [ { "text": "千葉県", "answer_start": 60, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本州の中で本種が確認されているのは千葉県、埼玉県とどこですか?", "id": "tr-252-05-001", "answers": [ { "text": "神奈川県", "answer_start": 64, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "鳴き声は、形態と同じくムクドリに似る。\n「ジョッ、ジョッ、チィーヨチィーヨ」「チョチョ」のほか、地鳴きは、「キュルキュル」「ギッギッギッ」など多様で、しわがれた声、やかましい声、甲高い声、舌打ちのような声、口笛のような声、それに「警告を発する声」などがあり、また、囀りではよくその羽毛を膨らませて頭部を動かす。\nインドハッカは、捕食者に備え、近くにいるかもしくはそれが飛翔しようとする時に、仲間ないし他の鳥に警告するために荒く甲高い声を上げる。\n他の鳥やヒトの声を真似るインドハッカは、かれらの歌や「会話」により飼い鳥として人気がある。\nインドハッカは、集団で塒(ねぐら)に就く前に、いっせいに鳴き声を上げることから、「集団騒音」として知られる。", "qas": [ { "question": "本種は何の鳥と形態が似ているの?", "id": "tr-252-06-000", "answers": [ { "text": "ムクドリ", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本種は何の鳴き声と似ているの?", "id": "tr-252-06-001", "answers": [ { "text": "ムクドリ", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "インドハッカは生涯つがいでいると考えられている。\nかれらは生息する地域により繁殖の時期が異なるが、場所によっては年間の大半を通して繁殖し、木や壁の穴などに巣を作る。\nヒマラヤ山脈では、標高3,000メートルにかけて繁殖する。", "qas": [ { "question": "ヒマラヤ山脈では、標高何メートルにかけて本種は繁殖しますか?", "id": "tr-252-07-000", "answers": [ { "text": "3,000メートル", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "中央アジアにおける繁殖期は3-8月であり、インドでは主に4-7月に繁殖するが、南インドのケーララ州では1月より認められ、多くは3-4月に繁殖する。\nバングラデシュの首都ダッカでは1-3月、5-6月、時に9-11月であり、西マレーシアにおいては2-8月に繁殖し、シンガポールも同様であるが、それ以外の月でも認められている。\nまた、移入群であるオーストラリアやニュージーランドの繁殖期は、10月から翌年の3・4月におよぶ。", "qas": [ { "question": "繁殖期が最も早いのは中央アジア、インド、ケーララ州の中でどこですか?", "id": "tr-252-08-000", "answers": [ { "text": "ケーララ州", "answer_start": 44, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "西マレーシアでの繁殖期はいつですか?", "id": "tr-252-08-001", "answers": [ { "text": "2-8月", "answer_start": 121, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "シンガポールでの繁殖期はいつですか?", "id": "tr-252-08-002", "answers": [ { "text": "2-8月", "answer_start": 121, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "雌雄で通常1-2週間かけて営巣し、4-5個の卵を産むが、時に2-6個の場合もある。\n卵の大きさは平均30.8×21.99mm(26.5-35.0×19.2-24.2mm)で、色は光沢のある淡青色ないし淡青緑色であり斑はない。\n抱卵期間は17-18日で、巣立ちは22-24日であり、その後、数週間は親鳥の給餌を受ける。\n時にオニカッコウ(Eudynamysscolopaceus)が本種に托卵する。\n巣材には、小枝、草、葉、根、藁(わら)のほか、動物の毛や、麻くず、ゴミくずなどが使われる。また、プラスチック、ティッシュペーパー、スズ箔、および脱皮したヘビの皮も使用することが知られている。", "qas": [ { "question": "卵の大きさは一般的にどれくらいですか?", "id": "tr-252-09-000", "answers": [ { "text": "30.8×21.99mm", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種に托卵する鳥類は何ですか?", "id": "tr-252-09-001", "answers": [ { "text": "オニカッコウ", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "繁殖期において、1978年4月から6月のインドのプネーにおけるインドハッカの日中の活動時間の割合は、営巣活動(42%)、環境の精査(28%)、移動(12%)、採食(4%)、発声(7%)、羽づくろい関連行動、相互およびその他の行動(7%)であったことが記録されている。\nインドハッカは、キツツキ類やインコ類などの巣を使用し、また巣箱にもよく営巣する。\n前に営巣するつがいの雛(ひな)をそのくちばしで追い出し、その後、時に空になった巣箱さえ使われないことが時に記録されている。\nこの攻撃的な行動は、侵入種としての成功の一因となっている。", "qas": [ { "question": "インドハッカの日中の活動時間の割合が最も多いのは何ですか?", "id": "tr-252-10-000", "answers": [ { "text": "営巣活動", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "インドハッカの日中の活動時間の割合が2番目に多いのは何ですか?", "id": "tr-252-10-001", "answers": [ { "text": "環境の精査", "answer_start": 60, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "インドハッカの日中の活動時間の割合が3番目に多いのは何ですか?", "id": "tr-252-10-002", "answers": [ { "text": "移動", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "インドハッカの日中の活動時間の割合が最も少ないのは何ですか?", "id": "tr-252-10-003", "answers": [ { "text": "採食", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "インドハッカは、日中にはつがいもしくは単独でいるが、餌が豊富な場所では群れとして集まることもある。\nほとんどのムクドリ類と同様に、インドハッカは雑食性である。\n昆虫類、クモ類、多足類、カタツムリ、甲殻類、両生類、爬虫類、鳥類の卵や雛、小型哺乳類、種子類、穀物や果実類、それにヒトの居住より捨てられた廃棄物を餌とする。\n地面で草の中にいる昆虫類を採餌し、とりわけバッタ類から、Acridotheres「バッタを狩るもの」という属名を得ている。\nただし、概ね地上で摘んだ多様な昆虫類をその餌とする。\nまた、例えばキワタ属Salmaliaやデイゴ属Erythrinaなどの花の交配の花粉媒介者である。\n二足歩行を行なうが、時折、跳ねるように地上を歩き、牛の放牧に加えて草刈りで乱された昆虫類を狙って食餌する。", "qas": [ { "question": "インドハッカの食性の習慣は何ですか?", "id": "tr-252-11-000", "answers": [ { "text": "雑食性", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ムクドリ類の食性の習慣は何ですか?", "id": "tr-252-11-001", "answers": [ { "text": "雑食性", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本種はキワタ属やデイゴ属などにとってはどのような役割を果たしていますか?", "id": "tr-252-11-002", "answers": [ { "text": "花粉媒介者", "answer_start": 288, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "インドハッカは、単一群またはジャワハッカ(Acridotheresjavanicus)、ミドリカラスモドキ、ホシムクドリ、バライロムクドリのほか、カラス類(イエガラスやハシブトガラス)、ホンセイインコ類(ワカケホンセイインコ)、スズメ類、アマサギなどの鳥類と混群となり、周年、集団で塒に就く。\nその塒の個体数は100羽未満から数千羽にまでおよぶ。\nインドハッカの塒に就く時間は、日暮れ前に始まり日没後に終わる。\nインドハッカは日の出前に塒を発つ。\nその到着と出発の時間や時間帯、塒に最終的に落ち着くためにかかる時間、集団睡眠の継続時間、群れの大きさや個体数は季節によって異なる。\n集団就塒(しゅうだんしゅうじ)の機能には、さまざまな社会的行動の協調、捕食者の回避、食料源の情報交換がある。\n空中を舞う共同ディスプレイ(就塒前や就塒後)が、インドのプネーにおいては、繁殖期前(10月から3月)に見られる。\nこの行動は、つがいの形成に関連していると考えられる。", "qas": [ { "question": "インドハッカが就寝場所から出発するのはいつ頃ですか?", "id": "tr-252-12-000", "answers": [ { "text": "日の出前", "answer_start": 213, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "インドハッカの就寝場所に就く時間はいつ頃には終わりますか?", "id": "tr-252-12-001", "answers": [ { "text": "日没後", "answer_start": 197, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この個体数に富んだスズメ目の鳥類は、主として開けた疎林、草地、耕作地、および居住地周辺に生息する。\n本種は適応性があるが、その個体数は、シンガポールやマレーシア(その地方ではgembalakerbauと呼ばれ、それは文字通り「水牛の牛飼い」を意味する)では、移入されたジャワハッカという近縁種との競争によって、著しく減少している。", "qas": [ { "question": "シンガポールやマレーシアに移入された本種の近縁種とは何ですか?", "id": "tr-252-13-000", "answers": [ { "text": "ジャワハッカ", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シンガポールでの本種の呼称は何ですか?", "id": "tr-252-13-001", "answers": [ { "text": "gembalakerbau", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マレーシアでの本種の呼称は何ですか?", "id": "tr-252-13-002", "answers": [ { "text": "gembalakerbau", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "gembalakerbauの意味は何?", "id": "tr-252-13-003", "answers": [ { "text": "「水牛の牛飼い」", "answer_start": 112, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "インドハッカは、都市および郊外の環境への適応に成功している。\n例えば、オーストラリアの首都キャンベラにおいては、1968年から1971年の間に110羽のインドハッカが放鳥された。\n1991年には、インドハッカの個体密度は1平方キロメートルあたり平均15羽となった。\nわずか3年後の第二次調査では、同地域における平均個体密度は1平方キロメートルあたり75羽であることが分かった。", "qas": [ { "question": "キャンベラはどこの国の首都ですか?", "id": "tr-252-14-000", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 35, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "インドハッカの平均個体密度が少ないのは、1991年と3年後のどちらですか?", "id": "tr-252-14-001", "answers": [ { "text": "1991年", "answer_start": 90, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "第一次調査でのインドハッカの平均個体密度は1平方キロメートルあたり何羽でしたか?", "id": "tr-252-14-002", "answers": [ { "text": "15羽", "answer_start": 124, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "IUCNは、このインドハッカを世界の侵略的外来種ワースト100のなかでわずか3種の鳥類の1つであることを発表した(その他2種の侵略的鳥類はシリアカヒヨドリとホシムクドリ)。\nインドハッカは、マダガスカル、南アフリカ、中東、イスラエル、東南アジア、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、およびその近接する地域や、フィジーやハワイの有名な島々を含む太平洋やインド洋のさまざまな海洋島など、ほかの場所に広く移入されている。\nインドハッカは、南アフリカ、北アメリカ、中東、オーストラリア、ニュージーランド、および太平洋諸島の多くにおいて厄介な鳥である。\nそれは特にオーストラリアで問題となっており、いくつかの方法が、本種の個体数を抑制し、在来種を保護するために試みられている。", "qas": [ { "question": "インドハッカとホシムクドリ以外の侵略的外来種の鳥類とは何?", "id": "tr-252-15-000", "answers": [ { "text": "シリアカヒヨドリ", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "インドハッカとシリアカヒヨドリ以外の侵略的外来種の鳥類とは何?", "id": "tr-252-15-001", "answers": [ { "text": "ホシムクドリ", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "オーストラリアにおいてインドハッカは侵略的有害種とされる。\nかれらは現在、東海岸に沿ったほとんどすべての都市部に勢力を持つ鳥である。\n2004年の一般調査で、この鳥はオーストラリアの「最重大有害種/問題」(\"TheMostSignificantPest/Problem\")と名付けられ、また、かれらのゴミあさりがネズミに似ているとして「空飛ぶネズミ」(\"flyingrats\")のあだ名を得ている。", "qas": [ { "question": "本種のあだ名として「空飛ぶネズミ」と付いているのはどの国?", "id": "tr-252-16-000", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 83, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本種が「最重大有害種/問題」と名付けられている国はどこ?", "id": "tr-252-16-001", "answers": [ { "text": "オーストラリア", "answer_start": 83, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本種がゴミをあさっている姿は何の動物に似ているの?", "id": "tr-252-16-002", "answers": [ { "text": "ネズミ", "answer_start": 156, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "インドハッカは最初、メルボルンの園芸農場の昆虫駆除のため、1863年から1872年にオーストラリアのビクトリア州に移入された。\n本種は、同じ時期にニューサウスウェールズ州(現在最も個体数が多い)に広がった可能性が高いが、裏づける資料は不明確である。\n本種はのちにバッタやケーン・ビートル(英:Canebeetle)を捕食するものとしてクイーンズランド州に移入された。\n現在、オーストラリアにおけるインドハッカの個体群は、シドニーとその周辺の郊外あたりの東海岸沿いに集中しており、ビクトリア州ではまばらで、またクイーンズランド州にはいくつか孤立した群れがある。\n2009年には、ニューサウスウェールズ州のさまざまな地方自治体において、インドハッカの個体数を減らすための捕獲試験が開始された。", "qas": [ { "question": "インドハッカが初めて移入されたのはオーストラリアのどの州?", "id": "tr-252-17-000", "answers": [ { "text": "ビクトリア州", "answer_start": 50, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "インドハッカの移入目的は何でしたか?", "id": "tr-252-17-001", "answers": [ { "text": "昆虫駆除", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "インドハッカの移入が早かったのはクイーンズランド州とニューサウスウェールズ州のどちらですか?", "id": "tr-252-17-002", "answers": [ { "text": "ニューサウスウェールズ州", "answer_start": 73, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "本種は、キャンベラの厳しい冬からケアンズの熱帯気候に至る幅広い気温のもとに生息し繁殖することができる。\nインドハッカの自立個体群は、最も暖かい月の平均気温が23.2°C以上や最も寒い月の平均気温が-0.4°C未満の地域には見られず、これはインドハッカが、シドニーから東海岸沿いに北に向かってケアンズに、また西に向かって南海岸沿いにアデレードへと拡散する可能性を示唆している(しかしタスマニアやダーウィンないし乾燥内陸地帯には拡がらない)。", "qas": [ { "question": "インドハッカの自立個体群は、平均気温が何°C以上の地域には生息しないですか?", "id": "tr-252-18-000", "answers": [ { "text": "23.2°C以上", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "三島事件", "paragraphs": [ { "context": "三島事件とは、1970年11月25日に、作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件とも呼ばれる。\n\nこの事件は日本社会に大きな衝撃をもたらしただけではなく、日本国外でも速報ニュースとなり、国際的な名声を持つ作家の起こした異例な行動に一様に驚きを示した。", "qas": [ { "question": "1970年11月25日に、作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけた後に割腹自殺をした事件を何といいますか。", "id": "tr-253-00-000", "answers": [ { "text": "三島事件", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "三島事件は誰が起こしたの?", "id": "tr-253-00-001", "answers": [ { "text": "三島由紀夫", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "三島事件は三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、何と呼ばれますか。", "id": "tr-253-00-002", "answers": [ { "text": "楯の会事件", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1970年11月25日の午前10時58分頃、三島由紀夫(45歳)は楯の会のメンバー森田必勝(25歳)、小賀正義(22歳)、小川正洋(22歳)、古賀浩靖(23歳)の4名と共に、東京都新宿区市谷本村町1番地の陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地正門を通過し、東部方面総監部二階の総監室正面玄関に到着した。出迎えの沢本泰治3等陸佐に導かれ正面階段を昇った後、総監部業務室長の原勇1等陸佐(50歳)に案内され総監室に通された。\n\nこの訪問は21日に予約済で、業務室の中尾良一3等陸曹が警衛所に、「11時頃、三島由紀夫先生が車で到着しますのでフリーパスにしてください」と内線連絡していたため、門番の鈴木偣2等陸曹が助手席の三島と敬礼し合っただけで通過となった。", "qas": [ { "question": "三島由紀夫、森田必勝、小賀正義のうち、誰が一番先に生まれた?", "id": "tr-253-01-000", "answers": [ { "text": "三島由紀夫(45歳)", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "スコットランドの氏族", "paragraphs": [ { "context": "スコットランドの氏族は、中世から近世のスコットランドにおける社会制度であり、現在も続く社会的・文化的伝統である。各氏族の長は氏族長と呼ばれる。ゲール人・ノース人など多様な民族的混淆の中から作られ、アルバ王国など代々のスコットランド王朝の宗主権のもと高度な自治を維持していた。氏族制度は18世紀に解体するが、ロマン主義を契機に19世紀、それまでとは異なるかたちで再生した。各氏族の紐帯は現在まで受け継がれ、クランに属するクランタータンはスコットランド文化の象徴となっている。", "qas": [ { "question": "氏族制度はいつ解体されたか。", "id": "tr-254-00-000", "answers": [ { "text": "18世紀", "answer_start": 142, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ゲール語の\"clann\"は、子供たち(children)を意味する。各々の一族は共通の祖先の子孫で、近所に住む者同士のグループから始まった。当初は核となる大きな氏族に小さな氏族が従属する形をとっていたが、これらの氏族は次第にまとまり、相互扶助のために強固な一氏族となった。氏族のルーツはいくつかの類型に分類されるが、明らかでない氏族も多い。しばしば氏族名の頭につく「マク(Mac,Mc)」はゲール語で息子(mac)を意味し、時代を経るに従い「子孫」の意味を有するに至った。マクドナルド(MacDonald)はドナルド(Donald)の息子(子孫)ということになる。", "qas": [ { "question": "子供たち(children)をゲール語にすると何ですか。", "id": "tr-254-01-000", "answers": [ { "text": "\"clann\"", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「マク(Mac,Mc)」はゲール語で何を意味しますか。", "id": "tr-254-01-001", "answers": [ { "text": "息子(mac)", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "17世紀に三王国戦争が始まると、氏族達は国民盟約を結成した。盟約は領域を広げようとするキャンベル氏族の長アーガイル侯やサザランド氏族らに支持され、チャールズ1世に叛旗を翻し、スコットランドの支配を目指した。中立を維持する氏族たちはグラハム氏族出身のモントローズ侯につき、長老制教会組織が維持される限りにおいてチャールズ1世を支持した。こうしてスコットランド氏族は二つに割れ、内戦が始まった。\n\nスコットランドの内戦は1644年から1647年にかけて起こった。国王を支持するドナルド氏族らもモントローズ侯に与して戦ったが、この内戦はアーガイル侯側の勝利に終わった。スコットランドは一時的に盟約による自治政府がつくられたが、1660年に王政復古が成るとアーガイル侯とその領袖は処刑された。1682年、ジェームズ王子はハイランドの平和を維持するために氏族委員会を作った。氏族委員会は各氏族長によって構成され、これによってハイランドにようやく平和が訪れた。ジェームズが王位に就いたとき、ハイランド人はジェームズ2世を熱烈に支持した。\n\n1688年、イングランド議会によってジェームズ2世が追放されると、ハイランド氏族たちは激しく反発、ジェームズ2世の復権を主張して革命に反発した。ジェームズ2世を支持する人々という意味からジャコバイトと名付けられた彼らは、盟約を結成してイングランド議会に公然と叛意を示した。", "qas": [ { "question": "17世紀に三王国戦争が始まり、氏族達は何を結成したか。", "id": "tr-254-02-000", "answers": [ { "text": "国民盟約", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スコットランドの内戦は何年から始まったの?", "id": "tr-254-02-001", "answers": [ { "text": "1644年", "answer_start": 208, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジェームズ2世は何年に追放された?", "id": "tr-254-02-002", "answers": [ { "text": "1688年", "answer_start": 464, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1682年、ジェームズ王子はハイランドの平和を維持するために何を作ったの?", "id": "tr-254-02-003", "answers": [ { "text": "氏族委員会", "answer_start": 372, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "18世紀中盤には氏族制度は過去のものとなり、スコットランドにも近代化の波が押し寄せるが、一人の詩作家によって劇的な変化がおこった。ジェイムズ・マクファーソンの詩集『オシアン』がそれである。1760年に『オシアン』はハイランドに伝わるゲール語民間伝承を再構成して英訳出版したものであったが、その美しさは全ヨーロッパの知識人たちを驚愕させ、ロマン主義の浸透に火をつけた。スタール夫人やシャトーブリアンらは『オシアン』を絶賛し、ナポレオンは愛読書として携行した。未開で野蛮と思われたスコットランドに、ダンテにも劣らぬ崇高で美しい物語が存在したことは、ジャコバイトの敗北で打ちひしがれるスコットランド人たちに新たな誇りをもたらした。\n\nスコットランドの人々は、これをきっかけに失われた誇りを取り戻す運動を始めた。キルトが伝統的な民族衣装となり、各人まちまちであったタータン柄は氏族ごとに統一された。氏族制度が不徹底だったローランド地方にも氏族が確立され、氏族に名を連ねることがスコットランド人の名誉となった。折しも海外へ移民を進めたスコットランド人たちは、移民先でも氏族への帰属意識を忘れなかった。世界各地で氏族の支部がつくられ、総本部の城では毎年、氏族の集まりが開かれるようになった。この習慣は限定的だが、現代にも続いている。", "qas": [ { "question": "過去のものとなった氏族制度が劇的に変化したのは誰の作品のおかげでしたか。", "id": "tr-254-03-000", "answers": [ { "text": "ジェイムズ・マクファーソン", "answer_start": 65, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "詩集『オシアン』は誰の作品なの?", "id": "tr-254-03-001", "answers": [ { "text": "ジェイムズ・マクファーソン", "answer_start": 65, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "子持山", "paragraphs": [ { "context": "子持山(こもちやま)は、群馬県の中部にある火山である。\n標高1296メートルである。\n「ぐんま百名山」の一つに選ばれている。\n典型的な成層火山で、浸食が著しく進行した結果、火山の内部構造である火山岩頸や放射状岩脈が地表に露出しており、地質学の観察に適した山として知られる。\n火道のマグマが柱状に岩化して垂直に屹立する「獅子岩(大黒岩)」など特徴的な山容をしており、関越自動車道からも遠望できる。", "qas": [ { "question": "子持山はどれくらいの高さですか?", "id": "tr-255-00-000", "answers": [ { "text": "1296メートル", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "子持山は何県に所在しているの?", "id": "tr-255-00-001", "answers": [ { "text": "群馬県", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "子持山の火山の種類は何?", "id": "tr-255-00-002", "answers": [ { "text": "成層火山", "answer_start": 67, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "子持山は群馬県のほぼ中央部に位置する。\n東の山麓には利根川が南へ流れ、南の山麓には吾妻川が東へ流れる。\n西には小野子山があり、子持山とのあいだの谷あいには旧三国街道が通じている。\n北西部には名久田川の上流部があり、その流域は中山盆地とよばれる低地になっている。\n北の尾根は北西から西へと向きを変えて破風山へと連なる。\n山域は沼田市、渋川市、高山村(吾妻郡)にまたがる。\nこのうち渋川市は2006年に旧小野上村・旧子持村と合併をしており、従前は沼田市、子持村、小野上村、高山村の1市3村にまたがる山だった。\n山頂は沼田市と渋川市(旧小野上村)にまたがる。", "qas": [ { "question": "子持山の東の山麓に流れている川とは?", "id": "tr-255-01-000", "answers": [ { "text": "利根川", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "子持山の南の山麓に流れている川とは?", "id": "tr-255-01-001", "answers": [ { "text": "吾妻川", "answer_start": 41, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "旧三国街道は子持山とどの山の間を通っていますか?", "id": "tr-255-01-002", "answers": [ { "text": "小野子山", "answer_start": 55, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "旧小野上村と旧子持村が合併して出来た市は何ですか?", "id": "tr-255-01-003", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 193, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "子持山はきわめて典型的な成層火山である。\nただし北関東の火山としては規模はかなり小さく、山体の基底部は南北およそ9キロメートル、東西はおよそ7.5キロメートルである。\n山体の体積は6立方キロメートルと見積もられている。\n山頂は「笠上」と呼ばれており、一等三角点「子持山」が設置されている。\n標高は1296.2メートル。", "qas": [ { "question": "山体の基底部が短いのは南北と東西のどちらですか?", "id": "tr-255-02-000", "answers": [ { "text": "東西", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "子持山の山頂は何と呼ばれているの?", "id": "tr-255-02-001", "answers": [ { "text": "「笠上」", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "子持山の山体の体積はどれくらいですか?", "id": "tr-255-02-002", "answers": [ { "text": "6立方キロメートル", "answer_start": 90, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この山頂部は、子持山の本来のカルデラの外縁部にあとから生まれた溶岩円頂丘である。\nただし著しい浸食により原形をとどめない。\nカルデラは標高1000m程度の峰となって、南北におよそ3キロメートル、東西におよそ2キロメートルの楕円形をしているが、長年の浸食作用による開析が進行しており、現在の姿は「カルデラの残骸」というべきものである。\n子持山の火山活動の最晩期には、山頂部が噴火によって粉砕された。\nその多くは土石流となって南北方向へ流れ下り、北の沼田市の川田町地区では標高800メートルから600メートルにかけて、南の渋川市の子持地区付近では標高500メートルから300メートルにかけて、扇状地をつくっている。\nこれらの扇状地地形には、その後に浅間山や榛名山の火山活動に由来する火山噴出物が厚さ10メートルの層を形成して堆積している。", "qas": [ { "question": "楕円形をしているカルデラは、南北と東西のどちらが長いですか?", "id": "tr-255-03-000", "answers": [ { "text": "南北", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "土石流による扇状地の標高が高いのは川田町地区と子持地区のどちらですか?", "id": "tr-255-03-001", "answers": [ { "text": "川田町地区", "answer_start": 227, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "この著しい浸食の結果、カルデラの内側では、成層火山の内部構造が露出している。\n凝灰岩や凝灰角礫岩などは浸食を受けやすいため既に消失し、火山の内部にあったマグマが固まってできた安山岩質の岩脈が地表にあらわれている。\n子持山では噴火のときに火口がほとんど移動しなかったため、地底から火口へと火道を垂直に昇ってきたマグマが、そのままの形で硬化して岩となった。\nこれを火山岩頸という。\n子持山の火山岩頸は底部の直径150メートル、高さ100メートルの大岩塔となっており、「大黒岩」または「獅子岩」と呼ばれている。", "qas": [ { "question": "子持山の火山岩頸の別名は「大黒岩」と何ですか?", "id": "tr-255-04-000", "answers": [ { "text": "「獅子岩」", "answer_start": 239, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "噴出したマグマがそのままの形で硬化して岩となることを何といいますか?", "id": "tr-255-04-001", "answers": [ { "text": "火山岩頸", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "子持山の火山岩頸の底部が長いのは直径と高さのどちらですか?", "id": "tr-255-04-002", "answers": [ { "text": "直径", "answer_start": 201, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "さらにこの大黒岩(獅子岩)を中心として、地下でマグマが岩盤の裂け目を伝って放射状に広がったものがそのまま固まり、岩(放射状岩脈)となって地表に露出している。\n子持山ではこの放射状岩脈が150本ほど確認されており、そのうちとくに60本ほどは容易に観察できる。\nこれら放射状岩脈のうち顕著なものには、「屏風岩」、「拳岩」などの名前がつけられている。\n子持山は成層火山としてはそう大きなものではないが、標識的な火山地形や火山内部の構造が観察できるものとしては日本国内でも有数のものであり、地質学の学習の場として重要視されている。", "qas": [ { "question": "子持山にある放射状岩脈のうち、簡単に観察できるものはいくつあるの?", "id": "tr-255-05-000", "answers": [ { "text": "60本ほど", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "放射状岩脈の中で如実に表れているものには「拳岩」やどういった名前がつけられていますか?", "id": "tr-255-05-001", "answers": [ { "text": "「屏風岩」", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "子持山は、古い火山活動による古子持火山が、その後の火山活動によって埋没したうえ、長い年月をかけて浸食・開析されたものと考えられている。\n古子持火山の活動時期については研究者による学説がいくつかあり、おおむね90万年前から50万年前ほどのものと推定されている。\nまた、1960年代の研究では、子持山は複数の側火山をもつ複式火山とみなされていた。\nその後、岩石の年代測定技術の進歩により、1990年代になると側火山とみられていたものは大きく時代が離れていることがわかり、子持山とは別の火山活動によるものと推定されるようになった。", "qas": [ { "question": "1960年代の研究では子持山はどのような火山と考えられていたの?", "id": "tr-255-06-000", "answers": [ { "text": "複式火山", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "今から1000万年以上前、一帯は新第三紀中新世に海底で堆積した砂岩や凝灰岩からなる岩盤層だった。\n中新世末期から鮮新世初期にかけて(おおよそ600万年前)、一帯では火山活動があったと推定され、溶岩が地表に出て岩盤やいくつかの溶岩ドームをつくった。\nこの火山活動はのちの子持山火山とは活動時期が大きく異なっており、子持山とは別個のものとみなされている。\nこのとき流出した安山岩質の溶岩(安山岩)、凝灰岩、凝灰角礫岩が岩盤となり、子持山の基盤となった。", "qas": [ { "question": "子持山の一帯で火山活動があったのはおおよそ何年前でしたか?", "id": "tr-255-07-000", "answers": [ { "text": "600万年前", "answer_start": 70, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "子持山の火山活動が始まったのは第四紀の更新世に入ってからで、最初期の活動は今から160万年ほど前(カラブリアン)と推定される。\nこのときには、基盤となる岩盤を突き破って噴火活動があり、輝石安山岩を主成分とする溶岩が噴出した。\nこの火山の姿は後の火山活動と浸食作用によってほとんど原型をとどめないが、子持山の東麓の利根川沿いの綾戸渓谷付近では、当時の火山活動で生じた火成岩を見ることができる。", "qas": [ { "question": "最初期の火山活動で噴出した溶岩の主成分は何でしたか?", "id": "tr-255-08-000", "answers": [ { "text": "輝石安山岩", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "最初期の火山活動で生じた火成岩はどこで見ることができるの?", "id": "tr-255-08-001", "answers": [ { "text": "綾戸渓谷付近", "answer_start": 162, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "子持山の最初期の火山活動は何年前から始まったと考えられているの?", "id": "tr-255-08-002", "answers": [ { "text": "160万年ほど前", "answer_start": 40, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "初期の活動からおおよそ30万年間の休止期を経て、90万年前頃から子持山火山の活動が活発化した。\nこの噴火では、大黒岩(獅子岩)を中央火口として30万年ほど火山活動が続いた。\n現在みられる火山岩頸や放射状岩脈はこの時期に形成されたものである。\nこのときの噴出物は輝石を含む玄武岩質の安山岩の溶岩流が主体で、これに凝灰角礫岩が含まれるのが特徴的である。\n代表的な露頭地では厚さ20メートルの溶岩、凝灰角礫岩層、厚さ20メートルの溶岩が層を成しているのが観察できる。", "qas": [ { "question": "90万年前頃から活発化した子持山の火山活動はどれくらいの期間続いたの?", "id": "tr-255-09-000", "answers": [ { "text": "30万年ほど", "answer_start": 71, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "子持山の火山活動が再活発化した際に噴出した溶岩流には、何の岩質が含まれているのが特徴となっていますか?", "id": "tr-255-09-001", "answers": [ { "text": "凝灰角礫岩", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "溶岩がむき出しになっている地点は、その溶岩の厚さがどれくらいになっていますか?", "id": "tr-255-09-002", "answers": [ { "text": "20メートル", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "60万年前頃から20万年前頃にかけて子持山は噴火を繰り返した。\n子持山は火山灰、火山礫、溶岩を交互に噴出し、裾野の広い、富士山型の典型的な成層火山へと成長した。\nこの時期の火山噴出物からは凝灰岩、凝灰角礫岩や安山岩が生まれたが、カンラン石を含むのが特徴的である。\nこの火山活動の末期には、山頂付近にカルデラが出現し、火口湖ができた。\nさらにこのカルデラ周辺に複数の溶岩ドームが形成された。\nこれらの溶岩ドームはまもなく爆発によって粉砕され、山体上部が崩壊、カルデラ湖の湖水も流失した。\nこのときの岩屑は南北に流れて扇状地を形成した。\n現在の山頂(「笠上」)や、山頂の南にある頂部(「柳木ヶ峰」)はこうした溶岩ドームの残骸である。", "qas": [ { "question": "60万年前頃から20万年前頃にかけての火山活動で子持山から噴出した噴出物には、どのような岩石が含まれているのが特徴ですか?", "id": "tr-255-10-000", "answers": [ { "text": "カンラン石", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "山頂の南にある溶岩ドームの残骸は何と呼ばれているの?", "id": "tr-255-10-001", "answers": [ { "text": "「柳木ヶ峰」", "answer_start": 290, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "この火山活動の末期に形成されたものとは何?", "id": "tr-255-10-002", "answers": [ { "text": "火口湖", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "子持山の火山活動は20万年前頃に収束した。\nこれは、数万年前から1万年前頃までに激しい噴火を繰り返した榛名山・赤城山・浅間山などの周囲の大火山とくらべ、かなり古い部類にはいる。\n子持山の南北の山麓にできた山体崩壊にともなう扇状地の上には、榛名山や浅間山の噴火にともなうテフラ(火山噴出物)が10メートルもの厚さで堆積している。\nまた、東方にある赤城山の噴火では、噴出物によって利根川が堰き止められ、川筋が大きく西へ移動した。\nこれにより、子持山の東麓は利根川によって大きく浸食され綾戸渓谷となった。\n山体やカルデラそのものも、20万年の間に風雨や河川による浸食・開析により大きく姿を変えた。\n火山活動にともなって噴出された火山灰を主成分とする凝灰岩や凝灰角礫岩は、比較的やわらかいために削られ流されてしまい、火山の内部構造ともいうべき火道の岩脈が「骨組み」のように露出する形となった。\nこうした開析が最も進んでいるのが、南斜面を大きく削って谷をつくっている唐沢周辺で、この扇状地の根元部分に子持神社が鎮座する。", "qas": [ { "question": "子持山の火山活動は何年前に落ち着きましたか?", "id": "tr-255-11-000", "answers": [ { "text": "20万年前頃", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "子持山と浅間山はどちらが先に火山活動が収束したの?", "id": "tr-255-11-001", "answers": [ { "text": "子持山", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "テフラとは何?", "id": "tr-255-11-002", "answers": [ { "text": "火山噴出物", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "子持山の東麓は利根川に浸食された結果、どのような地形になったの?", "id": "tr-255-11-003", "answers": [ { "text": "綾戸渓谷", "answer_start": 240, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "子持山の山域には自然林はほとんど残っていない。\n主にスギ、ヒノキやアカマツの人工林からなり、これにクリ、コナラ、ミズナラといった低山性の樹木やツツジなどの低木が交じる。\nこのほか沢沿いの一部にカエデやケヤキの自然樹がみられる。\nこのほか特徴的な植物としては、シモツケ、ヤマオダマキ、ザゼンソウ、オタカラコウ、ハクサンオミナエシがみられる。\n子持山では、5月から6月頃に40種類ほどの鳥類が観察される。\n主なものとしてはヤマドリ、トビ、キジ、アカゲラ、ミソサザイ、キビタキ、オオルリ、ホトトギス、カッコウなど。\nほかに哺乳類としてキツネ、タヌキ、アナグマ、ノウサギ、ムササビ、リスなどが確認されている。", "qas": [ { "question": "初夏の季節に子持山では何種類の鳥類を見ることが出来るの?", "id": "tr-255-12-000", "answers": [ { "text": "40種類", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "沢沿いの一部で観察できる自然木はケヤキや何ですか?", "id": "tr-255-12-001", "answers": [ { "text": "カエデ", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "中世に成立した『神道集』の赤木文庫版には、「児持山之事」として子持山の名称の由来に関する逸話が掲載されている。\nこれによれば、もともとこの山は「武部(たけべ)山」と呼ばれていたのだが、伊勢国安濃津(三重県津市)の地頭阿野保明の子女に子持御前という女性がいて、この娘が神通力を得て武部山に移り住んだことから、この山を「児持山」と呼ぶようになったという。\n一般的には、山容を子どもを抱く姿にみたてて「子持山」と呼ぶようになったとされている。\nこのほか女性器にみたてて「子持山」と称するとする説もある。", "qas": [ { "question": "子持山の名前の由来が掲載されている書物とは何?", "id": "tr-255-13-000", "answers": [ { "text": "『神道集』", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "子持御前の父親の名前は?", "id": "tr-255-13-001", "answers": [ { "text": "阿野保明", "answer_start": 108, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "武部山に移住した人は誰ですか?", "id": "tr-255-13-002", "answers": [ { "text": "子持御前", "answer_start": 116, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "カルデラ中央部が開析され、火山岩頸である大黒岩(獅子岩)が岩塔として山の中央にそそり立つ山容は、中世から修験道による信仰を受けてきた。\n山中には「護摩壇」「昏夜の久保」「十二」「浅間」「仏岩」「梵字岩」などの固有地名や石祠が散在し、修験道の山岳信仰の名残りとみられている。\n南山麓の扇状地の付け根にあたる唐沢沿いには子持神社が鎮座する。\n社伝では崇神天皇ないし嵯峨天皇の時代の創建とし、『神道集』は安濃津の子持御前による創建を伝う。\nかつての祭神は児持明神といい、いまの主神は磐筒之女命と木花之佐久夜毘売といずれも女神である。\n女神を祀るのは、山容を女体ないし女性器にみたてたものとする説もある。\n社殿近くには女神と子どもの足跡と伝わる「仏足跡(女神の足跡)」がある。", "qas": [ { "question": "『神道集』では子持神社の創建者は誰となっているの?", "id": "tr-255-14-000", "answers": [ { "text": "子持御前", "answer_start": 203, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "かつて祀られていた神様の名前は何ですか?", "id": "tr-255-14-001", "answers": [ { "text": "児持明神", "answer_start": 224, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "国家鎮護と受胎・安産の神として崇敬を集め、戦国時代には上杉憲顕、武田信玄、北条高広、真田昌幸らが参詣したり、寄進や保護を与えたとの史料が残る。\n子持山の裾野では上杉謙信と武田信玄との合戦もあったとされ、武田勢は上杉勢の水源になっていた小川に毒を流し、勝利を得たと伝わる。\nその場所にはのちに不動尊が建立され、その法力によって毒が消されたといい「毒水よけの不動尊」と称する。\n江戸時代には山麓や近傍の村に社領を有したが、周囲は沼田藩や幕府領・旗本領などが混在し、入会地としての利用をめぐって各村や神社とのあいだで紛争が耐えなかった。\n明治の神仏分離と廃仏毀釈によって修験道の性格を失い、子持神社となった。\n社格制度では郷社に列せられている。\nかつて山伏が利用した山道が登山道となっている。\n例祭日は毎年5月1日と定められており、この日が子持山の山開きとなっている。", "qas": [ { "question": "子持山の裾野であった上杉謙信と武田信玄の戦で勝ったのはどちらですか?", "id": "tr-255-15-000", "answers": [ { "text": "武田信玄", "answer_start": 85, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "子持山の山開きの日はいつ?", "id": "tr-255-15-001", "answers": [ { "text": "5月1日", "answer_start": 350, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "武田勢が毒を流した場所は後に何が建てられましたか?", "id": "tr-255-15-002", "answers": [ { "text": "不動尊", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "修験道時代に古くから山伏が利用した登山路が数多くある。\n主なものとして、南麓の子持神社からのルート、西麓の旧三国街道中山峠からのルート、北西麓の高山村・本宿からのルート、東麓の沼田市から小峠を越えてくるルートがある。\nこのうち子持神社経由の南ルートがよく整備されており、雙林寺、子持神社と奥ノ院を抜け、「屏風岩」、「大黒岩(獅子岩)」、「柳木ヶ峰」といった岩場を経由して山頂をめざす。\n道中は急斜面や切り立った岩壁をクサリやハシゴで登ったり、トラバースを要する。\n地元の渋川市ではこのコースの難易度を「中上級者向け」、山と渓谷社『分県登山ガイド』(2016年)では危険度を5段階中の3(中上級者向き、転落・滑落・落石の危険あり)、昭文社『山と高原地図』(2017年)では「足場が悪く山慣れた人向き」と位置づけている。\nそのぶん、「目もくらむほどの断崖絶壁に囲まれ」た大黒岩(獅子岩)の頂上からの展望は広く、関東平野の利根川流域を一望するほか、榛名山や赤城山、武尊山、さらには尾瀬・日光や越後山脈方面までを望む。", "qas": [ { "question": "高山村・本宿からのルート、子持神社からのルート、旧三国街道中山峠からのルート、沼田市から小峠を越えてくるルートの中で、よく整備されているルートはどこですか?", "id": "tr-255-16-000", "answers": [ { "text": "子持神社からのルート", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "子持神社経由の南ルートは地元での難易度はどのように位置づけられているの?", "id": "tr-255-16-001", "answers": [ { "text": "「中上級者向け」", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『山と高原地図』では子持神社経由の南ルートの難易度はどのように記載されているの?", "id": "tr-255-16-002", "answers": [ { "text": "「足場が悪く山慣れた人向き」", "answer_start": 335, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "この南ルートには、岩場を避け、尾根伝いに「炭釜」、「浅間」、「牛十二」、「大ダルミ」を経由して「柳木ヶ峰」に至る比較的なだらかな迂回ルートもある(ただしこの迂回ルートでも狭い尾根を通る場所があり、滑落事故が起きている。)。\nなお、南ルートの登山口へ至る林道では、2016年(平成28年)6月に落石や道路崩壊があり、2017年5月現在で車両の通行はできなくなっている。\n南ルートでは子持神社から「ソゲ岩」、「仏岩」を経由して「炭釜」へ出るルートが利用可能となっている。", "qas": [ { "question": "南ルートの登山口への林道が車両通行禁止となっているのはいつからですか?", "id": "tr-255-17-000", "answers": [ { "text": "2017年5月", "answer_start": 157, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "子持山の山麓には縄文時代から古墳時代までの遺跡があちこちにあり、住居跡、墳墓、農耕跡などによりヒトの定住があったことが知られる。\nとりわけ、南麓の扇状地にある黒井峯遺跡は畑作の大規模な遺構で、東日本を代表するものとして知られている。\nまた、同じ地域にある押出遺跡からは稲籾の跡が残る北九州風の遠賀川式弥生土器が出土しており、稲作が伝来していたことの証拠とみられている。\nしかしこれらのほとんどは、6世紀から7世紀にかけて起きた榛名山二ッ岳の大噴火にともなう土石流や膨大な量の軽石によって埋没し、瞬時に滅びたものと推定されている。", "qas": [ { "question": "東日本の代表的な遺構とはどこ?", "id": "tr-255-18-000", "answers": [ { "text": "黒井峯遺跡", "answer_start": 79, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "北九州風の遠賀川式弥生土器が出土した遺跡はどこですか?", "id": "tr-255-18-001", "answers": [ { "text": "押出遺跡", "answer_start": 127, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "中世になると、子持山南麓扇状地の一体は「白井」保として史料に登場するようになる。\n山裾の扇状地は農業用水に乏しく、江戸時代にはもっぱら養蚕が行われた。\n山林は子持神社の社領がおかれていたが、周辺の村とは入会地としての利用や水利をめぐって騒動が絶えなかった。\n近代になっても養蚕中心の畑作地帯のままだった。", "qas": [ { "question": "江戸時代に子持山南麓扇状地の一体で盛んに行われていた産業とは何?", "id": "tr-255-19-000", "answers": [ { "text": "養蚕", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "エドゥアール・マネ", "paragraphs": [ { "context": "エドゥアール・マネは、パリの裕福なブルジョワジーの家庭に生まれた。父はマネが法律家となることを希望していたが、中学校時代から、伯父の影響もあって絵画に興味を持った。海軍兵学校の入学試験に2回失敗すると、父も諦め、芸術家の道を歩むことを許した。歴史画家であったトマ・クチュールに師事したが、マネは、伝統的なクチュールの姿勢に飽き足らず、ルーヴル美術館や、ヨーロッパ各地への旅行で、ヴェネツィア派やスペインの巨匠の作品を模写した。1859年以降、サロン・ド・パリへの応募を続け、1861年にスペインの写実主義的絵画に影響を受けた『スペインの歌手』などで初入選を果たした。理想化された主題や造形を追求するアカデミズム絵画とは一線を画し、近代パリの都市生活を、はっきりした輪郭や平面的な色面を用いながら描く作品は、サロンでは非難にさらされることが多かったが、詩人シャルル・ボードレールのように支持する論者もいた。1863年にナポレオン3世の号令により開催された落選展で、『草上の昼食』を出展すると、パリの裸の女性が着衣の男性と談笑しているという主題が風紀に反すると非難を浴び、スキャンダルとなった。さらに1865年のサロンに『オランピア』を出品すると、パリの娼婦を描いたものであることが明らかであったことから、『草上の昼食』を上回る非難を浴びた。意気消沈したマネは、パリを離れてスペインに旅行し、ベラスケスの作品に接して影響を受けた。ベラスケス研究の成果といえる『笛を吹く少年』を1866年のサロンに提出したが、落選した。この時、作家エミール・ゾラの援護を受けた。マネは、パリのバティニョール地区にアトリエと住居を置き、カフェ・ゲルボワに足繁く通っていたが、マネの周りには、ゾラを含む文筆家や芸術家が集まっていた。1860年代後半には、モネ、ルノワールなどの若手画家もマネを慕って集まりに加わるようになり、バティニョール派と呼ばれるようになった。", "qas": [ { "question": "もしマネが父の希望に沿って職業を決めたら、どんな職業に就いただろうか?", "id": "tr-256-00-000", "answers": [ { "text": "法律家", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マネがサロン・ド・パリへの初入選を果たした作品の例としてこの文書に挙げられているのは、何?", "id": "tr-256-00-001", "answers": [ { "text": "『スペインの歌手』", "answer_start": 262, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『草上の昼食』と『オランピア』のうち、より非難されたマネの作品は、何ですか?", "id": "tr-256-00-002", "answers": [ { "text": "『オランピア』", "answer_start": 508, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1870年に普仏戦争が勃発しプロイセン軍がパリに迫ると、マネは国民軍に入隊し、首都防衛戦に加わった。普仏戦争とパリ・コミューンの混乱が終息して第三共和政の時代になると、バティニョール派の若手画家たちはサロンから独立したグループ展を立ち上げ、印象派と呼ばれるようになった。マネは、批評家からは印象派のリーダー格と目されていたが、自身はサロンで成功することを重視し、印象派グループ展への参加を拒絶した。それでも、特にモネとの親しい関係は続き、モネのアルジャントゥイユの家を度々訪れ、戸外制作などの印象派の手法を取り入れた作品も制作している。また、詩人ステファヌ・マラルメと親しくなり、その影響も受けた。1880年頃からは、梅毒により左脚の壊疽が進み、パリ郊外で療養しながら制作を続けた。1882年のサロンに最後の大作『フォリー・ベルジェールのバー』を出品した。1883年4月、壊疽が進行した左脚を切断する手術を受けたが、経過が悪く、51歳で亡くなった。マネの死後、1890年にモネの働きにより『オランピア』が国のリュクサンブール美術館に受け入れられ、1896年にギュスターヴ・カイユボットの遺贈により『バルコニー』などが政府に受け入れられるなど、マネに対する公的な認知は進んだ。もっとも、これらの受入れの際にも美術界の保守派からは反対の声が上がり、マネと印象派に対する抵抗は根強いものがあった(→名声の確立)。しかし、その後、美術市場でのマネの評価は急速に上がり、1989年には『旗で飾られたモニエ通り』が2400万ドル(34億7520万円)で落札され、2014年には『春(ジャンヌ)』が6512万ドル余り(約74億円)で落札されるなど、美術市場の上位を占めるに至っている。", "qas": [ { "question": "バティニョール派の若手画家たちが印象派と呼ばれるようになったのは、どんな時代になってからなの?", "id": "tr-256-01-000", "answers": [ { "text": "第三共和政の時代", "answer_start": 71, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ステファヌ・マラルメ以外にマネが親しい関係を保ちながら、マネに影響を及んだ人物としてこの文書に書かれているのは、誰ですか?", "id": "tr-256-01-001", "answers": [ { "text": "モネ", "answer_start": 206, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マネが死んだ後、マネの作品が人々から認められるように最初に貢献した人物は誰か?", "id": "tr-256-01-002", "answers": [ { "text": "モネ", "answer_start": 436, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マネが死に至る原因となった病は、何か?", "id": "tr-256-01-003", "answers": [ { "text": "梅毒", "answer_start": 309, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "マネの油彩画は400点余りとされている。マネは、保守的なブルジョワであり、サロンでの成功を切望していたが、『草上の昼食』と『オランピア』は本人の意図と裏腹にスキャンダルを呼び、美術界の革命を起こすことになった。主題の面では、娼婦の存在や、近代社会における人間同士の冷ややかな関係をありのまま描き出したことが、革新的であり、非難の的ともなった。造形の面では、陰影による肉付けや遠近法といった伝統的な約束事にとらわれない描写を生み出していった。同時に、伝統的なイタリア絵画、スペイン絵画、フランス絵画から学んでいる点も多く、オールド・マスターの作品から主題やモチーフを引用し、現代的な文脈に置き直していったといえる。また、平面的な彩色やモチーフを切り取る構図などに日本の浮世絵の影響を受けていると考えられる。印象派の画家たちから敬愛され、彼らに大きな影響を与えた一方、マネ自身が後輩の印象派から影響を受けた。マネには印象主義的な要素の濃い作品もあるが、印象派グループ展には参加していないことから、印象派には含めず、印象派の指導者あるいは先駆者として位置付けられるのが一般的である。マネの作品は、セザンヌ、ゴーギャン、ピカソなどによって、模倣や再解釈の題材とされており、彼らの芸術に様々な影響を残していると考えられる。", "qas": [ { "question": "美術界の革命を起こしたマネの作品としてこの文書で紹介されているのは、『草上の昼食』と何?", "id": "tr-256-02-000", "answers": [ { "text": "『オランピア』", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "印象派の後輩画家に影響を与えつつも、彼らから自身も影響を受けていたのは、誰ですか?", "id": "tr-256-02-001", "answers": [ { "text": "マネ", "answer_start": 382, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マネは、1832年、パリのプティ=ゾーギュスタン通り(現在のボナパルト通り)で、裕福なブルジョワジーの家庭に長男として生まれた。マネの父オーギュストは、法務省の高級官僚(司法官)で、共和主義者であった。母ウジェニーは、ストックホルム駐在の外交官フルニエ家の娘であった。マネの弟に、ウジェーヌ(1833年生)とギュスターヴ(1835年生)が生まれた。1844年から1848年まで、トリュデール大通りの中学校コレージュ・ロランに通った。父は、マネが法律家の道を継ぐことを望んでいた。一方、母方の伯父エドゥアール・フルニエ大尉は、芸術家肌の人物で、マネにデッサンの手ほどきをしたり、マネら3兄弟や、マネの中学校の友人アントナン・プルースト(後に美術大臣)をルーヴル美術館に連れて行ったりした。マネは、この頃から、絵画に興味を持っていたようであり、ルイ・フィリップがルーヴル美術館に設けたスペイン絵画館で17世紀スペインのレアリスム絵画に触れ、影響を受けた。プルーストの回想によれば、コレージュの歴史の授業で、画家が流行遅れの帽子を描いていることをドゥニ・ディドロが批判した展覧会評を読んだ時、マネが、「ぼくたちは、時代に即していなければならない。流行など気にせず、見たままを描かなければならないんだ。」と発言したという。また、伯父フルニエが絵画の課外授業に出席させてくれたが、言われたお手本を模写するのではなく、近くにいる生徒たちの顔をスケッチしていたという。マネは、芸術家の道を不安視する両親の意向を受け、水兵になると父に宣言して海軍兵学校の入学試験を受けたが、落第した。1848年12月、実習船に乗ってリオデジャネイロまで航海した。後に、マネは、「私はブラジル旅行でたくさんのものを得た。毎夜毎夜、船の航跡のなかに、光と影の働きを見たものだった!昼間は上甲板で、水平線をじっと見つめていた。それで、空の位置を確定する方法がわかったのだ。」と述べている。1849年6月にパリに戻ると、海軍兵学校の入学試験を再び受けたが、また落第した。これに父も諦め、マネは芸術家の道を歩むことを許された。", "qas": [ { "question": "マネの二人の弟のうち、より早く生まれたのは、誰か?", "id": "tr-256-03-000", "answers": [ { "text": "ウジェーヌ", "answer_start": 140, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マネが絵画に興味を持つのに影響したのは、誰ですか?", "id": "tr-256-03-001", "answers": [ { "text": "エドゥアール・フルニエ", "answer_start": 247, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マネはどこへの入学試験に二度も落第した?", "id": "tr-256-03-002", "answers": [ { "text": "海軍兵学校", "answer_start": 840, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マネは最初の海軍兵学校の入学試験と二番目の入学試験の間に、どの国を旅行したのか?", "id": "tr-256-03-003", "answers": [ { "text": "ブラジル", "answer_start": 725, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マネは、1849年秋頃、トマ・クチュールのアトリエに入り、ここで6年間修業した。クチュールは、1847年のサロン・ド・パリに『退廃期のローマ人』を出品して成功した、当時のアカデミズム絵画界の中では革新的な歴史画家であった。マネは、クチュールの近代性から影響を受ける反面、伝統的な歴史画にこだわるクチュールの姿勢には反発した。マネがモデルに服を着させたままポーズをとらせていると、クチュールが入ってきて、「君は君の時代のドーミエにしかなれない」と批判した。また、マネは、アトリエで学ぶ傍ら、ルーヴル美術館でティントレット、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、フランソワ・ブーシェ、ピーテル・パウル・ルーベンスなどの作品を模写した。1852年にはアムステルダム国立美術館を訪れ、1853年には弟ウジェーヌとともにヴェネツィア、フィレンツェを旅行し、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を模写した。さらに、この時、ドイツや中央ヨーロッパまで足を延ばし、各地の美術館を訪れたようである。存命中の画家の中では、ギュスターヴ・クールベの『オルナンの埋葬』、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、シャルル=フランソワ・ドービニー、ヨハン・ヨンキントらの風景画を高く評価していた。友人アントナン・プルーストとともにウジェーヌ・ドラクロワのもとを訪れ、作品の模写の許可を求めたが、ドラクロワからは許可をもらったものの、冷淡な対応をされたようである。この頃、弟たちのピアノの家庭教師シュザンヌ・レーンホフと恋仲になった(後に妻となる)。1852年1月にはシュザンヌに男の子レオンが生まれ、戸籍上はシュザンヌの弟(レオン・コエラ=レーンホフ)として届け出られた。実際には、レオンは、マネの子であった可能性が大きいと考えられている。1856年にクチュールのアトリエを去ると、友人の画家との共有で、バティニョール地区のラヴォワジエ通りにアトリエを構えた。しばらくはサロンへの応募をせず、ルーヴル美術館で、ティントレット、ディエゴ・ベラスケス、ルーベンスなどの巨匠の模写を続けた。その中で、画家のアンリ・ファンタン=ラトゥール、エドガー・ドガと知り合った。1857年にはフィレンツェを再訪し、サンティッシマ・アヌンツィアータ教会のアンドレア・デル・サルトの壁画を模写した。", "qas": [ { "question": "マネはクチュールの近代性からは影響を受けたものの、何にこだわる姿勢には反意を持っていましたか?", "id": "tr-256-04-000", "answers": [ { "text": "伝統的な歴史画", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マネはある人物の近代性において影響を受けたが、その人物が1847年のサロン・ド・パリに出品した作品とは、何か?", "id": "tr-256-04-001", "answers": [ { "text": "『退廃期のローマ人』", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "クチュールは『退廃期のローマ人』を出品した当時のアカデミズム絵画界の中で、どんな画家として位置づけられていたの?", "id": "tr-256-04-002", "answers": [ { "text": "革新的な歴史画家", "answer_start": 98, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マネの息子の可能性が高いが、戸籍上にはマネの恋人の弟として届け出られていた人は、何年何月に生まれたのか?", "id": "tr-256-04-003", "answers": [ { "text": "1852年1月", "answer_start": 659, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1859年のサロンに、『アブサンを飲む男』を初めて提出したが、下絵のような無造作な描き方が不評だったのに加え、酔った男や足元の酒瓶という露骨な現実を画題とすることがサロンにふさわしくないと酷評され、落選した。もっとも、審査員だったウジェーヌ・ドラクロワからは評価された。詩人のシャルル・ボードレールも、この作品を賞賛した。この頃には、マネとボードレールは親しく交流していた。サロン落選に続いて、1860年には、マネが制作した肖像画『ブリュネ夫人』が、モデルの家族から受取りを拒否されるということもあった。この頃、マネが住むバティニョール地区の近くには小ポーランド地区という貧民街があったが、ジョルジュ・オスマンによるパリ改造の中でマルゼルブ大通りが縦貫することになり(1861年開通)、古い家屋は取り壊されていった。マネが1861年にアトリエを構えたギュイヨ通り(現メデリック通り)もその近くである。友人マルセル・プルーストの回想によれば、マネは、一緒に小ポーランドを通った時、家屋が埃を上げて取り壊されている情景を見て、長い間押し黙って心を奪われていたという。1860年代初頭のマネの作品には、小ポーランド界隈の貧しい人々を描いたと思われる作品が多い。", "qas": [ { "question": "マネが初めてサロンに提出した作品は、どんな面が指摘・酷評され、落選したの?", "id": "tr-256-05-000", "answers": [ { "text": "露骨な現実を画題とすること", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マネと親しい関係であり、『アブサンを飲む男』を賞賛した人物の職業は何ですか?", "id": "tr-256-05-001", "answers": [ { "text": "詩人", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シャルル・ボードレールのほかに、1859年のサロンにマネが提出した作品を評価していた人物としてこの文書に書かれているのは、誰か?", "id": "tr-256-05-002", "answers": [ { "text": "ウジェーヌ・ドラクロワ", "answer_start": 115, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1861年のサロンに、『スペインの歌手』と、両親を描いた『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』を応募し、いずれも初入選した。当時のフランスではスペイン趣味が流行しており、マネは、イタリア風の古典的作品に反発する立場から、スペインの写実主義的絵画に傾倒していた。彼は、マドリードの巨匠たちやフランス・ハルスを思い浮かべながら『スペインの歌手』を描いたと語っている。『スペインの歌手』は、サロン会場の人目につかない隅に展示されていたが、テオフィル・ゴーティエが絶賛したことから、急に中央の良い場所に移され、優秀賞(佳作)の評価まで受けた。アルフォンス・ルグロ、アンリ・ファンタン=ラトゥール、カロリュス=デュラン、フェリックス・ブラックモンなど、若いレアリスムの画家たちはこの作品に衝撃を受け、そろってマネの家を訪れた。マネは彼ら画家集団の核となっていった。一方、『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』については、両親の間に奇妙な冷たさが流れていることから、批評家から、「マネは最も神聖な肉親の絆でさえも土足で踏みにじる」と非難された。それでも、サロンでの成功を重んじる父に対し、約束を果たすことができた。同年秋には、イタリアン大通りのルイ・マルティネの画廊で主要作品を展示する展覧会を開いた。この時以来、マルティネ画廊ではマネ作品を取り扱うようになった。", "qas": [ { "question": "マネがサロンへの初入選を果たしたのは、何年?", "id": "tr-256-06-000", "answers": [ { "text": "1861年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "テオフィル・ゴーティエが絶賛し、優秀賞の評価まで受けたマネの作品は、何年のサロンに提出された作品ですか?", "id": "tr-256-06-001", "answers": [ { "text": "1861年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1861年のサロンで優秀賞の評価を受けた作品とともに当時のサロンに応募された作品は何か?", "id": "tr-256-06-002", "answers": [ { "text": "『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1862年には、テュイルリー宮殿に隣接する庭園で開かれたコンサートを題材とした『テュイルリー公園の音楽会』を制作し、テオフィル・ゴーティエ、ボードレール、ジャック・オッフェンバック、ザカリー・アストリュク、アンリ・ファンタン=ラトゥールといった社交界の友人たちをモデルとして登場させた。第二帝政下の華やかなブルジョワ社会を描いた作品である。マネは、1863年、マルティネ画廊での個展に『テュイルリー公園の音楽会』や『ローラ・ド・ヴァランス』を展示したが、輪郭がはっきりした筆遣いや、平面的な色面の処理が奇妙だと捉えられ、激しい非難にさらされた。この時期、マネは、内縁の妻シュザンヌをモデルにした『驚くニンフ』や、レオン少年をモデルにした『剣を持つ少年』などを制作している。1862年にマネの父が亡くなると、1863年10月、マネはシュザンヌと結婚した。また、この頃知り合った女性ヴィクトリーヌ・ムーランにモデルを依頼して、『街の女歌手』、『ヴィクトリーヌ・ムーランの肖像』などを制作している。", "qas": [ { "question": "『テュイルリー公園の音楽会』が製作されたのは、何年?", "id": "tr-256-07-000", "answers": [ { "text": "1862年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "第二帝政下の華やかなブルジョワ社会を描いた作品とともに、1863年のマルティネ画廊での個展に展示されたマネの作品は何ですか?", "id": "tr-256-07-001", "answers": [ { "text": "『ローラ・ド・ヴァランス』", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マネがシュザンヌと結婚した年に開かれた個展は、どこで開かれたのか?", "id": "tr-256-07-002", "answers": [ { "text": "マルティネ画廊", "answer_start": 180, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マネは、1863年のサロンに応募したが、落選した。この年のサロンの審査は例年に比べ非常に厳しく、落選者の不満が高まった。これを懸念したナポレオン3世が、サロンと並行して、サロン落選作で構成する落選展を開催することを命じた。マネの『水浴』(後に『草上の昼食』と改題)、『マホの衣装を着けた若者』、『エスパダの衣装を着けたヴィクトリーヌ・ムーラン』も落選展に展示された。ところが、特に『草上の昼食』は、批評家たちから酷評と嘲笑を浴び、一大スキャンダルとなった。当時、裸婦を描くこと自体は珍しいものではなく、実際、この年のサロンで賞賛されたアレクサンドル・カバネルの『ヴィーナスの誕生』は、官能的な裸婦を描いているが、現実ではなく神話の世界を描いたものであるため、良識に反することはなかった。また、マネが発想源としたティツィアーノの『田園の奏楽』でも、裸のニンフと着衣の男性が描かれている。しかし、『草上の昼食』の裸婦は、パリの現実の女性が着衣の男性と談笑するというもので、風紀に反すると考えられた。裸婦の周りに、果物などの食べ物や、脱いだ後の流行のドレスが描かれることによって、裸婦がニンフなどではなく現実の女性であることが露骨に強調されることになった。当時の鑑賞者は、この作品から、社会の陰の部分である売春の世界を読み取った。批評家エルネスト・シェノーは、「デッサンと遠近法を学べば、マネも才能を手に入れることができるだろう」と、描き方の稚拙さを指摘するとともに、「ベレー帽をかぶり短いコートを着た学生たちにかこまれ、葉の影しか身にまとっていない娘を木々の下に座らせている絵が、申し分なく清純な作品だとは思えない。[中略]彼は俗悪な趣味の持ち主だ。」と、テーマ自体を厳しく批判した。", "qas": [ { "question": "マネが1863年のサロンに提出した作品の中で特に批評家たちから酷評と嘲笑を浴びた作品は、もともと何と名付けられていたの?", "id": "tr-256-08-000", "answers": [ { "text": "『水浴』", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "マネとは違って、裸婦を描いて賞賛された人物としてこの文書に書かれているのは、誰ですか?", "id": "tr-256-08-001", "answers": [ { "text": "アレクサンドル・カバネル", "answer_start": 267, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1863年のサロンに鑑賞にきた人々は、『草上の昼食』を見て何の世界を読み取ることができたか?", "id": "tr-256-08-002", "answers": [ { "text": "売春", "answer_start": 550, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "同じく裸婦を描いた『草上の昼食』と『ヴィーナスの誕生』が異なる評価を受けたのは、後者はどのような世界を描いたからであるか?", "id": "tr-256-08-003", "answers": [ { "text": "神話の世界", "answer_start": 312, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1864年、バティニョール大通り34番地に引っ越した。マネは、自由奔放な私生活を送っており、以前から、イタリアン大通りのカフェ・トルトーニや、カフェ・ド・バードに足繁く通っていたが、バティニョール大通りに移った頃から、カフェ・ゲルボワに足を運ぶようになったと思われる。カフェ・ゲルボワのマネの周りには、次第に美術家や文学者が集まり始めた。その中には、詩人のザカリー・アストリュク、中学時代・クチュール画塾時代からの友人アントナン・プルースト、写真家ナダール、批評家ルイ・エドモン・デュランティ、テオドール・デュレ、フィリップ・ビュルティ、画家アンリ・ファンタン=ラトゥール、アントワーヌ・ギユメ、版画家マルスラン・デブータンなどがいた。作家のアルマン・シルヴェストルは、カフェ・ゲルボワでのマネについて、「この革命家は完璧な紳士のマナーをもっていた。しばしば派手なズボンをはき、ショート・ジャケットを着て、つばの平らな帽子を後頭部にかぶり、いつも汚れひとつないスエードの手袋をはめているので、マネはボヘミアンのようには見えなかったし、実際、彼にはボヘミアンらしいところは少しもなかったのである。彼は一種のダンディーだった。彼はとても寛大で親切であったけれども、会話ではわざと皮肉でしばしば毒をふくんでいた。ひとを打ちのめす痛烈な言い回しをすばらしく流暢にあやつった。しかし同時に彼の言葉づかいは好意に満ちていて、そこに込められた考えはまったく正しかった。」(アルマン・シルヴェストル、1892年、『回想の国で』)と描写している。", "qas": [ { "question": "カフェ・ゲルボワにいるマネの周りに集まったとこの文書に書かれている人々のうち、中学時代・クチュール画塾時代をマネと一緒に過ごした人は誰か?", "id": "tr-256-09-000", "answers": [ { "text": "アントナン・プルースト", "answer_start": 209, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カフェ・ゲルボワでのマネの姿を見て、自分の書いた書籍にて、マネを革命家と表現したのは誰ですか?", "id": "tr-256-09-001", "answers": [ { "text": "アルマン・シルヴェストル", "answer_start": 321, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "カフェ・ゲルボワにいるマネの周りに集まったとこの文書に書かれている人々のうち、詩人は誰か?", "id": "tr-256-09-002", "answers": [ { "text": "ザカリー・アストリュク", "answer_start": 178, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1864年のサロンには、『死せるキリストと天使たち』とスペインの闘牛の絵を提出し、入選した。ボードレールは、審査委員であった友人に、マネの作品を良い場所にかけてくれるように依頼したり、マネがゴヤやベラスケスを模倣しているとの批判的意見に反論したりしている。しかし、批判は強く、マネはこれに落胆し、闘牛の絵を切断して二つの部分だけを残した。マネは、1865年のサロンに、ヴィクトリーヌをモデルとした『オランピア』を出品し、入選した。ところが、この作品は、『草上の昼食』以上のスキャンダルを巻き起こした。裸婦がベッドに寝そべる構図は、ティツィアーノの『ウルビーノのヴィーナス』を発想源としていたが、マネの作品は、ヴィーナスとは程遠い、パリの娼婦を描くものであることが明らかであった。表題の「オランピア」とは、娼婦(ドゥミ・モンデーヌ)の源氏名として広く使われる名前であったし、黒人のメイドは娼館に多かった。メイドが運ぶ花束は、前夜の客から贈られたものである。『ウルビーノのヴィーナス』に描かれていた犬は忠誠・貞節のシンボルだが、マネが描き入れた黒猫は、性的なイメージを暗示するものと受け止められた。マネは、急速に近代化が進むパリのブルジョワ社会の暗部を赤裸々に描き出したのであった。なお、この時のサロンで、クロード・モネが海景画2点を提出し、アルファベット順でマネと同じ部屋に並べられていたが、この海景画を見た人が、名前の似たマネの作品と誤解し、マネに祝福の言葉をかけた。マネは、自分の名前を悪用して名を売ろうとする画家がいると思い、憤慨したという。マネは、『オランピア』への批判に意気消沈し、ブリュッセルにいたボードレールに宛てて、「あなたがここにいてくださったら、と思います。ぼくの上には、罵詈雑言が雨あられと降っています。」と書き送り、ボードレールから励ましを受けている。マネは、物議に辟易し、8月からスペインに旅行をした。マドリードの王立美術館(現プラド美術館)でベラスケスを中心とするスペイン絵画に触れ、友人ファンタン=ラトゥールに、「ベラスケスを観るだけでも旅に出る意味がある。」と書き送っている。また、マネは、「これらの素晴らしい作品の中で最も驚くべき作品、おそらくこれまでに描かれた最も驚くべき絵画作品は、フェリーペ四世の時代のある有名な俳優の肖像と目録に記載されている絵だ。背景が消えている。黒一色の服を着て生き生きとしたこの男を取り囲んでいるのは空気なのだ。」と書いている。この旅の中で、批評家テオドール・デュレと知り合い、親友となった。", "qas": [ { "question": "マネは1864年のサロンに『死せるキリストと天使たち』と、何を描いた絵を提出し、入選したのか?", "id": "tr-256-10-000", "answers": [ { "text": "スペインの闘牛", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『オランピア』は何をもとに描かれた作品なのか?", "id": "tr-256-10-001", "answers": [ { "text": "『ウルビーノのヴィーナス』", "answer_start": 273, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マネが8月からのスペイン旅行で出会い、親友になったと書かれている人物は、どんな職に就いていたの?", "id": "tr-256-10-002", "answers": [ { "text": "批評家", "answer_start": 1052, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マネの作品が1864年のサロンに入選することを手助けした人で、『オランピア』への批判に意気消沈したマネを励ましてくれた人は誰か?", "id": "tr-256-10-003", "answers": [ { "text": "ボードレール", "answer_start": 46, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "マネは、1866年、サン=ラザール駅近くのサン=ペテルスブール通りに住居を移し、死去までこの通りに住んだ。マネは、1866年のサロンに『笛を吹く少年』を提出したが、落選した。この作品は、スペイン旅行でベラスケスに学んだ単純で平坦な背景処理を実践したものであった。駆け出しの作家だったエミール・ゾラが、この年の春、画家アントワーヌ・ギユメの紹介でマネのアトリエを訪れ、マネに心酔するようになった。ゾラは、『レヴェヌマン』紙で、サロンで落選した『笛を吹く少年』について、「私はこれほどまでに複雑でない方法で、これ以上力強い効果を得ることはできないように思う。」とマネを強く擁護した。", "qas": [ { "question": "マネが死ぬまで住んでいた通りはどこか?", "id": "tr-256-11-000", "answers": [ { "text": "サン=ペテルスブール通り", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マネが1866年のサロンに提出した作品は、誰から学んだ美術的技術を用いた作品だったのか?", "id": "tr-256-11-001", "answers": [ { "text": "ベラスケス", "answer_start": 100, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1867年のパリ万国博覧会では、ジャン=レオン・ジェロームやカバネルのようなアカデミズム絵画のほか、ジャン=バティスト・カミーユ・コロー、ジャン=フランソワ・ミレーのようなバルビゾン派の作品が展示されたが、マネの作品は展示されなかった。そこで、マネは、展覧会場から遠くないアルマ橋付近に、多額の費用をかけてパビリオンを建て、10年近くにわたる主要作品50点を展示する個展を開いた。マネは、ゾラに宛てて、「私は危険な賭けをしようとしていますが、あなたのような人びとの助けがあるので成功を確信しています。」と書いている。しかし、賞賛した批評家もわずかにいたものの、マネが期待したような社会的評価は得られなかった。ただ、マネの傑作全てを一堂に見られる充実した内容であり、これを見た若い画家たちは大きな影響を受けた。モネやフレデリック・バジールが、サロンに頼らずに自分たちのグループ展を計画するきっかけにもなった。マネは、自分の作品についてほとんど文章を残していないが、個展に際しての「趣意書」の中では、「今日、芸術家[マネ]は、「欠点のない作品を見に来てくれ」とは言わず、「真摯な作品を見に来てくれ」と言う。この真摯さゆえに、画家はひたすら自分の印象を描いているにもかかわらず、作品は図らずも抗議の色合いを帯びてしまうのである。マネは抗議しようとしたことなど断じてない。彼は他の誰でもなく自分自身であろうと努めたに過ぎない。」と書いている。ゾラは、1867年、『レヴェヌマン』紙の記事を発展させて小冊子「マネ論」を発表し、マネの個展の中で販売した。ゾラは、その中で、「いかなる対象を前にしても画家[マネ]は対象の様々な色調を識別する自らの眼に従う。それは、壁を背に立つ人物の顔は灰色の地に塗られた白っぽい円に過ぎず、顔の横に見える洋服は青みがかった色斑でしかない、といった具合なのだ。多くの画家たちは絵画で思想を表現しようと躍起になるが、この馬鹿げた過ちを彼は決して犯さない。複数のオブジェや人物を描く対象として選択するときの彼の方針は、自在な筆捌きによって色調の美しい煌きを創り出せるか否かということだけだ。」と書いている。これは、絵画は純粋に色彩と形態を追求するものだというモダン・アートの先駆けとなる考え方であった。", "qas": [ { "question": "ジャン=バティスト・カミーユ・コローはどの派に属する人物なのか?", "id": "tr-256-12-000", "answers": [ { "text": "バルビゾン派", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1867年のパリ万国博覧会での作品展示ができなかった、マネは私費で何を建てたか?", "id": "tr-256-12-001", "answers": [ { "text": "パビリオン", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "モネらがサロンに頼らず自分たちのグループ展を計画するのに影響したのは、誰か?", "id": "tr-256-12-002", "answers": [ { "text": "マネ", "answer_start": 307, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "モネのほかに、マネから影響を受け、サロンに頼らず自分たちのグループ展を計画した人物として、この文書で挙げられているのは誰?", "id": "tr-256-12-003", "answers": [ { "text": "フレデリック・バジール", "answer_start": 357, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "マネは、ゾラの応援に意を強くし、1868年のサロンにはゾラの肖像を出品している。その画中の机の上には、青い表紙の「マネ論」小冊子が描かれている。1860年代後半には、クロード・モネも、アストリュクの紹介でマネと知り合った。ゾラやモネのほか、ピエール=オーギュスト・ルノワール、フレデリック・バジール、カミーユ・ピサロなど、アカデミー・シュイスやシャルル・グレール画塾を中心として集まった若手画家たちも、カフェ・ゲルボワに顔を出すようになった。こうした若手画家たちは、「バティニョール派」と呼ばれるようになった。ファンタン=ラトゥールが描いた『バティニョールのアトリエ』には、マネを中心とする若手画家たちの集まりが描かれている。1868年には、ファンタン=ラトゥールを通じて、女性画家ベルト・モリゾとその姉エドマ・モリゾと知り合った。ベルト・モリゾは、マネの作品のモデルを務めるようになる。1869年2月には、エヴァ・ゴンザレスがマネのアトリエに弟子入りした。エドガー・ドガとは、ルーヴル美術館で模写をしている時に知り合って親しくなったが、ドガがカフェ・ゲルボワに出入りするようになったのは1868年春頃からである。2人は、互いに敬意を持ちながらも、遠慮なく辛辣な言葉の応酬を繰り返す関係だった。ドガが、ピアノを弾くシュザンヌとマネを描いた作品を贈ったが、マネは、妻の姿が気に入らず、絵を切断してしまった。ドガは、その絵をマネの家で目にして激怒し、マネからもらった静物画をマネに送り返した。ドガは、晩年、画商アンブロワーズ・ヴォラールから、「でも、その後マネと仲直りしましたよね」と聞かれると、「マネと仲違いしたままでいられるはずはないよ!」と答えている。マネは、1867年にフランスが擁立していたメキシコ皇帝マクシミリアンが銃殺された事件を題材に、『皇帝マキシミリアンの処刑』の油彩画3点と石版画1点を制作していたが、1869年1月、内務省から、検閲により絵画がサロンに受け入れられないこと、石版画の印刷が禁止されることを通知された。ゾラは、『ラ・トリビューヌ』紙に、この検閲を批判する記事を載せた。", "qas": [ { "question": "マネは誰をモデルとした作品で、1868年のサロンに応募したの?", "id": "tr-256-13-000", "answers": [ { "text": "ゾラ", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "マネを中心にカフェ・ゲルボワに集まった若手画家のことを、何と称しますか?", "id": "tr-256-13-001", "answers": [ { "text": "バティニョール派", "answer_start": 234, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バティニョール派の姿を対象とする作品としてこの文書で挙げられているのは、誰が描いた作品か?", "id": "tr-256-13-002", "answers": [ { "text": "ファンタン=ラトゥール", "answer_start": 255, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "バティニョール派が集まる場所にエドガー・ドガが出入りするようになったのは、いつ頃か?", "id": "tr-256-13-003", "answers": [ { "text": "1868年春頃", "answer_start": 494, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "アン女王戦争", "paragraphs": [ { "context": "アン女王戦争(アンじょうおうせんそう、英語:QueenAnne'sWar、1702年-1713年)は、欧州のスペイン継承戦争に対応して北米大陸において起こった、フランス王国とイングランド王国(後にグレートブリテン王国)との間の戦争であり、一連の北米植民地戦争においては2度目の戦争である。名称は当時イギリスを統治していたアン女王の名にちなむ。それぞれの国と同盟を結んでいた多数のアメリカ州の先住民族および、フランス王国の同盟国であったスペイン帝国も戦争に加わった。別称に第三次インディアン戦争(英:ThirdIndianWar)があり、またフランス語では第二次植民地間戦争(仏:DeuxièmeGuerreintercoloniale)と呼ばれる。", "qas": [ { "question": "アン女王戦争は、どこにおいて発生した戦争であるの?", "id": "tr-257-00-000", "answers": [ { "text": "北米大陸", "answer_start": 67, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アン女王戦争は、フランス王国とどの国の間で行われた戦争でありますか?", "id": "tr-257-00-001", "answers": [ { "text": "イングランド王国", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アン女王戦争の名称は、どの国の女王の名をつけたか?", "id": "tr-257-00-002", "answers": [ { "text": "イングランド王国", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北米植民地戦争における2度目の戦争は、何か?", "id": "tr-257-00-003", "answers": [ { "text": "アン女王戦争", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1712年に停戦協定が結ばれ、1713年のユトレヒト条約が締結されてアン女王戦争は終結した。この条約でイギリスはアカディア、ニューファンドランド島とハドソン湾地域をフランスからの譲渡により獲得し、他方フランスはケープ・ブレトン島を含むセントローレンス湾の島々を維持した。一部の条件は曖昧であり、多くのインディアン部族に対する対応はこの条約に含まれておらず、将来の紛争の要因となった。", "qas": [ { "question": "アン女王戦争は、どの条約の締結により終結したの?", "id": "tr-257-01-000", "answers": [ { "text": "ユトレヒト条約", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "停戦協定とユトレヒト条約のうち、より早く結ばれたのは、何ですか?", "id": "tr-257-01-001", "answers": [ { "text": "停戦協定", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ユトレヒト条約により、フランスはイギリスにアカディアとニューファンドランド島のほかに、どの地域を譲渡したか?", "id": "tr-257-01-002", "answers": [ { "text": "ハドソン湾地域", "answer_start": 74, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ユトレヒト条約を基点に、占領国家が変わった地域は、ニューファンドランド島とハドソン湾地域のほかに、どこか?", "id": "tr-257-01-003", "answers": [ { "text": "アカディア", "answer_start": 56, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1700年11月にスペイン王カルロス2世が死去し、その後、次の王位を巡って1701年にスペイン継承戦争が勃発した。戦争初期はヨーロッパの少数の大国間の争いに留まっていたが、1702年5月、イギリスがスペインとフランスに宣戦布告したことによって戦争は拡大した。北アメリカでの戦闘はこれらの大国の植民地を隔てていた境界地方に沿って起こり、これまでに蓄積されてきた互いの軋轢によってさらに拍車がかけられた。この不協和音は、イギリス植民地の中でも南西部のカロライナ植民地や北部のマサチューセッツ湾直轄植民地およびニューファンドランド島(当時のニューファンドランド島は、ハドソン湾で行われる貿易や新たな植民地への入植を行うための前線基地であった)のような、北部および南西部の境界地方沿いにおいて最も顕著であった。", "qas": [ { "question": "誰が死去したら、王位を巡ったスペイン継承戦争が勃発したの?", "id": "tr-257-02-000", "answers": [ { "text": "カルロス2世", "answer_start": 14, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペイン継承戦争が勃発したのは、何年のことですか?", "id": "tr-257-02-001", "answers": [ { "text": "1701年", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スペイン継承戦争の戦場が拡大し始めたのは、どの国の宣戦布告によることか?", "id": "tr-257-02-002", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 94, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1702年5月、イギリスはスペインとどの国に対し、宣戦布告したか?", "id": "tr-257-02-003", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 104, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "18世紀の変わり目におけるイギリスおよびフランスの有力な入植者たちは、ミシシッピ川が将来の発展と貿易に重要な役割を有していることを理解しており、各々の先進的な先見の明によって他者の活動を妨害する計画が立てられた。フランス系カナダ人の探検家ピエール・ル・モワン・ディベルヴィユは先の戦争での被害に対して、「キャロライン計画」(仏:ProjectsurlaCaroline)と呼ばれる、ミシシッピ川流域で現地住民との関係を築き、その関係を活用してイギリス人を大陸から締め出すかその活動領域を沿岸地域に制限する計画を展開した。この壮大な戦略の遂行において彼は、1670年にロベール=カブリエ・ド・ラ・サールによって初めて発見されたミシシッピ川の河口を再発見し、1699年にモールパ砦を確立させた。この拠点と、1702年に創立したモービルから、彼は現地のチョクトー族、チカソー族、ナチェズ族およびその他の部族との関係を築き始めた。", "qas": [ { "question": "ミシシッピ川の河口を初めて発見したのは、誰なの?", "id": "tr-257-03-000", "answers": [ { "text": "ロベール=カブリエ・ド・ラ・サール", "answer_start": 283, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "モールパ砦が確立したのは、何年のことですか?", "id": "tr-257-03-001", "answers": [ { "text": "1699年", "answer_start": 327, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カロライナ植民地からのイギリス人商人と探検家は植民地が1670年に創立されて以降、ミシシッピ川流域に広がったアメリカの南東地域全体において相当の通商網を既に確立していた。フロリダにいたスペイン人に対してほとんど配慮していなかったそのリーダーは、沿岸地域にフランスが到着することによってもたらされる脅威を理解していた。1700年に死亡するまでの間カロライナ植民地の知事であったジョセフ・ブレイクと、1702年にジョセフの後を継いだジェームズ・ムーアの両者は、フランスおよびスペインの利益を犠牲にして南方および西方に拡大する展望を表明した。", "qas": [ { "question": "ジョセフ・ブレイクが死んだのは、何年か?", "id": "tr-257-04-000", "answers": [ { "text": "1700年", "answer_start": 158, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジョセフの後を継いだのは、誰か?", "id": "tr-257-04-001", "answers": [ { "text": "ジェームズ・ムーア", "answer_start": 214, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "正式な交戦通知が届いたとき、ムーアはスペイン領フロリダに対して軍を組織し、指揮した。1702年のセントオーガスティン包囲戦において、500人のイギリス人兵士および民兵は300人のインディアンと共にセントオーガスティンの町を占領し、焼き払った。その後、イギリス軍は主要な要塞を奪取することができず、キューバのハバナから送られたスペイン艦隊が到着した際に撤退した。1706年、カロライナ植民地はハバナから送られてきたスペインおよびフランス混成の水陸両用部隊によるチャールズ・タウンへの攻撃(チャールズ・タウン遠征)の撃退に成功した。", "qas": [ { "question": "セントオーガスティン包囲戦は、何年に行われた戦闘なの?", "id": "tr-257-05-000", "answers": [ { "text": "1702年", "answer_start": 42, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリス人とインディアンのうち、セントオーガスティン包囲戦により多く動員されたのは、どちらですか?", "id": "tr-257-05-001", "answers": [ { "text": "イギリス人", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アパラチー族とスペイン領フロリダのティムクア族は、1704年のアパラチー虐殺として知られるようになった、ムーアによる遠征隊の襲撃によって実質的に絶滅した。この襲撃の生き残りのほとんどはサバンナ川へと移住し、彼らの領域はその保留地に制限された。多くのインディアン軍からの襲撃にはしばしば少数の白人が含まれており、それはイギリス人が主導した1707年のペンサコーラ包囲戦および1709年のモービルの戦いを含む主要な遠征の翌年まで続いた。イギリス人に主導され、武装したマスコーギー(クリーク族)、ヤマシー族およびチカソー族は、チョクトー族、ティムクア族およびアパラチー族の犠牲のもとにこれらの紛争を制圧した。後者のインディアン部族たちは、クリーク族やチカソー族よりもいくぶんか穏やかな気質であった。", "qas": [ { "question": "1704年の時点でフロリダを占領していたのは、どの国なの?", "id": "tr-257-06-000", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アパラチー虐殺とペンサコーラ包囲戦のうち、より早く起こった出来事は、どちらですか?", "id": "tr-257-06-001", "answers": [ { "text": "アパラチー虐殺", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ペンサコーラ包囲戦とモービルの戦いのうち、より早く発生した戦闘は、どちらか?", "id": "tr-257-06-002", "answers": [ { "text": "ペンサコーラ包囲戦", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "モービルの戦いは、いつ発生した戦闘か?", "id": "tr-257-06-003", "answers": [ { "text": "1709年", "answer_start": 186, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1704年2月、ジャン=バティスト・ハーテル・ド・ルヴィルは250人のインディアン(アベナキ族、モホーク族)および50人のフランス系カナダ人を率いてマサチューセッツ湾直轄植民地のディアフィールドを襲撃した。彼らは入植地を破壊し、多くの入植者たちを殺害または捕虜とした。100人を超える捕虜たちはモントリオール近郊のカナワケまで、陸路で北へ数百マイルの距離を連行され、生き残った大部分の子供たちはそこでモホーク族の養子とされた。幾人かの大人は、後の捕虜交換の協議によって交換もしくは解放された。", "qas": [ { "question": "インディアンとフランス系カナダ人のうち、ディアフィールド襲撃に動員された人数がより多いのは、どちらか?", "id": "tr-257-07-000", "answers": [ { "text": "インディアン", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ジャン=バティスト・ハーテル・ド・ルヴィルが率いる部隊によるディアフィールド襲撃は、いつ起こったことか?", "id": "tr-257-07-001", "answers": [ { "text": "1704年2月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1705年5月、マサチューセッツ知事のジョセフ・ダドリーはポート・ロワイヤルを奪取するための遠征を計画した。ジョン・マーチに率いられた1600人の兵は砦を包囲したが奪取することができず、引き続き行われた8月の遠征も撃退された(ポートロワイヤルの戦い)。これに対応してフランス人はピスカタクォー川にあるニューハンプシャー植民地の大部分を襲撃する野心的な計画を立てた。しかし、インディアンたちの支持を得らなかったため計画の多くは実現せず、代わりにマサチューセッツのヘイブリルの町が襲撃された(ヘイヴァーヒル奇襲)。1709年、ヌーベルフランスの知事フィリップ・ド・リゴー・ド・ヴォードルイユは、ボストンの北の領域の3分の2はフランスとインディアンの襲撃によって放棄されていると報告した。ニューイングランドの入植者たちが彼らの砦に留まって出てこなかったため、フランス人およびインディアンたちは捕虜を取らずに引き返した。", "qas": [ { "question": "ジョセフ・ダドリーがポート・ロワイヤル遠征を計画したのは、いつなの?", "id": "tr-257-08-000", "answers": [ { "text": "1705年5月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ポート・ロワイヤル遠征は、1705年5月と何月に行われましたか?", "id": "tr-257-08-001", "answers": [ { "text": "8月", "answer_start": 101, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1710年9月、フランシス・ニコルソンに率いられた3,600人のイギリス人および植民地軍は1週間の包囲の後についにポートロワイヤルの占領に成功した(ポートロワイヤルの戦い)。これによって、アカディアの半島部分(現在のノバスコシア州本土)におけるフランスの統治が終了した。しかし、ワベナキ連邦による抵抗はブラッディクリークの戦いやメインの前線などで継続、アカディアの残りの部分(現メイン州東部およびニューブランズウィック州)は未だにニューイングランドとヌーベルフランスの係争地のままだった。", "qas": [ { "question": "ポートロワイヤルが、フランシス・ニコルソン軍により占領されたのは、いつか?", "id": "tr-257-09-000", "answers": [ { "text": "1710年9月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "どこが占領されたことが、アカディアの半島部分におけるフランスの統治終了に繋がったか?", "id": "tr-257-09-001", "answers": [ { "text": "ポートロワイヤル", "answer_start": 57, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "いつをもって、アカディアの半島部分におけるフランスの統治が終了したか?", "id": "tr-257-09-002", "answers": [ { "text": "1710年9月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "誰が率いる部隊によりポートロワイヤルが占領され、アカディアの半島部分におけるフランスの統治が終了することになったか?", "id": "tr-257-09-003", "answers": [ { "text": "フランシス・ニコルソン", "answer_start": 8, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ヌーベルフランスの中核地域であったカナダにいたフランス人たちはニューヨーク植民地に対する攻撃に反対だった。ヌーベルフランスは17世紀初期から1701年に大いなる和平を結ぶまでの長期に渡りビーバー戦争でイロコイ連邦と交戦しており、彼らはイギリス人よりもむしろイロコイ連邦を刺激することを嫌っていた。ニューヨーク植民地の貿易商たちもまた、その多くがヌーベルフランスの領域を通って行われていたインディアンとの有利な毛皮貿易が妨げられるのを嫌い、ヌーベルフランスを攻撃することに反対だった。ニューヨーク植民地のオールバニーでインディアンのコミッショナーであったピーター・スカイラーは、イロコイ連邦にヌーベルフランスとの戦争への関心を煽ろうとしたが、その努力に反してイロコイ連邦はアン女王戦争の間中立を貫いた。", "qas": [ { "question": "ヌーベルフランスとイロコイ連邦が戦った戦争のことを、何と呼ぶの?", "id": "tr-257-10-000", "answers": [ { "text": "ビーバー戦争", "answer_start": 93, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ニューヨーク植民地の貿易商たちは、何を行うためには、ヌーベルフランスの領域を通らなければなりませんでしたか?", "id": "tr-257-10-001", "answers": [ { "text": "インディアンとの有利な毛皮貿易", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1709年、いくらかの財政的、実務的な支援をイギリス本土のアン女王から得たフランシス・ニコルソンおよびサミュエル・ヴェッチは、ヌーベルフランスに対する大がかりな攻撃隊を組織した。その計画は、シャンプレーン湖を経由したモントリオールへの陸路による攻撃と、ケベックに対する海軍による海上からの砲撃を含んでいた。陸路による遠征隊はシャンプレーン湖の南部に到達したが、海軍によるケベックへの攻撃が予定通りに行われなかったため、海軍による支援が得られず撤退した。海軍は当初の予定を変更してポルトガルへの支援に回されていた。イロコイ連邦はイギリス軍のこの奮闘に対するあいまいな支援の約束を行ったが、明らかに遠征が失敗しそうになるまで支援を送るのをうまく引き伸ばし続けた。この失敗の後、ニコルソンとスカイラーはイギリス本国の北アメリカでの戦争に対する関心を喚起するため、ヘンドリック王と他の酋長たちを連れてロンドンへと旅立った。インディアンの代表団はロンドンでセンセーションを巻き起こし、アン女王は彼らに謁見の機会を与えた。ニコルソンとスカイラーの努力が実り、1710年、アン女王の支援を得たニコルソンはポートロイヤルの占領に成功した。ニコルソンはこの成功を引っ提げて再びイギリスに戻り、1711年、ケベックへの再攻撃計画に対する支援を取り付けた。", "qas": [ { "question": "フランシス・ニコルソンおよびサミュエル・ヴェッチが、ヌーベルフランスに対する大がかりな攻撃隊を組織したのは、何年のことか?", "id": "tr-257-11-000", "answers": [ { "text": "1709年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランシス・ニコルソンおよびサミュエル・ヴェッチは、モントリオールとどこを攻撃する計画を立てたか?", "id": "tr-257-11-001", "answers": [ { "text": "ケベック", "answer_start": 126, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "モントリオールとケベックのうち、どちらへの攻撃が予定通りに行われず、もう一方の攻撃にまで影響を及ぼしたか?", "id": "tr-257-11-002", "answers": [ { "text": "ケベック", "answer_start": 126, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "陸路による遠征隊は、どこを経由し、モントリオールに到着する予定であったか?", "id": "tr-257-11-003", "answers": [ { "text": "シャンプレーン湖", "answer_start": 95, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1711年の攻撃計画もまた、陸からの侵攻と海上からの援護射撃を必要としていたが、その実行は失敗に終わった。ホーヴェンデン・ウォーカー提督に率いられた戦列艦15隻および軍隊5000人を運ぶ輸送艦は6月にボストンへと到着した。それらの人員はボストンの人口と同程度に及ぶ規模であり、植民地の戦争準備、資材提供能力に対して大きな重圧となった。7月の末にケベックへと出港した遠征艦隊はセントローレンス湾へ入ったが、霧の中で何隻かは岩の多いセントローレンス川河口近くの沿岸で沈没した。この遭難で700人以上の兵が失われ、ウォーカーはこの遠征を中止した。一方のニコルソンは陸路モントリオールへと出発したが、ジョージ湖に到達した時点でウォーカーの艦隊が遭難したという連絡を受け、彼もまた引き返した。この遠征に際してイロコイ連邦は、イギリス人と共に戦うために数百人の戦士を提供したが、フランス側へも遠征の予告を送っていた。", "qas": [ { "question": "1711年の攻撃計画の実施結果は、どうなったの?", "id": "tr-257-12-000", "answers": [ { "text": "失敗に終わった", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ホーヴェンデン・ウォーカーが率いる部隊がボストンについたのは、何月のことですか?", "id": "tr-257-12-001", "answers": [ { "text": "6月", "answer_start": 97, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ホーヴェンデン・ウォーカーが率いる部隊がセントローレンス湾に入ったのは、何月にあったことか?", "id": "tr-257-12-002", "answers": [ { "text": "7月", "answer_start": 167, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1711年の遠征の指揮官は、誰だったか?", "id": "tr-257-12-003", "answers": [ { "text": "ホーヴェンデン・ウォーカー", "answer_start": 53, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ニューファンドランド島の沿岸部には、ヨーロッパからの漁師たちによって利用される季節的な小さな入植地が点在していた。フランスはアバロン半島西側のプレゾンス、イギリスはコンセプション湾のセントジョンズをそれぞれ拠点とし、双方ともそれらの町を要塞化した。ウィリアム王戦争の間の1696年から1697年にかけてディベルヴィルはイギリス人入植地の大部分を破壊したが、1702年、この島は再び戦場となった。1702年8月、ジョン・リーク提督に率いられたイギリス艦隊はフランスの入植地を襲撃したが(ニューファンドランド遠征)、フランスの本拠地であったプレゾンスへの攻撃は行われなかった。1705年冬、プレゾンスの知事であったダニエル・ドージェ・ド・スーベルカスは報復攻撃を企図し、フランス軍とミクマク族の混成軍を率いて遠征を行った。彼らはいくつかのイギリス人入植地を破壊し、その後セントジョンズのフォートウィリアムを包囲したが失敗した(セントジョンズ包囲戦)。フランス人および、フランスと同盟を結んでいたインディアン部族は夏の間イギリス人を襲撃し続け、イギリスの施設に対して188,000ポンドに及ぶ損害を与えた。1706年、イギリスは艦隊を送り、島の北海岸にあるフランス人の漁場を破壊した。1708年12月、フランス人、カナダ人およびミクマク族の義勇兵による混成軍はセントジョンズを占領し、要塞を破壊した(セントジョンズの戦い)。しかしながら、彼らは軍を維持するための資源が欠如していたためセントジョンズを放棄し、1709年、セントジョンズはイギリス軍によって再占領された。フランス軍はまたフェリーランドへの遠征も試みたが、イギリス軍の抵抗により成功しなかった。", "qas": [ { "question": "フランスはプレゾンスを拠点にしたことに対し、イギリスはどこを拠点にしたの?", "id": "tr-257-13-000", "answers": [ { "text": "セントジョンズ", "answer_start": 91, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1705年冬にイギリスの襲撃に対する報復攻撃を企画したのは、誰なの?", "id": "tr-257-13-001", "answers": [ { "text": "ダニエル・ドージェ・ド・スーベルカス", "answer_start": 305, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ダニエル・ドージェ・ド・スーベルカスのイギリスへの報復攻撃には、フランス軍のほかに、どの部族も含められたか?", "id": "tr-257-13-002", "answers": [ { "text": "ミクマク族", "answer_start": 339, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "セントジョンズが混成軍により占領されたのは、いつのことか?", "id": "tr-257-13-003", "answers": [ { "text": "1708年12月", "answer_start": 539, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1712年、イギリスとフランスは休戦を宣言し、最終的な和平協定はその翌年に調印された。フランスはスペイン継承戦争の戦争目的であったフェリペ5世のスペイン王即位を反フランス同盟側に承認させることの代償として講和条件を大幅に譲歩せざるを得ず、1713年のユトレヒト条約のもと、イギリスはアカディア(イギリスによりノバスコシアと改名)、ニューファンドランド島の主権、ハドソン湾地域およびカリブ海に浮かぶセントキッツ島の島々を得た。アカディアの地位は和平交渉の中でもより議論を呼びもう少しで別の新たな戦争が起こるところだったが、最終的に国境線を明記しないままイギリス領とすることで決着し、その代わりフランスは大西洋の漁場を確保するために重要なサンジャン島(現プリンスエドワード島)とケープ・ブレトン島の2島を維持した。フランスはサンジャン島およびケープ・ブレトン島を含むセントローレンス湾の全ての島々を保有することとなり、この地域での漁業権に加えてニューファンドランド島北岸で干物を作る権利を維持した", "qas": [ { "question": "ユトレヒト条約が結ばれたのは、何年のことなの?", "id": "tr-257-14-000", "answers": [ { "text": "1713年", "answer_start": 119, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユトレヒト条約は、イギリスとどの国の間で結ばれたものですか?", "id": "tr-257-14-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 43, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユトレヒト条約により、イギリスが獲得した主権とは、アカディアとどこにおける主権のことか?", "id": "tr-257-14-002", "answers": [ { "text": "ニューファンドランド島", "answer_start": 165, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランスは、どこ近くのすべての島々を手に入れたか?", "id": "tr-257-14-003", "answers": [ { "text": "セントローレンス湾", "answer_start": 381, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "フランスは戦争の末期にもアベナキ族に対しニューイングランドでの目標への襲撃を働きかけ続けたが、アベナキ族はすでに戦争につかれていた。しかし、ユトレヒト条約ではインディアン部族の利益が無視され、アベナキ族の一部はニューイングランドの入植者との和平交渉に前向きだった。ダドリー総督はポーツマスで和平会議を開催(ダドリーはポーツマスの総督も務めていた)した。アベナキ族はポーツマスとカスコ湾での会議において、イギリスの「フランスはメイン東部とニューブランズウィック植民地をイギリスに割譲した」とする主張を退けつつ、ケネベック川を境界とすることに同意、また政府が運営する交易所の設置にも同意した。ポーツマス条約は1713年7月13日にワベナキ連邦の一部を代表する8人が批准したが、この条約にはワベナキ連邦の領域に対するイギリスの宗主権を主張する条項が含まれていた。その後の1年間、ほかのアベナキの部族長たちは条約に署名したが、ミクマク族は1726年まで何の条約にも署名しなかった。", "qas": [ { "question": "ダドリー総督は、どこで和平会議を開催したの?", "id": "tr-257-15-000", "answers": [ { "text": "ポーツマス", "answer_start": 139, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "インディアン部族のうち、新イギリス的性格を持っていたのは、どの部族の一部ですか?", "id": "tr-257-15-001", "answers": [ { "text": "アベナキ族", "answer_start": 96, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "富田川のオオウナギ生息地", "paragraphs": [ { "context": "富田川のオオウナギ生息地(とんだがわのオオウナギせいそくち)とは、和歌山県南西部を流れる富田川の河口から、上流方向へ約18キロメートルまでの水域にわたる、国の天然記念物に指定されたオオウナギの生息地である。\nオオウナギ(英:Giantmottledeel)はウナギ目ウナギ科ウナギ属に属する魚であり、学名AnguillamarmorataQuoyandGaimard,1824、標準和名はオオウナギ(大鰻)である。\nウナギ科魚類は世界に19の種と亜種が確認されており、日本国内には3種が自然分布している。\nその1種であるオオウナギは熱帯性の魚類であり、日本国内では屋久島・種子島以南に多く生息し、沖縄ではウナギ(ニホンウナギ)よりも多く生息しているが、本州・四国・九州では生息数が少なく、利根川河口以南(以西)の太平洋沿岸、長崎県以南の東シナ海沿岸に生息地が分散して点在しており、それぞれ、国、県、市町村単位の天然記念物に指定されている。\nこれら生息地のうち国の天然記念物に指定されているのは、徳島県海部郡海陽町の母川水域、長崎県長崎市樺島の共同井戸、そして本項で解説する和歌山県富田川水域の3件のみであり、3件とも1923年(大正12年)3月7日に国の天然記念物に指定された。", "qas": [ { "question": "富田川のオオウナギ生息地は何県にあるの?", "id": "tr-258-00-000", "answers": [ { "text": "和歌山県", "answer_start": 33, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "沖縄で多く生息しているのは二ホンウナギとオオウナギのどちらですか?", "id": "tr-258-00-001", "answers": [ { "text": "オオウナギ", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "富田川水域の他に同じ年に天然記念物に指定された水域は共同井戸とどこですか?", "id": "tr-258-00-002", "answers": [ { "text": "母川水域", "answer_start": 457, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "富田川流域の紀南地方と呼ばれる紀伊半島南部一帯は、富田川以外にもオオウナギが生息する河川があることが昔から知られており、中でも和歌山県南東部を流れる古座川に生息するオオウナギには多くの記録や文献が残されている。", "qas": [ { "question": "富田川以外で古くからオオウナギの記録が残されている川はどこですか?", "id": "tr-258-01-000", "answers": [ { "text": "古座川", "answer_start": 74, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、小原の弟子である畔田翠山が、1827年(文政10年)に記した『水族誌』では次のように記されている。\nさらに、津藩藩士で朱子学者の斉藤拙堂が、紀伊半島を一周した紀行記録をまとめた1860年(万延元年)の『南遊志』の中でも、古座川流域で巨大なウナギが網で捕獲される様子を聞いた内容が記されており、古座川周辺のオオウナギは古くより知られていたと考えられている。", "qas": [ { "question": "『水族誌』の著者は誰?", "id": "tr-258-02-000", "answers": [ { "text": "畔田翠山", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『南遊志』の著者は誰?", "id": "tr-258-02-001", "answers": [ { "text": "斉藤拙堂", "answer_start": 67, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『水族誌』と『南遊志』はどちらが先にまとめられたの?", "id": "tr-258-02-002", "answers": [ { "text": "『水族誌』", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "斉藤拙堂は何の学問の学者だったの?", "id": "tr-258-02-003", "answers": [ { "text": "朱子学", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "その一方で富田川のオオウナギに関する江戸期の記録は見られず、記録として現れ始めるのは明治期に入ってからで、1889年(明治22年)8月に発生した大水害による激しい水流により、富田川の下流域に複数の深い淵が作られたことでオオウナギが生息し始めたと考えられている。\n明治から大正の当時はオオウナギの巨体の群れを川岸から見る事ができ、昭和の始め頃まで富田川下流域ではオオウナギが多数生息していたという。", "qas": [ { "question": "オオウナギが冨田川に生息し始めたのは何年に起きた水害からだとされていますか?", "id": "tr-258-03-000", "answers": [ { "text": "1889年", "answer_start": 53, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "富田川下流域でオオウナギがたくさん見られたのはいつ頃まででしたか?", "id": "tr-258-03-001", "answers": [ { "text": "昭和の始め頃まで", "answer_start": 164, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "富田川上流の山間部入口付近に位置する鮎川地区(現・田辺市鮎川)には、大正末期から昭和初期頃に起こった、とある大鰻(オオウナギ)に関する逸話が残されている。", "qas": [ { "question": "オオウナギの逸話が残っている地域は現在のどこですか?", "id": "tr-258-04-000", "answers": [ { "text": "田辺市鮎川", "answer_start": 25, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ある日、鮎川村の村人が、村の上流部にあたる北郡(ほくそぎ)地区から蕨尾橋(今日の道の駅ふるさとセンター大塔付近)あたりの富田川沿いを歩いていると、川の中に今までに見たことのない巨大なウナギを見つけたため、急いで村人を呼びに行き、温泉宿から蚊帳を5帖用意して村人たちはオオウナギを捕獲した。\n水槽に入れたオオウナギを前に村人たちは、このまま水槽で飼おう、川へ戻そう、料理して大勢で食べよう等、このオオウナギをどうするか相談をしたが、このような珍しいものを大勢の人に見てもらってはどうか、という意見にまとまり、見世物にして夜店を出すことに決まった。\n早速オオウナギは馬車の乗せられて運ばれ、田辺の大浜通り(現・県道田辺港線)で夜店が開かれたが、オオウナギは大変な人気となり大勢の人が夜店を訪れた。\nたくさん儲かった村人たちは、次は日高の御坊で夜店を張ろうと考え、当時は田辺まで鉄道が開通していなかったため、オオウナギを船に積んで御坊へ運び夜店を開くと、御坊では田辺以上に人が集まって大繁盛となり大変な儲けとなった。\nすでに当のオオウナギは疲れ果て食欲も無くなっていたが、お金に目を奪われた村人たちは、今度は和歌山へ、その次は大阪へと考え、和歌山へ着いた村人たちは田辺や御坊で儲けたお金を使い、和歌山での夜店を開く前祝と称して、夜通し飲めや食えやの大騒ぎをして儲けたお金を散財した。\n宿に戻った村人がオオウナギの様子を見ると、すでに腹部を上にしてオオウナギは死んでしまっていた。\n和歌山での夜店も開けず、金儲けの当てもはずれた村人たちは、落胆するとともに、自分たちの行動を反省し、オオウナギに対する申し訳ない気持ちと、お金に目がくらんだ自分たちを恥じ、人間の本当の幸せとは何だったのか、村人たちは深く考えあったという。", "qas": [ { "question": "鮎川村で見つかったオオウナギは、田辺の次にどこで見世物にされたの?", "id": "tr-258-05-000", "answers": [ { "text": "御坊", "answer_start": 366, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "鮎川村で見つかったオオウナギはどこで死んだ?", "id": "tr-258-05-001", "answers": [ { "text": "和歌山", "answer_start": 637, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "鮎川村の村人は和歌山の次にどこでオオウナギを見世物にしようと考えていた?", "id": "tr-258-05-002", "answers": [ { "text": "大阪", "answer_start": 510, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "このオオウナギはその後、鮎川地区で旅館を経営していた佐々木家に剥製として保管され、1936年(昭和11年)6月に鮎川を訪れた東久邇宮稔彦王に披露されたという。\n当時の記録には、全長6尺3寸(約191センチメートル)、重量5貫600匁(約21キログラム)とあり、これは日本国内で確認されたオオウナギの中でも最大級のものであり、この剥製は2009年(平成20年)所有者の佐々木家から田辺市大塔公民館へ寄贈され、田辺市教育委員会によって大切に保管されている。", "qas": [ { "question": "オオウナギの剥製は、全長何センチメートルですか?", "id": "tr-258-06-000", "answers": [ { "text": "約191センチメートル", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オオウナギの剥製は、何キログラムですか?", "id": "tr-258-06-001", "answers": [ { "text": "約21キログラム", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オオウナギの剥製はどこで保管されていたの?", "id": "tr-258-06-002", "answers": [ { "text": "佐々木家", "answer_start": 26, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "オオウナギはニホンウナギと異なり、焼いても不味く食用にされることは無かったが、富田川ではその珍しさから前述した鮎川地区でのエピソードのように捕獲されることも多くあった。\nまた、脂質の多いオオウナギの皮は、家を建てる時に柱の下に敷くとシロアリ避けになるため利用されたり、場合によっては肥料にされたりと乱獲が行われた。\nそれにくわえ経年経過による土砂等の堆積によってオオウナギの棲む淵が浅瀬になるなど生息域環境の変化もあり、オオウナギは急速に減少しはじめた。", "qas": [ { "question": "オオウナギとニホンウナギのうち、食用に不向きなのはどちら?", "id": "tr-258-07-000", "answers": [ { "text": "オオウナギ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "オオウナギの皮は、家の柱の下に敷くと何が寄って来ないとして利用されていたの?", "id": "tr-258-07-001", "answers": [ { "text": "シロアリ", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "そのような状況に危機感を持った地元の研究者の宇井縫蔵(ういぬいぞう)は、富田川流域の人々にオオウナギ保護への理解を求める行動を起こした。\n宇井は1878年(明治11年)に西牟婁郡岩田村(現上富田町)に生まれ、和歌山師範学校を卒業し、和歌山県内の小学校教師を歴任した後、田辺高等女学校(現・和歌山県立田辺中学校・高等学校)教師として在籍中の1921年(大正10年)に、オオウナギの保護活動を始めた。\n宇井は教師のかたわら魚類や植物の研究を行い、南方熊楠や牧野富太郎とも親交があった人物で、和歌山の魚類を初めて系統立てて分類網羅した『紀州魚譜』の著者でもある。\nこの著書の中で宇井は「近年河床はますます埋まりて、オオウナギなどの棲むべき場所は、年一年と狭まりつつある」と述べている。", "qas": [ { "question": "大正時代になってオオウナギの保護活動を開始した人は誰?", "id": "tr-258-08-000", "answers": [ { "text": "宇井縫蔵", "answer_start": 22, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オオウナギの保護活動を始めた時、宇井は何の職業に就いていた?", "id": "tr-258-08-001", "answers": [ { "text": "教師", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "宇井が著した和歌山の魚類に関する本とは?", "id": "tr-258-08-002", "answers": [ { "text": "『紀州魚譜』", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "宇井は一般の人々に保護を求める一方、県に対しても保護対策を願い出るなど、オオウナギの保護活動に尽力し、このことが大きな原動力となって富田川の一部である、三つ石の淵、濁り淵、蟇(ひき)岩の淵の3ヶ所の淵(現・白浜町)が、オオウナギの生息地として1923年(大正12年)3月7日に国の天然記念物に指定された。\nしかし、この3ヶ所の淵は互いに隣接した狭い水域であり、オオウナギの保護には不十分であるため、より広い範囲にわたる水域の保護が求められ、1935年(昭和10年)5月15日に、富田川の河口から中辺路町と大塔村の境界までの、約18キロメートルの範囲が追加指定された。", "qas": [ { "question": "天然記念物にされた富田川の一部に、追加指定された範囲はどれくらいの距離だったの?", "id": "tr-258-09-000", "answers": [ { "text": "約18キロメートル", "answer_start": 262, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "富田川の一部に天然記念物が追加指定されたのは何年?", "id": "tr-258-09-001", "answers": [ { "text": "1935年", "answer_start": 220, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "宇井が教鞭をとった現・和歌山県立田辺高等学校には、古くからオオウナギの剥製が所蔵されていたがラベル等の記載がなく来歴が不明であった。\nしかし近年発見された資料によって、1922年(大正11年)に旧大塔村笠松地区で捕獲されたオオウナギが剥製にされ、田辺高等女学校(現・和歌山県立田辺高等学校)へ寄贈されたものであることが判明した。\n同校に当時在職していた宇井が魚類の専門家として名前が通っていたことから、同校へ剥製が寄贈されたものと考えられている。", "qas": [ { "question": "現在の和歌山県立田辺高等学校に置かれているオオウナギの剥製は何年に捕獲されたものだと分かったの?", "id": "tr-258-10-000", "answers": [ { "text": "1922年", "answer_start": 84, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "現在の和歌山県立田辺高等学校に所蔵されていたオオウナギの剥製は1922年にどこで捕獲されたものでしたか?", "id": "tr-258-10-001", "answers": [ { "text": "旧大塔村笠松地区", "answer_start": 97, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "オオウナギ(大鰻)の生息地として、その流路のうち約18キロメートが国の天然記念物に指定されている富田川は、和歌山県と奈良県の県境に位置する果無山脈を水源とし、白浜町の富田(とんだ)地区で太平洋に注ぐ延長46.0キロメートルの二級河川で、同県の二級河川では唯一ダムの無い河川である。", "qas": [ { "question": "富田川の水源地はどこ?", "id": "tr-258-11-000", "answers": [ { "text": "果無山脈", "answer_start": 69, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "富田川の延長は何キロメートル?", "id": "tr-258-11-001", "answers": [ { "text": "46.0キロメートル", "answer_start": 101, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "和歌山県の二級河川の中でダムの無い川は何?", "id": "tr-258-11-002", "answers": [ { "text": "富田川", "answer_start": 48, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "オオウナギ生息地として最初に国の天然記念物に指定された三つ石、濁り、蟇(ひき)岩の3ヶ所の淵にほど近い十九淵(つづらぶち)では、1930年(昭和5年)の渇水の際、毎日10数匹が水面に現れ見物人で賑わうなど、富田川はオオウナギが多数生息していたが、昭和30年代頃から始まった護岸工事や生活排水の流入、上流域での森林開発なども加わり、生息環境が大きく変わり始めた。\nオオウナギは地元では「カニ食い」とも呼ばれるように、ベンケイガニやモクズガニなどの甲殻類を好んで食べ、アユやオイカワ等の川魚、ユスリカやカゲロウ等の水生昆虫、さらに淡水性の貝やカエルに至るまで様々な生物を餌としており、富田川水系生態系の頂点捕食者であるオオウナギが生息するためには、さまざまな生物にとっても棲みやすい環境が必要である。", "qas": [ { "question": "人的要因により、上流域の生息環境が大きく変化し始めたのはいつ頃から?", "id": "tr-258-12-000", "answers": [ { "text": "昭和30年代頃", "answer_start": 123, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "オオウナギの地元での呼称は何?", "id": "tr-258-12-001", "answers": [ { "text": "「カニ食い」", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "国の天然記念物に指定された富田川の水域では、1985年(昭和60年)に見つかった体長1.3メートルのオオウナギ以降、1メートルを越す個体は確認されておらず、また文化財保護法によって指定域での捕獲は禁じられている。\n富田川を含む紀伊半島南部では普通のウナギ漁などで時折見つかり、死亡した大型のオオウナギを剥製や標本にしたり、また指定域以外で捕獲された個体が和歌山県立自然博物館に持ち込まれ飼育や研究の対象になっている。", "qas": [ { "question": "1985年に見つかったオオウナギの全長は?", "id": "tr-258-13-000", "answers": [ { "text": "1.3メートル", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "前述した田辺高等学校や大塔公民館の剥製のような標本は複数存在しており、1922年(大正11年)11月に旧大塔村の向越(むかごし)の富田川で捕獲された全長145センチ、重量8.6キログラムの大型個体は剥製にされ、現田辺市立鮎川小学校に保存されている。\nまた、1971年(昭和46年)1月には紀勢本線紀伊富田駅近くの富田川に架かる富田橋の上流で、瀕死の状態のオオウナギが浮いているのが発見され、同駅駅員によって捕らえられた。\nこのオオウナギは体長151.2センチメートル、体重10.5キログラム、胴回り37.1センチメートルもあり、その後しばらくの間、紀伊富田駅改札口の横にホルマリン漬けにされ展示されていた。", "qas": [ { "question": "1922年11月に捕獲されたオオウナギはどこで展示されていたの?", "id": "tr-258-14-000", "answers": [ { "text": "紀伊富田駅改札口の横", "answer_start": 274, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1922年11月に捕獲されたオオウナギが保存された場所はどこ?", "id": "tr-258-14-001", "answers": [ { "text": "現田辺市立鮎川小学校", "answer_start": 105, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "和歌山県内を流れる複数の河川では、河口近くを中心にオオウナギの生息が確認されているが、2007年(平成19年)9月30日には河口から遠く離れた、田辺市本宮町渡瀬(わたぜ)の四村川(よむらがわ)で、鮎漁で仕掛けた簗に、全長136センチ、体重8.2キログラムの大型個体が掛かった。\n四村川は熊野川の支流のひとつで、捕獲された渡瀬地区は新宮市の熊野川河口から41.2キロメートル上流に位置し、かなり上流にも大型個体が生息していることが分かった。\nまた、1メートルを越す大型個体は1986年(昭和61年)に那智勝浦町の太田川で捕獲された全長159センチメートルの個体以来21年ぶりであった。", "qas": [ { "question": "捕獲されたオオウナギの全長が大きかったのは、2007年9月30日と1986年のどちらのものですか?", "id": "tr-258-15-000", "answers": [ { "text": "1986年", "answer_start": 236, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "オオウナギの全長が大きかったのは、四村川と太田川のどちらで捕獲されたものですか?", "id": "tr-258-15-001", "answers": [ { "text": "太田川", "answer_start": 255, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "このほかにも潮岬に近い紀伊半島最南端の串本町の側溝に棲む個体や、みなべ町の南部川や印南町の切目川などで生息が確認され、2014年(平成26年)2月12日には同県北部の海南市下津町を流れる小原川で、体長1メートル、重さ3.2キロの大型個体が捕獲されるなど、和歌山県内では散発的に生息が確認されているが、国の天然記念物に指定されている富田川での生息確認事例は減少している。", "qas": [ { "question": "2014年2月12日に捕獲されたオオウナギはどこの川で見つかったの?", "id": "tr-258-16-000", "answers": [ { "text": "小原川", "answer_start": 93, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ", "paragraphs": [ { "context": "カラヴァッジョは1571年にミラノで三人兄弟の長男として生まれた。父フェルモ・メリージは、ベルガモ近郊にあるカラヴァッジョ侯爵家の邸宅管理人かつ室内装飾担当で、母ルチア・アレトーリは、同地方の地主階級の娘だった。1576年にはペストで荒廃したミラノを離れ、一家でカラヴァッジョ村へと移住したが、その翌年の1577年には父フェルモが死去している。カラヴァッジョは幼年期をこの村で送ったと考えられており、カラヴァッジョとスフォルツァ家やコロンナ家といった当時の有力なイタリア貴族との関係はその後も続いていた。後年カラヴァッジョはスフォルツァ一族の娘と結婚し、このことがカラヴァッジョの後半生に大きな役割を果たすことになる。\n\nカラヴァッジョの母も1584年に死去し、この年からカラヴァッジョはティツィアーノの弟子だったという記録が残っているミラノの画家シモーネ・ペテルツァーノのもとで4年間徒弟として修行している。カラヴァッジョは徒弟の年季が終了した後もミラノ近辺に在住していたが、ヴェネツィアを訪れて、後年フェデリコ・ツッカリがカラヴァッジョの絵画はこの画家の作品を真似ただけだと非難したジョルジョーネやティツィアーノらの絵画を目にした可能性はある。カラヴァッジョはレオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』などミラノに保管されていた貴重な作品や、ロンバルディア地方の絵画に親しんでいった。硬直化し、大げさな表現に陥っていたローマ風のマニエリスム様式ではなく、飾り気なくありのままを表現するドイツの自然主義絵画様式に傾倒していった。", "qas": [ { "question": "カラヴァッジョの父の名前は何?", "id": "tr-259-00-000", "answers": [ { "text": "フェルモ・メリージ", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルチア・アレトーリは何年に亡くなったか。", "id": "tr-259-00-001", "answers": [ { "text": "1584年", "answer_start": 321, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "カラヴァッジョは1594年にジュゼッペ・チェーザリの工房から解雇され、独立した画家として生計を立てることを決意した。このころがカラヴァッジョの生涯でもっとも底辺にあった時期だが、画家プロスペロ・オルシ、建築家オノーリオ・ロンギ、当時まだ16歳だったシチリア出身の芸術家マリオ・ミンニーティら、カラヴァッジョにとって非常に重要な存在となる人々と友人になっている。オルシはすでに成功していた画家で、多くの影響力がある収集家をカラヴァッジョに引き合わせた。一方ロンギはカラヴァッジョに悪い影響を与えた人物で、喧騒に満ちたローマの裏の世界をカラヴァッジョに教えた。ミンニーティはカラヴァッジョのモデルをつとめ、数年後にシチリアでの重要な絵画制作に大きな役割を果たすことになった。\n\n『女占い師(TheFortuneTeller)』はカラヴァッジョの作品の中で最初に二人以上の人物が描かれた絵画で、モデルになっているのはミンニーティである。ミンニーティ扮する少年がジプシー娘に欺かれている様子が描かれており、このような題材の絵画はそれまでのローマでは見られず、この作品を嚆矢としてその後数世紀にわたって描かれるようになった題材である。しかしながら、この題材で描かれた絵画に人気が出たのは後年になってからのことで、カラヴァッジョ自身はただ同然の価格でしかこの作品を売却できなかった。", "qas": [ { "question": "カラヴァッジョは何年にジュゼッペ・チェーザリの工房から解雇されたか。", "id": "tr-259-01-000", "answers": [ { "text": "1594年", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カラヴァッジョの作品の中で初めて二人以上の人物が描かれた絵画は何ですか。", "id": "tr-259-01-001", "answers": [ { "text": "『女占い師(TheFortuneTeller)』", "answer_start": 337, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『女占い師(TheFortuneTeller)』は誰をモデルに描かれたか。", "id": "tr-259-01-002", "answers": [ { "text": "ミンニーティ", "answer_start": 405, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『トランプ詐欺師(TheCardsharps)』は、トランプ詐欺に引っかかる純朴な少年を描いた作品で、題材としては『女占い師』と同様のものである。しかしながら心理的描写はより優れており、カラヴァッジョの作品で最初の傑作とされている。『女占い師』と同じく後世になって人気が出た題材で、50点以上の模写が現存している。さらにこの作品を通じて、カラヴァッジョは当時のローマでもっとも優れた美術鑑定家の一人といわれていた枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテに認められ、後援を受けることに成功した。そして、デル・モンテと取巻きの裕福な美術愛好家たちに依頼され、多数の室内装飾用絵画を描いた。『音楽家たち(TheMusicians)』(メトロポリタン美術館所蔵、1595年-1596年)、『リュートを弾く若者(TheLutePlayer)』、『バッカス(Bacchus)』(ウフィツィ美術館所蔵、1595年ごろ)や、寓意に満ちているが写実的な『トカゲに噛まれた少年(BoyBittenbyaLizard)』(ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵、1593年-1594年とロベルト・ロンギ財団所蔵、1594年-1596年の2点のヴァージョンが現存)などである。これらの作品にモデルとなって描かれているのはミンニーティのほか、数人の青少年である。", "qas": [ { "question": "カラヴァッジョの作品で最初の傑作とされている作品は何ですか。", "id": "tr-259-02-000", "answers": [ { "text": "『トランプ詐欺師(TheCardsharps)』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カラヴァッジョが枢機卿フランチェスコ・マリア・デル・モンテに認められ、後援を受けることに成功したきっかけとなった作品は何ですか。", "id": "tr-259-02-001", "answers": [ { "text": "『トランプ詐欺師(TheCardsharps)』", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "カラヴァッジョが最初に描いた宗教画は写実的で、高い精神性をもったものだった。宗教を題材とした最初期の作品として『懺悔するマグダラのマリア(PenitentMagdalene)』(ドリア・パンフィリ美術館所蔵、1594年-1595年ごろ)があり、描かれているマグダラのマリアはそれまでの娼婦としての生活を悔やんで座り込み、あたりには虚飾を示す宝飾品が散乱している。「宗教的な絵画にはとても見えないかもしれない...濡れた髪の少女が低い椅子に座り込み...良心の呵責に苛まれ...救済を求めているのだろうか」\n\nこの作品はロンバルド風の絵画で、当時のローマ風の気取った作風ではないと考えられていた。同様の作風で描かれた宗教絵画に『聖カテリナ(SaintCatherine)』(ティッセン=ボルネミッサ美術館所蔵、1598年ごろ)、『聖マタイとマグダラのマリア(MarthaandMaryMagdalene)』(デトロイト美術館所蔵、1598年ごろ)、『ホロフェルネスの首を斬るユディト(JudithBeheadingHolofernes)』(ローマ国立古典絵画館所蔵、1598年-1599年)、『イサクの犠牲(SacrificeofIsaac)』(ピエセッカ・ジョンソン・コレクション所蔵、1598年ごろ)、『法悦の聖フランチェスコ(SaintFrancisofAssisiinEcstasy)』(ワーズワース美術館、1595年ごろ)、『エジプトへの逃避途上の休息(RestontheFlightintoEgypt)』(ドリア・パンフィリ美術館所蔵、1597年ごろ)などがある。これらの作品は広く公開されていたわけではなく、比較的限られた人にのみ目にする機会があったものだが、カラヴァッジョの名声は美術愛好家や友人の芸術家の間で高まっていった。しかし一般からの評価を決定付けるためには、教会の装飾絵画のように広く大衆が目にする作品が必要だった。", "qas": [ { "question": "『懺悔するマグダラのマリア(PenitentMagdalene)』は何を題材にして描かれたか。", "id": "tr-259-03-000", "answers": [ { "text": "宗教", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "カラヴァッジョは激動の生涯を送った。裏社会の住人たちの間でさえ喧嘩っ早いという悪評があり、カラバッジョの不品行が当時の警備記録や訴訟裁判記録に数ページにわたって記載されている。そしてカラヴァッジョは、1606年5月29日におそらく故意ではないとはいえ、ウンブリア州テルニ出身のラヌッチオ・トマゾーニという若者を殺害してしまう。それまでのカラヴァッジョの放埓な言動は、有力者に多くパトロンがいたことによって大目に見られていたが、このときはパトロンたちもカラヴァッジョを庇うことはなかった。殺人犯として指名手配されたカラヴァッジョはローマを逃げ出し、ローマの司法権が及ばないナポリで有力貴族コロンナ家の庇護を受けた。カラヴァッジョとコロンナ家との関係は『ロザリオの聖母(MadonnaoftheRosary)』(美術史美術館所蔵、1607年)など、主要な教会からの絵画制作依頼に大きく寄与している。", "qas": [ { "question": "ラヌッチオ・トマゾーニは誰に殺されるか。", "id": "tr-259-04-000", "answers": [ { "text": "カラヴァッジョ", "answer_start": 91, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カラヴァッジョは誰を殺したことから指名手配されるようになったか。", "id": "tr-259-04-001", "answers": [ { "text": "ラヌッチオ・トマゾーニ", "answer_start": 138, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "指名手配されたカラヴァッジョはどこへ逃げたか。", "id": "tr-259-04-002", "answers": [ { "text": "ナポリ", "answer_start": 285, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "現存しているカラヴァッジョの作品で、まず真作であろうと考えられているのは80点程度にすぎず、なかには時代を経てからカラヴァッジョの作品であると同定された、あるいはカラヴァッジョの作品らしいと見なされた作品も多い。『聖ペテロと聖アンデレの召命(TheCallingofSaintsPeterandAndrew)』は1637年にイギリス国王チャールズ1世が購入し、清教徒革命でフランスに売却されたものをさらに王政復古で戴冠したチャールズ2世が取り戻した絵画である。長くカラヴァッジョのオリジナル絵画の複製画と見なされ、ハンプトン・コート宮殿に所蔵されていたが、6年間にわたる修復と調査の結果、2006年にカラヴァッジョの真作であると認定された。", "qas": [ { "question": "現存しているカラヴァッジョの作品で、真作であろうと考えられているのは何点程度あるか。", "id": "tr-259-05-000", "answers": [ { "text": "80点", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『聖ペテロと聖アンデレの召命(TheCallingofSaintsPeterandAndrew)』を描いたのは誰?", "id": "tr-259-05-001", "answers": [ { "text": "カラヴァッジョ", "answer_start": 232, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ピッツバーグ", "paragraphs": [ { "context": "ピッツバーグは、アメリカ合衆国ペンシルベニア州南西部に位置する都市だ。アリゲニー台地上、アレゲニー川とモノンガヒラ川が合流し、オハイオ川の起点となっている地点を中心に広がっている。\n\nダウンタウンはその合流点近く、アレゲニー川とモノンガヘヒラ川に挟まれた地帯に広がり、ゴールデン・トライアングルと呼ばれている。市域人口は305,704人だ。アレゲニー郡を中心に7郡にまたがるピッツバーグ都市圏は2,356,285人の人口を抱えている。\n\nピッツバーグという地名は、フレンチ・インディアン戦争の際にこの地に建てられていたフランス軍のデュケイン砦に進攻し、フランス軍を撤退に追い込んだイギリス軍のジョン・フォーブズ将軍が、ウィリアム・ピット(大ピット)にちなんで1758年につけたものであった。アメリカ独立戦争中、フィラデルフィアよりも西へ届いた合法の郵便路線は、このピッツバーグを通るものだけであった。1794年に正式な町となり、1816年に市制を施行した。市旗・市章は市の発足までにペンシルベニア・ダッチが流入し影響力をもったことを示唆している。", "qas": [ { "question": "ピッツバーグはどの州に位置しているか。", "id": "tr-260-00-000", "answers": [ { "text": "ペンシルベニア州", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピッツバーグの市域人口は何人?", "id": "tr-260-00-001", "answers": [ { "text": "305,704人", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピッツバーグという名称は何年につけられたか。", "id": "tr-260-00-002", "answers": [ { "text": "1758年", "answer_start": 329, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ピッツバーグが正式な町となったのは何年のことですか。", "id": "tr-260-00-003", "answers": [ { "text": "1794年", "answer_start": 400, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1763年に勃発したポンティアック戦争の最中、ピット砦はオハイオ川流域や五大湖周辺のネイティブ・アメリカンの部族によって2ヶ月間にわたって包囲された。ヘンリー・ブーケット大佐はブッシーランの戦いでネイティブ・アメリカン軍を破り、ピット砦を開放した。1768年にはスタンウィックス砦条約が締結され、イロコイ連邦の領土がアメリカ合衆国に割譲され、現在のピッツバーグ市域のうち、ノース・サイドを除く地域がペンシルベニアに編入された。1784年には2度目のスタンウィックス砦条約が締結され、現在のノース・サイドを含む、オハイオ川以北の地域、およびアルゲイニー川流域もペンシルベニアに編入された。一方、この地は植民地時代から、バージニアとの間で州境線をめぐって係争になっていたが、1780年に両州の合意により、メイソン=ディクソン線を西方へ延長することで決着した。ピッツバーグは1785年にペンシルベニア州の所有となった。その後1794年にはピッツバーグが正式にペンシルベニア州の郡区となり、1816年には市に昇格した。", "qas": [ { "question": "ポンティアック戦争はいつ勃発したの?", "id": "tr-260-01-000", "answers": [ { "text": "1763年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スタンウィックス砦条約が締結されたのは何年のことですか。", "id": "tr-260-01-001", "answers": [ { "text": "1768年", "answer_start": 124, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピッツバーグは何年にペンシルベニア州の所有となったか。", "id": "tr-260-01-002", "answers": [ { "text": "1785年", "answer_start": 384, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピッツバーグが市に昇格したのは何年のことですか。", "id": "tr-260-01-003", "answers": [ { "text": "1816年", "answer_start": 441, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "南北戦争は鉄や軍用品の需要を生み、ピッツバーグの地域経済を潤した。1875年には、アンドリュー・カーネギーが近郊のノース・ブラドック町にエドガー・トムソン鉄工所を創設し、ピッツバーグ地域における鋼の生産が始まった。この鉄工所は後にカーネギー・スチール・カンパニー(CarnegieSteelCompany)となった。カーネギー・スチールはヘンリー・ベッセマーの発明した鋼の精錬法を導入することによって成長した。1901年、カーネギー・スチールはフェデラル・スチール・カンパニー、およびナショナル・スチール・カンパニーと統合され、USスチールが設立された。全米最大の鉄鋼会社となったUSスチールの本社はピッツバーグに置かれ、またジョーンズ・アンド・ロックリン・スチールなどもあり、鉄鋼業界におけるピッツバーグの地位を確立させた。1910年代には、全米で生産される鉄鋼の1/3から1/2がピッツバーグで生産されていた。\n\n産業の発展に伴って人口も急増した。1910年には、ピッツバーグは人口533,905人を抱え、ニューヨーク(4,766,883人)、シカゴ(2,185,283人)、フィラデルフィア(1,549,008人)、セントルイス(687,029人)、ボストン(670,585人)、クリーブランド(560,663人)、ボルチモア(558,485人)に次ぐ全米第8の都市に成長していた。50万人を超える住民の多くは、エリス島を通って移入してきたヨーロッパ人移民であった。", "qas": [ { "question": "1875年、アンドリュー・カーネギーはノース・ブラドック町に何を創設したの?", "id": "tr-260-02-000", "answers": [ { "text": "エドガー・トムソン鉄工所", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1901年、カーネギー・スチールはフェデラル・スチール・カンパニー、およびナショナル・スチール・カンパニーと統合され、何が設立されたか。", "id": "tr-260-02-001", "answers": [ { "text": "USスチール", "answer_start": 264, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1910年代、アメリカ全地域で生産される鉄鋼の1/3から1/2はどこで生産されていましたか。", "id": "tr-260-02-002", "answers": [ { "text": "ピッツバーグ", "answer_start": 392, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1910年を基準に、ピッツバーグ、ニューヨーク、シカゴのうち、人口が最も少ないのはどこ?", "id": "tr-260-02-003", "answers": [ { "text": "ピッツバーグ", "answer_start": 434, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ピッツバーグはケッペンの気候区分でこそ温暖湿潤気候(Cfa)に属するものの、大西洋沿岸のニューヨーク、フィラデルフィア、ボルチモアなどと比べると冬の寒さは厳しく、またエリー湖・オンタリオ湖南岸のクリーブランド、エリー、バッファロー、ロチェスターほどではないものの降雪も多く、実際には中西部の大部分に分布する大陸性の亜寒帯湿潤気候に近い気候である。最も暑い7月の平均気温は23°Cほどで、日中はときどき30°Cを超える。最も寒い1月の平均気温は氷点下2°Cで、夜は氷点下15°C以下に下がることもある。降水量は夏季の5-8月にかけて多く、月間90-110mm程度に達するが、その他の月はほぼ一定しており、月間60-80mm、年間970mm程度である。また、12月から3月にかけての月間降雪量は14-19cm、年間降雪量は75cm程度である。", "qas": [ { "question": "ピッツバーグはケッペンの気候区分ではどんな気候に属しますか。", "id": "tr-260-03-000", "answers": [ { "text": "温暖湿潤気候(Cfa)", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピッツバーグで最も暑いのは何月なの?", "id": "tr-260-03-001", "answers": [ { "text": "7月", "answer_start": 177, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ピッツバーグで最も寒いのは何月なの?", "id": "tr-260-03-002", "answers": [ { "text": "1月", "answer_start": 213, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ピッツバーグ市内には高さ150m以上の高層建築物が9棟建っており、そのうちの8棟はダウンタウンに集中している。USスチールの本社ビルとして1970年に建てられた64階建て、高さ256mのUSスチール・タワーは、ピッツバーグで最も高いビルである。1987年にフィラデルフィアにワン・リバティ・プレイスが完成するまでは、ピッツバーグのみならずペンシルベニア州で最も高いビルであった。このビルは、東京都新宿区の新宿住友ビルと同様、上から見ると角が削られた三角形をしている。このUSスチール・タワーに次いで高いのが54階建て、高さ221mのBNYメロン・センター(旧称ワン・メロン・センター)である。このビルには、メロン・フィナンシャルがバンク・オブ・ニューヨークと合併する前に本社を置いていた。BNYメロン・センターに次いで市で3番目に高いのが40階建て、高さ194mのワン・PPGプレイスである。PPGインダストリーズの本社ビルとして建てられたこのビルはガラスメーカーの本社ビルに相応しく、全面ガラス張りになっている。また、屋上の四隅には尖塔が設けられ、中世ヨーロッパの塔を思わせる外観になっている。\n\nこのほか、ダウンタウンに建つ高さ150m以上の高層建築物としては、フィフス・アベニュー・プレイス(31階建て、高さ188m)、ワン・オックスフォード・センター(45階建て、高さ187m)、ガルフ・ビルディング(44階建て、高さ177m)、525ウィリアム・ペン・プレース(旧称スリー・メロン・センター、41階建て、高さ158m)、ワン・オリバー・プラザ(旧称フリーマーケッツ・センター、39階建て、高さ156m)が挙げられる。\n\n残りの1棟はオークランド地区にキャンパスを置くピッツバーグ大学のメインの建物、学びの聖堂である。1926年に建設が始められ、1937年に完成したこの42階建て、高さ163mのゴシック・リバイバル建築様式の校舎は、大学の建築物としては全米で最も高く、世界でもモスクワ大学のメイン・ビルディングに次いで高いものである。学びの聖堂の内部には4階分の高さのコモンズ・ルームや、各国ごとのテーマに沿った教室が設けられている。この校舎は1975年に国家歴史登録材に指定された。", "qas": [ { "question": "USスチール・タワーは何階建てなの?", "id": "tr-260-04-000", "answers": [ { "text": "64階建て", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フィフス・アベニュー・プレイス、ワン・オックスフォード・センター、ガルフ・ビルディングのうち、一番高いのはどれ?", "id": "tr-260-04-001", "answers": [ { "text": "フィフス・アベニュー・プレイス(31階建て、高さ188m)", "answer_start": 533, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ピッツバーグ大学のメインの建物、学びの聖堂は何階建てなの?", "id": "tr-260-04-002", "answers": [ { "text": "42階建て", "answer_start": 789, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "学びの聖堂とモスクワ大学のメイン・ビルディングと、どっちの方が高いの?", "id": "tr-260-04-003", "answers": [ { "text": "モスクワ大学のメイン・ビルディング", "answer_start": 843, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ピッツバーグは1856年に最初の共和党全国大会が行われた地である。それ以来、1930年代までは、ピッツバーグでは共和党の勢力が圧倒的に強かった。しかし、1929年の世界恐慌とその後の全米的な不況の中で、ピッツバーグにおける共和党の勢力は急速に弱まった。1934年にウィリアム・N・マクネアが民主党系市長に当選してからは、ピッツバーグでは市長、市議会ともに民主党が優勢である。今日では、ピッツバーグの選挙登録における民主党対共和党の比は5:1になっている。\n\nピッツバーグ市政府の事務所はピッツバーグ市・アルゲイニー郡合同庁舎に置かれている。ピッツバーグは市長制を採っており、市議会は9人の議員からなっている。市長・市議員の任期はいずれも4年である。ピッツバーグの市議会議員選挙は小選挙区制で、市を9つの選挙区に分けて1名ずつを選出する方式となっている。\n\n2006年9月に当時の市長ボブ・オコンノーが死去した後、市議会議長であったルーク・レイブンストールがオコンノーの任期を完了させるため市長の任に就いた。レイブンストールは就任当時26歳で、ピッツバーグ市史上最年少の市長であった。その後、レイブンストールは2007年に行われた特別選挙、および2009年に行われた通常の市長選挙でも当選した。しかし、2013年の市長選挙には出馬せず、三度目の立候補となった民主党のビル・ペドゥートが市長に当選した。", "qas": [ { "question": "ピッツバーグ市史上最年少の市長は誰?", "id": "tr-260-05-000", "answers": [ { "text": "レイブンストール", "answer_start": 453, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "レイブンストールは何歳で市長に就任したの?", "id": "tr-260-05-001", "answers": [ { "text": "26歳", "answer_start": 466, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ピッツバーグ市内、および都市圏内には多くの大学がキャンパスを置いている。中でもとりわけ高い評価を受けており、全米のみならず世界的に知名度が高いのが、1900年にアンドリュー・カーネギーが設立したカーネギー技術学校と1913年にアンドリュー・メロンが設立したメロン工学研究所を前身とするカーネギーメロン大学である。この私立大学はUSニューズ&ワールド・レポートが毎年発行している全米の大学ランキングで常に上位25位以内に入る評価を受けている。同学はカーネギー技術学校時代からの伝統の工学をはじめ、コンピュータ科学、情報公共政策管理、経済学、および芸術の分野で特に高い評価を受けている。同学は学部生約6,000人、大学院生約5,000人を抱え、ダウンタウンの東約5km、教育機関、研究機関、文化施設の集中するピッツバーグの文教地区であるオークランド地区に約580,000m2のキャンパスを置いている。同学は2005年、アジアにおける情報セキュリティ教育研究拠点となることを目指して、兵庫県神戸市中央区に日本校を設立した。", "qas": [ { "question": "カーネギー技術学校は誰が設立した?", "id": "tr-260-06-000", "answers": [ { "text": "アンドリュー・カーネギー", "answer_start": 80, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "メロン工学研究所を設立した人は誰?", "id": "tr-260-06-001", "answers": [ { "text": "アンドリュー・メロン", "answer_start": 113, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カーネギー技術学校とメロン工学研究所とどっちが先に設立されたか。", "id": "tr-260-06-002", "answers": [ { "text": "カーネギー技術学校", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ピッツバーグ交響楽団はハインツ・ホールを、ピッツバーグ・オペラはベネダム・センターをそれぞれ本拠としている。ハインツ・ホールは、もとは1927年に建てられたロウズ・ペン・シアターという映画館であった。しかし1960年代に経営が悪化するとハインツの社長ヘンリー・J・ハインツ2世らが映画館とその敷地を買い取って改装し、1971年に演技芸術全般の公演を催す劇場として再生され、その劇場にハインツの名が冠せられた。一方、ベネダム・センターは、1928年にスタンレー・シアターという映画館として建てられ、1977年から1982年までロックのライブハウスとして使用された後、1987年に劇場として再生されたものである。ベネダム・センターは1986年に、「スタンレー・シアターおよびクラーク・ビルディング」として国家歴史登録財に指定された。ダウンタウンの文化地区に立地するこれらの劇場ではこのほか、リバー・シティ・ブラスバンドやピッツバーグ青少年交響楽団などの公演も行われている。", "qas": [ { "question": "ピッツバーグ交響楽団の本拠はどこ?", "id": "tr-260-07-000", "answers": [ { "text": "ハインツ・ホール", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロウズ・ペン・シアターという映画館は何年に建てられたか。", "id": "tr-260-07-001", "answers": [ { "text": "1927年", "answer_start": 67, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スタンレー・シアターという映画館は何年に建てられたか。", "id": "tr-260-07-002", "answers": [ { "text": "1928年", "answer_start": 218, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ベネダム・センターは何年に、「スタンレー・シアターおよびクラーク・ビルディング」として国家歴史登録財に指定されたか。", "id": "tr-260-07-003", "answers": [ { "text": "1986年", "answer_start": 314, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "鉄鋼王アンドリュー・カーネギーは美術館や博物館にもその財を投じた。オークランド地区に立地するカーネギー・インスティテュートは、カーネギー美術館、カーネギー自然史博物館、ピッツバーグ・カーネギー図書館本館、およびカーネギー音楽ホールが1つの施設の中に入った複合文化施設である。\n\n1895年に開館したカーネギー美術館は近現代美術作品のコレクションで知られている。加えて、同館は19世紀以降のアメリカ美術作品、フランスの印象派・ポスト印象派の作品、および17世紀後期以降のヨーロッパ・アメリカの装飾芸術作品も展示している。また、同館には建築や彫刻に特化した展示スペースも設けられている。1896年に開館したカーネギー自然史博物館は恐竜のコレクションで知られ、その量はワシントンD.C.の国立自然史博物館、ニューヨークのアメリカ自然史博物館に次ぐ全米第3のものである。", "qas": [ { "question": "カーネギー美術館の開館年度は?", "id": "tr-260-08-000", "answers": [ { "text": "1895年", "answer_start": 139, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カーネギー自然史博物館の開館年度は?", "id": "tr-260-08-001", "answers": [ { "text": "1896年", "answer_start": 291, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1991年に開館した、ノース・ショア地区に立地するカーネギー科学センターは、アメリカ合衆国海軍の潜水艦レクゥインなど、技術に特化した展示物を展示している。同じくノース・ショア地区に立地するアンディ・ウォーホル美術館はその名が示す通り、ピッツバーグが生んだポップアートの旗手、アンディ・ウォーホルの作品を展示している。同館は、1人の芸術家に特化した美術館としては全米最大のものである。\n\nアンドリュー・カーネギーが建てた、もしくはカーネギー・インスティテュートが設立に関与したカーネギー美術館、カーネギー自然史博物館、カーネギー科学センター、アンディ・ウォーホル美術館の4つの美術館・博物館は、まとめて「カーネギー・ミュージアムズ・オブ・ピッツバーグ」と呼ばれている。\n\nこれらの美術館・博物館のほかには、ピッツバーグ市内にはフリック芸術・歴史センター、ピッツバーグ芸術センター、マットレス・ファクトリーなどの美術館がある。ピッツバーグ芸術庭園は、造園技術に芸術性を持たせ、展示することを目的とした野外美術館である。ストリップ地区にはジョン・ハインツ上院議員ピッツバーグ地域歴史センターや西ペンシルベニア・スポーツ博物館が立地している。ダウンタウンの北東約10km、オハラ・タウンシップの丘の上には、ドイツの豪邸のような外観をしたバイエルンホフ音楽博物館が建っている。", "qas": [ { "question": "カーネギー科学センターはどの地区に位置しているか。", "id": "tr-260-09-000", "answers": [ { "text": "ノース・ショア地区", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カーネギー美術館、カーネギー自然史博物館、カーネギー科学センター、アンディ・ウォーホル美術館の4つの美術館・博物館をまとめて何と呼びますか。", "id": "tr-260-09-001", "answers": [ { "text": "「カーネギー・ミュージアムズ・オブ・ピッツバーグ」", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "パイレーツは1882年に創設され、アメリカン・アソシエーションの初期メンバーとして加わって以来存続しており、5度のワールドシリーズ優勝経験を持つ、長い伝統と実績を有するチームである。1887年にナショナル・リーグに移行し、1901年に初のリーグ優勝、また1909年には初のワールドシリーズ制覇を果たした。1970年代は特に強く、東地区で6度の地区優勝を果たし、そのうち1971年・1979年にはワールドシリーズでも優勝した。しかし1980年代に入るとチームは低迷し、1990年から1992年まで3年連続で地区優勝するもののいずれもリーグ優勝決定戦で敗れており、さらに1993年から2010年にかけては18年連続負け越しのメジャーリーグワースト記録を作るなど、ワールドチャンピオンはおろかリーグ優勝からも遠ざかっている。パイレーツは1970年から2000年までダウンタウンに建っていたスリー・リバース・スタジアムをスティーラーズと共用していたが、2001年以降は野球専用スタジアムとしてノース・ショア地区に建てられたPNCパークをホームとしている。", "qas": [ { "question": "パイレーツは何年に創設されたか。", "id": "tr-260-10-000", "answers": [ { "text": "1882年", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "パイレーツの初のリーグ優勝は何年にありましたか。", "id": "tr-260-10-001", "answers": [ { "text": "1901年", "answer_start": 111, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "スティーラーズは1933年に創設された、現存するNFLのチームの中では5番目に長い歴史を持つチームである。スティーラーズは1970年代にはTeamoftheDecadeと呼ばれ、黄金時代を謳歌した。その間、チームは1972年に地区優勝、さらに1974年から1979年までは6年連続で地区優勝し、そのうち1974年、1975年、1978年、1979年と4回のスーパーボウル制覇を果たした。1980年代には平凡なシーズンが多かったものの、1990年代から2000年代にかけてチームは上位に入ることが多くなり、2005年には5度目、さらに2008年にはNFL史上最多となる6度目のスーパーボウル制覇を果たした。また、スティーラーズはテリブルタオルと呼ばれる黄色いタオルを振り回すファンの応援スタイルでも知られている。スティーラーズは2001年にフットボール専用スタジアムとしてノース・ショア地区に建てられたハインツ・フィールドをホームとしている。", "qas": [ { "question": "現存するNFLのチームの中では5番目に長い歴史を持つチームは何ですか。", "id": "tr-260-11-000", "answers": [ { "text": "スティーラーズ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1970年代、スティーラーズは何と呼ばれていましたか。", "id": "tr-260-11-001", "answers": [ { "text": "TeamoftheDecade", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ペンギンズは1967年のNHLエクスパンションの際に創設された、いわゆるエクスパンション・シックスと呼ばれるチームのうちの1つである。1970年代、1980年代には下位に沈むシーズンが多かったが、1991年、1992年とスタンレー・カップ2連覇を果たし、2009年にもスタンレー・カップを制し、2016年、2017年にもスタンレー・カップ2連覇を果たした。ペンギンズはダウンタウンの東端に立地する、それまでのメロン・アリーナに代わる競技場として建設され、2010年に開場したコンソル・エナジー・センターを本拠地としている。", "qas": [ { "question": "ペンギンズは何年に創立されたの?", "id": "tr-260-12-000", "answers": [ { "text": "1967年", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "飯田市立図書館", "paragraphs": [ { "context": "飯田市立図書館(いいだしりつとしょかん)は、長野県飯田市が設置する公立図書館。\n飯田市立中央図書館を中央館とし、2つの地域館と16の分館から構成されている。\n飯田市立図書館を構成する各館は明治時代以来の長い歴史を持つ図書館が多く、特に中央図書館は貴重な郷土資料を多数保有している。\nまたWikipediaTownin飯田をはじめ多彩な市民参加型の集会文化事業を行い、ビジネス支援にも力を入れている。", "qas": [ { "question": "飯田市立図書館の地域館はいくつあるの?", "id": "tr-261-00-000", "answers": [ { "text": "2つ", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "飯田市立図書館が位置している県はどこ?", "id": "tr-261-00-001", "answers": [ { "text": "長野県", "answer_start": 22, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "飯田市立図書館は、飯田市立中央図書館を頂点とするピラミッド型の組織であり、第2層に地域館として鼎図書館と上郷図書館、第3層に分館が位置付けられる。\n図書館は飯田市教育委員会の中で課相当の組織として扱われており、中央図書館は情報サービス係とビジネス支援係を設置している。\n職制は中央図書館長、中央図書館長補佐、係長、鼎図書館長、上郷図書館長、正規職員、臨時職員、パートとなっている。\n中央図書館長の職は歴史上、専任の時と兼任の時があり、2018年(平成30年)現在の分館には分館長、分館主事、係員(パート)がいる。", "qas": [ { "question": "分館は第何層に位置付けられているの?", "id": "tr-261-01-000", "answers": [ { "text": "第3層", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1901年(明治34年)、飯田尋常高等小学校(現・飯田市立追手町小学校)内に設立された飯田文庫を起源とする。\n飯田文庫は信濃飯田藩主・堀氏の蔵書を購入し、文庫の蔵書の基礎とした。\nこの時購入した蔵書は1,330点7,882冊に及び、「堀家所蔵古書」(堀家蔵書)として2019年(平成31年/令和元年)現在も中央図書館が所蔵している。\n設立者は飯田町同窓会で、私立図書館であった。\nなお飯田文庫が置かれた飯田町を含む下伊那郡では、1907年(明治40年)までに10館(飯田文庫除く)の図書館が開館しており、そのうち千代文庫・麻績文庫は後に飯田市立中央図書館の分館となって現存する。\nまた飯田文庫と同じ年に飯田中学校校友会が長野県飯田中学校(現・長野県飯田高等学校)内に672冊を持つ校友図書館を開館した。", "qas": [ { "question": "飯田文庫が設立されたのはどこ?", "id": "tr-261-02-000", "answers": [ { "text": "飯田尋常高等小学校", "answer_start": 13, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "飯田文庫は堀氏から何冊の蔵書を購入したの?", "id": "tr-261-02-001", "answers": [ { "text": "7,882冊", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "校友図書館は何年に開館した?", "id": "tr-261-02-002", "answers": [ { "text": "1901年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "校友図書館の開館時の蔵書数は何冊でしたか?", "id": "tr-261-02-003", "answers": [ { "text": "672冊", "answer_start": 333, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1915年(大正4年)11月10日に飯田町へ移管され、町立飯田図書館となった。\n資料によってはこの時点を設立年としている。\n飯田町商工会が寄贈した約2,000冊の図書を基礎とし、大正天皇の即位礼御大典記念に設置された。\n飯田尋常高等小学校長が図書館の管理者となり、実務は学校職員が担った。", "qas": [ { "question": "飯田町商工会が町立飯田図書館に寄贈した本の数は何冊でしたか?", "id": "tr-261-03-000", "answers": [ { "text": "約2,000冊", "answer_start": 73, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大正天皇の即位礼御大典記念があったのは何年でしたか?", "id": "tr-261-03-001", "answers": [ { "text": "1915年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "一方この頃、1921年(大正10年)に下伊那郡青年会は郡立図書館設立運動を展開していた。\n郡立図書館計画は、下伊那郡青年会・下伊那郡教育会・在郷軍人会の三者共同企画であり、飯田町に木造平屋建320坪(≒1,058m2)の図書館を新築し、設立資金14万円と見積もり、当時としては画期的な開架式を採用した設計図を東京市立日比谷図書館(現・日比谷図書文化館)館長の今沢慈海に描いてもらっていた。\n郡内では大規模な募金活動が展開されたものの、養蚕不況で十分に募金が集まらず、郡青年会も社会運動に傾注するようになっていき、計画は立ち消えとなった。", "qas": [ { "question": "群立図書館の設立資金はいくらに見積もっていましたか?", "id": "tr-261-04-000", "answers": [ { "text": "14万円", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "群立図書館の設計図を描いたのは誰でしたか?", "id": "tr-261-04-001", "answers": [ { "text": "今沢慈海", "answer_start": 179, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1937年(昭和12年)、飯田町は上飯田町と新設合併して飯田市となり、市立飯田図書館に改称する。\n1938年(昭和13年)、図書館の東側に2階建ての書庫を新築し、「堀家所蔵古書」などの古書・貴重書を収納し、図書館本館には明治時代以降の活字図書を置くこととした。\n同年、図書館の運営成績が良好であるとして長野県知事から表彰を受ける。", "qas": [ { "question": "飯田市は飯田町とどこの町が合併した市ですか?", "id": "tr-261-05-000", "answers": [ { "text": "上飯田町", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "市立飯田図書館が長野県知事から表彰された年はいつでしたか?", "id": "tr-261-05-001", "answers": [ { "text": "1938年", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "第二次世界大戦後、市立飯田図書館には公民館が併設され、1948年(昭和23年)6月に増築された。\n飯田市公民館は1952年(昭和27年)に独立館が落成した。\n1955年(昭和30年)10月には第5回長野県図書館大会が飯田市で開かれ、亀井勝一郎の講演会や研究会が持たれた。\n同年12月に下伊那図書館協会(現・飯田下伊那図書館協会)結成大会が飯田図書館で開かれ、同会は飯田図書館を事務局とし、初代会長に飯田図書館長の池元威男が就任した。", "qas": [ { "question": "下伊那図書館協会の初代会長を務めた人は誰でしたか?", "id": "tr-261-06-000", "answers": [ { "text": "池元威男", "answer_start": 206, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1956年(昭和31年)9月30日には飯田市が座光寺村・松尾村・竜丘村・三穂村・伊賀良村・山本村・下久堅村と合併して、新・飯田市となったことに伴い、市立飯田図書館を本館、旧7村が設置していた公民館図書室を飯田図書館の分館とする複数館体制に移行した。\n公民館図書室から飯田図書館分室へと移行した旧7村では、職員の異動も発生し、図書室を拠点に活動していた女性の学習活動を動揺させた。\nその後、飯田市域の拡張に応じて分館を増やしていき、旧飯田町・上飯田町内でも分館・分室を整備していった。\nまた児童奉仕の重視が運営方針に掲げられ、1972年(昭和47年)7月に「飯伊子どもの本研究会」が飯田図書館と飯田下伊那の学校教師によって設立された。\n研究会員の一部は身近に本を借りられる環境を整えることが大事であると考え、独自の文庫を立ち上げ、最盛期の1979年(昭和54年)には飯田市内に20もの文庫が存在した。", "qas": [ { "question": "新・飯田市が誕生した年は?", "id": "tr-261-07-000", "answers": [ { "text": "1956年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1974年(昭和49年)2月27日に新館が竣工し、児童室・婦人文庫室・会議室を設けた。\n1978年(昭和53年)には「モデル分館事業」として一部の分館で児童向けに土曜日に特別貸出を開始した。\n本館は老朽化したため、1979年(昭和54年)10月28日に一旦閉館、1980年(昭和55年)3月18日に取り壊して改築工事に取り掛かり、1981年(昭和56年)5月15日に完成した。\n改築工事中、1980年(昭和55年)1月8日に飯田文化会館で仮開館を実施し、飯田市公民館図書室で土曜貸出を行っていた。\n1981年(昭和56年)7月3日、竣工式を挙行し、7月5日に新館が開館した。\n飯田図書館の歴史上、初めて図書館のために建設された建物であった。\n職員は7人となりほとんどが司書資格を有し、専任の館長も着任した。\n新事業として1983年(昭和58年)に保健課と連携し、7か月乳児相談の際に絵本の読み聞かせを開始し、1991年(平成3年)6月15日にヤングアダルトコーナーを設置した。\n乳児への読み聞かせは、全乳児の3分の2ほどが受けていた。\n1984年(昭和59年)12月1日、鼎町と合併したことにより、町立鼎図書館を飯田図書館鼎分館とした。", "qas": [ { "question": "新館の職員は何人でしたか?", "id": "tr-261-08-000", "answers": [ { "text": "7人", "answer_start": 324, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "新館がオープンしたのは1981年のいつですか?", "id": "tr-261-08-001", "answers": [ { "text": "7月5日", "answer_start": 274, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1993年(平成5年)7月1日、上郷町との合併に合わせて、市立飯田図書館を飯田市立中央図書館に改称、鼎分館を飯田市立鼎図書館に昇格させ、旧・町立上郷図書館を飯田市立上郷図書館に改称した。\n鼎分館以外の分館は変更なく、飯田市立中央図書館の分館とされた。\n1996年(平成8年)4月1日には分館の管理体制を改め、分館委員制度に替えて分館奉仕係制を導入した。\n1997年(平成9年)2月25日、NECのLiCS-Nを採用してコンピュータによる貸し出しを中央図書館・鼎図書館・上郷図書館で開始した。", "qas": [ { "question": "飯田市立中央図書館の改称前の名前は何?", "id": "tr-261-09-000", "answers": [ { "text": "市立飯田図書館", "answer_start": 29, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "飯田市立上郷図書館の改称前の名前は何?", "id": "tr-261-09-001", "answers": [ { "text": "旧・町立上郷図書館", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2005年(平成17年)10月1日、上村・南信濃村と合併したことにより上村分館と南信濃分館を開設し、現行の16分館体制が整った。\n2006年(平成18年)4月29日(みどりの日)より中央図書館の祝日開館を本格実施し、8月25日よりビジネス支援を開始した。\n2007年(平成19年)1月から試行していた夜間開館の取り組みは、同年9月に木曜日の開館時間を12時から20時にする「繰り下げ開館」を経て、2008年(平成20年)4月より木曜日10時から20時に固定した。", "qas": [ { "question": "2005年10月1日に南信濃分館と同時に開設した分館はどこですか?", "id": "tr-261-10-000", "answers": [ { "text": "上村分館", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2010年(平成22年)10月18日から11月30日まで耐震工事のため中央図書館を休館し、2011年(平成25年)3月に竣工した。\n同年7月1日にはコンピュータシステム更新と同時に南信州図書館ネットワークの運用が始まり、松川町図書館・高森町立図書館との間で相互利用が可能となった。\n2014年(平成26年)10月、16分館の蔵書データをインターネット公開した。\n2018年(平成30年)10月、中央図書館で根羽村産のスギを使った本箱を作る行事を開催し、これを使って好きな本を詰めて展示する「ひとはこ図書館」も開催した。", "qas": [ { "question": "中央図書館が2010年の秋に行った工事とは何?", "id": "tr-261-11-000", "answers": [ { "text": "耐震工事", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「ひとはこ図書館」の行事で、本箱を作るのに使用した樹木は何?", "id": "tr-261-11-001", "answers": [ { "text": "スギ", "answer_start": 208, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "飯田市立中央図書館(いいだしりつちゅうおうとしょかん)は、長野県飯田市追手町二丁目にある公立図書館。\n1901年(明治34年)に飯田町同窓会が飯田藩主堀氏の蔵書を基礎とする飯田文庫として創設し、1915年(大正4年)に公立化、1993年(平成5年)より中央図書館を名乗っている。\n地域館・分館の活動・連携拠点として位置付けられており、郷土資料の収集を重視する。\nまた、読書会、文学連続講座、ジョブカフェなど多彩な行事を月に数回開催している。", "qas": [ { "question": "飯田市立中央図書館の所在地はどこ?", "id": "tr-261-12-000", "answers": [ { "text": "長野県飯田市追手町二丁目", "answer_start": 29, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "飯田城跡にある図書館の建物は1981年(昭和56年)に竣工したもので、鉄筋コンクリート構造3階建、外壁は煉瓦造りで、切妻屋根である。\n1階と中2階に一般開架と児童開架、2階に郷土資料、3階に書庫を配置する。", "qas": [ { "question": "図書館の2階に配置している蔵書は何?", "id": "tr-261-13-000", "answers": [ { "text": "郷土資料", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "図書館の書庫は何階にありますか?", "id": "tr-261-13-001", "answers": [ { "text": "3階", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1959年(昭和34年)時点で児童室を設置するなど、中央図書館の児童サービスの歴史は長い。\n当時の児童室では岩波少年文庫などを所蔵していたが、日本の児童書刊行数そのものが少なく、絵本は特に少なかったという。\n読書会活動が盛んであった飯田市では、児童の読書熱も高く、小学校高学年が読むレベルの『ドリトル先生シリーズ』を中学年の児童が借りていくほどで、書架の本はほぼ貸し出され、ぼろぼろになった本だけが残っているという状態であった。", "qas": [ { "question": "『ドリトル先生シリーズ』の本来の対象学年は?", "id": "tr-261-14-000", "answers": [ { "text": "小学校高学年", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1981年(昭和56年)の改築に伴って、児童の貸出実績は改築前の2.5倍に跳ね上がったものの、1982年(昭和57年)を頂点に減少傾向が見られ、当時の図書館員は、少子化、ファミリーコンピュータの普及、塾通いの増加、新規入荷に占める複本の比率上昇、小中学校の読書教育の不振を理由に挙げた。\n児童担当職員はいるものの、基本的には全職員が児童奉仕に従事する体制で、読み聞かせやお楽しみ会なども全職員で担当した。", "qas": [ { "question": "児童の貸出実績のピークは何年でしたか?", "id": "tr-261-15-000", "answers": [ { "text": "1982年", "answer_start": 47, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ビジネス支援とは、市長・牧野光朗の肝いりの事業であり、2006年(平成18年)8月25日に開始した。\n実施に当たっては日本各地22館の先進図書館を参考とし、先進図書館の司書や飯田市役所の産業分野担当職員の指導・助言を得た。\n中央図書館では「ビジネス支援係」という専門の部署を置いているが、レファレンス専門職員は配置されておらず、全職員が複数の業務をこなす体制を採っている。\nこのため職員のレファレンス対応能力には格差がある。\n図書館職員だけでは対応できない専門事項に関しては、あらかじめ人材リストを作成しておき、専門機関・専門家の紹介をできるようにしている。", "qas": [ { "question": "ビジネス支援は誰による事業だったの?", "id": "tr-261-16-000", "answers": [ { "text": "牧野光朗", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "日本十進分類法の5類(技術、工学)は数千冊を用意し、細分類を示して利用者の便に供するほか、法律関係資料の収集にも重点的に取り組み、データベース「G-search」を導入して情報提供・レファレンス活動に活用している。\n特徴的なコーナーとして、経団連図書館で主任司書を務めた村橋勝子から寄贈された「社史コーナー」を設置する。\nこうして目に見える形で資料を整えることによって、図書館がビジネス支援に力を入れていることを示すとともに、ジョブカフェや社史活用講座を開くなどして課題解決を支援している。\n実際にこれらの蔵書を充実させることで、ビジネス目的の20-50代男性の利用が伸びたという。", "qas": [ { "question": "「社史コーナー」は誰から寄贈されたの?", "id": "tr-261-17-000", "answers": [ { "text": "村橋勝子", "answer_start": 135, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "歴史の長い中央図書館は数多くの貴重資料を保有し、2011年(平成23年)時点で約3万冊に上る。\nこれらの貴重書は原則、一般公開するものという位置付けである。\n特に「堀家所蔵古書」(堀家蔵書)は飯田文庫として開館して以来所蔵する貴重書群であり、中央図書館の蔵書の中心的な存在である。\n特に太宰春台と福住清風の著書を求めて来館する研究者が多い。\n堀家所蔵古書のうち、日本文学関係の資料はほとんどが『国書総目録』に収録されており、国文学研究資料館がマイクロフィルムで保管している。\n以下にそのコレクションの一覧を示す。", "qas": [ { "question": "2011年に中央図書館は何冊の蔵書を保有していたの?", "id": "tr-261-18-000", "answers": [ { "text": "約3万冊", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "飯田文庫の時代から所蔵されている蔵書の名称は何ですか?", "id": "tr-261-18-001", "answers": [ { "text": "「堀家所蔵古書」", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "飯田市立図書館は、地域図書館(地域館)として鼎図書館と上郷図書館を設置している。\n両館は同じ地域館に位置付けられているものの、2018年度の時点において建物や蔵書数、予算配分などの面では上郷図書館の方が規模が大きい。\n飯田市立鼎図書館(いいだしりつかなえとしょかん)は、長野県飯田市鼎中平にある公立図書館。\n1910年(明治43年)に青年会の運営する鼎文庫として開館し、1984年(昭和59年)に市立飯田図書館の分館化した後、1993年(平成5年)に地域館へ昇格した。", "qas": [ { "question": "飯田市立図書館と上郷図書館はどちらの方が規模が大きいですか?", "id": "tr-261-19-000", "answers": [ { "text": "上郷図書館", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "飯田市立鼎図書館の所在地はどこ?", "id": "tr-261-19-001", "answers": [ { "text": "長野県飯田市鼎中平", "answer_start": 135, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "飯田市立鼎図書館が地域館に昇格したのは何年?", "id": "tr-261-19-002", "answers": [ { "text": "1993年", "answer_start": 213, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1910年(明治43年)12月7日、青年会の管理運営する鼎文庫として開庫式を挙行した。\n私立図書館として長野県から許可が下りたのは1923年(大正12年)7月26日のことである。\n1950年(昭和25年)7月に公民館図書部となったが、1960年(昭和35年)1月に自治体警察の跡地へ移転して独立館を獲得、1963年(昭和38年)4月1日に司書が1人配置されて昼間開館が始まった。\nただし、この時点では図書館法に基づく図書館ではなく、依然として公民館図書部の扱いであった。", "qas": [ { "question": "鼎文庫の管理運営者は誰でしたか?", "id": "tr-261-20-000", "answers": [ { "text": "青年会", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鼎文庫が私立図書館として県から許可をもらったのは何年のこと?", "id": "tr-261-20-001", "answers": [ { "text": "1923年", "answer_start": 65, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1979年(昭和54年)9月20日に同じ場所で新館が竣工し、11月10日に町立鼎図書館が開館した。\n新館は平屋建てで、敷地面積1,118m2、床面積219m2で一般開架室・児童開架室・読書相談室などを備えていた。\n開館当初の蔵書数は13,740冊で、初年度の貸出冊数は約7千冊、利用登録者数は708人であった。", "qas": [ { "question": "新館の開館当時の蔵書数は何冊でしたか?", "id": "tr-261-21-000", "answers": [ { "text": "13,740冊", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "新館の開館初年度の貸出数は何冊だったの?", "id": "tr-261-21-001", "answers": [ { "text": "約7千冊", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "新館の開館初年度の利用登録者数は何人だったの?", "id": "tr-261-21-002", "answers": [ { "text": "708人", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1984年(昭和59年)12月1日、鼎町が飯田市と合併したことにより市立飯田図書館の鼎分館となるが、翌1985年(昭和60年)4月1日に職員を2人に増員し、土日にパートを雇用することで、他の分館の水準を超え飯田図書館並みのサービスを提供することになった。\n1993年(平成5年)7月1日、上郷町が飯田市と合併したことにより、鼎分館は上郷図書館と同格の地域館である飯田市立鼎図書館に変更された。\n1997年(平成9年)2月25日、中央図書館・上郷図書館と同時にコンピュータによる貸し出しを開始し、1999年(平成11年)12月21日に共生のまち推進事業によりバリアフリー化が行われた。", "qas": [ { "question": "鼎町はどこの市と合併したの?", "id": "tr-261-22-000", "answers": [ { "text": "飯田市", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "上郷町と鼎町はどちらが先に飯田市と合併したの?", "id": "tr-261-22-001", "answers": [ { "text": "鼎町", "answer_start": 18, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "鼎分館は何という名称に変わりましたか?", "id": "tr-261-22-002", "answers": [ { "text": "飯田市立鼎図書館", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "飯田市立鼎図書館がバリアフリー化したのは何年でしたか?", "id": "tr-261-22-003", "answers": [ { "text": "1999年", "answer_start": 247, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "飯田市立上郷図書館(いいだしりつかみさととしょかん)は、長野県飯田市上郷黒田にある公立図書館。\n1923年(大正12年)に上郷青年会の運営する私立図書館として創立し、第二次世界大戦後に下伊那郡の青年会運営図書館が次々と公民館図書部に吸収されていく中でも、青年会の運営のまま維持された。\nその後、児童書を重視した運営方針を取り、飯田市への合併後は飯田市立図書館の地域館として位置付けられた。", "qas": [ { "question": "飯田市立上郷図書館の所在地は?", "id": "tr-261-23-000", "answers": [ { "text": "長野県飯田市上郷黒田", "answer_start": 28, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "上郷図書館の創立年はいつでしたか?", "id": "tr-261-23-001", "answers": [ { "text": "1923年", "answer_start": 48, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "飯田市立図書館は16分館1分室を有し、飯田市街の中央図書館まで自動車で1時間離れた分館もある。\nすべての分館が中央図書館の分館で、各館の正式名称は「飯田市立中央図書館○○分館」である。\n過去には分館の下に分室がいくつか存在したが、現存するのは千代分館の千栄分室のみである。\n各館には公民館長の推薦で任命された分館長と公民館主事が兼務する分館主事がおり、計79人の分館職員(全員パートタイマー)が運営している。\nこのほか中央図書館の分館担当者が分館の巡回を行い、分館研修会などを通して中央図書館との連携・意識の共有を図っている。", "qas": [ { "question": "分館の職員数は合計何人ですか?", "id": "tr-261-24-000", "answers": [ { "text": "79人", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "密室殺人", "paragraphs": [ { "context": "密室殺人は、「偽造アリバイ」と並んで本格推理小説の代表的な題材である。特定の登場人物(犯人)による犯行が不可能であるように見せかけるのがアリバイトリックであるのに対して、登場人物のみならず作品世界の全人類に実行が不可能であるように見せかけるのが密室トリックである。この見せかける主体は第一に作者であるが、作品中に密室殺人を現出させるにおいては、「犯人の意図」「被害者を含む犯人以外の意図」「偶然の作用」の三つの経路があり、さらにこの三つはしばしば入り交じる。作者がダイレクトに読者に作用を及ぼす叙述トリックは、密室構成への適用はごく少ない。\n\n基本的に、アリバイトリックの場合は解決編で初めてトリックが使用されていたことが判明するのに対し、密室トリックの場合は、自殺や事故だと結論付けられる直前で主人公がトリックが使用されていたことを見破るなど序盤で読者にトリックの存在を明かす展開が多い。\n\n推理小説における「密室」とは、一見人の出入りが不可能な部屋を指す。「内側から施錠された部屋」が典型例である。密閉の厳重さは、人はおろか空気の流通さえない状況を提示して、謎を強調する作例がある。逆によりゆるやかな状況、出入りが可能でも足跡がないことなどにより犯行時には人の出入りはなかったと判断されたり、絶えず視線にさらされていたがため密室であったとみなされる作品もある。また球場、列車、都市など部屋よりもはるかに広い空間が閉鎖下にある場合や、崖や川など、自然の造形が隔絶に一役買っている空間が密室に見立てられることもある。また被害者ではなく容疑者や凶器などを密室に置いて、鉄壁のアリバイに等しい、限定された不可能というべき状況を提示した作品もある。", "qas": [ { "question": "本格推理小説の代表的な題材として密室殺人以外に何が挙げられていますか。", "id": "tr-262-00-000", "answers": [ { "text": "「偽造アリバイ」", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "自殺や事故だと結論付けられる直前で主人公がトリックが使用されていたことを見破るなど序盤で読者にトリックの存在を明かす展開が多いのはアリバイトリックの方ですか、密室トリックの方ですか。", "id": "tr-262-00-001", "answers": [ { "text": "密室トリック", "answer_start": 320, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "推理小説の元祖とされるエドガー・アラン・ポーの『モルグ街の殺人』以降、多くの作家の手によってヴァリエーションを増やし、部屋や閉鎖とは無縁な状況が次々考案されるに至り、「不可能犯罪」の概念が見出されることになった。サブジャンルとしての隆盛にはジョン・ディクスン・カーの貢献が大きい。日本でも江戸川乱歩から現代に至るまで消長はあっても一定の人気を得てきた。横溝正史は「一人二役」「顔のない死体」とともに推理小説の三大トリックとしている。\n\nカーが長編小説『三つの棺』の一章をレクチャーに割いて以降、トリックの分類自体が読み物として幾分の人気を得て、小説内の講義や独立の文章として何種類かが発表されている。またロバート・エイディーの\"LockedRoomMurdersandOtherImpossibleCrimes\"では、小説中の不可能犯罪の状況と解決の要約が2000篇以上まとめられている。", "qas": [ { "question": "推理小説の元祖とされる作家は誰なの?", "id": "tr-262-01-000", "answers": [ { "text": "エドガー・アラン・ポー", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "\"LockedRoomMurdersandOtherImpossibleCrimes\"の著者は誰か。", "id": "tr-262-01-001", "answers": [ { "text": "ロバート・エイディー", "answer_start": 302, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「一人二役」と「顔のない死体」を書いた人は誰か。", "id": "tr-262-01-002", "answers": [ { "text": "横溝正史", "answer_start": 176, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "推理小説の嚆矢たる密室小説『モルグ街の殺人』(1841)から半世紀が過ぎると、今に名を残す作品が現れ始める。アーサー・コナン・ドイルのシャーロック・ホームズ物の一編『まだらの紐』(1892)、最初の長編密室物といわれるイズレイル・ザングウィルの『ビッグ・ボウの殺人』(1891)である。ザングウィルの作品は、解決が抜け穴ではない最も初期の例である。捜査技術が発展し、不可能犯罪は現実では困難になっていったが、小説の世界では1890年代になってやっと展開が始まったわけである。\n\n1890年代から1920年代の「シャーロック・ホームズとそのライバルたち」の時代を代表する密室は、ガストン・ルルーの長編『黄色い部屋の秘密』であろう。短編では、G・K・チェスタトンのブラウン神父ものに『秘密の庭』『狂った形』『見えない男』『ムーン・クレサントの奇跡』『翼ある剣』他、オースティン・フリーマンの『アルミニウムの短剣』、メルヴィル・デイヴィスン・ポーストの『ズームドルフ事件』などがある。\n\n19世紀にはバルザック『赤い宿屋』、フィッツ=ジェイムズ・オブライエン『金剛石のレンズ』、やや後にはサキ『牝オオカミ』など、作者が推理小説やそのパロディを企図していない密室小説が存在する。", "qas": [ { "question": "『秘密の庭』、『狂った形』、『見えない男』、『黄色い部屋の秘密』のうち、短編ではないものを一つ選びなさい。", "id": "tr-262-02-000", "answers": [ { "text": "『黄色い部屋の秘密』", "answer_start": 299, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "ピアソン夫妻", "paragraphs": [ { "context": "ジョージ・ペック・ピアソンは、1861年にアメリカのニュージャージー州エリザベスで誕生した。エリザベスは教育水準が高い上に信仰に篤く、ジョージは家庭でも大学教授である祖父から学者の資質、牧師である父から指導者及び伝道者としての心を受け継いでおり、幼少時より熱心なキリスト教徒であった。\n\n中学時代を過ごしたニュージャージー州のピングリー中学校は、キリスト教教育において極めて水準の高い学校であった。後にジョージが宣教師の道へ進んだことは、この学校の影響が大きいと見られている。\n\n1882年にプリンストン大学を卒業後、教育に関心を抱き、モーリスタウンとエリザベスで教員を4年間勤めた。後に牧師への道を選択し、1885年にプリンストン神学校に入学した。\n\n神学校で学び始めた頃、後の人生を決定づける出来事があった。ドイツ人宣教師が日本語に翻訳した聖書を、父から譲り受けたのである。それは後の2000年代においても世界中にわずか16冊しかないといわれる、貴重な書物であった。ジョージは、仏教が主流のはずの日本のために聖書があることに感嘆し、その日本でのキリスト教布教を夢見るようになった。\n\n1888年に神学校を卒業した。父が牧師として勤めるエリザベスのウェストミンスター長老教会で洗礼を受け、牧師となった。母教会で按手礼を受け、同1888年、宣教師として日本へ渡ることが決定した。\n\nアメリカから日本へ渡るには船で1か月以上を要する時代であり、同1888年8月にジョージはアメリカを発った。このときの船上での想いを、晩年に次のように回想している。", "qas": [ { "question": "ジョージ・ペック・ピアソンが生まれた州はどこなの?", "id": "tr-263-00-000", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 21, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジョージ・ペック・ピアソンの祖父の職業は何だった?", "id": "tr-263-00-001", "answers": [ { "text": "大学教授", "answer_start": 76, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジョージ・ペック・ピアソンは中学時代、どの州で過ごしましたか。", "id": "tr-263-00-002", "answers": [ { "text": "ニュージャージー州", "answer_start": 153, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジョージ・ペック・ピアソはいつ神学校を卒業したの?", "id": "tr-263-00-003", "answers": [ { "text": "1888年", "answer_start": 494, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "横浜に到着からわずか10日後、ジョージは腸チフスを患い、高熱を発して生死の境をさまよった。約30日後に回復したジョージは、神による命の復活を感じ、生きていることの喜びを深く感謝した。このことでジョージは、残された命を日本人の幸福のために捧げようと、改めて誓ったともいわれる。\n\n同1888年より、明治学院中学校に英語の教員として勤めると共に、神学部で新約聖書釈義と教会暦学を教えた。その傍らで自身も日本語を学び、優れた語学力を身につけた。皇室の通訳に要請されるほどであったが、伝道のみが日本語習得の目的であったジョージは、その要請をきっぱりと断った。\n\nしかし1890年、ジョージは心ならずも同学院を退職した。理由は、明治学院がミッションスクール(キリスト教主義学校)であり、国家主義的色彩が強まる日本国内においてキリスト教が迫害され、その影響で生徒数が激減したことなどが挙げられている。\n\n同1890年より、千葉県の中学校に英語の教員として勤めた。その傍らで、東京伝道局に所属しながら千葉の農村を回り、人々に直接語りかけて伝道を行ない、盛岡にも足を伸ばした。この経験を通じてジョージは、知識人や中産階級の人々ではなく、一般庶民に伝道したいとの気持ちを抱くこととなった。この時期の書簡でジョージは「(まだキリスト教を知らない農民に伝道する)差し迫った必要性」などと、地方へ赴く重要さを説いていることからも、地方には抑圧や貧困などで救いを求める人々が多くいると感じていたことが窺い知れる。\n\nジョージは東北での伝道の中、多くの者が開拓のために北海道にわたっていることを知り、新たに拓かれる土地こそ信仰の必要な地と考えた。1892年に視察のために初めて北海道を訪れた。翌1893年に函館に転居し、各地の教会で伝道を援助した。1893年から1894年にかけて小樽に移り、小樽や札幌でも伝道活動を行なった。", "qas": [ { "question": "ジョージが横浜に到着してわずか10日後、高熱を発して生死の境をさまようようになった原因は何ですか。", "id": "tr-263-01-000", "answers": [ { "text": "腸チフス", "answer_start": 20, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ジョージが日本語を習得した最大の目的は何でしたか。", "id": "tr-263-01-001", "answers": [ { "text": "伝道", "answer_start": 238, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジョージが視察のために初めて北海道を訪れたのはいつなの?", "id": "tr-263-01-002", "answers": [ { "text": "1892年", "answer_start": 709, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "アイダ・ゲップは1862年にペンシルベニア州フィラデルフィアで誕生した。モラヴィア派の家庭の生まれであり、伝統的に教育と伝道に熱心な家であった。\n\nモラヴィア派は、厳しい信仰規律のもとに日常生活の中でキリスト教徒の交わりを実現しようとした教派であり、国外への伝道も熱心であったことから、この教派の教えが、信仰に対して強い信念を持つアイダの人格形成に影響したと見られている。\n\n幼少時はニューヨークの聖公会とメソジスト教会の日曜学校で過ごしており、この2つもまた後のアイダの堅い意志の形成の基礎となった。\n\n7歳のときに母を失い、伯母の住むドイツのシュトゥットガルトで高等学校まで過ごした。その後にアメリカに戻り、ニューヨーク市立大学ハンター校を卒業した。\n\n後に自分の進路に疑問を抱いた末に、宣教活動を選んだ。1890年に訪日した。女学校の教員を5年間勤めた。", "qas": [ { "question": "アイダ・ゲップは何歳のとき母を失ったの?", "id": "tr-263-02-000", "answers": [ { "text": "7歳", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アイダ・ゲップが卒業した大学は?", "id": "tr-263-02-001", "answers": [ { "text": "ニューヨーク市立大学ハンター校", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アイダ・ゲップは女学校の教員として何年間勤めたの?", "id": "tr-263-02-002", "answers": [ { "text": "5年間", "answer_start": 373, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ジョージとアイダは伝道中に知り合い、1895年6月12日、東京で結婚した。そして共に、伝道地である北海道へと旅立った。\n\n結婚後の夫妻は、ジョージの住み慣れた小樽に住み、札幌と小樽を活動の拠点とした。その後の2人は、小樽シオン教会の援助、小樽初の女学校といわれる静修女学校の設立に携わった。この学校は小樽だけでは生徒が不足していたため、夫妻は各地のキリスト教徒の家を1件1件訪ね、生徒募集のために奔走した。\n\nこの時期、ジョージは嵐の翌朝に、豊平川で浮浪者の小屋を建て直したこともあり、札幌中の評判となった。アイダはドイツの在住経験があることから、札幌農学校でドイツ語を教えたともいい、有島武郎もアイダからドイツ語を教わったともいわれる。\n\n後に札幌に移り、建設間もない北一条教会の援助、スミス女学校で英語と聖書を教えるなどの活動を行なった。また道内各地にも足を運び、各地のキリスト教徒を訪ね、開拓に苦心している教徒たちを援助した。後に廃娼運動で活動を共にする坂本直寛とは、この各地の活動の最中に親交を結んだ。\n\nそうした活動の最中、ジョージは各地を歩いていて、歩行を妨げる石、丸太、ガラスなどを見つけると、必ずそれらを取り除いていた。そんなジョージを見かけた人の数は多く、「変わったことをしている外国人がいる」と、かなりの噂に昇っていた。", "qas": [ { "question": "ジョージの妻は誰なの?", "id": "tr-263-03-000", "answers": [ { "text": "アイダ", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アイダからドイツ語を教わったのは有島武郎なの、坂本直寛なの?", "id": "tr-263-03-001", "answers": [ { "text": "アイダはドイツの在住経験があることから、札幌農学校でドイツ語を教えたともいい、有島武郎もアイダからドイツ語を教わったともいわれる。", "answer_start": 254, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アイダが札幌農学校で教えた言語は何?", "id": "tr-263-03-002", "answers": [ { "text": "ドイツ語", "answer_start": 280, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1902年、旭川では曙町の土地の悪さから、遊郭を旭川市の中島町へ移転する案が持ち上がった。遊郭の規模拡大、第7師団からの交通の便の利を図ることが理由であった。\n\nこれに対して町民たちは、風紀が乱れるとして猛反対したが、それにも拘らず遊郭移転は許可され、中島町の学校近くにも多くの妓楼が建設された。この反対運動は東京毎日新聞や東京日日新聞などで取り上げられ、特に東京毎日新聞はこの件を政府の失策と指摘した。こうして遊郭問題は、日本全国的に注目されるまでに発展した。\n\nアイダは先述の坂本直寛と共に旭川の教会と協力して反対運動に立ち、遊郭廃止の請願署名を得、上京して衆議院と貴族院に提出した。この請願は両院を通過したものの、実現することはなかった。アイダは憤慨し、北海道長官である河島醇に会談を申し込んだ。後のアイダの著書『日本、北海道、明治四一年』には、この会談の内容が以下の激しいやりとりとして述べられており、アイダは後にもこれを思い出すたびに怒っていたという。", "qas": [ { "question": "『日本、北海道、明治四一年』を書いた人は誰なの?", "id": "tr-263-04-000", "answers": [ { "text": "アイダ", "answer_start": 353, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "遊郭問題に対して反対運動が行われたとき、北海道長官は誰だったの?", "id": "tr-263-04-001", "answers": [ { "text": "河島醇", "answer_start": 338, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ピアソン夫妻は1913年に一時帰国しての休暇を挟んで、1914年、日本および北海道での最後の伝道の地として、さらに奥地の野付牛村(後の北見市)に転居した。夫妻は、1910年に野付牛を訪れた際にその自然の美しさに魅せられたこと、および鉄道の開通もあって発展性が注目されたこと、キリスト教徒を幹部とする高知県の移民団体である北光社がこの地を開拓していたことなどを理由として野付牛を選び、この地を道北一帯への伝道における基盤と考えたようである。また都会となりつつある旭川よりも、未開で自然の多い北見の方が伝道の意義があるとも考えたようで、夫妻は転居前に、その理由を本国宛ての手紙で「大きな町で働くよりは、田舎で働く方が適しており、よりよい働きができます」と述べている。\n\n夫妻は丘の上に住処を決め、木造の2階建の洋館を建設した。このとき地主は、外国人には正当な価値はわかるまいと、土地に時価10倍の値をつけたが、ジョージは掛け値というものも値切ることも知らず、人に騙されることはあっても騙すことは決してしない人物であったため、言われるがままの価格で土地を購入した。館を建てた後も、外国人を物珍しく見る住民たちの手で、植木が抜かれたり、ガス灯を割られたりと悪戯に遭った。しかし夫妻の熱心さの末に、住民たちは次第に心を開き、多くの人々が館を訪れた。\n\nこの地での夫妻は、北光社、学田、佐呂間の3つの教会の援助に最も力を注ぎ、廃娼運動、道東各地の伝道などで活動した。また遠方から野付牛中学校北斗高校に入学して通学の困難な学生のために、私費で学生寮「ピアソン寮」を建てて彼らを援助した。加えて、当時は日本人にとって難解かつ高価であった聖書を、日本人に親しんでもらおうと、独自の解釈による『略註旧新約聖書』の編纂を行なった。この聖書は人々に『ピアソン聖書』の名で人々に親しまれた。この功績により、母校のプリンストン大学から名誉神学博士号を与えられた。", "qas": [ { "question": "ピアソン夫妻が最後の伝道の地を選んだ時、旭川と北見とどちらの町の方がより発展していましたか。", "id": "tr-263-05-000", "answers": [ { "text": "旭川", "answer_start": 230, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ピアソン夫妻が最後の伝道の地を選んだ時、旭川と北見とどちらの町の方がより田舎に近かったの?", "id": "tr-263-05-001", "answers": [ { "text": "北見", "answer_start": 244, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "野付牛村でのピアソン夫妻が支援をした三つの教会は、北光社、学田、そして何がありますか。", "id": "tr-263-05-002", "answers": [ { "text": "佐呂間", "answer_start": 587, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ピアソン夫妻は住処を決めた土地を時価の何倍に当たる値段で購入しましたか。", "id": "tr-263-05-003", "answers": [ { "text": "10倍", "answer_start": 392, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "明治末期から大正期にかけての野付牛は、ニホンハッカの生産による好景気に沸き、飲食店が建ち並んでいた。その一方では多くの芸者や遊女が働かされており、公許遊郭設置の動きもあった。\n\n1916年4月23日に、野付牛を訪れた北海道長官へ町の有志から遊郭設置の陳情書が提出されるや、アイダは当地の女性たちと共に遊郭建設阻止に動きだすことを決心した。翌24日には弁護士に陳情書を書いてもらい、信者18名の賛成署名を得た。同年6月26日、アイダが中心となって野付牛婦人矯風会が設立された。アイダは会員たちと共に地元民たち300名以上の署名を得、長官と当時の内務大臣である後藤新平宛てに提出した。翌1917年には矯風会で、遊郭建設の防止、公娼全廃のための運動開始などの決議が為された。その後も後援会などで市民に向けての働きかけが行なわれた。逃亡してきた女性を夫妻が自宅にかくまい、教会員と結婚させたこともあった。\n\nこうした反対運動に際し、夫妻は業者からの暴力を頻繁に受けた。娼妓の女性がピアソン館に助けを求めに訪れ、ジョージが話を聞いていたところ、暗闇から突然殴りつけられ、ジョージがその場に倒れたことがあった。アイダもまた、料理屋で女性を救うために交渉しているところ、怒った店主に太い棒で殴られたことがあり、後も長期にわたって、その傷跡の痛みを訴えており、生涯にわたって傷跡が消えることは無かった。\n\n一方では酌婦の女性を、アイダが私財を投じて身代金を払って救出して親元に帰したものの、親が業主と結託して娘をまた売り払い、アイダを落胆させることもあった。暴力や裏切りと多くの困難に遭いながらも、夫妻は強い信仰のもとに救済活動を続けた。アイダの廃娼運動はこうして、旭川での挫折を経て、北見で成功に至った。戦前の北海道内の中核都市の内、遊郭が無いのは北見だけであった。", "qas": [ { "question": "明治末期から大正期にかけて野付牛の経済がよくなったのは何の生産のおかげだったの?", "id": "tr-263-06-000", "answers": [ { "text": "ニホンハッカ", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アイダが中心となって野付牛婦人矯風会が設立されたのは何年度のことなの?", "id": "tr-263-06-001", "answers": [ { "text": "1916年", "answer_start": 89, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1916年、内務大臣は誰だったの?", "id": "tr-263-06-002", "answers": [ { "text": "後藤新平", "answer_start": 278, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "戦前の北海道内の中核都市の内、遊郭が無い唯一の地域はどこだったの?", "id": "tr-263-06-003", "answers": [ { "text": "北見", "answer_start": 767, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1928年、ピアソン夫妻は帰国のために北見を発った。駅には大勢の人々が見送りに詰めかけ、讃美歌『また会う日まで』を合唱し、誰もが涙を流して別れを惜しんでいた。夫妻が15年間暮らした野付牛の開町30周年には、夫妻は開拓功労者としての表彰を受けた。\n\nアメリカへ帰国後の夫妻は、アイダの生地であるフィラデルフィアで過ごした。ジョージは研究を続け、辞典の編纂、伝道論、神学研究、自伝など、多くの著作を出版した。日本での伝道で多くの迫害や困難に遭ったにも関らず、夫妻の思い出は日本人たちとの楽しい思い出ばかりであった。後の夫婦の共著による『楽しかった日本の四十年』は、北海道での伝道を主とした書であり、苦しみよりも喜びや楽しさが多く語られている。\n\nアイダは晩年、肺炎による高熱に冒されて脳を病み、正常心を失い、生涯最期の1年はほとんど何もわからない状態であった。ジョージはそんな妻を最後までいたわり、看護した。\n\n1937年3月13日、アイダがジョージに看取られながら、満75歳で死去した。その2年後の1939年7月31日、ジョージはアイダを追うように、糖尿病により満78歳で死去した。", "qas": [ { "question": "ジョージとアイダと、先に死んだのは誰でしたか。", "id": "tr-263-07-000", "answers": [ { "text": "アイダ", "answer_start": 415, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ジョーンとアイダ夫婦は野付牛の開町に何年間住んだの?", "id": "tr-263-07-001", "answers": [ { "text": "15年間", "answer_start": 82, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ピアソン夫妻が帰国のために北見を去る時、大勢の人々がピアソン夫妻のために歌った歌は何でしたか。", "id": "tr-263-07-002", "answers": [ { "text": "『また会う日まで』", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アイダはジョージより何年先に死亡しましたか。", "id": "tr-263-07-003", "answers": [ { "text": "2年", "answer_start": 444, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ピアソン夫妻が北見の私邸として建築した館は、伝道局から北見市役所、さらに北海道庁へとわたって児童相談所として用いられ、次第に激しく劣化した。が、1970年に復元され、ピアソン記念館として、北見市の観光名所の一つとなっている。建物に沿って伸びるポプラ並木の通りはピアソン通りと呼ばれるが、平成期以降のこの地は住宅が立ち並び、ピアソン夫妻在住時の面影は薄れている。\n\n1969年、ピアソン夫妻が縁となり、ジョージの故郷であるエリザベス市と北見市との姉妹都市提携が行われた。提携以来、相互に使節団を派遣しあい、交流を深めている。\n\n1998年9月、ピアソン夫妻の功績を語り継ぐための団体「ピアソン会」が発足した。", "qas": [ { "question": "ピアソン夫妻が北見の私邸として建築した館が復元されたのはいつですか。", "id": "tr-263-08-000", "answers": [ { "text": "1970年", "answer_start": 72, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ピアソン夫妻の功績を語り継ぐための団体「ピアソン会」が設立されたのはいつなの?", "id": "tr-263-08-001", "answers": [ { "text": "1998年", "answer_start": 263, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ローレン・バコール", "paragraphs": [ { "context": "バコールは1924年9月16日にニューヨークのブロンクスで生まれ、ベティ・ジョーン・パースクと名付けられた。父親のウィリアム・パーセクは販売員で、母親のナタリーは事務員だった。ナタリーの姓はウェインステイン=バコールで、後に正式にバコールに改姓している。両親ともにユダヤ人で、バコールの自叙伝によると、母親はルーマニア王国出身でエリス島を経由して移民した人物で、ロシア帝国ヴィスワランド出身の父親との間にニュージャージーで生まれたとなっている。\n\nバコールが生まれて間もなく、一家はブルックリンのオーシャン・パークウェイへと引っ越している。バコールは裕福な親戚たちからの援助で、篤志家ユージーン・ハイトラー・レーマンが設立した私立学校であるタリタウンのハイランド・マナー・全寮制女子高と、マンハッタンのジュリー・リッチマン高校で教育を受けた。また、第九代イスラエル大統領シモン・ペレスは父方の親戚にあたる。ただしペレスは「私は1952年か1953年にニューヨークを訪れた。ローレン・バコールが私を招待してくれたからだった。私たちはお互いの家族の出身について話し、同じ一族の出であることが分かった。ただしどの程度の血縁関係にあるのかはよく分からない。我々が従兄妹だと言ったのは彼女であって、私ではない」と語っている。バコールが5歳のときに両親が離婚し、後にバコールは母親のルーマニア由来の姓である「バコール」を名乗るようになった。両親の離婚以降、バコールは父親には一度も会っておらず、母親と緊密な関係を築いていった。母親のナタリーは、バコールが映画スターになった後でリー・ゴールドバーグと再婚し、カリフォルニアへと移住している。", "qas": [ { "question": "バコールの生まれたときの名前は何ですか。", "id": "tr-264-00-000", "answers": [ { "text": "ベティ・ジョーン・パースク", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バコールの自叙伝によると、彼女の母親はどの国出身ですか。", "id": "tr-264-00-001", "answers": [ { "text": "ルーマニア王国", "answer_start": 154, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バコールが生まれて間もなく、一家はブルックリンのどこへ引っ越したか。", "id": "tr-264-00-002", "answers": [ { "text": "オーシャン・パークウェイ", "answer_start": 248, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バコールが何歳のときに彼女の両親が離婚したか。", "id": "tr-264-00-003", "answers": [ { "text": "5歳", "answer_start": 562, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "バコールは1941年からアメリカン・アカデミー・オブ・ドラマティック・アーツで演劇の勉強を始めた。このときの同級生にカーク・ダグラスがいる。この時期のバコールは、セント・ジェームズ・シアターで案内係として働いていたほか、ファッション・モデルとして芸能活動も始めていた。\n\nブロードウェイで初舞台を踏んだのはバコールが17歳の1942年で、『Johnny2X4』の通行人役だった。当時のバコールはグリニッジ・ヴィレッジのバンク・ストリートに母親と暮らしており、1942年に開催されたミスコンのミス・グリニッジ・ヴィレッジで優勝している。\n\nバコールは10歳代でファッション雑誌「ハーパーズバザー」の表紙を飾ったほか、「ヴォーグ」などでもモデルをつとめている。「猫のような優美さ、黄褐色の髪、蒼碧の瞳」で有名なモデルだった。", "qas": [ { "question": "1942年に、バコールは何歳でしたか。", "id": "tr-264-01-000", "answers": [ { "text": "17歳", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バコールがミス・グリニッジ・ヴィレッジで優勝したのは何年のことですか。", "id": "tr-264-01-001", "answers": [ { "text": "1942年", "answer_start": 229, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "当初の脚本では『脱出』でバコールが演じたマリー・ブロウニングはもっと小さな役どころだったが、撮影が進むにつれてどんどん重要な役どころとなり、最終的にはヒロイン格となっていった。『脱出』の公開後、バコールは一躍スターダムに登りつめ、『脱出』での演技がその後のバコールのイメージに重要な役割を果たすこととなった。バコールは大衆文化だけでなく、他の有名な映画スターたちと同様にファッションにも大きな影響を与える存在となっていったのである。バコールが演じたスリム役は、ホークス的女性像の典型例と言われている。", "qas": [ { "question": "『脱出』でバコールが演じた役は何ですか。", "id": "tr-264-02-000", "answers": [ { "text": "マリー・ブロウニング", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1951年から1952年にかけて、バコールはボガートとラジオ配信のアクション・アドベンチャードラマ『カリプソ野郎』で共演している。1953年にはコメディ映画『百万長者と結婚する方法』に出演し、評論家たちから高く評価され、興行的にも大きな成功を収めた。『百万長者と結婚する方法』はジーン・ネグレスコ監督作品で、マリリン・モンローやベティ・グレイブルが共演している。バコールは百万長者との結婚を目論む才気煥発な女性シャッツィ・ペイジ役を演じ、好評を博した。「ニューヨーク・ワールド=テレグラム・アンド・サン」紙のアルトン・クックは「陽気さに満ちた作品に仕上げたのは、第一にバコールの功績といえる」とし、「三人の主演女優のなかでもっとも知的で積極的だった。その狡猾かつ才気煥発、辛辣なまでの演技力で、あらゆるシーンを完全に支配していた」と評している。", "qas": [ { "question": "『百万長者と結婚する方法』の監督は誰?", "id": "tr-264-03-000", "answers": [ { "text": "ジーン・ネグレスコ", "answer_start": 139, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『百万長者と結婚する方法』でバコールが演じた役は何?", "id": "tr-264-03-001", "answers": [ { "text": "シャッツィ・ペイジ", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "当時のバコールは20世紀フォックスと出演契約を結んでおり、『百万長者と結婚する方法』に続いて20世紀フォックスが配給するコメディ映画『ニューヨークの女達』(1954年)に出演した。監督も前作と同じくジーン・ネグレスコだったが、『百万長者と結婚する方法』ほどには興行成績は伸びなかった。\n\n1955年に、ボガートの出世作となった映画『化石の森』(1936年)が、テレビの生放送番組「プロデューサーズ・ショウケース」でドラマ化された。ボガートは映画版と同じデューク・マンティ役で、新たにヘンリー・フォンダがアラン役を、そしてバコールは映画版ではベティ・デイヴィスがつとめたガブリエル役を演じた。『化石の森』はもともとブロードウェイで上演されていた舞台作品で、映画化する際にワーナー・ブラザースは舞台版でボガートが演じていたデューク・マンティ役をエドワード・G・ロビンソンに変更するつもりだった。しかしながら、舞台版に引き続いて映画版でも主役のアラン役が決まっていたレスリー・ハワードが、映画版でもデューク・マンティ役はボガートが演じるべきだと主張したという経緯があった。このことに感謝して、ボガートとバコールの間に生まれた娘はレスリー・ハワード・ボガートと名付けられている。", "qas": [ { "question": "コメディ映画『ニューヨークの女達』の監督は誰?", "id": "tr-264-04-000", "answers": [ { "text": "ジーン・ネグレスコ", "answer_start": 99, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『百万長者と結婚する方法』と『ニューヨークの女達』と、興行成績がもっとよかったのはどっち?", "id": "tr-264-04-001", "answers": [ { "text": "『百万長者と結婚する方法』", "answer_start": 113, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1955年にバコールは『蜘蛛の巣』と『中共脱出』に出演した。ヴィンセント・ミネリ監督の精神病院を舞台とした『蜘蛛の巣』で、バコールはセラピストのメグ役を演じた。シャルル・ボワイエとの2本目の共演作であり、ほかにリチャード・ウィドマークやリリアン・ギッシュらも出演している。「ニューヨーク・タイムズ」は『蜘蛛の巣』について「心から共感できる登場人物はたった二人だけだ。ウィドマークは素晴らしく、バコールは抑制された抜け目のない演技を見せた」と評している。\n\n多くの映画評論家が、1956年に公開されたダグラス・サーク監督作品『風と共に散る』をメロドラマ映画の転機となった作品だと評価している。ロック・ハドソン、ドロシー・マローン、ロバート・スタックらと共演したこの作品で、バコールは石油業界の有力一族に翻弄されるキャリア・ウーマンのルーシー役を演じた。バコールはその自伝で、あまり深く考えないで演じた役だったが、思いのほか好評だったと記している。「バラエティ」誌は「バコールは、狂気に満ちた石油一族に巻き込まれていく聡明な女性を強く印象付けた」としている。", "qas": [ { "question": "1955年にバコールが出演した作品には『蜘蛛の巣』以外に何がありますか。", "id": "tr-264-05-000", "answers": [ { "text": "『中共脱出』", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『蜘蛛の巣』でバコールが演じた役は?", "id": "tr-264-05-001", "answers": [ { "text": "メグ", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『蜘蛛の巣』の監督は誰?", "id": "tr-264-05-002", "answers": [ { "text": "ヴィンセント・ミネリ", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『風と共に散る』でバコールが演じた役は?", "id": "tr-264-05-003", "answers": [ { "text": "ルーシー", "answer_start": 365, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "私生活では夫ハンフリー・ボガートの食道がんとの闘病生活に追われていたバコールだったが、1957年に公開されたグレゴリー・ペックとの共演作『バラの肌着』に出演して高評価を得た。『バラの肌着』はミュージカル・コメディで、ヴィンセント・ミネリ監督作品としては2作目になる。ニューヨークで公開されたのは1957年5月16日で、ボガートが死去した1月14日から四カ月後のことだった。\n\nバコールが1950年代に出演した映画はあと2作品ある。ジーン・ネグレスコ監督のメロドラマ作品『愛の贈物』ではロバート・スタックと共演し、J・リー・トンプソン監督のアドベンチャー作品『北西戦線』ではケネス・モアと共演して、優れた興行成績を収めた。", "qas": [ { "question": "『愛の贈物』の監督は誰ですか。", "id": "tr-264-06-000", "answers": [ { "text": "ジーン・ネグレスコ", "answer_start": 215, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『北西戦線』の監督は誰ですか。", "id": "tr-264-06-001", "answers": [ { "text": "J・リー・トンプソン", "answer_start": 256, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "バコールの映画女優としての活動は1960年代に徐々に低迷し、出演作品も激減していった。その一方でバコールはブロードウェイの舞台に出演し、『グッドバイ、チャーリー』(1959年)への出演を始め、舞台女優としてのキャリアを積んでいった。この時期のバコールは、『サボテンの花(en:CactusFlower(play))』(1965年)、『アプローズ(en:Applause(musical))』(1970年)、『女性No.1(en:WomanoftheYear(musical))』(1981年)などの舞台作品に出演し、『アプローズ』と『女性No.1』ではトニー賞を受賞している。\n\n『アプローズ』はミュージカル映画『イヴの総て』(1950年)の舞台版であり、舞台でバコールが演じたマーゴ・チャニング役は、映画版ではベティ・デイヴィスが演じていた。バコールの自伝には、バコールが尊敬していたベティ・デイヴィスに、1940年にホテルで出会う機会を得たことが記されている。これから数十年後にデイヴィスがバコールの楽屋を訪れ「貴女以外にこの役を演じられる女優はいない」と、『アプローズ』でのバコールの演技を称賛したといわれている。", "qas": [ { "question": "バコールは『アプローズ』と『女性No.1』でどの賞を受賞したか。", "id": "tr-264-07-000", "answers": [ { "text": "トニー賞", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『アプローズ』でバコールが演じた役は何?", "id": "tr-264-07-001", "answers": [ { "text": "マーゴ・チャニング", "answer_start": 339, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1945年5月21日に、バコールは俳優のハンフリー・ボガートと結婚した。2人の結婚式と新婚旅行に選ばれたのは、オハイオ州マラバーのファーム州立公園にあった、ボガートの親友でピューリッツァー賞受賞作家ルイス・ブロムフィールドのカントリー・ホームだった。二人の結婚式は大邸宅を式場にして挙行されている。\n\n結婚当時のバコールは20歳、ボガートは45歳で、年齢が離れていたこともあってボガートはバコールを「ベイビー」という愛称で呼んでいた。2人の結婚生活は、1957年にボガートが食道がんで死去するまで続いた。ボガートの死後、ジャーナリストのマイケル・パーキンソンから、ボガートとの結婚生活のことを訊かれたバコールは「未亡人でいることには慣れていない」と応えている。ボガートが出演する『アフリカの女王』(1951年)の撮影中に、バコールとボガートは共演者のキャサリン・ヘプバーンと、当時ヘプバーンと交際していたスペンサー・トレイシーと親しくなった。バコールは役者仲間以外にも交友関係を広げるようになり、歴史家のアーサー・シュレジンジャー、ジャーナリストのアリステア・クックたちと友人となった。1952年にバコールは民主党の合衆国大統領候補アドレー・スティーブンソンの応援演説を行っている。また、多くのハリウッド関係者と同様に、マッカーシズムには断固反対する立場をとっていた。", "qas": [ { "question": "バコールとハンフリー・ボガートはいつ結婚したの?", "id": "tr-264-08-000", "answers": [ { "text": "1945年5月21日に", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バコールの方が年上なの、ボガートの方が年上なの?", "id": "tr-264-08-001", "answers": [ { "text": "ボガート", "answer_start": 165, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ボガートの死亡原因は何?", "id": "tr-264-08-002", "answers": [ { "text": "食道がん", "answer_start": 237, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その後、バコールは俳優ジェイソン・ロバーズと出会い、1961年6月にウィーンで結婚式を挙げる計画を立てた。しかしながら、この計画はオーストリア当局が結婚許可証を発行することを拒んだことから延期されている。さらにネヴァダ州ラスヴェガスでの結婚式も拒否されてしまっている。最終的に2人はメキシコのエンセナーダまで遠路車を走らせて、当地で結婚式を挙げた。バコールとロバーズは1969年に離婚した。バコールの自叙伝には、2人の離婚の最も大きな原因がロバーズのアルコール依存症だったことが記されている。バコールはボガートの間に一男一女、ロバーズとの間に一男をもうけた。1949年1月6日にボガートとの間に生まれた息子は、ボガートが『脱出』で演じたハリー・“スティーヴ”・モーガン役にちなんで、スティーヴ・ハンフリー・ボガートと名付けられ、長じてニュース・プロデューサー、ドキュメンタリー制作、作家になっている。", "qas": [ { "question": "バコールとロバーズは何年に離婚したか。", "id": "tr-264-09-000", "answers": [ { "text": "1969年", "answer_start": 184, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バコールの自叙伝によると、ロバーズとの離婚の原因は何でしたか。", "id": "tr-264-09-001", "answers": [ { "text": "ロバーズのアルコール依存症", "answer_start": 220, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "バコールは2014年8月12日に、長年住んでいたマンハッタンのアッパー・ウエスト・サイドにある、セントラル・パークを一望できるダコタ・ハウスで死去した。死去時のバコールは89歳で、90歳の誕生日を迎える5週間前のことだった。バコールの孫にあたるジェイミー・ボガートは、バコールの死因が重度の脳卒中だったとしている。バコールの死はニューヨークのプレズビテリアン病院で確認された。バコールの遺体は、カリフォルニア州グランデールのフォレスト・ローン・メモリアル・パークに埋葬された。バコールの遺産はおよそ2660万ドルで、遺言により1万ドルが末子のサム・ロバーズに、バコールが飼っていた犬のソフィーの面倒を見ることという名目で遺贈されている。また、使用人だったイルザ・ヘルナンデスとマリア・サントスにも、それぞれ15,000ドル、20,000ドルを遺贈した。バコールの最年少の孫にあたるサム・ロバーズの二人の息子には、大学の学費として25万ドルずつ贈られた。そして残る遺産の大部分は、バコールの子供であるレスリー・ボガート、スティーブン・ハンフリー・ボガート、サム・ロバーズが分割相続している。バコールの遺産の中には、ジョン・ジェームズ・オーデュボン、マックス・エルンスト、デイヴィッド・ホックニー、ヘンリー・ムーア、ジム・ダインらの芸術作品も含まれていた。", "qas": [ { "question": "バコールは何年まで生きたか。", "id": "tr-264-10-000", "answers": [ { "text": "2014年", "answer_start": 5, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "バコールは何歳に亡くなりましたか。", "id": "tr-264-10-001", "answers": [ { "text": "89歳", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "美幾", "paragraphs": [ { "context": "美幾(みき、1836年-1869年8月12日)は、江戸時代末期-明治時代初期の遊女である。\n梅毒の治療中に重体に陥り、医師から解剖のための遺体提供を依頼されて承諾したと伝えられ、日本で最初の献体者(篤志解剖)とされる。\n美幾とその生涯については、渡辺淳一の小説『白き旅立ち』、吉村昭の小説『梅の刺青』などが題材に取り上げている。", "qas": [ { "question": "日本で最初の献体者は誰?", "id": "tr-265-00-000", "answers": [ { "text": "美幾", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "美幾の職業は何だったの?", "id": "tr-265-00-001", "answers": [ { "text": "遊女", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "美幾が重症に陥った病気とは何?", "id": "tr-265-00-002", "answers": [ { "text": "梅毒", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "美幾が生まれた時代区分とは?", "id": "tr-265-00-003", "answers": [ { "text": "江戸時代末期", "answer_start": 25, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1836年(天保7年)生まれ。\n駒込追分(現在の東京都文京区向丘、中山道と日光御成街道の分岐点にあたる)の住人彦四郎の娘といい、名については「美幾女(みきじょ)」、または「ミキ」、「みき」などとも表記される。\n10歳のころから本郷の旧家へ奉公に出ていたが、父が負傷して働けなくなったため遊女になったと伝えられる。", "qas": [ { "question": "美幾は何年生まれ?", "id": "tr-265-01-000", "answers": [ { "text": "1836年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "美幾の父親の名は?", "id": "tr-265-01-001", "answers": [ { "text": "彦四郎", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "美幾が生まれた地域はどこだった?", "id": "tr-265-01-002", "answers": [ { "text": "駒込追分", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "美幾は何歳のころから奉公に出ましたか?", "id": "tr-265-01-003", "answers": [ { "text": "10歳", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "遊廓での勤めを続けるうちに、美幾は梅毒に罹患した。\nその治療のため、医学校(東京大学医学部の前身)の附属病院として設置されていた黴毒院(ばいどくいん)に入院した。\n美幾の病は重く、治療に当たっていた医師からの解剖のための遺体提供を求められた。\n美幾は自らの死期が近いことを悟り、その求めに応じた。\n父母と兄が連署の上、美幾の遺言を東京府に届け出た。\n届け出は認容されたが、許可書には「厚ク相弔イ遣ルベキコト」との条件が付加されていた。", "qas": [ { "question": "美幾は遊郭で何にかかりましたか?", "id": "tr-265-02-000", "answers": [ { "text": "梅毒", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "美幾が入院した施設の名は?", "id": "tr-265-02-001", "answers": [ { "text": "黴毒院", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "美幾の遺言はどこに届け出されましたか?", "id": "tr-265-02-002", "answers": [ { "text": "東京府", "answer_start": 165, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "医学校は後に何になりましたか?", "id": "tr-265-02-003", "answers": [ { "text": "東京大学医学部", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "美幾は1869年(明治2年)8月12日、34歳で死去した。\n翌日、下谷和泉町にあった医学校の仮小屋で日本初の病死体解剖が実施された。\n医学校は美幾の霊を慰めるため、小石川植物園そばの念速寺(浄土真宗大谷派)で同月16日に葬儀を執り行って手厚く葬り、遺族には金10両が贈られた。", "qas": [ { "question": "美幾は何歳で亡くなりましたか?", "id": "tr-265-03-000", "answers": [ { "text": "34歳", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "遺族に送られた金額はいくらでしたか?", "id": "tr-265-03-001", "answers": [ { "text": "金10両", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "美幾の葬儀はどこの寺で行われましたか?", "id": "tr-265-03-002", "answers": [ { "text": "念速寺", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "美幾の墓は、念速寺(東京都文京区白山2丁目9番11号)の本堂裏、千川通り側の塀ぎわに現存する。\n墓石の裏面には、「わが国病屍の始めその志を嘉賞する」と当時の医学校教官が美幾の志を称えた銘が刻まれ、法名として「釈妙倖信女」が与えられている。\nこの墓は、1974年(昭和49年)11月1日に文京区指定史跡となった。\n墓碑は、保存のために透明なケースで覆われた状態となっている。", "qas": [ { "question": "美幾の法名は?", "id": "tr-265-04-000", "answers": [ { "text": "「釈妙倖信女」", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "念速寺の住所地は?", "id": "tr-265-04-001", "answers": [ { "text": "東京都文京区白山2丁目9番11号", "answer_start": 10, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "墓石の裏面に刻まれている言葉とは何?", "id": "tr-265-04-002", "answers": [ { "text": "「わが国病屍の始めその志を嘉賞する」", "answer_start": 56, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "なお、美幾に続く篤志解剖の2人目から4人目までの人々については、翌年の1870年(明治3年)に記録が残されている。\n2月の八丁堀亀島町の「金次郎」、3月の深川大島町の「竹蔵」、10月の小日向水道町の「ムツ」の名があるが、いずれの人にも姓の記録がないため、貧しい階級の出と推定されている。\nこれらの人々も丁重に葬られて、遺族には金3両が贈られていた。", "qas": [ { "question": "美幾に続く献体者の遺族には何が贈られたの?", "id": "tr-265-05-000", "answers": [ { "text": "金3両", "answer_start": 163, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "美幾に続く2番目の献体者は誰でしたか?", "id": "tr-265-05-001", "answers": [ { "text": "「金次郎」", "answer_start": 68, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「金次郎」、「ムツ」、「竹蔵」の中で最も遅く篤志解剖した人は誰ですか?", "id": "tr-265-05-002", "answers": [ { "text": "「ムツ」", "answer_start": 99, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「ムツ」は美幾から数えて何人目の献体者でしたか?", "id": "tr-265-05-003", "answers": [ { "text": "4人目", "answer_start": 18, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "小川鼎三は、その著『医学の歴史』で「篤志解剖」希望者の第1号は、幕末から明治期にかけて活躍した洋学者・軍学者の宇都宮三郎であると記述している。\n宇都宮は旧名を「宇都宮鉱之進」といい、尾張藩士の子として名古屋に生まれた。\n若いころから武芸と兵法を修め、砲術を学んだ後に化学の分野に進み、明治維新前後の日本の化学界に大きな功績を遺した人物である。\n宇都宮は蘭学も学んでいたため、桂川甫周の家によく出入りしていた。", "qas": [ { "question": "『医学の歴史』の著者は誰?", "id": "tr-265-06-000", "answers": [ { "text": "小川鼎三", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『医学の歴史』の中では「篤志解剖」希望者の第1号は誰だと記述されていますか?", "id": "tr-265-06-001", "answers": [ { "text": "宇都宮三郎", "answer_start": 55, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宇都宮三郎の出生地はどこ?", "id": "tr-265-06-002", "answers": [ { "text": "名古屋", "answer_start": 100, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宇都宮は誰の家によく出入りしていたの?", "id": "tr-265-06-003", "answers": [ { "text": "桂川甫周", "answer_start": 187, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1868年(明治元年)、宇都宮は重病で病床に伏していた。\n幕藩体制の瓦解を目の当たりにし、かつての仲間たちが活躍するのを見て前途を悲観した彼は、「篤志解剖願」を書き上げて東京府に提出した。\nこの願に対して東京府は、「願の通り御免仰付けられ候」と許可を与えた。\nしかし、宇都宮の病はすっかり回復したため、解剖も行われなかった。\n宇都宮は1869年(明治2年)3月に明治新政府の開成学校の教官として出仕を命ぜられ、7月には大学中助教に任じられた。\n同年には結婚もしている。\n小川は、宇都宮(による篤志解剖願)と美幾の間に何らかのつながりがあるかもしれないと推測している。\n結局宇都宮は1902年(明治35年)に死去し、故郷の幸福寺(愛知県豊田市)に埋葬された。\nそのため、「篤志解剖」第1号は美幾となった。", "qas": [ { "question": "宇都宮が東京府に「篤志解剖願」を提出したのはいつ?", "id": "tr-265-07-000", "answers": [ { "text": "1868年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "宇都宮が結婚したのは何年?", "id": "tr-265-07-001", "answers": [ { "text": "1869年", "answer_start": 167, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "宇都宮が葬られたのは何県?", "id": "tr-265-07-002", "answers": [ { "text": "愛知県", "answer_start": 314, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宇都宮は何年に亡くなった?", "id": "tr-265-07-003", "answers": [ { "text": "1902年", "answer_start": 290, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "なお、美幾の「篤志解剖」第1号について、末永恵子(福島県立医科大学講師)がその著書『死体は見世物か「人体の不思議展」をめぐって』の中で触れている。\n末永は美幾について「医学校の附属病院に入院していた重症の患者で『貧病人』であった」と当時の文書に記されていたことを挙げて、「入院したときはすでに重症で命の危機に瀕していた彼女の意思のほんとうのところは、今では知る由もない」と指摘した。", "qas": [ { "question": "『死体は見世物か「人体の不思議展」をめぐって』の著者は誰?", "id": "tr-265-08-000", "answers": [ { "text": "末永恵子", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "末永恵子が勤務している大学はどこ?", "id": "tr-265-08-001", "answers": [ { "text": "福島県立医科大学", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "末永恵子の職業は?", "id": "tr-265-08-002", "answers": [ { "text": "大学講師", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "小説家の渡辺淳一は、1973年(昭和48年)に当時順天堂大学の教授を務めていた小川鼎三から、日本における志願解剖の第1号が吉原の遊女であったという話を聞いた。\n渡辺は当初、何かの記録違いではないかと思い即座に信用できなかったというが、小川は美幾の名と念速寺の墓地のことまでを渡辺に教えた。\nそれ以来、渡辺は美幾の存在に強い興味を覚えるようになった。\n渡辺は同年12月に念速寺を訪問した。\n墓に詣でて住職から美幾についての話を聞き、自らの医学生時代に実習で年若い女性の死体解剖に当たった体験などとと重ね合わせつつイメージを育て上げていった。", "qas": [ { "question": "渡辺淳一は誰から美幾の話を聞きましたか?", "id": "tr-265-09-000", "answers": [ { "text": "小川鼎三", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1973年当時に小川鼎三はどこの大学に勤務していたの?", "id": "tr-265-09-001", "answers": [ { "text": "順天堂大学", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "渡辺淳一の職業は何?", "id": "tr-265-09-002", "answers": [ { "text": "小説家", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "渡辺は美幾の生涯を題材に、小説『白き旅立ち』を書き上げて小説新潮の1974年3月号から5月号にかけて連載した。\nこの作品中では、宇都宮鉱之進は美幾の馴染み客として描かれた。\n美幾は宇都宮から解剖についての知識を得て、後に労咳が悪化した後に彼の縁で小石川養生所へ入院し、篤志解剖の申請手続きは円滑に行われたこととされた。\n作中で美幾は養生所で出会った滝川長安という若き医師に密かに想いを寄せ、彼が解剖こそ日本医学の発展に不可欠だと説いているのを聞き、死後に自らの体を提供する約束をした後に生涯を終えている。", "qas": [ { "question": "渡辺が書いた美幾の生涯をテーマにした小説とは何?", "id": "tr-265-10-000", "answers": [ { "text": "『白き旅立ち』", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『白き旅立ち』の連載は何年に始まりましたか?", "id": "tr-265-10-001", "answers": [ { "text": "1974年", "answer_start": 33, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『白き旅立ち』の中で美幾が恋心を抱いた人物とは誰?", "id": "tr-265-10-002", "answers": [ { "text": "滝川長安", "answer_start": 174, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "美幾と滝川長安はどこの施設で出会いましたか?", "id": "tr-265-10-003", "answers": [ { "text": "小石川養生所", "answer_start": 123, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『白き旅立ち』について詩人で文芸評論家の郷原宏は「伝記小説の秀作」と評し、美幾のことを「作者のペンによって発見され、発掘されたヒロインである」と記述した。\n郷原はさらに「篇中至るところに医学と文学の最も理想的な協調を見い出すことができる」と高い評価を与えた。\n吉村昭の小説『梅の刺青』は、美幾の腕に刻まれていたという刺青から題を得ている。\n吉村は美幾の解剖に立ち会った医学者石黒忠悳の子孫から当時の日記を見せてもらう機会を得た。\n石黒の日記中に彼女の腕に梅の小枝を描いた刺青があったとの記載を見つけた吉村は、そのことに衝撃を受けた旨を記述している。", "qas": [ { "question": "美幾の腕にはどんな刺青がありましたか?", "id": "tr-265-11-000", "answers": [ { "text": "梅の小枝", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『白き旅立ち』を高く評価した文芸評論家は誰?", "id": "tr-265-11-001", "answers": [ { "text": "郷原宏", "answer_start": 20, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『梅の刺青』の作者は誰ですか?", "id": "tr-265-11-002", "answers": [ { "text": "吉村昭", "answer_start": 130, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "美幾の腕にあった刺青の事を日記に記載した人は誰でしたか?", "id": "tr-265-11-003", "answers": [ { "text": "石黒忠悳", "answer_start": 187, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "この小説は、宇都宮鉱之進が1868年(明治元年)11月に医学所宛てに自身の献体の願い書を提出するところから始まり、最後は解剖された人々の慰霊のため1881年(明治14年)に建立された谷中墓地内にある千人塚の場面で終わる。\n小説内では、美幾の解剖時に執刀者となった人物を田口和美(たぐちかずよし、後に東京大学医学部解剖学の初代教授となった)、説明者となった人物を桐原真節(きりはらしんせつ、後に東京大学付属病院の初代院長を務めた)としている。\n『梅の刺青』は、あとがきで作者の吉村が述べているとおり、日本での初期解剖の歴史を主題としている。\n美幾のことについては、東京大学医学部解剖学教室が取り扱った解剖の歴史的事実と捉えて小説化した。\n吉村は美幾のことを、小川の後任に当たる順天堂大学教授酒井シヅから教示されたと小説のあとがきで述べている。", "qas": [ { "question": "桐原真節は美幾の解剖時に何の担当を務めましたか?", "id": "tr-265-12-000", "answers": [ { "text": "説明者", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2004年に公開された塚本晋也の映画『ヴィタール』は、人間の肉体と意識あるいは魂の関連を取り上げた作品である。\n映画の主人公で人体解剖に耽溺する記憶喪失の医学生高木(浅野忠信)にはレオナルド・ダ・ヴィンチ、高木の幻想の中に繰り返して現れるヒロイン、涼子(柄本奈美)には美幾のイメージがそれぞれ投影されているという。", "qas": [ { "question": "映画『ヴィタール』は誰の監督作品ですか?", "id": "tr-265-13-000", "answers": [ { "text": "塚本晋也", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "映画『ヴィタール』の主人公を演じた役者は誰?", "id": "tr-265-13-001", "answers": [ { "text": "浅野忠信", "answer_start": 83, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "腕足動物", "paragraphs": [ { "context": "腕足動物(わんそくどうぶつ、Brachiopoda)は、2枚の殻を持つ海産の底生無脊椎動物。\nシャミセンガイ、チョウチンガイなどと呼ばれるものを含む。\n一見して二枚貝に似るが、体制は大きく異なり、貝類を含む軟体動物門ではなく、独立の腕足動物門に分類される。\n化石記録ではカンブリア紀に出現し、古生代を通じて繁栄したグループだが、その後多様性は減少し、現生の種数は比較的少ない。\n伝統的には無関節綱と有関節綱に分けられてきたが、それとは異なる分類体系も提案されている。\n学名のBrachiopodaはギリシャ語で腕を意味するbrachiumと、足を意味するpodaを合わせたもので、和名はその直訳である。", "qas": [ { "question": "腕足動物が出現した時期はいつですか?", "id": "tr-266-00-000", "answers": [ { "text": "カンブリア紀", "answer_start": 135, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "腕足動物の学名は何ですか?", "id": "tr-266-00-001", "answers": [ { "text": "Brachiopoda", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シャミセンガイは何という動物部門に属しますか?", "id": "tr-266-00-002", "answers": [ { "text": "腕足動物", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Brachiopodaの語源はbrachiumに何が足されたの?", "id": "tr-266-00-003", "answers": [ { "text": "poda", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "腕足動物は真体腔を持つ左右相称動物。\n二枚貝のように2枚の殻を持つが、二枚貝類の殻は体の左右に1枚ずつあるのに対して、腕足動物の殻は背腹にあるとされている。\n殻の成分は分類群によって異なり、有関節類と一部の無関節類は炭酸カルシウム、他はキチン質性のリン酸カルシウムを主成分とする。\nそれぞれの殻は左右対称だが、背側の殻と腹側の殻はかたちが異なる。\n2枚の殻は、有関節類では蝶番によって繋がるが、無関節類は蝶番を持たず、殻は筋肉で繋がる。\n殻長は5センチメートル前後のものが多い。", "qas": [ { "question": "腕足動物の殻はどこにありますか?", "id": "tr-266-01-000", "answers": [ { "text": "背腹", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "腕足動物の殻の長さは大体どれくらいですか?", "id": "tr-266-01-001", "answers": [ { "text": "5センチメートル前後", "answer_start": 222, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "有関節類の殻の主成分は何?", "id": "tr-266-01-002", "answers": [ { "text": "炭酸カルシウム", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "一部の無関節類の殻の主成分とは何?", "id": "tr-266-01-003", "answers": [ { "text": "炭酸カルシウム", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "腹殻の後端から肉茎が伸びる。\n肉茎は体壁が伸びてできたもので、無関節類では体腔や筋肉を含み、伸縮運動をするが、有関節類の肉茎はそれらを欠き、運動の役には立たない。\n種によっては肉茎の先端に突起があり、海底に固着するときに用いられる。\n肉茎を欠く種もいる。\n殻は外套膜から分泌されてできる。\n外套膜は殻の内側を覆っていて、殻のなかの外套膜に覆われた空間、すなわち外套腔を形成する。\n外套腔は水で満たされていて、触手冠がある。\n触手冠は口を囲む触手の輪で、腕足動物では1対の腕(arm)に多数の細い触手が生えてできている。\n有関節類では、この腕は腕骨により支持されるが、無関節類は腕骨を持たず、触手冠は体腔液の圧力で支えられる。", "qas": [ { "question": "伸縮運動可能な肉茎を持っている種類は何?", "id": "tr-266-02-000", "answers": [ { "text": "無関節類", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "伸縮運動が不可能である肉茎を持っている種類は何?", "id": "tr-266-02-001", "answers": [ { "text": "有関節類", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "殻を分泌している部分はどこですか?", "id": "tr-266-02-002", "answers": [ { "text": "外套膜", "answer_start": 130, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "腕骨がないのは有関節類と無関節類のどちらですか?", "id": "tr-266-02-003", "answers": [ { "text": "無関節類", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "消化管はU字型。\n触手冠の運動によって口に入った餌は、食道を通って胃、腸に運ばれる。\n無関節類では、消化管は屈曲して直腸に繋がり、外套腔の内側か右側に開口する肛門に終わるが、有関節類は肛門を欠き、消化管は行き止まり(盲嚢)になる。\n循環系は開放循環系だが不完全。\n腸間膜上に心臓を持つ。\n真の血管はなく、腹膜で囲われた管がある。\n血液と体腔液は別になっているとされる。\nガス交換は体表で行われる。\n1対か2対の腎管を持ち、これは生殖輸管の役割も果たす。\n神経系はあまり発達していない。\n背側と腹側に神経節があり、2つの神経節は神経環で繋がっている。\nこれらの神経節と神経環から、全身に神経が伸びる。", "qas": [ { "question": "肛門が無いのは有関節類と無関節類のどちらですか?", "id": "tr-266-03-000", "answers": [ { "text": "有関節類", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ガス交換はどこで行われるの?", "id": "tr-266-03-001", "answers": [ { "text": "体表", "answer_start": 190, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "消化管はどのような形をしているの?", "id": "tr-266-03-002", "answers": [ { "text": "U字型", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "餌を捕まえる時に使用する部位は何ですか?", "id": "tr-266-03-003", "answers": [ { "text": "触手冠", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "全種が海洋の底生動物である。\n多くの種は、肉茎の先端を底質に固着させて体を固定するか、砂に固着させて体を支える支点とする。\n肉茎を持たない種は、硬い底質に体を直接固定する。\n体を底質に付着させない種もいる。\n餌を取るために、殻をわずかに開き、触手冠の繊毛の運動によって、外套腔内に水流を作り出す。\n水中に含まれる餌の粒子は、触手表面の繊毛によって、触手の根元にある溝に取り込まれ、口へと運ばれる。\n主な餌は植物プランクトンだが、小さな有機物なら何でも食べる。", "qas": [ { "question": "腕足動物の主食は何ですか?", "id": "tr-266-04-000", "answers": [ { "text": "植物プランクトン", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "体を海底に固定させる時に使用している部位は何?", "id": "tr-266-04-001", "answers": [ { "text": "肉茎", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "有性生殖のみで繁殖し、無性生殖はまったく知られていない。\nわずかに雌雄同体のものが知られるが、ほとんどの種は雌雄異体。\n雌雄異体のものでも、性的二形はあまりない。\n体外受精で、卵と精子は腎管を通じて海水中に放出され、受精するのが一般的。\n一部の種では、卵は雌の腎管や外套腔、殻の窪みなどに留まり、そこで受精が起こる。\nその場合には、受精卵は幼生になるまで、受精した場所で保護される。", "qas": [ { "question": "腕足動物の一般的な受精方法は何?", "id": "tr-266-05-000", "answers": [ { "text": "体外受精", "answer_start": 82, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "腕足動物の繁殖方法は何ですか?", "id": "tr-266-05-001", "answers": [ { "text": "有性生殖", "answer_start": 0, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "受精卵は放射型の全等割を経て発生する。\n原口は発生過程で閉じてしまい、口は二次的にできる。\nどの種も浮遊する幼生の期間を持つが、幼生の特徴は有関節類と無関節類で大きく異なる。\n無関節類の幼生は触手冠と2枚の殻、肉茎を備え、成体とそれほど変わらない構造を持つ。\n成体と異なるのは、肉茎が折れ曲がって外套腔内にあることと、外套膜に比べて体と触手冠が不釣合いに大きいことである。\n大きな触手冠は移動と摂食に用いられる。\nこの幼生は大きな変態を遂げることなく成体になる。\n一方で、有関節類の幼生には殻がなく、体は頭葉、外套葉、茎葉の3つに分かれている。\n自力で餌を取ることはできず、卵黄の栄養のみに依存し、浮遊期間は短い。\n茎葉を使って着生すると、変態して成体になる。", "qas": [ { "question": "幼生時に殻があるのは無関節類と有関節類のどちらですか?", "id": "tr-266-06-000", "answers": [ { "text": "無関節類", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "幼生と成体がほぼ同じ形をしているのは無関節類と有関節類のどちらですか?", "id": "tr-266-06-001", "answers": [ { "text": "無関節類", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "幼生時に自主的に餌を取ることが不可能なのは、無関節類と有関節類のどちらですか?", "id": "tr-266-06-002", "answers": [ { "text": "有関節類", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "幼生から変態するのは無関節類と有関節類のどちらですか?", "id": "tr-266-06-003", "answers": [ { "text": "有関節類", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "腕足動物は、触手冠などいくつかの特徴を箒虫動物門(ホウキムシ類)、外肛動物門(コケムシ類)と共有するため、この2群とともに触手動物(Tentaculata)あるいは触手冠動物としてまとめられてきた。\n触手冠動物は、旧口動物的な特徴もあるものの、放射型の卵割、成体の口が原口に由来しないこと、体の3節構造など新口動物の特徴を持つことから、伝統的には新口動物の1グループとされていた。\nしかし、分子系統学の結果は、触手冠動物を旧口動物に含めることを支持することが多く、こちらが有力となっている。\n前口動物のなかで、触手冠動物は、担輪動物(軟体動物など、トロコフォア幼生を持つグループ)と併せて、冠輪動物としてまとめる考えが支持されている。\nしかし、冠輪動物のなかでの、腕足動物の位置は明らかではない。\n触手冠動物が単系統群になるという伝統的な考えも疑われている。", "qas": [ { "question": "触手冠動物としてくくられるのは腕足動物、外肛動物門と何ですか?", "id": "tr-266-07-000", "answers": [ { "text": "箒虫動物門", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "軟体動物はどのような幼生ですか?", "id": "tr-266-07-001", "answers": [ { "text": "トロコフォア", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "冠輪動物に含まれているのは担輪動物と何動物ですか?", "id": "tr-266-07-002", "answers": [ { "text": "触手冠動物", "answer_start": 255, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "キャバリエ=スミスは触手冠動物の3群のなかで、外肛動物だけは異なる系統的位置にあるが、腕足動物と箒虫動物は単系統になると考えて、この2群を亜門として含む腕動物門を提唱した。\nヘルムカンプらの研究は腕動物の単系統性を支持し、さらに紐形動物(ヒモムシ類)がその姉妹群になると主張した。\nまたコーエンは、箒虫動物は腕足動物門のなかに含まれると述べている。\n一方で、ダンらは腕足動物、箒虫動物、紐形動物の3群が単系統群になるという点では同じ結論に達しているが、腕足動物にもっとも近縁なのは箒虫動物ではなく、紐形動物と推定した。\n遠藤は、ミトコンドリアゲノム上の遺伝子の順序に基づいて、腕足動物はむしろ環形動物やユムシ動物に近いと推定し、箒虫動物との近縁性に疑問を呈している。", "qas": [ { "question": "腕動物門を提唱した人は誰?", "id": "tr-266-08-000", "answers": [ { "text": "キャバリエ=スミス", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "箒虫動物は腕足動物門のなかに含まれると述べた人は誰?", "id": "tr-266-08-001", "answers": [ { "text": "コーエン", "answer_start": 143, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "紐形動物が腕動物の姉妹群になると主張した人は誰?", "id": "tr-266-08-002", "answers": [ { "text": "ヘルムカンプ", "answer_start": 87, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "腕足動物に最も近いのは紐形動物だと考えた人は誰?", "id": "tr-266-08-003", "answers": [ { "text": "ダン", "answer_start": 179, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本における腕足動物としては、舌殻綱シャミセンガイ目シャミセンガイ科Lingulidaeシャミセンガイ属LingulaとしてミドリシャミセンガイLingulaanatina(Lamarck,1801)、ウスバシャミセンガイLingulareeviiDavidson,1880、ドングリシャミセンガイLingularostrumShaw,1798、オオシャミセンガイLingulaadamsiDall,1873の4種の生息が確認されている。\nまた、同目スズメガイダマシ科DiscinidaeについてもスズメガイダマシDiscradiscastella(Gould,1926)、スゲガサチョウチンDiscradiscasparselineataDall,1920、2種の生息が確認されている。\nしかし、潮間帯を生息地とするシャミセンガイ類は、水質汚染や干拓により急速に生息地を減らしており、主産地である有明海においても、食用としての漁獲の対象にならないまでに個体数が減少しており、日本における絶滅は不可避である。\nイカリチョウチン(Craniscusjaponicus)をはじめとする頭殻目、タテスジホオズキガイ(Coptothyrisgrayi)をはじめとする嘴殻目も日本近海の潮間帯から浅海底に生息するが、分布の詳細は明らかでない。", "qas": [ { "question": "日本にはシャミセンガイ科の腕足動物が何種生息しているの?", "id": "tr-266-09-000", "answers": [ { "text": "4種", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本にはスズメガイダマシ科の腕足動物が何種生息しているの?", "id": "tr-266-09-001", "answers": [ { "text": "2種", "answer_start": 330, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スズメガイダマシとスゲガサチョウチンは何目の腕足動物ですか?", "id": "tr-266-09-002", "answers": [ { "text": "シャミセンガイ目", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シャミセンガイ類の生息地はどこ?", "id": "tr-266-09-003", "answers": [ { "text": "潮間帯", "answer_start": 349, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "腕足動物の化石は顕生代のどの時代の地層にも見られる。\n古くは古生代カンブリア紀初期の地層から発見されている。\nはじめは無関節類しか見られないが、カンブリア紀中期になると有関節類も登場する。\n有関節類の登場以降、無関節類の数は減少し、デボン紀以降はわずかしか見られない。\nオルドビス紀には有関節類が多様化し、デボン紀にその多様性は最大となる。\nしかし古生代末(P-T境界)の大量絶滅で、腕足動物の多様性は大部分が失われた。\nその後、腕足動物はかつてのように繁栄することなく、衰退傾向にある。\n腕足動物の化石種は1万3000種記載されているのに対し、現生種は350種程度に留まっている。\n腕足動物の多様性の減少は、生態の似た二枚貝類との競争に敗れたためと考えられている。", "qas": [ { "question": "有関節類の化石が登場し出すのは何期の地層からですか?", "id": "tr-266-10-000", "answers": [ { "text": "カンブリア紀中期", "answer_start": 72, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "有関節類の多様化がピークに達した時期はいつ?", "id": "tr-266-10-001", "answers": [ { "text": "デボン紀", "answer_start": 153, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "腕足動物が減少し始めた境となる時期はいつでしたか?", "id": "tr-266-10-002", "answers": [ { "text": "古生代末", "answer_start": 174, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "現在存在している腕足動物は何種ですか?", "id": "tr-266-10-003", "answers": [ { "text": "350種程度", "answer_start": 277, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "現生のミドリシャミセンガイを含むシャミセンガイ属は、生きている化石(古くから大きく形態を変化させることなく生きてきた生物)の代表例としてよく知られている。\nこれと同じ属の化石(異論はあるが、いずれにしてもよく似た形態を持つ化石)が、オルドビス紀・シルル紀から見つかっているためである。\n同じ属に分類されるほどではないが、現生種に似た化石はさらに遡り、カンブリア紀からも見つかっている。", "qas": [ { "question": "ミドリシャミセンガイは何属に分類されているの?", "id": "tr-266-11-000", "answers": [ { "text": "シャミセンガイ属", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "生きた化石の代表的なものは何属の腕足動物ですか?", "id": "tr-266-11-001", "answers": [ { "text": "シャミセンガイ属", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "グリーンランドのシリウス・パセットで見つかったハルキエリアの化石は、体の両端背側に殻を備えていた。\nサイモン・コンウェイ・モリスは、この殻が腕足動物のものに似ていることを指摘し、腕足動物はハルキエリアのような動物から進化したと推測した。\n彼の考えによれば、両端に殻を持つハルキエリアの体が折りたたまれるように変化し、2枚の殻が向かい合うようになったことで、腕足動物の体制が起源したという。\n彼はほかに、腕足動物の持つ剛毛がハルキエリアの持つ硬皮に由来すると考えられること、一部の現生の腕足動物では幼生が変態するときに、体が折りたたまれるようになることを根拠に挙げている。\nハルキエリアの硬皮は環形動物の剛毛に由来するとも考えられることから、この仮説は腕足動物と環形動物が近縁であるとする仮説に整合する。\n一方で、ハルキエリアを軟体動物に近いと考える意見もある。\nところで、このコンウェイ・モリスの主張が正しければ、腕足動物の殻は2枚とも背側にある(腹側は内側に折り込まれる)ことになり、2枚の殻が背腹にあるという伝統的な考えは正しくないことになる。", "qas": [ { "question": "ハルキエリアの化石はどこで発見されたの?", "id": "tr-266-12-000", "answers": [ { "text": "グリーンランド", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "腕足動物の起源はハルキエリアだと推測した人は誰?", "id": "tr-266-12-001", "answers": [ { "text": "サイモン・コンウェイ・モリス", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "腕足動物の剛毛がハルキエリアの硬皮に由来すると考えた人は誰?", "id": "tr-266-12-002", "answers": [ { "text": "サイモン・コンウェイ・モリス", "answer_start": 50, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "コンウェイ・モリスは腕足動物の進化の起源は何だと考えましたか?", "id": "tr-266-12-003", "answers": [ { "text": "ハルキエリア", "answer_start": 94, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "大プリニウスの『博物誌』には、「二形、白と黒、男と女という特徴を有する」石への言及がある。\n16世紀の古生物学者は、これに相当する化石を発見し、女性器を思わせるその外見から、子宮石と命名した(陰門石、外陰石などと呼ばれることもあった)。\nこの化石は女性器のみならず、男性器のように見える部分も持ち、17世紀には、子宮の異常や男性の精力減退を改善すると信じられたこともあった。\n18世紀半ばまでには、子宮石は腕足動物の殻の内側に形成された雌型化石だと正しく認識されるようになった。\n女性器を思わせる割れ目は殻の内側の隆起を、男性器に見える突起は窪みを写し取ったものである。", "qas": [ { "question": "『博物誌』を書いた人は誰?", "id": "tr-266-13-000", "answers": [ { "text": "『博物誌』", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "伝統的には有関節綱と無関節綱の2綱に大別されてきたが、3つの亜門(舌殻亜門、頭殻亜門、嘴殻亜門)に分類する体系が広く用いられるようになっている。\nこの体系では、嘴殻亜門は伝統的な分類の有関節綱に対応する。\n無関節綱は、キチン質性のリン酸カルシウムの殻を持つ舌殻亜門と、炭酸カルシウムの殻を持つ頭殻亜門に二分されている。\nほかに、殻の成分を重視して、炭酸カルシウムの殻を持つ頭殻類と嘴殻類をCalciataとしてまとめ、リン酸カルシウムの殻を持つ舌殻類と並べる体系も提案されている。\n以下には、蝶番の有無による伝統的な2綱の体系と、3亜門の体系を示す。\n以下は伝統的な体系の1例である。\n同じ2綱に分ける体系でも、下位の分類については異なるものもある。\n人間生活と直接に関わることは少ない。\n日本や東南アジアでは、ミドリシャミセンガイなどのシャミセンガイ属が食用にされている。", "qas": [ { "question": "3つの亜門とは舌殻亜門、嘴殻亜門とあと1つは何ですか?", "id": "tr-266-14-000", "answers": [ { "text": "頭殻亜門", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "頭殻亜門の殻の主成分は何?", "id": "tr-266-14-001", "answers": [ { "text": "炭酸カルシウム", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "キチン質性のリン酸カルシウムの殻を持つのは何亜門ですか?", "id": "tr-266-14-002", "answers": [ { "text": "舌殻亜門", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シャミセンガイ属を人間が食べている地域は東南アジアとどこですか?", "id": "tr-266-14-003", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 345, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ピータールーの虐殺", "paragraphs": [ { "context": "ピータールーの虐殺(ピータールーのぎゃくさつ、英語:ThePeterlooMassacre)は1819年8月16日にイングランド・マンチェスターのセント・ピーターズ・フィールド(St.Peter'sField)で発生した民衆弾圧事件である。広場で選挙法改正を求めて集会を開いていた群衆に騎兵隊が突入して鎮圧を図り、多数の死傷者が出る惨事となった。ピータールー虐殺事件、マンチェスター虐殺事件ともいう。", "qas": [ { "question": "ピータールーの虐殺は、いつ発生した事件なの?", "id": "tr-267-00-000", "answers": [ { "text": "1819年8月16日", "answer_start": 47, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピータールーの虐殺は、どこで発生した事件ですか?", "id": "tr-267-00-001", "answers": [ { "text": "イングランド・マンチェスターのセント・ピーターズ・フィールド", "answer_start": 58, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ピータールーの虐殺のことを指す別称には、マンチェスター虐殺事件と何があるか?", "id": "tr-267-00-002", "answers": [ { "text": "ピータールー虐殺事件", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ピータールー虐殺事件と同じ事件のことを指す用語で、ピータールーとの表現が入らないのは、何か?", "id": "tr-267-00-003", "answers": [ { "text": "マンチェスター虐殺事件", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1815年にナポレオン戦争が終結したことでイングランドは記録的な高失業と、夏のない年による飢餓の時代を迎え、穀物法の制定がそれに拍車をかけた。1819年初頭までに劣悪な経済状況が生んだ社会の窮状は、北部イングランドにおける選挙権の欠如の問題と結びついて、民衆が政治的急進主義に傾く動きを強めていた。これに呼応して、議会改革要求を盛んに世に訴えていたマンチェスター愛国連合は著名な急進派の弁士であるヘンリー・ハント率いる大衆集会を決行した。", "qas": [ { "question": "ナポレオン戦争は、何年に終わった戦争であるの?", "id": "tr-267-01-000", "answers": [ { "text": "1815年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナポレオン戦争の終戦後、イングランドが抱いていた社会的問題としては、夏のない年による飢餓と何が挙げられていますか?", "id": "tr-267-01-001", "answers": [ { "text": "記録的な高失業", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナポレオン戦争の終戦後、イングランドが抱いていた社会的問題をさらに深刻化させたのは、何の制定だったか?", "id": "tr-267-01-002", "answers": [ { "text": "穀物法", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時のイングランドでは、どちらの地域における選挙権の欠如が問題とされていたか?", "id": "tr-267-01-003", "answers": [ { "text": "北部イングランド", "answer_start": 99, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1819年時点ではランカシャーからは2名の庶民院議員が選出されていた。投票権は自由保有の土地を有する成年男性にしかなく、かつその土地の年間賃料が40シリング以上(2008年時点の80ポンド相当)でなければならず、州都のランカスターでしか投票できなかったうえ、秘密投票ではなく演説台で投票先を公に宣言する形式だった。また選挙区の境界は時代遅れで、いわゆる「腐敗選挙区」は人口規模に比してイギリス議会の議員資格に極めて不均衡な影響を与えていた。例えばウィルトシャーのオールド・サラム選挙区は有権者1人に対して2名の議員を選出していた。一方でサフォーク州のダニッチ選挙区も同様で町自体は19世紀初頭までほとんど海中に没していた。マンチェスター、サルフォード、ボルトン、ブラックバーン、ロッチデール、アシュトン・アンダー・ライン、オールダムといった主要な都市部は人口が総計100万近くに達していたにも関わらず、ランカシャー全体として2名の議員によって代表されていたに過ぎなかった。当時の庶民院議員の半数以上が総計154名の有権者によって選出されており、代表権の著しい不均衡が議会改革の要求を呼び起こしていた。", "qas": [ { "question": "1819年時点でランカシャーからは、何名の庶民院議員が選出されていたの?", "id": "tr-267-02-000", "answers": [ { "text": "2名", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時のイングランドでは、年間賃料が何シリング以上である自由土地を有する成年男性でなければ、選挙権が与えられなかったか?", "id": "tr-267-02-001", "answers": [ { "text": "40シリング", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当時のイングランドでは、女性と男性のうち、どちらに当たる人々にしか選挙権が与えられなかったか?", "id": "tr-267-02-002", "answers": [ { "text": "男性", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1815年にナポレオン戦争が終結すると、織物産業における短い好景気は記録的な経済不況の時代に取って代わられた。1803年に週6日労働で15シリング稼ぐことも可能だった織工たちは1818年には賃金は5シリングかひどいときには4シリング6ペンスに削減される羽目に陥った。産業資本家は救済を提供せずに賃金を削減し、ナポレオン戦争の余波で生まれた市場の力に責任を押しつけるばかりであった。事態を悪化させたのは穀物法であった。1815年に第一次穀物法が制定されると、イングランドの穀物生産者を保護する目的により外国産の穀物に高関税がかけられた。民衆は外国産に比べて高くて質の悪いイングランド産の穀物を買わざるを得なかったために食料の値段が高騰した。このように食料不足と記録的高失業の時代が続いてランカシャーはもとより全国で政治改革への要求が増していった。", "qas": [ { "question": "ナポレオン戦争を基点に、好況から不況へと状況が激変したのは、どんな産業なの?", "id": "tr-267-03-000", "answers": [ { "text": "織物産業", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "どのような出来事の終結を基点に、織物産業における好況が不況へと変わりましたか?", "id": "tr-267-03-001", "answers": [ { "text": "ナポレオン戦争", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "何年を基点に、織物産業における好況が不況へと変わったか?", "id": "tr-267-03-002", "answers": [ { "text": "1815年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "同時間働いたとすれば、1803年と1818年のうち、何年により多くのお金を稼げたか?", "id": "tr-267-03-003", "answers": [ { "text": "1803年", "answer_start": 55, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "織物産業資本家は救済を提供せずに賃金を削減し、ナポレオン戦争の余波で生まれた市場の力に責任を押しつけるばかりであった。事態を悪化させたのは穀物法であった。民衆は外国産に比べて高くて質の悪いイングランド産の穀物を買わざるを得なかったために食料の値段が高騰した。このように食料不足と記録的高失業の時代が続いてランカシャーはもとより全国で政治改革への要求が増していった。1815年に第一次穀物法が制定されると、イングランドの穀物生産者を保護する目的により外国産の穀物に高関税がかけられた。民衆は外国産に比べて高くて質の悪いイングランド産の穀物を買わざるを得なかったために食料の値段が高騰した。このように食料不足と記録的高失業の時代が続いてランカシャーはもとより全国で政治改革への要求が増していった。", "qas": [ { "question": "織物産業資本家は、労働者の賃金削減の原因として、どの戦争により生まれた市場の力を取り上げたの?", "id": "tr-267-04-000", "answers": [ { "text": "ナポレオン戦争", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナポレオン戦争の余波で生まれた、様々な問題による不況をさらに悪化させたのは、何でしたか?", "id": "tr-267-04-001", "answers": [ { "text": "穀物法", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第一次穀物法が制定されたのは、何年のことか?", "id": "tr-267-04-002", "answers": [ { "text": "1815年", "answer_start": 182, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "イングランドに入ってくる外国産の穀物に高関税がかけられたのは、何年からのことだったか?", "id": "tr-267-04-003", "answers": [ { "text": "1815年", "answer_start": 182, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "セント・ピーターズ・フィールド(St.Peter'sField)はピーター街の最後の区画を造成するために除去されたマウント街に沿っていた空き地だった。枝の束が広場の隅、クエーカーの礼拝堂近くに置かれていたが、残りの部分は開けていた。マンチェスターの舗装検査官補(Manchester'sAssistantSurveyorofPaving)だったトーマス・ウォレル(ThomasWorrell)は午前7時に広場を検分しにやってきた。彼の仕事は武器として使用されかねないものを除去することだった。現に彼は「一車の約4分の1」もの石を移動させている。", "qas": [ { "question": "どこが、ピーター街の最後の区画を造成するために除去されたマウント街に沿っていた空き地だったの?", "id": "tr-267-05-000", "answers": [ { "text": "セント・ピーターズ・フィールド", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時のマンチェスターの舗装検査官補は、誰でしたか?", "id": "tr-267-05-001", "answers": [ { "text": "トーマス・ウォレル", "answer_start": 172, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トーマス・ウォレルがセント・ピーターズ・フィールドにある広場についたのは、何時だったか?", "id": "tr-267-05-002", "answers": [ { "text": "午前7時", "answer_start": 197, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "武器として使用されかねないものを除去することを目的に、セント・ピーターズ・フィールドにある広場にやってきたのは、誰か?", "id": "tr-267-05-003", "answers": [ { "text": "トーマス・ウォレル", "answer_start": 172, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "澱川橋梁", "paragraphs": [ { "context": "澱川橋梁(よどがわきょうりょう、英語:Yodo-GawaBridge)は、京都市伏見区の宇治川にかかる鉄道用トラス橋である。\n奈良電気鉄道が自社線(現在の近畿日本鉄道京都線)の開業にあたり架設した。\n本橋梁は比較的水量の多い河川を1径間で渡る長大な複線下路式トラス橋であり、完成以来2012年現在まで、日本に存在する単純トラス橋としては最大の支間長を備えることで知られる。", "qas": [ { "question": "澱川橋梁を架けたのは何の会社ですか?", "id": "tr-268-00-000", "answers": [ { "text": "奈良電気鉄道", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "澱川橋梁はどのような構造をした橋ですか?", "id": "tr-268-00-001", "answers": [ { "text": "トラス橋", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "澱川橋梁の下を流れている川は何?", "id": "tr-268-00-002", "answers": [ { "text": "宇治川", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "京都と奈良を結ぶ第2の鉄道として建設され、開通まで経由地や線形の変更を幾度となく繰り返してきた奈良電気鉄道線にあって、本橋梁も経路は変更されなかったものの、特異な経緯により桁形式が途中で全面変更されている。\n奈良電気鉄道線の建設計画を進めた浅井郁爾技師長を筆頭とする同社技術陣は、京都起点4マイル6チェイン(約6.6km)付近の宇治川(澱川)を渡河するにあたって、当初は沿線に存在するもう一つの大河である木津川を渡る木津川橋梁と同様、河中に6本の橋脚を立てて70フィート(21.336m)プレートガーダー桁7連を架設する案に従って橋梁の具体設計を進めており、架橋を予定した地点の周辺には帝国陸軍の演習場(渡河訓練場)、そしてその北側には工兵大隊の工営が設置されていた。\n奈良電気鉄道は、工事速成のため工兵隊用地の一部について土地交換を申請した。\nそれを受け師団側では調査を行い、本省へ伺いを出した。", "qas": [ { "question": "奈良電気鉄道は奈良とどこを結ぶ鉄道でしたか?", "id": "tr-268-01-000", "answers": [ { "text": "京都", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "澱川橋梁を建設するにあたって参考にした橋は何ですか?", "id": "tr-268-01-001", "answers": [ { "text": "木津川橋梁", "answer_start": 208, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "澱川橋梁の建設計画を進めた奈良電気鉄道の技師長とは誰ですか?", "id": "tr-268-01-002", "answers": [ { "text": "浅井郁爾", "answer_start": 120, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "橋脚に関しては一基まで認めるというものであったが、奈良電気鉄道側は回答を待たずに代案に着手することとなる。\nちょうどこの時期、即位したばかりの昭和天皇の御大典が京都御所で執り行われ、式典の終了後、各施設の拝観や御陵の参拝などが国民に認められることとなった。\nそのため、沿線に伏見桃山陵が存在し、開通の暁には大阪電気軌道奈良線へ乗り入れるだけでなく大和西大寺から橿原線へも直通し、京都と橿原神宮前を直結する計画であった奈良電気鉄道は、大きな旅客需要が期待されるこの絶好のチャンスに、何としてでも全線開業を間に合わせる必要に迫られた。\nこうして、路線建設のための時間的猶予を失った奈良電気鉄道は宇治川渡河について経済的なプレートガーダー桁案を放棄し、河中に橋脚を設けずに済む長大な単独トラス桁により本橋梁を架設することを決断してようやく着工にこぎ着けた。", "qas": [ { "question": "昭和天皇の御大典が行われた場所はどこですか?", "id": "tr-268-02-000", "answers": [ { "text": "京都御所", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "澱川橋梁の建設計画中に、京都周辺の旅客需要が高まる要因となった行事は何ですか?", "id": "tr-268-02-001", "answers": [ { "text": "昭和天皇の御大典", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "以上のような経緯で、本橋梁は無橋脚、1径間での渡河に適した長大な曲弦プラット分格トラス桁として架設されることとなり、その設計は当時の日本を代表する橋梁設計の大家であった関場茂樹の手に委ねられた。\nもっともこの時代、この巨大橋梁が必要とする長さと厚さを備えた大型鋼材は日本国内に市中在庫が存在しなかった。\nまた日本国内で唯一、その種の鋼材の製造供給が可能と目されていた八幡製鐵所では当時軍用、特に軍艦用の需要を満たすのが精一杯で、発注後必要な納期にそれらを得ることもできなかった。\nそのため、関場ら設計陣は設計着手後間もない1927年10月末までに最優先で必要部材の一覧表を作成、部材調達を請け負った浅野物産とアメリカ有数の大手製鋼メーカーベスレヘム・スチールが東京に設けていた支店の連携によって、全体の83パーセントにあたる約1,500tの鋼材の注文書をアメリカのベスレヘム・スチール社本社へ打電、可能な限り速く国内で入手が不可能な部材を調達する手配を行った。\nこれは、折良く日本へ向かう船便に恵まれたことから、発注後2ヶ月半で大半の部材が神戸港へ入荷するという、当時の日米間貨物輸送体制では最良に近い成果を得た。\nなお、本橋梁の主部材はこのようにベスレヘム・スチール社からの輸入に拠ったが、それ以外にもUSスチール・プロダクツ社と八幡製鉄所から鋼材供給を受けている。", "qas": [ { "question": "澱川橋梁の設計者は誰ですか?", "id": "tr-268-03-000", "answers": [ { "text": "関場茂樹", "answer_start": 84, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "澱川橋梁の主部材の大半は、どこから輸入したのですか?", "id": "tr-268-03-001", "answers": [ { "text": "ベスレヘム・スチール社", "answer_start": 524, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "澱川橋梁の建設にあたり、鋼材供給を受けた国内の会社はどこですか?", "id": "tr-268-03-002", "answers": [ { "text": "八幡製鉄所", "answer_start": 566, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "澱川橋梁建設にあたり、どこの会社から最も多くの鋼材を調達しましたか?", "id": "tr-268-03-003", "answers": [ { "text": "ベスレヘム・スチール社", "answer_start": 382, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "だが、最大の難問であった鋼材納入について最良の結果を得たと言っても、その時点で絶対的な工期の不足がほぼ致命的な水準に達していたことに変わりはなかった。\n国内で調達可能な補助部材については先行して調達と加工を実施するようにしたものの、主要鋼材到着後にそれらを工場で加工し、工場で一旦仮組みした後に分解、輸送し現場で再度組み立てるという、大規模構造物建築で常識とされる手順を踏んでいたのでは、1928年1月の鋼材到着後、1928年11月に予定された御大典までの10ヶ月に満たない短期間でこの橋梁を完成させ、路線そのものの開業にこぎ着けることは到底不可能であった。\nそこで関場らは、実際に橋桁の製造を担当する川崎造船所兵庫工場(本橋梁工事中の1928年5月18日付で川崎造船所から独立、川崎車輛兵庫工場となる)での仮組工程を省略し、加工済み部材を現場にて直接組み立てることを決断した。\n仮組を省略した場合、その分の所要時間を節約できるが、その反面、部材の切断ミスや接合用リベットのために予め開口された鋲孔のずれなどがあった場合、それらの修正のために架設工事全体が大きく遅れ、仮組を実施するよりもかえって時間がかかってしまう危険がある。\nそのため、川崎造船所で実際の桁製造を監督することになった阪根繁三郎技師はその部材製作工程の管理および工作精度の維持に細心の注意を払うことを強いられ、また設計を担当する関場らもミスが一切許されないため、本橋梁に関する各種図面の精査に追われた。", "qas": [ { "question": "工期の不足により、関場が省略を決断した工程とは何?", "id": "tr-268-04-000", "answers": [ { "text": "仮組工程", "answer_start": 354, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "昭和天皇の御大典はいつ予定されていましたか?", "id": "tr-268-04-001", "answers": [ { "text": "1928年11月", "answer_start": 208, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "現場での組み立て・橋台の施工、そして架設全般を担当したのは、奈良電気鉄道専務取締役長田桃蔵が副支配人で、この種の架橋工事について経験の豊富な大林組であった。\n橋桁だけで1,810t、軌条や枕木を合わせて約2,000t、通過する60t級電車6両編成2本分の荷重720tを入れると総計2,700tもの重量になる本橋梁の場合、それを支える橋台の設計と施工には特に慎重な作業が要求され、しかも上述の通り工期が極端に短く失敗が許されなかった。\nそのため、当初は先行して架橋工事が完了していた木津川橋梁で実績があった、直径8フィート(2.43m)、深さ25フィート(7.62m)、厚さ8インチ(203.2mm)の円筒形鉄筋コンクリート製井筒3本2列を水中堀にして沈め、これらの上に橋台を構築することが検討された。\nだが、本橋梁と同じ淀川水系での治水工事に経験豊富で工事現場の地質についても知悉した谷口三郎技師から大型構築物の沈函工法が適当との助言が得られ、この工法により1928年4月1日に橋台根掘りを開始、同年5月26日に鉄筋コンクリート製橋台の両岸への埋設作業が完了した。\nその作業工程においては、時間的余裕が無く沈函後に試験荷重をかけてテストすることができなかったため、通常40本の基礎杭を打設する所に直径10インチ(25.4cm)長さ30フィート(9.14m)の松丸太による基礎杭を60本打設して地盤を徹底的に打ち固め、試験を行う必要性そのものを無くしている。", "qas": [ { "question": "橋台構築に検討された円筒形鉄筋コンクリート製井筒は、既に何の橋で使用されましたか?", "id": "tr-268-05-000", "answers": [ { "text": "木津川橋梁", "answer_start": 240, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "時間的余裕が無かったことから、松丸太による基礎杭を何本打ち込みましたか?", "id": "tr-268-05-001", "answers": [ { "text": "60本", "answer_start": 589, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "橋桁のみの重さはいくらですか?", "id": "tr-268-05-002", "answers": [ { "text": "1,810t", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "こうして橋台が完成し、兵庫の川崎造船所から淀川を遡航して現場まで運ばれた部材により、橋桁本体の組み立てと架設が本格的に開始された。\n設計・製造の双方の努力が実り、現場に到着した各部材の加工精度はほとんど修正を要しない水準に達しており、むしろ高精度ゆえに弦材支承面の密着が良すぎて組み立て作業に手間取るほどであった。\nまた、橋桁本体を組み上げる工程においては、効率化を図って大林組が設計したゴライアスクレーン(門型自走式クレーン)が導入され、威力を発揮した。\nこのゴライアスクレーンは、橋桁本体の組み立てに用いる鋼製で大型のものと、船で運ばれてきた部材を仮設足場上へ揚陸するための木造で小型のものの2種が用意された。\nいずれも上部に電動巻き上げ機を、下部に台車をそれぞれ備え、橋桁の組み立て工程の進捗に合わせて仮設足場上に敷設された4列のレール上を移動する設計であった。\n大型のものは、工事完了後に柱部を分解し他の工事現場で工事用エレベーターに転用可能な寸法として設計され、高さ100フィート(30.48m)、長さ54フィート8インチ(16.66m)、と本橋梁の規模に見合った極めて巨大な構造物であった。", "qas": [ { "question": "橋台構築の次に行われる工程は何ですか?", "id": "tr-268-06-000", "answers": [ { "text": "橋桁本体の組み立て", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "橋桁本体の組み立てで使われ、大林組が設計したものとは何?", "id": "tr-268-06-001", "answers": [ { "text": "ゴライアスクレーン", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大型のゴライアスクレーンの高さは何mありますか?", "id": "tr-268-06-002", "answers": [ { "text": "30.48m", "answer_start": 446, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゴライアスクレーンの設計者は誰ですか?", "id": "tr-268-06-003", "answers": [ { "text": "大林組", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "橋桁の組み立ては、当初計画では固定端とされた右岸側から順に下弦材を左岸まで並べて全長分を結合、他の主要部は大型ゴライアスクレーンを用いて右岸から中央付近まで組み立てた後、左岸までクレーンを移動、そこから再度中央へ向けて組み立てを進め、最後に中央部で結合して完成とする予定であった。\nしかし、橋台の建設過程で右岸側が遅れたため、下弦材の組み立てについては右岸寄り2番目の部材を所定位置に置いて組み立てを開始し、順次左岸まで組み立て、最後に右岸寄り1番目の部材を結合するように変更した。\nところが、これも渇水で淀川を遡航する船運に問題が生じ、予定通りに部材が届かなくなったため作業手順の再変更を迫られた。\nこの結果、右岸寄りの一部床梁やストリンガーなどの組み立てを前倒しで行い、その後で部材到着順に左岸へ向けて下弦材を結合、左岸到達後に左岸から床梁やストリンガーの組み立てを始めて右岸寄りの組み立て済み部分に到達するまで作業を進め、床部の組み立てが終わったところで、既に組み立てが完了した下弦材と右岸橋台の間を結ぶ最後の下弦材を組み、そこの床梁とストリンガーの組み立てを行い床部全体を先に完成状態とするという、非常に込み入った複雑な作業手順とすることでこの工程での遅延の発生を最小限に抑えている。", "qas": [ { "question": "橋台の建設過程で遅れをとったのはどの部分ですか?", "id": "tr-268-07-000", "answers": [ { "text": "右岸側", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "続く上弦材の組み立て順序も、この下弦材組み立て工程の混乱の影響で組み立て順序が変更された。\n当初とは逆に左岸へ大型ゴライアスクレーンを移動してそこから中央へ向かって順に上弦材を組み立てた後、クレーンを右岸へ移動、そこから再度中央へ向けて上弦材を組み立て、最後に中央の水平な上弦材を組み付けることとなったのである。\nこの組み立て作業においては合計73,094本のリベットが使用された。\nそれらの鉸鋲作業はスケジュールの関係で夏の炎天下での実施となったが、川崎造船所から派遣された工員30名がリベット打ち5組と穿孔機2組に分かれて従事し、約60日におよぶ作業日程で鉸鋲作業を全て完了した。\nこうして組み上がった橋桁の塗装は浅野物産が担当し、同社の工員20名によりValduraAsphaltPaintと称する銘柄の塗料(色はダークグリーン)が塗布された。\n各部材には加工を行った川崎造船所で下地塗りとして光明丹が予め塗布されており、塗装工程では通常部位に2回ずつ、リベット結合部については3回ずつ塗装を行った。\nこの作業には前後30日を要し、消費された塗料の総量は約1,300ガロンに及んだ。", "qas": [ { "question": "上弦材の組み立て作業に使われたリベットは全部でいくつですか?", "id": "tr-268-08-000", "answers": [ { "text": "73,094本", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "橋桁は何色に塗られたの?", "id": "tr-268-08-001", "answers": [ { "text": "ダークグリーン", "answer_start": 360, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "橋桁の塗装作業を行った工員はどこの会社の人たちですか?", "id": "tr-268-08-002", "answers": [ { "text": "浅野物産", "answer_start": 309, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "橋桁の塗装作業で使用された塗料の量は全部でどれくらいですか?", "id": "tr-268-08-003", "answers": [ { "text": "約1,300ガロン", "answer_start": 480, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "こうして架設当時の最新技術を惜しみなく投入し、人智を尽くして工期短縮のための努力が重ねられた結果、総工費83万9千23円95銭を費やした本橋梁は、御大典を約1ヶ月後に控えた1928年10月16日に完成した。\n設計者である関場らは後日発表の論文の締めくくりにおいて「天帝の御加護に依り」と記したが、それは工事に関わったありとあらゆる人々の努力の賜であった。\n完工式には工兵第16大隊長も招待されたが、大隊長は橋梁やその架橋工事の大なることに驚き、1本2本の橋脚を立てる程度の設計変更を申し出ていれば工事を承認するつもりだったと述懐したという。\nなお、奈良電気鉄道線そのものは難航した桃山御陵付近の高架線が71日間の突貫工事の末、同年11月12日に完成し、京都での即位の礼の儀式が全て終了した同月15日、京都-大和西大寺間34.5kmがようやく全線開業した。", "qas": [ { "question": "澱川橋梁の完成年月日はいつですか?", "id": "tr-268-09-000", "answers": [ { "text": "1928年10月16日", "answer_start": 86, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "澱川橋梁の総工費はどれくらいかかりましたか?", "id": "tr-268-09-001", "answers": [ { "text": "83万9千23円95銭", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "京都-大和西大寺間が開業スタートしたのは何月の15日ですか?", "id": "tr-268-09-002", "answers": [ { "text": "11月", "answer_start": 315, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "関場の澱川橋梁架設に関する論文の終わりには何と記されていましたか?", "id": "tr-268-09-003", "answers": [ { "text": "「天帝の御加護に依り」", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "鋼材をリベットで接合して組み立てたトラス桁を、両岸に埋設された鉄筋コンクリート製橋台上に架設する。\n本橋梁では、長さ46フィート(14.02m)幅21フィート(6.4m)、壁厚2フィート6インチ(762mm)の箱形鉄筋コンクリート製基礎を埋設して橋台としている。\n橋桁は典型的な曲弦プラット分格トラス構造を採る。\n通常、この種の桁では対角材の経済的な傾斜角が45°となることから、必然的に背の高い中央部の分格長が長く、両端部の分格長が短く設計される。\nだが、本橋梁においては、仮設足場および上述したゴライアスクレーンの能力や、部材加工時の生産性向上、それに工事作業の簡略化を考慮して、全体を18に分け、各分格長を30フィート(9.144m)で統一している。\nまた、中央の第9・第10分格の上弦材は水平として桁高を下弦材から80フィート(24.38m)の位置に置き、両端の第2・第17分格の下弦材はそれぞれ第1・第18分格との接合点での高さを40フィート(12.19m)としている。", "qas": [ { "question": "澱川橋梁の橋台に用いた箱形鉄筋コンクリートの長さはどれくらいありますか?", "id": "tr-268-10-000", "answers": [ { "text": "46フィート", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "澱川橋梁の橋桁は各分格長を全ていくつで合わせていますか?", "id": "tr-268-10-001", "answers": [ { "text": "30フィート", "answer_start": 306, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "工事開始当時、奈良電気鉄道では車両限界の小さな16m級の中型電車であるデハボ1000形1両あるいは2両編成での運行を計画しており、また財政的にも決して豊かでなかったことから短尺レールを使用するなど、低規格での路線建設を進めていた。\nしかし、本橋梁の設計にあたっては財政難であったにもかかわらず、またそうした当初の車両運行計画状況であったにもかかわらず、将来の車両大型化と橋梁そのものの長命化を見越して、その列車荷重や両側構間の間隔については大きな余裕を持たせた寸法・強度が設定された。\nすなわち、列車荷重は1901年に示されたクーパー荷重にてE24とし、当時としては破格の60.8t級電車6両編成が橋梁上で行き交う状況を想定して設計し、なおかつその衝撃係数の算定に当たってAREA(AmericanRailwayEngineeringAssociation:アメリカ鉄道技術協会)の衝撃係数式を採用したため、本橋の設計衝撃力は現在の標準的な設計の約1.2倍と非常に大きな余裕が与えられている。\nまた、建築限界に影響する両側構間の中心間隔は、やはり複線分としても大きく余裕を持たせ、32フィート(9.75m)幅としている。", "qas": [ { "question": "工事開始当時に奈良電気鉄道が運行計画していた鉄道の種類は何ですか?", "id": "tr-268-11-000", "answers": [ { "text": "デハボ1000形", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "本橋は日本では前例のない巨大橋梁であることから、強風時の風圧による風荷重や気温変化による熱応力についても慎重に余裕を持たせて設計された。\n特に副応力を最小限とするため、径間中央の縦桁に伸縮点を設けている。\nもっとも風荷重については設計当時のアメリカの基準に依ったと見られ、145kg/m2とその後の日本における標準値である300kg/m2の半分以下の値として設計されている。\nただし、この値については通風時の風下側での遮蔽効果についての計算基準が現在の標準とは異なっており、計算上現在の標準の約6割しか風荷重を受けないとされている。\nこうした将来を見据えた配慮により、本橋梁は架橋から80年以上が経過し通過する電車が活荷重の大きな21m級大型電車6両編成となった2011年現在においても、設計衝撃力に大きな余裕を持たせて設計されていたことから活荷重増大分が相殺され、桁そのものについては設計に何ら手を加える必要もないまま、ほぼ完成時そのままの状態での使用が可能となっている。", "qas": [ { "question": "澱川橋梁の風荷重の2倍となる日本の標準値はいくらですか?", "id": "tr-268-12-000", "answers": [ { "text": "300kg/m2", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本の風荷重の標準値はどれくらいですか?", "id": "tr-268-12-001", "answers": [ { "text": "300kg/m2", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "本橋梁は木津川橋梁、伏見第一・第二高架橋と並ぶ奈良電気鉄道線の重要施設の一つであり、奈良電気鉄道が近畿日本鉄道へ吸収合併され同社京都線となった際にもそのまま承継された。\nそのため、完成以来実に80年以上にわたりほぼ竣工時のままの姿で、使用され続けている。\nただし、1977年に橋桁を支える主構可動支承のロッカー部分、つまり振動や熱膨張などによるずれ、あるいは伸縮を吸収する重要部品が損傷していることが明らかとなった。\nこのため、1983年に問題となった主構可動支承ロッカー部の新型支承板への交換や、縦桁支承および端対傾構ガセットなどの摩耗部材について補修を実施することで延命が図られている。\n本橋梁は2000年10月18日に近鉄澱川橋梁という名称で「国土の歴史的景観に寄与しているもの」として国の登録有形文化財(登録番号26-0073)に指定されている。", "qas": [ { "question": "澱川橋梁が竣工当時のままで継続使用されている期間はどれくらいになりますか?", "id": "tr-268-13-000", "answers": [ { "text": "80年以上", "answer_start": 96, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "澱川橋梁が国の登録有形文化財に指定された年月日はいつですか?", "id": "tr-268-13-001", "answers": [ { "text": "2000年10月18日", "answer_start": 300, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "伏見第一・第二高架橋、澱川橋梁以外の奈良電気鉄道線の重要施設は何がありますか?", "id": "tr-268-13-002", "answers": [ { "text": "木津川橋梁", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "澱川橋梁が国の登録有形文化財に登録されている正式名称は何?", "id": "tr-268-13-003", "answers": [ { "text": "近鉄澱川橋梁", "answer_start": 312, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "笹子トンネル(中央本線)", "paragraphs": [ { "context": "笹子トンネル(ささごトンネル)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)中央本線笹子駅-甲斐大和駅(トンネル建設時の名称は「初鹿野駅」)間にある、全長4,656mの単線鉄道トンネルである。1903年(明治36年)2月1日に開通した当時の正式名称は笹子隧道(ささごずいどう)であった。1966年(昭和41年)12月12日に新笹子トンネル(しんささごトンネル、全長4,670m)が開通し、笹子トンネルを下り線、新笹子トンネルを上り線として複線で運用されるようになった。", "qas": [ { "question": "笹子トンネルは、中央本線笹子駅とどの駅の間にあるの?", "id": "tr-269-00-000", "answers": [ { "text": "甲斐大和駅", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "明治初期に東京と京都を結ぶ鉄道を計画するにあたり、東海道経由と中山道経由を比較し、海岸沿いは船の便があって競合するのに対し、内陸は交通が不便であり鉄道が地域の発展に資することができる、との理由で1883年(明治16年)に中山道経由が決定された。これにより長野県の諏訪湖周辺の生糸生産地帯にも鉄道が通る予定となり、地元からは期待が持たれていた。しかし実際にこの経路に着工してみると、峻険な山岳地帯を建設するのには膨大な費用が掛かることが判明し、1886年(明治19年)に東西を結ぶ鉄道は東海道経由に変更されて、中山道経由の鉄道は実現しなかった。このため諏訪湖周辺では別途鉄道を実現したいとの希望が高まっていた。こうした地元の生糸関連業者に東京や横浜の大資本家が加わって1887年(明治20年)に計画されたのが、静岡県の御殿場から甲府を経て松本へ至る甲信鉄道であった。当時新進の技術者佐分利一嗣を雇って調査した甲府から御殿場へ至る経路は、甲府から市川大門付近まで南下しそこから芦川に沿って東進し、ケーブルで車両を牽引するインクラインを設置して精進湖へ出て、籠坂峠を越えて御殿場に至るものであった。しかしこれは鉄道局から技術的に困難であるとされて、甲府-松本間のみが免許されることになり、さらに再検討を行っているうちに国有鉄道による中央本線計画が開始されたこともあり、計画を放棄して1893年(明治26年)に免許状返納を命じられた。", "qas": [ { "question": "東京と京都を結ぶ鉄道の計画において、中山道経由が選ばれたのは、何との競合を避けるためでもありましたか?", "id": "tr-269-01-000", "answers": [ { "text": "船の便", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1883年の決定が見直されたのは、和暦で何年か?", "id": "tr-269-01-001", "answers": [ { "text": "明治19年", "answer_start": 227, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "静岡県の御殿場から甲府を経て松本へ至る甲信鉄道が計画されたのは、和暦で何年のことか?", "id": "tr-269-01-002", "answers": [ { "text": "明治20年", "answer_start": 339, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1885年の元号は、何か?", "id": "tr-269-01-003", "answers": [ { "text": "明治", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "また甲州街道に沿って東京と直結する鉄道を主張する一派もあり、雨宮敬次郎らは八王子-甲府間を結ぶ山梨鉄道を1889年(明治22年)に出願した。これは甲信鉄道の計画では甲府盆地東部に益がないことを考慮してのものであった。しかし、先願の甲信鉄道が御殿場起点を八王子起点に改める可能性があるとしてこの計画は却下された。この計画は後の中央本線にほぼ沿うものとなっており、笹子峠を越える予定とされていた。最急勾配は22.7パーミルでトンネルの長さは約2kmとされていたが、これが本当に可能であったかは疑問視されている。", "qas": [ { "question": "1888年の元号は、何?", "id": "tr-269-02-000", "answers": [ { "text": "明治", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "後の中央本線にほぼ沿うものである計画とは、何を敷設するとの計画のことですか?", "id": "tr-269-02-001", "answers": [ { "text": "山梨鉄道", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "一方、西南戦争に伴う軍事輸送などで、鉄道の威力を認識した大日本帝国陸軍は、1887年(明治20年)に、当時の参謀本部長有栖川宮熾仁親王からの建議案において、海岸近くに敷設する鉄道は、海上の敵からの攻撃を受けて、破壊されやすく防備上不利であり、内陸を貫通する鉄道が必要であると主張した。こうしたこともあり、鉄道局長官井上勝も、1891年(明治24年)の「鉄道建設ニ関スル議」という建白書で、山梨・長野の物産の輸送に資して、経済的にも利点があることに軍事上の利点を加えて、東京と名古屋を結ぶ鉄道の建設を直ちに着工する必要があると指摘した。こうして1892年(明治25年)6月に鉄道敷設法が帝国議会で成立し、その筆頭に「神奈川県下八王子若ハ静岡県下御殿場ヨリ山梨県下甲府及長野県下諏訪ヲ経テ伊那郡若ハ西筑摩郡ヨリ愛知県下名古屋ニ至ル鉄道」が挙げられた。。その後比較路線の検討が行われ、八王子を起点とする経路が1894年(明治27年)の第6回帝国議会において承認を受けた。笹子峠周辺の経路についても、複数案が検討されていた。笹子からそのまま西進して摺針峠(原文では摺張山脈と記載)を越えて黒駒、石和を通るものがあり、全長14マイルにおよぶアプト式のラック鉄道が必要とされた。また大月から南下して吉田を経て河口湖へ出て、御坂峠(八町峠)を越えて、藤の木・黒駒・石和と通る経路もあったが、距離が伸びて建設費も増加するため採用されなかった。こうして笹子峠を通過するルートが採用されることになった。", "qas": [ { "question": "1887年、有栖川宮熾仁親王は、海岸側に敷設された鉄道は何により破壊される恐れがあるため、内陸を貫通する鉄道が必要であると主張したの?", "id": "tr-269-03-000", "answers": [ { "text": "海上の敵からの攻撃", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1887年の有栖川宮熾仁親王の建議と同様に、1891年に内陸を貫通する鉄道の必要について指摘したのは、誰ですか?", "id": "tr-269-03-001", "answers": [ { "text": "官井上勝", "answer_start": 156, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "鉄道敷設法が成立したのは、和暦で何年のことか?", "id": "tr-269-03-002", "answers": [ { "text": "明治25年", "answer_start": 277, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "八王子を起点とする経路が承認されたのは、いつか?", "id": "tr-269-03-003", "answers": [ { "text": "1894年", "answer_start": 401, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "鉄道敷設法により中央本線の建設が決定した後、八王子起点か御殿場起点かを決定するための実測が1893年(明治26年)に行われた際には、笹子峠を15分の1(66.7パーミル)勾配のアプト式ラック鉄道で越える計画となっていた。しかしその輸送力の小ささに陸軍が難色を示し、翌1894年(明治27年)に再度の測量が行われ通常の粘着式鉄道により勾配を30分の1(33.3パーミル)とした線および40分の1(25パーミル)とした線の2案が作られて比較された。15分の1線に対し、30分の1線は1マイル19チェーン(約2.0km)、40分の1線は2マイル54チェーン(約4.3km)長く、笹子トンネルの長さはそれぞれ10,560フィート(約3,219m)、15,576フィート(約4,748m)と見積もられた。この区間全体に対する工費見積もりはそれぞれ513万8974円、617万9761円で、うちトンネルの工費見積もりはそれぞれ158万4000円、272万5800円とされた。このように40分の1線を採用すると工費は増加するのであったが、その差は少ないと見なされ、またより線形に優れた線路を建設できるとされて、40分の1線が採用されることになった。なおこれにより選択されたトンネルは、厳密には笹子峠ではなく米澤峠の下を通ることになった。", "qas": [ { "question": "1894年の再度の測量により作られた2案のうち、15分の1線との差がより大きいのは、どれなの?", "id": "tr-269-04-000", "answers": [ { "text": "40分の1線", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1894年の再度の測量により作られた2案のうち、トンネルの長さがより長く見積もられたのは、どれですか?", "id": "tr-269-04-001", "answers": [ { "text": "40分の1線", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1894年の再度の測量により作られた2案のうち、最終的に採用されたのは、どれか?", "id": "tr-269-04-002", "answers": [ { "text": "40分の1線", "answer_start": 436, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "笹子トンネルは中央東線の中でももっとも難工事が見込まれ、およそ8年の工期が予定されていた。このため中央東線全体を早く開通させるためになるべく早く着工する必要があり、1896年(明治29年)5月に八王子に建設工事の事務所が設置されると、すぐに路線建設のための詳細な測量を開始した。6月上旬に笹子峠の三角測量および水準測量が開始され、10月下旬に終了した。この際には雲や霧で見通しが遮られて大変な苦労をしたとされる。笹子側および初鹿野側に基線を設け、峠の上に設置した三角点との間での三角測量を実施した。トランシットは当初測定精度が1分角のものしかなくしかも古かったために苦労することになった。三角測量との検測を行うために定規を使った測量も行われ、梯子を掛けたり縄を垂らしたりして断崖をよじ登りながら苦労して測定が行われ、結果として三角測量との差は小さかったことから三角測量の値が採用された。水準測量については甲州街道に沿って測量を行い高低差を確定した。その後、トンネルの向きに少し変更が必要とされることになったため、12月に改測を行って最終確定とした。この改測では当時最新のトランシットを導入して20秒角まで測定できるようになり、精度が改善された。", "qas": [ { "question": "笹子トンネルの建設工事の事務所が、八王子に設置されたのは、何年のこと?", "id": "tr-269-05-000", "answers": [ { "text": "1896年", "answer_start": 82, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "笹子トンネルの建設計画が確定されたばかりの頃、トンネル完工には何年が必要だと予測されていましたか?", "id": "tr-269-05-001", "answers": [ { "text": "8年", "answer_start": 31, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "最終確定したトンネルは、北都留郡笹子村字黒野田に東側坑口を設け、東八代郡日影村を通って東山梨郡初鹿野村に西側坑口を設けるものとなった。東口は笹子川の峡谷のほぼ終点にあり両側とも山に囲まれた地形で、西口は日川の断崖に面した位置にある。線形は、両側坑口の外に半径20チェーン(約400m)の曲線があるもののトンネル内は完全な一直線で、山脈をほぼ直角に横断することからトンネルを最短距離に抑えられている。方角は真南から東側へ35度-真北から西側へ35度の線である。キロ程では八王子起点33マイル20チェーン50リンク(約53.2km)から36マイル11チェーン50リンク(約57.8km)の延長2マイル71チェーン(約4,647.2m)となり、また標高は両側坑口で2044.05フィート(約623.0m)、トンネル内の勾配は800分の1(1.25パーミル)で最高点標高が2053.58フィート(約625.9m)となった。当初の概算予算に対してより詳細な見積もりを行う際には、この規模のトンネルの前例がないため見積もり根拠に苦労することになった。結局通常のトンネルの倍を要するものとして1フィート(約30cm)あたり250円(うち工費150円、材料費100円)とし、総予算は383万円と見積もった。", "qas": [ { "question": "笹子トンネル建設工事の予算における、工費と材料費のうち、1フィートあたりの金額がより高いのは、どちらなの?", "id": "tr-269-06-000", "answers": [ { "text": "工費", "answer_start": 511, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "最終的に確定された笹子トンネル建設工事の総予算は、いくらですか?", "id": "tr-269-06-001", "answers": [ { "text": "383万円", "answer_start": 533, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "笹子トンネルの東側坑口は、どこに設けられたか?", "id": "tr-269-06-002", "answers": [ { "text": "北都留郡笹子村字黒野田", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "笹子トンネルでは、建設に際して地質学者の協力を得て地質調査を行ったことも特徴で、以後は地質調査を事前に行うことが定例となった。トンネルを掘る部分の地質はほぼ全山で類似すると推定されたが、おおむね南西から北東に下降する形の地層となっており、笹子側は粘板岩や砂岩が主体で、初鹿野側は石英閃緑岩が露出するがその層は薄いとされた。もし、トンネルの位置が1マイルでも東か西へずれていたらほとんどの区間で硬い花崗岩に遭遇して困難に直面していたであろうことが予想され、偶然ではあるがトンネルを掘りやすい良好な地質の場所が選ばれたことになる。", "qas": [ { "question": "地質調査を事前に実施するシステムが定着したのは、何の建設工事からのことなの?", "id": "tr-269-07-000", "answers": [ { "text": "笹子トンネル", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "工事に使用する資材は、一部は現場付近で調達できるものがあったが、爆薬・セメント・鋼材・石炭などは遠隔地から輸送しなければならず、峻険な山を越えるか急流を遡っての輸送は大変な困難が伴った。資材輸送の遅延により工事の進行に支障をきたすことも多く、また輸送費も多額のものとなった。東口へは2通りの輸送路があり、八王子から小仏峠を越えて17里(約66.8km)の距離を輸送するもの、もう1つは東海道本線御殿場駅から篭坂峠を越えて17里の距離を輸送するものであった。いずれも雨の降った後は泥濘と化す道で困難が多く、発送から現地への到着まで1か月を要するほどであった。1902年(明治35年)になり工事列車の運転区間が伸びてくるとそれに頼るようになったが、これによる輸送は結局一部のみであった。西口へは東海道本線岩淵駅(現在の富士川駅)から富士川を遡り鰍沢に揚陸し、甲府・勝沼を経て輸送した。鶴瀬村(甲州市大和町鶴瀬)から先は車馬の通れる道が無く、工事を行って1マイル27チェーン(約2,140m)の馬力牽引の資材運搬線路を敷設した。こちらもやはり発送から1か月ほどかかる道のりであった。", "qas": [ { "question": "笹子トンネルの建設工事において、現場付近では調達できず、遠隔地から大変な輸送過程を経て調達した資材としては、爆薬・セメント・鋼材のほかに、何が挙げられていますか?", "id": "tr-269-08-000", "answers": [ { "text": "石炭", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "八王子と東海道本線御殿場駅、東海道本線岩淵駅のうち、東口への輸送路の出発地ではないのは、どちらか?", "id": "tr-269-08-001", "answers": [ { "text": "岩淵駅", "answer_start": 350, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "笹子トンネルの建設工事が行われた時期に、今の富士川駅は何駅と呼ばれていたか?駅名だけで答えなさい。", "id": "tr-269-08-002", "answers": [ { "text": "岩淵駅", "answer_start": 350, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "トンネルの覆工に用いた煉瓦は、基本的に現地で調達された。必要とされる量が多く重いため遠距離の輸送は高くつくからである。東口では黒野田と初狩に製造所を置いたが良質の粘土が手に入らないため深谷産(日本煉瓦製造)のものに比べて品質は劣った。後に工事列車が猿橋駅まで運転できるようになると深谷産のものも一部使用されたが、その割合は少なかった。西口については駒飼・小佐手での製造の他山梨煉瓦製造製のものを使用し、これは東口よりは品質がよかったが深谷産のものほどではなかった。石材と砂は坑口の近くで採集することができ輸送の必要が無かった。支保工やセントル材(覆工を施工する際の型枠)に使用する木材は主に松が用いられ、東口では初狩村や広里村から調達された。西口では近くに適当な松林がなく、北巨摩郡方面もしくは東口側から笹子峠を越えて輸送したため費用が高くついた。この他、現地に設置した蒸気機関の運転の燃料には付近の森林から調達した薪を用いていた。石炭も使用され、火力が強く利便性がよいという長所があったものの、長距離輸送に伴う高価格のため、経済的には薪の方が良好であった。", "qas": [ { "question": "支保工やセントル材に使用する木材を近くから調達できたのは、東口と西口のうち、どちらなの?", "id": "tr-269-09-000", "answers": [ { "text": "東口", "answer_start": 302, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "支保工やセントル材に使用する木材を調達するのにより高くの費用が掛かったのは、東口と西口のうち、どちらですか?", "id": "tr-269-09-001", "answers": [ { "text": "西口", "answer_start": 321, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "現地に設置した蒸気機関の運転の燃料として使われた2つの材料のうち、経済的により優秀な材料であったのは、何か?", "id": "tr-269-09-002", "answers": [ { "text": "薪", "answer_start": 468, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "現地に設置した蒸気機関の運転の燃料として使われた2つの材料のうち、火力や利便性において優秀であった材料は、何か?", "id": "tr-269-09-003", "answers": [ { "text": "石炭", "answer_start": 416, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "中央東線の八王子-甲府間は全部で21の工区に分割して工事が行われ、多くの工区は請負によることにしたが、途中の難工事が予想される区間は一定の条件に基づく請負が難しかったこともあり、その前後の区間や付帯工事を含めて直営で工事を行うことにされた。笹子トンネルは中央東線第16工区に属していたが、やはり難工事が予想されたことからこのトンネルと前後の区間のみ直営工事とされた。八王子に出張所を設置以来、所長は技師の古川阪次郎が務め全般の監督を行ったが、笹子トンネルに関しては勝沼に派出所がおかれ、当初は岡村初之助が、1897年(明治30年)10月から小川東吾が、1899年(明治32年)3月から岸金三郎が工事の監督を務めた。1902年(明治35年)4月からは勝沼派出所が廃止されて八王子出張所直轄となった。また山本信要が現場監督を務めた。1896年(明治29年)12月9日に着工となった。東口は笹子川から坑口に至るまで約5チェーン(約100m)を切土とする工事から始め、本坑掘削に着手したのは12月22日となった。一方の西口では、日川の断崖に面していてそのままでは掘削ができないため、12月9日より本坑に取り付くための横坑を掘削した。この横坑は下り列車に対して左側(西側坑口を外から見ると右側)にあり、本坑と42度55分の角度で全長172フィート5インチ(約52.6m)を掘削して1897年(明治30年)1月15日に本坑に到達し、そこから西側坑口へ222フィート(67.7m)戻って2月29日に日川の断崖へ到達した。これ以外には斜坑や立坑を用いて取り付くのに適当な谷筋などがなかったため、両側からの掘削のみに頼って工事が行われた。", "qas": [ { "question": "1898年に笹子トンネルの建設工事の監督を務めたのは、誰?", "id": "tr-269-10-000", "answers": [ { "text": "小川東吾", "answer_start": 270, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "笹子トンネルの建設工事が着工となった時期には、誰が工事の監督を務めていましたか?", "id": "tr-269-10-001", "answers": [ { "text": "岡村初之助", "answer_start": 246, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "東口と西口のうち、本坑掘削への着手時期がより遅かったのは、どちらか?", "id": "tr-269-10-002", "answers": [ { "text": "西口", "answer_start": 455, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "工事は頂設導坑を先進するという日本式の建設工法が採られた。これは最初に掘る導坑をトンネルの天井付近に位置させ、そこから下へ向かって切り広げていくものであった。当時一般的には底設導坑先進が採られており、この方法だとずりの積み込みや運搬が容易であるという利点があるのに対して、頂設導坑先進ではその利点がないばかりか、下へ向かって切り広げを行うたびにずり輸送のトロッコの線路を敷き直さなければならないという欠点があった。これにもかかわらず頂設導坑先進を採用した理由は明確にはなっていない。まず天井付近の中央に導坑を掘り、その後第1切り広げとして両側へ広げ、第2切り広げで中段まで全体を掘り下げ、第3切り広げで底部中央を掘り、その後排水溝を中央に掘削した後、第4切り広げで底部両側面へ掘るという順序で工事が行われた。その後、排水溝部分の煉瓦や石畳を構築し、側壁の煉瓦積みを行い最後に上部のアーチの覆工を行った。掘削は、1フィートから2フィート程度の穴を掘ってそこにダイナマイトを詰め、発破を行って岩石を破砕していく方法が採られた。ダイナマイトを詰める穴の掘削は当初は手掘りで、後に削岩機を導入したがほぼ導坑のみに使用し、その後の切り広げは依然として手作業に頼っていた。", "qas": [ { "question": "頂設導坑先進とは、どの国特有の建設工法であるの?", "id": "tr-269-11-000", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 15, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "掘削には、何を用いる方法が採用されましたか?", "id": "tr-269-11-001", "answers": [ { "text": "ダイナマイト", "answer_start": 428, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "排水溝を中央に掘削する作業は、第3切り広げと第何切り広げの間に行われるか?", "id": "tr-269-11-002", "answers": [ { "text": "第4切り広げ", "answer_start": 325, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "坑内における作業員の避難所として、マンホールを2チェーン(約40m)おきに合計115か所、下り列車に対して本線左側に設置した。また両側坑口から3100フィート(約945m)、5600フィート(約1,707m)、および中央点の合計5か所は大マンホールとした。工事中は監督員の仮詰所を設置したり、工事資材の倉庫として利用したりした。また将来的に複線化を行う際には、これらのマンホールのうち12か所から横坑を掘削して同時に着手することで、工期を2年程度に短縮することも考えられていた。工事中、1897年(明治30年)7月から8月にかけて山梨県内において赤痢の流行が発生し、特に笹子側にあたる北都留郡の流行は激しかった。人夫の感染予防に努めて工事を中止することは無かったが、それでも一時的に作業員の数が減少して工事の進捗に影響が出た。また1898年(明治31年)には不況の影響で予算が減額され、導坑から第3切り広げまでの工事のみを行って第4切り広げおよび覆工の工事は中断することになった。翌1899年(明治32年)には状況が回復して第4切り広げ以降の作業の進行改善に努めたが、この遅れにより多少の重複作業が発生するなど効率に影響を及ぼした。", "qas": [ { "question": "両側坑口から坑内に設けられた作業員の避難所への距離を比較した時、その距離がより長いのは、何フィートに至るの?", "id": "tr-269-12-000", "answers": [ { "text": "5600フィート", "answer_start": 87, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "作業員の避難所は工事中に、工事資材の倉庫のほかに、何として使われましたか?", "id": "tr-269-12-001", "answers": [ { "text": "監督員の仮詰所", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1897年7月から8月の間に、工事の進捗に影響を及ばしたのは、何の流行であるか?", "id": "tr-269-12-002", "answers": [ { "text": "赤痢の流行", "answer_start": 273, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "笹子トンネルの工事では、古川阪次郎の指揮により次々に新技術が導入されたことも特徴となっている。まず削岩機を西口で1897年(明治30年)9月12日から、東口では10月30日から運転を開始した。削岩機は北陸本線柳ヶ瀬トンネル(1,352m)の工事で初めて日本に導入されたもので、この時点では前例はあまり多くなかったが、中央東線全体の開通時期を左右する重要な工事であり特に硬い岩では手作業より効率に優れるのは明白であったため導入が決定された。当初は作業員が不慣れで手間取ることもあったが、熟練するにつれて改善され効率向上に大きな力を発揮した。", "qas": [ { "question": "削岩機が利用され始めた時期がより早いのは、東口と西口のうち、どちらか?", "id": "tr-269-13-000", "answers": [ { "text": "西口", "answer_start": 53, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本で初めて削岩機が導入されたのは、何の工事なの?", "id": "tr-269-13-001", "answers": [ { "text": "北陸本線柳ヶ瀬トンネル", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この削岩機は、坑外に設置した蒸気機関により空気圧縮機を運転し、圧縮空気を鉄管で坑内に送ってその圧力により動作する仕組みになっていた。長いトンネルでは換気の問題が常に生じ、特に坑口付近に切土区間があって換気条件が悪い東口においては唐箕を用いて送風を試みるほどであったが、この圧縮空気で動作する削岩機は使用後の空気がそのまま坑内に排出されるため換気の効果も期待された。このため1898年(明治31年)の予算縮減で経費不足により削岩機の使用を一時中断した際にも、送風のみは続行した。設置されたボイラーは東西とも伝熱面積160平方フィート(約14.9平方メートル)、圧力80psi(約550kPa、約5.5気圧)の公称16馬力のもので、さらに1900年(明治33年)8月に小仏トンネルで使用されていた同一仕様のボイラーが東口に増設されて2台となった。また西口では電力を利用して1900年(明治33年)9月からウェスティングハウス・エレクトリック製の直流100V40馬力電動機を運転して空気圧縮機を駆動するようになり、従来の蒸気機関を廃止して、良好な結果を得た。削岩機は当初切り広げでの使用も行ったが、もっとも掘削が困難で全体の進行に影響を与えるのは導坑掘削であったため、最終的にすべて導坑掘削のみに削岩機を投入した。当初は東西それぞれ3台ずつ使用したが常時2台を使用している状況で不足が感じられたため、輸入品を基に国内で7台を模造し、さらに1台を別途導入して、結局東西7台ずつ合計14台で運用した。", "qas": [ { "question": "削岩機は、何が坑内に送られることにより生じる圧力で動作する仕組みになっていましたか?", "id": "tr-269-14-000", "answers": [ { "text": "圧縮空気", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "削岩機は、坑内における何の条件を改善する役割まで期待されたか?", "id": "tr-269-14-001", "answers": [ { "text": "換気条件", "answer_start": 100, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2台の削岩機が運用されるようになったのは、何年からか?", "id": "tr-269-14-002", "answers": [ { "text": "1900年", "answer_start": 317, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "通信手段も用意され、1897年(明治30年)10月には八王子-黒野田-初鹿野-勝沼を結んで電信が開通して、以後資材の輸送計画などに用いられた。また1899年(明治32年)になり電力が得られるようになると、発電所・工事事務所・坑内の大マンホールを結んで電話が設置され、それまで工事計画や材料の輸送などの伝達に往復2時間もかけていたところを一瞬に短縮して大幅に効率を改善した。坑内では当初カンテラが照明に用いられており、また作業員の人数が増加するとその呼吸もあって坑内の空気が汚染されて作業効率を非常に害するようになってきた。そのため削岩機の運転により換気を行うようになりやや改善されたが、さらなる改善のためにカンテラを廃して電灯を点灯することになった。日本でトンネル工事に電灯を利用したのも初めてである。東口では1899年(明治32年)6月に電灯設備を起工し11月から使用を開始した。坑口の200間(約364m)上流の笹子川に堰堤と水門を設置して取水し、173間(約315m)の水路を流れて鉄管に入り水車を駆動する水力発電所を設置した。水車はジョンスバートン製の横軸ダブルディスチャージヴォルテックスタービンで20馬力、落差32フィート(約9.8m)、毎分235回転のもので、発電機は三吉商会製125V・120A・15kWの直流発電機であった。これでさらに不足してくると小仏トンネルで使用していた発電機が増設され1901年(明治34年)6月14日に運転開始した。これも水車はジョンスバートン製横軸ダブルディスチャージヴォルテックスタービンで15馬力、落差32フィート、毎分185回転で、発電機は石川島造船所製125V・60Aの直流発電機であった。最終的に坑内と坑外を合わせて276個の電灯を点灯した。", "qas": [ { "question": "1897年に工事計画や材料の輸送にかかる時間短縮という大きな変革をもたらしたのは、何の設置であるの?", "id": "tr-269-15-000", "answers": [ { "text": "電話", "answer_start": 125, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "笹子トンネルの建設工事は、日本で初めてトンネル工事に何を利用したとして評価されますか?", "id": "tr-269-15-001", "answers": [ { "text": "電灯", "answer_start": 335, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "笹子トンネルの東口には、合計何個の電灯が利用されたか?", "id": "tr-269-15-002", "answers": [ { "text": "276個", "answer_start": 736, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "笹子トンネルの建設工事で電灯を利用できたのは、何年から電力が得られるようになったからか?", "id": "tr-269-15-003", "answers": [ { "text": "1899年", "answer_start": 73, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "西口では1899年(明治32年)10月に起工し1900年(明治33年)6月23日から電灯の使用を開始した。坑口から20チェーン(約400m)上流の日川に堰堤を設置して取水し12チェーン50リンク(約250m)の水路を導水した。水車はジェームスレッフェル製横軸シングルディスチャージタービンで68馬力、落差50フィート(約15m)、毎分557回転のもので、発電機はウェスティングハウス・エレクトリック製125V・450A・56.25kWのものを設置した。これにより最大で273個の電灯を点灯した。これらの電灯の設備により空気の汚染を軽減しただけではなく、明るい光量を得て作業能率を大いに改善する効果があった。また、掘削した岩石のずりを運びだし、必要とされる資材を坑内へ運び込む作業も重要であった。ずりに関しては、トンネル坑口の外における路線の盛土用に多くを転用したが、最大で1マイル(約1.6km)以上も先まで土砂を捨てに行く必要があり、坑内から合わせると最大3マイル(約4.8km)もの運搬距離となった。これは線路を敷設してトロッコでの運搬を行い、1ヤード当たり20ポンド(約10kg/m)のレールを用い坑内上段では軌間2フィート(約609mm)、下段では3フィート(約914mm)とした。当初は人力で運搬していたが、東口では1900年(明治33年)2月から水力発電所の電力を利用して電気機関車の運転を開始した。また西口では1898年(明治31年)7月に馬力が導入され、さらに1901年(明治34年)1月に牛力に変更された。牛馬の力は電力ほど優れていなかったが、人力よりははるかに優れていたとされる。", "qas": [ { "question": "東口では1899年6月に電灯設備を起工し11月から使用を開始したが、西口と比べた時、電灯の使用開始の時点がより遅いのは、どちらですか?", "id": "tr-269-16-000", "answers": [ { "text": "西口", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "東口では合計276個の電灯が利用されたが、西口と比べたら、どちらで利用された電灯の数がより少ないの?", "id": "tr-269-16-001", "answers": [ { "text": "西口", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "馬力と牛力のうち、西口において導入された時期がより早いのは、どちらか?", "id": "tr-269-16-002", "answers": [ { "text": "馬力", "answer_start": 627, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "笹子トンネル東口で運転された電気機関車は、国鉄の記述した資料などでは日本初であるとするものがあるが、実際には足尾銅山などで使用の先例があると指摘されている。導入に当たっては軌間を30インチ(762mm)に変更している。また電力は別途発電所を建設しており、やはり笹子川の上流から導水し、水車はジェームスレッフェル製横軸ダブルディスチャージタービン46.5馬力、落差80フィート(約24m)、毎分900回転のものを、発電機はゼネラル・エレクトリック製550V・90A・45kWのものを設置した。これを架空式の電車線に送電し、電気機関車はボールドウィン・ロコモティブ・ワークスおよびウェスティングハウス・エレクトリック製の2軸12トン15馬力の鉱山用機関車を導入した。また貨車はアルトゥル・コッペル製のものであった。電気鉄道導入の効果は大きく、坑内の空気を汚染しないばかりか、それまでずりが坑内に溜まりがちで工事に支障を来すことがあったのが一掃され、逆に運ぶものが無いと掘削を催促されるほどであった。材料の運搬にも便利で不要な資材を坑内に保管する必要が無くなり、現場の整理整頓が進んだ。また作業員の入退出においても便乗することができ労力の軽減につながった。", "qas": [ { "question": "一部では笹子トンネル東口で運転された電気機関車を日本初としないが、それはどこで使用されたという先例があるからか?", "id": "tr-269-17-000", "answers": [ { "text": "足尾銅山", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ゲオルク・ビューヒナー", "paragraphs": [ { "context": "ゲオルク・ビューヒナーはヘッセン大公国に生まれ、フランス領ストラスブール、次いで地元ギーセンで医学を学ぶ。ギーセン大学在学中に反体制運動に関わり、ルートヴィヒ・ヴァイディヒとともに扇動文書『ヘッセン急使』を執筆した。しかし扇動は失敗に終わり、警察の手を逃れて亡命、ストラスブール、次いでチューリヒで自然科学の研究に携わったが、チフスに罹患し23歳で客死した。\n\nその短い生涯の間に書かれた文学作品『ダントンの死』『レンツ』『レオンスとレーナ』『ヴォイツェック』は20世紀になってから再発見され、自然主義、表現主義をはじめ後世の文学に大きな影響を与えた。彼の名を冠したゲオルク・ビューヒナー賞は、現代ドイツにおいて最も権威のある文学賞である。", "qas": [ { "question": "ゲオルク・ビューヒナーを死に至らせた質病は何でしたか。", "id": "tr-270-00-000", "answers": [ { "text": "チフス", "answer_start": 163, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゲオルク・ビューヒナーの名を冠した賞は何ですか。", "id": "tr-270-00-001", "answers": [ { "text": "ゲオルク・ビューヒナー賞", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゲオルク・ビューヒナーは何歳で亡くなったか。", "id": "tr-270-00-002", "answers": [ { "text": "23歳", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ゲオルク・ビューヒナーは1813年、ヘッセン大公国のダルムシュタット近郊の小村ゴッデラウに医師の息子として生まれた。父方は代々風呂屋を生業とする家系であったが、ゲオルクの高祖父の代から外科医の仕事を家業とし、ゲオルクの父エルンスト・カール・ビューヒナーもこの仕事についている。エルンストはナポレオン軍に従軍医師として参加した経験を持ち、彼自身ナポレオンの信奉者だった。エルンストは夕刻になると、フランス革命の後に出版された雑誌『現代』を子供たちの前でたびたび朗読し、それに自身の体験を補足して聞かせていたという。一方母カロリーネの家系であるロイス家は代々官僚を務めており、カロリーネの父ももともとはアルザス地方の高級官僚であったが、フランス革命の時にこの地方がフランス共和国に統合されたため、幼い子供たちを連れてヘッセンに逃れてきた。フランスびいきのエルンストとは逆にカロリーネは愛国主義者であり、シラーやドイツ・ロマン派の文学作品を愛好するなど教養ある女性であった。彼女は幼いゲオルクに聖書や民話を語って聞かせ、また初歩的な読み書きを教えた。", "qas": [ { "question": "ゲオルクの父は誰の信奉者でしたか。", "id": "tr-270-01-000", "answers": [ { "text": "ナポレオン", "answer_start": 144, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "雑誌『現代』はフランス革命の後に出版されたの、前に出版されたの?", "id": "tr-270-01-001", "answers": [ { "text": "後", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ゲオルクの母の名前は何ですか。", "id": "tr-270-01-002", "answers": [ { "text": "カロリーネ", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ゲオルクは6人兄弟の長男であった。早世したゲオルクを除けば兄弟はみな長寿を全うしており、それぞれの分野で優れた業績を残している。次男のヴィルヘルム・ビューヒナーは成功した化学工場の所有者であり、ヘッセン州議会の議員にもなっている。三男ルートヴィヒ・ビューヒナーは医業を継ぎつつ、生物学的唯物論の著書『力と質量』によって国際的な評価を得た哲学者であり、当時は兄ゲオルクをしのぐ名声を得ていた。ゲオルクの最初の著作集を出版したのもルートヴィヒである。次女ルイーゼは、兄ゲオルクをモデルとした小説『ある詩人』などの著書のある作家であり、また初期の女性解放運動にも関わっている。末子アレクサンダーは1848年の革命運動の際にフランスに移り、この地で文学史の教授の職を得ている。しかし彼は、自分のもっとも身近にあった才能には気付かなかった。", "qas": [ { "question": "ゲオルクの兄弟のうち、長男は誰ですか。", "id": "tr-270-02-000", "answers": [ { "text": "ゲオルク", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゲオルクの兄弟のうち、一番先に亡くなったのは誰なの?", "id": "tr-270-02-001", "answers": [ { "text": "ゲオルク", "answer_start": 21, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "『力と質量』の著者は誰?", "id": "tr-270-02-002", "answers": [ { "text": "ルートヴィヒ・ビューヒナー", "answer_start": 117, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アレクサンダーの方が年下なの、ゲオルクの方が年下なの?", "id": "tr-270-02-003", "answers": [ { "text": "アレクサンダー", "answer_start": 287, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "神学者の経営する私塾で予備教育を受けた後、ビュヒーナーは1825年にダルムシュタットのギムナジウムに入学する。ここでビューヒナーはラテン語、ギリシャ語、イタリア語、ドイツ語、宗教学、歴史学、考古学などの分野で優れた成績を残したが、数学は苦手分野であった。\n\nギムナジウムでは、ビューヒナーは親しい友人たちからなるグループで政治談議を行い、またシェイクスピアの輪読会を開くなどしている。ビューヒナーはこの時期に文学作品を濫読しており、シェイクスピア、ゲーテ、ホメロス、アイスキュロス、ソフォクレスを好んだほか、ジャン・パウルやヘルダー、ロマン派の作家や当時のフランス文学も評価していた。この時期に特にビューヒナーが感銘を受けていたのはゲーテの『ファウスト』であり、一方シラーについては、尊敬しながらもその修辞的な文章を批判していた。\n\nビューヒナーのギムナジウム時代の作文として「自殺についての一論文への批判」、小カトーの自死を弁護する「ウティカのカトー論」、三十年戦争での戦死者をテーマにした「四百人のプフォルツハイム人の壮烈な戦死」の3編がまとまった形で残っており、名誉の死を称えるこれらの文章にはフィヒテ『ドイツ国民に告ぐ』からの強い影響が窺える。", "qas": [ { "question": "ビュヒーナーはいつダルムシュタットのギムナジウムに入学しましたか。", "id": "tr-270-03-000", "answers": [ { "text": "1825年", "answer_start": 28, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ギリシャ語、イタリア語、数学のうち、ビューヒナーが一番苦手だった分野は何でしたか。", "id": "tr-270-03-001", "answers": [ { "text": "数学", "answer_start": 115, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「四百人のプフォルツハイム人の壮烈な戦死」は何をテーマにした作文でしたか。", "id": "tr-270-03-002", "answers": [ { "text": "三十年戦争での戦死者", "answer_start": 429, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ギムナジウム時代、ビューヒナーに特に感銘を与えた文学は何でしたか。", "id": "tr-270-03-003", "answers": [ { "text": "ゲーテの『ファウスト』", "answer_start": 316, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ギムナジウムを卒業したビューヒナーは、半年ほど父の元で医学研究の準備をした後、1831年にフランス領ストラスブールに留学、父の意向に従ってストラスブール大学の医学部に籍を置いた。ドイツとの境に位置する地理的特徴から、当時のストラスブールはドイツとフランスの革命運動・思想の合流点となっており、ビューヒナーは前年に起こった7月革命の余波のなかで先進的な政治思想を吸収した。大学でも神学部生のサークル「オイゲニア」に準会員として参加し政治に関する意見を戦わせるなどしている。1832年にフランクフルト蜂起がドイツで起こった際には、暴動の経緯ドイツにおける市民革命の可能性の低さを嘆じる手紙を家族に送っており、翌年には当時勢力のあったサン=シモン派の思想への批判を書き付けている。\n\n下宿先は母方の親戚から紹介されたプロテスタントの牧師の家であったが、ビューヒナーはここで牧師の一人娘ヴィルヘルミーネ・イェーグレ(愛称ミンナー)と恋仲になり、後に密かに婚約、故郷に戻った後に両親に打ち明け正式に婚約者となっている。\n\n勉学の傍らで、ビューヒナーは近くのヴォゲーゼンの山々を歩き自然を満喫した。このときの体験が、後に『レンツ』などにも描かれるビューヒナーの自然観にも影響を与えている。", "qas": [ { "question": "ビューヒナーのストラスブール留学生活は何年から始まりましたか。", "id": "tr-270-04-000", "answers": [ { "text": "1831年", "answer_start": 39, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ストラスブール大学の神学部生サークルの名前は何ですか。", "id": "tr-270-04-001", "answers": [ { "text": "「オイゲニア」", "answer_start": 198, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ドイツのフランクフルト蜂起は何年に勃発したか。", "id": "tr-270-04-002", "answers": [ { "text": "1832年", "answer_start": 235, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビューヒナーが近くのヴォゲーゼンの山々を歩き自然を満喫した経験は、どの作品に影響を与えましたか。", "id": "tr-270-04-003", "answers": [ { "text": "『レンツ』", "answer_start": 504, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2年間の留学を終えたビューヒナーは、1833年7月にダルムシュタットに戻り、地元のギーセン大学医学部に移った。シュトラースブルクでの開放的な生活や自由な雰囲気に比べ、谷間の田舎町であるギーセンでの生活は彼の気を滅入らせ憂鬱にさせた。当時ギーセン大学には著名な化学者ユストゥス・フォン・リービッヒがいたものの、ビューヒナーが専攻した生理学・解剖学の分野はストラスブールに比べ遅れていた。なかでも解剖学の主任教授ヴィルブラントは旧態依然とした生理学理論を振りかざし、血液の循環を否定するなどして学生たちの間で笑いものになっていた。ビューヒナーは後に彼をモデルにした変人の医師を戯曲『ヴォイツェック』に登場させている。ビューヒナーはこの時期、シュトラースブルクでの生活を懐かしむ手紙を友人やヴィルヘルミーネに送り、自身の境遇を「みじめな生活」と言い表している。旧友ともあまり付き合おうとしなくなり、周囲の人間に対し高慢で冷淡な態度を取るようになっていた。憂鬱な生活を送るうちに、この年の11月に脳膜炎に罹り、実家で翌年の1月まで養生することになった。", "qas": [ { "question": "ビューヒナーの留学生活は何年間続いたの?", "id": "tr-270-05-000", "answers": [ { "text": "2年間", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "解剖学の主任教授ヴィルブラントをモデルにしたキャラクターはビューヒナーのどの作品に登場しますか。", "id": "tr-270-05-001", "answers": [ { "text": "『ヴォイツェック』", "answer_start": 288, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ビューヒナーが脳膜炎に罹ったのは何年のことですか。", "id": "tr-270-05-002", "answers": [ { "text": "1833年", "answer_start": 18, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ビューヒナーはダルムシュタットとシュトラースブルクのうち、どちらでの生活をより好みましたか。", "id": "tr-270-05-003", "answers": [ { "text": "シュトラースブルク", "answer_start": 55, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ビューヒナーはギーセンに移ってからも政治的関心を持ち続け、この時期にフランス革命史の研究を始めている。1834年2月ころ、ビューヒナーは唯一親しくしていた元神学部生アウグスト・ベッカーから紹介され、小学校教頭を務めながら政治運動をしていたルートヴィヒ・ヴァイディヒと知り合い、彼やその仲間と政治的意見を交換するようになった。ビューヒナーの革命理論は、知識人やブルジョワなどの自由主義者を主導するのではなく、農民や下層階級などの被搾取民の経済的開放を訴え彼らを扇動するという急進的なものであったため多くの賛同は得られず、ヴァイディヒともしばしば意見が対立した。この年の3月ころ、ビューヒナーは彼の意見に賛同する少数の学生を集め、フランスの同名の団体を参考に「人権協会」という秘密結社をギーセンに設立した。5月に帰郷した際にもダルムシュタットに「人権協会」支部を作っている。", "qas": [ { "question": "ビューヒナーは誰にルートヴィヒ・ヴァイディヒを紹介されたか。", "id": "tr-270-06-000", "answers": [ { "text": "アウグスト・ベッカー", "answer_start": 82, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ビューヒナーは何年に「人権協会」という秘密結社を設立しましたか。", "id": "tr-270-06-001", "answers": [ { "text": "1834年", "answer_start": 51, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ビューヒナーがギーセンに設立した秘密結社の名前は何ですか。", "id": "tr-270-06-002", "answers": [ { "text": "「人権協会」", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ビューヒナーは農民への扇動を目的に、ヴァイディヒの援助のもとに宣伝パンフレット『ヘッセン急使』の原稿を書き下ろした。これにヴァイディヒが修正を加え、1834年7月30日に刷り上げられると、「人権協会」会員とヴァイディヒのグループとで手分けして頒布に取り掛かった。しかしヴァイディヒのグループにスパイが混じっていたため間もなく非合法出版が警察に発覚し、8月1日に『急使』を所持していたミニゲローデが逮捕、他の関係者にも次々に警察の手が及んだ。ビューヒナーはミニゲローデの逮捕後すぐに行動を起こし、その日の間にヴァイディヒ、ベッカーと会って今後の対応を話し合い、仲間のシュッツのもとを訪れて危険を告げ彼を亡命させている。この間にビューヒナーの下宿にも家宅捜索が行われたが、証拠となるものが押収されなかったため逮捕を免れている。しかし地下組織は壊滅に追いやられ、農民に配られた『ヘッセン急使』も大部分のものが読みもせずに警察に届けてしまっていた。心配した家族に従い、ビューヒナーはこの年の9月にダルムシュタットの実家に戻り、両親のもとで翌年まで医学、自然科学の研究を行なった。", "qas": [ { "question": "ビューヒナーは何を目的に宣伝パンフレット『ヘッセン急使』の原稿を書き下ろしましたか。", "id": "tr-270-07-000", "answers": [ { "text": "農民への扇動", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミニゲローデはいつ逮捕されたか。", "id": "tr-270-07-001", "answers": [ { "text": "8月1日", "answer_start": 175, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1835年の1月、ビューヒナーは参考人として裁判所に呼び出される。身の危険を感じたビューヒナーは、亡命を決意、亡命資金を得るために戯曲『ダントンの死』を5週間で書き上げ、フランクフルトの書店を経由して作家カール・グツコーに送る。グツコーはビューヒナーの才能を認め出版を約束、稿料を送ったがこれは亡命には間に合わず、ビューヒナーは独自に資金繰りをした上で2月にストラスブールに亡命した。\n\nビューヒナーはストラスブールの酒店に下宿し、婚約者のイェーグレ家や、彼と同じくドイツからの亡命者であったヴィルヘルム・シュルツ夫妻と親しく付き合いながら自然科学の研究に没頭した。上述のグツコーとも手紙のやり取りを続け、1835年の夏には生活費稼ぎの仕事として、グッコーから斡旋されてヴィクトル・ユゴーの『ルクレチア・ボルジア』『マリア・チューダー』の2作の翻訳を行なっている。またグッコーからは彼が創刊する予定だった新雑誌『ドイツ評論』への寄稿を依頼されたが、研究の時間を惜しんで定期的な寄稿は断っている(『ドイツ評論』は発禁命令を受けたため結局刊行されなかった)。1836年の初めころ小説『レンツ』執筆した。春ごろに喜劇『レオンスとレーナ』を執筆しコッタ出版の懸賞に応募したが、期限切れのため返却されている。また夏ごろに戯曲『ヴォイツェック』を創作した。", "qas": [ { "question": "ビューヒナーは戯曲『ダントンの死』を何週間で完成させたか。", "id": "tr-270-08-000", "answers": [ { "text": "5週間", "answer_start": 76, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ビューヒナーは何月にストラスブールに亡命したか。", "id": "tr-270-08-001", "answers": [ { "text": "2月", "answer_start": 176, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヴィルヘルム・シュルツ夫妻どこからの亡命者でしたか。", "id": "tr-270-08-002", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 233, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小説『レンツ』と戯曲『ヴォイツェック』と、どっちの方が先に書かれた?", "id": "tr-270-08-003", "answers": [ { "text": "小説『レンツ』", "answer_start": 487, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "この年の4月から5月にかけて、ストラスブール博物館協会において自然科学研究の成果を「ニゴイの神経系に関する覚書」として講演、好評を得て準会員に推され、講演内容を論文として学会誌に掲載する。さらにビューヒナーはこの論文をチューリヒ大学哲学部に送り、9月に博士号を取得、同大学から招聘されて10月にスイスに向かった。11月に試験講演「頭蓋神経について」を行なう。好評を得てチューリヒ大学講師の職を得、ただちに「動物解剖学実習」の講義を開始する。\n\n1837年2月、チフスを発症した。シュルツ夫妻からの看護を受けていたが、婚約者ヴィルヘルミーナが駆けつけた2日後の2月19日に死去した。23歳4ヶ月であった。遺骸は当初チューリヒ市外のツェルトベルクの墓地に埋葬されたが、チューリヒの市区改正で墓地が取り払われたため翌年7月にゲルマニア丘に移された。この際に墓碑にゲオルク・ヘルヴェークによる挽歌が刻まれた。", "qas": [ { "question": "ビューヒナーは自分の論文をどの大学に送ったか。", "id": "tr-270-09-000", "answers": [ { "text": "チューリヒ大学", "answer_start": 109, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ビューヒナーはいつチフスに罹りましたか。", "id": "tr-270-09-001", "answers": [ { "text": "1837年2月", "answer_start": 222, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ビューヒナーは何歳で亡くなったか。", "id": "tr-270-09-002", "answers": [ { "text": "23歳", "answer_start": 290, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ビューヒナーの生前に発表された文学作品は『ダントンの死』のみであったが、その作品はグツコーをはじめ「青年ドイツ」と呼ばれる作家の間で評価を受けたものの、大きな名声を得たわけではない。ビューヒナーの死の直後には数年の間にグッコーの尽力によって遺稿『レンツ』『レオンスとレーナ』が文芸誌に掲載された。1850年には弟ルートヴィヒ・ビューヒナーの編集のもとで初めてまとまった著作集が出版されたが、これは『ヴォイツェック』を含まないなどきわめて不完全なものであった。", "qas": [ { "question": "ビューヒナーが生前に発表した唯一の文学作品は何ですか。", "id": "tr-270-10-000", "answers": [ { "text": "『ダントンの死』", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ルートヴィヒ・ビューヒナーの編集のもとで初めてまとまった著作集が出版されたのはいつですか。", "id": "tr-270-10-001", "answers": [ { "text": "1850年", "answer_start": 148, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その後のビューヒナーの再評価についてはカール・エミール・フランツォースの功績が大きい。フランツォースは判読不能になっていた『ヴォイツェック』の草稿を科学処理を施して復元し、1875年に発表、1879年に『ヴォイツェック』を含むビューヒナーの全集を出版した。この出版をきっかけにビューヒナーはまずケラー、ハウプトマンなど自然主義作家から注目された。『ダントンの死』の群集劇のような手法や、文学的な修辞を好まず俗語や方言を取り入れた会話などから自然主義文学の先駆者と見なされたのである。逆にヴェーデキントからは、作中の誇張されたグロテスクな表現などにより不条理文学の先駆者として注目され、彼をはじめとして表現主義にも強い影響を与えた。以後もビューヒナーはライナー・マリア・リルケ、ベルトルト・ブレヒトなど多くの作家から崇敬の対象にされている。", "qas": [ { "question": "ビューヒナーの再評価については誰の功績が大きいですか。", "id": "tr-270-11-000", "answers": [ { "text": "カール・エミール・フランツォース", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フランツォースは何年に『ヴォイツェック』を発表したか。", "id": "tr-270-11-001", "answers": [ { "text": "1875年", "answer_start": 86, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ヴォイツェック』を含むビューヒナーの全集が出版されたのは何年のことですか。", "id": "tr-270-11-002", "answers": [ { "text": "1879年", "answer_start": 95, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ビューヒナーの戯曲は長い間上演される機会がなく、19世紀の間にはわずかに『レオンスとレーナ』がアマチュアの劇団によって一度だけ上演された記録があるだけである。自然主義文学者の間で注目された後、1902年には自由劇場で『ダントンの死』を上演する小規模な企画はあったものの、短い場面が連続するビューヒナーの作劇方法は当時の演劇になじまず定着はしなかった。ビューヒナーの作品が演劇界で公然と上演されるようになるのは、1910年代に表現主義の演劇が現れるようになってからである。まず1910年にレーオポルト・イェスナーがハンブルクにて『ダントンの死』を本格的に上演した。1913年にはビューヒナーの生誕100年を記念し、ミュンヘンにてオイゲン・キリアン(EugenKilian)演出による『ヴォイツェック(当時は『ヴォツェック』)』の初演が行なわれ、同演出にて『ダントンの死』も上演された。1916年にはマックス・ラインハルトによって『ダントンの死』が上演されたが、あまり舞台装置を用いず照明を効果的に使ったこの上演は、その後のビューヒナー作品上演の範例となった。また上述のキリアン演出の『ヴォツェック』ウィーン公演に感銘を受けたアルバン・ベルクは、その後無調オペラ『ヴォツェック』を制作し1925年にベルリンにて初演が行なわれている。後述するようにビューヒナー作品の上演はナチス時代には稀になったが、終戦後は西ドイツですぐに舞台にかけられるようになり、現代まで繰り返し新たな演出が試みられている。", "qas": [ { "question": "19世紀の間、唯一に上演されたビューヒナーの戯曲は何ですか。", "id": "tr-270-12-000", "answers": [ { "text": "『レオンスとレーナ』", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "表現主義の演劇が現れるようになったのはいつからでしたか。", "id": "tr-270-12-001", "answers": [ { "text": "1910年代", "answer_start": 205, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ビューヒナーの生誕100年を記念してヴォイツェックが上演されたのはいつですか。", "id": "tr-270-12-002", "answers": [ { "text": "1913年", "answer_start": 281, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マックス・ラインハルトによる『ダントンの死』は何年に上演されましたか。", "id": "tr-270-12-003", "answers": [ { "text": "1916年", "answer_start": 391, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1922年、ビューヒナーの業績を記念しヘッセン州政府によってゲオルク・ビューヒナー賞が設けられた。この賞は当初はヘッセンにゆかりのある新人芸術家を奨励するものであったが、ナチス政権のあいだの中断ののち、ドイツ言語・文学アカデミーの主宰するドイツ文学を対象とする賞に生まれ変わり、その後重要作家が次々と受賞していったことでゲーテ賞に代わりドイツにおいて最も権威のある文学賞となった。その歴代の受賞記念講演は受賞作家にとってのメルクマールであるだけでなく、それぞれの時代性を映し出したすぐれたビューヒナー論となっている。\n\nこの受賞講演の傾向を決定付けたのは1956年受賞者のカール・クローロと、その翌年に受賞したエーリッヒ・ケストナーである。クローロは戦争によって一種の白紙状態になったドイツにおいて『レオンスとレーナ』に抒情詩の可能性を見出すという講演を行ない、ケストナーはビューヒナーをゲーテの隣に置き、『ダントンの死』の歴史性や『ヴォイツェック』の先見性を論じ、それぞれ本格的な文学論を展開した。1963年に受賞したエンツェンスベルガーはビューヒナーを引用しつつ分断状態にあるドイツの矛盾を語り、1965年受賞のギュンター・グラスはそのエンツェンスベルガーの立場を暗に批判しつつ、ドイツの政治的混乱を風刺的に語っている。1967年受賞のハインリヒ・ベルは、『ヘッセン急使』の文章が現代ドイツにおいてなお有効でありえることを示した。", "qas": [ { "question": "ゲオルク・ビューヒナー賞は何年にできた?", "id": "tr-270-13-000", "answers": [ { "text": "1922年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゲーテ賞に代わりドイツにおいて最も権威のある文学賞は何ですか。", "id": "tr-270-13-001", "answers": [ { "text": "ゲオルク・ビューヒナー賞", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カール・クローロとエーリッヒ・ケストナーと、もっと先にゲオルク・ビューヒナー賞を受賞したのは誰なの?", "id": "tr-270-13-002", "answers": [ { "text": "カール・クローロ", "answer_start": 286, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "カール・クローロ、エーリッヒ・ケストナー、ハインリヒ・ベルのうち、ゲオルク・ビューヒナー賞を一番遅く受賞したのは誰?", "id": "tr-270-13-003", "answers": [ { "text": "ハインリヒ・ベル", "answer_start": 570, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ビューヒナーと自身の文学との関わりを示す講演も多い。1960年受賞のパウル・ツェランの講演『子午線』はツェラン自身の詩論として重要なものとなっており、1972年受賞のエリアス・カネッティは代表作『眩暈』を執筆したあとにビューヒナーの作品に出会い大きな衝撃を受けたことを語っている。『ヴォイツェック』からドイツの現代劇が始まったと述べるハイナー・ミュラーは1985年に受賞し、受賞講演としてカフカから引用しつつ書かれた暗示に富むテクスト『傷口ヴォイツェック』を執筆、これは後に彼自身の作品集に収録されている。\n\n1995年にはペーター・ハントケに次いで2番目の若さで詩人ドゥルス・グリューンバインが受賞し、受賞講演ではビューヒナーの解剖学者としての経歴とその文学性の関わりを論じた。また2000年に受賞したフォルカー・ブラウンは1997年にビューヒナーの書簡をめぐるエッセイを書いており、2004年には「別のヴォイツェック」を主題とする2つの短編小説を発表している。", "qas": [ { "question": "『眩暈』を書いた人は誰なの?", "id": "tr-270-14-000", "answers": [ { "text": "エリアス・カネッティ", "answer_start": 83, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フォルカー・ブラウンは何年にビューヒナーの書簡をめぐるエッセイを書きましたか。", "id": "tr-270-14-001", "answers": [ { "text": "1997年", "answer_start": 363, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "エアバスA318", "paragraphs": [ { "context": "エアバスA318(AirbusA318)は、ヨーロッパのエアバス社が開発・販売した単通路(ナローボディ)の双発ジェット旅客機である。標準座席数は約100席で、エアバスA320ファミリーを構成する最小モデルである。エアバス社が自社開発した旅客機では最も小さいサイズであり、ベビーバス(BabyBus)やミニバス(Minibus)と呼ばれることもある。低翼配置の片持ち翼の主翼を持ち、尾翼は通常配置、降着装置は前輪配置、左右の主翼下にパイロンを介して1基ずつターボファンエンジンを装備する。全長は31.45メートル、全幅は34.10メートル、全高は12.79メートルである。A320の設計を基本に胴体長が短縮されたことから、ずんぐりとした外観を持つ。飛行システムはA320ファミリーと共通化されており、操縦資格もファミリー機で共通である。1999年4月に正式な開発が決定し、2002年1月に初飛行、2003年7月にフロンティア航空により商業運航を開始した。2015年に納入された80号機を最後に生産が途絶えている。2018年7月現在、41機のA318が民間航空会社で運航されている。そのほかに、プライベートジェット仕様である「A318エリート」も開発され納入されている。2019年4月現在において、A318に関して死亡事故や機体損失事故は発生していない。", "qas": [ { "question": "エアバスA318の別称には、ベビーバスのほかに、何があるの?", "id": "tr-271-00-000", "answers": [ { "text": "ミニバス", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エアバスA318は、どのファミリーに属しているか?", "id": "tr-271-00-001", "answers": [ { "text": "エアバスA320ファミリー", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エアバスA318が属しており、エアバスA318と操縦資格が共通しているファミリーとは、何ですか?", "id": "tr-271-00-002", "answers": [ { "text": "エアバスA320ファミリー", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エアバスA318が初飛行したのは、いつか?", "id": "tr-271-00-003", "answers": [ { "text": "2002年1月", "answer_start": 385, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "世界初の双通路(ワイドボディ)双発ジェット旅客機であるA300を開発したエアバス・インダストリー(以下、エアバス)は、A300シリーズの販売が軌道に乗ると、単通路(ナローボディ)市場への進出を図った。ボーイングやマクドネル・ダグラスと違い既存の単通路機を持っていなかったエアバスは、完全な新設計機としてA320を開発し、当時の最新技術を積極的に取り入れた。大型機も含めたエアバス機全体での操縦資格の共通化を目指し、操縦系統に全面的なフライ・バイ・ワイヤ技術が採用された。A320は、同規模の旅客機の中で最も太い断面の胴体を持ち、大型の貨物室扉を備えたことで航空貨物コンテナの搭載も可能となった。A320は1988年2月に型式証明を取得し、翌月に顧客引き渡しが始まった。続いてエアバスは、長胴型のA321と短胴型のA319を相次いで開発し、A320ファミリーのラインナップを強化した。A321は1993年12月、A319は1996年4月にそれぞれ型式証明を取得した。これにより、A320ファミリーは、標準座席数で124席から185席までをカバーできるようになった。", "qas": [ { "question": "A321とA319のうち、より早く型式証明を取得したのは、どちらなの?", "id": "tr-271-01-000", "answers": [ { "text": "A321", "answer_start": 391, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A320ファミリーでは、最大何席までカバーできますか?", "id": "tr-271-01-001", "answers": [ { "text": "185席", "answer_start": 461, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A320とA321、A319のうち、最も遅く型式証明を取得したのは、どちらか?", "id": "tr-271-01-002", "answers": [ { "text": "A319", "answer_start": 405, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A321とA319のうち、胴体がより長いのは、どちらか?", "id": "tr-271-01-003", "answers": [ { "text": "A321", "answer_start": 347, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "A320ファミリーの拡充が進んでいた1990年代前半、座席数80から120席程度の旅客機を開発する構想が複数持ち上がり、メーカー間で活発な動きがあった。その中で、アジアとヨーロッパの企業による共同開発構想がまとまりつつあった。ヨーロッパ側の意見を取りまとめるため、エアバスとイタリアのアレーニアの合弁によりエアバス・インダストリー・アジア(AirbusIndustrieAsia;AIA)が設立された。アジア側は中国航空工業集団(AVIC)とシンガポール・テクノロジーズが参加し、1997年5月15日に100席級旅客機の開発に基本合意した。計画名はエイジアン・エクスプレスと名付けられ、機体名はAE31Xと呼ばれた。AE31Xは座席数100席のAE316と、その胴体を延長して125席とするAE317の2種類で構成された。AE31Xの操縦システムや操縦席、そして操縦資格はA320ファミリーと共通化するものの、胴体や主翼、尾翼などは完全に新規設計する計画だった。胴体断面はA320よりも細くし、エコノミークラスの座席配置は5アブレストとされた。最終組み立ては中国で行うこととし、事業への出資比率は、中国航空工業集団が46%、エアバス・インダストリー・アジアが39%、残りの15%がシンガポール・テクノロジーズと決まった。", "qas": [ { "question": "アレーニアと中国航空工業集団、シンガポール・テクノロジーズのうち、アジア側の会社ではないのは、どちらなの?", "id": "tr-271-02-000", "answers": [ { "text": "アレーニア", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "AE31Xは何席級旅客機として開発計画が立てられましたか?", "id": "tr-271-02-001", "answers": [ { "text": "100席", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "中国航空工業集団とエアバス・インダストリー・アジア、シンガポール・テクノロジーズのうち、AE31Xの開発に最も多く出資したのは、どちらか?", "id": "tr-271-02-002", "answers": [ { "text": "中国航空工業集団", "answer_start": 499, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エアバス・インダストリー・アジアとシンガポール・テクノロジーズのうち、AE31Xの開発への出資比率がより高いのは、どちらか?", "id": "tr-271-02-003", "answers": [ { "text": "エアバス・インダストリー・アジア", "answer_start": 512, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "2003年の就航を目指してAE31X計画の詳細検討が始まったものの、1997年中に数多くの課題が表面化した。特に、機体を新規設計する以上は機体価格がどうしても高止まりし、事業リスクが高くなることが懸念された。そうこうしている内に、競合機となるボーイング717の開発が先行していた。こうした中、エアバスは単独で小型機を開発する研究に秘密裏に着手した。このとき研究された機体は、A319の胴体を5フレーム短縮するというもので、A319M5(マイナス5の意味)と呼ばれた。結局、AE31X計画は投資に見合う収益の見込みが立たず、まずシンガポール・テクノロジーズが離脱し、中国航空工業集団とエアバスとの交渉も物別れに終わった。エアバスはA319M5計画を進めることにし、1998年9月のファーンボロー国際航空ショーで機体概要を発表した。この時点でA318のエンジンには、プラット・アンド・ホイットニー(P&W)社が新規開発するPW6000が選定された。PW6000は、短距離を高頻度で離着陸する航空機に適したエンジンとなるよう、特に保守コストを小さくすることを主要設計目標に置いて開発された。1999年4月26日、エアバスはA319M5案をA318と名付けて正式に開発を決定した。このA318には、フロンティア航空、エールフランス、エジプト航空、トランス・ワールド航空や航空機リース会社を含めて合計6社から合わせて109機の受注が集まっていた。", "qas": [ { "question": "A319の胴体から5フレーム短縮する機種には、どのような正式名称が与えられたの?", "id": "tr-271-03-000", "answers": [ { "text": "A318", "answer_start": 516, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A319とA318のうち、より胴体の長い機種は、どちらですか?", "id": "tr-271-03-001", "answers": [ { "text": "A319", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A318が計画段階である時、どこで機体概要を発表したか?", "id": "tr-271-03-002", "answers": [ { "text": "ファーンボロー国際航空ショー", "answer_start": 339, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A319をベースにし、胴体はA319の胴体から5フレーム短縮する機種の正式開発が決定されたのは、いつか?", "id": "tr-271-03-003", "answers": [ { "text": "1999年4月26日", "answer_start": 492, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "詳細設計において、胴体の短縮は5フレームから4.5フレームに改められた。短縮幅は主翼の前側で1.5フレーム(0.8メートル)、後ろ側で3フレーム(1.59メートル)となった。胴体短縮に伴い、翼胴フェアリング(主翼と胴体の表面を滑らかに繋ぐ覆い)が修正された。胴体を短縮することで機体重心から垂直尾翼までの距離が短くなりモーメントアームが減少することから、方向安定性を維持するためのドーサル・フィン(垂直安定板の付け根を前方に三角形に延長すること)の追加が検討された。しかし、ドーサル・フィンでは効果が不十分であることが風洞実験で判明し、結局尾翼の上端部が79センチメートル延長された。胴体短縮にともない床下前方の貨物扉が再設計された。エンジンの空気取り入れ口からの距離を確保するため、扉は小型化され若干前方に移動された。扉が小型化されたことに伴い、他のA320ファミリー機で収容可能な航空貨物コンテナは、A318では非対応とされた。エンジンはPW6000に加えて、1999年7月にCFMインターナショナル社のCFM56エンジンも選択できることになった。CFM56エンジンは、既存のA320ファミリーで採用実績があり、A318用に出力を抑えた派生型が用意された。", "qas": [ { "question": "A320の胴体を短縮してA318の胴体を設計したが、その時、より多く短縮されたのは、主翼の前側と後ろ側のうち、どちらなの?", "id": "tr-271-04-000", "answers": [ { "text": "後ろ側", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "PW6000とCFM56エンジンのうち、より早く採用されたエンジンは、どちらですか?", "id": "tr-271-04-001", "answers": [ { "text": "PW6000", "answer_start": 421, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A318はA319の胴体から何フレーム短縮すると最終決定されたか?", "id": "tr-271-04-002", "answers": [ { "text": "4.5フレーム", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エンジンオプションにCFM56エンジンが加えられたのは、いつか?", "id": "tr-271-04-003", "answers": [ { "text": "1999年7月", "answer_start": 432, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A318の生産分担についてはエアバス内部で政治的駆け引きがあったものの、最終組み立てはA319やA321と同様にドイツのハンブルクで行うことに決まった。2001年8月からA318初号機の最終組立が始まった。初号機はPW6000エンジン装備機で、A320ファミリーの通算1,599番目の機体となった。2002年1月15日、ハンブルクにて成功裏に初飛行を行い、型式証明取得のための試験が始まった。同年6月3日には2号機も初飛行を行い、この2機で証明取得に必要な試験飛行を行う計画だった。当初、PW6000は、部品点数を減らし保守コストを抑制するため、高圧圧縮機を5段としたところ、燃費の目標値水準を達成できないことが明らかとなった。そこでやむを得ず、MTUエアロ・エンジンズ社製の6段の高圧圧縮機に変更することになった。これにより、試験スケジュールに遅延が生じ、CFM56装備型の証明取得を先行して急ぐこととなった。", "qas": [ { "question": "A319とA321の最終組み立ては、どの国で行われたの?", "id": "tr-271-05-000", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 56, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A318初号機と2号機は、何年に初飛行しましたか?", "id": "tr-271-05-001", "answers": [ { "text": "2002年", "answer_start": 149, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "PW6000とCFM56エンジンのうち、A318のエンジンとして搭載されたことがより早かったのは、どちらか?", "id": "tr-271-05-002", "answers": [ { "text": "PW6000", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2002年何月何日に初飛行した機体が、A318の証明取得に必要な試験飛行に使用される計画であったか?", "id": "tr-271-05-003", "answers": [ { "text": "6月3日", "answer_start": 198, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "PW6000エンジン装備機である初号機は、180時間飛行したところでCFM56-5Bにエンジンが換装された。そしてCFM56エンジンでの初飛行は2002年8月29日に行われた。重心位置の後方限界が若干小さくなった他は、エンジンの違いが機体の取り扱いに与える悪影響はなかった。認証取得の試験飛行には主に初号機が充てられ、エンジン換装後に490時間の飛行を行った。エンジンの選択肢にCFM56が加わっていたことで、エアバスは救われる形になった。飛行試験において、降着装置を下ろして迎角を大きくとると、前脚の格納扉で発生した乱流が胴体に備わる迎角センサに影響することが判明した。そこで、乱流が迎角センサのプローブを支障しないように、ストレーキが追加された。CFM56エンジン仕様機は、2003年5月23日にヨーロッパの合同航空当局(JointAviationAuthorities;JAA)から型式証明を取得した。続いて6月4日に米国の連邦航空局(FederalAviationAdministration;FAA)からも同エンジン仕様の型式証明が交付された。", "qas": [ { "question": "エンジンを換装したA318の初号機が、初飛行を行ったのは、いつなの?", "id": "tr-271-06-000", "answers": [ { "text": "2002年8月29日", "answer_start": 72, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "PW6000エンジンとCFM56エンジンのうち、どちらのエンジンを搭載した時の試験飛行時間がより長かったか?", "id": "tr-271-06-001", "answers": [ { "text": "CFM56エンジン", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "CFM56エンジン仕様機に対し、より早く型式証明を出したのは、ヨーロッパの合同航空当局と米国の連邦航空局のうち、どちらですか?", "id": "tr-271-06-002", "answers": [ { "text": "ヨーロッパの合同航空当局", "answer_start": 350, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "米国の連邦航空局がCFM56エンジン仕様機に対し型式証明を出したのは、何年のことか?", "id": "tr-271-06-003", "answers": [ { "text": "2003年", "answer_start": 339, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "2003年7月22日、A318はフロンティア航空に初引き渡しされ、同月中に路線就航を開始した。続いて同年10月9日にはエールフランスにも初引き渡しが行われた。エールフランスは、当時のA320ファミリーの全機種(A318、A319、A320、A321)を運航する最初の航空会社となった。一時は129機まで集まったA318の受注数は、2003年の初納入の時点では84機まで減少していた。PW6000エンジンの開発遅延に伴い、同エンジン装備型を発注していた中国国際航空、ブリティッシュ・エアウェイズ、そしてエジプト航空はA320へ注文を切り替えた。さらに25機を発注していたトランス・ワールド航空は財務状況の悪化によりアメリカン航空に買収され、同社の発注分はキャンセルとなった。PW6000エンジン装備型の型式証明取得は大幅に遅れ、2005年12月21日に欧州航空安全機関(EASA)から型式証明が交付された。米国のFAAの型式証明を取得したのは、2007年5月25日のことだった。PW6000装備型は、2007年6月5日にLAN航空に対して初引き渡しされ、同月18日に商業運航を開始した。", "qas": [ { "question": "フロンティア航空とエールフランスのうち、A318をより早く引き渡されたのは、どちらなの?", "id": "tr-271-07-000", "answers": [ { "text": "フロンティア航空", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エールフランスが当時のA320ファミリーの全機種を保有する最初の航空会社となったのは、何年のことですか?", "id": "tr-271-07-001", "answers": [ { "text": "2003年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "欧州航空安全機関と米国のFAAのうち、PW6000エンジン装備型のA318がより早く型式証明を取得したのは、どちらからか?", "id": "tr-271-07-002", "answers": [ { "text": "欧州航空安全機関", "answer_start": 375, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1990年代以降、座席数100席未満のリージョナルジェットが台頭した。リージョナルジェットは急速にラインナップを広げ、2000年代になると100席級の市場にまで進出した。エンブラエルのE195やボンバルディアのCRJ-1000、CシリーズらがA318と競合するようになった。これに対してエアバスは、A320ファミリーの共通性によってパイロットや整備士の教育コストを削減できるとして、ファミリー機とパッケージ化してA318を売り込んだ。2005年11月にエアバスは、A318のプライベートジェット仕様となる「A318エリート」の開発を発表した。A318エリートは座席数は14席または18席で、エアバス・コーポレート・ジェットの最小機種としてラインナップに加えられた。A318エリートの最初の顧客はVIP機の運航会社であるコムラックス・アビエーション社で、2006年12月に初引き渡しが行われた。さらに、双発機の長距離飛行を可能とする要件であるETOPSがA318にも認められ、CFM56仕様は2006年11月、PW6000仕様は2010年11月に、それぞれ180分ETOPSの認証を取得している。", "qas": [ { "question": "A318エリートの初引き渡しはいつ行われたの?", "id": "tr-271-08-000", "answers": [ { "text": "2006年12月", "answer_start": 376, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "CFM56仕様とPW6000仕様のうち、どちらのエンジン仕様のA318がより早く180分ETOPSの認証を取得しましたか?", "id": "tr-271-08-001", "answers": [ { "text": "CFM56仕様", "answer_start": 437, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "14席または18席の座席数を有するA318の改良型の開発が発表されたのは、いつか?", "id": "tr-271-08-002", "answers": [ { "text": "2005年11月", "answer_start": 217, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A318のプライベートジェット仕様の最初の顧客は、どの会社か?", "id": "tr-271-08-003", "answers": [ { "text": "コムラックス・アビエーション社", "answer_start": 359, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "エアバスは、小空港への乗り入れを可能にするため、5.5度という急角度で着陸進入が可能となるA318の改良型を開発し、2007年11月23日にEASAから認定を取得した。この急角度進入型は、2009年9月1日にブリティッシュ・エアウェイズに初納入された。ブリティッシュ・エアウェイズは、この急角度進入タイプのA318を全席ビジネスクラスの32席仕様とし、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港と滑走路が短いロンドン・シティ空港を結ぶ大西洋横断路線に投入した。2010年9月には、エアバスはA320ファミリーで採用を決めたシャークレットをA318にもオプションで用意することを発表した。シャークレットは翼端装置の一種で、燃費を向上させ航続距離を延長する効果がある。", "qas": [ { "question": "2007年11月23日にEASAから認定を取得したA318の改良型が初納入されたのは、いつなの?", "id": "tr-271-09-000", "answers": [ { "text": "2009年9月1日", "answer_start": 94, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エアバスがシャークレットをA318のオプションに加えることを発表したのは、いつですか?", "id": "tr-271-09-001", "answers": [ { "text": "2010年9月", "answer_start": 230, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "このように様々な改良策が講じられたものの、A318の販売は低迷した。2010年代に入るとA318の納入数は年に1、2機程度に低迷し、2015年に80号機を引き渡して以降は生産が途絶えている。他のA320ファミリー機については、新型エンジンを装備したA320neoファミリーが開発されているが、A318についてのみ\"neo\"の開発が行なわれていない。2008年時点において、100席から150席級の旅客機の需要は今後20年間で6,000機とも予測されていたものの、実際には同クラスの市場はそこまで拡大しなかった。さらに、ボンバルディアやエンブラエルがこの市場に進出したことで、A318の販売は打撃を受けた。より大きな機体からサイズダウンしたA318は、燃費などの運航経費の面で不利だった。特に完全に新規設計されたCシリーズは、燃費性能が優れているだけでなく、最大級の窓を備えるなど客室の居住性が優れていた。一方、Cシリーズを開発したボンバルディアも順風満帆というわけではなく、Cシリーズ事業のコスト超過のため資金不足に陥っていた。エアバスとボンバルディアは接近し、2018年7月1日、エアバスはCシリーズ事業会社に出資して同事業会社株式の過半数を取得した。同時にCシリーズは「A220」と改称され、エアバスの製品群に加えられた。これにより、100席から150席前後のエアバス機ラインナップをA220シリーズが担うことになった。", "qas": [ { "question": "A320ファミリーのうち、\"neo\"の開発が行われなかったのは、どの機種なの?", "id": "tr-271-10-000", "answers": [ { "text": "A318", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ボンバルディアのCシリーズは、エアバスの製品群に加えられることに伴い、何と改称されましたか?", "id": "tr-271-10-001", "answers": [ { "text": "A220", "answer_start": 537, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "エアバスは何席から何席前後のラインナップを拡充するため、Cシリーズ事業会社に出資したか?", "id": "tr-271-10-002", "answers": [ { "text": "100席から150席前後", "answer_start": 569, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A318は片持ち翼の主翼を低翼に配置した単葉機である。機体全長は31.45メートル、全幅は34.10メートル、全高は12.79メートルである。A320ファミリーの設計を基本として胴体長を短縮したA318は、ずんぐりとした印象の外観を持つ。左右の主翼下にパイロンを介して1発ずつターボファンエンジンを備える。尾翼は通常配置で、垂直尾翼と水平尾翼はともに胴体尾部に直接取り付けられている。降着装置は前輪式配置で機首部に前脚、左右の主翼の付け根に主脚がある。", "qas": [ { "question": "A318は何の設計を基本として胴体長を短縮した機種であるの?", "id": "tr-271-11-000", "answers": [ { "text": "A320ファミリー", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A318の降着装置は、前脚と、どこにある主脚に分けられますか?", "id": "tr-271-11-001", "answers": [ { "text": "左右の主翼の付け根", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A318の主翼はA320と共通の設計である。主翼はテーパーがついた後退翼で、25パーセント翼弦での後退角は25度、アスペクト比は9.4、翼面積は122.6平方メートルである。高揚力装置として後縁にシングル・スロッテッドフラップ、前縁スラットを備える。スラットは片翼あたり5枚で、ほぼ全幅にわたり配置されている。フラップは内翼と外翼に2分割されており、その外側に補助翼がある。主翼上面には片翼あたり5枚のスポイラーがある。翼端装置として誘導抵抗を減らす効果のあるウィングチップフェンスを有する。胴体断面もA320ファミリー共通の設計であり、幅は3.95メートル、高さが4.14メートルである。胴体長は全長と同じ31.45メートルで、A319よりも4.5フレーム分短い。A319からの短縮幅は、主翼の前側で1.5フレーム(0.8メートル)、後ろ側で3フレーム(1.59メートル)である。水平尾翼は水平安定板と昇降舵、垂直尾翼は垂直安定板と方向舵で構成される。胴体短縮にともない機体重心から垂直尾翼までの距離が短くなったことから、方向安定性を維持するために垂直安定板が上端側に79センチメートル延長された。", "qas": [ { "question": "主翼においてA318と共通しているのは、どの機種か?", "id": "tr-271-12-000", "answers": [ { "text": "A320", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A318とA319の胴体全長を比較すると、何フレーム分の差があるか?", "id": "tr-271-12-001", "answers": [ { "text": "4.5フレーム", "answer_start": 322, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "水平安定板と昇降舵、方向舵のうち、水平尾翼を構成するものではないのは、何か?", "id": "tr-271-12-002", "answers": [ { "text": "方向舵", "answer_start": 417, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A319の胴体を短縮して設計されたA318において、胴体短縮の影響を受けなかったのは、水平尾翼と垂直尾翼のうち、どちらか?", "id": "tr-271-12-003", "answers": [ { "text": "水平尾翼", "answer_start": 391, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "A318は総計80機が生産・納入された。2003年の納入開始から運用数は増加を続け、2008年には60機のA318が運航されるようになった。その後、運用数は頭打ちとなり2010年代に入ると減少傾向にある。新造機で最も多くのA318を受領した航空会社はエールフランスで、18機を導入した。2018年7月の統計によると、6社の民間航空会社で41機のA318が運用されている。A318の運用数が最も多いのはエールフランスでその数は18機、続いてアビアンカ航空が10機、アビアンカ・ブラジル航空が7機、タロム航空が4機、ブリティッシュ・エアウェイズとタイタンエアウェイズが1機ずつの運用となっている。", "qas": [ { "question": "2018年7月の統計によると、アビアンカ航空とアビアンカ・ブラジル航空のうち、A318の運用数がより多いのは、どちらなの?", "id": "tr-271-13-000", "answers": [ { "text": "アビアンカ航空", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2018年7月の統計によると、A318の運用数が二番目に少ないのは、どの航空会社ですか?", "id": "tr-271-13-001", "answers": [ { "text": "タロム航空", "answer_start": 247, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2018年7月の統計によると、民間航空会社とそれ以外のうち、より多くのA318が運用されているのは、どちらか?", "id": "tr-271-13-002", "answers": [ { "text": "民間航空会社", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "新造のA318を最も多く受領した会社は、他のA318の運用者である5社と比べれば、その運用数は、どれほどの水準であるか?", "id": "tr-271-13-003", "answers": [ { "text": "最も多い", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "玩具", "paragraphs": [ { "context": "玩具は、遊びに用いる対象物・道具のことであり、遊び道具とも呼称される。翫具とも書く。おもちゃの語源は平安時代の「手に持って遊ぶ」行為である「もて(もち)あそぶもの」であり、これが室町時代に省略と接頭語の添付を経て生まれた。漢字の「玩具」も同じ意味を表現して成り立った。英語の「toy」という単語の発祥はわかっていないが、少なくとも14世紀頃には用いられていた。数多い種類の玩具がデザインされているが、他の用途向けの道具などが玩具に適さないというわけではなく、子供が文房具や道具でさえない木切れを手に持って遊べばそれは玩具として機能する。子供にとって遊びは余暇ではなく生活行動そのものであり、その中で玩具は活動の方向性を作り出す。遊戯の目的である、自然法則を理解するための準備や文化・社会生活へ適応するための訓練は、玩具の意義にもそのまま当てはめることができる。玩具は通常子供やペット向けの道具と捉えがちだが、大人や野生動物が玩具を使うことは決して珍しくない。例えば、呼気で作った空気の輪を通って遊ぶイルカなどがこれに当たる。玩具の起源は非常に古く、先史時代まで遡る。ただしそれらは当初から子供向けに製作されたものではなく、大人が用いていた宗教の祭祀や生活における様々な道具が子供に下げ与えられたことに発すると考えられる。テレビゲームやロボットなどのデジタル機器も玩具に入れることが出来る上、蒐集家向けに飾っておく事だけを目的とするような玩具も存在する。", "qas": [ { "question": "説明によると、呼気で作った空気の輪を通って遊ぶイルカなどは何に当たるか。", "id": "tr-272-00-000", "answers": [ { "text": "玩具", "answer_start": 380, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "古代文明の遺跡からは、玩具やゲームが発掘されており、それは文字の発明よりも古い時代に遡る。紀元前3000-1500年前のインダス文明跡からは、小さな荷車や鳥の形をした笛、張った糸を滑り下りる猿のおもちゃなども見つかった。数千年前の古代エジプトには、手足を動かせる上にかつらをつけた石・粘土・木製の人形や、貝殻製のガラガラがあった。墳墓からも、兵士や奴隷の人形のほかにボールが副葬品として発見された。古代ギリシアや古代ローマでは子供たちは蝋や焼物で作られた人形や棒、弓矢、ヨーヨーなどで遊んでいた。大人になると、特に女性は子供時代に遊んだこれら玩具を神に供えることが恒例となっていた。14歳頃の少女が結婚の前日に、成人になる通過儀礼として人形を寺院に奉納していた。しかし、これらは必ずしも子供に与えるものとして製作されたものばかりではない。古代ギリシア・ローマの遺跡から見つかる人形類、鈴や鳴子などは元々呪術や祭事などで使われた器具類と考えられる。これは遊びそのものにも当てはまるが、古代または素朴な社会での玩具は大人が何らかの目的を持って使用した道具が、その意味を喪失したりまたは変化した結果、子供に与えられるようになったと考えられる。子供の側から見れば、大人が執り行った様々な行事や行動を模倣する遊びにおいてこれらの道具を用い、これが玩具となったと考えられ、その意味では玩具は子供が発明したとも言える。この例には、日本において特別な日に屋外で食事をする「盆飯」や「辻飯」が変化したままごと、アメリカ先住民族では本来鹿の狩猟道具だったボール、東南アジアでは宗教儀礼として発したブランコなどもある。", "qas": [ { "question": "文字ど玩具、どっちの方が古いの?", "id": "tr-272-01-000", "answers": [ { "text": "玩具", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "古代、14歳頃の少女が結婚の前日に、成人になる通過儀礼として何を寺院に奉納しましたか。", "id": "tr-272-01-001", "answers": [ { "text": "人形", "answer_start": 318, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカ先住民族でポールの本来の用途は何だったの?", "id": "tr-272-01-002", "answers": [ { "text": "狩猟道具", "answer_start": 660, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "玩具が商業製品となるのは11世紀頃のイギリスに見られ、手工業で生産された玩具が市場や城などに持ち込まれて販売されていた。その後行商人が取り扱うようになり、商業地での流通や貿易も行われるようになった。古くから玩具の典型のひとつである人形も、伝統的で素朴なものだけでなく、高価なものも作られるようになった。ロシア皇帝ピョートル1世はヨーロッパ化を推進する一環としてドールハウスを購入しているが、これも文化財としての側面を重視した決定だった。16世紀は、ドイツのニュールンベルクで錫製兵隊人形の大量生産が始まり、またぜんまいばねを用いた初期のおもちゃが開発されるなど、玩具が普及を迎えた時代でもあった。クリスマスのときにツリーに吊るしたりする習慣や、サンタクロースから贈られるという寓話もこの頃に生まれた。", "qas": [ { "question": "ロシア皇帝ピョートル1世はヨーロッパ化を推進する一環として何を買ったの?", "id": "tr-272-02-000", "answers": [ { "text": "ドールハウス", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "クリスマスのときにツリーに吊るしたりする習慣や、サンタクロースから贈られるという寓話が生まれたのはいつ?", "id": "tr-272-02-001", "answers": [ { "text": "16世紀", "answer_start": 218, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "18世紀から19世紀にかけて起こった産業革命を通じて安価で大量生産が可能になると玩具はさらに普及した。切り絵や工作用または着せ替え人形の服など玩具の材料に紙が使われるのもこの頃である。日本でも庶民の間で広く玩具が広がったのは江戸時代中期以降であり、それまでは宮中の行事用や上流階級の遊び用であった様々な道具に起源をもつ玩具が一般層に広がった。『日本永代蔵』では風車職人の話があり、元禄文化時代には家内制手工業による生産と露天商や行商等の販売、そして庶民文化と生活の発展による消費が成り立った。また、自然素材を用いたからくり玩具も江戸時代の庶民に普及した。19世紀に玩具は大きな発展を見せた。「ママ」としゃべる人形が登場し、ぜんまい仕掛けの玩具も精巧になり、1851年に開催されたロンドン万国博覧会では当時最先端の玩具が多数出品された。また、幼児教育と玩具の関係が重要視され始めたのもこの時期である。", "qas": [ { "question": "産業革命が始まったのは何世紀のことなの?", "id": "tr-272-03-000", "answers": [ { "text": "18世紀", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「ママ」としゃべる人形が登場したのは何世紀ですか。", "id": "tr-272-03-001", "answers": [ { "text": "19世紀", "answer_start": 277, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "幼児教育と玩具の関係が重要視され始めたのは何世紀のことですか。", "id": "tr-272-03-002", "answers": [ { "text": "19世紀", "answer_start": 277, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "20世紀に入ると、玩具にも様々な技術革新が導入された。経済の安定的成長とテレビの普及など大量消費社会では、玩具市場も急速な拡大を見せた。1960年代には合成樹脂などの新たな素材が普及し、これをさらに加速させた。1970年代からは半導体を使用するハイテクおもちゃが現れ始め、1979年のインベーダーゲームのブームに端を発するテレビゲームが普及し、玩具の有り様に大きな変化をもたらした。さらにメディアミックスを用いて漫画やアニメーション、インターネットなどと関連させ市場への訴求力を高めた玩具が販売されている。伝統的な玩具を製造販売する企業には、ハイテクおもちゃに長年の市場を奪われていることに対抗し、昔からの玩具をテレビゲーム化してインターネットで対戦できるような分野に進出してその販売力を高めている企業もある。偶然の発明が新しいタイプの玩具を生むことがある。例えば、第二次世界大戦時にアール・ウィリックが合成ゴム代替に発明した「nuttyputty(愚かなパテ)」が、後にピーター・ホジソンによって幼児用の玩具として見出され「SillyPutty(おかしなパテ)」として商品化された。また、小麦粉を主な材料にした粘土であるプレイ・ドーは、元々壁紙の清掃用に開発されたものである。2007年のニュルンベルク国際玩具見本市にて、ジェーン・ツイミーは世界の玩具市場は年間670億ドルと推計した。これは前年比5.2%の伸びであり、日本を除くアジアやアフリカ、ラテンアメリカそしてロシアでは今後も伸びが期待されると解説を加えた。この市場を前に玩具を大量生産で提供する多くの企業が、コスト削減のために低賃金の地区に工場を構えた。例えばアメリカで流通する玩具の75%が中国製である。", "qas": [ { "question": "1960年代に合成樹脂などの新たな素材が普及することによって、玩具市場は拡大しましたか、縮小しましたか。", "id": "tr-272-04-000", "answers": [ { "text": "拡大", "answer_start": 61, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "アメリカで流通する玩具の75%が中国製であるのは何のためか。", "id": "tr-272-04-001", "answers": [ { "text": "コスト削減", "answer_start": 685, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "遊びは子供の成長に大きな影響を与える。数々の玩具は、発育や様々な機能の発達に刺激を与える重要な道具である。ドイツのフリードリヒ・フレーベルは人間形成において玩具の重要性を初めて主張し、1831年に世界初の幼稚園を創設した。彼は「恩物の理論」の中で、玩具とは自然の法則を理解するために神が与えた道具と定義づけ、幼児の成長段階において必要な種類の玩具を分類した。これによると、最初には毛糸を巻きつけた小さめのボールを与えるべきであり、次は木製の球と立方体、続けて(3)分割された立方体、(4)八面体、(5)立方体の面を二回ずつ切断した27片、(6)棒や水晶型など複雑な27個の積み木という段階を設定した。この積み木は「恩物」という名がつけられた。フレーベルは1837年にブランケンブルクで「子供の労働意欲を育てる会」を作り、ボールやさいころなど様々な玩具を製作した。イタリアのマリア・モンテッソーリは、独自の教育法(モンテッソーリ教育)を実践するために200種類もの教育玩具を開発した。これらは、感覚教育、言語教育、算数教育などそれぞれに目的を持つが、子供が自ら遊ぶ中でこれらの主題を発見し、身につけることで社会への適応性を育て、人格を形成するための補助となるように考えられていた。日本では、1871年に慶應義塾が遊具を設置し、1873年には内務省が教育玩具の普及を目的に製造業界に製品の販売を促した。文部省も乗り出し、『小学読本』でボール遊びのひとつとして野球の記事を載せたり、『童女筌』でけん玉遊びを奨励するなどの活動を行った。1879年にはフレーベルの理論を紹介した『幼稚園法二〇遊嬉』を発行した。1914年には幼稚園・小学校の教材に折り紙が加えられた。第二次世界大戦中には模型飛行機などの軍事色が強い玩具が学校教育に導入されたが、戦後にはこのような戦争玩具は教室から排除された。", "qas": [ { "question": "「恩物の理論」の中で、玩具とは自然の法則を理解するために神が与えた道具と定義づけ、幼児の成長段階において必要な種類の玩具を分類した人は誰ですか。", "id": "tr-272-05-000", "answers": [ { "text": "フリードリヒ・フレーベル", "answer_start": 57, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "モンテッソーリ教育は誰が創作した教育法なの?", "id": "tr-272-05-001", "answers": [ { "text": "マリア・モンテッソーリ", "answer_start": 386, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1879年に発行した『幼稚園法二〇遊嬉』には誰の理論が載せてあるの?", "id": "tr-272-05-002", "answers": [ { "text": "フレーベル", "answer_start": 671, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "最も単純な玩具のひとつである木製の積み木は、心の育成において最良の玩具とも言われる。メガ・ブランズ社マーケッティング担当役員のアンドリュー・ウィットキンは、情報誌『Investor'sBusinessDaily』で「それ(積み木)は、眼と手指の共同作業を発達させ、数学や科学の技能、そして想像力を子供に芽生えさせる」と話した。おはじきやお手玉、ボール遊びなども同様に、心身を駆使して空間認識や原因と結果の繋がりなど様々な能力を育てる有効な教材になるとウィットキンは述べている。児童の成長に影響を与えるめざましい玩具のひとつに、プレイ・ドーやシリーパティーおよび家庭で作れる同じような成形用粘土類がある。ウェルズリー大学幼児学習センターの教育担当メアリー・アッチーは、このような種類の玩具がなぜ子供の身体的発達、認知力向上、情緒教育の有効性および社会性の発達に影響を与えるのかを説明した。", "qas": [ { "question": "積み木に対して、「それ(積み木)は、眼と手指の共同作業を発達させ、数学や科学の技能、そして想像力を子供に芽生えさせる」と主張した人は誰ですか。", "id": "tr-272-06-000", "answers": [ { "text": "アンドリュー・ウィットキン", "answer_start": 63, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "メアリー・アッチーが所属している大学は?", "id": "tr-272-06-001", "answers": [ { "text": "ウェルズリー大学", "answer_start": 301, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "人形の起源は民間信仰の道具だったと考えられる。被災や罹病などの身代わり、豊作などの祈りの対象、そして権力者の墓に埋葬される品であったりした。日本で人形が子供用玩具となるのは、8世紀頃に始まり、江戸時代に広まった。そして芸術的・工芸的な要素が加えられ、地域の特色を帯びる郷土玩具の一体系となった。衣服をつけた人形も8世紀のヨーロッパで作られ始め、14世紀に華やかさを増した。", "qas": [ { "question": "人形の起源は何だったと推測されていますか。", "id": "tr-272-07-000", "answers": [ { "text": "民間信仰の道具", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本で人形が子供用玩具となり始まったのはいつ頃なの?", "id": "tr-272-07-001", "answers": [ { "text": "8世紀頃", "answer_start": 87, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "玩具を用いて行う遊びのうち、目標を上手く達成することに楽しさを感じ、その技能を上達させる目的で遊ぶものを練習玩具という。これを複数の人間で比較競争すればゲームとなるが、ヨーヨーやけん玉または独楽、縄跳びや紙風船などを一人単位で遊ぶことが該当する。紐を玩具に使う様々な遊びも多くこれに当たり、リリアンのようなものから複数で遊ぶあやとり、縄飛び、ゴムとびなどが例示される。木の実に軸を挿した原始的な独楽は世界中で見られ、それぞれの文化圏の様式に沿って自然発生した。独楽は子供に限らない玩具の典型であり、古代エジプトの頃から美しい装飾が施されたり、回し方にも様々な工夫が発展した。『和名類聚抄』では、日本の独楽は宮廷の儀式道具として独楽廻しの専門職がいたことが記されている。江戸時代には賭場の道具になり、また曲芸としても大成した。ヨーロッパでは16世紀イギリスで多様な種類と形状が発達し、18-19世紀には特に鉄製の独楽が流行した。この中には、氷上でも遊べる工夫が施されたものもあった。", "qas": [ { "question": "玩具を用いて行う遊びのうち、目標を上手く達成することに楽しさを感じ、その技能を上達させる目的で遊ぶものを何と呼びますか。", "id": "tr-272-08-000", "answers": [ { "text": "練習玩具", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本の独楽は宮廷の儀式道具として独楽廻しの専門職がいたという記録はどこに残されているの?", "id": "tr-272-08-001", "answers": [ { "text": "『和名類聚抄』", "answer_start": 287, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "競争・勝負がつけられる玩具もある。これには運動を伴うものもあれば、基本的に知的作業のみで行われるものもある。貝殻や土器に発し紙が使われるようになっためんこ、独楽を戦わせるベーゴマ、他にもビー玉やおはじきなどもルールに即したゲームとして使われる。ゲームには、より高度かつ複雑なものも無数に存在する。かるたやトランプなどカードゲーム類、将棋や囲碁およびチェス類、野球盤など数々のボードゲーム類、麻雀、ビリヤードなどから、これらが拡張されたスポーツ全般で使われる用具類も、広義の玩具に入れることができる。最古の盤ゲームは紀元前4000-3500年頃の古代エジプト墳墓から発見されている。これは暦や占いまたは死霊信仰の道具であった。紀元前1400年頃には初期のマンカラが登場してアフリカに伝播した。これは奴隷貿易とともにアメリカ大陸にも伝わり、ハイチではブードゥー教とも関連づいた。一方インドにはギャンブルのひとつとして流行した。", "qas": [ { "question": "最も古い盤ゲームはどこから発見されましたか。", "id": "tr-272-09-000", "answers": [ { "text": "古代エジプト墳墓", "answer_start": 272, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "初期のマンカラが登場したのはいつなの?", "id": "tr-272-09-001", "answers": [ { "text": "紀元前1400年頃", "answer_start": 312, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "子供が何らかの人物や職業になりきるごっこ遊び用の玩具も存在する。これには訓練的な意味を持つ場合もあり、プラトンは「将来の建築家は子供の頃から家を建てる遊びをするべし」と記した。それらは仕事に使う道具の模造品であったり、衣装やお面なども含まれる。戦争玩具に分類されるものでも、戦車や戦闘機および砲台等は模型に相当するが、軍刀や勲章など身につける類のものはこの一種になる。", "qas": [ { "question": "「将来の建築家は子供の頃から家を建てる遊びをするべし」という記録を残した人は誰だ。", "id": "tr-272-10-000", "answers": [ { "text": "プラトン", "answer_start": 51, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "アントニア・フレイザーは著作『おもちゃの文化史』にて、玩具を「成長後も子供時代を懐かしく思う」ものと述べ、大人でも蒐集や歴史家が着目するものと記した。現代では、子供向けに限定されない玩具、大人向けの玩具が豊富に溢れている。パズルやゲーム類は大人が遊ぶに充分なものであり、また人形やロボットなども一種の癒しを与える玩具として重宝される。バウリンガルなどは、ペットと飼い主の双方に働きかける玩具とも定義できる。テレビゲームや高度なラジコンなど、高年齢層までも購買層に狙った玩具が数多く販売されている。", "qas": [ { "question": "『おもちゃの文化史』は誰が書いたの?", "id": "tr-272-11-000", "answers": [ { "text": "アントニア・フレイザー", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "蒐集の対象としての玩具の歴史は中世で多く見られる。16世紀に始まったと言われるドールハウスは、女の子に与えられた代表的な玩具であったが、貴族階級の大人が楽しむ鑑賞品として発展し、贅を尽くした工芸品を子供が触ることは許されなかった。愛好家の多いフランス人形は、当初新しいデザインの服飾品を宣伝する媒体であった。日本でも江戸時代には物見遊山や神社仏閣参拝のみやげ物、縁起物とした玩具が発達した。本来子供向けの玩具を蒐集する趣味や遊びが発展し、骨董や嬉遊と並んだ大人の遊楽のひとつとなった。明治時代には人形蒐集家の集まりが「大供会」を結成し機関紙の発行も行われた。この「大供」とは「子供」と対を成す造語である。玩具全般も広く愛され、「おもちゃ番付」の作成や選集の編纂などの盛り上がりを見せた。現在でもビーニーベイビーやボイズベアーのように、玩具の中には収集の対象となり、大人を含む熱狂的な蒐集家が存在するものもある。中には多額の費用が掛けられるような場合もあり、PEZの稼働式ケース1個がオークションにて1,100ドルで落札された例もある。", "qas": [ { "question": "「大供会」が結成したのはいつなの?", "id": "tr-272-12-000", "answers": [ { "text": "明治時代", "answer_start": 242, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "子供が成長したり、または興味をなくしたりしたような際、玩具はリユースを検討される。グッドウィル・インダストリーズや救世軍などチャリテシーへの寄付やガレージセールへの出展、オークションまたは美術館への寄贈など、その方法は様々である。壊れた玩具や何かしらの理由で不具合を生じたものは、廃棄する際に注意を払う必要がある。寄付や販売する際には丁寧に扱い、きれいにしておくべきであり、また部品が揃っていることも必須である。2007年に発生した中国製品の安全性問題によって、アメリカ国内で玩具を扱った数多くのチャリティーが中断したり取り消されたりする事態が起きた。グッドウィル・インダストリーズはぬいぐるみを除く全玩具の寄付受取りを停止し、他のチャリティーも政府が発行したチェックリストに基づいて玩具類に対する確認を実施した。電気製品の3R促進を目標に制定されたWEEE指令では、2007年1月2日よりイギリスにおける玩具へ適用させる運用が始まった。", "qas": [ { "question": "グッドウィル・インダストリーズは何を除いて全玩具の寄付受取りを停止しましたか。", "id": "tr-272-13-000", "answers": [ { "text": "ぬいぐるみ", "answer_start": 292, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "多くの国で販売される玩具に対する安全基準が設定されている。日本の場合、乳幼児玩具は食品衛生法が適用され、毒性が指摘されている重金属や砒素の溶出が検査される。また、電気を使う玩具には電気用品安全法に則したPSEマークの表示が義務づけられ、花火には火薬類取締法の規制がかかる。業界の自主規制では、SGマークやSTマークなどがある。欧州委員会では2008年12月18日に「玩具の安全性に関する指令」の改訂が提案された。これでは、玩具に含有する物質の規制が強化され、REACH規制に基づくCMR物質やアレルギー物質、芳香物質の一部に対する使用禁止や規制、使用時のリスクに対する注意の表示義務、誤飲等のリスク規制、食玩と食品の接触禁止などを盛り込んだ。これは2009年上旬に発効された。玩具企業には、数量が多くなる製品を確保するために実体がはっきりしない外注を利用し、しばしば外国の工場で製造をすることがある。近年、アメリカでは中国製玩具で受取り拒否に踏み切った事態が発生した。監視が行き届かない下請け企業は、時に不適切な製造方法をとることがある。大規模な市場を持つアメリカ合衆国政府は、玩具製造企業に対して販売する前に製品評価を義務づける準備を行っている。名称や図柄を使うキャラクター玩具などには著作権や商標登録の権者の許諾が必要になる。また、日本では青少年の健全な育成に好ましくないと判断される「有害玩具」を都道府県の条例で販売や貸与などに規制をかけている自治体もある。", "qas": [ { "question": "日本の玩具において、毒性が指摘されている重金属や砒素の溶出が検査され流のはどんな法律の基づいて行われるのですか。", "id": "tr-272-14-000", "answers": [ { "text": "食品衛生法", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "欧州委員会で「玩具の安全性に関する指令」の改訂が出されたのはいつですか。", "id": "tr-272-14-001", "answers": [ { "text": "2008年12月18日", "answer_start": 170, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "セント・へレンズ山", "paragraphs": [ { "context": "セント・ヘレンズ山、または、セントヘレンズ山(MountSt.Helens)は、アメリカ合衆国のワシントン州スカマニア郡にある大型の活火山で、山体崩壊の瞬間の様子が写真や、動画などで数多く収められた火山として知られている。\n本火山は、シアトルから南へ約154km、オレゴン州ポートランドから北東へ約85kmの地点に位置する。\nカスケード山脈の一部であり、先住民族のクリッキタットからは「煙と火の山」という意味の「ロウワラ・クロウ(Louwala-Clough)」と呼ばれていた。\nセント・ヘレンズという山名は、18世紀後半にカスケード山脈の調査を行ったイギリス海軍の航海士ジョージ・バンクーバーが、友人であった外交官の初代セント・ヘレンズ男爵アレイン・フィッツハーバート(AlleyneFitzHerbert)にちなんで名づけたものである。", "qas": [ { "question": "セント・へレンズ山から距離が遠いのは、シアトルとオレゴン州ポートランドのどちらですか?", "id": "tr-273-00-000", "answers": [ { "text": "シアトル", "answer_start": 117, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "セント・へレンズ山は何山脈の一部ですか?", "id": "tr-273-00-001", "answers": [ { "text": "カスケード山脈", "answer_start": 163, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "セント・へレンズの名付け親は誰?", "id": "tr-273-00-002", "answers": [ { "text": "ジョージ・バンクーバー", "answer_start": 286, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "セント・ヘレンズ山は、1980年5月18日に大噴火を起こしたことで広く知られる山頂部分は大規模な山体崩壊によって直径1.5kmにわたる蹄鉄型のカルデラが出現し、山の標高は2,950mから2,550mに減少した。\n崩壊した土砂は岩屑なだれとなり、200軒の建物と47本の橋を消失させ、57人の命を奪った。\n鉄道は24km、高速道路は300kmにわたって破壊された。\nこの噴火では事前にハザードマップをうまく活用して立入制限を行い、人的被害を小さなものにとどめることができた例としてよく知られている。\nカスケード山脈の他の多くの火山と同様に、セント・ヘレンズ山は火山灰や軽石などの噴出物が溶岩とともに円錐状に堆積した山であり、複式円錐火山ないし成層火山と呼ばれる内部構造をしている。\nまたセント・ヘレンズ山には複数のデイサイトの溶岩ドームが崩壊してできた玄武岩と安山岩の層が含まれており、この層には1980年の大噴火で崩壊したゴート・ロックスと呼ばれた山体の北側の斜面にあった溶岩ドームも含まれている。", "qas": [ { "question": "噴火前のセント・へレンズ山の標高は何mでしたか?", "id": "tr-273-01-000", "answers": [ { "text": "2,950m", "answer_start": 85, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "噴火後、セント・へレンズ山の標高は何mになりましたか?", "id": "tr-273-01-001", "answers": [ { "text": "2,550m", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "噴火の影響で破壊された距離が長かったのは、鉄道と高速道路のどちらですか?", "id": "tr-273-01-002", "answers": [ { "text": "高速道路", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "カスケード山脈の東部に位置しており、山の周囲にはセント・ヘレンズ山と兄弟関係にある火山が多数存在している。\nセント・ヘレンズ山から東に約55kmの地点にはアダムス山が、セント・ヘレンズ山から北東に約80kmの地点にはレーニア山が、セント・ヘレンズ山から南東に約95kmの地点にはフッド山が、位置している。\n1980年の大噴火までは、セント・ヘレンズ山はワシントン州の中で5番目に高い山であり、カスケード山脈の中では目立って高い山ではなかった。\nそれでもセント・ヘレンズ山の標高は3,000m近くあり、さらに山の頂は万年雪に覆われていたため、周囲の丘陵から傑出した外観をしていた。\n山頂は山の基底部から約1,500mの高さにあり、山の北東側では隣の峰と長さ約10kmにわたって標高約1,340mの谷を形成していた。\nその他の部分でも標高1,200m級の谷が多数存在していた。\n北側に位置するスピリット湖は、有史以前の噴火によって谷が堰きとめられてできた湖である。", "qas": [ { "question": "セント・へレンズ山から最も遠い山は、フッド山、アダムス山、レーニア山のどれですか?", "id": "tr-273-02-000", "answers": [ { "text": "フッド山", "answer_start": 139, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "セント・へレンズ山に近いのは、レーニア山とアダムス山のどちらですか?", "id": "tr-273-02-001", "answers": [ { "text": "アダムス山", "answer_start": 77, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "セント・へレンズ山の北側に位置している湖の名前は何?", "id": "tr-273-02-002", "answers": [ { "text": "スピリット湖", "answer_start": 394, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大噴火するまでは、カリフォルニア州の中で何番目に高い山でしたか?", "id": "tr-273-02-003", "answers": [ { "text": "5番目", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "セント・ヘレンズ山から流れている主要な河川は3本ある。\n山の北側から北西側に流れるトートル川、山の西側に流れるカラマ川、山の南側から東側に流れるルイス川である。\nこれらの河川の水は、セント・ヘレンズ山に降り注ぐ雨や雪によって供給されており、アメリカ海洋大気庁の統計によると年間約3600mmの降水がある。\nルイス川には水力発電を行うためのダムが3つある。\nセント・ヘレンズ山はワシントン州スカマニア郡に位置しているが、セント・ヘレンズ山へ行く際には、スカマニア郡の西に位置するカウリッツ郡から向かうほうが便利である。\nセント・ヘレンズ山から西方約55kmのキャッスル・ロックにある州間高速道路5号線49番出口からワシントン州道504号線を東に向かうことで、セント・ヘレンズ山の北の麓へ行くことができる。", "qas": [ { "question": "セント・へレンズ山から流れている主要河川は、ルイス川とトートル川の他に何がありますか?", "id": "tr-273-03-000", "answers": [ { "text": "カラマ川", "answer_start": 55, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "セント・へレンズ山の1年間の降水量はどれくらいですか?", "id": "tr-273-03-001", "answers": [ { "text": "約3600mm", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "トートル川、カラマ川、ルイス川の中で、ダムが3つある川はどれですか?", "id": "tr-273-03-002", "answers": [ { "text": "ルイス川", "answer_start": 153, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "州間高速道路5号線はアメリカ合衆国の西海岸を南北に走る高速道路であり、セント・ヘレンズ山付近ではカウリッツ川沿いを走っている。\nキャッスル・ロック、ロングビュー、ケルソーなどの都市を結び、キャッスル・ロックから南に約80kmの地点にはポートランドが位置している。\nセント・ヘレンズ山に最も近い自治体はワシントン州クーガーであり、山頂から南南西に約18kmのルイス川沿いに位置している。\nセント・ヘレンズ山の一帯はギフォード・ピンショー国有林に指定されているが、一部は私有地となっている。", "qas": [ { "question": "キャッスル・ロックとポートランドは何km離れていますか?", "id": "tr-273-04-000", "answers": [ { "text": "約80km", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "アメリカ合衆国の西海岸を南北に走る高速道路の名は何?", "id": "tr-273-04-001", "answers": [ { "text": "州間高速道路5号線", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クーガーとセント・へレンズ山の山頂は何km離れていますか?", "id": "tr-273-04-002", "answers": [ { "text": "約18km", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "クーガーはどこの川沿いに位置しているの?", "id": "tr-273-04-003", "answers": [ { "text": "ルイス川", "answer_start": 178, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "地質学的証拠によると、セント・ヘレンズ山は新生代第四紀更新世末期の紀元前3万9600年頃、噴火によって噴出した軽石や火山灰などによって形成が開始された。\n紀元前3万9000年頃には極めて大規模な火砕流が発生し、セント・ヘレンズ山の原型が完成した。\n最終氷期末期の紀元前1万8000年頃から紀元前1万4000年頃には、円錐状の山体の一部が砕かれ、氷河とともに海へと流れていった。\nその後も頻繁に噴火を繰り返し、大量の軽石や火山灰を噴出した。\n紀元前6,500年頃になるとセント・ヘレンズ山の火山活動は収束し、以後約4,000年にわたって平穏な姿を呈し続けた。", "qas": [ { "question": "セント・へレンズ山の原型が完成した時期はいつ?", "id": "tr-273-05-000", "answers": [ { "text": "紀元前3万9000年頃", "answer_start": 77, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "紀元前2,500年頃、再びセント・ヘレンズ山の火山活動が活発化し、スミス・クリーク噴火期と呼ばれる活動期に入った。\nスミス・クリーク噴火期は約900年間続き、大量の火山灰や黄褐色の軽石などの噴出物がセント・ヘレンズ山の周囲約1万km2に降り注いだ。\nその後セント・ヘレンズ山は紀元前1,600年頃まで大規模な噴火を繰り返し、セント・ヘレンズ山から北東に約80km離れたレーニア山国立公園には当時の噴出物が約50cmほど堆積した。\nまた、セント・ヘレンズ山から北北東に約1,000km離れたカナダのアルバータ州にあるバンフ国立公園でも噴火の痕跡が確認されている。\nこの期間に噴出した岩石や火山灰の総量は、約10km3であると推測されている。", "qas": [ { "question": "スミス・クリーク噴火期は何年間ありましたか?", "id": "tr-273-06-000", "answers": [ { "text": "約900年間", "answer_start": 70, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "セント・へレンズ山から距離が遠い公園は、レーニア山国立公園とバンフ国立公園のどちらですか?", "id": "tr-273-06-001", "answers": [ { "text": "バンフ国立公", "answer_start": 257, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "セント・へレンズ山の噴火によって、レーニア山国立公園にはどれくらいの量の噴出物が堆積しましたか?", "id": "tr-273-06-002", "answers": [ { "text": "約50cmほど", "answer_start": 202, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "そして約400年間の休息期間を経た後の紀元前1,200年頃、セント・ヘレンズ山はパイン・クリーク噴火期と呼ばれる活動期に入った。\nパイン・クリーク噴火期は紀元前800年頃まで続き、小規模な噴火を極めて頻繁に繰り返した。\n山頂からは粘度の高い火砕流が発生し、近くの谷へと流れ落ちた。\n紀元前1,000年頃から紀元前500年頃には大規模な土石流(ラハール)が発生し、ルイス川の峡谷を約65kmにわたって埋没させた。", "qas": [ { "question": "パイン・クリーク噴火期は何年頃から始まりましたか?", "id": "tr-273-07-000", "answers": [ { "text": "紀元前1,200年頃", "answer_start": 19, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "パイン・クリーク噴火期は何年頃に終わりましたか?", "id": "tr-273-07-001", "answers": [ { "text": "紀元前800年頃", "answer_start": 77, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "その後セント・ヘレンズ山は再び約400年にわたる休息期間を経て、紀元前400年頃にキャッスル・クリーク噴火期と呼ばれる活動期に入った。\nキャッスル・クリーク噴火期ではそれまでの活動期とは異なった成分の溶岩を噴出した。\n溶岩には橄欖岩や玄武岩が混ざり合っており、さらに粉々になった安山岩や火山灰などが含まれていた。\n100年頃には大規模な噴火があり、このときに流れ出た溶岩は山体の一部となり、長さ約15kmに及ぶ溶岩洞が形成された。\nまた流れ出た溶岩の一部はルイス川やカラマ川にも到達した。\nこれと同時期には大規模な土石流も発生し、トートル川やカラマ川の峡谷を長さ約50kmにわたって埋没させた上、その一部はコロンビア川にまで到達した。\nそしてセント・ヘレンズ山は、再び約400年間の休息期間に入った。\n500年頃、セント・ヘレンズ山の火山活動は再び活発化し、シュガー・ボウル噴火期と呼ばれる活動期に入った。\nシュガー・ボウル噴火期では山体の北側の斜面から小規模な噴火を起こし、800年頃まで継続した。\nシュガー・ボウル噴火期の末期には「シュガー・ボウル」と呼ばれる溶岩ドームが形成された。", "qas": [ { "question": "シュガー・ボウル噴火期とキャッスル・クリーク噴火期はどちらが先に始まりましたか?", "id": "tr-273-08-000", "answers": [ { "text": "キャッスル・クリーク噴火期", "answer_start": 41, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "シュガー・ボウル噴火期に入る前、セント・へレンズ山は何年間休息していましたか?", "id": "tr-273-08-001", "answers": [ { "text": "約400年間", "answer_start": 334, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "シュガー・ボウル噴火期は何年頃から始まりましたか?", "id": "tr-273-08-002", "answers": [ { "text": "500年頃", "answer_start": 351, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "シュガー・ボウル噴火期は何年頃に終わりましたか?", "id": "tr-273-08-003", "answers": [ { "text": "800年頃", "answer_start": 438, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "セント・ヘレンズ山はシュガー・ボウル噴火期から約700年間の休息期間を経た1500年頃、突発的に活動を再開し、カラマ噴火期と呼ばれる活動期間に入った。\n薄い灰色をした軽石と火山灰を噴出し、セント・ヘレンズ山の北東斜面には約9.5kmにわたって噴出物が約1mほど堆積した。\nまた、北東方向に約80km離れた地点においても約5cmの降灰が確認されているまた。\n大規模な火砕流や土石流が西側の斜面で発生し、カラマ川に流れ落ちた。", "qas": [ { "question": "セント・へレンズ山はシュガー・ボウル噴火期の後、何年間休息しましたか?", "id": "tr-273-09-000", "answers": [ { "text": "約700年間", "answer_start": 23, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カラマ噴火期は何年頃に始まりましたか?", "id": "tr-273-09-001", "answers": [ { "text": "1500年頃", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "カラマ噴火期は約150年間にわたって継続し、二酸化珪素の成分がほとんど含まれていない溶岩が噴出した。\nまた淡い色をした火山灰と暗い色をした火山灰の層が交互に積み重なり、少なくとも8層にわたって堆積した。\nその後、粘度の高い安山岩の溶岩が山頂火口から山体の南東斜面に流れ落ちた。\n続いて火砕流がその上を流れ落ち、一部はカラマ川にまで到達した。\nカラマ噴火期の末期になると山頂火口に巨大な溶岩ドームが形成され、山頂火口の大部分が溶岩ドームに覆われた。\nカラマ噴火期は1647年に収束し、高くそびえる左右対称な姿のセント・ヘレンズ山へと成長した。", "qas": [ { "question": "カラマ噴火期は何年に収束したの?", "id": "tr-273-10-000", "answers": [ { "text": "1647年", "answer_start": 231, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "カラマ噴火期は何年間続いたの?", "id": "tr-273-10-001", "answers": [ { "text": "約150年間", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1800年、セント・ヘレンズ山はゴート・ロックス噴火期と呼ばれる活動期間に入った。\nゴート・ロックス噴火期は、口承記録と文書記録が存在する最初の活動期間である。\nゴート・ロックス噴火期はカラマ噴火期と同様に安山岩の溶岩を噴出させ、フローティング・アイランド溶岩流が北側斜面を流れ、溶岩ドームが形成された。\nこのときの火山灰は主にセント・ヘレンズ山の北東方向へ流れ、ワシントン州中央部から東部、およびアイダホ州北部、モンタナ州西部で降灰が確認された。\n1831年から1857年にかけて10回を超える小規模な噴火が繰り返し発生し、周辺地域への降灰が幾度となく記録された。\nこのときの噴火口はゴート・ロックスもしくはその付近に形成されたと推測されている。\nそしてセント・ヘレンズ山は再び123年間の眠りに入った。", "qas": [ { "question": "ゴート・ロックス噴火期収束後、セント・へレンズ山は何年間の休息に入りましたか?", "id": "tr-273-11-000", "answers": [ { "text": "123年間", "answer_start": 340, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "口承記録と文書記録が存在する最初の火山活動期間の呼称は何ですか?", "id": "tr-273-11-001", "answers": [ { "text": "ゴート・ロックス噴火期", "answer_start": 42, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1980年3月20日、セント・ヘレンズ山付近を震源とするマグニチュード4の地震が発生し、雪崩が山麓の駐車場を襲った。\nその後も地震が続き、3月27日には最初の噴火(水蒸気爆発)が発生した。\n連日のように噴火が頻発し、山頂にできた火口は幅600mまで拡大した。\n4月に入ると噴火は次第に減少したが、地下でマグマが移動していることを示す地震は続き、やがてセント・ヘレンズ山の北側が膨らみ始めた。\n4月の末には、北側斜面の一部が1979年8月時点と比べて100m近く移動しており、移動速度は1日に1.5mもの速さに達していた。\n5月16日に航空機から撮影された赤外線写真には、北側斜面膨張部の山頂側に沿った数箇所で地熱が異常に上昇しているのが記録されていたが、そのフィルムが現像されたのは大噴火の後だった。", "qas": [ { "question": "1980年3月20日に発生したセント・ヘレンズ山付近での地震の規模はどれくらいでしたか?", "id": "tr-273-12-000", "answers": [ { "text": "マグニチュード4", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "最初の噴火はいつ起きましたか?", "id": "tr-273-12-001", "answers": [ { "text": "3月27日", "answer_start": 69, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "火山学者たちはいくつかの有人観測地点を設けたが、最終的には山頂から北に約9km離れた「コールドウォーターII」だけが残った。\nコールドウォーターIIでは当時大学院生だったハリー・グリッケンが観測を担当していたが、卒業研究の準備のため5月17日に現地を離れ、デイヴィッド・ジョンストンと交替した。\n他にもセント・ヘレンズ山の北側にはカメラマンのリード・ブラックバーン(ReidBlackburn)とロバート・ランズバーグ、無線技師のジェラルド・マーチン(JerryMartin)、スピリット湖畔の旅館経営者ハリー・R・トルーマン、そして伐採業者や火山見物に訪れた野次馬などがいた。\n避難が長期化したため、5月17日と18日には周辺住民の一時帰宅が行われることになり、伐採や植林などの作業も一部で再開されていた。", "qas": [ { "question": "ハリー・グリッケンと観測担当を交替した人は誰だったの?", "id": "tr-273-13-000", "answers": [ { "text": "デイヴィッド・ジョンストン", "answer_start": 128, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハリー・グリッケンとデイヴィッド・ジョンストンが観測していた有人観測地点の名前は?", "id": "tr-273-13-001", "answers": [ { "text": "コールドウォーターII", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "先にコールドウォーターIIで観測していたのはデイヴィッド・ジョンストンとハリー・グリッケンのどちらですか?", "id": "tr-273-13-002", "answers": [ { "text": "ハリー・グリッケン", "answer_start": 85, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "5月18日日曜日、現地時間の朝8時32分(協定世界時同日15時32分)、セント・ヘレンズ山でマグニチュード5.1の地震が発生した。\n北側斜面は大規模な山体崩壊を起こし、時速160kmから240kmもの岩屑なだれとなってスピリット湖へ駆け下った。\n調査本部を呼び出そうとするデイヴィッド・ジョンストンの声(\"Vancouver!Vancouver!Thisisit!\"(「バンクーバー!バンクーバー!もうおしまいだ!」))がアマチュア無線家によって記録されているが、間もなく交信は途絶えた。\nその直後、セント・ヘレンズ山の内部に蓄積されていたマグマが噴出し、激しい横なぐりの爆風(衝撃波)と大規模な火砕流が北側山麓を襲った。\nこのときの火山爆発指数は5であった。\nこの様子は、山頂から北東に約17km離れた地点に陣取っていたカメラマン、ゲイリー・ローゼンクイスト(GaryRosenquist)により連続写真として撮影され、秀麗な山容のセント・ヘレンズ山が崩落・爆発する様子が記録された。\nジェラルド・マーチンは最後の瞬間まで噴火の様子を無線で伝え続けた。\nまた、地質学者のキースとドロシーのストッフェル夫妻(KeithandDorothyStoffel)が小型飛行機で噴火の様子を写真に記録していた。\nブラックバーンとランズバーグの遺体はカメラと共に後日発見され、ランズバーグの遺体の下のバッグパックから発見されたカメラからは噴火を記録した4枚の写真が救い出されたが、ブラックバーンのカメラのフィルムは熱で破壊されてしまっていた。\nランズバーグの写真は翌81年に発表されている。", "qas": [ { "question": "5月18日に発生した地震の規模はどれくらいでしたか?", "id": "tr-273-14-000", "answers": [ { "text": "マグニチュード5.1", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "噴火を記録した写真が残っていたのは、ランズバーグとブラックバーンのどちらの写真でしたか?", "id": "tr-273-14-001", "answers": [ { "text": "ランズバーグ", "answer_start": 559, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "セント・ヘレンズ山から北に約11kmまでは跡形もなく吹き飛ばされ、約22kmまでの木々はなぎ倒され、さらに遠方では山火事が発生するなどして合計約600km2(東京23区に相当する広さ)が大きな被害を被った。\n50kmほど離れたアダムス山でも気温が一時的に数度上昇した。\nそれから9時間以上にわたってセント・ヘレンズ山は灰色の噴煙を立ち上らせ、その高さは海抜20kmから25kmにまで達した。\n噴煙は時速95kmほどの速度で東方へ移動し、同日の正午にはアイダホ州にまで到達した。\nまた、北側斜面の崩壊により、火山灰が土砂や雪と混ざり合い、火山泥流を引き起こした。\n火山泥流はトートル川やカウリッツ川を数kmにわたって時速約30kmで流れ落ち、橋を次々と破壊していった。\n火山泥流の総量は約300万m3に及び、無数の倒木がコロンビア川に流れ込んで太平洋まで流出した。", "qas": [ { "question": "噴火の被害面積はどれくらいでしたか?", "id": "tr-273-15-000", "answers": [ { "text": "約600km2", "answer_start": 71, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "火山泥流の総量はどれくらいでしたか?", "id": "tr-273-15-001", "answers": [ { "text": "約300万m3", "answer_start": 342, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "同日17時30分頃、噴煙の高さは徐々に低くなり始めた。\nしかしながら数日間にわたって絶え間なく爆発が起こり、最終的には広島型原爆2万7000個分に相当するエネルギーがセント・ヘレンズ山から放出され、噴出物の総量は1km3を超えた。\nセント・ヘレンズ山の北側には幅約3km、深さ約800mの巨大な火口が出現し、セント・ヘレンズ山の標高は400mほど減少した。\nこの噴火により57人が死亡もしくは行方不明となり、5,000頭のシカ、1100万匹の魚が死亡したと推定されている。\nまた家屋200棟、橋43本、道路約300km以上、鉄道25km以上が破壊された。\n火山灰や火砕流、泥流、そして岩屑なだれなどの被害は概ね火山学者たちが事前に予測した通りの範囲で起きたが、横なぐりの爆風は予想外であり、大噴火を予測することもできなかった。\nしかしこの経験はセント・ヘレンズ山の以後の噴火やピナトゥボ山など他の火山の噴火の予測に役立つことになる。\n5月18日以降で最初の噴火は5月25日未明に起きた。\n6月3日未明、火山学者たちはもうすぐ噴火が起きると予測したが外れた。\n6月12日、今度は予測通りに噴火が起きた。\nデータが蓄積されるにつれて予測の精度は上がっていった。", "qas": [ { "question": "死亡した数が多かったのは、シカと魚のどちらですか?", "id": "tr-273-16-000", "answers": [ { "text": "魚", "answer_start": 221, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "噴火によって出来た火口はどれくらいの深さですか?", "id": "tr-273-16-001", "answers": [ { "text": "約800m", "answer_start": 138, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "火山学者たちが噴火の予測を当てた日付はいつですか?", "id": "tr-273-16-002", "answers": [ { "text": "6月12日", "answer_start": 479, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1980年から1986年にかけて、セント・ヘレンズ山は活発に活動を続けた。\n火口には新たな溶岩ドームが形成され、多数の小爆発を伴いながら溶岩ドームは成長を続けた。\n1980年から1981年にかけての冬から、火口の影に形成された馬蹄型の氷河が成長を始めた。\n1982年3月19日の噴火ではこの氷河が融け、火山泥流が発生した。\n氷河は年を追うごとに巨大化し、2000年には約0.9km2にまで広がった。\n1989年から1991年にかけて、セント・ヘレンズ山を震源とする群発地震が発生し、溶岩ドーム付近において小規模な爆発が発生した。\nまた、1995年、1998年、2001年にも同様の群発地震が発生したが、このときには爆発は発生しなかった。", "qas": [ { "question": "1995年の次に群発地震が発生した年はいつでしたか?", "id": "tr-273-17-000", "answers": [ { "text": "1998年", "answer_start": 274, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1995年の次の次に、群発地震が発生したのは何年でしたか?", "id": "tr-273-17-001", "answers": [ { "text": "2001年", "answer_start": 280, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2000年に氷河の面積はどれくらい拡大しましたか?", "id": "tr-273-17-002", "answers": [ { "text": "約0.9km2", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "ピエール=オーギュスト・ルノワール", "paragraphs": [ { "context": "ルノワールは、1841年、フランス中南部のリモージュで貧しい仕立屋の息子として生まれ、1844年、一家でパリに移り住んだ。聖歌隊に入り、美声を評価されていた。1854年、磁器の絵付職人の見習いとなったが、1858年、失業した。その後は扇子の装飾など職人としての仕事を手がけていた。\n\n1861年、画家になることを決意してシャルル・グレールの画塾に入り、ここでモネ、シスレー、バジールら画家仲間と知り合った。フォンテーヌブローの森で一緒に写生もしている。1864年、サロン・ド・パリに初入選し、以後度々入選している。経済的に苦しい中、親友バジールのアトリエを共同で使わせてもらった時期もあった。1869年、ルーヴシエンヌの両親の家に滞在している時、モネとともに行楽地ラ・グルヌイエールでキャンバスを並べ、印象派の特徴の一つである筆触分割の手法を生み出していった。1870年、普仏戦争が勃発し、騎兵隊に従軍したが、1871年、パリ・コミューンの動乱に揺れるパリに戻った。スパイと間違われ、一時逮捕される出来事もあった。", "qas": [ { "question": "ルノワールは何年生まれなの?", "id": "tr-274-00-000", "answers": [ { "text": "1841年", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルノワーの一家はいつパリに移り込んだか。", "id": "tr-274-00-001", "answers": [ { "text": "1844年", "answer_start": 43, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "普仏戦争は何年に勃発したか。", "id": "tr-274-00-002", "answers": [ { "text": "1870年", "answer_start": 380, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ルノワールは、1841年、フランス中南部の磁器の町リモージュで生まれた。7人兄弟の6番目であったが、上の2人は早世し、他に兄2人、姉1人、弟1人がいた。父レオナールは仕立屋、母マルグリットはお針子であった。後の印象派の画家たちがブルジョワ階級出身だったのに対し、ルノワールは1人労働者階級出身であった。\n\n1844年、一家でパリに移住した。ルーヴル美術館の近くで、当時は貧しい人が暮らす下町であった。幼い頃から絵への興味を示していたが、美声でもあったルノワールは、1850年頃、作曲家のシャルル・グノーが率いるサン・トゥスタッシュ教会の聖歌隊に入り、グノーから声楽を学んだ。ルノワールの歌手としての才能を高く評価したグノーは、ルノワールの両親にルノワールをオペラ座の合唱団に入れることを提案したが、父親の知人からルノワールを磁器工場の徒弟として雇いたいという申出があったことから、グノーの提案を断り、聖歌隊も辞めた。\n\n1854年、磁器工場に入り、磁器の絵付職人の見習いとなるが、産業革命や機械化の影響は伝統的な磁器絵付けの世界にも影響し、1858年に職人としての仕事を失うこととなった。ルノワールは、後に次のように回想している。", "qas": [ { "question": "ルノワールは何年生まれなの?", "id": "tr-274-01-000", "answers": [ { "text": "1841年", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルノワールは7人兄弟の何番目でしたか。", "id": "tr-274-01-001", "answers": [ { "text": "6番目", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "レオナールの妻は誰?", "id": "tr-274-01-002", "answers": [ { "text": "マルグリット", "answer_start": 88, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ルノワーの一家はいつパリに移り込んだか。", "id": "tr-274-01-003", "answers": [ { "text": "1844年", "answer_start": 153, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ルノワールは、画家になることを決意し、1861年11月、シャルル・グレールのアトリエに入った。ここでクロード・モネ、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールら、後の印象派の画家たちと知り合った。また、近くにアトリエを持っていたアンリ・ファンタン=ラトゥールとも知り合った。グレール自身は、保守的なアカデミズムの画家であったが、生徒たちに、安い費用で、モデルを使って自由に描くことを許していたので、様々な傾向の画学生が集まっていた。ルノワールは、後に、グレールは「弟子にとって何の助けにもなってくれなかった」が、「弟子たちに思うようにさせる」という長所はあったと振り返っている。グレールが、画塾で制作中のルノワールの色遣いを見て、「君、絵具を引っかき回すのが、楽しいんだろうね。」と言うと、ルノワールが「もちろんです。楽しくなければやりません。」と応えたというエピソードが知られている。グレールの保守的な指導に飽き足らない点で、モネやルノワールは共感を深めていった。もっとも、ルーヴル美術館を毛嫌いするモネと異なり、ルノワールは、友人アンリ・ファンタン=ラトゥールとともにルーヴルに行き、18世紀フランスの画家たちを好んで研究した。", "qas": [ { "question": "ルノワールは何になるためにシャルル・グレールのアトリエに入ったの?", "id": "tr-274-02-000", "answers": [ { "text": "画家", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルノワールは何年にシャルル・グレールのアトリエに入ったの?", "id": "tr-274-02-001", "answers": [ { "text": "1861年", "answer_start": 19, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルノワールは1861年11月、誰のアトリエに入ったの?", "id": "tr-274-02-002", "answers": [ { "text": "シャルル・グレール", "answer_start": 28, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ルノワールは、1862年4月にはエコール・デ・ボザールにも入学し、古典的なデッサン教育も並行して受けた。ここでは、夜間のデッサンと解剖学の授業に出席していたが、油彩画の習作をクラスに持って行ったところ、教師シニョルから、赤い色の使い方について批判され、「もう1人のドラクロワになったりしないよう気を付けることだ!」と警告されたという。当時、豊かな色彩を用いるドラクロワは、デッサンを重視する新古典主義が支配するアカデミーから排撃されていた。エコール・デ・ボザールで行われた1863年の構図の試験では、受験者12人中9番、1864年の彫刻とデッサンの試験では、106人中10番という成績を残している。\n\n1863年には、バジール、モネ、シスレーとともにシャイイ=アン=ビエールに行き、フォンテーヌブローの森で写生している。ルノワールが戸外で制作していると、義足の男が現れ、「デッサンは悪くないが、一体どうしてこんなに黒く塗りつぶしてしまうんだね」と評したという。この男は、バルビゾン派の画家ナルシス・ヴィルジル・ディアズ・ド・ラ・ペーニャであり、その後、ディアズは、経済的に苦しいルノワールのために画材代の支援や助言をするようになり、ルノワールもディアズを尊敬するようになった。この年、グレールは、健康上・財政上の理由で画塾を閉鎖することとなった。", "qas": [ { "question": "ルノワールは、いつエコール・デ・ボザールに入学したか。", "id": "tr-274-03-000", "answers": [ { "text": "1862年4月", "answer_start": 7, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルノワールはエコール・デ・ボザールで行われた1863年の構図の試験で、受験者12人中、何番という成績を残しましたか。", "id": "tr-274-03-001", "answers": [ { "text": "9番", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ルノワールは、1863年のサロン・ド・パリに初めて応募したが、落選した。1864年のサロンに「グレールの弟子」として『エスメラルダ』を応募して、入選した。しかし、この作品は、ルノワール自身がサロン終了後に塗りつぶしてしまい、現在は残っていない。ヴィクトル・ユーゴーの『ノートルダム・ド・パリ』を題材とした、ロマン派的主題の暗い絵であったという。\n\n1864年、磁器の製造業者から、初めて9歳の娘の肖像画の依頼を受け、『ロメーヌ・ラコー嬢』を制作した。ベラスケス、アングル、コロー、エドガー・ドガの影響も感じられる作品となっている。", "qas": [ { "question": "ルノワールが1863年のサロン・ド・パリに初めて応募した時の結果は?", "id": "tr-274-04-000", "answers": [ { "text": "落選", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ロメーヌ・ラコー嬢』のモデルの子は当時何歳だった?", "id": "tr-274-04-001", "answers": [ { "text": "9歳", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ロメーヌ・ラコー嬢』を制作した人は誰だ?", "id": "tr-274-04-002", "answers": [ { "text": "ルノワール", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルノワールは1864年のサロンにどんな作品を応募したか。", "id": "tr-274-04-003", "answers": [ { "text": "『エスメラルダ』", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ルノワールは1865年、シスレーとともに、フォンテーヌブローの森近くのマルロットに滞在した。ルノワールは、マルロットで画家ジュール・ル・クールと知り合い、滞在中は世話になるようになった。ル・クールは、クレマンス・トレオという女性と交際を始めたが、ルノワールは、クレマンスの妹である17歳のリーズ・トレオと知り合い、交際するようになった。その後、度々彼女をモデルに絵を描いている。1865年のサロンには、シスレーの父親を描いた肖像画を含む2点が入選した。シスレーが、経済的に苦しいルノワールを助けるため、肖像画を依頼して買い取ったものであった。この時も、ルノワールは「グレールの弟子」として出品している。1866年にもシスレーとともにマルロットを再訪し、『アントニーおばさんの宿屋』を制作した。\n\n1866年のサロンには、『フォンテーヌブローの森のジュール・ル・クール』を応募した。この年、サロンの審査委員にジャン=バティスト・カミーユ・コローやシャルル=フランソワ・ドービニーが入ったため、ルノワールや仲間の画家の多くが入選した。この時期、ルノワールは、クールベにならってパレットナイフを使った作品から、アカデミックな構想の作品まで、両極端の様々な様式を実験しており、フォンテーヌブローの森などで制作した。", "qas": [ { "question": "ルノワールは1865年のサロンに誰の肖像画を含む2点を応募したか。", "id": "tr-274-05-000", "answers": [ { "text": "シスレーの父親", "answer_start": 201, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルノワールは1866年のサロンに、何を応募したか。", "id": "tr-274-05-001", "answers": [ { "text": "『フォンテーヌブローの森のジュール・ル・クール』", "answer_start": 360, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『フォンテーヌブローの森のジュール・ル・クール』を描いた画家は誰?", "id": "tr-274-05-002", "answers": [ { "text": "ルノワール", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "バジールは、1866年7月、ヴィスコンティ通りにアトリエを移し、ルノワールも共同で使用した。シスレーやモネもここをよく訪れた。南仏の裕福な家庭に育ったバジールは、ルノワールやモネら仲間の画家を経済的に助け、時にアトリエで生活を共にした。1867年、バジールとシスレーが同じあおさぎの静物を違う角度から描き、その制作中のバジールをルノワールが絵画に残している。バジールも、ルノワールの肖像を描いている。マネはルノワールによるバジールの肖像を賞賛し、ルノワールはこの絵をマネに贈った。", "qas": [ { "question": "バジールは、いつヴィスコンティ通りにアトリエを移したの?", "id": "tr-274-06-000", "answers": [ { "text": "1866年7月", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1870年のサロンには、リーズをモデルとした『浴女とグリフォンテリア』が入選した。女性のポーズは古代ギリシャのアフロディテに似ているが、クールベの写実主義の影響も指摘される。もう1点入選した『アルジェの女』は、ドラクロワの『アルジェの女たち』へのオマージュで、アルジェの女に扮したパリの女を描いたものであった。これまでバティニョール派への評価を避けてきた批評家アルセーヌ・ウーセイも、『ラルティスト』誌にモネとルノワールを擁護する評論を発表し、「ルノワール氏を入選させたのは良い判断である。堂々たる色彩を扱う気質が、ドラクロワが描いたかのような『アルジェの女』に、素晴らしく表れている。」と書いている。", "qas": [ { "question": "『浴女とグリフォンテリア』は誰をモデルに描いた作品なの?", "id": "tr-274-07-000", "answers": [ { "text": "リーズ", "answer_start": 12, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『アルジェの女』はどんな作品へのオマージュなの?", "id": "tr-274-07-001", "answers": [ { "text": "『アルジェの女たち』", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1870年7月、普仏戦争が勃発すると、ルノワールは第10騎兵部隊に配属されたが、1871年3月、動員が解除された。赤痢にかかり、生命まで危ぶまれたが、おじがボルドーに引き取ってくれ、回復したようである。ルノワールがパリに戻ると、パリ・コミューンによる動乱の真っ只中であった。ルノワールは、セーヌ河岸で制作していたところ、パリ・コミューンの兵士から、第三共和政政府のスパイと勘違いされて逮捕された。連行される途中、知り合いだったパリ警視総監ラウル・リゴーが通りがかって身元が判明し、釈放された。その上、リゴーに通行許可証を出してもらい、パリ・コミューンの動乱期に防衛線を越えてルーヴシエンヌの両親の家と行き来することができた。フランスに残っていたシスレーと、ルーヴシエンヌやマルリーで一緒に制作した。「血の1週間」の最中の5月23日夜、コミューン政府はセーヌ河岸の建物に火を放ったが、ルノワールは、ルーヴシエンヌの水道橋から、炎上するパリ市街を暗澹たる思いで見ていた。\n\n普仏戦争では、友人バジールが戦死した。また、モネやピサロはロンドンに渡って画商ポール・デュラン=リュエルと知り合うなど、バティニョール派の画家たちにとっては一つの転機が訪れた。", "qas": [ { "question": "普仏戦争はいつ勃発したか。", "id": "tr-274-08-000", "answers": [ { "text": "1870年7月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "普仏戦争が勃発して、ルノワールはどのに配属されたか。", "id": "tr-274-08-001", "answers": [ { "text": "第10騎兵部隊", "answer_start": 25, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルノワールがセーヌ河岸で制作していた時、何に勘違いされて逮捕になりましたか。", "id": "tr-274-08-002", "answers": [ { "text": "第三共和政政府のスパイ", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "バジールはどの戦争で亡くなりましたか。", "id": "tr-274-08-003", "answers": [ { "text": "普仏戦争", "answer_start": 435, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "第三共和政になってからのサロンは、保守性を増した。ルノワールは、1872年のサロンに『騎兵』と『アルジェリア風のパリの女たち』を応募したが、落選した。1873年のサロンには『ブーローニュの森の朝の乗馬』と『肖像画』を応募したが、これも落選し、この年5月から開かれた落選展に『ブーローニュの森の朝の乗馬』を出品した。この作品には好意的な批評と批判的な批評が出たが、エドガー・ドガの友人アンリ・ルアールが購入してくれた。また、ドガが、批評家テオドール・デュレに『日傘のリーズ』を勧めてくれ、デュレが1200フランで購入してくれた。\n\nモネやピサロを介してバティニョール派の画家たちを知るようになったデュラン=リュエルも、彼らの作品を購入するようになった。1872年3月には、ルノワールとも会った。しかし、この頃は、他のバティニョール派のメンバーと比べ、ルノワールにはそれほど注目しておらず、1872年の購入額は500フラン、1873年の購入額は100フランにとどまっている。", "qas": [ { "question": "ルノワールは、1872年のサロンに『騎兵』と何を応募したの。", "id": "tr-274-09-000", "answers": [ { "text": "『アルジェリア風のパリの女たち』", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルノワールは何年のサロンに『ブーローニュの森の朝の乗馬』と『肖像画』を応募したか。", "id": "tr-274-09-001", "answers": [ { "text": "1873年", "answer_start": 75, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ブーローニュの森の朝の乗馬』を購入した人は誰でしたか。", "id": "tr-274-09-002", "answers": [ { "text": "アンリ・ルアール", "answer_start": 191, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "エアバスA300-600", "paragraphs": [ { "context": "エアバスA300-600(AirbusA300-600)は、エアバス・インダストリー(後のエアバス)が開発・製造した双発ジェット旅客機である。A300-600は、双発ワイドボディ機であるエアバスA300の発展型として開発され、収容力や航続力が強化されたほか、アビオニクス等に開発当時の最新技術が導入された。構成品の一部はエアバスA310と共通化され、操縦資格もA310と共通となった。A300-600は、低翼配置の主翼下に左右1発ずつターボファンエンジンを装備し、尾翼は低翼配置、降着装置は前輪配置である。全長は54.08メートル、全幅は44.85メートル、最大離陸重量は153トンから171.7トン、標準座席数は2クラス制で226席で、最大巡航速度はマッハ0.82である。A300-600シリーズにはベース機のA300-600のほか航続距離延長型のA300-600Rが開発されたほか、貨物専用型のA300-600F/-600RF、そして大型貨物輸送用のA300-600STも開発・生産された。A300-600は、1984年4月にサウジアラビア航空(現・サウディア)によって初就航した。A300-600シリーズ全体の生産数は317機で、2007年7月にフェデックスに納入された機体を最後に生産を終了した。2015年11月現在、A300-600シリーズでの機体損失事故は11件、死者を伴う事件・事故は5件報告されており、合わせて736人が亡くなっている。", "qas": [ { "question": "A300-600は、A300から収容力と何を強化させた発展型であるの?", "id": "tr-275-00-000", "answers": [ { "text": "航続力", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A300-600RとA300-600Fのうち、より遠くまで飛べるのは、どちらですか?", "id": "tr-275-00-001", "answers": [ { "text": "A300-600R", "answer_start": 375, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A300-600RとA300-600F、A300-600STのうち、乗客を乗せないものでないのは、どちらか?", "id": "tr-275-00-002", "answers": [ { "text": "A300-600R", "answer_start": 375, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2015年11月までのA300-600シリーズにおける機体損失事故の中で、死者を伴う事件・事故とそうでない事件・事故の件数を比較した時、件数がより少ないのは、どちらか?", "id": "tr-275-00-003", "answers": [ { "text": "死者を伴う事件・事故", "answer_start": 588, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ボーイング707とダグラスDC-8の相次ぐ就航により本格的なジェット旅客機の時代が到来し、1960年代の中盤には旅客機の大型化が望まれるようになった。空港に行けばいつでも飛行機に乗れる時代が到来すると予想され、バスのように気軽に乗れる飛行機として「エアバス」という言葉が生まれた。当時、欧州の航空機メーカーは単独で「エアバス」を事業化できる資金力が無かったことから、欧州各国では「エアバス」の国際共同開発が模索された。途中、牽引役だったイギリス政府が計画から脱退するなど紆余曲折があったが、フランスとドイツ(西ドイツ)両政府が計画の中心となり、1969年5月29日に正式開発の調印式が行われた。機体案はA300Bと名付けられ、座席数が250席程度でターボファンエンジンを備えた双発のワイドボディ機にまとまった。事業を取りまとめるため、企業連合「エアバス・インダストリー」が設立された。エアバス・インダストリーへの出資は、フランスのアエロスパシアルと西ドイツのドイチェ・エアバスが50パーセントずつ分担し、後にスペインのCASAが加わった。このほか、イギリスのホーカー・シドレーとオランダのフォッカーが協力会社として開発や生産を分担した。アエロスパシアルとドイチェ・エアバスが機体全体のとりまとめを行い、ホーカー・シドレーが主翼の設計を担当した。A300Bは1972年10月に初飛行し、1974年5月にエールフランスにより初就航した。当初A300Bの受注は低迷したが、参加国政府と銀行団の強力な支援のもと米国のイースタン航空などへの売り込みに成功し、1977年後半から好転した。", "qas": [ { "question": "本格的なジェット旅客機の時代の到来は、ボーイング707とどの旅客機の就航がもたらしたの?", "id": "tr-275-01-000", "answers": [ { "text": "ダグラスDC-8", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当初の「エアバス」の国際共同開発計画の加盟国のうち、途中で脱退したのは、どの国の政府ですか?", "id": "tr-275-01-001", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 218, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "機体案A300Bにおいて、機体全体のとりまとめを行ったのは、フランスとどの国の会社か?", "id": "tr-275-01-002", "answers": [ { "text": "西ドイツ", "answer_start": 424, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A300Bにおける初めての商業運航は、いつか?", "id": "tr-275-01-003", "answers": [ { "text": "1974年5月", "answer_start": 592, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "事業存続の見通しが立ったエアバス・インダストリーは、市場調査により座席数200席強の旅客機需要が高まると予測し、次期製品としてA300の胴体短縮型の開発を決断した。この派生型はA310と名付けられ1978年7月7日に正式開発が決定し、同月13日にフランス・ドイツ両政府からの事業認可を得た。A300の販売好転とA310の開発決定という将来性が見えてくると、計画を離脱していたイギリス政府が方針を変えた。1977年4月29日、イギリスはホーカー・シドレーを含む航空機メーカー4社を統合して国有企業のブリティッシュ・エアロスペースを設立した。そして1978年11月、イギリス政府のエアバス計画への加盟が決定した。", "qas": [ { "question": "A300から胴体をより短くした派生型の正式開発が決定したのは、いつなの?", "id": "tr-275-02-000", "answers": [ { "text": "1978年7月7日", "answer_start": 98, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "エアバスの国際共同開発計画から一度脱退したことがある国が、再び加盟したのは、いつですか?", "id": "tr-275-02-001", "answers": [ { "text": "1978年11月", "answer_start": 272, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "A310は、A300Bの1型式であるA300B2から胴体と尾部が短縮され、それに合わせて主翼と水平尾翼も再設計された。さらに同時期に、ボーイングが全くの新規開発で双発ワイドボディ機「7X7」(のちの767)を研究していたことから、それに対抗するためエアバス・インダストリーはA310にできるだけ新技術を盛り込んだ。当時、デジタル通信・制御技術が急速に進歩していたこと、また、航空会社が直接運航費の低減を求めていたことから、A300のアナログ式システムを全面的にデジタル式システムに設計変更し、自動化技術やフライ・バイ・ワイヤ技術も導入した。いわゆるグラスコックピット化されたA310は、標準仕様で操縦士2人で運航可能なワイドボディ機となった。加えて、炭素繊維強化プラスチック(CFRP)などの複合材料の使用範囲も拡大された。A310はA300と同じ組み立てラインで生産され、製造番号もA300と共通の通し番号が採番された。通算162号機がA310の初号機となって1982年4月に初飛行した。A310は1983年3月に型式証明を取得して同年4月にルフトハンザ航空により初就航した。", "qas": [ { "question": "A310は、どの機体をもとにして開発されたか?", "id": "tr-275-03-000", "answers": [ { "text": "A300B2", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A310の初就航は、何年に行われたか?", "id": "tr-275-03-001", "answers": [ { "text": "1983年", "answer_start": 450, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A300がアナログ式システムになっていたことに対し、A310はどのような方式のシステムになっていたのか?", "id": "tr-275-03-002", "answers": [ { "text": "デジタル式システム", "answer_start": 230, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "エアバス・インダストリーはA310だけでなく、A300への新技術投入も早くから考えていた。新しいA300では、A310との競合を避けるため座席数を少し増やしつつ、A310と同じ2人乗務のコックピットを導入してA300とA310の運航の共通性を高めることになった。この次世代型A300の機体構造はA300B4をベースに開発され、正式な型式名はA300B4-600と名付けられたが、一般的にA300-600と呼ばれるようになった。最初の発注者となったサウジアラビア航空(現・サウディア)から11機の受注を得て、1980年12月6日、A300-600の開発が正式に決定された。", "qas": [ { "question": "A300とA310を比較したら、座席数とコックピットのうち、どちらにおいて差があるか?", "id": "tr-275-04-000", "answers": [ { "text": "座席数", "answer_start": 69, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A300B4-600の開発が正式決定されたのは、いつか?", "id": "tr-275-04-001", "answers": [ { "text": "1980年12月6日", "answer_start": 253, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "A300-600の開発目的は、A300の航続距離とペイロードを増やすことであった。A300B4の機体構造をベースとして胴体を延長しつつ軽量化を図ったほか、空力特性の改善と空気抵抗の抑制対策がとられた。2人乗務のコックピットは、A300第1世代の頃から研究されていた。A300第1世代の通常仕様では、航空機関士が操作する機器類は主にコックピット内の右舷側にあるが、エンジン始動後は航空機関士が前方向きに座って飛行できるよう操作パネルが配置されていた。エアバス・インダストリーは、この考えを一段と進めて航空機関士を必要とせず操縦士2名だけでの運航も可能なFFCC(ForwardFacingCrewCockpitの略)と呼ばれるコックピットを開発・実用化していた。また、1980年代前半にA300の垂直安定板の前縁や主脚扉などをCFRP製とした試作品の開発や実証試験も行われていた。", "qas": [ { "question": "A300-600の機体構造の基となった機体は、何?", "id": "tr-275-05-000", "answers": [ { "text": "A300B4", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A300-600の開発目的は、A300から航続距離と何を増加させることでありましたか?", "id": "tr-275-05-001", "answers": [ { "text": "ペイロード", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "A300第1世代やA310の研究・開発で蓄積された技術がA300-600に導入された。A300-600の開発では、A300第1世代より航続力と搭載力を強化すること、そして、可能な限りA310との共通性を持たせて開発・生産コストや航空会社の運用コストを抑えることが目標とされた。胴体は、A300B4の後部胴体を平行部分を3フレーム(1.59メートル)延長する一方で、2フレーム短縮されたA310の尾部を流用することで、胴体延長による重心・尾翼間距離の変化を抑えつつ、座席で1列-2列(8-16席)分、貨物室でLD-3航空貨物コンテナ1列(2個)分の収容力が強化された。尾部全体がA310と共通化されたため、水平尾翼もA310と同じ小型のものに変更された。", "qas": [ { "question": "A300B4とA310のうち、より長い尾部を持つのは、どちらか?", "id": "tr-275-06-000", "answers": [ { "text": "A300B4", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A300-600の開発では開発・生産コストや航空会社の運用コストを抑えるために、ある機体との共通性を持たせたが、その例としてこの文書では、尾部全体と何が挙げられているか?", "id": "tr-275-06-001", "answers": [ { "text": "水平尾翼", "answer_start": 302, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "主翼もA300第1世代のものに改良が加えられた。外翼部の低速度用エルロンが廃止され、横操縦は翼の中程にある全速度エルロンとスポイラーによって行う方式となった。フラップもA300第1世代のタブ付きダブル・スロット型ファウラーフラップという特殊な方式から、シングル・スロット型ファウラーフラップへと簡素化された。このフラップの後縁断面は上方への反りが大きくなり、空力特性がA310の主翼に近づけられた。これにより失速特性が改善され、A300第1世代の主翼に備わっていたスラットのフェンスが不要になり除去された。フライ・バイ・ワイヤ等の採用でコックピットはA310とほぼ共通化され、2人乗務での運航が標準となったほか、操縦士の操縦資格もA310とA300-600とで共通化された。前述の主翼の改良、小型水平尾翼の採用、そしてフライ・バイ・ワイヤの導入のほか、複合材料の使用拡大、小型軽量の補助動力装置の採用、カーボンブレーキの採用、客室装備等の軽量化により全体で2トンの軽量化を実現した。A300-600のエンジンは、ゼネラル・エレクトリック製のCF6シリーズとプラット・アンド・ホイットニー製のJT9Dシリーズであるが、燃料消費率や推力が向上した改良型に変更された。", "qas": [ { "question": "A300-600のフラップは、どの機体のものをもとに簡潔化を果たしたものであるの?", "id": "tr-275-07-000", "answers": [ { "text": "A300第1世代", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、どの機体のものを改良し、A300-600に搭載したとのことの例を主に挙げていますか?", "id": "tr-275-07-001", "answers": [ { "text": "A300第1世代", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "操縦士の操縦資格において、A300-600と共通化されたのは、何か?", "id": "tr-275-07-002", "answers": [ { "text": "A310", "answer_start": 275, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "A300-600の生産は、A300第1世代から引き続き国際分業体制によって行われ、各国の分担はA310と同様であった。最終組立もこれまでのエアバス機同様フランスのトゥールーズで行われた。A300-600の製造番号は、A300第1世代およびA310を含めた通し番号が採番された。製造番号252号機がA300-600の初号機となり、1983年7月9日に初飛行した。型式証明のための飛行試験には3機が用いられ、飛行回数はのべ232回、飛行時間は計506時間の試験が行われた。1984年3月9日、西ドイツとフランスの航空当局から型式証明が交付され、同月25日にサウジアラビア航空に対して初納入された。", "qas": [ { "question": "A300-600までのすべてのエアバス機における最終組立場所は、どの国にあるところなの?", "id": "tr-275-08-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 76, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A300-600の初飛行は、いつですか?", "id": "tr-275-08-001", "answers": [ { "text": "1983年7月9日", "answer_start": 164, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A300-600が初めて航空会社に納入されたのは、何年か?", "id": "tr-275-08-002", "answers": [ { "text": "1984年", "answer_start": 234, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1984年4月、サウジアラビア航空がA300-600を路線就航させ、その年の10月までに同航空は11機を受領した。生産が始まってからも機体の改良が続けられ、翼端渦を抑えて揚抗比を向上させるため、主翼の翼端にウイングチップ・フェンスと名付けられた矢尻状の板が追加された。ウイングチップ・フェンスを備えた世界初の商業機となったのがタイ国際航空のA300-600で、1985年10月5日に運航開始した。タイ国際航空はA300-600をバンコク-大阪線に投入し、その後、バンコクと東京、そしてサウジアラビアのダーランを結ぶ路線に展開していった。", "qas": [ { "question": "翼端渦を抑えて揚抗比を向上させたA300-600の改良型の初号機が初就航したのは、いつか?", "id": "tr-275-09-000", "answers": [ { "text": "1985年10月5日", "answer_start": 180, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1980年代前半まで、双発機の飛行は安全上の理由から60分以内に着陸可能な飛行場があるルートに限られており、大陸間路線などの長距離路線には3発機や4発機が用いられていた。しかし、エンジンの信頼性や性能の向上にともない、1980年代に入ると、双発機の飛行経路に関する制限を緩和する検討が本格化した。規制当局や機体メーカー、航空会社らによって双発機の長距離運航を認める要件がまとめられ、1985年にETOPSと呼ばれる規格が策定された。A300-600のETOPS認証取得が進められ、まず1986年10月22日GE製CF6エンジン仕様において90分まで認められ、翌年4月10日にはP&W製JT9Dエンジン仕様が120分まで認められた。", "qas": [ { "question": "GE製CF6エンジン仕様とP&W製JT9Dエンジン仕様のうち、どちらの仕様のA300-600がより早くETOPS認証を取得したか?", "id": "tr-275-10-000", "answers": [ { "text": "GE製CF6エンジン仕様", "answer_start": 253, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "GE製CF6エンジン仕様とP&W製JT9Dエンジン仕様のうち、どちらの仕様のA300-600が、より時間の長いETOPS認証を取得しましたか?", "id": "tr-275-10-001", "answers": [ { "text": "P&W製JT9Dエンジン仕様", "answer_start": 288, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "航空会社から航続力強化を求められることを予想したエアバスは、A310と同様にA300-600でも航続距離延長型の開発を視野に入れていた。この派生型は、正式な型式名がA300B4-600Rとなり、A300-600Rと呼ばれた。A310の長距離型であるA310-300と同様に、A300-600Rでも水平尾翼内にも燃料タンクを設けて燃料搭載量を増やし、尾翼と主翼の燃料タンク間で燃料を移送して機体の重心位置を制御するシステムも搭載された。また、これによる重量増に対応して、機体構造の一部が強化されたほか、構造や素材の一部変更とシステムが改良などが加えられ1,260キログラムの軽量化も図られた。A300-600Rの初号機は通算420号機のGE製のCF6エンジン仕様で、1987年12月9日に初飛行した。1988年3月10日に型式証明が交付され、同年4月20日にアメリカン航空に初引き渡しが行われた。1988年5月10日、アメリカン航空は米国本土とカリブ海地方を結ぶ路線でA300-600Rを初就航させた。この路線就航の初便では燃料タンクの警告が出たため、途中でダイバートするトラブルがあったが、乗客は代替便に振り替えられ、機体は現地で修理されたのち通常運航に復帰した。P&W製JT9Dエンジン仕様は1988年9月20日に初飛行し、同年11月29日に大韓航空に初納入された。", "qas": [ { "question": "A300B4-600Rは、標準型から何を改良した派生型であるの?", "id": "tr-275-11-000", "answers": [ { "text": "航続距離", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A310-300は、標準型から何を改良した派生型であるか?", "id": "tr-275-11-001", "answers": [ { "text": "航続距離", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "CF6エンジン仕様とP&W製JT9Dエンジン仕様のうち、どちらの仕様のA300-B4-600Rがより早く初飛行したか?", "id": "tr-275-11-002", "answers": [ { "text": "CF6エンジン仕様", "answer_start": 321, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A300-600から航続距離を延長させた機種における初引き渡しは、何年に行われたか?", "id": "tr-275-11-003", "answers": [ { "text": "1988年", "answer_start": 349, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "エアバスはA310とA300-600に続く製品開発も進め、同社初の単通路機(ナローボディ機)であるA320を開発した。A320での飛行制御システムはA300-600から一段と進化し、完全なグラスコックピットとなり操縦装置も従来の操縦桿に替えてサイドスティックが採用された。A320は1987年2月に初飛行して1988年2月に型式証明を取得し、1988年3月に航空会社への引き渡しが始まった。さらにワイドボディ機の分野でも、エアバスはA300より大型で長航続距離の旅客機市場へ進出を図り、大型双発機のA330と4発機のA340を同時並行的に開発した。A340は1993年2月、A330は1994年1月にそれぞれ路線就航を開始した。A330とA340の胴体断面はA300と同じものであったが、主翼は新設計となったほか、コックピットやシステムはA320とほぼ共通化された。A320以降のエアバス製旅客機では、操縦システムの共通化により相互乗員資格(CrossCrewQualification,以下CCQ)制度が認められ、対象機種の操縦資格を持つ操縦士は、短期間の転換訓練で別機種の操縦資格を取得できるようになった。", "qas": [ { "question": "A310とA300-600、A320のうち、ワイドボディ機ではない機種は、何?", "id": "tr-275-12-000", "answers": [ { "text": "A320", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A310とA320のうち、通路がより少ない機種は、何ですか?", "id": "tr-275-12-001", "answers": [ { "text": "A320", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A330とA340のうち、路線就航開始時期がより早いのは、どちらか?", "id": "tr-275-12-002", "answers": [ { "text": "A340", "answer_start": 274, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A330とA340における、胴体断面とコックピット、システム、主翼のうち、他のエアバスの機種から持ち込んだものではなく、全く新しいものであるのは、どちらか?", "id": "tr-275-12-003", "answers": [ { "text": "主翼", "answer_start": 344, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "エアバスは、A320以降の機種でも参加各国でパーツやコンポーネントの生産を分担する体制を続けていた。これまで、参加各国で生産されたコンポーネントの輸送には「スーパーグッピー」輸送機が用いられてきたが、同機が旧式化したことに加え、エアバスの事業が急成長したことで、これに対応するために新しい輸送機が必要になった。そこで、エアバスは、A300-600Rをベースとした新型輸送機A300-600ST(ベルーガ)を開発することを1991年8月に正式決定した。A300-600STは、主翼やエンジンなどをA300-600Rと同じくし、大型貨物を収容できるよう胴体上半分が極めて太いものとなった。A300-600STは1994年9月13日に初飛行し、1995年10月25日に引き渡しが始まった。A300-600STは2001年までの間に5機生産され、全機がエアバス子会社の「エアバス・トランスポート・インターナショナル」(AirbusTransportInternational)で運航され、これによりエアバス機の生産に従事していたスーパーグッピーは全機退役した。", "qas": [ { "question": "エアバスがA300-600STを開発したのは、何の輸送に必要な新しい輸送機が必要になったためですか?", "id": "tr-275-13-000", "answers": [ { "text": "コンポーネント", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A300-600STは、どの機種をベースに開発されたの?", "id": "tr-275-13-001", "answers": [ { "text": "A300-600R", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "コンポーネントの輸送のためにA300-600Rをベースとして新しく開発された輸送機は、いつ初飛行したか?", "id": "tr-275-13-002", "answers": [ { "text": "1994年9月13日", "answer_start": 303, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "A300-600STの登場により脱役した機種は、何か?", "id": "tr-275-13-003", "answers": [ { "text": "スーパーグッピー", "answer_start": 460, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "A300-600登場後の引き渡し数は、1980年代末から1990年代前半まではおおむね毎年20機超であったが、A340とA330の納入が始まり1990年代半ばになると売れ行きが鈍り、毎年10機程度の生産となった。CCQの対象外であったA300とA310は、A320から始まったエアバス機のファミリー化の流れから取り残される形になった。2006年3月8日、エアバスはA300とA310の生産を2007年7月で終了すると発表し、以降は受注済み機体の生産を終え次第、製造ラインを閉じることとなった。最終生産機は製造番号878号機のA300-600R貨物型であり、2007年4月18日に初飛行し、同年7月17日にフェデックスに引き渡された。A300-600STを含めたA300-600シリーズの生産数および納入数は317機であった。各型式の内訳はA300B4-600が35機、A300C4-600が4機、A300B4-600Rが167機、A300C4-600RCが2機、A300F4-600Rが104機で、A300-600STが5機であった。", "qas": [ { "question": "1990年代前半と1990年代半ばのうち、より多くのA300-600が引き渡されたのは、どちらなの?", "id": "tr-275-14-000", "answers": [ { "text": "1990年代前半", "answer_start": 28, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エアバスはA300-600の生産を何年何月で終了すると発表しましたか?", "id": "tr-275-14-001", "answers": [ { "text": "2007年7月", "answer_start": 195, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A300B4-600とA300B4-600Rのうち、より多く生産された機種は、何か?", "id": "tr-275-14-002", "answers": [ { "text": "A300B4-600R", "answer_start": 398, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "A300-600シリーズのうち、最も多く生産された機種は、何か?", "id": "tr-275-14-003", "answers": [ { "text": "A300B4-600R", "answer_start": 398, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "A300-600の機体構造は、第1世代のA300B4をベースに設計された。A300-600は後退翼の主翼を低翼に配置した単葉機であり、左右の主翼下に高バイパス比のターボファンエンジンを1基ずつ備える。尾翼配置は通常型で、水平尾翼と垂直尾翼は胴体尾部に直接取り付けられている。降着装置は前輪式配置で、機首部に2輪式の前脚、左右の主翼の付け根に各4輪式の主脚がある。A300-600シリーズの胴体寸法はA300-600STを除き共通で、直径5.64メートルの真円形断面を持ち、全長は54.08メートル、全高は16.53メートルである。A300-600の主翼は、テーパーがついた後退翼で、生産の途中から翼端にウイングチップ・フェンスと名付けられた矢尻状の板が追加されている。ウイングチップ・フェンスを備えた場合の翼幅は44.85メートルで、主翼面積が260平方メートルである。主翼の構造はA300第1世代のものを基本的に引き継ぎ、エルロン、スポイラー、そして高揚力装置として前縁にスラットとクルーガー・フラップ、後縁にはフラップを備えるが、動翼が簡素化されて翼型が改良されている。A300-600のエルロンは、翼の中程にある全速度エルロンのみで、横操縦はこのエルロンとスポイラーによって行う。フラップはシングル・スロット型ファウラーフラップであり、最大展開角は32.5度である。また、このフラップの後縁断面は上方への反りが大きくなり、空力特性がA310の主翼に近づけられている。また、生産の途中から主翼端にウイングチップ・フェンスと名付けられた矢尻状の板が追加されている。これらの改善により、第1世代と比べて最大揚抗比は8.3パーセント向上した。左右の主翼および中央翼(主翼が胴体内を貫通する部分)内に燃料タンクが設けられている。", "qas": [ { "question": "A300-600シリーズの中で胴体寸法が唯一にことなる機種は、何?", "id": "tr-275-15-000", "answers": [ { "text": "A300-600ST", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "A300-600の機体構造は、どの機種をベースに設計されましたか?", "id": "tr-275-15-001", "answers": [ { "text": "A300B4", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "A300-600STは、どのシリーズに含まれるか?", "id": "tr-275-15-002", "answers": [ { "text": "A300-600シリーズ", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "この文書では、何について説明していますか?", "id": "tr-275-15-003", "answers": [ { "text": "A300-600の機体構造", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "尾翼を含む尾部はA310と共通である。垂直尾翼は垂直安定板と方向舵で構成され、高さが8.3メートルである。水平尾翼は水平安定板と昇降舵で構成され、翼幅が16.26メートルである。航続距離延長型のA300-600Rでは、水平安定板の内部には燃料タンクが設けられ、主翼タンクとの間で燃料を移動させ、機体の重心位置を制御するシステムが搭載されている。このシステムはA310で実用化されたものと同様のもので、機体姿勢を維持する際に発生するトリム抗力を抑制することができる。A300-600で使用されている複合材料は、CFRPとGFRPのほか、アラミド繊維(ケブラー)強化複合プラスチック(AFRP)がある。CFRPの使用部位は、垂直安定板の一次構造部材のほか、方向舵や昇降舵、降着装置の格納扉などである。GFRPとAFRPの使用部位はいずれも二次構造部材で、GFRPが垂直安定板の前縁と後縁、水平安定板の翼端部、AFRPが機首のレドーム、主翼のトラック・フェアリングやパイロンカバーの一部などである。そのほか、主翼のアクセスパネルなどにはチタン合金が用いられている。", "qas": [ { "question": "水平安定板の内部に燃料タンクを設け、主翼タンクとの間で燃料を移動させ、機体の重心位置を制御するシステムは、どの機種において実用化されたシステムですか?", "id": "tr-275-16-000", "answers": [ { "text": "A310", "answer_start": 179, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ヨロイザメ", "paragraphs": [ { "context": "ヨロイザメ(鎧鮫、学名:Dalatiaslicha)はヨロイザメ科のサメの一種。\nヨロイザメ属唯一の種である。\n生息域は世界中に散在しており、通常は水深200-600メートルの海底で生活している。\n肝臓には豊富な肝油が含まれ、水深の深いところに潜る際に役立っている。\n細長い体や、とても短く丸い頭、大きな目、唇のように厚い口などが特徴。\n上顎についた歯は短く幅が狭いが、下顎についた歯は大きくのこぎり状になっている。\n全長は成魚で通常1.0-1.4メートルほどである。", "qas": [ { "question": "ヨロイザメの肝油が多く含まれている部位はどこ?", "id": "tr-276-00-000", "answers": [ { "text": "肝臓", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "歯が大きいのは上顎と下顎のどちら?", "id": "tr-276-00-001", "answers": [ { "text": "下顎", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "群れを作らない肉食魚で、大きな歯と強い噛む力を持つ。\n魚、甲殻類、頭足類、クラゲなど様々な物を捕食し、それらの死骸を食べることもある。\nまた、同科のダルマザメと同様に自分より大きな動物を襲うこともある。\n本種は卵胎生で、10-14歳ごろに繁殖可能となる。\n肉や皮、肝油を得るために漁業の対象となり、主に日本やポルトガルなどで水揚げされているが、ポルトガルのアゾレス諸島などでは乱獲等の影響で水揚げ量が落ちており、IUCNは本種の保全状態評価を準絶滅危惧としている。", "qas": [ { "question": "日本以外で漁業の対象となっている主な国はどこ?", "id": "tr-276-01-000", "answers": [ { "text": "ポルトガル", "answer_start": 154, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本種の水揚げ量が減少している地域はどこ?", "id": "tr-276-01-001", "answers": [ { "text": "アゾレス諸島", "answer_start": 178, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アゾレス諸島のある国はどこ?", "id": "tr-276-01-002", "answers": [ { "text": "ポルトガル", "answer_start": 154, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "当初はSqualuslichaという学名でフランスの博物学者ピエール・ジョセフ・ボナテールによって1788年に記載された。\nこれがのちにコンスタンティン・サミュエル・ラフィネスクによって記載されたシノニムからとられた、現行のヨロイザメ属(Dalatias)に移された。\nしかしながらラフィネスクが命名したD.sparophagusという学名は「国際動物命名規約上の疑問名に相当しふさわしくないため属名にはScymnorhinusを使う方が良い」と主張する学者もいる。\n属名のDalatiasはギリシャ語で「たいまつ」という意味のdolosあるいはdalouに由来する。\nまた、種小名のlichaは本種のフランス語名であるlalicheに由来する。\n和名は硬い皮膚に由来する「ヨロイザメ」で、他にもひれの形(英名:kitefinshark)や皮膚の色(中国名:黑黒鮫)などにちなんで各地域で様々な名前がつけられている。", "qas": [ { "question": "Squaluslichaという学名の記載者は誰?", "id": "tr-276-02-000", "answers": [ { "text": "ピエール・ジョセフ・ボナテール", "answer_start": 30, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "D.sparophagusの命名者のフルネームは何?", "id": "tr-276-02-001", "answers": [ { "text": "コンスタンティン・サミュエル・ラフィネスク", "answer_start": 68, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "dolosの意味は何?", "id": "tr-276-02-002", "answers": [ { "text": "「たいまつ」", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヨロイザメの中国名は何?", "id": "tr-276-02-003", "answers": [ { "text": "黑黒鮫", "answer_start": 379, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "分岐学の研究によって、本種と系統上最も近いのはダルマザメ属Isistiusであることが分かっており、似通った歯や骨格、筋肉の構造を持つ。\nこの2属が分岐した時期は、中生代と新生代との境目(K-T境界)の直後、6500万年前頃だと考えられている。\nこの分岐は、ツノザメ目の魚が深海から比較的浅い海へ進出する際に起こった大規模な適応放散の一部であるとみられている。", "qas": [ { "question": "ダルマザメ属と本種が分岐したのは何年前?", "id": "tr-276-03-000", "answers": [ { "text": "6500万年前頃", "answer_start": 104, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "本種と最も近いのは何属?", "id": "tr-276-03-001", "answers": [ { "text": "ダルマザメ属", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "最古の歯の化石は、ニュージーランドで発見された始新世中期のものである。\n他にも様々な地質時代のものがヨーロッパやかつてのソビエト連邦、日本やインド西部などで見つかっている。\n現在確認されている本種の化石資料には、かつて他の様々な種として誤って分類されていた物が多い。", "qas": [ { "question": "最も古い歯の化石はどこで発見されたの?", "id": "tr-276-04-000", "answers": [ { "text": "ニュージーランド", "answer_start": 9, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "最古の歯の化石はいつの時期のものだったの?", "id": "tr-276-04-001", "answers": [ { "text": "始新世中期", "answer_start": 23, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ほぼ世界中の熱帯から暖温帯域の海に散在する広い生息域をもっており、僅かながらその間での個体の移動も起きていると考えられている。\n本種は東部太平洋と北部インド洋では確認されていない。\n北部大西洋ではジョージバンク、メキシコ湾北部、ブリテン諸島を含む北海からカメルーンまでの海域、地中海の中部と西部、マデイラ諸島、アゾレス諸島などで見つかっている。\nインド洋では南アフリカやモザンビークの沖で確認される。\n太平洋では日本やジャワ島、オーストラリア、ニュージーランド、ハワイ諸島で見つかっている。\n南大西洋でもブラジル沖で一例のみ発見例がある。", "qas": [ { "question": "本種が未だ未確認である水域は東部太平洋とどこですか?", "id": "tr-276-05-000", "answers": [ { "text": "北部インド洋", "answer_start": 73, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種が未だ未確認である水域は北部インド洋とどこですか?", "id": "tr-276-05-001", "answers": [ { "text": "東部太平洋", "answer_start": 67, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "外洋深海性で、水深200-600メートルで最もよくみられるが、水面近くから1,800メートルほどの水深にまで発見例がある。\nアゾレス諸島沖では性別によって生息域が異なっており、メスは水深230メートルほど、オスは水深412-448メートルほどの地点にそのほとんどが生息している。\n大陸棚の端から大陸斜面、また島や海山の周辺などに生息する。\nヨロイザメ科の魚の中で、深海といっても中層ではなく海底近くで発見されることが多いのは本種だけである。\nしかしながら、時折海底よりも浅い地点で多く漁獲されることがある。", "qas": [ { "question": "アゾレス諸島沖で、より深い水深で生息しているのはメスとオスのどちら?", "id": "tr-276-06-000", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アゾレス諸島沖でのメスの生息域の水深は何メートルですか?", "id": "tr-276-06-001", "answers": [ { "text": "230メートル", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "背びれは2枚あり、第一背鰭は第二背鰭と比べてわずかに小さく、基底部が短い。\n第二背鰭には1本の棘があるが、第一背鰭にはない。\n第一背鰭は、背面の胸びれの最後部にあたる位置から付く。\n一方、第二背鰭は腹びれ基底部のわずかに後方に当たる位置からのびる。\n尾びれの上部は丸く著しく突出し、その頂点近くには欠刻がある。\n尾びれの下部にもわずかに他の魚類のような丸い突出がみられる。\nひれの形状と配置はマルバラユメザメと類似しているが、ヨロイザメが持つ第二背鰭の棘状の突起で区別できる。\n皮膚は他のサメ類と同じく皮歯(いわゆる鮫肌)と呼ばれる歯と相同の鱗で覆われている。", "qas": [ { "question": "第一背鰭と第二背鰭はどちらが大きいですか?", "id": "tr-276-07-000", "answers": [ { "text": "第二背鰭", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "棘があるのは第一背鰭と第二背鰭のどちら?", "id": "tr-276-07-001", "answers": [ { "text": "第二背鰭", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本種のひれの形状と配置がそっくりなサメは何?", "id": "tr-276-07-002", "answers": [ { "text": "マルバラユメザメ", "answer_start": 196, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "体色は濃い茶色か灰色であり、背中にわずかに黒の斑点が入ることもある。\n鰭の後縁は白か半透明に縁取られ、尾びれの頂点は黒くなっている。\n2003年には90センチメートルの、体の59%の色素が欠落した不完全なアルビノ個体がジェノバ湾で捕獲された。\n以前にマルバラユメザメで確認されたケースとは異なって、通常とは異なる体色にも関わらず、この個体の獲物をとらえる能力は通常の個体に劣ってはいなかった。\n本種の成魚はたいてい1.0-1.4メートル、8キログラムほどであるが、最大で1.6メートルの報告があり、1.8メートル程度まで成長する可能性がある。", "qas": [ { "question": "本種の成魚の平均重量はどれくらいですか?", "id": "tr-276-08-000", "answers": [ { "text": "8キログラム", "answer_start": 219, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種は最大何メートルまで成長する可能性がありますか?", "id": "tr-276-08-001", "answers": [ { "text": "1.8メートル程度", "answer_start": 249, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "全長90センチメートルのアルビノ個体はどこで見つかったの?", "id": "tr-276-08-002", "answers": [ { "text": "ジェノバ湾", "answer_start": 109, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "何処の生息域でも本種は一個体で行動することが多いが、小さな群れを形成することもある。\n水よりも低密度である脂質(スクアレン)で満たされた大きな肝臓を持ち、ゆっくりと泳ぐ魚である。\nそのため中性浮力(浮きも沈みもしない状態)を保つことができ、水中での静止も容易にできる。\n北アフリカの海岸とイタリアのジェノヴァ沖で行われた調査では、オスの個体数がメスの個体数をそれぞれ2倍、5倍と上回っていることが発見された。\nこの偏った性比は南アフリカでは確認されておらず、標本の偏りによる可能性がある。\n自分より大きなサメや肉食魚、マッコウクジラなどに捕食される。\n本種における寄生虫のデータは限られている。\nアイルランド沖で捕獲された二個体で行われた調査では、胃の中から三種の線形動物が見つかった。\nそのうちの一種はアニサキス属のAnisakissimplexと同定され、他の種はアニサキスと近縁のRaphidascaris属の寄生虫ではないかと推測された。", "qas": [ { "question": "北アフリカの海岸で行われた調査では、個体数が多いのはオスとメスのどちらですか?", "id": "tr-276-09-000", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ジェノヴァ沖で行われた調査で個体数が多かったのは、オスとメスのどちらですか?", "id": "tr-276-09-001", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "個体数の倍率がより大きかったのは、北アフリカの海岸とジェノヴァ沖のどちらでしたか?", "id": "tr-276-09-002", "answers": [ { "text": "ジェノヴァ沖", "answer_start": 149, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "水中で簡単に静止することが出来るのは、何の力を維持することが出来るからですか?", "id": "tr-276-09-003", "answers": [ { "text": "中性浮力", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "顎は小さいながら頑強で、噛む力が非常に強く、深海における強力な捕食者である。\n主に深海性硬骨魚(ニギス・ワニトカゲギス類・ハダカエソ科・アオメエソ類・ハダカイワシ・ヨコエソ科・タラ類・シロカサゴ科・カツオ・クロタチカマス科・ヤセムツ科・フサアンコウ科等)を捕食するが、他にもガンギエイ、小型のサメ(ヤモリザメ類・ツノザメ類・カラスザメ類・アイザメ類)やイカ、タコ、甲殻類(端脚類・等脚類・エビ・ロブスター)、多毛類・クダクラゲなど様々な動物を捕食対象とする。\n近縁のダルマザメと同様に、本種もクジラやサメなど自分より大きい魚から生きたまま肉を削り取って食べることが出来る。\n泳ぎの遅い本種が捕食した魚の中に泳ぎの速い種が含まれていることで、本種が腐肉食動物であるか、または他に自分より動きの速い魚を捕食する手段を持っていることが推測される。\n地中海では硬骨魚が主要な獲物であり、冬から春にはサメが、夏には甲殻類が2番めに重要な獲物であった。\n理由は分かっていないものの、捕獲された個体のうちオスの方がメスと比べて胃に食物が多く溜まっている傾向がある。", "qas": [ { "question": "本種はどのような魚類を主食としているの?", "id": "tr-276-10-000", "answers": [ { "text": "深海性硬骨魚", "answer_start": 41, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "地中海での主食はどのような魚類か?", "id": "tr-276-10-001", "answers": [ { "text": "硬骨魚", "answer_start": 376, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種は泳ぐスピードが速いか、遅いか?", "id": "tr-276-10-002", "answers": [ { "text": "遅い", "answer_start": 290, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "より多く捕食するのはオスとメスのどちら?", "id": "tr-276-10-003", "answers": [ { "text": "オス", "answer_start": 445, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "無胎盤性の胎生であり、胚は子宮内で卵黄の栄養を使って一定期間成長する。\n成熟雌の卵巣と子宮は左右ともに機能する。\n地中海では春と秋を最盛期として繁殖は一年中起こる。\n一度妊娠したメスにおいては、次の妊娠まで1年間ほど間が空くとみられている。\n胎児の数は一度の妊娠で10-16匹ほどで、メスの全長が大きいほど多くなる。\n子供は、地域によって差異はあるものの最大で2年間の妊娠期間を経て、30-45センチメートルほどの大きさで生まれる。\nオスは77-121センチメートルほど、メスは117-159センチメートルほどで性成熟を迎える。\n産まれたときの全長と、性的成熟時の全長、その後の最大全長の間には相関関係はない。", "qas": [ { "question": "性成熟を迎える時の大きさがより大きいのはオスとメスのどちら?", "id": "tr-276-11-000", "answers": [ { "text": "メス", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "地中海における最盛期は秋といつですか?", "id": "tr-276-11-001", "answers": [ { "text": "春", "answer_start": 62, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "生息域は深海であるため人間に直接危害を及ぼすことはない。\nしかし本種の上あごの歯が突き刺さっている海底ケーブルが見つかっており、それから及ぶ被害が懸念されている。\n本種の人間による利用の歴史は長い。\n肉は東大西洋岸の国々や日本で消費され、内臓肉も魚粉の原料とされる。\nまた、肝油はポルトガルや日本、南アフリカで利用され、皮膚は一種の鮫皮としてヨーロッパ等で家具や装飾品に使われる。\nしかしながら本種は、西大西洋岸の国々では商業的価値をもたない。", "qas": [ { "question": "魚粉の原料となっている部位はどこですか?", "id": "tr-276-12-000", "answers": [ { "text": "内臓肉", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "本種の漁獲の深海域への拡大によって、成長と繁殖の周期が遅い、本種を含めた深海性のサメの乱獲への懸念は強くなった。\nこの懸念は、アゾレス諸島における本種の漁獲量の急激な減少によって裏付けられる。\nアゾレス諸島における本種を目的とした漁獲は、1970年代初頭に肝油を採るために始まった。\n1980年代初頭には底引き網漁などによって漁業規模が拡大し、その結果1983年には漁獲量のピークに達し937トンを水揚げした。\nしかし1991年以降漁獲量は急激に減少し、年に15トンほどとなった。\n肝油の価格が下落したこともあり、1990年代の終わりには漁業はほとんど行われなくなった。\n北東大西洋において、生息数は乱獲前の50%にまで減少したとみられている。", "qas": [ { "question": "アゾレス諸島では何を採る目的で本種の漁獲が始まったの?", "id": "tr-276-13-000", "answers": [ { "text": "肝油", "answer_start": 128, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "最盛期の漁獲量は何トンでしたか?", "id": "tr-276-13-001", "answers": [ { "text": "937トン", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "本種の漁獲量が多かったのは、1983年と1991年以降のどちら?", "id": "tr-276-13-002", "answers": [ { "text": "1983年", "answer_start": 176, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "漁獲量が最盛期を迎えたのは何年でしたか?", "id": "tr-276-13-003", "answers": [ { "text": "1983年", "answer_start": 176, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "現在の本種の水揚げは、主にポルトガルと日本の近海で行われている底引き網漁などにおける、混獲(他魚を狙った漁業で捕獲されること)によるものである。\nポルトガルは2000年に282トン、2001年に119トン、本種を混獲によって水揚げしたと報告している。\n北東大西洋においてはこの魚は珍しく、捕獲の報告は他種との混同による間違いであることも多い。\nブリテン島の東部で行われている深海刺し網漁で他魚に混ざって漁獲されることも有るが、この海域でも個体数は1970年代と比べて減少していることが調査によって分かっている。\n地中海では底引き網や刺し網にまれにかかる。\n南半球でもオーストラリアやニュージーランドで盛んに水揚げされた時期もあった。\n現在では本種は通常、網にかかっても生きたまま海に返されるが、その多くは深海までたどり着くことが出来ずに死んでしまう。\nIUCNは、本種を全世界において準絶滅危惧と評価し、北東大西洋の個体群については前述のような個体数の減少から、危急種と評価した。\n飼育例は少なく、2017年の冬に沼津港深海水族館で飼育された例がある。", "qas": [ { "question": "ポルトガルでの水揚げ量が多かったのは、2000年と2001年のどちらですか?", "id": "tr-276-14-000", "answers": [ { "text": "2000年", "answer_start": 79, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "本種を全世界において準絶滅危惧と評価した機関は何?", "id": "tr-276-14-001", "answers": [ { "text": "IUCN", "answer_start": 376, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本種は日本のどこで飼育されたことがあるの?", "id": "tr-276-14-002", "answers": [ { "text": "沼津港深海水族館", "answer_start": 457, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "利根川", "paragraphs": [ { "context": "利根川(とねがわ)は、大水上山を水源として関東地方を北から東へ流れ、太平洋に注ぐ一級河川である。一級水系であり、利根川水系の本流である。河川の規模は日本最大級であり、日本三大河川の一つ。日本の首都圏の水源として国内の経済活動上重要な役割を果たしている。日本三大暴れ川の一つとされ、「坂東太郎(ばんどうたろう)」の異名を持ち、江戸時代初期に行われた河川改修である利根川東遷事業により流れを変えられた歴史を持つ。\n\n群馬県利根郡みなかみ町にある三国山脈の一つ、大水上山(標高1,840m)にその源を発する。前橋市・高崎市付近まではおおむね南へと流れ、伊勢崎市・本庄市付近で烏川に合流後は、東に流路の向きを変えて群馬県・埼玉県境を流れる。江戸川を分流させた後はおおむね茨城県と千葉県の県境を流れ、茨城県神栖市と千葉県銚子市の境において太平洋(鹿島灘)へと注ぐ。江戸時代以前は大落(おおおとし)古利根川が本流の下流路で東京湾に注いだが、度重なる河川改修によって現在の流路となっている。流路延長は約322kmで信濃川に次いで日本第2位、流域面積は約1万6840km2で日本第1位であり、日本屈指の大河川といってよい。流域は神奈川県を除く関東地方一都五県のほか、烏川流域の一部が長野県佐久市にも架かっている。河川法に基づく政令により1965年(昭和40年)に指定された一級水系である。", "qas": [ { "question": "利根川の水源はどこですか?", "id": "tr-277-00-000", "answers": [ { "text": "大水上山", "answer_start": 11, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "伊勢崎市・本庄市付近で利根川と合流する川の名前は?", "id": "tr-277-00-001", "answers": [ { "text": "烏川", "answer_start": 284, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本全国流路延長が一番長い川はどこなん?", "id": "tr-277-00-002", "answers": [ { "text": "信濃川", "answer_start": 450, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "利根川の水源は大水上山である、という詳細が明らかとなったのは1954年(昭和29年)に群馬県山岳連盟所属の「奥利根水源調査登山隊」30名が行った、水源までの遡行調査による。水源に関する史料としては室町時代に著された源義経一代記である『義経記』が初出で、同書では現在のみなかみ町藤原付近を水源と記している。大水上山の名称が初出したのは、それより後の1640年代に成立した『正保国絵図』においてである。しかし、利根川の源流については江戸時代後期に入ると天保七年(1835年)に成立した『江戸名所図会』や安政五年(1858年)に成立した『利根川図志』において異説が出されるなど、長らく不明となっていた。明治以降本格的な調査が開始され、1894年(明治27年)と1926年(大正15年/昭和元年)と二度の探検を経て1954年に水源が確定する。さらに1975年(昭和50年)には群馬県による利根川源流域の総合学術調査が実施され、より詳細な実態が解明された。", "qas": [ { "question": "利根川の水源について記された初めての史料は何ですか?", "id": "tr-277-01-000", "answers": [ { "text": "『義経記』", "answer_start": 116, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "利根川の水源の名称が初めて出た史料は何でしょう?", "id": "tr-277-01-001", "answers": [ { "text": "『正保国絵図』", "answer_start": 184, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "利根川の水源を確定した元号は何ですか?", "id": "tr-277-01-002", "answers": [ { "text": "昭和", "answer_start": 339, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "利根川の出発点は大水上山北東斜面、標高1,800m付近にある三角形の雪渓末端である。源流部は険しい峡谷を形成し、大小の沢を集めた後奥利根湖へと注ぎ込む。矢木沢、須田貝、藤原ダム通過後は南西に流路を変え、水上温泉付近で水上峡・諏訪峡を形成しながら南へ流れる。みなかみ町月夜野で赤谷川と、沼田市で片品川と合流した辺りでは沼田盆地を形成、両岸では河岸段丘が発達している。沼田市から渋川市境に掛けては綾戸渓谷と呼ばれる渓谷を形成して蛇行、渋川市内で吾妻(あがつま)川を併せると次第に川幅を広げ、前橋市街を縦貫した後、前橋市と高崎市の市境を形成する。群馬県西毛地域を流域とする烏川を合流すると流路を東へ向け、伊勢崎市八斗島へ至る。", "qas": [ { "question": "利根川の出発点の高さはどれくらいですか?", "id": "tr-277-02-000", "answers": [ { "text": "標高1,800m付近", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "沼田市で利根川と合流する川の名前は何ですか?", "id": "tr-277-02-001", "answers": [ { "text": "片品川", "answer_start": 146, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "中流域に入ると利根川の川幅は急激に広くなり、群馬県佐波郡玉村町付近で約500m、埼玉県熊谷市妻沼付近では約900mにも及ぶ。途中の利根大堰で河水は武蔵水路などによって荒川へ分流する。そのあと間もなく渡良瀬川を合流して茨城県猿島郡五霞町内を貫流した後、茨城・千葉県境を流れる。下流域においては野田市関宿で江戸川を、千葉県柏市で利根運河をそれぞれ分流するが対岸の茨城県守谷市で鬼怒川、取手市と北相馬郡利根町の境で小貝川が合流する。香取市付近では一旦千葉県内を流れるがその後利根川河口堰付近で再度県境を形成し、常陸利根川と黒部川を左右より併せる。ここからは平均して900mから1kmの広大な川幅を形成し、神栖市・銚子市境において太平洋へと注ぐ。下流域には日本第二位の面積を有する霞ヶ浦を始め、北浦、印旛沼、牛久沼、手賀沼など多くの天然湖沼が含まれる。", "qas": [ { "question": "埼玉県熊谷市妻沼付近で利根川の川幅はざっとどれくらい?", "id": "tr-277-03-000", "answers": [ { "text": "約900m", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本第二位の面積を有する天然湖沼は何ですか?", "id": "tr-277-03-001", "answers": [ { "text": "霞ヶ浦", "answer_start": 336, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "利根川流域の気候は関東平野が東日本気候区に属しているため、おおむね温暖湿潤の気候である。しかし流域面積が広大なこともあって上流・中流・下流が一律に温暖湿潤という訳ではなく、季節により相違が見られる。\n\n降水量は年平均で1,300mmと、日本の年平均降水量1,700mmに比較すると少ない。\n\n上流部は三国山脈などの高山地帯があり、冬季は雪が多く寒さが厳しい。1955年(昭和30年)から2002年(平成14年)の間における平均累積積雪量は大水上山源流部で16m、矢木沢ダム付近で10-14m、みなかみ町付近や片品川上流部などでは2-10mとなっており、最上流部は関東地方でも屈指の豪雪地帯であるが少雨地帯でもある。しかしこの積雪が春季には融雪して利根川水系8ダムに注ぎ、首都圏の重要な水源となる。中流部については夏季は太平洋高気圧の影響で晴天が多いがその分暑さも厳しい。2007年(平成19年)8月16日に熊谷市で記録した40.9°Cは、同日記録した岐阜県多治見市ともに当時の日本最高気温記録となった。また群馬県や栃木県では雷雨が多くなるのも特徴である。一方冬季には北西の乾燥した季節風が強く吹き、群馬ではこれを「上州のからっ風」・「赤城おろし」・「榛名おろし」とも呼ぶ。下流部においては黒潮の影響もあり温暖であり中流部のような猛暑も少ないが、冬季には曇りの日が比較的多い。降水量については中・下流部は夏季や秋の台風シーズンにその極期を迎える。\n\nただし利根川の年平均降水量は観測が開始された1900年(明治33年)以降一貫して減少傾向が続いており、平成に入ると多雨の年と少雨の年の降水量の差が顕著になっている。\n\n利根川の年間流出量は約91.5億t、年平均の流量は埼玉県久喜市栗橋の観測地点で毎秒290.43m3で、いずれも日本第5位である。", "qas": [ { "question": "東日本気候区の気候的特徴は?", "id": "tr-277-04-000", "answers": [ { "text": "温暖湿潤", "answer_start": 33, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "中流部が夏季に暑い理由は何の影響ですか?", "id": "tr-277-04-001", "answers": [ { "text": "太平洋高気圧", "answer_start": 359, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "年間流出量が日本で第5位にランクインした川の名前は何ですか?", "id": "tr-277-04-002", "answers": [ { "text": "利根川", "answer_start": 708, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "利根川流域の地質についてであるが、上流部では火山活動などによる地質形成が主体で、中・下流部の平野部については沖積平野が主体となっている。利根川最上流部の奥利根周辺は古第三紀の花崗岩類が多く占め、比較的堅固な地質となっている。それ以外の山地については主に新第三紀の堆積岩が占め、関東山地、八溝山地、足尾山地は中生代から古生代に掛けて形成されたチャートや砂岩、粘板岩などの堆積岩が主体となっている。烏川流域、特に神流(かんな)川一帯は三波川(さんばがわ)変成帯と呼ばれる地質であり、神流川の三波石峡や支流の三波川では三波石と呼ばれる緑色の結晶片岩が多く見られる。群馬県、栃木県を流れる支流の上流部の多くは多くの火山が存在し、これらの噴火活動による火山砕屑物層や風化した花崗岩、安山岩、凝灰岩などが地質の多くを占めている。このことから地すべりや土石流に伴う被害も多い。", "qas": [ { "question": "利根川最上流部の奥利根周辺の地質が形成されたのはいつですか?", "id": "tr-277-05-000", "answers": [ { "text": "古第三紀", "answer_start": 82, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "三波石峡や三波川で見られる緑色の結晶片岩は何ですか?", "id": "tr-277-05-001", "answers": [ { "text": "三波石", "answer_start": 243, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "中・下流部に広がる丘陵地帯や洪積台地は第四紀に形成され、古東京湾により堆積した砂や泥が主体の固結度の低い下総層群と呼ばれる海成地層などが主体である。この地層の上に関東ローム層が覆う。沖積低地は更新世の末期より完新世に掛けて形成された厚い沖積層が主体で、現在の東京湾沿岸部などでは最大で60mから80mもの厚みになる。これら洪積台地・沖積低地では第四紀に関東山地など関東平野を囲む周辺山地の隆起運動が活発になり、相対的に平野中央部が沈降する関東造盆地運動が本格化することで低地には上流から流れてきた土砂が沖積層に堆積。その後沈降していた平野中央部が隆起に転じたことから今度はそこに土砂が堆積し、現在の台地・低地となった。こうして形成された山地や台地が現在利根川および利根川水系の分水界を形成する。分水界は群馬・新潟県境の三国山脈や群馬・栃木・福島県境の帝釈山脈、および茨城県から栃木県にかけて広がる八溝山地が北側、群馬・長野・埼玉県境の関東山地が西側に位置し、これらの山地の南麓および東麓に降った雨が最終的に利根川へと注ぐ。", "qas": [ { "question": "丘陵地帯が形成されたのはいつですか?", "id": "tr-277-06-000", "answers": [ { "text": "第四紀", "answer_start": 19, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "三国山脈は太平洋と日本海の分水嶺であり、ここを境とし南麓は利根川本流を始め大小の沢の水源となるが北麓は魚野川、中津川などの信濃川水系となる。男体山や日光白根山、尾瀬などが属する帝釈山脈は南麓、東麓に降った雨はそれぞれ鬼怒川、片品川として利根川へ合流するが、北西麓の一部では尾瀬沼が水源である只見川が流出し、阿賀野川に合流する阿賀野川水系の一部となっている。八溝山塊、鷲子山塊、鶏足山塊、筑波山塊を包括する八溝山地およびそれに連なる栃木県宇都宮市付近の台地、および茨城県中南部に分布する常総台地は南部については渡良瀬川や鬼怒川、小貝川さらに霞ヶ浦に注ぐ河川群として最終的に利根川へと合流するが、北部については箒川、荒川、涸沼川などの那珂川水系として別途太平洋へと注ぐ。", "qas": [ { "question": "男体山、日光白根山などが属する山脈は何ですか?", "id": "tr-277-07-000", "answers": [ { "text": "帝釈山脈", "answer_start": 88, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "利根川流域における地下資源としては金、銀、銅、マンガン、鉄といった金属資源や石灰石、硫黄、天然ガスなどの非金属資源が存在する。金属資源のうち特に銅については1973年(昭和48年)まで操業されていた足尾銅山が著名で、一時期は日本全国の銅産出量の40%強におよぶシェアを誇っていた。その他では金・銀が利根川本流上流や鬼怒川上流の一部、マンガンは渡良瀬川流域、鉄は吾妻川上流域の一部に分布している。\n\n一方、非金属資源としては硫黄が吾妻川上流域、石灰石が烏川流域で採掘される。また石材として栃木県の大谷石や群馬県の三波石が特産として知られ、塀や高級庭石として利用されている。天然ガスについては利根川下流域一帯および江戸川下流域の千葉県北中部・東京都東部一帯が南関東ガス田として知られ、多くのガス田が存在した。1956年(昭和31年)以降天然ガス採掘が江戸川下流の東京都江東区、千葉県市川市・船橋市で活発となったが、工業用水道用途としての地下水過剰取水と相まって天然ガス採掘によりこの地域で地盤沈下が深刻化した。このため東京・千葉の両都県当局は当地の業者よりガス採掘権を1972年(昭和47年)に買い上げ、採掘を禁止したことで地盤沈下は収束に向かった。このため現在は天然ガス採掘は行われていない。", "qas": [ { "question": "石灰石は金属か、非金属か?", "id": "tr-277-08-000", "answers": [ { "text": "非金属", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マンガンはどこに分布していますか?", "id": "tr-277-08-001", "answers": [ { "text": "渡良瀬川流域", "answer_start": 171, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "千葉県市川市・船橋市で活発な天然ガス採掘で起きた問題とは?", "id": "tr-277-08-002", "answers": [ { "text": "地盤沈下", "answer_start": 442, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "現在に到るまで天然ガス採掘が禁止されたのはいつですか?", "id": "tr-277-08-003", "answers": [ { "text": "1972年", "answer_start": 482, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "利根川の植生についても、上流と中・下流域では様相が異なる。上流では山岳地帯が広がるが尾瀬や浅間山北麓では高山植物が多く自生、尾瀬や日光戦場ヶ原ではミズゴケやツルコケモモなどからなる高層湿原が存在する。また標高1,600m以上の高山地帯では常緑針葉樹林であるオオシラビソやコメツガ、標高700-800m付近ではブナやミズナラなどの樹木が自生している。しかし渡良瀬川源流部の足尾山地については、足尾銅山の煙害によって植生が高度に破壊されている。", "qas": [ { "question": "尾瀬や浅間山北麓で自生する植物は何ですか?", "id": "tr-277-09-000", "answers": [ { "text": "高山植物", "answer_start": 52, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日光戦場ヶ原の高層湿原に自生するミズゴケ以外の植物は?", "id": "tr-277-09-001", "answers": [ { "text": "ツルコケモモ", "answer_start": 78, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "標高1,600m以上の高山地帯に自生する樹木のタイプは?", "id": "tr-277-09-002", "answers": [ { "text": "常緑針葉樹林", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "一方中流では常緑広葉樹林であるヤブツバキ・アカガシ・シイなどが従来自生していたが田地・宅地開発などによりその自生数は減少し、スギ・ヒノキなどの植林された樹木が多い。また河川敷ではヨシやススキのほか、スギナ・イヌタデ・カナムグラ・カヤツリグサなどが自生。下流部になるとコガマ・マコモなど多様な植物が自生する。ヨシの群落は中流から下流にかけての湖沼・湿地帯に見られるが特に渡良瀬遊水地には大規模なヨシ群落があり、日本で唯一当地で自生しているハタケテンツキを始めミズアオイ・フジバカマなど絶滅危惧種が自生している。利根川流域に存在する植物種の総数は2002年の国土交通省調査により666種が確認されている。藻類では水質が貧栄養である上流部では少なく、中流・下流に入るとケイソウ類が主に分布。特に中流部ではチャヅツケイソウが広範囲に分布している。霞ヶ浦では水質の悪化により夏季にはミクロキスティスなどの異常繁茂によるアオコの大発生が問題化した。外来種としては中流にはセイタカアワダチソウやブタクサが多く繁茂。下流にはアレチウリ、オオフサモ、ボタンウキクサが繁茂しているがこの三種は在来固有種への影響が大きいことから特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律(外来生物法)により環境省から特定外来生物に指定され、河川管理者である国土交通省などが駆除を行っている。", "qas": [ { "question": "ヤブツバキはどういう木ですか?", "id": "tr-277-10-000", "answers": [ { "text": "常緑広葉樹林", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "利根川の渡良瀬遊水地を日本で唯一な自生地としている植物の名前は何ですか?", "id": "tr-277-10-001", "answers": [ { "text": "ハタケテンツキ", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2002年の調査当時利根川に自生していた植物種は何種類ですか?", "id": "tr-277-10-002", "answers": [ { "text": "666種", "answer_start": 287, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "外来生物法により特定外来生物に指定された利根川下流に自生する植物種は何種類ですか?", "id": "tr-277-10-003", "answers": [ { "text": "三種", "answer_start": 483, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "昆虫については同じ2002年調査で節足動物であるクモを含めて975種が生息しており、内訳は甲虫類が397種、チョウ類が170種、カメムシ類が125種、クモ類が84種の順となっている。分布については上流部の高山地帯にミヤマシロチョウ・ミヤマモンキチョウ・エルタテハやオゼイトトンボ・オオルリボシヤンマなどの山地・高山に分布する昆虫が生息している。一方中流部・下流部では一般的に見られる昆虫類のほか、湿地に限局的に生息するヒヌマイトトンボ・ベニイトトンボなどの種が見られる。生息する昆虫類の中には国蝶であるオオムラサキのほかムスジイトトンボなどの貴重な種が存在する。", "qas": [ { "question": "利根川に自生している節足動物でもっとも大きい割合を占めしている類は何ですか?", "id": "tr-277-11-000", "answers": [ { "text": "甲虫類", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "2002年に報告された利根川自生の節足動物種はどれくらいですか?", "id": "tr-277-11-001", "answers": [ { "text": "975種", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本の国蝶は何ですか?", "id": "tr-277-11-002", "answers": [ { "text": "オオムラサキ", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "動物については上流域にツキノワグマ、ニホンザル、ニホンジカといった大型種が生息するが、中流域や下流域では大型種は宅地・農地開発によって存在せず、キツネやタヌキ、ノウサギ、ニホンイタチ、アズマモグラなどが生息する。1994年の調査では哺乳類12種以上、爬虫類5種、両生類4種の生息が確認されているが、流域が高度に開発されていることもあり他の一級水系と比べると生物多様性に乏しい。上流域には局地的ではあるがハコネサンショウウオも生息する。外来種としてはヌートリアやマスクラット、ウシガエルが生息するが何れも特定外来生物に指定されている。特にマスクラットは江戸川・中川下流域にほぼ限定して生息しているが、その鋭い前歯による行動は堤防などの河川施設に重大な被害を及ぼすことがヨーロッパで確認されており、個体数の増加は江戸川の治水に影響を与える可能性がある。", "qas": [ { "question": "利根川に自生している動物で種類が一番乏しい生物類は何ですか?", "id": "tr-277-12-000", "answers": [ { "text": "両生類", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ニホンジカは利根川のどのあたりに住んでますか?", "id": "tr-277-12-001", "answers": [ { "text": "上流域", "answer_start": 7, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "江戸川・中川下流域にほぼ限定して生息する河川施設に被害を及ぼす特定外来生物はどれですか?", "id": "tr-277-12-002", "answers": [ { "text": "マスクラット", "answer_start": 268, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "鳥類については植物や昆虫同様上流域と中・下流域で生息する種類が異なる。上流域にはオオワシ・イヌワシ・クマタカといった猛禽類やイワヒバリ、ホシガラスといった高山性の鳥類が生息。矢木沢ダムや藤原ダムといった利根川上流のダムにおいても飛来が確認されている。このほか渓流などでカワセミやサンショウクイなども確認できる。中流部以降ではスズメやカラス、ホオジロなどのごくありふれた鳥類のほかヨシ群生地などでカイツブリなどが見られる。渡り鳥としてはオオハクチョウやコハクチョウが霞ヶ浦に飛来するほか、渡良瀬遊水地や渡良瀬川合流部付近は自然植生が豊富なこともありサシバ、チュウヒ、ノスリ、ホオアカなどの猛禽類やカモ、シギ、チドリ類が飛来、または定住する。一方外来種としては2003年(平成15年)に取手市において特定外来生物であるソウシチョウの1個体が確認されている。利根川流域に生息・飛来する鳥類は136種を数える。", "qas": [ { "question": "オオワシ、イヌワシなどの猛禽類は利根川のどのあたりに生息していますか?", "id": "tr-277-13-000", "answers": [ { "text": "上流域", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "利根川流域に生息、または飛来する鳥の種類はいくら?", "id": "tr-277-13-001", "answers": [ { "text": "136種", "answer_start": 392, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "平成15年、取手市で特定外来生物とされた鳥の名称は?", "id": "tr-277-13-002", "answers": [ { "text": "ソウシチョウ", "answer_start": 357, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "魚類については8目13科43種が確認されており、上流ではイワナ・ヤマメ・カジカが主に、中流ではオイカワ・コイ・ギンブナ・モツゴ・ウナギなどが生息し、絶滅危惧種のゼニタナゴも一部に生息する。また下流ではボラやスズキ、ハゼ、カタクチイワシなどが遡上し、河口部ではクロダイやカレイといった海洋性の魚類も生息している。利根川においては固有種としてソウギョやハクレンといった中国よりの移入種が生息し、毎年夏になると国道4号利根川橋付近において産卵のために勢い良く飛び跳ねる姿を確認することができる。\n\n回遊魚としてはアユやサケが代表的で、サケについては利根川は太平洋側に注ぐ河川としてはサケ遡上の南限とされている。回遊魚については江戸時代以降の用水路建設、また戦後の利根特定地域総合開発計画などでダムや堰が利根川流域に多く建設されたことから(後述)、一時これら回遊魚の遡上が大幅に減少した。特に河口から154km上流にある利根大堰はこれら回遊魚の遡上を大きく阻害する要因であった。このため堰を管理する水資源開発公団(現独立行政法人水資源機構)は1983年(昭和58年)からサケの遡上調査を開始するとともに1995年(平成7年)からは2年掛けて魚道の新設と改築を実施。また2005年には環境保護団体の要望を受け、アユの遡上・降下期に堰のゲートを開く運用が試験的に開始された。こうした官民の協力もあって利根大堰地点でのサケ・アユの遡上数は経年的に増加している。その一方で利根川河口堰については完成以後ヤマトシジミの生息に多大な影響を与えたなど環境保護団体から指摘を受けている。一方特定外来生物として日本各地で問題となっているブラックバスやブルーギルは利根川流域についても河口堰上流の全域に広範な生息が確認され、チャネルキャットフィッシュも生息域が拡大している。また世界の侵略的外来種ワースト100にも選ばれ、メダカを捕食するカダヤシの生息が確認された。", "qas": [ { "question": "利根川で確認された魚類は何種ですか?", "id": "tr-277-14-000", "answers": [ { "text": "43種", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic 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"水生・底生生物については177種が確認されているが、その主なものはトビケラやカワゲラ、カゲロウ類で主に上流・中流域に多く生息している。一方下流域は河床(川底)が砂質・泥質主体となるので水生生物類の生息は少なくなり、代わりにヒメタニシ・サカマキガイ・ゴカイ・イトミミズなどが多く生息するようになる。利根川下流域は山梨県甲府盆地や福岡県・佐賀県の筑後川下流域などとともに日本住血吸虫症の発生地として知られ、中間宿主であるミヤイリガイが生息していたが、1973年に虫卵排出患者とミヤイリガイの棲息が報告されたのを最後に新たな疾患の発生および貝の棲息は確認されていない。代わりに特定外来生物で大量斃死(へいし)すると水質汚濁をひき起こすカワヒバリガイが我孫子市・印西市の利根川流域や霞ヶ浦で新たに確認されており、北総東部用水など利根川下流域農業用水施設の通水・揚水障害といった被害が増加している。\n\n利根川水系は内水面漁獲量では日本全国の総漁獲量に占める割合が約30%と、水系としては日本最大の漁場でありかつ首都圏という大消費地に近い。このため漁業協同組合の数も多く、流域一都五県で81組合が存在し第1種・第2種・第5種漁業免許を取得している。", "qas": [ { "question": "利根川に住んでいると確認された水生・底生生物はどれくらいですか?", "id": "tr-277-15-000", "answers": [ { "text": "177種", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "利根川下流でミヤイリガイの棲息が最後に確認されたのはいつですか?", "id": "tr-277-15-001", "answers": [ { "text": "1973年", "answer_start": 223, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "内水面漁獲量で利根川水系が日本全国の総漁獲量に占める割合は何パーセントですか?", "id": "tr-277-15-002", "answers": [ { "text": "約30%", "answer_start": 426, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "利根川の名称は、『万葉集』巻第十四に収載されている「東歌」のうち「上野国の歌」にある以下の和歌が文献上の初出である。\n\n刀祢河泊乃可波世毛思良受多太和多里奈美尓安布能須安敞流伎美可母(利根川の川瀬も知らずただ渡り波にあふのす逢へる君かも)\n—『万葉集』巻第十四、東歌「上野国の歌」\n\nこの和歌の冒頭にある「刀祢河泊」がすなわち利根川のことである。意味は「利根川の浅瀬の場所もよく考えないで真っ直ぐに渡ってしまい、突然波しぶきに当たるように、ばったりお逢いしたあなたです」と解され、庶民女性による寄物陳思の表現様式を採る相聞歌である。これについて犬養孝は自著『万葉の旅(中)』において、上野国の歌でありかつ人が渡河できる程度の川幅であることから、歌に詠まれた利根川の位置は現在の沼田市から渋川市にかけてではないかと推定している。", "qas": [ { "question": "利根川の名称が初めて記されている本は何ですか?", "id": "tr-277-16-000", "answers": [ { "text": "『万葉集』", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「上野国の歌」に利根川はどう表記されてますか?", "id": "tr-277-16-001", "answers": [ { "text": "「刀祢河泊」", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「上野国の歌に描かれている利根川の位置は現在のどこだと予想されていますか?", "id": "tr-277-16-002", "answers": [ { "text": "沼田市から渋川市にかけて", "answer_start": 338, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "和歌に見える「刀祢」について、これまで様々な説が提唱されたが何れも定説となっておらず、真の意味は未だに不明である。主な説としては利根郡から来た説、水源地の辺りには尖った峰すなわち「尖き峰(ときみね)」が多く、それが簡略転化したという説、水源である大水上山の別称「刀嶺岳」・「刀祢岳」・「刀根岳」・「大刀嶺岳」に由来する説、「等禰直(とねのあたい)」あるいは「椎根津彦(しいねつひこ、とねつひこ)」という神の名に由来する説などがある。さらに語源をたどるとアイヌ語に行き着くとされるが、そのアイヌ語の解釈も諸説ある。一例として「巨大な谷」を意味する「トンナイ」、「沼や湖のように広くて大きい河川」という意味などがある。\n\n一方、利根川の別称である「坂東太郎」については、足柄峠と碓氷峠を境としてそれより東の諸国を総称する「坂東」を流れる日本最大の河川であることから名づけられた。ちなみに同様の別称を付けられた河川としては九州地方最大の河川である筑後川が「筑紫次郎」、四国地方最大の河川である吉野川が「四国三郎」と呼ばれるほか、中国地方最大の河川である江の川が「中国太郎」と呼ばれることがある。現在、利根川は源流から河口まで一貫して「利根川」の名称が用いられており、信濃川や淀川、筑後川などのように所在地によって河川名が異なることはない。", "qas": [ { "question": "「巨大な谷」をアイヌ語でどう呼びますか?", "id": "tr-277-17-000", "answers": [ { "text": "「トンナイ」", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "足柄峠と碓氷峠を境としてそれより東の諸国の総称は?", "id": "tr-277-17-001", "answers": [ { "text": "「坂東」", "answer_start": 358, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "四国地方最大の河川の別名は何ですか?", "id": "tr-277-17-002", "answers": [ { "text": "「四国三郎」", "answer_start": 447, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] } ] }