{ "version": "JaQuAD-version-0.1.0", "data": [ { "title": "宮崎駿", "paragraphs": [ { "context": "宮﨑駿(みやざきはやお、1941年1月5日-)は、日本の映画監督、アニメーター、漫画家である。別名として秋津三朗(あきつさぶろう)、照樹務(てれこむ)がある。映画などのクレジットタイトルでは宮崎駿(みやざきはやお)と表記されることもある。\n\n株式会社スタジオジブリ取締役、公益財団法人徳間記念アニメーション文化財団理事長、三鷹市立アニメーション美術館(三鷹の森ジブリ美術館)館主である。\n\n東京府東京市出身。学習院大学政経学部卒業した。東京都小金井市、三鷹市名誉市民。埼玉県所沢市在住。アニメーション制作会社スタジオジブリに映画監督として所属し、2005年4月より取締役となった。また、自身が企画開発した三鷹市立アニメーション美術館(三鷹の森ジブリ美術館)の館主である。\n\n個人の事務所に、株式会社二馬力があった。主に宮﨑の著作権関連の管理を行っており、かつては自身が代表取締役社長を務めていたが、2016年スタジオジブリに吸収合併し解散した。\n\n愛煙家としても知られている。", "qas": [ { "question": "宮崎駿の生年月日は?", "id": "tr-144-00-000", "answers": [ { "text": "1941年1月5日", "answer_start": 12, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "宮崎駿が館主としている美術館の名前は?", "id": "tr-144-00-001", "answers": [ { "text": "三鷹市立アニメーション美術館", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "宮崎駿の出身大学はなんですか?", "id": "tr-144-00-002", "answers": [ { "text": "学習院大学", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "宮崎駿が卒業した学部は?", "id": "tr-144-00-003", "answers": [ { "text": "政経学部", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スタジオジブリの取締役として務めたのはいつからですか?", "id": "tr-144-00-004", "answers": [ { "text": "2005年4月", "answer_start": 273, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "株式会社二馬力がスタジオジブリに吸収合併されたのは何年ですか?", "id": "tr-144-00-005", "answers": [ { "text": "2016年", "answer_start": 399, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "宮崎駿は数千人の従業員を擁した一族が経営する「宮崎航空興学」の役員を務める一家の4人兄弟の二男として、東京市で生まれる。幼児期に宇都宮に疎開、小学校3年生まで暮らしていた。1950年、小学校4年に進級時に東京都杉並区永福町に転居した。\n\n幼少時は身体が弱かったので運動は苦手だったが、絵はずば抜けて上手かった。熱心な読書家であり、手塚治虫や杉浦茂の漫画、特に福島鉄次の絵物語『沙漠の魔王』のファンという“漫画少年”でもあった。当時の進学校である東京都立豊多摩高等学校在学中の3年生の時に観た東映動画製作『白蛇伝』に感動し、アニメーションにも関心を持つようになる。学生時代にデッサンを独学で学び、ポール・セザンヌのような印象派に影響されている。", "qas": [ { "question": "宮崎駿が東京都杉並区永福町に転居したのは何年ですか?", "id": "tr-144-01-000", "answers": [ { "text": "1950年", "answer_start": 86, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎駿の出生地はどこですか?", "id": "tr-144-01-001", "answers": [ { "text": "東京市", "answer_start": 51, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『沙漠の魔王』の作家は誰ですか?", "id": "tr-144-01-002", "answers": [ { "text": "福島鉄次", "answer_start": 179, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "宮崎駿の出身高校はどこですか?", "id": "tr-144-01-003", "answers": [ { "text": "東京都立豊多摩高等学校", "answer_start": 222, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『白蛇伝』はどこの会社で制作したものですか?", "id": "tr-144-01-004", "answers": [ { "text": "東映動画", "answer_start": 245, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎駿がアニメーションに興味を持つようになったきっかけとなった作品のタイトルはなんですか?", "id": "tr-144-01-005", "answers": [ { "text": "『白蛇伝』", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "宮崎駿が『白蛇伝』を見た当時の彼は高校何年生だったのか。", "id": "tr-144-01-006", "answers": [ { "text": "3年生", "answer_start": 237, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎駿に影響を与えた、ポール・セザンヌが属する美術流派はなんですか?", "id": "tr-144-01-007", "answers": [ { "text": "印象派", "answer_start": 309, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "宮崎駿は学習院大学に進学し、児童文学サークル(児童文化研究会)に所属する。幾つかの人形劇を企画しつつ、漫画家を志し漫画を描き続けていたが、アニメーションの世界へ進む事を決断する。学習院大学を卒業し、アニメーターとして東映動画に定期採用で入社し、動画などを手がける。当初は東映動画で制作されていた作品に魅力を感じることが出来ず、漫画家への未練を断ち切れずにいたが、入社1年後に観たソ連製作長編アニメーション映画『雪の女王』に強い感銘を受け、アニメーションを一生の仕事にしようと決意した。『ガリバーの宇宙旅行』のラストシーンが宮崎のアイディアで変更されるなど、早くから才能を現した。結成間も無い東映動画労働組合の書記長に就任し、アニメーターの待遇の改善に尽力する。1965年秋には、24歳で同じ東映のアニメーターの女性と結婚し、その後2人の男児をもうける。高畑勲・森康二・大塚康生らと共に3年がかりの大作、『太陽の王子ホルスの大冒険』(1965-1968年)を作り上げた。", "qas": [ { "question": "学習院大学で宮崎駿が所属していたサークルはどこですか?", "id": "tr-144-02-000", "answers": [ { "text": "児童文学サークル", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎駿が卒業後、アニメーターとして入社した会社はどこですか?", "id": "tr-144-02-001", "answers": [ { "text": "東映動画", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ソ連製作長編アニメーション映画『雪の女王』を観たのは東映動画入社何年後ですか?", "id": "tr-144-02-002", "answers": [ { "text": "1年後", "answer_start": 183, "answer_type": "Date/Time" } ], 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"Aプロダクション", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎駿は東映から退社する時、高畑勲とともに誰と退社しましたか?", "id": "tr-144-03-002", "answers": [ { "text": "小田部羊一", "answer_start": 10, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎駿は東映から退社する時、小田部羊一とともに誰と退社しましたか?", "id": "tr-144-03-003", "answers": [ { "text": "高畑勲", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東映からAプロダクションに移籍したのは何を制作するためですか?", "id": "tr-144-03-004", "answers": [ { "text": "『長くつ下のピッピ』", "answer_start": 30, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Aプロダクションに移籍の後、宮崎が事実上初監督として務めた作品は?", "id": "tr-144-03-005", "answers": [ { "text": "『ルパン三世』", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宮崎と高畑を『ルパン三世』に誘ったのは誰ですか?", "id": "tr-144-03-006", "answers": [ { "text": "大塚康生", 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"1978年、宮崎駿は『未来少年コナン』(NHK)で監督を務める。名義上は演出であり監督ではないが、他に監督はおらず、実質的には監督として現場を仕切っていた。毎週放送という厳しいスケジュールの中で、演出を行いながら、オリジナルスケッチ(ストーリーボード)・設定・キャラクターデザイン・メカデザインを全話担当し、大半の絵コンテ、レイアウトを描いた上、スタッフの作った脚本・絵コンテ・レイアウト・原画を、高畑勲応援分を除き全て1人でチェックするという、前代未聞の超人的な作業量をこなした。", "qas": [ { "question": "1978年、宮崎駿が監督を務めた作品のタイトルは?", "id": "tr-144-04-000", "answers": [ { "text": "『未来少年コナン』", "answer_start": 10, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『未来少年コナン』のとき、宮崎の名義上の仕事はなんですか?", "id": "tr-144-04-001", "answers": [ { "text": "演出", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『未来少年コナン』が放送されたのはどこですか?", "id": "tr-144-04-002", "answers": [ { "text": "NHK", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "その後、リニューアルされ人気を博していた『ルパン三世』の映画を大塚に持ちかけられ、宮崎は演出を引き受ける。その為、テレコム・アニメーションフィルム(東京ムービー新社内)に移籍し、映画『ルパン三世カリオストロの城』(1979年)で映画作品の監督デビューをした。\n\n宮崎は「カリオストロではじめて体力の限界を知った」というほど、監督として映画製作に尽力し、4ヵ月半という短い期間で作り上げた。しかし、当時の『2ndルパン』のイメージと違う作風や、SFアニメ全盛の時代ということもあって、大衆受けはせず、興行的には前作に及ばなかった。むしろ興行的不振のために、しばらくの間映画に携われない不遇の時を過ごすことになった。しかし後に、再放送されては高視聴率をあげるなど、アニメーションの金字塔的作品として高い評価を受けている。\n\nこの直後には、『ルパン三世』で最終回含め2話の制作に脚本、絵コンテ、演出として携わっている。後の『風の谷のナウシカ』に登場する巨神兵や飛行船など、この頃から構想があったとみられる。『カリオストロの城』制作時に、当時『アニメージュ』副編集長で取材に訪れた鈴木敏夫と出会っている。\n\n宮崎本人は「ルパンや東映時代にやったことの大たなざらえ」と位置づけており、自らが手がけた『ルパン三世』1stシリーズのいくつかのエピソードも元ネタにしている。\n\n『ルパン三世PartIII』放送にあわせ、劇場版第3作の製作が決定した際は、監督としてまず前作の監督であった宮崎駿に再度依頼がなされたが、宮崎は参加を拒否。宮崎の推薦により、当時宮崎の事務所にいた押井守が監督を務めることになった。", "qas": [ { "question": "映画『ルパン三世カリオストロの城』が公開されたのは何年ですか?", "id": "tr-144-05-000", "answers": [ { "text": "1979年", "answer_start": 107, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『ルパン三世カリオストロの城』は何年の映画?", "id": "tr-144-05-001", "answers": [ { "text": "1979年", "answer_start": 107, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ルパン三世カリオストロの城』の制作のため宮崎が移籍したのはどこの会社へか?", "id": "tr-144-05-002", "answers": [ { "text": "テレコム・アニメーションフィルム", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ルパン三世』の映画作品で宮崎が引き受けた仕事はなんですか?", "id": "tr-144-05-003", "answers": [ { "text": "演出", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎駿が監督したルパン三世の映画のタイトルはなんですか?", "id": "tr-144-05-004", "answers": [ { "text": "『ルパン三世カリオストロの城』", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ルパン三世カリオストロの城』制作にかかった時間はどの程度ですか?", "id": "tr-144-05-005", "answers": [ { "text": "4ヵ月半", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カリオストロ制作当時、『アニメージュ』副編集長を務めた人物の名は?", "id": "tr-144-05-006", "answers": [ { "text": "鈴木敏夫", "answer_start": 486, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1979年ごろ、『アニメージュ』副編集長をやってたのは誰なの?", "id": "tr-144-05-007", "answers": [ { "text": "鈴木敏夫", "answer_start": 486, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カリオストロの直後、『ルパン三世』で制作に関わった話数は何本ですか?", "id": "tr-144-05-008", "answers": [ { "text": "2話", "answer_start": 380, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ルパン三世』の最終話を含む2本の制作に参加してた頃構想した巨神兵は後日、どこに登場しますか?", "id": "tr-144-05-009", "answers": [ { "text": "『風の谷のナウシカ』", "answer_start": 408, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "カリオストロの頃から構想していた飛行船や巨神兵たちは後で、宮崎駿のどの作品に登場しますか?", "id": "tr-144-05-010", "answers": [ { "text": "『風の谷のナウシカ』", "answer_start": 408, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "劇場版第3作の製作で、宮崎が監督として推薦した人物は誰ですか?", "id": "tr-144-05-011", "answers": [ { "text": "押井守", "answer_start": 679, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ルパン三世の劇場版第3本目の監督は誰ですか?", "id": "tr-144-05-012", "answers": [ { "text": "押井守", "answer_start": 679, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "テレコム・アニメーションフィルムによる日米合作映画『リトル・ニモ』の準備に大塚康生や高畑勲らと共に携わり、アメリカとの間を行き来したが、企画への疑問から降板した。この時期、『となりのトトロ』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『天空の城ラピュタ』などの原型となるオリジナル企画を構想しているが実現には至らなかった。\n\n宮崎の才能に惚れ込んだ鈴木敏夫は『風の谷のナウシカ』の映画化を目論み、徳間書店の企画会議に持ち込んだ。しかし、「原作のないものは、無理」という理由で却下された。『コナン』の時より宮崎に注目していた徳間書店の『アニメージュ』誌編集長・尾形英夫は、オリジナル企画実現のため「原作付き」のハクをつけることを考案、『アニメージュ』1982年2月号より『風の谷のナウシカ』の連載が始まり、やがて多くの読者の支持を集めるようになる。\n\nさらに、自社イベントの為の特別短編アニメーション企画を彼に持ち掛ける。企画は短編の筈だったが次第に拡大、尾形の尽力により、当時映画事業に意欲的だった徳間書店の徳間康快社長(当時)が劇場アニメーション化を決断し、宮崎の弟が勤務する博報堂がこれに乗る形でプロジェクトが結成され、1984年にアニメーション映画として製作・公開された。\n\n映画『風の谷のナウシカ』は、『ルパン三世カリオストロの城』がテレビ放映され、その面白さが広く社会に認知されたことや、エコロジー・ブームの中にあったことと相俟ってヒット作となり、作家としての宮崎駿が広く認知されることとなった。", "qas": [ { "question": "大塚康生や高畑勲らと共に携わった日米合作映画のタイトルはなんですか?", "id": "tr-144-06-000", "answers": [ { "text": "『リトル・ニモ』", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『風の谷のナウシカ』の映画化企画を徳間書店の企画会議に持ち込んだ人は誰ですか?", "id": "tr-144-06-001", "answers": [ { "text": "鈴木敏夫", "answer_start": 169, 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"1985年に徳間書店の出資を得てスタジオジブリを設立し、以後の制作の基盤とした。1986年の『天空の城ラピュタ』と1988年の『となりのトトロ』では興行成績はそれほど振るわなかったが、その後両作の人気は著しく高まり、ぬいぐるみなどのグッズの販売やビデオ販売の収入により、ジブリの経営を支えた。\n\nまた1986年頃、宮崎が推薦した押井守によるルパン三世劇場版第3作の頓挫後にはスタジオジブリで押井守を監督に据え、宮崎の脚本による作品『アンカー』を準備するなどしている。\n\n『魔女の宅急便』(1989年)は、当初は片渕須直監督により進められていたがスポンサーの意向により降板し宮崎が後を継いだ。本作はその年の興行トップとなる大ヒットとなる。これを受けてジブリの労働環境を整えるため社員化を決定する。\n\n『紅の豚』(1992年)は、もともと日本航空の機内で上映される中編として企画されたが、次第に構想が膨らみ、長編作品として公開された。\n\n1997年に公開された『もののけ姫』は、ジブリ史上最大の製作費、宮崎の監督引退説などが話題になった事もあり、『E.T.』が持っていた日本の映画興行記録を15年ぶりに塗り替える大ヒット作となった。宮崎駿は完成後の打ち上げの際、これが最後の作品となると発言し大きく報道されたが、翌年に引退宣言は撤回した。\n\n2001年に発表した『千と千尋の神隠し』は興行記録をさらに塗り替え、観客動員2350万人、興行収入308億円と、日本における映画史上第1位の新記録を作った。日本国外からの評価も非常に高く、翌年のベルリン国際映画祭では日本としては39年ぶり、アニメーションとしては史上初の金熊賞を受賞し、2003年にはアカデミー賞長編アニメ賞を受賞した。『千と千尋の神隠し』の完成記者会見でも「もう長編アニメ映画は無理ですね」と引退を宣言している。", "qas": [ { "question": "『天空の城ラピュタ』が公開されたのはいつですか?", "id": "tr-144-07-000", "answers": [ { "text": "1986年", "answer_start": 40, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world 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"当初、『魔女の宅急便』の進行していた監督は誰ですか?", "id": "tr-144-07-006", "answers": [ { "text": "片渕須直", "answer_start": 255, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1989年、その年の興行トップとなる大ヒットとなったジブリの作品はなんですか?", "id": "tr-144-07-007", "answers": [ { "text": "『魔女の宅急便』", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『紅の豚』は何年度の作品ですか?", "id": "tr-144-07-008", "answers": [ { "text": "1992年", "answer_start": 355, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『紅の豚』の当初の企画では、長さ的にどういう映画だったのか?", "id": "tr-144-07-009", "answers": [ { "text": "中編", "answer_start": 380, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "当初、日本航空の機内で上映される中編として企画された1992年のジブリ映画は?", "id": "tr-144-07-010", "answers": [ { "text": "『紅の豚』", "answer_start": 349, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { 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"2004年公開の『ハウルの動く城』は、もともと細田守監督作品として進められていたが降板し、宮崎が後を継いだ。公開2日目で観客動員数110万人、興行収入14億8,000万円と日本映画歴代最高のオープニングを飾り、映画史上第2位の大ヒットを記録した。さらにヴェネツィア国際映画祭のオゼッラ賞、ニューヨーク映画批評家協会最優秀アニメーション賞を受賞し、その年の米アカデミー賞の長編アニメ部門に再びノミネートするなど前作同様、日本国外においても高く評価された。2005年には、ヴェネツィア国際映画祭において優れた世界的映画人に贈られる栄誉金獅子賞を受賞した。2006年には、アカデミー賞の選考委員に選ばれ、招待状が送付された。宮崎はこれ以前に2度選ばれているが、創作活動に専念したいなどの理由から就任を辞退した。\n\n2008年7月19日に、新作『崖の上のポニョ』を公開した。公開後1か月で興行収入100億円を突破する興行成績を挙げた。『崖の上のポニョ』製作中、体力的にも本作が最後の長編になるだろうと述べていた。しかし、映画公開後に宮崎が『崖の上のポニョ』の観客動員数より、『ハウルの動く城』の方が高かった事実を知ってショックを受け、「もう一本作る」とやる気を出し始めたという。今後の作画に関しては『崖の上のポニョ』のように手描きでいくとの意向であるが、以前のような作画に戻る可能性もあると示唆した。最新作の内容は、自伝のアニメーションであるという。マスコミの前に出ることを嫌う時期もあったが、『崖の上のポニョ』の製作時にNHKによって2度、「プロフェッショナル仕事の流儀」にて密着ドキュメントが作られた。アニメ作りに苦悩奮闘する素の宮崎駿の姿が放送され、大きな反響を呼んだ。また、2008年11月20日の日本外国特派員協会に招かれ、アニメ界の危惧も含め、熱く論弁した。2012年には、文化功労者に選ばれた。\n\n2013年に、自身の『風立ちぬ(宮崎駿の漫画)』を原作とした、アニメーション映画『風立ちぬ』を公開した。同年9月1日、宮崎が長編映画の製作から引退することをスタジオジブリ社長星野康二が発表した。", "qas": [ { "question": "『ハウルの動く城』の当初の監督は誰ですか?", "id": "tr-144-08-000", "answers": [ { "text": "細田守", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ハウルの動く城』が公開されたのはいつですか?", "id": "tr-144-08-001", "answers": [ { "text": "2004年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ハウルの動く城』が公開二日目に達した観客動員数は?", "id": "tr-144-08-002", "answers": [ { "text": "110万人", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ハウルの動く城』が二日目であげた興行収入はいくらですか?", "id": "tr-144-08-003", "answers": [ { "text": "14億8,000万円", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "日本映画歴代最高のオープニング記録したジブリ映画はどれですか?", "id": "tr-144-08-004", "answers": [ { "text": "『ハウルの動く城』", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "映画史上第2位の大ヒットを記録した宮崎駿監督の映画は?", "id": "tr-144-08-005", "answers": [ { "text": "『ハウルの動く城』", "answer_start": 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"2013年、宮崎駿が戦国時代を舞台にした漫画を執筆中であると『月刊モデルグラフィックス』2014年1月号で発表された。しかし時代考証を重ねるうちに手が止まってしまったことを理由に同誌2015年6月号ならびに『アーマーモデリング』2015年5月号で中止または無期限延期が発表された。予定されていた作品の題名は『鉄砲侍』であった。\n\n2014年、『思い出のマーニー』を最後の作品として、スタジオジブリの制作部門が解体される。三鷹の森ジブリ美術館の企画展示「クルミわり人形とネズミの王さま展」の企画・制作・監修を手がけた。同年11月、第87回アカデミー名誉賞を受賞。日本人としては黒澤明以来2人目の快挙となる。同時受賞となった女優のモーリン・オハラは長年のファンで、会えたことに感動した。同年11月、一人芝居「うつ神楽」を考案。京都府八幡市の石清水八幡宮の本殿で奉納された。\n\n2015年、鈴木敏夫が講演会で、ジブリ美術館用の新作短編アニメ『毛虫のボロ』を制作中であることを明らかにした。宮崎にとっては初の3DCGアニメーション作品となる。制作部門が解体されたスタジオジブリに代わり、アニメーション制作はスティーブンスティーブンが担当している。\n\n2015年5月8日、沖縄・在日米軍基地再編における普天間飛行場の辺野古移転計画に反対する辺野古基金の共同代表に就任した。同年7月13日、日本外国特派員協会の要請に応じて東京都小金井市にあるスタジオジブリで記者会見を開き、基地移転だけでなく沖縄に負担が集中している状態そのものを批判し、かつて鳩山由紀夫内閣が提案した県外移設の実現を強く求めた。", "qas": [ { "question": "宮崎駿の漫画が延期または中止となると発表されたのは『月刊モデルグラフィックス』の何年の何月号ですか?", "id": "tr-144-09-000", "answers": [ { "text": "2015年6月号", "answer_start": 91, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎駿の漫画が延期または中止となると発表されたのは『アーマーモデリング』の何年の何月号ですか?", "id": "tr-144-09-001", "answers": [ { "text": "2015年5月号", "answer_start": 114, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎駿が執筆していた戦国時代を舞台にした漫画の予定タイトルは何だったんですか?", "id": "tr-144-09-002", "answers": [ { "text": "『鉄砲侍』", "answer_start": 153, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "スタジオジブリの制作部門が解体される前、最後の作品名は何ですか?", "id": "tr-144-09-003", "answers": [ { "text": "『思い出のマーニー』", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スタジオジブリの制作部門が解体されたのは何年ですか?", "id": "tr-144-09-004", "answers": [ { "text": "2014年", "answer_start": 165, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『思い出のマーニー』が公開されたのは何年ですか?", "id": "tr-144-09-005", "answers": [ { "text": "2014年", "answer_start": 165, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎がアカデミー名誉賞を受賞したのは何年ですか?", "id": 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"answers": [ { "text": "鈴木敏夫", "answer_start": 392, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎駿の初の3DCGアニメーション作品は何ですか?", "id": "tr-144-09-012", "answers": [ { "text": "『毛虫のボロ』", "answer_start": 417, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "制作部門が解体されたスタジオジブリに代わり、『毛虫のボロ』の制作を担当したのは?", "id": "tr-144-09-013", "answers": [ { "text": "スティーブンスティーブン", "answer_start": 499, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "辺野古基金の共同代表に就任したのはいつですか?", "id": "tr-144-09-014", "answers": [ { "text": "2015年5月8日", "answer_start": 521, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2016年11月13日午後9時からNHKで放送された特別番組「終わらない人宮崎駿」の番組内で、宮崎が「長編企画覚書」と書かれた書類を鈴木敏夫に提示する場面が放送された。書類の内容はモザイクで隠されていたが、「2019年完成」と記されていたことから、新作長編が2019年に公開されると予想された。3か月後の2017年2月24日、鈴木敏夫が「OscarWeek2017」で、宮崎駿が長編映画の制作に復帰したことを公表し、事実上の引退撤回となった。5月19日、新作のスタッフを公式サイトで募集開始し、本格的に制作がスタートした。10月28日に早稲田大学で開催されたイベントで新作の題名が『君たちはどう生きるか』であると明かされた。\n\n2018年5月15日、高畑勲のお別れ会に出席し、開会の辞を読み上げた。", "qas": [ { "question": "宮崎の「長編企画覚書」が公開された番組名は?", "id": "tr-144-10-000", "answers": [ { "text": "「終わらない人宮崎駿」", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "特別番組「終わらない人宮崎駿」はどこで放送されましたか?", "id": "tr-144-10-001", "answers": [ { "text": "NHK", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「終わらない人宮崎駿」が放送されたのは何年ですか?", "id": "tr-144-10-002", "answers": [ { "text": "2016年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「終わらない人宮崎駿」はいつ放送されましたか?", "id": "tr-144-10-003", "answers": [ { "text": "2016年11月13日午後9時", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「OscarWeek2017」で宮崎駿が長編映画の制作に復帰すると公表したのは誰ですか?", "id": "tr-144-10-004", "answers": [ { "text": "鈴木敏夫", "answer_start": 163, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「OscarWeek2017」から宮崎駿の復帰が発表されたのはいつですか?", "id": "tr-144-10-005", "answers": [ { "text": "2017年2月24日", "answer_start": 152, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "鈴木敏夫が2017年、宮崎の復帰を公表したのはどこですか?", "id": "tr-144-10-006", "answers": [ { "text": "「OscarWeek2017」", "answer_start": 168, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎の新作制作のため、新規スタッフを新規募集したのはいつですか?", "id": "tr-144-10-007", "answers": [ { "text": "5月19日", "answer_start": 221, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "新作の題名が『君たちはどう生きるか』であると公開したのはいつですか?", "id": "tr-144-10-008", "answers": [ { "text": "10月28日", "answer_start": 261, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "新作『君たちはどう生きるか』のタイトル公開はどこで行われましたか?", "id": "tr-144-10-009", "answers": [ { "text": "早稲田大学", "answer_start": 268, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "高畑勲のお別れ会に出席したのはいつですか?", "id": "tr-144-10-010", "answers": [ { "text": "2018年5月15日", "answer_start": 314, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "宮崎駿は一貫して子供に向けて作品を作り続けている。これについて、「厳しい現実世界からの、子供の一時の逃げ場が必要だ」という趣旨の発言をしている。児童文学を愛読し、「アニメーションは基本的に子供の物」と公言した。\n宮崎は、自分の息子が子供だった頃には、その年代に合わせて、成長するにつれて対象年齢を上げて作品を作り、息子が成長しきると今度は友人などの子供を対象にしており、『千と千尋の神隠し』の公開時にはガールフレンドである友人の娘のために作った作品だと説明している。スタジオジブリについても、子供向けのいい映画を作るスタジオにしたいと語っていた。\n主人公が少女であることが多いが、この理由は同性であると対象化しきれず、元気な女の子の方がやる気が出るからのとのこと。同性だと自身と重ね合わせすぎて悲観的な物語にしかならないとも語っている。\n最も本人の趣味が反映された『紅の豚』に関しては製作後も「道楽でくだらない物を作ってしまった」と罪悪感に囚われ続け、次回作が完成して漸く「呪い」から解放されたと述べている。\n\n制作の準備段階でイメージボードを大量に描いて作品の構想を練り、脚本なしで絵コンテと同時進行で作品を制作していくという手法で知られる。これは、周囲から「日本アニメーション界のウォルト・ディズニー」「制作要らずの宮さん」と呼ばれる程の超人的制作管理能力を持つ宮崎にして初めて可能な手法である。また漫画作品においても、一コマ単位で下書き・ペン入れ・仕上げを行うという独特のスタイルで執筆されている。ただし、まったくの白紙の状態から絵コンテを描くわけではなく、ノートにストーリーの構成やアイディアを書いている。本人によれば、「一日中文字を書いていることもある」ということである。", "qas": [ { "question": "宮崎駿はアニメーションは基本的に誰の物だと公言しましたか?", "id": "tr-144-11-000", "answers": [ { "text": "子供", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "もっとも宮崎監督の趣味が反映された作品は何ですか?", "id": "tr-144-11-001", "answers": [ { "text": "『紅の豚』", "answer_start": 382, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宮崎監督は『紅の豚』について、次回作が完成してようやく何から解放されたと述べていますか?", "id": "tr-144-11-002", "answers": [ { "text": "「呪い」", "answer_start": 436, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎監督が主人公を同性にすると、自身と重ね合わせすぎてどういう物語にしかならないと言っていますか?", "id": "tr-144-11-003", "answers": [ { "text": "悲観的な物語", "answer_start": 347, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎が漫画を描くとき、どの単位で下書き・ペン入れ・仕上げを行いますか?", "id": "tr-144-11-004", "answers": [ { "text": "一コマ", "answer_start": 612, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎の超人的制作管理能力は日本アニメーション界の誰だと例えられるくらいですか?", "id": "tr-144-11-005", "answers": [ { "text": "ウォルト・ディズニー", "answer_start": 542, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "宮崎駿は戦史・兵器マニアとして知られ、第二次世界大戦から前の甲冑・鎧兜や兵器(装甲戦闘車両、軍用機など)に造詣が深い。作中で登場する武器や乗り物にはその知識が十全に活かされている。この方面の趣味が発揮されている作品としてはアートボックス社『月刊モデルグラフィックス』誌の『宮崎駿の雑想ノート』という虚実織り交ぜた架空戦記物の超不定期連載漫画がある。連載初期は珍兵器を描いた数ページの絵物語だったが、次第にコマが割られてストーリー漫画に変貌していった。漫画の形態に変わった後の特徴として、作中に登場する女性は普通の人間だが、男性は欧米を舞台とした作品の場合は擬人化された動物になっている。2009年から2010年にかけて『モデルグラフィックス』誌に零式艦上戦闘機の開発者である堀越二郎の若き日をフィクションも入れて描く『風立ちぬ』を連載し、前記の通りこれをベースとしてアニメ映画が制作された(2015年に単行本化)。また、一式戦闘機「隼」の活躍と陸軍エース・パイロットの戦果を記録した、戦史家梅本弘(市村弘)の著作『第二次大戦の隼のエース』の刊行に際して、アートボックス編集部に対し本書を読んだうえで賞賛・激励の文書を送っている。ジブリ内の会議中でも、暇さえあれば今でも戦車の落書きを描いているという。また『天空の城ラピュタ』や『崖の上のポニョ』の劇中、モールス符号での通信シーンが登場するが、あの符号は全て実在し、言葉としてきちんと成り立っている。", "qas": [ { "question": "『月刊モデルグラフィックス』はどこの会社の雑誌ですか?", "id": "tr-144-12-000", "answers": [ { "text": "アートボックス社", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎駿は何に対してマニアとして知られていますか?", "id": "tr-144-12-001", "answers": [ { "text": "戦史・兵器", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "戦史・兵器マニア趣味が漫画作品のタイトルは何ですか?", "id": "tr-144-12-002", "answers": [ { "text": "『宮崎駿の雑想ノート』", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『宮崎駿の雑想ノート』はどこで掲載されましたか?", "id": "tr-144-12-003", "answers": [ { "text": "『月刊モデルグラフィックス』", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『宮崎駿の雑想ノート』は連載初期にどういう形式をとっていましたか?", "id": "tr-144-12-004", "answers": [ { "text": "絵物語", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『宮崎駿の雑想ノート』は徐々に高麗川られてどういう形式の漫画になりましたか?", "id": "tr-144-12-005", "answers": [ { "text": "ストーリー漫画", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『宮崎駿の雑想ノート』の作中で男性は欧米を舞台とした作品の場合、どう描かれますか?", "id": "tr-144-12-006", "answers": [ { "text": "擬人化された動物", "answer_start": 278, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎が2009年から2010年にかけて『モデルグラフィックス』誌で連載した漫画のタイトルは何ですか?", "id": "tr-144-12-007", "answers": [ { "text": "『風立ちぬ』", "answer_start": 358, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "漫画『風立ちぬ』が『モデルグラフィックス』誌で連載された期間は?", "id": "tr-144-12-008", "answers": [ { "text": "2009年から2010年", "answer_start": 293, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "零式艦上戦闘機の開発者の名前は何ですか?", "id": "tr-144-12-009", "answers": [ { "text": "堀越二郎", "answer_start": 337, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "零式艦上戦闘機の開発者である堀越二郎の若き日をフィクションも入れて描いた宮崎駿の漫画作品は?", "id": "tr-144-12-010", "answers": [ { "text": "『風立ちぬ』", "answer_start": 358, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "漫画『風立ちぬ』が単行本化されたのはいつですか?", "id": "tr-144-12-011", "answers": [ { "text": "2015年", "answer_start": 395, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『第二次大戦の隼のエース』の著者名は何ですか?", "id": "tr-144-12-012", "answers": [ { "text": "梅本弘", "answer_start": 445, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "一式戦闘機「隼」の活躍と陸軍エース・パイロットの戦果を記録した梅本弘の著作のタイトルは?", "id": "tr-144-12-013", "answers": [ { "text": "『第二次大戦の隼のエース』", "answer_start": 456, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『天空の城ラピュタ』や『崖の上のポニョ』の両方で、何を使った通信シーンが登場しますか?", "id": "tr-144-12-014", "answers": [ { "text": "モールス符号", "answer_start": 576, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "宮崎は、外国メディアからのインタビューの中で「日本の女性声優は男性を惹きつけるコケティッシュな声を持っているが、それは私達の望むものではない」と述べている。\n\n監督を担当した長編アニメーション映画のほとんどの作品名に、千と千尋の神隠し、崖の上のポニョなど、平仮名の「の」が含まれている。\nただし、必ずしも本人の意図ではなく、『もののけ姫』では『アシタカ𦻙記』を題名にしたかったという宮崎の意に反して鈴木敏夫により『もののけ姫』で既成事実化されたといい、宮崎本人は必ずしも拘ってはいない。\n\n『崖の上のポニョ』制作の過程を追った『ポニョはこうして生まれた』で「僕はもう既成の起承転結のよくできたストーリーの映画なんか作りたくない」「自分の作品の大衆性が低くなっている」と発言している。", "qas": [ { "question": "宮崎は日本の女性声優について、男性を惹きつけるどういう声持っていると言っていますか?", "id": "tr-144-13-000", "answers": [ { "text": "コケティッシュな声", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎が監督を担当した長編アニメーション映画のほとんどの作品名に入っている字は何ですか?", "id": "tr-144-13-001", "answers": [ { "text": "「の」", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宮崎がもともと『もののけ姫』のタイトルとして考えたのは何ですか?", "id": "tr-144-13-002", "answers": [ { "text": "『アシタカ𦻙記』", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『もののけ姫』のタイトルを既成事実化した人は誰ですか?", "id": "tr-144-13-003", "answers": [ { "text": "鈴木敏夫", "answer_start": 199, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ポニョはこうして生まれた』で宮崎は自分の作品の何が低くなっていると述べていますか?", "id": "tr-144-13-004", "answers": [ { "text": "大衆性", "answer_start": 321, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "アニメーション作家・映画監督の高畑勲は東映動画(現・東映アニメーション)時代の先輩であり宮﨑に多大な影響を与えた。東映動画の労働組合に書記長として従事した際、高畑は副委員長として宮﨑を支え交流を深めていった。\n\n高畑の初監督作品・映画『太陽の王子ホルスの大冒険』(1968年)の制作がスタート、当時新人だった宮崎だったが次々とイメージボードを描きアニメーター(兼場面設定)として大抜擢された。人間の深層心理を描いた初のアニメーション映画でありアニメ作品としての構成、作画クオリティは当時として最高峰であり、児童向けアニメながら、高畑が注入した職人ギルド・コミューンの形成と善悪の彼岸を描いた思想背景、労働者コミュニティの連帯感、ベトナム戦争が影を落とした社会情勢も加味して作品作りに反映させ、強烈な“作家性”に宮崎が傾倒。含蓄ある知識と主義思想を物語に落とし込み、大胆なレイアウトで魅せる高畑の演出も宮﨑にとっては憧れの的だった。\n\nルパン三世第一シリーズ(共同演出)、パンダコパンダ(高畑が監督、宮崎が脚本、画面設計)、アルプスの少女ハイジ、母をたずねて三千里(高畑が監督、宮崎が画面設定)などを共に手掛け、高畑の演出テクニックを吸収した。『風の谷のナウシカ』・『天空の城ラピュタ』では高畑はプロデューサーを務める。宮崎は音楽には疎いため、音楽的知識が豊富でピアノが弾けて自ら作曲も行う高畑は献身的にサポートした。", "qas": [ { "question": "東映時代、高畑勲に宮崎はどういう関係でしたか?", "id": "tr-144-14-000", "answers": [ { "text": "先輩", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "宮崎が東映動画の労働組合に書記長だったころ副委員長だった人の名は?", "id": "tr-144-14-001", "answers": [ { "text": "高畑勲", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "高畑勲は東映動画の労働組合でどういう位置にありましたか?", "id": "tr-144-14-002", "answers": [ { "text": "副委員長", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "高畑勲の初監督作品は何ですか?", "id": "tr-144-14-003", "answers": [ { "text": "『太陽の王子ホルスの大冒険』", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『太陽の王子ホルスの大冒険』が公開された年度は?", "id": "tr-144-14-004", "answers": [ { "text": "1968年", "answer_start": 132, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『太陽の王子ホルスの大冒険』で宮崎はどういう仕事に抜擢されましたか?", "id": "tr-144-14-005", "answers": [ { "text": "アニメーター", "answer_start": 173, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルパン三世第一シリーズで高畑勲が務めた仕事は?", "id": "tr-144-14-006", "answers": [ { "text": "演出", "answer_start": 431, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical 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"ハイジや三千里で共に仕事をした富野由悠季(絵コンテ担当)は「世情的には、『ラピュタ』以後の二人が袂を分かったという声も聞きますが、全くそんなことはありません。高畑さんの訃報の後、改めてお二人の関係性を考えて結論が出ました。高畑さんがいなければ、宮崎駿という“映画監督”は生まれませんでした!」「宮崎さんも、高畑さんについて『僕が読めない本を読んでる』と言っていました。そういう部分を容認するのか、乗り越えるのか、どうやったら高畑さんを黙らせられるのか、それを絶えず考えていた結果が、宮崎アニメだと思っています」「世間は宮崎さんがアカデミー賞を取ったこと(2002年、『千と千尋の神隠し』がアカデミー賞長編アニメ賞を受賞)から、高畑より宮崎の方が上、なんて気分があるのかもしれません。でも、高畑さんがいなければ、宮崎さんはアカデミー賞を取れなかったと断言できます」。\n\nその後、ファンタジーやリアリティの考えの違いから2人は別個に創作するようになるが常に2人は相手のことを気にかけていた。互いに強烈な負けず嫌いという共通点もあるが、高畑に対する宮﨑の畏敬の念は特別だった。『千と千尋の神隠し』の制作の際、宮﨑は視点がずっと千尋を追うことに対し「パクさん(高畑)に怒られるな」とぼやいていた。これは演出に際し、そういうことだけは絶対にやるなと高畑さんに教わったためである。\n\nふたりの巨匠を支えてきた鈴木敏夫プロデューサーは「宮さん(宮崎駿)はじつはただひとりの観客を意識して、映画を作っている。宮崎駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」と語っている。\n\n宮崎監督自身もインタビューで「宮崎さんは夢を見るんですか?」という問いに、「見ますよ。でもぼくの夢はひとつしかない、いつも登場人物は高畑さんです」と答えたことがある。", "qas": [ { "question": "アルプスの少女ハイジで絵コンテ担当していた人の名前は何ですか?", "id": "tr-144-15-000", "answers": [ { "text": "富野由悠季", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「高畑さんがいなければ、宮崎駿という“映画監督”は生まれませんでした!」と言った人物は誰ですか?", "id": "tr-144-15-001", "answers": [ { "text": "富野由悠季", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮﨑は視点がずっと千尋を追うことに対し、宮崎は誰に怒られると思っていましたか?", "id": "tr-144-15-002", "answers": [ { "text": "高畑", "answer_start": 526, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "「宮崎駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」と語った人物は誰ですか?", "id": "tr-144-15-003", "answers": [ { "text": "鈴木敏夫", "answer_start": 598, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宮崎監督のインタビューによると、彼の夢の唯一の登場人物は誰ですか?", "id": "tr-144-15-004", "answers": [ { "text": "高畑", "answer_start": 742, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "宮崎駿は以前から、短時間・低予算で量産される日本のアニメーションに対して危機感を抱き続けており、1985年2月号のアニメ雑誌『アニメージュ』の押井守、河森正治との対談や、1986年『天空の城ラピュタ』製作中に行ったアニメーション雑誌記者との会見にて「セーラー服が機関銃撃って走り回っているアニメーションを作っていちゃダメなんです」「女の子がバズーカ振り回すような作品はいいかげんやめてほしい」と発言していた。2002年のベルリン映画祭金熊賞受賞の際の記者会見のインタビューでは「今の日本のアニメーションはどん詰まり」などと語り、イギリスのBBCなど、日本国内外の様々なメディアで伝えられ、日本国内のみならず日本国外のアニメーションファンを含めて様々な反響があった。", "qas": [ { "question": "宮崎が「今の日本のアニメーションはどん詰まり」と発言したのはいつですか?", "id": "tr-144-16-000", "answers": [ { "text": "2002年", "answer_start": 204, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎の押井守、河森正治との対談が乗せられたのはどこの雑誌ですか?", "id": "tr-144-16-001", "answers": [ { "text": "『アニメージュ』", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宮崎の押井守、河森正治との対談が乗せられたのは『アニメージュ』の何月号ですか?", "id": "tr-144-16-002", "answers": [ { "text": "2月号", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1989年、手塚治虫が亡くなった時、宮崎駿は漫画では自分も影響を強く受けた、と全面的に肯定した上で、アニメーション作家としての手塚治虫を、店子(たなこ)を集めてムリやり義太夫を聴かせる落語の長屋の大家と同じであると、痛烈に批判した。同じインタビューの中では、手塚治虫作品の悲劇性についても否定的な見解を示し、その文脈から「ある街角の物語」「しずく」などの、手塚が自主制作していたアニメ作品に対しても、否定的評価を下した。\nそれ以降は、手塚について語る事はほとんど無かったが、2009年に行われたインタビューでは、7歳の時に手塚の「新宝島」を読み「いわく言い難いほどの衝撃」を受けたことや、初期のSF三部作の虜になっていたことを明かした。その一方で、アニメ作品に対しての評価は変わらず、「しかし、僕は手塚さんがひどいアニメーションを作ったことに、ホッとしたのかもしれません。これで太刀打ちできると」と述べた。\n宮崎は1963年に東映動画で手塚治虫原案の「わんわん忠臣蔵」にアニメーターの一人として参加し、1977年には手塚治虫原案の「草原の子テングリ」でレイアウトを務めた。また1981年には手塚と宮﨑との合作アニメ映画「ロルフ」も企画されていた。この合作は作られなかったがロルフの企画は名前を変え「風の谷のナウシカ」の原案になった。\n\n前述の手塚治虫に対する批判の1年程前にディズニーに対しても批判をおこなっている。「ぼくはディズニーの作品がキライだ。入口と出口が同じ低さと広さで並んでいる。ぼくには観客蔑視としか思えないのである」。その一方で配給やスタジオジブリの社長をディズニー日本法人の社長が務めるなどディズニーとジブリは密接な提携を結んでおり、近年では賞賛の発言が見られる。スタジオジブリが協力したディズニー・アート展の特集番組では「芸の力」、「本当に驚きましたね」、「尊敬の念は消えません」など賛辞を述べている。", "qas": [ { "question": "手塚治虫が死亡したのは何年ですか?", "id": "tr-144-17-000", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宮崎が影響を強く受けたと、手塚治虫の何を全面的に肯定しましたか?", "id": "tr-144-17-001", "answers": [ { "text": "漫画", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎が痛烈に批判したのは何としての手塚治虫でしたか?", "id": "tr-144-17-002", "answers": [ { "text": "アニメーション作家", "answer_start": 50, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎が手塚治虫作品に否定的な見解を示したのはどういう側面ですか?", "id": "tr-144-17-003", "answers": [ { "text": "悲劇性", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1989年は誰が亡くなった日ですか?", "id": "tr-144-17-004", "answers": [ { "text": "手塚治虫", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎が7歳の時に手塚の「新宝島」を読み「いわく言い難いほどの衝撃」を受けたと述べたインタビューは何年に行われましたか?", "id": "tr-144-17-005", "answers": [ { "text": "2009年", "answer_start": 237, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic 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"宮崎監督はディズニー映画が入口と出口が同じ低さと何で並んでいると述べていますか?", "id": "tr-144-17-016", "answers": [ { "text": "広さ", "answer_start": 637, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "宮崎駿は著名なミリタリーマニアである一方、現実の戦争行為には断固として反対している。大学時代には「戦争がいかに経済的に不合理であるか」という経済学の講義に感銘を受け、収集していた軍事関係の書籍を全て捨てた経験もある。作品中では『未来少年コナン』『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』などに見られるように、侵略者や圧制に対する武力抵抗を肯定するような描写もあり、そのスタンスは単純な非暴力・反戦というわけでもない。しかし一貫して戦争の悲惨さや愚かさを描き、兵器や戦争が登場する作品でそれらを安易に美化する事はない。『風の谷のナウシカ』など複数の作品に登場する戦火にのまれる街の描写などは堀田善衛の方丈記私記をイメージしたものだという。湾岸戦争に対しては米国政府の方針に反対の立場を表明して、小田実を中心とする市民グループ「市民の意見30の会」による、「ニューヨーク・タイムズに湾岸戦争を批判した意見広告を掲載しよう」という呼びかけに応じている他、同時期に製作した『紅の豚』も湾岸戦争に対する反感が作風に反映されているという。", "qas": [ { "question": "宮崎が大学時代、収集していた軍事関係の書籍を全て捨てたのはどういう議論に接してからですか?", "id": "tr-144-18-000", "answers": [ { "text": "「戦争がいかに経済的に不合理であるか」", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "作品中侵略者や圧制に対する武力抵抗を肯定するような描写もある宮崎の作品には、『未来少年コナン』『風の谷のナウシカ』のほか、どれがありますか?", "id": "tr-144-18-001", "answers": [ { "text": "『もののけ姫』", "answer_start": 132, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "戦火にのまれる街の描写のイメージはどこから出たものですか?", "id": "tr-144-18-002", "answers": [ { "text": "方丈記私記", "answer_start": 295, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "方丈記私記の作家は誰ですか?", "id": "tr-144-18-003", "answers": [ { "text": "堀田善衛", "answer_start": 290, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "湾岸戦争に対する反感が作風に反映されている宮崎監督の作品は?", "id": "tr-144-18-004", "answers": [ { "text": "『紅の豚』", "answer_start": 428, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小田実を中心とする市民グループの名前は何ですか?", "id": "tr-144-18-005", "answers": [ { "text": "「市民の意見30の会」", "answer_start": 357, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎駿が「市民の意見30の会」で、湾岸戦争を批判した意見広告を掲載しようとした新聞は何ですか?", "id": "tr-144-18-006", "answers": [ { "text": "ニューヨーク・タイムズ", "answer_start": 373, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "『風立ちぬ』製作時には作品テーマもあって、第二次世界大戦における日本の戦争責任について積極的に発言している。「自分は若い頃は戦争責任があるかないかと言う見方をしていた。しかし後の世から断罪するのは簡単。一方で、零戦を作った優秀な技師として二郎を祭り上げる動きもあります。いずれも、あの時代の空気を肌で感じようとしていない」「一つの時代を遠くから見て、灰色だとか決め付けることは間違っている」としつつも、堀越二郎を祭り上げる動きに関しては「零戦、零戦と騒ぐマニアの大半は、コンプレックスで凝り固まり、何かに誇りを持たないとやっていけない人間です。思考力や技術力を超えた堀越二郎の天才的なひらめきの成果を、愛国心やコンプレックスのはけ口にして欲しくはない。僕は今度の映画で、そういう人々から堀越二郎を取り戻したつもりです」「二郎や自分の父親が無罪だなんて思っていません」と述べている。\n同時期にスタジオジブリ出版の小冊子『熱風』の寄稿文で、日本が第二次世界大戦に参加したことについては子どもの頃に「本当に愚かな戦争をした」「実際情けない戦争だったんだ」と感じたと述べている。この他にも「日本だけが悪人ということではないと思いますけど、そうかといって『最後に入っただけなのに、俺はなぜ捕まるんだ?』と言うのもおかしい」「非武装中立ということは現実にはあり得ないです。だからリアリズムで考えても、一定の武装はしなきゃいけない。ただ、それ以上は『ちょっと待て』っていうのがやっぱり正しいと思うんです」「慰安婦の問題も、それぞれの民族の誇りの問題だから、きちんと謝罪してちゃんと賠償すべきです」とも述べている。\nこうした姿勢は当事者国の一つである東アジア諸国で広い賞賛を受けており、中国の「人民日報」は微博(国営SNS)を通じて「記憶にとどめておくべき良識ある日本人」として宮崎の名を挙げている。韓国でも『風立ちぬ』公開時に意図を説明する為の記者会見を行うなどの姿勢もあり、「日本の生ける良心」と賞賛されている。", "qas": [ { "question": "宮崎が第2次世界大戦を「本当に愚かな戦争をした」と述べている冊子の名は何ですか?", "id": "tr-144-19-000", "answers": [ { "text": "『熱風』", "answer_start": 408, 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"2013年に憲法改正論議が加熱した際、宮崎駿はスタジオジブリ出版の小冊子『熱風』2013年7月号での特集「憲法改正」で憲法改正への反対声明を行った。声明の中で宮崎は「憲法を変えるなどもってのほか」という題の寄稿文で宮崎は憲法改正に反対の立場であることを闡明にした。寄稿文の中で憲法を議論する環境として「得票率も投票率も低い、そういう政府がどさくさに紛れて、思いつきのような方法で憲法を変えようなんて、もってのほか」であるとしている。特に憲法9条と自衛隊については「憲法9条と照らし合わせると、自衛隊はいかにもおかしい。おかしいけれど、そのほうがいい。国防軍にしないほうがいい。」と述べ、自衛隊は専守防衛に徹するべきであり、「そうしないと、本当にこの国の人たちは国際政治に慣れてないからすぐ手玉に取られてしまいます。もし戦争になるとしても、そのほうがまだましだと考えます」としている。同寄稿文では現行憲法下での自衛隊についても好意的に評価している。災害時の活動について「やっぱりこれはいいものだと思います。隊員たちはよくやっていて、礼儀正しい。」とし、イラク戦争で行われた海外派遣については「イラクに行かざるを得なくなっても一発も撃たず、ひとりも殺しもせず帰って来ました」「僕は立派だったと思います」と評価している。\nまた憲法96条を先に改正する案についても「条項を変えて、その後にどうこうするというのでも成り立つ」が、それは「詐欺」で「やってはいけないこと」であるから、国の将来を決定するには「できるだけ多数の人間たちの意見を反映」させ「変えるためにはちゃんとした論議をしなければいけない」と述べている。", "qas": [ { "question": "宮崎駿が憲法改正への反対声明を行った小冊子の名は?", "id": "tr-144-20-000", "answers": [ { "text": "『熱風』", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎駿が憲法改正への反対声明を書いたのは『熱風』の何月号ですか?", "id": "tr-144-20-001", "answers": [ { "text": "7月号", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "小冊子『熱風』はどこから出版されたものですか?", "id": "tr-144-20-002", "answers": [ { "text": "スタジオジブリ", "answer_start": 23, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "憲法改正への反対声明で、宮崎は自衛隊はどこに照らし合わせるとおかしいと述べていますか?", "id": "tr-144-20-003", "answers": [ { "text": "憲法9条", "answer_start": 232, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "寄稿文で、憲法改正の環境を宮崎は得票率とともに何が低いと言っていますか?", "id": "tr-144-20-004", "answers": [ { "text": "投票率", "answer_start": 155, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "憲法改正への反対声明で、宮崎は憲法を議論する環境は投票率と何が低いと言っていますか?", "id": "tr-144-20-005", "answers": [ { "text": "得票率", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "寄稿文中「やっぱりこれはいいものだと思います。隊員たちはよくやっていて、礼儀正しい。」と評価したのは自衛隊のどの活動ですか?", "id": "tr-144-20-006", "answers": [ { "text": "災害時の活動", "answer_start": 423, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎が寄稿文の中で「やってはいけないこと」と批判したのはどういう案ですか?", "id": "tr-144-20-007", "answers": [ { "text": "憲法96条を先に改正する案", "answer_start": 560, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "憲法改正論議が沈静化した後、海外活動を円滑化する為に憲法解釈を用いた集団的自衛権の整備が第2次安倍内閣で推進されると、宮崎は日本外国特派員協会での記者会見で安倍晋三首相を「偉大な男として歴史に残りたいと思っているんだと思います」「でも残らないでしょう」と厳しく批判した。現行憲法は15年間にわたる戦争とその戦禍を生き延びた人々にとって「光が差し込むような体験」であったと高く評価している。いわゆる「押し付け憲法論」であるという批判に対しても、1928年の不戦条約(戦争抛棄ニ関スル条約)の精神を引き継いだものであり、特異な内容でもなければ決して押し付けでもないと述べている。\n\n2016年1月28日に東京都港区で開かれた「ハンセン病の歴史を語る人類遺産世界会議」で宮崎は、「もののけ姫」の一場面でハンセン病患者を描いた経緯について、自宅から歩いて15分程にある全生園を訪問し、園内資料館で展示されていた脱走防止用の「園内通用券」などを見て衝撃を受け、「おろそかに生きてはいけない。作品を真正面からやらなければならない」と語った。", "qas": [ { "question": "憲法改正論議が沈静化した後、憲法解釈を用いて推進されたのは何ですか?", "id": "tr-144-21-000", "answers": [ { "text": "集団的自衛権", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "集団的自衛権を推進した内閣は?", "id": "tr-144-21-001", "answers": [ { "text": "第2次安倍内閣", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "海外活動を円滑化する為、第2次安倍内閣が推進させたのは?", "id": "tr-144-21-002", "answers": [ { "text": "集団的自衛権", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎が安倍首相を「偉大な男として歴史に残りたいと思っているんだと思います」と批判したのはどこの記者会見ですか?", "id": "tr-144-21-003", "answers": [ { "text": "日本外国特派員協会", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎が「光が差し込むような体験」と評価したのは何ですか?", "id": "tr-144-21-004", "answers": [ { "text": "現行憲法", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "不戦条約が結ばれたのは何年ですか?", "id": "tr-144-21-005", "answers": [ { "text": "1928年", "answer_start": 221, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎が「もののけ姫」の一場面でハンセン病患者を描いた経緯について語ったのはどこですか?", "id": "tr-144-21-006", "answers": [ { "text": "「ハンセン病の歴史を語る人類遺産世界会議」", "answer_start": 310, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ハンセン病の歴史を語る人類遺産世界会議」はいつ開かれたか。", "id": "tr-144-21-007", "answers": [ { "text": "2016年1月28日", "answer_start": 289, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ハンセン病の歴史を語る人類遺産世界会議」が開催されたのはどこですか?", "id": "tr-144-21-008", "answers": [ { "text": "東京都港区", "answer_start": 300, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "宮崎が全生園を訪問した時みてショックを受けたのは何ですか?", "id": "tr-144-21-009", "answers": [ { "text": "「園内通用券」", "answer_start": 407, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "宮崎が訪問した全生園は彼の自宅から徒歩で何分距離にありますか?", "id": "tr-144-21-010", "answers": [ { "text": "15分", "answer_start": 373, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "学習院大学時代に社会主義や共産主義などの左翼運動を知り、大学で過ごした4年間で少しずつ傾倒していったという。東映動画入社の志望動機書には「米帝ディズニーに対抗しうる国産アニメを作る」と書かれていたと岡田斗司夫が著書で述べているが事実かは不明である。実際に高畑勲らと入社後に激しい組合活動を行っている。宮崎は理論や理屈で物事を語る事を嫌っており(本を読む事も本来は好きではないと語っている)、政治についても経済学部出身ながら資本論などの理論書は読んでいないと率直に述べている。宮崎は「社会主義っていうのは、そんなに難しい問題じゃないんじゃないかと思いましたからね。希望ということなんじゃないかって思いましたから」と述べている。ただし後年に「マルクス的な見方を完全にしなくなった訳ではない」とする趣旨の発言や、「今はプロレタリアートがいない代わりに、良い人と悪い人がいるって思ってるだけでね」と語るなど影響を受けている事は認めている。\n\nその後も左翼的思想を保ち続けていたが、冷戦崩壊期の1989年に起きた天安門事件および東欧革命に大きな衝撃を受け、社会主義陣営の歴史的敗北という現実を前に思想的修正を余儀なくされたとする向きもある。", "qas": [ { "question": "東映動画入社の志望動機書には「米帝ディズニーに対抗しうる国産アニメを作る」と書かれていたとのことは誰の著書に書かれていますか?", "id": "tr-144-22-000", "answers": [ { "text": "岡田斗司夫", "answer_start": 99, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "社会主義や共産主義などの左翼運動を知ったのはどこでですか?", "id": "tr-144-22-001", "answers": [ { "text": "学習院大学", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "天安門事件が起きたのは何年ですか?", "id": "tr-144-22-002", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 442, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東欧革命が起きた年は?", "id": "tr-144-22-003", "answers": [ { "text": "1989年", "answer_start": 442, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東映動画入社後、高畑勲と行った左翼運動とは?", "id": "tr-144-22-004", "answers": [ { "text": "組合活動", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかしこうした「左翼から転向した」という言説については宮崎自身が再三にわたって否定する発言をしている。宮崎はもともと統制的・強権的なソ連型社会主義には懐疑的で、ソ連や中国の「間違った社会主義」に対する批判は以前から行っており、「ソ連も嫌いな国ですが、中国も嫌いだし、アメリカも嫌いです。日本も嫌いだけどね」と発言している。ニューヨーク近代美術館での会見で中国の毛沢東の語録を引用して若手アニメ作家に向けて助言したこともあったが、後に「かつて毛沢東の写真を最初に見た時、なんて嫌な顔だろう、と思いました。周囲が『大きな温かい人だ』と言うから、たまたま写りが悪かったんだ、と思おうとしたけど、その勘を信じればよかった」と述べている。冷戦崩壊直前の1990年11月にはソ連と対峙するラトビアの独立運動で「人民戦線」という用語が使用されている事に触れながら、「社会主義が自由主義っていう形に、軍門に降ったなんて喜んでいる奴がいるけど。西ドイツの現状はどうなんですか?西ベルリンが健康的な街なんですか?違いますよね」と述べている。天安門事件で改革派の学生達がアメリカのような国を目標にしていると語っている事についても「その理想の底の浅さに愕然としますよ」と厳しく批判した上で、こうした冷戦末期の情勢を「人間の解放っていう問題よりも、みんな同じように大量消費の生活をしたいんだっていうね」と述べている。『紅の豚』を制作した時には共産政権の解体後に起きたユーゴスラビア紛争に触れ、民主化による民族主義の台頭に絶望感を覚えたという。そのユーゴスラビア付近を舞台にした作品中で孤独に生きる主人公の姿と自分が重なり、「俺は最後の赤になるぞって感じで、一人だけで飛んでる豚になっちゃった」と発言している。\n宮崎は「左翼思想の根源にあったものっていうのは、時代を超えてもね、違う形をとっても同じだと思っています」と述べている。", "qas": [ { "question": "宮崎はニューヨーク近代美術館での会見で誰の言葉を引用しましたか?", "id": "tr-144-23-000", "answers": [ { "text": "毛沢東", "answer_start": 180, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic 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"question": "宮崎駿監督は東小金井でデモをした日付けは何月何日ですか?", "id": "tr-144-24-001", "answers": [ { "text": "6月11日", "answer_start": 69, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2011年6月11日、東日本大震災の福島第一原子力発電所事故に関連し反原発を呼びかけたデモの名称は?", "id": "tr-144-24-002", "answers": [ { "text": "「6・11脱原発100万人アクション」", "answer_start": 159, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「6・11脱原発100万人アクション」の新宿での参加人員は何人ですか?", "id": "tr-144-24-003", "answers": [ { "text": "約2万人", "answer_start": 188, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "特集「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」などが載せられた『熱風』は何年何号ですか?", "id": "tr-144-24-004", "answers": [ { "text": "2011年8号", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2011年、宮崎が「NO!原発」と書いたプラカードをぶら下げて歩く写真が表紙だった『熱風』は何号ですか?", "id": "tr-144-24-005", "answers": [ { "text": "8号", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2011年6月11日、宮崎が小さなデモを起こしたのはどこですか?", "id": "tr-144-24-006", "answers": [ { "text": "東小金井", "answer_start": 81, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "特集「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」が掲載された雑誌名は何ですか?", "id": "tr-144-24-007", "answers": [ { "text": "『熱風』", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "2011年6月16日から小金井市のスタジオジブリに掲げられた横断幕にはどう書かれていましたか?", "id": "tr-144-24-008", "answers": [ { "text": "「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」", "answer_start": 478, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スタジオジブリに「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれている横断幕が掲げられたのはいつからですか?", "id": "tr-144-24-009", "answers": [ { "text": "2011年6月16日", "answer_start": 438, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「スタジオジブリは原発ぬきの電気で映画をつくりたい」と書かれている横断幕が掲げられたのはどこですか?", "id": "tr-144-24-010", "answers": [ { "text": "スタジオジブリ", "answer_start": 460, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "スタジオジブリの所在市はどこですか?", "id": "tr-144-24-011", "answers": [ { "text": "小金井市", "answer_start": 455, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2008年の講演で、宮崎駿は日本の子供がナショナリズムから解放されるべきことを提唱した。「世界の問題は多民族にある」とも述べている。\n\nシャルリー・エブド襲撃事件をめぐる風刺画問題について、「まずもって自国の政治家にやるべきであって、他国の政治家にやるのはうさんくさくなるだけ」と指摘した。その上で、他の文明が崇拝しているものを対象にすることは「やめた方がいい」と話した。\n\nJ・R・R・トールキンの作品『指輪物語』がピーター・ジャクソン監督により映画化された際、悪の勢力に味方するために象をつれて登場した人々が“アジア的”に描かれていたため、宮崎はこれを「黄人差別映画」であると批判した。また原作についても同様の批判を展開し、西洋ファンタジーの古典にそうした側面がある事を理解しない風潮を「馬鹿なんです」とも語った。また上述の流れからアメリカ映画(ハリウッド)全体に対しても「アメリカ人はダーッと撃ったらドイツが爆発したとか、相変わらずそんな映画ばかり作っている」「アフガニスタン戦争での誤爆と同じ理屈」など痛烈な批判を行い、(作り手の欧米人はともかく)日本人が一緒になって喜んでいる事を「信じられないぐらい恥ずかしい事」と評した。", "qas": [ { "question": "日本の子供がナショナリズムから解放されるべきと言い切った講演は何年ですか?", "id": "tr-144-25-000", "answers": [ { "text": "2008年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「まずもって自国の政治家にやるべきであって、他国の政治家にやるのはうさんくさくなるだけ」と指摘された風刺画はどの事件を対象にしていますか?", "id": "tr-144-25-001", "answers": [ { "text": "シャルリー・エブド襲撃事件", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『指輪物語』は誰の作品ですか?", "id": "tr-144-25-002", "answers": [ { "text": "J・R・R・トールキン", "answer_start": 188, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『指輪物語』を書いたのは誰ですか?", "id": "tr-144-25-003", "answers": [ { "text": "J・R・R・トールキン", "answer_start": 188, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『指輪物語』の映画化の監督は誰ですか?", "id": "tr-144-25-004", "answers": [ { "text": "ピーター・ジャクソン", "answer_start": 209, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎はこれを「黄人差別映画」であると批判した映画は何ですか?", "id": "tr-144-25-005", "answers": [ { "text": "『指輪物語』", "answer_start": 202, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "20世紀のなかで宮崎駿が最も影響を受けたものとして、ブルース・スプリングスティーン、映画『イージー・ライダー』、そしてジョン・フォードの監督作品、とりわけ『荒野の決闘』を挙げている。そのほかに、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』、ノーマン・メイラーの『裸者と死者』、デヴィッド・リースマンの『孤独な群衆』、フリッツ・パペンハイムの『TheAlienationofModernMan』といった本からも影響を受けたと述べている。\n\nファンタジーの要素が含まれた作品を作る上で『指輪物語』を厳しく批判する一方、アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記』からの影響をしばしば公言し、「シュナの旅」などの作品に現れている。1976年に翻訳版が出た直後から読み始めて以降、片時も手放さず、何時でも読める様に寝るときも枕元に『ゲド戦記』を置いていたという。後年にル=グウィンと面会した時には自分が今まで作ってきた作品には全て『ゲド戦記』から影響された部分があると語っている。\n\nフランスの作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの愛読者であり、とくに『人間の土地』を何度も読んでいる。様々な著名人が思い入れのある土地を旅するNHKの番組『世界・わが心の旅』(1998年放送分)の企画で宮崎は、サン=テグジュペリの時代の飛行機で航空郵便のパリからトゥールーズ、さらにスペイン経由でサン=テグジュペリが所長を務めたカップ・ジュピー飛行場跡(モロッコ)まで訪れており、この中で「サン=テグジュペリに一番影響を受けている」と発言している。サン=テグジュペリが当時危険だった郵便機乗りとしての経験を通じ作品の中で「生命より尊いものがある」と断言したことなどに共感をしめしている。その時に描かれた絵がのちに新潮文庫の「夜間飛行」「人間の土地」の表紙に使用されているほか「人間の土地」の解説を書いている。\n\n『もののけ姫』には、従来の日本の中世史ではあまり語られてこなかった、たたら(鑪・鈩)製鉄技術者集団、馬子運送業者、ハンセン病患者が登場し、女性が産業を担い発言権を持っている描写や、「天朝さまとはなんぞや。」と話す女性を登場させるなど、網野善彦の中世史観の影響が強く窺える。この作品については、網野自身も自著において「ずいぶん勉強した上でつくられている」と高く評価する。", "qas": [ { "question": "20世紀のなかで宮崎駿が最も影響を受けたものとしてあげられる映画は何ですか?", "id": "tr-144-26-000", "answers": [ { "text": "『イージー・ライダー』", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "20世紀の中で、宮崎監督がもっとも影響を受けた映画のタイトルは?", "id": "tr-144-26-001", "answers": [ { "text": "『イージー・ライダー』", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "20世紀で宮崎がもっとも影響を受けたという映画監督は誰ですか?", "id": "tr-144-26-002", "answers": [ { "text": "ジョン・フォード", "answer_start": 59, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『荒野の決闘』の監督は誰ですか?", "id": "tr-144-26-003", "answers": [ { "text": "ジョン・フォード", "answer_start": 59, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎が影響を特に受けたジョン・フォード監督の作品は何ですか?", "id": "tr-144-26-004", "answers": [ { "text": "『荒野の決闘』", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『自由からの逃走』の著者は誰ですか?", "id": "tr-144-26-005", "answers": [ { "text": "エーリッヒ・フロム", "answer_start": 97, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『裸者と死者』を書いた作家の名前は?", "id": "tr-144-26-006", "answers": [ { "text": "ノーマン・メイラー", "answer_start": 117, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『孤独な群衆』の作家は誰ですか?", "id": "tr-144-26-007", "answers": [ { "text": "デヴィッド・リースマン", "answer_start": 135, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『TheAlienationofModernMan』を書いた著者の名前は何ですか?", "id": "tr-144-26-008", "answers": [ { "text": "フリッツ・パペンハイム", "answer_start": 155, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『ゲド戦記』の著者は?", "id": "tr-144-26-009", "answers": [ { "text": "アーシュラ・K・ル=グウィン", "answer_start": 254, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "宮崎がしばしば影響を受けたと公言するアーシュラ・K・ル=グウィンの作品は何ですか?", "id": "tr-144-26-010", "answers": [ { "text": "『ゲド戦記』", "answer_start": 269, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎が影響を受けたという、アーシュラ・K・ル=グウィンの作品のタイトルは?", "id": "tr-144-26-011", "answers": [ { "text": "『ゲド戦記』", "answer_start": 269, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎が『ゲド戦記』から受けた影響が現れた作品は何ですか?", "id": "tr-144-26-012", "answers": [ { "text": "「シュナの旅」", "answer_start": 289, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『ゲド戦記』が日本語で翻訳されたのは何年ですか?", "id": "tr-144-26-013", "answers": [ { "text": "1976年", "answer_start": 308, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『人間の土地』の作家は誰ですか?", "id": "tr-144-26-014", "answers": [ { "text": "アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ", "answer_start": 442, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "宮崎が愛読しているフランスの作家は誰ですか?", "id": "tr-144-26-015", "answers": [ { "text": "アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ", "answer_start": 442, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サン=テグジュペリの作品で宮崎が特に気に入っている作品は何ですか?", "id": "tr-144-26-016", "answers": [ { "text": "『人間の土地』", "answer_start": 471, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "様々な著名人が思い入れのある土地を旅するNHKの番組名は?", "id": "tr-144-26-017", "answers": [ { "text": "『世界・わが心の旅』", "answer_start": 514, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『世界・わが心の旅』はどこの番組ですか?", "id": "tr-144-26-018", "answers": [ { "text": "NHK", "answer_start": 508, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "宮崎は「サン=テグジュペリに一番影響を受けている」と発言した番組は何ですか?", "id": "tr-144-26-019", "answers": [ { "text": "『世界・わが心の旅』", "answer_start": 514, 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"answers": [ { "text": "網野善彦", "answer_start": 910, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ローマ建築", "paragraphs": [ { "context": "共和政ローマ、そしてローマ帝国の支配地域に広く残る遺跡と、ウィトルウィウスの残した『建築について』の存在により、ルネサンスに始まる古典主義建築の源泉となった。ヨーロッパをはじめとする西方世界において、極めて重要な位置を占めるローマ建築は、エトルリア建築、そしてギリシア建築の影響を受けつつ発展していった。古代ローマにおいてギリシア美術の影響は特に強いものとなったが、古典期のギリシア建築がほとんどひとつの彫刻のように捉えられ、自己完結的であるのに対し、ローマ建築では、建築物相互の関係性、社会的要求、美的要求、その他の要素が複合して成り立っていると考えられている。そのため、ギリシア建築といえばすぐに周囲から孤立した神殿を思い浮かべるが、ローマ建築では神殿でなく、神殿やバシリカなどを包含したフォルム、円形闘技場、公共浴場などの公共施設が想起される。また、精密に構築されたローマ水道、水道を架けるためのアーチ、建築物の天井を覆うヴォールト、ドーム、橋などの優れた土木・建築工学は、古代ローマの文化水準の高さを物語っている。", "qas": [ { "question": "古代ローマにおいて特に強力な影響を与えた美術は?", "id": "tr-145-00-000", "answers": [ { "text": "ギリシア美術", "answer_start": 161, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ほとんどひとつの彫刻のように捉えられ、自己完結的である古典期の建築は?", "id": "tr-145-00-001", "answers": [ { "text": "ギリシア建築", "answer_start": 187, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ローマ建築で、アーチは何を架けるためのものか。", "id": "tr-145-00-002", "answers": [ { "text": "水道", "answer_start": 389, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ローマ建築は紀元前6世紀頃から4世紀までに形成された古代ローマの建築である。4世紀以降、ローマ帝国の行政府と文化は東方に継承され、15世紀まで存続することになるが、この東ローマ帝国の建築はビザンティン建築として、ふつうローマ建築とは区別される。古代ローマは、紀元前1世紀に地中海を取り巻く広大な地域を勢力下においたが、共和政時代末期から帝政末期までの全時代を通じて、首都ローマと先進的な東方の属州、蛮族の割拠する北方の建築活動は一様ではなく、当然、その意匠も地域的な差異がたいへん大きかった。ただし、概してヘレニズム文化を擁する東方属州は伝統的要素の源泉であり続け、ローマ建築の影響を受けるのが遅く、一方で、ガリア、ヒスパニアなどの北方・西方属州は様々な点で首都の建築を素早く取り入れ、これを自由に発展させていく傾向にあったと言える。地域性があったとは言え、ローマに組み込まれ、または新たに建設された都市には、ローマ市民権とともにローマ式の社会制度、宗教、文化が導入され、これによってローマの属州は、着実にローマ化されていった。", "qas": [ { "question": "ローマ建築は紀元前6世紀頃から何世紀までに確立されたか。", "id": "tr-145-01-000", "answers": [ { "text": "4世紀", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "エトルリアから直接の影響を受けるようになった紀元前6世紀前後は、ローマ建築の黎明期にあたる。発掘された遺跡から、紀元前2世紀に至るまで神殿の構成にギリシア建築の要素はあまり見られず、また、紀元前2世紀以後にギリシア文明に直接触れた後も、ローマは単純にギリシア建築を導入したわけではなかった。", "qas": [ { "question": "ローマ建築の黎明期あたる紀元前6世紀前後に影響を与えたのはどこか。", "id": "tr-145-02-000", "answers": [ { "text": "エトルリア", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "紀元前4世紀まで、ローマ市は地中海文明からは完全に取り残された、どちらかというとあまり目立たない存在だった。ローマの最初の建築は、その歴史が示すように、エトルリアからの直接的な影響を受けている。初期のローマの神殿、例えば紀元前509年に奉献されたと伝えられるカピトリヌスの丘のユピテル・オプティムス・マキシムス、ユーノー、ミネルウァ神殿は、深い軒を内陣の前面に有し、内陣が三連の室から成るため、間口の広がった横長のほぼ正方形に近い平面であった。このように、低く横に間延びした構成はギリシア建築の神殿とは全く形態が異なる。三つの内陣は、都市の建設に際して加護を求める三柱の神、ユピテル、ユーノー、ミネルウァのためのもので、その加護は神殿から見渡すことのできる範囲に限られるため、この神殿は市(ウルブス)の最も高い丘の上に、基壇(ポディウム)を構築して建設された。ポディウムを設けて建築物に記念的な効果を持たせる試みはエトルリアにおいても比較的新しい発想で、その意識はギリシア建築の影響によるものと思われるが、基壇の形態そのものはギリシアのものではなく、エトルリアの神殿建築に由来している。このほか、紀元前5世紀初期にフォルム・ボアリウムに建設された、フォルトゥナ、マーテル・マートゥータ神殿も、発掘によってほぼ同じ構成を持つエトルリア式神殿であったことが分かっている。神殿以外の建築物について多くのことはわからないが、パラティヌスの丘に残る紀元前6世紀頃の貯水槽、および同時代の市壁などは、技術的面において、エトルリア建築のものとよく一致している。", "qas": [ { "question": "紀元前5世紀初期にフォルム・ボアリウムに建てられた神殿はフォルトゥナ神殿意外に何があるか。", "id": "tr-145-03-000", "answers": [ { "text": "マーテル・マートゥータ神殿", "answer_start": 531, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "マーテル・マートゥータ神殿は何式神殿か。", "id": "tr-145-03-001", "answers": [ { "text": "エトルリア式神殿", "answer_start": 561, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "しかし、紀元前4世紀になると、ローマは転換期を迎える。紀元前338年のラティウム戦争の勝利によって、ローマはカンパーニアにまで勢力を広げ、紀元前275年のエピロス戦争と紀元前247年の第一次ポエニ戦争の勝利によって、マグナ・グラエキア(イタリア半島南部とシチリア島)がローマの勢力下に置かれた。紀元前200年頃のこれらの地域は、シュラクサイ(現シラクサ)やアクラガス(現アグリジェント)、ポセイドニア(現パエストゥム)などのギリシア植民都市が割拠しており、そこはまさにヘレニズム文化の領域であった。ローマはさらに、ポエニ戦争の終結後、紀元前200年にマケドニア王国と緒戦を開き(第二次マケドニア戦争)、紀元前146年にコリントスを征服、マケドニア王国、アテナイを制圧してバルカン半島に進出した。文化的に高い水準を維持していた南イタリアやバルカン半島の征服と略奪は、ローマに多くのギリシア芸術をもたらし、これに反発する人々はいたものの、小スキピオやルキウス・アエミリウス・パウルス・マケドニクス、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクスをはじめとするローマ人に受け入れられ、圧倒的な影響力を及ぼすことになった。建築についても、紀元前2世紀末には、ヘルモドーロスのようなギリシア人建築家がユピテル・スタトル神殿を設計するなどの活動を行っている。ギリシア建築の影響は神殿建築に顕著に現れており、エトルリア時代の木とテラコッタから成る平たい構成の神殿ではなく、ポルトゥヌス神殿のような、大理石を用いた疑似周柱式の構成を持つ神殿が出現した。オーダーについても、擬似的なオーダーは一掃され、ヘラクレス・ウィクトール神殿に見られるような正確なギリシア式オーダーに変貌した。このようなギリシア芸術の影響は、ローマが衰退し、古代建築の規範が崩壊する4世紀頃まで、ローマ建築の中に受け継がれた。", "qas": [ { "question": "紀元前338年、ローマが勝った戦争は?", "id": "tr-145-04-000", "answers": [ { "text": "ラティウム戦争", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ローマがカンパーニアにまで勢力を広げるようになったきっかけは?", "id": "tr-145-04-001", "answers": [ { "text": "ラティウム戦争の勝利", "answer_start": 35, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ラティウム戦争、エピロス戦争、第一次ポエニ戦争の中、最初に勃発した戦争は?", "id": "tr-145-04-002", "answers": [ { "text": "ラティウム戦争", "answer_start": 35, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ローマが衰退し、古代建築の規範が崩壊する4世紀ごろまで、ローマ建築の中に受け継がれたものは?", "id": "tr-145-04-003", "answers": [ { "text": "ギリシア芸術の影響", "answer_start": 740, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "紀元前2世紀以後、急速に進んだ社会構造の複雑化に対応するため、ローマではギリシア起原の建築も独自に修正され、都市の中に組み込まれていった。特に南イタリアでは、典型的なローマ建築と思われている建物、すなわち闘技場、劇場、そして恐らく公共浴場とバシリカが作り出された。共和政時代の都市が残るポンペイの遺跡では、紀元前55年に建設された最初の恒久的なローマ劇場と闘技場が残っている。バシリカもローマ領内では初期のものに属する。このように、共和制時代のローマ建築は、社会構造に適した建築を新たに作り出したり、あるいはギリシア由来の建築物を機能に沿うべく作りかえたりしていた。", "qas": [ { "question": "紀元前2世紀以後、ローマがギリシア起原の建築を独自に修正したのは何を対応するためか。", "id": "tr-145-05-000", "answers": [ { "text": "社会構造の複雑化", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "紀元前55年に建てられた最初の恒久的なローマ劇場と闘技場が残っているところは?", "id": "tr-145-05-001", "answers": [ { "text": "ポンペイ", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "帝政初期のローマ建築にあって、皇帝ネロが造形に与えた影響はかなり大きい。彼はローマ芸術の保護者を自認しており、今日、皇帝浴場と呼ばれている建築の先駆けとなるネロ浴場、そしてドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設した。前者についてはほとんど何も分かっていないが、後者はローマ市街を焦土と化した64年の大火災の後に建設された、誇大妄想的な巨大宮殿である。当時ローマ市は非常に密集した状態であったにもかかわらず、エスクイリヌスの丘の斜面にテラスを造り、人工池(現在コロッセオがある場所)とこれを囲む庭園を見下ろす、すばらしい景観を眺めることができた。現在はトラヤヌス浴場の地下に残された一部のみが残る。八角形を半分にしたような中庭を挟んで、方形の中庭を囲む食堂などがある部分と八角堂のある部分に分かれ、おおまかな構成は当時の海辺に建設されたヴィッラそのものである。内部は大理石やモザイクを使った贅沢なもので、その装飾はルネサンス時代にグロテスクと呼ばれ、ラファエロ・サンティらに影響を与えた。しかし、この建物の真に革新的な部分は、ローマン・コンクリートによって構築されたヴォールト天井とドームが架けられた八角型の部屋である。八角堂の形式は他にみられないが、ドムス・アウレアではじめて採用されたとは考えにくいので、直接の原型があると考えられる。ドーム頂部からだけでなく、これに付随する部屋への採光を確保できるような造形は、オクタウィアヌスの時代から培われたローマン・コンクリートがあってはじめて成り立つもので、皇帝自らの邸宅に革新的な造形が採用されたことは、他の建築に新しい技術や意匠をもたらす契機となった。", "qas": [ { "question": "ローマ芸術の保護者だと自認し、今日、皇帝浴場と呼ばれている建築の先駆けとなるネロ浴場、そしてドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設した人物は?", "id": "tr-145-06-000", "answers": [ { "text": "皇帝ネロ", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "皇帝ネロによってローマ市街を焦土と化した64年の大火災の後に建設された、誇大妄想的な巨大宮殿は何か。", "id": "tr-145-06-001", "answers": [ { "text": "ドムス・アウレア", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ローマン・コンクリートによって構築されたヴォールト天井とドームが架けられた八角型の部屋という、真に革新的な部分を持っている建物の名前は?", "id": "tr-145-06-002", "answers": [ { "text": "ドムス・アウレア", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ネロの追放とそれに続く混乱期の後、実権を握ったウェスパシアヌス帝は、「ウェスパシアヌスの命令権に関する法律」が元老院議決により制定されたことで、ユリウス・クラウディウス朝に与えられた諸特権を確保した(これは以後フラウィウス家に引き継がれる)。これにより、彼は、火災や争乱によって破壊されたローマの再建に着手し、灰燼に帰したカピトリウムのユピテル大神殿を再建するとともに、平和が訪れたことを象徴する建築物として、テンプルム・パキスを建設した。この建築物は、三方を列柱廊で囲んだ庭園(ウェスパシアヌスのフォルム)の一辺を占め、ペディメントを持つ神殿の左右に図書館と美術館が付属していた。アテナイのハドリアヌスの図書館のモデルになった可能性も指摘される、ギリシア建築の伝統に則した巨大公共建築であった。同じくヴェスパシアヌスによって起工され、ネロのドムス・アウレアの人工池があった場所を埋め立てて建設されたフラウィウス円形闘技場(コロッセウム)は、こちらはローマの伝統的意匠に則した大建築物であった。コロッセウムの意匠はルネサンスの建築家たちによって繰りかえし手本とされたが、当時はタブラリウム、バシリカ・ユリア、マルケッルス劇場に連なる、どちらかというとすでに使い古されたデザインで、この建築物のすばらしさはむしろ工学的な部分にあると言える。基礎はかなり深く造られており、池の跡に建設されたにもかかわらず建物は全く沈下を起こしていない。下部構造は切り石による積石造で、上部構造は重量を軽減するためにコンクリートが用いられた。建設は4つの部分に分割施工され、材料に応じて入念に行程分けされた。その組織的かつ効率的な建設事業はたいへん高度なもので、ローマ建築の技術レベルの高さを物語る。", "qas": [ { "question": "「ウェスパシアヌスの命令権に関する法律」を制定したのは何?", "id": "tr-145-07-000", "answers": [ { "text": "元老院議決", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "火災や争乱によって破壊されたローマの再建に着手し、灰燼に帰したカピトリウムのユピテル大神殿を再建するとともに、平和が訪れたことを象徴する建築物として、テンプルム・パキスを建設した人物は?", "id": "tr-145-07-001", "answers": [ { "text": "ウェスパシアヌス帝", "answer_start": 23, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ウェスパシアヌス帝によって建築され、三方を列柱廊で囲んだ庭園(ウェスパシアヌスのフォルム)の一辺を占めて、ペディメントを持つ神殿の左右に図書館と美術館が付属している建物の名前は?", "id": "tr-145-07-002", "answers": [ { "text": "テンプルム・パキス", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "古代世界で最も偉大な皇帝と呼ばれるハドリアヌスは、トラヤヌスが獲得したパルティアなどの不安定な領土の維持を放棄し、国境線を画定したため、バル・コクバの乱を除いては、帝国は平和な時代を迎えた。ハドリアヌスによってもたらされた平和は、ローマ建築を成熟させ、帝国の威厳を体現するようなすばらしい建築を生み出すことになった。118年から128年にかけて建設されたパンテオンは、現在でも内部空間を実感できる、ローマ建築を代表する建築物である。真円の平面はたいへん単純なものだが、圧倒的な大きさの半球ドームと、その頂点から差し込む光によって、象徴的な空間となっている。あまりにも完成された空間であったことと、構造を改編することが容易だとは思われなかったことで、ローマが完全にキリスト教化した後もこの建物は破壊されず、608年、あるいは610年前後にキリスト教の聖堂として聖別された。この象徴性は、恐らくその設計のなかに隠された明快な比例関係に起因する。また、基礎は、地盤面下幅約7m、深さ約4.5mに渡って造成されたローマン・コンクリートの上に組積された大理石で、建物上部は凝灰岩、その上は軽石とローマン・コンクリートによって整形されている。構造体には意図的に空洞が穿たれ、建物の自重を軽減しており、工学的に見てもたいへん優れた設計が行われていることが分かる。", "qas": [ { "question": "古代世界で最も偉大な皇帝と呼ばれる人は誰?", "id": "tr-145-08-000", "answers": [ { "text": "ハドリアヌス", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "すでに五賢帝の時代からローマ帝国は衰退をはじめており、特に国境防衛力の弱体化は、マルクス・アントニヌス帝の時代に顕著となった。さらにセウェルス朝以降になると、東方ではサーサーン朝の、北方ではゲルマン民族の侵入が繰り返されるようになり、デキウス帝はゴート族との戦いで敗死し、ウァレリアヌス帝はサーサーン朝に破れて捕らえられるなどの危機的状況を迎えたため、軍事力の強化は帝国の第一の課題となった。パルミラ王国とガリア帝国を平定したアウレリアヌス帝は、北方蛮族の脅威に対して、失われて久しかったローマの市壁を復活させた。彼の時代には、ローマ市にそれほど差し迫った危険性はなかったものの、市壁が建設されたという事実そのものが、帝国の現状を象徴する出来事であった。", "qas": [ { "question": "パルミラ王国とガリア帝国を平定した人は誰?", "id": "tr-145-09-000", "answers": [ { "text": "アウレリアヌス帝", "answer_start": 213, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "このような事態をもたらした3世紀の危機の時代は、ディオクレティアヌス帝が四分治制(テトラルキア)と呼ばれる統治方法を構築して一時的に収束する。ディオクレティアヌスをはじめとする四人の皇帝は、それぞれ活動の拠点を地方都市に移したが、その結果、ローマ市は名目では首都であり続けたものの、実質的にローマの中心地ではなくなった。テトラルキアによって建設された四つの首都の構造は、断片的な情報しかないものの、ローマの構成を模倣したものであったことが知られている。ローマ市が、キルクス・マキシムスを見下ろす位置にドムス・アウグスターナ(皇帝宮殿)を配置しているように、これらの首都においても皇帝宮殿の側に大競馬場が建設された。これは後にローマ帝国の首都となるコンスタンティノポリスにおいても繰り返された。このうち、最も多くの遺跡を見ることができるのは、コンスタンティヌス1世の本拠地であったアウグスタ・トレウェノルム(現トリアー)で、コンスタンティヌスの浴場や、現在ではバシリカとして知られる皇帝謁見室などが残る。それ以外の都市の遺跡はほとんどないが、ローマン・コンクリートによる独創的な造形が採用されていたと考えられる。同時にまた、都市は強固な市壁によって防衛されており、その堅牢さはトレウェノルムのポルタ・ニグラから窺うことができる。テトラルキアの首都ではないが、305年に、ディオクレティアヌスが隠棲するため建設したスパラトゥム(現スプリト)の大邸宅も、やはり軍事的な側面が色濃く、高い城壁と見張り塔によって防衛された閉鎖性の強いものであった。内部の意匠はオーダーとアーチを繰り返し、コロッセウムなどの伝統的な手法を踏襲しているものの、持ち送りやエンタブラチュアにアーチを挿入する手法などは、シリア特有の意匠で構成されている。", "qas": [ { "question": "ディオクレティアヌス帝によって作られた統治方法の名前は?", "id": "tr-145-10-000", "answers": [ { "text": "四分治制", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "四分治制はローマ建築に新たな息吹を与えたが、このような体制はディオクレティアヌスの強力な手腕によって維持されたものであり、彼の死後、ローマ帝国は急速に安定を失った。混乱の中で、コンスタンティヌス帝がリキニウス帝に打ち勝ってローマ唯一人の皇帝の座に着いたとき、ローマの政治体制は分権行政でなければ成り立たないほどに肥大化・分散化していた。現実的選択として帝国は二つに分けられ、テオドシウス1世の死後、東はコンスタンティノポリスを、西はミラノ、後にラヴェンナを首都とする統治体制は統合されることはなかった。その結果、経済的に恵まれた東方では、ローマ建築は新たな建築の道を開き、西方世界は歴史の荒波のまっただ中に放り出され、衰退することになる。", "qas": [ { "question": "コンスタンティヌス帝とリキニウス帝のうち、勝利したのは誰?", "id": "tr-145-11-000", "answers": [ { "text": "コンスタンティヌス帝", "answer_start": 88, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ローマ建築の最終局面は、キリスト教と深い関わりがある。3世紀の危機の時代以降、すでにローマ帝国領では至る所でミトラ教、マニ教などの東方宗教が信者を獲得したが、最終的に成功を収めたのが、コンスタンティヌスに協力したクリストス教(キリスト教)であった。コンスタンティヌスがニコメディアで発した勅令(いわゆるミラノ勅令)によってキリスト教が容認されると、ローマ帝国の領内ではいくつもの大教会が建設された。当時のキリスト教徒は、ローマ建築が培ってきた様々なプラン、施工方法、技術から、あらゆる要素を任意に選択することができたが、彼らは教会建築として、ローマの世俗建築であったバシリカを多く採用した。ただし、これらの教会堂にヴォールト天井のものは存在しない。キリスト教徒にとって、ローマのヴォールト構造は世俗的で物質的なものだったらしく、ヴォールトはかなり後の時代になってから採用された。装飾についてもフレスコ画は使われず、光を反射させるモザイクによって壁の量塊を極力非物質化させる努力が払われた。初期キリスト教建築は、東ローマ帝国の潤沢な資金と継承された高度な技術の中で成熟していき、6世紀にハギア・ソフィア大聖堂として、その最も完成された姿を現すことになる。", "qas": [ { "question": "3世紀の危機の時代以降、ローマ帝国領で最終的に定着した宗教は何?", "id": "tr-145-12-000", "answers": [ { "text": "クリストス教", "answer_start": 106, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ミラノ勅令を発した人は誰?", "id": "tr-145-12-001", "answers": [ { "text": "コンスタンティヌス", "answer_start": 124, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ローマ建築の研究は、建築が美術のひとつの分野として考えられるようになった、15世紀のルネサンス時代に始まる。ルネサンスの芸術活動は、古代美術こそが真に美しいとする観点に立脚するものであるが、ジョルジョ・ヴァザーリが「ローマ人についていえばノ(中略)ノ彼らはあたかもローマの様式をあらゆる様式のうちで最高のもの、否むしろ最も崇高なものにしようとして領土内のあらゆる地域から美しいものを探し出し、それをひとつの様式にまとめ上げたといえるだろう」と述べているように、特に古代ローマ美術こそが古代美術の完成と考えられていた。また、この時代にギリシア建築は全く知られておらず、古代の建築とは、すなわちローマ建築であった。ルネサンス最初の建築論であり、以降の古典主義建築に大きな影響を与えたアルベルティの理論書『DeReaedificatoria』(1450年頃に著され、1485年出版)は、古代ローマの建築家マルクス・ウィトルウィウス・ポリオが残した、最古の建築書『DeArchitectura』を基本として書かれたものであるが、この建築書はアルベルティ以降も、ラファエッロやフラ・ジョコンド、アンドレーア・パッラーディオらを通じてその解析が続けられた。一方で、古代ローマ時代の遺構の実測調査や、古代文献の研究も進められたが、当時の研究目的は、あくまで建築設計における問題を解決するためのもので、ドナト・ブラマンテやラファエッロといった盛期ルネサンスの芸術家、そしてミケランジェロ、ジュリオ・ロマーノたちマニエリストの活動が物語るように、その建築活動はローマ建築に様々な意匠を見出し、これを設計に導入して新しい意匠を開拓すること、計画された建築物の価値を正当化することにあったと言える。このため、今日では一般的となっているローマ美術の様式上の区分について、ルネサンスの芸術家たちはほとんど意識していない。", "qas": [ { "question": "ローマ建築の研究が始まったのは何世紀?", "id": "tr-145-13-000", "answers": [ { "text": "15世紀", "answer_start": 37, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『DeReaedificatoria』と『DeArchitectura』、どちらがより古い本なのか。", "id": "tr-145-13-001", "answers": [ { "text": "『DeArchitectura』", "answer_start": 427, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "マルクス・ウィトルウィウス・ポリオ、アルベルティ、ドナト・ブラマンテ、ラファエッロのうち、ルネサンス時代の人でないものは?", "id": "tr-145-13-002", "answers": [ { "text": "マルクス・ウィトルウィウス・ポリオ", "answer_start": 399, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "現在、古代ローマは、政治学・法学・経済学など、様々な観点から研究が行われており、建築についても、都市遺跡の発掘や碑文の解析によってある程度の情報が得られている。しかし、木材による架構や建築装飾など、考古学的に解明できない部分は多く、ローマ人が建築の美学をどのようにとらえていたかという根本的な問題ですら、ウィトルウィウスの『建築について』がほとんど唯一の情報源である。それも、ローマ建築においてどのような位置づけであったのかは分かっておらず、例えば、ウィトルウィウスの言う意味での建築家(建築家と呼ばれる職業があったことは、碑文などから明らかである)という職が成立していたのか、成立したとすればそれは何時のことか、といったことは明らかでない。", "qas": [ { "question": "ローマ人が建築の美学をどのようにとらえていたかという根本的な問題に対して唯一の資料となる『建築について』は誰が書いたか。", "id": "tr-145-14-000", "answers": [ { "text": "ウィトルウィウス", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] } ] }, { "title": "津市図書館", "paragraphs": [ { "context": "津市図書館(つしとしょかん)は、三重県津市の公立図書館である。\n津市は2006年1月1日に10市町村が合併して発足し、これらの市町村が設置していた9つの図書館と2つの図書室を統合して発足した。", "qas": [ { "question": "津市図書館はいつ発足したの?", "id": "tr-146-00-000", "answers": [ { "text": "2006年1月1日", "answer_start": 35, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "現行の津市域には1911年(明治44年)に安濃郡庁を利用して安濃郡立図書館が4月に、一志郡久居町に一志郡教育会付属図書館が10月に相次いで開館しているが、これらは津市図書館の前身とはなっていない。\n第二次世界大戦を前後して三重県では数多くの市町村立図書館が設置されてきたが、1937年(昭和12年)に三重県立図書館が仮開館していた津市と周辺町村では市町村立図書館の設置の動きは鈍く、現行の津市図書館につながるもので最も早く開館したのは、美杉村が1972年(昭和47年)10月に設置した図書室であった。\nその後、1987年(昭和62年)から2004年(平成16年)にかけて、合併前の10市町村すべてに市町村立の図書館・図書室が開設された。", "qas": [ { "question": "安濃郡立図書館と一志郡教育会付属図書館はどちらが先に開館したの?", "id": "tr-146-01-000", "answers": [ { "text": "安濃郡立図書館", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "一志郡教育会付属図書館と安濃郡立図書館は共に何年に開館したの?", "id": "tr-146-01-001", "answers": [ { "text": "1911年", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "2006年(平成18年)1月1日、旧津市、久居市、安芸郡河芸町・芸濃町・安濃町・美里村、一志郡香良洲町・一志町・白山町・美杉村が合併して新しい津市が発足、これらの市町村が設置していた図書館・図書室を引き継いで津市図書館が発足した。\n2007年(平成19年)4月1日には「津市図書館運営に関する基本方針」が公表され、市内の9館2室を一体的に運営する新たな方針が示された。\n2015年(平成27年)2月27日から3月25日まで、津図書館・河芸図書館・うぐいす図書館が一斉に「津ぎょうざ」をテーマにした展示会を開催し、津ぎょうざの実物大レプリカや津ぎょうざのキャラクター「つつみん」の展示、三重県内のご当地グルメによるまちおこし団体や地域活性化に関する書籍の紹介などを行った。", "qas": [ { "question": "合併による新しい津市は何年に誕生したの?", "id": "tr-146-02-000", "answers": [ { "text": "2006年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "津ぎょうざのキャラクター名は何?", "id": "tr-146-02-001", "answers": [ { "text": "「つつみん」", "answer_start": 282, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "津市津図書館(つしつとしょかん)は、三重県津市西丸之内23番1号の津リージョンプラザ1・2階にある。\n近鉄名古屋線津新町駅から徒歩9分のところにある。\n分室として、美杉町八知に美杉図書室を置く。\n「津市図書館の設置及び管理に関する条例」上は他の図書館と同じ扱いであるが、図書館予算が他館の10倍以上与えられ、館長、図書事務長、図書館管理担当・奉仕担当と内部で業務分掌があるなど、津市の中心的な図書館として機能する。\n開館時間は9時から19時(土日祝日は17時まで)である。\n2014年(平成26年)度時点の視聴覚資料数は8,334点である。\n毎週木曜日と土曜日に幼児・小学生対象の「おはなし会」、第2・4木曜日に乳児と保護者対象の「ちいさなおともだちのおはなしかい」を開催する。\nまた各種講座・講演会を視聴覚室で開いている。\n2015年(平成27年)現在、「マザーグース」、「おはなしのたね」、「ききゅう船」、「ポップコーン」の4団体がストーリーテリングのボランティアを行っている。", "qas": [ { "question": "津市津図書館は近鉄名古屋線津新町駅から歩いて何分のところにあるの?", "id": "tr-146-03-000", "answers": [ { "text": "9分", "answer_start": 65, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "津市津図書館の平日の閉館時間は何時ですか?", "id": "tr-146-03-001", "answers": [ { "text": "19時", "answer_start": 217, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2015年に読み聞かせのボランティア活動を行っていた団体はいくつでしたか?", "id": "tr-146-03-002", "answers": [ { "text": "4団体", "answer_start": 414, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "津市津図書館の分室はどこに置かれていますか?", "id": "tr-146-03-003", "answers": [ { "text": "美杉町八知", "answer_start": 82, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1909年(明治42年)に安濃郡建部村・塔世村が津市に編入された際に、報償金で図書館を設置することを議決し、翌1910年(明治43年)に安濃郡会で郡立図書館の設立を議論、1911年(明治44年)4月1日に新町大字古河にあった安濃郡庁内に安濃郡立図書館が開館した。\n1912年(明治45年/大正元年)時点の蔵書数は866冊(うち洋書2冊)、閲覧者数1,020人で、1921年(大正10年)には蔵書数2,317冊、閲覧者数1,470冊に増えた。\nしかし郡制の廃止により、1922年(大正11年)に安濃郡農会図書館に移行した。\nその後の動向は不明で、1937年(昭和12年)度末の三重県内の図書館一覧には安濃郡農会図書館は掲載されていない。", "qas": [ { "question": "蔵書数が多かったのは1912年と1921年のどちらですか?", "id": "tr-146-04-000", "answers": [ { "text": "1921年", "answer_start": 181, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "閲覧者数が少なかったのは1912年と1921年のどちらですか?", "id": "tr-146-04-001", "answers": [ { "text": "1912年", "answer_start": 132, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "安濃郡立図書館は1922年に何に移行したの?", "id": "tr-146-04-002", "answers": [ { "text": "安濃郡農会図書館", "answer_start": 246, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1960年代当時の津市には、中央公民館、一身田公民館、白塚公民館の3つの公民館があり、一身田公民館には図書室が設けられていた。\n一身田公民館図書室は1966年(昭和41年)時点で1,600冊を所蔵していたが、図書購入費が不足していたため、三重県立図書館の貸出文庫から毎月図書を借り受けて不足分を補っていた。\n白塚公民館に図書室はなかったが、同時点で325冊を所蔵していた。\n当時の三重県立図書館は事実上、津市の市立図書館の役割を代行し、津市も年間15万円を県立図書館に納めていた。\nまた津市には県立図書館の貸出文庫を積極的に利用する20の熱心な読書グループがあり、図書館員との交流の中で市立図書館の必要性を認識し、津市立図書館設立実行委員会を立ち上げて市立図書館の設置を目指すようになった。", "qas": [ { "question": "1960年代当時に唯一図書室があったのは白塚公民館、一身田公民館、中央公民館の中でどれですか?", "id": "tr-146-05-000", "answers": [ { "text": "一身田公民館", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1966年時点で白塚公民館は何冊を所蔵していたの?", "id": "tr-146-05-001", "answers": [ { "text": "325冊", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "津市立図書館設立実行委員会(以下、「実行委員会」)は、毎月例会を開いて図書館整備について研究し、市立図書館設置を求める5,600人の市民の署名を集めて1974年(昭和49年)12月2日に津市議会に提出した。\n市議会はこれを採択し、実行委員会は四日市市立図書館・名古屋市の瑞穂図書館・名東図書館といった先進図書館の見学を通して知見を高め、自作のジャンボ絵本を公園などで読み聞かせすることで一般市民の図書館への関心の高揚を図り、市民に図書の寄贈を求め、街頭に「バクの箱」という名の寄贈図書受け入れ箱を設置した。\nこの活動はNHKでたびたび放映され、新聞の地方版で大きく取り上げられたことから多くの市民の知ることとなり、市議会は1975年(昭和50年)3月議会で、同年の予算に図書館設置の調査費40万円と図書費100万円を計上した。\n県立図書館があるのに今さら市立図書館を造る必要があるのか、という意見を持つ市民も中にはいたが、実行委員会では都道府県立図書館と市立図書館の役割の違いなどを丁寧に説き、必要性を訴えた。", "qas": [ { "question": "街頭に設置された寄贈図書受け入れ箱の名前は何でしたか?", "id": "tr-146-06-000", "answers": [ { "text": "「バクの箱」", "answer_start": 227, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1975年の予算として計上された金額が多かったのは調査費と図書費のどちらですか?", "id": "tr-146-06-001", "answers": [ { "text": "図書費", "answer_start": 349, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "購入された図書は津市中央公民館に配架され、1975年(昭和50年)8月2日に中央公民館は巡回文庫を開始した。\n1976年(昭和51年)には三重国体事務局跡を巡回文庫室に充当し、中央公民館から図書を移動した。\n当時の津市は市役所の建設を控えていたことから、巡回文庫の利用状況を見ながら図書館設置の是非を検討した。\n津市による巡回文庫の開始により、県立図書館は移動図書館の津市内での運行を取りやめ、県内他地域に移した。\n巡回文庫により、津市民による県立図書館の貸出文庫の利用は減少したものの、巡回文庫で読書習慣を身に付けた児童が直接県立図書館へ本を借りに行くようになった。\n1981年(昭和56年)には津市が移動図書館「ちどり号」を導入した。", "qas": [ { "question": "中央公民館が巡回文庫を始めた年はいつでしたか?", "id": "tr-146-07-000", "answers": [ { "text": "1975年", "answer_start": 21, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1981年に取り入れた津市の移動図書館の名前は何ですか?", "id": "tr-146-07-001", "answers": [ { "text": "「ちどり号」", "answer_start": 307, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "上述のように図書館設置の下準備を整えた津市は、1987年(昭和62年)8月に約8万冊を保有する津市図書館を、同年5月に竣工した津リージョンプラザ内に開館した。\n開館当時の津市図書館は当時の津市民だけでなく、周辺市町村の住民も利用対象とする広域図書館としての役割を担っていた。\nところが津市図書館の後を追うように周辺市町村でも市町村立図書館の開館が相次いだため、軌道修正が検討されるようになっていった。\n1994年(平成6年)度の蔵書数は229,000冊、貸出冊数は74万冊であった。\nこれまでは三重県立図書館が広明町にあり津市図書館とは近接し、協力関係にあったが、1994年(平成6年)10月に県立図書館は郊外の三重県総合文化センターへ移転したため、津市図書館は独立運営を模索することとなった。\nその結果、高度な専門書の収集は県立図書館に任せ、津図書館では日常的に利用する図書の収集に徹することとした。\nまた津市内の学校図書館の司書の研修も担っている。", "qas": [ { "question": "津市図書館の1994年度の蔵書数は何冊でしたか?", "id": "tr-146-08-000", "answers": [ { "text": "229,000冊", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "貴重書として、有造館文庫4,614点、橋本文庫9,411点、絵葉書6,992点、井田文庫371点、稲垣家文庫2,537点、河邊家文書605点を所有する。\nこれらの貴重図書は2階のレファレンス室で閲覧することができ、月替わりで1階と2階にあるガラスケースで展示を行っている。\n「有造館文庫」は津藩の10代藩主・藤堂高兌が設立した藩校「有造館」の蔵書と同館発行書から成り、津市図書館の開館時に三重県立図書館から移管したものである。\n「橋本文庫」は津市で味噌や醤油の醸造業を営み、津商工会議所会頭や津市議会議長を務め津市の発展に貢献してきた橋本家から寄贈された近世・近代の資料群で、本居宣長・春庭・大平父子の著書などを含んでいる。\n「絵葉書」は橋本家が所有していたものを中心に、他の人からの寄贈品も含まれる。\n「井田文庫」は、旧神戸村出身で、代々医師を務めてきた井田家から1992年(平成4年)5月に寄贈されたもので、天文学関係の図書と江戸時代の天体観測器具を中心に医学・易学・和算・郷土資料・世界地図を含む資料群である。\n「稲垣家文庫」は伊勢商人であった稲垣定穀の著書と蔵書、「河邊家文書」は庄屋や戸長を歴任した河邊家の保有していた公的・私的な文書群である。", "qas": [ { "question": "貴重書の中で最も数が多いものは何?", "id": "tr-146-09-000", "answers": [ { "text": "橋本文庫", "answer_start": 19, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "貴重書の中で最も数が少ないものは何?", "id": "tr-146-09-001", "answers": [ { "text": "井田文庫", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "有造館文庫と絵葉書はどちらの方が数が多いですか?", "id": "tr-146-09-002", "answers": [ { "text": "絵葉書", "answer_start": 30, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "「稲垣家文庫」の稲垣とは誰のことですか?", "id": "tr-146-09-003", "answers": [ { "text": "稲垣定穀", "answer_start": 475, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "津図書館の周辺には、津市役所や津地方裁判所などの行政機関、津城跡とお城公園、高山神社などの史跡がある。\n近鉄名古屋線津新町駅から徒歩9分のところにある。\n津リージョンプラザに隣接して津市役所の立体駐車場があり、456台駐車可能である。\n津リージョンプラザでイベントが開催されると立体駐車場は混雑する。", "qas": [ { "question": "津図書館の近所にある神社は何ですか?", "id": "tr-146-10-000", "answers": [ { "text": "高山神社", "answer_start": 38, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "津市役所の立体駐車場は何台まで駐車出来ますか?", "id": "tr-146-10-001", "answers": [ { "text": "456台", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "津市津図書館美杉図書室(つしつとしょかんみすぎとしょしつ)は、津市美杉町八知5580番地2の津市美杉総合文化センター1階にある。\nJR名松線伊勢八知駅から徒歩1分のところにある。\n床面積は48m2、職員は3人で、2015年(平成27年)度の図書室予算は686千円であった。\n2014年(平成26年)度の蔵書数は5,777冊で視聴覚資料はなく、貸出冊数は3,798冊であった。\nISILはJP-1007235。\n開館時間は9時から17時までである。\n春夏秋冬の4回、おはなし会を開催している。\n2015年(平成27年)現在、ボランティア団体「ひまわり」が読み聞かせを行っている。", "qas": [ { "question": "津市津図書館美杉図書室の最寄り駅はどこ?", "id": "tr-146-11-000", "answers": [ { "text": "伊勢八知駅", "answer_start": 70, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "津市津図書館美杉図書室は何時に閉まりますか?", "id": "tr-146-11-001", "answers": [ { "text": "17時", "answer_start": 214, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "津市津図書館美杉図書室の床面積はどれくらいですか?", "id": "tr-146-11-002", "answers": [ { "text": "48m2", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "津市津図書館美杉図書室は伊勢八知駅から歩いて何分ですか?", "id": "tr-146-11-003", "answers": [ { "text": "1分", "answer_start": 79, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1972年(昭和47年)10月に鉄筋コンクリート構造3階建ての美杉村総合開発センター(後に津市美杉総合開発センター)が落成し、その中に図書室が設けられた。\n同年11月に図書室内に公民館事務局が移転した。\n1976年(昭和51年)4月からは「移動公民館」と称して美杉村内を巡回して図書の貸し出しと社会教育の相談に応じた。\n2014年(平成26年)3月31日、津市美杉総合開発センターと津市美杉庁舎を統合して津市美杉総合文化センターが新築開館し、図書室もそこへ移転した。", "qas": [ { "question": "図書室が最初に設けられたのは何という施設ですか?", "id": "tr-146-12-000", "answers": [ { "text": "美杉村総合開発センター", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "美杉村総合開発センターからどこに図書室は移転したの?", "id": "tr-146-12-001", "answers": [ { "text": "津市美杉総合文化センター", "answer_start": 202, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "津市久居ふるさと文学館(つしひさいふるさとぶんがくかん)は、三重県津市久居東鷹跡町2番地3にある。\n近鉄名古屋線久居駅から徒歩13分のところにある。\n分室として、久居新町にポルタひさいふれあい図書室を置く。\n延床面積・職員数・図書館費・蔵書数・貸出冊数のいずれも津図書館に次ぐ規模を有する。\n開館時間は9時から18時(土日祝日は17時まで)である。\n2014年(平成26年)度時点で視聴覚資料は所蔵していない。\n第1・3土曜日に「おはなし会」、第4土曜日に本の紹介をする「ブックトーク」、第2・4水曜日に絵本を読み聞かせする「おはなしの森」を開催する。\n2014年度は、大人のための音読会と楽しい読み聞かせ講座を視聴覚室で開いた。\n2015年(平成27年)現在、「久居おはなしの会かたつむり」、「わらべ読み聞かせ部会」、「どんぐり」、「ポップコーン」の3団体が読み聞かせボランティアを、「わらべ朗読部会」は朗読のボランティアに加え、文学作品の研究を行っている。", "qas": [ { "question": "津市久居ふるさと文学館の所在地はどこ?", "id": "tr-146-13-000", "answers": [ { "text": "三重県津市久居東鷹跡町2番地3", "answer_start": 30, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "津市久居ふるさと文学館は久居駅から歩いて何分で到着しますか?", "id": "tr-146-13-001", "answers": [ { "text": "13分", "answer_start": 63, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "津市久居ふるさと文学館は何時から開いてますか?", "id": "tr-146-13-002", "answers": [ { "text": "9時", "answer_start": 151, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「おはなしの森」はいつ開催されているの?", "id": "tr-146-13-003", "answers": [ { "text": "第2・4水曜日", "answer_start": 244, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1910年(明治43年)11月に時の皇太子(後の大正天皇)が一志郡に立ち寄ったことを記念して一志郡教育会が図書館建設を提案し、5,713円の寄付金と738人の建設労働への奉仕を得て、1911年(明治44年)4月に久居町の一志郡役所の隣へ建設を開始、同年10月25日に開館式を挙行した。\n図書館は一志郡教育会から一志郡へ引き渡され、一志郡立図書館を名乗った。\n同館は三重県で最初の独立した建物を有する図書館となり、当時としては珍しく土足で入館でき、各室を自由に往来できたことから利用者に好評であった。\n1913年(大正2年)時点で4,741冊(うち洋書119冊)を所蔵し、23,654人の閲覧者が訪れた。\n1922年(大正11年)の郡制廃止により一志郡教育会の運営に変わり、一志郡教育会附属図書館に改称、1926年(大正15年/昭和元年)時点では蔵書数4,132冊、閲覧者数14,258人で、予算規模は四日市市立図書館に次ぐ三重県内第2位であった。\nその後、第二次世界大戦の混乱で活動が休止し、三重県内に多く存在した他の図書館と同様に戦後復興することなく姿を消した。", "qas": [ { "question": "同館の蔵書数が多かったのは1913年と1926年のどちらですか?", "id": "tr-146-14-000", "answers": [ { "text": "1913年", "answer_start": 250, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "同館の閲覧者数が多かったのは1913年と1926年のどちらですか?", "id": "tr-146-14-001", "answers": [ { "text": "1913年", "answer_start": 250, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "同館の最初の名称は何でしたか?", "id": "tr-146-14-002", "answers": [ { "text": "一志郡立図書館", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "同館が2番目に名乗った名称とは何ですか?", "id": "tr-146-14-003", "answers": [ { "text": "一志郡教育会附属図書館", "answer_start": 336, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "旧久居市は1977年(昭和52年)に久居市中央公民館を建設し、その中に郷土資料室と併設した図書室を設け、図書館業務を開始した。\n図書室はわずか100m2であった。\n清水正明の『三重県の図書館』では「公民館図書室は次第に手狭となり、市民の間で図書館を求める声が高まった」旨が書かれているが、図書館準備室の担当者は市民の間から図書館設置を求める運動は特になく、建設準備中に意見を募集しても20件ほどしか集まらなかったと述べている。\n1991年(平成3年)、図書館の基本設計がコンペによって決定し、各地の図書館を視察して開館後の運営方針が練られていった。", "qas": [ { "question": "『三重県の図書館』の著者は誰ですか?", "id": "tr-146-15-000", "answers": [ { "text": "清水正明", "answer_start": 82, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "図書館の建設工事は1991年9月20日に始まり、1992年12月12日に完成した。\n総工費は7億8280万円、備品費は3850万円であった。\n1993年(平成5年)に久居市図書館(愛称は「久居市ふるさと文学館」)が開館した。\n図書館は独立した建物で、鉄筋コンクリート構造3階建てである。\n開架室は機能重視のワンフロアで奇をてらわずにシンプルな構造であった。\nまた車椅子でも利用しやすい間隔が広く背の低い書架を採用し、視覚障害者誘導用ブロック(点字ブロック)や多機能トイレの設置など、障害のある人にも利用しやすい施設として整備された。\n図書館の開館と同時に公民館図書室は閉鎖された。", "qas": [ { "question": "久居市図書館の総工費はいくらでしたか?", "id": "tr-146-16-000", "answers": [ { "text": "7億8280万円", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "久居市図書館の建設工事はいつから行われましたか?", "id": "tr-146-16-001", "answers": [ { "text": "1991年9月20日", "answer_start": 9, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "久居市図書館は何階建て?", "id": "tr-146-16-002", "answers": [ { "text": "3階建て", "answer_start": 135, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "久居市図書館の通称は何?", "id": "tr-146-16-003", "answers": [ { "text": "「久居市ふるさと文学館」", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "久居市図書館は1994年(平成6年)から4年連続で人口3万人以上4万人未満の市に立地する図書館の中で貸出冊数が日本一となった。\n市民の利用登録率47%、貸出冊数約25万冊で市民1人当たり6冊に相当した。\n当時の司書は朝日新聞の取材に対し「特別なことはしていない」と回答している。\nこれは、開館前の図書館視察の結果、「できうることをごく当たり前にやる」という方針で運営することが決まったからである。\nまた、図書館の建設に際して多くの図書館に視察を受け入れてもらった恩返しとして、視察要望にはできる限り応じるようにし、利用者に対してはサービス業に徹して丁寧な接客を心がけた。\n2000年(平成12年)12月1日、図書を読み上げる機械を導入した。", "qas": [ { "question": "久居市図書館の市民による利用登録率は何%ですか?", "id": "tr-146-17-000", "answers": [ { "text": "47%", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "貴重書として、信藤家大庄屋文書9,214点と箕浦家文書55点を所有する。\n「信藤家大庄屋文書」は久居藩統治下の本村組で大庄屋を務めた信藤家の11代目から寄贈された文書群で、ほとんどが江戸時代から明治時代の庄屋関係の資料である。\n久居藩の藩政期の様子が分かるほぼ唯一の資料群として貴重であり、詩文学者に関する資料も少量含まれる。\n「箕浦家文書」は久居藩家老の箕浦家の子孫から寄贈されたもので、久居城内の図を含む文書群である。", "qas": [ { "question": "信藤家大庄屋文書と箕浦家文書はどちらの方が数が多いですか?", "id": "tr-146-18-000", "answers": [ { "text": "信藤家大庄屋文書", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "ヒムヤル王国", "paragraphs": [ { "context": "ヒムヤル王国とは、紀元前115年頃から525年にかけてアラビア半島南部のヤマン(イエメン)に存在していた国家である。首都はザファールである。", "qas": [ { "question": "ヒムヤル王国の首都は?", "id": "tr-147-00-000", "answers": [ { "text": "ザファール", "answer_start": 61, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒムヤル王国とは、どこに存在した国ですか?", "id": "tr-147-00-001", "answers": [ { "text": "アラビア半島南部のヤマン", "answer_start": 27, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "王国の歴史は成立からエチオピアのアクスム王国の攻撃を受ける4世紀頃までの第一期、525年に滅亡するまでの第二期に分けられる。南アラビア史において主導的な役割を果たした国家であり、同時期に南アラビアに存在していたサバア王国、ハドラマウト王国と覇権を争った。523年にユダヤ教徒の国王ズー・ヌワースがナジュラーンに居住するキリスト教徒を弾圧した事件の後、ヒムヤル王国はアクスム王国、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)、イランのサーサーン朝の介入を受けて滅亡する。ただし、525年のアクスム王親征軍によりズー・ヌワースが破滅すると、アクスム王によってキリスト教徒のスムヤファ・アシュワァが王位に封じられている。その後にアクスム軍の将軍がクーデターで王位を簒奪している。以上のことから、真の滅亡は570年代とみられる。", "qas": [ { "question": "ヒムヤル王国の第一期には、どの国から攻撃を受けたか?", "id": "tr-147-01-000", "answers": [ { "text": "アクスム王国", "answer_start": 16, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒムヤル王国と南アラビアの派遣を巡って争ったのは、サバア王国とどの国か?", "id": "tr-147-01-001", "answers": [ { "text": "ハドラマウト王国", "answer_start": 111, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヒムヤル王国の滅亡に直接関わっているのは、イランのサーサーン朝と東ローマ帝国のほかに、どの国か?", "id": "tr-147-01-002", "answers": [ { "text": "アクスム王国", "answer_start": 182, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヒムヤル王国の滅亡は、何年代と見られるの?", "id": "tr-147-01-003", "answers": [ { "text": "570年代", "answer_start": 341, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒムヤル王国がアクスム王国と東ローマ帝国、イランのサーサーン朝の介入を受けた時の王は、誰ですか?", "id": "tr-147-01-004", "answers": [ { "text": "ズー・ヌワース", "answer_start": 140, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "紀元前2世紀、アデン東部を支配するカタバーン王国から離脱した諸部族が、イエメン南部の高原地帯にヒムヤル部族連合を形成する。ギリシャ世界においてヒムヤルの諸部族はホメリタエ(Homeritae)と呼ばれ、博物学者の大プリニウスは「最も多数の種族」と言及した。ヒムヤル族はサバア人、ミナエア(ミネア、ミナー)人の文化と商業を継承し、同じ言語を話していたと考えられている。アラブの系譜学において、ヒムヤル族の祖であるヒムヤルは、南アラブの祖であるカフターンの玄孫に位置づけられている。", "qas": [ { "question": "ヒムヤル部族連合とは、どの国から離脱した人々が形成したの?", "id": "tr-147-02-000", "answers": [ { "text": "カタバーン王国", "answer_start": 17, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒムヤル族は、ミナエア人とどの人々の文化と商業を継承しましたか?", "id": "tr-147-02-001", "answers": [ { "text": "サバア人", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミナエア人と同じ言語を使っていたのは、ヒムヤル族のほかに、どの人々か?", "id": "tr-147-02-002", "answers": [ { "text": "サバア人", "answer_start": 134, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ギリシャ世界において、ヒムヤル族は何と呼ばれたか?", "id": "tr-147-02-003", "answers": [ { "text": "ホメリタエ", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "インド洋と地中海を結ぶ交易ルートが「香料の道」と呼ばれる陸路から紅海を経由する海路に移ると、紅海沿岸の港を支配するヒムヤル族はその恩恵を受け、紀元前1世紀から1世紀にかけて急速に発展する。紀元前25年、ローマの将軍アエリウス・ガルスの率いる遠征軍が富を求めて南アラビアに侵入する事件が起きる。遠征軍は酷暑に屈して撤退し、サバの首都マアリブに到達することはできなかった。", "qas": [ { "question": "ヒムヤル族が急速に発展したのは、いつからいつにかけてのことなの?", "id": "tr-147-03-000", "answers": [ { "text": "紀元前1世紀から1世紀", "answer_start": 71, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "インド洋と地中海を結ぶ交易ルートがどこを経由するようになり、それがヒムヤル族の急速な発展に繋がりましたか?", "id": "tr-147-03-001", "answers": [ { "text": "紅海", "answer_start": 32, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "紀元前25年に南アラビア侵入する遠征軍は、誰が率いたか?", "id": "tr-147-03-002", "answers": [ { "text": "アエリウス・ガルス", "answer_start": 107, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アエリウス・ガルスが率いる遠征軍がマアリブに到達できず撤退したのは、何によることか?", "id": "tr-147-03-003", "answers": [ { "text": "酷暑", "answer_start": 150, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1世紀にヒムヤルはサバアと連合王国を形成し、連合国家はサバ・ヒムヤル王国と称された。その後両国は再び敵対し、2世紀末にヒムヤルの首都がザファールに移される。ザファールが首都とされた理由について、マァリブを経由する乳香交易路の衰退、インド洋交易に適したザファールの立地が一因であったと推測されている。ザファールを統治したヒムヤル王カリバ・イル・ワタル(カリバエル、チャリバエール)は、ローマ帝国と交流を持ったと伝えられている。", "qas": [ { "question": "サバ・ヒムヤル王国とは、ヒムヤルとどの国の連合により誕生したの?", "id": "tr-147-04-000", "answers": [ { "text": "サバア", "answer_start": 9, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヒムヤルの首都がザファールに移されたのは、どこにおける貿易に適していたからでありますか?", "id": "tr-147-04-001", "answers": [ { "text": "インド洋", "answer_start": 115, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ヒムヤルの首都がザファールに移された理由に関しては、何の衰退の影響もあったか?", "id": "tr-147-04-002", "answers": [ { "text": "マァリブを経由する乳香交易路", "answer_start": 97, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ザファールがヒムヤルの首都となったのは、いつのことか?", "id": "tr-147-04-003", "answers": [ { "text": "2世紀末", "answer_start": 54, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2世紀末、ローマ帝国の衰退に乗じて勢力を拡大しつつあるエチオピアのアクスム王国が、紅海を越えて南アラビアに進出する。アクスム王自らがアラビア半島に遠征し、従来ヒムヤルとサバの領有下にあったアラビア半島南西部の沿岸地域、高原地帯の一部がアクスムの支配下に置かれた。アラビアに進出したアクスムは当初サバ、ハドラマウトと同盟してヒムヤルに敵対していたが、ヒムヤルが内紛で弱体化し、サバの勢力が強まると、ヒムヤルと同盟してサバに対抗した。3世紀末にヒムヤル王シャンマル・ユハルイシュはサバ、ハドラマウトを併合して南アラビアの統一に成功する。だが、ヒムヤルの統一事業の達成にはアクスムの支援が大きな役割を果たしていたとする見解も存在する。", "qas": [ { "question": "2世紀末、勢力の拡大に伴い、紅海を越えて南アラビアまで進出しようとしたのは、どの国なの?", "id": "tr-147-05-000", "answers": [ { "text": "アクスム王国", "answer_start": 33, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2世紀末、ローマ帝国の衰退に乗じて勢力を拡大した国は、どの国ですか?", "id": "tr-147-05-001", "answers": [ { "text": "アクスム王国", "answer_start": 33, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アクスムがアラビアに進出したばかりの頃、ヒムヤルとサバのうち、どの国の勢力がより強かったか?", "id": "tr-147-05-002", "answers": [ { "text": "ヒムヤル", "answer_start": 161, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ヒムヤルとサバ、ハドラマウトのうち、南アラビアの統一を果たしたのは、どの国か?", "id": "tr-147-05-003", "answers": [ { "text": "ヒムヤル", "answer_start": 220, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "4世紀に入り、ヒムヤルはアラビア半島中心部への進出を試みるようになる。300年頃に王の称号にハドラマウト、ヤマナート(南アラビアの海岸地帯)が追加されていた。しかし、4世紀初頭にエチオピアのアクスム王国の干渉と攻撃を受け、4世紀半ばに建立されたアクスムの碑文に確認される王の称号の中にヒムヤルも含まれていた。第二次ヒムヤル王国の国王であるシャンマル・ヤルアシュ、アブー・カリバ・アスアドは、後世のアラブの伝承に征服者として名前を残した。アブー・カリバの死後に彼の子であるハサンが即位するが、ハサンは弟のアムルによって殺害される。アムルの死後にヒムヤル族は分裂するが、ハサンのもう一人の弟であるズー・ヌワース(ズルア・ブン・ティバーン・アスワド)によって反乱者は殺害され、王国は再統一された。", "qas": [ { "question": "ヒムヤルがアクスム王国の干渉と攻撃を受けたのは、いつなの?", "id": "tr-147-06-000", "answers": [ { "text": "4世紀初頭", "answer_start": 83, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "後世のアラブの伝承に征服者として名前を残した第二次ヒムヤル王国の国王には、シャンマル・ヤルアシュと誰ですか?", "id": "tr-147-06-001", "answers": [ { "text": "アブー・カリバ・アスアド", "answer_start": 181, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アムルは誰の息子か?", "id": "tr-147-06-002", "answers": [ { "text": "アブー・カリバ", "answer_start": 218, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "アムルの死後に分裂した王国を、再び統一したのは、誰か?", "id": "tr-147-06-003", "answers": [ { "text": "ズー・ヌワース", "answer_start": 296, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "イエメンにおけるユダヤ教の勢力は6世紀初頭に確固たる物となっていたが、ユダヤ教の隆盛はキリスト教国であるアクスムとの対立の一因となる。交易活動の中でヒムヤルとアクスムの間に武力衝突が起こり、ヒムヤルの攻撃によって死者が出たアクスム側は517年に南アラビアに派兵し、この年以降両国の貿易摩擦が進展する。", "qas": [ { "question": "イエメンがアクスムと対立する一因となったのは、イエメンにおいてどの宗教が隆盛したことなの?", "id": "tr-147-07-000", "answers": [ { "text": "ユダヤ教", "answer_start": 8, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アクスムとヒムヤルの間で貿易摩擦が進展したのは、何年以降のことですか?", "id": "tr-147-07-001", "answers": [ { "text": "517年", "answer_start": 117, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "523年10月、ナジュラーンで、ズー・ヌワースによるキリスト教徒の虐殺が起きる(ナジュラーンの迫害)。虐殺が起きた背景について、イエメン土着のキリスト教徒が抱いていた、エチオピアのキリスト教徒によるイエメン支配を憎悪する感情があったと考えられているナジュラーンの迫害は各地に波及し、それぞれの地域でキリスト教徒への攻撃が起きる。ナジュラーンの住民の訴えを受けたアクスム王カレブ(エッラ・アスベハ、エラスボアス)は、キリスト教徒迫害を憂慮した東ローマ皇帝ユスティヌス1世から輸送艦隊の貸与を受けた。アラビア方面への影響力の強化、イランのサーサーン朝への牽制と商業関係の強化を図る東ローマ帝国は海路から軍隊を送るとともに、アレクサンドリア総主教ティモセオス3世に援軍を要請し、525年春にアクスムのヒムヤル遠征が開始された。アクスムに敗れたヒムヤル王国は滅亡し、イブン・イスハーク、タバリーらイスラーム世界の歴史家はズー・ヌワースが海中に飛び込んで自害したと述べている。", "qas": [ { "question": "ズー・ヌワースがナジュラーンでキリスト教徒を虐殺したのは、いつのこと?", "id": "tr-147-08-000", "answers": [ { "text": "523年10月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時のアクスム王国の王は、誰ですか?", "id": "tr-147-08-001", "answers": [ { "text": "カレブ", "answer_start": 185, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "当時の東ローマ帝国の皇帝は、誰か?", "id": "tr-147-08-002", "answers": [ { "text": "ユスティヌス1世", "answer_start": 226, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アクスムのヒムヤル遠征を支援した国は、どの国か?", "id": "tr-147-08-003", "answers": [ { "text": "東ローマ帝国", "answer_start": 288, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ヒムヤル攻撃を指揮したアクスム軍ヒムヤル駐留司令官アブラハはイエメンで独立し、ヒムヤル王位を簒奪した。アブラハは中央アラビアのマアッド(リヤド周辺)のフジュル朝やヒジャーズ地方に遠征し服属させた。アラブ世界の伝承では、ヒムヤル王族の末裔であるサイフ・イブン・ディ・ヤザレが強国の援助を得るために東ローマ帝国、サーサーン朝を訪れ、最後にサイフがサーサーン朝からイエメンの共同統治者に任じられたことが述べられている。575年にサーサーン朝の軍隊が海路を経て南アラビアを征服し、サーサーン朝は地中海とインド洋を結ぶ陸海の交易路をすべて掌握する。サーサーン朝によってイエメンにサトラップ(総督)が置かれ、サトラップはサナアに駐屯した。628年にサトラップのバーダーンは預言者ムハンマドの呼びかけに応じてイスラム教に改宗し、ヒムヤル族の多くもイスラム教を受け入れた。", "qas": [ { "question": "ヒムヤル攻撃を指揮した人物で、イエメンで独立し、ヒムヤル王位を簒奪したのは、誰なの?", "id": "tr-147-09-000", "answers": [ { "text": "アブラハ", "answer_start": 25, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "575年以降、地中海とインド洋を結ぶ陸海の交易路をすべて掌握したのは、誰ですか?", "id": "tr-147-09-001", "answers": [ { "text": "サーサーン朝", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヒムヤル族の多くがイスラム教を受け入れるように、影響を及ばしたのは、誰か?", "id": "tr-147-09-002", "answers": [ { "text": "バーダーン", "answer_start": 324, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サーサーン朝によりイエメンに置かれた総督のことを、何と呼ぶか?", "id": "tr-147-09-003", "answers": [ { "text": "サトラップ", "answer_start": 284, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "城郭に住処を置いて領地を所有していた、紀元前1世紀から4世紀までの第一次ヒムヤル王国の王は封建領主に比定される。王国で発行された銀貨と銅貨の表面にはアテネの町の紋章でもあるフクロウ、裏面には雄牛の像が刻まれた。", "qas": [ { "question": "第一次ヒムヤル王国で発行された銀貨と銅貨の表面には、何が刻まれていたの?", "id": "tr-147-10-000", "answers": [ { "text": "フクロウ", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "碑文では、ヒムヤルの国王は「マリク」を王号として使用していたことが確認されている。クルアーン(コーラン)、イスラーム世界の歴史学者が記した伝承にはヒムヤルの国王は「トゥッバァ」という称号を用いていたと記されているが、ヒムヤル王国の碑文に「トゥッバウ」という称号は確認されていない。トゥッバァが示す人物の定義は伝承によって異なり、語源もアラビア語、ゲエズ語(古エチオピア語)、古代南アラビアの族名など諸説分かれている。伝承に現れるトゥッバァを碑文で確認される王と同定する試みがされてきたが、不成功に終わっている。古代南アラビア史の研究者である蔀勇造は伝承に現れる王名をエチオピア語がアラビア語に訳されたものと推定し、彼らをヒムヤルに強い影響力を行使していたアクスムの王、あるいは王子と見なしている。", "qas": [ { "question": "ヒムヤル王国の碑文によると、ヒムヤル王国の王号は何ですか?", "id": "tr-147-11-000", "answers": [ { "text": "「マリク」", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クルアーンにはヒムヤルの国王には何の称号が付けられたと記されていますか?", "id": "tr-147-11-001", "answers": [ { "text": "「トゥッバァ」", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "元来南アラビアでは月の神を頂点とする多神教の天体信仰が主流を占めていたが、4世紀の第二次ヒムヤル王国の時代にヒムヤルにキリスト教とユダヤ教が伝えられる。多神教の神殿に奉納される碑文の末尾には祈願する多数の神の名前が記されていたが、多神教信仰は一神教信仰に変化していき、363年/373年に奉納された碑文の末尾には「天の神」のみへの祈願が記されていた。4世紀初頭のヒムヤルでは「天の神」を信仰する一神教が存在しながらも王家はユダヤ教の影響を受け、キリスト教に対して非常に友好的な態度を取る状況が成立していた。ユダヤ教の影響を受けた一神教の出現の背景には、キリスト教を受容してビザンツ帝国と同盟したアクスムに対抗するため、ヒジャーズとメソポタミアのユダヤ教徒コミュニティとの関係を深める意図があったと推測されている。やがて、それぞれの宗教の信者の間に宗教的対立が起きるようになる。", "qas": [ { "question": "元々月の神を頂点とする多神教の天体信仰が主流を占めていた南アラビアに、キリスト教とユダヤ教が伝えられたのは、どの国の影響か?", "id": "tr-147-12-000", "answers": [ { "text": "第二次ヒムヤル王国", "answer_start": 41, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "元々南アラビアに存在した多神教信仰が一神教信仰に変化していった証となるのは、363年と何年に奉納奉納された碑文であるか?", "id": "tr-147-12-001", "answers": [ { "text": "373年", "answer_start": 139, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "4世紀初頭のヒムヤルに存在していた宗教は、どの宗教から影響を受けた、「天の神」を信仰する一神教ですか?", "id": "tr-147-12-002", "answers": [ { "text": "ユダヤ教", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ユダヤ教の影響を受けた一神教の出現は、誰に対抗するための秘策であったと推測されるの?", "id": "tr-147-12-003", "answers": [ { "text": "アクスム", "answer_start": 297, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "東海道五十三次_(浮世絵)", "paragraphs": [ { "context": "『東海道五十三次』、旧表記では『東海道五拾三次』(とうかいどうごじゅうさんつぎ)は、歌川広重による浮世絵木版画の連作。\n右の図は保永堂版(1833年-1834年)。\n1832年、東海道を初めて旅した後に作製したといわれている。\n東海道は、将軍在所の江戸と、天皇在所の京都を結ぶ道で、かつての日本の大動脈であり、江戸時代の主要道路であった五街道の中でも、最も重要な街道であった。\n五街道は、将軍を中心とした国家支配を強化する目的で、江戸期に整備されたものである。", "qas": [ { "question": "『東海道五十三次』を製作者は誰ですか?", "id": "tr-148-00-000", "answers": [ { "text": "歌川広重", "answer_start": 42, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『東海道五十三次』の絵画のジャンルは何?", "id": "tr-148-00-001", "answers": [ { "text": "浮世絵", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "五街道の中で最も重要な街道だったのはどこ?", "id": "tr-148-00-002", "answers": [ { "text": "東海道", "answer_start": 114, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "広重が初めて東海道を旅したのは何年?", "id": "tr-148-00-003", "answers": [ { "text": "1832年", "answer_start": 83, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "保永堂版が圧倒的な知名度を誇っているが、東海道五十三次は非常にポピュラーな題材であり、広重作のものだけでも30種あまりの木版画シリーズが作られ、大版・中版など大きさやデザイン、少ないものでは数枚と含まれる宿場数にまで、さまざまな違いがあった。", "qas": [ { "question": "広重が作った木版画は何種類ある?", "id": "tr-148-01-000", "answers": [ { "text": "30種", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "『東海道五十三次』保永堂版は、広重の作品のうち最もよく知られたものであり、もっともよく売れた浮世絵木版画でもある。\n葛飾北斎の『富嶽三十六景』シリーズとともに、名勝を写して、浮世絵に名所絵(風景画)のジャンルを確立した。\nこれらの名所絵には西洋の構成表現が取り入れられ、日本風に昇華されて、新しい可能性を生み出している。\n広重の東海道五十三次のシリーズは、日本だけでなく、のちの西洋美術にも影響を与えた。", "qas": [ { "question": "広重の浮世絵木版画の中で最も売れ行きが良かったものは何版のものだったの?", "id": "tr-148-02-000", "answers": [ { "text": "保永堂版", "answer_start": 9, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "浮世絵の名所絵をジャンルとして確立した人は誰?", "id": "tr-148-02-001", "answers": [ { "text": "広重", "answer_start": 15, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "葛飾北斎が残した名勝を写したシリーズは何?", "id": "tr-148-02-002", "answers": [ { "text": "『富嶽三十六景』", "answer_start": 63, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "東海道は五街道の1つであり、江戸時代に徳川家康の指示で作られ、当時の首都であった江戸と京都を結んでいた。\n最も重要でよく使われる街道として、本州の東海岸近くを通っていたことから「東海道」の名がついた。\nこの道に沿って、53の宿場が置かれ、旅行者のための厩舎、食事処、宿泊所が営まれていた。", "qas": [ { "question": "五街道の中で人々が最もよく利用した街道とは何?", "id": "tr-148-03-000", "answers": [ { "text": "東海道", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "五街道を作らせた人は?", "id": "tr-148-03-001", "answers": [ { "text": "徳川家康", "answer_start": 19, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "五街道は江戸とどこの地域をつなぐ街道でしたか?", "id": "tr-148-03-002", "answers": [ { "text": "京都", "answer_start": 43, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1832年、広重は江戸から京都へと、御所に馬を納める御馬献上の公式派遣団の1人として、東海道を旅している。\n馬は将軍からの象徴的な贈り物であり、天皇の祭祀王としての立場を尊重し、毎年贈られていた。\n旅の風景は、広重に強い印象を残した。\n彼は旅の途上でも、同じ道を戻った帰途でも、数多くのスケッチを描いた。\n家に帰りつくと、広重はすぐに『東海道五十三次』の作製に取り掛かり、第1回目の版を出した。\n最終的に、このシリーズは55枚の印刷となった。\n53の宿場に、出発地と到着地を足したものである。", "qas": [ { "question": "広重は何の団体に属して東海道を旅したの?", "id": "tr-148-04-000", "answers": [ { "text": "御馬献上の公式派遣団", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『東海道五十三次』は何枚の印刷となりましたか?", "id": "tr-148-04-001", "answers": [ { "text": "55枚", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "現在では上記のようには、広重は実際は東海道を旅しておらず、広重が、『東海道五十三次』を製作する以前に描かれた絵を模写し、『東海道五十三次』の浮世絵を製作したという説が有力である。\n幕府に同行を命じられる以前の1832年3月には、隠居していることが判明し、同行は不可能と考えられているからである。\n京都の三条大橋の巨大な橋を、200年前の姿で描いている。\n石に変更されたはずの橋桁が木製のままになっていることや、京都に近くなるほど、以前に描かれた「東海道名所図会」の挿絵と似た作品が増えること。\nなどが理由にあげられる。\n最初の版は、保永堂と仙鶴堂とを版元とする共同出版であったが、以降の版は保永堂が単独ですべてを取り仕切った。\nこのスタイルの木版画は通常、それぞれ12-16銭で売られた。\nわらじ1足、あるいはうどん1杯とほぼ同じ値段である。\n『東海道五十三次』の成功により、広重は江戸期で最も成功し最も有名な浮世絵師となった。", "qas": [ { "question": "広重が『東海道五十三次』で描いた京都の巨大な橋とは?", "id": "tr-148-05-000", "answers": [ { "text": "三条大橋", "answer_start": 151, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『東海道五十三次』を共同出版していたのは保永堂と何ですか?", "id": "tr-148-05-001", "answers": [ { "text": "仙鶴堂", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "木版画の売値はいくらでしたか?", "id": "tr-148-05-002", "answers": [ { "text": "12-16銭", "answer_start": 332, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "12-16銭で買えたものはわらじ1足と何でしたか?", "id": "tr-148-05-003", "answers": [ { "text": "うどん1杯", "answer_start": 355, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "その後も広重は渓斎英泉と合作で『木曽海道六十九次』を出版し、中山道(別名:木曽街道)の各宿場をリポートした。\n本来は東海道の宿場数は53であるところを、このシリーズでは出発地の日本橋、到着地の京師(京都のこと)を含めて55となっている。", "qas": [ { "question": "広重と共に『木曽海道六十九次』を出版したのは誰?", "id": "tr-148-06-000", "answers": [ { "text": "渓斎英泉", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "木曽街道の通称は何?", "id": "tr-148-06-001", "answers": [ { "text": "中山道", "answer_start": 30, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "『木曽海道六十九次』の出発地はどこ?", "id": "tr-148-06-002", "answers": [ { "text": "日本橋", "answer_start": 88, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『木曽海道六十九次』の到着地はどこ?", "id": "tr-148-06-003", "answers": [ { "text": "京師", "answer_start": 96, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "フィンセント・ゴッホは浮世絵を熱心に収集し、パリの画商サミュエル・ビングのギャラリーで弟テオと合わせて数百にも上る版画を入手していた。\nこのコレクションには『東海道五十三次』の版画も含まれており、ゴッホはコレクションした浮世絵から、明るい色彩、自然の細かい描写、西洋の様式にはない構成などの様式を、自身の作品にも取り込んだ。\n彼の私信に「私の作品は、日本の美術に基づいている」と述べた言葉があり、印象派の画家を「フランスの日本人」と表現したりした。", "qas": [ { "question": "浮世絵の収集に情熱を注いでいた画家は誰?", "id": "tr-148-07-000", "answers": [ { "text": "フィンセント・ゴッホ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ゴッホは印象派の画家をどのように表現しましたか?", "id": "tr-148-07-001", "answers": [ { "text": "「フランスの日本人」", "answer_start": 205, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ゴッホとテオが版画を多数入手したギャラリーは誰が経営していましたか?", "id": "tr-148-07-002", "answers": [ { "text": "サミュエル・ビング", "answer_start": 27, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "テオの兄は?", "id": "tr-148-07-003", "answers": [ { "text": "フィンセント・ゴッホ", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "建築家のフランク・ライトも広重の版画の熱心なコレクターであり、『東海道五十三次』も入手していた。\n1906年に広重の初めての回顧展をシカゴ美術館で開催し、そのカタログに「世界の芸術に最も価値ある貢献をした」という言葉を寄せている。\nシカゴ美術館で2年後に行われた別の浮世絵展でも、彼は自身のコレクションを提供している。\nライトはまた展示会場のデザインも行ったが、これは当時この種のものに関して、最も大きな展覧会であった。\nその専門知識を基に浮世絵に美を見い出し、ライトは版画から設計構造を洞察し、傷んだ浮世絵に線や陰を描き足して修正し、その絵画様式を理解しようと努力した。", "qas": [ { "question": "広重の版画を熱心に集めていた建築家とは?", "id": "tr-148-08-000", "answers": [ { "text": "フランク・ライト", "answer_start": 4, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "広重の初の回顧展はどこで開催されたの?", "id": "tr-148-08-001", "answers": [ { "text": "シカゴ美術館", "answer_start": 66, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "広重の初の回顧展は何年に開催されたの?", "id": "tr-148-08-002", "answers": [ { "text": "1906年", "answer_start": 49, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フランク・ライトの職業は何?", "id": "tr-148-08-003", "answers": [ { "text": "建築家", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "北海大陸棚事件", "paragraphs": [ { "context": "北海大陸棚事件(ほっかいたいりくだなじけん、英語:NorthSeaContinentalShelfCases、フランス語:AffairesduplateaucontinentaldelamerduNord)は、北海における大陸棚の境界画定を巡って西ドイツ、デンマーク、オランダが争った国際紛争である。1967年2月20日にこの3カ国は紛争を国際司法裁判所(ICJ)に付託することで合意し、1969年2月20日に判決が下された。大陸棚の境界画定について定めた大陸棚条約第6条の等距離基準が同条約に加盟していない西ドイツに対して適用されるかが争点となったが、ICJはこれを否定し、境界画定は関連するすべての状況を考慮に入れて衡平な結果を実現できるように合意によって行われなければならないとし、当事国に対し誠実に交渉を行うことを命じる判決を下した。この判例は大陸棚の境界画定に関するリーディングケースであり、この問題に関する後の判例に大きな影響を与えている。", "qas": [ { "question": "北海大陸棚事件は、何を巡って3か国が争った国際紛争であるの?", "id": "tr-149-00-000", "answers": [ { "text": "北海における大陸棚の境界画定", "answer_start": 105, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北海大陸棚事件は、西ドイツ、デンマークと、どの国が争った国際紛争でありますか?", "id": "tr-149-00-001", "answers": [ { "text": "オランダ", "answer_start": 134, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北海大陸棚事件が国際司法裁判所(ICJ)に付託されたのは、いつのことか?", "id": "tr-149-00-002", "answers": [ { "text": "1967年2月20日", "answer_start": 150, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北海大陸棚事件に対する国際司法裁判所(ICJ)の判決が下されたのは、いつのことか?", "id": "tr-149-00-003", "answers": [ { "text": "1969年2月20日", "answer_start": 194, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "北海大陸棚事件ICJ判決の後3カ国は外交交渉を行い、1971年1月28日に判決に示された大陸棚境界画定の原則に従った合意を定めた西ドイツ=デンマーク間と西ドイツ=オランダ間の2国間条約がそれぞれ締結された。この合意で境界線は、西ドイツに対し北海の中心部分まで大陸棚を認める代わりに、デンマークとオランダの大陸棚を西ドイツ側にくい込ませる形状となった。", "qas": [ { "question": "北海大陸棚事件に対し、判決を下したのは、どの機関なの?", "id": "tr-149-01-000", "answers": [ { "text": "ICJ", "answer_start": 7, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "北海大陸棚事件には、何か国が関与していましたか?", "id": "tr-149-01-001", "answers": [ { "text": "3カ国", "answer_start": 14, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "西ドイツ=デンマーク間と西ドイツ=オランダ間の2国間条約が締結されたのは、いつのことか?", "id": "tr-149-01-002", "answers": [ { "text": "1971年1月28日", "answer_start": 26, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "西ドイツとデンマークのうち、オランダとは条約を締結しなかった国は、どちらの国か?", "id": "tr-149-01-003", "answers": [ { "text": "デンマーク", "answer_start": 69, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "この北海大陸棚事件ICJ判決は、ICJにはじめて提起された大陸棚の境界画定に関する紛争であり、大陸棚の境界画定に関するリーディングケースといえる判例である。ただし本件判決で示された、領土の自然の延長を各国にできるだけ多く割り当てる方法や、等距離原則に対する判断は本件の特有のものといえる。", "qas": [ { "question": "ICJにはじめて提起された大陸棚の境界画定に関する紛争は、何か?", "id": "tr-149-02-000", "answers": [ { "text": "北海大陸棚事件", "answer_start": 2, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大陸棚の境界画定に関するリーディングケースといえる判例とは、どの事件に対する判決のことを言うか?", "id": "tr-149-02-001", "answers": [ { "text": "北海大陸棚事件", "answer_start": 2, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ムカシトカゲ", "paragraphs": [ { "context": "ムカシトカゲはトカゲと名付けられてはいるが、狭義のトカゲとは全く異なる系統の爬虫類であることが、骨格とくに頭蓋などの比較により結論付けられている。ムカシトカゲはSphenodon(スフェノドン)属の総称であり、現生のムカシトカゲ目にはSphenodon属1属しか存在しない。彼らはかつて数多くの種と幅広い生態的地位を占める一大グループだったムカシトカゲ目(または喙頭目)の唯一の生き残りであり、1895年以来絶滅危惧種とされている。\n\n彼らは名前だけでなく姿もトカゲによく似ている。しかし実際はトカゲ類とも、またトカゲに最も近縁なヘビ類とも同じくらいかけ離れた間柄である。この理由のため、彼らはヘビとトカゲの進化の研究や、初期の双弓類の姿や生態の推測において大きな関心を集めている。", "qas": [ { "question": "ムカシトカゲはどの属の総称ですか。", "id": "tr-150-00-000", "answers": [ { "text": "Sphenodon(スフェノドン)属", "answer_start": 80, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムカシトカゲはいつ絶滅危惧種に指定されたか。", "id": "tr-150-00-001", "answers": [ { "text": "1895年以来", "answer_start": 197, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ムカシトカゲの外観は何に似てるの?", "id": "tr-150-00-002", "answers": [ { "text": "トカゲ", "answer_start": 230, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "西洋へのムカシトカゲの報告としては、クック船長が1769年にニュージーランドに上陸したとき、マオリ族の族長から現生生物についての聞き取り調査をした際に聞いた「トカゲ」の話がその最初のものであるとする見方がある。ただし、ここで記録されているその「トカゲ」に関する証言は「体長はおよそ2.5m、身体の幅はヒトと同じぐらい、地下の洞窟に住み、ヒトを襲って食う」という、生息場所以外の記述は実際のムカシトカゲとかなり異なるものである。\n\n\nこの生物に関する確実な記録としては、1838年にJ.S.ポラックというユダヤ人商人が出版した書籍の中に、「プレンティ湾の島々にすむトカゲ」として記されているのを確認することが出来る。だが、実際にこの動物を捕獲して持ち帰ったのは、博物学者で探検家でもあったエルンスト・ディーフェンバッハであった。彼はニュージーランド商会の後援のもと、ニュージーランドの各地を何年にもわたって旅し、地理学・地質学・動物学・植物学・文化人類学など各分野にわたる記録を残していた。原住民がトゥアタラと呼ぶ大型のトカゲがいるということを聞いたディーフェンバッハは、懸賞金付きでそのトカゲを探し求めた。しかし長い間そのトカゲは手に入らず、結局彼がそのトカゲを手に入れたのは1841年ヨーロッパに帰る10日前になってからであった。彼はそのトカゲをアガマ科の仲間と推測し、生きたまま持ち帰った個体をしばらく飼育していた。そしてその動物が死ぬと、大英博物館にその死体を寄贈した。\n\nその標本を受け取って研究したのは当時大英博物館で動物学部門の管理者であったジョン・エドワード・グレイであった。1842年、彼はそのトカゲにHatteriapunctataという学名を与えて発表した。しかしその後、この動物の頭蓋骨が以前大英博物館に送られており、他ならぬグレイ自身がそれにSphenodonという学名(ただし属名のみ)を1831年に与えていたことが判った。そのため、学名の先取権の原則により、現在のこの動物の学名はSphenodonpunctatusとなっている。しかしHatteriaという名称もしくはこれに由来する語は、いくつかの言語で今でもムカシトカゲを指す単語となっている。", "qas": [ { "question": "クック船長は何年にニュージーランドに上陸した?", "id": "tr-150-01-000", "answers": [ { "text": "1769年", "answer_start": 24, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ムカシトカゲの確実な記録は誰によるものですか。", "id": "tr-150-01-001", "answers": [ { "text": "J.S.ポラック", "answer_start": 240, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ディーフェンバッハはムカシトカゲの死体をどこに", "id": "tr-150-01-002", "answers": [ { "text": "大英博物館", "answer_start": 622, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1842年、ムカシトカゲにHatteriapunctataという学名を与えて発表した人の名前は何ですか。", "id": "tr-150-01-003", "answers": [ { "text": "ジョン・エドワード・グレイ", "answer_start": 677, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ムカシトカゲは姉妹群である有鱗目と共に、鱗竜形類の唯一の現存群である鱗竜類に属する。ムカシトカゲの祖先はおそらく鱗竜形下綱と主竜形下綱の分岐点近くに由来しており、「原爬虫類」に最も近い現存種である。ムカシトカゲはトカゲ類にそっくりではあるが、その類似はほとんど表面的なものであり、爬虫類の中でも独特ないくつかの特徴をもっている。典型的なトカゲ型の姿というものは初期の有羊膜類に共通のものであり、知られている中で最古の爬虫類の化石もトカゲ型の姿をしている。\n\nグレイが模式標本を記載する際、ムカシトカゲは有鱗目トカゲ亜目の仲間として分類された。そしてそれは、1867年に同博物館のアルベルト・ギュンターがこの動物の独特な各特徴(解剖学の項参照)に注目し、化石種の仲間と会わせてRhyncocephalia(喙頭目:「嘴を持った頭」喙は嘴の意)という目を提唱してそこに属させるまで続いた。\n\nしかし、ギュンターの喙頭目の設立以来多くの無関係の種がこの目に加えられてきた。このことは結果として喙頭目をいわゆる「分類のゴミ箱」にしてしまった。しかし1969年になってO.クーンによってこれまで喙頭目とされてきたグループはムカシトカゲ目とリンコサウルス目に分割され、リンコサウルス目は主竜類に再分類された。現在、ほとんどの研究者はムカシトカゲとその親類に対してより限定的な名称であるSphenodontiaを使用する傾向がある。Sphenodontiaはウィリストンによって1925年に提唱されたため、エステスによって1983年に提唱された類似した名称であるSphenodontidaに対して優先権がある。", "qas": [ { "question": "1867年、ムカシトカゲの独特な各特徴に注目した人の名前は何?", "id": "tr-150-02-000", "answers": [ { "text": "アルベルト・ギュンター", "answer_start": 289, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1969年、これまで喙頭目とされてきたグループをムカシトカゲ目とリンコサウルス目に分割した人は誰なの?", "id": "tr-150-02-001", "answers": [ { "text": "O.クーン", "answer_start": 479, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Sphenodontiaがウィリストンによって提唱されたのはいつですか。", "id": "tr-150-02-002", "answers": [ { "text": "1925年", "answer_start": 632, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ジュラ紀の化石爬虫類Homeosaurusは現在のムカシトカゲに非常によく似ている。ムカシトカゲは一般的に、サメやワニと同様に「生きている化石」だと言われる。これは本質的にそれらの生物がこの地球上での存在期間中ほとんど変化していないことを意味する。\n\nしかしながら、最近の分類学的研究によると、ムカシトカゲ目は中生代を通じて多くの変異を経ていることがわかった。現在ではトカゲ類に占められている多くの生態的地位が、かつてはムカシトカゲ目に占められていた。中には海生爬虫類として成功したグループさえいたが、彼らは現在のムカシトカゲとは似ても似つかない姿をしていた。\n\nニュージーランドが他の陸地から切り離されたのは、およそ8000万年前だとされているが、それ以前にここに到達していたムカシトカゲ目の一員が結果として今日まで唯一生き残ったムカシトカゲの先祖であると考えられている。ムカシトカゲは寒冷な気候への適応を示すが、これによりニュージーランドの島々での繁栄が可能となっている。この適応はおそらくムカシトカゲに特有のものであり、より温暖な気候で生息していた先祖形ムカシトカゲ目から受け継いだものではないと思われる。", "qas": [ { "question": "サメやワニと一緒に「生きている化石」と呼ばれるものは何?", "id": "tr-150-03-000", "answers": [ { "text": "ムカシトカゲ", 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"ムカシトカゲと他のトカゲと、どっちの方がもっと体温が低いの?", "id": "tr-150-04-002", "answers": [ { "text": "ムカシトカゲ", "answer_start": 199, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] } ] }, { "title": "ゲルニカ爆撃", "paragraphs": [ { "context": "ゲルニカ爆撃(ゲルニカばくげき、バスク語:Gernikakobonbardaketa,スペイン語:BombardeodeGuernica,英語:BombingofGuernica)またはゲルニカ空爆(ゲルニカくうばく)は、スペイン内戦中の1937年4月26日、ドイツ空軍のコンドル軍団がスペイン・ビスカヤ県・ゲルニカに対して行った都市無差別爆撃である。当時、戦争に新たに加わった無差別攻撃が空爆であり、ゲルニカ爆撃が最初であった。", "qas": [ { "question": "ゲルニカ爆撃のことを呼ぶ別称は、何?", "id": "tr-151-00-000", "answers": [ { "text": "ゲルニカ空爆", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ゲルニカ爆撃は、どの戦争中に行われたものでありますか?", "id": "tr-151-00-001", "answers": [ { "text": "スペイン内戦", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ゲルニカ爆撃は、いつ実施されたか?", "id": "tr-151-00-002", "answers": [ { "text": "1937年4月26日", "answer_start": 119, "answer_type": "Date/Time" 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"answers": [ { "text": "ゲルニカ爆撃", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "戦略爆撃が本格化したのは、どの戦争中でしたか?", "id": "tr-151-04-001", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第一次世界大戦と第二次世界大戦のうち、戦略爆撃が行われた回数のより多いのは、どちらか?", "id": "tr-151-04-002", "answers": [ { "text": "第二次世界大戦", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "コンドル軍団からリューゲン作戦と呼ばれる爆撃作戦は、何か?", "id": "tr-151-04-003", "answers": [ { "text": "ゲルニカ爆撃", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1931年にはアルフォンソ13世が退位してスペイン第二共和政が成立したが、改革の失敗から民衆の不満が噴出し、1933年の総選挙では右派のスペイン独立右翼連合(CEDA)が躍進して左派勢力は敗北し、1936年の総選挙では再び左派が勝利して人民戦線政府が成立するなど、左右両派の力は拮抗しており社会不安が高まっていた。", "qas": [ { "question": "スペインの王政体制が崩れたのは、何年のことなの?", "id": "tr-151-05-000", "answers": [ { "text": "1931年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "どの王が退位すると、スペインの王政体制が崩れましたか?", "id": "tr-151-05-001", "answers": [ { "text": "アルフォンソ13世", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スペイン第二共和政以前の最後の王は、誰か?", "id": "tr-151-05-002", "answers": [ { "text": "アルフォンソ13世", "answer_start": 7, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スペイン第二共和政が成立した後、初めて政権を握ったのは、右派と左派のうち、どちらか?", "id": "tr-151-05-003", "answers": [ { "text": "右派", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1936年7月にはフランシスコ・フランコ、エミリオ・モラ両将軍を首謀者とする軍事クーデターが発生し、スペイン内戦が始まった。", "qas": [ { "question": "スペイン内戦が始まったのは、何年何月のことだったの?", "id": "tr-151-06-000", "answers": [ { "text": "1936年7月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical 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"ドイツの狙いは、どの地方を手に入れ、イギリスの軍事経済に打撃を与えることでしたか?", "id": "tr-151-09-001", "answers": [ { "text": "バスク", "answer_start": 38, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "スペインの鉱山は主にどの国の資本が所有していたか?", "id": "tr-151-09-002", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "この文書を見ると、バスクにある鉱山は、どの国の資本の所有物とされていたことがわかりますか?", "id": "tr-151-09-003", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 14, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1937年1月4日にはハインケル戦闘機3機とユンカースJu52爆撃機9機がビルバオを空襲した。", "qas": [ { "question": "1937年1月4日のビルバオ空襲には、ハインケル戦闘機とともに、どの爆撃機が動員されたの?", "id": "tr-151-10-000", "answers": [ { "text": "ユンカースJu52爆撃機", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ビルバオが空襲されたのは、いつでしたか?", "id": "tr-151-10-001", "answers": [ { "text": "1937年1月4日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1937年1月4日のビルバオ空襲には、ハインケル戦闘機とユンカースJu52爆撃機のうち、どちらがより多く動員されたか?", "id": "tr-151-10-002", "answers": [ { "text": "ユンカースJu52爆撃機", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1937年1月4日のビルバオ空襲に用いられた戦闘機は、何だったか?", "id": "tr-151-10-003", "answers": [ { "text": "ハインケル戦闘機", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1937年3月31日のドゥランゴ爆撃を緒戦として、モラ将軍を司令官とする本格的な北方作戦が開始された。ドゥランゴには戦闘機9機、爆撃機4機によって計4トンの爆弾が落とされ、バスク自治政府によれば即死者127人、病院での死亡者150人超、負傷者300人超を数えた。", "qas": [ { "question": "モラ将軍が司令官として参加した最初の爆撃作戦は、何だったの?", "id": "tr-151-11-000", "answers": [ { "text": "ドゥランゴ爆撃", "answer_start": 11, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1937年3月31日のドゥランゴ爆撃による結果としては、負傷者と死亡者のうち、どちらに該当する人数がより多かったか?", "id": "tr-151-11-001", "answers": [ { "text": "負傷者", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1937年3月31日のドゥランゴ爆撃には、戦闘機と爆撃機のうち、どちらがより多く動員されましたか?", "id": "tr-151-11-002", "answers": [ { "text": "戦闘機", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "1937年3月31日のドゥランゴ爆撃による結果としては、即死者と病院での死亡者、負傷者のうち、どちらに該当する人数が最も多かったか?", "id": "tr-151-11-003", "answers": [ { "text": "負傷者", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ドイツ空軍・コンドル軍団はゲルニカ爆撃作戦をリューゲン作戦(OperationRügen)という作戦名で呼んだ。ビトリア=ガステイスの飛行場は狭かったため、コンドル軍団の戦闘機基地はビトリア=ガステイス、爆撃機基地はブルゴスに分かれていた。フーゴ・シュペルレ将軍はサラマンカの反乱軍総司令部に留まり、ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン大佐が攻撃部隊の実戦指揮を執った。リヒトホーフェンは当時の日誌で、共和国軍の退却路を断つことをリューゲン作戦の目的として挙げている。", "qas": [ { "question": "ドイツでは、ゲルニカ爆撃作戦を何と呼んでいたの?", "id": "tr-151-12-000", "answers": [ { "text": "リューゲン作戦", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ドイツ空軍の基地は、ビトリア=ガステイスとどこでしたか?", "id": "tr-151-12-001", "answers": [ { "text": "ブルゴス", "answer_start": 108, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ブルゴスは、どの機種専用基地だったか?", "id": "tr-151-12-002", "answers": [ { "text": "爆撃機", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "戦闘機と爆撃機の基地をそれぞれ分けていたのは、どの国の空軍か?", "id": "tr-151-12-003", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 0, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "サンデーサイレンス", "paragraphs": [ { "context": "サンデーサイレンス(英:SundaySilence、1986年-2002年)は、アメリカ合衆国生まれの競走馬、種牡馬である。\n1988年10月に競走馬としてデビュー。\n翌1989年にアメリカ三冠のうち二冠(ケンタッキーダービー、プリークネスステークス)、さらにブリーダーズカップ・クラシックを勝つなどG1を6勝する活躍を見せ、エクリプス賞年度代表馬に選ばれた。\n1990年に右前脚の靭帯を痛めて競走馬を引退。\n引退後は日本の社台スタリオンステーションで種牡馬入りし、初年度産駒がデビューした翌年の1995年から13年連続で日本のリーディングサイアーを獲得した。\nさらに中央競馬における種牡馬にまつわる記録を次々と更新した。\nサンデーサイレンスを起点とするサイアーラインは、日本競馬界における一大勢力となり、サンデーサイレンス系とも呼ばれる。\nそのイニシャルからSSと呼ばれることもある。\n2002年8月19日に、左前脚に発症した蹄葉炎を原因とする衰弱性心不全のため、16歳で死亡。\n幼少期は見栄えのしない容貌と地味な血統ゆえに買い手がつかず、生命にかかわる事態に見舞われながら、競走馬、さらに種牡馬としても成功した生涯は、童話『みにくいアヒルの子』に喩えられる。", "qas": [ { "question": "アメリカ合衆国生まれの競走馬で、引退後に種牡馬として日本に渡ってきた馬の名は?", "id": "tr-152-00-000", "answers": [ { "text": "サンデーサイレンス", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "13年連続で日本のリーディングサイアーを獲得するほどの活躍をみせたサンデーサイレンスの一大勢力は何と呼ばれていましたか?", "id": "tr-152-00-001", "answers": [ { "text": "サンデーサイレンス系", "answer_start": 353, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サンデーサイレンスの生涯を喩えるにふさわしい童話は何ですか?", "id": "tr-152-00-002", "answers": [ { "text": "『みにくいアヒルの子』", "answer_start": 513, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サンデーサイレンスの生涯は競走馬としての期間、種牡馬としての期間どちらが長かった?", "id": "tr-152-00-003", "answers": [ { "text": "種牡馬", "answer_start": 226, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "サンデーサイレンスは1985年に繁殖牝馬ウィッシングウェルと種牡馬ヘイローが交配された結果、翌1986年3月25日にアメリカ合衆国ケンタッキー州にあるストーンファームで誕生した。\n両者が交配された要因は、ニックスとされるマームードのインブリード(4×5)が成立することにあった。\nサンデーサイレンスの毛色は、生国のアメリカでは「黒鹿毛ないし青鹿毛(DarkBayorBrown)」となっているが、のちに輸入した日本では「青鹿毛」と登録されている。", "qas": [ { "question": "サンデーサイレンスの父親馬の名前は?", "id": "tr-152-01-000", "answers": [ { "text": "ヘイロー", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "ハンコックはサンデーサイレンスをキーンランド・ジュライセールで買い戻したあと、同馬を友人のポール・サリバンと半分ずつの持ち分で共有した。\nその後サリバンは、カリフォルニア州のトレーニングセールで買い戻された時期に所有する競走馬の調教費と相殺する形で調教師のチャーリー・ウィッティンガムに持ち分を売却し、ウィッティンガムは、そのうちの半分を友人の医師アーネスト・ゲイラードに売却した。\nしかし、カリフォルニア州からケンタッキーに戻るセリからの帰り道では、道のりの半ばのちょうどテキサス州がニューメキシコ州とオクラホマ州との間に細長く突き出ているあたりに差し掛かったところでトラックの運転手が突然心臓発作を起こして馬運車が大きく傾きながら横転する事故に遭った。\nサンデーサイレンスは奇跡的に一命を取り留めて競走能力こそ失わなかったものの、全身に無数の切り傷と打撲を負い、しばらくまっすぐに歩けなくなるほどの重傷を負った。\nこのとき馬運車を運転していた運転手、馬運車に乗っていたサンデーサイレンス以外の競走馬はすべて死亡した。\nサンデーサイレンスはその後オクラホマ州の獣医病院に搬送され、2週間後に退院してケンタッキーに戻った。", "qas": [ { "question": "カリフォルニア州からケンタッキーに戻る帰り道でのトラック事故で、唯一の生き残りは何だった?", "id": "tr-152-02-000", "answers": [ { "text": "サンデーサイレンス", "answer_start": 436, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "サンデーサイレンスは、同馬の所有権を4分の1持つチャーリー・ウィッティンガムが管理することとなった。\n調教を進めるなかでサンデーサイレンスの能力を感じ取ったウィッティンガムは、ハンコックに「あの真っ黒い奴は走る」と電話で報告し、ハンコックを驚かせた。\nサンデーサイレンスは1988年10月に初めてレースに出走したが2着に敗れ、翌11月に初勝利を挙げた。\n12月の一般競走でふたたび2着に敗れたあと、ウィッティンガムは余力を残した状態で休養をとらせることにした。\n翌1989年3月2日、サンデーサイレンスはサンタアニタパーク競馬場で行われた一般競走でレースに復帰して優勝。\nさらに同月19日、重賞(G2)のサンフェリペハンデキャップをスタートで出遅れながら優勝した。\nこの段階で主戦騎手のパット・ヴァレンズエラは「今まで乗った中でも最高の3歳馬」と評し、ウィッティンガムは「ケンタッキーダービーでも5本の指には入るだろう」と述べた。\nサンデーサイレンスはケンタッキーダービーの優勝候補として競馬ファンに認識され始めた。", "qas": [ { "question": "サンデーサイレンスが1988年に出走した3度のレースの内、最も多かった順位は?", "id": "tr-152-03-000", "answers": [ { "text": "2着", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "調教を進めるなかでサンデーサイレンスの可能性を見極めた当時の管理者は誰?", "id": "tr-152-03-001", "answers": [ { "text": "チャーリー・ウィッティンガム", "answer_start": 24, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1989年時点でサンデーサイレンスの主戦騎手は誰だったの?", "id": "tr-152-03-002", "answers": [ { "text": "パット・ヴァレンズエラ", "answer_start": 343, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ウィッティンガムはサンデーサイレンスのケンタッキーダービー出走について「サンタアニタダービーが終わるまでは分からない」とも述べていたが、4月8日にサンタアニタダービーを11馬身差というレース史上最大の着差で優勝したことを受けてケンタッキーダービー出走を正式に表明した。\n4月半ばにはケンタッキーダービーに備え、同レースが行われるチャーチルダウンズ競馬場へサンデーサイレンスを移送した。\nケンタッキーダービーはレース前日に20mmを超える雨が降り、1967年以来といわれる悪い馬場状態で行われ、さらに発走時の気温は摂氏6.1°Cでレース史上最低であった。\nサンデーサイレンスはスタートで体勢を崩し他馬と激しく接触し、直線で左右によれる素振りを見せる場面も見られたが、1番人気のイージーゴアに1馬身半の着差をつけ優勝した。\nレース後、ウィッティンガムは「この馬は三冠馬になる」と宣言した。", "qas": [ { "question": "サンデーサイレンスがケンタッキーダービーの前に出走したレースは何でしたか?", "id": "tr-152-04-000", "answers": [ { "text": "サンタアニタダービー", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ケンタッキーダービーで2着についた馬は何だったでしょうか?", "id": "tr-152-04-001", "answers": [ { "text": "イージーゴア", "answer_start": 337, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サンタアニタダービーではサンデーサイレンスは史上最大の着差で優勝したが、その差はどれくらいのものでしたか?", "id": "tr-152-04-002", "answers": [ { "text": "11馬身差", "answer_start": 84, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ケンタッキーダービー優勝後、アメリカ三冠第2戦のプリークネスステークスに出走するまでの過程は平坦なものではなかった。\nまずレース1週間前の5月13日、サンデーサイレンスの右前脚に問題が発生(獣医師の診断は打撲または血腫による跛行)し、レースの4日前まで調教が行えなくなるアクシデントに見舞われた。\nさらにサンデーサイレンスはレースまでの期間をピムリコ競馬場で過ごしたが、数百人にものぼる観光客やマスコミが馬房に押しかけ、サンデーサイレンスは苛立った様子を見せるようになった。\n陣営は馬房の扉を閉めてサンデーサイレンスを隔離する措置を講じた。\nケンタッキーダービーを優勝したサンデーサイレンスであったが、実力はケンタッキーダービーで1番人気に支持されたイージーゴアのほうが上と見る向きが多く、プリークネスステークスでもイージーゴアが1番人気に支持され、サンデーサイレンスは2番人気であった。\nレースは中盤を過ぎてからイージーゴアがサンデーサイレンスの外に進出し、サンデーサイレンスが前方へ進出するためのスペースを塞ぐ展開となった。\nそのままイージーゴアは先頭に立ったが、サンデーサイレンスが猛然と追い上げ、最終コーナーを回ると2頭の競り合いとなり、さらにサンデーサイレンスはイージーゴーアが内から抜け出そうとするたびに外から馬体を合わせてイージーゴーアに噛みつこうとした。\n15秒以上にわたる競り合いの末、数センチの差でサンデーサイレンスが先着し優勝した。\nこのマッチレースはアメリカ合衆国の競馬専門誌『ブラッド・ホース』で行われた読者によるアンケートで、年間ベストレースに選出されている。", "qas": [ { "question": "プリークネスステークスでのマッチレースを制し優勝した競走馬は?", "id": "tr-152-05-000", "answers": [ { "text": "サンデーサイレンス", "answer_start": 609, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サンデーサイレンスとイージーゴーアのマッチレースが年間ベストレースに選出されたのは、何という雑誌に掲載された?", "id": "tr-152-05-001", "answers": [ { "text": "『ブラッド・ホース』", "answer_start": 650, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ベルモントステークスではアメリカ三冠達成の期待がかかり、サンデーサイレンスは、イージーゴアと対戦したレースで初めて1番人気に支持された。\nレース前の盛り上がりはニューヨーク競馬協会が発行した取材許可証の多さにも表れ、その数は、ソ連(当時)の共産党機関紙「プラウダ」の記者分を含めて1300枚だった。\nしかしレースでは残り400メートルの地点でイージーゴアに交わされるとそのまま差を広げられ、8馬身の着差をつけられ2着に敗れた。\nレース後、三冠のプレッシャーはあったかと問われたウィッティンガムは、「三冠レースなんてプレッシャーとは言えないさ。プレッシャーなんてものは、50年前にサンフランシスコのハイポケッツ・ケリー・ホテルの一室に12人で寝泊まりしていて、しかも誰も部屋代を払える余裕がなかった頃以来、感じたことはないよ。あれこそプレッシャーと呼ぶにふさわしい心境だったな」と答えた。\n三冠達成はならなかったもののサンデーサイレンスは三冠レースで最高ポイントを得て、Visa提供のボーナス100万ドルを獲得した。", "qas": [ { "question": "サンデーサイレンスが惜しくもアメリカ三冠達成とならなかったレースは何?", "id": "tr-152-06-000", "answers": [ { "text": "ベルモントステークス", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベルモントステークスで優勝した馬は何だったの?", "id": "tr-152-06-001", "answers": [ { "text": "イージーゴア", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ベルモントステークスで1番人気は何という馬だったでしょうか?", "id": "tr-152-06-002", "answers": [ { "text": "サンデーサイレンス", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ベルモントステークス出走後、ウィッティンガムはブリーダーズカップ・クラシック優勝を次の目標に据えた。\nウィッティンガムはじめ厩舎スタッフはサンデーサイレンスが調教に行きたがらないそぶりを見せていたため体調の低下を感じ取っていたが、短い休養を取らせたあとで、6週間後にハリウッドパーク競馬場で行われるスワップスステークスに出走した。\n単勝1.2倍の1番人気に支持され、6倍で2番人気に推されたのは、かつてウィッティンガムの下で助手をしていたニール・ドライスデールが管理するプライズドであり、プライズドには120ポンドのハンデが課され、サンデーサイレンスには三冠レースで全ての出走馬が背負うのと同じ126ポンドが課された。\nレースでは出走馬に逃げ馬がいないと判断したヴァレンズエラがサンデーサイレンスにハナを切らせ、残り1ハロンのところでは2番手との差を4馬身に広げていたが、直線半ばの発送ゲートが設置された地点の脇辺りに差し掛かったところで突如失速し、プライズドに交わされ2着に敗れた。\nレース後、ウィッティンガムはレース途中でほかの馬を引き離し過ぎたことに不満を表した。\n合田直弘はヴァレンズエラがサンデーサイレンスに鞭を入れ過ぎたことを敗因に挙げている。\n敗戦を受けて陣営は万全の体調でブリーダーズカップ・クラシックに出走できるよう態勢を整えることにした。\n9月に入り、ウィッティンガムはブリーダーズカップ・クラシックに向けた前哨戦としてルイジアナ州のルイジアナダウンズ競馬場で行われるスーパーダービーへの出走を決めた。この時期にはサンデーサイレンスの体調は回復しており、レースでは2着に6馬身の差をつけて優勝した。", "qas": [ { "question": "プライズドとサンデーサイレンスに課されたハンデは、どちらのハンデが軽かったですか?", "id": "tr-152-07-000", "answers": [ { "text": "プライズド", "answer_start": 235, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "スワップスステークスで優勝した競走馬は何ですか?", "id": "tr-152-07-001", "answers": [ { "text": "プライズド", "answer_start": 425, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ブリーダーズカップ・クラシックの1週間前、サンデーサイレンスの主戦騎手パット・ヴァレンズエラに対して薬物(コカイン)検査で陽性反応が出たことを理由に60日間の騎乗停止処分が下され、急遽クリス・マッキャロンに騎手が変更されるアクシデントがあった。\nしかしサンデーサイレンス陣営は同期のライバルであるイージーゴアが抱えていた脚部不安が深刻化していたことを察知し、勝利に対する自信を深めた。\nベルモントステークスのあとG1を4連勝したイージーゴアもブリーダーズカップ・クラシックに出走することが決まり、このレースはエクリプス賞年度代表馬をかけた対決となり、競馬関係者のなかには2頭の対決をボクシングのヘビー級のタイトルマッチに例えたり「10年に一度の大一番」と呼ぶ者もいた。\nレースではイージーゴアが1番人気に支持され、サンデーサイレンスは2番人気であったが、残り200メートルの地点で先頭に立つとイージーゴアの追い上げをクビ差しのいで優勝した。\nレース後、ウィッティンガムはサンデーサイレンスを、自身が管理したなかで「文句なしに最高の馬」と評している。\nこの年、サンデーサイレンスは北アメリカにおける1年間の獲得賞金記録(457万8454ドル)を樹立した。\nさらに翌1990年1月、1989年度のエクリプス賞年度代表馬、および最優秀3歳牡馬に選出された。", "qas": [ { "question": "ブリーダーズカップ・クラシックでサンデーサイレンスに騎乗した人物は誰?", "id": "tr-152-08-000", "answers": [ { "text": "クリス・マッキャロン", "answer_start": 92, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ブリーダーズカップ・クラシックでの2着馬との着差は何でしたか?", "id": "tr-152-08-001", "answers": [ { "text": "クビ差", "answer_start": 408, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "三冠競走では、イージーゴアがサンデーサイレンスのライバルとなった。\n血統背景が優れている点、馬体が美しい点などから、イージーゴアはサンデーサイレンスとは対照的な馬とされる。\nイージーゴアはケンタッキーダービーが行われる前から競馬マスコミによって「セクレタリアトの再来か?」、「今、その存在は伝説となりつつある」と評されるなど高い評価を集め、ケンタッキーダービー、さらには同レースでサンデーサイレンスに敗れた直後のプリークネスステークスでも1番人気に支持された。\n前述のように三冠競走をサンデーサイレンスの2勝1敗で終えたあと、イージーゴアがG1を4連勝し、サンデーサイレンスがG1のスーパーダービーを優勝して迎えたブリーダーズカップ・クラシックはエクリプス賞年度代表馬をかけた対決となり、「10年に一度の大一番」といわれた。\n2頭の関係はアファームドとアリダーの再来、競馬史上最高のライバル関係と評された。\n血統評論家の吉沢譲治によると人気の面ではサンデーサイレンスの方が勝っていたとしており、「競馬場で売られるTシャツなどのホースグッズも、エリート血統のイージーゴーアものよりもサンデーサイレンスもののほうが圧倒的に多く、それがまた飛ぶように売れた」と述べている。", "qas": [ { "question": "吉沢譲治はイージーゴアとサンデーサイレンスのグッズの内、競馬場で多く売れていたのはどちらだと言っていましたか?", "id": "tr-152-09-000", "answers": [ { "text": "サンデーサイレンス", "answer_start": 424, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ブリーダーズカップ・クラシックは、イージーゴアとサンデーサイレンスにとって何の賞をかけた対決でもあったのですか?", "id": "tr-152-09-001", "answers": [ { "text": "エクリプス賞", "answer_start": 323, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "サンデーサイレンスとイージーゴアとの比較についてウィッティンガムは、サンデーサイレンスの得意距離は1600メートルから2000メートルで、イージーゴアは一流のステイヤーと述べている。\nレイ・ポーリックは、「サンデーサイレンスは敏捷な馬でコーナーを回りながら加速することができたため、カーブがきつい競馬場を得意とし、一方イージーゴアは長い直線では圧倒的なパワーを発揮するが、きついカーブを苦手としていた」と分析している。\nなお、イージーゴアはクレイボーンファームで生まれた競走馬である。\nサンデーサイレンスの馬主アーサー・ハンコック3世はクレイボーンファームの経営者ブル・ハンコックの息子であったが、父の死後後継者に指名されなかったことに不満を覚え、クレイボーンファームと袂を分かった過去があった。\nさらにイージーゴアの名義上の生産者であり馬主であったオグデン・フィップスは、顧問としてクレイボーンファームの後継者指名に関与していた。", "qas": [ { "question": "サンデーサイレンスとイージーゴアのうち、きついカーブを得意としたのはどちらですか?", "id": "tr-152-10-000", "answers": [ { "text": "サンデーサイレンス", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サンデーサイレンスの馬主アーサー・ハンコック3世の父親は誰ですか?", "id": "tr-152-10-001", "answers": [ { "text": "ブル・ハンコック", "answer_start": 282, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "「古馬になればもっと強くなる」というウィッティンガムの主張により、サンデーサイレンスは1990年も現役を続行することになった。\nブリーダーズカップ・クラシックのあと、サンデーサイレンスは脚部に複数の故障(膝の剥離骨折と軟骨の痛み)を発症したため、骨片の摘出手術を行ったあとで休養に入った。\n1990年の3月に調教が再開された際にウィッティンガムは「ここからきっかり3ヵ月でレースに出られるように仕上げてみせる」と宣言し、宣言通り6月のカリフォルニアンステークスでレースに復帰させた。\nこのレースをサンデーサイレンスは逃げ切って優勝した。\n2着馬との着差は4分の3馬身であったが、これは今後のハンデキャップ競走で重い斤量を課されないために、着差をつけないで勝つようウィッティンが指示を出したためであった。\nなおこのレースでは、当初ブリーダーズカップ・クラシックでサンデーサイレンスに騎乗したクリス・マッキャロンが引き続き騎乗する予定であったが、当日に行われた別のレースでマッキャロンは落馬し、復帰まで5か月を要す大怪我を負った。\nこれによりパット・ヴァレンズエラがふたたび主戦騎手を務めることになった。", "qas": [ { "question": "1990年最初のサンデーサイレンスのレースは何だったの?", "id": "tr-152-11-000", "answers": [ { "text": "カリフォルニアンステークス", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カリフォルニアンステークスでサンデーサイレンスに騎乗予定だった騎手は誰?", "id": "tr-152-11-001", "answers": [ { "text": "クリス・マッキャロン", "answer_start": 394, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "続いてサンデーサイレンスは中2週でハリウッドゴールドカップに出走した。\nレースでは直線に入りクリミナルタイプとのマッチレースとなったが交わせず、アタマ差の2着に敗れた。\n敗因として、ウィッティンガムとヴァレンズエラはともにクリミナルタイプより5ポンド重い斤量を課されたことを挙げている。\n合田直弘とハンコックは、ヴァレンズエラが鞭を入れ過ぎたことを挙げている。\nその後、サンデーサイレンスはアーリントンパーク競馬場がサンデーサイレンスとイージーゴアを対決させる意図で企画した特別招待レース(アーリントンチャレンジカップ、8月4日開催予定)を目標に調整された。\n7月半ばにイージーゴアが脚部の骨折により競走馬を引退し、対戦が不可能になってからも、出走予定は変更されなかったが、レース直前に左前脚をかばう素振りを見せた。\n診察の結果左前脚にある「XYZ靭帯」と呼ばれる、馬の体重を支えるのに不可欠と言われている靱帯に小さな断裂が見つかり、獣医師のハートヒルは引退を勧告。\n陣営はそれに従い、引退を決定した。", "qas": [ { "question": "ハリウッドゴールドカップでサンデーサイレンスが負けた事に関して、合田直弘とハンコックは騎手による何が敗因であるとしましたか?", "id": "tr-152-12-000", "answers": [ { "text": "鞭を入れ過ぎたこと", "answer_start": 164, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サンデーサイレンスが競走馬として最後のレースとなったのは何ですか?", "id": "tr-152-12-001", "answers": [ { "text": "ハリウッドゴールドカップ", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ハリウッドゴールドカップで優勝したのは何でしたか?", "id": "tr-152-12-002", "answers": [ { "text": "クリミナルタイプ", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "アーリントンチャレンジカップでサンデーサイレンスと対戦予定だったが、ケガのため引退してしまった競走馬は何?", "id": "tr-152-12-003", "answers": [ { "text": "イージーゴア", "answer_start": 285, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ハンコックは総額1000万ドル(1株25万ドル×40株)のシンジケートを組み、サンデーサイレンスにアメリカで種牡馬生活を送らせる予定だった。\nしかし、ヘイロー産駒の種牡馬成績が優れなかったことやファミリーラインに対する評価の低さから種牡馬としてのサンデーサイレンスに対する評価は低く、株の購入希望者は3人にとどまり、種付けの申込みを行った生産者はわずか2人であった。\nそんな中、1990年はじめに、ハンコックから250万ドルで持ち分の半分(全体の4分の1)を買い取っていた日本の競走馬生産者吉田善哉が、サンデーサイレンスの購入を打診してきた。\n当時ハンコックは、ストーンファームの経営を拡大させる中で出来た負債を抱えており、さらにアメリカ全体が深刻な不況に苦しんでいた経済的事情から「他に道はない」と判断し、サンデーサイレンスを売却することにした。", "qas": [ { "question": "引退後のサンデーサイレンスを買い取った日本人の名は何といいますか?", "id": "tr-152-13-000", "answers": [ { "text": "吉田善哉", "answer_start": 245, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "吉田善哉が購入のために使った金額は1100万ドル(当時の為替レートで約16億5000万円)であった。\n吉田善哉の子吉田照哉によると、取引成立には善哉とウィッティンガム、さらに照哉とハンコックとの間に交友関係があったことが大きく作用しており、「築きあげてきた人脈なくしては不可能だった」。\n照哉はかつてクレイボーンファームに隣接するフォンテンブローファームの場長を務めたことがあり、その縁でハンコックとは親しい間柄であった。\nしかしながら、この取引は当時、「日本人のブリーダーがとても成功しそうにない母系から生まれたヘイロー産駒を買っていった」とアメリカの生産者の笑いものになった。\n一方、「欧米の超スーパーホースが、いきなり日本で種牡馬入りするというのはまずあり得ない」と考えられていた当時の日本競馬界では衝撃をもって受けとめられ、吉沢譲治は「野球に例えるなら、メジャーリーグで現役バリバリの奪三振王、ホームラン王が、何かの間違いで日本の高校野球に入ったようなものだった」と評している。", "qas": [ { "question": "吉田善哉がサンデーサイレンスを購入した金額は当時の日本円でいくら?", "id": "tr-152-14-000", "answers": [ { "text": "約16億5000万円", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "吉田照哉がハンコックとの間に交友関係があったのは、照哉が何を務めたことがきっかけとなりましたか?", "id": "tr-152-14-001", "answers": [ { "text": "フォンテンブローファームの場長", "answer_start": 165, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "作家の吉川良によると、吉田善哉がサンデーサイレンスの購入を思い立ったのは、同馬が勝ったプリークネスステークスのビデオを観たときのことである。\n吉田善哉は吉川の前で「欲が出るね。これは忙しくなる。わたしか照哉がしばらくアメリカに下宿しなくちゃならなくなるかもしれんな」と述べたという。\n実際に購入に踏み切った動機について作家の木村幸治は、「社台ファームで繋養されていた種牡馬ディクタスが1989年9月20日に死亡したため、その後釜を探していたのだ」と推測している。\n木村によると当時社台ファームにはノーザンテースト、リアルシャダイ、ディクタスに続く種牡馬を導入し、生産馬について「同じ系統の馬だけが増加し、近親の度合いが濃くなり過ぎる」ことを解消しようとする動きがあった。\n吉田善哉は、サンデーサイレンスが勝ったブリーダーズカップクラシックを現地で観戦して帰国後、「サンデーサイレンスを早来に持ってくるぞ」と宣言した。\nハンコックによると、購入交渉における吉田善哉の「サンデーサイレンスに対する執着心は度外れたものだった」。\n吉田善哉は、サンデーサイレンス産駒のデビューを見ることなく、1993年8月にこの世を去っている。", "qas": [ { "question": "吉田善哉がサンデーサイレンスを購入した理由として推測されているのは、死亡したある種牡馬の後釜を探していたとされているが、その馬の名前は何?", "id": "tr-152-15-000", "answers": [ { "text": "ディクタス", "answer_start": 186, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "吉田善哉が実際に現地で観戦したサンデーサイレンスのレースは何?", "id": "tr-152-15-001", "answers": [ { "text": "ブリーダーズカップクラシック", "answer_start": 355, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "吉田善哉に購入されたサンデーサイレンスは日本へ輸入され、1991年から社台スタリオンステーションで種牡馬生活を開始した。\n種牡馬入りに際し、総額25億円(4150万円×60株)のシンジケートが組まれた。\nシンジケートは満口となったものの、当初サンデーサイレンスの評価はさほど高くなかったうえに種付料が1100万円と高額であったため、期待されていたほどの交配申し込みはなく、もっとも多く交配したのは吉田善哉が経営する社台ファーム千歳(現在の社台ファーム)に繋養されていた繁殖牝馬であったが、その結果誕生した馬に対する同牧場の関係者の評価は高くなかった。\nしかし、1994年6月にデビューした初年度産駒は、社台ファームの関係者にとっても予想を上回る活躍をし、約半年の間に30勝(重賞4勝)を挙げた。", "qas": [ { "question": "サンデーサイレンスの初年度産駒は何年にデビューしたの?", "id": "tr-152-16-000", "answers": [ { "text": "1994年", "answer_start": 280, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "サンデーサイレンスはその後も活躍馬を次々と輩出し、初年度産駒がデビューした翌年の1995年にリーディングサイアーを獲得。\n2世代の産駒だけでリーディングサイアーを獲得というのは中央競馬史上初の記録である。\n以後2007年まで13年連続でリーディングサイアーに君臨した。\n同じく1995年に種牡馬としての中央競馬獲得賞金記録を更新。\nその後もサンデーサイレンスは、中央競馬における種牡馬に関する記録を次々と更新、産出された12世代すべてからGI級競走優勝馬が登場し、産駒は日本の中央競馬の24あるGI級競走のうち、20で勝利を収めた。\n産駒のうちディープインパクトとスティルインラブが中央競馬における三冠を達成しているが、三冠馬を二頭、それも牡牝双方で輩出した種牡馬は、サンデーサイレンスただ一頭である。", "qas": [ { "question": "サンデーサイレンスは1995年にリーディングサイアーを初めて獲得した後、何年連続で獲得し続けたの?", "id": "tr-152-17-000", "answers": [ { "text": "13年連続", "answer_start": 112, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サンデーサイレンスの産駒は全部で何世代まであるの?", "id": "tr-152-17-001", "answers": [ { "text": "12世代", "answer_start": 210, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サンデーサイレンスの産駒のうち中央競馬における三冠を達成しているのはスティルインラブともう一頭は何?", "id": "tr-152-17-002", "answers": [ { "text": "ディープインパクト", "answer_start": 272, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "種付け料は初年度は1100万円でスタートし、3年後は800万円まで下がったものの、初年度産駒の活躍以降は高騰を続け、2500万円(不受胎8割返金条件付き)にまで上がった。\n種牡馬として導入された当初は、ノーザンテースト系をはじめアウトブリードできる優秀な配合相手を選べたことが大きな強みになった。\n種付け頭数も生産者の要望に応える形で年を追うごとに増加し、2001年は年間200頭を超える繁殖牝馬と交配された。\nそれまで日本の競走馬生産者の間には年間100頭を超えて種付けをさせることは種牡馬を酷使しているという認識があったが、サンデーサイレンスの種付け頭数が100頭、200頭を超えるのに伴いほかの種牡馬も200頭を超える種付けを行うことが珍しくなくなった。\nブリーダーズ・スタリオン・ステーションの秋山達也によると、このような種付け頭数の増加は有力種牡馬に交配の申し込みが殺到する現象を生み、成績が優れない種牡馬が以前よりも早く見切られるようになった。\n種牡馬時代の厩務員を務めた佐古田直樹によるとサンデーサイレンスは性欲が強く、最大で年間224頭(2001年)の繁殖牝馬と交配したにもかかわらず種付けを嫌がる様子を見せなかった。\n佐古田はサンデーサイレンスを「まるで種付けマシーンのよう」と形容している。", "qas": [ { "question": "サンデーサイレンスの種付け料で最高額はいくらでしたか?", "id": "tr-152-18-000", "answers": [ { "text": "2500万円", "answer_start": 58, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サンデーサイレンスの種付け料で最低額はいくらでしたか?", "id": "tr-152-18-001", "answers": [ { "text": "800万円", "answer_start": 26, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "サンデーサイレンスの種付け頭数が年間で最も多かったのは何年だったの?", "id": "tr-152-18-002", "answers": [ { "text": "2001年", "answer_start": 477, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "産駒は日本国外のレースでも活躍を見せ、日本調教馬は日本国外でG1を3勝(ステイゴールド、ハットトリック、ハーツクライが各1勝)した。\nさらにオーストラリア生まれ(交配は秋〈南半球は春で繁殖シーズンにあたる〉に日本で行われた)のサンデージョイ(SundayJoy)がG1のオーストラリアンオークスを優勝するなど、日本国外生産馬および日本国外調教馬からも複数の重賞優勝馬を輩出した。\n日本国外で活躍する産駒が出現した影響から、日本国外の有力馬主がセレクトセールでサンデーサイレンス産駒を購買し、さらに繁殖牝馬を日本へ移送して交配させるようになった。\n1998年にはヨーロッパに生産拠点を置くドバイのシェイク・モハメドが何頭かの繁殖牝馬を日本に送り込んでサンデーサイレンスと種付けさせ、翌年誕生した産駒の内の一頭のサイレントオナーがイギリスのG2・チェリーヒントンステークスを優勝した。\n2001年に行われた第4回セールでは、ロッタレースの2001を巡ってゴドルフィンとクールモアスタッドの代理人が激しい競り合いを演じた(ゴドルフィンが1億9000万円で落札)。", "qas": [ { "question": "2001年に行われた第4回セールで、ロッタレースの2001を最も高い金額で落札したのはどこ?", "id": "tr-152-19-000", "answers": [ { "text": "ゴドルフィン", "answer_start": 425, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "サンデーサイレンスの産駒の中で、イギリスで優勝したのは何という馬ですか?", "id": "tr-152-19-001", "answers": [ { "text": "サイレントオナー", "answer_start": 354, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "2002年5月5日、サンデーサイレンスは右前脚に跛行を発症し、この年の春の種付けを中止して休養に入った。\n一度は快方に向かったものの同月10日に跛行が再発。\n検査の結果、右前脚にフレグモーネを発症していることが判明した。\nフレグモーネを引き起こした細菌は、血管が少なく抗生物質の効果が現れにくい深屈腱に入り込んでいた。\nさらに、通常フレグモーネは外傷から菌が侵入して発症するが、サンデーサイレンスの脚に外傷が見当たらず、発症の詳しい経緯が不明であったことから治療に有効な抗生物質が見つけられなかった。\nこれらの理由から治療は困難を極めた。\nサンデーサイレンスを繋養する社台スタリオンステーションは、イギリスからフレグモーネの専門医を招いて治療を行った。\n3回にわたって患部を切開して洗浄する措置が施された結果、右前脚の病状は改善したものの、8月に入りそれまでに右前脚をかばった負担が原因となって左前脚に蹄葉炎を発症。\n懸命な治療の甲斐なく、8月19日に衰弱性心不全のため死亡した。\nサンデーサイレンスは火葬され、社台スタリオンステーションの敷地内に埋葬された。\n墓の横には吉田善哉の遺品が埋められている。\n産駒は2003年生まれがラストクロップとなった。\n最後に生まれた産駒はハギノプリンセス(母サベージレディ)である。\nまた、中央競馬で最後の登録馬は、2012年に引退したアクシオンであった。", "qas": [ { "question": "サンデーサイレンスが死亡したのは西暦何年?", "id": "tr-152-20-000", "answers": [ { "text": "2002年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サンデーサイレンスの産駒の最後の世代は何年生まれですか?", "id": "tr-152-20-001", "answers": [ { "text": "2003年", "answer_start": 506, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "サンデーサイレンスは非常に気性が荒く、騎乗した人間の指示に従わず暴れる傾向があった。\nウィッティンガムは、厩舎一の腕を持つジャネット・ジョンソンをサンデーサイレンス担当の調教助手に指名したが、ジョンソンは気性の荒さに嫌気が差し、一度騎乗しただけで降板している。\n騎手のウィリー・シューメーカーも調教のために騎乗したことがあるが、気性の荒さに激怒し、レースでの騎乗を拒否した。\nウィッティンガムによると、ヘイローの産駒は総じて気性が荒いという。\nしかし、種牡馬時代のサンデーサイレンスは、メジロマックイーンがそばにいると大人しくなることが多く、サンデーサイレンスとメジロマックイーンの放牧地は隣同士に設えられていたという逸話がある。\n前述のように、サンデーサイレンスは1986年11月に悪性のウイルスに感染して激しい下痢を起こし、生死の境をさまよったことがある。この闘病についてハンコックは「普通の馬だったらダメだっただろう」、「よほどの精神力がなければ、とてもじゃないがあんな経験は乗り越えられない」と述べている。", "qas": [ { "question": "気性の荒いサンデーサイレンスを大人しくさせることが出来た馬の名前は何?", "id": "tr-152-21-000", "answers": [ { "text": "メジロマックイーン", "answer_start": 243, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジャネット・ジョンソンもウィリー・シューメーカーもサンデーサイレンスのどういった性格に嫌気を指して騎乗拒否をしましたか?", "id": "tr-152-21-001", "answers": [ { "text": "気性の荒さ", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "サンデーサイレンスという競走馬名は、メリーランド州に住むストローという名の夫婦が考案した。\n意味は「静寂なる日曜日」である。\n夫妻は「自分たちが所有する競走馬がケンタッキーダービーに出走を果たすとしたら、どんな名前がいいだろう」という空想をもとに作成した競走馬名リストをストーンファームに送り、その中からハンコックが「サンデーサイレンス」を採用した。", "qas": [ { "question": "サンデーサイレンスの名前の意味は何?", "id": "tr-152-22-000", "answers": [ { "text": "「静寂なる日曜日」", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "乗鞍岳", "paragraphs": [ { "context": "乗鞍岳(のりくらだけ)は、飛騨山脈南部の長野県松本市と岐阜県高山市にまたがる剣ヶ峰(標高3,026m)を主峰とする山々の総称だ。\n山頂部のカルデラを構成する最高峰の剣ヶ峰、朝日岳などの8峰を含め、摩利支天岳、富士見岳など23の峰があり、高山市奥飛騨温泉郷、高山市丹生川町、高山市朝日町、高山市高根町、長野県松本市安曇にまたがる広大な裾野をもつ。\n飛騨側の高山市街地などから大きな山容を望むことができ、親しまれてきた山である。\n剣ヶ峰は、本州を太平洋側と日本海側に分ける分水界上の最高峰でもある。", "qas": [ { "question": "乗鞍岳の最高峰となる地点は標高何mですか?", "id": "tr-153-00-000", "answers": [ { "text": "3,026m", "answer_start": 44, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "山体は岐阜県と長野県に跨がる活火山で日本で19番目に高い山だ。\n活火山ランクC気象庁による常時観測対象の47火山に含まれるが山頂部に噴気地帯は存在しない。\n比較的新しい火山であることから穏やかな山容が特徴で、最新の噴火は2000年前の恵比寿岳での噴火とされている。\n乗鞍岳を含む飛騨山脈の主な山域は1934年(昭和9年)12月4日に中部山岳国立公園の指定を受けた。\n長野県側の麓には溶岩流で形成された乗鞍高原が広がる。\n1949年に岐阜県道の観光道路で標高2,702mの畳平までバスが運行されるようになると、大衆化し「雲上銀座」と呼ばれ観光地として賑わった。\n長野県側からも畳平まで乗鞍エコーラインが開通し山麓にはスキー場が建設され周辺には温泉地があり、四季を通じて美しい景観に恵まれ、乗鞍岳の山域は観光地、保養地として発展している。\n日本百名山、新日本百名山、信州百名山、ぎふ百山、一等三角点百名山に選定されている。", "qas": [ { "question": "乗鞍岳の中で最も最近に噴火した山は何ですか?", "id": "tr-153-01-000", "answers": [ { "text": "恵比寿岳", "answer_start": 117, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "乗鞍岳はどのような通称名で観光地として賑わいましたか?", "id": "tr-153-01-001", "answers": [ { "text": "「雲上銀座」", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "乗鞍岳は日本で何番目に高い山なの?", "id": "tr-153-01-002", "answers": [ { "text": "19番目", "answer_start": 21, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "平安時代から室町時代にかけて古歌で「位山」と呼ばれ、1645年(正保2年)頃に乗鞍岳と呼ばれるようになったとされている。\n1829年(文政12年)の『飛州誌』では、「騎鞍ヶ嶽」と記されていた。\n飛騨側から眺めた山容が馬の鞍のように見えることから、「鞍ヶ嶺(鞍ヶ峰)」と呼ばれていた。\n日本には同じ飛騨山脈に属する白馬連峰の乗鞍岳をはじめとして同名の乗鞍岳が複数あり、「乗鞍」は馬の背に鞍を置いた山容に由来している。\n信州では最初に朝日が当たる山であることから「朝日岳」と呼ばれていた。\n最高峰の剣ヶ峰の別称が、「権現岳」だ。\n魔王岳と摩利支天岳は円空が命名して開山したとされている。\n1963年(昭和38年)11月に乗鞍国民休暇村(休暇村乗鞍高原)の開設に伴い、番所平と金山平と呼ばれていた周辺一帯が乗鞍高原と呼ばれるようになっていった。\n南北に多数の峰が連なることから「乗鞍連峰」と呼ばれることもある。", "qas": [ { "question": "乗鞍岳の信州での呼び名は何でしたか?", "id": "tr-153-02-000", "answers": [ { "text": "「朝日岳」", "answer_start": 229, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「権現岳」はどこを指していますか?", "id": "tr-153-02-001", "answers": [ { "text": "剣ヶ峰", "answer_start": 247, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1829年の『飛州誌』には乗鞍岳のことを何と記していましたか?", "id": "tr-153-02-002", "answers": [ { "text": "「騎鞍ヶ嶽」", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "魔王岳の名付け親は誰ですか?", "id": "tr-153-02-003", "answers": [ { "text": "円空", "answer_start": 273, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "日本の火山としては富士山、御嶽山に次ぐ高さである。\n乗鞍岳は複数の火山が南北に並ぶ複合火山である。\n千町火山体(せんちょうかざんたい、128-86万年前に活動した古期乗鞍火山)と烏帽子火山体、四ッ岳火山体、恵比寿火山体、権現池・高天ヶ原火山体(32万年前に活動を開始した新期乗鞍火山)で構成されている。\n古い火山体の千町火山体と烏帽子火山体では、浸食と崩壊が進んでいる。\n新期の火山体は山頂付近に分布する火山体や山腹に分布する溶岩ドームと溶岩流からなる大規模な成層火山。\n剣ヶ峰の噴火での直下西に権現池の火口湖が形成された。\n約9000年前に現在の乗鞍岳の山容が形成された。", "qas": [ { "question": "権現池・高天ヶ原火山体と千町火山体はどちらがより古い時代に活動した火山になりますか?", "id": "tr-153-03-000", "answers": [ { "text": "千町火山体", "answer_start": 50, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "富士山、御嶽山、乗鞍岳の中で最も低い山はどれ?", "id": "tr-153-03-001", "answers": [ { "text": "乗鞍岳", "answer_start": 26, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "乗鞍岳の現在の姿が形成されたのは何年前でしたか?", "id": "tr-153-03-002", "answers": [ { "text": "約9000年前", "answer_start": 263, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "山頂部は南北6km、山体は北の安房峠から南の野麦峠まで南北15km、東西に30km、山域の面積は約250km2と裾野が広いのが特徴で、飛騨山脈の中では最も広い山域を持つ。\n乗鞍高原などの8つの平原がある。\n火山湖と堰止湖の12の池があり、山頂直下西にある権現池は、日本では御嶽山の二ノ池に次いで2番目の高所にある湖沼だ。\n梓川、神通川、飛騨川の源流となる山で、それらの分水嶺となっている。\n山頂付近の積雪が多く、乗鞍スカイラインの開通のために長期間の除雪が必要となる。\n夏でも一部の北東斜面などには雪渓が残り、夏山でのスキーが可能となっている。\n西山腹の千町火山体の溶岩台地上の千町ヶ原から奥千町にかけては、池塘が点在する高層湿原となっている。", "qas": [ { "question": "山体の距離が長いのは南北と東西のどちらですか?", "id": "tr-153-04-000", "answers": [ { "text": "東西", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "権現池と二ノ池はどちらがより高所に位置している湖沼ですか?", "id": "tr-153-04-001", "answers": [ { "text": "二ノ池", "answer_start": 140, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "二ノ池の次に高所に位置している湖沼とは何?", "id": "tr-153-04-002", "answers": [ { "text": "権現池", "answer_start": 127, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "乗鞍岳にある平原と池の数はどちらの方が多いですか?", "id": "tr-153-04-003", "answers": [ { "text": "池", "answer_start": 114, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "雄大な広がりを持つ乗鞍岳はコニーデ型の火山で、新生代の第四紀(洪積世・沖積世)、地球全体で火山活動が極めて活発だった時代に誕生したといわれる。\n乗鞍岳の表面は火成岩に覆われ、山頂部一帯には爆発の傷跡を残す火口壁や火口湖が点在している。\n現在は活火山としての活動力は失われているが、湯川の上流で吹き出すガスや山ふところの温泉群は、往時の火山活動の名残をとどめるものである。", "qas": [ { "question": "乗鞍岳の表面はどのような岩石で覆われているの?", "id": "tr-153-05-000", "answers": [ { "text": "火成岩", "answer_start": 79, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "乗鞍岳はどのような火山地形をしているの?", "id": "tr-153-05-001", "answers": [ { "text": "コニーデ型", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "100年活動指数と1万年活動指数がともに低い火山であることから、「活火山ランクC」の指定を受けている。\n2009年(平成21年)6月に火山噴火予知連絡会により、山体浅い部に地震活動が認められていることから、過去100年以内に火山活動の高まりが認められている火山として、火山防災のために監視・観測体制等の必要がある火山の一つの指定を受けている。\n火山性の地震群発は現在でも観測されている。\n活火山としての活動力を失っていて山頂部に噴気地帯はないが、湯川(梓川の支流)の最上流部では火山ガスが発生している。\n周辺では気象庁、国土地理院、防災科学技術研究所、名古屋大学により地震計、傾斜計、空振計、GPS、遠望カメラが設置され火山活動の監視と観測が行われている。\n気象庁は2007年(平成19年)12月1日に噴火予報で「平常」を発表しており、「噴火警戒レベル対象外火山」であり、2013年7月度の気象庁火山部火山監視・情報センターの月例報告で、「火山活動に特段の変化はなく、静穏に経過し噴火の兆候は認められない」と発表している。\nしかし、1000年以上噴火しておらず、そろそろ噴火をしても良い時期と考える火山学者もいる。\n2014年の木曽御嶽山噴火災害をうけて、ハザードマップが作成されていない状態の解消を目指し、乗鞍防災協議会設置のための火山対策検討会議が行われた。", "qas": [ { "question": "乗鞍岳は何年以上噴火していないですか?", "id": "tr-153-06-000", "answers": [ { "text": "1000年以上", "answer_start": 466, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "乗鞍岳は活火山のランク分けが何に指定されているの?", "id": "tr-153-06-001", "answers": [ { "text": "C", "answer_start": 39, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "山頂部には北から順番に以下の峰が連なり、乗鞍23峰と呼ばれている。\nその他の峰として、高天ヶ原(たかまがはら、2,829m)と金山岩(かなやまいわ、2,532m)がある。\n最高峰の剣ヶ峰には一等三角点が設置されている。\n多くの峰は登山規制が行われていて、立ち入りが禁止されている。", "qas": [ { "question": "高天ヶ原と金山岩はどちらの方が標高が高いですか?", "id": "tr-153-07-000", "answers": [ { "text": "高天ヶ原", "answer_start": 43, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "古生層の安山岩類や花崗岩類、デイサイト質の溶岩などで構成されている。\n乗鞍岳ではパン皮状火山弾(breadcrustbomb)が見られ、火口付近では吹き飛ばされた古い岩石の破片、スコリア、軽石なども見られる。\n山頂付近には亀甲砂礫や条線砂礫などの構造土が見られ、地理学者の田中阿歌麿が日本の周氷河地形として初めて亀ヶ池で構造土を発見した。\n乗鞍高原の鈴蘭には武田信玄によって開発されたとされる大樋鉱山があって、1640年(寛永17年)から1697年(元禄10年)にかけて盛んに銀が産出されていた。\n東山腹の梓川の支流湯川沿いの白骨温泉では石灰華(炭酸カルシウム)の沈殿物が見られ、「白骨温泉の噴湯丘と球状石灰石」が1952年3月29日に国の特別天然記念物の指定を受けた。", "qas": [ { "question": "日本の周氷河地形として初となる亀ヶ池での構造土の発見者は誰?", "id": "tr-153-08-000", "answers": [ { "text": "田中阿歌麿", "answer_start": 136, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大樋鉱山は誰によって開発されたといわれているの?", "id": "tr-153-08-001", "answers": [ { "text": "武田信玄", "answer_start": 179, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "江戸時代に大樋鉱山で産出された鉱物とは何?", "id": "tr-153-08-002", "answers": [ { "text": "銀", "answer_start": 238, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "「白骨温泉の噴湯丘と球状石灰石」はいつ国の特別天然記念物の指定を受けたの?", "id": "tr-153-08-003", "answers": [ { "text": "1952年3月29日", "answer_start": 307, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "自然保護の観点から乗鞍スカイラインと乗鞍エコーラインで2003年からマイカー規制が実施され、バスとタクシーを除き一般車両の通行が禁止されるようになった。\nこれらの山岳道路では麓の山地帯、亜高山帯、高山帯へと植生の垂直分布の移行を観察することができる。\n東側の乗鞍高原の山麓では明治時代に牛の放牧とソバ畑の開拓が行われた。", "qas": [ { "question": "一般車両の通行が不可となったのは何年からですか?", "id": "tr-153-09-000", "answers": [ { "text": "2003年", "answer_start": 27, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "2003年からの規制により、通行可能なのはバスと何ですか?", "id": "tr-153-09-001", "answers": [ { "text": "タクシー", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "山頂付近の摩利支天岳(標高2,872m)頂上の乗鞍コロナ観測所で観測された、毎日の平均気温、最低気温、最高気温の月ごとの1971年(昭和46年)から2000年(平成12年)までの30年間の平均値を下表に示す。\n1月下旬から2月上旬にかけてが最も寒く、8月初旬が最も暑い。\n畳平へのシャトルバスの夏の早朝便ではカーエアコンで暖房される。\nまた、年間平均気温、および最低気温、最高気温の年間平均値を下表に示す。\n年間の平均気温の最低値は1986年の-4.1°C、最高値は1998年の-0.5°Cだ。\n9時と15時における風力の月ごとの1989年(平成元年)から1997年(平成9年)までの9年間の平均値を下表に示す。\n風向きは年間を通じて北西が主流となっている。\n冬期に風が強い日が多く、9時、15時の区別なく1-2月には風力4.9-5.2(風速換算で約10m/s)。\n9時と15時における月別天気出現率(%)(1968-1997年の平均値)を下表に示す。\n乗鞍岳では夏に午後になると霧や雲の発生が活発になることが多く、他の山岳地帯と同様に午前中の方が天候が安定している。\n畳平では濃霧で視界不良となることもある。\n例年9月末-10月にかけて山頂部で初冠雪し、6月にも雪が降ることがある。", "qas": [ { "question": "乗鞍岳で最も暑い時期はいつ?", "id": "tr-153-10-000", "answers": [ { "text": "8月初旬", "answer_start": 125, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "年間の平均気温の最低値を記録した年はいつ?", "id": "tr-153-10-001", "answers": [ { "text": "1986年", "answer_start": 216, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "年間の平均気温の最高値を記録した年はいつ?", "id": "tr-153-10-002", "answers": [ { "text": "1998年", "answer_start": 233, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "毎年山頂部で初雪が降る時期はいつですか?", "id": "tr-153-10-003", "answers": [ { "text": "9月末-10月", "answer_start": 508, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "山域にはオコジョ、トウホクノウサギ、ニホンカモシカ、ツキノワグマ、イワヒバリ、ホシガラス、国の特別天然記念物に指定されているライチョウなど生息する。\nツキノワグマについては2009年に、畳平でバスターミナル周辺を襲う事件があり、9人の観光客がクマの攻撃を受ける騒動となった事例がある。", "qas": [ { "question": "乗鞍岳の山域で国の特別天然記念物に指定されている動物は何ですか?", "id": "tr-153-11-000", "answers": [ { "text": "ライチョウ", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2009年に9人の観光客を襲った大型動物は何ですか?", "id": "tr-153-11-001", "answers": [ { "text": "ツキノワグマ", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ライチョウに関しては、長野大学生態学研究室により詳細な生息調査が行われている。\nライチョウの乗鞍岳における総個体数は1983年の調査では130羽、1994年の調査では109羽と減少傾向にある(環境省のレッドリストの絶滅危惧IB類の指定を受けている種)。\nイワツバメ、イワヒバリ、カヤクグリ、ライチョウ、ルリビタキの繁殖が確認されていて、カラ類、キセキレイ、ホシガラスなど多くの野鳥が生息している。", "qas": [ { "question": "ライチョウの乗鞍岳における総個体数が多かったのは1983年と1994年のどちらですか?", "id": "tr-153-12-000", "answers": [ { "text": "1983年", "answer_start": 58, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "白樺峠は、乗鞍高原一帯を通過していくタカの渡りの観察地として知られていて、9月下旬にはサシバ、ハチクマ、10月中旬にはノスリ、ツミなどの渡りが見られる。\n乗鞍高原では7種のコウモリの生息が確認されていて、日本の固有種であるクビワコウモリの繁殖が日本で初めて乗鞍高原で確認された。\n長野県の天然記念物の指定種の高山蝶のクモマベニヒカゲとミヤマモンキチョウやクジャクチョウ、コヒオドシなどの蝶が生息し、岐阜県のレッドリストで指定を受けている高山蛾のアルプスカバナミシャク、アルプスギンウワバ、アルプスヤガ、アルプスクロヨトウ、オオギンスジコウモリ、クモマウスグロヤガ、サザナミナミシャク、タカネモンヤガ、ナカトビヤガ、ヤツガダケヤガなどの確認記録がある。", "qas": [ { "question": "日本初のビワコウモリの繁殖が確認された場所はどこ?", "id": "tr-153-13-000", "answers": [ { "text": "乗鞍高原", "answer_start": 77, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "乗鞍高原で生息確認されているコウモリは何種ですか?", "id": "tr-153-13-001", "answers": [ { "text": "7種", "answer_start": 83, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "志村烏嶺が乗鞍岳で高山植物の採集と研究を行っている。\n位ヶ原と桔梗ヶ原では大規模なハイマツの群生地となっている。\nコイワカガミ、キバナシャクナゲ、ミヤマキンバイ、クロユリ、コマクサ、イワギキョウ、ヨツバシオガマなどの植物が見られ、高山ならではの自然を堪能する事ができる。\n富士見岳、魔王岳などの風衝地にはコマクサの群落が広がっている。\n大黒岳は山全体にコマクサが分布していたが、人の増加に伴い踏み荒らされ大幅に減少した。\n雪解けとともに開花が始まり、秋にはコケモモ、ダケカンバ、チングルマ、ナナカマドなどの紅葉が見られる。\n江戸時代大樋鉱山で銀を抽出する際に薪や炭を作るために乗鞍高原周辺の原生林のシラビソやブナが切り尽くされた。\nその結果乗鞍高原鈴蘭付近は、シラカバなどの二次林とスズラン、ヤナギランなどの草原となりっており、ミズバショウなどの高原植物も分布している。", "qas": [ { "question": "ハイマツの群生地となっているのは魔王岳と桔梗ヶ原のどちらですか?", "id": "tr-153-14-000", "answers": [ { "text": "桔梗ヶ原", "answer_start": 31, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "乗鞍岳で高山植物の採集と研究を行っている人は誰ですか?", "id": "tr-153-14-001", "answers": [ { "text": "志村烏嶺", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "富士見岳、魔王岳などの風衝地に生息している高山植物とは何?", "id": "tr-153-14-002", "answers": [ { "text": "コマクサ", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "乗鞍高原には湿原があり、「乗鞍岳湿原」として日本の重要湿地500の一つに選定されている。\n子ノ原高原はレンゲツツジの名所として知られていて、「子ノ原高原レンゲツツジ群落」が1969年8月5日に高山市の天然記念物の指定を受けている。\n西面中腹の千町ヶ原の湿原には、キソチドリ、コバイケイソウ、モウセンゴケなどが分布する。\n東面中腹の位ヶ原では、9月下旬-10月上旬ごろにナナカマドとダケカンバが紅葉する。\n乗鞍岳では山麓から山上部にかけて以下の植物の垂直分布が見られる。\n山岳道路開通に伴い帰化植物が侵入し、飛騨山脈原産のオオハンゴンソウが乗鞍スカイラインの旧料金所の上部の亜高山帯で、セイヨウタンポポが畳平の駐車場で、ムラサキツメクサが鶴ヶ池付近で確認されている。\n乗鞍スカイライン沿いでは針葉樹の立ち枯れが確認されている。", "qas": [ { "question": "子ノ原高原のレンゲツツジが高山市の天然記念物に指定されたのはいつでしたか?", "id": "tr-153-15-000", "answers": [ { "text": "1969年8月5日", "answer_start": 86, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "子ノ原高原では何の花が有名ですか?", "id": "tr-153-15-001", "answers": [ { "text": "レンゲツツジ", "answer_start": 51, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「乗鞍岳湿原」は何に選定されているの?", "id": "tr-153-15-002", "answers": [ { "text": "日本の重要湿地500", "answer_start": 22, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "乗鞍岳の高山帯と大部分の山域は国有林であり、林野庁中部森林管理局飛騨森林管理署内にある。\n畳平周辺の多くの高山植物が分布するハイマツ帯は、林野庁によりレクリエーションの森の「乗鞍自然観察教育林」の指定を受けている。\n畳平には飛騨森林管理署詰所があり、その南側のお花畑には観察用の木道が整備されている。\n乗鞍地域の環境保全を目的として2002年10月9日に岐阜県議会で「岐阜県乗鞍環境保全税条例」が可決され、2003年5月15日のマイカー規制開始時から乗鞍スカイラインに乗り入れる自動車に対して課税と徴収が行われるようになった。\n税収は環境影響評価調査や環境パトロール員の配置などの乗鞍環境保全施策に使われている。\n課税標準は以下である。", "qas": [ { "question": "乗鞍スカイラインを利用する自動車を対象に課税と徴収が行われるようになったのはいつからですか?", "id": "tr-153-16-000", "answers": [ { "text": "2003年5月15日", "answer_start": 203, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "畳平周辺に位置しているハイマツ帯は何の指定を受けているの?", "id": "tr-153-16-001", "answers": [ { "text": "「乗鞍自然観察教育林」", "answer_start": 86, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "古くは「位山」と呼ばれ、山麓から遥拝されていた。\n飛騨側では大丹生池付近、信州側では乗鞍高原山麓の梓水神社付近に遥拝所があったとみられている。\n修験者が登頂するようになると、山頂の飛騨側に乗鞍大権現、信州側に朝日権現神社が祀られ、霊山としての修行の場であった。\n同じ飛騨地方にある白山や御嶽山と比較すると宗教的な意味合いが薄い山であった。\n飛騨側にはいくつもの信仰の道が作られ、麓には乗鞍神社が建立され、乗鞍信仰が盛んであった。\n円空上人と木喰上人が修行のために登ったと伝えられている。", "qas": [ { "question": "飛騨地方内に位置している宗教的な意味合いが深い山とは、御嶽山と何の山ですか?", "id": "tr-153-17-000", "answers": [ { "text": "白山", "answer_start": 140, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "山頂の飛騨側に祀られたものは何ですか?", "id": "tr-153-17-001", "answers": [ { "text": "乗鞍大権現", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "山頂の信州側に祀られたものは何ですか?", "id": "tr-153-17-002", "answers": [ { "text": "朝日権現神社", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "信州側では奈良時代と室町時代には水神の霊山として、江戸時代にかけては戦の神としての信仰の山であった。\n東面標高2,100mの冷泉小屋脇には、乗鞍修験者の行場であった霊泉の湧水がある。\n1600年代後半頃には大樋銀山の鎮守神として信仰された。\n冷泉小屋上部の大雪渓下には、江戸時代に乗鞍岳を開山した宝徳霊神の碑がある。\n18世紀末には山頂の朝日権現神社でご来光を拝んだものにはご利益があるとれ、ご来光詣でが盛んに行われるようになった。", "qas": [ { "question": "霊泉の湧水は東面標高何mの地点に位置しているの?", "id": "tr-153-18-000", "answers": [ { "text": "2,100m", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "大樋銀山の鎮守神として信仰された年代はいつでしたか?", "id": "tr-153-18-001", "answers": [ { "text": "1600年代後半頃", "answer_start": 92, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ご来光詣でが盛んに行われるようになったのはいつでしたか?", "id": "tr-153-18-002", "answers": [ { "text": "18世紀末", "answer_start": 159, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ナポレオン3世", "paragraphs": [ { "context": "ナポレオン3世(NapoléonIII,1808年4月20日-1873年1月9日)は、フランス第二共和政の大統領(在任:1848年-1852年)、のちフランス第二帝政の皇帝である(在位:1852年-1870年)。本名はシャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(CharlesLouis-NapoléonBonaparte)であり、皇帝に即位して「ナポレオン3世」を名乗る以前については一般にルイ・ナポレオンと呼ばれている。", "qas": [ { "question": "ナポレオン3世の本名は、何?", "id": "tr-154-00-000", "answers": [ { "text": "シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト", "answer_start": 109, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランス第二共和政とフランス第二帝政のうち、より早い時代に当たるのは、どちらですか?", "id": "tr-154-00-001", "answers": [ { "text": "フランス第二共和政", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フランス第二共和政とフランス第二帝政の境界ともされる人物は、誰か?", "id": "tr-154-00-002", "answers": [ { "text": "ナポレオン3世", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ナポレオン3世は、皇帝になる前には、一般に何と呼ばれたか?", "id": "tr-154-00-003", "answers": [ { "text": "ルイ・ナポレオン", "answer_start": 194, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ナポレオン3世は1808年4月20日から21日にかけてホラント王ルイ・ボナパルト(フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトの弟)とその王妃オルタンス(ナポレオンの皇后ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネの前夫との間の娘)の三男としてパリのセリュッティ通り(現ラフィット通り)に生まれた。つまりナポレオンの甥にしてジョゼフィーヌの孫にあたる。兄にナポレオン・シャルル(5歳で薨去)とナポレオン・ルイがいた。", "qas": [ { "question": "ナポレオン3世は、何年に生まれたの?", "id": "tr-154-01-000", "answers": [ { "text": "1808年", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルイ・ボナパルトの長男は、誰ですか?", "id": "tr-154-01-001", "answers": [ { "text": "ナポレオン・シャルル", "answer_start": 165, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ナポレオン3世の父親は、どの国の王だったか?", "id": "tr-154-01-002", "answers": [ { "text": "ホラント", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ナポレオン3世は、どの都市で生まれたか?", "id": "tr-154-01-003", "answers": [ { "text": "パリ", "answer_start": 109, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "父ルイ・ボナパルトは1806年にナポレオンからホラント王位を与えられていたが、兄の傀儡になるつもりはなく、オランダ人の利益を優先する独自路線をとろうとしたため、ナポレオンの圧力で1810年に退位させられた。一方、母オルタンスは熱狂的なナポレオン崇拝者であり、ボナパルト家は常にヨーロッパ人民に依拠せねばならないと主張していた。ルイ・ナポレオンは母の影響を強く受けて育った。", "qas": [ { "question": "ルイ・ボナパルトがホラント王に即位したのは、何年のことなの?", "id": "tr-154-02-000", "answers": [ { "text": "1806年", "answer_start": 10, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ルイ・ボナパルトの兄は、誰でしたか?", "id": "tr-154-02-001", "answers": [ { "text": "ナポレオン", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ルイ・ボナパルトがホラント王位から引き下ろされたのは、何年のことか?", "id": "tr-154-02-002", "answers": [ { "text": "1810年", "answer_start": 89, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ホラント王位からルイ・ボナパルトを引き下ろしたのは、だれか?", "id": "tr-154-02-003", "answers": [ { "text": "ナポレオン", "answer_start": 16, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "元老院は1804年5月18日に伯父ジョゼフ・ボナパルト(男子がいなかった)と父ルイ・ボナパルトに皇位継承権を認めていたため、生誕時点ではルイ・ナポレオンは伯父、父、兄に次ぐ第4位の皇位継承権者であった。ただ1811年3月にはナポレオンが後妻であるハプスブルク家の皇女マリー・ルイーズとの間にナポレオン2世を儲けたため、それ以降はルイ・ボナパルトの2人の息子の重要性は下がった。", "qas": [ { "question": "1804年の時点で第1位の皇位継承権者は、だれだったの?", "id": "tr-154-03-000", "answers": [ { "text": "ジョゼフ・ボナパルト", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ルイ・ナポレオンと彼の兄に対し、皇位を継承する可能性自体が少なくなったのは、だれが生まれたからでありますか?", "id": "tr-154-03-001", "answers": [ { "text": "ナポレオン2世", "answer_start": 145, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ナポレオン2世は、いつ生まれたか?", "id": "tr-154-03-002", "answers": [ { "text": "1811年3月", "answer_start": 103, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナポレオン2世の母親は、誰か?", "id": "tr-154-03-003", "answers": [ { "text": "マリー・ルイーズ", "answer_start": 133, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1814年3月31日にパリは反ナポレオン同盟軍によって陥落させられ、ナポレオンは廃位のうえエルバ島の領主に左遷された。反ナポレオン同盟国はフランスを革命前の状態に戻すべく、5月にブルボン家のルイ18世による復古王政を樹立させた。", "qas": [ { "question": "反ナポレオン同盟軍によりパリが陥落されたのは、いつのことなの?", "id": "tr-154-04-000", "answers": [ { "text": "1814年3月31日", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルイ18世が即位したのは、何年のことですか?", "id": "tr-154-04-001", "answers": [ { "text": "1814年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "反ナポレオン同盟国がフランスの王座に座らせたのは、誰か?", "id": "tr-154-04-002", "answers": [ { "text": "ルイ18世", "answer_start": 95, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ルイ18世はどの家の者だったか?", "id": "tr-154-04-003", "answers": [ { "text": "ブルボン家", "answer_start": 89, "answer_type": 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(world knowledge)" } ] }, { "context": "1815年3月にエルバ島を脱出したナポレオンは「人民の権利」「反封建制」を掲げてパリの民衆や軍隊の支持を獲得し、人心を掌握できないでいたルイ18世をパリから追って「百日天下」と呼ばれる一時的な復権を果たした。", "qas": [ { "question": "1815年の時点でフランス王には、誰がついていたの?", "id": "tr-154-06-000", "answers": [ { "text": "ルイ18世", "answer_start": 68, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ナポレオンがパリ民衆を説得するのに取り上げたのは、「反封建制」と何でしたか?", "id": "tr-154-06-001", "answers": [ { "text": "「人民の権利」", "answer_start": 23, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1815年の時点で民衆からより信頼されていたのは、ナポレオンとルイ18世のうち、どちらか?", "id": "tr-154-06-002", "answers": [ { "text": "ナポレオン", "answer_start": 17, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "エルバ島を脱出したナポレオンが一時的に再び権力を握ったことを、何と言うか?", "id": "tr-154-06-003", "answers": [ { "text": "「百日天下」", "answer_start": 81, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world 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"結局ナポレオンは6月18日にワーテルローの戦いにおいてイギリス軍とプロイセン軍に敗北を喫した。ナポレオンは再び廃位されてイギリス領セント・ヘレナ島へ流された。7月6日には再度ルイ18世がパリへ帰還し、復古王政を再開した。今回のルイ18世はオルタンスとその子供たちがパリに滞在することを許さず、7月19日に母子は国を追われ、ルイ・ナポレオンは亡命生活を送ることを余儀なくされた。", "qas": [ { "question": "ワーテルローの戦いでナポレオンは、イギリスとどの国の同盟軍と戦ったの?", "id": "tr-154-08-000", "answers": [ { "text": "プロイセン", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "反ナポレオン同盟軍に敗れたナポレオンは、どの国の領土に置かれましたか?", "id": "tr-154-08-001", "answers": [ { "text": "イギリス", "answer_start": 60, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ルイ・ナポレオンがパリから追われ、亡命生活を送るようになったのは、誰によることだったか?", "id": "tr-154-08-002", "answers": [ { "text": "ルイ18世", "answer_start": 113, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルイ18世が復位したのは、いつのことか?", "id": "tr-154-08-003", "answers": [ { "text": "7月6日", "answer_start": 79, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1848年2月にフランス・パリで2月革命(1848年革命)が発生し、18年続いたルイ・フィリップの7月王政が打倒され、穏健な共和主義者らが中心となって臨時政府が樹立された。臨時政府は国立作業場の創設や男子普通選挙制度導入などの改革を行った。", "qas": [ { "question": "2月革命はどの国で発生した事件であるの?", "id": "tr-154-09-000", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "2月革命は、いつ発生しましたか?", "id": "tr-154-09-001", "answers": [ { "text": "1848年2月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ルイ・フィリップの集権は、何年間続いたか?", "id": "tr-154-09-002", "answers": [ { "text": "18年", "answer_start": 34, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2月革命により倒れたのは、誰の政権か?", "id": "tr-154-09-003", "answers": [ { "text": "ルイ・フィリップ", "answer_start": 40, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "選挙の結果、ルイ・ナポレオンは553万票(得票率74.2%)を獲得して圧勝した。かくして二年前には脱獄囚だった男がいまやフランス大統領となったのであった。大統領になったルイ・ナポレオンは「皇子大統領」(Prince-président、プランス・プレジダン)と呼ばれ、また彼の行く先々で兵士や民衆は「皇帝万歳」「ナポレオン万歳」などと叫んで歓迎した。", "qas": [ { "question": "フランス大統領選挙で、ルイ・ナポレオンは何万票を獲得したの?", "id": "tr-154-10-000", "answers": [ { "text": "553万票", "answer_start": 15, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "大統領になったルイ・ナポレオンは、何と呼ばれましたか?", "id": "tr-154-10-001", "answers": [ { "text": "「皇子大統領」", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "フランス2月革命の影響でローマに共和政が樹立され、11月に教皇ピウス9世がローマを追われた。ルイ・ナポレオンは大統領選挙中からカトリックの票目当てに教皇のローマ帰還を支援すると公約していたため、1849年4月から秩序党の支持のもとにローマ侵攻を開始した。", "qas": [ { "question": "ローマ共和政の樹立は、どの事件から起因したものか?", "id": "tr-154-11-000", "answers": [ { "text": "フランス2月革命", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "教皇ピウス9世がローマを追われる事件のきっかけとなったのは、何ですか?", "id": "tr-154-11-001", "answers": [ { "text": "フランス2月革命", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランスのローマ侵攻のきっかけとなったのは、誰がローマから追われた事件であるか?", "id": "tr-154-11-002", "answers": [ { "text": "ピウス9世", "answer_start": 31, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "フランスはいつからローマ侵攻を始めか?", "id": "tr-154-11-003", "answers": [ { "text": "1849年4月", "answer_start": 97, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "これにルドリュ=ロランを中心とする左翼勢力が強く反発し、1849年6月にローマ共和国支援を訴える左翼暴動が発生した。ルイ・ナポレオンはこれを左翼一掃のチャンスと見て武力鎮圧を決意した。自ら出陣してシャンガルニエ将軍とともに指揮を執り、左翼暴動を徹底的に鎮圧した(6月事件)。", "qas": [ { "question": "1849年6月に発生した暴動に対し、ルイ・ナポレオンはどう対応したの?", "id": "tr-154-12-000", "answers": [ { "text": "武力鎮圧", "answer_start": 82, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "フランスでローマ共和国支援を訴える左翼暴動が発生したのは、いつですか?", "id": "tr-154-12-001", "answers": [ { "text": "1849年6月", "answer_start": 28, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1849年6月の暴動をルイ・ナポレオンは、どうとらえたか?", "id": "tr-154-12-002", "answers": [ { "text": "左翼一掃のチャンス", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1849年6月に発生した暴動を鎮圧した事件を、何と呼ぶか?", "id": "tr-154-12-003", "answers": [ { "text": "6月事件", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "五式戦闘機", "paragraphs": [ { "context": "五式戦闘機(ごしきせんとうき)は第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍の戦闘機である。キ番号(試作名称)はキ100であり、略称・呼称は五式戦である。他陸軍機に用いられた公式愛称、また本機固有の連合軍コードネームも存在しない。ただし書類上などでは便宜上「TonyII」とされたことがあったという。川崎内では「きのひゃく」または「ひゃく」、陸軍航空敞では「きひゃく」または「ひゃく」と呼ばれていた。以下、本項では一般的な認知度の高い「五式戦闘機」の呼称を用いる。開発・製造は川崎航空機で、設計主務者は土井武夫である。", "qas": [ { "question": "固有の連合軍コードネームも存在しなく、陸軍航空敞では「きひゃく」または「ひゃく」と呼ばれた戦闘機は、何ですか?", "id": "tr-155-00-000", "answers": [ { "text": "五式戦闘機", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "五式戦闘機の設計主務者は、誰?", "id": "tr-155-00-001", "answers": [ { "text": "土井武夫", "answer_start": 245, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "帝国陸軍最後の制式戦闘機とされる軍用機である。製作不良・整備困難などから液冷エンジン、ハ140(またはハ40)の供給不足に陥り、機体のみが余っていた三式戦闘機に急遽空冷エンジン、ハ112IIを搭載し戦力化したものであるが、時間的猶予の無い急な設計であるにもかかわらず意外な高性能を発揮、整備性や信頼性も比較にならないほど向上した。五式戦闘機は大戦末期に登場し、また生産数も少ないために実戦での活躍は少ないが、末期の日本陸軍にとり相応の戦力となった。離昇出力は1500馬力と四式戦闘機には及ばないものの空戦能力・信頼性とも当時の操縦士には好評で、アメリカ軍の新鋭戦闘機と十分に渡り合えたと証言する元操縦士も多い。本機には正式な制式指示がなく、「陸軍最後の制式戦闘機」でもなければ、制式化されていないが故に「五式戦闘機」と言う名称自体が便宜上のものとする説もある。", "qas": [ { "question": "五式戦闘機は、何をもとに製造した戦闘機であるの?", "id": "tr-155-01-000", "answers": [ { "text": "三式戦闘機", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大日本帝国陸軍における最後の制式戦闘機のもとになったのは、何ですか?", "id": "tr-155-01-001", "answers": [ { "text": "三式戦闘機", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "本機は上述の通り、三式戦闘機に搭載されていた液冷エンジン、ハ-140またはハ-40に生産上・整備上著しい不備が有ったため、これを空冷エンジンであるハ112IIに換装し、それに伴い必要な措置を取ったのみの、急造の機体である。機体自体は急降下時の制限速度が850km/hと高いものであったり開発時のテストで主翼の主桁が15Gに耐えられるなど非常に頑強なものであった。また液冷エンジンに合わせて胴体幅は最大で840mmに抑えられていた。", "qas": [ { "question": "五式戦闘機に搭載されたエンジンは、液冷エンジンと空冷エンジンのうち、どちらか?", "id": "tr-155-02-000", "answers": [ { "text": "空冷エンジン", "answer_start": 64, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "五式戦闘機は、前面投影量が少なく空気抵抗の少ない液冷エンジンを搭載した三式戦闘機二型の機体に、本来搭載の予定されていなかった直径の大きな空冷星型エンジンを緊急に取り付けて戦力化したものである。三式戦闘機は元々、ドイツ製液冷倒立12気筒エンジンDB601を国産化し川崎がライセンス生産していたハ40(離昇出力1175馬力)を搭載していた。初期型の三式戦一型甲/乙型は12.7mm機関砲4門、または12.7mm機関砲2門と7.7mm機関銃2門の武装を備えて590km/hを発揮した。登場時期においては相応に優秀な機体であり、戦局は有利に運ばなかったものの、1943年から1945年にかけ、ニューギニアとフィリピンで連合国の機体を相手として善く戦った。ただし液冷式航空エンジンの生産は、当時の日本の機械加工技術では手に余った。多気筒直列エンジンは構造上クランクシャフトやカムシャフトが星形より長くなるが、当時の日本では、長い部材に必要な精度と強度を持たせる加工が困難であった。また一部合金の制限などを受けながら生産したという事情もあり多くの不具合が生じた。また前線の整備兵も液冷エンジンの取り扱いには不慣れであった。原因としてマニュアルの不備、教育の不徹底、整備方法の拙劣さが挙げられる。これらは三式戦闘機の稼働率と直結し、直接の戦闘力はともかく、信頼性と戦力定数を揃える上でかなりの不満があるものであり、川崎内部でも以前より空冷化案が出ては立ち消えていたという。", "qas": [ { "question": "液冷エンジンは、前面投影量のほかに、何が少ないと書かれているか?", "id": "tr-155-03-000", "answers": [ { "text": "空気抵抗", "answer_start": 16, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "三式戦闘機に搭載したエンジンとは、どの国のエンジンを日本国内でライセンス生産していたものであるか?", "id": "tr-155-03-001", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 105, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "五式戦闘機のもとになる機体に搭載されたエンジンの名称は、何か?", "id": "tr-155-03-002", "answers": [ { "text": "ハ40", "answer_start": 145, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "三式戦闘機の初期型のうち、12.7mm機関砲がより少なく搭載された機体には、その代わりに何mm機関銃が搭載されたか?", "id": "tr-155-03-003", "answers": [ { "text": "7.7mm機関銃", "answer_start": 209, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "後期型の三式戦一型丁は12.7mm機関砲2門に20mm機関砲2門と武装を強化し、また相応の防弾性能を持たせたが、改造による重量増で速度が560km/hに落ち、上昇力が低下するなど飛行性能は悪化した。三式戦闘機のこれ以上の性能改善にはより強力な新型エンジンが必要な状況であった。特に過給器など高空性能を支持するエンジン技術には不足が多く、高度10,000m付近では水平飛行を維持する、もしくは浮かんでいるのがやっとの状態であり、この高度を巡航するB-29の迎撃はおぼつかなかった。従ってB-29の邀撃には待ち伏せして一撃をかけるのが精一杯であった。この高空性能の不足は最後まで改善を見ず、三式戦闘機においては機銃の一部や防弾装甲などを外してなんとか戦闘空域まで上昇し、体当たり攻撃が行われたほどであった。1942年春、ハ40の基本的な構造はそのままとし、1500馬力級液冷倒立V12気筒エンジンハ140の開発が行われた。この新型エンジンは吸気圧を上げてエンジン回転数を2,500rpmから2,750rpmとし、離昇出力を1175馬力から1500馬力に高め、大型化した過給器の冷却のために水メタノール噴射装置を導入したものである。しかしながらこのエンジンの生産は非常に難航した。このエンジンを搭載した最初の型式であるキ61-IIは、1943年9月から1944年1月までに8機の試作で中止され、9機目からはキ61-II改、三式戦闘機二型として生産されたが、1944年8月までに30機の増加試作を経ても、未だにエンジンであるハ140の生産が安定するには至らなかった。明石工場に通いトラブルの調査を行っていた審査部の名取智男大尉も、ハ140には見込みが無く、整備屋としてこれに乗って飛んでくれとはとても言えないと考えていた。", "qas": [ { "question": "ハ140の開発が行われたのは、いつ?", "id": "tr-155-04-000", "answers": [ { "text": "1942年春", "answer_start": 351, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハ140のもととなるエンジンは、何ですか?", "id": "tr-155-04-001", "answers": [ { "text": "ハ40", "answer_start": 358, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "キ61-IIとキ61-II改のうち、その試作がより多く生産されたのは、どちらか?", "id": "tr-155-04-002", "answers": [ { "text": "キ61-II改", "answer_start": 600, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハ140には、大型化した過給器の冷却のために何を導入したか?", "id": "tr-155-04-003", "answers": [ { "text": "水メタノール噴射装置", "answer_start": 492, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ハ140の生産数を見るならば、44年7月に20台納入の予定が8台、8月は40台納入予定がわずかに5台、9月に至っては1台であった。一説にはこの時海軍のアツタを調達して装備することが検討されたとも言われるが、両エンジンの仕様の違いなどから実現しなかった。1944年8月には三式戦二型の実戦化に見切りが付けられた。機体の生産の削減が行われ、代わりに四式重爆撃機の生産が指示される。削減後にも工場内において低調な生産が続けられ、1944年12月から1945年2月の時期には三式戦二型の首無し機体が常時200機程度、川崎の工場内に滞るという異常事態が起きた。航空戦力として全く期待ができない状況であった。最終的に三式戦闘機二型の生産は100機程度で一旦打ちきられることとなった。しかし、アメリカ軍の爆撃により完成機の一部が破壊され、陸軍に納入されたのは60機程度であった。なお、1945年6月から8月の整備計画には三式戦闘機が残されていることから、ハ140の生産が安定すれば生産が再開された可能性がある。", "qas": [ { "question": "44年7月と8月のうち、ハ140をより多く生産したのは、いつ?", "id": "tr-155-05-000", "answers": [ { "text": "44年7月", "answer_start": 15, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "三式戦二型の生産を減らすとともに、何の生産の指示が下されたか?", "id": "tr-155-05-001", "answers": [ { "text": "四式重爆撃機", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "44年7月と8月のうち、ハ140の納入予定台数がより多かったのは、いつですか?", "id": "tr-155-05-002", "answers": [ { "text": "8月", "answer_start": 33, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "三式戦闘機二型の実戦化が遅々として進まない段階において、川崎の工場内にはエンジンの装着されない三式戦闘機が並べられているのが常態化していた。この状況から、航空審査部飛行実験部長の今川一策大佐らは、1943年末頃に早くも三式戦闘機の空冷化を提案している。これはキ61-II、最初の8機の試作が完成した頃から既に行われていた提案であった。つまり、母体となったキ61-IIの完成前から、既に五式戦闘機の計画が存在していたのである。設計主務者の土井にとっても首無し機が並ぶこの状況は受け入れがたいものであり、三式戦闘機の空冷エンジンへの換装を考慮したこともあった。1944年初期にはかなり空冷化に気持ちが傾いていたとされる。しかし、同じ川崎の明石工場ではハ140の生産に心血を注いでおり、これは提案できる状況ではなかった。", "qas": [ { "question": "1943年末頃に三式戦闘機の空冷化を提案した人物は、どこに所属していた者なの?", "id": "tr-155-06-000", "answers": [ { "text": "航空審査部飛行実験部", "answer_start": 77, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "五式戦闘機の母体とされる機種のキ番号は、何?", "id": "tr-155-06-001", "answers": [ { "text": "キ61-II", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "三式戦闘機が生産された工場は?", "id": "tr-155-06-002", "answers": [ { "text": "明石工場", "answer_start": 317, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "また、海軍はハ40と同様にDB601をライセンス生産したアツタを愛知航空機に生産させ、彗星艦上爆撃機に搭載していたが、これの性能向上型であるアツタ32型(離昇出力1400馬力)もやはりハ140と同様に量産に苦労しており、彗星の空冷化が考えられていた。これを知った航空本部総務課の技術主任である岩宮満少佐は、土井に対し、三式戦闘機のエンジンを、一〇〇式司令部偵察機で実績のある1500馬力級空冷星型エンジン、ハ112-II(詳しくは#ハ112-IIを参照)に換装するよう提案する。土井は既に覚悟を決めていたのか理解を示したようであるが、話はうまくは進まなかった。この原因に関し、渡辺(2006)の説に拠れば、三式戦二型の空冷化を図れば、ハ140を生産している川崎航空明石工場は当面生産ラインが遊ぶこととなり、これを軍需省が問題としたらしい。またハ112-IIの供給も潤沢とは言えない状況であった。最後に土井も懸念した、川崎明石工場各位への「人情」が挙げられた。", "qas": [ { "question": "愛知航空機がDB601をライセンス生産したエンジンの性能向上型の名称は、何ですか?", "id": "tr-155-07-000", "answers": [ { "text": "アツタ32型", "answer_start": 70, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "岩宮満が土井に対し、三式戦闘機の新たなエンジンとしての採用を提案したエンジンは、何のエンジンとして実績を上げたことがありますか?", "id": "tr-155-07-001", "answers": [ { "text": "一〇〇式司令部偵察機", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "彗星艦上爆撃機に搭載していたエンジンは、誰により生産されていましたか?", "id": "tr-155-07-002", "answers": [ { "text": "愛知航空機", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "だが1944年4月、今川大佐は水冷エンジンの戦力化に見切りを付ける決心を固め、川崎に対して内密に空冷化を打診した。8月または9月には三式戦闘機二型が100機程度で生産を打ち切ることが決定された。軍需省は1944年8月の二型の生産縮小の後、1944年10月1日、川崎に対し、首無しの三式戦に空冷発動機を搭載したキ100の開発を指示した。古峰(2007)の文献によれば、指示の時期は川崎航空機工業株式会社『航空機製造沿革』において11月とも記載される。前掲文献によれば、この月の首無し二型の在庫は68機であった。空冷化にあたり選定されたエンジンは金星62型、陸軍名称ハ112-IIであった。これはハ140と同様の離昇出力1500馬力級エンジンであるが、空冷星型14気筒の構造を持ち、栄よりやや大型で、直径は1218mmである。なお古峰(2007)は、キ99とキ101の試作指示が1943年7月9日に出されていることから、キ100もこの頃には既に機体番号を与えられ、ある程度の検討が成されていた可能性を指摘している。", "qas": [ { "question": "ハ112-IIの離昇出力は、何馬力であるか?", "id": "tr-155-08-000", "answers": [ { "text": "1500馬力", "answer_start": 308, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "金星というエンジンは、陸軍では何と呼ばれていたか?", "id": "tr-155-08-001", "answers": [ { "text": "ハ112-II", "answer_start": 281, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハ112-IIと同じ離昇出力を持つエンジンは、何か?", "id": "tr-155-08-002", "answers": [ { "text": "ハ140", "answer_start": 296, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "エンジンの換装が決定したが、技術的問題は胴体幅840mmの三式戦闘機に、直径1218mmのハ112-IIをどう搭載するかであった。土井によれば、カウリングでエンジン周囲を覆うなどの処置を行うと、この部分の幅は最小でも1280mmになった。幸いにも発動機を搭載するため機体に装備される発動機架は少々の改造で設置することができ、また三式戦闘機の主翼と胴体の接合は、少々の重心位置変更には比較的容易に対応できる構造でもあった。単純に空冷エンジンを載せると胴体の外形において左右に200mm以上の段差ができるが、この部分を放置すれば機体外形に沿って流れ込む空気の渦流を生じ、大きな空気抵抗となる。この部分の胴体を滑らかに整形すれば空気抵抗は減少するが、機体外板を大きく覆うことで重量が増加した。最終的にこの部分にはドイツから輸入していたFw190A-5の設計が参考とされた。カウリング左右の後半部分にエンジンの排気管を集中させ、左右6本ずつの推力式単排気管とし、エンジンの排気で渦流を吹き飛ばす処置が採られた。このため胴体の整形は大型のフィレット(翼と胴体を滑らかに接合し、空力的特性を良くするためのつなぎの部分)を設置するなど、最小限で済んだ。また前部では胴体の深さも下部に向かって若干増しており、エンジンの下に当たる部分には潤滑油用ラジエータ(滑油冷却器)を新設した。空冷化に伴い、不要となったラジエーターは胴体下方から取り外され、除去後の機体下部はフラットに整形された。", "qas": [ { "question": "空冷エンジンの搭載時の段差発生の問題を解決するのに参考になったのは、何の設計なの?", "id": "tr-155-09-000", "answers": [ { "text": "Fw190A-5", "answer_start": 364, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "Fw190A-5はどの国から輸入したものでありますか?", "id": "tr-155-09-001", "answers": [ { "text": "ドイツ", "answer_start": 353, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハ112-IIを搭載するには、少なくとも何mmの幅が必要であったか?", "id": "tr-155-09-002", "answers": [ { "text": "1280mm", "answer_start": 108, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "この文書では、何の過程における開発と設計について説明しているか?", "id": "tr-155-09-003", "answers": [ { "text": "空冷化", "answer_start": 582, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "設計変更部分はほぼ胴体前部のみということもあり、正式発注からわずか3ヵ月後の12月末には既に設計完了し、1945年2月1日または11日には初飛行に成功した。短期間での開発ながら意外な高性能が認められ、2月中には五式戦闘機として採用された。首無しで放置されていた機体は2月の時点で約200機存在したが、これの改造も含め、大増産が開始されることとなった。ただし歴史群像編集部(2011)p.77によれば、あくまで三式戦闘機二型の補助と言う位置づけであり、並行生産されていた。しかし1945年7月には三式戦闘機二型の生産は打ちきられ、生産は五式戦闘機に一本化されている。五式戦闘機の武装は三式戦闘機一型丁または二型と変わらず、機首に20mm機関砲ホ5×2門(弾数各200発)、翼内に12.7mm機関砲ホ103×2門(弾数各250発)である。ほか、機首の短縮により、若干前方視界が向上した。", "qas": [ { "question": "三式戦闘機二型の生産が打ちきられ、生産が五式戦闘機に一本化されたのは、いつからなの?", "id": "tr-155-10-000", "answers": [ { "text": "1945年7月", "answer_start": 238, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "機首と翼内のうち、使う砲弾の口径がより大きい機関砲が設けられたのは、どちらか?", "id": "tr-155-10-001", "answers": [ { "text": "機首", "answer_start": 310, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "五式戦闘機において従来の機種より機首が短くなったことにより、何が向上しましたか?", "id": "tr-155-10-002", "answers": [ { "text": "前方視界", "answer_start": 381, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "採用後は急ピッチで量産が進み、2月の時点で工場内に200機滞留した「首無し」機体を五式戦闘機に改造した。多賀(2002)によれば、エンジン不調の三式戦闘機が五式戦闘機に改造されたともし、太平洋戦争研究会(2001)も、ハ40の問題で納入されなかった一型からの改造機もあったとする。その後は月産200機を目標に製造が続けられた。2月に1機、3月に36機、4月に89機と、量産は急速に進んだ。定説では3機の試作機を含め合計で393機が生産されたとされる。多くの三式戦闘機装備部隊が五式戦闘機に機種改変を行った。5、17、18、59、111、112、244の各戦隊が五式戦を受領している。ただし生産規模は所詮400機足らずであり、全てが置き換えられた訳ではない。生産数は文献により分かれる。片渕によれば岐阜工場で1945年2月に1機、3月に36機、4月に89機、5月に131機、6月に88機、7月に23機、8月に10機、合計で381機が生産または改造され、それとは別に都城工場で17機以上が生産されたとしている。従って総計を398機+αとしている。渡辺(2006)、ピカレッラ(2010)では試作3機を含め総生産数を390機としている。いずれにせよ、うち275機は「首無し」の三式戦闘機二型からの改造であると推測され、上述の通り一型からの改造機も有ったとする説もある。なお6月以降の生産数が急激に減少しているのは、1945年6月から7月にかけて、川崎飛行機岐阜工場および周辺工場が空襲で被害を受けたためである。またハ112-IIの生産力にも限界があり、さらに1944年12月には三菱の発動機工場が空襲の被害に遭い、生産の停滞が目立ち始めた。", "qas": [ { "question": "片渕によれば、より多くの五式戦闘機を生産または改造したのは、3月と4月のうち、何月なの?", "id": "tr-155-11-000", "answers": [ { "text": "4月", "answer_start": 176, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "片渕と渡辺のうち、その中に書かれている五式戦闘機の総生産数がより多いのは、どちらですか?", "id": "tr-155-11-001", "answers": [ { "text": "片渕", "answer_start": 342, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "全ての文献において、五式戦闘機の総生産数の中で最も大きい割合を占めるとされるのは、どのような方式による生産なのか?", "id": "tr-155-11-002", "answers": [ { "text": "「首無し」の三式戦闘機二型からの改造", "answer_start": 529, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "片渕によれば、1945年2月から8月までのうち、五式戦闘機の生産数が最も多いのは、何月か?", "id": "tr-155-11-003", "answers": [ { "text": "5月", "answer_start": 378, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "五式戦闘機に搭載されたハ112-IIは元もとは海軍で採用されていた三菱製の航空用発動機であり、海軍名称を「金星62型」と言う。空冷二重星型14気筒(7気筒複列)で燃料噴射式、ボア140mm×ストローク150mm、シリンダー当たりの排気量2.31リットル、総排気量32.34リットル。圧縮比7.0、回転数は2,600rpm(最大許容回転数2,680rpm)で、直径320mmの遠心式2速過給器を備えている。なお増速比は一速が7.0、二速が9.2。離昇出力は+500mmHgで1,500馬力であるが、公称出力は+300mmHgで1速1,350馬力(2,000m)、2速1,250馬力(5,800m)。重量は675kg+補機19kg、寸法はおおよそ全長1,660mm、全幅1,280mm、水メタノール噴射機構付きである(強度の過給を行うと吸気温度が上昇しノッキング・異常燃焼の原因となる;このためこのような装置で冷却するか高オクタン燃料の利用が必用となる)。この装置は吸気圧を自動的に感知し、必要な時に必要なだけの冷却を行い、さらにガソリンの量を制限して代わりに水で出力を得るといった機構を持つ。高度・空気温度・吸気圧・加速レバーと連動して自動的に適切な量が噴射されるが、手動での調整も可能であった。噴射はシリンダーに直接行われるものではなくその直前の吸気管(ポート)内で行われる。", "qas": [ { "question": "ハ112-IIの海軍名称は?", "id": "tr-155-12-000", "answers": [ { "text": "金星62型", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "海軍での名称が金星62型であるエンジンは、どの会社の製品ですか?", "id": "tr-155-12-001", "answers": [ { "text": "三菱", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ハ112-IIは陸軍でも1943年(昭和18年)3月より一〇〇式司偵III型で運用されており、五式戦闘機が実際に計画に移された1944年(昭和19年)10月頃にはすでに十分な運用実績が有った。なお百式司偵III型については、高度8,000m-10,000mで、優れた性能を発揮したという。ハ112-IIの信頼性と整備の難易に関し、一部兵員からは「燃料と潤滑油を入れれば、いつでも飛ぶ」といった評価があったとされる。さらに三式戦闘機二型(および一型)が搭載した水冷式エンジンの惨たる稼働率の反動もあり、信頼性の高さは大歓迎された。ただし「金星」自体は1936年(昭和11年)以来永く実績のある、実によく回るとされるエンジンながら、金星「62型」自体は採用されて数年の新型エンジンであることは確かであり、また水メタノール噴射装置、燃料噴射ポンプと言う新機構も用いられている。ハ112-IIはハ140とは比較にならない信頼性を持っていたにしても、絶対的な信頼性があったとまでするには至っていなかったともされ、飛行第244戦隊では、内地での基地移動時に多数の脱落機を出したエピソードが存在する。", "qas": [ { "question": "ハ112-IIが陸軍で運用され始めたのは、1943年何月からか?", "id": "tr-155-13-000", "answers": [ { "text": "3月", "answer_start": 24, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ハ112-IIとハ140のうち、より高い信頼性を持っていたのは、どれか?", "id": "tr-155-13-001", "answers": [ { "text": "ハ112-II", "answer_start": 385, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "金星62型に用いられた新機構として紹介されているのは、水メタノール噴射装置のほかに、何か?", "id": "tr-155-13-002", "answers": [ { "text": "燃料噴射ポンプ", "answer_start": 363, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "ちなみにハ112-IIルは、エンジン本体は同じもので、排気タービン「ル2」を増設しただけのものである。これは重量54kg、ブレード平均直径276mm、同長さ43mm、同数80枚の単段式のもので、回転許容は20,000rpm、タービン入り口の排気ガス温度は700度であったという。ハ112-II自体は1段2速過給器であるので、排気タービンを加えると2段2速式となる。なおエンジン側に元々水エタノール噴射装置があるため、新たな冷却装置(インタークーラー)は装備されていない。ただしこの要目はあくまで一〇〇式司偵の文献を参照し紹介しているもので、五式戦闘機II型に装備されたものと全く同じ要目であるとも限らないため、参考にとどめて頂きたい。一〇〇式司偵の場合、この過給器の有無で、高度10,000mにおいて50km/hの差を生じたという。当時三菱の航空機発動部に所属していた曾我部正幸は、五式戦闘機II型とほぼ同様に試作機4機のみの完成で終戦を迎えたものの、少なからざる問題があったにせよ、実用化の見通しはついていたと回想している。曾我部の提示する性能曲線グラフによれば、ハ112-IIルは高度10,000m以上でも1,200馬力以上を発揮でき、これは高度5,800mでのハ112-IIの出力とほぼ同等である。", "qas": [ { "question": "ハ112-IルIには新たな冷却装置が装備されなかったのは、どんな装置が元々あるからなの?", "id": "tr-155-14-000", "answers": [ { "text": "水エタノール噴射装置", "answer_start": 192, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ハ112-IIルとハ112-IIのうち、より優れた出力を発揮できたエンジンは、どれですか?", "id": "tr-155-14-001", "answers": [ { "text": "ハ112-IIル", "answer_start": 483, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ハ112-IIルは、ハ112-IIから何を増設したものか?", "id": "tr-155-14-002", "answers": [ { "text": "排気タービン「ル2」", "answer_start": 27, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "五式戦闘機II型とは、1945年2月から開発に着手した型で、ターボ過給器(排気タービン)「ル102」搭載のハ112-IIル(離昇出力1500馬力)を搭載した機体である。このエンジンの排気タービンは海軍の雷電(航空機)、100式司偵などで装備試験が実施された物である。このエンジンは高度10,000mで1000馬力を発揮した。重量は従来のエンジンより150kg増加したが、高度10,000mまで18分で到達した。速度は高度8,000mで590km/h、高度10,000mで565km/hを発揮した。過給器および空気取り入れ口はI型と異なり、機首下面に装備された。もともとあった薬莢殻入れは撤去され、機外に排出されるかたちに改められている。高々度戦闘機であるため燃料冷却系の装置は撤去された。実用化されれば日本陸軍で唯一の排気タービン装備の実用単発戦闘機となっていたであろう本機であるが、エンジントラブルは少なく、担当の一人である航空審査部の名取少佐は、何分1機を審査したのみであるので正確な稼働率はわからないにせよ、手応えは相当によかったと回想している。この型の機体は4月に設計が完了し、5月には実機が生産された。9月から量産が予定されていたが、終戦のため試作機3機の生産に終わった。", "qas": [ { "question": "五式戦闘機II型とは、いつから開発され始めた機体であるの?", "id": "tr-155-15-000", "answers": [ { "text": "1945年2月", "answer_start": 11, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "五式戦闘機II型は、合計何機が生産されたか?", "id": "tr-155-15-001", "answers": [ { "text": "3機", "answer_start": 530, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "海軍の雷電と100式司偵などで装備試験が実施された排気タービンを搭載したエンジンとは、何ですか?", "id": "tr-155-15-002", "answers": [ { "text": "ハ112-IIル", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "本機の飛行性能に関し、好意的な評価や証言が多数見られる。五式戦に対する操縦者からの評価は総じて高く、陸軍戦闘機最優秀とする意見も少なくない。川崎のテスト操縦士からの評価も上々であった。ただし、性能に顕著な差を感じるほどではないとする証言もある。なお、当時の文書において、高速で鈍重な三式戦闘機二型を「重戦」、低速で軽快な五式戦闘機を「軽戦」とした書類も存在したとされ。三式戦闘機二型と比較して「軽戦」(軽戦闘機)と言われる事もあったという。武装は前述の通り、五式戦闘機の武装は三式戦闘機一型丁または二型と同様、機首に20mm機関砲ホ5×2門(弾数各200発)、翼内に12.7mm機関砲ホ103×2門(弾数各250発)を装備している。空冷エンジンであるハ112-IIの搭載に伴い最も向上したのは信頼性・実用性である。前述の通り五式戦闘機に搭載されたハ-112-IIは従来の三式戦闘機が搭載していた液冷エンジン、ハ-140またはハ-40とは比較にならないと言っても良い信頼性を発揮し、燃料と油を入れればいつでも飛べると評されるなど、各所で高く評価された。", "qas": [ { "question": "五式戦闘機には、20mm機関砲ホ5と12.7mm機関砲ホ103のうち、どれに使用される砲弾がより多く積載されましたか?", "id": "tr-155-16-000", "answers": [ { "text": "12.7mm機関砲ホ103", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "五式戦闘機に装備された機関砲のうち、使用する砲弾の直径がより大きいのは、どの機関砲であるの?", "id": "tr-155-16-001", "answers": [ { "text": "20mm機関砲ホ5", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "五式戦闘機の信頼性と実用性を高めてくれた要因は、何を搭載したことであるか?", "id": "tr-155-16-002", "answers": [ { "text": "ハ112-II", "answer_start": 325, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "原爆投下・10秒の衝撃", "paragraphs": [ { "context": "『原爆投下・10秒の衝撃』(げんばくとうか・じゅうびょうのしょうげき)は、NHK総合テレビの「NHKスペシャル」枠で1998年8月6日に放送されたドキュメンタリー番組である。2005年4月3日には、同局にて月1回放送の「平和アーカイブス」枠で再放送された。広島市には1945年(昭和20年)8月6日に原子爆弾(以下「原爆」と表記)「リトルボーイ」が投下された。番組は、原爆がどのような惨禍を地上と人々にもたらしたかを、原爆が炸裂した最初の10秒間にタイムスケールを絞って検証し、CG映像やシミュレーション実験の映像、そして多くの被爆者に取材して得た証言を交えつつ再現している。", "qas": [ { "question": "『原爆投下・10秒の衝撃』が再放送されたのは何年どのことか。", "id": "tr-156-00-000", "answers": [ { "text": "2005年", "answer_start": 87, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "広島市に落とされた原爆の名前は?", "id": "tr-156-00-001", "answers": [ { "text": "リトルボーイ", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "番組が制作された1998年頃には、それまで被爆経験を語らなかった人々が、被爆後50年を過ぎて重い口を開き始めていた。また当時は、核兵器を持つインドやパキスタンといった国々が紛争を繰り返し、実際に核兵器が使用される可能性もなくはなかった。いっぽうで、広島市原爆資料館への入館者数が年々減少しており、修学旅行で来館する学校が減ったこともあり、1998年には17年ぶりに130万人を割っていた。原爆の体験が風化する危機感がある中、NHK広島放送局では、原爆が炸裂した瞬間の最初の10秒間に起こった事象をクローズアップした番組を制作し放送することで、再び広島のように核攻撃を受けるかも知れない時代への警鐘とすることとした。", "qas": [ { "question": "放送が作られたのは何年ごろ?", "id": "tr-156-01-000", "answers": [ { "text": "1998年頃", "answer_start": 8, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "放送を作った放送局は?", "id": "tr-156-01-001", "answers": [ { "text": "NHK広島放送局", "answer_start": 212, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "番組スタッフはアメリカの3人の科学者に面会し協力を依頼した。ロバート・クリスティ(英語版)博士はマンハッタン計画に従事し広島・長崎で実際に使用された原爆の設計に携わった。開発当時、原爆は衝撃波の影響を最大にすべく設計されたが、実際に広島・長崎で原爆を使用したところ、熱線と放射線の影響が思いがけなく大きいことに驚いたという。彼の他に、核爆発が都市生活に与える影響などを研究している物理学者のセオドア”テッド”・ポストル(英語版)博士(マサチューセッツ工科大学)、核爆発が建物をどのように破壊するかなどを研究しているセオドア・クラウトハマー(TheodorKrauthammer)博士(ペンシルベニア州立大学)も来日した。スタッフはまた、日本の学者にも協力を依頼した。広島大学原爆放射線医学研究所の星正治博士は放射線物理学の専門家であり、広島市内の被爆試料から放射線量を測定している。自身が被爆者でもある葉佐井博巳(はさいひろみ)博士(広島大学名誉教授、広島電機大学)は、星博士と一緒に試料の測定を行なってきた。アメリカによる核実験に50年近く携わってきたハロルド・ブロード(英語版)博士(パシフィック・シエラ研究所)には、広島市に出現した「火球」がどういったものだったかのシミュレーションを依頼した。日米の研究者らが討議を重ね、以下に説明する0秒から10秒のシナリオを完成させた。番組スタッフはさらに多くの研究機関の協力を得て、シナリオに描かれた原爆に起因する現象のシミュレーションを行なった。多くの被爆者の手記や証言にある原爆炸裂後に起こった出来事をこのシナリオと突き合わせ、人々が体験した現象が何だったのかを科学的視点から再現していった。", "qas": [ { "question": "番組スタッフが協力を得たアメリカの科学者は何人か。", "id": "tr-156-02-000", "answers": [ { "text": "3人", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ロバート・クリスティ博士はどの計画に従事し広島・長崎で実際に使用された原爆の設計に携わったか。", "id": "tr-156-02-001", "answers": [ { "text": "マンハッタン計画", "answer_start": 48, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "番組スタッフは誰に広島市に出現した「火球」がどういったものだったかのシミュレーションを依頼したか。", "id": "tr-156-02-002", "answers": [ { "text": "ハロルド・ブロード", "answer_start": 477, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "日米の研究者からの協力の結果、完成されたのは何秒のシナリオか。", "id": "tr-156-02-003", "answers": [ { "text": "10秒", "answer_start": 575, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "爆心地から130mの位置(現在は広島平和記念公園敷地内)にあったM建具店の2階建て家屋の模型を、間取りまで正確に製作し、当時この家の1階にいたM氏の親戚一家に中性子がどのような影響を与えたか推定した。降り注いだ中性子の一部は木造家屋を通過し、さらに屋根瓦や壁からガンマ線を発生させる。番組では、一家は中性子線とガンマ線を致死量となる57.7グレイを浴びたと推定した。この時点で、仮に原爆が炸裂せず、熱線や爆風の影響がなかったとしても爆心地付近の住民は助からなかったという。", "qas": [ { "question": "仮に原爆が炸裂せず、熱線や爆風の影響がなかったとしても爆心地付近の住民が助からなかったと思われる理由となるものは何か。", "id": "tr-156-03-000", "answers": [ { "text": "ガンマ線", "answer_start": 131, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ガンマ線の単位は?", "id": "tr-156-03-001", "answers": [ { "text": "グレイ", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "アメリカが行なった過去の核実験のデータに基づき、次のように推定された。まず爆弾の内部でウラン235の核分裂が進行し、原爆の炸裂に至る。爆弾内部の温度は250万度(摂氏。以下同じ)に達する。内部から放射されたエネルギーは、爆弾周辺の空気に衝撃を与える。衝撃波が半径約8mに広がったあたりから、閃光というより火の玉「火球」として視認される。放射線が周囲の空気に衝突し青白く光らせる。100万分の15秒後、温度は40万度に下がり、火球は直径20mとなる。0.2秒後には火球の直径は310mとなり、表面温度は6,000度で、この時に最も大きく明るく見える。また地上に熱線の影響が出てくる。2秒後までに熱線は90%が放出される。この頃からガンマ線が大量に放出され、空気が反応して紫色に見える。0.51秒後、火球は縮み始め、煙が出始める。1.7秒後にはキノコ雲が形成され始める。", "qas": [ { "question": "アメリカが行なった過去の核実験のデータに基づき、爆弾内部の温度は何度に推定したか。", "id": "tr-156-04-000", "answers": [ { "text": "250万度", "answer_start": 75, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "100万分の15秒後、温度は何度に下がるか。", "id": "tr-156-04-001", "answers": [ { "text": "40万度", "answer_start": 203, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "この頃に地上を襲った熱線による瞬間的なやけどが、被爆死亡者の20-30%の死因となった。広島市では爆心地から2.3kmの距離まで、この「閃光やけど」の被害があったとされる。また、熱線を浴びた建築物は表面の塗料に瞬時に気泡が生じるなどした。その時に建物の前に人体などがあればそれが熱を受けるため、陰になった部分は変化がみられず「影」として残ることとなる。", "qas": [ { "question": "被爆死亡者の20-30%の死因となった閃光やけどの被害は、広島市で爆心地から何km離れたところまであったか。", "id": "tr-156-05-000", "answers": [ { "text": "2.3km", "answer_start": 54, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "番組では、猿楽町にあった産業奨励館が熱線と衝撃波によって破壊され「原爆ドーム」となる過程が、松屋産業による復元映像データに基づくCG映像によって再現された。爆心地(猿楽町の隣、細工町にあった島病院)の北西160mの産業奨励館に、高度567mから1,900-2,200度以上の熱線が0.2秒後に降り注ぐ。現在ドーム状の鉄骨が残る丸屋根を覆っていた厚さ0.3mmの銅板が溶けたが、他の部分の屋根はスレート葺きであり高熱に耐えた。その0.6秒後、1平方mあたり20トンと計算される衝撃波が到達する。衝撃波は、溶けずに残った鉄骨の間をすり抜け、内部の螺旋階段のみを破壊する。いっぽうスレート屋根が残った部分は衝撃波の圧力によってほぼ垂直に押し潰された。番組では、熱線と衝撃波による破壊にかかった時間を1秒と推定した。", "qas": [ { "question": "爆心地から北西160m離れたところにあった建物は?", "id": "tr-156-06-000", "answers": [ { "text": "産業奨励館", "answer_start": 107, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "番組では、熱線と衝撃波による破壊が何秒経過してからのことだと推測したか。", "id": "tr-156-06-001", "answers": [ { "text": "1秒", "answer_start": 346, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "熱線の影響は3秒程度で消えるが、衝撃波は地上を伝わり建物等を破壊していった。3秒後には1.5km、7.2秒後には3km、10.1秒後には4km先に到達したと推定された。また建物内に侵入した衝撃波が、砕けたガラス片もろとも人々を巻き込み、打撲や裂傷を負わせ、命を奪っていったと推定された。さらに、地上が高温状態であったため、地上に近い高さを進む衝撃波には細かな渦が生じて破壊力を増したと推定された。", "qas": [ { "question": "熱線の影響が消えるのは何秒後のことか。", "id": "tr-156-07-000", "answers": [ { "text": "3秒程度", "answer_start": 6, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "衝撃波は3秒後、何kmに到達したと推定されるか。", "id": "tr-156-07-001", "answers": [ { "text": "1.5km", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "衝撃波は10.1秒後、何kmに到達したと推定されるか。", "id": "tr-156-07-002", "answers": [ { "text": "4km", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "爆心地から1.6km離れた広島貯金支局のビルは4階建ての鉄筋コンクリート造りだったため無傷で残ったものの、中にいた84人が死亡した。番組では衝撃波のシミュレーション実験を行ない、3.4秒後に支局を襲った衝撃波が建物内部に爆風の渦を巻き起こしたと推定した。また、広島地方気象台は爆心地の南3.7kmにあり、衝撃波は9.1秒後に到達したと推定した。そこでは椀型風速計が風速200mを観測したという。なお、爆風が複数回襲ってきたという証言が得られている。その原因の1つとして、キノコ雲の上昇に伴い暴風が生じて雲に吸い上げる力が発生したことが考えられた。爆心地方向からの衝撃波でなぎ倒された物が吹き戻しの猛烈な風で爆心地方向へ引き倒されたとみられる事例もあるが、竜巻や突風が生じたとも考えられ、番組では事例のすべてが吹き戻しとは断言できないとした。", "qas": [ { "question": "広島貯金支局のビルの中で死亡した人は何人だったか。", "id": "tr-156-08-000", "answers": [ { "text": "84人", "answer_start": 57, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "広島地方気象台は爆心地から南で何m離れていたか。", "id": "tr-156-08-001", "answers": [ { "text": "3.7km", "answer_start": 143, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "100万分の1秒までの間に生じた中性子、ガンマ線の照射は1分後まで続き、被爆した人に長期間にわたる影響を与えることとなる。20分後には広島市内で火災による「火事嵐」が発生。30分後には「黒い雨」が降り出し、雨水に含まれる放射性降下物により0.03-0.04グレイの被爆となる。さらに残留放射能が外部から入ってきた人々にも放射線を浴びせ続けた。1945年末までに死者は14万人に達した。アメリカから来日した科学者3人は、番組制作のためのこの10秒の検証を終え帰国する前に、日本からの科学者2人に案内されて広島平和記念資料館を見学している。クラウトハマー博士は、見学者が感想などを書く芳名録に、「この過去の教訓が我々の未来の姿であろうか」といった趣旨の事を書いたという。番組は、窓辺に置かれたこの芳名録の向こうに平和記念公園の慰霊碑、さらにその先の原爆ドームを映して終わる。", "qas": [ { "question": "クラウトハマー博士はどこから来日したか。", "id": "tr-156-09-000", "answers": [ { "text": "アメリカ", "answer_start": 192, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "クラウトハマー博士が芳名録に「この過去の教訓が我々の未来の姿であろうか」といった趣旨の事を書いたというところはどこ?", "id": "tr-156-09-001", "answers": [ { "text": "広島平和記念資料館", "answer_start": 251, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "木曽電気製鉄", "paragraphs": [ { "context": "木曽電気製鉄株式会社(木曾電氣製鐵株式會社、きそでんきせいてつかぶしきがいしゃ)は、大正時代に存在した日本の電力会社である。\n各地で電気事業に関わった実業家福澤桃介が率いた企業で、木曽川・矢作川で電源開発を手がけ、その電力で製鉄事業を起業することを設立の目的とした。\n1918年(大正7年)、愛知県の電力会社名古屋電灯の電源開発部門と電気製鉄部門が独立して発足した。\n翌年木曽電気興業株式会社(きそでんきこうぎょう)に改称し、1921年(大正10年)に日本水力とともに傍系の大阪送電へと吸収され、大手電力会社の一つである大同電力株式会社となった。\n存在した期間が2年半と短く建設した水力発電所は2か所に留まるが、計画した発電所のうちいくつかは後身大同電力の手によって完成した。\n関与した発電所はその後の再編を経て関西電力および中部電力に継承されている。\nまた電気製鉄事業は特殊鋼メーカー大同特殊鋼の起源の一つである。", "qas": [ { "question": "木曽電気製鉄株式会社の発足した年は?", "id": "tr-157-00-000", "answers": [ { "text": "1918年", "answer_start": 134, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "木曽電気興業株式会社の改称前の会社名は何だった?", "id": "tr-157-00-001", "answers": [ { "text": "木曽電気製鉄株式会社", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "木曽電気製鉄株式会社が建設した水力発電はいくつあったの?", "id": "tr-157-00-002", "answers": [ { "text": "2か所", "answer_start": 297, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "木曽電気製鉄株式会社は1918年(大正7年)9月8日、名古屋電灯株式会社の「臨時建設部」および「製鉄部」をもとに設立された。\n資本金は1700万円で、母体となった名古屋電灯(当時資本金1600万円)よりも大きな会社である。\n現物出資により名古屋電灯は総株式数34万株のうち16万株を握った。\n本社は愛知県名古屋市中区南長島町で、東京市麹町区の東京海上ビルに東京支店を置いていた。\n主な役員は取締役社長福澤桃介、同副社長下出民義、常務取締役増田次郎・角田正喬・三根正亮であった。\nそのうち福澤は名古屋電灯社長、下出は同社副社長、角田は同社支配人であった。", "qas": [ { "question": "資本金が高額だったのは名古屋電灯と木曽電気製鉄株式会社のどっち?", "id": "tr-157-01-000", "answers": [ { "text": "木曽電気製鉄株式会社", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "木曽電気製鉄株式会社の常務取締役であり、名古屋電灯の支配人だった男の姓名は?", "id": "tr-157-01-001", "answers": [ { "text": "角田正喬", "answer_start": 224, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "木曽電気製鉄株式会社の支店があった建物の名称は何?", "id": "tr-157-01-002", "answers": [ { "text": "東京海上ビル", "answer_start": 171, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "名古屋電灯から木曽電気製鉄が引き継いだものは、木曽川・矢作川において名古屋電灯が保有していた水利権および建設中の資産と、準備中であった電気製鉄事業に関する資産である。\nこの時点では、矢作川の串原仮発電所が1918年4月に完成しており送電中であり、木曽川の賤母(しずも)発電所が工事中、桑原発電所が準備工事中であった。\n一方電気製鉄事業は、名古屋市南区東築地(現・港区竜宮町)に建設していた工場が設立同日に操業を開始したことによりスタートした。\n設立翌年の1919年(大正8年)10月、木曽電気製鉄から木曽電気興業株式会社に社名を変更。\n翌11月、水利権出願中の発電所の発生電力最大1万8,000キロワットを大阪市・京都市周辺へと供給する目的で京阪電気鉄道関係者との共同出資により大阪送電株式会社を設立し、大阪送電計画にも着手した。\nこれに前後して、1919年7月東築地土地株式会社を、1920年(大正9年)1月大正土地株式会社をそれぞれ合併し、資本金を1860万円に増資している。", "qas": [ { "question": "木曽電気製鉄が発足した当時に既に完成していた発電所の名は何ですか?", "id": "tr-157-02-000", "answers": [ { "text": "串原仮発電所", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大正土地株式会社と東築地土地株式会社はどちらが早く木曽電気製鉄に合併されたの?", "id": "tr-157-02-001", "answers": [ { "text": "東築地土地株式会社", "answer_start": 381, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "大阪送電設立と時を同じくして、山本条太郎らと大阪電灯・京都電灯との共同で日本水力株式会社が設立された。\n同社は北陸地方で発電した電力を京阪方面へ送電する計画を持っており、木曽地方の電力を同じく京阪方面へと送電する計画を持つ木曽電気興業・大阪送電とは事業目的が重複していた。\nこれら3社の合同計画は、1920年春に始まる戦後恐慌を期に浮上する。\n金融や業界の環境、電力需要の動向から2方面の事業が並立するのは不利かつ困難であると判断されたためであった。\n木曽・大阪側の社長福澤桃介と日本水力社長の山本との間に協議が持たれて1920年10月に3社は合併契約を締結、翌1921年(大正10年)2月25日付で大阪送電が木曽電気興業・日本水力の2社を吸収合併する形で大同電力株式会社が発足した。\n大同電力の成立時点で、すでに木曽電気興業の手により1919年11月賤母発電所が竣工しており、2月中に串原発電所も完成、続いて大桑発電所も8月に竣工した。\n大同電力はこれ以降も水力開発を推進、あわせて大阪・東京方面への送電線を建設し、大正・昭和初期の大手電力会社「五大電力」の一つとして地歩を固めていくことになる。", "qas": [ { "question": "日本水力株式会社の発電地域はどこですか?", "id": "tr-157-03-000", "answers": [ { "text": "北陸地方", "answer_start": 55, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "木曽電気興業と大阪送電が共通していたのは、送電先がどこだった点ですか?", "id": "tr-157-03-001", "answers": [ { "text": "京阪方面", "answer_start": 67, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1889年(明治22年)に開業した名古屋市の電力会社名古屋電灯は、明治後期になると、関東地方で大規模な水力発電事業が計画されているのを踏まえて、従来の火力発電からの脱却を検討するようになる。\n同社は初め木曽川に着目し測量の準備にかかるが、長良川の開発計画が提起されたため長良川開発に切り替え、1910年(明治43年)3月長良川発電所を完成させた。\n先行して長良川での事業を進める中、木曽川においても1906年(明治39年)9月、長野県西筑摩郡読書村(よみかき村、現・木曽郡南木曽町読書)から同郡田立村(現・南木曽町田立)にいたる区間における水利権を長野県当局に申請、1908年(明治41年)5月に許可を取得した。\n名古屋電灯にとって最初の木曽川水利権であった。\nこの許可地点を「田立水力」と称する。", "qas": [ { "question": "名古屋電灯が最初に開発を進めた川は何だった?", "id": "tr-157-04-000", "answers": [ { "text": "長良川", "answer_start": 119, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "名古屋電灯が最初に木曽川水利権の許可を得た地点を何といいますか?", "id": "tr-157-04-001", "answers": [ { "text": "「田立水力」", "answer_start": 338, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ただし実際の木曽川開発は、名古屋電灯とは別の系統に属する「名古屋電力株式会社」という電力会社が先行した。\n同社は、1897年(明治30年)に最初の水利権申請が行われた岐阜県加茂郡八百津町付近における水力発電計画に端を発する。\n加茂郡を地盤に衆議院議員に当選していた実業家兼松煕が参画して以降計画が進展するとともに大規模化し、名古屋財界の奥田正香や東京の資本家を巻き込んで資本金500万円の名古屋電力の創設となった。\n1906年10月の会社設立に先立って同社は八百津町における水利権を同年6月に取得し、1年半後の1908年1月に八百津発電所を着工した。\nまた、日本電力発起人総代関清英が1907年(明治40年)4月に取得していた、長野県西筑摩郡福島町(現・木曽郡木曽町福島)から駒ヶ根村(現・上松町)を経て大桑村野尻にいたる「駒ヶ根水力」の水利権を1908年3月に譲り受けた。", "qas": [ { "question": "名古屋電灯よりも先に木曽川開発を行った会社の正式名称は何?", "id": "tr-157-05-000", "answers": [ { "text": "「名古屋電力株式会社」", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "誰が参加したことによって名古屋電力株式会社の水力発電計画が大規模化しましたか?", "id": "tr-157-05-001", "answers": [ { "text": "兼松煕", "answer_start": 135, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "名古屋電力が八百津発電所の建設を進める一方で、名古屋電灯では実業家福澤桃介による株式買収が進んでいた。\n福澤は1906年以降、九州の広滝水力電気や福博電気軌道(いずれも九州電灯鉄道の母体で、名古屋電灯とともに後年東邦電力となる)、愛知県の豊橋電気などに関与し電気事業界に投資を広げつつあった。\n名古屋電灯の買収は1909年初めより手をつけて翌年までに最大株主となり、1909年7月顧問となったのを皮切りに相談役、取締役と進んで1910年5月には常務取締役のポストを獲得するにいたり、短期間のうちに会社の首脳部に食い込んだ。\n名古屋電灯に乗り込んだ福澤は、八百津発電所の工事を進める名古屋電力との合併交渉を取りまとめ、同年10月合併を実現させた。\nこうして名古屋電灯は、八百津発電所の工事を引き継いで1911年(明治44年)11月に運転を開始させるとともに、駒ヶ根水力の水利権も継承し、福島・駒ヶ根・大桑・読書・田立の5町村にまたがる木曽川水利権の確保に成功した。", "qas": [ { "question": "名古屋電力と名古屋電灯を合併させた実業家のフルネームは何ですか?", "id": "tr-157-06-000", "answers": [ { "text": "福澤桃介", "answer_start": 33, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "名古屋電力と名古屋電灯が合併した年はいつですか?", "id": "tr-157-06-001", "answers": [ { "text": "1910年", "answer_start": 213, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "福澤桃介は名古屋電力との合併が成立した後名古屋電灯常務を辞任していたが、1913年(大正2年)1月に復帰。\n同年9月に社長であった加藤重三郎が辞任すると社長代理となり、翌1914年(大正13年)12月には後任社長に就任した。\n木曽電気製鉄の前身たる臨時建設部が名古屋電灯社内に設置されたのは、福澤が社長代理となった後の1914年初頭のことである。\n当初は主任以下計4名という小さな組織であり、木曽川開発実施に向けた調査を担当した。\n大正初期の名古屋電灯は、長良川・八百津両発電所の完成により供給力に余剰が生じ、大口需要家の獲得に奔走するという状況にあった。\n1914年10月には、福澤の発案により余剰電力5,000キロワットを利用した事業の検討を行っている。\nこうした供給過剰の状況は、1914年に第一次世界大戦が勃発して大戦景気を背景に電力需要が急増すると解消し、一転して供給力が不足するようになる。\n供給力確保のために火力発電所(熱田発電所、1915年9月運転開始)や八百津発電所の放水落差を活用した放水口発電所(1916年5月運転開始)の建設を緊急対策として実施したが、1917年(大正6年)上期時点では水力・火力あわせて約1万8,000キロワットの供給力をほとんど消化する状況で、実業界の活況からさらに3万キロワット近い新規需要が想定されていた。\nこうした状況下にあった1916年(大正15年)2月、臨時建設部は部内に総務・電気・土木の3課を置いて組織を拡充し、水力開発を実行に移す。\nまず手がけたのは木曽川賤母発電所と矢作川串原仮発電所である。\n次いで木曽川大桑発電所の建設にも着手した。", "qas": [ { "question": "1914年に社長就任した福澤桃介の先代社長は誰でしたか?", "id": "tr-157-07-000", "answers": [ { "text": "加藤重三郎", "answer_start": 65, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "第一次世界大戦後の電力供給を確保するための対策として、建設された火力発電所は何?", "id": "tr-157-07-001", "answers": [ { "text": "熱田発電所", "answer_start": 417, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "名古屋電灯は1915年(大正4年)9月21日、木曽川全体の水力開発計画を取りまとめ、電気事業経営許可の変更を逓信省に申請した。\nしかし木曽川開発を実行に移すにあたって解決すべき問題として、木曽川の水運に対する補償問題が浮上した。\nもともと木曽川は、上流域に広がる木曽御料林の木材輸送に古くから活用されていた(流材、「川狩り」と称す)。\nその手順を簡単に示すと以下のようになる。\n御料林で伐採した木材を、木曽川最上流や王滝川などの木曽川支流へと落とし、1本ずつ木曽川本流へと流す。\nこれを「小谷狩り」と称す。\n木曽川本流でも引き続き木材を1本ずつ下流へと流す。\nこれを中流の錦織(岐阜県)まで行う。\n木曽川本流と王滝川の合流点から錦織までの流材を「大川狩り」と称す。\n錦織でいかだを組み木曽川へと流し、最終的に白鳥(名古屋市)や桑名へと運搬する。\n御料林を管理する帝室林野管理局では、明治末期に中央本線が開通(1911年全通)したのを期に、木材輸送を順次鉄道輸送へと切り替え、輸送方法の近代化を図る計画を立てていた。\nとはいえ明治末期に許可されていた木曽川における水力発電の水利権はすべて流材に配慮しており、使用水量が流材に支障がない程度に制限されていた。", "qas": [ { "question": "木曽川の上流域で伐採した木材を木曽川本流へ流す輸送方法を何と言いますか?", "id": "tr-157-08-000", "answers": [ { "text": "「小谷狩り」", "answer_start": 243, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "木曽川本流から木材を1本ずつ中流の錦織まで流す流材方法を何と言いますか?", "id": "tr-157-08-001", "answers": [ { "text": "「大川狩り」", "answer_start": 322, "answer_type": "Manner" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "木曽川で行われていた木材輸送が鉄道輸送に移り変わったのは、何が開通したことが起因していますか?", "id": "tr-157-08-002", "answers": [ { "text": "中央本線", "answer_start": 396, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1907年から翌年にかけて長野県当局が名古屋電灯などに対して木曽川の水利権を許可した際、帝室林野管理局は県当局が相談なく行ったことを抗議し、1913年4月には電気事業を所管する逓信省との間で今後の水利権許可にあたっては事前に協議することを協定した。\nこれらの経緯から、名古屋電灯が1915年10月に許可済みの木曽川水利権について使用水量の増加を申請すると、帝室林野管理局は補償を要求する。\n名古屋電灯の申請は、水利権を確保していた駒ヶ根水力・大桑水力・田立水力の3地点(1910年7月の計画見直しにより旧駒ヶ根水力が分割され3地点となっていた)につき、1.3倍から2倍の使用水量増加を求めるものであった。\nこれに対して帝室林野管理局は、河水引用区域周辺の御料林と中央本線とを繋ぐ森林鉄道23マイル(約37キロメートル)と陸揚げ施設の無償提供を求めた。\n流材問題の解決なしでは使用水量増加は受理され得ないことから、建設費100万円と見込まれた森林鉄道の提供を最終的に名古屋電灯は受け入れ、この御料林の流材問題は解決し、1917年に使用水量増加が許可されるに至った。", "qas": [ { "question": "名古屋電灯が木曽川の使用水量増加を申請し、許可されたのは何年でしたか?", "id": "tr-157-09-000", "answers": [ { "text": "1917年", "answer_start": 458, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "名古屋電灯に森林鉄道と陸揚げ施設の無償提供を要求したのはどこですか?", "id": "tr-157-09-001", "answers": [ { "text": "帝室林野管理局", "answer_start": 309, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "なお、帝室林野管理局との問題が解決し、次いで木曽電気製鉄が発足した後も地元自治体との間には補償問題が残った。\nこれについては1921年(大正10年)2月に、漁業への配慮、官民双方の木材運搬施設(森林鉄道・林道、陸揚げ施設など)の整備、景観保護などを長野県が水利権の附帯条件として命令し直し、会社側からは1922年以降26年間にわたり毎年3万円ずつ計78万円を関係町村に寄付する、という条件で折り合いがつき、解決へと向かった。", "qas": [ { "question": "木曽電気製鉄が関係町村に毎年3万円ずつ寄付した期間はどれくらいでしたか?", "id": "tr-157-10-000", "answers": [ { "text": "26年間", "answer_start": 158, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "木曽電気製鉄が地元自治体に寄付した合計金額はいくらになりますか?", "id": "tr-157-10-001", "answers": [ { "text": "78万円", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1915年10月27日に木曽川3地点における使用水量増加を申請したのに続いて、名古屋電灯は計画の見直しを進めて1916年6月30日に引用地点の変更を申請した。\nこの結果、木曽川の水利権は以下の4地点となった。\nそれは、大桑第一水力の福島町字和合-大桑村字宮森間、大桑第二水力の大桑村字和村-大桑村字野尻向間、読書水力の大桑村字阿寺-読書村字沼田間、賤母水力の吾妻村(現・南木曽町大字吾妻)字茅ヶ沢-山口村(現・岐阜県中津川市山口)字麻生間である。\nこのうち最下流の賤母水力の水利権は、流材問題が解決する目処がついたため、森林鉄道敷設の条件付きで1917年3月3日付で許可された。\nそして同年8月、名古屋電灯は賤母発電所(しずも)の建設に着手する。", "qas": [ { "question": "名古屋電灯が賤母発電所の建設を開始したのは何年8月からですか?", "id": "tr-157-11-000", "answers": [ { "text": "1917年", "answer_start": 272, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "賤母発電所は、吾妻村に木曽川を横断する堰堤を建設して取水し、全長4.9キロメートルの水路を開削して山口村にて出力1万2,600キロワットで発電を行う設計とされた。\n水車3台をイギリスのボービング(Boving)、発電機3台をアメリカのゼネラル・エレクトリック、変圧器をウェスティングハウス・エレクトリックからそれぞれ輸入したため、第一次大戦の混乱に巻き込まれて延着となったが、木曽電気製鉄への分離を経て、着工から約2年後の1919年(大正8年)7月に一部が完成して4,200キロワットでの送電を開始し、11月に竣工した。\n賤母発電所の発生電力は、自社での使用および一部事業者への供給に当てられた一部を除いて、ほとんどが名古屋電灯へと供給された。\n竣工後取水量を変更したため増設工事が行われ、1922年(大正11年)3月に出力が1万4,700キロワットへと増強されている。", "qas": [ { "question": "賤母発電所の増設工事後の出力はいくらになりましたか?", "id": "tr-157-12-000", "answers": [ { "text": "1万4,700キロワット", "answer_start": 363, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "賤母発電所の発電機3台は何という会社から買い入れましたか?", "id": "tr-157-12-001", "answers": [ { "text": "ゼネラル・エレクトリック", "answer_start": 117, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1916年に申請していた大桑第一・同第二・読書・賤母4地点の水利権は、先に許可された賤母以外の3地点も1917年9月5日付で許可が下りた。\nこのうち大桑第二水力を「大桑発電所」として翌1918年(大正7年)7月に工事許可を受けて、木曽電気製鉄発足後の同年10月に着工。\n同発電所はアリス・チャルマーズ製水車3台、ウェスティングハウス製発電機3台および変圧器を設置して大同電力発足後の1921年3月に完成、出力1万1000キロワットで8月より運転を開始した。", "qas": [ { "question": "大桑発電所は出力何キロワットで運転をスタートしましたか?", "id": "tr-157-13-000", "answers": [ { "text": "1万1000キロワット", "answer_start": 204, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "大桑発電所の水利権の許可が下りたのはいつですか?", "id": "tr-157-13-001", "answers": [ { "text": "1917年9月5日", "answer_start": 51, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "大桑第一水力は水路が長すぎることから分割され上流側を「駒ヶ根水力」、下流側を「須原水力」とし、さらに景勝地寝覚の床が途中にあることから駒ヶ根水力も「寝覚水力」「桃山水力」に分割、計3地点とされた。\n読書とあわせていずれも大同電力発足後に着工された。\nまず須原発電所(9,200キロワット)が発足直後に着工され、翌1922年7月に竣工した。\n続いて1922年3月読書発電所(よみかき、4万700キロワット)、同年8月桃山発電所(2万3100キロワット)が着工され、ともに翌1923年(大正12年)12月に竣工した。\n残る寝覚発電所(3万2600キロワット)は開発が延期されたため、15年後の1938年(昭和13年)9月運転開始である。", "qas": [ { "question": "寝覚発電所、桃山発電所、須原発電所、読書発電所の中で最も出力が高い発電所はどこですか?", "id": "tr-157-14-000", "answers": [ { "text": "読書発電所", "answer_start": 180, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "寝覚発電所、読書発電所、桃山発電所の中で出力が最小の発電所はどこですか?", "id": "tr-157-14-001", "answers": [ { "text": "桃山発電所", "answer_start": 207, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "寝覚発電所、読書発電所、須原発電所、桃山発電所の中で最も早く早く竣工した発電所はどれですか?", "id": "tr-157-14-002", "answers": [ { "text": "須原発電所", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "桃山発電所、須原発電所、読書発電所の中で同じ時期に竣工していない発電所はどれですか?", "id": "tr-157-14-003", "answers": [ { "text": "須原発電所", "answer_start": 127, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "木曽川筋の発電所に先駆けて名古屋電灯では矢作川の串原発電所の建設を進めており、同発電所が臨時建設部最初の事業となった。\n名古屋電灯が串原における水利権を申請したのは1915年9月である。\n第一次大戦下、電力需要の急増に対する処置を急いでいた同社は、水利権の許可が下りるのを待たずに1917年3月に仮発電所の工事許可を追加申請し、5月には未許可のまま仮発電所の建設に着手する。\n完成を急ぐために機械を発注・製作する時間をも省いて水車や発電機などは長良川発電所の予備機械を流用し、設計の簡略化と突貫工事も加えて工期短縮を図って、やや工事が遅れたものの1918年4月に仮発電所の落成に漕ぎ着けた。\nとはいえ未許可で工事を始めたため途中で工事中止の命令を受け(1917年9月正式許可)、送電開始後も未完成の堰堤工事や水路修繕工事を繰り返す、という状態であった。\n仮発電所の出力は2,000キロワットで、木曽電気製鉄への分離後も発生電力全量を名古屋電灯を供給した。", "qas": [ { "question": "名古屋電灯は串原における水利権の許可を受けないまま、5月に行ってしまったこととは何?", "id": "tr-157-15-000", "answers": [ { "text": "仮発電所の建設", "answer_start": 174, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "仮発電所に続く本発電所の工事は、木曽電気製鉄発足後の1918年12月に開始された。\n当初計画では出力を4,600キロワットとする設計であったが、上流・下流側の水利権保有者から権利を譲り受けて発電所の有効落差を拡大したため、6,000キロワットに変更されている。\n工事許可の取得は翌1919年4月であり、この本発電所工事も未許可での着工であった。\n同年春に水車・発電機各2台を日立製作所に発注したものの機械の納入が遅れ、翌1920年(大正9年)12月発電機1台の据え付けが完了。\nさらにその他の機械が破損事故に遭ったため、大同電力発足と同じ1921年(大正10年)2月の竣工となった。\n本発電所の完成に伴い仮発電所は廃止された。", "qas": [ { "question": "本発電所の出力は、変更後いくつになりましたか?", "id": "tr-157-16-000", "answers": [ { "text": "6,000キロワット", "answer_start": 111, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "以上の発電所建設とともに、変電所や送電線の建設も進行していた。\n変電所のうちまず建設されたのが、串原仮発電所の電力を受け入れるための六郷変電所である。\n同変電所は名古屋市北区八龍町(旧六郷村)に建設され、串原仮発電所から77キロボルト送電線を架設して1918年6月より運転を開始した。\nその後1921年2月、本発電所の建設にあわせて名古屋市瑞穂区石田町に瑞穂変電所を新設、串原発電所から瑞穂変電所まで同じく77キロボルト送電線を整備している。\n木曽川の発電所からは六郷変電所へと送電された。\nまず1919年7月、賤母発電所建設にあわせて賤母発電所から既設線に接続する瑞浪開閉所まで77キロボルト送電線が完成。\n1921年8月には大桑発電所の建設に伴って同発電所から賤母送電線に接続する中津開閉所までの送電線も完成し、それぞれ六郷変電所への送電に使用された。", "qas": [ { "question": "六郷変電所の建設地はどこ?", "id": "tr-157-17-000", "answers": [ { "text": "名古屋市北区八龍町", "answer_start": 81, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "六郷変電所と瑞穂変電所はどちらが遅く建設されたの?", "id": "tr-157-17-001", "answers": [ { "text": "瑞穂変電所", "answer_start": 177, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "六郷変電所と瑞穂変電所の共通点は何キロボルトの送電線を整備している点ですか?", "id": "tr-157-17-002", "answers": [ { "text": "77キロボルト", "answer_start": 110, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "木曽電気製鉄は、発足にあわせて名古屋電灯から木曽川筋大桑第一・同第二・読書・賤母・与川および矢作川筋串原の計6地点における水利権を継承するとともに、新規水利権の出願権もあわせて引き継いだ。\n名古屋電灯は臨時建設部を設置した1914年以降、木曽川における水利権を相次いで申請しており、その許可促進に向けた運動も木曽電気製鉄の仕事となったのである。\n水利権の申請は以下の8地点に及ぶ。\n出願時点ではいずれも水路式発電所の計画であったが、実際にはダム式・ダム水路式で竣工した場所もある。\n1914年4月に出願したのは落合水力・笠置水力であった。\n1914年8月に出願したのは王滝川第一水力・同第二水力・西野川水力であった。\n1916年11月に出願したのは大井水力・錦津水力であった。\n1917年12月に出願したのは今渡水力であった。\nこれら水利権申請中の発電所出力は合計10万キロワットに及び、大戦景気により電力需要が急増したとしても名古屋地方での需要に見合うものではなく、単独で消化できないのは明白であった。\nそこで深刻な供給不足に陥っていた関西地方への販売を目指し、まず関西の京阪電気鉄道との間で交渉をもち、1919年折半出資による大阪送電株式会社の設立計画を取りまとめた。\n同社が元となり大同電力が発足するのは前述の通りである。", "qas": [ { "question": "木曽電気製鉄が新規水利権を出願した中で、1か所しか出願しなかった年はいつですか?", "id": "tr-157-18-000", "answers": [ { "text": "1917年", "answer_start": 339, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "木曽電気製鉄が最多の新規水利権を出願したのはいつですか?", "id": "tr-157-18-001", "answers": [ { "text": "1914年8月", "answer_start": 270, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "木曽電気製鉄が2カ所の新規水利権を出願した年は1916年といつですか?", "id": "tr-157-18-002", "answers": [ { "text": "1914年", "answer_start": 241, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "西野川水力、大井水力、笠置水力の中で、2番目に早く新規水利権を出願したのはどれですか?", "id": "tr-157-18-003", "answers": [ { "text": "西野川水力", "answer_start": 298, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1901年(明治34年)に官営八幡製鉄所が操業を開始したことにより本格化した日本の鉄鋼業は日露戦争を期に発展をみせたが、民間製鉄所は釜石鉱山田中製鉄所など数か所、生産高は国内生産高の4分の1程度を占めるのみで、官営製鉄所主導であった。\nしかし1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、鋼材需要の激増に触発されて民間鉄鋼業も相次いで勃興し、1914年から1919年(大正8年)までの5年間に20近い民間製鉄所が操業を開始する。\nそして銑鉄の生産高は1913年(大正2年)の24万トンから1919年には3倍増の78万トンへと伸長し、同時に民間工場の生産高は生産高のうち64%を占めるまでになった。", "qas": [ { "question": "日本の銑鉄の生産高を比較すると、1913年と1919年ではどちらが多いですか?", "id": "tr-157-19-000", "answers": [ { "text": "1919年", "answer_start": 247, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "日本の民間鉄鋼業が盛んになるきっかけとなった戦争は何ですか?", "id": "tr-157-19-001", "answers": [ { "text": "第一次世界大戦", "answer_start": 133, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "日本の民間工場による銑鉄の生産高が国内の生産高の6割を占めるようになったのは何年ですか?", "id": "tr-157-19-002", "answers": [ { "text": "1919年", "answer_start": 247, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "鉄鋼業が伸長したこの時期、スウェーデン・ノルウェー・アメリカ合衆国など欧米において実用化されつつあった製鉄法(製銑法)が「電気製鉄」(電気製銑)であった。\n電気製鉄とは、鉄鉱石を還元して銑鉄を取り出す際に電気炉を用いる方法である。\n一般的に行われていた高炉(溶鉱炉)による製鉄法では、鉱石の加熱にコークスないし木炭を使用するが、電気製鉄ではこれを電力による加熱に代える。\n還元に必要な炭素を供給するため電気製鉄でもコークスないし木炭は必要であるが、加熱に使用しない分高炉法に比べて使用量を1/3に圧縮できる。\n他にも電気製鉄法は高炉法に比して、鉱石の大小を問わない、コークス・木炭の使用量が少ないため銑鉄中の不純物が少ない、操業が容易、建設費が最大1/2程度と安い、といったメリットがあった。\nただ前提として電力が廉価である必要があった。\nこの新規事業である電気製鉄を、名古屋電灯は1917年(大正6年)より日本で初めて導入する。", "qas": [ { "question": "電気製鉄を日本で初めて導入した会社は何ですか?", "id": "tr-157-20-000", "answers": [ { "text": "名古屋電灯", "answer_start": 385, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "高炉法と電気製鉄法では建設費が安いのはどちらですか?", "id": "tr-157-20-001", "answers": [ { "text": "電気製鉄法", "answer_start": 258, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ジャバウォック", "paragraphs": [ { "context": "ジャバウォックは『鏡の国のアリス』の物語自体には登場せず、物語内で登場する書物の詩『ジャバウォックの詩』の中で語られている生物である。\n\n詩の文面によれば、姿は「Thejawsthatbite,theclawsthatcatch(食らいつくその顎、かきむしるその爪)」「TheJabberwock,witheyesofflame(らんらんたる眼〈まなこ〉燃やしたる)」とあり、性格は「manxome(ひとごろしき)」と形容されている。その動向については「Camewhifflingthroughthetulgeywood(おぐらてしき森の奥より、ひょうひょうと風切り飛びきたり)」「Hetookhisvorpalswordinhand(けしにぐの剣〈つるぎ〉、手に取りて)」「Heleftitdead,andwithitshead(横たわる死体より、刎ねたる首をば小脇にかかえ)」と、森から現れたジャバウォックが退治される様子が述べられている。\n\nその形態は、詩には明確な姿の描写がないが、『鏡の国のアリス』に挿絵を寄せたジョン・テニエルの画では、細い体格のドラゴンのような姿で描かれている。体高は人間の2倍から3倍程度で、頭は魚のようで、額には2本の触角状のもの、口元にも2本の触手またはヒゲのようなもの、口の中には鋭い門歯が確認できる。首は細長く、体は爬虫類状の鱗に覆われており、直立歩行する恐竜のように腕と脚を2本ずつ、手足にそれぞれ3本と4本ずつの鋭い鉤爪を持ち、長い尾、背中にコウモリのような翼がある。しかしその恐ろしげな姿は、あまり目のよくなさそうな表情や、中産階級の着るようなベストとスパッツを胴体に身に着けていることでいくぶん和らげられている。", "qas": [ { "question": "『ジャバウォックの詩』はどの物語に登場するの?", "id": "tr-158-00-000", "answers": [ { "text": "『鏡の国のアリス』", "answer_start": 8, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ジャバウォックの頭は何に似ている?", "id": "tr-158-00-001", "answers": [ { "text": "魚", "answer_start": 514, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ジャバウォックの腕と脚は何本ずつある?", "id": "tr-158-00-002", "answers": [ { "text": "2本", "answer_start": 608, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "『ジャバウォックの詩』ではジャバウォックの性格をどう形容しているか。", "id": "tr-158-00-003", "answers": [ { "text": "「manxome(ひとごろしき)」", "answer_start": 191, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "『ジャバウォックの詩』における「ジャバウォック」が何を象徴するかについては、様々な解釈が唱えられている。\n\n名称については、言語学者エリック・パートリッジはテニエルの挿絵からの推測により「jab(一突き)」または「jatter(粉々に砕く)」と「wacker(巨大なもの)」を由来とする説を唱えており、ほかにも、「jabber(わけのわからないことをぺらぺら喋る)」が語源とする説、またはこれらと「jatter」「wock(子孫、果実)」などの合成語などの諸説があるが、結論には至っていない。\n\nもっとも作者のルイス・キャロル自身は、読者からのジャバウォックに関する手紙の返信の中で、アングロサクソン語で「ジャバ」は「熱狂的な発言」または「侃侃諤諤の議論」、「ウォック」は「子孫」、そして「ジャバウォック」は「激論の賜物または「議論の賜物」を意味すると講釈している。そのためにジャバウォックは、このように論議されることを前提に創作された怪物とする解釈もある。", "qas": [ { "question": "テニエルの挿絵からの推測により「jab(一突き)」または「jatter(粉々に砕く)」と「wacker(巨大なもの)」を由来とする説は誰が訴えましたか。", "id": "tr-158-01-000", "answers": [ { "text": "エリック・パートリッジ", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "英文学者の高橋康也は、ジャバウォックを「わけのわからない言葉を発する声」、転じて「言語の混沌」「言語の存立を脅かす騒音」の象徴と捉え、ジャバウォックの退治とはすなわち「言語の混沌を整え、新たな秩序を言語にもたらすこと」と述べている。また、原典においてはジャバウォックの首を撥ねた剣「vorpalsword」が小文字で「vorpal」と書かれていることから、この語源を名詞ではなく形容詞の「vorpal(鋭い)」、または言葉を示す「verbal」と(絶対の)真理を示す「gospel」の合成語として「真理の言葉」と解釈することで、「ジャバウォックの詩」は怪物退治の話などではなく、無意味なことを喋るばかりの論議の場を真理の言葉で一刀両断する比喩だとする解釈も存在する。その傍証を思わせるものとして、キャロルによる『スナーク狩り』の第5章「ビーバーの授業」では、ビーバーが大量の紙とペンで書き付けを始めたところ、正体不明の奇怪な怪物が現れるという場面があり、これは言語や文字を怪物として視覚化したものとも考えられている。ただしキャロル自身は、前述の剣については「剣が何かなんて説明できない」と述べている。", "qas": [ { "question": "ジャバウォックを「わけのわからない言葉を発する声」、転じて「言語の混沌」「言語の存立を脅かす騒音」の象徴と捉え、ジャバウォックの退治とはすなわち「言語の混沌を整え、新たな秩序を言語にもたらすこと」と主張したのは誰か。", "id": "tr-158-02-000", "answers": [ { "text": "高橋康也", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1997年開始の日本の漫画『ARMS』では、ジャバウォックは「ARMS」と呼ばれる意思を宿したナノマシンの一種の名称として用いられ、ジャバウォックの名に恥じない強力な力を持つものとして描写されている。\n\nこのほか、各種ゲーム作品の登場キャラクターとしても用いられており、ゲームの中ではグリフォン、ワイバーン、ドラゴンなどと比較しても遜色のない攻撃力を持つ、かなりの強力なキャラクターとされることもある。またジャバウォックを倒した武器「vorpalsword」もまた、ファンタジー系のロールプレイングゲームに登場する「ヴォーパルブレード」「ヴォーパルウェポン」など、強力な名剣の語源になっている。\n\nしかしながらジャバウォックの知名度がこのように向上し、挿絵の影響によりその姿が有名になっているにもかかわらず、ジャバウォックがどのように原典で扱われているかはあまり知られていない。これは前述のように、ジャバウォックは『鏡の国のアリス』の物語自体に登場するわけではないためと見られている。", "qas": [ { "question": "漫画『ARMS』を制作した国は?", "id": "tr-158-03-000", "answers": [ { "text": "日本", "answer_start": 8, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "貴族(中国)", "paragraphs": [ { "context": "中国史における貴族は、魏晋南北朝時代から唐末期(220年-907年)にまで存在した血統を基幹として政治的権力を占有した存在を指す。後漢の豪族を前身とし、魏において施行された九品官人法により貴族層が形成された。北朝ではこれに鮮卑や匈奴といった北族遊牧民系統の族長層が加わり、その系譜を汲む隋・唐でもこの両方の系統の貴族が社会の支配層の主要部を形成した。中国史学では、貴族が社会の主導権を握っていた体制を貴族制と呼ぶ。貴族は政治面では人事権を握って上級官職を独占することで強い権力を維持し、その地位を子弟に受け継がせた。このことにより官職の高下が血統により決定されるようになり、門地二品・士族と呼ばれる層を形成した。一方、文化面では王羲之・謝霊運などを輩出し、六朝から唐中期までの文化の担い手となった。隋代に導入された科挙により新しい科挙官僚が政界に進出してくるようになると貴族はこれと激しい権力争いを繰り広げるが、最終的に唐滅亡時の混乱の中で貴族勢力は完全に瓦解した。貴族という用語は日本の歴史学界で使われる用語であり、当時の貴族による自称は士・士大夫・士族であった。これに倣い中国の歴史学界では士族の語が使われる。ただし、日本の学界における貴族制の理解と、封建地主制を前提とした中国の学界における士族制または門閥制の理解には相違があり、現状では完全に同義の用語というわけではない。", "qas": [ { "question": "中国史において北族遊牧民系統の族長層のほかに貴族と呼ばれる人々は、何を元にしていますか?", "id": "tr-159-00-000", "answers": [ { "text": "後漢の豪族", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "官職の高下が血統により決定されていた当時の政界に大きな変革をもたらし、結果的には貴族の瓦解にもつながったのは、何の導入か?", "id": "tr-159-00-001", "answers": [ { "text": "科挙", "answer_start": 357, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "貴族が支配層として強い権力を握っていたときの官職の高下は、何により決定されたの?", "id": "tr-159-00-002", "answers": [ { "text": "血統", "answer_start": 271, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "九品官人法の下で強い権力を持っていた人々と北族遊牧民系統の族長層が支配層として君臨していた時の体制を何と呼びますか?", "id": "tr-159-00-003", "answers": [ { "text": "貴族制", "answer_start": 200, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "周代の族的集団を基盤とする都市国家社会においては士・大夫と呼ばれる族集団の族長層である支配者階層があり、族集団の祭祀を主催し軍事の枢要を占めて、その下の庶(民衆)とは隔絶する存在であった。この両階層を総称した士大夫という呼称は、後世に儒教が周代を理想時代としたこともあり、後世の支配者層により自らの雅称として盛んに使われた。この項で述べる漢代の豪族・魏晋南北朝の貴族ともに自称は士族・士大夫であり、当時において貴族という呼称は使われていない。前漢中期より、各地方において経済的な実力を持った者たちが当地の農村を半支配下に置いて、豪族と呼ばれる層を作った。武帝によって導入された郷挙里選により、豪族たちは一族の子弟を官僚として中央に送り出すようになった。中央で官職を得た豪族たちは次第にその階層を固定化して貴族へと変化しだした。", "qas": [ { "question": "士・大夫と呼ばれた支配層とは、族集団でどんな階層だったの?", "id": "tr-159-01-000", "answers": [ { "text": "族長層", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "前漢中期に経済的な実力をもとに力を手にした者たちが貴族となるきっかけとなったのは、どのような制度を導入してからですか?", "id": "tr-159-01-001", "answers": [ { "text": "郷挙里選", "answer_start": 288, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "貴族となった階層は、どこを半支配下に置いた人々であったか?", "id": "tr-159-01-002", "answers": [ { "text": "農村", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "豪族が貴族へと発展したきっかけとなった制度を導入したのは、誰か?", "id": "tr-159-01-003", "answers": [ { "text": "武帝", "answer_start": 277, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "220年、魏文帝により、九品官人法が施行された。九品官人法はまず漢代の官職を九段階の官品に分ける。そして中正という役職が地方の輿論を基に人物の判定を行い、その人物が最終的にどの官品まで上るべきかを裁定する。これを郷品と言う。官品と郷品はいずれも一品から九品までの等級からなり、中正がある人物が二品官になり得る才能があると判定すればその人物の郷品は二品となった。郷品として判定された等級の官品にすぐさま任官するわけではなく、通常初めて任官するときは郷品の4品下の官品の官から始まる。この初めの官を起家官と呼ぶ。この制度は本来は漢魏の交代の際に、漢代の官位制の腐敗を除きつつ漢の官僚機構を魏のそれに統合し、才能優先で人材登用をするためのものであった。しかし豪族たちが郷品を決める中正およびその後の昇進を決める尚書吏部を掌握し、人事権は事実上豪族たちの手に握られるようになった。そうすると中央で権力を握った豪族たちの地位はそのまま子孫に受け継がれるようになった。こうなると官職は個人の才能ではなく、血統により決定されることになり、地位の固定化が進み、豪族の貴族化が促進された。", "qas": [ { "question": "漢代の官職を九段階の官品に分ける制度が導入されたのは、何年か?", "id": "tr-159-02-000", "answers": [ { "text": "220年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "郷品とは誰により決まるものだったの?", "id": "tr-159-02-001", "answers": [ { "text": "中正", "answer_start": 52, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "結局、起家官は誰が決めることだった?", "id": "tr-159-02-002", "answers": [ { "text": "中正", "answer_start": 52, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "人事権をもとに地位・権力の固定化を進め、貴族へと変化したのは、どのような人々ですか?", "id": "tr-159-02-003", "answers": [ { "text": "豪族", "answer_start": 326, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "魏において司馬懿が権力を奪取する際に州大中正が導入されたことで、更にこの傾向は進んだ。それまで中正は州の下の行政区分である郡と県にのみ置かれていたが、州に中正が置かれたことにより、中央の大官たちの意向が中正の選任に強く反映されるようになり、貴族層の固定化が一層進むようになった。中正は地方の輿論をもとに郷品を下す。そのため、貴族の子弟たちは自分の存在をアピールするために社交界で名を売ろうとした。このような猟官活動は明帝の時に一時弾圧されることもあったが、その傾向は改まらなかった。竹林の七賢に代表されるような清談や、また『世説新語』に登場する「ブタを人の乳で育てた」などといった奢侈もまた名を売るための手段であった。", "qas": [ { "question": "貴族層の固定化がより一層進んだのは、誰によることなの?", "id": "tr-159-03-000", "answers": [ { "text": "司馬懿", "answer_start": 5, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "貴族と呼ばれる者たちが、当時の政界を掌握するためにはどの官職の選任に力を入れるべきでありましたか?", "id": "tr-159-03-001", "answers": [ { "text": "中正", "answer_start": 139, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "中央の大官たちが自分たちの権力を維持するために、ある官職の選任に力を入れるようになったのは、誰による制度のためか?", "id": "tr-159-03-002", "answers": [ { "text": "司馬懿", "answer_start": 5, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "貴族の子弟たちが自分をアピールする活動が一時的に弾圧されたのは、誰の時代でか?", "id": "tr-159-03-003", "answers": [ { "text": "明帝", "answer_start": 208, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "実際に就く官職においても貴族とそうでない者とでは差別された。これを清濁の別という。例えば郷品二品の者が起家として就く職と郷品六品の者が最終的に到達する職とでは同じ六品官であっても対等ではない。門地二品の者たちが起家として就任する秘書郎・著作佐郎など実際に行う仕事は少なく意見を述べることができる官は清官と呼ばれて好まれ、一方で細々とした雑務が多い職・軍職・郷品六品が最後に到達する官職は濁官とされ嫌われた。また同じ官品でも要職か、閑職かによっても差異が生じた。このような「俗世間の雑事にはとらわれず、高見を世間に問う」というスタイルは清談と通ずるものであり、そのような人物を理想とする貴族の好みが強く反映されたものである。地方官は清濁の別の外に置かれ、その地方の重要性如何によって価値が決まったが、概して中央で出世が見込める人物は地方官への就任を好まなかった。", "qas": [ { "question": "貴族と貴族ではないものとの間であった差別を、何と言うの?", "id": "tr-159-04-000", "answers": [ { "text": "清濁の別", "answer_start": 33, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "差別される側の者が最後に到達する官職を何と呼びますか?", "id": "tr-159-04-001", "answers": [ { "text": "濁官", "answer_start": 193, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "貴族か、貴族でないかで差別されなかった官職は、何か?", "id": "tr-159-04-002", "answers": [ { "text": "地方官", "answer_start": 311, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "清濁の別において差別する側は、どのような者たちだったか?", "id": "tr-159-04-003", "answers": [ { "text": "貴族", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "魏はその後、西晋に禅譲を行い、さらに西晋もまた36年という短い統一期間の後に匈奴の漢(前趙)により一旦滅亡し、皇族の司馬睿が江南に逃れて東晋を立てた。この時、貴族たちは司馬睿と共に南遷する者とそのまま華北に残った者に分かれた。司馬睿を迎え入れ東晋政権を安定させるのに尽力したのは主に現地の土着豪族である。しかし東晋が安定すると政権の枢要な地位に就いたのは彼ら現地の豪族ではなく、司馬睿と共に南渡した華北の貴族たちであった。その代表は、王導・王羲之ら琅邪王氏、謝安・謝霊運らの陳郡謝氏である。現地の豪族たちは二流貴族として差別を受け、この不満から一部の者が反乱を起こすこともあったが、大勢としては東晋政権に従うことで地位を保つ道を選んだ。北来貴族・南人貴族ともに華北の混乱が江南にまで及び、貴族としての地位が完膚なきまでに破壊されることを最も恐れていたので、東晋政権が崩れることを望まなかったのである。", "qas": [ { "question": "北来貴族と南人貴族のうち、より強い権力を持っていたのは、どちらか?", "id": "tr-159-05-000", "answers": [ { "text": "北来貴族", "answer_start": 318, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "北来貴族と南人貴族の両方とも、何が崩れることを望まなかったの?", "id": "tr-159-05-001", "answers": [ { "text": "東晋政権", "answer_start": 378, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東晋政権を安定化させた豪族たちは、東晋が安定した後、何貴族と呼ばれたのか?", "id": "tr-159-05-002", "answers": [ { "text": "南人貴族", "answer_start": 323, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "司馬睿はもともとどの国の皇族であったか?", "id": "tr-159-05-003", "answers": [ { "text": "西晋", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "その後、曲がりなりにも安定政権を築いた東晋であったが、その権力基盤は脆弱であり、貴族たちの歓心を買い、離反を防ぐために官職をばら撒くことを行った。郷品のうち、一品は皇族や大官の子などだけが得られる特別のものであってまず与えられることはない。そして西晋代には郷品二品もまた貴重であり、大抵は郷品三品から始まっていた。しかしばら撒きにより名門であれば郷品二品が珍しくなくなり、次第に郷品二品と三品以下との間にはっきりとした線が引かれるようになる。郷品二品の家は門地二品と呼ばれ、三品以下の家は寒門・寒士と呼ばれる。また庶民が任官して昇進しても寒士より更に低い所で壁に当たることになる。これら庶民出身の官吏は寒人と呼ぶ。東晋の初めごろはこれら北からの亡命者が増えることはそれだけ労働力を増やすことになり、大いに歓迎された。これら亡命者たちは元の本籍地で戸籍に登録され、亡命後の定着地の戸籍には登録されなかった。これを白籍という(反対に現地で登録される戸籍を黄籍という)。そのためこれら亡命者たちは亡命後の定着地に対しては何ら義務を負わず、単に権利のみを有していた。しかし東晋がある程度安定すると亡命者たちも持てはやされることもなくなり、現地の戸籍に登録して税を徴収するべきであるとの意見が強くなった。これが桓温などの実力者の元で実行された土断である。", "qas": [ { "question": "東晋政権において、昇進の限界値が最も低かったのは、何出身の人々なの?", "id": "tr-159-06-000", "answers": [ { "text": "庶民", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "白籍の者たちは、定着地で義務と権利のうち、どちらだけ有していたのか?", "id": "tr-159-06-001", "answers": [ { "text": "権利", "answer_start": 468, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "北からの亡命者たちにおける戸籍登録による区分はどうなっていたか?", "id": "tr-159-06-002", "answers": [ { "text": "白籍", "answer_start": 405, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "北からの亡命者たちにより発生した不平等を解決するために、実行された制度は何か?", "id": "tr-159-06-003", "answers": [ { "text": "土断", "answer_start": 566, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "東晋において政権を握ったのは王導・謝安などの甲族(門地二品)であったが、それに対して東晋の守りの要である北府・西府両軍の武力を背景として桓温・桓玄が台頭し、桓氏の簒奪失敗の後に劉裕(武帝)が新たに宋を建てた。劉裕の後を継いだ文帝の時代は、華北が北魏の統一戦の時代でその干渉を免れたこともあり、長い平和が続いた。これを当時の元号元嘉を取って元嘉の治と呼ばれ、この時代が貴族制の全盛時代とされる。一方で劉裕は生まれた時に危うく間引きされそうになったというエピソードが示すように、一応貴族に分類されるもののかなりの末流であり、軍功によりのし上がり皇帝にまで上り詰めたものである。以後の斉・陳の始祖(梁は斉の宗族)もまた劉裕と同じく軍功により上り詰めた軍人である。これら軍人皇帝は自らの手足として寒門・寒士層を重用するようになる。門地二品層は皇帝の意向を無視することが多く、また意欲にも能力にも乏しい者が多かったためである。これにより寒門・寒人層の台頭が目立つようになるが、実際の権力を握っても寒門・寒士たちに対する門地二品層の身分的差別は厳しいものがあった。例えば蕭道成(斉の高帝)の寵愛を受けた紀僧真は貴族との交流を求めたが、貴族から拒否されている。宋から禅譲を受けた斉では高帝・武帝の一時的な安定の後は皇族が地位を巡って殺しあう暗黒時代となった。そのため23年という短い期間で斉は滅亡し、蕭衍(武帝)により梁が建てられた。", "qas": [ { "question": "貴族制の全盛時代の皇帝は誰か?", "id": "tr-159-07-000", "answers": [ { "text": "文帝", "answer_start": 112, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "自らの手足として寒門・寒士層を重用した皇帝らの出身は?", "id": "tr-159-07-001", "answers": [ { "text": "軍人", "answer_start": 331, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "寒門・寒士層が軍人皇帝の手足として重用されたのは、どの階層の者たちが皇帝の意向を無視することが多かったためか?", "id": "tr-159-07-002", "answers": [ { "text": "門地二品層", "answer_start": 361, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "軍人皇帝が君臨してから実質的な権力を持っていたのは、どのような階層の人々か?", "id": "tr-159-07-003", "answers": [ { "text": "寒門・寒士層", "answer_start": 344, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "武帝は貴族的な教養を身につけた一流の文化人でもあり、即位初年以来、官制改革に並々ならぬ意を用いた。508年(天監七年)には官制に対して大幅な再編を行った。まずそれまでの九品のうち、おおよそ七品以下の官職(門地二品が就くことのない役職)を流外官として切り捨て、それまでの六品以上を十八班に分ける(品とは逆に十八が最高で一が最低)。十八班はそれぞれ、十八班が正一品・十七班が従一品・十六班が正二品に対応し、ここまでが旧来の一品に相当する。以下、これと同じように対応していき、三班が従八品・二班が正九品・一班が従九品に対応し、旧来の六品に対応する。この流内十八班・流外七班の制度は九品制度の中で六品と七品以下との隔絶という実態と制度を合致させ、貴族と寒門との間の区別をはっきりとさせるためのものであった。また班内の官職においても清官と濁官の区別がはっきりとされている。", "qas": [ { "question": "武帝の官制再編により、六品以上はいくつに分けられたか?", "id": "tr-159-08-000", "answers": [ { "text": "十八", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "武帝が再編した官制では、最も高い位置であるのは、どれか?", "id": "tr-159-08-001", "answers": [ { "text": "十八班", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "流内十八班・流外七班の制度への官制再編が行われたのは、誰によることか?", "id": "tr-159-08-002", "answers": [ { "text": "武帝", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "官職を九品に分ける制度がなくなったのは、誰が即位してからか?", "id": "tr-159-08-003", "answers": [ { "text": "武帝", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "武帝は侯景の起こした叛乱により餓死に追い込まれ、梁の繁栄は一朝に消えた。内乱状態の中で朝廷の地方に対する統制力は衰え、それに代わってそれまでは見下されてきた在地の豪族たちが軍閥勢力として割拠するようになった。その軍閥たちをなだめすかしながら陳霸先が陳を建て、内乱は一応の収束を迎えた。貴族制も内乱の終息と共に再び形成されたが、貴族制の受けた打撃は大きかった。戦功を挙げた武将たちには官職を与えねばならず、それにより貴族の勢力が大きく減退したことなどが原因である。官職を得た武将たちはその官職を子孫に受け継がせたいと望むようになるが、従来の門地による官職決定ではそれは叶わない。朝廷はこれに対する懐柔策として、高位官僚の子を官僚として登用する任子制を採るようになる。陳は北周および隋の強い圧迫を受け、589年に滅ぼされたが、六朝貴族制の精華といえる陳の貴族制は隋・唐に大きな影響を及ぼすことになった。その一方で、梁から陳にかけては商業活動の活発化が目覚ましい時期であり、これらにより財を蓄えた新興商人・地主層の官界への進出が目立つようになった。これら新興商人・地主層は後代の科挙官僚の主な供給源であり、貴族制崩壊への第一歩であった。", "qas": [ { "question": "内乱を乗じて国を立て、皇帝となった人は誰か?", "id": "tr-159-09-000", "answers": [ { "text": "陳霸先", "answer_start": 120, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "貴族たちの権力が減退したのは、どの国が建国されてからですか?", "id": "tr-159-09-001", "answers": [ { "text": "陳", "answer_start": 120, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "内乱を乗じて建てられた国は、いつ滅ぼされた?", "id": "tr-159-09-002", "answers": [ { "text": "589年", "answer_start": 349, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "梁から陳にかけて財と力を蓄え、後代には貴族制崩壊にも影響力を行使することとなった新興勢力は、何か?", "id": "tr-159-09-003", "answers": [ { "text": "新興商人・地主層", "answer_start": 445, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "五胡の侵入の際に華北に居残った漢人貴族たちは概ねその地位を脅かされることはなかった。彼らが地方で持っている影響力が、王朝の安定のために必要とされたのである。しかし南朝とは違い、漢人貴族たちは中央には余り出仕せず、自らの根拠地に近い地方の地方官になることを望んだ。戦乱の中での不安定な中央政権に魅力を感じなかったからであろう。しかし北魏により華北が統一され、ある程度の安定政権ができると、次第に漢人貴族たちも中央へと進出し始め、太武帝の時には山東随一の名門とされる清河崔氏の崔浩が司徒に登った。崔浩は漢人たちを大いに起用して北朝においても南朝を模した貴族制を作ろうとするが、鮮卑人たちの反発を買い誅殺された。この事件により漢人貴族の勢力は一時後退した。一方、尚武を是とする鮮卑の間でも漢人たちの影響により貴族的なものが浸透するようになった。部族制をとる鮮卑にとって貴い血筋とは各部族の族長級の者たちであり、また戦乱の中で軍功を挙げた功臣たちであった。これらの者たちが自分の地位を子孫に受け継がせたいと望むのは自然なことであり、最も望ましいのは地位・財産・領土などをそのまま受け継がせる封建制であったが、中央集権を望む皇帝側からはそれを認めづらく、地位と名分のみを受け継がせる貴族制が折衷案として選ばれたのである。", "qas": [ { "question": "五胡の侵入の際に華北に居残った漢人貴族たちがある程度の安定政権ができる前に、なりたがった官職は、何ですか?", "id": "tr-159-10-000", "answers": [ { "text": "地方官", "answer_start": 118, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "北朝においても南朝を模した貴族制が作られるのを望まなかった者たちの中では、どんな制度を取っていたの?", "id": "tr-159-10-001", "answers": [ { "text": "部族制", "answer_start": 369, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "戦乱の中では地方官になることを望んでいた者たちが、中央へと進出し始めたのは、どこが統一されてからか?", "id": "tr-159-10-002", "answers": [ { "text": "華北", "answer_start": 170, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "華北が統一され、中央に進出した漢人貴族で、鮮卑により誅殺されたのは、誰か?", "id": "tr-159-10-003", "answers": [ { "text": "崔浩", "answer_start": 236, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "六代孝文帝の時に馮太后の摂政の元で三長制・均田制などの導入により部族制の解体が図られた。その後の孝文帝親政時の大幅な官制改革(493年の前令・495年の中令・499年の後令)漢人・鮮卑の中での貴族の格付けが為され、既に孝文帝以前より漢人・鮮卑の間での通婚も行われるようにもなっており、北朝においても貴族制が成立した。しかし急激な漢化への反発から六鎮の乱が起こり、北魏は分裂して東魏→北斉、西魏→北周へと分裂することになる。この二つの国は貴族制に対する態度も対照的であった。北斉はほぼ北魏の貴族制をそのまま受け継ぎ、更にそれを発展させる方向へと進んだ。一方で新興商人・地主層の台頭、金の力により官位を手に入れる現象が目立ってくる。一方、北周においてはそれまでの九品を九命(品とは逆に正九命が最高)とし、その下に九秩を設けた。そして清濁の別を廃止し、昇進には功績のみが参考にされた。北斉との戦いが続く中においては功績といえば軍功であり、官職に就く者はほとんどが鮮卑出身の軍人となった。その中で漢人貴族層は排撃された。鮮卑の尚武政策への復古である。西魏・北周で採用された府兵制における軍制の要職である柱国・大将軍の系譜は関隴集団を形成した。", "qas": [ { "question": "北魏が分裂してできた国のうち、北魏の貴族制をそのまま受け継ぎ、さらに発展させた国のほかには、どの国があるか?", "id": "tr-159-11-000", "answers": [ { "text": "北周", "answer_start": 317, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "北魏が分裂してできた国のうち、軍人が権力を握るようになったのは、どの国か?", "id": "tr-159-11-001", "answers": [ { "text": "北周", "answer_start": 317, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "北周で権力を握ったのは、どの部族か?", "id": "tr-159-11-002", "answers": [ { "text": "鮮卑", "answer_start": 428, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] } ] }, { "title": "ラブカ", "paragraphs": [ { "context": "ラブカ(羅鱶、学名Chlamydoselachusanguineus)は、カグラザメ目ラブカ科に属するサメの1種である。\n現在確認されているラブカ科の現生種は2種のみ。\n外見からウナギザメ(鰻鮫)と呼ばれることもある。\n大西洋・太平洋の大陸斜面、水深500–1,000メートルの海底で生活するが、日本では駿河湾、相模湾などで浅海に上がってくる。\n原始的なサメの特徴が見られることから生きている化石と呼ばれる。\n全長2メートルに達し、鰭は体後部に集中する。\n鰓弁は大きくヒダ状になり、英名frilledsharkの由来ともなっている。", "qas": [ { "question": "ラブカの和名は何?", "id": "tr-160-00-000", "answers": [ { "text": "羅鱶", "answer_start": 4, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ラブカはその見た目から何と呼ばれることがありますか?", "id": "tr-160-00-001", "answers": [ { "text": "ウナギザメ", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ラブカは何目に属していますか?", "id": "tr-160-00-002", "answers": [ { "text": "カグラザメ目", "answer_start": 37, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ラブカの英名は何?", "id": "tr-160-00-003", "answers": [ { "text": "frilledshark", "answer_start": 243, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "蛇のように体を伸ばして獲物に食らいつく姿が観察されている。\n顎が大きく三つまたに割れた鋭い歯を持つためかなり大きな獲物も飲み込むことができる。\n主に頭足類を食べる。\n無胎盤性胎生で、繁殖期はなく、妊娠期間は3年半である。\nまれに底曳き網や底延縄で混獲されるが、漁業の対象にはならない。", "qas": [ { "question": "ラブカの主食は何ですか?", "id": "tr-160-01-000", "answers": [ { "text": "頭足類", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ラブカの妊娠期間はどれくらいありますか?", "id": "tr-160-01-001", "answers": [ { "text": "3年半", "answer_start": 103, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "稀種ではあるが分布域は広く、大西洋・太平洋全域から散発的に記録がある。\n東大西洋ではノルウェー北方・スコットランド北方・アイルランド西方・フランスからモロッコ・マデイラ諸島・モーリタニア。\n中央大西洋ではアゾレス諸島からブラジル南方のリオグランデ海膨までの大西洋中央海嶺上・西アフリカ沖のバビロフ海嶺。\n西大西洋ではニューイングランド・ジョージア州・スリナム。\n西太平洋では本州南東・台湾・ニューサウスウェールズ・タスマニア・ニュージーランド。\n中央・東太平洋ではハワイ・カリフォルニア・チリ北部で確認されている。\n2009年、南アフリカ沖に生息する個体は別種C.africanaとされた。\n日本では相模湾や駿河湾で比較的多く見られる。", "qas": [ { "question": "ラブカの西大西洋における生息域の北限はどこ?", "id": "tr-160-02-000", "answers": [ { "text": "ニューイングランド", "answer_start": 158, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ラブカの西太平洋における生息域の北限はどこ?", "id": "tr-160-02-001", "answers": [ { "text": "本州南東", "answer_start": 187, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ラブカの中央・東太平洋における生息域の南限はどこ?", "id": "tr-160-02-002", "answers": [ { "text": "チリ北部", "answer_start": 244, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ラブカが日本で多く見られる場所は駿河湾とどこ?", "id": "tr-160-02-003", "answers": [ { "text": "相模湾", "answer_start": 300, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "最大全長オス165センチメートル、メス196センチメートル。\n体型は細長い円筒型。\n頭部は幅広くて平たく、短く丸い吻がある。\n鼻孔は縦に裂け、前鼻弁で二つに区切られている。\n眼は比較的大きく楕円形で、瞬膜を欠く。\n非常に大きい口は普通のサメと異なって体前端に開く。\n口角に溝・褶はない。\n歯列は隙間を開けて並び、上顎で19–28列、下顎で21–29列である。\n歯は合計で300本ほどで、個々は小さく、細い三尖頭をもち先は鋭くとがる。\n尖頭の間には小尖頭がある。\n鰓裂は6対で、鰓弁の後部が伸びてひだ状になる。\n第一鰓裂は喉で繋がって襟状になっている。", "qas": [ { "question": "ラブカの最大全長が大きいのはオスとメスのどちら?", "id": "tr-160-03-000", "answers": [ { "text": "メス", "answer_start": 17, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ラブカの歯の合計はいくつ?", "id": "tr-160-03-001", "answers": [ { "text": "300本", "answer_start": 185, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "眼はどのような形をしているの?", "id": "tr-160-03-002", "answers": [ { "text": "楕円形", "answer_start": 95, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "歯列の最大数が多いのは上顎と下顎のどちら?", "id": "tr-160-03-003", "answers": [ { "text": "下顎", "answer_start": 166, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "胸鰭は短くて丸い。\n背鰭は1基で小さく、後縁は丸い。\n体後方の臀鰭上部に位置する。\n腹鰭・臀鰭は大きく、幅広くて丸く、体後方に位置する。\n尾鰭は非常に長く、下葉・欠刻がない。\n腹面には1対の厚い皮褶が走るが、その機能は不明である。\n腹部は雄より雌の方が長く、腹鰭がより後方にある。\n皮歯は小さく、鏨型である。\n尾鰭背面の皮歯は大きくて鋭い。\n体色は暗褐色や灰色。\n最大全長は雄で1.7メートル、雌で2.0メートルである。", "qas": [ { "question": "背鰭の数はいくつですか?", "id": "tr-160-04-000", "answers": [ { "text": "1基", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "腹鰭の位置がより後方なのは雄と雌のどちら?", "id": "tr-160-04-001", "answers": [ { "text": "雌", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "腹部が長いのは雄と雌のどちら?", "id": "tr-160-04-002", "answers": [ { "text": "雌", "answer_start": 122, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "最大全長が大きいのは雄と雌のどちら?", "id": "tr-160-04-003", "answers": [ { "text": "雌", "answer_start": 197, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ドイツの魚類学者ルートヴィヒ・デーデルラインは1879年から1881年に日本を訪れ、2個体の標本をウィーンに持ち帰った。\nだが、彼の手稿によるとこの標本は失われたようである。\nそのため、最初の記載は1884年、米国の動物学者サミュエル・ガーマンがProceedingsoftheEssexInstituteで公表した\"AnExtraordinaryShark\"と題した記載論文とされている。\nタイプ標本は相模湾産の1.5メートルの雌個体である。\nガーマンは本種に科・属を新設し、古代ギリシア語で\"chlamy\"(外套)\"selachus\"(サメ)の意があるChlamydoselachus、ラテン語\"anguineus\"(ウナギ型)に由来するChlamydoselachusanguineusという学名を与えた。", "qas": [ { "question": "ラブカのことを最初に記載した人は誰でしたか?", "id": "tr-160-05-000", "answers": [ { "text": "サミュエル・ガーマン", "answer_start": 112, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "サミュエル・ガーマンが記載した標本の性別は何でしたか?", "id": "tr-160-05-001", "answers": [ { "text": "雌", "answer_start": 215, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "日本からウィーンに2個体の標本を持ち帰った人は誰?", "id": "tr-160-05-002", "answers": [ { "text": "ルートヴィヒ・デーデルライン", "answer_start": 8, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "Chlamydoselachusanguineusを命名した人は誰?", "id": "tr-160-05-003", "answers": [ { "text": "ガーマン", "answer_start": 223, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "多尖頭の歯、眼の後方で頭骨と直接関節する顎(両接型)、椎骨が不明瞭で脊索のような脊柱に基づいて、昔の専門家は本種を絶滅した板鰓類(サメ・エイとその祖先)の生き残りだと考えていた。\nガーマンは古生代のデボン紀(約4億1600万年前から約3億5920万年前)に栄えたクラドセラケと本種を同じグループ\"cladodonts\"に位置付けた。\n彼と同世代のテオドール・ギルとエドワード・ドリンカー・コープは中生代に栄えたヒボドゥス目との関連を指摘し、コープは本種を化石属のDidymodusに位置づけた。", "qas": [ { "question": "クラドセラケが栄えた時期はいつですか?", "id": "tr-160-06-000", "answers": [ { "text": "デボン紀", "answer_start": 99, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "本種を\"cladodonts\"に位置付けた人は誰?", "id": "tr-160-06-001", "answers": [ { "text": "ガーマン", "answer_start": 90, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "一方、最近の研究では、頭の骨格構造にツノザメ類に近い部分もあるとされ、この説に疑問を呈する声もあるが、クラドセラケと同様の歯形状と、鰓穴の数が6個あるという説明と解明まではされていない。\n骨格や筋肉の特徴は明らかに現生のサメ(新サメ類、Neoselachii)のものであり、特にカグラザメと類似する。\nまた、分類学者の白井滋は単型のラブカ目(Chlamydoselachiformes)を提唱している。\nそれでも本種は現生サメの中で最も古い系統の一つに属し、白亜紀後期(9500万年前)、また、おそらくジュラ紀後期(1億5000万年前)の化石が発見されている。\n原始的なサメの特徴をよく残していることから「生きている化石」と呼ばれる。", "qas": [ { "question": "骨格と筋肉の特徴がよく似ているサメの種類は何?", "id": "tr-160-07-000", "answers": [ { "text": "カグラザメ", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "白亜紀後期とジュラ紀後期はどちらが年代が古いですか?", "id": "tr-160-07-001", "answers": [ { "text": "ジュラ紀後期", "answer_start": 251, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "頭の骨格構造に近い種類は何ですか?", "id": "tr-160-07-002", "answers": [ { "text": "ツノザメ類", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ラブカ目を提唱している人は誰?", "id": "tr-160-07-003", "answers": [ { "text": "白井滋", "answer_start": 159, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "近縁種に南アフリカ産のC.africana(Ebert&Compagno,2009)(ミナミアフリカラブカ)が知られている。\nこの種は脊椎骨数が160–171でラブカの147より多く、腸の螺旋弁数が35–49でラブカの26–28より多い。\nまた、頭部はより長く、鰓裂はより短い。\nこれにより、現生のラブカ科はC.anguineusおよびC.africanaの2種で構成されることになる。", "qas": [ { "question": "脊椎骨数が多いのはラブカとミナミアフリカラブカのどちらですか?", "id": "tr-160-08-000", "answers": [ { "text": "ミナミアフリカラブカ", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "腸の螺旋弁数が多いのはラブカとミナミアフリカラブカのどちらですか?", "id": "tr-160-08-001", "answers": [ { "text": "ミナミアフリカラブカ", "answer_start": 43, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ミナミアフリカラブカの脊椎骨数はいくつ?", "id": "tr-160-08-002", "answers": [ { "text": "160–171", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "ミナミアフリカラブカの腸の螺旋弁数はいくつ?", "id": "tr-160-08-003", "answers": [ { "text": "35–49", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "普段動きは緩慢で、ウナギのように体を波打たせて遊泳する。\n遊泳速度は速くない。\n骨格の石灰化が弱く、低密度の脂質が詰まった大きな肝臓を持つ。\nこれは体の密度を減らし、水中に浮かぶための適応である。\n開いた側線を持つ数少ないサメの一種で、機械受容器の有毛細胞が外部に露出している。\nこれはサメの基底クレードに見られる形質であるが、獲物の細かい動きを捉えることができると考えられる。\n尾鰭の先端を欠損した個体がよく見つかるが、これは他種のサメに襲われたものと考えられる。\n寄生虫としてMonorygma属の条虫、吸虫のOtodistomumveliporum、旋尾線虫のMooleptusrabukaが知られる。", "qas": [ { "question": "ラブカの寄生虫の一種である吸虫は何?", "id": "tr-160-09-000", "answers": [ { "text": "Otodistomumveliporum", "answer_start": 257, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ラブカの寄生虫の一種である旋尾線虫は何?", "id": "tr-160-09-001", "answers": [ { "text": "Mooleptusrabuka", "answer_start": 283, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "顎は柔軟で非常に大きく開くことができ、全長の半分を超える獲物を飲み込むことができる。\nだが顎の長さと関節からすると、他のサメに比べあまり強く噛み付くことはできないようである。\nほとんどの捕獲個体には胃内容物がなく、消化速度が速いか摂餌間隔が長いことを意味すると考えられる。\n自分よりも小柄なサメや硬骨魚類、頭足類などを捕食する。\n銚子市で捕獲された1.6メートルの個体は590グラムのニホンヘラザメを飲み込んでいた。\n駿河湾では餌の60%がイカであり、ユウレイイカ・クラゲイカのような動きの遅い種だけでなく、ツメイカ・トビイカ・スルメイカのような大型で高速遊泳する種も捕食していた。", "qas": [ { "question": "動きが遅い種類はクラゲイカとトビイカのどちら?", "id": "tr-160-10-000", "answers": [ { "text": "クラゲイカ", "answer_start": 233, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "駿河湾に生息するラブカの捕食物の中で、最も多く食されているものは何?", "id": "tr-160-10-001", "answers": [ { "text": "イカ", "answer_start": 220, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "動きが速い種類はユウレイイカとツメイカのどちら?", "id": "tr-160-10-002", "answers": [ { "text": "ツメイカ", "answer_start": 254, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "泳ぎの遅い本種がどのように高速遊泳するイカを捕えるのかは不明であるが、傷ついた、または繁殖後で弱った個体を狙っている可能性はある。\n体後方に鰭が集中した体型は瞬間的な突進に適しており、蛇のように体をくねらせて獲物に食らいつくことができる。\nさらに、鰓裂を閉じることで負圧を生み出し、獲物を吸い込んでいるとも考えられる。\n鋭く小さい、内側に向いた歯は顎を突き出すことで外側に回転し、獲物を引っ掛けやすくなる。\n捕獲個体の観察からは口を開けたまま泳ぐことが分かっているが、これは白い歯と黒い口内の対比によって、疑似餌として機能するという仮説もある。", "qas": [ { "question": "本種は泳ぎが遅いか速いか?", "id": "tr-160-11-000", "answers": [ { "text": "遅い", "answer_start": 3, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "無胎盤性胎生で、胎児は卵黄によって成長する。\nだが胎児間で体重が異なることがあり、母体からも何らかの形で栄養が供給されると考えられる。\n成体雌は2つの卵巣、1つの子宮(右側)が機能する。\n深海は季節の影響が少ないため、繁殖期はない。\nおそらく繁殖のために、大西洋中央海嶺の海山に15匹の雄、19匹の雌が集まったことが記録されている。\n産仔数は2–15だが、平均6である。\n雌は2週間おきに排卵するが、妊娠中は体腔に十分なスペースがないため、卵黄形成と卵巣卵の発達は停止する。", "qas": [ { "question": "ラブカはどのような性質の胎生か?", "id": "tr-160-12-000", "answers": [ { "text": "無胎盤性胎生", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "大西洋中央海嶺の海山に集まった数が多かったのは雄と雌のどちら?", "id": "tr-160-12-001", "answers": [ { "text": "雌", "answer_start": 149, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "雌の排卵頻度はどれくらい?", "id": "tr-160-12-002", "answers": [ { "text": "2週間おき", "answer_start": 188, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "受精卵は薄く楕円体で、茶色の卵鞘を持つ。\n3センチメートルに達した胎児では顎の形成が始まり、外鰓・すべての鰭が出現する。\n6–8センチメートルに達すると外鰓が完全に形成され、卵殻は脱ぎ捨てられて母体から排出される。\n40センチメートルに達するまで卵黄嚢の大きさはほぼ一定であるが、50センチメートルに達するまでに急速に消失する。\n成長率は1.4センチメートル/月であり、他のあらゆる脊椎動物より長い3.5年の妊娠期間を持つ。\n出生時は全長40-60センチメートル。\n雄で全長97–117センチメートル、雌で全長135–150センチメートルで性成熟する。", "qas": [ { "question": "性成熟時の大きさが大きいのは雄と雌のどちら?", "id": "tr-160-13-000", "answers": [ { "text": "雌", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "食用とされたり魚粉が利用されることもあり、主に日本では飼育施設で展示されることもある。\n生体と人間が遭遇することは少なく、人間に危害を加えることはないが、人間が扱う際に鋭い歯で怪我をすることはある。\n2004年8月27日、米国のブレーク海台で遠隔操作無人探査機(ROV)のジョンソン・シーリンクIIによって、初めて深海での姿が観察された。\n多くの専門家は、シーサーペントの目撃報告の一部は本種によって説明できると考えている。\n本種はそれほど大きくないが、より大型の化石種が生き残っていると信じている未確認動物学者もいる。", "qas": [ { "question": "深海でのラブカの姿を初めて観察した探査機の名前は何?", "id": "tr-160-14-000", "answers": [ { "text": "ジョンソン・シーリンクII", "answer_start": 136, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "深海でのラブカの姿が初めて観察されたのはいつ?", "id": "tr-160-14-001", "answers": [ { "text": "2004年8月27日", "answer_start": 100, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ジョンソン・シーリンクIIはどこの国の探査機ですか?", "id": "tr-160-14-002", "answers": [ { "text": "米国", "answer_start": 111, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "東海大学海洋科学博物館(静岡県静岡市)がアクアマリンふくしま(福島県いわき市)と共同で2016年以降、研究プロジェクトに取り組んでいる。\n漁業者からの聞き取りなどによる生息調査、受精卵の人工保育などである。\n同博物館には1986年4月、由比漁港(静岡市)より生きたラブカが搬入されている。", "qas": [ { "question": "東海大学海洋科学博物館はどこと共同で研究に取り組んでいますか?", "id": "tr-160-15-000", "answers": [ { "text": "アクアマリンふくしま", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "東海大学海洋科学博物館にラブカが入ったのはいつでしたか?", "id": "tr-160-15-001", "answers": [ { "text": "1986年4月", "answer_start": 110, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "ステレオ", "paragraphs": [ { "context": "ステレオ(stereo)は、音響工学ではステレオフォニック(stereophonic,英語版ではstereophonicsound)の略語であり、左右2つのスピーカーで音声を再生する方式のことである。広義には、ステレオフォニック再生のための音声信号を集音、録音、伝送、通信、放送、加工する技術全般、またはステレオフォニック再生のための音響再生装置(ステレオ・セット)を指す。", "qas": [ { "question": "左右2つのスピーカーで音声を再生する方式を示す音響工学用語は?", "id": "tr-161-00-000", "answers": [ { "text": "ステレオ", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ステレオは何の略語?", "id": "tr-161-00-001", "answers": [ { "text": "ステレオフォニック", "answer_start": 20, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "以下は主に音響工学に厳密な古典的な文であり、サラウンド、ヘッドフォンなど聴取形態が多様化した現在では以下の様な細かな事はほとんど言われない。特に音楽ファンに於いては音声信号が一つのものは再生方法に関わらずモノかモノラル、左右二つのものはステレオと言う。(ただしステレオ初期のレコードにはモノフォニック、ステレオフォニックとの表示があった。)\n\nステレオフォニック再生は、典型的には、聴取者の水平方向前方左右30度の位置に一対のスピーカーを配して2チャンネルの音声を再生する。それに対し、前方正面の1つのスピーカーから1チャンネルの音声を再生する方式をモノフォニックと呼ぶ。なお、一般にモノラルと混同されるが、これは後述の通り別の再生方式である。また、1チャンネルの音声をステレオフォニック用の2つのスピーカーから同時に再生して聴取する方式はダイオティックと呼ばれ、モノフォニックとは厳密には区別される。", "qas": [ { "question": "典型的ステレオフォニック再生方式ではスピーカーは聴者に対しどの位置にいますか?", "id": "tr-161-01-000", "answers": [ { "text": "水平方向前方左右30度の位置", "answer_start": 195, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "前方正面の1つのスピーカーから1チャンネルの音声を再生する再生方式は?", "id": "tr-161-01-001", "answers": [ { "text": "モノフォニック", "answer_start": 275, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ステレオフォニック、ダイオティック、モノフォニックでもっとも多いチャンネルで音声を再生しない再生方式はどれか?", "id": "tr-161-01-002", "answers": [ { "text": "ステレオフォニック", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "ステレオフォニック再生はモノフォニック再生に比較して、音像定位や音場感が加わり、再生音の臨場感が増す効果がある。2つのスピーカと聴取者頭部が一辺3メートルの正三角形に位置する配置が最も望ましいとされている。この時の聴取者の位置のことをリスニング・ポイントまたはスイート・スポットと呼ぶ。\n\n録音については、左右1対のマイクロフォンで集音してそのまま2チャンネルの音声とする方式と、個々の楽器や歌手に個別のマイクをあてがい、オーディオミキサーで2チャンネルの音声にまとめる方式とがある。現在の殆どのコンパクトディスクはステレオフォニック再生用として収録されているが、前者の方式で録音されたものは一部のクラシック音楽(ソロパートに専用マイクを使う事は多い)などであり、大半は後者の方式で録音されている。", "qas": [ { "question": "ステレオフォニック再生とモノフォニック再生で再生音の臨場感が高いのはどれか?", "id": "tr-161-02-000", "answers": [ { "text": "ステレオフォニック再生", "answer_start": 0, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ステレオフォニック再生において一番望ましい聴者の位置は右スピーカーから何mの距離ですか?", "id": "tr-161-02-001", "answers": [ { "text": "3メートル", "answer_start": 72, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "個々の楽器や歌手に個別のマイクでとった音声を2チャンネルの音声にまとめるツールは何ですか?", "id": "tr-161-02-002", "answers": [ { "text": "オーディオミキサー", "answer_start": 211, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ステレオフォニック再生で臨場感が増す理由として、人間が元々左右の耳に入る音の位相差および音量差などを利用して音源の方向を把握している点が挙げられる。これを2つのマイクロフォンでシミュレーションする方式として2チャンネル音声伝送は考案されたが、当初はステレオフォニックではなく、バイノーラルと呼ばれる方式であった。これは、2つのマイクロフォンを両耳の位置に備えた擬似頭部を用いて集音した2チャンネル音声を左右の耳にあてがった1対のイヤーフォンで聴取するもので、この再生方式をバイノーラルと呼ぶ。因みに、左右どちらか一方の耳で1つのイヤーフォンで聴取する再生方式をモノラル(モノーラル)と呼ぶ。\n\nバイノーラル再生の効果はパリ博覧会にて複数の電話を用いることで偶然に発見されたとされているが、真偽は不明である。現在に至るまで、バイノーラル録音はドイツで研究が盛んであり、HATS(ヘッド・アンド・トルソー・シミュレータ:ダミーヘッドに肩部や胴体も加えたシステム)も性能を高め、サラウンド以上の臨場感が得られるケースも出てきている。", "qas": [ { "question": "ステレオフォニック再生の方が臨場感が高い理由は何ですか?", "id": "tr-161-03-000", "answers": [ { "text": "人間が元々左右の耳に入る音の位相差および音量差などを利用して音源の方向を把握している点", "answer_start": 24, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "2つのマイクロフォンを両耳の位置に備えた擬似頭部を用いて集音した2チャンネル音声を左右の耳にあてがった1対のイヤーフォンで聴取する再生方式の名称は?", "id": "tr-161-03-001", "answers": [ { "text": "バイノーラル", "answer_start": 236, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1881年、クレマン・アデールは世界初の2チャンネル音響システムをパリで公開した。オペラ座の舞台からパリ電気博覧会会場に設置した部屋まで一連の電話通信装置を接続し、オペラ座での公演の音声を生中継で転送して聞かせるものだった。サイエンティフィック・アメリカン誌はこの模様を次のようにレポートしている。\n\n「産業宮(博覧会会場)でこの電話を聴く幸運に恵まれた人々は、2つの電話機で両方の耳で聴き、口をそろえて1つの受話器では生み出せないような臨場感があったと述べた...この現象は非常に奇妙である。それは双聴覚的音響の理論の近似であり、我々の知る限り、これまでになかったものである。この驚嘆すべきイリュージョンは立体音響の名にふさわしいかもしれない」\nこの2チャンネル電話方式はフランスでThéâtrophoneの名で1890年から1932年まで、イギリスではElectrophoneの名で1895年から1925年まで販売された。どちらもホテルやカフェに硬貨投入式の受話器を設置するか、個人宅で受信設備を導入してサービス提供を受ける形式だった。", "qas": [ { "question": "2チャンネル音響システムを歴史上初めて公開したのは誰ですか?", "id": "tr-161-04-000", "answers": [ { "text": "クレマン・アデール", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "クレマン・アデールが公開した2チャンネル音響システムが先に販売されたのはフランスか、イギリスか?", "id": "tr-161-04-001", "answers": [ { "text": "フランス", "answer_start": 337, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "フランスで1890年から1932年まで販売された2チャンネル音響システムの名は何ですか?", "id": "tr-161-04-002", "answers": [ { "text": "Théâtrophone", "answer_start": 342, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1930年代、EMIのアラン・ブラムレイン(AlanBlumlein)がステレオ録音、ステレオ映画、さらにはサラウンドの特許を取得した。1931年、EMIのブラムレインらは2チャンネルのステレオ録音方式を開発し、1933年に特許を取得した。これは25年後ステレオレコードの主流となる方式と同じで、レコードの溝の2つの壁を直角に交わらせて左右の壁に2つのチャンネルを録音するもので、1933年にEMIが開発した。ベル研究所のハーヴェイ・フレッチャーもステレオ録音・再生方式を研究していた。フレッチャーの試した方式の1つに\"wallofsound\"(音の壁)と呼ばれるものがある。これは、オーケストラの前に多数のマイクロフォンをずらっと並べて録音し、別のリスニングルームでそれぞれの録音を同じ形に配置したスピーカーで再生するものである。最大80個のマイクロフォンを使ったことがある。1932年3月には、フィラデルフィアのAcademyofMusicが2つのマイクロフォンで1つのレコード盤に2つの溝を刻む方式(バイノーラル盤に近い)も試されている。演奏はフィラデルフィア管弦楽団で指揮はレオポルド・ストコフスキーである。このときの録音で現存している最古のものは、1932年3月12日に録音されたスクリャービンの『プロメテ-火の詩』である。\n\n1933年4月27日、ベル研究所が3チャンネルのステレオ音声のデモンストレーションを行った。これは、フィラデルフィアでフィラデルフィア管弦楽団が演奏した音声をワシントンD.C.のConstitutionHallに生中継し、指揮者のレオポルド・ストコフスキーがConstitutionHallで音声のミキシングを制御するというデモンストレーションだった。同年開催されたシカゴ万国博覧会でも、ベル研究所がバイノーラル音声のデモンストレーションを行っている。このときは、2つの信号を振幅変調でそれぞれ別の周波数で放送した。", "qas": [ { "question": "1930年代、ステレオ映画の特許を取得したのは誰ですか?", "id": "tr-161-05-000", "answers": [ { "text": "アラン・ブラムレイン", "answer_start": 11, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ステレオレコードの主流となる録音方式が開発されたのは何年ですか?", "id": "tr-161-05-001", "answers": [ { "text": "1933年", "answer_start": 190, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "オーケストラの前に多数のマイクロフォンをずらっと並べて録音し、別のリスニングルームでそれぞれの録音を同じ形に配置したスピーカーで再生する方式の名称は?", "id": "tr-161-05-002", "answers": [ { "text": "\"wallofsound\"", "answer_start": 259, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1940年4月9日と10日にベル研究所がカーネギー・ホールで行ったデモンストレーションは、3台の大型スピーカーシステムを使用した。映画用フィルムに3つのサウンドトラックの形で録音することで3チャンネルの同期を達成している。ダイナミックレンジが制限されているため、音量圧縮技法が使われ、第4のトラックを音量伸長の調節に使用した。1970年代のドルビーノイズリダクションシステムも基本は似たような技法だが、はるかに洗練されている。音量圧縮と伸長は完全自動ではなく、手動で音質を改善させることを意図して設計してあった。すなわち、全体の音量と各トラックの相対音量を芸術的感性で調節可能だった。音響技術に興味を持っていたレオポルド・ストコフスキーの指揮でフィラデルフィア管弦楽団の演奏を録音した。ストコフスキー自身も録音の「改善」に参加した。\n\nスピーカーは合計で1500ワットの音声出力であり、100デシベルの音声レベルを生成した。デモンストレーションの模様を報じた記事によれば、観客は「魅了され、時には大いに恐れた」という。デモンストレーションを聴いたセルゲイ・ラフマニノフは、「驚くべきものだった」と述べたが、同時に「余りにも音量が大きすぎて、なんとなく音楽的ではなかった」とも述べている。また、「『展覧会の絵』は、あまりにも『改善』され、あまりにもストコフスキー的だったため、よくよく聴くまで曲名がわからなかった」とも述べている。", "qas": [ { "question": "1940年4月9日、ベル研究所が行ったデモンストレーションで使われたスピーカーシステムは全部で何台ですか?", "id": "tr-161-06-000", "answers": [ { "text": "3台", "answer_start": 45, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カーネギー・ホールで行ったデモンストレーションで、音量伸長の調節に使われたトラックは何トラックですか?", "id": "tr-161-06-001", "answers": [ { "text": "第4のトラック", "answer_start": 142, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カーネギー・ホールで行ったデモンストレーションでの合計音声出力量は?", "id": "tr-161-06-002", "answers": [ { "text": "1500ワット", "answer_start": 377, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1937年、ニューヨークのベル研究所で、同研究所とElectricalResearchProducts,Inc.が開発した2チャンネルステレオ音声つき映画のデモンストレーションが行われた。レオポルド・ストコフスキーの指揮でフィラデルフィアのAcademyofMusicが開発した9トラック音響システムに録音し、ユニバーサル・ピクチャーズが1937年に撮影した映画『オーケストラの少女』のサウンドトラックに使用したものである。9トラックで録音したものをミキシングして2トラックにしている。1938年、メトロ・ゴールドウィン・メイヤーが映画のサウンドトラックとして3トラック方式を採用し、すぐに4トラックに改良した。1トラックは俳優の台詞用、2トラックは音楽用、1トラックは音響効果用である。この方式はステレオ音声にすることを目的としたものではなく、4トラックをミキシングして1つの光学式サウンドトラックを作りやすくするためのものだった。この方式を採用した最初の映画は1938年の『初恋合戦』で、ジュディ・ガーランドの歌\"ItNeverRainsButWhatItPours\"がバイノーラル録音されている(最終的にはモノラルになっている)。", "qas": [ { "question": "1937年のデモンストレーションで公開した2チャンネルステレオ音声つき映画をベル研究所と共に開発したのはどこか?", "id": "tr-161-07-000", "answers": [ { "text": "ElectricalResearchProducts,Inc.", "answer_start": 25, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1937年のデモンストレーションの録音はもともと何トラックに録音されていましたか?", "id": "tr-161-07-001", "answers": [ { "text": "9トラック", "answer_start": 139, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1937年のベル研究所で2チャンネルステレオ音声つき映画のデモンストレーションに使われた映画は何ですか?", "id": "tr-161-07-002", "answers": [ { "text": "『オーケストラの少女』", "answer_start": 181, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ステレオ音声を映画館に導入した最初の映画はウォルト・ディズニーの『ファンタジア』で、1940年11月の公開である。このために特別な音響方式Fantasoundを開発している。Fantasoundでは4つの光学式サウンドトラックを持つ別のフィルムを使っている。そのうち3トラックが音声トラックで、残る1つは映画館のアンプの音量を制御するための情報が格納されていた。興行的には失敗したが、主要都市で音響設備の整った映画館だけで2か月間公開した後、サウンドトラックをモノラルにミキシングし直して、拡大公開を行った。1940年代初めごろ、アルフレッド・ニューマンが20世紀フォックスの多チャンネル録音が可能な録音ステージの建設を指揮した。この時代に録音された多チャンネルのサウンドトラックはいくつか現存しており、DVDのリリース時に使われた。例えば、『わが谷は緑なりき』、『アンナとシャム王』、『銀嶺セレナーデ』、『地球の静止する日』などがある。", "qas": [ { "question": "ステレオ音声を映画館に導入した最初の映画のタイトルは?", "id": "tr-161-08-000", "answers": [ { "text": "『ファンタジア』", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ステレオ音声が映画館に初めて導入されたのは何年ですか?", "id": "tr-161-08-001", "answers": [ { "text": "1940年", "answer_start": 42, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "Fantasoundの四つの光学式サウンドトラックで音声が入ってないトラックに格納されているものは何ですか?", "id": "tr-161-08-002", "answers": [ { "text": "映画館のアンプの音量を制御するための情報", "answer_start": 152, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "磁気テープによる録音の発明により、高音質で多チャンネルを同期させて録音することが容易になり、また安価にできるようになった。1950年代初めには主要なスタジオが35mm磁気テープで録音するようになった。しかし実際に映画がステレオ音声で公開されるには、映画館側の整備が必要である。1952年9月20日に公開された『これがシネラマだ』(ThisisCinerama)は、ステレオが興行的に成り立つことを証明した。シネラマは現代のIMAXと比較しても遜色のないワイドスクリーン方式である。このため、シネラマを上映する映画館は構造的にいくつかの条件を満たす必要があった。シネラマのサウンドトラックは磁気テープ上の7トラックで構成され、5トラックはスクリーンの背後の5台のスピーカーを駆動し、2トラックがサラウンド用である。このシステムは磁気録音技術の先駆者HazardE.Reevesが開発した。シネラマを体験したことのある人によると、その音響は現代の標準と比較しても素晴らしいものだった。", "qas": [ { "question": "1952年公開のステレオが興行的に成り立つことを証明した映画のタイトルは?", "id": "tr-161-09-000", "answers": [ { "text": "『これがシネラマだ』", "answer_start": 154, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "シネラマを上映する映画館は構造的限界があるのは何のためか?", "id": "tr-161-09-001", "answers": [ { "text": "ワイドスクリーン方式", "answer_start": 226, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "シネラマのサウンドトラックシステムを開発したのは誰ですか?", "id": "tr-161-09-002", "answers": [ { "text": "HazardE.Reeves", "answer_start": 373, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1953年4月、ニューヨークでのみ『これがシネラマだ』が公開されているころ、多くの観客はヴィンセント・プライス主演の立体映画『肉の蝋人形』(ワーナー・ブラザース)でステレオ音声を体験していた。その音響方式はWarnerPhonicと呼ばれ、35mm磁気テープに左右と中央の3トラックを記録し、これを2台の映写機と同期させ、映画のフィルムにも光学式でサウンドトラックを設けている。光学式サウンドトラックの1つは他に問題が生じたときのバックアップとしてモノラル音声を記録している。WarnerPhonicを使った立体映画は他に2本だけ製作された(TheChargeatFeatherRiverとIslandintheSky)。これらの映画の磁気テープトラックは紛失している。他にも立体映画が製作されたが、その多くが3チャンネルの磁気テープによる音声を採用していた。例えば、ItCamefromOuterSpace、I,theJury、TheStrangerWoreaGun、KissMe,Kateなどがある。", "qas": [ { "question": "1953年公開のヴィンセント・プライス主演の立体映画のタイトルは?", "id": "tr-161-10-000", "answers": [ { "text": "『肉の蝋人形』", "answer_start": 62, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "『肉の蝋人形』で採用されたステレオ音響方式の名称は?", "id": "tr-161-10-001", "answers": [ { "text": "WarnerPhonic", "answer_start": 103, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "肉の蝋人形、IslandintheSky、Kateこの三つの立体映画でWarnerPhonicが使われていないのはどれか?", "id": "tr-161-10-002", "answers": [ { "text": "Kate", "answer_start": 442, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "シネラマに触発され、映画業界はより単純で安価なワイドスクリーンシステムの開発に乗り出した。20世紀フォックスが開発したシネマスコープは4トラックの磁気サウンドトラックを採用していた。シネマスコープは標準的な35mmフィルムを採用していたため、既存の映画館で上映が可能だった。20世紀フォックスは、55mmフィルムを採用したCinemaScope55も開発した。こちらは6トラックのステレオを採用していた。しかし、こちらは新たな映写機を必要とするため失敗に終わり、2作品(『回転木馬』と『王様と私』)がこの方式で作られたが、結局35mmのシネマスコープで公開された。埋め合わせのため、『回転木馬』は6トラックのサウンドトラックで公開され、『王様と私』は1961年に70mmフィルムと6トラックのサウンドトラックで再公開された。", "qas": [ { "question": "20世紀フォックスが開発したシネマスコープは何トラックの磁気サウンドトラックを採用していますか?", "id": "tr-161-11-000", "answers": [ { "text": "4トラック", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "CinemaScope55で取られた作品は何作ですか?", "id": "tr-161-11-001", "answers": [ { "text": "2作品", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "35mmのシネマスコープで公開されてた『王様と私』がワイドスクリーン再公開されたのは何年ですか?", "id": "tr-161-11-002", "answers": [ { "text": "1961年", "answer_start": 325, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1954年以降も、磁気テープのサウンドトラックによるステレオ設備を導入できない映画館のため、ステレオ音声の映画をモノラルに変換し、光学で記録したものが必要とされた。ドルビーラボラトリーズのドルビーステレオ(ステレオ音声を光学で記録したもの)が使われ始めた1975年ごろまで、このような状況が続いた。例えば、フランコ・ゼフィレッリの『ロミオとジュリエット』のサウンドトラックのアルバムはステレオになっていた。ステレオを使う映画は、『ウエスト・サイド物語』、『マイ・フェア・レディ』、Camelotなどのミュージカル映画、『クレオパトラ』などの叙事詩、サイモン&ガーファンクルの曲を多用した『卒業』のような音楽を重視した映画に限られていた。今では、映画は基本的に全てステレオで公開されている。", "qas": [ { "question": "ステレオ音声を光学で記録可能になったのはいつからですか?", "id": "tr-161-12-000", "answers": [ { "text": "1975年", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ステレオ音声を光学で記録することができるようになったのは何の登場のおかげですか?", "id": "tr-161-12-001", "answers": [ { "text": "ドルビーステレオ", "answer_start": 94, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ステレオ設備がない映画館のため、ステレオ音声の映画をモノラルに変換し光学で記録したものが必要だったのはいつまでのことですか?", "id": "tr-161-12-002", "answers": [ { "text": "1975年", "answer_start": 127, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1940年代から1970年代にかけてのステレオの進歩は、複数チャンネルの録音・再生時の同期の困難さを技術的に克服していく過程であり、同時に新たな録音媒体と録音再生装置を市場に売り込んでいく過程だった。大まかに言って、ステレオシステムはアンプとスピーカーが2つずつ必要となり、モノフォニックシステムの2倍のコストがかかる。消費者がそれだけの金額を出すに値すると考えるかどうかは明らかではなかった。\n\n1952年、エモリー・クック(1913年-2002年)はバイノーラル盤を作成する装置を開発した。レコード盤上に2本の溝が刻まれていて、両方に針を落とし、同時に再生する。それぞれのピックアップは別々のアンプとスピーカーに接続されていた。クックはレコード製造装置を売る目的でこれをニューヨークのオーディオフェアに出品した。しかし、すぐにバイノーラル盤のレコードを作って欲しいという注文が入るようになり、クックはレコード盤の商業生産に乗り出した。クックが製造したレコードは、鉄道の音から嵐の音まで様々なものがあった。なお、「バイノーラル盤」とバイノーラル録音には直接の関係はない。1953年のクックのカタログには、オーディオマニア向けの25種類のステレオレコードが掲載されている。", "qas": [ { "question": "バイノーラル盤を作成する装置を開発した人物は誰ですか?", "id": "tr-161-13-000", "answers": [ { "text": "エモリー・クック", "answer_start": 205, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "エモリー・クックがバイノーラル盤を開発したのは何年ですか?", "id": "tr-161-13-001", "answers": [ { "text": "1952年", "answer_start": 199, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1953年のクックのカタログに乗せられたバイノーラル盤のステレオレコードは全部何種類でしたか?", "id": "tr-161-13-002", "answers": [ { "text": "25種類", "answer_start": 514, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "1952年、1/4インチ磁気テープに2つの録音・再生ヘッドを使ってステレオ録音するデモンストレーションが行われた。1953年、RemingtonRecordsは、ソーア・ジョンソン(ThorJohnson)指揮のシンシナティ交響楽団の演奏などをステレオでテープ録音し始めた。同年RCAビクターもレオポルド・ストコフスキーやニューヨークのミュージシャンの演奏を試験的にステレオ・テープ録音している。1954年2月21日・22日、RCAはシャルル・ミュンシュ指揮のボストン交響楽団の演奏によるベルリオーズの『ファウストの劫罰』をテープ録音し、それをきっかけとして同社はステレオ・テープ録音を常に行うようになった。直後、伝説の指揮者アルトゥーロ・トスカニーニ(1957年没)の最後の2回のコンサートが磁気テープにステレオで録音された。しかし、これら初期のステレオ録音がステレオのままでリリースされるのは1987年から2007年のことである。イギリスでは1954年中ごろ、デッカ・レコードがステレオでのテープ録音を始めた。1954年、ConcertapesやRCAビクターといった企業がステレオ録音済みオープンリールテープをモノラル録音の2倍の価格で発売した。オーディオマニアがこれを購入し、ついに一般家庭にステレオ音響がもたらされた。ステレオ録音は音楽業界では1957年までに広く採用されることになった。", "qas": [ { "question": "RCAビクターがレオポルド・ストコフスキーの演奏を試験的にステレオ・テープ録音したのは何年ですか?", "id": "tr-161-14-000", "answers": [ { "text": "1953年", "answer_start": 57, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "RCAがステレオ・テープ録音を常に行うようになっ手の第一作目はなんですか?", "id": "tr-161-14-001", "answers": [ { "text": "『ファウストの劫罰』", "answer_start": 251, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "イギリスでステレオでのテープ録音を始めたのはどこですか?", "id": "tr-161-14-002", "answers": [ { "text": "デッカ・レコード", "answer_start": 432, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1957年11月、世界初のステレオ盤レコードの大量生産を弱小レーベルAudioFidelityRecordsが始めた。創業者で社長のシドニー・フレイはウェスタン・エレクトリックのWestrexブランドのステレオレコード製造装置を使い、大手レーベルに対抗しようとした。A面はDukesofDixieland、B面は鉄道の音だった。12月16日フレイはビルボード誌に広告を掲載し、その中で業界関係者が会社のレターヘッド入り用箋で申し込んできたら、試聴用レコードを無料で進呈すると書いた。\n\nこの動きは大いにメディアに取り上げられた。フレイはさらに4タイトルのステレオ盤レコードをリリースした。ステレオ蓄音機の販売店は他に選択肢がないのでAudioFidelityRecordsのレコードを店頭で流した。ステレオ盤レコードの普及は、1958年にステレオ用カートリッジが250ドルから29.95ドルに値下げしたことで拍車がかかった。1958年夏、AudioFidelityのMarchingAlongwiththePhenomenalDukesofDixieland,Volume3を筆頭としてステレオ盤レコードが一般の店頭に大量に並ぶようになった。\n\n完全ステレオ化以前、英米ではポピュラー音楽中心にステレオ盤LPレコードの多くには同タイトルのモノラル盤が存在した(ステレオ盤の方が1ドルほど高かった)。", "qas": [ { "question": "歴史上初めてのステレオ盤レコードの大量生産を始めたのはどこですか?", "id": "tr-161-15-000", "answers": [ { "text": "AudioFidelityRecords", "answer_start": 34, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "歴史上初めてのステレオ盤レコードの大量生産を行った会社の創業者は誰ですか?", "id": "tr-161-15-001", "answers": [ { "text": "シドニー・フレイ", "answer_start": 66, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "1958年のステレオ用カートリッジの値段は?", "id": "tr-161-15-002", "answers": [ { "text": "29.95ドル", "answer_start": 388, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1960年代中期、モノラル録音を電気的にステレオ風に加工した(擬似ステレオ,略して擬似ステ,デュオフォニック)ステレオ盤が多数製作された。\n\nその頃のポピュラー音楽では同じ曲をモノラル録音と別に(後に、もしくは同時期に)ほぼ同じバージョンでステレオで録音し直す事もあった。例えばビートルズのレコードにはモノ録音、ステレオ録音(擬似ステに対しtruestereoと言う)、擬似ステ、そしてステレオ録音を単に足したモノラル(擬似モノと言う事がある)のものが存在する。ビートルズの場合、さらに最新リマスター(リミックス)版が加わる。\n\n1968年までにレコード会社の多くはモノラル盤の新譜発売をやめた(アメリカでのシングルのステレオ化は1970年代初頭)。", "qas": [ { "question": "ビートルズのレコードに収録されているステレオ録音のことを擬似ステと区別し何と呼びますか?", "id": "tr-161-16-000", "answers": [ { "text": "truestereo", "answer_start": 170, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "アメリカで音楽シングルのステレオ化がなされたのはいつですか?", "id": "tr-161-16-001", "answers": [ { "text": "1970年代初頭", "answer_start": 315, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "擬似ステレオのステレオ盤が多数製作され始めた時期は?", "id": "tr-161-16-002", "answers": [ { "text": "1960年代中期", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "擬似ステレオの略語は?", "id": "tr-161-16-003", "answers": [ { "text": "擬似ステ", "answer_start": 31, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "ティムール", "paragraphs": [ { "context": "ティムールは、チャガタイ・ハン国の軍事指導者で、ティムール朝の建国者だ。\n\n中世アジアを代表する軍事的天才と評価され、中央アジアから西アジアにかけてかつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を建設した。しばしば征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、首都のサマルカンドと故郷のキシュで建設事業を行う二面性を持ち合わせていた。", "qas": [ { "question": "ティムール朝の建国者は誰?", "id": "tr-162-00-000", "answers": [ { "text": "ティムール", "answer_start": 0, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ティムールはどこを代表する軍事的天才と評価されていますか。", "id": "tr-162-00-001", "answers": [ { "text": "中世アジア", "answer_start": 38, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "「ティムール」という表記はアラビア文字の綴りに由来し、ペルシア語による綴りに基づいて「ティームール」とも表記される。ペルシア語では「跛者のティムール」を意味する「タメルラング」「ティムーリ・ラング」「ティムール・イ・ラング」(Tīmūr-iLang)とも呼ばれ、ペルシア語名のTīmūr-iLangが英語に転訛したタメルラン(Tamerlane)の名前でも知られている。「跛者のティムール(Tīmūr-iLang)」の渾名はヨーロッパ世界でも普及し、タメルランのほかにタマレイン(Tamerlane)、タンバレイン(Tamburlaine)といった名前で呼ばれている。また、この名は中世モンゴル語ではTemür、現代ウズベク語ではTemurであり、「テムル」とも表記される。『明史』などの漢語史料では「帖木児」と表記される。", "qas": [ { "question": "「タメルラング」はペルシア語で何を意味しますか。", "id": "tr-162-01-000", "answers": [ { "text": "「跛者のティムール」", "answer_start": 65, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "「ティムール」は『明史』で何と表記されているか。", "id": "tr-162-01-001", "answers": [ { "text": "「帖木児」", "answer_start": 350, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "ティムールはチンギス・ハーンの子孫ではなかったために生涯「ハン」の称号を名乗らず、「キュレゲン(グルガン、ハンの婿)」「アミール(長、司令官)」の称号を名乗った。ティムールが鋳造した貨幣にはチャガタイ家のハンの名前と共にキュレゲンの称号が刻まれ、モスクの金曜礼拝でもハンの名前とキュレゲンの称号がフトバに入れて唱えられた。彼が没してからおよそ20年後、ティムール朝で編纂された史書『ザファル・ナーマ』で彼が生前名乗らなかった「ハーガーン(ハン)」「スルターン」の称号が追贈された。\n\n史家が著した年代記では、ティムールは「サーヒブ・キラーン」の雅号で呼ばれている。その歴史家のうち、ヤズディーはティムールとともにアレクサンドロス3世を、ニザーム・アッディーン・シャーミーはチンギス・ハーンとティムールの孫ウマルを「サーヒブ・キラーン」として称している。", "qas": [ { "question": "「ハン」の称号は誰の子孫だけに与えられるか。", "id": "tr-162-02-000", "answers": [ { "text": "チンギス・ハーン", "answer_start": 6, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "史家が著した年代記では、ティムールは何と呼ばれますか。", "id": "tr-162-02-001", "answers": [ { "text": "「サーヒブ・キラーン」", "answer_start": 260, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ティムールはヒジュラ暦736年シャアバーン月25日火曜日の夜にサマルカンド南部のキシュ近郊のホージャ・イルガル村でバルラス部の貴族アミール・タラガイの家に生まれる。後世の史書ではタラガイ、ティムール父子はチンギス・カンからチャガタイに王傅として与えられたバルラス部の千人隊長カラチャル・ノヤンの子孫であるとされるが、カラチャルからタラガイに至る人物は同時代史料に記述のない者ばかりであり、史実かどうか疑わしいと考えられている。バルラス部はマー・ワラー・アンナフルを支配するモンゴル人の国家西チャガタイ・ハン国に属し、モグーリスタンを支配する東チャガタイ・ハン国と対立していた。", "qas": [ { "question": "ティムールは昼に生まれたの、夜に生まれたの?", "id": "tr-162-03-000", "answers": [ { "text": "夜", "answer_start": 29, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "バルラス部はどの国に属していたか。", "id": "tr-162-03-001", "answers": [ { "text": "西チャガタイ・ハン国", "answer_start": 244, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "モグーリスタンはどの国に支配されていたか。", "id": "tr-162-03-002", "answers": [ { "text": "東チャガタイ・ハン国", "answer_start": 270, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ティムールはモグーリスタン軍に追われるアミール・フサインと合流し、わずか60人で1,000人からなるヒヴァの領主の包囲を突破、この時にティムールは自らの槍で領主を討ち取った。1362年にティムールとフサインはモグーリスタン軍に敗れて捕虜とされ、62日間をメルブで過ごした。1363年、ティムールはスィースターンの領主との戦闘で負傷し、右手と右足に矢傷を負う。1364年に石橋の戦いでモグーリスタン軍に勝利、同年のキシュ近郊の戦いでイリヤース・ホージャに大勝し、モグーリスタン軍をマー・ワラー・アンナフルから放逐した。勝利したティムールとフサインはクリルタイを招集してチャガタイ家のカーブル・シャーを新たな西チャガタイ・ハン国のハンに擁立し、ティムールとフサイン2人の共同統治体制が成立した。", "qas": [ { "question": "アミール・フサインは何に追われていたの?", "id": "tr-162-04-000", "answers": [ { "text": "モグーリスタン軍", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ティムールとフサインは何日間メルブで過ごした?", "id": "tr-162-04-001", "answers": [ { "text": "62日間", "answer_start": 122, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "翌1365年春、トゥグルク・ティムールの死後にモグーリスタンのハンに即位したイリヤース・ホージャは雪辱を期してマー・ワラー・アンナフルに親征する。ティムールとフサインはチナズ・タシュケントの間でモグーリスタン軍を迎え撃った(泥沼の戦い)。ティムールとフサインは兵数でモグーリスタン軍に勝っていたにもかかわらず敗北し、2人はバルフ方面に逃亡した。敗戦の責任を巡ってティムールとフサインの関係は悪化するが、それでもまだ同盟関係は維持されていた。", "qas": [ { "question": "トゥグルク・ティムールの死後にモグーリスタンのハンに即位したのは誰なの?", "id": "tr-162-05-000", "answers": [ { "text": "イリヤース・ホージャ", "answer_start": 38, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "何を巡ってティムールとフサインの関係が悪化したか。", "id": "tr-162-05-001", "answers": [ { "text": "敗戦の責任", "answer_start": 172, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "他方、ティムール達に勝利したイリヤース・ホージャは守備兵がいないサマルカンドに向かって進軍を続けた。当時のサマルカンドは城壁と内城が再建されていなかったが、サマルカンド市民の中にはモンゴルからの解放を掲げる「サルバダール運動」を行う一団が存在していた。サマルカンドに入城したイリヤース・ホージャの軍はサルバダールが指揮する市民の奇襲を受けて壊滅し、さらに軍馬が疫病に罹って激減したためにマー・ワラー・アンナフルから退却した。イリヤース・ホージャは敗走中にドグラト部のカマルッディーンによって殺害され、カマルッディーンはモグーリスタンのハンを僭称した。\n\n1366年春にイリヤース・ホージャが退却したことを知ったティムールとフサインはサマルカンドに戻り、一度はサルバダールたちの勝利を称え、彼らに面会を申し出る。歓待の後にティムール達は態度を一変させ、ティムールの取り成しによって助命された一人を除いてサルバダールを皆殺しにする。", "qas": [ { "question": "イリヤース・ホージャは誰に殺されたの?", "id": "tr-162-06-000", "answers": [ { "text": "カマルッディーン", "answer_start": 233, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "カマルッディーンは誰を殺したことでモグーリスタンのハンを僭称したか。", "id": "tr-162-06-001", "answers": [ { "text": "イリヤース・ホージャ", "answer_start": 212, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ティムール達は何人を残してサルバダールを皆殺ししたか。", "id": "tr-162-06-002", "answers": [ { "text": "一人", "answer_start": 394, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1366年の春の終わりに、サマルカンドにフサインを指導者、ティムールを補佐役とする政権が成立した。しかし、ティムールとフサインの関係はより悪化する。フサインがティムールの支持者たちに重税を課した時、ティムールは妻の装飾品を売ってまでも彼らの債務の支払に協力したためにティムールの信頼は高まり、逆にフサインは支持を失った。また、ジャライル部やアパルディー部はティムールの裏切りを伝える偽の報告をフサインの元に送り、両者の決裂は決定的になる。この時期にティムールが寵愛した妻ウルジェイ・タルカン・アーガーが亡くなり、フサインの妹であるウルジェイの死によって二人の対立はより深まった。", "qas": [ { "question": "サマルカンドにフサインを指導者、ティムールを補佐役とする政権が成立したのは何年のことですか。", "id": "tr-162-07-000", "answers": [ { "text": "1366年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ウルジェイ・タルカン・アーガーの夫は誰?", "id": "tr-162-07-001", "answers": [ { "text": "ティムール", "answer_start": 224, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "1366年の秋にティムールはフサインからカシュカダリヤのカルシを奪還し、さらにブハラを攻撃した。フサインはマー・ワラー・アンナフル奪還を目指してブハラとサマルカンドを制圧、ティムールは一時ホラーサーンに退くが、モグーリスタンとの戦いに備えて二人は講和した。この時にはジャライル部やスルドゥズ部といった有力部族がフサイン側に付いており、ティムールは不利な状況下に置かれていた。講和後にティムールはフサインの政権下で起きた反乱の鎮圧に協力するが、ティムールを警戒するフサインは自身の本拠地であるバルフの改築を決定する。工事に要する多額の費用を捻出するために住民に重税が課されたため、ティムールは工事の中止をフサインに進言するが聞き入れられなかった。また、遊牧生活を営む諸部族もフサインの工事に反対し、ティムールの支持に回った。", "qas": [ { "question": "ティムールがフサインからカシュカダリヤのカルシを奪還し、さらにブハラを攻撃した時の季節は?", "id": "tr-162-08-000", "answers": [ { "text": "秋", "answer_start": 6, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "1366年の秋、ティムールはフサインからカシュカダリヤのカルシを奪還してからどこを攻撃したの?", "id": "tr-162-08-001", "answers": [ { "text": "ブハラ", "answer_start": 39, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "フサインは何を目指してブハラとサマルカンドを制圧したの?", "id": "tr-162-08-002", "answers": [ { "text": "マー・ワラー・アンナフル奪還", "answer_start": 53, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "遊牧生活を営む諸部族が支持したのはフサインだったか、ティムールだったか。", "id": "tr-162-08-003", "answers": [ { "text": "ティムール", "answer_start": 348, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "1369年にティムールはアムダリヤ川を渡河してバルフへと進軍し、行軍中に多数のアミールや諸勢力がティムール軍に合流する。バルフへの進軍中、テルメズ付近でティムールはスーフィズムの聖者サイイド・バラカに出会う。ティムールはバラカに寄進を行い、彼から権力者の象徴である太鼓と旗を授けられた。バルフ攻撃前、ティムールはモンゴル帝国の第2代大ハーン・オゴデイの末裔であるソユルガトミシュをハンに擁立した。これはカザガン一族に対抗する意思を表明したと考えられているが、形式の上ではハンを立てるカザガン一族の方針は継承していた。", "qas": [ { "question": "1369年、ティムールはバルフへと進軍するためにどこを渡河したか。", "id": "tr-162-09-000", "answers": [ { "text": "アムダリヤ川", "answer_start": 12, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "戦後、バルフではフサインを支持した住民への報復として略奪が行われ、内城が破壊された。フサインの2人の息子は火刑に処され、ティムールはフサインが抱えていた妻のうち4人を自分の妻として残りの女性を配下の部族長たちに分け与えた。ティムールが娶った妻の一人であるサライ・ムルク・ハーヌムはチャガタイ・ハン・カザンの娘にあたり、チンギス家の娘を娶ったティムールは「ハーンの娘婿」を意味する「キュレゲン」の称号を名乗った。\n\n同1370年、ティムールはサマルカンドに移動して首都に定め、城壁、内城、宮殿を建設して外敵に備えた。", "qas": [ { "question": "火刑に処されたフサインの息子は何人でしたか。", "id": "tr-162-10-000", "answers": [ { "text": "2人", "answer_start": 47, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "サライ・ムルク・ハーヌムは誰の子なの?", "id": "tr-162-10-001", "answers": [ { "text": "チャガタイ・ハン・カザン", "answer_start": 140, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "「キュレゲン」は何を意味しますか。", "id": "tr-162-10-002", "answers": [ { "text": "「ハーンの娘婿」", "answer_start": 176, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "マー・ワラー・アンナフルの統一後、ティムールは1370年から1372年にかけてカマルッディーンが支配するモグーリスタン・ハン国を攻撃した。モグーリスタンのマー・ワラー・アンナフルへの侵入を防ぐために遠征は定期的に行われ、1390年まで7回以上実施された。ティムールは待ち伏せを得意とするカマルッディーンの戦術に苦しんだものの、カマルッディーンの勢力は数度にわたるティムールの攻撃を受けて衰退する。", "qas": [ { "question": "モグーリスタン・ハン国は誰が支配していたの?", "id": "tr-162-11-000", "answers": [ { "text": "カマルッディーン", "answer_start": 39, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1372年にティムールはコンギラト部族の国家スーフィー朝が支配するホラズム地方に遠征軍を派遣する。14世紀半ばまで、ホラズム地方の北はジョチ・ウルス、南はチャガタイ・ハン国が支配していたが、それぞれの国が衰退するとコンギラトがホラズムを支配下に収めた。1371年にティムールはチャガタイ家が領有していたホラズム南部の返還を要求して軍を進め、首都ウルゲンチを包囲されたスーフィー朝の君主ユースフはホラズム南部の返還に同意して講和した。1373年、ティムールがモグーリスタン遠征に出発した隙をついてユースフがホラズム南部の奪回を図ると、ティムールはモグーリスタン遠征を中止してホラズムに急行する。同年冬、ティムールの王子ジャハーンギールとスーフィー朝の王女ソユン・ベグの結婚を条件として和平が成立するが、ユースフはなおティムールに服従しなかった。", "qas": [ { "question": "スーフィー朝はどの部族の国家なの?", "id": "tr-162-12-000", "answers": [ { "text": "コンギラト部族", "answer_start": 12, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1373年冬、ジャハーンギールと誰の結婚を条件として和平が成立するという話が出ましたか。", "id": "tr-162-12-001", "answers": [ { "text": "ソユン・ベグ", "answer_start": 326, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "1376年4月、分裂状態にあった北方のジョチ・ウルスの王族トクタミシュがティムールの元に亡命する。ティムールはジョチ・ウルスのハンであるオロスの伸張を警戒しており、トクタミシュを利用してオロスを抑えようと考えた。ティムールはトクタミシュに兵士と財貨を与えてキプチャク草原に送り返し、さらに抵抗の拠点としてオトラル、サブラン、スグナクの三都市を与えた。1377年にはティムールもオロスを討つために遠征し、スグナク・オトラル間の戦闘で勝利した。1378年にトクタミシュはオロスとトクタキヤの跡を継いだティムール・メリク・ハンを討ってハンに即位した。", "qas": [ { "question": "1376年4月、トクタミシュは誰の元に亡命したか。", "id": "tr-162-13-000", "answers": [ { "text": "ティムール", "answer_start": 36, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トクタミシュはいつティムールの元に亡命したの?", "id": "tr-162-13-001", "answers": [ { "text": "1376年4月", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "トクタミシュはいつハンに即位したか。", "id": "tr-162-13-002", "answers": [ { "text": "1378年", "answer_start": 220, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ティムールは登位したトクタミシュが自身の忠実な同盟者になることを期待したが、トクタミシュはオロスの方針を継承してジョチ・ウルスの統一を目指し、1380年にクリミア半島の有力者ママイを破ってジョチ・ウルスの再統一を達成する。トクタミシュはジョチ・ウルス再統一後にアゼルバイジャンに遠征軍を送り、1385年にはタブリーズを攻撃する。やがて、中央アジアに勢力を広げるティムールは、トクタミシュと衝突することになる。\n\n1376年夏、王子ジャハーンギールが早世する。ティムールは4人の息子たちの中でも、特にジャハーンギールに目をかけていた。\n\n1376年から1377年にかけて、ティムールは5度目のモグーリスタン遠征を行う。1379年にティムールがモグーリスタンへの遠征に出ている最中、スーフィー朝のユースフがマー・ワラー・アンナフルに侵入し、サマルカンド近辺を略奪した。ユースフに一騎討ちを申し込まれたティムールは挑戦を受けて立ったが、怯んだユースフは決闘の場所に現れず、家臣に蔑視されたユースフは憔悴のうちに没した。3か月の包囲の末にティムールはウルゲンチを攻略、ユースフを支持した一部の住民を虐殺した。", "qas": [ { "question": "王子ジャハーンギールはいつ亡くなりましたか。", "id": "tr-162-14-000", "answers": [ { "text": "1376年夏", "answer_start": 206, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "1376年から1377年にかけてのティムールのモグーリスタン遠征は何度目の遠征でしたか。", "id": "tr-162-14-001", "answers": [ { "text": "5度目", "answer_start": 291, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ティムールは4人の息子たちの中で、特に誰に目をかけていたか。", "id": "tr-162-14-002", "answers": [ { "text": "ジャハーンギール", "answer_start": 249, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1381年以降にティムールは定住文化が定着したペルシアの都市に対して積極的に遠征を行い、「チャガタイ家にペルシアの統治権を奉げる」ことを名分として掲げる。当初のペルシア遠征の目的は領土の拡大ではなく、現地の政権を保護国化することにあった。ほかに本拠地であるマー・ワラー・アンナフルの発展に必要な家畜などの可動財産と労働力の獲得という経済的な理由、戦利品の分配による配下の忠誠心の維持がペルシア遠征の動機にあったと考えられており、ティムールは遠征に際して情報の収集を入念に進めていく。", "qas": [ { "question": "ティムールが定住文化が定着したペルシアの都市に対して積極的に遠征を行ったのはいつからでしたか。", "id": "tr-162-15-000", "answers": [ { "text": "1381年以降", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1380年に開催したクリルタイで、ティムールはホラーサーン地方の王朝クルト朝の君主ギヤースッディーン・ピール・アリーを招集するが、ギヤースッディーンはクリルタイに出席しなかった。1381年にティムールはホラーサーン地方に進攻し、クルト朝の首都ヘラートを占領した。ティムールはヘラートの攻撃前、住民に生命と財産の安全を保障したが占領後に重税を課し、さらに住民の蜂起を危ぶんで塔と城壁を破壊した。この時にヘラートのウラマー、イマームがティムールの故郷であるキシュに連行され、装飾された門扉もキシュに持ち運ばれた。1383年にヘラートの住民がティムール朝の徴税人を襲撃すると、見せしめとして王子ミーラーン・シャーによる虐殺が行われる。反乱の責任はサマルカンドに連行されていたギヤースッディーンをはじめとするクルト朝の王族にものしかかり、彼らは処刑された。ギヤースッディーンらの死によって、1383年にクルト朝は滅亡した。", "qas": [ { "question": "1380年を基準に、クルト朝の君主は誰でしたか。", "id": "tr-162-16-000", "answers": [ { "text": "ギヤースッディーン・ピール・アリー", "answer_start": 41, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クルト朝の首都はどこなの?", "id": "tr-162-16-001", "answers": [ { "text": "ヘラート", "answer_start": 121, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ヘラートは何年にティムールに占領されたの?", "id": "tr-162-16-002", "answers": [ { "text": "1381年", "answer_start": 89, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "クルト朝が滅亡したのは何年のことですか。", "id": "tr-162-16-003", "answers": [ { "text": "1383年", "answer_start": 391, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "ティムールはさらにホラーサーンの西に進み、同1381年にサブゼヴァールに存在したサルバダール政権を臣従させる。サルバダール政権の指導者アリー・ムアイヤドはティムールに忠誠を尽くすが1386年に戦死、アリー・ムアイヤドを失ったサルバダール政権は影響力を失う。マーザンダラーンの支配者アミール・ワーリー、ケラスとトゥースの支配者アリー・ベクはティムールに反抗したが、いずれも滅ぼされた。\n\n1383年にスィースターン、1384年初頭にカンダハルを征服し、アフガニスタン全域がティムール朝の支配下に入った。1385年にイラクに存在したモンゴル系国家ジャライル朝の首都ソルターニーイェを占領、同年にマーザンダラーンを制圧した後にティムールはサマルカンドに帰還した。\n\n帰国後およそ1年の間、ティムールは内政と軍備の増強に力を注いだ。", "qas": [ { "question": "アリー・ムアイヤドは何年に死んだか。", "id": "tr-162-17-000", "answers": [ { "text": "1386年", "answer_start": 90, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "スィースターンとカンダハルと、先にティムールに征服されたのはどっちの方なの?", "id": "tr-162-17-001", "answers": [ { "text": "スィースターン", "answer_start": 199, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "ジャライル朝の首都はどこ?", "id": "tr-162-17-002", "answers": [ { "text": "ソルターニーイェ", "answer_start": 280, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "マーザンダラーンはいつティムールに制圧されたの?", "id": "tr-162-17-003", "answers": [ { "text": "1385年", "answer_start": 250, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "1386年より、ジョチ・ウルスの拡大を牽制することを目的とした、「三年戦役」の名で知られる西アジアへの遠征事業が始められる。\n\n1386年にティムールはタブリーズを攻略するが、タブリーズはすでにトクタミシュによって破壊されていた。ジャライル朝が支配するアゼルバイジャンを支配下に加え、グルジア王国の首都ティフリスを攻撃するが、頑強な抵抗に遭って攻略には至らなかった。翌1387年にティムールはシリア北部のマラティヤ、アナトリア東部のスィヴァスに進出した。中東各地の地方政権の君主と領主はティムールのコーカサス侵入をエジプトのマムルーク朝に報告しており、ティムールから降伏勧告を受けたスィヴァスのエルテナ侯国の君主ブルハネッディンは、マムルーク朝とオスマン帝国に助けを求める。この時にマムルーク軍がシリア北部に派遣されるが、ティムール軍とマムルーク軍が直接戦闘することは無かった。", "qas": [ { "question": "「三年戦役」は何年から始まったか。", "id": "tr-162-18-000", "answers": [ { "text": "1386年", "answer_start": 0, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "1386年にティムールがタブリーズを攻略した時、タブリーズはすでに誰によって破壊されていたか。", "id": "tr-162-18-001", "answers": [ { "text": "トクタミシュ", "answer_start": 97, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "グルジア王国の首都はどこなの?", "id": "tr-162-18-002", "answers": [ { "text": "ティフリス", "answer_start": 151, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ティムールは何年にスィヴァスに進出したか。", "id": "tr-162-18-003", "answers": [ { "text": "1387年", "answer_start": 184, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] }, { "title": "電気", "paragraphs": [ { "context": "電気に関する現象は古くから研究されてきたが、科学としての進歩が見られるのは17世紀および18世紀になってからである。しかし電気を実用化できたのはさらに後のことで、産業や日常生活で使われるようになったのは19世紀後半だった。その後急速な電気テクノロジーの発展により、産業や社会が大きく変化することになった。電気のエネルギー源としての並外れた多才さにより、交通機関の動力源、空気調和、照明、などほとんど無制限の用途が生まれた。商用電源は現代産業社会の根幹であり、今後も当分の間はその位置に留まると見られている。また、多様な特性から電気通信、コンピュータなどが開発され、世界にも広く普及している。", "qas": [ { "question": "電子が生活の中で使われ始めたのはいつ?", "id": "tr-163-00-000", "answers": [ { "text": "19世紀後半", "answer_start": 101, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "電荷を持った粒子の移動によって、電流が発生し、その強さはアンペアを単位として計られる。どんな荷電粒子(電荷担体)でも移動することで電流を形成できるが、電子が最も一般的である。歴史的な慣習により、電流の流れる向きは正の電荷の流れる向きとされており、電源の正極から負極に流れるとされる。負の電荷を持つ電子は電荷担体としては最も一般的だが、電気回路での電流の流れる向きと電子の移動する向きは反対である。しかし、状況によっては電流の向きと荷電粒子の移動する向きが一致する場合もあるし、荷電粒子が両方向に同時に移動することもある。様々な状況で電流の流れる方向を便宜的に定めるために、このような規定がある。物質を電流が流れる過程を電気伝導と呼び、その性質は流れる荷電粒子と物質の性質によって様々である。金属の場合は電子が流れ、電気分解においてはイオン(電荷を帯びた原子)が液体中を流れる。粒子自体の移動速度は極めて遅く、せいぜい毎秒数ミリメートルだが、それによって形成される電場は光速に近い速度で伝播する。そのため、電気信号は導線上で極めて高速に伝送される。", "qas": [ { "question": "電荷を持った粒子の移動によって、電流が発生するが、その強さの単位となるのは何?", "id": "tr-163-01-000", "answers": [ { "text": "アンペア", "answer_start": 28, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "前述の通り、電気エネルギーはさまざまな形態のエネルギーへの変換が容易であり、伝送も比較的簡単であるので、現代ではさまざまな分野で必要不可欠のものとなっている。非電気エネルギーを電気に変換することを、発電と呼ぶ。タレスの琥珀棒の実験は、電気エネルギー生産の最初期の研究だった。その摩擦帯電現象は軽い物なら引き寄せることができ、火花を発生させることもあるが、発電方法としては極めて非効率である。史上初の実用的な電力源は18世紀に発明されたボルタ電池である。ボルタ電池から始まった電池はエネルギーを化学的に蓄え、そこから必要に応じて電気エネルギーを引き出して使うことができる。電池は様々な用途に使える一般的な電力源だが、蓄えているエネルギー量は有限であり、完全に放電すると再充電するか廃棄するしかない。電気エネルギーへの大きな需要に応えるためには、継続的に発電し、電線を通してそれを送電する必要がある。", "qas": [ { "question": "非電気エネルギーを電気に変えることを何と呼ぶか。", "id": "tr-163-02-000", "answers": [ { "text": "発電", "answer_start": 99, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "電気エネルギー生産の最初期の研究である琥珀棒の実験は誰による実験なのか。", "id": "tr-163-02-001", "answers": [ { "text": "タレス", "answer_start": 105, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "史上初の実用的な電力源であるボルタ電池が開発されたのは何世紀?", "id": "tr-163-02-002", "answers": [ { "text": "18世紀", "answer_start": 207, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "電気はエネルギーの形態としては極めて柔軟であり、その用途は極めて幅広い。1870年代に実用的な電球が発明され、照明が電力の用途として最初に一般に普及した。照明に電気を使うことは新たな危険性を伴っていたが、同時にガス灯などの火をそのまま使う従来の技法に付きまとっていた火災の危険性を大きく低減させることになった。電力網は電気照明のためにまず大都市圏から急激に整備され始めた。電球が利用しているジュール熱現象は、より直接的に電気ストーブでも利用されている。電気エネルギーをジュール熱に変換して利用することは制御が容易で便利だが、元々の発電で熱エネルギーを電気エネルギーに変換していることを考えると大きな無駄ともいえる。デンマークなどの多くの国々で、新たに建設する建物で電気を熱源として利用することを制限または禁止する法律が成立している。しかしながら電気は冷却や空調のエネルギー源としてよく使われていて、その分野の需要増が電力需要全体を押し上げている。電気は電気通信にも使われている。中でも電信は1837年、チャールズ・ホイートストンとウィリアム・フォザギル・クック(英語版)が最初に商業化した。1860年代には大陸間の電信網、さらには大西洋横断電信ケーブルができ、電気によって数分で世界中に通信可能となった。光ファイバー技術も通信の一部を担うようになったが、やはり通信の大部分は電気が担っている。電磁気学的現象を目に見える形で使っている例として電動機があり、クリーンで効率的な動力源となっている。ウインチなど据え置き型では電力供給が容易だが、電動輸送機器のような電動機自体が移動する用途では、電池を搭載して電力を供給するか、集電装置のような機構で電力を供給する必要があり、移動距離や移動範囲が制限されている。20世紀最大の発明の1つであるトランジスタは、現代のあらゆる電子回路の基本素子である。最近の集積回路には、数センチ平方メートルの中に数十億個の微細なトランジスタが含まれている。", "qas": [ { "question": "電球と電気ストーブに共通して利用されている現象は?", "id": "tr-163-03-000", "answers": [ { "text": "ジュール熱現象", "answer_start": 195, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "トランジスタが発明されたのは何世紀のことか。", "id": "tr-163-03-001", "answers": [ { "text": "20世紀", "answer_start": 752, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "サメ(とくにシュモクザメ)などの生物は電場の変化を知覚し反応する。これを電気受容感覚と呼ぶ。捕食や防御のために自ら電気を発生させる生物もあり、それを生物発電と呼ぶ。例えばデンキウナギ目のデンキウナギは筋肉細胞が変化した「発電板」を持ち、高電圧を発生することで獲物を探し麻痺させる。全ての動物は細胞膜に沿って活動電位と呼ばれる電圧パルスを発生させて情報を伝え、神経細胞による神経系によって筋肉まで情報伝達する。感電はこのシステムを刺激し、筋肉を収縮させる。活動電位は特定の植物や動物においてその活動を調整する役目を果たしている。心電図や筋電図はそういった神経系の電位差を測定して図示するもので、脳波は脳内の電気活動を間接的に測定して図示するものである。", "qas": [ { "question": "サメ(とくにシュモクザメ)などの生物が電場の変化を知覚し反応することを何と呼ぶか。", "id": "tr-163-04-000", "answers": [ { "text": "電気受容感覚", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "デンキウナギ目のデンキウナギは筋肉細胞が変化した「発電板」を持ち、高電圧を発生することで獲物を探し麻痺させるが、このように捕食や防御のために自ら電気を発生させることを何と呼ぶか。", "id": "tr-163-04-001", "answers": [ { "text": "生物発電", "answer_start": 74, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "19世紀から20世紀初めにかけて、産業が発達していた西洋においても一般大衆にとって電気は日常生活の一部ではなかった。当時の大衆文化では電気を不思議な魔法のような力として描くことが多く、生きものを殺したり、死者を蘇らせたり、自然の法則に反する力を発揮するものとして描かれていた。そのような見方は1771年、ルイージ・ガルヴァーニが動物電気を応用して死んだカエルの脚をけいれんさせる実験を行ったことに端を発している。そして、明らかに死んだ人間が電気の刺激で息を吹き返したという話がガルヴァーニの研究のすぐ後に医学誌に報告された。『フランケンシュタイン』(1819)を書いたメアリー・シェリーもそれらの話を知っていたが、彼女は怪物を生き返らせた方法について特に固有名詞を挙げていない。電気を使った怪物の復活は後のホラー映画の定番となった。明治時代の日本では1912年に東京市内の家庭電灯がほぼ完全に普及するが、同時に最新の代名詞ともなっており、電気ブランなど電気とは無関係の商品名にも使われた。", "qas": [ { "question": "19世紀から20世紀初めにかけて、大衆文化では電気を不思議な魔法のような力として描くことが多く、生きものを殺したり、死者を蘇らせたり、自然の法則に反する力を発揮するものとして描かれていたが、その原因となった実験を行なったのは誰か。", "id": "tr-163-05-000", "answers": [ { "text": "ルイージ・ガルヴァーニ", "answer_start": 152, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "19世紀から20世紀初めにかけて、大衆文化では電気を不思議な魔法のような力として描くことが多く、生きものを殺したり、死者を蘇らせたり、自然の法則に反する力を発揮するものとして描かれていたが、その原因となった実験はいつ行われたか。", "id": "tr-163-05-001", "answers": [ { "text": "1771年", "answer_start": 146, "answer_type": "Date/Time" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] } ] }, { "title": "蜂蜜", "paragraphs": [ { "context": "蜂蜜(はちみつ)とは、ミツバチが花の蜜を採集し、巣の中で加工、貯蔵したものをいう。\n約8割の糖分と約2割の水分によって構成され、ビタミンとミネラル類などの栄養素をわずかに含む。\n味や色は蜜源植物によって様々である。\n本来はミツバチの食料であるが、しばしば他の生物が採集して食料としている。\n人類も「蜂蜜の歴史は人類の歴史」ということわざがあるように、古来、食用や薬用など様々な用途に用いている。\n人類は初め、野生のミツバチの巣から蜂蜜を採集していたが、やがてミツバチを飼育して採集すること(養蜂)を身に付けた。\n人類による蜂蜜の生産量は、世界全体で年間約120万トンと推定される。", "qas": [ { "question": "蜂蜜を引用したことわざは何がありますか?", "id": "tr-164-00-000", "answers": [ { "text": "「蜂蜜の歴史は人類の歴史」", "answer_start": 148, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "蜂蜜の成分の中で半分以上を占める成分は何?", "id": "tr-164-00-001", "answers": [ { "text": "糖分", "answer_start": 46, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "世界において人類の蜂蜜生産量は年間どれくらいかな?", "id": "tr-164-00-002", "answers": [ { "text": "約120万トン", "answer_start": 276, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "蜂蜜のもととなる花の蜜は、メスのミツバチによって採集される。\n採集された花の蜜はショ糖液、つまり水分を含んだスクロース(ショ糖)の状態で胃の前部にある蜜嚢(蜜胃)と呼ばれる器官に貯えられる。\n蜜嚢が花の蜜で満たされるとミツバチは巣へ戻る。\n一般には、ミツバチが採集した花の蜜のことを蜂蜜と呼ぶと考えられがちであるが、花の蜜が巣の中で加工、貯蔵されたものが蜂蜜であり、両者の性質には物理的、化学的な違いがある。\nまず、花の蜜は蜂蜜よりも糖濃度が低い。\n一般に花の蜜の糖度はミツバチが採集した段階で40%未満であるが、巣に持ち帰られた後で水分の発散が行われる結果、蜂蜜の糖度は80%前後に上昇する。\nまた、水分を発散させるための作業の一つとして、ミツバチは巣の中で口器を使って蜜を膜状に引き延ばすが、この際ミツバチの唾液に含まれる酵素(インベルターゼ、転化酵素)が蜜に混入し、その作用によって蜜の中のスクロースがグルコース(ブドウ糖)とフルクトース(果糖)に分解される。", "qas": [ { "question": "花の蜜を採集するのはオス、メスどちらのミツバチでしょう?", "id": "tr-164-01-000", "answers": [ { "text": "メス", "answer_start": 13, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "花の蜜と蜂蜜で糖濃度が高いのはどちら?", "id": "tr-164-01-001", "answers": [ { "text": "蜂蜜", "answer_start": 212, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "ミツバチが持ち帰った蜜の糖度が上昇する理由は何?", "id": "tr-164-01-002", "answers": [ { "text": "水分の発散", "answer_start": 267, "answer_type": "Cause" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また、本来は花の蜜に含まれない物質がミツバチの口器から混入する。\n一例としてコリンが挙げられる。\nコリンはミツバチの咽頭腺から分泌されるローヤルゼリーに含まれる物質であり、ミツバチが花の蜜の水分の発散と並行して同じく口器を用いて咽頭腺から分泌されたローヤルゼリーを女王蜂の幼虫に与える作業を行うため、ローヤルゼリー中のコリンが蜂蜜に混入すると考えられる。\nちなみに、中国の明代の薬学書『本草綱目』は臭腐神奇という霊的な作用によって大便から蜂蜜が生成されると説いており、この説は同じく明代の産業技術書『天工開物』や日本の江戸時代の類書『和漢三才図会』に受け継がれた。\n日本ではこの説に対し、江戸時代の本草学者貝原益軒が蜂蜜は花の蜜から作られると反論した。\n日本初の養蜂書『家蜂畜養記』の著者久世敦行も同様に反論を行った。", "qas": [ { "question": "蜂蜜に含まれる物質の中で、ミツバチの体内から混入されるものは何ですか?", "id": "tr-164-02-000", "answers": [ { "text": "コリン", "answer_start": 49, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "蜂蜜は花の蜜から作られるとした江戸時代の本草学者は誰ですか?", "id": "tr-164-02-001", "answers": [ { "text": "貝原益軒", "answer_start": 303, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "エバ・クレーンの研究によれば、1万年前にはすでに人類による採蜜が始まっていた。\n人類は当初、野生のミツバチの巣から蜂蜜を採集していた。\n1919年に、スペインのアラニア洞窟で発見された新石器時代の岩壁彫刻は人類と蜂蜜の関係を示す最古の資料とされ、片手に籠状の容器を持って縄梯子を登って天然の洞穴に近づき、蜂蜜の採集を試みる人物が描かれている。\nこの壁画では洞穴とミツバチが非常に大きく描かれており、古代人の蜂蜜への関心の高さとミツバチに対する恐怖の大きさを表していると解釈することができる。\nやがて人類は養蜂、すなわちミツバチを飼育して蜂蜜を得る方法を身に付けた。\nエジプトではおよそ5000年前に粘土製の管状の巣箱を用いた養蜂が始められ、巣箱を移動させながら蜜を採集させること(転地養蜂)も行われた。\nギリシア神話には養蜂の神アリスタイオスが登場する。", "qas": [ { "question": "人類と蜂蜜の関係を示す最古の資料が発見された国はどこですか?", "id": "tr-164-03-000", "answers": [ { "text": "スペイン", "answer_start": 75, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ミツバチを飼育して蜂蜜を得る方法を何と言うの?", "id": "tr-164-03-001", "answers": [ { "text": "養蜂", "answer_start": 252, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "ギリシア神話に出てくるアリスタイオスは蜂蜜に関係する神です。何の神ですか?", "id": "tr-164-03-002", "answers": [ { "text": "養蜂", "answer_start": 360, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "養蜂は、閉鎖空間の中に巣を作るというミツバチの習性を利用し、内側をくり抜いた丸太や土管、わら縄製のスケップ、木製の桶などを用いて行われる。\nかつては巣を切り取り、押し潰して蜜を搾り取る方法が採用されていたが、これはミツバチに大きなダメージを与えるものであった。\n現代的な養蜂では木製の枠の中に巣を作らせ、蜜が貯まると遠心分離器にかける方法が採用されている。\n遠心分離器による採蜜法は1865年に、オーストリアのフルシュカによって考案された。\n遠心分離機の活用によってミツバチ一群あたりの蜂蜜の採集量はおよそ5倍ないし10倍に増加した。\n採集した蜂蜜には微量の花粉や巣の破片が含まれている。\n市場に流通している蜂蜜の多くは、それらを濾過した後で容器に詰められているが、濾過には限界があり、若干の不純物が残留する。", "qas": [ { "question": "押し潰して蜜を採取する方法に代わって現代の採蜜方法では何が活用されていますか?", "id": "tr-164-04-000", "answers": [ { "text": "遠心分離器", "answer_start": 158, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "遠心分離機の活用によって蜂蜜の採集量はどれくらい増加しましたか?", "id": "tr-164-04-001", "answers": [ { "text": "およそ5倍ないし10倍", "answer_start": 250, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "蜜源植物と採集季節によって変動するが、約72%の糖分と約21%の水分によって構成され、微量の栄養素など(ビタミン、ミネラル、アミノ酸、有機酸、酵素、色素、香気物質)も含まれる。\n有効成分が蜂蜜の中で果たす働きについては未解明な点も多い。\nビタミン、ミネラル、アミノ酸の多くは花粉に由来する。", "qas": [ { "question": "蜂蜜に含まれる微量の栄養素の内、花粉に由来するものはビタミン、ミネラルと何?", "id": "tr-164-05-000", "answers": [ { "text": "アミノ酸", "answer_start": 129, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "蜂蜜に含まれる微量の栄養素の内、ビタミン、ミネラル、アミノ酸は何からの由来か?", "id": "tr-164-05-001", "answers": [ { "text": "花粉", "answer_start": 137, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "蜂蜜に含まれる成分の中で、二番目に多く含まれているのは何?", "id": "tr-164-05-002", "answers": [ { "text": "水分", "answer_start": 32, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" } ] }, { "context": "糖分のほとんどはグルコース(ブドウ糖)とフルクトース(果糖)で、少量のオリゴ糖とスクロース(ショ糖)、さらにデキストリンも含まれる。\n\nスクロースは蜜蜂に採集される花の蜜の主成分であり、巣の中で蜂蜜に転化しなかったものである。\n標準的な蜂蜜に占めるスクロースやデキストリンの割合はせいぜい1ないし3%まで、5%を超える蜂蜜については分解が十分に進んでいないか、純粋ではない、つまり蜂蜜以外のものが混入していることを疑う必要がある。\nデキストリンは、人工的に作られたグルコースや水飴に大量に含まれる。\nただし甘露蜜は一般にデキストリンが10%前後含まれる。", "qas": [ { "question": "蜂蜜に含まれる糖分の中で、巣の中で蜂蜜に転化しない成分は何?", "id": "tr-164-06-000", "answers": [ { "text": "スクロース", "answer_start": 68, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "酵素のうちインベルターゼ(転化酵素)は、前述のようにスクロースをグルコースとフルクトースに分解する働きを持ち、ミツバチが採集した花の蜜を蜂蜜に変化させる役割を担う。\nスクロースの分解が十分に進んでいない蜂蜜を採集した場合、インベルターゼの働きによって貯蔵中に分解が進む。\nインベルターゼは熱によって機能を失う。\nそのため、分解が十分に進んでいない蜂蜜を加熱して水分を除去した場合、濃度を見ると標準的な蜂蜜だがショ糖の含有量が不自然に多い製品が出来上がってしまう。\nグルコースオキシダーゼは、グルコースから有機酸(グルコン酸)を作り出す。\nジアスターゼはデンプンをデキストリンやマルトース(麦芽糖)に分解する働きをもつ。\nドイツやオランダ、スイスの一部ではジアスターゼの含有量が少ない蜂蜜を、人為的な加工がされている可能性があるとして低く評価する傾向がある。\nしかしジアスターゼの含有量は蜜源植物の種類によって異なる面もあり、さらに長期間貯蔵中すると減少する。\nアメリカの専門家の多くはジアスターゼの含有量に基づく品質の評価に否定的である。", "qas": [ { "question": "ミツバチが採集した花の蜜が蜂蜜に変化するのは何という酵素があるおかげですか?", "id": "tr-164-07-000", "answers": [ { "text": "インベルターゼ", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "ドイツやオランダで蜂蜜を人為的な加工がされている可能性があると疑うのは、何の含有量が少ないと分かった時?", "id": "tr-164-07-001", "answers": [ { "text": "ジアスターゼ", "answer_start": 327, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "保存性の高さは高糖度とpH3.7程度の酸性と酵素によって生成される過酸化水素によって与えられ、グルコースとフルクトースが主成分であることから、蜂蜜は消化の必要なしに、手早くエネルギーを得ることができる。\nグルコースとフルクトースの比率を比較すると、フルクトースの方が若干多い傾向にある。\nグルコースとフルクトースはともに単糖であり、摂取後体内でそれ以上消化・分解する必要がなく、短時間で体内に吸収される。\nさらにフルクトースの吸収速度がグルコースのおよそ半分であることから、吸収によって血糖値が急激に上昇することはない。", "qas": [ { "question": "グルコースとフルクトースの内比率が少ないのはどちらか?", "id": "tr-164-08-000", "answers": [ { "text": "グルコース", "answer_start": 102, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" }, { "question": "グルコースとフルクトースが短時間での体内吸収が可能なのは、どういう種類の糖分だからか?", "id": "tr-164-08-001", "answers": [ { "text": "単糖", "answer_start": 160, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フルクトースの吸収速度の2倍に値する酵素は何でしょう?", "id": "tr-164-08-002", "answers": [ { "text": "グルコース", "answer_start": 218, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" } ] }, { "context": "蜂蜜には、低温中で粒状の結晶ができ白く固まる性質があるが、これはグルコースの性質によるものである。\nただし低温であればあるほど結晶化しやすいというわけではなく、結晶化しやすいのは摂氏5度ないし14度弱であり、摂氏マイナス18度弱以下になるとほとんど結晶化しなくなるといわれている。\nグルコースを多く含む蜂蜜ほど早く結晶化し、グルコースの含有量が少なくフルクトースを多く含む蜂蜜は結晶化しにくい。\nまた、結晶化が早いと結晶のきめが細かくなる傾向がある。", "qas": [ { "question": "蜂蜜の結晶化に適した温度は?", "id": "tr-164-09-000", "answers": [ { "text": "摂氏5度ないし14度弱", "answer_start": 89, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "蜂蜜の結晶化の速度を早める成分は何ですか?", "id": "tr-164-09-001", "answers": [ { "text": "グルコース", "answer_start": 141, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "蜂蜜が結晶化しにくいのは、グルコースよりも何の成分が多くなったら?", "id": "tr-164-09-002", "answers": [ { "text": "フルクトース", "answer_start": 175, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "蜂蜜がほとんど結晶化しなくなるのは何度以下になった時?", "id": "tr-164-09-003", "answers": [ { "text": "摂氏マイナス18度弱以下", "answer_start": 104, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "どのように結晶化していくかは、蜂蜜の比重によって異なる。\n比重の小さい蜂蜜の場合、液体状の蜂蜜より比重の大きい結晶が底に沈殿するため、底の方から結晶化するかのような印象を与える。\n比重の大きい蜂蜜の場合、液体状の蜂蜜と結晶の比重の差がほとんど同じであるため、蜂蜜全体が結晶化していく。\n加熱することで結晶は溶けるが、加熱し過ぎると色が濃くなったり風味が若干変化するなどの影響が生じる。\n結晶を経た蜂蜜は再び結晶しにくいが溶け残った結晶がある場合、しばらくするとそこを核として再び結晶化が進行する。\n結晶ができない蜂蜜は純粋ではないといわれることがある。\nこれは多くの蜂蜜について妥当な判別法であるが、アカシアを蜜源とするものなど一部には純粋であってもなかなか結晶ができない蜂蜜もある。\n結晶を見て蜂蜜に砂糖が混入していると勘違いされることがある。", "qas": [ { "question": "結晶化の様子は蜂蜜の何によって違ってくるのでしょう?", "id": "tr-164-10-000", "answers": [ { "text": "比重", "answer_start": 18, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "比重の小さい蜂蜜はどこから結晶化するように見えますか?", "id": "tr-164-10-001", "answers": [ { "text": "底の方", "answer_start": 67, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "蜂蜜全体が結晶化していくというのは、蜂蜜の比重がどういう時ですか?", "id": "tr-164-10-002", "answers": [ { "text": "大きい", "answer_start": 93, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "結晶ができない蜂蜜は純粋ではないといわれることがありますが、純粋な蜂蜜でも結晶化しないものもあります。\nそれは、何を蜜源とするものですか?", "id": "tr-164-10-003", "answers": [ { "text": "アカシア", "answer_start": 300, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "蜂蜜の水素イオン指数(pH)は、3.2から4.9(平均3.7)と弱酸性であるが、酵素によって生成された有機酸を含むためである。\nしかしながら、食品が身体に与える影響の観点からは、蜂蜜はアルカリ性食品である。\nこれは蜂蜜に含まれるカルシウム、マグネシウム、カリウム、ナトリウムがアルカリ性を示すミネラルであり、さらに有機酸が体液をアルカリ性に変える働きをもつからである。\n水素イオン指数は弱酸性であるが、蜂蜜を摂取する際には酸味が感じられない傾向にある。\nこれはグルコースおよびフルクトースの甘みが強く、かつ有機酸の7割を占めるグルコン酸の酸味がまろやかなためである。", "qas": [ { "question": "蜂蜜は、それ自体は弱酸性であるが、身体に与える影響から見ると何性の食品となる?", "id": "tr-164-11-000", "answers": [ { "text": "アルカリ性", "answer_start": 92, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "蜂蜜の水素イオン指数が弱酸性なのは有機酸を含むためであるが、その有機酸を生成するのは何という成分でしょうか?", "id": "tr-164-11-001", "answers": [ { "text": "酵素", "answer_start": 40, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "蜂蜜に含まれる有機酸の中で、最も多くの割合を占めているものは何?", "id": "tr-164-11-002", "answers": [ { "text": "グルコン酸", "answer_start": 263, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Logical reasoning" }, { "question": "蜂蜜がアルカリ性の食品とされるのは、蜂蜜に含まれる何という成分が身体の体液をアルカリ性に変える作用があるからですか?", "id": "tr-164-11-003", "answers": [ { "text": "有機酸", "answer_start": 157, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "蜂蜜の標準カロリーは、100gあたり約294kcal、または356kcalで、鶏卵の約2.5倍、牛乳の約6倍に相当する。\n蜂蜜の甘味度は、採集された花の種類によって若干差があるものの、同重量のスクロースとほぼ同じとされる。\n蜂蜜はフルクトースを多く含むが、フルクトースには甘味度が低温で高く、高温で低くなるという特徴がある。\n蜂蜜は甘さとともに、独特の風味を持つ。\nこれは蜂蜜に含まれるビタミン、ミネラル、アミノ酸、有機酸、酵素などの微量成分に由来する。\n風味は蜜源植物の種類によっても異なる。\n蜂蜜は浸透性が高いことで知られるが、これはグルコースとフルクトースの浸透性がともに高いからである。", "qas": [ { "question": "鶏卵の約2.5倍、牛乳の約6倍と同等の数値を持つ蜂蜜の栄養表示は何か?", "id": "tr-164-12-000", "answers": [ { "text": "カロリー", "answer_start": 5, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "フルクトースの甘味度が高い時の温度は高低でいうとどっちか?", "id": "tr-164-12-001", "answers": [ { "text": "低", "answer_start": 140, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "蜂蜜の独特の風味の原因となるビタミン、ミネラル、アミノ酸、有機酸、酵素の成分はどれくらいの量が含まれているでしょうか?", "id": "tr-164-12-002", "answers": [ { "text": "微量", "answer_start": 217, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" } ] }, { "context": "蜂蜜と人類の関わりは古く、英語には「蜂蜜の歴史は人類の歴史」ということわざがある。\n蜂蜜は、人類が初めて使用した甘味料といわれており、イングランド南部では紀元前2500年頃に壺型の土器に蜂蜜が入れられていた痕跡が発見されている。", "qas": [ { "question": "人類が初めて使用した甘味料といわれているものは何ですか?", "id": "tr-164-13-000", "answers": [ { "text": "蜂蜜", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "紀元前2500年頃に壺型の土器に蜂蜜が入れられていた痕跡が発見された地域はどこになりますか?", "id": "tr-164-13-001", "answers": [ { "text": "イングランド南部", "answer_start": 67, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "人類は当初、巣房(ミツバチの巣を構成する六角形の小部屋)ごと食べる形で蜂蜜を摂取した。\n古代エジプトで蜂蜜は、イナゴマメ(キャロブ)と並び主要な甘味料であった。\n蜂蜜が人々の食生活に広く浸透し始めたのは古代ギリシャ時代のことで、ギリシア神話には巣に入った蜂蜜が供される場面が登場する。\n古代ギリシャでは多くの文芸作品、さらにはプラトン、アリストテレスといった哲学者の著作にも蜂蜜が登場する。\nアリストテレスの記述をもとにした試算では、当時のアッティカの自由市民1人あたりの消費量は20世紀後半の日本の国民1人あたりの消費量をはるかに上回っている。\nそれに応じて養蜂も盛んに行われ、プルタルコスの『対比列伝』には、政治家ソロンが活躍した時代に養蜂場間の距離規制(300プース以上離さなくてはならない)に関する法律が制定されたという話題が登場する。", "qas": [ { "question": "古代エジプトで蜂蜜と同じくらい食されていた甘味料は何でしたか?", "id": "tr-164-14-000", "answers": [ { "text": "イナゴマメ", "answer_start": 55, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "当時のアッティカの自由市民1人あたりの消費量が20世紀後半の日本の国民1人あたりの消費量をはるかに上回っているという結果を導き出せたのは、誰の記述によるもの?", "id": "tr-164-14-001", "answers": [ { "text": "アリストテレス", "answer_start": 196, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" }, { "question": "養蜂が盛んになり、養蜂場に関する法律があったことが分かる書物のタイトルは何でしょう?", "id": "tr-164-14-002", "answers": [ { "text": "『対比列伝』", "answer_start": 297, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" } ] }, { "context": "また蜂蜜を使った保存食も、古くから世界中で利用されてきた。\n現在でもジャム・プレザーブはもちろんのこと、レモンやゆずなどの果物、生姜などの野菜をそのまま蜂蜜漬けにしたものなどが日常的に食卓を彩っている。\nその他蜂蜜を固めて作ったのど飴や、蜂蜜ドリンクなど、さまざまな加工食品が製造されているほか、さらに最近では、東ヨーロッパの保存食を発祥とし、モデルなど健康意識の高い層に人気の栄養食・ナッツの蜂蜜漬けも日本国内で製造・販売されはじめている。", "qas": [ { "question": "ナッツの蜂蜜漬けの発祥地はどこですか?", "id": "tr-164-15-000", "answers": [ { "text": "東ヨーロッパ", "answer_start": 156, "answer_type": "Location" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "紀元前15世紀、トトメス3世時代のエジプトの遺跡の壁画には、養蜂とともに蜂蜜入りのパン菓子を作る様子が描かれている。\n約300年後のラムセス3世の墓の壁画にも同様の絵が描かれており、菓子の種類が増えていることが読み取れる。", "qas": [ { "question": "紀元前15世紀のエジプトでは、既に何が入ったパン菓子があったと分かりますか?", "id": "tr-164-16-000", "answers": [ { "text": "蜂蜜", "answer_start": 36, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] }, { "context": "エジプトのパン菓子はギリシャに伝わった。\n古代アテナイの喜劇作家アリストパネスの作品『アカルナイの人々』(紀元前425年発表)の中には蜂蜜入りのパンが登場する。\n紀元前200年頃にはギリシャ産の蜂蜜を使って72種類のパン菓子が作られていたといわれる。\nパンと菓子の分化も進んでいった。\n当時蜂蜜は大変高価で、キュレネの遺跡からは土地の権利と引き換えに蜂蜜を手に入れた入植者について記述された碑文が出土している。\n製菓、製パンにおいて蜂蜜は、甘みを加えるだけでなく酵母増殖を促進する機能も有している。\nその後、蜂蜜を使ったパンや菓子はローマ、さらにヨーロッパ全土へと広まった。\n古代ローマにおいて蜂蜜はパン以外の料理にも用いられた。\nローマの美食家マルクス・ガウィウス・アピキウスの著書『アピキウスの料理書』に収録されているレシピは西洋料理の起源とされるが、500点中170点ほどが蜂蜜を使用した料理に関するものである。", "qas": [ { "question": "エジプトのパン菓子がギリシャに伝わったことを証拠づける作品は何ですか?", "id": "tr-164-17-000", "answers": [ { "text": "『アカルナイの人々』", "answer_start": 42, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "紀元前200年頃、高価だった蜂蜜は何の権利と同等の価値を持っていたと分かっていますか?", "id": "tr-164-17-001", "answers": [ { "text": "土地", "answer_start": 164, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Multiple sentence reasoning" }, { "question": "製菓、製パンにおける蜂蜜の役割として味覚以外の効能は何があげられますか?", "id": "tr-164-17-002", "answers": [ { "text": "酵母増殖を促進", "answer_start": 231, "answer_type": "Object" } ], "question_type": "Lexical variation (synonymy)" }, { "question": "『アピキウスの料理書』の著者は何という美食家ですか?", "id": "tr-164-17-003", "answers": [ { "text": "マルクス・ガウィウス・アピキウス", "answer_start": 323, "answer_type": "Person" } ], "question_type": "Syntactic variation" } ] } ] } ] }