diff --git "a/data/train/jaquad_train_0028.json" "b/data/train/jaquad_train_0028.json" new file mode 100644--- /dev/null +++ "b/data/train/jaquad_train_0028.json" @@ -0,0 +1,18102 @@ +{ + "version": "JaQuAD-ver0.3", + "data": [ + { + "title": "豊田市中央図書館", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "豊田市中央図書館(とよたしちゅうおうとしょかん)は、愛知県豊田市西町1丁目にある公共図書館のことである。\n名鉄豊田市駅東側の参合館の3-7階にある。\n豊田市はトヨタ自動車の本社所在地であり自動車産業とともに発展してきた街であることから、自動車資料の収集に力を入れており、公共図書館としては日本最大の自動車資料コレクションを有する。\n豊田市における図書館サービスは、中央館である豊田市中央図書館、分館である豊田市こども図書室、計31のネットワーク館で構成されている。\n2015年度時点の図書館・図書室の蔵書数は、全国の中核市45市の中で最多である。", + "qas": [ + { + "question": "日本最大の自動車資料コレクションを有する公共図書館とはどこ?", + "id": "tr-657-00-000", + "answers": [ + { + "text": "豊田市中央図書館", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "2015年度時点の図書館・図書室の蔵書数が全国の中核市45市の中で最多であるのはどこの図書館なの?", + "id": "tr-657-00-001", + "answers": [ + { + "text": "豊田市中央図書館", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "豊田市中央図書館の所在地は?", + "id": "tr-657-00-002", + "answers": [ + { + "text": "愛知県豊田市西町1丁目", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "『愛知県昭和史』によると、西加茂郡挙母町時代の1926年(昭和元年)に図書館を設立しているが、この図書館の詳細は定かでない。\n太平洋戦争後の1946年(昭和21年)7月1日には挙母町立図書館設立委員会が組織され、同年9月1日には西町の挙母町都市計画事務所内に挙母町立図書館が設置された。\n1948年(昭和23年)4月1日には挙母町中央公民館が開館し、図書館が中央公民館の1階の一室に移転している。\n1950年(昭和25年)時点では2人の専任職員と約1,000冊の蔵書を有し、1日平均で約30人の閲覧者があった。\n1951年(昭和26年)3月1日には挙母町が市制施行して挙母市となったため、挙母町立図書館から挙母市立図書館に改称した。\n市制施行当時の蔵書数は約4,000冊であり、兼任館長と2人の臨時職員を有していた。", + "qas": [ + { + "question": "蔵書数が多かったのは1950年と1951年のどちらですか?", + "id": "tr-657-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1951年", + "answer_start": 256, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "挙母町立図書館が設置された年はいつですか?", + "id": "tr-657-01-001", + "answers": [ + { + "text": "1946年", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1948年に挙母町立図書館はどの建物に移転したの?", + "id": "tr-657-01-002", + "answers": [ + { + "text": "挙母町中央公民館", + "answer_start": 162, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1950年の1日平均閲覧者数は何人でしたか?", + "id": "tr-657-01-003", + "answers": [ + { + "text": "約30人", + "answer_start": 242, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1953年(昭和28年)3月には愛知県から愛知県蚕業取締所第九支所の建物の払い下げを受け、挙母市立図書館は10月にこの建物に移転した。\n1954年3月29日に開館し、初めて図書館が独立した建物となった。\n図書館法第13条の下で、4月には専任館長が就任し、図書館協議会が図書館の運営にあたった。\n同年6月1日には貸出巡回文庫を開始した。\n同年9月14日には挙母市立図書館設置条例を公布し、公立図書館として再発足した。", + "qas": [ + { + "question": "挙母市立図書館が一つの独立した建物で開館したのはいつでしたか?", + "id": "tr-657-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1954年3月29日", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "挙母市立図書館が公立図書館として再発足したのは何年の9月14日ですか?", + "id": "tr-657-02-001", + "answers": [ + { + "text": "1954年", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "拳母市立図書館が貸出巡回文庫を開始したのは何年の6月1日ですか?", + "id": "tr-657-02-002", + "answers": [ + { + "text": "1954年", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1955年(昭和30年)3月には夜間開館を開始した。\n6月にはアメリカ文化センター(A.C.C.)から資料の寄贈を受け、図書館にA.C.C.資料室を併設した。\n8月には内藤政光から挙母藩蔵書3,200冊の一括寄贈を受け、5か年計画で進めていた蔵書1万冊に到達した。\nこの際には職員が4人に増やされている。\n1959年(昭和34年)1月1日には挙母市が豊田市に市名変更し、挙母市立図書館から豊田市立図書館に改称した。\n1960年(昭和35年)5月11日には鉄筋コンクリート造2階建てで99m2の書庫を増築した。\n1921年(大正10年)に竣工した喜多町時代の建物は、1970年以後には准看護学校や青少年相談所などとしても使用され、2005年(平成17年)からは豊田市近代の産業とくらし発見館として使用されている。\nこの建物は豊田市域に現存する最古級の鉄筋コンクリート造の建築物であり、2000年(平成12年)には建物と正門が国の登録有形文化財となっている。", + "qas": [ + { + "question": "蔵書1万冊を達成したのは何年の8月ですか?", + "id": "tr-657-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1955年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "挙母市立図書館はその後何という名称に変わりましたか?", + "id": "tr-657-03-001", + "answers": [ + { + "text": "豊田市立図書館", + "answer_start": 194, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "誰からの一括寄贈によって蔵書数が1万冊に達することができましたか?", + "id": "tr-657-03-002", + "answers": [ + { + "text": "内藤政光", + "answer_start": 84, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "昭和40年代の豊田市は公的施設の開館が続いた時期であり、豊田市立図書館の陣中町移転もこの時期であった。\n1963年に新築された豊田市庁舎を皮切りに、豊田市市民センター(1965年)、豊田市郷土資料館(1967年)、豊田市青年センター(1968年)、豊田警察署(1969年)、豊田市体育館(1970年)、豊田市消防本部庁舎(1970年)、豊田保健所(1970年)、豊田市文化芸術センター(1975年)などがこの時期に竣工している。", + "qas": [ + { + "question": "豊田市青年センター、豊田市市民センター、豊田市郷土資料館の中で最も早く竣工した施設はどこですか?", + "id": "tr-657-04-000", + "answers": [ + { + "text": "豊田市市民センター", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "豊田市青年センター、豊田警察署、豊田市消防本部庁舎、の中で最も遅くに竣工したのはどの施設ですか?", + "id": "tr-657-04-001", + "answers": [ + { + "text": "豊田市消防本部庁舎", + "answer_start": 151, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "豊田市青年センター、豊田市体育館、豊田保健所の中で豊田市消防本部庁舎と同じ年に竣工した施設は何ですか?", + "id": "tr-657-04-002", + "answers": [ + { + "text": "豊田保健所", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "豊田市庁舎と豊田警察署はどちらが先に竣工したの?", + "id": "tr-657-04-003", + "answers": [ + { + "text": "豊田市庁舎", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "喜多町の図書館の建物は老朽化・狭小化が進んでいた。\n1965年(昭和40年)12月23日、矢作川西岸の陣中町に4,306.28m2の新館建設用地を取得し、1969年(昭和44年)4月2日には新館の起工式を行った。\nこの場所は名鉄豊田市駅から北東に徒歩15分の距離にあり、新たな都市計画を行う文教地区の一角にあった。\n1970年(昭和45年)3月5日には豊田市立図書館新館の落成式を行い、3月6日に延床面積2,004.75m2の新館が開館した。", + "qas": [ + { + "question": "豊田市立図書館新館の最寄り駅はどこですか?", + "id": "tr-657-05-000", + "answers": [ + { + "text": "名鉄豊田市駅", + "answer_start": 112, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "名鉄豊田市駅から何分歩いたら豊田市立図書館新館に到着しますか?", + "id": "tr-657-05-001", + "answers": [ + { + "text": "15分", + "answer_start": 125, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "豊田市立図書館新館の延床面積は?", + "id": "tr-657-05-002", + "answers": [ + { + "text": "2,004.75m2", + "answer_start": 202, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "建築事業費は16億1509万円。\n人口30万人を想定して設計されており、年間10万人の入館を想定していた。\n閲覧室は旧館と比べて拡充され、電動書架を採用するなど設備の近代化が図られた。\n新館移転の際の蔵書数は約6万冊だった。\n開館時間は4月から9月が「9時-18時」であり、10月から翌年3月が「9時-17時」である。\n毎週木曜日は通常時と比べて閉館時間が1時間延長され、新聞記事は「時間にしばられている勤労者などに暖かい配慮がされている」と伝えている。", + "qas": [ + { + "question": "新館は年間何人の入館を想定して建設されたの?", + "id": "tr-657-06-000", + "answers": [ + { + "text": "10万人", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "新館移転時の蔵書数は?", + "id": "tr-657-06-001", + "answers": [ + { + "text": "約6万冊", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "いつもより閉館時間が1時間延長されるのはいつですか?", + "id": "tr-657-06-002", + "answers": [ + { + "text": "毎週木曜日", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "豊田市立図書館の設計は青島設計室である。\n空間を開放的に用いており、ゆったりとしたピロティや庭が特徴的である。\n一貫した主張を読み取ることができる建築が評価され、豊田市立図書館は1970年の第2回中部建築賞で入賞している。\n開館直後の1970年3月10日には移動図書館車「ひまわり号」の運行を開始した。\n1973年(昭和48年)9月1日には移動図書館サービスを豊田加茂広域市町村圏移動図書室に移管し、12月1日には豊田加茂広域市町村圏移動図書館が運行を開始した。\n1974年(昭和49年)4月1日には視聴覚資料(カセットテープ)と紙芝居の貸出を開始した。", + "qas": [ + { + "question": "豊田市立図書館はその建築スタイルが評価され何の賞を受賞しましたか?", + "id": "tr-657-07-000", + "answers": [ + { + "text": "第2回中部建築賞", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「ひまわり号」の運行がスタートしたのはいつですか?", + "id": "tr-657-07-001", + "answers": [ + { + "text": "1970年3月10日", + "answer_start": 117, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "豊田加茂広域市町村圏移動図書館と「ひまわり号」はどちらが先に運行が開始されましたか?", + "id": "tr-657-07-002", + "answers": [ + { + "text": "「ひまわり号」", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1974年度(昭和49年度)末時点の蔵書数は94,845冊であり、児童書が27.9%、一般書の文学分野が21.6%と、両者で約半数を占めていた。\n挙母文庫と内藤文庫を主体とする古書は計3,266冊であり、挙母藩内藤家関係文書などを加えると8,266冊の古文書があった。\n1970年度の貸出冊数は57,703冊、1974年度の貸出冊数は173,643冊であり、わずか4年間で3倍となっている。\n1979年(昭和54年)10月20日には児童室を増築し、1981年(昭和56年)2月15日には書庫・会議室・事務室などを増改築した。\n1980年(昭和55年)10月6日には本館の図書館業務を電算化し、本館と高橋コミュニティセンター図書室をオンラインで結んだ。\n各コミュニティセンター図書室は順次本館とオンラインで結ばれている。\n『豊田の教育1982』によると、成人向けの文化活動として、古典文学鑑賞講座(万葉集)を月1回、郷土を知る会を月1回、製本講座を月1回開催していた。", + "qas": [ + { + "question": "1974年度末時点の児童書と一般書の文学分野の割合が多かったのはどちらですか?", + "id": "tr-657-08-000", + "answers": [ + { + "text": "児童書", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1970年度と1974年度の貸出冊数はどちらの年が多かったですか?", + "id": "tr-657-08-001", + "answers": [ + { + "text": "1974年度", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "挙母文庫、内藤文庫、挙母藩内藤家関係文書を全て合わせると何冊ですか?", + "id": "tr-657-08-002", + "answers": [ + { + "text": "8,266冊", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1990年4月1日には郵送貸出サービスを開始し、同時に祝日開館を開始した。\n1992年4月21日にはイギリスのオックスフォード大学ボドリアン図書館との間で国際交流宣言に調印し、1996年8月5日には図書資料借用契約に調印した。\n1995年7月1日には本館とコミュニティセンター図書室6室を物流で結び、どこでも返却することが可能になった。\n1998年4月1日から6月30日は通常開館したが、閉架資料の利用は停止した。\n7月1日から7月10日は休館、7月11日から8月31日は資料の貸出を停止し、一部資料の閲覧と閲覧席の提供のみを行った。\n9月1日には移転のために陣中町の豊田市図書館が閉館した。\nこれ以後も分館・分室・移動図書館は通常通りの業務を行っている。", + "qas": [ + { + "question": "国際交流宣言を調印した海外の図書館とはどこですか?", + "id": "tr-657-09-000", + "answers": [ + { + "text": "ボドリアン図書館", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "郵送貸出サービスがスタートしたのはいつですか?", + "id": "tr-657-09-001", + "answers": [ + { + "text": "1990年4月1日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1985年(昭和60年)に豊田市立図書館が行った読書調査によると、豊田市民の公共図書館への依存率は他都市よりも低かった。\n1988年度(昭和63年度)の豊田市立図書館の蔵書数は約18万冊で貸出冊数は約29万冊、分室・分館の蔵書数は約20万冊で貸出冊数は約63万冊だった。\n豊田加茂広域市町村圏移動図書館の蔵書数は約10万冊であり、貸出冊数は豊田市域のみで約26万冊だった。\n1988年7月13日には豊田市中央図書館建設検討委員会が発足し、1989年(平成元年)9月21日には中央図書館建設基本計画書を教育委員会に答申した。\n1990年(平成2年)4月1日には豊田市図書館建設準備室が発足した。", + "qas": [ + { + "question": "1988年度の豊田市立図書館と豊田加茂広域市町村圏移動図書館の蔵書数はどちらが多かったですか?", + "id": "tr-657-10-000", + "answers": [ + { + "text": "豊田市立図書館", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1988年度の蔵書数が多かったのは豊田市立図書館と分室・分館のどちらですか?", + "id": "tr-657-10-001", + "answers": [ + { + "text": "分室・分館", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1988年度の貸出冊数が多かったのは豊田市立図書館と分室・分館のどちらですか?", + "id": "tr-657-10-002", + "answers": [ + { + "text": "分室・分館", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1988年度の貸出冊数が多かったのは豊田市立図書館と豊田加茂広域市町村圏移動図書館のどちらですか?", + "id": "tr-657-10-003", + "answers": [ + { + "text": "豊田市立図書館", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1998年11月3日、参合館に豊田市中央図書館が開館した。\n開館記念事業として11月3日から12月13日には「オックスフォード大学ボドリアン図書館重宝展」を開催しており、ボドリアン図書館が所蔵する『マグナ・カルタ』、『徳川家康朱門状』、シーボルトの『日本動物誌』、三浦按針の航海日誌、西欧の世界地図に初めて印刷された日本地図などを展示した。\n同年には自動車に関する大型資料集『英国におけるモータリングの歴史1895-1940年』をボドリアン図書館と共同出版している。\n開館時の蔵書数は約45万冊であり、旧館の24万冊から大幅に増加した。", + "qas": [ + { + "question": "『英国におけるモータリングの歴史1895-1940年』が出版された年はいつですか?", + "id": "tr-657-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1998年11月3日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "豊田市中央図書館開館時の蔵書数は何冊でしたか?", + "id": "tr-657-11-001", + "answers": [ + { + "text": "約45万冊", + "answer_start": 242, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "蔵書数が多かったのは豊田市中央図書館と旧館のどちらですか?", + "id": "tr-657-11-002", + "answers": [ + { + "text": "豊田市中央図書館", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『英国におけるモータリングの歴史1895-1940年』を出版したのは豊田市中央図書館とどこの図書館ですか?", + "id": "tr-657-11-003", + "answers": [ + { + "text": "ボドリアン図書館", + "answer_start": 215, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1999年(平成11年)6月2日にはすべてのコミュニティセンター図書室・公民館図書室のネットワーク化が完了し、中央館および23のネットワーク館で、どこでも返却することが可能になった。\n同年9月に中央図書館が行ったアンケートでは、駅前型図書館ながら利用者の68%が自家用車で来館すると答えた。\n中央図書館開館から1年4か月後の2000年(平成12年)2月3日には、総入館者数が100万人を超えた。\n旧館の利用者数は1日平均約1,000人だったが、新館の利用者数は平日が1日平均約2,300人、休日が1日平均約3,700人と大幅に増加した。", + "qas": [ + { + "question": "1日の平均利用者数が多かったのは新館と旧館のどちらですか?", + "id": "tr-657-12-000", + "answers": [ + { + "text": "新館", + "answer_start": 222, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "新館の1日平均利用者数が多いのは平日と休日のどちらですか?", + "id": "tr-657-12-001", + "answers": [ + { + "text": "休日", + "answer_start": 245, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "中央図書館の来館手段で最も多いものは何ですか?", + "id": "tr-657-12-002", + "answers": [ + { + "text": "自家用車", + "answer_start": 131, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "2001年(平成13年)4月1日には平日の開館時間を通年で10時から19時に固定した。\n同年10月1日には3階とAVコーナーの窓口業務を外部委託しており、2002年(平成14年)4月1日には4階と児童コーナーと5階の窓口業務を外部委託している。\n2002年4月1日には公民館という名称を交流館という名称に変更した。\n2005年(平成17年)1月31日には7階の書庫に電動書架を増設し、蔵書能力が80万冊から130万冊に拡大した。\nこの数は愛知県立図書館よりも多く、全国の市立図書館では千葉県の船橋市立図書館に次いで全国2位である。", + "qas": [ + { + "question": "平日の開館開始時間は何時?", + "id": "tr-657-13-000", + "answers": [ + { + "text": "10時", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "平日は何時に図書館が閉まりますか?", + "id": "tr-657-13-001", + "answers": [ + { + "text": "19時", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "電動書架の増設によって蔵書能力は何冊まで可能となったの?", + "id": "tr-657-13-002", + "answers": [ + { + "text": "130万冊", + "answer_start": 203, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "2005年(平成17年)4月1日には藤岡町・足助町・稲武町・旭町・小原村・下山村の4町2村が豊田市に編入合併し、豊田市中央図書館と旧自治体にあった各図書室がオンラインで結ばれた。\n2006年(平成18年)3月1日には豊田市内の4大学図書館と図書館資料相互利用協定を締結し、2007年(平成19年)12月1日には豊田工業高等専門学校図書館とも相互利用協定を結んだ。\n2008年(平成20年)4月1日には豊田市こども図書室を中央館の分館とした。", + "qas": [ + { + "question": "豊田市に編入合併した数が多かったのは町と村のどちらですか?", + "id": "tr-657-14-000", + "answers": [ + { + "text": "町", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "2008年度の豊田市は当初予算で442億円の法人税収入があったが、リーマン・ショックの影響で2009年度には16億円に激減(96%減)し、図書購入費は2008年度の2億1000万円が2009年度には1億円に半減した。\n2008年度までは複本の購入基準を「予約5件につき1冊程度」としており、ベストセラーの人口1人あたり購入冊数は名古屋市図書館や岡崎市立図書館と比べて突出して多かったが、2009年度には購入基準を「予約10件につき1冊程度」に改め、市外在住者の購入リクエストを受け付けない方針に切り替えた。\n2012年(平成24年)4月1日には館内整理日の第4金曜日を開館とし、さらに6階の窓口業務を外部委託した。\n2016年度までの開館時間は、平日が10時から19時、休日が10時から18時だった。", + "qas": [ + { + "question": "法人税収入が多かったのは2008年度と2009年度のどちらですか?", + "id": "tr-657-15-000", + "answers": [ + { + "text": "2008年度", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "図書購入費が少なかったのは2008年度と2009年度のどちらですか?", + "id": "tr-657-15-001", + "answers": [ + { + "text": "2009年度", + "answer_start": 46, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "2016年度まで開館時間が遅かったのは平日と休日のどちらですか?", + "id": "tr-657-15-002", + "answers": [ + { + "text": "平日", + "answer_start": 323, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "昭和28年西日本水害", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "昭和28年西日本水害(しょうわ28ねんにしにほんすいがい)は、1953年(昭和28年)6月25日から6月29日にかけて九州地方北部(福岡県・佐賀県・熊本県・大分県)を中心に発生した、梅雨前線を原因とする集中豪雨による水害である。\n\n阿蘇山・英彦山を中心に総降水量が1,000mmを超える記録的な豪雨により、九州最大の河川である筑後川をはじめ白川など、九州北部を流れる河川がほぼすべて氾濫、流域に戦後最悪となる水害を引き起こし、死者・行方不明者1,001名、浸水家屋45万棟、被災者数約100万人という大災害となった。\n\nこの水害により、筑後川など九州北部の河川における治水対策が根本から改められることになり、現在においても基本高水流量の基準となっている。\n\nこの九州北部を襲った水害には、気象庁による明確な災害名がつけられておらず、熊本県では「白川大水害」または「6.26水害」、北九州市では「北九州大水害」など、地域によってさまざまな呼称が用いられているほか、諸文献によっても災害名称が異なっている。本記事名は土木学会西部支部の調査報告書に準拠し、「昭和28年西日本水害」と呼称する。なお、本文中の自治体名は、1953年当時の自治体名(括弧内は現在の自治体名)を用いる。", + "qas": [ + { + "question": "昭和28年西日本水害により発生した死者および行方不明者数は?", + "id": "tr-658-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1,001名", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「昭和28年西日本水害」という名称はどこから作られた文書に準拠したものですか?", + "id": "tr-658-00-001", + "answers": [ + { + "text": "土木学会西部支部", + "answer_start": 456, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1953年6月当時の九州地方の気象概況は、梅雨前線がいったん九州北中部に停滞し、上旬には福岡市や長崎県で、中旬には熊本県で大雨を降らせたが、その後奄美大島付近まで一旦南下し、奄美大島と屋久島の間を上下するという状態であった。\n一方フィリピンのルソン島付近にあった太平洋高気圧がしだいに勢力を強くして梅雨前線を押し上げ、6月21日には対馬海峡付近に達した。\nところが今度は、中国大陸より移動性高気圧が九州方面へと張り出し、再度梅雨前線は南下して屋久島まで戻ったものの、再度太平洋高気圧に押されて北上した。\nこうして南北から高気圧によって押された梅雨前線は、阿蘇山付近に6月23日ごろより停滞、そこに高気圧から吹く湿った暖かい空気が梅雨前線に流れ込むことによって前線が刺激され、さらに例年屋久島付近を通過するはずの低気圧が、このときは朝鮮半島・対馬海峡付近を次々と通過した。\nこうした気象条件が重なり、九州北部地域に未曾有の大雨をもたらした。", + "qas": [ + { + "question": "6月21日には対馬海峡付近に達した太平洋高気圧はどの国から来ましたか?", + "id": "tr-658-01-000", + "answers": [ + { + "text": "フィリピン", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "梅雨前線が九州地方に止めさせた北側に高気圧気団はどこから来ましたか?", + "id": "tr-658-01-001", + "answers": [ + { + "text": "中国大陸", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "この梅雨前線は、6月から7月にかけて、九���地方北部のほか、東は静岡県静岡市から紀伊半島・中国地方・四国地方など広範囲にわたって大雨を降らせており、特に紀伊半島では和歌山県西牟婁郡串本町(現在の串本町は東牟婁郡所属)の潮岬で338.7mmを記録する豪雨となったが、このあと7月17日-18日にかけて再度集中豪雨が発生した。死者・行方不明者1,046名を数える集中豪雨として、戦後最悪の人的被害をもたらした紀州大水害(南紀豪雨)となった。また白川流域でも7月中旬に再度集中豪雨が発生し、新たな災害をひき起こしている。1953年の梅雨は5月下旬に入梅し、7月20日ごろに梅雨明けする例年よりも長い梅雨の期間であり、しかも期間中、死者・行方不明者が2,000名を超える大きな被害を西日本各地にもたらしており、特異な気象状況であった。", + "qas": [ + { + "question": "西日本水害を引き起こした梅雨前線が入ってきたのはいつですか?", + "id": "tr-658-02-000", + "answers": [ + { + "text": "5月下旬", + "answer_start": 265, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "潮岬で記録された降雨量は?", + "id": "tr-658-02-001", + "answers": [ + { + "text": "338.7mm", + "answer_start": 111, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "昭和28年西日本水害では、阿蘇山麓や英彦山麓、脊振山地などの九州北部山間部で記録的な豪雨をもたらした。6月25日の降り始めからの総降水量は、熊本県鹿本郡山鹿町(山鹿市)で1,455.3mmを記録したのをはじめ、筑後川本流上流域(杖立川・大山川)で900-1,000mm、支流玖珠川流域や阿蘇山、大分川上流域、矢部川上流域で800-900mm、北九州や背振山地で500-600mmと猛烈な豪雨を記録している。また一日降水量も山鹿町の528mmを皮切りに福岡市、佐賀市、熊本市などで300-400mmを超え、時間雨量も福岡県小倉市(北九州市小倉北区・小倉南区)で101mm、熊本県阿蘇郡小国町宮原で90.2mmなどと短時間・長時間問わず記録的な豪雨となった。豪雨のピークは25日-26日ごろは福岡県筑後地方・熊本県・大分県などが中心で、その後徐々に北へと移動し、28日-29日ごろには北九州が豪雨のピークとなっている。また降雨分布も、河川の上流・中流・下流を問わず、流域の広範囲にわたって豪雨が降り注いでいる。", + "qas": [ + { + "question": "昭和28年西日本水害で一番降雨量が多かった地域はどこですか?", + "id": "tr-658-03-000", + "answers": [ + { + "text": "熊本県鹿本郡山鹿町", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "北九州が豪雨のピークとなった期間は何日から何日ですか?", + "id": "tr-658-03-001", + "answers": [ + { + "text": "28日-29日", + "answer_start": 379, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "上記の気象要因に加え、地質や地形、植生も豪雨被害が拡大する要因となった。新第三紀から第四紀にかけて活発だった阿蘇山の火山活動により、福岡県南東部・大分県南部と西部・熊本県北西部一帯は、おおむね変朽安山岩や阿蘇熔岩を主体とする地質を形成しており、これらの地質は透水性に乏しかった。さらに戦中・戦後に山間部は森林を乱伐していたこともあり、森林の保水力は極端に低下しており、降った雨は通常の森林に比べ土壌に浸透せず、地表を流下して河川に注ぐ形となった。その上、阿蘇山が同年4月27日に噴火を起こし降灰量516万トンにもおよぶ大量の火山灰が堆積、それが豪雨によって雨水とともに地表を流れ、土石流となった。\n\nまた地形的要因も洪水被害を増幅させた。すなわち日本の河川の特徴でもあるが、九州北部の河川はおおむね河川勾配が急であり、河川は急流を形成して上流から下流へと流下するため、下流の水位は急激に上昇しやすい。これに加えて九州北部を流れる河川のいくつかは、流域面積が中流・下流域に比べて上流域の面積割合が広大であり、その割合は白川水系で約80パーセント、筑後川水系で70パーセントを占める。こう���た地質・地形特性を有する河川の上流地域に広範囲かつ持続的な豪雨が降り注ぎ、大量の降雨が膨大な水量をともなう洪水となって、短時間に下流地域へ一挙に押し寄せたこと、また先述の通り、6月上旬から中旬にかけて北部九州で豪雨があり、地盤が緩んでいたところにそれを上回る記録的な豪雨が追い討ちをかけたことが、被害を大きくした。", + "qas": [ + { + "question": "福岡県南東部・大分県南部と西部・熊本県北西部一帯の地質の形成に関与したものは?", + "id": "tr-658-04-000", + "answers": [ + { + "text": "阿蘇山の火山活動", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "戦中・戦後に山間部は森林の乱伐により、被害地域の森林は何が乏しい状態でしたか?", + "id": "tr-658-04-001", + "answers": [ + { + "text": "保水力", + "answer_start": 170, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "筑後川水系の上流の流域面積は総面積の何パーセントを占めているか?", + "id": "tr-658-04-002", + "answers": [ + { + "text": "70パーセント", + "answer_start": 478, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "県都・熊本市では、市内を流れる白川が氾濫した。白川上流部では、阿蘇郡黒川村で5日間の雨量が888.4mmを記録するなど、阿蘇地域一帯で猛烈な豪雨となった。白川水系流域面積の80%を占める阿蘇地域は、阿蘇熔岩を主体とする岩盤の上に「ヨナ」と呼ばれる火山灰を多く含む土壌が堆積していた。\n\n鹿児島県大隅半島のシラス台地と同様に、豪雨が降ると容易に崩壊する土壌であったため、阿蘇地域は1952年(昭和27年)に特殊土壌地帯災害防除及び振興臨時措置法(特土法)の規定する特殊土壌地帯に指定されていた。こうした土壌が堆積していた阿蘇地域で、4月27日に阿蘇山が噴火して大量の火山灰が堆積、そこに大量の豪雨が降り注いだことで、大量の火山灰や「ヨナ」が土石流となって、広大な白川上流域から黒川合流点より下流の河川勾配が急な峡谷を一挙に下り、下流の熊本市内に流入した。さらに熊本市内の白川は天井川となっており、熊本市役所庁舎をはじめ、熊本市中心部は白川の水面よりも低い位置に存在していた。こうした複合的な要因が、熊本市内の被害を増幅させる結果をもたらした。\n\n熊本市では、京町や健軍といった高台を除く全市の70%が浸水し、熊本市中心部では平均で水深が2.5-3.0mに達した。また白川の橋梁は市内に17か所架けられていたが、国道3号長六橋と大甲橋を除いて残らず流失し、上流・中流部でも七障子橋・代宮橋・赤瀬橋以外はことごとく流失した。特に子飼橋では、至近距離にあった避難所で避難していた住民約40名が橋もろとも白川に流され、死亡した。", + "qas": [ + { + "question": "熊本市市内を流れる川の名称は?", + "id": "tr-658-05-000", + "answers": [ + { + "text": "白川", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "水害から残された白川の橋梁のなかで国道3号を通らない橋は何ですか?", + "id": "tr-658-05-001", + "answers": [ + { + "text": "大甲橋", + "answer_start": 562, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "熊本市内は噴火した阿蘇山の火山灰が混ざった大量の泥や「ヨナ」で市街地などが埋まり、その総量は実に600万トンにもおよび、熊本城の堀の一部を廃土で埋めることになった。また養老院が倒壊して52名が一度に圧死するなど、土砂災害による要因が死者を増加させている。\n\n熊本市の被害額は約173億円(現在の金額で約1,219億円)にもおよぶ壊滅的被害となった。また上流の阿蘇郡長陽村(南阿蘇村)などでも、土石流によって家屋や道路、鉄道への被害が大きく孤立した村落が発生した。白川上流部のいわゆる「南郷谷」と呼ばれる阿蘇山カルデラ南部では、土石流によって運ば��た巨大な岩石が一帯を覆い尽くし、死者・行方不明者が66名を数えた。熊本県では、この白川流域で甚大な被害をもたらした今回の水害を、特に白川大水害または6.26水害と呼ぶ。\n\nなお白川では、この水害の半月後、7月16日から17日にかけても集中豪雨があり、仮橋を架けたばかりの国道266号代継橋や明午橋、白川橋、泰平橋が再び流失したほか、床上・床下浸水の被害を受けている。またこの水害を契機に建築された白川沿いの住宅が、その後の白川治水事業を困難にする要因ともなった。", + "qas": [ + { + "question": "熊本市の被害額は現在の価値で換算したときいくらに値しますか?", + "id": "tr-658-06-000", + "answers": [ + { + "text": "約1,219億円", + "answer_start": 150, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "阿蘇山カルデラ南部で土石流によって発生した死者・行方不明者の数は何人ですか?", + "id": "tr-658-06-001", + "answers": [ + { + "text": "66名", + "answer_start": 298, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "菊池川流域では、山鹿の1,455.3mmをはじめ、菊池郡菊池村立門(菊池市)で830.2mm、菊池郡隈府町(菊池市)で599.4mmなど、猛烈な雨が流域を襲った。特に山鹿では、6月25日に1日雨量としても最大となる528mmを記録したほか、26日には418.5mm、27日には282mmという猛烈な雨となっている。このため、菊池川本流や支流の迫間川、合志川などが氾濫、菊池川の水位は最大で9mにも達した。\n\n玉名市、菊池村、隈府町、山鹿町などが浸水被害を受け、菊池川流域では死者7名、全半壊家屋572棟、浸水家屋1万5,335棟に上った。\n\n筑後川上流部の熊本県流域でも猛烈な豪雨が降ったことにより、筑後川(杖立川)の水位が、6月26日10時に九州電力杖立取水堰地点で警戒水位を7m以上上回る12.50mに達した。これにより、川沿いにある杖立温泉ではすべての連絡手段が不通となり孤立、旅館などが流失・損壊するなど大きな被害となった。", + "qas": [ + { + "question": "菊池川流域でもっとも多くの雨が降ったのはどこ?", + "id": "tr-658-07-000", + "answers": [ + { + "text": "山鹿", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "山鹿の6月25日の1日雨量は?", + "id": "tr-658-07-001", + "answers": [ + { + "text": "528mm", + "answer_start": 107, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "菊池川流域ででた死者は何人なの?", + "id": "tr-658-07-002", + "answers": [ + { + "text": "7名", + "answer_start": 239, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "熊本県に次いで被害が大きかったのは福岡県である。特に筑紫平野(筑後川・矢部川流域)、北九州(門司・小倉)、福岡市内の被害が深刻であった。福岡県では人的被害もさることながら、家屋への被害が他県に比べて群を抜いている。\n\n筑後川では、上流部の大分県日田郡上津江村(日田市上津江町)上野田にある建設省の観測所で5日間の総降水量が1,148.5mmに達したのをはじめ、熊本県阿蘇郡小国町宮原で1,002.6mm・時間雨量90.2mm、小国町小国で994.6mmなど本流(大山川)流域で平均900mm、支流の玖珠川流域で平均700-800mmの豪雨が降り注いだ。このため筑後川の水位は、6月25日22時に治水基準点である久留米市瀬の下観測所で警戒水位の5.14mを超え、以後一時間ごとに60cm上昇した。日田市では計画高水位を6月26日14時の時点で過去最悪の水位を突破した。6月26日以降、筑後川の水位は8mから9mの水位まで上昇し、堤防天端すれすれの状態が6月27日まで続き、警戒水位を下回る平常の水位に戻ったのは、7月2日以降になってからであった。\n\n本流および支流・玖珠川の膨大な濁流は、日田郡夜明村(日田市)から浮羽郡浮羽町(うきは市)・朝倉郡杷木町(朝倉市)間の夜明峡谷に集まり、一挙に筑紫平野に流入した。この地点には、当時九州電力が水力発電専用ダムである夜���ダムを建設中であったが、濁流は夜明ダム堤体に激突。九州電力は水門を全開して濁流からダムを守ろうとしたが、濁流はダム両岸をえぐるように流れ、25日夜半から翌26日午前中にダムは左岸の発電所取水口と右岸の国道386号から決壊、ダム本体に据えつけられた水門も3門吹き飛んだ。その後濁流は、1674年(延宝2年)に建設された大石堰に激突し、ここで堤防を決壊させ、浮羽町役場をはじめ町内すべてを水没させた。", + "qas": [ + { + "question": "熊本県阿蘇郡小国町宮原での時間当たりの降雨量は?", + "id": "tr-658-08-000", + "answers": [ + { + "text": "90.2mm", + "answer_start": 206, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "留米市の警戒水位は?", + "id": "tr-658-08-001", + "answers": [ + { + "text": "5.14m", + "answer_start": 321, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日田市で今回の水害で過去最大水位を突破したのはいつですか?", + "id": "tr-658-08-002", + "answers": [ + { + "text": "6月26日14時", + "answer_start": 358, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "堤防を決壊させた濁流は浮羽郡各所に流入、支流の巨瀬川の洪水と合流し巨瀬川の堤防を決壊させ、さらに吉井町・船越村・江南村(うきは市)の筑後川堤防も相次いで決壊した。田主丸町(久留米市)では橋梁がことごとく流失、町内は水深1m以上の浸水となった。原鶴温泉街も完全に水没し、筑後川南岸は一面が海のようになったと伝えられている。筑後川北岸の朝倉郡でも甘木町・蜷城村・朝倉村・大福村(朝倉市)で堤防決壊が多発してほぼすべての地域が浸水。三井郡では、小郡町(小郡市)などを除き完全に外部との交通が遮断され、数日間陸の孤島と化した。\n\n久留米市では、東櫛原町など数か所で堤防が決壊し、東・西・北の三方向から一挙に市内に濁流が流れ込んだ。東櫛原町の堤防では、決壊の一時間前より堤防上を洪水が越流しはじめたが、その様子はあたかも滝のようであった。決壊した堤防から流出した水は久留米市内に押し寄せ、国鉄久留米駅、久留米大学医学部附属病院など久留米市中心部をことごとく水没させ、市内の80%が浸水した。水位は市内中心部の明治通りにある旭屋デパート(のちの久留米井筒屋)前で約1m、もっとも深い場所では約3mに達した。道路も国道3号久留米大橋、国道264号豆津橋をはじめ、小森野橋、宮ノ陣橋、両筑橋、恵蘇宿橋、原鶴大橋が流失または損壊し、国道3号は佐賀県三養基(みやき)郡鳥栖町(鳥栖市)と久留米間が完全に不通となった。特に、小森野橋では、橋の補修作業を行っていた作業員5人と作業を見物していた住民20人を乗せたまま橋が流される災害となった。", + "qas": [ + { + "question": "筑後川堤防、巨瀬川の堤防で時間的に後に破壊されたのはどれ?", + "id": "tr-658-09-000", + "answers": [ + { + "text": "筑後川堤防", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "小森野橋が流された時、橋の上で補修作業を行っていた作業員以外の人は何人ですか?", + "id": "tr-658-09-001", + "answers": [ + { + "text": "20人", + "answer_start": 637, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "昭和28年西日本水害の筑後川流域における被害は、死者147人を出したのをはじめ、堤防決壊・崩落84か所、護岸崩壊38か所、道路損壊1,889か所、橋梁流失948か所などにおよび、家屋の被害も下表に示す通りとなった。被災者数は54万4,060人、被害総額は約32億8,700万円(現在の金額で約231億7,000万円)にも上った。浸水した区域は筑紫平野のほぼ全域であり、東は夜明ダム直下、西は佐賀市の嘉瀬川堤防、南は矢部川堤防、北は筑紫野市の宝満川流域にまでおよび、さながら有明海が内陸山沿いまで海域を拡大したかの様相を呈した。1890年(明治22年)の洪水、1921年(大正10年)の洪水と並んで、この水害は「筑後川三大洪水」とも呼ばれている。", + "qas": [ + { + "question": "「筑後川三大洪水」の中で一番先に起きた洪水は何年ですか?", + "id": "tr-658-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1890年", + "answer_start": 263, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "矢部川流域でも上流部を中心に豪雨が降り、八女郡矢部村(八女市)で5日間に934.2mmの総降水量を観測したのをはじめ、黒木町(八女市)で609.5mm、星野村(八女市)で667.8mm、辺春村(八女市)で666mm、福島町(八女市)で613.6mm、柳川市で496.2mmなど流域は降り始めからの平均が700mm近くに達した。このため、矢部川本流は、国道209号船小屋橋の道路が冠水するほどの水位となったほか、支流の星野川、笠原川、辺春川などが軒並み氾濫し、各所でがけ崩れや橋梁、家屋、田畑の流失を招いた。特に橋梁については、支流の田代川と鹿子生川ですべての橋梁が流失したほか、黒木町で合流する笠原川でも、最上流部の大年橋・振々橋・左手上橋以外はことごとく流失している。また矢部川本流についても、特に支流との合流点付近にある橋梁が流失している。\n\nこうした濁流は福島町や羽犬塚町(筑後市)、三潴(みずま)郡に押し寄せ、甚大な被害を与えた。特に山門(やまと)郡瀬高町(みやま市)では全町が水没、三潴郡や柳川市といった下流部では、筑後川の支流である花宗川の濁流と矢部川の濁流が合流して大川町(大川市)や柳川市に流入、被害をさらに拡大させた。三潴郡内では、筑後川・矢部川の洪水が合流したことで、郡内にある家屋の98%が浸水するなど被害は凄まじく、「全郡水没」状態となった。死者は2人であったが、ほぼ全郡が床上・床下浸水の被害を受け、被災者数は12万4,132名にも上った。矢部川流域全体では、死者29人、床上浸水10,138棟、床下浸水15,896棟におよんだ。", + "qas": [ + { + "question": "矢部川流域で降雨量が3番目に多かった村はどこですか?", + "id": "tr-658-11-000", + "answers": [ + { + "text": "辺春村", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "矢部川流域全体の被害状況で、床上浸水の被害を受けたのはどれくらいですか?", + "id": "tr-658-11-001", + "answers": [ + { + "text": "10,138棟", + "answer_start": 653, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "九州地方最大の都市である福岡市でも、豪雨被害は深刻であった。市内では6月4日-6月7日にかけても総雨量300mmを超える豪雨を記録しており、これに追い討ちをかけるように、5日間で621.4mmの猛烈な豪雨が降り注いだ。このため那珂川や御笠川、室見川、樋井川、十郎川、須恵川など市内を流れる中小河川がことごとく氾濫。福岡市内の大部分が浸水した。\n\n浸水範囲は、福岡市最大の繁華街である中洲や天神をはじめ、現在の福岡市中央区渡辺通・警固・薬院・大濠、早良区城西町など福岡市中心部のほとんどであり、警固地区ではがけ崩れによる土砂災害も発生した。隣接する糟屋郡でも、多々良川水系がすべて氾濫、多々良川本流や支流の猪野川、久原川、長谷川など各所で、堤防決壊や堤防がない場所での洪水流入で、浸水被害や農地流失が相次いだ。糸島郡前原町(糸島市)でも、町内を流れる瑞梅寺川の氾濫により町内の大部分が浸水している。\n\n福岡市内では、全壊家屋11棟、半壊家屋59棟、床上浸水5,735棟、床下浸水2万1,900棟の大きな被害を受けており、人口密集地を中心に被害が集中していることから、被災者数も11万3,789名と多数に上った。", + "qas": [ + { + "question": "福岡市内で発生した被災者数は何人ですか?", + "id": "tr-658-12-000", + "answers": [ + { + "text": "11万3,789名", + "answer_start": 487, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "福岡市での5日間の豪雨量は?", + "id": "tr-658-12-001", + "answers": [ + { + "text": "621.4mm", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "佐賀県では、神埼郡三瀬村(佐賀市)で711.4mm、鳥栖町(鳥栖市)で665.2mm、神埼郡神埼町(神埼市)で633.7mm、佐賀市で587.1mmなどとなった。これにより、嘉瀬川・松浦川など背振山地を水源とする河川が軒並み氾濫したほか、筑後川の洪水が支流に逆流することで、堤防決壊などの被害が拡大した。\n\n逆流した筑後川の洪水は、支流の上流から流れ来る洪水と衝突して堤防を越流、6月26日に鳥栖町を流れる大木川の堤防が決壊した。その後、宝満川に逆流した筑後川の濁流が宝満川支流の安良川に逆流、築堤以来300年にわたり流域を水害から守った成富茂安の千栗(ちりく)堤防を決壊させ、三養基郡北茂安村(みやき町)を水没させた。筑後川の濁流はそのまま南西へと押し寄せ、三養基郡や神埼郡をことごとく呑み込んだ。特に被害が甚大だったのは神埼郡三田川村(吉野ヶ里町)で、筑後川支流の田手川と城原(じょうばる)川が決壊したが、上流から流れくる大量の土砂が流域の家屋や田畑を一挙に押し流した。\n\nこの濁流はさらに蓮池町(佐賀市)に流れ込み、筑後川の逆流した洪水と合流して西へ押し寄せ、佐賀郡東川副村(佐賀市)を経て、ついに佐賀市内に流入した。そして佐賀郡南川副町(川副町)に達して海岸堤防でせき止められた。\n\nまた嘉瀬川は天井川で河床が佐賀平野よりも高く、かつ複雑な流路だったことから、鍋島村(佐賀市)で堤防が決壊、濁流は佐賀市内に流入したが、同時に東より筑後川本流や田手川・城原川の濁流が押し寄せ、両者が佐賀市近辺で合流することにより、浸水被害を倍化させた。\n\n最終的に、有明海の海岸堤防を人工的に破壊するなどして濁流を排水することにより浸水は収束したが、水が完全に引くまで1か月以上かかった地域もあった。唐津市を流れる松浦川でも。源流部である天山山麓で豪雨となり、特に支流の厳木(きゅうらぎ)川が氾濫して、浸水被害が多発している。", + "qas": [ + { + "question": "水害当時の鳥栖町での降雨量はなんmmでしたか?", + "id": "tr-658-13-000", + "answers": [ + { + "text": "665.2mm", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "佐賀市地域の濁流を排水するため破壊したのは何ですか?", + "id": "tr-658-13-001", + "answers": [ + { + "text": "有明海の海岸堤防", + "answer_start": 678, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "大分県でも、降り始めからの総雨量が、日田郡上津江村(日田市)で1,148.5mmという猛烈な豪雨を記録したのをはじめ、玖珠郡森町(玖珠町)で835.5mm、由布院町(由布市)で818mm、長湯温泉で738.4mm、竹田市で718.9mm、大分市で713.3mm、日田市で705.6mmと筑後川上流・大分川上流・大野川上流域で記録的な豪雨をもたらした。このため、大分県内においても、被害は著しいものになった。\n\n大分市では市内を流れる大分川が氾濫、堤防が各所で決壊し市内に濁流が押し寄せた。国道197号の舞鶴橋も流失し、市内だけで9,317棟が浸水、大分市街地もほとんど浸水した。特に舞鶴橋右岸の大分市津留(今津留・東津留)地区では、橋梁流失による県道の寸断で交通が完全に寸断され、500世帯が孤立した。またこの地区には大分県立大分商業高等学校など高等学校2校、中学校1校があり、通学にも影響を与え、仮の橋を大分川に架けることにより、大分市内への交通がようやく再開した。\n\n大分川流域だけで被害は死者・行方不明者84名、負傷者524名、家屋流失1,008棟、家屋全半壊2,998棟、床上浸水8,165棟、床下浸水30,417棟に上った。大野川流域でも、特に竹田市を流れる支流の玉来川と稲葉川、また大野川下流や平井川でも堤防決壊や浸水の被害が続発し、県南部の祖母山や傾山でも山腹の崩落が多発している。", + "qas": [ + { + "question": "大分川流域で水害で亡くなった、もしくは行方不明になった人は何名ですか?", + "id": "tr-658-14-000", + "answers": [ + { + "text": "84名", + "answer_start": 455, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "大分市で水害で流された橋は何ですか?", + "id": "tr-658-14-001", + "answers": [ + { + "text": "舞鶴橋", + "answer_start": 251, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "また日田市・日田郡・玖珠郡では、筑後川本流と支流の玖珠川が氾濫、濁流は日田市内へ流れ込み、市内の通りを激流となって押し寄せ、筑後川(三隈川)に架かる銭淵橋が吹き飛ばされたのをはじめ、完成したばかりである国道210号三隈大橋以外のすべてが流失・破壊された。日田市は日田盆地にあるが、この地は筑後川と玖珠川・花月川が一斉に合流する土地で、かつ下流に夜明峡谷があるため、河水の流下能力が乏しく、洪水の際には峡谷がダム化して行き場を失った河水が上流の日田市内へと逆流。このため市内は洪水が「貯水」された格好になり、全市が平均1-2mの深さで浸水した。これに輪をかけて三隈大橋に上流から流れくる大量の流木がせき止められてダム化し、浸水被害に拍車をかけた。玖珠川合流点より上流部の筑後川(大山川)流域や玖珠川上流部でも水位が軒並み10mを超え、河道が変わるほどの濁流となり、農地や家屋の流失が深刻であった。玖珠川では、川に架かる18の橋梁中11橋梁が流失した。これにより国道210号、国道212号、国道386号および久大本線は完全に不通、通信線や送電線も寸断されたことで、日田市や玖珠郡は一時完全に孤立した。日田市では死者17名、被災者数3万7,000人におよんだ。", + "qas": [ + { + "question": "玖珠川を渡る橋の中、水害で流失された数は?", + "id": "tr-658-15-000", + "answers": [ + { + "text": "11橋梁", + "answer_start": 414, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "日田市での被害者は全部何人だったんですか?", + "id": "tr-658-15-001", + "answers": [ + { + "text": "3万7,000人", + "answer_start": 513, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "この水害は、過去営々と積み上げてきた治水事業を根本から覆す災害であった。1953年は水害の当たり年であり、7月には紀州大水害(7月17日-18日、死者・行方不明者1,046名)、8月には「集中豪雨」という言葉が初めて使用された南山城豪雨(8月14日-15日、死者105名)、そして9月には淀川や由良川に過去最悪の洪水をもたらした台風13号が襲い死者・行方不明者478名と、毎月のように日本各地で大水害が発生した。このため1953年の水害総被害額は、昭和28年度の一般会計予算1兆172億円に比してほぼ半額に当たる約5,941億円となり、2004年時点物価に換算した実質水害被害額に直すと、およそ3兆2,401億円に達し、水害被害額としては、戦前戦後を通じて昭和時代最悪となった。また実質水害被害額を実質国民所得で割った被害率で見ても10.17%と、1948年に次ぐ高い数値になった。戦後の日本は台風や豪雨による甚大な人的被害をともなう水害が毎年頻発していたが、その原因は森林の乱伐と治水対策の不備であった。", + "qas": [ + { + "question": "1953年の水害事故の中で犠牲者数がもっとも低い事件は何でしょう?", + "id": "tr-658-16-000", + "answers": [ + { + "text": "南山城豪雨", + "answer_start": 113, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "昭和28年度の一般会計予算の中で水害総被害額で使われた額はいくらか?", + "id": "tr-658-16-001", + "answers": [ + { + "text": "約5,941億円", + "answer_start": 256, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "内閣経済安定本部は、水害の続発による被害額の増大が日本経済の復興に影響をおよぼすことに懸念を抱いていた。そこでテネシー川流域開発公社(TVA)方式で治水を行い、あわせて農地灌漑や水力発電を組み合わせることで河川開発を行い、日本経済の復興に資するとした河川総合開発事業を、日本各地の河川で企画し��いた。一方河川行政をつかさどる建設省は北上川、江合川・鳴瀬川、利根川、木曽川、淀川、吉野川と筑後川の主要8河川でダムを中心とした治水計画である「河川改訂改修計画」を1949年(昭和24年)に立案しており、同年に「筑後川改訂改修計画」が立案されていたが、今回の水害を機に再検討が行われた。そして河川総合開発事業と組み合わせて治水と利水を同時に行える多目的ダムを建設する方針に切り替え、あわせて大規模な河川改修を行うこととした。また福岡・大分両県も多目的ダムの建設に乗り出した。", + "qas": [ + { + "question": "「河川改訂改修計画」を立案したのはどこですか?", + "id": "tr-658-17-000", + "answers": [ + { + "text": "建設省", + "answer_start": 162, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "筑後川水系では、1949年の筑後川改訂改修計画において、筑後川支流の玖珠川と津江川に治水ダムを建設する計画を立てていたが、水害を受けて1957年(昭和32年)に「筑後川水系治水基本計画」を発表。上流部では筑後川本流、玖珠川、津江川、城原川に多目的ダムを建設し洪水調節を行うほか、中流部には堰と放水路、下流では大規模な堤防決壊を起こした久留米市東櫛原の大規模堤防建設、そして流域全体の堤防修繕や支流への洪水逆流を防ぐための水門建設などを柱とした大規模治水事業を計画した。この結果建設されたのが松原ダム(筑後川)と下筌(しもうけ)ダム(津江川)、島内可動堰(筑後川)、大石・原鶴・千年分水路、そして久留米市東櫛原大規模引堤事業である。福岡県も支流の改修を進め、広川防災ダム(広川)、山神ダム(山口川)や藤波ダム(巨瀬川)を完成させた。さらに水資源需要の増大もあり、総合開発計画として筑後大堰(筑後川)や寺内ダム(佐田川)、大山ダム(赤石川)が建設され、小石原川ダム(小石原川)が施工中である。", + "qas": [ + { + "question": "「筑後川水系治水基本計画」の一環として上流部に設けた施設は?", + "id": "tr-658-18-000", + "answers": [ + { + "text": "多目的ダム", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "大規模治水事業で久留米市東櫛原の下流部には何が行われましたか?", + "id": "tr-658-18-001", + "answers": [ + { + "text": "大規模堤防建設", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "矢部川水系では、本流に日向神(ひゅうがみ)ダムが福岡県最大級の多目的ダムとして建設され、遠賀川水系では、北九州特定地域総合開発計画の一環として力丸ダム(八木山川)が建設されたのを皮切りに、陣屋ダム(中元寺川)や犬鳴ダム(犬鳴川)そして遠賀川河口堰(遠賀川)が建設されたほか、遠賀川本流の堤防整備が強化された。大分川水系では支流の芹川に芹川ダムが建設され、七瀬川に大分川ダムが施工中である。\n\n菊池川水系では、支流の迫間川に竜門ダムが建設された。熊本市に致命的な被害をもたらした白川では、熊本市内を中心とした河川改修を進めるかたわら、白川・黒川合流点直下流の白川本流に洪水調節専用の穴あきダムである立野ダムを施工し、阿蘇外輪山より来る洪水を貯水するほか、支流黒川に内牧遊水池など8か所の遊水池群の整備を進め、2か所が完成している。\n\n松浦川水系では、最大の被害をもたらした厳木川に厳木ダムが、嘉瀬川では佐賀県最大規模の嘉瀬川ダムが本流にそれぞれ完成している。このほか中小河川の改修やダム建設が、那珂川水系や多々良川水系、御笠川水系、今川水系などで進められている。", + "qas": [ + { + "question": "遠賀川水系の北九州特定地域総合開発計画で初めて建設されたダムは何ですか?", + "id": "tr-658-19-000", + "answers": [ + { + "text": "力丸ダム", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "立野ダムが建てられた位置はどこですか?", + "id": "tr-658-19-001", + "answers": [ + { + "text": "白川本流", + "answer_start": 278, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "こうした治水事業の整備により、これらの河川では複数県をまたぐ広範囲の浸水被害や、堤防決壊による多数の家屋・橋梁・鉄道流失をともなうような大規模水害は、60年近く発生しなかった。\n河川事業の整備は洪水の危険性を減らしたが、反面ダム事業では、松原・下筌ダム建設に端を発する12年にわたる反対運動・蜂の巣城紛争に見られる治水対策の遂行による住民の新たな犠牲というものも生じたほか、公共事業に対する風当たりの強さにより、玖珠川の猪牟田(ししむた)ダム、大野川本流の大野川ダムと支流平井川の矢田ダムが中止され、七瀬川の大分川ダムと小石原川の小石原川ダム、城原川の城原川ダム、そして白川の立野ダムは民主党政権の前原誠司国土交通大臣(当時)が進めたダム事業継続の再検証により事業が凍結、大分川・小石原川・立野の3ダムはその後事業が再開されたものの、城原川ダムは凍結状態が続いている。", + "qas": [ + { + "question": "世論の評価が不評すぎて建設中止になっちまったダムは猪牟田ダムのほか何がありますか?", + "id": "tr-658-20-000", + "answers": [ + { + "text": "矢田ダム", + "answer_start": 240, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "松原・下筌ダム建設に反対する反対運動は何年続きましたか?", + "id": "tr-658-20-001", + "answers": [ + { + "text": "12年", + "answer_start": 134, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "治水事業が停滞するなか、2009年(平成21年)にはこの災害の降水量に匹敵する集中豪雨、平成21年7月中国・九州北部豪雨が発生した。昭和28年西日本水害のような大河川での大規模な堤防決壊などは起きなかったが、ダムではカバーしづらい都市・中小河川での水害や土石流やがけ崩れにより、多数の死者を出す惨事をもたらした。さらに2012年(平成24年)7月には平成24年7月九州北部豪雨が発生した。阿蘇市で本水害に匹敵する降水量を記録したほか、本水害とほぼ同じ地域で集中豪雨が発生し筑後川流域が広範囲に浸水したのをはじめ、矢部川では堤防が決壊、白川では熊本市内が浸水し山国川では過去最悪の洪水量を記録するなど、多くの死者をともなう大きな被害が発生した。本水害以来となる、複数県にまたがる広範囲かつ堤防決壊をともなう河川の氾濫を招いた。九州北部の大河川における治水事業は、本水害以降多くの課題を突きつけられている。", + "qas": [ + { + "question": "中国・九州北部に昭和28年西日本水害に匹敵するような豪雨が降ってまた多数の死者が出たのは何年のことですか?", + "id": "tr-658-21-000", + "answers": [ + { + "text": "2009年", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2012年に発生した集中豪雨の名称は?", + "id": "tr-658-21-001", + "answers": [ + { + "text": "平成24年7月九州北部豪雨", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ジュゼッペ・ヴェルディ", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディは、19世紀を代表するイタリアのロマン派音楽の作曲家であり、主にオペラを制作した。「オペラ王」の異名を持つ。\n\n代表作は『ナブッコ』、『リゴレット』、『椿姫』、『アイーダ』などがある。彼の作品は世界中のオペラハウスで演じられ、またジャンルを超えた展開を見せつつ大衆文化に広く根付いている。ヴェルディの活動はイタリア・オペラに変革をもたらし、現代に至る最も重要な人物と評される。1962年から1981年まで、1000リレイタリアの紙幣に肖像が採用されていた。", + "qas": [ + { + "question": "『椿姫』、『アイーダ』は誰が制作したの?", + "id": "tr-659-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「オペラ王」とは誰を指すの?", + "id": "tr-659-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディは主に何を制作したか。", + "id": "tr-659-00-002", + "answers": [ + { + "text": "オペラ", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ヴェルディは、父カルロ・ジュゼッペ・ヴェルディと母ルイジア・ウッティーニの間に初めての子供として生まれ、後に妹も生まれた。生誕地はブッセート近郊の小村レ・ロンコーレ村だが、ここはパルマ公国を併合したフランス第一帝政のタロ地区に組み込まれていた。彼はカトリック教会で洗礼を受け、ヨセフ・フォルトゥニヌス・フランシスクスのラテン名を受けた。登録簿には10月11日付け記録に「昨日生まれた」とあるが、当時の日付は日没で変更されていたため、誕生日は9日と10日のいずれの可能性もある。翌々日の木曜日、父は3マイル離れたブッセートの町で新生児の名前をジョセフ・フォルテュナン・フランソワと申請し、吏員はフランス語で記録した。", + "qas": [ + { + "question": "カルロ・ジュゼッペ・ヴェルディの妻は誰なの?", + "id": "tr-659-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ルイジア・ウッティーニ", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ヴェルディの生誕地はどこ?", + "id": "tr-659-01-001", + "answers": [ + { + "text": "レ・ロンコーレ村", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "カルロは農業以外にも小売や宿、郵便取り扱いなどを行い、珍しく読み書きもできる人物だった。ヴェルディも父の仕事を手伝う利発な少年だった。だが彼は早くも音楽に興味を覚え、旅回りの楽団や村の聖ミケーレ教会のパイプオルガンを熱心に聴いた。8歳の時、両親は中古のスピネットを買い与えると、少年は熱中して一日中これに向かった。請われて演奏法を教えた教会のオルガン弾きバイストロッキは、やがて小さな弟子が自分の腕前を上回ったことを悟り、時に自分に代わってパイプオルガンを演奏させた。やがて評判は広がり、カルロと商取引で関係があった音楽好きの商人アントーニオ・バレッツィの耳にも届いた。バレッツィの助言を受けたカルロは、息子の才能を伸ばそうとブッセートで学ばせることを決断した。", + "qas": [ + { + "question": "ヴェルディは何歳の時、両親から中古のスピネットを買ってもらったの?", + "id": "tr-659-02-000", + "answers": [ + { + "text": "8歳", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1823年、10歳のヴェルディは下宿をしながら上級学校で読み書きやラテン語を教わり、そして音楽学校でフェルディナンド・プロヴェージから音楽の基礎を学んだ。バレッツィの家にも通い、公私ともに援助を受ける一方で、彼を通じて町の音楽活動にも加わるようになった。作曲や演奏、そして指揮などの経験を重ね、ヴェルディの評判は町に広がった。17歳になった頃にはバレッツィ家に住むようになり、長女マルゲリータ・バレッツィと親密な間柄になっていった。しかし、更なる進歩を得ようと当時の音楽の中心地ミラノへ留学を目指した。費用を賄うためにモンテ・ディ・ピエタ奨学金を申請し、バレッツィからの援助も受け1832年6月にミラノに移り住んだ。ヴェルディは既に規定年齢を超えた18歳であったが、これを押して音楽院の入学を受けた。しかし結果は不合格に終わり、仕方なく音楽教師のヴィンチェンツォ・ラヴィーニャから個人指導を受けた。音楽院でソルフェージュ教師を務めるラヴィーニャは、またスカラ座で作曲や演奏も担当していた。彼はヴェルディの才能を認め、あらゆる種類の作曲を指導し、数々の演劇を鑑賞させ、さらにスカラ座のリハーサルまで見学させた。知り合った指揮者のマッシーニを通じて見学したリハーサルでたまたま副指揮者が遅れ、ヴェルディがピアノ演奏に駆り出されると、熱中するあまり片手で指揮を執り始めた。絶賛したマッシーニが本番の指揮を託すと、演奏会は成功を収め、ヴェルディにはわずかながら音楽の依頼が舞い込むようになった。", + "qas": [ + { + "question": "1823年、ヴェルディは何歳でしたか。", + "id": "tr-659-03-000", + "answers": [ + { + "text": "10歳", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヴェルディは17歳になってからどこで住むようになったの?", + "id": "tr-659-03-001", + "answers": [ + { + "text": "バレッツィ家", + "answer_start": 173, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バレッツィ家の長女は誰なの?", + "id": "tr-659-03-002", + "answers": [ + { + "text": "マルゲリータ・バレッツィ", + "answer_start": 190, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヴェルディはいつミラノに移り住んだ?", + "id": "tr-659-03-003", + "answers": [ + { + "text": "1832年6月", + "answer_start": 290, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "22歳のヴェルディは着任したブッセートでまじめに仕事に取り組み、同年マルゲリータと結婚し、1837年に長女ヴィルジーニアが生まれた。しかし心中では満足できず、秘かに取り組んでいた作曲『ロチェステル』を上演できないかとマッシーニへ働きかけたりした。1838年には長男イチリオが生まれ、歌曲集『六つのロマンス』が出版されたが、同じ頃ヴィルジーニアが高熱に苦しんだ末に亡くなった。イチリオの出産以来体調が優れないマルゲリータや、未だ尾を引く主席司祭側とのいざこざ、自らの音楽への探求、そして生活の変化を目指し、ヴェルディは再びミラノへ行くことを決断した。", + "qas": [ + { + "question": "ヴェルディは何歳のとき、マルゲリータと結婚したの?", + "id": "tr-659-04-000", + "answers": [ + { + "text": "22歳", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヴェルディの長女の名前は何?", + "id": "tr-659-04-001", + "answers": [ + { + "text": "ヴィルジーニア", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヴェルディの長男はいつ生まれたか。", + "id": "tr-659-04-002", + "answers": [ + { + "text": "1838年", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "引き続きバレッツィの支援を受けてミラノに居を移したヴェルディは、つてを頼って書き上げたオペラ作曲『オベルト』をスカラ座支配人メレッリに届け、小規模な慈善興行でも公演できないか打診した。しばらく待たされたが色好い返事を受け、1839年初頭にはソプラノのジュゼッピーナ・ストレッポーニやテノールのナポレオーネ・モリアーニらを交えたリハーサルが行われた。しかし、モリアーニの体調不良を理由に公演は中止され、ヴェルディは落胆した。ところが、今度はメレッリ側から『オベルト』をスカラ座で本公演する働きかけがあった。これはストレッポーニが作品を褒めたことが影響した。台本はテミストークレ・ソレーラ��修正を受け、秋ごろにはリハーサルが始まった。この最中、息子イチリオが高熱を発し、わずか1歳余りで命を終えた。動き出した歯車を止める訳にはいかないヴェルディは悲しみを胸に秘めたまま準備を進め、11月17日に『オベルト』はスカラ座で上演された。ヴェルディ初作品は好評を得て、14回上演された。他の町からも公演の打診があり、楽譜はリコルディ社から出版され、売上げの半分はヴェルディの収入となった。メレッリは新作の契約をヴェルディと結び、今後2年間に3本の製作を約束させた。不幸にも遭ったがこれでやっと妻に楽をさせられるとヴェルディは安堵していた。", + "qas": [ + { + "question": "ソプラノのジュゼッピーナ・ストレッポーニやテノールのナポレオーネ・モリアーニらを交えたリハーサルが行われたのはいつですか。", + "id": "tr-659-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1839年初頭", + "answer_start": 111, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『オベルト』は誰の作品なの?", + "id": "tr-659-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ヴェルディ", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イチリオは何歳に亡くなったか。", + "id": "tr-659-05-002", + "answers": [ + { + "text": "1歳", + "answer_start": 336, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『オベルト』は何回上演されたか。", + "id": "tr-659-05-003", + "answers": [ + { + "text": "14回", + "answer_start": 428, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "次回作にメレッリは『追放者』というオペラ・セリアを提案したがヴェルディは気が乗らず、代わりにオペラ・ブッファ『贋のスタラチオ』を改題して取り組むことになった。ところが1840年6月18日、マルゲリータが脳炎に罹り死去した。妻子を全て失ったヴェルディの気力は萎えメレッリに契約破棄を申し入れたが拒否され、どこか呆然としたまま『一日だけの王様』を仕上げた。9月5日、スカラ座の初演で本作は散々な評価を下され、公演は中断された。ヴェルディは打ちひしがれて閉じこもり、もう音楽から身を引こうと考えた。「行け、わが想いよ(Va,pensiero)」の旋律年も押し迫ったある日の夕方、街中でメレッリとヴェルディは偶然会った。メレッリは彼を強引に事務所に連れ、旧約聖書のナブコドノゾール王を題材にした台本を押し付けた。もうやる気の無いヴェルディは帰宅し台本を放り出したが、開いたページの台詞「行け、わが思いよ、黄金の翼に乗って(Va,pensiero,sull'alidorate)」が眼に入り、再び音楽への意欲を取り戻した。ソレーラに脚本の改訂を行わせ、作曲を重ねたヴェルディは1841年秋に完成させた。彼は謝肉祭の時期に公演される事に拘り、様々な準備を経て1842年3月9日にスカラ座で初演を迎えた。観客は第1幕だけで惜しみない賞賛を贈り、黄金の翼の合唱では当時禁止されていたアンコールを要求するまで熱狂した。1日にしてヴェルディの名声を高めたオペラ『ナブッコ』は成功を収めた。", + "qas": [ + { + "question": "マルゲリータはいつ亡くなりましたか。", + "id": "tr-659-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1840年6月18日", + "answer_start": 83, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マルゲリータは何にかかって亡くなったか。", + "id": "tr-659-06-001", + "answers": [ + { + "text": "脳炎", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "『ナブッコ』は春に8回、秋にはスカラ座新記録となる57回上演された。ヴェルディは本人の好みに関わらず社交界の寵児となり、クララ・マッフェイの招きに応じてサロット・マッファイのサロンに加わった。このような場で彼はイタリアを取り巻く政治的な雰囲気を感じ取った。一方メレッリとは高額な報酬で次回作の契約を交わし、1843年2月に愛国的な筋立ての『十字軍のロンバルディア人』が上演され、これもミラノの観衆を熱狂させた。2作は各地で公演され、『ナブッコ』の譜面はマリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナに、『十字軍のロンバルディア人』のそれはマリア・ルイーザにそれぞれ贈られた。数々の劇場からオファーを受けたヴェルディの次回作はヴィクトル・ユーゴー原作から『エルナーニ』が選ばれ、台本は駆け出しのフランチェスコ・マリア・ピアーヴェが担当した。ヴェルディは劇作に妥協を許さず何度もピアーヴェに書き直しを命じ、出演者も自ら選び、リハーサルを繰り返させた。1844年3月にヴェネツィアのフェニーチェ劇場で初演を迎えた本作も期待を違えず絶賛された。それでもヴェルディは次を目指し、後に「ガレー船の年月」と回顧する多作の時期に入った。", + "qas": [ + { + "question": "『ナブッコ』は春に何回上演されたか。", + "id": "tr-659-07-000", + "answers": [ + { + "text": "8回", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『ナブッコ』は秋に何回上演されたか。", + "id": "tr-659-07-001", + "answers": [ + { + "text": "57回", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『十字軍のロンバルディア人』は1843年何月に上演されたの?", + "id": "tr-659-07-002", + "answers": [ + { + "text": "2月", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ローマ用に制作したジョージ・ゴードン・バイロン原作の『二人のフォスカリ』(1844年11月)、ジャンヌ・ダルクが主役のフリードリヒ・フォン・シラー作の戯曲から『ジョヴァンナ・ダルコ』(1845年2月)、20日程度で書き上げた『アルツィーラ』(8月)が立て続けに上演され、どれも相応の評価を受けた。しかしヴェルディはリウマチに苦しみ、連作の疲れに疲弊しつつあった。続く『アッティラ』では男性的な筋からソレーラに台本を依頼するも仕事が遅い上に途中でスペイン旅行に出掛ける始末でヴェルディを苛つかせた。ついにピアーヴェに仕上げさせるとソレーラとは袂を分けた。1846年3月の封切でも好評を博したが、過労が顕著になり医者からは休養を取るようにと助言された。1846年春から、ヴェルディは完全に仕事から離れて数ヶ月の休養を取った。そして、ゆっくりと『マクベス』の構想を練った。ウィリアム・シェイクスピアの同名戯曲を題材に、台本を制作するピアーヴェには何度も注文をつけた。時代考証のために何度もロンドンへ問い合わせ、劇場をフィレンツェのベルゴラ劇場に決めると前例の無い衣裳リハーサルまで行なわせた。特筆すべきは、出演者へ「作曲家ではなく詩人に従うこと」と繰り返し指示した点があり、そのために予定された容姿端麗のソプラノ歌手を断りもした。ここからヴェルディは音楽と演劇の融合を強く意識して『マクベス』制作に臨んだことが窺える。さらにはゲネプロ中に最も重要と考えた二重唱部分の稽古をさせるなど、妥協を許さぬ徹底ぶりを見せた。1847年3月、初演でヴェルディは38回カーテンコールに立ち、その出来映えに観客は驚きを隠さなかった。ただし評価一辺倒ではなく、華麗さばかりに慣れた人々にとって突きつけられた悲劇的テーマの重さゆえに戸惑いの声も上がった。本作の価値が正しく評価されるには20世紀後半まで待たされた。", + "qas": [ + { + "question": "『二人のフォスカリ』の原作者は誰ですか。", + "id": "tr-659-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ジョージ・ゴードン・バイロン", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『二人のフォスカリ』と『ジョヴァンナ・ダルコ』とより先に上演されたのはどっち?", + "id": "tr-659-08-001", + "answers": [ + { + "text": "『二人のフォスカ���』", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『ジョヴァンナ・ダルコ』と『アルツィーラ』と上演がもっとはやかったのはどっち?", + "id": "tr-659-08-002", + "answers": [ + { + "text": "『アルツィーラ』", + "answer_start": 112, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "次の作品『群盗』は初めてイギリス公演向けに書かれた。ヴェルディはスイス経由でパリに入り、弟子のエマヌエル・ムツィオをロンドンへ先乗りさせ、引退して当地に移り住んでいたジュゼッピーナ・ストレッポーニと久しぶりに会った。準備状況を知るとヴェルディもロイヤル・オペラ・ハウスに入り最後の詰めを行って、『群盗』は1847年7月にヴィクトリア女王も観劇する中で開演された。観客は喝采したが評論家には厳しい意見もあり、騒がしい、纏まりが無いという評もあった。これらは台本の弱さや歌手への配慮などが影響した点を突いていたが、『群盗』には後にヴェルディが得意とする低域男性二重唱や美しい旋律もあり、概して彼の国際的名声を高めた。帰路、ヴェルディはパリに止まってオペラ座の依頼を受けた。しかし完全な新作を用意する余裕は無く、『十字軍のロンバルディア人』をフランス語に改訂した『イェルサレム』を制作した。そしてこの期間、頻繁にジュゼッピーナと逢い、やがて一緒に住むようになった。11月に公演された『イェルサレム』の評判はいまひとつで終わったが、彼は理由をつけてパリに留まり、バレッツィを招待さえした。1848年2月には契約で制作した『海賊』をミラノのムツィオに送りつけ、彼はジュゼッピーナとの時間を楽しんでいた。そして二月革命の目撃者となったが、気楽な外国人の立場でそれを楽しんでさえいた。", + "qas": [ + { + "question": "『群盗』はどこで公演することを目的に書かれましたか。", + "id": "tr-659-09-000", + "answers": [ + { + "text": "イギリス", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『イェルサレム』は何をフランス語に改訂したものですか。", + "id": "tr-659-09-001", + "answers": [ + { + "text": "『十字軍のロンバルディア人』", + "answer_start": 353, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1859年8月29日、ヴェルディとジュゼッピーナはサヴォアのコロンジュ・スー・サレーヴで結婚式を挙げた。45歳の新郎と43歳の新婦は、馬車の御者と教会の鐘楼守だけしか参列しない簡単で質素な式を挙げた。夫妻は平穏な生活を送ったが、イタリアは第二次独立戦争でオーストリアに勝利し、この知らせにはヴェルディも喜んだ。だがそれはすぐに失望へ変わった。同じくオーストリアと対立しイタリアを支援したナポレオン3世が秘かにオーストリアと通じヴィッラフランカの講和に踏み切った。エマヌエーレ2世はしぶしぶこれを呑み、宰相カミッロ・カヴールは辞任した。しかし、各公国の領主層はことごとく亡命し、民衆による暫定政府が立ち上げられていた。パルマ公国もモデナと合併されて議会が開かれることになり、ブッセート市の当局は地域の代表をヴェルディに打診した。政治家の資質などないと自覚していたが、彼はイタリアのためとこれを受けた。9月7日に開かれたパルマ議会はサルデーニャ王国との合併を決議し、ヴェルディはパルマの代表として王国首都のトリノでエマヌエーレ2世に謁見した。さらに彼は郊外で隠棲し農業をしていたカヴールと会い、音楽から身を引いた農夫として政治から身を引いた農夫と話し合った。", + "qas": [ + { + "question": "ヴェルディとジュゼッピーナはいつ結婚式を挙げたか。", + "id": "tr-659-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1859年8月29日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヴェルディはジュゼッピーナと結婚式を挙げた時、何歳でしたか。", + "id": "tr-659-10-001", + "answers": [ + { + "text": "45歳", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ジュゼッピーナはヴェルディと結婚式を挙げた時、何歳でしたか。", + "id": "tr-659-10-002", + "answers": [ + { + "text": "43歳", + "answer_start": 59, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ジュゼッピーナとヴェルディと誰がもっと年上なの?", + "id": "tr-659-10-003", + "answers": [ + { + "text": "ヴェルディ", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "『アイーダ』はヴェルディの集大成と言える作品である。コンチェルタートは力強く明瞭な旋律で仕上げ、各楽器の音色を最大限に生かした上、「凱旋行進曲」用に長いバルブを持つ特製のアイーダ・トランペットを開発した。長年目指した曲と劇との融合では、「歌」を演劇の大きな構成要素に仕立て、アリア、シェーナ、レチタティーヴォなど旧来のどのような形式にも当てはまらず、劇全体を繋ぐ独唱・合唱を実現した。パリの経験を上手く消化し、バレエも効果的に挿入された。さらに『椿姫』以来となる女性を主役としたあらすじは、以前のほとんどの作品にあった悲劇的な死ではない官能的な生との別れで終え、観客を強く魅了した。『アイーダ』と改訂版『ドン・カルロ』はイタリアから世界各地で上演され、どれも好評を得た。ヴェルディはナポリの初演に立ち会うが、その傍らには妻ジュゼッピーナだけでなくシュトルツも付き添い、新聞のゴシップネタとなった。これに対しヴェルディは沈黙し、ジュゼッピーナは悩みつつも醜聞が、既にマリアーニとの婚約を解消していたシュトルツの耳に入らないよう気を配った。", + "qas": [ + { + "question": "ヴェルディの集大成と言える作品は何ですか。", + "id": "tr-659-11-000", + "answers": [ + { + "text": "『アイーダ』", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『アイーダ』は誰の作品なの?", + "id": "tr-659-11-001", + "answers": [ + { + "text": "ヴェルディ", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1887年2月、ヴェルディ16年ぶりの新作オペラ『オテロ』初演にスカラ座は、期待以上の出来映えに沸き立った。チェロ演奏を担当していた若きアルトゥーロ・トスカニーニは実家のパルマに戻っても興奮が冷めやらず、母親をたたき起こして素晴らしさを叫んだという。『リゴレット』を越える嵐の表現で開幕し、各登場人物を明瞭に描き出し、彼が追求した劇と曲の切れ目ない融合はさらに高く纏められた。かつての美しい旋律が無くなったとの評もあるが、『オテロ』にてヴェルディはそのような事に拘らず、完成度の高い劇作を現実のものとした。", + "qas": [ + { + "question": "『オテロ』はヴェルディの何年ぶりの新作ですか。", + "id": "tr-659-12-000", + "answers": [ + { + "text": "16年", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オペラ『オテロ』は誰の作品ですか。", + "id": "tr-659-12-001", + "answers": [ + { + "text": "ヴェルディ", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "だが1898年秋、ヴェルディは伴侶ジュゼッピーナを肺炎で失った。いまわの際、彼女は彼が手に持つ好きなスミレを目にしながら息を引き取った。ヴェルディは目に見えて落胆し、娘マリアやボーイト、そしてシュトルツが付き添った。しばらくして少し回復し、恒例のヴェネツィアへも出掛けたが、彼自身は自らの老いを感じ取っており、1900年4月頃には遺書を用意した。1901��同年末、娘マリアと一緒にミラノでクリスマスを過ごし、定宿となっていたグランドホテル・エ・デ・ミランで年を越していた。1月20日の朝、起きぬけのヴェルディは脳血管障害を起こして倒れ、意識を失った。多くの知人に連絡が届き、シュトルツ、リコリディ、ボーイトらが駆けつけた。王族や政治家や彼のファンなどから見舞いの手紙が届き、ホテル前の通りには騒音防止に藁が敷き詰められた。しかし、1901年1月27日午前2時45分頃、偉大な作曲家兼農家の男は息を引き取った。", + "qas": [ + { + "question": "ジュゼッピーナはいつ亡くなったか。", + "id": "tr-659-13-000", + "answers": [ + { + "text": "1898年秋", + "answer_start": 2, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ジュゼッピーナが亡くなった原因は何ですか。", + "id": "tr-659-13-001", + "answers": [ + { + "text": "肺炎", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヴェルディはいつ亡くなったか。", + "id": "tr-659-13-002", + "answers": [ + { + "text": "1901年1月27日午前2時45分頃", + "answer_start": 365, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ジュゼッピーナが亡くなったときの季節は?", + "id": "tr-659-13-003", + "answers": [ + { + "text": "秋", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "2期の始まりとなる『マクベス』は、怪奇性が全体を占め、主人公のマクベス夫妻の欲望と悲劇が筋となる台本であった。ヴェルディはこの特異性を最大限に生かした細かな心理描写を重視し、ベルカントを否定してレチタティーヴォを中心に据えるなど合唱がこの雰囲気を壊さないことに心を砕いた。当時のオペラには演出家はおらず、ヴェルディは『マクベス』で150回を越えるリハーサルを行い、シェイクスピアを表現するという総合芸術を目指した。『群盗』は主役のジェニー・リンドを立てることに重点が置かれ、気が進まないまま制作した『海賊』は従来からの傾向が強かった。『レニャーノの戦い』は時局に追随する愛国路線の最後の作品として、それぞれ進歩性は鳴りを潜めた。しかし、『ルイザ・ミラー』や『スティッフェーリオ』からは人物の心理を書き表す方向性が再び示され始めた作品で、最初は観客から理解を得られなかった。しかし『リゴレット』では醜いせむし男を含む主要な4人物それぞれの特徴を四重唱で対比させ、劇進行を創り上げた。この傾向は動的な『イル・トロヴァトーレ』主役の復讐に燃えるジプシー女、静的な『椿姫』主役の高級娼婦の悲哀と死を表現する劇作において、より顕著なものとなった。『リゴレット』『イル・トロヴァトーレ』『椿姫』は単純な善悪の対立ではなく、複雑な人間性を音楽と融合させて描き出した中期の三大傑作となった。", + "qas": [ + { + "question": "『マクベス』の主人公は誰なの?", + "id": "tr-659-14-000", + "answers": [ + { + "text": "マクベス夫妻", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヴェルディは『マクベス』で何回を越えるリハーサルを行ったか。", + "id": "tr-659-14-001", + "answers": [ + { + "text": "150回", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "16年の空白を経て発表された新作『オテロ』と最後の作『ファルスタッフ』は、それぞれに独特な作品となったが、いずれも才能豊かなアッリーゴ・ボーイトの手腕と、結果的に完成することはなかったが長年『リア王』を温めていたヴェルディのシェイクスピアに対する熱意が傑作の原動力となった。『オテロ』は長く目指した音楽と演劇の融合の頂点にある作品で、同時にワーグナーから発達したドイツ音楽が提示する理論(シンフォニズム)に対するイタリア側からの回答となった。演技に対するこだわりも強く、作曲家という範囲を超えて主人公オテロが短刀で自殺するシーンをヴェルディは演技指導し、実演して舞台に転がり倒れこんだ際には皆が驚きの余り駆け寄ったという。『ファルスタッフ』はヴェルディのすべてを投入した感がある。作風はバッハ、モーツァルト、ベートーベンそしてロッシーニら先人たちの要素を注ぎこみ、形式にこだわらず自由で気ままな作品に仕上げた。そして、自由人ファルスタッフにヴェルディは自身を表現した。過去の作品も経験した苦難や孤独の自己投影という側面もあったが、ファルスタッフに対しては若い頃から他者からの束縛を嫌った自分、富と名声を手にして人生を達観した自分を仮託した。『ファルスタッフ』が完成した時、ヴェルディは「行け、お前の道を行けるところまで。永久に誇り高き愉快なる小悪党、さらば!」と記した。", + "qas": [ + { + "question": "『オテロ』は何年の空白を経て発表されましたか。", + "id": "tr-659-15-000", + "answers": [ + { + "text": "16年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "音楽の歴史には、ある神話が永く存在した。それは『ナブッコ』第3幕のコーラス曲「行け、我が想いよ(Va,pensiero)」が、オーストリアが支配力を及ぼしたイタリア国土に含まれていたミラノを歌ったものという話であり、観客は追放される奴隷の悲嘆に触れて国家主義的熱狂にかられ、当時の政府から厳しく禁止されていたアンコールを求め、このような行動は非常に意味深いものだったという。「行け、我が想いよ」は第2のイタリア国歌とまで言われる。しかし近年の研究はその立場を取っていない。アンコールは事実としても、これは「行け、我が想いよ」ではなく、ヘブライ人奴隷が同胞の救いを神に感謝し歌う「賛美歌(ImmensoJehova)」を求めたとしている。このような新しい観点が提示され、ヴェルディをイタリア統一運動の中で音楽を通して先導したという見方は強調されなくなった。", + "qas": [ + { + "question": "『ナブッコ』第3幕のコーラス曲は何?", + "id": "tr-659-16-000", + "answers": [ + { + "text": "「行け、我が想いよ(Va,pensiero)」", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "後年、ヴェルディは「国民の父」と呼ばれた。しかしこれは、彼のオペラが国威を発揚させたためではなく、キリスト教の倫理や理性では御せないイタリア人の情を表現したためと解釈される。また、サルデーニャ王国によるリソルジメントが進む中で、彼の名前Verdiの綴りが“VittorioEmanueleRed’Italia”(イタリア国王ヴィットーリオ=エヌマエーレ)の略号にもなっていたのも関係している。ヴェルディは1861年に国会議員となるが、これはカヴールの要請によるもので、文化行政に取り組んだ時期もあったが、カヴールが亡くなると興味を失った。1874年には上院議員となるも、政治に関わることはなかった。", + "qas": [ + { + "question": "ヴェルディは何年に国会議員となるか。", + "id": "tr-659-17-000", + "answers": [ + { + "text": "1861年", + "answer_start": 202, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヴェルディは何年に上院議員になりますか。", + "id": "tr-659-17-001", + "answers": [ + { + "text": "1874年", + "answer_start": 269, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "一方でボーイトは、ヴェルディの才能は枯渇していないことを見抜いていた。しかし一筋縄ではいかないと、ヴェルディの心残りを突く事にした。散々な評価で終わった『一日だけの王様』以来、ヴェルディが喜劇に手を染めたことは無かった。ボーイトはシェイクスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』を下敷きに一冊のノートを書き、ヴェルディに示した。そして魅力的な数々の言葉を投げた。「悲劇は苦しいが、喜劇は人を元気にする」「華やかにキャリアを締めくくるのです」「笑いで、すべてがひっくり返ります」と。ヴェルディは乗った。二人は秘密裏に制作を行った。ヴェルディが新作オペラに取り組んだことが知れると興行主たちが黙っていない上、既に老齢の彼には自信が無かった。親しい友人の訃報も、彼の気力を萎えさせた。しかし、ボーイトが提案した台本は面白く、シェイクスピアを楽曲に訳す作業や主人公の太っちょに息吹を吹き込むことは心底楽しめた。途中、リコリディにばれてしまったが、1年半をかけて『ファルスタッフ』は仕上がった。次はスカラ座に場所を移し、ヴェルディはリハーサルにかかった。主演には『シモン・ボッカネルラ』改訂版や『オテロ』を演じた実績を持つヴィクトル・モレル(英語版)が努めることになった。ヴェルディは相変わらず完璧を求め、7-8時間のリハーサルも行われた。", + "qas": [ + { + "question": "『一日だけの王様』は誰の作品ですか。", + "id": "tr-659-18-000", + "answers": [ + { + "text": "ヴェルディ", + "answer_start": 88, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『一日だけの王様』は喜劇なの、悲劇なの?", + "id": "tr-659-18-001", + "answers": [ + { + "text": "喜劇", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "そして1893年2月、79歳になったヴェルディの新作『ファルスタッフ』は開幕した。彼が目指した劇と曲の融合は喜劇においても健在で、むしろ圧倒するよりも機微に富んだ雰囲気を帯びて繊細さが増した。アンサンブルは多種多様で、対位法も2幕のコンチェルタートで複雑なポリフォニーを実現した。最後には喜劇に似つかわしくないフーガをあえて用いながら、モレル演じる太鼓腹の主人公に「最後に笑えばいいのさ」と陽気に締めくくらせた。", + "qas": [ + { + "question": "ヴェルディは新作『ファルスタッフ』が開幕したとき、何歳でしたか。", + "id": "tr-659-19-000", + "answers": [ + { + "text": "79歳", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『ファルスタッフ』はいつ開幕したか。", + "id": "tr-659-19-001", + "answers": [ + { + "text": "1893年2月", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1893年、ヴェルディは何歳でしたか。", + "id": "tr-659-19-002", + "answers": [ + { + "text": "79歳", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "南オセチア紛争(2008年)", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "2008年の南オセチア紛争(みなみオセチアふんそう、SouthOssetiaWar)、別名ロシア・グルジア戦争(Russian-GeorgianWar)は、ジョージア(グルジア)とロシア連邦間の戦争である。ロシア側には分離派の南オセチアやアブハジアも参戦した。21世紀最初のヨーロッパの戦争とされる。2008年8月に始まり、陸戦、航空戦、海戦の全てが行われた。別名8月戦争(AugustWar)とも呼ばれる。", + "qas": [ + { + "question": "この文書で紹介している南オセチア紛争は何年に起こった戦争なの?", + "id": "tr-660-00-000", + "answers": [ + { + "text": "2008年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この文書で紹介している南オセチア紛争の別称には、ロシア・グルジア戦争と何がありますか?", + "id": "tr-660-00-001", + "answers": [ + { + "text": "8月戦争", + "answer_start": 182, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "8月戦争は、ジョージアとどの連邦の間で行われた戦争であるか?", + "id": "tr-660-00-002", + "answers": [ + { + "text": "ロシア連邦", + "answer_start": 90, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "21世紀最初のヨーロッパの戦争は、何年に行われたか?", + "id": "tr-660-00-003", + "answers": [ + { + "text": "2008年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "かつての1991年から1992年にかけての南オセチア紛争(1991–1992SouthOssetiaWar)は、グルジア人とオセット人(オセチア人)との間に起こったものであり、ジョージア国内の非政府支配地域である南オセチアをロシアに帰属させるかどうかが争われたものであった。この戦争後も、南オセチア内にはグルジアの支配下にある地区があり、グルジア系住民も残った。同じジョージア領内のアブハジアも似たような状況だった(アブハジア紛争(WarinAbkhazia(1992–1993)))。そのような背景があり、2008年の夏には関係地域でかなりの緊張が高まっていた。", + "qas": [ + { + "question": "この文書で紹介している南オセチア紛争は何年から何年にかけて行われたものなの?", + "id": "tr-660-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1991年から1992年", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1991年から1992年にかけての南オセチア紛争は、グルジア人とどのような人々との間で行われたものでありますか?", + "id": "tr-660-01-001", + "answers": [ + { + "text": "オセット人", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1991年から1992年にかけて行われた南オセチア紛争では、どこの帰属問題を巡って争ったか?", + "id": "tr-660-01-002", + "answers": [ + { + "text": "南オセチア", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この文書では、南オセチアを何と表現しているか?", + "id": "tr-660-01-003", + "answers": [ + { + "text": "ジョージア国内の非政府支配地域", + "answer_start": 88, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2008年8月7日の午後、グルジア軍は南オセチア地区の首都ツヒンヴァリに陸軍、空軍を投入して大規模な軍事攻撃を行った。グルジア軍の主張によれば、先に軍事行動を起こしたのはロシア軍である。ジョージアの行動は関係各国の一部から支持を受けたが、ジョージアの首都トビリシの関連行事などで表明されたグルジアの主張は必ずしも信じがたい。ロシアはグルジア軍の動きを受けて南オセチアに軍を差し向け、グルジア領内への爆撃を開始した。コーカサス研究の廣瀬陽子によれば、ジョージアが主張した「ロシアから挑発があったから攻撃した」という主張は正当性があるとしている。", + "qas": [ + { + "question": "グルジア軍がツヒンヴァリに対し、大規模な軍事攻撃を行ったのは、いつのことなの?", + "id": "tr-660-02-000", + "answers": [ + { + "text": "2008年8月7日の午後", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2008年8月7日のグルジア軍の攻撃ターゲットは、どこでしたか?", + "id": "tr-660-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ツヒンヴァリ", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ツヒンヴァリは、どの地区の首都であるか?", + "id": "tr-660-02-002", + "answers": [ + { + "text": "南オセチア地区", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "グルジア軍の主張によると、どの国の軍がより先にツヒンヴァリに対する軍事行動を開始したか?", + "id": "tr-660-02-003", + "answers": [ + { + "text": "ロシア", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "この戦闘開始時、ロシアのメドヴェージェフ大統領は休暇中、プーチン首相は2008年北京オリンピックの開会式に出席しており不在であった。グルジア軍はこの隙を突いて攻撃したとも言われている。ともに出席していたブッシュ米大統領や五輪開催国の中国の胡錦濤国家主席と協議したロシアのプーチン首相は帰国後、厳しく米国を批判した。", + "qas": [ + { + "question": "この文書で言及した戦争とは、何年に行われたと予測できるの?", + "id": "tr-660-03-000", + "answers": [ + { + "text": "2008年", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "2008年の時点でロシアの大統領は、誰でしたか?", + "id": "tr-660-03-001", + "answers": [ + { + "text": "メドヴェージェフ", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "2008年の時点でロシアの首相は、誰だったか?", + "id": "tr-660-03-002", + "answers": [ + { + "text": "プーチン", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "2008年には、どこでオリンピックが行われたか?", + "id": "tr-660-03-003", + "answers": [ + { + "text": "北京", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "翌8月8日、ロシア海軍はグルジア沿岸を封鎖し、陸兵を展開し、パラシュート部隊も投入した。ロシア軍とそれに同調するアブハジア軍は事実上の国境であるコドリ渓谷を越えてグルジア西部に進入した(BattleoftheKodoriValley)。この後5日間は激しい戦闘が行われ、グルジア軍は南オセチア及びアブハジアから撤退した。ロシア軍は追撃の手を緩めず、これまでグルジアが支配していたポティやゴリといった都市を占領した。", + "qas": [ + { + "question": "ロシア海軍がグルジア沿岸を封鎖したのは、何月何日のことなの?", + "id": "tr-660-04-000", + "answers": [ + { + "text": "8月8日", + "answer_start": 1, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "8月8日、ロシアは、海軍と陸兵とともに、どの部隊を動員しましたか?", + "id": "tr-660-04-001", + "answers": [ + { + "text": "パラシュート部隊", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ロシア軍とともにグルジアに侵攻したのは、どの軍か?", + "id": "tr-660-04-002", + "answers": [ + { + "text": "アブハジア軍", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アブハジアとグルジアの実質的な国境はどこだったか?", + "id": "tr-660-04-003", + "answers": [ + { + "text": "コドリ渓谷", + "answer_start": 72, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "当時欧州連合理事会議長国であったフランスの仲介で8月12日に休戦提案が行われ、8月15日にはグルジアがトビリシで、8月16日にはロシアがモスクワで署名に応じた。8月12日にはロシアのメドヴェージェフ大統領から、ロシア軍のグルジア領内での軍事活動に対する停止命令が出ていたが、そのときは実際の戦闘は停止していなかった。ロシア側の停戦受け入れ後、ロシア軍はグルジア領内からの撤退を開始した。ただし完全なものではなく、アブハジアや南オセチアに接するグルジア領内のポティ、セナキ(Senaki)、ペレヴィ(Perevi)に「軍事中立地帯」と称して軍を残した。2008年8月26日、ロシアは国際的にはグルジア領とさ��ている南オセチアとアブハジアの独立を承認した。10月8日、ロシア軍は国際合意を受けてグルジア領内から完全に撤退した。", + "qas": [ + { + "question": "当時欧州連合理事会議長国であったのは、どの国だったの?", + "id": "tr-660-05-000", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "グルジアとロシアの両国に休戦を提案したのは、どの国ですか?", + "id": "tr-660-05-001", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "グルジアとロシアのうち、休戦提案をより早く受け入れたのは、どちらか?", + "id": "tr-660-05-002", + "answers": [ + { + "text": "グルジア", + "answer_start": 46, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "フランスがグルジアとロシアに休戦を提案したのは、いつのことか?", + "id": "tr-660-05-003", + "answers": [ + { + "text": "8月12日", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ロシアは、この戦争前にグルジア軍が支配していた地域を含めたアブハジアと南オセチア領内に、同政府の合意の下、軍を残した。グルジアは2008年8月28日、これを「ロシア軍占領地域」と呼んでいる。この戦争後もグルジアとロシアの間では、軍事的緊張が続いている。2009年2月23日には、ロシア政府の批判者ならびに軍事アナリストであるパーウェル・フェルゲンハウアーが、南オセチアに作られたロシア軍の基地からミヘイル・サアカシュヴィリ政権を倒すためにロシアがグルジアに侵攻する予定であると主張した。", + "qas": [ + { + "question": "グルジアは、ロシア軍が駐屯していたアブハジアと南オセチア領内を何と表現したの?", + "id": "tr-660-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ロシア軍占領地域", + "answer_start": 79, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "グルジアがアブハジアと南オセチア領内をロシア軍占領地域と表現したのは、いつのことですか?", + "id": "tr-660-06-001", + "answers": [ + { + "text": "2008年8月28日", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "グルジアは、アブハジアとどこを「ロシア軍占領地域」と表現したか?", + "id": "tr-660-06-002", + "answers": [ + { + "text": "南オセチア領内", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "パーウェル・フェルゲンハウアーが、ロシアはグルジアに侵攻する意向を持っていると主張したのは、いつのことか?", + "id": "tr-660-06-003", + "answers": [ + { + "text": "2009年2月23日", + "answer_start": 126, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "このあたりは19世紀初頭から徐々にロシア帝国に併合されていき、19世紀の終わりには完全にロシアの支配下に入った。そのロシアが1917年に滅びたのを受け、グルジアは1918年に一時的にロシアからの独立を果たすものの、1922年にはロシア帝国の後を継いだソビエト連邦に再び併合された。その際に南オセチアはグルジア社会主義共和国内の自治州となり、北オセチアはロシア・ソビエト社会主義連邦共和国内の自治州となった。", + "qas": [ + { + "question": "グルジアが一時的にでもロシアから独立したのは、いつのことなの?", + "id": "tr-660-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1918年", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "グルジア��一時的な独立が終わり、ソビエト連邦に併合されたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-660-07-001", + "answers": [ + { + "text": "1922年", + "answer_start": 107, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ロシア帝国が滅び、その領域を支配したのは、どの勢力か?", + "id": "tr-660-07-002", + "answers": [ + { + "text": "ソビエト連邦", + "answer_start": 125, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ロシア帝国が滅びたのは、何年のことか?", + "id": "tr-660-07-003", + "answers": [ + { + "text": "1917年", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1985年にミハイル・ゴルバチョフがソ連の指導者となって以降、ソ連からの独立を宣言する地域が続出し、南オセチア議会も1989年に独立を宣言する。グルジアはそれに異議を唱えて1991年1月に南オセチアに軍を送って戦争となった。この戦争での死者は2000人以上と見られている。戦争中は両軍によって数々の残虐行為が行われた。グルジアあるいは南オセチア内の住居を追われたオセット人は10万人に達し、一方で2万3千人のグルジア人が南オセチアに留まった。その結果、戦後の南オセチア人口は7万人に減り、グルジア人の割合は5分の1に上がった。グルジアは戦争中の1991年4月にソ連からの独立を宣言し、12月にソ連解体が決まったため正式に独立国となった。1992年に停戦が合意され、南オセチアの中心都市ツヒンヴァリの周りに「グルジア・オセチア間紛争解決合同調整委員会」(JointControlCommissionforGeorgian-OssetianConflictResolution)の管理下で、ロシア、グルジア、南オセチア3者による平和維持軍が置かれ、南オセチアは事実上独立状態になった。", + "qas": [ + { + "question": "ミハイル・ゴルバチョフがソ連の実権を握ったのは、何年のことなの?", + "id": "tr-660-08-000", + "answers": [ + { + "text": "1985年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "南オセチア議会が独立を宣言したのは、何年のことですか?", + "id": "tr-660-08-001", + "answers": [ + { + "text": "1989年", + "answer_start": 58, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "南オセチア議会の独立宣言は、誰がソ連の指導者の座についた時に行われたことか?", + "id": "tr-660-08-002", + "answers": [ + { + "text": "ミハイル・ゴルバチョフ", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "グルジアの南オセチア侵攻は、いつ行われたか?", + "id": "tr-660-08-003", + "answers": [ + { + "text": "1991年1月", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2003年11月、いわゆる「バラ革命」と呼ばれる政変でグルジアのシェワルナゼ大統領が失脚し、野党が政権を奪取した。代わって翌年1月にアメリカ合衆国と関係の深いミヘイル・サアカシュヴィリが大統領に就くと、彼は治安と軍事を含めた国内の支配力強化に乗り出した。", + "qas": [ + { + "question": "バラ革命が起こったのは、いつのことなの?", + "id": "tr-660-09-000", + "answers": [ + { + "text": "2003年11月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "グルジアのシェワルナゼ大統領がその座から降りてきたのは、何の事件によることですか?", + "id": "tr-660-09-001", + "answers": [ + { + "text": "バラ革命", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "2004���にグルジアの大統領についたのは、誰か?", + "id": "tr-660-09-002", + "answers": [ + { + "text": "ミヘイル・サアカシュヴィリ", + "answer_start": 79, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ミヘイル・サアカシュヴィリは、特にどの国との関係が深い人物だったか?", + "id": "tr-660-09-003", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ合衆国", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "一方で南オセチアでは2006年、独立に関する国民投票(SouthOssetianindependencereferendum)が行われ、完全独立に賛成する投票が99%に上った。同時期、南オセチアで少数民族となるグルジア人らも彼らだけの住民投票を行い、こちらはグルジアへの残留が確認された。グルジア政府はロシア政府に対し「南オセチアにエドゥアルド・ココイトゥイによる傀儡政権を立て、そこを国家として承認し、ロシア連邦保安庁とロシア陸軍を入れる行為は事実上の併合だ」と非難している。2007年にはグルジアは国内総生産(GDP)の6%を軍事費に回している。この短期間での軍事費上昇率は世界でも稀である。", + "qas": [ + { + "question": "南オセチアで独立に関する国民投票が行われたのは、何年のことなの?", + "id": "tr-660-10-000", + "answers": [ + { + "text": "2006年", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "南オセチアの完全独立に対する国民投票では、何の意見が最も多かったか?", + "id": "tr-660-10-001", + "answers": [ + { + "text": "賛成", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ロシア政府に対し非難の声を上げたのは、どの政府か?", + "id": "tr-660-10-002", + "answers": [ + { + "text": "グルジア政府", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "2007年の時点でグルジアの軍事費は、国内総生産の何%を占めていたか?", + "id": "tr-660-10-003", + "answers": [ + { + "text": "6%", + "answer_start": 262, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2008年5月にロシア連邦大統領となったドミートリー・メドヴェージェフは「ロシア市民が存在する限り、その生活と尊厳を守る」と宣言している。南オセチアではロシア人の人口比率が低いにも関わらず(1989年の時点でオセット人60%、グルジア人20%、アルメニア人10%、ロシア人5%)、南オセット人の8分の7はロシアのパスポートを所有している。ロイターは「南オセット人の3分の2はロシアで収入を得ており、ロシアがなければ生活が立ち行かない。特にロシアの大ガス会社ガスプロムの新ガスパイプライン建設により、南オセチアは数百万ドルの金とエネルギー供給を受けている」と報じている。", + "qas": [ + { + "question": "ドミートリー・メドヴェージェフがロシア連邦大統領についたのは、いつのことなの?", + "id": "tr-660-11-000", + "answers": [ + { + "text": "2008年5月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1989年の時点の南オセチアの人口比率では、どのような人々が最も大きい割合を占めていましたか?", + "id": "tr-660-11-001", + "answers": [ + { + "text": "オセット人", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1989年の時点で南オセチアに住んでいた人々のうち、その数が最も少なかったのは、どのような人々か?", + "id": "tr-660-11-002", + "answers": [ + { + "text": "ロシア人", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "2008年の4月中旬、ロシア外務省は、ウラジーミル・プーチン首相の談話として、ロシア政府はアブハジアと南オセチアに対し、他のロシア連邦の地方区分と同様の経済、外交、行政関係を結びたいと発表した。ロシアはそれらのグルジアで分離独立運動が盛んな地域との結びつきを強めようとしたが、それらの地域はアメリカ合衆国とも繋がりが深く、アメリカはグルジア軍に対して鉄道や装備の援助を行った。グルジアには石油やガスの備蓄が乏しかったため、この援助によってグルジアは西側諸国からの物資供給を受けるのが容易になった。アメリカにとっては、2005年に完成したアゼルバイジャンとトルコを結ぶバクー・トビリシ・ジェイハンパイプラインが、ロシアやイランを経由せずに中東の石油を得るための重要な手段であったため、その中継地であるグルジアの援助は非常に重要であった。", + "qas": [ + { + "question": "ロシアが結びつきを強めたがっていた地域は、どの国とのつながりが深かったの?", + "id": "tr-660-12-000", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ", + "answer_start": 145, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アメリカがグルジア軍に対して行った援助とは、何と装備の援助でしたか?", + "id": "tr-660-12-001", + "answers": [ + { + "text": "鉄道", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バクー・トビリシ・ジェイハンパイプラインが完成したのは、何年のことか?", + "id": "tr-660-12-002", + "answers": [ + { + "text": "2005年", + "answer_start": 258, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "地球の秘密", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "『地球の秘密』(ちきゅうのひみつ)は、島根県簸川郡斐川町(後の出雲市)の12歳の少女・坪田愛華(つぼたあいか)による漫画。\n英題は『SecretsofTheEarth』。\n環境問題をテーマとし、地球の自然の構造、公害などによる自然破壊、人々が自然を守るために行うべき環境運動などを取り上げた作品である。\n作者が満12歳で死去した後、作者の両親や斐川町により増刷され、新聞報道などで全国的な話題を呼んだ。\nさらに日本国外に紹介され、国際連合環境計画のグローバル500賞を、子供として初めて受賞した。\n小学校の学習課題で作られた漫画だが、2004年(平成16年)に出版文化社より市販されている。\n日本国外でも英語版を始めとして11か国語に翻訳され、世界中の子供たちに読まれている。", + "qas": [ + { + "question": "『地球の秘密』の作者は誰?", + "id": "tr-661-00-000", + "answers": [ + { + "text": "坪田愛華", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『地球の秘密』の作品ジャンルは何?", + "id": "tr-661-00-001", + "answers": [ + { + "text": "漫画", + "answer_start": 58, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "坪田愛華は何歳で亡くなったの?", + "id": "tr-661-00-002", + "answers": [ + { + "text": "12歳", + "answer_start": 156, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『SecretsofTheEarth』の日本語での題名は何?", + "id": "tr-661-00-003", + "answers": [ + { + "text": "『地球の秘密』", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "自然の中に循環している生命には、無駄な物は一切存在せず、皆が支え合っているという概念のもとに、生物などが環境に果たす役割の重要性を訴えられている。\n海洋汚染、酸性雨、オゾン層の破壊などの仕組みもわかりやすく解説されている。\n作者が、本作の製作時期である1991年に勃発した湾岸戦争に関心を抱��ていたことから、湾岸戦争による環境破壊も取り上げられている。\nさらに主人公の少年少女が環境保護に目覚める物語となっており、今後の地球の未来を守るための人間の心の在り方に至るまで、物語は広がっている。\n登場人物には、かわいらしく、親しみの持てるキャラクターが使われており、また要所要所に図を入れるなど、小さな子供でもわかりやすいよう、工夫されている。", + "qas": [ + { + "question": "作者が関心を抱き、漫画にも取り入れた戦争とは何?", + "id": "tr-661-01-000", + "answers": [ + { + "text": "湾岸戦争", + "answer_start": 136, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1991年(平成3年)。\n斐川町の町立西野小学校では、6年生の国語において環境問題の調査を生徒たちの課題にもうけ、調査結果のまとめ方は各自の自由とした。\n生徒たちが思い思いの方法で資料をまとめる中、当時の生徒の1人である坪田愛華は、漫画を描くことが得意であったことや、小学1年生にも理解してもらえるようにとの意図から、低学年向けの環境漫画の執筆を考案し、同年10月より執筆を開始した。\n図書館でも熱心に調査し、友達からの遊びの誘いも断り、いつも夜遅くまでかけて描き続けた。\n表紙だけでも3回も描き直した。", + "qas": [ + { + "question": "坪田愛華が漫画の執筆を始めた年はいつでしたか?", + "id": "tr-661-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1991年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "坪田愛華が通っていた小学校の名前は?", + "id": "tr-661-02-001", + "answers": [ + { + "text": "町立西野小学校", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "漫画を執筆した時の愛華は何年生だったの?", + "id": "tr-661-02-002", + "answers": [ + { + "text": "6年生", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "両親の談によれば、愛華は10歳のときにすでに地球に対して強い関心を抱き、この年の1月には、湾岸戦争の激化によりイラクの遺跡が破壊されることを危惧し、同戦争で原油にまみれた水鳥の姿にショックを受けていたという。\n修学旅行で被爆地である広島県へ行き、平和について学んだことも背景にあった。\n約2か月間を費やした執筆の末に、2学期の終業式当日である同1991年12月25日、『地球の秘密』と題した漫画がほぼ完成し、あとは彩色しての仕上げを残すのみの状態であった。", + "qas": [ + { + "question": "愛華が修学旅行で訪れた県とは?", + "id": "tr-661-03-000", + "answers": [ + { + "text": "広島県", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "漫画執筆にかかった期間は?", + "id": "tr-661-03-001", + "answers": [ + { + "text": "約2か月間", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "しかしその夜の12月26日午前1時頃、愛華は就寝中に体調が突如急変した。\n同日朝、課題を学校へ提出することなく入院した。\n翌日の1991年12月27日朝、小脳出血により死去した。\nそれまで健康そのものであり、病気の兆候など全く無く、わずか12歳というあまりに早い、そして突然の死であった。", + "qas": [ + { + "question": "愛華の死因は何だったの?", + "id": "tr-661-04-000", + "answers": [ + { + "text": "小脳出血", + "answer_start": 77, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "愛華が亡くなったのはいつ?", + "id": "tr-661-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1991年12月27日", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "翌1992年(平成4年)2月、作者の母である坪田揚子は、愛娘が皆の心に生きることを願い、遺作となった『地球の秘密』を自費でコピーし、西野小学校の同級生らと教員らに配布した。\n折しも別件で読売新聞の記者が学校に取材に来ており、その記者の目に本作がとまった。\n本作に感銘を受けて朝日新聞の販売店に持ち込んだ保護者もいた。\nこうして本作は期せずして、読売、朝日の2大新聞で同日の新聞記事に取り上げられ、両親の家や学校宛てに、本作を読みたいとの問合せが殺到した。\n環境保護について地球という大きな観点で捉えていながら、年少者向けに漫画というわかりやすい形式で述べられた内容は話題を呼び、活動の輪が急速に広まることとなった。", + "qas": [ + { + "question": "『地球の秘密』のことを記事として掲載した新聞社は朝日と何?", + "id": "tr-661-05-000", + "answers": [ + { + "text": "読売", + "answer_start": 172, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "先述の通り、本作が読売新聞と朝日新聞で取り上げられたことで、作者の家や学校には、本作を読みたいとの問合せが殺到した。\n作者の両親は私費で100部を増刷。\n1992年(平成4年)2月には、新聞記事で本作を知った地元の斐川町が、より多くの希望者に本作を届けることを望んで協力を申し出て、教育委員会が町の予算を用いて400部を増刷し、町内の小・中学校の全学級に配布した。\nその後も、日本全国の自治体から「啓発用に使いたい」、全国の学校から「授業で用いたい」との要望が殺到した。", + "qas": [ + { + "question": "増刷した部数が多かったのは、作者の両親と教育委員会のどちらですか?", + "id": "tr-661-06-000", + "answers": [ + { + "text": "教育委員会", + "answer_start": 141, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "どこの教育委員会が予算を使って増刷したの?", + "id": "tr-661-06-001", + "answers": [ + { + "text": "斐川町", + "answer_start": 107, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "同1992年6月、地球環境平和財団が冊子版を発行した。\nこれは一般書店での販売ではなく、同団体が申し込みに応じて発行していた。\nその後の2004年(平成16年)12月、出版文化社より市販本が発行され、一般書店での購入が可能となった。\n出版文化社版では、生前の作者の言葉を頼りに、グラフィックデザインの経験を持つ母の坪田揚子が全ページの彩色を行ない、簡素だった従来の装丁がA4判ハードカバーに改められた。", + "qas": [ + { + "question": "地球環境平和財団と出版文化社はどちらが先に書籍を発行しましたか?", + "id": "tr-661-07-000", + "answers": [ + { + "text": "地球環境平和財団", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "出版文化社版は何年に発行しましたか?", + "id": "tr-661-07-001", + "answers": [ + { + "text": "2004年", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "斐川町は漫画の技術の高さ、内容の充実さを評価した。\nその完成度には「小学6年生の作品とは思えないほど」との声も多く挙がっており、「地球に住むすべての人々への遺書」との声もあった。\n本作の完成と作者の死去がクリスマスの時期であったこと、本作のキャラクターである地球の精霊「アース」が少年少女に後を託して消え去る構成であることから、本作を「神の思し召しとしか思えない」という関係者の言葉もあった。\n身内の評価であるが、作者の父である坪田正は講演において、本作が大きな反響を呼んでいることについて「小さいことは大きなことへと通ず、愛華を通して私が教えられた事」「あの本を毎日読んでいると、環境問題だけではなく、人間の生き方や考え方そのものを問いかけている、と思えてきました」、母の坪田揚子は「愛華の声は、(地球を守ってという)子供たちの声の代表だと思う」と後に語っている。", + "qas": [ + { + "question": "坪田陽子の夫の名前は?", + "id": "tr-661-08-000", + "answers": [ + { + "text": "坪田正", + "answer_start": 214, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "同1992年4月には町による計5000部の増刷後、行政による増刷は予約分のみで精一杯であったことから、増刷が終えられた。\nしかし、その後も入手方法に関する問合せが途絶えることは無かった。\n同1992年には、環境省による環境白書の表紙にも採用された。\n同1992年、グラフィックデザイナーの粟津潔が委員長を務める「海を救おうキャンペーン実行委員会」が、「21世紀残そう美しい海」のテーマで子供たちの絵を募集していたところ、その委員会の1人が本作を手にしており、本作が粟津らの目に留まることとなった。\n粟津は本作の完成度、本作に込められた人間や生物への想いに感嘆し、作者を「現代の神童」と評価した。\n実行委員会事務局次長の篠原裕幸は「大人が気づかなかったことを、小学生が深く考えている。愛華さんの『地球の秘密』は、その一つの象徴でした」と語った。\n委員会では「地球環境が危機にある時に、日本の子供がこんな本を残したことに神秘的なものを感じる」との声もあった。", + "qas": [ + { + "question": "「海を救おうキャンペーン実行委員会」の委員長はだれが務めていましたか?", + "id": "tr-661-09-000", + "answers": [ + { + "text": "粟津潔", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "同1993年4月には、4月21日が「民放の日」に制定されたことにちなみ、本作を軸とした特別番組『地球大好き!子供たちの森と海と空』が日本テレビで放送された。\nこの放送に当たっては、日本テレビのチーフプロデューサーである有山至が、本作で環境破壊を批判するのではなく、何か行動しようと声をあげているプラス志向を評価した。\n1994年(平成6年)、地球環境平和財団において会員組織「地球の秘密AIKAクラブ」が発足した。\n作者の遺志を継ぎ、未来の世代に美しい地球を残すため、会員同士で連携して行動することを目的としている。\n同1994年頃には、本作に共感した子供たちから愛華の生家へ届けられる手紙が、500通を超えていた。\n漫画以外にも、アニメや舞台作品など、多くのメディアミックス作品も発表された。", + "qas": [ + { + "question": "『地球大好き!子供たちの森と海と空』が放送された日は何月何日でしたか?", + "id": "tr-661-10-000", + "answers": [ + { + "text": "4月21日", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『地球大好き!子供たちの森と海と空』におけるプラス志向の観点を高評価したチーフプロデューサーは誰でしたか?", + "id": "tr-661-10-001", + "answers": [ + { + "text": "有山至", + "answer_start": 109, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『地球大好き!子供たちの森と海と空』を放送した放送局はどこでしたか?", + "id": "tr-661-10-002", + "answers": [ + { + "text": "日本テレビ", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1994年に地球環境平和財団から発足した組織は何ですか?", + "id": "tr-661-10-003", + "answers": [ + { + "text": "「地球の秘密AIKAクラブ」", + "answer_start": 187, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "同1994年、環境庁の環境白書を漫画化した『マンガで見る環境白書』に、本作で登場する地球の精霊「アース」が、舞台回しのキャラクターとして採用された。\n大蔵省印刷局が同年発行した書籍の中では3位と、本家の環境白書を大きく上回る売れ行きを示した。\n当時の計画調査室係長であった川上毅は「子どもの目の高さに立った原作がいい」「入庁時の私だって、これほど環境問題を理解していたか」と感嘆した。\n1995年(平成7年)6月に、「影絵劇団かしの樹」による影絵ミュージカル『地球の秘密』が開催されるにあたり、作曲を担当した小椋佳は、以下のように語った。", + "qas": [ + { + "question": "「アース」の正体は何ですか?", + "id": "tr-661-11-000", + "answers": [ + { + "text": "地球の精霊", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『マンガで見る環境白書』で舞台回し役をしたキャラクターは何?", + "id": "tr-661-11-001", + "answers": [ + { + "text": "「アース」", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "影絵ミュージカルの『地球の秘密』で作曲を担当した人は誰?", + "id": "tr-661-11-002", + "answers": [ + { + "text": "小椋佳", + "answer_start": 254, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "また、同ミュージカルの演出の西川徹は、ごく普通の少女が人々の心を動かす作品を作り上げたことに惹かれたといい、「愛華さんの純粋な12年間は、生きること、人間とは何かということを教えてくれます」と語った。\n地球環境平和財団の事務局長である矢野等子は「子どもとは思えない完ぺきな内容です。自然の素晴らしさや命の大切さをわかりやすく説いていることが、人々に訴えるのでしょう」と話した。\n1996年(平成8年)3月発売のアニメビデオ作品『地球の秘密』で、地球の精霊「アース」の声優を担当した薬師丸ひろ子は、「愛華さんのメッセージを今後も語り継いでいかなくては、という思いで仕事をしました」と語った。", + "qas": [ + { + "question": "影絵ミュージカル『地球の秘密』で演出を担当した人は誰?", + "id": "tr-661-12-000", + "answers": [ + { + "text": "西川徹", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アニメビデオ作品『地球の秘密』で「アース」の声を担当した人は誰?", + "id": "tr-661-12-001", + "answers": [ + { + "text": "薬師丸ひろ子", + "answer_start": 240, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "矢野等子の地球環境平和財団での役職は何?", + "id": "tr-661-12-002", + "answers": [ + { + "text": "事務局長", + "answer_start": 110, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2004年(平成16年)には、当時の島根県知事である澄田信義、作者の母の坪田揚子、本作をもとにしたミュージカル『あいと地球と競売人』の歴代主演者たちによる「地球温暖化防止座談会」が行われ、澄田は本作を以下の通り評価した。\n\n2005年(平成17年)には、地球温暖化防止に向けた京都議定書の発効に際し、環境昆虫学者の岩佐光啓(帯広畜産大学教授)が本作を以下のように評価した。\n\n2008年(平成20年)、日本海テレビにより、子供たちの優れた環境活動を顕彰する「こどもエコグランプリ」が制定された。\n優れた環境活動を行なう子供たちに「坪田愛華賞」「アースくん賞」などが授賞されている。", + "qas": [ + { + "question": "2004年当時、島根県知事を務めていた人とは誰?", + "id": "tr-661-13-000", + "answers": [ + { + "text": "澄田信義", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『地球の秘密』を元にしたミュージカルのタイトルは何ですか?", + "id": "tr-661-13-001", + "answers": [ + { + "text": "『あいと地球と競売人』", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「こどもエコグランプリ」を制定したのはどこの放送局ですか?", + "id": "tr-661-13-002", + "answers": [ + { + "text": "日本海テレビ", + "answer_start": 201, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "先述の通り、「海を救おうキャンペーン実行委員会」の目が本作に留まったことで、本作は粟津潔らの手により、英訳を始めとして、日本国外へも紹介されることとなった。\n原作ではごく一部が色鉛筆で彩色されているのみだったが、この英訳に際し、専門家の手により作者の色遣いを再現して彩色が行なわれた。\n同1992年5月には、アメリカのニューヨーク国連本部による第1回「国連子供環境絵画展」で展示された。\n6月にはブラジルのリオデジャネイロで行なわれた「環境と開発に関する国連会議(地球サミット)」でも、日本の地方自治体からの唯一の参加者として、先述の澄田信義により紹介され、会場の参加者たちからは大きな反響が巻き起こった。", + "qas": [ + { + "question": "リオデジャネイロで行われた地球サミットは何年に行われたの?", + "id": "tr-661-14-000", + "answers": [ + { + "text": "1992年", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "地球サミットで本作を紹介した日本人は誰ですか?", + "id": "tr-661-14-001", + "answers": [ + { + "text": "澄田信義", + "answer_start": 267, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1992年10月には、アラブ連盟の環境大臣事務局からの要望に応え、アラビア語版5000部が完成し、エジプトのカイロでのアラブ環境会議へ寄贈された。\nその背景には、アラブ諸国も湾岸戦争によるペルシア湾への石油流出など、環境上に様々な問題を抱えているという事情があった。\n1993年5月頃には、本作を読んだ中国やアラブのシリアの子供たちからも作者の両親宛てに手紙が届いていた。\n1995年1月には、ケニアのナイロビに置かれている国際連合環境計画の本部に、本作の日本語版と英語版、原画をカラーコピーしたパネル12枚が、地球サミットの模様を伝えるパネルや報告書などと共に永久展示された。", + "qas": [ + { + "question": "アラビア語版は何部作られましたか?", + "id": "tr-661-15-000", + "answers": [ + { + "text": "5000部", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "2004年(平成16年)3月に、モンゴル内陸部のアルファンガイ県へ1000冊を贈呈された際には、ニュースを知った子供たちが集まり、入手できない子供たちが続出した。\n30キロ、40キロを歩いて来て泣き出す子供もおり、あと10万冊を贈呈すべく、読者たちの協力を仰ぐキャンペーンが開始された。\n同年4月、森林伐採など環境破壊が大きな問題になったモンゴルのツェツェルレグ市に本作が贈呈される模様が、テレビ朝日の『素敵な宇宙船地球号』シリーズで『地球を守る人愛する地球へ贈る本』と題して放映され、大きな反響を得た。\n2007年(平成19年)、日本海テレビの『モンゴルから地球を変える』において、公害による環境汚染に晒されるモンゴルで、先述の坪田正が環境問題改善のために活動する様子と共に、本作がモンゴルの子供たちの環境テキストとして紹介された。", + "qas": [ + { + "question": "『地球を守る人愛する地球へ贈る本』が放映されたのは何年でしたか?", + "id": "tr-661-16-000", + "answers": [ + { + "text": "2004年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『モンゴルから地球を変える』と『地球を守る人愛する地球へ贈る本』はどちらが先に放映されましたか?", + "id": "tr-661-16-001", + "answers": [ + { + "text": "『地球を守る人��する地球へ贈る本』", + "answer_start": 217, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ツェツェルレグ市はどの国に位置しているの?", + "id": "tr-661-16-002", + "answers": [ + { + "text": "モンゴル", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2013年(平成25年)には、坪田正によるモンゴル寄贈などの活動がきっかけとなり、モンゴル健康科学大学が出雲市の島根大学医学部と、歯科医療分野のシンポジウムを通じて交流し、今後の友好の深まりを願った。\nその後も本作は英語、フランス語、アラビア語、中国語、台湾語、朝鮮語、ベトナム語、モンゴル語など、全11か国語に翻訳されている。\nイギリスのイーストボーンでの国連こども環境会議での配布をはじめ、台湾、ケニア、モンゴルなど各国の小学校や子供たちに贈呈されるなど、世界80か国以上で親しまれている。\n世界合計発行部数は、環境漫画としては空前の60万部に達している。", + "qas": [ + { + "question": "本作の世界合計発行部数は何部ですか?", + "id": "tr-661-17-000", + "answers": [ + { + "text": "60万部", + "answer_start": 269, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "本作は何か国語に翻訳されたの?", + "id": "tr-661-17-001", + "answers": [ + { + "text": "11か国語", + "answer_start": 150, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1992年(平成4年)7月、環境庁長官より、社会に対して活発な活動で大きな貢献を行なった若者に贈られる「TOYP大賞」(日本青年会議所主催)の特別賞(環境庁長官賞)を受賞した。\n1993年(平成5年)6月。\n日本政府の推薦により、環境問題に多大な貢献をした者に贈られる、国際連合環境計画の「グローバル500賞」を受賞した。\n同賞の子供の受賞、そして故人の受賞は史上初であり、日本国内での受賞者は10人に満たなかった。\nこのことは世界中に衝撃を及ぼし、日本国外のニュースでもトップ記事で報道された。\n国際連合環境計画では、本作は「人類と自然に対する問題に正面から取り組んだ一人の少女の立派な作品」と評価された。", + "qas": [ + { + "question": "先に受賞したのは「TOYP大賞」と「グローバル500賞」のどちらですか?", + "id": "tr-661-18-000", + "answers": [ + { + "text": "「TOYP大賞」", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "「TOYP大賞」の主催者はどこですか?", + "id": "tr-661-18-001", + "answers": [ + { + "text": "日本青年会議所", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "グローバル500賞の表彰式は同1993年6月5日、北京人民大会堂での「世界環境デー記念式典」で行なわれ、坪田正・坪田揚子夫妻が娘の遺影を抱いて出席した。\n式場では本作は、国際連合環境計画事務局長のエリザベス・ダズウェルにより、以下のように評価され、式場からは拍手が巻き起こった。\n1994年(平成6年)6月、作者である坪田愛華に、島根県より島根の誇りとして環境特別功労賞が贈られた。", + "qas": [ + { + "question": "グローバル500賞の表彰式はどこで行われましたか?", + "id": "tr-661-19-000", + "answers": [ + { + "text": "北京人民大会堂", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "グローバル500賞の表彰式は何の行事で行われた?", + "id": "tr-661-19-001", + "answers": [ + { + "text": "「世界環境デー記念式典」", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "グローバル500賞の表彰式が行われた年月日はいつ?", + "id": "tr-661-19-002", + "answers": [ + { + "text": "1993年6月5日", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "深海魚", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "およそ15,800種が知られる海水魚のうち、少なくとも2,000種以上が深海魚に該当すると見積もられている。これらは海底付近で暮らす底生性深海魚と、海底から離れ中層を漂って生活する遊泳性(漂泳性)深海魚の2タイプに大きく分けられ、それぞれに含まれる種数はほぼ同数と考えられている。底生性深海魚と遊泳性深海魚の生活様式はまったく異なり、また進化上の系統分類をよく反映していることから、深海魚の進化・生態を理解するために両者を区分して考えることは重要である。\n\n太陽光の届かない深海には光合成を行う植物(海草・海藻や植物プランクトン)が存在しないため、深海における食物連鎖の基礎を支えるのは浅海の動植物である。浅海で消費されなかった生物の遺骸や排泄物は、マリンスノーとなって沈降し、最終的に深海に降り積もる。これらの沈み行く有機物はオキアミやクラゲなど浮遊性の深海生物に消費されるほか、深海底に堆積した後は貝類やナマコ、クモヒトデなどの底生生物のエネルギー源として利用される。彼ら自身は(深海魚を含む)さらに大型の深海生物によって捕食され、深海での食物連鎖を形成する。\n\n深海は極度に高い水圧と低水温に阻まれた暗黒の海域である。また、利用可能な総エネルギーは浅海で生産されるうちのごく一部に過ぎない。深海魚はこの極限とも言える環境に適応するため、浅海の魚類には見られない特殊な身体構造および生活様式を獲得している。地表面の7割を覆う海の平均水深は約3,800mに達し、200m以深の深海は体積比で実に93%を占める。地球で最大の生物圏を構成する深海の環境と、そこに広がる生物多様性を理解する上で、深海魚研究の果たす役割は大きい。", + "qas": [ + { + "question": "深海魚に該当する海水魚は何種類ですか?", + "id": "tr-662-00-000", + "answers": [ + { + "text": "2,000種以上", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "海で植物が光合成をするのに欠かせないものは何か", + "id": "tr-662-00-001", + "answers": [ + { + "text": "太陽光", + "answer_start": 229, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "地球の海の平均水深はおよそ何メートルですか?", + "id": "tr-662-00-002", + "answers": [ + { + "text": "約3,800m", + "answer_start": 621, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クラゲはどのタイプの深海生物ですか?", + "id": "tr-662-00-003", + "answers": [ + { + "text": "浮遊性", + "answer_start": 374, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "深海はその過酷な環境と広大な範囲のため、浅海と比べて観察・研究が困難であり、生物が存在するかどうかは長く不明であった。イギリスの博物学者であるエドワード・フォーブスは、1839年に行った調査船による観測結果を元に、「深海(300ファゾム=水深548m以深)には生物が存在しない」という「深海無生物説」を提唱した。しかし、その後の底引き網や海底ケーブルを用いた各国の調査により、深海から相次いで生物が採取され、この説はすぐに否定されることになる。\n\n深海生物の存在を決定的に証明したのは、1872年から1876年にかけて行われた英国海軍のチャレンジャー号による大規模な世界一周探検航海である。この航海がもたらした膨大な海洋学的研究成果をきっかけとして、各国の海洋調査は本格化し、深海魚研究の歴史も幕を開けた。", + "qas": [ + { + "question": "「深海無生物説」を主張した人の名前は何ですか?", + "id": "tr-662-01-000", + "answers": [ + { + "text": "エドワード・フォーブス", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "深海生物の存在を決定的に証明した世界一周探検航海に使われた船は何?", + "id": "tr-662-01-001", + "answers": [ + { + "text": "チャレンジャー号", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「深海無生物説」では水深何メートル以深から生物が存在しないの?", + "id": "tr-662-01-002", + "answers": [ + { + "text": "548m", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "生身の人間が直接大深度に潜行することはできないため、深海探査には常に困難が付きまとう。漁網中に混獲されたり、海岸に打ち上げられたりした深海魚も時として貴重な標本となったが、彼らが実際に生きている姿(生息環境や生態)を伝える情報は損なわれていることが多かった。19世紀後半以降、ワイヤーロープや底引き網の改良により大深度からの標本採取が可能になったものの、深海魚を直接観察することは依然容易ではなかった。兵器としての潜水艦は第一次世界大戦時には既に実用化されていた一方で、学術目的での潜水機器開発は遅れていたのである。\n\n1928年、有人の潜水球(バチスフェア)が開発され、ようやく深海魚の観察が可能になった。バチスフェアは無動力ではあったが、深度923mまでの潜水に成功している。そして1948年、オーギュスト・ピカールにより自前の動力を有した深海探査艇、バチスカーフが建造された。バチスカーフは複数の後継機が作られ、深海魚の生態観察や大深度での標本採集に強力な手段を提供した。20世紀後半から現代にかけては、日本のしんかい6500、ロシアのミール、フランスのノティールおよびアメリカのアルビン号などによる調査を通じ、深海魚の生活様式・環境への適応についての情報が蓄積されつつある。", + "qas": [ + { + "question": "兵器としての潜水艦と学術目的の潜水艦のどっちが先に開発されたの?", + "id": "tr-662-02-000", + "answers": [ + { + "text": "兵器としての潜水艦", + "answer_start": 201, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "バチスフェアが潜水できた最大深度は?", + "id": "tr-662-02-001", + "answers": [ + { + "text": "深度923m", + "answer_start": 321, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "初めて深海魚の直接観察が行われたのは何年ですか?", + "id": "tr-662-02-002", + "answers": [ + { + "text": "1928年", + "answer_start": 260, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "日本の深海探索潜水艦の名前は何なの?", + "id": "tr-662-02-003", + "answers": [ + { + "text": "しんかい6500", + "answer_start": 458, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1960年、バチスカーフの後継機の一つであるアメリカのトリエステ号が、当時既に世界最深地点として知られていたマリアナ海溝のチャレンジャー海淵を目指して有人潜航を行った。乗船していたジャック・ピカール(オーギュストの息子)は、到達した最深地点(水深10,900m前後)で「シタビラメに似たカレイの一種」を目撃したと報告した。一方、日本の無人探査艇「かいこう」が1998年に行った調査では、同地点で魚類を確認することはできなかった。21世紀初頭時点では、ピカールによる「目撃報告」は疑問視され、ナマコの一種を見間違えたのではないかと考える研究者もいる。\n\n日本のNHKが、海洋研究開発機構(JAMSTEC)のチャレンジャー海淵調査について2017年8月27日放映したテレビ番組「DEEPOCEAN超深海/地球最深(フルデプス)への挑戦」によると、チャレンジャー海淵の底ではナマコ類やエビ類は撮影されたものの、魚類は写っていなかった。\n\n確かな科学的裏付けを持つ例として、これまでに最も深い場所から採集された深海��はアシロ科(アシロ目)のヨミノアシロ(Abyssobrotulagalatheae)である。デンマークの調査隊がプエルトリコ海溝の水深8,372mから本種を引き揚げたのは1952年のことで、学名には当時の調査船ガラテア号の名前が冠されている。他に、クサウオ科(カサゴ目)のシンカイクサウオおよびアシロ科のソコボウズが7,000m以深で観察されている。\n\n海洋研究開発機構(JAMSTEC)の調査船「かいれい」の機器が2017年5月、マリアナ海溝の水深8178mにおいてシンカイクサウオの採餌行動の撮影に成功した。2017年8月時点で、これが生きた魚類の映像の最深記録である。", + "qas": [ + { + "question": "1998年、マリアナ海溝に調査に行った日本の無人探査艇の名前は何ですか?", + "id": "tr-662-03-000", + "answers": [ + { + "text": "「かいこう」", + "answer_start": 172, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "今までに最も深い場所から採集された深海魚は何ですか?", + "id": "tr-662-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ヨミノアシロ", + "answer_start": 466, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ヨミノアシロを捕獲した調査船の名前は何ですか?", + "id": "tr-662-03-002", + "answers": [ + { + "text": "ガラテア号", + "answer_start": 559, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "深海魚が獲得した低水温・高圧力環境への適応能力を解析するためには、できるだけサンプルを生きたまま捕獲し、地上の研究施設で長期間飼育できることが望ましい。捕食や産卵のために浅海に移動する種類は、通常のアクアリウム設備でもある程度の飼育が可能であるが、実際の生育環境における振る舞いが再現される保証はない。\n\nしかし、深海魚を生体のまま捕獲することには実際上の多くの困難がある。最も重要な問題は浮上に伴う急激な減圧と海水温の上昇であり、多くの場合深海魚に対して致死的なダメージを与えることになる。また、強すぎる環境光や捕獲そのものによるストレスが、視覚や生理調節機能に影響を及ぼす可能性もある。\n\n深海探査技術の発展とともに捕獲機器の開発・改良も進み、1970年代には低水温維持機能が備えられるようになった。1979年に報告された高圧維持水槽は1980年代にかけて改良が重ねられ、ソコダラなど浮き袋が発達した底生性深海魚の生体捕獲を可能としたが、長期的な飼育維持は依然として困難な状況が続いていた。\n\n2000年代初頭に日本の海洋研究開発機構(JAMSTEC)によって開発された「ディープアクアリウム」は、深海魚の捕獲と高圧下での飼育を単独で行うための装置である。中心部分となる水槽は高圧に耐えるため球形をしており、200気圧の水槽内圧を維持できる。深海探査艇に搭載したディープアクアリウムで深海魚を捕獲した後は、水槽内部の高圧環境を維持したまま地上に運搬、飼育を行うことが可能である。水交換や給餌も減圧を起こすことなく可能で、深海生物研究の新たな手段として期待されている。", + "qas": [ + { + "question": "低水温・高圧力環境への適応能力を解析するため、もっとも望ましい方法は何ですか?", + "id": "tr-662-04-000", + "answers": [ + { + "text": "長期間飼育", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Manner" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "深海魚を生体のまま捕獲にあたって、急激な減圧と何が浮上に伴う大きな2つの問題とされていますか?", + "id": "tr-662-04-001", + "answers": [ + { + "text": "海水温の上昇", + "answer_start": 206, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "高圧維持水槽が開発されたのは何年ですか?", + "id": "tr-662-04-002", + "answers": [ + { + "text": "1979年", + "answer_start": 352, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本の海洋研究開発機構で深海魚の飼育のため���発された設備は何ですか?", + "id": "tr-662-04-003", + "answers": [ + { + "text": "「ディープアクアリウム」", + "answer_start": 487, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "深海の生物学的環境は表層における海流や季節性変化、陸地からの物質供給に大きく依存しており、深海魚の生態を海洋環境と結び付けて理解するためには広範囲かつ経時的な調査が求められる。また、底引き網による乱獲がタラ類など大陸棚周辺に生息する一部の食用種を激減させていることが報告されており、漁業上重要な深海魚の資源調査の必要性が指摘されている。\n\nしかし、特殊な探査艇・採集機器を使用する深海魚の調査は多大なコストを要し、大規模で長期間にわたる生態調査のデータは非常に乏しいのが現状である。個々の種類を詳細に調べる手段の進歩とは対照的に、全体的な生態調査という面では依然立ち遅れている。トロール網のわずかな改良がまったく異なる漁獲結果を導くこともあり、統一的なサンプリング手段の確立が望まれている。", + "qas": [ + { + "question": "深海魚のサンプル収集のため行われる方法で、大陸棚周辺の生態系に悪影響を及ぼすのは何ですか?", + "id": "tr-662-05-000", + "answers": [ + { + "text": "底引き網", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "魚類の身体中に含まれるタンパク質や骨格の比重は、通常は海水より大きい。浅海魚は遊泳に伴う揚力や浮き袋への吸気で浮力を得ているが、利用可能なエネルギーに乏しい深海では、深海魚は極力遊泳せずに浮力を確保する必要がある。多くの深海魚では骨・軟骨および筋肉など体内の高密度組織が減少しており、代わりに低比重の水分と脂肪分を多量に含んでいる。腹鰭とその支持骨格、あるいは頭部の骨格を退縮させたものや、鱗・棘条を持たない種類も多く、軽量化に向けた一つの手段と見られている。", + "qas": [ + { + "question": "深海魚の高密度組織が通常の浅海魚より乏しいが、その理由は何だ?", + "id": "tr-662-06-000", + "answers": [ + { + "text": "浮力を確保", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "深海魚が身体的に軽量化されなきゃならねぇのは深海のどの特徴のためか?", + "id": "tr-662-06-001", + "answers": [ + { + "text": "利用可能なエネルギーに乏しい", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "浮き袋(鰾)は浅海魚が浮力を得る一般的な手段であるが、深海では極度の高水圧のため、通常のガス交換による浮き袋の機能には期待できない。高水圧と急激な圧力変化に耐えるため、深海魚には浮き袋の壁を頑丈なグアニン結晶で覆う、あるいは内容物を気体ではなく脂肪やワックスに置換するなどの適応が見られる。特にハダカイワシ類のように、餌を求めて深海と浅海を往復する習性を持つ深海魚は、毎日数百気圧に及ぶ圧力変化を受けることになる。彼らは遊泳性深海魚の中では比較的発達した浮き袋を持ち、奇網(ガス交換に寄与する微細な血管網)は浅海魚に比べ非常に長く、一部の種類では中身を脂肪で満たしている。\n\n深度が大きくなるに従って、高水圧に逆らいガス交換(特に分泌)を行うことへの負担も増大する。中深層遊泳性の深海魚(浅海への移動を行わないグループ)では浮き袋は一般に退化的であり、さらに深度を増した漸深層では浮き袋をもたない種類が多い。一方で底生性魚類は、海底付近からあまり離れず急激な圧力変化を受けないためか、大深度でもよく発達した浮き袋を持つ場合がある。", + "qas": [ + { + "question": "深海で通常のガス交換による浮き袋の機能には期待できん理由は何?", + "id": "tr-662-07-000", + "answers": [ + { + "text": "高水圧", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "高水圧と急激な圧力変化に耐えるため深海魚の浮き袋の壁を包んでいる物質は何ですか?", + "id": "tr-662-07-001", + "answers": [ + { + "text": "グアニン結晶", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "透明度にもよるが、水深1,000m程度まではかろうじて太陽光が届くため、この領域に住む深海魚には体に対して非常に大きな眼球を持つものがいる。さらにデメエソ科・ムネエソ科・ヨコエソ科魚類など少なくとも11科の深海魚は、眼を管状に変形させた管状眼を持つ。深海に達する光は散乱と屈折のため、太陽の位置に関係なく常に真上から降り注ぎ、日没まで光量の変化も少ない。ボウエンギョ科など一部の例外を除き、ほとんどの管状眼は真上を向いており、海面方向からの光に対応している。\n\nなお、同様に暗黒条件下の洞穴生物では、深海魚とは対照的に眼が退化した例が多い。深海魚の場合、洞穴とは異なりわずかながら光が差し込むこと、種によっては浅海への移動があること、発光生物が多いことが影響していると考えられる。\n\n1,000m以深の漸深層は光がまったく届かない暗黒の世界で、この領域には落ち窪んだ小さな眼を持つ深海魚が多い。ソコオクメウオ科のように目が皮膚の中に埋もれてしまったもの、チョウチンハダカのように板状の網膜しか残っていない深海魚もいるが、光を検出する機能は依然として残されており、退化ではなく特殊化と捉える方がより適切と考えられている。漸深層においてまばらに明滅する生物発光を捉えるためには、先細りの小さな眼球の方が適しているという報告もある。これらの眼は通常の眼よりも空間分解能に優れ、20-30m程度離れた場所の発光を捉えるのに適しているとされる。遊泳力の低い深海魚にとって、視野を比較的狭い範囲に限定することは、エネルギー効率の面で合理的である。", + "qas": [ + { + "question": "デメエソ科がもつ眼球の形はどうですか?", + "id": "tr-662-08-000", + "answers": [ + { + "text": "管状眼", + "answer_start": 118, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "深海魚とほぼ同様の暗黒条件下の洞穴生物の目はどう発達しましたか?", + "id": "tr-662-08-001", + "answers": [ + { + "text": "退化", + "answer_start": 261, + "answer_type": "Manner" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "入ってくる光量が少ないのは洞穴と深海のどっちか?", + "id": "tr-662-08-002", + "answers": [ + { + "text": "洞穴", + "answer_start": 277, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "魚食性の遊泳性深海魚には、体のサイズと比較してかなり大きな口や歯を備えたものが多い。並外れた大きな口の持ち主として、フウセンウナギ目に属するフウセンウナギ・フクロウナギの仲間が特に知られている。彼らは一見すると頭が異常に大きいように見えるが頭蓋骨は小さく、大きな口は極端に発達した顎の骨に支えられている。フウセンウナギが鋭い歯を持ち大型の獲物を飲み込むのに対し、フクロウナギの顎には歯がほとんどなく、小型の魚やプランクトンをかき集めて食べている。\n\n発達した歯列もまた魚食性深海魚の特徴であり、オニキンメ(オニキンメ科)など鋭い牙状の歯を持つものもいる。ワニトカゲギス・チョウチンアンコウ類の一部には、内側に折れ曲がった歯を持つものがあり、捕えた獲物を逃しにくい構造になっている。\n\nチョウチンアンコウ類やクロボウズギス科の魚など、食道や胃を大きく拡張させることのできる深海魚もいる。オニボウズギスは自分の何倍もある獲物を飲み込むことが可能で、腹部を異常に膨らませた状態で捕獲されることがある。また、メラニンなどの色素沈着によって、黒色化した腸管を持つ深海魚も珍しくない。発光生物を捕食した際に、消化管を透過した光が外敵を誘引することを回避しているものと見られる。\n\n���続的な捕食を行うことが難しい深海の環境では、エネルギーを効率的に蓄えることが課題となる。肝臓は深海魚にとって重要なエネルギー貯蔵器官であり、シンカイエソ科などは非常に大きく脂質に富む肝臓を備えている。ヨロイダラ(ソコダラ科)の肝臓もまた脂質・グリコーゲンを豊富に含み、およそ180日間は餌がとれなくとも生命を維持できると推定されている。\n\n脂質は海水よりも比重が小さいため、肝臓に多量に脂肪分を蓄えることは浮力の確保にも貢献する。アイザメ科・カラスザメ科(ツノザメ目)など、浮き袋を持たない深海性の軟骨魚類には、ときに体重の25%にも及ぶ巨大な肝臓を持つものがある。", + "qas": [ + { + "question": "大きな口の持つ深海魚で鋭い歯を持ってるのはどっちですか?", + "id": "tr-662-09-000", + "answers": [ + { + "text": "フウセンウナギ", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "黒色化した腸管を持つ深海魚も珍しくない理由は何ですか?", + "id": "tr-662-09-001", + "answers": [ + { + "text": "発光生物を捕食した際に、消化管を透過した光が外敵を誘引することを回避", + "answer_start": 486, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヨロイダラが餌を取らずに生きていける期間はどれくらいですか?", + "id": "tr-662-09-002", + "answers": [ + { + "text": "180日", + "answer_start": 672, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "深海の中では比較的明るい中深層に住む魚類では、体表面の銀化による擬態が見られる。ムネエソの仲間は厚さ数ミリの平べったい体を持ち、表面はアルミホイルのような光沢のある銀色を呈している。彼らの体表面にはグアニンによる微小な反射性結晶が何層にもわたり規則的に並んでおり、鏡のように光を反射して捕食者に自らの姿を認識されないようにしている。ムネエソ類の一部は夜間には反射効率を低下させ、生物発光の反射による発見の危険性を減らすことができる。\n\n水深600m付近から、深海魚の体色は銀白色から鉛色へと急速に変化し、1,000mの漸深層に達するとほぼ均一に暗色となる。クジラウオ類の多くは鮮やかな赤い体色をしているが、青い波長の光しか届かない深海においては、黒色同様ほとんど目立たないと考えられる。", + "qas": [ + { + "question": "鮮やかな赤い体色をもつ深海魚は何ですか?", + "id": "tr-662-10-000", + "answers": [ + { + "text": "クジラウオ類", + "answer_start": 278, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1,000mの漸深層まで到達する光の波長はどんな色ですか?", + "id": "tr-662-10-001", + "answers": [ + { + "text": "青い", + "answer_start": 303, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1,000mの漸深層では別できる色相は何ですか?", + "id": "tr-662-10-002", + "answers": [ + { + "text": "青い", + "answer_start": 303, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "生物発光は発光基質(ルシフェリン)と発光酵素(ルシフェラーゼ)の化学反応によって起こる発光現象で、多くの深海生物が持つ重要な特徴の一つである。深海魚も例外ではなく、大西洋北東部における調査では、500m以深に住む深海魚の7割、個体数にして9割以上が発光するとされる。深海魚による生物発光には、発光バクテリアを体内に住まわせることによる共生発光と、自身が発光基質を作り出す自力発光とがある。発光器官の位置は眼の周囲・鰭や口ヒゲの末端・腹部・尾部・肛門周囲などさまざまで、数や形態とともに重要な分類形質として利用される。", + "qas": [ + { + "question": "500m以深に住む深海魚の個体数の何割が跛行してますか?", + "id": "tr-662-11-000", + "answers": [ + { + "text": "9割以上", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "発光バクテリアを体内に住まわせることによる発光の名称は?", + "id": "tr-662-11-001", + "answers": [ + { + "text": "共生発光", + "answer_start": 167, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "このタイプの発光を行うのは比較的少数の深海生物であり、遊泳性の深海魚ではチョウチンアンコウとニギス目の一部、底生性魚類ではソコダラ科・チゴダラ科の仲間が代表的である。このうちチョウチンアンコウ類を除く3グループの発光器は消化管から連続して発達しており、腸内細菌叢で維持された発光バクテリア(主にPhotobacteriumphosphoreum)が持続的に補給されていると見られる。発光器の数は少なく、通常1-2個である。\n\nチョウチンアンコウ類の発光器官は擬餌状体に位置し、消化管とは連続していない。彼らの「提灯」を光らせる発光バクテリアがどこから来ているのかは不明である。ビブリオ属の細菌であることは判明しているものの、2001年時点で人工培養には成功していない。", + "qas": [ + { + "question": "発光器は消化管から連続して発達していない共生発光生物類は何ですか?", + "id": "tr-662-12-000", + "answers": [ + { + "text": "チョウチンアンコウ類", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "チョウチンアンコウ類の発光バクテリアはどこから来ますか?", + "id": "tr-662-12-001", + "answers": [ + { + "text": "不明", + "answer_start": 282, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "深海魚を含めた多くの深海生物は、自分自身で産生したルシフェリンを利用する自力発光を行う。一般に発光器の数は多く、数百から数千に達することもある。発光器の開口部にレンズやフィルター状の構造を伴う場合もあり、光量や照射方向、発光色の調節に役立っている。\n\n深海に届く光は緑や青の波長に限られるため、多くの深海魚の目は青い光だけを感知できるようになっているが、ワニトカゲギス科に属するホテイエソ亜科およびホウキボシエソ亜科の魚類には、例外的に赤い光を認識できるものがいる。彼らは発光器を覆う特殊なフィルターを使い、自身で赤い光を発することも可能である。獲物や他の捕食者に認識できない赤色光を使うことは、捕食や繁殖を行う上で有利に働くと思われる。", + "qas": [ + { + "question": "自力発光を行うため必要とするのはなんですか?", + "id": "tr-662-13-000", + "answers": [ + { + "text": "ルシフェリン", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ホウキボシエソ亜科の魚が青い光以外に認識できる色光は何ですか?", + "id": "tr-662-13-001", + "answers": [ + { + "text": "赤い光", + "answer_start": 218, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "深海といえども、水深1,000m程度まではごくわずかに光が差し込む。そのため、日中に下から海面を見上げたとき、上部にいる生物の影が浮かび上がることになる。腹部に発光器を配置し、降り注ぐ光と同じレベルに輝度を調節すれば、このシルエットを消すことが可能になる。これをカウンターイルミネーションと呼び、中深層遊泳性の深海魚のほとんどがこの方法を利用している。完全に暗黒の領域となる1,000m以深ではカウンターイルミネーションの効果が期待できないためか、漸深層の深海魚には腹部の発光器はあまり見られない。\n\n餌となる生き物を照らし出すことが、生物発光の捕食における基本用途であり、多くの深海魚がこの種の発光を行う。ほとんどのワニトカゲギス科魚類は眼の直下、あるいは後部に大型の発光器を備えており、彼らの視界を明るく照らしている。一方、餌を誘引するための発光を行う深海魚も多い。チョ���チンアンコウ類は擬餌状体の先端で共生発光を行って獲物を誘引するほか、オニアンコウ科のように複雑に分岐した顎髭のような自力発光器官を持つものもいる。また、ムネエソ属やクロボウズギス属などいくつかのグループは、口の中に発光器官を持つ。", + "qas": [ + { + "question": "発光深海魚のカウンターイルミネーションのため発達された発光期間はどこにありますか?", + "id": "tr-662-14-000", + "answers": [ + { + "text": "腹部", + "answer_start": 77, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ムネエソ属やクロボウズギス属の発光器官はどこにありますか?", + "id": "tr-662-14-001", + "answers": [ + { + "text": "口の中", + "answer_start": 491, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "浅い海に暮らす魚が群れを作るために集合する際には、視覚に加えて反射光が利用されている。深海魚もこれに似て、生物発光を集団の維持に用いていると考えられている。中深層で群れを成すハダカイワシ類は、カウンターイルミネーションのための腹部の発光器の他に、頭部や尾部にも発光器をもっている。発光器のサイズ・位置・数は雄と雌で異なる性的二形を示し、両性のコミュニケーションに使用されている可能性がある。ワニトカゲギス類の眼後発光器も、雌よりも雄のほうが大きいことが多い。\n\nワニトカゲギス科に属する一部の深海魚は、防御的な強い閃光を発することができる。非常に明るい光を出すことによって、捕食者を気絶させることさえある。ハナメイワシ科(ニギス目)の魚は鰓(えら)の下から発光液を分泌し、捕食者の目を引きつけるダミーの役割を果たすと考えられている。", + "qas": [ + { + "question": "浅海の魚たちが群れを作るため視覚の他、利用するのは何ですか?", + "id": "tr-662-15-000", + "answers": [ + { + "text": "反射光", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ハダカイワシ類は腹部や尾部以外に発光器官が配置されたのはどこですか?", + "id": "tr-662-15-001", + "answers": [ + { + "text": "頭部", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "日常生活とは縁遠い印象がある深海魚だが、食用とされる種類は多い。アンコウ・タチウオ・ムツ・キンメダイ・スケトウダラ・オヒョウ・ハタハタなどは、いずれも水深数百mの深海域に生息する。漁獲対象となる有用種はツノザメ目・エイ目・タラ目・キンメダイ目・カレイ目・スズキ目など、ほとんどの場合底生性の深海魚である。海底付近を活発に遊泳する捕食魚は、その運動量を支えるための筋肉を発達させているのに対し、中層を漂泳する深海魚は高圧下で浮力を確保するために体全体を水っぽくしたり、過剰な脂肪を蓄えたりしていることが多い。ミズウオは体長1mを超える中深層遊泳性の大型深海魚で、煮ると肉が溶けて無くなることからその名が付けられた。\n\n前述の通り、遊泳性深海魚は体内に脂質を蓄えていることが多いが、中には油脂分としてワックスを含むものがある。人体ではワックスを消化できないため、これらの魚肉を多量に摂取すると下痢や腹痛の原因となる。ワックス分が特に多いクロタチカマス科のバラムツとアブラソコムツは、日本では食品衛生法によって販売が禁止されている。ハダカイワシ類の中でも、日周鉛直移動を行わない一部の種類は体内にワックスを蓄えている。", + "qas": [ + { + "question": "ワックス分が特に多いクロタチカマス科のバラムツとアブラソコムツが日本で禁止された理由は何ですか?", + "id": "tr-662-16-000", + "answers": [ + { + "text": "人体ではワックスを消化できないため", + "answer_start": 361, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "トロール網による底引き網漁では、目当ての��級魚と共に大量の深海魚が水揚げされることも多い。練製品として利用される一部の底生魚(ソコダラ類など)を除き、従来は市場価値が無いことから廃棄されていた深海魚も、近年は地産地消の一環として各地で食用化が進められている。\n\n例えば、駿河湾北東部は海岸近くから急激に深くなるため、ここに面する静岡県沼津市の沼津港や戸田(へだ)漁港などには様々な深海魚が水揚げされる。このため沼津市では沼津港深海水族館が開設されたり、伊豆市などを含む西伊豆地方で深海魚料理をアピールしたりと、観光資源としても活用されている。食用となる身が少ない種類もあるが、戸田漁港の飲食店主によると、全体としては脂が乗って、ふっくらとした食感の深海魚が多いという。", + "qas": [ + { + "question": "沼津市で底引き網漁釣り上げられる深海魚を活用するため解説した施設は何ですか?", + "id": "tr-662-17-000", + "answers": [ + { + "text": "沼津港深海水族館", + "answer_start": 210, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "深海魚料理をアピールし観光資源として有効活用を図る地方はどこですか?", + "id": "tr-662-17-001", + "answers": [ + { + "text": "西伊豆地方", + "answer_start": 234, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1970年代以降、新たな漁業資源として利用可能な深海魚の探索が、日本の調査船によって活発に進められている。水産庁が1977〜79年にかけて北洋トロール船による深海資源調査を実施したほか、海洋水産資源開発センター(現:水産総合研究センター)の調査船「深海丸」は1970年から20年にわたって世界各地の深海漁場開発を行った。これらの調査の結果見出されたメルルーサ・マジェランアイナメなど多くの有用魚種が、輸入食用魚として一般に利用されるようになっている。しんかい2000などの潜水調査船もまた、キチジ・ハタハタなど深海性水産魚種の資源量調査や生態解明に携わっている。\n\n以上のようなトロール船調査によって開発された深海魚の多くは底生魚である。一方で、中層に莫大な資源量を持つハダカイワシ類もまた、世界的な食料需要の増大を支えるエネルギー源として注目されている。ハダカイワシの仲間は過剰脂質のため食用には向かないと考えられてきたが、多くの種類では一般的な食用魚種と変わらない脂質組成を持つことが報告されている。中深層遊泳性深海魚の総生物量は少なくとも9.5億トンに上ると見積もられており、これらの豊富な未利用資源を活用する方法が探られている。", + "qas": [ + { + "question": "深海漁場開発を行った海洋水産資源開発センターの調査船の名前は何ですか?", + "id": "tr-662-18-000", + "answers": [ + { + "text": "「深海丸」", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "世界的な食料需要の増大を支えるエネルギー源として注目されている深海魚は何ですか?", + "id": "tr-662-18-001", + "answers": [ + { + "text": "ハダカイワシ類", + "answer_start": 335, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "カラハン朝", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "カラハン朝は、かつて中央アジアに存在したイスラム王朝である。中央アジアのテュルク系の遊牧民族の中で最初にイスラーム化した集団と考えられている。", + "qas": [ + { + "question": "カラハン朝とは、どの地域に存在したいるラム王朝であるの?", + "id": "tr-663-00-000", + "answers": [ + { + "text": "中央アジア", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "中央アジアのテュルク系の遊牧民族の中で最初にイスラーム化した集団により、建立された王朝は、何か?", + "id": "tr-663-00-001", + "answers": [ + { + "text": "カラハン朝", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "カラハン朝は、何系の遊牧民族から成立した王朝でありますか?", + "id": "tr-663-00-002", + "answers": [ + { + "text": "テュルク系", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "カラハン朝はテュルク系の支配者として初めて、イラン系の民族・文化が中心的な地位を占めていたマー・ワラー・アンナフルを支配した国家である。カラハン朝がマー・ワラー・アンナフルを支配するイラン系の王朝サーマーン朝を滅ぼした後、タジキスタン共和国を除いてマー・ワラー・アンナフルにイラン系の国家が再建されることは無かった。", + "qas": [ + { + "question": "タジキスタン共和国を除き、マー・ワラー・アンナフルに建立された最後のイラン系の国家は、何?", + "id": "tr-663-01-000", + "answers": [ + { + "text": "サーマーン朝", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カラハン朝は、どの王朝との戦いで勝利し、マー・ワラー・アンナフルを手に入れましたか?", + "id": "tr-663-01-001", + "answers": [ + { + "text": "サーマーン朝", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マー・ワラー・アンナフルを支配した最初のテュルク系の支配者は、どの王朝か?", + "id": "tr-663-01-002", + "answers": [ + { + "text": "カラハン朝", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "カラハン朝の時代は「西トルキスタン」の黎明期とも言え、パミール高原以西の地域にテュルク・イスラーム文化が確立された。カラハン朝が滅亡した後、カラハン朝の時代に芽生えたテュルク・イスラーム文化はモンゴル、ウズベク、カザフなどの西トルキスタンを征服した他の民族・文化を同化する。タリム盆地のウイグル族はカラハン朝を自らの祖先が建てた国と見なし、王朝の君主サトゥク・ボグラ・ハンやマフムード・カーシュガリー、ユースフ・ハーッス・ハージブらカラハン朝時代の学者の廟を建立した。", + "qas": [ + { + "question": "カラハン朝の時代の時代は、何とも呼ばれるの?", + "id": "tr-663-02-000", + "answers": [ + { + "text": "「西トルキスタン」の黎明期", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "どの部族がカラハン朝を自分たちの祖先と見なしていましたか?", + "id": "tr-663-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ウイグル族", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "「カラハン朝」は後世の歴史家によって付けられた名称であり、「カラハン」という君主の称号に由来する。「カラ」は「強い」「大きい」を意味する言葉で、「カラハン」という称号は「強大なハン」の意と考えられている。。イスラーム世界の史料では「ハーカーニーヤ(ハン、カガンの王朝)」「アフラースィヤーブ朝」と書かれ、古銭学者の間では貨幣に刻まれている称号(elik、ilik、iläk)に由来するイレク・ハン国(イリグ・ハン国)という名称も使用される。また、王統の起源をウイグル(回鶻)に推定する立場の人間は、「回鶻新王国」「葱嶺(パミール)西回鶻」の呼称を使用している。", + "qas": [ + { + "question": "「カラハン」という称号は、何の意味だとされているか?", + "id": "tr-663-03-000", + "answers": [ + { + "text": "「強大なハン」", + "answer_start": 84, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "王統の起源をウイグルに推定する人々におけるカラハン朝の呼称のうち、王国との表現が含まれているのは、何か?", + "id": "tr-663-03-001", + "answers": [ + { + "text": "「回鶻新王国」", + "answer_start": 249, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "840年にモンゴル高原のウイグル国家が崩壊した後、カラハン朝の勢力が台頭する。ウイグル国家を構成していたテュルク諸部族は中国、チベット、中央アジアに移動し、そのうち15の部族はセミレチエ地方を支配するカルルク族の元に逃走した。", + "qas": [ + { + "question": "カラハン朝の勢力が台頭するのは、何年のことなの?", + "id": "tr-663-04-000", + "answers": [ + { + "text": "840年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カラハン朝の勢力が台頭するのは、どの国が崩壊したあとのことですか?", + "id": "tr-663-04-001", + "answers": [ + { + "text": "ウイグル国家", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウイグル国家が崩壊すると、テュルク諸部族は中国、チベットとどこへ移動したか?", + "id": "tr-663-04-002", + "answers": [ + { + "text": "中央アジア", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ウイグル国家が崩壊したのは、何年のことか?", + "id": "tr-663-04-003", + "answers": [ + { + "text": "840年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "カラハン朝の王統の起源は明らかになっておらず、様々な説が挙げられている。ウクライナの学者OmeljanPritsakはカラハン朝の起源をウイグル、トルクマン、カルルク、チギル、ヤグマー、カルルク・ヤグマー混合、突厥の7に分類し、カラハン朝の起源をウイグル国家崩壊後に独立したカルルクの部族連合と推定した。突厥起源説では、突厥の支配支族の一つである阿史那氏の末裔が「カガン」を称し、タラス、イリ河谷、カシュガルに至る地域に新たな部族連合を形成したと説明されている。カルルクを王朝の起源とする説では亡命者を受け入れたカルルクの集団がやがてカラハン国家に変貌したと説明され、カルルクの指導者であるキュル・ビルゲ(ビルゲ・キュル・カドゥル)、キュル・ビルゲの孫サトゥクのいずれかを王朝の創始者と見なしている。創始者のキュル・ビルゲの時代に、それまでカルルクが本拠地としていたスイアブからベラサグンに本拠地を移したと考えられている。", + "qas": [ + { + "question": "OmeljanPritsakは、どの国の学者なの?", + "id": "tr-663-05-000", + "answers": [ + { + "text": "ウクライナ", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "OmeljanPritsakの分類によると、カラハン朝の起源の候補には、トルクマン、カルルク、チギル、ヤグマー、カルルク・ヤグマー混合、突厥と何の7つもありますか?", + "id": "tr-663-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ウイグル", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "OmeljanPritsakは、最終的にカラハン朝の起源を何だと推定したか?", + "id": "tr-663-05-002", + "answers": [ + { + "text": "カルルクの部族連合", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カルルクをカラハン朝の起源とする説では、誰と彼の祖父のいずれかを王朝の創始者としているか?", + "id": "tr-663-05-003", + "answers": [ + { + "text": "サトゥク", + "answer_start": 326, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "キュル・ビルゲの子バズルは大ハン(アルス���ン・ハン)としてベラサグンを支配し、バズルの弟オグウルチャクは小ハン(ボグラ・ハン)としてタラスを支配した。893年にマー・ワラー・アンナフル地方を支配するサーマーン朝によってタラスが占領されるとオグウルチャクはカシュガルに移り、この地でサーマーン朝の政争から逃れた人間を受け入れた。オグウルチャクが亡命者であるサーマーン朝の王子ナスルをアルトゥシュの統治者に任命した後、ナスルの元にはイスラームの商人が多く集まるようになり、アルトゥシュにモスクが建立された。オグウルチャクの元ではイスラム教の布教は禁止されていたが、ナスルの受け入れによって領内のイスラム教の信者は次第に増加していき、オグウルチャクの甥サトゥクもナスルの影響を受けて密かにイスラム教に改宗した。25歳に達したサトゥクは仏教を信仰するオグウルチャクを討ってカシュガルを征服し、カラハン朝で初めてのイスラム教を信仰する君主となる。", + "qas": [ + { + "question": "キュル・ビルゲの2人の子は、ベラサグンとどこを分けて支配したの?", + "id": "tr-663-06-000", + "answers": [ + { + "text": "タラス", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "タラスが他の王朝に奪われたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-663-06-001", + "answers": [ + { + "text": "893年", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "キュル・ビルゲの2人の子のうち、サーマーン朝により支配地域を失ったのは、誰か?", + "id": "tr-663-06-002", + "answers": [ + { + "text": "オグウルチャク", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "カラハン朝において、イスラム教を信仰する最初の君主となったのは、誰か?", + "id": "tr-663-06-003", + "answers": [ + { + "text": "サトゥク", + "answer_start": 359, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "カラハン朝の歴史のうち史実と見なされるのはサトゥクがハンに即位した時代以降で、サトゥクの時代より前の時代として記されている出来事を単なる伝承、または史実と見なすかで研究者の見解は分かれている。イスラームに改宗したカラハン朝の君主は異教を奉じる他の王族に聖戦(ジハード)を挑み、王朝のイスラーム化が進行していく。942年/3年にサトゥクは大ハンが支配するベラサグンを占領するが、領内ではイスラム教は完全に受け入れられてはいなかった。11世紀以降に信仰の違いのためにカラハン朝が天山ウイグル王国(西ウイグル王国、高昌回鶻王国)から完全に分離した後、君主の中で初めてイスラム教を受け入れたサトゥクは王朝の始祖として崇拝されるようになった。", + "qas": [ + { + "question": "カラハン朝のイスラーム化を進めた君主は、誰?", + "id": "tr-663-07-000", + "answers": [ + { + "text": "サトゥク", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "サトゥクがカラハン朝の始祖として崇拝されるようになったのは、何を受け入れた最初の君主であるからですか?", + "id": "tr-663-07-001", + "answers": [ + { + "text": "イスラム教", + "answer_start": 280, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "支配地域を二つに分け、それぞれ統治者を置いていたカラハン朝が、ようやく一人の君主による全地域の支配が確立されたのは、誰によることか?", + "id": "tr-663-07-002", + "answers": [ + { + "text": "サトゥク", + "answer_start": 163, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "支配地域を二つに分け、それぞれ統治者を置いていたカラハン朝が、ようやく一人の君主による��地域の支配が確立されたのは、943年もしくは何年だとされるか?", + "id": "tr-663-07-003", + "answers": [ + { + "text": "942年", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "960年頃にサトゥクの子ムーサーはベラサグンの大ハンを破り、仏教国である于闐(ホータン)を攻撃した。ムーサーはカシュガルを本拠地に定め、それまでの大ハンの都であるベラサグンを副都に降格し、兄弟のスライマーンをベラサグンの小ハンに任命した。于闐は同じ仏教国である天山ウイグル王国、吐蕃と同盟を結んで優位に立ち、969年9月に于闐の攻撃を受けたカラハン朝の君主TazikTsunHienはカシュガルを放棄して逃走し、多くの財宝と捕虜が于闐の手に渡った。", + "qas": [ + { + "question": "960年頃、ベラサグンの大ハンを破り、于闐を攻撃したのは、誰の子だったの?", + "id": "tr-663-08-000", + "answers": [ + { + "text": "サトゥク", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "スライマーンは、どこの統治者となりましたか?", + "id": "tr-663-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ベラサグン", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "スライマーンは、誰の子か?", + "id": "tr-663-08-002", + "answers": [ + { + "text": "サトゥク", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "于闐がカラハン朝を打つために、手を組んだのは、天山ウイグル王国とどの国だったか?", + "id": "tr-663-08-003", + "answers": [ + { + "text": "吐蕃", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "サトゥクの孫の時代には、ムーサーの子アリーが国家の東部を支配するアルスラン・ハン、スライマーンの子ハサン(ハールーン)が西部を支配するボグラ・ハンの地位にあり、サーマーン朝が支配するマー・ワラー・アンナフルに侵入した。992年にハサンはマー・ワラー・アンナフルの中心都市ブハラとサマルカンドを占領するが、ハサンはカシュガルへの帰還中に没し、サーマーン朝はブハラを回復する。996年に締結した条約によってカラハン朝はサーマーン朝からザラフシャーン盆地北部地域を獲得し、999年にアリーの子ナスル・アルスラン・イリク・ハンがブハラを占領し、サーマーン朝を滅ぼした。", + "qas": [ + { + "question": "サトゥクの孫の時代とは、アリーと誰が東西を分けて統治していた時代のことを呼ぶの?", + "id": "tr-663-09-000", + "answers": [ + { + "text": "ハサン", + "answer_start": 49, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サトゥクの孫の時代には、国家の東部と西部を統治していた人物を、アルスラン・ハンと何だと呼んでいましたか?", + "id": "tr-663-09-001", + "answers": [ + { + "text": "ボグラ・ハン", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "992年にブハラとサマルカンドを占領したカラハン朝の者は、何の地位にあったか?", + "id": "tr-663-09-002", + "answers": [ + { + "text": "ボグラ・ハン", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "サーマーン朝を滅ぼしたカラハン朝の者は、何の地位にあった人の息子か?", + "id": "tr-663-09-003", + "answers": [ + { + "text": "アルスラン・ハン", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "998年に大ハンのアリーが于闐との戦争で落命し、カシュガルは仏教徒の反乱に乗���た于闐軍によって占領される。アリーの跡を継いだアフマド1世はブハラに援軍を要請し、ブハラの宗教指導者ムハイディンら4人のイマームに率いられた40,000の志願兵によって于闐軍からカシュガルを奪回した。カラハン朝は1006年までにホータン、11世紀半ばにクチャを征服し、仏教徒が多数を占める地域のテュルク化・イスラーム化が促進される。于闐が滅亡した後もホータンでは長らく仏教徒の反乱が続いたが、最終的に仏教徒の抵抗は失敗し、イスラム教への改宗を拒否する人間の大部分は他の国に亡命した。", + "qas": [ + { + "question": "于闐がカシュガルがを占領したのは、何年のことなの?", + "id": "tr-663-10-000", + "answers": [ + { + "text": "998年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アリーが死去したのは、何年のことですか?", + "id": "tr-663-10-001", + "answers": [ + { + "text": "998年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "998年に于闐の手に落ちたカシュガルを、カラハン朝が再び支配することになったのは、誰の時代のことか?", + "id": "tr-663-10-002", + "answers": [ + { + "text": "アフマド1世", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ホータンとクチャのうち、カラハン朝がより早く征服したのは、どちらか?", + "id": "tr-663-10-003", + "answers": [ + { + "text": "ホータン", + "answer_start": 153, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "于闐を滅ぼした後、アフマド1世は天山ウイグル王国に改宗のための聖戦を数度にわたって実施する。1017年にカラハン軍はベラサグンから天山ウイグル王国に攻め込むが反撃に遭い、天山ウイグル王国の軍隊はベラサグン近郊に接近した。病床についていたアフマド1世は陣頭で指揮を執って天山ウイグル王国を破り、トルファンに進軍するが、帰国後に病没した。アフマド1世の死後にカラハン朝内部の抗争は激化し、ホータンを支配するユースフ・カディル・ハンがカシュガルのハン位を継いだ時代には中央アジアの支配権を巡ってガズナ朝と争った。", + "qas": [ + { + "question": "ユースフ・カディル・ハンがカシュガルのカラハン朝の君主であった時代には、どこにおける支配権を巡った争いが続いたの?", + "id": "tr-663-11-000", + "answers": [ + { + "text": "中央アジア", + "answer_start": 231, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ユースフ・カディル・ハンがカシュガルのカラハン朝の君主であった時代には、どの王朝との戦いが続きましたか?", + "id": "tr-663-11-001", + "answers": [ + { + "text": "ガズナ朝", + "answer_start": 244, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アフマド1世の治世のカラハン朝は、主にどの国と戦ったか?", + "id": "tr-663-11-002", + "answers": [ + { + "text": "天山ウイグル王国", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アフマド1世は、どの国との戦いから帰ってきて死去したか?", + "id": "tr-663-11-003", + "answers": [ + { + "text": "天山ウイグル王国", + "answer_start": 134, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "当初カラハン朝とガズナ朝との関係は良好で、ナスルとガズナ朝のスルターン・マフムードの娘との婚姻が進められていた。しかし、カラハン朝はガズナ朝を成り上がり者の国と蔑視し、ペルシア・インドを抑えるマフムードもカラハン朝を野蛮な国と見なし、またカラハン朝からの攻撃を警戒していた。1006年にマフムードがインドに出征した際、ナスルは隙を突いてホラーサーン地方に侵入し、ホータンのユースフの援軍を得てバルフ、ニーシャープールを略奪した。1008年1月にナスルはバルフ近郊のシャルヒヤーンの戦闘でマフムードに敗れ、撤退する。1025年にマフムードがナスルの子アリーの支配化に置かれていたマー・ワラー・アンナフルに侵入した際、カシュガルの支配者の地位を継いだユースフはマフムードと連合して西カラハン朝を攻撃した。1026年にアリーはブハラ、サマルカンドをガズナ朝から奪回したが、1032年にはマフムードの子マスウードによって一時的にブハラを占領された。", + "qas": [ + { + "question": "カラハン朝はガズナ朝と良好な関係を保つために、何による関係を築いていたの?", + "id": "tr-663-12-000", + "answers": [ + { + "text": "婚姻", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ナスルがホラーサーン地方を侵入したのは、何年のことですか?", + "id": "tr-663-12-001", + "answers": [ + { + "text": "1006年", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ナスルは、マフムードがどこへの遠征に出かけた時を狙ってホラーサーン地方を侵入したか?", + "id": "tr-663-12-002", + "answers": [ + { + "text": "インド", + "answer_start": 149, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ホラーサーン地方の統治者は、誰だったか?", + "id": "tr-663-12-003", + "answers": [ + { + "text": "マフムード", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "マー・ワラー・アンナフルを中心とする西部はアリーの一族、ベラサグン、カシュガルを中心とする東部はハサンの一族が支配する体制が敷かれていたが、11世紀半ばにカラハン朝は完全に東西に分裂する。東西に分裂したカラハン朝は互いに争い、10世紀半ばから行われていた異教徒に対する聖戦は終息する。", + "qas": [ + { + "question": "2つの一族による東西分離体制が敷かれていたカラハン朝が、完全に東西に分裂することになったのは、何世紀のことなの?", + "id": "tr-663-13-000", + "answers": [ + { + "text": "11世紀", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "もともとカラハン朝は、アリーの一族と誰の一族の2つの一族による東西分離体制になっていましたか?", + "id": "tr-663-13-001", + "answers": [ + { + "text": "ハサン", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "西カラハン朝はサマルカンドを首都に定め、11世紀にアッバース朝のカリフの権威を承認した。西カラハン朝の支配者は当初ウズガンド(ウズゲン)に居住していたが、権力を強化した後にサマルカンドに宮廷を移し、ウズガンドはフェルガナの統治者の本拠地とされた。西カラハン朝は全マー・ワラー・アンナフルの支配者を自称していたが、フェルガナはサマルカンドから半ば独立した状態にあった。", + "qas": [ + { + "question": "西カラハン朝のサマルカンド遷都により、ウズガンドはどこの統治者の本拠地とされたか?", + "id": "tr-663-14-000", + "answers": [ + { + "text": "フェルガナ", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "西カラハン朝がアッバース朝のカリフの権威を承認したのは、何世紀のことか?", + "id": "tr-663-14-001", + "answers": [ + { + "text": "11世紀", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "クラウス・フォン・シュタウフェンベルク", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "クラウス・フィリップ・マリア・シェンク・グラーフ・フォン・シュタウフェンベルクは、ドイツの軍人、貴族だ。軍における最終階級は参謀大佐。貴族の爵位は伯爵。ドイツ陸軍国内予備軍参謀長を務めていた際の1944年7月20日に、東プロイセンの総統大本営「狼の巣」において総統アドルフ・ヒトラーを時限爆弾によって暗殺する計画を実行したが、ヒトラーは軽傷を負うに留まった。「ヴァルキューレ作戦」発動によるクーデタ計画にも失敗し、7月21日に上官の国内予備軍司令官フリードリヒ・フロム上級大将の命令により逮捕され、銃殺刑に処せられた。現在のドイツ連邦共和国においては、英雄として顕彰されている。", + "qas": [ + { + "question": "クラウス・フィリップ・マリア・シェンク・グラーフ・フォン・シュタウフェンベルクの母国はどこなの?", + "id": "tr-664-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵は、1907年11月15日、ドイツ帝国領邦バイエルン王国領のイェティンゲンにあるイェティンゲン城において生まれた。イェティンゲンはシェンク・フォン・シュタウフェンベルク家の一族の所領であり、彼の母は出産の際にたまたまここに滞在していた。\n\nクラウスの父アルフレート・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵は、ドイツ帝国領邦ヴュルテンベルク王国ラウトリンゲンの領主であり、ヴュルテンベルク軍で少佐まで昇進した人物であった。また1908年からは同国国王ヴィルヘルム2世のシュトゥットガルトの宮殿で侍従長として仕え、王家の家政を取り仕切った。この際にシュトゥットガルトの旧宮殿を公邸として与えられ、以降シュタウフェンベルク一家はそこを中心に暮らした。\n\nクラウスの母カロリーネは、オーストリア=ハンガリー帝国陸軍中佐アルフレート・リヒャルト・アウグスト・フォン・ユクスキュル=ギレンバント伯爵の娘であり、1904年5月30日にアルフレートと結婚した。カロリーネの母ヴァレリエの祖父はプロイセン参謀本部の創設者の一人であるプロイセン元帥アウグスト・フォン・グナイゼナウ伯爵であった。", + "qas": [ + { + "question": "クラウス・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク伯爵の誕生日は何月何日ですか。", + "id": "tr-664-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1907年11月15日", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クラウスの母は誰の娘なの?", + "id": "tr-664-01-001", + "answers": [ + { + "text": "アルフレート・リヒャルト・アウグスト・フォン・ユクスキュル=ギレンバント伯爵", + "answer_start": 383, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クラウスの母はいつ結婚したの?", + "id": "tr-664-01-002", + "answers": [ + { + "text": "1904年5月30日", + "answer_start": 427, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クラウスの母側の祖母の名前は何?", + "id": "tr-664-01-003", + "answers": [ + { + "text": "ヴァレリエ", + "answer_start": 457, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "クラウスは双子二組の四人兄弟であり、三男であった。兄に1905年3月15日生まれのベルトルトとアレクサンダーの双子があり、またクラウスと同じ1907年11月15日に双子の弟コンラートが生まれている。ただしこのコンラートは生後一日にして死亡した。クラウスと兄二人との関係は幼い頃から終生緊密であった。\n\nクラウスが子供の頃に親しんだ場所は父の公邸があった王都シュトゥットガルト、ラウトリンゲンの自宅、またイェティンゲンやアーメルディンゲンやグライフェン��ュタインといった親類の家々などである。庭園巡り、ヴュルテンベルク王家との交流、茶会、サロンなどはシュタウフェンベルク家のお決まりの行事だった。\n\n1916年にシュトゥットガルト一の名門ギムナジウムであるエーベルハルト・ルートヴィヒ・ギムナジウムに入学した。シュタウフェンベルクの成績は上位だったが、1918年1月、第一次世界大戦の戦況の悪化で石炭不足のために学校が閉鎖された。\n\n大戦末期の1918年11月、ヴュルテンベルク王国でもドイツ革命が勃発し、シュタウフェンベルク家が仕えたヴュルテンベルク王家が崩壊した。父アルフレートは宮宰コンスタンティン・フォン・ノイラート男爵とともに最後まで国王に仕えた。アルフレートはシュトゥットガルトを離れた王と王妃を隠遁先のベーベンハウゼンのシトー派修道院までお供している。また国王の私有地と恩給についてヴュルテンベルクの新政府と交渉にあたったのもアルフレートだった。王家の宮殿や所領の大部分はヴュルテンベルク政府に接収されたが、一部の土地は民法の適用を受ける私有地として国王のもとに戻すことに成功した。貴族の所領も民法の適用を受ける私有地としてほぼ存続させた。ヴィルヘルム2世の皇太子アルベルト公爵は、アルフレートを「王の最も忠実な臣下の一人で、あの悲しい日々にあっても冷静さを失わなかった唯一の人物」と評した。クラウス・フォン・シュタウフェンベルクはこの年の11月15日の誕生日を最も悲しい誕生日と評し、祝いを拒絶した。クラウスは王がなにも抵抗せずに去った事に一番落胆したという。", + "qas": [ + { + "question": "クラウスはいつ生まれたの?", + "id": "tr-664-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1907年11月15日", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ベルトルトとアレクサンダーとクラウスのうち、一番年下は誰なの?", + "id": "tr-664-02-001", + "answers": [ + { + "text": "クラウス", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ヴュルテンベルク王国でドイツ革命が勃発したのはいつですか。", + "id": "tr-664-02-002", + "answers": [ + { + "text": "1918年11月", + "answer_start": 421, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クラウスは何年にエーベルハルト・ルートヴィヒ・ギムナジウムに入学したの?", + "id": "tr-664-02-003", + "answers": [ + { + "text": "1916年", + "answer_start": 299, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "音楽家や建築家を目指した時期もあったクラウス・フォン・シュタウフェンベルクだったが、最終的には軍人の道を志し、1926年4月1日にバイエルン州バンベルクに駐留するヴァイマル共和国軍第17騎兵連隊に入営した。シュトゥットガルトに駐留する第18騎兵連隊ではなく、バンベルクの第17騎兵連隊に志願したのは、この連隊がヴェルサイユ条約後に縮小された既存の連隊を合併させて作られた騎兵連隊であり、その中には伯父ベルトルトが大佐を務めていた旧バイエルン重騎兵連隊も含まれており、その縁故を期待したためと思われる。しかし一族からは「高位の貴族が共和主義の軍隊に仕えるとは何事」と不評であったという。\n\n1927年8月18日には伍長級士官候補生(Fahnenjunkergefreiter)となった。1927年10月から1928年8月までドレスデンの歩兵学校に在学して士官候補生としての訓練を受けた。さらに1928年10月から1929年8月にかけてはハノーファー騎兵学校に入学した。将校任官試験に騎兵の首席で合格し、1930年1月1日に少尉に任官した。", + "qas": [ + { + "question": "クラウス・フォン・シュタウフェンベルクはいつヴァイマル共和国軍第17騎兵連隊に入営したの?", + "id": "tr-664-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1926年4月1日", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クラウス・フォン・シュタウフェンベルクは1928年10月から1929年8月にかけてどの学校に入学したの?", + "id": "tr-664-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ハノーファー騎兵学校", + "answer_start": 417, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "クラウス・フォン・シュタウフェンベルクは1930年11月15日にニナ・フォン・レルヒェンフェルト男爵令嬢と婚約した。彼女の父グスタフ・フォン・レルヒェンフェルト男爵はかつてバイエルン王室の侍従長だった人物でフォン・シュタウフェンベルクが所属する第17騎兵連隊の将校をよくもてなしていた。その縁で二人は知り合うことになった。1933年9月にバンベルクで挙式した。\n\n1930年11月から1931年2月にかけてはポツダムで迫撃砲の研修を受け、バンベルクに戻った後に第17騎兵連隊の迫撃砲部隊の指揮官となった。\n\nフォン・シュタウフェンベルクは気さくで率直で魅力のある人物だったので、会話において主導権を握る事が多かったという。ある同僚の将校は「かなり大勢人が集まっているときでさえ、彼の姿を見過ごすことはあり得なかった。そのつもりがなくても、彼はいつも人の輪の中心だった。彼からは人を惹きつけ、納得させ、信頼感を与える力が発していた」と証言している。また彼の上官の騎兵大隊長は1930年に彼について「軍事的能力がある事、知的に優れている事を自覚しており、ときに人を食ったような皮肉っぽい態度を取る事がある。しかしそれで相手が感情を害する事はない」と書き留めている。上官からも仲間たちからも厚い信頼を寄せられていたフォン・シュタウフェンベルクは、何年にもわたって連隊の将校クラブの商務も担当していた。また連隊の名誉法廷構成員にも選出されている。", + "qas": [ + { + "question": "クラウス・フォン・シュタウフェンベルクは1930年11月15日、誰と婚約したか。", + "id": "tr-664-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ニナ・フォン・レルヒェンフェルト男爵令嬢", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クラウス・フォン・シュタウフェンベルクの婚約相手は誰の娘なの?", + "id": "tr-664-04-001", + "answers": [ + { + "text": "グスタフ・フォン・レルヒェンフェルト男爵", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1939年9月1日から始まったポーランド侵攻に参加した。フォン・シュタウフェンベルクの所属する第1軽師団は9日間で200キロ以上進撃し、ヴィスワ川に一番乗りして数千人を捕虜にした。10月12日に師団は平時の基地へ帰還し、第6装甲師団に再編成された。フォン・シュタウフェンベルクは困難な状況の中でも補給を確保した事や数千のポーランド人捕虜に対しても模範的なまでに給養を出した事に対して何度も表彰された。1939年11月1日付けで参謀大尉(Hauptmanni.G)となり、正式に参謀本部に転任し、あらためて第6装甲師団の補給係将校となる。\n\n1940年5月10日から開始された対仏戦にも参加した。彼の所属する第6装甲師団は5月12日にベルギーの国境を越えた後、9日間で270キロ以上の進撃をしたが、その中でも彼は補給をしっかりと確保した。1940年5月31日に一級鉄十字章を授与されるとともに陸軍総司令部(OKH)の参謀本部編成課2グループ(平時組織と命令系統)長に任じられた。", + "qas": [ + { + "question": "ポーランド侵攻はいつ始まったの?", + "id": "tr-664-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1939年9月1日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "対仏戦はいつから始まったの?", + "id": "tr-664-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1940年5月10日", + "answer_start": 270, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "フォン・シュタウフェンベルクは1941年1月1日には参謀少佐に��進した。1941年6月に独ソ戦が開始されると頻繁に前線の軍の補給状態の視察を行った。1941年冬にドイツ軍は厳寒でほとんど進軍できず、その間ソ連が態勢を立て直してしまった。フォン・シュタウフェンベルクは1942年春にはドイツが単独でソ連軍を撃破するのはもはや不可能であり、ソ連住民の協力が必要だと確信するようになった。独裁者ヨシフ・スターリンの暴政に虐げられるソ連支配下の住民の多くはドイツ軍を解放軍として歓迎していた。そのため占領地域の住民の感情を損なうような行動を彼はよしとしなかった。1942年4月に彼は他の参謀本部の将校との会話の中でソ連捕虜や占領地域一般市民に対する残忍な行為、アインザッツグルッペンによるユダヤ人殺戮などに怒りを述べている。また編成課2グループ長として占領地域からの志願兵をスラブ人への差別意識の強い親衛隊(SS)ではなく、国防軍の管理下に置くよう努力した。", + "qas": [ + { + "question": "フォン・シュタウフェンベルクはいつ参謀少佐に昇進したか。", + "id": "tr-664-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1941年1月1日", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "独ソ戦はいつ開始されたの?", + "id": "tr-664-06-001", + "answers": [ + { + "text": "1941年6月", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "フォン・シュタウフェンベルクは1943年1月1日に参謀中佐に昇進した。1943年2月3日、ベルリンで短期休暇を過ごしていた際に北アフリカ戦線のチュニジアの第10装甲師団に主席参謀将校として配属する旨の人事異動が通達された。同師団は1942年11月にアルジェリアとモロッコに上陸した米英軍と戦っていた。念願の前線勤務となったが、2ヶ月後の4月7日には乗っていた車がイギリス軍機に機銃掃射されて重傷を負ってしまった。スファックス近くの野戦病院へ移送され、ここで右手の手首から上、また左手の薬指と小指を切断した。また左目も摘出せねばならなかった。この後、フォン・シュタウフェンベルクは船でリヴォルノへ移送され、そこから病院列車でミュンヘンの陸軍病院へ送られた。そこで3ヶ月間の入院生活を送った。", + "qas": [ + { + "question": "フォン・シュタウフェンベルクはいつ参謀中佐に昇進したの?", + "id": "tr-664-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1943年1月1日", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "クラウス・フォン・シュタウフェンベルクは妻ニナとの間に5人の子供をもうけた。長男ベルトルト、次男ハイメラン、三男フランツ=ルートヴィヒ、長女ヴァレリエ、次女コンスタンツェである。\n\nクラウスは家族が巻き込まれないようにと妻ニナにもヒトラー暗殺計画を打ち明けていなかった。しかしニナは夫の様子が妙である事に気づき、「あなた、謀反人ごっこをしているのでしょう」と聞いたことがあった。クラウスはそれを認めたが、「お前は知らない方がいい」と言って詳しい内容は話さなかったという。\n\n事件後、ナチス政府の憎しみはレジスタンスの中でも特に貴族に向かった。ドイツ労働戦線全国指導者ロベルト・ライは、事件後に『デア・アングリフ』に寄稿した記事の中で「貴族はユダヤ人の手先」と断定した。そしてその憎しみが最も向けられたのがフォン・シュタウフェンベルク伯爵家であった。内務大臣ハインリヒ・ヒムラーは「シュタウフェンベルク伯爵家は一人残らず根絶やしにせねばならない」と発言した。", + "qas": [ + { + "question": "クラウス・フォン・シュタウフェンベルクとニナの間、何人の子供がいましたか。", + "id": "tr-664-08-000", + "answers": [ + { + "text": "5人", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ベルトルト、ハイメラン、フランツ=ルートヴィヒのうち、一番先に生まれたのは誰なの?", + "id": "tr-664-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ベルトルト", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ヴァレリエとコンスタンツェと、誰がもっと先に生まれた?", + "id": "tr-664-08-002", + "answers": [ + { + "text": "ヴァレリエ", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "桂正和", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "桂正和(かつらまさかず、本名同じ、1962年12月10日-)は、日本の男性漫画家。\nプロダクション名はSTUDIOK2R。\n福井県生まれの千葉県育ち。\n阿佐ヶ谷美術専門学校中退。\n血液型はA型。\n2015年より嵯峨美術大学客員教授。\n1981年(昭和56年)に『週刊少年ジャンプ』(集英社)32号掲載の「転校生はヘンソウセイ!?」でデビューし、1983年(昭和58年)に同誌5・6合併号から連載を開始した『ウイングマン』で連載デビューした。\n主に『週刊少年ジャンプ』で活躍し、その後『週刊ヤングジャンプ』(同)に移籍した。\n代表作に『ウイングマン』・『電影少女』・『I\"s』など。\n『週刊ヤングジャンプ』誌上において『ZETMAN』を連載していた。\n評価は日本国内に留まらず香港・台湾・アメリカ・フランスなど様々な国のファンより支持されている。", + "qas": [ + { + "question": "桂正和の連載デビュー作品は何かな?", + "id": "tr-665-00-000", + "answers": [ + { + "text": "『ウイングマン』", + "answer_start": 202, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "桂正和は『週刊ヤングジャンプ』に移籍する前はどこに在籍していたの?", + "id": "tr-665-00-001", + "answers": [ + { + "text": "『週刊少年ジャンプ』", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1962年(昭和37年)福井に生まれ、小学生の時に千葉県千葉市村田町へ引っ越し、さらに中学になる頃に同県市原市八幡へ移り20歳頃までを過ごす。\n子供の頃から絵は得意で受賞などもしていたが、アニメや漫画にはさほど惹かれておらず、ウルトラシリーズや仮面ライダーシリーズといった特撮ヒーロー物に夢中になっていた。\n中学時にV55(Technics)という50万円のコンポーネントステレオが欲しくて、当時50万円だった賞金目当てに手塚賞への応募を始める。\n最初の道具は手塚治虫の入門書を読んで小遣いで揃えた物だった。\nそれまでは漫画家を目指していたわけでもない上に漫画もほとんど読んでおらず、当初は賞金だけが目的であった。\n目的のコンポは賞金を手に入れる前に買ってもらったが、漫画を描き続ける中で描く面白さを覚え、高校時には授業中にペン入れをするなどして漫画に没頭する。\nそして1980年(昭和55年)の高校卒業間際にフレッシュジャンプ賞に投稿した作品が選外ながらも編集者・鳥嶋和彦の目に止まり、また同時期に手塚賞に応募していた「ツバサ」が佳作に入選する。", + "qas": [ + { + "question": "桂正和が初めて手塚賞に応募したのはいつだったの?", + "id": "tr-665-01-000", + "answers": [ + { + "text": "中学時", + "answer_start": 154, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "桂正和は手塚賞の賞金を得て何を買いたかったの?", + "id": "tr-665-01-001", + "answers": [ + { + "text": "コンポーネントステレオ", + "answer_start": 179, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "手塚賞の佳作に入選した桂正和の作品名は何?", + "id": "tr-665-01-002", + "answers": [ + { + "text": "「ツバサ」", + "answer_start": 460, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "桂正和が子供の頃に高い関心を示していた分野は何?", + "id": "tr-665-01-003", + "answers": [ + { + "text": "特撮ヒーロー物", + "answer_start": 136, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "高校時代には『電子戦隊デンジマン』をきっかけとし東映の特撮テレビドラマにのめり込む。\nこうした特撮ヒーロー物のファン故、そのトレースしただけの様なSF作品ばかりを描いていたが、担当となった鳥嶋にラブコメディ作品を描く様に薦められ「転校生はヘンソウセイ!?」を執筆する。\n同作は初めてのラブコメであったにも関わらず手塚賞準入選に入賞して『週刊少年ジャンプ』(以下『WJ』)に掲載され、専門学校在籍中に漫画家としてのデビューを果たす。\nその後『WJ』で「ウイングマン」の連載を開始し多忙となったこと、そして3年への進級に失敗したことから専門学校を中退した。\n同作は自身の好きなヒーロー物にラブコメディ要素を取り入れたことによりヒットし、アニメ化もされた。", + "qas": [ + { + "question": "桂正和が専門学校を中退した時に連載していた漫画は何?", + "id": "tr-665-02-000", + "answers": [ + { + "text": "「ウイングマン」", + "answer_start": 224, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "初めてのラブコメでありながら手塚賞準入選に入賞した桂正和の作品は何?", + "id": "tr-665-02-001", + "answers": [ + { + "text": "「転校生はヘンソウセイ!?」", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「ウイングマン」はヒーロー物とどのような要素を入れた作品ですか?", + "id": "tr-665-02-002", + "answers": [ + { + "text": "ラブコメディ", + "answer_start": 292, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "『ウイングマン』終了後は『超機動員ヴァンダー』・『プレゼント・フロムLEMON』と短期終了の連載が2作続き、不遇の時代を迎える。\n再び担当となった鳥嶋のサポートから「恋愛モノ」に取りかかり、『ウイングマン』とは逆に恋愛にSF要素を取り入れた読切「ビデオガール」を1989年(平成元年)に発表、同年さらにこれを基にした『電影少女』の連載を開始する。\n『電影少女』は単行本巻数としては『WJ』時代最長となる15巻まで続き、OVA化・実写映画化等様々なメディアミックス展開が行われるヒット作となった。\n両作は桂にとって漫画家としてのターニングポイントとなっており、作風に様々な変化をもたらした。\nまたこの年公開された映画『バットマン』をきっかけに桂は『バットマン』のファンとなり、以降の作品に影響を与えた。", + "qas": [ + { + "question": "『ウイングマン』の次に短期連載された作品は何?", + "id": "tr-665-03-000", + "answers": [ + { + "text": "『超機動員ヴァンダー』", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『電影少女』のベースになった読切作品は何?", + "id": "tr-665-03-001", + "answers": [ + { + "text": "「ビデオガール」", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "桂にとって漫画家としてのターニングポイントとなった連載漫画とは?", + "id": "tr-665-03-002", + "answers": [ + { + "text": "『電影少女』", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "その後の桂の作品に影響を与えた映画は何?", + "id": "tr-665-03-003", + "answers": [ + { + "text": "『バットマン』", + "answer_start": 307, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "『電影少女』終了後、1992年(平成4年)からは鳥嶋が創刊編集長を務めた『週刊少年ジャンプ特別編集増刊VJUMP』において『SHADOWLADY』【VJ版】を連載、その後『WJ』に戻り1994年(平成6��)から『D・N・A2〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜』・1995年(平成7年)からは『SHADOWLADY』【WJ版】とアクション色の強い作品を続けて発表する。\n『D・N・A2』の連載は単行本5巻分と比較的短期だったが、テレビアニメ化されている。\n1996年(平成8年)には初の青年誌向け作品として『エム』を『MANGAオールマン』にて発表する。\nそして翌1997年(平成9年)にはWJ編集部の意向に沿う形で、SF要素を一切排した恋愛漫画『I\"s』の連載を開始する。\n同作は『WJ』時代最長の作品となり、連載終了後にもメディアミックスが行われるヒット作となった。", + "qas": [ + { + "question": "アクション色強めの桂の作品の内、2番目に連載された作品は何?", + "id": "tr-665-04-000", + "answers": [ + { + "text": "『SHADOWLADY』【WJ版】", + "answer_start": 145, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "桂の『WJ』時代最長となった連載漫画は何?", + "id": "tr-665-04-001", + "answers": [ + { + "text": "『I\"s』", + "answer_start": 322, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『D・N・A2〜何処かで失くしたあいつのアイツ〜』の連載前に桂が連載作品を掲載したのは何という雑誌?", + "id": "tr-665-04-002", + "answers": [ + { + "text": "『週刊少年ジャンプ特別編集増刊VJUMP』", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2000年(平成12年)の『I\"s』連載終了と同年に掲載された読切「Dr.チャンバリー」を最後に、桂は長年活動の場として来た『WJ』を離れる。\nそして2002年(平成14年)に発表された『M完全版』以降は活動の場を『週刊ヤングジャンプ』に移し、同年より『ZETMAN』の連載を開始する。\n5年以上にわたって連載が継続されており、桂最長の作品となっている。\n移籍後に発売された『I\"s』の完全版は『WJ』連載作品でありながら、ヤングジャンプ・コミックスレーベルからの発売となっている。", + "qas": [ + { + "question": "『WJ』時代最後に掲載された桂の作品は何?", + "id": "tr-665-05-000", + "answers": [ + { + "text": "「Dr.チャンバリー」", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "桂最長の作品は何?", + "id": "tr-665-05-001", + "answers": [ + { + "text": "『ZETMAN』", + "answer_start": 126, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "同じく漫画家で友人の鳥山明は桂の作風について「(桂は)感動させたくてしょうがない」と評している。\n「作風が真逆なくらい違う」鳥山が人間味を表現するのを嫌い、明るくくだらないやり取りを好むのに対し、桂はやや暗く感動を誘うような描写を好む。\nこうした自身の作風について桂は、あすなひろしの“哀しい”作品の影響を述べている。\n『コミッカーズ』1997年10月号では「美少女とヒーローをカラーで描かせたら右に出る者はいない」との形容によって、桂の作品の特徴を端的に表している。\nこうした特徴から初のイラスト集である『4C』も、恋愛作品のイラストを中心とした「L-side‹LOVERS-side›」とヒーロー物を中心とした「R-side‹HEROES-side›」という構成になっている。", + "qas": [ + { + "question": "桂の作風がやや暗く感動を誘うような描写を好むのは、誰の作品の影響からだと本人が述べていますか?", + "id": "tr-665-06-000", + "answers": [ + { + "text": "あすなひろし", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "桂の初のイラスト集で、恋愛作品のイラストを中心とした構成部分には何というタイトルがついていますか?", + "id": "tr-665-06-001", + "answers": [ + { + "text": "「L-side‹LOVERS-side›」", + "answer_start": 274, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "桂とは真逆の作風である漫画家は誰?", + "id": "tr-665-06-002", + "answers": [ + { + "text": "鳥山明", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "手塚賞佳作受賞作である「ツバサ」から長期連載の『ZETMAN』に至るまで、変身ヒーローを扱った作品が多い。\n上述の通り高校時代には特撮ヒーローに夢中となってそのトレースのような作品ばかりを書いていたこともあり、初期の作品には特撮ヒーロー物の影響が強い。\nまた、『バットマン』公開以降の作品については同作の影響を自身で述べている。\n桂自身はヒーロー物に対してはこだわりがあり、『ZETMAN』については物語の構想としては変身ヒーローである意味が無いことを認識しながらも、「僕がやる限りヒーローだよな」との思いから変身ヒーロー物として描いている。", + "qas": [ + { + "question": "「ツバサ」から『ZETMAN』に至るまで、桂が多く扱ったものとは何?", + "id": "tr-665-07-000", + "answers": [ + { + "text": "変身ヒーロー", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "「少年誌でやってる限り、......『ラブコメ』が向いているらしくて」と桂自身が述べるように、『電影少女』・『I\"s』とヒットし長期連載となった作品には恋愛要素が強い作品が列び、また恋愛を主題とはしていない変身ヒーロー物であっても『WJ』時代の連載作品には必ず恋愛要素と性的なサービスカットが含まれている。\n同じく鳥嶋にラブコメを求め続けられながらも頑なに拒否した鳥山明とは対極的に、桂はその要望を受け入れたことによって作品が時代とマッチし、ヒット作を生み出していった。\nしかしこうした恋愛要素はコメディ要素と共にあくまで編集の意向を汲んで描かれたものであり、初のラブコメディ作品「転校生はヘンソウセイ!?」も担当のアイデアを取り入れることで執筆された作品であった。\n桂は恋愛作品について自身の趣味とは全く異なるものではあるが、嫌ではない旨を述べ、最初のラブコメを苦痛無く悩まず描けたことがその後へと繋がっていったと懐述している。\nただし、「(『電影少女』の開始時には)恋愛モノなんて、イヤでイヤでしようがなかったし、連載で描き続ける自信など、まるでなかった」や、「自分に求められている物を意識しすぎて、......恋愛やエロを入れなきゃとか」、などのより消極的な発言も見られ、『ウイングマン』に登場する女性戦隊ウイングガールズについては、ストイックな特撮ヒーロー物をやりたかったため本心としては出したくなかったが、編集の意向に合わせて仕事と割り切り登場させた旨を懐述している。\nなお、恋愛物についてはラッセ・ハルストレムの映画『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』の影響を自身で述べている。", + "qas": [ + { + "question": "桂とは相反して鳥嶋からのラブコメ要求を拒否し続けた漫画家は誰ですか?", + "id": "tr-665-08-000", + "answers": [ + { + "text": "鳥山明", + "answer_start": 182, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "桂の恋愛作品に影響を与えた映画は何?", + "id": "tr-665-08-001", + "answers": [ + { + "text": "『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』", + "answer_start": 664, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "鳥山は桂との対談で「(桂は)エッチなのが武器」と述べており、性的な描写は桂の作品の魅力の一つとなっている。\nサービスカットは『ウイングマン』初期より登場していたが、『電影少女』の連載中に性的な表現に対する大きな転機が訪れる。\n当初恋愛物の執筆にあまり乗り気ではなかった桂は、せめてもの抵抗として少年誌にありがちな恋愛漫画を避けようとリアリティ(現実感)ある描写を求めていく。\nそして男女交際の帰結としてベッドシーンなどにも踏み込んでいくが、「キスまで」という少年誌的な制約は厳しく、桂はこの制約の中で「裸を出さずにエッチに描く」ことにより、際どくリアリティのある描写を目指していく。\nとはいえその限界の見極めは難しく、『電影少女』では単行本に収録される際の修正・単行本発行後の修正・山口県での第3巻の有害図書指定と、当時強まっていた漫画に対する表現規制のあおりを直接受けることとなった。\nこうした際どい表現方法は、以降も桂の作品の特徴となっており、後の「エム」や『I\"s』などにも受け継がれていく。", + "qas": [ + { + "question": "桂作品の魅力の1つは何ですか?", + "id": "tr-665-09-000", + "answers": [ + { + "text": "性的な描写", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "際どくリアリティある性表現や描写を目指すきっかけとなった作品は何ですか?", + "id": "tr-665-09-001", + "answers": [ + { + "text": "『電影少女』", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『電影少女』の第三巻を有害図書指定に決めた県はどこですか?", + "id": "tr-665-09-002", + "answers": [ + { + "text": "山口県", + "answer_start": 341, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "上述の通り桂の描く美少女には定評があるが、「ウイングマン」の連載中には担当編集より「色気がない」との指摘を受けていた。\nこの指摘から桂は色気を出して描くことを意識するが、その結果として女の子を主人公にした作品の依頼しか来なくなったと語っている。\nただし、早い時期から美少女の描写は評価されており、「ウイングマン」連載中のファンレターや『超機動員ヴァンダー』の巻末にコメントを寄せた土居孝幸からは共に「女の子が可愛い」との評価を受けている。\n少女の描写の中でも特に尻の描写は評価が高く、鳥山は「桂君と言えばお尻」との理由によって「さちえちゃんグー!!」の主人公さちえの痣を尻に設定している。\nまた同じく漫画家の河下水希も、「桂正和先生の描かれるお尻なんて物凄い」と評している。\n美少女を描くのに当たり桂は、グラビアなどからイメージをする程度にとどめ、特定のモデルを決めずに描いている。\nこれは特定のモデルを決めて描くと目の大きさなどのバランスが絵としては悪くなり、修正を加えていっても良い物が描けないことによる。", + "qas": [ + { + "question": "美少女の描写の中でも得に高評価を受けているのは体のどの部分ですか?", + "id": "tr-665-10-000", + "answers": [ + { + "text": "尻", + "answer_start": 231, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "趣味は映画鑑賞とグッズのコレクション。\nまた高校時代には特撮ヒーローにも夢中になっていた。\n映画鑑賞のために自宅地下にはバットマングッズのコレクションルームも兼ねたAVルームを設けており、かなりの予算を掛けている。\n好きな映画監督としてはサム・ライミを挙げており、『死霊のはらわた』からの熱心なファンである。\n2002年(平成14年)の『スパイダーマン』公開に当たりライミが訪日した際には、『週刊ヤングジャンプ』の企画で対談を果たしている。\nコレクションの対象としては、バットマングッズ、アンティークウォッチ、スニーカーが挙げられている。", + "qas": [ + { + "question": "『週刊ヤングジャンプ』の企画で対談も果たした桂の好きな映画監督は誰かな?", + "id": "tr-665-11-000", + "answers": [ + { + "text": "サム・ライミ", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "特撮変身ヒーローのファンであり、好きな作品としてはスーパー戦隊シリーズの『電子戦隊デンジマン』、宇宙刑事シリーズの『宇宙刑事シャイダー』、ウルトラシリーズの『ウルトラマン』を挙げている。\n中でも高校時代に出会った『デンジマン』は特撮ヒーローに夢中となるきっかけとなった作品であり、「エポック」であり「僕の中で戦隊物であれを越えられる物はない」と語っている。\n特撮に対する熱意は作品鑑賞には留まらず、専門学校時代には自主制作映画の中で『太陽戦隊サンバルカン』のコスプレを行い、学園祭には『大戦隊ゴーグルファイブ』のレッドのコスプレで参加していた。", + "qas": [ + { + "question": "桂が最高に好きなヒーロー物の作品とは何?", + "id": "tr-665-12-000", + "answers": [ + { + "text": "『電子戦隊デンジマン』", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "そして特撮は単なる趣味に留まらずに作品にも多大な影響を与えており、中でも東映作品は桂がヒーロー物を描くようになった原点となっている。\nデビュー時期に執筆された短編「学園部隊3パロかん」とその続編「学園部隊3パロかんII」は、戦隊物の自己紹介アクションを漫画で表現することを目的として執筆されたものであり、『サンバルカン』や『バトルフィーバーJ』と言った戦隊物のパロディ作品となっている。\nそして同シリーズに先立ち執筆され、デビューのきっかけとなった短編「ツバサ」は『デンジマン』に熱中していた時に描かれた作品であり、本作を基として描かれた連載デビュー作『ウイングマン』も様々な面で特撮の影響下にある作品となっている。\nそもそもとして同作は「東映の特撮物を、自分で動かしてやってみたい」という動機で描かれた作品であり、作中ヒーローであるウイングマンのデザインは鳥を基本とした上で、「デンジマンの目がないところ」と「胸から腕までの白いライン」を基とし、デンジマンのシンプルさを目指してデザインされた物である。\nまた「ウイングマン」という名称もウルトラマンに字数と「ウ」から始まり「マン」で終わる所を合わせて命名されたものである。\n連載開始後には製作に100万円以上掛けた衣装で自らウイングマンのコスプレを行い単行本各巻の目次背景に写真を掲載、さらに単行本ではおまけページにおいて変身アクションの解説も作成している。", + "qas": [ + { + "question": "桂がウイングマンをデザインする上でモチーフにしたヒーローは何?", + "id": "tr-665-13-000", + "answers": [ + { + "text": "デンジマン", + "answer_start": 390, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「ウイングマン」の名称を付ける上で参考にしたヒーローの名前は何?", + "id": "tr-665-13-001", + "answers": [ + { + "text": "ウルトラマン", + "answer_start": 469, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "桂はバットマングッズのコレクターとしても有名で、1997年(平成9年)の『バットマン&ロビンMr.フリーズの逆襲』および2012年(平成24年)の『ダークナイトライジング』ではパンフレットにコメントを寄稿、2008年(平成20年)にバンダイより発売される『ダークナイト』のアクションフィギュア『MOVIEREALIZATIONBATMAN&BAT-POD』ではスーパーバイザーを務め、デザインアレンジとパッケージイラストを担当している。\nファンとなったきっかけは1989年の映画『バットマン』(ティム・バートン)で、同作によって「ウイングマン」の連載終了後には飽きていたヒーロー物に対する情熱が再燃した旨を語っている。", + "qas": [ + { + "question": "桂がバッドマン映画のパンフレットに2度のコメントを寄稿した内、最初にコメントした映画は何年に公開されましたか?", + "id": "tr-665-14-000", + "answers": [ + { + "text": "1997年", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "桂のヒーロー物に対する情熱を再燃させたのは何年公開の『バットマン』映画ですか?", + "id": "tr-665-14-001", + "answers": [ + { + "text": "1989年", + "answer_start": 231, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "映画自体については「好きな映画ではあるが一番おもしろい映画ではない」と述べており、桂にとってのバットマンの魅力はバットマンのキャラクター性にある。\n誰も見ていないところでコウモリの格好をしてどちらが悪人だか分からないような対応でチンピラに脅しをかけるといった行動や、怖い容姿をして常に怒っている正義の味方バットマンと馬鹿みたいに笑っている悪役ジョーカーの両方が同じ位に狂気に満ちていることが、東映特撮によって作られた桂にとってのヒーロー像とは異なり新鮮であったこと、そして自分がヒーローであることを見て欲しい自己中心的な性格が『ウイングマン』の健太とシンクロしたことをその魅入られた理由として挙げている。\nまた一番好きな敵キャラクターとしてはジョーカーを挙げ、敵がジョーカーであったこともバットマンに没頭した理由の一つである旨を述べている。", + "qas": [ + { + "question": "桂は最も好きな敵キャラクターは誰だと述べていますか?", + "id": "tr-665-15-000", + "answers": [ + { + "text": "ジョーカー", + "answer_start": 321, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "桂は自身の作品のどの登場人物とバットマンがシンクロしたと述べましたか?", + "id": "tr-665-15-001", + "answers": [ + { + "text": "健太", + "answer_start": 272, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "『バットマン&ロビン』特集号の『S.M.H.』VOL.8では自作のバットマン胸像が表紙を飾り、「自他ともに認める強度のバットマニア」との形容と共にバットマングッズのコレクターとしての取材を受けた他、『フィギュア王』NO.27でも「漫画界きってのバットマニア」として取材を受けており、これらの取材ではバットマングッズのコレクションルームを兼ねた自宅地下のAVルームを公開している。\nバットマンは桂の作品にも影響を与えており、特に『SHADOWLADY』と読切「ZETMAN」はバットマンの世界へのオマージュ作品となっている。\nより直接的な描写としては、頭の「とがった耳」をバットに変えたパロディキャラクター「ばっとマン」が『電影少女』の作中に登場している。\nなお、愛犬はバットマン登場キャラクターアルフレッドに因み、雌であるためアルフレッコと名付けられている。\nまた、『WJ』連載時の自画像にも、バットマンの絵を使用していた", + "qas": [ + { + "question": "バットマンの世界へのオマージュ作品となった桂の連載作品は何?", + "id": "tr-665-16-000", + "answers": [ + { + "text": "『SHADOWLADY』", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "桂の愛犬アルフレッコは、バットマンに登場するどのキャラクターに因んで名付けられたの?", + "id": "tr-665-16-001", + "answers": [ + { + "text": "アルフレッド", + "answer_start": 347, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "鳥山と桂は鳥嶋和彦によって才能を見出された友人同士であり、数少ない漫画家の友人の中で最も親交の深い人物として互いに互いを挙げている。\nまたアシスタント経験の無い桂は鳥山に漫画の相談をすることもあり、鳥山との関係について「師匠と言ってもいいかも」や「学校の先生のようなもの」と表現している。\n初期には共に田舎出身であることから、鳥山が『Dr.スランプ』に田舎者として桂を登場させ、桂が『ウイングマン』に都会者であるかの様に振る舞う「生徒会トリヤマ」や「Mr.マヤリト」として鳥山を登場させるなどと、互いに相手の方が田舎者であると冗談でけなし合うやり取りを『ジャンプ』誌上で行っていた。\nまた、桂が病気療養のために「ウイングマン」を一時休載した際には、応援コーナー「がんばれ!がんばれ!桂くん!」に「イナカ友だち」として鳥山がタイトルとイラストを寄稿している。\nまた���1983年~1984年当時の桂は鳥山に「鳥嶋和彦似」であることを指摘されていたことから、『Dr.スランプ』の中で則巻千兵衛に「Dr.マシリト」と言われる場面がある。", + "qas": [ + { + "question": "桂が”師匠”や”学校の先生”と表現する程慕い、深い親交を築いた漫画家とは?", + "id": "tr-665-17-000", + "answers": [ + { + "text": "鳥山", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "鳥嶋和彦が桂以外に才能を見出した漫画家は誰?", + "id": "tr-665-17-001", + "answers": [ + { + "text": "鳥山", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「Mr.マヤリト」は誰のことを指したキャラクターだったの?", + "id": "tr-665-17-002", + "answers": [ + { + "text": "鳥山", + "answer_start": 163, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "互いの作品に影響を与えている場合もあり、『ドラゴンボール』において孫悟空が界王を笑わせるために使ったギャグは桂が考えたものであり、フュージョンのポーズの考案にも関わっている。\n一方、「すず風のパンテノン」は鳥山との雑談の中から生まれ、『D・N・A2』で主人公が髪の色を変えて変身するのは鳥山のアドバイスによるものである、桂から「スーパーサイヤ人に似るのでは。」との問いに、鳥山は「大丈夫、わかりゃしないよ。」の応答から作品を発表するも、読者からは「パクるな!」との批判の声が多かった。\nまた『ZETMAN』では車のデザインを行っている。\n2008年には原作:鳥山明・漫画:桂正和で読切「さちえちゃんグー!!」を共作。\nまた2009年末からは、同じ分担で「JIYA-ジヤ-」を『週刊ヤングジャンプ』において全3話の短期集中連載を行う。", + "qas": [ + { + "question": "原作が鳥山明、漫画を桂正和の分担で、全3話の短期集中連載をした作品タイトルは何?", + "id": "tr-665-18-000", + "answers": [ + { + "text": "「JIYA-ジヤ-」", + "answer_start": 326, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『ドラゴンボール』において孫悟空が界王を笑わせるために使ったギャグを考えたのは誰?", + "id": "tr-665-18-001", + "answers": [ + { + "text": "桂", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "鳥山と桂の共作で短期集中連載した作品は、何の雑誌に掲載されたの?", + "id": "tr-665-18-002", + "answers": [ + { + "text": "『週刊ヤングジャンプ』", + "answer_start": 337, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "鳥嶋和彦は元担当編集者で、桂を漫画家としての成功へと導いた功労者である。\n月例新人賞に応募してきた桂の作品を見て、「一コマだけいい顔あったから」と声をかけて担当となりデビューへと導いた。\nまたターニングポイントとなった「ビデオガール」・『電影少女』も鳥嶋の協力のもとで誕生している。\nなお「ビデオガール」の完成後、桂は鳥嶋が担当から外れたこともあり好評だった別の読切「SHIN-NO-SHIN」での連載を考えていたが、副編集長となった鳥嶋の推しにより「ビデオガール」を基とした連載を開始することとなった。\nまた「SHADOWLADY」の名付け親でもある。", + "qas": [ + { + "question": "「SHADOWLADY」と名付けたのは誰?", + "id": "tr-665-19-000", + "answers": [ + { + "text": "鳥嶋和彦", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "エストニアとロシアの領有権問題", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "エストニアは、ロシアが実効支配するレニングラード州イヴァンゴロド周辺地域、およびプスコフ州ペチョールィ周辺地域の2か所について、自国の領有権を主張していた。", + "qas": [ + { + "question": "エストニアが自国の領有権を主張したのは、何か所だったの?", + "id": "tr-666-00-000", + "answers": [ + { + "text": "2か所", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "エストニアが自国の領有権を主張したのは、レニングラード州イヴァンゴロド周辺地域とどの地域ですか?", + "id": "tr-666-00-001", + "answers": [ + { + "text": "プスコフ州ペチョールィ周辺地域", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "エストニアが自国の領有権を主張したのは、どの国が実効支配していた地域だったか?", + "id": "tr-666-00-002", + "answers": [ + { + "text": "ロシア", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "レニングラード州イヴァンゴロド周辺地域とプスコフ州ペチョールィ周辺地域における領有権を主張したのは、どの国か?", + "id": "tr-666-00-003", + "answers": [ + { + "text": "エストニア", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "レニングラード州イヴァンゴロド周辺地域とプスコフ州ペチョールィ周辺地域は、1920年にエストニア第一共和国がソビエト・ロシアとの間に締結したタルトゥ条約において、エストニア領であることが合意されていた。", + "qas": [ + { + "question": "レニングラード州イヴァンゴロド周辺地域とプスコフ州ペチョールィ周辺地域をエストニアの領域とした条約は、何年に結ばれたの?", + "id": "tr-666-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1920年", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "レニングラード州イヴァンゴロド周辺地域とプスコフ州ペチョールィ周辺地域をエストニアの領域とした条約は、どの条約ですか?", + "id": "tr-666-01-001", + "answers": [ + { + "text": "タルトゥ条約", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "タルトゥ条約は、エストニア第一共和国とどの国の間で結ばれた条約か?", + "id": "tr-666-01-002", + "answers": [ + { + "text": "ソビエト・ロシア", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "タルトゥ条約により、レニングラード州イヴァンゴロド周辺地域とプスコフ州ペチョールィ周辺地域を領域内に収めたのは、どの国か?", + "id": "tr-666-01-003", + "answers": [ + { + "text": "エストニア第一共和国", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "しかし、1940年にエストニアがソビエト・ロシアの後身であるソビエト連邦へ併合されると、レニングラード州イヴァンゴロド周辺地域とプスコフ州ペチョールィ周辺地域はソ連領内においてロシアへと移管された。", + "qas": [ + { + "question": "ソビエト連邦の前身となるのは、何?", + "id": "tr-666-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ソビエト・ロシア", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "エストニアがソビエト連邦に併合されたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-666-02-001", + "answers": [ + { + "text": "1940年", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "レニングラード州イヴァンゴロド周辺地域とプスコフ州ペチョールィ周辺地域は、エストニアがソ連に併合される前に、どの国の領域だったか?", + "id": "tr-666-02-002", + "answers": [ + { + "text": "エストニア", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "レニングラード州イヴァンゴロド周辺地域とプスコフ州ペチョールィ周辺地域がエストニアの領域からロシアの領域に移されたのは、何年のことか?", + "id": "tr-666-02-003", + "answers": [ + { + "text": "1940年", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "その後、ソ連崩壊に際して独立回復を達成したエストニアは、自国のソ連編入と領土移転の違法性を訴えた。そして、ソ連の継承国であるロシア連邦に対し、タルトゥ条約に基づく1920年の国境線回復を要求した。しかし対するロシアは、エストニアのソ連への併合は自発的なものであったとして、タルトゥ条約の失効を理由に領土の返還を拒否した。", + "qas": [ + { + "question": "エストニアはロシアに対し、どの条約を取り上げながら1920年の時点に確立した国境線への回復を要求したの?", + "id": "tr-666-03-000", + "answers": [ + { + "text": "タルトゥ条約", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "エストニアがロシアに対し要求した国境線回復とは、何年に確立した国境線への回復を意味していましたか?", + "id": "tr-666-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1920年", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ロシアは、エストニアの要求を拒否する理由として、何の失効を取り上げたか?", + "id": "tr-666-03-002", + "answers": [ + { + "text": "タルトゥ条約", + "answer_start": 136, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "エストニアの要求に対し、ロシアはどう反応したか?", + "id": "tr-666-03-003", + "answers": [ + { + "text": "拒否した", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1918年に旧帝政ロシア領から独立宣言をなしたバルト三国は、ソビエト・ロシアから侵入した赤軍やドイツ帝国軍による干渉も、独立戦争によって各々はね除けた。そして1920年2月2日、エストニア第一共和国はソビエト・ロシアとの間にタルトゥ条約を締結し、和平と国家承認を取り付けるとともに、両国の国境線についても詳細に策定した。", + "qas": [ + { + "question": "1917年までバルト三国は、どの国の領域としてとらえられていたの?", + "id": "tr-666-04-000", + "answers": [ + { + "text": "帝政ロシア", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "バルト三国がロシア帝国からの独立を宣言したのは、何年のことですか?", + "id": "tr-666-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1918年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "エストニアがロシア帝国から国家として認められたのは、いつのことか?", + "id": "tr-666-04-002", + "answers": [ + { + "text": "1920年2月2日", + "answer_start": 79, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "エストニアとロシアの国境線が確立されたのは、いつのことか?", + "id": "tr-666-04-003", + "answers": [ + { + "text": "1920年2月2日", + "answer_start": 79, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "その後、第二次世界大戦開戦が迫る1939年8月23日、ソビエト・ロシアの後身であるソビエト連邦は、ナチス・ドイツとの間に独ソ不可侵条約を締結した。しかし、���の条約には秘密議定書が附属しており、その内容は、バルト三国などを両大国が当事国たちの与り知らぬところで分割するというものであった。", + "qas": [ + { + "question": "独ソ不可侵条約が結ばれたのは、いつのことなの?", + "id": "tr-666-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1939年8月23日", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ドイツとロシアがバルト三国を分割することを決めた条約は、いつ結ばれましたか?", + "id": "tr-666-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1939年8月23日", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1939年8月23日にソビエト連邦と不可侵条約を結んだのは、どの国か?", + "id": "tr-666-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ナチス・ドイツ", + "answer_start": 49, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "大戦が勃発するとバルト三国は中立宣言を発したが、ソ連は秋には軍事的圧力を行使して、三国との間に相互援助条約を締結した。そして1940年夏、ソ連はこの条約を盾にして三国に軍を進駐させ、その圧力によって国内に左派系新政権を樹立させた。", + "qas": [ + { + "question": "第二次世界大戦が勃発すると、バルト三国はどんな立場を保つことを宣言したの?", + "id": "tr-666-06-000", + "answers": [ + { + "text": "中立", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "バルト三国とソ連の間で相互援助条約が結ばれた背景には、ソ連のどのような行動がありましたか?", + "id": "tr-666-06-001", + "answers": [ + { + "text": "軍事的圧力", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "バルト三国のそれぞれの国内に左派系新政権が成立されたのは、どの国の圧力があったからか?", + "id": "tr-666-06-002", + "answers": [ + { + "text": "ソ連", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "バルト三国のそれぞれの国内に左派系新政権が成立されたのは、いつのことか?", + "id": "tr-666-06-003", + "answers": [ + { + "text": "1940年夏", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "結果、非共産党系候補が事実上排除された選挙により成立したバルト三国の新議会は、1940年7月に自国のソ連への加盟を要求した。翌8月、バルト三国は「自発的に」ソ連へ編入され、その20年余りの独立時代は幕を閉じた(バルト諸国占領)。", + "qas": [ + { + "question": "この文書で取り上げている、バルト三国の新議会とは、どの党の勢力の政権のことを指すの?", + "id": "tr-666-07-000", + "answers": [ + { + "text": "共産党", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "この文書で挙げられている情報だけを考えると、ソ連は、どの党の勢力が集権している国でありますか?", + "id": "tr-666-07-001", + "answers": [ + { + "text": "共産党", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ソ連への編入により、バルト三国の何年余りの独立時代が幕を閉じたか?", + "id": "tr-666-07-002", + "answers": [ + { + "text": "20年余り", + "answer_start": 88, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロシア帝国からの独立を成し遂げたバルト三国が、ソ連に編入されてしまったのは、何年のことか?", + "id": "tr-666-07-003", + "answers": [ + { + "text": "1940年", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "その後、ソ連崩壊間際にバルト三国が独立回復を宣言すると、1991年9月にはソビエト連邦国家評議会も、バルト三国の独立承認を余儀なくされた。しかし、独立回復後の三国の認識によれば、ソ連への自国の併合と領土の変更は国際法に違反する無効なものであり、戦間期の国家とソ連崩壊後の国家は継続している。そのため、ソ連の継承国となったロシア連邦との領有権問題について有効なものは、1920年の平和条約に基づいて策定された国境線のみであると解される。", + "qas": [ + { + "question": "バルト三国の独立宣言がソビエト連邦国家評議会から受け入れられたのは、いつのことなの?", + "id": "tr-666-08-000", + "answers": [ + { + "text": "1991年9月", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ソ連崩壊とバルト三国の独立のうち、起きた時期のより早いのは、どちらですか?", + "id": "tr-666-08-001", + "answers": [ + { + "text": "バルト三国の独立", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "バルト三国では、何年の時点に確立された国境線に基づき、国の領土を回復すべきだと主張したか?", + "id": "tr-666-08-002", + "answers": [ + { + "text": "1920年", + "answer_start": 183, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ソ連の後身となったのは、どの国か?", + "id": "tr-666-08-003", + "answers": [ + { + "text": "ロシア連邦", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "独立回復当初のエストニアは、民族主義的なマルト・ラール政権の下、ロシアに対して係争地の返還を強硬に要求していた。1992年6月28日に制定されたエストニア共和国憲法の第122条は、「エストニアの陸上の国境は1920年2月2日のタルトゥ平和条約およびその他の国境条約によって設定される」と宣明し、1994年6月30日可決(7月31日発効)の「国境法」第1章第2条第2項も、ほぼ同文の規定を置いた。", + "qas": [ + { + "question": "独立を回復したエストニアの最初の首長には、誰が就きましたか?", + "id": "tr-666-09-000", + "answers": [ + { + "text": "マルト・ラール", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "エストニア共和国憲法が制定されたのは、いつのことか?", + "id": "tr-666-09-001", + "answers": [ + { + "text": "1992年6月28日", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「国境法」第1章第2条第2項が可決されたのは、いつのことか?", + "id": "tr-666-09-002", + "answers": [ + { + "text": "1994年6月30日", + "answer_start": 147, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ロシア側があくまでNATO拡大を警戒し、エストニア・ラトビアとの国境条約締結を渋るなか、エストニアはEU加盟を次善の策として外交を展開し始めた。そして、1997年7月に欧州委員会が公表したEU拡大に関する「意見」においても、第一次交渉開始グループにエストニアの名が挙げられた。そして、エストニアはロシアとの領有権問題を抱えたままであるにもかかわらず、翌1998年3月には正式にEU加盟交渉に入ることを許された。", + "qas": [ + { + "question": "ロシアがエストニア・ラトビアとの国境条約締結を渋ったのは、何の拡大を警戒したからなの?", + "id": "tr-666-10-000", + "answers": [ + { + "text": "NATO", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "エストニアはロシアの態度に対する対応策として、どこへの加盟を念頭に置いたか?", + "id": "tr-666-10-001", + "answers": [ + { + "text": "EU", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "欧州委員会がいつ公表したEU拡大に関する意見において、第一次交渉開始グループにエストニアの名が挙げられましたか?", + "id": "tr-666-10-002", + "answers": [ + { + "text": "1997年7月", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "エストニアが正式にEU加盟交渉を行い始めたのは、いつのことか?", + "id": "tr-666-10-003", + "answers": [ + { + "text": "1998年3月", + "answer_start": 176, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "そして、危惧されていたはずの領有権問題が障壁とならないまま、2004年にエストニアはEUおよびNATOへの加盟を果たすに至った。", + "qas": [ + { + "question": "エストニアがEUに加盟したのは、何年のことか?", + "id": "tr-666-11-000", + "answers": [ + { + "text": "2004年", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "エストニアがNATOに加盟したのは、何年のことか?", + "id": "tr-666-11-001", + "answers": [ + { + "text": "2004年", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "その後、ようやく2011年に至ってロシア外相セルゲイ・ラヴロフがエストニア側へサインを送り、また翌2012年にはエストニア議会外交委員会議長マルコ・ミフケルソンがロシア上院国際問題委員会議長ミハイル・マルゲロフとの個人的なコネクションを行使したことで、国境条約に関する再度の交渉が動き出した。2014年2月18日にはラヴロフとウルマス・パエトの両国外相が、ソ連時代の国境線を追認する形での合意文書に署名した。", + "qas": [ + { + "question": "2011年の時点でロシア外相には、誰が就いていたの?", + "id": "tr-666-12-000", + "answers": [ + { + "text": "セルゲイ・ラヴロフ", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "2011年の時点でエストニア議会外交委員会議長には、誰が就いていましたか?", + "id": "tr-666-12-001", + "answers": [ + { + "text": "マルコ・ミフケルソン", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マルコ・ミフケルソンは、誰に対し個人的なコネクションを行使したか?", + "id": "tr-666-12-002", + "answers": [ + { + "text": "ミハイル・マルゲロフ", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウルマス・パエトは、どの国の外相だったか?", + "id": "tr-666-12-003", + "answers": [ + { + "text": "エストニア", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "華僑虐殺事件(バタヴィア)", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "バタヴィアの華僑虐殺事件(バタヴィアのかきょうぎゃくさつじけん、オランダ語:Chinezenmoord(直訳:中国人殺害)、インドネシア語:GegerPacinan(直訳:チャイナタウン暴動))は1740年にオランダ領東インドで発生した虐殺事件である。オランダ領東インドの兵士が先住民族の協力者と共に港湾都市バタヴィア(現ジャカルタ)の華僑(中国系インドネシア人)を殺害した。日本語では「バタヴィアの狂暴」「バタヴィアの狂乱」と呼ぶ文献もある。この都市での暴力行為は1740年10月9日から22日まで続き、城壁外での小規模���小競合いは同年の11月まで続いた。歴史家の推定によれば、少なくとも1万人の華僑が殺害され、生存者はわずか600-3000人だと考えられている。", + "qas": [ + { + "question": "バタヴィアの華僑虐殺事件は、何年に発生した事件なの?", + "id": "tr-667-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1740年", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バタヴィアの華僑虐殺事件は、どの国で発生した事件ですか?", + "id": "tr-667-00-001", + "answers": [ + { + "text": "オランダ領東インド", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バタヴィアの華僑虐殺事件は、どの都市で発生した事件か?", + "id": "tr-667-00-002", + "answers": [ + { + "text": "バタヴィア", + "answer_start": 154, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バタヴィアの華僑虐殺事件は、いつから始まったか?", + "id": "tr-667-00-003", + "answers": [ + { + "text": "1740年10月9日", + "answer_start": 233, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1740年9月、政府による弾圧と砂糖の価格下落により中国系住民の中で不安が強まり、オランダ領東インド総督のアドリアーン・ファルケニールはいかなる暴動であっても武力鎮圧で対処すると布告した。同年10月7日、数百人の華僑がオランダ兵50人を殺害した。参加した中国人の多くは砂糖工場の労働者だった。これにより、オランダ軍は中国系住民が所有していた武器を全て没収し、中国人を対象とした夜間外出禁止令を発令した。", + "qas": [ + { + "question": "1740年の時点でアドリアーン・ファルケニールは、どの職に就いていたの?", + "id": "tr-667-01-000", + "answers": [ + { + "text": "オランダ領東インド総督", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1740年の時点でオランダ領東インド総督は誰でしたか?", + "id": "tr-667-01-001", + "answers": [ + { + "text": "アドリアーン・ファルケニール", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "数百人の華僑によりオランダ兵50人が殺害された事件は、何年のことか?", + "id": "tr-667-01-002", + "answers": [ + { + "text": "1740年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "数百人の華僑によりオランダ兵が50人も殺害された事件で、オランダ軍は中国人を対象としてどのような法令を出したか?", + "id": "tr-667-01-003", + "answers": [ + { + "text": "夜間外出禁止令", + "answer_start": 188, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2日後の10月9日、華僑による凶行が起きるとの噂が流れたことが原因となり、バタヴィアに住む他の民族集団はベサル川(BesarStream)沿いの中国人の家を焼き、オランダ兵は中国人の家に大砲を撃ち込んだ。この暴動はすぐにバタヴィア全体に広がり、さらに多くの中国人が殺害された。10月11日にファルケニール総督が略奪を止めようとしたものの、総督がより強く交戦停止を求めた10月22日まで不法集団は中国人を狩り殺し続けた。街の城壁の外側では、暴動を起こしている砂糖工場の労働者とオランダ兵の衝突が続いていた。小規模な小競合いが数週間続いた後、オランダ軍は地域全体にある砂糖工場の中国人拠点を攻撃した。", + "qas": [ + { + "question": "中国人の家に対し、バタヴィアに住む他の民族集団とオランダ兵が攻撃を行ったのは、いつなの?", + "id": "tr-667-02-000", + "answers": [ + { + "text": "10月9日", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "当時、オランダ領東インド総督には、誰がついていましたか?", + "id": "tr-667-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ファルケニール", + "answer_start": 145, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ファルケニール総督が中国人に対する略奪を止めようと動き出したのは、いつからか?", + "id": "tr-667-02-002", + "answers": [ + { + "text": "10月11日", + "answer_start": 138, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "中国人に対する略奪が止まったのは、いつのことか?", + "id": "tr-667-02-003", + "answers": [ + { + "text": "10月22日", + "answer_start": 184, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "翌年、ジャワ島全体での華僑への攻撃が引き金となって2年間のジャワ戦争が勃発し、華僑およびジャワ人の部隊とオランダ軍の間で戦闘になった。ファルケニール総督は後にオランダに召還され、虐殺事件に関する罪で告発された。オランダ文学にはこの事件を題材とした作品が多数存在し、またジャカルタではいくつかの地名でこの事件が語源になった可能性があるとされている。", + "qas": [ + { + "question": "ジャワ戦争は、何年間行われた戦争であるの?", + "id": "tr-667-03-000", + "answers": [ + { + "text": "2年間", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ジャワ戦争は、華僑およびジャワ人の部隊がどの国の軍と戦った戦争でありますか?", + "id": "tr-667-03-001", + "answers": [ + { + "text": "オランダ", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ジャワ戦争の勃発原因となったのは、何だったか?", + "id": "tr-667-03-002", + "answers": [ + { + "text": "ジャワ島全体での華僑への攻撃", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ジャワ戦争は、どこで行われた戦争であるの?", + "id": "tr-667-03-003", + "answers": [ + { + "text": "ジャワ島", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "オランダによる東インド(現在のインドネシア)の植民地支配の初期において、ジャワ島の北西の沿岸にバタヴィアを建設する際に多くの中国人を熟練の職人として雇用した。中国人は商人、砂糖工場の労働者、小売店の店主としても働いていた。バタヴィア港を利用した東インドと中国の交易は好景気をもたらし、ジャワへ移住する中国人移民は増加した。バタヴィアの華僑人口は急速に増加し、1740年には合計1万人に到達した。その上、数千人もの人々が都市の城壁の外に住んでいた。オランダ人の入植者らは華僑に登録証を携帯するよう要求し、従わないものは中国へと送還した。", + "qas": [ + { + "question": "バタヴィアの建設のために雇用された熟練の職人は、どの国の者らだったの?", + "id": "tr-667-04-000", + "answers": [ + { + "text": "中国", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バタヴィアは、ジャワ島のどの方向の沿岸に建設されましたか?", + "id": "tr-667-04-001", + "answers": [ + { + "text": "北西", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "当時、インドネシアを支配していたのは、どの国か?", + "id": "tr-667-04-002", + "answers": [ + { + "text": "オランダ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "当時のバタヴィアで、中国人は、商人、砂糖工場の労働者のほかに、どの職に就いていたか?", + "id": "tr-667-04-003", + "answers": [ + { + "text": "小売店の店主", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1730年代、マラリアの大流行により数千人が死亡した後、追放政策が強化された。マラリアによる死者の中には当時のオランダ東インド総督ディルク・ファン・クローンも含まれていた。インドネシアの歴史家ベニー・G・セティオノによれば、この大流行の後、インドネシアの先住民とオランダ人の中では人口が増加し続けますます目に見えて裕福になっていく華僑に対する疑念と遺恨が強まったという。", + "qas": [ + { + "question": "追放政策が強化されたのは、何年代に入ってのことなの?", + "id": "tr-667-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1730年代", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "追放政策の強化の原因となったのは、何の大流行でしたか??", + "id": "tr-667-05-001", + "answers": [ + { + "text": "マラリア", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マラリアによる死者に含まれた、オランダ東インド総督は誰か?", + "id": "tr-667-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ディルク・ファン・クローン", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "インドネシアの先住民とオランダ人の中で華僑に対する疑念と遺恨が強まったと説明した歴史家は、誰か?", + "id": "tr-667-05-003", + "answers": [ + { + "text": "ベニー・G・セティオノ", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "その結果として1740年7月25日、先住民関係を担当する弁務官のロイ・フェルディナンド(RoyFerdinand)はアドリアーン・ファルケニール総督の命を受け、疑わしい中国人はセイロン(現在のスリランカ)へと追放し、シナモン収穫の強制労働に従事させると布告した。裕福な中国人は腐敗したオランダの役人に追放すると脅迫され、金を強請られた。", + "qas": [ + { + "question": "疑わしい中国人をセイロンに追放し、シナモン収穫の強制労働に従事させることが決定されたのは、いつなの?", + "id": "tr-667-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1740年7月25日", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "疑わしい中国人をセイロンに追放し、シナモン収穫の強制労働に従事させることを決定したのは、誰ですか?", + "id": "tr-667-06-001", + "answers": [ + { + "text": "アドリアーン・ファルケニール", + "answer_start": 58, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アドリアーン・ファルケニールの命に従って、新しい法令を執行したのは、誰か?", + "id": "tr-667-06-002", + "answers": [ + { + "text": "ロイ・フェルディナンド", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アドリアーン・ファルケニールの命に従って、ロイ・フェルディナンドは、疑わしい中国人をどこに追放したか?", + "id": "tr-667-06-003", + "answers": [ + { + "text": "セイロン", + "answer_start": 88, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "イギリス人の探検家でありジャワ島の歴史家でもあるトーマス・ラッフルズの1830年の著作によ���ば、オランダが任命したバタヴィアの中国人代表NieHoeKongは、黒か青の服を着た中国人は貧乏だと考えられるので全員追放するようにオランダ人に提言したと数人のジャワ人が証言したという。追放者は目的地に到着することはなくジャワ島が見えなくなった時点で船外へと投げ捨てられるのだという噂が流れた。また、船で暴動を起こして死んだという証言もいくつかある。華僑を追放したことで残された中国人の中にも不安が生じ、それにより多くの中国人労働者は仕事を放棄した。", + "qas": [ + { + "question": "オランダが任命したバタヴィアの中国人代表は、誰だったの?", + "id": "tr-667-07-000", + "answers": [ + { + "text": "NieHoeKong", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "この文書では、誰が著した書籍に書かれている内容について説明しているか?", + "id": "tr-667-07-001", + "answers": [ + { + "text": "トーマス・ラッフルズ", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "トーマス・ラッフルズの職業としては、探検家のほかに、どこの歴史家が挙げられるか?", + "id": "tr-667-07-002", + "answers": [ + { + "text": "ジャワ島", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "同時にバタヴィアの先住民は、ベタウィ人の奴隷も含め、ますます中国人に不信感を持つようになった。経済的な要素も一因であった。ほとんどの先住民は貧しかったが、この都市の特に最も裕福な人々の一部は中国人であることが知られていた。オランダの歴史家A・N・パースマンは当時の中国人は「アジアにおけるユダヤ人」だったと述べたが、実際の状況はもっと複雑だった。バタヴィア周辺に住む多くの貧しい中国人は製糖工場の労働者であり、オランダ人と中国人の上流階級双方から等しく搾取されていると感じていた。裕福な中国人は工場を所有しており、また農場や船からの収益も得ていた。彼らは製糖や、糖蜜とコメが主原料であるアルコール飲料アラックの蒸留で収入を得ていた。", + "qas": [ + { + "question": "A・N・パースマンは、当時の中国人のことを何と表現したの?", + "id": "tr-667-08-000", + "answers": [ + { + "text": "「アジアにおけるユダヤ人」", + "answer_start": 136, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "当時の中国人のことを「アジアにおけるユダヤ人」と表現したのは、誰ですか?", + "id": "tr-667-08-001", + "answers": [ + { + "text": "A・N・パースマン", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "バタヴィア周辺にある製糖工場で働く労働者らを苦しめた、その工場の持ち主は、どの国の者らだったか?", + "id": "tr-667-08-002", + "answers": [ + { + "text": "中国", + "answer_start": 189, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "裕福な中国人における主な収益源は、コメと何を原材料とするものだったか?", + "id": "tr-667-08-003", + "answers": [ + { + "text": "糖蜜", + "answer_start": 281, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "だが、オランダ人領主は砂糖の価格を定め、このこと自体が不安を招いた。1720年代にはヨーロッパへの輸出の増加と西インド諸島との競争により世界的な砂糖価格の下落が始まり、これが原因となり東インドの砂糖産業は大きな損害を受けた。1740年までに、世界の砂糖価格は1720年の半額にまで下落した。砂糖は主な輸出品であったので、植民地は重度の財政難に陥った。", + "qas": [ + { + "question": "東インドの砂糖産業が大きな損害を受けた時��は、何年代なの?", + "id": "tr-667-09-000", + "answers": [ + { + "text": "1720年代", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "世界的に砂糖価格が下落する状況の原因となったのは、ヨーロッパでの砂糖に対する需要増加とどの地域との競争が挙げられますか?", + "id": "tr-667-09-001", + "answers": [ + { + "text": "西インド諸島", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "東インドの砂糖産業に悪影響を及ぼしたのは、ヨーロッパでの砂糖に対する需要増加とどの地域との競争だったか?", + "id": "tr-667-09-002", + "answers": [ + { + "text": "西インド諸島", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1720年から1740年までの世界の砂糖価格を比較した時、その価格が最も高かったのは、何年か?", + "id": "tr-667-09-003", + "answers": [ + { + "text": "1720年", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "当初、インド評議会の議員数人は中国人がバタヴィアを襲撃することはありえないと信じており、1738年にバタヴィアに戻ったセイロンの前総督でありファルケニール総督の政治的対立相手であるグスタフ・ウィレム・ファン・イムホフ率いる派閥は中国人を統制するためより強力な対策を講じようとしたが妨害された。中国人の多くは付近の集落からバタヴィアの外へとやってきたが、ファルケニール総督は9月26日に評議会の緊急会議を招集し、その中で華僑によるあらゆる蜂起に対して武力鎮圧で対処するよう命じた。ファン・イムホフの派閥はこの政策に反対し続けた。フェルメレンは1938年の自著で、植民地の2つの派閥間の緊張が虐殺の発生の一因になったという説を提唱している。", + "qas": [ + { + "question": "グスタフ・ウィレム・ファン・イムホフの勢力がバタヴィアに戻ってきたのは、何年のことか?", + "id": "tr-667-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1738年", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ファルケニール総督の政治的対立相手は、誰でしたか?", + "id": "tr-667-10-001", + "answers": [ + { + "text": "グスタフ・ウィレム・ファン・イムホフ", + "answer_start": 90, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "中国人を統制するためより強力な対策を講じようとバタヴィアに戻ってきたのは、誰の勢力か?", + "id": "tr-667-10-002", + "answers": [ + { + "text": "グスタフ・ウィレム・ファン・イムホフ", + "answer_start": 90, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "中国人虐殺の一因として植民地の2つの派閥間の緊張を取り上げたのは、誰か?", + "id": "tr-667-10-003", + "answers": [ + { + "text": "フェルメレン", + "answer_start": 263, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "10月7日、中国人の砂糖工場労働者の集団が改造武器を使用して反乱を起こし、工場を略奪し火を放った後、数百人の華僑によってメーステル・コルネリス(現ジャティネガラ)とタナ・アバンで50人のオランダ兵が殺害された。これを率いていたのはNieHoeKongではないかと疑われた。", + "qas": [ + { + "question": "中国人の砂糖工場労働者集団が反乱を起こしたのは、いつのことなの?", + "id": "tr-667-11-000", + "answers": [ + { + "text": "10月7日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "中国人の中国人の砂糖工場労働者集団の反乱によりオランダ兵の犠牲者が出たのは、メーステル・コルネリスとどこでしたか?", + "id": "tr-667-11-001", + "answers": [ + { + "text": "タナ・アバン", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "10月7日に起こった中国人の反乱の主導者として疑われたのは、誰だったか?", + "id": "tr-667-11-002", + "answers": [ + { + "text": "NieHoeKong", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "これに対して、オランダは暴動を止めるために正規兵1800人をSchutterij(民兵)および徴集兵大隊11個と共に送り込んだ。この部隊は夜間外出禁止令を課し中国の祭りの計画を中止させた。中国人が蝋燭の明かりの下で植民地への反抗を企てることを危惧されたため、都市の城壁内に住む中国人は蝋燭を点けることを禁止され、「一番小さいキッチンナイフ(包丁)に至るまで」全て引き渡さなければならなかった。翌日、オランダ側は近隣のタンゲランとブカシから来た集団に率いられた華僑最大1万人による襲撃を都市の外壁で撃退した。ラッフルズによれば、この襲撃で1789人の中国人が死亡した。これに対し、ファルケニールは10月9日に再度評議会の会合を開いた。", + "qas": [ + { + "question": "オランダは暴動を止めるために、1800人の正規兵と、民兵とどの兵で構成されている、11個の大隊を派遣したの?", + "id": "tr-667-12-000", + "answers": [ + { + "text": "徴集兵", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "華僑最大1万人による襲撃の結果として、中国人からは何名の犠牲者が出ましたか?", + "id": "tr-667-12-001", + "answers": [ + { + "text": "1789人", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この文書で紹介している華僑からの襲撃で、より大きな被害を受けたのは、誰か?", + "id": "tr-667-12-002", + "answers": [ + { + "text": "華僑", + "answer_start": 229, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "女神湖", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "女神湖は、長野県北佐久郡立科町にある湖だ。農業用に建設された人造湖・赤沼温水溜池の別名であり、リゾート地としての開発も行われている。八ヶ岳中信高原国定公園に含まれている。\n\n蓼科山から北西方向に約4キロメートル離れた地点に位置する。湖面標高1,540メートル、面積0.12平方キロメートル、周囲1.5キロメートル、水深は平均で4メートルである。\n\n1966年、赤沼と呼ばれる湿地に温水ため池として完成した。江戸時代に開削された農業用水路・塩沢堰に施された改良事業の一環として建設されたものである。貯水容量は32万立方メートルで、下流に広がる1,537.3ヘクタールの農地を潤す。蓼科山は別名を女神山(女神は「めのかみ」と読む)といい、これにちなんで女神湖と命名された。\n\n1967年にはビーナスラインが開通し、観光開発面で先行していた白樺湖と接続した。これを機に立科町は女神湖の湖面利用権を得て観光開発を進め、宿泊施設やレジャー施設が多数建設された。周辺はシラカンバやカラマツの天然林が広がり、春はザゼンソウが、初夏にはレンゲツツジが見頃を迎える。夏になると湖面にボートが浮かび、8月には白樺高原花火大会が開催される。秋は紅葉が美しい。冬は結氷した湖面がサーキットとして開放され、交通安全の講習や自動車開発のテストドライブの場として役立てられている。", + "qas": [ + { + "question": "農業用に建設された人造湖・赤沼温水溜池の別名は何ですか。", + "id": "tr-668-00-000", + "answers": [ + { + "text": "女神湖", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "女神湖の湖面標高は何メートルなの?", + "id": "tr-668-00-001", + "answers": [ + { + "text": "1,540メートル", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "女神湖は何年に完成したの?", + "id": "tr-668-00-002", + "answers": [ + { + "text": "1966年", + "answer_start": 174, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ビーナスラインは何年に開通したの?", + "id": "tr-668-00-003", + "answers": [ + { + "text": "1967年", + "answer_start": 336, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "現在の女神湖がある場所には、かつて赤沼の池と呼ばれる池があり、河太郎という名の河童が住んでいた。河太郎は道行く人々を池の中に引きずり込むという悪事を働いており、この話を聞いた侍の諏訪頼遠によって退治されてしまう。今後悪事を働かないと約束して、その夜のうちに赤沼の池を去った河太郎は、和田宿の裏山に作り出した池に移住した。その池は一夜にして出来たということから、夜の間の池と呼ばれるようになったが、元いた赤沼の池は涸れてなくなってしまった。\n\n女神湖の付近にある巨石。むかし、旅人はこの石に旅の安全を祈願したという。現在では史跡として立科町の文化財に指定されている。\n前述の河童伝説においては河童の河太郎が座っていた石であるとされる。河太郎は人間の子供に化けて石の上に座り、道行く人々に「かぎ引き」をしようと声を掛けていた。「かぎ引き」とは、かぎの形にした指を絡ませ、互いに引き合う遊びである。河太郎と指を絡ませたら最後、力ずくで池の中に引きずり込まれてしまうのであった。", + "qas": [ + { + "question": "現在の女神湖がある場所には、かつて何と呼ばれる池があったか。", + "id": "tr-668-01-000", + "answers": [ + { + "text": "赤沼の池", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ワラキア蜂起", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ワラキア蜂起(ワラキアほうき、ワラキア農民蜂起とも)(ルーマニア語:Revoluțiadela1821(1821年革命))とは1821年、オスマン帝国支配下のワラキア公国で発生した蜂起である。ギリシャ独立戦争と同時に行われたが、ロシアの協力を得ることができずオスマン帝国によって鎮圧された。", + "qas": [ + { + "question": "ワラキア蜂起は、何年に発生したの?", + "id": "tr-669-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1821年", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ワラキア蜂起は、ワラキア公国がどの国に対し、起こした蜂起か?", + "id": "tr-669-00-001", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ワラキア公国はどの国の支配下にあったか?", + "id": "tr-669-00-002", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "オスマン帝国がヨーロッパへ勢力拡大に動き、コソボの戦いでバルカン諸侯軍を撃破するとオスマン帝国のバルカン半島支配が決定的となった。そのため、ブルガリア、セルビアはオスマン帝国支配下となりギリシャ、ボスニア、アルバニアもその攻撃を受けた。そのなか、現在のルーマニア南部に位置するワラキアのミルチャ1世はオスマン帝国の宗主権を受け入れざるを得ない状況に陥り、1411年以降、オスマン帝国へ朝貢を行い、その公位もオスマン帝国の意思によって左右される事態に至った。", + "qas": [ + { + "question": "オスマン帝国は、どの戦いで勝利し、バルカン半島における支配権を獲得したの?", + "id": "tr-669-01-000", + "answers": [ + { + "text": "コソボの戦い", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "オスマン帝国が、ヨーロッパへの勢力拡大のため、最初に手に入れようとした地域は、どの地域ですか?", + "id": "tr-669-01-001", + "answers": [ + { + "text": "バルカン半島", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "当時のワラキアの統治者は、誰だったか?", + "id": "tr-669-01-002", + "answers": [ + { + "text": "ミルチャ1世", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ワラキアは、現在のどの国の南部に位置するところに成立されていたか?", + "id": "tr-669-01-003", + "answers": [ + { + "text": "ルーマニア", + "answer_start": 126, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "一時期、ウラド3世の時代には遠征してきたオスマン帝国スルタンメフメト2世を2度に渡って撃退し、ミハイ勇敢侯の時代にはオスマン帝国を撃退してモルダヴィア、トランシルバニアを併合、ルーマニア統一に成功した。しかし、ミハイ勇敢侯が死去すると再びワラキアはオスマン帝国支配下となったが、ギリシャ、セルビア、ブルガリアと違い半独立状態で自治権は与えられた。", + "qas": [ + { + "question": "スルタンメフメト2世の2度に渡る攻撃を撃退したのは、誰なの?", + "id": "tr-669-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ウラド3世", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "スルタンメフメト2世は、どの国の統治者でしたか?", + "id": "tr-669-02-001", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "オスマン帝国を撃退したワラキア公国の君主は、ウラド3世と誰か?", + "id": "tr-669-02-002", + "answers": [ + { + "text": "ミハイ勇敢侯", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "誰が死ぬと、ワラキア公国は再びオスマン帝国から支配されるようになったか?", + "id": "tr-669-02-003", + "answers": [ + { + "text": "ミハイ勇敢侯", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "当初、モルダヴィア、ワラキアはオスマン帝国へ貢納することで自治権を認められていたが、公爵の地位などをめぐって貴族(ボィエール)らの間で争いが生じた。このため、ボィエールらは自らを有利にするためにオスマン帝国の高官らへ賄賂を送るようになったが、これは公爵の地位をオスマン帝国が左右することにつながった。そしてオスマン帝国占領下で認められた正教会を抑えていたためにその地位が向上していたギリシャ人らがワラキア、モルダヴィアへ移住しはじめた。", + "qas": [ + { + "question": "ワラキアのほかに、オスマン帝国から自治権を認められていたのは、どこなの?", + "id": "tr-669-03-000", + "answers": [ + { + "text": "モルダヴィア", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "モルダヴィアとワラキアがオスマン帝国から自治権を認められていたのは、何を行ったためですか?", + "id": "tr-669-03-001", + "answers": [ + { + "text": "貢納", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "貴族らの間で公爵の地位を巡った争いが生じ、結果的には、公爵の決定権は誰に握られたか?", + "id": "tr-669-03-002", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この時、どのような人々がワラキアとモルダヴィアに移住してき始めたか?", + "id": "tr-669-03-003", + "answers": [ + { + "text": "ギリシャ人", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "露土戦争(1710年-1711年)でオスマン帝国が勝利した1711年以降、ワラキア及びモルダヴィアの諸侯の地位はオスマン帝国の監督下となり、その公位をオスマン帝国で特権を有していたギリシャ人であるファナリオティスが務めるようになった。この中にはイプシランディス家、マヴロコルダトス家といった後にギリシャ独立戦争で活躍する一族も着任した。そしてこのオスマン帝国による統治は徐々に肥大化していたオスマン帝国の維持のために貢納など搾取され、果てには公位でさえも競売される事態に至り、なおかつ極一部の公位を買うことのできるファナリオティスらに独占された。", + "qas": [ + { + "question": "1710年から始まった露土戦争では、どの国が戦勝国となったの?", + "id": "tr-669-04-000", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1710年から始まった露土戦争が終わったのは、何年のことですか?", + "id": "tr-669-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1711年", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1710年から1711年までの露土戦争以降、ワラキアとモルダヴィアの公位は、どのような階級の者らにより決められたか?", + "id": "tr-669-04-002", + "answers": [ + { + "text": "ファナリオティス", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1710年から1711年までの露土戦争以降、ファナリオティスに就き、後にギリシャ独立戦争で活躍する一族には、イプシランディス家とどの家があるか?", + "id": "tr-669-04-003", + "answers": [ + { + "text": "マヴロコルダトス家", + "answer_start": 132, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "オーストリアとの間に墺土戦争が発生してオーストリア軍が優位に事を進めると、ワラキアのボイエールたちはオーストリア帝国領としてワラキア公国を自治国化させることを提言、ワラキア公ニコラエ・マヴロコルダトスはこれを鎮圧するために命令を下したが、そのためにルーマニア正教会大主教アンティム・イヴィレアヌらが殺害された。しかし結局、ボイエール側が勝利を収め、さらにオーストリア軍がワラキアへ進撃した。このため、1718年に結ばれたパッサロヴィッツ条約でオーストリアはセルビア、ワラキア公国の一部であるオルテニアなどを手に入れた。そしてオーストリアがオルテニアを支配している間、様々な改革が行われた。これは後にワラキアがオスマン帝国に返還された際に諸改革が行われることにつながるが、オスマン帝国の意に反する改革は阻止された。", + "qas": [ + { + "question": "墺土戦争はオスマン帝国とどの国の間で勃発した戦争であるの?", + "id": "tr-669-05-000", + "answers": [ + { + "text": "オーストリア", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "墺土戦争が進められていた時のワラキア公国の公位には誰がついていましたか?", + "id": "tr-669-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ニコラエ・マヴロコルダトス", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "パッサロヴィッツ条約は、オスマン帝国とどの国の間で結ばれた条約であるか?", + "id": "tr-669-05-002", + "answers": [ + { + "text": "オーストリア", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "パッサロヴィッツ条約は、いつ締結されたか?", + "id": "tr-669-05-003", + "answers": [ + { + "text": "1718年", + "answer_start": 200, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1735年、ロシア、オーストリア対オスマン帝国の戦い(オーストリア・ロシア・トルコ戦争)が発生するとロシア軍はモルダヴィアへの侵攻に成功したが、ワラキアを奪取しようとしたオーストリア軍は進撃に失敗、オルテニアは放棄された。結局、1739年に結ばれたベオグラード条約でオルテニアはワラキアへ再び併合された。", + "qas": [ + { + "question": "ベオグラード条約により、どこがワラキア公国に再び併合されましたか?", + "id": "tr-669-06-000", + "answers": [ + { + "text": "オルテニア", + "answer_start": 133, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1735年に勃発したオスマン帝国とオーストリアの戦争において、ロシアはどの国側に立ち、戦ったか?", + "id": "tr-669-06-001", + "answers": [ + { + "text": "オーストリア", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "オルテニアが再びワラキア公国に併合されたのは、どの条約の締結によることか?", + "id": "tr-669-06-002", + "answers": [ + { + "text": "ベオグラード条約", + "answer_start": 124, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "またさらに、不凍港を求め南下政策を採用していたロシアのエカチェリーナ2世はオスマン帝国との戦いを続けていたが、露土戦争(1768年-1774年)で勝利したロシアは1774年に結ばれたキュチュク・カイナルジ条約で黒海北方を得た上でオスマン帝国内のキリスト教徒らを保護する権利も得た。そしてワラキア、モルダヴィア両公国のボイエールらもこの条約締結の際に参加していたが、彼らはロシア、プロイセン、オーストリアの保障の下でワラキア、モルダヴィアの自治国化を求めた。", + "qas": [ + { + "question": "ロシアは何を手に入れるために、オスマン帝国と戦うなどの南下政策を進めていたの?", + "id": "tr-669-07-000", + "answers": [ + { + "text": "不凍港", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1768年から1774年までの露土戦争で戦勝国となったのは、どの国ですか?", + "id": "tr-669-07-001", + "answers": [ + { + "text": "ロシア", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1768年から1774年までの露土戦争の終戦を意味する講和条約は、何か?", + "id": "tr-669-07-002", + "answers": [ + { + "text": "キュチュク・カイナルジ条約", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1768年から1774年までの露土戦争で、ロシアはオスマン帝国からどの地域を受け取ったか?", + "id": "tr-669-07-003", + "answers": [ + { + "text": "黒海北方", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1774年以降、一時的な平和を得たワラキア、モルダヴィア両公国は一時的に停止されていたファナリオティス制が復活、アレクサンドル・イプシランティスがワラキア公に就任すると様々な改革が行われた。しかしこの改革も困窮していたオスマン帝国政府が過大な要求を���したため、崩壊、さらに露土戦争(1787年)が勃発するとロシア軍、オーストリア軍がワラキア、モルダヴィアへ侵攻、両公国は主戦場となり荒廃した。ただしオーストリア軍はフランス革命の発生とオランダにおける反乱の発生のために、途中で手を引かざるをえなくなったため、ロシアとオスマン帝国の間で1792年、ヤシー条約が結ばれた。そしてバルカン半島においてビザンツ帝国を復活させギリシャ帝国を復興させるというエカチェリーナ2世の夢はモルダヴィア、ワラキア両公国を占領しながらもイギリスとの利害関係が発生した事であきらめざるを得なかった。", + "qas": [ + { + "question": "一時的に停止されていたファナリオティス制が復活したのは、何年のことなの?", + "id": "tr-669-08-000", + "answers": [ + { + "text": "1774年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "誰が就任してからワラキア公国において、様々な改革が行われましたか?", + "id": "tr-669-08-001", + "answers": [ + { + "text": "アレクサンドル・イプシランティス", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1787年から始まった露土戦争では、ロシア軍とどの国の軍がワラキア、モルダヴィアへ侵攻してきたか?", + "id": "tr-669-08-002", + "answers": [ + { + "text": "オーストリア", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1787年から始まった露土戦争は、どの条約の締結により終わったか?", + "id": "tr-669-08-003", + "answers": [ + { + "text": "ヤシー条約", + "answer_start": 273, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "一方、フランスで台頭したナポレオン・ボナパルトはオーストリア軍を撃破、オーストリアの南東ヨーロッパ進出計画をも断念させた上でルーマニアへ興味を示した。そのため、ワラキア、モルダヴィア両公国のボイエールたちはナポレオンへ覚書を送り、ワラキアへの自治制導入とファナリオティスによる公位独占を廃止することを求めた。ナポレオンはオスマン帝国に圧力をかけてワラキア、モルダヴィア両公を罷免させたが、これはあくまでも当時対立していたロシアを苦境に陥れるための措置であり、ボイエールらの願いを叶えたわけではなかった。しかし、その一方でナポレオンが1807年にオペール大尉(『モルダヴィアとワラキアに関する統計的基礎知識』の著者)を派遣したことでその影響を受けた。", + "qas": [ + { + "question": "ワラキア、モルダヴィア両公国のボイエールたちは、どの国に対し、ワラキアへの自治制導入とファナリオティスによる公位独占の廃止を求めたの?", + "id": "tr-669-09-000", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ナポレオンによりオペール大尉が派遣されたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-669-09-001", + "answers": [ + { + "text": "1807年", + "answer_start": 266, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オーストリアが南東ヨーロッパ進出計画を断念したのは、どの国によることか?", + "id": "tr-669-09-002", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オーストリアは、どこへの進出計画を企んでいたが、ナポレオンの登場により断念せざる得なかったか?", + "id": "tr-669-09-003", + "answers": [ + { + "text": "南東ヨーロッパ", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ところが、このオス��ン帝国による両公の解任はロシアとの協定に違反したものであったため、ロシアはオスマン帝国へ宣戦布告、露土戦争(1806年-1812年)が勃発したが、おりしもナポレオンがティルジットの和約をロシアと結んだためにオスマン帝国は単独でロシアと戦わなければならなかった。そして、両公国は1806年、ロシアによって占領されたが、オルテニアのパンドゥーリ兵(ワラキアにおける非常備軍のこと)はロシアに協力、ロシアはオスマン帝国に勝利したが、この時の経験は後のワラキア蜂起において役立つことになった。", + "qas": [ + { + "question": "オスマン帝国によるワラキア、モルダヴィアの両公の解任をきっかけに、ロシアがオスマン帝国に対し宣戦布告、戦争が勃発したのは、何年のことなの?", + "id": "tr-669-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1806年", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ワラキア、モルダヴィアの両公国がロシアにより占領されたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-669-10-001", + "answers": [ + { + "text": "1806年", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オスマン帝国がワラキア、モルダヴィアの両公を解任したのは、どの国との協定に違反することであったか?", + "id": "tr-669-10-002", + "answers": [ + { + "text": "ロシア", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1806年から始まった露土戦争は、どの国の勝利で終わったか?", + "id": "tr-669-10-003", + "answers": [ + { + "text": "ロシア", + "answer_start": 154, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ロシア軍はワラキア、モルダヴィアにそのまま駐留したが、1812年、ナポレオンとの間に緊張が走ると5月28日、ブカレスト条約が結ばれてロシア軍はベッサラビア等、ロシアへ編入された地域まで撤退、両公国は再びファナリオティスによって統治されることになった。しかし、ファナリオティスたちもオスマン帝国への反発を徐々に明らかにしていった。", + "qas": [ + { + "question": "ブカレスト条約が結ばれたのは、何年のことなの?", + "id": "tr-669-11-000", + "answers": [ + { + "text": "5月28日", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ブカレスト条約は、オスマン帝国とどの国の間で締結された条約でありますか?", + "id": "tr-669-11-001", + "answers": [ + { + "text": "ロシア", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1804年、セルビアでオスマン帝国に対する不満から反乱が発生した。後にセルビア蜂起と呼ばれるこの反乱はあくまでもセルビアで暴政を振るったイェニチェリに対してであったが、徐々に民族的側面を帯びセルビアの独立を目指すようになっていった。1804年に始まった第一次セルビア蜂起は失敗に終わったが、1815年に再び始まった第二次セルビア蜂起でセルビアは自治権の獲得に成功してセルビア公国が成立、オスマン帝国下ではあるが指導者ミロシュ・オブレノヴィチを世襲君主とする自治国家となった。また、ギリシャ人らも独立運動を展開し始め、1814年にはロシアのオデッサでフィリキ・エテリア(友愛教会)が設立され、アルバニア南部のアヤーン、アリー・パシャも不穏な動きを見せていた。", + "qas": [ + { + "question": "1804年の時点で、セルビアはどの国の支配下に置かれていたの?", + "id": "tr-669-12-000", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1804年にセルビアでオスマン帝国への不��から発生した反乱は、後で何と呼ばれるようになりましたか?", + "id": "tr-669-12-001", + "answers": [ + { + "text": "セルビア蜂起", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "セルビア蜂起は、第何次まであるか?", + "id": "tr-669-12-002", + "answers": [ + { + "text": "第二次", + "answer_start": 157, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "第二次セルビア蜂起は、何年から始まったか?", + "id": "tr-669-12-003", + "answers": [ + { + "text": "1815年", + "answer_start": 145, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "トラジャ族", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "トラジャ族(Toraja)は、インドネシアのスラウェシ島にある南スラウェシ州および西スラウェシ州の山間地帯に住むマレー系の先住少数民族である。総人口約65万人のうち約45万人はタナ・トラジャ県(「トラジャの地」の意)に居住している。トラジャ族のほとんどはキリスト教を信奉し、イスラム教と「アルク」と呼ばれる土着のアニミズムが続く。インドネシア政府は、このアニミズム信仰をアルクトドロ教と定義している。彼らは、その特徴的な家屋や壮大な死葬儀式だけでなく、コーヒーのブランドにも使われる民族名からも知られている。", + "qas": [ + { + "question": "トラジャ族(Toraja)は、どの国の少数民族ですか。", + "id": "tr-670-00-000", + "answers": [ + { + "text": "インドネシア", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "トラジャ族のほとんどはどの宗教を信奉しているか。", + "id": "tr-670-00-001", + "answers": [ + { + "text": "キリスト教", + "answer_start": 127, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "トラジャ族は、スラウェシ島中央部および南部の山岳地帯に居住する、トラジャ語系統の言語を話す部族である。境界が明確な村々に分散して住み、その数は20を越えた。それぞれの村は独立しており、時に敵対し戦争を行うこともあった[4]。\n\n「トラジャ」という単語は、ブギス族の言語で「高地の人々」を意味する「ト・リアジャ」(toriaja)を元にしており、オランダ領東インド政府が1909年にこの民族を「トラジャ」と名づけたことが由来となっている。トラジャ族は、複雑で壮大な葬儀の形式や、岩の断崖へ死者を埋葬する習慣、トンコナン(tongkonan)の名で知られる、尖った巨大な屋根を備えた伝統的な家屋の様式、カラフルな木彫り細工などで知られる。彼らの葬儀は、通常規模でも数百人の参列者が出席し、数日間続く社会的に重要な行事とされている。\n\n20世紀以前、トラジャ族は自治権を持ち、アニミズムを信奉し、外界とは隔離された村で生きていた。1900年代初頭、オランダ人宣教師がキリスト経の布教目的に村を訪れたのが、外来者との接触を持った最初の例となった。1970年代には、タナ・トラジャ県はインドネシア観光の目玉となり、村は外界へ開かれた。こうして村は、旅行の企画に組み込まれたり、文化人類学者たちの研究材料になるなど、その環境は大きく変化した。1990年代までにタナ・トラジャ県観光はピークに達し、トラジャ族の社会は激変した。アルクと呼ばれるアニミズム信仰に基づく共同社会や習慣を基盤とした農村社会から、キリスト教的共同体へと変貌し、伝統の社会構成にも変化が訪れた。", + "qas": [ + { + "question": "スラウェシ島中央部および南部の山岳地帯に居住する、トラジャ語系統の言語を話す部族を何と呼びますか。", + "id": "tr-670-01-000", + "answers": [ + { + "text": "トラジャ族", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ブギス族の言語でト・リアジャ」(toriaja)とは���んな意味を表しますか。", + "id": "tr-670-01-001", + "answers": [ + { + "text": "「高地の人々」", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "トラジャ族はいつ外来者との最初の接触を持ちましたか。", + "id": "tr-670-01-002", + "answers": [ + { + "text": "1900年代初頭", + "answer_start": 412, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "トラジャ族が最初に接触した外来者は誰なの?", + "id": "tr-670-01-003", + "answers": [ + { + "text": "オランダ人宣教師", + "answer_start": 421, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "20世紀に至る前、トラジャ族は自らが固有の民族であるという概念は持っていなかった。オランダの植民地支配とキリスト教伝播がもたらされる以前、トラジャ族は高地にある村内から出ることはほとんど無く、より広い地域を認識していなかった。高地の村々の間では儀式の共通性などが見られたが、方言の多様性や社会階層構造の違い、または儀式を執り行う際の手順の差などにおいて、他のスラウェシ島に住む高地民族とは相違点が確認された。単語としての「トラジャ」は、最初は海岸線の低地に居住する民族が高地民族を指す呼称として用いられたのが最初であり、その意味は「ト」(to)が「人」、「リアジャ」(riaja)が「高地」を指す。結果として、最初に「トラジャ」という言葉が他の「ブギス」や「マカッサル」と言ったスラウェシ島の低地に住む民族の呼び名よりも広く知れたものになった。\n\nトラジャ族は「生」と「死」を同等かつ相対的に捉え、両者には密接な関係が存在すると考えていた。そして、豊穣や生殖には相応の「死」が必要不可欠という概念を持っていた。女性が担う「生」の代表である出産は、上界から魂を呼び込む行為とされた。相対的に男性は「死」を担い、首刈りが村に豊かさをもたらすために必要な義務のひとつと考えていた。このような死生観は、彼らの壮大な葬送の祭礼にも反映した。\n\nオランダ人宣教師の到来によって居住地の南部からトラジャ族としての民族意識が芽生えた。これはタナ・トラジャを訪問する異邦人が増えるにつれ、民族共通のアイデンティティとして醸成されていった。この時期以降、南スラウェシ地区の少数民族は4つのグループに分類された。(i)ブギス族‐人口では多数派となる。船大工や船乗りが多い。(ii)マカッサル族‐低地に住む商人や船乗り。(iii)マンダール族(Mandarese)‐商人や漁師。(iv)トラジャ族‐高地の米作農家。", + "qas": [ + { + "question": "「トラジャ」の「ト」(to)は何を意味しますか。", + "id": "tr-670-02-000", + "answers": [ + { + "text": "「人」", + "answer_start": 273, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「生」を担うのは女性ですか、男性ですか。", + "id": "tr-670-02-001", + "answers": [ + { + "text": "女性", + "answer_start": 455, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "オランダ人宣教師の到来以降、南スラウェシ地区の少数民族は幾つのグループに分類されたか。", + "id": "tr-670-02-002", + "answers": [ + { + "text": "4つ", + "answer_start": 681, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "人類学者のC.Cyrut博士は、北ベトナムと南中国に挟まれたトンキン湾沿岸がトラジャ族発祥の地であり、この地から移住して当初はスラウェシ島のエンレカン湾岸に住んだ海洋民族たちが、現地のマレー人と文化受容をしつつ融合したと考えている。ユネスコ事務局長を歴任した服部英二もこの説に与し、その論拠としてトンコナンの屋根形状や、古い棺が木製でも石製でも共通して船型に作られている点を挙げた。ただし、近年はキリスト教の影響から、この形式の棺は廃れている。\n\n17世紀���ら、オランダはオランダ東インド会社を隠れ蓑に、スラウェシ島を政治的に支配し、交易を始めた。しかしその後2世紀にわたって、トラジャ族が住む山地地帯は交通の難所に位置し、また耕作に適していなかったこともあって未踏のままに置かれていた。19世紀終盤になると、スラウェシ島の特にマカッサル族やブギス族にイスラム教が伝播し拡がると、これを危惧したオランダはキリスト教の布教に努め、当時まだアニミズムを信奉していた高地の住民に眼をつけた。1920年、オランダ植民地政府の援助を受けたオランダ改革派の改革派ミッショナリー・アライアンスは、布教活動を開始した。彼らは宗教のみならず、オランダの奴隷制度廃止運動や徴税制度も合わせトラジャ族への強制を開始した。サダンの区域のまわりに境界線が設定され、その地は「タナ・トラジャ」と名づけられた。この場所は、かつてのルウ王国の領地でもあった。1946年、オランダ政府はここを県と定め、1957年インドネシア政府も同様にここを県とした。", + "qas": [ + { + "question": "北ベトナムと南中国に挟まれたトンキン湾沿岸がトラジャ族発祥の地であり、この地から移住して当初はスラウェシ島のエンレカン湾岸に住んだ海洋民族たちが、現地のマレー人と文化受容をしつつ融合したと考えている人類学者は誰ですか。", + "id": "tr-670-03-000", + "answers": [ + { + "text": "C.Cyrut博士", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オランダ植民地政府の援助を受けたオランダ改革派の改革派ミッショナリー・アライアンスは、何年から布教活動を開始したか。", + "id": "tr-670-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1920年", + "answer_start": 442, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "サダンの区域のまわりに境界線が設定され、「タナ・トラジャ」と名づけられた地域は、かつてどの国の領土でしたか。", + "id": "tr-670-03-002", + "answers": [ + { + "text": "ルウ王国", + "answer_start": 600, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1930年代、政治的な保護の獲得やマカッサル族およびブギス族との相対的立場を有利にするためにオランダと協調しようとして、キリスト教に改宗するトラジャ人が増え始め、これを危険視した平地に住むイスラム教徒との間で紛争が起こり始めた。それでも1950年の段階でキリスト教徒となった比率は10%程度だった。インドネシア独立戦争後の1951年から1965年の期間は、イスラム原理主義に基づくスラウェシ島の独立を目指したイスラム国家独立運動が島の南部で激化した。そして、彼らが起こすゲリラ活動は反発を生み、トラジャのキリスト教化に拍車がかかった。\n\nインドネシア政府とは提携関係を結んでいたが、当局はトラジャ族の安全保障までは確約しなかった、1965年、大統領令が発布され、すべてのインドネシア国民は公認された5つの宗教のいずれかの信者になることが義務づけられた。これは、イスラム教、プロテスタント、カトリックもしくはヒンドゥー教とされ、トラジャ伝統のアニミズムに属す固有の信仰アルクは非合法化された。これには抗議の声が上がり、政府はアルクを公式な宗派のひとつとする解釈を持ち出し、1969年にはアルクトドロ教としてヒンドゥー教の分派のひとつと正式に定義するに至った。", + "qas": [ + { + "question": "大統領令が発布され、すべてのインドネシア国民は公認された5つの宗教のいずれかの信者になることが義務づけられたのはいつですか。", + "id": "tr-670-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1965年", + "answer_start": 315, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アルクがアルクトドロ教としてヒンドゥー教の分派のひとつと正式に定義するに至ったのはいつですか。", + "id": "tr-670-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1969年", + "answer_start": 485, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "家族は、トラジャ族の社会における準拠集団であり、政治的な単位とも見做すことが出来る。それぞれの村落はひとつの同属組織であり、トンコナンと呼ばれる伝統的な形式の家屋に居住している。それぞれのトンコナンには名称がつけられ、それはそのまま村落の名前になっている。親族の首長は村落を纏める役を担う。親族関係を強めるために、遠縁間の結婚は日常的に行われる。3親等以内の結婚は忌避されるが、貴族階級では財産の拡散を防ぐためにしばしば見られる。親族関係は相互主義である。彼らは耕作を互いに助け合い、水牛を共有し、負債は皆で負う。\n\nトラジャ人は父系・母系両方の家系に属する。この両系所属はインドネシアではトラジャ族だけに見られる風俗である。従って、子供は父母双方の親族に属し、財産も負債も両方から引き継ぐことになる。子供への命名は、通常亡くなった叔父や叔母など親族から受け継がれ、両親や兄弟の名が参照されることも多い。\n\n州県制が施行される以前、トラジャ族の村はそれぞれ自治権を有していた。そして、他の村々との対立など単独では処し難い問題が生じた際には、複数の村で連合を組む場合もあった。家族間の関係は、血縁、結婚、先祖伝来の家屋を共有することで確認され合い、水牛や豚の交換で繋がりを強めた。ただし、このような関係は必ずしも政治的または文化的な活動としてだけではなく、支配階層を反映した結果としても行われた。この階層は葬儀において、ヤシ酒を注ぐ役、死体や供物を包む役、席次、使われる皿の種類、供されえる肉片の種類にまで及ぶ。", + "qas": [ + { + "question": "トラジャ族何と呼ばれる伝統的な形式の家屋に居住しているか。", + "id": "tr-670-05-000", + "answers": [ + { + "text": "トンコナン", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "過去のトラジャ族社会において、家族の関係は社会階級にも支配されていた。階級は3つあり、貴族、一般人、奴隷であった。このうち奴隷階級は1909年にオランダ領東インド政府が下した政令によって廃止されている。\n\n貴族階級は、上界から降臨した始祖たちの直系子孫だと信じられており、一般人が「バヌア」と呼ばれる竹製の家に住むのに対し、貴族はトンコナンを住居としている。奴隷は、主人が住むトンコナンの周りに建てられる粗末な小屋に住んだ。トラジャ族において、奴隷は私有であった。個人の負債返済のために階級を落として奴隷となる事例もあったが、戦争の過程で得られたり、また売買を通じて取得されたりもした。奴隷は自らを買い受けて一般人となることが可能だったが、子供の階級までを変えることは出来なかった。奴隷は、金やブロンズの装身具を身につけること、住居を彫刻で装飾すること、主人と同じ皿から食事を取ること、上位階級の女性と性交渉を持つことを禁じられ、これらを破ると死刑に処された。\n\n階級は母系のものが引き継がれたため、婚姻の際、下の階級の女性と結婚することは憚られた。逆に上流階級の女性との結婚は、次世代の階級を高めることが出来た。一般人は自由な婚姻が可能であったが、貴族はその階級を維持するために血縁内で結婚する傾向にあり、またブギス族やマカッサル族と婚姻する例も見られる。このような親族関係や階級伝達の構造はあるが、トラジャ族の中でも社会移動は可能で、富や階級を変動させる結婚などは行われた。なお、富は水牛の所有頭数で決まった。このような風習があるため、貴族とされる家系の人々が一般階級に対して尊大な態度になることは今日でも見られる。一般人や奴隷は葬送の儀式を行うことは禁止されていた。", + "qas": [ + { + "question": "トラジャ族の階級は幾つに分けられるか。", + "id": "tr-670-06-000", + "answers": [ + { + "text": "3つ", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "トラジャ族の階級には貴族、一般人、そして何があるか。", + "id": "tr-670-06-001", + "answers": [ + { + "text": "奴隷", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "トラジャ族の奴隷階級はいつ廃止になったか。", + "id": "tr-670-06-002", + "answers": [ + { + "text": "1909年", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "トンコナンを住居する階級は何?", + "id": "tr-670-06-003", + "answers": [ + { + "text": "貴族", + "answer_start": 103, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "後にアルクトドロ教と定義されたトラジャ族固有の宗教は、多神教アニミズムに分類される「アルク」と呼ばれ、その意味は「方法」または「法」と訳される。アルク神話では宇宙は三つの階層、上位世界の「上界」・人が生きる世界である「大地」・そして「下位世界」に分かれるとされている。最初に「上界」と「大地」が婚姻を結び、闇が生まれ、分離が生じ、そして光が創られたとされている。動物は柱で矩形に囲われた「下位世界」に住み、人間が住む「大地」の上は馬の鞍状をした「上界」が覆っている。彼らの祖先は、上界から創造神プアン・マトゥア(PuangMatua)の神託を受ける階段を下って大地に現れたとされる。\n\nトラジャ神話には、前出の創造神以外にも多くの神々が登場する。大地の神ポン・バンガイ・ディ・ランテ(PongBanggaidiRante)、地震を起こすとされる女神インド・オンゴン=オンゴン(Indo'Ongon-Ongon)、死を司る神ポン・ラロンドン(PongLalondong)、医薬の女神インド・ベロ・トゥンバン(Indo'BeloTumbang)などや、稲穂に宿る大地の神トティボヨンや水牛の神などである。\n\n大地の持つ権威はト・ミナア(tominaa、「アルクの司祭」の意)と呼ばれ、その約束事や現象は「生」と「死」の両方に及ぶ。アルクは単純な信仰システムではなく、法律・宗教・習慣の複合とされ、社会生活・農業行事そして伝統的な儀式を規定する。その詳細は村ごとによって若干異なる可能性があるが、生と死に関する儀式が明確に分かれている点が共通の必要条件となっている。トラジャ人は、それぞれの儀式が別れていないと遺体が滅んでしまうと考えている。これら二つの儀式は非常に重要なものとされている。しかし、オランダ宣教師が布教に当たっていた時代に、規制されなかった「死」の儀式は今日も引き継がれているのに対し、「生」の儀式は催しや出席が禁止されたため廃れてしまった。", + "qas": [ + { + "question": "「方法」または「法」という意味をもつトラジャ族固有の宗教は何ですか。", + "id": "tr-670-07-000", + "answers": [ + { + "text": "「アルク」", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アルク神話では宇宙は幾つの階層を成しているか。", + "id": "tr-670-07-001", + "answers": [ + { + "text": "三つ", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ポン・バンガイ・ディ・ランテはどの神話の神ですか。", + "id": "tr-670-07-002", + "answers": [ + { + "text": "トラジャ神話", + "answer_start": 293, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "トンコナン(tongkonan)は、トラジャ族先祖伝来の形式を受け継いだ伝統的な家屋である。木杭の上に建つ高床式で、割られた竹の層で作られた巨大な湾曲した弧状の屋根を備えている。外壁は赤・黄・黒の三色で彩色された精巧な木彫り装飾で飾られている。「トンコナン」という単語はトラジャ語で「座る」という意味の動詞「トンコン」(tongkon)から派生している。\n\nトンコナンはトラジャ族にとって社会生活の中心となる場所である。また、トンコナンに関する儀式はトラジャ族の精神活動を表現する重要な要素でもあり、これによりそこに住む過去と未来の住人と、現在の家族全員を繋ぐ象徴とされる。トラジャ神話によると、最初のトンコナンは4本の柱とインド産の布を使ったもので、上界で建てられたとされている。大地に降臨したトラジャ族の始祖は、この家を模し、儀式を執り行なったとされる。\n\nトンコナン建設には多大な労力がかかるため、通常は血縁集団が集まった大規模なものとなる。トンコナンには3種類のタイプがある。政治機能の中心を担う最高位のtongkonanlayuk、民族の慣習行事を遂行する権限を持つ一家が住むトンコナン・ペカンブラン(tongkonanpekamberan)、そして通常の貴族が住むトンコナン・バトゥ(tongkonanbatu)である。ただし、一般人階級の中でも、村を出てインドネシア社会で蓄財を果たした家族からの仕送りを受けて大きなトンコナンを建てる例が増え、その高貴さと排他性は少なくなりつつある。", + "qas": [ + { + "question": "トンコナンはどの部族の伝統家屋ですか。", + "id": "tr-670-08-000", + "answers": [ + { + "text": "トラジャ族", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「トンコナン」という単語はトラジャ語のどの単語から派生したか。", + "id": "tr-670-08-001", + "answers": [ + { + "text": "「トンコン」(tongkon)", + "answer_start": 153, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "トンコナンには何種類のタイプがあるか。", + "id": "tr-670-08-002", + "answers": [ + { + "text": "3種類", + "answer_start": 431, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "トラジャでのコーヒー生産は第二次世界大戦以前から行なわれ、オランダ王室御用達に指定されるほど高い評価を受けていたが、インドネシア独立後オランダ人が去ると衰退した。この荒れた農園再興に尽力したのは、日本のキーコーヒーだった。\n\n1970年に伝説のコーヒー復活に乗り出した同社は農場開発や道路整備などを進め、1978年に「トアルコトラジャ・コーヒー」として販売を開始した。「トアルコ(TOARCO)」とは、トラジャアラビカコーヒー(TORAJAARABICACOFFEE)の頭2文字ずつを取った頭字語である。現在では、現地法人トアルコ・ジャヤ社(PT.ToarcoJaya)を設立し、農園と加工工場を備えてトラジャ・コーヒーを生産している。トラジャ人労働者が収穫・乾燥し、選別と豊かな湧き水を用いた洗浄を経て出荷される豆は世界中から高い評価を受けている。近年は新規に参入する企業も増えている。", + "qas": [ + { + "question": "トラジャでのコーヒー生産はいつから行われましたか。", + "id": "tr-670-09-000", + "answers": [ + { + "text": "第二次世界大戦以前", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「トアルコトラジャ・コーヒー」は何年から販売になったか。", + "id": "tr-670-09-001", + "answers": [ + { + "text": "1978年", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "小林ハル", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "小林ハルは、日本の瞽女だ。生後3か月で失明し、5歳の時に瞽女修行を開始した。数多くの苦難を経て晩年に「最後の長岡瞽女」、「最後の瞽女」として脚光を浴びた。8歳で初めて巡業に出て以降、1973年に廃業するまでの間、西頸城郡を除く新潟県全域と山形県の米沢・小国地方、福島県南会津地方を巡った。1978年「瞽女唄」が「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」として選択され、その保持者として認定される。1979年、黄綬褒章を授与される。選択無形文化財の保持者に認定されたことをもって人間国宝と呼ばれることもある。", + "qas": [ + { + "question": "小林ハルは何歳の時に瞽女修行をはじめたの?", + "id": "tr-671-00-000", + "answers": [ + { + "text": "5歳", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「最後の長岡瞽女」、「最後の瞽女」とは誰を指すの?", + "id": "tr-671-00-001", + "answers": [ + { + "text": "小林ハル", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "小林ハルは何年に黄綬褒章を授与するか。", + "id": "tr-671-00-002", + "answers": [ + { + "text": "1979年", + "answer_start": 197, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "小林ハルは1900年1月24日、新潟県南蒲原郡井栗村三貫地に4人兄弟の末子として生まれた。ハルの生家は庄屋の格式を有し小作人をもつ農家で、使用人もおり暮らし向きはよかった。生後3か月の時に白内障を患い、両目の視力を失う。医者には「治る見込みはない」と告げられた。1902年、父親が死去した。母親も喘息の持病を抱えており、ハルは同居する大叔父に養育された。", + "qas": [ + { + "question": "小林ハルはいつ生まれたの?", + "id": "tr-671-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1900年1月24日", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "小林ハルが失明になった原因は何?", + "id": "tr-671-01-001", + "answers": [ + { + "text": "白内障", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "小林ハルの父はいつ亡くなったか。", + "id": "tr-671-01-002", + "answers": [ + { + "text": "1902年", + "answer_start": 131, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "小林ハルの母親はどんな持病を抱えていたか。", + "id": "tr-671-01-003", + "answers": [ + { + "text": "喘息", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "家族は盲目の子が生まれたことで村人から偏見の眼差しを向けられることを恐れ、「人に見られてはいけない」とハルを常に屋敷の奥にある寝間に置いた。家族はハルに「呼ばれなかったら声を出すのではないぞ」と言い聞かせた。食事はすべて寝間で食べさせられ、「手洗いが近くなるから」という理由で水分をとることも制限された。ハルは家族から「お前は人の世話になっているのだから、満足なご飯なんて食べさせていられない。だが、そのために病になってしまったら、近所の手前が悪い」と言われたという。", + "qas": [ + { + "question": "ハルが水分をとることに制限があった理由は何でしたか。", + "id": "tr-671-02-000", + "answers": [ + { + "text": "「手洗いが近くなるから」", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "盲目であることが分かってから、家族はハルを名前で呼ばなくなった。そのため、ハルは自身の名をあまり好きにはなれなかった。大叔母はハルを「トチ」と呼んだ。16歳年上の兄はハルによく暴力をふるったが、家族は「お前はこの家で一生、兄さの世話にならなければならないのだ」、「お前がいるせいで、兄は年頃なのに、嫁のなり手がなかなか見つからない。兄さに辛くあたられたって、仕方のないことだ」と兄が咎められることはなかった。ハルは「お前には誕生日はないんだ」と言われ、兄弟と違って誕生日を祝われることもなかった。ハルは晩年、老人ホームに入所するまで、自身の名前からおそらく春生まれだろうは感じていたものの、正確な誕生日を知らずにいた。", + "qas": [ + { + "question": "ハルの大叔母はハルのことを何と呼んだか。", + "id": "tr-671-03-000", + "answers": [ + { + "text": "「トチ」", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ハルの兄はハルより何歳上なの?", + "id": "tr-671-03-001", + "answers": [ + { + "text": "16歳", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "占い師にハルをみせたところ「この子は長生きする」と言われ、家族はハルの将来の生計を案じるようになる。当時、視覚障害者が生計を立てるための手段は鍼、按摩、琴、三味線などごく限られていた。大叔父はハルを隣村の鍼医に弟子入りさせようとしたが、挨拶に出向いた際に酒に酔った鍼医が「しっかり勉強しないと、鍼を突き刺すぞ」と大声で脅したのをハルが怖がったため、話は立ち消えとなった。家族は鍼医が駄目なのであれば瞽女にしようと考えるようになった。村を訪れる瞽女の中にはハルを弟子にしたいと申し出る者もおり、三条を拠点に活動する樋口フジへの弟子入りが決まった。", + "qas": [ + { + "question": "ハルは誰に弟子入りすることになったの?", + "id": "tr-671-04-000", + "answers": [ + { + "text": "樋口フジ", + "answer_start": 256, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "下重暁子は、母親には「病弱の自分がいつまで面倒を見られるか分からない。なんとか一人前になってもらいたい。目のみえる女と同じように、いやそれ以上に自分で自分のことができる女に育てねば」という思いがあったのだと推測する。ハルは躾の厳しい母親を憎み、実の母親ではなく継母だと思うこともあったが、巡業をするようになってからは母親のお蔭で瞽女を続けられるのだと感謝するようになった。後に弟子をとるようになると、「本当の親だからこそ、愛情があるからこそ、母は厳しくしつけたのだ」と納得するようになり、弟子を指導する際に母親のことを思い出して涙ぐむこともあったという。ハルの母親は1910年11月、喘息を悪化させ病死した。母親はハルを枕元に呼び、じっと見た後、息を引き取ったという。大叔母は目の見えないハルが代わりに死ねばよかったとハルを責めた。", + "qas": [ + { + "question": "ハルの母はいつ亡くなったか。", + "id": "tr-671-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1910年11月", + "answer_start": 283, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "母親には「病弱の自分がいつまで面倒を見られるか分からない。なんとか一人前になってもらいたい。目のみえる女と同じように、いやそれ以上に自分で自分のことができる女に育てねば」という思いがあったのだというのは誰の推測ですか。", + "id": "tr-671-05-001", + "answers": [ + { + "text": "下重暁子", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1905年3月、ハルは樋口フジに正式に弟子入りした。21年間の年季修行をする約束が交わされ、ハルの親族はその間の経費や稽古料を先払いした。さらに21年の年季が明けるより前にハルの不都合が原因で弟子を辞めた場合には「縁切り金」と呼ばれる違約金を支払うことも取り決められた。ハルには「スミ」という瞽女名が与えられた。\n\n修行は実家で稽古を受け、巡業の時だけ家を離れるという形態で行われた。稽古が始まったのは1907年夏のことで、最初の課題は『岡崎女郎衆はいい女』を三味線を弾きながら唄うことであった。当時ハルは4、5歳児に見えるほど小柄で大人用の三味線は扱えず、子供用の三味線を膝の上に置いた枕に乗せてようやく弾くことができた。稽古を始めて間もなく弦を抑える左手の指の皮が破れ、出血した。痛みに耐えかねたハルは母親に泣きついたが、母親は「指が痛くて三味線を習うのができぬようでは、唄だってうたうことはできない。そんな指の痛さを我慢できないような奴は、川に投げてくる」と言って家の近くを流れる信濃川へ連れて行こうとしたり、食事を与えなかったりした。ハルは「痛くても、痛くないふり」をして稽古を続けた。", + "qas": [ + { + "question": "ハルはいつ樋口フジに正式に弟子入りした?", + "id": "tr-671-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1905年3月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ハルの瞽女名は何?", + "id": "tr-671-06-001", + "answers": [ + { + "text": "「スミ」", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ハルはいつから稽古を受けはじめたか。", + "id": "tr-671-06-002", + "answers": [ + { + "text": "1907年夏", + "answer_start": 201, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "「寒声」を出す訓練もこの時期から始めた。寒声とは、冬の寒い時期に発声練習をすることで得られる瞽女独自の発声法のことで、出血するほど喉を痛め、声が出ない状態で発声練習を続けると、「ほんとうの声」、「長い語りに耐える変わらぬ声」を身に付けることができるとされる。冬になると毎日早朝と夜に信濃川の土手へ出て訓練をした。「厚着をしたり足袋を履いたりすれば、身体は温かくても声は出やせん」という理由で、薄着の上、素足に草鞋履きという格好をさせられた。足には指が腫れ上がるほどのしもやけができたが、一生懸命に唄うと体が温まり、風邪をひくことはなかったという。ハルはこの寒稽古を、母親と死別した年を除き、14年間にわたり毎年1か月間行った。ハルは寒稽古について「本当にいやだった」と振り返っている。ハルの唄はやがて、村の鎮守神に奉納するまでに上達した。", + "qas": [ + { + "question": "冬の寒い時期に発声練習をすることで得られる瞽女独自の発声法のことを何と呼びますか。", + "id": "tr-671-07-000", + "answers": [ + { + "text": "寒声", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "12歳の時、ハルは大叔父から大人用の三味線を買い与えられ、13歳のときには二丁三味線で演奏することが許された。これはハルが一人前の瞽女として認められたことを意味した。しかしフジからの評価は芳しくなかった。フジはハルをしばしば「ぼっこれ薬缶」と呼び、「お前みたいな唄の下手なのはいらない」と罵った。実家のことを持ち出され、「おまえんとこは鉄砲打って鳥とるから、たたりで声が出ないんだろう」と当てつけられることもあった。フジはハルの下に2人弟子をとると、「唄が下手だから、お前はいらない」という理由でハルを巡業から外すようになった。フジはハルの低く男性的なところのある声が気に入らないようであったが、ハルにも「親方と同じになんか唄わんねェ」という思いがあった。巡業から外され、やむなく家に戻ったハルは大叔父に連れられて巫女に占ってもらった。結果は「そこでは因縁がないし、そこに置いても苦労するばっかりだから引きとった方がいい」というものであった。同じ頃、たまたま姉弟子の一人が瞽女から足を洗うことを決めており、ハルの将来を案じた姉弟子の計らいでフジのほうから暇を出す形で、縁切り金を払うことなく師弟関係を解消することができた。1915年のことである。この時、ハルの脛にはフジに杖で打ち据えられてできた傷が残っており、調べてみると骨に無数のヒビが入っていた。", + "qas": [ + { + "question": "ハルは何歳のとき、二丁三味線で演奏することが許されたか。", + "id": "tr-671-08-000", + "answers": [ + { + "text": "13歳", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ハルとフジの師弟関係が解消したのは何年のことですか。", + "id": "tr-671-08-001", + "answers": [ + { + "text": "1915年", + "answer_start": 511, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "レオナルド・ダ・ヴィンチ", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "���オナルド・ダ・ヴィンチは、イタリアのルネサンス期を代表する芸術家。フルネームはレオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ(LeonardodiserPierodaVinci)である。「ダ・ヴィンチ」とはヴィンチ村出身であることを意味しており、個人名の略称としては「レオナルド」を用いるのが適切である。音楽、建築、数学、幾何学、解剖学、生理学、動植物学、天文学、気象学、地質学、地理学、物理学、光学、力学、土木工学など様々な分野に顕著な業績と手稿をのこした。", + "qas": [ + { + "question": "レオナルド・ダ・ヴィンチのフルネームは何?", + "id": "tr-672-00-000", + "answers": [ + { + "text": "レオナルド・ディ・セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ(LeonardodiserPierodaVinci)", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "レオナルド・ダ・ヴィンチはルネサンス期を代表する芸術家であり、「飽くなき探究心」と「尽きることのない独創性」を兼ね備えた人物といい、日本の美術史では「万能の天才」といわれている。史上最高の呼び声高い画家の一人であるとともに、人類史上もっとも多才の呼び声も高い人物である。アメリカ人美術史家ヘレン・ガードナーは、レオナルドが関心を持っていた領域分野の広さと深さは空前のもので「レオナルドの知性と性格は超人的、神秘的かつ隔絶的なものである」とした。しかしながらマルコ・ロッシは、レオナルドに関して様々な考察がなされているが、レオナルドのものの見方は神秘的などではなく極めて論理的であり、その実証的手法が時代を遥かに先取りしていたのであるとしている。", + "qas": [ + { + "question": "レオナルド・ダ・ヴィンチに対して彼の知性と性格は超人的、神秘的かつ隔絶的なものであると評価した人は誰ですか。", + "id": "tr-672-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ヘレン・ガードナー", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "日本の美術史ではレオナルド・ダ・ヴィンチのことを何と言っていますか。", + "id": "tr-672-01-001", + "answers": [ + { + "text": "「万能の天才」", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "レオナルド・ダ・ヴィンチは極めて論理的であり、その実証的手法が時代を遥かに先取りしていたのであると述べたのは誰ですか。", + "id": "tr-672-01-002", + "answers": [ + { + "text": "マルコ・ロッシ", + "answer_start": 228, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1452年4月15日、レオナルド・ダ・ヴィンチは、フィレンツェ共和国から、約20km程、離れたフィレンツ郊外のヴィンチ村において、有能な公証人であったセル・ピエーロ・ダ・ヴィンチと農夫の娘であったカテリーナとの間に非嫡出子として誕生した。\n\n1466年頃、レオナルドは、当時、フィレンツェにおいて、最も優れた工房の1つを主宰していたフィレンツェの画家で、彫刻家でもあったヴェロッキオが、運営する工房に入門した。\n\n画家としてのキャリア初期には、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァに仕えている。その後ローマ、ボローニャ、ヴェネツィアなどで活動し、晩年はフランス王フランソワ1世に下賜されたフランスの邸宅で過ごした。", + "qas": [ + { + "question": "レオナルド・ダ・ヴィンチはいつ生まれましたか。", + "id": "tr-672-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1452年4月15日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヴィンチ村はフィレンツェ共和国から約何km程離れていますか。", + "id": "tr-672-02-001", + "answers": [ + { + "text": "約20km程", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "レオナルド・ダ・ヴィンチ��晩年、どの国で過ごしましたか。", + "id": "tr-672-02-002", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 275, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "レオナルド・ダ・ヴィンチの父の名前は何か。", + "id": "tr-672-02-003", + "answers": [ + { + "text": "セル・ピエーロ・ダ・ヴィンチ", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "レオナルドは多才な人物だったが、存命中から現在にいたるまで、画家としての名声がもっとも高い。とくに、その絵画作品中もっとも有名でもっとも多くのパロディ画が制作された肖像画『モナ・リザ』と、もっとも多くの複製画や模写が描かれた宗教画『最後の晩餐』に比肩しうる絵画作品は、ミケランジェロ・ブオナローティが描いた『アダムの創造』以外には存在しないといわれている。また、ドローイングの『ウィトルウィウス的人体図』も文化的象徴と見なされており、イタリアの1ユーロ硬貨、教科書、Tシャツなど様々な製品に用いられている。現存するレオナルドの絵画作品は15点程度と言われており決して多くはない。これはレオナルドが完全主義者で何度も自身の作品を破棄したこと、新たな技法の実験に時間をかけていたこと、一つの作品を完成させるまでに長年にわたって何度も手を加える習慣があったことなどによる。それでもなお、絵画作品、レオナルドが残したドローイングや科学に関するイラストが描かれた手稿、絵画に対する信念などは後世の芸術家へ多大な影響を与えた。このようなレオナルドに匹敵する才能の持ち主だとされたのは、同時代人でレオナルドよりも20歳余り年少のミケランジェロ・ブオナローティだけであった。\n\nレオナルドは科学的創造力の面でも畏敬されている。ヘリコプターや戦車の概念化、太陽エネルギーや計算機の理論、二重船殻構造の研究、さらには初歩のプレートテクトニクス理論も理解していた。レオナルドが構想、設計したこれらの科学技術のうち、レオナルドの存命中に実行に移されたものは僅かだったが、自動糸巻器、針金の強度検査器といった小規模なアイディアは実用化され、製造業の黎明期をもたらした。また、解剖学、土木工学、光学、流体力学の分野でも重要な発見をしていたが、レオナルドがこれらの発見を公表しなかったために、後世の科学技術の発展に直接の影響を与えることはなかった。また、発生学の研究も行っていた。更に眼を調べることで光と眼鏡の原理も解明していた。", + "qas": [ + { + "question": "『アダムの創造』は誰の作品なの?", + "id": "tr-672-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ミケランジェロ・ブオナローティ", + "answer_start": 134, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『モナ・リザ』は誰の作品なの?", + "id": "tr-672-03-001", + "answers": [ + { + "text": "レオナルド", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "現存するレオナルドの絵画作品は何点程度あるか。", + "id": "tr-672-03-002", + "answers": [ + { + "text": "15点程度", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "レオナルドは1452年4月15日の「日没3時間後」に、トスカーナのヴィンチに生まれた。ヴィンチはアルノ川下流に位置する村で、メディチ家が支配するフィレンツェ共和国に属していた。父はフィレンツェの裕福な公証人セル・ピエロ・フルオジーノ・ディ・アントーニオ・ダ・ヴィンチで、母はカテリーナである。\n\nレオナルドの「姓」であるダ・ヴィンチは、「ヴィンチの」を意味する。出生名の「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」は、「ヴィンチのセルのレオナルド」という意味となる。セルは敬称であり、レオナルドの父親が公証人についていたことを示してい���。", + "qas": [ + { + "question": "レオナルドの出生名は何ですか。", + "id": "tr-672-04-000", + "answers": [ + { + "text": "「レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ」", + "answer_start": 185, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "レオナルドの誕生日はいつなの?", + "id": "tr-672-04-001", + "answers": [ + { + "text": "4月15日", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "レオナルドの母は何ですか。", + "id": "tr-672-04-002", + "answers": [ + { + "text": "カテリーナ", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "レオナルドの幼少期についてはほとんど伝わっていない。生まれてから5年をヴィンチの村落で母親とともに暮らし、1457年からは父親、祖父母、叔父フランチェスコと、ヴィンチの都市部で過ごした。レオナルドの父親セル・ピエロは、レオナルドが生まれて間もなくアルビエラという名前の16歳の娘と結婚しており、レオナルドとこの義母の関係は良好だったが、義母は若くして死去してしまっている。レオナルドが16歳のときに、父親が20歳の娘フランチェスカ・ランフレディーニと再婚したが、セル・ピエロに嫡出子が誕生したのは、3回目と4回目の結婚時のことだった。レオナルドは、正式にではなかったがラテン語、幾何学、数学の教育を受けた。後にレオナルドは幼少期の記憶として二つの出来事を記している。ひとつはレオナルド自身が何らかの神秘体験と考えていた記憶で、ハゲワシが空から舞い降り、子供用ベッドで寝ていたレオナルドの口元をその尾で何度も打ち据えたというものである。もうひとつの記憶は、山を散策していたレオナルドが洞窟を見つけたときのものである。レオナルドは、洞窟の中に潜んでいるかもしれない化け物に怯えながらも、洞窟の内部はどのようになっているのだろうかという好奇心で一杯になったと記している。", + "qas": [ + { + "question": "レオナルドが16歳のときに、彼の父親が結婚した人は誰だったか。", + "id": "tr-672-05-000", + "answers": [ + { + "text": "フランチェスカ・ランフレディーニ", + "answer_start": 208, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アルビエラがレオナルドの父親と結婚したとき、彼女は何歳でしたか。", + "id": "tr-672-05-001", + "answers": [ + { + "text": "16歳", + "answer_start": 134, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "レオナルドの幼少期は様々な推測の的となっている。16世紀の画家で、ルネサンス期の芸術家たちの伝記『画家・彫刻家・建築家列伝』を著したジョルジョ・ヴァザーリは、レオナルドの幼少期について次のように記述している。小作農の家で育ったレオナルドに、あるとき父親セル・ピエロが絵を描いてみるように勧めた。レオナルドが描いたのは口から火を吐く化け物の絵で、気味悪がったセル・ピエロはこの絵をフィレンツェの画商に売り払い、さらに画商からミラノ公の手に渡った。レオナルドの描いた絵で利益を手にしたセル・ピエロは、矢がハートに突き刺さった装飾のある楯飾りを購入し、レオナルドを育てた小作人へ贈った。", + "qas": [ + { + "question": "伝記『画家・彫刻家・建築家列伝』を書いた人は誰なの?", + "id": "tr-672-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ジョルジョ・ヴァザーリ", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1466年に、14歳だったレオナルドは「フィレンツェでもっとも優れた」工房のひとつを主宰していた芸術家ヴェロッキオに弟子入りした。ヴェロッキオの弟子、あるいは協業関係にあった有名な芸術家として、ドメニコ・ギルランダイオ、ペルジーノ、ボッティチェッリ、ロレンツォ・ディ・クレディらがいる。レオナルドはこの工房で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せた。レオナルドの才能は、ドローイング、絵画、彫刻といった芸術分野だけでなく、設計分野、化学、冶金学、金属加工、石膏鋳型鋳造、皮細工、機械工学、木工など、様々な分野に及んでいた。", + "qas": [ + { + "question": "レオナルドは、芸術家ヴェロッキオに弟子入りしたとき、何歳だったの?", + "id": "tr-672-07-000", + "answers": [ + { + "text": "14歳", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ヴェロッキオの工房で製作される絵画のほとんどは、弟子や工房の雇われ画家による作品だった。ヴァザーリはその著書で『キリストの洗礼』はヴェロッキオとレオナルドの合作で、レオナルドが受け持った箇所は、キリストのローブを捧げ持つ幼い天使であるとしている。そして、弟子レオナルドの技量があまりに優れていたために、師ヴェロッキオは二度と絵画を描くことはなかったと記されている。『キリストの洗礼』はテンペラで描かれた絵画の上から、当時の新技法だった油彩で加筆された作品であり、近代の分析によると、風景、岩、キリストの大部分などもレオナルドの手によるものだと言われている。また、レオナルドはヴェロッキオの美術作品2点のモデルになったとも言われている。それらの作品はフィレンツェのバルジェロ美術館が所蔵するブロンズ彫刻『ダヴィデ』と、ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『トビアスと天使』に描かれている大天使ラファエルである。\n\nレオナルドは20歳になる1472年までに、聖ルカ組合からマスターの資格を得ている。レオナルドが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなく医学も対象としたギルドだった。その後、おそらく父親セル・ピエロがレオナルドに工房を与えてヴェロッキオから独立させ、レオナルドはヴェロッキオとの協業関係を継続していった。制作日付が知られているレオナルドの最初期の作品は、1473年8月5日に、ペンとインクでアルノ渓谷を描いたドローイングである。", + "qas": [ + { + "question": "フィレンツェのバルジェロ美術館が所蔵するブロンズ彫刻『ダヴィデ』のモデルは誰だと言われていますか。", + "id": "tr-672-08-000", + "answers": [ + { + "text": "レオナルド", + "answer_start": 281, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヴェロッキオの『トビアスと天使』の中でレオナルドがモデルだと知られているのは何ですか。", + "id": "tr-672-08-001", + "answers": [ + { + "text": "大天使ラファエル", + "answer_start": 395, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1472年、レオナルドは何歳でしたか。", + "id": "tr-672-08-002", + "answers": [ + { + "text": "20歳", + "answer_start": 415, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1476年のフィレンツェの裁判記録に、レオナルド他3名の青年が同性愛の容疑をかけられたが放免されたというものがある。この1476年以降、1478年になるまで、レオナルドの作品や居住地に関する記録が残っていない。1478年にレオナルドは、ヴェロッキオとの共同制作を中止し、父親の家からも出て行ったと思われる。アノニモ・ガッディアーノという正体不明の人物が、1480年にレオナルドがメディチ家の庇護を受けており、フィレンツェのサン・マルコ広場庭園で新プラトン主義者の芸術家、詩人、哲学者らが集まった、メディチ家が主宰するプラトン・アカデミーの一員だったという説を唱えている。1478年1月にレオナルドは、最初の独立した絵画制作の依頼を受けた。ヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作で、1481年5月にはサン・ドナート・スコペート修道院の修道僧から、『東方三博士の礼拝』(en:AdorationoftheMagi(Leonardo))の制作依頼も受けている。しかしながら、礼拝堂祭壇画は未完成のまま放置された。『東方三博士の礼拝』もレオナルドがミラノ公国へと向かったために制作が中断され、未完成に終わっている。", + "qas": [ + { + "question": "レオナルド他3名の青年が同性愛の容疑をかけられたが放免されたという記録が残されているのは何年どの裁判記録ですか。", + "id": "tr-672-09-000", + "answers": [ + { + "text": "1476年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "レオナルドはいつヴェロッキオとの共同制作を中止し、父親の家からも出て行ったと思われていますか。", + "id": "tr-672-09-001", + "answers": [ + { + "text": "1478年", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "レオナルドが最初の独立した絵画制作を頼まれたのはいつなの?", + "id": "tr-672-09-002", + "answers": [ + { + "text": "1478年1月", + "answer_start": 285, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『東方三博士の礼拝』は完成した作品ですか、未完成の作品ですか。", + "id": "tr-672-09-003", + "answers": [ + { + "text": "未完成", + "answer_start": 498, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ヴァザーリの著書によると、レオナルドは才能溢れる音楽家でもあり、1482年に馬の頭部を意匠とした銀のリラを制作したとされている。フィレンツェの支配者ロレンツォ・デ・メディチが、この銀のリラを土産にレオナルドをミラノ公国へと向かわせ、当時のミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァとの間で平和条約を結ぼうとした。当時のレオナルドがルドヴィーコに送った書簡の記述で、現在もよく引用される文章がある。レオナルドが自然科学分野で驚嘆すべき様々な業績を挙げていたことを物語る内容で、さらにレオナルドが絵画分野でも非凡な能力を有していることをルドヴィーコに告げる文章である。\n\nレオナルドは1482年から1499年まで、ミラノ公国で活動した。現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する『岩窟の聖母』は、1483年に聖母無原罪の御宿り信心会からの依頼で、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の壁画『最後の晩餐』も、このミラノ公国滞在時に描かれた作品である。1493年から1495年のレオナルドの納税記録が現存しており、レオナルドの扶養家族の中にカテリーナという女性が記載されている。この女性は1495年に死去しているが、このときの葬儀費用明細から、レオナルドの生母カテリーナだと考えられている。", + "qas": [ + { + "question": "ヴァザーリの著書によると、レオナルドはいつ馬の頭部を意匠とした銀のリラを制作したか。", + "id": "tr-672-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1482年", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "レオナルドは1482年からいつまで、ミラノ公国で活動したの?", + "id": "tr-672-10-001", + "answers": [ + { + "text": "1499年", + "answer_start": 293, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "レオナルドが『岩窟の聖母』を製作するとき、彼はどこに滞在していましたか。", + "id": "tr-672-10-002", + "answers": [ + { + "text": "ミラノ公国", + "answer_start": 403, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "レオナルドの生母はいつ死去したと考えられますか。", + "id": "tr-672-10-003", + "answers": [ + { + "text": "1495年", + "answer_start": 490, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "レオナルドはミラノ公ルドヴィーコから、様々な企画を命じられた。特別な日に使用する山車とパレード���準備、ミラノ大聖堂円屋根の設計、スフォルツァ家の初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作などである。ただしこの騎馬像は、レオナルドが手がける作品としては異例なことに、その後数年間にわたって制作が開始されなかった。騎馬像の原型となる粘土製の馬の像が完成したのは1492年である。このフランチェスコの騎馬像を大きさの点で凌ぐルネサンス期の彫刻作品は、ドナテッロの『ガッタメラータ騎馬像』(1453年、サンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂前サント広場)と、ヴェロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』(1496年、サン・ジョヴァンニ・エ・パオロ教会前広場)の2作品だけであり、レオナルドが制作した粘土製の馬の像は、「巨大な馬」(GranCavallo)として知られるようになっていった。レオナルドはこの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』の鋳造を具体的に進めようとしたが、レオナルドを嫌っていた競争相手のミケランジェロは、レオナルドにこのような大仕事ができるわけがないと侮辱したといわれている。この騎馬像制作のために17tのブロンズが用意されたが、フランス王シャルル8世のミラノ侵攻に対抗するために、1494年11月にこのブロンズが大砲の製作材料に流用されてしまった。", + "qas": [ + { + "question": "ドナテッロの『ガッタメラータ騎馬像』とヴェロッキオの『バルトロメーオ・コッレオーニ騎馬像』と、どちらの方がより早めに制作されたか。", + "id": "tr-672-11-000", + "answers": [ + { + "text": "ドナテッロの『ガッタメラータ騎馬像』(1453年、サンタントーニオ・ダ・パードヴァ聖堂前サント広場)", + "answer_start": 231, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ミラノ公ルドヴィーコがレオナルドに依頼した騎馬像の原型となる粘土製の馬の像が完成したのはいつですか。", + "id": "tr-672-11-001", + "answers": [ + { + "text": "1492年", + "answer_start": 187, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ミラノ公ルドヴィーコがレオナルドに依頼した騎馬像を制作するために、何tのブロンズが用意されましたか。", + "id": "tr-672-11-002", + "answers": [ + { + "text": "17t", + "answer_start": 518, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ミラノ公ルドヴィーコがレオナルドに依頼した騎馬像を制作するために用意されたブロンズは結局何を制作することに用されましたか。", + "id": "tr-672-11-003", + "answers": [ + { + "text": "大砲", + "answer_start": 576, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1499年に第二次イタリア戦争が勃発し、イタリアに侵攻したフランス軍が、レオナルドがブロンズ像の原型用に制作した粘土像「巨大な馬」を射撃練習の的にして破壊した。ルドヴィーコ率いるミラノ公国はフランスに敗れ、レオナルドは弟子のサライや友人の数学者ルカ・パチョーリとともにヴェネツィアへと避難した。レオナルドはこのヴェネツィアで、フランス軍の海上攻撃からヴェネツィアを守る役割の軍事技術者として雇われている。レオナルドが故郷フィレンツェに帰還したのは1500年のことで、サンティッシマ・アンヌンツィアータ修道の修道僧のもとで、家人ともども賓客として寓された。ヴァザーリの著書には、レオナルドがこの修道院で工房を与えられ、『聖アンナと聖母子』の習作ともいわれる『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』を描いたとされている。さらにこの『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』は「老若男女を問わず」多くの人が見物に訪れ、「祭りの様相を呈していた」と記されている。", + "qas": [ + { + "question": "レオナルドはいつ、避難に行ったヴェネツィアへからフィレンツェに帰還しましたか。", + "id": "tr-672-12-000", + "answers": [ + { + "text": "1500年", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『聖アンナと聖母子』の習作ともいわれる作品は何ですか。", + "id": "tr-672-12-001", + "answers": [ + { + "text": "『聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネ』", + "answer_start": 327, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第二次イタリア戦争が勃発したのはいつですか。", + "id": "tr-672-12-002", + "answers": [ + { + "text": "1499年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "サライの師は誰ですか。", + "id": "tr-672-12-003", + "answers": [ + { + "text": "レオナルド", + "answer_start": 103, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1502年にレオナルドはチェゼーナを訪れ、ローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアの軍事技術者として、チェーザレとともにイタリア中を行脚した。1502年にレオナルドはチェーザレの命令で、要塞を建築するイーモラの開発計画となる地図を制作した。当時の地図は極めて希少であるだけでなく、その制作に当たってはレオナルドのまったく新しい概念が導入されていた。チェーザレはレオナルドを、土木技術に特化した工兵の長たる軍事技術者に任命している。同年にレオナルドは、トスカーナの渓谷地帯ヴァルディキアーナの地図も制作している。この地図もチェーザレが軍事戦略上有利な地位を占めるのに役立った。\n\nレオナルドは再びフィレンツェに戻り、1508年10月18日にフィレンツェの芸術家ギルド「聖ルカ組合」に再加入した。そして、フィレンツェ政庁舎大会議室の壁画『アンギアーリの戦い』のデザインと制作に2年間携わった。このとき大会議室の反対側の壁では、ミケランジェロが『カッシーナの戦い』の制作に取り掛かっていた。またレオナルドは1504年に、ミケランジェロが手がけていた完成間近の『ダヴィデ像』をどこに設置するべきかを決める委員会の一員になっている。", + "qas": [ + { + "question": "要塞を建築するイーモラの開発計画となる地図を制作するようにレオナルドに命令したのは誰ですか。", + "id": "tr-672-13-000", + "answers": [ + { + "text": "チェーザレ", + "answer_start": 90, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "レオナルド1508年10月18日に再加入したフィレンツェの芸術家ギルドの名前は何?", + "id": "tr-672-13-001", + "answers": [ + { + "text": "「聖ルカ組合」", + "answer_start": 339, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "レオナルドが「聖ルカ組合」に再加入したのはいつなの?", + "id": "tr-672-13-002", + "answers": [ + { + "text": "1508年10月18日", + "answer_start": 314, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "レオナルドがフィレンツェ政庁舎大会議室の壁画『アンギアーリの戦い』のデザインと制作していたとき、ミケランジェロは何を制作していたの?", + "id": "tr-672-13-003", + "answers": [ + { + "text": "『カッシーナの戦い』", + "answer_start": 426, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1506年にレオナルドはミラノを訪れた。ベルナルディーノ・ルイーニ、ジョヴァンニ・アントーニオ・ボルトラッフィオ、マルコ・ドッジョーノら、絵画分野におけるレオナルドの主要な弟子や追随者たちは、このミラノ滞在時に関係があった人々である。ただし、1504年に父親セル・ピエロが死去したこともあって、このときのレオナルドのミラノ滞在は短期間に終わった。1507年にはフィレンツェに戻り、父親の遺産を巡る兄弟たちとの問題解決に腐心している。翌1508年にミラノへ戻り、サンタ・バビーラ教会区のポルタ・オリエンターレに購入した��宅に落ち着いた。", + "qas": [ + { + "question": "レオナルドの父親セル・ピエロはいつ死去したか。", + "id": "tr-672-14-000", + "answers": [ + { + "text": "1504年", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1506年、レオナルドが訪れた場所はどこか。", + "id": "tr-672-14-001", + "answers": [ + { + "text": "ミラノ", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "レオナルドは1519年5月2日にクルーの館で死去した。フランソワ1世とは緊密な関係を築いたと考えられており、ヴァザーリも自著でレオナルドがフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと記している。このエピソードはフランス人芸術家たちに親しまれ、ドミニク・アングル、フランソワ・ギョーム・メナゴーらが、このエピソードをモチーフにした作品を描き、オーストリア人画家アンゲリカ・カウフマンも同様の絵画を制作しているが、このエピソードはおそらく史実ではなく、伝説の類である。さらにヴァザーリは、レオナルドが最後の数日間を司祭と過ごして告解を行い、臨終の秘蹟を受けたとしている。レオナルドの遺言に従って、60名の貧者がレオナルドの葬列に参加した。フランチェスコ・メルツィがレオナルドの主たる相続人兼遺言執行者で、メルツィはレオナルドの金銭的遺産だけでなく、絵画、道具、蔵書、私物なども相続した。また、長年の弟子で友人でもあったサライと使用人バッティスタ・ディ・ビルッシスに所有していたワイン畑を半分ずつ遺しているほか、自身の兄弟たちには土地を、給仕係の女性には毛皮の縁飾りがついた最高級の黒いマントを遺した。レオナルドの遺体は、アンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂に埋葬された。\n\nレオナルドの死後20年ほど後に、フランソワ1世が「かつてこの世界にレオナルドほど優れた人物がいただろうか。絵画、彫刻、建築のみならず、レオナルドはこの上なく傑出した哲学者でもあった」と語ったことが、彫金師、彫刻家ベンヴェヌート・チェッリーニの記録に記されている。", + "qas": [ + { + "question": "レオナルドはいつ死んだの?", + "id": "tr-672-15-000", + "answers": [ + { + "text": "1519年5月2日", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「かつてこの世界にレオナルドほど優れた人物がいただろうか。絵画、彫刻、建築のみならず、レオナルドはこの上なく傑出した哲学者でもあった」という言葉は誰が残しましたか。", + "id": "tr-672-15-001", + "answers": [ + { + "text": "フランソワ1世", + "answer_start": 549, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "レオナルドが若年だった当時のフィレンツェは、ルネサンス人文主義における思想、文化の中心地だった。レオナルドがヴェロッキオに弟子入りした1466年は、ヴェロッキオの師で偉大な彫刻家だったドナテッロが死去した年でもある。遠近法を絵画作品に最初に取り入れて、風景画の発展に多大な貢献をなした画家パオロ・ウッチェロは、すでに老境に入っていた。画家ピエロ・デッラ・フランチェスカ、フィリッポ・リッピ、彫刻家ルカ・デッラ・ロッビア、建築家・著述家レオン・バッティスタ・アルベルティも60歳代だった。これら初期ルネサンスを代表する芸術家たちの次世代で成功を収めたのが、レオナルドの師ヴェロッキオ、アントニオ・デル・ポッライオーロ、ミーノ・ダ・フィエゾーレらである。フィエゾーレは人物彫刻を得意とした彫刻家で、ロレンツォ・デ・メディチの父親ピエロや伯父ジョヴァンニの胸像は、本人に非常によく似ていると言われている。", + "qas": [ + { + "question": "絵画作品に遠近法を最初に導入した人は誰ですか。", + "id": "tr-672-16-000", + "answers": [ + { + "text": "パオロ・ウッチェロ", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "彫刻家ドナテッロが死んだのは何年のことなの?", + "id": "tr-672-16-001", + "answers": [ + { + "text": "1466年", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "レオナルドはその生涯を通じて、異常なまでの創意工夫の才を示し続けた。ヴァザーリはレオナルドを「ずば抜けた肉体美」「計り知れない優雅さ」「強靭な精神力と大いなる寛容さ」「威厳ある精神と驚くべき膨大な知性」と評し、レオナルドがあらゆる面で人を惹きつける人物だったと記している。さらにヴァザーリは、レオナルドが菜食主義者であり、籠に入って売られている鳥を購入してはその鳥を放してやるような、命あるものをこよなく愛する人物だったとしている。レオナルドには様々な分野の、歴史的に見ても重要な多くの友人がいた。例えば、近代会計学の父ともいわれる数学者ルカ・パチョーリは、1490年代にレオナルドと共著で数学の論文を著している。フェラーラ公エルコレ1世・デステの娘で、マントヴァ侯妃イザベラとミラノ公妃ベアトリーチェの姉妹を除くと、レオナルドと親しかった女性は伝わっていない。レオナルドはマントヴァ滞在中にイザベラの肖像習作を描いており、この習作をもとに肖像画を描いたと考えられているが、現存していないと思われていた。しかし2013年10月、スイス銀行の貴重品保管庫から彩色された肖像画が発見され、当局に押収された。レオナルド研究家であるペドレッティ教授の鑑定では、レオナルドの真筆であることはほぼ間違いないとみられている。", + "qas": [ + { + "question": "レオナルドに対して「ずば抜けた肉体美」「計り知れない優雅さ」「強靭な精神力と大いなる寛容さ」「威厳ある精神と驚くべき膨大な知性」という評価を残した人は誰ですか。", + "id": "tr-672-17-000", + "answers": [ + { + "text": "ヴァザーリ", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1490年代にレオナルドと誰と共著で数学の論文を著したか。", + "id": "tr-672-17-001", + "answers": [ + { + "text": "ルカ・パチョーリ", + "answer_start": 269, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "レオナルドが1490年代に描いた絵画作品のなかでもっとも有名な作品は、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂にある壁画『最後の晩餐』である。この作品にはキリストが捕縛、処刑される直前に、12名の弟子たちとともにとった夕餐の情景が描かれており、キリストが「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ろうとしている」と口にした瞬間が描写されている。レオナルドは、このキリストの言葉によって12名の弟子たちが狼狽したという『ヨハネによる福音書』の一場面をこの壁画に描き出したのである。", + "qas": [ + { + "question": "キリストが捕縛、処刑される直前に、12名の弟子たちとともにとった夕餐の情景が描かれたレオナルドの作品は何ですか。", + "id": "tr-672-18-000", + "answers": [ + { + "text": "『最後の晩餐』", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "佐野文子", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "佐野文子は、日本の社会運動家、社会事業家である。北海道旭川市で明治時代から昭和時代にかけて活動した人物であり、日本キリスト教婦人矯風会旭川支部における戦前の廃娼運動、戦中の内閣総理大臣・東條英機の秘書としての活動などの戦争協力、戦後の保護司としての刑余者の援助活動などで知られる。旧姓は水津だ。島根県那賀郡浜田町出身、島根県立高等女学校を卒業した。", + "qas": [ + { + "question": "佐野文子の旧姓は何?", + "id": "tr-673-00-000", + "answers": [ + { + "text": "水津", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "佐野文子はどこ出身なの?", + "id": "tr-673-00-001", + "answers": [ + { + "text": "島根県那賀郡浜田町", + "answer_start": 147, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "佐野文子の両親は熱心なキリスト教徒で、特に父親は弱者のために精力的に尽くす人物であった。そうした環境のもとで文子は、強い正義感と独立心を持つ女性として育った。しかし父はその性格が災いし、知人の借金の保証人となったことで破産。1909年に長女の嫁ぎ先を頼り、一家揃って北海道旭川市へ転居した。\n\n旭川の地で文子は、上川尋常小学校の教員を経て、7歳上の牧場経営者の佐野啓次郎と知り合い、間もなく1912年に結婚した。教職を辞して家庭に入り、新婚生活を営んだ。子供には恵まれず、夫の妹が幼い女児を遺して死去したことから、その女児を養女としてひきとった。\n\nこの頃より、弱者を労わらずにいられない父譲りの性格は現れており、防寒着なしで厳寒の冬を過ごす近隣の小学生たちのために、和裁の仕事で貯めた金を小学校に寄付するなどしていた。\n\n1915年、夫婦ともに受洗してキリスト教徒となった。矯風会にも入会したものの、この時期には会員としての活動はほとんどなかった。\n\n夫は広大な牧場の土地を持つ有能な実業家であった。しかし1921年、夫の知人が丹毒に罹患、友情に厚い夫が感染の危険も顧みずに知人を見舞ったことで自身も丹毒に罹患し、同年に36歳で死去した。結婚生活と実業家夫人としてのは生活は、10年にも満たずに終わった。", + "qas": [ + { + "question": "佐野文子の両親の宗教は何でしたか。", + "id": "tr-673-01-000", + "answers": [ + { + "text": "キリスト教", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "文子は誰と結婚したの?", + "id": "tr-673-01-001", + "answers": [ + { + "text": "佐野啓次郎", + "answer_start": 180, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "佐野啓次郎が年上なの、文子が年上なの?", + "id": "tr-673-01-002", + "answers": [ + { + "text": "佐野啓次郎", + "answer_start": 180, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "佐野啓次郎は何に感染して亡くなりましたか。", + "id": "tr-673-01-003", + "answers": [ + { + "text": "丹毒", + "answer_start": 465, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "夫の死が人生の転機となり、佐野は積極的に矯風会の活動に取り組み始めた。1923年には、女性宣教師のアイダ・ゲップ・ピアソンの跡を継いで矯風会旭川支部の支部長となった。\n\n折しも日本は大正デモクラシーの最中であり、女性の社会進出につれ、職業を持つ女性たちへの理解度がまだ少ない時代にあって、女性たちの悩みは深刻なものであった。また、1923年の関東大震災の後、多くの人々が生活の場を求めて北海道にやって来ていたことも、職業を持つ女性の増加、女性に関する問題の表面化の一因になっていた。矯風会は女性解放と職業を持つ女性の応援を設立趣旨の一つに掲げていたことから、託児所設立の活動が開始され、佐野はその先頭となって働いた。佐野らの熱心な活動が行政を動かした末、1924年、旭川愛児園が設立された。\n\n佐野は愛児園の園長を自ら務め、1日4銭という当時としては奉仕的な保育料で子供を預かった。また「母の会」を結成することで、子供を持つ親同士の意見交換や講演会の場を設け、女性たちが安心して仕事に就けるよう支援を続けた。日本赤十字社北海道支部第7班救護看護婦の1人は、看護婦となる以前の1925年にこの愛児園に勤務しており、乳児から幼児まで50人近い子供が収容されていたことを後に証言している。\n\n愛児園の設立翌年、佐野は病気のために園長を辞任した。後の1940年には愛児園は矯風会のもとを離れ、社会福祉法人の旭川隣保会となって発展し、平成期にいたるまで保育所のための団体として機能している。", + "qas": [ + { + "question": "佐野は何年に矯風会旭川支部の支部長となったか。", + "id": "tr-673-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1923年", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "旭川愛児園は何年に設立されましたか。", + "id": "tr-673-02-001", + "answers": [ + { + "text": "1924年", + "answer_start": 327, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "愛児園の園長は誰だった?", + "id": "tr-673-02-002", + "answers": [ + { + "text": "佐野", + "answer_start": 347, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "愛児園の当時の保育料は1日いくらでしたか。", + "id": "tr-673-02-003", + "answers": [ + { + "text": "4銭", + "answer_start": 364, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "旭川市では1896年に大日本帝国陸軍の第7師団が設置されたことから、翌1897年には遊廓が誕生し、多いときには20軒以上の遊廓で約100名もの女性たちが娼妓として働いていた。佐野は遊廓のことを女性たちを苦しめる存在として、少女時代より心を痛めていた。\n\n当時の日本では、明治10年代頃より矯風会や救世軍を中心として、廃娼運動が全国的に活発になっていた。矯風会は廃娼運動を重要な目的に掲げていたが、中でも旭川支部は、先代支部長であるピアソン夫人を中心として廃娼運動を強く推進していた実績があり、北海道内各地の各支部の中でも特に同運動に積極的であった。\n\n佐野もまたピアソン夫人の後任者として廃娼運動に情熱をかけ、後に矯風会会長となる久布白落実らとともに演壇に立ち、熱演で多くの聴衆を引きつけた。当時は佐野の名前は、講演者としてしばしば新聞に掲載され、旭川市民の会話に上ることも多く、小学生ですら名前を知っているほどだった。", + "qas": [ + { + "question": "旭川支部で廃娼運動の中心となっていたのは誰でしたか。", + "id": "tr-673-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ピアソン夫人", + "answer_start": 215, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "旭川市に大日本帝国陸軍の第7師団が設置されたのはいつですか。", + "id": "tr-673-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1896年", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "旭川市に遊廓が建てられたのはいつですか。", + "id": "tr-673-03-002", + "answers": [ + { + "text": "1897年", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "佐野は、1929年には、矯風会旭川支部は廃娼運動のための団体である北海道廃娼連盟に加入し、その支部長に就任した。その後も佐野の名と廃娼運動、矯風会の3つは結びついたものとして旭川市内の年配者に語り継がれ、市史や小史に書き残されることとなった。\n\nしかし1931年頃より北海道・東北地方一帯が凶作に見舞われて以降、貧困に喘ぐ家にとっては、若い娘たちが娼妓や芸妓となることが、家族を救う手段となっていた。佐野は後に凶作の影響について、この時期のほとんどの娼妓は実家が畑や馬を買うために遊廓に入ったと述べており、「馬が八円位......娘一人の値段が安いので六円......十三円位がいい方......人間が馬や畑や山にかわってしまっている」と語っている。さらに満州事変から太平洋戦争へと続く戦時下において、兵士の性を慰める存在として慰安婦が登場した。このような時代では娼妓・芸妓の存在が肯定される風潮であったため、廃娼運動は全国的に縮小傾向となった。佐野も例外ではなく、旭川に第7師団があったこともあり、その活動は廃娼運動から次第に戦争協力へと傾いて行った。佐野に救われた娼妓たちは、前述の列車で逃亡した娼妓が青森県で実業家のもとに嫁いだことを始め、後に美容師、店舗経営者、弁護士夫人などになった女性たちも多いものの、結局、佐野や協力者たちの運動は、世論を動かし、後に続く強力な運動体となるまでには至らなかった。", + "qas": [ + { + "question": "佐野は、1929年にどの団体に加入しましたか。", + "id": "tr-673-04-000", + "answers": [ + { + "text": "北海道廃娼連盟", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "時代が戦中に突入すると、佐野の活動は国防婦人会へと移った。1933年には旭川国防婦人会の設立に尽力し、その副理事長に就任した。国防婦人会設立は北海道内では初、道庁所在地である札幌市に先駆けてのことであり、全国的に見ても大阪市に次いで2番目である。国防婦人会において強い指導力と行動力で頭角を現した佐野は、設立から5年後の1938年には支部長に就任し、この年には会員数は1万人以上に達した。戦争が激しさを増す中、佐野は支部長として指導力を発揮し、軍との協力体制を強めつつ、多数の会員たちをまとめた。\n\nこれ以降の佐野は徐々に矯風会の活動から離れ、国防婦人会の活動に打ち込み、慰問袋の製作、出征兵士の送迎、兵士を送り出して留守となった家族の相談相手、国防訓練、傷病兵の慰問、戦死者たちの遺骨の出迎え、その遺族の慰問などに明け暮れた。後の養女の証言によれば、佐野はこうした活動のためにほとんど自宅におらず、泊まり込むことも頻繁にあったという。さらに佐野の活動は日本国内に留まらず、1940年には北海道および樺太の国防婦人会会員約60万人の代表として満州の国防婦人会から招待され、同地を親善のために訪問した。同年にはノモンハンの激戦地で、兵士たちの慰問と戦死者の慰霊を行なった。佐野のこの活躍により、旭川国防婦人会は日本全国に知られるようになった。", + "qas": [ + { + "question": "佐野は何年に旭川国防婦人会の副理事長に就任したか。", + "id": "tr-673-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1933年", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1938年、旭川国防婦人会の会員数は何人以上を突破しましたか。", + "id": "tr-673-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1万人", + "answer_start": 184, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "佐野は何年にノモンハンの激戦地で、兵士たちの慰問と戦死者の慰霊を行なったか。", + "id": "tr-673-05-002", + "answers": [ + { + "text": "1940年", + "answer_start": 437, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "佐野に援助を受けた著名人の1人に、第10代NHK会長の前田義徳がいる。前田は小学生時代神童と呼ばれるほど明晰な頭脳の持ち主であったが、家庭の経済的な事情により上級学校への進学が困難であった。中学生時代の前田に出会った佐野は、事情を知って彼の援助に乗り出し、後の海外留学までの学資を援助し続けたのである。\n\n1935年には旭川市の功労者として藍綬褒章、翌1936年には紺綬褒章を受章した。\n\n1941年には、当時の内閣総理大臣である東條英機の私設秘書に任命された。はっきりとした経緯は確認されていないが、東條の妻の東條かつ子が内閣総理大臣夫人として会合などで家を空けることが多く、東條は以前から妻に替って家を任せられる人材を求めていた。そんな折、東條が旭川を訪れた際に佐野を知り、その指導者としての才能や性格、さらに佐野の養女がすでに結婚していたことで佐野が容易に東條家に住み込みできることから、秘書に任命されたものと見られている。", + "qas": [ + { + "question": "第10代NHK会長は誰なの?", + "id": "tr-673-06-000", + "answers": [ + { + "text": "前田義徳", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "佐野は藍綬褒章と紺綬褒章と、どっちの方をもっと先に受けたの?", + "id": "tr-673-06-001", + "answers": [ + { + "text": "藍綬褒章", + "answer_start": 170, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "佐野は何年に東條英機の私設秘書に任命されたか。", + "id": "tr-673-06-002", + "answers": [ + { + "text": "1941年", + "answer_start": 195, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "前田は小学生時代、明晰な頭脳の持ち主であることから、何と呼ばれましたか。", + "id": "tr-673-06-003", + "answers": [ + { + "text": "神童", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "また、戦後には女性たちの社会進出が強く叫ばれていたこともあって、佐野は戦前の実績と知名度により、1947年に旭川婦人会の会長となった。1954年には、旭川市内の地域婦人団体結成の促進と各婦人団体間の連携のために作られた団体である婦人団体連絡協議会の会長となり、佐野の同会での働きによって1959年には旭川市内に約30の婦人団体が誕生した。\n\n1952年には、戦争未亡人・戦災孤児をはじめとする生活苦の母子家庭への対策として母子相談員制度が制定され、各地に母子相談員が置かれるようになり、佐野は翌1953年に北海道知事により旭川市の初代の母子相談員に任命された。この職務において佐野は、生活相談、仕事の斡旋といった具体的な相談事は手際よく解決していた。一方で子供の教育、人間関係、職場、セクハラなどの様々な悩み事への対応も必要であった。しかし、当時はまだそれらへの解決法が確立されておらず、相談員は悩みを聞いて励ますしかない時代であり、佐野はそのようなカウンセラーのような仕事は不得手としていた。役所機構とも馬が合わなかったこともあり、3年後に相談員を辞した。売春防止法成立翌年の1957年には女性たちの保護・更生のための婦人相談員に任命されたが、これも翌年に辞任した。", + "qas": [ + { + "question": "佐野は1947年にどの団体の会長となったか。", + "id": "tr-673-07-000", + "answers": [ + { + "text": "旭川婦人会", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "母子相談員制度が制定されたのは何年のことですか。", + "id": "tr-673-07-001", + "answers": [ + { + "text": "1952年", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "佐野は何年に旭川市の初代母子相談員に任命されたか。", + "id": "tr-673-07-002", + "answers": [ + { + "text": "1953年", + "answer_start": 247, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "戦後の復興とともに青少年の非行化が問題となっていた矢先、佐野は大阪市の「みおつくしの鐘」の存在を知った。これは少年の非行防止のため、夜遅くまで歓楽街で遊ぶ少年たちに優しい鐘の音を聞かせ、親の待つ家庭を思い起こさせることを目的に設置されたものである。佐野はこれに強く共感し、旭川にも同様のものを設置すべく、旭川市内の婦人団体に呼び掛けた。これにより「母の鐘」設立期成会が結成され、一般市民からも大きな協力が得られ、寄付により目標額を上回る約90万円が集められた。この寄付をもとに「母の鐘」が完成し、1956年の母の日である5月12日、初めて鐘の音が響いた。この成功には、NHK旭川放送局の局員の協力や、一般公募で選ばれた「母の鐘」の歌がこれを盛り上げるなど、旭川全市をあげての協力が大きかった。また、この鐘の成功が北海道内各地を刺激したことで、全道40か所に同様の趣旨の鐘が次々に設置されることになった。\n\n1956年には、佐野は保護司に任命された。この保護司の職務、特に刑余者の援助活動は、佐野が戦後の社会運動の中で最も力を入れたものである。佐野は刑務所の特殊面接員を担当しているうちに、犯罪や非行に陥った人々が不幸な境遇のために更生の困難なことを知り、そうした人々を母親としての愛情で救おうと考え、婦人保護司、保護司婦人、元国防婦人会会員、元愛国婦人会会員らに呼びかけ、1957年、旭川更生婦人会を結成した。刑務所の出所者たちに布団や衣類を送り、1人1人面接して事情を聞き、旅費のない者、病気で静養の必要な者には金銭的援助をするなど、個々の事情に応じた細かな対応を心掛けた。この旭川更生婦人会は初めこそ会費100円、会員約200名であったが、佐野の強い呼び掛けにより会員は増え続け、1966年には会員約4000人にのぼる大団体となった。", + "qas": [ + { + "question": "少年の非行防止のため、夜遅くまで歓楽街で遊ぶ少年たちに優しい鐘の音を聞かせ、親の待つ家庭を思い起こさせることを目的に設置されたものを何といいますか。", + "id": "tr-673-08-000", + "answers": [ + { + "text": "「みおつくしの鐘」", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1956年の母の日は何月何日でしたか。", + "id": "tr-673-08-001", + "answers": [ + { + "text": "5月12日", + "answer_start": 260, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1956年に、佐野は何に任命されたか。", + "id": "tr-673-08-002", + "answers": [ + { + "text": "保護司", + "answer_start": 414, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "旭川更生婦人会は何年に結成されたか。", + "id": "tr-673-08-003", + "answers": [ + { + "text": "1957年", + "answer_start": 586, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "戦後の佐野の活動は、戦前を上回る目覚ましいものであった。出身地から離れた町で暮らしている上、すでに養女も結婚しており、身内のほとんどいない土地で親族のしがらみや家庭の束縛から解放されていることで、佐野は思うがままに生きることができたとも考えられている。戦中同様に戦後の活動は矯風会から離れたものであったが、弱者に目を向けた活動は戦前同様であった。\n\nこうした業績により昭和20年代から昭和40年代にかけ、1957年の法務大臣表彰や1966年の厚生大臣感謝状を含め、多くの団体や公的機関から表彰を受けた。その大半は、刑余者の更生保護に尽くしたことによるものである。1965年には社会福祉に対する奉仕と実績を認められ、勲五等宝冠章を受章した。", + "qas": [ + { + "question": "佐野は法務大臣表彰、厚生大臣感謝状、勲五等宝冠章のうち、何を一番先に受章したの?", + "id": "tr-673-09-000", + "answers": [ + { + "text": "法務大臣表彰", + "answer_start": 208, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "佐野は76歳のとき、白内障で入院した。この後は徐々に心を病み始めた。行方が分からなくなったかと思えば、姿を現したときには「駅で兵隊さんを見送っていた」と、あたかも戦中のように誇らしげに答えたこともあった。やがてアルツハイマー型認知症と診断され、旭川赤十字病院精神科に入院した。その様子はそれまでの女傑ぶりとは別人のようだったといい、前述の今村美代子は「幼女のように無邪気に、苦を感じることもなく病院のベッドの上で数年を過したのは、神様がこの世の激しい戦いから開放し最後の休養を与えて下さったのか」と語っている。\n\n薬局経営者のもとへ嫁いでいた養女が1978年9月に見舞った際には回復の兆しも見られたものの、それから約1週間後、養女に看取られつつ死去。没年齢84歳だった。夫との死別後は多くの再婚話があったものの、亡き夫への愛を貫き続け、未亡人のまま生涯を終えた。葬儀は旭川市社会福祉協議会葬として行われ、多くの人々が���列した。", + "qas": [ + { + "question": "佐野が76歳のとき入院した理由は何でしたか。", + "id": "tr-673-10-000", + "answers": [ + { + "text": "白内障", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "佐野は何と診断され、旭川赤十字病院精神科に入院したか。", + "id": "tr-673-10-001", + "answers": [ + { + "text": "アルツハイマー型認知症", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "佐野は何歳で亡くなりましたか。", + "id": "tr-673-10-002", + "answers": [ + { + "text": "84歳", + "answer_start": 328, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "北海タイムス社による人物伝『旭川九十年の百人』では、佐野のことを「九十年におよぶ長い市史に登場する女性活動家のなかで、この一生を最も美しく、そしてだれよりも人間らしく生き抜いたのは、廃娼運動に、受刑者の更生保護に、持ちうる限りの全エネルギーを注いだ佐野文子をおいて、他にはいないだろう」と評価されている。北海道の郷土史家である村上久吉は、「旭川三十万の市民にもっとも親しまれ尊敬され、ある意味では全道的であり、全国的ともいえる名高い婦人」と評価している。\n\n戦前の託児所設立などの女性たちへの支援については、北海道史に詳しい女性史研究家の星玲子が「働く女性の支援は矯風会本部の方針ではあったけれど、それを旭川で実現させたのは、やはり文子の情熱と実行力、それに先見性のたまものと述べている。", + "qas": [ + { + "question": "『旭川九十年の百人』はどの会社から出版されたか。", + "id": "tr-673-11-000", + "answers": [ + { + "text": "北海タイムス社", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "コーヒー", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "コーヒーは、コーヒー豆を焙煎して挽いた粉末から、湯または水で成分を抽出した飲料である。歴史への登場は酒や茶には遅れるが、世界各地で愛飲されている嗜好飲料である。家庭や飲食店、職場などで飲用され、コーヒーの専門ショップも多数存在する。抽出前の粉末や粉砕前の焙煎豆も、同じくコーヒーと呼ばれることもある。日本語での漢字表記は「珈琲」だ。\n\n世界各国において、コーヒーを提供する場の喫茶店(コーヒー・ハウス、カフェ、カフェー)は近代、知識人や文学、美術など様々な分野の芸術家の集まる場として、文化的にも大きな役割を果たしてきた。さらに、貿易規模が大きい一次産品であるため、経済上も重要視されている。主に北回帰線と南回帰線の間(コーヒーベルト)の約70ヶ国で生産され、全世界に輸出されている。カフェインに代表される薬理活性成分を含むことから医学・薬学の面から研究の対象となっている。", + "qas": [ + { + "question": "コーヒー豆を焙煎して挽いた粉末から、湯または水で成分を抽出した飲料を何といいますか。", + "id": "tr-674-00-000", + "answers": [ + { + "text": "コーヒー", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "コーヒーの日本語漢字表記は何ですか。", + "id": "tr-674-00-001", + "answers": [ + { + "text": "「珈琲」", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "コーヒーがいつ頃から人間に利用されていたかは、はっきりしていない。果実(コーヒーチェリー)の赤い果肉は甘く食べられるため、種子の効用を知る機会も多かったと考えれば、有史以前から野生種が利用されていても不思議ではない。実際、アラビカ種は原産地エチオピアで古くから利用されていたとする説があり、リベリカ種は西アフリカ沿岸でヨーロッパ人が「発見」する以前から栽培・利用さ��ていた。\n\n現在見られる「焙煎した豆から抽出したコーヒー」が登場したのは13世紀以降と見られる。\n\n最初は一部の修道者だけが用いる宗教的な秘薬であり、生の葉や豆を煮出した汁が用いられていた。しかし、焙煎によって嗜好品としての特長を備えると一般民衆へも広がり、1454年には一般民衆の飲用が正式に認められ、中東・イスラム世界全域に拡大した。オスマン帝国からバルカン諸国、ヨーロッパには16世紀に伝わり、1602年のローマ以降、17世紀中にヨーロッパ全土に伝播した。北米には1668年、ヨーロッパからの移民によって伝わった。\n\n日本へは18世紀末にオランダ人が持ち込み、最初の記録は、1804年の大田南畝による随筆『瓊浦又綴』だ。", + "qas": [ + { + "question": "アラビカ種の原産地はどこなの?", + "id": "tr-674-01-000", + "answers": [ + { + "text": "エチオピア", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「焙煎した豆から抽出したコーヒー」が登場したのはいつからだと推測されますか。", + "id": "tr-674-01-001", + "answers": [ + { + "text": "13世紀以降", + "answer_start": 219, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "日本へコーヒーを持ち込んだのは何人でしたか。", + "id": "tr-674-01-002", + "answers": [ + { + "text": "オランダ人", + "answer_start": 455, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "コーヒーに関する日本の最初の記録物は何ですか。", + "id": "tr-674-01-003", + "answers": [ + { + "text": "『瓊浦又綴』", + "answer_start": 488, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "イギリスでは1650年にオックスフォードに最初のコーヒーハウスが開業した後、17世紀にはロンドンを中心にコーヒーハウスが社交や議論、情報交換の場として隆盛を極めた。ロイズの前身もコーヒーハウスである。このイギリスのコーヒーハウスの隆盛は紅茶の普及により廃れる18世紀半ばまで続いた。\nフランスでは1669年には駐トルコ大使がルイ14世に献上したことがきっかけになって上流社会で流行し、さらに一般にも広まって多くのカフェが作られた。\nウィーンでは、1683年、オスマン帝国による第二次ウィーン包囲が失敗した際に、オスマン軍が塹壕に残していったコーヒー豆をゲオルク・フランツ・コルシツキーが戦利品として拝領し、ウィーン初のコーヒーハウスを開業したのが始まりといわれている。", + "qas": [ + { + "question": "イギリスでは、どこに最初のコーヒーハウスが開業しましたか。", + "id": "tr-674-02-000", + "answers": [ + { + "text": "オックスフォード", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロイズの前身は何ですか。", + "id": "tr-674-02-001", + "answers": [ + { + "text": "コーヒーハウス", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "日本ではコーヒーが江戸時代から長崎を通して貿易品として輸入されていたが、嗜好品と言うよりも薬としての効果を期待されたもので、水腫に効果があるとされていた。これはコーヒーに含まれるビタミンの効用と考えられる。1807年の樺太出兵では野菜が摂取できないことによる兵の水腫病が問題になり、幕府から貴重なコーヒー豆が支給されたという。1855年頃、やはり寒さなどで殉難が多かった弘前藩士の為に幕府が薬用としてコーヒーを用意したという記録も残っている。1888年4月13日、東京下谷に最初の喫茶店「可否茶館」が開店、明治時代末から大正時代にかけて、カフェーと呼ばれる喫茶店が全国的に普及した。1889年には東京の氷砂糖問屋が珈琲挽茶入角砂糖を売り出し、湯または牛乳に溶かして飲ませた。\n現代では世界各地でよく飲まれている。���際コーヒー機関によると、2017年における1人当たり年間消費量の上位国はアイスランド(9.26kg)、ノルウェー(8.84kg)、スイスおよびボスニア・ヘルツェゴヴィナ(ともに6.33kg)、カナダ(6.29kg)、ブラジル(6.26kg)の順で、日本は3.64kg(12位)である。\n\nコーヒーの世界市場規模は2018年の小売金額で880億ドルと推計されている。ネスレが24.9%のシェアを持つ最大手で、オランダのヤコブ・ダウ・エグバーツ(10.2%)などが続く。\n\n国際コーヒー機関(ICO)は2014年、10月1日を翌2015年から「国際コーヒーの日」(InternationalCoffeeDay)とすることを決めた。", + "qas": [ + { + "question": "江戸時代、コーヒーは何に効果がある薬物として使われていましたか。", + "id": "tr-674-03-000", + "answers": [ + { + "text": "水腫", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "江戸時代のコーヒーは嗜好品に近かったですか、薬に近かったですか。", + "id": "tr-674-03-001", + "answers": [ + { + "text": "薬", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "「国際コーヒーの日」は何月何日ですか。", + "id": "tr-674-03-002", + "answers": [ + { + "text": "10月1日", + "answer_start": 612, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "喫茶店「可否茶館」はいつ開業しましたか。", + "id": "tr-674-03-003", + "answers": [ + { + "text": "1888年4月13日", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "「コーヒー」はアラビア語でコーヒーを意味するカフワが転訛したものである。元々ワインを意味していたカフワの語が、ワインに似た覚醒作用のあるコーヒーに充てられたのがその語源である。一説にはエチオピアにあったコーヒーの産地カッファ(Kaffa)がアラビア語に取り入れられたものともいわれている。\n\nこの語がコーヒーの伝播に伴って、トルコ、イタリアを経由し、ヨーロッパから世界各地に広まった。日本語の「コーヒー」は、江戸時代にオランダからもたらされた際の、オランダ語:koffie(コーフィー)に由来する。\n\n日本では漢字で「珈琲」のほか「可否」「架非」「加非」「咖啡」などの字も当てられてきた。\n\n漢字による当て字である「珈琲」は、江戸時代末期の医蘭者宇田川榕菴(うだがわようあん)が考案し、自筆の蘭和対訳辞典に記載したのが、最初であると言われている。これ以外にも、「可否」(可否茶館)、「カウヒイ」(大田南畝『瓊浦又綴(けいほゆうてつ)』)、「哥非乙」(宇田川榕菴『哥非乙説』)などの表記も過去には用いられた。\n\nなお、中国語においても、訳語に関して19世紀に試行錯誤があり、当時の日本語の当て字を借用して現在に至るものとされている。ただし、漢字は口偏で「咖啡」(kāfēi)と表記される。", + "qas": [ + { + "question": "カフワはアラビア語で何を意味しますか。", + "id": "tr-674-04-000", + "answers": [ + { + "text": "「コーヒー」", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "元々、カフワは何を意味していたか。", + "id": "tr-674-04-001", + "answers": [ + { + "text": "ワイン", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "コーヒーの原料となるコーヒー豆は、3-3.5mほどの常緑低木で、ジャスミンに似た香りの白い花を咲かせるコーヒーノキの果実から得られる。\n\nコーヒーチェリーと呼ばれる果実は赤または紫、品種によっては黄色の硬い実で、成熟に9ヶ月ほどかかる。また、枝の先端に付く1粒だけ丸い種子は「ピーベリー」と呼ばれ、珍重される。コーヒー豆となる種子だけでなく、果肉部分にも若干のカフェインが含まれており、食用にされる。\n\n栽培されているコーヒーノキは、大きくエチオピア原産のティピカ種に��来するアラビカ種と、コンゴ原産のロブスタ種に分けられるが、生産量の7-8割はアラビカ種である。以前はリベリカ種も合わせて「コーヒーの3原種」と呼ばれていたが、病害に弱く品質面でも劣るため、21世紀前半の現在では生産量もごく僅かとなっている。", + "qas": [ + { + "question": "コーヒーの原料は何?", + "id": "tr-674-05-000", + "answers": [ + { + "text": "コーヒー豆", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "コーヒーノキの花は何の花の香りに似ているの?", + "id": "tr-674-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ジャスミン", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「コーヒーの3原種」にはアラビカ種とリベリカ種とまた何があるの?", + "id": "tr-674-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ロブスタ種", + "answer_start": 251, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ロブスタ種とアラビカ種と、どっちの方がもっと生産量が多い?", + "id": "tr-674-05-003", + "answers": [ + { + "text": "アラビカ種", + "answer_start": 238, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "アラビカ種は病害虫や霜、少雨等に弱く栽培が困難だが、風味とコクに優れ、レギュラーコーヒー用を主体として多様な品種がある。総生産量の約70%を占める。\n従来は、ブラジルのブルボンとコロンビアのティピカが、アラビカ種の2大品種と呼ばれ主力品種だった。その後、収量や耐病虫性に優れた品種への置換が進み、最近ではブラジルのカトゥーラ、カトゥアイとムンド・ノーボ、コロンビアのカトゥーラとバリエダ・コロンビアが、それぞれ主力品種となっている。\nこのほか、スマトラ、モカ(銘柄とは別)、ブルー・マウンテン(ブランドとは別)、コナ、マラゴジッペ、アマレロ、ゲイシャなどがある。\n\nロブスタ種はアラビカ種に比べて耐病性が高く、少雨、高温多湿の土地でも栽培できる。また安定収穫できる様になるまでにかかる期間が3年と短い。栽培が容易なので収量も多く、生産量2位のベトナムで主力となっている。\n抽出しやすく水出しも容易だが、カフェイン成分が多く苦みやクセ(ロブスタ臭)が強く、単独での風味はアラビカ種に及ばないとされる。インスタント用原料や、安いレギュラーコーヒーの増量用が主体となっている他、いわゆるベトナムコーヒーに用いられる。\n\nリベリカ種は高温多湿の気候に適応するが病害に弱く、品質もアラビカ種に及ばない。", + "qas": [ + { + "question": "総生産量の約70%を占めるコーヒーの品種は何ですか。", + "id": "tr-674-06-000", + "answers": [ + { + "text": "アラビカ種", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ロブスタ種とアラビカ種と、どっちの方が耐病性が高い?", + "id": "tr-674-06-001", + "answers": [ + { + "text": "ロブスタ種", + "answer_start": 283, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ロブスタ種は安定収穫できる様になるまでに何年かかりますか。", + "id": "tr-674-06-002", + "answers": [ + { + "text": "3年", + "answer_start": 345, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "リベリカ種とアラビカ種と、どっちの方が品質が優れていますか。", + "id": "tr-674-06-003", + "answers": [ + { + "text": "アラビカ種", + "answer_start": 535, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "収穫されたコーヒーの果実からコーヒー豆を取り出す工程をコーヒーの精製と呼ぶ。コーヒーの精製には主に乾式と湿式の2種類がある。単純作業のため、コーヒーの精製は生産地で行われる。精製を済ませたコーヒー豆は生豆と呼ばれ、カビなどの発生を防ぐために水分含量が10-12%になるよう乾燥して保管され、消費地に輸出される。\n\n収穫した果実を乾燥場に平らに広げて天日で干し、完全に乾燥した果肉を機械的に除く。モカ及びマンデリンの産地とブラジルで行われることが多い。\n\n外皮と果肉を機械的に取り除いた後で、水槽に1、2日つけて発酵させて種子(パーチメントコーヒー)を取り出す方法。コロンビアなど、ブラジル以外の産地で行われることが多い。\nこの他、乾式と湿式を組み合わせた半湿式(半水洗式)や、ジャコウネコなどの動物に食べさせて、その糞から取り出すもの(コピ・ルアク)などがある。", + "qas": [ + { + "question": "収穫されたコーヒーの果実からコーヒー豆を取り出す工程を何と呼びますか。", + "id": "tr-674-07-000", + "answers": [ + { + "text": "コーヒーの精製", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "コーヒーの精製には主に何種類がありますか。", + "id": "tr-674-07-001", + "answers": [ + { + "text": "2種類", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "コーヒーの精製には主に乾式とまた何がありますか。", + "id": "tr-674-07-002", + "answers": [ + { + "text": "湿式", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "コーヒー豆はその消費目的に応じて数種類混合されることがある。これをブレンドと呼ぶ。ブレンドされたコーヒーはブレンドコーヒーと呼ばれ、これに対して一種類の焙煎豆のみからなるコーヒーをストレートコーヒーと呼ぶ。\n\nブレンドは焙煎前に豆を混合するプレミックスと焙煎後に混合するアフターミックスがある。プレミックスは調和の取れた味になり大量生産にも向いている一方で、個々の豆の焙煎の加減を調整しづらい。それに対してアフターミックスは豆の焙煎状態を最良にしやすいが、別々に焙煎する分手間が掛かる。\n\nブレンドは複数の違った持ち味を持つコーヒーを混ぜることにより、ストレートコーヒー単品だけではなし得ない味を、提供者側の意図にあわせて作り上げるための工程である。しかしながらその法則には定まったものがあるわけではなく、各ロースターが独自に考案したブレンドのレシピに従って行われる。インスタントコーヒーなど工業的生産の場では、香味等の品質を保つため8つ以上のタイプの豆が混合される。\n\n一方でストレートは使うコーヒー豆を生産国だけでなく、地域や農園単位で限定して、それを売り物にすることもある。産地ごとに異なるコーヒーの味や香りを、相性が良い菓子や料理と組み合わせて楽しむ「フードペアリング」という飲み方も行われている。", + "qas": [ + { + "question": "ブレンドされたコーヒーを何と呼びますか。", + "id": "tr-674-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ブレンドコーヒー", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "一種類の焙煎豆のみからなるコーヒーを何と呼びますか。", + "id": "tr-674-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ストレートコーヒー", + "answer_start": 90, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ブレンドにはプレミックスとまた何があるか。", + "id": "tr-674-08-002", + "answers": [ + { + "text": "アフターミックス", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "大量生産にもっと向いているのはプレミックスなの、アフターミックスなの?", + "id": "tr-674-08-003", + "answers": [ + { + "text": "プレミックス", + "answer_start": 147, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "焙煎されたコーヒー豆は、抽出される前に粉状に細かく挽かれる。この工程をコーヒーの粉砕という。粉砕にはコーヒーミルあるいはグラインダーを用いる。場合によっては乳鉢や石臼などが用いられる。コーヒーは焙煎された豆のままで販売されるか、工場で粉砕された後で販売される。粉砕されると表面積の増加から空気酸化による品質低下が早まると言われているため、家庭用のコーヒーミルで抽出直前に挽いている人もいる。\n\n粉砕されたコーヒーは粉の大きさに応じて、細挽き、中挽き、粗挽きと呼ばれる。粉砕粒子度合いと抽出法については、アメリカ商務省の推奨規格やそれを規定した専門書などがある。しかし多くの場合はそれらに直接従うことは少なく、当事者の経験や大まかな伝聞によって粒子度合いを決めていると考えられる。これらの挽き具合は、そのコーヒーがどのように抽出されるか、またどのような味にすることを望むかによって調整される。例えばエスプレッソではほとんど微粉に近い粉状になるよう極細挽きにして用いられる。", + "qas": [ + { + "question": "焙煎されたコーヒー豆が抽出される前に粉状に細かく挽かれる工程を何といいますか。", + "id": "tr-674-09-000", + "answers": [ + { + "text": "コーヒーの粉砕", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "コーヒーの粉砕にはグラインダーや何が用いられますか。", + "id": "tr-674-09-001", + "answers": [ + { + "text": "コーヒーミル", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "粉砕されたコーヒーは何を基準に細挽き、中挽き、粗挽きに分類されますか。", + "id": "tr-674-09-002", + "answers": [ + { + "text": "粉の大きさ", + "answer_start": 207, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "飲み物としてのコーヒーは、直前にコーヒー豆から抽出して飲むレギュラーコーヒーと、レギュラーコーヒーから工業的に作られるもの(インスタントコーヒーや缶コーヒーなど)に大別できる。コーヒーの淹れ方や飲み方は地域によってさまざまであり、また個人の嗜好によっても大きく異なる。\n\n焙煎されて粉砕されたコーヒーの粉は、湯または水に接触させることで中の成分を抽出し、我々が口にする飲み物としてのコーヒーが出来上がる。この時の抽出方法、すなわちコーヒーの淹れ方には様々な方法や器材が存在する。それぞれの淹れ方は用いる器具の名前で呼ばれることが多い。\n\nコーヒーの風味は、焙煎の度合いや挽き加減(細かく、粗く等)、淹れ方や用いる器具などにより異なる。それぞれの持ち味があるのに加えて、本人の嗜好の問題であるため、万人にとっての最善の方法というものは存在しない。ただし一般に、焙煎(煎り豆の状態)、挽いた後(粉の状態)、淹れた後(抽出後の液体)いずれの段階でも空気中の酸素と化合し酸化が進むので、各段階での時間経過の短い方が香りも味わいもすぐれている。", + "qas": [ + { + "question": "直前にコーヒー豆から抽出して飲むコーヒーを何といいますか。", + "id": "tr-674-10-000", + "answers": [ + { + "text": "レギュラーコーヒー", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ウォータードリップは専用の機材を用いて水でコーヒーを抽出する方法だ。点滴のように少しずつ水を落として抽出するため、1杯辺り8時間程度を目安とする。抽出する器具もインテリアとして活用される。近年、安価な器具が登場し、一般の家庭でも楽しめるまでになっている。オランダ領時代のインドネシアで、ドリップ式では苦みが強く出てしまうロブスタ種のコーヒー豆を飲むために考案されたことから「ダッチコーヒー」とも言う。現在ではアラビカ種の豆にも用いられており、繊細な風味を活かすための方法である。", + "qas": [ + { + "question": "専用の機材を用いて水でコーヒーを抽出する方法を何といいますか。", + "id": "tr-674-11-000", + "answers": [ + { + "text": "ウォータードリップ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォータードリップはオランダ領時代のインドネシアで考案されたことから、何と呼ばれていますか。", + "id": "tr-674-11-001", + "answers": [ + { + "text": "「ダッチコーヒー」", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ペーパードリップの方法は、1908年にドイツ人のメリタ・ベンツが考案した。彼女はペーパードリップシステムの特許を取得し、メリタを創業した。\nメリタ式とカリタ式が存在し、最適なメッシュが異なるとされているが、どの挽き方が最適かは様々な意見がある。抽出法の違いは、メリタ式が杯数分の湯を全量フィルターに投入し滴下するのを待つのに対し、カリタ式は湯を数回に分けて投入し続ける。フィルタの下のデカンタに杯数分滴下した段階でフィルタをはずし、フィルタ内の抽出中の湯(コーヒー)は廃棄する。従って、カリタの方が経験を要し、味のぶれる要素は大きいとも言える。\nドリッパーの形状はメリタが開発した台形が主流であるが、近年では円錐形も登場している。台形は腕に左右されず安定した味と香りが出せ、円錐形は粉の層が縦に厚くなりよりネルドリップに近くなるとされる。台形と円錐形ではフィルタの互換性が無く、HARIOは両方のドリッパーとフィルタを販売しているが円錐形の方が若干高価である。メリタとカリタは台形のみ、珈琲サイフォン株式会社は円錐形のみ販売している。", + "qas": [ + { + "question": "ペーパードリップの方法は誰が考案したの?", + "id": "tr-674-12-000", + "answers": [ + { + "text": "メリタ・ベンツ", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "メリタ・ベンツは何年にペーパードリップの方法を考案したか。", + "id": "tr-674-12-001", + "answers": [ + { + "text": "1908年", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ペーパードリップの方法にはメリタ式とまた何がありますか。", + "id": "tr-674-12-002", + "answers": [ + { + "text": "カリタ式", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ネルドリップはフィルタとして布(フランネル)を使用する抽出法だ。布と紙の材質の違いからペーパードリップよりもコーヒーに含まれる油分がより抽出される。ペーパーでの抽出に比べてまろやかでボディ感のある味となる傾向があり、またペーパードリップのように紙の影響を受けない。味と香りは、抽出方法に大きく左右される。基本的にはドリッパーを使用しないためにドリッパーが温められることによりある程度抽出液の温度が保たれるペーパー式に比べ抽出時に抽出液の温度が下がりやすい。\nネルの取り扱いには注意を要する。使用後のネルはコーヒーの油膜の酸化を避けるため、直ちに洗浄し、冷水に浸けて保存する。臭いが移るのを避けるため、洗浄の際は洗剤の類を使用しない。新品のネルは抽出済みのコーヒー粉を入れた湯で煮沸し、洗浄後に使用する。", + "qas": [ + { + "question": "フィルタとして布を使う抽出法を何といいますか。", + "id": "tr-674-13-000", + "answers": [ + { + "text": "ネルドリップ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "2009年バラク・オバマ大統領就任式", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "2009年バラク・オバマ大統領就任式(にせんくねんバラク・オバマだいとうりょうしゅうにんしき)は、2009年1月20日に行われた、当時初当選のバラク・オバマの第44代アメリカ��衆国大統領就任、およびジョー・バイデンの第47代副大統領就任に際して、それぞれ就任宣誓を披露した式典である。\nワシントンD.C.で行われた式典は記録的な人出でにぎわい、オバマ大統領とジョセフ・バイデン副大統領の4年間の任期の第一歩を飾った。\nこの就任によって、オバマは最初のアフリカ系アメリカ人(黒人)の大統領となるとともに、最初のハワイ州生まれの大統領となった。\n第44回就任式のテーマは、エイブラハム・リンカーン生誕200年を記念して、「自由の新しい誕生(ANewBirthofFreedom)」とされた。", + "qas": [ + { + "question": "第44代のアメリカ合衆国大統領は誰ですか?", + "id": "tr-675-00-000", + "answers": [ + { + "text": "バラク・オバマ", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第47代の副大統領は誰でしたか?", + "id": "tr-675-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ジョー・バイデン", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オバマ大統領の就任式はどこで行われましたか?", + "id": "tr-675-00-002", + "answers": [ + { + "text": "ワシントンD.C.", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オバマの出身地はどこ?", + "id": "tr-675-00-003", + "answers": [ + { + "text": "ハワイ州", + "answer_start": 254, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "就任式は、2009年1月17日、オバマがペンシルベニア州フィラデルフィアから列車でワシントンD.C.に入ったところから始まった。\n公式祝賀行事は、1月18日から21日にかけて行われ、リンカーン記念館での祝賀コンサート“WeAreOne”(我々は一つ)、連邦の祝日であるキング牧師記念日の奉仕の1日、ベライゾン・センターでのコンサート「子どもたちの就任式:私たちが未来(Kids'Inaugural:WeAretheFuture)」、連邦議会議事堂での就任式典、彫像ホールでの就任昼食会、ペンシルベニア通りのパレード、ワシントン・コンベンション・センター(WashingtonConventionCenter)などでの10の就任記念ダンスパーティー、ホワイトハウスでの私的祝賀会、ワシントン大聖堂(WashingtonNationalCathedral)での就任礼拝行事が行われた。", + "qas": [ + { + "question": "就任式は何月何日から始まりましたか?", + "id": "tr-675-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1月17日", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "祝賀コンサート“WeAreOne”が行われた建物はどこですか?", + "id": "tr-675-01-001", + "answers": [ + { + "text": "リンカーン記念館", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2009年の就任行事は、第16代大統領でありイリノイ州出身の政治家であったエイブラハム・リンカーンを記念し、リンカーンが1861年に列車でワシントンD.C.入りしたのを一部再現して、列車での移動から始まった。\n2009年1月17日、オバマは列車に乗り込む前に、フィラデルフィアの30番ストリート駅で集会を持ち、リンカーンへの敬意を表した。\nオバマは、デラウェア州ウィルミントンに到着し、過去の大統領たちが使った列車である「ジョージア300号」で副大統領となるバイデンと落ち合った。\nオバマとバイデンは、そこからメリーランド州ボルチモアへと移動し、そこでオバマは約4万人の群衆に向かって演説を行った。\n連邦航空局(FAA)により、列車のルート上空近くを民間飛行機や取材ヘリコプター、熱気球などが飛行することは禁止された。\nオバマとバイデンは、東部時間午後7時にワシントンD.C.のユニオン駅(UnionStation)に到着した。\nこの移動中、オバマは、熱狂する群衆に対し、彼のトレードマークとなっている“Iloveyouback”という呼びかけで答えた。\nアメリカ市民の中から40人余りが選ばれ、この列車での移動や、パレード、宣誓、ダンスパーティーなどの就任祝賀行事に参加した。", + "qas": [ + { + "question": "オバマが列車でワシントンD.C.入りしたのは、誰の行動を再現したのですか?", + "id": "tr-675-02-000", + "answers": [ + { + "text": "エイブラハム・リンカーン", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "過去の大統領たちが使った列車とは?", + "id": "tr-675-02-001", + "answers": [ + { + "text": "「ジョージア300号」", + "answer_start": 210, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ボルチモアの演説に集まった群衆は何人ですか?", + "id": "tr-675-02-002", + "answers": [ + { + "text": "約4万人", + "answer_start": 280, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "リンカーンは、1861年2月11日、イリノイ州スプリングフィールドから列車での第1行程に出発し、ペンシルベニア州フィラデルフィアに2月21日に到着した。\n第2行程で、リンカーンはフィラデルフィアから特別列車に乗ってワシントンD.C.での就任式へと移動し、その間70か所で停車した。", + "qas": [ + { + "question": "リンカーンが乗車した列車の第1行程の出発地点はどこでしたか?", + "id": "tr-675-03-000", + "answers": [ + { + "text": "スプリングフィールド", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "第2行程では何か所停車しましたか?", + "id": "tr-675-03-001", + "answers": [ + { + "text": "70か所", + "answer_start": 130, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ナショナル・モールリンカーン記念館での1月18日の就任祝賀コンサートは、“WeAreOne”と名付けられた。\nコンサートは一般市民に無料で公開され、またHBOが番組の配信を行ったため、ケーブルテレビのある家庭ではどこでも見ることができた。\n40万人以上がコンサートに参加したと推定されている。\nワシントンメトロは、この日1日で61万6324人という記録的な乗客数で、1999年7月4日(アメリカ独立記念日)の54万0945人という日曜の乗客数の記録を塗り替えた。", + "qas": [ + { + "question": "“WeAreOne”に参加した人数はどれくらいでしたか?", + "id": "tr-675-04-000", + "answers": [ + { + "text": "40万人以上", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1月18日のワシントンメトロの乗客数は何人でしたか?", + "id": "tr-675-04-001", + "answers": [ + { + "text": "61万6324人", + "answer_start": 163, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "“WeAreOne”を配信した放送局はどこ?", + "id": "tr-675-04-002", + "answers": [ + { + "text": "HBO", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "就任式の前日である1月19日は、キング牧師の誕生日を記念した連邦の休日、キング牧師記念日に当たる。\nオバマは、国全体でこの日を奉仕の1日とすることを呼びかけ、キング牧師記念日を奉仕の日とするしきたりは自然なことだとして、「この伝統は我々の誇りであるから、この日はただ立ち止まり、内省するためだけの日ではない。行動する日である。」と述べた。\nオバマとバイデンは、この奉仕の日に地域奉仕活動に参加し、大統領就任式委員会も、そのウェブサイトで、地域奉仕活動を主催するにはどうすればよいかや、幅広い奉仕団体についての情報を提供した。\n1万1000を超える地域奉仕行事が、この日、全国で行われた。\n1月19日、大統領を乗せた車列が、東部時間午前8時33分、ブレアハウスを出発し���ウォルター・リード軍事医療センターへ向かった。\nオバマは、そこで1時間強の間、イラク戦争とアフガン戦争で負傷して治療中の兵士ら(そしてその家族)と私的に懇談した。", + "qas": [ + { + "question": "1月19日は何の記念日ですか?", + "id": "tr-675-05-000", + "answers": [ + { + "text": "キング牧師記念日", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1月19日に全国で行われた地域奉仕行事は、どれくらいの数を超えましたか?", + "id": "tr-675-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1万1000", + "answer_start": 263, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1月19日の午前にオバマが訪問した施設はどこでしたか?", + "id": "tr-675-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ウォルター・リード軍事医療センター", + "answer_start": 334, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ウォルター・リード軍事医療センターを訪問した後、オバマは、マーティン・ルーサー・キング3世とともに、ワシントンD.C.の10代の少年を保護しているサーシャ・ブルース・ハウスのホームレス・シェルターへ向かった。\n一方、バイデンの妻ジル、娘アシュリー、オバマの妻ミシェルと2人の娘マリア、サーシャは、数百人のボランティアとともに、午前中、ロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアムで海外の米軍部隊に送られる6万個から8万5000個の援助物資を詰める作業を手伝った。\n午前中の奉仕活動を終えた後、オバマ一家とバイデン一家はワシントンD.C.北西地区の公立高校であるクーリッジ・ハイスクールで昼食をとった。\nその後、バイデンは北東地区で、国際NPOハビタット・フォー・ヒューマニティー(HFHI)の建てる家で壁を取り付ける作業を行った。\nその他のメンバーも、その日1日、D.C.市内で数多くの奉仕活動を行った。\nその夜、オバマはジョン・マケイン、コリン・パウエル、ジョー・バイデンの奉仕をそれぞれたたえて、三つの別々の超党派的な夕食会を持った。", + "qas": [ + { + "question": "ジルとその娘、また、ミシェルと娘2人はどこで奉仕活動を行いましたか?", + "id": "tr-675-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアム", + "answer_start": 167, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アシュリーの母親の名前は?", + "id": "tr-675-06-001", + "answers": [ + { + "text": "ジル", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マリアとサーシャの母親の名前は?", + "id": "tr-675-06-002", + "answers": [ + { + "text": "ミシェル", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1月19日の夜、ミシェル・オバマとジル・バイデンの主催で、ベライゾン・センターで「子どもたちの就任式:私たちが未来」というイベントが行われた。\nマイリー・サイラスとジョナス・ブラザーズが、コンサートで兵士の家族たちをたたえた。\nショーの様子はディズニー・チャンネルとラジオ・ディズニーでライブ放送された。\nこのほか参加した著名人には、デミ・ロヴァート、バウ・ワウ、コービン・ブルー、クィーン・ラティファ、ビリー・レイ・サイラス、シャキール・オニール、ジェイミー・フォックスがいる。\nキング牧師記念日の奉仕というテーマに沿って、ミシェル・オバマは、子どもたちに向かって、ホームレス・シェルターでボランティアをしたり、お年寄りを見舞いに行ったり、米軍部隊に手紙を書いたりして公共の奉仕を行うことを呼びかけた。", + "qas": [ + { + "question": "「子どもたちの就任式:私たちが未来」が行われた場所はどこですか?", + "id": "tr-675-07-000", + "answers": [ + { + "text": "ベライゾン・センター", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "連邦議会就任式典合同委員会は、2008年12月17日に、1月20日の就任式の全スケジュールを公表した。\nオバマは、事前に、フルネームである「バラク・フセイン・オバマ」と呼んでもらいたいとの意向を示していたが、就任式スケジュールには大統領選出者の名前として「バラク・H・オバマ」と記載してあった。\n就任式は東部時間2009年1月20日午前8時に開場し、就任式プログラムは東部時間午前10時から始まった。\n就任式の後、大統領オバマ、ファーストレディのミシェル・オバマ、副大統領ジョー・バイエン、そしてジル・バイデンは、前大統領ジョージ・W・ブッシュとその妻ローラ・ブッシュを、議事堂東側での出発式へと導いた。\nオバマ夫妻、バイデン夫妻はそれから議事堂の彫像ホールでの就任昼食会に出席し、その後ホワイトハウスの大統領観覧台に向かい、パレードを観覧した。", + "qas": [ + { + "question": "オバマの1代前の大統領は誰?", + "id": "tr-675-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ジョージ・W・ブッシュ", + "answer_start": 261, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "オバマのフルネームは?", + "id": "tr-675-08-001", + "answers": [ + { + "text": "「バラク・フセイン・オバマ」", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ジョージ・W・ブッシュの夫人の名前は?", + "id": "tr-675-08-002", + "answers": [ + { + "text": "ローラ・ブッシュ", + "answer_start": 276, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "式典は、2009年1月20日、連邦議会議事堂の西側正面で行われた。\n東部時間午前8時から、“ThePresident'sOwn”(大統領直属)との別名があるアメリカ海兵隊楽隊による、事前録音の音楽が2時間にわたり流された。\n東部時間午前10時から、海兵隊楽隊によるライブ演奏が行われた。\nリンカーン記念館まで広がるナショナル・モールは、市民が就任式を見るための場所となった。\nモールの北西地区3番ストリートと4番ストリートの間の区画は、チケットを持った人だけの指定スペースとなった。\n行事は、連邦議会就任式典合同委員会が企画を行い、その委員長であるダイアン・ファインスタイン上院議員が司会進行役を務めた。", + "qas": [ + { + "question": "式典の司会進行を務めた人は誰でしたか?", + "id": "tr-675-09-000", + "answers": [ + { + "text": "ダイアン・ファインスタイン", + "answer_start": 274, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "連邦議会の幹部によって用意されたプログラムでは、歌手のアレサ・フランクリンが“MyCountry,'TisofThee”を歌い、ジョン・ウィリアムズの曲“AirandSimpleGifts”が演奏された。\n屋外の寒さが楽器に悪影響を及ぼし、演奏中に弦が切れるなどのトラブルが生じる恐れがあったため、この曲は事前に録音されるとともに、チェリストのヨーヨー・マ、バイオリニストのイツァーク・パールマン、ピアニストのガブリエラ・モンテーロ、クラリネットのアンソニー・マクギルによって録音に合わせてライブ演奏が行われた。\nそのほか、アメリカ海兵隊楽隊とアメリカ海軍楽隊も参加した。\nサンフランシスコ少年合唱団・サンフランシスコ少女合唱団も式典で合唱を披露した。\n次いで、福音派の牧師リック・ウォレンが祈りを捧げた。\n福音派は民主党支持勢力のリベラルと対立することが多いが、ウォレンは福音派の中では政治的に左派に近いとされている。\nその後、市民権活動家で合同メソジスト教会の牧師JosephLoweryが祝福を行った。", + "qas": [ + { + "question": "式典のプログラムの中で“MyCountry,'TisofThee”を歌った歌手は誰?", + "id": "tr-675-10-000", + "answers": [ + { + "text": "アレサ・フランクリン", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "式典で祈祷をした牧師は誰?", + "id": "tr-675-10-001", + "answers": [ + { + "text": "リック・ウォレン", + "answer_start": 337, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "式典で祝福を行った牧師は誰?", + "id": "tr-675-10-002", + "answers": [ + { + "text": "JosephLowery", + "answer_start": 434, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "“AirandSimpleGifts”の作曲者は誰ですか?", + "id": "tr-675-10-003", + "answers": [ + { + "text": "ジョン・ウィリアムズ", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "副大統領当選人のバイデンが、まず最高裁判所陪席判事ジョン・ポール・スティーブンスの下で宣誓を行った。\n副大統領就任宣誓に続き、太鼓とビューグルによるファンファーレ(rufflesandflourishes)4回と、賛歌\"Hail,Columbia\"が流れた。\n式の進行が遅れたため、\"AirandSimpleGifts\"の演奏中に正午を経過し、ブッシュの任期が終了してオバマが大統領となったが、憲法第2条第1節により、実際に大統領の職権を行使する前に宣誓を行わなければならない。\n最高裁判所長官ジョン・ロバーツの面前でオバマが就任宣誓を行った時刻は東部時間午後0時05分頃となっていた。\n大統領就任宣誓に引き続き、陸軍によって新大統領のために21発の礼砲が捧げられ、同時にファンファーレ4回と、合衆国大統領の到着を示す曲である\"HailtotheChief\"が海兵隊楽団により演奏された。\n宣誓式を終えたオバマは、アメリカ合衆国大統領として、就任演説を行った。\nそして詩人のエリザベス・アレクサンダーが就任を祝う詩\"PraiseSongfortheDay\"を朗読した。", + "qas": [ + { + "question": "オバマが就任宣誓を行った時刻は?", + "id": "tr-675-11-000", + "answers": [ + { + "text": "午後0時05分頃", + "answer_start": 278, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オバマは誰の前で就任宣誓を行いましたか?", + "id": "tr-675-11-001", + "answers": [ + { + "text": "ジョン・ロバーツ", + "answer_start": 247, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ジョン・ロバーツの役職は何?", + "id": "tr-675-11-002", + "answers": [ + { + "text": "最高裁判所長官", + "answer_start": 240, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ブッシュの任期が終了した時刻は?", + "id": "tr-675-11-003", + "answers": [ + { + "text": "正午", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "最高裁判所長官ジョン・ロバーツが、オバマの就任宣誓を執り行った。\n夫人のミシェル・オバマが、1861年にエイブラハム・リンカーンが最初の就任式で用いた聖書を、オバマ大統領のために手で支えた。\nオバマは、この数週間前に、宣誓式ではミドルネームである「フセイン」を略さずにフルネームで使いたいと述べていた。\nその理由については、「伝統に従うだけで、何らかの意味を表したいわけではない」と話した。\n彼のミドルネームは、2008年アメリカ合衆国大統領選挙の途中、彼を中傷する人がイラクの独裁者サッダーム・フセインを暗に連想させようとして使ったことから、論争を呼んでいた。\n就任式中も、この宣誓以外のほとんどの場面では、「フセイン」の代わりにイニシャルのHが用いられていた。\nオバマ自身が事前に要望していたとおり、ロバーツ長官は大統領就任宣誓の最後に「神に誓って(sohelpyouGod)」と先導し、オバマも「神に誓って(sohelpmeGod)」と答えた。\nそして���ロバーツはオバマを新大統領として祝いの言葉を述べた。", + "qas": [ + { + "question": "エイブラハム・リンカーンが最初の就任式を行った年は?", + "id": "tr-675-12-000", + "answers": [ + { + "text": "1861年", + "answer_start": 46, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オバマのミドルネームは誰を連想させるとして論争を呼びましたか?", + "id": "tr-675-12-001", + "answers": [ + { + "text": "サッダーム・フセイン", + "answer_start": 242, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ホワイトハウス報道官のロバート・ギブズは、当初、オバマ大統領が就任宣誓をやり直す予定はないと説明していたが、ロバーツ長官が、ホワイトハウス法律顧問の要請に応じ、オバマの宣誓をやり直すことに同意した。\n2度目の宣誓式は、2009年1月21日の夕方、ホワイトハウスのマップ・ルームにおいて、ホワイトハウス記者団と少人数の大統領側近の前で行われた。\nロバーツがオバマに準備はよいか尋ねると、オバマは、「はい。ゆっくりやりましょう。」と答えた。\nホワイトハウス法律顧問のグレッグ・クレイグの出した説明によれば、宣誓は「あくまで念のために」2009年1月21日に再挙行された。\n1月20日の宣誓について、クレイグは「就任宣誓は有効に行われ、......大統領は適切に宣誓した。......しかしながら宣誓の文言は憲法自体に書かれているので」と付け加えた。\nなお米国の法廷や議会の証人喚問で行われている宣誓では、「あなたは~と宣誓するか?」という問いかけに対して「する(Ido)」と回答するのみで法的効果は発生し、必ずしも復唱する必要はない。", + "qas": [ + { + "question": "オバマの2度目の宣誓式は2009年1月の何日に行われましたか?", + "id": "tr-675-13-000", + "answers": [ + { + "text": "21日", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オバマの2度目の宣誓に同意したホワイトハウス報道官は誰でしたか?", + "id": "tr-675-13-001", + "answers": [ + { + "text": "ロバート・ギブズ", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "バラク・オバマ大統領の就任演説の中心的なテーマは、責任を取り戻すことへの呼びかけであった――それはワシントン(政治)の説明責任を意味すると同時に、一般市民が関わっていくという責任も意味していた。\nレトリックの専門家、ジェームズ・マッキンに言わせれば、オバマの演説には、抜粋して記憶に残りやすいフレーズはなかった。\nその代わり、わざと控えめに語られた演説の中で、彼は伝統に言及することによって、自らの新しい政権を、アメリカの歴史と結びつけようとしたという。\nオバマは、演説の第2段落の締めくくりに、「我々人民は、建国の父たちの理想に誠実であり続け、建国の文書に忠実であり続けた」と述べた。\n演説は、「遺産」や「伝統」といった言葉、また「誠実」、「勇気」、「愛国心」といった「古い」価値観を強調した。\n演説の最後の方で、オバマは、トマス・ペインが『アメリカの危機』で書き、ジョージ・ワシントンがその軍隊に読み聞かせるよう命じた言葉に触れた。", + "qas": [ + { + "question": "演説の終盤でオバマが言葉を引用した人物とはトマス・ペインと誰ですか?", + "id": "tr-675-14-000", + "answers": [ + { + "text": "ジョージ・ワシントン", + "answer_start": 384, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "オバマの選挙キャンペーン中のメッセージは、変革(チェンジ)の必要性に焦点を当てたものであったことから、マッキンは、オバマが大統領としてアメリカ国家の伝統から逸脱することはしないのだということをアメリカ国民に対して安心させようとしたのだと指摘する。\n責任への訴えの中で、オバマは、「我々の中で市民の��を管理する者は、説明を果たす責任を負う」、「我々に今求められているのは、新しい責任の時代である――あらゆるアメリカ人が認識することである」と述べた。\nオバマは、ミュージカル映画「スイング・タイム」からジェローム・カーンとドロシー・フィールズが歌う「ピック・ユアセルフ・アップ」の歌詞を引用し、「今日からは、我々は立ち上がり、体のほこりを払い、アメリカ再建という仕事を再び始めなければならない」と述べた。\nニューヨーク・タイムズ紙の記事において、コラムニストで元ドラマ批評家のフランク・リッチは、映画から引用されたフィールズの歌詞との関係について言及し、オバマは演説の中で「かすかな大恐慌時代のイメージ」をほのめかしたのだと書いている。", + "qas": [ + { + "question": "「ピック・ユアセルフ・アップ」が歌われるミュージカル映画とは何ですか?", + "id": "tr-675-15-000", + "answers": [ + { + "text": "「スイング・タイム」", + "answer_start": 237, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "昼食会の前、慣例に従い、オバマ大統領は連邦議会議事堂のプレジデンツ・ルームに入り、そこで最初の大統領令に署名した。\n彼が署名した最初の大統領令は、「国の一新と調和の日の宣言」であった。\nこの歴史的な署名をする最中も、オバマは自分の左利きについてジョークを言い、また「ペンをくすねないように言われたよ」と皮肉を言った。\n彼は、このほかにも、正式に閣僚及び準閣僚級高官について連邦議会の承認を求めるための大統領令にも署名した。\nオバマは、それから議事堂の国立彫像ホールでの就任祝賀昼食会で議会のゲストらと食卓を囲んだ。\nゲストには、ワシントンを代表する議員らのほか、元大統領・副大統領らが招かれ、鴨とキジの料理に、ピノ・ノワールのワインが供された。\n昼食会のテーマは、エイブラハム・リンカーン生誕200年を記念した2009年のオバマの就任式全体のテーマ、「自由の新しい誕生(ANewBirthofFreedom)」に則ったものであった。\n赤と白の陶器は、リンカーン時代のホワイトハウスで用いられていたものの復元である。", + "qas": [ + { + "question": "昼食会に提供されたワインの品種は何でしたか?", + "id": "tr-675-16-000", + "answers": [ + { + "text": "ピノ・ノワール", + "answer_start": 305, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "2009年はリンカーンが誕生して何年となる年でしたか?", + "id": "tr-675-16-001", + "answers": [ + { + "text": "200年", + "answer_start": 346, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "議事堂での昼食会は、1953年以来、就任式のプログラムの一部となっている(その前は、昼食会はホワイトハウスで行われ、離任する大統領とファーストレディが主催していた)。\n就任祝賀昼食会のメニューは、新しい大統領・副大統領の出身州を代表する料理がメインになることが多い。\n2009年のメニューは、シーフード・シチュー、キジと鴨の料理、そしてデザートにはスイート・クリーム・グラッセの添えられたアップル・シナモン・スポンジケーキであった。\n1985年以来、最上席の背景に飾る絵画が選ばれてきた。\n2009年に選ばれた絵画は、トーマス・ヒルが1865年に描いた「ヨセミテ渓谷の眺め」であった。\nこの絵は、エイブラハム・リンカーンが1864年にヨセミテ下付地を創設する法律に署名したのを記念したものである。\nこれは、連邦政府が、市民が利用できるように公園を保護した初めての例であった。\n昼食会の最中に、エドワード・ケネディ上院議員が発作を起こして倒れ、病院に運ばれて治療を受けた。\nこの緊急事態を伝える当初の報道では、ロバート・バード上院議員もまた病気に倒れたとの誤った情報が流れた。\nその報道は後に否定され、最終的に、バードはケネディの件で心理的に動揺したため、帰宅することになったのだと説明された。", + "qas": [ + { + "question": "「ヨセミテ渓谷の眺め」の作者は誰ですか?", + "id": "tr-675-17-000", + "answers": [ + { + "text": "トーマス・ヒル", + "answer_start": 259, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "昼食会の途中で病院に運ばれた議員は誰ですか?", + "id": "tr-675-17-001", + "answers": [ + { + "text": "エドワード・ケネディ", + "answer_start": 396, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "昼食会で出たデザートは何でしたか?", + "id": "tr-675-17-002", + "answers": [ + { + "text": "アップル・シナモン・スポンジケーキ", + "answer_start": 194, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "就任祝賀パレードは、D.C.北西地区のペンシルベニア通りを、連邦議会議事堂から出発し、ホワイトハウスの北面まで進んだ。\nパレードの途中、オバマ大統領とファーストレディのミシェル・オバマは、2回、リムジンからペンシルベニア通りに降り立ち、パレードのルートを歩いて、集まった群衆の歓声に応えた。\n2度目に歩いて車に戻ったのは、ホワイトハウスの門のすぐ前であった。\nその2回を除けば、大統領とファーストレディは、パレードの間、警備上の問題から、ルートの大部分を新型の防護されたリムジンで移動した。\nバイデン副大統領とその妻ジル・バイデンも、数か所で、子のビュー、ハンター、アシュリーとともにパレードのルートを歩いた。\nビュー・バイデンは、デラウェア州の司法長官兼デラウェア州兵法律顧問将校であり、イラク戦争の軍役から特別の休暇を得て式典に参加した。", + "qas": [ + { + "question": "就任祝賀パレードの出発地点はどこでしたか?", + "id": "tr-675-18-000", + "answers": [ + { + "text": "連邦議会議事堂", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "パレードは、就任式の後、午後から夕方近くまで、2時間以上にわたって行われた。\n1万5000人の人と、240頭の馬、何十ものマーチングバンド、二つの鼓笛隊、一つのマリアッチバンドが参加した。\nオバマ大統領は、ドラム・コープス・インターナショナルで9回世界チャンピオンとなったカデッツ鼓笛隊と、8回優勝に出場したコルツ鼓笛隊をアイオワ州ダビュークから招いたほか、バージニア州軍学校の士官候補生隊、そしてオバマの出身高校、プナホウ・スクールからパレードでのパフォーマンスのため高校生マーチングバンドを招いた。\nバイデン副大統領も、デラウェア州から、パレードでの行進にいくつかのグループを招いた。\nデラウェアのセクションの先頭に立ったのは、バイデンが名誉会員となっているデラウェア・ボランティア消防隊員会であった。\nそれに続き、バイデンの母校、デラウェア大学から、「デラウェア州の誇り」と言われるファイティン・ブルー・ヘンズのマーチングバンド、そしてデラウェア州立大学ホーネッツのマーチングバンド、別名「近づく嵐」が行進した。", + "qas": [ + { + "question": "パレードに参加した人数は何人でしたか?", + "id": "tr-675-19-000", + "answers": [ + { + "text": "1万5000人", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "パレードに参加した馬は何頭でしたか?", + "id": "tr-675-19-001", + "answers": [ + { + "text": "240頭", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "カデッツ鼓笛隊は何回世界チャンピオンになりましたか?", + "id": "tr-675-19-002", + "answers": [ + { + "text": "9回", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "コルツ鼓笛隊は何回優勝しましたか?", + "id": "tr-675-19-003", + "answers": [ + { + "text": "8回", + "answer_start": 145, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "バラク・オバマ大統領と、ファーストレディ、ミシェル・オバマは、2009年1月20日の夜、10の公式就任祝賀ダンスパーティーに出席した。\nダンスパーティーでは、バラク・オバマは15年ぶりに新調したというタキシードに身を包んだ。\nこのタキシードは、組合の労働者を使用しているシカゴの紳士服会社、ハート・シャフナー・マークスが仕立てたものである。\nミシェル・オバマは、26歳のニューヨークのデザイナー、ジェイソン・ウーがデザインした白のワンショルダー、スリーブレスのドレスで装った。\n今までのファーストレディ、ローラ・ブッシュやヒラリー・クリントンが、自分の生まれ故郷のデザイナーのものを披露してきた伝統を打ち破ることになった。", + "qas": [ + { + "question": "ミシェル・オバマが着用したドレスは誰がデザインしましたか?", + "id": "tr-675-20-000", + "answers": [ + { + "text": "ジェイソン・ウー", + "answer_start": 198, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "沼田鈴子", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "沼田鈴子は、日本の平和運動家だ。広島市への原子爆弾投下での被爆者の1人である。被爆により左脚を失い絶望に陥ったところを、被爆アオギリを見て生きる希望を取りもどし、切断障害を抱えた身でありながら被爆体験証言活動と平和運動に心血を注いだ。証言活動では被爆アオギリのことを多く語ったことから「アオギリの語り部」として知られる。広島市原爆被害者の会の元副会長、広島を語る会の元会員。大阪府出身だ。", + "qas": [ + { + "question": "沼田鈴子の出身地はどこなの?", + "id": "tr-676-00-000", + "answers": [ + { + "text": "大阪府", + "answer_start": 187, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "被爆による被害で絶望に落ちいていた沼田鈴子は何を見て希望を取り戻しましたか。", + "id": "tr-676-00-001", + "answers": [ + { + "text": "被爆アオギリ", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "沼田鈴子は何のせいで左脚を失ったの?", + "id": "tr-676-00-002", + "answers": [ + { + "text": "被爆", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "証言活動で被爆アオギリのことを多く語ったことから「アオギリの語り部」として知られている人物は誰ですか。", + "id": "tr-676-00-003", + "answers": [ + { + "text": "沼田鈴子", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "沼田鈴子は1923年誕生した。1927年に広島県に転居。1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下当時、沼田は広島逓信省内に置かれた中部防衛通信施設部の第2中隊付きの事務員を務めていた。\n\n同年8月6日午前8時15分、その広島逓信省内で被爆し、瓦礫に左脚を潰された。被爆直後は足首から先を失っただけだったが、戦時下の混乱で治療が遅れるうちに、真夏の猛暑で傷口が化膿し、左脚が膝まで腐食して生命の危うい状態となったため、左腿から下すべての切断を余儀なくされた。戦時下の物資不足のため、切断手術はほとんど麻酔なしで行なわれ、病院中に鈴子の悲鳴が響き渡った。", + "qas": [ + { + "question": "沼田鈴子は何年生まれなの?", + "id": "tr-676-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1923年", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "沼田鈴子は何年に広島逓信省内で被爆し、瓦礫に左脚を潰されたか。", + "id": "tr-676-01-001", + "answers": [ + { + "text": "1945年", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "沼田鈴子は広島市への原子爆弾投下によって身体のうちどこを潰されましたか。", + "id": "tr-676-01-002", + "answers": [ + { + "text": "左脚", + "answer_start": 125, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "そんな矢先、被爆で今にも枯れそうなアオギリを目にし、見るも無残な木の姿を今の自分に重ね合せるが、その無残なアオギリから新しい葉が芽吹いている様子を目にし、惨い姿となってもなお生きようとするアオギリに心を動かされ、生きる気力を取り戻した。被爆アオギリは鈴子にとって命の恩人であり、分身ともいえる存在となった。\n\n後に得意であった裁縫をいかした教師職を目指し、年下の学生たちに交じっての猛勉強の末、1951年、母校である安田学園・安田女子高校で家庭科の教師職に就いた。脚の不自由な身ではあったが、教師生活は順調であり、後に母の介護が必要となるまでの28年間、教員生活を送ることになった。\n\nしかし、かつての差別や偏見で負った心の傷から、教師期間中は自分が被爆者であることは自ら話すことはなく、義足も和服姿で隠していた。被爆した生徒に、自分の被爆体験を語ることもあったが、時が経つにつれて生徒の中に被爆経験を持つ者もいなくなり、次第に鈴子は被爆経験を心の中に閉じ込めるようになった。", + "qas": [ + { + "question": "鈴子にとって命の恩人であり、分身ともいえる存在は何ですか。", + "id": "tr-676-02-000", + "answers": [ + { + "text": "被爆アオギリ", + "answer_start": 118, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "鈴子は何年から安田学園・安田女子高校で働いたの?", + "id": "tr-676-02-001", + "answers": [ + { + "text": "1951年", + "answer_start": 197, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "元禄文化", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "元禄文化とは、江戸時代前期、元禄年間(1688年-1704年)前後の17世紀後半から18世紀初頭にかけての文化のことである。\n\n17世紀の中期以降の日本列島は、農村における商品作物生産の発展と、それを基盤とした都市町人の台頭による産業の発展および経済活動の活発化を受けて、文芸・学問・芸術の著しい発展をみた。とくに、ゆたかな経済力を背景に成長してきた町人たちが、大坂・京など上方の都市を中心にすぐれた作品を数多くうみだした。そこでは庶民の生活・心情・思想などが出版物や劇場を通じて表現された。ただし、その担い手は武士階級出身の者も多かった。また、同じ上方でも京より大坂に重心がうつると同時に、文化の東漸運動も進展し、江戸・東国が文化に占める重要性が高まっていく端緒となった。", + "qas": [ + { + "question": "江戸時代前期、元禄年間(1688年-1704年)前後の17世紀後半から18世紀初頭にかけての文化を何と呼びますか。", + "id": "tr-677-00-000", + "answers": [ + { + "text": "元禄文化", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "17世紀の中期以降、日本の文芸・学問・芸術の著しい発展において中心となっていた階級は?", + "id": "tr-677-00-001", + "answers": [ + { + "text": "町人", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "元禄文化は、しばしば「憂き世から浮世へ」と称せられるように、現世を「浮世」として肯定し、現実的・合理的な精神がその特徴とされる。もとより貴族的な雅を追求する芸術の成果も一方には存在したが、「民勢さし潮のごとく」と評された民衆の情緒を作品化したものが多く、世間の現実をみすえた文芸作品もうみ出された。とりわけ、小説の井原西鶴、俳諧の松尾芭蕉、浄瑠璃の近松門左衛門は日本文学史上に燦然と輝く存在である。また、実証的な古典研究や実用的な諸学問が発達し、芸術分野では、日本的な装飾画の様式を完成させたとされる尾形光琳や浮世絵の始祖といわれる菱川師宣があらわれ、従来よりも華麗で洗練さを増した美術工芸品もまた数多くつくられた。音楽では生田流箏曲や新浄瑠璃、長唄などの新展開がみられた。さらに、音曲と組み合わせて視聴覚に同時に訴えかける人形浄瑠璃や歌舞伎狂言も、この時代に姿がととのえられた。元禄時代は、めざましい創造の時代だったのである。\n\nなお、日本における1960年代の高度経済成長の昭和40年頃の時期の文化隆盛を指す「昭和元禄」という言葉が生まれている。", + "qas": [ + { + "question": "「昭和元禄」は昭和何年ごろをいいますか。", + "id": "tr-677-01-000", + "answers": [ + { + "text": "昭和40年頃", + "answer_start": 439, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "人形浄瑠璃や歌舞伎狂言の姿がととのえられたのはどの時代のことか。", + "id": "tr-677-01-001", + "answers": [ + { + "text": "元禄時代", + "answer_start": 390, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "16世紀中葉以降、ヨーロッパ人が渡来して当時の日本に世界全体におよぶ地理認識が伝えられると、それまで日本人が依拠してきた本朝(日本)・震旦(中国)・天竺(インド)から成る「三国世界観」は大きく揺さぶられることとなった[8]。中世の日本人が思い描いていた仏教色の強い世界観は変更をせまられ、従来の「三国」がアジアの一画を占めるにすぎないことが広く理解されたのである。\n\n日本国内にあっても、世界と日本の地図を裏表に描いた各種の「世界図屏風」が作成され、男女を描いて世界の民族を示した「万国人物図」も刊行された。なかでも、イタリアのマチェラータ出身で明国での布教に尽力したイエズス会宣教師マテオ・リッチが1602年に作成した「坤輿万国全図」は、ヨーロッパの世界地理認識と東アジアの地理認識を組み合わせた当時世界最高水準の世界地図であり、説明が漢字で日本人にも親しみやすいところから、日本にも伝えられて数多く模写され、当時の日本人の世界地理認識に大きな影響をあたえた。やがて、江戸幕府によって長崎貿易を許可されたオランダの人々によって、より正確な世界地図や地球儀がもたらされた。\n\nこのように多種多様な世界地図が伝来し、それをもとに多くの日本人も世界地図や地球儀製作にたずさわったこと、また、これらがさまざまな形で一般に流布したことは、近世日本文化を特徴づける要素のひとつとなっている。鎖国体制にあっても日本人の海外への関心は失われることはなかったのである。\n\n情報空間がひろがり、島原の乱以降の平和によって日本列島全体が経済成長を遂げたことが、文芸・芸術の発展や諸学問の興隆のもととなった。", + "qas": [ + { + "question": "「坤輿万国全図」を作成した人は誰なの?", + "id": "tr-677-02-000", + "answers": [ + { + "text": "マテオ・リッチ", + "answer_start": 292, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「坤輿万国全図」はいつ作成されたの?", + "id": "tr-677-02-001", + "answers": [ + { + "text": "1602年", + "answer_start": 300, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "上流社会において維持されてきた伝統的な和歌や連歌に対し、連歌から派生した俳諧では庶民生活に根ざした「おかしみ」を主とし、江戸初期に松永貞徳があらわれて洒落や滑稽によって句をつくる貞門派を形成した。\n\n17世紀後期には大坂に西山宗因があらわれ、自由・奇抜で軽妙な趣向を得意とする談林派を形成し、近世の庶民詩ともいうべき独自の地位をきずいた。談林派は江戸にも広がり、延宝から貞享にかけて新興町人層に支えられて全盛期をむかえた。浮世草子で知られる井原西鶴もまた本来は談林派の俳人であり、明暦2年、15歳の頃から俳諧を初め、寛文2年頃には俳諧の点者となっていた。矢数俳諧もこなし、貞享元年には住吉大社で一昼夜に2万3500句の俳諧を詠むという記録を打ち立てている。", + "qas": [ + { + "question": "大坂に西山宗因があらわれたのは何世紀のことですか。", + "id": "tr-677-03-000", + "answers": [ + { + "text": "17世紀", + "answer_start": 100, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "井原西鶴が俳諧を初めたのは何歳からですか。", + "id": "tr-677-03-001", + "answers": [ + { + "text": "15歳", + "answer_start": 245, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "「俳聖」と称される松尾芭蕉は、もと伊賀国上野の藤堂家に仕えた武士であり、好学の君主藤堂良忠の近習に取り立てられ、その影響もあって当初は京都の国学者北村季吟から貞門派の俳諧を学んだ。良忠没後の寛文12年、江戸に出た芭蕉は談林派の強い影響を受け、深川六間堀に芭蕉庵を営み、そこに住んだ。芭蕉はやがて、奇抜な着想と卑俗な奔放さに走った談林俳諧にあきたらず、連歌の第一句(発句)を文学作品として独立させ、民衆のことばを用いながらも和歌・連歌の長い伝統をいかす蕉風(正風)俳諧を確立した。西行や宗祇ら中世詩の伝統のうえに立った芭蕉は、新味を求めて変わり続ける流行性こそが不易であると唱え、わび・さび・しおり・かるみ・細みなどで示される幽玄閑寂の境地をめざし、これによって俳諧は和歌・連歌にならぶ芸術性の高いものとなった。彼の句の多くは『曠野』『猿蓑』『炭俵』『冬の日』など「俳諧七部集」に収められている。", + "qas": [ + { + "question": "「俳聖」とは誰を指す言葉か。", + "id": "tr-677-04-000", + "answers": [ + { + "text": "松尾芭蕉", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "連歌の第一句(発句)を文学作品として独立させ、民衆のことばを用いながらも和歌・連歌の長い伝統をいかす蕉風(正風)俳諧を確立した人は誰ですか。", + "id": "tr-677-04-001", + "answers": [ + { + "text": "芭蕉", + "answer_start": 141, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "人間中心の文学をさらにおしすすめたのが元禄期にあらわれた井原西鶴である。西鶴の経歴は不詳であるが、大坂の富裕な町人平山藤五とする説があり、それによれば経営を手代にまかせて気ままな生活を選んだとされる。俳諧における師であった西山宗因が他界した天和2年、西鶴は自由な散文形式による『好色一代男』を書き上げた。もともと余技として始めた小説執筆であったが、本作品は町人の手による、町人を対象とした、町人を主人公とする、町人の生活相を描いたという点で画期的意義をもち、また、質・量ともに近世小説の最高峰をかたちづくるものであった。小説に転じてからの西鶴は、現実の世相や風俗を背景に、人びとが愛欲や金銭に執着しながら、みずからの才覚で生き抜く姿を描いており、これは浮世草子とよばれ、日本文学に新しい世界をひらいた。", + "qas": [ + { + "question": "俳諧において井原西鶴の師だったのは誰なの?", + "id": "tr-677-05-000", + "answers": [ + { + "text": "西山宗因", + "answer_start": 111, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "西山宗因はいつ死んだの?", + "id": "tr-677-05-001", + "answers": [ + { + "text": "天和2年", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "町人の手による、町人を対象とした、町人を主人公とする、町人の生活相を描いたという点で画期的意義をもち、また、質・量ともに近世小説の最高峰をかたちづくるものだと評価される作品は何ですか。", + "id": "tr-677-05-002", + "answers": [ + { + "text": "『好色一代男』", + "answer_start": 138, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "西鶴文学の新しさは、「人間は欲に手足のついたもの」「世に銭ほど、面白きものはなし」の言葉が示すとおり、人間の欲望を肯定し、町人の営利の才能や消費生活を楽しむ姿を写実的に描いたことであった。『日本永代蔵』では「三井九郎右衛門」という人物が江戸日本橋の駿河町に呉服店を出店し、「現金掛値なし」の商法で人びとに利便をあたえた一方で巨利を得たことを肯定的に紹介し、金持ちになるためのノウハウが具体的に記されている。そこでは、堅固・才覚・始末・分別・堪忍・正直などの徳目が勤労における実践的な倫理として示されている。また、『好色一代男』では、莫大な遺産を引き継いだ世之介が少年時代から女御の島へ船出する還暦までの恋愛生活を、『世間胸算用』では年末に借金取りに追われる下層町人の悲喜劇を描いた。その文学の特徴は、偶然の積み重ねで人の世が思いがけない転回を遂げることをリアリスティックに描いていることであり、その文章はまた、余分な語や無駄な文のない緩急自在の性格をもっている。", + "qas": [ + { + "question": "西鶴文学の中、莫大な遺産を引き継いだ世之介が少年時代から女御の島へ船出する還暦までの恋愛生活を描いた作品は何ですか。", + "id": "tr-677-06-000", + "answers": [ + { + "text": "『好色一代男』", + "answer_start": 256, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "西鶴文学の中、年末に借金取りに追われる下層町人の悲喜劇を描いた作品は何ですか。", + "id": "tr-677-06-001", + "answers": [ + { + "text": "『世間胸算用』", + "answer_start": 307, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "越前藩士の子として京都に生まれた杉森信盛が近松門左衛門と名乗り、歌舞伎・人形浄瑠璃の専門的な戯曲作家として活躍したのは、西鶴の活躍とほぼ同時期であった。\n\n近松は、天和3年に曾我物の『世継曽我』を京の宇治加賀掾のために著したが、これが彼の浄瑠璃作品の第一作であった。古浄瑠璃の最後の名人で、完成者でもあった宇治加賀掾のもとで修行したことによって近松の才能は磨きがかけられたのである。\n\n貞享2年には大坂の竹本義太夫と京の加賀掾が道頓堀で競演したが、井原西鶴が加賀掾のために『暦』『凱陣八嶋』の2作品を書いたのに対し、義太夫は『賢女の手習幷新暦』と近松の新作『出世景清』で対抗した。景清は『平家物語』や能楽、幸若舞でも取り上げられた題材であったが、近松はそこから悲劇的な葛藤をとりだして、人間性豊かなドラマに仕立てたのである。こうして近松の脚本は竹本義太夫と出会い、義太夫自身によって語られて民衆の人気を博した。近松・義太夫が現れてからの浄瑠璃はそれ以前とはほとんど内容を一新させてしまうほどでだったので、それ以前を古浄瑠璃、それ以降を新浄瑠璃と呼んで区別している。近松はまた、上方歌舞伎の名優坂田藤十郎のために『傾城阿波の鳴門』などの名編を作劇しており、真に浄瑠璃脚本に専心したのは元禄16年の『曾根崎心中』が最初であった。", + "qas": [ + { + "question": "杉森信盛が生まれたところはどこなの?", + "id": "tr-677-07-000", + "answers": [ + { + "text": "京都", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『世継曽我』を書いた人は誰なの?", + "id": "tr-677-07-001", + "answers": [ + { + "text": "近松", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "近松の浄瑠璃作品の第一作は何?", + "id": "tr-677-07-002", + "answers": [ + { + "text": "『世継曽我』", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "古浄��璃の最後の名人で、完成者である人物は誰か。", + "id": "tr-677-07-003", + "answers": [ + { + "text": "宇治加賀掾", + "answer_start": 153, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "近松は、歴史のなかの英雄の姿を描くいっぽう、現実の社会にも題材を求め、義理と人情の板挟みのなかで人間らしく生きようとする庶民の極限状況を描いた。近松の代表的な作品として『曽根崎心中』『心中天網島』『冥土の飛脚』『心中宵庚申』『女殺油地獄』『夕霧阿波鳴渡』『丹波与作待夜の小室節』など当時の世相に題材をとった世話物、『国性爺合戦』『用明天皇職人鑑』『けいせい反魂香』など歴史上の事件に題材をとった時代物などがある。\n\n『曾根崎心中』は実際の心中に取材した世話物の第一作であり、ことにお初徳兵衛道行の場面は名文として知られ、荻生徂徠をして嘆息せしめたといわれている。『心中天網島』もまた親子、夫婦、恋人の間の愛が封建社会の通念や金銭がからんで身動きできず、心中へと追い込まれる葛藤を描いた名作である。『曾根崎心中』の興行が成功したことにより義太夫はそれまでの多額の債務を完全に返済し、自らは身を引いて竹田出雲に竹本座の経営を任せ、近松はその座付作者として脚本執筆に専念することができるようになったといわれる。", + "qas": [ + { + "question": "『曽根崎心中』の著者は誰ですか。", + "id": "tr-677-08-000", + "answers": [ + { + "text": "近松", + "answer_start": 72, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "西鶴のリアリズムに対し、近松を特徴づけるのはそのヒューマニズムであり、ともに近代主義の見地からみても評価が高い。若い男女が死ななければならないほど愛し合う姿は近代的な観念としての恋愛を日本で初めて描いたものといえるのである。\n\n近松につづき、上方からは『八百屋お七歌祭文』の紀海音、『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』の竹田出雲があらわれ、近松半二、錦文流、並木川柳などの劇作家を輩出した。なお、竹本座再発足のために著された『用明天皇職人鑑』では、この時期の上方都市民による「和朝」「神国」の日本意識が示され、『持統天皇歌軍法』では農民によって構成された義勇軍が持統女帝のために戦う場面がある。また別の作品では「関東」が批判されるなど、当時の上方町人が人民を武威で抑える領主支配に対して批判的意識をもっていることなどがうかがわれ、それと同時に朝廷に対する親近感が示されているのである。", + "qas": [ + { + "question": "西鶴はリアリズム、近松は何?", + "id": "tr-677-09-000", + "answers": [ + { + "text": "ヒューマニズム", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "歌舞伎は、歌と踊りを中心とする舞台芸能から、物語性を重んじる演劇へと変化した。\n\n郭制度の公許にともなって、初期の女歌舞伎(遊女歌舞伎)は風紀を乱すとして他の女性芸能ともども1629年に禁止された。少年による若衆歌舞伎も初期の時代にはさかんであったが、この段階で先行する能や狂言の舞が導入され、物真似などの個人芸が成立するとともに放下・蜘蛛舞など軽業の要素が加わったとされている。\n\nところが1652年、若衆歌舞伎もまた風紀をみだすとの理由で全面的に禁止された。それに対し、歌舞伎再開をのぞむ庶民の声にはきわめて根強いものがあったので、俳優が若衆の象徴である前髪を切り払い、扇情的な舞・踊りを排して「物真似狂言づくし」のみを演ずるということを条件に再開がゆるされたといわれている。これ以降、成年男子のみが演ずる野郎歌舞伎として現代に引き継がれている。ただし、この条件は一方では、歌舞伎を容色本位の芸能から技芸本位の芸能に深化させる契機になったとも評される。また、寛文以降は、演目に2番つづき、3番つづきの狂言が仕組まれるようになって多幕物が発生し、このことは、演劇内容が筋立てを中心とする複雑なものへ進化していったことを物語る。さらにこの多幕物が、引幕や花道の出現を促したように、舞台構造・装置にも創意工夫がほどこされるようになった。", + "qas": [ + { + "question": "若衆歌舞伎が風紀をみだすとの理由で全面的に禁止されたのはいつですか。", + "id": "tr-677-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1652年", + "answer_start": 196, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "初期の女歌舞伎(遊女歌舞伎)はいつ禁止されたの?", + "id": "tr-677-10-001", + "answers": [ + { + "text": "1629年", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "女歌舞伎と若衆歌舞伎と、どっちの方が後に禁止されたの?", + "id": "tr-677-10-002", + "answers": [ + { + "text": "若衆歌舞伎", + "answer_start": 202, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "数学では、検地や築城・灌漑治水・新田開発などの土木工事、商工業をはじめとする経済活動がさかんになるなかで、測量や商売取引などの必要から和算が発達した。日常の計算機として中国から算盤が輸入され、国内で改良が加えられてひろく普及した。\n\n毛利重能は元和8年に『割算書』を著し、角倉了以の一族に生まれた吉田光由は中国の数学書を入手し、これを参考にして珠算をもとにした和算書『塵劫記』を寛永4年に刊行した。『塵劫記』は多くの人に読まれ、寺子屋の教材ともなり、300種にのぼる異本がつくられたといわれている。", + "qas": [ + { + "question": "『割算書』を書いた人は誰ですか。", + "id": "tr-677-11-000", + "answers": [ + { + "text": "毛利重能", + "answer_start": 117, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『塵劫記』を刊行したのは誰なの?", + "id": "tr-677-11-001", + "answers": [ + { + "text": "吉田光由", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "将軍家に囲碁をもって伝える家には、本因坊、井上、安井、林の四家があった。本因坊家は豊臣秀吉・徳川家康に仕えた本因坊算砂、井上家は元和から寛永にかけて活躍した中村道碩、安井家は貞享暦で知られる渋川春海の父初代安井算哲、林家は林門入斎を始祖としている。\n\n囲碁の四家に対して将棋は、桃山時代に活躍した大橋宗桂直系の大橋家(大橋本家)・大橋分家・伊藤家の三家が家元となっていた。本因坊算砂は将棋も強かったが友誼によって宗桂に将棋家元の地位を譲ったともいわれている。宗桂の子の大橋宗古は、二歩や千日手、打歩詰の禁止など現代につながる規則の制定に尽力した。\n\n宗古の弟の大橋宗与が大橋分家の祖となり、宗古の娘をめとった伊藤宗看が伊藤家をなした。なお、伊藤宗看の名は関白近衛信尋によるが、宗看は棋力抜群で3世名人となり、その子宗銀は大橋本家を継いで五代宗桂を名乗り、4世名人となった。", + "qas": [ + { + "question": "将軍家に囲碁をもって伝える家には、本因坊、井上、安井、そして何がありましたか。", + "id": "tr-677-12-000", + "answers": [ + { + "text": "林", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "祭文は、神道に主たる起源を有し、本来は祭りのときなどに神祇に対して祈願や祝詞として用いられる願文であったが、神仏習合の進行著しい中世にあっては山伏修験者に受け継がれ、錫杖や法螺貝を伴奏として歌謡化する一方、修験の旅にともない日本列島各地に広がり、下級宗教者や門付芸人の手にもわたって普及した。\n\n江戸時代に入ると、祭文は説経節同様に三味線などと結びついて歌謡化し、これを「歌祭文」と称した。歌祭文(祭文節)は、元禄以降、「八百屋お七恋路の歌祭文」「お染久松藪入心中祭文」などの演目があらわれ、世俗の恋��や心中事件、あるいは下世話なニュースなども取り入れ、一種のクドキ調に詠みこむようになった。歌舞伎・浄瑠璃の演目として知られる『桜鍔恨鮫鞘』のもととなった古手屋八郎兵衛のお妻殺しの事件も、当初は歌祭文で歌われた作品である。\n\n歌祭文に対し、錫杖と法螺貝のみを用いた「デロレン祭文」(貝祭文)は、同様に世俗的な演目を扱いながらも語りもの的要素の強い芸能として残った。\n\nやがて、祭文と説経節は結びついて「説経祭文」と称されるジャンルを生んでいる。", + "qas": [ + { + "question": "古手屋八郎兵衛のお妻殺しの事件はどんな作品のもととなっていますか。", + "id": "tr-677-13-000", + "answers": [ + { + "text": "『桜鍔恨鮫鞘』", + "answer_start": 313, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「説経祭文」とは祭文と何が組み合わさったジャンルのことですか。", + "id": "tr-677-13-001", + "answers": [ + { + "text": "説経節", + "answer_start": 441, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「デロレン祭文」(貝祭文)には錫杖とまた何が使われますか。", + "id": "tr-677-13-002", + "answers": [ + { + "text": "法螺貝", + "answer_start": 373, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "放下は田楽法師の伝統を受け継ぐ雑芸である。室町時代から近世にかけてみられた大道芸のひとつで、もともと禅宗の「放下(一切を放り投げて無我の境地に入るの意)」に由来するが、「投げおろす」の原義から派生して鞠や刀などを放り投げたり、受けとめたりする芸能全般をあらわすようになったと考えられる。放下は、従来の散楽や田楽から学び習った曲芸や奇術を専業化し、人びとが行き交う大道や市の立つ殷賑の地などで演じて人気を博し、演者には田楽法師と同様に僧体をしている者も多く、その場合は「放下僧」と呼ばれた。また、烏帽子をかぶり、笹竹に恋歌の書かれた短冊を吊り下げ、それを背負って歩く放下師もいた。", + "qas": [ + { + "question": "放下は何を受け継ぐ雑芸ですか。", + "id": "tr-677-14-000", + "answers": [ + { + "text": "田楽法師の伝統", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "放下は、近世にいたって俗人の手にうつったが、従来の品玉、八ツ玉、手鞠、弄丸といった曲芸だけではなく、鞠の曲、玉子の曲、おごけの曲、うなぎの曲、枕の曲、籠抜け、皿回しなども演じた。また、放下芸と獅子舞を生業とする伊勢太神楽の集団が成立したのも近世初頭である。いっぽうで小屋掛けがなされるようになり、寄席演芸のひとつとして、大がかりな曲芸や手品もおこなうようになった。手品は、山芋をうなぎにする、籠より小鳥を出す、絵を鶴にするなどといったもので、元禄年間に活躍した有名な手品師、塩の長次郎も放下師の出身であった。また、『京都御役所向大概覚書』という史料によれば、寛文9年、豊後屋団右衛門という人物が歌舞伎などの興行に対抗して「放下物真似」の名代が許されている。\n\n江戸時代前期にあってはまた、当時流行の歌舞伎や人形浄瑠璃との提携も進み、その幕間におおいに演じられた。江戸歌舞伎の座元となった都伝内も放下師の出身であったという。元禄以降、しだいに劇場からはすがたを消し、大道芸に回帰していった。", + "qas": [ + { + "question": "寛文9年、豊後屋団右衛門という人物が歌舞伎などの興行に対抗して「放下物真似」の名代が許されているという内容はどんな史料から確認できますか。", + "id": "tr-677-15-000", + "answers": [ + { + "text": "『京都御役所向大概覚書』", + "answer_start": 257, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "放下芸と獅子舞を生業とする伊勢太神楽の集団が出てきたのはいつのことですか。", + "id": "tr-677-15-001", + "answers": [ + { + "text": "近世初頭", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "現代「落語」と呼ばれる「落とし噺」が始まったのも元禄時代であった。上方では辻で、江戸では座敷で人びとを集めて噺を聴かせたのが落語家の始まりとされている。\n\n京都では天和・貞享のころ、もと日蓮宗の談義僧であった露の五郎兵衛が四条河原や北野などの大道で活躍した。これを「辻噺」といい、五郎兵衛が机のような台(見台)に座って滑稽な話をし、ござに座った聴衆から銭貨を得るというものであった。五郎兵衛は、後水尾天皇の皇女の御前で演じたこともあった。少し遅れて大坂に米沢彦八が現れて人気を博した。彦八は生玉神社の境内で小屋掛けの辻噺をおこない、名古屋でも公演した。『寿限無』の元になる話を作ったのが、この初代彦八であるといわれている。\n\n同じころ、江戸の町では塗師職人であった大坂出身の鹿野武左衛門が芝居小屋や風呂屋に呼ばれ、あるいは酒宴など、さまざまな屋敷に招かれて演じる「座敷噺」(「座敷仕方咄」)を始めて評判となった。\n\n時期をほぼ同じくして三都で活躍した上記3名は、いずれも不特定多数の観客から収入を得ていることから噺家の祖とされる。ただし、江戸の武左衛門が些細なことから流罪に処せられたことから、江戸の「座敷噺」人気はいったん下火となった。落語が寄席で不特定多数の聴衆から木戸銭を得て興行をおこなうのは、こののちのことである。", + "qas": [ + { + "question": "「落語」は元禄時代のとき、何と呼ばれましたか。", + "id": "tr-677-16-000", + "answers": [ + { + "text": "「落とし噺」", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "「落とし噺」が始まったのはいつなの?", + "id": "tr-677-16-001", + "answers": [ + { + "text": "元禄時代", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "鹿野武左衛門はどこの出身なの?", + "id": "tr-677-16-002", + "answers": [ + { + "text": "大坂", + "answer_start": 332, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『寿限無』の元となる話を作ったと言われている人は誰ですか。", + "id": "tr-677-16-003", + "answers": [ + { + "text": "初代彦八", + "answer_start": 296, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "江戸時代、庶民の音楽活動の中心は三味線音楽であった。楽器の細部を改造した三味線は、浄瑠璃などの語りもの音楽や当時の流行歌である小歌の伴奏に用いられた。さらに、三味線伴奏の小歌で踊る芸能が歌舞伎へと変化していったことで、三味線は劇場音楽に欠かせない楽器となった。\n\n上述した義太夫節は大坂で、都一中のはじめた一中節は京都で、江戸では半太夫節や河東節などが新浄瑠璃の三味線音楽として隆盛した。三都三様を呈する浄瑠璃の曲節が成立したが、河東節などの江戸節は優雅で淡泊、一中節は優艶、義太夫節は深刻さなど、それぞれ異なる特徴を有した。また、一中門下の宮古路豊後掾が名古屋や江戸で評判となったのが豊後節で、そこから常磐津節、富本節、清元節が派生している。\n地歌では野川検校による野川流や佐山検校による佐山流、市川流、早崎流などが生じて隆盛し、お座敷音楽として長唄が隆盛したのも元禄のころからである。\n\nこの時期の上方の流行歌に、のんやほ節がある。「のんやほ」という囃子詞が入り、これに合わせて踊る「のんやほほ踊り」があった。", + "qas": [ + { + "question": "江戸時代、庶民の音楽活動の中心となっていたのは何でしたか。", + "id": "tr-677-17-000", + "answers": [ + { + "text": "三味線音楽", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「のんや���ほ踊り」は何に合わせて踊るの?", + "id": "tr-677-17-001", + "answers": [ + { + "text": "「のんやほ」", + "answer_start": 418, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "義太夫節が繁栄したのはどの地域なの?", + "id": "tr-677-17-002", + "answers": [ + { + "text": "大坂", + "answer_start": 141, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ロイヒ", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ロイヒ(英:Lōʻihi)またはロイヒ海山(ロイヒかいざん、英:LoihiSeamount)とは、アメリカ合衆国、ハワイ島からおよそ35km(22mi)南東沖にある活発な海底火山である。\n山頂は地球上最大の楯状火山であるマウナ・ロア山の中腹、海面下975m(3,000ft)に位置している。\n「ロイヒ」とは、ハワイ語で「長い」を意味する言葉である。", + "qas": [ + { + "question": "ロイヒの近くには何の島があるの?", + "id": "tr-678-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ハワイ島", + "answer_start": 57, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "地球上最大の楯状火山とは?", + "id": "tr-678-00-001", + "answers": [ + { + "text": "マウナ・ロア山", + "answer_start": 110, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ハワイ語で「長い」は何と言いますか?", + "id": "tr-678-00-002", + "answers": [ + { + "text": "「ロイヒ」", + "answer_start": 146, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ロイヒはハワイ-天皇海山列のなかで一番新しくできた火山である。\nロイヒはハワイ諸島を構成する火山列の中で形成された年代が最も若い。\nハワイにある火山の成長史のなかで、現在のロイヒは幼年期(Submarinepreshieldstage:直訳すると「海底火山/先盾状火山期」「先楯状期」)に相当する。\n2012年の現時点では、ロイヒ以外に幼年期にあたる火山は、ハワイ諸島の火山のなかでは発見されていない。\nロイヒは海底深くで火山島へと成長しつつある海底火山であるといえる。\nロイヒは約40万年前に形成を始めた。\n今後1万から10万年後頃になれば、海面上に姿を現しはじめるだろうと予測されている。\nロイヒは深海底から比高3,000m(10,000ft)以上に聳え立っている。\nこの高さはセント・ヘレンズ山が1980年に起こした破局的な噴火(en)で低くなる前の海抜標高に匹敵しているか、それを追い抜くほどになっている。\n今のところ、山頂は海面下975m(3,000ft)に届いている。\nロイヒ山頂周辺の熱水噴出孔には多種多様な微生物群が生息している。", + "qas": [ + { + "question": "2012年の時点で、ハワイ諸島で唯一の幼年期の火山とは何?", + "id": "tr-678-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ロイヒ", + "answer_start": 162, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ロイヒの形成は何年前に始まったの?", + "id": "tr-678-01-001", + "answers": [ + { + "text": "約40万年前", + "answer_start": 240, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ロイヒは地球最大の楯状火山であるマウナ・ロア山の中腹に存在している海山である。\nこの火山はハワイ・ホットスポットが生み出した、長大なハワイ-天皇海山列を構成する火山の中で最も若い火山である。\n形成年代が古いマウナロア山とロイヒとの山頂間の距離は、およそ80km(50mi)である。\nこの距離は偶然にもハワイ・ホットスポットの直径と一致している。\nロイヒの頂上部は、三つの火口(ピット・クレーター)があり、それぞれ、山頂直下から北方向に11km(7mi)、南南東方向に19km(12mi)の長さにわたって割れ目帯(リフト・ゾーン)が伸びている。", + "qas": [ + { + "question": "山頂直下からの割れ目帯の長さは、北方向と南南東方向のどちらが長いですか?", + "id": "tr-678-02-000", + "answers": [ + { + "text": "南南東方向", + "answer_start": 227, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ハワイ・ホットスポットの直径は何kmですか?", + "id": "tr-678-02-001", + "answers": [ + { + "text": "およそ80km", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "3つの頂上火口は、それぞれ、西火口(WestPit)、東火口(EastPit)、そしてペレ火口(Pele'sPit)と名付けられている。\nペレ火口はこの中で一番若く、山頂の南部にある。\nペレ火口の火口壁は200m(700ft)の高さで立ち上がっている。\nこれは、1996年7月に、その前身であるペレ噴出口(Pele'sVent)が陥没して形成された。\nペレ噴出口は、ロイヒ山頂直下にあった熱水噴出領域であった。\nペレ火口の壁が驚くほど分厚いことは、これらの火口は過去に何度も溶岩で充たされたことがあることを示唆している。\nこの火口壁は、平均して20m(70ft)の幅が有る。\n特記すべきはこの厚みで、ハワイの陸上によく見られる火口と比較しても異常なほどである。", + "qas": [ + { + "question": "西火口、東火口、ペレ火口の中で最も若い火口はどれですか?", + "id": "tr-678-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ペレ火口", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "3つの頂上火口の中で1番若い火口は何ですか?", + "id": "tr-678-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ペレ火口", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ロイヒには南北方向に延びるリフト・ゾーンがある。\nこれが海山特有の南北に細長く引き伸ばされた形をつくる元になっている。\nそれゆえ、この海底火山の名前はハワイ語で”長い”を意味する「ロイヒ」と命名されたのである。\n北リフトゾーンは、長い西の分枝部と短い東リフトゾーンから成っている。\n観測結果から、南北両方のリフトゾーンには海底の堆積物が積もっていないことが明らかになっている。\nこのことから、地質年代的にごく近い時期に火山活動を起こしたことを示している。\n北リフトゾーンの膨出部は3つの60–80m(200–260ft)の円錐形をした高まりを内に含んでいる。", + "qas": [ + { + "question": "ロイヒが南北に細長く引き伸ばされた形になっている元とは何?", + "id": "tr-678-04-000", + "answers": [ + { + "text": "リフト・ゾーン", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1970年まで、ロイヒは太古の昔に活動を止めた火山だと考えられていた。\n海洋底拡大に伴い、太平洋プレートに乗って、あたかもベルトコンベア上に載せられた小包のようにして、生まれた場所から遥か離れたこの地まで運ばれてきたのだと思われてきた。\nハワイ諸島が下に敷いている海洋底は東太平洋海膨で作られてから8千万年から1億年たっている。\n太平洋の海洋底拡大軸でマントルからマグマが湧き上がっては噴出してできた新たな海洋地殻は、拡大軸から離れる方向へ動き続けている。\nそのような長期間にわって、ハワイの下の海洋底は東太平洋海膨から6,000km(4,000mi)西に行った現在の位置まで旅をして古代の海山を運んできたのだと思われてきた。\nロイヒがハワイ-天皇海山列の正式なメンバーであると判明したのは、1970年、ハワイ島沖で起きた群発地震を科学調査した時である。\nロイヒの山頂火口の年齢パターンは、ロイヒ自体がハワイホットスポットの真上にあった発生地点から動くにつれて火山活動の中心をゆっくりと東に移らせているということを確証させた。", + "qas": [ + { + "question": "ロイヒがハワイ-天皇海山列の正式なメンバーであると判明したのは何年ですか?", + "id": "tr-678-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1970年", + "answer_start": 346, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ロイヒは海底から3,000m(10,000ft)以上もそびえたっている。\nしかし、未だその頂きは海面よりも975m(3,199ft)下にある。\nロイヒは約5度の傾きのある海底で形成された。\nマウナロアの中腹にある海山の北側の基盤は海面下1,900m(6,200ft)にある。\nしかし、その南側の基盤は更に深いところ、海面下4,755m(15,600ft)の深海にある。\nそれゆえ、山頂は、海山の北麓を基準にして測ると931m(3,054ft)の比高が有るといえるが、南麓を基準にして測ると3,786m(12,421ft)の比高があるといえる。", + "qas": [ + { + "question": "マウナロアの中腹にある海山の北側の基盤と南側の基盤はどちらの方が深いところにありますか?", + "id": "tr-678-06-000", + "answers": [ + { + "text": "南側の基盤", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "山頂の比高が高くなるのは、北麓を基準とするか南麓を基準とするかどちらから測った時ですか?", + "id": "tr-678-06-001", + "answers": [ + { + "text": "南麓を基準", + "answer_start": 233, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ロイヒの頂きは海面下何mにありますか?", + "id": "tr-678-06-002", + "answers": [ + { + "text": "975m", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ロイヒは、ハワイ型の火山の成長段階を辿る途中にある。\nそれは、ハワイ諸島に所在する全ての火山に典型的なものである。\nロイヒの溶岩からの地球化学的な知見は、幼年期から盾状火山期(Shieldvolcanostage)への過渡期にあるということを示している。\nこの火山は、ハワイにある火山における初期の発達段階の研究についての価値ある手がかりを提供してくれている。\nハワイの幼年期の火山は急峻な山裾があり、火山活動は低調でアルカリ玄武岩の溶岩を噴出することが判っている。\n火山活動が長期間にわたって継続すれば、現在ロイヒ海山の存在する海域がやがては火山島になるだろうと期待されている。\nロイヒは数回にわたる海底地すべりを経験してる。\n海底火山が上へ上へと成長することは、その斜面を不安定な状態にする。\n実際に、山体崩壊によって堆積したと思われる広大な緩斜面が急峻な南東斜面の下に存在している。\n他のハワイにある火山で採取された同様の堆積物は、ハワイの火山の初期の成長段階にとって地すべりによる岩屑は重要なものであるということを示している。\nロイヒは今後1万年から10万年以内には海面に顔を出すであろうと予想されている。", + "qas": [ + { + "question": "ロイヒから噴出される溶岩の種類は何ですか?", + "id": "tr-678-07-000", + "answers": [ + { + "text": "アルカリ玄武岩", + "answer_start": 209, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ロイヒは遅くとも何年以内に海面から顔を出すと予測されているの?", + "id": "tr-678-07-001", + "answers": [ + { + "text": "10万年以内", + "answer_start": 479, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ロイヒから採取された岩石標本の年代を特定するために放射年代測定が使われた。\nハワイ火山学センター(HawaiiCenterforVolcanology)は、数回の学術調査を目的とした航海で記録されたサンプルを試験した。\n特筆すべきは1978年の17回もサンプルを浚い上げるのに成功した調査航海であった。\n殆どのサンプルは古代にその起源をもつように思われた;最も古い記録が残された岩石は30万年前のものであった。\n1996年イベントを受けて、作られてからそう年代を経ていない火山砕屑岩(角礫岩、Breccia)数個も採集された。\nサンプルを基にして、科学者チームはロイヒの生成年代を、今よりおよそ40万年前であろうと推定した。\n山体は、基底部では1年当たり平均して3.5mm(0.14in)、頂部では7.8mm(0.31in)の割合で積み重なっていた。\nもし、例えばキラウエア火山のような他の火山で得られたデータモデルがロイヒでも当てはまるとすると、火山の重量の40パーセントが最近10万年以内に形成されたことになる。\nリニアな成長モデルが当てはまると仮定すれば、ロイヒは形成開始から25万年経っていることになる。\nしかしながら、全てのホットスポット火山と同様に、ロイヒの火山活動レベルは時間が経過するとともに増大したと考えられる;それゆえ、このような火山がロイヒの規模に達するまでに、少なくとも40万年は掛かったと考えられる。\nハワイ諸島の火山は北西方向に年間10cm(4in)の割合で引きずられているので、ロイヒは、海底で初めて噴火した時には現在地より40km(25mi)南東にあったはずである。", + "qas": [ + { + "question": "山体が積み重なる1年当たりの平均の割合が多かったのは、基底部と頂部のどちらですか?", + "id": "tr-678-08-000", + "answers": [ + { + "text": "頂部", + "answer_start": 345, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ロイヒから採取された岩石標本の中で、最古の岩石は何年前のものでしたか?", + "id": "tr-678-08-001", + "answers": [ + { + "text": "30万年前", + "answer_start": 192, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ロイヒは地質学的には形成年代が若く、活発な火山活動をしていることが顕著な海底火山である。\nしかしながら、近くにあるキラウエア火山より火山活動は激しくない。\n過去のある短期間には、ロイヒで数回にわたる群発地震が発生した。\nその中で最大の物は下記に示す表中にまとめられている。\n現在では、この海山の火山活動は、火山によって引き起こされる地震が1959年から収録されている地震計での記録波形をさかのぼることでも研究が進められている。\nロイヒで起こる大抵の群発地震は一度始まってから2日間以内に収まってきた。\nうち2件の例外は数か月にも及んだ1991年から1992年にかけての地震、および、1996年の噴火事象(以下1996年イベント)である。\nこれは短期間で終わったが、論文に取り上げられる群発地震のなかで一番多く言及されている。\n両方の地震とも、山腹から始まり、山頂にかけて広がっていくという、決まった地震活動の様式を踏襲していた。\n1996年イベントは、自律的海底観測所(autonomousoceanbottomobservatory:OBO)で、直接観測されていた。\nこれにより、科学者にとって、震源は山頂直下6km(4mi)から8km(5mi)までの深さにあると判明した。\nこの場所はロイヒのごく浅いマグマだまりに近い位置である。\nこの計算結果からは、ロイヒでおこる群発地震は火山に起源をもつものであるという証拠になった。", + "qas": [ + { + "question": "ロイヒとキラウエア火山はどちらの火山活動がより活発ですか?", + "id": "tr-678-09-000", + "answers": [ + { + "text": "キラウエア火山", + "answer_start": 57, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ロイヒで起こった群発地震の中で、2日以内に収まらなかった地震は何件ありましたか?", + "id": "tr-678-09-001", + "answers": [ + { + "text": "2件", + "answer_start": 253, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1959年からロイヒで詳細に記録された低レベルの地震活動により、2回から10回の地震が山頂で起こっていることが突きとめられた。\n群発地震のデータはロイヒを構成する火山岩が地震波をどのくらい良く伝播するか、および、地震と噴火の関係を調べるために使われた。\nこの低調な地震活動は、100回ほどの地震で構成された大規模な群発地震により、周期的に中断されていた。\n大部分の地震の震源域は山頂近くには分布していなかったが、北から南へと震源域の分布が延びる傾向があった。\nむしろ、強いて言うならば、ほとんどの地震はロイヒの南西部でおきていた。\n1971年、1972年、1975年、1991から1992年、1996年の��間に、ロイヒで記録的な最大規模の群発地震が発生した。\n強烈な地震が集中して起こる場所は、ロイヒの周囲30km(20mi)からハワイ島の南岸にかけてである。\nマグニチュード2以下の地震イベントは頻繁に記録されるが、小さい地震の震源の位置は的確に検知できないでいる。\nこれとは対照的に大規模な地震の場合は震源が正確に特定できる。\n実際のところは、ロイヒの中腹に設置されたHUGOがハワイ火山観測所(HVO)の地震ネットワークで記録されたよりも10倍の頻度で地震を記録している。", + "qas": [ + { + "question": "記録上に残るロイヒでの最初の大規模群発地震は何年に発生しましたか?", + "id": "tr-678-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1971年", + "answer_start": 266, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "地震の大半はロイヒのどの方角の部分で発生していましたか?", + "id": "tr-678-10-001", + "answers": [ + { + "text": "南西部", + "answer_start": 255, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ロイヒで記録された最大規模の活動は、1996年の7月16日から同年8月9日にかけての群発地震、その数4070回を数えたものであった。\nこの一連の地震は、現在までにハワイにある火山で取られた地震記録の中で揺れの強烈さと回数の双方において最強クラスのものだった。\nほとんどの地震はモーメント・マグニチュードにしてM3.0未満の規模であった。\nマグニチュード3.0以上のものは数百回、その中でも40回以上がM4.0以上であり、M5.0を記録した微動もあった。", + "qas": [ + { + "question": "1996年に発生した大規模の群発地震で、マグニチュード3.0以上と4.0以上はどちらが多く発生しましたか?", + "id": "tr-678-11-000", + "answers": [ + { + "text": "マグニチュード3.0以上", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1996年7月16日から8月9日の間に起こった群発地震の回数は何回でしたか?", + "id": "tr-678-11-001", + "answers": [ + { + "text": "4070回", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "群発地震の最後2週間は1996年8月に発足したクイック・レスポンス・クルーズ(quickresponsecruise)によって観測されていた。\nアメリカ国立科学財団は、ハワイ大学のフレデリック・K・ドゥエネビアー(FrederickK.Duennebier)率いる科学者チームによる探査(学術調査航海)のために研究費を交付した。\nこの学術航海は、ロイヒの試料採取と火山活動の解明を目的とし、1996年8月から続いた一連の群発地震及びその起源を徹底的に調べるためにはじめられた。\n科学者たちの想定は、研究の大半を占め、何回となく繰り返された学術航海で構成され、また、仮説の裏付けとなったフィールドワークに基礎を置いていた。\nロイヒに対する追跡調査が行われた。\nその中では8月と9月に有人潜水艇パイシーズ号の投入も行われた。\nこれ等の調査は非常に多くの海岸を基本とした研究により、不足した箇所を増補された。\n調査航海の間に採集された新鮮な岩石により、群発地震のおこる以前に噴火が起こっていたことが明らかになった。", + "qas": [ + { + "question": "ロイヒの学術調査航海の一環として、何という有人潜水艇が投入されましたか?", + "id": "tr-678-12-000", + "answers": [ + { + "text": "パイシーズ号", + "answer_start": 345, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ロイヒの学術調査航海の中心人物は誰だったの?", + "id": "tr-678-12-001", + "answers": [ + { + "text": "フレデリック・K・ドゥエネビアー", + "answer_start": 90, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "8月に実施された潜水調査は、1996年9月から10月にかけてNOAAが資金援助した研究から支援された。\nこれらの細部にわたった研究で、現状ではロイヒ山頂の南端が陥没していることが明らかにされた。\n火山自体からマグマ溜まりへと火道を満たすマグマが急速に後退したこと、および、群発地震との両方によって引き起こされたものであろうと考えられている。\n差し渡しが1km(0.6mi)、深さが300m(1,000ft)の火山岩塊でできた山頂火口が作られた。\nこの1996年イベントは100million立方メートルの火山噴出物の流出を伴っていた。\n山頂にある10km2(3.9sqmi)から13km2(5.0sqmi)の領域が、バス並みの大きさの枕状溶岩で置き換えられ、岩の塊がごろごろし、さながら海中のガレ場の様相を呈していた。\n巨岩は新たに形成された火口の外縁一帯に不安定な状態で留まっていた。\n1996年イベントで緊急調査する以前、山頂南端にあるこの場は、「ペレ噴出口」(\"Pele'sVents\")と呼ばれた熱水噴出領域(熱水フィールド)があり、安定して長期間にわたって存在するだろうと考えられていた。\nしかし、そこは、完全に崩落・陥没して巨大な窪みを形作り、地名を「ペレ火口」(\"Pele'sPit\")に改められた。\n海底火山南端にできたばかりのピット・クレーターに海水が流入し、遊離した無機塩類やバクテリア代謝物と混じり合い、ロイヒ山頂の西縁から流れ出していた。\nその結果できる流速が非常に強い海流は、この海域への有人潜水艇による調査を非常に危険なものにしていた。", + "qas": [ + { + "question": "「ペレ火口」の元々の名前は何?", + "id": "tr-678-13-000", + "answers": [ + { + "text": "「ペレ噴出口」", + "answer_start": 425, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "研究員たちは、噴煙のような硫化物や硫酸塩の濁りが絶え間なくもうもうと立ち込めているのに遭遇した。\nペレ噴出口が突然崩壊してしまったことで、熱水噴出口生成物(hydrothermalmaterial)が莫大に放出されていた。\n混合物の中に或る特定の指標鉱物の存在は、熱水の温度が摂氏250度を超えてしまったことを示唆していた。\nこの記録は海底火山で見つかった熱水噴出口の水温の現在まで残る最高記録である。\nロイヒの熱水に含まれている物質の構成は、ブラックスモーカーから出てくる熱水を構成する物質と同じであった。\nブラックスモーカーとは、中央海嶺の周囲にある熱水噴出口の一種であり、濁った熱水を、あたかも工場や銭湯の煙突から吐き出す黒煙のように噴出しつづけるものである。\n熱水噴出口からの物質が堆積してマウンドのようになった小山から得られたサンプルはホワイトスモーカーから得られたサンプルとよく似ていた。", + "qas": [ + { + "question": "海底火山で見つかった熱水噴出口の水温の最高記録とは何度?", + "id": "tr-678-14-000", + "answers": [ + { + "text": "摂氏250度", + "answer_start": 138, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "いくつかの研究は火山学的にも熱水活動的にも一番活発な地域は南リフト・ゾーン沿いに所在する事を論証してみせた。\nそれほど活動的ではない北縁での潜水調査において、その地域での微小地形はやや安定していて柱状節理が発達していることが判った。\n新たにできた熱水フィールド(NahaVents:「ナハ・ベント」)はアッパーサウス・リフトゾーン(upper-southriftzone)の深さ1,325m(4,350ft)の場所に位置していた。", + "qas": [ + { + "question": "新たにできた熱水フィールドの名称は何ですか?", + "id": "tr-678-15-000", + "answers": [ + { + "text": "「ナハ・ベント」", + "answer_start": 141, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「ナハ・ベント」はアッパーサウス・リフトゾーンの深さ何mの場所に位置していたの?", + "id": "tr-678-15-001", + "answers": [ + { + "text": "1,325m", + "answer_start": 189, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1996年イベント以来、ロイヒはそのほとんどの期間を静かにして過ご��ていた。\n2002年から2004年にかけて、全く地震活動が記録されていなかった。\n2005年、再び、その海山は火山活動の兆候を示し、そこで記録された他のどのような地震よりも大きな地震をおこした。\nロイヒで、それぞれ5月13日にM5.1、7月17日にM5.4の規模の2回の地震が発生した。\nUSGS-ANSS(AdvancedNationalSeismicSystem)は、これらの地震を記録していた。\n両方とも震源の深さは44km(27mi)であった。\n4月23日、深さおよそ33km(21mi)の場所でM4.3の地震が記録された。\n2005年12月7日から年が明けて1月18日にかけて、凡そ100回の群発地震が発生した。\n記録されたうち最大のものはモーメント・マグニチュードにして4の規模であり、深さ12km(7mi)から28km(17mi)にかけて発生したものだった。\nそのほかの地震では、後に、ロイヒとハワイ島南岸の街パハラの殆ど中間地点で記録された、M4.7の地震がある。", + "qas": [ + { + "question": "発生した地震の規模が大きかったのは5月13日と7月17日のどちらでしたか?", + "id": "tr-678-16-000", + "answers": [ + { + "text": "7月17日", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "発生した地震の規模が最も小さかったのは4月23日、5月13日、7月17日の中でいつですか?", + "id": "tr-678-16-001", + "answers": [ + { + "text": "4月23日", + "answer_start": 261, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "震源の深さが深かったのは4月23日と5月13日のどちらですか?", + "id": "tr-678-16-002", + "answers": [ + { + "text": "5月13日", + "answer_start": 141, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "4月23日、5月13日、7月17日の中で、発生した地震の震源の深さが違うのはいつでしたか?", + "id": "tr-678-16-003", + "answers": [ + { + "text": "4月23日", + "answer_start": 261, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "後にロイヒと名付けられることになる当海山が世界で初めて海図に書き込まれたのはSurveyChart4115に記載されたものである。\n1940年にアメリカ国立沿岸測地局(USCGS)によって編纂されたハワイ州沿岸の海底地形図に記載されている。\n当時は、その海山は特別に記述すべき事項が何もない、その海域に無数に存在する名も無き海山のうちの一つでしかなかった。\n1952年に海山周辺で発生した巨大な群発地震のおかげで、科学者からの科学的な関心が向けられるようになった。\n同年、地球科学者のゴードン・A・マクドナルド(GordonA.Macdonald)は、その海山が現実に活発な噴火をしている海底火山であり、2座のハワイ島の火山であるマウナロアやキラウエアと同じような盾状火山ではないかと言う仮説をたてた。\nマクドナルドの仮説は、海山をハワイ・ホットスポットが産み出したハワイ-天皇海山列の一番若い火山と位置づけていた。\nしかしながら、地震は火山性の地溝帯とも言うべきリフト・ゾーン(或いはヒリナ断層系)の走る方向である東西の方角に向かっており、また海山から離れて設置した地震計が火山性微動を検知しなかったために、マクドナルドは、この地震を、断層がずれ動いたために起きたものであろうと考えた。\n彼は、地震の発生源が火山噴火にあるとは考えなかったのである。", + "qas": [ + { + "question": "ロイヒが盾状の海底火山だと仮説した人は誰ですか?", + "id": "tr-678-17-000", + "answers": [ + { + "text": "ゴードン・A・マクドナルド", + "answer_start": 242, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "マクドナルドがロイヒは盾状の海底火山だと仮説したのは何年でしたか?", + "id": "tr-678-17-001", + "answers": [ + { + "text": "1952年", + "answer_start": 179, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "名もないロイヒが海山として初めて書き込まれた海図の名称とは何?", + "id": "tr-678-17-002", + "answers": [ + { + "text": "SurveyChart4115", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "地質学者たちは、その海山が活動的な海底火山ではないだろうかと疑わしく思っていた。\nしかし、その確証がなかなか得られず、不確かなままで放置されていた。\nこの海山が「現在でも活動する海底火山である」との説は1952年イベントの後で殆ど否定され、その後に刊行された海図には「かなり古い火山性の地形」\"oldervolcanicfeature\"としばしば誤って表示された。\n1955年に、地質学者のケネス・O・エメリー(KennethO.Emery)は、この海山に名前を付けたと言われている。\n彼は、この海底火山が南北に長く幅の狭い外形をしていることから、ハワイ語で「長い」を意味するロイヒ(Lōʻihi)という言葉を取って、この海山に名前を付与した。\n1978年、ロイヒのある海域の周囲や内部で起こる群発地震として知られている強烈で再帰性のある地震活動を調査するため学術航海が行われた。\n海山の観測をしたところ、火山が活発に熱水を噴出しているのはもちろん、その表面が全面的に新旧織り交ぜた溶岩流で覆われているということが判明した。\n集積されたデータから、ロイヒが若くもしかしたら今でも活動している火山かもしれないことが明らかになった。\nもはや、太古に活動し今では活動していない、いうなれば「海底死火山」とみなすことは不可能に近かった。", + "qas": [ + { + "question": "ロイヒの名付け親は誰ですか?", + "id": "tr-678-18-000", + "answers": [ + { + "text": "ケネス・O・エメリー", + "answer_start": 195, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "海山がロイヒと命名されたのはいつですか?", + "id": "tr-678-18-001", + "answers": [ + { + "text": "1955年", + "answer_start": 183, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "何年に行われた調査からロイヒが活動する海底火山であると分かりましたか?", + "id": "tr-678-18-002", + "answers": [ + { + "text": "1978年", + "answer_start": 323, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1978年、米地質調査所の調査船は、ロイヒが現在でも活動するか否かを調べるため、底浚いで得たサンプルを収集し、ロイヒ海山山頂を写真に撮った。\n写真の分析と枕状溶岩の岩石標本の試験をおこなったところ、火山から噴出した物質は「新鮮な」噴火してからそんなに年月が経過していないことを示しているように思わた。\nロイヒが未だ活発であることを示す更なる証拠が得られたのである。\n1980年10月から1981年1月にかけての調査航海ではさらに多くのサンプルを浚い上げ、何十枚にもわたる写真を撮影し、さらなる証拠がもたらされた。\n研究から、噴火現象はリフトゾーンにあるクレーターの南部から始まると言う事を示していた。\nこの海域はロイヒにマグマを供給する源であるハワイ・ホットスポットのすぐそばである。\n1986年の群発地震を受けて、OBOs(oceanbottomobservatories)5台で構成されたネットワークをロイヒ周辺に一カ月掛かりで設置した。\nロイヒでは頻繁に起こる火山性微動はOBOによる地震学の研究にとって、まさにおあつらえ向きの好環境だった。\n1987年、潜水艇アルビン号がロイヒの多角測量(en)に使われたそのほかには、1991年に群発地震を追跡するために自律観測機が設置された。", + "qas": [ + { + "question": "ロイヒにマグマを提供する源はどこになりますか?", + "id": "tr-678-19-000", + "answers": [ + { + "text": "ハワイ・ホットスポット", + "answer_start": 322, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロイヒ周辺に設置されたOBOsは何台でしたか?", + "id": "tr-678-19-001", + "answers": [ + { + "text": "5台", + "answer_start": 388, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "自律観測機とOBOsはどちらが遅く設置されましたか?", + "id": "tr-678-19-002", + "answers": [ + { + "text": "自律観測機", + "answer_start": 532, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "OBOsの設置後に潜水調査した潜水艇の名前は何?", + "id": "tr-678-19-003", + "answers": [ + { + "text": "アルビン号", + "answer_start": 484, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "潜水調査でもたらされたロイヒにまつわる大部分の情報は、1996年の噴火に即座に応えてくれた。\n地震活動を報じられた直後の潜水調査では、海中に放出された鉱物が高い濃度で海水に混じっていて、大きなバクテリアマットがちぎれて欠片になったものが水中に漂っており、視界がとても悪くなっていた。\n海水中に溶け込んだ栄養塩類を餌とする微生物たちはペレ火口にできた熱水噴出口で既にコロニーを造り始めていた。\nペレ火口は、そこで以前にあった熱水噴出領域が陥没してできたものである。\nこれらのバクテリアは新しく形成された熱水噴出口から放出された物質が何であるのかを示すインジケーターになるかもしれない。\n更に詳しい分析を研究室で行うため、それらは注意深くサンプルされた。\nOBOは一時的に山頂に設置された。\nもっと恒久的な観測ができる機器類が設置されるときに取り外しが簡単にできるようにしてあった。", + "qas": [ + { + "question": "OBOが一時的に設置された箇所はどこ?", + "id": "tr-678-20-000", + "answers": [ + { + "text": "山頂", + "answer_start": 334, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "マルチビーム音響測深機を繰り返し使う海底測量が何度も行われた。\nその成果を利用して作られた海底地形図は、ロイヒ山頂が1996年の陥没前後でどのように変化したかを測るために使われた。\n熱水プルームの調査ではエネルギーの変化、および、ロイヒから放出されている溶存ミネラルが確認された。\nハワイ海底研究所(HURL)所有の2,000m(6,562ft)まで潜航可能なパイシーズ級深海探査艇パイシーズVのおかげで、研究者は噴出口からでてくる熱水および噴出口周辺に住む微生物や熱水鉱床の標本採集が可能だった。", + "qas": [ + { + "question": "熱水プルームの調査ではロイヒから何の物質が放出されている事が確認されましたか?", + "id": "tr-678-21-000", + "answers": [ + { + "text": "溶存ミネラル", + "answer_start": 127, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "パイシーズVは何mまで潜航が可能ですか?", + "id": "tr-678-21-001", + "answers": [ + { + "text": "2,000m", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "パイシーズVの所有者はどこですか?", + "id": "tr-678-21-002", + "answers": [ + { + "text": "ハワイ海底研究所", + "answer_start": 141, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1997年、ハワイ大学の研究グループがOBO(Oceanbottomobservatory,「海底観測機」)をロイヒ海山の頂上に設置した。\nその水中観測ロボットは、HawaiʻiUnderseaGeologicalObservatory(「ハワイ海底地質観測機」)のアクロニムを取ってHUGOと渾名が付けられた。\nHUGOは、海底を這わせた光ケーブルで34km(21mi)離れた海岸にある操作表示部とつながっていた。\nこのおかげで、科学者はリアルタイムでロイヒの現況についての震動・化学・画像の各種データを得ることが出来た。\nこの段階で、HUGOは、海底火山についての研究を深めるうえで欠かせない、国際的な海底火山研究所となった。\n1998年10月、HUGOに電力を送り続け、各データを伝送してきた海底ケーブルが切断されてしまった。\nこのことは、観測所が事実上閉鎖することを意味していた。\n翌年の1月19日、HUGOはパイシーズVの訪問を受けた。\nこの観測ロボットは、2002年に再び機能不全をきたすまでの4年間にわたってその役割を果たした。", + "qas": [ + { + "question": "何のおかげで科学者はリアルタイムでロイヒの現況データを得ることが出来ましたか?", + "id": "tr-678-22-000", + "answers": [ + { + "text": "HUGO", + "answer_start": 157, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "HUGOが最初に機能不全になったのはいつ?", + "id": "tr-678-22-001", + "answers": [ + { + "text": "1998年10月", + "answer_start": 316, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "アマミサソリモドキ", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "アマミサソリモドキTypopeltisstimpsoniiは、サソリモドキ科サソリモドキ属に分類されるサソリモドキである。\nサソリモドキの中では唯一日本本土に生息する。\n沖縄には類似の別種であるタイワンサソリモドキT.cruciferが生息しており、以前は本種と同種とみられていた。", + "qas": [ + { + "question": "日本に唯一生息するサソリモドキの種類は何?", + "id": "tr-679-00-000", + "answers": [ + { + "text": "アマミサソリモドキ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "沖縄に生息するアマミサソリモドキと類似の別種とは何?", + "id": "tr-679-00-001", + "answers": [ + { + "text": "タイワンサソリモドキ", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "体長は約40mmのサソリモドキである。\n頭胸部(前体)の背面は1枚の分節のない背甲で覆われる。\n触肢は強く大きく発達し、その先端は鋏状になる。\nまたその脛節の内側縁に突起がある。\n第1脚は特に細長く、これを触角のように用いて歩行には使用しない。\n腹部(後体)末端近くに臭腺が開く。\n体色は基本的には黒で、背面は黒く、歩脚と鞭状の尾節は赤みを帯びる。\n腹面は赤みがかった黒で、歩脚の基部は赤みが強くて栗茶色、触肢基部も赤みが強い。", + "qas": [ + { + "question": "アマミサソリモドキの体長は?", + "id": "tr-679-01-000", + "answers": [ + { + "text": "40mm", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アマミサソリモドキの体の色は?", + "id": "tr-679-01-001", + "answers": [ + { + "text": "黒", + "answer_start": 149, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "腹部は12節からなり、全体的には小判型をしているが、10-12節は急に細まって環状をなし、つまり短く細い筒が腹部後方に小さく突き出した形になっている。\nその先端からは細い鞭状の尾節が伸び、この部分は多数の節に分かれ、その数は50を超えるものもある。\nこの尾節の長さは体長をしのぐほどになる。", + "qas": [ + { + "question": "腹部は何節からなっているの?", + "id": "tr-679-02-000", + "answers": [ + { + "text": "12節", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "腹部はどのような形をしているの?", + "id": "tr-679-02-001", + "answers": [ + { + "text": "小判型", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "雌雄の性差は明確で、それは特に触肢の形態の差に見える。\n触肢の先端は鋏状であるが、その鋏を構成する先端2節の更に基部の肢節からも内側に突起が出ている。\nこの突起が雌では棘状であるのに対して、雄では先端が広がっており、その縁が歯状になっている。\nまた腹部第2節腹面が雌では生殖板としての構造があるのに対して、雄では不明確であること���どの点でも区別が付く。\nまた、あまり明確ではないが、雄の方が全体にやや華奢な体つきをしている。", + "qas": [ + { + "question": "体がやや華奢なのは雄と雌のどちら?", + "id": "tr-679-03-000", + "answers": [ + { + "text": "雄", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "突起の先が広がっているのは雄と雌のどちら?", + "id": "tr-679-03-001", + "answers": [ + { + "text": "雄", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "夜行性であり、昼間は生息地の地上、石や倒木の下に隠れている。\n隠れている石を捲るなどすると大きく触肢を広げ、腹部と鞭状の尾節を持ち上げる威嚇の姿勢を取る。\n更にピンセットでつつくなどすると肛門腺から強い酢酸臭のする液を出し、これが皮膚に付くとひりひり痛み、目に入ると激痛を起こす。\nこの液の成分は酢酸80%、カプリル酸5%、水15%である。\nこの液噴出は同一個体で連続して2回くらいは出せる。\n腹部末端節は可動なので、その液噴出の方向もかなり変えることが出来る。\nピンセットなどで刺激すると尾節をピンと差し上げ、腹部末端節を上に向けて噴出し、その到達距離は20cmにもなる。\nこの行動は外敵に対して行われるものとみられ、同種個体間で行われることは見ない。", + "qas": [ + { + "question": "アマミサソリモドキの生活習性は何?", + "id": "tr-679-04-000", + "answers": [ + { + "text": "夜行性", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "肛門腺から出る液の成分の中で最も多い成分は何?", + "id": "tr-679-04-001", + "answers": [ + { + "text": "酢酸", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "酢酸の次に成分が多いものは何?", + "id": "tr-679-04-002", + "answers": [ + { + "text": "水", + "answer_start": 162, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "目に入ると激痛を起こす液はどこから出るの?", + "id": "tr-679-04-003", + "answers": [ + { + "text": "肛門腺", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "肉食性であり、昆虫やクモ類などを捕食する。\n佐藤(1941)はサソリの発生研究との関連で本種に関わったため、飼育下での様子をサソリと比して述べているが、サソリに比べて遙かに多くの食物を要求するとのこと。\nサソリはごく少食で、キョクトウサソリの飼育の際には1ヶ月間にハエやクモなど数匹を与えるだけで充分であったため、そのように管理するとすぐに共食いしてしまったという。\nその後は毎日ハエを数匹与え、それが1日2日絶えただけで共食いしたという。\nまた、飼育下でも夜間のほうがよく活動するが、昼間でも餌を与えると食べるのが見られた。", + "qas": [ + { + "question": "アマミサソリモドキが食べるものはクモ類や何ですか?", + "id": "tr-679-05-000", + "answers": [ + { + "text": "昆虫", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "またサソリの共食いは配偶行動と関連してみられることが多いのに対して、サソリモドキでは飼育下ではほぼ通常に見られるという。\nもっとも普通には2頭が出会うとまずはその細長い尾をピンと張って振り回し、更に接近すると鋏になった触肢を左右に強く張り、その鋏同士をかち合わせて小競り合いする様子を見せる。\n大抵は尾を振り回す段階か、或いは触肢をかち合わせた後に互いに離れてゆく。\n本種では雄の方がやや華奢であるが、共食いでは雄が雌を食う例が遙かに多かったという。\nまた、腹部後端から伸びる細長い鞭状の尾節は、隠れ家に静止していると��には地上に置かれているか、あるいは多少斜め上に持ち上げられた状態でいるが、たとえば隠れ家を開け放されたときには即座に真上に向かって持ち上げられる。\nこの尾節はその基部から前後左右に自由に動かすことが出来、歩行時にはたいていほぼ直立させる。\n立ち止まった際には1-2度それを大きく降り、あるいは個体同士が出会った場合などは独特の振り回し方を見せる。", + "qas": [ + { + "question": "飼育下で頻繁に共食いが見られるのはサソリとサソリモドキのどちらですか?", + "id": "tr-679-06-000", + "answers": [ + { + "text": "サソリモドキ", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "繁殖期は6-9月で、雌は大きな石の下に楕円形から馬蹄形の産室を作る。\n大きさは径が10cm、深さが3-7cmにもなる。\n雌は32-61個、平均45個の卵を産む。\n卵は1つの塊、卵嚢の形に纏められ、雌はこれを腹部の下面、その前方にある生殖板の所に付着させ、孵化まで保護する。\nその際に雌は腹部をやや扁平にし、それを持ち上げるようにして卵嚢が地面に着かないように持ち上げている。\n卵は約3週間で孵化し、一見ではウジ状の白い幼虫は自分の力で雌の背面に上り、そこで互いに絡まり合うように塊を作り、1週間ほどはそのままで過ごす。\n雌はその間はじっと動かない。\n幼生は1週間で雌の体を降り、それから2週間ほどを産室内で過ごす。\nその頃には幼生は自力で餌を取れるようになり、産室から出て散らばり去る。\n雌成体は幼生が背中から降りた後も餌を採ること無く、そのまま衰弱死する。", + "qas": [ + { + "question": "雌が作る産室の直径はどれくらいですか?", + "id": "tr-679-07-000", + "answers": [ + { + "text": "10cm", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "雌の平均産卵数は何個ですか?", + "id": "tr-679-07-001", + "answers": [ + { + "text": "45個", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "産卵後、卵は何日後に孵化するの?", + "id": "tr-679-07-002", + "answers": [ + { + "text": "約3週間", + "answer_start": 190, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "配偶行動としては、本群の動物では直接の交尾は行わず、精包の受け渡しが行われ、それに際しては長時間、種によっては1日を超える配偶行動が行われることが知られている。\n本種については奄美大島で9月にそれが観察されており、雄と雌が同じ方向を向き、雄が前、雌が後ろから雄の腹部後方の両側を蝕肢で挟んで追従する姿が観察されている。\nちなみにこの状態から雄同士で闘争することが観察されている。", + "qas": [ + { + "question": "交尾ではなく、どのような配偶行為が行われるの?", + "id": "tr-679-08-000", + "answers": [ + { + "text": "精包の受け渡し", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "日本列島の固有種であり、九州南部から奄美群島まで分布する。\nまた、伊豆諸島の大島、八丈島などにも侵入しており、観葉植物の鉢などに侵入して移植されたと考えられている。\n更に詳しく見ると、南では沖縄の伊是名島を南限として、奄美諸島の徳之島、奄美大島、トカラ列島、大隅諸島の口永良部島、硫黄島、竹島、薩摩半島、上甑島、天草市牛深までは自然分布と考えられている。\nただし最北限の牛深に関しては人為分布ではないかとの説もある。", + "qas": [ + { + "question": "本種の最北限となる地域はどこですか?", + "id": "tr-679-09-000", + "answers": [ + { + "text": "牛深", + "answer_start": 185, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "本種の最南限となる地域はどこですか?", + "id": "tr-679-09-001", + "answers": [ + { + "text": "伊是名島", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "南限に当たる伊是名島であるが、この島は沖縄本島の北西にある孤島で、すぐ北には伊平屋島がある。\n沖縄本島には後述の別種であるタイワンサソリモドキが分布するのだが、興味深いことにこの種が伊平屋島に分布している。\nつまりアマミサソリモドキはそれ以北から伊平屋島を飛ばして伊是名まで分布し、タイワンサソリモドキはそれ以南から伊是名島を飛ばして伊平屋島に分布していることになっている。\nこの奇妙な逆転現象に関してはその理由等全くわかっていない。", + "qas": [ + { + "question": "伊是名島は沖縄本島からどの方角に位置しているの?", + "id": "tr-679-10-000", + "answers": [ + { + "text": "北西", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "タイワンサソリモドキは沖縄本島とどこの島に分布しているの?", + "id": "tr-679-10-001", + "answers": [ + { + "text": "伊平屋島", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "伊平屋島は伊是名島からどの方角に位置しているの?", + "id": "tr-679-10-002", + "answers": [ + { + "text": "北", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "上記の自然分布(牛深には疑問ありだが)の他に、伊豆諸島の八丈島では定着しており、これは移入と考えられている。\n八丈島で最初に記録されたのは1968年頃のことで、樫立地区の農園が奄美大島から持ち込んだソテツに混入していたとの説がある。\nさらにこれ以外の日本各地で時折発見の報告がある。\n特に愛媛県今治市、高知県幡多郡大月町、兵庫県神戸市、福岡県糸島市で、いずれも継代繁殖をしていると思われる集団が発見されている。\nこれらについては遺伝子情報の研究からそれらの多くは奄美大島個体群の系統枝に含まれることが示され、そこからの移入であることが考えられている。\nただしその中で八丈島での発見が古く、それ以外のものは1990年代以降であることから、八丈島由来、たとえば観葉植物について2次的に移入された、という可能性も想定される。\nなお、高知県で発見された個体群は遺伝子情報の確認がなされておらず、自然分布である可能性は残されているとのこと。", + "qas": [ + { + "question": "八丈島で最初に本種が記録されたのはいつでしたか?", + "id": "tr-679-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1968年頃", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "本種は何に混ざって八丈島に入ったとされているの?", + "id": "tr-679-11-001", + "answers": [ + { + "text": "ソテツ", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "八丈島、今治市、糸島町の中で本種の発見が最も古いのはどこ?", + "id": "tr-679-11-002", + "answers": [ + { + "text": "八丈島", + "answer_start": 283, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "なお、佐藤(1941)も九州における本種の分布を移入によるものではないかとの疑問を持っていたようで、『而も九州本土における産地は何れも南方と船運の頻繁な港に局限されていることを見逃してはならぬ』と記し、また後述の牛深における産地が局限されていることにもその文脈で言及している。", + "qas": [ + { + "question": "九州における本種の分布が移入によるものではないかと疑問視している人は誰?", + "id": "tr-679-12-000", + "answers": [ + { + "text": "佐藤", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "山地から山麓に掛けての開けた草地で倒木や石の下などに発見される。\n奄美大島では個体数が多く、特に田畑や人家周辺で多く見られる。\n天草南部の牛深においてはその生息域はごく限定されており、1941年の報告では集落近辺の山に通じる斜面と墓地の2カ所でしか発見されず、それ以外の場所ではよく似た環境と思われる場所でも発見できなかったという。\n前者は畑や開墾地の切り開かれた斜面で、粘土質の知面に穴を掘って住んでいたという。", + "qas": [ + { + "question": "牛深はどの地域に位置しているの?", + "id": "tr-679-13-000", + "answers": [ + { + "text": "天草南部", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "日本では江戸時代にはすでにその存在が知られていた。\n『重訂本草綱目啓蒙』にサソリの仲間で『薩州の大島にヘヒリと呼ぶ虫あり、形甚だ蠍に似て身大にして尾短く手も甚だ短くしてふとし』と紹介されているのがこれであるという。\n和名はかなりの揺れがあり、後述の他種を合わせてサソリモドキが長らく使われてはいたものの、確定的ではなかった。\n古くは内田他(1952)では標準名を「しりをむし」として別名扱いで「さそりもどき、むちさそり」を挙げている。\nこの書の後継となる岡田他(1967)では「むちさそり」を標準和名とし、これ以外の名を挙げていない。\nそのまた後継に当たる内田他(1979)でもこれが継承されている。\nしかし前後するが岡田他(1957)では和名を「さそりもどき」としている。", + "qas": [ + { + "question": "既にいつの時代には本種の存在は人々に認識されていたの?", + "id": "tr-679-14-000", + "answers": [ + { + "text": "江戸時代", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「さそりもどき、むちさそり」の標準名は何?", + "id": "tr-679-14-001", + "answers": [ + { + "text": "「しりをむし」", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「しりをむし」の別名は何?", + "id": "tr-679-14-002", + "answers": [ + { + "text": "「さそりもどき、むちさそり」", + "answer_start": 196, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "標準和名を「むちさそり」とした人は誰?", + "id": "tr-679-14-003", + "answers": [ + { + "text": "岡田他", + "answer_start": 227, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "他方で東亜クモ学会(当時)の学会誌に投稿された論文(例えば江崎(1940)や佐藤(1941))では当たり前のようにサソリモドキが用いられている。\n佐藤(1941)ではさらにサソリグモという異名を挙げ、これとムチサソリに関してはこの群の英名であるscorpionspider、whip-scorpionの直訳によるものだろうとしており、シリヲムシについてはこれ『を用ふる人もいるが』と、あまりまっとうな用い方でないような物言いである。", + "qas": [ + { + "question": "サソリグモと異名を挙げた人物は誰?", + "id": "tr-679-15-000", + "answers": [ + { + "text": "佐藤", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "何の学会誌には当然のようにサソリモドキの名が使用されていましたか?", + "id": "tr-679-15-001", + "answers": [ + { + "text": "東亜クモ学会", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "サソリグモ、ムチサソリ以外に佐藤が挙げた異名とは何?", + "id": "tr-679-15-002", + "answers": [ + { + "text": "シリヲムシ", + "answer_start": 167, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "かなり大きい虫であり、その姿も独特で目を引き、また悪臭を放つことからかなり目立つのであろう。\n各地で地方名が知られる。\n分布の北限に当たる熊本県天草の牛深では丘陵地の墓地で多く見られることから『墓虫』と呼ばれるとのこと。\nこのほかにこの虫が酢酸臭の強い液体を噴出することに由来するらしいのがヘヒリムシという名で、これに類するものとしてフフィリャムシ(奄美大島)、ヘノジョウ(硫黄島)、ヘヒンジョウ(口之島)、ヘヒラムシ(諏訪之瀬島)、ヘゴマ(鹿児島)、或いはその酢酸臭によると思われるのがスムシ(甑島)、スダチ(枕崎市小湊)など、更に徳之島ではツツバシヤンなどの地方名を佐藤(1941)は採集している。", + "qas": [ + { + "question": "牛深での本種の呼び名は何ですか?", + "id": "tr-679-16-000", + "answers": [ + { + "text": "『墓虫』", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "硫黄島での本種の呼び名は何ですか?", + "id": "tr-679-16-001", + "answers": [ + { + "text": "ヘノジョウ", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "甑島での本種の呼び名は何?", + "id": "tr-679-16-002", + "answers": [ + { + "text": "スムシ", + "answer_start": 244, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "種小名はWilliamSimpsonnに献名されたものと思われる。\nこの人物は1853年から1856年にアメリカから派遣された極東探検艦隊に参加した博物学者であった。\nこの艦隊は東京近辺の測量や日本との交渉の任を同時期に出たペリーの艦隊に先を越され、南日本に向かい、鹿児島と奄美大島近海の測量を一番の収穫として帰還することになった。\nそのために彼は奄美大島と喜界島に上陸し、そこで観察した海産動物等について手記に記している。\nこの動物のことは書かれておらず、また本種の採集地の記録には日本(\"Japan\")とのみ記録されているが、本種が多産する奄美大島で採集したものと考えるのが妥当であろうと江崎は述べている。", + "qas": [ + { + "question": "本種の種小名は誰の名前が元になっているの?", + "id": "tr-679-17-000", + "answers": [ + { + "text": "WilliamSimpsonn", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "WilliamSimpsonnはどこの国から派遣された博物学者だったの?", + "id": "tr-679-17-001", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "WilliamSimpsonnが上陸した島は奄美大島とどこ?", + "id": "tr-679-17-002", + "answers": [ + { + "text": "喜界島", + "answer_start": 179, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ごくよく似たタイワンサソリモドキTypopeltiscruciferが沖縄諸島から南、台湾まで分布している。\nこの種は1966年まではアマミサソリモドキと同種とされてきたもので、外見的にはほぼ区別が付かないが、雄の触肢の内側の突起の形や生殖板の形態などで区別できる。\nより具体的にはアマミサソリモドキの触肢内側の突起は細長くて内側に曲がって伸びているのに対して、タイワンサソリモドキのそれはより太く短く、そして逆に外向けに曲がっている。\nまた、雌の生殖板はアマミサソリモドキでは中央に環状のくぼみがあるが、タイワンサソリモドキではそれがない点でも区別できる。", + "qas": [ + { + "question": "触肢が外向けに曲がっているのはアマミサソリモドキとタイワンサソリモドキのどちら?", + "id": "tr-679-18-000", + "answers": [ + { + "text": "タイワンサソリモドキ", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "熊本県では牛深地区の本種を天然記念物に指定している。\nただし現在ではこれを分布の北限としつつも、南方よりの移入であろうとしている。\n高知県ではレッドデータブックで絶滅危惧II類に指定していたが、2017年の改定で除外された。\n理由としては一地域だけで発見されていたものが他地域でも見つかったためとされている。", + "qas": [ + { + "question": "牛深地区は何県に位置しているの?", + "id": "tr-679-19-000", + "answers": [ + { + "text": "熊本県", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "本種が2017年まで絶滅危惧II類に指定されていた地域はどこ?", + "id": "tr-679-19-001", + "answers": [ + { + "text": "高知県", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "上記の様に異臭を放つ液体を出し、体に触れると苦痛を受けるので、有毒な害虫との扱いもあり、加納、篠永(1997)に掲載されているのもこれによる。\nまた、サソリモドキ類から噴射される液体には酢酸を含むため軽度の皮膚炎を起こすことがある。\nただし、本種の方から人間に接触してくるものではなく、さほどの害を受けるものでもない。\n岡田他(1957)ではあえて『人生との交渉は皆無に等しい』と記してある。\nしかし分布域の各地で方言名があるところを見ると、それなりに認知され、親しまれてきたことは推察できる。", + "qas": [ + { + "question": "サソリモドキ類が噴射する液体によってどのような症状を起こすことがあるの?", + "id": "tr-679-20-000", + "answers": [ + { + "text": "皮膚炎", + "answer_start": 103, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『人生との交渉は皆無に等しい』と記した人は誰?", + "id": "tr-679-20-001", + "answers": [ + { + "text": "岡田他", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%B0%E6%96%B9%E7%97%85_(%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BD%8F%E8%A1%80%E5%90%B8%E8%99%AB%E7%97%87)", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "本項で解説する地方病(ちほうびょう)は日本住血吸虫症(にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう)の山梨県における呼称であり、長い間その原因が明らかにならず、住民らに多大な被害を与えた感染症である。\nここではその克服・撲滅に至る歴史について説明する。\n「日本住血吸虫症」とは、「住血吸虫科に分類される寄生虫である日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう)の寄生によって発症する寄生虫病」であり、「ヒトを含む哺乳類全般の血管内部に寄生感染する人獣共通感染症」でもある。\n日本住血吸虫はミヤイリガイ(宮入貝、別名:カタヤマガイ)という淡水産巻貝を中間宿主とし、河水に入った哺乳類の皮膚より吸虫の幼虫(セルカリア)が寄生、寄生された宿主は皮膚炎を初発症状として高熱や消化器症状といった急性症状を呈した後に、成虫へと成長した吸虫が肝門脈内部に巣食い慢性化、成虫は宿主の血管内部で生殖産卵を行い、多数寄生して重症化すると肝硬変による黄疸や腹水を発症し、最終的に死に至る。\n病原体である日本住血吸虫については「日本住血吸虫」を、住血吸虫症全般の病理については「住血吸虫症」を参照のこと。", + "qas": [ + { + "question": "日本住血吸虫症の初期症状では何が起こるの?", + "id": "tr-680-00-000", + "answers": [ + { + "text": "皮膚炎", + "answer_start": 313, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "日本住血吸虫症のことを山梨県では何と呼んでいるの?", + "id": "tr-680-00-001", + "answers": [ + { + "text": "地方病", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "地方病の原因となる虫は何?", + "id": "tr-680-00-002", + "answers": [ + { + "text": "日本住血吸虫", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "病名および原虫に日本の国名が冠されているのは、疾患の原因となる病原体(日本住血吸虫)の生体が、世界で最初に日本国内(現:山梨県甲府市)で発見されたことによるものであって、決して日本固有の疾患というわけではない。\n日本住血吸虫症は中国、フィリピン、インドネシアの3カ国を中心に年間数千人から数万人規模の新規感染患者が発生しており、世界保健機関(英語:WorldHealthOrganization、略称:WHO)などによって2018年現在もさまざまな対策が行われている。\n日本国内では、1978年(昭和53年)に山梨県内で発生した新感染者の確認を最後に、それ以降の新たな感染者は発生しておらず、1996年(平成8年)の山梨県における終息宣言をもって、日本国内での日本住血吸虫症は撲滅されている。\n日本は住血吸虫症を撲滅制圧した世界唯一の国である。", + "qas": [ + { + "question": "今なお日本住血吸虫症が多く発生している東アジアに位置する国はどこ?", + "id": "tr-680-01-000", + "answers": [ + { + "text": "中国", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "日本住血吸虫症の病原体が最初に発見された現住所地はどこ?", + "id": "tr-680-01-001", + "answers": [ + { + "text": "山梨県甲府市", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "日本国内における日本住血吸虫症が最後に発生確認された年はいつ?", + "id": "tr-680-01-002", + "answers": [ + { + "text": "1978年", + "answer_start": 242, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "世界で唯一、住血吸虫症の撲滅制圧に成功した国とは?", + "id": "tr-680-01-003", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 347, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "日本国内における日本住血吸虫症の流行地は水系毎に大きく分けて次の6地域だった。\n1つ目は、山梨県甲府盆地底部一帯。\n2つ目は、利根川下流域の茨城県・千葉県、および中川流域の埼玉県、荒川流域の東京都のごく一部。\n3つ目は、小櫃川下流域の千葉県木更津市・袖ケ浦市のごく一部。\n4つ目は、富士川下流域東方の静岡県浮島沼(富士川水系に含まれる現:沼川)周辺の一部。\n5つ目は、芦田川支流、高屋川流域の広島県福山市神辺町片山地区、および隣接した岡山県井原市のごく一部。\n6つ目は、筑後川中下流域の福岡県久留米市周辺および佐賀県鳥栖市周辺の一部。\n日本国内では以上の6地域にのみかつて存在した風土病であり、上記のうち、甲府盆地底部一帯、広島片山地区、筑後川中下流域の3地域が日本住血吸虫症の流行地として特に知られていた。\n中でも甲府盆地底部一帯は日本国内最大の罹病地帯であり、この病気の原因究明開始から原虫の発見、治療、予防、防圧、終息宣言に至る歴史の中心的地域であった。\n当疾患の正式名称は、日本住血吸虫症(Schistosomiasisjaponica)、ICD-10(B65.2)であるが、山梨県では官民双方広く一般的に「地方病」と呼ばれている。\n原因解明への模索開始から終息宣言に至るまで100年以上の歳月を要するなど、罹患者や地域住民を始め研究者や郷土医たちによる地方病対策の歴史は、山梨県の近代医療の歴史でもある。", + "qas": [ + { + "question": "甲府盆地底部一帯、筑後川中下流域以外の日本住血吸虫症の流行地はどこですか?", + "id": "tr-680-02-000", + "answers": [ + { + "text": "広島片山地区", + "answer_start": 312, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "日本住血吸虫症の原因究明開始から終��宣言に至るまで100年以上の年月を要した県はどこですか?", + "id": "tr-680-02-001", + "answers": [ + { + "text": "山梨県", + "answer_start": 591, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "この疾患がいつから山梨県で「地方病」と呼ばれるようになったのかを明確に記したものはない。\nしかし明治20年代(1887-1896年)の初め頃には、甲府盆地の地元開業医の間で「地方病」と称し始めていたことが各種資料文献などによって確認することができる。\n医学的に「日本住血吸虫症」と呼ばれるようになったのは、病原寄生虫が発見され、病気の原因が寄生虫によるものであると解明されてからのことである。\nしかし山梨県内では病原解明後も今日に至るまで、「地方病」という言葉は一般市民はもとより行政機関等においても使用され続け定着しており、一般的には風土病を指す「地方病」という言葉は「日本住血吸虫症」を指す代名詞と化している。\n腹部が大きく膨らむ特徴的な症状から古くは、水腫脹満(すいしゅちょうまん)、はらっぱり、などと呼ばれていた「地方病」は、以下に示す史料文献中の記述により、少なくとも近世段階にはすでに甲府盆地で流行していたものと考えられている。", + "qas": [ + { + "question": "地方病は、最低でもいつの段階の時には既に甲府盆地で流行していたと推測されていますか?", + "id": "tr-680-03-000", + "answers": [ + { + "text": "近世段階", + "answer_start": 389, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "地方病の古い呼称にはらっぱりと何がありますか?", + "id": "tr-680-03-001", + "answers": [ + { + "text": "水腫脹満", + "answer_start": 329, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "近世初頭に原本が成立した全五十九品(章)からなる兵書である『甲陽軍鑑』品第五十七の文中に、武田家臣の小幡豊後守昌盛が重病のため武田勝頼のもとへ暇乞いに来る場面があり、この中に積聚の脹満(しゃくじゅのちょうまん)と書かれた記述がある。\n積聚(しゃくじゅ)とは腹部の異常を指す東洋医学用語であり、脹満(ちょうまん)とは腹部だけが膨らんだ状態を意味している。\n積聚の脹満とはつまり、腹部の病気によって腹が膨らんだ状態を描写したものである。\nさらに、籠輿(かご)に乗って主君である勝頼の下へ出向いているのは、この時すでに昌盛が歩くことすらできなくなっていたからであると考えられ、これらの記述内容は典型的な地方病の疾患症状に当てはまる。", + "qas": [ + { + "question": "『甲陽軍鑑』の中で、地方病になっていたと思われる人物は誰ですか?", + "id": "tr-680-04-000", + "answers": [ + { + "text": "小幡豊後守昌盛", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "これは、天目山の戦い直前の天正10年3月3日(ユリウス暦1582年3月26日)、勝頼一行が新府城を捨て岩殿城へ向かう途中で立ち寄った、甲斐善光寺門前での出来事を記したものであり、小幡豊後守昌盛はこの3日後に亡くなっている。\nこの『甲陽軍鑑』のくだりが地方病を記録した最古の文献であると考えられている。\nその後、江戸時代中期の元禄年間(1700年頃)に「水腫脹満」の薬と称した民間療法薬が作られていた伝承が残されており、明治期にはそれを由来とした通養散と呼ばれる薬が竜王村界隈(現:甲斐市竜王)で販売されていた。\nまた、江戸時代後期の文化8年(1811年)には、甲府盆地南西部に位置する市川大門在住の医師、橋本伯寿によって著された医学書『翻訳断毒論』において、「甲斐の中郡(なかごおり)には水腫多く」と当時の様子が記されている。", + "qas": [ + { + "question": "地方病を記録した最古の文献とは?", + "id": "tr-680-05-000", + "answers": [ + { + "text": "『甲陽軍鑑』", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "水腫脹満の薬と称した民間療法薬を由来として、明治期に誕生した薬とは何?", + "id": "tr-680-05-001", + "answers": [ + { + "text": "通養散", + "answer_start": 222, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『翻訳断毒論』の著者である医師とは?", + "id": "tr-680-05-002", + "answers": [ + { + "text": "橋本伯寿", + "answer_start": 302, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "地方病に罹患した患者の多くが初期症状として発熱、下痢を発症するが、初期症状だけの軽症で治まるものもいた。\nしかし感染が重なり慢性になった重症の場合、時間の経過とともに手足が痩せ細り、皮膚は黄色く変色し、やがて腹水により腹部が大きく膨れ、介護なしでは動けなくなり死亡した。\n今日の医学的見地に当てはめると、肝臓などの臓器に寄生虫(日本住血吸虫)の虫卵が蓄積されることによる肝不全から肝硬変を経て、罹患者の血管内部で次々に産卵される虫卵が静脈に詰まって塞栓を起こすことにより、逃げ場を失った血流が集中する門脈の血圧が異常上昇する。\nその結果門脈圧亢進症が進行、それに伴い腹部静脈の怒張(メデューサの頭,caputMedusae)および腹腔への血漿流出による腹水貯留を起こし、最終的に食道静脈瘤の破裂といった致命的な事態に至る。\nこれら種々の合併症が直接の死因である。\nまた、肝硬変から肝臓がんへ進行するケースも多く、さらに肝臓など腹部の臓器だけでなく、血流に乗った虫卵が脳へ蓄積する場合もあり、片麻痺、失語症、けいれんなどの重篤な脳疾患を引き起こすこともあった。\n甲斐国(現:山梨県)の人々は、腹水が溜まり太鼓腹になったら最後、回復せず確実に死ぬことを、幼い頃から見たり聞いたりしていた。\nまた、発症するのは貧しい農民ばかりで、富裕層には罹患・発症する者がほとんどなかったことから、多くの患者が医者に掛かることなく死亡したものと推察されている。\n地方病の感染メカニズムを知識として知ることのできる現代の視点から見れば、農民ばかりが罹患した理由も明らかである。\nしかし、近代医学知識のなかった時代の人々にとっては原因不明の奇病であり、小作農民の生業病、甲府盆地に生まれた人間の宿命とまで言われていた。", + "qas": [ + { + "question": "甲斐国では、農民と富裕層のどちらが地方病の発症が多かったですか?", + "id": "tr-680-06-000", + "answers": [ + { + "text": "農民", + "answer_start": 555, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1874年(明治7年)11月30日、甲府盆地の南西端に程近い宮沢村と大師村(現:南アルプス市甲西工業団地付近)2村の戸長を兼ねていた西川藤三郎は、両村の計49戸の世帯主を招集し離村についての提案を行った。\n同村付近は甲府盆地でも最も標高の低い低湿帯に位置しており、水腫脹満、すなわち地方病の蔓延地であった。\n当時この奇病の原因は解明されてはいなかったが、標高の高い高台の村々ではこの病気がほとんど発生していないことを農民たちは知っており、このままでは村は全滅してしまうと感じたため、農民たちは離村という苦渋の決断をした。\n明治維新からまだ間もないこの頃は、居住地を捨てるなどということが許されないという封建制度から抜け出せない時代であり、一村移転などという住民運動は当然認められなかった。\nしかし、身近な人々が次々に奇病に苦しみ死んでいく凄惨な状況に村人の離村への決意は固く、離村陳情書を毎年根気強く提出し続けた。\n明治新政府に村人の願いが通じ、村の移転が聞き入れられたのは30数年も経過した明治末年のことであった。\n日本国内において、地方病に限らず風土病を理由に村ごと移転したのは、この1例以降は起きていない。\n発症頻度の差こそあれ地方病は甲府盆地の隅々に蔓延しており、甲府盆地に暮らす農民の多くは正体が分からず目に見えない地方病の恐怖に脅えながら暮らしていた。", + "qas": [ + { + "question": "地方病から身を守るための策として、離村を提案した者は誰ですか?", + "id": "tr-680-07-000", + "answers": [ + { + "text": "西川藤三郎", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "宮沢村と大師村の村移転が許されたのはいつでしたか?", + "id": "tr-680-07-001", + "answers": [ + { + "text": "明治末年", + "answer_start": 446, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "原因不明の奇病であった地方病も、明治中期から大正初期にかけて虫卵の発見、病原体(日本住血吸虫)の発見、感染経路の解明、中間宿主(ミヤイリガイ)の発見へと、病気の原因となるメカニズムが比較的短期間に解明されていった。\nこれらが全て日本人の手によって解明されたことは特筆すべきことであるとする見解がある。", + "qas": [ + { + "question": "短期間で地方病の原因等を解明したのはどこの国の人々ですか?", + "id": "tr-680-08-000", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "地方病の中間宿主は何ですか?", + "id": "tr-680-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ミヤイリガイ", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1881年(明治14年)8月27日、この奇病の原因解明への端緒となる嘆願書が提出された。\n東山梨郡春日居村(現:笛吹市)の戸長である田中武平太により、当時の山梨県令藤村紫朗宛に提出された嘆願書の『水腫脹満に関する御指揮願い』であった。\n同村では古くから地方病が流行していたが、戸数約60戸ある村の東西(両端)に病気はなく、中央部に当たる小松地区だけに病気があることから、発生地域を示した村の略図を添えて病気の原因調査を依頼する請願を提出した。\n「原因は皆目判らず。水だろうか、土だろうか、それとも身体に原因があるのだろうか。嗚呼悲しきかな、困苦見るを忍びず。」と書かれたこの嘆願書は、村人の悲痛な叫びであった。\n1884年(明治17年)、県の派遣した医師により小松地区の患者の診察、および飲料水(井戸水)などの住環境を含む調査が行われたが、病気の原因は不明であった。\n1887年(明治20年)になり、長町耕平県病院長と医員が当時一般化したばかりの糞便検査を行い、その結果ある虫卵を発見、一種の鉤虫であろうと推察したが、これが何の卵なのかはもちろん、当疾患との関連性もこの段階では分からなかった。", + "qas": [ + { + "question": "地方病の原因解明のきっかけとなる嘆願書は誰が提出しましたか?", + "id": "tr-680-09-000", + "answers": [ + { + "text": "田中武平太", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "東山梨郡春日居村の中で唯一、地方病の発生があったのはどの地域ですか?", + "id": "tr-680-09-001", + "answers": [ + { + "text": "小松地区", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "また同時期の1886年(明治19年)、同地の徴兵検査を担当した軍医石井良斉は、中巨摩郡および北巨摩郡の特定の有病地の村から来た、20歳前後の徴兵年齢の青年の大半が、身長が140センチ強ほどの子供程度しかなく、腹部は腹水により膨れあがり手足は痩せ細り、顔面は蒼白であることを知った。\n明らかに何らかの栄養障害があるものと思われ、これほど深刻な発育不良が特定の地区に集団発生していることは、日本各地を調査してきた石井軍医にとっても驚くべきことであった。\n時代は日清戦争直前で富国強兵は国策であり、兵役に適さない健康不良者の多発はきわめて重大な問題とみなされた。\n石井の報告を受けた軍部は事態を重く見て、藤村紫朗山梨県知事に対し、原因解明を行うよう強く要求した。\n知事も軍の意向は深刻に受け止めざるを得ず、以後行政は地方病対策に本腰を入れることになる。", + "qas": [ + { + "question": "山梨県の特定地区に深刻な発育不良が集団発生していると知った軍医のフルネームは何でしょう?", + "id": "tr-680-10-000", + "answers": [ + { + "text": "石井良斉", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "石和(現:笛吹市)在住の医師である吉岡順作は、この奇病に関心を持ち、患者を詳細に診察し、近代西洋医学的な究明を試みた最初期の医師である。\nこの病気は発病初期に腹痛を伴う血便、黄疸があり、やがて肝硬変を起こし、最終的に腹水がたまる臨床症状から考えると、肝臓や脾臓に疾患の原因があることは明らかであった。\nしかし、酒を飲まない小児であっても発病するので、アルコール性肝硬変とも異なっていた。\n吉岡は患者の発生する地域分布図を作成したところ、笛吹川の支流流域の水路に沿った形で罹患者が分布していることが分かった。\nその上、病気のある地区では、川遊びをする子供たちに対して「きれいだからといってホタルを捕ると、腹が太鼓のように膨れて死んでしまう」、「セキレイを捕まえると腹が膨れて死ぬ」などの戒めタブー、迷信が残っていた。\nこれらのことから吉岡は、この奇病と河川、あるいは水そのものが何らかの形で関係しているであろうことを突き止めた。\nしかしそれでも病気の原因は分からなかった。\n万策尽きた吉岡はついに、死亡した患者を病理解剖して、病変を直接確かめるしかないと決断する。\nしかし当時の人々にとって解剖はおろか、手術によって開腹することですら世にも恐ろしいことと思われており、普段は威勢のよい男性でも、死後とはいえ自分の体を解剖されることには極度に脅えたといわれている。\n実際に山梨県では明治中期の当時において解剖事例は皆無であった。", + "qas": [ + { + "question": "地方病の近代西洋医学的な究明を試みた最初期の医師とは?", + "id": "tr-680-11-000", + "answers": [ + { + "text": "吉岡順作", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "明治中期の山梨県において、事例のなかった病理解剖を決断した医師のフルネームは?", + "id": "tr-680-11-001", + "answers": [ + { + "text": "吉岡順作", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1897年(明治30年)5月下旬、1人の末期状態の女性患者が献体を申し出た。\n甲府と石和の間にある水田地帯の西山梨郡清田村(現:甲府市向町)在住の農婦、杉山なか(当時54歳)である。\nなかは40歳を過ぎた頃から体調に異変を来たし、地方病特有の病状が進行し、50歳を過ぎると典型的な水腫症状を起こした。\n穿刺による腹水除去が吉岡医師によって数回試みられたが効果がなく、やがて手の施しようのない状態に陥った。\nなかは「順作先生、私の腹の中にある地方病は何が原因なのでしょうか」と尋ねたが、原因が分からない吉岡は「肝臓に原因があることは間違いないのだが、詳しいことは開腹して肝臓を直接確かめるしかないのです」と答えるしかなかった。", + "qas": [ + { + "question": "献体を申し出た女性患者とは誰ですか?", + "id": "tr-680-12-000", + "answers": [ + { + "text": "杉山なか", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "杉山なかが献体を申し出た時の年齢はいくつでしたか?", + "id": "tr-680-12-001", + "answers": [ + { + "text": "54歳", + "answer_start": 83, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "吉岡の献身的な治療に信頼を寄せていたなかは、なぜ甲州の民ばかりこのようなむごい病に苦しまなければならないのかと病を恨みつつも、この病気の原因究明に役立ててほしいと、自ら死後の解剖を希望することを家族に告げる。\n最初は驚いた家族であったが、なかの切実な気持ちを汲んで同意し吉岡に伝えた。\n当時としては生前に患者が自ら解剖を申し出ることはめったにないことであり、あまりのことに涙した吉岡であったが、家族と共に彼女の願いを聞き取り文章にし、1897年(明治30年)5月30日付けで県病院(現:山梨県立中央病院)宛に『死体解剖御願(おんねがい)』を親族の署名とともに提出した。\n献体の申し出を受けた県病院第6代院長下平用彩と県医師会は驚きながらも杉山家を訪ね、命を救えなかった医療の貧困を直接なかに詫び、涙ながらに何度も感謝の言葉をなかに伝えた。", + "qas": [ + { + "question": "『死体解剖御願』の提出先は現代の何病院ですか?", + "id": "tr-680-13-000", + "answers": [ + { + "text": "山梨県立中央病院", + "answer_start": 243, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1897年5月30日当時の県病院の院長は誰でしたか?", + "id": "tr-680-13-001", + "answers": [ + { + "text": "下平用彩", + "answer_start": 303, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "なかは解剖願いを提出した6日後の6月5日に亡くなり、遺言通り翌6月6日午後2時より、県病院長下平用彩医師執刀の下、杉山家の菩提寺である盛岩寺(せいがんじ、現:甲府市向町)の境内で、吉岡ら4名の助手を従え解剖が行われた。\n今日でいう篤志献体であるこの解剖は、地方病患者のという以前に、山梨県下では初の事例となる病理解剖であったため、甲府近隣から57名もの医師、開業医が参加した。\nこの様子は、翌々日の6月8日付山梨日日新聞の紙面において、東山梨東八代医師会会員総代吉岡順作本人による長文の弔辞とともに報じられている。\n遺体から肝臓、胆管、脾臓、腸の一部が摘出されアルコール漬けにされ、参加した医師たちは肥大した肝臓の表面に白い斑点が多数点在するのを確認した。\n通常の肝硬変と異なり肝臓の表面には白色を帯びた繊維様のものが付着し、肥大化した門脈には多数の結塞部位が認められた。\nこの門脈の肥大化にこそ、この疾患の原因解明への手掛かりがあった。\n盛岩寺の屋外解剖に参加した医師の中に、後年この奇病の原因解明に大きな役割を果たすこととなる、若き日の三神三朗医師がいた。", + "qas": [ + { + "question": "なかの解剖はいつ開始されましたか?", + "id": "tr-680-14-000", + "answers": [ + { + "text": "6月6日午後2時", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "なかの解剖は誰が執刀医でしたか?", + "id": "tr-680-14-001", + "answers": [ + { + "text": "下平用彩", + "answer_start": 46, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "中巨摩郡大鎌田村二日市場(現:甲府市大里町)で内科を開業していた三神三朗は、済生学舎(後の日本医科大学)を卒業後、山梨へ帰郷し開業したばかりで、この解剖の当時24歳であった。\n三神内科のある大鎌田村は甲府盆地底部のほぼ中央に位置する地方病有病地の一つでもあり、三神内科では、老衰以外の患者の死因はほとんどがこの奇病だった。\n三神は県病院の病理技師から「杉山なかの肝臓には変形した虫卵の固まりを中心とする多数の結節が出来ており、同様の虫卵と結節は腸粘膜にも認められ、虫卵の大きさは従来から知られている寄生虫の十二指腸虫卵(鉤虫)より明らかに大きい」と知らされ、この奇病はまだ知られていない新種の寄生虫が大きく関与していることを確信した。\n当時は高価であったドイツからの輸入品である顕微鏡を自費で購入すると、三神は罹患した複数患者の便を集め、いくつかの便から今までに見たことのない大型の虫卵を見つけ、「肝臓脾臓肥大に就て」の題で1900年(明治33年)発行の『山梨県医師会会報第3号』に報告した。\n同会報には杉山なかの解剖を執刀した下平用彩医師、さらに���医石井良斉による同疾患に関する報告もされたことから、俄然この奇病の原因解明に向けた機運が高まり、県医学界の重要研究課題となっていった。", + "qas": [ + { + "question": "『山梨県医師会会報第3号』で大型虫卵の発見を報告した医師の氏名は?", + "id": "tr-680-15-000", + "answers": [ + { + "text": "三神三朗", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "複数の患者から見つかった虫卵により寄生虫病である可能性が高くなり、1902年(明治35年)4月15日、山梨県医学会は県内外の研究者を県病院に招いて、『山梨県に於ける一種の肝脾肥大の原因に就て』と題した討論会を開いた。\n当時の日本では寄生虫に関する研究は始まったばかりであったが、佐賀県下の筑後川流域で同様の疾患を研究していた長崎医科大学教授の栗本東明ら、日本各地より寄生虫疾患に取り組む病理学研究者が参加した。\n三神は罹患者の便から発見した新しい虫卵の発表を行い、この虫卵を産む母虫こそ地方病の原因ではないかと主張した。\nしかし、肝臓組織内部で見つかった虫卵と、消化器官を通じて排泄される便中にある虫卵との同一性を指摘され、両者を関連付ける直接的な証拠を持っていなかったため返答に窮した。\n討論会では杉山なかの解剖以降に行われた数例の解剖所見も発表され、肝臓組織内に問題の虫卵が樹状に並んでいたことから、虫卵の母虫は恐らく肝臓内で産卵したのであろうという意見や、従来から知られている肝臓ジストマではないかという意見もあった。\nさらに、特定の地域にのみ流行する特性から寄生虫病ではなく、狭い地域で繰り返された婚姻による遺伝子疾患の類ではないかという、この疾患の当事者にとっては到底受け入れ難い誹謗とも取れる意見まで出てしまい、結局この討論会では、肝臓や脾臓の肥大原因と、正体不明の寄生虫の虫卵によるこの疾患との因果関係についての意見一致には至らなかった。\nこの討論会の参加者の中に、後に三神と共にこの寄生虫病の病原である日本住血吸虫を発見する桂田富士郎がいた。", + "qas": [ + { + "question": "日本住血吸虫の発見者は誰?", + "id": "tr-680-16-000", + "answers": [ + { + "text": "桂田富士郎", + "answer_start": 670, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『山梨県に於ける一種の肝脾肥大の原因に就て』の討論会に参加した長崎医科大学の教授の名は?", + "id": "tr-680-16-001", + "answers": [ + { + "text": "栗本東明", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "桂田富士郎は加賀国大聖寺藩(現:石川県加賀市)出身の病理学者で、岡山医学専門学校(現:岡山大学医学部)教授の当時35歳であった。\nまた、桂田は当時岡山県南西部で流行していた、別の寄生虫病(肝臓ジストマ)の研究者でもあった。\n1904年(明治37年)春、前述した山梨での討論会で三神と意気投合した桂田は岡山から山梨の三神宅へ赴き、両名による甲府盆地各所の罹患者の診察および糞便検査が行われ、数名の便から三神が以前に発見した新種と思われる虫卵を再確認した。\nまた、県病院より提供された杉山なか等3名の病理標本を顕微鏡の倍率を上げ改めて詳細に検証し、大きさや形状から判断して、これら3例の肝臓にある虫卵も糞便検査で見つかった卵と同一であると確信した。", + "qas": [ + { + "question": "桂田富士郎が研究していた寄生虫病とは何ですか?", + "id": "tr-680-17-000", + "answers": [ + { + "text": "肝臓ジストマ", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "桂田富士郎が教授を務めた、現在の教育機関名は何ですか?", + "id": "tr-680-17-001", + "answers": [ + { + "text": "岡山大学医学部", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "桂田は正体不明のこの虫卵に蓋(ふた、卵蓋)がないことに着目した。\nドイツ留学で培った鑑識を得ていた桂田は、肝臓ジストマや肺ジストマなど多くの吸虫類の虫卵には蓋があるのに対して、蓋のない吸虫類はアフリカ、中近東に広く分布するビルハルツ住血吸虫ぐらいしか知られておらず、蓋のないこの虫卵はビルハルツ住血吸虫卵と形態的に似ていると気付く。\nただしこの当時、ビルハルツ住血吸虫は、患者の血尿中から虫卵が見つかったことから成虫が膀胱周囲の静脈に寄生することは確認されていたものの、原因となる感染経路や生活環などは全く解明されておらず、ヨーロッパの寄生虫学者らにより病因研究が進められていた解明の過渡期であった。\n桂田はまた、虫卵に蓋のある肝臓ジストマ等の吸虫類はオスメスの区分がなく自己生殖する雌雄同体であるのに対し、蓋のないビルハルツ住血吸虫にはオスメスの区分があることから、甲府で確認されたこの正体不明の寄生虫卵を産む親虫は、オスメスの区分がある雌雄異体であると予想した。\nこれらのことに加え、桂田と三神は、この疾患の患者に下剤を使用すると虫卵が多く見つかること、また下剤を使っても卵のみで寄生虫本体が排出されないことから、この寄生虫が胆管や腸などの消化器官に寄生する従来のタイプではなく、消化器官に関係する他の臓器や器官、たとえば血管内部に寄生するタイプではないかと考え、腸管と肝臓を結ぶ血管である肝門脈を疑った。\nもし罹患者の肝門脈の中からこの卵を産む新種の寄生虫本体を見つけることができれば、解決への大きな前進になると考えた。", + "qas": [ + { + "question": "桂田と三神は、寄生場所がどこにあると疑いましたか?", + "id": "tr-680-18-000", + "answers": [ + { + "text": "肝門脈", + "answer_start": 597, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "桂田は正体不明の寄生虫本体を雌雄異体と雌雄同体のどちらだと予想しましたか?", + "id": "tr-680-18-001", + "answers": [ + { + "text": "雌雄異体", + "answer_start": 420, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "肝臓ジストマ、肺ジストマ、ビルハルツ住血吸虫の中で、オスメスの区別があるのはどれですか?", + "id": "tr-680-18-002", + "answers": [ + { + "text": "ビルハルツ住血吸虫", + "answer_start": 358, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "肝臓ジストマの虫卵、肺ジストマの虫卵、ビルハルツ住血吸虫卵の中で、正体不明の虫卵と形態が似ているのはどれですか?", + "id": "tr-680-18-003", + "answers": [ + { + "text": "ビルハルツ住血吸虫卵", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "この奇病、日本住血吸虫症はヒトだけではなく他の哺乳類にも発症する。\nそのため甲府盆地の各所では、農耕で使うウシなどの家畜や野良犬など、哺乳動物の腹部が大きく膨らんでいる姿が多数見られた。\nこのことから桂田と三神は、腹部が腫れた同疾患の疑いが濃い、「姫」と名付けられていた三神家の飼いネコ(雌)を解剖することにした。\n1904年(明治37年)4月9日、三神の診療所でネコは解剖されたが、多忙な桂田は岡山医大での予定が詰まっており、緻密な作業を要する詳細な検証は時間的に不可能であったため、摘出した肝臓と腸を一旦アルコール液に保存して岡山の研究室へ持ち帰った。\n1か月半後の同年5月26日、ようやく時間のできた桂田は、アルコール液に保存しておいたネコの肝門脈内から約1センチほどの新種の寄生虫(死骸)を見つけた。\nしかし欠損部分があるなど不完全であり、何よりも生きた虫体を確認することだと、桂田は生体での確認を行うための検証に必要な器具を持参し、7月下旬に再度、甲府の三神を訪ねた。\n桂田から再解剖を行う旨の連絡を受けていた三神は、前回の解剖時と同様のネコを用意して���り、両名は門脈に狙いを定め解剖を行った。\n予想は的中し、ネコの肝門脈内から、オス24匹、メス8匹、そのうち雌雄抱合しているもの5対の、合計32体の生きた虫体を発見した。\n1904年(明治37年)7月30日のことで、後に桂田によって、日本住血吸虫(学名:Schistosomajaponicum)と名付けられる、この奇病の病原寄生虫発見の瞬間である。", + "qas": [ + { + "question": "生きた日本住血吸虫は、何の動物から発見されましたか?", + "id": "tr-680-19-000", + "answers": [ + { + "text": "ネコ", + "answer_start": 510, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ネコの肝門脈内から発見された虫体は、オスとメスどちらが多かったですか?", + "id": "tr-680-19-001", + "answers": [ + { + "text": "オス", + "answer_start": 520, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "桂田は慎重を期して、解剖したネコの肝臓と腸壁にあった虫卵、さらに新寄生虫の雌の卵巣内部で作られる虫卵が、杉山なか等の病理標本にある卵と全く同じ虫卵であることを確認し、この新寄生虫と地方病との因果関係を立証した。\n翌月8月13日の官報6337号に新寄生虫発見の報告を行い、同様にドイツ語でも論文を発表し、この寄生虫が血管内に住み日本で発見されたことから、新種としてSchistosomumjaponicum日本住血吸虫と命名した(のちにSchistosomajaponicumと改名)。\nなお、翌年の1905年に検疫官としてシンガポールに赴任中であったイギリス人医師のカットーが、コレラにより死亡した罹患者(現在の中国福建省出身者)の遺体から同じ寄生虫を発見しカットー吸虫と命名したが、前年の桂田のドイツ語論文報告が先であり、命名法の規則によって桂田が第一発見者であると世界の医学界で追認されている。\n新寄生虫発見の偉業、第一発見者という栄誉は、三神の理解と協力なくしてはなし得ず、桂田は論文の中で三神三朗に対し最大級の賛辞の言葉を記している。", + "qas": [ + { + "question": "一歩遅れて、桂田と同じ寄生虫を発見した医師は誰ですか?", + "id": "tr-680-20-000", + "answers": [ + { + "text": "カットー", + "answer_start": 283, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "日本住血吸虫と命名した人は誰ですか?", + "id": "tr-680-20-001", + "answers": [ + { + "text": "桂田", + "answer_start": 345, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "日本住血吸虫は、腸から肝臓へ血液を送る肝門脈の中で宿主の赤血球を栄養源とし、雄が雌を抱きかかえた状態で寄生し、雌は門脈の中で産卵する。\n血管中(血液の中)に産まれたはずの卵が消化器系を経由し糞便の中に出てくる理由は、腸管近くの腸間膜血管に運ばれた卵がタンパク質分解酵素を放出することによって周囲の腸壁を溶解し、卵ごと腸内に落ちるからである。\nその一方で血流に乗った虫卵は肝臓に蓄積され、同様に放出されたタンパク質分解酵素により肝臓内に結節が形成され繊維化し、やがて長期間にわたる虫卵の蓄積で肝硬変を発症する。\nこのように日本住血吸虫は、腸内や胆管などの消化器官に寄生して産卵する従来から知られていた他の寄生虫とは全く異なる寄生様式を持っていることが、その後の検証により解明された。\n虫体の発見によってこの奇病が寄生虫病であると確定はしたが、成虫の体長が1センチから2センチほどある日本住血吸虫のヒトへの感染経路、しかも消化器系ではなく血管内に寄生する生態メカニズム(生活史)の解明が次の課題であった。", + "qas": [ + { + "question": "日本住血吸虫の栄養源は何ですか?", + "id": "tr-680-21-000", + "answers": [ + { + "text": "赤血球", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "寄生虫病であることが確定した後、ヒトへの感染経路の解明が進められた。\n感染経路には2つの仮説���あり、一つは飲料水からの経口感染説、もう一つが皮膚からの経皮感染説であった。\n甲府盆地では前述した「能蔵池葭(葦)水飲むつらさよ」と民謡に歌われたように、飲料水から罹ると信じられていた地域がある一方で、皮膚からの感染を疑う農民も少なからずいた。\n有病地では水田や川に入ると足や手などが赤くかぶれることがあり、地域ではこれを泥かぶれと呼び、この奇病を発症する者は必ず泥かぶれを経て罹患することを、農民たちは経験的に知っていた。\nしかし、感染源が飲み水だとしても人は水を飲まなければ生きてゆけず、皮膚からの感染だとしても農民に「田んぼに入るな」というのは仕事を奪うことと同じである。\n農業を辞めたくても転職することが難しい、職業選択の自由など実質的にない時代であり、他に収入源のない小作農民は、奇病の感染を恐れつつも半ば諦観を持って水田での労働に就くという、いわば命懸けの米作りを強いられていた。", + "qas": [ + { + "question": "地方病の発症者が、罹患前に必ず経験していた症状の呼称とは何ですか?", + "id": "tr-680-22-000", + "answers": [ + { + "text": "泥かぶれ", + "answer_start": 208, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "皮膚から感染するという仮説の名は何ですか?", + "id": "tr-680-22-001", + "answers": [ + { + "text": "経皮感染説", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "東八代郡祝村(現:甲州市勝沼町)出身で東京帝国大学医学部卒の内科医局員であった土屋岩保(つちやいわお)は、1905年(明治38年)7月に甲府盆地各所で哺乳動物の調査を行った。\n土屋は解剖したイヌやネコの門脈内にのみ多数の日本住血吸虫の成虫を見出し、門脈以外の血管には見られなかったことから、「もし経皮感染するのであれば門脈以外の血管にもいるはずであり、門脈のみに日本住血吸虫がいるのは、飲料水や食物を通じて原因となる寄生虫卵や幼虫が口から入り、胃に入る前の食道や咽頭などの内壁から進入して門脈に至るからではないか」と、経口感染説を主張した。\n土屋の意見には多くの医学者、研究者が賛同した。\n黄熱病やマラリアなど蚊に刺されることによって発病する感染症、寄生虫病を除けば、当時の寄生虫学において知られていた感染経路は、十二指腸虫などのようにほとんどが飲食物を介して経口感染するものばかりであった。\nこの寄生虫学会内の既成概念のようなものも、土屋の主張を支持することに働いた。", + "qas": [ + { + "question": "土屋岩保が主張した感染経路の仮説は何ですか?", + "id": "tr-680-23-000", + "answers": [ + { + "text": "経口感染説", + "answer_start": 259, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ウォルト・ディズニー", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ウォルト・ディズニー(WaltDisney,1901年12月5日-1966年12月15日)は、アメリカ合衆国・イリノイ州シカゴに生まれたアニメーター、プロデューサー、映画監督、脚本家、漫画家、声優、実業家、エンターテイナーである。\n世界的に有名なアニメーションキャラクター「ミッキーマウス」をはじめとするキャラクターの生みの親で、『ディズニーリゾート』の創立者であり、兄のロイ・O・ディズニーと共同で設立したウォルト・ディズニー・カンパニーは数々の倒産、失敗を繰り返すも、350億ドル以上の収入を持つ国際的な大企業に発展した。\n本名はウォルター・イライアス・ディズニー(WalterEliasDisney)である。\n一族はアイルランドからの移民であり、姓の「ディズニー」(Disney)は元々「d'Isigny」と綴られ、フランスのノルマンディー地方のカルヴァドス県のイシニー=シュル=メールから11世紀にイギリスやアイルランドに渡来したノルマン人の末裔であることに由来し、後に英語風に直され「ディズニー」となった。\n「イライアス」は父名である。共和党を支持し右派として知られていた。", + "qas": [ + { + "question": "ウォルト・ディズニーの英語表記は何ですか?", + "id": "tr-681-00-000", + "answers": [ + { + "text": "WaltDisney", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "WaltDisneyをカタカナで表すと何になりますか?", + "id": "tr-681-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ウォルト・ディズニー", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルト・ディズニーが生まれた年はいつですか?", + "id": "tr-681-00-002", + "answers": [ + { + "text": "1901年", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルト・ディズニーの生年月日はいつですか?", + "id": "tr-681-00-003", + "answers": [ + { + "text": "1901年12月5日", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルト・ディズニーが生まれた月はいつですか?", + "id": "tr-681-00-004", + "answers": [ + { + "text": "12月", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルト・ディズニーが亡くなった年はいつですか?", + "id": "tr-681-00-005", + "answers": [ + { + "text": "1966年", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルト・ディズニーが亡くなった年月日はいつですか?", + "id": "tr-681-00-006", + "answers": [ + { + "text": "1966年12月15日", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + 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"ユニオン・パシフィック鉄道の鉄道員でカナダ生まれのイライアス・ディズニーと、ドイツ人とイギリス人の血を引くフローラ・コールの4番目の子としてシカゴで生まれた。\n父イライアスは元々カルフォルニア州で金鉱を探して暮らしていたが、妻のフローラのために定職を求めてカンザスやフロリダ州に移り、後に仕事の関係でイリノイ州シカゴへと移住していた。\nしかしウォルトが幼い時に一家は叔父のロバート・ディズニーの住むミズーリ州マーセリーンへ更に引っ越して農業を始めたので、結局の所はミズーリ州で少年期を過ごす事になった。\nしかし、父親のイライアスはこの地においても農業に失敗して、数年後に家族を連れて同地を去った。\nイライアスとフローラは息子4人と娘1人を儲けたが、父親のイライアスは子供達に対して愛情に欠けた厳格な態度で接しており、ウォルトとロイが1920年代に成功をおさめても、彼らに対して冷やかな態度は変わらなかった為、ディズニー親子は長年距離を置いて交流はしなかった。\nイライアスはリタイアするまで転職を重ねたが、結局結婚する前に金鉱で働いて小金を得た以外は、どの仕事に就いても成功出来ず、妻のフローラに苦労を掛け、1930年代後半にウォルトやロイが破格の成功をおさめた後に、彼らが両親を呼び寄せロサンゼルスに豪邸をプレゼントするまでは貧しい生活を送っていた。\nディズニー一家の畑の近くにはサンタ・フェ・パシフィック鉄道が走っており、その鉄道の走る音が好きだった。\nアルバイトで、鉄道構内で新聞やポップコーンを売る仕事をしていたこともある。\n後に持ったウォルト自身の家では、8分の1スケールのミニチュア鉄道を庭に走らせていたが、そのミニチュアの汽車に乗って遊ぶのがウォルトの一番の趣味だった。\n少年時代から絵を描くことやアートそのものに大変興味があり、7歳の時には自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っていたこともあった。\n学校では勉強をしながらも、動物や自然などの様々な絵を描いていた。", + "qas": [ + { + "question": "イライアス・ディズニーの生まれた国はどこですか?", + "id": "tr-681-01-000", + "answers": [ + { + "text": "カナダ", + "answer_start": 18, + 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"ウォルトが幼い時に引っ越した場所は何州ですか?", + "id": "tr-681-01-014", + "answers": [ + { + "text": "ミズーリ州", + "answer_start": 199, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ウォルトが幼い時に引っ越した場所はミズーリ州のどこですか?", + "id": "tr-681-01-015", + "answers": [ + { + "text": "マーセリーン", + "answer_start": 204, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ウォルトが少年期を過ごした州はどこですか?", + "id": "tr-681-01-016", + "answers": [ + { + "text": "ミズーリ州", + "answer_start": 199, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルト一家はミズーリ州マーセリーンに引っ越して何を始めましたか?", + "id": "tr-681-01-017", + "answers": [ + { + "text": "農業", + "answer_start": 218, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "農業に失敗した父親の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-01-018", + "answers": [ + { + "text": "イライアス", + "answer_start": 259, + 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"question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニー一家の畑の近くに走っていた鉄道の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-01-028", + "answers": [ + { + "text": "サンタ・フェ・パシフィック鉄道", + "answer_start": 590, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトがアルバイトで鉄道構内で売っていたのは新聞や何でしたか?", + "id": "tr-681-01-029", + "answers": [ + { + "text": "ポップコーン", + "answer_start": 643, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトがアルバイトで鉄道構内で売っていたのはポップコーンや何でしたか?", + "id": "tr-681-01-030", + "answers": [ + { + "text": "新聞", + "answer_start": 640, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトは、何分の1スケールのミニチュア鉄道を庭に走らせることが趣味でしたか?", + "id": "tr-681-01-031", + "answers": [ + { + "text": "8分の1", + "answer_start": 682, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが自分の描いた小さなスケッチを近所の人たちに売っていたのは何歳の時でしたか?", + "id": "tr-681-01-032", + "answers": [ + { + "text": "7歳", + "answer_start": 771, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "父のイライアスがシカゴで工場経営に加わり、再び一家はシカゴに舞い戻る事になった。\n青年期を迎えていたウォルトも地元のマッキンリー高校に通いながら、当時無名であったアカデミー・オブ・ファインアーツ専門学校夜間部のコースで絵を学ぶ生活を送っていた。\n同時に、カンザスの新聞社で新聞配達のアルバイトを始め、朝4:30に起床して配達に行き、放課後に再度配達をするというハードな働き方をしていた。\nそのためか、学校では居眠りをしたり、悪い成績をとることがたびたびあった。\n学校では学級新聞の漫画欄を担当してその才能の片鱗を見せていたが、その内容は愛国主義に沿った内容だった。\n当時、不安定な国際情勢の中でアメリカでも愛国心が国民の間で高まっていた。\nサラエボ事件を切っ掛けに第一次世界大戦が勃発、アメリカが未曾有の大戦争に参戦すると、愛国心に駆られたウォルトは高校と美術学校を退学し、陸軍に志願した(兄のロイも同様に志願して兵士となっている)。\n実はこの時ウォルトは16歳であり、軍に志願するには年齢が1歳足らなかったが、受付の列に並んでいる途中でこっそりとペンで生年月日を書き換えて誤魔化した。\nしかし兄と違い若年であったために軍に説得され、兵士としての勤務の代わりに、赤十字社の衛生兵として負傷した兵士の治療や輸送に従事した。\n同じ衛生隊にはレイ・クロックも居た。\n大戦終結時、廃墟となったフランスに居たウォルトは、一年振りに故郷のアメリカに帰国した。\n帰国後、父の経営する工場以外で仕事を見つける事を望んだウォルトは家を出て、単身カンザスシティーへ戻った。\n漫画家としての活躍を目指したウォルトは、取りあえず新聞で漫画を書く仕事を請け負った。\nだが当時は一介の新人に過ぎないウォルトへの仕事の依頼は多くはなく、成功どころか日々の生活にも困る苦しい時代を過ごしていた。\n見かねた兄のロイ(地元銀行の職員として働いていた)が知人に頼み、ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオでの広告デザインの仕事をウォルトに紹介した。\nウォルトはここで生涯の友人となるアブ・アイワークスと知り合った。\nアイワークスとウォルトは翌年にアート・スタジオから契約更新を打ち切られて失業すると、二人で新しい創作活動を始める計画を立てた。", + "qas": [ + { + "question": "父のイライアスが工場経営に加わったのはどこですか?", + "id": "tr-681-02-000", + "answers": [ + { + "text": "シカゴ", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが通った���校の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-02-001", + "answers": [ + { + "text": "マッキンリー高校", + "answer_start": 58, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが夜間部のコースに通った専門学校の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-02-002", + "answers": [ + { + "text": "アカデミー・オブ・ファインアーツ専門学校", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトはアカデミー・オブ・ファインアーツ専門学校の何のコースに通いましたか?", + "id": "tr-681-02-003", + "answers": [ + { + "text": "夜間部", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトはどこの新聞社で新聞配達のアルバイトを始めましたか?", + "id": "tr-681-02-004", + "answers": [ + { + "text": "カンザス", + "answer_start": 127, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトがアルバイトでカンザスの新聞社で配達したものは何ですか?", + "id": "tr-681-02-005", + "answers": [ + { + "text": "新聞", + "answer_start": 132, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが担当した学級新聞の漫画欄は、何主義に沿った内容でしたか?", + "id": "tr-681-02-006", + "answers": [ + { + "text": "愛国主義", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "第一次世界大戦の勃発となった事件は何ですか?", + "id": "tr-681-02-007", + "answers": [ + { + "text": "サラエボ事件", + "answer_start": 320, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "サラエボ事件を切っ掛けに起こった戦争は何ですか?", + "id": "tr-681-02-008", + "answers": [ + { + "text": "第一次世界大戦", + "answer_start": 332, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第一次世界大戦の時にウォルトは何軍に志願しましたか?", + "id": "tr-681-02-009", + "answers": [ + { + "text": "陸軍", + "answer_start": 387, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第一次世界大戦時にウォルトが陸軍に志願したのは何歳でしたか?", + "id": "tr-681-02-010", + "answers": [ + { + "text": "16歳", + "answer_start": 428, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ウォルトが陸軍に志願した時、年齢が何歳足りなかったですか?", + "id": "tr-681-02-011", + "answers": [ + { + "text": "1歳", + "answer_start": 446, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトは赤十字社の何兵として負傷した兵士の治療や輸送に従事しましたか?", + "id": "tr-681-02-012", + "answers": [ + { + "text": "衛生兵", + "answer_start": 536, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトと同じ衛生隊にいた人の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-02-013", + "answers": [ + { + "text": "レイ・クロック", + "answer_start": 568, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "レイ・クロックとは何隊で一緒でしたか?", + "id": "tr-681-02-014", + "answers": [ + { + "text": "衛生隊", + "answer_start": 563, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "大戦終結時、ウォルトは何年振りに故郷のアメリカに帰国しましたか?", + "id": "tr-681-02-015", + "answers": [ + { + "text": "一年", + "answer_start": 605, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "大戦終結時にウォルトはどこにいましたか?", + "id": "tr-681-02-016", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 592, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトは帰国後、単身でどこに戻りましたか?", + "id": "tr-681-02-017", + "answers": [ + { + "text": "カンザスシティー", + "answer_start": 663, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオで広告デザインの仕事をウォルトに紹介したのは誰ですか?", + "id": "tr-681-02-018", + "answers": [ + { + "text": "ロイ", + "answer_start": 788, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが兄の紹介で広告デザインの仕事をしたスタジオの名前は何ですか?", + "id": "tr-681-02-019", + "answers": [ + { + "text": "ペスマン=ルービン・コマーシャル・アート・スタジオ", + "answer_start": 814, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "兄のロイはウォルトに何の仕事を紹介しましたか?", + "id": "tr-681-02-020", + "answers": [ + { + "text": "広告デザイン", + "answer_start": 841, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "兄のロイは地元で何の職員として働いていましたか?", + "id": "tr-681-02-021", + "answers": [ + { + "text": "銀行", + "answer_start": 793, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトの生涯の友人となる人の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-02-022", + "answers": [ + { + "text": "アブ・アイワークス", + "answer_start": 878, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1920年1月、ウォルトとアイワークスはデザイン会社「ウォルト・アイワークス・カンパニー」を創立して共同経営者となった。\nだが、設立早々にウォルトはアイワークスを置いてカンザスフィルム社にアニメーターとして雇用されてしまったので、会社は長続きしなかった。\n初めは生活の為に雇われたウォルトだったが、短編アニメの作画を担当する中でアニメーターとしての資質に目覚めていき、漫画からアニメへと興味が移っていった。\n社員としての仕事の傍らで、映像制作の為の機材を借り入れてアニメーション制作に没頭、それまでの切り抜き手法からセルアニメに高い可能性がある事を確信した。\n1920年、独立して個人事務所を設立したウォルトは、フリーランスの製作者として仕事を募集、カンザスシティーの事業家フランク・L・ニューマンからの出資で初のオリジナルアニメ作品『ニューマン劇場のお笑い漫画』を制作した。\n質の高い娯楽作品は良い評価を得て、ウォルトの元にはアニメ制作の仕事が順調に舞い込む様になった。\n個人製作では事業の拡大に追いつかないと判断したウォルトは個人事務所からアニメ制作会社へと会社を拡張するべく、アブ・アイワークスを初め、ヒュー・ハーマンや、ルドルフ・アイジング、カーマン・マックスウェルなどの数人のアニメーター仲間を呼び寄せた。\n弱冠20歳のウォルトにとってこのLaughO'GramStudio社は最初の成功となったが、制作に没頭する余りに資金のやり繰りが乱雑になり、最終的にスタジオは倒産してしまった。\nこれはウォルトに経営面のサポート役を立てる事の必要性を痛感させた。\n倒産後の整理を終えたウォルトは再起を図って映画産業の本場ハリウッドへと移住した。", + "qas": [ + { + "question": "「ウォルト・アイワークス・カンパニー」が創立されたのは何年ですか?", + "id": "tr-681-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1920年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ウォルト・アイワークス・カンパニー」が創立されたのは1920年の何月ですか?", + "id": "tr-681-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1月", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ウォルト・アイワークス・カンパニー」が創立されたのは何年何月ですか?", + "id": "tr-681-03-002", + "answers": [ + { + "text": "1920年1月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ウォルト・アイワークス・カンパニー」はウォルトと誰が創立しましたか?", + "id": "tr-681-03-003", + "answers": [ + { + "text": "アイワークス", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ウォルト・アイワークス・カンパニー」はアイワークスと誰が創立しましたか?", + "id": "tr-681-03-004", + "answers": [ + { + "text": "ウォルト", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ウォルト・アイワークス・カンパニー」は何会社となりますか?", + "id": "tr-681-03-005", + "answers": [ + { + "text": "デザイン会社", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトとアイワークスは何の共同経営者となりましたか?", + "id": "tr-681-03-006", + "answers": [ + { + "text": "「ウォルト・アイワークス・カンパニー」", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1920年1月、ウォルトとアイワークスが創立した会社名は何ですか?", + "id": "tr-681-03-007", + "answers": [ + { + "text": "「ウォルト・アイワークス・カンパニー」", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ウォルト・アイワークス・カンパニー」の共同経営者はウォルトと誰ですか?", + "id": "tr-681-03-008", + "answers": [ + { + "text": "アイワークス", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ウォルト・アイワークス・カンパニー」の共同経営者はアイワークスと誰ですか?", + "id": "tr-681-03-009", + "answers": [ + { + "text": "ウォルト", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトはアイワークスを置いて、どこのアニメーターとして雇用されましたか?", + "id": "tr-681-03-010", + "answers": [ + { + "text": "カンザスフィルム社", + "answer_start": 84, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カンザスフィルム社がアニメーターとして雇用したのは誰ですか?", + "id": "tr-681-03-011", + "answers": [ + { + "text": "ウォルト", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトはカンザスフィルム社から何として雇用されましたか?", + "id": "tr-681-03-012", + "answers": [ + { + "text": "アニメーター", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カンザスフィルム社でウォルトが担当したものは何ですか?", + "id": "tr-681-03-013", + "answers": [ + { + "text": "短編アニメの作画", + "answer_start": 149, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カンザスフィルム社でウォルトは漫画から何へと興味が移りましたか?", + "id": "tr-681-03-014", + "answers": [ + { + "text": "アニメ", + "answer_start": 151, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトは、社員としての仕事の傍らで何の制作に没頭しましたか?", + "id": "tr-681-03-015", + "answers": [ + { + "text": "アニメーション", + "answer_start": 232, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトは、アニメーション制作に没頭し、それまでの切り抜き手法から何に高い可能性がある事を確信しましたか?", + "id": "tr-681-03-016", + "answers": [ + { + "text": "セルアニメ", + "answer_start": 258, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが独立して個人事務所を設立したのは何年ですか?", + "id": "tr-681-03-017", + "answers": [ + { + "text": "1920年", + "answer_start": 280, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトの初のオリジナルアニメ作品は何ですか?", + "id": "tr-681-03-018", + "answers": [ + { + "text": "『ニューマン劇場のお笑い漫画』", + "answer_start": 367, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが『ニューマン劇場のお笑い漫画』を制作したのは何年ですか?", + "id": "tr-681-03-019", + "answers": [ + { + "text": "1920年", + "answer_start": 280, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『ニューマン劇場のお笑い漫画』は誰からの出資で制作されましたか?", + "id": "tr-681-03-020", + "answers": [ + { + "text": "フランク・L・ニューマン", + "answer_start": 337, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『ニューマン劇場のお笑い漫画』に出資をしたカンザスシティーの事業家の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-03-021", + "answers": [ + { + "text": "フランク・L・ニューマン", + "answer_start": 337, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フランク・L・ニューマンはどこの実業家ですか?", + "id": "tr-681-03-022", + "answers": [ + { + "text": "カンザスシティー", + "answer_start": 325, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カンザスシティーの事業家フランク・L・ニューマンがウォルトに出資した年はいつですか?", + "id": "tr-681-03-023", + "answers": [ + { + "text": "1920年", + "answer_start": 280, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトがカンザスシティーの事業家フランク・L・ニューマンから出資を受けた年はいつですか?", + "id": "tr-681-03-024", + "answers": [ + { + "text": "1920年", + "answer_start": 280, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ウォルトが個人事務所からアニメ制作会社へと会社を拡張するべく呼び寄せた仲間は、ヒュー・ハーマンや、ルドルフ・アイジング、カーマン・マックスウェルの他に誰がいますか?", + "id": "tr-681-03-025", + "answers": [ + { + "text": "アブ・アイワークス", + "answer_start": 491, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが個人事務所からアニメ制作会社へと会社を拡張するべく呼び寄せた仲間は、アブ・アイワークスや、ルドルフ・アイジング、カーマン・マックスウェルの他に誰がいますか?", + "id": "tr-681-03-026", + "answers": [ + { + "text": "ヒュー・ハーマン", + "answer_start": 504, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが個人事務所からアニメ制作会社へと会社を拡張するべく呼び寄せた仲間は、アブ・アイワークスや、ヒュー・ハーマン、カーマン・マックスウェルの他に誰がいますか?", + "id": "tr-681-03-027", + "answers": [ + { + "text": "ルドルフ・アイジング", + "answer_start": 514, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが個人事務所からアニメ制作会社へと会社を拡張するべく呼び寄せた仲間は、アブ・アイワークスや、ヒュー・ハーマン、ルドルフ・アイジングの他に誰がいますか?", + "id": "tr-681-03-028", + "answers": [ + { + "text": "カーマン・マックスウェル", + "answer_start": 525, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "LaughO'GramStudio社での最初の成功は、ウォルトが弱冠何歳の時でしたか?", + "id": "tr-681-03-029", + "answers": [ + { + "text": "弱冠20歳", + "answer_start": 559, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "弱冠20歳のウォルトにとって最初の成功となった会社の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-03-030", + "answers": [ + { + "text": "LaughO'GramStudio社", + "answer_start": 575, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "LaughO'GramStudio社の倒産後、ウォルトが移住した先はどこですか?", + "id": "tr-681-03-031", + "answers": [ + { + "text": "ハリウッド", + "answer_start": 710, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "映画産業の本場はどこですか?", + "id": "tr-681-03-032", + "answers": [ + { + "text": "ハリウッド", + "answer_start": 710, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ハリウッドでは兄のロイ・ディズニーと共にカンザス時代に一本だけ制作した「アリスの不思議の国」シリーズの続編商品を販売する会社「ディズニー・ブラザーズ社」を興した。\n事業の過程でアリスシリーズのアニメを再度制作する機会を得たウォルトは以前の様にアニメーター仲間を集めた。\nそこには、LaughO'Gramstudios時代のスタッフだけでなく、バート・ジレット、フリッツ・フレレングといった新人アニメーターを雇った。\nディズニー・ブラザーズ社はアニメ製作会社へと転進した。\nこれが実質的な「ディズニー社」の設立であると考えられ、ロスアンジェルス市ダウンタウンの北側:シルバーレーク地区ハイペリオン通りに開設された制作スタジオは1939年のバーバンクへの移転による閉鎖までディズニーアニメを世に送り出し続けた。\n少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜた「アリスコメディシリーズ」は人気を博し、ディズニー社の経営は軌道に乗っていった。\n1925年、会社の従業員だったリリアン・バウンズ(LillianBounds)と結婚し流産を経て実娘のダイアン(Diane)儲けた後に、養女のシャロン(Sharon)を迎え、忙しい生活を送りつつも、父親に愛されなかった反動もあり(後年、長期の南米旅行中ということで、彼は父親の葬儀にも出席しなかった)二人の娘を溺愛しながら育てた。", + "qas": [ + { + "question": "ウォルトがハリウッドで兄のロイ・ディズニーと興した会社名は何ですか?", + "id": "tr-681-04-000", + "answers": [ + { + "text": "「ディズニー・ブラザーズ社」", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ディズニー・ブラザーズ社」を一緒に興した兄の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-04-001", + "answers": [ + { + "text": "ロイ・ディズニー", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ウォルトは「ディズニー・ブラザーズ社」をどこで興しましたか?", + "id": "tr-681-04-002", + "answers": [ + { + "text": "ハリウッド", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが兄のロイ・ディズニーと共にカンザス時代に一本だけ制作した作品の題目は何ですか?", + "id": "tr-681-04-003", + "answers": [ + { + "text": "「アリスの不思議の国」", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ディズニー・ブラザーズ社」は何のシリーズの続編商品を販売する会社ですか?", + "id": "tr-681-04-004", + "answers": [ + { + "text": "「アリスの不思議の国」", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「アリスの不思議の国」はカンザス時代に何本だけ制作されましたか?", + "id": "tr-681-04-005", + "answers": [ + { + "text": "一本", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが雇った新人アニメーターは、バート・ジレットともう1人は誰ですか?", + "id": "tr-681-04-006", + "answers": [ + { + "text": "フリッツ・フレレング", + "answer_start": 180, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが雇った新人アニメーターは、フリッツ・フレレングともう1人は誰ですか?", + "id": "tr-681-04-007", + "answers": [ + { + "text": "バート・ジレット", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニー・ブラザーズ社は何の製作会社へと転進しましたか?", + "id": "tr-681-04-008", + "answers": [ + { + "text": "アニメ", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロスアンジェルス市ダウンタウンの北側:シルバーレーク地区ハイペリオン通りに開設されたディズニー社の制作スタジオは、何年にバーバンクへ移転しましたか?", + "id": "tr-681-04-009", + "answers": [ + { + "text": "1939年", + "answer_start": 312, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "少女子役の実写にアニメーションを織り交ぜ、人気を博したシリーズの名前は何ですか?", + "id": "tr-681-04-010", + "answers": [ + { + "text": "「アリスコメディシリーズ」", + "answer_start": 375, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「アリスコメディシリーズ」は、少女子役の実写に何を織り交ぜたものですか?", + "id": "tr-681-04-011", + "answers": [ + { + "text": "アニメーション", + "answer_start": 362, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが結婚した年はいつですか?", + "id": "tr-681-04-012", + "answers": [ + { + "text": "1925年", + "answer_start": 416, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトと結婚した人の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-04-013", + "answers": [ + { + "text": "リリアン・バウンズ", + "answer_start": 431, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "リリアン・バウンズを英語表記すると何になりますか?", + "id": "tr-681-04-014", + "answers": [ + { + "text": "LillianBounds", + "answer_start": 441, + "answer_type": "Person" + } + ], + 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"1927年、興行師チャールズ・B・ミンツの紹介でユニバーサル・ピクチャーズと繋がりを得たウォルトは、自社キャラクターとして「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を考案、オズワルドを主人公にしたアニメをユニバーサル配給で制作した。\nオズワルドはシリーズスタートと同時に子供の間で大ヒットを飛ばし、一躍ディズニー社躍進の切っ掛けを作った。\nウォルトはカンザスフィルム時代の旧友達を次々に会社へと誘って、ディズニー社はアメリカでも屈指のアニメ製作会社に急成長した。\nだが1928年2月、チャールズ・B・ミンツと契約料の取引に臨んだウォルトはそこで大きな悲劇に見舞われた。\nミンツはユニバーサル社に法外な配給手数料を支払う様に要求、ウォルトがこれを拒否すると露骨な社員への引き抜き工作を仕掛けた。\nウォルトを二重に落胆させたのは、この引き抜き工作にアイワークスを除く殆どのアニメーター達が応じてしまった事だった。(その例がハーマン=アイジングである)。\n契約書上、オズワルドが配給会社の管理下に置かれていた事も不利に働き、ディズニー社は配給元と自社キャラクター、そしてスタッフの大半を失って倒産寸前に追い込まれた。\nしかし、諦めきれなかったウォルトはその後も頑張って仕事を続けた。", + "qas": [ + { + "question": "ウォルトが「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を考えだしたのは何年ですか?", + "id": "tr-681-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1927年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ウォルトがユニバーサル・ピクチャーズと繋がりを得たのは誰の紹介によるものですか?", + "id": "tr-681-05-001", + "answers": [ + { + "text": "チャールズ・B・ミンツ", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトは1927年、興行師チャールズ・B・ミンツの紹介で何���繋がりを得ましたか?", + "id": "tr-681-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ユニバーサル・ピクチャーズ", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1927年、ウォルトは自社キャラクターとして何を考案しましたか?", + "id": "tr-681-05-003", + "answers": [ + { + "text": "「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」", + "answer_start": 61, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "チャールズ・B・ミンツと契約料の取引に臨んだウォルトが大きな悲劇に見舞われたのは何年ですか?", + "id": "tr-681-05-004", + "answers": [ + { + "text": "1928年", + "answer_start": 232, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "チャールズ・B・ミンツと契約料の取引に臨んだウォルトが大きな悲劇に見舞われたのは1928年の何月ですか?", + "id": "tr-681-05-005", + "answers": [ + { + "text": "2月", + "answer_start": 237, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1928年2月、ウォルトは誰と契約料の取引に臨みましたか?", + "id": "tr-681-05-006", + "answers": [ + { + "text": "チャールズ・B・ミンツ", + "answer_start": 240, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1928年2月、ウォルトはチャールズ・B・ミンツと何の取引に臨みましたか?", + "id": "tr-681-05-007", + "answers": [ + { + "text": "契約料", + "answer_start": 252, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ミンツがユニバーサル社に支払い要求をしたのは法外な何料でしたか?", + "id": "tr-681-05-008", + "answers": [ + { + "text": "配給手数料", + "answer_start": 298, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ミンツの社員引き抜き工作には、誰を除く殆どのアニメーター達が応じましたか?", + "id": "tr-681-05-009", + "answers": [ + { + "text": "アイワークス", + "answer_start": 370, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "契約書上、オズワルドは何会社の管理下に置かれていましたか?", + "id": "tr-681-05-010", + "answers": [ + { + "text": "配給会社", + "answer_start": 434, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "再建するにあたって、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを必要と感じたウォルトは、それまでにもうさぎのオズワルドやアリスコメディの中で、ライバルとして度々登場させていた「敵役のねずみ」を主役に抜擢することを決定する(デザインはルドルフ・アイジング)。\nアブ・アイワークスのスケッチでは、オズワルドそっくりのキャラクターとなった。\nカンザスフィルム時代に飼っていたマウスに思い当たり、幾つかのラフスケッチを制作したというのは権利処理の問題をクリアするために後年の後付け設定である。\nすでにアリスコメディには当時高い人気を集めていたフィリックス・ザ・キャットに似せたジュリアス・ザ・キャットも登場させており、フェリックス側のプロデューサーであるパット・サリバンから何度も警告されていた。\nこれに当時、監督や演出に専念し始めていたウォルトから作画監督を委ねられたアイワークスが、ウォルトの原案に動かす事を念頭に置いたアレンジを加えた。\nかくして世に知られる「ミッキーマウス」は完成した。\n後にディズニー社の従業員は「ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した」と語っている。\n因みに当初名前は「モーティマーマウス」とされる予定だったが、妻のリリアン・ディズニーが「悔しがる・恥をかく」の動詞である「モーティファイ」に言い方が近いため猛反対し「ミッキーマウス」と変更された。\nモーティマーの名は後に初期作品でのミッキーのライバルキャラクターに用いられた。\nミッキーマウス・シリーズの初期作品において、秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出す一方で、ウォルトは演出面で高い才能を発揮した。\nミッキーマウスの登場第一作『プレーン・クレイジー』(『飛行機狂』)および第二作『ギャロッピン・ガウチョ』はサイレント映画として作られたが、第三作『蒸気船ウィリー』で効果音や声を吹き込んでトーキー映画の短編アニメとしての制作が行われると、場面の転換や物語のテンポに合わせて効果的に音や音楽を使用し、また自らもミッキーマウス・ミニーマウスの声を演じた。\nこの演出技法は長らくディズニー映画の象徴とも言うべき手法となり、優れた作画と共にミッキーマウス・シリーズのヒットに貢献した。\n対照的にウォルトの演出とアイワークスの作画を失ったオズワルドは次第に人気を失い、1930年代には完全にミッキーに取って代わられる事になる。\nミッキーはオズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮した。", + "qas": [ + { + "question": "ウォルトは、オズワルドに代わる新たな自社キャラクターを、うさぎのオズワルドやアリスコメディの中でライバルとして度々登場させていた何を主役に抜擢することを決定しましたか?", + "id": "tr-681-06-000", + "answers": [ + { + "text": "「敵役のねずみ」", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「敵役のねずみ」は誰がデザインしましたか?", + "id": "tr-681-06-001", + "answers": [ + { + "text": "ルドルフ・アイジング", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オズワルドやアリスコメディの中でライバルとして度々登場させていたものは何ですか?", + "id": "tr-681-06-002", + "answers": [ + { + "text": "「敵役のねずみ」", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「敵役のねずみ」は、うさぎのオズワルドやアリスコメディの中で何として度々登場しましたか?", + "id": "tr-681-06-003", + "answers": [ + { + "text": "ライバル", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アブ・アイワークスのスケッチでは、何にそっくりのキャラクターとなりましたか?", + "id": "tr-681-06-004", + "answers": [ + { + "text": "オズワルド", + "answer_start": 145, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オズワルドそっくりのキャラクターとなったのは、誰のスケッチによるものでしたか?", + "id": "tr-681-06-005", + "answers": [ + { + "text": "アブ・アイワークス", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フェリックス側のプロデューサーの名前は何ですか?", + "id": "tr-681-06-006", + "answers": [ + { + "text": "パット・サリバン", + "answer_start": 322, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フィリックス・ザ・キャットは何の作品に出ていましたか?", + "id": "tr-681-06-007", + "answers": [ + { + "text": "アリスコメディ", + "answer_start": 245, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "パット・サリバンは何側のプロデューサーですか?", + "id": "tr-681-06-008", + "answers": [ + { + "text": "フェリックス側", + "answer_start": 304, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが作画監督を委ねたのは誰で��か?", + "id": "tr-681-06-009", + "answers": [ + { + "text": "アイワークス", + "answer_start": 380, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アイワークスは、誰の原案に動かす事を念頭に置いたアレンジを加えましたか?", + "id": "tr-681-06-010", + "answers": [ + { + "text": "ウォルト", + "answer_start": 364, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「敵役のねずみ」は何という名前で世に知られましたか?", + "id": "tr-681-06-011", + "answers": [ + { + "text": "「ミッキーマウス」", + "answer_start": 427, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ディズニー社の従業員は、ミッキーの動きは誰が生み出したと語っていますか?", + "id": "tr-681-06-012", + "answers": [ + { + "text": "アイワークス", + "answer_start": 465, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニー社の従業員は、ミッキーの魂は誰が生み出したと語っていますか?", + "id": "tr-681-06-013", + "answers": [ + { + "text": "ウォルト", + "answer_start": 475, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アイワークスはミッキーの何を生み出したと語られていますか?", + "id": "tr-681-06-014", + "answers": [ + { + "text": "動き", + "answer_start": 462, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトはミッキーの何を生み出したと語られていますか?", + "id": "tr-681-06-015", + "answers": [ + { + "text": "魂", + "answer_start": 473, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ミッキーの動きはアイワークスが、魂はウォルトが生み出した」と語っているのはディズニー社の誰を指しますか?", + "id": "tr-681-06-016", + "answers": [ + { + "text": "従業員", + "answer_start": 452, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ミッキーマウスは、当初何という名前をつける予定でしたか?", + "id": "tr-681-06-017", + "answers": [ + { + "text": "「モーティマーマウス」", + "answer_start": 502, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「モーティマーマウス」の名前に猛反対したのは誰ですか?", + "id": "tr-681-06-018", + "answers": [ + { + "text": "リリアン・ディズニー", + "answer_start": 526, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトの妻の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-06-019", + "answers": [ + { + "text": "リリアン・ディズニー", + "answer_start": 526, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "妻のリリアン・ディズニーは、「モーティマーマウス」が「悔しがる・恥をかく」の動詞である何に言い方が近いと猛反対しましたか?", + "id": "tr-681-06-020", + "answers": [ + { + "text": "「モーティファイ」", + "answer_start": 554, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「悔しがる・恥をかく」が動詞となる英語をカタカナで書くと何となりますか?", + "id": "tr-681-06-021", + "answers": [ + { + "text": "「モーティファイ」", + "answer_start": 554, + "answer_type": "Object" + } + ], + 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"id": "tr-681-06-026", + "answers": [ + { + "text": "初期作品", + "answer_start": 604, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、誰が秀逸な動きの描写を書き出しましたか?", + "id": "tr-681-06-027", + "answers": [ + { + "text": "アイワークス", + "answer_start": 664, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、演出面で高い才能を発揮したのは誰ですか?", + "id": "tr-681-06-028", + "answers": [ + { + "text": "ウォルト", + "answer_start": 679, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ミッキーマウス・シリーズの初期作品において、ウォルトが高い才能を発揮したのは何面においてですか?", + "id": "tr-681-06-029", + "answers": [ + { + "text": "演出面", + "answer_start": 684, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "秀逸な動きの描写をアイワークスが書き出し、ウォルトが演出面で高い才能を発揮したのは、ミッキーマウス・シリーズの何作品になりますか?", + "id": "tr-681-06-030", + "answers": [ + { + "text": "初期作品", + "answer_start": 646, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ミッキーマウスの初登場となる作品名は何ですか?", + "id": "tr-681-06-031", + "answers": [ + { + "text": "『プレーン・クレイジー』", + "answer_start": 712, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ミッキーマウス2回目の登場作品は何ですか?", + "id": "tr-681-06-032", + "answers": [ + { + "text": "『ギャロッピン・ガウチョ』", + "answer_start": 738, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ミッキーマウスの登場が3回目なる作品は何ですか?", + "id": "tr-681-06-033", + "answers": [ + { + "text": "『蒸気船ウィリー』", + "answer_start": 771, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『プレーン・クレイジー』はミッキーマウスが登場する第何作目の作品ですか?", + "id": "tr-681-06-034", + "answers": [ + { + "text": "第一作", + "answer_start": 709, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": 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"効果音や声を吹き込んでトーキー映画の短編アニメとして制作されたミッキーマウス登場作品の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-06-039", + "answers": [ + { + "text": "『蒸気船ウィリー』", + "answer_start": 771, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『蒸気船ウィリー』でミッキーマウス・ミニーマウスの声を演じたのは誰ですか?", + "id": "tr-681-06-040", + "answers": [ + { + "text": "ウォルト", + "answer_start": 679, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ウォルトは『蒸気船ウィリー』で、ミッキーマウスと誰の声を演じましたか?", + "id": "tr-681-06-041", + "answers": [ + { + "text": "ミニーマウス", + "answer_start": 860, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ウォルトは『蒸気船ウィリー』で、ミニーマウスと誰の声を演じましたか?", + "id": "tr-681-06-042", + "answers": [ + { + "text": "ミッキーマウス", + "answer_start": 699, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オズワルドが人気を失ったのは誰の演出とアイワークスの作画を失ったからですか?", + "id": 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988, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オズワルドを凌ぐ人気キャラクターとなり、世界的な知名度を得てディズニー社の再建に大きな力を発揮したものは何ですか?", + "id": "tr-681-06-048", + "answers": [ + { + "text": "ミッキー", + "answer_start": 1007, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ディズニーは1948年ごろから、テーマパークの建設を具体化させていく。\nディズニーがいつからテーマパーク建設の意図を持っていたかははっきりせず、娘たちを遊園地に連れてベンチに座ったときに手持ち無沙汰な親の姿を見て、「大人も楽しめるテーマパークの建設」を思い立ったとも、趣味である鉄道模型の製作が高じて大規模なテーマパークの制作を思い立ったとも言われている。\nいずれにせよ、このころからディズニーはアニメーションの制作に代わってテーマパークの建設計画に熱中するようになっていった。\n\n1951年3月にはスタジオのあるバーバンク市にテーマパーク建設計画を提出したが、これは遊園地建設による騒音などの住環境悪化を懸念した市当局によって拒否された。\nまた、このころには計画は当初のものを大きく超えた大規模なものとなっていたため、ディズニーは広大な土地の確保できる代替地の確保に乗り出し、1953年9月にはカリフォルニア州アナハイムに160エーカー(730,000m2)の土地を購入し用地を確保した。\nしかしこれほどの大規模な建設計画を行う資金はディズニーにはなかったため、彼はこの時期に登場した新たなメディアであるテレビとの連携を考え付いた。\nこうして、新たなテーマパークの建設計画を各企業や市民に売り込むために、1954年には「ディズニーランド」というTV番組をABCで放映し、ディズニー自らが出演してアトラクションやアニメ作品の紹介などを行った。\nこの番組は大好評となり、ディズニーランド建設後も変遷を経ながら2008年まで54年間にわたって放映され続ける長寿番組となった。\nABCはこの成功によって業績を大幅に向上させ、またこの成功を見た大企業がこの計画に次々と資金提供や資本参加を申し出るようになった。\nこうして無事に資金を調達したディズニーランドは、1954年7月21日に着工された。\n実際の建設においてはカリフォルニア州オークランドに1950年に作られた、最初の子供用遊園地「チルドレンズ・フェアリーランド」や、デンマークに1843年に作られた遊園地チボリ公園など既存のさまざまな遊園地を参考としていたものの、ディズニーはこの遊園地を既存のものとは全く異なる小さな新しい世界にしようと考えていた。\n彼はこのテーマパークの建設に熱中し、日夜建設現場に足を運んでは様々な指示を行った。", + "qas": [ + { + "question": "ディズニーがテーマパークの建設を具体化させていくのは何年ごろからですか?", + "id": "tr-681-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1948年ごろ", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーは1948年ごろから、何の建設を具体化させていきましたか?", + "id": "tr-681-07-001", + "answers": [ + { + "text": "テーマパーク", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーが娘たちを遊園地に連れてベンチに座ったときに、手持ち無沙汰な親の姿を見て、何を思い立ちましたか?", + "id": "tr-681-07-002", + "answers": [ + { + "text": "「大人も楽しめるテーマパークの建設」", + "answer_start": 107, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーの趣味は何ですか?", + "id": "tr-681-07-003", + "answers": [ + { + "text": "鉄道模型の製作", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "大規模なテーマパークの制作を思い立たせたディズニーの趣味は何でしたか?", + "id": "tr-681-07-004", + "answers": [ + { + "text": "鉄道模型の製作", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーの趣味である鉄道模型の製作は、大���模な何の制作を思い立たせましたか?", + "id": "tr-681-07-005", + "answers": [ + { + "text": "テーマパーク", + "answer_start": 46, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーが手持ち無沙汰な親の姿を見たのは、娘たちをどこに連れて行った時のことですか?", + "id": "tr-681-07-006", + "answers": [ + { + "text": "遊園地", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーがアニメーション制作に代わって熱中するようになったのは、何の建設計画ですか?", + "id": "tr-681-07-007", + "answers": [ + { + "text": "テーマパーク", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーがテーマパーク建設計画を提出したのは何市ですか?", + "id": "tr-681-07-008", + "answers": [ + { + "text": "バーバンク市", + "answer_start": 257, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーがバーバンク市にテーマパーク建設計画を提出したのは何年ですか?", + "id": "tr-681-07-009", + "answers": [ + { + "text": "1951年", + "answer_start": 241, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーがバーバンク市にテーマパーク建設計画を提出したのは1951年の何月ですか?", + "id": "tr-681-07-010", + "answers": [ + { + "text": "3月", + "answer_start": 246, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーがバーバンク市にテーマパーク建設計画を提出したのは何年何月のことですか?", + "id": "tr-681-07-011", + "answers": [ + { + "text": "1951年3月", + "answer_start": 241, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1951年にディズニーのスタジオがあったのは何市ですか?", + "id": "tr-681-07-012", + "answers": [ + { + "text": "バーバンク市", + "answer_start": 257, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1953年9月にディズニーが160エーカー(730,000m2)の土地を購入したのは何州ですか?", + "id": "tr-681-07-013", + "answers": [ + { + "text": "カリフォルニア州", + "answer_start": 398, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1953年9月にディズニーが160エーカー(730,000m2)の土地を購入したのはカリフォルニア州のどこですか?", + "id": "tr-681-07-014", + "answers": [ + { + "text": "アナハイム", + "answer_start": 406, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーが160エーカー(730,000m2)の土地を購入したのは何年ですか?", + "id": "tr-681-07-015", + "answers": [ + { + "text": "1953年", + "answer_start": 389, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーが160エーカー(730,000m2)の土地を購入したのは1953年の何月ですか?", + "id": "tr-681-07-016", + "answers": [ + { + "text": "9月", + "answer_start": 394, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーが160エーカー(730,000m2)の土地を購入したのは何年何月ですか?", + "id": "tr-681-07-017", + "answers": [ + { + "text": "1953年9月", + "answer_start": 389, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1953年9月にディズニーが購入した土地は何エーカーですか?", + "id": "tr-681-07-018", + "answers": [ + { + "text": "160エーカー", + "answer_start": 412, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1953年9月にディズニーが購入した土地は何m2ですか?", + "id": "tr-681-07-019", + "answers": [ + { + "text": "730,000m2", + "answer_start": 420, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "160エーカーは何m2になりますか?", + "id": "tr-681-07-020", + "answers": [ + { + "text": "730,000m2", + "answer_start": 420, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "730,000m2は何エーカーですか?", + "id": "tr-681-07-021", + "answers": [ + { + "text": "160エーカー", + "answer_start": 412, 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"TV番組「ディズニーランド」は何年から放映されましたか?", + "id": "tr-681-07-026", + "answers": [ + { + "text": "1954年", + "answer_start": 553, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ディズニーランド」というTV番組を放映したのはどこですか?", + "id": "tr-681-07-027", + "answers": [ + { + "text": "ABC", + "answer_start": 578, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ディズニーランド」のTV番組で、ディズニー自ら出演して紹介したものは、アトラクションと何ですか?", + "id": "tr-681-07-028", + "answers": [ + { + "text": "アニメ作品", + "answer_start": 606, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ディズニーランド」のTV番組で、ディズニー自ら出演して紹介したものは、アニメ作品と何ですか?", + "id": "tr-681-07-029", + "answers": [ + { + "text": "アトラクション", + "answer_start": 598, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ディズニーランド」のTV番組で、アトラクションやアニメ作品を紹介した人は誰ですか?", + "id": "tr-681-07-030", + "answers": [ + { + "text": "ディズニー", + "answer_start": 561, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "TV番組「ディズニーランド」は、1954年から何年まで放映されましたか?", + "id": "tr-681-07-031", + "answers": [ + { + "text": "2008年", + "answer_start": 653, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "TV番組「ディズニーランド」は何年間にわたって放映されましたか?", + "id": "tr-681-07-032", + "answers": [ + { + "text": "54年間", + "answer_start": 660, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーランドが着工されたのは何年ですか?", + "id": "tr-681-07-033", + "answers": [ + { + "text": "1954年", + "answer_start": 776, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーランドが着工されたのは1954年の何月ですか?", + "id": "tr-681-07-034", + "answers": [ + { + "text": "7月", + "answer_start": 781, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic 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"1955年7月17日にディズニーランドは正式にオープンし、上記の「ディズニーランド」番組内で全米にその様子が中継された。\nディズニーランドは瞬く間に大成功をおさめ、ディズニー社の経営の柱の一つとなり、現在まで続く多面的な経営の基盤を作った。\nウォルトはディズニーランド開設前に「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。そんな夢の世界を作りたい」と語って��た。\n無論これは現在のディズニーランドの土台となっている大事な思想であり、現に他のテーマパークでは何の変哲も無く行われている地面の掃除も、ディズニーランド内ではまるで1つのショーであるかの如く行われている。\nまた、ウォルトはディズニーランドのオープン時のスピーチの中で、「私はディズニーランドが人々に幸福を与える場所、大人も子供も、共に生命の驚異や冒険を体験し、楽しい思い出を作ってもらえる様な場所であって欲しいと願っています。」と言った。\nその「誰もが楽しめる」というファミリーエンターテイメントの理念は、今も各ディズニーのパークで受け継がれている。\n\nディズニーランドの成功は、ディズニーに二つ目のテーマパーク建設を構想させるのに十分なものだった。\n二つ目のテーマパーク予定地にはセントルイスなどいくつかの場所が挙げられていたが、やがてフロリダ州の中心部、オーランドに目をつけた。\nここに着目したのは湿地帯が広がっていて土地代が安く広大な土地が確保できたことや、アメリカ西端のカリフォルニアにあるディズニーランドに加え、ディズニーブランドを広める拠点が東部に求められたことによる。\n1965年、ディズニーはフロリダに二つ目のディズニーパークを作ることを公表した。\nこの新たなパークはアメリカ都市の生活の質を問題とし、アメリカ産業の創造性を見せるためのエプコットという名のパークを中心としており、マンハッタン島の2倍程にもなる広大な土地を買い、エプコットの他、ディズニーランド、ホテル等を取り入れたディズニー・ワールドを作り始めた。\nウォルトの訪日が幾度か検討されたが、多忙のため実現しなかったという。", + "qas": [ + { + "question": "ディズニーランドの正式オープンは何年何月何日でしたか?", + "id": "tr-681-08-000", + "answers": [ + { + "text": "1955年7月17日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーランドの正式オープンは何年ですか?", + "id": "tr-681-08-001", + "answers": [ + { + "text": "1955年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーランドの正式オープンは1955年の何月ですか?", + "id": "tr-681-08-002", + "answers": [ + { + "text": "7月", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーランドの正式オープンは1955年7月の何日ですか?", + "id": "tr-681-08-003", + "answers": [ + { + "text": "17日", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1955年7月17日に正式にオープンしたテーマパークは何ですか?", + "id": "tr-681-08-004", + "answers": [ + { + "text": "ディズニーランド", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical 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"tr-681-08-009", + "answers": [ + { + "text": "1965年", + "answer_start": 678, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーが二つ目のディズニーパークをどこに作ると公表しましたか?", + "id": "tr-681-08-010", + "answers": [ + { + "text": "フロリダ", + "answer_start": 690, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーがフロリダに作ると公表したディズニーパークはいくつ目になりますか?", + "id": "tr-681-08-011", + "answers": [ + { + "text": "二つ目", + "answer_start": 695, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーが二つ目のディズニーパークを作るために買った土地は、マンハッタン島の何倍程になりますか?", + "id": "tr-681-08-012", + "answers": [ + { + "text": "2倍程", + "answer_start": 792, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "二つ目のディズニーパークはアメリカ産業の創造性を見せるため、何という名前のパークを中心としていますか?", + "id": "tr-681-08-013", + "answers": [ + { + "text": "エプコット", + "answer_start": 762, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1966年12月15日、肺癌による肺炎で、ディズニー・ワールドの完成を見ないまま亡くなった。\nその後ロイによってディズニー・ワールドはウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートへと改名された。\nウォルトは満65歳で没した(享年66)。\n生前は大変なヘビースモーカーで、禁煙を勧められても「ヘビースモーカーでも長生きした人はいくらでもいる」と言ってとりあわなかった。\n翌年、遺作となる『ジャングル・ブック』が公開された。\n晩年は酒に溺れ、朝食はドーナッツをスコッチ・ウィスキーに浸けて食すのが一番のお気に入りだった。\n直後に発行されたフランスの週刊誌パリマッチでは表紙にミッキーマウスを用いた。\nミッキーマウスは誕生からこれまでの38年間滅多に見せなかった涙を流した。\nLIFE誌が1999年に選んだ「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれている。", + "qas": [ + { + "question": "ウォルトが亡くなったのは1966年12月何日ですか?", + "id": "tr-681-09-000", + "answers": [ + { + "text": "15日", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトは肺癌による何で亡くなりましたか?", + "id": "tr-681-09-001", + "answers": [ + { + "text": "肺炎", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトは何の完成を見ないまま亡くなりましたか?", + "id": "tr-681-09-002", + "answers": [ + { + "text": "ディズニー・ワールド", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニー・ワールドは誰によってウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートへと改名されましたか?", + "id": "tr-681-09-003", + "answers": [ + { + "text": "ロイ", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニー・ワールドは何という名前に改名されましたか?", + "id": "tr-681-09-004", + "answers": [ + { + "text": "ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾート", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトは満何歳で亡くなりましたか?", + "id": "tr-681-09-005", + "answers": [ + { + "text": "満65歳", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ウォルトは享年いくつで他界しましたか?", + "id": "tr-681-09-006", + "answers": [ + { + "text": "享年66", + "answer_start": 110, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ウォルトはの遺作名は何ですか?", + "id": "tr-681-09-007", + "answers": [ + { + "text": "『ジャングル・ブック』", + "answer_start": 190, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『ジャングル・ブック』は誰の遺作ですか?", + "id": "tr-681-09-008", + "answers": [ + { + "text": "ディズニー", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "週刊誌パリマッチはどこの国で発行されましたか?", + "id": "tr-681-09-009", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 265, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトの死の直後にミッキーマウスを表紙に用いた週刊誌の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-09-010", + "answers": [ + { + "text": "パリマッチ", + "answer_start": 273, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ウォルトの死の直後にフランスの週刊誌パリマッチは表紙に何を用いましたか?", + "id": "tr-681-09-011", + "answers": [ + { + "text": "ミッキーマウス", + "answer_start": 283, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ウォルト・ディズニーがLIFE誌の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」に選ばれたのは何年ですか?", + "id": "tr-681-09-012", + "answers": [ + { + "text": "1999年", + "answer_start": 339, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ウォルトは優秀なアニメーターには厚遇する事もあったが、アシスタントに対しては「誰にでも出来る仕事をしている人間に何故、高い報酬を支払わないといけない」と下に見て薄給でこき使い、アシスタント達を中心としてストライキを起こされた事もある。\nウォルトはウォルト・ディズニー・カンパニーの創業者で、ミッキーマウスの生みの親であるが、ウォルトが自分で原画を書いて映画を作っていたのは初期の頃であり、後世に名を遺すディズニー映画の大作のほぼ全ては脚本家とアニメーターが制作しており、ウォルトは金と口を出すのが仕事だった。\n映画を製作する際は何度も意見が分かれ、ウォルトと制作陣が衝突・喧嘩にも似た侃々諤々の議論をする事は日常茶飯事だったという。\n\nアニメ界、映画界の大成功者であり、世界的企業の創業者であるにも関わらず借入が多かった事と倹約家だった為、人々が想像する程裕福でも無く、娘達曰く「家も車も人より少し良い程度」の質素な暮らしを送っていたという。", + "qas": [ + { + "question": "ウォルトはアシスタントに対して薄給でこき使い、アシスタント達を中心として何を起こされた事がありますか?", + "id": "tr-681-10-000", + "answers": [ + { + "text": "ストライキ", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトに薄給でこき使われていたアシスタント達は何を起こしました?", + "id": "tr-681-10-001", + "answers": [ + { + "text": "ストライキ", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "後世に名を遺すディズニー映画の大作のほぼ全ては誰とアニメーターが制作しましたか?", + "id": "tr-681-10-002", + "answers": [ + { + "text": "脚本家", + "answer_start": 217, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "後世に名を遺すディズニー映画の大作のほぼ全ては脚本家と誰が制作しましたか?", + "id": "tr-681-10-003", + "answers": [ + { + "text": "アニメーター", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1941年12月8日の太平洋戦争の開戦と第二次世界大戦へ参戦したアメリカは戦時体制への協力を国内産業へ求め、映画産業に対しても協力を要請するが当初は成功しなかった。\nこれは検閲や行政指導ができないことに加え、高度に資本化された映画産業は政府の要請よりも利潤追求を優先させる体制となっていたためである。\nしかし、ディズニーは大衆がヨーロッパに関心を持ちはじめていると気づくと「反ドイツ」の色を薄めた「反ナチス」の形で戦意高揚のプロパガンダ映画を制作した。\n大衆文化史の研究者にはディズニーが孤立主義から友邦の援助へ大衆の意識が変わっていたのを見抜いた上で統合の象徴としてミッキーを選択させた点や、彼が没した今日でもミッキーマウスは「アメリカの象徴」として自己増殖を続けている旨を指摘するものもいる。\n政治家や政府のプロパガンダにより大衆を説得することは難しい(出典『心理戦争』)。\nしかし大衆自身が願う形へミッキーを作り変える作業を続けることでディズニーは成功を収め、同時にアメリカ政府を顧客とすることにも成功した。\n当時のウォルトディズニー社は白雪姫の大ヒットで得た莫大な収益を注ぎ込んで製作したピノキオやファンタジアがヒットしなかったせいで、あっという間に膨大な借金を抱える羽目になり、さらにヨーロッパも戦争中で映画の輸出も出来なくなり、株価も1株が25ドルから4ドルまで大暴落し倒産の危機に陥ったが、プロパガンダ映画の制作により、ある程度の収益を得て経営を建て直すことが出来た為、戦後も引き続きディズニーは経営の安定させる理由で政府の核実験、原子力開発キャンペーンのためにOurFriendtheAtom(我が友原子力)という映画を作成するなどプロパガンダに参加している。\n大戦当時に同スタジオで製作された以下のアニメ映画に、ミッキーマウスが戦闘機で日本軍の零戦を撃墜するシーンがあったり、ドナルドダックのアニメ映画「総統の顔」に東條英機や昭和天皇を風刺するシーンがあるが、これらは国の要請や強制を受けたものでもなく、ウォルトが積極的に自ら制作したものである。\n\nこのほかにもFP-45のために文字を使用せず、漫画のコマ割り風に絵を配置して説明するマニュアルや、ボーイズ対戦車ライフルの兵士向けの映像教材など細かな依頼も引き受けている。", + "qas": [ + { + "question": "太平洋戦争の開戦は何年何月何日でしたか?", + "id": "tr-681-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1941年12月8日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "太平洋戦争の開戦の年はいつですか?", + "id": "tr-681-11-001", + "answers": [ + { + "text": "1941年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "太平洋戦争の開戦の月は1941年の何月でしたか?", + "id": "tr-681-11-002", + "answers": [ + { + "text": "12月", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "太平洋戦争の開戦の日は1941年12月の何日でしたか?", + "id": "tr-681-11-003", + "answers": [ + { + "text": "8日", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "高度に資本化された映画産業は、政府の要請よりも何の追求を優先させ��体制となっていましたか?", + "id": "tr-681-11-004", + "answers": [ + { + "text": "利潤", + "answer_start": 126, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーは大衆がヨーロッパに関心を持ちはじめていると気づくと「反ドイツ」の色を薄めた「反ナチス」の形で戦意高揚の何映画を制作しましたか?", + "id": "tr-681-11-005", + "answers": [ + { + "text": "プロパガンダ映画", + "answer_start": 212, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディズニーが戦意高揚のプロパガンダ映画を制作したのは、大衆が何に関心を持ちはじめていると気づいたからですか?", + "id": "tr-681-11-006", + "answers": [ + { + "text": "ヨーロッパ", + "answer_start": 164, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "大衆文化史の研究者は、ミッキーマウスが何の象徴として自己増殖を続けていると指摘していますか?", + "id": "tr-681-11-007", + "answers": [ + { + "text": "「アメリカの象徴」", + "answer_start": 314, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトディズニー社は第二次世界大戦の時期に、何の輸出が出来なかったですか?", + "id": "tr-681-11-008", + "answers": [ + { + "text": "映画", + "answer_start": 557, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "第二次世界大戦の時期に大ヒットしたウォルトディズニー社の映画は何ですか?", + "id": "tr-681-11-009", + "answers": [ + { + "text": "白雪姫", + "answer_start": 472, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "第二次世界大戦の時期にヒットしなかったウォルトディズニー社の映画はピノキオと何ですか?", + "id": "tr-681-11-010", + "answers": [ + { + "text": "ファンタジア", + "answer_start": 503, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "第二次世界大戦の時期にヒットしなかったたウォルトディズニー社の映画はファンタジアと何ですか?", + "id": "tr-681-11-011", + "answers": [ + { + "text": "ピノキオ", + "answer_start": 498, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "第二次世界大戦の時期に、ウォルトディズニー社の株価は1株が25ドルから何ドルまで大暴落し倒産の危機に陥りましたか?", + "id": "tr-681-11-012", + "answers": [ + { + "text": "4ドル", + "answer_start": 582, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "第二次世界大戦の時期に、ウォルトディズニー社の株価は1株が何ドルから4ドルまで大暴落し倒産の危機に陥りましたか?", + "id": "tr-681-11-013", + "answers": [ + { + "text": "25ドル", + "answer_start": 576, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ウォルトディズニー社が原子力開発キャンペーンのために作成した映画のタイトルは何ですか?", + "id": "tr-681-11-014", + "answers": [ + { + "text": "OurFriendtheAtom", + "answer_start": 688, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "倒産の危機に陥ったウォルトディズニー社は、何映画の制作によりある程度の収益を得て経営を建て直すことが出来ましたか?", + "id": "tr-681-11-015", + "answers": [ + { + "text": "プロパガンダ映画", + "answer_start": 602, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ドナルドダックのアニメ映画のタイトルは何ですか?", + "id": "tr-681-11-016", + "answers": [ + { + "text": "「総統の顔」", + "answer_start": 810, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ドナルドダックのアニメ映画「総統の顔」で風刺されているものは、東條英機と何ですか?", + "id": "tr-681-11-017", + "answers": [ + { + "text": "昭和天皇", + "answer_start": 822, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ドナルドダックのアニメ映画「総統の顔」で風刺されているものは、昭和天皇と何ですか?", + "id": "tr-681-11-018", + "answers": [ + { + "text": "東條英機", + "answer_start": 817, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "大戦当時に製作されたアニメ映画のシーンの中で、ミッキーマウスは戦闘機で何軍の零戦を撃墜しましたか?", + "id": "tr-681-11-019", + "answers": [ + { + "text": "日本軍", + "answer_start": 777, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "大戦当時に製作されたアニメ映画のシーンの中で、ミッキーマウスは戦闘機で日本軍の何を撃墜しましたか?", + "id": "tr-681-11-020", + "answers": [ + { + "text": "零戦", + "answer_start": 781, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "東條英機の風刺シーンがあるドナルドダックのアニメ映画の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-11-021", + "answers": [ + { + "text": "「総統の顔」", + "answer_start": 810, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "昭和天皇の風刺シーンがあるドナルドダックのアニメ映画の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-11-022", + "answers": [ + { + "text": "「総統の顔」", + "answer_start": 810, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "東條英機や昭和天皇を風刺するシーンがあるドナルドダックのアニメ映画の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-11-023", + "answers": [ + { + "text": "「総統の顔」", + "answer_start": 810, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "第二次世界大戦後、生前のセルゲイ・エイゼンシュテインと親友だったことなどから、当時吹き荒れていたジョセフ・マッカーシーの「マッカーシズム(赤狩り)」の嵐に巻き込まれる。\n彼は公聴会に出頭し、「(冷戦前の)ソ連に『三匹の子ぶた』(1933年)を売ったことがある。非常に好評だった」と証言している。\n最終的には無実とされた。\nこの様な形で赤狩りにこそ巻き込まれたが、戦時中や冷戦中、自らが版権を持つキャラクターを軍や政府に無償で提供したり、自社の労働組合と激しく対立していた事から、当人はむしろ熱烈な保守派、右派、反共主義者と考えられている。\nマッカーシーの赤狩りでは、チャーリー・チャップリン、ジョン・ヒューストン、ウィリアム・ワイラーらも対象となった。\n委員会への召喚や証言を拒否した10人の映画産業関係者(ハリウッド・テン)は議会侮辱罪で訴追され有罪判決を受け、業界から追放された(ハリウッド・ブラックリスト)。\nグレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、ベニー・グッドマン(バンド・リーダー)、キャサリン・ヘプバーンらは赤狩りに対する反対運動を行った。\nグレゴリー・ペックは、リベラルの代表格だった。\n一方でウォルト・ディズニーとともに、政治家のリチャード・ニクソンや、ロナルド・レーガン(B級俳優)、ゲイリー・クーパー、ロバート・テイラー、エリア・カザンらは告発者として協力した。\nこの様な指摘に関連して、『闇の王子ディズニー』を著したマーク・エリオットは、「赤狩りの時代に、ウォルトはハリウッド内の映画人達の思想についてFBIへの熱心��密告者であった」と指摘している他、ディズニーランドのモノレールの開通時に、アナハイムの近隣のヨーバリンダ出身で、赤狩り時代にマッカーシーに近い反共主義者で知られた共和党選出のリチャード・ニクソン元副大統領(後に大統領)を招待している。\nなお、7年に及ぶ調査とディズニー社の事前チェック無しに出版されたゲイブラーの執筆による伝記、「WaltDisney」(邦題:創造の狂気)の中では、大戦中のプロパガンダへの協力姿勢は、当時、労働組合との争いや大戦による海外市場の縮小により、経営が圧迫されていたスタジオの生き残りのための方策の一環であったこと、彼にとっても政府への協力には意義を見出していなかったことが記述されている。\n同時に、戦後の赤狩り時代、彼の反共的な姿勢は、労働組合によりスタジオが壊滅的打撃を受けたことにたいする嫌悪感であったことを指摘している。\nともあれ、ウォルトは最晩年の1964年には、右派の共和党員として、大統領選に出馬したタカ派のバリー・ゴールドウォーターを熱心に支持していた。", + "qas": [ + { + "question": "第二次世界大戦後、ウォルトは生前の誰と親友でしたか?", + "id": "tr-681-12-000", + "answers": [ + { + "text": "セルゲイ・エイゼンシュテイン", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「マッカーシズム(赤狩り)」は誰によって吹き荒れていましたか?", + "id": "tr-681-12-001", + "answers": [ + { + "text": "ジョセフ・マッカーシー", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトは公聴会に出頭し、ソ連に何を売ったことがあると証言しましたか?", + "id": "tr-681-12-002", + "answers": [ + { + "text": "『三匹の子ぶた』", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトは公聴会に出頭し、どこに『三匹の子ぶた』を売ったことがあると証言しましたか?", + "id": "tr-681-12-003", + "answers": [ + { + "text": "ソ連", + "answer_start": 102, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マッカーシーの赤狩りで対象となったのは、チャーリー・チャップリン、ジョン・ヒューストンともう1人の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-12-004", + "answers": [ + { + "text": "ウィリアム・ワイラー", + "answer_start": 307, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マッカーシーの赤狩りで対象となったのは、チャーリー・チャップリン、ウィリアム・ワイラーともう1人の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-12-005", + "answers": [ + { + "text": "ジョン・ヒューストン", + "answer_start": 296, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マッカーシーの赤狩りで対象となったのは、ジョン・ヒューストン、ウィリアム・ワイラーともう1人の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-12-006", + "answers": [ + { + "text": "チャーリー・チャップリン", + "answer_start": 283, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "委員会への召喚や証言を拒否した10人の映画産業関係者のことを何と言いますか?", + "id": "tr-681-12-007", + "answers": [ + { + "text": "ハリウッド・テン", + "answer_start": 354, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "委員会への召喚や証言を拒否した10人の映画産業関係者が議会侮辱罪で訴追され有罪判決を受け、業界から追放されたことを何と言いますか?", + "id": "tr-681-12-008", + "answers": [ + { + "text": "ハリウッド・ブラックリスト", + "answer_start": 392, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "委員会への召喚や証言を拒否した映画産業関係者は何人ですか?", + "id": "tr-681-12-009", + "answers": [ + { + "text": "10人", + "answer_start": 342, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "赤狩りに対する反対運動を行ったのは、グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、ベニー・グッドマン(バンド・リーダー)ともう1人の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-12-010", + "answers": [ + { + "text": "キャサリン・ヘプバーン", + "answer_start": 490, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "赤狩りに対する反対運動を行ったのは、グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、キャサリン・ヘプバーンともう1人の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-12-011", + "answers": [ + { + "text": "ベニー・グッドマン", + "answer_start": 470, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "赤狩りに対する反対運動を行ったのは、グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート、カーク・ダグラス、ベニー・グッドマン(バンド・リーダー)、キャサリン・ヘプバーンともう1人の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-12-012", + "answers": [ + { + "text": "バート・ランカスター", + "answer_start": 459, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "赤狩りに対する反対運動を行ったのは、グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート、バート・ランカスター、ベニー・グッドマン(バンド・リーダー)、キャサリン・ヘプバーンともう1人の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-12-013", + "answers": [ + { + "text": "カーク・ダグラス", + "answer_start": 450, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "赤狩りに対する反対運動を行ったのは、グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、ベニー・グッドマン(バンド・リーダー)、キャサリン・ヘプバーンともう1人の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-12-014", + "answers": [ + { + "text": "ハンフリー・ボガート", + "answer_start": 439, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "赤狩りに対する反対運動を行ったのは、グレゴリー・ペック、ジュディ・ガーランド、ハンフリー・ボガート、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、ベニー・グッドマン(バンド・リーダー)、キャサリン・ヘプバーンともう1人の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-12-015", + "answers": [ + { + "text": "ヘンリー・フォンダ", + "answer_start": 429, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "赤狩りに対する反対運動を行ったのは、グレゴリー・ペック、ヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、ベニー・グッドマン(バンド・リーダー)、キャサリン・ヘプバーンともう1人の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-12-016", + "answers": [ + { + "text": "ジュディ・ガーランド", + "answer_start": 418, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "赤狩りに対する反対運動を行ったのは、ジュディ・ガーランド、ヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート、カーク・ダグラス、バート・ランカスター、ベニー・グッドマン(バンド・リーダー)、キャサリン・ヘプバーンともう1人の名前は何ですか?", + "id": "tr-681-12-017", + "answers": [ + { + "text": "グレゴリー・ペック", + "answer_start": 408, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "リベラルの代表的存在は誰でしたか?", + "id": "tr-681-12-018", + "answers": [ + { + "text": "グレゴリー・ペック", + "answer_start": 520, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "グレゴリー・ペックは何の代表的存在でしたか?", + "id": "tr-681-12-019", + "answers": [ + { + "text": "リベラル", + "answer_start": 531, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ウォルト・ディズニーとともに告発者として協力したのは、リチャード・ニクソンや、ロナルド・レーガン、ゲイリー・クーパー、ロバート・テイラーともう1人は誰ですか?", + "id": "tr-681-12-020", + "answers": [ + { + "text": "エリア・カザン", + "answer_start": 614, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルト・ディズニーとともに告発者として協力したのは、リチャード・ニクソンや、ロナルド・レーガン、ゲイリー・クーパー、エリア・カザンともう1人は誰ですか?", + "id": "tr-681-12-021", + "answers": [ + { + "text": "ロバート・テイラー", + "answer_start": 604, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルト・ディズニーとともに告発者として協力したのは、リチャード・ニクソンや、ロナルド・レーガン、ロバート・テイラー、エリア・カザンともう1人は誰ですか?", + "id": 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"answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マーク・エリオットは、ディズニーランドの何の開通時に、リチャード・ニクソンを招待しましたか?", + "id": "tr-681-12-031", + "answers": [ + { + "text": "モノレール", + "answer_start": 739, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「WaltDisney」(邦題:創造の狂気)を執筆者は誰ですか?", + "id": "tr-681-12-032", + "answers": [ + { + "text": "ゲイブラー", + "answer_start": 863, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ゲイブラーは「WaltDisney」(邦題:創造の狂気)を執筆するにあたって、何年に及ぶ調査をしましたか?", + "id": "tr-681-12-033", + "answers": [ + { + "text": "7年", + "answer_start": 834, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ゲイブラーの執筆による伝記、「WaltDisney」の邦題は何ですか?", + "id": "tr-681-12-034", + "answers": [ + { + "text": "創造の狂気", + "answer_start": 893, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic 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"ゲイブラーは、ウォルトが製作したミュージカル映画『南部の唄』での黒人の描かれ方から、ウォルトが人種差別主義者のレッテルを貼られたことについては、「製作に熱中するあまり、人種に関する配慮に欠けていたのだ」と主張している。\nウォルト自身は読書をほとんどせず、世相に対して鈍感な面を持ち合わせていたというのである。\nこの『南部の唄』は、公開直後から「全米黒人地位向上協会」(NAACP)の激しい抗議を受け続けており、アメリカ本国では再上映やビデオ化が阻止され、「幻の作品」となっている(日本でビデオ発売が実現したが、廃盤)。\nしかし、ウォルトに対する「白人至上主義者」、「人種差別主義者」との批判は、彼が死ぬまで浴びせられ続けたものであって、別に『南部の唄』に限ったことではない。\nウォルトは『南部の唄』では封切りイベントに主演の黒人俳優を出席させなかったほか、『南部の唄』の以前にもその二年後にも、ミッキーマウスやミニーマウスがアフリカで野蛮で猿のように描かれた黒人を差別的に扱う民族侮辱的な漫画を出版しており、現在も批判の対象となっている。\nまた、彼は亡くなるま���ウォルト・ディズニー社の要所に黒人と女性を雇い入れなかった。\n彼の制作した作品群のほとんどすべてに、様々な民族に対する彼の白人中心視点から成る人種差別、および男尊女卑的な性差別が指摘されている。", + "qas": [ + { + "question": "ウォルトが製作したミュージカル映画は何ですか?", + "id": "tr-681-13-000", + "answers": [ + { + "text": "『南部の唄』", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが製作したミュージカル映画『南部の唄』での黒人の描かれ方から、ウォルトは何主義者のレッテルを貼られましたか?", + "id": "tr-681-13-001", + "answers": [ + { + "text": "人種差別主義者", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトが製作したミュージカル映画『南部の唄』での黒人の描かれ方から、ウォルトが人種差別主義者のレッテルを貼られたことについては、「製作に熱中するあまり、人種に関する配慮に欠けていたのだ」と主張しているのは誰ですか?", + "id": "tr-681-13-002", + "answers": [ + { + "text": "ゲイブラー", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「全米黒人地位向上協会」をアルファベットで表すと何になりますか?", + "id": "tr-681-13-003", + "answers": [ + { + "text": "NAACP", + "answer_start": 184, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "NAACPを日本語では何と言いますか?", + "id": "tr-681-13-004", + "answers": [ + { + "text": "「全米黒人地位向上協会」", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『南部の唄』は公開直後、何からの激しい抗議を受け続けましたか?", + "id": "tr-681-13-005", + "answers": [ + { + "text": "「全米黒人地位向上協会」", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": 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"ウォルトが出版した黒人を差別的に扱う民族侮辱的な漫画の中で、ミッキーマウスとミニーマウスはどこにいますか?", + "id": "tr-681-13-010", + "answers": [ + { + "text": "アフリカ", + "answer_start": 412, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトがウォルト・ディズニー社の要所に雇い入れなかったのは黒人と何ですか?", + "id": "tr-681-13-011", + "answers": [ + { + "text": "女性", + "answer_start": 499, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトがウォルト・ディズニー社の要所に雇い入れなかったのは女性と何ですか?", + "id": "tr-681-13-012", + "answers": [ + { + "text": "黒人", + "answer_start": 496, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトの制作した作品群のほとんどに入って指摘されている差別は、人種差別と何差別ですか?", + "id": "tr-681-13-013", + "answers": [ + { + "text": "性差別", + "answer_start": 566, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォルトの制作した作品群のほとんどに入って指摘されている差別は、性差別と何差別ですか?", + "id": "tr-681-13-014", + 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