diff --git "a/data/train/jaquad_train_0023.json" "b/data/train/jaquad_train_0023.json" new file mode 100644--- /dev/null +++ "b/data/train/jaquad_train_0023.json" @@ -0,0 +1,14009 @@ +{ + "version": "JaQuAD-ver0.3", + "data": [ + { + "title": "フランシスコ_(ローマ教皇)", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "フランシスコ(羅:Franciscus、伊:Francesco、西:Francisco、英:Francis、1936年12月17日-)は、第266代ローマ教皇(在位:2013年3月13日-)。\n就任は3月19日であり、この日にサン・ピエトロ広場において就任ミサを執り行った。\n新教皇の選出にあたり、日本のカトリック中央協議会は声明を発し、枢機卿自身は「フランチェスコ」とイタリア語で発音したが、「日本では英語の発音で『アッシジの聖フランシスコ』との呼び名が定着している」ので、混乱を避けるために「報道機関も英語読みで統一してほしい」と要請した。\nそのとき、併せてアッシジのフランチェスコとの混同を避けるために「日本の教会は1世を付けて呼んでいく」と付言したが、その後教皇庁大使館より日本カトリック中央協議会に通知があり、新教皇名には「1世」を付けないことになり、新教皇名を「教皇フランシスコ」として各小教区・信徒・司祭・修道者に周知するよう指示がなされた。\nなお、本項目ではローマ教皇着座前の言動に関しては「ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ」、着座後の言動に関しては「フランシスコ」と呼称を区別する。", + "qas": [ + { + "question": "フランシスコは何年からローマ教皇に就きましたか?", + "id": "tr-534-00-000", + "answers": [ + { + "text": "2013年", + "answer_start": 83, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "2013年3月13日に就任したローマ教皇は第何代目ですか?", + "id": "tr-534-00-001", + "answers": [ + { + "text": "第266代", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ(JorgeMarioBergoglio)は、1936年にアルゼンチンの首都ブエノスアイレス特別区フローレス区で、イタリア系移民の子として生まれた。\n父のマリオ・ホセ・ベルゴリオは、ピエモンテ州のポルタコマーロ出身の鉄道職員であり、母のレジーナ・マリア・シヴォリもまたイタリア系移民の子で、ブエノスアイレス出身である。\n夫婦は中流の労働者階層で5子をもうけたが、ホルヘ・マリオは幼少期に感染症により右肺の一部を摘出している。\nマリオ・ホセはホルヘ・マリオが小学校を卒業すると「教育上の配慮から」会計士事務所に働きに出された。\nサレジオ会が経営するラモス・メジア・サレジオ学院(現ウィルフリド・バロン学院)を経て、ブエノスアイレス大学で化学を学び学士号を取得した。", + "qas": [ + { + "question": "ホルヘ・マリオの出身国はどこ?", + "id": "tr-534-01-000", + "answers": [ + { + "text": "アルゼンチン", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ホルヘ・マリオの出生年はいつ?", + "id": "tr-534-01-001", + "answers": [ + { + "text": "1936年", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ホルヘ・マリオの父親の職業は?", + "id": "tr-534-01-002", + "answers": [ + { + "text": "鉄道職員", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ベルゴリオは1958年3月11日にイエズス会に入会し、ブエノスアイレス特別区ビジャ・デボート区の神学校で司祭になるための勉強を始め、1963年チリで教養課程終了後、ブエノスアイレス州サンミゲル市のサン・ホセ神学院で哲学を学んだ。\nその後1964年から1965年にかけて、サンタフェ州の無原罪(インマクラーダ)学院で文学と心理学の教鞭を執ることになり、1966年にはブエノスアイレスのサルバドーレ学院でも同じ教科を教えた。\n1967年、ベルゴリオは本格的に神学の勉強を再開し、ブエノスアイレス州のサン・ミゲル神学院に進学。", + "qas": [ + { + "question": "ベルゴリオが哲学を��強した学校はどこ?", + "id": "tr-534-02-000", + "answers": [ + { + "text": "サン・ホセ神学院", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "インマクラーダ学院の次に文学と心理学を教えた学院はどこでしたか?", + "id": "tr-534-02-001", + "answers": [ + { + "text": "サルバドーレ学院", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1969年12月13日にはラモン・ホセ・カステジャーノ大司教によって司祭に叙階された。\n1970年には修士号を取得。\n1972年から1973年の間、サン・ミゲルのヴッラ・バリラリ修練院修練長を経て、神学の教授、管区顧問、神学院院長に就任した。\nその指導力を高く評価されたベルゴリオは、1973年7月31日にアルゼンチン管区長に任ぜられ、1979年までの6年間この職を務めた。\n1980年から1986年の間にはサン・ミゲルの神学校の神学科・哲学科院長、サン・ミゲル教区のサン・ホセ小教区の主任司祭を務める。\n1986年3月には博士号取得の為、ドイツのフランクフルトにあるイエズス会が運営する聖ゲオルク神学院(ザンクト・ゲオルク神学院)に在籍。\n同僚の話によると、この時期ベルゴリオはドイツの神学者ロマーノ・グアルディーニに興味を示していたという。\nその後アルゼンチンに帰国し、サルバドーレ学院院長を経て、コルドバで霊的指導者・聴罪司祭を務める。", + "qas": [ + { + "question": "ベルゴリオが務めた期間が長かったのは、アルゼンチン管区長とヴッラ・バリラリ修練院修練長のどちらですか?", + "id": "tr-534-03-000", + "answers": [ + { + "text": "アルゼンチン管区長", + "answer_start": 153, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "アルゼンチンに帰国するまで、ベルゴリオが滞在していた国はどこでしたか?", + "id": "tr-534-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ", + "answer_start": 270, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "また、この時期ドイツのアウクスブルクにある聖ペトロ・ペルラッハ教会で『結び目を解(ほど)くマリア』の絵に出会い、複製をつくる許可を得て、この画像の絵葉書をアルゼンチンに持ち帰っている。\nこれはアルゼンチンのマリア崇敬にとってマリアへの重要な捧げものとなった。\nリオデジャネイロの宗教学研究所の「レジーナ・ノヴァエス」によれば、こうしてもたらされた『結び目を解くマリア』は「悩みをかかえる人々を惹きつけた」という。\n2005年にベネディクト16世に贈呈したカリス(聖杯)にも『結び目を解くマリア』の姿を描かせている。\n宣教活動視察のため、1987年に来日している。", + "qas": [ + { + "question": "『結び目を解くマリア』はどこの教会にありましたか?", + "id": "tr-534-04-000", + "answers": [ + { + "text": "聖ペトロ・ペルラッハ教会", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ベルゴリオが日本を訪問したのは何年でしたか?", + "id": "tr-534-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1987年", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ベルゴリオは1992年5月20日に、ヨハネ・パウロ2世によりブエノスアイレスの補佐司教およびアウカの名義司教に任命され、同年6月27日にアントニオス・クアラチノ枢機卿(ブエノスアイレス大司教)の司式によって司教に叙階された。\n1997年6月3日にブエノスアイレス協働大司教に任命され、翌1998年2月28日、クアラチノ枢機卿の死去により後継としてブエノスアイレス大司教となった。\nまた同年11月6日より、アルゼンチン居住の裁治権者をもたない東方典礼カトリック教会信者の裁治権者を兼任した。", + "qas": [ + { + "question": "ベルゴリオの前任のブエノ���アイレス大司教は誰でしたか?", + "id": "tr-534-05-000", + "answers": [ + { + "text": "クアラチノ枢機卿", + "answer_start": 154, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ベルゴリオがブエノスアイレス大司教に就任したのはいつでしたか?", + "id": "tr-534-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1998年2月28日", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ベルゴリオが先に就任したのは、ブエノスアイレス大司教と東方典礼カトリック教会信者の統治権者のどちらですか?", + "id": "tr-534-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ブエノスアイレス大司教", + "answer_start": 173, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "2001年9月11日にニューヨーク大司教であるエドワード・イーガン枢機卿がアメリカ同時多発テロ事件ののち急遽帰国した秋に、ベルゴリオは教会会議で、書記として彼の代理を務めた。\n『カトリック・ヘラルド』によると、「交わりと対話に開放的な人物として好ましい印象を醸し出した」という。\n宮殿のような司教館ではなく小さなアパートに居住し、お抱えのリムジンの使用を拒否して公共交通を利用していたベルゴリオ枢機卿は、個人的な謙遜と教義上の保守主義と社会正義への関与で知られるようになった。\nベルゴリオ枢機卿は、2005年にヨハネ・パウロ2世が死去した直後の使徒座空位の間には、聖座とローマ・カトリック教会を暫定的に統治する枢機卿団の一人になり、新教皇を選出するコンクラーヴェに選挙枢機卿の一人として参加した。", + "qas": [ + { + "question": "2001年9月11日に起こった事件とは何?", + "id": "tr-534-06-000", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ同時多発テロ事件", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヨハネ・パウロ2世が亡くなった年は?", + "id": "tr-534-06-001", + "answers": [ + { + "text": "2005年", + "answer_start": 249, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "カトリック系のジャーナリストのジョン・L・アレンによれば、ベルゴリオは2005年のコンクラーヴェにおいて、新教皇の有力候補の一人であったという。\n2005年9月、少数の枢機卿による非公式の日誌が公表され、そこでは、ベルゴリオ枢機卿が、新教皇の最有力候補であったラッツィンガー枢機卿の主要な挑戦者として取り沙汰されていた。\n件の日誌では、3回目の投票でベルゴリオは40票を獲得し、4回目にして最後の投票で26票と数を落としたと主張されている。\nイタリアの有力紙『ラ・スタンパ』は、選挙の間、ラッツィンガー枢機卿に対してベルゴリオ枢機卿が譲歩の姿勢に終始していたとし、ベルゴリオ枢機卿が枢機卿団に対して自分に投票しないようにと感情的な請願を出すにまで至ったと報じている。\n結局、このコンクラーヴェでは、ベルゴリオの得票数はラッツィンガー枢機卿の次席となり、勝者となったラッツィンガー枢機卿は教皇ベネディクト16世として2013年まで在位した。", + "qas": [ + { + "question": "ベルゴリオへの投票数が多かったのは3回目と4回目のどちらでしたか?", + "id": "tr-534-07-000", + "answers": [ + { + "text": "3回目", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ベルゴリオの次に投票数が良かった人は誰でしたか?", + "id": "tr-534-07-001", + "answers": [ + { + "text": "ラッツィンガー", + "answer_start": 359, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2005年の司教の教会会議で、次回教会会議のメンバーに選ばれた。\nまた、同年11月8日に、ベルゴリオはアルゼンチンの司教の多数によってアルゼンチン司教会議の議長(任期3年)に選出され、さらに2008年の11月11日には、議長に再選された。\n枢機卿選出後のアルゼンチン国内での意見は分かれていた。\nベルゴリオを支持する者はその禁欲的な生活を尊敬するが、同性結婚に関する彼の意見に拒絶反応を示したり、1970年代の軍事独裁政権に対する批判を不十分として遺憾とする者もいた。\n未婚の母やエイズ患者に手をさしのべて社会正義を実現しようとする革新的施策を打ち出す一方で、妊娠中絶や避妊に反対する保守的な立場をとる新教皇について、アルゼンチンの歴史家エルサ・ブルソネは「保守と改革の両面性を持つ」と分析している。", + "qas": [ + { + "question": "ベルゴリオを「保守と改革の両面性を持つ」人物として分析した人は誰でしたか?", + "id": "tr-534-08-000", + "answers": [ + { + "text": "エルサ・ブルソネ", + "answer_start": 319, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ベネディクト16世が2013年2月28日をもって辞任したことを受け、その後継を選ぶために同年3月12日より実施されたコンクラーヴェにおいて、翌3月13日、新教皇の選挙権を持つ80歳未満の枢機卿115名による5回目の投票で新教皇に選出された。\nコンクラーヴェ開始前、ベルゴリオはすでに76歳と高齢であり、マスコミからは新教皇の有力候補とは見做されていなかった。\nそのため、新教皇としてベルゴリオの名前が発表された時には、各国のマスコミは大きな驚きをもって彼の名前を報道した。\n彼はマスコミの事前予想を完全に覆し、新教皇の選出に必要とされる枢機卿全体の3分の2を大きく上回る90票以上の得票をもって選出されたという。", + "qas": [ + { + "question": "2013年3月12日に行われたコンクラーヴェで、最も投票数が多かった人物は誰でしたか?", + "id": "tr-534-09-000", + "answers": [ + { + "text": "ベルゴリオ", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ベネディクト16世の次に教皇の座に就いたのは誰でしたか?", + "id": "tr-534-09-001", + "answers": [ + { + "text": "ベルゴリオ", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ベネディクト16世の後任として選出された枢機卿は何名でしたか?", + "id": "tr-534-09-002", + "answers": [ + { + "text": "115名", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "教皇の紋章銘であるラテン語の“Miserandoatqueeligendo”(憐れみをかけ、そして選び出す)は、聖ベーダ・ヴェネラビリスの説教の言葉から取られている。\n聖書時代には蔑まれていた徴税人という職業に就いていたマタイに関し、聖ベーダは次のように解説している。\n「イエスは徴税人(マタイ)を見つめて『憐れみ、そして選ばれ』、わたしについて来なさいと言った」。\nつまり、イエスは慈しまれ(miserando)、そしてマタイを選んだ(eligendo)わけだが、このマタイの召命に関して、それは「因習的な感覚から離れた、慈悲に基づく人間への深い理解からだった」と新教皇は説明している。\nマタイの召命にまつわる紋章銘が選ばれたのは、1953年の聖マタイの祝日に、17歳の青年ベルゴリオが修道生活への召命を受ける特別な体験が深く関係しているという。", + "qas": [ + { + "question": "教皇の紋章銘は何ですか?", + "id": "tr-534-10-000", + "answers": [ + { + "text": "“Miserandoatqueeligendo”", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "“Miserandoatqueeligendo”の日本語での意味は?", + "id": "tr-534-10-001", + "answers": [ + { + "text": "憐れみをかけ、そして選び出す", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "フランシスコは史上初のアメリカ大陸出身のローマ教皇であり、史上初のイエズス会出身の教皇である。\n長らく日本で教鞭を執っていて、就任当時はイエズス会総長を務めていたアドルフォ・ニコラスは「我々がいま知ることになった教皇の『フランシスコ』という名前は、貧しい人々への近さという福音的精神、素朴な人々との一体感、そして教会刷新への献身を想起させるものである」とし、その「質素、謙虚さ、豊富な司牧経験と霊的深さ」を称賛して、イエズス会初の教皇選出を歓迎した。\nなおイエズス会ということで修道司祭出身者が教皇に就いたわけだが、これはグレゴリウス16世以来167年ぶりであった。", + "qas": [ + { + "question": "フランシスコは2つの項目において史上初のローマ教皇となったが、1つはイエズス会出身であり、もう1つは何ですか?", + "id": "tr-534-11-000", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ大陸出身", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "イエズス会出身で初めてローマ教皇になった人は誰でしたか?", + "id": "tr-534-11-001", + "answers": [ + { + "text": "フランシスコ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "さらにヨーロッパ以外の地域の出身者がローマ教皇に就くのは、シリア出身の第90代のグレゴリウス3世(在位:731年3月18日-741年11月28日)の死去以来、1272年ぶりである。\nまた初めて「フランシスコ」を名乗るローマ教皇でもある。\nイタリア系アルゼンチン人であるベルゴリオ枢機卿が新教皇に選ばれたのは、「新教皇はヨーロッパ以外の出身者を」という時代の要請と「新教皇はヨハネ・パウロ1世以来35年ぶりにイタリア人から」というバチカンのおひざ元イタリアの願望の折衷案ではないかとする指摘がある。\nこの選挙結果に関しては、カトリック教会の国際化の表れであり大きな変化だと捉える意見と、アルゼンチンは南米で最もヨーロッパ的な国でありフランシスコはヨーロッパの伝統を継承した白人であるので、ベルゴリオが教皇に就任しても、ヨーロッパ人の伝統的な宗教としてのカトリック教会の性格に変化はないととらえる二つの対極的な意見がある。", + "qas": [ + { + "question": "フランシスコは何年ぶりにヨーロッパ以外の地域出身者としてローマ教皇に就きましたか?", + "id": "tr-534-12-000", + "answers": [ + { + "text": "1272年", + "answer_start": 79, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "グレゴリウス3世が亡くなったのはいつでしたか?", + "id": "tr-534-12-001", + "answers": [ + { + "text": "741年11月28日", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "またベルゴリオは、教皇の辞任という600年ぶりの異例の中で開催されたコンクラーヴェで選出された教皇である。\nこのような「異例ずくめ」は、教皇選出後に信徒に向かっての第一声「ウルビ・エト・オルビ」(ローマの聴衆と全世界に向けて授ける祝福)にも表れた。\nまず彼は人々の前に純白のケープ付きキャソックとカロッタのみ、すなわち「普段着」のまま現れたのである。\n「兄弟姉妹の方々、こんばんは。...ご存じのようにコンクラーヴェの義務はローマに司教を与えることですが、兄弟である枢機卿団は、ローマの司教を得るために世界の果てまで行ってきたようです」「何よりもまず、名誉教皇ベネディクト16世に主の祝福と聖母のご加護がもたらされるように祈りましょう」と、彼は、自分がヨーロッパ以外の出身であることに言及し、さらに辞任した前教皇への気遣いを示した。", + "qas": [ + { + "question": "教皇選出後に信徒に向かっての第一声を何といいますか?", + "id": "tr-534-13-000", + "answers": [ + { + "text": "「ウルビ・エト・オルビ」", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ウルビ・エト・オルビ」を行った時、フランシスコはどのような服装で臨みましたか?", + "id": "tr-534-13-001", + "answers": [ + { + "text": "普段着", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "「私たちはこのローマ教会の旅路を、兄弟愛と愛と信頼とによって、司教と信徒とが一緒になって歩み始めます。大いなる兄弟愛を以って世界中で共に祈り合いましょう。この道は必ずや新しい福音宣教の実を結びます」と司教と信徒との協働を宣言した。\nさらに「いまここに、私は皆さまに祝福を与えたいと思います。ですがその前に、皆さまにお願いがあります。新しいローマ司教たる私が人々を祝福する前に、主が私を祝福してくださるように皆さまに祈ってほしいのです。これは新しいローマ司教の祝福を求める人々の祈りであります」と信徒に祈りを求めることで「信徒に支えられる司教」という自分の立場を明らかにした。\nこれに応じたサンピエトロ広場の信徒らとともに頭を垂れ、沈黙の祈りのうちに主からの祝福を受けた。\nここでストラをつけて、「それでは、(信徒の)皆さまと全世界の善男善女(の皆様)に祝福を与えます」と最初の祝福を与えた。\n祝福のあとで再びマイクを求め、「明日は私はマリアのお祈りに行きます。皆さまはお体を気を付つけて。おやすみなさい」と締めくくった。\nサン・マルタ館への帰路では枢機卿団のマイクロバスに同乗し、車内では「あなたがたの為した行い(自分の選出)を神がお赦しになるように」と枢機卿団に語りかけた。", + "qas": [ + { + "question": "信徒への第一声が終わった後にフランシスコが向かった施設はどこ?", + "id": "tr-534-14-000", + "answers": [ + { + "text": "サン・マルタ館", + "answer_start": 461, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "翌3月14日に「教皇フランシスコ」がしたことは前日の宣言通りサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂への巡礼であった。\nその帰路、コンクラーヴェ前の宿泊に使用していたホテルに立ち寄って荷物を引き取ったが、その際に代金の支払いを自腹でしている(立て替え払いが慣例であるが、聞き入れなかったという)。\nまた、午前中にイエズス会本部に直接電話をかけアドルフォ・ニコラス総長に教皇選出のお祝いの手紙の返礼をした。\nメディアに対しての初の会見では、「私は貧しい人々による貧しい人々のための教会を望む」と語った。", + "qas": [ + { + "question": "3月14日にフランシスコはどこに向かいましたか?", + "id": "tr-534-15-000", + "answers": [ + { + "text": "サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "3月14日の午前に、フランシスコは誰に電話をしたの?", + "id": "tr-534-15-001", + "answers": [ + { + "text": "アドルフォ・ニコラス", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "3月17日、選出後初めての日曜日、バチカン市国内の聖アンナ教会の説教において、「姦通の女」(ヨハネ8:1-11)の個所を引用し、「イエスは蔑みの言葉も、断罪の言葉も言いません。わたしたちが聞くのは、ただ愛の言葉、回心に招く憐れみの言葉だけです」と述べ、他者の振る舞いを非難したり断罪することではなく、「神の慈しみ」こそが世界を変えると力説した。\n正午には教皇として日曜日恒例の「お告げの祈り」に臨み、サン・ピエトロ広場に集まった15万人の信徒に「神は慈悲を与え続ける...神は慈悲を与えることにうんざりすることはない。うんざりするのは我々のほうだ」とユーモアを交えながら慈悲と寛容について説いた。\n同日、フランシスコは9言語のTwitterアカウントを用いて「親愛なる友よ、心から感謝します。私のために祈り続けてください。教皇フランシスコ」と投稿した。\n新���皇のフォロワー(読者)は、2013年4月17日時点で、英語版、スペイン語版を中心に合計で500万人以上にのぼった。", + "qas": [ + { + "question": "教皇選出後の初めての日曜日は何月何日でしたか?", + "id": "tr-534-16-000", + "answers": [ + { + "text": "3月17日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "聖アンナ教会で、フランシスコは聖書のどの部分を引用して説教したの?", + "id": "tr-534-16-001", + "answers": [ + { + "text": "「姦通の女」", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "3月17日の正午には何人の信徒がサン・ピエトロ広場に集まったの?", + "id": "tr-534-16-002", + "answers": [ + { + "text": "15万人", + "answer_start": 214, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "2013年4月17日時点で、フランシスコのフォロワーは何人にのぼりましたか?", + "id": "tr-534-16-003", + "answers": [ + { + "text": "500万人以上", + "answer_start": 423, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ドイツの有力紙『南ドイツ新聞』は、「段ボールで寝る浮浪者は、これまでとは違う意味を持つ」として、「貧しさ」の福音的意味を強調する新教皇誕生の意義を考察し、薬物依存者更生施設で足を洗い、その足に接吻するキリスト教界最高位の聖職者の写真を掲載した。\nカトリック・ラジオ・テレビセンター(CCRT)のディレクター、ベルナール・リツレー氏は「イエズス会出身の司教を教皇に選んだことは聖イグナチウス、聖フランシスコの霊性に再び価値を置くことを意味する。教会では、キリスト教の精神性の中に原理的なものを再発見しようとしている」と語った。\nカトリックがメインストリームではない(カトリックはヒスパニック、アイルランド系アメリカ人、イタリア系アメリカ人、ポーランド系アメリカ人などに多い)アメリカ合衆国のバラク・オバマ大統領は「アメリカの強さを見せた」とアメリカ州初のローマ教皇の誕生に触れ祝意を表した。", + "qas": [ + { + "question": "アメリカ州初のローマ教皇の誕生を祝福した、当時のアメリカ大統領は誰でしたか?", + "id": "tr-534-17-000", + "answers": [ + { + "text": "バラク・オバマ", + "answer_start": 344, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "またアルゼンチンの隣国で歴史的にライバル関係にあるブラジルのジルマ・ルセフ大統領は「なんと素晴らしい方が教皇に選ばれて、アルゼンチン国民の皆様は幸せでしょう。でも私たちはかねがねこう申しています。教皇がアルゼンチン人でも、神様はブラジル人にちがいない」と、ユーモアを交えて祝意を表した。\n一方で、フォークランド諸島の領有権を巡ってアルゼンチンとフォークランド紛争を抱えるイギリスは、バチカンの元首にアルゼンチン人が就任したことに警戒感を示し、デーヴィッド・キャメロン首相は「教皇聖下には先ごろの行われたフォークランド諸島の帰属に関する住民投票の結果を尊重するように」と釘をさした。\nこれに関してはアルゼンチン政府は、アルゼンチン人教皇の誕生はフォークランド諸島問題に関してアルゼンチンに有利に働くと認識し、クリスティーナ・キルチネル大統領はそれまでのベルゴリオ枢機卿との対立とは打って変わり、すぐにバチカンを訪問し、バチカンの元首、教皇フランシスコとなったベルゴリオに謁見した", + "qas": [ + { + "question": "新教皇に祝意を示した、当時のブラジル大統領は誰でしたか?", + "id": "tr-534-18-000", + "answers": [ + { + "text": "ジルマ・ルセフ", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "フォークランド紛争はアルゼンチンとどの国の争い��すか?", + "id": "tr-534-18-001", + "answers": [ + { + "text": "イギリス", + "answer_start": 185, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アルゼンチンとイギリスはどこの地域の領有権を巡って争っていますか?", + "id": "tr-534-18-002", + "answers": [ + { + "text": "フォークランド諸島", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "新教皇に警戒感を示した、当時のイギリスの首相は誰でしたか?", + "id": "tr-534-18-003", + "answers": [ + { + "text": "デーヴィッド・キャメロン", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "日本では、上智大学神学部の山岡三治教授が「ベルゴリオ枢機卿の出身地の中南米は最大の信者を抱え、貧困問題もあり、大国を近くで冷静に見ている。環境問題や幼児虐待で、化学や心理学などにも通じる彼は最適任者だ」と歓迎の意を表し、「アッシジのフランチェスコは環境保護の聖人でもある。新法王は、貧しさや自然を愛する基本に戻ろうとしているのではないか。その人格で信用をつかみ、新たな教会を築いて欲しい」と述べて、新教皇への期待を表明した。\nさらに、池長潤大司教は「教皇フランシスコは、全教会の賢明かつ力強い牧者としてわたしたちの働きを導き支え助けてくださることと確信します」と、日本カトリック司教協議会を代表して声明を発した。\nまた、アルゼンチンでの神学生時代に新教皇の指導を受けた「日本二十六聖人記念館」館長のレンソ・デ・ルカ師は、「厳しいのは厳しいのですが、同時にとても人に理解があり、霊的指導者としても素晴らしい人。神学生が自立するよう促し、自分で考えるよう導いてくれました」と、その人柄と卓越した指導力を回顧している。\n江戸初期にローマへ渡り、帰国後殉教した日本人のイエズス会士、ペトロ岐部の故郷である国東市立熊毛小学校(大分県)の児童44名が、3月29日に就任祝いの手紙をバチカンへ送った。\n同校には5月20日、教皇庁から返事が届けられた。", + "qas": [ + { + "question": "江戸初期にローマへ渡り、帰国後殉教した日本人のイエズス会士とは誰?", + "id": "tr-534-19-000", + "answers": [ + { + "text": "ペトロ岐部", + "answer_start": 487, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "国東市立熊毛小学校に教皇庁から返事が来たのはいつでしたか?", + "id": "tr-534-19-001", + "answers": [ + { + "text": "5月20日", + "answer_start": 548, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "新教皇への期待を表明した日本の教授は誰ですか?", + "id": "tr-534-19-002", + "answers": [ + { + "text": "山岡三治", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "レンソ・デ・ルカ師はどこの施設の館長を務めていましたか?", + "id": "tr-534-19-003", + "answers": [ + { + "text": "「日本二十六聖人記念館」", + "answer_start": 334, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "まぼろし博覧会", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "出版関係を中心に「ねこの博物館」「怪しい少年少女博物館」など博物館事業にも力を入れているデータハウスが、閉園した熱帯植物園「伊豆グリーンパーク」跡地で計画と整備を進め、2000年代初めから土地の所有者と交渉を重ねた。約10年の交渉の末、2011年2月に土地と建物を購入し、同2011年7月16日に「まぼろし博覧会」が開館した。伊豆グリーンパークは、敷地面積約1万4500平方メートルに10の温室があり、高さ10メートル以上の温室2つを取り壊し、残りを修理して利用された。改装費は1億5000万円が費やされた。工期3か月間と短期間だが、これは同2011年の東日本大震災の影響もあった。\n\n約10年の交渉の間にも、三重県にあった元祖国際秘宝館や鎌倉シネマワールドなど、閉館する秘宝館やテーマパークの展示物を買い取って倉庫に収めていた。その数はトラック約100台分に昇った。秘宝館から引き取った際は、トラックで7回かけて運搬し、外車1台分ほどの費用を費やしたという。\n\n先述のレトロテーマパーク「怪しい少年少女博物館」とは、姉妹館にあたる。「怪しい少年少女博物館」は敷地面積に限界があり、入り切らない展示物があった上、展示を細かく修正しても誰も気づかないため、新たに広い場所を要したことも、本館の開館の理由の一つに挙げられる。", + "qas": [ + { + "question": "「伊豆グリーンパーク」と「まぼろし博覧会」とどちらの方が後に開館したの?", + "id": "tr-535-00-000", + "answers": [ + { + "text": "「まぼろし博覧会」", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "「まぼろし博覧会」のコンセプトは「キモ可愛い」であり、公式ウェブサイトの各ページにも「キモ可愛いパラダイス」「キモ可愛いの楽園」「アホとボケの楽園」など、怪しげな文句が並んでいる。他にも「アンポンタン共和国」「怪しい秘密基地」など、多くの異名を持つ。\n\n館長の鵜野義嗣によれば、世間には面白いものが多数あるが、いずれはすべてが無くなると考え、昭和の家具や食器、新聞の折り込み広告に至るまで、日常で目にする普遍的なものから、あまり見かけない極端な物まで、現実の社会にあったものは全部集めたいと思って始めたという。\n\n全体のコンセプトは、先述の「怪しい少年少女博物館」と同じだが、おたくや懐古趣味を持つ客向けでコレクターの世界とされる同館に対し、本館は子供から老人まで、1人残らず笑顔にしようとの狙いがある。つまり仲間内だけに褒めてもらうのではなく、知らない人、興味のない人への挑戦であり、多くの人を楽しませることが狙いとされる。", + "qas": [ + { + "question": "「アンポンタン共和国」、「怪しい秘密基地」は全部何を指しますか。", + "id": "tr-535-01-000", + "answers": [ + { + "text": "「まぼろし博覧会」", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "まぼろし博覧会の館長は誰なの?", + "id": "tr-535-01-001", + "answers": [ + { + "text": "鵜野義嗣", + "answer_start": 130, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「怪しい少年少女博物館」と「まぼろし博覧会」と、より広い範囲の観覧客を目指して建てられたのはどっちなの?", + "id": "tr-535-01-002", + "answers": [ + { + "text": "「まぼろし博覧会」", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "「まぼろし博覧会」の館内は「密林にたたずむ大仏と古代文明」「昭和の時代を通り抜け」「悪酔い横町」「魔界神社・祭礼の夕べ」の4つのエリアゾーンに大きく分かれている。来園者は基本的に、順路に従ってエリアを巡る。エリアごとに非常に奇怪、過剰、シュールな展示な並んでおり、それらの深みが先に行くほどに増してゆく。\n\n\n\n入館前の通路、つまり入館料を払う前の無料の時点でも、元祖国際秘宝館のマスコットであった「秘宝おじさん」を改造した人形、「トモダチ神社」と称する宇宙人のような人形、「美少女神社」の立札と共にセーラー服姿のゴリラの人形、2人の女を抱く男の人形「二股神社」、カビだらけの婦人警官の人形、「雨ガッパを来たカッパ」と誤字のままの看板など、奇妙な展示が多数並ぶ。入口の前の時点で来園者が唖然としていたとの声もある。", + "qas": [ + { + "question": "「まぼろし博覧会」の館内には大きく、幾つのエリアゾーンが存在しますか。", + "id": "tr-535-02-000", + "answers": [ + { + "text": "4つ", + "answer_start": 61, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「まぼろし博覧会」の館内は「密林にたたずむ大仏と古代文明」、「昭和の時代を通り抜け」、「悪酔い横町」、そして何があるの?", + "id": "tr-535-02-001", + "answers": [ + { + "text": "「魔界神社・祭礼の夕べ」", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "温室で育てられた熱帯植物が生い茂る中で、ピラミッド、ストーンヘンジ、エジプト神話の神々、モアイ、日本の城などの模型が無造作に展示されているエリアである。時代の時系列に沿っての表現がある一方で、時代も地域もバラバラになっている展示もある。\n\nまぼろし博覧会の象徴的存在とされ、鵜野の最も推奨する展示物が、巨大な聖徳太子像である。全高11.5メートルにおよび、その頭頂は館の天井にまで届く。パンフレットによれば世界最大ともされる。鵜野によれば、別のイベントで使われた大仏の美術品を貰い受けて聖徳太子に改造したもので、購入費は2000万円、建設費約1000万円という。館内には12個に小さく分割して運び入れたが、それでも大きすぎたために、頭頂部分が削り取られており、その削り取った頭頂部分も別の場所に無造作に展示されている。\n\n子供にトラウマを与えるようなオブジェも多く、地元民の中には「悪いことするとまぼろしに連れていくよ」と子供を躾ける親もいるという。", + "qas": [ + { + "question": "まぼろし博覧会の巨大な聖徳太子像は高さは?", + "id": "tr-535-03-000", + "answers": [ + { + "text": "11.5メートル", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "イタイイタイ病", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "神通川下流域である富山県婦負郡婦中町(現・富山市)において、1910年代から1970年代前半にかけて多発した。\n\n病名の由来は、患者がその痛みに「痛い、痛い!」と泣き叫ぶことしかできなかったから。1955年(昭和30年)に地元の開業医である萩野昇を地元『富山新聞』記者の八田清信が取材に訪れた際、看護婦が患者を「イタイイタイさん」と呼んでいると聞き、「そのままいただいて『いたいいたい病』としては?」と提案したことによる。1955年(昭和30年)8月4日の同紙社会面で初めて病名として報じられた。", + "qas": [ + { + "question": "1955年、富山の開業医萩野昇を取材した新聞社は?", + "id": "tr-536-00-000", + "answers": [ + { + "text": "『富山新聞』", + "answer_start": 126, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1955年、萩野昇を取材しに来た新聞記者の名前は何ですか?", + "id": "tr-536-00-001", + "answers": [ + { + "text": "八田清信", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「イタイイタイ病」が初めて病名として報じられたのはどこの新聞社か?", + "id": "tr-536-00-002", + "answers": [ + { + "text": "『富山新聞』", + "answer_start": 126, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「イタイイタイ病」が病名として報じられた最初の日付けはいつですか?", + "id": "tr-536-00-003", + "answers": [ + { + "text": "8月4日", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1955年、清信さんが萩野さんの取材に行った時、患者を「イタイイタイさん」と呼んだのは誰ですか?", + "id": "tr-536-00-004", + "answers": [ + { + "text": "看護婦", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "カドミウムによる多発性近位尿細管機能異常症と骨軟化症を主な特徴とし、長期の経過をたどる慢��疾患を発症する。カドミウム汚染地域に長年住んでいてこの地域で生産された米や野菜を摂取したり、カドミウムに汚染された水を飲用したりするなどの生活歴による。\n\n初期は、多発性近位尿細管機能異常症を示す検査所見で、多尿・頻尿・口渇・多飲・便秘の自覚症状が現れる人もいる。多発性近位尿細管機能異常症が進行すると、リン酸、重炭酸再吸収低下による症状が出現し、骨量も次第に減少する。この頃から立ち上がれない、力が入らないなどの筋力低下が見られるようになる。さらに進行すると歩行時の下肢骨痛、呼吸時の肋骨痛、上肢・背部・腰部などに運動痛が出現する。最終的には骨の強度が極度に弱くなり、少しでも身体を動かしたり、くしゃみしたり、医師が脈を取るために腕を持ち上げたりするだけで骨折。その段階では身体を動かすことが出来ず、寝たきりとなる。\n\nまた、多発性近位尿細管機能異常症と同時に、腎機能も徐々に低下して、末期には腎機能は荒廃し、腎不全になる。貧血が顕著になり、皮膚は暗褐色になる。活性ビタミンD生産障害による腸管からのカルシウム吸収が低下する。その結果、血清カルシウムが低下し、著しい場合にはテタニーが起きる。\n\n骨がもろくなり、ほんの少しの身体の動きでも骨折してしまう。被害者は主に、出産経験のある中高年の女性であるが、男性の被害者も見られた。ほぼ全員が稲作などの農作業に長期に渡って従事していた農家で、自分で生産したカドミウム米を食していた。このような症状を持つ病は世界にもほとんど例がなく、発見当初、原因は全く不明であった。風土病あるいは業病と呼ばれ、患者を含む婦中町の町民が差別されることもあったとされている。\n\n骨軟化症は、ビタミンDの大量投与により、ある程度症状は和らぐとされるが、ビタミンD入りのビタミン剤を購入出来るだけの金銭的余裕のある患者は、当時は少なかった。また、この治療では多発性近位尿細管機能異常症は改善されないため、骨軟化症がしばしば再発する。", + "qas": [ + { + "question": "イタイイタイ病を起こす原因物質は何ですか?", + "id": "tr-536-01-000", + "answers": [ + { + "text": "カドミウム", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "イタイイタイ病の賞状として多発性近位尿細管機能異常症と何が挙げられますか?", + "id": "tr-536-01-001", + "answers": [ + { + "text": "骨軟化症", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イタイイタイ病の初期、示される検査所見はどうですか?", + "id": "tr-536-01-002", + "answers": [ + { + "text": "多発性近位尿細管機能異常症", + "answer_start": 127, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "骨量の減少はどの症状によるものですか?", + "id": "tr-536-01-003", + "answers": [ + { + "text": "リン酸、重炭酸再吸収低下", + "answer_start": 197, + "answer_type": "Manner" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イタイイタイ病の進行中、歩行中に現れる症状は?", + "id": "tr-536-01-004", + "answers": [ + { + "text": "下肢骨痛", + "answer_start": 279, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "イタイイタイ病の筋肉低下と、さらに進行すると呼吸時に感じる痛みは?", + "id": "tr-536-01-005", + "answers": [ + { + "text": "肋骨痛", + "answer_start": 288, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "腎機能の低下により、末期に訪れる症状は何ですか?", + "id": "tr-536-01-006", + "answers": [ + { + "text": "腎不全", + "answer_start": 451, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "活性ビタミンD生産障害により低下する機能は何です���?", + "id": "tr-536-01-007", + "answers": [ + { + "text": "カルシウム吸収", + "answer_start": 496, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "腎機能が低下し、貧血に伴い皮膚色がどういう色に変貌しますか?", + "id": "tr-536-01-008", + "answers": [ + { + "text": "暗褐色", + "answer_start": 470, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "血清カルシウム低下が著しくなった場合、どういう症状が出ますか?", + "id": "tr-536-01-009", + "answers": [ + { + "text": "テタニー", + "answer_start": 533, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イタイイタイ病の主な女性被害者は何ですか?", + "id": "tr-536-01-010", + "answers": [ + { + "text": "出産経験のある中高年の女性", + "answer_start": 580, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "骨軟化症の緩和のため投与する栄養素は?", + "id": "tr-536-01-011", + "answers": [ + { + "text": "ビタミンD", + "answer_start": 754, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ビタミンDの投与で解決されない症状は何ですか?", + "id": "tr-536-01-012", + "answers": [ + { + "text": "多発性近位尿細管機能異常症", + "answer_start": 836, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "神岡鉱山から排出されたカドミウムが神通川水系を通じて下流の水田土壌に流入・堆積して起きる。汚染実態を把握するため、富山県は1971年から1974年にかけ、「農用地汚染防止法」に基づいて、細密検査と補足検査を実施した。汚染面積は神通川左岸で1,480ha、右岸で1,648haの計3,128haで、そのうち1,500.6haが対策地域に指定された。\n\nカドミウム汚染田は、神通川によって形成された扇状地にある。右岸は熊野川、左岸は井田川に囲まれる範囲で、八尾町(現:富山市八尾町)以外の地域は「イタイイタイ病指定地域」に含まれる。対策地域内の平均カドミウム濃度は表層土で1.12ppm、次層土で0.70ppmと、深くなるにつれて濃度は低下する。特に、上流部に分布する洪積扇状地では、平均2.0ppmと非常に濃度が高い。\n\n土壌中のカドミウム濃度と玄米中カドミウム濃度の間には相関関係が認められず、土壌中のカドミウム含量が低くても高濃度の汚染米が出現しやすい。上記の調査では、食品衛生法の基準である玄米中のカドミウム汚染米が230地点の水田で検出されていることから、これらの水田では、三井金属鉱業の補償によって作付けが停止されてきた。また、カドミウム濃度が0.4ppm以上1.0ppm未満の米は、政府が「準汚染米」として全て買い上げている。買い上げ後は食用にしないで破砕し、ベンガラで着色し、工業用糊の原料として売却されていた。", + "qas": [ + { + "question": "カドミウムはどこから排出されたものですか?", + "id": "tr-536-02-000", + "answers": [ + { + "text": "神岡鉱山", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "富山県で1971年から1974年まで実施した調査が根拠にしている法は何ですか?", + "id": "tr-536-02-001", + "answers": [ + { + "text": "「農用地汚染防止法」", + "answer_start": 77, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1974年まで実施された調査による汚染面積は計どのくらいですか?", + "id": "tr-536-02-002", + "answers": [ + { + "text": "3,128ha", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "富山県から行われた調査結果、対策地域として指定された面積はどのくらい?", + "id": "tr-536-02-003", + "answers": [ + { + "text": "1,500.6ha", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "富山県指定、「イタイイタイ病指定地域」の面積はいくらですか?", + "id": "tr-536-02-004", + "answers": [ + { + "text": "1,500.6ha", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「イタイイタイ病指定地域」の表層土で平均カドミウム濃度はいくらですか?", + "id": "tr-536-02-005", + "answers": [ + { + "text": "1.12ppm", + "answer_start": 284, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "対策地域内、次層土で計測される平均カドミウム濃度は何ppmですか?", + "id": "tr-536-02-006", + "answers": [ + { + "text": "0.70ppm", + "answer_start": 296, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "政府で買い上げる、カドミウム濃度が0.4ppm以上1.0ppm未満の米の名称は何ですか?", + "id": "tr-536-02-007", + "answers": [ + { + "text": "「準汚染米」", + "answer_start": 549, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「準汚染米」は着色し工業用糊の原料として使われるが、着色に使われる成分は何ですか?", + "id": "tr-536-02-008", + "answers": [ + { + "text": "ベンガラ", + "answer_start": 585, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "裁判の過程で、神通川上流の高原川に三井金属鉱業神岡鉱山亜鉛精錬所から鉱廃水に含まれて排出されたカドミウム(Cd)が原因と断定された。神岡鉱山から産出する亜鉛鉱石は閃亜鉛鉱という鉱物で、不純物として1%程度のカドミウムを含んでいる(閃亜鉛鉱は現在の亜鉛鉱山におけるもっとも主要な鉱物であり、天然に産するものであれば大なり小なりカドミウムを含む)。\n\n16世紀末、豊臣秀吉に仕えた金森長近は飛騨平定を行い、天正4年(1586年)に越前大野から飛騨に転封となり積極的に鉱山開発を行った。金森氏は茂住宗貞という鉱山師を得て、茂住・和佐保銀山の鉱山経営を始めたと伝えられる。神通川上流域では江戸時代から銅、銀、鉛などを生産しており、生産は小規模だったものの、当時から周辺の農業や飲料水に被害が出ていたという記録がある。明治維新になってから経営主体が明治政府に移ったが、すぐに三井組が本格経営を開始して三井組神岡鉱山稼行となった。日露戦争を契機に非鉄金属が注目されて生産量が大幅に増加し、その後も日中戦争や太平洋戦争、戦後の高度経済成長による増産で大量の廃物が放出され、周辺の地域だけではなく下流域の農業や人体にも被害を与えた。1886年(明治19年)の三井組による全山統一から1972年(昭和47年)のイタイイタイ病裁判の判決までに廃物によるカドミウムの放出は854tと推定される。", + "qas": [ + { + "question": "三井金属鉱業神岡鉱山亜鉛精錬所はどこにありますか?", + "id": "tr-536-03-000", + "answers": [ + { + "text": "高原川", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "裁判で、事件の原因と判定された物質は何ですか?", + "id": "tr-536-03-001", + "answers": [ + { + "text": "カドミウム", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "裁判でカドミウムが排出されたのはどこからだと判定されましたか?", + "id": "tr-536-03-002", + "answers": [ + { + "text": "神岡鉱山亜鉛精錬所", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "神岡鉱山から産出される亜鉛鉱石の名前は?", + "id": "tr-536-03-003", + "answers": [ + { + "text": "閃亜鉛鉱", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "当時、神岡鉱山亜鉛精錬所を運営していた会社名は何ですか?", + "id": "tr-536-03-004", + "answers": [ + { + "text": "三井金属鉱業", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "金森長近が飛騨平定を行い、鉱山開発に取り掛かったのは何年のことか?", + "id": "tr-536-03-005", + "answers": [ + { + "text": "1586年", + "answer_start": 206, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "明治維新で当鉱山の経営権は最初にどこに移りましたか?", + "id": "tr-536-03-006", + "answers": [ + { + "text": "明治政府", + "answer_start": 369, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "明治維新の時、神岡鉱山の本格経営に関わった会社名は何ですか?", + "id": "tr-536-03-007", + "answers": [ + { + "text": "三井組", + "answer_start": 382, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1886年から1972年まで神岡鉱山から排出されたカドミウムの量はいくらですか?", + "id": "tr-536-03-008", + "answers": [ + { + "text": "854t", + "answer_start": 575, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "神通川以外に取水元のない婦中町(当時)では、カドミウムの溶出した水を農業用水(灌漑用水)や飲料水として使用してきた。また、カドミウムには農作物に蓄積される性質があるため、カドミウムを多量に含む米が収穫され続けた。この米を常食としていた農民たちは体内にカドミウムを蓄積することとなり、このカドミウムの有害性によりイタイイタイ病の症状を引き起こした。カドミウムは自然界にも一定の割合で存在し人体にも少量は含まれているものの、神通川流域で生産された米には非常に高濃度のカドミウムが含まれており、被害者の体内に蓄積されたカドミウムは基準値の数十倍から数千倍の濃度に達していた。\n\nカドミウムの毒性については長い間よくわかっておらず、また公害の発生当時カドミウムとイタイイタイ病に特有な症状との関連もはっきりとしていなかった。このため神岡鉱山側の対策が遅れ、公害を拡大させることとなった。なお、公害病認定後もしばらくの間、武内重五郎(東京医科歯科大学名誉教授)ら「ビタミンD不足説」を主張するグループが一定の勢力を有していた。世界中にカドミウム鉱山は存在するものの、神通川下流域以外では同様の症状が見られないこと、電線の被膜などに多くカドミウムが使われるが、工場労働者には同様の症状は見られないことなど、からカドミウムと症状との因果関係は科学的には不明であるものの、司法判断が科学に優越している状況であるといえる。また、カドミウムをイタイイタイ病の原因とする見解は、訴訟の中で状況証拠により「断定」されているのみで、化学的、生理学的証明は21世紀現在もなおされていないだけでなく、同様の症例やそれを証明する研究も、世界中のどこからも報告されていないとする主張が存在するが、カドミウムの毒性およびその症状は現在の医学では一般に知られている。", + "qas": [ + { + "question": "当時の婦中町の唯一の取水元はどこでしたか?", + "id": "tr-536-04-000", + "answers": [ + { + "text": "神通川", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イタイイタイ病が公害病認定後のしばらくの間、「ビタミンD不足説」を主張したのは誰ですか?", + "id": "tr-536-04-001", + "answers": [ + { + "text": "武内重五郎", + "answer_start": 406, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イタイイタイ病が公害病と認定された後も武内重五郎らが言い張った説は何ですか?", + "id": "tr-536-04-002", + "answers": [ + { + "text": "「ビタミンD不足説」", + "answer_start": 426, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "武内重五郎が名誉教授として在籍した大学名は?", + "id": "tr-536-04-003", + "answers": [ + { + "text": "東京医科歯科大学", + "answer_start": 412, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "鉱山以外、カドミウムがよく見られる品物は何ですか?", + "id": "tr-536-04-004", + "answers": [ + { + "text": "電線の被膜", + "answer_start": 502, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1920年(大正9年)、当時の上新川郡農会長であった金岡又左衛門が農商務大臣山本達雄と富山県知事東園基光に神岡鉱業所の鉱毒除去の建議書を提出したのが神通川流域の鉱毒被害の表面化の始まりである。建議書には「神岡鉱業所事業の勃興に伴い、土砂に流入する田地の稲は発育に変調をきたし、完全に登熟しない。鉱山経営者に対し除害施設を講ぜしめられたい。」と訴えられている。\n\nその後も同様に要望が婦負郡農会や富山県会からも出たため、東京鉱務署の調査があり、神岡鉱業所に廃砕・廃水処理の改善が命じられた。また、富山県は災害対策費として1ヶ所2円の県費補助金を出して、用水路幹線からの取水口に小沈殿池を設けさせて被害の軽減に努めた。これによって一時的に効果をあげたが、満州事変や日中戦争などに伴い神岡鉱業所が増産体制に入ったり、何度かの出水で小沈殿池が流されたり、埋没したりして以前にも増して泥や砂など流入が激しくなった。\n\n1948年(昭和23年)、熊野村(現:富山市婦中町)など3町4村の農家が神通川鉱毒対策協議会を結成。富山県を通じて交渉し、1951年(昭和26年)に神岡鉱業所が農業協力費を関係市町村へ支払うことになった。しかし、原因は解明されないままであった。", + "qas": [ + { + "question": "1920年、上新川郡農会長を務めた人物は誰ですか?", + "id": "tr-536-05-000", + "answers": [ + { + "text": "金岡又左衛門", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1920年に農商務大臣だった人物の名前は何ですか?", + "id": "tr-536-05-001", + "answers": [ + { + "text": "山本達雄", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1920年富山県の知事だった人の名は?", + "id": "tr-536-05-002", + "answers": [ + { + "text": "東園基光", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1920年神岡鉱業所の鉱毒除去の建議書を提出したのは誰ですか?", + "id": "tr-536-05-003", + "answers": [ + { + "text": "金岡又左衛門", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "鉱毒除去の建議書らの要望に応じて調査の主体はどこですか?", + "id": "tr-536-05-004", + "answers": [ + { + "text": "東京鉱務署", + "answer_start": 209, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "東京鉱務署の調査により、富山県は災害対策費として1ヶ所何円の補助金をもらいましたか?", + "id": "tr-536-05-005", + "answers": [ + { + "text": "2円", + "answer_start": 262, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1948年、3町4村の農家が公害に対抗し結成した組織の名前は何ですか?", + "id": "tr-536-05-006", + "answers": [ + { + "text": "神通川鉱毒対策協議会", + "answer_start": 440, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "神通川鉱毒対策協議会が結成されたのは何年か?", + "id": "tr-536-05-007", + "answers": [ + { + "text": "1948年", + "answer_start": 404, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "神岡鉱業所で農業協力費をもらったのは何年のことですか?", + "id": "tr-536-05-008", + "answers": [ + { + "text": "1951年", + "answer_start": 465, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1955年(昭和30年)8月4日、熊野村の開業医の萩野昇が執筆した「イタイイタイ病」を紹介する記事が『富山新聞』に掲載された。命名者も萩野である。この記事で萩野は「この病気は婦負郡中部および対岸の富山市南郊から上新川郡にかけての神通川本流水系に発生。患者はこの地域に長年住んでいる35歳から更年期にかけての女性が多い。症状は腰・肩・膝などの鈍痛に始まり、やがて大腿や上膊部の神経痛のような痛みとなり、進行すると少しの動作でも骨折するようになり、引き裂かれるような痛みを感じる。」と書いた。\n\nこの記事が発表された当初は、過労説や栄養失調説なども出された。しかし、1957年(昭和32年)12月に萩野は富山県医学会で「鉱毒説」を発表。さらに岡山大学の小林純らが患者の骨や内臓および神岡鉱業所の廃水や川水からカドミウムを検出したことを基に1961年(昭和36年)1月、萩野昇と農学者の吉岡金市がイタイイタイ病の原因はカドミウムであることを発表した。一方、1961年(昭和36年)12月に富山県、1963年(昭和38年)6月に厚生省及び文部省が独自に\n原因究明に乗り出す。\n\n1966年(昭和41年)9月に合同会議を開き、原因物質としてカドミウムの疑いが濃厚であるが、栄養上の障害も考えられる「カドミウムプラスアルファ説」を発表した。その後、富山県が住民に健康診断を行い、その診断結果に基づき富山県イタイイタイ病患者審査委員会は、1967年(昭和42年)3月に患者73人、要観察者150人を認定した。厚生省も日本公衆衛生協会に研究委託するなど原因究明に努めた。\n\n1968年(昭和43年)5月、厚生省は「イタイイタイ病の本態はカドミウムの慢性中毒による骨軟化症であり、カドミウムは神通川上流の神岡鉱業所の事業活動によって排出されたものである。」と断定した。これによってイタイイタイ病は政府によって認定された公害病の第1号になった。\n\n1970年(昭和45年)2月1日、健康被害救済法(公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法)が施行され、公害病患者96名が認定される。", + "qas": [ + { + "question": "1955年、「イタイイタイ病」を紹介する記事を執筆した人は誰ですか?", + "id": "tr-536-06-000", + "answers": [ + { + "text": "萩野昇", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1955年萩野昇執筆の「イタイイタイ病」を紹介する記事を掲載した新聞はどこですか?", + "id": "tr-536-06-001", + "answers": [ + { + "text": "『富山新聞』", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "萩野昇先生が「イタイイタイ病」の記事を書いたのは1955年の何月何日?", + "id": "tr-536-06-002", + "answers": [ + { + "text": "8月4日", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "萩野が1957年発表したイタイイタイ病の原因の説は何ですか?", + "id": "tr-536-06-003", + "answers": [ + { + "text": "「鉱毒説」", + "answer_start": 307, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "患者の体内および神岡鉱業所の廃水や川水からカドミウムを検出したのは誰ですか?", + "id": "tr-536-06-004", + "answers": [ + { + "text": "小林純", + "answer_start": 324, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "萩野昇と吉岡金市がイタイイタイ病の原因がカドミウムだと発表したのは何年ですか?", + "id": "tr-536-06-005", + "answers": [ + { + "text": "1961年", + "answer_start": 367, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1961年、萩野と共にイタイイタイ病を引き起こすのがカドミウムってことを発表した人の名は?", + "id": "tr-536-06-006", + "answers": [ + { + "text": "吉岡金市", + "answer_start": 390, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1966年に開かれた合同会議で発表された説とは?", + "id": "tr-536-06-007", + "answers": [ + { + "text": "「カドミウムプラスアルファ説」", + "answer_start": 543, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カドミウムへの疑いもあるが、栄養状の障害もあり得ると主張する説は何ですか?", + "id": "tr-536-06-008", + "answers": [ + { + "text": "「カドミウムプラスアルファ説」", + "answer_start": 543, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1967年、富山県イタイイタイ病患者審査委員会が認めたイタイイタイ病患者の数は?", + "id": "tr-536-06-009", + "answers": [ + { + "text": "73人", + "answer_start": 629, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1967年富山県のイタイイタイ病患者審査委員会で要観察者として認定した人は何人ですか?", + "id": "tr-536-06-010", + "answers": [ + { + "text": "150人", + "answer_start": 637, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "厚生省が原因究明のため研究委託を行った機関はどこですか?", + "id": "tr-536-06-011", + "answers": [ + { + "text": "日本公衆衛生協会", + "answer_start": 651, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "厚生省がイタイイタイ病の原因物質がカドミウムだと判定したのは何年のことですか?", + "id": "tr-536-06-012", + "answers": [ + { + "text": "1968年", + "answer_start": 679, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本で初めて政府によって公害病と認定された病名は何ですか?", + "id": "tr-536-06-013", + "answers": [ + { + "text": "イタイイタイ病", + "answer_start": 781, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1970年に施行された公害に関わる健康被害に関する特別法律の名はなんていうの?", + "id": "tr-536-06-014", + "answers": [ + { + "text": "健康被害救済法", + "answer_start": 831, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1966年(昭和41年)11月、被害者の家族や遺族らがイタイイタイ病対策協議会(略称:イ対協)を結成した。その後、イ対協は神岡鉱業所と交渉するも企業側の対応が冷ややかだったためイ対協の会長であった小松義久などは裁判で訴えることを決意する。\n\n1968年(昭和43年)1月、全国から集まった20人の弁護士によってイタイイタイ病訴訟弁護団を結成した。\n\n1968年(昭和43年)3月9日、患者・遺族28人が三井金属鉱業を相手に総額約6億3000万円の第1次訴訟を起こす。\n\n1971年(昭和46年)6月に第1審が原告勝訴の判決を下した。1審判決を不服とする三井金属鉱業は控訴したが、第2審も1972年(昭和47年)8月9日に原告側勝訴の判決となった。三井金属鉱業は上告を断念し、第2次以下の訴訟も判決内容にしたがって補償することを決めた。判決ではカドミウムの放流とイタイイタイ病とは因果関係があると断定した。三井金属鉱業は第5次訴訟まで総額23億5633万円の損害賠償金の支払い、農業被害の賠償と汚染土壌の復元義務、住民の立ち入り調査権を認めた公害防止協定書の締結の3点を内容とする和解に応じることとなった。", + "qas": [ + { + "question": "1966年、被害者の家族や遺族たちが結成した組織名は何ですか?", + "id": "tr-536-07-000", + "answers": [ + { + "text": "イタイイタイ病対策協議会", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1966年当時、イ対協の会長は誰ですか?", + "id": "tr-536-07-001", + "answers": [ + { + "text": "小松義久", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イタイイタイ病訴訟弁護団を結成したのは何年ですか?", + "id": "tr-536-07-002", + "answers": [ + { + "text": "1968年", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イタイイタイ病訴訟弁護団を結成した1968年に集まった弁護士は何人ですか?", + "id": "tr-536-07-003", + "answers": [ + { + "text": "20人", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1968年三井鉱業を相手に起こした訴訟は患者・遺族何人で起こしましたか?", + "id": "tr-536-07-004", + "answers": [ + { + "text": "28人", + "answer_start": 197, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1968年、三井鉱業を相手にした訴訟の総額はいくらでしたか?", + "id": "tr-536-07-005", + "answers": [ + { + "text": "約6億3000万円", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1971年、三井鉱業が第一審の後とった行動は?", + "id": "tr-536-07-006", + "answers": [ + { + "text": "控訴", + "answer_start": 283, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "三井金属鉱業が第5審まで損害賠償として支払った金額の総額はいくらですか?", + "id": "tr-536-07-007", + "answers": [ + { + "text": "23億5633万円", + "answer_start": 418, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "被害者側は判決確定を受け、三井金属鉱業に対して賠償や土壌汚染問題に関する誓約書や公害防止協定を結び、交渉をスタートさせた。医療救済については県や政府の補助に加え、1973年7月に三井金属鉱業と医療補償協定が締結されて、患者・要観察者への救済が始まった。また、1974年9月1日には「公害健康被害保障法」が施行され、国からの救済も始まった。\n\n土壌汚染については、1974年(昭和49年)8月に神通川左岸の67.4haが「農用地汚染防止法」に基づく汚染地域に指定されたのを皮切りに、最終的に1630haが汚染地域になった。1979年(昭和54年)から土壌復元事業が始まったものの、工法や費用の問題、農家の農業離れ、農地転用の問題などの難問が山積みになっているため、工事が遅れていたが、2012年3月17日に完了した。\n\n発生源対策として、公害防止協定に基づく立ち入り調査が1972年(昭和47年)から毎年1回行われている。1972年(昭和47年)には9ppbだったが、1975年(昭和50年)以後には1ppb台にまで減少している。\n\nしかし、2013年(平成25年)8月に神岡鉱業に近い岐阜県高山市などで豪雨被害があったことなどから、豪雨で土砂崩れが発生した場合に汚染した土砂が大量に流出して下流の富山県などで大きな被害が出る恐れがあるとして、豪雨でも土砂流出が生じないような対策も求められている。", + "qas": [ + { + "question": "三井鉱業がイタイイタイ病の患者や要観察者への救済を始まった年は?", + "id": "tr-536-08-000", + "answers": [ + { + "text": "1973年", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "政府からイタイイタイ病患者への救済を始まったのは何年ですか?", + "id": "tr-536-08-001", + "answers": [ + { + "text": "1974年", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1974年、イタイイタイ病の対策のため作られた特別法とは何のこと?", + "id": "tr-536-08-002", + "answers": [ + { + "text": "「公害健康被害保障法」", + "answer_start": 140, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「農用地汚染防止法」によって指定された汚染地域の広さは、最終的に何haですか?", + "id": "tr-536-08-003", + "answers": [ + { + "text": "1630ha", + "answer_start": 244, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "土壌復元事業が始まったのは何年ですか?", + "id": "tr-536-08-004", + "answers": [ + { + "text": "1979年", + "answer_start": 260, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "土壌復元事業の工事が終わったのは何年ですか?", + "id": "tr-536-08-005", + "answers": [ + { + "text": "2012年", + "answer_start": 341, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "発生源対策として実行されたのは何ですか?", + "id": "tr-536-08-006", + "answers": [ + { + "text": "立ち入り調査", + "answer_start": 378, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "イタイイタイ病の発生源対策のため行われた立ち入り調査は、どこに基づくものですか?", + "id": "tr-536-08-007", + "answers": [ + { + "text": "公害防止協定", + "answer_start": 368, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "発生源対策の立ち入り調査は何年から行われましたか?", + "id": "tr-536-08-008", + "answers": [ + { + "text": "1972年", + "answer_start": 385, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1968年(昭和43年)3月9日、患者や遺族の計28人が原告となって婦中町(現:富山市婦中町)、富山市、大沢野町(現:富山市大沢野地区)の各被害地域を代表して14件(患者1人につき1件)の裁判を起こす。被告の三井金属鉱業の加害責任を明らかにする提訴の趣旨から患者1人につき400万円、死者1人につき500万円の慰謝料を請求だけにとどめた。審理では神岡鉱山や被害地域などの現場検証を実施し、原告は莫大な資料や萩野昇らの専門家の証言などによってカドミウムの毒性やイタイイタイ病との因果関係の立証に努めた。\n\n36回の口頭弁論の末、1971年(昭和46年)6月30日に富山地方裁判所が1審判決を下した。裁判所の趣旨は「(1)水田土壌・河川などのカドミウムなどの重金属類による汚染は被告の神岡鉱業所からの廃水が神通川上流の高原川に長期間、放流されたことによって起きた。(2)イタイイタイ病の主因はカドミウムである。(3)被告側は鉱業法109条により損害賠償責任を有する。慰謝料については被害者が被った肉体的および精神的苦痛の甚大さ、被告の損害賠償に対する不誠実さを考慮し、近年の死者には500万円、それ以前の死者および生存患者には400万円が相当である。」で原告側の勝訴となった。\n\n三井金属鉱業は1審判決を不服として即日、控訴した。1972年(昭和47年)8月9日に名古屋高等裁判所金沢支部は被告側の控訴を棄却するとともに、原告側の附帯控訴を認め、慰謝料額を倍増させる、原告側ほぼ全面勝訴の判決を下した。控訴審判決の内容は次のとおりである。「(1)土壌などのカドミウムなどの重金属類による汚染原因は第1審と同じ。(2)イタイイタイ病の主因は第1審と同じくカドミウムである。(3)財産上の損害については被害者の救済が遅れるのを防ぐため、慰謝料の額に含んで請求することは許される。ただし、損害額については具体的状況によって算出するべきであり、個人事情を考慮せずに一律に算定請求するのは許されない。(4)被告側は慰謝料として死亡患者全員に1000万円、生存患者には800万円を支払う。」", + "qas": [ + { + "question": "1968年の訴訟で起した裁判件数は幾つですか?", + "id": "tr-536-09-000", + "answers": [ + { + "text": "14件", + "answer_start": 79, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第1審で被告側に請求された慰謝料は患者一人につき何円ですか?", + "id": "tr-536-09-001", + "answers": [ + { + "text": "400万円", + "answer_start": 136, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1審で三井金属鉱業に請求された慰謝料は死人1人につきいくらでしたか?", + "id": "tr-536-09-002", + "answers": [ + { + "text": "500万円", + "answer_start": 149, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1971年、判決が下されたのはどこですか?", + "id": "tr-536-09-003", + "answers": [ + { + "text": "富山地方裁判所", + "answer_start": 281, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "富山地方裁判所が下した判決によると、イタイイタイ病の主因は何ですか?", + "id": "tr-536-09-004", + "answers": [ + { + "text": "カドミウム", + "answer_start": 724, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "第1審の判決で被告の三井金属鉱業は、その年死亡者全員に支払う金額はいくらですか?", + "id": "tr-536-09-005", + "answers": [ + { + "text": "500万円", + "answer_start": 489, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "第1審での三井金属鉱業が支払うべき、生存者全員および1971年以前の死亡者に対する慰謝料は何円ですか?", + "id": "tr-536-09-006", + "answers": [ + { + "text": "400万円", + "answer_start": 511, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1審判決で被告側が損害賠償の責任を負う根拠となった法律は何ですか?", + "id": "tr-536-09-007", + "answers": [ + { + "text": "鉱業法109条", + "answer_start": 410, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "三井金属鉱業が第1審判決に不服し控訴した日付けは何月何日ですか?", + "id": "tr-536-09-008", + "answers": [ + { + "text": "6月30日", + "answer_start": 275, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第1審に対する控訴の判決が出たのはどこですか?", + "id": "tr-536-09-009", + "answers": [ + { + "text": "名古屋高等裁判所金沢支部", + "answer_start": 580, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "控訴審判決によれば、イタイイタイ病の主な原因は何ですか?", + "id": "tr-536-09-010", + "answers": [ + { + "text": "カドミウム", + "answer_start": 724, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "控訴審判決で被告側が支払う死亡者全員に対する慰謝料の金額は?", + "id": "tr-536-09-011", + "answers": [ + { + "text": "1000万円", + "answer_start": 863, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "控訴審の結果、三井金属鉱業が負うイタイイタイ病生存患者に支払う慰謝料はいくらですか?", + "id": "tr-536-09-012", + "answers": [ + { + "text": "800万円", + "answer_start": 876, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "第1次訴訟後にも1968年(昭和43年)10月8日に第2次(訴訟件数:148件)、1969年(昭和44年)3月10日に第3次(14件)、同年11月20日に第3次(4件)、1970年2月20日に第4次(13件)、1971年5月7日に第6次(8件)、同年7月3日に\n第7次(1件)と訴訟が相次いだ。これらの訴訟は併合され、第1次訴訟が出た後の1971年7月から審理が始まった。原告側は個別患者の損害立証を集中的に行うよう要求した。また、多くの原告が傍聴できる大型法廷の設置を強く求め、裁判所との\n交渉が重ねられた。原告患者が出頭できない場合には病院や公民館などで出張尋問を実施した。\n\nその後、第1次訴訟後の三井金属鉱業と被害住民との交渉で成立した「イタイイタイ病の賠償に関する誓約書」の中で、会社は第2次~第7次訴訟の原告に対しても第1次訴訟と同じ損害賠償の支払を約束した。これにより第2次~7次訴訟は原告側の\n取下げによって終結した。\n\n2013年(平成25年)12月17日、神通川流域カドミウム被害団体連絡協議会が原因企業の三井金属と全面解決の合意書を交わした。被害者住民団体は、患者賠償と土壌復元、三井金属の子会社・神岡鉱業による環境対策が解決したとして、\n三井金属鉱業の謝罪を初めて正式に受け入れた。国の基準では救済されない患者に1人60万円の一時金を支払う。", + "qas": [ + { + "question": "原告の患者が裁判に出頭できなかった場合、とった策は何ですか?", + "id": "tr-536-10-000", + "answers": [ + { + "text": "出張尋問", + "answer_start": 279, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第2次~第7次訴訟の原告に対しても第1次訴訟と同じ損害賠償の支払を約束をした文書名は?", + "id": "tr-536-10-001", + "answers": [ + { + "text": "「イタイイタイ病の賠償に関する誓約書」", + "answer_start": 322, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "被害者団体と三井金属と全面解決の合意書を交わしたのは何年ですか?", + "id": "tr-536-10-002", + "answers": [ + { + "text": "2013年", + "answer_start": 419, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "三井金属は国の基準で救済されない患者1人あたりいくら払いますか?", + "id": "tr-536-10-003", + "answers": [ + { + "text": "60万円", + "answer_start": 570, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "イタイイタイ病の患者の認定は、環境省より委託されて富山県が行っている。認定条件は環境庁(現:環境省)の「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法によるイタイイタイ病の認定について」(1972年(昭和47年)6月に制定)に定められている。内容とすれば「(1)イタイイタイ病農耕汚染地域に在住し、カドミウムに対する曝露歴があること。(2)先天性のものではなく、成年期以降に発現したこと。(3)尿細管障害が認められること。(4)骨粗鬆症を伴う骨軟化症の所見が見られること。」である。これらの条件を全て満たせばイタイイタイ病と認定される。(4)の条件を欠く場合、将来イタイイタイ病に発展する可能性を否定できないので要観察者と認定される。2008年(平成20年)10月現在で認定患者は192人となっていたが、2014年(平成26年)9月末時点では認定患者は198人で要観察者が延べ408人となっており、患者数は増加し続けている。\n\nさらに、2014年(平成26年)9月の検査では従来行われてきた5歳刻みで対象年齢を決めていた流域住民への健康調査を全年齢を対象に切り替えたところ、1969年(昭和44年)の調査開始以来で最多の精密検査対象者が出ており、健康調査への受診率が低迷していることも合わせると、患者数の正確な数字は把握できていない。\n\n患者に認定されると公害医療手帳が支給され、国から医療費・障害補償費・療養手当などが給付される。また、三井金属鉱業からも賠償費・医療費・入通院費・医療介護手当・温泉療養費が支給される。\n\nしかし、認定にハードルは厳しく、いまだに行政の救済を受けることができずに苦しんでいる人たちが残っている。現代での問題点は原因分析ではなく、患者認定・要観察判定の具体的な基準に移っている。行政側である県認定審査会は厳しい基準を課して却下する事例が多い。具体的には、イタイイタイ病の認定の4要件の1つとなる骨軟化症の判定をおこなっている。骨軟化症においては、類骨の増加という特徴が見られる。そのため、いわゆる吉木法に基づいて骨を染色し、類骨の濃染部分を観察する事により調査できる。そして、類骨の濃染部分が十分であると骨軟化症に認めることになっている。しかし、腸骨のみを基準としたりするなど厳しい判定をしがちである。また、不服審査の問題点として県認定審査会の厳しい判断による却下に基づいて、被害者の多くは公健法に基づいて環境省に設置された不服審査委員会に審査請求を行っている。しかし、行政不服審査は一般的に行政に有利とされているため、それでも認定の条件は厳しい。\n\n上記のように認定を求めて却下された人々以外に、患者であることを知られたくなくて申し出なかったり、自覚症状が出にくい腎臓障害が見落されたりしている被害者の存在が指摘されている。", + "qas": [ + { + "question": "イタイイタイ病の認定を行っているのはどこですか?", + "id": "tr-536-11-000", + "answers": [ + { + "text": "富山県", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イタイイタイ病の認定条件はどこにさだまれていますか?", + "id": "tr-536-11-001", + "answers": [ + { + "text": "「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法によるイタイイタイ病の認定について」", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "環境庁によると、3番項目でイタイイタイ病と認定されるためにどんな症状が認められなくてはならないんですか?", + "id": "tr-536-11-002", + "answers": [ + { + "text": "尿細管障害", + "answer_start": 195, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "環境庁で決められた基準によると、骨軟化症以外の基準を満たした患者はどう分類されますか?", + "id": "tr-536-11-003", + "answers": [ + { + "text": "要観察者", + "answer_start": 304, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "2008年10月までの認定患者は何人ですか?", + "id": "tr-536-11-004", + "answers": [ + { + "text": "192人", + "answer_start": 338, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2014年9月の時点で認定患者の数は?", + "id": "tr-536-11-005", + "answers": [ + { + "text": "198人", + "answer_start": 374, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "平成26年9月までの要観察者の数は何人ですか?", + "id": "tr-536-11-006", + "answers": [ + { + "text": "408人", + "answer_start": 386, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "従来行われてきた5歳刻みで対象年齢を決めていた流域住民への健康調査を全年齢を対象に切り替えたのは何年ですか?", + "id": "tr-536-11-007", + "answers": [ + { + "text": "2014年", + "answer_start": 416, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イタイイタイ病の患者と認定されると支給されるものは何ですか?", + "id": "tr-536-11-008", + "answers": [ + { + "text": "公害医療手帳", + "answer_start": 576, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イタイイタイ病の判定において、県認定審査会で却下される事例が多い一つの理由は?", + "id": "tr-536-11-009", + "answers": [ + { + "text": "厳しい基準", + "answer_start": 766, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "骨軟化症の判定の時使う検査法は何ですか?", + "id": "tr-536-11-010", + "answers": [ + { + "text": "吉木法", + "answer_start": 862, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "イタイイタイ病裁判の勝利を記念して1976年(昭和51年)5月、イタイイタイ病対策協議会が「清流会館」を婦中町萩島(現:富山市婦中町萩島)の被害地域に建設した。敷地3900m2、床面積750m2で患者救済・発生源対策・汚染土壌復元運動の拠点となるほか、全国の公害反対運動に連帯する活動を行っている。館内にはイタイイタイ病の闘いの年表や写真などの展示室および資料館などが設置されている。イタイイタイ病裁判の勝訴から30年以上が経過し、公害への関心が薄まってきたことから資金難に陥り、存続が危ぶまれたため、イタイイタイ病対策協議会は公設の施設を建設するよう要望。これは2012年(平成24年)4月29日に富山県立イタイイタイ病資料館が開館する事で実現している。\n\n2014年からは「イタイイタイ病を語り継ぐ会」が活動している。\n\n2018年3月15日には、富山大学が「イタイイタイ病資料室」を開設した。", + "qas": [ + { + "question": "イタイイタイ病裁判の勝利を記念して建てられた建物の名称は何ですか?", + "id": "tr-536-12-000", + "answers": [ + { + "text": "「清流会館」", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「清流会館」を建設したのは何年ですか?", + "id": "tr-536-12-001", + "answers": [ + { + "text": "1976年", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「清流会館」を建てた組織は何ですか?", + "id": "tr-536-12-002", + "answers": [ + { + "text": "イタイイタイ病対策協議会", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「清流会館」の敷地の面積はどのくらいですか?", + "id": "tr-536-12-003", + "answers": [ + { + "text": "3900m2", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イタイイタイ病対策協議会は公設の施設を建設するよう要望によって2012年設置された建物は何ですか?", + "id": "tr-536-12-004", + "answers": [ + { + "text": "イタイイタイ病資料館", + "answer_start": 304, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「イタイイタイ病を語り継ぐ会」が活動を始めたのは何年ですか?", + "id": "tr-536-12-005", + "answers": [ + { + "text": "2014年", + "answer_start": 330, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「イタイイタイ病資料室」を建てた大学名は?", + "id": "tr-536-12-006", + "answers": [ + { + "text": "富山大学", + "answer_start": 376, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "富山大で「イタイイタイ病資料室」の開設したのは何年ですか?", + "id": "tr-536-12-007", + "answers": [ + { + "text": "2018年", + "answer_start": 363, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "金星の太陽面通過", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "地球における金星の太陽面通過(きんせいのたいようめんつうか)は、金星が太陽面を黒い円形のシルエットとして通過していくように見える天文現象である。金星が地球と太陽のちょうど間に入ることで起こる。日面通過や日面経過、太陽面経過とも呼ばれる。記録に残る初の観測は、1639年にエレミア・ホロックスによってなされた。金星の太陽面通過は非常に稀な現象で、近年では、8年、105.5年、8年、121.5年の間隔で発生する。直近では協定世界時2012年6月5日から6日にかけて起こった。次回は2117年12月10日から11日にかけて起こる。金星の太陽面通過を観察することで、地球と太陽の間の距離(1天文単位)が算出可能となる。1天文単位の距離を得るために、1761年と1769年の太陽面通過では欧州を中心として国を超えた国際的な観測事業が行われ、世界各地に天文学者が派遣された。この観測プロジェクトは科学における初の国際共同プロジェクトとも評される。", + "qas": [ + { + "question": "金星の太陽面通過とは、太陽と何のちょうど間に入ることで起こることなの?", + "id": "tr-537-00-000", + "answers": [ + { + "text": "地球", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "金星の太陽面通過の発生周期のうち、その間隔が最も短いのは、何年ですか?", + "id": "tr-537-00-001", + "answers": [ + { + "text": "8年", + "answer_start": 177, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "太陽面通過の間、金星は太陽の表面を東から西へ動いていく小さな黒い円盤のように見える。天体が太陽の手前を通過し、それによって太陽の一部が隠されるという点で日食と似ている。しかし、日食において太陽を隠す月の視直径(地球から見た見かけの直径)が約30分とほぼ太陽と等しいのに対し太陽面通過時の金星の視直径は約1分と太陽のおよそ30分の1しかない。金星は直径が月の約4倍もあるにもかかわらず、視直径がこのように小さいのは、太陽面通過時の金星は地球からの距離が約4100万キロメートルであり、月(地球から約38万キロメートル)の100倍以上も遠くにあるためである。太陽面通過の開始前、金星は太陽の東側から太陽に徐々に接近してくる。しかしこの時には金星は夜側の面を地球に向けているため、見ることはできない。続いて金星が太陽面に接触する。この瞬間を第1接触という。さらに金星が太陽面の内側に入り込み、金星が完全に太陽面上にのった瞬間を第2接触という。第1接触から第2接触までは約20分かかる。その後金星は太陽面上を西へ移動していく。金星が太陽面の中心に最も近づいたときを食の最大という。さらに金星は太陽面上を西に進み、太陽の反対側の縁に到達する。この瞬間を第3接触という。第2接触から第3接触までにかかる時間は、金星が太陽面の中心にどれだけ近い部分を通過するかで大きく変わるが、2004年と2012年の金星の太陽面通過では約6時間である。さらに金星が西へ進み、完全に太陽面から離れた瞬間を第4接触という。第3接触から第4接触までは約20分である。このように長い時間がかかる現象であるため日の出前にすでに太陽面通過が始まっていたり、日没時にまだ太陽面通過の途中である場合があり、全過程を観測できる観測地は限られる。2004年の太陽面通過においては中央アジアからヨーロッパで全過程の観測が可能であった。2012年の太陽面通過ではハワイから東アジアで全過程の観測が可能であった。第2接触の直後と第3接触の直前に金星の形が円形からずれて太陽の縁から滴り落ちる水滴のような形となり、しばらく太陽の縁にくっついた状態が数十秒間続く現象が知られている。これはブラック・ドロップ効果と呼ばれる。この現象のため、第2接触と第3接触の正確な時刻を測定するのは困難であると考えられていた。しかし時代が新しくになるにつれてブラック・ドロップ現象の報告は減っており、これは望遠鏡のピントが合っていないなどの理由による見かけの現象だとされている。", + "qas": [ + { + "question": "金星が太陽面に接触してから、太陽面の内側に入り込み、金星が完全に太陽面上にのるのに、何分かかるか?", + "id": "tr-537-01-000", + "answers": [ + { + "text": "約20分", + "answer_start": 431, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "第2接触と第3接触の正確な時刻を測定するのが困難である理由となる現象とは、何か?", + "id": "tr-537-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ブラック・ドロップ効果", + "answer_start": 915, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "太陽面通過が起こるには、金星が地球と太陽の間に入る必要がある。このような状態を内合と呼ぶ。しかし、金星が内合になっても、地球-金星-太陽は一直線上に通常は並ばない。金星の軌道は地球の軌道に対して3.4度傾いており、天球上では金星は内合時に太陽の北か南を通過していくように見える。3.4度というとそう大きい角度ではないように思うかもしれないが、地球から見ると内合時に金星が最大で9.6度も太陽から離れて見えることもある。これに対して太陽の視直径は約0.5度であるから、金星は太陽面を通過しない内合の際に太陽の北または南を太陽の直径の18倍以上離れて通過することもある。したがって、太陽面通過が起こるのは、地球の軌道平面と金星の軌道平面が交わるところで(または極めて近くで)、金星が内合になるときである。地球の公転軌道(1年)の中で、この軌道平面の交線を通過するのは太陽を挟んで対称となる2点だけである。これらの2点を交点と呼ぶ。交点を通過する時期は、現在では6月7日頃と12月9日頃であり、太陽面通過が起こりうるのはこの前後数日に限られる。", + "qas": [ + { + "question": "金星が地球と太陽の間に入る状態を何と言うか?", + "id": "tr-537-02-000", + "answers": [ + { + "text": "内合", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "金星の太陽面通過が起こる条件とは、金星の軌道平面と何の軌道平面が交わるところで金星が内合になることでありますか?", + "id": "tr-537-02-001", + "answers": [ + { + "text": "地球", + "answer_start": 301, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "金星の太陽面通過は非常に稀な現象である。近年では、8年、105.5年、8年、121.5年の間隔で発生する。ある時点に太陽面通過が起きたとする。地球の1恒星年は365.256日で、金星の1恒星年は224.701日なので、金星の方が太陽の周りを早く回る。太陽面通過から過ぎ去った金星が再び地球と太陽の間に達して次の内合が起こるには、前回の内合から583.924日が必要となる。この583.924日という期間を会合周期と呼び、583.924日おきに内合が発生する。しかし前述のとおり、再び内合になっただけでは、太陽面通過は起きない。軌道平面の交点上で内合が起きる必要がある。地球が軌道平面の交点を通過するのは、半年(0.5年)おきである。よって、ある時点に太陽面通過が起きたとすると、次に太陽面通過が起きる可能性がある時期は、0.5年の整数倍経過後に限られる。前回の太陽面通過から8年経過したとき、これは0.5年の整数倍であり、なおかつ会合周期のちょうど5回分である。よって、内合になる・交点上にあるという2つの条件を満たすことができる。近年、2回の太陽面通過が8年の間隔で起きているのはこの理由による。しかし、8年経過後に全く同じ位置に金星が戻るわけでなく、前回の位置からわずかなズレが起きる。正確には8年よりも2.45日早く、内合が訪れる。8年間隔の太陽面通過が2回しか起きないのは、このズレが蓄積することによる。16年後にはズレは大きくなり、内合する金星は太陽面を通らず、太陽面通過は発生しなくなる。", + "qas": [ + { + "question": "金星の太陽面通過が起こってから、再び内合になるには、前回の内合から何日がかかるの?", + "id": "tr-537-03-000", + "answers": [ + { + "text": "583.924日", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "金星が内合になる周期を何と呼びますか?", + "id": "tr-537-03-001", + "answers": [ + { + "text": "会合周期", + "answer_start": 202, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "もともとの金星の位置と8年経過後に金星が戻る位置にズレが生じることの影響で、金星の8年間隔の太陽面通過は何回しか起きないのか?", + "id": "tr-537-03-002", + "answers": [ + { + "text": "2回", + "answer_start": 580, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "もともとの金星の位置と8年経過後に金星が戻る位置にズレが生じると、何年後には金星の太陽面通過が発生しなくなるのか?", + "id": "tr-537-03-003", + "answers": [ + { + "text": "16年後", + "answer_start": 606, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "一方で、会合周期を66回繰り返すとほぼ105.5年経過となる。これも0.5年の整数倍となっている。近年の発生間隔に105.5年があるのは、この周期によるものである。また、会合周期を76回繰り返すとほぼ121.5年となる。近年の発生間隔121.5年はこの周期によるものである。発生の日付は現在では6月7日頃と12月9日頃だが、この日付は年代と共にゆっくりと遅い時期になっていく。年代を遡るともっと早い時期に起きており、1631年以前は、この日付は5月か11月であった。これは、太陽暦の1年(太陽年)は地球が太陽を正確に1周するのにかかる期間(恒星年)よりも少し短いためである。8年、105.5年、121.5年以外の間隔でも、太陽面通過は発生する。例えば、113.5年、129.5年、137.5年といった間隔でも起きる。これらの年数は、会合周期71回、81回、86回に相当する。現在の「8年、105.5年、8年、121.5年」という間隔も、全体で見れば8+105.5+8+121.5=243年(5+66+5+76=152回)という1つの周期に相当する。546年から1518年までは太陽面通過は8年、113.5年、121.5年という間隔をおいて起こっており、紀元前425年から546年までは太陽面通過は常に121.5年おきに起きていた。現在の「8年、105.5年、8年、121.5年」間隔は、1396年から始まり、3089年まで続く。3089年の後は、129.5年後という周期で次の太陽面通過が訪れる。1396年の1つ前は、113.5年前に発生している。一方、もう一つの内惑星である水星は金星よりも太陽に近いところをより速く公転している。そのため水星の太陽面通過はあまり珍しい現象ではなく、20世紀と21世紀にはそれぞれ14回ずつ起こる。", + "qas": [ + { + "question": "発生の日付が5月か11月から6月7日頃と12月9日頃に変わったのは、何年を基点とするの?", + "id": "tr-537-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1631年", + "answer_start": 208, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "546年から1518年までと紀元前425年から546年までのうち、金星の太陽面通過が起こる間隔の最小値がより大きいのは、どちらか?", + "id": "tr-537-04-001", + "answers": [ + { + "text": "紀元前425年から546年まで", + "answer_start": 526, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "水星と金星のうち、太陽面通過が発生する頻度がより多いのは、どれですか?", + "id": "tr-537-04-002", + "answers": [ + { + "text": "水星", + "answer_start": 720, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "現在の「8年、105.5年、8年、121.5年」間隔は何年になるとまた変わるのか?", + "id": "tr-537-04-003", + "answers": [ + { + "text": "3089年", + "answer_start": 604, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "金星の太陽面通過の観測に対して(非常に珍しい現象であることとは別に)科学的な興味が持たれていた元々の理由は、太陽系の大きさを測定することができる可能性があるからであった。17世紀までには天文学者はそれぞれの惑星間の距離の関係を地球と太陽の間の距離を単位(1天文単位)として計算できていたが、1天文単位の絶対的な距離(マイルやキロメートル単位)はあまり正確に分かっていなかった。太陽面通過の精密な観測は、この1天文単位、すなわち太陽と地球の間の絶対的な距離を測定する方法となる。その方法は、地球の広範囲に離れた観測点で太陽面通過が始まる時間か終わる時間の僅かな違いを厳密に測定するというものである。すると地球のある2点間の���離が、三角測量の原理で金星と太陽の間の距離を測る物差しのように使える。また、太陽との距離は角度である地心視差から間接的に定めることもできる。地心視差とは地球の中心(地心)から天体を見るときと地表上から天体をみるときの方向差のことで、特に天体が地平線上に存在するときの地心視差を地平視差と呼ぶ。さらに、観測者が赤道上にいるときに観測される太陽の地平視差を太陽視差と呼ぶ。太陽視差の値から天文単位を間接的に求めることができるため、天文単位距離の値そのものよりも、金星の太陽面通過を利用して太陽視差の値を求めることが行われてきた。現在の1天文単位の距離は、149597870.700kmで定義されており、また、広く受け入れられている太陽視差の値の一つは、8.794143秒である。", + "qas": [ + { + "question": "金星の太陽面通過の精密な観測は、金星と何の間の距離を測るのに使えるの?", + "id": "tr-537-05-000", + "answers": [ + { + "text": "太陽", + "answer_start": 325, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "観測者が赤道上にいるときに観測される太陽の地平視差を、何と呼びますか?", + "id": "tr-537-05-001", + "answers": [ + { + "text": "太陽視差", + "answer_start": 487, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "金星と太陽の間の距離のほかに、金星の太陽面通過の観測を利用して測定できるのは、何か?", + "id": "tr-537-05-002", + "answers": [ + { + "text": "太陽視差", + "answer_start": 487, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーは金星の太陽面通過の詳細に予測した最初の人物と考えられている。1629年、ケプラーは、彼のルドルフ表をもとにして、金星の太陽面通過が1631年12月6日に起こると予測した。ケプラーは1630年に死去し、自身の予測を確かめることはなかった。ケプラーの予測にもとづいて、フランスのピエール・ガッサンディはパリから観測を行おうとした。しかしケプラーの予測は十分に正確ではなく、ガッサンディは結局観測することはできなかった。現在の計算によれば、パリでは1631年12月7日の日の出の約50分前、太陽が観測できる前に太陽面通過は終了していた。金星の太陽面通過の最初の観測は、イギリスのエレミア・ホロックスによって1639年12月4日(当時イギリスで使われていたユリウス暦では11月24日)に行われた。ホロックスは、当時のフィリッペ・ファン・ランスベルゲの金星の軌道表に誤りがあることを発見し、1639年に金星の太陽面通過が起こることを独自に見出した。ケプラーも次の太陽面通過は1761年に起こると考えており、1639年の太陽面通過は予測できていなかった。ホロックスの観測は、彼の居住地であったマッチフール(MuchHoole)というイングランドのプレストンの近くにある村で行われた。彼の友人であったウィリアム・クラブトリーも、マンチェスターの近くのサルフォードから観測を行った。15時までは太陽面通過は起きないとホロックスは予測していたが、万全を期すためにその日は夜明けから一日中、断続的に観測を続けた。13時から15時までのどうしても外せない用事を済ませて観測に戻ると、太陽面通過が始まっていた。日の入り前、ホロックスは15時15分、15時35分、15時45分の太陽面上の金星位置を記録することに成功した。クラブトリーも同じく日の入りの直前に観測に成功する。観測記録をもとにしてホロックスは、地球・太陽間距離を地球の半径の約15,000倍、太陽視差で14秒と算出した。この距離は現在受け入れられている値のおよそ2/3倍程度だったが、それまで考えられていた値よりも現在の値に近いものであった。ホロックスは1641年に、クラブトリーは1644年に死去する。ホロックスは自身とクラブトリーの観測記録を論文にまとめたが存命中に出版されることはなかった。この原稿は1662年にヨハネス・ヘヴェリウスによって出版され、彼の業績が日の目を見ることになる。", + "qas": [ + { + "question": "金星の太陽面通過を初めて詳細に予測したのは、何年なの?", + "id": "tr-537-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1629年", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ピエール・ガッサンディがパリから金星の太陽面通過を観測を行ったのは、いつですか?", + "id": "tr-537-06-001", + "answers": [ + { + "text": "1631年12月6日", + "answer_start": 83, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "それでは、ピエール・ガッサンディがいつ観測を行ったら、金星の太陽面通過を観測できたか?", + "id": "tr-537-06-002", + "answers": [ + { + "text": "1631年12月7日", + "answer_start": 239, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "金星の太陽面通過の最初の観測を行った人物が、世の中に知られるようになったのは、誰のおかげか?", + "id": "tr-537-06-003", + "answers": [ + { + "text": "ヨハネス・ヘヴェリウス", + "answer_start": 996, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1716年、イギリスの天文学者エドモンド・ハレーが1761年に起こる金星の太陽面通過を世界各地から観測して1天文単位の正確な値を得るための、国際的な共同研究プロジェクトを提案した。。この提言を受けて、1761年と続いて太陽面通過が起きる1769年に、各国の科学アカデミーや学会から多数の探検隊が世界の様々な場所へ太陽面通過を観測するため派遣された。国を超えて行われたこれらの観測を、アンドレア・ウルフ(英語版)は「史上初の世界的な科学プロジェクト」と評している。ハレーは1742年に死去し、自身がこの研究プロジェクトを直接指揮することはできなかった。ハレー自身も自分の高齢のために1761年の太陽面通過に間に合わないことを理解していたため、どこでどんな観測をすべきかという詳しい説明を残し、好機を逃さないことを多くの天文学者たちに伝えた。1761年の太陽面通過は、フランスのジョゼフ=ニコラ・ドリルが中心となって、ヨーロッパ各地の天文学者に観測を呼びかけられた。ハレーの方法は太陽面通過の始まりから終わりまでの経過時間の記録を必要とするものだったが、ドリルはこれを改良して、2つの観測地点から通過開始(第2接触)、または通過終了(第3接触)の時刻を記録するだけで事足りる方法を提案した。太陽面通過の全過程を観測できる地域は限られているため、ドリルの方法であれば、さらに多くの地点を観測地にすることができる。一方で、ドリルの方法は観測地点の正確な経度を把握する必要がある。しかし、経度の情報は当時はまだ不十分だった。", + "qas": [ + { + "question": "史上初の世界的な科学プロジェクトが提案されたのは、何年なの?", + "id": "tr-537-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1716年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ハレーが提案したプロジェクトの中心となった人物は、誰ですか?", + "id": "tr-537-07-001", + "answers": [ + { + "text": "ジョゼフ=ニコラ・ドリル", + "answer_start": 387, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "金星の太陽面通過の観測においてより多くの地点を観測地にすることができる方法は、ハレーとドリルのうち、誰が提案した方法であるのか?", + "id": "tr-537-07-002", + "answers": [ + { + "text": "ドリル", + "answer_start": 570, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "フランス、イギリス、ロシア、スウェーデン、建国前のアメリカの天文学者たちが1761年6月6日の太陽面通過観測に乗り出した。特にフランスとイギリスは、最も理想的な観測地点となるインドと東インド諸島、その対となるシベリアま��観測隊を派遣し、最も多くの派遣を行った。当時の航海の手段は木製の帆船であり、難破や病気などの危険と隣り合わせの長く険しい旅が余儀なくされた。天文学者たちの冒険の様子を「望遠鏡付きの象牙の塔の住人というより、聖杯を探し求める冒険家インディー・ジョーンズ」とキティ・ファーガソン(英語版)は記している。基本的には、植民地などで自国の支配地としていた地域をそれぞれの観測地とした。フランスはギヨーム・ル・ジャンティをインドのポンディシェリへ、アレクサンドル・パングレをインド洋のロドリゲス島へ派遣し、イギリスはネヴィル・マスケリンを南大西洋のセントヘレナへ、ジェレマイア・ディクソンとチャールズ・メイソン(英語版)をスマトラ島のベンクーレンへ派遣した。当時は七年戦争の最中でもあり、政治情勢としても航海には危険な状態であった。ベンクーレンを目指していたイギリスのディクソンとメイソンは、出帆から2日後にフランス軍艦に遭遇し、死者も出た激しい戦闘に巻き込まれた。南アフリカの喜望峰までディクソンとメイソンは辿りついたものの、太陽面通過までの時間が残っておらず、なおかつベンクーレンがフランスに奪われた報せを聞いたディクソンとメイソンは、ベンクーレンでの観測を諦めて喜望峰で観測を行った。ポンディシェリを目指したフランスのル・ジャンティも航海中に敵艦に遭遇することがあったが、霧に助けられるなどして上手く逃走することができた。しかし、目的地のポンディシェリ付近に着いたところで、イギリス軍によってポンディシェリは包囲されてしまったという知らせをル・ジャンティは受け取る。上陸できなかったル・ジャンティは、インド洋上に浮かぶ不安定で地理的位置も不明瞭な船上から観測を行うこととなった。", + "qas": [ + { + "question": "金星の太陽面通過を観測するために、最も多くの派遣を行った国には、イギリスのほかに、どの国があるか?", + "id": "tr-537-08-000", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ベンクーレンを奪った国が観測を行おうとしたが、イギリス軍により観測はもちろん上陸すらできなかった地域とは、どこか?", + "id": "tr-537-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ポンディシェリ", + "answer_start": 649, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ディクソンとメイソンがベンクーレンに向かったのは、いつ発生する金星の太陽面通過を観測するためだったか?", + "id": "tr-537-08-002", + "answers": [ + { + "text": "1761年6月6日", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "イギリスのベンクーレンでの観測とフランスのポンディシェリでの観測が挫折したのは、どんな戦争が最中となっていたからなの?", + "id": "tr-537-08-003", + "answers": [ + { + "text": "七年戦争", + "answer_start": 436, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ロシアのアカデミーは、天文学の素養を持つ人材の不足から、当初は自国から派遣は出さずにフランスに派遣を打診した。フランスはこの打診を受けてジャン・シャップ・ドートロシュをシベリアのトボリスクに派遣することを決めたが、この連絡はロシアに届いておらず、ロシアは自国の観測者を訓練してイルクーツクとネルチンスクへ派遣を行った。行き違いがあったが、シャップはトボリスクでの観測をロシアに認めてもらい、旅を継続した。結氷したヴォルガ川を超え、太陽面通過の6日前にシャップはなんとかトボリスクに到着し、良好な観測を成し遂げている。シャップは、この旅の記録を後に『シベリア旅行記』として出版した。建国前のアメリカでは、北アメリカ大陸で数少ない観測可能な地域であるニューファンドランド島のセントジョンズにてジョン・ウィンスロップが観測を行��た。スウェーデンではペール・ヴィルヘレム・ワルゲンティン(英語版)を中心に観測計画が進められ、当時はスウェーデンの支配下にあったフィンランド東部のカヤーニへアンダーシュ・プランマンを派遣した。本国でも多くの天文学者が観測を行い、ドリルはパリで、ワルゲンティンはストックホルムで観測を行った。ロシア首都サンクトペテルブルクで観測を行ったミハイル・ロモノーソフは、金星が太陽面から出ていくときの様子から金星に大気があることを予測した。1761年の太陽面通過では、最終的には、60以上の場所で120以上の観測が行われた。しかし、後にブラック・ドロップ効果と呼ばれる太陽面の縁に金星がくっついた状態が続く現象が観測時に起こり、接触の正確な時間を特定できなかった。さらには観測地点の経度が正確に把握できていなかったことなども悪影響した。観測結果にもとづき各国の天文学者たちは太陽視差の計算を行ったが、報告された値は8.28秒から10.6秒まで様々で、当初に期待していたほどの正確な測定はできなかった。しかし、前の太陽面通過からホロックスによって測定された値よりも、現在の値である8.79秒に大きく近づいた。", + "qas": [ + { + "question": "天文学の素養を持つ人材の不足により、当初は自国から派遣は出さず他国に派遣を打診したのは、どの国ですか?", + "id": "tr-537-09-000", + "answers": [ + { + "text": "ロシア", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "スウェーデンでは誰を中心に金星の太陽面通過の観測が進められたの?", + "id": "tr-537-09-001", + "answers": [ + { + "text": "ペール・ヴィルヘレム・ワルゲンティン", + "answer_start": 371, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "スウェーデンが金星の太陽面通過を観測するために天文学者を派遣した地域とは、現在どの国の領土であるのか?", + "id": "tr-537-09-002", + "answers": [ + { + "text": "フィンランド", + "answer_start": 425, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『シベリア旅行記』では、どこで金星の太陽面通過を観測したという記録が書かれているのか?", + "id": "tr-537-09-003", + "answers": [ + { + "text": "トボリスク", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "次の太陽面通過は1769年6月3日に発生した。それまでの間に七年戦争は終結して、航海時の安全は向上した。また、啓蒙思想がヨーロッパ各国の権力層にも広がったおかげで科学事業への協力を得やすくなり、各国の国王も観測事業の全面的な支援を行う者が増え、観測に向けた状況は改善していた。これを逃すと次の太陽面通過は1874年まで起こらないため、今回の観測成功は必須となっていた。ブラック・ドロップ現象克服のために、より性能の高いアクロマート望遠鏡(英語版)も普及した。1769年の観測には、前回の国々にデンマークも新たに加わり、マキシミリアン・ヘル(英語版)とその助手のヤーノシュ・シャイノヴィチ(英語版)を当時デンマークの支配下にあったノルウェーのバルデに派遣した。アメリカでは、前回に観測を行った天文学者はウィンスロップだけだったが、1769年にはフィラデルフィアのアメリカ哲学協会(英語版)もアメリカの地位向上を目指して観測に参加した。デイビット・リッテンハウス(英語版)が計算を行い、それをもとに3箇所でアメリカ哲学協会の会員たちが観測を行った。ロシアも、エカチェリーナ2世がロシアの地位・名声の向上のために、前回よりも大がかりな観測隊を準備させた。エカチェリーナは、東の最果てのヤクーツクまでも含めて、8つの遠征隊を広い帝国の各地域へ派遣した。", + "qas": [ + { + "question": "ヨーロッパ各国の国王のうち、観測事業の全面的な支援を行う者が増え、観測に向けた状況が改善されたのは、何が各国の権力層に普及したからか?", + "id": "tr-537-10-000", + "answers": [ + { + "text": "啓蒙思想", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1874年に金星の太陽面通過が起こる前に同じ現象が起こったのは、何年なの?", + "id": "tr-537-10-001", + "answers": [ + { + "text": "1769年", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "金星の太陽面通過の観測に、1769年になって初めて参入してきたのは、どの国か?", + "id": "tr-537-10-002", + "answers": [ + { + "text": "デンマーク", + "answer_start": 246, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "フランスでは、ドリルに代わりジェローム・ラランドが計画の指揮を執っていた。1761年に遠征したパングレとシャップとル・ジャンティは、1769年の太陽面通過でも再び遠征地にて観測を行った。パングレは中央アメリカのハイチへ派遣され、観測を行った。シャップはメキシコのバハ・カリフォルニアへ遠征し、良好な観測を達成した。しかし、当時のメキシコではチフスが流行しており、観測隊も次々に感染して亡くなっていった。観測後に看病しながら仕事を続けていたシャップも感染し、観測地にて没した。シャップの観測記録は、観測隊の生存者によって1年後にパリへ届けられた。1761年にはインド洋上で観測を強いられたル・ジャンティは、観測後はフランス本国には戻らずにインド洋周辺に滞在し、次の太陽面通過に向けて準備を行った。ル・ジャンティはフィリピンのマニラで観測を行うことにしたが、フランス本国からはインドのポンディシェリで観測がより良いと連絡が届けられた。1769年、ル・ジャンティは予定を変更してポンディシェリで観測を行ったが、当日の天候は曇りで、太陽面通過を観測することはできなかった。さらには、観測の帰途で船が難破し、11年を経てパリへ帰還した際にはル・ジャンティは死んだことになっており、財産とアカデミーでの地位を失っていた。イギリスでは、マスケリンが1765年にグリニッジ天文台の天文台長となり、1769年の観測を統率した。前回遠征したディクソンとメイソンは再度観測のために遠征し、ディクソンはノルウェーへ、メイソンはアイルランドへ派遣された。さらに、ウィリアム・ウェールズ(英語版)を北アメリカのハドソン湾へ、ジェームズ・クックを南太平洋のタヒチ島へ派遣した。ハドソン湾への航路は初夏まで凍り付くため、ウェールズは1768年の春の暮れに出航し、観測地で冬を越し、太陽面通過が起こる1769年6月まで待つ必要があった。ジェームズ・クックは、天文学者のチャールズ・グリーン(英語版)と共にエンデバー号で出航し、未開だったタヒチへの航海を成し遂げ、観測に成功した。この航海は、後にキャプテン・クックと呼ばれるクックの第1回航海に当たる。天候に恵まれて太陽面通過の様子を十分観測することはできたが、ブラック・ドロップ現象が現れ、接触の時刻を精密に記録することはできなかった。最終的には、1769年の太陽面通過では、77つの場所で150以上の観測が行われた。観測結果にもとづく太陽視差の計算結果は、8.43秒から8.80秒までの値が報告された。1716年に観測を呼びかけたハレーの見込みでは太陽面通過の観測から1/500の精度で測定可能とされており、今回もブラック・ドロップ効果の邪魔が入る結果となった。しかし、もっと良い精度の結果が期待されてはいたものの、1761年に得られた値からさらに現代の値に近いより正確な値を得ることができた。後の1824年にヨハン・フランツ・エンケが経度の最新値と最小二乗法を使い、1761年と1769年の観測記録から太陽視差8.5776秒という値を算出した。この値は、その後四半世紀ほど太陽視差の代表的値として扱われた。", + "qas": [ + { + "question": "フランスでジェローム・ラランドの前に金星の太陽面通過を観測するプロジェクトを指揮したのは、誰?", + "id": "tr-537-11-000", + "answers": [ + { + "text": "ドリル", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1761年に続いて1769年にも遠征地での観測に参加した人で、観測地での病感染により死亡したのは、誰か?", + "id": "tr-537-11-001", + "answers": [ + { + "text": "シャップ", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "フランスの者で、1761年にはインド洋上で観測を行い、1769年には国によりポンディシェリで観測を行ったが、天候により観測ができなったのは、誰ですか?", + "id": "tr-537-11-002", + "answers": [ + { + "text": "ル・ジャンティ", + "answer_start": 293, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1761年に続いて1769年の観測にも参加したイギリスの天文学者で、1769年にはアイルランドで観測を行ったのは、誰か?", + "id": "tr-537-11-003", + "answers": [ + { + "text": "メイソン", + "answer_start": 616, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "次の金星の太陽面通過は105年後の1874年12月9日に起こった。このときも欧米各国が世界中に観測隊を派遣した。アメリカ、イギリス、イタリア、オランダ、ドイツ、フランス、メキシコ、ロシアが派遣隊を出している。観測地としては、北半球でウラジオストック、長崎、北京、カイロ、ロシア全域、ホノルル、サイゴンの7つの地域と、南半球でケルゲレン諸島、ホバート、キャンベル・タウン(英語版)、クイーンズランド、チャタム諸島、ロドリゲス島、モーリシャス、ヌメア、サンポール島の9つの地域が選ばれた。1862年にアサフ・ホールが火星を利用して太陽視差を測定したものの、結果は8.841秒とエンケの値とも離れた値が得られたことから、1874年の金星の太陽面通過は依然として天文単位を決定する貴重な機会だった。ジョージ・ビドル・エアリーは、1857年に天文単位の決定を\"thenoblestprobleminastronomy\"(天文学上の最も崇高な問題)と述べている。前の観測以降に写真機が発明され、この新たな技術が観測に使われた。フランスでは、太陽面通過観測のためにピエール・ジャンサンが連続撮影可能な回転式の写真機\"revolverphotographique\"(写真のリボルバー)を発明した。シャルル・ウォルフ(フランス語版)と協力者のシャルル・アンドレは太陽面通過を再現する機械を製作し、ブラック・ドロップ現象の解明を行った。", + "qas": [ + { + "question": "1874年の金星の太陽面通過を観測する観測地としてより多くの地域が選ばれたのは、北半球と南半球のうち、どちらか?", + "id": "tr-537-12-000", + "answers": [ + { + "text": "北半球", + "answer_start": 112, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "フランスで、1874年の太陽面通過観測のためにの新たな発明品を出したのは、誰か?", + "id": "tr-537-12-001", + "answers": [ + { + "text": "ピエール・ジャンサン", + "answer_start": 475, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1874年の太陽面通過では、日本も太陽面通過の全過程が観測可能な地域だったためフランス、アメリカ、メキシコがそれぞれ観測隊を派遣した。フランス隊には\"revolverphotographique\"を発明したジャンサンも参加していた。フランス隊は長崎と神戸に隊を分け、それぞれで観測を行った。フランスへ留学していた清水誠も神戸のフランス隊に同行し、金星の太陽面通過の写真を15枚撮影することに成功した。アメリカ隊は長崎で、メキシコ隊は横浜で観測を行った。長崎では上野彦馬がアメリカ隊に協力している。また、アメリカ隊のジョージ・ダビットソンは金星観測後に日本側からの要望を受け、長崎・東京間の経度差を測量した。東京には隊員のチットマンとエドワーズを派遣し、現在では「チットマン点」と呼ばれる日本最初の経度原点が決定された。諸外国の���測隊の受け入れによって、日本は観測点の経度決定法などの近代天文学上の重要な基礎技術を学んだ。このような諸外国による金星太陽面通過の観測によってもたらされた日本への影響を、斉藤国治は「科学における黒船」と評している。今回の太陽面通過では写真などによって接触の観測の精度が向上することが期待されたが、結果は18世紀の観測よりも少し向上した程度に留まった。イギリスは写真による方法が上手く行かなかったことを認めた。アメリカは太陽面上を金星が通過している様子については多くの良い写真が撮れたが、肝心の第1接触・第2接触間と第3接触・第4接触間についての写真はブラック・ドロップ効果によって無価値だったことを報告した。このときの太陽面通過から、アメリカでの観測結果から8.883±0.034秒、フランスでの観測結果から8.81±0.06秒という太陽視差の値が報告された。", + "qas": [ + { + "question": "フランスの観測隊だけでなくアメリカの観測隊もやってきたのは、どの地域なの?", + "id": "tr-537-13-000", + "answers": [ + { + "text": "長崎", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "日本最初の経度原点とは、どの国の観測隊により決定されたものか?", + "id": "tr-537-13-001", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ", + "answer_start": 251, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "日本で観測を行ったフランスとアメリカ、そしてメキシコのうち、複数の地域で観測を行ったのは、どの国か?", + "id": "tr-537-13-002", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "次の金星の太陽面通過は1882年12月6日に発生した。1874年の太陽面通過で期待の結果を得ることができなかったことは、次の太陽面通過の観測への意気を下げることとなった。1875年にはヨハン・ゴットフリート・ガレが小惑星フローラを利用して、太陽視差8.873秒という値を高い精度で得ていた。アメリカ海軍天文台では、1874年の観測を率いたサイモン・ニューカムは金星太陽面通過の観測を天文単位を決める最適な方法と考えることを止め、ウィリアム・ハークネスが1882年の観測を率いることとなった。このような観測の科学的価値への疑義は生じたが、結果的には欧米各国はニュージランドから南アフリカに至る世界各地に観測隊を派遣した。各国の観測計画を調整するための国際会議が1881年10月にパリで開かれ、14の国が参加した。アメリカもパリの会議には出席しなかったが、観測隊の派遣は継続して行うこととした。ニューカムも観測隊の1つを率いて南アフリカのウェリントンで観測を行っている。1874年と異なり、この年の太陽面通過はヨーロッパとアメリカでも観察可能で、町の広場に望遠鏡が置かれ、多くの人たちが観察する盛り上がりを見せた。ニューヨーク・タイムズは、1881年から83年にかけて継続的に金星太陽面通過の記事を出し続けた。記事では、太陽面通過の観測の歴史や観測方法の解説、1882年の各国の観測計画や結果が伝えられ、当時の太陽面通過への興味の高まりを示している。アメリカの作曲家ジョン・フィリップ・スーザは、このときの太陽面通過に触発されてTransitofVenusMarchを作曲した。アメリカ海軍天文台による1882年の観測結果は、1874年と比較すると良い観測結果であった。集められた観測写真の数も1380枚に上った。アメリカでの観測結果から、ハークネスが1889年に8.842±0.0118秒という太陽視差の値を報告した。また、1895年にはニューカムが、18世紀と19世紀の4回の太陽面通過の記録から8.794±0.0018秒という値を報告した。ただし、金星太陽面通過以外の方法も含めた様々な太陽視差決定結果の中では、プルコヴォ天文台による光行差を利用して得られた値を最も重要性が高いとし、金星太陽面通過によって得られた値の重要性は低いとニューカムはまとめている。", + "qas": [ + { + "question": "バリで開かれた、各国の観測計画を調整するための国際会議には参加しなかったが、観測隊派遣は続けたのは、どの国か?", + "id": "tr-537-14-000", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ", + "answer_start": 355, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "欧米の各国が観測隊を派遣しないと、金星の太陽面通過を観測できなかったのは、1874年と1882年のうち、どちらか?", + "id": "tr-537-14-001", + "answers": [ + { + "text": "1874年", + "answer_start": 433, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "アメリカで1882年の金星の太陽面通過への興味が高まったのは、誰の影響か?", + "id": "tr-537-14-002", + "answers": [ + { + "text": "ニューヨーク・タイムズ", + "answer_start": 505, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ルワンダ虐殺", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ルワンダ虐殺(ルワンダぎゃくさつ、英語:RwandanGenocide)とは、1994年にルワンダで発生した大量虐殺である。1994年4月6日に発生した、ルワンダのジュベナール・ハビャリマナ大統領と隣国ブルンジのシプリアン・ンタリャミラ大統領の暗殺から、ルワンダ愛国戦線(RPF)が同国を制圧するまでの約100日間に、フツ系の政府とそれに同調するフツ過激派によって、多数のツチとフツ穏健派が殺害された。正確な犠牲者数は明らかとなっていないが、およそ50万人から100万人の間、すなわちルワンダ全国民の10%から20%の間と推測されている。", + "qas": [ + { + "question": "ルワンダ虐殺は、何年に発生した虐殺事件であるの?", + "id": "tr-538-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1994年", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ルワンダ虐殺は、どこで発生した虐殺事件でありますか?", + "id": "tr-538-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ルワンダ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ルワンダの大統領と同日に暗殺されたのは、どの国の大統領だったか?", + "id": "tr-538-00-002", + "answers": [ + { + "text": "ブルンジ", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ルワンダの大統領が暗殺されたのは、いつのことか?", + "id": "tr-538-00-003", + "answers": [ + { + "text": "1994年4月6日", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ルワンダ紛争はフツ系政権および同政権を支援するフランス語圏アフリカ、フランス本国と、主にツチ難民から構成されるルワンダ愛国戦線および同組織を支援するウガンダ政府との争いという歴史的経緯を持つ。ルワンダ紛争により、国内でツチ・フツ間の緊張が高まった。さらにフツ・パワーと呼ばれるイデオロギーが蔓延し、「国内外のツチはかつてのようにフツを奴隷とするつもりだ。我々はこれに対し手段を問わず抵抗しなければならない。」という主張がフツ過激派側からなされた。1993年8月には、ハビャリマナ大統領により停戦命令が下され、ルワンダ愛国戦線との間にアルーシャ協定が成立した。しかし、その後もルワンダ愛国戦線の侵攻による北部地域におけるフツの大量移住や、南部地域のツチに対する断続的な虐殺行為などを含む紛争が続いた。", + "qas": [ + { + "question": "ルワンダ紛争で、フツ系政権側に立っていなかったのは、フランス語圏アフリカとフランス本国、ウガンダ政府のうち、どちらか?", + "id": "tr-538-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ウガンダ政府", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ルワンダ紛争において、フツ系政権側に立ったのは、どの国の勢力圏とその本国でしたか?", + "id": "tr-538-01-001", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アルーシャ協定は、いつ成立されたものか?", + "id": "tr-538-01-002", + "answers": [ + { + "text": "1993年8月", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アルーシャ協定は、ハビャリマナとどの勢力の間で成立されたものか?", + "id": "tr-538-01-003", + "answers": [ + { + "text": "ルワンダ愛国戦線", + "answer_start": 254, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1994年4月に生じたハビャリマナ大統領の暗殺は、フツ過激派によるツチとフツ穏健派への大量虐殺の引き金となった。この虐殺は、フツ過激派政党と関連のあるフツ系民兵組織、インテラハムウェとインプザムガンビが主体となったことが知られている。また、虐殺行為を主導したのは、ハビャリマナ大統領の近親者からなるアカズと呼ばれるフツ・パワーの中枢組織であった。このルワンダ政権主導の大量虐殺行為によりアルーシャ協定は破棄され、ツチ系のルワンダ愛国戦線とルワンダ軍による内戦と、ジェノサイドが同時進行した。最終的には、ルワンダ愛国戦線がルワンダ軍を撃破し、ルワンダ虐殺はルワンダ紛争と共に終結した。", + "qas": [ + { + "question": "ハビャリマナが暗殺されたのは、いつのことなの?", + "id": "tr-538-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1994年4月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ルワンダ虐殺の引き金となったのは、誰が暗殺されたことですか?", + "id": "tr-538-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ハビャリマナ", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ルワンダ虐殺の主体であったのは、どのような人々か?", + "id": "tr-538-02-002", + "answers": [ + { + "text": "フツ過激派", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ルワンダ虐殺の対象となったのは、ツチとどのような人々だったか?", + "id": "tr-538-02-003", + "answers": [ + { + "text": "フツ穏健派", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ルワンダ虐殺は部族対立の観点のみから語られることもあるが、ここに至るまでには多岐にわたる要因があった。まず、フツとツチという両民族に関しても、この2つの民族はもともと同一の由来を持ち、その境界が甚だ曖昧であったものを、ベルギー植民地時代に完全に異なった民族として隔てられたことが明らかとなっている。また、民族の対立要因に関しても、歴史的要因のほかに1980年代後半の経済状況悪化による若者の失業率増加、人口の増加による土地をめぐっての対立、食料の不足、1990年代初頭のルワンダ愛国戦線侵攻を受けたハビャリマナ政権によるツチ敵視の政策、ルワンダ愛国戦線に大きく譲歩した1993年8月のアルーシャ協定により自身らの地位に危機感を抱いたフツ過激派の存在、一般人の識字率の低さに由来する権力への盲追的傾向などが挙げられる。さらに、国連や世界各国の消極的な態度や状況分析の失敗、ルワンダ宗教界による虐殺への関与があったことが知られている。", + "qas": [ + { + "question": "ルワンダ虐殺を、フツとどの部族の間にあった部族対立から見る見解も存在するの?", + "id": "tr-538-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ツチ", + "answer_start": 57, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "フツとツチの対立要因としては、何年代初頭のルワンダ愛国戦線侵攻を受けたハビャリマナ政権によるツチ敵視の政策が挙げられますか?", + "id": "tr-538-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1990年代初頭", + "answer_start": 226, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "19世紀にヨーロッパ人が到来すると、当時の人類学により、ルワンダやブルンジなどのアフリカ大湖沼周辺地域の国々は、フツ、ツチ、トゥワの「3民族」から主に構成されると考えるのが主流となった。この3民族のうち、この地域に最も古くから住んでいたのは、およそ紀元前3000年から2000年頃に住み着いた、狩猟民族のトゥワであった。その後、10世紀以前に農耕民のフツがルワンダ周辺地域に住み着き、さらに10世紀から13世紀の間に、北方から牧畜民族のツチがこの地域に来て両民族を支配し、ルワンダ王国下で国を治めていたと考えられていた。", + "qas": [ + { + "question": "19世紀以来、アフリカ大湖沼周辺地域に成立された国々は、フツ、ツチとどの部族の3民族から主に構成されると考えるのが一般的であったか?", + "id": "tr-538-04-000", + "answers": [ + { + "text": "トゥワ", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "フツ、ツチ、トゥワのうち、アフリカ大湖沼周辺地域に最も古くから住んでいたのは、どちらの民族か?", + "id": "tr-538-04-001", + "answers": [ + { + "text": "トゥワ", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1960年代から1980年代初頭にかけて、ルワンダは持続的な成長を遂げ続けたアフリカの優等国であった。しかしながら、1980年代後半には主要貿易品目であったコーヒーの著しい値崩れなどを受け経済状況は大きく悪化し、さらに1990年に行われた国際通貨基金の構造調整プログラムにより社会政策の衰退、公共料金の値上げを招き、状況の一層の悪化を導いた。その結果、失業率の悪化や社会格差による貧困などの諸問題が噴出し、特に若者を中心として不満を募らせるようになった。", + "qas": [ + { + "question": "ルワンダが持続的に成長し続け、アフリカの優等国とされたのは、いつからいつにかけてのことなの?", + "id": "tr-538-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1960年代から1980年代初頭", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ルワンダが1980年代後半に経済不況に陥った要因としては、何が挙げられていますか?", + "id": "tr-538-05-001", + "answers": [ + { + "text": "コーヒーの著しい値崩れ", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "国際通貨基金の構造調整プログラムが行われたのは、何年のことか?", + "id": "tr-538-05-002", + "answers": [ + { + "text": "1990年", + "answer_start": 109, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1980年代後半から1990年にかけて、ルワンダの経済状況が悪化し続けた要因としては、コーヒーの著しい値崩れとどのようなプログラムの影響が挙げられるか?", + "id": "tr-538-05-003", + "answers": [ + { + "text": "国際通貨基金の構造調整プログラム", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "またルワンダは国土の比較的狭い国であるが、「千の丘の国」と呼ばれる平均標高の高い土地のために温暖な気候に属しており、人の居住に適し、土地が肥沃で自然環境も豊かなことで知られていた。しかし1948年に180万人であった人口が1992年には四倍を超える750万人にまで増加し、アフリカで最も人口密度の高い国となり、農���などの土地不足の問題が発生するようになった。加えて人口の増加により食料不足の問題が生じ、国民の6人に1人が飢えに苦しむ状況となった。国民の多くは数ヘクタールにも満たない狭い農地で生産性の低い農業に頼った自給自足の生活をしており、市場に売却する余剰食料を充分に生産できなかった(先進国では数%の農業従事者が他の国民のための食料を生産している)。そのため日頃から生活の糧となる土地をめぐって争いが頻発していた。", + "qas": [ + { + "question": "ルワンダがアフリカで最も人口密度の高い国となったのは、何年からなの?", + "id": "tr-538-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1992年", + "answer_start": 111, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "人口が激増していったルワンダが抱えていた問題とは、食料と何が不足するという問題でありましたか?", + "id": "tr-538-06-001", + "answers": [ + { + "text": "土地", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ルワンダは、何と呼ばれるほど、平均標高の高いところに成立された国であったか?", + "id": "tr-538-06-002", + "answers": [ + { + "text": "「千の丘の国」", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "人口の激増により、ルワンダ国内では、何を巡った争いが続いていたか?", + "id": "tr-538-06-003", + "answers": [ + { + "text": "土地", + "answer_start": 343, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1959年以降、周辺国へ逃れた多数のツチ系難民は、1980年頃に政治的組織や軍事的組織として団結するようになった。ウガンダでは1979年にルワンダ難民福祉基金が設立され、翌1980年に同組織が発展する形で国家統一ルワンダ人同盟が結成された。ウガンダ内戦(1981年-1986年)における反政府組織であり、最終的に勝利を納めた国民抵抗運動(NRM)に参加した者も多く、1986年時点で国民抵抗運動の約2割がツチであった。しかしながら、内戦の初期から国民抵抗運動に参加していたツチらは相応の高い地位を得たものの、ヨウェリ・ムセベニウガンダ大統領のルワンダ難民問題に関する姿勢の変節などにより、強い失望を受けた。そのため、1987年になると新たにルワンダ愛国戦線を結成し、ルワンダへの帰還を目指すようになった。", + "qas": [ + { + "question": "ウガンダにルワンダ難民福祉基金が設立されたのは、何年のことなの?", + "id": "tr-538-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1979年", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "国家統一ルワンダ人同盟が結成されたのは、何が成立されたから1年が経った時点のことですか?", + "id": "tr-538-07-001", + "answers": [ + { + "text": "ルワンダ難民福祉基金", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ウガンダ内戦では、政府とどの組織が戦ったか?", + "id": "tr-538-07-002", + "answers": [ + { + "text": "国民抵抗運動", + "answer_start": 162, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ウガンダ内戦は、どちらの勝利で終わったか?", + "id": "tr-538-07-003", + "answers": [ + { + "text": "国民抵抗運動", + "answer_start": 162, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1990年から1993年までの期間、アカズからの指示を受けたフツにより、雑誌の『カングラ』が作られた。この雑誌はルワンダ政府に批判的なツチ系の雑誌『カングカ』を真似たものであり、政府への批判を一応は行いつつも、主たる目的はツチに対する���蔑感情の煽動であった。また、この雑誌のツチに対する攻撃姿勢は、植民地時代以前の経済的優遇を非難することよりも、ツチという民族そのものを攻撃することが中心であった。同誌の設立者であり編集者でもあったハッサン・ンゲゼは数々の煽動的報道で知られており、特にンゲゼの書いた『フツの十戒』はフツ・パワー・イデオロギーの公式理念と呼ばれ、学校や政治集会などの様々な場で読み上げられた。1992年には、ハビャリマナ大統領の宥和的姿勢に反発した権力中枢部により、極端なフツ至上主義を主張する共和国防衛同盟(CDR)が開発国民革命運動から分離する形で結成された。また同年には、開発国民革命運動の青年組織としてインテラハムウェ(「共に立ち上がる(or戦うor殺す)者」を意味する)、共和国防衛同盟の青年組織としてインプザムガンビ(「同じ(or単一の)ゴールを目指す者」を意味する)が設立された。後にこの両組織はルワンダ虐殺で大きな役割を果たす民兵組織となる。なお、共和国防衛同盟はルワンダ愛国戦線との間にアルーシャ合意を結ぶことを強く反対した結果、1993年8月に成立した同協定と、協定に従い設立された暫定政権から排斥された。このフツ過激派政党である共和国防衛同盟をアルーシャ協定から排除する方針にはハビャリマナ政権と国際社会の反対があったものの、ルワンダ愛国戦線がこれを強固に主張したため最終的に排斥される形となった。", + "qas": [ + { + "question": "『カングラ』は、何年から何年にかけて作られたの?", + "id": "tr-538-08-000", + "answers": [ + { + "text": "1990年から1993年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『カングラ』と対照されるのは、何ですか?", + "id": "tr-538-08-001", + "answers": [ + { + "text": "『カングカ』", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『カングラ』と『カングカ』の共通点は、両方とも誰に向かって批判の声を上げているとのことか?", + "id": "tr-538-08-002", + "answers": [ + { + "text": "政府", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『カングラ』の本当の狙いは、誰に対するに対する侮蔑感情の煽動であったか?", + "id": "tr-538-08-003", + "answers": [ + { + "text": "ツチ", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1993年にはアルーシャ協定に従い、停戦による哨戒活動のほか武装解除と動員解除を支援する目的で、国連平和維持軍が展開された。同年3月時点の報告書によれば、1990年のルワンダ愛国戦線による侵攻以降、1万人のツチが拘留され、2000人が殺害されたことが判明している状況であった。1993年8月、国連軍の司令官であったロメオ・ダレール少将は、ルワンダの状況評価を目的とした偵察を行った後に5000人の兵員を要請したが、最終的に確保できたのは要請人数の約半分にあたる2548人の軍人と60人の文民警察であった。なお、この時点のダレールは、ルワンダでの任務は標準的な平和維持活動であると考えていた。", + "qas": [ + { + "question": "国連平和維持軍が展開されたのは、何年のことなの?", + "id": "tr-538-09-000", + "answers": [ + { + "text": "1993年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1990年のルワンダ愛国戦線による侵攻以降、1万人のツチが拘留され、2000人が殺害されたことが判明している状況であると書かれていた報告書は、何年の3月に書かれたものですか?", + "id": "tr-538-09-001", + "answers": [ + { + "text": "1993年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1993年にルワンダの状況を確認するための偵察を行い、5000人の増員を要請したのは、誰か?", + "id": "tr-538-09-002", + "answers": [ + { + "text": "ロメオ・ダレール", + "answer_start": 157, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ロメオ・ダレールが受け取った兵力には、軍人と文民警察のうち、どちらがより多く編成されていたか?", + "id": "tr-538-09-003", + "answers": [ + { + "text": "軍人", + "answer_start": 236, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "近年の研究では、ルワンダ虐殺は非常に組織立った形で行われたことが明らかとなっている。ルワンダ国内では、地域ごとに様々な任務を行う代表者が選出されたほか、民兵の組織化が全国的に行われ、民兵の数は10家族あたり1人となる3万人にまで達していた。一部の民兵らは、書類申請によってAK-47アサルトライフルを入手でき、手榴弾などの場合は書類申請すら必要なく容易に入手が可能であった。インテラハムウェやインプザムガンビのメンバーの多くは、銃火器ではなくマチェーテやマスといった伝統的な武器で武装していた。", + "qas": [ + { + "question": "ルワンダ国内における民兵の数は、何万人に至ったの?", + "id": "tr-538-10-000", + "answers": [ + { + "text": "3万人", + "answer_start": 108, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "民兵らの武装としては、手榴弾と何が挙げられていますか?", + "id": "tr-538-10-001", + "answers": [ + { + "text": "AK-47アサルトライフル", + "answer_start": 136, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "AK-47アサルトライフルと手榴弾のうち、より入手しやすかったのは、何か?", + "id": "tr-538-10-002", + "answers": [ + { + "text": "手榴弾", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "民兵とインテラハムウェのうち、銃火器を装備した人々の割合がより大きかったのは、どちらだと予測できるか?", + "id": "tr-538-10-003", + "answers": [ + { + "text": "民兵", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ルワンダ虐殺当時のジャン・カンバンダ首相は、ルワンダ国際戦犯法廷の事前尋問で「ジェノサイドに関しては閣議で公然と議論されていた。当時の女性閣僚の1人は、全てのツチをルワンダから追放することを個人的に支持しており、他の閣僚らに対して\"ツチを排除すればルワンダにおける全ての問題は解決する\"と話していた」と証言している。カンバンダ首相はさらに、ジェノサイドを主導した者の中には退役軍人であったテオネスト・バゴソラ大佐やオーギュスタン・ビジムング少将、ジャン=バティスト・ガテテといった軍や政府高官の多数が含まれており、さらに地方レベルのジェノサイド主導者であれば、市長や町長、警察官も含まれると述べた。", + "qas": [ + { + "question": "ルワンダ虐殺当時のルワンダ首相は、誰だった?", + "id": "tr-538-11-000", + "answers": [ + { + "text": "ジャン・カンバンダ", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ジャン・カンバンダは、どの国の首相でしたか?", + "id": "tr-538-11-001", + "answers": [ + { + "text": "ルワンダ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "研究者の報告によれば、ルワンダ虐殺においてニュースメディアは重要な役割を果たしたとされる。具体的には、新聞や雑誌といった地域の活字メディアやラジオなどが殺戮を煽る一方で、国際的なメディアはこれを無視するか、事件背景の認識を大きく誤った報道を行った。当時のルワンダ国内メディ��は、まず活字メディアがツチに対するヘイトスピーチを行い、その後にラジオが過激派フツを煽り続けたと考えられている。評論家によれば、反ツチのヘイトスピーチは「模範的と言えるほどに組織立てられていた」という。ルワンダ政府中枢部の指示を受けていたカングラ誌は、1990年10月に開始された反ツチおよび反ルワンダ愛国戦線キャンペーンで中心的な役割を担った。ルワンダ国際戦犯法廷では、カングラの背景にいた人物たちを、1992年にマチェーテの絵と『1959年の社会革命を完了するために我々は何をするか?(Whatshallwedotocompletethesocialrevolutionof1959?)』の文章を記したチラシを製作した件で告発した(このチラシにある1959年の社会革命時には、ツチ系の王政廃止やその後の政治的変動を受けた社会共同体によるツチへの排撃活動の結果、数千人のツチが死傷し、約30万人ものツチがブルンジやウガンダへ逃れて難民化した)。カングラはまた、ツチに対する個人的対応や社会的対応、フツはツチをいかに扱うべきかを論じた文章として悪名高いフツの十戒や、一般大衆の煽動を目的とした大規模戦略として、ルワンダ愛国戦線に対する悪質な誹謗・中傷を行った。この中でよく知られたものとしては「ツチの植民地化計画(Tutsicolonizationplan)」などがある。", + "qas": [ + { + "question": "研究者の報告によると、ルワンダ虐殺において重要な役割を果たしたのは、誰とされるか?", + "id": "tr-538-12-000", + "answers": [ + { + "text": "ニュースメディア", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ルワンダ国内メディアは、ツチとフツのうち、どちら側に立っていたか?", + "id": "tr-538-12-001", + "answers": [ + { + "text": "フツ", + "answer_start": 176, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "反ツチおよび反ルワンダ愛国戦線キャンペーンで中心的な役割を担ったのは、何だったか?", + "id": "tr-538-12-002", + "answers": [ + { + "text": "カングラ誌", + "answer_start": 256, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "反ツチおよび反ルワンダ愛国戦線キャンペーンは、いつ開始されたか?", + "id": "tr-538-12-003", + "answers": [ + { + "text": "1990年10月", + "answer_start": 263, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1994年4月6日、ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、ベルギーの平和維持軍がルワンダ大統領の搭乗する航空機を撃墜、あるいは撃墜を援助したとする非難を行った。この報道が後にルワンダ軍の兵士によりベルギーの平和維持軍の10人が殺害される結果に結びついた。", + "qas": [ + { + "question": "ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンが、ベルギーの平和維持軍に対し、ルワンダ大統領の搭乗する航空機を撃墜、あるいは撃墜を援助したとのことで非難したのは、いつのことなの?", + "id": "tr-538-13-000", + "answers": [ + { + "text": "1994年4月6日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンは、誰がルワンダ大統領の搭乗する航空機を撃墜、あるいは撃墜を援助したとしましたか?", + "id": "tr-538-13-001", + "answers": [ + { + "text": "ベルギーの平和維持軍", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1994年4月6日のミルコリンヌ自由ラジオ・テレビジョンの報道は、何人のベルギーの平和維持軍が殺害される結果を生み出したか?", + "id": "tr-538-13-002", + "answers": [ + { + "text": "10人", + "answer_start": 110, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ヒューマン・ライツ・ウオッチは、ルワンダの宗教的権威者、特に���トリックの聖職者はジェノサイド行為に対する非難を怠ったと報告し、カトリック教会は「ルワンダでは大量虐殺が行われたが、これら虐殺行為への参加に関して教会は許可を与えていない」と主張している。1996年にローマ教皇であったヨハネ・パウロ2世は、カトリック教会としてのジェノサイドへの責任を否定している。", + "qas": [ + { + "question": "当時のローマ教皇は、誰だったか?", + "id": "tr-538-14-000", + "answers": [ + { + "text": "ヨハネ・パウロ2世", + "answer_start": 140, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ナバラ州", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ナバラ州(ナバラしゅう、スペイン語:Navarra)またはナファロア州(ナファロアしゅう、バスク語:Nafarroa)は、スペインの自治州である。\n一県一州の自治州であり、ナバラ県単独で構成される。\n州都はパンプローナ。\nスペイン語では第2音節にアクセントがあるため、ナバーラ州とも表記される。\n中世のこの地域にはナバラ王国が存在し、スペイン帝国に併合された後も副王領として一定の自治権を得ていた。\n歴史的にはバスク地方の一部ではあるものの、フランコ体制後の民政移管期(1975-1982)にはバスク州への合流を望まず、1982年にナバラ県単独でナバラ州が発足した。\n歴史的背景が考慮されて大きな自治権を得ており、スペインの全17自治州のうち課税自主権が認められているのはナバラ州とバスク州のみである。\n国家公用語であるスペイン語に加えて、一部地域では地域言語のバスク語も公用語に指定されている。", + "qas": [ + { + "question": "ナバラ州の州都は?", + "id": "tr-539-00-000", + "answers": [ + { + "text": "パンプローナ", + "answer_start": 103, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ナバラ州の地域にナバラ王国が存在していたのはいつの時代?", + "id": "tr-539-00-001", + "answers": [ + { + "text": "中世", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "正式名称(スペイン語:ComunidadForaldeNavarra,[komuniˈðaðfoˈɾaldenaˈβara]:コムニダ・フォラル・デ・ナバラ,バスク語:NafarroakoForuKomunitatea,[nafaroakofoɾukomunitatea]:ナファロアコ・フォル・コムニタテア)は「ナバラ特権州」の意味を持ち、特権(フエロ)とはかつてカスティーリャ王国が各地域に認めていた地域特別法のことである。\n英語やフランス語ではNavarre(英語[nəˈvɑːr]、ナヴァール)。\nナバラとはバスク語で「森」または「オークの林」、「山々に囲まれた平原」という意味である。", + "qas": [ + { + "question": "ナバラを英語表記するとどうなるの?", + "id": "tr-539-01-000", + "answers": [ + { + "text": "Navarre", + "answer_start": 225, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "何の言語でもってナバラの意味が「森」や「オークの林」となりますか?", + "id": "tr-539-01-001", + "answers": [ + { + "text": "バスク語", + "answer_start": 258, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "北西はバスク州のアラバ県とギプスコア県、南はラ・リオハ州、東はアラゴン州に接し、北東は163kmに渡ってフランスと国境を接している。\n北のピレネー山脈から南のエブロ川流域の平原まで、ナバラ州の地理は変化に富んでおり、地理学者のアルフレド・フロリスタはナバラの景観を「ミニチュア大陸」と表現した。\n地形・生物気候学の観点から、ナバラ州は山岳部、中央部、河岸部の3地域に分けることができる。", + "qas": [ + { + "question": "ナバラ州の北にある山脈とは何?", + "id": "tr-539-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ピレネー山脈", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ナバラ州と��ランスの国境部分はどれくらいの距離なの?", + "id": "tr-539-02-001", + "answers": [ + { + "text": "163km", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ナバラ州の東は何州と接しているの?", + "id": "tr-539-02-002", + "answers": [ + { + "text": "アラゴン州", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "山岳部はナバラ州北部を占め、サブリージョンとして湿潤地帯、ピレネー渓谷、ピレネー前縁盆地に分けられる。\n州北西部の湿潤地帯は平均気温が摂氏15度、年間降水量が約1,400mmであり、広葉樹、牧草、シダ類などの植生がみられる。\n州北東部のピレネー渓谷は、激しい降雪と気温の変化が特徴のピレネー山脈山麓から、西に向かうにつれて温暖な気候が特徴の亜海洋性気候に変化している。\nピレネー渓谷北部ではブナ、モミ、オウシュウアカマツなどがみられる。\nピレネー前縁盆地の植生はカシ類やカシワ類などの地中海広葉樹が目立つ。\nナバラ州の最高峰は標高2,428mのメサ・デ・ロス・トレス・レジェスであり、トレス・レジェスの周囲には標高2,507mのアニ峰(山頂はフランス領)や2,366mのペトレチェマなどがある。", + "qas": [ + { + "question": "メサ・デ・ロス・トレス・レジェス、アニ峰、ペトレチェマの中で標高が最も高いのはどれ?", + "id": "tr-539-03-000", + "answers": [ + { + "text": "アニ峰", + "answer_start": 314, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "メサ・デ・ロス・トレス・レジェスとペトレチェマはどちらが高い?", + "id": "tr-539-03-001", + "answers": [ + { + "text": "メサ・デ・ロス・トレス・レジェス", + "answer_start": 272, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "山岳部と河岸部の中間には中央部があり、山地や丘陵などがみられる北部から広大な平野が広がる南部までが緩やかに推移している。\n中央部の中でも気候は大きく変化し、東側は大陸性気候であり、北側は西岸海洋性気候、南側は大陸地中海性気候である。\n中央部にはパンプローナやパンプローナ都市圏がある。\n河岸部はエブロ川の本流や支流の流域であり、エステーリャとトゥデラというふたつの主要都市がある。\nエステーリャ河岸にはなだらかな尾根や向斜面谷が見られ、トゥデラ河岸には構造平原や沖積低地が広がっている。\nトゥデラの北方には半砂漠地帯のバルデナス・レアレスが広がり、ユネスコの生物圏保護区に指定されている。\n河岸部の年降水量は400mm足らずであり、山岳部に比べて日照時間が長いほか、夏季と冬季の気温差が激しい。", + "qas": [ + { + "question": "河岸部と山岳部はどちらが日照時間が長いの?", + "id": "tr-539-04-000", + "answers": [ + { + "text": "河岸部", + "answer_start": 295, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "河岸部に流れる川の名は?", + "id": "tr-539-04-001", + "answers": [ + { + "text": "エブロ川", + "answer_start": 147, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "トゥデラの北方に広がる半砂漠地帯を何といいますか?", + "id": "tr-539-04-002", + "answers": [ + { + "text": "バルデナス・レアレス", + "answer_start": 259, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ナバラ州の主要な河川には、エステーリャを流れるエガ川、パンプローナを流れるアルガ川、サングエサを流れるアラゴン川などがある。\nこれらの河川はいずれもエブロ川の支流であり、北から南に流れてエブロ川に注いだ後は、南東に流れてやがて地中海に注ぐ。\nスペイン語とバスク語の言語境界線付近に分水嶺があり、州北西部の一部の地域からは、ウルメア川や���ダソア川やレイツァラン川が、南から北に流れて大西洋に注いでいる。", + "qas": [ + { + "question": "エガ川とアルガ川の本流は何?", + "id": "tr-539-05-000", + "answers": [ + { + "text": "エブロ川", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "エブロ川は最終的にどこの海に繋がっているの?", + "id": "tr-539-05-001", + "answers": [ + { + "text": "地中海", + "answer_start": 113, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ビスケー湾の影響が強い北西部は西岸海洋性気候であり、バスタン谷やビダソア谷は一年中緑に覆われる。\n冬季の平均気温は摂氏12度と穏やかであり、夏季の平均気温も摂氏22度と過ごしやすい。\nピレネー山脈に近い北東部は山岳気候であり、ナバラ州でもっとも涼しい気候である。\n冬季には気温が氷点下に落ち込み、標高の高い斜面は積雪を伴う。\nパンプローナを含む中央部は変移地帯であり、冬季と夏季の気温差が激しい。\n冬季は晴天日が多いが一定の降水もあり、夏季は暑く乾燥する日中と涼しい夜間が特徴である。\n南部は地中海性気候であり、冬季にはシエルソと呼ばれる北風が吹く。\n夏季は暑く乾燥し、気温はしばしば摂氏40度に達する。", + "qas": [ + { + "question": "冬季の北西部と北東部はどちらが気温が低いの?", + "id": "tr-539-06-000", + "answers": [ + { + "text": "北東部", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "冬場の南部に吹く北風の名前は何?", + "id": "tr-539-06-001", + "answers": [ + { + "text": "シエルソ", + "answer_start": 260, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "夏場に時々摂氏40度に達する地域はどこ?", + "id": "tr-539-06-002", + "answers": [ + { + "text": "南部", + "answer_start": 243, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ナバラ州は272のムニシピオ(基礎自治体)からなる。\n人口の約1/3が州都パンプローナ(195,769人)に住んでおり、人口の約半分がパンプローナ都市圏(315,988人)に住んでいる。\n人口20,000人以上の自治体はパンプローナ、河岸部のトゥデラ、パンプローナ都市圏のバラニャインの3自治体であり、2013年時点では州全体の42.3%がこの3自治体に居住している。\n人口2,000人から20,000人の自治体には州全体の39.2%が、人口2,000人以下の自治体に州全体の18.5%が居住している。", + "qas": [ + { + "question": "パンプローナとパンプローナ都市圏はどちらが人口が多い?", + "id": "tr-539-07-000", + "answers": [ + { + "text": "パンプローナ都市圏", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "人口20,000人以上の自治体はいくつある?", + "id": "tr-539-07-001", + "answers": [ + { + "text": "3自治体", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1900年時点のナバラ地方の人口はスペイン全体の1.7%だったが、20世紀を通じて緩やかに比率を低下させた結果、1991年時点では1.3%となった。\nナバラ州より人口が少ない自治州はラ・リオハ州とカンタブリア州だけであり、ナバラ州の人口はスペインの全17自治州中15位である。\n1900年の人口は307,669人だったが、2014年には約2倍の640,356人となった。\n人口密度は1900年の29人/km2から2014年には61.4人/km2に増加したが、スペイン平均の人口密度92人/km2を下回っている。\nピレネー渓谷や南西部のエステーリャ地域では20世紀初頭から人口が減少しつづけているが、パンプローナ盆地や河岸地域では人口が増加している。\n2000年代にはラテンアメリカ、東欧、北アフリカなどからの移民が増加しており、他国出身人口は約70,000人、比率では約11%と���定されている。", + "qas": [ + { + "question": "1900年と1991年を比較して、スペイン全体に対するナバラ地方の人口比率が多いのはどちらの年?", + "id": "tr-539-08-000", + "answers": [ + { + "text": "1900年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ナバラ州とラ・リオハ州はどちらが人口が少ない?", + "id": "tr-539-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ラ・リオハ州", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カンタブリア州、ラ・リオハ州、ナバラ州の中で最も人口が多いのはどこの州?", + "id": "tr-539-08-002", + "answers": [ + { + "text": "ナバラ州", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "人口密度が高いのは1900年と2014年のどちら?", + "id": "tr-539-08-003", + "answers": [ + { + "text": "2014年", + "answer_start": 206, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ナバラに残る最古の考古学遺跡は、後期旧石器時代のマドレーヌ文化期(18,000年前-11,000年前)のものである。\n北西部のアララール山地には金属器時代初期の巨石記念物(ドルメン、メンヒル、ストーンサークル)が見られ、南部からは鉄器時代の集落が発見されている。\nその後やってきたケルト人はバスク地方に金属加工術や火葬の習慣をもたらし、紀元前3世紀にはカルタゴ人がピレネー山麓に達した。\n紀元前133年のヌマンティアの攻囲戦で古代ローマ人がケルト人を破ると、紀元前75年にはグナエウス・ポンペイウスが自身の名に因んだ都市ポンパエロ(現・パンプローナ)を建設した。\nポンパエロには神殿、公衆浴場、邸宅などが築かれてローマ的な都市となり、ブドウ、オリーブ、小麦などのローマ作物の大規模農場が作られた。\n東部のサングエサやルンビエルなど、アラゴン川やアルガ川河畔の町はローマ化が著しく、逆に山間部の谷はほとんどローマの影響を受けなかった。\nローマ時代にキリスト教がバスク地方に定着していたとする有力な証拠はないが、伝承によれば、レイレ修道院の建設は435年、イラチェ修道院の建設は西ゴート時代、ロンセスバーリェス修道院の建設は638年とされている。", + "qas": [ + { + "question": "ロンセスバーリェス修道院とレイレ修道院はどちらが先に建設されたの?", + "id": "tr-539-09-000", + "answers": [ + { + "text": "レイレ修道院", + "answer_start": 461, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ポンパエロの建設者は誰?", + "id": "tr-539-09-001", + "answers": [ + { + "text": "グナエウス・ポンペイウス", + "answer_start": 237, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "主要なサンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路である「フランスの道」は2つの峠によってピレネー山脈を超え、ナバラ地方のプエンテ・ラ・レイナで合流する。\nサンティアゴの巡礼路は850年以後に人気を得て、巡礼者の往来は11世紀にピークに達した。\nナバラは巡礼者と接する中でキリスト教を受け入れていった。\n西ゴート族もフランク族も、この地域を完全に征服するには至らなかった。\n778年、カール大帝率いるフランク族の軍隊はパンプローナの城壁を破壊したが、これに憤慨したバスク人との戦い(ロンセスバーリェスの戦い)には大敗し、この戦いは叙事詩ローランの歌のモデルとなった。\n824年にはバスク人の族長イニゴ・アリスタがイスラーム勢力と手を組んでフランク族に勝利し、イニゴ・アリスタはパンプローナ王国(後のナバラ王国)を興した。", + "qas": [ + { + "question": "サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路を往来する巡礼者のピークはいつでしたか?", + "id": "tr-539-10-000", + "answers": [ + { + "text": "11世紀", + "answer_start": 107, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "パンプローナ王国を繁栄させた人物は?", + "id": "tr-539-10-001", + "answers": [ + { + "text": "イニゴ・アリスタ", + "answer_start": 295, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "905年にサンチョ1世によってヒメネス王朝が始まると、イスラーム教徒との間で領土の奪い合いが繰り返された。\n耕地が少ないナバラ地方は人口過剰の問題に悩まされていたが、サンチョ1世は8世紀初頭からイスラーム教徒の手にあったリオハ地方を併合して社会・経済基盤を拡充した。\n10世紀半ばにはレオン王国、アラバ領主、カスティーリャ王国などと婚姻関係を結んでいる。\n10世紀末にはサンチョ2世(在位970年-994年)が娘のウラカ・サンチェスを後ウマイヤ朝の宰相アル・マンスール・ビッ・ラーヒに与えて平和を確保しており、アル・マンスールとウラカ・サンチェスの間には後ウマイヤ朝最後のアミールであるアブド・アッラフマーン・サンチュエロが生まれている。\nパンプローナ王国は首都を持ち司教区を為す主権王国となり、1000年までにはナバラ王国として知られるようになった。", + "qas": [ + { + "question": "アブド・アッラフマーン・サンチュエロの母親の名前は?", + "id": "tr-539-11-000", + "answers": [ + { + "text": "ウラカ・サンチェス", + "answer_start": 207, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "パンプローナ王国は後に何王国になったの?", + "id": "tr-539-11-001", + "answers": [ + { + "text": "ナバラ王国", + "answer_start": 357, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1004年に即位したサンチョ3世(大王)は、キリスト教諸国との政略結婚を繰り返して、カスティーリャ、ラ・リオハ、アラゴン、バスクの諸地域と次々と同盟関係を結んで王国の地位を強固なものとした。\nピレネー山脈以南(イベリア半島)のキリスト教圏の大部分を支配した、イベリア半島におけるキリスト教勢力の「覇権国家」となった。\nサンチョ3世は西ヨーロッパとの経済・文化的交流を活発化させ、サンティアゴの巡礼路の整備と管理に力を注いだ。\nレコンキスタの過程でキリスト教勢力の軍事力がイスラーム教勢力を上回ったのはこの時期である。", + "qas": [ + { + "question": "1004年に即位した王は誰?", + "id": "tr-539-12-000", + "answers": [ + { + "text": "サンチョ3世", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1035年にサンチョ3世が亡くなると王国は息子たちに分割され、その政治力はサンチョ3世時代まで回復することはなかった。\nサンチョ3世の長子であるガルシア3世はカスティーリャ王フェルナンド1世に敗れ、西部の国境地域を失っている。\n1076年にはアラゴン王サンチョ1世がナバラ王国を併合し、ナバラ王国はアラゴン王国と同君連合を結ぶと、サンティアゴ巡礼の活況に合わせてパンプローナ、ハカ、エステーリャなどの町が成長した。\nガルシア6世(復興王)が王位に就いた1134年にはアラゴン王国から独立して再び主権を建てたが、カスティーリャ=レオン王国への臣従とリオハ地方の割譲を余儀なくされている。\nイベリア半島における政治的影響力を低下させた一方で、巡礼路を通じて貿易商や巡礼者が流入したため、ナバラ王国の商業的重要性は増した。\nナバラ王国時代にはイスラーム美術が持ち込まれ、トゥデラのモスクの廃墟、レイレ修道院やフィテロ修道院の象牙細工の小箱などが残っている。", + "qas": [ + { + "question": "サンチョ3世が死去した年は?", + "id": "tr-539-13-000", + "answers": [ + { + "text": "1035年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ガルシア3世の父親の名前は?", + "id": "tr-539-13-001", + "answers": [ + { + "text": "サンチョ3世", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カスティーリャ王フェルナンド1世は誰を討って西部の国境地域を獲得したの?", + "id": "tr-539-13-002", + "answers": [ + { + "text": "ガルシア3世", + "answer_start": 72, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "12世紀末にはカスティーリャ王アルフォンソ8世とアラゴン王アルフォンソ2世が結託してナバラ王国に攻め込み、1200年にはビスケー湾岸のアラバ、ビスカヤ、ギプスコアの3地域を奪われた。\nナバラ王国は海岸部を失って内陸国となり、ピレネー山麓の小国へ地位を落とした。\n1212年にカトリック諸国連合軍がムワッヒド朝に挑んだナバス・デ・トロサの戦いでは、サンチョ7世(不屈王)が率いる重装騎士団がカトリック勢力の勝利に貢献した。\nこの戦いはレコンキスタ(再征服運動)における転換点であり、ムワッヒド朝の衰退の決定的な要因となっている。", + "qas": [ + { + "question": "アルフォンソ8世と誰が手を組んでナバラ王国を攻めたの?", + "id": "tr-539-14-000", + "answers": [ + { + "text": "アルフォンソ2世", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1234年に死去したサンチョ7世には嗣子がおらず、シャンパーニュ家のテオバルド1世が即位してフランス王朝が始まった。\n国王は概してフランスに住み、実質的にはナバラ総督がナバラ王国を統治した。\nテオバルド1世はフランス貴族を要職に付け、ナバラ貴族の特権を侵害したため、歴代の総督はナバラ人に快く思われなかった。\nそのためフランスから召喚を受けた際には代表者を送ることを拒んだり、王権を主張する国王候補をコルテス(身分制議会)が拒んだこともあった。\nナバラ王国のフエロは女性の王位継承に寛容だったが、女子継承に否定的なフランスの伝統法はナバラ王国にも適用された。\nナバラ地方のトゥデラにはレコンキスタ後もムデハル(再征服地域のイスラーム教徒)やユダヤ人が残り、トゥデラ出身のベンヤミンは初めて東方を旅行したヨーロッパ人として『オリエント旅行記』を書き残している。", + "qas": [ + { + "question": "サンチョ7世の次に即位した人は誰?", + "id": "tr-539-15-000", + "answers": [ + { + "text": "テオバルド1世", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "テオバルド1世は誰を有利に扱ったの?", + "id": "tr-539-15-001", + "answers": [ + { + "text": "フランス貴族", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『オリエント旅行記』の著者は誰?", + "id": "tr-539-15-002", + "answers": [ + { + "text": "ベンヤミン", + "answer_start": 335, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1305年にはフランス王がナバラ王を兼ねたカペー朝が始まったが、やはりフランス貴族が要職を独占したため、1328年にナバラのコルテス(身分制議会)はフアナ2世をナバラ王に選出した。\nフアナ2世の治世の1328年には、王国内でも生産的で開明的だったユダヤ人を迫害し、6,000人を死に追いやった。\n1348年から1349年には黒死病がナバラ王国にも蔓延し、人口の60%を失った。\nこれらのことが重なり、14世紀半ば以降のナバラ王国は国力が弱体化し、独立の喪失に向かい始めた。\nフアナ2世を継いだカルロス2世の治世にはカスティーリャ軍やフランス軍のナバラ王国への侵攻を受けた。\n1379年にはトゥデラ城やエステーリャ城を含む20の砦をカスティーリャ王国に占領され、カルロス2世はフランスにあるほぼすべての領地を喪失した。", + "qas": [ + { + "question": "1348年から1349年の間に人口の半分以上を死に追いやった疫病とは何?", + "id": "tr-539-16-000", + "answers": [ + { + "text": "黒死病", + "answer_start": 162, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "カルロス2世の先代の王は誰だったの?", + "id": "tr-539-16-001", + "answers": [ + { + "text": "フアナ2世", + "answer_start": 237, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1418年にはカルロス3世がオリテにオリテ王宮を完成させたが、彼が1425年に亡くなった後の王国はもっとも混乱した時代を迎えた。\n1441年に女王のブランカ1世が死去すると、共同君主だった夫のフアン2世は長男カルロスに王位を譲らず、1451年にはナバラ王国の貴族間でナバラ内戦が発生した。\n1479年に、近隣のアラゴン王国とカスティーリャ王国が統合されてスペイン王国になると、イスラーム勢力下にある地域とナバラ王国を除きイベリア半島をほぼ領有していたので、1492年にグラナダを攻略した後には、ナバラ王国の獲得に関心を集中させた。", + "qas": [ + { + "question": "スペイン王国が誕生したのは何年か?", + "id": "tr-539-17-000", + "answers": [ + { + "text": "1479年", + "answer_start": 145, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1512年にはカスティーリャ摂政フェルナンド5世がナバラ王国に侵攻して併合し、ナバラ王国はカスティーリャ王国の副王領となったが、立法・行政・司法の各機構はナバラ王国に残された。\nナバラ人はフランス王朝の終焉をそれほど残念には思わず、カスティーリャ王国内での自治権の保持に力を注いだ。\n1530年時点で、現在のナバラ州に相当する地域はスペイン全体の2.5%の人口を有していたが、スペイン王国に統合された影響もあり、1591年には1.9%にまで減少している。", + "qas": [ + { + "question": "1512年にナバラ王国を併合した人は誰?", + "id": "tr-539-18-000", + "answers": [ + { + "text": "フェルナンド5世", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ナバラ王位にあったカタリナとフアン3世はピレネー山脈北部に逃れ、1555年までに、アルブレ家の女王ジャンヌ・ダルブレが率いるナヴァール王国(ナヴァール=ベアルン王国)が確立された。\nピレネー山脈の南側では、1610年にアンリ4世がスペイン側のナバラ王国に進軍の準備を行うまで、副王領としての王国は不安定なバランスの上にあった。\nナヴァール王エンリケ3世が1589年にフランス王アンリ4世として即位すると、歴代のフランス王はナヴァール王を兼ねた。\nフランス側のナヴァール王国は1620年にフランス王国の一部となったが、1789年まで独自の制度と権限を有していた。", + "qas": [ + { + "question": "ナヴァール王エンリケ3世が兼任したのはどこの国の王だったの?", + "id": "tr-539-19-000", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 183, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "17世紀のナバラでは農業がほぼ唯一の経済であり、穀物やブドウの生産、家畜の飼育などが行われ、小麦・羊毛・ワインなど小規模の輸出貿易をおこなった。\nスペイン海軍の船にはナバラ産の材木が使用され、隣接するギプスコアに鉄鉱石を運んだ。\n17世紀におけるナバラとバスク全体の人口は約35万人だった。\nこの世紀には黒死病の再流行によってスペイン全体の人口が850万人から700万人に減少しており、ナバラやバスクは黒死病による死者は少なかったが、社会的流出が多かったために人口は増加しなかった。\n1659年にはピレネー条約でスペイン・フランスの国境が確定し、北ナバラと南ナバラの分断によって長年燻っていたナバラ問題は立ち消えた。\nスペイン内でフエロを持つ他地域、アラゴン、カタルーニャ、バスクと比べても、ナバラは高い水準の自治権を有しており、ナバラのみは例外的に司法権の維持を許された。", + "qas": [ + { + "question": "17世紀にスペイン全体の人口が850万人から700万人に減少した原因とは何?", + "id": "tr-539-20-000", + "answers": [ + { + "text": "黒死病", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "スペインとフランスの国境が明確に決定されたのは何年?", + "id": "tr-539-20-001", + "answers": [ + { + "text": "1659年", + "answer_start": 242, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "18世紀初頭でもナバラは、なお「王国」と呼ばれていた。\n1722年にスペイン・フランス間の税関がエブロ川に移されたおかげでフランスとの貿易が盛んとなり、18世紀のナバラでは商業が発達した。\n農民はスペインの他地方よりも豊かな暮らしをし、人口の5-10%を占める貴族の割合はスペインでもっとも高かった。\n18世紀半ばには道路網の整備が着手され、現在のパンプローナ市庁舎を含む壮大なバロック様式の建物が至るところに建てられた。\n18世紀末時点で、スペイン王国内で独自の司法機関、副王、議員団、会計院を持っていた地域はナバラのみだった。", + "qas": [ + { + "question": "スペインとフランスの貿易が盛んになったのは何世紀でしたか?", + "id": "tr-539-21-000", + "answers": [ + { + "text": "18世紀", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "スペイン・フランス間の税関がエブロ川に移動したのは何年でしたか?", + "id": "tr-539-21-001", + "answers": [ + { + "text": "1722年", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "フランスとスペインを含む連合軍の間でスペイン独立戦争が起こった19世紀初頭、フランスの憲法起草者はナバラ、スペイン・バスク、フランス領バスクを統合して新フェニキアという名称のバスク統一国を作ることを計画した。\nナポレオン自身は、エブロ川以北をスペインと分断させてフランスに編入させることを計画した。\n1813年のスペイン独立戦争後のスペインでは自由主義的な思想が目立つようになり、中央集権体制の支持者が増加した。\n19世紀のスペインでは王位継承権をめぐる内乱(カルリスタ戦争)が三度に渡って起こっており、この内乱はブルジョアなどの自由主義勢力と教会や貴族などの絶対主義勢力(カルリスタ)間の代理戦争の意味合いを呈していた。\nマドリードの中央政府は自由主義的な政策を打ち出していたため、伝統的な諸特権を享受したいバスク地方やナバラ地方にはドン・カルロスの支持者(カルリスタ)が多かったが、第一次カルリスタ戦争(1833-1839)はベルガラ協定でカルリスタ側の敗北が決定した。\nこの敗北でカルリスタは強大な軍事力は失ったものの政治的重要性は保ち、後のバスク地方やカタルーニャ地方で起こる民族主義運動につなげた。\n同時期にスペイン政府は行政改革の一環として県の設置を進めており、ナバラ王国に相当する領域にはナバラ県が設置されている。", + "qas": [ + { + "question": "スペインではカルリスタ戦争が何度起こったの?", + "id": "tr-539-22-000", + "answers": [ + { + "text": "三度", + "answer_start": 239, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1833年スペイン地方行政区分再編ではスペイン全土に49件が設置され、ナバラ地域にはナバラ県のみが設置された。\n1841年にはナバラ特権政府の代表が妥協法に署名し、旧来のフエロが廃止されてスペイン憲法の枠組みによるフエロの再編が行われた。\n関税境界がバスクとスペインの境界(エブロ川)からスペイン・フランス国境(ピレネー山脈)に移動すると、ピレネー山脈を挟んだナバラの貿易の慣習が崩壊し、税関を経由しない密輸が勃興した。\nビスカヤ県やギプスコア県とは異なり、ナバラ県ではこの時期に製造業が発展せず、基本的には農村経済が残っていた。\n1872年から1876年の第三次カルリスタ戦争中では再びカルリスタ勢力が敗北。\n1876年7月21日法はスペイン国家に対する兵役や納税などを規定しており、事実上フエロが撤廃された法律と解釈されている。\n1877年には一般評議会と特権議会が廃止され、バスク地方全域のスペインへの統合が完了した。", + "qas": [ + { + "question": "スペイン全土に49県が設置されたのは何年でしたか?", + "id": "tr-539-23-000", + "answers": [ + { + "text": "1833年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第三次カルリスタ戦争は何年から始まったの?", + "id": "tr-539-23-001", + "answers": [ + { + "text": "1872年", + "answer_start": 266, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "フエロの再編は何の枠組みを基本とするものでしたか?", + "id": "tr-539-23-002", + "answers": [ + { + "text": "スペイン憲法", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "弘前大学教授夫人殺人事件", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "弘前大教授夫人殺し事件は、1949年8月6日深夜、青森県弘前市で発生した殺人事件と、それに伴った冤罪事件である。略称は弘前事件だ。殺人被害者の名を取って松永事件とも呼ばれる。\n\n1949年8月6日深夜、弘前医科大学教授松永藤雄の妻が在府町の寄宿先で刺殺された。弘前市警は近隣住民の無職の男性、那須隆を逮捕し、勾留延長や別件逮捕などを利用して厳しく追及した。那須は一貫して無実を主張したがアリバイはなく、事件の目撃者からも犯人であると断定され、精神鑑定でも那須は変態性欲者であるとの結果が出された。加えて那須の衣服に対する血痕鑑定でも血液の付着があるとの結果が出されたため、同年10月に那須は青森地裁弘前支部へ起訴された。", + "qas": [ + { + "question": "弘前大教授夫人殺し事件は何年にありましたか。", + "id": "tr-540-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1949年", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "弘前大教授夫人殺し事件の略称は何?", + "id": "tr-540-00-001", + "answers": [ + { + "text": "弘前事件", + "answer_start": 59, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "松永事件は何年にありましたか。", + "id": "tr-540-00-002", + "answers": [ + { + "text": "1949年", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "弘前医科大学教授松永藤雄の妻は何年に亡くなったか。", + "id": "tr-540-00-003", + "answers": [ + { + "text": "1949年", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "一審では血液学の権威である東京大学医学部法医学教室教授古畑種基も数学を援用して那須の衣服の鑑定を行い、それには被害者のものと完全に一致する血液が付着していると結論した。これに対し那須の弁護人らは、実施された鑑定には不自然な点があるとして、物証は捏造されたものであると主張した。1951年に下った一審判決では那須は殺人罪について無罪とされたが、裁判長はその理由を一切説明しなかった。仙台高裁で開かれた控訴審では那須が変態性欲者ではないとする精神鑑定の結果も出されたが、1952年の控訴審判決は古畑の鑑定を始めとしてほぼ全面的に検察側の主張を容れ、那須は懲役15年の有罪判決を受けた。やがて判決が確定した那須は10年間服役し、この事件は法医学の力が有罪判決に寄与したモデルケースとして知られるようになった。\n\nしかし、事件から20年以上が経過した1971年になって、事件当時は弘前在住で那須の知人であった男が、自らが事件の真犯人であると名乗り出た。那須は日本弁護士連合会や読売新聞などの協力を得て再審を請求し、その後行われた物証の再鑑定でも、過去の血痕鑑定には多くの批判が加えられた。1974年に請求は一度棄却されたが、翌年に下された白鳥決定により再審の門戸が拡げられたことにより間もなく再審の開始が決定された。そして事件から28年が経過した1977年、仙台高裁は物証の捏造を強く示唆して那須に対する殺人の罪を撤回し、事件は冤罪と認められた。だが、その後の国家賠償請求訴訟では国側の過失責任は否定され、那須の全面敗訴となった。", + "qas": [ + { + "question": "那須は何年間服役したの?", + "id": "tr-540-01-000", + "answers": [ + { + "text": "10年", + "answer_start": 303, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1977年は事件から何年経過した時点ですか。", + "id": "tr-540-01-001", + "answers": [ + { + "text": "28年", + "answer_start": 561, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1945年、第二次世界大戦での敗北によって連合国軍が日本に進駐し、占領政策の一環として学制改革が開始された。これを受けて、1948年2月に青森県弘前市に設置されたばかりの旧制弘前医科大学も、併存していた前身校の青森医学専門学校とともに、国立学校設置法によって1949年5月に新制弘前大学の医学部へと再編された。しかし、実際に弘大医学部が開設されたのは翌々年の1951年4月のことであり、弘前大教授夫人殺し事件はこの大学再編の過渡期に発生した事件である。", + "qas": [ + { + "question": "旧制弘前医科大学は何年に新制弘前大学の医学部へと再編されたか。", + "id": "tr-540-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1949年", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "実際に弘大医学部が開設されたのは何年ですか。", + "id": "tr-540-02-001", + "answers": [ + { + "text": "1951年", + "answer_start": 179, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "当時の弘前医大で学長を務めていたのは東北帝国大学元教授の精神科医、丸井清泰であり、学内では東北大学系の学閥が力を持っていた。同時期に東北大学から赴任してきたばかりの松永藤雄もまた、丸井の片腕として大きな政治力を持ち、同大学教授と大学附属病院内科部長も務めていた。松永は1947年から弘前市在府町で、妻Sと2人の子供たちとともに住むようになった。一家が身を寄せたのは松永が東北大学に勤務していた頃の患者宅の離れで、その付近には古くからの武家屋敷が立ち並んでいた。\n\nその屋敷町の、松永一家の寄宿先から200メートル足らずの距離に屋敷を構えていたのが、下野国を治めていた戦国大名の那須氏直系の家であった。統一那須家から数えて15代目の時代に東京の屋敷を台風で失い、かねてから養子縁組などで縁の深かった津軽家を頼って弘前へ移り住んだ那須家であったが、農地改革で小作地を奪われた当時の那須家は没落状態にあった。この家庭に12人きょうだいの次男(長男は夭逝したので実質的な長兄)として生まれたのが当時25歳の那須隆である。1943年に東奥義塾を卒業し、かつては満州国興安総省の開拓団指導員や青森県通信警察官としても働いていた那須であったが、通信警察が廃止されてからは定職に就けず、失業者として暮らしていた。しかし、那須は長兄として家族を養うために警察官に戻ることを考えていた。", + "qas": [ + { + "question": "当時の弘前医大で学長を務めていた人の名前は何?", + "id": "tr-540-03-000", + "answers": [ + { + "text": "丸井清泰", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "松永はいつから弘前市在府町で、妻Sと2人の子供たち��ともに住むようになったの?", + "id": "tr-540-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1947年", + "answer_start": 134, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "那須隆は当時何歳だった?", + "id": "tr-540-03-002", + "answers": [ + { + "text": "25歳", + "answer_start": 445, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "那須隆は何年、東奥義塾を卒業したか。", + "id": "tr-540-03-003", + "answers": [ + { + "text": "1943年", + "answer_start": 456, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1949年8月3日、松永は仕事のため一週間ほど家を離れる予定で、息子を連れて青森市へと発った。4歳の娘と2人で家に残されることになったので、松永の妻Sは実家から母親を呼び寄せ、夫たちの留守の間を3人で過ごすことにした。\n\n8月6日22時頃、3人は離れ一階の8畳間で「川」の字になって床に就いた。8畳間には2燭光の水色豆電球が点いており、3人は北側からSの母、Sの娘、Sの順に縁側へ面した南側へと横たわっていた。事件が発生したのは、それからおよそ1時間後のことである。\n\n23時過ぎ、Sは南の縁側から侵入してきた男に家族の目の前で刺殺された。致命傷は鋭利な刃物で左側総頸動脈に受けた傷であったが、姦淫された形跡はなかった。\n\n当時の上流階級であり、なおかつ近隣でも評判の美女であった大学教授夫人の殺害事件に、地元の世論は沸き立った。所轄の自治体警察である弘前市警は松永一家の交際状況や近隣の前科者などを洗ったが、結果は思わしくなく、加えて医大側が非協力的であったために捜査は難航した。やがて弘前市警は国家地方警察の青森県警本部に協力を仰ぐことになったが、この2つの警察の間では縄張り争いからの反目が絶えなかった。事件から2週間後に市警が別件逮捕した有力な被疑者も、アリバイの発覚により釈放を余儀なくされた。事件の迷宮入りを新聞が危惧するなか、市警の見立ては変態性欲者犯行説へと傾斜していった。", + "qas": [ + { + "question": "松永の娘は何歳だった?", + "id": "tr-540-04-000", + "answers": [ + { + "text": "4歳", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "Sは何時すぎて殺されたか。", + "id": "tr-540-04-001", + "answers": [ + { + "text": "23時", + "answer_start": 235, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "柳窪(東久留米市)", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "柳窪(やなぎくぼ)は、東京都東久留米市の西端に位置する町名である。\n柳窪一丁目から柳窪五丁目まである。\n柳久保とも表記する。\n住民基本台帳に基づく2017年(平成29年)4月1日現在の人口は5,412人、2013年(平成25年)1月1日現在の面積は0.89km2だ。\n郵便番号は203-0044だ。", + "qas": [ + { + "question": "柳窪の別表記は何ですか?", + "id": "tr-541-00-000", + "answers": [ + { + "text": "柳久保", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "2017年4月1日時点の柳窪の人口は何人だったの?", + "id": "tr-541-00-001", + "answers": [ + { + "text": "5,412人", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "東久留米市内を流れる黒目川の源流域の柳窪には、江戸時代末期から昭和初期までに建築された伝統的な造りの大・中型民家、白壁の土蔵群、古民家を取り囲むヒイラギの生垣、ケヤキ・カシなどの高木・巨木がそびえ立つ屋敷林が見られ、周辺の畑地と併せて、江戸時代の武蔵野の農村集落の面影を今に残している。\n黒目川源流域に沿った一帯1.3592ヘクタールは東京都が管理する「柳窪緑地保全地域」に指定されている。", + "qas": [ + { + "question": "黒目川の源流域はどこですか?", + "id": "tr-541-01-000", + "answers": [ + { + "text": "柳窪", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「柳窪緑地保全地域」はどこが管理しているの?", + "id": "tr-541-01-001", + "answers": [ + { + "text": "東京都", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「柳窪緑地保全地域」はどれくらいの面積なの?", + "id": "tr-541-01-002", + "answers": [ + { + "text": "1.3592ヘクタール", + "answer_start": 156, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "柳窪は何市に位置しているの?", + "id": "tr-541-01-003", + "answers": [ + { + "text": "東久留米市", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "東久留米市の西端に位置し、西は東村山市、南は小平市と接する。\n南部を東西方向に新青梅街道が通過する地域であり、大部分は住宅地として利用されている。\n二丁目に山崎製パン武蔵野工場、四丁目に黒目川の水源、五丁目に東久留米市立第十小学校がある。\n北は下里三丁目・四丁目、東は滝山五丁目・六丁目、南は小平市大沼町二丁目・四丁目、小平市美園町三丁目、西は東村山市萩山町五丁目、東村山市恩多町一丁目・二丁目、青葉町一丁目と接する。\n公立の小・中学校に通学する場合、学区は次のように指定されている。\nこのうち、第十小学校は柳窪五丁目にある。", + "qas": [ + { + "question": "東久留米市の東隣りに位置している市は何?", + "id": "tr-541-02-000", + "answers": [ + { + "text": "東村山市", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "東久留米市立第十小学校は柳窪の中でどの住所地にあるの?", + "id": "tr-541-02-001", + "answers": [ + { + "text": "五丁目", + "answer_start": 100, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "東久留米市の南に位置している市は何ですか?", + "id": "tr-541-02-002", + "answers": [ + { + "text": "小平市", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "黒目川の水源は何丁目にあるの?", + "id": "tr-541-02-003", + "answers": [ + { + "text": "四丁目", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "柳窪には屋敷林に囲まれた江戸時代末期から明治初期の大型民家5軒と明治中期から昭和初期の中規模の伝統的な民家8軒が残っている。\nまた、養蚕による生糸の輸出で栄えた時代の建物もいくつか現存し、実用されている。\n旧集落内には土蔵が21棟建っている。\n白壁の土蔵が20棟、外壁に大谷石が積まれている土蔵が1棟で、農村風景の歴史的な環境が維持されている中で、この地区の景観の重要な要素となっている。", + "qas": [ + { + "question": "柳窪に残る民家の数が多いのは大型民家と中規模の伝統的な民家のどちらですか?", + "id": "tr-541-03-000", + "answers": [ + { + "text": "中規模の伝統的な民家", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "白壁の土蔵と外壁に大谷石が積まれている土蔵はどちらの方が数が多いですか?", + "id": "tr-541-03-001", + "answers": [ + { + "text": "白壁の土蔵", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "旧集落内に建っている土蔵の中で、白壁の土蔵は何棟ありますか?", + "id": "tr-541-03-002", + "answers": [ + { + "text": "20棟", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "より古い時代に造られたのは大型民家と中規模の伝統的な民家のどちらですか?", + "id": "tr-541-03-003", + "answers": [ + { + "text": "大型民家", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "江戸時代、大都市となった江戸においては大火が頻繁に起こった。\nそのため享保期(1716年-1735年)以降、幕府は防火対策のひとつとして土蔵等の建築を奨励した。\n以来、土蔵の建築は農村部にも普及し、柳窪においても幕末から明治・大正期にかけて築かれた土蔵は多い。\n2008年(平成20年)の日本女子大学住居学科による調査対象となった土蔵群は幕末期3、明治初期3、明治30年代3、大正期1、年代不詳1となっている。", + "qas": [ + { + "question": "防火対策として幕府が奨励した建築物とは何ですか?", + "id": "tr-541-04-000", + "answers": [ + { + "text": "土蔵", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "年代不詳を除き、調査対象となった土蔵群の中で最も数が少なかったのはいつの時代のものでしたか?", + "id": "tr-541-04-001", + "answers": [ + { + "text": "大正期", + "answer_start": 188, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "明治初期と大正期の土蔵はどちらの方が数が多かったですか?", + "id": "tr-541-04-002", + "answers": [ + { + "text": "明治初期", + "answer_start": 174, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "江戸時代の江戸で頻繁に起こった災害とは何でしたか?", + "id": "tr-541-04-003", + "answers": [ + { + "text": "大火", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "この地域には鬱蒼としたケヤキ、シラカシからなる屋敷林が残っている。\nそのなかでひときわケヤキの大木が目立つ柳窪四丁目の村野家住宅は、唯一東久留米市内に残る江戸時代の茅葺民家である。\n同住宅は、江戸から大正期にかけて建てられた貴重な建物として、2011年(平成23年)に主屋等7件が国の登録有形文化財に登録された。\n同年それらの建物を総称して「顧想園」と命名し、春と秋に一般公募の見学会(都文化財ウイークへの参加など)が実施されている。\n園内にはさまざまな植生が見られ、なかでも武蔵野では急激に数を減らしてなかなか見られなくなったクマガイソウ、キンランなどが保護されて、毎年春に花を咲かせる。", + "qas": [ + { + "question": "柳窪で屋敷林として植えられていた樹木はシラカシと何ですか?", + "id": "tr-541-05-000", + "answers": [ + { + "text": "ケヤキ", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "国の登録有形文化財に登録された7件の総称は何?", + "id": "tr-541-05-001", + "answers": [ + { + "text": "「顧想園」", + "answer_start": 170, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "唯一東久留米市内に残る江戸時代の茅葺民家は何ですか?", + "id": "tr-541-05-002", + "answers": [ + { + "text": "村野家住宅", + "answer_start": 59, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "村野家住宅の住所地はどこですか?", + "id": "tr-541-05-003", + "answers": [ + { + "text": "柳窪四丁目", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "現在は小平霊園内にあり、昔はさいかちの木が何本も生えていたためその名で��ばれる「さいかち窪」(柳窪三丁目)は、地形的には黒目川の源流部にあたり、雨量の多いときに稀ではあるが林の中に湧水が出現する「幻の湧水」と言われる。\n黒目川沿いの天神社(柳窪四丁目)付近の湧水は、東京の名湧水57選に指定された。\n季節や天候により水量は変動し枯れることもあるが、透明でゆるやかな流れと伝統ある社殿、周辺の曲がりくねった道や道祖神は、昔ながらの風景を残している。", + "qas": [ + { + "question": "「さいかち窪」は元々何の木が多く生息していたためにその名が付いたの?", + "id": "tr-541-06-000", + "answers": [ + { + "text": "さいかちの木", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "2013年(平成25年)に新青梅街道から黒目川沿いに柳窪を縦断して下流の柳橋まで約1kmにわたる遊歩道が開通した。\n「さいかちの道」と名付けられたこの道は、東京都指定の「雑木林のみち」の延長でもある。\n柳橋から下流には久留米西団地内の「しんやま親水広場」を抜ける遊歩道が整備されており、更にその先の下里氷川神社まで延伸する遊歩道は2017年(平成29年)4月に開通した。\nこれにより新青梅街道から下里氷川神社まで黒目川に沿う約2.1kmの親水化整備区間の遊歩道が完成した。", + "qas": [ + { + "question": "2013年当時の「さいかちの道」の距離はどれくらいでしたか?", + "id": "tr-541-07-000", + "answers": [ + { + "text": "約1km", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "現在の「さいかちの道」のスタート地点はどこですか?", + "id": "tr-541-07-001", + "answers": [ + { + "text": "新青梅街道", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "現在の「さいかちの道」のゴール地点はどこですか?", + "id": "tr-541-07-002", + "answers": [ + { + "text": "下里氷川神社", + "answer_start": 198, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "開通した遊歩道の距離が長かったのは2013年と2017年のどちらですか?", + "id": "tr-541-07-003", + "answers": [ + { + "text": "2017年", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "江戸時代には武蔵野の荒地が開墾されて田畑となった。\n東久留米市域の村々は江戸時代初期またはそれ以前から存在していたが、旧柳窪村は江戸時代に入ってから開発され、寛文10年(1670年)に幕府領(天領)となった。\n安政5年(1858年)に一時期熊本藩領となったのを除き、幕末まで天領であった。\n村が成立して間もない元禄11年(1698年)、その石高は僅かに7石でしかなかったが、宝永6年(1709年)、隣接する田無村の飛地から74石が分けられ、合わせて82石2斗の村高となった。\n享保18年(1733年)には102石に、幕末ごろには柳窪新田分を含め233石となっている。", + "qas": [ + { + "question": "旧柳窪村の石高が多かったのは宝永6年と享保18年のどちらの年でしたか?", + "id": "tr-541-08-000", + "answers": [ + { + "text": "享保18年", + "answer_start": 238, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "旧柳窪村の石高が多かったのは享保18年と幕末ごろのどちらの時期でしたか?", + "id": "tr-541-08-001", + "answers": [ + { + "text": "幕末ごろ", + "answer_start": 258, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "旧柳窪村が幕府領となったのは西暦何年でしたか?", + "id": "tr-541-08-002", + "answers": [ + { + "text": "1670年", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "幕末期の柳窪新田分を含めた旧柳窪村の石高はどれくらいでし���か?", + "id": "tr-541-08-003", + "answers": [ + { + "text": "233石", + "answer_start": 272, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "江戸時代の文献や石造物には「柳窪」または「柳久保」と表記されている。\n現在では柳窪一丁目-五丁目を中心に、下里四丁目の一部が含まれる。\n柳窪村の江戸時代、文政10年(1827年)の家数は38軒、人口は222人、1872年(明治5年)の家数は42軒、人口は253人だった。\n1872年(明治5年)から神奈川県に編入され、1889年(明治22年)に柳窪村など8村に柳窪新田などを加えて久留米村が成立した。\n1893年(明治26年)に東京府に編入し、1943年(昭和18年)に東京都となった。", + "qas": [ + { + "question": "1827年と1872年を比べると、柳窪村の人口が多かったのはどちらの年だったの?", + "id": "tr-541-09-000", + "answers": [ + { + "text": "1872年", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1827年と1872年を比較すると、柳窪村の家数が多かったのはどちらの年だったの?", + "id": "tr-541-09-001", + "answers": [ + { + "text": "1872年", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "柳窪村は東京府に編入する前は何県に入っていたの?", + "id": "tr-541-09-002", + "answers": [ + { + "text": "神奈川県", + "answer_start": 149, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "東京府はその後どのような地名に改称したの?", + "id": "tr-541-09-003", + "answers": [ + { + "text": "東京都", + "answer_start": 235, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "慶応2年6月13日(1866年7月24日)、秩父郡上名栗村に端を発し、武蔵17郡・上野2郡に及んだ武州世直し一揆には、農民・民衆等10万人余が参加したといわれる。\n一揆勢は各地で米の安売りや施金・施米、質地証文・借金証文の廃棄などを求めて次つぎに豪農・豪商を襲いながら、鎮圧される同月19日(西暦7月30日)までの7日間で関東西部各地に広がった。\n打ちこわしの被害にあった村は202村だ。\n幕末期、しかも将軍のお膝元で起きた関東最大の一揆が幕藩体制に与えた衝撃は大きく、幕府の威信を揺るがし、その瓦解を早めた要因のひとつとなった。", + "qas": [ + { + "question": "慶応2年6月13日の武州世直し一揆で被害にあった村はいくつでしたか?", + "id": "tr-541-10-000", + "answers": [ + { + "text": "202村", + "answer_start": 188, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "武州世直し一揆の発端となった地はどこですか?", + "id": "tr-541-10-001", + "answers": [ + { + "text": "秩父郡上名栗村", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "武州世直し一揆の参加者は何人でしたか?", + "id": "tr-541-10-002", + "answers": [ + { + "text": "10万人余", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "この一揆の鉾先は柳窪にも向けられた。\n6月14日-15日(西暦7月25日-26日)に扇町屋、所沢などで豪・農商を襲い、16日(西暦7月27日)早朝には大岱村の亀次郎宅を打ちこわしたあと、柳窪村の名主七郎右衛門宅と分家・農業七次郎宅にも打ちこわしをかけた。\nその数は数百人との説もあるが定かではない。\n江戸の江川代官所内にあった砲術訓練所でかねてより特別の訓練を受けていた農民の武装組織、いわゆる江川農兵が一揆勢の鎮圧にあたった。\n田無村に出張中の江川代官所の役人は柳窪村打ちこわしの報を受け、すぐさま鉄砲をもった農兵16人と村役人や人足など150人ほどをひきつれ出陣した。\n農兵は七次郎宅打ちこわし中の��揆勢に向けて容赦なく発砲した。\nその結果、武器をもたない一揆勢はたちまち総崩れとなった。\n即死者8名、逮捕者13名、負傷者80余名という結果を残して、一揆勢は鎮圧・壊滅された。\n事件発生の翌慶応3年4月(1867年5月)、襲撃を受けた農業村野七次郎ら12人の上層農は今後に備えて食料の備蓄などについて対策を講じ、自然災害や農民の困窮に備えて、村人全員257人60日分の食糧を備蓄すること、また非常の際、窮民への助成金として金10両を積み立てておくことを取り決めた記録が残されている。", + "qas": [ + { + "question": "柳窪村が打ちこわしに遭った際に鎮圧にあたったのは何でしたか?", + "id": "tr-541-11-000", + "answers": [ + { + "text": "江川農兵", + "answer_start": 197, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "一揆による逮捕者と負傷者の数はどちらが多かったですか?", + "id": "tr-541-11-001", + "answers": [ + { + "text": "負傷者", + "answer_start": 360, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "柳窪村で打ちこわしにあったのは七次郎と誰の家でしたか?", + "id": "tr-541-11-002", + "answers": [ + { + "text": "七郎右衛門", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "村野七次郎宅であった村野家住宅(柳窪四丁目)には、主屋の奥座敷の床柱や長押に鋸や鎌などによると思われる襲撃の傷跡が今も残っている。\n一揆勢を鎮圧刷るための江川農兵の出動は、柳窪村だけでなく、昭島市(築地川原、日野・八王子農兵)、あきる野市(入野村、五日市・桧原農兵)にも及んでいる。\n江川役所手代らの「見かけ次第うち殺すべし」との指示のもと、これらの地域でも激しい戦闘が繰り広げられた。\n築地川原での死者は18人、召捕は41人だ。\n入野村では死者10人、召捕26人であったという。\n武州世直し一揆展開図によれば、他所では藩兵・関東取締出役・自警団などが鎮圧にあたっていたが、多摩郡の江川支配下では、村の治安維持装置として武装農兵組織を本格的に稼働させた。\n柳窪村における一揆鎮圧は、このような武装農民組織が実戦投入されたケースとして注目される。", + "qas": [ + { + "question": "築地川原での死者と召捕はどちらの方が人数が多かったですか?", + "id": "tr-541-12-000", + "answers": [ + { + "text": "召捕", + "answer_start": 207, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "入野村での死者と召捕はどちらの方が人数が少なかったですか?", + "id": "tr-541-12-001", + "answers": [ + { + "text": "死者", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "死者の人数が多かったのは築地川原と入野村のどちらですか?", + "id": "tr-541-12-002", + "answers": [ + { + "text": "築地川原", + "answer_start": 194, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "召捕の人数が少なかったのは築地川原と入野村のどちらでしたか?", + "id": "tr-541-12-003", + "answers": [ + { + "text": "入野村", + "answer_start": 216, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "歴史地震", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "歴史地震(れきしじしん)とは、歴史時代に発生した地震のうち、地震計を始めとする近代的観測機器が存在しなかった時代に属するもので、なおかつ、記録で確かめられるものをいう。\nそれらは、古文書や災害記念碑という形で今日まで伝えられてきた。\n英語には\"historicalearthquake\"という語(cf.en)があるが、日本語の「歴史地震」よりやや広義かも知れない。\n日本語(専門用語)「歴史地震」において定義されている「歴史」は、記録された人間社会の出来事の変遷を指すため、時期的に該当していようとも、伝わっていながら信頼するに足る記録の見当たらないものや、考古学的・地球科学的知見(遺跡発掘や地質調査を始めとする様々な学問から得られる情報と見解)によってその発生が推測あるいは確認されながら歴史として検証できないものは、歴史地震と見なされない。\nつまり、確かな記録の残っていることが「歴史地震」の定義上の前提である。", + "qas": [ + { + "question": "歴史地震が伝えられてきた手段として、古文書や何がありましたか?", + "id": "tr-542-00-000", + "answers": [ + { + "text": "災害記念碑", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "日本語の「歴史地震」よりも広い意味を含む英語表記の歴史地震のスペルは?", + "id": "tr-542-00-001", + "answers": [ + { + "text": "historicalearthquake", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "一方、先史時代(記録が残されるようになる以前の時代)に発生した地震は先史地震といい、地質学的成果や考古学的成果などがこれを証明し得る。\nなお、日本の歴史では、中央政権の勢力範囲において古墳時代以前を先史時代としているが、地域によって差異が大きく、例えば蝦夷地(北海道)は江戸時代以降に歴史時代が始まる。\n日本では1885年(明治18年)に地震計を始めとする近代的観測体制の整備が開始されたため、歴史地震は一般的に1884年(明治17年)以前に発生したものを指す。", + "qas": [ + { + "question": "日本では、いつ以前を先史時代と区分していますか?", + "id": "tr-542-01-000", + "answers": [ + { + "text": "古墳時代以前", + "answer_start": 92, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "日本で地震計による観測がスタートしたのはいつですか?", + "id": "tr-542-01-001", + "answers": [ + { + "text": "1885年", + "answer_start": 156, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "また、先史時代と歴史時代の別無く、さらには、歴史的(歴史学的)検証の有無を問わず、近代的観測機器の登場以前に発生した地震を総じて古地震という。\n歴史地震の調査研究は、将来の発生を想定される地震の予測など、防災上欠かすことのできないもので、巨大地震の発生周期などを論ずる地震学の一分野であり、ある地域の地震災害の正確な評価を行うためには、地震によって開放されるエネルギーを見積もる必要があるが、計器観測が始まって以来の地震のみではデータの蓄積として不充分であり、古地震学の助けを借りる必要性が生じる。\nまた、歴史地震は歴史研究の一部を担う考古学の知見でもあり、地震考古学の分野も開拓されている。", + "qas": [ + { + "question": "近代的観測機器の登場以前に発生した地震の総称は何?", + "id": "tr-542-02-000", + "answers": [ + { + "text": "古地震", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "歴史地震の研究は古文書の調査から始まる。\n古文書は国家の歴史を記した正史から個人の日記など多種多様であり、誤記、誤植、誇張、伝聞によるものなどを含み、その信頼性に疑問点があるものも多く、可能な限り多くの史料を付き合せ、検証する作業が要求される。\nまた偽書も多いが、ある目的に対して偽書であっても、そこに記された事項が全て偽りであるとは限らず、記された天変地異が真実である可能性が否定できない場合もある。\n戦乱による社会的混乱、火災による焼失、津波による古文書の流失など、地震災害自体が過去の記録の喪失につながる場合も少なくない。\n例えば房総沖における慶長津波の記録が少ないのは、その後のより甚大な元禄地震津波で失われた可能性があるとされる。\nまた宝永地震津波により、尾鷲や土佐久礼八幡宮でも古記録が流失し、これ以前の歴���は不明な点が多い。", + "qas": [ + { + "question": "慶長津波と元禄地震津波はどちらが先に発生しましたか?", + "id": "tr-542-03-000", + "answers": [ + { + "text": "慶長津波", + "answer_start": 275, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "尾鷲や土佐久礼八幡宮の古記録が流失した原因は何でしたか?", + "id": "tr-542-03-001", + "answers": [ + { + "text": "宝永地震津波", + "answer_start": 323, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "現代のように時計を持たず厳密な時刻を求めない時代では、発震時刻や地震動の継続時間は記憶や感覚に頼る部分が多く、江戸時代以前の日本のような干支で表現した時刻では分解能が低く、2時間程度の不確定性を含むものとなる。\n不定時法では日の入、日の出の時刻により一時の時間も定時法とは異なり、また標準時の概念が存在しなかった時代ゆえに、現代の時刻に換算するには緯度、経度を考慮する必要が生じる。\n近世以前では1日の境が厳密に定められていたわけではなく、平安時代には丑刻と寅刻の間(3時頃)を1日の境界としていた。\nまたしばしば、半時、あるいは数刻といった、現代の観測からは信じにくい、1-2時間も地震動が継続したような表現が記録にある。\nこれは大地震による恐怖感が誇張的な表現を生んだとする見方もあるが、2011年の東北地方太平洋沖地震でも観測されたように強い揺れが数分間継続した本震発生以降、数十分間強い余震が続発し、直後の余震活動をも含めた時間を表しているとも考えられる。", + "qas": [ + { + "question": "江戸時代以前の日本では、時刻を何で表していましたか?", + "id": "tr-542-04-000", + "answers": [ + { + "text": "干支", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "平安時代では、1日の境を何時頃としていましたか?", + "id": "tr-542-04-001", + "answers": [ + { + "text": "3時頃", + "answer_start": 234, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "2011年の東北地方太平洋沖地震において、本震と余震の継続時間が長かったのはどちらですか?", + "id": "tr-542-04-002", + "answers": [ + { + "text": "余震", + "answer_start": 397, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "世界基準の存在しない時代ゆえ、通常、古記録は国・地域ごとに異なる個別の年号でもって記されている。\n日本・朝鮮・中国の場合、元号の成立以前の時代には、時の為政者(※少なくとも改暦・改元の権能者)の治世の何年目かという記述法が採用され、元号の成立以降の時代には、その元号における何年目かという記述法が採用されている。\n当然、日付は当時の暦である太陰暦(今でいう旧暦)で記されている。\n当時の太陰暦と現在広く用いられている太陽暦の日付(旧暦と新暦の日付)は根本的に違うため、必ずズレが生じる。ゆえに、和暦の場合など、「□○年○月○日(西暦換算:△年△月△日)」(※□は元号、○は和暦〈太陰暦〉の年月日、△は西暦〈太陽暦〉の年月日)という記述法が、本来は必ずなされるべきである。\n実際には「□○年(△年)○月○日」「□○年(△年)△月△日」「□○年(△年)○月」などという記述法が世に蔓延っているが、これらは「正確でない」のではなく、誤解や新たな誤記の原因となる間違った記述法である。\n年や月の端境期に近い日付を別の暦の日付に換算すると、月なら1〜2か月、年でも1年、改まる(ズレる)場合が多い。\n例えば、慶長地震の発生した日付は慶長9年12月16日であるが、西暦換算すると(慶長9年11月11日がグレゴリオ暦の1604年12月31日に相当するので)1604年ではなく年を跨いだ1605年の2月3日となる。", + "qas": [ + { + "question": "西暦は何の暦法を採用していますか?", + "id": "tr-542-05-000", + "answers": [ + { + "text": "太��暦", + "answer_start": 208, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "慶長9年12月16日を西暦換算するとどうなりますか?", + "id": "tr-542-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1605年の2月3日", + "answer_start": 585, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "旧暦とは何という暦法のことを指しますか?", + "id": "tr-542-05-002", + "answers": [ + { + "text": "太陰暦", + "answer_start": 170, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "元号のある国では、目を見張る瑞相や治世を危うくするほど禍々しい出来事があった場合、瑞相ならあやからんがため、凶事ならやり過ごす意図などをもって、しばしば改元が行われた。\n地震は、ときに瑞相(※厳密には仏教圏に限る概念)、ときに凶事の最たるものと捉えられ、改元の理由になった。\n一つの例として、安政伊賀地震(伊賀上野地震)・安政東海地震・安政南海地震は嘉永7年に発生したが、世を安んじるべく「安政」へ改元されたことで、現在では改元後の元号を冠しているが、地震発生当時の記録者にとっては当然ながら「嘉永」の世であり、「嘉永七年」の出来事として記録されている。\n嘉永年間の出来事に「安政」を冠する整合性については、明治改元の際にその年(慶応4年)の正月(旧暦1月1日)まで遡ったうえでの改元として処理された例に倣い、正しいと解釈されている。", + "qas": [ + { + "question": "改元の理由として可能だった自然災害とは何ですか?", + "id": "tr-542-06-000", + "answers": [ + { + "text": "地震", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "安政伊賀地震は和暦で何年に発生しましたか?", + "id": "tr-542-06-001", + "answers": [ + { + "text": "嘉永7年", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "嘉永7年に発生した地震は伊賀上野地震、安政南海地震ともう1つは何ですか?", + "id": "tr-542-06-002", + "answers": [ + { + "text": "安政東海地震", + "answer_start": 161, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "歴史記録には日付の誤記や誤写が少なくない。\n例えば、寛永4年10月4日(西暦換算:1627年11月11日)では、『東宇和郡沿革史』に「地震のため道後温泉埋没す」、『旧記録抄』に伊那谷で「大地震、所々に潰家があった」と記録され、さらに寛永4年11月23日(西暦換算:1627年12月30日)には『泰平年表』に「富士山噴火、江戸降灰四日、其色黒」と記録されているが、この記録を掲載している『大日本地震史料』にそれぞれ武者金吉と大森房吉が「寳永四年(宝永4年、1707年)の誤写なるべし」と註釈を付けている。\nこのような誤記は歴史地震だけではなく、昭和南海地震の際に、地震原簿への重複記載により実際には発生していない前震が記載された例もある。\n地震学者が資料を編纂している際の誤りによっても生じている。", + "qas": [ + { + "question": "「地震のため道後温泉埋没す」との記録がある書物は何ですか?", + "id": "tr-542-07-000", + "answers": [ + { + "text": "『東宇和郡沿革史』", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「富士山噴火、江戸降灰四日、其色黒」と記録されていた年表は何ですか?", + "id": "tr-542-07-001", + "answers": [ + { + "text": "『泰平年表』", + "answer_start": 146, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "日本では発生年月日の西暦表記換算はグレゴリオ暦で一本化されてきた。\n一方、西洋で使用されていた暦は1582年10月4日以前はユリウス暦であった。\nグ��ゴリオ暦とユリウス暦では16世紀末頃では最大10日の差が存在し、日本の歴史地震は慣例上グレゴリオ暦表記であったため、アメリカ海洋大気庁(NOAA)の地震カタログは1582年以前はユリウス暦を基本としているのに対し、日本の地震についてはグレゴリオ暦と統一されていない。", + "qas": [ + { + "question": "日本での地震発生年月日はどのような暦法で記録されてきましたか?", + "id": "tr-542-08-000", + "answers": [ + { + "text": "グレゴリオ暦", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "西洋では、1582年10月4日以前は何の暦法を使用されていましたか?", + "id": "tr-542-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ユリウス暦", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "グレゴリオ暦とユリウス暦の差が最大10日となったのはいつ頃でしたか?", + "id": "tr-542-08-002", + "answers": [ + { + "text": "16世紀末頃", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "古文書にある記録から、その地域の震度の推定が可能となる。\n古文書には「地震」や「小地震」、「大地震」といった記録が見られ、当時はマグニチュードの概念はなく、これは震度の大小を表すものと解釈される。\n684年の白鳳地震や1707年の宝永地震などの長い地震動を伴う巨大地震では「未曾有」や「前代未聞」などの記述も見られる。\n家屋の倒壊についても「不残潰レ」、「半潰レ」、「事ナシ」などの記録(宝永地震における『谷陵記』)、また具体的に何軒のうち、何軒潰れの記録から倒壊率を求めることが可能である。\n当時の木造家屋と現代の建物を単純比較することはできないが、類似した建物の被害状況を比較することによりその都市における推定震度が求められる。\nまた、墓石、石灯篭、土塀、石垣などの倒壊、破損状況、地割れ、泥の噴出などの現象、および「大地動震て歩行する事を得ず。」(『鸚鵡籠中記』)、「庭中水船水コボル、十分之中五分斗也」(『基煕公記』)などの記録も震度推定の材料となる。", + "qas": [ + { + "question": "白鳳地震と宝永地震はどちらが後に発生しましたか?", + "id": "tr-542-09-000", + "answers": [ + { + "text": "宝永地震", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "宝永地震を記録した古文書は何ですか?", + "id": "tr-542-09-001", + "answers": [ + { + "text": "『谷陵記』", + "answer_start": 202, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "推定震度分布から、おおよその震央が推定される。\nまた強震域の分布を近代に発生した地震と比較することにより、おおよその震源域の推定が可能である。\nしかし記録の欠損により正しい震央や震源域が不明であるものも少なくない。\n白鳳地震は古記録には飛鳥周辺と思われる被害の様相と、伊予および土佐の地変、漠然と諸国に大被害が発生したと記されているのみである。\nしかし、より詳細な記録を有する宝永地震や安政南海地震の記録と付き合わせることにより、ほぼ同様の地殻変動が生じているものと推定され、さらに近代的観測記録を有する1944年の東南海地震および1946年の南海地震の地盤変動の水準測量結果を比較することにより、繰り返し発生している南海地震であると推定された。\nさらに、東海地方の遺跡の発掘調査による液状化痕、海岸の地質調査からほぼ同時期に東海・東南海地震も連動したと推定され、震源域がさらに広い可能性がある。", + "qas": [ + { + "question": "東南海地震と南海地震はどちらが先に発生したの?", + "id": "tr-542-10-000", + "answers": [ + { + "text": "東南海地震", + "answer_start": 258, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "869年の貞観地震は漠然と陸奥国地大震動、津波が内陸まで遡上したと読める記録があり、歴史資料の調査あるいは、仙台平野のトレンチ調査により、9世紀頃、およびさらに幾層かの有史以前の津波堆積物が内陸まで達していることが明らかになっていた。\nしかし明治三陸地震よりも甚大な津波が発生したことを示唆するもので、ここまで内陸に達する津波記録は近代では存在せず、この地震の実体は不明な点が多いとされていた。\n産業技術総合研究所による数値実験解析によりM8.4の巨大地震と推定されたが、東北地方太平洋沖地震の発生はこの地震の全容解明のきっかけとなり、ほぼ同域の広い範囲を震源域とする類似した地震であると考えられるようになった。\n1099年の康和地震は、もともと摂津、大和の記録しか存在せず畿内付近が震央とされていたが、土佐の田畑の沈降記録が発見され、より広い範囲を震源域とする南海地震と推定されることとなった。\n1703]の元禄地震は関東南部の広い範囲に強い震動と沿岸に強大な津波をもたらしているが、房総半島の隆起記録は1923年の関東地震に類似し、これにより相模トラフのプレート間地震と推定され、津波、隆起の規模はより大きいものであった。\nこの4年後に宝永地震が発生するなど、過去においても巨大地震が時間的に接近して続発する例がしばしば見られる。", + "qas": [ + { + "question": "貞観地震と康和地震はどちらが後で発生しましたか?", + "id": "tr-542-11-000", + "answers": [ + { + "text": "康和地震", + "answer_start": 313, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "貞観地震は後にどれくらいの規模の巨大地震と推定されましたか?", + "id": "tr-542-11-001", + "answers": [ + { + "text": "M8.4", + "answer_start": 219, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "元禄地震と宝永地震はどちらが先に起こりましたか?", + "id": "tr-542-11-002", + "answers": [ + { + "text": "元禄地震", + "answer_start": 405, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "宝永地震や安政地震などでは、地震後暫くして強大な津波が襲来し、その回数、第何波が最大であったか、津波襲来の継続時間など詳細な記録が残る。\nまた津波の遡上範囲とその標高および家屋の流失範囲、あるいは神社、寺院の石段の浸水の段数などの記録により遡上高を見積もることが可能である。\n沿岸の浦々の津波遡上高の分布から凡その震源域、また断層モデルの推定も行われる。\n宝永地震の津波は済州島や上海に被害をもたらした記録があり、安政東海地震の津波はサンフランシスコの験潮所で記録されている。", + "qas": [ + { + "question": "安政東海地震の津波は海外のどの都市で記録されましたか?", + "id": "tr-542-12-000", + "answers": [ + { + "text": "サンフランシスコ", + "answer_start": 217, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "沿岸で観測された最大の高さと被害の発生した沿岸長に基づいて津波の階級m(0-4)が提案されている。\nこれに小規模で被害は及ぼさないが頻度の高い規模として「-1」を加え、エネルギーと関連付けた「今村・飯田の津波規模階級」も提唱された。\n最大のm=4とされているものは869年貞観地震、1611年慶長三陸地震、1707年宝永地震、1771年八重山地震、1896年明治三陸地震、2011年東北地方太平洋沖地震、1586年ペルー地震、1700年カスケード地震、1730年チリ地震、1868年アリカ地震、1877年イキケ地震、1946年アリューシャン地震、1960年チリ地震、1964年アラスカ地震などである。", + "qas": [ + { + "question": "八重山地震、東北地方太平洋沖地震、ペルー地震の中で近年に発生した地震はどれですか?", + "id": "tr-542-13-000", + "answers": [ + { + "text": "東北地方太平洋沖地震", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "アリカ地震、アリューシャン地震、イキケ地震の中で2番目に早く発生した地震はどれですか?", + "id": "tr-542-13-001", + "answers": [ + { + "text": "イキケ地震", + "answer_start": 252, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "地震学の研究の必要上、あるいは将来の地震の発生を予測する上で過去に発生した地震の規模を知ることは欠かせないものである。\nしかし地震計による観測記録を有しない歴史地震のマグニチュードは古文書の記録や発掘調査、地質調査による限定的な情報から推定するより他無い。\n1935年、チャールズ・リヒターにより、ウッド・アンダーソン型地震計で観測された最大振幅に基づく地震の規模であるリヒター・スケール(ローカル・マグニチュード)MLが考案された。\nこれ以降、表面波マグニチュードMs、実体波マグニチュードmbなどが登場した。\n1943年、河角廣は震央からの距離100kmにおける平均震度をMKと定義し、歴史地震においても古文書の被害記録から震度が推定され、規模を表すことが可能であるとした。\nまたMKとリヒタースケールの間には以下の関係があるとされた。", + "qas": [ + { + "question": "リヒター・スケールの考案者は誰?", + "id": "tr-542-14-000", + "answers": [ + { + "text": "チャールズ・リヒター", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "リヒター・スケールが考案されたのはいつ?", + "id": "tr-542-14-001", + "answers": [ + { + "text": "1935年", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "歴史地震においても古文書の被害記録から震度を推定し、規模を表すことを可能にした人は誰?", + "id": "tr-542-14-002", + "answers": [ + { + "text": "河角廣", + "answer_start": 263, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "この推定された河角マグニチュードは日本の地震において最大のもので貞観地震、仁和地震および明応地震の8.6であった。\n河角廣はさらに過去の地震記録から日本各地の地震地域係数を定めた日本初の地震ハザードマップである河角マップを作成した。\nそのほかに震度4,5,6の範囲の面積とマグニチュードの関係式も提唱されている。\n宇佐美(1970)はこの河角の規模と気象庁マグニチュードの関係を検討したが、日本の歴史地震のマグニチュードは最大でも8.4-8.5程度とされた。\nこの当時は後述のモーメント・マグニチュードという概念は存在せず、世界観測史上最大級の1960年のチリ地震もM8.5とされていた。", + "qas": [ + { + "question": "貞観地震、仁和地震、明応地震の河角マグニチュードはいくつですか?", + "id": "tr-542-15-000", + "answers": [ + { + "text": "8.6", + "answer_start": 49, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "日本初の地震ハザードマップの作成者は誰?", + "id": "tr-542-15-001", + "answers": [ + { + "text": "河角廣", + "answer_start": 58, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "世界観測史上最大級の大地震はどこの国で発生したの?", + "id": "tr-542-15-002", + "answers": [ + { + "text": "チリ", + "answer_start": 278, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1977年、金森博雄は地震モーメントM0が地震のエネルギーと密接な関係があることを見出し、地震断層の規模から誘導されるモーメント・マグニチュードMwが考案され、M8を超えても数値の飽和が無く巨大地震の規模をより適切に表すものとして今日では広く用いられる。\nしかしモーメント・マグニチュードを正確に求めるためには地球規模の観測網を必要とし、断層の大きさなど震源パラメー���ーを決定するためには膨大な計算を必要とする。\n機器観測記録の存在しない歴史地震では、古記録から推定される震度分布や津波の高さを、ほぼ同じ震源域と推定される近代に発生した地震の観測記録に基づく断層パラメータから類推して、数値実験を繰り返し最適化された断層モデルが仮定されてモーメント・マグニチュードが推定される。\nしかし、情報量は乏しく断層モデルを置く位置を少し変えるなどパラメーターを多少変化させるだけでもマグニチュードは大きく変化し、近似の程度も悪く精度は低い。\n1700年のカスケード地震は当時の北米大陸における地震記録は現存していないが、『田辺町大帳』、『大槌記録抄』など日本各地における遠地津波の記録が存在し、地震の発生した凡その日時やマグニチュードMw8.7-9.2が推定されている。\nその他、チリやペルーにおける地震津波も日本に襲来した記録があり、その規模からこれらのおおよそのマグニチュードの推定が可能である。", + "qas": [ + { + "question": "モーメント・マグニチュードの考案者は?", + "id": "tr-542-16-000", + "answers": [ + { + "text": "金森博雄", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1700年のカスケード地震の推定マグニチュードはいくつですか?", + "id": "tr-542-16-001", + "answers": [ + { + "text": "Mw8.7-9.2", + "answer_start": 513, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "モーメント・マグニチュードが考案された年は?", + "id": "tr-542-16-002", + "answers": [ + { + "text": "1977年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "中東には紀元前20世紀以前から地震の記録がある。\n紀元前2150年頃のヨルダンのカラク付近の地震は旧約聖書にあるソドムとゴモラの滅亡との関連も唱えられている。\nこのほかにも聖書にはシリア付近と考えられる地震の記述があり、例えばサムエル記上14・15およびマタイ27・51、28・2などが挙げられる。\n紀元前2000年頃には、シリア、およびトルクメニスタンでそれぞれ地震が発生したとされる。", + "qas": [ + { + "question": "地震が先に発生したのはカラク付近とシリアのどちらですか?", + "id": "tr-542-17-000", + "answers": [ + { + "text": "カラク付近", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "中国も古い記録を有する国の一つであり、夏朝の紀元前1831年に泰山付近で発生したとされる泰山地震は『竹書紀年』に記録され、中国で確認される記録としては最古のものである。\nNOAAの地震年表に登録されているものとしては紀元前193年および紀元前186年の甘粛省における地震の記録がある。\n138年に甘肅省で発生した隴西地震は700km離れた洛陽に設置された張衡の製作による地動儀が感知し、これは最古の地震計の一つとされる。\n中国では内陸部の巨大地震の記録が多く存在し、直下型の巨大地震の様相を呈し、1556年の華県地震など数十万人の死者を出すような甚大な被害を伴うものがしばしば見られる。\n史上最大規模とされる地震は1668年に山東省で発生した郯城地震とされている。", + "qas": [ + { + "question": "中国最古の地震はいつ発生した?", + "id": "tr-542-18-000", + "answers": [ + { + "text": "紀元前1831年", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "華県地震と郯城地震はどちらが地震の規模が多きかったですか?", + "id": "tr-542-18-001", + "answers": [ + { + "text": "郯城地震", + "answer_start": 321, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "華県地震と郯城地震はどちら先に発生しましたか?", + "id": "tr-542-18-002", + "answers": [ + { + "text": "華県地震", + "answer_start": 254, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ヨーロッパで最古の記録を持つのは古代ギリシアであり、紀元前1410年頃(紀元前1450年頃とも)、紀元前550年頃、紀元前479年、紀元前432年(古代ローマ)、紀元前426年、紀元前373年、紀元前330年、紀元前282年、紀元前227年、および紀元前223年などに地震の記録がある。\n紀元前17世紀ないし紀元前1450年頃、サントリーニ島の噴火と地震はエーゲ海に甚大な津波をもたらし、クレタ島のフェストス宮殿が崩壊したとされる。\n1755年にポルトガル沖で発生したリスボン地震は、西ヨーロッパ、北アフリカの広い範囲に強震をもたらし、大津波発生の比較的稀な大西洋全体に津波が波及した。\nこの地震による経済など社会的影響は多大なもので、これを期に地震学が発足した。", + "qas": [ + { + "question": "リスボン地震が発生した年は?", + "id": "tr-542-19-000", + "answers": [ + { + "text": "1755年", + "answer_start": 217, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "地震学の発足の契機となった地震とは何?", + "id": "tr-542-19-001", + "answers": [ + { + "text": "リスボン地震", + "answer_start": 234, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "朝鮮半島は地震の発生が比較的少なく津波記録もほとんどないと言われるが、実際には古くからの地震の記録が存在し、最古のものとしては『三国史記』に2年に発生した地震の記述が見られる。\n以下被害記録があるものとして27年、34年、37年、89年などと、京畿道広州における大地震、家屋倒壊および液状化の記録がある。\n『三国史記』や『高麗史』『朝鮮王朝実録』に記された被害内容などからマグニチュード6.0以上と推定されるものもあって、16世紀から17世紀にかけて比較的多くの地震が発生している。\n史上最大規模とされる地震は1681年6月28日の江原道、襄陽郡・三陟の地震とされ、推定されるマグニチュードは7.0〜7.5で海震や津波と見られる記述もあるという。", + "qas": [ + { + "question": "朝鮮半島での最大規模の地震はいつ起こりましたか?", + "id": "tr-542-20-000", + "answers": [ + { + "text": "1681年6月28日", + "answer_start": 255, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "襄陽郡・三陟の地震の推定マグニチュードはどれくらいでしたか?", + "id": "tr-542-20-001", + "answers": [ + { + "text": "7.0〜7.5", + "answer_start": 296, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "アルゼンチンワイン", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "アルゼンチンワイン(スペイン語:VinoArgentino)は、南アメリカのアルゼンチンで生産されるワイン。\n2016年頃のアルゼンチンのブドウ栽培面積は538,071エーカーである。\n2003年のワイン生産量は132万キロリットル、輸出量は18万キロリットル、輸出金額は1億6900万米ドルだった。\n2013年のアルゼンチンのブドウ生産量は世界第6位、ワイン生産量は世界第5位だった。\nかつてアルゼンチンのワイン生産量は非ヨーロッパ諸国でもっとも多かったが、1990年代初頭にはアメリカ合衆国に抜かれた。\n20世紀末に至るまで、アルゼンチン産ワインはわずかな量が輸出されていただけであり、粗野な品種を用いた濃縮ブドウ果汁をアメリカ合衆国・ロシア・日本などの清涼飲料企業に輸出することで成功を収めていたが、近年ではワインの輸出量も増加している。", + "qas": [ + { + "question": "2003年のアルゼンチンワインの輸出量はどれくらいあったの?", + "id": "tr-543-00-000", + "answers": [ + { + "text": "18万キロリットル", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アメリカに抜かれるまでは、非ヨーロッパ諸国でワインの生産量がトップだった国はどこ?", + "id": "tr-543-00-001", + "answers": [ + { + "text": "アルゼンチン", + "answer_start": 197, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2006年のワイン輸出量は総生産量のわずか10%であり、特にアメリカ合衆国での需要が多かった。\n南米産ワイン輸出市場を支配しているのはチリワインであるが、アルゼンチンはチリの約1.5倍のワインを生産しており、アルゼンチン産ワインは特にアメリカ合衆国の市場での影響力を強めている。\n2003年のバルクワインの輸出量は南アフリカ、ロシア、アンゴラ、日本の順だった。\n輸出金額第1位は日本であり、日本には相対的に高品質のワインが輸出される。\n国際ブドウ・ブドウ酒機構(OIV)によると、2011年のアルゼンチンのワイン消費量は24.1リットル/人であり、同じ新世界ではオーストラリア(23.3リットル/人)とほぼ等しく、アメリカ合衆国(9.1リットル/人)を大きく上回っている。\nアルゼンチンでもっとも重要なワイン産地はメンドーサ州であり、サン・フアン州、サルタ州、コルドバ州などでもワインを生産している。\n2000年時点ではメンドーサ州がアルゼンチン産ワインの約70%、サン・フアン州が約20%を生産している。", + "qas": [ + { + "question": "アルゼンチンとチリを比較すると、どちらがワインの生産量が低いですか?", + "id": "tr-543-01-000", + "answers": [ + { + "text": "チリ", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "2011年の1人当たりのワイン消費量が最も少ないのは、アルゼンチン、オーストラリア、アメリカ合衆国の中でその国ですか?", + "id": "tr-543-01-001", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ合衆国", + "answer_start": 307, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "アルゼンチン産ワインの半分以上の割合を占めている生産地域はどこですか?", + "id": "tr-543-01-002", + "answers": [ + { + "text": "メンドーサ州", + "answer_start": 410, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "アルゼンチンとオーストラリアの2011年の1人当たりのワイン消費量を見てみると、どちらが少ないですか?", + "id": "tr-543-01-003", + "answers": [ + { + "text": "オーストラリア", + "answer_start": 281, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "アルゼンチンの主要なワイン産地は標高が高くて湿度が低いため、他国のブドウ畑に影響を与える害虫、菌類、かび、他のブドウ病害の問題にほとんど直面しない。\n低農薬または無農薬で栽培することも容易であり、有機栽培ワインでさえも容易に生産できるが、アルゼンチンの有機栽培認証制度は日本農林規格(JAS)とは互換性がないために、アルゼンチンで承認された有機栽培ワインがそのまま日本で有機栽培ワインと名乗ることはできない。\nアルゼンチンは世界でもっとも高品質なマルベック種のワインを生産する地域として知られている。\nアルゼンチンのボナルダ種から生産されるワインは、イタリア・ピエモンテで栽培される同一品種から生産される果実味豊かな軽いワインとの共通点はない。\nトロンテス種はアルゼンチンでしか栽培されていない品種であり、主にサルタ州やラ・リオハ州でみられる。\nカベルネ・ソーヴィニヨン種、シラー種、シャルドネ種、他の国際品種もより広い範囲に植えられるようになっているが、いくつかの品種は特定地域のみで栽培されている。", + "qas": [ + { + "question": "アルゼンチンが生産する、世界で最も高品質なワインの種類とは?", + "id": "tr-543-02-000", + "answers": [ + { + "text": "マルベック種", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "アルゼンチンの主要なワイン産地はアンデス山脈の山麓である国家の西側半分に位置しており、おおまかな北��は南緯22度(南回帰線付近)、南限は南緯42度である。\nアルゼンチンの面積はヨーロッパの主要ワイン生産国であるフランスの約4倍である。\n産地の大部分は半乾燥性気候であり、年降水量が250mm(10インチ)を超える年は稀である。\nカタマルカ州、ラ・リオハ州、サン・フアン州、メンドーサ州東部のような温暖な地域では、生育期である夏季には高温となり、日中の気温は摂氏40度を超えることがある。\n一方で夜間の気温は摂氏10度を下回ることがあり、大きな日周温度変化を生んでいる。\nサルタ州カファジャテ地域、リオ・ネグロ州、クハン・デ・クージョやトゥプンガト郡を含むメンドーサ州西端部など、一部の地域はより温暖な気候である。", + "qas": [ + { + "question": "アルゼンチンとフランスはどちらの国面積が小さいですか?", + "id": "tr-543-03-000", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "夏季のアルゼンチンは、日中の気温と夜間の気温はどちらが低いですか?", + "id": "tr-543-03-001", + "answers": [ + { + "text": "夜間の気温", + "answer_start": 247, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "冬季の気温は摂氏0度まで低下する場合があるが、大気の循環に乏しい超高地以外でブドウ畑への降霜は稀である。\n年降水量の大半は夏季の数か月に降り、しばしばブドウに損害を与える可能性がある雹が降る。\nこれらの温暖な地域では年間の日照日が平均320日となる。\n特に北西部のワイン産地は、初夏の開花期にアンデス山脈から吹くハリケーン級の強風「ソンダ」の影響を受けやすい。\n暑く乾燥した激しい風は開花時期を狂わせ、深刻な収量の減少につながる。\n生育期の大部分は乾燥して湿度が欠如し、様々なブドウ病害や菌性腐敗などの危険性を抑えている。\n多くのブドウ畑では農薬を用いずに、有機ブドウ栽培に資する条件で栽培されている。\n周期的に発生するエルニーニョ現象は生育期の気候条件にはっきりとした影響をもたらす可能性があり、1998年にはエルニーニョ現象によって引き起こされた豪雨が広範な地域での腐敗や菌性病害につながった。", + "qas": [ + { + "question": "「ソンダ」が発生する時期は?", + "id": "tr-543-04-000", + "answers": [ + { + "text": "初夏の開花期", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "アンデス山脈に冬季に降った雪は春季に融解し始め、ダム、運河、水路などの複雑な灌漑設備が、乾燥したワイン産地でブドウ栽培を維持するのに不可欠な水を供給する。\n大半のワイン産地はアンデス山麓に位置し、近年にはより山脈に近い高標高にブドウが植えられる傾向がある。\nアルゼンチン全体で土壌は主に沖積土や砂質であり、一部では粘土質・砂利質・石灰質の下層を持つ。\nリオ・ネグロ州とネウケン州にワイン産地がある涼しいパタゴニア地域では、土壌にチョーク質が占める割合が多い。", + "qas": [ + { + "question": "土壌にチョーク質が多く含まれている地域はどこ?", + "id": "tr-543-05-000", + "answers": [ + { + "text": "パタゴニア地域", + "answer_start": 201, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "アメリカ大陸でのブドウ栽培はスペイン人の到着とともに始まり、かなり遅れてポルトガル人もブドウ栽培を開始した。\nセビリアの契約業者は、新大陸にむけて出航する各船舶に一定数のブドウの苗を積み込むとする命令を受け取っている。\n1541年には大西洋と接するラプラタ川沿いにブドウの苗が植えられたが、湿度の高い亜熱帯の気候に適応できず、ラプラタ川沿いではブドウの木は育たなかった。\n1542年にはペルーで栽培されていた苗から得られた乾燥種子がサルタ地方に植えられ、1556年にはフアン・セドロン神父が、チリのセントラル・ヴァレーからアルゼンチンにブドウの挿し���を持ち込み、サン・フアン地方やメンドーサ地方にアルゼンチン初のブドウ畑を設立した。\nチリでパイス種と、カリフォルニアではミッション種と呼ばれるブドウは、この時期にアルゼンチンに持ち込まれたとブドウ栽培学者は考えている。\nこの品種は続く300年間にアルゼンチンのワイン産業の根幹となったクリオーリャ・チカ種の前身だった。", + "qas": [ + { + "question": "アメリカ大陸でスペイン人の次にブドウ栽培を行ったのは何人なの?", + "id": "tr-543-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ポルトガル人", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アルゼンチンで最初にブドウ畑を設立したのは誰?", + "id": "tr-543-06-001", + "answers": [ + { + "text": "フアン・セドロン", + "answer_start": 234, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アルゼンチンにブドウの挿し木が持ち込まれたのはいつ?", + "id": "tr-543-06-002", + "answers": [ + { + "text": "1556年", + "answer_start": 227, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フアン・セドロンの職業は何だったの?", + "id": "tr-543-06-003", + "answers": [ + { + "text": "神父", + "answer_start": 242, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1557年にはイエズス会宣教師によって、サンティアゴ・デル・エステロ地方にアルゼンチン初の商業的なワイン生産を行うためのブドウ畑が設立された。\n1560年代初頭にはメンドーサ地方にも商業的なブドウ畑が設立され、1569年から1589年にはサン・フアン地方にも広がった。\n宣教師や入植者は複雑な灌漑水路やダムを建設し、アンデス山脈の溶融氷河からブドウ畑に水を運んだ。\n1739年の国勢調査によると、メンドーサ地方には120のブドウ畑があった。", + "qas": [ + { + "question": "アルゼンチンで最初に商業的なワイン生産用のブドウ畑が出来たのはいつ?", + "id": "tr-543-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1557年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アルゼンチン初の商業目的のブドウ畑はどこに設立されたの?", + "id": "tr-543-07-001", + "answers": [ + { + "text": "サンティアゴ・デル・エステロ地方", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "メンドーサ地方の次に商業的なブドウ畑が出来たのはどこの地方ですか?", + "id": "tr-543-07-002", + "answers": [ + { + "text": "サン・フアン地方", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1853年にはアルゼンチン初の農業学校がメンドーサ州に設立された。\n1860年代にサン・フアン州知事を務めたドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエントは、フランスの農学者であるミシェル・エメ・プジェを農業学校の校長として招聘し、フランスからブドウの挿し木の導入を進めた。\nプジェがアルゼンチンに最初期に持ち込んだ品種の中にマルベック種があり、彼は初めてマルベック種をアルゼンチンに植えた人物である。\nアルゼンチンの人口は国土の東側半分で成長したが、ワイン産業はアンデス山麓がある国土の西側半分に集中した。\nワインは荷馬車に積まれて長い道のりを輸送されたため、ワイン販売は困難を要する仕事だった。", + "qas": [ + { + "question": "初めてマルベック種をアルゼンチンに植えた人は誰?", + "id": "tr-543-08-000", + "answers": [ + { + "text": "プジェ", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "プジェはどこの国の農学者でしたか?", + "id": "tr-543-08-001", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "フランスからプジェを招いた人は誰?", + "id": "tr-543-08-002", + "answers": [ + { + "text": "ドミンゴ・ファウスティーノ・サルミエント", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アルゼンチンでワイン産業が集中したのは東側半分か、それとも西側半分か?", + "id": "tr-543-08-003", + "answers": [ + { + "text": "西側半分", + "answer_start": 241, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1885年にはフリオ・アルヘンティーノ・ロカ大統領がブエノスアイレスとメンドーサを結ぶアルゼンチン鉄道を開通させ、ブドウ産地からブエノスアイレスに向けた輸送ルートが築かれた。\nメンドーサ州知事でエル・トラピチェ・ワイン・エステートの所有者であるティブルシオ・ベネガスは、アルゼンチンのワイン産業が生き残るためには市場が必要であると確信し、この鉄道の建設に資金を提供して完成を後押ししている。\nアルゼンチンワインの近代化はメンドーサ州とサン・フアン州で起こった。", + "qas": [ + { + "question": "アルゼンチン鉄道のブエノスアイレスとメンドーサ間を開通させた大統領とは?", + "id": "tr-543-09-000", + "answers": [ + { + "text": "フリオ・アルヘンティーノ・ロカ", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アルゼンチン鉄道建設の資金提供者で、完成の後ろ盾をした人物とは誰?", + "id": "tr-543-09-001", + "answers": [ + { + "text": "ティブルシオ・ベネガス", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アルゼンチンワインの近代化はサン・フアン州とどこの州で起こりましたか?", + "id": "tr-543-09-002", + "answers": [ + { + "text": "メンドーサ州", + "answer_start": 210, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ブエノスアイレスとメンドーサ間のアルゼンチン鉄道が開通したのは何年?", + "id": "tr-543-09-003", + "answers": [ + { + "text": "1885年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1880年から1910年にアルゼンチンに流入したヨーロッパからの移民は、カベルネ・ソーヴィニヨン種、ピノ・ノワール種、シュナン種、マルベック種、メルロー種、バルベーラ種、サンジョヴェーゼ種、シラー種、リースリング種などの品種をアルゼンチンのブドウ畑にもたらした。\nこれらの移民の多くは故郷でブドウ畑を荒廃させたフィロキセラの惨劇から逃れてきた者であり、アルゼンチンに高度な専門知識やワイン生産の知識をも持ち込んだ。\n1873年のアルゼンチンには5,000エーカーのブドウ畑があったが、20年後の1893年には5倍の25,000エーカーとなった。\n1905年には国立ワイン醸造センターが設立された。\nブドウ畑の飛躍的な増加は続き、20世紀初頭には519,800エーカーにまで拡大した。", + "qas": [ + { + "question": "アルゼンチンに25,000エーカーのブドウ畑が出来る20年前は、何エーカーしかなかったですか?", + "id": "tr-543-10-000", + "answers": [ + { + "text": "5,000エーカー", + "answer_start": 222, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ブドウ畑を荒廃させる虫の種類とは何?", + "id": "tr-543-10-001", + "answers": [ + { + "text": "フィロキセラ", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "国立ワイン醸造センターが設立されたのはいつ?", + "id": "tr-543-10-002", + "answers": [ + { + "text": "1905年", + "answer_start": 273, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "20世紀初頭にブドウ畑はどれくらいまで拡大しましたか?", + "id": "tr-543-10-003", + "answers": [ + { + "text": "519,800エーカー", + "answer_start": 322, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "20世紀のアルゼンチンのワイン業界は国家の経済状況に大きな影響を受けている。\n1920年代のアルゼンチンは世界で十指に入る裕福な国であり、豊かな国内市場がワイン産業を強固なものとした。\nしかし、1929年以後の世界恐慌では重要な輸出収入や国外からの投資が減少し、アルゼンチンのワイン産業は停滞した。\n1940年代以降のフアン・ペロン大統領体制下では経済が一時的な復活を見せたが、1960年代から1970年代の軍事独裁政権下ではすぐに停滞した。\nこの時期のワイン産業は安価なテーブルワインの国内消費に支えられていた。\n1970年代初頭時点でアルゼンチンの年間ワイン消費量は90リットル/人(24ガロン)であり、イギリスを含む大多数の国よりも遥かに多くの量を消費していた。\nアルゼンチンと同じ新世界では、同時期のアメリカ合衆国の1人あたりワイン消費量は3リットル/年(1ガロン/年)に過ぎなかった。\n1960年代から1982年代まで高い税金が採用されたことで、低品質のワインが生産され続けるという状況に陥った。", + "qas": [ + { + "question": "1929年以後にアルゼンチンのワイン産業が停滞した経済的要因とは何?", + "id": "tr-543-11-000", + "answers": [ + { + "text": "世界恐慌", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1970年代初頭のアルゼンチンの年間ワイン消費量はいくらでしたか?", + "id": "tr-543-11-001", + "answers": [ + { + "text": "90リットル/人", + "answer_start": 285, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1980年代には最大で年間12,000%となるハイパーインフレの時代を迎え、国外からの投資は停滞した。\n1982年から1992年には大規模なブドウの木の引き抜きが行われ、ブドウ畑の36%が失われた。\n1989年に大統領に就任したカルロス・メネム政権下では、いくぶん経済が安定した。\nアルゼンチン・ペソに有利な為替レートの兌換期間中には再び国外からの投資が流入したが、この時期には国内消費が劇的に低下した。\n清涼飲料やビールの普及によって、1991年には年間消費量が55リットル/人まで下落した。", + "qas": [ + { + "question": "アルゼンチンの通貨単位は何?", + "id": "tr-543-12-000", + "answers": [ + { + "text": "アルゼンチン・ペソ", + "answer_start": 141, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1989年に就任したアルゼンチン大統領の名前は何ですか?", + "id": "tr-543-12-001", + "answers": [ + { + "text": "カルロス・メネム", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "隣国チリが輸出市場で成功をおさめると、アルゼンチンのワイン産業もより積極的に輸出市場に焦点を当て始め、特に利益を得やすいイギリスとアメリカ合衆国の市場を重要視した。\nフランス、カリフォルニア、オーストラリアからは空飛ぶ醸造家(飛行機で世界中を飛び回ってワイナリーの指導を行う熟練醸造家)が現代的なブドウ栽培とワイン醸造のノウハウをもたらし、収量管理、発酵温度管理、オークの新樽の使用などがアルゼンチンに持ち込まれた。\n1980年代後半以降には意図的により涼しい地域に植えられるようになった。\n1990年末までに、約1250万リットル(330万ガロン)のアルゼンチン産ワインがアメリカ合衆国に輸出されるようになり、イ���リスにはさらに多くの量が輸出された。\nワインジャーナリストのカレン・マクニールは、20世紀末まで「眠れる巨人」とされていたアルゼンチンのワイン産業が目を覚ましたのがこの時期であるとしている。", + "qas": [ + { + "question": "飛行機で世界中を飛び回り、ワイナリーの指導を行う熟練醸造家は、別名で何と呼ばれていたの?", + "id": "tr-543-13-000", + "answers": [ + { + "text": "空飛ぶ醸造家", + "answer_start": 106, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カレン・マクニールの職業は何だったの?", + "id": "tr-543-13-001", + "answers": [ + { + "text": "ワインジャーナリスト", + "answer_start": 327, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アルゼンチンにとってワイン産業で利益の多い市場国とは、アメリカとどこでしたか?", + "id": "tr-543-13-002", + "answers": [ + { + "text": "イギリス", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "20世紀から21世紀の変わり目に、アルゼンチンには1,500以上のワイナリーが存在した。\n2大企業として輸出用ブランド「アラモス」を所有するボデガス・エスメラルダと、輸出用ブランド「トラピチェ」を所有するペニャフロールがあり、この2社だけでアルゼンチン全体の約40%のワインを生産している。\nアルゼンチンのワイン産業は生産量の観点で世界第5位であり、消費量の観点で世界第8位である。\nワインの品質とブドウの収量管理を向上させることがアルゼンチンのワイン産業のトレンドとなっている。\n2010年11月24日、アルゼンチン政府はアルゼンチンの「国民酒」としてワインを選定した。", + "qas": [ + { + "question": "アルゼンチンの「国民酒」がワインとなったのはいつですか?", + "id": "tr-543-14-000", + "answers": [ + { + "text": "2010年11月24日", + "answer_start": 241, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「トラピチェ」の所有会社は何ですか?", + "id": "tr-543-14-001", + "answers": [ + { + "text": "ペニャフロール", + "answer_start": 102, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ボデガス・エスメラルダが所有していた輸出用のワインブランドの名前は何ですか?", + "id": "tr-543-14-002", + "answers": [ + { + "text": "「アラモス」", + "answer_start": 59, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "南半球にあるアルゼンチンのブドウ生育期は、10月(春)の発芽から2月(秋)に始まる収穫までの期間である。\nワイン産業に関する主要な研究機関であるアルゼンチン国立ブドウ栽培・ワイン醸造研究所(INV)は、地域ごとの収穫開始日を公表しており、栽培しているブドウ品種によって収穫が4月までずれこむ地域もある。\nかなりの人数の移動労働者がおり、機械収穫への移行が遅れている地域で低賃金での摘み取り作業を行っている。\n収穫したブドウはしばしば何時間もかけて長距離を運ばれ、農村部のブドウ畑からより都市化した地区に位置するブドウ醸造施設に輸送される。\n1970年代のアルゼンチンにおけるブドウの平均収量は22トン/エーカーを超えており、2-5トン/エーカーに過ぎないボルドー(フランス)やナパ・ヴァレー(カリフォルニア)などの高品質ワイン産地とは対照的だった。\n21世紀のアルゼンチンワイン産業は発展を続けており、灌漑、収量管理、キャノピー・マネジメント(葉の管理)、ブドウ畑に近いワイナリーの建設などの品質改善努力を行っている。", + "qas": [ + { + "question": "アルゼンチンは北と南のどちらの半球に位置しているの?", + "id": "tr-543-15-000", + "answers": [ + { + "text": "南", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アルゼンチンにあるワイン産業に関する主要な研究機関をアルファベットで略すと?", + "id": "tr-543-15-001", + "answers": [ + { + "text": "INV", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1970年代のフランスボルドーのブドウの平均収量はいくらでしたか?", + "id": "tr-543-15-002", + "answers": [ + { + "text": "2-5トン/エーカー", + "answer_start": 312, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "19世紀と20世紀にはヨーロッパからの移民によって様々な仕立て法が持ち込まれた。\nエスパルデラ(espaldera)方式は地面近くに3本のワイヤーを用いる伝統的な方式を取り入れている。\n1950年代にはパラル・クジャーノ(parralcuyano)方式として知られる新方式が導入され、果房は地面から離れた高い場所から垂れさせられる。\nパラル・クジャーノ方式はクリオーリャ・グランデ種やセレサ種などの高収量品種の栽培を助長し、巨大な国内市場に対応して生じたバルクワイン産業の屋台骨となった。\n20世紀末には市場がより高品質なワイン生産に焦点を当てるようになったため、多くの生産者は伝統的なエスパルデラ方式に回帰し、収量を管理するためにキャノピー・マネジメントに取り組むようになった。\nアルゼンチンではアルゼンチン国立ブドウ栽培・ワイン醸造研究所(INV)がワインの品質管理を行っており、搾汁量(125キログラムの果実から100リットル以下)やアルコール度数の制限などが行われ、果糖の禁止や生産量の申告などが義務付けられている。", + "qas": [ + { + "question": "バルクワイン産業を支えた仕立て法とは何?", + "id": "tr-543-16-000", + "answers": [ + { + "text": "パラル・クジャーノ方式", + "answer_start": 167, + "answer_type": "Manner" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "サルゴン2世", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "サルゴン2世(SargonII、アッカド語:Šarru-kīn、恐らく「真の王」または「正統なる王」の意)は新アッシリア時代のアッシリア王である。前722年のシャルマネセル5世の死亡から前705年の自身の戦死まで統治した。", + "qas": [ + { + "question": "サルゴン2世はどの国王だったの?", + "id": "tr-544-00-000", + "answers": [ + { + "text": "アッシリア", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "サルゴン2世のアッシリアは、何と呼ばれる時代に属しましたか?", + "id": "tr-544-00-001", + "answers": [ + { + "text": "新アッシリア時代", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サルゴン2世は、何年に即位したか?", + "id": "tr-544-00-002", + "answers": [ + { + "text": "前722年", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サルゴン2世は、何年に死去したか?", + "id": "tr-544-00-003", + "answers": [ + { + "text": "前705年", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "サルゴン2世は自身がティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)の息子であると主張しているが、これは不確かであり、恐らく彼はシャルマネセル5世から王位を簒奪した。サルゴン2世は、アッシリアの滅亡に至るまで1世紀近く新アッシリア帝国を統治することとなるサルゴン王朝の創始者と見られており、新アッシリア時代の最も重要な王の1人である。", + "qas": [ + { + "question": "サルゴン2世は、自身が誰の息子だと主張するが、その真偽が確実に判明されていないか?", + "id": "tr-544-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ティグラト・ピレセル3世", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サルゴン2世が即位する直前に王位についていたのは、誰?", + "id": "tr-544-01-001", + "answers": [ + { + "text": "マネセル5世", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サルゴン王朝の創始者は、誰ですか?", + "id": "tr-544-01-002", + "answers": [ + { + "text": "サルゴン2世", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アッシリアにおける最後の王朝は、どの王朝か?", + "id": "tr-544-01-003", + "answers": [ + { + "text": "サルゴン王朝", + "answer_start": 131, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "サルゴン2世は恐らく2,000年近く前にアッカド帝国を建設しメソポタミアの大部分を支配した伝説的君主サルゴンから名前を取り、世界を征服することを目指した軍事遠征によって古代の同名の王の足跡を辿ることを切望した。サルゴン2世は敬虔さ、正義、活動力、治世、そして強さのイメージを自分に持たせようとした。そして数多くの軍事的業績によって偉大な征服者、戦術家として認められている。", + "qas": [ + { + "question": "サルゴン2世の名は、どの国の建国者の名からとったものなの?", + "id": "tr-544-02-000", + "answers": [ + { + "text": "アッカド帝国", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アッカド帝国は、どの地域を拠点に活動した国でありますか?", + "id": "tr-544-02-001", + "answers": [ + { + "text": "メソポタミア", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サルゴン2世は、自分の名から敬虔さ、正義、活動力、治世、そして何のイメージが思い浮かぶことを望んだか?", + "id": "tr-544-02-002", + "answers": [ + { + "text": "強さ", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "数多くの軍事的業績によって偉大な征服者、戦術家としてのイメージを持つようになったのは誰だと、この文書では説明しているか?", + "id": "tr-544-02-003", + "answers": [ + { + "text": "サルゴン2世", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "サルゴン2世の遠征の中でも最大級のものは、アッシリアの北の隣国ウラルトゥに対する前714年の遠征と、前710年から前709年のバビロンの再征服である。バビロンはシャルマネセル5世の死に際して、独立した王国を再構築することに成功していた。", + "qas": [ + { + "question": "サルゴン2世の遠征の中で、規模の大きく最も最古のものは、どの国に対して行われた遠征であるの?", + "id": "tr-544-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ウラルトゥ", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "サルゴン2世の遠征の中で、規模の大きく最も最古のものは、何年に行われた遠征でありますか?", + "id": "tr-544-03-001", + "answers": [ + { + "text": "前714年", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "サルゴン2世は、前710年から前709年にかけてはどの国への遠征を実施したか?", + "id": "tr-544-03-002", + "answers": [ + { + "text": "バビロン", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "バビロンが��立した王国を再構築することに成功したのは、誰の死後のことか?", + "id": "tr-544-03-003", + "answers": [ + { + "text": "シャルマネセル5世", + "answer_start": 80, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ウラルトゥに対する戦争において、サルゴン2世はアッシリアとウラルトゥの国境沿いの長いルートを進むことでウラルトゥの要塞線を回避し、ウラルトゥの最も神聖な都市ムサシルを占領・略奪することに成功した。バビロニアへの遠征においても、サルゴン2世はまずはティグリス川に沿って前進し、その後、北方ではなく南東からバビロニアを攻撃するという、予想外の攻撃を仕掛けた。", + "qas": [ + { + "question": "ウラルトゥの都市のうち、最も神聖な都市とされたのは、どこなの?", + "id": "tr-544-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ムサシル", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サルゴン2世がウラルトゥへの攻撃ルートとして、アッシリアとウラルトゥの国境沿いの長いルートを選んだのは、何を回避するためでしたか?", + "id": "tr-544-04-001", + "answers": [ + { + "text": "ウラルトゥの要塞線", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サルゴン2世は、バビロニアにとってどの方向から攻撃を行うという、斬新な攻撃を行ったか?", + "id": "tr-544-04-002", + "answers": [ + { + "text": "南東", + "answer_start": 147, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この文書では、誰の業績について説明しているか?", + "id": "tr-544-04-003", + "answers": [ + { + "text": "サルゴン2世", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "前713年から治世の終わりまで、サルゴン2世はアッシリア帝国の新たな首都とすべく、新都市ドゥル・シャルキン(「サルゴンの要塞」の意)の建設に着手した。バビロニアを征服した後、王太子センナケリブ(シン・アヘ・エリバ)をアッシリア本国の摂政とし、彼自身はバビロンに3年間滞在したが、前706年には、ほぼ完成したドゥル・シャルキンへと遷った。前705年、タバルにおいてサルゴン2世が戦死しその遺体が敵に奪われると、アッシリア人たちはこれを災厄の前兆と見なし、後継者センナケリブは王位に就くとただちにドゥル・シャルキンを放棄し、首都をニネヴェ市に遷した。", + "qas": [ + { + "question": "在位期間中、ドゥル・シャルキンの建設に力を入れたのは、誰なの?", + "id": "tr-544-05-000", + "answers": [ + { + "text": "サルゴン2世", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サルゴン2世がドゥル・シャルキンを建設し始めたのは、何年ですか?", + "id": "tr-544-05-001", + "answers": [ + { + "text": "前713年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サルゴン2世が新しく建設しようとした都市は、何と名付けられたか?", + "id": "tr-544-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ドゥル・シャルキン", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サルゴン2世は、何年に死去したか?", + "id": "tr-544-05-003", + "answers": [ + { + "text": "前705年", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "サルゴン2世の治世はティグラト・ピレセル3世(在位:前745年-前727年)とシャルマネセル5世(在位:前727年-前722年)という2人の王に続いている。前18世紀からティグラト・ピレセル3世が前745年に王となるまで、アダシの王朝によるアッシリアの統治はおよそ1,000年にも及んでいた。", + "qas": [ + { + "question": "ティグラト・ピレセル3世とシャルマネセル5世、サルゴン2世のうち、統治時期が最も早かったのは、誰なの?", + "id": "tr-544-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ティグラト・ピレセル3世", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ティグラト・ピレセル3世とシャルマネセル5世のうち、より早く王についたのは、誰ですか?", + "id": "tr-544-06-001", + "answers": [ + { + "text": "ティグラト・ピレセル3世", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "アダシの王朝によるアッシリアの統治は、およそ何年も行われたか?", + "id": "tr-544-06-002", + "answers": [ + { + "text": "およそ1,000年", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "何年をもってアダシの王朝によるアッシリアの統治が終わったか?", + "id": "tr-544-06-003", + "answers": [ + { + "text": "前745年", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ティグラト・ピレセル3世は自分がアダド・ニラリ3世(在位:前811年-前783年)の息子であり、従ってアダシの血統に連なる者であると主張したが、これが正確かどうかは疑わしい。ティグラト・ピレセル3世は内戦の最中に王位を奪い、当時の王族(これには当時の王、その甥のアダド・ニラリ5世を含む)のほとんどを殺害した。", + "qas": [ + { + "question": "ティグラト・ピレセル3世は、自分の父親は誰だと主張したの?", + "id": "tr-544-07-000", + "answers": [ + { + "text": "アダド・ニラリ3世", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ティグラト・ピレセル3世は、自分がどの王朝の正統者だと主張したの?", + "id": "tr-544-07-001", + "answers": [ + { + "text": "アダシ", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ティグラト・ピレセル3世とアダド・ニラリ3世のうち、より早く王についたのは、誰か?", + "id": "tr-544-07-002", + "answers": [ + { + "text": "アダド・ニラリ3世", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "内戦に乗って王位を奪ったのは、誰か?", + "id": "tr-544-07-003", + "answers": [ + { + "text": "ティグラト・ピレセル3世", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ティグラト・ピレセル3世の息子、シャルマネセル5世は僅か5年の治世の後、ティグラト・ピレセル3世の別の息子と言われているサルゴン2世にとって代わられた。王となる前のサルゴン2世についてわかっていることは何もない。", + "qas": [ + { + "question": "シャルマネセル5世は、何年間の短い統治期間で王としての活動を終えたの?", + "id": "tr-544-08-000", + "answers": [ + { + "text": "5年", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "シャルマネセル5世の父親は、誰ですか?", + "id": "tr-544-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ティグラト・ピレセル3世", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "シャルマネセル5世の後を継ぎ、王となったのは、誰か?", + "id": "tr-544-08-002", + "answers": [ + { + "text": "サルゴン2世", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "シャルマネセル5世が即位してから何年後、サルゴン2世が即位したか?", + "id": "tr-544-08-003", + "answers": [ + { + "text": "5年", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "サルゴン2世は恐らく前762年頃に生まれ、アッシリアの内乱の時代に成長したのであろう。アッシュール・ダン3世(在位:前773-755年)とアッシュール・ニラリ3世(在位:前754-745年)の治世は、反乱の勃発とペストの発生という不運に見舞われていた。", + "qas": [ + { + "question": "サルゴン2世は、何年頃に生まれたと思われるの?", + "id": "tr-544-09-000", + "answers": [ + { + "text": "前762年頃", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "サルゴン2世は、どのような時代に成長したと思われますか?", + "id": "tr-544-09-001", + "answers": [ + { + "text": "アッシリアの内乱の時代", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アッシュール・ダン3世とアッシュール・ニラリ3世のうち、王に即位した時期がより早いのは、どちらか?", + "id": "tr-544-09-002", + "answers": [ + { + "text": "アッシュール・ダン3世", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "アッシュール・ダン3世の後を継ぎ、王になったのは、誰か?", + "id": "tr-544-09-003", + "answers": [ + { + "text": "アッシュール・ニラリ3世", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "アッシュール・ダン3世とアッシュール・ニラリ3世の治世中、アッシリアの権威と権力は劇的に低下した。統治力がようやく回復したのは、ティグラト・ピレセル3世の治世になってからである。後を継いだその息子シャルマネセル5世の死からサルゴンの即位に至るまでの経緯は、完全には明らかにはなっていない。宮廷クーデターによってサルゴン2世がシャルマネセル5世を廃位・暗殺したという推測が、最も有力視されている。", + "qas": [ + { + "question": "アッシュール・ダン3世とアッシュール・ニラリ3世の治世に劇的に低下したアッシリアの権威と権力は、誰の時代になってようやく回復し始めたの?", + "id": "tr-544-10-000", + "answers": [ + { + "text": "ティグラト・ピレセル3世", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アッシュール・ダン3世とアッシュール・ニラリ3世、ティグラト・ピレセル3世は、三人ともどの国の者ですか?", + "id": "tr-544-10-001", + "answers": [ + { + "text": "アッシリア", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "サルゴン2世の王位簒奪の過程で、暗殺されたのは、誰か?", + "id": "tr-544-10-002", + "answers": [ + { + "text": "シャルマネセル5世", + "answer_start": 162, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "シャルマネセル5世の暗殺を首謀したのは、誰か?", + "id": "tr-544-10-003", + "answers": [ + { + "text": "サルゴン2世", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "サルゴン2世は王となった時、既に中年と言える年齢であり、恐らく40代であった。そしてカルフ(ニネヴェ)にあるアッシュールナツィルパル2世(在位:前883年-前859年)の宮殿に住んだ。サルゴン2世���前任者シャルマネセル5世は、父ティグラト・ピレセル3世の拡張主義的政策を継続しようとしたが、彼の軍事的努力は迅速さと効率性において、父に及ばなかった。特に、長期間にわたる彼のサマリア(現:イスラエル領)包囲は3年間におよび、彼が死亡した時点でもまだ続いていた。", + "qas": [ + { + "question": "サルゴン2世が王位についた時の年齢については、どう推測されるの?", + "id": "tr-544-11-000", + "answers": [ + { + "text": "40代", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アッシュールナツィルパル2世の宮殿は、どこに存在していましたか?", + "id": "tr-544-11-001", + "answers": [ + { + "text": "カルフ", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サマリア包囲戦は、何年間行われたか?", + "id": "tr-544-11-002", + "answers": [ + { + "text": "3年間", + "answer_start": 203, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "拡張主義的政策をとった王としては、シャルマネセル5世と誰が挙げられているか?", + "id": "tr-544-11-003", + "answers": [ + { + "text": "ティグラト・ピレセル3世", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "前717年、サルゴン2世は小さいが富裕なカルケミシュ王国を征服した。カルケミシュはアッシリア、アナトリア、そして地中海の間の交点に位置するとともにユーフラテス川の重要な渡河点を管理し、数世紀にわたり国際交易から利益を得ていた。", + "qas": [ + { + "question": "前717年にサルゴン2世は、どの国への遠征に出かけたの?", + "id": "tr-544-12-000", + "answers": [ + { + "text": "カルケミシュ王国", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "電気パン", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "水分と食塩などの電解質を含んだ小麦粉などによるパン種に、直接電流を通すことでジュール熱が発生する。そのまま電流を流し続けると、やがて水分が蒸発により減少していくとともに電気抵抗が大きくなり、ある段階で電流が流れなくなる。完全に電流が流れなくなったころには、加熱により材料に含まれるデンプンがアルファ化し、食べられるようになる。パン自身が、焼き上がって食べやすい状態になったら自動的に電気を流さなくなるという原理となっている。材料に含まれる食塩などの電解質の量や、電極間の距離で焼き具合や味に変化がある。一般的なオーブンやホームベーカリーのように、窯など発熱体の熱をパン種の周囲に伝えて加熱していく方式ではなく、パン種自体の発熱により焼きあがるので、エネルギー効率がよいという利点がある。ソニーの創設者である井深大が、1945年、前身の東京通信研究所時代に開発した電気炊飯器もこの原理を利用したものであった。しかし市販はされず、ソニーのサイトでは\"失敗作第1号となった記念すべき商品\"として紹介されている。北杜夫は記憶に刻まれた戦後終戦直後の3つの発明として「代用灯」(缶に油を入れ芯を立てたもの)、「タバコ巻器」とともに「簡便パン焼き器」を挙げ、「これこそ大発明とよぶべきもの」と表現しており、電気療法の器具に電気が流れなかったエピソードと絡め、電解質である「塩を加えるところがミソである」と続けている。岩城正夫は「一升瓶の米つき器」「タバコ巻き器」とともに「電気パン焼き」を敗戦直後の三種の神器とし、木の箱とブリキ板だけででき、パン種自体が熱を発して出来上がることを江戸東京博物館の学芸員に説明したと記している。", + "qas": [ + { + "question": "ソニーは誰によって創設されたの?", + "id": "tr-545-00-000", + "answers": [ + { + "text": "井深大", + "answer_start": 353, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "電気炊飯器の開発者は誰ですか。", + "id": "tr-545-00-001", + "answers": [ + { + "text": "井深大", + "answer_start": 353, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「一升瓶の米つき器」「タバコ巻き器」とともに「電気パン焼き」を敗戦直後の三種の神器とし、木の箱とブリキ板だけででき、パン種自体が熱を発して出来上がることを江戸東京博物館の学芸員に説明したと言ったのは誰なの?", + "id": "tr-545-00-002", + "answers": [ + { + "text": "岩城正夫", + "answer_start": 602, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "第二次世界大戦後の数年間、配給の食用粉を用いて、電気パン焼き器でパンを作ることが普及・流行した。諸説あるが、数年間でほとんど姿を消したとされている。終戦後の食糧難の状況下においては小麦粉だけでなく、配給によって得られる前述の食用粉もパン種に用いられた。1945年には、「小麦粉、藷類(サツマイモ類)、大豆、高梁(コーリャン)、玉蜀黍(トウモロコシ)」の混合物資の割合が増え、さらに「芋づる、桑の葉、ヨモギ、どんぐり、南瓜のつる、木材くずなどを材料とする粉食」という記述もあり、雑食総動員計画がたてられている。このような食糧事情が、いかに手に入るものを工夫をして食べるかを人々に考えさせ、粉を水で練って汁とともに煮るすいとんや電気パンなどが登場した背景になった。北杜夫は小さく切ったサツマイモも一緒に入れて焼いたと記しており、後述の1946年の議会食堂での中毒事件では「ドングリ粉芋蔓などで作られた代用切餅」を「一両日乾燥させ粉化し」「簡易電気製パン器で蒸しパンに作っ」たとあり、電気パンのパン種に混ぜられるものは多岐にわたっていた。他にパン種として「老麺」を用い、工程において二度発酵させる手順を含めた「電流パン」を作る要領が記載された文献もある。ベーキングパウダーのメーカーであるアイコクは同社のベーキングパウダーが電気パンに使用され軍需物資に指定されたと、サイト上に記している。膨らし粉の代わりに重曹を入れてパンにするという資料もある。このほか、容易に用意できる材料と条件から、食材としてではなく、教育機関において実験の教材や設問として取り上げられることがある。三重大学からは電気パンに関する論文が2000年に日本産業技術教育学会誌へ投稿され、2001年度の大学入試センター試験物理IAでは電気パンが出題題材となった。", + "qas": [ + { + "question": "アイコクの主力商品は何?", + "id": "tr-545-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ベーキングパウダー", + "answer_start": 524, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "三重大学の2000年の論文と、2001年度の大学入試センター試験物理IAで共通に扱われたテーマは何ですか。", + "id": "tr-545-01-001", + "answers": [ + { + "text": "電気パン", + "answer_start": 690, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1934年、阿久津正蔵はパンも焼け、炊飯もできる給養車を作れと命令を受け、電極式調理装置をトラックに実装した九四式炊事自動車を試作する。阿久津正蔵によって電極式製パン法が発明されたと1935年に日本陸軍糧秣廠報告で報告されている。九七式炊事自動車と命名され実用化した給養車は300台装備された。阿久津はこの原理が戦後に広く利用され、ソニーの松山の本社の陳列室にソニー社製の電流パン焼き器が置いてあるのを見て、盛田昭夫に自分の発明だと伝え驚かせた。盛田はその時日本橋の白木屋の地下で売っていたと話したという。その後、通電により焼きあげる方法は1958年から名古屋市のミカワ電機製作所の指導によりパン粉の大規模製造に導入され、オーブンで焼く焙焼式とともに通電による電極式は広く���用されている。粒状が良く見た目が白いパン粉は米国にも輸出され評判となり、現在では冷凍食品向けに広く採用されている。", + "qas": [ + { + "question": "命令によって阿久津正蔵が作った給養車は、実用化したときどんな名前が与えられましたか。", + "id": "tr-545-02-000", + "answers": [ + { + "text": "九七式炊事自動車", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "電気パンを作るための電気パン焼き器は単純な構造で出来ていて、戦後の手作りのものも、理科などの実験に用いられるものも基本構造は同じである。木材などで枠状の開いた箱を作り、その側板内側の対面する二つの面に金属の板を貼る。金属の板にそれぞれ電極をつなげる。電極がむき出しになっているため感電の危険が高く、自作する場合の注意や、そもそも自作しないように警告されている場合もある。阿久津正蔵著『パンの上手な作り方と食べ方』では、断面が台形になっている。これは得られる電圧が低い場合は電極板間距離を狭くできるよう、台形の短辺側を下にできるというものである。また、仕切りの役目をする中板を付属し、パンの大きさを調節できるようになっている。構造上は蓋は必要がない一方で、東京都千代田区九段下の昭和館に2011年9月現在展示されている手作りの電気パン焼き器には蓋が付属している。これは熱効率を上げるもので、上面の焼け具合にも影響する。教育現場での手作り作業の場合、牛乳パックが使用される場合がある。また最もシンプルな形としてはパン種を電極板で挟んだだけのものもある。", + "qas": [ + { + "question": "『パンの上手な作り方と食べ方』を書いた人は誰なの?", + "id": "tr-545-03-000", + "answers": [ + { + "text": "阿久津正蔵", + "answer_start": 185, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "東京都千代田区九段下の昭和館に2011年9月展示されている手作りの電気パン焼き器には、熱効率を上げるために、何が付属されていますか。", + "id": "tr-545-03-001", + "answers": [ + { + "text": "蓋", + "answer_start": 316, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "電気パン焼き器の大きさは、戦後の手作り品の場合、ありあわせの材料で製作するため、電極板として用いることができ、かつ入手が容易であった缶詰の高さが基準となっている。おおよその大きさは長辺100-150ミリメートル×短辺70-80ミリメートル×深さ70-8ミリメートルである。北海道開拓記念館に所蔵されている手作り品は電極板間距離を可変できるものであり、長辺136ミリメートル×短辺90ミリメートル×深さ82ミリメートルである。これに対し明宝町立博物館の所蔵品は長辺132ミリメートル×短辺77ミリメートル×深さ40ミリメートルと少し浅い。電極板間の距離に関して、90ミリメートルを標準とし長(135ミリメートル)短(45ミリメートル)を含めた三種類の実験が行われている。距離が長いほど出来上がりに時間がかかり、食塩の味をより感じやすいとされている。1946年当時の資料では長辺150ミリメートル×短辺80ミリメートル×深さ80ミリメートルが適当であるとされている。", + "qas": [ + { + "question": "戦後の手作り品の電気パン焼き器の深さは何mメートルだったか。", + "id": "tr-545-04-000", + "answers": [ + { + "text": "70-8ミリメートル", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "北海道開拓記念館に所蔵品と明宝町立博物館の所蔵品と、より浅いのはどちらの方ですか。", + "id": "tr-545-04-001", + "answers": [ + { + "text": "明宝町立博物館の所蔵品", + "answer_start": 217, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "食品衛生法の規定に基づき、厚生労働省が告示した「食品,添加物等の規格基準」第3のAの6には、次の規格��定められている。\n\n電流を直接食品に通ずる装置を有する器具の電極は,鉄,アルミニウム,白金及びチタン以外の金属を使用してはならない。ただし,食品を流れる電流が微量である場合にあつては,ステンレスを電極として使用することは差し支えない。\n\n上記規格に合わない電気パン焼き器の販売、販売のための製造、営業上の使用などは、2020年現在、日本国内において、禁じられている。上記規格に合わない電気パン焼き器を手作りし、個人的にのみ使用することは、禁じられてはいないが、自己の健康を害する可能性に注意する必要がある。電極板に用いられる金属は、磨いた鉄板が望ましい。ブリキ、ジュラルミン、真鍮、銅などでは有害物質が溶け出し、食中毒の恐れがある。実際に亜鉛引きトタンを用いた「電極応用パン」による中毒事件が1946年6月に東京都渋谷区で起きている。この新聞記事中では、警視庁衛生検査所の技官より「トタン製のものは紙やすりで表面の亜鉛を取り去ってから使ってもらいたい」というコメントが記載されている。また同年7月、議員傍聴人食堂でも腐敗した材料と亜鉛が原因で30名が食中毒を起こしている。電極にアルミ箔を用いた場合、アルミニウムが電気パンに溶出する問題がある。電極にステンレス鋼板を用いた場合、重金属のクロムが電気パンに溶出することが確認されており、電極付近を食べないように注意する。全国パン粉工業協同組合連の清水康夫による2008年の論文では、電極板にチタンを使用した場合、パンの中にはチタンが検出されなかった、とある。電極板からの金属の溶出の問題を回避するため、板状に切断した備長炭を電気パン焼き器の電極板として使用した報告もある。また感電などの事故の可能性も高いので、軍手などの手袋の使用を注意事項として挙げている場合がある。", + "qas": [ + { + "question": "「食品,添加物等の規格基準」第3のAの6に定められている規格に従うと、電流を直接食品に通ずる装置を有する器具の電極に使えるのはアルミニウム,白金、チタン、そして何がありますか。", + "id": "tr-545-05-000", + "answers": [ + { + "text": "鉄", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "鉄,アルミニウム、銅のうち、電流を直接食品に通ずる装置を有する器具の電極に使えないのはどれですか。", + "id": "tr-545-05-001", + "answers": [ + { + "text": "銅", + "answer_start": 342, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "電極板にチタンを使用した場合、パンの中にはチタンが検出されなかったと記述されているのは清水康夫の何年度の論文ですか。", + "id": "tr-545-05-002", + "answers": [ + { + "text": "2008年", + "answer_start": 655, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "電気パン焼き器はもともとは、米を炊いたりパンを焼く器具として、前述の『パンの上手な作り方と食べ方』の著者であり、陸軍軍人でもあった阿久津正蔵が発明したものである。女子栄養大学が発行している月刊誌「栄養と料理」昭和21年5月号における食糧管理局研究所の川口武豊の「電極式製パン器」によれば、電極を使ってパンを焼くことは昭和10年ごろから知られていたとある。また永六輔はコラムの中で新劇俳優の本郷淳が発明したとし、本郷の発明が新聞に紹介されてどの家でも作るようになった、としている。市販品は、戦前から使われていたと思われるベークライト製のものに言及している資料があり、早川電機工業も作っていたという資料がある。最初の商品化は東京通信工業であり、進藤貞和三菱電機名誉会長による談として日本経済新聞「私の履歴書」欄において三菱電機も作っていたという資料もある。石山理化工業株式会社から市販されていた、電気パン焼き器の付属資料画像が、2011年10月現在、昭和館の常設展示室6階「調べてみよう」コーナーにて、閲覧できる。1946年6月6日の読売新聞の広告欄には東京都板橋区の企業による「粉食時代に���るクリーンヒット」と銘打った「単価28円」の「シンプル式パン焼」の広告が載っている。", + "qas": [ + { + "question": "電気パン焼き器の発明者の名前は何?", + "id": "tr-545-06-000", + "answers": [ + { + "text": "阿久津正蔵", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "月刊誌「栄養と料理」の発行先はどこですか。", + "id": "tr-545-06-001", + "answers": [ + { + "text": "女子栄養大学", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "レオ10世による贖宥状", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "レオ10世による贖宥状では、1515年にローマ教皇レオ10世の名の下に売りだされた贖宥状について解説する。\n\nこの贖宥状は、イタリアの聖ピエトロ大聖堂の建設費を集めるという名目で、ドイツにて売りに出されたもので、実際の発行者はドイツ宗教界の最高位であるマインツ大司教、販売の実務を担うのはドミニコ修道会だった。一般には、この贖宥状に対してザクセン選帝侯領の神学者マルティン・ルターが1517年に異議を唱えたことが宗教改革の端緒だったとされている。", + "qas": [ + { + "question": "ローマ教皇レオ10世の名の下に贖宥状が売りだされたのはいつなの?", + "id": "tr-546-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1515年", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "レオ10世による贖宥状は表面的に、何を建設するために出されたものですか。", + "id": "tr-546-00-001", + "answers": [ + { + "text": "聖ピエトロ大聖堂", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "レオ10世による贖宥状の実際の発行者は誰なの?", + "id": "tr-546-00-002", + "answers": [ + { + "text": "マインツ大司教", + "answer_start": 126, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マルティン・ルターが贖宥状に対して異議を唱えたはいつなの?", + "id": "tr-546-00-003", + "answers": [ + { + "text": "1517年", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "贖宥状は第1回十字軍の頃から大々的に出回るようになったとされている。はじめのうちは十字軍が招集される度に贖宥状が発行されていて、戦場で敵を殺す罪を犯しても、その罰は免ぜられるという性格のものだった。十字軍が下火になったあとは、100年に1度、50年に1度と限定的に発行されていたが、しだいに安易な集金手段として乱発されるようになっていった。\n\n1513年にローマ教皇に就任したレオ10世はもともとイタリアの豪商メディチ家の出身で、日々王侯のような贅沢な暮らしを求め、その費用としてドイツの豪商フッガー家に巨額の借金をするようになった。また、1514年にドイツの最高聖職位であるマインツ大司教に叙任されたアルブレヒトも、その聖職位を得るための工作資金として、フッガー家から多額の借り入れを行った。フッガー家はこれらの貸付を回収するため、ローマ教皇とマインツ大司教は借金返済のため、3者の協力により「聖ピエトロ大聖堂の再建費用」の名目で贖宥状を発行し、その売上で借金を返済することを計画した。", + "qas": [ + { + "question": "レオ10世がローマ教皇に就任したのはいつなの?", + "id": "tr-546-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1513年", + "answer_start": 172, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1514年、ドイツの最高聖職位の人は誰だった?", + "id": "tr-546-01-001", + "answers": [ + { + "text": "マインツ大司教", + "answer_start": 288, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アルブレヒトが聖職位を得るためにどこからお金を借りたの?", + "id": "tr-546-01-002", + "answers": [ + { + "text": "フッガー家", + "answer_start": 328, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "贖宥状は大々的に出回るようになったのはいつ頃なの?", + "id": "tr-546-01-003", + "answers": [ + { + "text": "第1回十字軍の頃", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "贖宥状の販売実務にあたったのは、托鉢修道会の1つドミニコ修道会で、なかでもテッツェルという修道士が凄腕の販売人として歴史に名を残している。彼らは、買うだけでありとあらゆる罪から免れる、との謳い文句でドイツ中でこの贖宥状を売り歩いた、とされている。\n\nこの謳い文句を聞いたヴィッテンベルクの神学者マルティン・ルターは、ドミニコ修道会への批判を開始し、1517年秋に95ヶ条の論題を貼り出した。一般的にはこれが宗教改革の端緒になったとされている。\n\n正確にはルターが批判したのは「ありとあらゆる罪」を免れることができるという主張に対してであり、伝統的な贖宥の教理に従えば「罰が一定程度減免される」だけに留まるはずだ、ということを論じようとしただけにすぎなかった。ルター自身は、この贖宥状がマインツ大司教とローマ教皇の借金返済のためのものであることは全く知らなかった。だからルターは、大司教と教皇は善良だが世間知らずのために悪い部下に欺かれているのだ、と考えていた。しかしルターの意図に反し、ルターが贖宥状を批判した、ルターが教皇を批判した、といって騒ぎが大きくなっていった。", + "qas": [ + { + "question": "ヴィッテンベルクの神学者マルティン・ルターが95ヶ条の論題を貼り出したのはいつですか。", + "id": "tr-546-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1517年", + "answer_start": 174, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "宗教改革の端緒であるとされている人物は誰ですか。", + "id": "tr-546-02-001", + "answers": [ + { + "text": "マルティン・ルター", + "answer_start": 147, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ローマ教会が最初に贖宥状を発行したのは第1回十字軍のときだったとされている。教会は聖地解放の従軍者を集めるため、この戦いに加わった兵士には特別なメリットがあるといって贖宥状を発行した。まもなく、女性や高齢者、病人など自分が直接従軍できない者でも、軍費を負担するならば同じような贖宥が得られるということになった。\n\nこうした贖宥状の売上は教皇の財庫に集められ、十字軍が実施されるときにそこからの支出が認められていた。十字軍が下火になったあとは、100年に1度のヨベルの年にだけ発行が認められることになった。これが当たると「ヨベルの年」は50年に1度ということになり、そのうちキリストの生涯と同じ33年に1度になり、さらに「普通の人間はキリストより弱いのだから」といって25年に1度になり、どんどん間隔が短くなっていった。1476年にシクストゥス4世が売りに出して以降、贖宥状は安易な集金手段として頻繁に発行されるようになった。", + "qas": [ + { + "question": "ローマ教会が初めて贖宥状を発行したのいつだと知られていますか。", + "id": "tr-546-03-000", + "answers": [ + { + "text": "は第1回十字軍のとき", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "もともと、ヨベルの年は何年周期にやってくるの?", + "id": "tr-546-03-001", + "answers": [ + { + "text": "100年", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "もともと贖宥状による効果というのは、かなり限定的なものだった。日本語文献では贖宥状を「免罪符」と表現することもあるが、カトリックの本来の教理には「免罪」符は存在しない。免じられるのは「罰」であり、「罪」が無かったことになるわけではない。贖宥状によって赦しが得られるのは、あくまでも教会が信徒に課す罰の範囲に限られていた。\n\nカトリックの教理にしたがうと、人は誰しもが現世で生きていくことによって罪を犯す。その罪に対して神による永遠の罰が与えられる。しかしこれに対して悔悛の秘蹟が行われる。すなわち、聖職者に対して告解を行い懺悔する。すると神の現世での代理者である聖職者を通じて神の恩寵が与えられ、罪が赦免される。帰結として、受けるはずだった神の永遠の罰が回避される。", + "qas": [ + { + "question": "カトリックの本来の教理に従うと、贖宥状によって免じられるのは「罰」ですか、「罪」ですか。", + "id": "tr-546-04-000", + "answers": [ + { + "text": "「罰」", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "こうした贖宥状を疑問視する声は昔からあった。そうした批判者のなかで特に有力だった者としてジョン・ウィクリフ、その弟子ヤン・フスらがいる。しかしフスは贖宥状以外にもさまざまな教会批判を行った結果、火あぶりにされてしまった。フスの場合、教会大分裂といって教皇を自称する3人の人物が鼎立してお互いに争っていた時期で、その中の1人ヨハネス23世が相手の教皇を倒すための戦費を募った贖宥状をフスが批判したのだった。まもなくヨハネス23世自身が公会議によって異端とされて全ての権威を否定されることになったのだが、フスはそのまま異端として取り扱われたのだった。", + "qas": [ + { + "question": "ヤン・フスの師は誰なの?", + "id": "tr-546-05-000", + "answers": [ + { + "text": "ジョン・ウィクリフ", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "贖宥状に対して否定的だった人としてヤン・フスとそして誰が挙げられていますか。", + "id": "tr-546-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ジョン・ウィクリフ", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "この時代、法王庁は財政的な豊かさを背景に力を伸ばした。ローマ教皇は単なる教会の長、隠遁聖職者の長老ではなく、大国の領主というべき力を持っていた。その政治力と軍事力を誇ったのがユリウス2世だった。ユリウス2世はイタリアのルネサンスの強力な支援者でもあり、ミケランジェロを保護し、文芸にも力を注いだ。\n\nそのユリウス2世の後継者がレオ10世である。レオ10世はフィレンツェの富豪、メディチ家の次男である。その資金力を背景に13歳で枢機卿になり、ユリウス2世のあとを継いで1513年に教皇位についたときはまだ38歳だった。\n\nレオは教皇位に就任するにあたり、「現世の享楽を謳歌する」と宣言してみせたほどの放蕩家だった。そこらの王侯よりも贅沢を好み、湯水のように金を使い、宴会、狩猟、戦争、賭博に明け暮れ、芸術の庇護者として振る舞った。その結果、就任から2年で法王庁の財政が危機に陥ったとも言われている。\n\nレオ10世は金策のためユリウス2世のやり方を真似した。レオ10世が売った聖職位は1年に2,000件にも及び、その売却額はドゥカーテン金貨50万枚にもなったといわれている。レオ10世がユリウス2世から引き継いだ大事業が聖ピエトロ大聖堂の再建である。これは100年以上の構想の末に1506年に着工したものだった。レオ10世はこの工事の設計にラファエロを任命し、大聖堂をさらに大きく、豪壮なものへと設計変更を行わせた。\n\n資金の流れの観点で言うと、この建築費用を用立てたのはフッガー家である。この時代のフッガー家は、ドイツでの鉱山経営の飛躍的拡大によって、レオ10世の出自であるメディチ家を凌駕する経済力を有していた。だからレオ10世もフッガー家に借金を申し込んだのである。聖ピエトロ大��堂はこの融資によって建設された。しかしレオ10世にはこの借金と利息の返済のあてはなかった。そこでレオ10世は贖宥状を売り、その収益を返済に充てることにした。\n\n当時ドイツの庶民のなかには、「なぜ教皇さまはあれほどお金持ちなのに、自分のお金で大聖堂を建てないのだろう」と言うものもいたという。", + "qas": [ + { + "question": "ユリウス2世とレオ10世と、誰が先代のローマ教皇なの?", + "id": "tr-546-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ユリウス2世", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1513年、レオ10世は何歳だった?", + "id": "tr-546-06-001", + "answers": [ + { + "text": "38歳", + "answer_start": 251, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "レオ10世が教皇位についたのはいつなの?", + "id": "tr-546-06-002", + "answers": [ + { + "text": "1513年", + "answer_start": 233, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "聖ピエトロ大聖堂の再建の着工はいつだったの?", + "id": "tr-546-06-003", + "answers": [ + { + "text": "1506年", + "answer_start": 538, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "マインツ大司教位は、ドイツの聖職者の最高位であると同時に、7つしかない選帝侯位の1つである。聖界諸侯位なので、世俗諸侯と違ってその位は世襲制ではない。そのためマインツ大司教位はドイツ諸侯の家門政策のためにはぜひ手に入れたい地位だった。15世紀の終わりにはザクセン選帝侯を世襲するエルンスト家がその座を獲得した。同家嫡男のフリードリヒ3世がザクセン選帝侯となり、次男エルンスト2世がマクデブルク大司教、三男アダルベルト3世がマインツ大司教に就いた。ザクセン選帝侯家は7つの選帝侯位のうち2つ占めることになり、栄華を誇った。", + "qas": [ + { + "question": "ドイツの聖職者の最高位は何ですか。", + "id": "tr-546-07-000", + "answers": [ + { + "text": "マインツ大司教位", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "この位に就いたのが、ホーエンツォレルン家の次男アルブレヒトである。アルブレヒトはブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世の実の弟で、はじめのうちは兄と共同でブランデンブルク辺境伯領を治めていた。1513年にマクデブルク大司教とハルバーシュタット司教を兼任していたザクセンのエルンスト2世が死ぬと、アルブレヒトはその後継者として叙任された。と言ってもアルブレヒトは神学者でもなんでもなく、ホーエンツォレルン家が金と政治力で手に入れた職位だった。大司教位は本当は30歳以上でなければ認められないのに、このときアルブレヒトはまだ23歳だった。", + "qas": [ + { + "question": "エルンスト2世はいつ死んだの?", + "id": "tr-546-08-000", + "answers": [ + { + "text": "1513年", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アルブレヒトがマクデブルク大司教に叙任された時、彼は何歳でしたか。", + "id": "tr-546-08-001", + "answers": [ + { + "text": "23歳", + "answer_start": 258, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "天災は忘れた頃にやってくる", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "天災は忘れた頃にやってくるとは、自然災害はその被害を忘れたときに再び起こるものだという戒め。「天災は忘れられたる頃来る」、「天災は忘れた頃来る」、「天災は忘れられた頃に来る」などとも記述される。また、上記の「天災」の箇所は「災害」と書かれることもある。\n\n科学者で随筆家の寺田寅彦の言葉とされることが多い。しかし、寅彦が発表した文章の中にはこ��らの言葉は見つかっていない。", + "qas": [ + { + "question": "「天災は忘れた頃にやってくる」は一般的に誰の言葉だとされていますか。", + "id": "tr-547-00-000", + "answers": [ + { + "text": "寺田寅彦", + "answer_start": 136, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "寺田寅彦は研究者として火災や地震などの災害に関心を持っていたが、1923年の関東大震災発生後は、これまで以上に深い関心を示すようになった。地震発生時、上野の二科展会場にいた寅彦は、自分のいる建物の無事を確認すると、「此珍しい強震の振動の経過を出来るだけ精しく観察しよう」と、その場に留まり、建物の様子などを観察した。続いて東京市内の焼け跡を回り、地震被害を調べた。\n\n寅彦はその後、防災についての随筆を多く残した。1933年に発表した『津浪と人間』では、津波は定期的に起きるものでそのことは十年も二十年も前から警告しているという学者の主張と、二十年も前の事など覚えていられないという被害者の主張を取り上げ、「これらはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである」と論じた。", + "qas": [ + { + "question": "寺田寅彦の災害への関心が深まったきっかけとなったのは何ですか。", + "id": "tr-547-01-000", + "answers": [ + { + "text": "関東大震災", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『津浪と人間』は誰の著書ですか(フルネームで答えなさい)。", + "id": "tr-547-01-001", + "answers": [ + { + "text": "寺田寅彦", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "21世紀になると、日本において地震活動や火山活動が活発化し、また、地球温暖化の進行に伴い大気中の水蒸気量が増え、それ以前ではほとんど起こらなかったような豪雨災害が頻発するようになった。例えば、2005年にはハリケーン・カトリーナの後にハリケーン・リタが上陸し、日本でも平成17年台風第14号が猛威を振るった。さらに、2019年には、9月に襲来した令和元年房総半島台風からの復興もままならないような状況で令和元年東日本台風が上陸した。このような状況から、「天災は忘れた頃にやってくる」から派生し、「忘れる間もなくやってくる」、「忘れるまもなくやってくる」、「忘れる前にやって来る」、「忘れないうちにやってくる」などの表現が使われるようになった。また、2019年7月18日には、鳥飼否宇が著した『天災は忘れる前にやってくる』という題名の、災害を題材にしたフィクション作品が、光文社より発売された。", + "qas": [ + { + "question": "『天災は忘れる前にやってくる』というフィクション作品を書いたのは誰?", + "id": "tr-547-02-000", + "answers": [ + { + "text": "鳥飼否宇", + "answer_start": 337, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ガブリエレ・ミュンター", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ガブリエレ・ミュンターはおもにドイツで活躍した表現主義の女流芸術家で、ミュンヘン新芸術家協会及び青騎士のメンバーだ。絵画に加えて版画による創作活動もした。また、ヴァシリー・カンディンスキーのパートナーとしても知られる。彼女はカンディンスキーの作品のかなりの部分を第二次世界大戦中から戦後にかけて災難から守り、後には青騎士の芸術家仲間の作品と自分自身の作品とを広く一般に公開した。", + "qas": [ + { + "question": "リエレ・ミュンターはおもにどの国で活躍したか。", + "id": "tr-548-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "リエレ・ミュンターは誰のパートナーだと知られていますか。", + "id": "tr-548-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ヴァシリー・カンディンスキー", + "answer_start": 80, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ガブリエレの父カール・ミュンターはヴェストファーレンの商人で牧師の家庭出身であった。しかし1848年革命に参加した彼は、その政治思想を危険視した家族の手でアメリカに追いやられた。彼はアメリカで歯科医師として生活を営み、10年たたないうちに裕福な身分となってドイツ人女性ヴィルヘルミーネ・ショイバーと結婚した。だが、自由を愛した夫妻は、南北戦争の嵐吹き荒れる政情不安の合衆国を去り、ベルリンのウンター・デン・リンデンにある大きな屋敷に移った。(以下、本項で扱うガブリエレ・ミュンターを指してミュンターと記す)", + "qas": [ + { + "question": "ガブリエレの父の名前は何?", + "id": "tr-548-01-000", + "answers": [ + { + "text": "カール・ミュンター", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カール・ミュンターは誰と結婚したの?", + "id": "tr-548-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ヴィルヘルミーネ・ショイバー", + "answer_start": 134, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヴィルヘルミーネ・ショイバーの母国はどこなの?", + "id": "tr-548-01-002", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ガブリエレ・ミュンターは1877年2月19日、3子の末っ子としてベルリンに生まれた。一家は一年の後にヴェストファーレン地方のヘアフォルトへ、そしてその後コブレンツへと引っ越した。馬術、スケート、ダンス、サイクリングに熱中して過ごした子供時代の記憶はミュンターの心に色濃く残った。また彼女は音楽を好み、楽譜を読み、聴き、演奏して楽しんだ。数曲の歌曲も作曲している。1886年、父が他界した。学校時代からすでに芸術的才能を示していた彼女は、兄コンラートの勧めもあって1897年春にはデュッセルドルフにある女子芸術学校の門をたたいた。当時は国立芸術院への道は女性に閉ざされていたのである。彼女はしかし、自身の芸術的才能を開花させるためというよりむしろ絵画技法を身につける目的で絵の勉強を始めたのであった。同年11月には母も亡くなり、勉強を一時中断しなければならなかったが、学校に退屈していた彼女はむしろこの機会を前向きにとらえた。両親の残した金銭的遺産に依ることなく、翌1898年彼女は姉とともにアメリカに住む親類のもとを訪ねた。二年にわたるアメリカ旅行で彼女たちは、ミズーリ、アーカンソー、そしてテキサスを訪れた。ミュンターは旅の様子を、たくさんの印象深い写真で克明に記録している。また人物や風景、植物を数多くデッサンした。1900年10月、ミュンターはコブレンツに戻った。", + "qas": [ + { + "question": "ガブリエレ・ミュンターはいつ生まれたか。", + "id": "tr-548-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1877年2月19日", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ガブリエレ・ミュンターの父は何年に亡くなったか。", + "id": "tr-548-02-001", + "answers": [ + { + "text": "1886年", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ガブリエレ・ミュンターの母は何年に亡くなったか。", + "id": "tr-548-02-002", + "answers": [ + { + "text": "1886年", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1901年、ミュンターはミュンヘンへ移った。しかしこのとき、その地でも女性はまだ公の芸術院への入学を許されていなかった。それゆえミュンターは画家修業を���流芸術家協会の付属画学校初級教室でつづけ、同年冬にヴィルヘルム・フュスゲンとヴァルデマル・ヘッカーによる小さな、しかし進歩的な芸術学校「ファランクス」に移った。そこではカンディンスキーも教鞭をとっていた。この学校においてミュンターは、アンジェロ・ヤンクのクラスでモデルによる肖像デッサンを6ヵ月間学ぶが、その修業期間が終わる前に裸体画のクラスに進み、ついでヴィルヘルム・フュスゲンの彫刻教室へ移った。彼のもとで学んだ後、ミュンターは裸体画教室夜間部に通い、そしてカンディンスキーの絵画教室へと移る。カンディンスキーとの出会いはミュンターの人生を大きく方向づけた。彼女はカンディンスキーのもとで初めて、芸術が技能とは性格を異にする何者かであることを悟り、画家の内面的精神をフォルムによって絵画に表現することを学んだのである。", + "qas": [ + { + "question": "1901年、ミュンターはどこへ移ったか。", + "id": "tr-548-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ミュンヘン", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カンディンスキーとミュンターが出会った学校はどこなの。", + "id": "tr-548-03-001", + "answers": [ + { + "text": "「ファランクス」", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "尼港事件", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "尼港事件(にこうじけん、露:НиколаевскийинцидентNikoláyevskiyIntsidyént,英:NikolayevskMassacre)は、ロシア内戦中の1920年(大正9年)3月から5月にかけてアムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港、現在のニコラエフスク・ナ・アムーレ)で発生した、赤軍パルチザンによる大規模な住民虐殺事件である。ニコラエフスク事件ともいう。", + "qas": [ + { + "question": "尼港事件は、どの国の内戦中に発生した事件であるの?", + "id": "tr-549-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ロシア", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "尼港事件は、何年に発生した事件でありますか?", + "id": "tr-549-00-001", + "answers": [ + { + "text": "1920年", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "尼港事件は、どこで発生した事件であるか?", + "id": "tr-549-00-002", + "answers": [ + { + "text": "ニコラエフスク", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "尼港事件の別称は、何か?", + "id": "tr-549-00-003", + "answers": [ + { + "text": "ニコラエフスク事件", + "answer_start": 180, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "尼港事件の首謀者はヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリピャーツィンである。", + "qas": [ + { + "question": "尼港事件の首謀者は、誰なの?", + "id": "tr-549-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリピャーツィン", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヤーコフ・イヴァノーヴィチ・トリピャーツィンが起こした事件で、この文書に紹介されているのは、何か?", + "id": "tr-549-01-001", + "answers": [ + { + "text": "尼港事件", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクを、パルチザン部隊4,300名(ロシア人3,000名、朝鮮人1,000名、中国人300名)(参謀本部編『西伯利出兵史』によれば朝鮮人400-500名、中国人900名)が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪・処刑を行うとともに日本軍守備隊に武器引渡を要求し、これに対して決起した日本軍守備隊を中国海軍と共同で殲滅すると、老若男女の別なく数千人の市民を虐殺した。殺された住人は総人口のおよそ半分、6,000名を超えるともいわれ、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊を含んでいたため、国際的批判を浴びた。", + "qas": [ + { + "question": "ニコラエフスクを占領したパルチザン部隊は、何名にも至ったの?", + "id": "tr-549-02-000", + "answers": [ + { + "text": "4,300名", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ニコラエフスクを占領したパルチザン部隊の構成員としては、どのような人々が最も多かったの?", + "id": "tr-549-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ロシア人", + "answer_start": 46, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "朝鮮人と中国人のうち、ニコラエフスクを占領したパルチザン部隊には、どちらがより多く動員されたか?", + "id": "tr-549-02-002", + "answers": [ + { + "text": "朝鮮人", + "answer_start": 57, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『西伯利出兵史』によれば、朝鮮人と中国人のうち、ニコラエフスクを占領したパルチザン部隊には、どちらがより多く動員されたか?", + "id": "tr-549-02-003", + "answers": [ + { + "text": "中国人", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "日本人犠牲者の総数は判明しているだけで731名にのぼり、ほぼ皆殺しにされた。建築物はことごとく破壊されニコラエフスクは廃墟となった。この無法行為は、結果的に日本の反発を招いてシベリア出兵を長引かせた。小樽市の手宮公園に尼港殉難者納骨堂と慰霊碑、また天草市五和町手野、水戸市堀原、札幌護国神社にも殉難碑がある。", + "qas": [ + { + "question": "犠牲になった日本人の総数は、何名を超えたの?", + "id": "tr-549-03-000", + "answers": [ + { + "text": "731名", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この文書では、該当の事件を何と表現していますか?", + "id": "tr-549-03-001", + "answers": [ + { + "text": "無法行為", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この文書で無法行為と表現している事件は、何を長引かせたか?", + "id": "tr-549-03-002", + "answers": [ + { + "text": "シベリア出兵", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この文書ではどこで発生した事件について説明しているか?", + "id": "tr-549-03-003", + "answers": [ + { + "text": "ニコラエフスク", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1918年(大正7年)8月に始まった日本のシベリア出兵は、アメリカ合衆国の呼びかけによる共同出兵であり、当初はアメリカの提議に従って「チェコ軍団救援」を目的とし、「ロシア内政不干渉」を謳ったものだった。しかし、チェコ軍団は赤軍と戦闘状態にあり、ボリシェヴィキ政権とは敵対していたので、ロシア内戦への干渉なくして救援は不可能であり、そもそもアメリカの提議自体に大きな矛盾があった。", + "qas": [ + { + "question": "日本のシベリア出兵は、何年から始まったか?", + "id": "tr-549-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1918年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本のシベリア出兵は、どの国からの呼びかけによる共同出兵でしたか?", + "id": "tr-549-04-001", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ合衆国", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アメリカ合衆国からの呼びかけに応じ、1918年8月からシベリア出兵を開始したのは、どの国か?", + "id": "tr-549-04-002", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アメリカ合衆国は、誰の救援をシベリア出兵の目的としていたか?", + "id": "tr-549-04-003", + "answers": [ + { + "text": "チェコ軍団", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "つまりシベリア出兵の前提は、対独戦の一環としてのものであったが、1918年末には、ドイツ軍と連合国軍との間に休戦協定が成立し、チェコスロバキアも独立を果たして、前提が崩れた。そのため、連合国側、主に英仏は、反ボリシェヴィキを鮮明にし、日本もそれに同調して、反革命派によるロシア統一をめざしていたが、反革命派のコルチャーク政権(オムスク政権とも)は一年ほどしか続かず、1919年末に崩壊した。", + "qas": [ + { + "question": "シベリア出兵の前提が崩れたのは、ドイツ軍と連合国軍との間に休戦協定成立とどの国の独立の影響だったの?", + "id": "tr-549-05-000", + "answers": [ + { + "text": "チェコスロバキア", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "チェコスロバキアの独立は、何年に果たされましたか?", + "id": "tr-549-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1918年", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "コルチャーク政権は、何年までしか存続できなかったか?", + "id": "tr-549-05-002", + "answers": [ + { + "text": "1919年", + "answer_start": 183, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ドイツ軍と連合国軍との間に休戦協定が成立したのは、何年のことか?", + "id": "tr-549-05-003", + "answers": [ + { + "text": "1918年", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1920年1月9日、アメリカが単独撤兵を通告してきたが、これは日本の出兵にとって大きな転換点となった。この1月から2月にかけ、革命派の勢力はニコリスク、ウラジオストク、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスクの反革命勢力を倒し、それぞれに地方政権を掌握した。1月17日付、陸軍大臣の指示により、日本軍は中立姿勢をとることになったが、不穏な情勢の中、それまで反革命側に肩入れしてきた現地日本軍は困惑した。", + "qas": [ + { + "question": "アメリカがシベリアからの単独撤兵を発表したのは、いつのことなの?", + "id": "tr-549-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1920年1月9日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "いつ行われたアメリカからの通告が、日本の出兵にとって大きな転換点となりましたか?", + "id": "tr-549-06-001", + "answers": [ + { + "text": "1920年1月9日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アメリカによる何の通告が、日本の出兵にとって大きな転換点となったか?", + "id": "tr-549-06-002", + "answers": [ + { + "text": "単独撤兵", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "革命派の勢力がニコリスク、ウラジオストク、ブラゴヴェシチェンスク、ハバロフスクの反革命勢力を倒し、��れぞれに地方政権を掌握したのは、何年度の1月から2月にかけてのことか?", + "id": "tr-549-06-003", + "answers": [ + { + "text": "1920年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1850年にニコラエフスク港は建設され、ロシアの極東開港場としては最古のものである。ロシア官憲は港発展策としてユダヤ人にロシア人と同様に土地家屋の私有権を与えたことから有産階級の大部分はユダヤ人によって構成されていた。", + "qas": [ + { + "question": "ニコラエフスク港が完工されたのは、いつのことなの?", + "id": "tr-549-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1850年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ロシアにおける最古の極東開港場は、どこですか?", + "id": "tr-549-07-001", + "answers": [ + { + "text": "ニコラエフスク港", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ロシアにおける最古の極東開港場は、いつ完工されたか?", + "id": "tr-549-07-002", + "answers": [ + { + "text": "1850年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "当時のロシアでは、どのような人々が有産階級の大部分を占めていたか?", + "id": "tr-549-07-003", + "answers": [ + { + "text": "ユダヤ人", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ロシア革命の進展により、ニコラエフスクは治安が悪くなり白昼でも強盗が行われ、少しでも金を持っていそうな者はピストルで射殺されたり、銀行も金品を強奪されることから、イギリス、アメリカ、日本の銀行に依頼して預金替がされたり、島田商会が預金依頼されるほどであった。漁業を営んでいたユダヤ人の資産家たちは革命によって購買組合や労働者に業を奪われるようになりウラジオストクに逃れる者も少なくなかった。", + "qas": [ + { + "question": "ロシア革命の進展とともに治安が悪くなったのは、どこなの?", + "id": "tr-549-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ニコラエフスク", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ロシア革命の進展とともに、ニコラエフスクでは何の悪化という問題が生じましたか?", + "id": "tr-549-08-001", + "answers": [ + { + "text": "治安", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この文書では、ニコラエフスクの治安が悪くなるのに影響を及ぼしたのは、何だとしているか?", + "id": "tr-549-08-002", + "answers": [ + { + "text": "ロシア革命", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ロシアのニコラエフスクでは、銀行を対象とした強奪が盛んに行われたことから、イギリス、アメリカそしてどの国の銀行に依頼して預金替がされたりするほどの状況まで至ったか?", + "id": "tr-549-08-003", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1918年には、ニコラエフスクにも赤軍が進駐し、ソビエト政権が成立していた。しかし赤軍は、サハリン州(当時、ニコラエフスクはサハリン州に含まれていた)全体で300人ほどの少数にすぎず、日本軍の上陸によって追われ、やがてロシア海軍提督アレクサンドル・コルチャークによる臨時全ロシア政府に代わった。「ニコラエフスクの支配階層市民102名が日本軍を呼んだ」という資料も、���連側にはあり、日本側も「尼港市民と内外居留民(イギリス人などもいた)が日本海軍陸戦隊の上陸を請願した」と記している。", + "qas": [ + { + "question": "ニコラエフスクにソビエト政権が成立されたのは、何年のことなの?", + "id": "tr-549-09-000", + "answers": [ + { + "text": "1918年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ソビエト政権を成立するのは、何軍と呼ばれる勢力でしたか?", + "id": "tr-549-09-001", + "answers": [ + { + "text": "赤軍", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サハリン州に駐屯していた赤軍の総数は、およそ何人だったか?", + "id": "tr-549-09-002", + "answers": [ + { + "text": "300人", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "どこにソビエト政権を成立した赤軍を、日本軍とロシア海軍が追い出したか?", + "id": "tr-549-09-003", + "answers": [ + { + "text": "ニコラエフスク", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ニコラエフスクにおける日本企業進出の中心は、1896年に島田元太郎が設立した島田商会であり、市内随一の商社となっていた。ロシア革命による経済混乱期には自らの肖像入り商品券を流通させるほどの信用が築かれていた。", + "qas": [ + { + "question": "ニコラエフスクに進出した日本企業の中心とされた企業は、何年に創立されたの?", + "id": "tr-549-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1896年", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ニコラエフスクに進出した日本企業の中心とされた企業の創立者は、誰ですか?", + "id": "tr-549-10-001", + "answers": [ + { + "text": "島田元太郎", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ニコラエフスクに進出した日本企業の中心とされた企業は、どの企業だったか?", + "id": "tr-549-10-002", + "answers": [ + { + "text": "島田商会", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "島田商会は、どこに創立された企業であるか?", + "id": "tr-549-10-003", + "answers": [ + { + "text": "ニコラエフスク", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ニコラエフスクにおける漁業を事業として成立させたのは日本人だったが、1901年に日本人の漁業は禁止され、1907年に調印された日露漁業協約においてもニコラエフスク近辺は対象からはずされたため、ロシア人と共同経営をしていた島田商会などをのぞき漁業関係者は撤退した。しかし海産物の交易は続き、第一次世界大戦による食糧不足でロシアの国内需要が急増するまで、ニコラエフスクの主要海産物であった鮭の主な輸出先は日本であり、居留邦人の数が多かったため領事館が設けられていた。", + "qas": [ + { + "question": "ニコラエフスクにおける漁業を事業として成立させたのは、どんな人々だったの?", + "id": "tr-549-11-000", + "answers": [ + { + "text": "日本人", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本人の漁業が禁止されたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-549-11-001", + "answers": [ + { + "text": "1901年", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日露漁業協約は、いつ締結されたものであるか?", + "id": "tr-549-11-002", + "answers": [ + { + "text": "1907年", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ロシア人と共同経営をしていたため、1901年の日本人の漁業禁止の影響や、ニコラエフスク近くが1907年の日露漁業協約の範囲に含まれなかったことの影響をあまり受けなかった日本企業として挙げられているのは、どの企業か?", + "id": "tr-549-11-003", + "answers": [ + { + "text": "島田商会", + "answer_start": 110, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "事件の一年前、1919年1月の調査によれば、ニコラエフスクの人口は12,248人で、そのうち日本人は291人だった。1919年6月調査(1920年6月16日の外務省公表)では、日本人は領事以下353人(男169人、女184人)となっている。職業の主な内訳は商業、大工、指物、裁縫業、理髪、金銀細工、錺職等であった。日本人で唯一ニコラエフスク市商業会議所の議員であった島田元太郎は別格として、他に大きな商店を営む日本人としては、米、小間物、木材などを扱う川口力太郎、雑貨商の川内多市、溝上乙吉、菓子パン製造業の百合野熊次郎などがいた。", + "qas": [ + { + "question": "1919年1月の時点でニコラエフスクの人口は、何人だったの?", + "id": "tr-549-12-000", + "answers": [ + { + "text": "12,248人", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ニコラエフスクの総人口が12,248人で、そのうち日本人が291人だったのは、いつの時点の話ですか?", + "id": "tr-549-12-001", + "answers": [ + { + "text": "1919年1月", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1919年6月のニコラエフスクに住む日本人の人口調査の結果、男と女のうち、どちらの人数がより多かったか?", + "id": "tr-549-12-002", + "answers": [ + { + "text": "男", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1919年1月と1919年6月のうち、どちらの時点に行った人口調査で、ニコラエフスクに住む日本人の数がより多いとの結果が出たか?", + "id": "tr-549-12-003", + "answers": [ + { + "text": "1919年6月", + "answer_start": 58, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ハーメルンの笛吹き男", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ハーメルンの笛吹き男(ハーメルンのふえふきおとこ、独:RattenfängervonHameln)は、ドイツの街ハーメルンにおいて1284年6月26日に起きたとされる出来事についての伝承である。\nグリム兄弟を含む複数の者の手で記録に残され、現代まで伝わった。", + "qas": [ + { + "question": "ハーメルンの笛吹き男はどこの国の伝承ですか?", + "id": "tr-550-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ハーメルンの笛吹き男はどこの街の伝承ですか?", + "id": "tr-550-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ハーメルン", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ハーメルンの笛吹き男はいつ起こった出来事の伝承ですか?", + "id": "tr-550-00-002", + "answers": [ + { + "text": "1284年6月26日", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1284年、ハーメルンの町にはネズミが大繁殖し、人々を悩ませていた。\nある日、町に笛を持ち、色とりどりの布で作った衣装を着た男が現れ、報酬をくれるなら町を荒らし回るネズミを退治してみせると持ちかけた。\nハーメルンの人々は男に報酬を約束した。\n男が笛を吹くと、町じゅうのネズミが男のところに集まってきた。\n男はそのままヴェーザー川に歩いてゆき、ネズミを残らず溺死させた。\nしかしネズミ退治が済むと、ハーメルンの人々は笛吹き男との約束を破り、報酬を払わなかった。\n約束を破られ怒った笛吹き男は「お前たちの大切なものを代わりにいただこう」と捨て台詞を吐きいったんハーメルンの街から姿を消したが、6月26日の朝(一説によれば昼間)に再び現れた。\n住民が教会にいる間に、笛吹き男が笛を鳴らしながら通りを歩いていくと、家から子供たちが出てきて男のあとをついていった。\n130人の少年少女たちは笛吹き男の後に続いて町の外に出てゆき、市外の山腹にある洞穴の中に入っていった。\nそして穴は内側から岩で塞がれ、笛吹き男も子供たちも、二度と戻ってこなかった。\n物語によっては、足が不自由なため他の子供達よりも遅れた1人の子供、あるいは盲目と聾唖の2人の子供だけが残されたと伝える。", + "qas": [ + { + "question": "1284年にハーメルンでは何が大量繁殖したの?", + "id": "tr-550-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ネズミ", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "男がネズミを殺した場所はどこ?", + "id": "tr-550-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ヴェーザー川", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "男が所持していた楽器とは何?", + "id": "tr-550-01-002", + "answers": [ + { + "text": "笛", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "男が再びハーメルンにやって来た日はいつ?", + "id": "tr-550-01-003", + "answers": [ + { + "text": "6月26日", + "answer_start": 294, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "この物語への最初の言及は、1300年頃にハーメルンのマルクト教会に設置されていたステンドグラスに見られる。\n14世紀から17世紀にかけての複数の記録がこのステンドグラスについて述べている。\nこのステンドグラスは1660年に破壊された。\n残された文献に基づいて、ハーメルンの郷土史家ハンス・ドバーティンにより現在のステンドグラスが復元された。\nこのステンドグラスは、色鮮やかな衣装を纏った笛吹き男と、白い着物姿の子供たちを特徴としている。\nこのステンドグラスには以下に記す説明文が添えられていた。", + "qas": [ + { + "question": "マルクト教会のステンドグラスが壊されたのはいつ?", + "id": "tr-550-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1660年", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "現在のステンドグラスを復元した人は誰ですか?", + "id": "tr-550-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ハンス・ドバーティン", + "answer_start": 140, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ハーメルンの笛吹き男の言及がされているステンドグラスとはどこの建物に設置されていましたか?", + "id": "tr-550-02-002", + "answers": [ + { + "text": "マルクト教会", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ハーメルンの笛吹き男に関する最初の言及はいつでしたか?", + "id": "tr-550-02-003", + "answers": [ + { + "text": "1300年頃", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "コッペン(Koppen、古ドイツ語で「丘」の意)とは、ハーメルンの街を囲むいくつかの丘の一つであるとされるが、どれを指すのかは不明。\nこのステンドグラスは、���ーメルン市の悲劇的な史実を記念して制作されたと一般には考えられている。\nまた、ハーメルン市の記録はこの事件から始まっている。\nハーメルンの最古の記録は、1284年の出来事を起点にした年代記として述べられている。\n何世紀にもわたる調査にもかかわらず、笛吹き男の物語に隠された歴史的な出来事についての明確な説明は与えられていない。\nいかなる調査結果においても、1559年頃に初めて物語にネズミの集団発生が追加されており、それ以前の記録ではネズミは登場しない。", + "qas": [ + { + "question": "コッペンは古いドイツ語で何の意味ですか?", + "id": "tr-550-03-000", + "answers": [ + { + "text": "「丘」", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ハーメルンの最古の記録は何年が始まりとなっていますか?", + "id": "tr-550-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1284年", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "この伝承の背後に潜む意味を説明するために、多数の説が提出されてきた。\nウィリアム・マンチェスターの『炎のみに照らされた世界』(AWorldLitOnlybyFire,1992)は、笛吹き男は精神異常の小児性愛者だったと述べている。\nマンチェスターはこの事件が起こったのは1484年の6月20日であり、この犯罪者はハーメルンのザクセン人の村から130人の児童を誘拐し、「口に出して言うのも憚られる目的」に用いたのだと断言している。\n更にマンチェスターは「ある子供達は二度と姿を見せず、ある子供たちは五体バラバラにされて、森の繁みの中や木の枝から吊り下がっている所を発見された」と付け加える。\nしかし、マンチェスターがまことしやかに述べ立てる事件を裏付けるような資料は一切発見されておらず、彼は事実と断言するこの説に対して出典を提示していない。\nマンチェスターの説は、少なくともその120年以前から現れている物語のバージョンを無視している。", + "qas": [ + { + "question": "『炎のみに照らされた世界』の作者は誰ですか?", + "id": "tr-550-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ウィリアム・マンチェスター", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マンチェスターは何年に笛吹き男の事件が起こったと述べていますか?", + "id": "tr-550-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1484年", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "この犯罪者は何人の子供達を誘拐しましたか?", + "id": "tr-550-04-002", + "answers": [ + { + "text": "130人", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『炎のみに照らされた世界』では笛吹き男は精神異常者でおまけに何だと述べていますか?", + "id": "tr-550-04-003", + "answers": [ + { + "text": "小児性愛者", + "answer_start": 100, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ハーメルンの新門にあるラテン語の碑文には、この笛吹き男の正体はマグス(魔法使い)であったと刻まれている。\nいくつかの説では、子供たちは何らかの自然的要因により死亡したのであり、笛吹き男は死神の象徴であったとされている。\n死神はしばしば笛吹き男のようなまだら模様の衣装を身にまとった姿で描かれる。\nこの説に関連付けられる類似のテーマとして、子供達の行進は中世ヨーロッパの基本的な美術様式である死の舞踏の表現であるとの説がある。\n自然要因説に含まれるいくつかの説として、子供たちはヴェーザー川で溺死したとする説、土砂崩れにより死亡したとする説、流行病により病死したとする説がある。", + "qas": [ + { + "question": "マグスとは何?", + "id": "tr-550-05-000", + "answers": [ + { + "text": "魔法使い", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "笛吹き男の正体はマグスだと何語で刻まれていましたか?", + "id": "tr-550-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ラテン語", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ある説においては、笛吹き男は何の象徴とされていますか?", + "id": "tr-550-05-002", + "answers": [ + { + "text": "死神", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "自然要因説の児童がおぼれ死んだ川とはどこですか?", + "id": "tr-550-05-003", + "answers": [ + { + "text": "ヴェーザー川", + "answer_start": 238, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "別の説として、子供達は何らかの巡礼行為か軍事行動、あるいは新規の少年十字軍運動(少年十字軍運動は1212年というこの事件のやや過去に起こっている)の一環として町から去り、二度と両親の元へ戻らなかったとする説がある。\n18世紀後半から20世紀前半まで広く信じられていたのは、1734年にヨーハン・クリストフ・ハーレンベルクが唱えた、1260年のゼデミューンデの戦いで壊滅したハーメルン市民軍の記憶が変形し、笛吹き男に引き連れられた130人の子供達となったとの説である。\n1940年にハインリッヒ・シュパヌートが執筆した『ハーメルン市史』GeschichtederStadtHamelnでは、ハーレンベルクや1741年のレーガーの解釈に基づき、この説が採用されている。\nこれらの説では、名前のない笛吹き男は運動のリーダーか新兵徴募官であったと見なされている。", + "qas": [ + { + "question": "『ハーメルン市史』は誰によって書かれましたか?", + "id": "tr-550-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ハインリッヒ・シュパヌート", + "answer_start": 240, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "少年十字軍運動は何年にありましたか?", + "id": "tr-550-06-001", + "answers": [ + { + "text": "1212年", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ゼデミューンデの戦いハーメルン市民軍が壊滅したのは何年でしたか?", + "id": "tr-550-06-002", + "answers": [ + { + "text": "1260年", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "壊滅したハーメルン市民軍の記憶が変化して笛吹き男の話になったと唱えている人は誰?", + "id": "tr-550-06-003", + "answers": [ + { + "text": "ヨーハン・クリストフ・ハーレンベルク", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "最も広く支持されている説は、子供達は東ヨーロッパのドイツ人植民地で彼ら自身の村を創建するために、自らの意思で両親とハーメルン市を見捨て去ったとする説である。\nこの時代に創建された幾つかのヨーロッパの村と都市は、ハーメルンの子供達による開拓者としての努力の結果であると考えられる。\nこの主張は、Querhameln(ハーメルン製粉村)のような、ハーメルンと東方植民地周辺の地域それぞれに存在する、対応する地名によって裏付けられている。\nこの説でも笛吹き男は、運動のリーダーであったと見なされている。\nこの説のバージョンの一つは1955年に『サタデー・イブニング・ポスト』誌で発表された。\n植民説の裏付けとなるのは、ハーメルンの旧家の壁から発見された文章である。\nその述べるところによれば、1284年6月26日に、笛吹き男が130人の子供を街の外へ連れ去り、おそらくはその笛吹き男はモラヴィア(現在のチェコ共和国の一地方)への植民運動を組織していたオロモウツの���教ブルーノ・フォン・シャウンブルクの代理人であったという。\nシャウンブルク司教自身もまたボヘミア王オタカル2世の代理人として行動していた。", + "qas": [ + { + "question": "モラヴィアは現在どこの国に位置していますか?", + "id": "tr-550-07-000", + "answers": [ + { + "text": "チェコ共和国", + "answer_start": 398, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ブルーノ・フォン・シャウンブルクは誰の代理人として行動していましたか?", + "id": "tr-550-07-001", + "answers": [ + { + "text": "オタカル2世", + "answer_start": 478, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "植民説の種類の1つが発表された雑誌名は何?", + "id": "tr-550-07-002", + "answers": [ + { + "text": "『サタデー・イブニング・ポスト』", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "植民説の種類の1つが発表された年はいつ?", + "id": "tr-550-07-003", + "answers": [ + { + "text": "1955年", + "answer_start": 262, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "また、子供の移民が記録されていない理由の一つとしては、子供達は東ヨーロッパのバルト地方からやって来た植民請負人に売られたためであるとの説が提言されている(児童売買は当時は珍しい習慣ではなかった)。\nエッセイ『笛吹き男の再訪』PiedPiperRevisitedにおいて著者シェイラ・ハーティーは、東方植民地に見られる姓とハーメルンで見られる姓は類似しており、ハーメルンの街で養育できなかった私生児や孤児、その他の児童が売られたというのは納得のいく説明であると述べている。\n更にハーティーは、これがハーメルン町史におけるこの事件の記録の欠落への説明になるかもしれないと述べる。\nヴォルフガング・ミーダーは自著『笛吹き男ハンドブック』ThePiedPiper:AHandbookにおいて、ハーメルンを含む地方の人々がトランシルヴァニアの一部への移民を支援した事を示す歴史的文書が存在すると述べている。\nトランシルヴァニアはモンゴルによる中央ヨーロッパ侵略を受けており、その時期は笛吹き男伝説が歴史に現れる時期と前後している。\nハーメルン市の公式ウェブサイトに掲載されている笛吹き男伝説のバージョンでは、移民説の別の側面が提示されている。", + "qas": [ + { + "question": "『笛吹き男の再訪』の著者は誰?", + "id": "tr-550-08-000", + "answers": [ + { + "text": "シェイラ・ハーティー", + "answer_start": 136, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『笛吹き男ハンドブック』の著者は誰?", + "id": "tr-550-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ヴォルフガング・ミーダー", + "answer_start": 288, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1384年頃に、ハーメルンのデカン・リューデなる人物が、彼が所持する合唱書『パッシオナーレ』に笛吹き男事件の目撃証言であるラテン語詩が含まれていると書き記している。\nリューデの記すところでは、このラテン語詩はリューデの祖母により執筆された。\nこの合唱書は17世紀後半以降は失われたままであると考えられている。\nあるいはデカン・リューデ(DecanLude)という奇妙な名前は、彼がルードヴィヒ(Ludwig)という名の司祭長(ラテン語でdecanus、現代ドイツ語ではDekanあるいはDechant)の地位に就いていた僧侶である事を示す物である可能性もあるが、これは確認されていない。", + "qas": [ + { + "question": "『パッシオナーレ』の所持者は誰?", + "id": "tr-550-09-000", + "answers": [ + { + "text": "デカン・リューデ", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『パ��シオナーレ』のラテン語詩の執筆者は誰?", + "id": "tr-550-09-001", + "answers": [ + { + "text": "リューデの祖母", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1430年から1450年頃に残されたリューネブルクの写本は、笛吹き男事件の早期におけるドイツ語の記録を伝えている。\nリューネブルク写本は現存する最古の記録であると考えられる。\nハーメルンの街を東西に貫くオスター通りの東門近くには、「笛吹き男の家」に隣接する形で、消失した子供達への追悼の念を込めて、歌ったり音楽を奏でることが禁止されている舞楽禁制通り(Bungelosestrasse、ブンゲローゼシュトラーセ)が設けられている。\n音楽の演奏を伴うパレードは結婚式の行列も含め、この通りに差し掛かったところで演奏を中断し、通りの反対側に達したところで演奏を再開する。\nこの通りの名は、1427年には既に現れている。", + "qas": [ + { + "question": "ブンゲローゼシュトラーセという名前は何年には既に使われていましたか?", + "id": "tr-550-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1427年", + "answer_start": 292, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "舞楽禁制通りはどこの建物に隣接していますか?", + "id": "tr-550-10-001", + "answers": [ + { + "text": "「笛吹き男の家」", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "笛吹き男事件に関連する現存する最古の記録とは何ですか?", + "id": "tr-550-10-002", + "answers": [ + { + "text": "リューネブルク写本", + "answer_start": 58, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1556年に、神学者ヨプス・フィンツェリウスによるDemiraculissuitemporis(ラテン語で『現代の不可思議について』の意味)が、この伝説に言及している。\n著者ヨプスは、笛吹き男を悪魔と見なしている。\n1559年から1565年頃に、フローベン・クリストフ・フォン・ツィンメルン伯爵は自著『ツィンメルン年代記』ZimmerischeChronikの中でこの伝説を紹介した。\nこの紹介がネズミの集団発生が登場した最初の記録だと考えられている。\nしかし、ツィンメルンはこの出来事の日付を「何百年も昔(voretlichenhundertjarn)」と記しているのみであり、事件のあった日付に関する論争に全く解答を与えていない。", + "qas": [ + { + "question": "『現代の不可思議について』の著者は誰?", + "id": "tr-550-11-000", + "answers": [ + { + "text": "ヨプス・フィンツェリウス", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『ツィンメルン年代記』の作者は誰?", + "id": "tr-550-11-001", + "answers": [ + { + "text": "フローベン・クリストフ・フォン・ツィンメルン", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "笛吹き男を悪魔と見なした神学者とは誰?", + "id": "tr-550-11-002", + "answers": [ + { + "text": "ヨプス・フィンツェリウス", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "最初の英語による記述は、オランダ系の古物収集家にして宗教論争家であったリチャード・ローランド・ヴェルステガン(1548年頃-1636年)による、『腐朽した知識の復権』RestitutionofDecayedIntelligence(アントウェルペン、1605年)の中に見られる。\nしかしヴェルステガンは物語の出典を示していない(ツィンメルンの手稿は1776年になってから再発見されており、ヴェルステガンの出典とはなりえない)。\nヴェルステガンの記述はネズミの群れについての言及と、行方不明になった子供達がトランシルヴァニアに現れたという考察を含めている。\n英語の成句PiedPiper(まだら服の��吹き男)は、ヴェルステガンによる造語であると考えられる。\nより興味深いことに、ヴェルステガンによる事件の日付は、上の記述とは全く異なる1376年の7月22日となっている。\nこれは1284年に行われた移民という事件と、1376年のネズミの集団発生という事件の二つの出来事が統合された事を示唆するのかもしれない。", + "qas": [ + { + "question": "PiedPiperという造語を作った人のフルネームは何?", + "id": "tr-550-12-000", + "answers": [ + { + "text": "リチャード・ローランド・ヴェルステガン", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "最初の英語による記述者は誰ですか?", + "id": "tr-550-12-001", + "answers": [ + { + "text": "リチャード・ローランド・ヴェルステガン", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ヴェルステガンは事件の日付を何年の何月何日と記しましたか?", + "id": "tr-550-12-002", + "answers": [ + { + "text": "1376年の7月22日", + "answer_start": 366, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "笛吹き男の物語は日付を違えた形で、ロバート・バートンの1621年の著作『憂鬱の解剖』TheAnatomyofMelancholyでも超自然現象の一例として紹介された。\n「1484年6月20日に、ザクセンのハーメルンで、まだら服の笛吹き男の姿をした悪魔が130人の子供たちを連れ去り、子供達は二度と見つからなかった」。\nバートンはこの話の直接の出典は提示していない。\nアタナシウス・キルヒャーの1650年の著作『普遍音楽』Musurgiauniversalisでもこの出来事について詳細に紹介され、情報源としてヨハン・エウセビウス、コルネリウス・ゲンマの著作が挙げられている。\nヴェルステガンの文章はナサニエル・ウォンリーの『小世界の驚異』WondersoftheLittleWorld(1687年)に転載され、ウォンリーの著書を直接の出典として19世紀のブラウニングの詩が書かれた。\nヴェルステガンの記述はウィリアム・ラメゼイの『虫食いの話』Wormesにも転載された。\n「(前略)ヴェルステガンの物語で最も注目に値するのはまだら服の笛吹き男の話であり、この男は1376年7月22日にザクセンのハーメルンの町から160人の子供を連れ去った。悪魔の怒りに対して、神が不思議にも許可を与えたのだ」。", + "qas": [ + { + "question": "『憂鬱の解剖』の著者は誰?", + "id": "tr-550-13-000", + "answers": [ + { + "text": "ロバート・バートン", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『憂鬱の解剖』は何年に発表されたの?", + "id": "tr-550-13-001", + "answers": [ + { + "text": "1621年", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "連れ去られた子供の人数が多いのは、1484年6月20日と1376年7月22日のどちらですか?", + "id": "tr-550-13-002", + "answers": [ + { + "text": "1376年7月22日", + "answer_start": 481, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『虫食いの話』の著者は誰?", + "id": "tr-550-13-003", + "answers": [ + { + "text": "ウィリアム・ラメゼイ", + "answer_start": 403, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1803年にはヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが、この伝説に基づいた詩を著した(この詩はフランツ・シューベルトの『鼠捕りの男』と、フーゴー・ヴォルフの『鼠捕りの男』として、それぞれ歌曲にされている)。\nまた、ゲーテはファウスト伝説の彼によるバージョン(『ファウスト』)の中にも、この物語への言及を組み込んだ。\nこの詩劇の第一部は1808年に出版され、次いで第二部が1832年に出版された。\nグリム兄弟の2人として知られ���いるヤーコプ・グリムとヴィルヘルム・グリムは、1816年に出版された民話集『ドイツ伝説集』DeutscheSagenの中に、11の出典から描かれるこの物語を収録した。\nグリム兄弟の記述では、他の子供達の後を追えなかった盲目と足の不自由な子供が二人残された。\n他の子供達は、ジーベンビュルゲン(トランシルヴァニア)の創建者となった。\nヴェルステガン及びウォンリーの記録を資料として、ロバート・ブラウニングはハーメルンの笛吹き男の名を題に冠した詩を執筆し、1842年に公表した。\nブラウニングの詩は、事件の日付を1376年の7月22日であるとしている。", + "qas": [ + { + "question": "ゲーテのフルネームは?", + "id": "tr-550-14-000", + "answers": [ + { + "text": "ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ゲーテがこの伝説に基づいた詩を書いたのはいつ?", + "id": "tr-550-14-001", + "answers": [ + { + "text": "1803年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『ドイツ伝説集』の中では、他の子供達はどこの創建者になったと記されていますか?", + "id": "tr-550-14-002", + "answers": [ + { + "text": "ジーベンビュルゲン", + "answer_start": 349, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ルーシー(アウストラロピテクス)", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ルーシー(Lucy)とはエチオピア北東部ハダール村付近で1974年11月24日に発見された318万年前の化石人骨。\nアウストラロピテクス・アファレンシス(アファール猿人)の中で最初期に発見されたもののひとつであり、全身の約40%にあたる骨がまとまって見つかったという資料上の貴重さから、広く知られている。\nモーリス・タイーブ(タイエブ、MauriceTaieb)を中心とする国際アファール調査隊(theInternationalAfarResearchExpedition;IARE)が発見しビートルズの曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」に因み「ルーシー」と命名。", + "qas": [ + { + "question": "ルーシーは何年前の化石人骨ですか?", + "id": "tr-551-00-000", + "answers": [ + { + "text": "318万年前", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ルーシーの名付け親は誰ですか?", + "id": "tr-551-00-001", + "answers": [ + { + "text": "モーリス・タイーブ", + "answer_start": 153, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ルーシーはどこの村の近くで発見されたの?", + "id": "tr-551-00-002", + "answers": [ + { + "text": "ハダール村", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ルーシーは何年に発見された?", + "id": "tr-551-00-003", + "answers": [ + { + "text": "1974年", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ルーシーをはじめとするアファール猿人の化石人骨群が発見されたアワッシュ川下流域は、1980年にユネスコの世界遺産リストに登録された。\nエチオピアの現地語ではディンキネシュ(dinqineš/Dinkinesh,「貴女は驚異的だ」の意)という名前も与えられており、切手にもなっている。\nこの猿人の発見は、類人猿に近い脳容量と人類に近い直立二足歩行を行なっていた痕跡を示す人骨という点で重要であるうえ、人類の進化において脳容量の増大よりも二足歩行が先行していたことを裏付ける証拠にもなっている。\nただし、他の研究の結果は、アファール猿人が現代人の直接的な先祖ではないことを示唆している。", + "qas": [ + { + "question": "ルーシーの現地語の名前は何?", + "id": "tr-551-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ディンキネシュ", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ルーシーが発見された国は?", + "id": "tr-551-01-001", + "answers": [ + { + "text": "エチオピア", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ディンキネシュの意味は?", + "id": "tr-551-01-002", + "answers": [ + { + "text": "「貴女は驚異的だ」", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アファール猿人の化石人骨群の発見によって、ユネスコの世界遺産リストに登録された地域はどこ?", + "id": "tr-551-01-003", + "answers": [ + { + "text": "アワッシュ川下流域", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "フランスの地質学者モーリス・タイーブは、1972年にハダール累層(theHadarFormation)を発見したことを踏まえ、国際アファール調査隊を組織した。\nそこには、アメリカの人類学者で後にアリゾナ州立大学人類起源研究所(InstituteofHumanOrigins)の所長となったドナルド・ジョハンソン(DonaldJohanson)、イギリスの考古学者メアリ・リーキー(MaryLeakey)、フランスの古生物学者で後にコレージュ・ド・フランスに招聘されたイヴ・コパン(YvesCoppens)らが、共同責任者として招かれた。", + "qas": [ + { + "question": "国際アファール調査隊を組織した中心人物は誰?", + "id": "tr-551-02-000", + "answers": [ + { + "text": "モーリス・タイーブ", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "モーリス・タイーブの出身国はどこ?", + "id": "tr-551-02-001", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "モーリス・タイーブが1972年に発見したものとは?", + "id": "tr-551-02-002", + "answers": [ + { + "text": "ハダール累層", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "国際アファール調査隊の共同責任者の中で、イギリス出身の人は誰?", + "id": "tr-551-02-003", + "answers": [ + { + "text": "メアリ・リーキー", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "調査隊は4人のアメリカ人と7人のフランス人を加え、人類の起源に関わる化石や加工品を求めて、1973年秋にハダール村付近を調査した。\n第一次調査期間が終わりに近づいた1973年11月に、ジョハンソンは脛上端の骨を発見した。\n続いて大腿骨下端が発見され、それらを接合して復元した膝関節は、明らかに直立歩行するヒトのものであることを示していた。\nAL129-1という分類番号が与えられたこの人骨が発見されたのは、翌年にルーシーが発見されることになる場所から約2.5kmの場所だった。", + "qas": [ + { + "question": "調査隊に加わったアメリカ人とフランス人はどちらの人数が多かったですか?", + "id": "tr-551-03-000", + "answers": [ + { + "text": "フランス人", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "第一次調査期間の終盤で見つかった人骨の分類番号は何?", + "id": "tr-551-03-001", + "answers": [ + { + "text": "AL129-1", + "answer_start": 170, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "AL129-1の発見地と後のルーシーの発見地は、どれくらい離れていましたか?", + "id": "tr-551-03-002", + "answers": [ + { + "text": "約2.5km", + "answer_start": 225, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "AL129-1は何年に発見されたの?", + "id": "tr-551-03-003", + "answers": [ + { + "text": "1973年", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "彼らは翌年に第二次調査期間に入り、ほどなく人類の顎の化石を発見した。\nそして、1974年11月24日を迎えた。\nジョハンソンはこの日、調査記録の更新作業をするつもりだったのだが、教え子の一人で化石研究をしていたトム・グレイ(TomGray)とアワッシュ川近くの第162地点(Locality162)で発掘調査を行うために、予定を変更した。\nそして彼らが焼けつくように暑くなっていく平原で2時間にわたって調査を行なったあと、ジョハンソンは遠回りになることをちょっと思い付き、すでにほかの調査員達が少なくとも2度は調査していた小さな谷川の底を見ようと、車を戻らせた。\nその底を一瞥した時には何も見付からなかったが、元の場所に戻ろうとした時にジョハンソンの視界は化石を捉えた。\nそれはスロープにあった上腕骨の断片であり、その近くには後頭部の破片も見付かった。\n彼らは1mほど離れたところに大腿骨の一部も見つけ、さらに調査を重ねると、椎骨、骨盤、肋骨、顎骨などの破片を次から次へと発見した。\n彼らはその場所に印をつけてキャンプに戻り、明らかに一体の猿人を構成する多くの骨の発見に沸いた。", + "qas": [ + { + "question": "ジョハンソンと共に第162地点で発掘調査を行った人物の名は?", + "id": "tr-551-04-000", + "answers": [ + { + "text": "トム・グレイ", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "午後に調査隊は全員で谷川に向かい、発掘現場の区割りをし、3週間に渡ることになる注意深い発掘調査の準備をした。\n最初の晩には彼らはその発見を祝して夜通し騒ぎ、AL288-1(整理番号。ALはAfarLocationの略)という番号をつけたその新しい化石人骨を「ルーシー」と名付けることにした。\nその日の騒ぎの中で、ビートルズの曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」がテープレコーダーから繰り返し流れていたからである。\nただし、当夜の騒ぎの中で、具体的に誰が提案してそう命名されることになったのかなどは分からなくなっている。", + "qas": [ + { + "question": "ルーシーの整理番号は?", + "id": "tr-551-05-000", + "answers": [ + { + "text": "AL288-1", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ルーシー」と名付けられた由来は?", + "id": "tr-551-05-001", + "answers": [ + { + "text": "「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」", + "answer_start": 163, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」は誰の楽曲ですか?", + "id": "tr-551-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ビートルズ", + "answer_start": 156, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "それからの3週間で、重複の一切ない数百もの骨の破片が見付かり、それらが一体の人骨だったという当初の憶測を裏付けた。\n調査隊はさらに分析を進め、それが全体の40%にもなることが分かった。\nこの数値については、手足の骨の一部を除いた算定であるとして、実際には20%台と見積もる見解もあるが、発見当時としては驚異的な数値だった。\nなお、1994年にはアファール盆地で身長120cmのラミダス猿人「アルディ」が発見され、最古の猿人は440万年前にまで遡ることになったが、その発見の詳細は2009年まで公刊されることがなかった。\nこのアルディが発表された時点でも、10万年以上前のホモ属やアウストラロピテクス属の全身骨格は、トゥルカナ・ボーイ、セラム、リトル・フット、ルーシー、���ルディの5体しかなかった。\nルーシーはそれらの中で最も早く発見された全身骨格であった。", + "qas": [ + { + "question": "リトル・フット、ルーシー、アルディの中で最も早く発見されたのはどれ?", + "id": "tr-551-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ルーシー", + "answer_start": 329, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ルーシーよりも古い猿人の名前は何?", + "id": "tr-551-06-001", + "answers": [ + { + "text": "「アルディ」", + "answer_start": 194, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「アルディ」の身長は?", + "id": "tr-551-06-002", + "answers": [ + { + "text": "120cm", + "answer_start": 182, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「アルディ」が見つかった場所は?", + "id": "tr-551-06-003", + "answers": [ + { + "text": "アファール盆地", + "answer_start": 172, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ジョハンソンは、完全に復元できた骨盤と仙骨から骨盤の開き具合を判断し、これが女性の人骨であると考えた。\nルーシーは身長1.1m、体重29kgで、一般的なチンパンジーに近いようにも見える。\nしかし、この小さな脳、骨盤、足の骨を持つ存在は、機能的には現代人と一致しており、確かに直立歩行していたことを示している。", + "qas": [ + { + "question": "ルーシーの性別は?", + "id": "tr-551-07-000", + "answers": [ + { + "text": "女性", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ルーシーの身長は?", + "id": "tr-551-07-001", + "answers": [ + { + "text": "1.1m", + "answer_start": 59, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ルーシーの体重は?", + "id": "tr-551-07-002", + "answers": [ + { + "text": "29kg", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ジョハンソンと、彼の同僚でカリフォルニア州出身の古人類学者ティム・ホワイト(TimWhite)は、発見された新たな人骨群、すなわちアウストラロピテクス・アファレンシスを、390万-300万年前に生きていたヒトとチンパンジーの最後の共通の祖先として位置づけた(より古いラミダス猿人の骨が発見されたのは、彼らの発見の20年後である)。\nチンパンジーの系統により近い人骨は、1970年代以降見つかってはいたが、人類の起源を研究する古人類学者たちにとっては、ルーシーは至宝の座にありつづけた。\nより古い人骨は断片で見つかるのが常であったため、二足歩行の段階や現生人類との関係についての確定的な結論を出すには至っていなかったからである。", + "qas": [ + { + "question": "ティム・ホワイトの出身地はどこですか?", + "id": "tr-551-08-000", + "answers": [ + { + "text": "カリフォルニア州", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ジョハンソンは、当時のエチオピア政府の合意を得て、クリーブランド(オハイオ州)に骨格標本を持ち帰ったが、9年ほど後に合意に従ってエチオピアに返却した。\nルーシーは世間の耳目を集めた最初の化石人骨で、国際調査隊の一連の調査で発見された人骨の中では最も有名になった。\nアファール猿人の段階に位置づけられている彼女のオリジナルの骨格標本は、現在アディスアベバにあるエチオピア国立博物館に保管されていて、石膏の模型が本物の代わりに展示されている。\nオリジナルから型を採った複製は、アリゾナ州立大学人類起源研究所が所有しているほか、再現された姿でクリーブランド自然史博物館(ClevelandMuseumofNaturalHistory)にも展示されてい���。\nアファール猿人やその先行者それぞれの生活ぶりを再現し、科学者たちが推定している行動や能力を示してくれるジオラマは、ニューヨークのアメリカ自然史博物館の人類生物学・進化ホール(HallofHumanBiologyandEvolution)に展示されている。", + "qas": [ + { + "question": "ルーシーのオリジナルの骨格標本がある都市はどこ?", + "id": "tr-551-09-000", + "answers": [ + { + "text": "アディスアベバ", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ルーシーの複製が展示されているのはどこ?", + "id": "tr-551-09-001", + "answers": [ + { + "text": "クリーブランド自然史博物館", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "エチオピア国立博物館が位置している都市はどこ?", + "id": "tr-551-09-002", + "answers": [ + { + "text": "アディスアベバ", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ルーシーの発見以後も、1970年代を通じてアファール猿人の化石は発見されており、変異の範囲や性的二形(sexualdimorphism)の問題について、より深く理解できるようになっている。\n当初アファール猿人については、ルーシーとは体格が異なる骨格を別の種と解釈する見解があったが、1992年に発見された男性の骨(AL444-2)などによって、体格の違いは性別による違い、すなわち性的二形によるものと解釈されるようになった。\nまた、こうした比較の結果、ルーシーはアファール猿人の中でも特に小柄な個体であったと認識されるようになっている。", + "qas": [ + { + "question": "AL444-2は何年に見つかりましたか?", + "id": "tr-551-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1992年", + "answer_start": 141, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "AL444-2の性別は?", + "id": "tr-551-10-001", + "answers": [ + { + "text": "男性", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "化石の年代測定は1990年から1992年に、ルーシーの周囲にあった火山灰を放射年代測定の一種であるアルゴン-アルゴン法(Argon-argondating)にかけることで行なわれた。\nアワッシュ盆地で発見された人骨を年代測定しようとする試みは、ルーシーが発見されるよりも前に、1973年から1974年にかけてカリウム-アルゴン法(K-Ardating)を適用して、ジェイムズ・アロンソン(JamesAronson)の研究所(当時はCWRUにあり、のちにダートマスに移った)でも行なわれたことがあった。\nタイーブやアロンソンによるそうした初期の試みは、年代を測定できる試料の不足や、この地域の火山岩が化学的に変性していたりで、うまくは行かなかった。\nルーシーの人骨はハダール地方でも堆積物が特に早く積み重なっていく場所で、そのことが彼女の人骨や火山灰の良好な保存につながった。\nハダールでのフィールドワークは1976年から1977年の冬に中断され、その後、エチオピアのメンギスツ政権の方針で完全に途絶させられてしまい、1990年になって再開された。\nその間にアルゴン-アルゴン法はデレク・ヨーク(DerekYork)のおかげで正確さが向上していた。\n1990年から1992年に、アロンソンとロバート・ウォルター(RobertWalter)によって測定に適した火山灰の標本2件が発見され、人類起源研究所での年代測定の結果、322万年から318万年前と測定された。", + "qas": [ + { + "question": "化石の年代測定に用いられていた方法とは何?", + "id": "tr-551-11-000", + "answers": [ + { + "text": "アルゴン-アルゴン法", + "answer_start": 49, + "answer_type": "Manner" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ルーシーの化石年代が正確に測定されたのはいつでしたか?", + "id": "tr-551-11-001", + "answers": [ + { + "text": "1990年から1992年", + "answer_start": 524, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アルゴン-アルゴン法の正確性を向上させた人物は誰?", + "id": "tr-551-11-002", + "answers": [ + { + "text": "デレク・ヨーク", + "answer_start": 489, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アルゴン-アルゴン法の前に適用されていた測定方法は何?", + "id": "tr-551-11-003", + "answers": [ + { + "text": "カリウム-アルゴン法", + "answer_start": 154, + "answer_type": "Manner" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ルーシーの骨格には、次のような特質がある。\nルーシーの最も印象的な特質のひとつは、外反足である。\nこのことは、彼女が普通に二足歩行をしていたことを示している。\n彼女の大腿骨は骨頭が小さく、骨頚が短い。\nそれらは原始的な特徴ではあるのだが、一方で大転子は(大腿骨頭より高位にならず)明らかに短くなり、現生人類に近づいている。\n彼女の大腿骨の長さに比べた上腕骨の長さの比は84.6%である。\n現代人の71.8%、一般的なチンパンジーの97.8%に比べると、アファール猿人の腕が短くなり始めているか、足が長くなり始めているか、あるいはその両方が同時進行しているかのいずれかを意味している。\nルーシーには、別の二足歩行の指標といえる腰椎の前弯も見られる。\n偏平足とは異なる非病理的な平らな足を持っていたが、他のアファール猿人には反った足も見られる。", + "qas": [ + { + "question": "現代人、チンパンジー、ルーシーの中で大腿骨の長さに比べた上腕骨の長さの比が最も大きいのはどれですか?", + "id": "tr-551-12-000", + "answers": [ + { + "text": "チンパンジー", + "answer_start": 208, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "現代人、チンパンジー、ルーシーの中で大腿骨の長さに比べた上腕骨の長さの比が最も小さいのはどれですか?", + "id": "tr-551-12-001", + "answers": [ + { + "text": "現代人", + "answer_start": 194, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ルーシーの骨盤は、類人猿よりもヒトのものに近い。\nこれは、その頭骨が類人猿のものに近いことと対照的である。\nその構造は上半身を支えるために必要な機能をひとまず備えており、安定性に欠けていたと推測されているとはいえ、直立二足歩行をしていたことをうかがわせる。\nジョハンソンは、ルーシーの左の坐骨と仙骨も復元することができた。\n仙骨の保存状態は明らかに良かったが、坐骨は歪んでいた。\nこの二点からは、異なる特質が浮かび上がってくる。\n仙骨は、iliacflareがほとんどなく、実質的にanteriorwrapを持たないので、類人猿に近い腸骨を形成している。\nただし、この復元には欠点もあることが明らかになった。\nもし右の腸骨が左と同じでなければ、恥骨上枝が接続できなかったはずだからである。\nティム・ホワイトによる坐骨の復元は、広いiliacflareを持ち、はっきりしたanteriorwrapを示している。\nこのことは、ルーシーが普通ではない寛骨臼内部のゆとりと、普通ではない長い恥骨上枝を持っていたことを意味する。\n彼女の恥骨弓は現代の女性に似て90度を超えている。\nしかしながら、彼女の寛骨臼はチンパンジーのそれのように小さく原始的である。", + "qas": [ + { + "question": "ルーシーの骨盤から、ルーシーがどのような歩行をしていた事が分かりましたか?", + "id": "tr-551-13-000", + "answers": [ + { + "text": "直立二足歩行", + "answer_start": 107, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ルーシーの坐骨の復元は誰がしましたか?", + "id": "tr-551-13-001", + "answers": [ + { + "text": "ティム・ホワイト", + "answer_start": 345, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ルーシーの恥骨弓は何度以上ありますか?", + "id": "tr-551-13-002", + "answers": [ + { + "text": "90度", + "answer_start": 475, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ルーシーの全身骨格は比較的保存状態が良かったが、頭蓋骨については破損が大きく、復元は困難だった。\nこのため、アファール猿人の頭骨が完全に復元されたのは、AL444-2が発見された1992年以降のことだった。\nしかし、他のアファール猿人の頭骨との比較から、ルーシーの脳容量は400cc未満と推測されている。\nその容量はチンパンジーのものとほとんど変わらず、脳の大型化の傾向と無縁だが、構造上の進化の形跡は推測できるという。\nかつては脳の大型化と直立二足歩行の進化は連動していると考えられていたが、そのような旧説に見直しを迫るものだった。", + "qas": [ + { + "question": "ルーシーの脳容量はどれくらいだと推測されていますか?", + "id": "tr-551-14-000", + "answers": [ + { + "text": "400cc未満", + "answer_start": 136, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "2000年にハダールにも近いディキカで、アファール猿人の女児の人骨が発見された。\n年齢は3歳と推測され、全身骨格のかなりの部分が残っている。\nこの女児の人骨についてはしばしば「ルーシーの赤ちゃん」と呼ばれるが、実際にはルーシーよりも15万年ほど古い332万年前の人骨と見積もられている。", + "qas": [ + { + "question": "「ルーシーの赤ちゃん」が発見されたのはいつですか?", + "id": "tr-551-15-000", + "answers": [ + { + "text": "2000年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「ルーシーの赤ちゃん」は何万年前の人骨ですか?", + "id": "tr-551-15-001", + "answers": [ + { + "text": "332万年前", + "answer_start": 124, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「ルーシーの赤ちゃん」は何猿人ですか?", + "id": "tr-551-15-002", + "answers": [ + { + "text": "アファール猿人", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ルーシーと「ルーシーの赤ちゃん」はどちらが古い人骨ですか?", + "id": "tr-551-15-003", + "answers": [ + { + "text": "「ルーシーの赤ちゃん」", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "二股ソケット", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "二股ソケット(ふたまたソケット)は、松下電気器具製作所創業当初のヒット製品の一つで、松下幸之助の代名詞である。家庭内に電気の供給口が電灯用ソケット一つしかなかった時代に、電灯と電化製品を同時に使用できるようにしたもの。亀の子束子、地下足袋(貼付式ゴム底足袋)とならび大正期の三大ヒット商品の一つである。二股ソケットという用語は、松下電器から発売された製品の二灯用クラスター(にとうようクラスター)のことを主に指すが、松下電器創業第二号製品である二灯用差込みプラグ(にとうようさしこみプラグ)のことを指すこともある。本項ではそれらの松下電器から発売された二股ソケット群および松下電器創業期のもう一つのヒット製品、アタッチメント・プラグについても解説する。", + "qas": [ + { + "question": "二股ソケットと亀の子束子のほかに、大正期の三大ヒット商品とされるのは、何ですか?", + "id": "tr-552-00-000", + "answers": [ + { + "text": "地下足袋", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "松下幸之助の代名詞とされる製品は、何?", + "id": "tr-552-00-001", + "answers": [ + { + "text": "二股���ケット", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "大正当時、多くの一般家庭は電力会社と「一戸一灯契約」という契約を結んでいた。「一戸一灯契約」とは、家庭内に電気の供給口を電灯用ソケット一つだけ設置し、電気使用料金を定額とする契約のことである。このため、当時電灯をつけているときには同時に電化製品を使用することができず、不便をこうむっていた。そこで登場したのが二股ソケットである。二股ソケットは、電気の供給口を二股にして、電灯と電化製品を両方同時に使用できるようにした、当時としては画期的な製品であった。この二股ソケットは松下が売り出す以前から東京と京都で販売されており、人気商品の一つであった。しかし、すでに販売されていた製品には改良の余地が多くあり、これに着目して他社製品より使いやすく壊れにくい製品を3割から5割程度安い価格で売り出したのが松下幸之助である。", + "qas": [ + { + "question": "多くの一般家庭が電力会社と、家庭内に電気の供給口を電灯用ソケット一つだけ設置し、電気使用料金を定額とする契約を結んでいた時期の日本の元号は、何か?", + "id": "tr-552-01-000", + "answers": [ + { + "text": "大正", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "電灯と電化製品の使用を同時並行可能にし、人々の生活における不便を解決したヒット商品とは、何か?", + "id": "tr-552-01-001", + "answers": [ + { + "text": "二股ソケット", + "answer_start": 164, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "すでに販売されていた二股ソケットを改良して耐久性と使いやすさを高め、さらにその値段を最大5割まで安くしたのは、誰か?", + "id": "tr-552-01-002", + "answers": [ + { + "text": "松下幸之助", + "answer_start": 347, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "パナソニックミュージアム松下幸之助歴史館では「アイロンを使いたい姉と、本を読むために電灯をつけたい妹が口論をしている姿を町で目撃した松下幸之助が、姉妹同時にアイロンと電灯を使うことができるようにと二股ソケットを考案した」とするビデオが放映されており、このほかにも松下幸之助が二股ソケットを考案したとする経緯には、姉妹ではなく姉弟が口論していたところを松下幸之助が目撃したためとする説や、「ある店で電灯をつけたい人と電気ゴテをつけたい人が口論していた」ところを松下が目撃したためとする説や「松下が社員全員で相談していたところ二股にすればよいという案が出た」ためとする説があるものの、二股ソケットが松下によって考案されたとするのは誤解である。二股ソケットは松下が販売を開始するよりも前にアメリカで発売されており、日本でも明治時代からその模倣品が石渡電気などによって販売されていたと考えられている。", + "qas": [ + { + "question": "どのミュージアムに行けば、姉妹が口論しているところを松下幸之助が目撃したことが、二股ソケットの考察に至ったとのビデオを見ることができるの?", + "id": "tr-552-02-000", + "answers": [ + { + "text": "パナソニックミュージアム", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "日本の松下より前に二股ソケットが販売されていた国として、この文書ではどの国が書かれていますか?", + "id": "tr-552-02-001", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ", + "answer_start": 341, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "松下電気器具製作所は1918年(大正7年)3月に大阪市北区西野田大開町にて創業した。当初は川北電気から受注した扇風機の碍盤を製造していたが、同年アタッチメ��ト・プラグを売り出す。アタッチメント・プラグはアタチンと通称され、天井の電気の供給口からコードを延長し、手元で電球などを使用するものである。このアタッチメント・プラグは、古電球の口金を再利用することなどにより、他社がすでに発売していたものよりも3割程度安く高性能なものであった。そのため、好評を博し、問屋から注文が予想以上に来ることとなった。アタッチメント・プラグに続いて、松下電気器具製作所は二灯用差込みプラグを売り出す。当時他社から販売されていた二灯用差込みプラグを、さらに使いやすく、故障しにくいように改良し、他社製品よりも3割から5割程度安く売り出したため、売り上げはアタッチメント・プラグ以上のものとなった。発売後しばらくすると、大阪で問屋「吉田商店」を開いている吉田という男から、総代理店になり、親しい「川商店」に東京でも販売させたいという申し出を受ける。保証金と引き換えに吉田商店と総代理店契約を結んだ松下は、この保証金を元手に生産設備を拡張、工場に棚を吊り下げて、棚上、棚下両方で作業ができるようにした。工場を見に来た吉田はこの生産設備を「蒸気船の船室」にたとえている。二灯用差込みプラグの販売が軌道に乗り始めた矢先、東京の各競合メーカーが製品を値下げする。このため総代理店の契約書に書かれていた販売責任数を守れるか否かが心配になった吉田は、契約の解除を強引に申し出た。保証金を月賦で返済するという条件でこの申し出を受け、販売網を失った松下は、その日のうちから大阪の各問屋へ出向いて取引を交渉し、また月に一度は必ず東京に行くことを決め、販売網を開拓していった。", + "qas": [ + { + "question": "アタチンと通称されるものは、何年に売り出され始めた?", + "id": "tr-552-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1918年", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "古電球の部品の再利用などにより、他社の既存のものよりも3割程度安く高性能なものであったのは、何と通称されていたか?", + "id": "tr-552-03-001", + "answers": [ + { + "text": "アタチン", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "二灯用差込みプラグとアタッチメント・プラグのうち、より早く売り出され始めた製品は、何ですか?", + "id": "tr-552-03-002", + "answers": [ + { + "text": "アタッチメント・プラグ", + "answer_start": 249, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "松下電気器具製作所の初製品とは、何と通称されたものか?", + "id": "tr-552-03-003", + "answers": [ + { + "text": "アタチン", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "Signalize!/カレンダーガール‎", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "『Signalize!/カレンダーガール』は、日本の女性アイドルユニット・STAR☆ANISの1枚目のCDシングルである。本作は両A面シングルで、2012年11月21日にランティスより発売された。楽曲「Signalize!」と「カレンダーガール」は、テレビ東京系列他にて2012年10月より放送されたテレビアニメ『アイカツ!』の1stシーズン前期オープニング・エンディングテーマとしてそれぞれ起用された。\n\n女児を対象としたメディアミックス・プロジェクト『アイカツ!』はゲームおよびアニメが並行して制作され、音楽については本来のターゲットである女児に限らず幅広い年齢層に受容される楽曲を目指した制作が行われてきた。「Signalize!」と「カレンダーガール」はその傾向を汲んだ作品となっている。「Signalize!」は作曲・編曲を担当したNARASAKIおよびSADESPERRECORDによるテクノな要素を含んだポップ・ミュージックに仕上がっているとする者や、ニュー・ウェイヴあるいはニューロマンティックなサウンドで構成されるとする者がいる。作詞家の畑亜貴による言葉選びについては複数のライターから肯定的な指摘を受けており、NARASAKIによるサウンドと合わせて女児向け作品らしくない風変わりな1曲と評されている。「カレンダーガール」は作曲・編曲を担当したMONACAの田中秀和によって様々なヴォーカル加工が施されたディスコ調の楽曲に位置づけられており、女の子の日常が描かれた内容となっている。田中が影響を受けたダンス☆マンを彷彿とさせるとも指摘され、曲中に組み込まれた多彩な編曲技術は音楽ライターらによって称賛されている。両楽曲を収録したシングルはオリコンシングルチャートにおいて最高105位を記録し、「カレンダーガール」は2019年発表の平成アニソン大賞において特別賞にノミネートされた。\n\n「Signalize!」と「カレンダーガール」は様々なヴォーカルによるバージョンがリリースされ、イベントでのライブ・パフォーマンスも披露されている。そのほかカバー・バージョンおよびミュージシャンのkzによる「カレンダーガール」のリミックス・バージョンも発表されている。さらにテレビアニメ『アイカツ!』で「Signalize!」と「カレンダーガール」は前述のように主題歌として用いられたほか、作中に登場するキャラクターの3DCGライブ・ステージで披露される挿入歌としても用いられている。とりわけ、アニメ『アイカツ!』1stシーズン最終話に当たる50話の脚本や演出技法は、楽曲「カレンダーガール」のサウンド構成やその歌詞と密接に絡んで制作されている。", + "qas": [ + { + "question": "『Signalize!/カレンダーガール』は誰のCDシングルなの?", + "id": "tr-553-00-000", + "answers": [ + { + "text": "STAR☆ANIS", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「カレンダーガール」は2019年発表の平成アニソン大賞においてどの賞にノミネートされた。", + "id": "tr-553-00-001", + "answers": [ + { + "text": "特別賞", + "answer_start": 787, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ガボン航空惨事", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ガボン航空惨事は、1993年4月27日にサッカーザンビア代表の選手らを乗せたザンビア空軍の輸送機がガボンの首都リーブルヴィルの空港を離陸直後に大西洋上に墜落した航空事故である。この事故により乗客と乗員あわせて30人全員が死亡した。\n\n1964年10月24日に独立したザンビアはケネス・カウンダ大統領の下、1969年に国の経済活動の基盤となる銅鉱業の国有化に乗り出し外資系企業の株式の過半数を取得して新たに2社の鉱山会社として再編し、2社を国営鉱業開発公社の傘下に置いた。銅の国際価格が世界的に高水準を維持していたことを受けてザンビア経済は活況を呈し、1960年代後半から1970年代前半にかけて年平均経済成長率は10.6%を記録した。カウンダ大統領は好況を背景にサッカー代表チームの強化を命じ、国営鉱山会社から賄われる強化費や給与によって選手の多くは生活が保障された。彼らはカウンダ大統領のイニシャルに因んで「KKイレブン」と呼ばれていた。\n\n一方、1970年代半ばに入ると銅価格の暴落や石油危機などにより経済成長率が低下。1980年代に入った後も経済状況は改善せず、国民の不満は高まりを見せていた。カウンダ大統領は1991年に従来の一党制支配から複数政党制に移行し総選挙を実施する事を発表。10月の大統領選挙で対立候補のフレデリック・チルバに大差で敗れ職務から退いた。チルバ政権の下では国営企業の民営化や公務員数の削減などの経済政策が進められていた。", + "qas": [ + { + "question": "ガボン航空惨事はいつあったの?", + "id": "tr-554-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1993年4月27日", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ガボン航空惨事によって何人が死亡したか。", + "id": "tr-554-00-001", + "answers": [ + { + "text": "30人", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ザンビアはいつ独立したの?", + "id": "tr-554-00-002", + "answers": [ + { + "text": "1964年10月24日", + "answer_start": 117, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1960年代後半から1970年代前半にかけて、ザンビアの年平均経済成長率は何%を記録したの?", + "id": "tr-554-00-003", + "answers": [ + { + "text": "10.6%", + "answer_start": 306, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ザンビア代表はアフリカの強豪チームの一つで、1988年のソウルオリンピックではグループリーグでイタリア代表やグアテマラ代表を破りグループリーグ首位で準々決勝進出を果たした。準々決勝では西ドイツに敗れたものの、この大会での活躍はザンビア代表の存在を世界中にアピールしアルジェリアやモロッコやカメルーンに次ぐアフリカの新勢力として認知された。その中でもイタリア戦でのハットトリックを含め6得点を挙げたエースストライカーのカルシャ・ブワルヤは同年にアフリカ年間最優秀選手賞を受賞し、翌1989年にオランダのPSVアイントホーフェンへ移籍した。\n\n一方、チルバ政権による経済政策の転換により国営鉱山会社からの資金援助が受けられなくなり、慢性的に資金難の状態にあったザンビアサッカー協会の下では選手の待遇も劣化し、遠征費費用の捻出が困難な場合はザンビア空軍に依頼し老朽化した軍用機を借受けて遠征するほかなかった。\n\n1992年から始まった1994FIFAワールドカップ・アフリカ予選では1次予選H組で1位となり最終予選進出を果たし、1993年4月から始まる最終予選ではモロッコ代表とセネガル代表と同じグループとなった。3チームでホームアンドアウェイ方式のリーグ戦が行われ、1位で勝ち抜いたチームが翌年にアメリカ合衆国で開催されるワールドカップへ出場することになっていた。", + "qas": [ + { + "question": "1988年のオリンピックはどこで開催されたか。", + "id": "tr-554-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ソウル", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "エースストライカーのカルシャ・ブワルヤは何年にアフリカ年間最優秀選手賞を受賞しましたか。", + "id": "tr-554-01-001", + "answers": [ + { + "text": "1988年", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1994FIFAワールドカップ・アフリカ予選は何年に始まったか。", + "id": "tr-554-01-002", + "answers": [ + { + "text": "1992年", + "answer_start": 403, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ガボン航空惨事により選手、指導者、関係者、記者、搭乗員を合わせて30人が犠牲となった。この中にはザンビアサッカー協会会長のマイケル・ムワペ、モスクワ五輪代表メンバーで監督のゴッドフリー・チタル、ゴールキーパーのデイヴィッド・チャバラやミッドフィールダーのダービー・マキンカをはじめとしたソウル五輪代表メンバーの6人、1992年にザンビア年間最優秀若手選手賞に選ばれたモーゼス・チクワラクワラらが含まれていた。代表メンバーのうち、フォワードのカルシャ・ブワルヤはオランダから直接セネガルへ向かい代表チームと合流する予定だったため、ミッドフィールダーのチャールズ・ムソンダは所属クラブのRSCアンデルレヒトが怪我から復帰したばかりのムソンダの招集を拒否したために難を逃れた。", + "qas": [ + { + "question": "ガボン航空惨事によって何人の人が死亡しましたか。", + "id": "tr-554-02-000", + "answers": [ + { + "text": "30人", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ベリリウム", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ベリリウム(新ラテン語:beryllium,英:beryllium[bəˈrɪliəm])は��原子番号4の元素である。\n元素記号はBe。\n原子量は9.01218。\n第2族元素のひとつ。\nはじめに、ルイ=ニコラ・ヴォークランが「グルシニウム」と名づけた。\n語源のglykysは、ギリシア語で「甘さ」を意味する。\nこれは、ベリリウム化合物が甘みを持つことにちなんでいる。\n1828年には、マルティン・ハインリヒ・クラプロートが「ベリリウム」と命名した。\nこの名前は緑柱石(beryl、ギリシア語でberyllos)に由来している。", + "qas": [ + { + "question": "元素記号がBeと表記される元素は何?", + "id": "tr-555-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ベリリウム", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「ベリリウム」と命名される前は何と名づけられたの?", + "id": "tr-555-00-001", + "answers": [ + { + "text": "「グルシニウム」", + "answer_start": 112, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「ベリリウム」の由来は何?", + "id": "tr-555-00-002", + "answers": [ + { + "text": "緑柱石", + "answer_start": 230, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「ベリリウム」と命名した人は誰なの?", + "id": "tr-555-00-003", + "answers": [ + { + "text": "マルティン・ハインリヒ・クラプロート", + "answer_start": 192, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "初期の分析において緑柱石とエメラルドは常に類似した成分が検出されており、この物質はケイ酸アルミニウムであると誤って結論づけられていた。\n鉱物学者であったルネ=ジュスト・アユイはこの2つの結晶が著しい類似点を示すことを発見し、彼はこれを化学的に分析するために化学者であるルイ=ニコラ・ヴォークランに尋ねた。\n1797年、ヴォークランは緑柱石をアルカリで処理することによって水酸化アルミニウムを溶解させ、アルミニウムからベリリウム酸化物を分離させることに成功した。\n1828年にフリードリヒ・ヴェーラーとアントワーヌ・ビュシーがそれぞれ独自に、金属カリウムと塩化ベリリウムを反応させることによるベリリウムの単離に成功した。", + "qas": [ + { + "question": "緑柱石とエメラルドの結晶に多くの類似点があると発見した人物は?", + "id": "tr-555-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ルネ=ジュスト・アユイ", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "金属カリウムと塩化ベリリウムを反応させてベリリウムの単離に成功した人は、アントワーヌ・ビュシーと他に誰がいますか?", + "id": "tr-555-01-001", + "answers": [ + { + "text": "フリードリヒ・ヴェーラー", + "answer_start": 237, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "第一次世界大戦以前にも有意な量のベリリウムが生産されていたが、大規模生産が始まったのは1930年代初期からである。\nベリリウムの生産量は、硬いベリリウム銅合金および蛍光灯の蛍光体用途の需要の伸びによって、第二次世界大戦中に急速に増加した。\n初期の蛍光灯にはベリリウムを含有したオルトケイ酸亜鉛が使用されていたが、のちにベリリウムの有毒性が発見されたためハロリン酸系蛍光体に置き換えられた。\nまた、ベリリウムの初期の主要な用途のひとつとして、その硬さや融点の高さ、非常に優れたヒートシンク性能を利用した軍用機のブレーキへの利用が挙げられるが、こちらも環境への配慮から別の材料に代替された。", + "qas": [ + { + "question": "ベリリウムの有毒性が分かった後、初期の蛍光灯に使用されていたオルトケイ酸亜鉛は、その後何に置き換えられたの?", + "id": "tr-555-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ハロリン酸系蛍光体", + "answer_start": 176, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ベリリウムの生産量が急増加したのはいつ?", + "id": "tr-555-02-001", + "answers": [ + { + "text": "第二次世界大戦中", + "answer_start": 102, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ベリリウムは緑柱石などの鉱物から産出される。\n緑柱石は不純物に由来する色の違いによってアクアマリンやエメラルドなどと呼ばれ、宝石としても用いられる。\n常温常圧で安定した結晶構造は六方最密充填構造(HCP)である。\n単体は銀白色の金属で、空気中では表面に酸化被膜が生成され安定に存在できる。\nモース硬度は6から7を示し、硬く、常温では脆いが、高温になると展延性が増す。\n酸にもアルカリにも溶解する。\nベリリウムの安定同位体は恒星の元素合成においては生成されず、宇宙線による核破砕によって炭素や窒素などより重い元素から生成される。", + "qas": [ + { + "question": "ベリリウムは単体では何色をしているの?", + "id": "tr-555-03-000", + "answers": [ + { + "text": "銀白色", + "answer_start": 110, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ベリリウムは高温になるとどうなるの?", + "id": "tr-555-03-001", + "answers": [ + { + "text": "展延性が増す", + "answer_start": 176, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ベリリウムは周期表の上では第2族元素に属しているが、その性質は同じ族の元素であるカルシウムやストロンチウムよりもむしろ第13族元素であるアルミニウムに類似している。\nたとえば、カルシウムやストロンチウムは炎色反応によって発色するが、ベリリウムは無色である。\nそのため、ベリリウムは第2族元素ではあるが、アルカリ土類金属には含めないこともある。\nまた、ベリリウムの二元化合物の構造は亜鉛とも類似している。", + "qas": [ + { + "question": "ベリリウムの性質が類似しているのはカルシウム、ストロンチウム、アルミニウムの中でどれ?", + "id": "tr-555-04-000", + "answers": [ + { + "text": "アルミニウム", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ベリリウムの二元化合物の構造が類似している元素は何?", + "id": "tr-555-04-001", + "answers": [ + { + "text": "亜鉛", + "answer_start": 190, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ベリリウムの常温、常圧(標準状態)における安定した結晶構造は六方最密充填構造(HCP)であり、その格子定数はa=2.268Å、b=3.594Åである。\nモース硬度6から7と第2族元素の中でもっとも硬いが、粉砕によって粉末にできるほど脆い。\nしかしながら、高温になると展延性が増すため、核融合炉のような高温条件で利用する用途において高い機械的性質を発揮することができる。\nこの用途では、400°Cを下回る温度になると使用上問題となるレベルにまで展延性が低下してしまう。\n比重は1.816、融点は1,284°C、沸点は2,767°Cである。", + "qas": [ + { + "question": "ベリリウムの常温常圧で安定した結晶構造は何?", + "id": "tr-555-05-000", + "answers": [ + { + "text": "六方最密充填構造", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ベリリウムは第何族の元素の中でもっとも硬いの?", + "id": "tr-555-05-001", + "answers": [ + { + "text": "第2族", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ベリリウムが400°Cを下回る温度になると、沸点はいくつになる?", + "id": "tr-555-05-002", + "answers": [ + { + "text": "2,767°C", + "answer_start": 257, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ベリリウムのヤング率は287GPaと鉄のヤング率より50パーセントも高く、非常に強い曲げ強さを有している。\nこのような高いヤング率に由来してベリリウムの剛性は非常に優れており、後述の熱負荷の大きい環境における安定性も相まって宇宙船や航空機などの構造部材に利用されている。\nまた、このヤング率の大きさと、ベリリウムが比較的低密度であるという物性が組み合わさることにより、周囲の状況に応じて変化するものの、およそ秒速12.9キロという著しく高い音の伝導性を示す。\nこの性質を利用して音響材料におけるスピーカーの振動板などに用いられている。\nベリリウムの他の重要な特性としては、1925J⋅kg−1⋅K−1という高い比熱および、216W⋅m−1⋅K−1という高い熱伝導率が挙げられ、これらの物性によってベリリウムは単位重量当たりの放熱物性にもっとも優れた金属である。\nこの放熱物性を利用した用途としてヒートシンク材料が挙げられ、電子材料などにおいて活用されている。\nまたこれらの物性は、11.4×10−6K−1という比較的低い線形熱膨張率や1,284°Cという高い融点も相まって、熱負荷の大きな状況下における非常に高い安定性をもたらしている。", + "qas": [ + { + "question": "ベリリウムと鉄のヤング率はどちらが高い?", + "id": "tr-555-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ベリリウム", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "宇宙船や航空機などの構造部材にベリリウムが利用されているのは、どういった性質が優れているから?", + "id": "tr-555-06-001", + "answers": [ + { + "text": "剛性", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ベリリウムが放熱物性にもっとも優れた金属であるのは、比熱とどういった物性が高いため?", + "id": "tr-555-06-002", + "answers": [ + { + "text": "熱伝導率", + "answer_start": 328, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ベリリウムは通常、表面に酸化被膜を形成しているため酸に対しての強い耐性を示すが、酸化被膜を取り除いた純粋なベリリウムでは、塩酸や希硫酸のような酸化力を持たない酸に対しては容易に溶解する。\n硝酸のような酸化力を有する酸に対してはゆっくりとしか溶解しない。\nまた、強アルカリに対してはオキソ酸イオンであるベリリウム酸イオン(Be(OH)42−)を形成して水素ガスを発生させながら溶解する。\nこのような酸やアルカリに対する性質はアルミニウムと類似している。\nベリリウムは水とも水素を発生させながら反応するが、水との反応によって生じる水酸化ベリリウムは水に対する溶解度が低く金属表面に被膜を形成するため、金属表面のベリリウムが反応しきればそれ以上反応は進行しない。", + "qas": [ + { + "question": "ベリリウムが酸化力を持たない酸に対して簡単に溶解するのは、ベリリウムから何を取り除いた時?", + "id": "tr-555-07-000", + "answers": [ + { + "text": "酸化被膜", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ベリリウムが水と反応して生じる物質は何?", + "id": "tr-555-07-001", + "answers": [ + { + "text": "水酸化ベリリウム", + "answer_start": 263, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ベリリウム原子の電子配置は[He]2s2である。\nベリリウムはその原子半径の小ささに対してイオン化エネルギーが大きいため電荷を完全に分離することは難しく、そのためベリリウムの化合物は共有結合性を有している。\n第2周期元素は原子量が大きくなるにしたがってイオン化エネルギーも増大する法則が見られるが、ベリリウムはその法則から外れており、より原子量の大きなホウ素よりもイオン化エネルギーが大きい。\nこれは、ベリリウムの��外殻電子が2s軌道上にあり、ホウ素の最外殻電子は2p軌道上にあることに起因している。\n2p軌道の電子は内殻に存在するs軌道の電子によって遮蔽効果(有効核電荷も参照)を受けるため、2p軌道に存在する最外殻電子のイオン化エネルギーが低下する。\n一方で2s軌道の電子は遮蔽効果を受けないため、相対的に2p軌道の電子よりもイオン化エネルギーが大きくなり、これによってベリリウムとホウ素の間でイオン化エネルギーの大きさの逆転が生じる。", + "qas": [ + { + "question": "ベリリウムとホウ素では、どちらの方がイオン化エネルギーがより小さいの?", + "id": "tr-555-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ホウ素", + "answer_start": 176, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ベリリウムとホウ素の間でイオン化エネルギーの大きさの逆転が生じるのは、ベリリウムの最外殻電子がどこにあるから?", + "id": "tr-555-08-001", + "answers": [ + { + "text": "2s軌道上", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ベリリウムは宇宙において非常にまれな元素で、宇宙全体の平均濃度の推定値は重量濃度で1ppb(10億分の1)であり、ニオブより原子量の小さい元素の中ではホウ素と並んでもっとも存在率が小さい。\n太陽内部でも重量濃度0.1ppbとまれであり、レニウムと同程度の存在量である。\n一方、地球におけるベリリウム濃度は、地表の岩石中の重量濃度の推定値でおよそ2.8-5ppm、海水中でおよそ0.0006ppb、河川の水においては海水中よりは多くおよそ0.1ppbである。\n太陽中のベリリウム濃度が地球上のベリリウム濃度と比較して著しく低い原因は、太陽の燃焼における核反応で消費されるためと考えられている。", + "qas": [ + { + "question": "太陽内部におけるベリリウムと同等の存在量である元素は何?", + "id": "tr-555-09-000", + "answers": [ + { + "text": "レニウム", + "answer_start": 118, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "太陽中のベリリウム濃度と地球上のベリリウム濃度はどちらの濃度が高いの?", + "id": "tr-555-09-001", + "answers": [ + { + "text": "地球上のベリリウム濃度", + "answer_start": 241, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "地球上のベリリウム濃度の推定値において、地表の岩石中、海水中、河川の水で最も濃度が低いのはどこですか?", + "id": "tr-555-09-002", + "answers": [ + { + "text": "海水中", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "地表の岩石中のベリリウム濃度は前述のようにおよそ2.8-5ppmであるが、ベリリウム鉱石によって高濃度にベリリウムが存在する地域もある。\nベリリウムは約4,000種類の既知の鉱石のうち、約100種類の鉱石において主成分となっており、その中でも重要なものは、ベルトラン石(Be4Si2O7(OH)2)、緑柱石(Al2Be3Si6O18)およびフェナカイト(Be2SiO4)である。\nこのようなベリリウム鉱石は、おもにマグマの冷却過程に由来するペグマタイト中で濃縮される。\nまた、ベリリウム鉱石は凝灰岩や閃長岩からも発見されており、これらはすべて火山活動に由来する火成岩や火山砕屑岩である。\nまた、土壌中のベリリウムは植物によってわずかに吸収され、カラマツなど特定の植物はベリリウムを蓄積する。", + "qas": [ + { + "question": "ベリリウムを主成分とする鉱石は何種類あるの?", + "id": "tr-555-10-000", + "answers": [ + { + "text": "約100種類", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "土壌中のベリリウムを吸収し、蓄積する植物は何?", + "id": "tr-555-10-001", + "answers": [ + { + "text": "カラマツ", + "answer_start": 322, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "大気中のベリリウム濃度は先進国の都市部でおよそ0.03-0.07ng/m3ほどであるが、ベリリウムの大気への主要供給源は化石燃料の燃焼によるものであるため、工業化の進んでいない国においてはさらに低濃度になると推測されている。\n1987年のアメリカ合衆国環境保護庁のデータによれば、自然におけるベリリウムの大気への放出量は年間5.2トンほどであるが、化石燃料の燃焼を含む人類の活動によるベリリウムの大気への放出量は年間187.4トンにも及ぶ。", + "qas": [ + { + "question": "自然におけるベリリウムの大気への放出量と、化石燃料の燃焼を含む人類の活動によるベリリウムの大気への放出量はどちらが少ないですか?", + "id": "tr-555-11-000", + "answers": [ + { + "text": "自然におけるベリリウムの大気への放出量", + "answer_start": 140, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ベリリウムの大気への主要供給源は何によるものですか?", + "id": "tr-555-11-001", + "answers": [ + { + "text": "化石燃料の燃焼", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "工業規模でのベリリウム産出に関与しているのはアメリカ、中国、カザフスタンの3国のみである。\n2008年時点のアメリカにおけるベリリウムおよびベリリウム化合物のおもな生産者は、ブラッシュ・エンジニアード・マテリアルズ社である。\nブラッシュ・エンジニアード・マテリアルズ社では、ベリリウムを製錬するための原料の大部分を自身が所有するスポール山の鉱床(ユタ州)から産出されるベリリウム鉱石(ベルトラン石を含む)から得ている。\nベリリウムの製錬およびほかの精製は、ユタ州デルタの北10マイルにある工場で行われており、その場所はインターマウンテン・パワー・プロジェクトによる発電設備から近くかつ町からも離れているために選ばれた。\n1998年から2008年までの間、ベリリウムの世界の生産量は343トンからおよそ200トンにまで減少しており、200トンのうち176トン(88パーセント)はアメリカで生産されている。\n真空鋳造によって製造されたベリリウムインゴットの2001年におけるアメリカ市場でのキログラム単価は745ドルであった。\n日本での国内取り扱いトップの日本ガイシによると1キロあたり70-80万円である。", + "qas": [ + { + "question": "工業規模でのベリリウム産出に関与している3国の内、ユーラシア大陸に属していないのはどの国ですか?", + "id": "tr-555-12-000", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1998年から2008年までの間に343トンから約200トンに減少したベリリウムの世界の生産量の内、半数以上を占める生産国はどこ?", + "id": "tr-555-12-001", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ", + "answer_start": 388, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "2008年の段階で、ベリリウムとベリリウム化合物のアメリカにおけるおもな生産会社はどこ?", + "id": "tr-555-12-002", + "answers": [ + { + "text": "ブラッシュ・エンジニアード・マテリアルズ社", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1998年から約10年間の間に、ベリリウムの生産量はどれくらいまで減少したの?", + "id": "tr-555-12-003", + "answers": [ + { + "text": "およそ200トン", + "answer_start": 347, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ベリリウムはおもに合金の硬化剤として利用され、その代表的なものにベリリウム銅合金がある。\nまた、非常に強い曲げ強さ、熱的安定性および熱伝導率の高さ、金属としては比較的低い密度などの物理的性質を利用して、高速航空機やミサイル、宇宙船、通信衛星などの軍事産業や航空宇宙産業において構造部材として用いられる。\nベリリウムは低密度かつ原子量が小さいためX線やその他電離放射線に対して透過性を示し、その特性を利用してX線装置や粒子物理学の試験におけるX線透過窓として用いられる。", + "qas": [ + { + "question": "ベリリウムの物理的性質において、金属としての密度は高いのか低いのかどちらですか?", + "id": "tr-555-13-000", + "answers": [ + { + "text": "比較的低い", + "answer_start": 80, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ベリリウムが合金の硬化剤として利用される代表例は何があるの?", + "id": "tr-555-13-001", + "answers": [ + { + "text": "ベリリウム銅合金", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "高速航空機やミサイル、宇宙船、通信衛星などの軍事産業や航空宇宙産業の構造部材として用いられる鉱物は何ですか?", + "id": "tr-555-13-002", + "answers": [ + { + "text": "ベリリウム", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ベリリウムをX線装置やX線透過窓として利用できるのは、X線や電離放射線に対してどのような特性を示すからなの?", + "id": "tr-555-13-003", + "answers": [ + { + "text": "透過性", + "answer_start": 187, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ベリリウムの用途には、その物理的性質を利用したX線装置や構造材、鏡(ベリリウムミラー)、合金材料、音響材料としての用途、磁気的性質を利用した工具製造、電子物性を利用した電子材料、核的性質を利用した中性子源や、ベリリウム鉱石の外観の美しさを利用した宝石としての用途が挙げられる。\nこの中には核兵器やミサイル、射撃管制装置などの軍事的用途も含まれ、そのような分野に関する詳細な情報を入手することは難しい。\nまた、ベリリウムの毒性により、過去に用いられていた蛍光材料としての用途はすでにほかの代替材料に置き換えられており、ベリリウム銅合金なども代替材料の開発が進められている。", + "qas": [ + { + "question": "綺麗な見た目であるベリリウム鉱石の用途として何がある?", + "id": "tr-555-14-000", + "answers": [ + { + "text": "宝石", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "現在、ベリリウムが蛍光材料として使用されていないのはどのような性質があるためですか?", + "id": "tr-555-14-001", + "answers": [ + { + "text": "毒性", + "answer_start": 210, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "蛍光材料の他にベリリウムの代替材料が開発されているものは何?", + "id": "tr-555-14-002", + "answers": [ + { + "text": "ベリリウム銅合金", + "answer_start": 258, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "中性子源はベリリウムのどのような性質を利用したものなの?", + "id": "tr-555-14-003", + "answers": [ + { + "text": "核的性質", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ベリリウムは原子番号が小さく電子の数が少ないため、X線に対する透過率が非常に高い。\nそのため、X線源やビームライン、X線望遠鏡などの検出器用の窓に用いられる。\nこの用途においては、X線像に不要な像が写り込むことを回避するためにベリリウムの純度と清潔さがもっとも要求される。\nまた、X線探知機のX線放射窓としてもベリリウムの薄膜が用いられている。\nこれは、ベリリウムのX線吸収率が非常に低いことによって、高強度のシンクロトロン��射光に典型的な低エネルギーX線に起因する熱の影響を最小限に留めることができるためである。\nさらに、シンクロトロンによる放射線試験のための真空気密窓およびビームチューブの素材にはベリリウムのみが用いられている。\nほかにも、エネルギー分散型X線分析などのさまざまなX線を利用した分析機器においては、ベリリウム製のサンプルホルダーが常用される。\nこれは、ベリリウムから発生する特性X線や蛍光X線の有するエネルギーが100eV以下と分析試料由来のX線と比較して非常に低く、試料の分析データに影響を与えないためである。", + "qas": [ + { + "question": "ベリリウムがX線望遠鏡などの検出器用の窓に使用されるのは、X線に対して何が高いから?", + "id": "tr-555-15-000", + "answers": [ + { + "text": "透過率", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ベリリウムのX線吸収率が非常に低いことから、X線探知機のX線放射窓にはベリリウムの何が用いられていますか?", + "id": "tr-555-15-001", + "answers": [ + { + "text": "薄膜", + "answer_start": 161, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "シンクロトロンによる放射線試験のための真空気密窓やビームチューブの素材に使われているのは何?", + "id": "tr-555-15-002", + "answers": [ + { + "text": "ベリリウム", + "answer_start": 301, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ベリリウムはまた、素粒子物理学の実験装置において高エネルギー粒子を衝突させる場所周辺のビームラインを構築するための素材として用いられる。\nたとえば、大型ハドロン衝突型加速器の実験における主要な4つの検出器すべて(ALICE検出器、ATLAS検出器、CMS検出器、LHCb検出器)やテバトロン、SLAC国立加速器研究所において用いられている。\nこのような用途においてはベリリウムが持つさまざまな性質が効果的に働いている。\nすなわち、ベリリウムの原子番号の小ささに由来する高エネルギー粒子に対する透過性が比較的高いという性質や、ベリリウムの密度が低いという性質によって、粒子の衝突によって発生した生成物を重大な相互作用なしに周囲の検出器へと誘導することができる。\nまた、ベリリウムは剛性が高いためベリリウムのパイプ内を非常に高真空にでき、残留した気体分子による相互作用を最小限にすることができる。\nさらに、ベリリウムは熱的に非常に安定しているため、絶対零度よりわずかに高い程度の極低温においても正常に機能することができる。\nそのうえ、ベリリウムの反磁性を有する性質によって、粒子線を収束させて検出器まで導くために用いられる複雑な多極電磁石システムへの干渉を防ぐことができる。", + "qas": [ + { + "question": "大型ハドロン衝突型加速器の実験における主要な検出器に用いられているものは何ですか?", + "id": "tr-555-16-000", + "answers": [ + { + "text": "ベリリウム", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ベリリウムの高エネルギー粒子に対する透過性が比較的高いのは、ベリリウムの何に由来していますか?", + "id": "tr-555-16-001", + "answers": [ + { + "text": "原子番号の小ささ", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "粒子の衝突によって発生した生成物を重大な相互作用なしに周囲の検出器へと誘導することができるのは、ベリリウムの何が低いからですか?", + "id": "tr-555-16-002", + "answers": [ + { + "text": "密度", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ベリリウムミラーは、気象衛星のような低重量および長期間の寸法安定性が重要とされる用途に対する大面積の鏡(しばしばハニカムミラー)に用いられる。\nたとえば、ジェイムズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の主鏡はベリリウム製であり、同様の理由でスピッツァー宇宙望遠鏡もベリリウム製の反射望遠鏡が用いられている。\nまた、より小さなベリリウムミラーは光学的な制御システムや射撃管制装置に用いられる。\nたとえば、ドイツの主力戦車であるレオパルト1やレオパルト2に用いられている。\nこれらのシステムには鏡の非常に迅速な動きが要求されるため、ベリリウムの低重量かつ高剛性な性質が必要とされる。\n通常このベリリウムミラーは、光学的仕上げ材による研磨をより容易に行えるように無電解ニッケルめっきによって被覆される。\nしかしながら極低温条件で用いる場合などには、熱膨張率の違いによって被覆材に歪みが生じてしまうため、このような用途においては被覆材を用いずに直接磨き上げられる。", + "qas": [ + { + "question": "低重量および長期間の寸法安定性が重要とされる用途に対する大面積のミラーに使われるものは何ですか?", + "id": "tr-555-17-000", + "answers": [ + { + "text": "ベリリウムミラー", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ベリリウムは低質量かつ高剛性であるため、およそ12.9km/sと高い音の伝導率を示す。\nベリリウムのこの物性を利用して、ツイーター(高音域スピーカー)の振動板としておもにドーム型に成形し使用される。\nしかしながら、ベリリウムはしばしばチタン以上に高価であり、その脆性の高さにより成形が困難であり、処置を誤れば製品の毒性を封印できないため、ベリリウム製のツイーターはハイエンドな家庭用や業務用オーディオ、PublicAddressなどの用途に限られている。\n高音域スピーカーの振動板としての使用例としては、ヤマハ・パイオニアなどの音響機器メーカーの製品があり、またヤマハ・パイオニア・オーディオテクニカ・グレース製ピックアップ・カートリッジのカンチレバーに用いられた例がある。\nまた、その熱伝導率のよさから、セラミック送信管(アイマック社製、eimac8873)の本体および純正放熱用熱伝導体として酸化ベリリウムが採用された例がある。\nベリリウムはほかの金属との合金としても頻繁に利用されるが、その合金組成に明記されないこともある。", + "qas": [ + { + "question": "ベリリウムの低質量、高剛性の物性を利用して成形されるツイーター(高音域スピーカー)の振動板は、通常どのような型をしていますか?", + "id": "tr-555-18-000", + "answers": [ + { + "text": "ドーム型", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ベリリウムの伝導率はどれくらいですか?", + "id": "tr-555-18-001", + "answers": [ + { + "text": "およそ12.9km/s", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "カリフォルニアワイン", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "カリフォルニア州は太平洋に面したアメリカ合衆国西海岸にあり、ヨーロッパの主要ワイン生産国であるフランスの約3/4の面積を持つ。約4,500のブドウ栽培農家があり、2014年のブドウ栽培面積は496,313エーカーだった。1,905のワイナリーがあり、2014年のワイン生産量は7億964万7220米ガロンだった。アメリカ合衆国全体のワイン生産量は8億3546万8643米ガロンであり、カリフォルニア州単独で全米の84.9%を占めている。\n\n1985年のカリフォルニア産ワインの輸出額は約3500万ドルだったが、2004年には8億800万ドルにまで増加した。主要な輸出先はイギリス、カナダ、ドイツ、日本、オランダなどである。カリフォルニア州単独でオーストラリアワインの生産量を上回っており、仮にカリフォルニア州を一国家として考えた場合、イタリア、フランス、スペインに次いで世界第4位のワイン生産国となる。", + "qas": [ + { + "question": "フランスとカリフォルニア州とどっちの方が広い?", + "id": "tr-556-00-000", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "カリフォルニア州の2014年のブドウ栽培面積は?", + "id": "tr-556-00-001", + "answers": [ + { + "text": "496,313エーカー", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "カリフォルニア州の2014年のワイン生産量は?", + "id": "tr-556-00-002", + "answers": [ + { + "text": "7億964万7220米ガロン", + "answer_start": 138, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "カリフォルニア州とオーストラリアとワインの生産量が多いのはどっち?", + "id": "tr-556-00-003", + "answers": [ + { + "text": "カリフォルニア州", + "answer_start": 311, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "カリフォルニア州はとても地質学的に多様な地域であり、気候などのテロワールもやはり多様である。北緯42度のカリフォルニア州北端部はスペイン北部やイタリア中央部と同緯度であり、北緯32度の州南端部は北アフリカと同緯度である。カリフォルニア州のワイン産地の大半は太平洋とセントラル・ヴァレーの間に位置する。夏季には内陸部の大気が熱せられて上昇する一方で、太平洋からの冷たい海風が霧となって内陸部に吹き込み、内陸部の気温を下げている。\n\n旱魃はブドウ栽培を行う上で脅威になりうるが、カリフォルニア州の大部分の地域では旱魃を避けるのに十分な量の降水があり、サンフランシスコ北側のワイン産地では615-1,150mm、南側のワイン産地でも330-510mmの年降水量がある。一方で内陸部にあるセントラル・ヴァレーは世界のワイン産地の中でもっとも暑く乾燥した地域のひとつであり、灌漑設備は不可欠である。春季の降霜は脅威となりうるが、冬季には降霜の被害の恐れは少なく穏やかである。降霜の脅威を抑制するために、しばしばブドウ栽培農家は送風機による送風やスプリンクラーによる散水、スマッジ・ポットと呼ばれる燻し器を使用している。", + "qas": [ + { + "question": "サンフランシスコは北側のワイン産地と南側のワイン産地とどっちの方の年降水量が多いの?", + "id": "tr-556-01-000", + "answers": [ + { + "text": "北側のワイン産地", + "answer_start": 281, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "北アフリカの緯度は何度なの?", + "id": "tr-556-01-001", + "answers": [ + { + "text": "北緯32度", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1000年頃にはヴァイキングの一団がアメリカ大陸東海岸に到達し、繁茂していた野生のブドウを発見している。1522年にはスペイン人コンキスタドールのエルナン・コルテスがスペインからヨーロッパブドウの苗木を送らせ、1542年には野生のブドウに接ぎ木する方法で栽培を始めた。16世紀に持ち込まれたブドウは宣教教会のブドウ畑に植えられ、教会の聖礼典で使用されたため、ミッション種という名称で呼ばれた。1560年頃にはスペイン領アメリカ東海岸のフロリダに自生するブドウから、アメリカで初めてワインが生産された。\n\n1769年、フランシスコ修道会のフニペロ・セラ神父がカリフォルニアに最初のブドウ畑を築いたとされている。セラ神父は手始めにサンディエゴでブドウ栽培とワイン作りを行い、1771年にはロサンゼルス郊外にカリフォルニア初のワイナリーを建設した。1769年から1823年にかけてフランシスコ会は徐々に北上し、サンフランシスコ近郊のソノマまでにワイン作りを広めた。ブドウの樹に病気が蔓延した東海岸とは異なり、西海岸ではピアス病以外に大きな問題は起こらなかった。\n\n1833年にはメキシコ政府によってカリフォルニア地域の修道院が世俗化され、アルタ・カリフォルニア知事のマリアーノ・グアダルーペ・バレホ将軍はソノマ郡でカリフォルニア初の職業的ブドウ栽培者となった。1831年にナパ・ヴァレーに移住したジョージ・ヨーントは、1841年に初めてナパにミッション種を持ち込んで栽培し、1844年には200米ガロンのワインを生産した。", + "qas": [ + { + "question": "スペイン領アメリカ東海岸のフロリダに自生するブドウから、アメリカで最初のワインが生産されたのはいつのことですか。", + "id": "tr-556-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1560年頃", + "answer_start": 196, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "西海岸と東海岸と、どちらの方がブドウの栽培に向いていると考えられますか。", + "id": "tr-556-02-001", + "answers": [ + { + "text": "西海岸", + "answer_start": 451, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "西海岸でのブドウ栽培において唯一の問題は何でしたか。", + "id": "tr-556-02-002", + "answers": [ + { + "text": "ピアス病", + "answer_start": 456, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "カリフォルニア初の職業的ブドウ栽培はどこで行われましたか。", + "id": "tr-556-02-003", + "answers": [ + { + "text": "ソノマ郡", + "answer_start": 549, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1848年以降のカリフォルニア・ゴールドラッシュによってこの地域には入植者が殺到し、人口と地元でのワインの需要が増加した。ソノマ郡やナパ郡などがある北カリフォルニアは一面にブドウ畑が広がり、ワイン生産者は各地のブドウ栽培者から購入したブドウをワインに醸造して販売した。\n\nフランス人移民のジャン=ルイ・ヴィーニュがミッション種よりも優れた品種をヨーロッパから持ち込んだ。ヨーロッパからの移民の中にはブドウ栽培やワイン生産の経験者も数多く混じっており、ゴールドラッシュを皮切りにしてカリフォルニアのワイン産業が花開いたが、当時のワインは大部分が粗悪品だった。1859年にはナパ・ワインの父的存在のサミュエル・ブラナンがナパに12万5000本の苗木を植え、この町の鉱泉にも興味を持ったブラナンはカリフォルニア初の億万長者となった。\n\n1857年に「カリフォルニアワインの父」アゴストン・ハラジーによってソノマ郡に設立されたブエナ・ビスタ・ワイナリーは、カリフォルニアで初めて商業的なワイン生産を行った。ハンガリー人移民のハラジーはカリフォルニアぶどう栽培委員会議長となり、1861年にはカリフォルニア州のジョン・ダウニー知事がハラジーにヨーロッパ視察を命じ、ハラジーはマスカット種やジンファンデル種を含むヨーロッパ系品種300種10万本をカリフォルニアに取り寄せたとされる。ハラジーはブドウ栽培やワイン醸造に関する書籍も執筆し、多くのワイン生産者に影響を与えた。", + "qas": [ + { + "question": "1848年以降のカリフォルニアで入植者が殺到し、人口と地元でのワインの需要が増加した要因は何ですか。", + "id": "tr-556-03-000", + "answers": [ + { + "text": "カリフォルニア・ゴールドラッシュ", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "フランス人移民のジャン=ルイ・ヴィーニュがヨーロッパから持ち込んだブドウ品種とミッション種と、より低品質なものはどちらですか。", + "id": "tr-556-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ミッション種", + "answer_start": 157, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1859年にはイギリス人移民のジョン・パチェットがナパ郡に初の商業的なワイナリーを設立している。パチェットのブドウ畑とワインセラーは今日のナパ市域に位置していた。この時期には、ブエナ・ビスタ・ワイナリー、ガンロック・バンシュー、イングルヌック・ワイナリー、マーカム・ヴィンヤーズ、シュラムズバーグ・ヴィンヤ���ズなど、カリフォルニアでも古いワイナリーが何件も設立されている。\n\nワイナリーの建設、ブドウ畑での植え付けや収穫、地下セラーの掘削など、この時期のカリフォルニアでのワイン産業の発展には中国人移民が重要な役割を果たしている。醸造責任者(ワインメーカー)などの高い地位に就いた中国系移民もいたが、アメリカ人熟練労働者に有利になるよう中国人移民コミュニティに深刻な影響を与えた1882年の中国人排斥法の制定によって、1890年まで中国人移民の大部分はワイン産業から排除された。カリフォルニアではミッション種が支配的な種であったが、19世紀後半にはヨーロッパ系品種が支配的となった。1880年代から1890年代には最初の黄金時代を築いた。", + "qas": [ + { + "question": "ナパ郡の最初の商業的なワイナリーはいつ設立されましたか。", + "id": "tr-556-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1859年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "19世紀後半以降、カリフォルニアで支配的だった品種はミッション種でしたか、ヨーロッパ系品種でしたか。", + "id": "tr-556-04-001", + "answers": [ + { + "text": "ヨーロッパ系品種", + "answer_start": 424, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1861年には南北戦争が勃発したが、この頃にはカリフォルニア産ワインが東部でも販売されるようになった。1869年には大陸横断鉄道が全通し、合衆国東部との経済活動が活発化。ニューヨークの商人によってカリフォルニア産ワインがヨーロッパに輸出され、ヨーロッパでも一定の評価を得た。大陸横断鉄道全通からの10年間でオーストラリアや東アジアにもカリフォルニア産ワインが輸出されるようになった。\n\n1873年にはカリフォルニア全体で300億本のブドウの樹が栽培されており、3年後の1876年には430億本と劇的な伸びを見せた。1870年代半ばにはソノマ郡がカリフォルニア最大のワイン産地となり、ソノマ郡の背後にはロサンゼルス郡が続いた。1880年代にはナパに800ヘクタールの、ロサンゼルスには4,000ヘクタールのブドウ畑があった。", + "qas": [ + { + "question": "1873年と1876年と、栽培されていたブドウの樹がより多かったのはいつですか。", + "id": "tr-556-05-000", + "answers": [ + { + "text": "3年後の1876年", + "answer_start": 230, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1880年代、ナパとロサンゼルスと、ブドウ畑の面積がより広かったのはどこですか。", + "id": "tr-556-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ロサンゼルス", + "answer_start": 333, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1860年代にフランスやヨーロッパの他産地を荒らしていたフィロキセラは、1870年代後半になるとカリフォルニアにも蔓延した。ヨーロッパに比べると被害は穏やかであり、生産量が激減していたヨーロッパに向けて多くのカリフォルニア産ワインが輸出された。小説家のロバート・スティーヴンソンは1883年の短編『SliveradoSquatters』の中で、「ボルドーは消え、ローヌはアラビアの砂漠となり、シャトー・ヌフは死に絶えた。草木の神、パンだけでなく、酒の神、バッカスも死んだ」と書き、世界のブドウ栽培の未来が「カリフォルニアとオーストラリアで決まる」と書いた。\n\n先に蔓延したヨーロッパではフィロキセラからの復興を試みる試行錯誤が続けられており、フィロキセラに耐性のあるアメリカ産の台木に接ぎ木する復興法が発見されていた。1880年代に設立されたカリフォルニア州立ブドウ栽培学会とカリフォルニア大学ブドウ栽培学研究所もフィロキセラ撲滅の研究を推し進めた。これらの対策によってカリフォルニア州のワイン産業はすぐに立ち直ることができ、新たなブドウ品種の植え付けを進める機会を利用した。1900年までに州内のブドウ畑に約300品種が植えられ、約800のワイナリーにブドウが供給された。", + "qas": [ + { + "question": "フィロキセラが欧州の地域で流行ったのはいつのことですか。", + "id": "tr-556-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1860年代", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "フランスとカリフォルニアと、フィロキセラの被害をより早く受けたのはどちらですか。", + "id": "tr-556-06-001", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ロバート・スティーヴンソンの職業は何?", + "id": "tr-556-06-002", + "answers": [ + { + "text": "小説家", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『SliveradoSquatters』はいつ出版されたの?", + "id": "tr-556-06-003", + "answers": [ + { + "text": "1883年", + "answer_start": 140, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "北アメリカのブドウ畑でもっとも恐れられている病害はフィロキセラではなくピアス病であり、1880年代の初発生時には、南カリフォルニアのブドウ畑をほぼ壊滅させた。ピアス病はその後も断続的に発生しているが、現在まで有効な治療法は発見されていない。\n\n1889年のパリ国際見本市にはカリフォルニア産ワインの生産者が招待され、スティルワイン、ブランデー、スパークリングワインの各部門で計34の賞を受賞した。特にナパ・ヴァレーの生産者は4個の金賞を含む20の賞を受賞した。1893年の大恐慌では金融業界が大混乱に陥り、ワイン消費量の減少と実業家のワイン業界からの撤退につながった。1900年のパリ万国博覧会でもカリフォルニア産ワインが多くの賞を受賞した。\n\n1906年4月18日にはサンフランシスコ地震が起こり、サンフランシスコにあるワイン倉庫は壊滅状態となった。ボトルや樽に深刻な破損の被害が出て、サンフランシスコだけで1億1400万リットルが流出した。禁酒法以前にはカリフォルニア州全体で1億リットル以上のワインを生産していた。", + "qas": [ + { + "question": "1880年代の初発生時に、南カリフォルニアのブドウ畑をほぼ壊滅させた原因は何でしたか。", + "id": "tr-556-07-000", + "answers": [ + { + "text": "ピアス病", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "北アメリカのブドウ畑でもっとも深刻な問題とされていたのはフィロキセラとピアス病とどちらですか。", + "id": "tr-556-07-001", + "answers": [ + { + "text": "ピアス病", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1893年、金融業界が大混乱に陥って、ワイン消費量の減少した原因は何だったの?", + "id": "tr-556-07-002", + "answers": [ + { + "text": "大恐慌", + "answer_start": 236, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1906年4月18日のサンフランシスコ地震によって、サンフランシスコで流出したワインは何リットルだった?", + "id": "tr-556-07-003", + "answers": [ + { + "text": "1億1400万リットル", + "answer_start": 405, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1919年1月16日にはカリフォルニア州がアメリカ合衆国憲法修正第18条(禁酒法)を批准して禁酒法時代に入った。多くのワインセラーが破壊され、施行以前に約700あったワイナリーの大部分はこの産業から撤退したが、禁酒法の例外として許可された聖礼典用のワインを教会に供給するために生き延びた生産者もいた。一方でブドウ栽培は禁止されなかったため、生食用ブドウやブドウジュースの生産に転換して生き延びたブドウ畑やワイナリーもあり、1920年代半ばまで���ブドウの栽培面積はむしろ拡大し、生のブドウや濃縮果汁は船積みされて中西部や東海岸に送られた。\n\n禁酒法下でも家庭での飲用目的であれば年間780リットル以下のワイン生産が許されており、禁酒法成立前の1915年から自家製ワインの生産が盛んとなり、成立後にはさらに自家製ワインの生産量が増加した。ワインの醸造法を添付してブドウジュースやブドウ濃縮果汁を販売した企業があり、また「発酵する危険性があるため、本品を摂氏15度以上の室内で保存しないでください」との警告文で暗に自家製ワインの生産方法を説明した商品も登場した。電話を受けて家庭に出張してブドウジュースを発酵させるプロの醸造家も現れた。\n\n自家製ワイン用品種としては水色が鮮やかで輸送が容易な品種が流行ったため、カベルネ・ソーヴィニヨン種などの高級品種が引き抜かれ、味わいは凡庸なアリカンテ・ブーシェ種などの頑丈なブドウが好まれた。1933年12月5日には修正第21条が批准されて禁酒法が撤廃されたが、この際に稼働していたワイナリーはわずか140だった。", + "qas": [ + { + "question": "禁酒法の成立後、自家製ワインの生産量は増加したか、減少したか。", + "id": "tr-556-08-000", + "answers": [ + { + "text": "増加", + "answer_start": 362, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "アリカンテ・ブーシェ種とカベルネ・ソーヴィニヨン種とどっちの方が自家製ワイン用品種として好まれたの?", + "id": "tr-556-08-001", + "answers": [ + { + "text": "アリカンテ・ブーシェ", + "answer_start": 587, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "禁酒法が廃止になったのはいつなの?", + "id": "tr-556-08-002", + "answers": [ + { + "text": "1933年12月5日", + "answer_start": 613, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アリカンテ・ブーシェ種とカベルネ・ソーヴィニヨン種とどちらの方が水色が鮮やかで輸送が容易な品種ですか。", + "id": "tr-556-08-003", + "answers": [ + { + "text": "アリカンテ・ブーシェ", + "answer_start": 587, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "13年間にも及ぶ禁酒法でワイン産業自体が後退し、再興に時間を要したため、多くのワイン愛好者は飲用するアルコールをワインから安酒や蒸留酒に切り替えた。カリフォルニアでは、禁酒法撤廃後には爆発的にワイナリーが増えて1934年には804に達したが、凡庸な品種による質の低さや需要の見込み違いなどが影響し、1944年には465にまで減少している。\n\n禁酒法施行以前にはスティルワインの生産量が酒精強化ワインを上回っていたが、禁酒法撤廃後には税金が安い酒精強化ワインが流行し、カリフォルニア産ワインの3/4を占めるようになった。東海岸や中西部の瓶詰め業者がカリフォルニアのワイン産業を牛耳るようになり、名門ワイナリーもこれらの瓶詰め業者に樽で出荷することがあった。\n\n1935年にはカリフォルニア大学デービス校にワイン醸造研究所が新設され、多くのワイン醸造家を輩出するカリフォルニア屈指のワイン研究機関となった。メイナード・アメリン教授とアルバート・J・ウィンクラー教授が先導してカリフォルニア州に適したブドウ品種を分析し、1944年の論文『カリフォルニアで栽培するブドウの果汁、および、ワインの成分と品質分析』ではウィンクラー・スケールと呼ばれるワイン産地の区分法が用いられた。加えてワイン醸造家の集合体であるワイン・インスティテュートが発足し、ワインの販売促進やワインの普及に取り組んだ。\n\n第二次世界大戦勃発後にはワイン供給量・消費量ともに減少したが、この時期にも品種改良などの研究は進み、大戦終結後にはデービス校が世界最高のブドウ栽培・ワイン醸造研究機関として認知されるようになった。ヨーロッパの食習慣に親しんだ第二次大戦帰還兵の存在も影響し、カリフォルニア全体で量から質への転換が進んだ。1960年代にはナパのブドウ栽培面積が4,000ヘクタールにまで増加したが、それでも1890年代の約半分に過ぎなかった。", + "qas": [ + { + "question": "カリフォルニアで、1934年と1944年とワイナリーがもっと多かったのはいつなの?", + "id": "tr-556-09-000", + "answers": [ + { + "text": "1934年", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "禁酒法撤廃後、酒精強化ワインとスティルワインと、カルフォルニアでの生産量が多かったのはどちらですか。", + "id": "tr-556-09-001", + "answers": [ + { + "text": "酒精強化ワイン", + "answer_start": 192, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "禁酒法撤廃後を基準に、酒精強化ワインとスティルワインと、どちらの方が税金が安かったですか。", + "id": "tr-556-09-002", + "answers": [ + { + "text": "酒精強化ワイン", + "answer_start": 192, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ナパのブドウ栽培面積は1960年代1890年代と、いつもっと広かったの?", + "id": "tr-556-09-003", + "answers": [ + { + "text": "1890年代", + "answer_start": 786, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1980年代にはフィロキセラが再来したが、当時のカリフォルニア州ではデービス校が推奨していたフィロキセラに弱いクローンを用いていたため、数千エーカーのブドウ畑が破壊された。多くのブドウ畑が再植樹を余儀なくされたが、1987年までに1万4000ヘクタールの植え替えが完了し、よりこの地に適した品種やクローンへの植え替えを進めることができた。1990年代にもワイナリー新設の動きは継続し、1995年にはカリフォルニア州全体で800を超えている。さらなる社会的名声を得る手段としてナパのワイナリーの所有者となる他業種での成功者が続いたが、2000年頃にはナパでブドウ畑拡大の余地がなくなった。アメリカ国外での売上高の減少にともなって、2009年のカリフォルニア州のワイナリーの売上は過去16年で初めて前年度を下回ったと報じられた。2008年以降の経済危機では高価格ワインの愛好家が減少しているが、アメリカのワイン消費量は堅実に成長し、カリフォルニアワインの愛好家は全世代で増加している。\n\n2017年10月、カリフォルニア州各地で発生した山林火災は、カリフォルニアワインの醸造所や畑などにも被害を与えた。", + "qas": [ + { + "question": "カリフォルニア州にまたフィロキセラがやってきたのはいつなの?", + "id": "tr-556-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1980年代", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "2017年10月、カリフォルニアワインの醸造所や畑などに被害を与えたのは何でしたか。", + "id": "tr-556-10-001", + "answers": [ + { + "text": "山林火災", + "answer_start": 466, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "世界的に著名なブドウ栽培・ワイン醸造学の研究機関としてカリフォルニア大学デービス校があり、世界のワイン界でもっとも影響力がある研究機関とされている。デービス校のブドウ栽培・ワイン醸造学科は1880年にカリフォルニア大学バークレー校に設置された研究所を前身としており、1935年にナパ郡に近いデービス校に移設された。第二次世界大戦後にはデービス校のジョン・L・イングラハム(JohnL.Ingraham)教授が乳酸菌の抽出に成功し、1959年にはR・ブランフォード・ウェブが世界初の人工的なマロラクティック発酵の制御に成功した。カリフォルニア州立大学フレズノ校もブドウ栽培・ワイン醸造学部門を持っており、カリフォルニアのワインメーカー(醸造責任者)の多くはデービス校・フレズノ校の両校出身者である。アメリカの他地域では、東海岸のニューヨークにあるコーネル大学や、西海岸のワシント���州にあるワシントン州立大学にも、名の知られたブドウ栽培・ワイン醸造学部門が存在する。\n\n旧世界のヨーロッパではブドウ栽培に土壌を重視する考え方が一般的だが、カリフォルニア州などの新世界では土壌よりも気候が重視される。デービス校のメイナード・アメリン教授とアルバート・J・ウィンクラー教授は気候(積算温度)を元にしたワイン産地の区分法「ウィンクラー・スケール」を開発し、グレゴリー・ジョーンズ教授がカリフォルニア州以外の産地にも応用できるよう改定した。この区分法では4月1日から10月1日までの期間について、摂氏10度(華氏50度)を超える温度を積算したものであり、その産地に適したブドウ品種とワインのスタイルの概略を示している。ジョーンズによる改訂版は特定の品種が特定の地域で成熟するかの目安に使用されている。", + "qas": [ + { + "question": "ブドウ栽培において、カリフォルニア州では土壌と気候と、どちらの方が重視されますか。", + "id": "tr-556-11-000", + "answers": [ + { + "text": "気候", + "answer_start": 488, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ブドウ栽培において気候より土壌を重視するのは旧世界と新世界とどちらに当たりますか。", + "id": "tr-556-11-001", + "answers": [ + { + "text": "旧世界", + "answer_start": 433, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "「ウィンクラー・スケール」は何を基準にしてワイン産地を区分する方法なの?", + "id": "tr-556-11-002", + "answers": [ + { + "text": "気候(積算温度)", + "answer_start": 533, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ワシントン州立大学はどの州に位置していますか。", + "id": "tr-556-11-003", + "answers": [ + { + "text": "ワシントン州", + "answer_start": 384, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "カリフォルニアでは、フランス系、イタリア系、スペイン系などだけでなく、交配種やカリフォルニア大学デービス校ブドウ栽培・ワイン学学科によって開発された新品種など、100を超えるブドウ品種を栽培している。黒ブドウ品種ではカベルネ・ソーヴィニヨン種、メルロー種、ピノ・ノワール種、シラー種、ジンファンデル種の5品種、白ブドウ品種ではシャルドネ種、ソーヴィニヨン・ブラン種の2品種、計7品種がこの地域の筆頭ブドウ品種である。", + "qas": [ + { + "question": "カベルネ・ソーヴィニヨン種、メルロー種、ピノ・ノワール種、シャルドネ種のうち、黒ブドウ品種ではないものはどれか。", + "id": "tr-556-12-000", + "answers": [ + { + "text": "シャルドネ種", + "answer_start": 163, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1980年代末まで、カリフォルニア州のワイン産業はボルドー品種とシャルドネ種に支配されていた。消費者がこれらの品種に飽きてカリフォルニアワインの売上が落ち始めたため、ローヌ・レンジャーズと呼ばれる生産者集団や、「カル=イタル」(Cal-Ital)と呼ばれるイタリア人生産者が、シラー種、ヴィオニエ種、サンジョヴェーゼ種、ピノ・グリ種などの品種から生産した新たなスタイルのワインで業界を活性化させた。21世紀初頭、ワイン生産者はトルソー・グリ種やヴァルディギエ種など、古くにこの地域で栽培されていた品種の復活を試みている。\n\nカリフォルニアで2004年にもっとも栽培面積の大きかった黒ブドウ品種はカベルネ・ソーヴィニヨン種、もっとも栽培面積の大きかった白ブドウ品種はシャルドネ種であり、黒ブドウのメルロー種とジンファンデル種が両品種に続いている。2004年には栽培面積の約60%が黒ブドウ品種、約40%が白ブドウ品種であり、1999年よりも黒ブドウ品種が4%増加した。2004年のブドウ栽培面積は208,000ヘクタールであり、1999年よりも7%減少した。", + "qas": [ + { + "question": "2004年���カリフォルニアで、栽培面積の広さで1位をとった黒ブドウ品種は何?", + "id": "tr-556-13-000", + "answers": [ + { + "text": "カベルネ・ソーヴィニヨン種", + "answer_start": 297, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "2004年、カルフォルニアのブドウ栽培面積は黒ブドウ品種と白ブドウ品種と、どっちの方が広かったの?", + "id": "tr-556-13-001", + "answers": [ + { + "text": "黒ブドウ品種", + "answer_start": 389, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "カルフォルニアのブドウ栽培面積は、2004年と1999年、いつもっと広かったの?", + "id": "tr-556-13-002", + "answers": [ + { + "text": "1999年", + "answer_start": 463, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1980年代末まで、カリフォルニア州のワイン産業で主に扱われたブドウの品種はボルドー品種とまた何があったの?", + "id": "tr-556-13-003", + "answers": [ + { + "text": "シャルドネ種", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1878年にソノマに植樹されたとするのが、カベルネ・ソーヴィニヨン種のもっとも古い記録である。19世紀末には品質を重視するワイナリーの主力品種となり、フィロキセラと禁酒法の影響でカベルネのブドウ畑はほぼ絶えたものの、1960年代以降に盛り返した。1961年にはわずか200ヘクタールだったが、1990年には13,300ヘクタール、2008年には30,000ヘクタールとなった。1999年のメルロー種の栽培面積は19,300ヘクタールであり、ピークの2007年には20,200ヘクタールにまで拡大していたが、映画『サイドウェイ』の公開がメルロー種の人気に冷や水を浴びせ、2008年には19,100ヘクタールに減少した。1850年代に持ち込まれたジンファンデル種は成熟した際に糖度が高く、格好の低価格ワイン用品種となった。1980年代にピンク色のホワイト・ジンファンデルが流行し、現在では酒精強化ワインの素材にも使用されている。\n\n上記の品種以外で重要な黒ブドウ品種には、バルベーラ種、カベルネ・フラン種、カリニャン種、グルナッシュ種、マルベック種、ムールヴェードル種、プティ・シラー種、プティ・ヴェルド種、サンジョヴェーゼ種、タナ種がある。", + "qas": [ + { + "question": "ホワイト・ジンファンデルは何色なの?", + "id": "tr-556-14-000", + "answers": [ + { + "text": "ピンク色", + "answer_start": 366, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カベルネのブドウ畑の面積は1961年、何ヘクタールでしたか。", + "id": "tr-556-14-001", + "answers": [ + { + "text": "200ヘクタール", + "answer_start": 133, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "カベルネのブドウ畑の面積は1990年と2008年、いつもっと広かったの?", + "id": "tr-556-14-002", + "answers": [ + { + "text": "2008年", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "カルフォルニアでは、1961年のシャルドネ種の栽培面積はわずか120ヘクタールだったが、1970年代以降に急速に人気を増し、1991年にはフレンチ・コロンバード種を抜いて白品種第1位となった。かつてはオーク樽の使用が流行していたが、現在ではオーク樽を使用しないシャルドネの人気が増している。\n\n上記の品種以外で重要な白ブドウ品種には、シュナン・ブラン種、フレンチ・コロンバード種、ゲヴュルツトラミネール種,マルサンヌ種、マスカット・カネッリ種、ピノ・ブラン種、ピノ・グリ種、リースリング種、ルーサンヌ種、セミヨン種、トルソー・グリ種、ヴィオニエ種がある。", + "qas": [ + { + "question": "1961年のカルフォルニアでは、シャルドネ種の栽培面積は何ヘクタールだったか。", + "id": "tr-556-15-000", + "answers": [ + { + "text": "120ヘクタール", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カルフォルニアで1991年の白品種第1位となったのは何?", + "id": "tr-556-15-001", + "answers": [ + { + "text": "シャルドネ種", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "カワード1世", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "カワード1世はサーサーン朝の君主である。カワード1世はペーローズ1世(在位:459年-484年)の子で、途中2年もしくは3年の退位していた期間を挟み、488年から531年にかけてペルシアを統治した。彼は不評によって退位させられた叔父のバラーシュ(在位:484年-488年)に代わり、貴族の手によって王位に就いた。", + "qas": [ + { + "question": "カワード1世は、どの王朝の者なの?", + "id": "tr-557-00-000", + "answers": [ + { + "text": "サーサーン朝", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カワード1世の父親は、誰ですか?", + "id": "tr-557-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ペーローズ1世", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カワード1世が統治した地域は、どこか?", + "id": "tr-557-00-002", + "answers": [ + { + "text": "ペルシア", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カワード1世は、誰を引き下ろし即位したのか?", + "id": "tr-557-00-003", + "answers": [ + { + "text": "バラーシュ", + "answer_start": 117, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "カワード1世が王位を継承した時、サーサーン朝の王の権力と権威は大きく損なわれており、帝国は衰退の中にあった。カワード1世は帝国の再編成に取り組み、数多くの改革を導入した。これらの改革は息子であり後継者となるホスロー1世によって完成を見た。彼は当時社会革命を訴え、マズダクによって唱導されていたマズダク教を利用して貴族と聖職者の権力を弱めようと試みたが、この試みと強力な政界の実力者であったスフラを処刑したことが原因となり、忘却の城と呼ばれる監獄へ投獄されたことで一旦その治世を終えることになった。", + "qas": [ + { + "question": "カワード1世が構想した改革を、完成させたのは、誰?", + "id": "tr-557-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ホスロー1世", + "answer_start": 103, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ホスロー1世が行い完成させた改革案は、誰が構想したものですか?", + "id": "tr-557-01-001", + "answers": [ + { + "text": "カワード1世", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "カワード1世が貴族と聖職者の権力を弱めようとする計画に利用したのは、どの宗教か?", + "id": "tr-557-01-002", + "answers": [ + { + "text": "マズダク教", + "answer_start": 146, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カワード1世が監獄に投獄されるきっかけとなったのは、誰を処刑したことだったか?", + "id": "tr-557-01-003", + "answers": [ + { + "text": "スフラ", + "answer_start": 194, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "新しい王には兄弟のジャーマースプが据えられた。しかし、妻と親友のシヤーウシュの助けを借り、カワードと彼の幾人かの支持者は東方のエフタルの王が支配する領土へ逃れた。カワードは���こでエフタルの軍事的な協力を得て、498年もしくは499年に王位に復帰した。", + "qas": [ + { + "question": "カワード1世が投獄され、新しく王に即位したのは、誰なの?", + "id": "tr-557-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ジャーマースプ", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カワードの王位復帰に手助けをしたのは、どの国でしたか?", + "id": "tr-557-02-001", + "answers": [ + { + "text": "エフタル", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "脱獄したカワードは、どの国へと逃げ出したか?", + "id": "tr-557-02-002", + "answers": [ + { + "text": "エフタル", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カワードの王位復帰時期と考えられるのは、498年もしくは何年か?", + "id": "tr-557-02-003", + "answers": [ + { + "text": "499年", + "answer_start": 112, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "治世の中断の影響によって財政が破綻したため、カワード1世は東ローマ皇帝アナスタシウス1世に対し補助金の支払いを要請した。東ローマ帝国は以前より北方からの侵略に対するコーカサスの防衛を維持するために、サーサーン朝に対し資金援助を行っていた。しかしアナスタシウス1世が補助金の支払いを拒否したため、カワード1世は東ローマ帝国の領土へ侵攻し、アナスタシア戦争と呼ばれる戦争を開始した。", + "qas": [ + { + "question": "カワード1世は、どの国から補助金をもらい、財政復旧を行おうとしたの?", + "id": "tr-557-03-000", + "answers": [ + { + "text": "東ローマ帝国", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "東ローマ帝国がどこにおける防衛を維持するために、サーサーン朝へ資金援助を行っていましたか?", + "id": "tr-557-03-001", + "answers": [ + { + "text": "コーカサス", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カワード1世により始まった、東ローマ帝国との戦争は、何と呼ばれるか?", + "id": "tr-557-03-002", + "answers": [ + { + "text": "アナスタシア戦争", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アナスタシア戦争は、誰の先制攻撃により始まったか?", + "id": "tr-557-03-003", + "answers": [ + { + "text": "カワード1世", + "answer_start": 147, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "カワード1世は最初にテオドシオポリス(現在のエルズルム)を攻略し、その後アミダ(現在のディヤルバクル)を三ヶ月に及ぶ包囲戦の末に占領した。双方の帝国は506年に和平を結び、東ローマ帝国はアミダの返還の見返りにコーカサスの防御施設の維持のための補助金をカワード1世に支払うことで同意した。この頃、カワード1世は以前の支援者であったエフタルとの長期にわたる戦争も戦った。513年までに、サーサーン朝はエフタルからホラーサーンの領域を取り戻すことに成功した。", + "qas": [ + { + "question": "テオドシオポリスとアミダのうち、より早く占領されたのは、どちらなの?", + "id": "tr-557-04-000", + "answers": [ + { + "text": "テオドシオポリス", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カワード1世はアミダを占領するのに、何ヶ月もの包囲戦を行いましたか?", + "id": "tr-557-04-001", + "answers": [ + { + "text": "三ヶ月", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "東ローマ帝国とサーサーン朝の間で和平条約が締結されたのは、何年のことか?", + "id": "tr-557-04-002", + "answers": [ + { + "text": "506年", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "東ローマ帝国はどこを取り戻すために、カワード1世への補助金支払いを行うと決めたか?", + "id": "tr-557-04-003", + "answers": [ + { + "text": "アミダ", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "528年、東ローマ帝国が息子のホスローをカワード1世の後継者として認めることを拒否したことと、ラジカをめぐる争いが原因となり、サーサーン朝と東ローマ帝国との間で再び戦争が勃発した。ペルシア軍はダラの戦いとサタラの戦いにおいて顕著な損失を被ったが、戦線は大部分において決着がつかず、双方が大きな損失を出した。", + "qas": [ + { + "question": "東ローマ帝国とペルシアの間で再び戦争が勃発したのは、何年のことなの?", + "id": "tr-557-05-000", + "answers": [ + { + "text": "528年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "528年から始まった東ローマ帝国とペルシアの間の戦争は、東ローマ帝国が誰をペルシアの君主として認めなかったことから始まりましたか?", + "id": "tr-557-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ホスロー", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "528年から始まった東ローマ帝国とペルシアの間の戦争は、ホスローの王位継承問題のほかに、何をきっかけに勃発したか?", + "id": "tr-557-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ラジカをめぐる争い", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ペルシア軍が大きな損失を被った戦闘は、ダラの戦いとどの戦闘だったか?", + "id": "tr-557-05-003", + "answers": [ + { + "text": "サタラの戦い", + "answer_start": 102, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "531年、ペルシア軍によるマルティロポリス包囲戦の最中にカワード1世は病没した。王位は再び活力を取り戻し東ローマ帝国に匹敵する強大となった帝国を受け継いだホスロー1世に引き継がれた。", + "qas": [ + { + "question": "カワード1世が死んだのは、何年のことなの?", + "id": "tr-557-06-000", + "answers": [ + { + "text": "531年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "カワード1世は、どの戦闘中に死去しましたか?", + "id": "tr-557-06-001", + "answers": [ + { + "text": "マルティロポリス包囲戦", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カワード1世の継承者は、誰か?", + "id": "tr-557-06-002", + "answers": [ + { + "text": "ホスロー1世", + "answer_start": 77, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ホスロー1世が王位についたのは、何年のことか?", + "id": "tr-557-06-003", + "answers": [ + { + "text": "531年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "カワード1世はペーローズ1世(在位:459年-484年)の子として473年に生まれた。サーサーン家は、初代のサーサーン朝の王アルダシール1世(在位:224年-242年)がパルティアを倒し、ペルシアを征服した224年以降ペルシアの君主を輩出してきた。", + "qas": [ + { + "question": "カワード1世は、何年に生まれたの?", + "id": "tr-557-07-000", + "answers": [ + { + "text": "473年", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "のちにペーローズ1世の王位を継承する者が生まれたのは、何年ですか?", + "id": "tr-557-07-001", + "answers": [ + { + "text": "473年", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サーサーン朝の創始者は、誰か?", + "id": "tr-557-07-002", + "answers": [ + { + "text": "アルダシール1世", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サーサーン朝がペルシアの統治勢力として君臨したのは、何年以降のことか?", + "id": "tr-557-07-003", + "answers": [ + { + "text": "224年", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ペルシアは非常に軍事化された社会を形成し、支配層は自らを「戦士貴族」(アルテーシュターラーン)と呼んでいたが、それでもローマ帝国と比較して人口はかなり少なく、貧困であり、中央集権化の程度で劣っていた。結果として、サーサーン朝の王は少数の常備軍よりも貴族の軍事力に依存していた。いくつかの例外は、王室警護の騎兵隊と守備隊、そしてペルシアの外部から徴兵された部隊であった。", + "qas": [ + { + "question": "ペルシアの支配層は、自らを何と呼んでいたの?", + "id": "tr-557-08-000", + "answers": [ + { + "text": "戦士貴族", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "この文書では、ペルシアの実装を説明するために、どの国と比較していますか?", + "id": "tr-557-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ローマ帝国", + "answer_start": 59, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この文書で言うペルシアとは、どの王朝のことを指すか?", + "id": "tr-557-08-002", + "answers": [ + { + "text": "サーサーン朝", + "answer_start": 106, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ペルシアの軍事力のほとんどは、どのような人々の私兵が占めていたか?", + "id": "tr-557-08-003", + "answers": [ + { + "text": "貴族", + "answer_start": 124, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "貴族の大部分にイラン高原を中心とする強力なパルティア貴族(ウズルガーンとして知られている)が含まれていた。彼らはサーサーン朝の封建的軍隊の根幹を担い、ほとんど自律的な存在であった。サーサーン朝の王はウズルガーンをほとんど制御することができず、彼らの自己決定を制限しようとする試みは、大概において王の暗殺という結果をもたらした。", + "qas": [ + { + "question": "パルティア貴族が拠点としていたのは、どこなの?", + "id": "tr-557-09-000", + "answers": [ + { + "text": "イラン高原", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サーサーン朝の封建的軍隊の根幹を担っていたのは、どのような人々でしたか?", + "id": "tr-557-09-001", + "answers": [ + { + "text": "パルティア貴族", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "サーサーン朝の王が自分たちの自己決定を制限しようとする動きが見られると、その王を暗殺することで自分たちの権力を維持してきたのは、誰���?", + "id": "tr-557-09-002", + "answers": [ + { + "text": "ウズルガーン", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サーサーン朝の王が自分たちの自己決定を制限しようとする動きが見られると、その王を暗殺することで自分たちの権力を維持してきた部族は、どこを拠点として活動していたか?", + "id": "tr-557-09-003", + "answers": [ + { + "text": "イラン高原", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "軍事力におけるもう一つの極めて重要な構成要素はアルメニア人騎兵の存在であり、彼らはパルティア人のウズルガーンの階級の外から徴兵されていた。しかし、451年におけるアルメニアの反乱(アヴァライルの戦い)とアルメニアの騎兵隊の喪失は、北東部で国境を接するエフタルの侵入を食い止めるサーサーン朝の試みの妨げとなった。", + "qas": [ + { + "question": "サーサーン朝の軍事力におけるもう一つの極めて重要な構成要素は、どんな兵力の存在であったの?", + "id": "tr-557-10-000", + "answers": [ + { + "text": "アルメニア人騎兵", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アルメニアの反乱は、何年に発生した反乱でありますか?", + "id": "tr-557-10-001", + "answers": [ + { + "text": "451年", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "エフタルの侵入を撃退するのに、重要な存在とされたのは、どのような兵力だったか?", + "id": "tr-557-10-002", + "answers": [ + { + "text": "アルメニア人騎兵", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アルメニア人騎兵の喪失は、どの国の侵入を撃退することに支障を生み出したか?", + "id": "tr-557-10-003", + "answers": [ + { + "text": "エフタル", + "answer_start": 125, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "カワード1世の祖父にあたるヤズデギルド2世(在位:438年-457年)は、その治世のほとんどの期間を通してエフタルに対する戦争を継続し、この時代にはエフタルの侵攻を阻止することに成功していた。しかしながら、その後中央アジアにおけるサーサーン朝の権威は衰えを見せ始めた。", + "qas": [ + { + "question": "ヤズデギルド2世の治世のサーサーン朝は、どの国との戦争が続いたの?", + "id": "tr-557-11-000", + "answers": [ + { + "text": "エフタル", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "カワード1世の祖父にあたると書かれているのは、誰ですか?", + "id": "tr-557-11-001", + "answers": [ + { + "text": "ヤズデギルド2世", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カワード1世とヤズデギルド2世は、両者ともどの王朝の王だったか?", + "id": "tr-557-11-002", + "answers": [ + { + "text": "サーサーン朝", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "484年、ペーローズ1世がバルフ近郊におけるエフタル軍との戦いに敗れて戦死した。軍隊は完全に打ち破られ、ペーローズ1世の遺体は発見されなかった。また、ペーローズ1世の息子と兄弟のうち四人が共に命を落とした。戦後、サーサーン朝の東方に位置するホラーサーンの主要都市であるニーシャープール、ヘラートおよびメルヴがエフタルの支配下に置かれることになった。", + "qas": [ + { + "question": "ペーローズ1世が死去したのは、何年のことなの?", + "id": "tr-557-12-000", + "answers": [ + { + "text": "484年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ペーローズ1世の息子が死んだのは、何年のことですか?", + "id": "tr-557-12-001", + "answers": [ + { + "text": "484年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "アースキン・メイ(初代ファーンバラ男爵)", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "初代ファーンバラ男爵トマス・アースキン・メイ(英語:ThomasErskineMay,1stBaronFarnboroughKCBPC、1815年2月8日-1886年5月17日)は、イギリスの庶民院書記官(在任:1871年-1886年)などを歴任した官吏、著述家である。", + "qas": [ + { + "question": "トマス・アースキン・メイは、どの国の者なの?", + "id": "tr-558-00-000", + "answers": [ + { + "text": "イギリス", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "初めてファーンバラ男爵の位についたのは、誰ですか?", + "id": "tr-558-00-001", + "answers": [ + { + "text": "トマス・アースキン・メイ", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "トマス・アースキン・メイは、何を歴任したことでよく知られているか?", + "id": "tr-558-00-002", + "answers": [ + { + "text": "庶民院書記官", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "トマス・アースキン・メイの職業としては、官吏と何が挙げられているか?", + "id": "tr-558-00-003", + "answers": [ + { + "text": "著述家", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "アースキン・メイは特に議事規則本『議会の法、特権、手続と慣習』(1844年初版)の著者として国内外に広く知られ、本書を指して「アースキン・メイ」(ErskineMay)と呼ぶことも多い。本書は21世紀においても「議会手続を定めたバイブル」「議会運営準則の中で最も権威ある書」などとイギリスで評され、メイの没後も『アースキン・メイ:英国議会法実務』の書籍名で改訂が重ねられ、2019年には第25版が出版されている。", + "qas": [ + { + "question": "アースキン・メイは、何の著者として特に有名なの?", + "id": "tr-558-01-000", + "answers": [ + { + "text": "『議会の法、特権、手続と慣習』", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『議会の法、特権、手続と慣習』は、その著者の名をそのまま使い呼ばれることが多いが、その呼び方とは、何ですか?", + "id": "tr-558-01-001", + "answers": [ + { + "text": "「アースキン・メイ」", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "2019年に出された『議会の法、特権、手続と慣習』の改訂版は、第何版か?", + "id": "tr-558-01-002", + "answers": [ + { + "text": "第25版", + "answer_start": 193, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『アースキン・メイ:英国議会法実務』の第25版は、何年に出されたか?", + "id": "tr-558-01-003", + "answers": [ + { + "text": "2019年", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "16歳で庶民院図書館勤務を始めたメイは、長年の功績が認められて1871年に下院事務アドバイザーのトップである庶民院書記官に任ぜられた。71歳での退任後にはファーンバラ男爵に叙されたが、貴族院議員就任に間に��わず1週間後に死去し、爵位は廃絶した。", + "qas": [ + { + "question": "メイはわずか何歳で、庶民院図書館で働き始めたの?", + "id": "tr-558-02-000", + "answers": [ + { + "text": "16歳", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "メイが庶民院書記官に任命されたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-558-02-001", + "answers": [ + { + "text": "1871年", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "庶民院書記官として長い間活動したメイは、何歳で退任したか?", + "id": "tr-558-02-002", + "answers": [ + { + "text": "71歳", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "メイは、何歳で死去したか?", + "id": "tr-558-02-003", + "answers": [ + { + "text": "71歳", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "アースキン・メイは、1815年2月8日、ロンドン北西部のカムデン区ケンティッシュ・タウンに生まれる。同年9月21日にセント・マーティン・イン・ザ・フィールズで洗礼を受け、洗礼記録における両親の名前はトマス・メイ(ThomasMay)とサラ・メイ(SarahMay)である。", + "qas": [ + { + "question": "アースキン・メイは、どの町で生まれたの?", + "id": "tr-558-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ケンティッシュ・タウン", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アースキン・メイは、いつ生まれましたか?", + "id": "tr-558-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1815年2月8日", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アースキン・メイが洗礼を受けたのは、何年のことか?", + "id": "tr-558-03-002", + "answers": [ + { + "text": "1815年", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アースキン・メイは、どこで洗礼を受けたか?", + "id": "tr-558-03-003", + "answers": [ + { + "text": "セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ", + "answer_start": 58, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "アースキン・メイは、1826年から1831年までベッドフォード・グラマースクールで校長ジョン・ブリアートン(JohnBrereton)の教え子として中等教育を受けた。グラマースクールの多くは成功した商人の寄付によって設立された私立校であり、16世紀設立と古い歴史を持つベッドフォード・グラマースクールも、メイの頃には親元を離れて学ぶ寄宿制を採用していた(すなわち寄宿費を支払うだけの財力のある子弟を受け入れていた)。", + "qas": [ + { + "question": "アースキン・メイが、ベッドフォード・グラマースクールに通ったのは、何年から何年までなの?", + "id": "tr-558-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1826年から1831年", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アースキン・メイが中等教育を受けた、教育機関はどこですか?", + "id": "tr-558-04-001", + "answers": [ + { + "text": "ベッドフォード・グラマースクール", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ベッドフォード・グラマースクールでアースキン・メイを教えたのは、誰か?", + "id": "tr-558-04-002", + "answers": [ + { + "text": "ジョン・ブリアートン", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アースキン・メイが中等教育を受けた教育機関は、何世紀に設立されたものだったか?", + "id": "tr-558-04-003", + "answers": [ + { + "text": "16世紀", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "庶民院図書館は1818年に設立されたばかりであり、メイが図書館員補佐に就任したときの司書はトマス・ヴァードン(ThomasVardon、在任:1831年-1867年)だった。ヴァードンが1835年に述べたように、当時の庶民院図書館は主に「議会の儀礼、財政、法案の審議段階、法令の内容」などの情報を議員に速やかに提供することをミッションとしており、この一環で庶民院日誌(journal)に索引をつける業務も手掛けていた。日誌とは、法案の請願書や法案審議の経緯と採決結果、主要な出来事などをとりまとめた文献である(審議中の演説や討論の詳細は含まない)。庶民院日誌の索引はジェームズ1世治世(17世紀初期)の頃より、議会における慣習法の源として重要な位置づけにあった。", + "qas": [ + { + "question": "庶民院図書館は何年に設立されたの?", + "id": "tr-558-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1818年", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "メイが庶民院図書館員補佐についた時、司書には誰がついていましたか?", + "id": "tr-558-05-001", + "answers": [ + { + "text": "トマス・ヴァードン", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "庶民院日誌の索引は、誰の時代から議会における慣習法の源として重要なものに位置づけられたか?", + "id": "tr-558-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ジェームズ1世", + "answer_start": 283, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ジェームズ1世の時代から議会における慣習法の源として重要なものに位置づけられたのは、何の索引か?", + "id": "tr-558-05-003", + "answers": [ + { + "text": "庶民院日誌", + "answer_start": 274, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "庶民院日誌の索引付け業務にメイも携わることとなり、この頃より議会規則について学ぶようになる。この経験が後の『アースキン・メイ』執筆の糧となったとされる。ヴァードンが図書館司書に、そしてメイが図書館員補佐に就任した1831年時点では、1820年から1829年までの暫定索引がヴァードンの前任者ベンジャミン・スピラー(BenjaminSpiller)によって作成済の状況にあった。しかし、その後の索引付け業務は以下のとおり、幾度となく中断せざるをえなかった。", + "qas": [ + { + "question": "庶民院日誌の索引付け業務は、メイにとって何について学ぶ良い機会となったの?", + "id": "tr-558-06-000", + "answers": [ + { + "text": "議会規則", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『アースキン・メイ』執筆の糧となった経験とは、何ですか?", + "id": "tr-558-06-001", + "answers": [ + { + "text": "庶民院日誌の索引付け業務", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヴァードンとメイが庶民院図書館で働くようになったのは、何年のことか?", + "id": "tr-558-06-002", + "answers": [ + { + "text": "1831年", + "answer_start": 106, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1820年から1829年までの暫定索引を作成したのは、誰か?", + "id": "tr-558-06-003", + "answers": [ + { + "text": "ベンジャミン・スピラー", + "answer_start": 145, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1855年12月(40歳)から庶民院書記官補佐を務めていたメイだが、50代半ばにして書記官への昇格が見えてくる。当時の庶民院書記官現職はル・マーチャントであり、庶民院議長の事務会議に毎日出席するル・マーチャントはまるで「軍艦に乗る兵士」のようだ、とのちの庶民院書記官アーチボルド・ミルマン(ArchibaldMilman)は述べている。", + "qas": [ + { + "question": "メイが庶民院書記官補佐として活動したのは、いつからなの?", + "id": "tr-558-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1855年12月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "庶民院書記官補佐として活動し始めた頃のメイは、何歳でしたか?", + "id": "tr-558-07-001", + "answers": [ + { + "text": "40歳", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "庶民院書記官補佐として活動する可能性が見えてきた頃のメイは、何歳頃だったか?", + "id": "tr-558-07-002", + "answers": [ + { + "text": "50代半ば", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "メイが庶民院書記官に昇格する可能性が見えてきた頃、庶民院書記官には誰がついていたか?", + "id": "tr-558-07-003", + "answers": [ + { + "text": "ル・マーチャント", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "しかしながら、このル・マーチャントが1870年秋にもうすぐ引退する予定であると明らかになった。メイがその後任になるのはもはや疑いようもなく、首相ウィリアム・グラッドストン(当時のピール派、後にホイッグ党と合流して自由党を形成)が庶民院議長ジョン・エヴリン・デニソンに対し「わずかなためらいですら不当であろう」と述べるほどであった。", + "qas": [ + { + "question": "ル・マーチャントがもうすぐ引退する予定であるとの話が出てきたのは、いつなの?", + "id": "tr-558-08-000", + "answers": [ + { + "text": "1870年秋", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ル・マーチャントの後任には誰がつく可能性が最も高かったか?", + "id": "tr-558-08-001", + "answers": [ + { + "text": "メイ", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1870年の時点でイギリス首相には、誰がついていましたか?", + "id": "tr-558-08-002", + "answers": [ + { + "text": "ウィリアム・グラッドストン", + "answer_start": 72, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1870年の時点で庶民院議長には、誰がついていたか?", + "id": "tr-558-08-003", + "answers": [ + { + "text": "ジョン・エヴリン・デニソン", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "こうしてメイの庶民院書記官への昇進は1871年2月2日に発表され、16日には任命の特許状(letterspatent)が発行された。メイ、56歳の時である。ル・マーチャントは自身の引退のときにアースキン・メイに対し感謝を述べている。", + "qas": [ + { + "question": "メイの庶民院書記官への昇進が発表されたのは、いつのことだったの?", + "id": "tr-558-09-000", + "answers": [ + { + "text": "1871年2月2日", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "メイの庶民院書記官への昇進に関して、1871年2月16日には何が発行されましたか?", + "id": "tr-558-09-001", + "answers": [ + { + "text": "任命の特許状", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1871年の時点でメイは、何歳だったか?", + "id": "tr-558-09-002", + "answers": [ + { + "text": "56歳", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "庶民院書記官への昇進が確定された時期のメイは、何歳だったか?", + "id": "tr-558-09-003", + "answers": [ + { + "text": "56歳", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "メイは1886年4月に71歳で庶民院書記官を辞任、5月10日に連合王国貴族であるサウサンプトン州におけるファーンバラのファーンバラ男爵に叙されたが、貴族院議員への就任にも間に合わず、1週間後の5月17日にウェストミンスター宮殿にある官邸で死去した。", + "qas": [ + { + "question": "メイが自分の職から辞任したのは、いつのことだったの?", + "id": "tr-558-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1886年4月", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "自分の職から辞任した頃のメイは、何歳でしたか?", + "id": "tr-558-10-001", + "answers": [ + { + "text": "71歳", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "メイはどこで死去したか?", + "id": "tr-558-10-002", + "answers": [ + { + "text": "ウェストミンスター宮殿にある官邸", + "answer_start": 102, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "メイは何年に死去したか?", + "id": "tr-558-10-003", + "answers": [ + { + "text": "1886年", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1886年、ウェストミンスター寺院の聖マーガレット教会で初代ファーンバラ男爵、メイの記念碑が立てられた。また、死後に撮影された写真に基づき、アルバート・ブルース=ジョイが胸像を作製し、1890年3月6日に庶民院議長による除幕式が行われた。", + "qas": [ + { + "question": "メイの記念碑が立てられたのは、何年のことだったの?", + "id": "tr-558-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1886年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "メイの胸像を作製したのは、誰ですか?", + "id": "tr-558-11-001", + "answers": [ + { + "text": "アルバート・ブルース=ジョイ", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "メイのための庶民院議長による除幕式は、いつ行われたか?", + "id": "tr-558-11-002", + "answers": [ + { + "text": "1890年3月6日", + "answer_start": 92, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "『英国人名事典』は初代ファーンバラ男爵を「有能、誠実で称賛に値する公務員」(amostable,faithful,andmeritoriouspublicservant)と称え、多くの人から尊敬されたとした。しかし、後世に庶民院書記官を務めたサー・ウィリアム・マッケイは初代ファーンバラ男爵が栄典に強い興味を持ったと指摘し、1884年に庶民院議長ブランドが首相グラッドストンにアースキン・メイの枢密顧問官への任命を推薦したとき、アースキン・メイが「ずうずうしくも『格別に適切』であると答え」、庶民院書記官から引退するときに賃金と同額の年金を求めたという。", + "qas": [ + { + "question": "『英国人名事典』は、初代ファーンバラ男爵を何と称えたの?", + "id": "tr-558-12-000", + "answers": [ + { + "text": "「有能、誠実で称賛に値する公務員」", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "初代ファーンバラ男爵のことを「有能、誠実で称賛に値する公務員」と称えたのは、誰ですか?", + "id": "tr-558-12-001", + "answers": [ + { + "text": "『英国人名事典』", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "サー・ウィリアム・マッケイと初代ファーンバラ男爵の共通点は、どの職を務めたとのことか?", + "id": "tr-558-12-002", + "answers": [ + { + "text": "庶民院書記官", + "answer_start": 111, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "オランダ黄金時代の絵画", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "オランダ黄金時代の絵画は、オランダが世界的な影響力を持っていた、ネーデルラント諸州の独立戦争である八十年戦争の終わりから17世紀を中心として、オランダ人画家たち、あるいはオランダで活躍した外国人画家たちによって描かれた絵画のことである。八十年戦争でスペインからの独立を宣言したネーデルラント連邦共和国は当時のヨーロッパで最も富裕な国で、貿易、学問、芸術の最先端国家だった。連邦共和国を構成した北部の州は、南部の州に比べると芸術分野で優っているとはいえなかった。しかし戦争による混乱と住民の大規模な移動はそれまでの君主制やカトリック的伝統の破壊につながり、オランダ芸術はこれらの大きな変革の結果、素晴らしい成果となって結実した。", + "qas": [ + { + "question": "オランダが世界的な影響力を持っていた、八十年戦争の終わりから17世紀を中心として、オランダ人画家たち、あるいはオランダで活躍した外国人画家たちによって描かれた絵画を何といいますか。", + "id": "tr-559-00-000", + "answers": [ + { + "text": "オランダ黄金時代の絵画", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ネーデルラント諸州の独立戦争を何といいますか。", + "id": "tr-559-00-001", + "answers": [ + { + "text": "八十年戦争", + "answer_start": 49, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "八十年戦争でスペインからの独立を宣言した国はどこ?", + "id": "tr-559-00-002", + "answers": [ + { + "text": "ネーデルラント連邦共和国", + "answer_start": 138, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "風俗画に描かれているのは特定可能な有名な人物というわけではなく、肖像画としても歴史画としても分類できない一般市民の日常生活である。風景画とともに、風俗画の発展と広範な人気は当時のオランダ絵画の最大の特徴となっているが、フランドルでも同時期に風俗画の人気は高かった。フェルメールの『牛乳を注ぐ女』のように一人の人物を主題に描かれた作品も多いが、複数の階層や群集を描いた大きな作品もある。風俗画には多くの画題があり、一人の人物、農夫の家族、居酒屋、家事をする女性、村祭り、市場、兵舎、馬や家畜など多岐に渡っている。当時のオランダではそれぞれのタイプの絵画を指す呼び方はあったが、「風俗画」に相当するような全てのタイプの絵画を意味する総称は存在しなかった。18世紀後半のイングランドでは、これらの絵画の総称として「ユーモアのある絵画(drolleries)」が使われていた。", + "qas": [ + { + "question": "『牛乳を注ぐ女』は誰の作品なの?", + "id": "tr-559-01-000", + "answers": [ + { + "text": "フェルメール", + "answer_start": 132, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『牛乳を注ぐ女』に登場する人物は何人いるの?", + "id": "tr-559-01-001", + "answers": [ + { + "text": "一人", + "answer_start": 151, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "三里塚闘争", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "三里塚闘争は、空港の建設地が現在の位置に決定するまでの経緯ならびに空港用地内外の民有地取得問題および騒音問題などにより空港建設に反発する地元住民らが革新政党指導の下で結成した「三里塚芝山連合空港反対同盟」による反対運動をその源流とする。反対運動はやがて開港を急ぐ日本政府による機動隊投入などの強硬策に対抗するため新左翼党派と合同することとなり、過激化した。「ボタンのかけ違い」と呼ばれる政府側と反対派のすれ違いの連続の結果、激しい闘争によって開港が当初予定より大幅に遅れただけではなく双方に死者を出す惨事となった。開港後も過激派によるテロ・ゲリラ事件や強固な反対運動が継続し空港の拡張が停滞したため、一時は世界屈指の国際空港の地位にあった成田空港も各国間の空港開発競争の中で次第に劣勢となっていった。また、地域社会にも住民間の対立をはじめとする爪痕を残すなど現在に至るまで大きな影を落としている。さらに、この闘争は公共事業のあり方についても国内外で大きな波紋を呼んだ。", + "qas": [ + { + "question": "空港建設への反対運動を針圧するために、日本政府は強硬策として何を投入したか?", + "id": "tr-560-00-000", + "answers": [ + { + "text": "機動隊", + "answer_start": 138, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "日本政府の強硬策に対抗するため、新左翼党派と合同したのは、どの団体か?", + "id": "tr-560-00-001", + "answers": [ + { + "text": "三里塚芝山連合空港反対同盟", + "answer_start": 88, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "開港後もテロ・ゲリラ事件などで反対運動を続けたのは、どんな人々?", + "id": "tr-560-00-002", + "answers": [ + { + "text": "過激派", + "answer_start": 261, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "千葉県の北部は『続日本紀』で「令諸国定牧地放牛馬」とある700年(文武天皇4年)から続く馬の牧用地(牧)として知られており、源平合戦では東国の源氏に軍馬を供給していた。江戸時代には小金五牧および佐倉七牧が設けられ、軍馬の飼育生産が行われる。20世紀に入り、殖産興業を推進していた明治政府は佐倉七牧の一つであった取香牧付近に近代牧畜による羊毛自給を目指して牧羊場を設けた。この牧羊場が後に宮内庁下総御料牧場(以下、御料牧場)となる。三里塚の街は牧場関係の商売で潤い、八百屋・魚屋・仕立て屋といった商店は飛ぶ鳥を落とす勢いだったという。しばしば御料牧場を訪れる皇族も住民らにとっては身近で親しみを感じる存在だった。裕仁親王(後の昭和天皇)成婚を記念して植えられた竹の美林に隣接する御料牧場には春先になると遠方からも大勢が花見に訪れる日本有数の桜並木があり、三里塚は千葉県随一の景勝の地と言われた。また、高村光太郎が『春駒』と題する「三里塚の春は大きいよ」から始まる詩で在りし日の御料牧場の様子を詠んでいる。「御料牧場を知らない奴は空港に反対する根拠がない」「本当のとこをいうと、(空港建設で)御料牧場がなくなるっていうんで、ここらの人はみんな気がおかしくなったのだ」と地元住民が後に語ったほど、御料牧場は近隣で生活を営む住民にとって物心両面で欠くことができない存在だった。", + "qas": [ + { + "question": "御料牧場の近くには、誰の成婚を記念して植えられた竹の美林があるか?", + "id": "tr-560-01-000", + "answers": [ + { + "text": "裕仁親王", + "answer_start": 305, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "高村光太郎が『春駒』と題する詩に出てくる牧場を設けた政府は?", + "id": "tr-560-01-001", + "answers": [ + { + "text": "明治政府", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "地元住民らが空港建設に反対した理由の一つになるのは、何がなくなるということでしたか?", + "id": "tr-560-01-002", + "answers": [ + { + "text": "御料牧場", + "answer_start": 452, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "御料牧場は何県にあるものか?", + "id": "tr-560-01-003", + "answers": [ + { + "text": "千葉県", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "下総台地が削られてできた谷地では谷津田と呼ばれる湿田で古くから農作が行われていた。そこで農業を営む江戸時代から続く集落は古村(こそん)と呼ばれ、強固な村落共同体が形成されていた。芝山の集落の多くがこの古村であり、成田側でも取香や駒井野がこれに該当する。なお、駒井野には水野葉舟が居住しており、開墾の様子を「我はもよ野にみそきすとしもふさのあらまきに来て土を耕す」と短歌で謳っている。この地は下総と上総の分水嶺に位置し、江戸時代は天領の代官の管轄区域の末端となっていたために強力な支配権が及ばず、権力に反抗的な風土が培われていたともいわれ、1914年には農民組合が組織されていた芝山町(当時は千代田村と二川村に分かれていた)では農村の階級支配に対し過去数々の争議が行われてきており、千葉県内でも農民運動が最も盛んな地域だった。", + "qas": [ + { + "question": "古村とは、どんな時代から続く集落のこと?", + "id": "tr-560-02-000", + "answers": [ + { + "text": "江戸時代", + "answer_start": 49, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "下総台地が削られてできた谷地で谷津田と呼ばれる湿田で古くから農作を行っていた、江戸時代から続く集落を何と言うか?", + "id": "tr-560-02-001", + "answers": [ + { + "text": "古村", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "水野葉舟が居住する古村は、どの都市に属するか?", + "id": "tr-560-02-002", + "answers": [ + { + "text": "成田", + "answer_start": 106, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "第二次世界大戦敗戦直後の1946年に戦後開拓の一環として御料牧場の敷地のうち約1000町歩が農地として開放されたほか、県有林の一部だった土地が払い下げられたことで入植が始められた。天浪・木の根・東三里塚・古込・東峰など成田側の耕作地の多くは、このときに開墾が始められたものである。当時の入植者は、「新窮民」と呼ばれる、敗戦によって生まれた引揚者や沖縄戦による荒廃と米国による統治により帰郷ができなくなってしまった沖縄県出身者、長男でないために家督を継げない農家の子息などで占められていた。なお、払下げの価格は一反当り80円(ショートピース2缶相当)程度だった。「新窮民」の多くはほとんど身一つでこの地で開墾を始めたため、その暮らしぶりは極めて貧しかった。「新窮民」らの開墾は困難を極め、昼間は古村での小作で収入を得て、その後は月明かりの下で鍬1本で開墾作業を行った。炊飯の頻度を最小限にして少しでも開墾に時間を充てるため、4日分の米をまとめて松葉などで炊き空気に触れて腐りやすい部分を削いで食べながら「オガミ」と呼ばれる電気や水道も通らない三角形の粗末な藁小屋で原始的な生活をしていた。", + "qas": [ + { + "question": "県有林の一部だった土地が払い下げられたことでやってきた人々を何と呼ぶの?", + "id": "tr-560-03-000", + "answers": [ + { + "text": "新窮民", + "answer_start": 149, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "経済的な問題を抱いていた新窮民らは、昼間にはどこでの小作で収入を得ましたか?", + "id": "tr-560-03-001", + "answers": [ + { + "text": "古村", + "answer_start": 346, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この文書では、払い下げられた県有林の一部だった土地に身一つでやってきた人々は、どのような生活をしていたとされていますか?", + "id": "tr-560-03-002", + "answers": [ + { + "text": "原始的な生活", + "answer_start": 481, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "第二次世界大戦が終わり、戦後開拓が行われ始めたのは、何年か?", + "id": "tr-560-03-003", + "answers": [ + { + "text": "1946年", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "農家としての生き残りをかけた土地争いも発生した入植地では、過酷な環境に耐えられなかった入植者が次々に脱落していった。結果としてこの地に残ったのは、脱落者から農地を買い取り生計を立てられるだけの規模を確保した者たちだった。それ以前にも1923年に宮内省御料牧場の2000町歩が払い下げられるなどしており、天神峰・横堀・十余三など、明治・大正期に原野を開墾して成り立った部落もあった。それらの地区で行われた開墾の中でも特に古いものとしては、三井八郎右衛門ら富豪の出資によって設立された開墾会社によるもの(東京新田)がある。この開墾を行ったのは開墾会社に雇われていた明治維新によって職を失った下級武士・武家の奉公人・流浪の民などからなる「東京窮民」であり、台風での被害を受けるなどの困難に直面したため苦境に耐えかねて逃亡する者が相次いだ。開墾会社は業績不振で結局解散するが、この地に留まって開墾を続ける「東京窮民」や脱落した「東京窮民」から農地を取得した農民はその後小作料の上納と土地所有をめぐり地租改正で発行された地券を持つ東京の豪商と争い、長い裁判闘争を経て入植者の権利の保証を勝ち取った。そのため、この地域の農民には土地に対する執着が深く刻み込まれていた。", + "qas": [ + { + "question": "三井八郎右衛門ら富豪が設立した開墾会社が解散した後、東京窮民から農地を収得した農民たちは、何を持った東京の豪商と土地所有をめくって争ったか?", + "id": "tr-560-04-000", + "answers": [ + { + "text": "地券", + "answer_start": 455, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "農民と土地所有をめぐって争った東京の豪商らは、何で発行された地券を持っていたか?", + "id": "tr-560-04-001", + "answers": [ + { + "text": "地租改正", + "answer_start": 445, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "富豪が出資して設立した開墾会社の従業員は、どう呼ばれていたの?", + "id": "tr-560-04-002", + "answers": [ + { + "text": "東京窮民", + "answer_start": 316, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "東京窮民とは、何により職を失った人々を指すの?", + "id": "tr-560-04-003", + "answers": [ + { + "text": "明治維新", + "answer_start": 280, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1965年11月18日、佐藤栄作内閣は同年に実施されたボーリング調査の結果から霞ヶ浦は候補地として適当ではなかったとして関係閣僚懇談会で空港建設地を富里に内定し、橋本登美三郎官房長官が記者会見で「関係閣僚協で新空港を富里にすることに内定した。あす閣議決定する」と突如発表した。これについては、埋め立て案を強力に推していた河野の急死と内陸案に難色を示していた友納武人千葉県知事の病気療養による不在を奇貨としたのではないかとの指摘もある。巨大な空港の面積は富里村の半分にも匹敵しており、空港周辺に展開されるであろう開発も考慮すれば、その実現は近代牧畜の発祥の地であるとともに末廣農場をはじめとする日本の農場経営のモデルケースとされてきた村がほとんど消滅することを意味していた。", + "qas": [ + { + "question": "空港建設の候補地を選ぶための調査が行われたのは、何年のこと?", + "id": "tr-560-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1965年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "記者会見で新空港を富里にすることに内定したと発表した官房長官は、誰か?", + "id": "tr-560-05-001", + "answers": [ + { + "text": "橋本登美三郎", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "富里が空港建設地として内定されたのは、いつか?", + "id": "tr-560-05-002", + "answers": [ + { + "text": "1965年11月18日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "当時は2019年現在と比べ、航空機の利用は大衆に浸透しておらず、騒音など外部不経済の負担が大きい空港は、単なる迷惑施設であるとしか世間は認識していなかったこともあり、既に空港建設の候補地となっていた各地では、反対運動が繰り広げられていた。富里村および八街町でも1963年には「富里・八街空港反対同盟」が結成されており、政府が迷走している間に革新政党が指導する反対運動が浸透していた。さらに突如として一方的に内定を突きつけられたことで地元農家らは「何が候補地として最適だ。地元の調査も挨拶もないうちに一方的に決められてたまるものか。ここは日本一の農耕地だ。農地はわれわれのいのちだ」と激怒した。その結果、富里・八街の地元住民らは、さらに激しい抗議活動を展開するようになっただけではなく政府発表まで根回しが全くなされなかった地方公共団体からも反発が出て、閣議決定はいったん取りやめとなった。千葉県庁には「富里に決定したら命をもらう」「ベトコン作戦で徹底的に戦う」など、脅迫まがいの電話や直談判が殺到した。また1960年代の日本は、中央政府・地方自治体・住民の力関係が変化しつつある時期にあたっていたが、これまで地元の陳情・請願を受けて飛行場を造ることがほとんどだった運輸省当局は、用地取得に関する地元住民との話し合いをどうするかも全く決めておらず、住民対策として「用地買収の条件」「代替地」「転業対策」「騒音対策」の4条件を提示して抗議してきた千葉県側に対しても「新東京国際空港公団法を次の国会に提出し、その公団に各省から人を出してもらって相談してもらう」とした。こうした「地元は政府の決めたことに従えばいい」と言わんばかりの運輸官僚の態度は、さらに火に油を注ぐこととなった。", + "qas": [ + { + "question": "富里村および八街町の地元の農家らは、自分たちの農地をどう思っていたか?", + "id": "tr-560-06-000", + "answers": [ + { + "text": "いのち", + "answer_start": 285, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "当時、空港とはどんな施設だと思われていたの?", + "id": "tr-560-06-001", + "answers": [ + { + "text": "迷惑施設", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1963年に富里村および八街町で結成された、空港建設に反対する同盟とは何ですか?", + "id": "tr-560-06-002", + "answers": [ + { + "text": "富里・八街空港反対同盟", + "answer_start": 138, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "富里村および八街町は、何県に属するところか?", + "id": "tr-560-06-003", + "answers": [ + { + "text": "千葉県", + "answer_start": 393, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "富里空港反対派のデモ隊が千葉県庁に乱入するなど、���1966年になっても反対運動は収束する気配を見せなかった。さらに同年の2月から3月にかけて大規模な航空事故が日本国内で相次いで発生(全日空羽田沖墜落事故・カナダ太平洋航空402便着陸失敗事故・英国海外航空機空中分解事故)。特にうち2件の事故は羽田空港の着陸援助能力の低さとの関連が指摘され、安全な航空施設の早急な整備が強く叫ばれるようになった。羽田が手狭であるというパイロットの不満の高まりとともに、日本航空や外国航空会社からの要求も無視できない段階に達しており、日本の将来を見据えて東京を世界の中心の一つとする展望を実現するには、新空港が不可欠であると考えられた。", + "qas": [ + { + "question": "日本国内で大規模な航空事故が発生したのは、何年の2月から3月にかけてですか?", + "id": "tr-560-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1966年", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1966年2月から3月にかけて日本国内で3件の航空事故が発生したが、最も多くの航空事故が発生したところは?", + "id": "tr-560-07-001", + "answers": [ + { + "text": "羽田空港", + "answer_start": 146, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "反対運動が激化し続けていく中でも新空港が不可欠だと考えられていたのは、羽田空港のどのような能力が低かったからか?", + "id": "tr-560-07-002", + "answers": [ + { + "text": "着陸援助能力", + "answer_start": 151, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "これらを受けて空港建設地問題の決着を急ぐ佐藤栄作首相の下で、若狭得治運輸事務次官が友納知事と秘密裏に交渉を行った。これと並行して自民党政務調査会交通部会でも代替案の検討が進められ、川島正次郎自民党副総裁の斡旋などを経て、いくつかの修正を行い、その修正によって民有地を最小限に抑える三里塚案が浮上、水面下で調整がなされた。この三里塚案は羽田空港の存続を前提とした技術的な見地を重視する運輸省と「運輸省はじめ航空関係者は空ばかり見て、地に足がついていない」と批判してきていた「現実政治家」との妥協の産物であるともいえる。なおこのとき、三里塚地区の貧しい開拓農民が相手であるなら「買い上げ価格を相当思い切ってやりさえすれば、空港建設は可能である」との思惑から古村を避けてなるべく開拓部落に収まるように空港のレイアウトを決めたと言われる。一方、運輸省では富里案こそが理想の新空港の形であり、三里塚案は「つなぎ」「暫定案」であるとの認識が残っていた。すでに三里塚案での調整が政府と千葉県の間で進められていた1966年6月21日に中村寅太運輸相が「新空港は富里・八街以外にない」と記者会見で述べたうえ、空港建設にあたり設立予定の空港公団総裁に指名された成田努が7月12日に「地元農民の賛成があれば(政府案以上に)拡張したい」との談話を出し、地元からの不信感を招いている。", + "qas": [ + { + "question": "富里案の代替案として挙げられたのは、どんな案なの?", + "id": "tr-560-08-000", + "answers": [ + { + "text": "三里塚案", + "answer_start": 140, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "富里案こそが理想であると思っていたのは、何省でしたか?", + "id": "tr-560-08-001", + "answers": [ + { + "text": "運輸省", + "answer_start": 368, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "富里案の代替案の検討を進めたのは、どこか?", + "id": "tr-560-08-002", + "answers": [ + { + "text": "自民党政務調査会交通部会", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "7月12日の談話で地元からの不信感を招いたのは、誰か?", + "id": "tr-560-08-003", + "answers": [ + { + "text": "成田努", + "answer_start": 520, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "中村運輸相が「富里・八街以外にない」と述べた翌日の6月22日に佐藤首相が三里塚・芝山地区での空港建設案について友納知事と協議し、その内容が報道された。3日後の6月25日、友納知事は成田市長の藤倉武男へこの協議内容を正式に伝達している。今回は千葉県のトップとは調整が行われていたものの、地元住民の意見聴取はやはり行われておらず、現地には一言の相談もなく空港が押し付けられる形となった。結果、富里での空港建設を対岸の火事と思い、空港建設による経済的恩恵さえ期待していた三里塚・芝山地区の住民らも、寝耳に水の状態で空港建設の内定を報道で知ると「一反歩(1,000平方メートル=10アール)もあるようなもの(航空機)が降りてくんだぞ。そんなもの降りてきたらどうすんだ」「戦争が起きたら爆弾が落とされる」「騒音で牛の乳が出なくなる」などと恐慌状態に陥り、富里と同様に猛反発した。革新政党にとっても三里塚への計画変更は意表を突かれるものであったが、巻き返しを図る日本共産党や日本社会党の指示を受けて、富里の反対運動を支援していた両党のオルグ団や反対派の富里住民らが直ちに現地に駆け付け、動揺する住民らに対して「富里と同じように闘えば、かならず空港を追い払うことができます」「俺らが勝ったんだから、あんたらも勝てる」と謳った。切迫する航空需要を受けて開港を急ぐ佐藤内閣は、空港計画そのものへの交渉行為に応じぬまま、2週間後の7月4日に「新東京国際空港の位置および規模について」を閣議決定した。この時の決定内容は2017年までの成田国際空港の基本計画となっている。ただし、2018年3月13日に四者協議会(後述)が最終合意した機能強化案はこの範疇に含まれない。", + "qas": [ + { + "question": "6月25日に友納知事が成田市長に正式に伝達した協議内容とは、友納知事と誰との間での協議内容のことか?", + "id": "tr-560-09-000", + "answers": [ + { + "text": "佐藤首相", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "6月25日に友納知事が成田市長に正式に伝達した協議内容とは、何月何日に行われた協議の内容ですか?", + "id": "tr-560-09-001", + "answers": [ + { + "text": "6月22日", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "6月22日の協議内容が成田市長にも伝えられたのは、何日後のことか?", + "id": "tr-560-09-002", + "answers": [ + { + "text": "3日後", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "反対派の富里住民らとともに、三里塚の住民らに反対運動で戦うべきだと押し付けたのは、日本共産党と何党のオルグ団だったの?", + "id": "tr-560-09-003", + "answers": [ + { + "text": "日本社会党", + "answer_start": 431, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "新しい空港計画は運輸省が「21世紀にも耐えうる」と自画自賛した富里案の規模に比べ大幅に縮小されてはいたが、それでも空港建設用地は成田市・芝山町・大栄町・多古町に跨る1065ヘクタールもの広大なものであり、御料牧場等の面積は空港予定地の4割(国有地は243ヘクタール、公有地は152ヘクタール)に満たず、ここでも民有地(670ヘクタール、325戸)の取得が課題となり、用地交渉の対象者は千数百人に上った。しかし、このとき日本政府は空港建設をまだ楽観視しており、あくまで「5年間で完成させるプロジェクトチーム」として各方面からの寄せ集めの人員で新東京国際空港公団を立ち上げている。後に一律に定められた補償額等の制約や激しい反対の中で、空港公団職員らは必死の用地買収交渉を行うこととなるが、省庁から出向してきた職員らの中には横柄な態度で地権者に接して不評を買った���もおり、「民間業者に任せれば(用地取得は)もっと早かったと思う」と振り返る空港公団OBもいる。1966年12月12日に運輸省が空港公団に指示した基本計画では、1971年春に滑走路1本と西側半分の施設(一期地区)で開港することとし(工事を1970年度中完成)、残りの施設(二期地区)の完成目標は1973年度末とされた。", + "qas": [ + { + "question": "空港建設用地に含まれる国有地と公有地、民有地のうち、最も面積の大きいのは、どちらか?", + "id": "tr-560-10-000", + "answers": [ + { + "text": "民有地", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1966年に運輸省が空港公団に指示した基本計画によると、新空港は何本の滑走路で開港する予定だったの?", + "id": "tr-560-10-001", + "answers": [ + { + "text": "1本", + "answer_start": 468, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1966年に運輸省が空港公団に指示した基本計画によると、何年度内に新空港を完成させることを目標としていたのか?", + "id": "tr-560-10-002", + "answers": [ + { + "text": "1973年度", + "answer_start": 525, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "新しい空港計画と富里案のうち、その規模がより大きいのはどちらなの?", + "id": "tr-560-10-003", + "answers": [ + { + "text": "富里案", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1966年6月25日、成田市立三里塚小学校で「新空港説明会」が開催され、藤倉市長が住民らに新空港建設への協力を要請した。しかし、空港建設用地と騒音地域の大部分を占める成田市および芝山町はほぼ空港建設反対一色となった。反対する地元住民らは富里村と同様に政府と対決することを決意し、富里の反対運動組織や現地に団結小屋を建てて常駐した革新政党オルグらの指導を受けながら各地区で反対運動団体を組織した。「三里塚空港反対同盟」が結成されたのは「新空港説明会」から僅か3日後の1966年6月28日のことである。当時、戦後開拓で入植した農民らにとっては、住宅資金や営農資金の返済が終わって農業がようやく軌道に乗り始めており、これまでの労苦の成果が実りつつある時期に当たっていた。また食糧不足の東京に農作物を供給し復興を影で支えていたという自負もあり、自分たちを標的とした三里塚案に大いに自尊心を傷つけられた。兵役・開拓・空港と国に翻弄されてきた農民からは「三度目の赤紙だ」との声も上がった。したがって、彼らは降って湧いた空港建設計画をこれまでの努力を否定するものと捉え、政府側の期待に反して強く反発した。", + "qas": [ + { + "question": "1966年6月25日に成田市立三里塚小学校で開催されたある説明会が開催されたが、その説明会があって3日後に結成されたのは、何ですか?", + "id": "tr-560-11-000", + "answers": [ + { + "text": "三里塚空港反対同盟", + "answer_start": 198, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ある説明会があってから3日後に三里塚空港反対同盟が結成されたのが、ある説明会とはいつ開催されたの?", + "id": "tr-560-11-001", + "answers": [ + { + "text": "1966年6月25日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "戦後開拓で入植した農民らが、東京へ農作物を供給することで復興を影で支えていたと自負しているのは、当時の東京がどのような問題に直面していたからか?", + "id": "tr-560-11-002", + "answers": [ + { + "text": "食糧不足", + "answer_start": 334, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "三里塚のほかに、政府の空港建設計画に反対する反対運動組織を結成したのは、どこか?", + "id": "tr-560-11-003", + "answers": [ + { + "text": "富里村", + "answer_start": 118, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "他にも、古村を開発や騒音から守ろうとする芝山地区等の住民や、皇室ゆかりの御料牧場に強い思い入れを持つ戦前派ら、行政が推進していた東山地区営農改善計画(シルクコンビナート計画)に応じて養蚕用の桑の栽培を始めたばかりにも関わらず計画を反故にされ憤る農家等、さまざまな背景を持つ者が反対運動に合流した。1966年7月から8月にかけて「三里塚空港反対同盟」および「芝山空港反対同盟」が合同し、「三里塚芝山連合空港反対同盟」(以下、反対同盟。)が結成された。初期段階での反対同盟は、農民を中心に用地外も含め約1200戸・約1500人で構成された。各部落には独立性が認められていたが、反対同盟の下部組織として少年行動隊・青年行動隊・婦人行動隊・老人行動隊が組織されたことにより各世代間での横でのつながりが生まれ、反対派の世帯は一家総出で反対運動に臨んだ。", + "qas": [ + { + "question": "様々な背景を持った人々が集まり、そして、もともとの反対同盟が合同して結成された同盟を、何と呼ぶの?", + "id": "tr-560-12-000", + "answers": [ + { + "text": "三里塚芝山連合空港反対同盟", + "answer_start": 193, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "戦前派らは何が毀損されることを恐れ、反対運動に賛同したのか?", + "id": "tr-560-12-001", + "answers": [ + { + "text": "御料牧場", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "芝山地区等の住民は古村を開発と何から守ろうと思い、反対運動に参加しましたか?", + "id": "tr-560-12-002", + "answers": [ + { + "text": "騒音", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ドゥニエ", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ドゥニエはかつてフランスで使われていた通貨単位である。シャルルマーニュの先代ピピン3世が着手した改革により、フランク王国はソリドゥス金貨を通貨単位とした金本位制と決別し、銀本位制へ舵をきった。ここで採用されたのがデナリウス銀貨である。フランク王国はやがて分裂し、デナリウスは盛期中世には各国語で呼ばれるようになった。そのフランス語読みがドゥニエである。フランス革命期にフランス・フランが採用されると役目を終え、廃止された。日本語ではドニエ、デニエなどとも表記されるが本項ではドゥニエに統一する。", + "qas": [ + { + "question": "ドゥニエはかつて、どこで使われた通貨単位なの?", + "id": "tr-561-00-000", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ドゥニエは何が採用されることで廃止されたか。", + "id": "tr-561-00-001", + "answers": [ + { + "text": "フランス・フラン", + "answer_start": 184, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ピピン3世が採用を決定したデナリウス(denarius)という貨幣の単位はピピンのオリジナルというわけではなく、共和制ローマの時代に起源がある。ローマのデナリウスの語源はadenisassibusで、当時存在した青銅貨アス10枚分と等価の新貨幣として設定されたために命名された。最初の一枚がいつ作成されたかについて、プリニウスは紀元前269年とし、後代の説では紀元前157年、紀元前167年などの説もあったが、現代では紀元前211ごろと考えられている。冒頭で既述のようにやがて各国語で呼ばれるようになったが、フランス語ではドゥニエと呼ばれるようになった。日本語ではドゥニエ、ドニエ、デニエなどと表記ゆれが見られる。\n\n同じくデナリウス銀貨を起源とする貨幣���、下表のような各国語で呼ばれた。最上段がラテン語の貨幣単位で、続く各行に各国の対応する単位を各国語で示してある。", + "qas": [ + { + "question": "ピピン3世が採用を決定した貨幣の単位は何ですか。", + "id": "tr-561-01-000", + "answers": [ + { + "text": "デナリウス(denarius)", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ローマのデナリウスの語源は何?", + "id": "tr-561-01-001", + "answers": [ + { + "text": "adenisassibus", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "プリニウスはローマのデナリウスの最初の一枚がいつ作られたと述べましたか。", + "id": "tr-561-01-002", + "answers": [ + { + "text": "紀元前269年", + "answer_start": 164, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "アンリ・ピレンヌはシャルルマーニュをさして「大帝が中世の貨幣制度の創始者である」とした。シャルルマーニュは1リーヴル=240ドゥニエという貨幣体系を制定し、この体系は18世紀末までおおむね維持されたが、当初実際に貨幣として発行されたのはドゥニエだけであった。基本設計として、1リーヴル重量の純銀から240枚のドゥニエを作るということから、この貨幣体系となった。以後時代を経ると貶質していき、最終的には銅貨に姿をかえ、さらにフランス革命を機にフラン体系に取って代わられる運命ではあるが、それまでの10世紀ほど存続した。\n\nインフレによってドゥニエの価値が下がってくると、より高額な単位であるスーやリーヴルの貨幣も出現するが、それまではこのふたつはあくまでも計算上の単位にすぎず、現代日本における厘や銭のような存在であった。その点においてドゥニエは基軸通貨として唯一の存在、現代日本における円のような存在であった。とはいえ経済が発達して貿易が盛んに行われるようになり、貿易などの大口取引を現金決済する機会が増えてくると、さすがに度重なる改鋳で価値の落ちたドゥニエを箱一杯分担いで取引を行うのは非現実的であることから、より価値の高い貨幣に対する需要が高まった。これに対応して、エキュ、フラン、グロなどの、金貨を含む新たな通貨単位が制定された。これらの新たな体系の通貨が発行された場合でも、ドゥニエはそれらの価値を計るための単位として用いられ、より高額な通貨体系と並立していくことになる。\n\n価値とともにその立ち位置も変化していくが、詳細は次の「歴史」節で記述する。", + "qas": [ + { + "question": "アンリ・ピレンヌは誰をさして「大帝が中世の貨幣制度の創始者である」と言ったか。", + "id": "tr-561-02-000", + "answers": [ + { + "text": "シャルルマーニュ", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "シャルルマーニュは240ドゥニエを何リーヴル制定したか。", + "id": "tr-561-02-001", + "answers": [ + { + "text": "1リーヴル", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "新たな体系の通貨が発行される場合、それらの価値を計るための単位として使われたのは何ですか。", + "id": "tr-561-02-002", + "answers": [ + { + "text": "ドゥニエ", + "answer_start": 591, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1リーヴル重量の純銀は何枚のドゥニエを作りますか。", + "id": "tr-561-02-003", + "answers": [ + { + "text": "240枚", + "answer_start": 149, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "こういった時代背景のもと、751年にピピン3世はローマ・ポンドをベースとし、1ポンドを22ソリドゥス、1ソリドゥスを12デナリウスとする銀本位制を採用した。続いて王位につ��たシャルルマーニュは先代の改革を引き継ぎ、781年に貨幣を鋳造する権利(貨幣高権)を国王に限定する勅令を発布した。また、銀貨をベースとした貨幣制度も引き継ぎ、重量をより増やした。具体的にはベースとなる銀の量を327グラムから1リーヴル重量へ引き上げ、1リーヴル20スー(ソリドゥス)、1スーを12ドゥニエ(デナリウス)、すなわち1リーヴルは240ドゥニエと定めた。この交換比率の変更は793-794年に行われた。純銀貨が作られたわけではないので便宜上の計算ではあるが、327グラム/264枚=1.24グラム/1枚(ピピン)と491グラム/240枚=2.05グラム/1枚(シャルルマーニュ)と考えると、1枚あたりの重量が増える計算になる。実際に初期に作られたのは408グラムで品位は950/1000の銀を元として打刻された240枚のドゥニエであった。", + "qas": [ + { + "question": "ローマ・ポンドをベースとし、1ポンドを22ソリドゥス、1ソリドゥスを12デナリウスとする銀本位制を採用した人は誰ですか。", + "id": "tr-561-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ピピン3世", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "シャルルマーニュとピピン3世と、誰がもっと先代の王なの?", + "id": "tr-561-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ピピン3世", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "シャルルマーニュは何年に貨幣を鋳造する権利国王に限定するという勅令を発布したか。", + "id": "tr-561-03-002", + "answers": [ + { + "text": "781年", + "answer_start": 107, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "銀貨を選択した理由については、単純に金貨を発行しつづける余力が当時のフランク王国に存在しなかったという衰退説が1927年のアンリ・ピレンヌ『中世の都市』などで有力であったが、1960年以降の研究では、将来的に一般市民にも貨幣を浸透させることを考えれば、彼らがより行う機会の多いであろう小額決済に便利な銀貨をあえて選択したためという説が有力となっている。ちなみに本項では詳細に触れないが、1980年代までの研究においてはこの時期は完全なる銀本位制であり、金貨の製造はなかったと考えられていたが、2015年発表の名城邦夫による論文によれば、流通貨幣としてではないものの細々と金貨の製造は行われていたという論も現在では通用するようになっているとのことである。\n\n貨幣の流通と言う点を見ると、初期は発行数が少ないために広く使用されていたとは言えず、主に兵士の給料の支払いに充てられた。また、ドゥニエは通貨単位としては最低単位ではあったが銀貨であり、一般市民の生活におけるパンなどの日用品、それも少量と比較した場合は高額な貨幣なので、物々交換や、帳簿上の相殺、掛売り(ツケにしておいて期日を決めてまとめて払う、など)ということを行うための価値尺度としての利用がメインであった。鹿野嘉昭の論文ではこの状況は12世紀ごろまで続いたとしている。一方で、貨幣の流通についてはカロリング朝時代にすでに活発に行われていたとも言われており、この根拠の様々あるうちの一例としてシャルル2世の発布した貨幣改革及び流通促進についての勅令が挙げられている。", + "qas": [ + { + "question": "『中世の都市』の著者は誰?", + "id": "tr-561-04-000", + "answers": [ + { + "text": "アンリ・ピレンヌ", + "answer_start": 61, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "通貨単位として最低単位は何ですか。", + "id": "tr-561-04-001", + "answers": [ + { + "text": "ドゥニエ", + "answer_start": 391, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "商業は10世紀から徐々に復興し、12-13世紀には「満開」といってよいレベルの活況を呈すようになっていた。\n\n886年のパリ伯ウードをはじめとし、そして10世紀になりカロリング朝とパリ伯ウー��の家が交代で王位につくようになり王権が弱体化すると、貨幣のデザインも各地の諸侯や教会でばらばらとなり様々なドゥニエが鋳造されていく。10世紀中ごろの貨幣デザインについて、王の銘は箔付けのために引き続き使われはしたが、諸侯や教会の鋳造した貨幣には、諸侯や聖人の銘をいれるケースが見られるようになった。諸侯でこのようなデザインを用いたのはオーヴェルニュ伯のギョーム年少伯が、教会ではトゥールのサンマルタン教会が最初という。中には、誰を王としてよいか分からなかったためか、十字の周囲に銘を入れず模様のみとしたものもある。", + "qas": [ + { + "question": "10世紀と12-13世紀と、商業がもっと盛んでいたのはいつなの?", + "id": "tr-561-05-000", + "answers": [ + { + "text": "12-13世紀", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "11世紀になって商業・交易が本格的に復活してくると貨幣の需要が増えて、さらにイスラムの有力銀山が枯渇したことにより、他地域からの銀の流入も減少したためにドゥニエの原料となる銀が不足するようになり、貨幣の品位は大きくさがった。王家は貧弱であって、諸侯や教会がてんでに貨幣を鋳造していくので、フランス域内でも地方ごとそれぞれの貨幣の価値は差異がでるようになっていった。例えば、11世紀のメーヌにおいてはマン貨が標準通貨として流通していたが、アンジュー貨、トゥール貨の2倍の価値をもっていた。フランス南部ではメルグイユ貨が広く流通していたが、トゥールーズ貨はその倍の価値があった。", + "qas": [ + { + "question": "ドゥニエの原料は何?", + "id": "tr-561-06-000", + "answers": [ + { + "text": "銀", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "11世紀のメーヌにおいては何が標準通貨として流通されたの?", + "id": "tr-561-06-001", + "answers": [ + { + "text": "マン貨", + "answer_start": 199, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "11世紀のメーヌにおいて、マン貨はトゥール貨の何倍の価値にあたりましたか。", + "id": "tr-561-06-002", + "answers": [ + { + "text": "2倍", + "answer_start": 231, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "フランス南部ではどの通貨が広く流通していたか。", + "id": "tr-561-06-003", + "answers": [ + { + "text": "メルグイユ貨", + "answer_start": 251, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "12世紀になっても各地であいかわらず諸侯や教会がおのおの好き勝手に鋳造を続け、デザインは様々なものが作られる中、フィリップ2世がパリ貨のタイプをベースに、自身の支配圏においてドゥニエの標準化を進めた。フィリップ2世はまずパリ貨ドゥニエをオルレアン、パリ、フランドルの標準貨幣とし、次いでトゥール貨をノルマンディー、メーヌ、アンジュー、トゥーレーヌの標準貨幣とした。この2種は等価ではなく、交換比率はトゥール貨5に対してパリ貨4とされた(つまりパリ貨の方が1.25倍価値があるということ)。これら地域では次代のルイ8世以降、パリ貨をやめトゥール貨に統一されたが、後述するようにいまだそれ以外の地方では独自通貨はまだまだ存在した。また、パリ貨自体も計算貨幣として表現の上では存続した。さらに後のこととなるが、『世界大百科事典』によれば両通貨は1667年の王令をもってようやく一本化されることとなる。", + "qas": [ + { + "question": "フィリップ2世は自身の支配圏において何の標準化を進めたか。", + "id": "tr-561-07-000", + "answers": [ + { + "text": "ドゥニエ", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "パリ貨とトゥール貨と、どっちの方がもっと価値があったの?", + "id": "tr-561-07-001", + "answers": [ + { + "text": "パリ貨", + "answer_start": 209, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "13世紀に入りフィリップ2世による王領拡大が進みフランスが発展を見せると農村にも貨幣が浸透してくる。ルイ9世は税を貨幣で納めるよう明文化した。また、貨幣高権の国王集権化はルイ9世時代にほぼ完成したとされる。1262年のシャルトル勅令では各地域での諸侯・教会によるドゥニエ造幣は引き続き認めつつも、域外では通用しないこととし、王の鋳造したドゥニエのみを王国の共通貨幣とした。\n\nルイ9世治世の末期に新たなタイプの通貨単位としてグロとエキュが導入され、それぞれ銀貨と金貨として発行された。金銀複本位制のはじまりである。トゥール貨1グロはトゥール貨1スーと等価とされ、1エキュはトゥール貨10スーと等価とされた。この時の金貨はともかくグロ銀貨は使い勝手がよく大ヒットし、他の国や地域でも模倣された。ただ実際はドゥニエの度重なる悪鋳により、当初の公定レートとされたトゥール貨12ドゥニエよりも多くの銀を含むこととなったために、グロ銀貨は値上がりしていった。グロ銀貨は純度が高かったために信頼され貿易でも利用された。原料は東欧のフリーザッハ、ステュリア、ボヘミアで新たに開発された銀山からの産出によった。", + "qas": [ + { + "question": "フランスの農村に貨幣が浸透してくるようになったのは、何世紀に入ってからですか。", + "id": "tr-561-08-000", + "answers": [ + { + "text": "13世紀", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ルイ9世治世の末期、通貨単位としてグロと何が導入されたの?", + "id": "tr-561-08-001", + "answers": [ + { + "text": "エキュ", + "answer_start": 215, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "シャルトル勅令は何年に発布されたの?", + "id": "tr-561-08-002", + "answers": [ + { + "text": "1262年", + "answer_start": 103, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ドゥニエの悪鋳は継続的に行われていたが、フィリップ4世の悪鋳は特筆されるもので、対イングランド、対フランドルの戦費を確保すべく悪鋳を繰り返し、年率65%のインフレも記録した。\n\n1295年にフィリップ4世はこれまでのドゥニエの2倍の価値をもつという設定の2ドゥニエ貨を新たに発行した。しかしこれはルイ9世時代のトゥール貨が0.335グラムの銀を含有していたのに対して、0.575グラムしか含有していなかった。さらに1303年に発行した2ドゥニエ貨は0.229グラムしか銀を含有していなかった。この2ドゥニエ貨が発行されたことによりドゥニエは価値をさげ、相対的に価値の上がった1グロ銀貨は36ドゥニエ換算まで値上がりした。フィリップ4世は「贋金作りの国王」とあだ名されたり、1313年には王による悪鋳を風刺するシャンソンまで作られた。また、手加減のない悪鋳は、カペー朝からヴァロワ朝へと引き継がれ、百年戦争、ジャックリーの乱、パリ市民の蜂起、ペストの流行などの際に、財政をごまかすための手段としてフィリップ6世、ジャン2世はたびたびこれに手を染めた。2人の王の治世下で行われた改鋳は、金貨が51回、銀貨が117回という。", + "qas": [ + { + "question": "フィリップ4世がこれまでのドゥニエの2倍の価値をもつという設定の2ドゥニエ貨を新たに発行したのは何年のことですか。", + "id": "tr-561-09-000", + "answers": [ + { + "text": "1295年", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1303年に発行した2ドゥニエ貨には何グラムの銀が含有されていますか。", + "id": "tr-561-09-001", + "answers": [ + { + "text": "0.229グラム", + "answer_start": 224, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「贋金作りの国王」というニックネームを持っていた王は誰なの?", + "id": "tr-561-09-002", + "answers": [ + { + "text": "フィリップ4世", + "answer_start": 310, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "先述したヴァロワ朝における悪鋳2人組の一人目であるジャン2世は1360年12月5日の王令でフランという新たな通貨単位を定めた。価値はドゥニエを基準として定め、トゥール貨20スーすなわち240ドゥニエ(=1リーヴル)に相当するとし、純金3.88グラムの「適正な純金のドゥニエ貨」をうたったが、これは自身の身代金の償還に使われ、1365年には廃止された。\n\nシャルル5世は貨幣制度の再建をこころざし、フラン金貨、グロ銀貨、5ドゥニエのビロン貨を柱とした貨幣制度改革を実施した。ドゥニエは一時的にではあるがビロン貨になってしまった。\n\n1385年、シャルル6世はグロ銀貨を一時鋳造停止し、10ドゥニエ相当のゲナールというビロン貨を代替とした。同王はその治世中に造幣所の統廃合を進めた。地方貨を独自に発行する造幣所は100以上残存していたが、これらを1桁代にまで統合することを得た。この時点でフランドル、ブルゴーニュ、ブルターニュ、ギュイエンヌなどがなお王権の外に造幣所を維持した。ちなみに画像枠内で上述した「トゥールの城」のデザインは、銀貨が鋳造停止となったことで廃止された。", + "qas": [ + { + "question": "ジャン2世が360年12月5日、王令で定めた新たな通貨単位は何?", + "id": "tr-561-10-000", + "answers": [ + { + "text": "フラン", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フランの価値は何を基本として定められたか。", + "id": "tr-561-10-001", + "answers": [ + { + "text": "ドゥニエ", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "フランはいつ廃止されたの?", + "id": "tr-561-10-002", + "answers": [ + { + "text": "1365年", + "answer_start": 162, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "シャルル6世がグロ銀貨を一時鋳造停止し、10ドゥニエ相当のゲナールというビロン貨を代替としたのは何年のことですか。", + "id": "tr-561-10-003", + "answers": [ + { + "text": "1385年", + "answer_start": 265, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ルイ11世の時代には多様な銀貨が発行されたが、この時にドゥニエも銀貨として鋳造されたものの品位は150/1000に留まった。貨幣高権は徐々に王に完全統一されつつあったが、依然としてブルターニュやブルゴーニュは独自のコインを鋳造し続けていた。1489年、ブルゴーニュではドゥニエは廃止され、代替として従前のドゥニエと比較して5/3ドゥニエの価値と定められたニクエが現れた。また、フランス域内であって、ドゥニエが存在していたネーデルラントは15世紀中にフロート(groot、グロ、13世紀からネーデルラント内でドゥニエと並立していた)が計算単位として使われるようになり、ネーデルラントにおいてドゥニエは役目を終えた。ルイ12世は1514年にイタリアからフランスにテストンという銀貨のタイプを移入し鋳造をはじめたが、これは10スー(=120ドゥニエ)の価値とされた。", + "qas": [ + { + "question": "5/3ドゥニエの価値と定められたニクエはいつできたの?", + "id": "tr-561-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1489年", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "18世紀になるとフランスの財政は手が付けられない状態に陥っていた。収入は歳出に全然追いつかず、大量の負債が積み上がった。ルイ15世の継承した負債は240億リーヴルであり、1715年度の収支を見ると税収6900万リーヴルに対して歳出は1億4700万リーヴルであった。兌換紙幣��発行や財政改革、富くじの発行なども試みられたが奏功しなかった。そしてフランス革命へと向かうのである。\n\nフランス革命期における憲法制定国民議会の時期においてもドゥニエが発行された。表面にルイ16世の肖像を、裏面には額面(3、6、12があった)および“D”の文字を中央に配し、周囲を月桂樹で縁取ったデザインであった。国民公会(1792年-1795年)の時代になると最小貨幣の銅貨はスー(ソル、額面は1/2、1、2の3種類)を単位としたので、ドゥニエはコインとしては姿を消した。そして1795年4月5日、リーブル-スー(ソル)-ドゥニエの通貨体系は丸ごと廃止となり、フランに一本化された。この時10進法を採用し、フラン-デシム(1/10)-サンチーム(1/100)の体系が定められた。旧貨幣となったリーヴルとの交換比率は80フラン=81リーヴル(1フラン=1リーヴル3ドゥニエ)であった。", + "qas": [ + { + "question": "ルイ15世の継承した負債はいくらだった?", + "id": "tr-561-12-000", + "answers": [ + { + "text": "240億リーヴル", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "通貨体系がフランに一本化されたのはいつですか。", + "id": "tr-561-12-001", + "answers": [ + { + "text": "1795年4月5日", + "answer_start": 377, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + } + ] +} \ No newline at end of file