diff --git "a/data/train/jaquad_train_0010.json" "b/data/train/jaquad_train_0010.json" new file mode 100644--- /dev/null +++ "b/data/train/jaquad_train_0010.json" @@ -0,0 +1,14465 @@ +{ + "version": "JaQuAD-ver0.3", + "data": [ + { + "title": "サンドマン(ヴァーティゴ)", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "創刊時のペンシラー(鉛筆画の下絵)はサム・キース(英語版)が、インカー(ペン入れ)はマイク・ドリンゲンバーグ(英語版)が担当したが、後に多くの作画家が制作に参加した。\nシリーズを通じてレタリングはトッド・クライン(英語版)、表紙画はデイヴ・マッキーン(英語版)による。\nオリジナルシリーズは月刊コミックブックとして1989年から1996年にかけて全75号が発行され、第47号からはDC社の新インプリントヴァーティゴ(英語版)に移籍して主力タイトルとなった。\n後に全10巻のペーパーバック単行本、箱入りハードカバー、注釈入り版などが販売されているほか、完結後20年以上にわたってスピンオフ作品の刊行が続いている。\n1998年には日本語版単行本の刊行が始まったが、原書第3巻までで途絶した。", + "qas": [ + { + "question": "創刊時の作品に先に作業を進めたのはサム・キースか、マイク・ドリンゲンバーグか?", + "id": "tr-224-00-000", + "answers": [ + { + "text": "サム・キース", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "シリーズの表紙絵の担当は誰ですか?", + "id": "tr-224-00-001", + "answers": [ + { + "text": "デイヴ・マッキーン", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "オリジナルシリーズ第56号はどこで発行されましたか?", + "id": "tr-224-00-002", + "answers": [ + { + "text": "インプリントヴァーティゴ", + "answer_start": 195, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "永遠不滅の存在であった主人公ドリームは人間の虜囚となり、それによって自らの中に生じた変化と向き合う中で、生き方を変えるか死かの選択を迫られる。本作は初め典型的なダーク・ホラーとして始まったが、後に古今の神話の要素を取り入れて精緻に構成されたファンタジーとなり、最終的にドリームを悲劇の主人公(英語版)として結末を迎える。ドリーム(夢)はエンドレス(終わりなき者)と呼ばれる7体の兄弟姉妹の一人で、ほかにはデス(死)、ディザイア(欲望)などがいる。これら形而上的概念が擬人化されたキャラクターのほか、神話や歴史上の人物がDCコミックスの設定世界で物語を展開する。", + "qas": [ + { + "question": "主人公ドリームが生き方を変えないという選択をすると彼はどうなるか?", + "id": "tr-224-01-000", + "answers": [ + { + "text": "死", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ドリームの兄弟は彼を含んで何名か?", + "id": "tr-224-01-001", + "answers": [ + { + "text": "7体", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "本作は批評家から高く評価され、『マウス』『ウォッチメン』『バットマン:ダークナイト・リターンズ』と並んで、一般書と同列に『ニューヨーク・タイムズ』のベストセラーリストに載せられたわずかなグラフィックノベル(長編コミック本)の一つとなった。『エンターテインメント・ウィークリー』誌が「1983–2008年の書籍100選」リストに挙げたグラフィックノベル5冊に入り、第46位を占めた。コミック作品として初めて世界幻想文学大賞を受賞したことは話題を呼んだ。ノーマン・メイラーは本作を「知識人のためのコミック・ストリップ」と呼んだ。本作で筆名を上げた作者ニール・ゲイマンは小説や映像作品の脚本などにも活躍の場を広げた。\n\n本作の映画化やテレビドラマ化の企画は1990年代から複数存在したが、どれも立ち消えになっていた。2013年、ワーナー・ブラザースはストーリー原案デヴィッド・S・ゴイヤー、主演・監督ジョゼフ・ゴードン=レヴィットで本作を映画化する計画を発表したが、2016年3月5日にはゴードン=レヴィットが降板したと伝えられた。2019年になって、Netflixにより全11回のテレビドラマシリーズが配信されることが報道された。", + "qas": [ + { + "question": "コミックスとして初めて、本作品がとった賞の名前は?", + "id": "tr-224-02-000", + "answers": [ + { + "text": "世界幻想文学大賞", + "answer_start": 202, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "2013年、ワーナー・ブラザースが計画した本作の実写映画の主演は誰ですか?", + "id": "tr-224-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ジョゼフ・ゴードン=レヴィット", + "answer_start": 397, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "本作のドラマシリーズが公開されたフラットフォームはどこですか?", + "id": "tr-224-02-002", + "answers": [ + { + "text": "Netflix", + "answer_start": 473, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "主人公ドリームは夢が具現化した存在で、モルフェウスなど多くの異名を持つ。ドリームはエンドレスと呼ばれる7体の兄弟姉妹の一人で、上に兄デスティニーと姉デスがおり、下には弟ディストラクション、弟/妹ディザイア、妹ディスペア、妹ディリリウムがいる。彼らは概念や現象が人格を取ったもので、宇宙全体にわたってその現象を管理する義務を負っており、自らの支配する領域では強大な力を持つ。神と同一視されることもあるが、人間が信仰する神々よりも早く、世界そのものと同じ時期に生まれたとされる。\n\n物語の冒頭で、ドリームは魔術教団によって70年にわたり囚われの身となった。\n刊行時の現代に至って脱出を果たしたドリームは幽閉者に復讐し、荒れ果てた夢の王国の再建に取り掛かる。\nかつてのドリームは古代神のような厳格さを備え、自他の感情に関心を持たず、自尊心のため冷酷に振る舞うこともあったが、長年の幽閉から得た教訓により変わり始める。\nしかし、彼のように数10億年にわたって存在してきた者にとって、新しい生き方を身につけるのはとてつもない難事であった。\nドリームはかつての恋人を地獄に落としたことや、エンドレスの存在意義に疑問を抱いて出奔した弟を傍観したことなど、過去に犯した過ちを償おうとする。\nしかしその中で、長年にわたって背を向けてきた息子オルフェウスを安楽死させることを余儀なくされる。\n打ちのめされたドリームは、彼を罰しようとする復讐の女神エリーニュスに自身の命を差し出す。\nそして、彼が後継者に選んだ、より慈しみ深い存在がドリームの新しい人格となる。", + "qas": [ + { + "question": "エンドレスの兄弟なかでデスとディストラクションを比べてどっちが上ですか?", + "id": "tr-224-03-000", + "answers": [ + { + "text": "デス", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ドリームの前の人格の命が落としたのは誰か?", + "id": "tr-224-03-001", + "answers": [ + { + "text": "エリーニュス", + "answer_start": 613, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "物語は主にドリームが支配する夢の王国ドリーミングおよび「目覚めた者の世界」を舞台として展開され、折に触れて地獄、妖精国、アスガルド、またほかのエンドレスの領域が描かれる。本作は公式にDCユニバース(DCコミックス社のシェアード・ワールド)内の物語とされているが、その主流であるスーパーヒーロー・キャラクターは初期の数巻を除けばほとんど登場しない。メインストーリーは現代の出来事として書かれているが、歴史上の人物や出来事を扱った短編エピソードも数多い。短編MenofGoodFortuneはその一例で、数世紀にわたるイングランドの変遷が描かれており、ウィリアム・シェイクスピアなどが登場する。", + "qas": [ + { + "question": "短編MenofGoodFortuneに登場する歴史的人物は誰ですか?", + "id": "tr-224-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ウィリアム・シェイクスピア", + "answer_start": 274, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ドリームが支配する夢の王国の名は?", + "id": "tr-224-04-001", + "answers": [ + { + "text": "ドリーミング", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "27歳の新進コミックライター(原作者)だったニール・ゲイマンが1988年にDCコミックスに対して『サンドマン(英語版)』(1974–76年)のリメイクを提案し、その結果生まれたのが本作である。当時のDC社は1985年の『クライシス・オン・インフィニット・アース』で刊行物全ての設定をリセットした直後で、旧作を現代風な物語として語り直すことに力を入れており、スーパーマンを始めとする多くのキャラクターが新世代の作家によって再創造された。『サンドマン』旧シリーズは眠りの妖精(ザントマン)が主人公のヒーロー物で、ジャック・カービーなどにより7号が刊行されたが、人気は得られなかった。\n\nもともとゲイマンは、DCデビュー作として企画されていたリメイク版『ブラック・オーキッド(英語版)』(1988年)にカービー版のサンドマンを登場させるつもりだったが、先に他誌で使われていたため実現しなかった。しかしゲイマンは、夢の住人であるサンドマンには真の形がなく、見る者によって姿を変えるというアイディアに魅了されており、それに基づいた新シリーズを構想し始め、DCの編集者カレン・バーガー(英語版)に伝えた。", + "qas": [ + { + "question": "『サンドマン』旧シリーズの最後の発行号数は何ですか?", + "id": "tr-224-05-000", + "answers": [ + { + "text": "7号", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『サンドマン』のリメイク版の作者は誰ですか?", + "id": "tr-224-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ニール・ゲイマン", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "芸術志向の作品だった『ブラック・オーキッド』をDC社は高く評価し、上質な装丁で刊行することにした。しかし主人公キャラクターの知名度が低く、制作者も全く無名であることは不安材料だった。そこでDC社は、『ブラック・オーキッド』を出す前に、ゲイマンを別の作品でアメリカ読者にお目見えさせようとした。ゲイマンはカレン・バーガーから新しい月刊シリーズを書くよう求められ、候補の一つとして『サンドマン』新シリーズを提案された。ゲイマンはその際の会話を以下のように述べている。\n\n私はこう答えた。「え...ああ。やるよ、ぜひとも。でも条件があるんだろう?」「一つだけ。新しい『サンドマン』を書いてほしいの。名前は変えないで。あとは任せるから」\n\nゲイマンはありがちなホラーやヒーロー物を書くつもりはなく、関心の赴くままどのようにでも物語を展開させられるような主人公を選んだ。神話のモルフェウスをヒントにして作り出された新たなサンドマン(作中ではドリームもしくはモルフェウスと呼ばれる)は「夢の王」「物語の君主」とされる超常的な存在であった。ゲイマンはドリームがこれまでDCユニバースに現れなかった理由を「囚われていたから」と決め、以下のような初期イメージを元にキャラクターを発展させた。\n\n男性、若い、青白い、裸、小さな独房の中で、自分を虜にしている者たちが死に絶えるのを待っている...恐ろしく痩せ、長い黒髪、奇妙な目。\n\nドリームの服装は、日本のデザインに関する本で見かけた着物の柄と、ゲイマン自身が好む黒一色のファッションを組み合わせたものである。", + "qas": [ + { + "question": "ゲイマンのサンドマンのモチーフとなったのは誰ですか?", + "id": "tr-224-06-000", + "answers": [ + { + "text": "モルフェウス", + "answer_start": 383, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ゲイマンのドリームがその発刊までdcユニバースに登場しなかった理由はどういう設定ですか?", + "id": "tr-224-06-001", + "answers": [ + { + "text": "「囚われていたから」", + "answer_start": 494, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ドリームの服装のテーマカラーは何色ですか?", + "id": "tr-224-06-002", + "answers": [ + { + "text": "黒", + "answer_start": 647, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ゲイマンは最初の長編ストーリーの梗概を作成し、友人の画家デイヴ・マッキーンとレイ・ボールチに渡してキャラクタースケッチを描かせ、DC社のバーガーやディック・ジョルダノから認可を得た。無名の作者によるホラーシリーズを手掛けたがる作画家は少なかったためペンシラーの選定は難航したが、画風が独特でイラストレーション風の絵が描ける新人としてサム・キース(英語版)が選ばれた。インカーとしてはマイク・ドリンゲンバーグ(英語版)が、カラーリスト(英語版)としてはロビー・ブッシュが契約を結んだ。レタラーのトッド・クライン(英語版)、カバーアーティストのデイヴ・マッキーンらはシリーズを通して貢献を続けた。", + "qas": [ + { + "question": "ゲイマンのサンドマンのペンシラーを担当した人は誰ですか?", + "id": "tr-224-07-000", + "answers": [ + { + "text": "サム・キース", + "answer_start": 166, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カラーリストとして契約したのは誰ですか?", + "id": "tr-224-07-001", + "answers": [ + { + "text": "ロビー・ブッシュ", + "answer_start": 225, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ゲイマンは初期の数号について、彼自身も作画スタッフも経験不足だったため「ぎこちない出来」になったと述べた。ペンシラーを務めていたサム・キースは、特に自身の作画の評価が低かったと語っている。キースによれば、漫画的な馬鹿馬鹿しさを好む作風が周りと噛み合っておらず、単純に画力も不足していた。第3号の時点で辞意を明らかにしたキースを引き留めるため、ゲイマンは第4号にキースの長所が活きるようなシーンを設けた。その一つは無数の悪魔が地獄の地平を埋め尽くしている見開きページだった。手間のかかる構図の作画をキースは楽しみ、ペンシラーの職域を越えてペン入れまで行った。しかし、結局は次の号でシリーズを離れ、「ビートルズに入ってしまったジミ・ヘンドリックスみたいな気分だ」という言葉を残した。", + "qas": [ + { + "question": "ゲイマンがキースの辞退を防ぐため作ったシーンは何ですか?", + "id": "tr-224-08-000", + "answers": [ + { + "text": "無数の悪魔が地獄の地平を埋め尽くしている見開きページ", + "answer_start": 206, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "キースが辞意を表明したのは何号を作業していた頃か?", + "id": "tr-224-08-001", + "answers": [ + { + "text": "第3号", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "キースが辞退しながらのココした言葉で自分を何に喩えましたか?", + "id": "tr-224-08-002", + "answers": [ + { + "text": "ジミ・ヘンドリックス", + "answer_start": 311, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "第6号からは、当初インカーだったドリンゲンバーグがペンシラーに転向し、後任のインカーにはマルコム・ジョーンズIII世が迎えられた。完璧主義のドリンゲンバーグは仕事が遅かったため二つ目の長編ストーリーの完結(第16号)とともにレギュラーを外れ、以降はそれぞれのストーリーに合わせて作画家が選ばれるようになった。しかし、憂愁さと色気を感じさせ、リアリスティックでモダンな落ち着きを持つドリンゲンバーグの画風はシリーズのヴィジュアル面を方向付けた。キャラクターがホラーコミック調にディフォルメされていたサム・キースと比べて、新しい絵柄はゲイマンのストーリーが持つ密やかなエロティシズムを際立たせていた。ドリンゲンバーグが第8号(1989年8月)において、ドリームの姉である死の化身デス(英語版)をデザインしたことは特筆すべきである。大鎌を携えた骸骨という西欧の伝統的な死神とは全く異なり、ゴス風の快活な女性として描かれたデスはシリーズの中でも屈指の人気キャラクターとなり、コミックの歴史に刻まれた。ゲイマンは2014年のインタビューで、本作が独自の作品に脱皮することができたのはドリンゲンバーグの作画があってのことだったと述べている。ドリンゲンバーグ自身は本作の作画について、読者の想像力に訴えるため幻想的な描写を抑えめにしたことや、論理の飛躍(visualnon-sequitur)を用いて注意を引き付ける手法について語っている。", + "qas": [ + { + "question": "第5号のインカーは誰が務めていましたか?", + "id": "tr-224-09-000", + "answers": [ + { + "text": "ドリンゲンバーグ", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ドリンゲンバーグのレギュラー落ちは何号以降ですか?", + "id": "tr-224-09-001", + "answers": [ + { + "text": "第16号", + "answer_start": 103, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "欧米の死神の伝統的イメージはどうですか?", + "id": "tr-224-09-002", + "answers": [ + { + "text": "大鎌を携えた骸骨", + "answer_start": 363, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "デスのデザインを産んだ作者は誰ですか?", + "id": "tr-224-09-003", + "answers": [ + { + "text": "ドリンゲンバーグ", + "answer_start": 298, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "作者ゲイマンはシリーズ全体を一文で「変わり得ない者は死ぬしかないと学んだ夢の王は、自らの運命を選ぶ」と表現したことがある。「変わるか、死か」、あるいは「変化・変容・自己と世界の再創造」のテーマは、当時のゲイマンがメンターとしたクライヴ・バーカー(『血の本(英語版)』)やアラン・ムーア(『ミラクルマン』、『Vフォー・ヴェンデッタ』など)にも共通していた。批評家ヒラリー・ゴールドスタインによれば、主人公ドリームが闘う相手は強大な怪物などではなく「自分自身のエゴ」であり、それが本作を悲劇にしている。コミック研究団体セクワート(英語版)のスチュアート・ウォレンは「成熟して別の何かになること、成長とともに責任を引き受けること、進んで変化を受け入れる度量を持つこと」が主題だとした。グレッグ・カーペンターは「過去の伝統や価値観が根拠を失ったポストモダンの世界に生きながら、それらの観念をどのように受け止めていくか」という問いかけがあるとした。", + "qas": [ + { + "question": "ゲイマンが本作を一文でどう表現しましたか?", + "id": "tr-224-10-000", + "answers": [ + { + "text": "「変わり得ない者は死ぬしかないと学んだ夢の王は、自らの運命を選ぶ」", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "スチュアート・ウォレンが所属していた団体はなんて呼ばれてるの?", + "id": "tr-224-10-001", + "answers": [ + { + "text": "セクワート", + "answer_start": 257, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヒラリー・ゴールドスタインによると、ドリームの真の敵とは何者ですか?", + "id": "tr-224-10-002", + "answers": [ + { + "text": "「自分自身のエゴ」", + "answer_start": 222, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "夢と物語の主題もまた本作の大きな部分を占めている。作者ゲイマンは「夢」の意味として、眠りの中で見る夢、希望としての夢、そして「世界に意味を見出すため、我々が自分自身に信じさせる物語」としての夢を挙げた。ヒラリー・ゴールドスタインは本作を「夢を見る行為ではなく、むしろ夢という概念についての」コミックブックと呼んだ。マーク・バクストンは本作を「物語という業と、潜在意識の本質への愛情あふれるトリビュート」とした。デイヴ・イツコフは『ニューヨーク・タイムズ』で本作を評して「夢は物語作家にとっての究極の自由を表している。伝統的なナラティブのルールが適用されない舞台設定であるにとどまらず、野心的で才気あふれる作者にとってはルールを完全に書き変えることが許される空間なのだ」と書いた。文学者フランク・マコーネルは、超越的な存在だったドリームが人間的なものへと変化するストーリーを近代文学の勃興についての寓話と捉え、「壮大なメタフィクションであり、物語についての物語にほかならない」と述べた。\n\n作家スティーヴ・エリクソンは本作を「迷宮のように入り組み、眩暈がするほど複線的である...全てのページを地面に並べて鳥の視点から見下ろしたくなる」と表現しつつ、全編を通じて喪失の感覚が語られていることを指摘した。シンガーソングライターのトーリ・エイモスは、本作は現代の神話として読まれており、全一性がテーマにあると述べた。", + "qas": [ + { + "question": "本作を夢という概念についてのコミックブック評したのは誰ですか?", + "id": "tr-224-11-000", + "answers": [ + { + "text": "ヒラリー・ゴールドスタイン", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "本作を物語についての物語と表現した人物は誰ですか?", + "id": "tr-224-11-001", + "answers": [ + { + "text": "フランク・マコーネル", + "answer_start": 342, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "本作はダーク・ファンタジー(ホラー)のジャンルに分類されるが、背景はどちらかというと現代的である。批評家マーク・バクストンは本作を「名手の手による物語で、大人が読むダーク・ファンタジーの潮流を作った」と評し、それ以前のファンタジー・ジャンルでは小説やコミックを含めて同種の作品はなかったと述べた。本作はまた業界の制約にとらわれず、アーバン・ファンタジー(英語版)、神話の再解釈、史劇、スーパーヒーローのような多様なジャンルを縦横に利用している。\n\n初期のエピソードでは、『サンドマン』の神話体系はDCユニバースの一部であり、数多くのDCキャラクターが直接間接に登場していた。しかしシリーズが進むにつれ、他誌とのストーリー上の関連性は弱められていった。その理由の一つは創作上の自由を確保するためである。シリーズの連載中、ほかのタイトルのストーリー展開に足並みを合わせるよう求められたゲイマンは、編集者カレン・バーガーと激しく衝突することがあった。コミック原作者のグラント・モリソン(英語版)は本作を評して、「スーパーヒーロー・コミックという当初の立脚点を逸脱してファンタジーやホラーと文学の交差する地点に、新しいジャンルを確立することになった」と述べている。\n\n作者ゲイマンは、シリーズの長編ストーリーラインに「男性的」なものと「女性的」なものを交互に配置したと述べている。男性主人公ドリームが困難な状況に挑む「プレリュード&ノクターン」や「シーズン・オブ・ミスツ」は男性的なストーリーであり、人間女性のキャラクターを中心に置いて人間関係やアイデンティティのテーマを扱った「ドールズハウス」や「ゲーム・オブ・ユー」は女性的なストーリーだとされた。", + "qas": [ + { + "question": "本作の最初のジャンルはどんなんもんですか?", + "id": "tr-224-12-000", + "answers": [ + { + "text": "��ーパーヒーロー・コミック", + "answer_start": 453, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「プレリュード&ノクターン」、「ゲーム・オブ・ユー」、「シーズン・オブ・ミスツ」のなかで女性的ストーリーラインをたどるエピソードは何ですか?", + "id": "tr-224-12-001", + "answers": [ + { + "text": "「ゲーム・オブ・ユー」", + "answer_start": 695, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "シリーズの正レタラーを務めたトッド・クライン(英語版)はアメリカのコミック界きっての名手と認められており、代表作となった本作のレタリングで連続3回のアイズナー賞、3回のハーベイ賞を受賞している。クラインによると、ゲイマンは本作の主要登場人物それぞれに固有の字体と吹き出しの形をデザインするよう要求した。主人公ドリームには夢の移ろいやすい性質を表すため不定形の吹き出しが使われ、黒地に白の文字が入れられた。狂気の具現化であるディリリウムの吹き出しには虹色のグラデーションが用いられ、文は波打っており、字体や文字サイズは一定しない。中世ファンタジー世界を舞台にした「ゲーム・オブ・ユー」ではカリグラフィーの技法が使われた。最終号Tempestでは、主役となるシェイクスピアの直筆(英語版)を模して字体が作られた。クラインが本作のために作り出したスタイルは30種に及ぶ。デジタル化以前の時代であり、これらのレタリングはほぼ全て手作業で行われた。", + "qas": [ + { + "question": "トッド・クラインは本作で受賞した6回の賞のうちアイズナー賞を除いた回数は?", + "id": "tr-224-13-000", + "answers": [ + { + "text": "3回", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "クラインが本作で連続で3回受賞した賞の名前は?", + "id": "tr-224-13-001", + "answers": [ + { + "text": "アイズナー賞", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "シェイクスピアの直筆を模して字体が作られ、使われた号の名前は?", + "id": "tr-224-13-002", + "answers": [ + { + "text": "Tempest", + "answer_start": 312, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "デイヴ・マッキーン(英語版)のカバーアートはファインアートや現代デザインを取り入れた際立ったもので、シリーズの顔となった。作家スティーヴ・エリクソンは「信じられないほど不気味な、イドに苛まされた表紙」と評した。当時、コミックの表紙には必ず主人公キャラクターを描くのが通例だったが、マッキーンは編集のバーガーを説き伏せ、作品のテーマを題材とした表紙画を制作した。マッキーンは本作の思索的なストーリーに合わせて「少しシュルレアルで、物憂げで、内省的な」イメージを覗かせる窓枠として表紙を機能させようとしたと述べている。初期の号では、絵具で描かれた絵と、彫刻やオブジェを並べた棚をコラージュした写真が多く用いられた。1994年にマッキーンがMacintoshのコンピュータを導入してからはPhotoshopも使用され始めた。マッキーンは本シリーズで全号の表紙を制作し、スピンオフ誌『ドリーミング』でも続投した。1998年には本シリーズの表紙画集がDustcovers:TheCollectedSandmanCoversのタイトルで刊行された。", + "qas": [ + { + "question": "デイヴ・マッキーンのカバーアートを「信じられないほど不気味な、イドに苛まされた表紙」と評した人物は誰ですか?", + "id": "tr-224-14-000", + "answers": [ + { + "text": "スティーヴ・エリクソン", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "デイヴ・マッキーンが本作のカバーアートを作品のテーマを題材とした表紙画にするため説得した人の名は?", + "id": "tr-224-14-001", + "answers": [ + { + "text": "バーガ��", + "answer_start": 149, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1998年に発刊された本シリーズの表紙画集のタイトルは何ですか?", + "id": "tr-224-14-002", + "answers": [ + { + "text": "Dustcovers:TheCollectedSandmanCovers", + "answer_start": 420, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "『サンドマン』第19号AMidsummerNight'sDreamは1991年に世界幻想文学大賞最優秀短編賞を受賞した。コミックブックとしては異例の受賞であり、その直後に規定が変更されてコミック作品は短編賞の対象外とされた。アメリカのコミック界で権威あるアイズナー賞はオリジナルシリーズだけで20回近く受賞している。内訳は継続シリーズ部門3回、短編部門1回、ライター部門4回(ニール・ゲイマン)、レタリング部門7回(トッド・クライン)、ペンシラー/インカー部門2回(チャールズ・ヴェスとP・クレイグ・ラッセル)などである。またハーベイ賞は継続シリーズ部門1回、ライター部門2回を受賞している。スピンオフ『夢の狩人』は2000年にヒューゴー賞の関連書籍部門にノミネートされた。『夢の狩人』と『エンドレス・ナイツ』はそれぞれ1999年と2003年にブラム・ストーカー賞のイラストレーテッド・ナラティブ部門を受賞した。「シーズン・オブ・ミスツ」は2004年にアングレーム国際漫画祭最優秀シナリオ賞を受賞した。本編シリーズの前日譚であるミニシリーズ『サンドマン:オーバーチュア』は2016年にヒューゴー賞グラフィック・ストーリー部門を受賞した。", + "qas": [ + { + "question": "世界幻想文学大賞最優秀短編賞で最後に受賞したコミック作品は何でしょう?", + "id": "tr-224-15-000", + "answers": [ + { + "text": "『サンドマン』第19号AMidsummerNight'sDream", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "2004年にアングレーム国際漫画祭最優秀シナリオ賞を受賞したのはどのタイトルですか?", + "id": "tr-224-15-001", + "answers": [ + { + "text": "「シーズン・オブ・ミスツ」", + "answer_start": 406, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『サンドマン』オリジナルシリーズが受賞したアイズナー賞の部門で一番多い受賞回数を記録した部門は何ですか?", + "id": "tr-224-15-002", + "answers": [ + { + "text": "レタリング部門", + "answer_start": 198, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "第5巻「ゲーム・オブ・ユー」はマイノリティの扱いに関して批判を受けることがある。登場人物のワンダは男性として生まれ、女性としての自己認識を持つトランスジェンダーである。ワンダは作中で家族や隣人から女性性を否定されるだけでなく、肉体的に男性であることが理由で魔女の儀式に参加できず、それが遠因となって命を落とす。死後の魂は生まれつきの女性の姿で描かれる。トランスセクシュアルの作家レイチェル・ポラック(英語版)は、このストーリーが作者ゲイマンのトランスジェンダーに対する不寛容を示すものだと批判した。メディア学の研究誌『シネマ・ジャーナル』では、メインストリーム・コミックで初めて本物のトランスジェンダーが扱われたことに一定の評価が与えられながらも、神霊を通じて提示されるジェンダー観が西欧的な価値観に縛られていることが批判された。\n\nまたアフリカ系の作家サミュエル・R・ディレイニーはこの巻の序文において、ワンダと同時に死んだキャラクターが作中唯一の黒人だったことを指摘した。ディレイニーによれば、読者の同情を引くため被抑圧者のキャラクターを死なせる展開は現実の支配的イデオロギーに沿ったもので、ファンタジー世界に組み込まれた「自然力」がそれを正当化しているのは問題があるという。ただし、ディレイニーは『サンドマン』に充溢するアイロニーと繊細さがそのような政治的パターンを相対化しているとも述べている。", + "qas": [ + { + "question": "「ゲーム・オブ・ユー」のワンダの描写を批判した人は誰なの?", + "id": "tr-224-16-000", + "answers": [ + { + "text": "レイチェル・ポラック", + "answer_start": 189, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「ゲーム・オブ・ユー」のワンダに対してメインストリーム・コミックで初めて本物のトランスジェンダーが扱われたことに評価メディア学の研究誌の名前は何ですか?", + "id": "tr-224-16-001", + "answers": [ + { + "text": "『シネマ・ジャーナル』", + "answer_start": 258, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『サンドマン』のマイノリティの扱いに対して批判がなされたタイトルは何ですか?", + "id": "tr-224-16-002", + "answers": [ + { + "text": "「ゲーム・オブ・ユー」", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "これらの批判に対しては作者や批評家からの反論もある。作者ゲイマンによれば、物語中の「自然力」がワンダの女性性を認めなかったとしても、それは単に一つの視点を提示しているに過ぎず、彼自身は性自認に関するワンダの立場を支持しているという。トランスセクシュアルの作家ケイトリン・R・キアナン(英語版)はポラックに一部同意しながら、作品全体としてはワンダを肯定的、共感的に描いていると評した。批評家デイヴィッド・ブラットマンは、作中で動物キャラクターや悪役の白人男性も殺されていることを批判者たちが無視していると指摘した。また、ワンダは「作中で唯一、高潔で英雄的、かつ勇敢で善良な行いをするキャラクター」として描かれており、だからこそ悲劇には彼女の死が必要なのだと擁護した。\n\n他方では、このようなテーマをコミックで表現することそのものに対する批判も存在した。キリスト教原理主義団体であるアメリカ家族協会(英語版)は本作の不買を表明し、版元ヴァーティゴに謝罪を求めた。また本作は、「ヤングアダルト対象書籍としては不適切」「家族の価値を損なう」「不快感を与える言葉遣い」のような理由により、複数のアメリカの図書館で規制の対象となってきた。2015年には、クラフトン・ヒルズ・カレッジ(英語版)の英語コースで「ドールズハウス」を含むグラフィックノベルが取り上げられたことに対し、ポルノグラフィを読むよう強制されたという抗議が学生から寄せられた。", + "qas": [ + { + "question": "ワンダのようなキャラを取り上げたこと自体に激しく反発し謝罪を求めた団体はどこですか?", + "id": "tr-224-17-000", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ家族協会", + "answer_start": 389, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ワンダに対して肯定的に評価したトランスセクシュアル作家の名前は?", + "id": "tr-224-17-001", + "answers": [ + { + "text": "ケイトリン・R・キアナン", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ワンダが作中唯一の英雄的存在だったことを指摘しゲイマンに対する批判を否定した人は誰ですか?", + "id": "tr-224-17-002", + "answers": [ + { + "text": "デイヴィッド・ブラットマン", + "answer_start": 194, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ストーンウォールの反乱", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ストーンウォールの反乱(ストーンウォールのはんらん)は、1969年6月28日、ニューヨークのゲイバー「ストーンウォール・イン(StonewallInn)」が警察による踏み込み捜査を受けた際、居合わせた「同性愛者らが初めて警官に真っ向から立ち向かって暴動となった事件」と、これに端を発する一連の「権力による同性愛者らの迫害に立ち向かう抵抗運動」を指す。この運��は、後に同性愛者らの権利獲得運動の転換点となった。ストーンウォールの暴動ともいう。", + "qas": [ + { + "question": "同性愛者らの権利獲得運動の転換点となる運動とは、何?", + "id": "tr-225-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ストーンウォールの反乱", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ストーンウォールの反乱は、何とも呼ばれますか?", + "id": "tr-225-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ストーンウォールの暴動", + "answer_start": 204, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ストーンウォールの反乱とは、どのような人々が、自分たちに対する権力による迫害に立ち向かった抵抗運動であったか?", + "id": "tr-225-00-002", + "answers": [ + { + "text": "同性愛者", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ストーンウォールの反乱は、いつ発生した事件を端緒としているか?", + "id": "tr-225-00-003", + "answers": [ + { + "text": "1969年6月28日", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "この事件の全体像を把握するためには、まず、1969年当時アメリカ合衆国に住む同性愛者らが置かれていた状況を知る必要があろう。彼らは、今日ほど自由な私的生活環境を享受することが出来なかった。民事刑事両面において、法は彼らにとって苛酷であった。例えば、性的指向を理由とする解雇は違法とされていなかった。また、イリノイ州を除く全州が、同性間性交渉を禁止する法律(通称:ソドミー法)を依然として維持していた。そのため、成人間の同意に基づいていようとも、性交渉を持ったことが明らかになった同性愛者らは、罰金刑や自由刑を科せられていたのである。", + "qas": [ + { + "question": "1969年のアメリカで、性的指向を理由とする解雇は、違法であったの?", + "id": "tr-225-01-000", + "answers": [ + { + "text": "違法とされていなかった", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1969年のアメリカで、唯一に同性間性交渉を禁止していなかった州は、どの州ですか?", + "id": "tr-225-01-001", + "answers": [ + { + "text": "イリノイ州", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この文書では、どの国における同性愛者らの立場について説明しているか?", + "id": "tr-225-01-002", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ合衆国", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "この文書では、1969年のアメリカで、どのような人々が置かれていた状況を説明しているか?", + "id": "tr-225-01-003", + "answers": [ + { + "text": "同性愛者", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "このような抑圧的な社会的状況はニューヨーク州とて例外ではなかったが、大都市であるニューヨーク市は、田舎に比べれば幾分か自由の息吹を感じられる街であったため、全国から移住してきた同性愛者らによって、グリニッジ・ヴィレッジの一角、クリストファー・ストリートと七番街アベニューの交差点を中心とした半径数ブロックに同性愛者らのコミュニティが形成されていた。そこには1950年代に既に、現存する市内最古のゲイバー「ジュリアス」を始めとして、数軒のゲイバーが存在していた。", + "qas": [ + { + "question": "この文書では、どの州における同性愛者らのたちばについて説明しているの?", + "id": "tr-225-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ニューヨーク州", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ニューヨーク市において、現存する市内最古のゲイバーは、どこですか?", + "id": "tr-225-02-001", + "answers": [ + { + "text": "「ジュリアス」", + "answer_start": 201, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「ジュリアス」を始めとする数軒のゲイバーは、何年代に成立されたものか?", + "id": "tr-225-02-002", + "answers": [ + { + "text": "1950年代", + "answer_start": 178, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ニューヨーク市は、どの州に属する都市か?", + "id": "tr-225-02-003", + "answers": [ + { + "text": "ニューヨーク州", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "しかし、そのようなゲイバーにあっても、同性愛者らのナイトライフには不安が付き纏っていた。1960年代まで、ゲイバーが警察による踏み込みを定期的に受けることは日常的な光景であったからである。もっとも、1960年代になると、予告なしの踏み込みは徐々に減り始めた。これは相次ぐ訴訟と差別撤廃運動(ホモファイル運動)の成果であった。それでもなお、1965年になるまで、警察は、時として捜索時に居合わせた者全員の個人情報を記録し、新聞で発表することもあった。キスや異性装、さらに手を握っていたことや、バーに居合わせただけですら、拘束の理由とされた。私服警察官がゲイに成りすましてゲイに近づき、法令違反行為を助長するような手法、即ち囮捜査が行われていた。", + "qas": [ + { + "question": "何年代を基点に、ゲイバーに対する警察の予告なしの踏み込みなどの弾圧が少しは緩和され始めたの?", + "id": "tr-225-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1960年代", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "何年になるまでには、警察が捜索中に手に入れた同性愛者らの個人情報を新聞社に漏らすなどのこともありましたか?", + "id": "tr-225-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1965年", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1965年までには、どのような警察による囮捜査まで行われたか?", + "id": "tr-225-03-002", + "answers": [ + { + "text": "私服警察官", + "answer_start": 269, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "この文書では、何年代のニューヨークに存在した、同性愛者らに対する警察の弾圧について説明しているか?", + "id": "tr-225-03-003", + "answers": [ + { + "text": "1960年代", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1965年、ニューヨークの同性愛者らを取り巻く環境が変わる。この年は、ストーンウォール暴動発生の遠因と考えられる二人の人物が、表舞台に立った年である。改革を訴えて市長に当選した共和党リベラル派のジョン・リンゼイと、ホモファイル運動団体マタシン協会の会長となったディック・ライチである。", + "qas": [ + { + "question": "ニューヨークの同性愛者らを取り巻く環境が変わり始めたのは、何年からなの?", + "id": "tr-225-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1965年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ジョン・リンゼイとディック・ライチが登場したのは、何年のことですか?", + "id": "tr-225-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1965年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ストーンウォール暴動発生の遠因と考えられる二人の人物のうち、市長に当選したことのある人物は、誰か?", + "id": "tr-225-04-002", + "answers": [ + { + "text": "ジョン・リンゼイ", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ジョン・リンゼイとディック・ライチは、何の発生の遠因と考えられるか?", + "id": "tr-225-04-003", + "answers": [ + { + "text": "ストーンウォール暴動", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "リンゼイは前市長に比べ、同性愛者らに対して寛容であった。彼はマタシン協会の要望に耳を傾け、市の一般職員採用面接で求職者に性的指向を質問する行為を止める等、同性愛者らに有利な改革を幾つか実行した。ライチは、それまでのマタシン協会会長と比較して急進的な活動家であり、1960年代他の公民権主張団体が用いていたような直接行動を信念としていた。1966年初頭、リンゼイが市民の苦情を受け付ける公聴会を開いたとき、マタシン協会は上述の囮捜査を止めるよう抗議した。これを受けて、警察本部長は、同性愛者らを誘惑して法令違反行為を唆さないように警察官を指導し、私服警察官が同性愛者らを猥褻等で逮捕するときには民間人の証人を必要とするという方針を定めた。", + "qas": [ + { + "question": "リンゼイが耳を傾けた要望とは、誰をリーダーとする団体の要望だったの?", + "id": "tr-225-05-000", + "answers": [ + { + "text": "ライチ", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "リンゼイと同じく、前任者との比較が載せられているのは、誰ですか?", + "id": "tr-225-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ライチ", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "マタシン協会が私服警察官による囮捜査を止めるよう抗議したのは、何年の初頭のことか?", + "id": "tr-225-05-002", + "answers": [ + { + "text": "1966年", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マタシン協会の抗議を受け入れ、新たに方針を立て直したのは、誰か?", + "id": "tr-225-05-003", + "answers": [ + { + "text": "警察本部長", + "answer_start": 233, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "同じく1966年、ライチは酒類販売免許の与奪方針をめぐって、州の酒類局に挑戦した。当時、酒類局は、三人以上の同性愛者グループにアルコール飲料を提供した店から恣意的に免許を取り上げていた。そのため、多くのゲイバーが違法営業を余儀なくされ、警察の踏み込みを許す一因となっていた。ライチは、他二人の男性同性愛者と一緒に、酒類販売免許を持っていた数少ないゲイバーの一つ「ジュリアス」で、ジャーナリストらと会合を持ち、バーテンダーに自身たちの同性愛を明言した上でアルコール飲料を注文した。バーテンダーがこれを断ると、ライチは市の人権委員会に苦情を申し入れた。これを受けて、酒類局長は、今後、同性愛者へアルコール飲料を提供した店から酒類販売免許を取り上げないよう、方針を変更したことを発表した。これを契機に1966年以降、グリニッジ・ヴィレッジにはゲイバーが着実に増え始めていた。", + "qas": [ + { + "question": "1966年、ライチが解決しようと挑んだのは、どの方針についてだったの?", + "id": "tr-225-06-000", + "answers": [ + { + "text": "酒類販売免許の与奪方針", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "グリニッジ・ヴィレッジにゲイバーが増え始め���のは、何年以降のことですか?", + "id": "tr-225-06-001", + "answers": [ + { + "text": "1966年", + "answer_start": 347, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "酒類販売免許の与奪方針が改善されたのは、誰のおかげか?", + "id": "tr-225-06-002", + "answers": [ + { + "text": "ライチ", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "酒類販売免許の与奪方針が改善されたのは、何年のことか?", + "id": "tr-225-06-003", + "answers": [ + { + "text": "1966年", + "answer_start": 347, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1969年6月28日午前1時20分を少し回った頃、ニューヨーク市警第一分署に所属する8名の警察官が令状を手に、ストーンウォール・インを訪れた。こうして、その週2回目のストーンウォール・インに対する踏み込みが始まった。警察発表によると、その時店内にいた客は200人を超えていたが、逮捕されるのは、身分証明書を持たない者、異性装をしていた者、そして従業員の全員あるいは一部のみとされていたので、ほとんどの客は逮捕を免れることができた。", + "qas": [ + { + "question": "ニューヨーク市警第一分署に所属する8名の警察官がストーンウォール・インを訪れたのは、いつのことなの?年月日だけで答えて。", + "id": "tr-225-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1969年6月28日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "警察発表によると、現場にいた人々のうち、逮捕されなかったのは、どのような人々でしたか?", + "id": "tr-225-07-001", + "answers": [ + { + "text": "客", + "answer_start": 125, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "警察発表によると、逮捕対象とされたのは、異性装をしていた者、身分証明書を持たない者と、どのような人々だったか?", + "id": "tr-225-07-002", + "answers": [ + { + "text": "従業員", + "answer_start": 172, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "警察発表によると、客と従業員のうち、どちらにあたる人々がより多く逮捕されたか?", + "id": "tr-225-07-003", + "answers": [ + { + "text": "従業員", + "answer_start": 172, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ストーンウォールの反乱は同性愛者らの権利獲得運動に変化と加速を齎す転換点となった。運動主体となる団体の主流が穏健派から急進派へ変わり、1960年代穏健派の働きで緩やかに進行してきた差別撤廃の動きが1970年代加速したのである。", + "qas": [ + { + "question": "同性愛者らの権利獲得運動を加速させた事件とは、何?", + "id": "tr-225-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ストーンウォールの反乱", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "同性愛者らの権利獲得運動が加速されたのは、何年代からですか?", + "id": "tr-225-08-001", + "answers": [ + { + "text": "1970年代", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1960年代までの同性愛者らの権利獲得運動は、どのような性格の運動であったか?", + "id": "tr-225-08-002", + "answers": [ + { + "text": "緩やか", + "answer_start": 80, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1960年代と1970年代のうち、同性愛者らの権利獲得運動の運動主体がより急進的な性格を持っていたのは、どちらか?", + "id": "tr-225-08-003", + "answers": [ + { + "text": "1970年代", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ストーンウォールの反乱の前、同性愛者らの権利運動は、穏健で同化主義的なホモファイル運動が主流であった。マタシン協会に代表されるホモファイル団体は、いかに彼らが異性愛者と同質であり平等であるかを主張し、異性愛社会の共感を得ながら、ソドミー法に代表される差別的な制度の撤廃を目指した。それに対し、ストーンウォールの反乱以後は、異性愛者との差異を認めながら、アフリカ系アメリカ人等の社会的マイノリティと連帯して権利獲得を目指す同性愛解放運動が主流になる。", + "qas": [ + { + "question": "同性愛者らの権利獲得運動の性格が変わる基点となった事件は、何?", + "id": "tr-225-09-000", + "answers": [ + { + "text": "ストーンウォールの反乱", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ストーンウォールの反乱の前の同性愛者らの権利獲得運動の主軸となっていたのは、どのような人々でしたか?", + "id": "tr-225-09-001", + "answers": [ + { + "text": "マタシン協会", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "時代の変化の中で、マタシン協会は、解放運動の指導者たちから、その同化主義的な運動方針が、同性愛者らのアイデンティティを否定し異性愛者社会に迎合するものであると批判されるようになり、急速に支持を失っていった。解放運動の指導者の一人ジョン・マーフィーにとっては、ライチによるゲイバーのアルコール飲料提供の合法化実現すら、ゲイバーという名のゲットーを恒久化させ、同性愛者が異性愛者の世界に立ち向かう機会を妨げる行為として、非難すべき対象であった。マタシン協会はその後も細々と活動を続けたが、1987年1月に破産し解散する。", + "qas": [ + { + "question": "同性愛者らの権利運動の性格が変わるとともに、支持を失っていったのは、どのような人々か?", + "id": "tr-225-10-000", + "answers": [ + { + "text": "マタシン協会", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ジョン・マーフィーは、誰の行動について非難されるべきことであると考えていたか?", + "id": "tr-225-10-001", + "answers": [ + { + "text": "ライチ", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マタシン協会のリーダーは、誰か?", + "id": "tr-225-10-002", + "answers": [ + { + "text": "ライチ", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "同性愛者らの権利運動の性格の変化により、その運動のリーダーは、ライチから誰に変わったか?", + "id": "tr-225-10-003", + "answers": [ + { + "text": "ジョン・マーフィー", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1969年7月、反乱から一月も経たない中に、ニューヨークで同性愛解放団体「ゲイ解放戦線」が組織された。これは左翼的なイデオロギーを主張する急進的な団体であった。同様の団体は、国内主要都市に次々と作られ、1969年末までに主要な大学にゲイ解放戦線の支部が作られた。1970年には過度の政治化を嫌う同性愛者らがゲイ解放戦線を離れ、共産主義的な主張を排除した解放団体「ゲイ活動家同盟」を創設する。この動きは海外にまで波及し、西側先進国に同様の解放運動が広まった。1970年にはロンドンでもゲイ解放戦線が組織され、翌年デモ行進が行われた。", + "qas": [ + { + "question": "ゲイ解放戦線が組織されたのは、いつのことなの?", + "id": "tr-225-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1969年7月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ゲイ活動家同盟が組織されたのは、いつのことですか?", + "id": "tr-225-11-001", + "answers": [ + { + "text": "1970年", + "answer_start": 131, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ニューヨークでゲイ解放戦線が組織されるなどのことが海外に及ぼした影響としては、何年度のロンドンの事例が挙げられているか?", + "id": "tr-225-11-002", + "answers": [ + { + "text": "1970年", + "answer_start": 228, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "どこでのゲイ解放戦線の組織が海外まで影響を及ぼしたか?", + "id": "tr-225-11-003", + "answers": [ + { + "text": "ニューヨーク", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "このような解放運動の成果により、1970年代、合衆国の同性愛者らの境遇は飛躍的に向上する。1971年にコネティカット州がソドミー法を撤廃したのを皮切りに、いくつかの州議会や州裁判所でソドミー法が撤廃または緩和される決定がなされた。1972年にはミシガン州アナーバー市が同性愛者の人権保護を条例化する。著名人たちが同性愛的性的指向を公表し始めたのも、この頃であった。1973年末までに全国で1100の同性愛団体が設立された。", + "qas": [ + { + "question": "アメリカ合衆国における同性愛者らの境遇の向上が果たされたのは、何年代のことなの?", + "id": "tr-225-12-000", + "answers": [ + { + "text": "1970年代", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "コネティカット州でソドミー法が撤廃されたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-225-12-001", + "answers": [ + { + "text": "1971年", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ソドミー法撤廃の先例となったのは、どの州か?", + "id": "tr-225-12-002", + "answers": [ + { + "text": "コネティカット州", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ミシガン州アナーバー市で同性愛者の人権保護が条例化されたのは、何年のことか?", + "id": "tr-225-12-003", + "answers": [ + { + "text": "1972年", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "福岡県西方沖地震", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "福岡県西方沖地震(ふくおかけんせいほうおきじしん)は、2005年(平成17年)3月20日午前10時53分に福岡県北西沖の玄界灘で発生した気象庁マグニチュード7.0(Mw6.7)、最大震度6弱の地震である。\n震源に近い福岡市西区の玄界島で住宅の半数が全壊する被害となったのをはじめ、同区能古島、西浦、宮浦、東区志賀島などの沿岸地区で大きな被害となった。\n福岡市および志摩町・前原市(現・糸島市)と周辺市町村を中心に被害が発生した。\n被害の内容は死者1名、負傷者約1,200名、住家全壊約140棟であった。\n福岡市付近では有史以来最も大きな地震となった。\n1922年(大正11年)以降、初めて福岡県内で震度6以上の揺れを記録した。\n気象庁はこの地震の命名を行っておらず、報道発表では「福岡県西方沖の地震」と呼称した。\n福岡県及び福岡市のほか、主要マスメディアでは朝日新聞、NHKが「福岡県西方沖地震」を使用している一方、西日本新聞と読売新聞は「福岡沖地震」、毎日新聞は「福岡沖玄界地震」をそれぞれ使用している。", + "qas": [ + { + "question": "福岡市付近における有史以来、最大の地震を何と言いますか?", + "id": "tr-226-00-000", + "answers": [ + { + "text": "福岡県西方沖地��", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "福岡県西方沖地震において被害の数字が最も多い対象者は何ですか?", + "id": "tr-226-00-001", + "answers": [ + { + "text": "負傷者", + "answer_start": 226, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "主要マスメディアの中で毎日新聞のみが使用している地震の呼称は何ですか?", + "id": "tr-226-00-002", + "answers": [ + { + "text": "「福岡沖玄界地震」", + "answer_start": 432, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "地震が発生したのは、2005年(平成17年)3月20日の日曜日、祝日・春分の日であり、3連休の中日だった。\n発生時刻は10時53分40.3秒(日本時間)、震源は福岡県北西沖(発生当時の震央地名は「福岡県西方沖」)の北緯33度44.3分東経130度10.5分、震源の深さは9km。\n博多湾口に近い玄界灘の離島である玄界島(福岡市西区玄界島)から北西に約8km、糸島半島北端の西浦崎(福岡市西区西浦)から北北西に約9kmの地点にあたる。", + "qas": [ + { + "question": "玄界島(福岡市西区玄界島)からと糸島半島北端の西浦崎(福岡市西区西浦)からでは、どちらの方が震源地に近いですか?", + "id": "tr-226-01-000", + "answers": [ + { + "text": "玄界島", + "answer_start": 156, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "地震が発生したのは、3連休中の2日目でありその日は何曜日でしたか?", + "id": "tr-226-01-001", + "answers": [ + { + "text": "日曜日", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "気象庁によると地震の規模は、地震波の振幅に比例する気象庁マグニチュード(Mj)で7.0、断層破壊の規模に比例するモーメントマグニチュード(Mw)で6.7だった。\n地殻を構成する大陸プレート(ユーラシアプレートあるいはアムールプレート)内で発生した地震、いわゆる内陸地殻内地震である。\n発震機構は東西方向に圧力軸を持つ横ずれ断層型で、断層面は地面に対して垂直であり、余震分布から北西-南東方向に延びる左横ずれ断層と考えられている。\nこの地震を起こした震源断層は、政府の地震調査委員会により「福岡県北西沖の断層」と仮称されている。\nただし、地震発生当時はこの断層の存在は知られていなかった。\n地震による震源断層のすべり量は資料により開きがあるが、気象研究所によると最大約1.7m、西村らによると最大約1.9m、浅野らによると最大約3mなどと推定されている。", + "qas": [ + { + "question": "地震発生当時にはまだ知られていなかったという震源断層の名前は?", + "id": "tr-226-02-000", + "answers": [ + { + "text": "「福岡県北西沖の断層」", + "answer_start": 243, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "地震による震源断層のすべり量の資料の中で、最も量が少なく推定されているのはどこによる資料ですか?", + "id": "tr-226-02-001", + "answers": [ + { + "text": "気象研究所", + "answer_start": 321, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "地殻を構成する大陸プレート内で発生する地震のことを何と言うの?", + "id": "tr-226-02-002", + "answers": [ + { + "text": "内陸地殻内地震", + "answer_start": 130, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "福岡管区気象台の解析では、震源から約30km離れた福岡市早良区の地震計において、地震発生約7秒後の10時53分47秒に初期微動が始まり4秒後に主要動が到達、20秒程度続いた。\nこれらから地震を引き起こした断層破壊の継続時間は十数秒間と推定され、この規模の地震としては比較的短かった。\n余震域は、志賀島付近を南東端としてそこから北西方向に約30kmにわたって分布した。\nただし北西端付近と南東端付近の2箇所は断層の走行がやや屈曲している。\nまた、メインの余震域の東側の少し離れたところ、海の中道付近には本震から時間を置いて1日後の3月21日から活動が活発化した小さな余震域がある。\nこの小さな余震域は石堂-海の中道断層の位置と一致している。", + "qas": [ + { + "question": "主要動が到達する4秒前に始まった震動は何?", + "id": "tr-226-03-000", + "answers": [ + { + "text": "初期微動", + "answer_start": 59, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "本震から1日後に余震活動が活発した地域はどこ?", + "id": "tr-226-03-001", + "answers": [ + { + "text": "海の中道付近", + "answer_start": 242, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "福岡市や糸島半島付近の陸地を見ても、過去最大の地震は1898年8月の糸島地震(M6.0,M5.8)、次いで1929年8月の博多湾付近の地震(M5.1)、1930年2月の雷山付近の地震(M5.0)が知られているのみで、古文書によるものを含めてもM7級の地震は前例がなく、福岡市および糸島半島付近では有史以来最大の地震となった。\nまたこの地震で、震度の記録が整備された1926年以降、福岡県内と佐賀県内で初めて震度5以上の揺れを観測した。", + "qas": [ + { + "question": "過去における福岡市および糸島半島付近の地震の記録の中で、2番目に大きかった地震は何ですか?", + "id": "tr-226-04-000", + "answers": [ + { + "text": "博多湾付近の地震", + "answer_start": 61, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "また、やや範囲を広げて福岡県、佐賀県および長崎県壱岐地方を見ると、1700年の壱岐・対馬付近の地震(M7)や679年筑紫地震(M6.5-7.5)などが知られており、この地震は約300年ぶりの規模となった。\nそれでも、北部九州の日本海側(玄界灘沿い)は日本の中でも相対的に地震活動が低く、時としてM7程度の地震が発生するものとされ、同じ北部九州でも豊後水道ではM7.5程度の地震の例があるのとは対照的となっている。\nまた九州地方で震度6弱以上を観測する地震としては、1997年5月の鹿児島県北西部地震以来となった。", + "qas": [ + { + "question": "福岡県、佐賀県および長崎県壱岐地方の範囲で、最も大規模な地震があったのは何年になりますか?", + "id": "tr-226-05-000", + "answers": [ + { + "text": "679年", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "九州地方で最初に震度6弱以上を観測した地震は何地震でしたか?", + "id": "tr-226-05-001", + "answers": [ + { + "text": "鹿児島県北西部地震", + "answer_start": 240, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "この地震の震源域に既に知られている活断層はなかった。\n地震後の海底探査などでも、震源域付近の海底に活断層の証拠となる段差は発見されていない。\n横ずれ断層では段差が生じにくく、さらに海底であることが発見を難しくしていると考えられている。\nしかし震源域(余震域)から10kmほど北東には、この地震の余震分布と同じ北西-南東方向に延びる長さ数kmの海底活断層が2か所存在することが知られていた。\nまた、福岡県北部には同じく北西-南東方向に延びる活断層が複数あり、福岡市中心部を縦断する警固断層もその1つである。\n特にこの地震の余震域はほぼ警固断層の延長線上にあり、地震後にその関連性が調査されることとなった。\n2007年の地震調査委員会の評価では、この地震の震源域は警固断層そのものではないと断定したが、「警固断層帯」として一括りにし、確率は低いが2つの断層が連動して地震を起こす可能性に含みを持たせている。", + "qas": [ + { + "question": "この地震の震源域に関連している福岡県北部にある活断層の1つは何?", + "id": "tr-226-06-000", + "answers": [ + { + "text": "警固断層", + "answer_start": 239, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "2005年6月末までの3カ月余りの間に、震度1以上の余震は375回発生している。\n最大震度別の内訳は震度5強が1回、震度4は7回、震度3が23回、震度2が118回、震度1が226回であった。\nただし、3月21日18時までは震度計がなかった玄界島の震度を反映していない。\nまたマグニチュード(M)で見ると、同じ期間でM3以上の余震は265回発生しており、内訳はM3クラスが236回、M4クラスが24回、M5クラスが5回となっている。\n本震発生後、気象庁によると最大で震度5弱程度、所によっては震度5強の余震が発生する可能性があるとして注意を呼び掛けた。\n24日には震度4程度の可能性に変更された。", + "qas": [ + { + "question": "2005年6月末までの最大震度別の内訳の中で、最も多く回数を記録しているのは震度何?", + "id": "tr-226-07-000", + "answers": [ + { + "text": "震度1", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "2005年6月末までの最大震度別の内訳の中で、3番目に回数が少ない記録は震度何ですか?", + "id": "tr-226-07-001", + "answers": [ + { + "text": "震度3", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "2005年6月末までのマグニチュード(M)の内訳の中で、2番目に回数が多いのは何クラスのマグニチュード(M)ですか?", + "id": "tr-226-07-002", + "answers": [ + { + "text": "M4クラス", + "answer_start": 190, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "2005年6月末までのクラス別のマグニチュード(M)の内訳の中で、最も回数が少ないのは何クラスですか?", + "id": "tr-226-07-003", + "answers": [ + { + "text": "M5クラス", + "answer_start": 200, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "本震から丸1か月後の4月20日6時11分には、M5.8、最大震度5強の最大余震が発生した。\n発震機構は東西方向に圧力軸を持つ横ずれ断層型で、本震と同じ型である。\n本震と同じ程度の強い揺れとなった地域もあり、この余震でも人的・物的被害が生じている。\n本震からの時間経過とともに余震が減衰傾向にある中、余震域の南東側で特徴的な活動が発生した。\n余震域南東側の志賀島付近では、本震後にまとまった余震活動が発生し一時的に4月上旬から中旬にかけて地震が比較的少ない状態となった後、4月20日にM5.8・震度5強の最大余震が発生する経過をたどった。\n一方、一連の余震域から10kmほど東側に離れた海の中道付近でも、本震翌日の3月21日からまとまった余震活動が発生したが、4月中旬から活動が低下している。", + "qas": [ + { + "question": "M5.8、最大震度5強の最大余震が発生したのは、本震からどれくらいの期間を経て発生しましたか?", + "id": "tr-226-08-000", + "answers": [ + { + "text": "丸1か月後", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "国土地理院はGPS観測を行っている電子基準点の位置について地震の前後で比較を行った。\n「福岡」(福岡市東区志賀島)で南西に約17cm、「前原」(糸島市前原)で南に9cm、「古賀」(古賀市)で西に6cmの変位をそれぞれ観測した。\nまた、三角点についても再測量を行い、玄界島で南に約38cmの変位を観測したのを始め、東区の一部を除いた福岡市と前原、志摩など震源域の南西側では、沿岸を中心に南に10cm前後の変位を観測した。\n一方、新宮や相島など震源域の北東側では、西方向の変位を観測した。", + "qas": [ + { + "question": "国土地理院が地震の前後で行った電子基準点の位置の比較において、最も大きな変位が観測された地域はどこですか?", + "id": "tr-226-09-000", + "answers": [ + { + "text": "「福岡��", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "国土地理院が地震の前後で行った電子基準点の位置の比較において、最も小さな変位が観測されたのはどこの地域ですか?", + "id": "tr-226-09-001", + "answers": [ + { + "text": "「古賀」", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "三角点の再測量において、最も大きな変位が観測されたのはどこ?", + "id": "tr-226-09-002", + "answers": [ + { + "text": "玄界島", + "answer_start": 132, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "この地震最大の震度6弱を観測したのは4地点で、福岡県内では福岡市東区東浜、中央区舞鶴、前原市(現糸島市)前原西の3地点、佐賀県内ではみやき町北茂安の1地点である。\n福岡県内の3地点は震央から約30kmであるのに対し、佐賀県みやき町は震央から60kmとやや離れている。\nまた、福岡県福岡地方の広い範囲と筑後地方・筑豊地方の一部、佐賀県と長崎県壱岐の一部で震度5強となった。\n福岡県、佐賀県および長崎県北部と壱岐・対馬、大分県北部はほとんどが震度4以上となり、このほか熊本県、長崎県、山口県、島根県でも複数の地点で震度4を観測している。\n福岡県内で震度6以上を記録したのは、観測史上初であり、2020年3月24日(令和二年3月24日)現在、唯一の事例である。\nこれら観測値と同様に気象庁の推計震度分布図によれば、博多湾沿岸の広い範囲と、筑後川流域、唐津湾沿岸のそれぞれ一部で推定震度5強、所によっては推定震度6弱の地域が分布している。\nまた、福岡平野から筑紫山地西部にかけての地域と筑紫平野の全域に推定震度5弱の地域が分布している。", + "qas": [ + { + "question": "この地震最大の震度6弱を観測した4地点の中で、震央から最も遠かった地点はどこですか?", + "id": "tr-226-10-000", + "answers": [ + { + "text": "佐賀県みやき町", + "answer_start": 108, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "この地震最大の震度6弱を観測した4地点の中で、福岡県以外には何地点ありましたか?", + "id": "tr-226-10-001", + "answers": [ + { + "text": "1地点", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この地震最大の震度6弱を観測した4地点の中で、3地点は同じ県にありました。それは何県ですか?", + "id": "tr-226-10-002", + "answers": [ + { + "text": "福岡県", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "また、九州と四国・中国地方のほとんどの地点で有感(震度1以上)となり、近畿地方・中部地方の平野部や沿岸部でも有感となった。\n最も震源から遠い地点では東京都板橋区と神奈川県綾瀬市で震度1を観測した。\nこのように本州方面では震央から500km以遠でも有感となった一方で、南方面では鹿児島県の本土で有感の地点があった(指宿市が有感最南)が、震央から300kmの種子島以南の奄美諸島・沖縄県では無感(震度1未満)となった。\nこれは九州南部の火山地帯で\"Lg波\"と呼ばれる地震波が大きく減衰する影響によるものと考えられている。\n地震波形の解析により、九州や本州の構造盆地で長周期地震動の増幅が発生していたことが分かっている。\n長周期成分の周期には幅があるが、福岡県・佐賀県の筑紫平野では約5秒周期、熊本県の人吉盆地では約3秒周期の地震動がピークを示した。", + "qas": [ + { + "question": "本州方面では震央から500km以遠でも有感となった一方、震央から300kmの種子島以南の奄美諸島・沖縄県では無感(震度1未満)となった理由として影響を与えた地震波は、何と呼ばれていますか?", + "id": "tr-226-11-000", + "answers": [ + { + "text": "\"Lg波\"", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "福岡県・佐賀県の筑紫平野と熊本県の人吉盆地を比較して、周期の長い地震動を示したのはどちら?", + "id": "tr-226-11-001", + "answers": [ + { + "text": "福岡県・佐賀県の筑紫平野", + "answer_start": 324, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "震源に近い玄界島には、3月20日の本震の時点では震度計が置かれていなかった。\n本震における玄界島の震度はいくつかの推定が発表されているが、幅がある。\n地震学者の武村雅之は余震のデータを基に推定で震度6弱(5.9)とする試算結果を発表している。\n筑波大学の境有紀の話によれば住宅被害の多くが地盤崩壊や崖崩れを伴い建物自体が地震動で大きく破壊されたとは考えづらいものの、屋根瓦の被害率が高い状況などから震度6強相当ではないかとHP上で発表している。\n東京大学地震研究所の三宅弘恵らの研究チームは余震の観測記録を基に本震の地震動をシミュレーションし、推定で震度7(6.5)に達した可能性があるという試算結果を発表している。\n気象庁は玄界島の被害程度の調査を行っており、山本雅博地震津波監視課長(当時)は記者会見で「調査結果を総合的に見ると震度6弱程度ではないか」とコメントしている。\nなお、気象庁は地震機動観測班を派遣して玄界島漁村センター(福岡市西区玄界島)に震度計を設置し、3月21日18時から観測を開始した。", + "qas": [ + { + "question": "様々な研究者が試算した玄界島の推定震度の内、最も大きい推定震度を発表した機関はどこ?", + "id": "tr-226-12-000", + "answers": [ + { + "text": "東京大学地震研究所", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "玄界島で地震観測が始まったのはいつ?", + "id": "tr-226-12-001", + "answers": [ + { + "text": "3月21日18時", + "answer_start": 436, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "日本以外では、韓国でもソウルを始め広範囲で揺れを観測した。\nアメリカ地質調査所(USGS)の記録によれば釜山、慶州、巨済で改正メルカリ震度階級震度4を観測した。\nまた、中国の上海では、地元紙『新民晩報』の報道によるとビルの高層階では体感で分かるほどの揺れが感じられ、食器が音をたてたり電灯が揺れるなどして2分ほど揺れが続いたところもあったほか、上海市地震局でも揺れを観測した。", + "qas": [ + { + "question": "海外では、韓国の他にどこの国で地震が観測されましたか?", + "id": "tr-226-13-000", + "answers": [ + { + "text": "中国", + "answer_start": 84, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "震源は志賀島付近で本震よりも九州本土に近かったため、所によっては本震を上回る震度を観測した。\n博多区や南区では本震の震度5弱を上回り震度5強となっている。\n福岡県と佐賀県の広い範囲と、大分県、熊本県、山口県、長崎県壱岐の一部で震度4、九州北部と中国地方・四国地方の一部で震度3、震度1以上を観測した地点は九州から近畿地方に及んだ。", + "qas": [ + { + "question": "本震を上回る震度を観測したのはどこの地域ですか?", + "id": "tr-226-14-000", + "answers": [ + { + "text": "博多区や南区", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "震度4を観測した県の中で、本州に属しているのは何県ですか?", + "id": "tr-226-14-001", + "answers": [ + { + "text": "山口県", + "answer_start": 100, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "日本の気象庁は、地震から4分後の10時57分、福岡県日本海沿岸(玄界灘沿い)と長崎県壱岐・対馬に津波注意報を発表したが、12時に解除した。\n津波は観測されなかった。\n海域の浅い地震ではあったが横ずれ断層だったため、津波は発生しなかった。\nただし福岡市では、屋外スピーカーで放送を行う同報系の防災行政無線が整備されていなかったため、広く避難を呼び掛けることはできなかった。\nその後市は、同報系ではないが防災拠点との通信を確保する地域防災無線を拡充し、避難所である市内の全小学校に整備している。\n韓国でも大韓民国気象庁が地震から27分後の11時20分、南海岸、東海岸、済州島に津波注意報を発表したが、津波は観測されず12時過ぎに解除した。\n一方、気象庁が津波注意報を各自治体に知らせるFAXが、日曜日であるにも関わらず職員の常駐していない部署に送信されるというミスも発生した。", + "qas": [ + { + "question": "地震による津波が発生しなかったのは、どのような断層だったためですか?", + "id": "tr-226-15-000", + "answers": [ + { + "text": "横ずれ断層", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "大韓民国気象庁から津波注意報が発表された韓国の島はどこ?", + "id": "tr-226-15-001", + "answers": [ + { + "text": "済州島", + "answer_start": 282, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "住宅被害や負傷者の大半は福岡県内で発生しており、特に福岡市が大きな割合を占めた。\n負傷者の8割、全壊・半壊棟数の9割、一部損壊の5割が福岡市となっている。\nただ、福岡市内では全区で人的・物的被害が生じたものの、被害は限られた地域に集中し、その他では散発的な被害が見られた。\n住宅の全半壊を伴うような被害が目立ったのは、福岡市西区の玄界島や能古島、同じく西区北西端の西浦地区・宮浦地区、東区の志賀島など、沿岸の漁村・農村地域だった。\n特に、玄界島では住宅の半数が全壊するなど大きな被害となり、約1か月間にわたって全島避難を行った。\nまた、福岡市街地の中でも一部地域、中央区の警固断層東縁でマンションや古いビルの半壊・一部損壊が集中的に発生した。\nライフラインや交通などの都市機能にも被害は生じたが、概ね半日から2日間程度で復旧している。", + "qas": [ + { + "question": "福岡市の占める割合が最も大きかった住宅被害の数は何?", + "id": "tr-226-16-000", + "answers": [ + { + "text": "全壊・半壊棟数", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "地震の被害が大きく全島避難が強いられた島はどこ?", + "id": "tr-226-16-001", + "answers": [ + { + "text": "玄界島", + "answer_start": 219, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "福岡市消防局のまとめによると、福岡市内で地震に伴う傷病により救急搬送された人数は地震当日の3月20日に87人、翌3月21日に6人など、4月6日までの18日間で計109人となっている。\nなお、このうち地震当日に玄界島から6人がヘリコプターで災害拠点病院である九州医療センターまたは済生会福岡総合病院に搬送されているほか、翌日以降の搬送人数には熱傷患者の転院による搬送なども含まれる。\n受傷要因別の内訳は、転倒による負傷が31人(28%)、鍋等の転倒による熱傷が19人(17%)、落下物による負傷が同じく19人(17%)、建物等の倒壊による負傷が12人(11%)などとなっている。\nまた、年齢別では60代以上が約6割を占めた。\n唯一の直接死者となった70代女性は、博多区吉塚の自宅付近にて清掃作業を終えて近所の住民と談話中、倒壊したブロック塀の下敷きとなり出血性ショックなどが原因で死亡した。\nこのほか、福岡市で80代女性、筑紫野市で50代男性がそれぞれ飛んできた瓦で頭を打つなどして重体となった。", + "qas": [ + { + "question": "受傷要因別の内訳の中で、最も多い割合を占めるものは何?", + "id": "tr-226-17-000", + "answers": [ + { + "text": "転倒による負傷", + "answer_start": 201, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "受傷要因の内訳を年齢別で見ると、最も多い割合を占めたのはどの年代?", + "id": "tr-226-17-001", + "answers": [ + { + "text": "60代以上", + "answer_start": 297, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "地震による直接死者となった70代女性の死因は何だったの?", + "id": "tr-226-17-002", + "answers": [ + { + "text": "出血性ショック", + "answer_start": 376, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "福岡県のまとめでは、県が管轄する公共施設や農産品などの被害総額は314億9702万8000円となっている。\nそのうち、公共土木施設が約195億円と6割を占め、公立文教施設が約15億円、農林業・水産業施設が約3億1千万円、産業別被害では商工業が約56億円、水産業が約18億円、林業が約4億4千万円、農業が約1億円などとなっている。\n福岡市のまとめでは、市が管轄する公共施設などの被害額は208億3000万円で、うち87億6千万円(国負担分を含む)が海岸や港湾施設、80億円が漁港施設と海沿いの被害が大半を占め、次いで道路の被害額が多い(2008年3月31日時点)。\nまた、福岡市周辺の企業が加入する福岡商工会議所の調べでは、回答のあった1,507事業所で、建物、設備、商品などを中心に被害額は合計約33億6千万円に上った(2005年4月13日時点)。\n一方で、一部の工場でプラントの一時停止などがあったものの、製造業や金融業などに大きな被害はなかったことが報じられている。\nその一方観光業では、能古島で観光客数が一時的に例年の2割にまで減少するなど、風評被害も発生した。", + "qas": [ + { + "question": "福岡県の公共施設の被害総額の中で、2番目に被害額が多かった施設は何ですか?", + "id": "tr-226-18-000", + "answers": [ + { + "text": "公立文教施設", + "answer_start": 79, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "福岡県の産業別被害の内、最も多額の被害額を出したのはどの産業分野か?", + "id": "tr-226-18-001", + "answers": [ + { + "text": "商工業", + "answer_start": 117, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "福岡市の公共施設などの被害額の内、3番目に多かったのは何の被害額ですか?", + "id": "tr-226-18-002", + "answers": [ + { + "text": "道路", + "answer_start": 257, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "観光客数が一時的に例年の2割にまで減少したのはどこですか?", + "id": "tr-226-18-003", + "answers": [ + { + "text": "能古島", + "answer_start": 446, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "佐賀県内の被害総額は2005年6月時点の概算で3億4255万円、長崎県内の被害総額は2005年4月中旬の時点で壱岐市を中心に計2億200万円となっている。\n日本地震再保険の調べによると、この地震における地震保険の支払総額は2008年3月末時点の実績で231億円となっており、加入率の差などから単純比較はできないが、1995年の阪神・淡路大震災の約3分の1、2004年に発生した新潟県中越地震の1.5倍にあたる。\nなお内訳として、3月20日の本震における支払が168億円、4月20日の余震における支払が63億円となっている。\nまた最大余震前の2005年4月4日時点の見込だが、県別では福岡県が圧倒的に多く1万6千件余り(玄界島は含まず)、次いで佐賀県の310件余り、また長崎県・熊本県・大分県・山口県でも合わせて240件余りの支払が見込まれていた。", + "qas": [ + { + "question": "佐賀県内と長崎県内の被害総額はどちらが少ないですか?", + "id": "tr-226-19-000", + "answers": [ + { + "text": "長崎県内", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "この地震における地震保険の支払総額で、1.5倍の支払額にあたるのは何の地震と比較した場合ですか?", + "id": "tr-226-19-001", + "answers": [ + { + "text": "新潟県中越地震", + "answer_start": 188, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "最大余震前の見込において、最も多くの支払が見込まれていたのは何県ですか?", + "id": "tr-226-19-002", + "answers": [ + { + "text": "福岡県", + "answer_start": 291, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "玄界島、能古島、糸島半島北端の西浦地区・宮浦地区、東区の志賀島など、沿岸の集落で住宅被害が目立った。\n特に、玄界島では住宅の全壊率が5割に達した。\n志賀島北部の勝馬地区でも、玄界島に匹敵する被害となった。\n能古島では2人が負傷し、住宅1棟が一部損壊の被害を受けた。\nまた、震源から東側の玄界灘にある大島(当時大島村、現宗像市)では、住宅8棟が一部損壊の被害を受けた。\n玄界島では仮設住宅200戸が建設され、島全体を区画整理した上で住宅の復興事業が行われた。\nまた、志賀島で16戸、西区北崎で11戸、能古島で3戸、それぞれ仮設住宅が建設されている。\n玄界島や志賀島などで被害が大きかった背景には、震源に近かったことに加えて、急傾斜地に建つ住宅が多いという土地条件が影響していたと見られている。\n実際に、切土・盛土の造成地付近の建物で大きな被害が見られた。\nただし、屋根の被害を中心として古い木造住宅で被害が目立つ一方、比較的新しい住宅では被害が軽い傾向にあった。\nこの背景として、木造住宅において耐震性確保のために必要な壁の量を定める建築基準が1950年から1981年にかけて次第に厳しく改正されてきており、古い住宅では壁の量が少なかったであろうことが考えられている。", + "qas": [ + { + "question": "玄界島と同じくらい地震の被害を受けた地域はどこですか?", + "id": "tr-226-20-000", + "answers": [ + { + "text": "志賀島北部の勝馬地区", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "志賀島、西区北崎、能古島の中で、建設された仮設住宅の数が最も少ないのはどれですか?", + "id": "tr-226-20-001", + "answers": [ + { + "text": "能古島", + "answer_start": 249, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "オスマン帝国", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "アナトリア(小アジア)の片隅に生まれた小君侯国から発展したイスラム王朝であるオスマン朝は、やがて東ローマ帝国などの東ヨーロッパキリスト教諸国、マムルーク朝などの西アジア・北アフリカのイスラム教諸国を征服して地中海世界の過半を覆い尽くす世界帝国たるオスマン帝国へと発展した。その出現は西欧キリスト教世界にとって「オスマンの衝撃」であり、15世紀から16世紀にかけてその影響は大きかった。宗教改革にも間接的ながら影響を及ぼし、神聖ローマ帝国のカール5世が持っていた西欧の統一とカトリック的世界帝国構築の夢を挫折させる主因となった。そして、「トルコの脅威」に脅かされた神聖ローマ帝国は「トルコ税」を新設、中世封建体制から絶対王政へ移行することになり、その促進剤としての役割を務めた。ピョートル1世がオスマン帝国を圧迫するようになると、神聖ローマがロマノフ朝を支援して前線を南下させた。19世紀中ごろに英仏が地中海規模で版図分割を実現した。オスマン債務管理局が設置された世紀末から、ドイツ帝国が最後まで残っていた領土アナトリアを開発した。このような経緯から、オスマン帝国は中央同盟国として第一次世界大戦に参戦し敗れた。敗戦後の講和条約のセーブル条約は列強によるオスマン帝国の解体といえる内容だったために同条約に反対する勢力が、アンカラに共和国政府を樹立し、1922年にはオスマン家のスルタン制度の廃止を宣言、メフメト6世は亡命した。1923年には「アンカラ政府」が「トルコ共和国」の建国を宣言し、1924年にはオスマン家のカリフ制度の��止も宣言。結果、アナトリアの国民国家トルコ共和国に取って代わられた(トルコ革命)。", + "qas": [ + { + "question": "西欧キリスト教世界にとっての「オスマンの衝撃」とは、何の出現か?", + "id": "tr-227-00-000", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「トルコ税」を新設する前の神聖ローマ帝国の体制は何ですか?", + "id": "tr-227-00-001", + "answers": [ + { + "text": "中世封建体制", + "answer_start": 299, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イスラム王朝が建国し、トルコ革命によりトルコ共和国に取って代わられた国は?", + "id": "tr-227-00-002", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "神聖ローマから支援を受け前線を南下させたのは、誰か?", + "id": "tr-227-00-003", + "answers": [ + { + "text": "ピョートル1世", + "answer_start": 338, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "オスマン帝国が最大版図となった時、その支配下は自然的地理環境や生態的環境においても多様なものを含んでおり、さらに歴史的過去と文化的伝統も多様なものが存在した。オスマン帝国南部であるアラブ圏ではムスリムが大部分であり、また、その宗教はオスマン帝国の支配イデオロギーであるスンナ派が中心を成していたが、イラク南部ではシーア派が多数存在しており、また、現在のレバノンに当たる地域にはドールーズ派が多数、存在していた。しかし、これだけにとどまらず、エジプトのコプト教徒、レバノン周辺のマロン派、シリア北部からイラク北部にはネストリウス派が少数、東方キリスト教諸宗派、正教徒、アルメニア教会派、カトリック、ユダヤ教徒などもこのアラブ圏で生活を営んでいた。そしてアナトリアでは11世紀以降のイスラム化の結果、ムスリムが過半数を占めていたが、ビザンツ以来のギリシャ正教徒、アルメニア教会派も多数、存在しており、その他、キリスト教諸宗派も見られ、ユダヤ教徒らも少数存在した。しかし、15世紀にイベリア半島でユダヤ教徒排斥傾向が強まると、ユダヤ教徒らが多くアナトリアに移民した。バルカン半島ではアナトリアからの流入、改宗によりムスリムとなる人々もいたが、キリスト教徒が大多数を占めており、正教徒が圧倒的多数であったがアドリア海沿岸ではカトリック教徒らが多数を占めていた。また、ムスリムとしてはトルコ系ムスリムとセルボ・クロアチア語を使用するボスニアのムスリム、そしてアルバニアのムスリムなどがムスリムとしての中心を成していた。一方で1526年に占領されたハンガリー方面ではカトリックとプロテスタントの間で紛争が始まった時期であった。オスマン帝国はプロテスタント、カトリックどちらをも容認、対照的にハプスブルク帝国占領下であったフス派の本拠地、ボヘミアではプロテスタントが一掃されていた。こうして西欧ではキリスト教一色となって少数のユダヤ人らが許容されていたに過ぎない状態であったのと対照的にオスマン帝国下ではイスラム教という大きな枠があるとはいえども多種の宗教が許容されていた。", + "qas": [ + { + "question": "シーア派と、ドールーズ派のほかに、オスマン帝国に存在したムスリムの宗派は何か?", + "id": "tr-227-01-000", + "answers": [ + { + "text": "スンナ派", + "answer_start": 134, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オスマン帝国では歴史的過去と文化的伝統において多様なものが存在した根拠として、この文書で取り扱われているのは何ですか?", + "id": "tr-227-01-001", + "answers": [ + { + "text": "宗教", + "answer_start": 869, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "11世紀以降のイスラム化によりムスリムが過半数になったところで、バルカン半島にもそのムスリム勢力を広げたのは、どこか?", + "id": "tr-227-01-002", + "answers": [ + { + "text": "アナトリア", + "answer_start": 488, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "オスマン帝国が抱え込んだものは宗教だけではなかった。その勢力範囲には同じ宗教を信仰してはいたものの各種民族が生活しており、また、言語も多種にわたった。オスマン帝国元来の支配層はトルコ人であり、イスラム教徒であった。ただし、このトルコ人という概念も「トルコ語」を母語しているということだけではなく、従来の母語からトルコ語へ母語を変更したものも含まれていた。これはオスマン帝国における民族概念が生物学的なものではなく、文化的なものであったことを示している。オスマン帝国の南部を占めるイラクからアルジェリアにかけてはアラビア語を母語として自らをアラブ人認識する人々が多数を占めていた。しかし、西方のマグリブ地域に向かうとベルベル語を母語とするベルベル人、そして北イラクから北シリアへ向かうとシリア語を母語としてネストリウス派を奉じるアッシリア人が少数であるが加わった。微妙な立場としてはコプト派でありながらコプト語を宗教用にしか用いず、日常にはアラビア語を用いていたコプト教徒らが存在する。また、アナトリア東部から北イラク、北シリアにはスンナ派のクルド人らが存在しており、クルド語を母語としていた。元東ローマ帝国領であったアナトリア、及びバルカン半島ではギリシャ語を母語として正教を奉じるギリシャ人らが多数を占めていた。ただし、アナトリア東部と都市部にはアルメニア語を母語としてアルメニア教会派であるアルメニア人らも生活を営んでいた。バルカン半島では民族、言語の分布はかなり複雑となっていた。各地にはオスマン帝国征服後に各地に散らばったトルコ人らが存在したが、それ以前、ルーマニア方面にはトルコ語を母語とするが正教徒であるペチェネク人らも存在した。", + "qas": [ + { + "question": "イラクとアルジェリアと違って、自分たちをアラブ人と呼ばないものの、日常にはアラビア語を使っていた派は何派か?", + "id": "tr-227-02-000", + "answers": [ + { + "text": "コプト派", + "answer_start": 390, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "オスマン帝国では自分たちの母語を日常で使いつつ、その言語と民族の名称が関係がある場合が大多数であったが、それと違って母語と派の名称が関係がありながら母語を宗教用にしか使わないのは、何派か?", + "id": "tr-227-02-001", + "answers": [ + { + "text": "コプト派", + "answer_start": 390, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "オスマン帝国の支配層は、どんな宗教の教徒だった?", + "id": "tr-227-02-002", + "answers": [ + { + "text": "イスラム教", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アルメニア人らが生活を営んでいたのは、どこの東部か?", + "id": "tr-227-02-003", + "answers": [ + { + "text": "アナトリア", + "answer_start": 561, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "バルカン半島東部になるとブルガリア語を母語として正教を奉じるブルガリア人、西北部にはセルボ・クロアチア語を母語として正教徒である南スラブ系の人々、これらの人々は正教を奉じた人々らはセルビア人、カトリックを奉じた人々らはクロアチア人という意識をそれぞれ持っていた。しかし、ボスニア北部では母語としてセルボ・クロアチア語を使用しながらもムスリムとなった人々が存在しており、これらはセルビア人、クロアチア人からは「トゥルチン(トルコ人」と呼ばれた。アルバニアではアルバニア語を母語とするアルバニア人らが存在したが、15世紀にその多くがイスラム教へ改宗した。ただし、全てではなく、中には正教、カトリックをそのまま奉じた人々も存在する。そしてオスマン帝国がハンガリー方面を占領するとハンガリー語を母語としてカトリックを中心に、プロテスタントを含んだハンガリー人々もこれに加わることになる。その他、ユダヤ教を信じる人々が存在したが、母語はバラバラであり、ヘブライ語はすでに典礼用、学問用の言語と化していた。オスマン帝国南部ではアラビア語、北部では東ローマ帝国時代に移住した人々はギリシャ語、15世紀末にイベリア半島から移住した人々はラディーノ語、ハンガリー征服以後はイディッシュ語をそれぞれ母語とするユダヤ教徒らがオスマン帝国に加わることになる。ただし、彼らは母語こそちがえどもユダヤ教という枠の中でアイデンティティを保持しており、ムスリム側も宗教集団としてのユダヤ教徒(ヤフディー)として捉えていた。", + "qas": [ + { + "question": "バルカン半島で正教を奉じていなかったのは、何人ですか?", + "id": "tr-227-03-000", + "answers": [ + { + "text": "クロアチア人", + "answer_start": 109, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "バルカン半島でカトリックを奉じた人々の名称と同じ名称の言語を母語として使いながらもムスリムであった人々は、何人と呼ばれたの?", + "id": "tr-227-03-001", + "answers": [ + { + "text": "トルコ人", + "answer_start": 210, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "バルカン半島でカトリックを奉じた人々からトルコ人と呼ばれた人々の母語は何か?", + "id": "tr-227-03-002", + "answers": [ + { + "text": "セルボ・クロアチア語", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "セルボ・クロアチア語を使いながらもムスリムであった人々をトルコ人と呼んだ人々が、奉じていた宗教は何ですか?", + "id": "tr-227-03-003", + "answers": [ + { + "text": "カトリック", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "オスマン帝国は勢力を拡大すると共にイスラム教徒以外の人々をも支配することになった。その為の制度がミッレト制であり、サーサーン朝ペルシアなどで用いられていたものを採用した。この対象になったのはユダヤ教徒、アルメニア教会派、ギリシャ正教徒らであった。また、成立時より東ローマ帝国と接してきたオスマン帝国は教会をモスクに転用した例こそあれども、東ローマ帝国臣民を強制的にムスリム化させたという証拠は見られず、むしろ、15世紀初頭以来残されている資料から東ローマ帝国臣民をそのまま支配下に組み込んだことが知られている。このミッレトに所属した人々は人頭税(ジズヤ)の貢納義務はあったが、各自ミッレトの長、ミッレト・バシュを中心に固有の宗教、法、生活習慣を保つことが許され、自治権が与えられた。これらミッレト制はシャーリア上のズィンミー制に基づいていたと考えられており、過去には唯一神を奉じて啓示の書をもつキリスト教徒やユダヤ教徒などいわゆる「啓典の民」らはズィンマ(保護)を与えられたズィンミー(被保護民)としてシャーリアを破らない限りはその信仰、生活を保つことが許されていた。オスマン帝国はこれを受け継いでおり、元々東ローマ帝国と接してきた面から「正教を奉じ、ギリシャ語を母語とするローマ人にして正教徒」というアイデンティティの元、ムスリム優位という不平等を元にした共存であった。このミッレト制は過去に語られた「オスマン帝国による圧政」を意味するのではなく、「オスマンの平和」いわゆる「パックス・オトマニカ」という面があったということを意味しており、20世紀以降激化している中東の紛争、90年代の西バルカンにおけるような民族紛争・宗教紛争もなく、オスマン帝国支配下の時代、平穏な時代であった。", + "qas": [ + { + "question": "オスマン帝国がイスラム教徒以外の人々をも支配することになったことにより、採用した制度は何か?", + "id": "tr-227-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ミッレト制", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "東ローマ帝国臣民を強制的にムスリム化させず、そのまま組み込んだのは、どの国なの?", + "id": "tr-227-04-001", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オスマン帝国支配下でシャーリアを破らない限りは固有の宗教、法、生活習慣を保つことが許され、自治権が与えられた時代をどんな時代と呼ぶ?", + "id": "tr-227-04-002", + "answers": [ + { + "text": "平穏な時代", + "answer_start": 732, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ミッレト制は何などで用いられていたものですか?", + "id": "tr-227-04-003", + "answers": [ + { + "text": "サーサーン朝ペルシア", + "answer_start": 57, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ユダヤ人のミッレトは東ローマ帝国時代からすでに存在したが、1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国領となると、そのミッレトは東ローマ帝国時代と同じ待遇で扱われることを認められ、公認のラビが監督することになった。オスマン帝国はユダヤ人ということで差別することがなかったため、オーストリア、ハンガリー、ポーランド、ボヘミア、スペインなどからの移民も別け隔てなく受け入れた。ただし、これら新規に流入したユダヤ人たちは纏まりを欠いたため、オスマン帝国がハカム・バシュを任命してこれら小集団と化したユダヤ人らを統括した。なお、バヤズィト2世の時代にはユダヤ人らを厚遇するように命じた勅令を発布している。アルメニア人らは合性論者が多かったため、東ローマ帝国時代から異端視される傾向が強かった。そのため、東ローマ皇帝によってカフカースからカッパドキア、キリキアへ移住させられ、小アルメニアを形成することになった。アルメニア本土はセルジューク軍、蒙古軍、ティムールなどの侵略を受けたが、小アルメニアはなんとか自立を保つことができた。その後、オスマン帝国の侵略を受けたが、小アルメニア、アルメニア本土はすぐにオスマン帝国領化することもなかった。しかし、メフメット2世の時代、アルメニア人らのミッレトが形成されたが、アルメニア本土がオスマン帝国領になるのは1514年のことであった。", + "qas": [ + { + "question": "1453年にコンスタンティノープルがオスマン帝国領となった後のユダヤ人に対する待遇は、東ローマ帝国時代と同じだったか、もしくは違ったか?", + "id": "tr-227-05-000", + "answers": [ + { + "text": "同じ", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オスマン帝国支配下で東ローマ帝国時代と同じ待遇で扱われた人々が厚遇を受けるようになったのは、誰の時代のことなの?", + "id": "tr-227-05-001", + "answers": [ + { + "text": "バヤズィト2世", + "answer_start": 262, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オスマン帝国支配下で東ローマ帝国時代と同じ待遇を受け、バヤズィト2世の時代に厚遇を受けた人々は?", + "id": "tr-227-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ユダヤ人", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "東ローマ皇帝によりカフカースからカッパドキア、キリキアへ移住させられたのは、何人ですか?", + "id": "tr-227-05-003", + "answers": [ + { + "text": "アルメニア人", + "answer_start": 300, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ギリシャ正教徒のミッレトにはギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人、ワラキア人らが所属した。彼らはバルカン半島の主要な民族であったために、メフメット2世がギリシャ正教総主教にゲンナデオス2世を任命してミッレト統括者にしたように重要視された。なお、ルメリ地方にミッレト制が導入されたのはメフメット2世以降であり、コンスタンティノープルが陥落するまでは導入されなかった。なお、このミッレトには上記民族以外にもアラビア語を母語とするキリスト教徒、トルコ語を母語とするキリスト教徒(カラマンル)らも含まれることになり、キリスト教徒(正教徒)としての意識を持ってはいたが、それ以上に母語を元にした民族意識も二次的ながら存在していた。", + "qas": [ + { + "question": "ゲンナデオス2世と任命された総主教は、何半島の民族に属する人か?", + "id": "tr-227-06-000", + "answers": [ + { + "text": "バルカン半島", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ルメリ地方にミッレト制が導入されたのは、どこが陥落した後のことか?", + "id": "tr-227-06-001", + "answers": [ + { + "text": "コンスタンティノープル", + "answer_start": 154, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ギリシャ正教総主教にゲンナデオス2世を任命してミッレト統括者にしたのは、誰?", + "id": "tr-227-06-002", + "answers": [ + { + "text": "メフメット2世", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バルカン半島の主要な民族であったのは、何教徒ですか?", + "id": "tr-227-06-003", + "answers": [ + { + "text": "ギリシャ正教徒", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "しかし、オスマン帝国の首都がイスタンブールであったため、イスタンブールにあった全地総主教座を頂点とする正教会上層部がこの主導権を握ることになったため、ギリシャ系正教徒が中心をなし、ギリシャ系正教徒が著しく重きをなした。これに対して過去にステファン・ドゥシャンが帝国を築いたという輝かしい過去をもつセルビア系正教徒らは反感を持っており、1557年、ボスニア出身の元正教徒で大宰相となったソコルル・メフメト・パシャの尽力によりセルビア総主教座を回復したが、これはイスタンブールの総主教座の強い抗議により1766年に廃止された。この例を見るようにオスマン帝国支配下の正教徒社会の中ではギリシャ系の人々が強い影響力をもっていた。イスタンブールの総主教を中心とする正教会はオスマン帝国内だけではなく、オスマン帝国外にも信仰上の影響力があった。コンスタンティノープル陥落以降、教育機関が消滅したが、イスタンブールの総主教座の元では聖職者養成学校が維持され、さらにアトス山の修道院も維持され、その宗教寄進もスルタンに承認されていた。これらのことから教会の上位聖職者はギリシャ系が占めることになったが、これは非ギリシャ系正教徒らに対して「ギリシャ化」を促進しようとする傾向として現れた。18世紀になるとアルバニア系正教徒らがアルバニア語を用いて教育することをオスマン政府に要請したが、これはギリシャ系正教会の手によって握りつぶされ、ファナリオテスがエフラク、ボーダンの君侯になったことにより、ルーマニア系正教徒に対してギリシャ系の優位とそのギリシャ化を推進しようとした。さらに法律の世界でも正教会が重要な位置を占めており、東ローマ時代には皇帝の権力の元、司法と民政を担っていたが、オスマン帝国支配となると裁判などにおいて当事者が正教徒同士である場合、正教会に委ねられることになった。そのため、ムスリムらの固有法がシャーリアであったのに対して、正教徒らはローマ法が固有の法であった。", + "qas": [ + { + "question": "コンスタンティノープル陥落以降、教育機関が消滅したにもかかわらず、聖職者養成学校とアトス山の修道院が維持されたのは、どこの総主教座の元でか?", + "id": "tr-227-07-000", + "answers": [ + { + "text": "イスタンブール", + "answer_start": 393, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アルバニア語を用いた教育についてのアルバニア系正教徒らによるオスマン政府への要請が握りつぶされたのは、何系正教会によることなの?", + "id": "tr-227-07-001", + "answers": [ + { + "text": "ギリシャ系", + "answer_start": 587, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オスマン帝国支配下で正教徒同士のことであれば、正教会に委ねられるようになったのは、何ですか?", + "id": "tr-227-07-002", + "answers": [ + { + "text": "裁判", + "answer_start": 744, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "コンスタンティノープル陥落以降、聖職者養成学校とアトス山の修道院を維持した正教会上層部の中心となっていたのは、何系正教徒か?", + "id": "tr-227-07-003", + "answers": [ + { + "text": "ギリシャ系", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "イスラムの伝統様式を発展させ、オスマン建築と呼ばれる独特の様式を生み出した。モスクなどに現存する優れた作品が多く、17世紀に立てられたスルタンアフメット・モスク(ブルーモスク)がもっとも有名である。建築家はイスタンブールのスレイマニエ・モスクやエディルネのセリミエ・モスクを建てた16世紀前半のミマール・スィナンが代表的であるが、アルメニア人の建築家も数多く活躍した。宮殿では、伝統的建築のトプカプ宮殿や、バロック様式とオスマン様式を折衷させたドルマバフチェ宮殿が名高い。16-17世紀のイズニクで、鮮やかな彩色陶器が生産された。この時代につくられたモスクや宮殿の壁を飾った色鮮やかな青色のイズニク・タイルは、現在の技術では再現できないという。18世紀以降は陶器生産の中心はキュタヒヤに移り、現在も美しい青色・緑色のタイルや皿が生産されている。トルコ語にアラビア語・ペルシア語の語彙・語法をふんだんに取り入れて表現技法を発達させたオスマン語が生まれ、ディーワーン詩や散文の分野でペルシア文学の影響を受けた数多くの作品があらわされた。チューリップ時代の詩人ネディームはペルシア文学の模倣を脱したと評価されているが、その後は次第に形式化してゆく(トルコ文学の記事も参照)。", + "qas": [ + { + "question": "オスマン建築とは何を元にしているものなの?", + "id": "tr-227-08-000", + "answers": [ + { + "text": "イスラムの伝統様式", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ドルマバフチェ宮殿はバロック様式とどの様式を折衷されたものとして名が高いですか?", + "id": "tr-227-08-001", + "answers": [ + { + "text": "オスマン様式", + "answer_start": 210, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ドルマバフチェ宮殿はバロック様式とある様式を折衷されたものとして名が高い宮殿だが、それではある様式とは何から発展したものか?", + "id": "tr-227-08-002", + "answers": [ + { + "text": "イスラムの伝統様式", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オスマン語はどんな言語にアラビア語・ペルシア語の語彙・語法をふんだんに取り入れて表現技法を発達させた言語?", + "id": "tr-227-08-003", + "answers": [ + { + "text": "トルコ語", + "answer_start": 372, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "イスラム世界から受け継いだアラビア文字の書道が発展し、絵画は、中国絵画の技法を取り入れたミニアチュール(細密画)が伝わり、写本に多くの美しい挿絵が描かれた。ヨーロッパ絵画の影響を受けて遠近法や陰影の技法が取り入れられ、特にチューリップ時代の画家レヴニーは写本の挿絵に留まらない、少年や少女の一枚絵を書いた。また、エーゲ海地方のウシャクでは絨毯の織物が有名である。アラブ音楽の影響を受けたリュート系統の弦楽器や笛を用いた繊細な宮廷音楽(オスマン古典音楽)と、チャルメラ・ラッパや太鼓の類によって構成された勇壮な軍楽(メフテル)とがオスマン帝国の遺産として受け継がれている(トルコ音楽の記事も参照)。", + "qas": [ + { + "question": "オスマン帝国の美術が影響を受けたのは、ヨーロッパのほかに、どの国からなの?", + "id": "tr-227-09-000", + "answers": [ + { + "text": "中国", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オスマン帝国の美術が中国絵画のほかに影響を受けた地域の絵画からは、陰影の技法と何を取り入れられたか?", + "id": "tr-227-09-001", + "answers": [ + { + "text": "遠近法", + "answer_start": 92, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "チューリップ時代に少年や少女の一枚絵を書いた画家は、どこの絵画から影響を受けましたか?", + "id": "tr-227-09-002", + "answers": [ + { + "text": "ヨーロッパ", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オスマン帝国の遺産として受け継がれている音楽で、チャルメラ・ラッパや太鼓の類を用いない音楽は、何から影響を受けたの?", + "id": "tr-227-09-003", + "answers": [ + { + "text": "アラブ音楽", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "13世紀末に、東ローマ帝国とルーム・セルジューク朝の国境地帯(ウジ)であったアナトリア西北部ビレジク(英語版)にあらわれたトルコ人の遊牧部族長オスマン1世が率いた軍事的な集団がオスマン帝国の起源である。この集団の性格については、オスマンを指導者としたムスリム(イスラム教徒)のガーズィー(ジハードに従事する戦士)が集団を形成したとされる説が欧州では一般的であるが、遊牧民の集団であったとする説も根強く、未だに決着はされていない。彼らオスマン集団は、オスマン1世の父エルトゥグルルの時代にアナトリア西北部のソユットを中心に活動していたが、オスマンの時代に周辺のキリスト教徒やムスリムの小領主・軍事集団と同盟したり戦ったりしながら次第に領土を拡大し、のちにオスマン帝国へと発展するオスマン君侯国(トルコ語版)を築き上げた。", + "qas": [ + { + "question": "オスマン帝国の起源となる集団のリーダは誰なの?", + "id": "tr-227-10-000", + "answers": [ + { + "text": "オスマン1世", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "オスマン君侯国を築き上げた集団は、誰を指導者としていたか?", + "id": "tr-227-10-001", + "answers": [ + { + "text": "オスマン1世", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "遊牧民であったという説が根強い集団が、建築した国は何ですか?", + "id": "tr-227-10-002", + "answers": [ + { + "text": "オスマン君侯国", + "answer_start": 338, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オスマン1世が率いた集団が建築した国は、後でどの国へ発展するの?", + "id": "tr-227-10-003", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 326, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1326年頃、オスマンの後を継いだ子のオルハンは、即位と同じ頃に東ローマ帝国の地方都市プロウサ(現在のブルサ)を占領し、さらにマルマラ海を隔ててヨーロッパ大陸を臨むまでに領土を拡大、アナトリア最西北部を支配下とした上で東ローマ帝国首都コンスタンティノープルを対岸に臨むスクタリをも手中に収めた。ブルサは15世紀初頭までオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる。1346年、東ローマの共治皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスは後継者争いが激化したため、娘テオドラをオルハンに嫁がせた上で同盟を結び、オスマンらをアナトリアより呼び寄せてダーダネルス海峡を渡らせてバルカン半島のトラキアに進出させた。これを切っ掛けにオスマンらはヨーロッパ側での領土拡大を開始(ビザンチン内戦(1352年-1357年)(英語版))、1354年3月2日にガリポリ一帯が地震に見舞われ、城壁が崩れたのに乗じて占領し(ガリポリ陥落(英語版))、橋頭堡とした。後にガリポリスはオスマン帝国海軍の本拠地となった。オルハンの時代、オスマン帝国はそれまでの辺境の武装集団から君侯国への組織化が行われた。", + "qas": [ + { + "question": "即位と同じ頃に東ローマ帝国の地方都市プロウサを占領した人は、誰の跡を継いだの?", + "id": "tr-227-11-000", + "answers": [ + { + "text": "オスマン", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "15世紀初頭までオスマン国家の行政の中心地となり、最初の首都としての機能を果たすことになる都市を占領したのは、誰ですか?", + "id": "tr-227-11-001", + "answers": [ + { + "text": "オルハン", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オスマン帝国がヨーロッパ側での領土拡大を開始した時期の東ローマ帝国の皇帝は誰か?", + "id": "tr-227-11-002", + "answers": [ + { + "text": "ヨハネス6世カンタクゼノス", + "answer_start": 212, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オスマン帝国がヨーロッパ側での領土拡大を開始するきっかけとなったことは、何年にあったことですか?", + "id": "tr-227-11-003", + "answers": [ + { + "text": "1346年", + "answer_start": 197, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "HTV技術実証機", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "HTV技術実証機(HTVTechnicalDemonstrationVehicle:HTV-1)は2009年9月11日に打ち上げられた宇宙ステーション補給機(HTV)の初号機である。同月17日国際宇宙ステーション(ISS)に結合し、物資をISSに輸送した後、10月30日に結合を解除し、11月2日に大気圏再突入を果たした。HTVの愛称決定後は「こうのとり初号機」や「こうのとり1号機」とも呼ばれる。HTV-1ミッションではH-IIBロケットの初打上げ、およびHTV-1によるISSへの補給物資の輸送を実施する。またこれと共に、ISSへのランデブー飛行技術の検証や安全化技術、管制技術の検証、軌道上における大型機体構造の検証、多重化したアビオニクス、推進系の構成(部品点数約80万点)の検証、宇宙飛行士の乗り込みが可能な有人対応設計(ISS係留中)の検証などの技術検証を行う。", + "qas": [ + { + "question": "HTV技術実証機の別称が「こうのとり初号機」であることから見たら、HTVの愛称は何?", + "id": "tr-228-00-000", + "answers": [ + { + "text": "こうのとり", + "answer_start": 172, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "「こうのとり1号機」のほかに、HTVの初号機を呼ぶ別称は、何ですか?", + "id": "tr-228-00-001", + "answers": [ + { + "text": "「こうのとり初号機」", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "HTVの最大補給量は約6トンだが、HTV初号機ではISSドッキングの前に運用検証を行なうため、通常より多くの推進剤とバッテリをHTV-1に搭載した。そのため、HTV-1の補給量は与圧部3.6トン、非与圧部0.9トンの計4.5トンであった。補給キャリア非与圧部にはきぼう船外実験プラットフォームに取り付けられる日本の超伝導サブミリ波リム放射サウンダ(SMILES,475kg)とNASAの「沿岸海域用ハイパースペクトル画像装置および大気圏/電離圏リモート探知システム実験装置」(HREP,381kg)が搭載された。補給キャリア与圧部にはHTV補給ラック(HRR)が7台、きぼう保管ラック(PSRR)が1台搭載された。これらの内容物は食料(重量33%)、科学実験用物資(20%)、きぼうロボットアームの子アーム(18%)、衣服・洗面用化粧品・手紙・写真・蛍光灯・屑入れバケツといったクルーへの補給品(10%)、その他(19%)である。", + "qas": [ + { + "question": "HTVの最大補給量とHTV-1の補給量を比較したら、どちらの値がより大きいですか?", + "id": "tr-228-01-000", + "answers": [ + { + "text": "HTVの最大補給量", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "HTV補給ラックときぼう保管ラックのうち、補給キャリア与圧部により多くの台数が搭載されたのは、どちらか?", + "id": "tr-228-01-001", + "answers": [ + { + "text": "HTV補給ラック", + "answer_start": 267, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "補給キャリア与圧部に搭載されたHTV補給ラックときぼう保管ラックの内容物の中で、その量が最も多いのは、何?", + "id": "tr-228-01-002", + "answers": [ + { + "text": "食料", + "answer_start": 315, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "HTV-1の打上げにはH-IIBの初号機が使用された。打上げの前に、2度の実機型タンクステージ燃焼試験(CFT)が行われた。初回の試験では2009年3月27日に10秒の燃焼を行う予定だったが、事前に行われた極低温点検で冷却水供給異常事象が確認され、試験は延期された。後に移動発射台に冷却水を供給する供給元弁(手動弁)が閉じていたことが原因と判明し、試験日は4月1日に再設定された。しかし、4月1日に防消火系設備配管の継手部から漏水が発見され、試験はまたしても延期となった。翌日の4月2日の14時00分に第1回CFTが実施され、良好に終了した。続いて2回目の試験では4月20日に150秒間の燃焼を行うことが予定された。天候の悪化が予想されたため22日に延期され、22日13時00分に第2回CFTが実施された。7月11日にはH-IIBロケットの地上総合試験が行われた。", + "qas": [ + { + "question": "極低温点検で確認された冷却水供給異常事象は、どこに冷却水を供給する供給元弁が閉じていたことが原因でありましたか?", + "id": "tr-228-02-000", + "answers": [ + { + "text": "移動発射台", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第1回目と第2回目の実機型タンクステージ燃焼試験が実施されたのは、何月のこと?", + "id": "tr-228-02-001", + "answers": [ + { + "text": "4月", + "answer_start": 282, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "第1回CFTと第2回CFTのうち、より長く燃焼を行ったのは、どちらか?", + "id": "tr-228-02-002", + "answers": [ + { + "text": "第2回CFT", + "answer_start": 340, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "2009年7月8日にHTV-1の打上げを9月11日に実施し、打上げ予備期間を9月12日から9月30日にすることが発表された。当初から計画していた2009年9月11日2時1分46秒(JST)にHTV-1を搭載したH-IIBロケットが打ち上げられた。打上げから15分10秒後にHTV-1が分離された。遠地点高度299.9km(300.0km±2km)、近地点高度199.8km(200.0km±10km)、軌道傾斜角51.69度(51.67度±0.15度)でHTV-1の軌道投入に成功した(括弧内の数値は計画値)。打上げは種子島宇宙センターの吉信第2射点から行われ、この打上げが第2射点の初使用となった。運用スケジュールは飛行日(FlightDay:FD、ISSクルーの起床から始まる1日のスケジュール)に基づいて行われた。打上げのあった日が飛行1日目である。", + "qas": [ + { + "question": "種子島宇宙センターの吉信第2射点が初めて使用された、年月日を答えなさい。", + "id": "tr-228-03-000", + "answers": [ + { + "text": "2009年9月11日", + "answer_start": 72, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "HTV-1を搭載したH-IIBロケットの打上げは、どこから行われましたか?", + "id": "tr-228-03-001", + "answers": [ + { + "text": "種子島宇宙センターの吉信第2射点", + "answer_start": 259, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "HTV-1の運用スケジュールにおける飛行1日目とは、いつか?", + "id": "tr-228-03-002", + "answers": [ + { + "text": "2009年9月11日", + "answer_start": 72, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "飛行1日目での軌道投入後はHTVのサブシステムが自動起動し、姿勢制御、機体の異常点検、HTV運用管制室との通信接続が行われ、ランデブ用軌道制御が始まった。飛行3日目に衝突回避運用(CollisionAvoidanceManeuver:CAM)といったHTVの運用検証が行われた。これらは成功し、飛行6日目にはISSミッション管理会議(MissionManagementTeam:MMT)においてHTV-1のISSへの最終接近運用が承認された。飛行7日目の9月16日午前9時4分、飛行8日目の9月17日午後6時26分および同日午後9時28分に高度調整マヌーバを実施し、ISS後方5kmの接近開始点(ApproachInitiation:AI)に到着しISSに対して相対停止した。飛行8日目の9月18日午前0時31分に接近開始点を出発してISSへの接近を再開した。GPS相対航法でISSの下方約500mのRバー開始点(R-barInitiation:RI)に移動し、同日午前1時38分に到着した。到着後はランデブセンサ(RendezvousSensor:RVS)から照射したレーザ光を、「きぼう」船内実験室の下側に設置された反射器に反射させて位置を確認しながら1-10m/s程度の速度で下方からISSに接近し、同日午前1時48分、ISS下方300mのホールドポイントで自動停止し、緊急時の衝突回避運用のため、HTV-1のヨー方向(横方向)の姿勢を180度変更した。このモードで9番スラスタのインジェクタ温度が上限近くまで上昇するという事象が発生したため、遠隔操作にて主系と冗長系を交互に切替えを行いながら飛行を継続した。スラスタの作動回数はほぼ予定通りで、温度上昇が想定外だったという。", + "qas": [ + { + "question": "姿勢制御、機体の異常点検などが行われたのは、飛行何日目のことなの?", + "id": "tr-228-04-000", + "answers": [ + { + "text": "飛行1日目", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "機体の異常点検と衝突回避運用のうち、より早く行われたのは、どちらか?", + "id": "tr-228-04-001", + "answers": [ + { + "text": "機体の異常点検", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "飛行3日目に衝突回避運用といったHTVの運用検証を行った結果は?成功か、失敗か?", + "id": "tr-228-04-002", + "answers": [ + { + "text": "成功", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "高度調整マヌーバを初めて実施したのは、飛行何日目のことか?", + "id": "tr-228-04-003", + "answers": [ + { + "text": "飛行7日目", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "飛行8日目の9月18日午前2時55分ホールドポイントを出発し、午前3時44分ISS下方30mのパーキングポイントで自動停止した���午前4時05分パーキングポイントを出発し、午前4時27分、ISS下方10mのバーシングポイントに到着し、ISSに対して相対停止が確認され、スラスタのエンジンが停止された。この最終アプローチ中、緊急時にはISSクルーが搭乗員用コマンドパネル(HCP)で、接近の一時停止や後退、接近中止といったコマンドによるHTVの制御が可能だったが、これらコマンドはデモンストレーション以外には使用されなかった。午前4時51分、ニコール・ストットが操作するカナダアーム2によるHTV-1の把持が完了し、午前4時51分に完全に固定された。HTV-1の相対静止は良好で、フリードリフト直前の相対速度は秒速2mm以内(規定5mm以内)に抑えられ、ストットは「フリーフライヤのキャプチャとは思えないほど、HTVは完全に停止して見えた」とコメントした。午前6時41分、HTV技術実証機のISSへの結合作業が開始され、午前7時26分にハーモニーモジュールの共通結合機構(CBM)に取り付けられた。このロボットアームを使用した宇宙船の結合(キャプチャー・バーシング方式)は世界初の試みだった。なお、アームを操作したストットは初号機成功のお祝いとして、筑波宇宙センターの管制室に寿司の出前をプレゼントした。サプライズの演出だったようで、管制室の緊張は一気にほぐれたという。", + "qas": [ + { + "question": "この文書では、飛行何日目のことを説明していますか?", + "id": "tr-228-05-000", + "answers": [ + { + "text": "飛行8日目", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "HTVの制御するための搭乗員用コマンドパネルは、何にしか使用されなかったの?", + "id": "tr-228-05-001", + "answers": [ + { + "text": "デモンストレーション", + "answer_start": 238, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "HTV技術実証機のISSへの結合作業が開始されたのは、何時何分のことか?", + "id": "tr-228-05-002", + "answers": [ + { + "text": "午前6時41分", + "answer_start": 426, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "どの宇宙船においてキャプチャー・バーシング方式によるISSへの結合が初めて行われたのか?", + "id": "tr-228-05-003", + "answers": [ + { + "text": "HTV技術実証機", + "answer_start": 434, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "飛行9日目となった9月18日午前9時36分、ハーモニー側のハッチが開けられ、第20次長期滞在のISSクルーはハーモニー側から結合部の艤装(配線・ケーブル設置、CBMの制御装置取外し)を実施し、午前10時49分に作業を終えHTV技術実証機のISSへの結合が完了した。9月19日午前3時23分に補給キャリア与圧部のハッチが開けられ、モジュール間通風換気により、循環ファンユニットでハーモニーとの空気循環が行なわれた。そして午前3時25分、ISSクルーがHTV-1の与圧部内に入室した。ISSクルーは入室と同時に与圧部内の空気の検査を行い、緊急手順書の配備、消火器、可搬式酸素マスクの取付けが行われた。", + "qas": [ + { + "question": "HTV技術実証機のISSへの結合作業が終わったのは、何時何分だったの?", + "id": "tr-228-06-000", + "answers": [ + { + "text": "午前10時49分", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ISSクルーがHTV技術実証機の与圧部内に入室したのは、何月何日のことですか?", + "id": "tr-228-06-001", + "answers": [ + { + "text": "9月19日", + "answer_start": 132, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "飛行13日目から、補給キャリア与圧部内の搭載品の移送作業が本格的に開始された。飛行14日目の9月23日午後6時6分、曝露パレットがカナダアーム2によって補給キャリア非与圧部から取り出され、午後8時13分、曝露パレットがカナダアーム2からきぼうロボッ��アーム(JEM-RMS)に受け渡され、午後10時33分きぼうロボットアームによって船外実験プラットフォームへの曝露パレット仮置き作業が完了した。なお、JEM-RMSを使ったロボットアーム間の受け渡しは今回が初めての運用だった。飛行15日目の9月24日午後6時21分にHREPが曝露パレットからロボットアームで取り出され、午後8時15分に船外実験プラットフォーム装置交換機構(EFU)6番に取り付けられた。続いて9月24日午後11時23分にSMILESがロボットアームで把持され、9月25日午前1時12分にEFU3番に取り付けられた。飛行16日目の9月25日午後6時7分、使用済みとなった曝露パレットを船外実験プラットフォームから取り外し、曝露パレットはきぼうロボットアームからカナダアーム2へと受け渡され、午後10時20分にHTVの補給キャリア非与圧部へ収納された。10月20日に補給キャリア与圧部内に搭載された物資の搬出作業がすべて完了し、以後ISSの使用済み物資などの不要品をHTVに積み込んでいった。", + "qas": [ + { + "question": "最初のロボットアーム間の受け渡しの運用には、きぼうロボットアームのほかに、どのロボットアームが用いられたのか?", + "id": "tr-228-07-000", + "answers": [ + { + "text": "カナダアーム2", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "HTV技術実証機の補給キャリア与圧部内に搭載された物資の搬出作業がすべて完了したのは、何月何日のことですか?", + "id": "tr-228-07-001", + "answers": [ + { + "text": "10月20日", + "answer_start": 508, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "HTV-1からISSへの物資移送とISSからHTV-1への不要品の積み込みには、きぼうロボットアームのほかに、どのロボットアームが用いられたか?", + "id": "tr-228-07-002", + "answers": [ + { + "text": "カナダアーム2", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ISSに移送するための物資は、HTV-1のどの部分に搭載されていたの?", + "id": "tr-228-07-003", + "answers": [ + { + "text": "補給キャリア与圧部内", + "answer_start": 515, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "第21次長期滞在のISSクルーはHTVの分離に先立ち、補給キャリア与圧部内の蛍光灯およびHTVが運んできた煙探知機を取り外す作業を行った。蛍光灯はISS共通品であるので他のモジュールの予備品として、煙探知機は今後打ち上げられるHTVで再利用するためそれぞれISS内で保存される。HTV-1与圧部へのISSの不要品収容作業は10月29日までに完了し、728kgの廃棄物資と896kgの空ラック、計1,624kgが搬入された。10月30日午前2時32分に補給キャリア与圧部のハッチが閉じられた。その後結合部の配線・ケーブルが取り外され、モジュール間通風換気(IMV)を停止した。ISSからのHTV-1取外し時刻は10月30日午後10時30分頃、カナダアーム2からの放出は10月31日午前1時5分頃を当初予定していたが、HTV-1がISSから離れた直後にアボートが発生した場合スペースデブリ(コスモス2421号)がHTV-1に接近・衝突する可能性があることが判明したため、作業をISSの1周回分(90分)遅らせることになった。ISSへの衝突の可能性はなかったので、ISS自体の軌道変更はなかった。", + "qas": [ + { + "question": "HTV-1与圧部に積載されたISSの不要品である、破棄物資と空ラックのうち、その量がより多いのは、どちらか?", + "id": "tr-228-08-000", + "answers": [ + { + "text": "空ラック", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ISSからHTV-1与圧部への不要品の積載が完了したは、いつ?", + "id": "tr-228-08-001", + "answers": [ + { + "text": "10月29日", + "answer_start": 161, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "HTV-1のISSからの離脱作業は、予定よりISS���何周回分遅れられたか?", + "id": "tr-228-08-002", + "answers": [ + { + "text": "1周回分", + "answer_start": 440, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "HTV-1の補給キャリア与圧部のハッチが閉じられたのは、いつですか?", + "id": "tr-228-08-003", + "answers": [ + { + "text": "10月30日午前2時32分", + "answer_start": 211, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "10月31日午前0時2分、HTV-1はカナダアーム2によってISSから取り外され、アームによって放出ポイント(ISS下方12m)まで運ばれ、太平洋上空を通過中の10月31日午前2時32分、HTV-1が放出された。同日午前2時38分、ISS近傍から離脱するため噴射を開始した。11月1日午前9時00分に3つのCPUのすべてがエラーとなる不具合が発生し、そのままでは軌道離脱マヌーバに支障が出る事態となったが、全てのCPUをリセットし、さらに変数領域のデータ(航法誘導制御系)を再度設定し直すことで、同日20時45分に復旧した。その後軌道離脱マヌーバを11月1日23時55分(8分間)、11月2日午前1時25分(9分間)、11月2日午前5時53分(8分間)の計3回行った。3回目のマヌーバ後の軌道は約335×56kmで、11月2日午前6時26分頃、ニュージーランド上空において高度120kmに達し、大気圏に再突入を果たしてミッション終了となった。機体のほとんどは大気との空力加熱で燃焼したが、燃え残った一部が6時38分から6時58分にニュージーランド東方の南太平洋上(スペースクラフト・セメタリー)に落下したと推定された。", + "qas": [ + { + "question": "HTV-1のISSからの離脱と放出ポイントまでの移送に使われたのは、何?", + "id": "tr-228-09-000", + "answers": [ + { + "text": "カナダアーム2", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "全てのCPUをリセットしたのは、何に支障が出る可能性があったからですか?", + "id": "tr-228-09-001", + "answers": [ + { + "text": "軌道離脱マヌーバ", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "HTV-1がニュージーランド上空の高度120kmの地点まで到達したのは、いつか?", + "id": "tr-228-09-002", + "answers": [ + { + "text": "11月2日午前6時26分頃", + "answer_start": 358, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "HTV-1がどこへ突入することを基点にミッション終了と見なしているか?", + "id": "tr-228-09-003", + "answers": [ + { + "text": "大気圏", + "answer_start": 397, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ミッション終了後、2010年9月15日付けで宇宙開発委員会から事後評価の指示があり、JAXA側の準備も整ったので、宇宙開発委員会の推進部会において宇宙ステーション補給機(HTV)技術実証機プロジェクトの事後評価(成果、成否の原因に関する分析、効率性)が行われた。成果についてはアウトプット(結果)、アウトカム(効果)、インパクト(波及効果)の3つに分類して評価された。アウトプットは具体的にどのような結果が得られたか、プロジェクトの目標がどの程度まで達成されたのかという直接的成果である。予定してた飛行計画が全て成功し、ミッションサクセスクライテリアに規定されたミニマムサクセス、フルサクセスを達成した。また、「実運用結果に基づく再評価の結果、ヒータ消費電力削減の可能性があることがわかった。」、「余剰能力として、H-IIBとのインタフェース条件を0.3トン低くすることが出来た。」、「仕様と異なる高度へのランデブ要求にも柔軟に対応することができ、また係留期間を延長して廃棄品を搭載するなど、運用の柔軟性を拡大できる見通しを得た。」、「打上環境計測を行い、カーゴに対する環境をシャトル相当まで緩和できた。」という結果から、エクストラサクセスも達成した���評価された。このほかにも日本国家の要求条件(「宇宙開発に関する長期的な計画」、平成20年2月22日総務大臣・文部科学大臣)やJAXAの「有人宇宙環境利用ミッション本部事業計画書」(平成20年9月、JAXA-2008022)における要求を全て達成したと評価された。", + "qas": [ + { + "question": "HTV技術実証機プロジェクトの事後評価における評価項目は、いくつに分けられていたの?", + "id": "tr-228-10-000", + "answers": [ + { + "text": "3つ", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "具体的にどのような結果が得られたか、プロジェクトの目標がどの程度まで達成されたのかという直接的成果を指すのは、何ですか?", + "id": "tr-228-10-001", + "answers": [ + { + "text": "アウトプット", + "answer_start": 184, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "アウトカムはアウトプットからもたらされた効果・効用である。今回のHTV-1ミッションの成功により、日本のISSへの補給義務を履行でき、さらにスペースシャトルの退役後は曝露機材及び大型与圧機材を輸送できるのはHTVのみとなり、HTVは宇宙ステーションの維持に不可欠な補給手段となったと言え、日本の国際的プレゼンスの向上に繋がった。またHTVは人工衛星、ロケット、宇宙ステーションの技術を統合した日本初の有人施設対応の輸送機(宇宙船)であり、日本の宇宙開発技術の維持・発展、および人材育成に貢献した。", + "qas": [ + { + "question": "人工衛星、ロケット、宇宙ステーションの技術を統合した日本初の有人施設対応の輸送機とされるのは、何か?", + "id": "tr-228-11-000", + "answers": [ + { + "text": "HTV", + "answer_start": 166, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "インパクトは、意図していた範囲を越えた、経済的、科学技術的、社会的影響としての間接的成果である。HTV-1によって世界初のキャプチャ方式によるドッキング(バーシング)が実証され、このキャプチャ・バーシング方式を米国商業民間輸送機(COTS/CRS)が採用した。さらに当時開発中であったシグナスがHTVと同等の近傍通信機器(PROX)を三菱電機から購入する(9機分、約60億円)など、日本技術の優位性を世界に示し、宇宙産業活性化へ繋がった。またマスメディアでもHTV-1ミッションは盛んに報道され、テレビでは計3時間25分54秒分の報道があった。さらにテレビCMにて三菱電機はHTV開発への参加を宣伝し、パナソニック電工は与圧キャリア用のLED照明装置の開発実績を宣伝した。その他の下請け企業も宣伝・広告にHTV-1を利用した。経済波及効果は、HTVの波及倍率を2.53とした分析に従うと概算で約1568億円である。", + "qas": [ + { + "question": "宣伝・広告にHTV-1を利用した企業として、この文書で紹介されているのは、三菱電機のほかに、どの企業ですか?", + "id": "tr-228-12-000", + "answers": [ + { + "text": "パナソニック電工", + "answer_start": 301, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "キャプチャ方式によるドッキングは、何に初めて導入され、その成果をもとに米国商業民間輸送機から採用されることになったのか?", + "id": "tr-228-12-001", + "answers": [ + { + "text": "HTV-1", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "HTV-1プロジェクトの成功が日本技術の優位性を世界に示し、宇宙産業活性化にも繋がったという成果は、何の評価項目に当たる内容であるか?", + "id": "tr-228-12-002", + "answers": [ + { + "text": "インパクト", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1997年に開発着手した当時は、きぼう組立て完了から約3ヶ月後となる2001年度のHTV技術実証機打上げを計画していた。しかし、ロ��ア・サービスモジュールの遅れやコロンビア号空中分解事故の影響などによる宇宙ステーション組立全体の遅延に伴い、きぼう組立て完了が2009年となったことから、最終的にHTV技術実証機は2009年末打上げとして計画された。この約8年延長された開発期間を活用して、追加安全要求の反映や、曝露輸送の追加といった要求変更等に対応し、安全・信頼性の向上、およびHTVの位置づけの向上などを図ることができた。", + "qas": [ + { + "question": "当初のHTV技術実証機打上げ計画では、何年に打上げを行う予定であったの?", + "id": "tr-228-13-000", + "answers": [ + { + "text": "2001年", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "宇宙ステーション組立が完了したのは、何年のこと?", + "id": "tr-228-13-001", + "answers": [ + { + "text": "2009年", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "HTV技術実証機が開発され始めたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-228-13-002", + "answers": [ + { + "text": "1997年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "開発着手した1997年における総開発経費は打上げ費用除外で280億円だったが、当時の計画では冗長系は一部のみで、太陽電池無し、近傍通信装置はISSのGPS情報を流用する、といった現在と異なる内容だった。しかし1997年4月のプログレスM-34によるミール衝突事故を反映して、NASAからの追加要求が発生し、さらにはISSに接近する無人機の開発経験がNASAにもなかったため、HTVの開発進捗に合わせて安全要求が追加された。このため2002年デルタ基本設計審査会ベースラインでは394億円と見積もりが増加し、その後もNASA安全要求対応設計の取り込み、海外調達品の価格高騰、追加検証試験などで、結局2006年度のプロジェクト資金の見直しでは677億円と設定された。これ以降もマイナーな設計変更や打上げ延期があったが、適切なコスト管理によってプロジェクト完了時の開発費は計677億円と予算超過もなく、文部科学省独立行政法人評価委員会は「S」評価を下した。またATV初号機の開発費が11.3億ユーロ(約1700億円,147円/ユーロ換算)であることから、HTV開発費は計画当初の予算から約2.4倍増大してはいるものの、これは妥当な結果だと見なされた。なお比較として、ATVは当初の予算から3.24倍の増加を見せている。", + "qas": [ + { + "question": "HTVの総開発経費が677億円と設定されたのは、いつ?", + "id": "tr-228-14-000", + "answers": [ + { + "text": "2006年", + "answer_start": 298, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "当初の予算とプロジェクト完了時の開発費を比較した時、その増加比がより大きいのは、ATVとHTVのうち、どちらか?", + "id": "tr-228-14-001", + "answers": [ + { + "text": "ATV", + "answer_start": 530, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "HTVの開発費が増加する要因となった事故とは、いつ起こった事故ですか?", + "id": "tr-228-14-002", + "answers": [ + { + "text": "1997年4月", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "HTVプロジェクトは、どこから「S」評価をもらったのか?", + "id": "tr-228-14-003", + "answers": [ + { + "text": "文部科学省独立行政法人評価委員会", + "answer_start": 398, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "また輸送コスト単価でもHTVは他の輸送機に比べ優位性があると評価された。1トンあたりの輸送コストはATVが約58億円(134円/ユーロ)、スペースシャトルが約76億円(94円/ドル)であるのに対し、HTVは約47億円であった。なおプログレス補給船��コスト非公表となっている。", + "qas": [ + { + "question": "ATVとHTV、スペースシャトルのうち、1トンあたりの輸送コストが最も高かったのは、どちらか?", + "id": "tr-228-15-000", + "answers": [ + { + "text": "スペースシャトル", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ギリシャ独立戦争", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ギリシャ独立戦争(ギリシャどくりつせんそう、ギリシア語:ΕλληνικήΕπανάστασητου1821(1821年ギリシャ革命)、英語:GreekWarofIndependence)は、オスマン帝国からのギリシャの独立を巡り争われた戦争である。ギリシャは1821年に独立宣言をして戦闘を開始し、1822年に憲法を発布して暫定政府を設立した。1824年と1825年、イングランド銀行で戦時国債を募集した。", + "qas": [ + { + "question": "ギリシャ独立戦争とは、どの帝国からのギリシャの独立を巡り争われた戦争なの?", + "id": "tr-229-00-000", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ギリシャの独立宣言は、いつ行われたことですか?", + "id": "tr-229-00-001", + "answers": [ + { + "text": "1821年", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ギリシャは1821年に、どの国からの独立を宣言したか?", + "id": "tr-229-00-002", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ギリシャが憲法を発布して暫定政府を設立したのは、何年のことか?", + "id": "tr-229-00-003", + "answers": [ + { + "text": "1822年", + "answer_start": 149, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1827年のナヴァリノの海戦で優位を確定し、1829年のアドリアノープル条約によって自治国としての独立が承認され、1830年のロンドン議定書によって列強間でギリシャの完全な独立が合意され、最終的には1832年6月のコンスタンティノープル条約でギリシャの独立は正式に承認された。ギリシャでは1821年3月25日を独立記念日としている。ギリシャ独立戦争の局面は大きく二つに分けられる。フィリキ・エテリアの蜂起からギリシャ軍が有利であった1821年から1825年までが第一期、オスマン帝国が有利になりギリシャ軍に壊滅の危機が迫った1825年から1827年が第二期であるが、1827年に列強三国(イギリス、フランス、ロシア)が介入したことによりギリシャの独立は現実味を帯びた。そして1830年ロンドン議定書が締結されたことで独立が決定されたが、そこには多くの問題が含まれていた。", + "qas": [ + { + "question": "アドリアノープル条約とコンスタンティノープル条約のうち、より早く結ばれた条約は、どちらなの?", + "id": "tr-229-01-000", + "answers": [ + { + "text": "アドリアノープル条約", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ギリシャの独立が正式に承認されたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-229-01-001", + "answers": [ + { + "text": "1832年", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ギリシャ独立戦争において、ギリシャが優勢であった時期は、第何期と呼ばれるか?", + "id": "tr-229-01-002", + "answers": [ + { + "text": "第一期", + "answer_start": 231, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ギリシャ独立戦争に、列強三国が介入したのは、何年のことか?", + "id": "tr-229-01-003", + "answers": [ + { + "text": "1827年", + "answer_start": 269, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1389年、オスマン帝国はコソボでバルカン諸侯連合軍を撃破、1453年4月、コンスタンティノープルはオスマン帝国によって占領された。この出来事はバルカン半島におけるキリスト教最後の飛び地が消滅したことを意味しており、すでに占領されていたブルガリア、その後にセルビア、ギリシャ、そしてアルバニアと占領され、バルカン半島の大部分はオスマン帝国が支配した。", + "qas": [ + { + "question": "オスマン帝国がコンスタンティノープルを占領したのは、いつなの?", + "id": "tr-229-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1453年4月", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オスマン帝国のコンスタンティノープル占領により、どの半島の大部分がオスマン帝国の支配下に置かれましたか?", + "id": "tr-229-02-001", + "answers": [ + { + "text": "バルカン半島", + "answer_start": 72, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "コソボでの戦いは、何年に行われたか?", + "id": "tr-229-02-002", + "answers": [ + { + "text": "1389年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1389年にコソボでオスマン帝国と戦ったのは、何軍か?", + "id": "tr-229-02-003", + "answers": [ + { + "text": "バルカン諸侯連合軍", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "オスマン帝国はバルカン半島の住民らを無理やりイスラム教に改宗させることはなかったが、武装の権利は奪われ、政治に参加する権利も奪われ、ギリシャも当初は同じ運命を辿るかに見えた。しかし、オスマン帝国支配下と言えどもギリシャ人らは西欧と恒常的な往来を行っており、また、オスマン帝国の支配も過酷なものではなかった。その証拠にファナリオティスと呼ばれるギリシャ系正教徒のある層はオスマン帝国において政府主席通訳官、提督通訳官、ワラキア公国、モルドバ公国の公位を任され、オスマン帝国における重要な地位を担っていた。また、宗教、言語、民族の異なる人々も宗教を軸として統合、共存を図る緩やかなシステムと強力で効率的な組織が形成されたことでギリシャは「オスマンの平和(パックス・オトマニカ)」の恩恵を受けていたのは間違いなかった。", + "qas": [ + { + "question": "オスマン帝国はバルカン半島の住民らを無理やりイスラム教に改宗させることはなかったが、政治に参加する権利と何の権利を奪ったの?", + "id": "tr-229-03-000", + "answers": [ + { + "text": "武装の権利", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オスマン帝国は、どの宗教を崇拝する国でしたか?", + "id": "tr-229-03-001", + "answers": [ + { + "text": "イスラム教", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "オスマン帝国において政府主席通訳官、提督通訳官、ワラキア公国、モルドバ公国の公位を任されたのは、何と呼ばれる階層だったか?", + "id": "tr-229-03-002", + "answers": [ + { + "text": "ファナリオティス", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ファナリオティスは、何系正教徒だったか?", + "id": "tr-229-03-003", + "answers": [ + { + "text": "ギリシャ系正教徒", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "そしてオスマン帝国下の正教徒らをまとめ上げた正教徒ミレットの長、コンスタンディヌーポリ総主教座、及びミレットの高位聖職をもギリシャ人らが手中に収め、ミレットの長はミレットに課せられていた租税の徴収、納入やミレット内の秩序維持、紛争処理を行ったが、これはオスマン帝国下の正教徒全てに対しての全権を持っていた。そして、このミレットの存在はバルカン諸民族の正教徒とトルコ人を代表とするムスリムとの融合を妨げることになった。その一方でペロポネソス半島ではトルコ人による土地収奪が進んでおり、耕地面積の3分の2が少数派であるトルコ人が所有、残り3分の1をギリシャ系有力地主が支配していた。ギリシャ系有力地主はオスマン帝国より地方自治制度の範囲ながら徴税権や治安維持の権利を与えられていたため特権層となっていたが、彼らはトルコ人らが土地を広げていくことを敵視しており、社会の底辺を形成していた中貧農らもオスマン帝国末期の無秩序と腐敗の犠牲となったために不満をいだいていた。また、東方正教会上層部はオスマン帝国に取り込まれていたものの、下級聖職者らは農民らと行動を共にしていた。", + "qas": [ + { + "question": "トルコ人とギリシャ系有力地主のうち、ペロポネソス半島においてより広い面積の耕地を支配していたのは、どちらなの?", + "id": "tr-229-04-000", + "answers": [ + { + "text": "トルコ人", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "どの半島において、トルコ人による土地収奪が進んでいましたか?", + "id": "tr-229-04-001", + "answers": [ + { + "text": "ペロポネソス半島", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ペロポネソス半島のギリシャ系有力地主がオスマン帝国から与えられた地方自治制度の範囲での特権とは、徴税権とどの権利のことを言うか?", + "id": "tr-229-04-002", + "answers": [ + { + "text": "治安維持の権利", + "answer_start": 323, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ペロポネソス半島のギリシャ系有力地主が敵視していたのは、誰による土地収奪だったか?", + "id": "tr-229-04-003", + "answers": [ + { + "text": "トルコ人", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "16世紀末から18世紀にかけて、西欧の近代化が急速に進むにつれ、それまでオスマン帝国優位な状況が逆転していく。そのため、18世紀初頭には皮肉にもそれまで「オスマンの衝撃」と呼ばれ西欧に恐れられていたオスマン帝国は逆に「西欧の衝撃」を恐れる立場となっていた。", + "qas": [ + { + "question": "オスマン帝国優位な状況が逆転したのは、何世紀末から何世紀にかけてのことなの?", + "id": "tr-229-05-000", + "answers": [ + { + "text": "16世紀末から18世紀", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "西欧の近代化が急速に進んだのは、何世紀末から何世紀にかけてのことですか?", + "id": "tr-229-05-001", + "answers": [ + { + "text": "16世紀末から18世紀", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "18世紀に入ると、西欧とオスマン帝国のうち、どちらの勢力が優位となったか?", + "id": "tr-229-05-002", + "answers": [ + { + "text": "西欧", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「オスマンの衝撃」とは、どちらの勢力がオスマン帝国のことを恐れていたことを言うか?", + "id": "tr-229-05-003", + "answers": [ + { + "text": "西欧", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "特にロシア帝国は当時、南下���策を採用しており、1710年に勃発した露土戦争の時にオスマン帝国下の正教徒の保護者として振舞っていた。そして1768年から1774年の間に行われた露土戦争で勝利してキュチュク・カイナルジ条約が結ばれて以降、黒海沿岸の拠点を手に入れただけではなく、ロシアと同様の正教を信仰するバルカンの正教徒らの保護権を手に入れた。そのため、ロシアはオスマン帝国への内政干渉を行える立場となり、1778年までに数回に渡ってオスマン帝国へ攻撃を加えたことで、バルカン半島への影響力を高め、さらにバルカン半島に住む人々の多くを成すスラヴ人たちとの同族国家としてバルカン諸民族の独立を支援する立場となっていた。このことは裏を返せば、バルカン半島の諸民族に取ってロシアは解放者であることを意味していた。", + "qas": [ + { + "question": "この文書で紹介している露土戦争のうち、その勃発時期が最も早いのは何年なの?", + "id": "tr-229-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1710年", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1768年から1774年の間に行われた露土戦争の終戦を意味する講和条約は、何ですか?", + "id": "tr-229-06-001", + "answers": [ + { + "text": "キュチュク・カイナルジ条約", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "露土戦争は、ロシア帝国とどの国の間で行われた戦争であるか?", + "id": "tr-229-06-002", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "バルカン諸民族のオスマン帝国からの独立を支援したのは、どの国か?", + "id": "tr-229-06-003", + "answers": [ + { + "text": "ロシア帝国", + "answer_start": 2, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "この事態においてオスマン帝国支配者層は18世紀以降、軍事分野において近代西欧の技術、モデルを元に西欧化改革を行い、それを徐々に体系化しようとしていた。しかし、それはあくまでも軍事分野においてであり、思想、文化などに関心が及ぶのは19世紀まで待たなければならなかった。", + "qas": [ + { + "question": "軍事と思想、文化のうち、オスマン帝国において19世紀以前に西欧化改革が行われた分野は、どちらか?", + "id": "tr-229-07-000", + "answers": [ + { + "text": "軍事", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "オスマン帝国で軍事分野における西欧化改革が行われたのは、何世紀以降のことか?", + "id": "tr-229-07-001", + "answers": [ + { + "text": "18世紀", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "そしてこの西欧の衝撃に感化された人々はオスマン帝国支配層の人々だけではなかった。バルカン半島のキリスト教系諸民族もその影響を受け、その中にはナショナリズムに目覚める人々も生まれ、18世紀においてギリシャ系正教徒の中には「オスマンの平和」の枠組みを内側から突き崩し、内的な西欧の衝撃に感化される人々が生まれていた。そして、バルカン半島において綿花、トウモロコシの栽培が17世紀以降、盛んになって輸出されたが、これにロシア、オーストリアがバルカン半島に進出し始めたことと絡みあい、商人や水夫らの活動範囲がさらに広がりを見せていく。", + "qas": [ + { + "question": "バルカン半島において綿花、トウモロコシの栽培が盛んになったのは、何世紀以降のことなの?", + "id": "tr-229-08-000", + "answers": [ + { + "text": "17世紀", + "answer_start": 183, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロシアとオーストリアのバ��カン半島への進出は、何世紀以降から行われましたか?", + "id": "tr-229-08-001", + "answers": [ + { + "text": "17世紀", + "answer_start": 183, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "バルカン半島の商人や水夫らの活動範囲が拡大されたのは、ロシアとどの国がバルカン半島に進出し始めてからのことか?", + "id": "tr-229-08-002", + "answers": [ + { + "text": "オーストリア", + "answer_start": 210, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "この文章では、西欧の衝撃によりもたらされた、どの地域における変化について説明しているか?", + "id": "tr-229-08-003", + "answers": [ + { + "text": "バルカン半島", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "元来、ギリシャ商人らはビザンツ帝国以来、商業面で活躍しており、一時期、ヴェネツィア、フランス、イギリスの海外進出によって活動範囲が狭められたものの、18世紀以降、英仏戦争などの影響でフランス、イギリスの商業活動が低迷すると再び、ギリシャ商人らの活動は活発化、さらにセルビア商人、ブルガリア商人、ユダヤ商人などが加わった。その後、各地で手工業が小規模ながら発達したが、商業や商品生産が発達したことで、商工業に関わった中産階級の人々の中で民族意識が高まっていった。そのため、子弟を西欧へ遊学させて知識を吸収させたため、中産階級の人々等はオスマン帝国の支配下である現状を打破することを考えるようになっていった。", + "qas": [ + { + "question": "ビザンツ帝国以来、商業面で活躍していたギリシャ商人らの活動範囲が一時期狭められたのは、ヴェネツィア、フランスとどの国の海外進出の影響だったの?", + "id": "tr-229-09-000", + "answers": [ + { + "text": "イギリス", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ギリシャ商人とセルビア商人、ブルガリア商人のほかに、18世紀以降、商業活動が活発化した商人には誰がいますか?", + "id": "tr-229-09-001", + "answers": [ + { + "text": "ユダヤ商人", + "answer_start": 147, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "18世紀末、ロシアの女帝エカチェリーナ2世は黒海、バルカン半島への勢力拡大を図るだけではなく、オスマン帝国を廃した上でコンスタンティノープルを首都としてビザンツ帝国を再興、孫にコンスタンティンと名付けた上で皇帝に即位させて「バルカン帝国」を築くことを考えていた。1763年以降、ロシアの使者はバルカン半島を駆け巡り、ギリシャ人有力者、高位聖職者、クレフテスやアルマトリらと関係を結んで彼らを蜂起させようとした。1789年、フランス革命が発生するとナショナリズムがヨーロッパを覆い、さらにドイツ・ロマン主義の台頭で各民族の母語の重要性が叫ばれた。これは西欧に移住していたバルカン諸民族の商人らによってバルカン半島へ持ち込まれたが、その結果、発生したのがセルビア蜂起である。", + "qas": [ + { + "question": "18世紀末、ロシアの女帝エカチェリーナ2世は、黒海とどこへの勢力拡大を図っていたの?", + "id": "tr-229-10-000", + "answers": [ + { + "text": "バルカン半島", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "エカチェリーナ2世は、バルカン半島にどの帝国を建国させようとしましたか?", + "id": "tr-229-10-001", + "answers": [ + { + "text": "バルカン帝国", + "answer_start": 112, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ナショナリズムは、何の発生によりヨーロッパ中に広がったか?", + "id": "tr-229-10-002", + "answers": [ + { + "text": "フランス革命", + "answer_start": 211, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ナショナリズムがバルカン半島に広がり、発生した蜂起とは、何か?", + "id": "tr-229-10-003", + "answers": [ + { + "text": "セルビア蜂起", + "answer_start": 325, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1804年に始まったセルビア蜂起は当初こそダヒヤらによるクネズ、聖職者、教師などのセルビア人の指導層が大量虐殺されたことで、ダヒヤ及びイェニチェリに対する反感から蜂起したもので、民族主義に基づくものではなかったが、ヨーロッパ列強らがこれに関与することで民族解放色を強めていった。二次に渡って行われたセルビア蜂起は結果的に自治を獲得、後にセルビア公国の成立へとつながる。そしてこの蜂起はオスマン帝国が弱体化していることをまざまざを見せつけ、ギリシャでは作者不詳であるが『ギリシャの県知事政治(ノマルヒア)』が著され、このことを指摘していた。", + "qas": [ + { + "question": "セルビア蜂起が始まったのは、何年のことなの?", + "id": "tr-229-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1804年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "セルビア蜂起は、どの国の建国に影響しましたか?", + "id": "tr-229-11-001", + "answers": [ + { + "text": "セルビア公国", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "セルビア蜂起は、ダヒヤとどの集団に対する反感から起きたものか?", + "id": "tr-229-11-002", + "answers": [ + { + "text": "イェニチェリ", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オスマン帝国の弱体化を見せつけた蜂起は、何か?", + "id": "tr-229-11-003", + "answers": [ + { + "text": "セルビア蜂起", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "一方でギリシャでも1770年2月、ペロポネソス半島においてギリシャ人名望家を中心に蜂起が発生した。これはオスマン帝国のアヤーンによってすぐに鎮圧されたが、この蜂起は当時、ロシアのエカチェリーナ2世が南下政策を取っており、ロシアとトルコの間で露土戦争(1768年-1774年)が発生、アレクシオス・オルロフ率いるロシア艦隊が地中海に侵入したことでエーゲ海でも反乱が発生、テオドロス・オルロフ率いる部隊が接近したことから、これに過剰な期待を寄せてしまったために発生した蜂起であった。このため、ペロポネソス半島が後にギリシャ独立戦争における中心拠点と化したことからこの蜂起が独立を目指したものであった可能性も指摘されている。", + "qas": [ + { + "question": "ペロポネソス半島で蜂起が発生したのは、何年のことなの?", + "id": "tr-229-12-000", + "answers": [ + { + "text": "1770年", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オスマン帝国のアヤーンが鎮圧した、ペロポネソス半島における蜂起とは、何年に発生したものですか?", + "id": "tr-229-12-001", + "answers": [ + { + "text": "1770年", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "露土戦争は、ロシアのどの政策により発生したか?", + "id": "tr-229-12-002", + "answers": [ + { + "text": "南下政策", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "リシャ独立戦争における中心拠点となったのは、どの地域か?", + "id": "tr-229-12-003", + "answers": [ + { + "text": "���ロポネソス半島", + "answer_start": 244, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ナポレオン戦争の最中の1797年、カンポフォルミオ条約の締結でイオニア諸島がフランスによって占領されるとナポレオンはフランス保護下でギリシャを独立させることを考えた。そのため、ナポレオンのエジプト遠征中には「東方の狩人たち」という部隊が編成され、さらに1807年、「アルバニア連隊」が結成されるが、この中には後の独立戦争の英雄たちが多く所属した。一方で1798年にはギリシャ人、アルバニア人らによる蜂起委員会が結成され、アリー・パシャやオスマン帝国へ反抗する住民を扇動するための密使がバルカン半島へ派遣された。", + "qas": [ + { + "question": "イオニア諸島がフランスの影響下になったのは、どの条約の締結によることなの?", + "id": "tr-229-13-000", + "answers": [ + { + "text": "カンポフォルミオ条約", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アルバニア連隊が結成されたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-229-13-001", + "answers": [ + { + "text": "1807年", + "answer_start": 126, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "中国の科学技術史", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "中国の科学技術史(ちゅうごくのかがくぎじゅつし)は、長い歴史をもち科学技術の発展に大きく寄与してきた中国における科学と技術の発達を対象とする。古代にはギリシアの哲学者と他の文明圏、および中国の哲学者がそれぞれ独自に科学・技術・数学・天文学を発達させた。彗星や超新星の世界で最も古い観測記録が残っているのは中国である。伝統医学、鍼灸術、漢方薬も実践された。初期の発明には算盤・影時計・凧や天灯など世界初の人工飛行体などがある。古代中国の4大発明といわれる羅針盤、火薬、紙、印刷は最も重要な技術革新であるが、ヨーロッパに伝わったのは中世も終わりごろである。唐朝(618年-906年)はことに発明が続いた時代である。ヨーロッパと中国の間で知見の交換が始まったのは清朝以前のことである。イエズス会中国使節は16世紀-17世紀に西洋科学と天文学を中国に持ち込み社会改造に利用する一方、中国技術の知識をヨーロッパに持ち帰った。欧米における中国科学史研究の初期の業績の多くはジョゼフ・ニーダムに帰することができる。近代以後の日本では薮内清らがこの分野を手がけてきた。", + "qas": [ + { + "question": "彗星や超新星に関する最も古い記録はどこにあるか。", + "id": "tr-230-00-000", + "answers": [ + { + "text": "中国", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "世界初の人工飛行体が発明されたのはどの国?", + "id": "tr-230-00-001", + "answers": [ + { + "text": "中国", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "古代中国の4大発明といわれるのは、羅針盤、火薬、紙、そして何?", + "id": "tr-230-00-002", + "answers": [ + { + "text": "印刷", + "answer_start": 235, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "欧米における中国科学史研究の初期の業績は主に誰によるか。", + "id": "tr-230-00-003", + "answers": [ + { + "text": "ジョゼフ・ニーダム", + "answer_start": 430, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "古代中国に始まり長く実用に供されているもののひとつに、道教に由来する鍼灸術や漢方薬などの伝統中国医学がある。鍼灸術の実践は紀元前1世紀に遡ることができる。鍼灸術に類似した医術は青銅器時代のユーラシアですでにみられたとする科学者もいる。古代中国は数学や天���学に使う計数・計時装置も発明した。日時計の前身である影時計が中国で出現したのは4000年前のことであるが、算盤の発明は紀元前1000年-500年の間ごろである。これらを使った中国人は、紀元前500年に惑星の記録を作成した。『天文気象雑占』は紀元前400年頃に著された史上初の彗星図解である。約300年間に出現した29彗星を掲載し、彗星の出現を地上の出来事と関連づけて解釈した。", + "qas": [ + { + "question": "鍼灸術や漢方薬などの伝統中国医学は何に由来するか。", + "id": "tr-230-01-000", + "answers": [ + { + "text": "道教", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "鍼灸術の実践が始まったのはいつのこと?", + "id": "tr-230-01-001", + "answers": [ + { + "text": "鍼灸術の実践は", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "中国で惑星の記録が記されたのはいつ?", + "id": "tr-230-01-002", + "answers": [ + { + "text": "紀元前500年", + "answer_start": 219, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "世界で最も古い彗星図解は何?", + "id": "tr-230-01-003", + "answers": [ + { + "text": "天文気象雑占", + "answer_start": 239, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "建築では中国技術の頂点に立つのが、紀元前220年-紀元前200年頃に在位した秦の始皇帝の時代に建設された万里の長城である。秦に続く漢の時代から19世紀まで中国の一般建築に大きな変化はなかった。秦の時代に弩が改良されたが、これはのちにヨーロッパに渡り武器の主流になった。始皇帝の墓から出土した兵馬俑墓から数点の弩が見つかった。東漢の学者で天文家の張衡(78年-139年)は渾天儀(=天球儀:世界初の天球儀は古代ギリシアのエラトステネスが発明)を発明したが、これは2,500の恒星と100以上の星座を収めている。132年に張衡は世界初の感震計を発明し、『候風地動儀』と名づけた。後漢(25年-220年)の歴史によれば、この感震計は壺のような形の装置で、8個の球のうち1個を落下させて、いつ、どの方向に大地が揺れたか(震源)を知らせるという。2005年6月13日、中国の地震学者がこの複製を作成したと発表した。", + "qas": [ + { + "question": "中国の建築技術で最も優れていると言われる建築物は何?", + "id": "tr-230-02-000", + "answers": [ + { + "text": "万里の長城", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "万里の長城が建てられたのは誰の時代?", + "id": "tr-230-02-001", + "answers": [ + { + "text": "秦の始皇帝", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "秦の次の時代は?", + "id": "tr-230-02-002", + "answers": [ + { + "text": "漢", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "候風地動儀を発明したのは誰?", + "id": "tr-230-02-003", + "answers": [ + { + "text": "張衡", + "answer_start": 259, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "機械技術者の馬鈞(200年-265年ころ)も古代中国で際立つ人物である。馬鈞は絹の機織機を改良し、機械式チェーンポンプを設計して庭園に給水し、水転百戯(目隠しをした大きな水車を動力に動く大きく複雑な人形芝居)を創作、魏の明帝に献上した。しかし馬鈞最大の発明は指南車であろう。これは複雑な構造の機械式羅針盤車である。これは各々異なる速度で回転する車輪に同じトルクを配分する差動歯車を組み込んでいるが、これは現代の自動車がすべて装備している機構である。ノギスは中国で2,000年以上前に発明され���。また中国文明は航空の領域に世界で初めて踏み込んだ。凧と天灯(熱気球の原型)は人類初の『飛行機』といえる。後漢時代に成立したと見られる著者不明の『九章算術』と言う算術書には開平法や連立一次方程式など様々な数学の問題が載っており、後には数学教育のテキストに採用されている。魏の劉徽は『九章算術』の注釈のなかで、円周率を計算して、3.1416という近似値を得ている。", + "qas": [ + { + "question": "開平法や連立一次方程式など様々な数学の問題が記録されていて後漢時代に成立したと見られる算術書の名前は何ですか。", + "id": "tr-230-03-000", + "answers": [ + { + "text": "九章算術", + "answer_start": 319, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "馬鈞の発明の中、最も優れたと評価されているのは何?", + "id": "tr-230-03-001", + "answers": [ + { + "text": "指南車", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "羅針盤、火薬、紙、印刷の4つは古代中国の4大発明と呼ばれている。紙と印刷の発明がこの中で早かった。印刷は唐の時代の中国の記録があるが、布地のプリント染色は220年以前のものが残存している。羅針盤の発達を正確に追跡するのは困難だが、針と磁石の引き合いは20年-100年頃に編纂された『論衡』で検証されている、中国文学に磁針が初めて登場するのは1086年である。晋(265年-420年)の時代の300年までには錬金術師の葛洪が硝石・松脂・木炭を一緒に加熱したときに生じる化学反応を自著『抱朴子』に記録している。その他の火薬の記録では、850年頃の中国のある書籍には、道教徒が不老不死の霊薬を作ろうとしてできた副産物が火薬であるという記述がある。硫黄・鶏冠石・硝石・蜂蜜を混ぜて加熱すると煙と炎が上がり、作業者の顔と腕は焼け、家屋は全焼した。", + "qas": [ + { + "question": "火薬、紙、印刷の中、最も発明が遅いのは何ですか。", + "id": "tr-230-04-000", + "answers": [ + { + "text": "火薬", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『抱朴子』は古代中国の4大発明の中、何に対する記録物なのか。", + "id": "tr-230-04-001", + "answers": [ + { + "text": "火薬", + "answer_start": 257, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "印刷術・火薬・羅針盤:これら3点は全世界のすべての表層と深層とを変えてしまった。印刷術は文学を、火薬は戦争を、羅針盤は航法を、である。大きな変化が起こってしまうと、それはかつていかなる帝国も、いかなる社会勢力も、いかなる星も発揮したことがない強い影響力を人間社会に及ぼしたことがわかった。14世紀に焦玉が記した『火龍経』は中国の重要な戦術論のひとつである。火薬を使った兵器として記載されたものには、火箭(焼夷矢)、火箭(ロケット)、火鎗、火器、地雷、水雷、射石砲、大砲、および火薬のほか毒ガスや煙幕などの処方も収めてある。11世紀には、畢昇(990年-1051年)が膠泥活字印刷を発明、1298年には王禎が木活字を実用化、1490年には華燧が金属活字を実用化した。", + "qas": [ + { + "question": "火鎗、火器、地雷、水雷、射石砲、大砲などは何を利用した兵器か。", + "id": "tr-230-05-000", + "answers": [ + { + "text": "火薬", + "answer_start": 178, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "木活字と金属活字、どちらの実用化が早かったか。", + "id": "tr-230-05-001", + "answers": [ + { + "text": "木活字", + "answer_start": 303, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "宋(960年-1279年)は長い内戦後の中国に安定をもたらし、科挙と能力主義で新時代の社会を切り開いた。初代皇帝が打ち立てた政体は言論と思想の自由を大幅に認めたた���、科学の進歩、経済改革、芸術・文学が開花する土壌ができた。交易は国内・対外とも盛んになり、開封や杭州の貨幣鋳造所では技術改良が進み次第に宋銭の生産量が増加した。1080年に神宗の貨幣鋳造所は500,000,000個の硬貨(中国人ひとりあたり約50個)を鋳造し、1023年には初の紙幣を生産した。この硬貨は長く市場に出回り700年後の18世紀まで使われた。宋の時代には著名な発明家や科学者が数多く輩出した。官吏の沈括、著作『夢渓筆談』(1088年)でよく知られる。沈括は本書で、船舶修繕用乾ドック、航行用磁気羅針盤の使用のほか、『真北』という概念(および北極への磁気偏角)の発見について触れている。また沈括は、土地形成の地質学的理論(地形学)を創案したり、きわめて長い時間で地質学的地域に気候変動が起こることを理論化した。同じような才能に恵まれた官吏の蘇頌は、1088年頃に完成した開封の天文時計台を技術監督したことで知られる。時計台は水車を動力に脱進機で駆動した。この脱進機がヨーロッパに出現するのは2世紀後のことである。時計台の頂上に冠するのは機械仕掛けで動く大きな青銅製の渾天儀である。蘇頌は『本草図経』(図解薬局方、原典は1058年-1061年)を学者グループで編纂し1070年に出版した。この薬学論文は関連分野が植物学・動物学・鉱物学・冶金学にまたがる博物学的なものであった。中国の天文学者は1054年に世界で初めて超新星観測記録を残したが、この超新星はその後かに星雲となり、超新星爆発に関係することが確認された最初の天体となった。アラビア天文学と中国天文学はモンゴル人支配による元の時代に交流があった。クビライが設立した中国天文局でイスラム教徒の天文学者が働き、ペルシアのマラガ天文台で中国人天文学者が観測に従事した。", + "qas": [ + { + "question": "中国の最初の紙幣は何の時代に生産されたか。", + "id": "tr-230-06-000", + "answers": [ + { + "text": "宋", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "沈括は中国の何の時代の人物なの?", + "id": "tr-230-06-001", + "answers": [ + { + "text": "宋", + "answer_start": 259, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "時計台は水車を動力に脱進機で駆動した。この脱進機の出現において、ヨーロッパは中国より何世紀遅れたか。", + "id": "tr-230-06-002", + "answers": [ + { + "text": "2世紀", + "answer_start": 532, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "中国で初めて超新星観測が記録されたのはいつ?", + "id": "tr-230-06-003", + "answers": [ + { + "text": "1054年", + "answer_start": 682, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "イエズス会中国使節は16世紀-17世紀にヨーロッパの科学と天文学を中国に持ち込み、中国の社会改造を実行した。アメリカの歴史家トーマス・ウッズによれば、イエズス会は『惑星の動きが理解できるユークリッド幾何学など、物理的宇宙を理解するための大量の科学知識と、諸々の心理的小道具をこの地に持ち込んだ』。またウッズが引用した別の専門家によれば、イエズス会が科学革命を持ち込んだとき、偶然にも中国では科学が低調だったという。彼らは天体観測を精力的に行い、中国初の近代的地図を作成した。また中国の科学的業績を調べ上げヨーロッパに報告した。これによりヨーロッパ人科学者は初めて中国の科学と文化を知ることになった。イエズス会は西洋の数学と天文学の業績を中国語に翻訳し、中国人学者の関心を喚起した。マテオ・リッチは、儒教の教義を本部に報告し、イントルチェッタ神父は儒教の日常と業績を1687年にラテン語で出版した。この仕事はこの時代のヨーロッパの知識人にとり大変重要であったとみられる。ことに理神論者や啓蒙主義者は儒教の倫理体系とキリスト教倫理の統合に関心を払った。アダム・スミスの先達で近代経済学を確立したフランスの重農主義者フランソワ・ケネーは『ヨーロッパの儒家』とよばれた。その思想と自由放任Laissez-faireという主義の名称も、中国の『無為』に想を得たものとみられる。ゲーテは『ワイマールの儒家』とよばれた。", + "qas": [ + { + "question": "中国初の近代的地図を作成した団体は?", + "id": "tr-230-07-000", + "answers": [ + { + "text": "イエズス会", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "中国の科学的業績を調べ上げヨーロッパに報告することで、ヨーロッパ人科学者が初めて中国の科学と文化を知るようにきっかけを与えた団体は?", + "id": "tr-230-07-001", + "answers": [ + { + "text": "イエズス会", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "フランソワ・ケネー、ゲーテ、トーマス・ウッズの中、中国の儒教の影響とは関係のない人物は?", + "id": "tr-230-07-002", + "answers": [ + { + "text": "トーマス・ウッズ", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "歴史研究者の間で交わされる議論の主題となるのが、中国で科学革命が進展しなかった理由は何か、また中国の技術がヨーロッパの後塵を拝した理由は何かである。文化から政治経済まで各種の仮説が提唱されている。ネイサン・セビンの論点は、「中国にも科学革命は17世紀に存在したが、我々は西洋と中国の科学革命を政治・経済・社会の視点に細分化して理解するにはまだ程遠い」というものだ。ジョン・フェアバンクの主張は、中国の政治制度が科学発展の障害であったとする。文化的要因が『科学』と呼びうるものの発達を妨げたというニーダムの仮説には賛同者が多い。中国の知識人が自然界の法則性を信じる障害になっているのが、宗教・哲学の枠組であるというものだ。中国人は自然界の法則性を否定しないが、それは合理的人格的存在(天帝)が命じた規律ではなく、合理的人格的存在がかつて布告した天与の法則のコードを、地球的な小さな言語体系で解読しようなどとは思いもしなかったのだろう。道教徒も洞察対象である宇宙の複雑さと神秘性を前にしてそのような仮定をするのはあまりに素朴すぎると軽蔑しただろう。", + "qas": [ + { + "question": "「中国にも科学革命は17世紀に存在したが、我々は西洋と中国の科学革命を政治・経済・社会の視点に細分化して理解するにはまだ程遠い」という論理を展開した人は誰なの?", + "id": "tr-230-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ネイサン・セビン", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "同様な土壌が伝統医療の背景となる哲学全般にもみられる。その哲学は古来の中国の信仰を反映した道教思想に由来する。そこでは各個人の経験は環境に対してあらゆる影響を発揮する主因的原理となる。これは科学的方法以前の論理であり、科学的思考によりさまざまな批判を受けてきた。そのため解剖学や組織学の観点から経穴や経絡の存在を物理的に検証しうる、たとえば皮膚の伝導性がしかるべき点で増大するとしても、懐疑派の哲学者ロバート・キャロルなどは、『メタフィジカルな主張と経験的主張を混同する』という理由で鍼灸術を疑似科学とみなす。鍼灸術やその他の手段による気の解放が病気治療に効果があることを、科学研究により立証することはいかなる手段を使っても不可能である。その理由は気が経験科学の方法では検知不能と定義されているからだ。近年の歴史家は政治や文化の側面からの説明に疑問を呈してきた。また、経済的原因により焦点を当ててきた。マーク・エルヴィンが提唱する『高水準均衡の罠』(en:high-levelequilibriumtrap)は、この考え方に沿った例であり、ケネス・ポメランツの論議と同様、新大陸から得られた資源がヨーロッパと中国の発展に決定的な差をつけたというものだ。そのほ��に海禁や文化大革命などの出来事が重要な時機に中国を孤立させてきたとする。", + "qas": [ + { + "question": "『メタフィジカルな主張と経験的主張を混同する』という理由で鍼灸術を疑似科学と判断した人として挙げられている人物は?", + "id": "tr-230-09-000", + "answers": [ + { + "text": "ロバート・キャロル", + "answer_start": 200, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1949年の中華人民共和国建設から、毛沢東時代はソビエト連邦の路線に沿って巨大科学研究の体制を再編し、核兵器の開発や人工衛星の打ち上げに成功した。この時代は屠呦呦によるアルテミシニンの発見、袁隆平によるハイブリッド米の開発など農業・医薬面では一定の成果があった。1975年以来、科学技術は4つの近代化の柱の一つであり、鄧小平が掲げる改革開放路線でも民生用技術の急速な発達も重視した。政府は科学の産業への応用と外国からの技術移転に重点を置く政策形成をしてきた。21世紀になると、中華人民共和国の科学技術は急速に発展した。政府は世界経済に一層歩調をあわせ、かつ科学技術に一層重点を置くようになった。この結果資金供給が加速し、科学研究の体制は改善され、研究費は増大した。これらの要因は、スーパーコンピュータ・遺伝子工学などの研究分野で研究の進展に結びついている。また、政府は高速鉄道、電子商取引、電子決済、シェアリングエコノミーを中国の「新四大発明」と位置づけてる。", + "qas": [ + { + "question": "中華人民共和国が成り立ったのは何年?", + "id": "tr-230-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1949年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "中華人民共和国の政府が中国の「新四大発明」と命名したのは高速鉄道、電子決済、シェアリングエコノミー、そして何?", + "id": "tr-230-10-001", + "answers": [ + { + "text": "電子商取引", + "answer_start": 389, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "戸倉ハル", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "戸倉ハルは1896年11月9日に、香川県仲多度郡南村田村にて父・戸倉宇吉、母・戸倉エイの長女として生まれた。戸倉家は代々、村長を務めてきた家系で、戸倉は父母・祖父母の愛を一身に受けてのびのびと育った。毎日のようにお伽話を聞いて育ち、特に浦島太郎や桃太郎が思い出に残ったと後年に語っている。5歳の時に妹のナツが生まれ、以後生涯仲の良い姉妹関係が続いた。学齢期になると、近くの小学校に進学し、遠方に丸亀城や飯野山を望む豊かな自然の中で少女時代を過ごした。後の戸倉の作品に登場する「故郷」のイメージは、この頃に胸に刻まれた風景であった。小学校卒業後、香川県丸亀高等女学校補習科に進学した。勉強熱心で教師から可愛がられ、帰宅が遅くなると父が提灯を持って迎えに来るほど大事にされていた。当の戸倉は何度も父が迎えに来ることに嫌気が差し、帰路で迎えの父と出会っても知らんぷりして早足で帰宅したという。", + "qas": [ + { + "question": "戸倉ハルはいつ生まれたの?", + "id": "tr-231-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1896年11月9日", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戸倉宇吉の妻は誰ですか。", + "id": "tr-231-00-001", + "answers": [ + { + "text": "戸倉エイ", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ナツが生まれた時、戸倉ハルは何歳でしたか。", + "id": "tr-231-00-002", + "answers": [ + { + "text": "5歳", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "戸倉ハルは小学校卒業後、どの学校に進学したか。", + "id": "tr-231-00-003", + "answers": [ + { + "text": "香川県丸亀高等女学校", + "answer_start": 272, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1915年3月、戸倉ハルは丸亀高女を卒業し、同年4月に東京女子高等師範学校附設の第六臨時教員養成所家事科第一部に進学した。家事科には第一部と第二部があり、戸倉が入学した第一部は、第二部よりも体操や音楽の授業が多いという特色があった。ここで永井道明から合理体操、跳び箱・平行棒・肋木・梯子を使った体操を、二階堂トクヨから器械体操、ダンス、スウェーデン体操を学んだ。特に夜まで厳しい指導を受けた二階堂の授業が強い印象を与え、二階堂から教わった「三人遊び」などのダンスは、生涯戸倉の中に生き続けた。とは言え、所属はあくまでも「家事科」なので、専門的に学んだのは家事科が中心であった。1918年3月、修身・家事・体操の教員免許を取得して卒業した。", + "qas": [ + { + "question": "戸倉ハルは丸亀高女をいつ卒業したの?", + "id": "tr-231-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1915年3月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "東京女子高等師範学校附設の第六臨時教員養成所家事科では第一部と第二部と、どっちの方が体操や音楽の授業が多かった?", + "id": "tr-231-01-001", + "answers": [ + { + "text": "第一部", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "戸倉ハルは東京女子高等師範学校附設の第六臨時教員養成所家事科で、誰に器械体操、ダンス、スウェーデン体操を教わった?", + "id": "tr-231-01-002", + "answers": [ + { + "text": "二階堂トクヨ", + "answer_start": 151, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "戸倉ハルは東京女子高等師範学校附設の第六臨時教員養成所家事科をいつ卒業したか。", + "id": "tr-231-01-003", + "answers": [ + { + "text": "1918年3月", + "answer_start": 288, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1918年4月、戸倉ハルは高知県師範学校の教諭兼舎監に着任した。当時21歳であった戸倉は、袴姿に編み上げの靴を履いて颯爽と歩いていたことから注目を浴び、セーラー服にブルマーを身に着けて体操の授業を行い、女学生の憧れの的となった。生徒は戸倉の服装をまねただけでなく、戸倉のような体操教師になろうと戸倉の母校・東京女高師を目指す者も出現した。この頃の教え子に村上繁・河井富美恵がいる。\n\n高知師範で教えたのは、恩師・二階堂直伝の新しい体操やダンスで、指導力の高さから高知県各地より講習会の依頼が届き、土日も休まず体操指導に明け暮れた。戸倉が課した体操は、当時の女子体育の相場からは考えられないほどのハードな運動量であったという。この頃の高知師範は、当時の日本国内では珍しい男女共学であったため、戸倉の活躍に男子体育担当の山本芳松らが発奮し、後に日本体育界を代表する宮畑虎彦、鶴岡英吉、今村嘉雄らを輩出した。", + "qas": [ + { + "question": "戸倉ハルはいつ高知県師範学校の教諭兼舎監に着任したの?", + "id": "tr-231-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1918年4月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1918年4月、戸倉ハルは何歳だったの?", + "id": "tr-231-02-001", + "answers": [ + { + "text": "21歳", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "宮畑虎彦、鶴岡英吉、今村嘉雄はどの学校出身なの?", + "id": "tr-231-02-002", + "answers": [ + { + "text": "高知師範", + "answer_start": 316, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1922年4月、戸倉ハルはもう一度専門的に体操科を学び、自信を持って指導したいという思いから、高知師範を辞して東京女高師研究科に入学した。東京女高師に戻った時、永井はまだ在籍していたが、二階堂は永井と対立して東京女高師を退職し、二階堂体操塾を創立したところであった。2人の恩師の対立に心を痛めた一方で、温順な性格から、どちらに対しても学生であるという姿勢を取った。戸倉は永井に同行して「学校体操教授要目」の普及活動を手伝い、永井を守るように援助したことから、永井から「唯一の愛弟子」と見なされた。\n\n研究科では、友人と帝国劇場へアンナ・パヴロワの「瀕死の白鳥」の公演を見に行って感銘を受けたり、ワルター・ブラントから動物の模倣体操を習ったりした。ここで永井から幼児の体育を研究することを勧められ、卒業論文「子供のダンス」を書き上げて1924年3月に修了した。", + "qas": [ + { + "question": "戸倉ハルは東京女高師研究科に入学したの?", + "id": "tr-231-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1922年4月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戸倉ハルが書き上げた論文のタイトルは何?", + "id": "tr-231-03-001", + "answers": [ + { + "text": "「子供のダンス」", + "answer_start": 352, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "永井が「唯一の愛弟子」としていたのは誰?", + "id": "tr-231-03-002", + "answers": [ + { + "text": "戸倉", + "answer_start": 182, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "戸倉ハルは東京女高師研究科の卒業後、1924年4月に東京府立第六高等女学校へ赴任し四谷の酒屋での下宿生活を開始した。第六高女の校長・丸山丈作は体育に理解があり、施設整備に力を入れていたため、新しい体育館で授業を行うことができた。戸倉は自ら作成した教科書で授業を行い、徒歩の奨励、正しい姿勢の維持、健康管理などを行い、ダンスの授業では二階堂から教わったメイポールダンスや自身の創作ダンスを教えた。冬季には雪国でスキー実習を行ったが、この時は現地の人が教師となり、戸倉は生徒に交じって転びながらスキーをしたという。1926年からは二階堂体操塾より改名した日本女子体育専門学校で非常勤講師を務めることになり、二階堂との交流を再開した。", + "qas": [ + { + "question": "戸倉ハルはいつ東京府立第六高等女学校へ赴任したの?", + "id": "tr-231-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1924年4月", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戸倉ハルは誰からメイポールダンスを教わったか。", + "id": "tr-231-04-001", + "answers": [ + { + "text": "二階堂", + "answer_start": 166, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本女子体育専門学校の元の名前は何?", + "id": "tr-231-04-002", + "answers": [ + { + "text": "二階堂体操塾", + "answer_start": 263, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戸倉ハルは何年から日本女子体育専門学校で非常勤講師を務めるようになったの?", + "id": "tr-231-04-003", + "answers": [ + { + "text": "1926年", + "answer_start": 255, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "戸倉ハルは第六高女の教員生活の傍ら、ダンス研究を本格化させていき、1925年7月25日・7月26日の両日、日本幼稚園協会主催の講習会にて270人の参加者の前で、創作ダンス「ゆうやけこやけ」、「しゃぼんだま」など計9作品を披露した。この時、伴奏を手掛けたのは第六高女の同僚・小林つや江で、以後小林との合作による作品が多数生まれることになる。またこの講習会に出席していた倉橋惣三から激励されたことで、幼児のダンスを追究する決意を固めた。1927年、白金台に引っ越し、初の著書『唱歌遊戯』を出版した。同書の序文は永井が寄稿し、戸倉の研鑽をたたえる内容となっている。月刊誌『幼児の教育』にたびたび記事を掲載するようになるのもこの頃で、土川五郎とともに代表的な著者となった。土川は「童謡遊戯」の研究者であり、2人は舞踊愛好家を囲んだ交流会を開くようになった。この交流会は昭和初期には毎週行われるようになり、体育ダンスの荒木直範・渋井二夫、日本体育専門学校の赤間雅彦・加藤孝吾・沢山駒次郎、女子体育家の藤村トヨ・伊沢ヱイ姉妹、美濃部タカ、二階堂トクヨらが出席していた。交流会を通して様々なダンスに触れ、後の戸倉独特の創作ダンスへと繋がっていくのであった。", + "qas": [ + { + "question": "「ゆうやけこやけ」は誰が創作したダンスですか。", + "id": "tr-231-05-000", + "answers": [ + { + "text": "戸倉ハル", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戸倉ハルが書いた初めての本は何?", + "id": "tr-231-05-001", + "answers": [ + { + "text": "『唱歌遊戯』", + "answer_start": 235, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『唱歌遊戯』はいつ出版されたか。", + "id": "tr-231-05-002", + "answers": [ + { + "text": "1927年", + "answer_start": 216, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1933年4月、戸倉ハルは東京女高師に助教授として迎え入れられた。永井は既に東京女高師を去っており、体育教官には宮田覚造や三浦ヒロがいた。特に三浦の「表現内容を考えながらまとめていく」という独自のダンス教授法は、戸倉に新たな刺激を与えた。1935年には宮田と三浦が相次いで退職し、後任に佐々木等が赴任、翌1936年には竹之下休蔵も着任した。戸倉・佐々木・竹之下の新体制になった体育教官室では、それまで第六臨教にしかなかった体操教員養成課程を東京女高師本科にも設置することを画策し、1937年に文科・理科・家事科と並ぶ第4の学科として体育科を設置した。師の二階堂はこれを祝して両手に花束を抱え、久しぶりに東京女高師に来校した。体育教官室では体育科の設置以外にも女子体育振興会の設立、月刊誌『女子と子供の体育』の発行、上野松坂屋での女子体育展覧会の開催など先進的な女子体育の振興活動を展開した。1938年、教授に昇任する。この頃の教え子に戦後の学校ダンスをリードした松本千代栄、2代目ラジオ体操指導者の上貞良江がいる。", + "qas": [ + { + "question": "戸倉ハルが東京女高師の助教授となったのはいつなの?", + "id": "tr-231-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1933年4月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "宮田と三浦が東京女高師を退職したのはいつですか。", + "id": "tr-231-06-001", + "answers": [ + { + "text": "1935年", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "戸倉ハルは何年に教授に昇任するか。", + "id": "tr-231-06-002", + "answers": [ + { + "text": "1938年", + "answer_start": 395, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "戸倉ハルは1936年の「学校体操教授要目」改正作業において、大谷武一、佐々木等らと並んで、女性として唯一の審議員入りを果たした。徐々に戦争が近付いている社会情勢の中、唱歌遊戯・行進遊戯が要目から削除されるのを阻止し、唱歌遊戯が尋常小学校1年から高等女学校まですべての教育課程で採用されたのは、戸倉の業績である。\n\nしかし太平洋戦争が1941年に開戦すると、敵性語排除の風潮でダンスの要目からの削除が再検討された。戸倉はダンスによるリズム感覚や詩情・感情育成の効���を、多数の作品を示しながら訴え、何とか要目の中に残すことができた。ダンスは小学3年生まで唱歌遊戯のまま守られ、女学校では「音楽運動」という名前になり、教材には『愛国行進曲』、『軍艦行進曲』など軍国主義的な作品を導入し、ダンス用語を逐一漢字語に置き換えていった。この間、1941年に勲六等瑞宝章を受章、1942年10月に大日本婦人会の会歌制定時に、振り付けを担当した。\n\n1944年秋、女子挺身勤労令により、戸倉は学生らとともに群馬県へ送られ、農村での勤労奉仕に従事した。畑仕事がうまくできないと嘆く学生に、戸倉は「学生は勉強するのが本分なのだから、仕方がないんだよ。そのうちまた勉強ができるようになるからがまんしなさい。」と声をかけ、優しく励ましたという。", + "qas": [ + { + "question": "太平洋戦争は何年に勃発したか。", + "id": "tr-231-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1941年", + "answer_start": 166, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戸倉ハルは何年に勲六等瑞宝章を受章したの?", + "id": "tr-231-07-001", + "answers": [ + { + "text": "1941年", + "answer_start": 365, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "第二次世界大戦終結後、アメリカ教育使節団報告書が発表され、従来の体錬科は「健康生活の確立」に向けた「体育科」に改められ、学校体育研究委員会が1946年に発足した。この委員に戸倉も選ばれ、竹之下休蔵が委員長を務めた。委員会では「音楽運動」に代わって「ダンス」という名称を採用することを決定し、「学校体育指導要綱」を1947年に発表した。\n\n東京女高師はお茶の水女子大学の付置校として生まれ変わり、1949年に東京女高師教授と兼任でお茶大助教授に就任した。東京女高師体育科はお茶大教育学部教育学科体育学専攻に改組し、学科から専攻へと格下げとなったことに戸倉はショックを受けた。1955年にお茶大教授に昇任し、1962年3月に定年退官するまで勤務した。学外では大学設置審議会臨時委員、文部省スポーツ振興審議会委員、東京都体育審議会委員などを務めた。この時期にも創作ダンスを生み出し続けたが、文部省の方針は生徒が自らダンスを創作するという流れになっており、戸倉の作品は「参考作品」として扱われた。\n\n1953年、文部省の派遣により、フランス・パリで開催された第2回国際女子体育会議[注10]に出席した。ここでドロシー・エインズワース会長ら多くの女子体育家と知り合い、イタリア・スイス・オランダ・フランス・西ドイツ・デンマーク・スウェーデン・フィンランド・イギリス・アメリカを歴訪して欧米の体育の状況を視察し、日本に帰国した。同年、一宮道子とともに国際体操連盟総会に日本代表として出席した。翌1954年6月19日にお茶大で日本女子体育連盟を発足させ、8月5日に第1回日本女子体育連盟総会を開催した。1955年に役員を選出、戸倉が会長に就任した。一方、1957年第3回国際女子体育会議、1961年第4回会議にも連続参加した。", + "qas": [ + { + "question": "学校体育研究委員会は何年に発足したか。", + "id": "tr-231-08-000", + "answers": [ + { + "text": "1946年", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1946年に発足した学校体育研究委員会の委員長は誰でしたか。", + "id": "tr-231-08-001", + "answers": [ + { + "text": "竹之下休蔵", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "学校体育研究委員会が採用した用語は「音楽運動」なの、「ダンス」なの?", + "id": "tr-231-08-002", + "answers": [ + { + "text": "「ダンス」", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "第3回国際女子体育会議は何年に開かれたの?", + "id": "tr-231-08-003", + "answers": [ + { + "text": "1957年", + "answer_start": 720, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1962年にお茶大を退官した戸倉は、直ちに日本女子体育短期大学の教授に着任した。長らく非常勤講師として勤務してきた恩師・二階堂が設立した学校で正規の教員となった戸倉は、学校法人二階堂学園に4年制大学を作る「二階堂学園大学設置期成会」の会長に推挙され、資金調達、関係団体との折衝、校地買収と校舎建設、教具整備に陣頭指揮を執り、教授陣の招聘に辣腕を振るった。1965年4月1日に日本女子体育大学が開学すると、その教授に就任した。日女体でもダンスの創作意欲が尽きることはなく、作品は最高の境地に達した。\n\nこの間、1964年東京オリンピックの開会式では戸倉が集団演技の全体指導を担当した。1965年には西ドイツ・ケルンの第5回国際女子体育会議に出席し、次の第6回大会を東京に誘致した。またこの時、国際女子体育連盟の副会長に就任した。1966年、エインズワース元会長とディエム会長が来日し、国際女子会議東京大会の主題案を提示したが、戸倉と準備委員会のメンバーは日本が誇りうる領域を主題にしたいと「体育の伝統と現代の形式」を提案して認めさせた。1967年夏、永年講師を務めてきた日本幼稚園協会の講習会で最後の指導を行った。", + "qas": [ + { + "question": "戸倉はいつお茶大を退官したの?", + "id": "tr-231-09-000", + "answers": [ + { + "text": "1962年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "エインズワース元会長とディエム会長は何年に日本を訪問しましたか。", + "id": "tr-231-09-001", + "answers": [ + { + "text": "1966年", + "answer_start": 363, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1964年東京オリンピックの開会式で集団演技の全体指導を担当した人は誰ですか。", + "id": "tr-231-09-002", + "answers": [ + { + "text": "戸倉", + "answer_start": 273, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戸倉が国際女子体育連盟の副会長に就任したのは何年ですか。", + "id": "tr-231-09-003", + "answers": [ + { + "text": "1965年", + "answer_start": 291, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "戸倉は丸亀高女で、松本千代栄の母が担当する家事の授業を受けた。1930年夏、別府温泉で戸倉と松本の母は偶然に再会し、当時小学4年生だった松本はここで初めて戸倉と出会った。その後、東京女高師に進学した松本は戸倉から指導を受け、同じダンスの道に進むことになる。\n\n松本と戸倉が深く関わるようになるのは、松本の東京女高師研究科進学以降である。入学してすぐ、松本は戸倉の講習会助手として同行し、札幌から東京・下関・釜山を経て満州国の新京までの長旅を経験した。帰国後の東京は空爆の連続であったが、戸倉は空襲警報が解除となるとすぐに防空壕を飛び出して教授要目にダンスを残す研究を開始したという。\n\n学校体育指導要綱の委員として活動中、松本は理解者が少なくて悩んでいたところ、「私は二階堂先生に私淑したが、同じにはやらなかった。松本君も自分の思うようにやれよ」と声をかけ、松本を激励した。また学習指導要領の作成中には「もし納得できなかったら席を蹴って帰って来い」と、戦中の自身の経験を踏まえて助言した。", + "qas": [ + { + "question": "戸倉は丸亀高女で受けた家事の授業は誰が担当していたか。", + "id": "tr-231-10-000", + "answers": [ + { + "text": "松本千代栄の母", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "松本が初めて戸倉と出会った時、松本は小学何年生だったか。", + "id": "tr-231-10-001", + "answers": [ + { + "text": "4年生", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "松本に「私は二階堂先生に私淑したが、同じにはやらなかった。松本君も自分の思うようにやれよ」と言ってくれたのは誰ですか。", + "id": "tr-231-10-002", + "answers": [ + { + "text": "戸倉", + "answer_start": 243, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "戸倉のダンス観・指導観は、研究者・教育者・教授要目の委員としての立場から、時代の要求を反映したものであった一方、自然・動物・人間に深い愛情を持ち、本来の姿を洞察しようとする独自の考えを反映したものでもあった。自身の生活態度から自然に生徒を導くという考えを持っていたため[60]、戸倉本人はダンス理論についてあまり多くを語らなかった。\n\n戸倉は二階堂からダンスを学んだが、二階堂と全く同じ考えだったわけではないと自ら語っている。二階堂のダンスが体格の改善を意図したものであったのに対し、戸倉のダンスは心身の教育を意図したものであった。一方、戸倉は「心を込めて踊ること」ができる振り付けのために「視線」を重視したが、視線を大事にする考え方は二階堂から学んだものである。\n\n時代や対象を超えて一貫して用いられたダンス表現に「優美さ」が挙げられる。戸倉の言う優美さとは、ゆがみやずれのない、体の中心に常に重心が保たれる状態を指し、指導法の中に繰り返し用いた言葉である。現代のダンスは身体の限界に挑戦するような動きを特徴としているが、戸倉のダンスは当世の日本社会の雰囲気を反映して、慎み深く洗練された捨象の美を特徴としていた。", + "qas": [ + { + "question": "二階堂はダンスにおいて心身の教育と体格の改善と、どちらを意図していましたか。", + "id": "tr-231-11-000", + "answers": [ + { + "text": "体格の改善", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "戸倉はダンスにおいて心身の教育と体格の改善と、どちらを意図していましたか。", + "id": "tr-231-11-001", + "answers": [ + { + "text": "心身の教育", + "answer_start": 249, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "戸倉は「心を込めて踊ること」ができる振り付けのために何を重視しましたか。", + "id": "tr-231-11-002", + "answers": [ + { + "text": "「視線」", + "answer_start": 295, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "身体の限界に挑戦するような動きを特徴としているのは現代のダンスですか、戸倉のダンスですか。", + "id": "tr-231-11-003", + "answers": [ + { + "text": "現代のダンス", + "answer_start": 430, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "当時の『学校体操教授要目』では、ダンスは「唱歌遊戯及行進遊戯」として扱われ、体操の授業で採用されていた。この時期は、まず教材作りとして創作ダンスを生み出していた。戸倉の最初の著書『唱歌遊戯』には、文部省唱歌のほか、『どこかで春が』や『シャボン玉』などの愛唱歌をダンスにしたものを14種類収録している。この本の中では、「歌詞の意味に沿った自然な動作を行わせる」という戸倉の基本的なダンス観が既に表れている。1931年の『学校ダンス』では教材作りから一歩前進して教材の選択、教授上の注意と教授法、基本歩法など多岐に言及している。生徒の心身の発達を考慮すること、想像の余地を残して教授することなどの記述があり、大正自由教育の流れを汲んでいることが窺える。\n\n戸倉が改正作業に参加した1936年の教授要目では、「唱歌遊戯及行進遊戯」は基本練習、唱歌遊戯、行進遊戯の3つの領域に分けられ、基本練習では基本歩法・基本態勢・応用態勢、唱歌遊戯では『荒城の月』、『寧楽の都』などの日本の楽曲を使ったダンス、行進遊戯ではポルカセリーズ、カドリーユなどの西洋のダンスが採用された。この教授要目で初めて採用された基本練習は、邦正美による学校ダンス批判を受けて、その欠陥を補おうと戸倉が追加したものである。基本練習の導入により、それまでの静的・模倣的な表現術に躍動的・リズミカルな技術が加わり、表現の幅が拡大することになった。改正時、「体育ダンスは芸術か体育か?」という議論がなされたが、女子には鍛練的な教材はそれほど採用されなかった。バレエの手足の訓練を基礎に置いており、情操陶冶を目指す教材に特色がある。\n\n小学校から高等女学校まで採用された「唱歌遊戯及行進遊戯」は他の体操科教材と異なり音楽を伴った運動であり、選択する楽曲は児童生徒の発達に応じて変えるべきとした。旋律の美しさを重視して選曲し、幼児・児童対象のダンスは軽快さや明るさを、生徒対象のダンスは哀調を帯びたものを用いることで発達の差を付けている。ダンス表現でも、幼児・児童のダンスより生徒のダンスの方が可動性が高められている。一方、「落葉の踊」などは内容を易しくすれば尋常小学校1年生でも教材として扱えるし、高度化すれば高等女学校での採用にも耐えうるとしている。", + "qas": [ + { + "question": "戸倉が初めて書いた本のタイトルは何?", + "id": "tr-231-12-000", + "answers": [ + { + "text": "『唱歌遊戯』", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『どこかで春が』や『シャボン玉』のダンスはどの本に収録されているの?", + "id": "tr-231-12-001", + "answers": [ + { + "text": "『唱歌遊戯』", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戸倉が改正作業に参加した1936年の教授要目の「唱歌遊戯及行進遊戯」は、幾つの領域に分類されているか。", + "id": "tr-231-12-002", + "answers": [ + { + "text": "3つ", + "answer_start": 378, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "戸倉が改正作業に参加した1936年の教授要目では、「唱歌遊戯及行進遊戯」は基本練習、唱歌遊戯、そして何に分けられたの?", + "id": "tr-231-12-003", + "answers": [ + { + "text": "行進遊戯", + "answer_start": 357, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "戸倉は第2回国際女子体育会議(パリ)に出席し、いつかこの会議を日本に招致したいという思いを抱いて日本に帰国した。そのためにはまず、日本国内の女子体育の組織と研究を充実させる必要があると考え、1954年8月に日本女子体育連盟を創立した。翌1955年に役員を選出し、会長に戸倉、副会長に伊沢ヱイ、理事長に竹内菊枝が就任した。\n\n続いて日本女子体育連盟は1954年に卒業論文発表会と夏季女子体育講習会を開始し、『世界女子体育の動向』(1961年、NCIDBA48711635)、『学校ダンスの指導法研究』(1962年、NCIDBN12010539)、『女子体育の研究資料抄録』(1963年、NCIDBA74432730)を立て続けに刊行した。1965年には第1回全国女子体育研究大会を開催し1,200人の参加者を集め、1966年11月15日には連盟が社団法人に認可された。こうして日本の女子体育界をまとめ上げ、国際女子体育会議東京大会の下地作りを整えたところで戸倉は病に伏し、大会の開催を見届けることなく死去した。\n\nこの間、国際女子体育会議には第3回(ロンドン、1957年)に5人、第4回(ワシントン、1961年)に15人、第5回(ケルン、1965年)に40人と日本人参加者が増えていった。戸倉はこのすべての会議に出席した。", + "qas": [ + { + "question": "国際女子体育会議の第3回に参加した日本人は何人いましたか。", + "id": "tr-231-13-000", + "answers": [ + { + "text": "5人", + "answer_start": 486, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "国際女子体育会議の第3回、第4回、第5回のうち、日本人参加者が最も多かったのはどれですか。", + "id": "tr-231-13-001", + "answers": [ + { + "text": "第5回", + "answer_start": 510, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "日本女子体育連盟はいつ創立されたか。", + "id": "tr-231-13-002", + "answers": [ + { + "text": "1954年8月", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『女子体育の研究資料抄録』を刊行したのはどの団体ですか。", + "id": "tr-231-13-003", + "answers": [ + { + "text": "日本女子体育連盟", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "宮沢賢治", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "宮沢賢治(1896年8月27日-1933年9月21日)は、日本の詩人、童話作家。\n\n仏教信仰と農民生活に根ざした創作を行った。作品中に登場する架空の理想郷に、郷里の岩手県をモチーフとしてイーハトーブと名付けたことで知られる。彼の作品は生前ほとんど一般には知られず無名に近く、没後、草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていった。そうした経緯もあって日本には広く愛好者が存在する。", + "qas": [ + { + "question": "宮沢賢治の作品に出るイーハトーブという場所はどこをモチーフとして作られましたか。", + "id": "tr-232-00-000", + "answers": [ + { + "text": "岩手県", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "宮沢賢治は1896年8月27日、父・宮澤政次郎と母・イチの長男として生まれる。戸籍上の誕生日は8月1日で生前の賢治も履歴書に1日と書いているが、27日と推定されている。母・イチの実家、鍛冶町の宮澤善治家で出生したが、5日後の8月31日、秋田県東部を震源とする陸羽地震が発生した。イチは賢治を収容したエジコ(乳幼児を入れ守る籠)を両手で抱えながら上体を覆って念仏を唱えていたという。政次郎は仕事で旅行中だったため、政次郎の弟の治三郎が「賢治」と名付けた。\n\n3歳の頃、婚家から出戻っていた父の姉であるヤギが「正信偈」「白骨の御文章」を唱えるのを聞き覚え、一緒に仏前で暗唱していたという。1902年、赤痢で2週間入院。賢治を看病した政次郎も感染し、大腸カタルを起こして胃腸が生涯弱くなった。1903年、花巻川口尋常小学校に入学した。成績は優秀で6年間全科目甲だった。3年と4年を担任した八木英三は生徒たちに『未だ見ぬ親』(五来素川の翻案によるマロ作『家なき子』)や『海に塩のあるわけ』(民話『海の水はなぜ辛い』)などの童話を話して聞かせ、賢治に大いに影響を与えた。後に賢治は八木と再会した折に「私の童話や童謡の思想の根幹は、尋常科の三年と四年ごろにできたものです」と語っている。鉱物採集、昆虫の標本づくりに熱中するようになり、11歳の頃に家族から「石コ賢さん」とあだ名をつけられる。父の主催する花巻仏教会の夏季講習会にも参加、招いた講師の暁烏敏の世話係もした。", + "qas": [ + { + "question": "宮沢賢治の生年月日を記述しなさい。", + "id": "tr-232-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1896年8月27日", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "宮沢賢治の戸籍上の誕生日はいつですか。", + "id": "tr-232-01-001", + "answers": [ + { + "text": "8月1日", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "陸羽地震は何年に発生しましたか。", + "id": "tr-232-01-002", + "answers": [ + { + "text": "1896年", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "宮沢賢治は何年に花巻川口尋常小学校に入学したか。", + "id": "tr-232-01-003", + "answers": [ + { + "text": "1903年", + "answer_start": 343, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "宮沢賢治は1909年4月、岩手県立盛岡中学校に入学した。寄宿舎「自彊(じきょう)寮」に入寮。祖父の喜助は商人の息子で跡継ぎの賢治に学問は不要という考えで、父の政次郎が説得して進学させた。家業の古着屋を嫌っていた賢治は将来を悲観し、成績は落ち込んでゆく。鉱物採集や星座に熱中、岩手山、南昌山、鞍掛山など盛岡近在の山を歩き、大量の岩石標本を集めた。3年生の頃から石川啄木の影響を受けた短歌を制作。1913年、4年生の時、二学期から交代した新しい舎監に生徒たちが夜中足を踏み鳴らすなどの嫌がらせを行ったため、4、5年生全員が退寮させられるという事件が発生。賢治は盛岡市北山の清養院に下宿する。", + "qas": [ + { + "question": "宮沢賢治が入学した中学校はどこなの?", + "id": "tr-232-02-000", + "answers": [ + { + "text": "岩手県立盛岡中学校", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "宮沢賢治の祖父の喜助と父の政次郎のうち、宮沢賢治が中学校に進学することに対して反対していた人は誰なの?", + "id": "tr-232-02-001", + "answers": [ + { + "text": "祖父の喜助", + "answer_start": 46, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "宮沢賢治は1914年3月、盛岡中学卒業した。4月、盛岡市岩手病院に入院、肥厚性鼻炎の手術を受ける。術後も熱が下がらず、発疹チフスの疑いで5月末まで入院。この時看病に当たった政次郎も感染して入院。自分の看病で2度も倒れた父に賢治は後までも負い目を感じていたという。入院中に出会った岩手病院の看護婦に思いを寄せ、退院後、両親に結婚したいと申し出たが「若すぎる」という理由で反対される。政次郎は「あれはひどく早成なところがあって、困ったんじゃ...」と困惑した。実家で店番や養蚕の手伝いで鬱々とした日々を過ごす賢治を見かねた政次郎は盛岡高等農林学校への進学を認める。賢治は今までと打って変わって、受験のため猛勉強に励んだ。同時期に、島地大等訳『漢和対照妙法蓮華経』を読み、その中の「如来寿量品」に体が震えるほどの感銘を受ける。", + "qas": [ + { + "question": "宮沢賢治はいつ中学校を卒業したの?", + "id": "tr-232-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1914年3月", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "宮沢賢治が読んで体が震えるほど感銘を受けたという本のタイトルは何ですか。", + "id": "tr-232-03-001", + "answers": [ + { + "text": "『漢和対照妙法蓮華経』", + "answer_start": 318, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "宮沢賢治は1915年4月、盛岡高等農林学校に首席で入学し、寄宿舎「自啓寮」に入寮した。16日の入学宣誓式では総代として誓文を朗読した。翌年、特待生に選ばれ授業料を免除される。高等農林では農学科第二部に所属し、土壌学を専門とする部長の関豊太郎の指導を受ける。関は狷介な人物として知られていたが、賢治とは良好な関係を築いたとされる。この頃、毎朝法華経の読経をしていた。寮で同室になった1年後輩の保阪嘉内と親しくなる。保阪は農村改良を志向して進学しており、後の賢治の羅須地人協会の構想にも影響を与えたと言われる。1917年7月、保阪、小菅健吉、河本義行らと同人誌『アザリア』を発行し、賢治は短歌や短編を寄稿。1918年、卒業を控えた賢治に父の政次郎は研究生として農学校に残り、徴兵検査を延期することを勧めるが、賢治は得業論文『腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値』を提出し、検査延期を拒否。化学工業方面に進みたかった賢治は研究生の土性調査に意欲がなく、検査延期は自分の倫理観が許さなかった。3月13日、保阪嘉内が『アザリア』に発表した作品が原因で除籍処分となる。賢治は教授会に抗議したが通らなかった。15日に農学校を卒業、研���生として残り、稗貫郡の土性調査にあたる。これは関からの推薦によるものであった。賢治は誠心誠意この仕事に打ち込み、休ませてもらった家には法華経の印刷物を置いていった。またこの頃から5年間、菜食生活をする。4月28日、徴兵検査を受けて第二乙種合格となり、兵役免除。6月30日、岩手病院で肋膜炎の診断を受けて山歩きを止められた。このため退学を申し出たが、土性調査は9月まで続け報告書を提出した。7月4日、花巻に帰省する際、見送りにきた河本義行に「私の命もあと十五年はありません」と語ったという。8月『蜘蛛となめくじと狸』『双子の星』を執筆、家族に朗読している。", + "qas": [ + { + "question": "盛岡高等農林学校の1915年4月入学生のうち、首席は誰だったか。", + "id": "tr-232-04-000", + "answers": [ + { + "text": "宮沢賢治", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "盛岡高等農林学校の1915年の入学宣誓式で総代として誓文を朗読したのは誰ですか。", + "id": "tr-232-04-001", + "answers": [ + { + "text": "宮沢賢治", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "宮沢賢治と保阪嘉内と、誰がもっと年下なの?", + "id": "tr-232-04-002", + "answers": [ + { + "text": "保阪嘉内", + "answer_start": 195, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "宮沢賢治は何年間、菜食生活を続けましたか。", + "id": "tr-232-04-003", + "answers": [ + { + "text": "5年間", + "answer_start": 599, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "宮沢賢治は12月26日、東京に進学した妹のトシが東京帝国大学医学部附属病院小石川分院に入院したとの知らせが入り、母のイチと上京した。病院の近くの旅館「雲台館」に泊まり、翌1919年3月3日まで看病する。トシは当初チフスの疑いだったが発熱が続き、肺炎と診断される。翌年1月になると病状も落ち着き、賢治は図書館に通うなどして将来の仕事について考え始める。また国柱会館で田中智学の講演を聞き、盛中同級生の阿部孝から萩原朔太郎の『月に吠える』を借りる。父の政次郎に、東京に移住し、宝石の研磨や人造宝石の製造などの事業を始めて家業の転換をはかる計画を手紙で書き送るが、政次郎は実現性の乏しい仕事に反対。3月3日、退院したトシと花巻へ帰り、嫌いな家業を手伝う生活が始まる。賢治が東京で仕入れた「便利瓦」が良く売れ、賢治はその儲けでレコードや浮世絵を購入した。1920年5月、農林学校研究生を卒業した。助教授に推薦されたが、父子ともに実業に進む考えであったため辞退する。田中智学著『本化妙宗式目講義録』全5巻を読破、国柱会に入信する。法華信仰を強め、寒修行として花巻町内を太鼓を叩き題目を唱えながら歩く。また浄土真宗の門徒である父を折伏しようと激しい口論を繰り返した。", + "qas": [ + { + "question": "宮沢賢治の妹であるトシが入院したところはどの大学所属ですか。", + "id": "tr-232-05-000", + "answers": [ + { + "text": "東京帝国大学", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "宮沢賢治と妹が花巻へ帰ったのは何月何日のことですか。", + "id": "tr-232-05-001", + "answers": [ + { + "text": "3月3日", + "answer_start": 296, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "宮沢賢治はいつ農林学校研究生を卒業したか。", + "id": "tr-232-05-002", + "answers": [ + { + "text": "1920年5月", + "answer_start": 373, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『本化妙宗式目講義録』の著者は誰ですか。", + "id": "tr-232-05-003", + "answers": [ + { + "text": "田中智学", + "answer_start": 428, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "宮沢賢治は1924年4月20日、『心象スケッチ春と修羅』刊行した。花巻の吉田印刷所に持ち込み1000部を自費出版した(定価2円40銭)。発行所の名義は東京の関根書店になっている。東京での配本を関根喜太郎という人物に頼み500部委託したが、関根はゾッキ本として流してしまい、古本屋で50銭で売られたという。本は売れず、賢治もほとんど寄贈してしまったが、7月にダダイストの辻潤が『読売新聞』に連載していたエッセイで紹介。詩人の佐藤惣之助も雑誌『日本詩人』12号で若い詩人に「宮沢君のようなオリジナリティーを持つよう」と例に挙げた。中原中也は夜店で5銭で売っていた『春と修羅』のゾッキ本を買い集め、知人に配っている。同年12月1日、『イーハトヴ童話注文の多い料理店』刊行した。盛岡高農の後輩で農薬のパンフレットを作っていた近森善一と及川四郎が賢治の原稿を見て刊行を計画、出版費用の工面に苦労しながら東京で印刷・製本した。出版社「光原社」の名義で1000部作ったが全く売れず、賢治は父親から300円借りて200部買い取った。本の挿絵を担当した菊池武雄は『赤い鳥』主宰の鈴木三重吉に『タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった』を送ったが「あんな原稿はロシアにでも持っていくんだな」と返された。しかし翌年1月、『赤い鳥』に『注文の多い料理店』の一頁広告が掲載される。三重吉の厚意で無料だった。7月、詩人の草野心平の同人誌『銅鑼』に参加する。11月23日、花巻の北上川小船渡に東北帝国大学地質古生物教室の早坂一郎教授を案内、賢治が採集したバタグルミ化石の学術調査に協力。この場所を賢治は「イギリス海岸」と名付けていた。", + "qas": [ + { + "question": "宮沢賢治はいつ『心象スケッチ春と修羅』刊行したか。", + "id": "tr-232-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1924年4月20日", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "宮沢賢治は何年に『イーハトヴ童話注文の多い料理店』を刊行しましたか。", + "id": "tr-232-06-001", + "answers": [ + { + "text": "1924年", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『心象スケッチ春と修羅』と『イーハトヴ童話注文の多い料理店』と、どっちがもっとあとで刊行されたの?", + "id": "tr-232-06-002", + "answers": [ + { + "text": "『イーハトヴ童話注文の多い料理店』", + "answer_start": 313, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "宮沢賢治が同人誌『銅鑼』に参加しはじめたのは何月のことですか。", + "id": "tr-232-06-003", + "answers": [ + { + "text": "7月", + "answer_start": 592, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "宮沢賢治は1926年3月31日、花巻農学校を依願退職する。弟宛ての手紙では校長の転任に伴って義理でやめると書いているが、前年4月13日杉山芳松宛ての手紙では「来春はやめてもう本統の百姓になります」と辞職の決意をしている。4月、実家を出て、かつてトシが療養生活をしていた下根子桜の別宅に移り、改装。周囲を開墾して畑と花壇を作った。ここで白菜、とうもろこし、トマト、セロリ、アスパラガスなど野菜を栽培するとともに、チューリップやヒヤシンスの花を咲かせた。賢治は野菜をリヤカーで売り歩いたが、当時の農民にはリヤカーは高級品で、賢治の農業は金持ちの道楽とみられてしまう。野菜を勝手に持っていかれても笑って許していた。農村の水路修理などの共同作業も参加せず金を包んで済ませている。また畑の白菜を全て盗まれるという嫌がらせにあった話を詩に残している。「羅須地人協会」として農学校の卒業生や近在の篤農家を集め、農業や肥料の講習、レコードコンサートや音楽楽団の練習を始めた。6月『農民芸術概論綱要』起稿した。「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」として農民芸術の実践を試みた。また肥料設計事務所を開設、無料で肥料計算の相談に応じた。この様子は「それでは計算いたしませう」という詩に書かれている。", + "qas": [ + { + "question": "宮沢賢治はいつ花巻農学校を依願退職したか。", + "id": "tr-232-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1926年3月31日", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "宮沢賢治は何月に『農民芸術概論綱要』起稿したか。", + "id": "tr-232-07-001", + "answers": [ + { + "text": "6月", + "answer_start": 429, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "バンベルク", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "バンベルク(Bamberg[ˈbambɛʁk])は、バイエルン州オーバーフランケン行政管区の郡独立市で、バンベルク郡の郡庁所在地。\nバンベルクは、大学都市であり、大司教の都市であり、ビールの都であり、行政都市である。\nこの街は、人口約20万人の人口密集地域の中規模中心都市であり、オーバーフランケン地方の重要な中心地である。\n見応えのある旧市街は、ドイツでも最もすばらしく無傷に保存された歴史的な市街地であり、1993年にユネスコの世界遺産に登録された。", + "qas": [ + { + "question": "バンベルクの人口は?", + "id": "tr-233-00-000", + "answers": [ + { + "text": "約20万人", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バンベルクは何年に世界遺産に登録されたの?", + "id": "tr-233-00-001", + "answers": [ + { + "text": "1993年", + "answer_start": 205, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "この神さびたフランケンの皇帝都市にして司教都市は、二股に分流したレグニッツ川の肥沃な谷間の草地に広がる。\nレグニッツ川は市街中心部の北7kmでマイン川に合流する。\n市域の面積は、54.58平方キロメートル。\n南北9.6km、東西9.7kmである。\nバンベルクは、以下の市区から構成される。\nベルクゲビート、インゼルシュタット、ゲルトナーシュタット(以上を併せて旧市街を形成する)、クラマースフェルト=ヒルシュクノック=ブルッカーツホーフ、ガルテンシュタット、シュターディオン(バンベルク東)、ゲロイト、ヴンダーブルク、ガウシュタット、バンベルク北、ブーク、ブークホーフ、アム・クリニクム=バンベルガー・フィエルテル、ヴィルデンゾルク。", + "qas": [ + { + "question": "距離が長いのは南北と東西のどちらですか?", + "id": "tr-233-01-000", + "answers": [ + { + "text": "東西", + "answer_start": 112, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "バンベルクの面積は?", + "id": "tr-233-01-001", + "answers": [ + { + "text": "54.58平方キロメートル", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "バンベルク前史時代の最も古い遺物は、おそらく19世紀に発掘された偶像『バンベルガー・ゲッツ』であろう。\n902年に初めて、現在のドムベルクが\"CastrumBabenberch\"として登場する。\nこの地はフランケン・バーベンベルク家の所領であったが、903年、ラインフランケンのコンラート家との流血のフェーデの末にこのレーエンを失った。\nこの、いわゆる『バーベンベルク抗争』によってバーベンベルク家の3人の兄弟が亡くなった。\n財産は王のものとなり、973年まで王領のままであった。\n神聖ローマ皇帝オットー2世は、従弟のバイエルン公ハインリヒ2世(好戦公)にこのCastrum(城塞)を贈与した。", + "qas": [ + { + "question": "バンベルク前史時代の最古の遺物は何?", + "id": "tr-233-02-000", + "answers": [ + { + "text": "『バンベルガー・ゲッツ』", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ハインリヒ2世にCastrumを与えた人は誰でしたか?", + "id": "tr-233-02-001", + "answers": [ + { + "text": "オットー2世", + "answer_start": 248, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1007年、ハインリヒ2世の息子である皇帝ハインリヒ2世(バイエルン公ハインリヒ4世)によって新たな司教区が創設された。\nまた同年、大聖堂が建設されるが、2度の火災に遭い、13世紀以降に現在の建物に改築された。\n16世紀の司教領主権力に対する農民達の蜂起は、不成功に終わった。\n司教領主ロタール・フランツ・フォン・シェーンボルンとフリードリヒ・カール・フォン・シェーンボルンの下、この都市はバロック文化の華を体験した。\nこの都市は三十年戦争でスウェーデン軍に、七年戦争でプロイセン軍に、19世紀にはフランス軍に手ひどく痛めつけられた。", + "qas": [ + { + "question": "七年戦争ではどこの軍隊によって多くの被害を受けましたか?", + "id": "tr-233-03-000", + "answers": [ + { + "text": "プロイセン軍", + "answer_start": 235, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "三十年戦争ではどこの軍隊によって多くの被害を受けたましたか?", + "id": "tr-233-03-001", + "answers": [ + { + "text": "スウェーデン軍", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "19世紀にはどこの軍隊によって多くの被害を受けましたか?", + "id": "tr-233-03-002", + "answers": [ + { + "text": "フランス軍", + "answer_start": 249, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "バンベルク市と司教本部は、リュネヴィルの和約によって、バイエルン選帝侯がフランスの領土を失う代償として与えられることとなる土地に含まれた。\nこの条件が帝国代表者会議で最終的に確定する前、1802年9月2日からバイエルン選帝侯は司教本部領に軍隊を送り、11月29日にはこの領域を最終的にバイエルン領としたことを表明した。\n司教領主のクリストフ・フランツ・フォン・ブゼックは辞任し、これによりバンベルクの独立性は失われた。", + "qas": [ + { + "question": "1802年にバンべルクはどこの領地となりましたか?", + "id": "tr-233-04-000", + "answers": [ + { + "text": "バイエルン", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "バンべルクがバイエルン領になったことにより、辞任した司教領主とは誰ですか?", + "id": "tr-233-04-001", + "answers": [ + { + "text": "クリストフ・フランツ・フォン・ブゼック", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1854年5月25日から26日にドイツ各地の中級官僚8人(バイエルン、ザクセン、ハノーファー、ヴュルテンベルク、バーデン、クアヘッセン、ヘッセン=ダルムシュタット及びナッサウ)がバンベルクに集まり『バンベルク会議(de)』が開催された。\nここでは、それぞれが、オーストリア、プロイセンの二大勢力下での立場を超えて、東方問題にあたることを了解しあった。", + "qas": [ + { + "question": "『バンベルク会議』に参加した官僚は何人でしたか?", + "id": "tr-233-05-000", + "answers": [ + { + "text": "8人", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "第一次世界大戦後、1919年4月に、その直前に成立していたバイエルン自由州のホフマン内閣がミュンヘン労働者兵士農民評議会(レーテ)との軋轢により倒れ、ホフマン内閣がバンベルクに逃れ���きた。\n彼らはここからベルリンの中央政権にレーテ政権(バイエルン・レーテ共和国)打倒のための軍事的支援を要請した。\nこのためレーテ共和国は中央政府軍と義勇兵からなる軍に敗北し、5月3日に崩壊した。\nこの間ホフマンの政府はバンベルクで憲法を制定し、8月12日に署名した(バンベルク憲法)。\n1926年には国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の幹部会議が行われ、ヒトラーの党内独裁権が確立した(バンベルク会議(1926年))。\n第二次世界大戦末期の1945年にはアメリカ軍に占領され、駐屯地となっていた。\n戦後、バンベルクはアメリカの管理地区に属した。\n軍管理部は、ドイツ人追放のために故郷を逐われた「DisplacedPersons(難民)」と呼ばれるドイツ人のための難民キャンプを設けた。", + "qas": [ + { + "question": "ホフマン内閣が、レーテ政権を倒すために軍事的支援を要請した都市はどこ?", + "id": "tr-233-06-000", + "answers": [ + { + "text": "バンベルク", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "レーテ共和国が崩壊したのはいつでしたか?", + "id": "tr-233-06-001", + "answers": [ + { + "text": "5月3日", + "answer_start": 179, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1945年にバンベルクはどこの軍隊に占領されていたの?", + "id": "tr-233-06-002", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ軍", + "answer_start": 320, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1647年に創立した大学(Universität)は、1803年に廃止されたが、「哲学・神学単科大学(Hochschule)」として新たに生まれ変わった。\n1946年から1947年にかけての冬学期に、総合大学に必要な学部を拡張し、学生を受け容れ始めた。\nそして大学自身は、バイエルン州第4の州立総合大学となることを目指した。\nエネルギッシュな主導者は、当時の学長ベネディクト・クラフトであった。\n彼は、その時ケーニヒスベルクやブレスラウで教鞭を執っていた著名な教授やライプツィヒ帝国最高裁判所所長を招聘した。\n戦争から帰還した元兵士の多くが勉強を再開したため、学期を追うごとに大学は拡大を続けていった。", + "qas": [ + { + "question": "再開当初の哲学・神学単科大学の学長は誰でしたか?", + "id": "tr-233-07-000", + "answers": [ + { + "text": "ベネディクト・クラフト", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "拡充計画は、レーゲンスブルク大学がバイエルン州第4の州立大学となり、挫折したものの、1972年にバンベルク単科大学は総合大学として再出発し、1979年にはUniversitätに昇格した。\n創設者にちなんで、オットー=フリードリヒ大学と名付けられたこの大学は、人文科学部、社会科学部の他に「経済情報学と学際領域情報学」の学部を有している。", + "qas": [ + { + "question": "バンベルク単科大学は、その後どのような名前に変わりましたか?", + "id": "tr-233-08-000", + "answers": [ + { + "text": "オットー=フリードリヒ大学", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "バンベルクは魔女狩りの中心地の一つであった。\n魔女狩りの時代、バンベルク大司教ヨハン・ゴットフリート1世・フォン・アシュハウゼン(1609年-1622年)及び次代のヨハン・ゲオルク2世・フークス・フォン・ドルンハイム(1623年-1633年)の指導下、大規模な魔女狩りが行われた。\n同様の大規模な魔女狩りは、ヴュルツブルク大司教領やマインツ選帝侯領など、ドイツ南部で行われた。\n1612/1613年から1617/1618年の間に、バンベルク司教領で300人が薪の上で炎に焼かれた。\n特に1617年には、この司教領で102人の人々が処刑された。\n最も有名な犠牲者は、市長のヨハネス・ユニウスで、1628年8月に魔術師監獄での拷問を受け死亡した。", + "qas": [ + { + "question": "大司教を務めた期間が長かったのは、ヨハン・ゴットフリート1世・フォン・アシュハウゼンとヨハン・ゲオルク2世・フークス・フォン・ドルンハイムのどちらですか?", + "id": "tr-233-09-000", + "answers": [ + { + "text": "ヨハン・ゴットフリート1世・フォン・アシュハウゼン", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "魔女狩りで最も有名な犠牲者とは誰ですか?", + "id": "tr-233-09-001", + "answers": [ + { + "text": "ヨハネス・ユニウス", + "answer_start": 285, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1617年に102人が処刑された理由は何でしたか?", + "id": "tr-233-09-002", + "answers": [ + { + "text": "魔女狩り", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヨハネス・ユニウスが亡くなったのはいつでしたか?", + "id": "tr-233-09-003", + "answers": [ + { + "text": "1628年8月", + "answer_start": 296, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "中世から近世初期には、バンベルクの人口はゆっくりと増加し、戦争、伝染病、飢饉などにたびたび襲われた。\n1349年から1350年のペストの大流行と、これに続いて起こったユダヤ人迫害(疫病の原因はユダヤ人だという噂による)により多くの人が亡くなった。\n三十年戦争により人口は減少し、1648年には約7,000人にまで落ち込んだ。\n戦争前には12,000人の人口があった。\n19世紀の工業化の開始とともに、人口増加は加速した。\n1811年の初めには、この市に17,000人が暮らしていたが、1900年にはそれが42,000人にまで増えている。", + "qas": [ + { + "question": "三十年戦争前のバンベルクの人口は何人でしたか?", + "id": "tr-233-10-000", + "answers": [ + { + "text": "12,000人", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バンベルクの人口減少の原因として先に起こったのは、ユダヤ人迫害とペストの大流行のどちらですか?", + "id": "tr-233-10-001", + "answers": [ + { + "text": "ペストの大流行", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "人口が多かったのは、1811年と1900年のどちらですか?", + "id": "tr-233-10-002", + "answers": [ + { + "text": "1900年", + "answer_start": 242, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1939年までに人口は59,000人にまで増加した。\n第二次世界大戦直後には、東部地区からの多くの難民や国外追放者らがこの市に流れ込み、数ヶ月のうちに人口は16,000人増加して、1945年12月の人口は75,000人となった。\n1953年1月の人口は、最大値の77,000人となった。\n1972年6月まで人口は次第に減少し、69,000人となった。\n1972年7月1日の市町村合併により、バンベルク市の人口は7,207人増え、76,000人となった。\n2006年6月30日の、バイエルン州統計情報局のデータによるバンベルク市の公式人口は、70,063人(推計値)である。\n以下の表は、その都度の市域における人口の推移である。\n1811年までの数値は概算の推定値である。それ以降は、国勢調査(1)または州の統計局の報告書に基づく公的な数値である。", + "qas": [ + { + "question": "人口が少なかったのは、1939年と1945年のどちらでしたか?", + "id": "tr-233-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1939年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "人口が少なかったのは、1953年と1972年のどちらでしたか?", + "id": "tr-233-11-001", + "answers": [ + { + "text": "1972年", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1972年7月にバンベルク市の人口が7,207人増えた理由とは何でしたか?", + "id": "tr-233-11-002", + "answers": [ + { + "text": "市町村合併", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "人口が多いのは1953年と2006年のどちらですか?", + "id": "tr-233-11-003", + "answers": [ + { + "text": "1953年", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1000年にわたる建築文化財が比類のない街の風景を創り出している。\nバンベルクはローマと同じく7つの丘に築かれた街で、このため、時に「フランケンのローマ」と呼ばれる。\nバンベルクは、第二次世界大戦でも、大部分が被害を免れ、今日に至るまで変わらない昔の風景を見せてくれている。\n街は、宗教施設が占めるベルクシュタット(大聖堂周辺の「山の街」)と市民の街であるインゼルシュタット(レグニッツ川の二つの分流の間にある「島の街」)、そしてゲルトナーシュタット(「庭園都市」)の三つの部分からなる。\n大聖堂の塔がそびえるこの街では、中世の建築物と市民的バロック芸術が、保護文化財となる芸術的アンサンブルを描き出している。", + "qas": [ + { + "question": "ベルクシュタットの通称は何ですか?", + "id": "tr-233-12-000", + "answers": [ + { + "text": "「山の街」", + "answer_start": 164, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「島の街」とはどこの街を指していますか?", + "id": "tr-233-12-001", + "answers": [ + { + "text": "インゼルシュタット", + "answer_start": 178, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「庭園都市」とはどこの街を指しているの?", + "id": "tr-233-12-002", + "answers": [ + { + "text": "ゲルトナーシュタット", + "answer_start": 215, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1993年に、旧市街は、ユネスコの「人類の文化・自然遺産」に登録された。\nその選定理由に、バンベルクが、中央ヨーロッパの諸都市で発展することとなる中世初期のグランドデザインを比類ないあり方で示していることが挙げられた。\nユネスコ世界遺産の登録対象地域は、歴史的な市の中心街である、ベルクシュタット、インゼルシュタット、ゲルトナーシュタットが含まれ、その総面積は約140haとなる。\n2004年の100ユーロ記念金貨ユネスコ世界遺産シリーズに、バンベルクの歴史的都市風景が採り上げられた。", + "qas": [ + { + "question": "ユネスコ世界遺産の登録対象地域の総面積はどれくらいですか?", + "id": "tr-233-13-000", + "answers": [ + { + "text": "約140ha", + "answer_start": 180, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "バンベルクには幾人かの重要な文学者が暮らした。\n1260年からフーゴ・フォン・トリムベルクは、当時のバンベルク郊外トイアーシュタットにあったラテン語学校で働いた。\n七つの大罪を含む24000行からなる道徳的教訓詩\"DerRenner\"(『ランナー』)はこの頃に書かれた。\n初期の人文主義者であるアルブレヒト・フォン・アイプはバンベルクの聖セバスティアン・クリアに住んでおり、\"LobliedüberdieAnmutdesMägdeleinsBarbara\"(『農婦バーバラの美しさへの賛歌』)はここで生まれた。", + "qas": [ + { + "question": "1260年からフーゴ・フォン・トリムベルクが勤務した所はどこですか?", + "id": "tr-233-14-000", + "answers": [ + { + "text": "ラテン語学校", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『ランナー』を書いた人は誰ですか?", + "id": "tr-233-14-001", + "answers": [ + { + "text": "フーゴ・フォン・トリムベルク", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『農婦バーバラの美しさへの賛歌』を書いた人は誰?", + "id": "tr-233-14-002", + "answers": [ + { + "text": "アルブレヒト・フォン・アイプ", + "answer_start": 147, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "この後、バンベルクは、ドイツ・ロマン主義の発展に重要な役割を演じた。\nヴィルヘルム・ハインリヒ・ヴァッケンローダーはこの潮流の最初期の作家の一人であり、ルートヴィヒ・ティークと共同で著した\"HerzensergießungeneineskunstliebendenKlosterbruders\"(『芸術を愛する修道士の告白』)をはじめとするバンベルク滞在中の諸作品により、その発展に寄与した。", + "qas": [ + { + "question": "『芸術を愛する修道士の告白』の著者はヴィルヘルム・ハインリヒ・ヴァッケンローダーと誰ですか?", + "id": "tr-233-15-000", + "answers": [ + { + "text": "ルートヴィヒ・ティーク", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『芸術を愛する修道士の告白』はどこで執筆されましたか?", + "id": "tr-233-15-001", + "answers": [ + { + "text": "バンベルク", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『芸術を愛する修道士の告白』の共同著者はルートヴィヒ・ティークと誰ですか?", + "id": "tr-233-15-002", + "answers": [ + { + "text": "ヴィルヘルム・ハインリヒ・ヴァッケンローダー", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "この街の文学者で最も重要な人物の一人に、E.T.A.ホフマンが挙げられる。\n彼は、1808年にバンベルクで音楽監督として活動を開始した。\nその後すぐに、彼は劇場の作曲家として契約をしている。\n1809年に、最初の文学作品となる\"RitterGluck\"(『騎士グルック』)を執筆した。\nこれに加えて、彼は舞台作品の演出や、舞台装置の制作にも関わるようになった。\n彼の文学創作の源泉は、出会った当時15歳の声楽を学ぶ学生だったユリア・マルクへの愛情であった。\n後年の作品に登場する女性のモデルは彼女なのである。\nしかし、バンベルクでの彼の収入はすべての活動を合わせてもわずかばかりで、金銭面では困窮生活を続けなければならず、1813年にこの街を離れた。\n彼の生家は現在、E.T.A.ホフマン協会が管理しており、博物館として用いられている。\nハンス・ヴォルシュレーガーは、バンベルクで、アイルランドの詩人ジェイムス・ジョイスの小説『ユリシーズ』をドイツ語に翻訳した。", + "qas": [ + { + "question": "E.T.A.ホフマンは何年にバンベルクで活動を開始したの?", + "id": "tr-233-16-000", + "answers": [ + { + "text": "1808年", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『騎士グルック』の著者は誰ですか?", + "id": "tr-233-16-001", + "answers": [ + { + "text": "E.T.A.ホフマン", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "E.T.A.ホフマンの最初の文学作品のタイトルは何?", + "id": "tr-233-16-002", + "answers": [ + { + "text": "『騎士グルック』", + "answer_start": 127, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "E.T.A.ホフマンの後年の作品に登場する女性のモデルとは誰?", + "id": "tr-233-16-003", + "answers": [ + { + "text": "ユリア・マルク", + "answer_start": 212, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "バンベルク交響楽団は、チェコ在住ドイツ人によって結成されていたプラハ・ドイツ・フィルハーモニーを母体として戦後設立。\n初代常任指揮者ヨーゼフ・カイルベルト以降、多くの名指揮者を迎えて今日に至る。\n4管編成百名以上の陣容を誇り、積極的な録音や演奏旅行で世界的な知名度も高い。\n音楽王国ドイツでも、人口10万未満の都市がこの規模の団体を擁する例は珍しい。", + "qas": [ + { + "question": "バンベルク交響楽団の初代常任指揮者を務めた人は誰ですか?", + "id": "tr-233-17-000", + "answers": [ + { + "text": "ヨーゼフ・カイルベルト", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "バスケットボールチーム、GHPバンベルクは、ドイツのバスケットボール・ブンデスリーガでは、2005年優勝、1993年、2003年、2004年に2位、また1992年のカップ戦優勝チームである。\nGHPグループがスポンサーから撤退したため、2006年からはブローゼ・バスケッツの名称で活動している。\nこのチームの熱狂的なファンや、比較的狭い街にもかかわらずファンが多いことから、バンベルクは、ドイツのバスケットバールファンに、『フリーク・シティ』として知られている。", + "qas": [ + { + "question": "1993年から2005年までの間で、GHPバンベルクのバスケットボール・ブンデスリーガでの成績が最も良かった年は何年でしたか?", + "id": "tr-233-18-000", + "answers": [ + { + "text": "2005年", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "GHPバンベルクは、何の競技におけるチーム名ですか?", + "id": "tr-233-18-001", + "answers": [ + { + "text": "バスケットボール", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "GHPバンベルクは2006年から何というチーム名に変わりましたか?", + "id": "tr-233-18-002", + "answers": [ + { + "text": "ブローゼ・バスケッツ", + "answer_start": 126, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "クサヴェラ・レーメ", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "クサヴェラ・レーメは、ドイツ出身の修道女、教育者だ。日本で大正末期から昭和中期にかけて、北海道札幌市でドイツ語の私塾を開くことを始め、札幌市の藤高等女学校の創設に尽力し、軍国化が進み困難な社会情勢の中で、女子教育に尽力した。戦後は藤女子短期大学及び藤女子大学の設立などの実績により、女子総合教育の場の設立に貢献した。クサヴェラの名は修道名であり、出生名はカタリナ・レーメである。ドイツのニーダーザクセン州オスナブリュック郡オスターカッペルン出身だ。", + "qas": [ + { + "question": "クサヴェラ・レーメの母国はどこですか。", + "id": "tr-234-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "クサヴェラ・レーメの出生名は何?", + "id": "tr-234-00-001", + "answers": [ + { + "text": "カタリナ・レーメ", + "answer_start": 177, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クサヴェラ・レーメは日本のどの市にドイツ語の私塾を開いたか。", + "id": "tr-234-00-002", + "answers": [ + { + "text": "札幌市", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1889年、クサヴェラはドイツのオスターカッペルンで、農場を経営する家庭に誕生した。男8人、女7人の15人兄弟姉妹の末子であった。奇しくもこの1889年は、後にクサヴェラが骨を埋めることになる日本で、大日本帝国憲法が公布された年であった。\n\nクサヴェラが1歳に満たない内に父が死去したが、すでに成人していた兄たちが母を支えて、ク��ヴェラは幸福な少女時代を送った。村の中央には教会があり、クサヴェラは幼少時から、キリスト教と接して育った。\n\nある年のクリスマスを迎え、母から「欲しいプレゼントを、神様宛ての手紙に書きなさい」といわれ、クサヴェラは思いつき限りたくさんの品物を書いた。すると母に「たくさん書いた手紙は、神様が箱の底に入れてしまい読めません。本当に必要な物だけが、必ず読んでもらえます」と言われ、クサヴェラは欲張りな心を反省し、品物を一つに書き直した。後年にクサヴェラはこの逸話を、藤学園で好んで話した。クサヴェラの精神は、こうして母によって培われたとも見られている。1895年に、小学校に入学した。小学校時代は特に、理科と数学を得意した。高学年時代には、教員の代わりに教壇に立つことすらあった。", + "qas": [ + { + "question": "大日本帝国憲法が公布された年はいつなの?", + "id": "tr-234-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1889年", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クサヴェラは何年に小学校に入学したか。", + "id": "tr-234-01-001", + "answers": [ + { + "text": "1895年", + "answer_start": 439, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "クサヴェラは8年間の義務教育と2年間の語学教育を経て、1906年にオスナブリュックのウルズリーネ高等師範学校へ進学し、寄宿舎生活を送った。この学校の経営は修道会であるフランシスコ会であり、クサヴェラは修道会の人々と触れ合う内に、修道女として一生を送ろうと考えた。後年には多くの人々から、修道女を目指す切っ掛けについて問われたが、クサヴェラ自身は「大きな切っ掛けは無く、自然とそうした気持ちになった」と語っている。\n\nクサヴェラの母もまた信仰深い人物であったが、クサヴェラは「自分が生涯を神に捧げる修道女になると知れば、母は衝撃を受ける」と考え、すぐに打ち明けることはできず、16歳となってから母に打ち明けた。母はやはり驚いて涙を流したが、クサヴェラの固い決意を知り、その進路を認めた。", + "qas": [ + { + "question": "クサヴェラは修道女になることを何歳のときに、母に打ち明けたか。", + "id": "tr-234-02-000", + "answers": [ + { + "text": "16歳", + "answer_start": 287, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クサヴェラは1906年にどの学校へ進学するか。", + "id": "tr-234-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ウルズリーネ高等師範学校", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1907年、クサヴェラは18歳になり、フランシスコ会に入会した。面接においてクサヴェラは、「病院と教育機関の2つの仕事のどちらを希望するか」を聞かれ、小学生時代より教員の夢を抱いていたことから、迷うことなく「教育に一生を捧げる」と答えた。フランシスコ会は世界各地での社会事業と教育事業に大きく力を注いでいたことから、クサヴェラもまた、教育の道を選んだときから、ドイツ国外で活動したいと考えていた。\n\nやがて、後の日本の札幌教区司教であるヴェンセスラウス・キノルドから、「北海道に女学校を開きたい、カトリックの修道女を迎えたい」との連絡が届いた。クサヴェラは、以前から書物で日本のことを知り、極東の小さな島国に秘められた大きな可能性、慎ましく優しい女性たちに密かな期待を抱いていたことから、真っ先に日本行きを名乗り出た。クサヴェラが24歳のときであった。", + "qas": [ + { + "question": "1907年に、クサヴェラは何歳だった?", + "id": "tr-234-03-000", + "answers": [ + { + "text": "18歳", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "面接のときクサヴェラは、病院と教育機関のうちどちらを選択しましたか。", + "id": "tr-234-03-001", + "answers": [ + { + "text": "教育機関", + "answer_start": 49, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1914年、クサヴェラたちを乗せた船が、イタリアのナポリ港から日本へ発った。ドイツから日本への船旅による旅程は、昭和期に開通する空路と異なり、移動には2か月間を要した。しかし同年に第一次世界大戦が勃発した。船の次の寄港地が対戦国のイギリス領であったため、船はスエズ運河で6週間も立往生した挙句、イタリアへ引き返すことを強いられた。\n\nクサヴェラはやむなくドイツに戻り、フランシスコ会の看護学校へ入学した。戦中の要請として、外国語を話せる者に看護学を学ばせることが国策となり、クサヴェラは英語とフランス語を話せたためである。このときに習得した看護学と衛生学の知識が、日本へ渡った後、第二次世界大戦の苦境の中、クサヴェラを救うことになった。\n\n1918年に、第一次大戦が終結した。その2年後の1920年、キノルド司教から再び修道女として日本へ招かれたことで、ついにクサヴェラ念願の日本への出発の日が来た。クサヴェラの母は涙を見せつつも、気丈にクサヴェラを送り出した。これが母との今生の別れとなり、母はクサヴェラと再会することなく、8年後に死去した。", + "qas": [ + { + "question": "第一次世界大戦は何年に勃発しか。", + "id": "tr-234-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1914年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "第一次大戦はいつ終結したか。", + "id": "tr-234-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1918年", + "answer_start": 320, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1918年から2年後は何年ですか。", + "id": "tr-234-04-002", + "answers": [ + { + "text": "1920年", + "answer_start": 344, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "約2か月の航海の末、クサヴェラは日本の横浜港に到着し、鉄道で北海道に到着した。北海道はその気候や、牧場の新鮮な乳製品が豊富なことなど、郷里のオスターカッペルンとよく似た環境の土地であり、異国を訪れたばかりのクサヴェラを安心させた。クサヴェラたちは札幌で、大学生たち相手のドイツ語の私塾を開く一方で、日本語や日本の風俗、歴史、習慣を学ぶなど、開校の準備に明け暮れた。\n\nしかしクサヴェラは訪日から早々に、大きな危機に見舞われた。第一次大戦でのドイツ敗戦により、インフレの影響でドイツマルクが大暴落したのである。これにより郷里から持参した学校創設資金や生活資金は、瞬く間に紙屑同然と化してしまった。冬服の購入資金が送金されてきても、その金で購入できたものは靴紐たった1本という有様であった。自分の生活を耐え忍ぶことはできても、本来の目的である学校創設の目途が立たないことは、如何ともし難かった。", + "qas": [ + { + "question": "クサヴェラの郷里はどこなの?", + "id": "tr-234-05-000", + "answers": [ + { + "text": "オスターカッペルン", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "第一次大戦でドイツは勝利したか、敗戦したか。", + "id": "tr-234-05-001", + "answers": [ + { + "text": "敗戦", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "フランシスコ会の本部からは「学校創設の目途が立たないなら帰国するように」との通達があったが、クサヴェラを含む修道女たちは、自力で資金集めを開始した。カトリック関係者に毎日、多数の寄付依頼の手紙を書き、その数は5000通から6000通にも達した。自分たちの食事も、各教会で製造されているパンを分けてもらい、副食も可能な限り節約するなどして、生活をぎりぎりにまで切り詰めた。札幌の人々との交流も次第��深まり、彼らの存在もクサヴェラたちの励みとなった。\n\nクサヴェラたちの努力の甲斐あって、1925年、札幌藤高等女学校が開校した。キリスト教主義の高等女学校としては、北海道で最初の学校である。「藤」の名は、学校のある札幌の北26条西2丁目付近が当時、フジの花が多く咲いていたために「藤公園」の名で呼ばれ、しなやかで折れにくいフジの蔓、花弁を低く垂れるフジの姿が、クサヴェラたちには謙虚の象徴に見えたことからの命名である。クサヴェラと共に訪日した修道女であるヨハンナ・サロモン・ベルヒマンスが校長を務め、クサヴェラは副校長に就任した。", + "qas": [ + { + "question": "札幌藤高等女学校は何年に開校しましたか。", + "id": "tr-234-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1925年", + "answer_start": 242, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "札幌の北26条西2丁目付近が当時、フジの花が多く咲いていたことから何と呼ばれていましたか。", + "id": "tr-234-06-001", + "answers": [ + { + "text": "「藤公園」", + "answer_start": 337, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "札幌藤高等女学校が開校したとき、校長は誰でしたか。", + "id": "tr-234-06-002", + "answers": [ + { + "text": "ヨハンナ・サロモン・ベルヒマンス", + "answer_start": 425, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "その約1か月後、ヨハンナが37歳で病死したことから、クサヴェラは開校からわずか1か月にして、札幌藤高等女学校の2代目校長に就任した。ヨハンナは生徒たちには入学試験で顔を見せたのみで、実質的にはクサヴェラが創設初代校長ともいえる。クサヴェラにとっては重責であったが、1927年8月に、豊富な教員経験を持つ牧野キクが藤高等女学校の教員として赴任し、クサヴェラの大きな助力になった。牧野がクサヴェラから信仰を学ぶ一方で、牧野はクサヴェラに日本語や日本人の習慣などを教え、いわばドイツ人と日本人との架け橋となった。\n\n\n1932年2月、藤高等女学校が火災に逢い、校舎は焼け落ちてしまった。このときには建物から避難するクサヴェラが服装を整えた姿であったため、一時は放火の疑いがかけられ、後にクサヴェラは当時のことを言葉少なに語っている。この火災により、新学期に向けて買い入れた教材、すべて灰になってしまい、クサヴェラは唇を噛んでしばし立ち尽くした。ドイツから贈られたピアノも灰となった。\n\nこの火災は日本での草創期のクサヴェラにとって、ドイツマルクの暴落、同志ヨハンナの死に次ぐ第3の試練といえた。しかし、生徒たちが焼け残った机や椅子を運ぶ姿を見て、クサヴェラの怯む心は鞭を打たれた。火災から3日後、卒業生たちが小遣いを持ち寄り、代表の2人が再建資金としてクサヴェラに届けに来た。資金の包みには、ただ2文字「真心」とのみ書かれていた。クサヴェラは涙を堪えて、それを受け取った。", + "qas": [ + { + "question": "札幌藤高等女学校の2代目の校長は誰なの?", + "id": "tr-234-07-000", + "answers": [ + { + "text": "クサヴェラ", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヨハンナは何歳で亡くなりましたか。", + "id": "tr-234-07-001", + "answers": [ + { + "text": "37歳", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "札幌藤高等女学校が火災に逢い、校舎が焼け落ちてしまったのは何年のことですか。", + "id": "tr-234-07-002", + "answers": [ + { + "text": "1932年", + "answer_start": 256, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "クサヴェラは校長を退任後、英語の教員として務めた。慣れ親しんだ校長室からも離れ、校内では小さな応接室で過ごした。しかし国か��の圧力はなおも強さを増し、英語が敵国語として禁止された。日独伊三国同盟が結ばれていたことから、クサヴェラはドイツ語の教員になることを申し出、許可を得た。しかし間もなく、そのドイツ語までが禁止され、一切の外国語の教育すら認められなくなるに至った。そのときクサヴェラが思いついたことは、最初の訪日が阻まれた際に、ドイツで学んだ看護学と衛生学であった。クサヴェラは「空襲に備えて救急手当の方法を教えたい」と申し出て、再び教壇に立つことができた。こうして教科を転々としながらも、クサヴェラは文句も言わず、収容所入りや本国への強制送還に遭わないことをありがたがり、「きっと父兄たちが庇ってくださっているのでしょう」と感謝していた。\n\nこの時期は藤学園最大の苦悩ともいえる時期であったが、クサヴェラや、クサヴェラの跡を継いで校長に就任した牧野キクの尽力により、校舎の一部を被服の軍需工場にしての勤務奉仕、生徒を授農など勤労動員に駆り出しての協力により、この時代を乗り越えることができた。敗戦後も、札幌市内の休閑地で農作物を栽培するなどして食力難を凌ぎ、生徒たちを養うことができた。", + "qas": [ + { + "question": "クサヴェラは校長を退任後、何を教えるようになったの?", + "id": "tr-234-08-000", + "answers": [ + { + "text": "英語", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "日独伊三国同盟が結ばれてたあと、クサヴェラは何を教えたの?", + "id": "tr-234-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ語", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "クサヴェラの次に、校長に就任した人は誰ですか。", + "id": "tr-234-08-002", + "answers": [ + { + "text": "牧野キク", + "answer_start": 425, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "第二次大戦の終戦後、クサヴェラたちは、新たな平和の国として立ち直ろうとする日本において、教育こそがその精神の支柱を作ると考え、藤高等女学校の創立の理念をいかして立派な家庭婦人を育むことに取り組み始めた。まず北海道内の最初の女子高等教育機関として、1950年に藤女子短期大学が誕生した。さらに藤女子中学校・高等学校も設立され、1951年にはクサヴェラがその理事長に就任した。\n\n1953年、旭川市で藤学園旭川高等学校が開校した。これは戦後の旭川市で女学校が不足しており、且つ語学教育の充実が必要とされたことでの、旭川市からの希望によるものである。クサヴェラはその初代校長として、住み慣れた札幌を離れ、旭川に移り住んだ。\n\n当時の旭川の校舎は古い兵舎を借りたものであり、ガラス窓は割れ放題、剥がれた天井板にクモの巣が下がり、床には泥や埃がたまり、夜間の照明は裸電球のみで、風雪が吹き込み、雨が降ればバケツやタライの行列ができ、玄関の戸には鍵もなく突っかい棒で閉めるのみの、物騒極まりない建物であった。しかしクサヴェラは荒れ放題のこの建物に何ら不平不満を言うことなく、「十分です」「ありがたく思っております」と、自ら先陣をきって毎日、拭き掃除をした。無言で掃除をするクサヴェラに、他の教員や生徒たちも続いて掃除をすることになった。資金調達のため、古い切手を売って金に変えた。食費も極力切り詰めたため、クサヴェラたちは何度も空腹で倒れそうになるほどだった。寒さのために貧血で倒れたこともあった。", + "qas": [ + { + "question": "北海道内の初めての女子高等教育機関は何ですか。", + "id": "tr-234-09-000", + "answers": [ + { + "text": "藤女子短期大学", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "藤女子短期大学と藤学園旭川高等学校と、設立がもっと遅かったのはどっちなの?", + "id": "tr-234-09-001", + "answers": [ + { + "text": "藤学園旭川高等学校", + "answer_start": 198, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1960年、ドイツでのフランシスコ会の総長選挙に、クサヴェラが日本代表として選ばれたことで、クサヴェラは期せずして、約40年ぶりの帰郷が実現した。クサヴェラは藤学園の生徒たちからたくさんの日本土産を託され、同1960年4月にドイツへ帰郷した。母や多くの兄・姉たちは故人であったが、姉2人が健在であり、兄嫁や甥や姪、さらにその子供たちも含め、一族は大変な人数に膨れ上がっていた。歓迎会の場所が狭いために、小さな子供は参加しなかったものの、甥と姪だけで約100人にも昇る、多くの親族の歓迎を受けた。\n\n親類や知人たち皆から「このままドイツにいて」「もう日本へ帰らないで」と言われたものの、クサヴェラは「私の帰るべき場所は北海道しかありません」と返した。このドイツ滞在中にテレビにも出演し、「ドイツに留まりますか」と問われ、「ドイツに私の仕事は有りません」と断った。藤女子高等学校の元校長である前田光子はこのときクサヴェラに同行しており、前田によれば、普段はうつむき加減に静かに話すクサヴェラが、きっぱりと「日本の土になる」と、顔を上げて言い切ったという。約3か月間のドイツ滞在後、クサヴェラは日本へ帰った。前田光子は、旭川に到着してほっとしたクサヴェラの様子を「帰るべき場所に帰った」という表情に感じ、真に日本を愛している様子が伝わったという。なおこの12年後、2人の姉も死去した。\n\nその後もクサヴェラは帰郷を勧められることがあり、再度の帰郷のために資金を集める卒業生たちもいた。しかしクサヴェラは「逢いたい家族は皆、天国へ行きました。天国でゆっくり逢えます」「私も歳ですし」と返し、1920年の訪日から60年以上の生涯において、この1960年が唯一の帰郷となった。", + "qas": [ + { + "question": "1960年、ドイツでのフランシスコ会の総長選挙に、日本代表として選ばれたのは誰ですか。", + "id": "tr-234-10-000", + "answers": [ + { + "text": "クサヴェラ", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クサヴェラが最後にドイツへ帰ったのは何年のことですか。", + "id": "tr-234-10-001", + "answers": [ + { + "text": "1960年", + "answer_start": 716, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "クサヴェラの唯一の帰郷は何年にありましたか。", + "id": "tr-234-10-002", + "answers": [ + { + "text": "1960年", + "answer_start": 716, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1968年、クサヴェラは高齢を理由とし、旭川高等学校の校長職を退任した。クサヴェラの退任を惜しむ声はやがて町の声となり、旭川市はクサヴェラの労を労うために、市民感謝祭を開催した。生徒や卒業生たちの手により、クサヴェラには九州旅行が贈られた。この旅行中にクサヴェラは美智子皇太子妃に逢うことができ、皇太子妃から「長い間ご苦労様でした」との言葉をかけられ、皇太子妃自ら庭から切ったバラの花を受け取った。クサヴェラにとってこれは、生涯忘れられない思い出となった。\n\nクサヴェラは旭川藤学園を退職後も、教員として旭川に留まっていたが、旭川は冬季の厳しい寒気が体に障るとの周囲の配慮から、1971年に札幌のマリア院に移った。その後も朝5時に起床し、聖堂での祈りと食事の後、人々に英語やドイツ語を教えるなど、多忙な余生を送った。\n\n同1971年、女子教育への尽力の評価により、北海道開発功労賞を受賞した。このときクサヴェラは「ひたすら日本のため、北海道のために祈り続けるばかりでございます」「(受賞に対して)北海道のお土になることでご恩返しをしたいと存じます」と挨拶を述べた。謙虚な姿勢のこの挨拶には、多くの関係者が感涙にむせんだ。\n\n1973年、藤学園旭川高等学校の創立20周年記念式典として、同校にクサヴェラの胸像が建造された。1980年、西���イツ政府からクサヴェラへ、異国である日本で「祈りの人」としての生涯を捧げた労いと感謝の証として、西ドイツ第一級功労十字勲章が贈られた。", + "qas": [ + { + "question": "クサヴェラは何を理由として旭川高等学校の校長職を退任したか。", + "id": "tr-234-11-000", + "answers": [ + { + "text": "高齢", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クサヴェラは何年に北海道開発功労賞を受賞したか。", + "id": "tr-234-11-001", + "answers": [ + { + "text": "1971年", + "answer_start": 361, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "クサヴェラの胸像はどこに建造されたか。", + "id": "tr-234-11-002", + "answers": [ + { + "text": "藤学園旭川高等学校", + "answer_start": 518, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クサヴェラはどこから西ドイツ第一級功労十字勲章をもらいましたか。", + "id": "tr-234-11-003", + "answers": [ + { + "text": "西ドイツ政府", + "answer_start": 566, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1982年9月25日、クサヴェラは聖堂で転倒して、左手首の骨にひびが入った。この負傷のために生活上の不自由を強いられ、精神的な打撃になったようだが、そのときは割合に元気な様子であった。\n\nしかし満93歳の誕生日の2日後である同1982年9月29日、夕食の頃より体調が悪化した。翌9月30日、朝の祈りの頃に痙攣を起こし、重篤な状態に陥った。医師の往診もあって一時は回復し、周囲も安心した。しかし10月5日正午に札幌マリア院で、教会堂からの鐘の音を合図のように、急性肺炎により満93歳で死去した。\n\n同日の死去の間際に、クサヴェラは病床において、うわ言のように「グーテ・グーテ・アルグーテ・アレスエゼアグーテ」と、何度も呟いていた。これは日本語に訳すと「良い、良い、すべて良い、非常に良い」となる。このことから藤女子大学および藤女子短期大学の元学長である山下二枝は、クサヴェラは「臨終の時において93年間の生涯すべてを思い出し、長年の苦しみを乗り越えてすべて良くなるという心境に至ったのだろう」と語っている。", + "qas": [ + { + "question": "クサヴェラの死因は何でしたか。", + "id": "tr-234-12-000", + "answers": [ + { + "text": "急性肺炎", + "answer_start": 229, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "クサヴェラは何歳で亡くなったか。", + "id": "tr-234-12-001", + "answers": [ + { + "text": "満93歳", + "answer_start": 236, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "生前に「日本の土になる」「北海道の土になる」と語った遺志の通り、クサヴェラの墓碑は札幌市中央区円山のカトリック墓地に建立された。\n\nクサヴェラに次いで牧野キクも1996年に死去し、その5年後の2001年、藤女子大学に学生食堂「クサヴェラホール」と「ヘレナホール」が築造された。同大学生たちの学生生活を援助するための施設であり、食事の他にも自習や談話など、多目的に用いられている。\n\n2019年、藤女子中学校・高等学校の創立100周年記念事業として、成績優秀な受験生に返済義務の無い奨学金を給付する「クサベラ・レーメ記念奨学生特別選考」を実施することが発表された。", + "qas": [ + { + "question": "クサヴェラの墓碑はどこに健立されましたか。", + "id": "tr-234-13-000", + "answers": [ + { + "text": "札幌市中央区円山のカトリック墓地", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2019年、藤女子中学校・高等学校の創立100周年記念事業として、何を実施することが発表されたか。", + "id": "tr-234-13-001", + "answers": [ + { + "text": "「クサベラ・レーメ記念奨学生特別選考」", + "answer_start": 248, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クサヴェラと牧野キクと、先に亡くなったのは誰の方ですか。", + "id": "tr-234-13-002", + "answers": [ + { + "text": "クサヴェラ", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "「ヘレナホール」は何年に築造されたか。", + "id": "tr-234-13-003", + "answers": [ + { + "text": "2001年", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "バラク・オバマの広島訪問", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "バラク・オバマの広島訪問(バラク・オバマのひろしまほうもん)は、2016年5月27日に44代目アメリカ合衆国大統領バラク・オバマがアメリカによって原子爆弾を投下された広島を訪問し、核兵器の廃絶を訴えた出来事について記す。\n同国によって核兵器が投下された日本の都市へ現職のアメリカ合衆国大統領が訪問するのは初めてのことである。\nオバマは伊勢志摩サミット出席後の2016年5月27日、安倍晋三内閣総理大臣とともに広島県広島市中区の広島平和記念公園を訪問し、広島平和記念資料館を10分程度視察後、慰霊碑に献花し、17分にわたって「核兵器のない世界」に向けた所感を述べた。\nオバマに続いて安倍も所感を述べた後、オバマが被爆者代表2名と対話したり抱擁を交わした。\nオバマは1時間ほど滞在した。", + "qas": [ + { + "question": "オバマ大統領が広島を訪れたのはいつですか?", + "id": "tr-235-00-000", + "answers": [ + { + "text": "2016年5月27日", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "オバマ大統領が広島訪問の前に参加していた会議とは何?", + "id": "tr-235-00-001", + "answers": [ + { + "text": "伊勢志摩サミット", + "answer_start": 167, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "オバマと共に広島平和記念公園を訪問した日本の総理大臣は誰?", + "id": "tr-235-00-002", + "answers": [ + { + "text": "安倍晋三", + "answer_start": 190, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "広島訪問の際にオバマが所感を述べた時間は何分だった?", + "id": "tr-235-00-003", + "answers": [ + { + "text": "17分", + "answer_start": 253, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "2008年アメリカ合衆国大統領選挙でバラク・オバマが当選し、2009年1月20日に大統領に就任した。\nオバマは2009年4月5日、欧州連合との初の首脳会議のためにチェコの首都であるプラハを訪れ、その際に演説を行い、アメリカは世界で唯一核兵器を使用したことのある核保有国として、行動を起こす責任があるとし、核兵器のない世界の実現に向け牽引すると明言した(プラハ演説)。\nこの演説はオバマが同年のノーベル平和賞を受賞する要因の一つともなった。", + "qas": [ + { + "question": "オバマはノーベル平和賞を何年に受賞した?", + "id": "tr-235-01-000", + "answers": [ + { + "text": "2009年", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オバマのノーベル平和賞受賞の要因の1つは、どこでの演説によるものでしたか?", + "id": "tr-235-01-001", + "answers": [ + { + "text": "プラハ", + "answer_start": 90, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オバマの大統領就任の日付は何年何月何日でしたか?", + "id": "tr-235-01-002", + "answers": [ + { + "text": "2009年1月20日", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "2008年のアメリカ合衆国大統領選挙の当選者は誰?", + "id": "tr-235-01-003", + "answers": [ + { + "text": "バラク・オバマ", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "その後、2009年11月にオバマが大統領として初来日することが決定するが、その3ヶ月前の8月28日にアメリカのジョン・ルース駐日大使と薮中三十二外務事務次官が会談を行い、その中で薮中がアメリカ合衆国大統領が広島を訪れるのは時期尚早であり、大騒ぎしない形での簡素な訪問にとどめれば象徴的な意義はあるかもしれないと見解を述べた。\nこの会談の様子を伝える外交公電が在日アメリカ大使館によって作成され、アメリカ外交公電ウィキリークス流出事件によって2011年に一般に知られることとなった。\n2009年11月、オバマは大統領として初めて日本を訪問した。\n大統領任期中に被爆地を訪問できれば光栄であると述べたが、この時は訪れることはなかった。", + "qas": [ + { + "question": "オバマが大統領に就任後、日本に初来日したのはいつ?", + "id": "tr-235-02-000", + "answers": [ + { + "text": "2009年11月", + "answer_start": 241, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アメリカ合衆国大統領の広島訪問に関する見解を述べた日本の外交官は誰?", + "id": "tr-235-02-001", + "answers": [ + { + "text": "薮中三十二", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ジョン・ルース駐日大使と薮中三十二外務事務次官の会談内容が、一般に知られてしまった事件とは?", + "id": "tr-235-02-002", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ外交公電ウィキリークス流出事件", + "answer_start": 197, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "薮中と会談したアメリカの駐日大使とは?", + "id": "tr-235-02-003", + "answers": [ + { + "text": "ジョン・ルース", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "2010年8月6日、広島平和記念式典にルースがアメリカの駐日大使としてはじめて参加。\n2014年の平和記念式典には、ルースの後任のキャロライン・ケネディが出席した。\n2015年4月17日にケネディは広島を再訪し、原爆慰霊碑に献花を行っている(なお、ケネディは1978年1月、叔父のエドワード・ケネディ上院議員とともに広島の平和記念公園を訪れ、被爆者とも面会している)。\n2015年夏、翌年のG7外務大臣会合の開催地に広島が決定し、岸田文雄外務大臣と斎木昭隆外務事務次官はケネディとの面談で、オバマらが広島を訪問した場合でも日本は謝罪を求めない考えや、現職のアメリカ合衆国大統領が被爆地を訪問することは核廃絶を世界に強くアピールすることに繋がるであろうという見解を伝えた。\nアメリカ合衆国大統領の広島訪問を実現させる上で、日本による謝罪要求がアメリカ側の最大の懸念点であると認識していた日本側は、まずこの点を払拭することに務めた。\nこうした経緯を経て、ケネディは本国に戻った際にオバマに直接広島を訪問することの意義や日本国内の空気を説明した。", + "qas": [ + { + "question": "ルースの次に広島の平和祈念式典に出席したアメリカ駐日大使は誰?", + "id": "tr-235-03-000", + "answers": [ + { + "text": "キャロライン・ケネディ", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アメリカ合衆国大統領の広島訪問を実現させる上で、アメリカ側の最大の懸念点だったのは何?", + "id": "tr-235-03-001", + "answers": [ + { + "text": "日本による謝罪要求", + "answer_start": 360, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2016年のG7外務大臣会合の開催地はどこに決定しましたか?", + "id": "tr-235-03-002", + "answers": [ + { + "text": "広島", + "answer_start": 208, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "キャロライン・ケネディの親戚で、広島の平和記念公園を訪問したことのある人物の名は?", + "id": "tr-235-03-003", + "answers": [ + { + "text": "エドワード・ケネディ", + "answer_start": 140, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2015年8月6日、ホワイトハウス報道官ジョシュ・アーネストが、オバマの広島訪問について将来の可能性を排除しないとしながらも任期中の広島訪問について慎重姿勢を表明した。\n2016年3月30日、アメリカ合衆国国務次官ローズ・ゴットモーラーが、読売新聞に対してホワイトハウスが伊勢志摩サミットに合わせたオバマの広島訪問を慎重に検討していることを明らかにした。\n3月31日、オバマはワシントンD.C.を訪れた安倍に対し、日米関係が更に良くなる努力をすることを考えていきたいと表明した。", + "qas": [ + { + "question": "2015年の8月当時にホワイトハウス報道官を務めていた人は誰?", + "id": "tr-235-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ジョシュ・アーネスト", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "伊勢志摩サミットに合わせて、オバマの広島訪問が検討されていることを表明したのは誰?", + "id": "tr-235-04-001", + "answers": [ + { + "text": "ローズ・ゴットモーラー", + "answer_start": 107, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "2016年4月2日、岸田外相がG7外務大臣会合においてケリー国務長官を含む各国の外務大臣が平和記念公園を訪れることを発表。\n4月11日、ケリーが広島平和記念公園を訪問し、広島平和記念資料館(原爆資料館)の展示内容は衝撃的で胸をえぐられるようだとコメントした。\nこれが現職のアメリカ合衆国閣僚並びに国務長官として初の平和記念公園への訪問だった。\nしかしオバマの広島訪問の可能性については実現を望みつつ可能性は不明とした。\nそしてアメリカ政府はケリーの広島訪問が国内世論に与える影響を見極め、保守派寄りのワシントン・ポスト、リベラル寄りのニューヨーク・タイムズが両紙揃ってオバマの広島訪問を後押しする社説を掲載し、日本の侵略行為を批判する保守派からもオバマが被爆者を慰霊すること自体には異論を唱えないなど、ホワイトハウスはオバマの広島訪問が世論の理解を得られると判断し、実現に向け動き出した。", + "qas": [ + { + "question": "ワシントン・ポストとニューヨーク・タイムズは、どちらがリベラル的な思想を持っているの?", + "id": "tr-235-05-000", + "answers": [ + { + "text": "ニューヨーク・タイムズ", + "answer_start": 267, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "2016年4月に広島平和記念公園を訪問したアメリカの国務長官は誰?", + "id": "tr-235-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ケリー", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "4月22日、菅義偉官房長官は記者会見で日米両政府間でオバマの広島訪問を調整しているという事実はなく、アメリカが決めるべきことであるとした。\n同時に、世界の指導者が被爆の実情に触れることで、核廃絶への機運が高まるとの認識も示した。\nしかし水面下では日米間でオバマ大統領訪問に向けた調整が進み、4月下旬にはほぼ訪問が固まった。\n安倍首相はオバマの訪問に同行することを望み、サミット議長記者会見の予定時間を若干繰り上げることを検討。\nまた当日の広島の日の入りが午後7時以降であることから、オバマの訪問を夕方に遅らせることも決定した。\n5月10日、ホワイトハウスはオバマが伊勢志摩サミットに合わせ、安倍首相とともに広島を5月27日に訪問すると発表した。\nその場では核兵器のない世界の平和、安全保障のため継続的に深く関わっていくことを強調する一方、原爆投下については謝罪しないことも発表された。\n日本政府もオバマの広島訪問を正式に発表し、5月11日に菅官房長官はオバマの広島訪問は核廃絶のための国際的な機運を盛り上げる、極めて重要な歴史的機会であるとして歓迎の意向を表明した。", + "qas": [ + { + "question": "菅義偉の内閣での役職は何?", + "id": "tr-235-06-000", + "answers": [ + { + "text": "官房長官", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ホワイトハウスがオバマの広島訪問の日程を発表したのはいつのこと?", + "id": "tr-235-06-001", + "answers": [ + { + "text": "5月10日", + "answer_start": 264, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "当初は元アメリカ兵捕虜の退役軍人団体「全米バターン・コレヒドール防衛兵の会」との対面や、元アメリカ兵捕虜の男性がオバマに同行することも検討されていた。\n日本被団協の代表委員を務める谷口稜曄も招待されたが入院のために欠席している。\n対面者選定は、アメリカ側による日米両国の関係者の対面により、「和解」のメッセージを発信したいとする意向であり、日本側の被爆者の面会の要望についてアメリカ政府が被爆者心情に配慮したためであると報じられた。\n広島4区選出の衆議院議員中川俊直は大韓航空2708便エンジン火災事故の影響で東京国際空港の滑走路が閉鎖し飛行機が欠航となったため、広島市を選挙区とする議員で唯一、一連の式典に出席できなかった。", + "qas": [ + { + "question": "航空機の火災事故により、オバマの広島訪問の一連の行事に参加出来なかった議員は誰?", + "id": "tr-235-07-000", + "answers": [ + { + "text": "中川俊直", + "answer_start": 229, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "オバマは安倍と岸田の同行のもと、約5分にわたって広島平和記念資料館の展示資料を見学した。\nオバマは原爆の子の像のモデルである佐々木禎子の折り鶴に関心を示し、特別にアクリルケースを外して間近で見学すると、自ら持参したお手製の折り鶴を披露して被爆三世の吉島中3年花岡沙妃、中島小6年矢野将惇の小中学生2名に1羽ずつ渡した。\nその後、平山郁夫の陶壁画を見て広島平和文化センターの小溝奏義理事長より平山が被爆者であるとの説明を受けた。\n陶壁画の前で安倍総理と並んで芳名録に、「私たちは戦争の苦しみを経験しました。共に、平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」と記すと、その上にも折り鶴2羽を置いた。\nオバマが折って持参した4羽の折り鶴は約10センチで、花柄模様入りの和紙で折られている。\nこの青色やピンクの4羽の折り鶴は、訪問時に資料館へ寄贈されている。\n訪問翌日の28日には、「見たい」「どこに展示してあるのか」との問い合わせが相次いだという。", + "qas": [ + { + "question": "原爆の子の像のモデルとなった人物の名は?", + "id": "tr-235-08-000", + "answers": [ + { + "text": "佐々木禎子", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "オバマが折り鶴を渡した被爆者三世の女の子の名前は?", + "id": "tr-235-08-001", + "answers": [ + { + "text": "花岡沙妃", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "オバマが持参した折り鶴は合計何羽だったの?", + "id": "tr-235-08-002", + "answers": [ + { + "text": "4羽", + "answer_start": 357, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オバマが広島平和記念資料館の展示資料を見学した時間はどれくらいだったの?", + "id": "tr-235-08-003", + "answers": [ + { + "text": "約5分", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "なお、佐々木禎子の兄の佐々木雅弘と、日本への原爆投下を承認したアメリカ合衆国大統領であるハリー・S・トルーマンの孫のクリフトン・トルーマン・ダニエルらは、オバマの広島訪問に先立つ5月26日に、カリフォルニア州の博物館に禎子の折り鶴を寄贈する記念式典に出席し、ロサンゼルス郊外の学校で平和を訴える講演をしている。\n式典には200名ほどが参加し、佐々木雅弘は「この折り鶴は禎子が命をかけて折ったものです。ここにアンネの日記と一緒に置かれ、皆さんに将来に向けて何かを感じてもらえたら禎子も喜ぶと思います」と挨拶をした。\n広島県・広島市・原爆資料館はそれぞれオバマに広島ゆかりの記念品を贈った。\n県は竹原市出身の文化功労者の陶芸家今井政之の「象嵌彩窯変鑛鶴花壺」、市は三宅一生デザインの腕時計と紅葉柄の万年筆(呉市発祥のセーラー万年筆製)、原爆資料館は被爆写真集「ヒロシマを世界に」と被爆者が描いた画集「原爆の絵ヒロシマを伝える」を贈った。", + "qas": [ + { + "question": "クリフトン・トルーマン・ダニエルのおじいちゃんで、アメリカ大統領だった人とは?", + "id": "tr-235-09-000", + "answers": [ + { + "text": "ハリー・S・トルーマン", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "日本への原爆投下を承認したアメリカ合衆国大統領とは誰?", + "id": "tr-235-09-001", + "answers": [ + { + "text": "ハリー・S・トルーマン", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カリフォルニア州の博物館に禎子の折り鶴を寄贈する記念式典で、挨拶をした日本人とは誰?", + "id": "tr-235-09-002", + "answers": [ + { + "text": "佐々木雅弘", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オバマへの記念品として贈った腕時計は、誰がデザインしたの?", + "id": "tr-235-09-003", + "answers": [ + { + "text": "三宅一生", + "answer_start": 330, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "5月10日に、ホワイトハウスから「原子爆弾投下に関する謝罪は行わない」とし、「核兵器なき世界の平和・安全保障を求める継続的なコミットメントを強調」するという声明が発表される。\nオバマは27日当日のスピーチ直前まで演説を練っていた。\n当初は数分程度の「所感」を予定していたが、推敲の過程で17分の演説となった。\nなおベン・ローズ大統領副補佐官は、自身のブログにオバマの「広島演説」の手書き原稿の一部を公開した。\n演説の骨子は、第二次世界大戦及び原子爆弾投下による犠牲者に哀悼の意を示した上で平和を希求し、核兵器廃絶を訴えるというものであった。\nオバマはスピーチが上手なことで知られるが、この演説も巧みであり、冒頭文より「空から死が降ってきて、世界は変わった」と、文学的な描写で広島への原爆投下を表現した。\nまた、日本の被害的側面だけが強調されないように戦争自体が多大な犠牲者を生むことを示し、原爆犠牲者についても、日本国民のみならず、朝鮮半島出身者や被爆アメリカ兵捕虜にも言及している。\n原爆の投下正当性や謝罪等への言及は巧妙に避けられている。\nプラハ演説でも見られるように、オバマは核兵器廃絶を指向しており、具体的な政策は提示しなかったが、本演説でも核兵器の恐怖を示し、改めて核兵器廃絶に触れている。", + "qas": [ + { + "question": "オバマの演説では、��島への原爆投下はどのように表現されていたの?", + "id": "tr-235-10-000", + "answers": [ + { + "text": "「空から死が降ってきて、世界は変わった」", + "answer_start": 308, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "プラハ演説と本演説の共通点としても述べられていたオバマが指向しているものとは?", + "id": "tr-235-10-001", + "answers": [ + { + "text": "核兵器廃絶", + "answer_start": 491, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "オバマの「広島演説」の手書き原稿の一部をブログにアップした人物とは?", + "id": "tr-235-10-002", + "answers": [ + { + "text": "ベン・ローズ", + "answer_start": 157, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "安倍はオバマの後に演説を行い、同様に核兵器廃絶に向けての意思を示している。\n演説の骨子は原爆犠牲者への哀悼の意に加えて、第二次世界大戦後に、両国の和解に尽力した日米両国の国民に謝意を示し、その結果、日米同盟が深化してきているとし、オバマが被爆地の広島を訪問したことに感謝し、核兵器廃絶と世界平和へ尽力するというものであった。", + "qas": [ + { + "question": "オバマの後に演説を行った日本の首相は?", + "id": "tr-235-11-000", + "answers": [ + { + "text": "安倍", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "オバマは原爆死没者慰霊碑前に献花をし、演説を終えると2名の被爆者のもとへ行き、握手をしながら通訳を交えて会話した。\n日本原水爆被害者団体協議会(被団協)代表委員の坪井直は、オバマに「大統領退任後も広島に来てください。核兵器のない世界に向けて、あなたとともに頑張ろうと思う」と訴えた。\n自らも被爆者で被爆したアメリカ兵捕虜の研究をしている森重昭は、「広島に来られて本当によかった」とオバマの訪問を歓迎し、熱い抱擁を交わした。\nオバマと森の抱擁写真は、ロイターから配信され、日米の多くの紙面のトップを飾った。\n27日の対面後に広島市内で行われた記者会見にて、被団協代表委員の坪井はオバマに原爆投下について「米国を責めていないし、憎んでもいないと伝えた」、「これからが大事だ。『時々広島に来て』と言ったら、(オバマ氏の)握手が強くなった」、「(核廃絶への)一歩として評価したい」と述べている。", + "qas": [ + { + "question": "オバマと対面した被爆者2名とは、坪井直と誰ですか?", + "id": "tr-235-12-000", + "answers": [ + { + "text": "森重昭", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "森重昭が研究しているものとは何?", + "id": "tr-235-12-001", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ兵捕虜", + "answer_start": 153, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "安倍は伊勢志摩サミット議長をつとめた後の5月27日の午後に三重県志摩市内で記者会見し、オバマとともに広島を訪問することについて「被爆の実相を世界に発信することは、核兵器なき世界の実現へ大きな力となる」という見解を表明している。\n民進党代表の岡田克也は「非常に良かった。(演説で)科学というのは核兵器のためではなく、平和のために使われなくてはいけないと言われたことは非常にオバマ氏らしい」と述べている。\n広島県知事の湯崎英彦は、現職大統領の初訪問とスピーチに関し、「歴史的な一歩」と評価している。", + "qas": [ + { + "question": "オバマが広島訪問した当時の広島県知事は誰だったの?", + "id": "tr-235-13-000", + "answers": [ + { + "text": "湯崎英彦", + "answer_start": 207, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "オバマ訪問前に、NHKが広島県内の被爆者321人にアンケートを郵送し、72%の231人から回答を得た結果によると、9割を超える人がオバマの広島訪問について、「評価できる」、「どちらかといえば、評価できる」と回答しており、「どちらかといえば、評価できない」は6人で3%、「評価できない」は2人で1%であった。\n評価の理由は、「被爆の実態を見ることに意義がある」、「アメリカ国内で反対の世論があるなかで訪問を決断したから」というコメントが見られた。\n共同通信社が2016年5月28-29日に行った広島訪問に関する全国電話世論調査では98.0%が「よかった」と回答し、日本経済新聞とテレビ東京が5月27-29日に行った電話世論調査では92%が「評価する」と回答している。\n中国新聞社が2016年6月に全国の日本被団協を構成する44団体と中国5県の被爆者団体77団体中71団体の協力を得たアンケートにおいて、9割の被爆者団体が広島訪問を評価した(とても意味があった44.8%、まあ意味があった44.8%、あまり意味がなかった7.6%、全く意味がなかった1%、どちらともいえない1.9%)。", + "qas": [ + { + "question": "NHKが行った広島県内の被爆者321人への郵送アンケートにおいて、最も少なかった評価項目は何人でしたか?", + "id": "tr-235-14-000", + "answers": [ + { + "text": "2人", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "中国新聞社による2016年6月のアンケートで、最も割合が少なかった項目は何でしたか?", + "id": "tr-235-14-001", + "answers": [ + { + "text": "全く意味がなかった", + "answer_start": 463, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "広島市立大学広島平和研究所の副所長をつとめる水本和実は、被爆者の期待の大きさについて、「被爆の現実を見て理解してもらい、具体的なアクションにつなげてほしい」という気持ちの表れとし、「謝罪を求める意見が少ないのは単純に忘れたとか許したのではなく、魂に染みついた悲惨な体験だから本当は許せないが、それだけでは前に進めないと悩んだ挙げ句の結論」としている。\n妹を原爆で亡くし、自身も被爆直後の広島の惨状を目撃し、『夢千代日記』など被爆者の人生を描いた作品で知られる作家の早坂暁は「具体的にどれだけの覚悟があるのかみせてほしい。原爆を投下した事実を過ちとして認めるべきだった」と指摘し、「語り口はまるで詩人のようだが、原爆を天から降らせたのはアメリカだ。今や核を持つ国々が増えて、制止することもできないが、現在の危機的な状況を作り出したのは誰なのか。それを率直に語りもせず、本当に広島に来るだけの覚悟があったのかと言いたい」と批判した。", + "qas": [ + { + "question": "『夢千代日記』の作者は誰ですか?", + "id": "tr-235-15-000", + "answers": [ + { + "text": "早坂暁", + "answer_start": 232, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "また姉を原爆で亡くしている張本勲は2016年5月29日放送分の『サンデーモーニング』で、原爆投下を決して許すことはできない、個人の問題だと断った上で「良かったねぇ。ホッとしましたよ」「個人的にはね、安倍ちゃんが総理で良かったね。あぁ、この国を守ってくれるから」「(安倍首相がオバマ大統領と)並んでいても遜色ないもんね。良かったと思いますよ」とオバマの訪問を前向きに受け止めているとコメントした。\n一方長崎の被爆者からは、長崎市訪問が実現しなかったことや謝罪の言葉も無く、2009年のプラハ演説から進歩がないどころか包括的核実験禁止条約は今も批准せず、具体的な核廃絶に向けた提案なども示さなかったことについて失望の声も見られた。", + "qas": [ + { + "question": "張本勲がオバマの広島訪問に対して前向きなコメントをした番組は何ですか?", + "id": "tr-235-16-000", + "answers": [ + { + "text": "『サンデーモーニング』", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "当時アメリカと対立していたロシアはオバマの広島訪問を受けて、ロシア連邦大統領ウラジーミル・プーチンの側近のセルゲイ・ナルイシキン国家院(下院)議長が広島訪問を計画した。\nしかし日程が折り合わず、代わりにワレンチナ・マトヴィエンコ連邦院(上院)議長が長崎を訪問した。\n長崎を訪れたマトヴィエンコは「機会ができたら長崎を訪れたい」というプーチンの意向を語った。\nこのほかにも2016年には、カザフスタンのヌルスルタン・ナザルバエフ大統領やスイスのラファエル・コント連邦議会議長が広島を、ドイツののヨアヒム・ガウク大統領が長崎を訪れた。\nこのように要人が相次いで訪れたのは、オバマの広島訪問が影響を与えたとする見方がある。", + "qas": [ + { + "question": "プーチンの代わりに長崎を訪問した人は誰ですか?", + "id": "tr-235-17-000", + "answers": [ + { + "text": "ワレンチナ・マトヴィエンコ", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オバマが大統領に就任していた時期、ロシアでは誰が大統領を務めていましたか?", + "id": "tr-235-17-001", + "answers": [ + { + "text": "ウラジーミル・プーチン", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マトヴィエンコ以外に2016年に長崎を訪問した大統領とは誰ですか?", + "id": "tr-235-17-002", + "answers": [ + { + "text": "ヨアヒム・ガウク", + "answer_start": 246, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "2016年に広島訪問をしたカザフスタンの大統領は誰でしたか?", + "id": "tr-235-17-003", + "answers": [ + { + "text": "ヌルスルタン・ナザルバエフ", + "answer_start": 200, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "一般の外国人観光客も増加し、2016年上半期に広島県内で宿泊した外国人観光客は約44万人に上り、前年比34%増にも上った。\nこれは同時期の日本平均と比べて2倍を超える増加率となっている。\nまた、オバマが訪れた直後の平和記念資料館は前年と比べ来館者が倍増し、資料館への問い合わせも相次いだ。\n日本の中央政界では、広島外相サミットとオバマの広島訪問を実現・成功させた岸田文雄外相に対する評価が高まり、次期首相の有力候補とみなされるようになった。", + "qas": [ + { + "question": "2016年上半期と前年とを対比すると、広島県内で宿泊した外国人観光客数が少なかったのはどちらですか?", + "id": "tr-235-18-000", + "answers": [ + { + "text": "前年", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "2016年上半期に広島県内で宿泊した外国人観光客は何人でしたか?", + "id": "tr-235-18-001", + "answers": [ + { + "text": "約44万人", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "広島外相サミットとオバマの広島訪問を実現・成功させた外相は誰でしたか?", + "id": "tr-235-18-002", + "answers": [ + { + "text": "岸田文雄", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ユーゴスラビア王国", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ユーゴスラビア王国(ユーゴスラビアおうこく、セルビア・クロアチア語・スロベニア語:KraljevinaJugoslavija/КраљевинаЈугославија)は、バルカン半島西部から中央ヨーロッパにかけての地域を領土とし、1918年から1941年までの期間に存続した立憲君主制の国家である。事実上は国王が亡命した1941年に、公式にはユーゴスラビア連邦人民共和国成立前の1945年に滅亡した。", + "qas": [ + { + "question": "ユーゴスラビア王国は、いつからいつにかけて存在した国家であるの?", + "id": "tr-236-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1918年から1941年", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ユーゴスラビア王国は、どの半島西部から中央ヨーロッパにかけて成立した国家でありましたか?", + "id": "tr-236-00-001", + "answers": [ + { + "text": "バルカン半島", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ユーゴスラビア王国は、事実上何年をもって滅びたとされるか?", + "id": "tr-236-00-002", + "answers": [ + { + "text": "1941年", + "answer_start": 161, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ユーゴスラビア王国が滅び、成立した国は、どの国か?", + "id": "tr-236-00-003", + "answers": [ + { + "text": "ユーゴスラビア連邦人民共和国", + "answer_start": 172, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "第一次世界大戦の結果、敗戦国であるオーストリア=ハンガリー帝国はその領土の多くを喪失した。戦後処理の過程において、セルビア王国主導の汎スラヴ主義のもと、コルフ宣言に基いた南スラブ人国家の創設が進められ、セルビア、モンテネグロとともに旧オーストリア・ハンガリー帝国領のスロベニア、クロアチア、ボスニアを合併した連合王国であるセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国が成立した。", + "qas": [ + { + "question": "セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国が成立したのは、何に基づいてのことなの?", + "id": "tr-236-01-000", + "answers": [ + { + "text": "コルフ宣言", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国は、どの国から独立し成立した国でありますか?", + "id": "tr-236-01-001", + "answers": [ + { + "text": "オーストリア・ハンガリー帝国", + "answer_start": 117, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国が成立したのは、どの戦争の結果であるともいえるか?", + "id": "tr-236-01-002", + "answers": [ + { + "text": "第一次世界大戦", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "コルフ宣言は、どの戦争の結果として出されたものか?", + "id": "tr-236-01-003", + "answers": [ + { + "text": "第一次世界大戦", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の前身は1882年成立のセルビア王国であり、1918年に短期間存在したスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国を吸収する形で建国された。王国は1918年に、スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ヴォイヴォディナ、セルビア、モンテネグロが統合されて成立し、当時セルビアの領土であったコソボ、ヴァルダル・マケドニアもその領域内に組み込まれた。成立から11年の間、公式な呼称はセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国であった。一方でユーゴスラビアの呼称は、この王国を表す通称としてごく初期の頃から使われていた。", + "qas": [ + { + "question": "セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の前身となるのは、どの国なの?", + "id": "tr-236-02-000", + "answers": [ + { + "text": "セルビア王国", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "セルビア王国は、何年に成立した国でありますか?", + "id": "tr-236-02-001", + "answers": [ + { + "text": "1882年", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国は、何年に建国された国であるか?", + "id": "tr-236-02-002", + "answers": [ + { + "text": "1918年", + "answer_start": 92, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国との呼称は、何年間も使われたか?", + "id": "tr-236-02-003", + "answers": [ + { + "text": "11年", + "answer_start": 200, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "政府は主にセルビア人によって運営され、非セルビア人勢力との対立が続いた。1928年、非セルビア人の有力政党であるクロアチア農民党の指導者スティエパン・ラディッチが暗殺され、国内の政治的混乱は急速に深まった。翌1929年には国王アレクサンダル1世が憲法を停止し、国王独裁制を布告した。国王は、国号を正式にユーゴスラビア王国に改称するとともに政治改革を断行し、事態の収拾を図った。", + "qas": [ + { + "question": "政府を運営する主体となった人々がどんな人々かを考えると、政府と対立したのは、どの勢力だと予測できるの?", + "id": "tr-236-03-000", + "answers": [ + { + "text": "非セルビア人勢力", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "スティエパン・ラディッチが暗殺されたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-236-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1928年", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アレクサンダル1世による独裁が始まったのは、何年のことか?", + "id": "tr-236-03-002", + "answers": [ + { + "text": "1929年", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1929年に国王独裁制を行うと宣言したのは、誰か?", + "id": "tr-236-03-003", + "answers": [ + { + "text": "アレクサンダル1世", + "answer_start": 113, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "強大な権力を手中にした国王アレクサンダル1世は中央集権化を進めたが、1934年にマルセイユで暗殺され、ペータル2世が即位した。その後、政府は非セルビア人の要求に対してある程度寛容になり、1939年には特に強い反発のあったクロアチア人に対し、その自治権を大幅に認めてクロアチア自治州を設立させることで妥協が成立した。", + "qas": [ + { + "question": "アレクサンダル1世が暗殺され、彼の後を継ぎ、王座についたのは、誰なの?", + "id": "tr-236-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ペータル2世", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アレクサンダル1世が暗殺されたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-236-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1934年", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ペータル2世がユーゴスラビア王国の国王になったのは、何年のことか?", + "id": "tr-236-04-002", + "answers": [ + { + "text": "1934年", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アレクサンダル1世暗殺事件は、どこで起こった事件であるか?", + "id": "tr-236-04-003", + "answers": [ + { + "text": "マルセイユ", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "第二次世界大戦が勃発した当初、ユーゴスラビア王国政府は親ドイツ路線を採り、1941年3月25日に同盟を結んだ。しかし、これに反対する国軍がクーデターを起こし、政権は崩壊した。新政権はナチス・ドイツとの同盟堅持を宣言したが、4月6日にドイツ軍とその同盟軍の侵攻を受け、4月17日に降伏した(ユーゴスラビア侵攻)。ユーゴスラビアの領土は分割占領され、セルビア地域にはミラン・ネディッチ率いる傀儡政権の「セルビア救国政府」が樹立された。また、クロアチア人の民族主義団体ウスタシャはユーゴスラビアを解体し、クロアチア独立国を成立させた。", + "qas": [ + { + "question": "ユーゴスラビア王国とドイツの間で同盟が結ばれたのは、いつのことなの?", + "id": "tr-236-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1941年3月25日", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ユーゴスラビア王国では、どの国との同盟を反対する勢力により新政権が樹立されたか?", + "id": "tr-236-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ユーゴスラビア王国政府はロンドンに亡命政権を樹立して対ドイツの抵抗運動を展開したが、実際に運動を指導したのはヨシップ・ブロズ・ティトー(後のユーゴスラビア連邦大統領)率いるパルチザンであった。ティトー主導で1943年に成立したユーゴスラビア民主連邦は独力での抵抗運動を続け、ナチス・ドイツの敗戦後、国王ペータル2世の帰国を拒否した。1945年11月29日には正式に国家としてのユーゴスラビア連邦人民共和国が成立し、ユーゴスラビア王国は名実ともに消滅した。", + "qas": [ + { + "question": "対ドイツの抵抗運動を指導したのは、誰が率いるパルチザンだったの?", + "id": "tr-236-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ヨシップ・ブロズ・ティトー", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ユーゴスラビア民主連邦は、何年に成立しましたか?", + "id": "tr-236-06-001", + "answers": [ + { + "text": "1943年", + "answer_start": 103, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ユーゴスラビア民主連邦は、誰の主導で成立したか?彼のフールネームを答えなさい。", + "id": "tr-236-06-002", + "answers": [ + { + "text": "ヨシップ・ブロズ・ティトー", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ユーゴスラビア連邦人民共和国の樹立とともに、滅びた王国は、どの国か?", + "id": "tr-236-06-003", + "answers": [ + { + "text": "ユーゴスラビア王国", + "answer_start": 207, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "第一次世界大戦中の1917年、コルフ島に置かれていたセルビア王国亡命議会はコルフ宣言を採択し、ユーゴスラビア王国の建国を決定した。王国は1918年12月1日、「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」として成立した。1918年12月1日、王国は国王ペータル1世の摂政王子アレクサンダル1世によって設立が宣言された。", + "qas": [ + { + "question": "ユーゴスラビア王国は、何として成立したの?", + "id": "tr-236-07-000", + "answers": [ + { + "text": "「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」", + "answer_start": 79, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ユーゴスラビア王国は、いつ成立した国でありますか?", + "id": "tr-236-07-001", + "answers": [ + { + "text": "1918年12月1日", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ユーゴスラビア王国の成立を宣言したのは、誰か?", + "id": "tr-236-07-002", + "answers": [ + { + "text": "アレクサンダル1世", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1918年12月1日の宣言の直後から、ニコラ・パシッチを首班とする新政府の樹立でセルビア政府とスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の人民議会の間で合意された。しかし、この決定が摂政の承認を求めたときに拒絶され、早くも最初の危機を迎えた。各政党は、これを議会制の原則に対する侵害としたが、パシッチに代えてストヤン・プロティッチを首班とすることで合意が図られた。プロティッチはパシッチの人民急進党の中心的メンバーの一人であった。新しい政府は1918年12月20日に発足した。", + "qas": [ + { + "question": "当初は、誰を首班とする新政府の樹立が図られたが、反対派により、ストヤン・プロティッチを首班とすることで合意が図られたのか?", + "id": "tr-236-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ニコラ・パシッチ", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ストヤン・プロティッチもニコラ・パシッチも、どの党のメンバーであったか?", + "id": "tr-236-08-001", + "answers": [ + { + "text": "人民急進党", + "answer_start": 193, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ストヤン・プロティッチを首班とする新政府は、いつ発足したか?", + "id": "tr-236-08-002", + "answers": [ + { + "text": "1918年12月20日", + "answer_start": 220, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "制憲議会の選挙が行われるまでの間まで臨時議会が王国の議会の役割を果たしていたが、選出された議員は王国成立前の各領域で別箇に選出されていた議員だった。政党の再編によって、旧オーストリア=ハンガリー帝国領のセルビア人野党が主導して新しく民主党を発足させた。民主党は臨時議会で最大派閥となり、政権の中核を担うこととなった。リュボミル・ダヴィドヴィッチ率いる民主党が高度に中央集権化された政策を採ったため、クロアチア人代議士の多くが反対派にまわった。しかし、11人の閣僚を出す民主党に対して急進党からは3人に留まったことについて急進党は不満を持ち、1919年8月16日にプロティッチは首相の職を辞した。", + "qas": [ + { + "question": "政党の再編により新しく発足された政党の指導者は、誰だったの?", + "id": "tr-236-09-000", + "answers": [ + { + "text": "リュボミル・ダヴィドヴィッチ", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "プロティッチは、いつまで首相の職に就いたか?", + "id": "tr-236-09-001", + "answers": [ + { + "text": "1919年8月16日", + "answer_start": 270, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1920年9月、クロアチアで農民の武装蜂起が起こった。家畜として飼っていた牛への課税が直接の原因だったが、クロアチア人共同体は政府の中央集権化政策を非難し、特に内務大臣のスヴェトザル・プリビチェヴィッチが非難の的となった。", + "qas": [ + { + "question": "何への課税が直接の原因で、1920年9月にクロアチアで農民の武装蜂起が発生しましたか?", + "id": "tr-236-10-000", + "answers": [ + { + "text": "牛", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1920年の時点で内務大臣の座についていたのは、誰か?", + "id": "tr-236-10-001", + "answers": [ + { + "text": "スヴェトザル・プリビチェヴィッチ", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1921年6月28日、ヴィトスの日に、憲法は可決され、統一的な王国が成立した(ヴィドヴダン憲法)。第一次世界大戦前の伝統的な地域区分は廃止され、中央政府の統治の下に置かれる33の行政州が設置された。この間、8月16日にペータル1世は死去し、アレクサンダル1世が国王となった。", + "qas": [ + { + "question": "ヴィドヴダン憲法が成立されたのは、いつのことなの?", + "id": "tr-236-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1921年6月28日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ペータル1世が死去したのは、何年のことか?", + "id": "tr-236-11-001", + "answers": [ + { + "text": "1921年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アレクサンダル1世が国王の座についたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-236-11-002", + "answers": [ + { + "text": "1921年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヴィドヴダン憲法の成立後、王国には、いくつの行政州が置かれたか?", + "id": "tr-236-11-003", + "answers": [ + { + "text": "33", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "民主党のリュボミル・ダヴィドヴィッチは、これまで民主党がすすめてきた中央集権化政策に疑問を持ち、野党との交渉に応じる姿勢を見せた。このことは党内の亀裂を発生させ、スヴェトザル・プリビチェヴィッチ(SvetozarPribićević)から反対を受けた。さらにこのことは、パシッチに連立政権崩壊の口実を与えた。", + "qas": [ + { + "question": "中央集権体制の構築に力を入れていたのは、どの党だった?", + "id": "tr-236-12-000", + "answers": [ + { + "text": "民主党", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "党の政策に疑問を抱き、野党との交渉に応じようとした、民主党の人物は、誰ですか?", + "id": "tr-236-12-001", + "answers": [ + { + "text": "リュボミル・ダヴィドヴィッチ", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1924年にローマ条約が締結され、自由都市フィウーメの大部分の領域がイタリア領となった。イタリアとの国境をめぐる緊張は続いた。イタリアはさらに多くのダルマチア地域の領有を望む一方、ユーゴスラビアは旧オーストリア帝国領からイタリア領となっていたイストラ半島を求めていた。イストラ半島には多くのクロアチア人やスロベニア人が居住していた。", + "qas": [ + { + "question": "ローマ条約が成立したのは、何年のことか?", + "id": "tr-236-13-000", + "answers": [ + { + "text": "1924年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "イタリアがフィウーメの大部分の領域を支配下に置いたのは、どの条約によることだったか?", + "id": "tr-236-13-001", + "answers": [ + { + "text": "ローマ条約", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ローマ条約によりイタリアの支配下に置かれたのは、どの都市化?", + "id": "tr-236-13-002", + "answers": [ + { + "text": "フィウーメ", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "イストラ半島はイタリア領になる前に、どの国により支配されていたか?", + "id": "tr-236-13-003", + "answers": [ + { + "text": "オーストリア帝国", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "クロアチア共和農民党の党首スティエパン・ラディッチは政治的理由により何度も投獄された。ラディッチは1925年、「クロアチア共和農民党」の党名から「共和」を外して「クロアチア農民党」とすること、ヴィドヴダン憲法を認めることを表明した。ラディッチは釈放され、議会に復帰した。", + "qas": [ + { + "question": "この時、クロアチア共和農民党の党首は、誰だったの?", + "id": "tr-236-14-000", + "answers": [ + { + "text": "スティエパン・ラディッチ", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クロアチア共和農民党の党名が変わったのは、何年のことでしたか?", + "id": "tr-236-14-001", + "answers": [ + { + "text": "1925年", + "answer_start": 49, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "トレイン・シェッド", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "トレイン・シェッド(英語:trainshed)は、鉄道の駅においてプラットホームと線路を同時に覆う大きな屋根である。トレイン・シェッドの下の空間を駅構内ホール(ドイツ語:Bahnhalle)とも呼ぶ。実用的な目的としては、旅客を雨や風、直射日光などから保護することがある。それだけであれば各ホームごとに設けられた上屋(旅客上屋)でもある程度の機能を果たすことができるが、トレイン・シェッドでは都市の景観や旅客の心理に与える影響も重視されている。特に19世紀のヨーロッパや北アメリカの大都市の主要駅では、巨大なトレイン・シェッドが競うように建設された。こうしたトレイン・シェッドは、都市や鉄道会社を象徴する存在でもあった。20世紀に入るとトレイン・シェッドの流行は下火になるが、現代においても駅の新設や改装の際にトレイン・シェッドやそれに類似した屋根が設けられることはある。", + "qas": [ + { + "question": "鉄道の駅においてプラットホームと線路を同時に覆う大きな屋根のことを呼ぶのは、何?", + "id": "tr-237-00-000", + "answers": [ + { + "text": "トレイン・シェッド", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "トレイン・シェッドでは実用的な目的と景観だけでなく、何に与える影響も重視されていますか?", + "id": "tr-237-00-001", + "answers": [ + { + "text": "旅客の心理", + "answer_start": 202, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "競争とも思われるほど、トレイン・シェッドが盛んに建設された時期はいつか?", + "id": "tr-237-00-002", + "answers": [ + { + "text": "19世紀", + "answer_start": 224, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1830年に開業した世界初の旅客鉄道であるリヴァプール・マンチェスター鉄道のリヴァプール側の起点駅であるクラウン・ストリート駅では、駅舎に接するプラットホームと3本の線路が木造の屋根で覆われていた。これが世界初のトレイン・シェッドである。その後、各地に鉄道が開業するとともに、トレイン・シェッドを持つ駅が建設された。当時の駅はプラットホームが1面(発着兼用)か2面(出発用と到着用)程度の小さなものではあったが、トレイン・シェッドは数本の線路(ホームに面しないものも含む)を覆うものであり、幅、高さ、長さともに少しずつ大型化した。北アメリカにおける最初のトレイン・シェッドは、1835年に開業したローウェル駅のもので、当時は\"Carhouse\"と呼ばれていた。ただしアメリカではヨーロッパほど駅の建設に費用はかけられず、ホームの屋根は駅舎の庇を伸ばした程度のもので済まされることが多かった。", + "qas": [ + { + "question": "���ラウン・ストリート駅から出発し、マンチェスターまで行く旅客鉄道が開業したのは、いつ?", + "id": "tr-237-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1830年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "何年に開業した駅に建設されたものが、北アメリカにおける最初のトレイン・シェッドでありますか?", + "id": "tr-237-01-001", + "answers": [ + { + "text": "1835年", + "answer_start": 288, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "世界初の旅客鉄道とは、どの駅からマンチェスターまでの間を結ぶ鉄道であるか?", + "id": "tr-237-01-002", + "answers": [ + { + "text": "クラウン・ストリート駅", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "北アメリカでは、鉄道の開業以前から存在した有料道路の料金所に、道路部分をまたぐように屋根を設けたものがあり、これがトレイン・シェッドの原型になった。ただしこうした屋根付き料金所はイギリスには存在しなかった。イギリスのトレイン・シェッドは、宿屋の車寄せ(当時は駅馬車の発着所を兼ねていた)の屋根を真似たものが起源であると考えられている。1830年からしばらくの間、駅の構造については試行錯誤が繰り返されていた。1837年に開業したロンドン・バーミンガム鉄道のロンドン・ユーストン駅では、プラットホームと線路をトレイン・シェッドで覆い、その側面に駅舎を配置し、さらに前方の駅前広場に面する側に門(通称ユーストン・アーチ)を設けてシェッドが直接市街から見えないようにした。1850年頃からは、このように駅のファサードでトレイン・シェッドを隠す構造が大都市におけるターミナル駅の基本形として定着することになる。ユーストン駅は、トレイン・シェッドの主要な建材として鋳鉄を利用した最初の例でもある。初期のトレイン・シェッドの中には、不十分な構造設計のまま作られたものもあり、ロンドンのブリックレイヤーズ・アームズ駅のトレイン・シェッドは1844年と1850年に崩落事故を起こしている。", + "qas": [ + { + "question": "イギリスのトレイン・シェッドの起源とされるのは、何の屋根であるか?", + "id": "tr-237-02-000", + "answers": [ + { + "text": "宿屋の車寄せ", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "どの駅の屋根の構造が、1850年から大都市におけるターミナル駅の基本形として定着しましたか?", + "id": "tr-237-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ユーストン駅", + "answer_start": 233, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "不十分な構造設計のまま作られ、崩落事故を2度も起こしたのは、どの駅のトレイン・シェッドであるか?", + "id": "tr-237-02-002", + "answers": [ + { + "text": "ブリックレイヤーズ・アームズ駅", + "answer_start": 486, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "トレイン・シェッドの主要な建材として鋳鉄を利用した最初の例となる駅とは、何年に開業した鉄道の駅なの?", + "id": "tr-237-02-003", + "answers": [ + { + "text": "1837年", + "answer_start": 204, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1851年、ロンドン万国博覧会の会場として建てられた水晶宮は、鉄骨とガラスを多用し、建築界に大きな衝撃を与えた。1850年代のトレイン・シェッドにもその影響は現れており、自身も万国博委員であったイザムバード・キングダム・ブルネルはロンドン・パディントン駅(2代目、1854年)のトレイン・シェッドを設計した。1860年代になると、大都市の主要駅は多数のプラットホームを持つ大きなものになり、トレイン・シェッドもそれにつれて大型化した。トレイン・シェッドの幅や高さ、径間などの競争は、鉄道会社や技術者にとっての名誉をかけたものでもあった。この頃になると、橋梁の技術者がトレイン・シェッドの設計に大きな比重を占めるようになる。代表的な例としてはロンドン・セント・パンクラス駅(1869年)におけるウィリアム・ヘンリー・バーロー、ブダペスト西駅(1877年)におけるギュスターヴ・エッフェルなどがある。北アメリカでは、駅の規模は同時代のヨーロッパと比べ小さなものだったが、1871年に開業したニューヨークのグランド・セントラル駅以降、ヨーロッパの主要駅に匹敵するようなトレイン・シェッドを持つ駅が現れている。", + "qas": [ + { + "question": "1850年代のトレイン・シェッドに影響を及ぼしたのは、どんな建築物なの?", + "id": "tr-237-03-000", + "answers": [ + { + "text": "水晶宮", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1860年代に大都市の主要駅おいてトレイン・シェッドが大型化したのは、何が多くなるにつれて駅自体が大きくなったからでありますか?", + "id": "tr-237-03-001", + "answers": [ + { + "text": "プラットホーム", + "answer_start": 176, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ウィリアム・ヘンリー・バーローとギュスターヴ・エッフェルなどの橋梁の技術者がトレイン・シェッドの設計に大きな比重を占めるようになったのは、何年代からのことか?", + "id": "tr-237-03-002", + "answers": [ + { + "text": "1860年代", + "answer_start": 154, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "北アメリカでヨーロッパの主要駅に匹敵するようなトレイン・シェッドを持つ駅が現れたのは、何年度以降のことであるか?", + "id": "tr-237-03-003", + "answers": [ + { + "text": "1871年", + "answer_start": 433, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1870年代から80年代には、それまで駅舎ファサードによって隠されていたトレイン・シェッドが、直接市街地と向き合うようなデザインが現れてくる。この傾向はドイツにおいて顕著であり、1882年に開業したベルリン市街鉄道の主要駅では、駅舎の機能が高架下に収められたこともあり、アーチ型のトレイン・シェッドそのものがほぼ駅の外観となった。もっともこうした動きには抵抗もあり、ブダペストでは1877年に開業した西駅はトレイン・シェッドの前面が市街に向かって露出していたのに対し、奇異感を覚える市民が多く、1884年開業の東駅ではトレイン・シェッドはファサードで隠されている。一方でイギリスでは駅舎とトレイン・シェッドを別のものとする考え方が続いた。またこの時期には、コンコースの建築にもトレイン・シェッドの影響が現れている。コンコースの屋根は線路やホームを覆っているわけではない。しかし隣接するトレイン・シェッドと連結した空間として、トレイン・シェッド同様の高い屋根を持つ広い空間が造られた。このような変化はまずアメリカで現れ、ヨーロッパにも波及した。", + "qas": [ + { + "question": "トレイン・シェッドが隠されなく、直接市街地と向き合うようなデザインが現れたのは、何年代から何年代の話なの?", + "id": "tr-237-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1870年代から80年代", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ブダペストの西駅と東駅のうち、より早く開業したのは、どちらですか?", + "id": "tr-237-04-001", + "answers": [ + { + "text": "西駅", + "answer_start": 200, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "トレイン・シェッドそのものがほぼ駅の外観となっていたブダペストの駅とは、何年に開業した駅であるか?", + "id": "tr-237-04-002", + "answers": [ + { + "text": "1877年", + "answer_start": 190, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "トレイン・シェッドの流行が最盛期を迎えるのは19世紀の末である。この時代の主要駅は「誇大妄想(メガロマニア)の大聖堂(カテドラル)」と評される程に巨大化していた。それは新興ブルジョワジーの富と欲望の象徴でもあった。1888年開業のフランクフルト中央駅は、正面の駅舎から広いコンコースを経て、3連のアーチ形のトレイン・シェッドに覆われたプラットホーム群に至るという、大ターミナル駅の一つの完成形を示すものであった。アメリカ合衆国のペンシルバニア鉄道はとりわけ巨大トレイン・シェッドの建設に熱心だった。1893年に竣工したフィラデルフィアのブロードストリート駅のトレイン・シェッドは、幅300フィート(91.5m)のアーチ屋根で構成されており、トレイン・シェッドの径間としては史上最大であった。ペンシルバニア鉄道はジャージー・シティやピッツバーグにも壮大なトレイン・シェッドを建設した。", + "qas": [ + { + "question": "トレイン・シェッドの流行が最盛期を迎えた時期の主要駅からは、どんな変化が見られたの?", + "id": "tr-237-05-000", + "answers": [ + { + "text": "巨大化", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "トレイン・シェッドの径間としては史上最大であった駅は、何年に竣工した?", + "id": "tr-237-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1893年", + "answer_start": 249, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "19世紀末の主要駅の巨大化やトレイン・シェッドの流行は、誰の富と欲望の象徴でありましたか?", + "id": "tr-237-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ブルジョワジー", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "19世紀末からは、アメリカでは巨大化した駅の建設に関して経済性がより重視されるようになり、トレイン・シェッドにかけられる費用は減少に転じた。1894年に開業したセントルイスのユニオン駅は、当時「世界最大の駅」と宣伝され、幅600フィートのトレイン・シェッドに覆われていた。しかし外観では一つのアーチのように見えるものの、天井は低く抑えられた上に内部はいくつもの支柱があり、窮屈な印象は否めないものであった。トレイン・シェッドの拡大競争は限界に達しており、ペンシルバニア鉄道以外の会社はもはや追随を諦めていた。1899年のボストン南駅でも、シェッド内に支柱を置く方式がとられた。1906年には、デラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道のホーボーケン駅において、リンカーン・ブッシュの発明した「ブッシュ式シェッド」と呼ばれる新たな形の屋根が実用化された。これはプラットホーム上の柱で支えられる鉄筋コンクリート製の屋根で、高さはレール面から16フィート(約5m)しかない低いものだった。蒸気機関車の排煙のため、線路の上の部分には溝が開けられていた。1918年以降はブッシュ式シェッドの新設もなくなり、以後は「蝶(バタフライ)型シェッド」とも呼ばれるプラットホームだけを覆う形の上屋が造られるのみとなった。", + "qas": [ + { + "question": "19世紀末における世界最大の駅とは、どの駅?", + "id": "tr-237-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ユニオン駅", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "19世紀末のアメリカでは駅の巨大化よりも何を重視するようになりましたか?", + "id": "tr-237-06-001", + "answers": [ + { + "text": "経済性", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "プラットホーム上の柱で支え��れる鉄筋コンクリート製の屋根を発明したのは、誰か?", + "id": "tr-237-06-002", + "answers": [ + { + "text": "リンカーン・ブッシュ", + "answer_start": 332, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "どの駅において、プラットホーム上の柱で支えられる鉄筋コンクリート製の屋根が実用化されたか?", + "id": "tr-237-06-003", + "answers": [ + { + "text": "ホーボーケン駅", + "answer_start": 320, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "一方で、コンコースの建築は重視され続けた。セントルイス・ユニオン駅ではトレイン・シェッド形の高い屋根を持つ大ホールが建設されたが、これは本来のトレイン・シェッドが低く抑えられたのとは対照的であった。ワシントンD.C.のユニオン駅では、トレイン・シェッドが皆無であるにも関わらず、「トレイン・シェッドのような」コンコースが造られた。20世紀半ばからは、長距離旅客列車の衰退もあり、既存のトレイン・シェッドも取り壊されたり他の目的に転用されたりしている。その傍らで、トレイン・シェッド建築の伝統は駅コンコースを経て空港ターミナルビルへと受け継がれている。ミノル・ヤマサキらの設計したランバート・セントルイス国際空港などが代表例である。またトレイン・シェッドの径間をめぐって繰り広げられていた企業や技術者の競争は、20世紀前半には超高層ビルの高さを舞台に展開されることになる。", + "qas": [ + { + "question": "トレイン・シェッド建築の伝統が空港ターミナルへと受け継がれたことを表す代表例として、この文章で紹介されているのは、どの空港ですか?", + "id": "tr-237-07-000", + "answers": [ + { + "text": "ランバート・セントルイス国際空港", + "answer_start": 289, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "20世紀半ばから既存のトレイン・シェッドが取り壊されたり他の目的に転用されたりしたのは、何の衰退の影響であるの?", + "id": "tr-237-07-001", + "answers": [ + { + "text": "長距離旅客列車", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "北アメリカでの流行が終わった後も、ヨーロッパではトレイン・シェッドの新設がしばらく続いた。1900年のパリ万国博覧会に合わせて開業したオルセー駅は、長距離列車のターミナル駅としては初めて、蒸気機関車の乗り入れない電気機関車専用の駅である。ここでは、トレイン・シェッドと駅舎が完全に一体化し、一つの屋根の下にプラットホーム群と出札所、待合室などやホテルが同時に収められた。フランスでは1900年の万博の後は主要駅の新設や改修はしばらく途絶えた。第一次世界大戦までの間、トレイン・シェッドの建設が最も盛んだったのはドイツである。1906年開業のハンブルク中央駅では、掘割状のプラットホーム群をトレイン・シェッドが覆い、シェッド内にあるコンコースから各ホームに階段で下る構造がとられた。そして1915年に完成したライプツィヒ中央駅は、6連アーチとその両側の小アーチからなるトレイン・シェッドを持ち、全幅は298.6mに達した。", + "qas": [ + { + "question": "長距離列車のターミナル駅としては初めての電気機関車専用の駅であった駅とは、何年に開業したか?", + "id": "tr-237-08-000", + "answers": [ + { + "text": "1900年", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ハンブルク中央駅とライプツィヒ中央駅のうち、より早く開業したのは、どの駅か?", + "id": "tr-237-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ハンブルク中央駅", + "answer_start": 270, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "第一次世界大戦後は、フランスの地方都市で鉄筋コンクリート製のトレイ���・シェッドがいくつか建設されている。このうち港町であるシェルブールとル・アーヴルのものは、旅行者に対する印象を念頭に設計された。またランスでは、トレイン・シェッドが第一次世界大戦で破壊されたまま、復旧されない方針であった。ところがランス市民は、トレイン・シェッドを失ったままでは都市の格が下がったように感じるとして、トレイン・シェッドの再建を求める運動を行なった。このため鉄筋コンクリート製の新しいシェッドが建設され、1934年に完成した。戦間期に建設された他のトレイン・シェッドとしては、イタリアのミラノ中央駅(1933年)がある。", + "qas": [ + { + "question": "シェルブールとル・アーヴルのトレイン・シェッドは、どんな建材で造られたの?", + "id": "tr-237-09-000", + "answers": [ + { + "text": "鉄筋コンクリート", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "トレイン・シェッドの再建を求める運動を行なったのは、フランスのどの都市の市民ですか?", + "id": "tr-237-09-001", + "answers": [ + { + "text": "ランス", + "answer_start": 149, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "トレイン・シェッドはその形状から、三角形の断面を持つ切妻形と、曲線状のアーチ(ヴォールト)形に大別される。それぞれ規模や建設時期によって様々な建設技術が用いられている。また国によって好まれるシェッドの形状も異なった。イギリスではゴシック様式の駅舎に合う切妻屋根が用いられたのに対し、フランスではエコール・デ・ボザール出身の建築家により、鉄という素材に調和するデザインが追求された。ドイツではアーチ構造をより積極的に露出させている。", + "qas": [ + { + "question": "アーチ構造をより積極的に露出させたトレイン・シェッドを好んだのは、どの国か?", + "id": "tr-237-10-000", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ", + "answer_start": 190, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "トレイン・シェッドはその形状から、アーチ形と何に大別されるか?", + "id": "tr-237-10-001", + "answers": [ + { + "text": "切妻形", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "切妻形のトレイン・シェッドでは、屋根の内側にトラス構造を用いることで、壁への荷重を減らしつつ広い径間を確保している。世界初のトレイン・シェッドであるリヴァプール・クラウン・ストリート駅(ロバート・ステファンソン設計)をはじめ、初期の小規模なシェッドは木製のクイーンポスト・トラス構造である。1837年のパディントン駅(ブルネル設計)からは、垂直材が直接タイ・ロッド(屋根の頂点)に接続されるキングポスト・トラスが用いられている。1839年のユーストン駅(ステファンソン)からは、建材として鋳鉄が用いられるようになる。ポロンソー・トラスとは、1837年にフランスのカミーユ・ポロンソーによって発明された構造であり、支持する壁にかかる横圧力を減衰させるため、ポストトラスより大きな径間のシェッドを構成できる。1840年以降フランスを中心に普及した。またアーチ形のトレイン・シェッドでも、ポロンソー方式のトラスを用いた例がある。ハウトラスとは、垂直材の間に対角線状に部材を追加した方式である。1840年にアメリカのウィリアム・ハウによって発明され、アメリカでは広く用いられた。ディヨン式トラスとは、ポロンソー・トラスの改良型で、水平方向の部材が不要となり、より広い空間を構成できる。1878年のパリ万国博覧会機械館で初めて用いられたが、それ以前の1875年のロンドン・リバプール・ストリート駅のトレイン・シェッドもこれに近い構造である。ただし、トレイン・シェッドでのディヨン式トラスの採用はトゥール駅(1898年)など少数に留まる。", + "qas": [ + { + "question": "世界で最も早く採用されたトレイン・シェッドの��造とは、どんな構造であるの?", + "id": "tr-237-11-000", + "answers": [ + { + "text": "クイーンポスト・トラス構造", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "どの駅において、世界で初めてキングポスト・トラスが用いられましたか?", + "id": "tr-237-11-001", + "answers": [ + { + "text": "パディントン駅", + "answer_start": 151, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ポロンソー・トラスでポストトラスより大きな径間のシェッドを構成できるのは、支持する壁にかかる何を減衰させるためか?", + "id": "tr-237-11-002", + "answers": [ + { + "text": "横圧力", + "answer_start": 315, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ポロンソー・トラスとハウトラスのうち、より早く発明されたのは、何か?", + "id": "tr-237-11-003", + "answers": [ + { + "text": "ポロンソー・トラス", + "answer_start": 258, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "19世紀のヨーロッパでトレイン・シェッドが生まれた背景には、都市とその外の田園を区別する当時の意識がある。蒸気機関を用いた鉄道はもともと鉱山で用いられていたものであり、田園の側に属するものである。それが都市間の交通機関へと発展しても、そのまま都市の内部に受け入れることには抵抗があった。そこで列車の発着する場所をトレイン・シェッドで覆い、さらにその前面に駅舎を建てて市街地に対する顔としたのである。駅舎は新たな工業製品である鉄道に対する抵抗感を和らげるため、あえて古典的な意匠が採用されている。このため、当時の駅は「半分工場、半分宮殿(mi-usine,mi-palais)」と呼ばれる二面性を持つことになる。鉄道を利用する旅客はまず駅舎内の待合室に案内され、列車の発車直前になってからトレイン・シェッド内のプラットホームに導かれた。19世紀半ばまで、一般の市民がこうした段階を踏まずに工業的機械である鉄道に接することは難しいと思われていたのである。しかし1860年代になると、駅の入口とトレイン・シェッドを待合室を経ずに結びつけるコンコースが現れ、都市と鉄道の距離が縮まる。やがて駅舎によってトレイン・シェッドを覆い隠す必要もなくなり、シェッドが露出したデザインが現れてくるが、後にはトレイン・シェッドそのものが不要とされるに至った。一方アメリカでは、工業の市内への侵入に抵抗する意識はヨーロッパほどではなく、都市間の鉄道の車両が市内の併用軌道に乗り入れることは珍しいことではなかった。アメリカでトレイン・シェッドの発達が遅れ、またヨーロッパより先に廃れたのにはこのような理由もある。", + "qas": [ + { + "question": "トレイン・シェッドは、ある鉄道が都市間の交通機関に用いられることに対する抵抗感を和らげるための対策として誕生したが、ここである鉄道とは、何を用いた鉄道のことであるか?", + "id": "tr-237-12-000", + "answers": [ + { + "text": "蒸気機関", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "トレイン・シェッドとは、何を覆い隠すことで蒸気機関を用いる鉄道に対する人々からの抵抗感を和らげるために造られたものであるか?", + "id": "tr-237-12-001", + "answers": [ + { + "text": "列車の発着する場所", + "answer_start": 146, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "都市と鉄道の距離を縮めるような構造が現れたのは、何年代に入ってのことなの?", + "id": "tr-237-12-002", + "answers": [ + { + "text": "1860年代", + "answer_start": 428, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アメリカでトレイン・シェッドの発達がヨーロッパより遅��、その衰退はヨーロッパより早かったのは、何に抵抗する意識がヨーロッパより強くなかったためですか?", + "id": "tr-237-12-003", + "answers": [ + { + "text": "工業の市内への侵入", + "answer_start": 577, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ヨーロッパにおける初期のトレイン・シェッド建築には、温室の建築が大きな影響を与えている。温室は、高い屋根に覆われた広い空間として、技術的にはトレイン・シェッドと似たものである。それだけでなく、温室は本来は田園に属するべき植物を、都市の中に取り入れるための建物でもあった。この意味で駅のトレイン・シェッドは温室と同じ目的を持つ建物であるといえる。トレイン・シェッド建築に大きな影響を与えた水晶宮も、内部に自然の樹木を取り込んでおり、温室としての性格を持つ。またマドリッドのアトーチャ駅では、使われなくなった旧トレイン・シェッドがスペイン南部の植物を展示する植物園として用いられている。18世紀末に造園分野においてピクチュアレスクという思想が生まれ、それが建築や都市計画にも応用された。これは移動する視点にしたがって変化する景観を重視したものである。鉄道旅行による車窓からの眺めは、こうした視点変化の好例であり、鉄道の普及と19世紀のピクテュアレスク思想には密接な関係がある。トレイン・シェッドのデザインにもその影響は現れている。", + "qas": [ + { + "question": "ヨーロッパにおける初期のトレイン・シェッド建築に大きな影響を与えたもので、技術的にも、都市の外のものを都市の中に持ち込むという目的においても似たものは、何か?", + "id": "tr-237-13-000", + "answers": [ + { + "text": "温室", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "トレイン・シェッド建築に大きな影響を与えたものとしては、温室と何が挙げられますか?", + "id": "tr-237-13-001", + "answers": [ + { + "text": "水晶宮", + "answer_start": 193, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "外部のものを都市の中に取り入れるという観点からトレイン・シェッドと似たものとしては、温室と何が挙げられる?", + "id": "tr-237-13-002", + "answers": [ + { + "text": "水晶宮", + "answer_start": 193, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "日本では、欧米の主要駅のような巨大トレイン・シェッドが建設されることはなかった。明治時代に鉄道が開業したばかりの頃は、駅にかけられる費用も少なく、必要最低限の設備で済まされた。また井上勝の「工事は全て実用向きを主とすべし」という方針により、駅は実用本位に設計されトレイン・シェッドのような装飾性の高い施設は作られなかったのである。1914年に開業した東京駅は、「日本の玄関」たることを意識して設計された最初の駅であるが、ここでもトレイン・シェッドは設けられなかった。東京駅の原案を作成したドイツ人技術者フランツ・バルツァーは、費用面の問題のほか、温暖な日本では気候に対する保護はそれほど重要ではないこと、煤塵の多い日本の石炭では煤がシェッド内に充満するおそれのあること、シェッドを作ってしまうと将来の駅の拡張が難しくなること等を指摘し、トレイン・シェッドは不要であると論じた。2020年に開業した高輪ゲートウェイ駅は、全ホームが覆われる構造のトレイン・シェッドを採用している。", + "qas": [ + { + "question": "全ホームが覆われる構造のトレイン・シェッドを採用している、2020年に開業した駅は、どの駅?", + "id": "tr-237-14-000", + "answers": [ + { + "text": "高輪ゲートウェイ駅", + "answer_start": 398, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "初めて「日本の玄関」たることを意識して設計された駅とは、どの駅ですか?", + "id": "tr-237-14-001", + "answers": [ + { + "text": "東京駅", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "東京駅の原案を作成したドイツ人技術者フランツ・バルツァーは、何がシェッド内に充満するおそれのあるため、トレイン・シェッドは不要であると論じたか?", + "id": "tr-237-14-002", + "answers": [ + { + "text": "煤", + "answer_start": 302, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "私鉄では阪急神戸三宮駅でトレイン・シェッドが採用されており、ホームの端までを覆わない小規模なものでは叡山電鉄八瀬比叡山口駅にも見られる。かつては阪急梅田駅や南海難波駅、西鉄福岡駅にもトレイン・シェッドが採用されていたが、1960年代以降の駅舎改修とともに姿を消している。近年では、二条駅(1996年)、日向市駅(2006年)、高知駅(2008年、愛称「くじらドーム」)、旭川駅(2011年)などで、高架化とともにホームと線路を同時に覆う屋根が造られる例がある。高知駅のものは、駅前広場の一部をも覆うものである。この他、大阪駅や甲子園駅(いずれも高架駅)では、駅改良工事に併せて大屋根が取り付けられている。大阪駅では2011年に南北2つのビル(大阪ステーションシティ)の間でホームと線路群を覆う大屋根が完成したが、側面の開口部から雨が吹き込む問題が発覚したため、ホーム個別の上屋を完全に撤去するには至らず、透明な上屋に付け替えることで対応している。また、甲子園駅では阪神甲子園球場の最寄り駅でもあることから白球をイメージした大屋根を2015年に取り付けたが、ホーム全体を覆うことはできないため、大屋根からはみ出るホーム両端については平屋根としている。", + "qas": [ + { + "question": "阪急神戸三宮駅と八瀬比叡山口駅のうち、トレイン・シェッドがより小規模であるのは、どれ?", + "id": "tr-237-15-000", + "answers": [ + { + "text": "八瀬比叡山口駅", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "阪急神戸三宮駅と南海難波駅、西鉄福岡駅のうち、トレイン・シェッドが採用されつつあるのは、どちらですか?", + "id": "tr-237-15-001", + "answers": [ + { + "text": "阪急神戸三宮駅", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "二条駅、日向市駅、高知駅のうち、最も早く造られた駅は、どの駅か?", + "id": "tr-237-15-002", + "answers": [ + { + "text": "二条駅", + "answer_start": 140, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "阪神甲子園球場の最寄り駅はどの駅か?", + "id": "tr-237-15-003", + "answers": [ + { + "text": "甲子園駅", + "answer_start": 426, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "マダガスカル島民の歌", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "『マダガスカル島民の歌』、または『マダガスカル先住民の歌』は、フランスの作曲家モーリス・ラヴェルが1925年から1926年にかけて作曲した、全3曲からなる歌曲集である。各曲のテクストには18世紀の詩人エヴァリスト=デジレ・ド・パルニーの詩がそれぞれ使われており、独唱者1名、フルート奏者1名(ピッコロ持ち替え)、チェロ奏者1名、ピアニスト1名の計4名によって演奏される。演奏時間は約13分だ。\n\nなお、初演ではメゾソプラノのジャーヌ・バトリによって歌われているが、独唱のパート名には指定はなく「CANT(歌)」とのみ書かれている。", + "qas": [ + { + "question": "『マダガスカル島民の歌』は誰が作曲したの?", + "id": "tr-238-00-000", + "answers": [ + { + "text": "モーリス・ラヴェル", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "モーリス・ラヴェルの母国はどこ?", + "id": "tr-238-00-001", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『マダガスカル島民の歌』の演奏時間は何分なの?", + "id": "tr-238-00-002", + "answers": [ + { + "text": "約13分", + "answer_start": 190, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『マダガスカル島民の歌』の初演の時、誰が歌ったの?", + "id": "tr-238-00-003", + "answers": [ + { + "text": "ジャーヌ・バトリ", + "answer_start": 212, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1920年代、ラヴェルの作風は『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』を転機として、和声的な魅力を捨て旋律線を重視するものに変化した。1926年に完成した『マダガスカル島民の歌』は第一次世界大戦後におけるラヴェルの作風の特色がよく現れている作品であり、ラヴェル自身が「声が中心楽器の役をはたす一種の四重奏」と述べているように、声を含む各楽器は独立的で、アルノルト・シェーンベルクの『月に憑かれたピエロ』のように対位法的に扱われている。なお、ラヴェルは『マダガスカル島民の歌』について、「全くシェーンベルク的ではない」としながらも「もしシェーンベルクが全然作曲していなかったとすれば、私はこの曲を書くことができたかどうか分からない。」と述べている。\n\n全体に複調が支配的であり、単純さが追求された書法がとられている。各楽器の独立的な扱いや複調の多用については、同時期に作曲された『ヴァイオリン・ソナタト長調』でさらに推し進められることになる。\n\nまた、この作品では、「愛」や「死」を題材に扱うことを避けてきたラヴェルにしては珍しく、性愛の官能や暴力に対する恐怖が表現されている。もっともラヴェル自身は「劇的な-いやそのうえ、エロティックな-新しいある要素をもたらすように思われるが、それはパルニー作の歌の主題そのものがそこに入れたものなのだ。」と述べ、それらの特徴がパルニーの原詩に起因するものだとしている。\n\nラヴェルはこの曲の出来については、これも彼にしては珍しく満足しており、自分の最高傑作の一つであると考えていた。ラヴェルの晩年の親友であったヴァイオリニスト、エレーヌ・ジュルダン=モランジュも次のように評価している。", + "qas": [ + { + "question": "『マダガスカル島民の歌』はいつ完成したか。", + "id": "tr-238-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1926年", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "エヴァリスト=デジレ・ド・パルニーは、インド洋のブルボン島に生まれたクレオールであり、晩年にはアカデミー・フランセーズ会員となった詩人である。詩集『マダガスカル島民の歌』は、パルニーがインドに住んでいた1787年の作品で、序文と12の詩から成っている。序文ではマダガスカル島の風土や人々の暮らしなどを紹介した後、「私は彼らの習慣やしきたりについての情報を与えてくれるようないくつかの歌を収集し、翻訳した。」と書いているが、パルニーは実際にマダガスカル島を訪れたことがなく、またマダガスカル語も解さなかったため、詩は翻訳ではなく全てパルニーの創作であると考えられている。\n\nラヴェルはこの詩集から、「シャンソン12」、「シャンソン5」、「シャンソン8」の3篇を選び曲付けした。なお、ラヴェルは、ピアニストのリカルド・ビニェスを通じて学生時代からこの詩集の存在を知っていたとされる。", + "qas": [ + { + "question": "エヴァリスト=デジレ・ド・パルニーの出生地はどこなの?", + "id": "tr-238-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ブルボン島", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "詩集『マダガスカル島民の歌』��制作の時、パルニーはどこに住んでいたの?", + "id": "tr-238-02-001", + "answers": [ + { + "text": "インド", + "answer_start": 92, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "川辺川ダム", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "川辺川ダムは国土交通省九州地方整備局が施工を進めている国土交通省直轄ダムで、高さ107.5メートルのアーチ式コンクリートダムとして現在計画されている。1966年より事業が開始され、当初は川辺川、球磨川の治水と人吉盆地へのかんがい、及び水力発電を目的とした特定多目的ダムであったが現在は治水に目的を絞った治水ダムとして計画されている。このダム計画については地元での賛否が大きく分かれ、計画策定から40年を経て現時点に至るまで未だ着手に至っていない。群馬県の八ッ場ダム(吾妻川)と双璧を成す長期化したダム事業の代表格として知られている。", + "qas": [ + { + "question": "川辺川ダムの事業はいつから始まったか。", + "id": "tr-239-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1966年", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "川辺川は球磨川水系における最大の支流である。九州山地である熊本県・宮崎県境の国見岳に水源を発し平家落人の里として知られる五家荘を流れ、北から流れてくる谷内川を併せる。その後は概ね南西に流れ五木五家荘渓谷を形成して「五木の子守唄」で知られる五木村中心部に入り、ここで五木小川と合流して後南下。旧・川辺川ダム建設予定地を通過し、相良村を縦貫して人吉市と球磨郡錦町の境で球磨川に合流する。流路延長は約67キロメートル、流域面積は約542平方キロメートルで、球磨川水系全流域面積(1,882平方キロメートル)の三分の一を占めている。ダムは川辺川の中流部、五木村と相良村の村境付近に建設が予定されている。川辺川はアユの漁場としても名高く、四万十川などと並んで「日本最後の清流」とも称されている。", + "qas": [ + { + "question": "球磨川水系における最大の支流は何?", + "id": "tr-239-01-000", + "answers": [ + { + "text": "川辺川", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "川辺川ダムは特定多目的ダム法に基づく特定多目的ダムとして当初は計画された。また型式であるアーチ式コンクリートダムとしては、川辺川ダム以外に計画されているダムでアーチダムがないことから「日本最後のアーチダム」とも言われている。当初の目的では洪水調節、不特定利水、灌漑、水力発電の四つの目的があった。洪水調節については1965年7月梅雨前線豪雨を基準として、毎秒7,000トンの洪水を市房ダムとの連携によって毎秒3,000トン調節し、残りを堤防の新設・改修や河道の拡張・掘削によって賄う。不特定利水については川辺川がアユの豊富な漁場であること、また球磨川が人吉の観光の目玉でもある球磨川下りを行うことから下流の相良村柳瀬地点においてアユ漁が盛んになる毎年7月から10月までの間毎秒7トン、それ以外の期間は毎秒4トンの河川維持放流を行い渇水によるアユ生育阻害を防ぐと共に、人吉市において球磨川下りのシーズンである毎年4月から11月10日に掛けては毎秒22トン、それ以外の期間は毎秒18トンを放流して球磨川下りの運行を補助し、かつ球磨川の河川環境を一定に保つ。これらの目的は現在においても基本的には変わっていない。", + "qas": [ + { + "question": "「日本最後のアーチダム」とは何を指すか。", + "id": "tr-239-02-000", + "answers": [ + { + "text": "川辺川ダム", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "川辺川ダムの建設の目的はいくつあるか。", + "id": "tr-239-02-001", + "answers": [ + { + "text": "四つ", + "answer_start": 138, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "川辺川ダムの建設の目的には洪水調節、不特定利水、灌漑、そして何があるか。", + "id": "tr-239-02-002", + "answers": [ + { + "text": "水力発電", + "answer_start": 133, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "川辺川ダムは当初1976年の完成を目標としていたが、その後の事業変更で1981年、1993年、2000年そして2008年の完成目標へと四度も完成予定を延期させていった。だが2008年に至っても本体工事には着手できていない。その原因は強固な反対運動が長年続いているためである。九州地方におけるダム反対運動といえば1958年から13年にわたって続いた大分県・熊本県の松原ダム(筑後川)・下筌ダム(津江川)反対運動である「蜂の巣城紛争」が有名であるが、川辺川ダムのそれは蜂の巣城運動を遥かに超える40年近くもの反対運動が続いている。このため一向に着手できないダム事業の代名詞として「東の八ッ場、西の川辺川と関係者の間ではささやかれている。川辺川ダム建設計画がここまで膠着した状況に陥っている要因として、一つは「ダム事業により生じる補償案への賛否」、二つ目には「ダム事業そのものに対する賛否」、そして「ダム建設に基づく利水計画への賛否」が複雑に絡み合っていることが挙げられる。", + "qas": [ + { + "question": "川辺川ダムの最初の完工目標年度はいつだったか。", + "id": "tr-239-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1976年", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "川辺川ダムの完成目標は1976年から2008年にまで何度延期されましたか。", + "id": "tr-239-03-001", + "answers": [ + { + "text": "四度", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "川辺川ダムg2008年になっても完成されていない原因は何ですか。", + "id": "tr-239-03-002", + "answers": [ + { + "text": "反対運動", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "蜂の巣城紛争と川辺川ダムの反対運動と、どっちの方がもっと長く続いた?", + "id": "tr-239-03-003", + "answers": [ + { + "text": "川辺川ダム", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1966年に川辺川ダム計画が発表されたが、水没予定となる五木村は即座に「ダム絶対反対」の意思を表明した。ダムは相良村に建設されるが水没予定地のほとんどは五木村であり、かつ町役場など主要公共機関が集中する中心部落の頭地部落など403戸・528世帯が水没する。この水没世帯数は東京都の小河内ダム(多摩川)の945世帯、岩手県の湯田ダム(和賀川)の622世帯、奈良県の池原ダム(北山川)の529戸、岐阜県の徳山ダム(揖斐川)の466戸に次ぐ日本では第5番目の大規模な水没対象となる。またダム自体は相良村に建設されることでダム完成後の莫大な固定資産税は相良村に払われ、五木村には払われない。こうしたことから五木村の存亡にかかわり、かつ村には何のメリットもないダム計画であることからダム計画の発表と同時に五木村と五木村議会は決議を以ってダム計画に反対する姿勢を明確にした。これ以後五木村は建設省との交渉を拒絶、建設省関係者の立ち入りも一切拒んだ。", + "qas": [ + { + "question": "小河内ダム、湯田ダム、池原ダムの中、最も多い水没世帯数を産んだのはどれ?", + "id": "tr-239-04-000", + "answers": [ + { + "text": "小河内ダム", + "answer_start": 140, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "テキストに従うと、川辺川ダムの建設により固定資産税が払われるは相良村か、それとも五木村か。", + "id": "tr-239-04-001", + "answers": [ + { + "text": "相良村", + "answer_start": 245, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "最大の論点となったのは治水効果についてである。反対派は国土交通省が定めた計画高水流量が過大であるとし、川辺川ダム建設を前提にした空論であると指摘した。また昭和40年の豪雨は市房ダムの放流が被害を拡大させたとして、「ダムが水害を招いた」と非難した。実際人吉市では市房ダム完成以前はせいぜい膝までしか浸水しなかったのが、ダム完成以後人の背丈以上に浸水するようになったという被災住民の話を紹介し、水害を招くダムは不要であると説いた。また、下流の八代市についても萩原にある通称「萩原堤防」は200年以上も破堤していないとし、球磨川の治水にはダムは不要であると論じた。そして球磨川のこれからの治水についてはヨーロッパ型のダムに拠らない治水対策を図るのが最良として森林の整備による保水力の増強で計画高水流量が30パーセント減少するとしたほか、未改修部分への堤防整備と河岸補強、遊水池の人吉盆地への建設、そして球磨川水系における全てのダム撤去を行うべきと主張した。最終的には球磨川は熊本県だけを流れていることから、国の管理ではなく熊本県が管理する、すなわち一級水系から二級水系へ変更させるというのが彼らの到達目標でもある。一方国土交通省は計画高水流量については過去の降雨量や洪水量、地形を分析した結果算出したとしてデータを提示して反論。またダムによる水害増幅についてはダム単独での治水には限界があると認めながらもそれを防止するために川辺川ダムの建設は必要とし、その上で堤防の増強や河岸補強を実施するとしており、河川改修だけでは洪水被害を回避できないとした。また森林整備については間伐の必要性は認めたが森林整備だけでは水害を防止できないとした。そして遊水地建設とダム撤去については多大な費用や補償案件の発生、環境への影響が未知数であるとして非現実的と一蹴した。", + "qas": [ + { + "question": "昭和40年の豪雨は市房ダムの放流が被害を拡大させたとして、「ダムが水害を招いた」と非難したのはどの団体か。", + "id": "tr-239-05-000", + "answers": [ + { + "text": "反対派", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ダムによる水害増幅についてはダム単独での治水には限界があると認めながらもそれを防止するために川辺川ダムの建設は必要だと主張したのはどの団体か。", + "id": "tr-239-05-001", + "answers": [ + { + "text": "国土交通省", + "answer_start": 506, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "水力発電について反対派は、川辺川ダムに水没する水力発電所の総出力数は15,900キロワット、一方川辺川ダムによって新たに生み出される電力は16,500キロワットでありダム建設によって生まれる新しい電力はわずか600キロワットにしかならず、電源開発を行う意味がないと主張した。また水力発電用ダムが球磨川の環境を破壊していると指摘、ダムを撤去してよりクリーンな太陽光発電や風力発電を積極的に導入すべきだとした。しかしながら上記の発電所とは、チッソが水俣工場に送電するための私企業の発電所であり住民用の物ではない。また太陽光発電にはコスト・発電効率の面でまだ難があり、風力発電にしても常時かなり強い風が吹いていなければ電力を賄うことは容易ではない。", + "qas": [ + { + "question": "反対派の主張によると、川辺川ダムの建設によって生じる電力は、結果的には何キロワットに過ぎないか。", + "id": "tr-239-06-000", + "answers": [ + { + "text": "600キロワット", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "エドワード7世(イギリス王)", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "エドワード7世は、サクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝の初代イギリス国王、インド皇帝である。\n\n母であるヴィクトリア女王の在位が長期にわたったため、2020年1月1日現在の王太子であるチャールズに次いで長くプリンス・オブ・ウェールズの立場にあった。\n\n在位は1901年から1910年までの10年足らずであったが、その治世は「エドワード朝(Edwardianera)」と呼ばれる。在位中は1905年まで保守党(ソールズベリー侯爵とバルフォア)、その後は自由党(キャンベル=バナマンとアスキス)が政権を担当した。彼の治世下に日英同盟、英仏協商、英露協商が締結され、日本・フランス・ロシアとの関係が強化されたため、「ピースメーカー」と呼ばれた。\n\n王妃はデンマーク国王クリスチャン9世の娘アレクサンドラである。", + "qas": [ + { + "question": "エドワード7世の母は誰?", + "id": "tr-240-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ヴィクトリア女王", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「エドワード朝(Edwardianera)」とは誰が在位していた時代を指しますか。", + "id": "tr-240-00-001", + "answers": [ + { + "text": "エドワード7世", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "エドワード7世は日英同盟、英仏協商、英露協商を締結したことで、何と呼ばれましたか。", + "id": "tr-240-00-002", + "answers": [ + { + "text": "「ピースメーカー」", + "answer_start": 303, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "エドワード7世の王妃は誰?", + "id": "tr-240-00-003", + "answers": [ + { + "text": "アレクサンドラ", + "answer_start": 340, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "エドワード7世は、1841年11月9日、ヴィクトリア女王とその王配アルバート公子の第2子として生まれる。同年12月4日にプリンス・オブ・ウェールズの称号を得る。1842年1月25日に洗礼を受け、「アルバート・エドワード」と名付けられた。「バーティ」と愛称された。\n\n幼少期・少年期は母と父の厳格な教育方針のもと家庭教育で育てられた。1852年にはベルギー、1855年にはフランスを訪問した。1859年1月から5月にかけてはイタリアに留学した。\n\n同年10月にオックスフォード大学に入学した。在学中の1860年7月から11月まで英領カナダ(英語版)やアメリカ合衆国各地を歴訪した。1861年夏に陸軍に入隊。同年10月にはケンブリッジ大学へ転校した。不良行為が多く、11月には父アルバートが体調が悪いのを押してケンブリッジを訪問し、説教された。これが原因でアルバートは体調を悪化させ、12月に崩じた。以降女王はバーティを疎むようになり、公務から遠ざけるようになった(→大学時代)。", + "qas": [ + { + "question": "エドワード7世は何年にプリンス・オブ・ウェールズの称号を得たか。", + "id": "tr-240-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1841年", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "エドワード7世の愛称は何だった?", + "id": "tr-240-01-001", + "answers": [ + { + "text": "「バーティ」", + "answer_start": 118, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "エドワード7世は1859年1月から5月にかけて、どの国にいたの?", + "id": "tr-240-01-002", + "answers": [ + { + "text": "イタリア", + "answer_start": 211, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "エドワード7世は何年にオックスフォード大学に入学したか。", + "id": "tr-240-01-003", + "answers": [ + { + "text": "1859年", + "answer_start": 195, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "エドワード7世は1863年3月にデンマーク王女アレクサンドラと結婚した。1864年に妻の母国デンマークとプロイセン・オーストリアの���に第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争が勃発し、彼はデンマークを助けようと同戦争の仲裁のための国際会議ロンドン会議開催を後援したが、同会議は失敗に終わり、結局デンマークはシュレースヴィヒとホルシュタインを失った。これをきっかけにバーティ夫妻は反プロイセン派になった。\n\n1866年11月、ロシア皇子アレクサンドルとデンマーク王女マリー・ダウマーの結婚式に出席するため訪露。さらに1867年6月のパリ万国博覧会に際してロシア皇帝にガーター勲章を授与することに尽力し、ロシア皇室との親善を図った。1869年1月からはエジプト、トルコ、ギリシャの三か国を訪問した。同年のサー・チャールズ・モーダント准男爵の離婚訴訟をめぐって証人として出廷する事態になり、世間から王太子としての資質を疑われた。女王がアルバート崩御後に引きこもったこともあって、王室人気は危機に瀕した(→モーダント離婚訴訟事件)。しかし1871年11月から12月にかけて腸チフスを患って命の危機に瀕したところ、劇的に回復したことで人気を回復した(→腸チフスからの回復)。", + "qas": [ + { + "question": "エドワード7世は誰と結婚したの?", + "id": "tr-240-02-000", + "answers": [ + { + "text": "アレクサンドラ", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アレクサンドラの母国はどこなの?", + "id": "tr-240-02-001", + "answers": [ + { + "text": "デンマーク", + "answer_start": 46, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争は何年に勃発したか。", + "id": "tr-240-02-002", + "answers": [ + { + "text": "1864年", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "エドワード7世がサー・チャールズ・モーダント准男爵の離婚訴訟をめぐって証人として出廷したのは何年のことですか。", + "id": "tr-240-02-003", + "answers": [ + { + "text": "1869年", + "answer_start": 315, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "エドワード7世は、1891年初頭にはロイヤル・バカラ・スキャンダルをめぐって訴えられ、再び法廷に立つことになり、王太子批判が高まった。1892年1月には長男クラレンス公アルバート・エドワードが薨去した。以降は次男のヨーク公ジョージが彼の後継者となった。\n\n1901年1月22日に母ヴィクトリア女王が崩御し、59歳でイギリス国王に即位した。王名を「エドワード7世」に定め、王朝名をサクス=コバーグ・アンド・ゴータ朝に変更した。1902年8月9日にウェストミンスター寺院で戴冠式を挙行した。", + "qas": [ + { + "question": "クラレンス公アルバート・エドワードはいつ亡くなりましたか。", + "id": "tr-240-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1892年1月", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ヴィクトリア女王はいつ亡くなりましたか。", + "id": "tr-240-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1901年1月22日", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ヴィクトリア女王とクラレンス公アルバート・エドワードと、誰がより早く亡くなったか。", + "id": "tr-240-03-002", + "answers": [ + { + "text": "クラレンス公アルバート・エドワード", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "エドワード7世の戴冠式はどこで行われましたか。", + "id": "tr-240-03-003", + "answers": [ + { + "text": "ウェストミンスター寺院", + "answer_start": 222, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "エドワード7世の時代、外交では保守党政権期に第2次ボーア戦争が終結し、南アフリカを併合した。また極東においては中国分割をめぐって満洲占領・北中国の勢力圏化を推し進めるロシアを警戒し、日本と軍事同盟を締結した。日露戦争でも日本を支援した。フランスとも友好関係を深め、世界各地で発生していた英仏の植民地争奪戦を互譲的に解決し、英仏協商関係を築いた。さらに自由党政権時代にはロシアとも友好関係を深め、中央アジアのグレート・ゲームを互譲的に解決して英露協商関係を築く。しかしドイツとの関係は悪化の一途をたどり、彼の死から4年後に第一次世界大戦が勃発することになる。\n\nエドワード7世は過労で気管支炎を悪化させ、1910年5月6日に崩御した。", + "qas": [ + { + "question": "第一次世界大戦は、エドワード7世の死から何年後、勃発したか。", + "id": "tr-240-04-000", + "answers": [ + { + "text": "4年後", + "answer_start": 256, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "エドワード7世はいつ亡くなったか。", + "id": "tr-240-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1910年5月6日", + "answer_start": 301, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "エドワード7世は日露戦争でどの国を支援したか。", + "id": "tr-240-04-002", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 110, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "エドワード7世は1841年11月9日午前10時48分、ヴィクトリア女王とその王配アルバートの第2子としてロンドンのバッキンガム宮殿に生まれる。姉にヴィクトリアがおり、後に長妹アリス(1843年-1878年)、長弟アルフレッド(1844年-1900年)、次妹ヘレナ(1846年-1922年)、三妹ルイーズ(1848年-1939年)、次弟アーサー(1850年-1942年)、三弟レオポルド(1853年-1884年)、四妹ベアトリス(1857年-1944年)が生まれる。\n\n生誕とともにコーンウォール公爵に叙され、一月後の12月4日にはプリンス・オブ・ウェールズに叙される。\n\n1842年1月25日に聖ジョージ・チャペルで洗礼を受け、父アルバートと、ヴィクトリア女王の父であるケント公エドワードの名前を取って「アルバート・エドワード」と名付けられた。王室内ではアルバートの名から「バーティ(Bertie)」と愛称された。", + "qas": [ + { + "question": "「バーティ(Bertie)」とは誰を指す愛称ですか。", + "id": "tr-240-05-000", + "answers": [ + { + "text": "エドワード7世", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヘレナ、レオポルド、ベアトリスのうち、誰が一番あとで生まれたの?", + "id": "tr-240-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ベアトリス", + "answer_start": 208, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "エドワード7世の王室内での愛称は何でしたか。", + "id": "tr-240-05-002", + "answers": [ + { + "text": "「バーティ(Bertie)」", + "answer_start": 386, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "エドワード7世がプリンス・オブ・ウェールズに叙されたのは生まれてから何ヶ月後のことですか。", + "id": "tr-240-05-003", + "answers": [ + { + "text": "一月後", + "answer_start": 254, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ヴィクトリア女王の女官であるリトルトン男爵夫人サラ・リトルトンがバーティの乳母に付けられた。バーティはよく彼女になついたという。またイートン校教師ヘンリー・バーチが住み込みの家庭教師に付けられた。幼い頃のバーティはきかん坊だったというが、3歳年下の弟アルフレッドが一緒に勉強するようになると、弟のお手本になろうと勉学に励むようになったという。とりわけ��学に優れ、英語、ドイツ語、フランス語の3カ国語を完璧に話せるようになった。\n\n母も父も教育には厳格で、特に1858年に姉ヴィクトリアがプロイセンの第二位王位継承権者フリードリヒ王子に輿入れしてロンドンを去った後に両親の目はバーティに集中した。そのためバーティは息がつまりそうな生活を送ったという。", + "qas": [ + { + "question": "バーティの乳母は誰でしたか。", + "id": "tr-240-06-000", + "answers": [ + { + "text": "リトルトン男爵夫人サラ・リトルトン", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バーティは英語、ドイツ語、そして何語が話せましたか。", + "id": "tr-240-06-001", + "answers": [ + { + "text": "フランス語", + "answer_start": 189, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バーティは弟のアルフレッドより何歳上だった?", + "id": "tr-240-06-002", + "answers": [ + { + "text": "3歳", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "バーティの乳母は誰の女官でしたか。", + "id": "tr-240-06-003", + "answers": [ + { + "text": "ヴィクトリア女王", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "バーティは1852年に初の外国訪問として大叔父レオポルド1世が国王として統治するベルギーを訪問した。ついで1855年8月には両親とともにフランス帝国帝都パリを訪問した。フランス皇帝ナポレオン3世は当時皇子がなかったのでバーティを我が子のように可愛がってくれ、バーティはナポレオン3世と馬車に同乗した際に「貴方の息子に生まれたかった」と呟いたという。1857年から2、3年間、父アルバート王配の方針でロンドン南西リッチモンド・パーク内ホワイト・ロッジで過ごした。\n\nバーティは1859年1月から陸軍大佐ロバート・ブルースを補導役にしてイタリア半島教皇領ローマに留学した。フレデリック・レイトンはじめ多くの画家たちの知遇を得、またローマ教皇ピウス9世とも会見した。\n\nしかし4月にはイタリア統一戦争が勃発し、フランス軍がローマへ進駐してきたため、父アルバートから帰国を命じられた。これにより予定より2、3カ月早い5月初めに帰国した。", + "qas": [ + { + "question": "バーティが初めて外国を訪問したのは何年ですか。", + "id": "tr-240-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1852年", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1855年、フランスの皇帝は誰でしたか。", + "id": "tr-240-07-001", + "answers": [ + { + "text": "ナポレオン3世", + "answer_start": 90, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バーティはいつからローマに留学したの?", + "id": "tr-240-07-002", + "answers": [ + { + "text": "1859年1月", + "answer_start": 237, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イタリア統一戦争は何年に勃発したの?", + "id": "tr-240-07-003", + "answers": [ + { + "text": "1859年", + "answer_start": 237, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "バーティは帰国後の1859年10月からオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学した。彼はイギリス歴代国王で初めて大学で学んだ国王である。\n\n大学在学中の1860年7月、植民地大臣第5代ニューカッスル公爵ヘンリー・ペラム=クリントン、家政長官第3代セント・ジャーマンズ伯爵エドワード・エリオット、補導役ブルース少将を随伴して英領カナダを訪問した。カナダ各地をめぐり、オタワでは国会議事堂の定礎式に臨んだ。\n\n9月にはカナダからアメリカ合衆国へ入国した。3カ月かけてアメリカ各地を歴訪したが、アメリカでのバーティの知名度は抜群であり、各地で歓迎された。ワシントンのホワイトハウスでもジェームズ・ブキャナン大統領から歓待された。アメリカ南北戦争直前というタイミングでの訪米になった。", + "qas": [ + { + "question": "バーティが入学した大学は?", + "id": "tr-240-08-000", + "answers": [ + { + "text": "オックスフォード大学", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イギリス歴代国王で初めて大学で学んだ国王は誰ですか。", + "id": "tr-240-08-001", + "answers": [ + { + "text": "バーティ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "バーティは11月にイギリスへ帰国して大学に復学した。1861年夏には陸軍近衛歩兵連隊に入隊してアイルランドで訓練を受けたが、この際にアイルランドの女優ネリー・クリフデンと初性交し、恋愛関係になった。同年9月には美人で名高いデンマーク王族クリスチャンの娘アレクサンドラとお見合いしたが、やがてネリーとの関係が両親に知れた。またバーティは1861年10月に転校したケンブリッジ大学で御学友と組んでの不良行為が増えていた。そのため父アルバートは11月に体調悪化を押してバーティに説教するためにケンブリッジへやってきた。バーティは父の言いつけを守ると約束したが、アルバートはこの時に無理をしたことがたたり、腸チフスを悪化させて危篤状態に陥った。父の危篤を知ったバーティは12月14日午前3時にウィンザー城に駆け付けた。父は瀕死の状態だったが、バーティの顔を見ると安心したような表情になったという。同日午後11時にアルバートは崩御した。これをきっかけに母ヴィクトリアは「できそこない」のバーティのせいでアルバートが死んだと考えるようになり、バーティを公務から遠ざけるようになった。", + "qas": [ + { + "question": "バーティはいつケンブリッジ大学に転校したの?", + "id": "tr-240-09-000", + "answers": [ + { + "text": "1861年10月", + "answer_start": 167, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バーティの父は何月何日に亡くなりましたか。", + "id": "tr-240-09-001", + "answers": [ + { + "text": "12月14日", + "answer_start": 331, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バーティは何年にアレクサンドラとお見合いしたか。", + "id": "tr-240-09-002", + "answers": [ + { + "text": "1861年", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バーティのお見合い相手はどの国の王族ですか。", + "id": "tr-240-09-003", + "answers": [ + { + "text": "デンマーク", + "answer_start": 111, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "バーティは1863年3月にウィンザー城のセント・ジョージ・チャペルでアリックスと結婚した。二人はセント・ジェームズ宮殿近くのマールバラ邸で新婚生活を始めた。またノーフォークにサンドリンガム邸を購入した。夫妻は長男アルバート・ヴィクター・クリスチャン・エドワード、次男ジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバートはじめ二男三女に恵まれた。\n\n同年11月には岳父クリスチャンがクリスチャン9世としてデンマーク王に即位した。当時デンマークはシュレースヴィヒ公国やホルシュタイン公国と同君連合の関係にあったが、両公国のドイツ人住民の間でドイツ・ナショナリズムが高まっており、デンマーク君主を戴くことに反発が強まった。このドイツ世論を背景にプロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクはオーストリアと連携して1864年2月から第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を開始した。", + "qas": [ + { + "question": "第二次シュレー���ヴィヒ=ホルシュタイン戦争はいつ勃発したか。", + "id": "tr-240-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1864年2月", + "answer_start": 349, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "バーティの結婚式はどの城で行われたか。", + "id": "tr-240-10-001", + "answers": [ + { + "text": "ウィンザー城", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クリスチャンがクリスチャン9世は何年にデンマーク王に即位したか。", + "id": "tr-240-10-002", + "answers": [ + { + "text": "1863年", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バーティの長男は誰?", + "id": "tr-240-10-003", + "answers": [ + { + "text": "アルバート・ヴィクター・クリスチャン・エドワード", + "answer_start": 106, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1866年11月、ロシア皇帝アレクサンドル2世の次男アレクサンドル皇子がデンマーク王女マリー・ダウマーと結婚した。ミニーはアリックスの妹であり、この結婚式にはバーティも出席したがっていたが、英露関係はクリミア戦争やアジアにおける植民地争いのために悪化していたため、女王が強硬に反対した。だが時の保守党政権の首相第14代ダービー伯爵エドワード・スミス=スタンリーはロシアとの関係改善を企図していたので皇太子訪露に前向きであり、女王の説得にあたった。その結果、バーティは11月6日にロシアを訪問することになった。ロシア側は英皇太子の訪露が実現するか固唾をのんで見守っていたのでバーティ訪問が決定すると大喜びし、皇帝自らが駅まで出迎える大歓迎を行った。11月9日の結婚式でも特等席に案内された。", + "qas": [ + { + "question": "アレクサンドル皇子とマリー・ダウマーはいつ結婚したか。", + "id": "tr-240-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1866年11月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ミニーが年上なの、アリックスが年上なの?", + "id": "tr-240-11-001", + "answers": [ + { + "text": "アリックス", + "answer_start": 61, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1871年11月末にバーティは父アルバートの死因となった腸チフスを患い、12月に入ると危篤状態に陥った。これには共和政への移行を論じていた新聞や雑誌も含めて国中が心配した。普段はバーティに厳しい女王もこの時ばかりは2週間にわたってバーティの看病に付きっきりになった。\n\nちょうどアルバートの命日の12月14日にバーティは奇跡的に意識を取り戻し、以降病状は快方に向かった。まるで亡きアルバートがバーティを救ったかのような劇的な展開に国中が歓喜した。首相グラッドストンはこれを王室人気を回復させる好機と見て、女王の許可も得て1872年2月27日にセント・ポール大聖堂で1万2000人を招待した皇太子回復感謝礼拝を挙行した。礼拝を終えて宮殿へ戻る女王とバーティは、沿道に集まった人々から「女王陛下万歳」「皇太子殿下万歳」という熱狂的な歓声を受けた。これにより王室廃止論はほぼ吹き飛んだ。", + "qas": [ + { + "question": "バーティの父の死因は何だった?", + "id": "tr-240-12-000", + "answers": [ + { + "text": "腸チフス", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1872年2月27日に行われた皇太子回復感謝礼拝には何人が招待されたか。", + "id": "tr-240-12-001", + "answers": [ + { + "text": "1万2000人", + "answer_start": 282, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1872年2月27日の皇太子回復感謝礼拝はどこで行われたの?", + "id": "tr-240-12-002", + "answers": [ + { + "text": "セント・ポール大聖堂", + "answer_start": 271, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1874年1月には長弟エディンバラ公アルフレッドがロシア皇帝アレクサンドル2世の娘マリアと結婚することになった。結婚式はロシアでロシア正教に則って行われることになったが、ヴィクトリア女王はこれに不満であった。しかしバーティはその結婚式への出席を希望し、女王の説得にあたった。\n\nアレクサンドル2世はこれを機にバーティにロシア陸軍「名誉連隊長」の称号を贈りたいとイギリス側に打診したが、女王もグラッドストン首相も慎重だった。結局バーティは結婚式には出席するが、名誉連隊長は辞退することになった。1874年1月にサンクト・ペテルブルクに到着したバーティと次弟アーサーは、そこでロシア皇帝以下全ロシア皇族そろっての出迎えを受け、ロシア皇室との親交に尽力した。", + "qas": [ + { + "question": "エディンバラ公アルフレッドは誰と結婚することになったの?", + "id": "tr-240-13-000", + "answers": [ + { + "text": "マリア", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マリアの父は誰ですか。", + "id": "tr-240-13-001", + "answers": [ + { + "text": "アレクサンドル2世", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1881年3月にロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺された。バーティはその葬儀への出席を希望した。また新皇帝アレクサンドル3世にガーター勲章を与える使節団の団長になることも希望した。女王もアルフレッドの舅であるロシア皇帝が殺害されたことに衝撃を受けていたので、これを了承した。第2次グラッドストン内閣外相グランヴィル伯爵も支持したのでバーティの訪露が決まった。\n\n3月24日にサンクト・ペテルブルクに到着したバーティは葬儀に出席した後の3月28日にアレクサンドル3世にガーター勲章を授与した。君主が死んだあと、ただちに次の君主にガーター勲章が授与されるというのはよほどイギリス王室と親しい関係にある場合のみであり、これはバーティの治世における英露の親密な関係の前兆だった。", + "qas": [ + { + "question": "ロシア皇帝アレクサンドル2世は何年に死亡したか。", + "id": "tr-240-14-000", + "answers": [ + { + "text": "1881年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "バーティはいつアレクサンドル3世にガーター勲章を授与したか。", + "id": "tr-240-14-001", + "answers": [ + { + "text": "3月28日", + "answer_start": 217, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "アメリカ独立戦争", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "アメリカ独立戦争(アメリカどくりつせんそう、英:AmericanWarofIndependence)は、1775年4月19日から1783年9月3日までの、イギリス本国(グレートブリテン王国)とアメリカ東部沿岸のイギリス領の13植民地との戦争である。現在のアメリカではアメリカ独立革命(英:AmericanRevolution)もしくは革命戦争(英:RevolutionaryWar)と呼ばれ、主にイギリスではアメリカ独立戦争と呼ばれている。なお、日本の歴史教科書では、「アメリカ独立戦争」と表記することもあれば、単に「独立戦争」と表記することもある。", + "qas": [ + { + "question": "アメリカ独立戦争は、いつからいつまで行われたか?", + "id": "tr-241-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1775年4月19日から1783年9月3日", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アメリカ独立戦争という名称は、どの国でよく使われる名称か?", + "id": "tr-241-00-001", + "answers": [ + { + "text": "イギリス", + "answer_start": 198, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アメリカでは、アメリカ独立戦争のことを意味する別称として、アメリカ独立革命と何が使われるか?", + "id": "tr-241-00-002", + "answers": [ + { + "text": "革命戦争", + "answer_start": 167, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アメリカ独立戦争の主な戦場となったのは、現在のどの国か?", + "id": "tr-241-00-003", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ", + "answer_start": 127, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "この戦争によって、植民地住民はイギリスの支配を拒否しアメリカを政治的独立に導くことに成功した。1775年、革命派は13植民地政府の全てを掌握すると共に、主に政治と立法を担当する第二次大陸会議と軍事を担当する大陸軍を発足させた。翌年、アメリカ独立宣言を発して、正式にアメリカ合衆国という国家を形作った。戦争の全期間を通して、イギリスは優勢な海軍力によってアメリカ東海岸沿海を制し、海岸に近い幾つかの都市を占領したが、陸軍の兵数は比較的少なく、支配地域は限定的であった。", + "qas": [ + { + "question": "革命派が13植民地政府の全てを掌握し、第二次大陸会議と大陸軍を発足したのは、何年のこと?", + "id": "tr-241-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1775年", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1775年、革命派が発足させた、軍事を担当する機関は、何でしたか?", + "id": "tr-241-01-001", + "answers": [ + { + "text": "大陸軍", + "answer_start": 103, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アメリカ合衆国という国家の正式な成立は、どの宣言によることだったか?", + "id": "tr-241-01-002", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ独立宣言", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "イギリス軍において、海軍と陸軍のうち、より優れていた兵科は、どちらか?", + "id": "tr-241-01-003", + "answers": [ + { + "text": "海軍", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "アメリカ大陸軍がサラトガの戦いで勝利して間もない1778年、フランスがアメリカ側に付いて参戦した。スペインやネーデルラント連邦共和国(オランダ)もその後の2年以内にアメリカ側に付いた。1781年にフランス海軍がチェサピーク湾の海戦で勝利したことをきっかけに、アメリカ大陸軍とフランス王国発遣軍はヨークタウンの戦いでイギリス軍を降伏させ、実質的な戦闘は終了した。1783年のパリ条約で戦争は終結し、イギリスはアメリカ合衆国の独立を認めた。", + "qas": [ + { + "question": "サラトガの戦いで勝利したのは、どの軍だったの?", + "id": "tr-241-02-000", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ大陸軍", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フランスがこの戦争に参戦したのは、何年のことですか?", + "id": "tr-241-02-001", + "answers": [ + { + "text": "1778年", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戦争を終結させた条約は、何か?", + "id": "tr-241-02-002", + "answers": [ + { + "text": "パリ条約", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フランスとスペイン、ネーデルラント連邦共和国のうち、この戦争に参戦した時期か最も早い国は、どちらか?", + "id": "tr-241-02-003", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "アメリカ植民地が独立への道を歩み始めたそもそものきっかけはイギリス本国による課税の強化にあり、それはフレンチ・インディアン戦争(1754-1763)による財政危機の解消を目的としたものであった。イギリス政府は1764年に砂糖法、1765年には印紙法を成立させて植民地からの税収増を図ったが、特に印紙法はアメリカで広範な反対運動を呼び起こし、撤廃に追い込まれた。", + "qas": [ + { + "question": "アメリカ植民地において独立の意志が強まったのは、イギリスがどの戦争による財政問題を解消しようとする政策を出したことによるか?", + "id": "tr-241-03-000", + "answers": [ + { + "text": "フレンチ・インディアン戦争", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "砂糖法と印紙法のうち、より早く成立した法案は、何?", + "id": "tr-241-03-001", + "answers": [ + { + "text": "砂糖法", + "answer_start": 110, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "イギリス政府が課税の強化のために出した法案の中で、アメリカ植民地から特に反発された法案は、何か?", + "id": "tr-241-03-002", + "answers": [ + { + "text": "印紙法", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "イギリス政府が砂糖法と印紙法を成立させたのは、何の強化のためでしたか?", + "id": "tr-241-03-003", + "answers": [ + { + "text": "課税", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1767年にイギリス本国議会がタウンゼンド諸法を制定して植民地へ新たに税を課そうと試みると、またも反対運動が盛り上がり、1770年にタウンゼンド関税も撤廃された。だが、このとき茶に対する課税は廃止されず、本国の茶は植民地の不満の象徴となった。1773年の茶法によって東インド会社のお茶が安く植民地に流入することになると植民地商人の怒りは頂点に達し、1773年12月にはボストン港停泊中の東インド会社船に暴徒が乱入し、積載されていた茶を海に投棄した(ボストン茶会事件)。", + "qas": [ + { + "question": "1767年にイギリス本国議会により制定された法案が、撤廃されたのは、何年なの?", + "id": "tr-241-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1770年", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "タウンゼンド諸法と茶法のうち、より早く成立された法案は、何ですか?", + "id": "tr-241-04-001", + "answers": [ + { + "text": "タウンゼンド諸法", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1773年12月に発生したボストン茶会事件は、どの法に対する植民地商人の怒りが噴出されたことだったか?", + "id": "tr-241-04-002", + "answers": [ + { + "text": "茶法", + "answer_start": 127, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アメリカ植民地で、茶法への反発から発生した事件とは、どこの港において発生した事件だったか?", + "id": "tr-241-04-003", + "answers": [ + { + "text": "ボストン", + "answer_start": 184, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1774年、イギリス議会は植民地に対して次々と懲罰的な立法措置を行なった。こうした危機にチャタム伯ウィリアム・ピット(大ピット)は滞英中のベンジャミン・フランクリンと協力して議会に植民地と和解するようはたらきかけた。しかし、首相フレデリック・ノー��は国王ジョージ3世の強い意志を背景に植民地に強い態度で臨む決意だった。一連のイギリス側の政策に対し、13植民地は対策協議のために大陸会議を開いて本国との和解の道を探ったが、打開できないままであった。", + "qas": [ + { + "question": "ウィリアム・ピットとともに、イギリス議会に対し、アメリカ植民地と和解するよう働きかけたのは、誰なの?", + "id": "tr-241-05-000", + "answers": [ + { + "text": "ベンジャミン・フランクリン", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ベンジャミン・フランクリンは、この時、どの国に滞在中でしたか?", + "id": "tr-241-05-001", + "answers": [ + { + "text": "イギリス", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "当時のイギリス国王は、誰か?", + "id": "tr-241-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ジョージ3世", + "answer_start": 127, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イギリスとアメリカ植民地のうち、相手側に対し、より強硬に対応しようとしたのは、どちらか?", + "id": "tr-241-05-003", + "answers": [ + { + "text": "イギリス", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "戦争が始まったとき、アメリカには職業的な陸軍も海軍も無く、各植民地には地元の民兵隊が存在するのみで、これが自らの地域防衛にあたっていた。独立戦争前のアメリカでは、イギリス軍が各植民地の民兵隊を補助的に用いていた。開戦時、一部を除いてこの民兵隊のほぼ全てがアメリカ軍に加わった。民兵の装備は簡単なものであり、ほとんど訓練されておらず、通常は制服も無かった。当時、民兵の従軍期間は数週間から数か月間に限られており、家から遠く離れた所へは行きたがらなかったので、通常大規模な作戦には使えなかった。民兵には正規兵のような訓練や規律が欠けていたが数では勝り、レキシントン・コンコードの戦い、ベニントンの戦いとサラトガ、さらにボストン包囲戦では正規兵を打ち負かすことができた。米英両軍共にゲリラ戦を用いたが、アメリカ軍はイギリス軍正規兵がいない地域で効果的に王党派の活動を抑えた。", + "qas": [ + { + "question": "アメリカの各植民地における地域防衛は、何と呼ばれる部隊が担ったいたの?", + "id": "tr-241-06-000", + "answers": [ + { + "text": "民兵隊", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アメリカ軍所属の民兵隊が、イギリス軍との戦闘に勝利できたのは、どの面においてはイギリス軍より優勢だったからですか?", + "id": "tr-241-06-001", + "answers": [ + { + "text": "数", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アメリカ軍とイギリス軍のうち、より鍛えられていたのは、どちらか?", + "id": "tr-241-06-002", + "answers": [ + { + "text": "イギリス軍", + "answer_start": 354, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "王党派とは、アメリカ軍とイギリス軍のうち、どちらについていた勢力か?", + "id": "tr-241-06-003", + "answers": [ + { + "text": "イギリス軍", + "answer_start": 354, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1775年6月、組織だった作戦行動をとるため、大陸会議は正規軍を(紙の上で)設立しジョージ・ワシントンを総司令官に任命した。大陸軍が成長を続ける中、ワシントンは正規軍と民兵の両方を使い続けた。1775年10月13日、大陸会議が大陸海軍のための艦船建造に承認を与えられたことによりアメリカ海��が発足、この時4隻の武装船の購入および艤装が認められた。アメリカ海兵隊の前身である大陸海兵隊も1775年11月10日の大陸会議決議により結成され、フィラデルフィアのタン酒場を最初の本拠にした。1783年の終戦時、大陸海軍と大陸海兵隊は解体された。独立戦争を通じ、延べ約25万人の兵士が正規兵または民兵として従軍したが、どの期間においても武装した兵士は9万人を越える事は無かった。陸軍は当時のヨーロッパの標準的な軍隊から考えれば小さなものだった。ワシントンが自ら戦場で指揮した兵士の数は一番多いときでも17,000名足らずであった。これは、戦術的選択の結果であったが、アメリカ軍が弾薬に不足していたために多くの兵士を一度に使えなかった側面も存在した。", + "qas": [ + { + "question": "アメリカにおいて正規軍が誕生したのは、いつのこと?", + "id": "tr-241-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1775年6月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アメリカ正規軍の初代総司令官は、誰ですか?", + "id": "tr-241-07-001", + "answers": [ + { + "text": "ジョージ・ワシントン", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "アメリカ海軍が発足されたのは、いつのことか?", + "id": "tr-241-07-002", + "answers": [ + { + "text": "1775年10月13日", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "正規軍とアメリカ海軍のうち、より早く発足されたのは、どちらか?", + "id": "tr-241-07-003", + "answers": [ + { + "text": "正規軍", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1775年の初期、イギリス陸軍は世界で36,000名いたが、戦時には徴募によって確実にこの数字を増やしていた。さらにアメリカ独立戦争のときは、ドイツ諸侯から30,000名の兵士を雇用した。この兵士の多くはヘッセン=カッセル方伯領から来ていたので、「ヘシアン」すなわちヘッセン人と呼ばれた。この軍隊は主君に雇われた職業軍人という意味で傭兵軍であった。ドイツ兵は北アメリカでのイギリス軍兵力の3分の1を占めた。1779年までに北アメリカに駐屯するイギリス兵とドイツ兵の総数は6万名を超えた。ただし、カナダからフロリダまで分散した形になっていた。", + "qas": [ + { + "question": "1775年の初期とアメリカ独立戦争のときのうち、イギリス陸軍に属する兵力がより多かったのは、どちらの時期なの?", + "id": "tr-241-08-000", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ独立戦争のとき", + "answer_start": 58, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "イギリスとドイツのうち、どこ出身の者がアメリカ独立戦争時にイギリス陸軍としてより多く動員されましたか?", + "id": "tr-241-08-001", + "answers": [ + { + "text": "イギリス", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ドイツ諸侯から雇用した兵士のほとんどを占めたのは、どこからの兵士だったか?", + "id": "tr-241-08-002", + "answers": [ + { + "text": "ヘッセン=カッセル方伯領", + "answer_start": 102, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アメリカでのイギリス軍兵力の最も多くを占めたのは、どの国の所属の兵士たちだったか?", + "id": "tr-241-08-003", + "answers": [ + { + "text": "イギリス", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "アフリカ系アメリカ人は解放奴隷も奴隷のままの者も米英両軍ともに従軍した。イギリス軍は積極的に愛国者を主人に持つ奴隷を徴募した。大陸軍側におい��も、1776年1月、人員不足解消のためジョージ・ワシントンは奴隷徴募の禁止令を撤廃した。ロードアイランドとマサチューセッツでは小さいながらも全て黒人の部隊が作られた。またフランス軍と共にハイチから全て黒人の部隊が参戦した。少なくとも5,000名の黒人が革命軍側で、2万人以上がイギリス軍に従軍した。", + "qas": [ + { + "question": "大陸軍側で奴隷徴募の禁止令が撤廃されたのは、いつのことなの?", + "id": "tr-241-09-000", + "answers": [ + { + "text": "1776年1月", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ジョージ・ワシントンは、人員不足解消のために、どのような人々も動員しようとしましたか?", + "id": "tr-241-09-001", + "answers": [ + { + "text": "奴隷", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "黒人部隊が編成されたのは、ロードアイランドとどこか?", + "id": "tr-241-09-002", + "answers": [ + { + "text": "マサチューセッツ", + "answer_start": 124, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "革命軍とイギリス軍のうち、アフリカ系アメリカ人はどちら側により多く従軍したか?", + "id": "tr-241-09-003", + "answers": [ + { + "text": "イギリス軍", + "answer_start": 209, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "開戦前のボストンでは反抗的活動が続き、1774年にイギリス政府は懲罰のためマサチューセッツ統治法を制定して自治を取り上げた。しかし、この政策は民衆の間に反発を広げる結果となり、新たに本国から任命された役人は辞職したり暴徒に追われてボストン市内を逃げ惑うことになった。イギリス軍北アメリカ総司令官になったトマス・ゲイジ中将はボストン市内の本部からイギリス正規兵4個連隊を指揮していたが、市内を外れれば革命勢力の手中にあった。", + "qas": [ + { + "question": "マサチューセッツ統治法は、いつ制定されたの?", + "id": "tr-241-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1774年", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "当時のイギリス軍北アメリカ総司令官は、誰でしたか?", + "id": "tr-241-10-001", + "answers": [ + { + "text": "トマス・ゲイジ", + "answer_start": 151, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1775年4月18日の夜、ゲイジ将軍はマサチューセッツ州コンコードに植民地民兵が保管している弾薬を押収するために700名の部隊を派遣した。革命勢力に属するポール・リビアなどの伝令が郊外の町を駆け回り、イギリス軍が出動したという警告を伝えた。4月19日の朝、イギリス軍がレキシントンの村に入ると、77名の民兵が村の緑地に待ち構えていた。銃火が交わされ、数人の民兵が殺された。「1発の銃声が世界を変えた」という出来事であった。イギリス軍はコンコードに移動し、3個中隊の分遣隊がノースブリッジで500名の民兵軍と戦ったが成果を上げられなかった。イギリス軍がボストンに引き揚げ始めると、数千に及ぶ民兵が集まってきて、道路沿いからイギリス軍を攻撃し大きな損失を与えたが、イギリス軍は援兵が到着し壊滅を免れた。このレキシントン・コンコードの戦いで独立戦争が始まった。", + "qas": [ + { + "question": "1775年4月18日の夜、ゲイジは、どの町に保管されている弾薬を押収するために、部隊を派遣したか?", + "id": "tr-241-11-000", + "answers": [ + { + "text": "コンコード", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "レキシントン・コンコードの戦いが勃発したのは、いつか?", + "id": "tr-241-11-001", + "answers": [ + { + "text": "4月19日の朝", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "独立戦争の始まりとされる戦闘は、何か?", + "id": "tr-241-11-002", + "answers": [ + { + "text": "レキシントン・コンコードの戦い", + "answer_start": 351, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "レキシントン・コンコードの戦いで勝利したのは、どの軍だったか?", + "id": "tr-241-11-003", + "answers": [ + { + "text": "民兵軍", + "answer_start": 249, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "民兵達はボストンに集結し、ボストン包囲戦が始まった。約4,500名のイギリス援兵が大西洋を渡って到着し、1775年6月17日、ウィリアム・ハウ将軍の指揮するイギリス軍がバンカーヒルの戦いでチャールズタウンの半島を占拠した。アメリカ軍は後退したが、イギリス軍の損失が大きく次の攻撃に移ることが躊躇された。包囲戦は破られず、イギリス軍の指揮官はゲイジからハウに挿げ替えられた。", + "qas": [ + { + "question": "バンカーヒルの戦いが勃発したのは、いつのことなの?", + "id": "tr-241-12-000", + "answers": [ + { + "text": "1775年6月17日", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "バンカーヒルの戦いでイギリス軍は、どこを占拠しましたか?", + "id": "tr-241-12-001", + "answers": [ + { + "text": "チャールズタウンの半島", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バンカーヒルの戦いでイギリス軍の指揮を執ったのは、誰か?", + "id": "tr-241-12-002", + "answers": [ + { + "text": "ウィリアム・ハウ", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "バンカーヒルの戦いは、イギリス軍とどの軍の間で発生した戦闘なのか?", + "id": "tr-241-12-003", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ軍", + "answer_start": 111, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "浅虫温泉", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "浅虫温泉は、青森県青森市浅虫にある温泉だ。海水浴やスキー、水族館や遊園地といったさまざまなレジャー施設も兼ね備えた観光地として賑わい、「東北の熱海」、「青森の奥座敷」などと呼ばれた。\n\n陸奥湾に突出する夏泊半島の基部に位置し、浅虫夏泊県立自然公園の一角を成している。\n\nかつて浅虫温泉にはいくつもの源泉があり、30°Cから78°Cで湧出していた。しかし乱掘によって湧出量の減少をみたうえ、泉質が変わって食塩泉となった。そのため1968年に源泉を1箇所に統合して汲み上げることとなった。こうした方式は当時の日本では珍しい試みだったという。\n源泉から46°Cに調整後、各温泉施設や一般家庭へ配湯が行われている。", + "qas": [ + { + "question": "「東北の熱海」、「青森の奥座敷」などと呼ばれる温泉は何ですか。", + "id": "tr-242-00-000", + "answers": [ + { + "text": "浅虫温泉", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "浅虫温泉の源泉を1箇所に統合して汲み上げたのは何年のことですか。", + "id": "tr-242-00-001", + "answers": [ + { + "text": "1968年", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "江戸時代に東北地方の旅行記を刊行した菅江真澄は、『率土が濱傅ひ』の中で、現地の伝承を紹介した。これによると、温泉は「烹坪(につぼ)」と称し、もっぱら源泉でアサを蒸して繊維をとり、織布とするために利用していたことからかつて��「麻蒸」と呼んでいたという。しかし村で火災が頻発したことから、火に関連する「蒸」の字を忌み、「浅虫」と書き表すようになったという。\n\n温泉の発見については伝説があり、平安時代の1190年頃、浄土宗の開祖法然(1133年-1212年)が陸奥国を訪れた際、シカが怪我を癒すために湯に浸かっていたのを見出したという。これにはさらに古く遡る異伝があり、発見者を円仁(794年-864年)に帰す伝承もある。いずれの場合にも、地元の住民は入浴の効能を知らなかったため、発見者の仏僧が浴用とすることを住民に教えたのだとされる。", + "qas": [ + { + "question": "江戸時代に東北地方の旅行記を刊行した人の名前は何?", + "id": "tr-242-01-000", + "answers": [ + { + "text": "菅江真澄", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「浅虫」と書き表すようになったのはどの字を忌んだからですか。", + "id": "tr-242-01-001", + "answers": [ + { + "text": "「蒸」", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1891年に東北本線が全通し、東京と青森が鉄路で結ばれ、浅虫駅が開業した。これが原動力となり、温泉地は徐々に発展を始めた。温泉地に駅ができたことで単に交通の便がよくなったというだけでなく、本州と北海道とを行き来する旅客が長距離移動の途中で体を休めたり、津軽海峡が時化て足止めとなった場合の滞在地となった。1902年の八甲田雪中行軍遭難事件の生存者や、1904年から1905年の日露戦争の傷痍軍人らが浅虫温泉へ送り込まれ、温泉の名が青森県民以外にも知られるようになった。1909年には旧日本陸軍の第2師団(仙台)と第8師団(弘前)により、浅虫転地療養所が設立された。\n\n同じ頃から、周辺では馬場山散策コースの整備が行われ、観光客誘致の取り組みも始まった。1911年には「浅虫八景」を選定し、絵葉書や新聞を利用した宣伝も行われた。1907年の時点では、温泉地には旅館7軒、温泉客舎15、共同浴場2、商店33となり、貨物の運送業者、郵便局、電信局、電話局もあり、人口1000を超す街となった。", + "qas": [ + { + "question": "浅虫駅はいつ開業したの?", + "id": "tr-242-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1891年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「浅虫八景」にはいつ選定されたの?", + "id": "tr-242-02-001", + "answers": [ + { + "text": "1911年", + "answer_start": 326, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "熊野三山本願所", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "熊野三山本願所(くまのさんざんほんがんじょ)は、15世紀末以降における熊野三山(熊野本宮、熊野新宮、熊野那智)の造営・修造のための勧進を担った組織の総称である。\n熊野三山を含めて、日本に於ける古代から中世前半にかけての寺社の造営は、寺社領経営のような恒常的財源、幕府や朝廷などからの一時的な造営料所の寄進、あるいは公権力からの臨時の保護によって行われていた。\nしかしながら、熊野三山では、これらの財源はすべて15世紀半ばまでに実効性を失った。", + "qas": [ + { + "question": "熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の3つをまとめて何と呼んでいますか?", + "id": "tr-243-00-000", + "answers": [ + { + "text": "熊野三山", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "熊野三山の造営・修造のための勧進を担った組織の総称は何?", + "id": "tr-243-00-001", + "answers": [ + { + "text": "熊野三山本願所", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "それらに替わる財源を確保し、熊野三山の造営・修造に寄与したのが、15世紀後半以降に成立した熊野三山本願所で、類似する他の寺社の本願所���比べて際立って規模が大きく、一山ごとに独自の性格を持っていた。\n熊野三山本願所は、各地に送り出した一部の熊野山伏・熊野比丘尼が募った勧進奉加を熊野へ送り届けさせること、また、熊野への巡礼者からの散銭を得ることを通じて財源を調達し、堂舎の建立・再興・修復を行う造営役としての役目を果たした。\n近世初期には新宮を首座として熊野本願九ヶ寺と称する本願仲間を形成し、連携して職務の遂行にあたった。", + "qas": [ + { + "question": "熊野三山本願所が成立したのはいつになりますか?", + "id": "tr-243-01-000", + "answers": [ + { + "text": "15世紀後半以降", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "熊野三山本願所が財源調達のために各地に送ったのは熊野山伏と何?", + "id": "tr-243-01-001", + "answers": [ + { + "text": "熊野比丘尼", + "answer_start": 124, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "近世初期に熊野三山本願所が形成した本願仲間は何と称されたの?", + "id": "tr-243-01-002", + "answers": [ + { + "text": "熊野本願九ヶ寺", + "answer_start": 226, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "15世紀後半以降、本願所は造営・修造を担う組織として機能していたが、熊野三山では本来衆徒が独占していた社寺の縁起や仏事・神事といった社役にも深く関与する様になり、三山の運営に大きな役割を担うようになっていった。\nしかしながら、他の寺社と同じく本願と社家の間には緊張関係があった。\n17世紀以降には、造営・修造と社役との聖俗両面における本願の役割を否定し、社内における主導権を奪い返そうとする社家と、一山に於ける地位を守ろうとする本願との間で相論が繰り返された。\n18世紀半ばには、近世以降の社家の経済的再建と江戸幕府・紀州藩の宗教統制を背景にした社家の反撃により、本願の退勢は決定付けられるに至った。\nしかしながら、単なる造営役を越えて年中行事や祈祷に関する役目を担っていた本願を、社家は完全に排除することは出来ず、明治の神仏分離まで存続した。", + "qas": [ + { + "question": "熊野三山においても、本願と社家はどういう関係だったの?", + "id": "tr-243-02-000", + "answers": [ + { + "text": "緊張関係", + "answer_start": 130, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "18世紀半ばに本願に反撃した社家のバックには何藩がついていた?", + "id": "tr-243-02-001", + "answers": [ + { + "text": "紀州藩", + "answer_start": 259, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "本願と社家の緊張関係は明治時代のいつまで続いたのか?", + "id": "tr-243-02-002", + "answers": [ + { + "text": "神仏分離まで", + "answer_start": 361, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "本願所が成立する以前、中世における熊野三山の財源とされたのは、熊野山(本宮・新宮)・那智山へ寄進された三山経営そのものにかかわる各々の荘園、熊野御僧供米、造営料国・造営料所などであった。\n熊野へ寄進された荘園の早い例は11世紀末に遡ると見られ、その事例として応徳3年(1086年)11月13日付けの「内侍藤原氏施入状案」に見られる紀伊国比呂庄と宮前庄の事例、次いで白河院が寛治4年(1090年)1月21日に「紀伊国二ヵ郡五ヵ所合百余町」を寄進した事例があげられる。(『中右記』・『百錬抄』)\nこれ以後、熊野別当・修理別当・在庁・三綱・熊野所司を始めとする熊野三山の執行機関が常陸国から日向国に至るまでの30ヵ所余りの荘園の執行実務に携わり、14世紀中頃まで熊野三山経営の中核を担っていたと考えられている。", + "qas": [ + { + "question": "荘園、熊野御僧供米、造営料国・造営料所が熊野三山の財源となっていたのはいつのこと?", + "id": "tr-243-03-000", + "answers": [ + { + "text": "中世", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "熊野へ寄進された荘園の事例の中で、二番目の事例で寄進された荘園は何か?", + "id": "tr-243-03-001", + "answers": [ + { + "text": "「紀伊国二ヵ郡五ヵ所合百余町」", + "answer_start": 203, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "熊野へ寄進された荘園の事例を最初にあげたのは日本の元号で何年?", + "id": "tr-243-03-002", + "answers": [ + { + "text": "応徳3年", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "熊野三山の執行機関が荘園の執行実務に携わった30ヵ所余りの荘園は、どこからどこまでの範囲内にあったか?", + "id": "tr-243-03-003", + "answers": [ + { + "text": "常陸国から日向国", + "answer_start": 287, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "12世紀初め、白河院は三山経営と神社造営のため、元永元年(1119年)に紀伊国・阿波国・讃岐国・伊予国・土佐国の5ヵ国から封戸50烟を熊野山に施入した(『中右記』元永元年9月11日条)が、大治2年(1127年)に「熊野本宮御封十烟」の代わりに紀伊国「牟婁郡芳益村見作田伍町」の所当官物が便宜補填され、これがのちに荘園に転化したと推定されている。\nなお、造営料国の寄進の早い例は12世紀末から13世紀初めにかけてと見られ、13世紀初めには熊野三山検校であった長厳に阿波国が寄進されている(『頼資卿熊野詣記』建仁2年〈1202年〉。", + "qas": [ + { + "question": "白河院が5ヵ国から封戸50烟を熊野山に施入したとあるが、その5ヵ国の中で現在の近畿地方に属しているのはどこ?", + "id": "tr-243-04-000", + "answers": [ + { + "text": "紀伊国", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "造営料国の寄進として13世紀初めに寄進されたところはどこ?", + "id": "tr-243-04-001", + "answers": [ + { + "text": "阿波国", + "answer_start": 231, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "13世紀半ば以降、越前国(文永2年〈1265年〉)、伯耆国(正応2年〈1289年〉)などの例が見られるが、頻繁に史料中に現れるのが遠江国と安房国である。\n遠江の早い例では、正元元年(1259年)に美濃国とともに那智の造営料国に宛てられた。\n一方で安房はもっぱら新宮の史料にのみ現れ、仁治2年(1241年)の『百錬抄』所掲の例や13世紀末にさかのぼる例(「伏見天皇綸旨」〈1291年-1296年頃〉所掲)が見られる。\n遠江と安房はしばしばセットで造営料国に宛てられ、「後光厳天皇綸旨」(文和3年〈1354年〉)やその翌年付の鎌倉幕府の御教書にその名が見られる。", + "qas": [ + { + "question": "美濃国とともに那智の造営料国に宛てられたのはどこ?", + "id": "tr-243-05-000", + "answers": [ + { + "text": "遠江国", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "遠江国と安房国の内、新宮の史料にだけ出てくるのはどっちでしょう?", + "id": "tr-243-05-001", + "answers": [ + { + "text": "安房国", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "遠江と安房がセットで造園料国に宛てられたことが分かるのは、1354年の何に見られるでしょう?", + "id": "tr-243-05-002", + "answers": [ + { + "text": "「後光厳天皇綸旨」", + "answer_start": 232, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "しかしながら、こうした造営料国・造営料所に依拠した造���・修造は15世紀に終わりを迎える。\n承久の乱(承久3年〈1221年〉)以降、新たに地頭となった御家人の支配が各地の荘園に及ぶようになったほか、14世紀半ば以降、各種の史料に「遠江国国衙職」「安房国々衙職」といった表現が増え始めることに見られるように、造営料国が国衙職の得分に矮小化していった様子が窺われる。\n室町時代から戦国時代にかけては在地土豪の支配下に荘園が収められたことで、各荘園からの熊野への年貢は一部の上分米をおさめるのみになったが、それさえも滞りがちとなった。\n新宮では徳治2年(1307年)に社殿を焼失したため、造営料国に宛てられた土佐国からの収入により再建を図ろうとしたが、妨害を受けたために充分な収入を得られなかった。\n新宮は、後光厳天皇の綸旨を得て足利義詮に徴収を委ねなければならなかったが、その実施には困難を伴った。", + "qas": [ + { + "question": "承久の乱以降に新たに地頭となったものは何ですか?", + "id": "tr-243-06-000", + "answers": [ + { + "text": "御家人", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "各地の荘園を御家人が支配するようになったのは何が起こった後からですか?", + "id": "tr-243-06-001", + "answers": [ + { + "text": "承久の乱", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "焼失した新宮の社殿の再建は、どこからの収入で行われる予定でした?", + "id": "tr-243-06-002", + "answers": [ + { + "text": "土佐国", + "answer_start": 300, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "社殿を焼失した新宮が、再建に必要な費用の徴収を委ねなけらばならなかった相手は誰でしょう?", + "id": "tr-243-06-003", + "answers": [ + { + "text": "足利義詮", + "answer_start": 361, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "こうして造営・修造の財源として機能しえなくなった造営料国・造営料所にかわり、三山の造営・修造の財源とされたのが、棟別銭や段米・段銭であった。\n棟別銭徴収の早い例は、貞治5年(1366年)頃に播磨国松原荘(石清水八幡社領)などで新宮造営のために徴収された例が見られるほか、『熊野年代記』には三山造営のための「諸国棟別」(応永33年〈1426年〉)、那智造営のための京・和泉・河内での徴収(文明10年〈1478年〉)といった例がある。\n段米・段銭では、14世紀前半に段米が和泉・美濃などで確認され、次いで15世紀前半からは段銭が見られるようになる。\n国段銭と安房国衙職をもって新宮遷宮に宛てる旨の応永26年(1419年)の室町将軍家御教書を初例とし、永享5年(1433年)には新宮造営料として紀伊国から段銭を徴収するようにとの御教書が発され、紀伊のほか丹波や伊豆に宛て課されていた。\nこれら15世紀前半から中葉にかけての段銭は造営料国に入れ替わるように出現し、造営料国は史料上確認することが出来なくなる。", + "qas": [ + { + "question": "造営料国・造営料所にかわって三山の造営・修造の新たな財源となった3つの中で、1366年頃に最初の徴収事例があるものは何か?", + "id": "tr-243-07-000", + "answers": [ + { + "text": "棟別銭", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "棟別銭徴収の事例の内、3番目に確認されている徴収事例は、三山の中でどこを対象としたものだった?", + "id": "tr-243-07-001", + "answers": [ + { + "text": "那智", + "answer_start": 173, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "段米・段銭の内15世紀前半に事例が確認されたのはどちら?", + "id": "tr-243-07-002", + "answers": [ + { + "text": "段銭", + "answer_start": 219, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1433年の御教書の発令により、段銭の徴収が紀伊、丹波、伊豆に宛て課された中で、熊野三山から最も遠いところはどこか?", + "id": "tr-243-07-003", + "answers": [ + { + "text": "伊豆", + "answer_start": 377, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "だが、こうした棟別や段銭による財源の実効性は室町幕府を頂点とする守護体制の実力に依存していたため、室町幕府の支配が弛緩してゆく15世紀半ばにはほとんど依拠しえなくなる。", + "qas": [ + { + "question": "棟別や段銭による財源の実効性は、当時の何幕府に依存していたことになる?", + "id": "tr-243-08-000", + "answers": [ + { + "text": "室町幕府", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ここまで見てきた熊野三山を含めて、古代から中世前半にかけての寺社の造営は、寺社領経営のような恒常的財源、幕府や朝廷などからの一時的な造営料所の寄進、あるいは公権力からの臨時の保護によって行われるものであった。\nしかし、鎌倉時代初期の東大寺造営に功績のあった重源のように、臨時かつ応急の処置とはいえ、財源の調達から造営・修造の実施に至る一切を、勧進聖が全面的請負事業として掌握する例が見られた。\nさらに、戦乱のような社会的混乱によってこうした公権力からの財源が機能し得なくなるにつれ、本来は寺社の外部の存在である勧進聖の請負による勧進活動を恒常的な形で寺社内に組み込もうとする寺社の要請、あるいは守護大名や戦国大名といった在地勢力の権力や権威を前提として、勧進聖たちが造営・修造の実績と勧進を通じて獲得した既得権とに基づいて成立させた組織が本願所で、15世紀末から各地の寺社に見られるようになる。\nしかし、寺院内に確たる地歩を築くことを目指した本願と、本願に正式な構成員としての地位を認めようとせず、経済的な役割のみに押しとどめようとした寺社との間には緊張関係があり、近世の幕藩体制下での寺社財政の再建と安定が進むにつれ、寺社の側からの圧迫にさらされて衰退・廃絶する本願所も少なくなかった。", + "qas": [ + { + "question": "東大寺造営に当たって功績を残した人物は誰かな?", + "id": "tr-243-09-000", + "answers": [ + { + "text": "重源", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "寺院内に確たる地歩を築くことを目指した本願に対して、寺社は何の役割のみにとどめようとしたか?", + "id": "tr-243-09-001", + "answers": [ + { + "text": "経済的な役割", + "answer_start": 449, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "近世の幕藩体制下では、本願所は何から圧迫を受けたのか?", + "id": "tr-243-09-002", + "answers": [ + { + "text": "寺社", + "answer_start": 468, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "熊野三山もまたそうした例に漏れず、15世紀後半以降に勧進聖の活動に財源が求められ始め、15世紀末以降に本願所が成立する。\n熊野三山本願所は各地の本願所の中でもとりわけ規模が大きく、三山のそれぞれに独立した本願所があった。\n熊野の本願所には庵主(あんじゅ)という独自の呼び方があった。\n新宮庵主は霊光庵の名でも知られ、末社神倉社にはさらに独自の本願があり、神倉本願と呼ばれた。\nまた、那智庵主は7ヶ寺もの大規模な本願所からなり、穀屋(こくや)と総称された。", + "qas": [ + { + "question": "熊野の本願所の独自の呼び方を何という?", + "id": "tr-243-10-000", + "answers": [ + { + "text": "あんじゅ", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "霊光庵の名としても知られるのはどこの庵主のことでしょう?", + "id": "tr-243-10-001", + "answers": [ + { + "text": "新宮庵主", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "神倉本願とはどこの神社の本願のことを指しますか?", + "id": "tr-243-10-002", + "answers": [ + { + "text": "末社神倉社", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "熊野三山の中で、穀屋の総称を持つ本願所があるのはどこになりますか?", + "id": "tr-243-10-003", + "answers": [ + { + "text": "那智", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "前述のように造営料国や棟別・段銭といった公権力を背景とした財源が15世紀後半以降に失われてゆくにつれ、以下に詳述するように、入れ替わるように勧進活動が現われて活発化し、その帰結として15世紀末以降に新宮や那智で本願所が組織されてゆく。\nこうした過程は、各地の寺社本願所と異なるものではなく、熊野三山本願所も共通の性格をそなえていたと言えるだろう。\nまた、同じ本願所とはいえ、新宮は飯道寺梅本院という当山方大先達寺院から庵主を迎える、天台宗比叡山末寺に連なるといった権威を背景として発展したのに対し、那智は西国三十三所巡礼の参詣霊場として、貴庶の勧進と参詣者の散銭を募ることに活動の軸を置き、その性格は一様ではなかった。", + "qas": [ + { + "question": "造営料国や棟別・段銭といった財源が15世紀後半以降に失われていく一方で、活発化していった活動は何ですか?", + "id": "tr-243-11-000", + "answers": [ + { + "text": "勧進活動", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "勧進活動の活発化が最終的に何を組織した?", + "id": "tr-243-11-001", + "answers": [ + { + "text": "本願所", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "熊野三山の中で西国三十三所巡礼の参詣霊場となっているのはどこ?", + "id": "tr-243-11-002", + "answers": [ + { + "text": "那智", + "answer_start": 249, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "15世紀後半から16世紀初頭にかけての時期に新宮本願所の萌芽を求めるのは、新宮の末社である神倉社における本願の活動を併せて考えると蓋然性を増す。\n神倉本願の活動の最も早い時期の例として知られるのは、南北朝時代の動乱による荒廃からの復興・再建を目指して行われた、妙心寺の妙順尼による勧進活動である。\n妙順尼による勧進は延徳元年(1489年)より始まり、弟子の祐珍とともに諸国を巡って奉加を募り、大永年間(1521年-1528年)から享禄4年(1531年)にかけて再興を成し遂げた功績により、天文元年には本願職が改めて許されている。", + "qas": [ + { + "question": "妙順尼による勧進活動で、共に諸国を巡った妙順尼の\n弟子の名前は?", + "id": "tr-243-12-000", + "answers": [ + { + "text": "祐珍", + "answer_start": 178, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "妙順尼と祐珍の勧進活動によって本願職が許されたのは何年のことですか?", + "id": "tr-243-12-001", + "answers": [ + { + "text": "天文元年", + "answer_start": 244, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "神倉本願が荒廃した理由は何によるものでしょう?", + "id": "tr-243-12-002", + "answers": [ + { + "text": "南北朝時代の動乱", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "こうして成立した新宮庵主は、近江国の飯道寺から庵主を迎えるようになる16世紀半ばに組織として大きな転機を迎える。\n飯道寺、特に梅本院���岩本院のふたつの坊は、当山派修験正大先達三六カ寺に数えられ、諸国の当山派山伏を支配した有力寺院で、天文18年(1549年)に飯道寺水元坊の善成坊祐盛が本願となっていたのを早い例として、永禄9年(1566年)の梅本院大先達行鎮の入寺以来、17世紀初頭まで梅本院から庵主が迎えられるようになる。", + "qas": [ + { + "question": "新宮庵主は、何という寺から庵主を迎えたのか?", + "id": "tr-243-13-000", + "answers": [ + { + "text": "飯道寺", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "当山派修験正大先達三六カ寺に数えられたのは、飯道寺の梅本院ともう1つは何?", + "id": "tr-243-13-001", + "answers": [ + { + "text": "岩本院", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "前述のように那智には7ヶ所の本願所があり、七本願・七ツ穀屋などと呼ばれる。\n一つの社寺にこれほどの本願所が伴う例はほかになく、大きな特徴となっているが、現存するのは妙法山阿弥陀寺と補陀洛寺(補陀洛山寺)の2ヶ所に過ぎない。\nこのように大規模な本願所が成立する背景には、西国三十三所の隆盛や那智参詣曼荼羅に象徴される多数の参詣者と、そこでの多量の散銭があると見られる。", + "qas": [ + { + "question": "那智の最大の特徴は本願所がいくつあったこと?", + "id": "tr-243-14-000", + "answers": [ + { + "text": "7ヶ所", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "那智には7ヶ所の本願所があったが、現在残っている数は何か所?", + "id": "tr-243-14-001", + "answers": [ + { + "text": "2ヶ所", + "answer_start": 102, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "大規模な本願所が成立する要因として多数の参拝者と、それによって何が生じるからですか?", + "id": "tr-243-14-002", + "answers": [ + { + "text": "多量の散銭", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "那智山周辺では早くより勧進聖の活動があったと見られ、正平24年(1369年)銘の那智飛瀧権現の鉄塔に「勧進沙門弘俊」の名が確認される(『紀伊続風土記』)ほか、応永34年(1427年)の足利義満の側室北野殿による熊野参詣記『熊野詣日記』には、浜ノ宮の橋本で「橋勧進の尼」の所持する阿弥陀名号に勧進結縁したことが記されている。\nまた、永正18年に高野山西塔の勧進にあたった真覚という勧進聖は那智において十穀断の修行をおこなった十穀聖であったといい、各地の参詣者を熊野へ引率する先達の中にも、14世紀後半以降には既に勧進聖がいた事が知られている。", + "qas": [ + { + "question": "那智飛瀧権現の鉄塔に「勧進沙門弘俊」の名が確認された書物のタイトルは?", + "id": "tr-243-15-000", + "answers": [ + { + "text": "『紀伊続風土記』", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『熊野詣日記』を書いた北野殿は誰の側室でしたか?", + "id": "tr-243-15-001", + "answers": [ + { + "text": "足利義満", + "answer_start": 92, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "真覚は那智において十穀断の修行を行い何となったか?", + "id": "tr-243-15-002", + "answers": [ + { + "text": "十穀聖", + "answer_start": 211, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "以下、個別に見てゆくが、総じて言えば那智庵主が成立し始めるのは、15世紀末のことである。\nその後、勧進活動の活発化とともに本願所の間での分掌と独立が進み、16世紀には七本願とされる本願所全てが揃い、七本願を総称する「七ツ穀屋」という��現が慶長8年(1603年)に初見される。\nこうした那智の本願所の伸張において重要なのは、西国三十三所の隆盛である。\n御前庵主が初見される永享年間の頃には、西国三十三所に貴賎の巡礼者が多数見られるとされており、そうした巡礼者の増加とそこからの散銭・奉加が重要性を増したことに応じて、勧進聖たちは本願所を組織し、いっそう多くの巡礼者を招きいれようとした。\n那智参詣の隆盛を物語るものとしてしばしば引き合いに出される「那智参詣曼荼羅」の作成に本願所が関与していると考えられているが、そうした隆盛は本願所によって作り出されたものであった。", + "qas": [ + { + "question": "那智の本願所の発展に関係しているのは何が盛んになったからですか?", + "id": "tr-243-16-000", + "answers": [ + { + "text": "西国三十三所", + "answer_start": 161, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "那智参詣の隆盛に欠かせないものとして本願所が作ったものは何ですか?", + "id": "tr-243-16-001", + "answers": [ + { + "text": "「那智参詣曼荼羅」", + "answer_start": 322, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "那智の七本願が全て揃ったのはいつ?", + "id": "tr-243-16-002", + "answers": [ + { + "text": "16世紀", + "answer_start": 77, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "大沼(赤城山)", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "大沼(おの、おおぬま、赤城大沼)は群馬県の赤城山の山頂カルデラにある火口原湖で、赤城山のカルデラ湖としては最大のもの。\n水系としては利根川に属し、湖水は北西の火口瀬から沼尾川として流出、赤城山の西麓を流れ下って直接利根川に注ぐ。\n半島部の小鳥ヶ島には赤城神社が鎮座する。\n冬期のワカサギ釣りやスキー・スケート地として知られ、1970年代には関東地方のスキー場として多くのレジャー客を集めた。", + "qas": [ + { + "question": "大沼はどこの水系に属しているの?", + "id": "tr-244-00-000", + "answers": [ + { + "text": "利根川", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "赤城山の中で最も大きいカルデラ湖とは?", + "id": "tr-244-00-001", + "answers": [ + { + "text": "大沼", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "大沼はどのような湖なの?", + "id": "tr-244-00-002", + "answers": [ + { + "text": "火口原湖", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "大沼の小鳥ヶ島にある神社とは何ですか?", + "id": "tr-244-00-003", + "answers": [ + { + "text": "赤城神社", + "answer_start": 125, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "大沼の「正しい」読み方は「おの」、小沼は「この」であるとされている。\nしかし近年は「おおぬま」「こぬま」の読み方をする者が増えている。\n赤城湖という異称もある。\n古い呼び名としては、「石垣沼」、「葛葉湖」といったものもある。", + "qas": [ + { + "question": "大沼の異称とは?", + "id": "tr-244-01-000", + "answers": [ + { + "text": "赤城湖", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「石垣沼」、「葛葉湖」とは何を指しているの?", + "id": "tr-244-01-001", + "answers": [ + { + "text": "大沼", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "大沼の古い呼称には「葛葉湖」と何があるの?", + "id": "tr-244-01-002", + "answers": [ + { + "text": "「石垣沼」", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "大沼の正しい読み方は何ですか?", + "id": "tr-244-01-003", + "answers": [ + { + "text": "「おの」", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "赤城大沼は赤城山の山頂カルデラ内にあり、周囲を赤城山の中央火口丘である地蔵岳や外輪山の黒檜山に囲まれている。\n山頂カルデラの大きさは南北約4キロメートル、東西約2.3キロメートルだ。\n湖面の標高は1310メートルないし1345メートル。\n成因として火口原湖である。", + "qas": [ + { + "question": "山頂カルデラの距離が長いのは南北と東西のどちらですか?", + "id": "tr-244-02-000", + "answers": [ + { + "text": "南北", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "形状は「長い曲玉状」「楕円形」とされている。\n湖の東岸には「小鳥ヶ島」と呼ばれる半島状の岬があり、島全域を神域とする赤城神社が鎮座する。\n周囲は約4.0キロメートル。\n面積は0.8ないし0.9平方キロメートル。\n赤城山山頂カルデラの湖のなかでは最も大きい。\n水深は、最深部で16.5メートル。\n小鳥ヶ島の周辺は最も浅く、水深0.2メートル。\n透明度は4メートル程度。", + "qas": [ + { + "question": "大沼の周囲はどれくらいですか?", + "id": "tr-244-03-000", + "answers": [ + { + "text": "約4.0キロメートル", + "answer_start": 72, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "大沼の最深部はどれくらいですか?", + "id": "tr-244-03-001", + "answers": [ + { + "text": "16.5メートル", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "大沼の透明度はどれくらいですか?", + "id": "tr-244-03-002", + "answers": [ + { + "text": "4メートル程度", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "大沼の最浅部はどれくらいですか?", + "id": "tr-244-03-003", + "answers": [ + { + "text": "0.2メートル", + "answer_start": 162, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "夏季には、表層の水温は摂氏22度から25度、底部で5度。\n冬季は12月下旬ごろから4月上旬まで結氷し、氷の厚さは40センチメートル以上、年によっては50センチ以上に達する。\n厳冬期には氷が昼夜に伸縮して湖面に小規模な「御神渡」ができる。\n大沼は南北方向に長いため、氷の伸縮によって生じる「御神渡」は東西方向に発達し、高さ20センチメートルほどとなる。\n流入河川は覚満淵からくる覚満川のほかは小河川のみで、湖水の水源のほとんどは雨水と湖底の湧水である。\nそのために季節による水位の変動は少ない。", + "qas": [ + { + "question": "夏場の底部は何度になりますか?", + "id": "tr-244-04-000", + "answers": [ + { + "text": "5度", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「御神渡」ができる時期はいつですか?", + "id": "tr-244-04-001", + "answers": [ + { + "text": "厳冬期", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "大沼は季節による水位の変動が多いか少ないか?", + "id": "tr-244-04-002", + "answers": [ + { + "text": "少ない", + "answer_start": 242, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「御神渡」の高さはどれくらいまで発達するの?", + "id": "tr-244-04-003", + "answers": [ + { + "text": "20センチメートルほど", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "湖水は大沼の北西端である「沼尻(湖尻)」でカルデラの外輪を破って火口瀬をつくり、沼尾川として西方へ流出している。\n沼尾川は旧赤城村(現渋川市赤城町深山)を貫流して津久田(渋川市)で利根川に注いでいる。\n東南岸の大洞地区には土産物店や旅館などが集まり、観光の拠点となっている。\n地蔵岳山麓にはスキー場が整備されている。\n北岸の沼尻地区には企業・学校の寮や厚生施設、山荘が散在する。", + "qas": [ + { + "question": "大沼から西方に流出している川とは何?", + "id": "tr-244-05-000", + "answers": [ + { + "text": "沼尾川", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "スキー場が整備されている場所はどこですか?", + "id": "tr-244-05-001", + "answers": [ + { + "text": "地蔵岳山麓", + "answer_start": 138, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "観光の拠点となっている地域はどこですか?", + "id": "tr-244-05-002", + "answers": [ + { + "text": "大洞地区", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "赤城山は約50万年前から約40万年前に柏崎千葉構造線(利根川構造線)で始まった火山活動で、数万年かけて標高2500メートルほどの成層火山へと成長した。\nその後、約20万年前の大爆発と山体崩壊、その後の休止期をはさんで、15万年前に再び火山活動を活発化させ、現在の赤城山外輪山の最高峰である黒檜山(1828m)と駒ケ岳(1695m)などを形成。\n次いで12万年前に西方で大爆発と陥没が起き、深山カルデラができた。", + "qas": [ + { + "question": "黒檜山と駒ケ岳、高い方の山はどちら?", + "id": "tr-244-06-000", + "answers": [ + { + "text": "黒檜山", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "黒檜山と駒ケ岳の形成後に大爆発が起きたのは何万年前でしたか?", + "id": "tr-244-06-001", + "answers": [ + { + "text": "12万年前", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "深山カルデラが出来たのは何年前ですか?", + "id": "tr-244-06-002", + "answers": [ + { + "text": "12万年前", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "いまの赤城山の山頂カルデラの生成が始まったのは約4万5000年前と推定されている。\nこのときは山頂で起きた噴火によって膨大な量の噴出物を関東一円に堆積させ、軽石は栃木県鹿沼市付近で鹿沼土となり、火山灰は関東ローム層を形成した。\nこの噴火によって山頂部は陥没してカルデラとなり、現在の外輪山とカルデラの原型ができた。\nここにできたカルデラ湖は現在の大沼の7倍ほどの大きさがあり、現存する湖の母体となった。", + "qas": [ + { + "question": "赤城山の山頂カルデラの生成が始まったのは何万年前と考えられていますか?", + "id": "tr-244-07-000", + "answers": [ + { + "text": "約4万5000年前", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "生成当時のカルデラ湖と現在の大沼はどちらの方が小さいですか?", + "id": "tr-244-07-001", + "answers": [ + { + "text": "現在の大沼", + "answer_start": 170, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "約3万2000年前ごろから、この山頂カルデラ内で新たな火山活動が始まった。\nこれにより地蔵岳、見晴山、長七郎山などの中央火口丘が出現し、山頂カルデラに��った湖が分断され、大小2つの湖となった。\nこのうち北側は、現在の大沼と覚満淵や、現在の坂平方面にあった入江(新坂平湖)をあわせた広がりを持ち、「古大沼」と呼ばれている。\n古大沼は現在の覚満淵の東側に火口瀬があり、落差200メートルの滝をつくって渡良瀬川方面へ流出していた。\n南側の湖は「オトギの森湖」と呼ばれている。\nこの湖は今の小沼と同じように粕川から南斜面へ流出していた。", + "qas": [ + { + "question": "「古大沼」と呼ばれているのは北側と南側どちらの部分ですか?", + "id": "tr-244-08-000", + "answers": [ + { + "text": "北側", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「オトギの森湖」と呼ばれているのは北側と南側どちらの部分ですか?", + "id": "tr-244-08-001", + "answers": [ + { + "text": "南側", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "南側の湖の呼称は何ですか?", + "id": "tr-244-08-002", + "answers": [ + { + "text": "「オトギの森湖」", + "answer_start": 218, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "その後、古大沼の西側の入江(新坂平湖)は土砂の流入で埋め立てられた。\nまた、外輪山の侵食によって西側に新たな火口瀬ができて、沼尾川として湖水が流出し、現在のように覚満淵と大沼に分断された。\n一方、南にあったオトギの森湖は埋め立てられて消失した。\nその後、2万7000年前に新たな火口が出現し、これが直径約1kmの火口湖となった。\nこれが現在の小沼である。\n小沼はその後に侵食によって湖水がガラン沢(粕川)へ流出し、いまは直径300メートルほどに縮小している。\nこれらよりさらに後に小規模な噴火があり、血の池という小さな火口湖も生まれた。", + "qas": [ + { + "question": "形成当初の小沼は直径何kmでしたか?", + "id": "tr-244-09-000", + "answers": [ + { + "text": "約1km", + "answer_start": 151, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "現在消失して無いのは古大沼とオトギの森湖のどちらですか?", + "id": "tr-244-09-001", + "answers": [ + { + "text": "オトギの森湖", + "answer_start": 103, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "現在の小沼は直径どれくらいですか?", + "id": "tr-244-09-002", + "answers": [ + { + "text": "300メートルほど", + "answer_start": 212, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "赤城山では標高1000メートル以上の地域ではミズナラが代表的である。\nただし山頂付近では、角閃石安山岩が風化した酸性土壌のためミズナラが成長できず、シラカバの純林が形成されている。\n大沼の周囲では針葉樹のコメツガがみられる。\nこれは、大沼が数千年前まで今よりも大きく、湖面が高かった頃に形成された湖底堆積物の土壌に生育しているもので、現在の湖面から概ね30メートル高い位置まで分布している。\nこれはミズナラ林に遷移する途中の段階の植生である。", + "qas": [ + { + "question": "山頂付近に多く繁っている樹木は何ですか?", + "id": "tr-244-10-000", + "answers": [ + { + "text": "シラカバ", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "赤城山の標高1000メートル以上の地域で生息している代表的な樹木は何ですか?", + "id": "tr-244-10-001", + "answers": [ + { + "text": "ミズナラ", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "大沼の南東に位置する覚満淵の周辺はミズゴケやモウセンゴケ、ニッコウキスゲなどを中心とした湿原になっている。\n湿原の北側には泥炭が2メートルから3メートルの層を形成しており、高層湿原へと遷移する途上にある。\nかつて湖の一部だった新坂平は標高が1400メートルから1480メートルに位置している。\nここは開拓されて乳牛を飼育する牧場(赤城白樺牧場)となった。\nこの一体にはレンゲツツジが生育している。\n毒性があるレンゲツツジを乳牛は食べないので、結果としてレンゲツツジだけが牧場の敷地内に群落状に残ることになり、これが春の名物になっている。", + "qas": [ + { + "question": "赤城白樺牧場に多く生息している植物とは何?", + "id": "tr-244-11-000", + "answers": [ + { + "text": "レンゲツツジ", + "answer_start": 184, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "赤城白樺牧場の春の名物となる植物は何?", + "id": "tr-244-11-001", + "answers": [ + { + "text": "レンゲツツジ", + "answer_start": 204, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "貝類ではマルタニシ、魚類ではワカサギ、ヘラブナ、コイ、ウグイ、ギンブナ、モツゴ、ドジョウなどが分布している。\nウグイは繁殖期に覚満川を遡上する。\n両生類ではヒキガエル、ヤマアカガエル、ツチガエルが生息。\n鳥類ではコガモがつがいをつくる。\n覚満川ではナミウズムシ、上流にあたる覚満淵にはマメシジミが生息している。", + "qas": [ + { + "question": "繁殖期にウグイはどこの川を遡上するの?", + "id": "tr-244-12-000", + "answers": [ + { + "text": "覚満川", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "覚満川の上流地域を何といいますか?", + "id": "tr-244-12-001", + "answers": [ + { + "text": "覚満淵", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "観光客の増加に伴って水質の劣化がみられ、宿泊施設からの排水の流入の影響が大きい。\n栄養塩に基づく分類では中栄養湖から富栄養湖へ遷移した。\n赤城大沼は群馬県によって環境基準の類型が指定が行われている。\nこれは利水を行う水域について化学的酸素要求量(COD)に基づく分類を行ったもので、水質環境基準類型は1973年(昭和48年)に「湖沼A」を「5年以内で可及的速やかに達成」すべきものと指定を受けた。\nその後、1986年(昭和61年)に「累計II」を「5年以内で可及的速やかに達成」すべきとされた。\n2014年(平成26年)の調査でも環境基準を達成していない。\nなお、群馬県で指定を受けている湖沼は12水域あり、環境基準を達成していないのは自然湖沼である赤城大沼と尾瀬沼の2箇所となっている。\n水生生物保全水質環境基準としては、2010年(平成22年)に「湖沼生物A」を「直ちに達成」となった。\n2011年には、東日本大震災に伴う原発事故の影響で赤城大沼で釣り上げたワカサギから放射性セシウムを検出、釣りは可能だが持ち出しは「自粛」となり、事実上の禁漁となった。\nその後、セシウム量が安定的に基準値を下回るようになり、2015年に「解禁」となった。", + "qas": [ + { + "question": "「湖沼A」を「5年以内で可及的速やかに達成」すべきものと指定を受けたのは和暦で何年でしたか?", + "id": "tr-244-13-000", + "answers": [ + { + "text": "昭和48年", + "answer_start": 156, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "東日本大震災後、ワカサギ釣りは何年に解禁となりましたか?", + "id": "tr-244-13-001", + "answers": [ + { + "text": "2015年", + "answer_start": 507, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「累計II」を「5年以内で可及的速やかに達成」すべきとされたのは昭和何年でしたか?", + "id": "tr-244-13-002", + "answers": [ + { + "text": "昭和61年", + "answer_start": 209, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "赤城山の神と日光(栃木県)の神(二荒山)が、赤城大沼や中禅寺湖をめぐって争ったとする伝承がある。\nこの伝承にはさまざまな亜種があり、北関東地方の各地にこれにまつわる伝承の地がある。\n両神はかねてから仲が悪く、武力をもって衝突したり、ムカデや大蛇に化身して戦ったりした。\n戦場ヶ原がその戦地であるといった伝承や、坂上田村麻呂や鹿島神、猿丸が加勢したというエピソードもあるが、大筋では赤城山の神が敗れる物が多い。\nこれらの伝承は古代における上毛野国造と下毛野国造との領地争いや利水権をめぐる争いを反映したものであるとみなす者もある。", + "qas": [ + { + "question": "赤城大沼や中禅寺湖をめぐって対立したのは日光の神と誰ですか?", + "id": "tr-244-14-000", + "answers": [ + { + "text": "赤城山の神", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "赤城山の神と日光の神の争いに加勢した人間とは猿丸と誰ですか?", + "id": "tr-244-14-001", + "answers": [ + { + "text": "坂上田村麻呂", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "『神道集』(室町時代に成立)には、赤城大沼と榛名湖をめぐる伝承が採譜されている。\n上野国に「高野辺家成」(高野辺大将)という公卿が配流された。\n高野辺大将には美しい娘が3人いて、それぞれ「淵名姫」「赤城姫」「伊香保姫」といった。\n娘たちの母はやがて亡くなり、高野辺大将は信濃国から後添いを迎えた。\nその後、高野辺大将は罪を免じられて上野国国司に任じられ、娘達を継母に委ねて出仕した。\nところがこの継母は3人の娘を疎んじ、弟の更科次郎兼光に命じ、3人の娘を殺害させた。\n長女の淵名姫が利根川に沈められて殺されると、次女の赤城姫は赤城山へ、末娘の伊香保姫は榛名山(古名:伊香保山)へ逃げた。\n赤城姫は赤城大沼の竜神(または「晻佐羅魔女」)によって赤城明神に転生し、伊香保姫は榛名湖の竜神によって榛名明神となった。\n3人の娘には都に出仕していた実弟がおり、事態を知って上野へ引き返すと更科次郎兼光を討ち、継母を捕らえて信濃に追放した。\n継母はその後冠着山(姥捨山)で死んだという。\nこの弟は、赤城大沼の畔で、神となった淵名姫と赤城姫(赤城大明神)に再会を果たした。\nこのとき淵名姫を乗せていた鴫は大沼に降り立って小鳥ヶ島へ姿を変えたという。\n弟はその後、庵を結んで3昼夜にわたり姉を祀った。\nその地を「三夜沢」と称したという。", + "qas": [ + { + "question": "「淵名姫」「赤城姫」「伊香保姫」の父親は誰ですか?", + "id": "tr-244-15-000", + "answers": [ + { + "text": "高野辺大将", + "answer_start": 72, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "伊香保姫、赤城姫、淵名姫の中で2番目に生まれた娘は誰?", + "id": "tr-244-15-001", + "answers": [ + { + "text": "赤城姫", + "answer_start": 259, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "伊香保姫、赤城姫、淵名姫の中で最後に生まれた娘は誰?", + "id": "tr-244-15-002", + "answers": [ + { + "text": "伊香保姫", + "answer_start": 271, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "淵名姫を乗せていた鴫は何に変身したの?", + "id": "tr-244-15-003", + "answers": [ + { + "text": "小鳥ヶ島", + "answer_start": 503, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "平安時代に成立した『延喜式神名帳』(延長5年・西暦927年)には、上野国の名神大社として「赤城神社」が記載されている(式内社)。\n赤城山の周辺には「赤城神社」と称する主要な神社が3社あり、いずれを『��喜式神名帳』の赤城神社とするかは見解が分かれている。\n赤城山山頂の赤城神社はその一つである。\n旧来は湖畔に湖を背にして祀られていた神社だが、1968年(昭和43年)に現在地の小鳥ヶ島に遷座した。", + "qas": [ + { + "question": "「赤城神社」の名が記載されている書物とは何?", + "id": "tr-244-16-000", + "answers": [ + { + "text": "『延喜式神名帳』", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『延喜式神名帳』が成立したのは日本の元号で何年ですか?", + "id": "tr-244-16-001", + "answers": [ + { + "text": "延長5年", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "この赤城神社がいつ創建されたものであるかは不詳。\n境内の安山岩製の宝塔(赤城塔)には応安5年(1376年)の銘がある。\n社伝では崇神天皇の時代に豊城入彦命が創建したとする。\nまた、神社では大同元年(806年)に地蔵岳中腹から大沼の湖畔へ遷宮したという記録を有するとしており、湖畔の地名「大洞」はこの年号に由来するという。\n近世には前橋城(厩橋城)の歴代の城主の崇敬を受けており、酒井家の時代には社殿造営を5回行っている。\nもともとは赤城大沼と赤城山を祭祀していたもので、明治時代には赤城山周辺の小社を合祀、現在は豊城入彦命、大国主命、徳川家康公など6柱を祭神としている。", + "qas": [ + { + "question": "社伝では赤城神社の創建者は誰だとされていますか?", + "id": "tr-244-17-000", + "answers": [ + { + "text": "豊城入彦命", + "answer_start": 72, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』は2007年にイギリス・アメリカで製作された、ティム・バートン監督のミュージカル・ファンタジー・ホラー映画である。作品は、スティーヴン・ソンドハイムとヒュー・ホイーラーが手掛け、トニー賞を獲得した1979年の同名ミュージカルを原案にしたもので、腕のいい理髪師ながら、愛用の西洋かみそりで客を次々殺めていくスウィーニー・トッドと、それを助け犠牲者の肉をミートパイにしていたラヴェット夫人を描く、ヴィクトリア朝のロンドン・フリート街を舞台としたメロドラマ風作品である。\n\nバートンは、学生時代に観たソンドハイムのミュージカルが持つ映画のような質に衝撃を受け、1980年代初頭から映画版を作りたいという意欲に駆られていた。2006年、ドリームワークスは、サム・メンデスを降板させてバートンを監督に据えると発表し、長年の夢が叶うことになった。", + "qas": [ + { + "question": "『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』いつ製作されましたか。", + "id": "tr-245-00-000", + "answers": [ + { + "text": "2007年", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』の監督は誰なの?", + "id": "tr-245-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ティム・バートン", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ミュージカル『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』がトニー賞を受賞したのはいつですか。", + "id": "tr-245-00-002", + "answers": [ + { + "text": "1979年", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』の主人公のベンジャミン・バーカー/スウィーニー・トッドはジョニー・デップ、ラヴェット夫人はヘレナ・ボナム=カーターが演じた。主撮影直前までデップ自身の歌声は全く知られ���おらず、プロデューサーのリチャード・D・ザナックは一か八かの賭けだと感じたという。しかし、デップは音楽としての質こそ欠けていると評価されたが、批評家には役柄に合った歌声だと概ね好意的な評価を得た。\n\n作品はアメリカ合衆国で2007年12月21日、日本で2008年1月19日、イギリスで同1月25日に封切られた。作品は、ゴールデングローブ賞映画部門作品賞、ゴールデングローブ賞映画部門主演男優賞、アカデミー美術賞などをはじめ多くの賞を獲得した。ラヴェット夫人役のボナム=カーターはゴールデングローブ賞映画部門主演女優賞にノミネートされたほか、デップもアカデミー主演男優賞にノミネートされた。アメリカでは際立った興行成績を残さなかったが、作品は世界中で公開され、サウンドトラック・アルバムやDVDも販売枚数を数多く重ねている。\n\n刃物による殺人や焼殺シーン、カニバリズム描写があることから、同監督の作品としては日本で初めてR15+指定を受けた。", + "qas": [ + { + "question": "ラヴェット夫人を演じたのは誰なの?", + "id": "tr-245-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ヘレナ・ボナム=カーター", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』はいつアメリカ合衆国で封切られたか。", + "id": "tr-245-01-001", + "answers": [ + { + "text": "2007年12月21日", + "answer_start": 219, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アメリカ合衆国、日本、イギリスのうち、『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』の上映が最も遅かった国はどこですか。", + "id": "tr-245-01-002", + "answers": [ + { + "text": "イギリス", + "answer_start": 245, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』の舞台はヴィクトリア朝中期のロンドン・フリート街である。理髪師のベンジャミン・バーカーは、船乗りのアンソニー・ホープと共にロンドンに到着する。物語開始から遡ること15年前、彼は美貌を誇る妻ルーシーを狙った治安判事のターピンにより、無実の罪を被せられてオーストラリアへ流罪にされていた。バーカーは「スウィーニー・トッド」と名前を偽り、ラヴェット夫人が階下で閑古鳥の鳴くミートパイ店を営む、フリート街のかつての店へと戻る。トッドはラヴェット夫人から、妻ルーシーがターピンにいたぶられ、砒素を呑んで自殺したこと、そして娘ジョアンナがターピンに軟禁されていて、彼の欲望がジョアンナに向かっていることを聞かされる。トッドは復讐を誓い、ラヴェットが大切に保管していた西洋かみそりを受け取って理髪店を再開する。その間にアンソニーは、窓辺に顔を出したジョアンナと恋仲になるが、ターピンに捕まえられ、その部下であるバムフォードにつまみ出される。", + "qas": [ + { + "question": "『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』はどの時代を舞台にしていますか。", + "id": "tr-245-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ヴィクトリア朝中期", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「スウィーニー・トッド」の本当の名前は何?", + "id": "tr-245-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ベンジャミン・バーカー", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ベンジャミン・バーカーの妻は誰ですか。", + "id": "tr-245-02-002", + "answers": [ + { + "text": "ルーシー", + "answer_start": 118, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "トッドは偽イタリア人の理髪師アドルフォ・ピレリが売る発毛剤がペテンだと見抜いたことで、ピレリと民衆の前で髭剃り競争を行うことになる。競争に勝ったトッドだったが、剃刀と手つきからピレリに正体を見破られてしまう。数日後、ピレリはアシスタントのトビーとトッドの店を訪れ、自分が昔バーカーの見習いとして働いていたデイヴィー・コリンズであることを明かした上で、秘密を隠す代わりに売り上げの半分を寄越すようトッドを脅す。トッドは秘密を守るため衝動的にピレリを殺し、階下ではトビーの身の上に同情したラヴェットが、彼を引き取ろうと心に決める。\n\n髭剃り競争の審判をしたバムフォードに勧められ、ジョアンナとの結婚を目論むターピンがトッドの店へ訪れる。トッドは髭剃りがてらターピンののどを掻き切って殺そうとするが、アンソニーがジョアンナとの駆け落ち計画を携えて駆け込んできたことで、ターピンが激怒して店を出て行ってしまう。復讐に失敗したトッドは、いつか仇を討つ日を思いつつ、顧客を次々に殺すことを怒りの捌け口とし、ラヴェットは犠牲者の肉でミートパイを作って売り捌くようになる。一方のアンソニーはジョアンナの行方を追うが、駆け落ち計画を知ったターピンは彼女を精神病院送りにしてしまう。", + "qas": [ + { + "question": "ピレリは誰に殺されたか。", + "id": "tr-245-03-000", + "answers": [ + { + "text": "トッド", + "answer_start": 204, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ピレリのアシスタントは誰ですか。", + "id": "tr-245-03-001", + "answers": [ + { + "text": "トビー", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "駆け落ち計画がばれたことで、ジョアンナはどこに送られるか。", + "id": "tr-245-03-002", + "answers": [ + { + "text": "精神病院", + "answer_start": 518, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "人肉パイで大繁盛したラヴェットは、引き取ったトビーと、トッドとの3人で海辺に暮らす夢を歌い上げるが、トッドは気乗りしない。店の周りには、汚らしい身なりの女性がうろつくようになり、ラヴェットはトビーを使って女を追い返す。アンソニーからジョアンナの居場所を突き止めたと知らされ、トッドはかつら職人の見習いを装って彼女を助けるよう助言する。その後トッドはターピンへ手紙を出し、アンソニーとジョアンナの駆け落ち計画をだしにして彼を誘き出す。トッドを疑い始めたトビーは、自分がラヴェットを守ると申し出るが、彼女がピレリの小銭入れを使っていたことで狼狽する。\n\nバムフォードがラヴェットのパイ屋に現れ、近所の住民が店の煙突から異臭がすると訴えていることを伝える。トッドは無料で髭剃りをしようとバムフォードを店へ招き、そのまま彼を殺す。トッドは手作りの回転椅子と仕掛け扉で、彼の遺体を地下にあるラヴェットの厨房へ落とすが、そこにいたトビーは、トッドが殺した人間の肉がパイのペイストリーに使われていたことを知ってしまう。同じ頃、ジョアンナを救出したアンソニーは、彼女を若い船乗りに変装させてトッドの店に連れて行き、自分が帰るまでここにいるよう言い含める。その後ラヴェットの店の周りをうろついていた女性が、バムフォードを追ってトッドの店に現れ、ジョアンナは店のトランクに隠れる。女性はトッドを認めて何か話そうとするが、トッドは早業で彼女を殺し、仕掛け扉から地下へ遺体を落とす。\n\n直後、ターピンが再び店に訪れ、トッドはジョアンナが後悔していたと嘘をつき髭剃りを申し出る。ターピンがトッドの話から、彼の正体がベンジャミン・バーカーだったと知ったところで、トッドは何回も切りつけてターピンを殺害し、遺体を地下へ落とす。ジョアンナは様子を伺うためトランクから顔を出し、トッドの手にかけられそうになるが、ラヴェットの悲鳴が彼女を助ける。\n\n悲鳴を聞いて地下に向かったトッドは、先ほど殺した女性が、死んだと聞かされていた妻ルーシーであることに気付く。ラヴェットの嘘に激怒したトッド���、ワルツを踊ると見せかけて彼女をオーブン窯へ放り込んで殺し、妻の亡骸を腕に抱く。そこへ下水道に逃げ込んでいたトビーが戻ってくるが、トッドはトビーに剃刀でのどを掻き切られるのを黙って受け入れる。トビーは地下室を去り、トッドはルーシーの亡骸を抱いたまま、首から血を流して死んでいく。", + "qas": [ + { + "question": "ラヴェットは誰に殺されたの?", + "id": "tr-245-04-000", + "answers": [ + { + "text": "トッド", + "answer_start": 873, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "トッドは誰に殺されるの?", + "id": "tr-245-04-001", + "answers": [ + { + "text": "トビー", + "answer_start": 931, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ターピンを殺したのは誰なの?", + "id": "tr-245-04-002", + "answers": [ + { + "text": "トッド", + "answer_start": 681, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ラヴェットの店の周りをうろついていた女性は誰に殺されるか。", + "id": "tr-245-04-003", + "answers": [ + { + "text": "トッド", + "answer_start": 583, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "映画『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』は、1979年にスティーヴン・ソンドハイムが作った同名ミュージカルを下地にしている。ティム・バートンが初めてこの作品を観たのは、カリフォルニア芸術大学の学生だった1980年に、休暇で訪れたロンドンでのことだった。バートンはこの時を思い返して次のように述べている。\n\n「自分はまだ学生で、映画を撮りたいのかレストランで働きたいのかすら分からず、何をしたいのか全く思いつかなかった。ただふらっと劇場に向かい、全ての要素が調和した全く観たこともないようなものに圧倒されて帰ってきた。とても気に入ったので、実のところ3夜も観に行ったんだ」\n\nバートンはミュージカルファンではなかったものの、作品が映画的であることに惹かれ、何度も公演を観に劇場へ足を運んだ。彼は作品を音楽付きの無声映画のようだと語り、「音楽と死の舞踏のような感性の両方に感銘を受けた」。バートンは1980年代後半に監督業を始め、同じ頃にソンドハイムへ映画翻案を作りたいと申し出た。ソンドハイムはこの時について、了解を出したもののバートンは別の仕事に取りかかってしまったと後に語っている。", + "qas": [ + { + "question": "映画『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』の下地となっているミュージカルのタイトルは何ですか。", + "id": "tr-245-05-000", + "answers": [ + { + "text": "『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』", + "answer_start": 2, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ティム・バートンが初めてミュージカル『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』を見たのはいつですか。", + "id": "tr-245-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1980年", + "answer_start": 107, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バートンがあ監督業を始めたのはいつからですか。", + "id": "tr-245-05-002", + "answers": [ + { + "text": "1980年代後半", + "answer_start": 403, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "2006年8月、ドリームワークスはバートンの参加とトッド役へのジョニー・デップのキャスティングを発表した。バートンとデップは、『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』が6度目のタッグとなる。デップはミュージカル初挑戦だったが、バートンからのオファーを受け、昔のバンド仲間に協力を依頼して劇中曲の\"MyFriends\"を録音して送った。しかしこれは、他の配役が決定し衣装・���ットの製作が始まっていた頃の話で、それまで彼の歌声を聞いたことがなかったバートンやプロデューサーのザナックは、テープを聴くまでやきもきしていたという。\n\n幽霊のナレーター役には、クリストファー・リーやピーター・ボウルズ、アンソニー・ヘッドなど総勢8人がキャスティングされたが、後に全てカットされた。リーは後に、2007年3月にデップが娘リリー=ローズの看病のため休業し、撮影に時間的制約がかかったので役が削除されたと明かした。\n\n2006年10月には、サシャ・バロン・コーエンのキャスティングと共に、バートンと当時内縁関係にあったヘレナ・ボナム=カーターの出演が発表された。ボナム=カーターは、子どもの頃から一家揃って舞台版のファンであり、バートンの反対を押し切って、3ヶ月のレッスンを受けてまでオーディションに臨んだ。またバロン・コーエンはオーディションで『屋根の上のバイオリン弾き』をほぼ全編熱唱し、即採用されたという。また2ヶ月後の2006年12月には、アラン・リックマンの出演が、年が明けた2007年1月にはルーシー・バーカー役へのローラ・ミシェル・ケリーのキャスティングが発表された。その後ティモシー・スポールが追加キャストとして発表され、デップのファンで、父と彼の共演を望んでいた娘に説得されてオーディションを受けたと報じられた。\n\nまた、トビー役にはエド・サンダース、ジョアンナ役にはジェイン・ワイズナー、アンソニー役にはジェイミー・キャンベル・バウアーが選ばれた。バウアーはオーディションから4日後に買い物をしているところでアンソニー役内定を伝えられ、役の内定に喜んで小さな女の子のように店中走り回ったと述懐している。また、バートンは当初ジョアンナ役にアン・ハサウェイを考えていたが、無名女優を求めて変更されたとも報じられている。ハサウェイ自身も、この噂を認めているが、その真偽までは明らかにしていない。\n\nデップを除く全てのキャスティングはソンドハイムの承認を受けてから決定した。", + "qas": [ + { + "question": "ドリームワークスがトッド役へのジョニー・デップのキャスティングを発表したのはいつですか。", + "id": "tr-245-06-000", + "answers": [ + { + "text": "2006年8月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "サシャ・バロン・コーエンのキャスティングと共に、バートンと当時内縁関係にあったヘレナ・ボナム=カーターの出演が発表されたのはいつですか。", + "id": "tr-245-06-001", + "answers": [ + { + "text": "2006年10月", + "answer_start": 405, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ルーシー・バーカー役へのローラ・ミシェル・ケリーのキャスティングが発表されたのはいつですか。", + "id": "tr-245-06-002", + "answers": [ + { + "text": "2007年1月", + "answer_start": 639, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "トッド役とルーシー・バーカー役とキャスティングがもっと遅かったのはどっちなの?", + "id": "tr-245-06-003", + "answers": [ + { + "text": "ルーシー・バーカー役", + "answer_start": 648, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』の主要撮影は2007年2月5日にパインウッド・スタジオで始まり、デップの娘の病気による一時中断を挟んで、同年5月11日に終了した。バートンはロンドンで撮影することを選んだが、ロンドンは1989年の『バットマン』撮影以来「とても気楽な場所」だと感じていたという。美術を担当したダンテ・フェレッティは、フリート街や周辺地域の外見を改造して(フェレッティは実際のフリート街を採寸してセットを作った)、より暗く不吉なイメージのロンドンを創り上げた。バートンは当初グリーン・スクリーンの前に小さなセットを作って撮影するつもりだったが、「グリーン・スクリーンの前で歌��せるのは余計支離滅裂だ」と話し、物理的なセットの方がキャストがミュージカルの枠組みに入り込みやすいだろうと考えて中止している。キャストたちは吹替無しで予め曲を収録してから撮影に臨み、映像はこの音楽を流しつつリップシンクさせる形で撮影された。\n\nデップは、自身でトッドのイメージを創り上げて撮影に臨んだ。目元には濃い紫色・茶色のメイクアップが施されたが、これはトッドの疲労と憤怒を表し、「彼は眠らない」と感じさせるためだったという。", + "qas": [ + { + "question": "『スウィーニー・トッドフリート街の悪魔の理髪師』の主要撮影はいつ始まったか。", + "id": "tr-245-07-000", + "answers": [ + { + "text": "2007年2月5日", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ぶん公", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ぶん公(ぶんこう、1914年(大正3年)-1938年(昭和13年)2月3日)は、オスの雑種犬である。\n仔犬の頃に火事の焼け跡で鳴いていたところを救われたこの犬は、大正から昭和の初めにかけて小樽の消防組の建物に住み着き、消防隊員たちに可愛がられていた。\nぶん公は隊員たちとともに消防車に乗って「出動」し、火災現場ではやじ馬たちの整理やホースのもつれ直しなどでその能力を発揮した。\nぶん公の「出動」回数はその生涯で1000回を優に超えていたといわれる。\nぶん公は24歳という長寿でこの世を去り、その遺骸は剥製として残された。\n2006年(平成18年)には、ぶん公の功績を称えて記念碑が建立された。\nぶん公については、その生涯とエピソードが子供向けの絵本や読み物となっている。\n名前については、ブン公、文(ぶん)、文公(ぶんこう)などの表記も見られる。", + "qas": [ + { + "question": "ぶん公は何歳まで生きましたか?", + "id": "tr-246-00-000", + "answers": [ + { + "text": "24歳", + "answer_start": 229, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ぶん公の性別は?", + "id": "tr-246-00-001", + "answers": [ + { + "text": "オス", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ぶん公の記念碑が建てられたのはいつ?", + "id": "tr-246-00-002", + "answers": [ + { + "text": "2006年", + "answer_start": 261, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "小樽は歴史の古い港町で、明治期になると石炭を本州に送り出す集積地となり、道内各地に向かう開拓民たちの上陸や物資陸揚げに関わる海の玄関口となって著しく発展した。\n小樽の人口も明治期に急増したが、増える住民数に対して家の普請が追いつかないために急ごしらえの木造家屋が増加していた。\nこのような条件のため小樽の街は火事に弱く、2-3年に1度は街の大半に被害を及ぼす大火事が起こっていた。\nぶん公が登場したのは、小樽の街が度重なる大火からの教訓を受けて石造りの建物を作り始め、消防の整備も進められるようになった時期のことであった。\n1914年(大正3年)の春、消防組は火事の一報を受けて現場に出動した。\n火事を消し止めた後、1匹の仔犬が焼け跡で鳴いているのが見つかった。\n引き取り手のないこの仔犬は、消防組の隊員たちが連れ帰って育てることになった。", + "qas": [ + { + "question": "ぶん公が居た街はどこ?", + "id": "tr-246-01-000", + "answers": [ + { + "text": "小樽", + "answer_start": 202, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "小樽の人口が急増した時期はいつ?", + "id": "tr-246-01-001", + "answers": [ + { + "text": "明治期", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "小樽の街に大火事が起こる頻度は何年に1度?", + "id": "tr-246-01-002", + "answers": [ + { + "text": "2-3年", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "仔犬は白い毛色に茶色のブチがある雑種のオスで、誰が言うともなく「ぶん公」と呼ばれるようになった。\nぶん公は命の恩人である消防組第5部長の神山という人物にとりわけなついていた。\n他の隊員たちにも可愛がられ、エサは隊員たちの弁当を少しずつ分けてもらっていた。\nときには隊員たちがお金を出し合って、近くの市場でぶん公の好物である身欠き鰊を安く分けてもらうこともあった。\nぶん公は身欠き鰊の他にキャラメルも大好物だったという。\n神山が定年を迎えて消防組を去った後も、ぶん公は消防車の車庫をねぐらとして引き続き消防組に住み着いた。\nぶん公は賢い犬で、近所の人々や子供たちにも好かれていた。\nぶん公が一番喜んだのは、眼鏡をかけてもらった上に消防組の帽子を頭にかぶせてもらうことだった。\n眼鏡に帽子姿のぶん公はその格好のままで建物内を得意げに歩き回って見せて、人々から好評を博していた。\nぶん公は朝の点呼の際には、「一」「二」「三...」と続く隊員たちの声に続いて最後に「ワン!」と吠えて答えた。\n「気をつけ」の号令では前足をそろえた上で首を上げ、「直れ」の号令を聞くまでその姿勢を崩さなかった。\n「敬礼」の号令がかかると、右の前足を耳のところまで上げるようになった。", + "qas": [ + { + "question": "ぶん公が特になついていた人物とは?", + "id": "tr-246-02-000", + "answers": [ + { + "text": "神山", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ぶん公の大好物のお菓子とは何?", + "id": "tr-246-02-001", + "answers": [ + { + "text": "キャラメル", + "answer_start": 193, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ぶん公の大好物の魚とは何?", + "id": "tr-246-02-002", + "answers": [ + { + "text": "鰊", + "answer_start": 189, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ぶん公のねぐらはどこでしたか?", + "id": "tr-246-02-003", + "answers": [ + { + "text": "消防車の車庫", + "answer_start": 233, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "やがてぶん公は誰が教えたわけでもないのに、隊員たちの作業を見習って働くようになった。\n通常の電話ベルと火災報知器のベルを聞き分け、火事発生となるとその吠え声で隊員たちに出動を知らせた。\n出動の際には、真っ先にシボレー製消防車のサイドステップに乗って出動を待ち受けていた。\nぶん公は全速力で走る消防車から、1度たりとも転落したことさえなかったと伝わる。\n火事の現場では、まずホースの先端をくわえて筒先係の隊員に渡し、消火活動中にホースがもつれているとその部分を直して水のとおりをよくした。\nさらにぶん公は、現場に集まってくるやじ馬たちが火事の現場に近づき過ぎないように非常線に沿って吠えながら巡回し、その整理までこなすほどであった。\n体調を崩したときには、自分だけで動物病院へ行って入院したという逸話も残っている。", + "qas": [ + { + "question": "ぶん公は通常の電話ベルと何のベルを聞き分けていましたか?", + "id": "tr-246-03-000", + "answers": [ + { + "text": "火災報知器のベル", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "出動の際にぶん公は消防車のどこに乗って待機していましたか?", + "id": "tr-246-03-001", + "answers": [ + { + "text": "サイドステップ", + "answer_start": 113, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ぶん公の活躍は、地元の小樽だけではなく新聞や雑誌を通じて北海道の内外に���で広まった。\nその「出動」回数は優に1000回を超え、小樽の人々の誇りとなっていた。\n同時期に東京で忠犬ハチ公が話題となっていたため、「小樽のハチ公」とも呼ばれた。\nやがて老境にさしかかったぶん公は、足腰が弱った上にホースをくわえて働いていたために前歯がすべて欠け、横臥している時間が長くなっていた。\nそのような状態に至っても、火災報知器のベルが鳴るとよろけながらも何とか消防車に乗り込もうとして、それを見た人々の涙を誘ったという。\nぶん公は隊員たちに見守られながら、1938年(昭和13年)2月3日の正午に24歳(人間年齢では100歳以上)でその生涯を終えた。\n「小樽新聞」(現:北海道新聞)は、同年2月5日付の紙面で「消防犬文公病死二十四歳の長命勇しかった過去」という見出しでその死を報道した。", + "qas": [ + { + "question": "忠犬ハチ公を真似てぶん公は何と呼ばれていたの?", + "id": "tr-246-04-000", + "answers": [ + { + "text": "「小樽のハチ公」", + "answer_start": 103, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ぶん公が死去した時の年齢は人間年齢で何歳になりますか?", + "id": "tr-246-04-001", + "answers": [ + { + "text": "100歳以上", + "answer_start": 300, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ぶん公の死去を報じた新聞は何ですか?", + "id": "tr-246-04-002", + "answers": [ + { + "text": "「小樽新聞」", + "answer_start": 318, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "忠犬ハチ公はどこにいましたか?", + "id": "tr-246-04-003", + "answers": [ + { + "text": "東京", + "answer_start": 83, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ぶん公の葬儀は、死の翌日に小樽消防組葬として盛大に執り行われた。\nぶん公の棺は錦の布で覆われ、その前には「小樽消防犬文公之霊」と書かれた塔婆が置かれた。\n地元にある龍徳寺という寺院の僧侶が招かれてぶん公のために経を読み、多くの参列者がその死を悼んだ。\nぶん公の死の知らせは、新聞やラジオで日本各地にも広まった。\n消防組には花輪や供え物がたくさん送られてきて、その中にはぶん公の大好物だったキャラメルが200個もあったという。", + "qas": [ + { + "question": "ぶん公の塔婆には何と記されましたか?", + "id": "tr-246-05-000", + "answers": [ + { + "text": "「小樽消防犬文公之霊」", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ぶん公の葬儀で招かれた僧侶はどこから来ましたか?", + "id": "tr-246-05-001", + "answers": [ + { + "text": "龍徳寺", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ぶん公の死を悼んで全国から送られてきたキャラメルの数はいくつでしたか?", + "id": "tr-246-05-002", + "answers": [ + { + "text": "200個", + "answer_start": 200, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ぶん公はその功績を長く伝えるために剥製にされて、しばらく消防本部に飾られていた。\n後にぶん公は小樽市総合博物館に保存されることになり、ついで総合博物館・運河館に展示されている。\n後の2010年代には、熱心なファンがこの剥製を見るために本州から小樽の博物館まで訪れるようになった。\nぶん公の思い出は長く記憶され、絵本や児童文学でも紹介されていた。\nぶん公の死から68年目の命日にあたる2006年(平成18年)2月3日、ぶん公顕彰の計画が動き始めた。\n地元小樽市の元消防団在籍者が、「消防犬ぶん公記念碑建設期成会」を発足させた。\nその中心になったのは、かつて消防団の副団長を務めた地元企業の会長だった。\n会長がぶん公の記念碑建設を思い立ったのは、「小樽市に何か恩返しをしたい」と考えていたときにぶん公の存在を思い出したことに始まっていた。\nそして「消防・防火の意識を多くの人に感じてもらう」ために銅像建設を決めたという。", + "qas": [ + { + "question": "2006年2月3日はぶん公の死から何年目の命日にあたりますか?", + "id": "tr-246-06-000", + "answers": [ + { + "text": "68年目", + "answer_start": 180, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ぶん公の剥製は消防本部の次にどこに保存されたの?", + "id": "tr-246-06-001", + "answers": [ + { + "text": "小樽市総合博物館", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「消防犬ぶん公記念碑建設期成会」が発足されたのは何年?", + "id": "tr-246-06-002", + "answers": [ + { + "text": "2006年", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "この計画は多くの賛同者を得て、同年7月21日に記念碑の除幕式が行われた。\n記念碑は小樽市観光物産プラザ(運河プラザ)前広場にあり、銅像となったぶん公が倉庫群の方を向いて台座の上に座っている。\n子供たちが銅像に触れたり記念写真を撮るなどで、ぶん公と親しむことができるよう、台座は適度な高さが心がけられた。\n台座にはめ込まれた写真プレートには、シボレー製消防車のサイドステップに座るありし日のぶん公の姿が映し出されている。\nぶん公の記念碑は人々に親しまれるようになり、好物のキャラメルの他に手編みのマフラーや帽子などが時折供えられている。\n12月にはクリスマスに合わせてサンタクロースの衣装が着せられ、記念撮影をする観光客も多い。\n2007年(平成19年)には、小樽市内の印刷会社である石井印刷が、自社ブランド「小樽紙匠堂」のもと、後に小樽観光協会推奨のご当地キャラクターとなる「おたる運がっぱ」など計4点のオリジナルキャラクターを生み出しており、その1つであるメスの白い子犬「シャチくらら」は、ぶん公の孫とされている。\n翌2008年(平成20年)には携帯電話用ストラップの販売などで人気を呼んだ。\n同2008年、NPO法人日本福祉愛犬協会(KCジャパン)は「第1回銀の首輪賞」をぶん公に授与した。\nこの賞は「ペットと人間の共生のために、社会に貢献した犬や人」を対象とする賞で、ぶん公の没後70年の命日に当たる2008年(平成20年)2月3日の「消防犬ぶん公・メモリアルコンサート」で表彰式が行われた。", + "qas": [ + { + "question": "ぶん公の孫という設定のオリジナルキャラクターの名前は?", + "id": "tr-246-07-000", + "answers": [ + { + "text": "「シャチくらら」", + "answer_start": 436, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「おたる運がっぱ」が生み出された年は?", + "id": "tr-246-07-001", + "answers": [ + { + "text": "2007年", + "answer_start": 314, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「第1回銀の首輪賞」を受賞したのは誰?", + "id": "tr-246-07-002", + "answers": [ + { + "text": "ぶん公", + "answer_start": 538, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "古生物・地質学者でナウマンゾウ研究などに大きな功績を残した井尻正二は、小樽の出身である。\n井尻は大正時代の終わりごろ、小樽・公園通りにあった消防分署の隣に住んでいた。\nそこには、「純粋の雑種」犬が1匹住み着いていた。\n井尻の見たところではお世辞にもいい犬とは言えなかったというが、その犬こそぶん公であった。\n井尻は1972年(昭和47年)の随筆集『化石のつぶやき』において、ぶん公について1編の随筆を書いた。\n1975年には、画家の金子三蔵とともにぶん公の生涯とエピソードを題材とした絵本『消防犬・文』を創作した。\n井尻と金子はこの絵本で「絵本が絵本であるため��は、あくまで絵が主体であり、絵が直接子供たちに話しかけるものでなくてはならない」という理念を掲げ、説明を最小限にとどめ、絵が持つ訴求力を活かすことを試みている。\n『消防犬・文』は、2007年(平成19年)5月に読者からの希望で再刊された。\nこの絵本には解説として、随筆集『化石のつぶやき』からぶん公について書いた部分が使用されている。", + "qas": [ + { + "question": "小樽出身の有名な地質学者とは誰?", + "id": "tr-246-08-000", + "answers": [ + { + "text": "井尻正二", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "井尻正二の出身地はどこ?", + "id": "tr-246-08-001", + "answers": [ + { + "text": "小樽", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "井尻正二が創作したぶん公をテーマにした絵本のタイトルは?", + "id": "tr-246-08-002", + "answers": [ + { + "text": "『消防犬・文』", + "answer_start": 244, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『消防犬・文』の絵を担当した人は誰?", + "id": "tr-246-08-003", + "answers": [ + { + "text": "金子三蔵", + "answer_start": 216, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "『消防犬ぶん公』は、1998年(平成10年)12月に文溪堂から上梓された。\n著者の水口は1929年(昭和4年)生まれで、幼いころから小樽に「ぶん公」というとても利口な犬がいたという話を聞かされていた。\n水口はその話を聞いてから、ぶん公が死んでから何年も経っているというのに消防の建物の前を通るたびにその姿を探していた。\n大人になってからは、ぶん公がいた建物の向かいに全くの偶然でしばらく住んでいたこともあった。\nやがて水口は創作活動を始め、ぶん公の話を書くことになった。\nこのとき水口は、ぶん公との間に「不思議な糸でむすばれている」縁を感じたという。\nただし、ぶん公の活躍していた時期は既に遠い過去のことであった。\n水口は小樽市立博物館を訪ね、剥製となったぶん公に面会した。\nぶん公の剥製は非常に保存状態が良く、毛並みを撫でたり目を見たりしていると、ありし日の活躍が想像できるほどだった。\n小樽市消防本部や小樽市立博物館などの協力を得て、水口は1編の童話を書き上げることができた。", + "qas": [ + { + "question": "『消防犬ぶん公』の著者は誰?", + "id": "tr-246-09-000", + "answers": [ + { + "text": "水口", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『消防犬ぶん公』を出版した会社はどこ?", + "id": "tr-246-09-001", + "answers": [ + { + "text": "文溪堂", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "水口の出生年は?", + "id": "tr-246-09-002", + "answers": [ + { + "text": "1929年", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "水口は後に、ぶん公記念碑の賛同者に名を連ねることになった。\n記念碑の説明文も、水口が子供たちにもわかりやすいようにと配慮して書いたものである。\n2007年(平成19年)に水口は「ぶん公の歌」を作詞し、この歌はぶん公の没後70年の命日に当たる2008年(平成20年)2月3日に「消防犬ぶん公・メモリアルコンサート」で初披露された。\n記念碑を見て、設置場所である運河プラザに「あの銅像の犬は何?」と質問する観光客も多く、日本国外の観光客からの質問も多いことから、2013年(平成25年)には『消防犬ぶん公』を英訳した冊子が製作された。\n日本語版『消防犬ぶん公』を購入した希望者にはこの英訳冊子がプレゼントされ、好評を得ている。", + "qas": [ + { + "question": "ぶん公の��のタイトルは?", + "id": "tr-246-10-000", + "answers": [ + { + "text": "「ぶん公の歌」", + "answer_start": 88, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「ぶん公の歌」の作詞を担当した人は誰?", + "id": "tr-246-10-001", + "answers": [ + { + "text": "水口", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "2008年2月3日はぶん公が死去して何年の命日でしたか?", + "id": "tr-246-10-002", + "answers": [ + { + "text": "70年", + "answer_start": 110, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "蜂群崩壊症候群", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "蜂群崩壊症候群(ほうぐんほうかいしょうこうぐん、ColonyCollapseDisorder,CCD)とは、ミツバチが原因不明に大量に失踪する現象である。\n日本では「いないいない病」(「イタイイタイ病」と「いないいないばあ」がかけられた造語)という別名で紹介される場合もある。\nヨーロッパ、アメリカ合衆国、日本、インド、ブラジルなどで観察されている。\nフランス政府は、科学的根拠が無いものの、殺虫剤の成分とミツバチ失踪の因果関連を踏まえて、予防原則に基づき、一部の農薬を使用禁止にした。", + "qas": [ + { + "question": "ミツバチが原因不明に大量に失踪する現象を何といいますか?", + "id": "tr-247-00-000", + "answers": [ + { + "text": "蜂群崩壊症候群", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "蜂群崩壊症候群の日本での別名は何ですか?", + "id": "tr-247-00-001", + "answers": [ + { + "text": "「いないいない病」", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "カナダの養蜂協議会(CanadianHoneyCouncil)によればCCDが発生したコロニーでは共通して以下のような兆候が最終的なコロニー崩壊の前に発生している。\n幼虫を維持するだけの若い成蜂(働き蜂)がコロニーから不足または完全にいなくなるものの、コロニーの周囲には死んだ蜂がほとんど見られない。\nコロニーに巣房蓋のある巣房が残っている。\nこれは羽化前の蛹が存在することを意味する。\nミツバチは通常、蛹が全て羽化して巣房を出るまで巣を放棄しない。\n蜂蜜や花粉といった食料は備蓄されたままである。\nそのため、これらがごく短時間のうちに他の蜂に奪われることはない(盗蜂は容易に起きない)。\nまた食料が備蓄されていれば、蜂の巣を襲う天敵(蜂にとっては害虫)例えば、ハチノスツヅリガやケシキスイからの攻撃も巣に籠もることで防御できるため、敵による攻撃も考えにくい。\nコロニーの構成員は、砂糖水や蛋白質などの餌をあまり食べようとしない。\n女王蜂は生存する(失踪しない)。", + "qas": [ + { + "question": "コロニー崩壊前の兆候で、完全にいなくなっているものは何ですか?", + "id": "tr-247-01-000", + "answers": [ + { + "text": "若い成蜂", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "コロニー崩壊前の兆候で、働き蜂がいなくなっても残っているものとは何ですか?", + "id": "tr-247-01-001", + "answers": [ + { + "text": "女王蜂", + "answer_start": 416, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "若い成蜂は通称何と呼ばれていますか?", + "id": "tr-247-01-002", + "answers": [ + { + "text": "働き蜂", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2006年秋から現在にかけてセイヨウミツバチが一夜にして大量に失踪する現象が米国各地で発生、その数は米国で飼われているミツバチの約4分の1になっ���。\nヨーロッパの養蜂家においても、スイス、ドイツでは小規模な報告ではあるが、他にもベルギー、フランス、オランダ、ポーランド、ギリシア、イタリア、ポルトガル、スペインにおいて同様の現象に遭遇している。\nまた、CCDの可能性のある現象は台湾でも2007年4月に報告されている。\n1971年から2006年にかけ、米国における野生種のミツバチ数が激減(今ではほとんど存在しない)し、養蜂家の保有しているミツバチのコロニーがいささかゆるやかに、しかし顕著に減少した。\nこれは、都市化や農薬の使用、アカリンダニ(Acarapiswoodi)やミツバチヘギイタダニ(Varroamites)、商業養蜂家の撤退などの要因が重なって累積的に減少しているものだが、2006年の終わりから2007年の始めにかけ、減少率は大きな比率となり、「蜂群崩壊症候群(CCD)」の名称を用いて、突発的なミツバチ失踪現象を表すことが提唱された。\n2004年から2005年の冬に同様の現象が発生し、ミツバチヘギイタダニによるものとされたものの、断定には至っていない。\n過去に発生した事例についても原因は明らかになっていない。", + "qas": [ + { + "question": "台湾でのミツバチ失踪現象はいつ報告されましたか?", + "id": "tr-247-02-000", + "answers": [ + { + "text": "2007年4月", + "answer_start": 193, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "蜂群崩壊症候群はアルファベットを用いてどのように表記されますか?", + "id": "tr-247-02-001", + "answers": [ + { + "text": "CCD", + "answer_start": 440, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1990年代の初めからヨーロッパ全域、フランス、ベルギー、イタリア、ドイツ、スイス、スペイン、ギリシア、ポーランド、オランダ、ドイツ、オーストリアやイギリスなどでも完全にCCDが原因だとは認められていないものの、同様の消失は発生している。\nほかにインドやブラジルでも報告され、日本でも類似症例が報告されている。\n症状が最初に観察され、CCDの現状が報告されている米国ではジョージア州、オクラホマ州、ペンシルベニア州、ウィスコンシン州、カリフォルニア州をはじめとする複数の州のグループでそれぞれ解析されている。\n北アメリカ全体ではカナダと24の州でもCCDが報告されており、ケベック州のある養蜂家は、養蜂している蜂の40%が死亡したと述べている。\n合衆国では2006年から2007年に養蜂の25%が消失した。\nしかし、報告されたこれら全ての例がCCDであると断定するには不確かな点が多い。\nCCDはかなり知られてはいたものの、症状が事細かに述べられることは稀であったためである。\n例えば、ドイツではヨーロッパで最初にCCDが報告されたが、ドイツの国家養蜂家組合によれば40%のミツバチのコロニーが絶滅したものの、科学的な検証は行われていないため、2007年5月には「ドイツではCCDと断定できる事例は発生していない」とドイツのメディアが報道した。", + "qas": [ + { + "question": "ヨーロッパ全域で蜂の消失事例が発生したのは何年代からでしたか?", + "id": "tr-247-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1990年代", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "症状が最初に観察された国はどこでしたか?", + "id": "tr-247-03-001", + "answers": [ + { + "text": "米国", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヨーロッパで最初にCCDが報告された国はどこでしたか?", + "id": "tr-247-03-002", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ", + "answer_start": 443, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "CCDと同一症例であるかは不明であるが、CCDに似た大量失踪現象はすでに1896年には報告されており、この現象は過去様々な名称で呼ばれてきた(「消失病」(disappearingdisease)、「春の減少」(springdwindle)、「五月���」(Maydisease)、「秋の崩壊」(autumncollapse)、「秋の減少病」(falldwindledisease)。\nイギリスでは、1872年に乗員が消失した船にちなんで「メアリー・セレスト現象」とも呼ばれた。\n2006年の蜂群崩壊症候群予備報告書では、この現象が季節に限定されないことや、通常の意味での「病気」ではない(病気であれば、それを引き起こす原因が存在するはず)から、この症候群は名称の変更を受けた。", + "qas": [ + { + "question": "CCDに似た現象をイギリスではどのように呼んでいましたか?", + "id": "tr-247-04-000", + "answers": [ + { + "text": "「メアリー・セレスト現象」", + "answer_start": 216, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "メアリー・セレストの乗員消失事件が起こった年はいつでしたか?", + "id": "tr-247-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1872年", + "answer_start": 197, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "CCDのメカニズムは不明であり、因果関係の科学的解明が進んでいない。\n原因の仮説には、疫病・ウイルス説(イスラエル急性麻痺ウイルス(IAPV)など)、栄養失調説、ネオニコチノイド(イミダクロプリド)などの農薬・殺虫剤説、電磁波説、害虫予防のための遺伝子組み換え作物説、ミツバチへの過労働・環境の変化によるストレス説が唱えられている。\nこれらのほかに飢餓、病原体や免疫不全、ダニや真菌、養蜂上の慣習(例えば抗生物質の使用や、養蜂箱の長距離輸送)なども指摘される。\n一つの要素が原因であるか、複数の要素の組み合わせが原因であるか、またCCDの影響を受けた異なる地域において独立におきるのか、関連して発生するのかは分かっていない。\n同様に、CCDが、以前あまり大きな影響を与えなかった現象ではなく、全く新しい現象であるのかどうかについても、分かっていない。", + "qas": [ + { + "question": "CCDの原因の仮説以外で指摘されているものとは、病原体や免疫不全、ダニや真菌、養蜂上の慣習ともう1つは何ですか?", + "id": "tr-247-05-000", + "answers": [ + { + "text": "飢餓", + "answer_start": 174, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ペンシルベニア大学を主拠点とする蜂群崩壊症候群研究グループ(ColonyCollapseDisorderWorkingGroup)の予備レポートはある種のパターンを指摘したが、強固な結論は導き出せていなかった。\n2007年に行われた養蜂家対象の調査では、趣味で養蜂をする者のほとんどは、飢餓がCCDの主因であると考え、一方、生業として養蜂をする者は、有害な無脊椎生物(ミツバチヘギイタダニとケシキスイの両方、またはいずれか一方のみ)がCCDの主因に違いないと考えていることが明らかになっている。\n2007年6月の論文でも、多くの仮説や要因として考えられそうなものについて列挙しているが、結論は見送っている。", + "qas": [ + { + "question": "趣味で養蜂を行っている人の多くが主張するCCDの主要原因とは何ですか?", + "id": "tr-247-06-000", + "answers": [ + { + "text": "飢餓", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ペンシルベニア州の研究報告では、予備調査の対象である全ての生産者が、問題の死亡現象の前にコロニーが「特殊なストレス」にさらされていたことを記載しているというものがあった。\nそのストレスとは栄養不足や水不足、あるいはどちらか一方である。\nこの報告においては、「ストレス」という要因がCCDの全事例に共通する唯一の要因である。\n従って、この現象が栄養状態のストレスと相関関係にあり、健康で栄養が十分に与えられたコロニーでは影響が見られないという可能性はあるだろうと思われる。\n気候変動が原因とする説もある。\n地球全体の温暖化によって局所的には通常より低い温度になったり高い温度になったり、また寒波の周期が遅れるためではないかと指摘される。", + "qas": [ + { + "question": "「特殊なストレス」とは栄養不足と何ですか?", + "id": "tr-247-07-000", + "answers": [ + { + "text": "水不足", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「特殊なストレス」とは、水と何が不足していることを指していますか?", + "id": "tr-247-07-001", + "answers": [ + { + "text": "栄養", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "確かに、異常に乾燥した温暖な冬であれば多くの植物が開花しなくなる。\n2007年6月にカリフォルニア大学デービス校のエリック・マッセン教授は、崩壊したコロニーの多くで見られる病原菌など共通の脅威がもしないとするならば、気候変動によってカリフォルニア州は乾燥状態となり、ハチが花粉をつける花が開花せず、蜂は栄養不良となったとすれば、ミツバチが弱まったメカニズムを説明できるとして、「こんなにも暖かいのですが、この温度の頃はだいたい花のつぼみが形成され、花粉粒ができ始める頃なのです。つぼみができ、花粉粒ができるとどうなるか。受粉不能な花粉ができます。養蜂家は蜂の巣を調べて言うでしょうね、『蜂の巣にはありとあらゆる花粉があるが、ミツバチが見当たらない』と。その通りなんです。確かに花粉はあるけれど、栄養があるのでしょうか?[...]昨年の終わり、ここだけでなく、世界中の温帯あちこちで何かが起こって、ミツバチの食糧供給を混乱させたのだと考えています。他の人から違った意見が出ない限り、私は気候に責任があると考えます。[...]理由はどうあれ、我々は以前にも増して極端な状況を目の当たりにするサイクルに陷り始めたとでも言うべきでしょう。旱魃(かんばつ)はより暑く長く、嵐と洪水はより厳しくなることも考えられます。将来の状況はそれほど良い状況には向かっていませんね。」と語った。", + "qas": [ + { + "question": "エリック・マッセンは2007年6月当時にどこの学校に務めていましたか?", + "id": "tr-247-08-000", + "answers": [ + { + "text": "カリフォルニア大学デービス校", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "実際2006年前半は、アメリカ合衆国で記録的な暖かさであった。\n他方、例年より花が早く開花していると言う者もいる。\n『自然の養蜂(NaturalBeekeeping)』の著者コンラッドは、気候の変動と早い春の到来が被害をもたらし、アメリカハナノキ(redmaple)やネコヤナギ(pussywillows)のような植物は、ふつうミツバチが最初に花粉摂取しに向かうものであるが、春にミツバチが飛べるようになる数週間前に咲いてしまっているので、ミツバチたちは重要な花粉源に到達しながら何もできずにいるのだ、と言った。\n花粉源については、NASAの気象学者で養蜂家であるウェイン・エサイアス(WayneEsaias)は、利用可能な花粉源を監視し続けている。", + "qas": [ + { + "question": "『自然の養蜂』を書いた人は誰ですか?", + "id": "tr-247-09-000", + "answers": [ + { + "text": "コンラッド", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "NASAの気象学者でありながら、養蜂家でもある人物は誰ですか?", + "id": "tr-247-09-001", + "answers": [ + { + "text": "ウェイン・エサイアス", + "answer_start": 282, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ミツバチが最初に花粉を採りにいく植物はネコヤナギと何ですか?", + "id": "tr-247-09-002", + "answers": [ + { + "text": "アメリカハナノキ", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "発生した事例間には環境の共通要因も認められないとする研究もあるが、より一般的な仮説の1つに、農薬(具体的には殺虫剤)説がある。\n2012年までにネオニコチノイド系殺虫剤の農薬成分(イミダクロプリド、アセタミプリド、ジノテフランなど)と蜂群崩壊現象との因果関係を示す研究がヨーロッパを中心に多数発表された。", + "qas": [ + { + "question": "殺虫剤の農薬成分と蜂群崩壊現象との因果関係を示す研究が多数発表された地域はどこですか?", + "id": "tr-247-10-000", + "answers": [ + { + "text": "ヨーロッパ", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "農薬による致死の経由には、蜂蜜と花粉の2つが考えられる。\n花粉経由説では、ミツバチが餌とするものに使用される農薬は、体内に貯蓄される蜂蜜経由でなく、花粉経由でコロニーに運ばれるため、花粉が媒介として考えられる。\n花粉は体の外側を使って運ぶのに対し、蜂蜜は体の内部を使用して運搬され、毒性があった場合、そのミツバチが死に至るはずだからである。\nもっとも、天然・人工を問わず、ミツバチにとって致命的であり得る化学物質の全てがミツバチの成虫に影響するわけではないが、もしそういった化学物質があれば、真っ先に幼虫に影響があるはずなのにCCDの事例では幼虫の死亡は発生していない。\n蜂蜜経由説では、幼虫は蜂蜜を食べず、大人のミツバチはそれに対してほとんど花粉を消費しない。\nCCDの症状は、もし環境から入る細菌や毒素が原因であるならば、幼虫が死亡せずミツバチの成虫が死亡している(もしくはどこかに行ってしまっている)ことから、それは蜂蜜を経由して入ってきている可能性が高いと説明される。\n現在まで、CCDにおける農薬作用に関しては、養蜂家から提供を受けた調査結果によっている。\nしかし、ネオニコチノイドなどの農薬は、養蜂家不在の場合でも土に撒かれることから残留などが考えられるため、養蜂家不在の地でも、影響を受けたコロニーからサンプルを入手し直接調べる必要がある。", + "qas": [ + { + "question": "花粉が媒介となって農薬がコロニー内に運ばれる説を何と言いますか?", + "id": "tr-247-11-000", + "answers": [ + { + "text": "花粉経由説", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "農薬による致死の経由として考えられているものは花粉と何ですか?", + "id": "tr-247-11-001", + "answers": [ + { + "text": "蜂蜜", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ネオニコチノイド系殺虫剤の農薬成分にはイミダクロプリド、アセタミプリド、ジノテフランなどがあり、農薬には日本の住化武田農薬(現住友化学)が開発したクロチアニジン(2001年日本で農薬登録)、ニテンピラム(1995年販売)などがあり、バイエルクロップサイエンス社と共同で欧州市場で展開した。\n蜂群崩壊症候群の発生以降、ミツバチの大量消失とネオニコチノイド系農薬殺虫剤との因果関係についての研究が蓄積され、オランダ、デンマーク、フランス、ドイツ、イタリアなどヨーロッパの多数の国家で、これらの農薬の使用が禁止された。", + "qas": [ + { + "question": "クロチアニジンの開発会社は何ですか?", + "id": "tr-247-12-000", + "answers": [ + { + "text": "住化武田農薬", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ニテンピラムの開発会社はどこですか?", + "id": "tr-247-12-001", + "answers": [ + { + "text": "住化武田農薬", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "住化武田農薬はどこの会社と共に欧州市場で農薬販売を展開しましたか?", + "id": "tr-247-12-002", + "answers": [ + { + "text": "バイエルクロップサイエンス社", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "イミダクロプリド(Imidacloprid)は土に撒かれ、花粉や蜂蜜といった植物の組織に吸収される。\nミツバチをはじめとする昆虫に見られるイミダクロプリドの効果は、CCDの症状と一致する。\n例えば、シロアリへのイミダクロプリドの効果は免疫系に影響を与え、方向感覚を喪失させる。\nヨーロッパでの「ミツバチの死亡」現象とイミダクロプリドの関係については議論と研究が蓄積されてきている。", + "qas": [ + { + "question": "シロアリの方向感覚を喪失させる農薬成分とは何?", + "id": "tr-247-13-000", + "answers": [ + { + "text": "イミダクロプリド", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "イミダクロプリドによってシロアリはどのような感覚機能を失いますか?", + "id": "tr-247-13-001", + "answers": [ + { + "text": "方向感覚", + "answer_start": 127, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1994年にフランスでイミダクロプリドによる種子処理(種子のコーティング)が導入された後、ミツバチ大量死事件が発生。\n1999年1月にフランス政府はイミダクロプリドによるヒマワリ種子処理を全国的に一時停止し、調査に着手。\n2000年にはオランダがイミダクロプリドの開放系栽培での使用を禁止し、デンマークでもイミダクロプリドが販売禁止された。\n2002年にミツバチ全滅事件(蜂群崩壊症候群)発生。", + "qas": [ + { + "question": "2000年にイミダクロプリドの販売を禁止した国はどこ?", + "id": "tr-247-14-000", + "answers": [ + { + "text": "オランダ", + "answer_start": 118, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オランダは何の栽培においてイミダクロプリドの使用を禁止しましたか?", + "id": "tr-247-14-001", + "answers": [ + { + "text": "開放系栽培", + "answer_start": 132, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "フランス世界環境基金(FFEM)の研究機関ComitéScientifiqueetTechnique(CST)は、イミダクロプリド(フランスでの商品名GAUCHO(ガウチョ))のフランスにおける部分的禁止を提言し、2003年にフランス農業省の委託を受けた毒性調査委員会はイミダクロプリドの種子処理によるミツバチへの危険性を警告する政府報告書が発表された。\n同2003年にはスクロースに溶けた致死量に近いイミダクロプリドは、ミツバチの帰巣本能と摂食活動に影響を与えると指摘され、また働き蜂と農地に与えられた致死量に近いイミダクロプリドは飛翔活動と嗅覚機能を減少させ、嗅覚機能による学習能力の減少が生じたと研究発表された。", + "qas": [ + { + "question": "イミダクロプリドがミツバチの様々な器官に悪影響を与えるという研究結果が発表されたのは何年でしたか?", + "id": "tr-247-15-000", + "answers": [ + { + "text": "2003年", + "answer_start": 179, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "2004年にフランス農業省はイミダクロプリドを活性成分とするネオニコチノイド系殺虫剤であるバイエル社の農薬「ガウチョ」の許可を取り消した。\nまたイミダクロプリドによるトウモロコシの種子処理も禁止された。\n2005年、ボローニャのイタリア国立養蜂研究院は、イミダクロプリドが付いた種から得られた花粉は致命的なレベルの殺虫剤を含むことを発見し、汚染された花粉はミツバチのコロニーを死に導きかねないと発表した。\nトウモロコシとヒマワリにおけるイミダクロプリドが付いた種の解析では、多量の殺虫剤がミツバチのコロニーに再び運ばれていくことを示唆している。\n働き蜂に与えられるスクロースに溶けたイミダクロプリドは数時間でミツバチのコミュニケーションを減少させる。", + "qas": [ + { + "question": "イミダクロプリドによるトウモロコシの種子処理が禁止されたのはいつ?", + "id": "tr-247-16-000", + "answers": [ + { + "text": "2004年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「ガウチョ」を提供していた会社は何ですか?", + "id": "tr-247-16-001", + "answers": [ + { + "text": "バイエル社", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「ガウチョ」の許可を取り消した機関はどこですか?", + "id": "tr-247-16-002", + "answers": [ + { + "text": "フランス農業省", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2006年にネオニコチノイド系農薬のクロチアニジンがドイツで市場に出回ると、ハチの大量死・大量失踪が初めて報告された。\n2007年にはアメリカでもネオニコチノイド系農薬がミツバチに被害を与えると指摘された。\nカナダの養蜂家も消失現象を経験しているが、彼らはネオニコチノイドの農薬を散布している。\n欧州連合では2013年12月より、ネオニコチノイド系農薬のうちクロチジアニン・イミダクロプリド・チアメトキサムの3種に対する使用規制が導入された。\nただし、開花時期以外での散布、温室ハウス内での散布、ミツバチのこない作物への使用、この3種以外のネオニコチノイド剤の使用は、禁止対象外である。", + "qas": [ + { + "question": "ネオニコチノイド系農薬によるミツバチの被害が先に報告されたのはアメリカとドイツのどちらですか?", + "id": "tr-247-17-000", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "カナダの養蜂家達は何の農薬を使用しているの?", + "id": "tr-247-17-001", + "answers": [ + { + "text": "ネオニコチノイド", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "欧州で使用規制されたネオニコチロイド系農薬とは、イミダクロプリド、クロチジアニンともう1つは何ですか?", + "id": "tr-247-17-002", + "answers": [ + { + "text": "チアメトキサム", + "answer_start": 196, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ネオニコチノイド剤の使用が認められている場所はどこですか?", + "id": "tr-247-17-003", + "answers": [ + { + "text": "温室ハウス内", + "answer_start": 237, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "2006年4月、フランス最高裁の判決を受け、ネオニコチノイド系農薬ガウチョは正式に使用禁止となる。\nフランスでの禁止に対して2006年に欧州連合科学者委員会は「モニター研究は主にフランスで行われており、EUの加入国は自分の国の環境とこれらの研究結果の関係を考える必要がある」と述べた。\n2016年7月、フランス国民議会はネオニコチノイド系農薬の使用禁止などを盛り込んだ生物多様性法案を可決。\n2018年9月からネオニコチノイド剤は一部の例外を除き使用禁止となる。\n2020年7月からは例外使用規定が廃止され、全面禁止となる予定である。", + "qas": [ + { + "question": "ガウチョが正式に使用禁止となったのはいつですか?", + "id": "tr-247-18-000", + "answers": [ + { + "text": "2006年4月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ネオニコチノイド剤の例外使用規定が廃止される予定はいつですか?", + "id": "tr-247-18-001", + "answers": [ + { + "text": "2020年7月", + "answer_start": 232, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "2008年に被害が深刻化したことや研究報告を受けてドイツ連邦消費者保護・安全局(BVL)は、イミダク��プリドとクロチアニジンの認可を取り消し、ネオニコチノイド系農薬7種類を販売禁止。\n同2008年、イタリア農水省もイミダクロプリドやクロチアニジンによる種子処理を禁止。", + "qas": [ + { + "question": "ドイツでネオニコチロイド系農薬の7種が販売禁止されたのはいつ?", + "id": "tr-247-19-000", + "answers": [ + { + "text": "2008年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "2009年には日本の長崎県の壱岐、五島、平戸、的山大島などでミツバチの大量死が発生し、三井化学アグロのスタークルメイトでは蜂の3分の1は生き残り、住化武田農薬のダントツでは全滅すると報告された。\n日本では残留ネオニコチノイドの許容基準値がEUよりも大幅に緩く、アセタミプリドの場合、EUでは0.01ppm以下に規制されるのに対して日本では500倍の5ppmが許可されている。", + "qas": [ + { + "question": "ネオニコチノイドの許容基準値の規制数値が高いのは日本とEUのどちらですか?", + "id": "tr-247-20-000", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "スクールメイトの提供会社はどこですか?", + "id": "tr-247-20-001", + "answers": [ + { + "text": "三井化学アグロ", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ダントツの提供会社はどこですか?", + "id": "tr-247-20-002", + "answers": [ + { + "text": "住化武田農薬", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2012年4月5日にはハーバード公衆衛生大学院は蜂群をイミダクロプリドに晒す実験を行い、23週間後に16のうち15の蜂群において崩壊が起きた事を発表した。\n2012年4月20日、サイエンス誌でイギリスのチームはマルハナバチをイミダクロプリドにさらした結果、対照群と比較しハチの体が小さくなり、女王バチの誕生数が85%減少すると発表した。\n2012年3月29日、米国の科学誌サイエンスはネオニコチノイド系殺虫剤が低用量でもハチには多大な影響を与えるという英仏のチームによる2本の論文を掲載した。", + "qas": [ + { + "question": "蜂群をイミダクロプリドに晒す実験を行った機関はどこですか?", + "id": "tr-247-21-000", + "answers": [ + { + "text": "ハーバード公衆衛生大学院", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2013年には金沢大学教授山田敏郎の研究でネオニコチノイド系農薬によって蜂群が最終的に消滅することが確認された。\n実験で使用された農薬は、三井化学アグロの「スタークルメイト」(ジノテフランを10%含有)と住化武田農薬の「ダントツ」(クロチアニジンを16%含有)であった。\n実験では高濃度から低濃度(100倍に希釈)までの農薬を餌に混ぜてセイヨウミツバチ1万匹8群に投与したところ、濃度にかかわらず成蜂数が急激に減少し群は最終的に絶滅した。\n山田は慢性毒性によりミツバチは帰巣能力を失ったのではないかとし、また毒性が強くても従来の有機リン系農薬の場合は、時間経過とともに蜂は回復するとしたうえで、ネオニコチノイド系農薬は「農薬というより農毒に近い」もので、「このまま使い続け、ミツバチがいなくなれば農業だけでなく生態系に大きな影響を与える」と警告した。", + "qas": [ + { + "question": "山田敏郎が行ったネオニコチロイド系農薬の実験で、使用された農薬はスクールメイトと何ですか?", + "id": "tr-247-22-000", + "answers": [ + { + "text": "「ダントツ」", + "answer_start": 109, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ベニート・ムッソリーニの死", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "本項では、ベニート・ムッソリーニの死について記述する。\n\nかつてイタリアのファシスト独裁者として君臨していたベニート・ムッソリーニは、1945年4月28日、第二次世界大戦の欧州戦線が最終局面を迎える中で死亡した。ムッソリーニの最期は、北イタリアのジュリーノ・ディ・メッツェグラという集落で、正式な裁判にかけられることなく、パルチザンによって即時処刑されるというものだった。公式な見解では、ムッソリーニは「ヴァレリオ大佐」の偽名を使う共産党パルチザン、ヴァルテル・アウディージオによって銃殺されたとされている。しかし、ムッソリーニが死を迎えた状況ならびにムッソリーニを殺害した人物をめぐっては、イタリアでは戦後から現代に至るまで議論が続けられており、今日においても混乱や論争が引き起こされている。", + "qas": [ + { + "question": "ベニート・ムッソリーニはいつ死んだか。", + "id": "tr-248-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1945年4月28日", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1940年6月、ムッソリーニはイタリア王国をドイツの側で第二次世界大戦に参戦させたが、戦況は次第に悪化した。1943年秋の時点で、ムッソリーニは北イタリアに樹立されたドイツの傀儡国家の指導者に身を落としており、南から進攻してくる連合国のみならず、国内のレジスタンス(パルチザン)の脅威にも直面していた。1945年4月、連合国軍がドイツ軍の北イタリアにおける最後の防衛線を突破し、パルチザンの一斉蜂起が各都市を席巻する中、ムッソリーニの身にも危険が迫っていた。1945年4月25日、ムッソリーニは本拠としていたミラノを離れ、スイスとの国境に向かって逃走した。4月27日、ムッソリーニとその愛人クラーラ・ペタッチは、コモ湖畔のドンゴという町の近くで、地元のパルチザンにより逮捕された。ムッソリーニとペタッチは翌日の午後に射殺された。ムッソリーニの死は、アドルフ・ヒトラーの自殺の2日前の出来事だった。", + "qas": [ + { + "question": "ムッソリーニはどこを本拠としていたの?", + "id": "tr-248-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ミラノ", + "answer_start": 254, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ムッソリーニは午前に死んだの、午後に死んだの?", + "id": "tr-248-01-001", + "answers": [ + { + "text": "午後", + "answer_start": 355, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ムッソリーニとアドルフ・ヒトラーと、誰の方が先に死んだの?", + "id": "tr-248-01-002", + "answers": [ + { + "text": "ムッソリーニ", + "answer_start": 364, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ムッソリーニとペタッチの死体はミラノに運ばれ、郊外のロレート広場に放置された。広場に詰め掛けた群衆は怒りに任せて死体を侮辱し、殴る蹴るの暴行を加えた。その後、死体は広場内のガソリンスタンドの桁から逆さに吊るされた。ムッソリーニは墓標無しで埋葬されたが、1946年にファシズム支持者によって死体は掘り起こされ、盗まれた。盗難から4ヶ月後、当局はムッソリーニの死体を取り戻し、その後の11年にわたって死体を秘密裏に保管していた。1957年、ムッソリーニの亡骸は、故郷プレダッピオにあるムッソリーニ家の納骨堂に改めて埋葬された。プレダッピオにあるムッソリーニの墓廟は、ネオ・ファシストにとっての「巡礼地」のひとつとなっており、ムッソリーニの命日にはネオ・ファシストの集会が開かれている。\n\n戦後、イタリアではムッソリーニの死について公式な見解を疑問視する声が湧き上がった。それにまつわる論争については、ケネディ大統領暗殺事件の陰謀論との類似点が指摘されることもある。アウディージオによる証言の信憑性に疑問を持つジャーナリスト、政治家、歴史家らは、ムッソリーニの死の真相について諸説を発表しており、少なくとも12名の���なる人物が、ムッソリーニ殺害の実行者として名前を挙げられている。ムッソリーニの銃殺を実行したとされる人物には、のちにイタリア共産党書記長となるルイージ・ロンゴや、のちのイタリア共和国大統領アレッサンドロ・ペルティーニが含まれている。一部の著述家は、ムッソリーニの殺害がイギリスの特殊作戦部隊による工作の一環であったと主張しており、その目的はウィンストン・チャーチルがムッソリーニと交わした往復書簡を回収し、「不名誉な密約」を隠蔽することにあったとしている。しかし、アウディージオがムッソリーニの処刑を実行したとする公式な見解は、今なお最も信憑性の高い説明として広く受け入れられている。", + "qas": [ + { + "question": "ムッソリーニとペタッチの死体はどこに放置されたか。", + "id": "tr-248-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ロレート広場", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ムッソリーニの命日にはどの集会が開かれますか。", + "id": "tr-248-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ネオ・ファシストの集会", + "answer_start": 321, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1957年9月1日、プレダッピオにあるムッソリーニ家の納骨堂で、詰め掛けた支持者らがローマ式敬礼を行う中、ムッソリーニの改葬が実施された。ムッソリーニの死体は大きな石棺(サルコファガス)の中に横たえられた。石棺のある墓廟にはファシスト党のシンボルが飾られており、ムッソリーニをかたどった大理石の頭像が設置されているほか、墓廟の前には参拝者が記名するためのノートが置かれている。ムッソリーニの墓廟はネオ・ファシストにとっての巡礼地のひとつとなっている。ノートに記名する訪問者は1日に数十人から数百人程度だが、重要な記念日には数千人が記名することもある。ノートに書き込まれるコメントのほとんどは、ムッソリーニを支持する内容となっている。\n\nムッソリーニの命日である4月28日は、ネオ・ファシスト達が大規模な集会を行う重要な3記念日のひとつでもある。プレダッピオではこの日、ムッソリーニの支持者が町の中心から納骨堂の前まで行進する。この行事には通常、数千人が参加し、スピーチや合唱、ローマ式敬礼などが行われる。", + "qas": [ + { + "question": "ムッソリーニの命日はいつなの?", + "id": "tr-248-03-000", + "answers": [ + { + "text": "4月28日", + "answer_start": 330, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ムッソリーニの墓廟はどんな人にとっての巡礼地のひとつとなっていますか。", + "id": "tr-248-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ネオ・ファシスト", + "answer_start": 198, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1966年、ムッソリーニの脳組織の標本が、1945年以来保管してきたワシントンD.C.の聖エリザベス病院から、ムッソリーニの未亡人に返還された。未亡人は返還された脳組織を、ムッソリーニの墓廟に置かれた箱に納めた。歴史家のジョン・フットはこの出来事を評して、「ついに、処刑執行から19年後、休まることのなかったベニート・ムッソリーニの遺骸が再び1ヶ所に集められ、ほぼ1体の状態に戻った」と述べた。2009年、検死の際に盗まれた可能性のあるムッソリーニの脳および血液の標本が、eBayにて1万5000ユーロの値段で売りに出されたと報告された。eBay側はこの出品をただちに取り下げたため、誰も入札することはできなかった。ムッソリーニの検死が行われた病院筋によれば、検死の際に採取された標本は全て、1947年に廃棄されたという。ムッソリーニの孫娘であるアレッサンドラ・ムッソリーニは、この件に関して警察が調査を行うことを要請した。", + "qas": [ + { + "question": "ムッソリーニの脳組織の標本が、ムッソリーニの未亡人に返還されたのは何年のことですか。", + "id": "tr-248-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1966年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2009年、検死の際に盗まれた可能性のあるムッソリーニの脳および血液の標本が、どのサイトにて1万5000ユーロの値段で売りに出されたと報告されたか。", + "id": "tr-248-04-001", + "answers": [ + { + "text": "eBay", + "answer_start": 236, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1947年になるまで、ムッソリーニ処刑へのアウディージオの関与は隠匿されており、共産党紙L’Unità上で1945年末に発表された最初期の報告では、ムッソリーニ銃殺の実行者は単に「ヴァレリオ大佐」とされていた。アウディージオの本名が最初に言及されたのは、IlTempo紙の1947年3月の記事においてであり、その後共産党が公式にアウディージオの関与を認めた。1947年3月下旬には、処刑への関与についてそれまで公に語ってこなかったアウディージオが、L’Unità上の一連の5本の記事の中で自らの証言を発表した。ここで証言された内容は、アウディージオが著し、死の2年後に出版された本でも繰り返されている。アウディージオの証言以外にもムッソリーニの死については諸説が発表されており、1960年代にはラッザロとベッリーニ・デッレ・ステッレが著したDongo,lafinediMussoliniおよびジャーナリストのフランコ・バンディーニによるLeultime95orediMussoliniが出版され、これらはムッソリーニ処刑についての「古典的」な説明を提示した。", + "qas": [ + { + "question": "共産党紙L’Unità上で1945年末に発表された最初期の報告では、ムッソリーニ銃殺の実行者は誰だと示していましたか。", + "id": "tr-248-05-000", + "answers": [ + { + "text": "「ヴァレリオ大佐」", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アウディージオの本名が最初に言及されたのは、IlTempo紙の何月の記事ですか。", + "id": "tr-248-05-001", + "answers": [ + { + "text": "3月", + "answer_start": 141, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "Dongo,lafinediMussoliniは誰が書いた?", + "id": "tr-248-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ラッザロとベッリーニ・デッレ・ステッレ", + "answer_start": 347, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "パルチザンの指揮官であったウルバーノ・ラッザロは、1993年の著書Dongo:halfacenturyofliesにおいて、「アウディージオではなく、ルイージ・ロンゴこそが『ヴァレリオ大佐』の正体である」と改めて主張した。同書でラッザロは、ムッソリーニが4月28日の午後4時10分以前に期せずして負傷していたとも主張した。ラッザロによると、4月28日のより早い時間にペタッチが1人のパルチザンから銃を奪い取ろうとした際、ペタッチはそのパルチザンに射殺され、ムッソリーニは被弾して負傷した。その後、ミケーレ・モレッティがムッソリーニに発砲してとどめを刺したという。", + "qas": [ + { + "question": "Dongo:halfacenturyofliesを書いたの誰なの?", + "id": "tr-248-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ウルバーノ・ラッザロ", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "マンスール", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "アブー・ジャアファル・アブドゥッラー・イブン・ムハンマド・アル=マンスールは、アッバース朝の第2代カリフだ。即位後に用いた称号の「アル=マンスール」は「勝利者」「神の助けを受ける者」を意味する。漢語史料での表記は「阿蒲恭払」だ。\n\nアブー・ジャアファルは預言者ムハンマドの叔父アッバースの4代目の子孫にあたる。747年からのアッバース革命で戦果を挙げ、754年に異母弟サッファーフの跡を継いでカリフの地位に就き、「アル=マンスール��を称した。即位したマンスールはウマイヤ朝の官僚制度と地方行政機関を踏襲・整備し、新都バグダードを中心に国家体制を構築していく。マンスールの治世にアッバース朝の支配体制が確立され、そのために彼は王朝の実質的な創始者と見なされている。10世紀末までのアッバース朝の黄金時代の基盤はマンスールの時代に完成したとされ、最大の功績にはアッバース朝の首都バグダードの建設が挙げられる。西アジア世界においては、孫のハールーン・アッ=ラシードとともによく知られているアッバース朝のカリフである。\n\nマンスール以降に即位したアッバース朝のカリフは、全て彼の直系子孫である。", + "qas": [ + { + "question": "アブー・ジャアファル・アブドゥッラー・イブン・ムハンマド・アル=マンスールが即位後に使った称号は何ですか。", + "id": "tr-249-00-000", + "answers": [ + { + "text": "「アル=マンスール」", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「アル=マンスール」の漢語史料での表記は何ですか。", + "id": "tr-249-00-001", + "answers": [ + { + "text": "「阿蒲恭払」", + "answer_start": 106, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "マンスール以降に即位したアッバース朝のカリフはみんな誰の直系子孫なの?", + "id": "tr-249-00-002", + "answers": [ + { + "text": "マンスール", + "answer_start": 457, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "10世紀末までのアッバース朝の黄金時代の基盤はいつ完成したとされているの?", + "id": "tr-249-00-003", + "answers": [ + { + "text": "マンスールの時代", + "answer_start": 354, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "アブー・ジャアファルは、アッバース家の家長ムハンマド・イブン・アリー・イブン・アブドゥッラーフとベルベル人の奴隷サッラーマの子として生まれた。ウマイヤ朝のカリフ・ワリード1世の時代にアブー・ジャアファルの祖父アリー・ブン・アブドゥッラーは一族を連れてヨルダン南部のフマイマ村に移住し、一族がフマイマ村に落ち着いた直後にアブー・ジャアファルが誕生する。\n\n父のムハンマド、兄のイブラーヒームはアリー家のアブー・ハーシムの遺言に従ってウマイヤ家の打倒を目指し、有力者の支持を取り付けるため各地にダーイー(宣教員)を派遣した。アブー・ジャアファルの前半生には不明な点が多いが、744年に第4代正統カリフ・アリーの兄ジャアファルの子孫アブドゥッラー・ブン・ムアーウィヤが起こした反乱に参加したと伝えられている。748年にウマイヤ朝によってイブラーヒームが投獄された後、危機を察したアブー・ジャアファルは弟のアブー・アル=アッバースら親族とともにイラクのクーファに避難する。クーファのシーア派の中心人物であるアブー・サラマはアッバース家の人間を密かに保護し、アブー・ジャアファルたちの元にはシーア派の人間が集まり、一大勢力を形成した。", + "qas": [ + { + "question": "アブー・ジャアファルの父は誰なの?", + "id": "tr-249-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ムハンマド・イブン・アリー・イブン・アブドゥッラーフ", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アブー・ジャアファルの母は何人なの?", + "id": "tr-249-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ベルベル人", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アブー・ジャアファルはどの村で生まれたの?", + "id": "tr-249-01-002", + "answers": [ + { + "text": "フマイマ村", + "answer_start": 132, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第4代正統カリフ・アリーの兄ジャアファルの子孫アブドゥッラー・ブン・ムアーウィヤは何年に反乱を起こしましたか。", + "id": "tr-249-01-003", + "answers": [ + { + "text": "744年", + "answer_start": 285, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "仲間内での抗争を防ぐため、アッバース革命の中で誰がウマイヤ家のカリフに代わる新たなイスラームの指導者になるか明確にされていなかった。749年9月にホラーサーン地方で挙兵したダーイーのアブー・ムスリムがクーファに入城し、新たな指導者の選出が始められる。アブー・サラマは正統カリフ・アリーの一族からカリフを選ぶ事を望んでいたが、アブー・ムスリムらホラーサーンの革命軍はアッバース家のアブー・アル=アッバースをカリフに選出してバイア(忠誠の誓い)を行い、アブー・サラマもやむなくアブー・アル=アッバースの即位を認めた。749年11月にクーファでアブー・アル=アッバースがカリフへの即位を宣言し、翌750年にウマイヤ朝のカリフ・マルワーン2世が殺害されたことが確認されると正式に新王朝が樹立された。\n\n750年、アブー・ジャアファルは将軍ハサン・ブン・カフタバとともに、ウマイヤ朝のイラク総督ヤズィード・イブン・フバイラが立て籠もるワーシトを包囲する。11か月に及ぶ包囲の末、ヤズィードと彼の家族、家臣の安全と全財産を保障する条件でワーシトに入城した。ヤズィード一族の勢力を警戒するアブー・ムスリムとサッファーフはヤズィードたちの処刑を命じ、アブー・ジャアファルは命令の遂行を拒否し続けたものの押し切られ、ヤズィードと彼の長男、家臣を処刑する。", + "qas": [ + { + "question": "アブー・サラマは已むを得ず誰の即位を認めましたか。", + "id": "tr-249-02-000", + "answers": [ + { + "text": "アブー・アル=アッバース", + "answer_start": 189, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アブー・アル=アッバースがカリフへの即位すると宣言されたのはいつですか。", + "id": "tr-249-02-001", + "answers": [ + { + "text": "749年11月", + "answer_start": 256, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "アブー・ジャアファルの叔父アブドゥッラー・イブン・アリーはシリア北部でビザンツ帝国との戦争の準備を進めていたが、女奴隷の子であるマンスールの即位に反対し、カリフを自称した。アブドゥッラーはシリア、メソポタミア方面の軍隊を掌握しており、マンスールはホラーサーン軍を率いるアブー・ムスリムの力を頼らなければならなかった。アブー・ムスリムは数か月の間メソポタミア各地で反乱軍と戦い、754年11月にモースル北方のヌサイビーン(ニシビス)の戦いで勝利を収め、アブドゥッラーをバスラに追いやった。アブドゥッラーは7年間を獄中で過ごした後、マンスールが塩の土台に建てた家の中に入れられ、崩れた家屋に潰されて圧死したと伝えられている。『カリーラとディムナ』の翻訳に携わったイブン・アル=ムカッファはマンスールによって処刑されるが、処刑の一因にはムカッファがアブドゥッラーに仕えていた過去があったためだと考えられている。", + "qas": [ + { + "question": "アブー・ジャアファルとアブドゥッラー・イブン・アリーと、誰の方がもっと年上かな?", + "id": "tr-249-03-000", + "answers": [ + { + "text": "アブドゥッラー・イブン・アリー", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "アブドゥッラー・イブン・アリーはマンスールの即位に賛成でしたか、反対でしたか。", + "id": "tr-249-03-001", + "answers": [ + { + "text": "反対", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "イブン・アル=ムカッファは誰によって処刑されたか。", + "id": "tr-249-03-002", + "answers": [ + { + "text": "マンスール", + "answer_start": 342, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イブン・アル=ムカッファが処刑された理由の一つは、彼が過去に、誰に仕えたことがあったからですか。", + "id": "tr-249-03-003", + "answers": [ + { + "text": "アブドゥッラー", + "answer_start": 371, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "アブドゥッラーが失脚した後、マンスールはホラーサーンを治めるアブー・ムスリムを最大の脅威と認識していた。戦利品の5分の1をカリフに送り、残りを先頭に参加した兵士に平等に分配することがイスラーム世界の慣例となっていたが、マンスールは本来戦利品の分配を行うべきアブー・ムスリムに戦利品を明け渡すように命令し、アブー・ムスリムはマンスールの指示に不満を抱いた。反乱を鎮圧したアブー・ムスリムは領地のホラーサーンに帰ろうとするが、マンスールは使者を遣わしてアブー・ムスリムを留め置いた。一説によれば、交渉の中でマンスールはアブー・ムスリムにホラーサーンと引き換えにシリア・エジプト総督の地位を与えようとしたが、アブー・ムスリムは提案に応じず領地に帰還しようとしたと言われている。根負けしたアブー・ムスリムはやむなくマンスールの元を訪れ、マンスールは天幕に入ったアブー・ムスリムに労いの言葉をかけ、休息を取って翌日再び自分の元を訪れるように命じた。翌日、面会の前にマンスールはアブー・ムスリムのもとに出迎えの使者を送り、天幕に武器を持った兵士を潜ませて暗殺の準備を進める。天幕の中でマンスールはアブー・ムスリムの剣を取り上げ、彼がこれまで犯した罪を弾劾し、アブー・ムスリムの釈明を聞くとより怒りを募らせた。アブー・ムスリムは敵対者との戦いのために自分を生かしておくよう嘆願したが、マンスールはアブー・ムスリムこそが最大の敵だと答え、陰に忍ばせていた従者によってアブー・ムスリムを殺害させた。", + "qas": [ + { + "question": "アブドゥッラーが失脚した後、マンスールが最大の脅威だと考えていたのは誰ですか。", + "id": "tr-249-04-000", + "answers": [ + { + "text": "アブー・ムスリム", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アブー・ムスリムが殺すことを命令したのは誰?", + "id": "tr-249-04-001", + "answers": [ + { + "text": "マンスール", + "answer_start": 585, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "マンスールはアブー・ムスリムに誰が自分の最大の敵だと言いましたか。", + "id": "tr-249-04-002", + "answers": [ + { + "text": "アブー・ムスリム", + "answer_start": 548, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "アブー・ムスリムの訃報が届けられたホラーサーンには大きな衝撃が走り、復讐のための蜂起が起きた。ペルシャ人のスンバーズ(スンバード)を指導者とする反乱軍はイラクに西進したが、ハマダーンとレイの間でマンスールが派遣した討伐隊に撃破される。しかし、討伐隊の司令官ジャフワル・ブン・マッラールはホラーサーンに蓄えられていた富を見て変心し、マンスールに対して反乱を起こした。ジャフワルを撃ち、ようやく東方に安定がもたらされた。ジャフワルの反乱と同時期、ジャズィーラ地方で反乱を起こしたハワーリジュ派のムラッビド・ブン・ハルマラがマンスールの派遣した軍に勝利を収めており、756年に将軍ハーズィム・ブン・フザイマの活躍によって反乱の鎮圧に成功する。", + "qas": [ + { + "question": "ホラーサーンに蜂起が起きたのは誰の死にショックを受けたからでしたか。", + "id": "tr-249-05-000", + "answers": [ + { + "text": "アブー・ムスリム", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "討伐隊の司令官は誰なの?", + "id": "tr-249-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ジャフワル・ブン・マッラール", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "756年、誰の活躍によって反乱の鎮圧に成功したか。", + "id": "tr-249-05-002", + "answers": [ + { + "text": "将軍ハーズィム・ブン・フザイマ", + "answer_start": 285, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ホラーサーン、ジャズィーラでの動乱の前後にアナトリア方面では東ローマ帝国の侵入の撃退に成功し、7年の和約を結んだ。しばしば東ローマからの侵攻に晒される国境地帯には、防衛のために多くの要塞が建設される。756年/57年、マンスールは将軍ハサン・ブン・カフタバと甥のアブド・アル=ワッハーブに東ローマ軍の攻撃によって破壊されたマラトヤの再建を命じる。アブド・アル=ワッハーブは私費を投じて工事に参加する労働者に食事を振舞うハサンを不快に思い、マンスールに彼の行動を訴え出た。マンスールはアブド・アル=ワッハーブの心の狭さを咎め、ハサンには労働者の供応を続けるよう励ました書状を送った。再建されたマラトヤには駐屯部隊と彼らに割り当てられた農地が置かれ、後にマラトヤの攻撃を試みた東ローマ皇帝コンスタンティノス5世はマラトヤの兵力の多さを知って撤退する。", + "qas": [ + { + "question": "756年/57年、マンスールはどこの再建を命じたか。", + "id": "tr-249-06-000", + "answers": [ + { + "text": "マラトヤ", + "answer_start": 161, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マンスールはハサン・ブン・カフタバと誰にマラトヤの再建を命令したの?", + "id": "tr-249-06-001", + "answers": [ + { + "text": "アブド・アル=ワッハーブ", + "answer_start": 131, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "758年4月にマンスールはメッカ巡礼に発ち、エルサレムを経由してシリアを巡幸した後、ハーシミーヤに帰国した。しかし、マンスールが帰国してみるとハーシミーヤではアッバース家を支持するラーワンド派の信奉者がハーシミーヤのマンスールの宮殿の周りを歩き回り、ここが神の住居であると騒ぎ立てる事件が起きていた。ラーワンド派はインドの輪廻思想の影響を受け、自分たちに食料と水を与えるマンスールは神の生まれ変わりだと考えていた。彼らの行動を不快に思ったマンスールはおよそ200人を投獄したが、残ったラーワンド派の人間は激高し、牢内の仲間を救いだした後、宮殿に殺到した。マンスールは護衛とともに戦ったが数の上では劣勢であり、戦闘の中で突然現れた覆面の人物の奮戦によってマンスールは難を脱することができた。戦闘を終えたマンスールは覆面の男に正体を訪ね、男は自分はアッバース朝の探索から逃れていたウマイヤ朝の将軍マアン・ブン・ザーイダであることを明かした。マンスールはザーイダの功績を評価して彼をヤマン(イエメン)の総督に任じ、ザーイダは任地の統治で大きな功績を挙げた。また、この時宮殿の門に馬が繋がれていなかったため、マンスールはラバに乗って戦わなければならなかった。この事件以後マンスールは宮殿の入り口に常時馬を繋ぎとめるようになり、救難馬の制度は後のカリフや他のイスラーム国家の支配者にも受け継がれた。", + "qas": [ + { + "question": "マンスールはいつメッカ巡礼に発ち、エルサレムを経由してシリアを巡幸した後、ハーシミーヤに帰国したか。", + "id": "tr-249-07-000", + "answers": [ + { + "text": "758年4月に", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ラーワンド派が神の生まれ変わりだと考えていた人物は誰ですか。", + "id": "tr-249-07-001", + "answers": [ + { + "text": "マンスール", + "answer_start": 185, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "サルーㇺ・デルタ", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "サルーム・デルタ(SaloumDelta/LedeltaduSaloum)は、セネガルのサルーム川、ジョンボ川、バンジャラ川およびそれらの支流によって形成された面積50万ha(5000km2)の三角州である。\n西アフリカ屈指の野鳥の繁殖地になっており、敷地の一部がサルーム・デルタ国立公園やラムサール条約登録地を含む生物圏保護区となっている。\nそれと同時に、数千年にわたって漁撈採集を営んできた人々が作り上げた巨大な貝塚群が独特の文化的景観を形成している地域でもあり、2011年にはそれが評価されてユネスコの世界遺産リストに文化遺産として登録された。", + "qas": [ + { + "question": "サルーム・デルタはどの国にあるの?", + "id": "tr-250-00-000", + "answers": [ + { + "text": "セネガル", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "サルーム・デルタは何の動物の繁殖地として有名なの?", + "id": "tr-250-00-001", + "answers": [ + { + "text": "野鳥", + "answer_start": 113, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "サルーム・デルタの面積は?", + "id": "tr-250-00-002", + "answers": [ + { + "text": "50万ha", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "サルーム川の下流域に広がる面積50万haのサルーム・デルタは、西アフリカではバン・ダルガン国立公園(モーリタニア・世界遺産)、ビジャゴ諸島(ギニアビサウ)などに次いで、西アフリカでは重要な渡り鳥の繁殖地となっている。\nほかにも多くの動物が生息しており、絶滅危惧種のウミガメも多くの種類が生息している。\n植物相の面ではマングローブ林が広がっている点が特徴的である。\nこれは、西アフリカでのマングローブ林の群生地の北限にあたっており、セネガル国内では優れた景観美を呈している場所として評価されている。\nこうした動植物を保護するために、地域内には生物圏保護区となっている地域があり、その中にサルーム・デルタ国立公園やラムサール条約の登録地が存在している。", + "qas": [ + { + "question": "サルーム・デルタに多く生息している植物は何ですか?", + "id": "tr-250-01-000", + "answers": [ + { + "text": "マングローブ", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "西アフリカの中で、世界遺産に登録されている最も重要な渡り鳥の繁殖地はどこ?", + "id": "tr-250-01-001", + "answers": [ + { + "text": "バン・ダルガン国立公園", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "また、サルーム・デルタに暮らす人々は少なくとも紀元前4世紀以降、干し貝作りを営み、その貝殻によって大きな貝塚群が数百と作り上げられてきた。\n生物多様性に富んだ自然環境と調和する貝塚群の存在は、数千年にわたって持続可能な開発が積み重ねられてきたことを示す優れた文化的景観を生み出している。\nまた、貝塚の中には墓所として使われ、墳墓が築かれたものもある。\nそれらは、その出土品とともに、かつて存在していた文化を伝える存在となっている。\nこうしたことから、サルーム・デルタは2011年に世界文化遺産に登録された。", + "qas": [ + { + "question": "サルーム・デルタが世界文化遺産に登録されたのは何年でしたか?", + "id": "tr-250-02-000", + "answers": [ + { + "text": "2011年", + "answer_start": 234, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "サルーム・デルタはその名の通りサルーム川の河口付近に形成された三角州であり、あと2本、ジョンボ川(Diombos)、���ンジャラ川(Bandiala)という主要な川が流れている。\nほかにも細かな支流が数多く流れて陸地を分断しており、三角州内の島の数は200ほどになる。\n面積は50万haで、行政上は大半がファティック州に属する。\n南縁は隣国ガンビアのニウミ国立公園と接している。", + "qas": [ + { + "question": "サルーム・デルタに存在する島の数はどれくらいですか?", + "id": "tr-250-03-000", + "answers": [ + { + "text": "200ほど", + "answer_start": 124, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "サルーム・デルタを構成する3つの川は、サルーム川、バンジャラ川ともう1つは何?", + "id": "tr-250-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ジョンボ川", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "デルタ内には低湿地帯が広がるが、もともとセネガルの国土の大半は起伏に乏しい低地帯であり、デルタ周囲にも山岳地帯などはない。\nこのため、河川の淡水供給源は雨季の直接的な雨水流入のみである。\nこの条件が乾季の淡水の蒸発と海水の遡上に結びつき、サルーム・デルタの河川は河口よりも上流の方が塩分濃度が高くなる傾向にある。\nさらに、1960年代後半以降に旱魃が頻発したことや、淡水を人々が利用することなども塩分濃度を高めることにつながり、後背地ではタン(tannes)と呼ばれる不毛の乾燥地域が拡大する傾向にある。", + "qas": [ + { + "question": "サルーム・デルタの河川の中で、塩分濃度が高いのは河口と上流のどちらですか?", + "id": "tr-250-04-000", + "answers": [ + { + "text": "上流", + "answer_start": 136, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "河川の淡水供給源は何ですか?", + "id": "tr-250-04-001", + "answers": [ + { + "text": "雨水", + "answer_start": 83, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "サルーム・デルタの生態系はマングローブ林の生態系、大西洋沿岸の海洋生態系、乾燥帯の森林などの生態系に大別できる。\nマングローブ林は約6万haから8万haほどになると見積もられており、それを構成する木々は主にアメリカヒルギ、カズザキヒルギ(Rhizophoraracemosa)、ハリソンヒルギ(Rhizophoraharisonii)、アフリカヒルギダマシ(Avicenniaafricana)などである。\nモーリタニアのバン・ダルガン国立公園にヒルギダマシの小群生地などはあるものの、サルーム・デルタは西アフリカにおいては最も北でマングローブがまとまって繁茂する地域となっている。\nしかし、先述の河川の塩分濃度の上昇は、ヒルギダマシよりも相対的に塩分に弱いヒルギ科のマングローブ林の減少につながっている。\nマングローブ林の減少には、ギニア人の商人の進出でエトマローズの燻製加工業が盛んになり、その薪として伐採されることが増えたことも一因として挙げられる。\n1980年以降に失われたマングローブ林はかつての面積の3分の1にも及ぶといわれるが、それでも2011年の時点では、セネガル国内では最大のマングローブ林を抱えている地域である。\n乾燥帯の森林においては、セネガル国内の植生の約20%にあたる植物を見ることができる。", + "qas": [ + { + "question": "バン・ダルガン国立公園はどこの国にありますか?", + "id": "tr-250-05-000", + "answers": [ + { + "text": "モーリタニア", + "answer_start": 204, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マングローブ林の減少の一因として、何の燻製加工業が盛んになったことが挙げられますか?", + "id": "tr-250-05-001", + "answers": [ + { + "text": "エトマローズ", + "answer_start": 378, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "動物相に関して特筆すべきは、渡り鳥や海鳥などの多さであり、これは世界遺産推薦でも主たる推薦理由のひとつを構成していた。\nデルタ内で見られる鳥類は、オニアジサシ、ハシボソカモメ、ズアオカモメ、コフラミンゴ、オオフラミンゴ、モモイロペリカン、コシベニペリカン、アフリカクロトキ、サンショクウミワシ、ミサゴ、クロコサギ、アフリカクロサギ(Egrettagularis)、オニアオサギ(Ardeagoliath)など多岐に渡り、越冬のために飛来する水鳥の種類は95種にもなる。\nまた、「鳥たちの島」(IleauxOiseaux)と呼ばれている島はアメリカオオアジサシ(Thalasseusmaximusalbididorsalis/AfricanRoyalTern)の世界最大の繁殖地になっており、アメリカオオアジサシの数だけならば、西アフリカの世界遺産の中でも鳥類の繁殖地などに特色があるバン・ダルガン国立公園などをも遥かに上回る。", + "qas": [ + { + "question": "越冬のためにデルタに飛来する水鳥の種類は何種ですか?", + "id": "tr-250-06-000", + "answers": [ + { + "text": "95種", + "answer_start": 226, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "爬虫類については絶滅危惧種であるウミガメの生息地であり、アオウミガメ、アカウミガメ、ヒメウミガメ、ケンプヒメウミガメ、オサガメ、タイマイなどの生息が確認されている。\nほかにナイルオオトカゲも生息している。\n水棲哺乳類に関しては危急種のアフリカマナティー(Trichechussenegalensis)のほか、アフリカウスイロイルカ、マイルカ、クジラが生息している。\n陸棲や半水棲の哺乳類ではヌママングース、サバンナモンキー(Cercopithecusaethiopssabaeus)、パタスモンキー、ショウガラゴ、イボイノシシ、ブチハイエナ、ヨコスジジャッカル(Canisadustus)、ブッシュバック(Tragelaphusscriptus)、サバンナダイカー(Sylvicapra_grimmia)、ボホールリードバック(Reduncaredunca)、ケープジェネット(Genettatigrina)、ジェネットモドキ(Genettathierry)などが棲息している。", + "qas": [ + { + "question": "デルタを生息地としている爬虫類で、絶滅危機のある生物種とは何ですか?", + "id": "tr-250-07-000", + "answers": [ + { + "text": "ウミガメ", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "魚介類も豊富であり、後述する世界遺産登録範囲になっている河口付近の海域では、アジ科11種、ニベ科とボラ科が各7種、イサキ科6種、シクリッド科とニシン科が各4種、アカエイ科、ウシノシタ科、タイ科、ツバメコノシロ科、マンジュウダイ科などが各3種となっており、総計は42科114種に及ぶ。\n沿岸部では後述するように水産業も盛んであり、セネガル国内の漁民の三大コミュニティのひとつは、サルームのセレール・ニョミンカのものである。\nシヌ=サルームの河川はカザマンス川に比べると3分の2程度の面積しかないが、その水産資源の量は同程度である。\nまた、同じく後述するように、数種類の貝については数千年にわたって地域住民にとって重要な資源となってきたし、1970年代以降はエビの一種が貴重な収入源になっている。", + "qas": [ + { + "question": "アジ科、シクリッド科、タイ科の中で、最も数が多いのはどれですか?", + "id": "tr-250-08-000", + "answers": [ + { + "text": "アジ科", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ニベ科とイサキ科はどちらが数が少ないですか?", + "id": "tr-250-08-001", + "answers": [ + { + "text": "イサキ科", + "answer_start": 57, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "シヌ=サルームの河川とカザマンス川はどちらが面積が大きいですか?", + "id": "tr-250-08-002", + "answers": [ + { + "text": "カザマンス川", + "answer_start": 222, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "面積は50万ha(5000km2)で、1981年2月にはそのうち18万haが生物圏保護区に指定された。\n生物圏保護区内には、面積76,000haのサルーム・デルタ国立公園(1976年3月指定)が���まれており、そのほとんどにあたる73,000haがラムサール条約登録地になっている。", + "qas": [ + { + "question": "サルーム・デルタ国立公園内のラムサール条約登録地の面積はどれくらいですか?", + "id": "tr-250-09-000", + "answers": [ + { + "text": "73,000ha", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "サルーム・デルタ国立公園の面積はどれくらいですか?", + "id": "tr-250-09-001", + "answers": [ + { + "text": "76,000ha", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "また、ジョンボ川河口付近のベタンティ島に流れ込むボロン(現地の言葉でデルタ地帯の網目状の支流を指す)であるバンブーン・ボロン周辺は、バンブーン海洋保護区に指定されている。\nこれは1996年に村落共同体による自然保護区設置を認める法改正が行われたことを踏まえて、セネガルの環境保護NGOオセアニウムの働きかけで成立した地域共同体海洋保護区であり、2004年の政令で国から認可された。\nしかし、この保護区設置でバンブーン・ボロンが禁漁区となった一方、代替収入源として設置された観光用の村営ロッジは期待された経済効果を挙げるには至っていないため、地元住民たちは意思決定の関与度への不満なども含め、保護区に対する反対論が根強く存在している。", + "qas": [ + { + "question": "バンブーン・ボロン周辺は何に指定されているの?", + "id": "tr-250-10-000", + "answers": [ + { + "text": "バンブーン海洋保護区", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バンブーン海洋保護区が国から認可された年はいつでしたか?", + "id": "tr-250-10-001", + "answers": [ + { + "text": "2004年", + "answer_start": 172, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "このほか、パルマラン村周辺にもパルマラン地域共同体保護区(LaRéservecommunautairedePalmarin,2001年)が設定されている。\nこうした保護活動には、セネガル国外の団体も協力している。\n先述したオセアニウムもフランスの世界環境基金からの支援を受けていたし、IUCNもフンジュン県内での保護活動に協力してきた。\nIUCNは沿岸部の村々が「浜委員会」を設置し、後述するエビの密漁などを防ぐための監視活動を行うことを支援してきた。\nただし、この委員会はもともと住民たちが自発的な保護活動を行なっていた地域では有効に機能している反面、そうした動きがなかった内陸部では形骸化してしまった。\n日本の国際協力機構は21世紀に入ってから、「セネガル国プティ・コート及びサルーム・デルタにおけるマングローブの持続的管理に係る調査」「セネガル国サルーム・デルタにおけるマングローブ管理の持続性強化プロジェクト」といった関連プロジェクトを展開し、実態調査を踏まえたうえで、住民自身が主体的な保護活動を行えるように支援してきた。\nそれについて、一定の成果は挙げたと評価されている。", + "qas": [ + { + "question": "パルマラン村周辺は2001年に何が設定されたの?", + "id": "tr-250-11-000", + "answers": [ + { + "text": "パルマラン地域共同体保護区", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "サルーム・デルタには古くから人々が住み、漁撈採集生活を送っていた。\nその中でも、数千年にわたって営まれてきたのが、干し貝作りである。\n干し貝作りで出た貝殻によって作り上げられた貝塚群がサルーム・デルタには数多く残っている。\n貝塚は高さ数m(大きいものは10m超)、長さは主に50mから100mほどで、大きいものは数百メートルになる。\nこれらの貝塚には、上に木々が生え、一見すると普通の平坦な島のように見えるものもある。\n放射性炭素年代測定では、最古の貝塚は紀元前400年ごろと見積もられている。\n伝統的な巨大���塚作りは1600年ごろまで続いたと考えられており、そのころまでに西アフリカに到達したポルトガル人探検家などの中には、貝塚の存在や干し貝の交易について言及している者たちもいた。\n加工された干し貝は沿岸部の集落の人々にとって、内陸の集落の人々から鉄、銅、穀物などを獲得するための交易品になっていたと考えられている。", + "qas": [ + { + "question": "サルーム・デルタで古くから営まれてきた事とは何ですか?", + "id": "tr-250-12-000", + "answers": [ + { + "text": "干し貝作り", + "answer_start": 57, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "最も古い貝塚の年代は何年ごろと推定されていますか?", + "id": "tr-250-12-001", + "answers": [ + { + "text": "紀元前400年ごろ", + "answer_start": 228, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "しかし、セネガル周辺で中央集権的な諸王国が興ると、地域独自の大規模採集と貝塚作りの文化は廃れていった。\nやがて、そもそも貝塚が人工物であるということすら忘れ去られてしまい、19世紀から20世紀初頭にはコンクリートなどの原料の一部を調達するための場所として扱われ、切り崩されてしまった貝塚もあった。\nきちんとした考古学的研究が始まったのは1939年のことで、以降、何度も大規模な調査が行われた。\n1971年には貝塚を国定史跡とする法律も定められた。", + "qas": [ + { + "question": "貝塚のきちんとした考古学研究が始まったのは何年からですか?", + "id": "tr-250-13-000", + "answers": [ + { + "text": "1939年", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "干し貝作り自体は今もサルーム・デルタで行われている。\n干し貝の原料となる貝は以下の4種が代表的である。\nまずは現地でヨホス(Yoxos/Yokhoss)と呼ばれる貝で、これはマングローブガキ(Crassostreagasar)を指す。\nその名の通り、ヒルギ科のマングローブの根にへばりつくようにして生息する貝で、貝塚からは根が付着した貝殻も出土する。\n次は現地でパーニュ(Pagne)と呼ばれる貝で、これはフネガイ科のオヤカタサルボウ(seniliasenilis)のことである。\nアカガイなどに似た貝で、干潮時の干潟で採集できる。\n最後が大型巻貝のイェット(Yéét/Yeet)で、ナツメヤシガイ(Cymbiumpepo)などと同一視する文献と、ハッカイボラ(Cymbiumcymbium)と同一視してナツメヤシガイと別に扱う文献とがある。\n最後がシロオビクロテングニシ(pugilinamorio)のことだというトゥファ(Toufa)と呼ばれる中型の巻貝である。", + "qas": [ + { + "question": "干し貝の原料となる貝は、イェット、ヨホス、トゥファともう1つは何?", + "id": "tr-250-14-000", + "answers": [ + { + "text": "パーニュ", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヨホスは何科のマングローブの根に生息するの?", + "id": "tr-250-14-001", + "answers": [ + { + "text": "ヒルギ科", + "answer_start": 125, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アカガイに似た貝とは何?", + "id": "tr-250-14-002", + "answers": [ + { + "text": "パーニュ", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "これらの貝の採集や加工を担うのは女性たちである。\n魚を対象とする男性たちの漁と違い、捕まえるのにさしたる困難がないことなどがその理由である。\nマングローブガキに関しては、根にへばりついている性質上、他の貝に比べると引き剥がすのに困難が伴うが、その分、単価は最も高くなる。\n鋭利な貝殻を剥がす時の疲労と怪我が感染症を惹き起こすリスクもあるため、村の中でも経済的に厳しい境遇にある女性がこの貝の採集に従事する傾向があるという。\nオヤカタサルボ��はその反対で、干潟の表層をなでるようにするだけで大量に取れる分、単価は最も低くなる。", + "qas": [ + { + "question": "単価が安いのはマングローブガキとオヤカタサルボウのどちらですか?", + "id": "tr-250-15-000", + "answers": [ + { + "text": "オヤカタサルボウ", + "answer_start": 212, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "貝の採集や加工を行う人は誰ですか?", + "id": "tr-250-15-001", + "answers": [ + { + "text": "女性", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "貝の採集がより容易なのはマングローブガキとオヤカタサルボウのどちらですか?", + "id": "tr-250-15-002", + "answers": [ + { + "text": "オヤカタサルボウ", + "answer_start": 212, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "加工場は村に設置されている場合と、採集場の近くに作業用のキャンプ地が設営される場合とがあるが、サルーム・デルタの女性は後者での作業を望む傾向がある。\nその理由としては、一般に村での女性の地位は低く、さまざまな雑事が女性の仕事とされているため、環境がよいといえないキャンプ地での作業の方がまだ好ましいと見なされるからではないかと指摘されている。\n干し貝の加工の工程自体は村でもキャンプ地でも変わらず、煮詰めた後に天日干しをする。\n煮詰める時に使うのは真水でなく海水である。\nそれを煮詰めた上で天日干しをするので、干し貝の塩分含有量はかなり多くなる。\n食塩相当量で比較するとパーニュ(オヤカタサルボウ)は100g中4.1g、ヨホス(マングローブガキ)は5.3g、イェットは6.4gと、いずれも日本の塩サバ(1.8g)や新巻鮭(3.0g)を大きく上回る。", + "qas": [ + { + "question": "100g中の食塩相当量が多いのは、ヨホスとパーニュのどちらですか?", + "id": "tr-250-16-000", + "answers": [ + { + "text": "ヨホス", + "answer_start": 310, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "塩巻鮭とパーニュを比較すると、どちらが塩分が多いですか?", + "id": "tr-250-16-001", + "answers": [ + { + "text": "パーニュ", + "answer_start": 285, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ヨホス、イェット、パーニュの中で最も塩分が多いのはどれですか?", + "id": "tr-250-16-002", + "answers": [ + { + "text": "イェット", + "answer_start": 329, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "これらの貝のうち、とくにイェットはセネガルの国民的料理であるチェブジェン(魚ご飯)にも使われているが、独特のにおいと噛みごたえがあることから、セネガル人の間でも好き嫌いは分かれるという。\n他の干し貝も伝統料理に使われるが、貝そのものを賞味するだけでなく、塩味をつける調味料としての役割も指摘されている。\n干し貝がかつて交易品として意味を持ったのは、海から遠い内陸部のうち、岩塩の産出しない地域において、貴重な塩分補給手段になったからではないかと推測されている。", + "qas": [ + { + "question": "チェブジェンに使われる貝は何?", + "id": "tr-250-17-000", + "answers": [ + { + "text": "イェット", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "セネガルの国民的料理の名前は何?", + "id": "tr-250-17-001", + "answers": [ + { + "text": "チェブジェン", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "もうひとつ、水産資源で重要になっているのがエビ漁である。\nサルーム・デルタ周辺で取れるエビはクルマエビ科のサザーンピンクシュリンプ(Penaeusnotialis)で、サルーム・��ルタの大半が存在するファティック州は、ジガンショール州とともに、セネガルのエビ主産地を形成している。\nファティック州内のエビの主産地は、サルーム・デルタ内陸部にあたる、フンジュン周辺、およびそれよりも上流の地域である。\nエビはかつて地域住民が自家消費するだけであったが、ヨーロッパ向けの輸出品となった1970年代以降に、集荷を行う仲買人が現われるようになり、貴重な収入源になった。\nその結果、ファティック州のエビ生産量は1992年(236トン)から2000年(1883トン)まで急増したが、2002年には500トン程度にまで減少した。\n2000年以降の減少には、マングローブ林の環境変化との関連性が指摘されている。", + "qas": [ + { + "question": "ファティック州のエビ生産量が多いのは、1992年と2000年のどちらですか?", + "id": "tr-250-18-000", + "answers": [ + { + "text": "2000年", + "answer_start": 314, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ファティック州のエビ生産量が多いのは、1992年と2002年のどちらですか?", + "id": "tr-250-18-001", + "answers": [ + { + "text": "2002年", + "answer_start": 335, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ファティック州のエビ生産量が少ないのは、1992年と2002年のどちらですか?", + "id": "tr-250-18-002", + "answers": [ + { + "text": "1992年", + "answer_start": 300, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "サルーム・デルタ周辺で取れるエビの種類名は何ですか?", + "id": "tr-250-18-003", + "answers": [ + { + "text": "サザーンピンクシュリンプ", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "サルーム・デルタでも海岸部の場合、前述した魚類の豊富さによって、ほぼ一年中、何らかの漁が行われている。\nしかし、エビ主産地である内陸部の場合、雨季にはトウジンビエやラッカセイの栽培を行いつつ、2、3か月程度のエビ漁を営むことになるだけで、乾季には生業が乏しい。\n乾季には人によって大工仕事などをしたり、バンジュール(隣国ガンビアの首都)に出稼ぎに行くなどをしている。\nこうしたことから、ファティック州知事によるエビの禁漁日や解禁日の通達が十分に守られていない実態もあるという。", + "qas": [ + { + "question": "トウジンビエやラッカセイの栽培が行われる時期はいつですか?", + "id": "tr-250-19-000", + "answers": [ + { + "text": "雨季", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "乾季に出稼ぎに行く都市はどこですか?", + "id": "tr-250-19-001", + "answers": [ + { + "text": "バンジュール", + "answer_start": 151, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "バンジュールはどこの国に位置しているの?", + "id": "tr-250-19-002", + "answers": [ + { + "text": "ガンビア", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "サルーム・デルタはセネガルにとって6番目に登録された世界遺産である。\n上述の貝塚群が作り出す文化的景観が評価された文化遺産としての登録である。\n登録範囲内の貝塚は218箇所、うち28箇所は墓地遺跡でもあり、1箇所の遺跡に複数の墳墓が築かれている。\nその中には、現代でも聖域と見なされているものもある。\n貝塚そのものは前述のように少なくとも紀元前400年までは遡るが、墳墓の形成は8世紀頃から16世紀頃までのことであった。\nそれを作った人々は同一の民族ではなく、フラニ人、セレール人、トゥクロール人など、時代によって異なっている。\n貝塚からは基本的に生活と結びつくものの出土は少なく、それが加工場跡であったことを示す���、墓地遺跡からは土器や葬礼と結びつく出土品が発見されており、それぞれの時期の文化や交易範囲を理解する上で重要なものとなっている。", + "qas": [ + { + "question": "登録範囲内の貝塚のうち、28箇所は何の遺跡ですか?", + "id": "tr-250-20-000", + "answers": [ + { + "text": "墓地", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "文化遺産として登録された貝塚の数は何箇所ですか?", + "id": "tr-250-20-001", + "answers": [ + { + "text": "218箇所", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "2005年11月18日にセネガルの世界遺産の暫定リストに登録された。\n登録名は「サルーム川の三角州」(LeDeltaduFleuveSaloum)で、複合遺産としての登録を目指していた。\n申請されていた面積は145,811haで、サルーム・デルタの中でもマングローブ林と海域の部分がかなりの面積を占める構成になっている。", + "qas": [ + { + "question": "世界遺産の登録名は何?", + "id": "tr-250-21-000", + "answers": [ + { + "text": "「サルーム川の三角州」", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "申請時の面積は?", + "id": "tr-250-21-001", + "answers": [ + { + "text": "145,811ha", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "2010年1月に推薦され、2011年に諮問機関による事前評価を受けた。\n文化遺産としての評価を行なったICOMOSは、前述した貝塚群が多く残る景観に文化的景観としての顕著な普遍的価値を認め、世界遺産委員会に対し「登録」を勧告した。\nこれに対し、自然遺産としての評価を行なったIUCNは、地球規模での顕著な普遍的価値は認められないとして「不登録」を勧告した。\n世界遺産の登録基準のうち、該当する自然遺産基準として主張されていたが認められなかったのは、以下の2つである。", + "qas": [ + { + "question": "自然遺産としての評価を行った組織は何?", + "id": "tr-250-22-000", + "answers": [ + { + "text": "IUCN", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + } + ] +} \ No newline at end of file