diff --git "a/data/train/jaquad_train_0005.json" "b/data/train/jaquad_train_0005.json" new file mode 100644--- /dev/null +++ "b/data/train/jaquad_train_0005.json" @@ -0,0 +1,14320 @@ +{ + "version": "JaQuAD-ver0.3", + "data": [ + { + "title": "ゴローニン事件", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ゴローニン事件(ゴローニンじけん、ゴロヴニン事件とも表記)は、1811年(文化8年)、千島列島を測量中であったロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴロヴニンらが、国後島で松前奉行配下の役人に捕縛され、約2年3か月間、日本に抑留された事件である。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルドと、彼に拿捕そしてカムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件解決が図られた。ゴローニンが帰国後に執筆した『日本幽囚記』により広く知られる。", + "qas": [ + { + "question": "ゴローニン事件とは、何年にあった事件なの?", + "id": "tr-116-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1811年", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ゴローニン事件とは、どの国の人々が日本に抑留された事件ですか?", + "id": "tr-116-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ロシア", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ゴローニン事件は、どの本により広く知られたか?", + "id": "tr-116-00-002", + "answers": [ + { + "text": "『日本幽囚記』", + "answer_start": 209, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "東方へ領土を拡張していたロシア帝国は、18世紀に入るとオホーツクやペトロパブロフスクを拠点に、千島アイヌへのキリスト教布教や毛皮税(ヤサーク)の徴収を行い、得撫島に移民団を送るなど千島列島へ進出するようになった。一方、日本も松前藩が1754年(宝暦4年)に、国後場所を設置しアイヌとの交易を開始した。そして1759年(宝暦9年)に、松前藩士が厚岸で、択捉島および国後島のアイヌから、北千島に赤衣を着た外国人が番所を構えて居住しているという報告を受け、日本側もロシア人の千島列島への進出を認識するようになった。", + "qas": [ + { + "question": "18世紀に入り、オホーツクやペトロパブロフスクを拠点に、千島アイヌへのキリスト教布教や毛皮税の徴収を行ったのは、どの国なの?", + "id": "tr-116-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ロシア帝国", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本がアイヌとの交易を開始したのは、何年からですか?", + "id": "tr-116-01-001", + "answers": [ + { + "text": "1754年", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1778年(安永7年)、イルクーツク商人のシャバリンが蝦夷地のノッカマップ(現在の根室市)に上陸し交易を求めた。応対した松前藩士が来年返答すると伝え、翌1779年(安永8年)、厚岸に来航した。松前藩は幕府に報告せず独断で、交易は長崎のみであり、蝦夷地に来ても無駄であることを伝え引き取らせた。一方、日本側も老中・田沼意次の時代に幕府が蝦夷地探検隊を派遣、1786年(天明6年)に最上徳内が幕吏として初めて択捉島へ渡り、同島北東端のシャルシャムでロシア人と遭遇するなど両国の接触が増えていった。", + "qas": [ + { + "question": "シャバリンが蝦夷地のノッカマップに上陸し交易を求めたきたのは、何年のことか?", + "id": "tr-116-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1778年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1778年に蝦夷地のノッカマップに上陸し交易を求めてきた人に対応したのは、誰か?", + "id": "tr-116-02-001", + "answers": [ + { + "text": "松前藩士", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1792年(寛政4年)、アダム・ラクスマンが神昌丸漂流民の大黒���光太夫らを伴い、シベリア総督の親書を所持した使節として蝦夷地に来航した。ラクスマンは江戸での通商交渉を求めたが謝絶され、代わりに長崎入港を認める「信牌」を渡され帰国した。", + "qas": [ + { + "question": "1792年にシベリア総督の親書を所持した使節として蝦夷地に来航したのは、誰なの?", + "id": "tr-116-03-000", + "answers": [ + { + "text": "アダム・ラクスマン", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "江戸での通商交渉を謝絶されたアダム・ラクスマンは、代わりにどこへの入港を認める「信牌」を渡され帰国しましたか?", + "id": "tr-116-03-001", + "answers": [ + { + "text": "長崎", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アダム・ラクスマンは何を求めに、蝦夷地に来航したか?", + "id": "tr-116-03-002", + "answers": [ + { + "text": "江戸での通商交渉", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "露米会社を設立したニコライ・レザノフは、若宮丸漂流民の津太夫一行を送還するとともに通商を求めるため、皇帝・アレクサンドル1世の親書およびラクスマンが入手した信牌を所持した使節として、1804年9月に長崎へ来航した。しかし、半年以上半軟禁状態に置かれた後、翌1805年(文化2年)3月に長崎奉行所で目付・遠山景晋から通商を拒絶された。レザノフは漂流民を引渡して長崎を去ったが、ロシアに帰国した後、武力を用いれば日本は開国すると考え、皇帝に上奏するとともに、部下のニコライ・フヴォストフらに日本への武力行使を命令した。レザノフはフヴォストフに計画を変更して、亜庭湾の偵察を行いアメリカに向かえ、という命令を残してサンクトペテルブルグへ向かったが、先の命令は撤回されていないと考えたフヴォストフは1806年(文化3年)から1807年(文化4年)にかけて、択捉島や樺太、利尻島で略奪や放火などを行った。", + "qas": [ + { + "question": "露米会社を設立したのは、誰?", + "id": "tr-116-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ニコライ・レザノフ", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ニコライ・レザノフが長崎に来航したのは、いつですか?", + "id": "tr-116-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1804年9月", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ニコライ・レザノフが長崎に入港できたのは、以前誰がもらってきた信牌を持っていたからか?", + "id": "tr-116-04-002", + "answers": [ + { + "text": "ラクスマン", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ロシア皇帝は、誰に日本に対し武力行使を命じ、日本を開国させようとしたか?", + "id": "tr-116-04-003", + "answers": [ + { + "text": "ニコライ・フヴォストフ", + "answer_start": 230, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "幕府は、1806年1月にロシアの漂着船は食糧等を支給して速やかに帰帆させる「ロシア船撫恤令」を出していたが、フヴォストフの襲撃を受けて東北諸藩に出兵を命じ蝦夷地沿岸の警備を強化するとともに、1807年12月に、ロシア船は厳重に打払い、近づいた者は逮捕もしくは切り捨て、漂着船はその場で監視するという「ロシア船打払令」を出した。また、1808年(文化5年)には長崎でフェートン号事件も起きており、日本の対外姿勢は硬化していた。そうした状況下で発生したのがゴローニン事件であった。", + "qas": [ + { + "question": "「ロシア船撫恤令」が出されたのは、いつなの?", + "id": "tr-116-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1806年1月", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ロシア船打払令」が出されたのは、いつですか?", + "id": "tr-116-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1807年12月", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ロシア船撫恤令」と「ロシア船打払令」のうち、より早く出されたのは、どちらか?", + "id": "tr-116-05-002", + "answers": [ + { + "text": "「ロシア船撫恤令」", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1808年に長崎で発生し、日本の対外姿勢の硬化に繋がったのは、どの事件か?", + "id": "tr-116-05-003", + "answers": [ + { + "text": "フェートン号事件", + "answer_start": 182, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1811年(文化8年)、ペトロパブロフスクに寄港していたスループ船・ディアナ号の艦長ゴローニン海軍大尉は千島列島南部の測量任務を命じられ、ディアナ号で千島列島を南下。5月に択捉島の北端に上陸、そこで千島アイヌ漂流民の護送を行っていた松前奉行所調役下役・石坂武兵衛と出会った。ゴローニンが薪水の補給を求めたところ、石坂は同島の振別(ふれべつ)会所に行くよう指示し、会所宛の手紙を渡した。しかし、逆風に遭遇したことに加えて、当時のヨーロッパにおいて未探索地域であった根室海峡に関心を持ち、同海峡を通過して北上しオホーツクへ向かう計画であったゴローニンは振別に向かわず、穏やかな入り江がある国後島の南部に向かった。そして5月27日、泊湾に入港した。湾に面した国後陣屋にいた松前奉行支配調役・奈佐瀬左衛門が警固の南部藩兵に砲撃させると、ゴローニンは補給を受けたいというメッセージを樽に入れて送り、日本側と接触した。", + "qas": [ + { + "question": "ゴローニンが択捉島の北端にて松前奉行所調役下役・石坂武兵衛と出会ったのは、1811年何月のことなの?", + "id": "tr-116-06-000", + "answers": [ + { + "text": "5月", + "answer_start": 83, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ゴローニンが、泊湾に入港したのは、いつですか?", + "id": "tr-116-06-001", + "answers": [ + { + "text": "5月27日", + "answer_start": 307, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "当時のヨーロッパにおいて未探索地域であり、関心が持たれたのは、どの海峡か?", + "id": "tr-116-06-002", + "answers": [ + { + "text": "根室海峡", + "answer_start": 231, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "6月3日、海岸で武装した日本側の役人と面会、日本側から陣屋に赴くよう要請される。6月4日、ゴローニン、ムール(FedorMur)少尉、フレブニコフ(AndreiKhlebnikov)航海士、水夫4名(シーモノフ、マカロフ、シカーエフ、ワシリーエフ)と千島アイヌのアレキセイ(AlexeiMaksimovich)は陣屋を訪問した。食事の接待を受けた後、補給して良いか松前奉行の許可を得るまで人質を残してほしいという日本側の要求を拒否し、船に戻ろうとしたところを捕縛された。この「騙し討ち」を見て、ロシア人は泊湾を「背信湾」と呼ぶようになった。", + "qas": [ + { + "question": "ゴローニンらが海岸で武装した日本側の役人と面会したのは、いつなの?", + "id": "tr-116-07-000", + "answers": [ + { + "text": "6月3日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ゴローニンらが陣屋を訪問したのは、いつですか?", + "id": "tr-116-07-001", + "answers": [ + { + "text": "6月4日", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ゴローニンらが捕縛されたのは、いつか?", + "id": "tr-116-07-002", + "answers": [ + { + "text": "6月4日", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "誰を代表とするロシアの人々が捕縛されることをみて、ロシア人は泊湾を「背信湾」と呼ぶようになったか?", + "id": "tr-116-07-003", + "answers": [ + { + "text": "ゴローニン", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ディアナ号副艦長のリコルドは、ゴローニンを奪還すべく陣屋の砲台と砲撃戦を行ったが、大した損害を与えることができず、そして攻撃を続けるとゴローニン達の身が危うくなる懸念があることから、彼らの私物を海岸に残して、一旦オホーツクへ撤退した。オホーツクに着いたリコルドは、この事件を海軍大臣に報告しゴローニン救出の遠征隊派遣を要請するため、9月にサンクトペテルブルクへ出発した。途中、イルクーツク県知事トレスキンを訪問したところ、既に遠征隊派遣を願い出ているとの説明を受けたことからイルクーツクに滞在したが、ヨーロッパ情勢の緊迫化のため日本への遠征隊派遣は却下となり、リコルドは文化露寇の際に捕虜となりロシアに連行されていた良左衛門を連れてオホーツクへ戻った。", + "qas": [ + { + "question": "オホーツクに戻ったリコルドが、サンクトペテルブルクへ向かったのは、何を要請するためでしたか?", + "id": "tr-116-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ゴローニン救出の遠征隊派遣", + "answer_start": 145, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ゴローニン救出の遠征隊派遣が却下されたのは、何のため?", + "id": "tr-116-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ヨーロッパ情勢の緊迫化", + "answer_start": 250, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "文化露寇の際に捕虜となりロシアに連行されていたのは、誰か?", + "id": "tr-116-08-002", + "answers": [ + { + "text": "良左衛門", + "answer_start": 308, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "リコルドがサンクトペテルブルクへ向かう途中、訪問したのは、誰か?", + "id": "tr-116-08-003", + "answers": [ + { + "text": "トレスキン", + "answer_start": 197, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "国後島からディアナ号が去ると、ゴローニンらは縄で縛られたまま徒歩で陸路を護送され、7月2日、箱館に到着した。そこで箱館詰吟味役・大島栄次郎の予備尋問を受けた後、8月25日に松前に移され監禁された。8月27日から松前奉行・荒尾成章の取り調べが行われた。荒尾は、フボォストフの襲撃がロシア政府の命令に基づくものではなく、ゴローニンもフボォストフとは関係ないという主張を受け入れ、ゴローニンらを釈放するよう11月江戸に上申したが、幕閣は釈放を拒否した。", + "qas": [ + { + "question": "ゴローニンらが箱館に到着したのは、何月何日のこと?", + "id": "tr-116-09-000", + "answers": [ + { + "text": "7月2日", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "箱館に到着したゴローニンらが松前に移され監禁されたのは、何月何日のことですか?", + "id": "tr-116-09-001", + "answers": [ + { + "text": "8月25日", + "answer_start": 80, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "荒尾成章の取り調べはどこにて行われたか?", + "id": "tr-116-09-002", + "answers": [ + { + "text": "松前", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ゴローニンらの釈放に関する荒尾成章の上申に対し、幕閣はどう対応したか?", + "id": "tr-116-09-003", + "answers": [ + { + "text": "拒否した", + "answer_start": 218, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1812年(文化9年)春、監視付の散歩が許されるようになり、また牢獄から城下の武家屋敷への転居が行われたが、このまま解放される見込みがないと懸念したゴローニンらは、脱獄して小舟を奪い、カムチャツカか沿海州方面へ向かうことを密かに企てた。当初はムールやアレクセイも賛同したが、ムールは翻意した。3月25日にムールとアレクセイを除く6名が脱走した。松前から徒歩で北に向かって山中を逃げたが、4月4日、木ノ子村(現在の上ノ国町)で飢えて疲労困憊となっているところを村人に発見され捕まった。松前に護送され、奉行の尋問を受けた後、徳山大神宮の奥にあるバッコ沢(現在の松前町字神内)の牢獄に入れられた。", + "qas": [ + { + "question": "3月25日の脱走計画に賛同しなかったのは、ムールと誰?", + "id": "tr-116-10-000", + "answers": [ + { + "text": "アレクセイ", + "answer_start": 156, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "脱獄したゴローニンらが捕まったのは、いつですか?", + "id": "tr-116-10-001", + "answers": [ + { + "text": "4月4日", + "answer_start": 193, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "脱獄したゴローニンらは、どこで捕まったか?", + "id": "tr-116-10-002", + "answers": [ + { + "text": "木ノ子村", + "answer_start": 198, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "幕府はゴローニンらに通訳へのロシア語教育を求め、上原熊次郎、村上貞助(むらかみ・ていすけ)、馬場貞由、足立信頭らがロシア語を学んだ。そのほか学者などが獄中のゴローニンらを訪問しているが、その中に間宮林蔵もいた。林蔵は、壊血病予防の薬としてレモンやみかん、薬草を手土産に、六分儀や天体観測儀、作図用具などを持ち込んで、その使用方法を教えるよう求めた。また、林蔵は毎日、朝から晩まで通っては鍋や酒を振る舞い、自分の探検や文化露寇の際の武勇談を自慢して、ゴローニンに「彼の虚栄心は大変なもの」と評された。なお林蔵はロシア人を疑っており、ゴローニンらをスパイであると奉行に進言し江戸に報告書を送っていたと、ゴローニンは記している。", + "qas": [ + { + "question": "ゴローニンらからロシア語を教われたのは、上原熊次郎と村上貞助、馬場貞由のほかに、誰なの?", + "id": "tr-116-11-000", + "answers": [ + { + "text": "足立信頭", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ゴローニンに「彼の虚栄心は大変なもの」と評された人のフールネームを答えなさい。", + "id": "tr-116-11-001", + "answers": [ + { + "text": "間宮林蔵", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "オホーツクに戻ったリコルドは、ゴローニン救出の交渉材料とするため、良左衛門や1810年(文化7年)にカムチャツカ半島に漂着した歓喜丸の漂流民を伴ない、ディアナ号と補給船・ゾーチック号の2隻で1812年夏に国後島へ向かった。8月3日に泊に到着、国後陣屋でゴローニンと日本人漂流民の交換を求めるが、松前奉行調役並・太田彦助は漂流民を受け取るものの、ゴローニンらの解放については既に処刑したと偽り拒絶した。リコルドはゴローニンの処刑を信じず、更なる情報を入手するため、8月14日早朝、国後島沖で高田屋嘉兵衛の手船・観世丸を拿捕した。乗船していた嘉兵衛と水主の金蔵・平蔵・吉蔵・文治・アイヌ出身のシトカの計6名をペトロパブ��フスクへ連行した。", + "qas": [ + { + "question": "リコルドがゴローニン救出の交渉を行うために、国後島へ向かったのは、いつ?", + "id": "tr-116-12-000", + "answers": [ + { + "text": "1812年夏", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "リコルドがゴローニン救出の交渉材料としたのは、1810年にカムチャツカ半島に漂着した歓喜丸の漂流民と誰ですか?", + "id": "tr-116-12-001", + "answers": [ + { + "text": "良左衛門", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "偽り拒絶したゴローニンと日本人漂流民の交換を求めてきたリコルドに対し、太田彦助はどのような嘘をつきながら拒絶したか?", + "id": "tr-116-12-002", + "answers": [ + { + "text": "既に処刑した", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ペトロパブロフスクで、嘉兵衛たちは役所を改造した宿舎でリコルドと同居した。そこで少年・オリカと仲良くなり、ロシア語を学んだ。嘉兵衛らの行動は自由であり、新年には現地の人々に日本酒を振る舞い親交を深めた。また、当時のペトロパブロフスクは貿易港として各国の商船が出入りしており、嘉兵衛も諸外国の商人と交流している。12月8日(和暦)、嘉兵衛は寝ているリコルドを揺り起こし、事件解決の方策を話し合いたいと声をかけた。嘉兵衛はゴローニンが捕縛されたのは、フヴォストフが暴虐の限りを尽くしたからで、日本政府へ蛮行事件の謝罪の文書を提出すれば、きっとゴローニンたちは釈放されるだろうと説得した。翌年2、3月に、文治・吉蔵・シトカが病死。嘉兵衛はキリスト教の葬式を行うというロシア側の申出を断り、自ら仏教、アイヌそれぞれの様式で3人の葬式を行った。その後、みずからの健康を不安に感じた嘉兵衛は情緒が不安定になり、リコルドに早く日本へ行くように迫った。リコルドはこのときカムチャツカの長官に任命されていたが、嘉兵衛の提言に従い、みずからの官職をもってカムチャツカ長官名義の謝罪文を書き上げ、自ら日露交渉に赴くこととした。", + "qas": [ + { + "question": "リコルドにより連行されてきた嘉兵衛たちは、誰にロシア語を教われたの?", + "id": "tr-116-13-000", + "answers": [ + { + "text": "オリカ", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "リコルドにより連行されてきた嘉兵衛が、リコルドに事件解決の方策を話し合いたいと声かけてきたのは、和暦で何月何日のことですか?", + "id": "tr-116-13-001", + "answers": [ + { + "text": "12月8日", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "嘉兵衛が事件解決の方策としてリコルドに提案してきたのは、日本政府に何を提出するとのことだったか?", + "id": "tr-116-13-002", + "answers": [ + { + "text": "蛮行事件の謝罪の文書", + "answer_start": 249, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "薔薇戦争", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "薔薇戦争(ばらせんそう、英:WarsoftheRoses)は、百年戦争終戦後に発生したイングランド中世封建諸侯による内乱であり、実状としては百年戦争の敗戦責任の押し付け合いが次代のイングランド王朝の執権争いへと発展したものと言える。また、共にフランスのノルマンディ公2世ギヨームがイングランドに攻め込んだ征服したノルマン・コンクエストの後に長く続いたアンジュー帝国を築いたプランタジネット家の男系傍流であるランカスター家とヨーク家の、30年に及ぶ権力闘争でもある。最終的にはランカスター家の女系の血筋を引くテューダー家のヘンリー7世が武力でヨーク家を倒し、ヨーク家のエリザベス王女と結婚してテューダー朝を開いた。", + "qas": [ + { + "question": "薔薇戦争は、どの国にて発生した戦争であるの?", + "id": "tr-117-00-000", + "answers": [ + { + "text": "イングランド", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "薔薇戦争は、どのような人々の内乱でありますか?", + "id": "tr-117-00-001", + "answers": [ + { + "text": "イングランド中世封建諸侯", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "薔薇戦争は、ランカスター家とどの家の、30年に及ぶ権力闘争ともいえるか?", + "id": "tr-117-00-002", + "answers": [ + { + "text": "ヨーク家", + "answer_start": 211, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ノルマン・コンクエストを実施した人物は、誰か?", + "id": "tr-117-00-003", + "answers": [ + { + "text": "ギヨーム", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "薔薇戦争は、1455年5月にヨーク公リチャードがヘンリー6世に対して反乱を起こしてから、1485年にテューダー朝が成立するまで(1487年6月のストーク・フィールドの戦いまでとする見方もある)、プランタジネット家傍流のランカスター家とヨーク家の間で戦われた権力闘争である。ヨーク家とランカスター家は、ともにエドワード3世の血を引く家柄であった。", + "qas": [ + { + "question": "1455年5月にヘンリー6世に対して反乱を起こしたのは、誰なの?", + "id": "tr-117-01-000", + "answers": [ + { + "text": "リチャード", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "テューダー朝の創立は、何年とされますか?", + "id": "tr-117-01-001", + "answers": [ + { + "text": "1485年", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "リチャードの反乱は、いつ起こったのか?", + "id": "tr-117-01-002", + "answers": [ + { + "text": "1455年5月", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1455年5月から1485年までのプランタジネット家傍流のランカスター家とヨーク家の間で戦われた権力闘争のことをいうのは、何か?", + "id": "tr-117-01-003", + "answers": [ + { + "text": "薔薇戦争", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ランカスター家が赤薔薇、ヨーク家が白薔薇をバッジ(記章)としていたので薔薇戦争と呼ばれているが、この呼び名は後世のこととされる。", + "qas": [ + { + "question": "白薔薇をバッジとしていたのは、ランカスター家とヨーク家のうち、どちらなの?", + "id": "tr-117-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ヨーク家", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "赤薔薇をバッジとしていたのは、ランカスター家とヨーク家のうち、どちらなの?", + "id": "tr-117-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ランカスター家", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "百年戦争中に、ランカスター家はプランタジネット朝を倒してランカスター朝を成立させていた。1422年、フランス王に対する勝利を重ね百年戦争における優位を確立したランカスター朝二代のヘンリー5世が死去し、生後9ヵ月のヘンリー6世がイングランド王に即位した。", + "qas": [ + { + "question": "プランタジネット朝を滅ぼしたのは、どの家なの?", + "id": "tr-117-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ランカスター家", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "プランタジネット朝を崩し、その領域を支配するようになったのは、どの王朝ですか?", + "id": "tr-117-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ランカスター朝", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ヘンリー5世が死去したのは、何年のことか?", + "id": "tr-117-03-002", + "answers": [ + { + "text": "1422年", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヘンリー6世が即位したのは、何年のことか?", + "id": "tr-117-03-003", + "answers": [ + { + "text": "1422年", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1430年代以降、大陸での戦況が不利になるとフランスから嫁いだ王妃マーガレット・オブ・アンジューやサマセット公エドムンド・ボーフォートをはじめとする国王側近の和平派(ランカスター派)とプランタジネット家傍流のヨーク公リチャードを中心とした主戦派(ヨーク派)とが権力闘争を繰り広げるようになった。イングランドは百年戦争に敗れ、ヘンリー6世は精神錯乱を起こして闘争を収拾できなかった。両派は対立を深め、1455年に第1次セント・オールバーンズの戦いで両派間に火蓋が切られた。以後30年間、内戦がイングランド国内でくり広げられる。", + "qas": [ + { + "question": "和平派と主戦派の間の葛藤が深化したのは、何年代以降のことなの?", + "id": "tr-117-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1430年代", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "国王側近の和平派の主軸だったのは、エドムンド・ボーフォートと誰でしたか?", + "id": "tr-117-04-001", + "answers": [ + { + "text": "マーガレット・オブ・アンジュー", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "主戦派の中心人物は、誰だったか?", + "id": "tr-117-04-002", + "answers": [ + { + "text": "リチャード", + "answer_start": 108, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "百年戦争で敗戦国となったのは、どの国だったか?", + "id": "tr-117-04-003", + "answers": [ + { + "text": "イングランド", + "answer_start": 147, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "勝利したヨーク公は権力を掌握するが、マーガレット王妃率いるランカスター派の巻き返しを受けてヨーク派が窮地に陥ると1459年に戦いが再開した。1460年のノーサンプトンの戦いでヨーク派が勝利してヘンリー6世を捕らえ、ヨーク公は王位を目前にするものの、スコットランドの援助を受けたマーガレット王妃の反撃を受けてウェイクフィールドの戦いで戦死した。", + "qas": [ + { + "question": "ヨーク派とランカスター派の間の戦いが再開したのは、いつのことなの?", + "id": "tr-117-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1459年", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ノーサンプトンの戦いは、何年に行われた戦闘でありますか?", + "id": "tr-117-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1460年", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ヨーク公は、どの戦闘にて戦死したか?", + "id": "tr-117-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ウェイクフィール���の戦い", + "answer_start": 153, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ノーサンプトンの戦いとウェイクフィールドの戦いのうち、どちらの戦闘がより早く行われたのか?", + "id": "tr-117-05-003", + "answers": [ + { + "text": "ノーサンプトンの戦い", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1461年、マーガレット王妃はウォリック伯リチャード・ネヴィルを破ってヘンリー6世を奪回するが、ロンドンの占領に失敗する。ヨーク公の嫡男エドワードがウォリック伯と合流してロンドンに入城し、新国王エドワード4世に推戴されてヨーク朝が成立した。タウトンの戦いでヨーク派が大勝し内戦の勝敗は決した。1465年にはヘンリー6世も捕らえられ、幽閉されている。(第一次内乱)", + "qas": [ + { + "question": "マーガレット王妃の勢力がヘンリー6世を奪回したのは、何年のことなの?", + "id": "tr-117-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1461年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1461年、マーガレット王妃は誰の勢力との戦いに勝利し、ヘンリー6世を奪回しましたか?", + "id": "tr-117-06-001", + "answers": [ + { + "text": "リチャード・ネヴィル", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ヨーク朝の創立者は、誰の嫡男か?", + "id": "tr-117-06-002", + "answers": [ + { + "text": "ヨーク公", + "answer_start": 61, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ヨーク朝の初代王は、誰か?", + "id": "tr-117-06-003", + "answers": [ + { + "text": "エドワード4世", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "王位に就いたエドワード4世であったが、成立した政権は不安定であった。エドワード4世は身分違いのエリザベス・ウッドヴィルとの結婚を独断専行させ、ウッドヴィル一族を重用したこと、そして外交政策の意見の相違からウォリック伯の反逆を招いた。1469年にウォリック伯は王弟クラレンス公ジョージとともに反乱を起こしてエドワード4世を一時屈服させるが、翌1470年にエドワード4世が両人を反逆者と宣告すると国外逃亡を余儀なくされた。", + "qas": [ + { + "question": "エドワード4世は、誰と結婚したの?", + "id": "tr-117-07-000", + "answers": [ + { + "text": "エリザベス・ウッドヴィル", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "エドワード4世は、どの部族を重用しましたか?", + "id": "tr-117-07-001", + "answers": [ + { + "text": "ウッドヴィル一族", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウォリック伯と王弟クラレンス公ジョージによる反乱は、何年に起こった事件であるか?", + "id": "tr-117-07-002", + "answers": [ + { + "text": "1469年", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "エドワード4世が1470年に反逆者と宣告したのは、ジョージと誰か?", + "id": "tr-117-07-003", + "answers": [ + { + "text": "ウォリック伯", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ウォリック伯は宿敵であったマーガレット王妃と和解してランカスター派と手を結び、イングランドに上陸してエドワード4世を国外に追いやり、ヘンリー6世を復位させた。だが、エドワード4世はブルゴーニュ公の援助を受けて、翌1471年にイングランドへ攻め入り、バーネット���戦いでウォリック伯を敗死させ、さらにテュークスベリーの戦いでランカスター軍を打ち破ってマーガレット王妃を捕らえた。ヘンリー6世とエドワード王子は殺害され、ランカスター家の王位継承権者はほぼ根絶やしにされた。(第二次内乱)", + "qas": [ + { + "question": "ウォリック伯が宿敵と手を組んだのは、誰を王位から引き下ろすためだったの?", + "id": "tr-117-08-000", + "answers": [ + { + "text": "エドワード4世", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ウォリック伯と手を組み、エドワード4世を王位から引き下ろすのに貢献したのは、誰ですか?", + "id": "tr-117-08-001", + "answers": [ + { + "text": "マーガレット王妃", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "エドワード4世の次に、イングランドの統治者となったのは、誰か?", + "id": "tr-117-08-002", + "answers": [ + { + "text": "ヘンリー6世", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "エドワード4世はバーネットの戦いとどの戦いで、ウォリック伯とマーガレット王妃の勢力を抹殺するのに成功したか?", + "id": "tr-117-08-003", + "answers": [ + { + "text": "テュークスベリーの戦い", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1483年に再び転機が訪れた。エドワード4世が急死すると、王弟グロスター公リチャードはエドワード4世の幼い遺児エドワード5世と母后エリザベス・ウッドヴィルの一族を排除し、諸侯や市民の推戴を経てリチャード3世として即位する。リチャード3世の即位に反対する勢力によって国内は再び混乱した。フランスに亡命していたランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーは、1485年に兵を率いてイングランドに上陸すると、ボズワースの戦いでリチャード3世を撃ち破った。(第三次内乱)", + "qas": [ + { + "question": "エドワード4世が死去したのは、何年なの?", + "id": "tr-117-09-000", + "answers": [ + { + "text": "1483年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "誰の死後、イングランドの王位を巡った王位争奪戦が再び再開されましたか?", + "id": "tr-117-09-001", + "answers": [ + { + "text": "エドワード4世", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "エドワード4世の後を継ぎ、イングランドの王位についたのは、誰か?", + "id": "tr-117-09-002", + "answers": [ + { + "text": "リチャード3世", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "リチャード3世を王位から引き下ろしたのは、誰か?", + "id": "tr-117-09-003", + "answers": [ + { + "text": "リッチモンド伯ヘンリー・テューダー", + "answer_start": 161, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ヘンリー・テューダーはヘンリー7世として即位するとエドワード4世の王女エリザベス・オブ・ヨークと結婚してヨーク家と和解し、新たにテューダー朝が開かれた。", + "qas": [ + { + "question": "テューダー朝の創立者は、誰と結婚したか?", + "id": "tr-117-10-000", + "answers": [ + { + "text": "エリザベス・オブ・ヨーク", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "テューダー朝の初代王は、誰か?", + "id": "tr-117-10-001", + "answers": [ + { + "text": "ヘンリー7世", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "マーシャル・プラン", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "マーシャル・プラン(MarshallPlan)は、第二次世界大戦で被災したヨーロッパ諸国の為に、アメリカ合衆国が推進した復興援助計画である。通常は提唱者のジョージ・マーシャル国務長官の名を冠してこのように呼ぶが、正式名称は欧州復興計画(おうしゅうふっこうけいかく、EuropeanRecoveryProgram,ERP)・西ヨーロッパ経済復興援助計画ともいう。", + "qas": [ + { + "question": "マーシャル・プランとは、何により被害を受けたヨーロッパ諸国のために、アメリカが推進した復興援助計画のことを言うの?", + "id": "tr-118-00-000", + "answers": [ + { + "text": "第二次世界大戦", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マーシャル・プランの提唱者の名前は、何ですか?", + "id": "tr-118-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ジョージ・マーシャル", + "answer_start": 77, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マーシャル・プランの正式名称には、欧州復興計画のほかに、何があるか?", + "id": "tr-118-00-002", + "answers": [ + { + "text": "西ヨーロッパ経済復興援助計画", + "answer_start": 161, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1947年6月5日にハーヴァード大学の学位授与式に臨席したマーシャルは記念講演の中で、アメリカがヨーロッパに対して大規模な復興援助を供与する用意がある旨を表明した。これに応じた西ヨーロッパ16か国は、復興4か年計画と援助所要額をまとめた報告書を共同で作成してアメリカの援助を仰ぐと共に、援助受け入れ機関として欧州経済協力機構(OEEC)を設置した。一方アメリカは援助政策の根拠法たる「1948年対外援助法」を制定し、実施機関として経済協力局(ECA)を設置した。援助は旧敵国(枢軸国)にも供与され、イタリアやオーストリアが原参加国に名を連ねたほか、アメリカ・イギリス・フランス3か国の占領下にあったドイツ西部も援助対象として認められた。", + "qas": [ + { + "question": "マーシャルがハーヴァード大学の学位授与式にて記念講演を行ったのは、いつ?", + "id": "tr-118-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1947年6月5日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マーシャルはどの大学の学位授与式にて、アメリカがヨーロッパに対して大規模な復興援助を供与する用意がある旨を表明する記念講演を行いましたか?", + "id": "tr-118-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ハーヴァード大学", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "欧州経済協力機構は、ヨーロッパの何か国により設置されましたか?", + "id": "tr-118-01-002", + "answers": [ + { + "text": "16か国", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アメリカの援助政策実施機関は何か?", + "id": "tr-118-01-003", + "answers": [ + { + "text": "経済協力局", + "answer_start": 215, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "マーシャル・プランは西ヨーロッパ諸国の戦後復興に一定の貢献をし、またアメリカ企業には巨大なヨーロッパ市場を提供した。ソ連及び東ヨーロッパ諸国はモロトフ・プランで対抗した為、ヨーロッパの東西分断が加速したが、その一方で西ヨーロッパ諸国間の統合への動きは進展した。アメリカは無償贈与を中心に100億ドルを超える援助を供与したが、後半期には軍事援助に重点が移り、相互安全保障法に基づく援助に吸収された。", + "qas": [ + { + "question": "ソ連及び東ヨーロッパ諸国が、アメリカのマーシャル・プランに対抗するために出した政策とは何?", + "id": "tr-118-02-000", + "answers": [ + { + "text": "モロトフ・プラン", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ヨーロッパの東西分断は、マーシャル・プランとどれの対立により加速されましたか?", + "id": "tr-118-02-001", + "answers": [ + { + "text": "モロトフ・プラン", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "マーシャル・プランは一般に、アメリカ史上屈指の成功を収めた対外政策と見做され、マーシャルは計画を推進した功績によってノーベル平和賞を受賞した。しかし、経済史の分野ではその経済効果を疑問視する見解が出され、議論を呼んでいる。外交史的見地からは、従来は反共政策としての側面が強調される傾向にあったが、新たな視点からの研究成果も現れている。", + "qas": [ + { + "question": "アメリカ史上屈指の成功を収めた対外政策と見なされるのは、誰により推進されたか?", + "id": "tr-118-03-000", + "answers": [ + { + "text": "マーシャル", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マーシャルはどの計画を推進した功績が認められ、ノーベル平和賞を受賞したか?", + "id": "tr-118-03-001", + "answers": [ + { + "text": "マーシャル・プラン", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マーシャル・プランの経済効果を疑問視する見解が出されたのは、どの分野においてか?", + "id": "tr-118-03-002", + "answers": [ + { + "text": "経済史", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "外交史的見地からは、従来、どのような政策としての側面が強調される傾向にあったか?", + "id": "tr-118-03-003", + "answers": [ + { + "text": "反共政策", + "answer_start": 124, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "一方中華民国・大韓民国にもアメリカは中国と南朝鮮の工業及び農業改革の復興を援助する計画をしていたが、中国は蒋介石がマーシャル将軍の調停した国共停戦協定を無視して中国共産党への軍事攻勢を行ったことでアメリカのハリー・S・トルーマン大統領は「中国の内戦に巻き込まれることを避けつつ、中国国民が中国に平和と経済復興をもたらすのを援助する」だけであるとして中国に派遣していたマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明し、結果として中華人民共和国が建国することになり、計画は破綻した。同時に大韓民国も朝鮮半島情勢悪化理由に計画は断念した。", + "qas": [ + { + "question": "中国に派遣していたマーシャル将軍の召喚と中国内戦からのアメリカの撤退を表明したのは、誰?", + "id": "tr-118-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ハリー・S・トルーマン大統領", + "answer_start": 103, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヨーロッパと同じくアメリカからの経済援助を受けたが、当国の国内情勢悪化により計画が断念された国々には、中華民国とどの国がありますか?", + "id": "tr-118-04-001", + "answers": [ + { + "text": "大韓民国", + "answer_start": 247, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1947年2月21日に金曜日の午後遅く、駐米英国大使を務めるアーチボルド・クラーク・カー男爵の一等書記官であるM・H・サイチェルが国務省を訪れた。大使から覚書(Aide-Mémoire)を託された書記官は、応対したディーン・アチソン国務次官に対し、ジョージ・マーシャル国務長官との面会を求めた。しかし、当のマーシャルはプリンストン大学創立200年祭で記念講演を行うため、国務省を発ったばかりであった。覚書は緊急の検討を要したが、国務長官宛の正式文書を他の者が受け取ることは出来ないため、応急処置として覚書の写しを国務省近東・アフリカ局長ロイ・ウェズリー・ヘンダーソンに手渡し、正本は後日マーシャルに渡すことにした。", + "qas": [ + { + "question": "1947年2月21日にM・H・サイチェルが米国国務省を訪れたのは、誰との面会を申し出るためだった?", + "id": "tr-118-05-000", + "answers": [ + { + "text": "ジョージ・マーシャル", + "answer_start": 124, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1947年2月21日にM・H・サイチェルがジョージ・マーシャルとの面会を求めて米国国務省を訪れた時、マーシャルはどの大学での記念講演に参席するために出かけたばかりでしたか?", + "id": "tr-118-05-001", + "answers": [ + { + "text": "プリンストン大学", + "answer_start": 159, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "M・H・サイチェルは誰から託された覚書を持って米国国務省を訪れたか?", + "id": "tr-118-05-002", + "answers": [ + { + "text": "アーチボルド・クラーク・カー", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アーチボルド・クラーク・カーから託された覚書の写しは、誰に渡されたか?", + "id": "tr-118-05-003", + "answers": [ + { + "text": "ロイ・ウェズリー・ヘンダーソン", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "サイチェルは覚書を2通携えていた。1通目はギリシャに関するもので、イギリスが3月31日を限りにギリシャに対する援助を打ち切らざるを得ないとして、年間6000万から7000万ポンド(当時の為替レートは、1ポンド=4.03ドル)の肩代わりをアメリカに求めた。もう1通はトルコに関するもので、軍の近代化と経済発展の両立が困難であること、トルコの戦略的・軍事的位置について英米連合参謀本部(CombinedChiefsofStaff)で協議する用意があることや、トルコ軍拡充の為の財政援助をアメリカが行うよう期待することが記されていた。", + "qas": [ + { + "question": "サイチェルはギリシャとどの国に関する2通の覚書を携えていたの?", + "id": "tr-118-06-000", + "answers": [ + { + "text": "トルコ", + "answer_start": 132, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "サイチェルの携えていた2通の覚書のうち、ギリシャに関するものには、イギリスが何月何日をもってギリシャへの援助を打ち切るとのことが記されていましたか?", + "id": "tr-118-06-001", + "answers": [ + { + "text": "3月31日", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "サイチェルの携えていた2通の覚書のうち、トルコに関するものには、何について英米連合参謀本部で協議する用意があるとのことが記されていましたか?", + "id": "tr-118-06-002", + "answers": [ + { + "text": "トルコの戦略的・軍事的位置", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ギリシャとトルコに関する2通の覚書を持ってきたのは、誰か?", + "id": "tr-118-06-003", + "answers": [ + { + "text": "サイチェル", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ギリシャでは第二次世界大戦中、共産党系の民族解放戦線(EthnikonApelefyherotikonMetpon,EAM)とその軍事組織であるギリシャ人民解放軍(ElinikosLaikosApeleftherotikosStratos,ELAS)が枢軸国に対するレジスタンス運動を展開していたが、1944年のドイツ軍撤退後にカイロのパパンドレウ亡命政府が首都アテネ入りを果たすと、同政府の中心である右派・王党派勢力とEAMとの間で衝突が起こった(ギリシャ内戦)。", + "qas": [ + { + "question": "ギリシャ内戦とは、誰を中心とする勢力とEAMとの間の衝突だった?", + "id": "tr-118-07-000", + "answers": [ + { + "text": "パパンドレウ", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "パパンドレウ政府がカイロからアテネに戻ってきたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-118-07-001", + "answers": [ + { + "text": "1944年", + "answer_start": 150, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ギリシャからドイツ軍が撤退したのは、何年か?", + "id": "tr-118-07-002", + "answers": [ + { + "text": "1944年", + "answer_start": 150, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ギリシャは、何年までドイツ軍に占領されていたか?", + "id": "tr-118-07-003", + "answers": [ + { + "text": "1944年", + "answer_start": 150, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "イギリスはギリシャの王党派を援助してきたが、これに対して内外から批判が挙がった。加えて、1946年から翌年にかけての冬は実に66年ぶりの厳冬となったため、国内では深刻な燃料危機が発生した。イギリスは大戦で経済が疲弊した上、巨額の対米借款を抱えており、援助政策の再考を迫られていた。経済情勢も深刻で、工業生産は戦前の40%程度に留まっていた。1946年末にアメリカを訪問したギリシャのコンスタンディノス・ツァルダリス首相はギリシャ経済の窮状を説明し、今後5年間に12億4600万ドルの援助が必要であると訴えた。", + "qas": [ + { + "question": "イギリスは、ギリシャ内戦において、誰を援助したの?", + "id": "tr-118-08-000", + "answers": [ + { + "text": "王党派", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1946年から1947年にかけての冬にイギリスでは、何が発生しましたか?", + "id": "tr-118-08-001", + "answers": [ + { + "text": "深刻な燃料危機", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1946年末にアメリカを訪問し、ギリシャ経済が窮状に陥ったことと今後5年間に12億4600万ドルの援助が必要であることを説明したのは、誰か?", + "id": "tr-118-08-002", + "answers": [ + { + "text": "コンスタンディノス・ツァルダリス", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1946年のギリシャにおいて、首相に務めていたのは、誰か?", + "id": "tr-118-08-003", + "answers": [ + { + "text": "コンスタンディノス・ツァルダリス", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "一方トルコでは、ボスポラス・ダーダネルス両海峡の管理を巡る問題が発生した。両海峡は1936年11月以来モントルー条約に則って管理されてきたが、1946年中に改訂することがポツダム会談で合意されていた。これを受けて1946年8月7日、ソ連はトルコに覚書を送付し、黒海沿岸諸国の軍艦の自由航行やソ連の軍事基地建設を前提とするソ連・トルコの海峡共同防衛などを提案した。トルコはこれに反発し、アメリカ・イギリスもトルコに同調した。", + "qas": [ + { + "question": "トルコでは、ボスポラス海峡とどの海峡の管理を巡る問題が発生したの?", + "id": "tr-118-09-000", + "answers": [ + { + "text": "ダーダネルス", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ボスポラス・ダーダネルス両海峡は、1936年11月から1946年までどの条約に則って管理されていましたか?", + "id": "tr-118-09-001", + "answers": [ + { + "text": "モントルー条約", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ボスポラス・ダーダネルス両海峡の管理に関する条約の改訂は、どこで合議されたか?", + "id": "tr-118-09-002", + "answers": [ + { + "text": "ポツダム会談", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ソ連がトルコに、黒海沿岸諸国の軍艦の自由航行やソ連の軍事基地建設を前提とするソ連・トルコの海峡共同防衛を提案する覚書を送付したのは、いつか?", + "id": "tr-118-09-003", + "answers": [ + { + "text": "1946年8月7日", + "answer_start": 106, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "2月24日(月曜日)の早朝に覚書は正式にマーシャルに手渡された。同日国務省内にはヘンダーソンを長とする「ギリシャ・トルコ援助検討特別委員会」が設置され、「長文電報」でソ連通としての知名度を高めていたジョージ・F・ケナンもこれに参加した。特別委は翌25日に「対ギリシャ・トルコ緊急援助に関する国務省の立場と勧告」をアチソンに提出した。報告書は安易にソ連との妥協を行わないとの言質をイギリスから取ることを条件に、援助肩代わりの要請を受け入れることを勧告した。", + "qas": [ + { + "question": "「ギリシャ・トルコ援助検討特別委員会」が設置されたのは、何月何日のこと?", + "id": "tr-118-10-000", + "answers": [ + { + "text": "2月24日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ギリシャ・トルコ援助検討特別委員会の初代会長は、誰ですか?", + "id": "tr-118-10-001", + "answers": [ + { + "text": "ヘンダーソン", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ギリシャ・トルコ援助検討特別委員会が「対ギリシャ・トルコ緊急援助に関する国務省の立場と勧告」をアチソンに提出したのは、2月何日のことか?", + "id": "tr-118-10-002", + "answers": [ + { + "text": "25日", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "さらに2月26日に国務省・陸軍省・海軍省の3省長官会議が開催された。ロバート・ポーター・パターソン陸軍長官とジェームズ・フォレスタル海軍長官は、同様の事態は南朝鮮や中国など他の諸地域でも発生している為、これらの地域への援助も必要であると考えた。しかし議会で多数を占める共和党が財政支出の削減を強く求めていることに配慮し、対象をギリシャ・トルコに限定した国務省の勧告に基本的に賛同した。会議後マーシャルはギリシャ・トルコ援助案をハリー・S・トルーマン大統領に伝達し、了承を得た。トルーマンはアーサー・ヴァンデンバーグら有力議員8名を招き、対ギリシャ・トルコ援助への協力を事前に取り付けた。", + "qas": [ + { + "question": "国務省・陸軍省・海軍省の3省長官会議が開催されたのは、いつ?", + "id": "tr-118-11-000", + "answers": [ + { + "text": "2月26日", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "陸軍長官と海軍長官が、ギリシャとトルコ以外にも援助を行うべきだと述べた地域として、この文章に挙げられているのは、南朝鮮とどの国ですか?", + "id": "tr-118-11-001", + "answers": [ + { + "text": "中国", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "結局、援助対象国は、ギリシャとどの国に限定されたか?", + "id": "tr-118-11-002", + "answers": [ + { + "text": "トルコ", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ギリシャ・トルコ援助案を承認した、当時のアメリカ大統領は、誰か?", + "id": "tr-118-11-003", + "answers": [ + { + "text": "ハリー・S・トルーマン", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "同年3月12日に上下両院合同会議の場においてトルーマンは特別教書を発表した。いわゆる「トルーマン・ドクトリン」である。トルーマンは、イギリスが対ギリシャ・トルコ援助打ち切りを通告したことに触れ、ギリシャ及びトルコの現状について説き起こした。この教書の中でトルーマンは、世界のほぼ全ての国々が否応なく「2つの生活様式」即ち自由主義と全体主義の選択を迫られているという二元論的な外交理念を提示すると同時に、「武装した少数者や外部からの圧力による征服の試みに抵抗している自由な諸国民を支持することこそ合衆国の政策でなければならないと信じる」と語った。そして、ギリシャやトルコが全体主義者の手に落ちればその影響は両国のみに留まらないと主張し、両国に対する経済的・軍事的援助として、1948年6月末までに4億ドルの支出と民間人・軍人の派遣を認めるよう議会に要請した。", + "qas": [ + { + "question": "トルーマン・ドクトリンが発表されたのは、何月何日?", + "id": "tr-118-12-000", + "answers": [ + { + "text": "3月12日", + "answer_start": 2, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "トルーマンによる2つの生活様式との表現は、自由主義と何主義のことを指しますか?", + "id": "tr-118-12-001", + "answers": [ + { + "text": "全体主義", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "トルーマンは、ギリシャやトルコに対する経済的援助として、いくらの支出を議会に要請したか?", + "id": "tr-118-12-002", + "answers": [ + { + "text": "4億ドル", + "answer_start": 347, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "トルーマンは、ギリシャやトルコに対する軍事的援助として、何の承認を議会に要請したか?", + "id": "tr-118-12-003", + "answers": [ + { + "text": "民間人・軍人の派遣", + "answer_start": 355, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "4億ドルという額についてトルーマンは、アメリカが大戦中に支出した戦費(3410億ドル)の0.1%強に過ぎないと語り、負担に充分耐え得ることを強調した。そして、自由世界を全体主義体制から守る責務を全うできる国家は今やアメリカをおいて他にないとして、上記の提案に賛同することを議会に求めたのである。この演説は名指しこそ避けたものの、ソ連の影響力が地中海沿岸地域にまで及ぶことを警戒する内容となっていた。ギリシャ・トルコ危機という地域問題は、この演説によって世界規模の問題として捉えられ、その背後にはアメリカとソ連の対立という図式が潜んでいるとする認識が同時に示されたのである。この演説は広汎な支持の獲得に成功したという。しかし国務省からは演説内容に対する驚きの声が上がった。反共的な主張の並んだ草稿に驚いたマーシャルは、事態を過大に言い過ぎているとの電報をトルーマンに宛てて送信した。また、ケナンは草稿を読んで「これはまずいな」と懸念した。ケナンはギリシャへの経済・技術援助には賛同しつつも、軍事援助には消極的であった。また、局地的問題を普遍化す��かのような言辞にも反対した。", + "qas": [ + { + "question": "トルーマンは、何と比較しながら4億ドルという額がそれほどの負担にはならないことを強調したの?", + "id": "tr-118-13-000", + "answers": [ + { + "text": "アメリカが大戦中に支出した戦費", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "トルーマンの演説の中には、どの国の影響力の拡大を警戒する内容が含まれていましたか?", + "id": "tr-118-13-001", + "answers": [ + { + "text": "ソ連", + "answer_start": 164, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "トルーマンの演説には、どこがソ連の影響下になることを恐れる内容が主になっていたか?", + "id": "tr-118-13-002", + "answers": [ + { + "text": "地中海沿岸地域", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "トルーマンの演説により、ギリシャ・トルコ危機という地域問題が世界規模の問題とされると同時に、アメリカとどの国の対立が世界的に認識され始めたか?", + "id": "tr-118-13-003", + "answers": [ + { + "text": "ソ連", + "answer_start": 252, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ツキヨタケ", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ツキヨタケ(月夜茸)は、ハラタケ目ホウライタケ科のツキヨタケ属に属するキノコの一種である。\n日本を中心として極東ロシアや中国東北部にも分布し、晩夏から秋にかけて主にブナの枯れ木に群生する。\n子実体には主要な毒成分としてイルジンSを含有し、そのひだには発光成分を有する。\nシイタケやムキタケ、ヒラタケなどと誤食されやすく、誤食した場合には下痢や嘔吐といった中毒症状から、まれには死亡例も報告されている。", + "qas": [ + { + "question": "ツキヨタケを漢字表記するとどうなりますか?", + "id": "tr-119-00-000", + "answers": [ + { + "text": "月夜茸", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ツキヨタケが群生し始めるのはいつからですか?", + "id": "tr-119-00-001", + "answers": [ + { + "text": "晩夏", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "子実体に含まれている主な毒成分とは何?", + "id": "tr-119-00-002", + "answers": [ + { + "text": "イルジンS", + "answer_start": 109, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ツキヨタケは何科のキノコですか?", + "id": "tr-119-00-003", + "answers": [ + { + "text": "ホウライタケ科", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "旧属名Lampteromycesは、古典ギリシア語のLampteros(Λαπτερος:灯火)とMyces(μύκης:菌)とを組み合わせたもの、また現在適用されている属名Omphalotusは、同じくギリシア語のOmphalus(ὀμφαλύς:へそ)とTus(τύς:耳)とを組み合わせたものである。\n和名としては、初めに提案されていたクマヒラタケの名ではなく、江戸時代に坂本浩然によって提唱された名であるツキヨタケが用いられることとなった。\n方言名は多く、カタハキノコ(青森県津軽地方)、カタハタケ(鹿児島県下)、カタヘラタケ(秋田県下)、岩手県下では「ドクキノコ」の名もある。\nまた、秋田県(北秋田・鹿角)では、ドクアカリの名で呼ばれているという。\nさらに、ブナカタハ(青森県)・ブナタロウ(石川県白山山麓)などの名も知られている。", + "qas": [ + { + "question": "ツキヨタケを命名した人は誰?", + "id": "tr-119-01-000", + "answers": [ + { + "text": "坂本浩然", + "answer_start": 189, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "坂本浩然は何時代の人物ですか?", + "id": "tr-119-01-001", + "answers": [ + { + "text": "江戸時代", + "answer_start": 184, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ドクアカリの呼び名があるのはどこですか?", + "id": "tr-119-01-002", + "answers": [ + { + "text": "秋田県", + "answer_start": 297, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ブナカタハの呼び名があるのはどこですか?", + "id": "tr-119-01-003", + "answers": [ + { + "text": "青森県", + "answer_start": 340, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ツキヨタケのかさは半円形ないし腎臓形をなし(ごく稀に、倒木の真上に生えた場合に杯状の中心生となることがある)、長径5-30cm程度になり、表面は湿時にはいくぶん粘性を示し、幼時は橙褐色〜黄褐色でときに微細な鱗片を散在するが、老成するに従って紫褐色または黄褐色となり、にぶい光沢をあらわす。\n表皮は肉から剥離しにくく、水酸化カリウム・水酸化ナトリウム・アンモニア水・炭酸水素ナトリウムなどの塩基性化合物によってすみやかに鮮青緑色に変色する(この呈色は、茹でたものや冷凍したもの、あるいは乾燥したものでも反応する)。\nひだは垂生し、比較的幅広く、白色〜クリーム色を呈する。\n柄は通常はかさの一端に着き(まれにほぼ中心生)、太く短くて淡い黄褐色を呈し、ひだとの境界には低いリング状をなした隆起(不完全な内被膜)がある。\nかさは、柄の近くは厚いが周辺部は薄く、肉は軟質でほぼ白色。\n柄の基部付近においては多くは紫黒色のしみ(まれに、ほとんどこれを欠くこともある)を生じ、特徴的な味はない。", + "qas": [ + { + "question": "ツキヨタケのかさは直径何cm程度まで成長するの?", + "id": "tr-119-02-000", + "answers": [ + { + "text": "5-30cm程度", + "answer_start": 57, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ツキヨタケのひだの色は何色に見えますか?", + "id": "tr-119-02-001", + "answers": [ + { + "text": "白色〜クリーム色", + "answer_start": 271, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ツキヨタケの肉は何色ですか?", + "id": "tr-119-02-002", + "answers": [ + { + "text": "ほぼ白色", + "answer_start": 381, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "晩夏から秋にかけて、おもにブナの倒木・切り株、あるいは立ち枯れ木などの上に群生する。\nときにイタヤカエデやトチノキ、あるいはミズメ・アカシデ・イヌシデ・コナラ・ミズナラなどの枯れ木に発生することもあり、また、ブナの自然分布がない北海道東北部などにおいては、トドマツ上に生じる。\nなお、人工栽培が試みられた例では、アカマツ・カラマツ・チョウセンゴヨウ・アベマキ・クヌギ・モンゴリナラあるいはヤマハンノキなどのおが屑上でも子実体が形成されることが確認されている。\n菌糸は一般的な真菌用の培地(たとえばジャガイモ=ブドウ糖寒天培地や浜田培地)を用いて培養することができ、さらに滅菌したブナ材の小片を培地に加えることで、単位時間当たりの菌糸の生育が有意に促進される。\nなお、生態的には、木材中のリグニンを分解する白色腐朽菌とみなされている。", + "qas": [ + { + "question": "ツキヨタケは何の木に多く群生しますか?", + "id": "tr-119-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ブナ", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "北海道東北部では何の木に群生しますか?", + "id": "tr-119-03-001", + "answers": [ + { + "text": "トドマツ", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "子実体には、ほかの多くのキノコ類と同様に、多種多様な昆虫が集まる。\n九州の英彦山において、春季(4-5月)に採集されたツキヨタケの子実体(前年に発生し、内部が腐敗しかけたものの表層組織が乾固したことによって翌春まで残存したもの)からは51種の昆虫(偶発的に子実体に付着していた種をも含む)が得られた例がある。\nまた、韓国南部では、ゴミムシダマシ科に属するチビヒサゴゴミムシダマシ(CryphaeusrotundicollisChûjôetLee)およびクロツヤキノコゴミムシダマシ(PlatydemanigroaeneumMotschulsky)が、ツキヨタケの子実体(新鮮なものか腐敗しかけたものかは明らかにされていない)から見出された例が記録されている。", + "qas": [ + { + "question": "チビヒサゴゴミムシダマシは何科に属しているの?", + "id": "tr-119-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ゴミムシダマシ科", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "英彦山はどの地域に位置しているの?", + "id": "tr-119-04-001", + "answers": [ + { + "text": "九州", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "英彦山での報告例では、ツキヨタケの子実体から得られた昆虫は何種でしたか?", + "id": "tr-119-04-002", + "answers": [ + { + "text": "51種", + "answer_start": 117, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "また、ツキヨタケの人工培養菌糸体は、マツノザイセンチュウ(Bursaphelenchusxylophilus(Steiner&Buhrer)Nickle)を誘引し、かつこれを殺す性質があるが、誘引・殺傷の機構についてはまだ明らかにされていない。\nただし、マツノザイセンチュウの誘引実験に際し、培養したツキヨタケの菌糸体を生きたままで用いた場合と熱湯で処理してから用いた場合とを比較すると、前者ではヒラタケに匹敵するほど著しい誘引活性を示したのに対し、後者では対照とした菌(ハイイロカビ)にも劣る活性しか確認されなかったことから、ツキヨタケの菌糸の生死が誘引活性の発現に影響しているのではないかと推定されている。\nなおilludenSには、グラム陰性・陽性菌に対する発育阻害や、サツマイモネコブセンチュウ(eloidogyneincognita)の致死率向上効果が認められている。", + "qas": [ + { + "question": "ツキヨタケの人工培養菌糸体は何を殺す性質がありますか?", + "id": "tr-119-05-000", + "answers": [ + { + "text": "マツノザイセンチュウ", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "日本のブナ林にはごく普通に産する。\n北海道南部以南に広く分布し、鹿児島県(大隅半島)の高隈山が南限であるとされている。\n日本国外では、ロシア極東地方および中国東北部のほか、朝鮮半島にも分布する。\nただし、朝鮮半島での発生は非常にまれであるといわれている。\nなお、中国産のものは国産とは異なるクレードであるため、別種の可能性が示唆されている。", + "qas": [ + { + "question": "ツキヨタケが分布する北限地域はどこですか?", + "id": "tr-119-06-000", + "answers": [ + { + "text": "北海道南部", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ツキヨタケが分布する南限地はどこですか?", + "id": "tr-119-06-001", + "answers": [ + { + "text": "高隈山", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ツキヨタケの発生が珍しいのは朝鮮半島、ロシア極東地方、中国東北部の中でどこですか?", + "id": "tr-119-06-002", + "answers": [ + { + "text": "朝鮮半島", + "answer_start": 102, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "中毒症状は摂食後30分から3時間で発症し、下痢と嘔吐が中心となり、あるいは腹痛をも併発する。\n景色が青白く見えるなどの幻覚症状がおこる場合もあり、重篤な場合は、痙攣・脱水・アシドーシスショックなどをきたす。\n死亡例も少数報告されているが、キノコの毒性分によるものではなく、激しい下痢による脱水症状の2次的なものであると考えられる。\n治療としては医療機関による処置が必要で、消化器系の症状に対しては、催吐・胃洗浄、あるいは吸着剤(活性炭など)の投与が行われる。\nまた、嘔吐や下痢による水分喪失の改善を目的とした補液も重要視される。\n重症例では血液吸着DHP(DirectHemoperfusion:直接血液灌流法)により、血中の毒素の吸着除去が行われることもある。", + "qas": [ + { + "question": "摂食後、早くて何分で中毒症状が起きますか?", + "id": "tr-119-07-000", + "answers": [ + { + "text": "30分", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "主な中毒症状は嘔吐と何ですか?", + "id": "tr-119-07-001", + "answers": [ + { + "text": "下痢", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ツキヨタケから得られた毒成分は、当初はランプテロールの名で呼ばれたが、後の研究により、日本未産の有毒きのこであるOmphalotusilludensから単離されたイルジン(Illudin)と同一物質であることが明らかにされた。\n主要な毒成分は、セスキテルペンに属するイルジンSおよびその異性体であるイルジンMなどとされている。\n特に、主要な中毒症状の一つである嘔吐は、イルジンSによるものであるという。", + "qas": [ + { + "question": "毒成分の初めの呼び名は何でしたか?", + "id": "tr-119-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ランプテロール", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "嘔吐の原因となる毒成分は何?", + "id": "tr-119-08-001", + "answers": [ + { + "text": "イルジンS", + "answer_start": 184, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "イルジンS以外の主な毒成分は何ですか?", + "id": "tr-119-08-002", + "answers": [ + { + "text": "イルジンM", + "answer_start": 149, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "イルジンSは黄色・不定形の物質で、100°C・15分の加熱では15パーセント程度しか分解されず、また、水にもある程度の溶解性を有するため、調理されたツキヨタケについて、子実体そのものを摂食せずとも汁を口にするだけで中毒する危険がある。\nその一方で、塩蔵した後、塩抜きを兼ねて流水にさらすことで、ある程度の毒抜きがなされるとも考えられる。\nある程度の脂溶性をも示すため、誤って炒め物などにした場合、混合して調理されたツキヨタケ以外の食材を食べたことで発症する場合がある。\nいっぽう、イルジン類は、ツキヨタケのもう一つの主要な中毒症状たる下痢の原因となる平滑筋弛緩作用を持たない。\n平滑筋の弛緩作用は、ムスカリン類似の未同定物質によるものではないかと推定されている。\nなお、野生のツキヨタケ子実体に含有されるイルジンSの含有量は、採集した場所や時期によって大きく変動(山形県産のサンプルでは、1.2-318.2μg/子実体1g、あるいは8.3-776.2μg/子実体1g)し、場合によってはこれをまったく含まないことすらあるという。\nさらに、菌糸体の人工培養に際して液体培地を用いた場合には、イルジンSが培地中に分泌されるのに対し、木粉培地を使用した場合には、子実体形成後に培地内に残った菌糸体あるいは廃培地中にイルジンSが検出されなかったことから、子実体に含まれるイルジンSはまず���糸体内で生成され、子実体形成に際して移送されるのではないかと推定されている。", + "qas": [ + { + "question": "イルジンSは何色をしているの?", + "id": "tr-119-09-000", + "answers": [ + { + "text": "黄色", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "山形県産の子実体のサンプルの中で最もイルジンSの含有量が多かったのは何μgでしたか?", + "id": "tr-119-09-001", + "answers": [ + { + "text": "8.3-776.2μg", + "answer_start": 416, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "イルジンSの生成場所はどこだと推定されていますか?", + "id": "tr-119-09-002", + "answers": [ + { + "text": "菌糸体内", + "answer_start": 589, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "従来、食中毒の原因となったきのこの同定方法としては、食物の残りや患者の吐瀉物を顕微鏡で観察するのが主流であったが、有毒成分を直接検出する方法も研究されている。\nツキヨタケに関しては、中毒患者が食べ残した料理の中に含まれるイルジンSをガスクロマトグラフ質量分析装置(GC/MS)で定量する方法(試料の処理方法や分析条件にもよるが、イルジンSの回収率は、ツキヨタケ以外の食用きのこにこれを混入した場合で84-94パーセント、ツキヨタケを加えた豚汁を分析試料に用いた場合で74.8パーセント)がある。\nまた、リアルタイムPCR法による同定も試みられている。\nドクツルタケ・クサウラベニタケ・テングタケなど、毒成分を異にする他の有毒キノコ、あるいは食用キノコが試料中に混合していても、個々の有毒成分を迅速に定量可能な方法が確立されつつある。\nこのほか、子実体には、細胞毒として働くジヒドロイルジンM(dihydroilludinM)や、ネオイルジン(Neoilludin)AおよびBなども含まれている。", + "qas": [ + { + "question": "ツキヨタケの有毒成分を直接検出する方法として、ガスクロマトグラフ質量分析装置で定量する方法と何がありますか?", + "id": "tr-119-10-000", + "answers": [ + { + "text": "リアルタイムPCR法", + "answer_start": 251, + "answer_type": "Manner" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "子実体に含まれ、細胞毒として働くのはネオイルジンAとB、その他に何がありますか?", + "id": "tr-119-10-001", + "answers": [ + { + "text": "ジヒドロイルジンM", + "answer_start": 386, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "子実体には、上記のほかにアトロメンチン・テレフォール酸・バリエガト酸・バリエガトルビンなどの色素が含まれている。\nアトロメンチンは、もとヒダハタケ科に置かれていたニワタケの子実体から初めて単離された青銅色の化合物であり、テレフォール酸はイボタケ科ほか多くのきのこの子実体中に普通に見つかる。\nバリエガト酸(橙色)およびバリエガトルビン(赤色)は、ともにヌメリイグチ属の一種(Suillusvariegatus(Sw.)Richon&Roze)から最初に得られた化合物である。\nまた、LJAP(Lampteromycesjaponicusantibioticprotein)と称される一種のレクチンも見出されており、これには抗菌活性が認められたという。\nハラタケ目の菌としては珍しく、ペクチナーゼやポリメチルガラクツロナーゼなどのペクチン分解酵素の活性が高いことでも知られている。", + "qas": [ + { + "question": "アトロメンチンは何色の化合物ですか?", + "id": "tr-119-11-000", + "answers": [ + { + "text": "青銅色", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヌメリイグチ属の一種から最初に得られた化合物とはバリエガト酸と何ですか?", + "id": "tr-119-11-001", + "answers": [ + { + "text": "バリエガトルビン", + "answer_start": 159, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "全体に地味な色調を持ち、少しも毒々しくみえないこと・縦によく裂けること・不快なにおいや味がないこと・しばしば一か所で大量に採取されることなどから、日本におけるきのこ中毒(原因となったきのこが確定されたケース)には、ツキヨタケによるものがもっとも多い。\n比較的幼い子実体はシイタケに、成熟したものはムキタケやヒラタケに類似している。\n特に、シイタケやムキタケとは一本の枯れ木上に混じり合って発生することがあり、誤食の危険が大きい。", + "qas": [ + { + "question": "日本で最も多くきのこ中毒が確定されているのは何のキノコ?", + "id": "tr-119-12-000", + "answers": [ + { + "text": "ツキヨタケ", + "answer_start": 107, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ツキヨタケの幼い子実体は何に似ていますか?", + "id": "tr-119-12-001", + "answers": [ + { + "text": "シイタケ", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ツキヨタケの成熟した子実体はヒラタケや何に似ていますか?", + "id": "tr-119-12-002", + "answers": [ + { + "text": "ムキタケ", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "後三種は、子実体のいかなる発育段階においても、ひだに発光性を欠いている。\nまた、シイタケでは、肉がツキヨタケのそれに比べてより強靭であり、乾燥すると特有の香気を発する点が異なり、ムキタケはかさの表面に微毛を被るとともに、かさの表皮が容易に剥がれる点で区別される。\nヒラタケは、柄にリング状の隆起(不完全なつば)がなく、ひだと柄との境界がより不明瞭なことで異なっている。\nさらに、ツキヨタケ以外の三種では、かさの表皮に塩基性化合物の水溶液を滴下しても緑色にならないこと、柄の肉に黒紫色のしみを生じないことも識別の上で重要な性質である。", + "qas": [ + { + "question": "乾燥すると特有の香りを発するのはシイタケとツキヨタケのどちらですか?", + "id": "tr-119-13-000", + "answers": [ + { + "text": "シイタケ", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "強靭な肉をもつものはシイタケとツキヨタケのどちらですか?", + "id": "tr-119-13-001", + "answers": [ + { + "text": "シイタケ", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ムキタケとの手軽な識別法として、グアヤク脂のエタノール溶液(グアヤクチンキ)や硫酸バニリン溶液(純水3ccに濃硫酸8ccを加え、バニリン1gを溶かす)を用いる方法があり、ツキヨタケはこれら二種類の試薬に対してなんら呈色を示さないが、ムキタケでは、グアヤクチンキで青緑色、硫酸バニリンで赤紫色の変色が起こる。\nただし、これらの呈色が、菌体中のいかなる成分によるものかは明らかにされていない。", + "qas": [ + { + "question": "グアヤクチンキを用いると、ムキタケは何色に色が変わりますか?", + "id": "tr-119-14-000", + "answers": [ + { + "text": "青緑色", + "answer_start": 131, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "硫酸バニリン溶液を用いると、ムキタケは何色に色が変わりますか?", + "id": "tr-119-14-001", + "answers": [ + { + "text": "赤紫色", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "これらの相違点に加え、シイタケ・ヒラタケ・ムキタケにおいては、それらの胞子はツキヨタケのそれに比べてずっと小さく、類球形をなすこともない。\nなお、山形県下の一部の地方では、茹でた後に塩蔵保存し、流水にさらしてから食用とする習慣があるが、マウスを用いた実験によれば、熱処理したのみでは便重量の減少や消化管内容物の輸送の促進(ヒトの中毒時の下痢症状を示唆する)などがみられるのに対し、塩蔵(沸騰水中で10分間熱した後、菌体を一分あたり500mlの流速にて流水中に48時間さらし、水切りをしてから、重量比で1.5倍量の食塩を加え、室温下で5週間保存)してから水中に投じて48時間の塩抜きを行ったツキヨタケのメタノールエキスを与えた実験区ではこれらの所見がなく、解剖時の胃の膨満や出血、あるいは消化管内壁の潰瘍性糜爛などもみられなかったという。", + "qas": [ + { + "question": "胞子がより大きいのはツキヨタケとシイタケのどちら?", + "id": "tr-119-15-000", + "answers": [ + { + "text": "ツキヨタケ", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "胞子がより小さいのはムキタケとツキヨタケのどちらですか?", + "id": "tr-119-15-001", + "answers": [ + { + "text": "ムキタケ", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ツキヨタケの塩蔵保存では、重量比の何倍の塩を加えますか?", + "id": "tr-119-15-002", + "answers": [ + { + "text": "1.5倍", + "answer_start": 250, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ツキヨタケの塩蔵保存では、室温下でどれくらいの期間保存されますか?", + "id": "tr-119-15-003", + "answers": [ + { + "text": "5週間", + "answer_start": 266, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "子実体の各部のうち、発光性を有するのはひだのみで、かさや柄は、表面においても内部においても光らない。\nまた、ひだが堅いものに触れたりして損傷した部分は光らなくなる。\n発光のピークはかさがじゅうぶんに開いた後の2-3日程度であるという。\nまた、菌体が古くなると、光量は次第に小さくなるが、小動物などにより食害された部分などを除けば、ひだの光量の低下は一個の子実体中において均等に起こり、部分的に光のむらが生じることはない。", + "qas": [ + { + "question": "発光する部分はどこですか?", + "id": "tr-119-16-000", + "answers": [ + { + "text": "ひだ", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "発光のピークは何日ほどですか?", + "id": "tr-119-16-001", + "answers": [ + { + "text": "2-3日程度", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ひだの断面はいちように発光するが、胞子については「発光性を欠く」という報告と、「湿った場所に落ちると光る」という報告とがある。\nさらに、菌糸体については、当初は発光しないとされていたが、測定機器の進歩により、肉眼的には検知することができない微弱な光を発していることが判明した。\n培養した菌糸において、多数の胞子を起源とした菌糸(重相菌糸)は、唯一個の胞子を発芽させて得た菌糸(単相菌糸)と比較して1000倍ほど高い光量を示したという。", + "qas": [ + { + "question": "培養した重相菌糸と単相菌糸はどちらの方が光量が高かったですか?", + "id": "tr-119-17-000", + "answers": [ + { + "text": "重相菌糸", + "answer_start": 164, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "従来、イルジンS、ジヒドロイルジンS(dihydroilludinS)やデオキシイルジンM(deoxyilludineM)などが発光の起因物質であると考えられていたが、それは誤りであり、ひだの発光は、ランプテロフラビン(5’-α-リボフラノシルリボフラビン)に起因するものである。\nランプテロフラビンは、新鮮なツキヨタケのひだの組織中に0000.5パーセント(重量比:1mg/生の子実体のひだ5kg)程度の割合で存在し、その蛍光スペクトルは、ツキヨタケのひだが放つ光とほぼ等しい波長である524nm付近に吸収極大を示す。\nまたその光量はpH5-8の中性域においてもっとも低くなるとされている。", + "qas": [ + { + "question": "ひだが発光する起因物質は何ですか?", + "id": "tr-119-18-000", + "answers": [ + { + "text": "ランプテロフラビン", + "answer_start": 100, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "日本の菌学界に初めて紹介された時点では、樹上生であるとともに発光性を有することから、PleurotusoleariusDC(=Omphalotusolearius:後述)と同定されたが、これは誤りであった。\nやや時代が下がって、この誤りがただされ、柄がかさの一端に側生することから、古典的な定義によるPleurotus属(ヒラタケ・ムキタケ・スギヒラタケ・ワサビタケ・シジミタケ・チャヒラタケなど、短い柄がかさの一端に生じるか、あるいはほぼ無柄で、かさの一端で朽ち木などの基質に直接に付着して生育する)に置かれ、PleurotusnoctilucensInokoの学名が提唱された。\nしかしP.noctilucensの名は、その時点ですでに別種の発光きのこ(フィリピン産:現在では、Nothopanusnoctilucens(Lév.)Sing.の学名が用いられている)に与えられていたために無効とされた。", + "qas": [ + { + "question": "日本の菌学界に初めて紹介された時点では何と同定されましたか?", + "id": "tr-119-19-000", + "answers": [ + { + "text": "PleurotusoleariusDC", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "その後、日本産の新鮮な生標本に基づいてさらに詳しく検討されるとともに、やはり新種であると判断されてPleurotusjaponicusの学名が与えられた。\nのち、柄に不明瞭なつばを備えることをおもな理由として、古典的定義によるArmillaria属(マツタケやヌメリツバタケなどを含む)に移されたが、胞子がほぼ球状をなすことや、ひだの組織の実質が類整型(Subegular:菌糸がほぼ平行に並んで配列し、互いに著しくもつれ合うことはない)の構造を有すること、あるいは子実下層がよく発達することなどを重視し、PleurotusやArmillariaからは独立させられ、新属Lampteromycesが設立されるとともにL.japonicusの組み合わせが提唱された。", + "qas": [ + { + "question": "Armillaria属に移される前は何という学名がついていましたか?", + "id": "tr-119-20-000", + "answers": [ + { + "text": "Pleurotusjaponicus", + "answer_start": 49, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ヨセミテ国立公園", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ヨセミテ国立公園(ヨセミテこくりつこうえん、YosemiteNationalPark[joʊˈsɛmɨti])は、アメリカ合衆国カリフォルニア州中央部のマリポサ郡及びトゥオルミ郡にある、自然保護を目的とした国立公園である。\nそこに住んでいたネイティブアメリカンの部族の呼称から名づけられた。\n1864年、州立公園に指定。\n1890年、国立公園に指定。\n1984年、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録された。", + "qas": [ + { + "question": "ヨセミテ国立公園が国立公園に指定された年は?", + "id": "tr-120-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1890年", + "answer_start": 161, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヨセミテ国立公園はどこの国にあるの?", + "id": "tr-120-00-001", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ合衆国", + "answer_start": 57, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "公園の面積は3081平方キロメートル(東京都の約1.4倍)で、シエラネバダ山脈の西山麓に広がっている。\nここには年間430万人以上(2017年)が訪れるが、そのほとんどが集まるのは公園全体の1パーセントにも満たないヨセミテ渓谷(約18平方キロメートル)である。\n1984年に世界遺産に登録され、そそり立つ白い花崗岩の絶壁、そこを流れ落ちる多くの巨大な滝、谷や��々の間を流れる澄んだ大小の川、ジャイアントセコイアの巨木の林、生物学的な多様性が世界的に知られることとなった。\n公園全体の約95パーセントは原生地域に指定されている。\nヨセミテは、第1号の国立公園であるイエローストーン国立公園より指定は遅いが、ガレン・クラーク(GalenClark)やジョン・ミューア(JohnMuir)といった先達の貢献により、アメリカの国立公園の発展の上では中心的な役割を果たした。", + "qas": [ + { + "question": "国立公園の指定が早かったのは、ヨセミテとイエローストーン国立公園のどちらですか?", + "id": "tr-120-01-000", + "answers": [ + { + "text": "イエローストーン国立公園", + "answer_start": 281, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "面積が広いのは、ヨセミテと東京都のどちら?", + "id": "tr-120-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ヨセミテ", + "answer_start": 264, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "公園に訪れる人々の大半はヨセミテ公園の何を目的に来ているの?", + "id": "tr-120-01-002", + "answers": [ + { + "text": "ヨセミテ渓谷", + "answer_start": 107, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ヨセミテ国立公園は、シエラネバダ山脈の中で最大規模の、最もまとまった動植物の生息地であり、生物の多様性を育んでいる。\n公園は高度600メートルから4,000メートルの地域を含み、大きく分けて次の5つの植生帯から成っている。\n低木・オーク林帯(chaparral/oakwoodland)、低地・低山植生帯(lowermontane)、高地・低山植生帯(uppermontane)、亜高山帯(subalpine)、および高山帯(alpine)である。\nカリフォルニア州には7,000種の植物が生えているが、そのうちの50パーセントがシエラネバダ山脈にあり、20パーセント以上がヨセミテ公園内に見られる。\n160種以上の稀少植物の植生地域があり、その形成にはヨセミテのたぐいまれな地質学的形成過程と、特異な土壌が寄与している。\nまた、アメリカグマや、アライグマなどの哺乳類が約100種類、鳥類が200種類以上生息している。\nセコイアの大木でも有名である。", + "qas": [ + { + "question": "ヨセミテでの生息数が多いのは哺乳類と鳥類のどちらですか?", + "id": "tr-120-02-000", + "answers": [ + { + "text": "鳥類", + "answer_start": 392, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "カルフォルニア州に生息している植物のうち、約半数が存在している場所とはどこ?", + "id": "tr-120-02-001", + "answers": [ + { + "text": "シエラネバダ山脈", + "answer_start": 265, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ヨセミテを地質学的に見ると、花崗岩が大部分を覆い、それより古い岩石が残りの部分を占めている。\nおよそ1000万年前にシエラネバダ山塊が隆起し、その後傾斜したことにより、西側には緩やかな高原が、東側には急峻な山肌が生まれた。\nこの隆起に伴って、川の流れは急になり、流れにえぐられて、深く、狭い渓谷・峡谷が形成された。\n次いで、約100万年前に、降り積もった雪と氷が氷河となって高山の草原帯を覆い、谷に沿って流れ下り始めた。\n氷期初めには、ヨセミテ渓谷を埋め尽くした氷の厚さは約1200メートルに達したと考えられている。\nこの氷河の流れに削られたことによって、U字谷が現れた。", + "qas": [ + { + "question": "ヨセミテに多く見られる岩石の種類とは何?", + "id": "tr-120-03-000", + "answers": [ + { + "text": "花崗岩", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ヨセミテ国立公園は、カリフォルニア州シエラネバダ山脈の中央部にある。\nサンフランシスコからは車で約3時間半、ロサンゼルスからは約6時間、サンバーナーディーノからは約7時間である。\n���りには原生地域が広がり、南東にアンセル・アダムス自然保護区域、北東にフーバー自然保護区域、北にエミグラント自然保護区域がある。", + "qas": [ + { + "question": "ヨセミテ公園から最も離れているのは、ロサンゼルス、サンフランシスコ、サンバーナーディーノのどこですか?", + "id": "tr-120-04-000", + "answers": [ + { + "text": "サンバーナーディーノ", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ヨセミテの北に位置する原生地域の名称は何?", + "id": "tr-120-04-001", + "answers": [ + { + "text": "エミグラント自然保護区域", + "answer_start": 138, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ロサンゼルス、サンバーナーディーノ、サンフランシスコの中で、ヨセミテへの車の移動時間が最も短いのはどこ?", + "id": "tr-120-04-002", + "answers": [ + { + "text": "サンフランシスコ", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ヨセミテの南東に位置する原生地域の名称は何?", + "id": "tr-120-04-003", + "answers": [ + { + "text": "アンセル・アダムス自然保護区域", + "answer_start": 106, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "公園の面積は3,080km2で、およそロードアイランド州の面積に匹敵する。\n何千もの湖沼、2600kmの渓流、1,300kmのハイキング・トレイル、560kmの道路がある。\n自然・景勝河川として連邦政府に指定されたマーセド川とトゥオルミ川は、ヨセミテの域内を流れた後、シエラネバダ山脈の麓を西へ通ってカリフォルニアセントラルヴァレーへ流れ込む。\n年間の来場者は430万人を超え、ほとんどの人がヨセミテ渓谷の約18km2のエリアに集まる。", + "qas": [ + { + "question": "渓流とハイキング・トレイルの距離はどちらが長いですか?", + "id": "tr-120-05-000", + "answers": [ + { + "text": "渓流", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "公園の面積とほぼ等しい州はどこですか?", + "id": "tr-120-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ロードアイランド州", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ヨセミテの地形のほとんどは、シエラネバダ・バソリス(バソリスとは、地中深くで従来の岩石に貫入した火成岩の大きな塊をいう)の花崗岩からできている。\nその他5%(主に公園の東端、ダナ山近く)は、変成作用を受けた火山岩と堆積岩でできている。\nこれらの岩石は「ルーフ・ペンダント」と呼ばれるが、それは花崗岩の上に乗った屋根のような状態を示すからである。\n隆起によって形成された岩石の節理(割れ目)に浸食作用が働くことによって、現在の渓谷、ドームなどの地形が生み出された。\n節理が生じる間隔は、花崗岩及び花崗閃緑岩に含まれる二酸化ケイ素(シリカ)の量による。\n二酸化ケイ素の含有量が多いほど、岩石の強度は増し、節理の間隔は広くなる。", + "qas": [ + { + "question": "ヨセミテの地形を形成する岩石を総じて、何と呼んでいますか?", + "id": "tr-120-06-000", + "answers": [ + { + "text": "「ルーフ・ペンダント」", + "answer_start": 125, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "岩石の割れ目を何といいますか?", + "id": "tr-120-06-001", + "answers": [ + { + "text": "節理", + "answer_start": 187, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ヨセミテ渓谷は、国立公園全体の1%にすぎないが、ほとんどの観光客が訪れ、滞在する場所である。\nエル・キャピタンは、花崗岩の絶壁であり、様々なクライミング・ルートがあること、1年を通じて登れることから、世界中でも人気の高いロッククライミングのスポットである。\n花崗岩ドームのセンチネルドーム、ハーフドームはそれぞれ渓谷の底から約1160メートル、1470メートルの高さがある。", + "qas": [ + { + "question": "ヨセミテの中でロッククライミングの人気スポットとはどこ?", + "id": "tr-120-07-000", + "answers": [ + { + "text": "エル・キャピタン", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "エル・キャピタンの岩石の種類は何?", + "id": "tr-120-07-001", + "answers": [ + { + "text": "花崗岩", + "answer_start": 57, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "渓谷の底からの高さが高いのはハーフドームとセンチネルドームのどちらですか?", + "id": "tr-120-07-002", + "answers": [ + { + "text": "ハーフドーム", + "answer_start": 145, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ヨセミテには、トゥオルミ・メドウズ、ダナ・メドウズ、クラーク・レンジ、カセドラル・レンジ、クナ・クレストといった美しいエリアが数多くある。\nシエラネバダの尾根とパシフィック・クレスト・トレイルがヨセミテを縦走し、ダナ山、ギブズ山のような赤色変成岩の峰、コネス山のような花崗岩の峰がある。\nライエル山は公園の中での最高峰である。", + "qas": [ + { + "question": "公園の中で最も高い山は何?", + "id": "tr-120-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ライエル山", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "古代のセコイアデンドロン(ジャイアントセコイア)の林が、マリポサ・グローブ(200本)、トゥオルミ・グローブ(25本)、マーセド・グローブ(20本)の3か所ある。\nセコイアデンドロンは、他のどんな木よりも巨大に成長する植物で、体積でも寿命でも際立っている。\n最後の氷期が始まる前には、今よりずっと広範囲に生えていた。", + "qas": [ + { + "question": "本数が多いのは、マーセド・グローブ、マリポサ・グローブ、トゥオルミ・グローブのどれですか?", + "id": "tr-120-09-000", + "answers": [ + { + "text": "マリポサ・グローブ", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "トゥオルミ川とマーセド川の水系は、公園内のシエラネバダ山脈の尾根に沿って流れ出し、およそ910メートルから1,200メートルの深さの渓谷を作り出している。\nトゥオルミ川は公園の北半分、約1800km2の範囲の水を集め、マーセド川は公園の南側の峰々、カセドラル・レンジやクラーク・レンジに源流を発し、約1320km2の範囲から水を集める。", + "qas": [ + { + "question": "水を集める範囲が広いのは、マーセド川とトゥオルミ川のどちらですか?", + "id": "tr-120-10-000", + "answers": [ + { + "text": "トゥオルミ川", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "主に北側の範囲で水を集める川は何ですか?", + "id": "tr-120-10-001", + "answers": [ + { + "text": "トゥオルミ川", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "氷河、洪水、河川の流れなど、水の作用は、公園の地形の形成に大きな役割を果たした。\nまた、公園内には約3200の湖(100m2超)、二つのため池、2700kmに及ぶ河川があり、これらも上記の二つの大きな水系の一部をなす。\n湿地は、公園各所の渓谷の底に見られ、これも季節的な洪水や地下水の動きなどを通じて近くの湖・河川と水系的につながっていることが多い。\n草地の動植物生息域は標高910メートルから3,400メートルの範囲に散らばっているが、多くが���地である。\n河川沿いの動植物生息域も、同様に多くが湿地である。", + "qas": [ + { + "question": "公園内に存在する湖はいくつありますか?", + "id": "tr-120-11-000", + "answers": [ + { + "text": "約3200", + "answer_start": 49, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "湖の数とため池の数はどちらが多いですか?", + "id": "tr-120-11-001", + "answers": [ + { + "text": "湖", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ヨセミテは、狭い地域に多数の滝が集まっていることで知られる。\n急峻な崖、氷河の段差、懸谷(氷河の本流に向かって落ち込んでいる支流の谷)などが多いため、特に雪解けの4月から6月にかけては滝が生まれる条件がそろっている。\nヨセミテ渓谷にある739メートルのヨセミテ滝は、北アメリカで最も高い滝である。\n同じくヨセミテ渓谷にあるリボン滝は、491メートルであるが、水が一気に垂直に落下する距離においては最も高い。\nヨセミテ渓谷の中でも有名なのが、ワウォナ・トンネルの東出口のトンネル・ビューポイントから見えるブライダルベール滝である。\nヘッチ・ヘッチー渓谷のワパマ滝もまた素晴らしい滝である。\nそのほか公園内には一時的に生まれて消える滝が何百とある。", + "qas": [ + { + "question": "北米で最も高い滝は何?", + "id": "tr-120-12-000", + "answers": [ + { + "text": "ヨセミテ滝", + "answer_start": 126, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ヨセミテ滝とリボン滝はどちらが低いですか?", + "id": "tr-120-12-001", + "answers": [ + { + "text": "リボン滝", + "answer_start": 161, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ワパマ滝はどこの渓谷にありますか?", + "id": "tr-120-12-002", + "answers": [ + { + "text": "ヘッチ・ヘッチー渓谷", + "answer_start": 265, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "氷河は、1日中日陰になる北側又は北東側斜面の圏谷などに、比較的小規模に見られる。\nライエル・グレイシャーは、ヨセミテ最大の氷河であり、65ヘクタールある。\n現在ある氷河は、ヨセミテの景観を作り出した巨大な氷期の大氷河が残ったものではない。\n氷期が終わった後に訪れたネオグラシエーションの一時期に形成されたものである。\n気候変動により、世界中にある氷河の数もサイズも大幅に小さくなっている。\nジョン・ミューアが1871年に発見してヨセミテの起源と氷河の関係についての彼の理論を支えたマーセド・グレイシャーなど、ヨセミテの多くの氷河も消失し、地表面積にして75%までが失われてしまった。", + "qas": [ + { + "question": "ライエル・グレイシャーの面積は?", + "id": "tr-120-13-000", + "answers": [ + { + "text": "65ヘクタール", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ヨセミテ最大の氷河とは?", + "id": "tr-120-13-001", + "answers": [ + { + "text": "ライエル・グレイシャー", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ヨセミテの気候は地中海性気候であり、冬に降水(降雪)が集中し、そのほかの季節はほとんど雨が降らない(長く暑い夏の間の降水量は年間降水量の3%未満である)。\n地形性大気上昇の効果により、約2400メートルまでは標高が上がるにつれて降水量が増し、そこを超えると頂上に向かって徐々に降水量が減少する。\n1200メートル地点の降水量は915mm、2600メートル地点では1200mmである。\n高地でも11月までは通常降雪は見られない。\n積もった雪は3月から4月初めまで残る。", + "qas": [ + { + "question": "降水量が多いのは1200メートル地点と2600メートル���点のどちらですか?", + "id": "tr-120-14-000", + "answers": [ + { + "text": "2600メートル地点", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ヨセミテで最も雨が多い季節はいつ?", + "id": "tr-120-14-001", + "answers": [ + { + "text": "冬", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ヨセミテはどのような気候区分なの?", + "id": "tr-120-14-002", + "answers": [ + { + "text": "地中海性気候", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1日の最高気温は、標高2600メートルのトゥオルミ・メドウズで冬は-3.9°Cから夏は11.5°Cである。\n標高1560メートルのワウォナ・エントランスでは冬2°Cから夏19°Cである。\n1500メートル以下の低地では気温がもう少し高く、標高1209メートルのヨセミテ渓谷では最高気温は冬8°Cから夏32°Cである。\n一方標高2400メートルを超える高所では、夏の雷雨が頻繁に訪れることと7月まで残雪があることから、夏の暑さはやわらいでいる。\n植生が乾燥し、相対湿度が低い上に、雷雨が重なるため、雷による山火事も多い。", + "qas": [ + { + "question": "標高が低いのは、トゥオルミ・メドウズとワウォナ・エントランスのどちらですか?", + "id": "tr-120-15-000", + "answers": [ + { + "text": "ワウォナ・エントランス", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "標高が低いのは、ヨセミテ渓谷とワウォナ・エントランスのどちらですか?", + "id": "tr-120-15-001", + "answers": [ + { + "text": "ヨセミテ渓谷", + "answer_start": 130, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "夏の最高気温が最も高いのは、トゥオルミ・メドウズ、ヨセミテ渓谷、ワウォナ・エントランスの中でどこですか?", + "id": "tr-120-15-002", + "answers": [ + { + "text": "ヨセミテ渓谷", + "answer_start": 130, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "冬の最高気温が最も低いのは、トゥオルミ・メドウズ、ヨセミテ渓谷、ワウォナ・エントランスの中でどこですか?", + "id": "tr-120-15-003", + "answers": [ + { + "text": "トゥオルミ・メドウズ", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "この地域には、白人が入植するはるか昔、パイユート族とシエラ・ミウォク族の人々が住んでいた。\n白人が入った時、ヨセミテ渓谷に住んでいたのはアワニチ族と呼ばれるネイティブ・アメリカンであった。\nアワニチ族は、パイユート族などいくつかの部族から出奔した者が集まった部族で、テナヤ酋長が率いていた。\n彼らは、この土地を「大きな口」という意味の「アワニー(Ahwahnee)」と呼び、自らをアワニーに住む人々という意味でアワニチ(Ah-wah-ne-chee)と呼んでいた。\n一方、彼らは、これと対立関係にある穏やかなミウォク族からは、恐れを込めて、「殺し屋たち」という意味のYohhe'metiと呼ばれていた。", + "qas": [ + { + "question": "アワニチ族の中心的存在は誰でしたか?", + "id": "tr-120-16-000", + "answers": [ + { + "text": "テナヤ酋長", + "answer_start": 133, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アワニチとはどういう意味ですか?", + "id": "tr-120-16-001", + "answers": [ + { + "text": "アワニーに住む人々", + "answer_start": 190, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「アワニー」の意味は?", + "id": "tr-120-16-002", + "answers": [ + { + "text": "「大きな口」", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "白人としてヨセミテ渓谷を発見したのは、アメリカ陸軍ジム・サヴェジ少佐が率いるマリポサ歩兵大隊であり、1851年のことであった。\n19世紀半ばのカリフォルニア・ゴールドラッシュによって、カリフォルニアに流入する白人の数が激増する中、同大隊は、マリポサ戦争と呼ばれる戦いの中、約200人のアワニチ族を追って、ヨセミテ渓谷の西端まで来た。", + "qas": [ + { + "question": "マリポサ歩兵大隊を率いていた人は誰ですか?", + "id": "tr-120-17-000", + "answers": [ + { + "text": "ジム・サヴェジ", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "白人が初めてヨセミテ渓谷を発見したのは何年でしたか?", + "id": "tr-120-17-001", + "answers": [ + { + "text": "1851年", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "この地を「ヨセミテ」と名付けたのは、サヴェジ少佐の部隊に従軍していた医師ラファイエット・バンネルであるとされる。\nバンネルは、アワニチの人々がこの土地を指していた「アワニー」という名前ではなく、この人々に対するミウォク族からの呼び名であり、よりアメリカ的であると感じられた「ヨセミテ(Yo-sem-i-ty)」という名称を採用することにした。\n前述のとおり、これは「殺し屋たち」という意味のミウォク語(Yohhe'meti)であるが、バンネルやサヴェジ少佐は、発音が似ている、グリズリーベアを指すミウォク語(ïhümat.iorïsümat.i)と勘違いをしていた。", + "qas": [ + { + "question": "ヨセミテの名付け親は誰?", + "id": "tr-120-18-000", + "answers": [ + { + "text": "ラファイエット・バンネル", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "なお、テナヤ酋長とアワニチの残党は、結局捕らえられ、その村は焼かれてしまった。\nそしてカリフォルニア州フレズノのインディアン居留地に移転させられた。\n一部は後にヨセミテ渓谷に戻ることを許されたが、1852年春に鉱夫8人を襲う事件を起こした。\n彼らは東方のモノ湖へ逃げ、近くのモノ族にかくまってもらった。\nしかし、モノ族から馬を盗んだことで探し出され、1853年モノのパイユート族に殺された。\nテナヤ酋長は殺され、生き残った者はモノ湖に連れ戻され、モノ湖のパイユート族に同化してしまった。\nアワニーのインディアン村は、現在、ヨセミテ渓谷ビジター・センター隣のヨセミテ博物館の裏手に再現されている。", + "qas": [ + { + "question": "テナヤ酋長は何族に殺されたの?", + "id": "tr-120-19-000", + "answers": [ + { + "text": "パイユート族", + "answer_start": 183, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1855年、起業家のジェームズ・メイソン・ハッチングズ、画家のトマス・エアーズほか2人が旅行者として初めてこの地を訪れた。\nハッチングズはこの時や後の旅行について記事や本を書き、また、エアーズのスケッチはヨセミテの景観を初めて正確に伝えるものとなった。\n写真家チャールズ・リンダー・ウィードは1859年に初めてヨセミテの写真を撮った。\n後には写真家のアンセル・アダムスも登場した。", + "qas": [ + { + "question": "1855年にヨセミテを訪れた起業家は誰ですか?", + "id": "tr-120-20-000", + "answers": [ + { + "text": "ジェームズ・メイソン・ハッチングズ", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1855年にヨセミテを訪れた画家は誰ですか?", + "id": "tr-120-20-001", + "answers": [ + { + "text": "トマス・エアーズ", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "トマス・エアーズとチャールズ・リンダー・ウィードはどちらが先にヨセミテを訪れましたか?", + "id": "tr-120-20-002", + "answers": [ + { + "text": "トマス・エアーズ", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "初めてヨセミテの写真を撮った人は誰ですか?", + "id": "tr-120-20-003", + "answers": [ + { + "text": "チャールズ・リンダー・ウィード", + "answer_start": 130, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "バーレーンの真珠採取業", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "バーレーンの真珠採取業(バーレーンのしんじゅさいしゅぎょう)は、一説には紀元前2000年頃にまで遡るとも言われるバーレーン古来の基幹的地場産業であった。\n石油発見以前のペルシア湾一帯は天然真珠の一大産地となっており、わけてもバーレーン近海の真珠は高品質と評価されていた。\nしかし、日本の真珠養殖業の発展や世界恐慌の影響によって壊滅的な打撃を受け、1930年代以降、急速に衰退していった。\nバーレーンのムハッラク島には往時を偲ばせる建造物群が並ぶ「バーレーン真珠採取の道」(Bahrainpearlingtrail)が残されており、それらの建造物の一部と関連する漁場などが、「バーレーン要塞-ディルムンの古代の港と首都」に続く同国2件目の世界遺産として、2012年6月30日にUNESCOの世界遺産リストに登録された。", + "qas": [ + { + "question": "バーレーンの真珠採取業が急速に衰退したのはいつからですか?", + "id": "tr-121-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1930年代以降", + "answer_start": 173, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バーレーンの真珠採取業が急速に衰退した原因は、日本の真珠養殖業の発展と何?", + "id": "tr-121-00-001", + "answers": [ + { + "text": "世界恐慌", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バーレーンで最初に世界遺産登録されたものは何?", + "id": "tr-121-00-002", + "answers": [ + { + "text": "「バーレーン要塞-ディルムンの古代の港と首都」", + "answer_start": 286, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「バーレーン真珠採取の道」の建造物の一部と関連する漁場が世界遺産登録されたのはいつ?", + "id": "tr-121-00-003", + "answers": [ + { + "text": "2012年6月30日", + "answer_start": 326, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "石油発見以前のペルシア湾岸では数千年にわたって天然真珠の採取が行われてきたが、その中でもバーレーン近海には好漁場が多く、質の高いことでも古来知られていた。\nその真珠採取の方法は少なくとも1000年以上の間、ほとんど変化をしなかった伝統的なものであり、多くの潜水夫たちが過酷な採取業に従事していた。\nバーレーンは周辺諸地域の真珠をボンベイに出荷する際の集積地の役割も果たしており、真珠商人たちも多く集まった。\nその全盛期は19世紀後半から20世紀初頭のことだったが、1930年代以降、養殖真珠の台頭や世界恐慌の影響などでペルシア湾での天然真珠の採取業は急速に衰退し、バーレーンも大きな打撃を受けた。\nそれと入れ替わるように、バーレーンでは1932年にペルシア湾岸のアラビア半島側で初めて油田が発見されたため、バーレーンは真珠の国から石油の国へと変貌し、真珠採取業に従事する者はほとんどいなくなった。\nかつての繁栄を偲ばせるムハッラク島の建造物群や周辺の漁場は、2012年に「真珠採り、島の経済を物語るもの」の名前で世界遺産リストに加えられた。", + "qas": [ + { + "question": "ペルシア湾岸の中でも、どの地域で高品質の天然真珠が採取されていたの?", + "id": "tr-121-01-000", + "answers": [ + { + "text": "バーレーン近海", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "バーレーンでの真珠採取の全盛期はいつだったのでしょうか?", + "id": "tr-121-01-001", + "answers": [ + { + "text": "19世紀後半から20世紀初頭", + "answer_start": 210, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バーレーンで真珠採取業に従事する者がほとんどいなくなったのは、何が見つかってからですか?", + "id": "tr-121-01-002", + "answers": [ + { + "text": "油田", + "answer_start": 342, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ムハッラク島の建造物群や周辺の漁場は、何という名前で世界遺産登録された?", + "id": "tr-121-01-003", + "answers": [ + { + "text": "「真珠採り、島の経済を物語るもの」", + "answer_start": 435, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "バーレーンにおける真珠採取の歴史は、かつてバーレーン一帯に栄えたディルムンに遡る。\nディルムンはメソポタミアとメルーハ(モヘンジョ・ダロ周辺)を結び付けていた中継貿易地であった。\n一説にはギルガメシュ叙事詩で英雄ギルガメシュが海底に潜って「不老不死の花」を手に入れる話が、ディルムンの真珠採取をモデルにしているという説もあるものの、より直接的にディルムンと真珠の関連性を窺わせる最古の言及は、紀元前2000年頃のアッシリア語碑文である。\nその碑文は、ディルムンの貿易品目として「魚の目」について触れている。\nこの「魚の目」は珊瑚、ラピスラズリなどの宝飾品類とともに言及されており、真珠のことでないかと考えられている。\nディルムン文明の発見者であるジェフリー・ビビーは、その数量の記録が他の多くの貿易品と異なり、容積や重量でまとめるのではなく、1個、2個という単位で記録されていることからも、それが高価な品目であったと推測していた。\nディルムン文明のものと考えられる墳墓の中には、副葬品として真珠が見つかる例もある。", + "qas": [ + { + "question": "ギルガメシュ叙事詩の中で、ディルムンの真珠採取をモデルにしていると言われているのはどんな話ですか?", + "id": "tr-121-02-000", + "answers": [ + { + "text": "「不老不死の花」を手に入れる話", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ディルムンの貿易品目である「魚の目」は、何を意味していると言われているの?", + "id": "tr-121-02-001", + "answers": [ + { + "text": "真珠", + "answer_start": 290, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「魚の目」が珊瑚やラピスラズリといった宝飾品類とともに言及されてる文献は何?", + "id": "tr-121-02-002", + "answers": [ + { + "text": "アッシリア語碑文", + "answer_start": 206, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ビビーはまた、バーレーン島の南西部で発見された貝塚を、真珠採取に関わる遺跡と見なしていた。\nバーレーンの貝塚を構成する貝殻はほとんどが真珠貝で、漁獲した貝を野ざらしにして死なせた上で、真珠を採取した跡ではないかと考えられている。\nこの様なやり方は世界的には広く見られる反面、のちの伝統的なペルシア湾岸の採取法(後述する船上での採取)とは異なっており、より古い方法だったと見なされている。\n船上での採取は貝殻を海に投棄してしまい、痕跡が残らないので、ディルムンの時代に陸上と並行して船上でも採取されていたかどうかは分からないが、可能性は指摘されている。\n文献上、真珠と明示された記録が登場するのは、大プリニウス以降のことである。\n彼は『博物誌』の中で、バーレーンの古代ギリシア名ティロスについて、膨大な真珠が採取されること���よって知られる地として言及していた。", + "qas": [ + { + "question": "『博物誌』の中で、バーレーンの古代ギリシア名ティロスの地で膨大な真珠が採取されると言及した人物は?", + "id": "tr-121-03-000", + "answers": [ + { + "text": "大プリニウス", + "answer_start": 298, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "明確に真珠という名が登場した文献名は何?", + "id": "tr-121-03-001", + "answers": [ + { + "text": "『博物誌』", + "answer_start": 316, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ディルムンの時代に、陸上と並行して真珠が採取されていた可能性があったのはどこ?", + "id": "tr-121-03-002", + "answers": [ + { + "text": "船上", + "answer_start": 194, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "10世紀以降は多くの旅行家や地理学者がバーレーンの真珠採取業に言及しており、真珠採取の方法などについての記録が見られるのもこの頃からである。\n10世紀のアブー・ザイド・ハッサンという人物は潜水などの採取方法に言及しているが、それは近代の採取業ともあまり変わらない手法であると指摘されている。\n同じように、10世紀の地理・歴史学者マスウーディーも、潜水夫たちが魚とナツメヤシしか食べないなど、近代とあまり変わらない真珠採取について書き残している。\nのちに12世紀の地理学者イドリースィーも、バーレーンでの採取方法に言及した。\n13世紀に宝石に関する本を著したアフマド・ティーファーシーという人物は、スリランカ、オマーンなどとともに、高品質の真珠が採取される場所としてバーレーンを挙げている。\n同じく宝石に関する著書をものしたアル・ビールーニーは、夏を含む水温の高い時期の季節労働であることを紹介した。\n14世紀のイブン・バットゥータの旅行記にも、バーレーンの真珠採取の様子が詳述されている。\nそれは直接目撃した証言ではなく、伝聞にすぎない可能性も指摘されているが、採取方法の叙述はおおむね正確であり、潜水夫が商人に債務を負って労働に従事しているという近代に見られるのと同じような状況が、当時すでに存在していたことが窺える点などに特色がある。", + "qas": [ + { + "question": "10世紀以降にバーレーンの真珠採取業に言及したアフマド・ティーファーシー、アブー・ザイド・ハッサン、イブン・バットゥータ、イドリースィーの人物達の中で、早く言及した順に並べると、誰が2番目になりますか?", + "id": "tr-121-04-000", + "answers": [ + { + "text": "イドリースィー", + "answer_start": 235, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "アル・ビールーニーの次にバーレーンの真珠採取業を言及した人物は誰ですか?", + "id": "tr-121-04-001", + "answers": [ + { + "text": "イブン・バットゥータ", + "answer_start": 405, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "近代とそれぼど大差のない真珠採取の方法を言及した歴史学者は誰?", + "id": "tr-121-04-002", + "answers": [ + { + "text": "マスウーディー", + "answer_start": 164, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "5世紀にはポルトガル人の探検家ドアルテ・バルボサが、バーレーンでは多くの真珠が採取され、質のよい大粒も出ることに言及しており、16世紀になると本格的なポルトガル人の進出が始まった。\n1522年にバーレーンはポルトガルに占領されたが、その主目的は真珠産業の支配にあったと指摘されている。\nそのポルトガルは17世紀初頭に進出してきたイギリスに敗れ、のちにオランダ、フランスなどの進出もイギリスに阻まれた。\nちょうどそのころ、バーレーンの真珠産業は一時的な不況に見舞われていたと考えられている。\n1490年に1000隻記録さ���ていた採取船が、17世紀初頭までに数百隻にまで減少しているからだ。\nその理由としては、アメリカ大陸への進出によって、ヨーロッパ人たちが新しい真珠調達先を開拓できるようになったことなどが挙げられている。", + "qas": [ + { + "question": "ポルトガルがバーレーンを占領した目的は何?", + "id": "tr-121-05-000", + "answers": [ + { + "text": "真珠産業の支配", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1490年に1000隻記録されていた採取船が、17世紀初頭までに数百隻に減少したことから、この時期のバーレーンの真珠産業は何に陥っていたと言えますか?", + "id": "tr-121-05-001", + "answers": [ + { + "text": "一時的な不況", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バーレーンの真珠産業が一時的に不況だった理由として、ヨーロッパ人が新たな真珠調達先として、どこを開拓するようになったからですか?", + "id": "tr-121-05-002", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ大陸", + "answer_start": 303, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "19世紀にはイギリスがペルシア湾において、アラビア半島側の多くを保護領とした。\nしかし、内政には不干渉の姿勢を取っていたため、真珠採取業にも干渉しなかった。\nペルシア湾のうち、アラビア半島側では真珠床を湾岸住民全体の共有財産とする考えが古くからあり、湾岸の住民はどこの真珠床で採取しても許される一方、外国人の採取は全面的に排除されていた。\nこの慣習法はイギリスの保護下でも維持され、イギリス人も「外国人」として採取が禁じられたのである。\nその一方、イギリスは一帯を保護領化していたため、海上の安全保障に注意を払っており、真珠採取を行なっていた船がしばしば海賊船の襲撃を受けた際には、海賊船の駆逐に当たった。", + "qas": [ + { + "question": "真珠採取船が海賊の襲撃を受けた際に、海賊船を追い払ってくれたのはどこの国ですか?", + "id": "tr-121-06-000", + "answers": [ + { + "text": "イギリス", + "answer_start": 224, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "外国人の真珠採取が全面的に排除されていたのは、ペルシア湾のどこか?", + "id": "tr-121-06-001", + "answers": [ + { + "text": "アラビア半島側", + "answer_start": 88, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "バーレーン真珠採取業の黄金時代は1850年代から1930年頃のことで、当時の真珠はダイヤモンドよりも高価とされ、ジャック・カルチエのような宝石商たちをこの地に惹きつけた。\nイギリスは19世紀末から20世紀初頭にかけて、フランスやドイツの商人たちがペルシア湾内での真珠採取に関心を寄せると、対応に苦慮することになった。\nことに問題となったのが、領海(当時は3海里)外での外国人の操業を拒否できるのかという問題であった。\n沿岸からかなり離れた海域では地元民による採取も行われておらず、基本的に公海上での他国の行動を制約する法的根拠はないが、それが実現した場合、地元民の間で、公海上での真珠採取のせいで自分たちの真珠採取に悪影響が出たというような風評が広まる懸念があり、地域の不安定化につながる恐れがあった。\nこれに対するイギリス法務省の見解は、公海上での外国の操業を直接的に拒絶する法的根拠はないが、食糧をはじめとする補給面で協力しないという形で間接的に妨害し、それでも駄目なら、最悪の場合には武力行使の可能性も排除しないことをほのめかしていた。", + "qas": [ + { + "question": "領海外での外国人の操業を拒否できるのかという問題に対応していた国はどこですか?", + "id": "tr-121-07-000", + "answers": [ + { + "text": "イギリス", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バーレーン真珠採取業の黄金時代に、ダイアモンド以上に価値があったのは何?", + "id": "tr-121-07-001", + "answers": [ + { + "text": "真珠", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "こうした欧州列強の緊張関係のなか、地元民による伝統的な真珠採取業は続けられており、その品質の高さが評価されていた。\n20世紀前半のレバノンの詩人で紀行作家だったアミーン・リーハーニーは、バーレーンの真珠の品質について、「世界中で最も純粋で最も完全」と評していた。\n実際、バーレーン近海には質・量ともすぐれた好漁場があったことから、採取船の数はペルシア湾内でも多く、国内ではムハッラク島を拠点とする船が半数以上を占めていた。", + "qas": [ + { + "question": "「世界中で最も純粋で最も完全」とバーレーンの真珠を高評価した人物は誰?", + "id": "tr-121-08-000", + "answers": [ + { + "text": "アミーン・リーハーニー", + "answer_start": 80, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1930年には約30000人の潜水夫たちがおり、まだバーレーンの基幹産業をなしていた。\nそのころまでは、バーレーンが稼ぎ出す富のうち、実に4分の3が真珠によるものだったとも言われる。\n当時のバーレーン真珠産業の推移を右に示すが、バーレーンに限らず、ペルシア湾の真珠採取業の継続的統計には信頼できるものがないとも言われており、最盛期の船の数などでさえ、資料によるぶれが大きい。\nゆえに右の数値は同一の出典に基づいて、継続的な変化を読み取れる一例を挙げたものである。", + "qas": [ + { + "question": "1930年頃まで、バーレーンが稼ぐ富の75%を占めていたものは何だったの?", + "id": "tr-121-09-000", + "answers": [ + { + "text": "真珠", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1930年頃を境に、真珠産業の凋落が顕著になり始めた。\nバーレーンの真珠産業を没落させた要因は2つある。\nひとつ目は1929年にアメリカから始まった世界恐慌による宝飾品市場の縮小である。\nもうひとつが、御木本幸吉を始めとする日本の養殖真珠の存在である。\n日本の養殖業は形のよい真珠を大量に供給することが可能で、その価格は天然真珠の約3分の1であった。\nこれによって、天然真珠採取業の利益が85-90%ほども減少したと主張するバーレーンの真珠商人すら存在した。\nどちらの要因を重視するかは論者によって異なり、後者を重視する論者と、後者は限定的で前者が大きかったとする論者がそれぞれいる。", + "qas": [ + { + "question": "形よい真珠の大量供給と天然真珠の約3分の1という価格で養殖業を営んだ国はどこ?", + "id": "tr-121-10-000", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 112, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バーレーンの真珠産業が没落した原因の1つは、世界恐慌によって何が縮小したから?", + "id": "tr-121-10-001", + "answers": [ + { + "text": "宝飾品市場", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "日本の養殖真珠の第一人者といえば?", + "id": "tr-121-10-002", + "answers": [ + { + "text": "御木本幸吉", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "バーレーンの真珠商人は、どこの養殖真珠に対して天然真珠採取業の利益が85-90%ほども減少したと主張したの?", + "id": "tr-121-10-003", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 112, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "第一次世界大戦時には投機目的で真珠が高騰したが、第二次世界大戦時にはそういったこともなく、大戦末期にインド市場での売れ行きが好調で持ち直したかに見えた年があっても、一時的な現象に過ぎなかった。\n1959年の時点で、すでにバーレーンはペルシア湾における真珠採取業の中心地ではなくなっており、トルーシャル・コーストにその地位を譲っていたと言われている。", + "qas": [ + { + "question": "1959年の時点で、バーレーンに台頭して真珠採取業地として盛んになった国はどこ?", + "id": "tr-121-11-000", + "answers": [ + { + "text": "トルーシャル・コースト", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "バーレーンをはじめとするペルシア湾諸国は、養殖真珠が普及するようになると、その輸入や国内での販売を禁じただけでなく、養殖法を持ち込むこと自体も禁じた。\n特に警戒されたのは天然真珠に養殖真珠を混ぜて売ることであり、かつてのバーレーンでは重罪とされていた。\n2012年時点でもなおバーレーン国内での養殖真珠の取引は禁止されているが、天然真珠の採取に従事している潜水夫はほとんどいなくなっている。\nバーレーンでは真珠採取業の凋落と重なるように、ペルシア湾岸のアラビア半島側で最初の油田が発見され(1932年)、ほとんどの潜水夫たちは石油産業へと鞍替えしていった。\n以降のバーレーンの中心産業は石油関連であり、歳入に占める石油関連収入は1980年代初頭の時点で約75%、2008年には85%となっている。\nペルシア湾岸の真珠貝はほとんど採取されなくなったにもかかわらず、真珠貝自体が減少しているとされる。\nこれに対し、2013年5月には日本の独立行政法人水産総合研究センター西海区水産研究所がバーレーンに協力して近海の真珠貝の生息調査を行なった。\nこの調査の目的は、日本の水産技術によって真珠貝を増やし、伝統的な真珠採取業の再興につなげることにある。", + "qas": [ + { + "question": "1932年以降バーレーンの中心産業となったものは何?", + "id": "tr-121-12-000", + "answers": [ + { + "text": "石油関連", + "answer_start": 293, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バーレーン国内で2012年の時点まで禁止が続いていたのは何の取引ですか?", + "id": "tr-121-12-001", + "answers": [ + { + "text": "養殖真珠", + "answer_start": 147, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ペルシア湾での真珠採取という場合、真珠貝から真珠を取る場合と貝殻を取る場合が存在したが、中心的な採取業は前者のことであり、その場合の真珠貝は主にアコヤガイの近縁種であるピンクターダ・ウルガリス(PinctadaVulgaris,現地名マッハーラないしマハーラ)を指した。\n以下では、主にバーレーンにおける真珠採取の全盛期である19世紀後半から20世紀初頭の様子を中心に叙述する。", + "qas": [ + { + "question": "ペルシア湾で採取されていた真珠貝の名前は何?", + "id": "tr-121-13-000", + "answers": [ + { + "text": "ピンクターダ・ウルガリス", + "answer_start": 84, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ペルシア湾での真珠採取で、中心的でなかった採取業はどういう場合のこと?", + "id": "tr-121-13-001", + "answers": [ + { + "text": "貝殻を取る場合", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "前述のように、真珠採取は古くから季節労働であり、3月末から9月末までの約半年間が採取の時期となるが、本格的に潜水が行われるのは6月から9月末ないし5月中旬から9月中旬までで、それ以外の時期は予備的な調査であったり、沿岸部での小規模な採取が主となる。\nイスラーム暦で断食を行うラマダーンと重なる時期については、潜水夫たちには潜水を拒���する者もいる。\nそれは海水が耳に入ると淡水に変わって体内に入り、断食を破ると信じられていたためだったという。\nその一方で、慣例ではラマダーンには採取を中断して港に戻り、ラマダーンが明けてから再出発するのが原則とされていたが、実際の運用は柔軟で、数日の断食だけで漁を再開し、帰港してから帳尻合わせの断食が行われることもあったという。", + "qas": [ + { + "question": "潜水夫の中で潜水を拒否する者が出るのは、何が重なる時期ですか?", + "id": "tr-121-14-000", + "answers": [ + { + "text": "ラマダーン", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "本格的な真珠採取においては真珠床、つまり真珠貝が取れる漁場に繰り出すことになる。\n真珠床(総称はヒールないしヘイル)は形状や規模によってズフル、ナイワ、ハーラ、ハワード、アーリド、タブラーなど多様に呼び分けられ、それぞれの真珠床には発見者の名前や近隣の沿岸部の地名がつけられた。\nペルシア湾岸は真珠床が多いが、特にアラビア半島側に良質な真珠床が多く存在した。\nこのため、イラン側での真珠採取が3、4年に一度しか行えなかったのに対し、バーレーン側では毎年かなりの量の真珠貝を採取できた。\nただし、その真珠貝から取れる真珠は稀少で、ペルシア湾(より詳細な地域は不明)での記録として、3万5000個の真珠貝の中から商品価値のある真珠は3個だけ(ほかに価値のない真珠が18個)という数字もあったという。", + "qas": [ + { + "question": "ペルシア湾岸の中で特に良質の真珠床があったのどこですか?", + "id": "tr-121-15-000", + "answers": [ + { + "text": "アラビア半島側", + "answer_start": 157, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "毎年大量の真珠貝の採取が可能だったのはどこですか?", + "id": "tr-121-15-001", + "answers": [ + { + "text": "バーレーン側", + "answer_start": 216, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ペルシア湾の真珠採取船は、本格的な採取の時期には数ヶ月陸に戻れないこともあったが、バーレーンの場合は漁場の近さから、時折は陸に戻ることも可能だったという。\nそれでも、漁期に戻れるのは1、2回だったとも言われている。\n採取船に乗り込む人数は規模によっても違うが、バーレーンの場合、1924年の公的な記録として、5人以下の船が62隻、15人以下が436隻、それを超える船が114隻となっていた。", + "qas": [ + { + "question": "採取船に乗り込む人数の1924年の公的な記録の中で、最も船の数が多いのは何人以下の船ですか?", + "id": "tr-121-16-000", + "answers": [ + { + "text": "15人以下", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "採取船に乗り込む人数の1924年の公的な記録の中で、最も船の数が少ないのは何人以下の船ですか?", + "id": "tr-121-16-001", + "answers": [ + { + "text": "5人以下", + "answer_start": 154, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "採取の中心となる潜水夫は、シーブ(縄の引き上げ役)と対になって潜水を行う。\n潜水夫は2本の縄とともに潜るが、片方には重石が付いている。\n潜水夫は重石を利用して効率的に海底にたどり着くと、迅速に作業を始める(重石の付いた縄はこの時点で引きあげられる)。\n潜水夫は素潜りに近く、半ズボンのようなものを着けただけで、ほかには鼻挟み、真珠貝を引き剥がすナイフ、貝を入れておく網袋(首から提げる)、指先を傷つけないための指袋を携帯しているのみである。\nただし、ミノカサゴやクラゲなどに刺されると、潜水できなくなって送還される理由になりえたため、その対策として全身を覆う黒い潜水服(リビス)を着用することがあった。", + "qas": [ + { + "question": "潜水夫が海底にたどり着く時に、シーブは何が付いた縄を引き上げるの?", + "id": "tr-121-17-000", + "answers": [ + { + "text": "重石", + "answer_start": 72, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "潜水夫は1、2分程度、息が続く限り漁獲を続け、息苦しくなったら残った縄を引っ張り、シーブに対し自分を引きあげるように合図する。\nこの1回の潜水で取れる真珠貝の数は、イギリス人チャールズ・ベルグレイヴ(バーレーン顧問官、在任1926年-1957年)によれば、平均的には8個から12個であったという。\n前述のように、こうした採取の様式は中世からほとんど変化がないといわれるものである。\nそして、いつからなのかは不明だが、遅くとも19世紀後半以降は、潜水に関連して新しい機械や装具を使うことは禁止されており、ゴーグルの類すら認められていなかったのである。\n新しい機械などが禁じられていたのは、資金力に関わりなく公平に真珠採取の機会が与えられるようにという趣旨であったという。", + "qas": [ + { + "question": "1回の潜水につき、平均どれくらいの真珠貝が採取されたの?", + "id": "tr-121-18-000", + "answers": [ + { + "text": "8個から12個", + "answer_start": 133, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "潜水関連の新しい機械や、潜水装具などの使用が禁止されていた理由は、公平に何が与えられるようにという趣旨があったからなの?", + "id": "tr-121-18-001", + "answers": [ + { + "text": "真珠採取の機会", + "answer_start": 305, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "潜水夫が採取した真珠貝は1箇所にまとめられてしまうので、誰が採った貝からどの真珠が出たかなどは分からなくなる。\nこうした潜水はグハマ制と呼ばれるグループ単位の規則的な制度で行われ、連続して何回か潜水をしたあと、他のグループが採取しているときには休憩となる。\nこのグループの数や潜水する回数、休憩とのバランスなどは、船の規模や漁期(水温が高く、潜りやすい時期かどうか)などによっても変化する。\nまた、グループ内で海に入る順番も決まっており、これによって互いの縄が絡まないようになっている。\n一般的には、潜水夫たちが息を止めて海中で作業する時間の累計は1日当たり1時間から2時間にもなり、休憩時間の累計もほぼ同じくらいになるとはいえ、かなり過酷なものであった。\n潜水夫の労働を「地球上に存在した最も過酷な労働の一つ」と位置づける者さえいる。", + "qas": [ + { + "question": "潜水夫どうしの労働基準や労働方法、休息などを取り決めた制度は何と言われているの?", + "id": "tr-121-19-000", + "answers": [ + { + "text": "グハマ制", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "こうした作業に従事していた潜水夫たちは、古くは非常に厳しい境遇に置かれていた。\n彼らは商人たちから賃金を前払いされるのが慣例となっていたが、この前払い賃金は実質的に高利を伴う借金であって、採取時期以外にも商人や船長たちのもとで不払い労働に従事させられる原因になった。\nまた、潜水夫が死んだ時点で借金が残っていると、息子が潜水夫になって返済しなければならなかった。\nこうしたシステムは、前述のようにイブン・バットゥータの時代にもそれらしい記述が見られるものの、はっきりと確立したのは、地元のエリート層によって真珠採取が組織化されるようになった17世紀以降のことである。\nこれを改善したのがバーレーンの首長ハマドであった。\nかれは1920年代から大改革に着手し、前払い制は残しつつもその額の上限や利率を国が毎年公示すること、潜水夫には「潜水夫手帳」を支給して貸借額を厳格に管理すること、死亡時に残った借金は子供に引き継がせずに消滅させること、採取時期以外の不払い労働を禁止することなどを定めた。\nこれには既得権益を守ろうとした商人らから反発が生まれたのはもちろんだが、船長や商人から虚偽を吹き込まれた潜水夫たちも反対に回り、しばしば大きな暴動が起こった。\nしかし、1932年までにはこうした動きはおさまり、断行された改革への反対は出なくなった。\nこの改革を経て、バーレーンでは「潜水会議」という真珠採取業に関わる国の会議が発足し、真珠採取業に関する諸事項が取り決められるようになった。", + "qas": [ + { + "question": "潜水夫の貸借額の管理や採取時期以外の不払い労働の禁止などを定めた人は誰?", + "id": "tr-121-20-000", + "answers": [ + { + "text": "ハマド", + "answer_start": 301, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バーレーンの首長ハマドが潜水夫たちに支給し、貸借額の管理をさせたものは何ですか?", + "id": "tr-121-20-001", + "answers": [ + { + "text": "「潜水夫手帳」", + "answer_start": 365, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "以前は潜水夫が死んだ時点で借金が残っていると、息子が潜水夫になって返済しなければならなかったが、ハマドによる改善後は、借金した人物が死ぬ場合その借金をどうさることにした?", + "id": "tr-121-20-002", + "answers": [ + { + "text": "消滅させる", + "answer_start": 411, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ハマドの改革後、バーレーンで発足した真珠採取業に関わる国の会議を何というの?", + "id": "tr-121-20-003", + "answers": [ + { + "text": "「潜水会議」", + "answer_start": 586, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "真珠の大きさや重さをはかる際には、目の細かさが異なる複数の篩で大きい順に4.6mm以上、3.8mmまで、3.2mmまで、2.8mmまでとそれ未満に分類した上で、秤などが併用されたが、真珠の取引には独特の単位が用いられた。\nペルシア湾岸と、真珠市場があったインドのボンベイやプーナで真珠の重さを量る単位はミスカール(複数形はミサーキール)だったが、地域によって違いがあり、4.80グラムから10.37グラムまで幅があった(バーレーンでは1ミスカール=9.72グラム)。\nさらに価格を決めるときの単位がチャウ(複数形はアチュワ)で、これはミスカールを二乗した数字に330という係数を掛けて算出された。\nチャウの算出方法に地域差はないが、ミスカール自体の差が大きかったため、チャウも地域差が大きかった。\nこうした単位は分かりづらいものであり、前出のベルグレイヴはチャウが重さそのものの単位であると誤認していた。\nこの複雑な単位系の換算は、真珠商人が不当な利益を得る源にもなったという。", + "qas": [ + { + "question": "真珠の大きさや重さをはかる際に使う、目の細かさが異なる複数の篩の中で、2番目に小さい目の大きさはいくつまでのもの?", + "id": "tr-121-21-000", + "answers": [ + { + "text": "2.8mmまで", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "地域によって違うミスカールの重さの幅において、最大グラムはいくらまでありましたか?", + "id": "tr-121-21-001", + "answers": [ + { + "text": "10.37グラムまで", + "answer_start": 194, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム(CarlGustafEmilMannerheimスウェーデン語:[ˈkɑːɭˈɡɵˈstavˈeːmɪlˈmanːɛrˈheɪm]、1867年6月4日-1951年1月27日)は、フィンランドの軍人、大統領である。フィンランド軍の最高司令官としてフィンランド内戦、冬戦争、継続戦争、ラップランド戦争を指揮した。", + "qas": [ + { + "question": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは、どの国の軍人だったの?", + "id": "tr-122-00-000", + "answers": [ + { + "text": "フィンランド", + "answer_start": 111, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは、どの国の大統領でしたか?", + "id": "tr-122-00-001", + "answers": [ + { + "text": "フィンランド", + "answer_start": 111, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは、大統領につく前にどの職についていたか?", + "id": "tr-122-00-002", + "answers": [ + { + "text": "軍人", + "answer_start": 118, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムが最高司令官として指揮権を握った戦争としては、冬戦争、継続戦争、ラップランド戦争のほかに、どの戦争が挙げられているか?", + "id": "tr-122-00-003", + "answers": [ + { + "text": "フィンランド内戦", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは、父カール・ロベルト・マンネルハイム(CarlRobertMannerheim)と母ヘドウィグ・シャルロッタ・ヘレネ・フォン・ユーリン(HedvigCharlottaHelenavonJulin)の第3子としてフィンランド南西部にあるトゥルクのアスカイネン村のロウヒサーリで生まれた。", + "qas": [ + { + "question": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムの父親は、誰なの?", + "id": "tr-122-01-000", + "answers": [ + { + "text": "カール・ロベルト・マンネルハイム", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムの母親は、誰ですか?", + "id": "tr-122-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ヘドウィグ・シャルロッタ・ヘレネ・フォン・ユーリン", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは、どの町で生まれたか?", + "id": "tr-122-01-002", + "answers": [ + { + "text": "ロウヒサーリ", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヘドウィグ・シャルロッタ・ヘレネ・フォン・ユーリンは、どの町で彼女にとっての第3子を産んだか?", + "id": "tr-122-01-003", + "answers": [ + { + "text": "ロウヒサーリ", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムの父カール・ロベルト・マンネルハイムはリベラルで急進的な思想を持つ劇作家である一方、製紙会社を起業していた。母ヘドウィグ・シャルロッタ・ヘレネ・フォン・ユーリンは有名メーカー・フィスカースの経営者、ヨハン・ヤコブ・フォン・ユーリン(JohanJacobvonJulin)の娘であった。母方の祖先はスウェーデンのセーデルマンランド地方の出身とされる。", + "qas": [ + { + "question": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムの父親は、どのような思想を持ったものだったの?", + "id": "tr-122-02-000", + "answers": [ + { + "text": "リベラルで急進的", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムの父親は、何として活躍しており、しかも製紙会社を創業しましたか?", + "id": "tr-122-02-001", + "answers": [ + { + "text": "劇作家", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムの母方の祖父は、誰か?", + "id": "tr-122-02-002", + "answers": [ + { + "text": "ヨハン・ヤコブ・フォン・ユーリン", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムの母方の祖父は、どの会社の経営に当たったていたか?", + "id": "tr-122-02-003", + "answers": [ + { + "text": "メーカー・フィスカース", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "マンネルヘイム家はドイツ人の実務家でハンブルクの工場の経営者、ハインリッヒ・マーヘイム(1618年–1667年)が元とされ、マーヘイムはスウェーデンのイェヴレへ移住しヘンリークと改名した。マーヘイム家の出身はオランダとされていたが、現代ではそれは覆されている。", + "qas": [ + { + "question": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは、どの家の者なの?", + "id": "tr-122-03-000", + "answers": [ + { + "text": "マンネルヘイム家", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは、誰から引き継がれてきた家門の者ですか?", + "id": "tr-122-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ハインリッヒ・マーヘイム", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムの家門の創始者とされる人は、もともとどの家に属するものだったか?", + "id": "tr-122-03-002", + "answers": [ + { + "text": "マーヘイム家", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムの家門の創始者とされる人は、もともとどこを本拠地としていたとされるか?", + "id": "tr-122-03-003", + "answers": [ + { + "text": "オランダ", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "叔父アルベルトの家の家計が悪化していたことと、学校での素行の問題からアルベルトは自己規律と専門知識を習得させるためにマンネルヘイムを軍に入れる決心をした。13歳の時にハミナの学校に移り、1882年にフィンランド幼年学校へ入学した。", + "qas": [ + { + "question": "マンネルヘイムを軍に入隊させようとしたのは、誰なの?", + "id": "tr-122-04-000", + "answers": [ + { + "text": "アルベルト", + "answer_start": 2, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アルベルトは、マンネルヘイムが軍に入隊し、専門知識と何を学ぶことを望みましたか?", + "id": "tr-122-04-001", + "answers": [ + { + "text": "自己規律", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マンネルヘイムがハミナの学校に移ったのは、彼が何歳のころだったか?", + "id": "tr-122-04-002", + "answers": [ + { + "text": "13歳", + "answer_start": 77, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マンネルヘイムがフィンランド幼年学校に入学したのは、何年のことか?", + "id": "tr-122-04-003", + "answers": [ + { + "text": "1882年", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "マンネルヘイムは母語であるスウェーデン語のほかに、フィンランド語、ロシア語、フランス語、ドイツ語、英語を覚えた。1887年から1917年のロシア軍での兵役の中で、子供時代に覚えたフィンランド���の多くを忘れてしまい、後年再びフィンランド語を学習しなければならなかった。", + "qas": [ + { + "question": "マンネルヘイムにとっては、どの言語が母語だったか?", + "id": "tr-122-05-000", + "answers": [ + { + "text": "スウェーデン語", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マンネルヘイムが覚えた言語としては、母語のスウェーデン語とフィンランド語、ロシア語、フランス語、ドイツ語のほかに、どの言語が挙げられているか?", + "id": "tr-122-05-001", + "answers": [ + { + "text": "英語", + "answer_start": 49, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マンネルヘイムが1887年から1917年のロシア軍での兵役の中で忘れてしまった言語とは、どの言語なの?", + "id": "tr-122-05-002", + "answers": [ + { + "text": "フィンランド語", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マンネルヘイムが二度も学習した言語とは、どの言語ですか?", + "id": "tr-122-05-003", + "answers": [ + { + "text": "フィンランド語", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "マンネルヘイムは困窮した家計状態のため会計と経済を学んでいた。どんな小さな支出も叔父に確認されて屈辱を感じていた。また、叔父や親戚によって質素さと善行についての文章を読むことを強要されていた。素行は改まらず、マンネルヘイムは学生生活とハミナの狭い社会でのつながりを嫌った。1886年には無許可の外出が発覚して幼年学校を退学させられた。", + "qas": [ + { + "question": "マンネルヘイムは困窮した家計状態を乗り越えるために、会計と何の学習に努めたの?", + "id": "tr-122-06-000", + "answers": [ + { + "text": "経済", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マンネルヘイムは、誰からの承認がないと消費をしない習慣が身についていましたか?", + "id": "tr-122-06-001", + "answers": [ + { + "text": "叔父", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マンネルヘイムが幼年学校から退学させられたのは、何年のことか?", + "id": "tr-122-06-002", + "answers": [ + { + "text": "1886年", + "answer_start": 136, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マンネルヘイムが幼年学校から退学させられたのは、何のためだったか?", + "id": "tr-122-06-003", + "answers": [ + { + "text": "無許可の外出", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "カリシュで2年勤務した後、1891年1月にサンクトペテルブルクで皇后マリア・フョードロヴナの近衛騎兵として異動した。マンネルヘイムは187cmと長身であり、そのことが宮廷行事の際に有利に働いた。1896年にはニコライ2世の戴冠式において目立つ場所の警護を任されることになった。", + "qas": [ + { + "question": "マンネルヘイムはサンクトペテルブルクで勤務する前に、どこで勤務していたの?", + "id": "tr-122-07-000", + "answers": [ + { + "text": "カリシュ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マンネルヘイムがカリシュでの勤務を終えたのは、いつのことですか?", + "id": "tr-122-07-001", + "answers": [ + { + "text": "1891年1月", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マンネルヘイムがサンク���ペテルブルクでの勤務を始めたのは、いつのことか?", + "id": "tr-122-07-002", + "answers": [ + { + "text": "1891年1月", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ニコライ2世の戴冠式は、何年に行われたか?", + "id": "tr-122-07-003", + "answers": [ + { + "text": "1896年", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "マンネルヘイムはサンクトペテルブルクの社交界に受け入れられたが、経済的な負荷がかかった。1892年、伯爵夫人の仲介でマンネルヘイムはアナスタシア・アラフォヴァ(АнастасияАрапова)と結婚した。アナスタシアはロシア少将ニコライ・アラポフの遺児で、農園を所有した裕福な貴族であり、家計の問題は無くなった。", + "qas": [ + { + "question": "マンネルヘイムが結婚したのは、何年のことなの?", + "id": "tr-122-08-000", + "answers": [ + { + "text": "1892年", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マンネルヘイムは、誰と結婚しましたか?", + "id": "tr-122-08-001", + "answers": [ + { + "text": "アナスタシア・アラフォヴァ", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "何年を基点に、マンネルヘイムの家計状態が変わったか?", + "id": "tr-122-08-002", + "answers": [ + { + "text": "1892年", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "マンネルヘイムは、誰の娘と結婚したか?", + "id": "tr-122-08-003", + "answers": [ + { + "text": "ニコライ・アラポフ", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1893年に長女アナスタシエ、1895年に次女ソフィーが生まれ、3人目は男児であったが死産であった。娘のアナスタシエは後にカトリックに改宗し、ロンドンでカルメル会の修道女となった。マンネルヘイムとアナスタシアの結婚生活は1902年には別居という形で非公式に終わりを迎え、1919年に正式に民事離婚した。", + "qas": [ + { + "question": "マンネルヘイムの初子が生まれたのは、何年のことなの?", + "id": "tr-122-09-000", + "answers": [ + { + "text": "1893年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "アナスタシエとソフィーのうち、年上は、どちらですか?", + "id": "tr-122-09-001", + "answers": [ + { + "text": "アナスタシエ", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "マンネルヘイム夫婦が実質的に離婚したとされるのは、何年か?", + "id": "tr-122-09-002", + "answers": [ + { + "text": "1902年", + "answer_start": 110, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マンネルヘイム夫婦が正式に離婚したのは、何年か?", + "id": "tr-122-09-003", + "answers": [ + { + "text": "1919年", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1904年まで近衛騎兵を勤めたが、1897年から1903年にかけては王室厩舎に出向していた。王室厩舎は馬に関する帝国全体の管理を行う部門であり、マンネルヘイムはより専門的な馬の知識を習得し、他国から優れた種馬や特別な軍馬を調達した。", + "qas": [ + { + "question": "マンネルヘイムは、何年に近衛騎兵をやめたの?", + "id": "tr-122-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1904年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マンネルヘイムが王室厩舎に派遣されたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-122-10-001", + "answers": [ + { + "text": "1897年", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "何年にマンネルヘイムの王室厩舎への派遣が終わったか?", + "id": "tr-122-10-002", + "answers": [ + { + "text": "1903年", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "当時、マンネルヘイムは何を管理することにおいてかなり優れていたにもかかわらず、より深い知識を重ねることを望んでいたか?", + "id": "tr-122-10-003", + "answers": [ + { + "text": "馬", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1903年に展覧騎兵中隊に任じられ、騎兵連隊の装甲訓練委員の一員となった。妻と別れてから経済的状況は再び悪化し、ギャンブルの負けによってさらに加速した。マンネルヘイムは環境を変えることで解決を図り、日露戦争が勃発すると前線勤務を志願して受理された。", + "qas": [ + { + "question": "マンネルヘイムが展覧騎兵中隊に任じられたのは、何年のことなの?", + "id": "tr-122-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1903年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マンネルヘイムが騎兵連隊の装甲訓練委員の一員となったのは、何年のことですか?", + "id": "tr-122-11-001", + "answers": [ + { + "text": "1903年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マンネルヘイムは妻との離婚により経済的に悪い状況に陥ったが、その状況がより悪化したのは、何のためだったか?", + "id": "tr-122-11-002", + "answers": [ + { + "text": "ギャンブルの負け", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マンネルヘイムが経済状況の改善策ととらえたのは、どの戦争において最前線で戦うことだったか?", + "id": "tr-122-11-003", + "answers": [ + { + "text": "日露戦争", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "フン族", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "フン族(フンぞく、Hun)は、4世紀から6世紀にかけて中央アジア、コーカサス、東ヨーロッパに住んでいた遊牧民である。ヨーロッパの伝承によれば、彼らはヴォルガ川の東に住んでおり、当時スキタイの一部だった地域で初めて報告された。フン族の到来は、イランの人々、アラン人の西方への移住に関連している。", + "qas": [ + { + "question": "フン族は、中央アジア、コーカサス、そしてどこに住んでいた遊牧民であるの?", + "id": "tr-123-00-000", + "answers": [ + { + "text": "東ヨーロッパ", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フン族は、何世紀から何世紀にかけて存在した部族でありますか?", + "id": "tr-123-00-001", + "answers": [ + { + "text": "4世紀から6世紀", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ヨーロッパの伝承によれば、フン族はどの川の東に存在した部族であるか?", + "id": "tr-123-00-002", + "answers": [ + { + "text": "ヴォルガ川", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "フン族の到来は、イラン人とど��ような人々の西方への移住に関連しているか?", + "id": "tr-123-00-003", + "answers": [ + { + "text": "アラン人", + "answer_start": 127, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "370年までにフン族はヴォルガ川に到着し、430年までにヨーロッパに広大で短命の支配権を確立し、ローマ国境の外に住むゴス人や他の多くのゲルマン民族を征服し、他の多くの民族のローマ領土への逃亡を引き起こした。フン族は、特に彼らのアッティラ王の下で、東ローマ帝国に頻繁に破壊的な襲撃を行った。", + "qas": [ + { + "question": "フン族がヴォルガ川に到達したのは、何年のことなの?", + "id": "tr-123-01-000", + "answers": [ + { + "text": "370年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "フン族からの攻撃を受けた諸民族は、どこへと逃げ出しましたか?", + "id": "tr-123-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ローマ領土", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "フン族から盛んに攻撃を受けたのは、どの国か?", + "id": "tr-123-01-002", + "answers": [ + { + "text": "東ローマ帝国", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "フン族の襲撃の主なターゲットは、どの国だったか?", + "id": "tr-123-01-003", + "answers": [ + { + "text": "東ローマ帝国", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "451年、フン族は西ローマ帝国のガリア州に侵攻し、カタルーニャ原野の戦いでローマ人とゴート族の連合軍と戦い、452年にイタリアに侵攻した。453年のアッティラの死後、フン族はローマにとって大きな脅威となることをやめ、ネダオの戦い(454?)で帝国の領土の大部分を失った。", + "qas": [ + { + "question": "フン族が西ローマ帝国のガリア州に侵攻したのは、何年のことなの?", + "id": "tr-123-02-000", + "answers": [ + { + "text": "451年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フン族によるイタリア侵攻は、何年の起きた事件でありますか?", + "id": "tr-123-02-001", + "answers": [ + { + "text": "452年", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アッティラが死去したのは、何年のことか?", + "id": "tr-123-02-002", + "answers": [ + { + "text": "453年", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "18世紀、フランスの学者であるジョセフ・ド・ギーニュは、フン族と、紀元前3世紀に中国の北隣人だった匈奴族とのつながりを最初に指摘した。ギーニュの時代以来、そのような関係を調査するためにかなりの学術的努力が注がれてきた。この問題には依然として議論の余地がある。イランのフン族としてまとめて知られている他の人々との関係も論争になっている。", + "qas": [ + { + "question": "ジョセフ・ド・ギーニュは、どの国の者だったの?", + "id": "tr-123-03-000", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フン族と匈奴族とのつながりを初めて指摘したのは、誰ですか?", + "id": "tr-123-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ジョセフ・ド・ギーニュ", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "フン族と匈奴族とのつながりについての指摘が���めて台頭したのは、何世紀のことか?", + "id": "tr-123-03-002", + "answers": [ + { + "text": "18世紀", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "匈奴族は、何世紀に存在した部族であるか?", + "id": "tr-123-03-003", + "answers": [ + { + "text": "紀元前3世紀", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "フン族の文化についてはほとんど知られておらず、フン族と結びついた考古学的な遺物はほとんどない。彼らは青銅の大釜を使用し、頭蓋変形を行ったと信じられている。アッティラの時代のフン族の宗教についての記述はないが、占いなどの慣行が明らかになっており、シャーマンも存在し得たとされている。フン族は独自の言語を持っていることも知られているが、それを証明するのは3つの単語と個人名だけである。経済的には、彼らは遊牧牧畜の形態を実践したことが知られている。ローマの世界との接触が拡大するにつれて、彼らの経済は、貢物、襲撃、貿易を通じてますますローマと結びついた。彼らはヨーロッパに入ったときに統一政府を持っていなかったらしく、むしろローマ人との戦争の過程で統一部族のリーダーシップを発展させたとされている。フン族は、さまざまな言語を話すさまざまな人々を統治し、その一部は独自の支配者を維持した。彼らの主な軍事技術は騎射であった。", + "qas": [ + { + "question": "フン族と結びついた考古学的な遺物はどれほど残されているの?", + "id": "tr-123-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ほとんどない", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "フン族は青銅の大釜を、何に使用したと信じられていますか?", + "id": "tr-123-04-001", + "answers": [ + { + "text": "頭蓋変形", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フン族が独自の言語を持っていたことの証拠となるのは、いくつの単語であるか?", + "id": "tr-123-04-002", + "answers": [ + { + "text": "3つ", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "フン族の主な軍事技術は、何だったか?", + "id": "tr-123-04-003", + "answers": [ + { + "text": "騎射", + "answer_start": 400, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "フン族は、西ローマ帝国の崩壊の大きな要因である大移動を刺激した可能性が指摘されている。フン族に関する記憶は、フン族が敵対者の役割を演じるさまざまなキリスト教の聖人の生活や、フン族がゲルマンの主要人物の様々な敵対者または同盟者であるゲルマン英雄伝説でも生き続けた。ハンガリーでは、中世の年代記に基づいて開発された伝説で、ハンガリー人、特にセーケリ民族はフン人の子孫とされている。しかし、主流の学術界では、ハンガリー人とフン族の密接な関係を否定している。近代文明は、一般にフン族を極端な残酷さと野蛮さに結びつけている。", + "qas": [ + { + "question": "西ローマ帝国を崩した大きな要因である大移動を刺激した可能性が指摘されているのは、どの部族なの?", + "id": "tr-123-05-000", + "answers": [ + { + "text": "フン族", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "フン族は、どの国の崩壊に影響を与えた可能性があるとも考えられていますか?", + "id": "tr-123-05-001", + "answers": [ + { + "text": "西ローマ帝国", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "中世の年代記に基づいて開発されたハンガリーの伝説によると、フン族の子孫であるハンガリー人は、どの民族か?", + "id": "tr-123-05-002", + "answers": [ + { + "text": "セーケリ民族", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "139年、ローマの地理学者プトレマイオスはクーノイ族(ΧοῦνοιまたはΧουνοἰ)がスニ(Suni)の統治下にあるポントス地方のバスタルン族とロクソラン族の間に住んでいると述べている。彼は2世紀の初めに列挙したが、これらの民族がフン族か否かは不明である。西ローマ帝国がしばしば「クーノイ」(Χοῦνοι)または「ウーノイ」(Ουννοι)と書いており、東ローマ帝国では名称のはじめにXの喉頭音を一度も用いていないことを考慮すると「クーノイ」(Χοῦνοι)と「ウーノイ」(Ουννοι)の類似は偶然である可能性もある。5世紀のアルメニアの歴史家モヴセス・ホレナツは「アルメニア史」でサルマタイ族の近くに住むフン族について紹介し、194年から214年の間の何れかに起きたフン族によるバルフ攻略について物語り、この街をギリシャ人が「ウーノク」(Hunuk)と呼ぶ理由を説明している。", + "qas": [ + { + "question": "クーノイ族がバスタルン族とロクソラン族の間に住んでいたとの説が出てきたのは、何年のことなの?", + "id": "tr-123-06-000", + "answers": [ + { + "text": "139年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "クーノイ族がバスタルン族とロクソラン族の間に住んでいたとの説は、誰により提唱されたものですか?", + "id": "tr-123-06-001", + "answers": [ + { + "text": "プトレマイオス", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "プトレマイオスの主張によると、クーノイ族はバスタルン族とどの部族の間に住んでいたか?", + "id": "tr-123-06-002", + "answers": [ + { + "text": "ロクソラン族", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "モヴセス・ホレナツは、どの国の者か?", + "id": "tr-123-06-003", + "answers": [ + { + "text": "アルメニア", + "answer_start": 265, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "確実な記録としては、フン族は4世紀に初めてヨーロッパに現れた。彼らは370年頃に黒海北方に到来した。フン族はヴォルガ川を越えてアラン族を攻撃して彼らを服従させた。6世紀の歴史家ヨルダネスによるとバランベル(ゴート族によって創作された架空の人物ではないかと疑われている)に率いられたフン族はグルツンギ(東ゴート族)の集落を襲撃した。グルツンギ王エルマナリクは自殺し、甥の息子のヴィティメール(Vithimiris)が後を継いだ。376年にヴィティメールはフン族とアラン族との戦いで戦死した。この結果、東ゴート族の大半がフン族に服従した。ヴィティメールの息子のヴィデリック(Viderichus)はまだ幼なかったため、残った東ゴート族の難民軍の指揮権はアラテウスとサフラスクに委ねられた。難民はドニエストル川西方のテルヴィンギ(西ゴート王国)の領域へ逃げ込み、それからローマ帝国領へ入った。", + "qas": [ + { + "question": "フン族がヨーロッパに初めて現れたのは、いつのことなの?", + "id": "tr-123-07-000", + "answers": [ + { + "text": "4世紀", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フン族が黒海北方に現れたのは、何年頃のころですか?", + "id": "tr-123-07-001", + "answers": [ + { + "text": "370年頃", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "フン族が黒海北方に現れたのは、何世紀のことか?", + "id": "tr-123-07-002", + "answers": [ + { + "text": "4世紀", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "グルツンギの集落を攻撃したフン族を率いていたのは、誰か?", + "id": "tr-123-07-003", + "answers": [ + { + "text": "バランベル", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "逃げ出した東ゴート族の一部に続いてフン族はアタナリックの西ゴート族の領土に入った。アタナリックはドニエストル川を越えて遠征軍を派遣したが、フン族はこの小部隊を避けて直接アタナリックを攻めた。ゴート族はカルパティア山脈へ後退した。ゴート族の難民たちはトラキアへそしてローマ駐留軍のいる安全地帯へ向かった。", + "qas": [ + { + "question": "東ゴート族と西ゴート族のうち、フン族により攻撃された時期がより早いのは、どちらなの?", + "id": "tr-123-08-000", + "answers": [ + { + "text": "東ゴート族", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "西ゴート族の本拠地は、どこでしたか?", + "id": "tr-123-08-001", + "answers": [ + { + "text": "アタナリック", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ゴート族の難民たちは、ローマ駐留軍のいる安全地帯のほかに、どこへ向かったか?", + "id": "tr-123-08-002", + "answers": [ + { + "text": "トラキア", + "answer_start": 124, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フン族の攻撃に、ゴート族はどこへと逃げ出したか?", + "id": "tr-123-08-003", + "answers": [ + { + "text": "カルパティア山脈", + "answer_start": 100, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "395年、フン族は初めて東ローマ帝国へ大規模な攻撃をかけた。フン族はトラキアを攻撃し、アルメニアを蹂躙してカッパドキアを却略した。彼らはシリアの一部に侵入してアンティオキアを脅かし、ユーフラテス属州を通って押し寄せた。皇帝テオドシウス1世は軍隊を西方へ派遣しており、そのためフン族は抵抗を受けることなく暴れ回り、398年に宦官エウトロピウスがローマ人とゴート人の軍隊をかき集めて撃退して、ようやく平和を回復することに成功した。", + "qas": [ + { + "question": "フン族が東ローマ帝国に対し、初めて大規模な攻撃を行ったのは、何年のことなの?", + "id": "tr-123-09-000", + "answers": [ + { + "text": "395年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "395年、フン族はどの国への攻撃を進めましたか?", + "id": "tr-123-09-001", + "answers": [ + { + "text": "東ローマ帝国", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "フン族の攻撃ルートにおける最初の拠点は、どこだったか?", + "id": "tr-123-09-002", + "answers": [ + { + "text": "トラキア", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "アルメニアとカッパドキアのうち、フン族がより早く攻撃したのは、どこだったか?", + "id": "tr-123-09-003", + "answers": [ + { + "text": "アルメニア", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "一時的に東ローマ帝国から逸れた間、405年のラダガイスス率いる蛮族の集団のイタリア侵攻や406年のヴァンダル族、スエビ族そしてアラン族のガリア侵入に証明されるようにフン族ははるか西方に移動したようである。この時のフン族は一人の統��者元の一つの軍隊ではなかった。多数のフン族が東西ローマ、そしてゴート族の傭兵として雇われていた。ウルディン(個人名が知られる初めてのフン族)はフン族とアラン族の集団を率いてイタリアを守るためにラダガイススと戦った。ウルディンはドナウ川周辺の東ローマ領で騒乱を起こしていたゴート族を破り、400年から401年頃にゴート族のガイナスの首を斬った。ガイナスの首は贈物と引き換えに東ローマへ与えられてコンスタンティノープルで晒された。", + "qas": [ + { + "question": "ラダガイスス軍がイタリアを侵攻したのは、何年のことなの?", + "id": "tr-123-10-000", + "answers": [ + { + "text": "405年", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "405年、蛮族はどこへの侵攻を行いましたか?", + "id": "tr-123-10-001", + "answers": [ + { + "text": "イタリア", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "406年にガリアを侵入したのは、ヴァンダル族、スエビ族、そしてどの部族だったか?", + "id": "tr-123-10-002", + "answers": [ + { + "text": "アラン族", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フン族がはるか西方に移動したのは、405年と何年の出来事の影響だったか?", + "id": "tr-123-10-003", + "answers": [ + { + "text": "406年", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "408年、東ローマはウルディンのフン族から再び圧力を感じ始めた。ウルディンはドナウ川を越えてモエシア属州のカストラ・マルティス要塞を攻略した。それから、ウルディンはトラキア一帯を略奪した。東ローマはウルディンを買収しようとしたが、彼の要求額が大きすぎて失敗し、代わりに彼の部下たちを買収した。これによりウルディンの陣営から多数が脱走し、ローマ軍に大敗を喫して撤退を余儀なくされた。それから程なく、ウルディンは死去している。", + "qas": [ + { + "question": "東ローマがフン族から再び圧力を感じ始めたのは、何年からのことなの?", + "id": "tr-123-11-000", + "answers": [ + { + "text": "408年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "408年の時点でフン族の統治者は、誰でしたか?", + "id": "tr-123-11-001", + "answers": [ + { + "text": "ウルディン", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カストラ・マルティス要塞とトラキア一帯のうち、ウルディンがより早く攻撃したのは、どちらか?", + "id": "tr-123-11-002", + "answers": [ + { + "text": "カストラ・マルティス要塞", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "この文書では、フン族とどの国の対立について説明しているか?", + "id": "tr-123-11-003", + "answers": [ + { + "text": "東ローマ", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "410年頃にフン族は、ドナウ川中流域の平原を制圧した。フン族は東ローマ帝国への侵入と略奪を繰り返し、このため東ローマ皇帝テオドシウス2世は430年頃に、フン族へ毎年金350ポンドの貢納金を支払う条約を結んだ。", + "qas": [ + { + "question": "フン族が、ドナウ川中流域の平原を制圧したのは、何年頃のことなの?", + "id": "tr-123-12-000", + "answers": [ + { + "text": "410年頃", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "東ローマ帝国とフン族の間で条約が結ばれたのは、��年頃のことですか?", + "id": "tr-123-12-001", + "answers": [ + { + "text": "430年頃", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "シェトランド諸島", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "シェトランド諸島(Shetland[ˈʃɛtlənd]、中世スコットランド語:Ȝetland、スコットランド・ゲール語:Sealtainn[ˈʃal̪ɣt̪hɪɲ])は、スコットランドの亜寒帯に属する群島。\n北部諸島に含まれ、グレートブリテン島の北東部に位置する。", + "qas": [ + { + "question": "シェトランド諸島はどこの国の群島なの?", + "id": "tr-124-00-000", + "answers": [ + { + "text": "スコットランド", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "オークニー諸島の約80km北、フェロー諸島の南東約280kmに位置し、シェトランドの西は大西洋、東は北海となる。\n総面積は1,468km2で、2009年時点の人口は22,210人である。\nスコットランド議会のシェトランド選挙区を構成しており、スコットランドの32あるカウンシル・エリアの1つである。\nシェトランドの行政中心地で、唯一の自由都市はラーウィックである。\n諸島のうち最大の島は単にメインランド島といい、面積は967km2、スコットランドの島のうち3番目、ブリテン諸島中5番目の面積を持つ。\nさらに15の有人島がある。\nシェトランド諸島は海洋性気候であり、複雑な地質、険しい海岸線と総じて低い丘陵がある。", + "qas": [ + { + "question": "シェトランド諸島の総面積は?", + "id": "tr-124-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1,468km2", + "answer_start": 61, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "2009年のシェトランド諸島の人口は何人だったの?", + "id": "tr-124-01-001", + "answers": [ + { + "text": "22,210人", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "シェトランド諸島で最も大きい島の名は?", + "id": "tr-124-01-002", + "answers": [ + { + "text": "メインランド島", + "answer_start": 195, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "石器時代より人が定住し、島について最古に書かれた文献はローマ時代のものである。\n歴史上最古の時代はスカンジナビア、特にノルウェーの影響を受け、島々は15世紀までスコットランドの一部ではなかった。\nシェトランドがグレートブリテン王国の一部となった1707年から、漁業は今日まで経済の重要な側面で有り続けているが、北ヨーロッパとの貿易は衰退していた。\nしかしいまや連合王国の一部となり、1970年代の北海油田発見が大幅にシェトランド諸島経済・雇用・公共部門の収益を押し上げた。\n地元住民の生活は、ヴァイキングを称える火祭りのウップ・ヘリーアー、伝統的なフィドルのスタイルに代表される音楽の伝統といった、ノース人文化とスコットランド文化の両方が反映されている。\nシェトランド諸島は様々な詩と散文の作家を輩出しており、彼らの多くはシェトランド語を用いる。\n地元の動植物を保護するためもうけられた保護地域が多くあり、そこには海鳥の重要な営巣地が含まれている。", + "qas": [ + { + "question": "北海で何が見つかったことで、シェトランド諸島の経済収益が増大したの?", + "id": "tr-124-02-000", + "answers": [ + { + "text": "油田", + "answer_start": 200, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ウップ・ヘリーアーは誰を称える祭りなの?", + "id": "tr-124-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ヴァイキング", + "answer_start": 246, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "シェトランドの名前は古ノルド語のhjalt(柄)とland(土地)���由来する。\n紀元43年と77年、ローマの著述家ポンポニウス・メラと大プリニウスは、それぞれHaemodaeとAcmodaeと呼ぶ7つの島々についてふれた。\nこの名称はどちらもシェトランドのことであると推測されている。\nシェトランドについて書かれた古い記述は他にもある。\n紀元98年、タキトゥスはローマのオークニー諸島発見と征服について記した後、ローマ艦隊はトゥーレを見たとした。\n古いアイルランド文学において、シェトランドは『ネコの島』(InseCatt)としてふれられた。\nこれは島にいたノース人以前の住民の名であった可能性がある。\nCat族はスコットランド本土北部の一部を占領し、彼らの名はケイスネスや、サザランドのゲール語名Cataibhに見つけることができる。", + "qas": [ + { + "question": "大プリニウスはシェトランドのことを何と呼んでいたの?", + "id": "tr-124-03-000", + "answers": [ + { + "text": "Acmodae", + "answer_start": 88, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ポンポニウス・メラはシェトランドのことを何と呼んでいたの?", + "id": "tr-124-03-001", + "answers": [ + { + "text": "Haemodae", + "answer_start": 79, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "HaemodaeとAcmodaeは両方とも何を指していたの?", + "id": "tr-124-03-002", + "answers": [ + { + "text": "シェトランド", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "現在の名であるシェトランドの最古のかたちは、1190年に記されたHetlandensisである。\n様々な変遷のあとに1431年にはHetlandとなった。\nピクト語のcatの発音が古ノルド語の名称を形成することが可能である。\nその後16世紀にはHjaltlandとなった。\nノルン語が徐々にスコットランド語に取って代わっていったように、HjaltlandはȜetlandとなった。\n最初の文字は中世スコットランド語のものである。\nȜの発音は元々のノルン語とほとんど同じである。\nヨッホを文字として用いることが中断されたとき、それは多くの場合似たような文字であるZに置き換えられた。\nそれゆえにZetlandという誤ったスペルが1975年以前にカウンティ議会において用いられていたのである。\n一部の派生は不明瞭で古ノルド語以前(おそらくはピクト語、ケルト語以前の名称)のものもあるだろうが、シェトランドの島々は個々に古ノルド語の名称を持っている。", + "qas": [ + { + "question": "Hetlandは元々どのような表記だったの?", + "id": "tr-124-04-000", + "answers": [ + { + "text": "Hetlandensis", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "シェトランド諸島はスコットランド本土の北170kmにある。\n海岸線は2702kmある。\n諸島の中心地にして最大の町であるラーウィックは人口約7500人が暮らし、町の16km以内に諸島の人口の約半分が暮らしていることになる。\n1708年まで諸島の中心であった西岸のスカロウェイは、人口が1000人以下である。", + "qas": [ + { + "question": "シェトランド諸島の海岸線の距離は?", + "id": "tr-124-05-000", + "answers": [ + { + "text": "2702km", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ラーウィックとスカロウェイはどちらが人口が少ない?", + "id": "tr-124-05-001", + "answers": [ + { + "text": "スカロウェイ", + "answer_start": 131, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "シェトランド諸島とスコットランド本土間の距離はどれくらい?", + "id": "tr-124-05-002", + "answers": [ + { + "text": "170km", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ラーウィックの居住人口は?", + "id": "tr-124-05-003", + "answers": [ + { + "text": "約7500人", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "およそ100ある島のうち、有人島は16しかない。\n主要島はメインランド島、次いで北のイエル島、アンスト島、フェトラー島、東のブレセー島とホエルセー島である。\nイースト・バラ島、ウエスト・バラ島、マックル・ロー島、パパ・ストア島、トロンドラ島、ヴァイラ島はメインランド島の西にあってより小さい。\nメインランド島から遠く離れている有人島には、フーラ島、フェア島、アウト・スカリーズ島がある。\n無人島には、鉄器時代に建てられた塔・ブロッホ・オブ・ムサが最高の保存状態で残るムサ島、イギリス最大の陸繋島でメインランド島と陸続きとなっている聖ニニアンの島、ブリテン諸島最北の地であるアウト・スタック島がある。\nシェトランド諸島の位置から、『国内で最も北』という形容詞がつく記録が多い。\nマネス城は国内最北にある城であるし、スコーは国内最北の集落である。", + "qas": [ + { + "question": "アンスト島とアウト・スカリーズ島はどちらがメインランド島に近いですか?", + "id": "tr-124-06-000", + "answers": [ + { + "text": "アンスト島", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ホエルセー島とフェア島はどちらがメインランド島から遠いですか?", + "id": "tr-124-06-001", + "answers": [ + { + "text": "フェア島", + "answer_start": 174, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ブロッホ・オブ・ムサが存在している島の名は?", + "id": "tr-124-06-002", + "answers": [ + { + "text": "ムサ島", + "answer_start": 233, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ブリテン諸島の中で最も北に位置している島とは?", + "id": "tr-124-06-003", + "answers": [ + { + "text": "アウト・スタック島", + "answer_start": 286, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "数多くの断層や褶曲の軸があるシェトランドの地質は複雑である。\nシェトランドの島々はカレドニア造山運動の北の前哨基地にあたり、先カンブリア時代の変成岩であるルイジアン、ダルリアダンの露頭、モイン累層群の変成岩があり、それらはスコットランド本土にあるものと似た歴史をたどっている。\n同様に、古い赤色砂岩の堆積物、花崗岩の侵入もある。\n最大の特徴はオフィオライト、アンスト島やフェトラー島におけるかんらん岩と斑れい岩でイアペトゥス海の底の遺物である。\nシェトランド経済の多くは、周辺海域における原油を含む堆積物に依存している。\n地質学的証拠は、紀元前6100年頃ノルウェー海の海底地すべりで起きた津波がシェトランド、そしてスコットランド東海岸を直撃したことを示している。\nそして現在の人口密集地であるスコットランドのファース(湾)において波の高さは25mとなっていたと推測される。\nシェトランド最高地点はロナスの丘で高さは450mでしかない。\n更新世期に氷河は島々全体を覆っていた。\nスタナス・オブ・ストファストという迷子石は重さが2000トンあり、この時代にラナスティングの丘に移動してきて鎮座するようになった。\nシェトランドは国立景観保護地域である。", + "qas": [ + { + "question": "ノルウェー海の海底地すべりで起きた津波の高さは、ファースでは何mと推測されたの?", + "id": "tr-124-07-000", + "answers": [ + { + "text": "25m", + "answer_start": 371, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "スタナス・オブ・ストファストの重量は?", + "id": "tr-124-07-001", + "answers": [ + { + "text": "2000トン", + "answer_start": 463, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "シェトランド諸島は、寒い期間は長いが、あまり厳しくはならない冬、短くて冷涼な夏が特徴の海洋性亜寒帯気候である。\n周囲の海からの影響で、3月の最高気温は5°C、7月8月の最高気温は14°Cと、気候は一年中穏やかである。\n気温が21°Cを上回ることはまれである。\n過去に最も気温が高かったのは1991年7月の23.4°Cで、反対に最も低かったのは1952年と1959年の1月に記録した-8.9°Cである。\n霜のない期間は3ヶ月ほどと短い。\n気候の総合的な特徴は、曇りがちで風が強いことである。\n1年に250日間は少なくとも2mm以上の降雨がある。\n年間平均降雨量は、最も雨の多い11月から12月で1003mmである。\n降雪は通常11月から2月までの期間に限られており、地上に1日中雪が残っていることが少ない。\n降水量が50mm以下の月はないが、4月から8月は降水量が減少する。\n霧は、穏やかな南からの風で海上が冷やされるため、夏に発生するのが一般的である。\n高緯度にあるため、夏にはほぼ確定した日照がある一方、晴れた冬の夜にはオーロラが時々見られる。\n年間平均日照時間は1090時間で、曇りの日が一般的である。", + "qas": [ + { + "question": "シェトランド諸島で記録した過去最高気温は何°C?", + "id": "tr-124-08-000", + "answers": [ + { + "text": "23.4°C", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "シェトランド諸島で霧が出ない期間は何カ月?", + "id": "tr-124-08-001", + "answers": [ + { + "text": "3ヶ月ほど", + "answer_start": 208, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "シェトランド諸島で記録した過去最低気温は何°C?", + "id": "tr-124-08-002", + "answers": [ + { + "text": "-8.9°C", + "answer_start": 190, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "シェトランド諸島の年間平均日照時間は?", + "id": "tr-124-08-003", + "answers": [ + { + "text": "1090時間", + "answer_start": 483, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "シェトランドには、ハーマナスとノスの海鳥コロニー、キーン・オブ・ヘイマーにある蛇紋岩土壌に育つ植物を保護する、3つの国立自然保護区がある。\nさらに81箇所の特別科学関心地区がある。\nシェトランドの風景は、放牧されたヒツジが草を食んでいるさまが特徴である。\nそして過酷な条件のため植物は約400種と総数が限られている。\nセイヨウナナカマドやヨーロッパ原産のワイルドクラブアップルといった土着の樹木は、崖や小島といった他から隔絶された数少ない場所に見られるのみである。\n植物はアルプス高山植物、野生種の花、コケ、地衣類で占められる。\n特に保護された場所では、春海葱、セリバオオバコ、マルバトウキ、イワベンケイが豊富である。\nミミナグサ属のCerastiumnigrescensはシェトランドにしかない固有種である。\nこの花は1837年、植物学者トーマス・エドモンドストンによって最初に記録された。\n19世紀には他の2つの場所から植生の報告があったが、現在はアンスト島の蛇紋岩でできた2つの丘の上にしか見つけられていない。\n全国的に希少なエゾルリソウがいくつかの島で見つかっており、レッドリストにコケ植物オオトラノオが絶滅危惧種として記載されている。", + "qas": [ + { + "question": "Cerastiumnigrescensを最初に記録した人は誰?", + "id": "tr-124-09-000", + "answers": [ + { + "text": "トーマス・エドモンドストン", + "answer_start": 370, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "シェトランドに生息する植物の総数はいくつ?", + "id": "tr-124-09-001", + "answers": [ + { + "text": "約400種", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "Cerastiumnigrescensが最初に記録された年はいつ?", + "id": "tr-124-09-002", + "answers": [ + { + "text": "1837年", + "answer_start": 360, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "シェトランドには多数の海鳥コロニーがある。\nニシツノメドリ、ウミツバメ、アビ、シロカツオドリ、オオトウゾクカモメが島々で見られる。\n希少種としてマユグロアホウドリ、ハクガンがある。\nシロフクロウのつがいが1967年から1975年までフェトラー島で繁殖していた。\nシェトランドミソサザイ、フェアアイルミソサザイはシェトランドの固有亜種である。\nダイシャクシギ、コシャクシギ、ヨーロッパムナグロといった様々な湿原の鳥類の個体群もある。\nシェトランドの地理的孤立と、シェトランドがかつて氷河に覆われていた歴史により、哺乳動物相の枯渇をもたらした。\nドブネズミとハツカネズミは、シェトランド諸島に現在いるげっ歯類の3種のうち2種である。\n残りの1つであるシェトランドノネズミは、固有種でもあり、そのうち3つの種類がイエル島、フーラ島、フェア島に生息する。\n彼らはアカネズミの変種であり、考古学的証拠からこの種は鉄器時代中期から島に存在していたことを示唆している。\nアカネズミは、少なくとも青銅器時代から人がいたオークニー諸島から導入された可能性がある。", + "qas": [ + { + "question": "ドブネズミとハツカネズミ以外にシェトランドに生息しているげっ歯類とは?", + "id": "tr-124-10-000", + "answers": [ + { + "text": "シェトランドノネズミ", + "answer_start": 323, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "島土着の様々な品種がある。\nそのうち、体格の小さなシェトランド・ポニーは、おそらく最も有名であるだけでなく、シェトランド農業の歴史の重要な一部である。\nポニーについて最初に書かれた記録は1603年のものである。\nその小柄な体格のため、すべてのウマの品種の中で最も強健である。\nその他にシェットランド・シープドッグ、絶滅危惧種のシェトランドウシ、シェトランドガチョウ、そしてヒツジのシェトランド・シープは西暦1000年前に起源があると考えられている。\nグライスは半家畜化されたブタであったが、1930年代に絶滅した。\nヒツジを攻撃する習性のため、絶滅を防ぐことができなかった。", + "qas": [ + { + "question": "ウマの品種の中で最も強健なものとは?", + "id": "tr-124-11-000", + "answers": [ + { + "text": "シェトランド・ポニー", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1930年代に絶滅したブタの品種とは?", + "id": "tr-124-11-001", + "answers": [ + { + "text": "グライス", + "answer_start": 225, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "実質的に樹木のないシェトランド諸島に石でできた建物ができたのは少なくとも新石器時代初頭である。\nシェトランドは有史以前の時代の建造物が非常に豊富で、5000箇所以上の遺跡が存在する。\nメインランド島南岸のウェスト・ヴォーには紀元前4320年から紀元前4030年頃の貝塚があり、中石器時代に人間が活動していた証拠となっている。\n同じ場所では新石器時代の活動の存在を示しており、スコード・オブ・ブロースター内の壁は紀元前3400年代にさかのぼれる。\nノースメイヴィンで見つかったシェトランド・ナイフは石器で、珪長岩でこの時代に作られたものだった。", + "qas": [ + { + "question": "シェトランドに存在する有史以前の時代の建造物はいくつあるの?", + "id": "tr-124-12-000", + "answers": [ + { + "text": "5000箇所以上", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "集落遺跡ヤールショフでは陶器の破片が見つかっている。\n主要な定住地は青銅器時代からのものだが、ここでは���石器時代から人が活動してきたことを示している。\n遺跡には鍛冶場、ホイールハウスの密集、そして後のブロッホ(円筒形の塔)が含まれていた。\nこの場所は、ヴァイキング時代直前までの様々な時代の居住の証拠を示している。\nかかとの形をしたケアンは、シェトランドでは珍しい室状のケアンで、特に大きなものがヴェメントリー島にある。", + "qas": [ + { + "question": "比較的大きなケアンが残っている島はどこ?", + "id": "tr-124-13-000", + "answers": [ + { + "text": "ヴェメントリー島", + "answer_start": 198, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "多数のブロッホが鉄器時代の間に建てられた。\nブロッホの起源と目的は論争の的となっているが、ムサに加え、クリキミン、カルスウィック、オールド・スキャットネス、ウェスト・バラファースにあるブロッホが重要な遺跡である。\n過去の記録はまばらであるが、鉄器時代後期のノーザン・アイルズの住民は、おそらくピクト人であった。\n歴史家ジェームズ・ハンターは2000年に、6世紀のピクト王ブリデイ1世との関連を述べている。\n『シェトランド、オークニー、スカイ島と西部の島々にいた住民たちは、そのほとんどがこの時点において文化のうえでも言語のうえでもピクト人であったように思える。彼らはブリデイ1世をかなり遠い存在とみなしていた可能性が高い。』2011年、ブロッホ・オブ・ムサ、オールド・スキャットネス、ヤールショフを含む「鉄器時代シェトランドのるつぼ」は、世界遺産の暫定登録リストに加わった。", + "qas": [ + { + "question": "数多くのブロッホが建てられた時期はいつ?", + "id": "tr-124-14-000", + "answers": [ + { + "text": "鉄器時代の間", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「鉄器時代シェトランドのるつぼ」が世界遺産の暫定登録リストに加わったのは何年?", + "id": "tr-124-14-001", + "answers": [ + { + "text": "2011年", + "answer_start": 312, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "スカンジナビア人人口の拡大は、利用可能な資源と耕地の不足につながった。\nこのことがヴァイキングの海外遠征時代を招き、ノース人は徐々に略奪から占領へ関心を移していった。\nシェトランドは8世紀終わりから9世紀にかけ征服された。\n既に島にいた先住民の運命については不明である。\n現在のシェトランド諸島人は、父方の先祖も母方の先祖もスカンジナビア人である割合が同一である。\nこのことは島に男女とも均等に移住したことを示唆している。\n当時のヴァイキングは、島をノルウェーおよびスコットランド本土の海岸に対する海賊遠征の本拠としていた。\nそれに対してノルウェー王ハーラル美髪王は875年にノーザン・アイルズを併合した。\nムーレ伯爵RognvaldEysteinssonはハーラル美髪王より、スコットランドでの戦いで息子を失った代償として、オークニーとシェトランドを伯領として授かり、オークニー伯爵(英語ではEarlであるがノース語ではJarl)となった。\nその後弟SigurdEysteinssonが伯領を継承した。", + "qas": [ + { + "question": "シェトランド諸島人の先祖となる民族は?", + "id": "tr-124-15-000", + "answers": [ + { + "text": "スカンジナビア人", + "answer_start": 162, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ノーザン・アイルズを併合した人は?", + "id": "tr-124-15-001", + "answers": [ + { + "text": "ハーラル美髪王", + "answer_start": 275, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "シェトランド諸島がキリスト教化されたのは10世紀終わりである。\nオーラヴ1世王はオークニー訪問中、オークニー伯シグルドを召還し、『伯と伯の臣民すべてが洗礼を受けることを命ずる。もし拒むならば、私はその場で伯を殺さねばなら��い。私は火と鋼を用いてすべての島々を破壊せんことを誓う』と言った。\n当然のごとく、シグルドと島民たちは同意しキリスト教徒となった。\n異常なことに、1100年代以降、ノース人の伯爵たちはケイスネス伯爵の爵位を保有することからノルウェー王とスコットランド王の両者に忠誠を誓っていた。\n1194年、HaraldMaddadssonがオークニーおよびシェトランド伯であったとき、スヴェレ・シグルツソン王に対する内乱が勃発した。\nØyskjeggsたちはノルウェーに向け出航したが、ベルゲン近郊のFlorvågの戦いで敗退した。\nこの勝利の後にスヴェレ・シグルツソン王はシェトランドをノルウェー王の直接支配下に置き、この後2世紀近くにわたってこの情勢が続いた。", + "qas": [ + { + "question": "シェトランド諸島にキリスト教信者が増えたのはいつ?", + "id": "tr-124-16-000", + "answers": [ + { + "text": "10世紀終わり", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "13世紀半ば以降、スコットランドの王たちはますます本土周囲の島嶼部に対する管理を強めるようになった。\n政策が本格的に始められたのはアレグザンダー2世からで、彼の後継者アレグザンダー3世によって政策は継承された。\nこの戦略は、最終的にはホーコン4世のスコットランド遠征につながった。\n彼の艦隊はスコットランドへ出航する前にブレセー水道で組み立てられた。\nラーグスの戦いでの行き詰まりの後、ホーコン4世はオークニーに退却し、1263年12月に急死した。\nサーガの暗唱によって彼は死の床で慰められた。\n彼の死はスコットランドへのノルウェー軍のさらなる遠征を中止させ、この不運な遠征にともない、マン島および島嶼王国(ヘブリディーズ諸島とマン島で構成)は1266年のパース条約の結果スコットランドに屈した。\nしかしスコットランド人は、オークニー諸島とシェトランド諸島へのノルウェーの主権を継続して認めていた。", + "qas": [ + { + "question": "スコットランド周囲の島嶼部に対する管理政策が本格化したのは誰からですか?", + "id": "tr-124-17-000", + "answers": [ + { + "text": "アレグザンダー2世", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アレグザンダー2世の次に島嶼部の管理政策を継承した人とは?", + "id": "tr-124-17-001", + "answers": [ + { + "text": "アレグザンダー3世", + "answer_start": 83, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アレグザンダー2世と3世が行った政策は、後に誰によるスコットランド遠征につながったの?", + "id": "tr-124-17-002", + "answers": [ + { + "text": "ホーコン4世", + "answer_start": 117, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "14世紀のオークニー諸島とシェトランド諸島はノルウェー王国の県であった。\nしかしスコットランドの影響は増していた。\nオークニー伯JonHaraldssonは1231年にサーソーで殺害され、彼の死は切れることなく続いてきたノース人のオークニー伯爵の断絶となった。\nその後のオークニー伯は、スコットランド貴族であるアンガス伯と、シンクレア家のヘンリーが務めた。\n1380年、デンマークとのカルマル同盟で同君連合となったノルウェーは、島嶼部の高貴な家柄への関心が薄れていった。\n1468年、デンマーク・ノルウェー王クリスチャン1世は、スコットランド王ジェームズ3世と婚約していた娘マルグレーテの持参金支払いに対する保証としてシェトランドを抵当に入れた。\n金が支払われることはなく、シェトランドとスコットランド王との関係は永久となった。\n1470年、初代ケイスネス伯ウィリアム・シンクレアは、自らの称号をジェームズ3世へ譲り渡した。\n翌年から、北部島嶼部はスコットランド王権に直接属することとなった。\nそれにもかかわらず、シェトランドとノルウェーの関係が絶えることがなかったことが証明されている。", + "qas": [ + { + "question": "14世紀のシェトランド諸島はどこの国に属していたの?", + "id": "tr-124-18-000", + "answers": [ + { + "text": "ノルウェー王国", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1380年にデンマークとノルウェーが結んだ同盟とは?", + "id": "tr-124-18-001", + "answers": [ + { + "text": "カルマル同盟", + "answer_start": 192, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "15世紀初頭から、シェトランド諸島人はドイツ商人のハンザ同盟を通じて島で生産されたものを売っていた。\nハンザ商人は、塩漬けの魚、羊毛、バターといった船一隻分の積荷を買い、塩、布、ビールやその他商品を輸入していた。\n16世紀終わりから17世紀初めは、専制的なオークニー伯ロバート・スチュアートの影響が支配的だった。\nジェームズ5世の庶子であった彼は、異母妹であるスコットランド女王メアリーによって島々を与えられていた。\nロバートの跡を継いだパトリック・スチュアートはスカロウェイ城の建設を開始したが、1609年に処刑されたため、再びオークニーとシェトランドはスコットランド王のものとなった。\n1643年、チャールズ1世はオークニーとシェトランドを第7代モートン伯ウィリアム・ダグラスへ与えた。\n1766年まで保持したモートン伯爵家は、第14代伯爵ジェイムズ・ダグラスの代にシェトランドをローレンス・ダンダスへ売却した。", + "qas": [ + { + "question": "ロバート・スチュアートの父親は誰?", + "id": "tr-124-19-000", + "answers": [ + { + "text": "ジェームズ5世", + "answer_start": 157, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ロバート・スチュアートの後継者は誰だった?", + "id": "tr-124-19-001", + "answers": [ + { + "text": "パトリック・スチュアート", + "answer_start": 219, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ロバート・スチュアートの腹違いの妹の名前は?", + "id": "tr-124-19-002", + "answers": [ + { + "text": "メアリー", + "answer_start": 189, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "パトリック・スチュアートはいつ死去した?", + "id": "tr-124-19-003", + "answers": [ + { + "text": "1609年", + "answer_start": 249, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1707年の合同法が施行されると、塩の取引に課された高額な税率によって、ドイツ北部の商人たちはそれまで続いていたシェトランドとの貿易を続けられなくなった。\nシェトランドの地元商人たちは北ドイツ商人ほど塩漬け魚の貿易に精通していなかったため、シェトランドは経済不況に陥った。\nしかしながら、一部の土地持ち商人がヨーロッパ大陸へ魚を輸出するための船を自前で用意し、撤退したドイツ商人の後を引き継いだ。\nただ、これは土地を持たない漁夫たちにとって幸運なことではなかった。\nなぜなら、彼らは結局、地元の土地持ち商人たちのために漁をしなければならなくなったからである。", + "qas": [ + { + "question": "塩の取引に高額の税がかけられたのは何年の合同法からですか?", + "id": "tr-124-20-000", + "answers": [ + { + "text": "1707年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1707年の合同法によってシェトランドとの貿易が不可能となったのはどこの商人たちでしたか?", + "id": "tr-124-20-001", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ北部", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "17世紀から18世紀、シェトランドを��然痘の流行が襲った。\nしかし1760年以降ワクチンが一般的となり、1861年の人口はこれまでの最高の31,670人に達した。\nイギリス支配は多くの一般人のみならず、貿易業者にとって高くついた。\nシェトランド諸島人の航海技術が、イギリス海軍に求められていた。\n約3000人が1810年から1815年のナポレオン戦争に供出され、強制徴募が行われた。\nこのときフェトラー島だけで120人もの男性が連れて行かれ、このうち故郷へ戻れたのはたった20人だった。\n19世紀後半、シェトランド全体の90%の土地を所有していたのは32人の地主だった。\n1861年から1881年にかけ8000人以上のシェトランド諸島人が移住していった。\n1886年、自由党の首相ウィリアム・グラッドストンが、地主から小作農を解放すべく、クロフターズ法を可決させた。\nこれは地主のために農奴となっていた小作農たちが、自分の所有する農園を持ち家とできるようになった効果的な法律だった。", + "qas": [ + { + "question": "フェトラー島から120人もの男性が連行されたのは何の戦争が始まったからですか?", + "id": "tr-124-21-000", + "answers": [ + { + "text": "ナポレオン戦争", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "タイ王国の便所", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "タイ王国では便所は古くから使用されてきた。便所の使用者は主に三つの社会階層集団に分けることができる。まず王族、豪族、貴族などの上流階層、次に戒律下にある僧集団、そして社会の大半を占める庶民階層である。しかしこの庶民階層は便所を使用せず、それぞれ適宜な場所で排泄をすることが多く見られた。そこで1897年に政府は「バンコク都公衆衛生法令」を発令し、バンコク市民は便所で排泄するように取締りを行った。1917年から1928年の間、タイ政府はアメリカの民間公益団体であるロックフェラー財団から医療、公衆衛生分野における援助を受けて、地方での便所の建設を進め、設置数を増やしていった。当時はまだ試行錯誤の段階にあり、タイの地域風土に応じてさまざまな形のトイレが試作された。例えば、便器のふたの閉め忘れに対応したブンサアート式便所(ส้วมหลุมบุญสะอาด)や、腐敗槽・浸透槽システムをもつコーハーン式便所(ส้วมคอห่าน)などである。さらに第二次世界大戦後に現代家屋が多く建設されると同時に水洗式便所が設置されるようになった。これが好評となり、現在に至るまで水洗式便所が増加してきている。", + "qas": [ + { + "question": "タイ王国の便所の使用者は主に三つの社会階層集団に分けることができるが、上流階層、庶民階層意外に何があるか。", + "id": "tr-125-00-000", + "answers": [ + { + "text": "僧集団", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "庶民階層が便所を使用せず、それぞれ適宜な場所で排泄をすることが多く見られたため、1897年に政府が発令したのは何か。", + "id": "tr-125-00-001", + "answers": [ + { + "text": "バンコク都公衆衛生法令", + "answer_start": 156, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "現代家屋が多く建設されると同時に水洗式便所が設置されるようになったのはいつか。", + "id": "tr-125-00-002", + "answers": [ + { + "text": "第二次世界大戦後", + "answer_start": 423, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "タイ政府にとっても昔からタイの公衆便所は、公衆衛生、環境の観点から重要な懸案事項であった。公衆便所はタイ保健局(กรมอนามัย)が管轄しており、公衆便所の調査や基準値の測定を行う。2006年にタイ政府は公衆衛生の発展の上で重要な国際会議となったWorldToiletExpo&Forum2006のホスト国となり、さらに多くの公衆便所の建設計画を企画している。タイ王国では便所に関する規則が数多く取り決められているが、公衆衛生に関する一番初���に制定された法律はバンコク都公衆衛生法令(ร.ศ.116)である。1997年には1979年には建築物管理法に基づく第39号内務省令、さらに2005年に身体障がい者、弱者、高齢者に対応したバリアーフリーの衛生設備規則が取り決められた。", + "qas": [ + { + "question": "公衆便所を管轄しているのは何か。", + "id": "tr-125-01-000", + "answers": [ + { + "text": "タイ保健局", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "便所の使用に関連する証拠としては、スコータイ時代から人々は排便を処理する方法を確立しており、歴史的な証拠として便器(おまる)の存在が認められている。「スコータイ式便器」と呼ばれている。この便器は石製で、尿を受ける溝と中央に便を落とす穴が開いている。臭気がひどくならないようにするために尿と便はそれぞれに分けて回収された。特に王や豪族といった地位の高い人々が特権的に住居の中に便所を建設するようになり、次第にタイの便所が発展していった。平民は部屋を均一に仕切っており、おそらくは便所を設置していなかったと見られる。さらに便所に関しては特別な呼称があり、ティ・ロン・バンカン(ที่ลงบังคน)もしくはホーン・バンコン(ห้องบังคน)と呼ばれた。特に王族の便をバンコンといい、王族は排便の際には容器の中に排泄し、その従者が廃棄する。この便を捨てる場所のことをサターン・ティ・コーン・スワム(สถานที่ของส้วม)もしくはサターン・ティ・プラバンコン(สถานที่ลงพระบังคน)といい、便所はにおいを防ぐために宮殿から離れた場所に建設された。", + "qas": [ + { + "question": "「スコータイ式便器」は石製、木製、鉄製の中どちらか。", + "id": "tr-125-02-000", + "answers": [ + { + "text": "石製", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "王や貴族といった地位の高い人々は住居の中に何を設置するようになったか。", + "id": "tr-125-02-001", + "answers": [ + { + "text": "便所", + "answer_start": 187, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ティ・ロン・バンカン、ホーン・バンコン、サターン・ティ・コーン・スワムの中、便所に関する特別な呼称でないのはどれか。", + "id": "tr-125-02-002", + "answers": [ + { + "text": "サターン・ティ・コーン・スワム", + "answer_start": 382, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "バンコンとは誰の便を指し示すか。", + "id": "tr-125-02-003", + "answers": [ + { + "text": "王族", + "answer_start": 328, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "僧集団である僧伽に関してもすでに律によって便所の設置が取り決められており、ウェート(เวจ)もしくはウェート・クティー(เวจกุฎี)と言われる。この便所はレンガや石で作られ、さらに崩れないように補強材として木材が使われていた。便器の中央には便を落とす穴があり、さらに石、レンガや木の板で作られた蓋がある。便所によっては、四方を壁に囲まれた小部屋の形をとっていた。さらに一般的な平民は、排泄をすることを「野良へ行く」(ไปทุ่ง:パイ・トゥン)、「渡し場へ行く」(ไปท่า:パイ・ター)、「森へ行く」(ไปป่า:パイ・パー)と表現した。このことから平民は一般的に個人の民家の中に排泄のための特別な施設を持っていなかったことがわかるだろう。平民は野辺、森、川辺、森のなかで排泄をしたのである。森の近くの村では便意を催すと森に入り、排泄のために適切な場所を探した。平野の村では、村の田畑の中にある林や茂みを排便の場所に選ばねばならなかったのであるが、排便の邪魔をしないように木の棒を持って豚を追い払いながら排便をした。水辺の近くにある村では、渡し場や���辺で排泄をして、排泄後水に流した。", + "qas": [ + { + "question": "平民が排便をするとき豚を追い払うために使ったのは何なのか。", + "id": "tr-125-03-000", + "answers": [ + { + "text": "木の棒", + "answer_start": 439, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ラーマ4世とラーマ5世の治世になると、バンコクの人口が増加し、経済発展が進むと、西洋の文化もまた急速に受容されていた。しかし当時、庶民にとってまだ個人の住居敷地に便所を建設することは好まれず、便所は普及していなかった。排便は路地や大通りの脇、寺の壁の脇、水路の岸辺などで済ませていたため、いたるところに糞尿の山が散らばり目も当てられない状況となり、強い臭いを放ち、伝染病の原因ともなっていった。さらに僧院の便所は寺の敷地に中にあったが、便は水に流したり、地面にばら撒いて捨てたりしていたので、動物が漁りに来たり、ゴキブリが集ってしまっていた。そこで、ラーマ5世の治世後期、1897年公衆衛生局が設立され、同年に初めて公衆便所の建設を開始した。この便所はウェートサーターラナ(เวจสาธารณะ:公共の便所)と呼ばれた。公衆便所はさらに建設が進められ、各タムボン、バンコク都内で設置された。さらに時同じくして1897年政府によって「バンコク都公衆衛生法令」を公布し、バンコク都民に排便は便所で行うように規則を課した。さらに政府では同法令、8条2項に「すべての人民のために便所を建設に取り組む」ことを掲げ、衛生局に便所建設に取り組ませた。", + "qas": [ + { + "question": "伝染病の原因となったのは何か。", + "id": "tr-125-04-000", + "answers": [ + { + "text": "排便", + "answer_start": 109, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1897年はラーマ何世の治世か。", + "id": "tr-125-04-001", + "answers": [ + { + "text": "5世", + "answer_start": 278, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "タイ王国にハイタンク式水洗便所が最初に普及したのは、1917年から1947年ごろであり、宮殿や、教育を受けたり、海外で暮らしたりした者のいる所得の高い家でまず導入された。しかしまだ庶民には普及していなかった。次に一般家庭に水洗トイレの設置が増えるのは第二次世界大戦後であり、新しい近代的家屋の建設が行われるようになって、水洗便所が好まれ、次第に設置が進んでいった。タイ政府においても国民に水洗便所もしくはコーハーン式便所の設置を行い、家庭内で使用することを推奨し、1942年ごろから積極的に普及させていった。さらに1960年には、米国の団体USOMの支援を受けて政府が地方衛生衛生改善計画を開始した。この計画では特に便所の建設と国民の便所使用への意識改革が重要な事業になった。", + "qas": [ + { + "question": "タイ王国にハイタンク式水洗便所が最初に普及した年度は?", + "id": "tr-125-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1917年", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "2004年保健局はタイ王国内で1,100カ所の公衆便所を調査し、20県で5,786人が清潔な便所や十分な施設がないとして公衆便所のみを使用している。公衆便所の76%が男女別の便所。身体障がい者用公衆便所は総数の10%。衛生的もしくは中程度の便所は58.9%、不衛生な便所は19.5%である。また34%の公衆便所で悪臭があり、83.6%の人が水にぬれた便座の上で腰を浮かせながら用を足している。また22.1%の人が便座の上に土足で載ったり、便座を上げた上で便器の縁に載ったりして用を足している。さらに6.5%の人が便所を使用した後に手を洗っていないとの結果が出ている。推計によると2006年のタイ王国の公衆便所はノンタブリー県、ロッブリー県、チョンブリー県、ラーチャブリー県、ナコーンラーチャシーマー県、コーンケン県、カムペーンペット県など12県に6,149か所以上設置されているとみられる。2006年3月時点で基準に達していない便所は5,993か所、90%で衛生項目に問題があり、多くはゴミ箱の蓋が閉まらない、トイレットペーパーもしくは洗浄用ホースがない、手洗い用の石鹸がないなどの項目である。アクセシビリティ項目においては76%で問題があり、多くは身体障がい者、高齢者、妊婦に配慮した便所がないなどの項目である。安全項目においては69%に問題があり、男女に分かれていない、乾燥していない土地に立っている、人目につかないところにあるなどの問題がある。2009年保健省は衛生項目、アクセシビリティ項目、安全項目の基準に達しているタイ王国内の公衆便所は40.37%である。基準に達した公衆便所の割合は、デパート88.52%、病院83.11%、道路脇67.02%、観光地62.91%、公園60.06%、市場48.6%、公共施設47.28%、学校44.45%、ガソリンスタンド44.07%、バスステーション41.4%、レストラン36.15%、寺院11.75%である。", + "qas": [ + { + "question": "2009年、基準に達した公衆便所の中で最も高い割合を示しているのは?", + "id": "tr-125-06-000", + "answers": [ + { + "text": "デパート", + "answer_start": 699, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "2005年保健省とタイ国会議展示会事務局(TCEB)はタイ王国の公衆便所を普及開発するための基本計画を策定した。その中で、学校、病院、宗教施設、公園、ガソリンスタンド、市場など11種類の目標地域を定め、衛生(Healthy)、アクセシビリティ(Accessibility)、安全(Safty)の三点を「HAS」評価基準として定め、改善していく計画が実行された。2006年タイ王国は第2回世界トイレ会議(WorldToiletExpo&Forum2006)の主催国となった。この会議は2006年11月16-18日の期間にインパクト・ムアントーンターニーのインパクトアリーナで開催され、アメリカ、イギリス、ドイツ、日本、香港、中国、インドネシア、オーストラリア、インド、シンガポール、ヴェトナムなど世界19か国・地域の代表が参加した。会議は「公衆便所の発展」に関する問題解決の糸口を討議するために行われた。さらにタイ王国における便所の展示紹介や様々な新型便所が紹介も行われた。この会議を通して、トイレ関係者は改めて公衆便所の改善の必要性を確認した。さらに保健局では公衆便所に関する様々な事業を行っている。たとえば「公衆便所監視計画」(ToiletSpy計画)はボランティア参加型の計画であり、市民の代表が注意、管理、巡回監視したり、公衆便所が基準に達するような解決の糸口を保健局に提案したり、実施したりする。また保健局の公式計画として、2006-2009年タイ公衆便所開発計画が策定されており、三つの大きな柱として、衛生、アクセシビリティ、安全の改善を定めている。この計画には内務省地方行政局、天然資源環境省国立公園・野生動物・植物局、石油企業が名を連ね、参加している。", + "qas": [ + { + "question": "2006年、第2回世界トイレ会議に参加した国・地域の代表は何か国・地域の代表であるか。", + "id": "tr-125-07-000", + "answers": [ + { + "text": "19か国・地域", + "answer_start": 349, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "2006年、第2回世界トイレ会議が行われたのは11月16日からいつまでか。", + "id": "tr-125-07-001", + "answers": [ + { + "text": "18日", + "answer_start": 252, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "タイ人のトイレ使用の文化はもともと昔からしゃがみこんで用を足していた。この形態は消化しやすく、繊維の長い食品を食べがちなタイ人の食慣習から、排泄に長い時間をかけずともよく、足がしびれることもないために適している。しかし、消化するのに時間のかかるものを食べがちな食習慣をもつ西洋人にとってしゃがみ込み式の排泄様式は不便であり、椅子式の便座に座って用を足さなくてはいけない。現在生活様式が西洋化しており、タイでもしゃがみこみ式便器が少なくなってきている。便座式水洗便所は、都市農村ともに設置個所が増えてきている。しかし、タイ��は昔からのしゃがみこみ式の排泄様式に慣れているために調査によると22%の人が水洗式便所の座椅子の上に足で載り、しゃがみこんで使用しているという。公衆便所での空室の待ち方は、タイでは個室毎に列を作って待つが、ヨーロッパ、アメリカ、日本および多くの国々では、入り口に列を1列のみ作り、空室ができると初めに列に並んだ人からそれぞれの空いた個室に入る方式を取る。このような待機方法は利点が多く、時間がかからず、また先着先取の原則に従って公正に順番を回すことができる。", + "qas": [ + { + "question": "タイ、アメリカ、ヨーロッパの中、公衆便所で日本と同じ待機方法をとっていない国はどれか。", + "id": "tr-125-08-000", + "answers": [ + { + "text": "タイ", + "answer_start": 347, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "しゃがみ込み式の排泄様式が向いているのはタイ人と西洋人、どちらか。", + "id": "tr-125-08-001", + "answers": [ + { + "text": "タイ人", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "犬小屋_(江戸幕府)", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "犬小屋(いぬごや)は、江戸幕府が設置した犬を収容する施設のことである。\n生類憐みに関する法令が出された5代将軍徳川綱吉政権期に設けられた。\n「御用屋敷」「御囲(おかこい)」「御犬囲」とも呼ばれ、特に中野に造られた犬小屋は「中野御用御屋敷」とも呼ばれた。\n犬小屋に収容された犬や、村預けされた犬は、当時の史料・記録に「御犬(おいぬ)」と記されており、野犬か飼犬かを問わず、犬小屋に収容されたことで幕府管理の犬となり、将軍の権威を帯びた「御犬」となった。", + "qas": [ + { + "question": "犬小屋が設けられた時期の将軍は誰だったの?", + "id": "tr-126-00-000", + "answers": [ + { + "text": "徳川綱吉", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "犬小屋を設置しなければならなくなった法令とは何ですか?", + "id": "tr-126-00-001", + "answers": [ + { + "text": "生類憐みに関する法令", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「御犬」を管理していた政権は何ですか?", + "id": "tr-126-00-002", + "answers": [ + { + "text": "江戸幕府", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「中野御用御屋敷」の所在地はどこでしたか?", + "id": "tr-126-00-003", + "answers": [ + { + "text": "中野", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "犬小屋の広さは、中野は16万坪、大久保がおよそ2万5000坪、四谷の犬小屋は1万8928坪7合だった(『東京市史稿』市街篇十二)。\n若年寄の所管で、中野犬小屋の作事総奉行・米倉昌尹は若年寄に昇進して、犬小屋支配を命ぜられ、元禄11年(1698年)2月14日には4人いた若年寄のうち本多正永が中野の犬小屋の専任担当となり、本多の退任後は同じく若年寄の久世重之が宝永2年(1705年)9月29日から犬小屋を管掌した(「常憲院殿御実紀」)。\nかつて、犬小屋設置は「犬を溺愛した将軍綱吉が、江戸中の野良犬を養うよう強要した政策」とされてきた。\nしかし一方で、伝通院門前町付近の町人が周辺一帯の相当数の犬を犬小屋へ移送することを請願したように、犬小屋の設置が歓迎されていたことを示す文書も少ないながらも存在し、生類憐れみの令の見直しも進み、犬小屋は犬同士または犬と人とのトラブルを回避するために野犬を収容する施設と解釈されるようになっている。", + "qas": [ + { + "question": "中野、大久保、四谷の犬小屋の中で最も狭いのはどこですか?", + "id": "tr-126-01-000", + "answers": [ + { + "text": "四谷", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "米倉昌尹の次の次に犬小屋管理を担当した人は誰ですか?", + "id": "tr-126-01-001", + "answers": [ + { + "text": "久世重之", + "answer_start": 174, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "3カ所あった犬小屋の中で、最も面積が大きい場所はどこでしたか?", + "id": "tr-126-01-002", + "answers": [ + { + "text": "中野", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "本多正永、久世重之、米倉昌尹の中で、2番目に犬小屋管理をした人物は誰ですか?", + "id": "tr-126-01-003", + "answers": [ + { + "text": "本多正永", + "answer_start": 140, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "当初犬小屋は、武蔵国多摩郡世田谷領喜多見村(現・東京都世田谷区)にあった側用人・喜多見重政の陣屋(『新編武蔵風土記稿』第七巻)の敷地内に設けられた。\n喜多見は犬支配役を担当していたが、元禄2年(1689年)2月に綱吉への背信行為によって喜多見氏が断絶した後、この地は天領となり、犬小屋係下役が配置された(竹内秀雄「喜多見の犬小屋」『世田谷』第二十一号)。\n元禄6年2月の「武州喜多見村御用屋鋪諸色御入用帳」(『竹橋余筆』別集収録)によれば、当時は喜多見村の幕府の御用屋敷がこの周辺の天領支配の拠点となっており、ここに40匹ほどの犬が収容施設で飼育されていた。\nこの御用屋敷内に、正月から12月までの354日間に1万3878匹の犬が預けられた。\n病気の犬や子犬のための「介抱所」「看病所」「寝所」のほか、陣屋役所・門番所・台所・舂屋・鶏部屋・鶏遊び所などがあった。\n犬に餌を与え、急病の犬が出た場合には犬医者を呼び寄せて薬を処方していた。\n中間16、7人が介護にあたり、養育のためには約5728人の人手を要した。", + "qas": [ + { + "question": "犬小屋の設置当初は何匹の犬が入っていましたか?", + "id": "tr-126-02-000", + "answers": [ + { + "text": "40匹ほど", + "answer_start": 258, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "犬の養育と介護に携わった人数はどちらが少なかったですか?", + "id": "tr-126-02-001", + "answers": [ + { + "text": "介護", + "answer_start": 427, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "御用屋敷の入用項目として、「重キ病犬」「病犬」「村預り御犬」を介抱するために必要な食料や薪・蝋燭・筵・菰などが記載され、その総額は銀3貫738匁4分5厘(金換算で62両1分余)となった。\nそれ以外にも、重病の犬には、生魚は焼くか、味噌汁の中に入れて煮るかして、毎日朝夕ご飯とともに食べさせる、鰹節は村預かりの犬が病気になって食欲がない時に食べさせるものであるので百姓方へ渡しておく、夏のうち子犬に虫がついた場合には油をつけて櫛で取るなど、養育方法も具体的に示されていた。\n手代や下役人が御囲内の巡回や犬医者の呼び寄せなどの業務を担当し、その諸経費は1日1匹当たり米3勺3才と銀2分7厘であった。", + "qas": [ + { + "question": "犬の介抱に費やされた総額費用はいくらでしたか?", + "id": "tr-126-03-000", + "answers": [ + { + "text": "銀3貫738匁4分5厘", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "村預かりの犬が病気になって食欲不振に陥った時に食べさせる食材とは何ですか?", + "id": "tr-126-03-001", + "answers": [ + { + "text": "鰹節", + "answer_start": 146, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "幕府は、大久保・四谷・中野に犬小屋を新設した。\n喜多見村の御用屋敷が主に病犬を収容したのに対して、ここに収容さ���た犬は飼い主のいない無主犬が中心だった。\nこれは、犬小屋への収容が病犬・子犬の保護から、野犬対策へと比重を移していったと考えられている。\n元禄8年(1695年)3月に、幕府は千駄ヶ谷村(現・東京都渋谷区・新宿区)に犬小屋の建設を決定し、同月30日に普請を担当する奉行として、御側の米倉昌尹と藤堂良直が、助役として松平利直(加賀国大聖寺藩主)が任命された。", + "qas": [ + { + "question": "主に無主犬が収容されたのは、四谷と喜多見村のどちらの犬小屋ですか?", + "id": "tr-126-04-000", + "answers": [ + { + "text": "四谷", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "千駄ヶ谷村に建てる犬小屋の建築工事において、助役の任命を受けた人は誰ですか?", + "id": "tr-126-04-001", + "answers": [ + { + "text": "松平利直", + "answer_start": 212, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "大聖寺藩は元禄8年に毎日5000から6000人の人足を出して四谷犬小屋を建設。\n当初は幕府から犬小屋の建設であることを隠すよう指示され、普請に携わった者たちからも誓詞を取り隠密に実施するように命じていた。\nなお、犬小屋が建設された千駄ヶ谷村内の御用地1万8928坪7合は側用人の柳沢保明(柳沢吉保)らの屋敷を収公したもので、元禄8年4月5日に引き渡された(『東京市史稿』産業篇第八)。\n柳沢吉保には代地として武蔵国豊島郡駒込村(現・東京都文京区・豊島区)の土地4万7000坪が与えられ、その一部が後の六義園となる。\n同時に大久保村(現・東京都新宿区)地内のおよそ2万5000坪の土地にも犬小屋が建設された。\n犬小屋の竣工後、普請に尽力した者たちは、幕府から同年6月1日と2日に時服などが下賜された。\nまた竣工前の5月23日、元禄6年(1693年)9月の鷹遣い停止で鷹狩が廃止になったことで職を解かれた5人の鷹匠が寄合番に役替えとなり、犬小屋の支配となった。", + "qas": [ + { + "question": "共に犬小屋が建設された千駄ヶ谷村内の御用地と大久保村地内の土地は、どちらが面積が小さいですか?", + "id": "tr-126-05-000", + "answers": [ + { + "text": "千駄ヶ谷村内の御用地", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "元禄8年10月に中野の犬小屋建設を開始。\n普請担当の奉行は御側の米倉氏と藤堂氏、助役に津山藩主・森長成と丸亀藩主・京極高或が任命された。\n森長成は11万坪、京極高或は5万坪を担当し、江戸より西に1里(約4キロメートル)離れた中野の田園に、土居を築き、柵を建て、小屋を造った。", + "qas": [ + { + "question": "森長成と京極高或が犬小屋建設で担当した範囲は、どちらが広かったですか?", + "id": "tr-126-06-000", + "answers": [ + { + "text": "森長成", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "中野の犬小屋は、江戸から何方向に1里離れて建設されましたか?", + "id": "tr-126-06-001", + "answers": [ + { + "text": "西", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "犬小屋用地は、中野村の百姓82人と宝仙寺から田畑・屋敷・芝地合わせて反別23町5反4畝10歩、坪数でいえば7万630坪の土地を御用地として収公して犬小屋の建設地とした(中野村「御用地ニ渡候田畑書貫帳」(堀江家文書C七六))。\n元禄15年5月の「中野村亥・子両年御用地相渡候反別之覚」(堀江家文書C77)では元禄8、9年の両年で百姓61名と宝仙寺から田畑反別48町9反、14万6717坪収公されたことが記されており、元禄9年には中野村からさらに田畑反別25町3反6畝7歩を御用地として幕府に引き渡したこととなる。\n「犬小屋御囲場絵図」(堀江家文書S一、元禄10年4月25日作成)によれば、元禄8年には17万9156坪、翌年には10万2330坪の土地で普請が行われ、道路分としてそれぞれ1万1095坪と5071坪も造成された。\n犬小屋全体の御用地は29万7652坪におよび、中野村だけでなく周辺の高円寺村(現・東京都杉並区)などの土地も収公された。", + "qas": [ + { + "question": "元禄8年と翌年の普請をした土地は、どちらの年が広かったですか?", + "id": "tr-126-07-000", + "answers": [ + { + "text": "元禄8年", + "answer_start": 293, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "元禄8、9年の両年を見て、宝仙寺からの田畑反別と、中野村からの田畑反別は、どちらの田畑がより多く幕府に収公されましたか?", + "id": "tr-126-07-001", + "answers": [ + { + "text": "宝仙寺", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "『徳川実紀』元禄8年10月29日条では中野の犬小屋が落成したので大久保の犬小屋担当だった比留間正房にその管理を命じ、11月9日条では寄合番の沢奉実も担当を命じられた。\nそして、風呂屋方・賄方・小普請手代組頭・細工所同心・寄合番下役・小石川御殿番同心組頭・掃除組頭などの役人11人が配下に置かれた(「柳営日次記」)。\n同9年正月29日には納戸同心・腰物同心・賄方・細工方・寄合組などから7人が新たに下役人に任じられた(「柳営日次記」)。\n同年11月13日条には、中野の犬小屋が完成し、江戸の町から集めた犬を10万匹収容、同月29日条には小納戸の落合道富や石原安種が中野犬小屋の奉行になり、役扶持300俵と同心15人が付けられたと記されている。\n同年12月15日には森氏や京極氏をはじめとする関係役人が褒美を与えられた(『徳川実紀』第六篇)。", + "qas": [ + { + "question": "元禄8年11月9日と、同9年正月29日に犬小屋の役人に命じられた人数は、どちらが少なかったですか?", + "id": "tr-126-08-000", + "answers": [ + { + "text": "同9年正月29日", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "中野の犬小屋完成後に、何匹の犬が収容されましたか?", + "id": "tr-126-08-001", + "answers": [ + { + "text": "10万匹", + "answer_start": 252, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "「改正甘露叢」によれば、歩行目付(徒目付)8人と小人目付10人が「当分賄(とうぶんまかない)」として当面の間中野犬小屋の御用を担当し、5人の役人が「当分注進役」を命じられてその連絡役となった。\nそして中野犬小屋に収容された犬の餌代はその周辺地域から徴収する方針が示された。\n元禄8年12月22日に、喜多見村の犬小屋に配属されていた小普請の医師2人が中野の犬小屋担当となり、俸禄を賜った(「常憲院殿御実紀」)。\nこの後も、鷹狩が廃止されたことによって廃職となった鳥見職の者が幾人も犬小屋担当へと異動となった(「改正甘露叢」)。\nほか、病犬のために、柳沢吉保が抱え医師・丸岡某と幕府小普請組医師林宗久に役扶持を与え、犬小屋侍を命じた。\n元禄8年12月7日に丹波国宮津藩藩主・奥平昌成が、来春に増築を完成させるよう、その手伝いを命じられ(「柳営日次記」)、志摩国鳥羽藩藩主・松平乗邑と石見国津和野藩藩主・亀井茲親も手伝いを命じられた。\n元禄10年(1697年)4月には犬小屋とその周辺道路を含めておよそ29万坪余に増築された。\n同時に四谷の犬小屋は廃止されて中野に一本化させることになり、同年6月22日の町触で四谷犬小屋の解体工事の入札希望者が募られた(『江戸町触集成』三三一七号)。", + "qas": [ + { + "question": "中野犬小屋の御用を担当した「当分賄」のうち、歩行目付と小人目付はどちらの人が多かったですか?", + "id": "tr-126-09-000", + "answers": [ + { + "text": "小人目付", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "中野の犬小屋の増築を手伝った鳥羽藩主は誰ですか?", + "id": "tr-126-09-001", + "answers": [ + { + "text": "松平乗邑", + "answer_start": 384, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "犬小屋は、5つの「御囲場」に分けられ、「壱之御囲」が3万4538坪、「弐之御囲」「参之御囲」「四之御囲」がそれぞれ5万坪、「五之御囲」が5万7178坪、総面積24万1716坪であった(「犬小屋御囲場絵図」。白橋聖子・大石学「生類憐みの令と中野犬小屋」東京学芸大学近世史研究会編『近世史研究』第四号」)。\n「元禄九年江戸図」に描かれた「中野御用御屋敷」では、周囲は柵で囲まれ、6つに仕切られた内部は各入口に竹矢来と門が設けられ、門を入ると散らばった犬小屋12棟と役所とみられる建物1棟がある。", + "qas": [ + { + "question": "「壱之御囲」、「参之御囲」、「五之御囲」の中で最も面積が広いのはどれですか?", + "id": "tr-126-10-000", + "answers": [ + { + "text": "「五之御囲」", + "answer_start": 61, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "5つの「御囲場」の総面積のうち、占める面積が最も狭いのはどこですか?", + "id": "tr-126-10-001", + "answers": [ + { + "text": "「壱之御囲」", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "「中野御用御屋敷」内にある建物のうち、犬小屋と役所はどちらの数が多いですか?", + "id": "tr-126-10-002", + "answers": [ + { + "text": "犬小屋", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "支配勘定を務めた大田南畝が寛政12年(1800年)にまとめた『竹橋余筆』に収録された帳簿「元禄九子年中野・四谷・大窪御用屋敷新規修復御勘定帳」には、中野の犬小屋の拡張・修復工事経費が記されていた。\n元禄9年(1696年)の時点で、1棟25坪の犬部屋・犬餌飼部屋は290棟、敷地面積10万坪であった。\n1棟7坪5合の日除け所は295棟、敷地面積10万坪あった。\n1棟6坪の日除け所餌飼所は141棟半。\nその他、子犬養育所は459か所、役人居宅は8か所、御犬小囲舂屋(つきや)、御役屋敷4ヵ所、御用屋敷長屋4棟・食冷まし所5棟・冠木門8か所・医師部屋・医師居宅・女犬養育所・御側衆・御目付衆・奉行小屋・玄関書院・釜屋・井戸・厩・米蔵・塩蔵・味噌蔵・火の見櫓・冠木門\nなどがあった。", + "qas": [ + { + "question": "元禄9年時点での中野犬小屋にあった犬餌飼部屋、日除け所、日除け所餌飼所の中で、2番目に数が多いのはどれですか?", + "id": "tr-126-11-000", + "answers": [ + { + "text": "犬餌飼部屋", + "answer_start": 125, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "御用屋敷長屋、食冷まし所、日除け所餌飼所の中で圧倒的に数が多いのはどれですか?", + "id": "tr-126-11-001", + "answers": [ + { + "text": "日除け所餌飼所", + "answer_start": 185, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "総面積は20万坪超だったが、「子犬養育所」は「御用屋敷の3ヵ所の元御囲内に造った」とあり、5つの御囲のうち3つを解消してその跡地に養育所が造成されていため、当時の犬小屋は東の御囲4万坪と西の御囲6万坪に分かれて運用されていた。\n御犬部屋には1部屋ごとに長さ7寸・幅3寸5分・厚さ7分の檜の番号札が取り付けられ、広囲いの御犬部屋用に299枚、小囲い御犬部屋用に40枚が用意された。\nこの年には修復のため、大工5万7000人余が駆り出され、工事費用総額は2314貫658匁余(金3万8577両余)と米5529石余となった。\n養生のため犬を河原や野辺へ連れ出すこともあり、夜間には手代や下役人が「御囲」内を巡回し警備していた。", + "qas": [ + { + "question": "当時の犬小屋が運用されていた東の御囲と西の御囲は、どちらが広かったですか?", + "id": "tr-126-12-000", + "answers": [ + { + "text": "西の御囲", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "御犬部屋に取り付けられていた檜の番号札��、広囲いの御犬部屋用と小囲い御犬部屋用ではどちらが多く準備されていましたか?", + "id": "tr-126-12-001", + "answers": [ + { + "text": "広囲いの御犬部屋用", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "御犬部屋に取り付けられていた檜の番号札は、長さと幅を比べるとどちらが短いですか?", + "id": "tr-126-12-002", + "answers": [ + { + "text": "幅", + "answer_start": 131, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "元禄11年8月の町触で、京都の町に「疲犬」や病犬が多くいたため、従来から申し渡しているように養育し、病犬や子犬などは檻を拵えて収容するように命じた(『京都町触集成』一七一号)。\n同年9月26日の触書でも、子犬や病犬などは小屋を作って保護するように申し渡されている(『京都町触集成』一七八号)。", + "qas": [ + { + "question": "元禄年代に京都にいた犬の養育方法等の記録がある、書物のタイトルとは何ですか?", + "id": "tr-126-13-000", + "answers": [ + { + "text": "『京都町触集成』", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "大久保・四谷・中野の犬小屋の完成後、江戸中の犬を全て捕らえ、犬小屋への収容を開始した。\n四谷の犬小屋では元禄8年5月25日から開始され、同年6月3日の江戸の町触では、「人に荒き犬」を収容しているので、「人に荒き犬」がいたならば町奉行所に書面をもって届け出るようにと申し渡していた(『江戸町触集成』三二一八号)。\n中野犬小屋への犬の収容は元禄8年11月24日から開始された(『正宝事録』八五四号)。\n犬の捕獲を担当したのは小人目付だった。\n元禄13年(1700年)7月12日の町触では犬を追う小人目付の周囲に集まった見物人が、うまくいっている時は褒め、失敗すると嘲笑するため、目付衆は町奉行に犬移しの際には番人を出して人払いをするよう依頼した(『江戸町触集成』三六三七号)。", + "qas": [ + { + "question": "四谷の犬小屋と中野の犬小屋では、どちらが先に犬の収容が開始されましたか?", + "id": "tr-126-14-000", + "answers": [ + { + "text": "四谷の犬小屋", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "犬を捕まえる役目だったのは何という役職の人でしたか?", + "id": "tr-126-14-001", + "answers": [ + { + "text": "小人目付", + "answer_start": 210, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "小人目付が捕獲した犬を、犬小屋まで移送するのは町人の負担だった。\n犬小屋への犬の移送は、駕籠によるもののほか、刺子に抱え込む、馬車で運ぶなどした。\n町名や「御用犬」と書かれた幟を立て、それぞれの町名主が人足に付き添って中野まで犬を移送することになり、四谷口から中野までの2里余の道路は行き交う隙間がないほどであった(田中休愚著『民間省要』)。\n宝永3年(1706年)8月17日、代官支配地の市ヶ谷薬王寺前町(現・東京都新宿区)の徳兵衛は、町内の母犬2匹と子犬12匹を明後日の19日に中野犬小屋へ移送することを命じられ、その際に勘定奉行の荻原重秀・石尾氏信・中山時春・戸川安廣は、代官の雨宮勘兵衛に犬の移送を要請した(「竹橋蠧簡(ちっきょうとかん)」「宝永三戌年書状留」)。\nこのように、犬移送の決済は、江戸の町であっても代官支配地であれば勘定奉行から代官を通じて行われた。", + "qas": [ + { + "question": "徳兵衛が中野犬小屋への移送を命じられた母犬と子犬は、どちらの数が多かったですか?", + "id": "tr-126-15-000", + "answers": [ + { + "text": "子犬", + "answer_start": 227, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "収容された犬数は、\n中野の犬小屋には約8万2000匹余の犬が収容された、と記録しているのは「政隣記」元禄8年12���6日条。\n中野犬小屋へは毎日30匹から50匹くらいの犬が収容された、と記録しているのは『鸚鵡籠中記』元禄9年6月12日条。\n中野や大久保の犬小屋に収容されていた犬の数は元禄8年10月には4万2108匹、元禄9年6月が4万8748匹、と記録しているのは元禄10年の町奉行所の書上である(『正宝事録』八五四号、『江戸町触集成』三二九五号)。\nそして、不日に十万頭に及ぶといへり(日ならずして十万頭を数えた)、と記録しているのは『徳川実紀』となる。", + "qas": [ + { + "question": "中野や大久保の犬小屋に収容されていた犬の数は、元禄8年10月と元禄9年6月のどちらの記録の方が多いですか?", + "id": "tr-126-16-000", + "answers": [ + { + "text": "元禄9年6月", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『江戸町触集成』、『鸚鵡籠中記』、『徳川実紀』の中で、収容された犬数が最も多い数を記録している書物はどれですか?", + "id": "tr-126-16-001", + "answers": [ + { + "text": "『徳川実紀』", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "町中で飼われている犬は、下屋敷や領地へ移したければ遠慮なく送り、犬小屋でも引き取る旨が申し渡され(『御当家令条』五一五号)、元禄10年7月18日の町触では江戸の町々に「残犬」や「紛犬」の犬数を調査するよう命じ(『江戸町触集成』三三三二号)、同16年10月の町触では無主犬が多く集まって町内の人々や道路往来の者たちの支障になっていたため、町奉行所に届け出るように申し渡した(『江戸町触集成』同三八二九号)。", + "qas": [ + { + "question": "江戸の町々に「残犬」や「紛犬」の犬数を調査するよう命じた町触が出たのはいつですか?", + "id": "tr-126-17-000", + "answers": [ + { + "text": "元禄10年7月18日", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "犬小屋が設けられた理由は、江戸の町中に犬が増えすぎたために発生した問題を解決するためと考えられている。\n綱吉が元禄6年(1693年)に放鷹制度を全面的に廃止したことから鷹の食餌用の犬の需要が無くなったこと、犬を食べる習俗があったかぶき者が大量検挙されて食犬の習慣も廃れたことで、江戸の町中や近郊では野良犬が増え、野犬が捨子を捕食するという事態も起きていた。\nしかし、根崎光男や山室恭子は犬愛護令を出してもそれが守られず、かえって犬を殺し虐待する町人が増えてきたため、幕府自ら犬殺しを未然に防止し、病犬・子犬・捨て犬を保護するための犬の収容施設を造ることになったと考えている。\n犬小屋設置は都市問題としての野犬収容や狂犬病の対策としても機能した。\n犬小屋への犬収容の直前にあたる元禄8年10月に、子犬を捨てた辻番が引き回しの上、浅草で斬首刑・獄門になっている(『御仕置裁許帳』六八六号)。\nこれは、法令を守らない町人たちへの見せしめ効果を強く意識しての措置だと山室は考えている。", + "qas": [ + { + "question": "放鷹制度を廃止した人は誰ですか?", + "id": "tr-126-18-000", + "answers": [ + { + "text": "綱吉", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "子犬を捨てた辻番が町人たちへの見せしめとして斬首刑になったのは、いつ起こりましたか?", + "id": "tr-126-18-001", + "answers": [ + { + "text": "元禄8年10月", + "answer_start": 338, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "山室恭子はさらに、綱吉の側用人・柳沢吉保の日誌「楽只堂年録」元禄十六年十二月六日条に「御城下民間にて養へる犬」を中野犬小屋に収容して養育し、餌代は「犬の元主」より出させたとあることから、飼い犬の収容施設だったという説を提唱している。\nこの説に対し根崎は、「御城下民間にて養へる犬」がペットとしての飼い犬とは限らず「食物を与えることを命じられた無主犬や病犬・子犬」も含まれたのであろうと考えている。\n餌代を供出させられた「犬の元主」という記述も、犬小屋の維持費用が江戸の町々から公役の賦課単位である小間を基準に徴収されたことから、江戸町人の多くが「犬の元主」に該当するとしている。", + "qas": [ + { + "question": "江戸の犬小屋が、飼い犬の収容施設だったのではと説いている人物は誰ですか?", + "id": "tr-126-19-000", + "answers": [ + { + "text": "山室恭子", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "四谷での犬の収容が開始された当初、町触では「人に荒き犬」を収容しているとあり、ただの無主犬ではなく獰猛な犬の収容が目的で、都市問題としての野犬対策の色彩が強く、人と猛犬との対立激化を避ける狙いがあった。\n塚本学も、江戸の町に横行する多数の犬が町民とのトラブルを発生させていたことから、野犬公害への対策として犬の収容所を造ったと考えている(『生類をめぐる政治』、平凡社ライブラリー)。\n同時に、四谷の犬小屋へ江戸の雌犬を全て収容するという記録もあり、犬の繁殖を阻止する目的もあった(「残嚢拾玉集」『加賀藩史料』第五篇)。\nしかし、田中休愚は犬小屋に収容された犬の養育のむごさやその餌となる米穀調達の困難さなど矛盾に満ちた犬小屋運営を嘆き(『新訂民間省要』)、『三王外記』には「是に於て群狗相闘ひ、或ひは傷つき、或ひは死す。奴之を救ふて亦た傷つく者あり」と書かれた。\nまた、犬の殺害・虐待を防ぐという目的に反し、中野の犬小屋が設置された後に小石川馬場のほとりに2匹の白い子犬が捨てられていたため、捨て犬への詮議を厳しくするよう通達がなされた(『柳営日次記』元禄八年十二月二十一日条、)。\n翌9年8月に犬を斬った者が2名捕まり、1人は遠島、もう1人は市中引き回しの上、浅草で斬罪となった(『元禄宝永珍話』巻一)。", + "qas": [ + { + "question": "犬の繁殖防止対策として、江戸の全ての雌犬はどこの犬小屋に収容されましたか?", + "id": "tr-126-20-000", + "answers": [ + { + "text": "四谷", + "answer_start": 196, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "元禄9年8月に犬を斬って捕まった2人のうち、死刑とならなかった者はどのような罰を受けましたか?", + "id": "tr-126-20-001", + "answers": [ + { + "text": "遠島", + "answer_start": 514, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "野犬公害への対策として犬の収容所を造ったと説いている人物は誰ですか?", + "id": "tr-126-20-002", + "answers": [ + { + "text": "塚本学", + "answer_start": 102, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "幕府の犬の保護政策の一環として、犬小屋以外に預けて養育する制度もあった。\nこの制度は元禄5年以前からすでにあり(元禄6年2月の「武州喜多見村御用屋鋪諸色御入用帳」)、これは中野の犬小屋運営の際にも採り入れられた。\nこの制度は、犬小屋を補完し、より多くの犬を保護することを目的として、中野村をはじめとする周辺村落に犬が預けられた。\nこの村預けの費用として、宝永3年(1706年)から同5年までに幕府が払った養育料は3万5000余両となった。\n犬小屋の拡張を終了した段階から収容されていた犬を積極的に江戸周辺農村に預け、それに伴い犬小屋を縮小していった(白橋聖子・大石学「生類憐みの令と中野犬小屋」東京学芸大学近世史研究会編『近世史研究』第四号」)。", + "qas": [ + { + "question": "村預けの費用として1706年から2年間の間で幕府はいくらの養育料を払いましたか?", + "id": "tr-126-21-000", + "answers": [ + { + "text": "3万5000余両", + "answer_start": 206, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "村預けの記録がある文献は何ですか?", + "id": "tr-126-21-001", + "answers": [ + { + "text": "「武州喜多見村御用屋鋪諸色御入用帳」", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ある心の風景", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "『ある心の風景』は、梶井基次郎の短編小説だ。全6章から成る。京都三高時代の心情を素材に、見つめる風景や事物に自己が投影されることで情景と内面とが融合した「心の風景」が作り出される状態の実感を綴った断想的作品だ。対象との交感により暗い鬱屈した気持から解放される瞬間の心の微妙な感覚を、俯瞰的なもう一つの自己の視点で捉えることで、さらにその浄化の状態がもたらされることに自覚的になった意識が描かれ、その後の作品に連なる自我分離や死の意識の萌芽が見られる転換的な作品でもある。第4章の「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分或ひは全部がそれに乗り移ることなのだ」というモノローグは、梶井文学特有の「存在と認識の交換」的な感覚体験が集約されている言葉として、梶井基次郎を論ずる際によく引用される有名な一節である。", + "qas": [ + { + "question": "『ある心の風景』は長編なの、短編なの?", + "id": "tr-127-00-000", + "answers": [ + { + "text": "短編", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『ある心の風景』は何を素材に書かれましたか。", + "id": "tr-127-00-001", + "answers": [ + { + "text": "京都三高時代の心情", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「視ること、それはもうなにかなのだ。自分の魂の一部分或ひは全部がそれに乗り移ることなのだ」というモノローグは『ある心の風景』の何章に出てくるの?", + "id": "tr-127-00-002", + "answers": [ + { + "text": "第4章", + "answer_start": 235, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "『ある心の風景』は1926年8月1日発行の同人誌『青空』8月号に掲載された。その後、基次郎の死の前年の1931年5月15日に武蔵野書院より刊行の作品集『檸檬』に収録された。同書には他に17編の短編が収録されている。\n\n翻訳版は、RobertAllanUlmer、StephenDodd訳によりアメリカ、GuidoWoldering訳によりドイツで行われている。", + "qas": [ + { + "question": "『ある心の風景』のドイツ版は誰が訳したの?", + "id": "tr-127-01-000", + "answers": [ + { + "text": "GuidoWoldering", + "answer_start": 151, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "作品集『檸檬』には何編の短編が収録されているか。", + "id": "tr-127-01-001", + "answers": [ + { + "text": "17編", + "answer_start": 92, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『ある心の風景』はどの雑誌に掲載されたか。", + "id": "tr-127-01-002", + "answers": [ + { + "text": "『青空』", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "蓮田善明", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "蓮田善明は、日本の国文学者、国学研究者、文芸評論家、国語教員、詩人である。出身は熊本県だ。広島文理科大学の国語国文学科を卒業した。文武両道の人として知られる。\n\n広島高等師範学校時代、斎藤清衛の門下となり、同校出身の清水文雄、栗山理一、池田勉と共に同人月刊誌『文藝文化』を創刊。日本浪曼派として活躍した。のちに同人に加わった青年期の三島由紀夫に期待をかけ思想形成に多大の影響を与えたことでも知られる。\n\n陸軍中尉でもあった蓮田は、太平洋戦争時の出征地・イギリス領マラヤのジョホールバルにおいて、敗戦直後の連隊長の変節ぶりに憤り、隊長を射殺。そ���直後自身も同じ拳銃で自決した。\n\n著書に『鴎外の方法』『預言と回想』『古事記学抄』『本居宣長』『花のひもとき』『鴨長明』『神韻の文学』、他に小説的作品『有心』などがある。", + "qas": [ + { + "question": "蓮田善明の出身県は?", + "id": "tr-128-00-000", + "answers": [ + { + "text": "熊本県", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "蓮田善明が卒業した大学は?", + "id": "tr-128-00-001", + "answers": [ + { + "text": "広島文理科大学", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "蓮田善明の大学の専門は何?", + "id": "tr-128-00-002", + "answers": [ + { + "text": "国語国文学", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『花のひもとき』の著者は誰ですか。", + "id": "tr-128-00-003", + "answers": [ + { + "text": "蓮田善明", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "蓮田善明は1904年7月28日、熊本県鹿本郡植木町14の浄土真宗大谷派本願寺末寺の金蓮寺住職の父・蓮田慈善と、母・フジの三男として誕生した。兄2人、姉2人がいた。\n\n植木町には、西南戦争最大の激戦地・田原坂があり、町のはずれにある千本桜付近は、少佐・乃木希典が西郷軍に軍旗を奪われた場所である。植木町鐙田には鐙田杵築神社もあるが、この鐙田杵築神社と新開大神宮を尊崇していた林桜園は、熊本神風連の師であった。善明は杵築神社の宮司の息子と親友同士だった。", + "qas": [ + { + "question": "蓮田善明はいつ生まれたの?", + "id": "tr-128-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1904年7月28日", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "蓮田善明には兄が何人いたか。", + "id": "tr-128-01-001", + "answers": [ + { + "text": "2人", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "蓮田善明は1917年3月、植木尋常小学校を卒業し、4月に熊本県立中学済々黌に入学した。1年生の時に級友の丸山學、中川軍太郎らと回覧雑誌『護謨樹』を作り、短歌・俳句・詩を発表して文芸に親しむようになった。\n\n1918年の9月から肋膜炎に罹り、翌1919年3月まで休学した。詩「人は死ぬものである」の内容から、独特の死生観を思索し、少年期から徹底した悟達ぶりが見て取れる。その後『護謨樹』に板井一明が参加し、新たに『耕土』を発行して卒業後も続けた。\n\n1923年3月、中学済々黌を卒業し、4月に広島高等師範学校文科第一部に入学した。国文学の教授・斎藤清衛博士から強い影響を受け、古典精神へ傾倒していった。蓮田は同校の学芸部の校友会誌『曠野』の編集委員となり、詩や小説、評論などを発表。その文名を謳われた。学芸部の代表委員をしていた4年の時の後輩に2年の清水文雄(年齢は清水が最年長)、1年の栗山理一、池田勉がいた。", + "qas": [ + { + "question": "蓮田善明は植木尋常小学校を卒業し、どの学校に入学したか。", + "id": "tr-128-02-000", + "answers": [ + { + "text": "熊本県立中学済々黌", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "蓮田善明が1年生の時に級友の丸山學、中川軍太郎らと作った回覧雑誌は何ですか。", + "id": "tr-128-02-001", + "answers": [ + { + "text": "『護謨樹』", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "蓮田善明は何年に広島高等師範学校文科第一部に入学したか。", + "id": "tr-128-02-002", + "answers": [ + { + "text": "1923年", + "answer_start": 224, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "蓮田善明はいつ中学済々黌を卒業したの?", + "id": "tr-128-02-003", + "answers": [ + { + "text": "1923年3月", + "answer_start": 224, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "蓮田善明は1927年3月、広島高等師範学校を卒業すると、そのまま鹿児島歩兵第45連隊に幹部候補生として10か月間入隊した。1928年1月31日に除隊した後、4月に岐阜県立第二中学校に教員として赴任した。同年6月に郷里・植木町の医師・師井淳吾の娘・敏子と結婚した。4歳年下の敏子とは小学生の時から顔見知りで、敏子の父親が開業する医院に、熊蜂に刺された小学校5年生の蓮田少年が来院したこともあった。\n\n1929年4月、長野県立諏訪中学校に転任するが、1931年2月から雑誌『国語と国文学』に評論を発表し初めていた蓮田は向学心に燃え、1932年3月に同校を退職し、4月に、27歳で広島文理科大学国語国文学科に入学した。この年に上海事変が始まり、五・一五事件が起こった。\n\n翌1933年9月、蓮田は同人研究紀要『国文学試論』を春陽堂から発行した。この『国文学試論』の同人は、清水文雄、栗山理一、池田勉を加えた4人で、のちの『文藝文化』の母胎となる。この時、清水は成城高等学校に赴任して2年目で、栗山は大阪府立中学校の教師になったばかりであった。\n\n1935年3月に広島文理科大学を卒業し、4月に台中商業学校に赴任し、妻子と共に台湾に渡った。翌1936年8月に大阪堺市の栗山理一宅で、伊東静雄と初めて逢った。この年の2月に二・二六事件が起こり、翌1937年には支那事変が勃発して日中戦争となった。執筆活動は『国文学試論』の他、『国語と国文学』などで続けられた。", + "qas": [ + { + "question": "蓮田善明はいつ広島高等師範学校を卒業したの?", + "id": "tr-128-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1927年3月", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "蓮田善明は1928年1月31日に除隊した後、どの学校に教員として赴任したか。", + "id": "tr-128-03-001", + "answers": [ + { + "text": "岐阜県立第二中学校", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "蓮田善明は何年に敏子と結婚したの?", + "id": "tr-128-03-002", + "answers": [ + { + "text": "1928年", + "answer_start": 61, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "蓮田善明はいつ広島文理科大学を卒業したの?", + "id": "tr-128-03-003", + "answers": [ + { + "text": "1935年3月", + "answer_start": 470, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1938年4月、蓮田善明は成城高等学校の教授に転任した。住居を東京市世田谷区祖師谷2丁目に移した。成城高等学校は清水文雄が勤務していたが、清水の学習院中等科転任により、蓮田が後任となった形であった。\n\n転任早々、清水文雄、栗山理一、池田勉と共に、「自ら神となって文学を新しくする日本に」という日本学の樹立のために「日本文学の会」を結成した。同年7月に、蓮田を編集兼名義人として同会の国文学月刊誌『文藝文化』を創刊し、7月28日から4日間、高野山において「日本文学講筵」を開催した。\n\n誌名の由来は、斎藤清衛から『文學道』はどうだと提案されたことと、蓮田ら同人が尊敬していた垣内松三の『国語文化』という雑誌があったことから、それらをヒントにして名付けた。この年には、同じく日本浪曼派の保田與重郎が、林房雄、萩原朔太郎、浅野晃、佐藤春夫らと共に、『新日本』を創刊している。『文藝文化』は、『日本浪曼派』(1935年3月創刊)、『コギト』と並列して位置づけられる雑誌となり、日本浪曼派の一翼を担った。", + "qas": [ + { + "question": "蓮田善明が1938年4月に教���に転任した学校は?", + "id": "tr-128-04-000", + "answers": [ + { + "text": "成城高等学校", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "蓮田善明は「自ら神となって文学を新しくする日本に」という日本学の樹立のために何を結成したか。", + "id": "tr-128-04-001", + "answers": [ + { + "text": "「日本文学の会」", + "answer_start": 156, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1941年1月、阿蘇垂玉温泉の山口旅館に滞在し、小説「有心」を執筆した。同月に『預言と回想』を刊行。2月に成城高等学校で再び教鞭をとることになった蓮田は単身で上京し、4月に「鴨長明」1回目を『文藝文化』に発表した。6月、創作活動の利便を図るため、家族を連れて東京市世田谷区宇奈根824に居を定め、9月に「森鴎外」を『文藝世紀』に発表した。蓮田は、「狭い借屋住いの中で子供はうるさいから早く寝せろ」と、叱りながらも勉学に励んでいた。長男の晶一が風邪で夜中に熱を出し、妻が医者を呼んで来てほしいと頼んでも、それほどの病気でないと判断すると、夜道は物騒だからと、そのまま寸暇を惜しむように原稿書きを続けた。\n\n同年夏、『文藝文化』同人の伊豆市修善寺温泉での編集会議で、清水文雄から学習院中等科の生徒・平岡公威の作品「花ざかりの森」を見せられ、同人らと「天才」の出現を祝った。「三島由紀夫」という筆名を付けられた当時16歳の少年の「花ざかりの森」第1回を掲載した『文藝文化』9月号の編集後記の中で蓮田は、〈この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である〉と紹介して激賞した。蓮田はその後、この作品の出版の手筈にも尽力した。", + "qas": [ + { + "question": "「鴨長明」1回目は何月に発表されたの?", + "id": "tr-128-05-000", + "answers": [ + { + "text": "4月", + "answer_start": 83, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「森鴎外」は何月に発表されたの?", + "id": "tr-128-05-001", + "answers": [ + { + "text": "9月", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「鴨長明」と「森鴎外」と、より早く発表されたのはどちらですか。", + "id": "tr-128-05-002", + "answers": [ + { + "text": "「鴨長明」", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1945年8月15日、日本軍の降伏により終戦の詔書が昭和天皇よりなされた。しかし不敗を誇る士気旺盛な熊本歩兵部隊は、もしも連合軍により天皇に戦争責任が負わされる場合を危惧し、軍独自の行動として板垣征四郎大将をいただき最後の一兵まで抗戦すべしと意気に燃えていた。\n\n青年将校らの計画は極秘に鳥越大尉により抵抗部隊が編成されつつあった。善明はその抵抗部隊の大隊長に擬せられていた。この不穏な動きを察知した中条豊馬大佐は、抵抗部隊編成を制するため、下士官以上を本部の奥にある山上の新王宮に集め、8月18日に軍旗告別式を決行し、訓示をした。鳥越春時大尉の記憶によると、「敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた」という。", + "qas": [ + { + "question": "昭和天皇によって終戦の詔書がなされたのはいつなの?", + "id": "tr-128-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1945年8月15日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "木星", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "木星は太陽系にある惑星の1つで、内側から5番目の公転軌道を周回している第5惑星である。太陽系の中で大きさ、質量ともに最大の惑星である。\n\n木星およびそれと同様のガスを主成分とする惑星である土星のことを木星型惑星���呼ぶ。かつては天王星、海王星も木星型惑星に含まれていたが、現在ではこれらの二惑星は天王星型惑星に分類されている。\n\n木星は古代から知られ観測されてきた。そして多くの文明で神話や信仰の対象となった。英語Jupiter(ジュピター)は古代ローマ神話の神ユーピテルを語源とする。", + "qas": [ + { + "question": "太陽系の第5惑星は何ですか。", + "id": "tr-129-00-000", + "answers": [ + { + "text": "木星", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "英語Jupiter(ジュピター)は何を語源としますか。", + "id": "tr-129-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ユーピテル", + "answer_start": 230, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "木星の赤道傾斜角は、3.08°-3.12°と水星に次いで小さく、自転軸がほぼ垂直である。このため、地球などに見られるような、気象現象の季節変化はあまりないと推測されている。ところが、木星表面の温度は極部分と赤道部分でほとんど差がない。さらに木星の表面温度はマイナス140°C程度だが、これは太陽からの輻射熱だけで計算されるマイナス186°Cよりも高い。このようなことから、木星は内部から熱を発していると考えられる。太陽から受ける熱量の2倍に相当する熱量の熱源は、水素より重いヘリウムが中心に沈む際に生じる重力エネルギーではないかと考えられている。", + "qas": [ + { + "question": "木星と水星と、赤道傾斜角がもっと小さいのはどっち?", + "id": "tr-129-01-000", + "answers": [ + { + "text": "水星", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "木星の表面温度は何度?", + "id": "tr-129-01-001", + "answers": [ + { + "text": "マイナス140°C程度", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "2018年7月現在、木星には衛星が79個発見されている。そのうち53個は直径10キロに満たない小さなもので、54個は母星となる木星の自転方向とは反対の公転軌道を持つ逆行衛星であることが確認されている。そのうち、大きな4つの衛星であるイオ、エウロパ、ガニメデ、カリストはガリレオ衛星と呼ばれる。\n\nイオ、エウロパ、ガニメデの3つは軌道共鳴状態にある。イオが木星を1周する間にエウロパは約1/2周、ガニメデは約1/4周する。このためこれら3衛星には特定の場所で重力の共鳴作用が起き、そのとき公転軌道は楕円形になる。なお、木星からの潮汐力は衛星の公転軌道を円型にしようと働く。", + "qas": [ + { + "question": "2018年7月の時点で、木星には衛星がいくつ発見されていますか。", + "id": "tr-129-02-000", + "answers": [ + { + "text": "79個", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "木星の衛星のうち、直径10キロに満たない小さなものは何個ある?", + "id": "tr-129-02-001", + "answers": [ + { + "text": "53個", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "夜、そして太陽が低いときに地上から視認できた木星は古代から知られていた。古代バビロニアでは、木星は神マルドゥクと同一視されていた。彼らは、木星の黄道に沿う約12年にわたる周期を用いて、黄道十二星座の各星座を定めていた。\n\n英語のジュピター(Jupiter)は、ギリシア神話のゼウスと同一とみなされるローマ神話の神ユーピテルを語源とする。この名はインド・ヨーロッパ祖語におけるDyēu-pəterが変化した呼称であり、その意味は「天空の父たる神(\"OFatherSky-God\")」または「日の父たる神(\"OFatherDay-God\")」である。英語における木星の形容詞jovianは、古くはjovialとも書かれ、これは同時に「陽気な、愉快な、幸せな」などの意味を持ち、中世の占星術師から守護惑星の意味として使われた。\n\n中国では、黄道に沿った公転周期がほぼ12年であることから、十二次を司るもっとも尊い星として「歳星」と呼ばれた。また、道教においては天形星の名で神格化され、牛頭天王さえ喰らう凶神として恐れられた。", + "qas": [ + { + "question": "古代バビロニアでは、木星を何と同一視したか。", + "id": "tr-129-03-000", + "answers": [ + { + "text": "神マルドゥク", + "answer_start": 49, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ローマ神話の神ユーピテルはギリシア神話の誰と同じなの?", + "id": "tr-129-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ゼウス", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "中国では木星をもっとも尊い星として何と呼びましたか。", + "id": "tr-129-03-002", + "answers": [ + { + "text": "「歳星」", + "answer_start": 407, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1610年にガリレオ・ガリレイは、望遠鏡を用いて木星に4つの衛星を発見した。これらは地球の月以外では初めて発見された衛星で、今日ではガリレオ衛星と呼ばれるイオ・エウロパ・ガニメデ・カリストである。これは同時に、地球以外の天体力学の中心が初めて見つかった例でもあり、ニコラウス・コペルニクスの地動説を支持する有力な証拠とガリレオは主張したが、そのために彼は異端審問にかけられた。\n\n1660年代、ジョヴァンニ・カッシーニは新型の望遠鏡を用いて観測を行い、木星表面の斑や多彩な帯を発見した。さらに、惑星全体が極方向でつぶれた扁平状であることも視認した。これらの観察から、彼は木星の自転時間を計算し、1690年には大気が差動回転を起こしていることにも気づいた。\n\n南半球にある木星を特徴づける大赤斑は、1664年にロバート・フックが発見したとも、1665年にカッシーニが発見したとも言われる。その詳細は1831年に薬剤師でもあったハインリッヒ・シュワーベが初めて記録した。記録によると、大赤斑は1665年から1708年の間には見つけられなくなり、1878年ごろからしだいに見えるようになった。1883年以降、今日に至るまで大赤斑は一貫して観測され続けている。\n\n1892年、エドワード・エマーソン・バーナードはカリフォルニアのリック天文台にある36インチ屈折望遠鏡を使って、木星5番目の衛星アマルテアを発見した。優れた視力を生かした彼の発見は、目視観測で発見された最後の衛星となった。\n\n1932年、ルーペルト・ヴィルトは木星のスペクトルを解析し、アンモニアとメタンの吸収線があることを示した。\n\n1938年には白斑と呼ばれる永続的な3つの高気圧性の楕円斑が見つかった。これは数十年間にわたって個別に存在し、時に近づくことがあっても合体することなく存在した。しかし1998年には2つが合わさり、2000年に残りのひとつも含まれてオーバルBAとなった。", + "qas": [ + { + "question": "1610年にガリレオ・ガリレイは、木星にいくつの衛星を発見したか。", + "id": "tr-129-04-000", + "answers": [ + { + "text": "4つ", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ガリレオ衛星と呼ばれる衛星は何ですか。", + "id": "tr-129-04-001", + "answers": [ + { + "text": "イオ・エウロパ・ガニメデ・カリスト", + "answer_start": 77, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "木星5番目の衛星アマルテアは何年に発見されたの?", + "id": "tr-129-04-002", + "answers": [ + { + "text": "1892年", + "answer_start": 528, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "木星のスペクトルを解析し、アンモニアとメタンの吸収線があることを示した学者は誰なの?", + "id": "tr-129-04-003", + "answers": [ + { + "text": "ルーペルト・ヴィルト", + "answer_start": 647, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "通過ではなく木星を周回しつつ、観測を行った探査機はガリレオのみであり、1995年12月7日に周回軌道へ投入されてから7年間にわたってガリレオ衛星やアマルテアなどのフライバイを含む観測を行った。それに先立つ1994年にはシューメーカー・レヴィ第9彗星の衝突が起こった際に、探査機ガリレオは通常では望めない位置にいたこともあって観測を行った。しかし、木星系にたどり着いたあとに観測で得た情報が膨大になったうえ、高利得電波アンテナを展開させることに失敗し、情報発信に制限がかかってしまった。\n\n1995年7月にはプローブが切り離され、12月7日には木星大気の探測が始められた。プローブはパラシュートを開いて深度159キロメートルに到達する75分間データを送信し続け、機能を停止した。その位置は、気圧は地球の約28倍、温度は185°Cに達していた。プローブは溶解してしまったものと思われる。探査機ガリレオは使命を終えると、エウロパのような生命が存在する可能性を持つ衛星に落下しないように、2003年9月21日に意図的に木星内へ時速50キロ以上の速度で落とされた。", + "qas": [ + { + "question": "通過ではなく木星を周回しつつ、観測を行った唯一の探査機は何?", + "id": "tr-129-05-000", + "answers": [ + { + "text": "ガリレオ", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "地球上から観測すると、木星は太陽・月・金星に続いて4番目に明るく見える天体である。しかし、時に火星が木星よりも明るく見えることがある。これは、太陽と木星と地球の相対的な位置が関係し、木星が太陽との衝にあるときは−2.9等級、合にあるときには−1.6等級と明るさが移り変わるためである。また、角直径も50.1-29.8秒までの間を変化する。\n\n位相角は最大11.5度であるため、地球から見ると木星には影で欠ける食がほとんど視認できない。", + "qas": [ + { + "question": "地球上から4番目に明るく見える天体は何?", + "id": "tr-129-06-000", + "answers": [ + { + "text": "木星", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "地球上で、金星と木星と、どっちの方が明るく見える?", + "id": "tr-129-06-001", + "answers": [ + { + "text": "金星", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "JT女性社員逆恨み殺人事件", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "JT女性社員逆恨み殺人事件の元死刑囚M・T(姓名のイニシャル、以下の文中では姓イニシャル「M」で表記)は1942年5月15日に日本統治時代の朝鮮・京城府で5人兄弟姉妹の次男として生まれ、2008年2月1日に法務大臣・鳩山邦夫の死刑執行命令により収監先・東京拘置所で死刑を執行された。事件当時は身長180cmほどの大柄な体格で、千葉県船橋市咲が丘四丁目在住の54歳・土木作業員だった。\n\nMの父親は郵便配達員で、Mは終戦後に家族とともに朝鮮半島から日本へ引き揚げ、1947年ごろからは福岡県戸畑市に居住し、1958年3月に同市内の中学校を卒業してからは九州などで映写技師見習いとして働くようになったが、映画産業の斜陽化により5年ほどで退職し、塗装店・映画館従業員などの職を転々とするようになった。", + "qas": [ + { + "question": "Mは何年生まれなの?", + "id": "tr-130-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1942年", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "Mはいつ死んだの?", + "id": "tr-130-00-001", + "answers": [ + { + "text": "2008年2月1日", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "Mの父親の職業は何でしたか。", + "id": "tr-130-00-002", + "answers": [ + { + "text": "郵便配達員", + "answer_start": 198, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "Mは何年に中学校を卒業したか。", + "id": "tr-130-00-003", + "answers": [ + { + "text": "1958年", + "answer_start": 252, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "Mは34歳だった1976年(昭和51年)8月に広島県広島市内で別れ話の諍いから交際相手の少女・甲(当時16歳・高校2年生の女子高生)を殺害して懲役10年の刑に処された前科があった。\n\nMは1976年5月6日-8月10日ごろまで下関市内のストリップ劇場「下関ショー劇場」で照明係として働いていたが、その際に当時家出中だった私立高校2年の女子高生・甲と偶然知り合い、肉体関係を持った。Mは1976年8月6日に勤務先の劇場へ「甲を劇場で働かせてほしい」と頼み込んだが未成年であることを理由に断られたため、8月10日夜には甲とともに2人で職を探しに広島市へ向かい、8月11日に2人で広島市田中町のホテルに投宿した。しかし広島でも甲が未成年であることから職がなかなか決まらず、「ホテルで生活を続けると金銭がかさむ」として甲を足手まといに感じるようになったことに加え、既に「両親の下に帰る」という意思を固めていた甲から邪険な態度を取られるようになった。そのため恋着の情が憎悪に転じるとともに、甲が自分の思い通りにならなくなった憤激も加わり、Mは1976年8月12日6時ごろに宿泊先のホテルの一室で確定的な殺意の下に浴衣の紐で甲の首を絞め絞殺し、翌8月12日朝になって1人でフロントに現れ「11時ごろには帰って来る」と従業員に告げてホテルを出た。その後は山陽新幹線や電車を乗り継いで大阪府大阪市まで逃亡し、「生田安治郎」の偽名で同市港区の簡易宿泊所に潜伏していた。", + "qas": [ + { + "question": "甲がMと偶然知り合った時、甲は高校何年生だった?", + "id": "tr-130-01-000", + "answers": [ + { + "text": "2年", + "answer_start": 164, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "Mはいつ勤務先の劇場へ「甲を劇場で働かせてほしい」と頼み込んだの?", + "id": "tr-130-01-001", + "answers": [ + { + "text": "1976年8月6日", + "answer_start": 192, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "甲は誰に殺されたの?", + "id": "tr-130-01-002", + "answers": [ + { + "text": "M", + "answer_start": 464, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "一方で8月12日昼ごろ、Mとともに宿泊していた甲が一向に起きてこないことを不審に思ったホテル従業員がホテル和室で甲の遺体を発見して広島東警察署に110番通報し、広島県警捜査一課は本事件を殺人事件と断定して捜査を開始した。その結果、翌8月13日には遺体の身元が甲と断定され、同時に現場から採取された指紋が前歴者カードに記録されていたMの指紋と一致することが判明したため、同日朝になって広島県警捜査一課・広島東署は被疑者Mを殺人容疑で全国に指名手配した。その後、8月24日夜になって港警察署(大阪府警察)へ匿名で「新聞に載っていたMによく似た男が泊まっている」と110番通報が寄せられ、Mは翌25日早朝に駆け付けた大阪府警機動捜査員・港署員により殺人容疑で逮捕された。被告人Mは1977年1月14日に広島地方裁判所で懲役10年の有罪判決を言い渡され、後述の仮出所まで約8年間にわたり岡山刑務所に服役した。", + "qas": [ + { + "question": "Mは仮出所まで約何年間、岡山刑務所に服役したか。", + "id": "tr-130-02-000", + "answers": [ + { + "text": "約8年", + "answer_start": 381, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "Mはいつ懲役10年の有罪判決を受けたか。", + "id": "tr-130-02-001", + "answers": [ + { + "text": "1977年1月14日", + "answer_start": 337, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "本事件の被害者女性Aは埼玉県の農家夫婦の下にて三女として生まれ育ち、1971年に地元の県立商業高校を卒業して日本専売公社へ入社し、本事件で死亡するまで約26年間にわたって精勤していた。農家の長男との見合い話が数多く寄せられていたが、すべて「仕事を辞めたくない」との理由で断っており、入社後は主に東京専売病院で事務職を務め、本事件前年の1996年7月にJT東京支店へ異動してからは社員の産休・育児休暇などの事務を担当していた。一方で個人的に女性地位・権利を向上させる運動にも関心が高く、「(男女雇用機会)均等法ネットワーク」などの会合に参加して女性問題について熱心に活動していた。", + "qas": [ + { + "question": "Aはいつ高校を卒業したの?", + "id": "tr-130-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1971年", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "受刑者Mは1984年12月20日に岡山刑務所を仮出所すると、千葉県船橋市内に転居していた両親の下へ身を寄せ、地元の映画館で映写技師として働いた。その後は東京都内で住み込みの建設作業員などとして働くようになったが、1987年末-翌1988年初めにかけて東京都内で自動車を盗み、その盗難車を無免許で運転したとして、窃盗・道路交通法違反の罪で1988年3月10日に東京地方裁判所で懲役1年2月の実刑判決を受け、1989年2月15日に46歳で仮出所するまで府中刑務所に服役した。\n\n加害者Mは被害者Aへの強姦致傷事件を起こした1989年12月当時、船橋市内の母親の実家に住み、東京都江東区内の建設会社に勤務していた。同年12月19日深夜1時ごろ、Mは江東区大島六丁目のバス停付近で、付近の「大島六丁目団地」に居住し、同団地に帰宅する途中だった被害者女性Aがタクシーから下車するところを見かけたため、Aに「一緒に酒を飲まないか」と声を掛け、深夜営業の居酒屋に2人で入った。Mは女性Aと2人で深夜の居酒屋で飲酒した後にAをホテルに誘ったが、拒否されたことから路上でAの頸部を両手で強く締め付けて失神させた。そしてAを近くのゴミ集積所の横へ引きずり込み、付近に落ちていた電気コードでAの首を絞めるなど暴行を加えて強姦し、Aに全治約2週間を要する頸部縊創などの傷害を負わせた。", + "qas": [ + { + "question": "1989年2月15日、Mは何歳でしたか。", + "id": "tr-130-04-000", + "answers": [ + { + "text": "46歳", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "何年にMはAへの強姦致傷事件を起こしたか。", + "id": "tr-130-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1989年", + "answer_start": 259, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "Mは何を使ってAの首を絞めたか。", + "id": "tr-130-04-002", + "answers": [ + { + "text": "電気コード", + "answer_start": 528, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "その後、Aは失神して現場で倒れているところを通行人に発見されたが、冬季の深夜に半裸で屋外に放置されたことで生命の危険に晒された。Aは意識を回復してからもしばらくは自分が強姦されたかどうかも判然とせず悩んでいたところ、Mからの電話で金員を要求された。一方でMはAの所持品から財布などの入ったショルダーバッグ1個を奪って現場から逃走し、バッグ内にあった手帳などからAの電話番号を知ると、事件から数日後には「この強姦致傷事件をネタに女性から金品を恐喝しよう」と考え、Aに電話を掛けた。Mの口ぶりはAに電話した当初こそ「Aが警察に通報したかどうかを探るような」口ぶりだったが、Aの対応がおとなしかったことから「まだ警察には通報されていない」と考え「あんたの出方次第では、強姦されたことを会社に言うよ」「君の秘密を10万円で買ってくれ」「警察に言うとどんな目に遭うかもしれないぞ」などとAを脅迫した。これは強姦致傷の被害者であるAの「強姦されたことを知られたら勤務先にいられなくなるのではないか」という困惑・恐怖心につけ込んだものだったが、Mの意図に反してAが警視庁に通報したため、Mは1989年12月29日に現金の受け渡し場所に現れたところをその場で待ち構えていた警察官に逮捕された。その後、強姦致傷・窃盗・恐喝未遂の各罪状で東京地方裁判所に起訴された被告人Mは1990年3月13日に懲役7年の有罪判決を受け、札幌刑務所に収監された。", + "qas": [ + { + "question": "Mは1990年3月13日に懲役何年の判決を受けたか。", + "id": "tr-130-05-000", + "answers": [ + { + "text": "7年", + "answer_start": 590, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "Mはいつ逮捕されたか。", + "id": "tr-130-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1989年12月29日", + "answer_start": 488, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "東京駅の歴史", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "この記事では東京駅の歴史(とうきょうえきのれきし)を説明する。東京駅は、東京において各方面別に分かれていたターミナル駅の中間を結んで中央停車場を設置する構想から始まり、1914年(大正3年)12月20日に開業した。その後中央本線の乗り入れや山手線の環状運転の開始などにより利用客は急速に増加していき、昭和初期にはプラットホームなどの増設工事に着手した。しかし第二次世界大戦によりすべては完成せず、戦争末期には空襲を受けて丸の内駅舎を焼失した。大戦後丸の内駅舎の復旧が行われるとともに、中止されていた増設工事が再開された。1964年(昭和39年)10月1日には東海道新幹線が開通し、新幹線のターミナルともなった。さらに地下鉄丸ノ内線の乗り入れ、総武・横須賀線の地下ホームの開業、京葉線の乗り入れと地下にもホームの増設が進んだ。1991年(平成3年)6月20日には東北新幹線が開通し、東北・上越方面へのターミナルともなった。2012年(平成24年)10月には、戦災で応急復旧したままであった丸の内駅舎の復原工事が完成している。", + "qas": [ + { + "question": "東京駅が開業した年度を和暦で答えなさい。", + "id": "tr-131-00-000", + "answers": [ + { + "text": "大正3年", + "answer_start": 90, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "昭和初期から始まったプラットホームなどの増設工事は、何のため、中止されたの?", + "id": "tr-131-00-001", + "answers": [ + { + "text": "第二次世界大戦", + "answer_start": 179, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "東京駅が東海道新幹線と東北新幹線のターミナルとなった時期を比べたら、どの路線のターミナルになったのがより早いですか?", + "id": "tr-131-00-002", + "answers": [ + { + "text": "東海道新幹線", + "answer_start": 279, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "東海道新幹線と東北新幹線のうち、より早く開通したのは、どちらの路線ですか?", + "id": "tr-131-00-003", + "answers": [ + { + "text": "東海道新幹線", + "answer_start": 279, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "東京の鉄道網の始まりは、1872年10月14日(旧暦明治5年9月12日)の日本の鉄道開業に際して新橋-横浜間が開通したことに始まる。この時の新橋駅は後に貨物駅となった汐留駅で、横浜駅は現在の桜木町駅であった。この際の新橋駅の位置の選定経緯は明確にされていないが、大名屋敷の跡地を入手できて駅や車庫、鉄道工場を建設するために必要なまとまった土地を確保できたこと、市街地を避けて横浜への路線を伸ばせる位置であったこと、当時から繁華街であった銀座にも比較的近かったことなどが理由であろうと推測されている。その後東京と関西を結ぶ鉄道の建設が検討されたが、東海道と中山道のどちらを経由するかを決定するためには時間がかかった。中山道経由���建設する際の東京における経路としては、お雇い外国人のリチャード・ボイルの調査報告による、新橋から皇居の東側を北上する現行の東京駅経由ルートに近いものや、開拓使の役人松本荘一郎とお雇い外国人ジョゼフ・クロフォードの調査報告による小名木川駅を起点として北上し、既設の官設鉄道(国鉄)線との連絡は品川駅から分岐する線によるものどがあった。政府は国土開発の観点から、既に開けている東海道よりも内陸の発展を促進する目的で中山道がよいとし、軍部も敵の軍艦による攻撃を受けやすい海岸沿いを避けられる内陸路線を支持したことから、一旦は中山道経由に決定された。", + "qas": [ + { + "question": "日本初の鉄道路線は、いつ開通されたの?", + "id": "tr-131-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1872年10月14日", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "日本初の鉄道路線は現在の駅名で言うと、どの駅と汐留駅間を結ぶ路線でしたか?", + "id": "tr-131-01-001", + "answers": [ + { + "text": "桜木町駅", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "東京と関西を結ぶ鉄道が経由する道路の候補とされたのは、東海道と何か?", + "id": "tr-131-01-002", + "answers": [ + { + "text": "中山道", + "answer_start": 277, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "政府と軍部は、どの道路が東京と関西を結ぶ鉄道が経由する道路に適していると判断したか?", + "id": "tr-131-01-003", + "answers": [ + { + "text": "中山道", + "answer_start": 518, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "当初国営を原則とした鉄道であったが、西南戦争による政府の財政悪化もあり、民間に建設を認める方向に方針転換した。これを受けて発足した最初の私鉄が日本鉄道で、最初の建設区間として中山道鉄道の一部を構成する東京-高崎間の路線を建設することになった。日本鉄道建設に際しては、官設鉄道との連絡から品川を起点とすることも有力視されていたが、距離がやや長くなり東京西部の丘陵地帯を通過する工事に時間がかかると見込まれたこともあり、とりあえず上野駅を起点とする方針となって、1883年(明治16年)7月28日に上野-熊谷間が開通した。しかしその後、中山道経由の鉄道の建設の困難さが明らかになったこともあり、1886年(明治19年)に政府の方針が転換し、東海道経由で東西連絡鉄道を建設する方針に変わった。これを受け、当初は中山道経由の東西連絡鉄道に対する支線の位置づけであった新橋-横浜間の鉄道から延長する工事が始められ、1889年(明治22年)7月1日に東海道本線新橋-神戸間が全通した。一方の日本鉄道は同じ1889年の9月1日に青森までの東北本線を全通させ、さらに1898年(明治31年)8月23日には常磐線も全通した。また上野と秋葉原を結ぶ貨物線も1890年(明治23年)11月1日に開通した。", + "qas": [ + { + "question": "日本初の私鉄は?", + "id": "tr-131-02-000", + "answers": [ + { + "text": "日本鉄道", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "日本初の私鉄が建設した最初の鉄道とは、熊谷とどこを結ぶ路線ですか?", + "id": "tr-131-02-001", + "answers": [ + { + "text": "上野", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "青森までの東北本線と常磐線のうち、より早く開通されたのは、どちらか?", + "id": "tr-131-02-002", + "answers": [ + { + "text": "青森までの東北本線", + "answer_start": 457, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1889年の元号は、何でしたか?", + "id": "tr-131-02-003", + "answers": [ + { + "text": "明治", + "answer_start": 481, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "一方、東京の西に伸びる中央本線は、私鉄の甲武鉄道が建設した。1889年(明治22年)4月11日の新宿-立川間を皮切りに順次開通し、新宿より都心側では1895年(明治28年)4月3日に飯田町駅まで開通した。東京の東に延びる総武本線は、やはり私鉄の総武鉄道が建設した。総武鉄道の資金力では隅田川を横断することが難しかったこともあり、隅田川の東側に位置する両国橋駅(後の両国駅)をターミナルとして1904年(明治37年)4月5日に開通した。官設鉄道と孤立して建設された日本鉄道の資材輸送が問題になったことから建設されたのが山手線で、1885年(明治18年)3月1日に赤羽-品川間が開通し、続いて田端-池袋間が1903年(明治36年)4月1日に開通した。この開通により官設鉄道線と日本鉄道線が連絡され、特に貨物輸送の面では市街地を荷車で運搬する必要が無くなった。しかし旅客輸送の面では当時山手線はまだ単線で不便であったことから、南北を乗り継ぐ旅客は新橋駅と上野駅の間で徒歩または人力車により連絡するのが普通であった。1882年(明治15年)には新橋と上野の間で馬車鉄道の運行が始まり、1時間に70台もの馬車が出発するほどの大盛況となった。1903年(明治36年)に馬車鉄道は路面電車に置き換えられたが、もともと繁華街の路面に敷かれていたこともあり増大する交通需要に対応しきれず、事故が多いことも問題となっていた。こうしたことから、自然に新橋と上野を結ぶ鉄道路線の計画が生まれることになった。", + "qas": [ + { + "question": "中央本線と総武本線のうち、東京の西に伸びるのは、どちらなの?", + "id": "tr-131-03-000", + "answers": [ + { + "text": "中央本線", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "中央本線と総武本線のうち、建設した鉄道会社と路線名が一致しないのは、どちらですか?", + "id": "tr-131-03-001", + "answers": [ + { + "text": "中央本線", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "山手線は、何における問題を解決することを目的として建設されたものか?", + "id": "tr-131-03-002", + "answers": [ + { + "text": "資材輸送", + "answer_start": 236, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ちょうどこの頃、東京市における道路や運河、上下水道、港などの都市施設の計画についてまとめて議論して、各省庁・機関・地元との調整を行おうとする市区改正と呼ばれる動きがあった。市区改正は現在の都市計画に相当する言葉で、東京においては第7代東京府知事松田道之が提案した総合的な都市計画が端緒となった。さらに松田の後任の芳川顕正は松田の構想を継承しつつも、日本全体のことを考えた道路や鉄道網を構想し、東京府に設置された東京市区改正取調委員局から内務省に対して1884年(明治17年)11月14日に提出された市区改正意見書では、「鉄道ハ新橋上野両停車場ノ線路ヲ接続セシメ、鍛冶橋内及万世橋ノ北ニ停車場ヲ設置スヘキモノトス」とされた。この鍛冶橋に設置を提案された停車場が後の東京駅につながることになる。この意見書を受けて内務省に市区改正審査会が設置され、官庁や財界からの委員が審議を行った。その結果、新橋と上野を結ぶ高架鉄道を建設し、鍛冶橋付近に中央停車場を設置し旅客用の高架ホームを設けること、地平には貨物取扱設備を設けることなどの原案が固まった。この意見書はしばらく放置されていたが、国の正式な計画とするために元老院へ回され審議された。しかし守旧的であった元老院はその価値を理解せず、国庫に余裕がないとして1888年(明治21年)6月15日に否決してしまった。ところが当時の内務大臣山縣有朋や大蔵大臣松方正義はこれを巻き返し、閣議において元老院決定を一刀両断の上、1888年8月16日に勅令第62号として東��市区改正条例が公布された。", + "qas": [ + { + "question": "芳川顕正の前任者は、第何代東京府知事だった?", + "id": "tr-131-04-000", + "answers": [ + { + "text": "第7代", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "元老院は、どのような理由で東京市区改正に反対しましたか?", + "id": "tr-131-04-001", + "answers": [ + { + "text": "国庫に余裕がない", + "answer_start": 538, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "東京市区改正条例が公布されたのは、いつか?", + "id": "tr-131-04-002", + "answers": [ + { + "text": "1888年8月16日", + "answer_start": 628, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1888年の日本の内務大臣は、誰か?", + "id": "tr-131-04-003", + "answers": [ + { + "text": "山縣有朋", + "answer_start": 587, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "これを受けて、詳細を詰めるための東京市区改正委員会が発足した。そこでさらに議論が行われたのち、原案のように新橋と上野を高架線で結び、この間に中央停車場を設置することが答申された。この報告を受けて内務省は鉄道庁長官に対して1890年(明治23年)9月17日付で、中央停車場より南側を官設鉄道が、北側を日本鉄道が建設する形で、ただちに工事に着手するように訓令した。中央停車場が計画されたのは、皇居の前にあたる丸の内、当時の町名で永楽町であった。江戸時代には武家屋敷の建ち並んでいた一帯で、明治維新後には陸軍の兵営や練兵場、警視庁や裁判所などの政府関連施設が並んでいた。しかし繁華街に近いとはいえ監獄も置かれているなど、東京の場末と言ってもよい場所であった。明治政府が安定して皇居の目前で警備を行う必要性も薄れてきたことから、兵営を郊外に移転させてこれらの土地の再開発が検討されることになり、丸の内の広大な敷地が三菱財閥に払い下げられて欧米様式のオフィス街の建設が開始された。馬場先門通りの部分だけは明治末までに煉瓦造りのオフィスビルができあがって「一丁倫敦」(その部分だけロンドンのようであるという意味)と呼ばれたが、それ以外の部分は依然として未開発で、荒涼たる野原は「三菱ヶ原」と呼ばれていた。この原野に中央停車場が建設されることになり、丸の内はこれにより初めて日本のビジネスセンターとしての道を歩み始めることになる。", + "qas": [ + { + "question": "建設地域をどこを基準に南側と北側に分け、それぞれ官設鉄道と日本鉄道が建設するとの指示が下されたの?", + "id": "tr-131-05-000", + "answers": [ + { + "text": "中央停車場", + "answer_start": 130, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "永楽町の一帯に陸軍の兵営などの政府関連施設が並んでいた時代と、その兵営が郊外に移転された時代は、両方ともどの元号を使っていましたか?", + "id": "tr-131-05-001", + "answers": [ + { + "text": "明治", + "answer_start": 242, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "兵営が郊外に移転されることにつれて再開発が検討された丸の内の一帯は、誰に払い下げられたか?", + "id": "tr-131-05-002", + "answers": [ + { + "text": "三菱財閥", + "answer_start": 403, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "日本女子体育専門学校(旧制)", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "日本女子体育専門学校は、東京府荏原郡松沢村に存在した旧制女子専門学校だ。日本女子体育短期大学・日本女子体育大学の前身となった学校である。二階堂トクヨが個人で開設した二階堂体操塾を起源とする。\n\n代々木の民家を改修した小さな塾舎で女性体操教���の育成を目的に設立し、1期生からほぼ全員が中等学校へ就職した。関東大震災を契機に松沢村へ移転し、昭和初期には日本最大の女性体操教師養成機関に発展した一方で、人見絹枝が卒業して以降はスポーツを志す生徒が多く入学し、女性アスリートの養成機関を兼ねるようになった。重要な教材としてダンスを採用し、女性らしい健康な心と体づくりを掲げて厳格な教育を施した。", + "qas": [ + { + "question": "日本女子体育短期大学・日本女子体育大学の前身となった学校は何ですか。", + "id": "tr-132-00-000", + "answers": [ + { + "text": "日本女子体育専門学校", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "日本女子体育専門学校は何を起源としますか。", + "id": "tr-132-00-001", + "answers": [ + { + "text": "二階堂体操塾", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "日本女子体育専門学校は何を目的に設立されたか。", + "id": "tr-132-00-002", + "answers": [ + { + "text": "女性体操教師の育成", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "二階堂体操塾を設立した人の名前は何ですか。", + "id": "tr-132-00-003", + "answers": [ + { + "text": "二階堂トクヨ", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1915年、二階堂トクヨはイギリスのキングスフィールド体操専門学校でスウェーデン体操、アレキサンドラ夫人体操専門学校でドイツ体操、舞踏塾でダンスを学んで日本に帰国した。直ちに東京女子高等師範学校の教授に就任してダンス・体操・遊戯・スポーツの指導を開始し、3冊の著書を立て続けに上梓して日本にイギリスの体操や体育界の様相を伝えた。しかし指導内容や方針を巡って上司の永井道明と対立し、同僚に妬まれ、校内で孤立することとなった。また私生活では、縁談が破談し、精神的に動揺していた。このような公私に渡る悩みを振り切ることで、トクヨは「女子体育の使徒」としての自覚を強めていき、体操研究と指導者育成を担う「体育研究所」の設立を目指して募金活動を開始した。しかし1921年に文部大臣官房が「体育研究所」の設立を提案したことで募金は集まらなくなり、帰国以来温めてきた自身の体操塾を開く構想を実現すべく動き出した。", + "qas": [ + { + "question": "キングスフィールド体操専門学校でスウェーデン体操、アレキサンドラ夫人体操専門学校でドイツ体操、舞踏塾でダンスを学んだ二階堂トクヨは何年に帰国したか。", + "id": "tr-132-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1915年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "二階堂トクヨは帰国してからどの学校の教授に就任したか。", + "id": "tr-132-01-001", + "answers": [ + { + "text": "東京女子高等師範学校", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "指導内容や方針を巡って、二階堂トクヨと対立した人物は誰か。", + "id": "tr-132-01-002", + "answers": [ + { + "text": "永井道明", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "文部大臣官房が「体育研究所」の設立を提案したのは何年のことですか。", + "id": "tr-132-01-003", + "answers": [ + { + "text": "1921年", + "answer_start": 325, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "二階堂トクヨは、開塾の1年前である1921年5月には、女子体育の重要性を訴える個人的な雑誌『わがちから』を創刊した。『わがちから』には、トクヨ自身の女子体育への希望��抱負、開塾準備の様子などを掲載していった。トクヨ自身はフェミニズムに積極的に関与したわけではないが、誌名の『わがちから』には明らかに女性の力を誇示する意味合いが含まれており、設立準備期には「雷鳥さんの奔走」を意識していたと述べている。\n\n体操塾の創立に当たって、トクヨのことを「事業がやってみたいのだ」、「名誉心に駆られているのだ」と批判する人がいたが、覚悟を持ってやむなく東京女高師の職を捨てたトクヨは「余りに酷なものではありますまいか」と思いを吐露した。", + "qas": [ + { + "question": "二階堂トクヨが1921年5月に創刊した雑誌は何ですか。", + "id": "tr-132-02-000", + "answers": [ + { + "text": "『わがちから』", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1921年11月、トクヨは東京府豊多摩郡代々幡町代々木山谷425番地に40坪余の庭園付きの50畳の邸宅を月100円で借り受けた。当時の代々木はまだ人家もまばらで自然環境が良く、塾のすぐ近くには代々木練兵場があった。トクヨはより良い場所を探りつつ、これを塾舎とすべく住み込みで準備を進め、結局ほかの場所が見つからなかったため、ここを塾舎とすることを決断した。この頃、仮の塾名を日本女子体操学校としていた。\n\n1922年2月1日、トクヨは次のような塾の規則を発表した。この時、塾名を「二階堂体操塾」と定めた。", + "qas": [ + { + "question": "1921年11月、トクヨは東京府豊多摩郡代々幡町代々木山谷425番地に40坪余の庭園付きの50畳の邸宅を月いくらで借りたか。", + "id": "tr-132-03-000", + "answers": [ + { + "text": "100円", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "トクヨは仮の塾名を何と決めましたか。", + "id": "tr-132-03-001", + "answers": [ + { + "text": "日本女子体操学校", + "answer_start": 187, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1922年2月1日、トクヨは塾の規則を発表したとき、塾名を何にしましたか。", + "id": "tr-132-03-002", + "answers": [ + { + "text": "「二階堂体操塾」", + "answer_start": 239, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "以上の条件の下で、定員22人で募集をかけたところ、約4倍の応募が殺到し、トクヨは嬉しい悲鳴を上げた。一方で条件に合わない人からの応募も多く、『わがちから』で「困ったものです」と題して学力や年齢が条件に合わない人に諦めるように訴え、条件に合うものの選外となった人には、東京女子体操音楽学校・日本体育会女子部・東京女高師の受験を勧めた。結局、トクヨは定員の2倍に当たる40数人に入学許可を与えたため施設が不足し、塾舎の隣家を月40円で借用し、2棟を新築した。体育研究所設立のために集めていた募金は3,800円、新築・改修にかかった費用は3,500円だったので、残った300円は風呂桶・風呂釜の購入に充当した。\n\n開塾準備を進めていく中で、トクヨは規則の見直しを余儀なくされた。目玉であった仮入学・本入学試験制度は、KPTCで採用していた制度であり、必須のものと考えていたにもかかわらず、塾の財政が火の車で、本入学できなかった生徒に入学納付金20円を返還する約束を果たせそうにないため、取りやめることにした。次に、月謝を予定の3円から5円に値上げした。その理由を不足する備品の購入費に充てるとトクヨは説明し、これ以上は迷惑をかけないと『わがちから』で訴えた。また入学納付金20円の使途は体操器具の購入費に充てると説明した。", + "qas": [ + { + "question": "結局、トクヨは何人に入学許可を与えたか。", + "id": "tr-132-04-000", + "answers": [ + { + "text": "40数人", + "answer_start": 182, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "体育研究所設立のために集めた募金はいくらでしたか。", + "id": "tr-132-04-001", + "answers": [ + { + "text": "3,800円", + "answer_start": 246, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1922年4月15日、1期生40数人を迎えて二階堂体操塾(以下「体操塾」)が創立した。女子体育の研究機関と女子体育家の養成機関を兼ね、トクヨを中心として入塾生とともに創り上げていく共同体であった。当時の日本では、体操教師の社会的地位は低く、学校側の需要に対して体操教師の志願者は少なかった。そのため1期生は、周囲の反対を押し切って入塾した人が多く、優れた資質を持った生徒が揃っていた。その1人に、戦後参議院議員となる山下春江がいた。山下は、体操講習会で見たトクヨの脚が憧れのアンナ・パヴロワのようにすんなりとしていたことをきっかけに入塾した。トクヨは塾長、教師、舎監、事務員と1人で何役もこなし、多い日には1人で4時間の授業をこなした。東京女高師が3年かけて教える内容を1年で叩き込むという方針だったため、授業をするトクヨも受ける生徒もエネルギッシュであった。授業内容は、号令の掛け方、脚や腕の鍛錬、4-5種類のダンス、ランニング、肋木などの器具を用いた器械体操などであった。ほかに「二階堂五禽運動」と称する、ツルやツバメなど鳥の姿をまねた運動を取り入れていた。授業では生徒がリレーの練習中に卒倒したり、開脚跳びで無理をして腸筋を痛め療養したりするなど、生徒に課すべき運動量が研究段階である故の惨事が発生した。", + "qas": [ + { + "question": "二階堂体操はいつ創立されたか。", + "id": "tr-132-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1922年4月15日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "山下春江の憧れの人は誰だったの?", + "id": "tr-132-05-001", + "answers": [ + { + "text": "アンナ・パヴロワ", + "answer_start": 237, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "塾の評判から、2期生は30人定員だったにもかかわらず、1923年6月時点で72人が在籍していた。9月1日、関東大震災が発生し、東京市では大規模な火災が発生したが、体操塾では火事にならず、トクヨも生徒も無事であった。しかし瓦が散乱し、壁は崩れ、塾舎は半倒壊したため、使用困難となった。塾は1か月休止して生徒を故郷に帰し、『わがちから』は休刊としたが、その後塾再建のため、塾生が体操やダンスをしている写真を10枚1組にしたものをトクヨが作り、塾生に売り歩かせることで資金を調達し、1924年1月25日に荏原郡松沢村松原717番地(現・世田谷区松原二丁目17番22号、日本女子体育大学附属二階堂高等学校の位置)に新校地を求め、できたばかりのバラック校舎に移転した。当日は塾生が机や椅子を抱えて甲州街道を代々木から松原まで6km行進し、沿道の人の注目を浴びた。そして3月、2人の在塾研究生を除き、2期生76人全員が女子中等学校への就職を決めて卒業していった。", + "qas": [ + { + "question": "1923年6月時点で、2年生は何人でしたか。", + "id": "tr-132-06-000", + "answers": [ + { + "text": "72人", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "関東大震災は何月にあったの?", + "id": "tr-132-06-001", + "answers": [ + { + "text": "9月", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1925年1月に『わがちから』を『ちから』に改題して発行を再開した。この頃にトクヨは、体操塾を女子専門学校へ昇格させる計画を公表し、仮校名を「日本女子体育大学」とした。3月には人見が卒業し、トクヨは「1年間だけ勤めて来なさい」と人見を京都市立第一高等女学校へ送り出した。しかし7月に台湾総督からトクヨに体操講習会の講師依頼が届き、トクヨは自身の代理として人見を派遣することにし、台湾から戻ってからは研究生として人見を体操塾に呼���戻した。人見はトクヨと机を並べて二人三脚で専門学校への昇格を目指し、1926年1月15日に校名「日本女子体育専門学校」として文部省へ申請を行った。", + "qas": [ + { + "question": "1925年1月、『わがちから』は何に改題して発行されたか。", + "id": "tr-132-07-000", + "answers": [ + { + "text": "『ちから』", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "トクヨは、体操塾を女子専門学校へ昇格させる計画を公表し、仮校名を何にしましたか。", + "id": "tr-132-07-001", + "answers": [ + { + "text": "「日本女子体育大学」", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1924年4月に入塾した3期生の中には人見絹枝がいた。岡山県出身の人見は期待して入塾したものの、バラック建ての塾舎にがっかりし、教育内容も期待外れで、退塾したいとさえ思ったという。テニスの選手になりたかった人見にとって、アスリートを嫌い、養成する気などないトクヨの教育はつらいものであり、高等女学校時代にアスリートとして活躍した人見は良くも悪くもトクヨに目を付けられていた。ところが9月に岡山県から県の女子体育大会への出場要請が人見に届くと、トクヨは出場を快く許し小遣いまで渡した。この大会で人見が三段跳の世界新記録をマークすると、トクヨは運動場を急きょ2倍に拡張して競技力向上を支援し、人見が「友達の目をおそれる位」に溺愛するようになった。", + "qas": [ + { + "question": "人見絹枝は岡山県の女子体育大会で、どんな種目の世界新記録をマークしたか。", + "id": "tr-132-08-000", + "answers": [ + { + "text": "三段跳", + "answer_start": 249, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1926年3月24日、文部省は日本女子体育専門学校(体専)を認可した。私立の女子専門学校としては日本で20校目であり、初の女子体育専門学校であった。体専の目的は「女子ニ高等ノ体育理論及実際ヲ教授シ、以テ体操科教員ヲ養成スルコト」と定めた。昇格に伴い、修業年限は3年に延長されたが、2年制の専修科も並置された。トクヨの個人経営とはいかなくなり、財団法人日本女子体育専門学校(以下「財団」)を設立し、学校は財団の経営に切り替わり、理事長にトクヨが就任した。\n\n専門学校昇格と前後して、1927年にトクヨは「選手育成の試み」を開始した。1928年アムステルダムオリンピックで人見絹枝が800mにて銀メダルを獲得すると、日本各地の女学校に現れた「人見二世」は人見に憧れて続々と体専に入学した。1932年ロサンゼルスオリンピックには卒業生1人、在校生2人が出場、続く1936年ベルリンオリンピックにも卒業生1人、在校生2人が選ばれ、卒業生の松澤初穂がコーチ兼トレーナーとして派遣された。こうしてアスリートが次々と入学してくるようになった体専は明治神宮競技大会でも活躍が目立ち、「女子スポーツのメッカ」と呼ばれるほどになった。", + "qas": [ + { + "question": "文部省は日本女子体育専門学校(体専)をいつ認可したか。", + "id": "tr-132-09-000", + "answers": [ + { + "text": "1926年3月24日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本初の女子体育専門学校は何ですか。", + "id": "tr-132-09-001", + "answers": [ + { + "text": "日本女子体育専門学校(体専)", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "体専の目的は何と決められたか。", + "id": "tr-132-09-002", + "answers": [ + { + "text": "「女子ニ高等ノ体育理論及実際ヲ教授シ、以テ体操科教員ヲ養成スルコト」", + "answer_start": 80, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "トクヨは「選手育成の試み」を何年に開始したか。", + "id": "tr-132-09-003", + "answers": [ + { + "text": "1927年", + "answer_start": 240, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "念願の専門学校となったものの、体専は順調な発展を遂げることはできなかった。定員を150人に増やしたところ、開校初年は約130人、2年目は約70人と定員割れしてしまった。その理由を教師の資格が取れないからだと考え、1927年8月24日に文部省へ中等教員無試験検定資格認定の許可を申請し、1928年6月4日に許可された。女子の中等教員無試験検定の許可校は、東京女子音楽体操学校、中京高等女学校に次ぐ3校目であった。これにより1929年以降の卒業生は体操科免許の無試験検定の対象となったが、あくまでも「検定」なので、不合格となる可能性もあった。念願の無試験検定資格を得たものの、トクヨのもくろみは外れ、1学年の人数は40-50人台で低位安定した。真寿は、日中戦争が暗い陰を次第に濃くしていったことがその理由の1つであると分析した。1936年11月3日にトクヨは「奮起せよ!日本女選手!」と題した檄文を出し、「人見嬢に続かしめ」る日本女性を「日本のほこり」のために体専で育成することを宣言し、成績優秀者に特別優遇を行うと発表した。ところが1938年に国家総動員法が施行され、1940年東京オリンピックの開催返上が決定すると、翌1939年からアスリートへの優遇を廃止し、対外試合への出場も禁止した。男性体操教師が次々と召集され戦場へ送られる社会情勢では、選手育成よりも優秀な女性体操教師の育成に集中すべきであるとの判断からだった。", + "qas": [ + { + "question": "文部省へ中等教員無試験検定資格認定の許可を申請したのは、いつ許可されたか。", + "id": "tr-132-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1928年6月4日", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "国家総動員法は何年に施行されたか。", + "id": "tr-132-10-001", + "answers": [ + { + "text": "1938年", + "answer_start": 465, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "自分の身を国家に捧げるというトクヨの崇高な志は、時々の政策に引っ張られやすいという弱点を持っており、陸軍現役将校学校配属令が出された時には「ご出陣を祝ひ奉る」と賛美する文章を発表し、軍人への慰問のために校内に花畑を造成した。当時のトクヨを、体専教師の今村嘉雄は「よい軍国婆さん」と表現した。こうした中でトクヨは学校経営の実務を名誉校長の二宮文右衛門に任せ、校内に引きこもり、病気がちとなった。多くの篤志家の寄付に支えられ、優秀な塾生に囲まれて幸福だった創立当初とは異なり、この頃には親しい人が多く離れてしまったと見え、真寿に「自分なんぞは今に誰からも相手にされなくなって、電信柱の蔭にひとりでうずくまっているかもしれない」という苦しい胸の内を明かしている。\n\n1941年4月7日、トクヨは体専の入学式の朝に倒れ、東京海軍共済組合病院に入院、後に慶應義塾大学病院へ転院した。病名は胃ガンで、同年7月17日午前1時40分に60歳で死去した。", + "qas": [ + { + "question": "トクヨの病名は何でしたか。", + "id": "tr-132-11-000", + "answers": [ + { + "text": "胃ガン", + "answer_start": 389, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "トクヨは何年に亡くなったか。", + "id": "tr-132-11-001", + "answers": [ + { + "text": "1941年", + "answer_start": 330, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "生涯独身であったトクヨは、死を目前にして村田美喜子を養女に迎え、後の事を託した。美喜子は岩佐高等女学校を退職して死の床にあるトクヨを看病するとともに、遺言書を口述筆記していた。この中でトクヨは、在校生全員の卒業・就職を待って学校を閉鎖し、資産を整理して政府に献上することを要望した一方で��もしも良い人が現れれば学校を譲っても良いと付記した。トクヨの手筈では美喜子が指揮を執ってこれらを円滑に処理する予定であったが、困った美喜子はトクヨの長弟・二階堂清寿に助けを求め、10月22日に清寿が2代目校長に就任し、美喜子は財団の理事長となった。トクヨの生前から財団役員に名を連ねていたとは言え、清寿は「体育のタの字も知らない」人物だったため、生徒は反発した。しかし太平洋戦争の激化でボイコットには発展せず、清寿は同窓会「松徳会」を組織し、校舎改築期成会の立ち上げ、学校・保護者・松徳会の三位一体を企図した『体専鼎報』の発行、校歌の制定を通して反発を収束させていった。清寿校長はトクヨの不得意なところから手を付けることで、次第に生徒から受け入れられていった。", + "qas": [ + { + "question": "トクヨは、死を目前に、誰を養女に迎えたか。", + "id": "tr-132-12-000", + "answers": [ + { + "text": "村田美喜子", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "トクヨの遺言書を口述筆記した人は誰?", + "id": "tr-132-12-001", + "answers": [ + { + "text": "美喜子", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1949年、美喜子が30歳の若さで急逝し、トクヨの資産は夫の二階堂直富が継承した。学制改革に伴い、体専は1950年に日本女子体育短期大学に改組し、学長に清寿、副学長に真寿が就任した。この時、財団も学校法人二階堂学園に改組したが、その手続き過程で体専の校舎がトクヨの個人名義になっており、これを継承した直富に校舎を譲ってもらわねば学校経営が立ち行かなくなるという波乱があった。\n\n日女体短への完全移行は1951年で、同年に体専としての最後の卒業生26人を世に送り出した。日女体短は、トクヨが体操塾を開塾した4月15日を開校記念日と定めて休講とし、学生一同を連れてトクヨの墓に参る日とした。その後、日女体短は東京女高師時代のトクヨの教え子である戸倉ハルを教授に迎え入れ、戸倉を中心に4年制大学設立を推進し、1965年に日本女子体育大学を開学した。", + "qas": [ + { + "question": "美喜子は何歳で亡くなったか。", + "id": "tr-132-13-000", + "answers": [ + { + "text": "30歳", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "トクヨの資産は誰が継承した?", + "id": "tr-132-13-001", + "answers": [ + { + "text": "二階堂直富", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "体専としての最後の卒業生は何人でしたか。", + "id": "tr-132-13-002", + "answers": [ + { + "text": "26人", + "answer_start": 222, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本女子体育大学は何年に開校したか。", + "id": "tr-132-13-003", + "answers": [ + { + "text": "1965年", + "answer_start": 351, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "体育教師の育成を主目的としながら、体育の座学と実技のみならず、生理学や英語などの授業を取り入れていたのは、体育が知育・徳育の基礎であるとトクヨが考えていたことによる。すなわち、体育の専門家になろうというのであれば、教育界全体の中での自らの立ち位置を認識する必要があるという考え方である。人見絹枝は、「体の鍛錬よりも心の訓練が大きかった」と語った。\n\n計画段階では、生徒が自由に外出・研究に充当できる「研究日」を週1日設定する予定であった。生徒に幅広い一般教養を身に付けた体操教師になってほしいという願いからだったが、実現できなかったため、校外学習を取り入れて代用した。\n\n体専は本科・専修科・専攻科の3つのコースを設置していた。本科は3年制、専修科は2年制であった。体操科中等��員資格はいずれの科でも取得可能で、本科はさらに編物の中等教員と同様の実力を身に付け、希望者は選手やコーチになれると学校紹介で謳っている。", + "qas": [ + { + "question": "体専は幾つのコースを設置していたか。", + "id": "tr-132-14-000", + "answers": [ + { + "text": "3つ", + "answer_start": 300, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "本科と専修科とどっちの方が長い?", + "id": "tr-132-14-001", + "answers": [ + { + "text": "本科", + "answer_start": 314, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "トクヨは曲線運動、優美体操、舞踊、舞踏、遊戯、遊技と様々な言葉を使っているが、これらはすべてダンスと言い換えることができる。\n\nダンスそのものは、トクヨのイギリス留学前より日本の体操科の授業で取り入れられており、井口阿くりによってファーストダンスやポルカセリーズなどが持ち込まれていた。トクヨ自身、イギリス留学前から授業や運動会でダンスを実施し、留学中には数校でイギリスの民族舞踊、ホーンパイプ、スコッチリール、アイリッシュジグ、ウェルシュダンスなどの稽古に励んだ。この結果、KPTCの生徒でもできないダンス術を身に付け、女子体育にダンスが重要な教材であることを認識して日本に帰国した。ダンスが曲線的運動で女子に曲線美を与えることと、ダンスが民族の女性的精神の発露であると考えたのである。\n\nトクヨのダンスにおける功績は、ダンスの基本練習に身体練習・表現練習・リズム練習の3要素を初めて実践したことと日本で初めて体格改善のためにダンスの指導を行ったことである。", + "qas": [ + { + "question": "トクヨが使った曲線運動、優美体操、舞踊、舞踏、遊戯、遊技という言葉は、全部何に言い換えることができるか。", + "id": "tr-132-15-000", + "answers": [ + { + "text": "ダンス", + "answer_start": 46, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ダンスの基本練習に身体練習・表現練習・リズム練習の3要素を初めて実践したことと日本で初めて体格改善のためにダンスの指導を行ったことは誰の業績ですか。", + "id": "tr-132-15-001", + "answers": [ + { + "text": "トクヨ", + "answer_start": 346, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "トクヨのダンスのレパートリーは、トクヨ自身の創作ダンスや、生徒が習ってきたものに手直しを加えたものをどんどん追加していき、1924年頃には50種類ほどになっていた。ファーストやカドリールといった西洋式のダンスのみならず、「雨降りお月さん」や「花嫁人形」といった日本の童謡を用いたもの、木曽節や佐渡おけさといった各地の民謡を用いたものまで多様であった。トクヨが日本の歌や踊りをダンスのレパートリーに多数採用したのは、留学中に日本の歌や踊りを披露するよう求められるも何もできなかった経験をしたことに加え、ダンスは民族精神の発露だという認識を持ったため大和民族の精神涵養に日本独自のダンスが必要と考えたことが理由である。教え子の内田トハと御笹政重の共著による『教育ダンス』に掲載されている57種類のダンスのうち36種類がトクヨ直伝のダンスであり、多くはイギリスから持ち帰ったダンスだった。", + "qas": [ + { + "question": "「雨降りお月さん」、「花嫁人形」はどの国の童謡ですか。", + "id": "tr-132-16-000", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 130, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『教育ダンス』には何種類のダンスが掲載されているか。", + "id": "tr-132-16-001", + "answers": [ + { + "text": "57種類", + "answer_start": 341, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "体操塾の頃のトクヨのダンスは、���子の体格改善を目指すダンスであり、トクヨが1人で教えていた。トクヨは1期生の体格を研究し、その結果を『わがちから』に掲載した。トクヨは、体操教師を目指す塾生の体格は日本人女性の中でも優れている方だろうと考えていたが、その結果は貧弱で異常な発育状態であり、トクヨは愕然とした。具体的な数値を挙げると、塾生の平均値は身長151.06cm、体重48.72kg、肺活量2,247cc、握力は右20.4kg、左18.8kgであった。(当時のイギリスの20代女性は身長157.58cm、体重55.33kg、日本の成人男子は身長164.58cm、体重64.00kg、肺活量3,722cc、握力は右47.1kg、左43.8kg。)トクヨの分析結果を次に示す。", + "qas": [ + { + "question": "体操塾の頃のトクヨのダンスは、何を目指すダンスであったか。", + "id": "tr-132-17-000", + "answers": [ + { + "text": "女子の体格改善", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "塾生の平均身長は何cmでしたか。", + "id": "tr-132-17-001", + "answers": [ + { + "text": "151.06cm", + "answer_start": 174, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "トクヨは明治神宮外苑競技場で集団体操、すなわちマスゲームを指揮したことがある。ある年の体操祭では約250人の体専生徒を率いて集団演技を行わせた。トクヨは号令をかけながら競技場の隅よりフィールドの中央へ移動していき、当日の演技内容を書いた扇子を見ながら指揮を執った。\n\nまた別の年の体操祭では、制限時間の10分を過ぎてしまい、トクヨは演技を止めて、このまま演技を終了するか継続するか、客席に向けて問いかけた。主催者がどう返答するか迷っている間に観客の中から「やれやれ!」と囃し立てる声が上がり、トクヨは予定していた演目をすべてやり切った。\n\n体専のマスゲームは社会的な評価が高く、日女体短・日女体大へも継承された。日女体短の日本体操祭へのマスゲーム参加作品のほとんどは体専でダンスを教えた戸倉ハルが手掛け、同じく体専教師の天野蝶が創作した作品も2つある。", + "qas": [ + { + "question": "マスゲームを日本語にすると何?", + "id": "tr-132-18-000", + "answers": [ + { + "text": "集団体操", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "トクヨにとって最も重要な教師は、軍医の林良斎であった。女子体育の研究所として、生理学的・解剖学的な知見を持った人材を必要としていたため、林という人材を得られたことが開塾に向けた大きな一歩となり、林はトクヨの右腕として教育と研究に尽くした。\n\n以上のほか大谷武一、野口源三郎ら外部講師を雇用していた。外部講師は勤務時間がしっかり決まっており、時間通りに来て授業を行った。教科外の指導者として美粧倶楽部の山本久栄がおり、髪の結び方、顔の磨き方、衣服の着付けなど身だしなみを指導した。教師ではないが、トクヨの母・キンは塾の経済の管理、お手伝いさんの指揮、家事一切を担当して塾生やトクヨを支えた。\n\n1925年現在の教師は、競技選手が10数人、声楽家・器楽家が各2人、医師・文学士・理学士が各1人であった。\n\n教師と生徒の距離は近く、真寿は授業の後に生徒とオルガンを囲んで合唱した思い出を語っている。", + "qas": [ + { + "question": "トクヨにとって最も重要な教師は誰だったの?", + "id": "tr-132-19-000", + "answers": [ + { + "text": "林良斎", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1925年の教師は声楽家が何人いましたか。", + "id": "tr-132-19-001", + "answers": [ + { + "text": "2人", + "answer_start": 327, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "代々木の体操塾は、4つの建物で構成されていた。うち2棟は借家で、この2棟の間に四畳半3間の新棟を建設した。また庭には雨中体操場兼寄宿舎とするた��の新棟を建設した。4棟合わせて120畳ほどあり、電灯28基を設置していた。寄宿舎は4部屋あり、教室としても利用された。中でも21畳の大部屋は、学科教室、講堂、体育館、音楽室、自習室、食堂、寝室と7種の用途があったことから「七面鳥のお部屋」と呼ばれた。\n\n塾舎の前後に庭があり、表の庭を運動場に、裏庭を物干し場に充てていた。トクヨは資金難ながら体操器具だけは揃えようと考え、肋木・上下棒・跳び箱などスウェーデン体操の器具を購入し、運動場に所狭しと器具を置いたが、収納スペースはなく雨ざらしにせざるを得なかった。運動場の不足を補うため、代々木練兵場を「黙認」の形で使わせてもらっていた。\n\n1923年に体操塾を訪問した宮城県の新聞記者は、建物は普通の民家でここに75人もの生徒が学んでいるとは思えないほど小さいと記した。", + "qas": [ + { + "question": "代々木の体操塾は幾つの建物で構成されていたか。", + "id": "tr-132-20-000", + "answers": [ + { + "text": "4つ", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "塾生の服装は、開塾当時には規定がなかったものの、身体の健康を重視するトクヨは、開塾後直ちにチュニックを採用した。トクヨの発行していた雑誌『わがちから』の写真に写る塾生は皆チュニックを着用しており、体操服も日常着もチュニックにしていた。東京女高師の教授時代には、「和服式体操服」を考案したことがあるものの、結局不採用となり、当時から生徒にチュニックを着せていた。また安井てつに請われて東京女子大学で体操の授業を担当した際にも、体操服にチュニックを指定した。\n\n体操塾で使うチュニックは、胸元がゆったりした普通のチュニックと、胸元を狭くし自由な呼吸を束縛する「似て非なるチュニック」の2種類あった。チュニックはベルトで腰のあたりに固定し、肋木に逆さまにつかまる時には裾の近くでベルトを締めることでスカートの落下を防いだ。このチュニックは、2019年に吉野作造記念館の企画展で展示され、企画展を報じた河北新報は「カフェのユニホームにも見える」と表現した。\n\n体操塾では健康のため、毎日入浴させていた。入浴時間は「敏捷性を身に付ける」という名目で1人3分しか与えられず、先輩と後輩の入浴が重なった場合は、後輩が先輩の背中を流す時間と自分の体を洗う時間を含めて3分で終えなければならないという厳しいものであった。風呂沸かしは当番制で、仕事が終わるとトクヨから金5銭と夜食が出されたため、生徒は進んで風呂当番を引き受けたという。", + "qas": [ + { + "question": "トクヨが採用した服装は何?", + "id": "tr-132-21-000", + "answers": [ + { + "text": "チュニック", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "体操塾で使うチュニックは何種類あったか。", + "id": "tr-132-21-001", + "answers": [ + { + "text": "2種類", + "answer_start": 290, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "第二次ブルガリア帝国", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "第二次ブルガリア帝国(ブルガリア語:Второбългарскоцарство,英語:SecondBulgarianEmpire)は、12世紀後半から14世紀末までブルガリアに存在した国家である。14世紀末にオスマン帝国によって滅ぼされた。", + "qas": [ + { + "question": "第二次ブルガリア帝国とは、どこに存在した国家であるの?", + "id": "tr-133-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ブルガリア", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第二次ブルガリア帝国h、いつからいつにかけて存在した国でありますか?", + "id": "tr-133-00-001", + "answers": [ + { + "text": "12世紀後半から14世紀末", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "��二次ブルガリア帝国が滅びたのは、どの国によることだったか?", + "id": "tr-133-00-002", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第二次ブルガリア帝国が滅びたのは、いつのことだったか?", + "id": "tr-133-00-003", + "answers": [ + { + "text": "14世紀末", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1018年の第一次ブルガリア帝国の滅亡後、ブルガリアはビザンツ帝国(東ローマ帝国)領となった。ビザンツの支配下に置かれたブルガリアではテマ制(軍管区制)が実施され、ビザンツに従属するブルガリアの貴族と高位聖職者は特権を保証された。しかし、第一次ブルガリア帝国を滅ぼしたビザンツ皇帝バシレイオス2世が没し、彼の後継者たちの時代になるとブルガリアには圧政が敷かれるようになる。ブルガリア内の正教徒を管轄するオフリド総主教座は大主教座に降格されてその地位にはギリシャ人が就くようになり、ブルガリア人の中から総主教を選ぶことができなくなった。", + "qas": [ + { + "question": "第一次ブルガリア帝国が滅びたのは、何年のことなの?", + "id": "tr-133-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1018年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "第一次ブルガリア帝国は、どこを支配地域とする国でしたか?", + "id": "tr-133-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ブルガリア", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "第一次ブルガリア帝国が滅びると、その支配地域はどの国の領域となったか?", + "id": "tr-133-01-002", + "answers": [ + { + "text": "ビザンツ帝国", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "第一次ブルガリア帝国は、誰により滅ぼされたか?", + "id": "tr-133-01-003", + "answers": [ + { + "text": "バシレイオス2世", + "answer_start": 140, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1040年にミカエル4世の治下で実施された財政改革によってブルガリアの農民に金銭での納税が課され、ブルガリアの農民の生活はより圧迫された。同じ時期にブルガリアではテマ制に代わって疑似封建的な土地制度であるプロノイア制が導入され、農民は領主の搾取にも苦しめられる。1040年にマケドニア地方でブルガリア皇帝サムイルの孫ペタル・デリャンが指導する民衆蜂起が勃発し(ペタル・デリャンの蜂起)、指導者のデリャンはブルガリア帝国の再建を掲げた。デリャンの反乱は傭兵の助けを借りたビザンツ軍によって鎮圧されたがその後もブルガリアでは反ビザンツの蜂起が頻発し、その背景には社会不安が存在していた。", + "qas": [ + { + "question": "1040年の時点でビザンツ帝国の皇帝は、誰だったの?", + "id": "tr-133-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ミカエル4世", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1040年にマケドニア地方で発生した民衆蜂起は、誰が率いていましたか?", + "id": "tr-133-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ペタル・デリャン", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1040年にマケドニア地方で発生した民衆蜂起を鎮圧したのは、どの軍だったか?", + "id": "tr-133-02-002", + "answers": [ + { + "text": "ビザンツ軍", + "answer_start": 234, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この文書では、主に何年の出来事につい��説明しているか?", + "id": "tr-133-02-003", + "answers": [ + { + "text": "1040年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1180年代にシチリア王国によるビザンツ領への攻撃が始まるとブルガリアでは増税と徴兵の強化が実施され、さらにビザンツ皇帝イサキオス2世の結婚に際して特別税が課される。1185年にタルノヴォ近郊のヴラフ人(あるいはクマン人)地主ペタルとアセンの兄弟は新税の軽減とプロノイアの付与をビザンツ皇帝イサキオス2世に願い出るが、2人の要求は拒絶された。帰国したペタルとアセンはタルノヴォの聖ディミタル教会の聖別式でブルガリア国家の再興と挙兵を宣言し、ブルガリア人修道士ヴァシリィは年長のペタルを皇帝(ツァール)に戴冠した。", + "qas": [ + { + "question": "1180年代にビザンツ帝国を攻撃したのは、どの国なの?", + "id": "tr-133-03-000", + "answers": [ + { + "text": "シチリア王国", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ビザンツ帝国がブルガリア地域に対し、増税と徴兵の強化を行ったのは、何年代のことですか?", + "id": "tr-133-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1180年代", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ビザンツ帝国のブルガリア地域に対する増税と徴兵の強化は、どの国の侵攻によることだったか?", + "id": "tr-133-03-002", + "answers": [ + { + "text": "シチリア王国", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ビザンツ皇帝に対し、新税の軽減とプロノイアの付与を求めたのは、どこ近郊の地主と彼の弟だったか?", + "id": "tr-133-03-003", + "answers": [ + { + "text": "タルノヴォ", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ビザンツの統治に不満を持っていたブルガリアの人々は蜂起に参加し、ペタルとアセンは国家の継承性を強調するために第一次ブルガリア帝国時代の首都だったプレスラフを制圧した。1187年の夏にイサキオス2世が北ブルガリアに親征を行うと、ペタル兄弟はドナウ川北方の遊牧民のクマン人の元に逃れた。イサキオス2世の軍はブルガリアを破壊し刈り取った穀物を焼き払った後、解放運動は終息したと判断してコンスタンティノープルに帰還した。同年の秋にクマン人を同盟者としたペタル兄弟はブルガリアに帰国、ドナウ川沿岸部を奪回し、蜂起はトラキア、ロドピ、マケドニアにも波及した。", + "qas": [ + { + "question": "ペタルとアセンは、どの国の継承性を強調するためにプレスラフを制圧したの?", + "id": "tr-133-04-000", + "answers": [ + { + "text": "第一次ブルガリア帝国", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イサキオス2世が北ブルガリアに親征を行ったのは、何年のことですか?", + "id": "tr-133-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1187年", + "answer_start": 83, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イサキオス2世のブルガリアでの蜂起を制圧するためにやってきた時、ペタルとアセンは、どのような人々のもとに逃げたか?", + "id": "tr-133-04-002", + "answers": [ + { + "text": "クマン人", + "answer_start": 130, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1187年にトラキア、ロドピ、マケドニアにまで波及した蜂起は、どこから始まった蜂起か?", + "id": "tr-133-04-003", + "answers": [ + { + "text": "ブルガリア", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1188年春にブルガリア軍はタルノヴォに進軍するビザンツ軍をロヴェチで食い止め、3か月にわたる包囲を凌いだ。包囲が解除された後にブルガリアとビザンツの間に和平が締結され、この和約でブルガリアの独立が事実上承認された。和平の際、人質としてペタルとアセンの弟カロヤン・ヨアニッツァがコンスタンティノープルに送られた。", + "qas": [ + { + "question": "ブルガリア軍は、進軍してくるビザンツ軍をどこで食い止めたの?", + "id": "tr-133-05-000", + "answers": [ + { + "text": "ロヴェチ", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ブルガリアとビザンツの間で和約が結ばれたのは、ブルガリア軍が何か月にもわたる包囲に凌いだ結果でしたか?", + "id": "tr-133-05-001", + "answers": [ + { + "text": "3か月", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ブルガリアとビザンツの間で結ばれた和約の条件には、ブルガリアから誰をビザンツに人質として送るとのことも含まれていたか?", + "id": "tr-133-05-002", + "answers": [ + { + "text": "カロヤン・ヨアニッツァ", + "answer_start": 127, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "両軍の間で結ばれた和約には、何を正式に認めることとともに、カロヤン・ヨアニッツァを人質としてビザンツに送るとの内容があったか?", + "id": "tr-133-05-003", + "answers": [ + { + "text": "ブルガリアの独立", + "answer_start": 90, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1189年に第3回十字軍が行われると、ブルガリアはビザンツと敵対する神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世に同盟の締結を提案した。同盟の条件としてブルガリアが奪回した領土の保持と皇帝の称号の許可と引き換えに、神聖ローマ帝国に40,000人の援軍の提供を申し出るが、フリードリヒ1世からの回答は得られなかった。フリードリヒ1世がビザンツ領を通過した後、1190年の夏にビザンツ軍はブルガリアの首都タルノヴォに遠征を行う。天然の要害に位置する堅牢な城壁を持つタルノヴォはビザンツ軍の包囲に耐え、クマン人がブルガリアの援軍として到着した噂が広まるとビザンツ軍は撤退した。追撃に出たブルガリア軍はトリャヴナでイサキオス2世が率いるビザンツ軍に大勝し、ビザンツ皇帝の象徴である帝冠、笏、衣装を手に入れた(トリャヴナの戦い)。同年にペタルは弟のアセンに帝位を譲り、自身はプレスラフを中心とするブルガリア北東部とドブルジャ地方を統治した。", + "qas": [ + { + "question": "神聖ローマ帝国とブルガリアの共通の敵は、どの国だったの?", + "id": "tr-133-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ビザンツ", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "第3回十字軍が行われたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-133-06-001", + "answers": [ + { + "text": "1189年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "トリャヴナの戦いでは、どの国が戦勝国となったか?", + "id": "tr-133-06-002", + "answers": [ + { + "text": "ブルガリア", + "answer_start": 283, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アセンが皇帝となったのは、何年のことか?", + "id": "tr-133-06-003", + "answers": [ + { + "text": "1190年", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ブルガリアの軍事活動はバルカン山脈南部のビザンツ領に達し、1193年にブルガ���アはスレデツを回復した。また、ブルガリアは北方のハンガリー王国との戦いでも勝利を収め、長らくハンガリーの支配下に置かれていたベオグラードとブラニチェヴォを奪還した。", + "qas": [ + { + "question": "ブルガリアはスレデツを再び手に入れたのは、何年のことなの?", + "id": "tr-133-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1193年", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1193年、ブルガリアはどの国に奪われていたスレデツを回復することに成功しましたか?", + "id": "tr-133-07-001", + "answers": [ + { + "text": "ビザンツ", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ブルガリアは、ハンガリー王国に奪われていた、ベオグラードとどこを奪回することにも成功したか?", + "id": "tr-133-07-002", + "answers": [ + { + "text": "ブラニチェヴォ", + "answer_start": 108, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この文書では、ブルガリアがビザンツとどの国に奪われていた領土を回復したことについて説明しているか?", + "id": "tr-133-07-003", + "answers": [ + { + "text": "ハンガリー王国", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "しかし、中央集権的な政策を採るアセン1世の元で、ビザンツからの独立運動中から見られた貴族の反抗がより顕著になり、1196年に宮廷内のクーデターによってアセン1世は暗殺される。陰謀の首謀者であるアセン1世の従兄弟イヴァンコはクーデターを教唆したビザンツに援助を求めるが、ビザンツから派遣された軍隊は行軍中に反乱を起こしてブルガリアに入ることを拒んだ。プレスラフを統治していたペタルは支持者から軍隊を集めてイヴァンコをビザンツに追放し、皇帝に復位した。だが、ペタルも貴族の反抗を抑えることができず、1197年に暗殺される。", + "qas": [ + { + "question": "アセン1世は、どのような性格を持つ政策を行ったの?", + "id": "tr-133-08-000", + "answers": [ + { + "text": "中央集権的", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アセン1世とペタルのうち、皇帝に即位した時期がより早いのは、誰ですか?", + "id": "tr-133-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ペタル", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "アセン1世が死ぬと、皇帝になったのは、誰だったか?", + "id": "tr-133-08-002", + "answers": [ + { + "text": "ペタル", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アセン1世とペタルのうち、暗殺された時期がより早いのは、誰か?", + "id": "tr-133-08-003", + "answers": [ + { + "text": "アセン1世", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "空位となった皇帝の座には、コンスタンティノープルから逃亡してブルガリアに帰国していたアセン兄弟の末弟カロヤンが就いた。兄たちの跡を継いで皇帝に即位したカロヤンは、かつてのシメオン1世と同様にビザンツ帝国を見本とした国家を作るために積極的な外交政策を推し進める。", + "qas": [ + { + "question": "皇帝になったカロヤンは、どんな政策に特に力を入れたの?", + "id": "tr-133-09-000", + "answers": [ + { + "text": "外交政策", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カロヤンは、どこから逃げてブルガリアに戻り、暗殺された兄たちの後を継ぎ、皇帝にな���ましたか?", + "id": "tr-133-09-001", + "answers": [ + { + "text": "コンスタンティノープル", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カロヤンは、かつての皇帝のうち、誰と似たような統治政策を採ったか?", + "id": "tr-133-09-002", + "answers": [ + { + "text": "シメオン1世", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カロヤンがこれからの帝国の行方の見本とした国は、どの国か?", + "id": "tr-133-09-003", + "answers": [ + { + "text": "ビザンツ帝国", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "カロヤンは国内の貴族層に厳格な処置を下して政権を固め、独立状態にあったマケドニアとロドピのブルガリア人支配者、亡命先のビザンツで統治官に任命されていたイヴァンコと同盟を結ぶことに成功する。1201年に北ブルガリアに残る最後のビザンツ領であるヴァルナがブルガリアの占領下に入り、翌1202年にブルガリアとビザンツ帝国の間に和約が締結され、ブルガリアが占領した地域の獲得が正式に承認された。また、1203年に一時期ハンガリーに再占領されたベオグラードとブラニチェヴォを奪還し、帝国の北部からハンガリー人を放逐した。", + "qas": [ + { + "question": "ヴァルナがブルガリア領となったのは、何年のことなの?", + "id": "tr-133-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1201年", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ビザンツ帝国が北ブルガリア地域における支配権を完全に失ったのは、何年のことですか?", + "id": "tr-133-10-001", + "answers": [ + { + "text": "1201年", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ブルガリアのヴァルナ支配が正式に承認されたのは、何年のことか?", + "id": "tr-133-10-002", + "answers": [ + { + "text": "1202年", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1203年、ブルガリアは、どの国により再占領されていた地域を奪還したか?", + "id": "tr-133-10-003", + "answers": [ + { + "text": "ハンガリー", + "answer_start": 205, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "カロヤンはブルガリア正教会の独立を回復するためにローマ教会との関係を強化し、1199年からブルガリアとローマ教会の交渉が開始された。1202年から交渉は活性化し、1204年秋にローマ教皇からの使節がタルノヴォを訪問した。カロヤンはローマの使節である枢機卿レオからブルガリアの「王」に戴冠されるが、カロヤンは皇帝の称号が授与されたとみなして「ブルガリア人とワラキア人の皇帝」を自称した。同年にブルガリアがローマ教会の権威を認める協定が結ばれ、建国時から続いていたハンガリーとの戦争が終息する。協定の締結後にブルガリア正教会がローマ教会からの干渉を受けることはほとんどなく、ブルガリア正教会は実質的には東方正教会に属していた。", + "qas": [ + { + "question": "ローマ教皇からの使節がタルノヴォを訪問したのは、何年のことなの?", + "id": "tr-133-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1204年", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ブルガリアがローマ教会の権威を認める協定が結ばれたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-133-11-001", + "answers": [ + { + "text": "1204年", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ブルガリアとハンガリーの戦争が終わったのは、何年のことか?", + "id": "tr-133-11-002", + "answers": [ + { + "text": "1204年", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1204年に西欧から派遣された第四回十字軍によってコンスタンティノープルが征服され、ラテン帝国が建国される。ラテン帝国の初代皇帝ボードゥアン1世は、ブルガリア人は隷属民であると宣言し、ブルガリア侵略の意思を顕わにした。ローマ教皇インノケンティウス3世はブルガリアとラテン帝国の対立を解消しようとするが、教皇の試みは失敗に終わる。ラテン帝国軍はトラキアの北部、東部に侵入し、トラキアに避難していたビザンチン貴族はビザンツ帝国の帝位を条件にブルガリアに保護を求めた。要請に応えたブルガリアは東トラキアの住民反乱を扇動し、またフィリッポポリス(現在のプロヴディフ)とアドリアノープル(現在のエディルネ)を占領した。", + "qas": [ + { + "question": "第四回十字軍が行われたのは、何年のことなの?", + "id": "tr-133-12-000", + "answers": [ + { + "text": "1204年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ラテン帝国が建てられたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-133-12-001", + "answers": [ + { + "text": "1204年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "何年に建国された国がブルガリアに対し敵対心を示し、両国間の対立をローマ教皇が解消しようとしたが、失敗に終わり、正面戦争となったか?", + "id": "tr-133-12-002", + "answers": [ + { + "text": "1204年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "軌間", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "軌間(きかん)は、鉄道の線路を構成する左右の軌条(レール)の間隔である。ゲージともいう。軌条には幅があるため、軌条頭部の内側の最短距離と規定される。軌間は鉄道の機能・能力に関わる重要な要素であり、また軌間の異なる鉄道の間では通常は直通運転は不可能である。世界で最も普及している軌間は1435mmで、標準軌と呼ばれる。標準軌より広い軌間を広軌、狭いものを狭軌と呼ぶ。日本で多い狭軌は、在来線でよく使われる1067mmである。軌間を変更することは改軌と呼ばれる。しかし、改軌は周辺のものに大きく影響があり費用も莫大なため、余程の理由がない限り行われない。曲線部では、車輪のすべてが、曲線の中心を向くことができないのと、車輪のフランジが軌条に接触することなく走行できるようにするため、内側の軌条を曲心側に若干広げて、軌条の間隔を所定の軌間より広げて車輪を円滑に走行できるようにしており、この拡幅をスラック(拡度)と呼んでいる。曲線半径が600m以下の場合において設けられるが、その設定幅は曲線半径、台車の固定軸距、軌間などの数値や実験値等から計算され、曲線半径のランクにより5mm刻みに設定されており、大きな値をとってしまうと脱線の危険が生まれてしまうため、最大値で30mmとしている。また、曲線半径が600m以上においても2mm以下のスラックが設けられる場合がある。", + "qas": [ + { + "question": "軌間を指し示す別の用語は?", + "id": "tr-134-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ゲージ", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "世界中で広く使われている軌間は何mmですか。", + "id": "tr-134-00-001", + "answers": [ + { + "text": "1435mm", + "answer_start": 141, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "日本で普及している狭軌は何mmなの?", + "id": "tr-134-00-002", + "answers": [ + { + "text": "1067mm", + "answer_start": 201, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "軌間を換えることを何と呼びますか。", + "id": "tr-134-00-003", + "answers": [ + { + "text": "改軌", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "現代において標準軌とされる4フィート8.5インチ軌間の起源は、イングランド北東部のキリングワース炭鉱の馬車鉄道で用いられていた4フィート8インチ軌間である。なおキリングワースの車輪間隔の起源をさらに古代ローマの馬車にまで遡ることができるとする説もあったが後に否定されている。1814年、ジョージ・スティーヴンソンがこの炭鉱鉄道のために蒸気機関車を製造した。スティーブンソンはその後他の炭鉱向けにも機関車を製造し、1823年にはロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニーを設立したが、ここで製造された機関車も同じ軌間で設計されていた。スティーブンソンは、各地の鉄道で同じ軌間を使ったほうが機関車や諸設備の量産に都合がよく、また将来これらの鉄道が相互に接続された時にも便利であると考えていた。1825年にストックトン・アンド・ダーリントン鉄道で公共用の鉄道として初めて蒸気機関車が使われ、1830年には世界初の蒸気機関車による旅客用鉄道であるリバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業した。これらの鉄道でもスティーブンソンの機関車が用いられた。ただし、軌間はこの途中のいずれかの段階で半インチ拡大されて4フィート8.5インチとなっている。", + "qas": [ + { + "question": "1814年、ジョージ・スティーヴンソンはある炭鉱鉄道のために蒸気機関車を製造したのだが、その炭鉱鉄道どこに位置しているか。", + "id": "tr-134-01-000", + "answers": [ + { + "text": "イングランド北東部", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道とリバプール・アンド・マンチェスター鉄道で共通に用いられた機関車は誰の機関車でしたか。", + "id": "tr-134-01-001", + "answers": [ + { + "text": "スティーブンソン", + "answer_start": 453, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "その後もスティーヴンソンらの関わった鉄道では4フィート8.5インチ軌間が採用されたが、蒸気機関車を用いた鉄道で馬車由来の軌間を用いる必然性はなく、より広い軌間のほうがよいと考える技術者も多かった。代表的な例がイザムバード・キングダム・ブルネルであり、グレート・ウェスタン鉄道において7フィート1/4インチ(2140mm)という広軌を採用した。ブルネルは、グレート・ウェスタン鉄道がスティーヴンソンの4フィート8.5インチ軌間の鉄道と接続する必要はないとして、異なる軌間でも特に問題はないと考えていた。ブルネルほど極端ではないにしろ、1830年代から40年代には5フィートから6フィート程度の様々な広軌鉄道が現れており、イングランドでもグレート・ウェスタン鉄道に追従して1836年にイースタンカウンティー鉄道が7フィート1/4インチ軌間にしようと試みたが技師長のブレイスウェストによって5フィート軌間を勧められどちらとも違う軌間を始めた(後に標準軌に改軌)。", + "qas": [ + { + "question": "スティーヴンソンとイザムバード・キングダム・ブルネルのうち、4フィート8.5インチの軌間を採用した人はどちらか。", + "id": "tr-134-02-000", + "answers": [ + { + "text": "スティーヴンソン", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "グレート・ウェスタン鉄道とイースタンカウンティー鉄道、どちらの軌間の方がより広いか。", + "id": "tr-134-02-001", + "answers": [ + { + "text": "グレート・ウェスタン鉄道", + "answer_start": 125, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ただし、こうした異なる軌間が路線を拡大した結果1844年にグロスターにおいて4フィート8.5インチ軌間と7フィート4分の1インチ軌間の鉄道ははじめて接し、これにより軌間が異なると直通運転ができないという弊害が顕在化した。軌間をどちらに統一すべきかは「ゲージ戦争(Battleofthegauges)」と呼ばれる激しい論争となった。1845年、王立委員会は広軌の技術的な優位は認めつつ、その差はわずかであり、路線長の長い4フィート8.5インチ軌間に統一するのが好ましいと勧告した。翌1846年に制定された軌間法により、グレートブリテン島の新規路線は原則として4フィート8.5インチの軌間で建設されることになった。この規定はスコットランド(5フィート6インチ軌間の「アブローズ~フォーファー」の路線が先行して施設されていた)にも適応され、安全上などの理由で広軌を求める声もあったが陸続きである以上4フィート8.5インチ軌間を受け入れることになった。ただし、アイルランドの鉄道は、グレートブリテン島とは海で隔てられているため共通の軌間を用いる必要はないとして、5フィート3インチ(1600mm)が標準とされた。", + "qas": [ + { + "question": "テキスト上、ゲージ戦争の結果として選択された軌間は何か。", + "id": "tr-134-03-000", + "answers": [ + { + "text": "4フィート8.5インチ軌間", + "answer_start": 209, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "グレートブリテン島の新規路線とアイルランドの鉄道のうち、軌間がもっと広いのはどっちなの?", + "id": "tr-134-03-001", + "answers": [ + { + "text": "アイルランドの鉄道", + "answer_start": 426, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "大陸ヨーロッパではイギリスと比べ鉄道の建設や運営に政府の関与が強く、軌間の選択に関しても最初に政府が決定した例が多い。このとき最も多く選ばれたのはスティーヴンソンの1435mm軌間であるが、オランダ、バーデン大公国、ロシア帝国、スペイン、ポルトガルの各国ではそれぞれ広軌(5~6フィート前後)が採用された。これは広軌のほうが技術的には優れているという見解に基づくものであった。オランダとバーデンでは後に周辺国に合わせて1435mmに改軌したが、ロシアとイベリア半島の軌間はそのまま現代に至っている。アメリカ合衆国では、1830年代から40年代にかけて、民間の鉄道会社により多くの鉄道が開業した。これらの鉄道は、港と内陸を結ぶことが主目的で相互の接続が軽視されたこともあり、4フィート8.5インチの他にも様々な広軌が採用された。これが1860年代頃までには、北東部では4フィート8.5インチ、南部では5フィート、ニュージャージー州とオハイオ州では4フィート10インチのように地域的に統合され、さらに1863年に大陸横断鉄道の軌間が4フィート8.5インチとされたことがきっかけとなって、全国的に4フィート8.5インチに統一された。", + "qas": [ + { + "question": "大陸ヨーロッパで最も多く選ばれた軌間は何mmですか。", + "id": "tr-134-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1435mm", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "現代のオランダの軌間と現代のロシアの軌間のうち、どちらの方がより広いですか。", + "id": "tr-134-04-001", + "answers": [ + { + "text": "ロシア", + "answer_start": 222, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1860年代頃、アメリカの北東部では、何フィート何インチの軌間が採用されましたか。", + "id": "tr-134-04-002", + "answers": [ + { + "text": "4フィート8.5インチ", + "answer_start": 383, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アメリカの軌間は結局、何フィート何インチに統一されたか。", + "id": "tr-134-04-003", + "answers": [ + { + "text": "4フィート8.5インチ", + "answer_start": 383, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "カナダの軌間に対して、1851年に5フィート6インチを標準とする法律が制定されたが、1870年に廃止され、アメリカ合衆国との直通の必要から4フィート8.5インチに改軌された。英領インドでは、最初のカルカッタ周辺は4フィート8.5インチ軌間で始まったが、1851年以降ダルハウジー侯爵ジェイムズ・ラムゼイ総督により5フィート6インチ軌間が標準とされた。ダルハウジーはイギリスの経験から最初に軌間などの規格を統一しておくことが重要であると考えていたが、インドはイギリス本土と直通するわけではないので独自に最良を選ぶべきだとして4フィート8.5インチがイギリスで統一されたのは「あくまで一地方の状況から偶然できたもので鉄道のベストとは限らない」としたが、ブルネルの7フィート1/4インチも大きすぎると考えたのか「この間に最良のものがある」と自身は6フィートを主張した(連続急勾配対策やハリケーン対策などの意味があったとも言われる)が4フィート8.5インチ組と話し合った結果5フィート6インチでまとまった。オーストラリアでは後の各州に相当する各植民地が独自に鉄道建設を行なった結果、最初(1850年)のサウスオーストラリア州は4フィート8.5インチ、次(1852年)にニューサウスウェールズ州はアイルランド式の5フィート3インチでビクトリア州と前述のサウスオーストラリア州もこれに合わせ改軌。しかしニューサウスウェールズの技師長がアイルランド人からスコットランド人に変わると今度は4フィート8.5インチになる(ビクトリア・サウスオーストラリアは変更せず)など混乱が続き、1870年代の狭軌ブームの時代もあって1067mmの州も加わるなど、州ごとにゲージが分断されたまま発展が続いて現在に至っている。ラテンアメリカ各地の鉄道の軌間は建設の始まった時期により異なり、1837年から1851年までの6例ではすべて1435mm軌間、1854年から1863年までの6例はすべて広軌である。1865年にウルグアイが1435mm軌間を採用したのを挟んで、以後はもっぱら狭軌となる。", + "qas": [ + { + "question": "テキストに従うと、1855年のカナダで使われた軌間は何フィート何インチだと予想されますか。", + "id": "tr-134-05-000", + "answers": [ + { + "text": "5フィート6インチ", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "カナダの軌間が4フィート8.5インチに変更されたのはどことの直通のためですか。", + "id": "tr-134-05-001", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ合衆国", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ダルハウジーがインドの軌間に対して最も望ましいと思っていたサイズは何インチですか。", + "id": "tr-134-05-002", + "answers": [ + { + "text": "6フィート", + "answer_start": 370, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "狭軌が流行った時期はいつですか。", + "id": "tr-134-05-003", + "answers": [ + { + "text": "1870年代", + "answer_start": 681, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "馬車由来の軌間より意図的に狭い軌間を使った初期の例としては、1836年開業のウェールズのフェステニオグ鉄道の1フィート11.5インチ(597mm)がある。ただし当時はこうした狭軌鉄道では蒸気機関車を用いることはできなかった。1860年ごろからは、狭軌でも実用的な蒸気機関車が製造可能になった。ノルウェーのカール・アブラハム・ピルは、同国西部での鉄道の建設にあたり、3フィート6インチ(1067mm)軌間がコストと能力のバランスのとれた理想的な軌間であるとした。ピルはイギリスで技術教育を受けており、その見解はチャールズ・フォックスをはじめとするイギリスの技術者たちにも支持された。さらに1865年ごろからは、フェステニオグ鉄道の技術者チャールズ・イーストン・スプーナーやイギリス商務省のヘンリ��・タイラーらによって、3フィート(914mm)や2フィート6インチ(762mm)の軽便鉄道のアイデアが提唱された。スプーナーらは、従来の標準軌や広軌の鉄道は無駄が多く、狭軌の軽便鉄道こそが将来の鉄道にふさわしいと主張した。", + "qas": [ + { + "question": "狭軌でも実用的な蒸気機関車を用いることができるようになったのはいつごろからですか。", + "id": "tr-134-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1860年ごろ", + "answer_start": 112, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "チャールズ・イーストン・スプーナーは狭軌と広軌のうち、どちらを好んでいますか。", + "id": "tr-134-06-001", + "answers": [ + { + "text": "狭軌", + "answer_start": 431, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ノルウェーのカール・アブラハム・ピルが同国西部での鉄道の建設に対して、最も望ましいと判断した軌間は何mmですか。", + "id": "tr-134-06-002", + "answers": [ + { + "text": "1067mm", + "answer_start": 192, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1860年代後半から1880年代にかけては、フォックスやその影響を受けたイギリス人を中心とする技術者の指導により、アジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの鉄道未開業地域において1067mmや1000mm、914mmなどの軌間での鉄道建設が相次いだ。1872年に開業した日本の鉄道が1067mm軌間を採用したのもその一例である。またケープ植民地(南アフリカ)やニュージーランドでは、一旦標準軌での鉄道建設が始まっていたものが、狭軌に切り替えられている。タイやインドネシアでは、先行していた標準軌鉄道とは別に狭軌の鉄道が建設され、その後長い時間をかけて狭軌に統一された。インドとオーストラリアでは、すでに広軌や標準軌の鉄道網がある程度発達していたにも関わらず、狭軌の鉄道も並行して建設されるようになった。このため複数の軌間が混在する状況が生じ、21世紀に至っても完全には解消されていない。", + "qas": [ + { + "question": "テキストによると、タイやインドネシアでの現在の軌間は狭軌、広軌、標準軌のうちどれだと予想できるか。", + "id": "tr-134-07-000", + "answers": [ + { + "text": "狭軌", + "answer_start": 251, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ケープ植民地やニュージーランドでは、標準軌と狭軌のうちどちらが先行しましたか。", + "id": "tr-134-07-001", + "answers": [ + { + "text": "標準軌", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "すでに標準軌の普及していたヨーロッパや北アメリカでも、標準軌路線を作るほどの需要のない地域での軽便鉄道の規格として狭軌は広く用いられた。アメリカ合衆国では、1871年に3フィート軌間のデンバー・アンド・リオグランデ鉄道の最初の区間が開通した。1872年には第1回全米狭軌鉄道会議が開催され、3フィート軌間がアメリカにおける狭軌の統一規格として合意されるとともに、標準軌鉄道に代わって狭軌の幹線鉄道網を築くという野心的な計画も示された。しかし、狭軌鉄道がある程度普及してくると、狭軌は従来主張されていたほど経済的ではないことが明らかとなった。オーストラリア・クイーンズランド植民地の鉄道の建設費は当初予算を40%も超過した。またアメリカ合衆国の狭軌鉄道会社でも、1880年代には標準軌鉄道との積み換えを避けるための改軌が相次いだ。アメリカ合衆国のアーサー・M・ウェリントンは1887年の著書で、狭軌鉄道の利点とされていた建設費の安さや曲線通過性能は、実際には軌間にほとんど依存せず、ランニングコストはかえって高くなってしまうと述べた。狭軌を使う意味のあるのは、車体サイズなどを小さくした低規格の軽便鉄道の場合に限られる。しかしウェリントンやその支持者たちの主張では、建設段階では需要��少ない路線であっても、狭軌ではなく標準軌で建設したほうが、将来の改良で本線鉄道網の一部とすることが容易であるため好ましいとしている。アメリカ合衆国やイギリスではこの主張が比較的早く受け入れられたが、大陸ヨーロッパにおいては20世紀前半においても狭軌の軽便鉄道の建設が続いた。しかし自動車が普及してくると、速度や輸送力の劣る軽便鉄道は競争力を失い、多くが廃止に追い込まれた。", + "qas": [ + { + "question": "ヨーロッパや北アメリカでは、標準軌と狭軌のうち、どちらの方が普及が早かったか。", + "id": "tr-134-08-000", + "answers": [ + { + "text": "標準軌", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "第1回全米狭軌鉄道会議はいつ開かれましたか。", + "id": "tr-134-08-001", + "answers": [ + { + "text": "1872年", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "建設費が当初予算を40%も超過したオーストラリア・クイーンズランド植民地の鉄道に採用された軌間は狭軌か、それとも標準軌か。", + "id": "tr-134-08-002", + "answers": [ + { + "text": "狭軌", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "自動車と軽便鉄道のうち、どちらの方が速度の面で優れていますか。", + "id": "tr-134-08-003", + "answers": [ + { + "text": "自動車", + "answer_start": 681, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "20世紀に入ってからは、新たに鉄道の軌間を選択する機会そのものが稀になったこともあり、軌間の優劣に関する議論は低調になった。20世紀初めごろには日本(日本の改軌論争)や南アフリカ、オーストラリア、アメリカ合衆国などで、狭軌鉄道を標準軌に、あるいは標準軌を広軌に改軌すべきであるという議論が起こったが、オーストラリアのいくつかの狭軌鉄道が標準軌に改軌された例を除いて、いずれも実現には至っていない。ナチス・ドイツでは軌間3000mmの超広軌鉄道「ブライトシュプールバーン」が計画されていた。20世紀後半以降に新たに建設された鉄道では、標準軌が採用される例が多い。日本の新幹線や多数の製鉄所構内鉄道が、狭軌の在来線網とは独立した形で標準軌を選んだのがその最たるものである。またアフリカ各国やブラジル、オーストラリアでは、従来の狭軌鉄道とは別に、鉱山用や通勤用に標準軌で鉄道を新設した例がある。逆にスペインなどは在来線は広軌だが、高速列車のAVEはフランスなどとの接続を考えて、また通勤用の鉄道は車両限界をなるべく小さくして建設費用や車両新製費用を抑えるために、いずれも狭い標準軌で施設されている。こうした選択は、既に存在する技術を活用でき、車両や資材の調達もしやすいことによるものである。", + "qas": [ + { + "question": "ナチス・ドイツで計画された「ブライトシュプールバーン」は何mmの期間を用いる予定でしたか。", + "id": "tr-134-09-000", + "answers": [ + { + "text": "3000mm", + "answer_start": 209, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "スペイン、フランス、ブラジルのなか、高速列車のAVEと関連していない国はどれ?", + "id": "tr-134-09-001", + "answers": [ + { + "text": "ブラジル", + "answer_start": 343, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "新幹線は狭軌、標準軌、広軌のうち、どれを採用しましたか。", + "id": "tr-134-09-002", + "answers": [ + { + "text": "標準軌", + "answer_start": 314, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "鉄道車両には鉛直方向の重力のほか、横風や走行時の車両の動揺、曲線通過時の遠心力などにより横方向の力がかかっている。車両の重心からこれらの力の合力方向にひいた直線が線路面と交わる位置が、片方のレールの外側になると、車両は転覆してしまう。また、軌道の中心から軌間の6分の1以上ずれると、脱線の確率が高まることが知られている。このため、重心の高さが同じであれば広軌のほうが横方向の力に対してより安全であるといえる。特に列車の速度が速くなるほどこうした力の影響は大きくなるため、高速運転には軌間の広いほうが適している。狭軌の場合は、横方向の力の発生を防ぐためより精度の高い保線作業が必要となる。また同程度の安定性を求めるのであれば、軌間の広いほうが重心を高くすることができ、大型の車両を用いることができる。1850年代にインドの鉄道で広軌が採用された理由のひとつとして、軌間が広いほうがサイクロンなどの強風に対して安全であるということが挙げられている。また1973年にアメリカ合衆国カリフォルニア州のサンフランシスコ・ベイエリアで開業したBARTでも、湾岸地域での横風に対する安定性を考慮して1676mm軌間とコンクリート道床の組み合わせを採用した。", + "qas": [ + { + "question": "高速列車に向いているのは狭軌と広軌うち、どちらですか。", + "id": "tr-134-10-000", + "answers": [ + { + "text": "広軌", + "answer_start": 177, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "インドの判断によると、サイクロンなどの強風からより安全なのは狭軌ですか、それとも広軌ですか。", + "id": "tr-134-10-001", + "answers": [ + { + "text": "広軌", + "answer_start": 363, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ただし、1840年代半ば以降になると、車体の製造技術の向上などにより外側シリンダーの蒸気機関車が製造可能になり、シリンダーの大きさが軌間に制約されることはなくなった。むしろ外側シリンダーでは車両限界や特にボイラーの太さが同一ならば広軌の方がシリンダーをより外側につけるため、シリンダーの大きさを妨げる原因になり、イギリスの軌間問題に関する王立調査委員会は、1845年の報告で7フィート軌間のほうが4フィート8.5インチ軌間より機関車の性能が優れていることは認めつつ、その差は僅かであると指摘している。一方で、軌間の広いほうが高い重心が許容されるため、火室やボイラーを大型化し、出力を向上させることができる。19世紀半ばまでは低い蒸気圧しか使えなかったため、この点は大きな差にはならなかった。しかし使用蒸気圧の増した19世紀末から20世紀であれば、軌間と蒸気機関車の性能にはより強い関係があった。20世紀初頭の段階では、狭軌の蒸気機関車は標準軌の半分程度の性能しか出せないとされていた。1912年に日本で行われた実験では、国鉄の2120形と呼ばれたタンク機関車のグループのうち2323号機を広軌化(1067mm→1435mm)して、左右車輪の間に空間ができたのを利用して火室の幅を広げた所、牽引能力が上昇して1067mm時には10‰勾配上で250tの列車を引けたものが1435mm時には350tまで牽引可能になった。1920年代のアメリカ合衆国では、標準軌でも不十分であり、6フィート(1829mm)などの広軌に改軌したほうがより高性能の機関車を設計できるという主張があった。", + "qas": [ + { + "question": "1920年代のアメリカ合衆国は高性能の機関車の設計の際、広軌と標準軌のうち、どちらの方が向いていると述べましたか。", + "id": "tr-134-11-000", + "answers": [ + { + "text": "広軌", + "answer_start": 652, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "国鉄の2120形のうち2323号機は1067mmから何mmに広軌化しましたか。", + "id": "tr-134-11-001", + "answers": [ + { + "text": "1435mm", + "answer_start": 505, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "一方、電動機(モーター)を動力源とする電車や電気機関車(電気式動力伝達の内燃機関動力車も含む)の場合は、通常動輪のすぐ横でモーターを軸と平行に置くので車輪直径��上下方向、軌間で左右方向の大きさに制約が生じる。この影響は電車より電気機関車、電気機関車より電気式動力伝達の内燃機関動力車の方が大きい。このためモーターの大型化・車輪直径を抑える・狭軌の3つはすべて満たすことが難しくなり、日本の例では明治の末に国鉄が山手線で初めて電車を運行したころはモーターが50馬力だったので車輪径が客車や貨車と同じ大きさでもさほど問題はなかったが、大正3年に京浜間に100馬力の大型モーターの電車を走らせることになった際、このサイズの車輪ではモーターの下端とレール上面の隙間が構造規定を下回ってしまうため車輪径を大きくして910mmの車輪を採用し、以後これが電車の標準になったことがある。", + "qas": [ + { + "question": "日本の国鉄が初めて電車を運行したのは何線?", + "id": "tr-134-12-000", + "answers": [ + { + "text": "山手線", + "answer_start": 205, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "貨車に貨物を搭載する場合の効率については、広軌のほうが有利であるという主張と狭軌のほうが有利であるという主張の双方が存在する。広軌を有利とするのは、広軌のほうが重心を高くすることができるため、車体を横方向のみならず垂直方向にも大型化することができるためである。このとき(車体長を不変とした場合)床や壁の面積は軌間の1乗のオーダーで増加するが、容積は2乗のオーダーで増えるため、より効率よく貨物を積むことができる。一方狭軌を有利とする根拠は、軌間が広いほど台車などが大きくなってしまい、運ぶべき貨物の重量に対して貨車そのものの重量が大きく効率が悪いことによる。結論を言えば、これは貨物の比重と輸送量に影響される。農産物など比重の小さい貨物を大量に運ぶときには前者の影響が大きく、広軌のほうが有利である。一方鉱石など比重の大きな貨物を少量運ぶときは後者の影響が大きい。鉱山などの専用鉄道で狭軌が採用される例があるのはこのためである。ただし、車体を大きくするには車両限界や建築限界(特に橋梁やトンネルの設計)、レールや路盤の強度なども関係してくるため、単純に軌間が広ければよいというわけではない。1676mmの広軌を採用しているインドの鉄道でも、欧米の標準軌鉄道と比べて車両限界は僅かに大きい程度である。これについては日本の鉄道院初代総裁である後藤新平も広軌化検討時に「ドイツ鉄道で現在(注:1909年)使用されている有蓋貨車は狭軌でこれは採用できる、したがって貨車においては広狭関係ない。アメリカの貨車は最も大きいが、南アのボギー貨車はこれに劣らないので貨車についてはボギーとすれば広狭同等と考える。」、「元九州鉄道の貴賓車(九州鉄道ブリル客車のこと)はイギリスよりも大きく、プロシャ(ドイツ)とほぼ同じである、したがって狭軌でも建築限界を広げれば「萬国寝台会社」サイズの客車を運転できる。」としている。", + "qas": [ + { + "question": "貨車に貨物を搭載する場合の効率について、広軌のほうと狭軌のほう、どちらがより有利であるか。", + "id": "tr-134-13-000", + "answers": [ + { + "text": "双方", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "農産物など比重の小さい貨物を大量に運ぶときには広軌のほうが有利であるが、それは何に影響されるためであるか。", + "id": "tr-134-13-001", + "answers": [ + { + "text": "貨物の比重", + "answer_start": 289, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ロシア帝国とスペインの鉄道がヨーロッパの他地域と異なり広軌を選択した理由として、ナポレオン戦争の記憶から他国に侵略された場合に鉄道を利用されることを恐れたためと説明されることがある。しかし、両国が軍事的理由で軌間を選んだとする記録は存在しない。両国とも、鉄道が開業したのは1830年代から40年代の広軌優位論が盛んであった時代であり、軌間を検討した技術者は4フィート8.5インチよりも広い軌間のほうが��れていると主張した。また、将来他国の4フィート8.5インチ軌間の鉄道と接続される可能性については軽視している。ロシアが侵略に備えて異軌間を選んだとする説の初出は、1866年にイギリスのタイムズ紙に掲載された特派員報告で、伝聞の形で伝えている。また、ロシア交通省は1841年の報告書で、鉄道が敵に利用される可能性について、軍が退却する時に線路を破壊すればよいと記しているが、軌間の違いには言及していない。", + "qas": [ + { + "question": "ロシアがフランスの侵略に備えて異軌間を選んだとする説は何年度に初出しましたか。", + "id": "tr-134-14-000", + "answers": [ + { + "text": "1866年", + "answer_start": 282, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "軌道は列車が走行するたびに少しずつ変形してしまう。これを軌道狂いといい、このうち軌間の所定の値(ただし曲線部では所定の軌間とスラックの和)からのずれを軌間狂いという。狂いが大きくなると乗り心地が悪くなり、さらに大きくなると脱線の危険も高まる。このため定期的に検測と保守作業を行ない、狂いが一定の範囲内に収まるようにしている。手動による軌間狂いの検測には、軌間ゲージという器具が用いられる。また軌道検測車により走行しながら検測を行なうこともできる。JR在来線の場合、軌間狂いの整備目標値は+6mmから-4mm(高速軌道検測車による動的値の場合は+10mmから-5mm)である。ただし分岐器のクロッシング部では、狂いが大きいと異線進入のおそれがあるため、+5mmから-3mmとされている。", + "qas": [ + { + "question": "列車が走行するたびに少しずつ生じる軌道の変形を何と呼びますか。", + "id": "tr-134-15-000", + "answers": [ + { + "text": "軌道狂い", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "標準軌(国際標準軌、スティーヴンソン軌間)は、1,435mm(4ft8.5in)で、ヨーロッパ(一部を除く)、北アメリカ、東アジアの大陸部などで広く用いられている。ストックトン・アンド・ダーリントン鉄道やリバプール・アンド・マンチェスター鉄道といった初期の鉄道で用いられたことがきっかけとなり、世界的に普及した。ただし1435mm以外の軌間が主流となっている地域では、その軌間のことを「標準軌」と呼ぶことがある。たとえば日本においては1067mmが圧倒的多数を占める。そのため、古い資料では「1435mm=広軌、1067mm=標準軌」と記されているケースもあり、注意が必要である。この場合、京王線、函館市電などが採用する1372mmは広軌の扱いを受けることが多い。", + "qas": [ + { + "question": "日本で最も多い軌間のサイズは?", + "id": "tr-134-16-000", + "answers": [ + { + "text": "1067mm", + "answer_start": 217, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "広軌とは標準軌より広い軌間のこという。「ブロードゲージ(BroadGauge)」とも呼ばれる。19世紀半ばには広軌のほうが標準軌より優れているとの考えから、様々な広軌が実用化された。その後標準軌に改軌されたことで現存しないものも多いが、国や地域によってはそのまま地域における標準的な軌間となった。現代の本線鉄道で用いられている軌間で最大のものは1,676mm(5ft6in)である。特殊用途の鉄道では、巨大な積載物を移動する必要性などから広軌が採用される場合もある。インクラインやレール上を移動するクレーンなどでは、極端に広い軌間が用いられることもある。現代の普通鉄道において用いられている主な広軌は以下である。", + "qas": [ + { + "question": "ブロードゲージ(BroadGauge)は日本語で何と言いますか。", + "id": "tr-134-17-000", + "answers": [ + { + "text": "広軌", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "現代の本線鉄道で用いられている軌間で最も広いのは何mmですか。", + "id": "tr-134-17-001", + "answers": [ + { + "text": "1,676mm", + "answer_start": 172, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "営業用の鉄道として認知されているもののうちで、最小の軌間はイギリスのMullandWestHighlandRailway(1983年-2010年、2011年5月-9月)とWellsandWalsinghamLightRailwayの260mmである。このほか311mm,381mm(15in),500mmなどの軌間も存在する。日本では法制上は鉄道とはされていないが、伊豆修善寺の「虹の郷」園内の虹の郷ロムニー鉄道が381mm軌間である。三重県の桑名駅付近に、762mmの三岐鉄道北勢線、1067mmの関西本線、1435mmの近鉄名古屋線と、異なる3種の軌間を渡る踏切がある。ここまでが、実際の交通機関(輸送手段)として使われている(または過去に使われた)軌間である。これより狭いものはライブスチーム(イベントなどのミニSLなど)による庭園鉄道や、鉄道模型などで使われる。", + "qas": [ + { + "question": "MullandWestHighlandRailway、WellsandWalsinghamLightRailway、ロムニー鉄道、三岐鉄道北勢線の中で、最も広い軌間が用いられたのはどれですか。", + "id": "tr-134-18-000", + "answers": [ + { + "text": "三岐鉄道北勢線", + "answer_start": 235, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "近鉄名古屋線と庭園鉄道のうち、どちらの方の軌間が狭いですか。", + "id": "tr-134-18-001", + "answers": [ + { + "text": "庭園鉄道", + "answer_start": 367, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "園井恵子", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "園井恵子は、日本の女優である。\n\n1930年に宝塚少女歌劇入団した。高い演技力をもつ名バイプレーヤーとして知られた。1942年に宝塚を退団、新劇の劇団「苦楽座」に籍を移し、翌年出演した映画『無法松の一生』における吉岡夫人役で名声を博す。1945年8月6日、所属していた移動劇団「桜隊」が当時活動の拠点としていた広島市で原子爆弾投下に遭い、同月21日に原爆症のため32歳で死去した。", + "qas": [ + { + "question": "園井恵子は何年にに宝塚少女歌劇入団したか。", + "id": "tr-135-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1930年", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "園井恵子は何年に亡くなりましたか。", + "id": "tr-135-00-001", + "answers": [ + { + "text": "1945年", + "answer_start": 118, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "園井恵子の死因は何ですか。", + "id": "tr-135-00-002", + "answers": [ + { + "text": "原爆症", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "園井恵子は1913年、岩手県岩手郡松尾村に、袴田清吉、カメ夫妻の長女として生まれる。出生名は袴田トミだ。実家は菓子の製造販売業を営み、祖父・政緒は松尾村の初代村長を務めた人物であった。翌年、政緒の死去に伴い一家はそれぞれ菓子舗として独立、トミは両親と共に同郡川口村に移った。以後しばらく同地で育つが、岩手女子師範附属小学校高等科への進学に伴い、盛岡市の叔父・袴田多助宅に身を寄せる。さらに叔父一家が北海道小樽市に移転すると、トミもこれに付き従い、1927年に小樽高等女学校に入学した。\n\nなお、戸籍上の本名は「トミ」だが、幼少のころ、歌舞伎の演目『切られ与三』の「いやさ、お富」という台詞で散々からかわれたことに辟易し、「英子」という通称を名乗り、宝塚在団中は専らこの通称の方が知られた。さらに後には「真代」を名乗っており、死去4日前に書かれた最後の手紙も「真代」という署名で締められている。", + "qas": [ + { + "question": "園井恵子はどの県出身なの?", + "id": "tr-135-01-000", + "answers": [ + { + "text": "岩手県", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "園井恵子の出生名は何ですか。", + "id": "tr-135-01-001", + "answers": [ + { + "text": "袴田トミ", + "answer_start": 46, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "園井恵子が1927年に入学した学校は?", + "id": "tr-135-01-002", + "answers": [ + { + "text": "小樽高等女学校", + "answer_start": 229, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "園井恵子の、戸籍上の本名は何?", + "id": "tr-135-01-003", + "answers": [ + { + "text": "「トミ」", + "answer_start": 254, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "園井恵子は小学校3年生のとき少女雑誌により宝塚歌劇の存在を知り、小学校卒業のころにはすでに入団を志望していたが、当時は叶えることができなかった。その後、小樽ではじめて「宝塚少女歌劇の姉妹座とかいう劇団」による「少女歌劇らしいもの」を観劇し、古本屋で宝塚歌劇の機関誌『歌劇』を見つけては熟読していた。小樽高女は2年次1学期末の1928年7月をもって中退し、川口村の両親のもとへ戻ったが、のちに両親と親戚の反対を押し切って宝塚音楽歌劇学校受験のため単身大阪へ赴き入学を果たす。当時、正規の入学試験はすでに終了し入学式も済んでおり、特別試験を経て入学が認められ、音楽歌劇学校予科へ編入された。姓の「袴田」から「ハカマ」という愛称で呼ばれ、寮で同室だった桜緋紗子や社敬子とは特に親しい間柄となった。予科時代は平凡な存在だったという評がある一方、当時本科生だった冨士野高嶺によれば、「しっかりしている」という評判のあった予科生の中で、神代錦、桜緋紗子らとともに、ひときわ目立つ存在だったともいう。", + "qas": [ + { + "question": "園井恵子が宝塚歌劇の存在を知ったきっかけは何でしたか。", + "id": "tr-135-02-000", + "answers": [ + { + "text": "少女雑誌", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "音楽歌劇学校予科時代の園井恵子愛称は何でしたか。", + "id": "tr-135-02-001", + "answers": [ + { + "text": "「ハカマ」", + "answer_start": 301, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "翌1930年、園井恵子は音楽学校本科生となり、劇団第19期生として花組に編入した。当時の芸名は「笠縫清乃」であった。同年4月から上演されたレビュー『春のをどり』で初舞台を踏み、同年12月から芸名を「園井恵子」と改めた。\n\n1931年3月末に宝塚音楽学校を卒業し、月組配属となる。8月、白井鐵造作『ジャックと豆の木』初日において、母親役の高千穂峯子が突然倒れたことにより、予定のなかった園井が急遽代役として出演。30分で台詞を覚えて演じきり、好評を博した。10月には『ライラック・タイム』に門番婆さん役を好演し、宝塚歌劇創始者・小林一三から「今年最大の収穫」と賞賛された。以後役付きが良くなっていき、喜劇的な役どころを中心に、奥方役、老婆役など、できない役はないというほど多彩な芸を持つ名バイプレーヤーとして地歩を固めていった。親しかった桜緋紗子、社敬子、葦原邦子はいずれも、園井の好演作として主人公の母親「ローズ」役を演じた『アルルの女』(1934年)を挙げている。この作品は当時大ヒットを記録し、後に全国に宝塚劇場が開場するたびにこけら落とし作品として選ばれた。", + "qas": [ + { + "question": "園井恵子は何年に音楽学校本科生となったか。", + "id": "tr-135-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1930年", + "answer_start": 1, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "園井恵子が劇団第19期生として花組に編入したとき、芸名は何でしたか。", + "id": "tr-135-03-001", + "answers": [ + { + "text": "「笠縫��乃」", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "園井恵子の芸名が「笠縫清乃」から「園井恵子」になったのは何年のことか。", + "id": "tr-135-03-002", + "answers": [ + { + "text": "1930年", + "answer_start": 1, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "園井恵子は10月の『ライラック・タイム』でどんな役を演じたか。", + "id": "tr-135-03-003", + "answers": [ + { + "text": "門番婆さん", + "answer_start": 244, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1943年、園井は当時最大級のスターであった阪東妻三郎の相手役・「吉岡夫人」役として、映画『無法松の一生』に出演する。吉岡夫人役には当初水谷八重子、次いで入江たか子が候補として挙がっていたが、両名の所属会社はこれを断り、代わって候補となった小夜福子も妊娠中で出演不可との返事であった。制作側は「あまり動かない役だから、ともかく一度お会いしたい」と食い下がり、後日設けられた両者の面会の場で、小夜はすでに大きくなった腹を見せた上で「私よりぴったりだと思う」と園井を紹介。このとき園井はアスピリン中毒で口周りに湿疹を生じたためマスク姿で、監督の稲垣浩が別室に連れだしてマスクを取るよう促したが、園井は「この顔を見られるぐらいなら、もうお断りします」と涙ながらに拒否し、完全な顔合わせのないまま、小夜の言葉を信じて起用が決まった。", + "qas": [ + { + "question": "1943年、園井は映画『無法松の一生』にどんな役で出演しましたか。", + "id": "tr-135-04-000", + "answers": [ + { + "text": "「吉岡夫人」役", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "園井の口周りに湿疹を生じた原因は何でしたか。", + "id": "tr-135-04-001", + "answers": [ + { + "text": "アスピリン中毒", + "answer_start": 241, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "完成した『無法松の一生』は検閲により約10分間に相当するフィルムに鋏が入れられてしまったが、稲垣が「こんなにほめられていいのかしらと思うぐらい」の好評を博し、園井の名も映画スターとして一躍全国区のものとなった。当年の興行収入ランキングでは黒澤明の初監督作品『姿三四郎』を上回り、『伊那の勘太郎』に次ぐ第2位の成績を挙げた。稲垣は試写後の手紙で「何か貴女に適当な役があった場合は、また飛んでいくかも知れません。映画にはこりごりでも、せめて僕のモノには出てほしい」と綴っている。園井自身はのちに「『無法松』のときは初めてで、お相手の方もずいぶん歯がゆくお思いになったでしょうと、恥ずかしくてたまらない」と自省し、稲垣監督、宮川一夫撮影で再度映画に出演することを願っていたという。なお、後に稲垣は映画『乞食大将』の主演に園井を推薦し、また『無法松-』の演技に感心した山本嘉次郎も脚本用意の上で起用を図ったが、いずれも出演は実現しなかった。", + "qas": [ + { + "question": "『無法松の一生』、『姿三四郎』、『伊那の勘太郎』のうち、興行収入ランキングの1位はどれか。", + "id": "tr-135-05-000", + "answers": [ + { + "text": "『伊那の勘太郎』", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『無法松の一生』、『姿三四郎』、『伊那の勘太郎』のうち、興行収入ランキングが最も低いのはどれですか。", + "id": "tr-135-05-001", + "answers": [ + { + "text": "『姿三四郎』", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "小樽あんかけ焼そば", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "小樽あんかけ焼そばの発祥については諸説ある。当初は1957年に小樽市稲穂に移転オープンした中華料理店「梅月」の「五目あんかけ焼そば」を元祖とする説が有力であった。当時の同店は比較的敷居が低く観光客にも親しまれ、当時急増していたカニ族にも好評を博し、小樽市民も市内中心部での買物後に同店であんかけ焼そばを食べることが流行するほどの人気ぶりであった。「梅月」は2代目店主・近藤祐司の代に最盛期を極めており、ほかの料理人たちにレシピを伝えることに積極的だった近藤の姿勢が、小樽市内にあんかけ焼そばを普及させることに一役買ったと見られている。\n\nただし後の研究によれば、小樽市内のほかの中華料理店「レストラン・ロール」や「来来軒」では1950年頃にすでにあんかけ焼そばを提供していたとの報告もあり、日本全国の中華料理店であんかけ焼そばが賄い料理として出されていたことを考慮すると、小樽あんかけ焼そばの起源は「梅月」よりもさらに遡ることができるとの見方もある。また戦前には、小樽市内の多くのホテルや料亭が東京都や京都府から調理師を雇い入れていたため、こうした人々があんかけ焼そばを小樽に伝え、港湾での労働者に愛好されて普及したとの説もある。\nいずれにせよ、あんかけ焼そばが小樽市内に広く普及したのは昭和30年代と考えられており、腹持ちが良い上、冬は体が暖まることから多くの店にも普及したものと見られており、昭和30年代当時は「ハイカラなランチ」とブームになっていたという。", + "qas": [ + { + "question": "小樽あんかけ焼そばの発祥に対する最も有力な説によると、小樽あんかけ焼そばの元祖は何ですか。", + "id": "tr-136-00-000", + "answers": [ + { + "text": "「五目あんかけ焼そば」", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "あんかけ焼そばが小樽市内に広く普及したのはいつだと考えられていますか。", + "id": "tr-136-00-001", + "answers": [ + { + "text": "昭和30年代", + "answer_start": 544, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "2013年、前述の「小樽あんかけ焼そば親衛隊」会長・江頭進の発案のもと、小樽商科大学の学生有志により、あんかけ焼そばを提供する市内64店の情報を満載した『小樽あんかけ焼そば事典』が作成され、同年9月から小樽や札幌市の書店で販売された。この刊行には、小樽のご当地グルメであるあんかけ焼きそばの調査により、小樽の経済変化などを読み解くとの、江頭の狙いもあった。\n\n販売開始後から2週間で初版2千部が底を突き、急遽4千部が増刷された。江頭によれば、学生製作による地域紹介の書籍は日本全国にあるが、売れ行きが千部を超える例は稀で、画期的な売れ行きだという。小樽市内の書店からは、事典の売れ行きは2か月で286冊、村上春樹の新作が半年で344冊なので、本書の売れ行きは大変なペースだとの声も上がっている。\n\n本書に掲載された店舗の一つである小樽市稲穂の中華料理店「東香楼」では、発売から2か月間で本書を手にした客が5組来店しており、あんかけ焼そばの注文が約1割増えるなど、本書の売上があんかけ焼そばを提供する各店の売上増加にも結び付いている。\n\n2017年には、小樽市内の新規創業および廃業の店舗の状態を反映させ、新たに『小樽あんかけ焼きそば事典』が刊行された。", + "qas": [ + { + "question": "『小樽あんかけ焼そば事典』はいつ作成されたの?", + "id": "tr-136-01-000", + "answers": [ + { + "text": "2013年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『小樽あんかけ焼そば事典』は何年度から小樽や札幌市の書店で販売されたの?", + "id": "tr-136-01-001", + "answers": [ + { + "text": "2013年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "サークルKサンクスでは2011年11月から12月までの期間限定で、「小樽あんかけ焼そばPR委員会」公認のあんかけ焼���ばを全道190店で発売した。「B-1グランプリ」初出場を果たした2014年には「小樽あんかけ焼そば親衛隊」監修のもとに同年6月から発売され、好評に応えて2014年10月から再発売された。\n\nローソンでは『小樽あんかけ焼そば事典』の人気が契機となり、北海道内全600店舗で2014年2月から「小樽あんかけ焼そば」が発売された。ローソンの焼そば類の新商品売上は、発売当月は1万個以上の売上を見せ、翌月には激減してほとんどの商品が姿を消すといわれるものの、「小樽あんかけ焼そば」は発売当月に5万2千個、翌月も2万6千個を販売する爆発的な売上であり、焼そば類では道内ローソン史上で最多の売上を記録した。焼そば類のこの2か月間の売上は、道内のローソン全体で前年同期比約80パーセント増、麺類全体でも同2パーセント増で、全国のローソンで北海道地区だけが唯一のプラスとなった。このためローソンでは、当初同年3月末までであった販売期間が無期限延長に変更されている。\n\n前述「B-1グランプリ」出場後は、西日本を中心に日本全国から土産品や生麺商品を望む声が寄せられたことで、同2014年から生麺入り商品「小樽あんかけ焼そば」が発売され、小樽市内やJR北海道札幌駅の土産物店で販売が開始されている。\n\n2016年には、「小樽あんかけ焼そば親衛隊」の監修のもと、小樽市内の製麺会社・阿部製麺より、あんかけ焼きそばの味を再現できるオリジナルソースの販売が開始された。", + "qas": [ + { + "question": "あんかけ焼きそばの味を再現できるオリジナルソースは何年度から販売されたの?", + "id": "tr-136-02-000", + "answers": [ + { + "text": "2016年", + "answer_start": 599, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "東方問題", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "東方問題(とうほうもんだい、英:EasternQuestion)とは、オスマン帝国およびその支配地域をめぐるヨーロッパ諸国の外交問題のことをいう。広義にはオスマン帝国成立以来の、キリスト教ヨーロッパ世界への圧迫に関わるヨーロッパ諸国間の外交問題。狭義においては18世紀以降のオスマン帝国の解体過程に伴って生じ、19世紀に顕著となったオスマン帝国領内での紛争に関連するヨーロッパ諸国間の国際問題を意味し、今日一般的にはこの用法で使われる。サンクトペテルブルクから資本を注入され債務国となったロシア帝国は、オスマン債務管理局の利権にくいこめず南下政策を完封された。ロシアを欠いた神聖同盟は第一次世界大戦で粉砕され、東方問題は一応の決着をみた。", + "qas": [ + { + "question": "東方問題とは、どの国とその支配地域をめぐるヨーロッパ諸国の外交問題のことを言うの?", + "id": "tr-137-00-000", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロシア帝国が債務国となったのは、どこから資本を注入されたからですか?", + "id": "tr-137-00-001", + "answers": [ + { + "text": "サンクトペテルブルク", + "answer_start": 218, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "「東方問題」は、ヨーロッパから見て東方に位置するオスマン帝国を中心とした地域におけるヨーロッパの一連の外交問題を総称した、主にヨーロッパ側の呼称である。広義には、14世紀末以降オスマン帝国のバルカン半島進出によって形成された外交問題で、対オスマン十字軍やオスマン帝国を利用したブルボン家の対ハプスブルク家外交などを含み、20世紀前半のトルコ共和国成立にいたるまでのヨーロッパ対オスマン帝国間の外交問題のことを言う。狭義の、そして今日一般に使われる意味での「東方問題」は上記のうち、特に後半期の18世紀後半から19世紀後半にかけた外交問題を指し、オスマン帝国解体期にヨーロッパ諸国間の勢力均衡を帝国領の分配によって調整しようとしたものである。以下今日一般的に使われる「東方問題」として、狭義について説明する。", + "qas": [ + { + "question": "東方問題という呼称は、主にどの地域において使われるか?", + "id": "tr-137-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ヨーロッパ", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "トルコ共和国は、いつ頃成立したか?", + "id": "tr-137-01-001", + "answers": [ + { + "text": "20世紀前半", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "今日一般に使われる「東方問題」の意味は、広義と狭義のうち、どちらに当たるの?", + "id": "tr-137-01-002", + "answers": [ + { + "text": "狭義", + "answer_start": 207, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "広義での東方問題は、14世紀末以降オスマン帝国がどこに進出したことにより形成された外交問題を意味しますか?", + "id": "tr-137-01-003", + "answers": [ + { + "text": "バルカン半島", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "バルカン半島のオスマン帝国領は1699年のカルロヴィッツ条約以降縮小・解体に向かい、それに伴ってこの地域へのオーストリアとロシアの進出が始まり、また1821年以降のギリシャの独立運動などに代表されるように、バルカン諸民族が独立に向けて活発化するようになる。オスマン帝国治下のバルカン半島の民族分布は複雑に錯綜しており、これらの民族が国民国家を形成しようとする場合、その領域の決定には民族問題が不可避に関わる状況であった。このような状況に際し、ヨーロッパ列強はバルカン半島の紛争に介入して、一国がオスマン帝国との外交関係において「一人勝ち」する構造を排除することで、各国の利害を調整しパワーバランスの維持に努めた。またオスマン帝国側もヨーロッパの国際関係を利用して自国の領土と利益を守るために主体的に外交紛争に関わった。これら「東方」の状況は、同時に、ヨーロッパ諸国自体の政策に影響する側面も持ち、とくにクリミア戦争は各国の政治・経済状況に顕著な影響を及ぼした。", + "qas": [ + { + "question": "オーストリアとロシアのバルカン半島への進出は、何年以降から始まったと推測できるの?", + "id": "tr-137-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1699年", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "オスマン帝国の支配下のバルカン半島が縮小・解体に向かったのは、どの条約が締結された以降のことですか?", + "id": "tr-137-02-001", + "answers": [ + { + "text": "カルロヴィッツ条約", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バルカン半島におけるオスマン帝国の勢力が縮小していくにつれて、その地域に目を向けたのは、オーストリアとどの国か?", + "id": "tr-137-02-002", + "answers": [ + { + "text": "ロシア", + "answer_start": 61, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カルロヴィッツ条約が結ばれたのは、何年のことか?", + "id": "tr-137-02-003", + "answers": [ + { + "text": "1699年", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "この一連の問題は、主として、ヨーロッパ諸国にとっては「外交問題」、バルカン諸民族にとっては「民族問題」、オスマン帝国にとっては「領土問題」の側面を持つ。これを「東方問題」と総称する場合、あくまでヨーロッパ列強から見た「外交問題」の側面が強調される。列強間の東方に関する外交問題はベルリン会議(1878年)で一応の決着を見た。それ以降、列強の利害は「東方」地域だけでなく、エジプト以南のアフリカ・極東を含��て全世界規模で調整されるようになったので、列強にとって「東方問題」の重要性は減じた。しかし、これはあくまで列強間の外交上のことであり、バルカンの民族問題は全く解決されていなかった。後にそのことは二度のバルカン戦争によって明らかになり、この民族問題は第一次世界大戦を引き起こす要因のひとつとなった。最近のコソボ紛争にいたるまでこの民族問題は未だ解決されておらず、今日まで持ち越されている問題である。このため「東方問題」の決着は見方によって一様ではなく、ベルリン会議とみなす場合が多いが、後に続く紛争も「東方問題」に含めて論ずる場合もある。", + "qas": [ + { + "question": "東方問題は、誰にとって民族問題の性格を持っていたの?", + "id": "tr-137-03-000", + "answers": [ + { + "text": "バルカン諸民族", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "列強間の東方に関する外交問題は、どの会議で一応の決着を見ましたか?", + "id": "tr-137-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ベルリン会議", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バルカン半島における民族問題は、何を引き起こす要因の一つとなったのか?", + "id": "tr-137-03-002", + "answers": [ + { + "text": "第一次世界大戦", + "answer_start": 326, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "東方問題のどの側面は、いまだに解決されていないか?", + "id": "tr-137-03-003", + "answers": [ + { + "text": "民族問題", + "answer_start": 366, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "18世紀初頭までのヨーロッパ内での勢力均衡は、ブルボン家とハプスブルク家の間の大きな利害対立をイタリアで調整することによって成り立っていた。中世以来分裂傾向にあったイタリア半島をヨーロッパの辺境と位置づけ、イタリア半島すべてを直接支配する勢力を排除することにより、この辺境で局地的な勢力均衡を実現して利害を調整し、全ヨーロッパ的な勢力均衡を保っていた。ところが「東方問題」の期間には、1789年のフランス革命とその後のナポレオン戦争の進展により国民主義の風潮が全ヨーロッパに波及し、国民国家を求める意向を無視してイタリアを分裂状態にとどめておくことは困難になってきた。ハプスブルク家オーストリアの従来の政策は、バルカン・東欧方面への拡大と中欧・南欧(ドイツ・イタリア)方面への拡大との二方面の選択肢があった。しかし、イタリアでは国民主義の運動がオーストリアの影響力の排除を望むかたちとなって現れ、ドイツ方面への進出にはプロイセンという有力な対抗勢力が存在した。結局はドイツ帝国成立(1871年)によりオーストリアはドイツの統合からはずされ、最終的にアウスグライヒ体制(すなわちオーストリア・ハンガリー帝国、1867年成立)を形成するといったように、この時期を通じて東欧の大国を目指す路線が徐々に明確となった。", + "qas": [ + { + "question": "ブルボン家とハプスブルク家の間の大きな利害対立をどの国が調整していたの?", + "id": "tr-137-04-000", + "answers": [ + { + "text": "イタリア", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フランス革命は、何年に発生しましたか?", + "id": "tr-137-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1789年", + "answer_start": 192, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "どのような風潮がヨーロッパ中に広がり、イタリアを分断されたままに置くことが困難であったか?", + "id": "tr-137-04-002", + "answers": [ + { + "text": "国民主義", + "answer_start": 222, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アウスグライヒ体制が形成されたのは、どの国においてのことか?", + "id": "tr-137-04-003", + "answers": [ + { + "text": "オーストリア", + "answer_start": 450, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "一方で、17世紀後半からピョートル1世のもとで近代化政策を推し進めたロシアは、大北方戦争での勝利者となり(1721年)、積極的に黒海への南下を図り、同時にドナウ川沿岸にも影響を及ぼそうとしていた。このことが、「東方問題」の時期には、同地域に影響を拡大しようとしていたオーストリアとの利害対立を生じさせた。またこの期間、イギリスは自国と植民地インドを媒介する地中海経路を確保しようとしており、伝統的に地中海に大きな影響力を保持しているフランスはイギリスと対立する傾向にあった。", + "qas": [ + { + "question": "ピョートル1世は、どの国の人なの?", + "id": "tr-137-05-000", + "answers": [ + { + "text": "ロシア", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "大北方戦争における戦勝国は、当時、誰の時代でありましたか?", + "id": "tr-137-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ピョートル1世", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "影響拡大を図っていた地域がロシアと同じだったことが、「東方問題」の時期のロシアとの利害対立の発生に繋がったのは、どの国の話か?", + "id": "tr-137-05-002", + "answers": [ + { + "text": "オーストリア", + "answer_start": 133, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "大北方戦争で戦勝国となったロシアが黒海への南下とドナウ川沿岸への影響拡大を図っていた時期に、イギリスはどの植民地を媒介する地中海経路を確保しようとしていたか?", + "id": "tr-137-05-003", + "answers": [ + { + "text": "インド", + "answer_start": 170, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "このようなヨーロッパの状況を背景に、オスマン帝国の支配領域をめぐって「東方問題」という外交問題が発生した。「東方問題」が顕在化するのは、ロシアが黒海沿岸のアゾフをめぐってオスマン帝国と交戦した1736年露土戦争である。この戦争では、ヨーロッパの勢力均衡が著しく損なわれるのを防ぐために紛争の当事者以外が「東方」をめぐる紛争に介入するという「東方問題」の基本的な構造が現れた。以後「東方」をめぐる数々の紛争の解決にあたって、オスマン帝国とヨーロッパ列強との外交によってヨーロッパの勢力均衡を実現するという構造が見られるようになり、「東方問題」はヨーロッパ近代外交の主要な一角を形成した。ギリシャ独立戦争(1821年~)では、各国政府が当初介入に消極的であったのにもかかわらず、世論の後押しによって主要な政治問題に発展した。「東方問題」が最も活発化した時期と考えられるのがクリミア戦争(1853年~)で、「東方」において英仏とロシアは全面的に軍事衝突し、これが戦後のヨーロッパの政治状況にまで大きな影響を及ぼすこととなった。1878年のベルリン会議によって列強間の利害問題としての「東方問題」に一応の決着がつけられ、1880年代のヨーロッパは「ビスマルク体制」のもとで一応の安定がもたらされたかに思われた。しかし実際にはバルカン諸民族はこのベルリン会議の決着に納得しておらず、バルカン半島は紛争の火種を抱えて「ヨーロッパの火薬庫」でありつづけた。", + "qas": [ + { + "question": "「東方問題」が顕在化したのは、何年のこと?", + "id": "tr-137-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1736年", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「東方問題」が最も活発化した時期と考えられる戦争は、何ですか?", + "id": "tr-137-06-001", + "answers": [ + { + "text": "クリミア戦争", + "answer_start": 384, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "露土戦争とは、ロシアとどの国の間で起きた戦争か?", + "id": "tr-137-06-002", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "露土戦争は、どこを巡ってロシアとオスマン帝国が戦った戦争のことであるか?", + "id": "tr-137-06-003", + "answers": [ + { + "text": "アゾフ", + "answer_start": 77, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "「東方問題」以前、バルカン半島はオスマン帝国の統治により「パクス・オトマニカ」(オスマンの平和)の安定のもとにあったとされる。オスマン帝国によるバルカン制圧当初はイスラームの支配を嫌う住民が流出し、人口減少に襲われたが、16世紀になるとその統治は安定化した。東欧に領土を拡大するオスマン帝国に対し、オーストリアをはじめヨーロッパ諸国は脅威を感じていた。", + "qas": [ + { + "question": "オスマン帝国によるバルカン半島の統治は、何世紀になって安定したの?", + "id": "tr-137-07-000", + "answers": [ + { + "text": "16世紀", + "answer_start": 110, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オスマン帝国は、どの宗教のもとに造られた国でありますか?", + "id": "tr-137-07-001", + "answers": [ + { + "text": "イスラーム", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "この文章を見ると、オスマン帝国の影響下に入る前のバルカン半島では、少なくともどの宗教は歓迎されなかったことがわかるか?", + "id": "tr-137-07-002", + "answers": [ + { + "text": "イスラーム", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "17世紀に入ると、徐々にオスマン帝国の国力は弱まり「東方問題」の素地が形成された。大規模なヨーロッパ進撃を図った1683年の第二次ウィーン包囲の失敗を境に、バルカン半島におけるオスマン帝国領は縮小・解体の方向に転じた。オスマン帝国は1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリーを失い、東欧での拡大が阻止された。これ以降ヨーロッパに対するオスマン帝国の脅威は薄れ、東欧では再びヨーロッパ諸国が支配的となった。", + "qas": [ + { + "question": "どの国の国力が弱まるにつれて、「東方問題」の発生可能性が台頭したの?", + "id": "tr-137-08-000", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「東方問題」の発生可能性が台頭したのは、何世紀のことですか?", + "id": "tr-137-08-001", + "answers": [ + { + "text": "17世紀", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "第二次ウィーン包囲とは、何年に起こったことか?", + "id": "tr-137-08-002", + "answers": [ + { + "text": "1683年", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "オスマン帝国がカルロヴィッツ条約で失ったのは、どの地域か?", + "id": "tr-137-08-003", + "answers": [ + { + "text": "ハンガリー", + "answer_start": 132, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "18世紀初頭には、オーストリアはオスマン帝国との戦争で連勝を続け、1718年のパサロヴィッツ条約��はオスマン帝国からベオグラードを一時的に奪取した。同時期、ロシアは1700年にオスマン帝国から黒海沿岸のアゾフを獲得し黒海支配の足がかりを得たかに思われたが、1711年のプルート戦役では敗北してプルト条約でアゾフを返還した。ロシアの圧迫は一時的に緩和され、オスマン帝国はしばらくの間安定した時期を迎えた。従来オスマン帝国は、ヨーロッパ諸国に特権としてのカピチュレーション(外交特権、治外法権なども含まれる)を与える恩恵的な性格の強い外交政策をとっていたが、この時期には西欧文化・技術を吸収する西欧宥和政策に転換した(チューリップ時代と呼ばれる)。1719年ウィーンに、1720年にはパリに外交使節を派遣するなど自ら積極的な外交を展開する姿勢を示した。", + "qas": [ + { + "question": "18世紀初頭、オーストリアとオスマン帝国の間での戦争は、どちらの優勢であったの?", + "id": "tr-137-09-000", + "answers": [ + { + "text": "オーストリア", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ロシアがオスマン帝国からアゾフを獲得したのは、何年のことですか?", + "id": "tr-137-09-001", + "answers": [ + { + "text": "1700年", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1700年にオスマン帝国からアゾフを獲得したロシアは、どの条約によりアゾフをオスマン帝国に返還しなければならなかったか?", + "id": "tr-137-09-002", + "answers": [ + { + "text": "プルト条約", + "answer_start": 146, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "従来オスマン帝国はヨーロッパ諸国に対し、どのような性格が強い外交政策をとっていたか?", + "id": "tr-137-09-003", + "answers": [ + { + "text": "恩恵的な性格", + "answer_start": 256, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1736年にロシアが再びアゾフを求めてオスマン帝国と争うオーストリア・ロシア・トルコ戦争(露土戦争とも、1735年-1739年)に参戦した。この戦争の結果は1739年のベオグラード条約で、これによりロシアのアゾフ領有が確定しロシアの黒海進出を招いたものの、オスマン帝国はオーストリアからベオグラードを奪還した。しかしこの戦争ではその結果よりも推移状況において「東方問題」に特徴的な傾向が現れた。ロシアの同盟国オーストリアは、開戦の1年後にロシアを支援する形で参戦したが、ロシアの影響力の拡大を恐れたために、休戦交渉においてはロシアの敵国フランスの懸念を利用してロシアの主張を抑え込もうとした。ここでは「東方」をめぐる紛争に、紛争の当事者以外の第三国を介入させることで勢力均衡を維持しようとする「東方問題」の基本構造を見ることができる。", + "qas": [ + { + "question": "ロシアがオーストリア・ロシア・トルコ戦争に参戦したのは、どの地域を再び獲得する目的であったの?", + "id": "tr-137-10-000", + "answers": [ + { + "text": "アゾフ", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "オーストリア・ロシア・トルコ戦争では、どの国がたった一人で戦いましたか?", + "id": "tr-137-10-001", + "answers": [ + { + "text": "オスマン帝国", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "オーストリア・ロシア・トルコ戦争で、ロシアと組んでオスマン帝国と戦ったのは、どの国か?", + "id": "tr-137-10-002", + "answers": [ + { + "text": "オーストリア", + "answer_start": 204, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オーストリア・ロシア・トルコ戦争の終わりを意味する条約は、何か?", + "id": "tr-137-10-003", + "answers": [ + { + "text": "ベオグラード条約", + "answer_start": 84, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1768年の露土戦争によって、「東方問題」はヨーロッパ政治において重要性を帯びることとなった。戦後、1774年にキュチュク・カイナルジ条約が結ばれ、ロシアはオスマン帝国から黒海沿岸を譲り受けた。さらにこの条約で、ロシアがオスマン帝国支配下の正教徒の保護権を認められたことから、以後ロシアは主にこれを口実としてオスマン帝国への干渉を強めるようになった。", + "qas": [ + { + "question": "「東方問題」がヨーロッパ政治において重要性を帯びるきっかけとなった戦争は、何か?", + "id": "tr-137-11-000", + "answers": [ + { + "text": "露土戦争", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "キュチュク・カイナルジ条約は、何年に結ばれましたか?", + "id": "tr-137-11-001", + "answers": [ + { + "text": "1774年", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ロシアがオスマン帝国から黒海沿岸を譲り受けたのは、どの条約によることか?", + "id": "tr-137-11-002", + "answers": [ + { + "text": "キュチュク・カイナルジ条約", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロシアがオスマン帝国支配下の正教徒の保護権を認められたのは、どの条約によることか?", + "id": "tr-137-11-003", + "answers": [ + { + "text": "キュチュク・カイナルジ条約", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1787年にロシアとオスマン帝国の間で再び戦端が開かれると(露土戦争)、同盟に基づいてオーストリアのヨーゼフ2世も参戦した。この際両国の間でオスマン帝国領を分割する約束がされた。これはイギリス・フランス・プロイセンなどに警戒を抱かせたが、1791年にオーストリアは戦争から手を引かざるを得なくなり、結果的に1792年のヤシ条約ではロシアが黒海支配を大きく進めることとなった。", + "qas": [ + { + "question": "1787年のロシアとオスマン帝国の間で発生した戦争で、オーストリアはどちら側に立ち、参戦したの?", + "id": "tr-137-12-000", + "answers": [ + { + "text": "ロシア", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1787年の時点で、オーストリアは誰の時代でありましたか?", + "id": "tr-137-12-001", + "answers": [ + { + "text": "ヨーゼフ2世", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1787年に発生した露土戦争では、誰が戦勝国となったか?", + "id": "tr-137-12-002", + "answers": [ + { + "text": "ロシア", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1787年に発生した露土戦争の終わりを意味する条約は、何か?", + "id": "tr-137-12-003", + "answers": [ + { + "text": "ヤシ条約", + "answer_start": 159, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "オードリー・ヘプバーン", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "オードリー・ヘプバーン(英:AudreyHepburn、1929年5月4日-1993年1月20日)は、イギリス人で、アメリカ合衆国で活動した女優である。\n日本ではヘップバーンと表記されることも多い。\nハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる。\nアメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)の「最も偉大な女優50選」では第3位にランクインしており、インターナショナル・ベ��ト・ドレッサーにも殿堂入りしている。\nヘプバーンはブリュッセルのイクセルで生まれ、幼少期をベルギー、イングランドで過ごした。\nオランダにも在住した経験があり、第二次世界大戦中にはドイツ軍が占領していたオランダのアーネムに住んでいたこともあった。\n古い資料の一部に本名を「エッダ・ファン・ヘームストラ」とするものがある。\nこれは、戦時中にドイツ軍占領下にあったオランダで、「オードリー」という名があまりにイギリス風であることを心配した母エラが、自らの証明書の1つに手を加えて(EllaをEddaとした)持たせた偽名である。\n5歳ごろからバレエを初め、アムステルダムではソニア・ガスケル(en:SoniaGaskell)のもとでバレエを習い、1948年にはマリー・ランバートにバレエを学ぶためにロンドンへと渡って、ウエスト・エンドで舞台に立った経験がある。\nイギリスで数本の映画に出演した後に、1951年のブロードウェイ舞台作品『ジジ』(en:Gigi(1951play))で主役を演じ、1953年には『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得した。\nその後も『麗しのサブリナ』(1954年)、『尼僧物語』(1959年)、『ティファニーで朝食を』(1961年)、『シャレード』(1963年)、『マイ・フェア・レディ』(1964年)、『暗くなるまで待って』(1967年)などの人気作、話題作に出演している。\n女優としてのヘプバーンは、映画作品ではアカデミー賞のほかに、ゴールデングローブ賞、英国アカデミー賞を受賞し、舞台作品では1954年のブロードウェイ舞台作品である『オンディーヌ』(en:Ondine(play))でトニー賞を受賞している。\nさらにヘプバーンは死後にグラミー賞とエミー賞も受賞しており、アカデミー賞、エミー賞、グラミー賞、トニー賞の受賞経験を持つ数少ない人物の一人となっている。\nヘプバーンの女優業は年齢と共に減っていき、後半生のほとんどを国際連合児童基金(ユニセフ)での仕事に捧げた。\nユニセフ親善大使として1988年から1992年にはアフリカ、南米、アジアの恵まれない人々への援助活動に献身している。\n1992年終わりにはアメリカ合衆国における文民への最高勲章である大統領自由勲章を授与された。\nこの大統領自由勲章受勲一カ月後の1993年に、ヘプバーンはスイスの自宅で虫垂癌のために63歳で死去した。", + "qas": [ + { + "question": "イギリス人でありながら、アメリカ合衆国で活動し、ハリウッド黄金時代に活躍した女優は誰?", + "id": "tr-138-00-000", + "answers": [ + { + "text": "オードリー・ヘプバーン", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヘプバーンは幼少期にベルギー、イングランドで過ごし、第二次大戦中はどこの国に滞在した?", + "id": "tr-138-00-001", + "answers": [ + { + "text": "オランダ", + "answer_start": 275, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『ローマの休日』、『シャレード』、『尼僧物語』、『ティファニーで朝食を』、『麗しのサブリナ』、『暗くなるまで待って』、『マイ・フェア・レディ』の中で3番目に早く公開された映画作品は何?", + "id": "tr-138-00-002", + "answers": [ + { + "text": "『尼僧物語』", + "answer_start": 708, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ヘプバーンがユニセフ親善大使として援助活動に献身したのはいつですか?", + "id": "tr-138-00-003", + "answers": [ + { + "text": "1988年から1992年", + "answer_start": 1075, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ヘプバーンは、1929年5月4日にベルギーの首都ブリュッセルのイクセルに生まれ、オードリー・キャスリーン・ラストンと名付けられた。\n父親はオーストリア・ハンガリー帝国ボヘミアのウジツェ出身のジョゼフ・ヴィクター・アンソニー・ラストン(1889年-1980年)である。\nジョゼフの母親はオーストリア系で、父親はイギリス、オーストリア系だった。\nジョゼフはヘプバーンの母エラと再婚する以前に���オランダ領東インドで知り合ったオランダ人女性と結婚していたことがある。\nジョゼフはヘプバーンの各伝記によって銀行家など、色々な職業にされていることがあるが、実際には一度もまともに職業に就いたことはない。\nただし、趣味は一流で、13ヶ国語を話せた。\nヘプバーンの母エラ・ファン・ヘームストラ(1900年-1984年)はフリース人の血を引く、バロネスの称号を持つオランダ貴族だった。\nエラの父親は男爵アールノート・ファン・ヘームストラ(en:AarnoudvanHeemstra)で、1910年から1920年にかけてアーネム市長を、1921年から1928年にかけてスリナム総督を務めた政治家である。\nエラの母親もオランダ貴族の出身だった。\nエラは19歳のときに、ナイト爵位を持つヘンドリク・グスターフ・アドルフ・クアレス・ファン・ユフォルトと結婚したが、1925年に離婚している。エラとヘンドリクの間には、ヘプバーンの異父兄のアールノート・ロベルト・アレクサンデル・クアレス・ファン・ユフォルト(1920年-1979年)と、イアン・エドハル・ブルーセ・クアレス・ファン・ユフォルト(1924年-2010年)の二人の男子が生まれている。\nジョゼフとエラは、1926年9月にバタヴィア(現・ジャカルタ)で結婚式を挙げた。\nその後二人はベルギーのイクセルへ戻り、1929年にオードリー・ヘプバーンが生まれた。\nさらに一家は1932年1月にリンケベーク(en:Linkebeek)へと移住している。\nヘプバーンはベルギーで生まれたが、父ジョゼフの家系を通じてイギリス国籍も持っていた。\n結婚後、家系図マニアだったエラはジョゼフの祖父(ヘプバーンの曾祖父)の妻に、スコットランド女王メアリの三番目の夫である第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘプバーンの末裔がいるのを発見し、それを機にヘプバーン=ラストンを公式に使用するようになった。\nそのためオードリーの戸籍上でもヘプバーンが足されることになった。\n1948年、ハーグの英国大使館にて発行されたヘプバーンの身分証明には“オードリー・ヘプバーン=ラストン”と書かれており、1982年以降のパスポートにはオードリー・K・ヘプバーンと書かれている。\nジョゼフもオードリーも死ぬまで自分がヘプバーン家の血をひいていると信じていたが、オードリーの従兄弟の調べたところによるとジョゼフの父は祖父の2番目の妻の子供であったため、ヘプバーン家の血は本当は入っていないと書かれている伝記もある。", + "qas": [ + { + "question": "ヘプバーンの生年月日は?", + "id": "tr-138-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1929年5月4日", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヘプバーンが生まれた都市はどこですか?", + "id": "tr-138-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ブリュッセルのイクセル", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ジョゼフとエラは何年に再婚したか?", + "id": "tr-138-01-002", + "answers": [ + { + "text": "1926年", + "answer_start": 719, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ヘプバーンが生まれた後に、一家はどこに移住しましたか?", + "id": "tr-138-01-003", + "answers": [ + { + "text": "リンケベーク", + "answer_start": 808, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ヘプバーンの両親は1930年代にイギリスファシスト連合に参加し、父ジョゼフは過激なナチズムの信奉者となっていき、1935年5月に家庭を捨てて出て行った。\n1939年6月、正式に離婚が成立している。\nジョゼフはイギリスに渡り、戦争が始まると逮捕されマン島で過ごした。\nその後1960年代になってから、当時の夫メル・ファーラーの尽力でヘプバーンは赤十字社の活動を通じて父ジョゼフとダブリンで再会することができた。\nその後もスイスの自宅で会っている。\nヘプバーンはジョゼフが死去するまで連絡を保ち、経済的な援助を続けている。\nジョゼフは愛情を表現できない人物であっ��が、1980年、ジョゼフが危篤状態になったとき、再度ダブリンを訪れたヘプバーンには話さなかったものの、同行したロバート・ウォルダーズには娘オードリーのことを大事に思っている、父親らしいことをしなかったことを後悔している、そして娘を誇りに思っていると伝えた。", + "qas": [ + { + "question": "ジョゼフとエラが正式に離婚したのは何年ですか?", + "id": "tr-138-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1939年", + "answer_start": 77, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "父ジョゼフが家庭を捨てて出て行った後、ヘプバーンはどこで父と再会出来たか?", + "id": "tr-138-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ダブリン", + "answer_start": 188, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ジョゼフが危篤状態の時に、娘オードリーへの愛情を伝えたのは誰?", + "id": "tr-138-02-002", + "answers": [ + { + "text": "ロバート・ウォルダーズ", + "answer_start": 335, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "父ジョゼフが過激なナチズムの信奉者となっていったきっかけは何?", + "id": "tr-138-02-003", + "answers": [ + { + "text": "1930年代にイギリスファシスト連合に参加", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ジョゼフが家庭を捨てた後、1935年にエラは子供たちと故郷のアーネムへと戻った。\nこのときエラの最初の夫との間の息子たちは、父親と共にデン・ハーグに住んでいた。\n1937年にエラと幼いヘプバーンはイギリスのケントへと移住した。\nヘプバーンはエラム(en:Elham)という村の小さな私立女学校に入学し、14人の少女たちのまとめ役となった。第二次世界大戦が勃発する直前の1939年に、母エラは再度アーネムへの帰郷を決めた。\nオランダは第一次世界大戦では中立国であり、再び起ころうとしていた世界大戦でも中立を保ち、ドイツからの侵略を免れることができると思われていたためである。\n1939年から1945年にわたってヘプバーンはアーネム音楽院に通い、通常の学科に加えてウィニャ・マローヴァのもとでバレエを学んだ。\n1940年にドイツがオランダに侵攻し、ドイツ占領下のオランダでは、オードリーという「イギリス風の響きを持つ」名前は危険だと母エラは考え、ヘプバーンはエッダ・ファン・ヘームストラという偽名を名乗るようになった。1942年に、母エラの姉ミーシェと結婚していた貴族の伯父オットー・ファン・リンブルク=シュティルムが、反ドイツのレジスタンス運動に関係したとして処刑された。\nまた、ヘプバーンの異父兄イアンは国外追放を受けてベルリンの強制労働収容所に収監されており、もう一人の異父兄アレクサンデルも弟イアンと同様に強制労働収容所に送られるところだったが、捕まる前に身を隠している。\nオットーが処刑された後に、エラ、ヘプバーン母娘と夫を亡くしたミーシェは、ヘプバーンの祖父アールノート・ファン・ヘームストラとともに、ヘルダーラントのフェルプ(en:Velp,Gelderland)近郊へと身を寄せた。\n後にヘプバーンは回顧インタビューで「駅で貨車に詰め込まれて輸送されるユダヤ人たちを何度も目にしました。とくにはっきりと覚えているのが一人の少年です。青白い顔色と透き通るような金髪で、両親と共に駅のプラットフォームに立ち尽くしていました。そして、身の丈にあわない大きすぎるコートを身につけたその少年は列車の中へと呑み込まれていきました。そのときの私は少年を見届けることしか出来ない無力な子供だったのです」と語っている。", + "qas": [ + { + "question": "1939年に母エラが再度アーネムへの帰郷を決めたのはなぜか?", + "id": "tr-138-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ドイツからの侵略を免れることができると思われていたため", + "answer_start": 255, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヘプバーンはアーネム音楽院に通い、何を学びましたか?", + "id": "tr-138-03-001", + "answers": [ + { + "text": "バレエ", + "answer_start": 344, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ドイツ占領下のオランダでヘプバーンが母親に付けられた偽名は何?", + "id": "tr-138-03-002", + "answers": [ + { + "text": "エッダ・ファン・ヘームストラ", + "answer_start": 427, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヘプバーンの二人の異父兄の名前はイアンと、もう1人は何ですか?", + "id": "tr-138-03-003", + "answers": [ + { + "text": "アレクサンデル", + "answer_start": 589, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1944年ごろには、ヘプバーンはひとかどのバレリーナとなっていた。\nそしてオランダの反ドイツレジスタンス(en:Dutchresistance)のために、秘密裏に公演を行って資金稼ぎに協力していた。ヘプバーンはこのときのことを「私の踊りが終わるまで物音ひとつ立てることのない最高の観客でした」と振り返っている。\n連合国軍がノルマンディーに上陸しても一家の生活状況は好転せず、アーネムは連合国軍によるマーケット・ガーデン作戦の砲撃にさらされ続けた。当時のオランダの食料、燃料不足は深刻なものとなっていた。\n1944年にオランダ大飢饉が発生したときも、ドイツ占領下のオランダで起こった鉄道破壊などのレジスタンスによる妨害工作の報復として、物資の補給路はドイツ軍によって断たれたままだった。\n飢えと寒さによる死者が続出し、ヘプバーンたちはチューリップの球根を食べて飢えをしのぐ有様だった。\n当時のヘプバーンは何もすることがなかったときには絵を描いていたことがあり、少女時代のヘプバーンの絵が今も残されている。\n大戦中にヘプバーンは栄養失調に苦しみ、戦況が好転しオランダが解放された時には貧血、喘息、黄疸、水腫にかかっていた。\nヘプバーンの回復を助けたのは、ユニセフの前身の連合国救済復興機関(UNRRA)から届いた食料と医薬品だった。\nヘプバーンは後年に受けたインタビューの中で、このときに配給された物資から、砂糖を入れすぎたオートミールとコンデンスミルクを一度に平らげたおかげで気持ち悪くなってしまったと振り返っている。\nそして、ヘプバーンが少女時代に受けたこれらの戦争体験が、後年のユニセフへの献身につながったといえる。", + "qas": [ + { + "question": "バレリーナになったヘプバーンは、何のために隠れてバレエの公演を行い資金を稼いでいましたか?", + "id": "tr-138-04-000", + "answers": [ + { + "text": "反ドイツレジスタンス", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "第二次世界大戦中、オランダに大飢饉が発生したのはいつ?", + "id": "tr-138-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1944年", + "answer_start": 252, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "第二次世界大戦の影響によってヘプバーンの体はひどく衰弱したが、体の回復を助けたのはどこからの配給品のおかげでしたか?", + "id": "tr-138-04-002", + "answers": [ + { + "text": "連合国救済復興機関", + "answer_start": 533, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1945年の第二次世界大戦終結後に、母エラとオードリーはアムステルダムへと移住した。\nアムステルダムでヘプバーンは3年にわたってソニア・ガスケルにバレエを学び、オランダでも有数のバレリーナとなっていった。\n1948年にヘプバーンは初めて映像作品に出演している。\n教育用の旅行フィルム『オランダの七つの教訓』で、ヘプバーンの役どころはオランダ航空のスチュワーデスだった。\nオランダでのバレエ���師ガスケルからの紹介で、1948年にヘプバーンは母親と共にロンドンへと渡り、イギリスのバレエ界で活躍していたユダヤ系ポーランド人の舞踊家マリー・ランバートが主宰するランバート・バレエ団(en:RambertDanceCompany)で学んだ。\nヘプバーンが自身の将来の展望を尋ねたときに、ランバートはヘプバーンが優秀で、セカンド・バレリーナとしてキャリアを積める、この学校で教えていくことで生活もできる、と答えた。\nただしヘプバーンの170cmという身長と、体格や筋肉を作る成長期に第二次世界大戦下で十分な栄養が摂れず、練習も満足にできなかったことから、ヘプバーンがプリマ・バレリーナになることは難しいと言われている。\nヘプバーンのバレリーナへの夢はこの時に潰え、演劇の世界で生きていくことを決心した。", + "qas": [ + { + "question": "1945年に終わった戦争は何?", + "id": "tr-138-05-000", + "answers": [ + { + "text": "第二次世界大戦", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヘプバーン初の映像作品は何?", + "id": "tr-138-05-001", + "answers": [ + { + "text": "『オランダの七つの教訓』", + "answer_start": 141, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヘプバーンがイギリスでバレエを学んだバレエ団の名前は?", + "id": "tr-138-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ランバート・バレエ団", + "answer_start": 277, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "当時ヘプバーンの母エラは下働きの仕事で家計を支えていたが、ヘプバーン自身も金銭を稼ぐ必要に迫られていた。\n後にヘプバーンは「私にはお金が必要でした。\n舞台の仕事はバレエの仕事よりも3ポンド以上高給だったのです」と語っている。\nヘプバーンが出演した舞台劇として、ロンドンのヒッポドローム劇場(en:Hippodrome,London)で上演された『ハイ・ボタン・シューズ』(1948年)、ウエスト・エンドのケンブリッジ・シアター(en:CambridgeTheatre)で上演されたセシル・ランドーの『ソース・タルタル』(1949年)と『ソース・ピカンテ』(1950年)がある。\n舞台に立つようになってから、ヘプバーンは自身の声質が舞台女優としては弱いことに気付き、高名な舞台俳優フェリックス・エイルマーのもとで発声の訓練を受けたことがある。\n『ソース・ピカンテ』の出演時に、イギリスの映画会社アソシエイテッド・ブリティッシュ・ピクチュア・コーポレーション(en:AssociatedBritishPictureCorporation)の配役担当者に認められたヘプバーンは、フリーランスの女優としてイギリスの映画俳優リストに登録されたが、依然としてウエスト・エンドの舞台にも立っていた。\nヘプバーンは1950年に映画に出演するようになり、『若気のいたり』(en:OneWildOat)、『素晴らしき遺産』(en:LaughterinParadise)、『ラベンダー・ヒル・モブ』(en:TheLavenderHillMob)、『若妻物語』(en:YoungWives'Tale)といった作品が1951年に公開された。\n1951年2月にはソロルド・ディキンスン(en:ThoroldDickinson)の監督作品『初恋』に、主人公の妹役で出演した。\nヘプバーンは1952年に公開されたこの映画で優れた才能を持つバレリーナを演じており、バレエのシーンではヘプバーンが踊っている姿を見ることができる。", + "qas": [ + { + "question": "『ソース・タルタル』、『ハイ・ボタン・シューズ』、『ソース・ピカンテ』の内、ヘプバーンが2番目に出演した舞台劇は何?", + "id": "tr-138-06-000", + "answers": [ + { + "text": "『ソース・タルタル』", + "answer_start": 249, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ヘプバーンが舞台に立つようになってから、高名な舞台俳優フェリックス・エイルマーのもとで発声の訓練を受けたのはなぜ?", + "id": "tr-138-06-001", + "answers": [ + { + "text": "自身の声質が舞台女優としては弱いことに気付き", + "answer_start": 309, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『ソース・ピカンテ』、『ソース・タルタル』、『ハイ・ボタン・シューズ』の中で、1番最初にヘプバーンが出演した舞台劇は何?", + "id": "tr-138-06-002", + "answers": [ + { + "text": "『ハイ・ボタン・シューズ』", + "answer_start": 172, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1951年にヘプバーンはフランス語と英語で撮影される『モンテカルロへ行こう』への出演依頼を受け、フランスのリヴィエラでの撮影ロケに参加した。\nこの現場に、当時自身が書いたブロードウェイ戯曲『ジジ(en:Gigi(1951play))』の主役・ジジを演じる女優を探していたフランス人女流作家シドニー=ガブリエル・コレットが訪れた。\nそしてコレットがヘプバーンを見て「私のジジを見つけたわ!」と言ったという有名なエピソードがある。\n『ジジ』出演決定後、同時期にパラマウントの英国の制作部長の推薦で『ローマの休日』の王女役のテストが行われることになった。\nベッドで寝ているシーンを撮り、「カット」の声がかかった後に起き上がったヘプバーンだが、実はまだカメラは回っていた。\nそこで見せた笑顔と反応を見た監督ウィリアム・ワイラーとパラマウント本社は王女役にヘプバーンに決定した。\nヘプバーンは映画撮影の合間には舞台やテレビ出演も認めるという条件でパラマウント映画社と契約した。\n『ジジ』は1951年11月24日にブロードウェイのフルトン・シアター(en:FultonTheatre)で初演を迎え、劇場入り口に張出された公演タイトルの上にヘプバーンの名前が掲げられた。\n『ジジ』の総公演回数は219回を数え、1952年5月31日に千秋楽を迎えた。\nヘプバーンはこのジジ役で、ブロードウェイ、オフ・ブロードウェイで初舞台を踏んだ優れた舞台俳優に贈られるシアター・ワールド・アワード(en:TheatreWorldAward)を受賞している。\n『ローマの休日』撮影終了後、『ジジ』は1952年10月13日のピッツバーグ公演を皮切りにアメリカ各地を巡業し、1953年5月16日のサンフランシスコ公演を最後に、ボストン、クリーヴランド、シカゴ、デトロイト、ワシントン、ロサンゼルスで上演された。", + "qas": [ + { + "question": "『モンテカルロへ行こう』の撮影で使用された言語は何?", + "id": "tr-138-07-000", + "answers": [ + { + "text": "フランス語と英語", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ブロードウェイ戯曲『ジジ』の主役・ジジを演じる女優を探していたのは何という人?", + "id": "tr-138-07-001", + "answers": [ + { + "text": "シドニー=ガブリエル・コレット", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『ジジ』の千秋楽の日はいつ?", + "id": "tr-138-07-002", + "answers": [ + { + "text": "1952年5月31日", + "answer_start": 548, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『ローマの休日』の監督は誰?", + "id": "tr-138-07-003", + "answers": [ + { + "text": "ウィリアム・ワイラー", + "answer_start": 349, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1952年夏に撮影が始まったアメリカ映画『ローマの休日』(公開は1953年)で、ヘプバーンは初の主役を射止めた。\n『ローマの休日』はイタリアのローマを舞台とした作品で、ヘプバーンは王族としての窮屈な暮らしから逃げ出し、グレゴリー・ペックが演じたアメリカ人新聞記者と恋に落ちるヨーロッパ某国の王女アンを演じた。\n『ローマの休日』の製作者は、当初アン王女役にエリザベス・テイラーやジーン・シモンズを望んでいたが、どちらも出演できなかった。\n後にウィリアム・ワイラーは「彼女(ヘプバーン)は私がアン王女役に求めていた魅力、無邪気さ、才能をすべて備えていた。さらに彼女にはユーモアがあった。すっかり彼女に魅了された我々は「この娘だ!」と叫んだよ」と振り返っている。", + "qas": [ + { + "question": "ヘプバーン初主役のアメリカ映画のタイトルは何?", + "id": "tr-138-08-000", + "answers": [ + { + "text": "『ローマの休日』", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『ローマの休日』が公開された年は?", + "id": "tr-138-08-001", + "answers": [ + { + "text": "1953年", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『ローマの休日』で主人公と恋に落ちるアメリカ人新聞記者を演じた人の名前は?", + "id": "tr-138-08-002", + "answers": [ + { + "text": "グレゴリー・ペック", + "answer_start": 109, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『ローマの休日』の製作者が当初、エリザベス・テイラーやジーン・シモンズに演じてほしいと思っていた役名は?", + "id": "tr-138-08-003", + "answers": [ + { + "text": "アン王女", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "製作当初は、主演としてグレゴリー・ペックの名前が作品タイトルの前に表示され、ヘプバーンの名前はタイトルの後に共演として載る予定だった。\nしかしペックは撮影が始まってすぐに自分のエージェントに問い合わせ、自分と対等にするように要求。\nエージェントもスタジオも最初は渋ったが、ペックは「後で恥をかく。彼女は初めての主演でアカデミー賞を手にするぞ」と主張、ヘプバーンの名前は作品タイトルが表示される前に、ペックの名前と同じ主演として表示することになった。\n各国のポスターなどの宣材でもペックと同等の扱いになった。\n『ニューヨークタイムズ』では「このイギリスの女優はスリムで妖精のようで、物思いに沈んだ美しさを持ち、反面堂々としていて、新しく見つけた単純な喜びや愛情に心から感動する無邪気さも兼ね備えている。恋の終わりに勇敢にも謝意を表した笑顔を見せるが、彼女の厳格な将来に立ち向かって気の毒なくらい寂しそうな姿が目に残る」と評されている。\nヘプバーンの人気は高まり、1953年9月に『タイム』誌、12月には『LIFE』誌とアメリカのメジャー誌の表紙を飾った。\n『ローマの休日』のヘプバーンは評論家からも大衆からも絶賛され、アカデミー主演女優賞のほかに、英国アカデミー最優秀主演英国女優賞、ゴールデングローブ主演女優賞をヘプバーンにもたらした。", + "qas": [ + { + "question": "ヘプバーンが最も早くメジャー誌の表紙を飾ったのは『LIFE』誌と『タイム』誌のどちら?", + "id": "tr-138-09-000", + "answers": [ + { + "text": "『タイム』誌", + "answer_start": 438, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『ローマの休日』でヘプバーンが受賞したのはアカデミー主演女優賞、英国アカデミー最優秀主演英国女優賞とあともう1つは何?", + "id": "tr-138-09-001", + "answers": [ + { + "text": "ゴールデングローブ主演女優賞", + "answer_start": 541, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "『ローマの休日』で大成功を収めたヘプバーンは、続いてビリー・ワイルダー監督の『麗しのサブリナ』に出演した。\n1953年に撮影され、1954年に公開されたこの作品は、お抱え運転手の娘で美しく成長したヘプバーン演じるサブリナが、ハンフリー・ボガートとウィリアム・ホールデンが演じる富豪の兄弟の間で心が揺れ動くという物語である。\n『ニューヨークタイムズ』誌では「彼女はその華奢な身体から限りなく豊かな感情と動作を生み出せる女性だ。彼女は昨年の王女役よりもこの役の方がはるかに光り輝いている」と評された。\nヘプバーンはこのサブリナ役でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、英国アカデミー賞最優秀主演英国女優賞を受賞した。", + "qas": [ + { + "question": "『麗しのサブリナ』の監督名は何でしょう?", + "id": "tr-138-10-000", + "answers": [ + { + "text": "ビリー・ワイルダー", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『麗しのサブリナ』でヘプバーンが受賞したイギリスの賞は何?", + "id": "tr-138-10-001", + "answers": [ + { + "text": "英国アカデミー賞最優秀主演英国女優賞", + "answer_start": 282, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『麗しのサブリナ』が公開されたのはいつ?", + "id": "tr-138-10-002", + "answers": [ + { + "text": "1954年", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "『麗しのサブリナ』が公開された1954年には、ブロードウェイの舞台作品『オンディーヌ』でメル・ファーラーと共演した。\nヘプバーンはそのしなやかな痩身を活かして水の精オンディーヌを演じ、ファーラー演じる人間の騎士ハンスとの恋愛悲劇を繰り広げた。\nこの作品について『ニューヨークタイムズ』は彼女には「魔力」があり、「熱狂するほど美しい」と評した。\n\nそしてヘプバーンは『オンディーヌ』で1954年のトニー賞主演舞台女優賞を受賞した。\n同じ年には前年の『ローマの休日』でアカデミー主演女優賞を獲得しており、ヘプバーンはシャーリー・ブースに次いで2番目のトニー賞とアカデミー賞のダブル同年受賞者になった。\n(その後、1974年にエレン・バースティンも受賞して3人になった。2013年現在)。\n『オンディーヌ』で共演したヘプバーンとファーラーは、1954年9月25日にスイスで結婚式を挙げ、二人の結婚は14年間続いた。\n\nヘプバーンは1955年にはゴールデングローブ賞の「世界でもっとも好かれた女優賞」を受賞し、ファッション界にも大きな影響力を持つようになった。", + "qas": [ + { + "question": "『ニューヨークタイムズ』が、ヘプバーンには「魔力」があり、「熱狂するほど美しい」と評した作品のタイトルは?", + "id": "tr-138-11-000", + "answers": [ + { + "text": "『オンディーヌ』", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1954年にヘプバーンと結婚したメル・ファーラーは、何の舞台作品で共演したの?", + "id": "tr-138-11-001", + "answers": [ + { + "text": "『オンディーヌ』", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヘプバーンの後にトニー賞とアカデミー賞のダブル同年受賞者となった女優は誰なの?", + "id": "tr-138-11-002", + "answers": [ + { + "text": "エレン・バースティン", + "answer_start": 310, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヘプバーンとファーラーの結婚生活は何年続いた?", + "id": "tr-138-11-003", + "answers": [ + { + "text": "14年間", + "answer_start": 396, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ヘプバーンはハリウッドでもっとも集客力のある女優のひとりとなり、10年間にわたって話題作、人気作に出演するスター女優であり続けた。\nヘンリー・フォンダ、夫メル・ファーラーらと共演した、ロシアの文豪レフ・トルストイの作品を原作とした1955年撮影の3時間28分の超大作『戦争と平和』(公開は1956年)のナターシャ・ロストワ役で、英国アカデミー賞とゴールデングローブ賞にノミネートされている。\n\n1956年にはバレエで鍛えた踊りの能力を活かした最初のミュージカル映画『パリの恋人』に出演した。\nヘプバーンはパリ旅行に誘い出された本屋の店員ジョー役で、フレッド・アステア演じるファッション・カメラマンに見出されて美しいモデルになっていくという物語である。\n\nこの年には『昼下りの情事』に���出演しており、ゲイリー・クーパーやモーリス・シュヴァリエと共演した。\nこちらはゴールデン・ローレル賞(LaurelAwards)の最優秀女性コメディ演技賞を受賞し、ゴールデングローブ賞にもノミネートされている。\nどちらも1957年に公開された。", + "qas": [ + { + "question": "1956年に公開された映画『戦争と平和』の元となった作品を書いたのは誰?", + "id": "tr-138-12-000", + "answers": [ + { + "text": "レフ・トルストイ", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ミュージカル映画『パリの恋人』で、活かされたヘプバーンの踊りの能力は何で鍛えられた?", + "id": "tr-138-12-001", + "answers": [ + { + "text": "バレエ", + "answer_start": 204, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『パリの恋人』でのヘプバーンの役名は何?", + "id": "tr-138-12-002", + "answers": [ + { + "text": "ジョー", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "パリ旅行に誘い出された本屋の店員ジョーと、ファッション・カメラマンに見出されて美しいモデルになっていくというストーリーのヘプバーン主演の映画のタイトルは何?", + "id": "tr-138-12-003", + "answers": [ + { + "text": "『パリの恋人』", + "answer_start": 232, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "花田ミキ", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "花田ミキは、日本の保健看護研究家、保健指導者である。青森県弘前市出身だ。\n\n終戦後の青森県で、看護教育施設の建立に力を注ぐことで看護教育の基礎を築き上げ、保健行政の立場から無保健婦町村の解消、僻地救護看護の確立など、青森県民たちの命と健康を守るために尽力し続けた。その姿勢は平成期においても、青森県内の多くの看護関係者たちに引き継がれている。また戦時中に従軍看護婦の経験から、「命を阻むものはすべて悪」との信念を持ち、自費出版物などを通して戦争経験を語り続けた人物としても知られる。", + "qas": [ + { + "question": "花田ミキの出身県はどこ?", + "id": "tr-139-00-000", + "answers": [ + { + "text": "青森県", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "花田ミキは青森弘前高等女学校を卒業後、家庭の経済的な事情でそれ以上の進学が望めず、女性の自立手段として看護の道を選んだ。日本赤十字社盛岡看護婦養成所を経て、1934年に日赤青森県支部に勤務。1937年に日中戦争が開戦、従軍看護婦として招集され、ほとんどの青春時代を戦場で過ごすこととなった。\n\n1942年、病院船上で結核と腸チフスに倒れ、広島陸軍病院に入院した。博愛や人道主義で看護の道を選んだわけではなかった花田は、この入院中にある看護婦の献身的な看護に感銘を受け、保健看護への考えが大きく変化した。", + "qas": [ + { + "question": "花田ミキが卒業した学校は?", + "id": "tr-139-01-000", + "answers": [ + { + "text": "青森弘前高等女学校", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日中戦争は何年に勃発したか。", + "id": "tr-139-01-001", + "answers": [ + { + "text": "1937年", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1942年、花田はどの病院に入院しましたか。", + "id": "tr-139-01-002", + "answers": [ + { + "text": "広島陸軍病院", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "花田はチフスが治癒したことで、従軍看護婦に復帰。やがて、多くの兵士たちの死、自分たちのもとで治癒した兵士が再び死地へ赴くことの矛盾への苦悩から、戦争に対して強い怒りを抱き、「命を阻むものはすべて悪」との考えに至った。せめてもの戦争への抵抗として、病床の兵士たちの遺書を、検閲の目を盗んで遺族たちへ送り続けた。\n\n翌1943年、結核が完治していなかったために帰還した。勉強の末、看護教員と保健婦の資格を取得。同年に開院した八戸市の八戸赤十字病院の看護婦養成所で婦長に就任し、養成所の生徒たちとともに寄宿舎での生活を送った。", + "qas": [ + { + "question": "花田は自分たちのもとで治癒した兵士が再び死地へ赴くことの矛盾への苦悩から、戦争に対して強い怒りを抱き、どんな考えを持つようになりましたか。", + "id": "tr-139-02-000", + "answers": [ + { + "text": "「命を阻むものはすべて悪」", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "八戸市の八戸赤十字病院はいつ開院したか。", + "id": "tr-139-02-001", + "answers": [ + { + "text": "1943年", + "answer_start": 157, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1949年、八戸市内で急性灰白髄炎の集団感染が発生した。まだ予防ワクチンの存在しない時代であり、新聞でも「世界的にも稀有の現象」と報じられた。八戸赤十字病院の担当医から要請を受けた花田は、治療法を求めて上京し、日赤を通じてGHQから、オーストラリアで効果を上げた治療法「ケニー療法」の資料を入手した。八戸赤十字病院で毎日その療法を続けるとともに、新聞記事を通じ、一般向けにこの療法をわかりやすく紹介した。\n\n戦後の看護改革の中で花田はアメリカ式の看護を学び続け、日本の看護教育がアメリカよりもはるかに遅れていることを知った。そこで看護婦を社会的に専門職として認めさせるため、ロンドンのナイチンゲール看護学校に倣い、看護教育施設の建立を目指した。1951年に悲願の看護教育施設として、青森県立高等看護学院の開校が決定した。しかし花田の考えはなかなか世間に認められず、入学応募者はたった1人であった。新聞紙上では「嫌われた県立看護学院」と題し、不要不急の建物を創ったと非難の記事が掲載された。花田は青森県内の高等学校を回り、手製のフローレンス・ナイチンゲールの紙芝居などで看護教育の重要性を説き、生徒集めに奔走した。その甲斐があり、翌1952年3月には38名の入学者が集い、花田自らも講師として教壇に立った。", + "qas": [ + { + "question": "1949年、八戸市内でどの質病の集団感染が発生したか。", + "id": "tr-139-03-000", + "answers": [ + { + "text": "急性灰白髄炎", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ケニー療法」はどの質病の治療法ですか。", + "id": "tr-139-03-001", + "answers": [ + { + "text": "急性灰白髄炎", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "青森県立高等看護学院の開校が決定されたのは何年のことですか。", + "id": "tr-139-03-002", + "answers": [ + { + "text": "1951年", + "answer_start": 322, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1952年3月、青森県立高等看護学院の入学者は何人集まりましたか。", + "id": "tr-139-03-003", + "answers": [ + { + "text": "38名", + "answer_start": 524, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "県立の看護教育施設創設に伴い、様々な手続きや整備を目的とし、青森県庁内に衛生部看護係が創設された。その係長として、看護教育施設を唱えた本人である花田に白羽の矢が立った。前述した看護学院の開校前年の1950年、花田は八戸赤十字病院を退職し、青森県衛生部看護係長に就任した。これは青森の保健婦指導の頂点ともいえる役職である。当時は、肩書を持つ女性は異例であった上、県庁の係長職は、10数年のキャリアを持つ男性でも就任の難しい職務であった。その係長に青森で初めて女性が、それも外部からの人間が就任したことは、当時のマスコミで話題となった。\n\n1955年には、東北地方でも伝統的に健康保険組合の活動が盛んな岩手県を視察し、岩手県国民健康保険団体連合会の保健活動を学んだ。帰郷後、青森県国民健康保険団体連合会の協力を得、岩手の活動を青森県内へ広めることへ貢献した。この活動において住民たちと健康問題についての意見交換の末、すでに駐在保健婦で実績を挙げている高知県などに倣い、青森でも各地へ保健婦を置くべきとの考えに至った。", + "qas": [ + { + "question": "花田は何年に八戸赤十字病院を退職したの?", + "id": "tr-139-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1950年", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "中ソ紛争", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "1929年の中ソ紛争は、中東鉄道を巡りソビエト連邦と中華民国の間で起こった軍事衝突である。中東路事件、奉ソ戦争とも呼ばれる。北伐を終えて統一された中国にとって外国との初めての交戦であった。紛争の発端は、中ソの共同管理下に置かれていた中東鉄道の利権を、中国が実力で回収しようとしたことにある。ソ連の独裁者スターリンは自衛を理由に機械化された強力なソ連軍を満洲国境地帯に送り込み、張学良軍を粉砕し全ての権益を回復した。その後原状復帰を内容とする停戦協定が結ばれてソ連軍は撤収したが、中国側は協定の無効を主張して再交渉を要求し続けた。", + "qas": [ + { + "question": "中東鉄道を巡ったソビエト連邦と中華民国の軍事衝突のことは、中ソ紛争と中東路事件のほかに、何と呼ばれる?", + "id": "tr-140-00-000", + "answers": [ + { + "text": "奉ソ戦争", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1917年、ロシア革命が起こり、ロシア臨時政府が誕生した。1917年10月にソビエト革命(十月革命)が起こり、次いでロシア内戦が起こると、1917年12月より、中国内ロシア租借地である中東鉄道付属地(ハルピン)において、シベリア臨時政府に従っていた中東鉄道長官ドミトリー・ホルバート中将と中国政府が、ソビエト勢力の取り締まりを始めた。1919年より、親白系ロシア人の北洋政府安徽派・段祺瑞配下の徐樹錚が外蒙古の統治を行ったが、1920年の安直戦争により安徽派が直隷派に負け、日本軍も極東共和国と緩衝国建設覚書を結んでロシア極東より撤兵したため、赤軍と極東共和国軍によって1921年に外蒙古が赤化した。1922年に張作霖(奉天派、東三省政府)、段祺瑞(安徽派)、孫文(革命政府)の三者は反直三角同盟を結び、第一次奉直戦争を行うが、直隷派に負けてしまう。1924年1月に革命政府は容共を打ち出し、ソビエト連邦の支援の下で国共合作を始めた。", + "qas": [ + { + "question": "ロシア臨時政府の誕生とソビエト革命の勃発は、全部何年にあったことであるの?", + "id": "tr-140-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1917年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ロシア内戦は、何年に起こりましたか?", + "id": "tr-140-01-001", + "answers": [ + { + "text": "1917年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ロシア帝国が清国から獲得した中東鉄道の利権は、1924年5月にソビエト連邦が直隷派の北洋政府とカラハン協定及び中ソ解決懸案大綱協定を結ぶことで、ソビエト連邦に承継されたが、直隷派と対立していた東三省の張作霖政権(奉天派)により抵抗されることとなった。しかし、9月18日の革命政府の北伐宣言により、張作霖政権が関内出兵を決意すると、張作霖政権は妥協した奉ソ協定に調印し、ソ連の利権を認めることとなった。その後、第二次奉直戦争が起き、直隷派が敗北した。奉ソ協定に定められた管理形態は対等な共同経営が基本で、鉄道経営のトップとして置かれた理事会は中ソから5人ずつの理事で構成され、理事会での完全な平等の確立が謳われていた。従業員の採用も、双方の理事が対等の権利を有するものとなっていた。しかし、白系ロシア人の多い満州において、張作霖政権とソ連の関係は良好ではなく、中東鉄道の運営はしばしば張作霖政権からの抗議を受けることになった。特に、ソ連人で共産党員の中東鉄道管理局長のA・I・イワノフが実権を握り、第九十四号命令などにより、理事会を有名無実にし問題となっていた。", + "qas": [ + { + "question": "ソビエト連邦の中東鉄道に対する利権を認めた協定とは、何?", + "id": "tr-140-02-000", + "answers": [ + { + "text": "奉ソ協定", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "中東鉄道に対する実権を握っていたのは、誰ですか?", + "id": "tr-140-02-001", + "answers": [ + { + "text": "A・I・イワノフ", + "answer_start": 433, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1926年1月には、張作霖が要求した軍隊の無料輸送を巡って対立が表面化し、反対したイワノフ支配人らロシア人幹部が中国官憲に逮捕され、理事の解任や労働組合の解散が行われた。このときソ連政府は、妥協案を提示して外交決着を図った。張作霖は、イワノフの更迭や鉄道の政治利用の禁止などの妥協案を受け入れ、拘束者の解放を行ったその後、張作霖軍が北京を占領したときにも、1927年4月にソ連大使館の家宅捜索等を行い、ソ連と外交問題を起こした。張作霖の主張は、天津での暴動を計画している中国共産党員が匿われていたというもので、実際に大使館内にいた多数の共産党員が逮捕されたほか、ロシア人19人も逮捕された。多数の機密資料も押収された。この捜索は、外交居住区の管理権者であったデンマーク公使の許可を得て行われたものであった。同年2月には、外交官を移送中のソ連船が拿捕されていた。このときもソ連は最終的に全面衝突を回避した。抗議のうえ大使館を閉鎖したが、各地の領事館はそのまま維持した。", + "qas": [ + { + "question": "中国とソ連の間で政治問題の深刻化に繋がった色々な事件に対し、いつもソ連はどのような態度をとっていましたか?", + "id": "tr-140-03-000", + "answers": [ + { + "text": "全面衝突を回避", + "answer_start": 392, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "両国における中東鉄道の政治利用が禁止されたのは、何年のこと?", + "id": "tr-140-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1926年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1928年、張作霖爆殺事件が起きると、後継者の張学良は同年12月に易幟して国民政府に帰順した。これにより北伐が完了し、中国全土は一応の統一を見た。国民政府を主導する蒋介石は反共主義であったため、ソ連との対立関係は続いたが、その結果かえってその他の列強と中国の関係は好転し、条約改正による関税自主権の回復などを実現していった。顧維鈞はその備忘録で、国民党が張学良の力を削減しようとして彼にやらせたことを示唆している。", + "qas": [ + { + "question": "中国全土が一応の統一を見たのは、どの事件によることか?", + "id": "tr-140-04-000", + "answers": [ + { + "text": "張作霖爆殺事件", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "易幟したのと同じ1928年12月、張学良は中東鉄道の実力行使による回収へと動き始めた。最初のテスト・ケースとして着手したのは、中東鉄道に付属し、同様に中ソの共同管理下にあった電話局の接収だった。12月22日、奉天当局の警察隊が電話局を占拠し、29日には中���鉄道の社旗(北京政府の五条国旗とロシア国旗を組み合わせたもの)を降ろさせて、国民政府の青天白日旗を掲げたソ連政府は、電話局の占拠を協定違反であるとして非難したが、張学良は交渉を拒絶した。そして、中国側は、しかるべきときに中東鉄道の排他的支配を回復するとの声明を発表した。", + "qas": [ + { + "question": "張学良が中東鉄道を実力で回収しようと動き出したのは、いつ?", + "id": "tr-140-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1928年12月", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "張学良の勢力が中東鉄道に付属している電話局を占拠したのは、いつですか?", + "id": "tr-140-05-001", + "answers": [ + { + "text": "12月22日", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1929年5月27日、中華民国東三省北部特警管理局はハルビンのソ連総領事館においてコミンテルンの秘密会議が開かれていることを突き止め、同領事館を捜索して中国とソ連の共産党員39人を逮捕した。中国側によれば、この際に押収された文書からいくつかのソ連の陰謀が明らかになった。その中には中東鉄道の職員の構成が中ソで平均されることを妨害し、ソ連人以外の排除と共産党員の補充を命じるモスクワからハルビンへの電文が含まれていた。中東鉄道の人事問題に関しては、実際、前年の12月にソ連のレフ・カラハン外務人民委員代理が、ソ連共産党の中央委員会に対して人員整理の必要を訴える書簡を送っていた。カラハンによると、中東鉄道の職員は中国側の要求で不必要に増加しており、ポスト確保のため多くの閑職が作られ、大量の補助金が投下されていた。その結果、運賃収入の増加にもかかわらず、経営状態は悪化して、中国銀行からの巨額の借り入れが必要になっていたという。贈収賄・怠慢・強欲・横領が日常茶飯事の「中国風の企業」と化していたと評している。カラハンは合理化策として、支配人の権限を縮小して内部統制を充実させるとともに、公金横領者・収賄者を解雇して、できれば共産党員のソ連側職員と交代させることを提案していた。", + "qas": [ + { + "question": "1929年5月27日に起きた事件とは、どこにあるソ連領事館に対し、中華民国東三省北部特警管理局が捜索を行ったことなの?", + "id": "tr-140-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ハルビン", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1929年5月27日のハルビンのソ連総領事館捜索で押収された文書の中には、中東鉄道の職員の構成において、ソ連人以外の排除と何の拡充を命じるモスクワからの電文も含まれていましたか?", + "id": "tr-140-06-001", + "answers": [ + { + "text": "共産党員", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1928年の時点でソ連の外務人民委員代理の役に務めていたのは、誰か?", + "id": "tr-140-06-002", + "answers": [ + { + "text": "レフ・カラハン", + "answer_start": 236, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カラハンは合理化策として、誰の権限を縮小して内部統制を充実させようとしたか?", + "id": "tr-140-06-003", + "answers": [ + { + "text": "支配人", + "answer_start": 466, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "7月7日から蒋介石は、張学良及び外交部長の王正廷とこの問題について協議を始めた。7月10日、彼らは、中東鉄道を回収するためソ連人と共産主義者を追放することを決定し、直ちに実行させた。中東鉄道理事長の呂栄寰は、管理局長のA・I・エムシャノフを罷免して代理局長に中国人副局長の范其采を任命するとともにソ連人の幹部職員59人を免職させ��強制送還を命じた。東北電政監督の蒋斌(しょうひん)は、鉄道専用以外の中東鉄道全線の電信電話施設を回収した。特区行政長の張景恵は、ソ連極東貿易局・商船局・商業連合会等の商業機関と各ソ連人従業員組合に解散を命令した。強制送還者以外に140人以上のソ連国民が拘束された。", + "qas": [ + { + "question": "強制送還を命じられたソ連人の幹部職員は、何人だったか?", + "id": "tr-140-07-000", + "answers": [ + { + "text": "59人", + "answer_start": 156, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ソ連極東貿易局・商船局・商業連合会等の商業機関と各ソ連人従業員組合に解散を命令した人は、どんな役に務めていたの?", + "id": "tr-140-07-001", + "answers": [ + { + "text": "特区行政長", + "answer_start": 218, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "鉄道専用以外の中東鉄道全線の電信電話施設を回収したのは、誰?", + "id": "tr-140-07-002", + "answers": [ + { + "text": "蒋斌", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "7月13日、ソ連政府は処分の取消しを要求する最後通牒を国民政府へ提示したが、国民政府は騒乱、治安事件の防止のための措置であり純防衛目的のものとしてソ連の要求を拒絶した。そればかりか、1000人以上の中国人移民及び商人がソ連によって不当拘束されているとして、逆にソ連側を非難した。7月18日、ソ連は駐ソ代理大使の夏維崧(かいしゅう)に、国交断絶を通告、同時に外交官・商務人員・中東鉄道社員に帰国命令を出し、中国・ソ連間の鉄道全てを閉鎖するとともに開戦準備として国境へ軍隊を集結させた。7月19日、国民政府は、駐ソ大使館・領事館員全員の召還を決定するとともに「国際宣言」を発表し、ハルビン領事館の捜索結果を世界に公開、国内に対してはソ連の陰謀を阻止するため、緊急防衛態勢につくよう指示を出した。", + "qas": [ + { + "question": "ソ連政府が国民政府に対し、処分の取消しを要求する最後通牒を突きつけたのは、いつか?", + "id": "tr-140-08-000", + "answers": [ + { + "text": "7月13日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ソ連が中国との国交断絶の旨を示し、中国との戦争に備えるような姿を見せたのは、いつですか?", + "id": "tr-140-08-001", + "answers": [ + { + "text": "7月18日", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ソ連の戦争への意思を確認した国民政府が緊急防衛態勢に突入するとの名分の下で、ソ連との戦争の準備を開始したのは、いつなの?", + "id": "tr-140-08-002", + "answers": [ + { + "text": "7月19日", + "answer_start": 241, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "国民政府がハルビン領事館の捜索結果を世界に公開したのは、いつか?", + "id": "tr-140-08-003", + "answers": [ + { + "text": "7月19日", + "answer_start": 241, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "7月下旬には、国境地帯に双方の軍隊が対峙し、軍事的示威活動が展開された。7月20日にはソ連軍からの攻撃が始まっていたとも言われる。逆にソ連側も、中国兵のソ連領内への越境など挑発行為があったとして激しく非難し、全ての責任は中国政府が負うものだとの見解を発表した。中国国内では反ソ的世論が高まり、7月下旬から9月にかけて盛んに市民集会が開かれて、ソ連製品のボイコットや拘束者の即時処刑などを求める決議が行われた。決議の中には、日本の介入を警戒して、介入禁止通告を日本に出すよう求めたものも含まれていた。中国政府も、これらの集会に政府関係者を出席させ、航空機から宣伝ビラを配布するなどして世論をあおっていた。双方の外交部が本国召還されながらも、依然として外交交渉は続けられた。7月22日と29日に、それぞれ蔡運升と張学良から、拘束者の解放と1924年協定の全面見直しを内容とする解決案が提示されたが、ソ連側のカラハンは暴力的な回収を合法化するものだとして拒絶した。8月27日になって、南京政府は、1924年協定を順守したうえで支配人の交代を行う旨の大幅な譲歩をソ連側に告げた。しかし、ソ連側は、支配人の交代は認めないとの強硬な回答を、駐モスクワのドイツ大使ヘルベルト・フォン・ディルクセンを通じて返した。ソ連のヨシフ・スターリンは、すでに8月初旬の段階で軍事侵攻を決心していたからであった。ソ連側が警戒していたのは日本の関東軍の介入であったが、日本が厳正中立の立場をとることが明確になったため、軍事侵攻の選択が決定されていたのであった。", + "qas": [ + { + "question": "中国内で反ソ的世論が高まり、ソ連製品のボイコットや拘束者の即時処刑などを求める決議が行われたのは、いつからいつにかけてのことか?", + "id": "tr-140-09-000", + "answers": [ + { + "text": "7月下旬から9月", + "answer_start": 146, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "決議の中では、どの国に対し介入禁止通告を出すことも求められたの?", + "id": "tr-140-09-001", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 211, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "中国が提示した、拘束者の解放と1924年協定の全面見直しを内容とする解決案を、ソ連のカラハンは、どのようなものだとして批判・拒絶しましたか?", + "id": "tr-140-09-002", + "answers": [ + { + "text": "暴力的な回収を合法化するもの", + "answer_start": 406, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "当時のソ連の統治者は、誰か?", + "id": "tr-140-09-003", + "answers": [ + { + "text": "ヨシフ・スターリン", + "answer_start": 552, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "8月6日、ソ連は、中国との戦闘に備えて特別極東軍(司令官:ヴァシーリー・ブリュヘル将軍)を編成した。司令官に選ばれたブリュヘル将軍は、在華ソビエト軍事顧問団長としての経験があり、中国軍の内情を知りつくしていた。ブリヤート人から成る独立騎兵大隊など現地編成の部隊を増設し、総兵力は3万人と称した。主たる戦闘が起きた10月から11月にも大幅な戦力増強が行われている。中国側の観測では、ソ連軍は陸海空軍8万人の大部隊を国境周辺に配置していた。対する中国側は、張学良が率いる旧奉天派の東北軍は総兵力27万人とされたが、治安維持や満洲南部の防備を考慮すると、そのうちの10万人程度しか対ソ戦には使用できないものと見られた。満洲以外の地域からの増援も期待できなかった。", + "qas": [ + { + "question": "8月6日にソ連が中国との軍事衝突に備えて編成したのは、何?", + "id": "tr-140-10-000", + "answers": [ + { + "text": "特別極東軍", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ブリュヘル将軍が中国軍の内情を知りつくしていたのは、どの役に務めた経験があるからですか?", + "id": "tr-140-10-001", + "answers": [ + { + "text": "在華ソビエト軍事顧問団長", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "中国側でソ連での戦闘に動員できるのは、何万人までとされたか?", + "id": "tr-140-10-002", + "answers": [ + { + "text": "10万人程度", + "answer_start": 279, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "特別極東軍の司令官には、誰が任命されたか?", + "id": "tr-140-10-003", + "answers": [ + { + "text": "ブリュヘル", + "answer_start": 58, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "装備の面では質量ともにソ連軍が優位であった。例えば火砲は、ソ連軍が重砲十数門を含む約200門に対して、中国軍は歩兵砲主体の135門で重砲は無かった。機関銃ではソ連軍が重機関銃294丁・軽機関銃268丁に対して、中国軍は重機関銃99丁のみだった。航空機はソ連軍の35機-60機に対して中国軍はわずか5機だった。易幟前の奉天派は1924年までに各種合計45機の軍用機を取得していたが、1929年当時までに機材の老朽化が進んで少数のブレゲー14程度しか実戦投入できなかった。", + "qas": [ + { + "question": "装備面において、中国とソ連のうち、どちらの国が優位に立っていたの?", + "id": "tr-140-11-000", + "answers": [ + { + "text": "ソ連", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "火砲と機関銃、航空機などの軍事装備において、その量でも質でも優位にあったのは、中ソ両国のうち、どの国ですか?", + "id": "tr-140-11-001", + "answers": [ + { + "text": "ソ連", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "どの機材しか実戦投入できないということが、中国の軍用機において老朽化が進んでいたのを見せてくれるか?", + "id": "tr-140-11-002", + "answers": [ + { + "text": "ブレゲー14", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "7月14日のソ連領事館引揚げ以降、満洲北部の国境線では、軍事演習や軍用機による示威飛行など軍事的示威活動が相次ぎ、神経戦が展開された。満洲里では住民にパニックが起きた。中国側によると、ソ連軍の行動は示威活動にとどまらず、7月20日には中東鉄道の東端の綏芬河方面で砲爆撃、23日には北東辺境の黒龍江・松花江合流点付近で中国船舶の拿捕、26日には中東鉄道の西端の満洲里方面の3方向から砲撃が開始されていたという。その後も、中国側主張によれば、8月4日に松花江東部、8月16日に黒竜江流域、8月23日の密山周辺、8月28日から30日など交戦が続いた。これらは統一後の中国が初めて外国からの武力攻撃を受けるものであり、蒋介石は国民政府主席として全国に徹底抗戦を通電した。逆に、ソ連側も、中国軍及び白系ロシア人部隊が越境略奪や射撃、河川への浮遊機雷の放流を行っているとして非難していた。", + "qas": [ + { + "question": "ソ連領事館が引き揚げられたのは、いつ?", + "id": "tr-140-12-000", + "answers": [ + { + "text": "7月14日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "中東鉄道の西端の満洲里方面においてソ連からの砲撃が開始されたのは、何日だと中国は言っていましたか?", + "id": "tr-140-12-001", + "answers": [ + { + "text": "26日", + "answer_start": 166, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "松花江東部でソ連との交戦があったのは、いつだと中国は言っているか?", + "id": "tr-140-12-002", + "answers": [ + { + "text": "8月4日", + "answer_start": 219, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ソ連と中国の交戦が開始されたのは、何月何日からか?", + "id": "tr-140-12-003", + "answers": [ + { + "text": "8月4日", + "answer_start": 219, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "9月ないし10月には、両軍の本格的な戦闘が開始された。戦闘開始の責任について、中ソ両陣営とも、相手方の宣戦布告なき不当な先制攻撃があったと主張していた。ソ連が自衛を大義名分に攻撃を正当化する手法は、フィンランドとの冬戦争などでも見られたことであるが、今回は実際にも中国側の暴力的な財産侵害が先行していた。黒龍江・松花江合流地点方面では、中国側によると9月から本格的なソ連軍の攻撃が始まり、9月19日に綏浜、10月12日に黒竜江と松花江合流点の同江、10月31日に富錦を攻略し、松花江沿いの約50キロにわたって侵攻した。うち10月12日の戦闘では、ソ連軍のアムール小艦隊(中国側の観測によると砲艦5隻と武装商船4隻)が航空機の援護を受けて侵攻し、中国軍江防艦隊(砲艦2隻と武装商船など4隻)と水上戦闘になった(三江口の戦い)。中国艦隊は砲艦「利捷」(旧ドイツ海軍「オッター」)や武装商船「江平」「江通」「江安」などを失って壊滅し、艦載砲13門が鹵獲されたほか、ソ連軍上陸部隊との地上戦闘も合わせて死傷250名・捕虜150名、陸上火砲21門鹵獲などの大損害を受けた。中国側のラハスス要塞は占領された。中国側はソ連艦2隻炎上・1隻撃破と航空機2機撃墜を主張したが、ソ連側の記録によると戦死5名・戦傷24名と軽微な損害であった。10月30日には、富錦攻略に来襲したソ連河川艦隊と中国江防艦隊残党の戦闘も起きており、このときも中国側は砲艦「江享」などを失って敗北した(富錦の戦い)。ソ連側の記録では地上戦とあわせて中国軍の戦死300名、戦傷・捕虜数百名の損害を受けた。ソ連側の損害は、戦死3名と戦傷11名だったとされる。中国側の河川艦隊はほぼ全滅状態となったほか、一連の過程で商船9隻が拿捕された。", + "qas": [ + { + "question": "中ソ両軍の本格的な戦闘が開始されたのは、9月ないし何月とされるの?", + "id": "tr-140-13-000", + "answers": [ + { + "text": "10月", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ソ連が自衛を大義名分に攻撃を正当化する手法が見られたのは、中国のほかに、どの国との戦争においてですか?", + "id": "tr-140-13-001", + "answers": [ + { + "text": "フィンランド", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "中国との戦争の例とは異なり、ソ連が先に侵害されたこともなく攻撃を行い、それを正当化するために自衛を大義名分にした例は、どの国との戦争のことか?", + "id": "tr-140-13-002", + "answers": [ + { + "text": "フィンランド", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ソ連軍のアムール小艦隊と中国軍江防艦隊の水上戦闘が始まったのは、いつか?", + "id": "tr-140-13-003", + "answers": [ + { + "text": "10月12日", + "answer_start": 261, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "主戦場となった満洲里方面では、中国側によると7月26日からソ連軍の砲撃が始まっていた。ソ連軍は戦車・航空機を利用して数度にわたる総攻撃を行い、11月には国境要地である満洲里、ダライノール、同月24日(ソ連側によると27日)にはハイラルを攻略した。11月17日夜に、ソ連軍は大規模な進撃を開始した。ダライノール守備を担当した中国軍第17旅(旅は旅団に相当)7千人は、一昼夜の激戦により将兵のほとんどが死傷、旅長の韓光第(かんこうだい)も戦死という大損害を被った。満洲里を守備していた中国軍第15旅もソ連軍に包囲され、旅長の梁忠甲以下の幹部は日本領事館に逃げ込んだ後、ソ連軍に投降した(満洲里の戦い)。ソ連側の記録によると、ダライノールと満洲里の戦闘で中国兵1500人が戦死し、9000人以上が捕虜となったのに対し、ソ連軍の損害は戦死123人と戦傷605人であった。大砲30門・装甲列車2本などがソ連軍によって鹵獲された。ソ連軍によると27日には、ほとんど無抵抗でハイラルを占領した。博克図に中国軍の残存部隊が発見されると、ハイラルに進出したソ連軍航��部隊が、28日に博克図駅と中国軍部隊に対し爆撃を行った。", + "qas": [ + { + "question": "中国側によると、いつから満洲里方面でソ連軍の砲撃が始まったの?", + "id": "tr-140-14-000", + "answers": [ + { + "text": "7月26日", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ソ連側の記録によると、ダライノールと満洲里の戦闘で死亡した中国兵は、何人ですか?", + "id": "tr-140-14-001", + "answers": [ + { + "text": "1500人", + "answer_start": 327, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ソ連軍がハイラルを占領したのは、何日か?", + "id": "tr-140-14-002", + "answers": [ + { + "text": "27日", + "answer_start": 416, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "綏芬河方面においては、中国側によると7月20日から砲撃と爆撃によりソ連軍が攻撃を開始し、12月までに数度の攻撃を行ったが中国軍の防御にあって侵攻できなかった。これに対し、ソ連側によると、ハンカ湖(興凱湖)方面の中国軍がイマン(現ダリネレチェンスク)へ侵攻したと称し、自衛名目でソ連軍の作戦は実行された。攻撃は沿海州軍団と第1太平洋狙撃師団によって行われた。11月17日に密山の爆撃が開始され、騎兵と歩兵の混成部隊が密山を占領した。ソ連側の記録によると中国軍は1500名が死傷し、135名が捕虜となったほか、機関銃6丁・迫撃砲6門・馬200頭・大量の機密書類が鹵獲された。ソ連側の名目である「イマン侵攻に対する自衛」は、でっちあげであったとみられる。以上の一連の戦闘での中国軍の損害は大きく、一説によると戦死約1690人・戦傷約2210人・捕虜約6900人・行方不明約1800人に上った。ソ連側資料によると捕虜は9500人に達することになる。ソ連軍は、捕虜にした中国兵のうち数百-数千人を河川へ投げ込んで処分したとする説もある。", + "qas": [ + { + "question": "中国によると、綏芬河方面においてソ連軍の攻撃が開始されたのは、いつからなの?", + "id": "tr-140-15-000", + "answers": [ + { + "text": "7月20日", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ソ連の騎兵と歩兵の混成部隊により密山が占領されたのは、いつですか?", + "id": "tr-140-15-001", + "answers": [ + { + "text": "11月17日", + "answer_start": 178, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ソ連の攻撃は「イマン侵攻に対する自衛」という名目で行われたが、それは何だとみられるか?", + "id": "tr-140-15-002", + "answers": [ + { + "text": "でっちあげ", + "answer_start": 309, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この文章で挙げられている戦闘で、より大きい損害を被ったのは、中国とソ連のうち、どの国か?", + "id": "tr-140-15-003", + "answers": [ + { + "text": "中国", + "answer_start": 334, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ソ連軍の侵攻と示し合わせた中国共産党は、10月末に広東省の海豊・陸豊方面で行動を開始した。毛沢東・朱徳等の率いる共産軍は、広東・福建・江西の省境近辺で暴動を起こし、翌年2月に瑞金で江西ソヴィエトを成立させた。ソ連の協力者である馮玉祥も中央国民政府に対し反旗を翻していたため、国民政府はその討伐作戦も展開しなければならなかった。", + "qas": [ + { + "question": "毛沢東・朱徳等の率いる共産軍が、暴動を起こしたのは、広東と福建のほかに、どこの省境近辺においてか?", + "id": "tr-140-16-000", + "answers": [ + { + "text": "江西", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1930年何月に、瑞金で江西ソヴィエトが成立したか?", + "id": "tr-140-16-001", + "answers": [ + { + "text": "2月", + "answer_start": 84, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "稲沢市図書館", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "稲沢市図書館(いなざわしとしょかん)は、愛知県稲沢市の公共図書館の総称。\n現在の稲沢市は2005年に旧稲沢市・中島郡祖父江町・中島郡平和町の1市2町が合併して誕生したものであり、稲沢市図書館は稲沢市立中央図書館、稲沢市立祖父江の森図書館、稲沢市立平和町図書館の3館からなる。\n2014年(平成26年)4月1日から、中央図書館では国立国会図書館デジタル化資料送信サービスを利用できる。\n2015年度(平成27年度)の総貸出冊数は1,568,629冊、1人あたり貸出冊数は11.4冊、1人あたり資料費は228円だった。", + "qas": [ + { + "question": "稲沢市図書館の2015年度の総貸出冊数は何冊でしたか?", + "id": "tr-141-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1,568,629冊", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "稲沢市図書館の2015年度の1人あたり貸出冊数は何冊でしたか?", + "id": "tr-141-00-001", + "answers": [ + { + "text": "11.4冊", + "answer_start": 234, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1955年(昭和30年)4月15日には中島郡旧稲沢町・明治村・千代田村・大里村の1町3村が合併して、人口約47,000人の新稲沢町が誕生した。\nその後稲沢町の人口は5万人を超え、約4億円の1958年度予算は全国の町村のなかでも有数の規模となったため、1958年(昭和33年)11月1日には稲沢町が市制施行して稲沢市となった。\n1959年(昭和34年)2月24日付の『稲沢広報』では、愛知県立図書館が運行する2,000冊積載の移動図書館車両が稲沢市公民館本館・稲沢市立明治中学校・稲沢市立千代田中学校・稲沢市立大里中学校の4か所を年5回程度の頻度で巡回すると報じている。", + "qas": [ + { + "question": "新稲沢町に吸収された町と村はどちらの方が数が多かったですか?", + "id": "tr-141-01-000", + "answers": [ + { + "text": "村", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "新稲沢市誕生時の人口は何人でしたか?", + "id": "tr-141-01-001", + "answers": [ + { + "text": "約47,000人", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1965年(昭和40年)4月には愛知県立図書館が運営する愛知県移動図書館と連携して自前の移動図書館事業が開始された。\n市制施行前の稲沢町には稲沢町立図書館があったが、1967年(昭和42年)2月には愛知県稲沢農業改良普及所の2階に稲沢市立図書館が開館した。\n貸出を受けられるのは小学4年生以上に制限された。\n同年4月の資料数は4,821冊であり、同年度の図書費は303,000円、利用者数は8,434人だった。\n1966年度(昭和41年度)の図書館利用者数は5,142人だったが、1970年度(昭和45年度)には13,243人と4年前の2.6倍になった。\n1970年度の利用者属性は中学生以下が7,946人(60%)、高校生以上が5,297人(40%)だった。", + "qas": [ + { + "question": "図書館利用者数が多かったのは1966年度と1970年度のどちらですか?", + "id": "tr-141-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1970年度", + "answer_start": 240, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1970年度の利用者属性が多かったのは中学生以下と高校生以上のどちらですか?", + "id": "tr-141-02-001", + "answers": [ + { + "text": "中学生以下", + "answer_start": 291, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1967年4月の資料数は何冊でしたか?", + "id": "tr-141-02-002", + "answers": [ + { + "text": "4,821冊", + "answer_start": 163, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1967年の利用者数は何人でしたか?", + "id": "tr-141-02-003", + "answers": [ + { + "text": "8,434人", + "answer_start": 195, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1970年(昭和45年)には稲沢市役所が新市庁舎に移転しており、1971年(昭和46年)3月には図書館が旧市庁舎2階に移転した。\n同年4月の資料数は12,015冊であり、同年度の図書費は150万円、利用者数は27,472人だった。\n1972年(昭和47年)6月5日には稲沢ライオンズクラブから電子複写機(コピー機)が寄贈された。\n1972年(昭和47年)11月には旧市庁舎の取り壊しにともなって、図書館が旧中央毛織社員寮(後の稲沢市消防署職員寮)に移転した。\n図書の基本カードの作成、貸出方式のブラウン方式への変更などのために11月から1972年12月まで休館した。\n1972年12月には中央毛織社員寮跡で仮開館した。", + "qas": [ + { + "question": "移転した1971年度の図書費はいくらでしたか?", + "id": "tr-141-03-000", + "answers": [ + { + "text": "150万円", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "移転した1971年度の利用者数は何人でしたか?", + "id": "tr-141-03-001", + "answers": [ + { + "text": "27,472人", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "電子複写機の寄贈者は誰でしたか?", + "id": "tr-141-03-002", + "answers": [ + { + "text": "稲沢ライオンズクラブ", + "answer_start": 134, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "稲沢市は日本住宅公団(現・都市再生機構)と連携して、鉄骨鉄筋コンクリート造地上13階地下1階建の国府宮団地の1階から3階を稲沢市総合文化センターに充てた。\n総工費は12億円であり、事業主体は日本住宅公団である。\n国府宮団地は1973年(昭和48年)4月に起工し、1974年(昭和49年)12月に総合文化センター部分が完成(建物全体の完成は1975年7月)した。\n総合文化センターは図書館・稲沢市役所北出張所・ホール・文化協会・美術協会などの施設の総称である。\n高さ51mの国府宮団地は名鉄名古屋本線国府宮駅の南東徒歩3分の場所にあり、稲沢市最大の近代的市街地ビルだった。", + "qas": [ + { + "question": "稲沢市総合文化センターの総工費はいくらでしたか?", + "id": "tr-141-04-000", + "answers": [ + { + "text": "12億円", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "稲沢市総合文化センターの事業主体は何でしたか?", + "id": "tr-141-04-001", + "answers": [ + { + "text": "日本住宅公団", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1975年(昭和50年)3月8日には1階と地下1階を利用して稲沢市立図書館が移転開館した。\n1階にはブラウジングコーナー・おはなしコーナーなどがあり、地下1階には成人閲覧室・参考図書閲覧室・視聴室・展示コーナー・書庫などがあった。\n座席数は約170席であり、児童向けのスペースを重視していた。\n図書館部分の延床面積は1,027m2だった。\n1975年4月の資料数は25,780冊だった。", + "qas": [ + { + "question": "移転開館した稲沢市図書館の座席数はいくつでしたか?", + "id": "tr-141-05-000", + "answers": [ + { + "text": "約170席", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "移転開館した1975年の4月の資料数は何冊でしたか?", + "id": "tr-141-05-001", + "answers": [ + { + "text": "25,780冊", + "answer_start": 182, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "開館からの15日間の貸出冊数は8,475冊に達し、館報ではこれを「爆発的」「驚異的」と伝えている。\n同年10月13日には800冊積載の移動図書館車両「おおぞら号」を用いて、10ステーションを月2回の頻度で巡回する移動図書館サービスを開始した。\n下津町の稲沢市農協東部支所、六角堂町の長光寺、日下部松野町の仲よし広場、東緑町の遊園地、東出張所、西出張所、坂田町の坂田分校跡、矢合町の地蔵様広場、片原一色町の善応寺、老人憩の家にステーションが置かれている。\n1976年(昭和51年)3月には肢体不自由者に宅配サービス(家庭文庫)を開始し、1985年(昭和60年)4月には視覚障害者に録音テープの郵送貸出を開始した。\n1975年の開館時の住所は稲沢市小池正明寺町北反田35番地だったが、1984年には住居表示が実施されて稲沢市国府宮3丁目1番1-101号となっている。", + "qas": [ + { + "question": "「おおぞら号」のサービス頻度は月に何回ですか?", + "id": "tr-141-06-000", + "answers": [ + { + "text": "2回", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "家庭文庫の利用対象者はどんな方ですか?", + "id": "tr-141-06-001", + "answers": [ + { + "text": "肢体不自由者", + "answer_start": 243, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "録音テープの郵送貸出の利用対象者はどのような方ですか?", + "id": "tr-141-06-002", + "answers": [ + { + "text": "視覚障害者", + "answer_start": 283, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1988年(昭和63年)7月にはコンピュータを導入、1993年(平成5年)10月には利用者用検索端末を設置した。\n1996年(平成8年)4月には開館時間を10時-18時に変更し、2000年(平成12年)4月にはより大規模な開館時間の変更を行っている。\nこれによって11月から翌年4月は10時-18時、5月・6月・9月・10月は9時30分-18時、7月・8月は9時-18時となった。\n2002年(平成14年)には尾張西部図書館運営協議会を構成する3市3町(稲沢市・一宮市・尾西市・木曽川町・祖父江町・平和町)の図書館間で広域貸出が開始された。", + "qas": [ + { + "question": "2001年の開館時間が最も長かった月は4月、6月、8月の中でどれですか?", + "id": "tr-141-07-000", + "answers": [ + { + "text": "8月", + "answer_start": 176, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "2001年の開館時間が最も短かかった月は4月、7月、10月の中でどれですか?", + "id": "tr-141-07-001", + "answers": [ + { + "text": "4月", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "2005年(平成17年)の蔵書数は107,000冊だった。\n国府宮団地内の図書館は延床面積や蔵書数などの点で規模が小さく、老朽化が進行していた。\n2004年度の統計によると稲沢市立図書館の1人あたり貸出冊数は2.8冊であり、愛知県の公立図書館の中で最下位に近かった。\n2005年4月1日には、旧稲沢市・中島郡祖父江町・中島郡平和町の1市2町が合併して新稲沢市が誕生し、稲沢市立稲沢図書館に改称した。\n合併に合わせて3館の開館時間を統一し、年間を通じて10時-19時とした。\n国府宮団地の旧館は2006年(平成18年)6月30日で閉館し、7月1日から10月31日には新館への移転作業を行った。", + "qas": [ + { + "question": "平成17年の蔵書数は何冊でしたか?", + "id": "tr-141-08-000", + "answers": [ + { + "text": "107,000冊", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "新稲沢市合併後の図書館の閉館時間は何時ですか?", + "id": "tr-141-08-001", + "answers": [ + { + "text": "19時", + "answer_start": 229, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "新稲沢���合併後の図書館のオープン時間は何時ですか?", + "id": "tr-141-08-002", + "answers": [ + { + "text": "10時", + "answer_start": 225, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "稲沢市は稲沢市民会館南側駐車場の一角への新館建設を決定した。\n合併前の2003年(平成15年)には図書館基本構想を策定して、図書館建設準備室を設置し、新図書館基本計画を策定した。\n2004年(平成16年)には新図書館基本設計・新築工事設計を完了させ、2005年(平成17年)4月23日に新館の起工式が行われた。\n設計は日建設計、総事業費は29億円である。\n2006年(平成18年)7月に新館が竣工し、11月1日に稲沢市立中央図書館が開館した。", + "qas": [ + { + "question": "新館の設計者はどこの会社が担当しましたか?", + "id": "tr-141-09-000", + "answers": [ + { + "text": "日建設計", + "answer_start": 159, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "新館の総事業費はいくらかかりましたか?", + "id": "tr-141-09-001", + "answers": [ + { + "text": "29億円", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "新館の名称は何ですか?", + "id": "tr-141-09-002", + "answers": [ + { + "text": "稲沢市立中央図書館", + "answer_start": 206, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2014年度(平成26年度)までの開館時間は3館共通で10時-19時だったが、2015年度(平成27年度)からは中央図書館のみ10時30分-19時30分に変更された。\n新館開館10年目の2016年(平成28年)5月には、第55次南極観測隊員の吉川康文を招いた講演会と南極写真・パネル展を行った。", + "qas": [ + { + "question": "2015年度に唯一開館時間の変更をした図書館はどこですか?", + "id": "tr-141-10-000", + "answers": [ + { + "text": "中央図書館", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "2016年5月の公演会に招かれたゲストは誰でしたか?", + "id": "tr-141-10-001", + "answers": [ + { + "text": "吉川康文", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1986年(昭和61年)7月12日には中島郡平和町に平和町立図書館が開館した。\n開館時の開館時間は9時-16時30分であり、貸出冊数は4冊だった。\n2005年(平成17年)4月1日には平和町・旧稲沢市・祖父江町が合併して新稲沢市となり、稲沢市立平和町図書館に改称した。\n稲沢市立中央図書館の開館に合わせて、平和町図書館は2006年(平成18年)6月20日から8月31日まで休館し、蔵書へのICタグの導入などを行った。", + "qas": [ + { + "question": "平和町立図書館の開館時の貸出冊数は何冊でしたか?", + "id": "tr-141-11-000", + "answers": [ + { + "text": "4冊", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "平和町立図書館は2005年の4月に何という名称に変わったの?", + "id": "tr-141-11-001", + "answers": [ + { + "text": "稲沢市立平和町図書館", + "answer_start": 118, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "新稲沢市として合併された市はどこ?", + "id": "tr-141-11-002", + "answers": [ + { + "text": "旧稲沢市", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "祖父江町は1993年(平成5年)8月31日に図書館の建設に着工し、1994年(平成6年)10月31日に竣工、11月16日に竣工式が行われた。\n1995年(平成7年)2月10日、文化ゾーン「祖父江の森」の第1弾として祖父江町中央図書館が開館した。\n開館時の開館時間は10時-18時であり、貸出冊���は5冊だった。\n開館から約1か月で1万人が貸出登録を行い、約26,000冊が貸し出された。\n初年度である1995年度(平成7年度)の延べ入館者数は133,553人、延べ貸出冊数は151,394冊だった。\nなお、1996年(平成8年)3月26日には温水プールもオープンしており、多目的グランド・テニスコートも併せた文化ゾーン「祖父江の森」が完成している。", + "qas": [ + { + "question": "祖父江町中央図書館の開館時の貸出冊数は何冊でしたか?", + "id": "tr-141-12-000", + "answers": [ + { + "text": "5冊", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "開館初年度の延べ貸出冊数は何冊だったの?", + "id": "tr-141-12-001", + "answers": [ + { + "text": "151,394冊", + "answer_start": 236, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1998年(平成10年)4月には、一宮市・尾西市・稲沢市・平和町・木曽川町・佐織町・八開村に対する広域貸出を試行開始した。\n2002年(平成14年)には尾張西部図書館運営協議会を構成する3市3町の広域貸出を正式に開始している。\n2000年9月には延べ貸出冊数が100万冊を突破し、2001年9月には延べ入館者数が100万人を突破した。\n2001年4月には閉館時間を延ばして19時までとし、2001年度からはゴールデンウィーク期間中の休館日が廃止された。\n2002年版『日本の図書館』(日本図書館協会)によると、人口2万人以上で図書館を有する231町村の中で、祖父江町の延床面積(2,287m2)は38位、年間貸出冊数(10.17冊/人)は39位、年間購入冊数(10,540冊)は28位、年間資料費(22,297,000円)は33位の高水準だった。", + "qas": [ + { + "question": "延べ入館者数が100万人を超えたのはいつでしたか?", + "id": "tr-141-13-000", + "answers": [ + { + "text": "2001年9月", + "answer_start": 140, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "延床面積、年間購入冊数、年間貸出冊数の中で順位が最も良かった項目は何ですか?", + "id": "tr-141-13-001", + "answers": [ + { + "text": "年間購入冊数", + "answer_start": 323, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "年間貸出冊数、年間資料費、年間購入冊数の中で順位が最も良くない項目は何ですか?", + "id": "tr-141-13-002", + "answers": [ + { + "text": "年間貸出冊数", + "answer_start": 302, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "閉館時間が遅かったのは2000年と2001年のどちらですか?", + "id": "tr-141-13-003", + "answers": [ + { + "text": "2001年", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "2005年(平成17年)4月1日には祖父江町・旧稲沢市・平和町が合併して新稲沢市となり、稲沢市立祖父江の森図書館に改称した。\n稲沢市立中央図書館の開館に合わせて、祖父江の森図書館は2006年(平成18年)9月1日から10月31日まで休館し、蔵書へのICタグの導入などを行った。", + "qas": [ + { + "question": "新稲沢市誕生後の図書館の名前は何ですか?", + "id": "tr-141-14-000", + "answers": [ + { + "text": "稲沢市立祖父江の森図書館", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1975年(昭和50年)9月には移動図書館用車両を購入し、10月には10ステーションで移動図書館「おおぞら号」の巡回を開始した。\n「おおぞら号」の運行開始から1年間の貸出冊数は18,065冊だった。\n1981年(昭和56年)4月には明治公民館図書室・千代田公民館図書室で、10月には稲沢公民館図書室・大里公民館図書室で、1983年(昭和508年)5月には下津公民館図書室で、1988年(昭和63年)4月には大里東公民館図書室で、1991年(平成3年)4月には稲沢東公民館図書室で図書の貸出を開始している。\nこのように公民館図書室が整備されたこ���で、1987年(昭和62年)3月には移動図書館を廃止した。", + "qas": [ + { + "question": "図書の貸出開始が最も早かったのは、稲沢東公民館図書室、千代田公民館図書室、下津公民館図書室のどれですか?", + "id": "tr-141-15-000", + "answers": [ + { + "text": "千代田公民館図書室", + "answer_start": 125, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "図書の貸出開始が最も遅かったのは、大里東公民館図書室、稲沢公民館図書室、明治公民館図書室のどれでしたか?", + "id": "tr-141-15-001", + "answers": [ + { + "text": "大里東公民館図書室", + "answer_start": 203, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "稲沢公民館図書室と明治公民館図書室は、どちらの方が図書の貸出開始が早かったですか?", + "id": "tr-141-15-002", + "answers": [ + { + "text": "明治公民館図書室", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "下津公民館図書室と大里公民館図書室はどちらの方が図書の貸出開始が遅かったですか?", + "id": "tr-141-15-003", + "answers": [ + { + "text": "下津公民館図書室", + "answer_start": 177, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "中央図書館の設計は日建設計。\n収容可能冊数は45万冊であり、半分の22万5000冊が開架である。\n収容可能冊数の観点では、開館時に西尾張地方最大の図書館であった(2013年には60万冊収容可能な一宮市立中央図書館が開館)。\n中央階段から自然通風を取り入れる自然換気システムを採用している。\n2階の一般閲覧室には部分的に自然光を取り入れており、常に一定の照度を確保する照明システムを採用している。\n2階の床下には冷温水コイルを用いた床下空調方式を導入している。\n太陽光発電システムでは年間20,000kWの発電を行っている。", + "qas": [ + { + "question": "中央図書館の収容可能冊数は何冊ですか?", + "id": "tr-141-16-000", + "answers": [ + { + "text": "45万冊", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "中央図書館の開架図書は何冊ですか?", + "id": "tr-141-16-001", + "answers": [ + { + "text": "22万5000冊", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "中央図書館が採用している換気方法は何ですか?", + "id": "tr-141-16-002", + "answers": [ + { + "text": "自然換気システム", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Manner" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "中央図書館が導入している空調方式とは?", + "id": "tr-141-16-003", + "answers": [ + { + "text": "床下空調方式", + "answer_start": 215, + "answer_type": "Manner" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "一般閲覧室には落ち着きのある色合いの什器を採用しているが、児童閲覧室は色鮮やかで楽しい雰囲気を意識している。\n視覚障害者向けの対面朗読室が設けられており、2009年度(平成21年度)には第15回「人にやさしい街づくり賞」を受賞した。\n隣接する稲沢市民会館の駐車場をそのまま図書館用地に充てているため、開館前には市民会館と図書館の駐車場不足が懸念された。", + "qas": [ + { + "question": "2009年度に受賞した賞とは何?", + "id": "tr-141-17-000", + "answers": [ + { + "text": "「人にやさしい街づくり賞」", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "祖父江の森図書館の設計監理は浦野設計、施工は前田建設工業・美吉建設共同企業体(JV)。\n建物は2階建であり、構造は鉄筋コンクリート造・一部鉄骨造である。\n建設費は13億3745万5000円。\n開架には10万冊を配架可能であり、閉架書庫には5万冊を収容可能である。\n建物を上空から見ると「祖父江町の木」であるイチョウの形をしており、館内の床にはイチョウの葉がデザインされた絨毯が敷かれている。\n1階には一般開架室、児童開架室、おはなししつ、郷土・参考室、AVコーナーなどがあり、2階には視聴覚室、学習室、和室などがある。\n2階建てであるが中央部と一般開架室の上は吹き抜けとなっている。", + "qas": [ + { + "question": "祖父江の森図書館の建設費はいくらかかりましたか?", + "id": "tr-141-18-000", + "answers": [ + { + "text": "13億3745万5000円", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "祖父江町の木とは何?", + "id": "tr-141-18-001", + "answers": [ + { + "text": "イチョウ", + "answer_start": 153, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "横須賀海軍施設ドック", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "横須賀海軍施設ドック(よこすかかいぐんしせつドック)は、神奈川県横須賀市の在日アメリカ海軍横須賀海軍施設内にあり、米海軍および海上自衛隊の艦艇修理に使用されている6基の乾ドックである。最古の1号ドックは横須賀造船所時代の明治4年(1871年)に完成しているが、現在もなお使用されている。最大の6号ドックは大和型戦艦の建造ならびに修理・改造を行うことを目的とし、昭和15年(1940年)に完成したドックであり、現在は米海軍空母の修理などに使用されている。また当記事ではドックの付帯設備であるクレーン、ポンプ室等についても必要に応じて説明を加えていく。", + "qas": [ + { + "question": "横須賀海軍施設ドックの中一番最後に作られたものは何年に作られましたか?", + "id": "tr-142-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1940年", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "最初の横須賀海軍施設ドックは西暦何年に建築されましたか?", + "id": "tr-142-00-001", + "answers": [ + { + "text": "1871年", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "開国後、江戸幕府は西洋式の艦船の建造を開始し、また諸外国から艦船の購入を進めるようになった。そのような中で西洋式の艦船を建造し改修、修理する施設の必要性が高まっていった。江戸幕府は主にフランスの援助を仰ぎ、小栗忠順、レオン・ロッシュらが適所を検討した結果、現在の横須賀の地に慶応元年(1865年)に横須賀製鉄所(後の横須賀造船所)が開設された。そして艦船を改修、修理する横須賀製鉄所内の主要施設として、慶応3年(1867年)にドライドックの建設が開始された。現在の横須賀海軍施設1号ドックである。\n\n大政奉還から王政復古の大号令に至る一連の流れにより江戸幕府が廃され、明治政府が成立するが、横須賀造船所の建設は幕府時代と同様に進められることになった。1号ドックは明治4年(1871年)に完成し、引き続き3号ドック、2号ドックが建設された。1号ドック、3号ドックの建設時まではレオンス・ヴェルニーなどフランス人技術者のもとでドック建設が進められていたが、2号ドックについては設計段階ではフランス人が携わったものの、実際の工事場面では横須賀造船所で技術を学んだ恒川柳作が総責任者となってドックを完成へと導いた。その後恒川は日本各地でドック建造に携わることになり、日本のドライドック建設の草分け的な存在となった。", + "qas": [ + { + "question": "横須賀海軍施設1号ドックの建設開始当時の元号は?", + "id": "tr-142-01-000", + "answers": [ + { + "text": "慶応", + "answer_start": 201, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "2号ドック建設の総責任者は誰ですか?", + "id": "tr-142-01-001", + "answers": [ + { + "text": "恒川柳作", + "answer_start": 478, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1号ドック、3号ドックの建設はどの国の援助を受けて作られてましたか?", + "id": "tr-142-01-002", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 399, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "横須賀造船所は組織改革などを経て、横須賀海軍工廠となり、日本の海軍力増強に伴い規模の拡大が進んだ。そのような中、明治38年(1905年)には軍艦の大型化に対応した4号ドックが完成し、さらに大正5年には第5号ドックが完成した。5号ドックは当時激しさを増していた列強の建艦競争の中、完成直後に延長工事が行われることになり、大正13年(1924年)に延長工事は完成した。なお4号ドックも昭和3年(1928年)に艦艇の大型化などに対応するために延長工事が開始され、翌昭和4年(1929年)に完成した。\n\n日本は昭和9年(1934年)にワシントン海軍軍縮条約からの脱退を宣言し、昭和11年(1936年)にはロンドン海軍軍縮条約からも脱退し、その結果激しい海軍の軍拡競争が行われることになった。そのような中、昭和10年(1935年)に大和型戦艦の建造および改修、修理が可能な大規模なドックとして、6号ドックの建設が開始され、また昭和11年(1936年)には、明治初年に完成した1号ドックの延長工事が行われた。6号ドックは昭和15年(1940年)に完成し、6号ドックを使用して当初大和型戦艦の三番艦となる予定であった信濃が建造されたが、進水後呉海軍工廠へ回航される途中、米潜水艦アーチャーフィッシュの魚雷攻撃を受け沈没した。なお、4号ドックでは昭和18年(1943年)から昭和19年(1944年)にかけて再延長工事が行われ、1号から6号ドックは現在の規模となった。\n\n終戦後、横須賀海軍工廠は連合軍に接収されることになり、1号から6号ドックもまた接収された。昭和22年(1947年)には米海軍艦船修理廠が発足し、各ドックではアメリカ海軍艦船の改修、修理が行われるようになった。特に横須賀が米第七艦隊の事実上の母港として空母の配備が開始されると、最大の6号ドックでは米空母の改修、修理が行われるようになった。平成末期の現在も、明治初年に完成した1号ドックを始めとする、戦前に造られたドライドックでは米海軍、海上自衛隊の艦船の改修、修理が行われ続けている。", + "qas": [ + { + "question": "昭和に日本が脱退した2つの海軍軍縮条約で先に脱退したのはどれですか?", + "id": "tr-142-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ワシントン海軍軍縮条約", + "answer_start": 263, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1号から6号ドックのなかで最後に手が加わったドックはどれですか?", + "id": "tr-142-02-001", + "answers": [ + { + "text": "4号ドック", + "answer_start": 558, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "5号ドックの完成はいつですか?", + "id": "tr-142-02-002", + "answers": [ + { + "text": "大正5年", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "嘉永6年(1853年)、ペリー艦隊が来航し、翌嘉永7年(1854年)には日米和親条約が締結され、日本の鎖国体制は終焉を迎えた。そのような中、江戸幕府は嘉永6年(1853年)9月、これまで禁止していた荷物船以外の大型船の建造を認めることとした。これは諸外国の船が相次いで日本へ来航する状況を踏まえ、軍艦の建造を可能とすることを狙ったものであった。早速幕府は浦賀にて鳳凰丸の建造を開始し、その後も艦船の建造を継続し、さらに欧米各国から艦船の購入を進めた。\n\n幕府が艦船の建造と購入を進めていく中で、保有する艦船の修理を行う必要性が高まってきた。幕府が購入した艦船の多くが中古船であったうえ、慣れない西洋式の艦船の操船で、事故によって船が損傷することも多かったことが修理の必要性をより高めた。幕府はまず、湾が深くかつ水深もあるため、風��ちの港として利用されてきた浦賀に艦船の修理場所を設けた。しかし浦賀は狭い湾の周囲に山が迫っている上に、これまで港町として繁栄していたために広い土地が取れず、恒久的な艦船の修復場所としては適さないとの意見が出されるようになった。\n\nそのような中、注目されるようになってきたのが横須賀と長浦であった。特に横須賀では万延元年(1860年)に座礁したアメリカ船の修理を行って以降、オランダ船やイギリス船の修理が行われており、港湾としての有用性が注目されるようになっていた。", + "qas": [ + { + "question": "日本の鎖国体制が終わったのは何年ですか?", + "id": "tr-142-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1854年", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "横須賀で最初に修理を行った船はどの国のものですか?", + "id": "tr-142-03-001", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ", + "answer_start": 536, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "日本内で船を修理できる場所として適しているところを探している中、横須賀以外候補としてあげられた場所はどこですか?", + "id": "tr-142-03-002", + "answers": [ + { + "text": "長浦", + "answer_start": 506, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "幕府は安政2年(1855年)に長崎海軍伝習所を開き、文久元年(1861年)には長崎製鉄所となり、製鉄所、造船所に当たる設備を持つようになっていた。しかし長崎は江戸から遠い九州にあって外様大名の勢力に囲まれており、また設備的にも本格的なものにはほど遠く、江戸に近い場所で本格的な製鉄や造船の機能を備えた施設の建設が望まれるようになった。\n\n文久2年(1862年)、幕府は長崎でオランダ人技師から江戸近辺で製鉄所の建設を開始するに当たり、アドバイスを受けた。オランダ人の技師からは、当時の長崎製鉄所の設備は貧弱であり大規模な船の建造や修復は出来ないこと、そしてフランスのトゥーロン、シェルブールなど、当時のヨーロッパ最先端の製鉄、造船施設のあらましについて説明を受けた。さらに江戸の周辺は水深が浅く、また河川からの砂の流入で砂底のため、製鉄所の建設には適さないとの意見を受けた。\n\n同年、幕府は横浜から三浦半島付近を視察して製鉄所の適所を探す試みも行った。しかし文久2年8月21日(1862年9月14日)、生麦事件が発生し、幕府と諸外国との外交関係が緊迫する中、江戸に近い場所での製鉄所建設計画はいったん中断された。", + "qas": [ + { + "question": "長崎製鉄所の前身となった施設が開設されたのは何年ですか?", + "id": "tr-142-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1855年", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "文久2年に起きた諸外国との外交関係が悪化した事件は何ですか?", + "id": "tr-142-04-001", + "answers": [ + { + "text": "生麦事件", + "answer_start": 451, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "幕府が横浜から三浦半島付近を視察して製鉄所の適所を探す試みも行ったのは何年ですか?", + "id": "tr-142-04-002", + "answers": [ + { + "text": "1862年", + "answer_start": 174, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "江戸近くに製鉄所を建設する計画が中止になった引き金となった事件とは?", + "id": "tr-142-04-003", + "answers": [ + { + "text": "生麦事件", + "answer_start": 451, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "いったん頓挫した江戸近くでの本格的な製鉄所建設計画であるが、元治元年(1864年)に入って動き出した。まず元治元年3月22日(1864年4月27日)、フランスの新しい公使としてレオン・ロッシ���が着任した。ロッシュはイギリスが幕府から距離を置く立場を取るようになる中、逆に幕府へ接近する姿勢を見せた。また同年8月には小栗忠順が幕府の勘定奉行に再任され、同じ頃、フランス語が堪能である栗本鋤雲が目付に抜擢された。\n\n当時幕府が諸外国から購入した艦船は中古船が多く、幕府はその修復に頭を悩ませていた。そこでフランス語が堪能な栗本に白羽の矢が立てられ、幕府が所有していた蒸気船翔鶴丸の修復についてフランスに依頼するように命じられた。栗本はロッシュと交渉したところ、日本側と接近する好機会と捉えたロッシュは、横浜港に停泊していたフランス艦隊に赴き、艦隊の司令官ジョレスに翔鶴丸修理の了承を取り付け、フランスの手によって修復作業が行われることになった。その結果2か月足らずで完璧な修理が行われ、勘定奉行の小栗らがフランスの技術を導入して製鉄所の建設を進めるきっかけとなった。", + "qas": [ + { + "question": "栗本鋤雲が目付に抜擢された理由は何ですか?", + "id": "tr-142-05-000", + "answers": [ + { + "text": "フランス語が堪能である", + "answer_start": 179, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1864年に日本に派遣されたフランスの公使の名前は何ですか?", + "id": "tr-142-05-001", + "answers": [ + { + "text": "レオン・ロッシュ", + "answer_start": 88, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "元治元年11月3日(1864年12月1日)、小栗は栗本とともにロッシュと面会した。\n小栗は日本独自の造船所建設への意欲を述べ、造船所建設に当たり技術指導を行える人材の紹介を依頼した。\nロッシュはフランス艦隊司令官のジョレスと相談した上、翌日小栗に対し、フランスにあるような本格的な造船所や修船場の建設を勧め、本格的な造船所や修船場を建設するのならば最初に良い技師、機械を精選することが重要であることを指摘し、フランスがそのための協力を惜しまないこと、これまでナポレオン3世の命で上海にて5艘の船を建造したレオンス・ヴェルニーという造船技師が任務を終えて帰国するところなので、日本側からの正式要請があれば日本へ来るように斡旋することを回答した。\nロッシュの提案に対する幕府の回答はすばやかった。元治元年11月10日(1864年12月8日)、ロッシュに対して製鉄所建設と船舶建造の経験を持つフランス士官の派遣を正式に依頼する文章を交付した。", + "qas": [ + { + "question": "ロッシュが提案した製鉄所建設と船舶建造の経験を持つフランス士官は誰ですか?", + "id": "tr-142-06-000", + "answers": [ + { + "text": "レオンス・ヴェルニー", + "answer_start": 252, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "小栗がロッシュとの面会が行われたのは西暦でいつですか?", + "id": "tr-142-06-001", + "answers": [ + { + "text": "1864年12月1日", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロッシュに対して製鉄所建設と船舶建造の経験を持つフランス士官の派遣を正式に依頼する文章を交付したのは和暦でいつですか?", + "id": "tr-142-06-002", + "answers": [ + { + "text": "元治元年11月10日", + "answer_start": 346, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "元治元年11月26日(1864年12月24日)、フランス艦隊司令官ジョレスらフランス海軍の関係者、ロッシュ、小栗、栗本らは造船所の建設候補地の見分を行った。まず幕府が第一の候補地としていた長浦へ向かい、測量を実施したところ湾内に浅瀬があって大型艦船の航行に問題があることが判明した。続いて隣の横須賀へ向かい、湾内を測量してみたところ水深が深く、また地形的な立地条件がフランス最大の軍港の一つであったトゥーロンに類似していることから、横須賀を建設候補地とすることとした。そして元治元年12月2日(1864年12月30日)から翌元治2年(1865年)正月にかけて、幕府独自に横須賀の測量を実施した。\n\n元治元年12月8日(1865年1月5日)、ロッシュは老中諏訪忠誠の屋敷で、諏訪と老中阿部正外、老中水野忠精の3名の老中と会見した。ロッシュは幕府の造船所建設計画に対し、多額の費用と長い期間がかかることを認めた上で、日本を強国にするための基礎となるものなので、必ず建設すべきであるとの意見を述べた。すると老中らからは必要性については十分に認識しているものの、破綻状態に近かった幕府の財政事情をロッシュに説明し、困難さを訴えた。当時の厳しい財政事情もあって造船所建設には反対意見も出されていたが、結局小栗らが押し切った。またこの時の会談で、ロッシュから先日推薦した造船技師ヴェルニーが近日中に来日することが伝えられ、ヴェルニーが来日したら幕府が所有する機械類について確認してもらい、足りない機械類はフランスで購入することを提案し、了承を得た。", + "qas": [ + { + "question": "横須賀の地形と類似していたフランスの軍港はどこですか?", + "id": "tr-142-07-000", + "answers": [ + { + "text": "トゥーロン", + "answer_start": 199, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロッシュが1865年3人の老中と出会ったのは誰の家ですか?", + "id": "tr-142-07-001", + "answers": [ + { + "text": "諏訪忠誠", + "answer_start": 327, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "3人の老中が造船所建設に反対した理由は何ですか?", + "id": "tr-142-07-002", + "answers": [ + { + "text": "幕府の財政事情", + "answer_start": 486, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ヴェルニーは元治2年(1865年)1月、上海から来日した。ヴェルニーは当時27歳の海軍の技術士官であった。彼はまず幕府が所有している機械類の確認と、造船所建設予定地である横須賀を視察した。ヴェルニーは横須賀を造船所建設の好適地と認め、幕府から依頼された造船所建設事業を引き受ける決心を固め、横須賀製鉄所建設の原案を作成した。建設原案の中で横須賀について、周囲が丘に囲まれた広くて波が静かであり、かつ水深が深く、船舶を泊めるに適した湾である上に、地質が粘土質であるため、山を削って海を埋め立てて、ドックや工場を建設するのに都合が良い場所であるとした上で、2基のドライドックの建設などを提案した。このヴェルニーの提案はほぼ認められ、元治2年1月29日(1865年2月25日)、幕府はロッシュに『製鉄所約定書』を交付し、フランス側と正式に横須賀製鉄所の建設に関する契約を取り交わした。そして元治2年2月4日(1865年3月1日)、ロッシュから幕府側に横須賀製鉄所の土木工事計画図が示された。計画図にはヴェルニーが提案した通り、2基のドライドックが計画されていた。ロッシュの示した土木工事計画図に基づき、元治2年3月12日(1865年4月7日)、横須賀製鉄所の建設用地約23.76ヘクタールが正式決定された。", + "qas": [ + { + "question": "ヴェルニーが来日前にいたのはどこですか?", + "id": "tr-142-08-000", + "answers": [ + { + "text": "上海", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "幕府側に横須賀製鉄所の土木工事計画図が示されたヴェルニーが何歳の時ですか?", + "id": "tr-142-08-001", + "answers": [ + { + "text": "27歳", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "横須賀製鉄所の建設用地の広さはどれくらいですか?", + "id": "tr-142-08-002", + "answers": [ + { + "text": "約23.76ヘクタール", + "answer_start": 530, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "元治元年(1865年)2月、ヴェルニーは製鉄所で使用する機械の購��や、製鉄所建設を担う技師を募集するためにいったんフランスへ帰国した。製鉄所建設の責任者であるヴェルニーの帰国中、アメリカが巻き返しを図った。慶応元年(1865年)8月、アメリカ公使館はフランスが推薦するドライドックではなく、浮きドックの採用を勧めてきたのである。結局万延元年遣米使節がアメリカで浮きドックを見学した際などで得られた、「浮きドックは耐用年数が短い」と言う知見を基に、アメリカ側の提案を拒絶することになった。\n\nしかしドックの建設計画が進められていく中でヴェルニーにも迷いが生じた。ヴェルニーを悩ませたのはドックの耐震性の問題であった。ヴェルニーと幕府側はドックの耐震性の問題について協議していた。ヴェルニーは浮きドックは耐用年数や維持管理費用のことを考えると望ましくないとしたものの、建設費用がドライドックの約三分の二であり、しかも耐震性の問題を考慮すると必ずしも不利とは言えないのではないかと考えたのである。ヴェルニーはフランス海軍省にドック建設についての技術的な検討を依頼した。結局、当初の建設計画では浅瀬を埋め立てて建設する予定であったものを、丘を崩し、その上で更に地面を掘り込んで建設する計画に改められた。\n\nところで幕府側に浮きドック建設を勧めたアメリカ側はすぐには引き下がらなかった。その後も横須賀製鉄所のドライドック建設には長い日時を要するとして、製鉄所のドライドック建設と並行して近隣に別に浮きドックを設ける提案を行ったり、更には横須賀製鉄所近くにアメリカ商船の修理用のドライドック建設をほのめかしたりした。結局アメリカ側の要求を幕府側は最後まで認めることはなく、ヴェルニーを責任者とするフランスの支援を受けてドライドックが建設された。", + "qas": [ + { + "question": "アメリカが提案したドックのタイプは?", + "id": "tr-142-09-000", + "answers": [ + { + "text": "浮きドック", + "answer_start": 145, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "浮きドックとドライドックで建設費用が安いのはどっちですか?", + "id": "tr-142-09-001", + "answers": [ + { + "text": "浮きドック", + "answer_start": 344, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "結局日本で建設されることになったドックのタイプは?", + "id": "tr-142-09-002", + "answers": [ + { + "text": "ドライドック", + "answer_start": 753, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "横須賀製鉄所で慶応3年(1867年)に開始されたドライドックの建設は、まずヴェルニーらフランス人の指導の下行なわれたが、ドライドックの建設と同じ慶応3年(1867年)に横須賀製鉄所内に設けられた専門学校である「学舎」で土木工学、造船工学を学んだ恒川柳作は、フランス人ジュエットが設計を担当した2号ドックの建設指揮を引き継いで完成へと導いた。その後ドライドックの建設は日本人技術者のもとで進められるようになり、恒川は呉鎮守府、佐世保鎮守府、舞鶴鎮守府でドライドックの建設を指揮し、また東日本で最初の商船用のドライドックとなった横浜船渠2号ドックの建設を指揮した。恒川以外にもジュエットらの下でドライドックの設計、施工を学んだ杉浦栄次郎が浦賀船渠の建設に携わっており、幕末から明治前半期に行なわれた1号、2号、3号のドライドック建設は、その後日本各地で進められるようになったドライドック建設のまさに先駆的な存在である。", + "qas": [ + { + "question": "東日本で最初の商船用のドライドックは何ですか?", + "id": "tr-142-10-000", + "answers": [ + { + "text": "横浜船渠2号ドック", + "answer_start": 262, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "横須賀製鉄所内に設けられた専門学校の名称は?", + "id": "tr-142-10-001", + "answers": [ + { + "text": "「学舎」", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "横須賀で始まった大規模なドライドック建設は、その後、呉、佐世保、舞鶴という鎮守府や、神戸や横浜、長崎などという貿易港へと広まっていった。\n海軍力や海運業の発展には修船を行うドックの整備が不可欠であり、明治半ば以降、日本が海運王国と呼ばれるまでに海運業の隆盛が見られるようになった背景には、横須賀の1号ドックで始まり日本全国へと広がっていったドライドックが大きく貢献している。\n\n海軍力の増強に日本のドライドックが果たした役割を見ると、例えば日露戦争時に当時の日本海軍主力艦船の入渠が可能であったドライドックは13基あったがロシア海軍は3基に過ぎず、しかも3基のうち大連と旅順のドライドックは日本軍に占領されたため、最後までロシア海軍が使用可能であったドライドックはウラジオストックの1基のみとなってしまった。\n日本海海戦時、ドライドックで行き届いた整備が行われた艦船で臨んだ日本海軍に対し、ロシア海軍は整備が満足に行われていないバルチック艦隊で対抗せざるを得ず、これは明らかに日本海軍に有利に働いたと考えられる。", + "qas": [ + { + "question": "日露戦争当時に日本の主力艦船が入渠できるドライドックは全部何基ですか?", + "id": "tr-142-11-000", + "answers": [ + { + "text": "13基", + "answer_start": 254, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "日露戦争当時にロシアが持っていて艦船の出入りが可能だったドックの過半数を通済していた国はどこですか?", + "id": "tr-142-11-001", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 295, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "日露戦争時に使えたドライドックの数は日本とロシアどっちが多かったんですか?", + "id": "tr-142-11-002", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 229, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "またドライドックの建設は大規模な土木工事を伴い、現存する各ドライドックは日本における岩盤掘削技術、排水技術、水中工事技術などという近代技術の習得、発展を示している。\nそして明治4年(1871年)に開始された3号ドック建設では、ドック建造を担当していた工部省造船寮の造船頭であった平岡通義は、ドック建設用のポルトランドセメントの輸入代金が高額であることに驚き、工部省の化学技師であった宇都宮三郎にポルトランドセメントの国産化研究を命じ、更に工部大輔であった伊藤博文にセメント工場建設を建議した。\nその結果、翌明治5年(1872年)に東京の深川清澄町にセメント工場(後の深川セメント製造所)の建設が開始され、やがてポルトランドセメントの国産化が始まることになった。\n\nそして1867年(慶応3年)7月、1号ドック建設に際して白仙山の丘を崩している最中に、横須賀製鉄所で働いていた植物学に詳しい医師、サヴァティエによってゾウの下顎部分の化石が発見された。ナウマンゾウの化石は中部更新統の横須賀層大津砂泥部層から発見されたと推定されている。この化石は1871年(明治4年)5月に、サヴァティエと親交があった田中芳男らが中心となって東京で開催した大学南校物産会に展示され、1881年(明治14年)、ハインリッヒ・エドムント・ナウマンが横須賀白仙山のゾウの化石などをまとめた論文を発表した。その後の研究によって、1号ドック建設時に発見された化石は独立種ナウマンゾウの化石であるとされた。", + "qas": [ + { + "question": "日本にセメント工場が建てられたのは誰の指図ですか?", + "id": "tr-142-12-000", + "answers": [ + { + "text": "平岡通義", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "オキナワ移住地", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "オキナワ移住地(オキナワいじゅうち)またはコロニア・オキナワ(西:ColoniaOkinawa)は、ボリビアのサンタ・クルス県にある日本人移民の入植地である。\n太平洋戦争の後、リベラルタの沖縄出身の戦前移民者が中心となりボリビアに郷土沖縄から移民を呼び寄せる計画を立て、またこの計画に乗る形で、アメリカ軍に占領された沖縄で社会問題化した過剰人口と土地不足を移民で解消することを画策した琉球政府により、この地に入植した。\nここでは、オキナワ移住地の説明と合わせて、戦後の沖縄からのボリビア移民計画、移民者と移住地の歴史を説明する。", + "qas": [ + { + "question": "オキナワ移住地はどこの国に位置しているの?", + "id": "tr-143-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ボリビア", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "オキナワ移住地はボリビアの何県に位置しているの?", + "id": "tr-143-00-001", + "answers": [ + { + "text": "サンタ・クルス県", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "オキナワ移住地は、北から南に第1移住地、第2移住地、第3移住地の3つに分かれている。\nこれらの移住地はさらに細かく6つの行政区に別れており、第1移住地に1区から3区、第2移住地に4区と5区、第3移住地に6区が設置されている。\n1998年4月に第1移住地、第2移住地、第3移住地と周辺の19の村落と合わせて、ワルネス郡オキナワ村(西:MunicipioOkinawaUno)の発足がボリビア政府により承認され、2000年に正式発足した。\n日本国外でオキナワの名前を唯一持つ行政区である。\n役場は第1移住地に設置されている。", + "qas": [ + { + "question": "オキナワ移住地はいくつに区分されているの?", + "id": "tr-143-01-000", + "answers": [ + { + "text": "3つ", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "オキナワ移住地に設置されている行政区の数が少ないのはどこですか?", + "id": "tr-143-01-001", + "answers": [ + { + "text": "第3移住地", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "オキナワ移住地に設置されている行政区の数が一番多いのはどこですか?", + "id": "tr-143-01-002", + "answers": [ + { + "text": "第1移住地", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ワルネス郡オキナワ村が正式に発足したのは何年?", + "id": "tr-143-01-003", + "answers": [ + { + "text": "2000年", + "answer_start": 204, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "オキナワ移住地は、北から南に第1移住地、第2移住地、第3移住地からなり、南北方向に細長い形をしている。\nサンタ・クルス・デ・ラ・シエラ(以後、「サンタ・クルス市」と記述)の北東に位置し、第1移住地はモンテーロを経由して道なりに約100km離れている。\n第1移住地から第3移住地までは約70kmの距離があり、平均幅員は約10kmである。\n3つの移住地を合わせた総面積は46,800haにおよぶ。\nオキナワ移住地近くにはメノナイトの入植地もいくつか存在する。", + "qas": [ + { + "question": "オキナワ移住地の総面積は?", + "id": "tr-143-02-000", + "answers": [ + { + "text": "46,800ha", + "answer_start": 183, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "オキナワ移住地が属するボリビアの東部低地帯は、アンデス山脈とブラジル楯状地の間にある構造盆地に起源する低地で、アマゾン水系の上流域を流れるグランデ川によって形成された沖積低地である。\n標高は、第1移住地の北端が最も低く309m。\n第2移住地、第3移住地へと南にいくにつれ標高が高くなり、第3移住地南西端で384mの標高がある。\n第1移住地から第3移住地まで約70km離れていることから、一帯の傾斜度は��1/1000となり、極めて平坦な土地である。\n傾斜度は南において大きく、北で小さい山麓の扇状地状の低平な地形を示している。", + "qas": [ + { + "question": "第1移住地と第3移住地を比較して、標高が高いのはどちら?", + "id": "tr-143-03-000", + "answers": [ + { + "text": "第3移住地", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "オキナワ移住地の中で最も標高が低いのは第1移住地、第2移住地、第3移住地のどこですか?", + "id": "tr-143-03-001", + "answers": [ + { + "text": "第1移住地", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "第1移住地の北側にグランデ川が流れており、この河川の氾濫によって一帯には微地形が確認できる。\nまたピライ川の支流の水源が第3移住地にあり、この河川は第2移住地を貫流し、第1移住地の西端を北上する。\nこのため、当河川の蛇行行動の結果できた、三日月湖状の低地や池が散在する。\n先に述べたように、オキナワ移住地は極めて平坦であり、一度の河川の氾濫で、流路が1kmも移動することがある。\nオキナワ移住地一体の表層地質は、砂と泥の堆積層をなし、礫や岩石がほとんど存在しない。\n周辺に石が無いことは、オキナワ移住地の生活基盤の整備、例えば住宅建設や道路建設に重要なインパクトを与えている。", + "qas": [ + { + "question": "第1移住地の北側に流れている河川は何?", + "id": "tr-143-04-000", + "answers": [ + { + "text": "グランデ川", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "オキナワ移住地一帯は、熱帯雨林気候とサバナ気候の漸移地帯にあたる。\nこのため、気温および降水量ともに振れ幅が大きい。\n1971年から1997年の間の1日の平均最高気温は29.5度、平均最低気温は18.7度である。\n1979年に、最高気温43度を記録、また1975年に最低気温0度を記録している。\nまた1971年から1997年の間の平均年間降水量は1301.5mm。\n最高記録は1992年の2258.5mmで最低記録は1971年の674mmである。", + "qas": [ + { + "question": "オキナワ移住地で平均年間降水量の最高を記録したのは何年でしたか?", + "id": "tr-143-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1992年", + "answer_start": 188, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オキナワ移住地で平均年間降水量の最低を記録したのは何年でしたか?", + "id": "tr-143-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1971年", + "answer_start": 208, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オキナワ移住地で記録された最高気温は何度だったの?", + "id": "tr-143-05-002", + "answers": [ + { + "text": "43度", + "answer_start": 118, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オキナワ移住地で記録された最低気温は何度だったの?", + "id": "tr-143-05-003", + "answers": [ + { + "text": "0度", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "顕著な乾季を伴う地域であり、植生も乾燥に強い樹種が多くみられる。\nいったん森林を伐採し、作物を栽培した後、休閑された土地の二次林の発達をみると灌木の植生が著しく、ヤシ科の植生も目立つ。\nまたトックリキワタが森林内に広く分布している。", + "qas": [ + { + "question": "移住地の森林内で多く生育している樹木の種類は何?", + "id": "tr-143-06-000", + "answers": [ + { + "text": "トックリキワタ", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "2001年、ボリビア統計局調査で、行政区分のオキナワ村の人口は11,661人��なっている。\n2004年の日系コミュニティーの調査では、第1移住地、第2移住地、第3移住地の合計の人口は約6000人、そのうち日系人は878人であった。\n人口統計の上で、日系人はマイノリティーとなる。", + "qas": [ + { + "question": "2004年の調査結果では、移住地に住む日系人は何人でしたか?", + "id": "tr-143-07-000", + "answers": [ + { + "text": "878人", + "answer_start": 106, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "既に説明した通り、オキナワ移住地は、第1移住地(21,800ha)、第2移住地(16,700ha)、第3移住地(8,333ha)と3つの移住地からなる。\n総面積46,800haと広大で、平坦な開拓地である。", + "qas": [ + { + "question": "3つの移住地の中で最も面積が広いのはどこ?", + "id": "tr-143-08-000", + "answers": [ + { + "text": "第1移住地", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "3つの移住地の中で最も面積が狭いのはどこ?", + "id": "tr-143-08-001", + "answers": [ + { + "text": "第3移住地", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "第1移住地、第2移住地、第3移住地の中で2番目に面積が大きいのはどこ?", + "id": "tr-143-08-002", + "answers": [ + { + "text": "第2移住地", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1984年発行の『南米における沖縄県出身移民に関する地理学的研究』によれば、オキナワ移住地の土地利用は以下の表の通りである。\n2000年に発行された『日本人移住一〇〇周年誌ボリビアに生きる』では「入植当初は広く原生林に覆われていたが、現在では原生林はほぼ姿を消し、周囲に再生林が残っている」としている。\nまた移住者の移住地外の農地の購入も活発であり、2004年現在、オキナワ移住地外に移住者が所有する農地は20,000haに及ぶ。\n入植地一帯は、まったく人間の手が入ることがなかった原始林ではなく、17世紀から18世紀ごろにサトウキビのプランテーションとして開拓されたあと、放棄されていた地域であった。\nオキナワ移住地の入植者が井戸を掘った際に、その当時のものと類推される陶器類の出土があった。", + "qas": [ + { + "question": "入植地一帯は何の農園として開拓されたことがありますか?", + "id": "tr-143-09-000", + "answers": [ + { + "text": "サトウキビ", + "answer_start": 262, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "移住地は、農業と牧畜業の第一次産業が主要な産業である。\n1971年、第1移住地、第2移住地、第3移住地のそれぞれ別個にあった農業協同組合を統合し、「コロニア沖縄農牧総合協同組合」(略称:CAICO)が発足した。\nCAICOが中心となり、大型設備の導入が進められている。\n移住地の主要な農作物は、入植直後に陸稲、1970年代に綿花、1980年代から大豆と推移してきた。\n現在でも最も作付面積が大きい作物は大豆である。\n1990年代に入り、大豆価格の下落と天候不順による価格低下に見舞われた。\nこのため冬場の作物として小麦とヒマワリも導入され、主要作物として定着していった。\nその他に家畜飼料用としてとうもろこしやソルゴー(ソルガム)も生産されている。", + "qas": [ + { + "question": "移住地での統合された農業協同組合の略称は何?", + "id": "tr-143-10-000", + "answers": [ + { + "text": "CAICO", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "現在、作付面積が最も広い作物とは何?", + "id": "tr-143-10-001", + "answers": [ + { + "text": "大豆", + "answer_start": 201, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "主要作物が大豆になったのはいつからですか?", + "id": "tr-143-10-002", + "answers": [ + { + "text": "1980年代", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "入植当初は、原始的な焼畑農業が行われていたが、1970年代の綿花栽培の導入時に、国際協力事業団の融資などをうけて短期間に機械化が進行した。\n綿花栽培は、天候不順(多雨)、連作障害による農薬の多投、綿花の国際相場の下落などにより1976年から急速に減少した。\n移民者には多額の債務が残ったが、結果として短期間に原始的な焼畑農業から脱却をはかり、機械化された大規模農場の経営に大転換することに成功した。\n2002年には、ボリビア政府より「小麦の首都(西:LaCapitalTrigueradeBolivia)」として認定された。\nこれは、ボリビアの熱帯地方での小麦栽培発祥の地として評価されたものである。", + "qas": [ + { + "question": "「小麦の首都」という認定を受けた年はいつでしたか?", + "id": "tr-143-11-000", + "answers": [ + { + "text": "2002年", + "answer_start": 200, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "移住地では、入植当初から牛、豚、鶏が雑作と組み合わせて飼育されてきた。\n一部の農家では乳牛飼育が1980年代から始まり、1990年代に増加傾向をみせた。\nまた淡水魚のコロソマ養殖を行っている。\n移住地ではCAICOを中心とし、農作物を加工し付加価値のある加工品製造にも乗り出している。\n米の販路拡大を目指して、2005年にCAICO直営の精米所が落成した。\n2006年には、第2移住地に乳製品の加工工場を建設した。\n2011年には、ショートパスタの加工工場を建設した。\nイタリア製のパスタ製造機を導入し、「FIDEOSOkinawa」として販売をはじめた。", + "qas": [ + { + "question": "移住地では何の魚を養殖していますか?", + "id": "tr-143-12-000", + "answers": [ + { + "text": "コロソマ", + "answer_start": 83, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "乳製品の加工工場が建設されたのはどこですか?", + "id": "tr-143-12-001", + "answers": [ + { + "text": "第2移住地", + "answer_start": 187, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "第二次世界大戦以前、ボリビアへの最初の日本人移民は、1899年である。\n1899年にペルーへ入植した契約移民の中で、91名がチチカカ湖からソラタを経由してボリビアの低地アマゾンへと入った。\n1907年、第4次移民団でペルーに移民し、その後、沖縄出身者を束ねてボリビアに再入植した八木宣貞などが、記録に残る最初の沖縄出身のボリビア移住者として知られている。\nアマゾン地域でのゴム景気が過ぎ去ると、ボリビアの日系人らはリベラルタやその近郊に定住し、日系人社会を形成していった。\n第二次世界大戦以前にリベラルタに定住していた日系人は約450名で、そのうち沖縄出身者は約100名であった。", + "qas": [ + { + "question": "最初の沖縄出身のボリビア移住者とは誰?", + "id": "tr-143-13-000", + "answers": [ + { + "text": "八木宣貞", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ボリビアに初めて日本人が入植したのは何年?", + "id": "tr-143-13-001", + "answers": [ + { + "text": "1899年", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "最初にボリビアに入植した日本人は何名だったの?", + "id": "tr-143-13-002", + "answers": [ + { + "text": "91名", + "answer_start": 58, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1945年、太平洋戦争終結後、戦前に沖縄からボリビアに移民していた者たちは、故郷であり、地上戦が行われた沖縄の困窮を憂いた。\n1948年8月にラパスの沖縄県人会は「ラパス市沖縄救援会」を発足、また11月にはリベラルタで「リベラルタ市沖縄戦災救援会」を発足させた。\nこれらの団体は募金活動を行い、救護品や学用品を沖縄に送った翌1949年、リベラルタの沖縄県人会で沖縄県民のボリビア移住の受け入れが提案され、ボリビア全土に散らばる沖縄県出身者も入植させて「沖縄村」の建設を決議した。", + "qas": [ + { + "question": "「ラパス市沖縄救援会」と「リベラルタ市沖縄戦災救援会」のうち、後に発足したのはどちら?", + "id": "tr-143-14-000", + "answers": [ + { + "text": "「リベラルタ市沖縄戦災救援会」", + "answer_start": 109, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "「沖縄村」の建設が決議されたのは何年のこと?", + "id": "tr-143-14-001", + "answers": [ + { + "text": "1949年", + "answer_start": 162, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1950年、県人会は調査団をサンタ・クルス県に派遣し、入植先の選定を本格化させた。\n1951年、後に「うるま移住地」となる入植候補地を見つけた。\nまた同年、移民を受け入れるための「うるま農産業組合」を設立した。\nこの時点で、移住計画案は、サンタ・クルス県知事の認可を受けており、認可書は琉球政府とアメリカ政府に送付された。", + "qas": [ + { + "question": "「うるま農産業組合」が設立されたのは何年?", + "id": "tr-143-15-000", + "answers": [ + { + "text": "1951年", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1950年、それまでの軍政を廃し、沖縄統治のための琉球列島米国民政府(USCAR:ユースカー、以後「アメリカ民政府」と表記)が設立された。\n数回の組織変更の後、住民自治組織である琉球政府が設立。\nアメリカ民政府の下に置かれた。", + "qas": [ + { + "question": "琉球政府はどこの管轄下にあったの?", + "id": "tr-143-16-000", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ民政府", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "苛烈を極めた沖縄戦が事実上終結したのは、1945年6月下旬である。\nこの戦闘で、一般住人の約94,000人が戦死または行方不明となった。\nアメリカ軍は、沖縄戦を生き抜いた住民の大半を沖縄本島内の7箇所のキャンプに収容した。\nその数は1945年10月の段階で、約249,000人に及んだ。", + "qas": [ + { + "question": "沖縄戦での一般住人の犠牲者は何人でしたか?", + "id": "tr-143-17-000", + "answers": [ + { + "text": "約94,000人", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1945年10月の時点で沖縄本島内のキャンプに収容された沖縄住民の数はどれくらいだった?", + "id": "tr-143-17-001", + "answers": [ + { + "text": "約249,000人", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "アメリカ軍は、不要な土地を放棄しながらも1949年段階で沖縄本島の陸地総面積の約14%を軍用地として確保していた。\n一方で、約125,000人が元の居住地に戻れない状況であった。\nさらに、1946年以降、日本本土、台湾、南洋群島から10万人以上の沖縄出身者が沖縄本島に引き上げてきた。\nアメリカ軍の土地接収によって農地や住宅地が大幅に縮小するなか、逆に沖縄の人口は引揚者の流入により膨れ上がった。", + "qas": [ + { + "question": "1949年の時点でアメリカ軍が軍事用として確保した土地は、沖縄本島の陸地面積の何%に値しますか?", + "id": "tr-143-18-000", + "answers": [ + { + "text": "約14%", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1946年以降に各地から帰って来た沖縄出身者は何人以上いましたか?", + "id": "tr-143-18-001", + "answers": [ + { + "text": "10万人以上", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "後述するように、アメリカ本国が沖縄の基地の恒久保有を1949年に決定し、基地の拡張整備が行われていった。\nその一方で、アメリカ軍基地の建設工事は、住民にとって貴重な雇用の場となった。\nしかし、基地建設が終了した後の余剰労働力と農地を失った農民に対する措置が緊急の政治課題となった。\nこの余剰人口の問題を解決するため、沖縄県内移住計画が策定され、沖縄本島北部の大宜味村、八重山諸島への移民が実施された。\nしかし圧倒的に入植地の数が足りないため、アメリカ本国への移民、旧南洋群島、インドネシアなどへ、海外移住が検討された。\nまた琉球政府は、アメリカ民政府の依頼を受け、南洋群島からの引揚者からの聞き取り調査を行った。\n調査対象者22,888人のうち、21,485人(全体の約94%)が旧南洋群島への再移住を希望する結果となった。", + "qas": [ + { + "question": "引揚者からの聞き取り調査の結果、全体の何%が旧南洋群島への再移住を希望していると分かりましたか?", + "id": "tr-143-19-000", + "answers": [ + { + "text": "約94%", + "answer_start": 334, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "アメリカ民政府と琉球政府は、スタンフォード大学のジェームズ・ティグナー(JamesTigner)に、ボリビアなどで南米の沖縄出身者の移民活動状況の調査を依頼した。\n1952年5月、ジェームズ・ティグナーが現地視察のためにボリビアに入国した。\nこの時、ティグナーは「うるま農業組合」を設立した戦前移民たちと接触を持った。\nティグナーは、「うるま農業組合」に対して移住10カ年計画を提案し、同時にボリビア政府から認可があり次第、アメリカ政府に送付するように指示した。\nティグナーは南米を視察した内容と提言を「ティグナー報告書」としてまとめ、琉球政府に提出した。\nこの報告書の中で、沖縄の過剰人口解決として、ボリビアで戦前移民が提唱している移民計画に沿った移住の提案がなされた。\nこの「ティグナー報告書」の結論で、ボリビアへの移民の必要性を以下のように記述している。", + "qas": [ + { + "question": "ジェームズ・ティグナーがボリビアに入国したのはいつでしたか?", + "id": "tr-143-20-000", + "answers": [ + { + "text": "1952年5月", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "移住10カ年計画の提案者は誰ですか?", + "id": "tr-143-20-001", + "answers": [ + { + "text": "ティグナー", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "アメリカ民政府と琉球政府は、戦前のボリビア移民による「うるま農産業組合」の計画と、この「ティグナー報告書」を拠り所として、ボリビアへの農業移住計画案として具体化していくことになった。\nティグナー報告書を受けて、琉球政府はボリビアに使節団を派遣することを決定した。\n使節団の代表は稲嶺一郎。\n1953年12月に沖縄を出発し、アメリカ、ブラジル、アルゼンチンを訪問した後、1954年2月にボリビアに到着した。\n使節団はボリビア政府の要人と面会し、移住予定地(後の「うるま移住地」)の見学も行った。\n最終的には、この使節団とボリビア政府との合意により移民が開始されることになる。", + "qas": [ + { + "question": "ボリビアに派遣された使節団の代表は誰でしたか?", + "id": "tr-143-21-000", + "answers": [ + { + "text": "稲嶺一郎", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "使節団が無事ボリビアに入国したのはいつでしたか?", + "id": "tr-143-21-001", + "answers": [ + { + "text": "1954年2月", + "answer_start": 184, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1945年の占領直後、沖縄のアメリカ軍基地は、日本本土攻略作戦のために暫定的に整備したものであった。\nアメリカ政府は、東西冷戦の激化を背景に、沖縄の恒久保持に政策を転換した。\n1949年に米議会から沖縄の基地建設のための予算承認を得た。\n沖縄は「太平洋の要石(KeystoneofthePacific)」とされ、極東最大の基地が建設されることになった。\n1952年、サンフランシスコ講和条約が締結されたが、沖縄はアメリカの統治下のまま、日本から切り離された。\n1953年には、アメリカ民政府より「土地収用令」が公布された。\n同布令により沖縄本島の中南部の農地や集落の接収が実施された。", + "qas": [ + { + "question": "「土地収用令」が交付されたのは何年でしたか?", + "id": "tr-143-22-000", + "answers": [ + { + "text": "1953年", + "answer_start": 230, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "第二次世界大戦後、アメリカ政府はボリビアに対して多額援助を行っていた。\nこの過剰ともいえる援助は、当時のアイゼンハワー政権の政策として大きく矛盾するものであった。\nアイゼンハワー政権は東西冷戦体制下の極めて保守的な政権であり、共産主義や革命的要素を持つ政府を敵視していた。\nそのため、1952年に成立したビクトル・パス・エステンソロ政権のボリビアに対して援助をする見込みはほとんどないと思われていた。\nただ、グアテマラやガイアナに過激派政府が成立すると、ラテンアメリカ地域への影響力低下が懸念された。\n当初「独裁政権」と見なしていたボリビアの国民革命運動党政府を、逆に支援することが、ボリビアの共産主義革命を防ぐ唯一の策と考えるようになった。\nアメリカ政府はパス・エステンソロを共産主義政権への転換を防ぐ人物として受け入れ、またパス・エステンソロも親米派の立場を取ることでアメリカの強い圧力を回避していった。", + "qas": [ + { + "question": "ビクトル・パス・エステンソロ政権は何年に誕生した?", + "id": "tr-143-23-000", + "answers": [ + { + "text": "1952年", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "すでに琉球政府によるボリビア移民が始まっていたが1957年、内閣総理大臣に就任した岸信介は、沖縄の返還、基地および沖縄県民の海外移民に関心を寄せていたことが知られている。\n同年の6月、訪米した岸とダレス国務長官との会談が行われた。\nここで岸は「沖縄ではみずからの土地を接収された農地のための代替地はない。アメリカはこの被害にあった人々の他国への移住を援助できるのか」「沖縄住民の再定住先として信託統治領、サイパンやテニアンなどはどか」と問いかけた。\nこれに対して、ダレス国務長官は「検討してみる」と応じた。", + "qas": [ + { + "question": "岸信介と会談したアメリカの国務長官は誰でしたか?", + "id": "tr-143-24-000", + "answers": [ + { + "text": "ダレス", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "岸とダレス国務長官の会談は何年の6月に実現しましたか?", + "id": "tr-143-24-001", + "answers": [ + { + "text": "1957年", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "岸信介政権は何年から始まりましたか?", + "id": "tr-143-24-002", + "answers": [ + { + "text": "1957年", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1950年頃までに、ボリビアでは左派政党の民族革命運動党(MNR)が都市部の労働者など中産階級の支持を取りまとめることに成功していた。\n1951年には国外逃亡中のままパス・エステンソロとシレス・スアソを候補者として大統領選挙を戦い、圧倒的勝利を収めた。\nしかし、軍部が介入し、保守政��は、軍に政権を譲った。\n1952年4月、民族革命運動党は市民と鉱山労働者たちを巻き込み蜂起した。\nこの行動を可能にしたのは国家警察の全面的な支援を取り付けたことにあった。\n正規軍との、3日間の市街戦を制して革命政府を樹立した。\nそしてパス・エステンソロが大統領に就任した。", + "qas": [ + { + "question": "パス・エステンソロが大統領に就任したのは何年でしたか?", + "id": "tr-143-25-000", + "answers": [ + { + "text": "1952年", + "answer_start": 154, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "地主たちは先住民を低賃金や時には無償で働かせ、農具や種子を自前のものを要求した。\n地主の多くは農園から離れて暮らす不在地主の形を取り、都市部で専門的な職業についた。\n農園は先住民の農民にまかせきりであったため、農業技術は未発達のまま取り残された。\n1953年8月3日、農地改革法案が制定された。\nこの法令によりアシエンダの土地をすべて没収し、25年債権の形で地主に補償を与えることになった。\nそして転売禁止を条件に先住民の労働者に土地を分配した。", + "qas": [ + { + "question": "1953年8月3日に制定された法案は何ですか?", + "id": "tr-143-26-000", + "answers": [ + { + "text": "農地改革法案", + "answer_start": 134, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + } + ] +} \ No newline at end of file