diff --git "a/data/train/jaquad_train_0003.json" "b/data/train/jaquad_train_0003.json" new file mode 100644--- /dev/null +++ "b/data/train/jaquad_train_0003.json" @@ -0,0 +1,13291 @@ +{ + "version": "JaQuAD-ver0.3", + "data": [ + { + "title": "ナポリタン", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ナポリタンは、茹でたスパゲッティをタマネギ、ピーマン、ハムなどと共にトマトケチャップで炒めた洋食である。日本で創作された日本風パスタ料理であり、類似の名を持つイタリア料理のスパゲッティ・アッラ・ナポレターナとは異なる。ナポリタンに類似した名で呼ばれるパスタ料理は幅広く存在するが、本稿では、第二次世界大戦後に日本の喫茶店や洋食屋で広く提供されていた、軟質小麦を原料としたコシのない麺をケチャップで炒めたものを中心に解説する。その周辺の類似したパスタ料理についても適宜解説する。", + "qas": [ + { + "question": "ナポリタンに用いるソースは何ですか。", + "id": "tr-073-00-000", + "answers": [ + { + "text": "トマトケチャップ", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ナポリタンを創作した国は?", + "id": "tr-073-00-001", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "日本のナポリタンはいつから広く普及するようになりましたか。", + "id": "tr-073-00-002", + "answers": [ + { + "text": "第二次世界大戦後", + "answer_start": 145, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "喫茶店や洋食店などのナポリタンには、茹でた麺を一定時間寝かせる工程や、再加熱時に麺を炒める工程が加わる。麺を芯がなくなるまで茹でてサラダ油で和え、冷蔵庫で一晩置く。客の注文が入ってからケチャップ、具とともにフライパンで炒めつつ再加熱する。麺を余計に茹でるのも、油で和えるのも、冷蔵保存と再加熱時に水分が飛んで麺が乾燥するのを防ぐためとされる。日本経済新聞のコラム「食べ物新日本奇行」で、編集委員の野瀬泰申は、麺を茹で置いて客の注文が入ってから再加熱する調理法が立ち食いそばと同じであると述べたうえで、同様のパスタの茹で置きがベルギーの街のカフェでも行われている話を紹介し、「冷凍麺がなかった時代に生まれた調理時間の短縮技と思われる」と述べている。", + "qas": [ + { + "question": "ナポリタンに対して、麺を茹で置いて客の注文が入ってから再加熱する調理法が立ち食いそばと同じであると述べた人は誰ですか。", + "id": "tr-073-01-000", + "answers": [ + { + "text": "野瀬泰申", + "answer_start": 198, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "イタリア料理のスパゲッティ・アッラ・ナポレターナは、ナポリタンとは調理法の異なる料理であるが、見た目や名前を含めて似ている部分もあるので、違いを把握するためにスパゲッティ・アッラ・ナポレターナについて記載する。スパゲッティ・アッラ・ナポレターナは、ニンニクの香りを移したオリーブ油にトマトとバジルなどを加えて煮込み、裏ごししたソースをスパゲッティに絡めた料理である。ナポレターナのソースはトマトソース(ポモドーロソース)とは異なり、刻みタマネギ、セロリ、ローリエが入り、バジルは必ずしも入らない。なお、『食の世界地図』によれば、トマトソースを用いた料理には「ナポリ風」と名がつき、トマトソースをからめたパスタを「ナポリターナ」と呼ぶ。また、「ソース・ナポリテーヌ」という、ソース・エスパニョルにホースラディッシュなどを加えた、都市ナポリとは無関係なソースも存在するという。", + "qas": [ + { + "question": "スパゲッティ・アッラ・ナポレターナはどこの料理ですか。", + "id": "tr-073-02-000", + "answers": [ + { + "text": "イタリア", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ナポリタンはトマトケチャップを用いて作られる料理であ��が、そのトマトが新大陸からスペイン経由でナポリに伝わったのは1554年とされる。当時のナポリは良港として名高く、またシチリアとともにスペイン・ハプスブルク朝に支配されていたため、スペインを通じて新大陸の食材が手に入りやすい環境にあった。トマトソースのパスタは17-18世紀ごろにはナポリに存在していたとされる。歴史的にトマトベースのソースを記した最初のイタリア料理書は、在ナポリスペイン副王の宰相に家令として仕えたイタリア人シェフ、アントニオ・ラティーニが著し1696年に発行されたLoScalcoallaModernaである。同書にはトマトを使った「Salsadipomadoroallaspagnola」が記されている。このソースは、皮をむいて刻んだトマトに、みじん切りのタマネギとピーマン、イブキジャコウソウ、塩、オイル、酢などを混ぜたもので、ラティーニ自身は茹でた肉にかけることを奨めていた。1773年には、ナポリ在住のヴィンチェンツォ・コラードが、著書IlCuocoGalanteの中でトマトソースの汎用性を賞賛し、トマトソースと組み合わせるものの例として、肉、魚、卵や野菜とともにパスタも挙げている。1790年には、ローマ出身の料理人フランチェスコ・レオナルディも、著書L'Apiciomodernoで、トマトソースとパスタとの組み合わせを紹介している。トマトとパスタを組みあわせた料理のレシピが文献に登場するのは、1839年にナポリのヴォンヴィチーノ公爵であるイッポリート・カヴァルカンティが著したCucinaTeorico-Practicaに記載された「ヴェルミチェッリのトマト添え」が最初だとされる。", + "qas": [ + { + "question": "ナポリタンに使うソースは何?", + "id": "tr-073-03-000", + "answers": [ + { + "text": "トマトケチャップ", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "トマトがナポリに伝わった時代に、ナポリを支配していた国はどこですか。", + "id": "tr-073-03-001", + "answers": [ + { + "text": "スペイン", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "LoScalcoallaModernaの作者は誰なの?", + "id": "tr-073-03-002", + "answers": [ + { + "text": "アントニオ・ラティーニ", + "answer_start": 243, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "トマトを使った「Salsadipomadoroallaspagnola」が記されている本は何ですか。", + "id": "tr-073-03-003", + "answers": [ + { + "text": "LoScalcoallaModerna", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1773年には、ナポリ在住のヴィンチェンツォ・コラードが、著書IlCuocoGalanteの中でトマトソースの汎用性を賞賛し、トマトソースと組み合わせるものの例として、肉、魚、卵や野菜とともにパスタも挙げている。1790年には、ローマ出身の料理人フランチェスコ・レオナルディも、著書L'Apiciomodernoで、トマトソースとパスタとの組み合わせを紹介している。トマトとパスタを組みあわせた料理のレシピが文献に登場するのは、1839年にナポリのヴォンヴィチーノ公爵であるイッポリート・カヴァルカンティが著したCucinaTeorico-Practicaに記載された「ヴェルミチェッリのトマト添え」が最初だとされる。", + "qas": [ + { + "question": "フランチェスコ・レオナルディはどこの人なの?", + "id": "tr-073-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ローマ", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "CucinaTeorico-PracticaとL'Apiciomodernoと、どっちの方がもっと古い本なの?", + "id": "tr-073-04-001", + "answers": [ + { + "text": "L'Apiciomoderno", + "answer_start": 141, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "CucinaTeorico-Practicaを書いたのは誰なの?", + "id": "tr-073-04-002", + "answers": [ + { + "text": "イッポリート・カヴ��ルカンティ", + "answer_start": 237, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "18世紀ごろのナポリでは、貧しい庶民の間でトマトソースのパスタ料理「トゥレ・チェンテジミのヴェルミチェッリ」が食べられていた。当時ナポリの路上にはパスタを売る屋台があり、茹でたヴェルミチェッリにチーズをかけた「ドゥエ・チェンテジミのヴェルミチェッリ」が売られていた。さらに1チェンテジモ追加で支払えばトマトソースをかけることができた。そこからトマトソースをかけたこのパスタを「トゥレ・チェンテジミのヴェルミチェッリ」あるいは「ア・トリーエのヴェルミチェッリ」と呼ぶようになったという。このトマトソースは水も油も入れずトマトだけを煮詰めたものだった。ナポリでは17-18世紀ごろにトマトソースでスパゲッティを食べる習慣が普及したが、他の地方ではこの食べ方は知られておらず、ナポリとその近郊以外では食べられていなかったという。このナポリのトマトソースを使用した調理法がフランスに伝わり、フランス料理に取り入れられるようになった。フランスでは「スパゲッティ・ナポリテーヌ」と呼ばれた。", + "qas": [ + { + "question": "「トゥレ・チェンテジミのヴェルミチェッリ」と「ドゥエ・チェンテジミのヴェルミチェッリ」のうち、トマトソースをかけたのはどっち?", + "id": "tr-073-05-000", + "answers": [ + { + "text": "「トゥレ・チェンテジミのヴェルミチェッリ」", + "answer_start": 187, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "「トゥレ・チェンテジミのヴェルミチェッリ」と「ドゥエ・チェンテジミのヴェルミチェッリ」と、もっと高いのはどっち?", + "id": "tr-073-05-001", + "answers": [ + { + "text": "「トゥレ・チェンテジミのヴェルミチェッリ」", + "answer_start": 187, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "フランスの「スパゲッティ・ナポリテーヌ」に使われるソースは何?", + "id": "tr-073-05-002", + "answers": [ + { + "text": "トマトソース", + "answer_start": 367, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "明治期の日本ではロングパスタよりマカロニが主流であった。また当時の日本で西洋料理と言えばフランス料理であったことから、パスタ料理は当初マカロニやラビオリをベシャメルソースで仕上げるフランス料理として調理されていたという。トマトソースが日本に伝わると、トマトソースのスパゲッティ「スパゲッティ・ア・ラ・ナポリテーヌ」がフランス料理として提供された。ただし、日本では第二次世界大戦後までパスタの入手をほとんど輸入品に頼っていたため、ホテルや高級レストランでのみ扱われる料理であった。明治30年ごろから日本では洋食店が増加し、一部の西洋料理は日本独自の「洋食」へと変化していったが、パスタ料理は戦前の段階では「洋食」化することはなかった。", + "qas": [ + { + "question": "明治期の日本でもっと普及されていたのはロングパスタとマカロニのうちどっちなの?", + "id": "tr-073-06-000", + "answers": [ + { + "text": "マカロニ", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "明治期の日本での西洋料理は主にどこの料理を指しましたか。", + "id": "tr-073-06-001", + "answers": [ + { + "text": "フランス料理", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1903年にフランス料理の大家エスコフィエが著したLeGuideculinaireには、「GarnitureàlaNapolitaine」という名のパスタ料理が収録されている。そのレシピは、「スパゲティ500gをゆでて、グリュイエール・チーズ50g、パルメザンチーズ50gをおろしたもの、トマト・ピュレ1dlを合わせてつないだもの、バター100gを加えて仕上げる。ソース主料理の肉のフォン」というものである。これは単品の料理ではなくautregarnituresとして収録されている。また、築地精養軒の料理長を務めた鈴本敏雄が1920年に著した『仏蘭西料理献立書及調理法解説』でも、「GarnitureàlaNapolitaine」という料理名で「Parmesan乾酪を加へたるTomatosauceにて調理したる\"Spaghetti\"」と、「Macaroni(又は)SpaghettiàlaNapolitaine」という料理名で「ざつと茹でたるものを、赤茄子の原漿及び乾酪を加へ、充分にハムの風味を有たしたる羹汁にて煮込む」パスタ料理が収録されている。", + "qas": [ + { + "question": "LeGuideculinaireを書いたのは誰ですか。", + "id": "tr-073-07-000", + "answers": [ + { + "text": "エスコフィエ", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "LeGuideculinaireに従うと、「GarnitureàlaNapolitaine」を作るとき、必要なパルメザンチーズは何gですか。", + "id": "tr-073-07-001", + "answers": [ + { + "text": "50g", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『仏蘭西料理献立書及調理法解説』を書いたのは誰なの?", + "id": "tr-073-07-002", + "answers": [ + { + "text": "鈴本敏雄", + "answer_start": 258, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『仏蘭西料理献立書及調理法解説』とLeGuideculinaireと、どっちの本がもっと古い?", + "id": "tr-073-07-003", + "answers": [ + { + "text": "LeGuideculinaire", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "東京・銀座の煉瓦亭には、1921年の時点で「イタリアン」というメニューがあった。外国航路のコックが陸に上がって伝えたものという。同店の4代目店主によれば、当時の「イタリアン」にはトマトピューレを用いていたが、関東大震災後から戦時中に食料配給制になるまではケチャップを使用していたという話もあるという。横浜市教育委員会が発行した『横浜の食文化』p.79には、1934年1月の横浜ホテルニューグランドのメニューが掲載されており、そこには「SpaghettiNapolitaine」の記載がある。また、同ホテルの支店である東京ニューグランドの1935年のメニューには、カタカナで「スパゲチナポリテーイン」と書かれている。この「スパゲチナポリテーイン」は、裏ごししたトマトとチーズで作ったソースをかけたものだったと推定されている。当時のホテルニューグランドの総料理長はドリアの考案やアラカルトの導入などで知られるサリー・ワイルであり、戦前に同ホテルで修行経験のある小野正吉は、「スパゲッティナポリタンだとか、ご飯をグラタンにしたドリアなんか、ワイルさんがはじめて出したんですよ」と発言している。古川ロッパの『古川ロッパ昭和日記』には、1934年12月22日に「三越の特別食堂」で「ナポリタン」というスパゲッティを食したことが書かれている。ただし、ロッパの記述には「少し水気が切れない感じ」とあるため、茹でたパスタにソースを絡めた料理だったと推測される。", + "qas": [ + { + "question": "当時の「イタリアン」にはトマトピューレを用いていたが、関東大震災後から戦時中に食料配給制になるまではケチャップを使用していたと主張した人はどの店の店主ですたか。", + "id": "tr-073-08-000", + "answers": [ + { + "text": "東京・銀座の煉瓦亭", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「スパゲッティナポリタンだとか、ご飯をグラタンにしたドリアなんか、ワイルさんがはじめて出したんですよ」と主張した人は誰ですか。", + "id": "tr-073-08-001", + "answers": [ + { + "text": "小野正吉", + "answer_start": 428, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "『vesta』編集部によれば、1905年に��洋酒食料品雑貨を輸入していた「亀屋」が発行した非売品の本『佛国料理家庭の洋食』に、トマトソースを用いた「スパゲット・アラ・イタリアン」という料理が紹介されている。これはマカロニの代わりにスパゲッティを用いた、トマトソースのグラタン風の料理である。1927年の若林ぐん子『欧米の菓子と料理』には、「ナポリ式スパゲッチ」という料理が紹介されている。これはベーコン、タマネギ、トマト缶、トマトペーストを煮込んでソースを作り、茹でたスパゲッティにかけるものだった。また、『婦人之友』1937年12月号には、スパゲティの代わりにうどんを代用して作る「スパケテナポリタン」という料理が紹介されている。これは肉と脂とニンニクを炒めてから汁だけを残し、トマトを入れて炒め、トマトケチャップ、月桂樹の葉とシェリー酒を加えて湯で伸ばし、塩と胡椒で味付けしてソースとするレシピである。以上のように、戦前にも「ナポリタン」や類似した名前のパスタ料理は存在した。古川ロッパは、『ロッパ食談』において、戦後のイタリア料理店で供されるスパゲッティやマカロニについて「イタリー料理といへば、われらは、戦争前に、ニューグランドやホテルのグリルで、もっと欧風化した奴を食っている」と記し、戦前のヨーロッパ風のパスタ料理が戦後のパスタ料理とは異なっていたことを証言している。しかし、戦前のこれらのパスタ料理は太平洋戦争によっていったん忘れ去られることになる。大矢は、太平洋戦争によって日本人のそれまでの食文化がいったん完全に破壊されたのだと述べている。", + "qas": [ + { + "question": "『欧米の菓子と料理』と『婦人之友』の12号とどちらの方がもっと古いですか。", + "id": "tr-073-09-000", + "answers": [ + { + "text": "『欧米の菓子と料理』", + "answer_start": 156, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "マカロニの代わりにスパゲッティを用いた、トマトソースのグラタン風の料理を何と呼びますか。", + "id": "tr-073-09-001", + "answers": [ + { + "text": "「ナポリ式スパゲッチ」", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "太平洋戦争によって日本人のそれまでの食文化がいったん完全に破壊されたと主張した人は誰ですか。", + "id": "tr-073-09-002", + "answers": [ + { + "text": "大矢", + "answer_start": 632, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "イタリアからアメリカへの移民は、ナポリ近傍のカンパニア地方、およびシチリア出身者が多かった。彼らは母国から輸入したパスタを食べていたが、その食文化は他のアメリカ人には広まらなかった。というのは、先に移住していた豚肉食文化のドイツ系移民による同化政策があったためである。イタリア系移民の家庭にはケースワーカーが送り込まれて肉食が奨励され、具なしパスタのようなエスニックな食文化は修正されていった。パスタはイタリアでは富裕層にとってコース料理の中の一品、貧困層にとって単品ですべてを満たす手軽な食事という二面性を持っていたが、アメリカでは後者の側面が強まった。パスタはアメリカ人の嗜好に合わせて大衆化し、その結果として生まれたのが、スパゲッティにトマトソースとミートボールとパルメザンチーズを合わせた「スパゲッティ・ウィズ・ミートボール」であった。この料理は世界恐慌の折に安価な料理としてイタリア系以外のアメリカ人にも広まったという。", + "qas": [ + { + "question": "アメリカでのパスタはコース料理の中の一品と貧困層にとって単品とどちらに近かったか。", + "id": "tr-073-10-000", + "answers": [ + { + "text": "貧困層にとって単品", + "answer_start": 225, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ボアルディ兄弟は、スパゲッティの缶詰を製造し、第二次世界大戦ではアメリカ陸軍へ供給する契約を��りつけることに成功した。アメリカ人は、兵隊食の缶詰スパゲッティでいっそうスパゲッティに親しむことになった。この缶詰のスパゲッティにはケチャップに近いソースが使われていて、やわらかく、ぎっとりして甘いものだった。缶詰スパゲッティに慣れたアメリカ人はコシのないやわらかい麺に慣れ親しみ、その嗜好に合わせる形で、現地で生産されるスパゲッティも硬質小麦ではなく軟質小麦を用いたやわらかいものになった。こうしてアメリカ人は“ケチャップあえのスパゲッティ”を好むようになり、この嗜好がGHQと共に日本に伝わることになる。", + "qas": [ + { + "question": "アメリカ人はやわらかい麺と硬い麺とどちらをより好みましたか。", + "id": "tr-073-11-000", + "answers": [ + { + "text": "やわらかい麺", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "テキストに従うと、アメリカで生産されるスパゲッティは硬質小麦を使いますか、それとも軟質小麦を使いますか。", + "id": "tr-073-11-001", + "answers": [ + { + "text": "軟質小麦", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "スパゲッティの缶詰を製造し、第二次世界大戦ではアメリカ陸軍へ供給する契約を取りつけることに成功したのは誰?", + "id": "tr-073-11-002", + "answers": [ + { + "text": "ボアルディ兄弟", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ホテルニューグランド第4代総料理長の高橋清一は、ナポリタンは第2代総料理長の入江茂忠が戦後に考案したと述べている。ホテルニューグランドは、1945年8月30日のダグラス・マッカーサーの来日直後から7年間GHQに接収されていた。入江は進駐軍の兵士がケチャップで和えただけの具なしスパゲッティを食べているのを見て、ケチャップだけでは味気ないと考え、生トマト、タマネギ、ニンニク、トマトペースト、オリーブオイルでトマトソースを作り、炒めたハム、ピーマン、マッシュルームを加えてソースで和えたスパゲッティを考案したという。このスパゲッティは「スパゲッティーナポリタン」と呼ばれた。高橋によると、「ナポリタン」という命名は、中世のころナポリの屋台で庶民向けにトマトソースをかけたスパゲティが売られていたことをヒントにしたものだという。", + "qas": [ + { + "question": "ナポリタンは第2代総料理長の入江茂忠が戦後に考案したと主張した人物は誰ですか。", + "id": "tr-073-12-000", + "answers": [ + { + "text": "高橋清一", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "入江の「スパゲティーナポリタン」はケチャップを使ってはいないが、7割がた茹でたパスタを冷まし、5-6時間放置したうえで湯通しすることで麺のもっちりした食感を出す、というひと手間を加える工夫は入江の功績と見なされる。高橋は中世ナポリ風であることが「ナポリタン」という名前の直接の由来であるとしているが、澁川は、入江は師のサリー・ワイルを通じてフランス料理の「スパゲッティ・ナポリテーヌ」の存在を知っており、日本人が呼びやすいように「ナポリテーヌ」を「ナポリタン」に変化させたのではないかと考察している。上野は、戦時中に陸軍の厨房兵として従軍していた入江に、旧海軍の「マカロニナポリタン」という料理名の記憶があったのではないかと考察している。また、横浜市野毛の洋食レストラン「センターグリル」では、1946年の開業時よりナポリタンにケチャップが使用されていたとされる。高価で加工に手間もかかるトマトを使わずケチャップを用いるのは町の洋食店ならではの工夫だとして、センターグリルが「ケチャップナポリタン」の発祥であると見る向きもある。ただし、同店の創業者の石橋豊吉は、ワイルの経営していたセンターホテルで修行をしていて入江とも親交があり、開業後にも入江からアドバイスを受けていたという。", + "qas": [ + { + "question": "入江は師のサリー・ワイルを通じてフランス料理の「スパゲッティ・ナポリテーヌ」の存在を知っており、日本人が呼びやすいように「ナポリテーヌ」を「ナポリタン」に変化させたのだと意見を出したのは誰ですか。", + "id": "tr-073-13-000", + "answers": [ + { + "text": "澁川", + "answer_start": 150, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "横浜市野毛の洋食レストラン「センターグリル」の創業者は誰なの?", + "id": "tr-073-13-001", + "answers": [ + { + "text": "石橋豊吉", + "answer_start": 475, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1954年3月、日本は日本国とアメリカ合衆国との間の相互防衛援助協定(MutualSecurityAct、MSA)に調印した。MSAは本来軍事援助のためのものであるが、その中にはアメリカの余剰農産物を購入する余剰農産物購入協定も含まれていた。日本はアメリカ産の小麦50万トンを受け入れることになった。この「MSA小麦」は政府から製粉業者に払い下げられることになったが、日本で需要のあった硬質小麦ではなく軟質小麦だったうえに他の輸入小麦に比べて割高であり、質もあまり良くないものだったという。余剰農産物の輸出と軍事援助を組み合わせたMSAには批判も多く、余剰農産物の処理は農業貿易開発援助法、通称PL480に引き継がれることになる。日本はこのPL480にも調印し、1955年5月、アメリカ産の小麦約34万トンを受け入れた。", + "qas": [ + { + "question": "相互防衛援助協定(MutualSecurityAct、MSA)は日本とどことの協定であるか。", + "id": "tr-073-14-000", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ合衆国", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "相互防衛援助協定(MutualSecurityAct、MSA)が締結されたのはいつですか。", + "id": "tr-073-14-001", + "answers": [ + { + "text": "1954年3月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "日本がPL480によりアメリカ産の小麦約34万トンを貰ったのはいつですか。", + "id": "tr-073-14-002", + "answers": [ + { + "text": "1955年5月", + "answer_start": 331, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1980年代半ばごろまでは、飲食店におけるスパゲッティはミートソースかナポリタンの2種類しかないことがほとんどであった。この2種のスパゲッティは、喫茶店、学校給食、食堂などでも広く親しまれるようになった。1970年代から1980年代にかけて、スパゲッティの味付けや種類は多様化していく。また、1990年代の「イタめし」ブームによって、日本でも様々な本格的パスタが食べられるようになった。その一方で、ナポリタンを供食する飲食店は以前より減少することになった。小説家の浅田次郎は、ナポリタンを見かけなくなった原因について、「主たる提供場所であった喫茶店が少なくなってしまったからである」と記し、自身の生家の喫茶店もバブルの影響で閉店したことを明かしている。", + "qas": [ + { + "question": "1980年代半ばごろまで、飲食店で売っていたスパゲッティは何種類ありましたか。", + "id": "tr-073-15-000", + "answers": [ + { + "text": "2種類", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1990年代に、日本で様々な本格的パスタが食べられるようになったのは何がきっかけですか。", + "id": "tr-073-15-001", + "answers": [ + { + "text": "「イタめし」ブーム", + "answer_start": 153, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ナポリタンを見かけなくなった原因としえ「主たる提供場所であった喫茶店が���なくなってしまったからである」と主張した人の職業は何?", + "id": "tr-073-15-002", + "answers": [ + { + "text": "小説家", + "answer_start": 228, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ナポリにはケチャップ炒めスパゲッティはない。米国生まれのトマトケチャップを味付けの主役に使用することはまずなく、ピーマンやハムが入ることはない。トウガラシ加工品であるタバスコペッパーソースが入ることもない。漫画家ヤマザキマリは自身のイタリア留学時代の体験を綴った漫画エッセイ『それではさっそくBuonappetito!』で、ナポリ出身のルームメイトと「ナポリタン」を巡る顛末を描いている。そこでも、トマトケチャップを用いる「ナポリタン」は「ナポリ料理ではない」と否定されている。ルームメイトが作った一見ナポリタンらしきものはスパゲッティ・アッラ・アマトリチャーナであった。イタリア出身者にとってはフライパンでスパゲッティを炒めることはありえず、パスタは茹でたらそのままソースに和えるだけという。食物史研究で知られるボローニャ大学のマッシモ・モンタナリ教授の1991年時点の談話によると、イタリアでは近年までスパゲッティやマカロニの需要はおもに南イタリアに限られており、イタリア全土でスパゲッティが食べられるようになったのは約40年前からのことだという。この点について前川は、第二次世界大戦後、日本と同じような形でアメリカの小麦やパスタ文化がイタリアへ流入したのではないかと考察している。伊丹十三はコラム集『女たちよ!』の中で、日本のナポリタンを強く非難した上で「本格的なイタリアのトマトソース」なるものを紹介しているが、そのレシピにはアメリカの食文化であるはずのタバスコペッパーソースを入れると書いている。", + "qas": [ + { + "question": "漫画家ヤマザキマリが留学に行った国はどこですか。", + "id": "tr-073-16-000", + "answers": [ + { + "text": "イタリア", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "マッシモ・モンタナリ教授の勤務先はどこですか。", + "id": "tr-073-16-001", + "answers": [ + { + "text": "ボローニャ大学", + "answer_start": 357, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "イタリアでは近年までスパゲッティやマカロニの需要はおもに南イタリアに限られており、イタリア全土でスパゲッティが食べられるようになったのは約40年前からのことだということに対して、第二次世界大戦後、日本と同じような形でアメリカの小麦やパスタ文化がイタリアへ流入したのではないかと考察した人物は誰か。", + "id": "tr-073-16-002", + "answers": [ + { + "text": "前川", + "answer_start": 483, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "漫画家ヤマザキマリがイタリアで留学したときのルームメイトはどこの出身でしたか。", + "id": "tr-073-16-003", + "answers": [ + { + "text": "ナポリ", + "answer_start": 162, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "カンポンボーイ", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "『カンポンボーイ』は少年マットと、マットがカンポンで過ごす日々を絵と文で描いた物語である。作者ラットは主人公であると同時に語り手でもある。\n\nマレーシア、ペラ州のカンポンで主人公が生まれるところが幕開けとなる。誕生を祝う伝統行事がそれに続き、祝福の唱句、宗教歌の合唱と一連の儀式が執り行われる。マットは成長とともに家の中を探検し始め、やがて家族が住まいの外で行うおかしな行動に焦点が当てられていく。\n\n6歳になったマットは公教育の第一歩としてコーランを学ぶ塾に通い始め、そこで出会った新しい友達から川泳ぎやジャングル探検を教えられる。両親は息子が勉強に興味を示さないことを心配する。マットも親の気持ちは分かるが、遊びをあきらめてまで勉強に励むつもりはない。10歳になるとベルスナットがある。事前の儀式は物々しいもので、大勢で川まで行進して沐浴を行わなければならない。割礼自体は「アリにかまれたような」一瞬の作業で済む。傷が治ると、弟妹とともに町の映画館に連れて行ってもらう。", + "qas": [ + { + "question": "『カンポンボーイ』の主人公は誰?", + "id": "tr-074-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ラット", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "マットは何歳にコーランを学び始めたの?", + "id": "tr-074-00-001", + "answers": [ + { + "text": "6歳", + "answer_start": 201, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "『カンポンボーイ』は著者ラットの自伝である。ラットは地方のカンポンに生まれ育ち、州都イポーの小学校に進み、中等教育を修了するとクアラルンプールに移った。成人後は新聞の事件記者として働きながら、9歳のときから描きはじめた漫画で副収入を得た。あるとき香港の雑誌に描いた作品「ベルスナット」が新聞社内で注目され、コラム漫画家の地位につくことになった。社によってロンドンに派遣されてセント・マーチンズ芸術大学で学び、1975年にマレーシアに帰国してからは英国風の風刺漫画を描きはじめた。この路線は人気を集めた。しかし名声が高まるにつれて、都市でのライフスタイルに疑問を持ち始め、カンポン生活を懐かしむようになった。ラットは自分を含めた都市生活者が故郷の村落の暮らしを忘れてしまったと感じ、それを思い出させようと考えた。また、マレーシアにいる外国人に田舎の伝統的な生活を知らせたいという考えもあった。ラットは1977年から新聞漫画の執筆の合間に本作の原稿を描き始めた。完成した『カンポンボーイ』は1979年にブリタ・パブリッシングから刊行された。", + "qas": [ + { + "question": "ラットはどこにある小学校に進学したの?", + "id": "tr-074-01-000", + "answers": [ + { + "text": "イポー", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ラットは都市でのライフスタイルに疑問を持ち始め、どこで生活を懐かしむようになりましたか。", + "id": "tr-074-01-001", + "answers": [ + { + "text": "カンポン", + "answer_start": 285, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『カンポンボーイ』がブリタ・パブリッシングから刊行されたのは何年のことですか。", + "id": "tr-074-01-002", + "answers": [ + { + "text": "1979年", + "answer_start": 443, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "『カンポンボーイ』のスタイルは西欧のグラフィックノベルとは異なっている。多くのページは全体が1枚の絵となっており、そこに文章が添えられる。1枚の絵だけで一つのシーンとなる場合もあれば、見開き2ページに描かれた2枚の絵が出来事のシークエンスを表すこともある。\n\nナレーションはマレーシア風の英語で語られており、文法構造は単純で、ところどころにマレー語の語句が使われている。児童書の書評誌TheBulletinoftheCenterforChildren'sBooksの編集者デボラ・スティーヴンソンは、このナレーションが読者との間に一体感を作り出し、「家族や隣人、村の暮らしへの愛情をさりげなく」表現しているとした。ジ・エイジ紙にレビューを寄せたマイク・シャトルワースは、本書は文章で書かれた内容と反対の絵を描くことでおかしさを出している箇所が多いと述べた。スティーブンソンも同様の指摘をしており、マットが母親から優しくお粥を食べさせてもらったと語る場面を取り上げている。このとき絵の方では、母親は赤ん坊のマットがお粥を吐きかけてくるのに苛立った様子を見せている。", + "qas": [ + { + "question": "『カンポンボーイ���のナレーションはどんな英語で語られていますか。", + "id": "tr-074-02-000", + "answers": [ + { + "text": "マレーシア風の英語", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "児童書の書評誌TheBulletinoftheCenterforChildren'sBooksの編集者は誰?", + "id": "tr-074-02-001", + "answers": [ + { + "text": "デボラ・スティーヴンソン", + "answer_start": 236, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "『カンポンボーイ』の子供たちは「頭はモップのようにぼさぼさで、歯を見せて笑っており、足は裸足で、お尻はむき出しか腰布を巻いて」描かれるのがほとんどであり、しばしば周囲の大人の世界と比べて「大げさなほど小さく」描かれる。ラットは少年の描き方について1950年代に読んだ漫画から影響を受けた部分があると述べている。それらの本で主役を務めるのは決まって「モジャモジャ頭の腕白小僧」だった。大人のキャラクターは、膨らんだズボンやバタフライ型メガネのように衣服や小物が誇張されていて容易に見分けられる。「背が低くて丸っこい」体形はキャラクターデザインの特徴である。キャラクターの表情は大きく誇張され、特に読者に正面を向けたときにそれが顕著である。", + "qas": [ + { + "question": "ラットの少年の描き方はいつ読んだ漫画の影響を受けたのですか。", + "id": "tr-074-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1950年代", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1984年、英語版を底本とする日本語版『カンポンのガキ大将』が晶文社から刊行され、小規模ながらアジア漫画としては良好な売れ行きを示した。翻訳者は荻島早苗と末吉美栄子である。末吉によると、漫画というより児童文学としての評価があり、後年まで図書館からの注文が続いたという。1992年、ボルネオ島の熱帯雨林伐採を題材とした日本人作家の絵本『森へ帰ろう』(1991年、金の星社)が『カンポンのガキ大将』の盗作だという疑いが持ち上がり、版元の判断で絶版となった。1996年にはマレーシアのブリタ・パブリッシングから続編『タウンボーイ』が、1998年にはさらにその続編『カンポンボーイ昨日・今日』が出た。2014年にはマレーシア政府観光局のプロジェクトの一環として、左右田直規の監訳によりマレー語からの新訳『カンポンボーイ』が東京外国語大学出版会とマレーシア翻訳・書籍センターから共同出版された。同書は京都国際マンガミュージアムなどが主催する2014年度ガイマン賞において第2位を占めた。翌年には左右田による新訳『タウンボーイ』が刊行された。", + "qas": [ + { + "question": "『カンポンのガキ大将』の翻訳は末吉美栄子と誰がやったの?", + "id": "tr-074-04-000", + "answers": [ + { + "text": "荻島早苗", + "answer_start": 72, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『カンポンのガキ大将』の盗作だと言われた作品のタイトルは何ですか。", + "id": "tr-074-04-001", + "answers": [ + { + "text": "『森へ帰ろう』(1991年、金の星社)", + "answer_start": 166, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『カンポンのガキ大将』、『カンポンボーイ昨日・今日』、『タウンボーイ』のうち、一番あとで刊行されたのはどれなの?", + "id": "tr-074-04-002", + "answers": [ + { + "text": "『カンポンボーイ昨日・今日』", + "answer_start": 278, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1981年に刊行された『タウンボーイ』(TownBoy)は『カンポンボーイ』の続編である。物語の舞台は多文化都市イポーに移り、『カンポンボーイ』で家庭内に終始していたマットの生活も広がってゆく。マットは学校に通い、アメリカのポップミュージックと出会い、新しくできたさまざまな人種の友人と町を駆け回り、悪ふざけを楽しむ。中国系のフランキーとはロック好き同士で、プレスリーの曲を共に聴いてエアギターを弾き、絆を深めていく。年頃になると「イポーで注目度ナンバーワンの女の子」ノルマとデートする。やがて皆が学校を卒業する時期が来て、イギリスに進学するフランキーと駅で別れを交わす。\n\n『タウンボーイ』のストーリーは作者がイポーで過ごした青春時代の思い出を集めたものである。ラットは本作を書いた動機について「音楽について少しは知ってるんだってところを見せたかった」と言っているが、友情が中心的なテーマであり、フランキーが進学のため英国に向けてイポー駅を発つシーンが物語の幕切れとなる。ただし単純に人種間の美しい友情を謳い上げるのはラットの望むところではなかったため、多様なバックグラウンドを持つ当時の友人たちをフランキーに代表させ、音楽を通じて友情を結ぶようにさせた。作中では表立って描かれないものの、当時のマレーシア社会ではマレー系と中国系の対立があり、マットとフランキーが友情を育むのは「ほんとうはとても勇気のいること」だった。二人がフランキーの家で音楽を聴いて友情を結ぶ下りはジャーナリストのリズワン・A・ラヒムなどによって印象深いシーンとして挙げられている。", + "qas": [ + { + "question": "『タウンボーイ』(TownBoy)はどの作品の続編ですか。", + "id": "tr-074-05-000", + "answers": [ + { + "text": "『カンポンボーイ』", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『タウンボーイ』(TownBoy)と『カンポンボーイ』と、先に刊行されたのはどっちかな?", + "id": "tr-074-05-001", + "answers": [ + { + "text": "『カンポンボーイ』", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "アテナイの学堂", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "アテナイの学堂はルネサンス期イタリアの画家ラファエロ・サンティのもっとも有名な絵画の一つである。描かれたのは、ローマ教皇ユリウス2世に仕えた1509年と1510年の間である。バチカン教皇庁の中の、現在ラファエロの間と呼ばれる4つの部屋の壁をフレスコ画で飾ることになって、ラファエロはまず署名の間と呼ばれる部屋から着手することにした。そして、最初に『聖体の論議』を仕上げてから、2番目に手がけたのがこの『アテナイの学堂』である。その絵は、長きにわたってラファエロの最高傑作とみられてきた。盛期ルネサンスの古典的精神を見事に具現化したものと言えよう。", + "qas": [ + { + "question": "アテナイの学堂は誰の作品なの?", + "id": "tr-075-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ラファエロ・サンティ", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アテナイの学堂が描かれたとき、ローマ教皇は誰だった?", + "id": "tr-075-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ユリウス2世", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『聖体の論議』と『アテナイの学堂』と、どっちの方が完成が早かった?", + "id": "tr-075-00-002", + "answers": [ + { + "text": "『聖体の論議』", + "answer_start": 173, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "長きにわたってラファエロの最高傑作とみられ、盛期ルネサンスの古典的精神を見事に具現化したと評価されている作品は何ですか。", + "id": "tr-075-00-003", + "answers": [ + { + "text": "『アテナイの学堂』", + "answer_start": 200, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "『アテナイの学堂』に描かれている人々は有名な古代ギリシアの哲学者たちである。研究者たちは、ギリシアの学者(哲学者���科学者)のほとんどをこの絵の中で見つけることができるはずだと言い続けてきた。しかし、ラファエロははっきりと誰を描いたと言っていなかったので、絵の中に描かれている人物が誰か、正確に言い当てることははなはだ難しい。それを説明する同時代の記録も存在していない。さらに問題を悪化させるのは、ラファエロは、絵の中の哲学者・科学者が誰なのかを読み解いてもらうための全員分の仕掛けを作っていたはずだが、それを記録として残していなかったことだ。とはいっても、絵の中に誰を描くかの選択をするのに、多くの人の承認が要ったはずと思われる。", + "qas": [ + { + "question": "『アテナイの学堂』に描かれている人々はどこの哲学者たちなの。", + "id": "tr-075-01-000", + "answers": [ + { + "text": "古代ギリシア", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "学堂はギリシャ十字の形の中にあり、キリスト教神学と非=キリスト教のギリシア哲学との調和を意図したものと思われる。その建築様式はドナト・ブラマンテに触発されたもので、ジョルジョ・ヴァザーリは、ブラマンテは実際にこの絵を手伝ったと言っている。研究者の中には、学堂そのものがサン・ピエトロ大聖堂の正面からの景観になるように意図されていたという人もいる。後ろの方に2つの彫像があり、向かって左は竪琴を持ったギリシアの神アポローンで、医、治癒、光、真実、詩、音楽の神である。一方右側にいるのは、やはりギリシアの女神アテーナーだが、ローマの女神ミネルウァの恰好をしている。アテーナーは知恵の女神である。", + "qas": [ + { + "question": "知恵の女神は誰?", + "id": "tr-075-02-000", + "answers": [ + { + "text": "アテーナー", + "answer_start": 280, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "第1上野トンネル", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "第1上野トンネルは、東北新幹線東京駅-上野駅間にある全長1,133メートルの複線鉄道トンネルである。資料によっては上野第1トンネルと表記されていることもある。トンネルの出口はそのまま地下の上野駅(全長834メートル)につながっており、その先は全長1,495メートルの第2上野トンネルになっている。このことから全体を合わせて全長3,462メートルの上野トンネルと呼ぶこともある。建設中の1990年1月22日には御徒町駅付近の春日通り(都道453号線)下を工事中に道路を陥没させる御徒町トンネル陥没事故を起こしている。このトンネルの完成をもって、東北新幹線が東京駅に乗り入れ出来るようになった。", + "qas": [ + { + "question": "第1上野トンネルの別の表記は何ですか。", + "id": "tr-076-00-000", + "answers": [ + { + "text": "上野第1トンネル", + "answer_start": 57, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "第1上野トンネルの方が長い?それとも第2上野トンネルの方が長い?", + "id": "tr-076-00-001", + "answers": [ + { + "text": "第2上野トンネル", + "answer_start": 133, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "秋葉原北部トンネル区間は、大成建設が土木工事を担当した。この区間は、在来線の高架橋の下にトンネルを構築するもので、トンネルに支障する既存の基礎構造の代わりとなる新しい基礎を造りなおして、上部構造物の重量をそちらに受け替えた上で、従来の基礎を撤去する、アンダーピニングと呼ばれる工事を行った。アンダーピニングの対象となるのは、京浜東北線の南行と留置線3本を載せた高架橋で、フラットスラブ形式、ビームスラブラーメン形式、壁式ラーメン形式の3種類から構成されている。また西側に山手線外回り、内回り、京浜東北線北行の3線が通る単純スラブ式高架橋が隣接している。これらの高架橋の下、地表面下10.5メートルから23.0メートルの位置に箱型ラーメン形式のトンネル躯体を構築した。トンネルの標準断面は、内部の幅で9,560ミリ、高さ7,450ミリある。アンダーピニングでは通常、添梁や受桁を構築して上部構造物の重量を受け替えるが、秋葉原北部トンネルではその代わりにPCスラブを用いた点が特徴となっている。アンダーピニングの工法選定に当たっては、添梁・受桁方式、PCスラブ方式、鋼管杭方式、上層梁工事桁仮受け方式の4種類を比較検討し、作業スペースとして在来高架橋下を広く有効利用できることや、杭打ちより先にPCスラブを施工するために不等沈下に対する防護ができることなどから、PCスラブ方式が採用された。", + "qas": [ + { + "question": "秋葉原北部トンネル区間は、何が土木工事の責任を負っていましたか。", + "id": "tr-076-01-000", + "answers": [ + { + "text": "大成建設", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "御徒町トンネル区間は、熊谷組が土木工事を担当した。上野立坑を発進基地として御徒町立坑へと施工された。ただし御徒町立坑自体は秋葉原北部トンネル側に含まれている。上野立坑は、上野駅前の国道4号中に建設された。通常シールドマシンを発進させる立坑はシールド発進位置そのものに建設するが、地上の建物や道路の使用状況、地下構造物などに制約されてこの位置に建設されることになった。線形の節で説明したように、上野駅構内配線に伴う分岐器挿入の必要性から、この縦坑から約26メートルに渡って大きな断面で建設する必要性があった。この区間は、開削工法、シールドトンネルで建設して後に必要な断面に切り広げる方法、山岳トンネル工法の3種類の方式を検討した。開削工法では国道4号の交通遮断が発生することや、横断歩道橋や地下道の仮受けが必要になること、交差点中に大きな設備を設置できないことなどから見送られ、またシールドトンネルの切り広げは当初検討された方法であったが、区分地上権の設定遅れによりシールドマシンを発進できる時期が不確実であったため、他の工事の影響を受けずに先行施工できる山岳トンネル工法で建設することになった。", + "qas": [ + { + "question": "御徒町トンネル区間の土木工事を担当した企業は?", + "id": "tr-076-02-000", + "answers": [ + { + "text": "熊谷組", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "トンネルが完成後、東京-上野間のレール締結式が行われ、1991年4月2日、4日、6日の3日にわたって、総合試験車および営業車両を用いて軌道や架線、信号設備の状態の確認が行われた。運転士の訓練運転は、4月10日から6月9日までのおよそ2か月行われた。この際には、上野駅の営業運転での使用状況などから試運転専用のダイヤを用意することはできず、当初から東京開業時のダイヤグラムを設定した上で、東京-上野間を営業上は運休扱いとして運転することになった。こうして、1991年6月20日に東京-上野間の開通とともに、第1上野トンネルも供用開始された。", + "qas": [ + { + "question": "第1上野トンネルはいつ開始されたか。", + "id": "tr-076-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1991年6月20日", + "answer_start": 227, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "天皇賞(相撲、拳闘、競馬)", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "天皇賞(てんのうしょう)は、日本中央競馬会(JRA)が春・秋に年2回施行する中央競馬の重賞競走(GI)である。第1回とされる「帝室御賞典」は1937年(昭和12年)に行われているが、JRAが前身としている「TheEmperor'sCup(エンペラーズカップ)」まで遡ると1905年(明治38年)に起源をもち、日本で施行される競馬の競走では最高の格付けとなるGIの中でも、長い歴史と伝統を持つ競走である。現在は賞金のほか、優勝賞品として皇室から楯が下賜されており、天皇賞を「盾」と通称することもある。\n\n春は京都競馬場で「天皇賞(春)」、秋は東京競馬場で「天皇賞(秋)」の表記で施行されている。記事内ではそれぞれ「天皇賞(春)」ま��は「春の競走」、「天皇賞(秋)」または「秋の競走」と表記する。", + "qas": [ + { + "question": "日本中央競馬会(JRA)が春・秋に年2回施行する中央競馬の重賞競走(GI)の名称は?", + "id": "tr-077-00-000", + "answers": [ + { + "text": "天皇賞", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第1回の天皇賞が開かれたのは何年ですか?", + "id": "tr-077-00-001", + "answers": [ + { + "text": "1937年", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "天皇賞のルーツをたどると、1905年(明治38年)5月6日に横浜競馬場で創設されたTheEmperor'sCup(エンペラーズカップ)や、明治初期のMikado'sVaseにまで遡ることができる。これらの競走が誕生した背景には、当時の日本が直面していた外交問題が強く影響している。エンペラーズカップはのちに「帝室御賞典」の名称で定着し、明治末期から1937年(昭和12年)まで日本各地で年に10回行われていた。\n\n一方、施行距離や競走条件は1911年(明治44年)から1937年(昭和12年)まで行われていた「優勝内国産馬連合競走」を概ね継承している。この競走は年2回、3200メートルの距離で行われ、各馬等しい条件で日本のチャンピオンを決め、日本一の賞金を与える競走だった。", + "qas": [ + { + "question": "Mikado'sVaseとTheEmperor'sCupでより古いのはどれ?", + "id": "tr-077-01-000", + "answers": [ + { + "text": "Mikado'sVase", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "「優勝内国産馬連合競走」が初めて開かれたのは和暦で何年か答えてください。", + "id": "tr-077-01-001", + "answers": [ + { + "text": "明治44年", + "answer_start": 226, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "これらを統合して始まったのが1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典で、日本中央競馬会(JRA)ではこれを天皇賞の第1回としている。「帝室御賞典」は戦局悪化のため1944年(昭和19年)秋に中止され、終戦後の1947年(昭和22年)春に「平和賞」の名称で再開、同年秋から「天皇賞」と改称され現在に至っている。\n\n1937年(昭和12年)以来「古馬の最高峰」として位置づけられた天皇賞は長らく番組体系の中心に据えられ、旧八大競走にも含まれるなど、その地位を保ち続けた。1着賞金も東京優駿(日本ダービー)などとともに国内最高クラスの競走だった。後に有馬記念やジャパンカップが創設され、やがて国内最高賞金はジャパンカップが上回るものの、2017年(平成29年)現在も天皇賞は、ジャパンカップ、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念に次ぐ高額賞金競走である。\n\n1980年代以降に進められた様々な制度改革、賞金や競走条件の変遷を経てもなお、天皇賞は日本国内で現存する競馬の競走として最も長い歴史と伝統を持ち、重要な競走の一つに位置づけられている。", + "qas": [ + { + "question": "天皇賞の第1回が行われたのは和暦でいうと、何年ですか?", + "id": "tr-077-02-000", + "answers": [ + { + "text": "昭和12年", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「天皇賞」という名前で開かれたのは何年が最初か?", + "id": "tr-077-02-001", + "answers": [ + { + "text": "1947年", + "answer_start": 103, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "日本で一番賞金額が高い競争は何ですか?", + "id": "tr-077-02-002", + "answers": [ + { + "text": "ジャパンカップ", + "answer_start": 276, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "王政復古後、明治新政府が直面した重要な外交問題の一つは、欧米を中心とする諸外国との間に結ばれた不平等条約の改正であった。条約改正交渉を円滑に進めたい明��政府は、鹿鳴館に象徴されるように、西洋文化を積極的に採用した。競馬もそのうちの一つで、政府や明治天皇は明治初期から西洋式の競馬を行うなど、競馬場は重要な外交の舞台だった。中でも横浜競馬場は幕末以来、外国人が設立・運営しており、競馬会の会頭も歴代のイギリス公使が務めていた。明治天皇は条約改正を実現するため、日本の外交官や外務担当の政治家を伴い、頻繁に横浜競馬場へ赴いていた。\n\nイギリスでは清教徒革命後の王政復古に際して、国王自ら競馬場に大競走(King'sPlate、女王時代はQueen'sPlate)を創設し、豪華な賞品を下賜した故事があり、これはイギリス王室の伝統の一つだった。明治天皇はこの故事に倣い、横浜競馬場へ豪華な賞品(花器)を下賜した。これが1880年(明治13年)創設のMikado'sVaseである。\n\n明治30年代になると、イギリスとの条約改正を皮切りに、不平等条約の改正が実現した。イギリスとの間には日英同盟も締結され、日露戦争の後ろ盾となった。その日露戦争で日本の軍馬の質や数が大幅に劣っていることが露呈すると、軍部は日英同盟を頼って優秀な軍馬の大量輸入を依頼した。これに応えたイギリスは、イギリス連邦で日本に近く、かつ馬産地だったオーストラリアから3700頭あまりの馬(豪サラと呼ばれる)を日本へ緊急輸出した。", + "qas": [ + { + "question": "明治新政府が解決すべき課題は何でしたか?", + "id": "tr-077-03-000", + "answers": [ + { + "text": "不平等条約の改正", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "イギリスのKing'sPlateを倣って日本で創設された競争名は?", + "id": "tr-077-03-001", + "answers": [ + { + "text": "Mikado'sVase", + "answer_start": 421, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "こうした一連のイギリスとの外交交渉で大きな役割を担ったのが、イギリス公使のクロード・マクドナルドである。マクドナルドは当初公使だったが、1905年(明治38年)に全権大使へ昇任した。マクドナルドと個人的な信頼関係を結んでいた明治天皇は昇任にあたり、マクドナルドへ「菊花御紋付銀製花盛器」を贈呈した。当時、マクドナルドは横浜競馬場の会頭も兼任しており、明治天皇から贈られた盃(当時は『尊重の重宝』と和訳している)を賞品として、1905年(明治38年)5月6日に「TheEmperor'sCup(エンペラーズカップ)」を創設した。以来、横浜競馬場では毎年この競走に際して明治天皇から賞品が下賜されるようになった。これがのちに日本語で「帝室御賞典」などと訳されるようになり、JRAでは「天皇賞の前身」としている。\n\n横浜競馬場は外国人が運営し、書類や記録もすべて英語表記だったため、“TheEmperor'sCup”はときの担当者によって様々に和訳されていた。1905年(明治38年)には“皇帝陛下御賞盃”、1906年(明治39年)には“宮中御賞盃”と訳され、1907年(明治40年)からは新聞報道でも使われた“帝室御賞典”の訳で統一されるようになった。", + "qas": [ + { + "question": "1905年、イギリスの全権大使として働いた人の名前って何だっけ?", + "id": "tr-077-04-000", + "answers": [ + { + "text": "クロード・マクドナルド", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "第一回のエンペラーズカップの商品は何ですか?", + "id": "tr-077-04-001", + "answers": [ + { + "text": "「菊花御紋付銀製花盛器」", + "answer_start": 131, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "明治天皇は1899年(明治32年)まで盛んに競馬場へ巡幸したが、同年に不平等条約改正が実現すると、以後は一切競馬場へ赴かなくなり、代わりに皇族や親王を名代として派遣するに留まっていた。これ以来、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)は2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)まで106年間行われなかった。\n\n1906年(明治39年)に日本人による本格的な競馬倶楽部として東京競馬会が創設���れた際、責任者だった子爵の加納久宜は明治天皇の臨席と賞品の下賜を打診した。しかし開催10日前になって、賞品の下賜は許されたものの、明治天皇の巡幸は却下された。このとき行われた「皇室賞典」競走が当時の新聞によって「帝室御賞典」と報じられ、以後はこの名称で定着した。\n\n明治天皇から賞品を下賜されて行う帝室御賞典は、すぐに全国の競馬倶楽部へ広まった。横浜・東京に続いて阪神へも年2回の下賜が認められ、馬産地の福島・札幌・函館・小倉へも年1回の下賜が認められた。\n\n全国各地で年に10回行われるようになった「帝室御賞典」は各競馬倶楽部が独自の競走条件で施行していたため、施行距離も斤量(負担重量)などの条件もまちまちで、競走名と天皇から御賞典が下賜される点以外に統一性はなかった。", + "qas": [ + { + "question": "1899年に天皇の競馬場訪問以来、次に訪問したのは何年か?", + "id": "tr-077-05-000", + "answers": [ + { + "text": "2005年", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「帝室御賞典」と名付けられたのは何年か?", + "id": "tr-077-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1906年", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "全国各地で年に10回行われるようになった様々な「帝室御賞典」で、名称以外に統一された点は何ですか?", + "id": "tr-077-05-002", + "answers": [ + { + "text": "天皇から御賞典が下賜される点", + "answer_start": 511, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "一方、1911年(明治44年)に日本一の競走馬を決定する競走として、「優勝内国産馬連合競走(通称:連合二哩)」が帝室御賞典とは別に創設された。賞金は1着3000円、2着でも1500円で、当時日本国内の最高賞金レースだった(当時、帝室御賞典の1着馬には賞品が授与されるだけで、賞金はなかった)。距離は2マイル(約3200メートル)、条件は馬齢重量で、出走できるのは各地の競馬倶楽部で行われた優勝戦の上位馬に限られていた。優勝内国産馬連合競走は当初年1回の施行だったが、後に年2回施行になった。\n\n昭和に入り戦時体制化が進むと、各地の競馬倶楽部は1936年(昭和11年)に発足した日本競馬会に統合され、一本化されることになった。日本競馬会は1937年(昭和12年)に各地の競馬倶楽部を統合し、年10回施行していた帝室御賞典は春に阪神競馬場(旧鳴尾競馬場)、秋に東京競馬場で年2回施行することとなった。年2回施行に改められてから初の競走は1937年(昭和12年)秋に東京で行われた帝室御賞典で、JRAではこれを天皇賞の第1回としている。競走の名称は「帝室御賞典」が採用され、競走の中身は「優勝内国産馬連合競走」が継承された。つまり、天皇(皇室)から御賞典が下賜される点は「帝室御賞典」を受け継いでいて、距離や競走条件などは「優勝内国産馬連合競走」から継承している。これが、現在の天皇賞である。また、帝室御賞典は古馬にとって最高峰の競走として位置づけられ、東京優駿(日本ダービー)など4歳馬の競走とは明確に線引きされた。\n\nこうして「統一」された新しい帝室御賞典は、競走馬として日本一を決めるだけでなく、将来の種牡馬を選別するための最高の能力検査でもあった。また、天皇を頂点とした旧帝国憲法下の日本において、天皇からの賞典を受けることは平民(馬主)や農民(畜産家)にとっても生涯の名誉となった。", + "qas": [ + { + "question": "連合二哩の2位の賞金はいくらですか?", + "id": "tr-077-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1500円", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1937年から「帝室御賞典」は春にどこで開かれることになりましたか?", + "id": "tr-077-06-001", + "answers": [ + { + "text": "阪神競馬場", + "answer_start": 362, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "年2回施行になってから後期のレースはどこで開催されますか?", + "id": "tr-077-06-002", + "answers": [ + { + "text": "東京競馬場", + "answer_start": 378, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "日中戦争から太平洋戦争にいたる戦時中も、帝室御賞典は下賜賞品を木製楯に代えながら続けられた。だが、やがて戦局が悪化すると馬主にも多くの戦死者がでるようになり、競走馬の所有権問題が浮上した。日本競馬会は全競走馬を買い上げることでこの問題を解決したが、全競走馬を買い上げたため「賞金や賞品を争う」という競馬の性格を維持できなくなった。さらに、1944年(昭和19年)春には軍部の命令により馬券(勝馬投票券)の発売を伴う競馬が禁止されたため、日本競馬会は農商省賞典四歳(現:皐月賞)や東京優駿(日本ダービー)などの主要な大レースに限って、「能力検定競走」として競馬を行った。帝室御賞典も1944年(昭和19年)春は施行場を京都競馬場に移し、皇室からの賞品下賜も辞退したうえで「能力検定競走」として非公開で行われたが、同年秋は中止され、帝室御賞典は中断することとなった。その後、1945年(昭和20年)には戦争の激化により、能力検定競走も行われなくなった。\n\n終戦後、競馬は1946年(昭和21年)秋に再開された。帝室御賞典は1947年(昭和22年)春からの再開を決め、日本競馬会は皇室へ賞品の下賜を打診した。しかし、この時点では連合国軍総司令部(GHQ)による皇室への処分等が確定していなかったため、下賜は時期尚早として見送られた。既に御賞典競走を開催する前提で番組編成をしていた日本競馬会は急遽、競走名を「平和賞」に変更して施行した。", + "qas": [ + { + "question": "帝室御賞典が中止されたのは何年ですか?", + "id": "tr-077-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1944年", + "answer_start": 290, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戦局が悪化により戦死者が増え、問題になったのは何ですか?", + "id": "tr-077-07-001", + "answers": [ + { + "text": "競走馬の所有権問題", + "answer_start": 79, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "馬券販売を伴う競馬が禁止されることによって代わりに開かれたレースはどういう名目でしたか?", + "id": "tr-077-07-002", + "answers": [ + { + "text": "「能力検定競走」", + "answer_start": 266, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1947年(昭和22年)秋に予定していた「第2回平和賞」の前日に皇室から賞品(楯)の下賜が再開されることが決定し、名称を「天皇賞」に改めて施行された。「天皇賞」の名称で行われるのはこれが初めてとなるが、公式な施行回数は1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典に遡り、「第16回天皇賞」とされた。その後、天皇賞の施行主体も日本競馬会から国営競馬(農林省競馬部)を経て、1954年(昭和29年)より日本中央競馬会が引き継いだ。\n\n現在は1944年(昭和19年)春の帝室御賞典(能力検定競走)と1947年(昭和22年)の平和賞も公式な施行回数に含まれており、能力検定競走は「第14回天皇賞」、平和賞は「第15回天皇賞」と同義に扱われている。その一方で、これらの競走では皇室から賞品が下賜されていないため、天皇賞の施行回数から除外する考え方もある。1968年(昭和43年)に日本中央競馬会が編纂した史料では、能力検定競走や平和賞を回数に数えない考え方が示されている。", + "qas": [ + { + "question": "「平和賞」の名称が「天皇賞」に変えられた正確な時点はいつですか?", + "id": "tr-077-08-000", + "answers": [ + { + "text": "「第2回平和賞」の前日", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「第16回天皇賞」の開催は何年ですか?", + "id": "tr-077-08-001", + "answers": [ + { + "text": "1947年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「第1回平和賞」は天皇賞にした場合、何回目にあたいしますか?", + "id": "tr-077-08-002", + "answers": [ + { + "text": "「第15回天皇賞」", + "answer_start": 296, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "再編され年2回施行となった帝室御賞典の時代から、天皇賞は古馬にとって最高峰の競走と位置づけられていた。当時の競走体系では、勝てば勝つほどより重い斤量を負担することになっていて、定量で出走できる天皇賞を勝つと、以後は出走すれば概ね負担重量が60kg後半から70kg後半にまで跳ね上がった(現在中央競馬の平地競走では、60kg以上の負担重量で出走する例が極めて少なくなっている)。よって、馬にかかる負担を考慮すれば出走可能な競走は大きく限定されることになった。また帝室御賞典・天皇賞には1980年(昭和55年)まで「勝ち抜き制」があり、一度天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬は、以降の天皇賞(帝室御賞典)に出走することができなかった。これは当時、天皇賞(帝室御賞典)を勝った馬が再度出走して敗れるようなことがあれば、優勝馬の威厳を下げてしまうとされた考え方に基いており、天皇賞(帝室御賞典)を勝つほどの優れた競走馬は、優勝馬としての威厳を保ちつつ早く種牡馬になって競走馬の改良に貢献することが求められていた。\n\n多くの古馬にとって、天皇賞優勝は最大の目標であると同時に、一度優勝するとその後の目標となるレースがほとんどなくなる。そのうえ、斤量も更に増えることから、優勝後に引退する馬は少なくなかった。1937年(昭和12年、第1回)から1955年(昭和30年、第32回)までの優勝馬のうち5頭が優勝と同時に、10頭が優勝したシーズン限りで引退している。このほか、3頭が優勝後に地方競馬へ転出した。", + "qas": [ + { + "question": "当時の競走体系で、一度優勝した競走馬が次の出場のとき増やさなきゃならないものは?", + "id": "tr-077-09-000", + "answers": [ + { + "text": "斤量", + "answer_start": 72, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "一度天皇賞を勝った馬は、以降の天皇賞に出走することができないというルールって何?", + "id": "tr-077-09-001", + "answers": [ + { + "text": "「勝ち抜き制」", + "answer_start": 255, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "天皇賞1回から32回の間で優勝後すぐ引退しちまった馬はどれくらいいます?", + "id": "tr-077-09-002", + "answers": [ + { + "text": "5頭", + "answer_start": 590, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1956年(昭和31年)、年末の中山競馬場で中山グランプリ(現:有馬記念)が創設された。これは4歳馬も古馬も分け隔てなく、その年の一流馬を集めて行う競走となった。\n\n天皇賞を勝った古馬の一流馬にとって、有馬記念は新たな目標となった。有馬記念創設から2013年(平成25年)までの天皇賞優勝馬で、天皇賞優勝を最後に引退した馬は5頭しかいない。\n\n一方、天皇賞を優勝して国内の最高峰に立った馬の一部は、新たな目標を求めて海外へ遠征するようになった。1952年(昭和27年)にアメリカで創設された「ワシントンDC国際」がその代表格である。この競走は招待制で、日本からは天皇賞の優勝馬が招待を受けるようになった。ワシントンDC国際は11月に行われ、当時は11月下旬に行われていた天皇賞(秋)と同時期になる。当時、一度天皇賞を勝った馬は再出走が認められていなかった(勝ち抜き制)ため、秋にワシントンDC国際に挑み、12月に帰国して有馬記念へ出走する馬も現れた。\n\n有馬記念創設以降、1981年(昭和56年)までの25年間で、天皇賞に勝った後海外遠征を行った馬は7頭いる。そのうち5頭は秋にワシントンDC国際へ、1頭は同時期のヨーロッパで凱旋門賞に挑んだ。しかしこれらの中から目標を達することができた馬��おらず、逆に欧米との力量差を突きつけられる結果になった。", + "qas": [ + { + "question": "天皇賞に優勝した古馬たちにとって次の国内目標となった競争は何ですか?", + "id": "tr-077-10-000", + "answers": [ + { + "text": "有馬記念", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "天皇賞が古馬たちの国内競馬の最終目標でなくなったのは何年からですか?", + "id": "tr-077-10-001", + "answers": [ + { + "text": "1956年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "「ワシントンDC国際」が創設されたのは何年?", + "id": "tr-077-10-002", + "answers": [ + { + "text": "1952年", + "answer_start": 222, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "天皇賞を勝つほどの一流馬が、日本以外の国で全く勝てないという事実は、日本国内に2つの相反する考え方をもたらした。1つは強力な外国の競走馬が日本へ入ってくることで国内の馬産が衰退するという脅威論、もう1つはより強い外国馬との対戦によって日本馬のレベルアップを図ろうとする門戸開放論だった。\n\n1970年代後半より「世界に通用する強い馬作り」が提唱され、実現したのが1981年(昭和56年)に創設されたジャパンカップである。ジャパンカップは外国から競走馬を招待し、日本の一流馬と対戦させることで、日本競馬に活力を与えようという意図で企画された。\n\n帝室御賞典が1937年(昭和12年)秋から年2回施行とされて以来、伝統的に11月下旬の施行が定着していた天皇賞(秋)は、ジャパンカップに時期を譲り10月に前倒しされた。「ワシントンDC国際」に出走した外国馬がジャパンカップへ転戦しやすいように配慮した結果である。ジャパンカップは新設競走にして賞金額が東京優駿(日本ダービー)や天皇賞、有馬記念と並ぶ高額に設定され、これは古馬の競走体系が根幹から変わることを意味した。第1回ジャパンカップでは、直前の天皇賞(秋)をレコード勝ちした馬など当時の中央競馬を代表する陣容で臨んだ日本勢が外国勢の前に総崩れとなり、日本の競馬界に衝撃を与える結果となった。また、ジャパンカップの商業的な成功は日本のみならず、アジアの競馬にも変革をもたらすきっかけとなった。", + "qas": [ + { + "question": "国内競馬界で外国で成績を上げられない様子をみて台頭した理論の中で国内競馬の育成と関わりをもつ理論は?", + "id": "tr-077-11-000", + "answers": [ + { + "text": "門戸開放論", + "answer_start": 134, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "外国の競走馬が日本へ入ってくることで国内の馬産が衰退すると主張する理論は何ですか?", + "id": "tr-077-11-001", + "answers": [ + { + "text": "脅威論", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ジャパンカップの創設は、日本国内競馬界で台頭した2つの相反する考え方のうちどれの方を支持するものでしたか?", + "id": "tr-077-11-002", + "answers": [ + { + "text": "門戸開放論", + "answer_start": 134, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "第1回ジャパンカップで優勝したのは日本勢の馬か、外国勢の馬か?", + "id": "tr-077-11-003", + "answers": [ + { + "text": "外国勢", + "answer_start": 536, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ジャパンカップの創設以前より、世界の各国からは外国籍の馬主が日本のレースに所有馬を出走させられなかったり、外国馬に対する出走制限を設けていたことなど、日本の競馬界に対する閉鎖性が指摘されるようになっていた。これらの指摘をうけ、日本中央競馬会はジャパンカップの創設以来「競馬の国際化」を視���に入れた多角的な活動を展開するようになった。「国際化」とは、単に外国の競走馬を呼び寄せるだけでなく、制度面を含めた「国際標準」への適合をも意味していた。\n\n日本の競馬を「国際標準」へ適合させるため、日本中央競馬会は様々な施策を打ち出した。1984年(昭和59年)に導入された「グレード制」もそのひとつである。天皇賞も春・秋ともにGIとして格付けされたが、当初のグレード制は興行に主眼を置いた中央競馬独自の格付けに過ぎず、1970年代に欧米でつくられた「グレード制・グループ制」とはまったく互換性のないものだった。その後様々な開放策を実施した結果、2005年(平成17年)には天皇賞が春・秋ともに国際競走となり、外国調教馬の出走が可能になった。さらに、2007年(平成19年)からは格付けの互換性も認められるようになった。\n\nそんな中、1983年(昭和58年)11月に日本中央競馬会は昭和59年度の競馬番組について、グレード制の導入(前述)などの大幅改革を発表。この中に、天皇賞(秋)の施行距離を芝2000メートルに短縮することが盛り込まれていた。レースの性格を大きく変えることになるこの変更に対し、伝統的な3200メートルの距離を尊重する意見や東京競馬場(芝2000メートル)のコース形態に対する問題点を指摘する意見、また第1回ジャパンカップで日本勢が外国勢に大敗したことを踏まえ、スタミナよりもスピードの強化を重視する意見など賛否両論があったが、1984年(昭和59年)より天皇賞(秋)は施行距離が2000メートルに短縮された。以来、天皇賞(秋)は中央競馬の「中距離ナンバー1決定戦」の性格をもつようになった。", + "qas": [ + { + "question": "日本の競馬界の閉鎖性が指摘され、日本中央競馬会がジャパンカップの創設とともに目標にしたものは何ですか?", + "id": "tr-077-12-000", + "answers": [ + { + "text": "「競馬の国際化」", + "answer_start": 133, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「グレード制」の制度は日本の競馬基準をどこに合わすため作られたものですか?", + "id": "tr-077-12-001", + "answers": [ + { + "text": "「国際標準」", + "answer_start": 228, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「グレード制」が導入されたのは和暦にするといつ?", + "id": "tr-077-12-002", + "answers": [ + { + "text": "昭和59年", + "answer_start": 269, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "競走の規則も見直しが図られた。1950年代に欧米で定着した降着制度は1991年(平成3年)から中央競馬でも導入されたが、この年の天皇賞(秋)で1位入線馬が18着に降着となった。これは日本での重賞1位入線馬の降着例として史上初だっただけでなく、当該馬が圧倒的な単勝1番人気に推されていたことも相まって大きな話題になった。\n\n帝室御賞典時代からの制度では、1度優勝した馬に再出走を認めない勝ち抜き制が1981年(昭和56年)から廃止され、過去の優勝馬も再出走が可能になったほか、種牡馬・繁殖馬選定の観点から長年認められていなかった去勢馬(せん馬)の出走も2008年(平成20年)以降可能になった。また、1971年(昭和46年)から認められていなかった外国産馬の出走も2000年(平成12年)より可能になった。\n\n1937年(昭和12年)秋の帝室御賞典(第1回)以来「古馬の最高峰」として位置づけられてきた天皇賞だったが、1987年(昭和62年)より天皇賞(秋)は4歳馬も出走が可能になった。また1980年代以降、短距離路線・ダート路線・牝馬路線の拡充が図られたことに加え、海外遠征も容易になった。これにより様々なタイプの競走を選択できるようになり、天皇賞は「数ある頂点の一つ」という位置づけになっている。とはいえ、国内のGI競走では2014年(平成26年)現在もジャパンカップ、東京優駿(日本ダービー)、有馬記念に次ぐ高額の1着賞金が設定されている。\n\n国内最高クラスの賞金、皇室から下賜された天皇楯の権威、長い歴史と伝統などに裏打ちされ、今も天皇賞は「古馬最高の栄誉」とされている。", + "qas": [ + { + "question": "日本で初めて重賞1位の馬が降着されたのは何年ですか?", + "id": "tr-077-13-000", + "answers": [ + { + "text": "1991年", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1981年からいなくなった出場制限制度は何ですか?", + "id": "tr-077-13-001", + "answers": [ + { + "text": "勝ち抜き制", + "answer_start": 192, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "4歳馬も出走が可能になったのは和暦にすると何年ですか?", + "id": "tr-077-13-002", + "answers": [ + { + "text": "昭和62年", + "answer_start": 414, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "明治天皇は日本各地へ巡幸して、その先々で競馬を台覧し、優勝騎手や馬主らに賞金や賞品を下賜した。下賜された品々は、樽酒や黄八丈、白絽の反物、白羽二重、美術品、工芸品などである。\n\n横浜競馬は多くの賞金や賞品を外部のパトロンやスポンサーから得ており、とりわけ皇室や皇族はその代表格だった。例えばロシア皇太子の名を冠した“CesarewitchGift”という競走の賞品を実際に提供していたのは日本の皇室だった。横浜競馬場で明治天皇が下賜したものは記録に残っているもので、「銅製花瓶」一対、「経一尺龍浮彫七宝入銀製花瓶」などがある。1900年(明治33年)にはロシア全権公使ローゼン男爵がMirror号の優勝により「銀製花鳥七宝菓子敷」を授与されている。ほかにも上野へ「金象眼銅製馬」を下賜した記録がある。なお、皇室以外からでも、横浜競馬の神奈川賞杯競走で神奈川県令が「青銅製酒杯」を賞賜している。\n\n天皇賞のルーツとされるTheEmperor'sCupの創設にあたって、明治天皇が下賜した御賞典を受け取った日本レース倶楽部では“尊重の重宝”と邦訳した。一方、1906年(明治39年)秋に池上競馬場で行われた皇室賞典では「銀製花盛鉢」が下賜された。これは直径が約30センチ(1尺)、深さが約15センチ(5寸)の大銀鉢で、三本の脚がつき、菊花の文様が高彫されていたと伝わる。以後も菊花御紋付銀製花盛器(銀製鉢や洋杯)が下賜された。御賞典は拝領する側にも相応のマナーが必要とされ、馬主や関係者は拝領式の際、正装(モーニングか国民服、軍服でも可)で臨むこととされていた。", + "qas": [ + { + "question": "1900年ローゼン男爵がMirror号の優勝を祝って下賜したものは何ですか?", + "id": "tr-077-14-000", + "answers": [ + { + "text": "「銀製花鳥七宝菓子敷」", + "answer_start": 304, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "明治39年秋の皇室賞典はどこで開かれましたか?", + "id": "tr-077-14-001", + "answers": [ + { + "text": "池上競馬場", + "answer_start": 491, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "楯(プレート)の下賜もまた、イギリス王室の伝統となっている。国を追われ、亡命先のフランスで馬術を磨いたチャールズ2世は王政復古が成って戴冠すると、ニューマーケット競馬場を復興した。1665年に国王チャールズ2世はタウンプレート(TheTownPlate、もしくはNewmarketTownPlate)という競走を作り、自ら優勝楯を提供した。国王自身も騎手として優勝したことがある。この競走は「King'sPlate(女王の場合はQueen'sPlate。RoyalPlateとも呼ばれる)」として受け継がれ、現存する世界最古の競馬の競走である。\n\n明治天皇の時代に始まった華やかな銀杯の下賜は、大正時代に勃発した第一次世界大戦の間も絶えることなく、30年以上続いた。一方、その間に中国大陸での動乱は激しくなり、1931年(昭和6年)の満州事変、1937年(昭和12年)には7月に盧溝橋事件、8月に上海事変が相次いで起きた。\n\nその直後である1937年(昭和12年)9月、皇室は競馬会に対し、以後の御賞典下賜を年2回とする、という通達を行っている。この通達により、年10回行われていた帝室御賞典は年2回施行になった。そして皇室は、帝室御���典の回数を減らす分、御賞典をより立派なものにすることとなる。また同時期、大陸での時局の緊迫化によって軍馬の需要が急増していた。軍部はより強固な馬政統制を行うため全国の競馬倶楽部を一本化して「日本競馬会」を作った。そして帝室御賞典は、軍部の求めるスタミナ溢れる馬を作るため、長距離の3200メートルに改められた。", + "qas": [ + { + "question": "現存する競馬競走の中で、世界中でもっとも古い競馬競走を作ったのは誰ですか?", + "id": "tr-077-15-000", + "answers": [ + { + "text": "チャールズ2世", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "帝室御賞典の長距離の距離が3200mになっちまった理由は何?", + "id": "tr-077-15-001", + "answers": [ + { + "text": "軍部の求めるスタミナ溢れる馬を作るため", + "answer_start": 634, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "大陸での緊迫した情勢はさらに激しさを増し、日中戦争へと発展した。1939年(昭和14年)秋にはヨーロッパでドイツと連合軍が戦争を始め、日本に対しても「ABCD包囲網」と呼ばれる経済封鎖が1941年(昭和16年)より実施され、国内では様々な物資が不足するようになった。これに伴う金属製品の統制を受け、帝室御賞典の賞杯も同年春から優勝楯に改められた。\n\n新しい優勝楯の作成にあたり、宮内省は東京高等工芸学校教授の畑正吉にデザインを依頼。これをもとに鋳物師の持田増次郎が金物を製作し、金メッキを施した2寸(約6センチ)もある菊の紋章と、板金をはめこんだ「競馬恩賞」の文字をラワン板にあしらった金御紋章付楯(いわゆる「天皇楯」)となった。\n\n天皇楯の下賜も1944年(昭和19年)春の「能力検定競走」で下賜を辞退したことにより中断し、秋には帝室御賞典も中止となった。", + "qas": [ + { + "question": "日中戦争中、金属製品の統制によって帝室御賞典優勝商品は何に変わりましたか?", + "id": "tr-077-16-000", + "answers": [ + { + "text": "優勝楯", + "answer_start": 163, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1939年の帝室御賞典の優勝者に授与されるものは何ですか?", + "id": "tr-077-16-001", + "answers": [ + { + "text": "賞杯", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "戦争で中断した競馬は終戦後に再開され、帝室御賞典は御賞典が下賜されなかったため「平和賞」の名称で1947年(昭和22年)春に復活した。その後、1947年(昭和22年)秋に予定していた“第2回平和賞”の前日に皇室から天皇楯の下賜が決まったが、天皇楯はこれ以降持ち回り制になった。平和賞は急遽「天皇賞」に改称され、「第1回天皇賞」として施行された。ただし、前述の通りJRAでは1937年(昭和12年)秋の「帝室御賞典」を第1回としている。\n\n表彰式で優勝馬主が楯を受け取る際は、白手袋を着用することが慣例となっている。", + "qas": [ + { + "question": "「天皇賞」で初めて天皇楯が授与されたのは何年ですか?", + "id": "tr-077-17-000", + "answers": [ + { + "text": "1947年", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "第1回の平和賞は何年でしたか?", + "id": "tr-077-17-001", + "answers": [ + { + "text": "1947年", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "2005年(平成17年)の第132回天皇賞(秋)は「エンペラーズカップ100年記念」と副題がつけられ、第125代天皇上皇明仁・上皇后美智子が東京競馬場に来場し天皇賞を観戦した。当初は前年の2004年(平成16年)に予定されていたが、施行日の8日前に発生した新潟県中越地震の被害に配慮して取り止めとなっていた。天皇が天皇賞を観戦した例は史上初めてであり、天皇自身による競馬観戦(いわゆる天覧競馬)も1899年(明治32年)以来106年ぶりとなった。競走前に天皇・皇后は場内の競馬博物館で「エンペラーズカップ100年記念栄光の天皇賞展」を鑑賞。競走後に優勝騎手の松永幹夫が貴賓席に対して馬上から最敬礼を行った。\n\n2012年(平成24年)の第146回天皇賞(秋)では「近代競馬150周年記念」と副題がつけられ、7年ぶりに天覧競馬が実施された。この際、優勝騎手のミルコ・デムーロはコース内でいったん下馬して最敬礼を行った。本来このような行為は騎乗馬が故障した場合を除き、競走後にコース内で騎手が下馬することを禁止する規則に抵触するものであったが、これを理由とした制裁は行われなかった。\n\nなお、第125代天皇上皇明仁とその皇后の美智子は皇太子・皇太子妃だった1987年(昭和62年)にも、天皇賞施行50周年を記念して行われた第96回天皇賞(秋)を台覧している。", + "qas": [ + { + "question": "平成16年の時点で、最後の天皇本人の競馬観戦は何年の出来事なのか、和暦で答えてください。", + "id": "tr-077-18-000", + "answers": [ + { + "text": "明治32年", + "answer_start": 204, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "2回目の天覧競馬は何年に行われましたか?", + "id": "tr-077-18-001", + "answers": [ + { + "text": "2012年", + "answer_start": 305, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "2012年秋の天皇賞で優勝した騎手の名前はなんていうの?", + "id": "tr-077-18-002", + "answers": [ + { + "text": "ミルコ・デムーロ", + "answer_start": 378, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "貿易史", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "貿易は、その場にはない財を入手するための手段である。そのために狩猟や略奪に似た面を持っているが、貿易には2方向で財をやりとりするという性質がある。また、取り引きでは平和が保たれる必要があり、貿易には集団間の交流をもたらす効果もあった。貿易は、貨幣や市場が存在しない時代から行われていた。最も原初的な交易とされる方法に沈黙交易があり、2つの集団が接触を避けながら交渉をする。取り引きの当事者は接触や会話をせずに品物を置き、品物を気に入れば取り引きは成立となる。財の入手において外部の集団からの影響を受けない点が重要とされ、会話が通じる集団同士でも沈黙交易は行われる。沈黙交易はヘロドトスが記したアフリカのカルタゴとリビュアや、中世のヴォルガ・ブルガールの毛皮貿易、『蝦夷志』のアイヌなど世界各地に存在した記録がある。また、沈黙交易は20世紀においても行われている。行動規範が同じで隣接している集団との交易では、正直さや儀礼の正確さが求められる。しかし、面識がない集団が相手となると、それぞれの行動規範が機能しない。そのため取り引きの相手をだます行為を認めたり、推奨をする場合もあった。", + "qas": [ + { + "question": "貿易が狩猟や略奪と異なるのは、どんな性質を持っていることなの?", + "id": "tr-078-00-000", + "answers": [ + { + "text": "2方向で財をやりとりするという性質", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "2つの集団が接触を避けながら交渉をする最も原初的な交易のことを、何と呼ぶか?", + "id": "tr-078-00-001", + "answers": [ + { + "text": "沈黙交易", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "贈り物の交換や使節の交流などの政治的、儀礼的な面がある貿易は、贈与貿易とも呼ばれる。贈与貿易は、トロブリアンド諸島で2種類の腕輪を贈るクラや、ヴァイキングのサガに書かれた風習に見ることができる。贈与貿易は、集団間の武力衝突を避ける交流としても選ばれた。遠隔地からの財の獲得は軍事的、外交的な事業でもあり、権力者によって管理貿易が行われた。国家間の管理貿易は条約が定められ、専門の交易者が参加して、用いる財の種類と交換比率が固定されていた。管理貿易では公的な財や権力者の財が取り引きされ、やがて私的な財の取り引きも平行して行われるようになった。たとえばモルッカ諸島の香料貿易では、外国商人は国王が所有するクローブから買い入れ、次に個人所有のクローブを買い入れた。奈良時代の日本では、貴族が優先的に大陸からの財を買い付けた[11]。中国で確立した管理貿易としては朝貢があり、周辺国のあいだでも朝貢が行われた。", + "qas": [ + { + "question": "集団間の武力衝突を避ける交流として選ばれたのは、贈与貿易と管理貿易のうち、どちらか?", + "id": "tr-078-01-000", + "answers": [ + { + "text": "贈与貿易", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "政治的、儀礼的な面がある貿易のことを、どのような貿易と呼ぶか?", + "id": "tr-078-01-001", + "answers": [ + { + "text": "贈与貿易", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ナイル川に沿って、紀元前5200年頃からエジプト北部、紀元前4200年頃には南部で系統の異なる農耕・牧畜文化が存在した。ナイル下流にナカダ文化が栄えると、南のヌビアとの交易が行われるようになる。ナカダからはビール、油、チーズ、ヌビアからは象牙、黒檀などが輸出された。交易用の土器は、紀元前3200年頃になるとパレスチナ産も含まれており、交易の長距離化が進んでいた。古代エジプトの王朝が統一されて古王国時代になると、官僚や神官によって遠征隊が組織されて、砂漠での採石や採鉱、ミイラの製作に必要なナトロンの採集を行った。貿易においても同様に遠征隊が派遣されて、金や乳香をプント国に求め、象牙や黒檀はヌビア、銀はメソポタミア、木材は東地中海のグブラから輸入した。エジプト王朝が弱体化した時期にはヌビアに遊牧民が生活して交易を行ったが、紀元前2040年以降の中王国時代には、エジプト王朝がナイル川の第2瀑布まで進出して金を採集するようになる。採掘やプント国との貿易で得た金は神殿や王宮に蓄蔵され、地中海やメソポタミアとの貿易にも用いられた。紀元前17世紀から異民族のヒクソスが建国した第15王朝や第16王朝では、クレタ島で栄えたミノア文明などとの貿易が行われた。", + "qas": [ + { + "question": "ビールと油、チーズ、象牙のうち、ナカダから輸出されたものではないのは、何?", + "id": "tr-078-02-000", + "answers": [ + { + "text": "象牙", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "エジプトにおいて、交易の長距離化が進んだのは、紀元前何年頃からですか?", + "id": "tr-078-02-001", + "answers": [ + { + "text": "紀元前3200年頃", + "answer_start": 141, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "エジプトにおける古王国時代にプント国から輸入してきたものではないのは、金と乳香、象牙のうち、どちらか?", + "id": "tr-078-02-002", + "answers": [ + { + "text": "象牙", + "answer_start": 291, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "マケドニアのアレクサンドロス3世の征服後には、ナイル川の河口にアレクサンドリアが建設され、政治と貿易の拠点となる。穀倉地帯に恵まれていたエジプトは、ギリシア向けの穀物輸出も行った。やがて、世界最古の価格が変動する国際穀物市場が成立して、ナウクラティスのクレオメネスが運営した。クレオメネスは飢饉時に穀物の輸出を規制して、国内の食料を確保した。また、貿易担当者を4つのグループに分けて、本土の輸出、航海の輸送、ロドス島での交渉、ギリシア各地での情報収集を担当させて、価格の最も高い都市へ穀物を運んだ。この政策は国庫に8000タラン��ンという巨額の富をもたらす一方で、穀物の安定供給を求めるギリシアには批判された。クレオメネスの貿易政策は彼の死後にプトレマイオス朝に引き継がれ、ローマがエジプトを属州としてアエギュプトゥスとなるまで続く。そののちも、アレクサンドリアは地中海貿易で栄えた。", + "qas": [ + { + "question": "アレクサンドリアはどこに建設されたのか?", + "id": "tr-078-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ナイル川の河口", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クレオメネスの貿易政策では、本土の輸出と航海の輸送、ロドス島での交渉と何の4グループに分け、それぞれ担当者を置いたの?", + "id": "tr-078-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ギリシア各地での情報収集", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "古代エジプトがローマの属州だった時代の地名は、何ですか?", + "id": "tr-078-03-002", + "answers": [ + { + "text": "アエギュプトゥス", + "answer_start": 351, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "紀元前10世紀から8世紀にかけて、地中海の沿岸にそってフェニキア人が植民都市を建設した。その中で最も繁栄したのが、ティルス人がチュニジアに建てたカルタゴだった。フェニキアはイベリア半島のタルテッソスから東へ銀や錫を運んで利益を得ており、その帰路に位置するカルタゴは、良港と農地にもめぐまれて発展した。カルタゴは西地中海のサルデーニャ島やイベリア半島に進出したほか、東方のアケメネス朝とも貿易や協力関係を築いた。また、西アフリカやサハラにも関心をもち、航海者ハンノはコートジボワール近辺まで航路を開拓している。貿易ルートの確保をめぐってはギリシアやローマと対立し、紀元前5世紀にはシチリアにおいてギリシアと戦い、紀元前3世紀にはローマと戦った。カルタゴがポエニ戦争でローマに破れたのちの北アフリカはアフリカ属州となり、穀物を輸出してローマの人口を支えた。", + "qas": [ + { + "question": "カルタゴは誰が建てたの?", + "id": "tr-078-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ティルス人", + "answer_start": 57, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "サルデーニャ島とイベリア半島はどの海に当たっていますか?", + "id": "tr-078-04-001", + "answers": [ + { + "text": "西地中海", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カルタゴがローマに破れた戦争とは、何か?", + "id": "tr-078-04-002", + "answers": [ + { + "text": "ポエニ戦争", + "answer_start": 326, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ポエニ戦争とは、紀元前何世紀に起こった戦争か?", + "id": "tr-078-04-003", + "answers": [ + { + "text": "紀元前3世紀", + "answer_start": 305, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "地中海東岸では紀元前3千年紀には都市国家があり、レバノンスギが建築や造船に用いられる優れた木材として有名だった。レバノンスギはエジプトやメソポタミアにも輸出され、グブラでは紀元前2680年にはすでにエジプトから遠征隊が訪れて伐採を行っていた。紀元前23世紀以降に最盛期を迎えたエブラには、紀元前2250年頃の粘土板文書があり、アナトリア、パレスティナ、キプロス島、メソポタミア、エジプトと貿易をしていた記録がある。東岸の諸都市は古くから貿易で栄えており、その富はしばしば周辺国の紛争の原因にもなった。レバノンスギの他にも良質の木材に恵まれていたが、伐採によって森林は減少していった。", + "qas": [ + { + "question": "紀元前3千年紀の地��海東岸で建築や造船に用いられる優れた木材として有名だったものは、エジプトとどこに輸出されたの?", + "id": "tr-078-05-000", + "answers": [ + { + "text": "メソポタミア", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "エブラは、紀元前何世紀以降に最盛期を迎えましたか?", + "id": "tr-078-05-001", + "answers": [ + { + "text": "紀元前23世紀以降", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "紀元前20世紀にはクレタ島にミノア文明が興り、ミノアはエジプトや地中海東岸の都市と取り引きを行った。やがてミノアはペロポネソス半島のミケーネ文明と競合して、ミケーネはミノアによって東への進出をはばまれるが、紀元前15世紀にクレタ島を占領した。金属貿易としてタウロス山の銀、エジプトの金、キプロスの銅を扱うウガリトが紀元前14世紀を頂点に繁栄した。ウガリトの商人は東岸やメソポタミアで取り引きをしつつ、王の使節に同行して管理貿易をする者のほかに私的な商人もいた。ウラの商人は、ヒッタイトから貿易を委託されてウガリトに滞在したが、次第にその経済力が警戒されて、土地の購入を禁じられるようになった。海上では当時から海賊の被害が深刻であり、ウガリトとキプロスが海賊対策で協定を結んだこともあった。", + "qas": [ + { + "question": "地中海東岸の都市のほかに、紀元前20世紀にクレタ島で興った文明と取引を行ったと書いてあるのは、どこか?", + "id": "tr-078-06-000", + "answers": [ + { + "text": "エジプト", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ミノア文明が競合した文明とは、何ですか?", + "id": "tr-078-06-001", + "answers": [ + { + "text": "ミケーネ文明", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ミノアがミケーネに占領されたのは、紀元前何世紀のことなの?", + "id": "tr-078-06-002", + "answers": [ + { + "text": "紀元前15世紀", + "answer_start": 103, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "東地中海は前1200年のカタストロフとも呼ばれる大変動によってヒッタイトが滅亡し、エジプトやミケーネも衰退する。青銅器時代にカナンと呼ばれていた地域の人々は、この変動の影響を受けて海岸部に集中して住むようになる。それまで農耕を中心としていたカナン人は、居住地の減少のために商工業へと生業を変えて、紀元前12世紀から紀元前8世紀にかけて西地中海へ進出した。こうして、カナンは鉄器時代にはフェニキアと呼ばれるようになる。カナンやフェニキアという名は自称ではなく、特産物であるシリアツブリガイから作った貝紫色の染料を由来とする。", + "qas": [ + { + "question": "カナンの人々は、何が原因で海岸部に集中して住むようになりましたか?", + "id": "tr-078-07-000", + "answers": [ + { + "text": "前1200年のカタストロフ", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "特産物であるシリアツブリガイから作った貝紫色の染料を由来とする地名には、カナンのほかに、何があるか?", + "id": "tr-078-07-001", + "answers": [ + { + "text": "フェニキア", + "answer_start": 212, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "東地中海では金属が不足しており、フェニキアは金、銀、銅、鉄、鉛、錫などを求めて西方へ航海した。フェニキアが各地で得た金属を西アジアへ送り、海上貿易によってグブラやテュロス、シドンといった都市が栄える。輸出品としては金属の他に特産である貝紫色の染料や木材、そして象牙、ガラス、貴金属などを使った工芸品や奴隷があった。テュロス王のヒラムはイスラエル王のソロモンと協定を結び、テュロスは木材と職人、イスラエルは小麦とオリーブを贈り、エルサレム神殿が完成した。ヒラムとソロモンが協力した紅海の貿易については『旧約聖書』の「列王記」、テュロスの貿易による繁栄は「エゼキエル書」に記されている。テュロスからはイベリア半島やアフリカへの植民が始まり、キプロス、シチリア、マルタ、サルデーニャに拠点を建設した。フェニキア人は、紀元前8世紀から9世紀にギリシア、紀元前6世紀にはローマと接触して、地中海をめぐって対立する。北アフリカのフェニキア植民都市であるカルタゴは、東地中海のフェニキア都市が他国の支配下となったのちも繁栄を続けた。", + "qas": [ + { + "question": "エルサレム神殿はテュロスとどこの協力で完成させたものなの?", + "id": "tr-078-08-000", + "answers": [ + { + "text": "イスラエル", + "answer_start": 167, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "小麦とオリーブ、木材のうち、イスラエルがエルサレム神殿を作り上げるために送ったものではないのは、どちらなの?", + "id": "tr-078-08-001", + "answers": [ + { + "text": "木材", + "answer_start": 190, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ローマとギリシアのうち、フェニキア人との対立時期がより早いのは、どちらですか?", + "id": "tr-078-08-002", + "answers": [ + { + "text": "ギリシア", + "answer_start": 367, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ギリシアの都市国家であるポリスは、エジプトやメソポタミアのように大規模な穀倉地帯がなく、地中海や黒海で穀物の輸入と植民をすすめた。紀元前5世紀から4世紀にはアテナイがギリシアの商業の中心地となり、小麦、木材、鉄、銅、奴隷などを輸入して、陶器、オリーブ油、ワインなどを輸出した。貿易のための港はエンポリウムと呼ばれ、アテナイではペイライエウスにエンポリウムが建設され、その他にミレトス、ナウクラティス、アイノス、ビュザンティオン、テオドシア、パンティカパイオンなど各地に存在した。ルートの安全を保障するための軍事力も整備され、デロス同盟で海上支配を強めた。", + "qas": [ + { + "question": "エジプトとメソポタミア、ポリスのうち、繁栄を成し遂げた原動力となるものの性格が完全に異なるのは、どちらの都市国家であるの?", + "id": "tr-078-09-000", + "answers": [ + { + "text": "ポリス", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "紀元前5世紀から4世紀にギリシアの商業の中心地であった都市は、どの都市ですか?", + "id": "tr-078-09-001", + "answers": [ + { + "text": "アテナイ", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "貿易商人は、商船を所有するナウクレーロスと、商船に同乗したり陸上で貿易をするエンポロスに大きく分かれており、ポリス内の市場で取り引きをするカペーロスとは区別された。土地を所有できない外国人居留者であるメトイコスが、ナウクレーロスやエンポロスに従事した。メトイコスには、ミケーネ文明の崩壊でアテナイに住み着いた難民が多かったとされる。アテナイに届いた穀物には2パーセントの関税がかかり、エンポロスが3分の2を市内に運び、それをカペーロスがアゴラで販売した。戦争に付随するかたちで奴隷貿易も行われており、従軍商人によって戦利品や捕虜が競売にかけられ、エンポリウムへ送られた。トゥキュディデスの『戦史』や、クセノポンの『アナバシス』には、戦争と結びついた貿易が記されている。", + "qas": [ + { + "question": "古代ギリシアの貿易商人は、ナウクレーロスと何に大きく分けられていたか?", + "id": "tr-078-10-000", + "answers": [ + { + "text": "エンポロス", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ナウクレーロスとエンポロス、カペーロスのうち、その性格が異なるとされているのは、どちらか?", + "id": "tr-078-10-001", + "answers": [ + { + "text": "カペーロス", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "貿易により届けられた商品は、最終的に誰の手に引き渡られ、販売されるか?", + "id": "tr-078-10-002", + "answers": [ + { + "text": "カペーロス", + "answer_start": 212, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "古代ギリシアで商品の売買が行われた場所は、どこか?", + "id": "tr-078-10-003", + "answers": [ + { + "text": "アゴラ", + "answer_start": 218, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "日本の深夜バス", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "日本の深夜バスでは、日本における路線バスの運行形態の1つである深夜バスについて記述する。主に午後11時以降となる深夜時間帯に運行され、運賃や運行形態などが通常とは異なる設定となっている路線バスをさす。本項では鉄道の最終列車出発後に都心と郊外を結ぶ目的で設定された深夜急行バス・深夜中距離バスについても記述する。", + "qas": [ + { + "question": "主に午後11時以降となる深夜時間帯に運行され、運賃や運行形態などが通常とは異なる設定となっている路線バスを何と呼びますか。", + "id": "tr-079-00-000", + "answers": [ + { + "text": "深夜バス", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "一般的に、深夜バスは午後何時以降から利用できますか。", + "id": "tr-079-00-001", + "answers": [ + { + "text": "午後11時以降", + "answer_start": 46, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1953年8月1日、大阪とその近郊に路線を有する阪急バスは24時以降に運行する深夜バスの運行を開始した。大阪市内から豊中・池田・宝塚に至る阪北線と天六・吹田・茨木・高槻・京都に至る京都急行線の2路線があり、阪北線では22時台発~翌朝3時台まで、京都急行線では20時台発~翌朝5時台着までの便を『深夜バス』と称していた。このときの深夜バスの様子が前田や柳田・紀戸によって紹介されており、以下に掲載する首都圏よりも20年以上も早い、有史上で日本国内初の深夜バスであった。", + "qas": [ + { + "question": "日本国内初の深夜バスは何年度に運行を始めましたか。", + "id": "tr-079-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1953年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "大阪市内から豊中・池田・宝塚に至る路線は何時台の発でしたか。", + "id": "tr-079-01-001", + "answers": [ + { + "text": "22時台", + "answer_start": 108, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1970年代以降、日本では都市中心部の人口が減少するのと並行して都市外縁部の人口が増加するといういわゆるドーナツ化現象がみられ、東京圏を例にすると1975年から1985年の10年で平均通勤時間は15分長くなった。この事例は、都心部を同じ時間に出発しても、居住地へ帰着する時間は遅くなるということを示していた。また、都市機能の多様化により、都市の活動時間、言い換えれば都市部にいる人の生活時間の拡大と、それに伴うライフスタイルの変化は顕著なものになった。このような状況下においても、バスにおいては午後9時前後で頻繁な運行は終わり、午後10時台には最終バスが発車するのが主流という状態であった。���の後の深夜の輸送手段はタクシーが担っていたが、タクシーの待ち時間が30分を超えることも珍しくなくなってきていたことから、利用者からは「バスをもっと遅くまで走らせて欲しい」という要望が高まり、深夜時間帯の輸送力の確保が課題となった。", + "qas": [ + { + "question": "都市中心部の人口が減るとともに都市外縁部の人口が増える現象を何というの?", + "id": "tr-079-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ドーナツ化現象", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1975年から1985年の10年で東京圏の平均通勤時間が15分長くなったのはどんな現象の結果ですか。", + "id": "tr-079-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ドーナツ化現象", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "深夜バスは利用者等と調整の上、通常のバス運賃より高く設定できる。\nその後、免許については通常の乗合免許に変更されている。現在では乗合自動車自体が路線免許制ではなく事業者許可制となった。\n\n運賃は、大都市圏においては概ね通常運賃の2倍として、定期券を利用する場合は差額(通常運賃)を支払う方式が定着しているが、岩手県交通のように通常運賃より20円から70円程度高く設定したり、宇野バスのように運賃を800円均一に設定し、定期券を利用の場合は通常運賃との差額を支払う方式にしている事例もある。また、阪東自動車のように他社との競合上、通常運賃と同額にしている例もある。", + "qas": [ + { + "question": "深夜バスと通常のバスとより運賃が高いのはどっちなの?", + "id": "tr-079-03-000", + "answers": [ + { + "text": "深夜バス", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "岩手県交通の深夜バスの運賃は、通常運賃よりいくら高く設定されていますか。", + "id": "tr-079-03-001", + "answers": [ + { + "text": "20円から70円程度", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "太陽系外惑星", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "太陽系外惑星または系外惑星とは、太陽系の外にある、太陽以外の恒星を公転する惑星である。\n\nその存在を示すとされた初めての証拠は1917年に記録されたが、その証拠は認められなかった。科学的観測に基づいて初めて太陽系外惑星が発見されたのは1988年であったが、後にそうであると確認されるまでは太陽系外惑星としては受け入れられなかった。\n\n初めて太陽系外惑星が正式に確認されたのは1992年で、太陽系外惑星エンサイクロペディアの統計によると2020年10月1日時点で4,354個の太陽系外惑星が確認されており、惑星系を持つことが確認されている恒星は3,218個で、そのうち712個が複数の惑星を持っている。惑星「候補」も含めると総数は同時点で6,908個であり、惑星系を持つ恒星は5,541個、そのうち884個が複数の惑星を持っている。", + "qas": [ + { + "question": "太陽系外惑星の存在を示す最初の証拠はいつ記録されたものですか。", + "id": "tr-080-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1917年", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "科学的観測に基づいて初めて太陽系外惑星が発見されたのは何年のことですか。", + "id": "tr-080-00-001", + "answers": [ + { + "text": "1988年", + "answer_start": 117, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "太陽系外惑星エンサイクロペディアの統計によると2020年10月1日時点でいくつの太陽系外惑星が確認されていますか。", + "id": "tr-080-00-002", + "answers": [ + { + "text": "4,354個", + "answer_start": 230, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "惑星系を持つ恒星のうち、複数の惑星を持っているものはいくつですか。", + "id": "tr-080-00-003", + "answers": [ + { + "text": "884個", + "answer_start": 348, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "2004年から観測を行っている高精度視線速度系外惑星探査装置(HARPS)では約100個の太陽系外惑星が発見されているが、2009年から観測を行っているケプラー宇宙望遠鏡は2,000を超える太陽系外惑星を発見しており、また数千個もの惑星候補を検出しているが、そのうちの約11%は誤検出である可能性が示されている。いくつかの恒星では、周りを複数の惑星が公転している様子も観測されている。\n\n太陽のような恒星の約5分の1はハビタブルゾーン内に「地球サイズ」が存在するとされており、銀河系に2,000億個の恒星があると仮定すると、潜在的に居住可能な惑星は銀河系内に110億個存在していることになり、赤色矮星の場合も含めるとその数は400億個に及ぶと見積もられている。", + "qas": [ + { + "question": "銀河系に2,000億個の恒星があると仮定すると、潜在的に居住可能な惑星は銀河系内にいくつ存在することになりますか。", + "id": "tr-080-01-000", + "answers": [ + { + "text": "110億個", + "answer_start": 279, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "知られている中で最も質量が小さな太陽系外惑星はDraugrで、月の約2倍の質量しか持たない。一方で、NASAExoplanetArchiveに記載されている最も質量が大きな太陽系外惑星はHR2562bで、木星の約30倍の質量を持つが、惑星の定義に基づくとこの質量は惑星とみなすには大きすぎるため、褐色矮星に分類される可能性がある。太陽系外惑星には主星に非常に近い軌道をわずか数時間で公転しているものや、とても遠くに離れて数千年かけて公転しているものもあり、中には主星と重力的に結び付いているかどうかも曖昧なほど離れているものもある。これまで発見されてきた太陽系外惑星のほとんどは銀河系内に位置しているが、銀河系から遠く離れた別の銀河内に存在する銀河系外惑星が存在する可能性を示す証拠も見出されている。現在、知られている最も太陽系に近い太陽系外惑星はプロキシマ・ケンタウリbで、約4.2光年(約1.3パーセク)離れている。", + "qas": [ + { + "question": "知られている中で最も質量が小さな太陽系外惑星は何?", + "id": "tr-080-02-000", + "answers": [ + { + "text": "Draugr", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "月とDraugrと、より質量が大きいのはどっちなの?", + "id": "tr-080-02-001", + "answers": [ + { + "text": "Draugr", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "HR2562bと木星と、より質量が大きいのはどっちなの?", + "id": "tr-080-02-002", + "answers": [ + { + "text": "HR2562b", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "現在、知られている最も太陽系に近い太陽系外惑星は何ですか。", + "id": "tr-080-02-003", + "answers": [ + { + "text": "プロキシマ・ケンタウリb", + "answer_start": 374, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "何世紀にも渡って、多くの科学者、哲学者、SF小説作家は太陽系外惑星が存在すると考えていた。しかし、長らくそれを発見する方法はなく、どのくらい存在するか、どれだけ太陽系の惑星に似ているかを知る手段もなかった。19世紀までに太陽系外惑星を発見するために提案された観測方法は、全て天文学者によって否定されていた。太陽系外惑星の存在を示す最初の証拠は1917年に記録されたが、それが認められることは無かった。科学的根拠に基づいて初めて太陽系外惑星の存在を示す証拠が記録されたのは1988年である。その直後、1992年にパ��サーPSRB1257+12を公転する史上初めての太陽系外惑星が確認された。初めて発見された、主系列星を公転している太陽系外惑星はペガスス座51番星のすぐ傍を4日で公転している巨大ガス惑星で、1995年に発見された。\n\n当初は木星質量の数分の1以下の天体は検出できなかったが、その後海王星サイズの惑星も検出できるようになり、スーパー・アースと呼ばれる巨大地球型惑星の発見を経て、最終的には地球以下のサイズの惑星までもが発見できるようになった。2018年8月時点で最も質量が小さな太陽系外惑星は、PSRB1257+12の最も内側を公転しているPSRB1257+12Aで、月の2倍程度の質量しかない(冥王星の5分の1程度の質量を持つ彗星か小惑星らしきものもあると言われている)。大きい方では、質量が木星の10倍もあるような超巨大惑星も見つかっている。これより大きな天体としては褐色矮星があるが、質量分布からは惑星と褐色矮星の間に明確な溝がみられる。", + "qas": [ + { + "question": "科学的根拠に基づいて初めて太陽系外惑星の存在を示す証拠が記録されたのはいつなの。", + "id": "tr-080-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1988年", + "answer_start": 235, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "パルサーPSRB1257+12を公転する史上初めての太陽系外惑星は何年に確認されましたか。", + "id": "tr-080-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1992年", + "answer_start": 249, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "PSRB1257+12Aと月と、質量がもっと大きいのはどっちなの?", + "id": "tr-080-03-002", + "answers": [ + { + "text": "PSRB1257+12A", + "answer_start": 526, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "近代オリンピック", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "近代オリンピック(きんだいオリンピック、仏:Jeuxolympiques、英:OlympicGames)は、国際オリンピック委員会(英:IOC)が開催する世界的な総合スポーツ大会である。1994年から夏季大会と冬季大会の各大会が4年に1度、夏季大会は西暦で4の倍数の年、冬季大会は4の倍数でない偶数の年で2年ずらして開催されるので、2年に1度開催されることになる。\n日本語ではオリンピック、またそのシンボルマークから五輪と呼ぶこともある。", + "qas": [ + { + "question": "国際オリンピック委員会が開催する世界的な総合スポーツ大会とは何ですか?", + "id": "tr-081-00-000", + "answers": [ + { + "text": "近代オリンピック", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "近代オリンピックを開催するに当たって携わっている委員会は何ですか?", + "id": "tr-081-00-001", + "answers": [ + { + "text": "国際オリンピック委員会", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "近代オリンピックは何年から始まりましたか?", + "id": "tr-081-00-002", + "answers": [ + { + "text": "1994年", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "近代オリンピックは夏季大会と何大会がありますか?", + "id": "tr-081-00-003", + "answers": [ + { + "text": "冬季大会", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "近代オリンピックの夏季大会と冬季大会の各大会は何年に1度開催されますか?", + "id": "tr-081-00-004", + "answers": [ + { + "text": "4年", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "近代オリンピックは日本では何と呼ばれていますか?", + "id": "tr-081-00-005", + "answers": [ + { + "text": "オリンピック", + "answer_start": 188, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "近代オリンピックは、シンボルマークから何と呼ばれていますか?", + "id": "tr-081-00-006", + "answers": [ + { + "text": "五輪", + "answer_start": 208, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "19世紀末のパリ大学ソルボンヌ大における会議でフランスのピエール・ド・クーベルタンが古代ギリシャのオリンピアの祭典をもとにして世界的なスポーツ大会を開催する事を提唱し、決議された。\n夏季と冬季に大会があり、夏季オリンピック第1回は、1896年にアテネ(ギリシャ)で開催され、2度の世界大戦による中断を挟みながら継続されている。\n冬季オリンピックの第1回は、1924年にシャモニー・モンブラン(フランス)で開催された。\n1994年以降は、西暦が4で割り切れる年に夏季オリンピックが、4で割って2が余る年に冬季オリンピックが開催される(FIFAワールドカップが開催される年と同じ)。\n1994年のリレハンメル大会より、夏季大会と冬季大会が2年おきに交互開催するようになった。\n冬季オリンピックが始まった当初は夏季オリンピックの開催国の都市に優先的に開催権が与えられてきたが、降雪量の少ない国での開催に無理が生じることから1940年代前半に規約が改正され、同一開催の原則が廃止された(1928年アムステルダム大会時の際、オランダでは降雪量不足で雪山が無く、会場の確保困難であったことからこの年の冬季大会はサンモリッツ(スイス)で開催された)。\n大会の公用語はフランス語と英語であるが、フランス語版と英語版の規定に相違がある場合はフランス語を優先するとして、フランス語を第1公用語とする事を明らかにしている。\n現在は、フランス語、英語の他、開閉会式等では開催地の公用語も加える場合がある。\n1988年ソウル大会以降、パラリンピックとの連動が強化され、オリンピック終了後、同一国での開催がおこなわれている。", + "qas": [ + { + "question": "近代オリンピックの提唱者は誰ですか?", + "id": "tr-081-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ピエール・ド・クーベルタン", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "近代オリンピックの開催が決定されたのは何世紀末ですか?", + "id": "tr-081-01-001", + "answers": [ + { + "text": "19世紀末", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "近代オリンピック開催の決定をした会議はどこで行われましたか?", + "id": "tr-081-01-002", + "answers": [ + { + "text": "パリ大学ソルボンヌ大", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "近代オリンピックの提唱者、ピエール・ド・クーベルタンは何をベースにオリンピックを提唱しましたか?", + "id": "tr-081-01-003", + "answers": [ + { + "text": "古代ギリシャのオリンピアの祭典", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "近代オリンピックの夏季オリンピック第1回は何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-01-004", + "answers": [ + { + "text": "1896年", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "近代オリンピックの夏季オリンピック第1回はどこで開催されましたか?", + "id": "tr-081-01-005", + "answers": [ + { + "text": "アテネ", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "近代オリンピックは2度、何によって中断されましたか?", + "id": "tr-081-01-006", + "answers": [ + { + "text": "2度の世界大戦", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "近代オリンピックが冬に開催されると何大会と呼ばれますか?", + "id": "tr-081-01-007", + "answers": [ + { + "text": "冬季", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "近代オリンピックは冬季大会と何大会がありますか?", + "id": "tr-081-01-008", + "answers": [ + { + "text": "夏季", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "冬季オリンピックの第1回目は何年に開かれましたか?", + "id": "tr-081-01-009", + "answers": [ + { + "text": "1924年", + "answer_start": 178, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "冬季オリンピックの第1回目はどこで開かれましたか?", + "id": "tr-081-01-010", + "answers": [ + { + "text": "シャモニー・モンブラン", + "answer_start": 184, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "何年以降、西暦が4で割り切れる年に夏季オリンピックが、4で割って2が余る年に冬季オリンピックが開催されていますか?", + "id": "tr-081-01-011", + "answers": [ + { + "text": "1994年以降", + "answer_start": 209, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1994年以降、夏季オリンピックは、西暦が何で割り切れる年に開かれていますか?", + "id": "tr-081-01-012", + "answers": [ + { + "text": "4", + "answer_start": 212, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1994年以降、冬季オリンピックは、どういう年に開催されていますか?", + "id": "tr-081-01-013", + "answers": [ + { + "text": "4で割って2が余る年", + "answer_start": 240, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1994年以降、冬季オリンピックの開催は、何が開催される年と同じですか?", + "id": "tr-081-01-014", + "answers": [ + { + "text": "FIFAワールドカップ", + "answer_start": 266, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "夏季大会と冬季大会が2年おきに交互開催するようになったのは何年からですか?", + "id": "tr-081-01-015", + "answers": [ + { + "text": "1994年", + "answer_start": 290, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "夏季大会と冬季大会が2年おきに交互開催するようになったのは1994年の何の大会からですか?", + "id": "tr-081-01-016", + "answers": [ + { + "text": "リレハンメル大会", + "answer_start": 296, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "冬季オリンピックが始まった当初は何の開催国の都市に優先的に開催権が与えられてきましたか?", + "id": "tr-081-01-017", + "answers": [ + { + "text": "夏季オリンピック", + "answer_start": 352, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "冬季オリンピックが始まった当初は夏季オリンピックの開催国の都市に優先的に何が与えられてきましたか?", + "id": "tr-081-01-018", + "answers": [ + { + "text": "開催権", + "answer_start": 372, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "冬季オリンピックの開催は、降雪量の少ない国での開催に無理が生じることから何年代前半に規約が改正されましたか?", + "id": "tr-081-01-019", + "answers": [ + { + "text": "1940年", + "answer_start": 408, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1928年アムステルダム大会時の際、オランダでは降雪量不足で雪山が無く、会場の確保困難であったことからこの年の冬季大会はどこでで開催されましたか?", + "id": "tr-081-01-020", + "answers": [ + { + "text": "サンモリッツ", + "answer_start": 499, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "近代オリンピックの大会の公用語はフランス語と何語ですか?", + "id": "tr-081-01-021", + "answers": [ + { + "text": "英語", + "answer_start": 532, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "近代オリンピックの大会の公用語は英語と何語ですか?", + "id": "tr-081-01-022", + "answers": [ + { + "text": "フランス語", + "answer_start": 526, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "大会の公用語はフランス語と英語であるが、フランス語版と英語版の規定に相違がある場合は何語を優先しますか?", + "id": "tr-081-01-023", + "answers": [ + { + "text": "フランス語", + "answer_start": 526, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "現在は、フランス語、英語の他、何語を加える場合がありますか?", + "id": "tr-081-01-024", + "answers": [ + { + "text": "開催地の公用語", + "answer_start": 623, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1988年ソウル大会以降、連動が強化されたものは何ですか?", + "id": "tr-081-01-025", + "answers": [ + { + "text": "パラリンピック", + "answer_start": 654, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "パラリンピックの開催はいつですか?", + "id": "tr-081-01-026", + "answers": [ + { + "text": "オリンピック終了後", + "answer_start": 671, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "アマチュアリズムを基本とし、古代の平和の祭典の復興を目指したオリンピックであるが、二度の世界大戦やミュンヘン大会におけるテロ事件、冷戦下でのアフガニスタン紛争に伴う東西のボイコット合戦など時々の国際政治の影響は大きい。\n特にヒトラー政権下による1936年のベルリン大会はオリンピックそのものが利用された色彩が強く、聖火リレーのルートを後日ドイツ国防軍がそのまま逆進したとされたり、ナチズムに対する批判をかわすために一時的にユダヤ人政策を緩和したりするなど、政治が大きく影を落としたものとなっている。\nなお、夏季大会において第1回大会から全て参加しているのは、ギリシャ・イギリス・フランス・スイス・オーストラリアの5ヶ国のみである。\nギリシャによる開催は、1896年と2004年が正規のものとされている。\n第1回大会の十年後、1906年アテネ中間大会が唯一、例外的に開催され、開催事実も記録も公式に認めてメダル授与も行っている。\nしかし、4年に1度のサイクルから外れた開催であったため、後にこれはキャンセルとされ現在では正規の開催数に計上されておらず優勝者もメダリスト名簿から外され登録されてはいない。", + "qas": [ + { + "question": "古代の平和の祭典の復興を目指したオリンピックは、何を基本としていますか?", + "id": "tr-081-02-000", + "answers": [ + { + "text": "アマチュアリズム", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックのミュンヘン大会では何の事件が起きましたか?", + "id": "tr-081-02-001", + "answers": [ + { + "text": "テロ", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヒトラー政権下によるベルリン大会は何年でしたか?", + "id": "tr-081-02-002", + "answers": [ + { + "text": "1936年", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1936年のオリンピックはどこで開催されましたか?", + "id": "tr-081-02-003", + "answers": [ + { + "text": "ベルリン", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヒトラー政権によって利用されたベルリン大会は、何のルートを後日ドイツ国防軍がそのまま逆進しましたか?", + "id": "tr-081-02-004", + "answers": [ + { + "text": "聖火リレー", + "answer_start": 157, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ベルリン大会の聖火リレーのルートを後日逆進した軍は何ですか?", + "id": "tr-081-02-005", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ国防軍", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ベルリン大会でナチズムに対する批判をかわすために、一時的に緩和された政策は何ですか?", + "id": "tr-081-02-006", + "answers": [ + { + "text": "ユダヤ人政策", + "answer_start": 211, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックの夏季大会において第1回から全て参加している5か国は、イギリス・フランス・スイス・オーストリアの他にどこがありますか?", + "id": "tr-081-02-007", + "answers": [ + { + "text": "ギリシャ", + "answer_start": 279, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックの夏季大会において第1回から全て参加している5か国は、ギリシャ・フランス・スイス・オーストリアの他にどこがありますか?", + "id": "tr-081-02-008", + "answers": [ + { + "text": "イギリス", + "answer_start": 284, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックの夏季大会において第1回から全て参加している5か国は、ギリシャ・イギリス・スイス・オーストリアの他にどこがありますか?", + "id": "tr-081-02-009", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 289, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックの夏季大会において第1回から全て参加している5か国は、ギリシャ・イギリス・フランス・オーストリアの他にどこがありますか?", + "id": "tr-081-02-010", + "answers": [ + { + "text": "スイス", + "answer_start": 294, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1986年と2004年に開催された大会が正規とされている国はどこですか?", + "id": "tr-081-02-011", + "answers": [ + { + "text": "ギリシャ", + "answer_start": 316, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "正規とされているギリシャの大会は1986年と何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-02-012", + "answers": [ + { + "text": "2004年", + "answer_start": 333, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "正規とされているギリシャの大会は2004年と何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-02-013", + "answers": [ + { + "text": "1896年", + "answer_start": 327, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "例外的に開催されたアテネ中間大会のあった年は何年ですか?", + "id": "tr-081-02-014", + "answers": [ + { + "text": "1906年", + "answer_start": 362, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "例外的に開催されたアテネ中間大会は第1回大会の何年後ですか?", + "id": "tr-081-02-015", + "answers": [ + { + "text": "十年後", + "answer_start": 358, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "クーベルタンの提唱により、第1回オリンピックを1896年ギリシャ王国アテネで開催することになった。\n資金集めに苦労し、会期も10日間と短かったが、バルカン半島の小国の一つという国際的地位をいっそう向上させたいというギリシャ王国の協力もあり大成功に終わった。\nしかし、1900年のパリ大会、1904年のセントルイス大会は同時期に開催された万国博覧会の附属大会に成り下がってしまい、賞金つきの競技(1900年)、キセルマラソンの発覚(1904年)など大会運営にも不手際が目立った。\n1908年のロンドン大会、1912年のストックホルム大会から本来のオリンピック大会としての体制が整いだした。\n1908年のロンドン大会ではマラソンの走行距離は42.195kmであったがこれが1924年パリ大会以降固定され採用されている。\nこの時期には古代オリンピックに倣いスポーツ部門と芸術部門のふたつ競技会が開催されており、クーベルタンも1900年パリ大会で芸術部門で金メダルを獲得している。", + "qas": [ + { + "question": "ギリシャ王国アテネのある半島の名前は何ですか?", + "id": "tr-081-03-000", + "answers": [ + { + "text": "バルカン半島", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピック第1回大会を大成功させた王国はどこですか?", + "id": "tr-081-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ギリシャ王国", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "パリ大会は何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-03-002", + "answers": [ + { + "text": "1900年", + "answer_start": 133, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "セントルイス大会は何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-03-003", + "answers": [ + { + "text": "1904年", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1900年のパリ大会、1904年のセントルイス大会と同時期に開催されたものは何ですか?", + "id": "tr-081-03-004", + "answers": [ + { + "text": "万国博覧会", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロンドン大会は何年にありましたか?", + "id": "tr-081-03-005", + "answers": [ + { + "text": "1908年", + "answer_start": 239, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ストックホルム大会は何年にありましたか?", + "id": "tr-081-03-006", + "answers": [ + { + "text": "1912年", + "answer_start": 252, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "本来のオリンピック大会としての体制が整いだしたのは、1908年のロンドン大会と1912年の何大会からですか?", + "id": "tr-081-03-007", + "answers": [ + { + "text": "ストックホルム大会", + "answer_start": 258, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1924年パリ大会以降固定され採用されているマラソンの走行距離は何kmですか?", + "id": "tr-081-03-008", + "answers": [ + { + "text": "42.195km", + "answer_start": 318, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1908年のロンドン大会ではマラソンの走行距離は何kmでしたか?", + "id": "tr-081-03-009", + "answers": [ + { + "text": "42.195km", + "answer_start": 318, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "42.195kmを走行距離とするオリンピックの競技は��ですか?", + "id": "tr-081-03-010", + "answers": [ + { + "text": "マラソン", + "answer_start": 308, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クーベルタンが芸術部門で金メダルを獲得したパリ大会は何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-03-011", + "answers": [ + { + "text": "1900年", + "answer_start": 409, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クーベルタンが芸術部門で金メダルを獲得した大会はどこの国ですか?", + "id": "tr-081-03-012", + "answers": [ + { + "text": "パリ", + "answer_start": 414, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1900年パリ大会の芸術部門で金メダルを獲得したのは誰ですか?", + "id": "tr-081-03-013", + "answers": [ + { + "text": "クーベルタン", + "answer_start": 402, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クーベルタンが1900年パリ大会で金メダルを獲得したのは何の部門ですか?", + "id": "tr-081-03-014", + "answers": [ + { + "text": "芸術", + "answer_start": 382, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "第一次世界大戦で1916年のベルリン大会は開催中止となったが、1920年のアントワープ大会から再開され初めてオリンピック旗が会場で披露された。\nこの時期は、選手村・マイクロフォン(1924年)、冬季大会の開催(1924年)、16日前後の開催期間(1928年)、聖火リレー(1936年)など、現在の大会の基盤となる施策が採用された時期である。\nこの時期からオリンピックは万博の添え物という扱いから国家の国力を比べる目安にとして国際社会から認知されるようになり「国を挙げてのメダル争い」が萌芽した。\nこの様子は1924年のパリ大会を描いたイギリス映画『炎のランナー』に詳しい。\n開催国のほうもオリンピックを国際社会に国力を誇示する一大イベントだと認識するようになりオリンピックが盛大になり、それを国策に使おうとする指導者が現れ、1936年のベルリン大会では当時のナチス政権は巧みに国威発揚に利用した。\n聖火リレーやオリンピック記録映画の制作などの劇的な演出もこのとき始まった。\nしかしその後、第二次世界大戦でオリンピックは2度も流会してしまうこととなった。", + "qas": [ + { + "question": "選手村、マイクロフォン、冬季大会の開催、16日前後の開催期間、聖火リレーの中で、最も遅く採用されたのは何ですか?", + "id": "tr-081-04-000", + "answers": [ + { + "text": "聖火リレー", + "answer_start": 130, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "選手村、マイクロフォン、冬季大会の開催、16日前後の開催期間、聖火リレーの中で、2番目に遅く採用されたものは何ですか?", + "id": "tr-081-04-001", + "answers": [ + { + "text": "16日前後の開催期間", + "answer_start": 112, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1920年に開催されたオリンピックの国はどこですか?", + "id": "tr-081-04-002", + "answers": [ + { + "text": "アントワープ", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アントワープでオリンピックが開催された年は何年ですか?", + "id": "tr-081-04-003", + "answers": [ + { + "text": "1920年", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1920年のアントワープ大会で初めて披露された旗は何ですか?", + "id": "tr-081-04-004", + "answers": [ + { + "text": "オリンピック旗", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "聖火リ��ーが採用されたのは何年ですか?", + "id": "tr-081-04-005", + "answers": [ + { + "text": "1936年", + "answer_start": 136, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "選手村が採用されたのは何年ですか?", + "id": "tr-081-04-006", + "answers": [ + { + "text": "1924年", + "answer_start": 90, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マイクロフォンが採用されたのは何年ですか?", + "id": "tr-081-04-007", + "answers": [ + { + "text": "1924年", + "answer_start": 90, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "冬季大会が開催されたのは何年ですか?", + "id": "tr-081-04-008", + "answers": [ + { + "text": "1924年", + "answer_start": 90, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "開催期間が16日前後と採用されたのは何年ですか?", + "id": "tr-081-04-009", + "answers": [ + { + "text": "1928年", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1928年にオリンピックの開催期間を何日前後に決めましたか?", + "id": "tr-081-04-010", + "answers": [ + { + "text": "16日", + "answer_start": 112, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックは万博の添え物という扱いから国家の何を比べる目安として国際社会から認知されるようになりましたか?", + "id": "tr-081-04-011", + "answers": [ + { + "text": "国力", + "answer_start": 200, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『炎のランナー』はどこの国の映画ですか?", + "id": "tr-081-04-012", + "answers": [ + { + "text": "イギリス", + "answer_start": 267, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1924年のパリ大会を描いたイギリス映画の題名は何ですか?", + "id": "tr-081-04-013", + "answers": [ + { + "text": "『炎のランナー』", + "answer_start": 273, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1936年のベルリン大会を巧みに国威発揚に利用した政権は何ですか?", + "id": "tr-081-04-014", + "answers": [ + { + "text": "ナチス政権", + "answer_start": 379, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ナチス政権が巧みに国威発揚に利用したのは何大会ですか?", + "id": "tr-081-04-015", + "answers": [ + { + "text": "ベルリン大会", + "answer_start": 368, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2度目のオリンピック流会の原因となった戦争の名前は何ですか?", + "id": "tr-081-04-016", + "answers": [ + { + "text": "第二次世界大戦", + "answer_start": 444, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "近代オリンピックで初めて女性の参加が認められた競技は、1900年の第2回パリ大会でのテニスとゴルフである。\nその後セントルイス大会ではアーチェリー、ロンドン大会ではアーチェリー・フィギュアスケート・テニス、ストックホルム大会ではダイビング・水泳・テニス、アントワープ大会ではダイビング・フィギュアスケート・水泳・テニスと変わったが、これらはいずれも大会を運営する中産階級の男性が許容できる「女性らしい」競技であった。\nクーベルタンは「体力の劣る女性の参加はオリンピックの品位を下げることにつながる。」と女性の男性的競技の参加に否定的だった。\nアリス・ミリアは1919年に女子の陸上競技の参加を国際オリンピック委員会に拒否されると、1921年に国際女子スポーツ連盟を組織し、1928年アムステルダムオリンピックで5種目ではあったが陸上競技が採用された。", + "qas": [ + { + "question": "近代オリンピックで初めて女性が参加した年はいつですか?", + "id": "tr-081-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1900年", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "近代オリンピックで初めて女性が参加した大会は\n何ですか?", + "id": "tr-081-05-001", + "answers": [ + { + "text": "第2回パリ大会", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "近代オリンピックで初めて女性の参加が認められた競技はテニスと何ですか?", + "id": "tr-081-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ゴルフ", + "answer_start": 46, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "近代オリンピックで初めて女性の参加が認められた競技はゴルフと何ですか?", + "id": "tr-081-05-003", + "answers": [ + { + "text": "テニス", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "セントルイス大会で女性の参加が認められた競技は何ですか?", + "id": "tr-081-05-004", + "answers": [ + { + "text": "アーチェリー", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロンドン大会で女性の参加が認められた競技はアーチェリー・フィギュアスケートの他に何がありますか?", + "id": "tr-081-05-005", + "answers": [ + { + "text": "テニス", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロンドン大会で女性の参加が認められた競技はアーチェリー・テニスの他に何がありますか?", + "id": "tr-081-05-006", + "answers": [ + { + "text": "フィギュアスケート", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロンドン大会で女性の参加が認められた競技はフィギュアスケート・テニスの他に何がありますか?", + "id": "tr-081-05-007", + "answers": [ + { + "text": "アーチェリー", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ストックホルム大会で女性の参加が認められた競技は水泳・テニスの他に何がありますか?", + "id": "tr-081-05-008", + "answers": [ + { + "text": "ダイビング", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ストックホルム大会で女性の参加が認められた競技はダイビング・テニスの他に何がありますか?", + "id": "tr-081-05-009", + "answers": [ + { + "text": "水泳", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ストックホルム大会で女性の参加が認められた競技はダイビング・水泳の他に何がありますか?", + "id": "tr-081-05-010", + "answers": [ + { + "text": "テニス", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アントワープ大会で女性の参加が認められた競技はダイビング・水泳・フィギュアスケート\nの他に何がありますか?", + "id": "tr-081-05-011", + "answers": [ + { + "text": "テニス", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アントワープ大会で女性の参加が認められた競技はダイビング・水泳・テニス\nの他に何がありますか?", + "id": "tr-081-05-012", + "answers": [ + { + "text": "��ィギュアスケート", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アントワープ大会で女性の参加が認められた競技はフィギュアスケート・水泳・テニス\nの他に何がありますか?", + "id": "tr-081-05-013", + "answers": [ + { + "text": "ダイビング", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "女子の陸上競技が初めて採用されたのはいつ?", + "id": "tr-081-05-014", + "answers": [ + { + "text": "1928年", + "answer_start": 336, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "オリンピックを運営するのは何階級の男性ですか?", + "id": "tr-081-05-015", + "answers": [ + { + "text": "中産階級", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1921年に国際女子スポーツ連盟を組織したのは誰ですか?", + "id": "tr-081-05-016", + "answers": [ + { + "text": "アリス・ミリア", + "answer_start": 271, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1919年に国際オリンピック委員会に拒否された女子の競技は何ですか?", + "id": "tr-081-05-017", + "answers": [ + { + "text": "陸上", + "answer_start": 288, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1928年アムステルダムオリンピックで採用された女子の陸上競技は何種目ですか?", + "id": "tr-081-05-018", + "answers": [ + { + "text": "5種目", + "answer_start": 355, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アムステルダムオリンピックは何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-05-019", + "answers": [ + { + "text": "1928年", + "answer_start": 336, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "5種目の女子陸上が採用された1928年開催のオリンピックの名前は何ですか?", + "id": "tr-081-05-020", + "answers": [ + { + "text": "アムステルダムオリンピック", + "answer_start": 341, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "国際女子スポーツ連盟が組織されたのは何年ですか?", + "id": "tr-081-05-021", + "answers": [ + { + "text": "1921年", + "answer_start": 315, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "第二次世界大戦が終結し、1948年ロンドンでオリンピックが再開されたが、敗戦国の日本とドイツは招待されなかった。\nまた1948年のロンドン大会から芸術部門が廃止され、スポーツ部門のみとなった。\nこれによりオリンピックは「古代ギリシャの権威を身にまとった世界屈指の国際的なスポーツ競技大会」としての性格を確立することになった。\n1952年のヘルシンキ大会よりソビエト連邦(以下ソ連)が初参加し、オリンピックは名実と共に「世界の大会」とよばれ、同時に東西冷戦を象徴する場となりアメリカとソ連のメダル争いは話題となった。\nだが、2つの中国問題(中国と台湾)、ドイツ問題(東西ドイツ)など新たな問題点も浮かび上がってきた。\nそして航空機の発達により欧米のみに限られていたオリンピック開催地を世界に広める結果となり、初めての南半球での開催となる1956年メルボルン大会(オーストラリア)、初めてのアジアでの開催となる1964年東京大会(日本)とヨーロッパと北米以外の新たな地域からの開催地が仲間入りした。", + "qas": [ + { + "question": "第二次世界大戦が終結し、1948年に再開されたのはどこですか?", + "id": "tr-081-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ロンドン", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第二次世界大戦が終結し、オリンピックが再開されたのは何年ですか?", + "id": "tr-081-06-001", + "answers": [ + { + "text": "1948年", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1948年に再開されたオリンピックに招待されなかった国は日本とどこですか?", + "id": "tr-081-06-002", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1948年に再開されたオリンピックに招待されなかった国はドイツとどこですか?", + "id": "tr-081-06-003", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックの芸術部門は何年に廃止されましたか?", + "id": "tr-081-06-004", + "answers": [ + { + "text": "1948年", + "answer_start": 59, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックの芸術部門が廃止されたのは何大会からですか?", + "id": "tr-081-06-005", + "answers": [ + { + "text": "ロンドン", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1948年のロンドン大会から廃止されものは何ですか?", + "id": "tr-081-06-006", + "answers": [ + { + "text": "芸術部門", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1948年のロンドン大会から芸術部門が廃止され、何部門のみとなりましたか?", + "id": "tr-081-06-007", + "answers": [ + { + "text": "スポーツ", + "answer_start": 83, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1952年のヘルシンキ大会に初参加した国はどこですか?", + "id": "tr-081-06-008", + "answers": [ + { + "text": "ソビエト連邦", + "answer_start": 178, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ソビエト連邦が初参加したオリンピックの名前は何ですか?", + "id": "tr-081-06-009", + "answers": [ + { + "text": "ヘルシンキ大会", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ソビエト連邦が初参加したオリンピックは何年ですか?", + "id": "tr-081-06-010", + "answers": [ + { + "text": "1952年", + "answer_start": 163, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1952年のヘルシンキ大会ではソビエト連邦とどこのメダル争いが話題となりましたか?", + "id": "tr-081-06-011", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ", + "answer_start": 236, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1952年のヘルシンキ大会より、オリンピックは名実と共に何とよばれましたか?", + "id": "tr-081-06-012", + "answers": [ + { + "text": "「世界の大会」", + "answer_start": 208, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "何の発達によって欧米のみに限られていたオリンピック開催地を世界に広める結果となりましたか?", + "id": "tr-081-06-013", + "answers": [ + { + "text": "航空機", + "answer_start": 311, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "最初に南半球でオリンピックを開催できたのは何年ですか?", + "id": "tr-081-06-014", + "answers": [ + { + "text": "1956年", + "answer_start": 367, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "南半球で初のオリンピック開催となったのは何大会ですか?", + "id": "tr-081-06-015", + "answers": [ + { + "text": "メルボルン大会", + "answer_start": 372, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "南半球で初のオリンピック開催となった国はどこ?", + "id": "tr-081-06-016", + "answers": [ + { + "text": "オーストラリア", + "answer_start": 380, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アジア初のオリンピック開催をした国はどこですか?", + "id": "tr-081-06-017", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 413, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アジア初のオリンピック開催をしたのは何大会?", + "id": "tr-081-06-018", + "answers": [ + { + "text": "東京大会", + "answer_start": 408, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "オリンピック東京大会が開催されたのは何年ですか?", + "id": "tr-081-06-019", + "answers": [ + { + "text": "1964年", + "answer_start": 403, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "オリンピックが世界的大イベントに成長するに従って政治に左右されるようになると、1968年のメキシコシティ大会では黒人差別を訴える場と化し、1972年のミュンヘン大会ではアラブのゲリラによるイスラエル選手に対するテロ事件まで起きた(ミュンヘンオリンピック事件)。\n1976年のモントリオール大会になると、ニュージーランドのラグビーチームの南アフリカ遠征に反対してアフリカの諸国22ヶ国がボイコットを行った。\nそして、1980年のモスクワ大会ではソ連のアフガニスタン侵攻に反発したアメリカ・西ドイツ・日本などの西側諸国が相次いでボイコットを行った。\n1984年ロサンゼルス大会ではソ連と東側諸国が報復ボイコットを行ない、参加したのはソ連と対立していた中国とルーマニアだけだった。\n中でも、イラン革命後のイラン・イスラム共和国はモスクワとロサンゼルス双方のオリンピックをボイコットしている。\nオリンピックが巨大化するに従って財政負担の増大が大きな問題となり、1976年の夏季大会では大幅な赤字を出し、その後夏季・冬季とも立候補都市が1〜2都市だけという状態が続いた。", + "qas": [ + { + "question": "メキシコシティ大会は何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1968年", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1968年に開催されたオリンピックの名前は何ですか?", + "id": "tr-081-07-001", + "answers": [ + { + "text": "メキシコシティ大会", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "メキシコシティ大会では、何差別を訴える場と化しましたか?", + "id": "tr-081-07-002", + "answers": [ + { + "text": "黒人", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ミュンヘン大会は何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-07-003", + "answers": [ + { + "text": "1972年", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1972年に開催されたオリンピックの名前は何ですか?", + "id": "tr-081-07-004", + "answers": [ + { + "text": "ミュンヘン大会", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ミュンヘン大会では、アラブのゲリラにより、誰に対してテロ事件が起きましたか?", + "id": "tr-081-07-005", + "answers": [ + { + "text": "イスラエル選手", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ミュンヘン大会で起こった事件の名前は何ですか?", + "id": "tr-081-07-006", + "answers": [ + { + "text": "ミュンヘンオリンピック事件", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "モントリオール大会は何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-07-007", + "answers": [ + { + "text": "1976年", + "answer_start": 131, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1976年に開催されたオリンピックの名前は何ですか?", + "id": "tr-081-07-008", + "answers": [ + { + "text": "モントリオール大会", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1976年のモントリオール大会で起こったボイコットはアフリカ諸国何ヶ国がしましたか?", + "id": "tr-081-07-009", + "answers": [ + { + "text": "22ヶ国", + "answer_start": 187, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1976年のモントリオール大会で、アフリカ諸国22ヶ国は、どこの国のラグビーチームに対してボイコットを行いましたか?", + "id": "tr-081-07-010", + "answers": [ + { + "text": "ニュージーランド", + "answer_start": 151, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1976年のモントリオール大会で、アフリカ諸国22ヶ国は、ニュージーランドの何チームに対してボイコットを行いましたか?", + "id": "tr-081-07-011", + "answers": [ + { + "text": "ラグビー", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1976年のモントリオール大会で、アフリカ諸国22ヶ国は、ニュージーランドのラグビーチームに対して何を行いましたか?", + "id": "tr-081-07-012", + "answers": [ + { + "text": "ボイコット", + "answer_start": 192, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1980年のモスクワ大会でボイコットを行った国のうち、アジア圏に属する国はどこ?", + "id": "tr-081-07-013", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 248, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "モスクワ大会は何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-07-014", + "answers": [ + { + "text": "1980年", + "answer_start": 207, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1980年のオリンピックはどこで開催されましたか?", + "id": "tr-081-07-015", + "answers": [ + { + "text": "モスクワ", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1980年のモスクワ大会ではソ連のアフガニスタン侵攻に反発したアメリカ・西ドイツ・日本などの西側諸国が相次いで何を行いましたか?", + "id": "tr-081-07-016", + "answers": [ + { + "text": "ボイコット", + "answer_start": 262, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1980年のモスクワ大会でソ連に反発してボイコットを行った国は、アメリカ・西ドイツの他にどの国ですか?", + "id": "tr-081-07-017", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 248, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1980年のモスクワ大会でソ連に反発してボイコットを行った国は、日本・西ドイツの他にどの国ですか?", + "id": "tr-081-07-018", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ", + "answer_start": 238, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1980年のモスクワ大会でソ連に反発してボイコットを行った国は、アメリカ・日本の他にどの国ですか?", + "id": "tr-081-07-019", + "answers": [ + { + "text": "西ドイツ", + "answer_start": 243, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロサンゼルス大会は何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-07-020", + "answers": [ + { + "text": "1984年", + "answer_start": 273, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1984年のオリンピック開催地はどこですか?", + "id": "tr-081-07-021", + "answers": [ + { + "text": "ロサンゼルス", + "answer_start": 278, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1984年ロサンゼルス大会ではソ連と東側諸国が何を行ないましたか?", + "id": "tr-081-07-022", + "answers": [ + { + "text": "報復ボイコット", + "answer_start": 296, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1984年ロサンゼルス大会で参加したのは、中国とどこの国ですか?", + "id": "tr-081-07-023", + "answers": [ + { + "text": "ルーマニア", + "answer_start": 326, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1984年ロサンゼルス大会で参加したのは、ルーマニアとどこの国ですか?", + "id": "tr-081-07-024", + "answers": [ + { + "text": "中国", + "answer_start": 323, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イラン・イスラム共和国がボイコットしたオリンピックはモスクワともう一つはどこですか?", + "id": "tr-081-07-025", + "answers": [ + { + "text": "ロサンゼルス", + "answer_start": 366, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イラン・イスラム共和国がボイコットしたオリンピックはロサンゼルスともう一つはどこですか?", + "id": "tr-081-07-026", + "answers": [ + { + "text": "モスクワ", + "answer_start": 361, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イラン革命後のイラン・イスラム共和国はモスクワとロサンゼルス双方のオリンピックに対して何を行いましたか?", + "id": "tr-081-07-027", + "answers": [ + { + "text": "ボイコット", + "answer_start": 382, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックが巨大化するに従って大きな問題となったのは何ですか?", + "id": "tr-081-07-028", + "answers": [ + { + "text": "財政負担の増大", + "answer_start": 409, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "夏季大会で多大な赤字を出したのは何年ですか?", + "id": "tr-081-07-029", + "answers": [ + { + "text": "1976年", + "answer_start": 426, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1984年のロサンゼルス大会は画期的な大会で、大会組織委員長に就任したピーター・ユベロスの指揮のもとオリンピックをショービジネス化し、結果として2億1500万ドルの黒字を計上した。\nスポンサーを「一業種一社」に絞ることにより、スポンサー料を吊り上げ聖火リレー走者からも参加費を徴収することなどにより黒字化を達成したのである。\nその後「オリンピックは儲かる」との認識が広まり立候補都市が激増し、各国のオリンピック委員会とスポーツ業界の競技レベル・政治力・経済力などが問われる総力���の様相を呈するようになり、誘致運動だけですら途方もない金銭が投入されるようになってゆく。\n1989年12月のマルタ会談を以て冷戦が終結してからオリンピックへの冷戦の影響は減り、共産圏と旧共産圏のステート・アマも減ったがその反面ドーピングの問題や過度の招致合戦によるIOC委員に対する接待や賄賂など、オリンピックに内外で関与する人物・組織の倫理面にまつわる問題が度々表面化するようになった。\n招致活動や関連団体への政治家の参入も増えている。\n北京大会(+約10億元)やロンドン大会(+約3000万ポンド)は、黒字となり商業的には成功した。\n一方でIOC加盟、非加盟にかかわらず、ほとんどの国際競技連盟主催の大会で会場広告は許されておりパラリンピックでも許されるようになったが、オリンピックではかたくなに禁止されている。\n広告収入がないだけでなく、オリンピック開催時の会場常設広告費の補償や撤去費、復元費は開催都市の負担を増している。", + "qas": [ + { + "question": "1984年のロサンゼルス大会で、大会組織委員長を務めたのは誰ですか?", + "id": "tr-081-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ピーター・ユベロス", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1984年のロサンゼルス大会は画期的な大会で、大会組織委員長に就任したピーター・ユベロスは何ドルの黒字を計上しましたか?", + "id": "tr-081-08-001", + "answers": [ + { + "text": "2億1500万ドル", + "answer_start": 72, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ピーター・ユベロスは1984年のロサンゼルス大会で何に就任しましたか?", + "id": "tr-081-08-002", + "answers": [ + { + "text": "大会組織委員長", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1984年のロサンゼルス大会で、黒字化を達成するにあたって、聖火リレー走者から徴収したのもは何ですか?", + "id": "tr-081-08-003", + "answers": [ + { + "text": "参加費", + "answer_start": 134, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1984年のロサンゼルス大会で、黒字化を達成するにあたって、吊り上げたものは何ですか?", + "id": "tr-081-08-004", + "answers": [ + { + "text": "スポンサー料", + "answer_start": 113, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オリンピックの黒字化が達成され、「オリンピックは儲かる」との認識が広まり、激増したものは何ですか?", + "id": "tr-081-08-005", + "answers": [ + { + "text": "立候補都市", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "冷戦が終結した会談は何と呼ばれていますか?", + "id": "tr-081-08-006", + "answers": [ + { + "text": "マルタ会談", + "answer_start": 293, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マルタ会談は何年何月に行われましたか?", + "id": "tr-081-08-007", + "answers": [ + { + "text": "1989年12月", + "answer_start": 284, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1989年12月のマルタ会談を以て何が終結されましたか?", + "id": "tr-081-08-008", + "answers": [ + { + "text": "冷戦", + "answer_start": 301, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "冷戦終結後、共産圏と旧共産圏の何が減りましたか?", + "id": "tr-081-08-009", + "answers": [ + { + "text": "ステート・アマ", + "answer_start": 336, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックの招致活動や関連団��へ誰の参入が増えていますか?", + "id": "tr-081-08-010", + "answers": [ + { + "text": "政治家", + "answer_start": 445, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "北京大会では何元黒字となりましたか", + "id": "tr-081-08-011", + "answers": [ + { + "text": "約10億元", + "answer_start": 465, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロンドン大会では何ポンド黒字となりましたか?", + "id": "tr-081-08-012", + "answers": [ + { + "text": "約3000万ポンド", + "answer_start": 480, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "IOC加盟、非加盟にかかわらず、ほとんどの国際競技連盟主催の大会、パラリンピックで許されているが、オリンピックではかたくなに禁止されているものは何ですか?", + "id": "tr-081-08-013", + "answers": [ + { + "text": "会場広告", + "answer_start": 544, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "会場広告がかたくなに禁止されている大会は何ですか?", + "id": "tr-081-08-014", + "answers": [ + { + "text": "オリンピック", + "answer_start": 576, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピック開催都市の負担を増やしているのは、オリンピック開催時の会場常設広告費の補償や撤去費の他に何がありますか?", + "id": "tr-081-08-015", + "answers": [ + { + "text": "復元費", + "answer_start": 636, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "アマチュアリズムの根底には「スポーツは貴族のもの」という階級主義があると考える人も多くいて世界に反階級主義が広がる中、アマチュアリズムはだんだんと軽んじられてきた。\nアマチュアリズムを徹底するとオリンピックは働かないでもスポーツに専念できる資産家ほど活躍できる状況になってしまうのであった。\n一方で共産圏、旧共産圏の国や日本がスポーツアスリートを公務員として雇ったり、日本ではスポーツに専念している実質のプロ選手を国・自治体・公共団体・企業が雇うステートアマチュア、企業アマチュアが横行しアマチュアリズムを進めるにはステートアマチュア、企業アマチュアをやっていない国からの不満が抑えられない状況になっていた。\n1974年ウィーンでのIOC総会においてオリンピック憲章からアマチュア条項が削除されプロ選手の参加は各競技の国際競技連盟に任されることになった。\nそののち、IOC内での「オリンピックを最高の選手が集う場にしたい」という意志と商業主義の台頭もあり、プロ選手の参加は促され、1992年のバルセロナ大会ではバスケットボール競技でアメリカのNBA所属の選手による「ドリームチーム」が結成され、大きな話題となった。", + "qas": [ + { + "question": "アマチュアリズムの根底には「スポーツは貴族のもの」という何主義があると考える人も多くいますか?", + "id": "tr-081-09-000", + "answers": [ + { + "text": "階級", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "世界に反階級主義が広がる中、だんだんと軽んじられてきたものは何ですか?", + "id": "tr-081-09-001", + "answers": [ + { + "text": "アマチュアリズム", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アマチュアリズムの根底にあるものは何という階級主義ですか?", + "id": "tr-081-09-002", + "answers": [ + { + "text": "「スポーツは貴族のもの」", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "共産圏、旧共産圏の国や日本がスポーツアスリートを何として雇っていますか?", + "id": "tr-081-09-003", + "answers": [ + { + "text": "公務員", + "answer_start": 173, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "スポーツに専念している実質のプロ選手を国・自治体・公共団体・企業が雇うステートアマチュアと企業アマチュアが横行している国はどこですか?", + "id": "tr-081-09-004", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピック憲章からアマチュア条項が削除されプロ選手の参加は各競技の国際競技連盟に任されることになったウィーンでのIOC総会は何年にありましたか?", + "id": "tr-081-09-005", + "answers": [ + { + "text": "1974年", + "answer_start": 305, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1974年ウィーンでのIOC総会においてオリンピック憲章から削除された条項は何ですか?", + "id": "tr-081-09-006", + "answers": [ + { + "text": "アマチュア", + "answer_start": 335, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピック憲章からアマチュア条項が削除されプロ選手の参加は各競技の国際競技連盟に任されることになった1974年のIOC総会はどこでありましたか?", + "id": "tr-081-09-007", + "answers": [ + { + "text": "ウィーン", + "answer_start": 310, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1974年ウィーンでのIOC総会において何からアマチュア条項が削除されましたか?", + "id": "tr-081-09-008", + "answers": [ + { + "text": "オリンピック憲章", + "answer_start": 325, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1974年ウィーンでのIOC総会においてオリンピック憲章からアマチュア条項が削除されプロ選手の参加は各競技の何に任されることになりましたか?", + "id": "tr-081-09-009", + "answers": [ + { + "text": "国際競技連盟", + "answer_start": 359, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1992年に開催されたオリンピックはどこですか?", + "id": "tr-081-09-010", + "answers": [ + { + "text": "バルセロナ", + "answer_start": 446, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バルセロナ大会は何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-09-011", + "answers": [ + { + "text": "1992年", + "answer_start": 440, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1992年のバルセロナ大会で結成された「ドリームチーム」は何の競技ですか?", + "id": "tr-081-09-012", + "answers": [ + { + "text": "バスケットボール", + "answer_start": 455, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1992年のバルセロナ大会でバスケットボール競技でアメリカのNBA所属の選手によって結成されたものは何ですか?", + "id": "tr-081-09-013", + "answers": [ + { + "text": "「ドリームチーム」", + "answer_start": 482, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "21世紀に入ってから、オリンピックの開催地は2008年が北京(中華人民共和国)、2016年が南米初のリオデジャネイロ(ブラジル)といったBRICs各国に広まる。\n一方で、開催国の負担する費用の高騰化が敬遠され、立候補都市数は1997年入札の2004年大会時の12都市をピークに漸減しており、2010年代からは2~3都市で推移している。\n2017年入札の2024年大会では立候補都市がパリとロサンゼルスのみに留まり、IOCはオリンピック憲章の規約(開催の7年前に開催都市を選定する)に反し、2017年に2024年大会の開催地をパリに、2028年大会の開催地をロサンゼルスに割り振る決定を下した。\n\nオリンピックが再び1980年代以前の冬の時代に戻ることを回避するための改革として、トーマス・バッハ第9代会長を中心に40項目の改革案「オリンピック・アジェンダ2020」が発案され、2014年12月のIOC臨時総会で採択された。\nその一つに参加選手数を夏季大会では約1万500人に抑えるポリシーがある(競技数28の現行上限を撤廃して種目数は約310に)。\n1984年のロサンゼルスが6829人(221種目)だったが、2008年の北京では10942人(302種目)まで増大していた。\n他にも、開催候補地の負担を減らすことや、八百長防止と反ドーピング活動のための資金提供を行うことなどが、盛り込まれた。", + "qas": [ + { + "question": "オリンピックの開催地が2008年が北京、2016年が南米初のリオデジャネイロといったBRICs各国に広まったのは何世紀に入ってからですか?", + "id": "tr-081-10-000", + "answers": [ + { + "text": "21世紀", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2008年に開催されたオリンピックは、中華人民共和国のどこの都市ですか?", + "id": "tr-081-10-001", + "answers": [ + { + "text": "北京", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "南米で最初のオリンピック開催国はどこ?", + "id": "tr-081-10-002", + "answers": [ + { + "text": "ブラジル", + "answer_start": 59, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "南米で初めてのオリンピック開催地はブラジルのどの都市ですか?", + "id": "tr-081-10-003", + "answers": [ + { + "text": "リオデジャネイロ", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "オリンピックの立候補都市が最も多かったのは何年大会の時?", + "id": "tr-081-10-004", + "answers": [ + { + "text": "2004年大会", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "リオデジャネイロ(ブラジル)でオリンピックが開催された年は何年ですか?", + "id": "tr-081-10-005", + "answers": [ + { + "text": "2016年", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "開催国の負担する費用の高騰化が敬遠され、立候補都市数は1997年入札の何年大会の時に12都市をピークに漸減しましたか?", + "id": "tr-081-10-006", + "answers": [ + { + "text": "2004年", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "開催国の負担する費用の高騰化が敬遠され、立候補都市数は1997年入札の2004年大会時の12都市をピークに漸減しており、何年代から2~3都市で推移していますか?", + "id": "tr-081-10-007", + "answers": [ + { + "text": "2010年", + "answer_start": 145, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "開催国の負担する費用の高騰化が敬遠され、立候補都市数は1997年入札の2004年大会時の12都市をピークに漸減しており、2010年代からいくつの都市で推移していますか?", + "id": "tr-081-10-008", + "answers": [ + { + "text": "2~3都市", + "answer_start": 154, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "IOCは2024年大会の開催地をどの国に割り振ることを決定しましたか?", + "id": "tr-081-10-009", + "answers": [ + { + "text": "パリ", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "IOCは2028年大会の開催地をどの国に割り振ることを決定しましたか?", + "id": "tr-081-10-010", + "answers": [ + { + "text": "ロサンゼルス", + "answer_start": 194, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2017年入札の2024年大会では立候補都市がパリとどの国のみに留まりましたか?", + "id": "tr-081-10-011", + "answers": [ + { + "text": "ロサンゼルス", + "answer_start": 194, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2017年入札の2024年大会では立候補都市がロサンゼルスとどの国のみに留まりましたか?", + "id": "tr-081-10-012", + "answers": [ + { + "text": "パリ", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "立候補都市がパリとロサンゼルスのみに留まったのは、2017年入札の何年大会ですか?", + "id": "tr-081-10-013", + "answers": [ + { + "text": "2024年", + "answer_start": 176, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "IOCのオリンピック憲章の規約では、開催の何年前に開催都市を選定することになっていますか?", + "id": "tr-081-10-014", + "answers": [ + { + "text": "7年前", + "answer_start": 226, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "IOCのオリンピックによる規約を何と言いますか?", + "id": "tr-081-10-015", + "answers": [ + { + "text": "オリンピック憲章", + "answer_start": 211, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックの冬の時代と呼ばれたのは何年代以前のことですか?", + "id": "tr-081-10-016", + "answers": [ + { + "text": "1980年代以前", + "answer_start": 307, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「オリンピック・アジェンダ2020」が発案された時の第9代会長は誰ですか?", + "id": "tr-081-10-017", + "answers": [ + { + "text": "トーマス・バッハ", + "answer_start": 339, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「オリンピック・アジェンダ2020」の改革案は何項目ですか?", + "id": "tr-081-10-018", + "answers": [ + { + "text": "40項目", + "answer_start": 356, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「オリンピック・アジェンダ2020」が発案され、IOC臨時総会で採択されたのは何年ですか?", + "id": "tr-081-10-019", + "answers": [ + { + "text": "2014年", + "answer_start": 388, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「オリンピック・アジェンダ2020」が発案され、IOC臨時総会で採択されたのは2014年の\n何月のことですか?", + "id": "tr-081-10-020", + "answers": [ + { + "text": "12月", + "answer_start": 393, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「オリンピック・アジェンダ2020」が採択されたのは2014年12月の何の総会ですか?", + "id": "tr-081-10-021", + "answers": [ + { + "text": "IOC臨時総会", + "answer_start": 397, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックの参加選手数は夏季大会では約何人に抑えるポリシーがありますか?", + "id": "tr-081-10-022", + "answers": [ + { + "text": "約1万500人", + "answer_start": 429, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "参加選手数を約1万500人に抑えるポリシーがあるのはオリンピックの何の大会ですか?", + "id": "tr-081-10-023", + "answers": [ + { + "text": "夏季大会", + "answer_start": 423, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1984年のロサンゼルスと2008年の北京では、どちらの大会が参加選手数が多いですか?", + "id": "tr-081-10-024", + "answers": [ + { + "text": "2008年の北京", + "answer_start": 505, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1984年のロサンゼルスと2008年の北京では、どちらの大会の参加種目数が少ないですか?", + "id": "tr-081-10-025", + "answers": [ + { + "text": "1984年のロサンゼルス", + "answer_start": 475, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "開催都市の多くが北半球の都市である。\n南半球では冬季大会の開催が皆無、夏季大会もオーストラリアのメルボルンで開かれたメルボルンオリンピック(1956年)、同じくオーストラリアのシドニーで開催されたシドニーオリンピック(2000年)、ブラジルのリオデジャネイロで開催されたリオデジャネイロオリンピック(2016年)の3大会のみである。\nまた、これまでアフリカで開催されたことはない。\n\n開催を行うに際しては、各国・地域でオリンピックの開催を希望する自治体からの審査・ヒヤリングを各国・地域オリンピック委員会が行い、まずその国・地域内でのオリンピック開催候補地1箇所を選ぶ。\nその候補地を国際オリンピック委員会に推薦し正式に立候補を行い、国際オリンピック委員会総会において、委員会理事による投票で過半数を得ることが必要である。\nただし投票の過半数を満たしていない場合、その回の投票における最下位の候補地を次の投票から除外する仕組みで繰り返し過半数が出るまで投票を繰り返す(最終的に2箇所になったところで決選投票となる)。", + "qas": [ + { + "question": "オリンピック開催が多く開催されている都市は北半球か南半球か?", + "id": "tr-081-11-000", + "answers": [ + { + "text": "北半球", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "冬季大会の開催が全く無いのは何半球ですか?", + "id": "tr-081-11-001", + "answers": [ + { + "text": "南半球", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "2000年に開催されたオリンピックはオーストラリアのどの都市ですか?", + "id": "tr-081-11-002", + "answers": [ + { + "text": "シドニー", + "answer_start": 88, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オーストラリアのシドニーで開催されたオリンピックの年はいつですか?", + "id": "tr-081-11-003", + "answers": [ + { + "text": "2000年", + "answer_start": 109, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "南半球で開催された3つのオリンピックの内、1つだけ国が違う都市があります。それはどこの国?", + "id": "tr-081-11-004", + "answers": [ + { + "text": "ブラジル", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "南半球で開催された3大会のみのオリンピックは、メルボルンオリンピック、リオデジャネイロオリンピックともう1つは何オリンピックですか?", + "id": "tr-081-11-005", + "answers": [ + { + "text": "シドニーオリンピック", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "南半球で開催された3大会のみのオリンピックは、リオデジャネイロオリンピック、シドニーオリンピックともう1つは何オリンピックですか?", + "id": "tr-081-11-006", + "answers": [ + { + "text": "メルボルンオリンピック", + "answer_start": 58, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックの候補地を決める際に、国際オリンピ��ク委員会総会において、委員会理事による投票で何を得ることが必要ですか?", + "id": "tr-081-11-007", + "answers": [ + { + "text": "過半数", + "answer_start": 346, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "近代オリンピックの象徴でもあるオリンピックのマーク(オリンピックシンボル)は、クーベルタンが考案し世界5大陸を5つの重なり合う輪で表現したものである。\n色については、背景の白とこの5色の計6色で、参加国の国旗に使われている色が少なくとも一つは含まれているように選定された。\n5つの重なり合う輪はまた、平和への発展を願ったものである。\n\nなお、このオリンピックマークは1914年にパリで開催されたIOCの創設20周年記念式典で披露され、1920年のアントワープ大会から使用されているが、木綿で作られたオリンピック旗は一度盗まれ1980年のモスクワ大会では閉会式でアメリカにオリンピック旗が伝達されず次の大会ではレプリカを使用された出来事があり、そして1988年のソウル大会閉会式から合成樹脂のオリンピック旗が使われている。", + "qas": [ + { + "question": "オリンピックのマークを考えだしたのは誰ですか?", + "id": "tr-081-12-000", + "answers": [ + { + "text": "クーベルタン", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "近代オリンピックの象徴でもあるオリンピックのマークを何と言いますか?", + "id": "tr-081-12-001", + "answers": [ + { + "text": "オリンピックシンボル", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックのマークに使われている色は計何色ですか?", + "id": "tr-081-12-002", + "answers": [ + { + "text": "計6色", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オリンピックのマークはいくつの輪が重なっていますか?", + "id": "tr-081-12-003", + "answers": [ + { + "text": "5つ", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オリンピックマークが初披露されたのはいつ?", + "id": "tr-081-12-004", + "answers": [ + { + "text": "1914年", + "answer_start": 183, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "IOCの創設20周年記念式典は1914年にどこでありましたか?", + "id": "tr-081-12-005", + "answers": [ + { + "text": "パリ", + "answer_start": 189, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックマークの披露はIOCの創設何周年の記念式典でされましたか?", + "id": "tr-081-12-006", + "answers": [ + { + "text": "20周年", + "answer_start": 203, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックマークの使用が始まったアントワープ大会は何年にありましたか?", + "id": "tr-081-12-007", + "answers": [ + { + "text": "1920年", + "answer_start": 217, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックマークの使用が始まったのは1920年の何大会からですか?", + "id": "tr-081-12-008", + "answers": [ + { + "text": "アントワープ大会", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "合成樹脂のオリンピック旗が使われたソウル大会は何年にありましたか?", + "id": "tr-081-12-009", + "answers": [ + { + "text": "1988年", + "answer_start": 324, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "開会式では、オリンピ��ク賛歌を演奏することやオリンピック旗掲揚、開催国の国歌斉唱または演奏、走者達のリレーによる聖火点火、そして平和の象徴の鳩が解き放たれることがオリンピック憲章で規定されていた。\nしかし、聖火台で鳩を焼いてしまったソウル大会での一件や、外来生物への危惧や鳩の生息できる環境ではない場所(特に冬季オリンピック)でオリンピックが行われる事もあるなどの理由から動物愛護協会の反対もあり、1998年の長野大会からは風船やモニター映像、ダンスなどによる鳩飛ばし表現が恒例になった。\n2004年版以降のオリンピック憲章では、鳩の使用についての規定も削除された。\nロンドン大会では、鳩のコスチュームをまとった人々が自転車に乗って登場し、そのうちの一人がワイヤーアクションで空中へ上昇した。\n\n開会式の入場行進はオリンピックの発祥地であるギリシャの選手団が先導し、その後参加国は開催国の言語順に入場し、最後に開催国の選手団が入場する。\nギリシャのアテネが開催地となった2004年は、まずギリシャの旗手のみが先導して入場し、最後にギリシャの選手団が入場していた。\n\n使用される言語は開催国の任意であるが、内容の改変、アドリブは認められない。\n2002年のソルトレークシティオリンピックではジョージ・W・ブッシュ大統領が「(オリンピック開催国に選ばれたことを)栄誉とし、(その成功に)専心しつつ、かつ(その機会を得たことに対する)感謝の念に満ちたこの国を代表し(Onbehalfofaproud,determinedandgratefulnation...)」の一節を付け加えて開会宣言したが、これはオリンピック憲章違反である。\nまた、開催国国家元首による開会宣言の直後にその大会ごとのファンファーレが演奏されることが通例となっている。\n1984年のロサンゼルス大会のファンファーレ(ジョン・ウィリアムズ作曲)は世界的に有名となった。\nなお、あくまでその大会ごとのファンファーレであって、オリンピックの公式ファンファーレは存在しない。\n\nなお、夏季大会では試合日程の関係で開会式の前に競技を開催するもの(例えばサッカーなど)がある。", + "qas": [ + { + "question": "オリンピックの開会式では、オリンピック憲章により、平和の象徴である何を解き放つことが規定されていましたか?", + "id": "tr-081-13-000", + "answers": [ + { + "text": "鳩", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "オリンピックの開会式で解き放たれる鳩は何の象徴と言われていますか?", + "id": "tr-081-13-001", + "answers": [ + { + "text": "平和", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックの開会式でオリンピック賛歌を演奏することやオリンピック旗掲揚、開催国の国歌斉唱または演奏、走者達のリレーによる聖火点火、そして平和の象徴の鳩が解き放たれることを規定している憲章を何と言いますか?", + "id": "tr-081-13-002", + "answers": [ + { + "text": "オリンピック憲章", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "聖火台で鳩を焼いてしまったオリンピックの大会は何ですか?", + "id": "tr-081-13-003", + "answers": [ + { + "text": "ソウル大会", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックの開会式で風船やモニター映像、ダンスなどによる鳩飛ばし表現が恒例になったのは1998年の何大会からですか?", + "id": "tr-081-13-004", + "answers": [ + { + "text": "長野大会", + "answer_start": 205, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "長野大会は何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-13-005", + "answers": [ + { + "text": "1998年", + "answer_start": 199, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2004年版以降のオリン��ック憲章では、何の使用についての規定が削除されましたか?", + "id": "tr-081-13-006", + "answers": [ + { + "text": "鳩", + "answer_start": 265, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "鳩の使用についての規定が削除されたのは、何年版以降のオリンピック憲章ですか?", + "id": "tr-081-13-007", + "answers": [ + { + "text": "2004年版以降", + "answer_start": 245, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロンドン大会では、何のコスチュームをまとった人々が自転車に乗って登場しましたか?", + "id": "tr-081-13-008", + "answers": [ + { + "text": "鳩", + "answer_start": 293, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "開会式で鳩のコスチュームをまとった人々が自転車に乗って登場したのは何大会ですか?", + "id": "tr-081-13-009", + "answers": [ + { + "text": "ロンドン大会", + "answer_start": 284, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロンドン大会の開会式で、鳩のコスチュームをまとった人々が自転車に乗って登場し、そのうちの一人が何をして空中へ上昇しましたか?", + "id": "tr-081-13-010", + "answers": [ + { + "text": "ワイヤーアクション", + "answer_start": 328, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "開会式の入場行進で先導するのは、どこの国の選手団ですか?", + "id": "tr-081-13-011", + "answers": [ + { + "text": "ギリシャ", + "answer_start": 370, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "開会式の入場行進で、開催国の選手団が入場するのはいつですか?", + "id": "tr-081-13-012", + "answers": [ + { + "text": "最後", + "answer_start": 402, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2002年のソルトレークシティオリンピックで開会宣言したのは何という大統領ですか?", + "id": "tr-081-13-013", + "answers": [ + { + "text": "ジョージ・W・ブッシュ大統領", + "answer_start": 544, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ジョージ・W・ブッシュ大統領が開会宣言をしたオリンピックは何という大会ですか?", + "id": "tr-081-13-014", + "answers": [ + { + "text": "ソルトレークシティオリンピック", + "answer_start": 527, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ジョージ・W・ブッシュ大統領が開会宣言をしたソルトレークシティオリンピックは何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-13-015", + "answers": [ + { + "text": "2002年", + "answer_start": 521, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "開催国国家元首による開会宣言の直後に演奏されるものは何ですか?", + "id": "tr-081-13-016", + "answers": [ + { + "text": "ファンファーレ", + "answer_start": 742, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1984年のロサンゼルス大会のファンファーレを作曲したのは誰ですか?", + "id": "tr-081-13-017", + "answers": [ + { + "text": "ジョン・ウィリアムズ", + "answer_start": 791, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ジョン・ウィリアムズが作曲したファンファーレを使用したオリンピックは何大会ですか?", + "id": "tr-081-13-018", + "answers": [ + { + "text": "ロサンゼルス大会", + "answer_start": 774, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "大会の大規模化とともに開催に伴う開催都市と地元政府の経済的負担が問題となったが、ユベロスが組織委員長を務めた1984年のロサンゼルス大会では商業活動と民間の寄付を本格的に導入することによって、地元の財政的負担を軽減しオリンピック大会の開催を継続することが可能になった。\nそれを契機とし、アディダスや電通などを始めとした企業から一大ビジネスチャンスとして注目されるようになった。\n\n元々、オリンピックは発足当初からアマ選手のみに参加資格を限って来たが、旧共産圏(ソ連やキューバなど)のステートアマ問題などもあり、1974年にオーストリア首都ウィーンで開催された第75回IOC総会で、オリンピック憲章からアマチュア条項を削除した。\nさらに観客や視聴者の期待にも応える形で、プロ選手の参加が段階的に解禁されるようになった(当初はテニスなど限られていたが、後にバスケットボール、サッカー、野球などに拡大)。\n\n1984年ロサンゼルス大会の後、フアン・アントニオ・サマランチ主導で商業主義(利権の生成、放映権と提供料の高額化)が加速したと言われたことがあり、またかつて誘致活動としてIOC委員へ賄賂が提供された事などが問題になったことがある。\nさらには、年々巨大化する大会で開催費用負担が増額する傾向があったがジャック・ロゲ会長の代になり、これまで増え続けていた競技種目を減らし、大会規模を維持することで一定の理解を得るようになった。\n\nなお、現在のIOCの収入構造は47%が世界各国での放送権料で、また45%がTOPスポンサーからの協賛金、5%が入場料収入、3%がオリンピックマークなどのライセンス収入となっており、このうち90%を大会組織委員会と各国オリンピック委員会、各競技団体に配布する形で大会の継続的運用を確保している。", + "qas": [ + { + "question": "1984年のロサンゼルス大会で組織委員長に就いていたのは誰?", + "id": "tr-081-14-000", + "answers": [ + { + "text": "ユベロス", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ユベロスが組織委員長を務めた1984年のオリンピックは何大会ですか?", + "id": "tr-081-14-001", + "answers": [ + { + "text": "ロサンゼルス大会", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ユベロスが組織委員長を務めたロサンゼルス大会は何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-14-002", + "answers": [ + { + "text": "1984年", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ユベロスが組織委員長を務めた1984年のロサンゼルス大会では商業活動と民間の寄付を本格的に導入することによって、地元の何を軽減しオリンピック大会の開催を継続することが可能になりましたか?", + "id": "tr-081-14-003", + "answers": [ + { + "text": "財政的負担", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オーストリアの首都はどこですか?", + "id": "tr-081-14-004", + "answers": [ + { + "text": "ウィーン", + "answer_start": 269, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウィーンが首都の国はどこですか?", + "id": "tr-081-14-005", + "answers": [ + { + "text": "オーストリア", + "answer_start": 261, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第75回IOC総会は何年にありましたか?", + "id": "tr-081-14-006", + "answers": [ + { + "text": "1974年", + "answer_start": 255, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1974年にオーストリア首都ウィーンで開催されたIOC総会は第何回ですか?", + "id": "tr-081-14-007", + "answers": [ + { + "text": "第75回", + "answer_start": 279, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1984年ロサンゼルス大会の後、商業主義を加速させたのは誰ですか?", + "id": "tr-081-14-008", + "answers": [ + { + "text": "フアン・アントニオ・サマランチ", + "answer_start": 417, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1984年ロサンゼルス大会の後、IOC委員へ何を提供した事が問題となりましたか?", + "id": "tr-081-14-009", + "answers": [ + { + "text": "賄賂", + "answer_start": 492, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "年々巨大化する大会で開催費用負担が増額する傾向があったが、これまで増え続けていた競技種目を減らし、大会規模を維持することで一定の理解を得るようになった時の会長は誰ですか?", + "id": "tr-081-14-010", + "answers": [ + { + "text": "ジャック・ロゲ", + "answer_start": 550, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "現在のIOCの収入構造の中で最も多くの割合を占めるのは何による収入ですか?", + "id": "tr-081-14-011", + "answers": [ + { + "text": "世界各国での放送権料", + "answer_start": 633, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "現在のIOCの収入構造の中で2番目に多く割合を占めているのは何の収入ですか?", + "id": "tr-081-14-012", + "answers": [ + { + "text": "TOPスポンサーからの協賛金", + "answer_start": 651, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "現在のIOCの収入構造の中で最も少ない割合を占めているのは何による収入ですか?", + "id": "tr-081-14-013", + "answers": [ + { + "text": "オリンピックマークなどのライセンス収入", + "answer_start": 678, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "現在のIOCの収入構造の中で2番目に少ない割合を占めているのは何による収入ですか?", + "id": "tr-081-14-014", + "answers": [ + { + "text": "入場料収入", + "answer_start": 669, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1988年大会は有利と言われていた名古屋を抑えてソウルが開催地に選ばれたが、その裏ではソウル関係者のIOC委員への過剰な接待がなされていたとされる。\n1998年には、ソルトレークシティ大会の組織委員会が、カメルーンのIOC委員の子どもの奨学金を肩代わりしていた贈賄事件が発覚。\n翌1999年には、オーストラリア大会の招致責任者がウガンダとケニアのIOC委員に金銭を支払っていたことも発覚した。\nこれを受け、複数のIOC委員が除名された。\n2017年には、ブラジルオリンピック委員会のカルロス・ヌズマン会長が、リオデジャネイロ大会招致にあたりIOC委員に金銭を支払っていたとして逮捕され、ブラジル検察によって起訴されている。\nまたブラジル検察は、東京大会招致委員会からIOC関係者への送金についても明らかにし、買収目的だったと指摘している。\nただし、開催費の高騰から、近年は立候補都市が減少している。", + "qas": [ + { + "question": "1988年大会は有利と言われていた名古屋を抑えてどこの都市が開催地として選ばれましたか?", + "id": "tr-081-15-000", + "answers": [ + { + "text": "ソウル", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1998年の贈賄事件では、ソルトレークシティ大会の組織委員会がどこの国のIOC委員の子どもの奨学金を肩代わりしていましたか?", + "id": "tr-081-15-001", + "answers": [ + { + "text": "カメルーン", + "answer_start": 102, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "最初のIOC委員の不祥事があったのは何年大会のことですか?", + "id": "tr-081-15-002", + "answers": [ + { + "text": "1988年大会", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "オーストラリア大会の招致責任者がウガンダとケニアのIOC委員に金銭を支払っていたことが発覚したのは何年ですか?", + "id": "tr-081-15-003", + "answers": [ + { + "text": "1999年", + "answer_start": 140, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1999年、どの国の大会招致責任者がウガンダとケニアのIOC委員に金銭を支払っていたことが発覚しましたか?", + "id": "tr-081-15-004", + "answers": [ + { + "text": "オーストラリア", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1999年、オーストラリアの大会招致責任者がウガンダとどの国のIOC委員に金銭を支払っていたことが発覚しましたか?", + "id": "tr-081-15-005", + "answers": [ + { + "text": "ケニア", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1999年、オーストラリアの大会招致責任者がケニアとどこの国のIOC委員に金銭を支払っていたことが発覚しましたか?", + "id": "tr-081-15-006", + "answers": [ + { + "text": "ウガンダ", + "answer_start": 164, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2017年にブラジルオリンピック委員会の会長だった人は誰ですか?", + "id": "tr-081-15-007", + "answers": [ + { + "text": "カルロス・ヌズマン", + "answer_start": 241, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ブラジルオリンピック委員会のカルロス・ヌズマン会長が、リオデジャネイロ大会招致にあたりIOC委員に金銭を支払っていたとして逮捕され、ブラジル検察によって起訴されたのは何年ですか?", + "id": "tr-081-15-008", + "answers": [ + { + "text": "2017年", + "answer_start": 219, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2017年、ブラジルオリンピック委員会のカルロス・ヌズマン会長は、何という都市の大会\n招致にあたりIOC委員に金銭を支払っていたとして逮捕されましたか?", + "id": "tr-081-15-009", + "answers": [ + { + "text": "リオデジャネイロ", + "answer_start": 254, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ブラジル検察が指摘した東京大会招致委員会によるIOC関係者への送金目的は何ですか?", + "id": "tr-081-15-010", + "answers": [ + { + "text": "買収", + "answer_start": 354, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "東京大会招致委員会からIOC関係者への送金を明らかにし、買収目的だったと指摘したのはどの国の検察ですか?", + "id": "tr-081-15-011", + "answers": [ + { + "text": "ブラジル", + "answer_start": 314, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "近年、オリンピックの立候補都市が減少しているのは何の高騰によるものですか?", + "id": "tr-081-15-012", + "answers": [ + { + "text": "開催費", + "answer_start": 374, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1976年のモントリオール大会では大幅な赤字を出し、2006年までの30年間にわたり特別税を徴収し返済を行った。\nまた2004年のアテネ大会では施設建設費の多くを国債で賄った為、2010年のギリシャ危機の一因ともなった。\n前述のとおり、こうした莫大な開催費用が敬遠され、近年は立候補都市が減少している。", + "qas": [ + { + "question": "多大な赤字��出したモントリオール大会は何年にありましたか?", + "id": "tr-081-16-000", + "answers": [ + { + "text": "1976年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1976年開催し、多大な赤字を出したオリンピックの大会は何ですか?", + "id": "tr-081-16-001", + "answers": [ + { + "text": "モントリオール大会", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "多大な赤字を出したモントリオール大会は、2006年までの何年間にわたり返済を行いましたか?", + "id": "tr-081-16-002", + "answers": [ + { + "text": "30年間", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "多大な赤字を出したモントリオール大会は、特別税を徴収し返済を何年までに行いましたか?", + "id": "tr-081-16-003", + "answers": [ + { + "text": "2006年", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "2004年のアテネ大会では施設建設費の多くを何によって賄いましたか?", + "id": "tr-081-16-004", + "answers": [ + { + "text": "国債", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2010年のギリシャ危機の原因の1つともなったオリンピックの大会は何ですか?", + "id": "tr-081-16-005", + "answers": [ + { + "text": "アテネ大会", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "2010年のギリシャ危機の原因の1つともなったアテネ大会は何年にありましたか?", + "id": "tr-081-16-006", + "answers": [ + { + "text": "2004年", + "answer_start": 59, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1984年のロサンゼルス大会からは商業主義を取り入れることとなった。\nこの方式は成功したが、一方で、IOCが、競技者よりも、金銭を提供するテレビ局やスポンサーを優遇する問題が生じている。\n2008年の北京大会ではアメリカのテレビ局NBCの意向で、アメリカでの視聴率が取りやすいように(北京の午前はアメリカの夜のゴールデンタイムになるため)一部の競技の決勝が午前中に開催された。\n2018年の平昌大会ではその傾向が顕著になりスキージャンプ競技は深夜の風の強いコンディションで行われ、更に普通夕方~夜に行われるフィギュアスケートは午前から競技開始と異例の競技時間となった。\n2020年の東京大会でもNBAやNFLなどアメリカ国内の他プロスポーツとの兼ね合いから開催時期を7~8月に設定した結果、後に猛暑から選手の健康を守るという観点で開催9ヵ月前にも関わらず、男女マラソンや競歩の開催地を東京から札幌市に移す一因にもなった。\n後述のアンブッシュ・マーケティング規制は、スポンサーにのみオリンピックへの言及を許し、一般企業がオリンピックを応援することを規制しようとする試みである。", + "qas": [ + { + "question": "商業主義を取り入れることとなった1984年の大会は何ですか?", + "id": "tr-081-17-000", + "answers": [ + { + "text": "ロサンゼルス大会", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "商業主義を取り入れることとなったロサンゼルス大会は何年にありましたか?", + "id": "tr-081-17-001", + "answers": [ + { + "text": "1984年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1984年のロサンゼルス大会からは何主義を取り入れることとなりましたか?", + "id": "tr-081-17-002", + "answers": [ + { + "text": "商業", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "IOCは、競技者よりも、金銭を提供するテレビ局や何を優遇する問題を生じさせていますか?", + "id": "tr-081-17-003", + "answers": [ + { + "text": "スポンサー", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "IOCは、競技者よりも、金銭を提供するスポンサーや何を優遇する問題を生じさせていますか?", + "id": "tr-081-17-004", + "answers": [ + { + "text": "テレビ局", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2008年の北京大会では、アメリカでの視聴率が取りやすいように一部の競技の決勝をいつ開催することにしましたか?", + "id": "tr-081-17-005", + "answers": [ + { + "text": "午前中", + "answer_start": 178, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "北京の午前はアメリカでは夜の何になりますか?", + "id": "tr-081-17-006", + "answers": [ + { + "text": "ゴールデンタイム", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2008年の北京大会で、一部の競技の決勝を午前中に開催させたのはアメリカのどこのテレビ局の意向によるものですか?", + "id": "tr-081-17-007", + "answers": [ + { + "text": "NBC", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2008年の北京大会では、どの国の視聴率を取りやすくするために一部の競技の決勝を午前中に開催しましたか?", + "id": "tr-081-17-008", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ", + "answer_start": 106, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "スキージャンプ競技を深夜に行ったオリンピックの名前は何ですか?", + "id": "tr-081-17-009", + "answers": [ + { + "text": "平昌大会", + "answer_start": 195, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2018年に行われたオリンピックは何ですか?", + "id": "tr-081-17-010", + "answers": [ + { + "text": "平昌大会", + "answer_start": 195, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "平昌大会はいつ行われましたか?", + "id": "tr-081-17-011", + "answers": [ + { + "text": "2018年", + "answer_start": 189, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2018年の平昌大会で午前から競技開始と異例の競技時間となった競技は何ですか?", + "id": "tr-081-17-012", + "answers": [ + { + "text": "フィギュアスケート", + "answer_start": 253, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2020年に開催されるオリンピックの名称は何ですか?", + "id": "tr-081-17-013", + "answers": [ + { + "text": "東京大会", + "answer_start": 291, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2020年の東京大会では、男女マラソンや競歩の開催地を東京からどこに移しますか?", + "id": "tr-081-17-014", + "answers": [ + { + "text": "札幌市", + "answer_start": 396, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2020年の東京大会で、札幌市で開催される競技は男女マラソンともう1つは何ですか?", + "id": "tr-081-17-015", + "answers": [ + { + "text": "競歩", + "answer_start": 385, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2020年の東京大会で、札幌市で開催される競技は競歩ともう1つは何で���か?", + "id": "tr-081-17-016", + "answers": [ + { + "text": "男女マラソン", + "answer_start": 378, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "スポンサーにのみオリンピックへの言及を許し、一般企業がオリンピックを応援することを規制しようとする試みを何という規制と言いますか?", + "id": "tr-081-17-017", + "answers": [ + { + "text": "アンブッシュ・マーケティング規制", + "answer_start": 414, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "大会の運営には、数万のボランティアが動員される。\nIOCも大会ボランティアの必要性を認めており、開会式あるいは閉会式にはボランティアへの謝意が示される。\nしかしボランティアは無報酬であり、さらに開催地への滞在費などは自己負担であり、長期にわたって拘束される。\nそのため2016年リオデジャネイロオリンピックでは5万人のボランティアのうち1万5000人が欠勤した。\nその理由は過酷な労働条件が「参加するに値しない」と判断されたためであった。\n\n著述家の本間龍は、現在の商業五輪において、様々な労働条件を付帯した無償ボランティアを募集することは、自発性、非営利性、公共性が求められるボランティアの本来の趣旨に反していると指摘し、「善意で集まってくるボランティアを徹底的に使役しようとしている」、「五輪という美名のもとにあらゆる資格の価値を無視し、すべて無償で調達しよう」としているとして批判している。\nまた、2020年東京五輪組織委員会のボランティア募集の呼びかけに応じた教育機関や医療関係団体が、学生や加盟者にボランティア参加要請することについては、「思慮がない」「無責任」と評している。", + "qas": [ + { + "question": "大会の運営に数万動員されるものは何ですか?", + "id": "tr-081-18-000", + "answers": [ + { + "text": "ボランティア", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "大会ボランティアに謝意が示されるのは、開会式といつですか?", + "id": "tr-081-18-001", + "answers": [ + { + "text": "閉会式", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "大会ボランティアに謝意が示されるのは、閉会式といつですか?", + "id": "tr-081-18-002", + "answers": [ + { + "text": "開会式", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "開会式あるいは閉会式にボランティアへ何が示されますか?", + "id": "tr-081-18-003", + "answers": [ + { + "text": "謝意", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "開会式あるいは閉会式に、誰に対して謝意が示されますか?", + "id": "tr-081-18-004", + "answers": [ + { + "text": "大会ボランティア", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "大会ボランティアの必要性を認めているのは何ですか?", + "id": "tr-081-18-005", + "answers": [ + { + "text": "IOC", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "5万人のボランティアのうち1万5000人が欠勤した2016年のオリンピックの名称は何ですか?", + "id": "tr-081-18-006", + "answers": [ + { + "text": "リオデジャネイロオリンピック", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "5万人のボランティアのうち1万5000人が欠勤したリオデジャネイロオリンピックは何年にありましたか?", + "id": "tr-081-18-007", + "answers": [ + { + "text": "2016年", + "answer_start": 134, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "現在の商業五輪において、様々な労働条件を付帯した無償ボランティアを募集することは、自発性、非営利性、公共性が求められるボランティアの本来の趣旨に反していると指摘し、「善意で集まってくるボランティアを徹底的に使役しようとしている」、「五輪という美名のもとにあらゆる資格の価値を無視し、すべて無償で調達しよう」としているとして批判している著述家の名前は何ですか?", + "id": "tr-081-18-008", + "answers": [ + { + "text": "本間龍", + "answer_start": 225, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "最初にオリンピックを政治的に利用したとされるのは1936年のベルリン大会の際のヒトラーであるが、戦後オリンピックが世界的なイベントとして認知されると、国威発揚のために政治的に利用する国が多くなった。\nオリンピック憲章ではオリンピックの政治的利用は禁止とされているが身近な例では金メダルをとった選手の表彰式の際、国歌が流れ、国旗が掲揚される。\nこの儀式に対して強く疑問に思ったのが、1936年のベルリン大会のマラソン競技で日本統治時代の朝鮮から「日本代表」として出場し優勝した孫基禎である。\n共産主義時代のソ連や東欧諸国では国威発揚の為国家の元でオリンピック選手を育成し(いわゆる「ステート・アマ」)、メダルを量産してきた。\n共産主義が崩壊した今でもその傾向は続いており2016年のリオデジャネイロ大会の前にはロシアが国家主導で過去の大会においてドーピング行為を行ったことが判明した(ドーピング問題については後述)。\nアメリカ合衆国でも2002年の冬季ソルトレークシティ大会の開会式の際は前年の米国同時多発テロで崩壊したニューヨーク世界貿易センタービルの跡地から発見された星条旗が入場させている。\n日本の一部メディアは、2020年の東京オリンピックを「国威発揚」と位置づけるものもあった。\n\nそして行き過ぎた政治利用は開催に反対する為のボイコットやテロを生んできた。\n冷戦期における先述のモスクワ大会、ロサンゼルス大会の大規模ボイコットやミュンヘン大会で発生したテロの他に1996年のアトランタ大会でもオリンピック公園を標的としたテロが発生している。\nまた国際オリンピック委員会は世界平和の実現と、人権の尊重、差別の撲滅などを推進する「オリンピックムーヴメント」を推進することを標榜しているが、オリンピックムーヴメントの理念にそぐわない国が開催することに異議を唱える運動もしばしば起こり、2008年の北京大会では大会に反対するデモが相次いだ。\nまた2014年ソチ冬季大会ではロシアの「ゲイ・プロパガンダ禁止法」に抗議してアメリカ、ドイツ、フランスなど欧米諸国の首脳が開会式を欠席した。", + "qas": [ + { + "question": "初めてオリンピックを政治利用したのは誰?", + "id": "tr-081-19-000", + "answers": [ + { + "text": "ヒトラー", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "初めてオリンピックを政治的に利用したとされるのは何大会ですか?", + "id": "tr-081-19-001", + "answers": [ + { + "text": "ベルリン大会", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "初めてオリンピックを政治的に利用したとされたベルリン大会は何年にありましたか?", + "id": "tr-081-19-002", + "answers": [ + { + "text": "1936年", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "金メダルをとった選手の表彰式の際に、国旗が掲揚され、何が流れますか?", + "id": "tr-081-19-003", + "answers": [ + { + "text": "国歌", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "金メダルをとった選手の表彰式の際、国歌が流れ、何が掲揚されます���?", + "id": "tr-081-19-004", + "answers": [ + { + "text": "国旗", + "answer_start": 161, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "表彰式の際に国歌が流れ、国旗が掲揚されるのは、何色のメダルをとった選手ですか?", + "id": "tr-081-19-005", + "answers": [ + { + "text": "金", + "answer_start": 138, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1936年のベルリン大会のマラソン競技で、統治時代の朝鮮から「日本代表」として出場し優勝したのは誰ですか?", + "id": "tr-081-19-006", + "answers": [ + { + "text": "孫基禎", + "answer_start": 237, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1936年のベルリン大会で、孫基禎が優勝した競技は何ですか?", + "id": "tr-081-19-007", + "answers": [ + { + "text": "マラソン", + "answer_start": 203, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マラソン競技で孫基禎が優勝したオリンピックは何大会ですか?", + "id": "tr-081-19-008", + "answers": [ + { + "text": "ベルリン大会", + "answer_start": 196, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マラソン競技で孫基禎が優勝したベルリン大会は何年にありましたか?", + "id": "tr-081-19-009", + "answers": [ + { + "text": "1936年", + "answer_start": 190, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1936年のベルリン大会のマラソン競技で優勝した孫基禎は、日本統治時代のどこから「日本代表」として出場しましたか?", + "id": "tr-081-19-010", + "answers": [ + { + "text": "朝鮮", + "answer_start": 217, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "共産主義時代のソ連や東欧諸国で、国威発揚の為国家の元でオリンピック選手を育成することを何と言いますか?", + "id": "tr-081-19-011", + "answers": [ + { + "text": "「ステート・アマ」", + "answer_start": 289, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "国威発揚の為国家の元でオリンピック選手を育成していたのは、共産主義時代のソ連とどこですか?", + "id": "tr-081-19-012", + "answers": [ + { + "text": "東欧諸国", + "answer_start": 255, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "国威発揚の為国家の元でオリンピック選手を育成していたのは、共産主義時代の東欧諸国とどこですか?", + "id": "tr-081-19-013", + "answers": [ + { + "text": "ソ連", + "answer_start": 252, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "共産主義時代のソ連や東欧諸国で国威発揚の為国家の元でオリンピック選手を育成し、量産してきたものは何ですか?", + "id": "tr-081-19-014", + "answers": [ + { + "text": "メダル", + "answer_start": 300, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2016年のリオデジャネイロ大会の前に、過去の大会において国家主導でドーピング行為を行ったことが判明した国はどこですか?", + "id": "tr-081-19-015", + "answers": [ + { + "text": "ロシア", + "answer_start": 354, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2016年のリオデジャネイロ大会の前に、ロシアが過去の大会において国家主導で行った行為は何ですか?", + "id": "tr-081-19-016", + "answers": [ + { + "text": "ドーピング", + "answer_start": 372, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "米国同時多発テロで崩壊した世界貿易センタービルはどこにありましたか?", + "id": "tr-081-19-017", + "answers": [ + { + "text": "ニューヨーク", + "answer_start": 459, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2002年の冬季ソルトレークシティ大会の前年にアメリカ合衆国で起こったテロの名前は何ですか?", + "id": "tr-081-19-018", + "answers": [ + { + "text": "米国同時多発テロ", + "answer_start": 446, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ニューヨーク世界貿易センタービルのある国はどこですか?", + "id": "tr-081-19-019", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ合衆国", + "answer_start": 408, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アメリカ合衆国で2002年に行われた冬季オリンピックは何大会と呼ばれますか?", + "id": "tr-081-19-020", + "answers": [ + { + "text": "ソルトレークシティ大会", + "answer_start": 425, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "米国同時多発テロで崩壊したニューヨークにあるビルの名前は何ですか?", + "id": "tr-081-19-021", + "answers": [ + { + "text": "世界貿易センタービル", + "answer_start": 465, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アメリカ合衆国の国旗を何と言いますか?", + "id": "tr-081-19-022", + "answers": [ + { + "text": "星条旗", + "answer_start": 485, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2002年の冬季ソルトレークシティ大会の開会式の際に入場したもので、米国同時多発テロで崩壊したニューヨーク世界貿易センタービルの跡地から発見されたものは何ですか?", + "id": "tr-081-19-023", + "answers": [ + { + "text": "星条旗", + "answer_start": 485, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本の一部メディアは、2020年の東京オリンピックを何と位置づけしていますか?", + "id": "tr-081-19-024", + "answers": [ + { + "text": "「国威発揚」", + "answer_start": 524, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本の一部メディアが、「国威発揚」と位置づけている2020年開催のオリンピックの名前は何ですか?", + "id": "tr-081-19-025", + "answers": [ + { + "text": "東京オリンピック", + "answer_start": 515, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックの行き過ぎた政治利用は開催に反対する為のボイコットや何を生んできましたか?", + "id": "tr-081-19-026", + "answers": [ + { + "text": "テロ", + "answer_start": 573, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックの行き過ぎた政治利用は開催に反対する為のテロや何を生んできましたか?", + "id": "tr-081-19-027", + "answers": [ + { + "text": "ボイコット", + "answer_start": 567, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1996年のアトランタ大会でオリンピック公園を標的として何が発生しましたか?", + "id": "tr-081-19-028", + "answers": [ + { + "text": "テロ", + "answer_start": 630, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1996年のアトランタ大会で発生したテロは、何を標的としましたか?", + "id": "tr-081-19-029", + "answers": [ + { + "text": "オリンピック公園", + "answer_start": 650, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピック公園を標的としたテロが発生したアトランタ大会は何年にありましたか?", + "id": "tr-081-19-030", + "answers": [ + { + "text": "1996年", + "answer_start": 635, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピック公園を標的としたテロが発生した1996年の大会は何と言いますか?", + "id": "tr-081-19-031", + "answers": [ + { + "text": "アトランタ大会", + "answer_start": 641, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "世界平和の実現と、人権の尊重、差別の撲滅などを推進する「オリンピックムーヴメント」を推進している委員会の名前は何ですか?", + "id": "tr-081-19-032", + "answers": [ + { + "text": "国際オリンピック委員会", + "answer_start": 677, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「オリンピックムーヴメント」では、世界平和の実現と、人権の尊重、そしてもう1つ推進しているものは何ですか?", + "id": "tr-081-19-033", + "answers": [ + { + "text": "差別の撲滅", + "answer_start": 704, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「オリンピックムーヴメント」では、世界平和の実現と、差別の撲滅、そしてもう1つ推進しているものは何ですか?", + "id": "tr-081-19-034", + "answers": [ + { + "text": "人権の尊重", + "answer_start": 698, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「オリンピックムーヴメント」では、差別の撲滅と、人権の尊重、そしてもう1つ推進しているものは何ですか?", + "id": "tr-081-19-035", + "answers": [ + { + "text": "世界平和の実現", + "answer_start": 689, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "国際オリンピック委員会が世界平和の実現と、人権の尊重、差別の撲滅などを推進していることを何と言いますか?", + "id": "tr-081-19-036", + "answers": [ + { + "text": "「オリンピックムーヴメント」", + "answer_start": 716, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "何の理念にそぐわない国が、開催することに異議を唱える運動を起こしましたか?", + "id": "tr-081-19-037", + "answers": [ + { + "text": "オリンピックムーヴメント", + "answer_start": 717, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ソチ冬季大会は何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-19-038", + "answers": [ + { + "text": "2014年", + "answer_start": 823, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2014年の冬季オリンピックはどこで開催されましたか?", + "id": "tr-081-19-039", + "answers": [ + { + "text": "ソチ", + "answer_start": 828, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2014年ソチ冬季大会ではロシアの何に抗議してアメリカ、ドイツ、フランスなど欧米諸国の首脳が開会式を欠席しましたか?", + "id": "tr-081-19-040", + "answers": [ + { + "text": "「ゲイ・プロパガンダ禁止法」", + "answer_start": 840, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "また2014年ソチ冬季大会ではロシアの「ゲイ・プロパガンダ禁止法」に抗議してアメリカ、ドイツの他にどの国の首脳が開会式を欠席しましたか?", + "id": "tr-081-19-041", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 868, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "また2014年ソチ冬季大会ではロシアの「ゲイ・プロパガンダ禁止法」に抗議してフランス、ドイツの他にどの国の首脳が開会式を欠席しましたか?", + "id": "tr-081-19-042", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ", + "answer_start": 859, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "また2014年ソチ冬季大会ではロシアの「ゲイ・プロパガンダ禁止法」に抗議してアメリカ、フランスの他にどの国の首脳が開会式を欠席しましたか?", + "id": "tr-081-19-043", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ", + "answer_start": 864, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1960年のローマ大会の自転車競技で競技後選手に死者がでたが、その選手は後に興奮剤のアンフェタミンを投与されていたことが判明した。\nこれをきっかけにIOCはドーピング対策に本腰を上げる事になったが、ドーピング問題を世界に知らしめたのは1988年のソウル大会でベン・ジョンソンが100m走で世界新記録を出しながら、競技後のドーピング検査で禁止薬物のスタノゾロールが発見されて失格になってからである。\nその後1999年には世界アンチ・ドーピング機関(WADA)が設立されドーピングへの取り締まりが強化されたが、科学技術の進歩を背景にドーピング検査に引っかからない薬物等の開発とそれを取り締まる検査法の開発...といったイタチごっこの状態が続き、2016年のリオデジャネイロ大会の直前にはロシアが国家主導で過去の大会でドーピングを行ったとWADAより発表されてロシア選手団389人のうち118人が出場できないという事態となった。", + "qas": [ + { + "question": "自転車競技で競技後選手に死人が出たローマ大会は何年に開催されましたか?", + "id": "tr-081-20-000", + "answers": [ + { + "text": "1960年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "自転車競技で競技後選手に死人がでた1960年の大会の名前は何ですか?", + "id": "tr-081-20-001", + "answers": [ + { + "text": "ローマ大会", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1960年のローマ大会の自転車競技で、競技後に死んだ選手は、何という興奮剤が投与されていたと判明しましたか?", + "id": "tr-081-20-002", + "answers": [ + { + "text": "アンフェタミン", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1960年のローマ大会で死者が出た競技は何ですか?", + "id": "tr-081-20-003", + "answers": [ + { + "text": "自転車競技", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1988年のソウル大会で100m走の世界新記録を出しながら、ドーピング問題で失格となった人は誰ですか?", + "id": "tr-081-20-004", + "answers": [ + { + "text": "ベン・ジョンソン", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ベン・ジョンソンが100m走で世界新記録を出しながら、ドーピング問題で失格になったのは1988年の何大会ですか?", + "id": "tr-081-20-005", + "answers": [ + { + "text": "ソウル大会", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1988年のソウル大会でべン・ジョンソンは何m走で世界新記録を出しましたか?", + "id": "tr-081-20-006", + "answers": [ + { + "text": "100m", + "answer_start": 138, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ベン・ジョンソンが100m走で世界新記録を出したソウル大会は何年にありましたか?", + "id": "tr-081-20-007", + "answers": [ + { + "text": "1988年", + "answer_start": 117, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1988年のソウル大会でベン・ジョンソンが100m走の競技後に、何という名前の禁止薬物が発見されましたか?", + "id": "tr-081-20-008", + "answers": [ + { + "text": "スタノゾロール", + "answer_start": 173, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1988年のソウル大会でベン・ジョンソンが100m走の競技後に受けた検査は何ですか?", + "id": "tr-081-20-009", + "answers": [ + { + "text": "ドーピング検査", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "世界アンチ・ドーピング機関(WADA)が設立されたのはいつですか?", + "id": "tr-081-20-010", + "answers": [ + { + "text": "1999年", + "answer_start": 202, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ドーピングへの取り締まりを強化するために、1999年に設立された機関の名前は何ですか?", + "id": "tr-081-20-011", + "answers": [ + { + "text": "世界アンチ・ドーピング機関", + "answer_start": 209, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "世界アンチ・ドーピング機関をアルファベットで言うと何になりますか?", + "id": "tr-081-20-012", + "answers": [ + { + "text": "WADA", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "WADAとは何ですか?", + "id": "tr-081-20-013", + "answers": [ + { + "text": "世界アンチ・ドーピング機関", + "answer_start": 209, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2016年のリオデジャネイロ大会では、ロシア選手団389人のうち何人が不出場となりましたか?", + "id": "tr-081-20-014", + "answers": [ + { + "text": "118人", + "answer_start": 390, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "2016年のリオデジャネイロ大会の直前の時点で、ロシアの選手団は何人いましたか?", + "id": "tr-081-20-015", + "answers": [ + { + "text": "389人", + "answer_start": 383, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "2016年のリオデジャネイロ大会の直前に、ロシアはどこの機関から過去の大会で国家主導によるドーピングを行ったと発表されましたか?", + "id": "tr-081-20-016", + "answers": [ + { + "text": "WADA", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロシアが国家主導で過去の大会でドーピングを行ったとWADAより発表され、ロシア選手団389人のうち118人が出場できないという事態となったオリンピックの大会は何ですか?", + "id": "tr-081-20-017", + "answers": [ + { + "text": "リオデジャネイロ大会", + "answer_start": 326, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロシアが国家主導で過去の大会でドーピングを行ったとWADAより発表され、ロシア選手団389人のうち118人が出場できないという事態となったリオデジャネイロ大会は何年にありましたか?", + "id": "tr-081-20-018", + "answers": [ + { + "text": "2016年", + "answer_start": 320, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "国際オリンピック委員会は、無関係の会社や店舗などの組織が「オリンピックを応援する」などと言うことは、実際は応援では無くオリンピックの知名度等を不正に利用する「アンブッシュマーケティング」であると称し、禁止をしている。\nその理由としてオリンピックの公式スポンサーのみが排他的な商業的利用権が与え��れていると述べている。", + "qas": [ + { + "question": "無関係の会社や店舗などの組織が「オリンピックを応援する」などと言うことは、実際は応援では無くオリンピックの知名度等を不正に利用する「アンブッシュマーケティング」であると称し、禁止をしている委員会の名前は何ですか?", + "id": "tr-081-21-000", + "answers": [ + { + "text": "国際オリンピック委員会", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "国際オリンピック委員会は、オリンピックの知名度等を不正に利用することを何と称し、禁止していますか?", + "id": "tr-081-21-001", + "answers": [ + { + "text": "「アンブッシュマーケティング」", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "日本広告審査機構(JARO)は、「いかなる文言を使用しようとも、商業広告で2020年のオリンピック東京大会を想起させる表現をすることは、アンブッシュ・マーケティング(いわゆる便乗広告)として不正競争行為に該当するおそれがあり、JOC(日本オリンピック委員会)やIOC(国際オリンピック委員会)から使用の差し止め要請や損害賠償請求を受ける可能性がある」との見解を出しており、「東京オリンピック・パラリンピックを応援しています」という直接的な表現以外に「祝・夢の祭典」「2020円キャンペーン」など間接的に連想できる物もアンブッシュマーケティングである可能性であることを示唆している。\n\n友利昴氏(1級知的財産管理技能士・著述家)はオリンピック委員会の規制には根拠がないことが明らかにしている。\n過去の裁判やトラブル事例から「キャンペーンや抗議行動の態度からうかがえる、非常に旺盛な権利保護方針の割には、実際にはなんでもかんでも訴えているわけではない」と指摘し、アンブッシュマーケティングをめぐり訴訟になった数少ない裁判では、IOC側が敗訴していることを挙げている(オーストラリア、カナダ)。\nまた上記のJAROの見解はIOCやJOCへの忖度に過ぎないとして、(JAROが正しい法的検討をせずに)「逃げを打つのは、広告業界の指針となるべき団体として、適切な姿勢といえるだろうか」と批判している。\n\n日本の商標権に関する規則では登録商標は同一又は類似した商品・役務の登録商標にのみ独占権があるとしており、オリンピックそのもの(大会や委員会)を示すために使うことは合法であるとしている。\n飲食店の屋号や表示として権利者に許可無く「オリンピックレストラン」、「オリンピック公式レストラン」などと表示するのは違法だが、本物のオリンピックに対して「オリンピックを見ながら飲食しましょう」と宣伝するのは問題無いとしている(商標としての独占であり、言葉の独占では無い)。\n\n著作権法上では公式のロゴやマークを許可無く利用する事は一般的に禁止されており、オリンピックも同様である。\n店内でのオリンピック競技の放映をオリンピック委員会の許可無く行う事は禁止されているが、誰でも見られる放送をそのまま店内の民生用機器で再生する事は一般的な権利として認められる。\nこのため、テレビ放映されているオリンピックの映像を店内で流すことに関しては問題が無い。\nこの場合は放送局がオリンピック委員会に放送するという事で利用料を払っている。", + "qas": [ + { + "question": "JOCとは何ですか?", + "id": "tr-081-22-000", + "answers": [ + { + "text": "日本オリンピック委員会", + "answer_start": 117, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本オリンピック委員会をアルファベットで表すとどうなりますか?", + "id": "tr-081-22-001", + "answers": [ + { + "text": "JOC", + "answer_start": 113, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "JAROとは何ですか?", + "id": "tr-081-22-002", + "answers": [ + { + "text": "日本広告審査機構", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本広告審査機構をアルファベットで表すと何になりますか?", + "id": "tr-081-22-003", + "answers": [ + { + "text": "JARO", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1級知的財産管理技能士であり、著述家の日本人の名前は何ですか?", + "id": "tr-081-22-004", + "answers": [ + { + "text": "友利昴", + "answer_start": 292, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "一般的に著作権法上で公式のロゴと何を許可無く利用する事が禁止されいますか?", + "id": "tr-081-22-005", + "answers": [ + { + "text": "マーク", + "answer_start": 841, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "店内では、オリンピック競技の放映を何委員会の許可無く行うことが禁止されていますか?", + "id": "tr-081-22-006", + "answers": [ + { + "text": "オリンピック委員会", + "answer_start": 897, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "店内でオリンピック委員会の許可無く、放映することが禁止されているものは何ですか?", + "id": "tr-081-22-007", + "answers": [ + { + "text": "オリンピック競技", + "answer_start": 885, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "テレビ放映されているオリンピックの映像を流すことに関して問題が無いのはどこですか?", + "id": "tr-081-22-008", + "answers": [ + { + "text": "店内", + "answer_start": 994, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックの映像を店内で流すことに関して問題が無いのは、何で放映されているものですか?", + "id": "tr-081-22-009", + "answers": [ + { + "text": "テレビ", + "answer_start": 974, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "放送局がオリンピックを放送するにあたってオリンピック委員会に支払っているものは何ですか?", + "id": "tr-081-22-010", + "answers": [ + { + "text": "利用料", + "answer_start": 1041, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "オリンピック委員会が放送局に支払わせているものは何ですか?", + "id": "tr-081-22-011", + "answers": [ + { + "text": "利用料", + "answer_start": 1041, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "TOPとは「ワールドワイドパートナー」(英:TheOlympicProgramme)の事である。\n元々、オリンピックマークの商業使用権は各国のオリンピック委員会(NOC)が各々で管理をしていたが、サマランチ会長がIOCの一括管理にした事から1988年の冬季カルガリー大会と夏季ソウル大会から始まったプログラムで、オリンピックの中でも全世界的に設けられた最高位のスポンサーである。\n基本的には4年単位の契約で1業種1社に限定されており、毎回計9〜11社ほどが契約を結んでいる。\nなお、TOPにパナソニック、ゼネラル・エレクトリック(GE)、サムスンと同業種の企業が名を連ねているが、これはパナソニックが音響・映像機器、サムスンは無線通信機器と細分化されており、またGEはエネルギー関連、インフラ、照明、その他の電気製品などの上記と重ならないカテゴリーのスポンサーとなっているからである。\nこの他にも、各国のオリンピック委員会とオリンピック組織委員会が国内限定を対象とした「ゴールドスポンサー」(1社数十億円程度)、権利はゴールドスポンサーと同様だがTOPと競合しない事が条件の「オフィシャルサプライヤー/サポーター」(1社数億円程度)、グッズの商品化のみが可能な「オフィシャルライセンシー」がある。", + "qas": [ + { + "question": "TOPとは日本語で何と言いますか?", + "id": "tr-081-23-000", + "answers": [ + { + "text": "「ワールドワイドパートナー」", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "TOPとは英語で何と言いますか?", + "id": "tr-081-23-001", + "answers": [ + { + "text": "TheOlympicProgramme", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "TheOlympicProgrammeはアルファベットで何と省略されますか?", + "id": "tr-081-23-002", + "answers": [ + { + "text": "TOP", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "TheOlympicProgrammeは日本語で何と言いますか?", + "id": "tr-081-23-003", + "answers": [ + { + "text": "「ワールドワイドパートナー」", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "各国のオリンピック委員会が各々で管理をしているものは、オリンピックマークの何権と呼ばれるものですか?", + "id": "tr-081-23-004", + "answers": [ + { + "text": "商業使用権", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックマークの商業使用権をIOCの一括管理にした会長は誰ですか?", + "id": "tr-081-23-005", + "answers": [ + { + "text": "サマランチ", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1988年の冬季オリンピックの大会はどこで開催されましたか?", + "id": "tr-081-23-006", + "answers": [ + { + "text": "カルガリー", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "冬季カルガリー大会は何年にありましたか?", + "id": "tr-081-23-007", + "answers": [ + { + "text": "1988年", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1988年のオリンピックの大会は冬季カルガリー大会と夏季は何大会ですか?", + "id": "tr-081-23-008", + "answers": [ + { + "text": "ソウル大会", + "answer_start": 138, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "TOPに名を連ねている企業は、パナソニック、ゼネラル・エレクトリック(GE)ともう1つは何ですか?", + "id": "tr-081-23-009", + "answers": [ + { + "text": "サムスン", + "answer_start": 269, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "TOPに名を連ねている企業は、パナソニック、サムスンともう1つは何ですか?", + "id": "tr-081-23-010", + "answers": [ + { + "text": "ゼネラル・エレクトリック", + "answer_start": 252, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "TOPに名を連ねている企業は、ゼネラル・エレクトリック(GE)、サムスンともう1つは何ですか?", + "id": "tr-081-23-011", + "answers": [ + { + "text": "パナソニック", + "answer_start": 245, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "パナソニックが細分化しているものは音響ともう1つは何ですか?", + "id": "tr-081-23-012", + "answers": [ + { + "text": "映像機器", + "answer_start": 303, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "パナソニックが細分化しているものは映像機器ともう1つは何ですか?", + "id": "tr-081-23-013", + "answers": [ + { + "text": "音響", + "answer_start": 300, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "サムスンが細分化しているものは何ですか?", + "id": "tr-081-23-014", + "answers": [ + { + "text": "無線通信機器", + "answer_start": 313, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "各国のオリンピック委員会とオリンピック組織委員会が国内限定を対象とした、1社数十億円程度のスポンサーを何と言いますか?", + "id": "tr-081-23-015", + "answers": [ + { + "text": "「ゴールドスポンサー」", + "answer_start": 434, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "各国のオリンピック委員会とオリンピック組織委員会が国内限定を対象としたスポンサーで、TOPと競合しない事が条件のスポンサーを何と言いますか??", + "id": "tr-081-23-016", + "answers": [ + { + "text": "「オフィシャルサプライヤー/サポーター」", + "answer_start": 487, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "各国のオリンピック委員会とオリンピック組織委員会が国内限定を対象としたスポンサーで、グッズの商品化のみが可能なものを何と言いますか?", + "id": "tr-081-23-017", + "answers": [ + { + "text": "「オフィシャルライセンシー」", + "answer_start": 530, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "TOPは指定された製品カテゴリーの中で独占的な世界規模でのマーケティング権利と機会を受ける事ができる。\nまた、IOCや各国オリンピック委員会、オリンピック組織委員会といった関係団体と共に商品開発などをする事も可能である。\nなお、TOPはすべての大会の権利使用許可、大会放送での優先的な広告機会、大会への接待機会、便乗商法からの権利保護、大会会場周辺での商業活動、公式スポンサーとしての認知機会が与えられる。", + "qas": [ + { + "question": "TOPは指定された製品カテゴリーの中で、独占的な世界規模での何という権利と機会を受ける事ができますか?", + "id": "tr-081-24-000", + "answers": [ + { + "text": "マーケティング", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "TOPは、IOCや各国オリンピック委員会、オリンピック組織委員会といった関係団体と共に何を開発する事が可能ですか?", + "id": "tr-081-24-001", + "answers": [ + { + "text": "商品", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "日本が初めて参加したのは、1912年に開催されたストックホルム大会である。\nこれはオリンピックの普及に腐心したクーベルタン男爵の強い勧めによるものであるが、嘉納治五郎を初めとする日本側関係者の努力も大きかった。\n最初は男子陸上のみによる参加であったが、アムステルダム大会からは女子選手も参加した。\nアムステルダム大会から日本国の予算で選手渡航費が計上された。\nそれまでは自費で渡航していた。\nなお、ストックホルム夏季大会で嘉納治五郎は日本人初のIOC委員として参加し、また男子陸上の選手として参加したのは短距離の三島弥彦とマラソン選手の金栗四三で、この2名が日本人初のオリンピック選手として大会に参加した。\n日本選手のメダル獲得、ベルリン大会から始まったラジオ実況中継、聖火ランナーなどにより、日本での関心が増し、1940年の夏の大会を東京に、1940年の冬の大会を札幌に招致する事に成功したが、これらの大会は日中戦争(支那事変)の激化もあり自ら開催権を返上した。\n戦後のロンドン大会には戦争責任からドイツと共に日本は参加を許されず、ヘルシンキ大会より復帰している。\n日本国内での開催は、夏季オリンピックを東京、冬季オリンピックを札幌(これらはそれぞれアジア地区で最初の開催でもある)および長野で行っている。\nさらに、2020年の夏季オリンピックの開催地に東京が選出され、2度目の開催が決定��ている。\nオリンピックの開催年は、全国高等学校野球選手権大会の日程が調整されることがある。\n1992年の第74回全国高等学校野球選手権大会ではバルセロナオリンピックの終了を待って8月10日から開催され、逆に2008年の第90回全国高等学校野球選手権記念大会では北京オリンピックとの重複を可能な限り避けるために大会史上最も早い8月2日から開催された。", + "qas": [ + { + "question": "日本がオリンピック初参加となったのは、1912年の何大会ですか?", + "id": "tr-081-25-000", + "answers": [ + { + "text": "ストックホルム大会", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "日本がオリンピック初参加となったストックホルム大会は何年にありましたか?", + "id": "tr-081-25-001", + "answers": [ + { + "text": "1912年", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1912年のストックホルム大会で日本が初参加となったのは、オリンピックの普及に腐心した何男爵の強い勧めによるものでしたか?", + "id": "tr-081-25-002", + "answers": [ + { + "text": "クーベルタン男爵", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "誰を初めとする日本側関係者の努力が大きく、1912年のストックホルム大会に日本が初めて参加出来ましたか?", + "id": "tr-081-25-003", + "answers": [ + { + "text": "嘉納治五郎", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1912年のストックホルム大会で、日本の参加競技は何のみによるものでしたか?", + "id": "tr-081-25-004", + "answers": [ + { + "text": "男子陸上", + "answer_start": 109, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピックに日本の女子選手が初参加したのは何大会ですか?", + "id": "tr-081-25-005", + "answers": [ + { + "text": "アムステルダム大会", + "answer_start": 126, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アムステルダム大会で、日本国の予算で計上されたものは何ですか?", + "id": "tr-081-25-006", + "answers": [ + { + "text": "選手渡航費", + "answer_start": 167, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本国の予算で選手渡航費が計上されたオリンピックの大会は何ですか?", + "id": "tr-081-25-007", + "answers": [ + { + "text": "アムステルダム大会", + "answer_start": 149, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ストックホルム夏季大会で日本人で初めてIOC委員として参加したのは誰ですか?", + "id": "tr-081-25-008", + "answers": [ + { + "text": "嘉納治五郎", + "answer_start": 211, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ストックホルム夏季大会で、男子陸上の短距離に参加した日本人選手は誰ですか?", + "id": "tr-081-25-009", + "answers": [ + { + "text": "三島弥彦", + "answer_start": 256, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ストックホルム夏季大会で、男子陸上のマラソンに参加した日本人選手は誰ですか?", + "id": "tr-081-25-010", + "answers": [ + { + "text": "金栗四三", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "日本人初のオリンピック選手2人の内、1人は三島弥彦ですが、もう1人は誰ですか?", + "id": "tr-081-25-011", + "answers": [ + { + "text": "金栗四三", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本人初のオリンピック選手は金栗四三と、もう1人は誰ですか?", + "id": "tr-081-25-012", + "answers": [ + { + "text": "三島弥彦", + "answer_start": 256, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本人初のオリンピック選手が参加した競技は男子陸上の短距離と何ですか?", + "id": "tr-081-25-013", + "answers": [ + { + "text": "マラソン", + "answer_start": 261, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本人初のオリンピック選手が参加した競技は男子陸上のマラソンと何ですか?", + "id": "tr-081-25-014", + "answers": [ + { + "text": "短距離", + "answer_start": 252, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "嘉納治五郎が日本人で最初のIOC委員として参加した大会は何ですか?", + "id": "tr-081-25-015", + "answers": [ + { + "text": "ストックホルム夏季大会", + "answer_start": 199, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "日本人選手2人が、初のオリンピック選手として大会に参加したのは何大会ですか?", + "id": "tr-081-25-016", + "answers": [ + { + "text": "ストックホルム夏季大会", + "answer_start": 199, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本人初のオリンピック選手、三島弥彦が参加した競技は何ですか?", + "id": "tr-081-25-017", + "answers": [ + { + "text": "短距離", + "answer_start": 252, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本人初のオリンピック選手、金栗四三が参加した競技は何ですか?", + "id": "tr-081-25-018", + "answers": [ + { + "text": "マラソン", + "answer_start": 261, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本人初のオリンピック選手、金栗四三が参加したオリンピックの大会は何ですか?", + "id": "tr-081-25-019", + "answers": [ + { + "text": "ストックホルム夏季大会", + "answer_start": 199, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本人初のオリンピック選手、三島弥彦が参加したオリンピックの大会は何ですか?", + "id": "tr-081-25-020", + "answers": [ + { + "text": "ストックホルム夏季大会", + "answer_start": 199, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本人初のオリンピック選手、三島弥彦と金栗四三が参加したオリンピックの大会は何ですか?", + "id": "tr-081-25-021", + "answers": [ + { + "text": "ストックホルム夏季大会", + "answer_start": 199, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本でオリンピックのラジオ実況中継が始まったのは何大会からですか?", + "id": "tr-081-25-022", + "answers": [ + { + "text": "ベルリン大会", + "answer_start": 315, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "聖火ランナーが始まったのは何大会からですか?", + "id": "tr-081-25-023", + "answers": [ + { + "text": "ベルリン大会", + "answer_start": 315, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本では、ベルリン大会から何の実況中継が始まりましたか?", + "id": "tr-081-25-024", + "answers": [ + { + "text": "ラジオ", + "answer_start": 327, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1940年の冬の大会は日本のどこの都市に招致する事に成功しましたか?", + "id": "tr-081-25-025", + "answers": [ + { + "text": "札幌", + "answer_start": 383, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1940年の夏の東京大会と冬の札幌大会の開催権が返上されたのは、何の戦争によるものでしたか?", + "id": "tr-081-25-026", + "answers": [ + { + "text": "日中戦争", + "answer_start": 405, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "支那事変は何戦争のことですか?", + "id": "tr-081-25-027", + "answers": [ + { + "text": "日中戦争", + "answer_start": 405, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日中戦争の激化により、開催権を返上したのは1940年の夏の東京大会と冬はどの都市でしたか?", + "id": "tr-081-25-028", + "answers": [ + { + "text": "札幌", + "answer_start": 383, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日中戦争の激化により、開催権を返上したのは1940年の冬の札幌大会と、夏はどの都市でしたか?", + "id": "tr-081-25-029", + "answers": [ + { + "text": "東京", + "answer_start": 368, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日中戦争の激化により、日本はオリンピックの何を返上しましたか?", + "id": "tr-081-25-030", + "answers": [ + { + "text": "開催権", + "answer_start": 423, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戦後のロンドン大会で、戦争責任から参加を許されなかった国は、ドイツとどこですか?", + "id": "tr-081-25-031", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 456, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戦後のロンドン大会で、戦争責任から参加を許されなかった国は、日本とどこですか?", + "id": "tr-081-25-032", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ", + "answer_start": 450, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戦後のロンドン大会には戦争責任からドイツと共に日本は参加を許されず、何大会で復帰しましたか?", + "id": "tr-081-25-033", + "answers": [ + { + "text": "ヘルシンキ大会", + "answer_start": 467, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戦後のロンドン大会には戦争責任からドイツは参加を許されず、何大会で復帰しましたか?", + "id": "tr-081-25-034", + "answers": [ + { + "text": "ヘルシンキ大会", + "answer_start": 467, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戦後のロンドン大会には戦争責任から日本は参加を許されず、何大会で復帰しましたか?", + "id": "tr-081-25-035", + "answers": [ + { + "text": "ヘルシンキ大会", + "answer_start": 467, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戦後のオリンピック、へルシンキ大会で復帰を許された国はドイツとどこですか?", + "id": "tr-081-25-036", + "answers": [ + { + "text": "日本", + "answer_start": 456, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "戦後のオリンピック、へルシンキ大会で復帰を許された国は日本とどこですか?", + "id": "tr-081-25-037", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ", + "answer_start": 450, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本国内でのオリンピック開催は、東京と札幌、あともう1つはどこですか?", + "id": "tr-081-25-038", + "answers": [ + { + "text": "長野", + "answer_start": 545, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本国内でのオリンピック開催は、東京と長野、あともう1つはどこですか?", + "id": "tr-081-25-039", + "answers": [ + { + "text": "札幌", + "answer_start": 515, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本国内でのオリンピック開催は、札幌と長野、あともう1つはどこですか?", + "id": "tr-081-25-040", + "answers": [ + { + "text": "東京", + "answer_start": 503, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2020年の夏季オリンピックの開催地に東京が選出されたのは何度目ですか?", + "id": "tr-081-25-041", + "answers": [ + { + "text": "2度目", + "answer_start": 586, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2度目の開催が決定した東京オリンピックは何年になりますか?", + "id": "tr-081-25-042", + "answers": [ + { + "text": "2020年", + "answer_start": 559, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "全国高等学校野球選手権大会の日程が調整されることがあるのは何が開催される年ですか?", + "id": "tr-081-25-043", + "answers": [ + { + "text": "オリンピック", + "answer_start": 601, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリンピック開催年には、何の大会日程が調整されることがありますか?", + "id": "tr-081-25-044", + "answers": [ + { + "text": "全国高等学校野球選手権大会", + "answer_start": 613, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1992年の第74回全国高等学校野球選手権大会は、バルセロナオリンピックの終了を待って何月何日から開催されましたか?", + "id": "tr-081-25-045", + "answers": [ + { + "text": "8月10日", + "answer_start": 685, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バルセロナオリンピックの終了を待って8月10日から開催された全国高等学校野球選手権大会は、第何回ですか?", + "id": "tr-081-25-046", + "answers": [ + { + "text": "第74回", + "answer_start": 648, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第74回全国高等学校野球選手権大会があった年は何年ですか?", + "id": "tr-081-25-047", + "answers": [ + { + "text": "1992年", + "answer_start": 642, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1992年の全国高等学校野球選手権大会は第何回ですか?", + "id": "tr-081-25-048", + "answers": [ + { + "text": "第74回", + "answer_start": 648, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1992年の8月10日から開催された第74回全国高等学校野球選手権大会は、何オリンピックの終了を持って始まりましたか?", + "id": "tr-081-25-049", + "answers": [ + { + "text": "バルセロナオリンピック", + "answer_start": 667, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バルセロナオリンピックの終了を待って1992年8月10日から開催された大会は何ですか?", + "id": "tr-081-25-050", + "answers": [ + { + "text": "第74回全国高等学校野球選手権大会", + "answer_start": 648, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2008年北京オリンピックとの重複を可能な限り避けるために8月2日から開催された大会は何ですか?", + "id": "tr-081-25-051", + "answers": [ + { + "text": "第90回全国高等学校野球選手権記念大会", + "answer_start": 705, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第90回全国高等学校野球選手権記念大会が開催されたのは何月何日ですか?", + "id": "tr-081-25-052", + "answers": [ + { + "text": "8月2日", + "answer_start": 758, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第90回全国高等学校野球選手権記念大会が開催された年は何年ですか?", + "id": "tr-081-25-053", + "answers": [ + { + "text": "2008年", + "answer_start": 699, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "北京オリンピックは何年にありましたか?", + "id": "tr-081-25-054", + "answers": [ + { + "text": "2008年", + "answer_start": 699, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2008年の夏にあったオリンピックの名前は何ですか?", + "id": "tr-081-25-055", + "answers": [ + { + "text": "北京オリンピック", + "answer_start": 726, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "大会史上最も早い8月2日から開催された全国高等学校野球選手権大会の正式名称は何ですか?", + "id": "tr-081-25-056", + "answers": [ + { + "text": "第90回全国高等学校野球選手権記念大会", + "answer_start": 705, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "日本オリンピック委員会は、1992年アルベールビルオリンピック以降のオリンピック金メダリストに300万円(2016年リオデジャネイロオリンピックからは500万円)、銀メダリストに200万円、銅メダリストに100万円の報奨金を贈っている。", + "qas": [ + { + "question": "日本オリンピック委員会は、2016年リオデジャネイロオリンピックから、オリンピックの金メダリストにいくらの報奨金を贈っていますか?", + "id": "tr-081-26-000", + "answers": [ + { + "text": "500万円", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "金、銀、銅のメダリストのうち、最も奨励金が少ないのは何メダリストですか?", + "id": "tr-081-26-001", + "answers": [ + { + "text": "銅メダリスト", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "日本オリンピック委員会は、1992年アルベールビルオリンピック以降のオリンピック銅メダリストにいくらの報奨金を贈っていますか?", + "id": "tr-081-26-002", + "answers": [ + { + "text": "100万円", + "answer_start": 102, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アルベールビルオリンピックは何年にありましたか?", + "id": "tr-081-26-003", + "answers": [ + { + "text": "1992年", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2016年リオデジャネイロオリンピックから500万円の報奨金をもらえるのは何色のメダリストですか?", + "id": "tr-081-26-004", + "answers": [ + { + "text": "金", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1992年アルベールビルオリンピック以降、200万円の報奨金をもらえるのは何色のメダリストですか?", + "id": "tr-081-26-005", + "answers": [ + { + "text": "銀", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1992年アルベールビルオリンピック以降、100万円の報奨金をもらえるのは何色のメダリストですか?", + "id": "tr-081-26-006", + "answers": [ + { + "text": "銅", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本オリンピック委員会は1992年アルベールビルオリンピック以降、メダリスト達に何を贈っていますか?", + "id": "tr-081-26-007", + "answers": [ + { + "text": "報奨金", + "answer_start": 108, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "五輪は、近代オリンピックのシンボルマークである5色で表現した5つの輪と宮本武蔵の『五輪書』の書名を由来として、読売新聞社記者の川本信正が1936年に考案した訳語である。\n本人は「以前から五大陸を示すオリンピックマークからイメージしていた言葉と、剣豪宮本武蔵の著「五輪書」を思い出し、とっさに「五輪」とメモして見せたら、早速翌日の新聞に使われた」と述べている。", + "qas": [ + { + "question": "『五輪書』を書いた人は誰ですか?", + "id": "tr-081-27-000", + "answers": [ + { + "text": "宮本武蔵", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "宮本武蔵が書いたものは何ですか?", + "id": "tr-081-27-001", + "answers": [ + { + "text": "『五輪書』", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1936年に読売新聞社記者の川本信正が考案した訳語は何ですか?", + "id": "tr-081-27-002", + "answers": [ + { + "text": "五輪", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1936年に五輪を考案した読売新聞社記者は誰ですか?", + "id": "tr-081-27-003", + "answers": [ + { + "text": "川本信正", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "川本信正は何新聞社の記者でしたか?", + "id": "tr-081-27-004", + "answers": [ + { + "text": "読売新聞", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "近代オリンピックのシンボルマークは、宮本武蔵の何の書名を由来として考案されましたか?", + "id": "tr-081-27-005", + "answers": [ + { + "text": "『五輪書』", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "読売新聞社記者の川本信正が五輪を考案した年はいつですか?", + "id": "tr-081-27-006", + "answers": [ + { + "text": "1936年", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "近代オリンピックのシンボルマークは何色の輪で表現されていますか?", + "id": "tr-081-27-007", + "answers": [ + { + "text": "5色", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "志摩町越賀", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "志摩町越賀(しまちょうこしか)は、三重県志摩市の地名だ。\n面積は4.18km2(2004年1月1日現在)だ。\n隣接する地区では漁業を主業とする一方、越賀は農業も盛んであり、越賀茶や「きんこ」と呼ばれるサツマイモを干した食品の生産が行われる。", + "qas": [ + { + "question": "2004年1月1日当時の志摩町越賀の面積はどれくらいでしたか?", + "id": "tr-082-00-000", + "answers": [ + { + "text": "4.18km2", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「きんこ」の原料は何?", + "id": "tr-082-00-001", + "answers": [ + { + "text": "サツマイモ", + "answer_start": 100, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "越賀で生産されている干したサツマイモの食品名とは何?", + "id": "tr-082-00-002", + "answers": [ + { + "text": "「きんこ」", + "answer_start": 90, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "志摩町越賀は何県の地名なの?", + "id": "tr-082-00-003", + "answers": [ + { + "text": "三重県", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "志摩市の南部、前島半島(さきしまはんとう)の西部に位置する。\n北側(内海)と南側(外洋)が海に面し、南側に漁港と海水浴場を有する。\n北側は越賀浦と言い、真珠養殖が行われるとともに、外洋が荒れた時に避難港の役割を果たす。\n内陸部は高台になっており、畑作が盛んである。\n『角川日本地名大辞典』では「半農半漁の地域」とされ、高木秀和は「熊野灘に面したこれらの集落では農業のウエイトは全体的に低いといえるが、志摩町越賀のみ例外的に高い」としている。\n東は志摩町和具、西は志摩町御座と接する。\n集落は主に南部に集まり、中田・高岡・若宮などに分かれる。\nただし、自然条件が似通った和具と比べれば1軒あたりの屋敷は広い。", + "qas": [ + { + "question": "越賀の東側に隣接している地域名は何?", + "id": "tr-082-01-000", + "answers": [ + { + "text": "志摩町和具", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "越賀の西側はどこの地域と隣接しているの?", + "id": "tr-082-01-001", + "answers": [ + { + "text": "志摩町御座", + "answer_start": 231, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "内陸部の高台ではどのような農業が営まれているの?", + "id": "tr-082-01-002", + "answers": [ + { + "text": "畑作", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1軒あたりの屋敷が狭いのは越賀と和具のどちら?", + "id": "tr-082-01-003", + "answers": [ + { + "text": "和具", + "answer_start": 284, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "越賀北部の小字柳谷にある柳谷遺跡では縄文時代の遺物が大量に出土しており、縄文土器に関しては関東地方や瀬戸内地方の土器と共通する特徴があることから、沿岸を伝っての交流があったことが推察される。\nまた、この遺跡の周囲600mには縄文時代の遺跡がほかに3つ集まっており、越賀南部でも縄文時代後期の阿津里貝塚が確認されている。\n南部では古墳時代後期の全16基の円墳群である野里浜古墳群、全10基の野里ノ岬古墳群、全7基の布浜古墳群が確認されている。\nこのように1地域に古墳が集中するのは、志摩半島では珍しい。", + "qas": [ + { + "question": "布浜古墳群、野里ノ岬古墳群、野里浜古墳群の中で古墳の数が最も多い地域はどこ?", + "id": "tr-082-02-000", + "answers": [ + { + "text": "野里浜古墳群", + "answer_start": 182, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "確認されている古墳の数が多いのは、布浜古墳群と野里ノ岬古墳群のどちら?", + "id": "tr-082-02-001", + "answers": [ + { + "text": "野里ノ岬古墳群", + "answer_start": 194, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "阿津里貝塚はどこの地域で発見されたの?", + "id": "tr-082-02-002", + "answers": [ + { + "text": "越賀南部", + "answer_start": 132, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "平安時代末期の『外記日記』の仁平2年6月26日(ユリウス暦:1152年7月29日)条に「裁定申各神宮司言上為越賀荘押妨神領事」の文字があり、また『玉葉』の承安2年11��1日(ユリウス暦:1172年11月18日)条には「越賀御厨事、同以消息遣親宗許了」の文字が見られ、越賀荘と越賀御厨の間に争いがあったことが窺える。\nまた『神鳳鈔』にも「越賀」の字がある。", + "qas": [ + { + "question": "越賀の文字が記載されている年月日が古いのは、『外記日記』と『玉葉』のどちらですか?", + "id": "tr-082-03-000", + "answers": [ + { + "text": "『外記日記』", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "越賀の文字が記載されている書物は『外記日記』、『玉葉』ともう1つは何ですか?", + "id": "tr-082-03-001", + "answers": [ + { + "text": "『神鳳鈔』", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "応永年間(1394年〜1428年)に越賀の地にやってきた越賀氏(佐治氏とも)は、初代・越賀隼人の隆俊が城山に越賀城を構え、九鬼水軍の攻略に3年間耐えしのいだが九鬼嘉隆と和睦し、九鬼氏に仕えた。\n息子で2代の隆政は文禄の役で武功を挙げ、御座や鵜方など1800石の所領を得、関ヶ原の戦いでは東軍に味方した九鬼守隆に従い、そこでも手柄を上げた。\nその長男で3代の隆春は、11歳にして大坂夏の陣に臨んで活躍し、九鬼氏が移封となった際には九鬼隆季に従い丹波国綾部藩に移った。\n隆春の弟である隆次は九鬼久隆に付き従って、摂津国三田藩へ移った。", + "qas": [ + { + "question": "越賀隆政の父親は誰?", + "id": "tr-082-04-000", + "answers": [ + { + "text": "越賀隼人", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "隆春の祖父に当たる人は誰ですか?", + "id": "tr-082-04-001", + "answers": [ + { + "text": "越賀隼人", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "関ケ原の戦いで隆政は誰に従っていたの?", + "id": "tr-082-04-002", + "answers": [ + { + "text": "九鬼守隆", + "answer_start": 150, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "隆政が手柄を上げた戦は関ケ原の戦いと何でしたか?", + "id": "tr-082-04-003", + "answers": [ + { + "text": "文禄の役", + "answer_start": 106, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "江戸時代には志摩国英虞郡鵜方組に属し、鳥羽藩の配下にあった。\n越賀の港は志州四箇津の1つとして栄え、東風のため大王崎沖を通れない船の避難港となった。\n村内の八幡宮の石垣の修繕には越後国や淡路国など遠方の船頭らからも寄進がなされた。\n漁業も行われ、鯛6枚を献上したほか、カツオ・エビ・イワシ・アワビなどを獲っていた。\nまた夕方に越賀を出港し、翌朝尾張国熱田の朝市に届ける「ノリツケ」が行われていた。\n伊勢国山田へ魚を届ける時は、夜中に起床して英虞湾を渡り鵜方村に上陸し、磯部を経由して逢坂峠を越えて夜通し駆ける「徒荷持」(かちにもち)を行った。\n農業の生産性が低く、漁業はできるが市場が遠かったため、江戸時代から出稼ぎが行われ、志摩国鳥羽のほか伊勢国山田・大湊・松坂、更に尾張・三河・美濃・紀伊・大坂天満まで出て大工・イワシ漁・稲刈り・海士などの仕事に従事した。", + "qas": [ + { + "question": "「ノリツケ」では前日のいつ越賀を出港していたの?", + "id": "tr-082-05-000", + "answers": [ + { + "text": "夕方", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "還住_(青ヶ島)", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "還住(かんじゅう、げんじゅう)は、一度居住地を去った者がその土地に戻り再度居住することを意味する語。\n本記事では、伊豆諸島の青ヶ島で、安永9年(1780年)に始まった噴火活動が���明5年(1785年)になって激しさを増したため、島民が八丈島に避難して無人島になったあと、文政7年(1824年)の旧青ヶ島島民全員の帰還、そして島の復興を達成し、天保6年(1835年)に検地を受けるまでの経過について記述する。", + "qas": [ + { + "question": "一度居住地を去った者がその土地に戻り再度居住することを何といいますか?", + "id": "tr-083-00-000", + "answers": [ + { + "text": "還住", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "青ヶ島の島民はどこに避難しましたか?", + "id": "tr-083-00-001", + "answers": [ + { + "text": "八丈島", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "旧青ヶ島島民が帰還した年はいつですか?", + "id": "tr-083-00-002", + "answers": [ + { + "text": "1824年", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "青ヶ島にいつごろから人が住み始めたのか現在のところはっきりしていない。\nこれはほかの伊豆諸島の島々で発見されている縄文時代や弥生時代の遺跡がまったく発見されておらず、また中世の遺跡も見つかっていないうえに文献資料も乏しいためである。\n15世紀になってようやく青ヶ島に人が居住しているとの記録が現れる。\n青ヶ島は絶海の孤島で周囲を黒潮が流れ、波が荒いことが多く青ヶ島への船の航行は困難を極めた。\nまた島の周囲は約50-250メートルの海食崖が発達しており船の接岸も困難であった。\n15世紀の青ヶ島についての記録の多くは船の遭難に関することであり、この船の往来の困難さは現在に至るまで青ヶ島に住む人々を悩ませ続けている。\n往来は困難を極めたが、青ヶ島での生活には利点もあった。\nこれは八丈島、八丈小島と比べて食糧事情がよかったことである。\n八丈島や八丈小島は19世紀のサツマイモの本格的な普及まで慢性的な食糧危機に見舞われていた。\nこれはおもに台風の襲来による風害によるものであり、ひとたび強い台風が八丈島や八丈小島を襲うと多くの作物に甚大な被害がもたらされ、餓死者が出ることも稀ではなかった。", + "qas": [ + { + "question": "青ヶ島の周囲には何の海流が流れていますか?", + "id": "tr-083-01-000", + "answers": [ + { + "text": "黒潮", + "answer_start": 164, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "記録によると、青ヶ島に人が住みだしたのはいつから?", + "id": "tr-083-01-001", + "answers": [ + { + "text": "15世紀", + "answer_start": 117, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "食糧事情が良くなかったのは青ヶ島と八丈島のどちらですか?", + "id": "tr-083-01-002", + "answers": [ + { + "text": "八丈島", + "answer_start": 340, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "八丈小島にサツマイモが本格的に普及したのはいつからですか?", + "id": "tr-083-01-003", + "answers": [ + { + "text": "19世紀", + "answer_start": 377, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "一方、青ヶ島は大きな成層火山の山頂部が海面上に出ている地形をしており、島の南部には直径1.5-1.7キロメートルという成層火山の大きな火口にあたる池之沢がある。\n池之沢にはかつて大池、小池という淡水の池があり、土地も肥沃であった。何よりも、大きな火口の内側となる池之沢は周囲の山によって強風が遮られるため、作物の被害が少なかった。\nこのような土地であるため、元禄13年(1700年)11月には激しい飢饉に襲われ青ヶ島へ出発した八丈小島の住民24名全員が行方不明になるという事件も発生した。\nしかし池之沢は成層火山の大きな火口内であり、承応元年(1652年)に池之沢内で噴���が上がり、寛文10年(1670年)から約10年間、池の沢にあった池から細かい砂が約10年間にわたって噴出したとの記録が残されている。\nいずれの事件も小規模な異変であったと考えられ、青ヶ島の島民に大きな影響を与えることはなかった。\n安永3年(1774年)の記録によると、青ヶ島には流人1名を加えて328名の島民が、農業やカツオ漁などの漁業、そして年貢としての生糸を生産するための養蚕を営みながら生活していた。\n島内で農業や養蚕の最大の拠点は、土地が肥え淡水の池があって風害から守られている池之沢であった。", + "qas": [ + { + "question": "池之沢の直径は距離にしてどれくらいですか?", + "id": "tr-083-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1.5-1.7キロメートル", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1774年の時点で青ヶ島の居住者は何人でしたか?", + "id": "tr-083-02-001", + "answers": [ + { + "text": "328名", + "answer_start": 433, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1700年に八丈小島の住民は何人行方不明になりましたか?", + "id": "tr-083-02-002", + "answers": [ + { + "text": "24名", + "answer_start": 220, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "安永9年6月18日(1780年7月19日)から23日までの6日間、青ヶ島は群発地震に見舞われた。\n6月24日には地震は収まるが、6月27日、池之沢に噴火口が出現し、そこから大量の湯が噴き上がった。\n池之沢内の大池と小池の水位は上昇を続け、やがて大池と小池はひとつの大きな池となって耕作地を飲み込んでいった。\nまた、水温も上昇して7月半ばには手を入れられないほどの湯になってしまった。\nしかも大量に湧出し続ける湯は塩水であり、池之沢の耕地は甚大な被害を受けることになった。\nまた噴煙の噴出も見られ、噴煙によっても農作物は被害を受けた。\n青ヶ島名主の七太夫は7月末に噴火の被害について報告するために八丈島に渡った。\n八丈島役所も8月、被害の状況を確認するために見分を実施したが、このときは報告と見分の成果はなく、翌年の天明元年分の青ヶ島の年貢は規定どおりの納入が指示され、通常通り年貢は納められた。", + "qas": [ + { + "question": "青ヶ島の噴火の被害を報告しに八丈島に行った人は誰ですか?", + "id": "tr-083-03-000", + "answers": [ + { + "text": "七太夫", + "answer_start": 273, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1780年7月に起こった青ヶ島の群発地震は何日間続きましたか?", + "id": "tr-083-03-001", + "answers": [ + { + "text": "6日間", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "安永9年の噴火は翌安永10年(1781年)4月ごろまでには小康状態となったが、翌月の天明元年(1781年)5月からは今度は火山灰を噴出する噴火が池之沢で始まった。\n噴煙は島全体を覆い、再び池之沢内の池の水位が著しく上昇したが、今度は水が引いてしまい、このときに耕地の土が池に流出し、耕地には大きな石が残されるといった被害が発生した。\n天明2年(1782年)3月、青ヶ島で名船頭として知られた惣兵衛らが乗り込んだ「無人島」を探検する船が八丈島を出港した。\n惣兵衛らは青ヶ島からさらに南へ向かい、現在の鳥島付近まで探検を行ったが、その後、悪天候によって漂流を続けたうえ、何とか江戸にたどり着くことができた。\n惣兵衛らは天明3年(1783年)3月、勘定奉行より酒食の振る舞いを受け、さらに4月には韮山代官である江川太郎左衛門からも酒食の振る舞いを受けたうえ、惣兵衛は八丈島へ戻った。\nのちに惣兵衛は天明5年(1785年)に発生した大噴火の発生直後、青ヶ島へ向かい噴火直後の青ヶ島の状況を目の当たりにすることとなる。\n天明2年(1782年)4月には韮山代官所の代官の手代らが、八丈島に在島していた名主の七太夫��とともに青ヶ島の巡検を行った。\n巡検が行われたときには噴火は小康状態となっており、池之沢内で噴火の被害を受けた農地の復興が進められていることが報告されている。", + "qas": [ + { + "question": "天明元年は西暦で何年ですか?", + "id": "tr-083-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1781年", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "安永9年と天明元年の噴火によって大きな被害を受けた青ヶ島であったが、天明3年(1783年)3月からの噴火はこれまでのものよりも規模が大きく、甚大な被害が出た。\n2月には島の北部にある神子浦(みこのうら)が大崩壊を起こし、舞い上がった土砂が島内の耕地に積もった。\nそして3月9日(1783年4月10日)には地震が頻発、そして池之沢に大きな火口が出現し、島内に灼熱した噴石が降り注いだ。\nそのために噴火開始時に池之沢にいた14名が死亡し、高温の噴石によって火災が発生して61軒の家屋が焼失した。\n噴石の噴出後には火山灰が激しく噴出し、島内は真っ暗となり火山灰が厚く降り積もった。\n火山灰は青ヶ島全体の耕地に壊滅的な被害をもたらしたうえに島の水源をも埋め、雨が降ると火山灰交じりの水が流れ出して人家に流れ込むといった二次災害を引き起こした。\n天明3年の噴火は八丈島からも激しい火の手と猛烈な噴煙が立ち昇るのを見ることができた。\n青ヶ島からの報告を受けた八丈島役所では青ヶ島の被害状況の見分を行うこととして、視察は5月に八丈島を出発し、噴火後の青ヶ島の状況を約1か月見分して八丈島に戻る際、船が上総の興津まで流されたうえ、ようやく八丈島へと戻った。\n青ヶ島は多くの耕地が噴出した火山灰によって失われ、厳しい食糧不足に悩まされることになり、また多くの家も焼失した。\nしかし今回は年貢が免除となり、救援の穀物の支給なども行われた。\nまた噴火の影響で荒廃した青ヶ島から八丈島へ住民が避難することも勧められた。\n天明4年(1784年)には噴火はなく、青ヶ島の島民は噴火からの復興に向けて努力をしていた。\nしかし翌天明5年(1785年)に破局的な大噴火が起こり、青ヶ島島民は全島離島に追い込まれることになる。", + "qas": [ + { + "question": "天明3年3月の噴火で死亡したのは何人でしたか?", + "id": "tr-083-05-000", + "answers": [ + { + "text": "14名", + "answer_start": 209, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "天明3年と天明5年の噴火はどちらが大規模でしたか?", + "id": "tr-083-05-001", + "answers": [ + { + "text": "天明5年", + "answer_start": 698, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "天明3年の噴火で焼失した家屋は何軒でしたか?", + "id": "tr-083-05-002", + "answers": [ + { + "text": "61軒", + "answer_start": 233, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "天明5年3月10日(1785年4月18日)、青ヶ島で大噴火が始まった。\nこのときの噴火も八丈島から見ることができたため、「無人島」の探検後、八丈島に戻ってきていた惣兵衛は船に救援物資を積み込み、早速青ヶ島へと向かった。\n3月10日、八丈島を出発した惣兵衛は翌11日には青ヶ島近海に到着したが、島全体が黒雲に覆われ、時々稲妻のような火の玉が飛ぶのが見えるが、島の様子がほとんどわからない状態であった。\nしかも黒煙は青ヶ島近海上の惣兵衛の船にも襲いかかるありさまで、潮の流れも悪くなったこともあり上陸を断念せざるを得なかった。\n3月後半になって、青ヶ島から噴火の様子についての注進が名主の七太夫らによって八丈島へもたらされた。\nそれによると、3月10日午前に池之沢から噴火が始まり、運よく北西からの風であったため噴石は島の南側に降下したが、火山灰は島全体に降りかかった。\n噴火はその後も激しく続き、風向きによっては池之沢北方の人家がある方向にも火山灰が降り積もった。\n激しい噴火によって食糧の不足とともに水不足が深刻となり、島全体が降り続く火山灰のために昼も暗くなって昼夜の区別がつかなくなるほどであった。", + "qas": [ + { + "question": "天明5年の青ヶ島の大噴火は西暦でいつ起こりましたか?", + "id": "tr-083-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1785年4月18日", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "惣兵衛が青ヶ島に接近したのは何日でしたか?", + "id": "tr-083-06-001", + "answers": [ + { + "text": "11日", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "このような状況を受け、もはや青ヶ島で生活することは不可能であり、島民はいったん八丈島へ避難するしか方法がないと、名主の七太夫をはじめとする島民は八丈島の島役所に申し立てた。\nこのため八丈島の島役所では4月10日(1785年5月18日)に青ヶ島の視察船を出し、噴火による被害状況の確認を行った。\nその結果、絶え間なく噴火による噴石や火山灰が噴出している状況は続いており、耕作地は厚い火山灰に覆われ畔がわからなくなっているほどであり、ほとんどの草木が枯れ果て緑はまったく見えず、飲料水も極度に不足してわずかにある雨水も火山灰などの影響で飲むに耐えない状態であるなど、深刻な状況が改めて明らかになった。\nこのため青ヶ島からの帰りの視察船には49人の青ヶ島島民を乗せて八丈島へ向かった。\n青ヶ島から離れる際には船中に火山灰が降り注ぎ、苦労をしたものの、視察船は無事に八丈島へ戻ることができた。\n帰島後七太夫らの申し立て通り、島を離れる以外島民が生き延びる方策がないことが報告され、青ヶ島の島民の離島が決定された。", + "qas": [ + { + "question": "帰りの視察船に乗っていた青ヶ島島民は何人でしたか?", + "id": "tr-083-07-000", + "answers": [ + { + "text": "49人", + "answer_start": 317, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "天明5年4月27日(1785年6月4日)、八丈島島役所が派遣した3艘の救助船が青ヶ島に到着した。\nこのとき青ヶ島には200人あまりの島民がいた。\n4月末になって噴火はいよいよ激しさを増し、島民たちは海に浸かりながら噴火による熱をなんとか避けている状況であった。\n激しい噴火が続く中、3艘の救助船は青ヶ島への接岸に成功したが、救助時に悲劇が起こった。\n3艘の船では200人あまりの島民全員を乗せることが不可能であった。\nまず体力のない多くの老人、子どもたちが船に乗り遅れ、熱い火山灰が降り注ぐ中、船に乗ろうとして海で溺れる者や浜辺で乗せてくれと泣き叫ぶ者たちが大勢いた。\n言い伝えによれば船端に取りすがった人の手をやむを得ず鉈で切り落としたともいう。\n結局3艘の救助船には108名の島民と1名の流人の、合計109名が乗船し、130-140名の島民は乗船することができずに噴火が続く青ヶ島で死亡したと見られる。\nしかし避難時に100名以上の島民を置き去りにせねばならなかったことは、避難当時の記録にはまったく記されていない。\nこのことは近藤富蔵が著した八丈実記に詳細が記されており、また後年青ヶ島への帰島が試みられる中、激しいネズミの害に悩まされ続けることになるが、ネズミは青ヶ島で非業の死を迎えなければならなかった人々の霊魂が化したものと考えられ、施餓鬼供養が行われるようになったことが記録に残っている。", + "qas": [ + { + "question": "天明5年4月27日の時点で青ヶ島に残っていた島民は何人いましたか?", + "id": "tr-083-08-000", + "answers": [ + { + "text": "200人あまり", + "answer_start": 58, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "八丈実記の著者は誰ですか?", + "id": "tr-083-08-001", + "answers": [ + { + "text": "近藤富蔵", + "answer_start": 466, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "青ヶ島から救助できたのは何人でしたか?", + "id": "tr-083-08-002", + "answers": [ + { + "text": "109名", + "answer_start": 352, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "青ヶ島から救助できなかった人は何人いましたか?", + "id": "tr-083-08-003", + "answers": [ + { + "text": "130-140名", + "answer_start": 361, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "救助船は八丈島に無事到着し、天明5年の噴火によって八丈島にやってきた青ヶ島の島民は約160名に達した。\nまた天明5年以前から八丈島に滞在していた青ヶ島の島民が約40名いたため、八丈島には約200名の青ヶ島島民が生活を営むことになった。\n激しい噴火のためにやむを得ず八丈島に逃れてきたものの、八丈島では青ヶ島で噴火が始まる前の明和3年(1766年)から明和6年(1769年)にかけて大飢饉に見舞われ、中之郷村では人口の約3分の2にあたる733名が餓死するなど、八丈島民の生活は苦しかった。\n青ヶ島島民の大部分は大賀郷村の外れに集まって住み、おもに八丈島島民の使用人として生計を維持するようになったが、飢饉が相次ぎ生活が苦しい八丈島に居候する形となった青ヶ島島民の生活は大変に厳しいものであった。\n現在、八丈島の大賀郷には八丈島で死去した青ヶ島島民たちの墓地が残っているが、周囲の墓よりも狭い場所に小さな墓が数多く建てられており、八丈島で暮らす青ヶ島島民たちの厳しい生活ぶりを見ることができる。", + "qas": [ + { + "question": "八丈島に居住していた青ヶ島島民は何名いましたか?", + "id": "tr-083-09-000", + "answers": [ + { + "text": "約200名", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "八丈島が大飢饉に見舞われたのは何年からでしたか?", + "id": "tr-083-09-001", + "answers": [ + { + "text": "1766年", + "answer_start": 167, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "天明5年以前から八丈島に滞在していた青ヶ島の島民と天明5年の噴火によって八丈島にやってきた青ヶ島の島民はどちらの人数が少なかったですか?", + "id": "tr-083-09-002", + "answers": [ + { + "text": "天明5年以前から八丈島に滞在していた青ヶ島の島民", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "青ヶ島の名主の七太夫は噴火や島民避難の報告と救援依頼のために江戸に向かった。\nその結果米、麦、大豆を二艘の船に載せて青ヶ島島民の救援物資として八丈島に送られることになったが、うち一艘は天明5年10月9日(1785年11月10日)、八丈島沿岸に激突して破壊されてしまい、乗船していた七太夫も死亡した。\nそのような中、天明6年(1786年)八丈島島民の高村三右衛門が、蓄えてきた500両もの大金を青ヶ島島民救済のために八丈島役所に提出した。\nこの500両は八丈島の島民に年1割2分の利息で貸し出され、利息のうち10両は高村三右衛門の娘が受領することとし、残りの50両は青ヶ島住民たちの食糧の購入や青ヶ島の復興に充てられることになった。", + "qas": [ + { + "question": "高村三右衛門が青ヶ島島民救済のために寄付したお金はいくらでしたか?", + "id": "tr-083-10-000", + "answers": [ + { + "text": "500両", + "answer_start": 187, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "七太夫が死去したのはいつですか?", + "id": "tr-083-10-001", + "answers": [ + { + "text": "1785年11月10日", + "answer_start": 102, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "青ヶ島島民の八丈島への避難という事態を招いた天明5年の大噴火後、八丈実記には天明7年(1787年)6月には噴火後の様子を確認するために青ヶ島へ渡ったことが記録に��されている。\nまた噴火後、時々青ヶ島に渡り様子を確認していたとの記述もあり、噴火後の島の様子をしばしば確認していたことがわかる。\nしかし噴火直後の青ヶ島がどのような状態であったのかについては記録が残されていない。\n噴火後の青ヶ島についての最初の記録は、噴火後3年目にあたる天明8年(1788年)4月に行われた八丈島役所が行った見分の記録である。\nこのときの見分によれば噴火はおさまっているものの、ようやく草木に緑が戻ってきた段階で、耕作地は火山灰に埋まり水を得にくい状態は続いており、道や船着場も大きく損壊しており、当分人が住めそうもないと判断され、4、5年は青ヶ島の見分は見合わせるべきとの内容であった。", + "qas": [ + { + "question": "天明5年の大噴火後に、最初に青ヶ島の様子を見に行ったのは和暦で何年ですか?", + "id": "tr-083-11-000", + "answers": [ + { + "text": "天明8年", + "answer_start": 217, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "噴火後の青ヶ島の様子を最初に見に行ったのはどこの機関でしたか?", + "id": "tr-083-11-001", + "answers": [ + { + "text": "八丈島役所", + "answer_start": 235, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "八丈実記には何年に噴火後の様子を見に行ったと記録されていますか?", + "id": "tr-083-11-002", + "answers": [ + { + "text": "1787年", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "寛政元年(1789年)6月、青ヶ島の名主三九郎は青ヶ島の見分を行った。\nその結果、噴火はおさまっており木々の緑も少しずつ戻っているが、飲料水については利用できるかどうか見当がつかない状態であった。\n三九郎は噴火がおさまっていて危険もないと見られるため、少しずつ島の状態を改善していけば青ヶ島民が島に戻ることが可能であると判断したが、水も住居もない状態で全員を島に戻るわけにもいかないため、まず少数の島民が復興事業を開始し、その後、全島民の帰還を果たすこと考えた。\n同年、幕府から青ヶ島の復興開発費として257両2分銀6匁が支給された。\n翌寛政2年(1790年)3月、青ヶ島島民らに青ヶ島の起返(復興)についての申渡が行われた。\n寛政4年(1792年)には三九郎らは2度にわたって青ヶ島へ渡航し、島内の様子の再確認と帰島への下準備を行った。\n八丈島へ戻った三九郎らは島の復興に取りかかれる状態であると報告を行い、八丈島役所では穀物や農具を用意させたうえで三九郎らに「起返」に着手させることとし、寛政5年7月12日(1793年8月18日)、三九郎ら青ヶ島島民20名は2艘の船に乗って復興のために青ヶ島に渡った。\nそして名主である三九郎ら8名は八丈島へ戻ったが、20名のうち12名が島に残り、島の復興に従事することになった。", + "qas": [ + { + "question": "幕府から青ヶ島の復興開発費が支給されたのは何年ですか?", + "id": "tr-083-12-000", + "answers": [ + { + "text": "1789年", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1789年6月に青ヶ島の様子を見に行った人は誰ですか?", + "id": "tr-083-12-001", + "answers": [ + { + "text": "三九郎", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "幕府からの復興開発費はいくらでしたか?", + "id": "tr-083-12-002", + "answers": [ + { + "text": "257両2分銀6匁", + "answer_start": 251, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "島の復興に従事したのは何名でしたか?", + "id": "tr-083-12-003", + "answers": [ + { + "text": "12名", + "answer_start": 534, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "寛政5年7月12日(1793年8���18日)に始まった青ヶ島の復興であったが、いきなり大きな試練にぶつかった。\n水不足や住居の問題、道路や船着場などのインフラの復興なども課題とされたが、復興を進めるにあたって最大の問題となったのがネズミの害であった。\n噴火後、人が住まなくなった青ヶ島ではネズミが増え、おびただしいネズミの群れが穂を出した麦や粟を食い荒らしてたちまちのうちに丸裸にしてしまい、もちろん多くの食糧も食い荒らされた。\n復興にあたる島民らはネズミの駆除に乗り出し、復興開始から1年足らずの間に約1,500匹のネズミを駆除したものの、焼け石に水であった。", + "qas": [ + { + "question": "青ヶ島の復興に当たって最も害をもたらした存在とは何ですか?", + "id": "tr-083-13-000", + "answers": [ + { + "text": "ネズミ", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "青ヶ島の復興はいつから開始されましたか?", + "id": "tr-083-13-001", + "answers": [ + { + "text": "1793年8月18日", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "復興開始から1年以内に何匹のネズミが退治されましたか?", + "id": "tr-083-13-002", + "answers": [ + { + "text": "約1,500匹", + "answer_start": 250, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "まず復興開始直後の8月28日(1793年10月2日)、穀物がネズミに食い荒らされるために芋など根菜類を入手することを目的として、復興に従事していた12名の島民のうち5名が八丈島へ向かった。\nしかし5名は八丈島へたどり着くことなく行方不明となってしまった。\nそして復興には不運が重なった。\n寛政6年4月13日(1794年5月12日)、2艘の船に分乗した名主三九郎ら15名が、復興従事者のための穀物や食糧とともに青ヶ島に渡ったが、高波のために青ヶ島で船が壊れてしまい、物資も失われてしまった。\n青ヶ島の状況を見分したあと、三九郎ら12名は火山灰に埋もれた青ヶ島の家や家財道具の古材を用いて船を建造し、何とか八丈島へ戻ることができた。", + "qas": [ + { + "question": "根菜類を入手するために5名が向かった先はどこでしたか?", + "id": "tr-083-14-000", + "answers": [ + { + "text": "八丈島", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1794年5月12日に青ヶ島に行ったのは何名でしたか?", + "id": "tr-083-14-001", + "answers": [ + { + "text": "15名", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "15人中、中心的な人は誰でしたか?", + "id": "tr-083-14-002", + "answers": [ + { + "text": "三九郎", + "answer_start": 177, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "三九郎はここで諦めることなく、八丈島に戻ると韮山代官所に青ヶ島の現状についての報告と復興資金の援助を請願した。\nこの結果、青ヶ島復興のために船が建造され、寛政6年(1794年)7月、さっそく物資を積んで青ヶ島へ向かったものの、船は青ヶ島へ着くことなく房総半島に漂着した。\n同年9月、三九郎はさらに青ヶ島へ物資を積んだ船を送った。\n今回は青ヶ島到着に成功して物資の輸送も行われた。\nしかし約半年後の寛政7年(1795年)2月、八丈島への帰路、船が難破して乗員は全員死亡した。\nそして同年4月、青ヶ島に向かった船は無事に荷物を送り届けられ、八丈島にも無事に戻ってきた。\nしかし寛政7年(1795年)4月以降、結局八丈島からの船が青ヶ島で復興に従事する人々のもとへ着くことはなかった。\nまず寛政8年(1796年)4月、青ヶ島に向かった船は暴風によって青ヶ島へ到着することなく房総半島に漂着してしまった。", + "qas": [ + { + "question": "三九郎が青ヶ島の復興資金の援助を請願した所はどこ?", + "id": "tr-083-15-000", + "answers": [ + { + "text": "韮山代官所", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1794年7月と1796年4月に誤って漂着した場所とはどこですか?", + "id": "tr-083-15-001", + "answers": [ + { + "text": "房総半島", + "answer_start": 384, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "寛政9年(1797年)6月、八丈島とは逆の南から一艘の奇妙な船が青ヶ島にやってきた。\nこれは天明5年(1785年)、天明7年(1787年)そして寛政2年(1790年)の合計3回の海難事故で鳥島に漂着した野村長平ら14名が、流木などを材料として船を建造し、やっとの思いで鳥島から脱出した船であった。\n青ヶ島で復興に従事していた人々は苦しい生活を強いられた中でも彼らを歓迎し、2名の水先案内人をつけたうえで八丈島へ向かうこととなった。\n流木で作られた船であったが八丈島に無事到着し、14名の漂流民は江戸へ向かい、その後、故郷へ帰ることができた。\n青ヶ島で復興に従事していた2名は、さっそく青ヶ島の現状について報告した。\n報告はおもにネズミの害についてであり、作物はよくできるものの穀類はネズミに食い荒らされるために収穫は皆無であること、芋についてはネズミの害はあるものの収穫が可能であること、作物は噴火以前のようによく実るので、開墾する人数を増やしてネズミの駆除につとめれば、青ヶ島での生活は可能であるといった内容であった。\n青ヶ島の現状についての報告を受けた名主三九郎はさっそく青ヶ島へ向かうこととした。\n寛政9年7月29日(1797年8月21日)、名主三九郎ら14名の青ヶ島島民は物資を積み込み青ヶ島へ向かった。\nしかし船は猛烈な時化に遭い、青ヶ島へたどり着くことなく閏7月6日(1797年8月27日)、紀州に漂着した。\n14名の乗船者のうち11名が死亡し、名主の三九郎も死亡した。", + "qas": [ + { + "question": "野村長平が青ヶ島に漂着できたのは何年でしたか?", + "id": "tr-083-16-000", + "answers": [ + { + "text": "1797年", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "野村長平は青ヶ島に辿り着くまでに何回の海難事故に遭いましたか?", + "id": "tr-083-16-001", + "answers": [ + { + "text": "3回", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "三九郎ら14名の船が漂着した先はどこでしたか?", + "id": "tr-083-16-002", + "answers": [ + { + "text": "紀州", + "answer_start": 602, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "三九郎ら14名の船が紀州に漂着したのはいつでしたか?", + "id": "tr-083-16-003", + "answers": [ + { + "text": "1797年8月27日", + "answer_start": 590, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "三九郎の死後も青ヶ島島民らは帰島を諦めることはなかった。\n寛政11年(1799年)9月、33名の青ヶ島島民が青ヶ島へ向かった。\nしかし今度の船も漂流のあげく紀州に漂着した。\n結局、乗組員のうち1名が死亡したが、32名は無事に八丈島へ戻ることができた。\n享和元年6月7日(1801年7月17日)、青ヶ島で復興に従事し続けてきた7名は青ヶ島を去り、翌6月8日に八丈島へ着いた。\n寛政7年(1795年)4月以降、6年あまり八丈島からの船が到着することがない中での孤軍奮闘も幕を閉じた。\n八丈島役所に提出された報告によれば、食糧として芋のほかにアシタバ、ソテツやユリなどの野生植物や漁をしながら何とか生きてきたが、衣服や鍋釜などが使用に耐えなくなってくるなど青ヶ島での生活の継続が困難となったため、火山灰に埋もれた家の柱などを材木とし、山刀や鍬を潰して釘を作って船を建造し、八丈島へ向かったという。\n享和元年(1801年)6月以降、青ヶ島はしばらくのあいだ無人島となった。", + "qas": [ + { + "question": "33名の乗組員のうち、何名が命を落としましたか?", + "id": "tr-083-17-000", + "answers": [ + { + "text": "1名", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "イルカ追い込み漁", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "イルカ追い込み漁(イルカおいこみりょう、dolphindrivefishing,dolphindrivehunting)は、捕鯨の手法の一つで、クジラを対象とした追い込み漁である。いわゆるイルカと呼ばれるような小型の歯クジラに対して主に使われ、船と魚網で大海に至る抜け道を塞ぎ、入り江や浜辺に追い込んで捕獲する。「鯨類追い込み網漁」、「小型クジラの追い込み漁」などとも表現される。なお、日本などの古式捕鯨は、鯨の行先に網を仕掛け、勢子船で追い込む方法であるが区別し、また、本項目では、「小型鯨類の追い込み漁」又は単に「追い込み漁」、「漁」と記す。", + "qas": [ + { + "question": "イルカ追い込み漁は何を主な対象によく使われますか?", + "id": "tr-084-00-000", + "answers": [ + { + "text": "小型の歯クジラ", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "イルカ追い込み漁において小型の歯クジラの行き先を船と一緒に防ぐのは何ですか?", + "id": "tr-084-00-001", + "answers": [ + { + "text": "魚網", + "answer_start": 124, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "世界の数箇所でこの漁獲方法により小型鯨類が獲られており、太平洋北西部の日本、オセアニアのソロモン諸島、大西洋のフェロー諸島や南アメリカのペルーで行われている。捕鯨の方法としては、初期捕鯨時代から用いられてきたものである。日本においては700年程前の中世には追い込み漁が行われていた。それに伴い、特徴的な民俗もあった。捕獲された小型鯨類は主に鯨肉・イルカ肉として食用にされるほか、一部は水族館などイルカショーなどの展示や研究用に使われる。なお、現在日本においては和歌山県太地町のみで行われる漁(後述)であり、2009年(平成21年)に太地町の追い込み漁に対しての批判的な映画『ザ・コーヴ』が公開され、太地町で行われる追い込み漁は国内外で広く知られる事になった。", + "qas": [ + { + "question": "本漁獲方法を使用する大西洋の地域はどこですか?", + "id": "tr-084-01-000", + "answers": [ + { + "text": "フェロー諸島", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本で追い込み漁が実行されたのは何年前からですか?", + "id": "tr-084-01-001", + "answers": [ + { + "text": "700年程", + "answer_start": 117, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "追い込み漁で捕獲された展示や研究用に使われないイルカは何に使われますか?", + "id": "tr-084-01-002", + "answers": [ + { + "text": "食用", + "answer_start": 180, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "現代では、イルカの追い込み漁は、「鯨類追込網漁業」、「鯨類追込網漁」、「鯨類追い込み網漁」、「クジラの追い込み漁」、「小型クジラの追い込み漁」、「小型鯨類の追い込み漁」、又は単に「追い込み漁」、「追込網漁」などと呼ばれる。また、日本の行政機関では、「追込網漁業」、「鯨類追込網漁業」や「いるか漁業」を公文書で用いている。\n\n「イルカ追い込み漁」は、”dolphindrivehunt”の訳で、江戸時代の肥前では単に「海豚漁」(「江豬漁」)と呼んだ。明治時代は、港などにやってきた(迷入した)小型鯨類などの獲物を、和歌山県では「寄せ物」(よせもの)、また、沖縄県では「ユイモン(寄せ物)」、岩手県では「浦入物」(うらいりもの)と呼び、岩手では獲物が港などにやってきたこと(回遊)を「浦入り」(うらいり:「イルカ浦入り」)と呼んだ。\n\n1950年代ごろのNHKの放送では、追い込み漁を単に「生け捕り」と呼んだ。また、1960年頃の民間報道では追い込み漁を「イルカ漁」と称していた。\n\nなお、江戸時代の日本(紀州や九州)などで行われた大型鯨を対象にした古式捕鯨は、回遊する鯨の行先に網を仕掛け、勢子船で追い込む方法(網取式)であるが、それと追い込み漁とは慣習的に区別される。", + "qas": [ + { + "question": "イルカの追い込み漁を表す表現の「クジラの追い込み漁」、「追込網漁業」、「鯨類追込網漁業」のなかで日本行政機関で使われないものはどれか?", + "id": "tr-084-02-000", + "answers": [ + { + "text": "「クジラの追い込み漁」", + "answer_start": 46, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "江戸時代での「イルカ追い込み漁」の名称は?", + "id": "tr-084-02-001", + "answers": [ + { + "text": "「海豚漁」", + "answer_start": 207, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "和歌山県で「イルカ追い込み漁」が「寄せ物」と呼ばれたのはいつか?", + "id": "tr-084-02-002", + "answers": [ + { + "text": "明治時代", + "answer_start": 224, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "フェロー諸島では主にゴンドウクジラを食用にする目的で追い込み漁が行われる。公式にはこの種だけに限った漁である。又、タイセイヨウカマイルカも獲れ、又、稀に北ハンドウイルカやハナゴンドウといった種も獲れることもある。地元ではこの漁は「グリンダドロップ」(Grindadráp)として知られている。漁期は決まっておらず小型鯨類の群れが島に十分接近したところを漁師が発見すると漁が始まる。ボートによって獲物を浜辺に追い込み逃げ道を塞ぐ。小型鯨類は浜辺に上げられるとほとんどが移動できなくなり、海中に残した獲物はその脂身に金属製の鉤を突き立てて陸に揚げるが、昨今は動物虐待だという主張に応えて噴気孔に鉤を差し込んで引き揚げることが多い。陸に揚げると小型鯨類の首の主動脈や脊髄を切り絶命させる。切り方によって小型鯨類の死ぬまでの時間は数秒から数分まで様々である。漁師が群れの全てを浜辺に追い込めない場合には獲物は海へ返される。\n\nゴンドウクジラは東大西洋と中部北大西洋海域に77万8000頭が生息していると推定される。フェロー諸島では毎年約1,000頭のゴンドウクジラと、その他の小型鯨類が通常は数ダース、せいぜい2、3百頭までが消費されているが、その数は年によってかなり異なる。1年間で消費されるゴンドウクジラの頭数は、生息数の継続的な維持を脅かすようなものでは無いと信じられている。\n\n2013年には、ゴンドウクジラとタイセイヨウカマイルカを合わせて1,534頭が消費された。", + "qas": [ + { + "question": "フェロー諸島で追い込み漁が行われたのは公式的には何を捕獲するためですか?", + "id": "tr-084-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ゴンドウクジラ", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "小型鯨を釣り上げる時、動物虐待だという主張に応えて最近では鉤を差し込む場所はどこですか?", + "id": "tr-084-03-001", + "answers": [ + { + "text": "噴気孔", + "answer_start": 291, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "小型鯨を釣り上げる時、昔はどこに鉤を突き立てて引き上げましたか?", + "id": "tr-084-03-002", + "answers": [ + { + "text": "脂身", + "answer_start": 253, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "2013年に消費されたゴンドウクジラとタイセイヨウカマイルカの合計数は?", + "id": "tr-084-03-003", + "answers": [ + { + "text": "1,534頭", + "answer_start": 621, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1986年からフェロー諸島はシー・シェパードによる妨害活動を受けた。一方、およそ二十年前から対抗運動としてPR活動などを行う、ゴンドウクジラ協会が設立された。1986年のシーシェパードの暴力には、警備艇に向けてライフルを撃つなど過激で危険な行為も含まれた。\n\nフェロー諸島には、日本よりも以前から小型鯨類の肉に含まれる有害な汚染物質の研究が行われた。肉には頻繁に摂取すると健康を害する危険があるほどの水銀やカドミウムが含まれており、特に子供と妊婦はその危険性が高いと指摘されることが多い。2008年11月にニュー・サイエンティスト誌は、フェロー諸島での研究結果が出たことで2人の医官(chiefmedicalofficers)が汚染度の高さからゴンドウクジラの肉を摂取しないように警告を発したという記事を報じた。フェロー諸島の上級厚生担当官(seniorFaroesehealthofficial)によると、2008年に地元当局が汚染されているためこれ以上ゴンドウクジラの肉を摂取しないように通達を出したことにより消費量は減った。", + "qas": [ + { + "question": "1986年からフェロー諸島の追い込み漁に対する妨害工作を行ったのはどの組織ですか?", + "id": "tr-084-04-000", + "answers": [ + { + "text": "シー・シェパード", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1986年のシーシェパードの暴力行為でライフルを向けられたものは?", + "id": "tr-084-04-001", + "answers": [ + { + "text": "警備艇", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "汚染度の高さからゴンドウクジラの肉を摂取しないように警告を発した記事が乗せられたのはどの雑誌ですか?", + "id": "tr-084-04-002", + "answers": [ + { + "text": "ニュー・サイエンティスト誌", + "answer_start": 253, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "追い込み漁は特別の道具を使うことは少ないため、考古学的な遺物が残りにくい。そのためもあって追い込み漁だったかどうかは分からないが、縄文時代の真脇遺跡(石川県)から日本最古のイルカ漁の跡が見つかっている。また、入江貝塚(北海道)、稲荷山貝塚(神奈川県)、井戸川貝塚(静岡県)などからもイルカの骨が見つかっている。\n\n千葉県では縄文時代早期の約1万年前から沖ノ島遺跡(館山市沖ノ島)でイルカ漁が始まっており、谷向貝塚(南房総市)や稲原貝塚(館山市)からも大量にいるかの骨が出土している。稲原貝塚からは黒曜石が刺さったイルカの骨も見つかっている。この他、根郷貝塚(鎌ケ谷市)、古作貝塚(船橋市)、鉈切洞窟遺跡(館山市)などからもイルカの骨が見つかっている。", + "qas": [ + { + "question": "縄文時代の日本最古のイルカ漁が追い込み漁だったかどうかはっきりしない理由は?", + "id": "tr-084-05-000", + "answers": [ + { + "text": "特別の道具を使うことは少ないため", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "日本最古のイルカ漁の跡が残されている県はどこですか?", + "id": "tr-084-05-001", + "answers": [ + { + "text": "石川県", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "館山市や南房総市で縄文時代からイルカ漁があったとの根拠になるものはなんですか?", + "id": "tr-084-05-002", + "answers": [ + { + "text": "いるかの骨", + "answer_start": 228, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "静岡県伊東市の井戸川遺跡から、15世紀末から16世紀前半にかけて食べられたと見られるイルカの骨が大量に見つかっており、静岡県教育委員会はイルカ漁が縄文時代から続いていた可能性が高いと考察してい���。\n\n1675年には現宮城県気仙沼市の唐桑では、イルカの群れが押し寄せてきた時には、唐桑半島と大島の間に建切網を張っての追い込み漁が行われていた記録が残っている。唐桑では明治初めの頃まで追い込み漁が行われていた。\n\n1745年に、現静岡県の湯川村で、イルカの大規模捕獲に関係しての争いがあった様子が記録されている。\n\n1773年(安永2年)3月に、唐津藩士の木崎攸軒(きざき・ゆうけん)が描いた『肥前国産物図考』のひとつ『海豚漁事・鮪網之図・鯛網・海士』が成立した。このうち「海豚漁事」(又は「江豬漁事」)は、海豚の群れを捕獲する追い込み漁の様子が描かれている。", + "qas": [ + { + "question": "15世紀末から16世紀前半にかけて食べられたと思われるイルカの骨が大量に出土した静岡県伊東市の遺跡はどこですか?", + "id": "tr-084-06-000", + "answers": [ + { + "text": "井戸川遺跡", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "唐桑の所在県はどこなのか、現在の地名基準で答えなさい。", + "id": "tr-084-06-001", + "answers": [ + { + "text": "宮城県", + "answer_start": 108, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "木崎攸軒の『肥前国産物図考』のひとつ『海豚漁事・鮪網之図・鯛網・海士』が完成されたのは和暦で何年ですか?", + "id": "tr-084-06-002", + "answers": [ + { + "text": "安永2年", + "answer_start": 262, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1838年に北村穀実が書いた『能登国採魚図絵』には、石川県真脇村のイルカ漁についての記録が「いるか廻し」として残されている。それによると、旧暦3月から4月にかけて、6,7人乗りの船3,4艘ほどが「魚見船」として3里の沖に出て、群れを発見すると粗い網で囲って陸に合図を送り、3,4人乗りの船6,7艘が応援に駆けつける。これらの船が船縁などを叩いて音を出し、群れを湾に追い込んで捕らえる。多いときには1000頭ほどが追い込まれ、全て捕るのに2日かかることもあった。説明図には多くの船と網でイルカの群れを囲い込む様子が描かれている。\n\n19世紀幕末に浜野健雄が書いた『伊東誌』によると、当時の静岡では追い込み漁ができるほどの組織だった漁業団体が少なく、実施されているのは湯川村、松原村(現伊東市)、稲取村(現東伊豆町)のみであった。1934年発行の『静岡県史』(静岡県史編集所)には、この他に妻良、子浦(現東伊豆町)、安良里(現西伊豆町)、御前崎も挙げられている。", + "qas": [ + { + "question": "1838年の『能登国採魚図絵』ではどこのイルカ漁が書かれていますか?", + "id": "tr-084-07-000", + "answers": [ + { + "text": "石川県真脇村", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "北村穀実の『能登国採魚図絵』は何年に書かれたものですか?", + "id": "tr-084-07-001", + "answers": [ + { + "text": "1838年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『伊東誌』と『静岡県史』、時間的に先に書かれたのはどっちですか?", + "id": "tr-084-07-002", + "answers": [ + { + "text": "『伊東誌』", + "answer_start": 280, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "和歌山県太地町は古式捕鯨の誕生の地であり、400年程の捕鯨の歴史があるが、元々、鯨類に交じって小型鯨類をも食す習慣が有り、江戸時代には主に沖合いでの突棒でのゴンドウクジラ漁があり、並んで、港などにたまたま迷入したゴンドウクジラなどの「寄せ物」(獲物が港などにやってくること)を追い込み漁で追い込んで共有の網で捕獲することもあった。太地町史の493頁に記載された1899年(明治32年)の追い込み漁は、「山見」(見張り)が61頭のゴンドウクジラの群れを発見して行わ���た。1906年(明治39年)の政府あて報告書には追い込み漁(寄せ物漁)の起源が不明なことや、ムラの共同作業であった漁の収益がムラの共有財産になった旨が説明されている。また、水族館への初めての出荷の記録が残るのは1933年(昭和8年)で、その時は阪神方面の水族館に搬送された(1936年に阪神水族館への搬入が成功し展示が始まった)。1969年(昭和44年)には、くじらの博物館の展示用に捕らえることを依頼され、12年ぶりに漁が成功した。以後、漁の成功回数が増えていった。又、この頃、漁の専業者が出現し、静岡県の富戸、川奈から技術を移入した。", + "qas": [ + { + "question": "江戸時代、沖合いでの「イルカ漁」の主に使われた道具は何ですか?", + "id": "tr-084-08-000", + "answers": [ + { + "text": "突棒", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "江戸時代、港などにたまたま迷入した獲物をどう呼びますか?", + "id": "tr-084-08-001", + "answers": [ + { + "text": "「寄せ物」", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "明治三二年、太地町史に記された追い込み漁で見張りが発見したゴンドウクジラは全部何頭いましたか?", + "id": "tr-084-08-002", + "answers": [ + { + "text": "61頭", + "answer_start": 210, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "水族館への初めての出荷の記録が残ったのは何年ですか?", + "id": "tr-084-08-003", + "answers": [ + { + "text": "1933年", + "answer_start": 337, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "明治の初年頃に追い込み漁が廃止となったところが多い。例えば静岡の湯川、松原では明治時代に廃止されている。稲取でもイルカ到来が不安定で、年に1、2度の追い込み漁では採算が採れないとして明治初年に追い込み漁を廃止したとの証言が残されている。ただし稲取ではイルカが押し寄せるたびに追い込み漁が復活している。現宮城県気仙沼市唐桑や岩手県山田町でも明治の初年を最後にイルカの群れが寄り付かなくなり、追い込み漁が行われなくなっている。\n\n逆に、明治になってから追い込み漁が行われるようになったところもある。例えば静岡県の川奈、富戸(現伊東市)、田子(現西伊豆町)などでは明治以降に始められている。川奈でイルカ漁が始まったのは1888年(明治21年)であり、1922年(大正11年)には地元の神社にイルカ漁の絵馬が奉納されている。富戸では川奈から10年ほど遅れて始まったが、1903年(明治36年)に川奈と乱闘になるなどして戦後になるまであまり追い込み漁は行われなかった。\n\n静岡などでは大正の初めから昭和初期まで、イルカの回遊が減ったために一時的に衰えた。", + "qas": [ + { + "question": "稲取でいるか追い込み漁が廃止されたのはいつですか?", + "id": "tr-084-09-000", + "answers": [ + { + "text": "明治初年", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "静岡県の川奈でイルカ漁が始まったのは何年なのか西暦で答えてください。", + "id": "tr-084-09-001", + "answers": [ + { + "text": "1888年", + "answer_start": 306, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "静岡大正の初めから昭和初期まで追い込み漁が一時的に衰えた原因は何ですか?", + "id": "tr-084-09-002", + "answers": [ + { + "text": "イルカの回遊が減ったため", + "answer_start": 451, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "川奈の神社にイルカ漁の絵馬が奉納されたのは何年なのか和暦で教えてください。", + "id": "tr-084-09-003", + "answers": [ + { + "text": "大正11年", + "answer_start": 328, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "沖縄県名護市ではイルカ(小型鯨類)は「ピトゥ」あるいは「ヒートゥ」と呼ばれ、発祥は不明だが遅くとも明治の初めにはその漁が行われており、重要なタンパク源だった。方法は沖縄独特のサバニを用いた追い込み漁で(ただし水産庁の区分では突棒とされており、近年ではもっぱら手投げ銛による漁獲が多いようである)。毎年二月から六月頃に名護湾に来遊してくる、主にコビレゴンドウ、加えてバンドウイルカを対象にしている。1970年頃に最盛期を迎え、この頃は市民と漁協による熱烈な応援のもと港の船がほぼすべて出航し、多い時は250頭ほどを一度に漁獲していた。しかし以降は九州・沖縄サミット開催へ向けた議論の影響もあって減少に転じ、1989年には自由捕獲が禁止となった。以降は、毎年の漁獲量限度を設定しての実施となっている。主な用途は食用であり、絞られた油は食用油にされ、一部は肥料としても利用された。ただし食用は主に名護市に限られ、古老の話では食用として一般に普及したのは第二次世界大戦後のことである。", + "qas": [ + { + "question": "沖縄の名護市で「ヒートゥ」は何の意味なの?", + "id": "tr-084-10-000", + "answers": [ + { + "text": "イルカ", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "コビレゴンドウが名護湾にやってくるのは毎年いつ頃ですか?", + "id": "tr-084-10-001", + "answers": [ + { + "text": "二月から六月頃", + "answer_start": 150, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "名護での追い込み漁が一番盛んだ時期はいつでしたか?", + "id": "tr-084-10-002", + "answers": [ + { + "text": "1970年頃", + "answer_start": 198, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "名護でのイルカ追い込み漁自由捕獲が禁じられたのは何年ですか?", + "id": "tr-084-10-003", + "answers": [ + { + "text": "1989年", + "answer_start": 302, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1942年から再び大規模な回遊が始まった。静岡県では1942年に安良里で2万頭の漁獲が報告されている。\n\n対馬では沿岸のリアス式海岸を利用した追い込み漁が行われている。1960年(昭和35年)頃には1000頭ほどが到来しており、以後数年ほど年間200-300頭が捕獲された。\n\n静岡県では1960年代にピークとなって年平均1万1千頭が捕獲されているが、以降は減少し、1980年代初期には年1000頭程度にまで減っている。", + "qas": [ + { + "question": "1942年に安良里で報告されたイルカの漁獲量はどれくらいですか?", + "id": "tr-084-11-000", + "answers": [ + { + "text": "2万頭", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "対馬で行われる追い込み漁は何の地形的利点を用いたものですか?", + "id": "tr-084-11-001", + "answers": [ + { + "text": "リアス式海岸", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "昭和三十五年、対馬にやってきたイルカの数は?", + "id": "tr-084-11-002", + "answers": [ + { + "text": "1000頭ほど", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "商業的な「いるか漁業」のほか、害獣駆除の手段として利用された事例もある。\n\n長崎県の壱岐島では、1976年から1986年にかけて、大規模な追い込み漁が害獣駆除目的で行われていた。壱岐島の漁師によると、1965年からいるか小型鯨類の群れが近海に現れて一本釣り漁の釣り針にかかったブリを横取りしたり、小型鯨類の影響で魚群が消失したりといった被害が発生した。音��よる威嚇や銃による駆除が10年に渡って試みられたが効果が薄く、やむなく和歌山県の太地や静岡県の富戸の技術指導の下で追い込み漁を導入したという。各種イルカが捕獲され、壱岐には食用の習慣がなかったために、一部を除いて家畜飼料や肥料原料にされたり、砂浜に埋没処分された。飼料・肥料生産のために専用の粉砕機も購入された。追い込み漁による駆除は、一定の効果はあったという。\n\nこの漁は小型鯨類の回遊数減少により1986年を最後に規模が縮小した。エルザ自然保護の会によると、1996年を最後に捕獲は無く、95年度を最後に捕獲が許可されていない状態である。", + "qas": [ + { + "question": "本文によると、商業的な「いるか漁業」以外に追い込み漁が利用される事例は何がありますか?", + "id": "tr-084-12-000", + "answers": [ + { + "text": "害獣駆除の手段", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1976年から1986年にかけて壱岐島で行われた、害獣駆除の手段としての追い込み漁の対象となったのは何ですか?", + "id": "tr-084-12-001", + "answers": [ + { + "text": "小型鯨類", + "answer_start": 110, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "壱岐島での追い込み漁は何年から禁止されましたか?", + "id": "tr-084-12-002", + "answers": [ + { + "text": "1996年", + "answer_start": 409, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "追い込み漁の方法は、漁船50-60艘で半月状に群れを取り囲み、投石、水面を叩く、船縁を叩くなどして湾内に追い込み、湾を「建切網」で塞ぐというものだった。小型鯨類の漁法は追い込み漁以外にも、呼吸の際を狙った突取と呼ばれる銛を使った方法も行われた。\n\n当時は肉は食用、脂肪は油採取、革は革製品(とりわけ靴)に用いられた。なお、食用としてはゴボウなどと共に味噌煮にするのが一般的だった。静岡県では醤油漬けや味醂漬けを天日に干したものが焼いて食べられた。皮からは油が取られ、揚げ油や石鹸の原料として使われた。絞った後の皮は揚げて菓子として食べられた。残りは良質の肥料とされた。\n\n静岡県の川奈(現伊東市)でのいるか小型鯨類の追い込み漁は、カンカンと呼ばれる孟宗竹の節を抜いた棒で海面を叩いたり、ドウズキと呼ばれる150センチメートル位の棒を投げ込んだりして、13ノット(24km/h)ぐらいの速度で行われた。1回の漁獲量が1000-2000頭ほどだった。\n\n江戸時代の漁の様子は、『肥前国産物図考』のひとつ『海豚漁事・鮪網之図・鯛網・海士』を参照されたい。", + "qas": [ + { + "question": "追い込み漁で捕獲されたイルカの脂肪は何に活用されますか?", + "id": "tr-084-13-000", + "answers": [ + { + "text": "油採取", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "静岡県の川奈で追い込み漁でイルカを追い込むのに使った竹の節を用いた道具の名称は何ですか?", + "id": "tr-084-13-001", + "answers": [ + { + "text": "カンカン", + "answer_start": 315, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カンカンを使った追い込み漁は一回につき、何頭のイルカを釣り上げましたか?", + "id": "tr-084-13-002", + "answers": [ + { + "text": "1000-2000頭", + "answer_start": 407, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "江戸時代の漁の様子が気になるなら何を探せばいいの?", + "id": "tr-084-13-003", + "answers": [ + { + "text": "『海豚漁事・鮪網之図・鯛網・海士』", + "answer_start": 449, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "日本(太地)では漁師から選抜されたグループ(専業者)が漁を行う。\n\n数隻の��団で出航して、まず小型鯨類の群れを肉眼、そして双眼鏡を用いて探す。太地町等では、他の漁船による小型鯨類発見の報を受けて出航し、水揚げ後にその発見者に対して「発見料」を支払うこともある。小型鯨類の群れに接近すると漁師たちは金属性の棒を海中で鳴らし、小型鯨類に音を避けさせるようにし、湾内に追い込む。小型鯨類が湾内に入ると逃げられないように魚網を素早く閉じ確保する。捕獲作業は小型鯨類が落ち着くのを待って、翌日以降に行われることもある。捕獲は、湾内で囲っていた小型鯨類を、漁船で水深数十センチほどの海岸まで、捕まえやすいように追い込む。そして、ウェットスーツを着た漁師が浅瀬に入り、小型鯨類の尾びれにロープを掛ける。このロープを、岸に張った長い綱に固定し、小型鯨類の動きを抑える。そして、動きの鈍った間合いを見て小型鯨類を絶命させる。このとき、首を切開する方法などが採られていたが、小型鯨類に苦痛が多いとの批判を受けることがあり、2000年以降はフェロー諸島で用いられているのと同じ、頸椎に金属ピンを刺す方式が導入された。新しい方式は、脊髄と周辺の血管叢を同時に切断することで脳への血流を停止させるもので、小型鯨類の苦痛を軽減するとともに作業の安全を向上させる効果がある。ただし、スジイルカとマダライルカについては、水際で激しく暴れるために新方式の利用は困難で、改良のため研究が続けられている。また、1933年以後、太地では水族館向けに生け捕りをした記録が残る、が前述の通り散発的な漁であり、その需要が途絶えた戦争をはさんで、12年ぶりの捕獲成功で本格的に再開したのは1969年以降である。現在では小型鯨類の購入希望者は、岸近くまで追い立てられた個体の中から性別、サイズなどをもとに希望する小型鯨類を選び、傷の有無等を確認する。そして、購入が決まった小型鯨類は胸びれ用の穴があいた専用の担架に載せられ、トラック等で輸送される。", + "qas": [ + { + "question": "日本で現在追い込み漁を行う際に、小型鯨類の群れを探すのに使う道具は何ですか?", + "id": "tr-084-14-000", + "answers": [ + { + "text": "双眼鏡", + "answer_start": 61, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "太地で2000年以降から使っていた頸椎に金属ピンを刺すイルカを絶命させる方式はどこから学んだものですか?", + "id": "tr-084-14-001", + "answers": [ + { + "text": "フェロー諸島", + "answer_start": 459, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "2000年から導入されたイルカを絶命させる方式が通じないスジイルカ以外に何がありますか?", + "id": "tr-084-14-002", + "answers": [ + { + "text": "マダライルカ", + "answer_start": 582, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "太地では水族館向けに生け捕りを始めたのは何年以来ですか?", + "id": "tr-084-14-003", + "answers": [ + { + "text": "1933年", + "answer_start": 636, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "遺伝子組み換え作物", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "遺伝子組み換え作物(いでんしくみかえさくもつ)は、遺伝子組換え技術を用いて遺伝的性質の改変が行われた作物である。\n日本語では、いくつかの表記が混在している。\n「遺伝子組換作物反対派」は遺伝子組み換え作物、厚生労働省などが遺伝子組換え作物、食品衛生法では組換えDNA技術応用作物、農林水産省では遺伝子組換え農産物などの表記を使うことが多い。\n英語のgeneticallymodifiedorganismからGM作物、GMOとも呼ばれることがある。\nなお、GMOは通常はトランスジェニック動物なども含む遺伝子組換え生物を指し、作物に限らない。", + "qas": [ + { + "question": "遺伝子組み換え作物のことを遺伝子組換え農産物と表記している機関はどこですか?", + "id": "tr-085-00-000", + "answers": [ + { + "text": "農林水産省", + "answer_start": 139, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "食品衛生法では遺伝子組み換え作物のことをどのように表記しているの?", + "id": "tr-085-00-001", + "answers": [ + { + "text": "組換えDNA技術応用作物", + "answer_start": 126, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "GMOは何の略ですか?", + "id": "tr-085-00-002", + "answers": [ + { + "text": "geneticallymodifiedorganism", + "answer_start": 173, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "遺伝子組換え作物は、商業的に栽培されている植物(作物)に遺伝子操作を行い、新たな遺伝子を導入し発現させたり、内在性の遺伝子の発現を促進・抑制したりすることにより、新たな形質が付与された作物である。\n食用の遺伝子組換え作物では、除草剤耐性、病害虫耐性、貯蔵性増大、などの生産者や流通業者にとっての利点を重視した遺伝子組換え作物の開発が先行し、こうして生み出された食品を第一世代遺伝子組換え食品とよぶ。\nこれに対し、食物の成分を改変することによって栄養価を高めたり、有害物質を減少させたり、医薬品として利用できたりするなど、消費者にとっての直接的な利益を重視した遺伝子組換え作物の開発も近年活発となり、こうして生み出された食品を第二世代組換え食品という。", + "qas": [ + { + "question": "生産者や流通業者への利点を重視して生み出された遺伝子組換え作物の食品を何といいますか?", + "id": "tr-085-01-000", + "answers": [ + { + "text": "第一世代遺伝子組換え食品", + "answer_start": 183, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "消費者への利益を重視して開発された遺伝子組換え作物の食品を何といいますか?", + "id": "tr-085-01-001", + "answers": [ + { + "text": "第二世代組換え食品", + "answer_start": 312, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "遺伝子組換え作物の栽培国と作付面積は年々増加している。\n2015年現在、全世界の大豆作付け面積の83%、トウモロコシの29%、ワタの75%、カノーラの24%がGM作物である(ISAAA調査)。\n遺伝子組換え作物が商業的に本格的に栽培された1996年から2014年までは年々栽培面積が増えてきたが2015年になって初めて前年に比べ栽培面積が1%減少した。\nなお、限定的ではあるが、青いバラ(サントリーフラワーズ)の商業栽培により2009年には日本も遺伝子組換え作物の商業栽培国となった。\n日本の輸入穀類の半量以上は既に遺伝子組換え作物であるという推定もある。", + "qas": [ + { + "question": "全世界の大豆作付け面積の約8割は何の作物ですか?", + "id": "tr-085-02-000", + "answers": [ + { + "text": "GM作物", + "answer_start": 79, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "全世界の大豆、トウモロコシ、ワタ、カノーラの作付け面積に対するGM作物が占める割合が最も多いのはどれでしょうか?", + "id": "tr-085-02-001", + "answers": [ + { + "text": "大豆", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "全世界の大豆、トウモロコシ、ワタ、カノーラの作付け面積に対するGM作物が占める割合が3番目に多いのはどれですか?", + "id": "tr-085-02-002", + "answers": [ + { + "text": "トウモロコシ", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "遺伝子組換え作物の開発・利用について、賛成派と反対派の間に激しい論争がある。\n主な論点は、生態系などへの影響、経済問題、倫理面、食品としての安全性などである。生態系などへの影響、経済問題に関しては、単一の作物や品種を大規模に栽培すること(モノカルチャー)に伴う諸問題を遺伝子組換え作物特有の問題と混同して議論されることが多い。\n食品としての安全性に関して、特定の遺伝子組換え作物ではなく遺伝子組換え操作自体が食品としての安全性を損なっているという主張がある。\nその様な主張の論拠となっている研究に対し、実験設計の不備やデータ解釈上の誤りを多数指摘した上で科学的根拠が充分に伴っていないとする反論もある。\n日本では、厚生労働省および内閣府食品安全委員会によって、ジャガイモ、ダイズ、テンサイ、トウモロコシ、ナタネ、ワタ、アルファルファおよびパパイアの8作物318種類について、2018年(平成30年)2月23日現在、食品の安全性が確認されている。", + "qas": [ + { + "question": "2018年2月23日の時点で、食品の安全性が確認されている遺伝子組み換え作物のフルーツは何?", + "id": "tr-085-03-000", + "answers": [ + { + "text": "パパイア", + "answer_start": 369, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "従来の育種学の延長で導入された、1973年以降の遺伝子組換えの手法としては、放射線照射・重イオン粒子線照射・変異原性薬品などの処理で、胚の染色体に変異を導入した母本を多数作成し、そこから有用な形質を持つ個体を選抜する作業を重ねるという手順で行われた。\n最初のGMOが作成された後に、科学者は自発的なモラトリアムを、組換えDNA実験に求めて観測した。\nモラトリアムの一つの目標は、新技術の状態、及び危険性を評価するアシロマ会議のための時間を提供することだった。\n生化学者の参入と新たなバイオテクノロジーの開発、遺伝子地図の作成などにより、作物となる植物に対して、「目的とする」形質をコードする遺伝子を導入したり、「問題がある」形質の遺伝子をノックアウトしたりすることができるようになった。\nアメリカ合衆国では、研究の進展とともに厳しいガイドラインが設けられた。\nそのようなガイドラインは、後にアメリカ国立衛生研究所や他国でも相当する機関により公表された。\nこれらのガイドラインは、GMOが今日まで規制される基礎を成している。\n初めて市場に登場した遺伝子組換え作物と言われるのは、アンチセンスRNA法(mRNAと相補的なRNAを作らせることで、標的となるタンパク質の生合成を抑える手法でRNAi法の一種)を用いて、ペクチンを分解する酵素ポリガラクツロナーゼの産生を抑制したトマト\"FlavrSavr\"である。他のトマトと比較して、熟しても果皮や果肉が柔らかくなりにくいという特徴を持つ。", + "qas": [ + { + "question": "遺伝子組み換え作物が今日まで規制される基礎的なガイドラインはどこで作られましたか?", + "id": "tr-085-04-000", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ合衆国", + "answer_start": 344, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "初めて市場に登場した遺伝子組換え作物の品種名は何?", + "id": "tr-085-04-001", + "answers": [ + { + "text": "\"FlavrSavr\"", + "answer_start": 587, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "非食用の遺伝子組換え作物としては、園芸作物と林木が主である。園芸作物としては花卉が主体である。\n例えば、青い花色のカーネーション「ムーンダスト」は、一般の消費者に花屋で売られている遺伝子組換え作物である。\nまた、2009年11月に国内で市販が開始された青いバラも遺伝子組換え作物である。\nその他、菊のカロテノイド含量を変化させたり、トレニアのアントシアニン生合成系をオーロン生合成系へ変化させて黄色いトレニアの花を作ったりする試みがある。\n林木の例としては製紙用にリグニンの構造や含量を改変されたポプラやヤマナラシやユーカリやテーダマツやラジアータマツが多く、セルロース含量を高めたギンドロなどもある。\nなお、食用作物と飼料用作物がエタノール生産や燃料用油生産に利用されることもあるが、バイオエタノールやバイオディーゼル用にスイッチグラスやナンヨウアブラギリなどの非食用植物を分子育種する研究も進んでいる。\n例えば、スプラウトとして食用とされることもあるアルファルファにおいては、反芻動物の飼料用としてタンニン含量を増加させたものが開発されているとともに、リグニン生合成を抑制してリグニン含量を低下させたものが上市されている。", + "qas": [ + { + "question": "2009年11月に国内で一般商品として販売開始された遺伝子組換え作物のバラは何色でしたか?", + "id": "tr-085-05-000", + "answers": [ + { + "text": "青", + "answer_start": 126, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "反芻動物の飼料用として開発されているアルファルファの成分の中で、含量を低くしたものとは何ですか?", + "id": "tr-085-05-001", + "answers": [ + { + "text": "リグニン", + "answer_start": 478, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "日本において第一種使用(食用又は飼料用に供するための使用、栽培、加工、保管、運搬及び廃棄並びにこれらに付随する行為)を認められている組換え品種には、例えば、選択マーカー遺伝子以外に1品種に6種類の害虫抵抗性と2種類の除草剤耐性の計8種類の外来遺伝子が導入されたものや1品種に7種類の害虫抵抗性と3種類の除草剤耐性の計10種類の外来遺伝子が導入されたもの、除草剤耐性と改変された脂肪酸残基組成の貯蔵脂質の双方をもつという、世代をまたいでいるといえるものもある。\nこのように、異なった形質を持つ組換え品種を掛け合わせて、複数の形質(stackedtraits)を導入された組換え品種をスタック(ド)品種(stackedGMline(variety,cultivar))ということがある。\nなお、前述の通り、まだ第三世代については確たる定説がないため、ストレス耐性作物に関しては「第一世代組換え食品の開発状況」において説明する。", + "qas": [ + { + "question": "計8種類の外来遺伝子を導入した品種で、どんな性質の種類がより多く導入されましたか?", + "id": "tr-085-06-000", + "answers": [ + { + "text": "害虫抵抗性", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "計10種類の外来遺伝子が導入された品種では、害虫抵抗性と除草剤耐性どちらの種類がより少なく導入されましたか?", + "id": "tr-085-06-001", + "answers": [ + { + "text": "除草剤耐性", + "answer_start": 108, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "第一世代組換え食品は、作物に除草剤耐性、病害虫耐性、貯蔵性増大などの形質が導入されたものである。\nこれらの特質は、生産者や流通業者にとっての利点となるだけでなく、安価で安全な食品の安定供給につながるという点で消費者にとっても大きなメリットとなる。\nまた、農薬使用量の減少や不耕起栽培の利用可能性などにより環境面での負荷の減少を図れることや、収穫量が多かったり、損耗が少なかったりという性質をもつことは持続的農業を進めていく上でも有用である。\n以下に、除草剤耐性作物、害虫抵抗性作物、耐病性作物、保存性を増大させた作物、雄性不稔形質の付与と雄性不稔からの稔性の回復、耐熱性α-アミラーゼ生産トウモロコシ、乾燥耐性トウモロコシなどに関して、それぞれの種類と原理について説明する。", + "qas": [ + { + "question": "第一世代組換え食品の特質は、生産者や流通者以外に誰に大きな利点をもたらしますか?", + "id": "tr-085-07-000", + "answers": [ + { + "text": "消費者", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "第一世代組換え作物としては、ラウンドアップやビアラホス(bialaphos)など特定の除草剤に耐性を持つ品種を作成し、その除草剤による雑草防除を利用するような作物も開発されている。\nこれは農作業の効率化だけではなく、土壌流出による環境���壊を防ぐ不耕起栽培を適用できる。\nダイズの主要生産国である北米や南米諸国では表土流出が大問題となっている。\n前作の植物残渣を放置できるため、植物残渣がマルチ(マルチング)となって風雨から土壌流出を防ぎ、土壌を耕すことによって土壌が流亡しやすくなることを不耕起栽培によって防ぐことができる。\nその他、有毒雑草の収穫物への混入を減らせるとの主張もある。\n単一の除草剤と除草剤耐性作物の組み合わせで長年栽培を続けるとその除草剤に対する耐性雑草が出現する。\nこの現象自体は一般的なものであり、既に除草剤ラウンドアップに対する耐性雑草の出現が報告されている。\nこのような事態を避けるための方策として、複数の除草剤に対して耐性を持つ作物と複数の除草剤の混用、異なる除草剤とその除草剤耐性作物の複数の組み合わせを用いた定期的な輪作などが推奨されている。", + "qas": [ + { + "question": "ラウンドアップ、ビアラホスとは何ですか?", + "id": "tr-085-08-000", + "answers": [ + { + "text": "除草剤", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ダイズの主要生産国で大問題となっている現象は何ですか?", + "id": "tr-085-08-001", + "answers": [ + { + "text": "表土流出", + "answer_start": 156, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "第一世代組換え作物として耐病性を有するものも作られている。\n病害抵抗性遺伝子や糸状菌の細胞壁成分であるキチンを加水分解するキチナーゼの遺伝子の導入(多数あるうちの一例)によるものであるが、その中でも植物ウイルス耐性のものが特に成功している。\nその他、糸状菌や細菌性の植物病原菌に耐性を与えるためにディフェンシンなどの抗菌ペプチドなどを作物で生産させる試みも進んでいる。", + "qas": [ + { + "question": "耐病性のある第一世代組換え作物の中で特に成功している耐性とは何?", + "id": "tr-085-09-000", + "answers": [ + { + "text": "植物ウイルス耐性", + "answer_start": 99, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ジャガイモやイチゴなどの栄養繁殖性作物や果樹などの永年性作物において植物ウイルスによる被害は大きく、それらに植物ウイルス抵抗性を付与することは農業上重要である。\nただし、ウイルス抵抗性作物は特定のウイルスに対してのみ抵抗性であり、ウイルス一般に対して抵抗性を持つわけではない。\nウイルス抵抗性作物は特定のウイルスに抵抗性であるため、その特定のウイルスを媒介する害虫を防除する必要がなくなるのでその害虫への殺虫剤散布は不要となる。\nしかし、野菜や果物は外見や味のわずかな劣化でも商品価値に大きく影響するため、他の病害虫防除のために農薬散布は必要である。\nそのため、その特定のウイルス以外の被害が大きい地域では、生産者はウイルス抵抗性品種を採用する必要性を感じないと考えられる。\n特にウイルス抵抗性作物の成功例としては、papayaringspotvirus(PRSV,パパイヤ・リングスポット・ウイルス)によってほぼ壊滅したハワイのパパイヤ栽培が遺伝子組換えパパイヤ品種(Rainbow:レインボー)によって復活できた事例が挙げられる。\nこれについては後述する。\nなお、2011年2月以降に報道された、沖縄におけるレインボーとは異なる未承認遺伝子組換えパパイヤが栽培されていた事例についても記す。\n植物ウイルス耐性を与える手法としては様々な機構が用いられているが、その手法は少なくとも四種類挙げられる。", + "qas": [ + { + "question": "ウイルス抵抗性作物の成功例として挙げられている果物は何ですか?", + "id": "tr-085-10-000", + "answers": [ + { + "text": "パパイヤ", + "answer_start": 383, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ハワイでパパイヤが壊滅したウイルスを英語表記するとどうなるの?", + "id": "tr-085-10-001", + "answers": [ + { + "text": "papayaringspotvirus", + "answer_start": 358, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ハワイのパパイヤ・リングスポット・ウイルス(PRSV)抵抗性のパパイヤはレインボー・パパイヤとして既にアメリカやカナダや日本などで市販されている。\n東南アジアにおいてもPRSVの別の株に耐性を示すパパイヤが開発されている。\nレインボー・パパイヤに関しては、「パパイヤリングスポットウイルス抵抗性パパイヤ(改変PRSVCP,uidA,nptII,CaricapapayaL.)(55-1,OECDUI:CUH-CP551-8)申請書等の概要」で公表されている。\n外皮タンパク質を大量にパパイヤ中で生産させることによってPRSV抵抗性が現れることが期待されたが、実際にはRNAiによってPRSV抵抗性が現れた。\n赤肉種のパパイヤ・サンセット(Sunset)に外皮タンパク質遺伝子が導入され、その自殖後代で外皮タンパク質の遺伝子をホモ接合で持つ赤肉種のPRSV抵抗性のサンアップ(SunUp)が選択された。\nサンアップと非形質転換体でPRSV感受性の黄肉種のカポホ(Kapoho)を交雑させたF1品種がレインボーである。\nレインボー・パパイヤの一種使用が日本でも2011年(平成23年)8月31日に認可され、同年12月1日より市販された。\nこれは、未加工の生の遺伝子組換え植物体をそのまま食用とする日本における初めての例となった。\nレインボー・パパイヤの果実中の種子からは、メンデルの法則に基づきウイルス抵抗性と感受性の苗が3:1で得られる。\nただし、レインボー・パパイヤはF1品種であるため、発芽した苗はF2世代であり、様々な形質を持つ雑多な集団になる。", + "qas": [ + { + "question": "パパイヤ・リングスポット・ウイルスに抵抗できる性質を持つパパイヤの品種は何ですか?", + "id": "tr-085-11-000", + "answers": [ + { + "text": "レインボー・パパイヤ", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "日本で初めて未加工の生の遺伝子組換え植物体をそのまま食用としたものは何?", + "id": "tr-085-11-001", + "answers": [ + { + "text": "レインボー・パパイヤ", + "answer_start": 458, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "レインボーとは異なる未承認のウイルス抵抗性遺伝子組換えパパイヤが沖縄において市販及び栽培されていたことが、2011年2月と4月に公表された。\nそれらによると、市販・栽培されていたものは台湾で開発されたPRSV抵抗性の品種であり、台農5号として販売されていた。\n台農5号は本来、遺伝子組換え体ではない通常の品種として、交雑育種により1987年に開発されたものである。\nそれにレインボーと同じ機構によるウイルス抵抗性が台湾で導入されたものが、台湾の種苗会社から輸入された種子に混入していたことが未承認の組換えパパイヤの栽培・市販事例の原因と考えられている。\nこの組換え品種はカルタヘナ法に基づく承認を受けていないため、カルタヘナ法と食品衛生法に基づいて市販や栽培は規制され、販売されていた種苗や果実は回収・破棄され、台農5号の疑いのある植物体は抜き取りや伐採された。\n厚生労働省によると、この遺伝子組換えパパイヤの摂食による危害に繋がるような情報は今のところ確認されていない。\n更に、環境省と農林水産省の共同見解ではこの未承認の遺伝子組換えパパイヤによる生物多様性への影響は低いとされている。", + "qas": [ + { + "question": "沖縄で販売されていたウイルス抵抗性遺伝子組換えパパイヤとは何ですか?", + "id": "tr-085-12-000", + "answers": [ + { + "text": "台農5号", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "レインボーとは異なる未承認のウイルス抵抗性遺伝子組換えパパイヤはどこにありましたか?", + "id": "tr-085-12-001", + "answers": [ + { + "text": "沖縄", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カルタヘナ法の承認を受けていなかった沖縄のパパイヤは何ですか?", + "id": "tr-085-12-002", + "answers": [ + { + "text": "台農5号", + "answer_start": 356, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "果実等の中には収穫適期が非常に短いものがある。\n特に、生食用のトマトなどでは色付き始めたらすぐに収穫して流通に乗せる必要性が高い。\nそうしないと店頭に並ぶ頃には過熟状態になったり、ケチャップやピューレなどへの工業的加工過程に入る前に傷口から腐敗したりして商品価値が低下することが多くなるためである。\nそこで、熟しても果皮が柔らかくならない様に細胞間を充填しているペクチンの分解が抑制された遺伝子組換えトマトが開発された。\nまた、ペクチンの分解は果実が熟するときに誘導されるため、ペクチンの分解抑制ではなく熟期を遅らせることで柔らかくならないようにされたトマトやメロンも開発された。\nそれらの手法は三種類知られている。", + "qas": [ + { + "question": "遺伝子組換えトマトは何が抑制された作物ですか?", + "id": "tr-085-13-000", + "answers": [ + { + "text": "ペクチンの分解", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ペクチンの分解が生じるのはいつですか?", + "id": "tr-085-13-001", + "answers": [ + { + "text": "果実が熟するとき", + "answer_start": 222, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "植物が生育して上で様々な環境ストレスがある。\n例えば、低温ストレス、凍結ストレス、高温ストレス、乾燥ストレス、浸透圧ストレス(塩ストレス)、強光ストレス、冠水ストレスなどが代表的である。\nこれらのストレスに強い作物が開発できれば未利用地が耕地として利用できるようになるため、様々な研究が進められている。\n例えば、低温ストレスの感受性・抵抗性に関しては、プラスチドのチラコイド膜のホスファチジルグリセロール(phosphatidylglycerol)の脂肪酸残基組成が関与しているので、ホスファチジルグリセロールの生合成系において取り込まれる脂肪酸残基の基質特異性に関わる酵素acyl-(acyl-carrierprotein):glycerol-3-phosphateacyltransferase(GPAT)を改変することによって低温耐性を付与する研究などがある。\n浸透圧ストレス(塩ストレス)に関しては、ナトリウムイオンの細胞からの排出促進するためにNa+/H+アンチポーターなどの利用の研究が進んでいる。\nその他、これらのストレスに共通に生じる障害を軽減するために、グリシンベタインやプロリンやトレハロースなどの適合溶質(compatiblesolute)の合成遺伝子や蓄積させるための遺伝子の導入、ストレス応答性遺伝子を制御するDREB(Dehydration-ResponsiveElementBindingfactor)などの転写因子の発現、熱ショックタンパク質などのストレス関連タンパク質、ストレスによって生じる活性酸素種を消去するアスコルビン酸ペルオキシダーゼやスーパーオキシドジスムターゼ(SOD)などの遺伝子を利用する研究も進んでいる。\nその他、タンパク質のユビキチン化に関わるE3ユビキチン・リガーゼ(E3ubiquitinligase)であるOsSDIR1を過剰生産させることにより、イネを乾燥耐性にした例も存在する。", + "qas": [ + { + "question": "低温ストレスの感受性・抵抗性に関与している組成の名前は何でしょうか?", + "id": "tr-085-14-000", + "answers": [ + { + "text": "脂肪酸残基組成", + "answer_start": 225, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "植物が受ける様々な環境ストレスで、共通に生じる障害を減らすためにどんな性質の合成遺伝子を利用する研究が進んでいますか?", + "id": "tr-085-14-001", + "answers": [ + { + "text": "適合溶質", + "answer_start": 509, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "また、微量成分の欠乏や過剰も植物にとってはストレスとなる。\n例えば、鉄は植物の微量栄養素であるが、比較的要求性は高く、不足すると生育遅滞やクロロシスなどが生じる。\nそこで、土壌中の不溶化している鉄を可溶化する能力を植物に付与したり、鉄を含むタンパク質を機能的に代替できるタンパク質を生産させたりして、鉄欠乏を緩和する育種が行われている。\nまた、その他の微量成分に対しても研究が進められている。", + "qas": [ + { + "question": "欠乏すると生育遅滞やクロロシスが生じる植物の微量栄養素は何?", + "id": "tr-085-15-000", + "answers": [ + { + "text": "鉄", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "環境要因の他に、何が欠乏したり過剰すると植物がストレスを感じますか?", + "id": "tr-085-15-001", + "answers": [ + { + "text": "微量成分", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "グリシンベタインを生産するようになった形質転換植物は、低温ストレス、高温ストレス、乾燥ストレス、凍結ストレス、塩ストレスなど様々なストレスに抵抗性を示すようになる。\n合成されたグリシンベタインのモル濃度だけでは、そのストレス抵抗性を説明できない。\nそこで、グリシンベタインの細胞内局在による局所的高濃度、膜やタンパク質に対する保護作用、コリン酸化酵素の反応に伴い生じる過酸化水素による活性酸素消去系酵素の常時誘導、などストレス耐性機構を説明する様々な説がある。", + "qas": [ + { + "question": "グリシンベタインを生産するようになった形質転換植物は何に強くなるの?", + "id": "tr-085-16-000", + "answers": [ + { + "text": "様々なストレス", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "アミノ酸のプロリンも同様に適合溶質である。\nプロリンを蓄積させる手法には二種類ある。\n一つは、プロリン合成を促進する方法であり、もう一つはプロリン分解を阻害する方法である。\nプロリンの生合成は高濃度のプロリンによってフィードバック阻害を受ける。\nそこで、プロリン生合成系のフィードバック阻害を受ける酵素、L-1-ピロリン-5-カルボン酸合成酵素(L-1-Pyrroline-5-carboxylatesynthetase)のフィードバック阻害が解除された変異酵素の遺伝子を導入すると大量のプロリンが合成された。\nもう一つは、プロリンを分解する酵素、プロリン脱水素酵素をRNAiなどの手法で阻害する方法である。\nプロリンを蓄積することにより形質転換植物は様々なストレスに抵抗性を示すようになった。", + "qas": [ + { + "question": "プロリン合成を促進する方法とプロリン分解を阻害する方法は、ともにプロリンをどうさせるための手法ですか?", + "id": "tr-085-17-000", + "answers": [ + { + "text": "蓄積させる", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "プロリンを分解する酵素は何?", + "id": "tr-085-17-001", + "answers": [ + { + "text": "プロリン脱水素酵素", + "answer_start": 274, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "第二世代組換え食品とは、ワクチン等の有用タンパク質の工場として利用することができたり、栄養素を多く含ませたり、食品中の有害物質を低減させたり、消費者にとって利益が目に見えるものである。\n例えば、B型肝炎予防の食べるワクチンとしてB型肝炎ウイルスの表面抗原をバナナで発現させ経口免疫によってB型肝炎感染を防除する試みがある。\n油糧種子中の油脂の脂肪酸残基組成を改変することは、第二世代組換え食品開発の初期からの目標であった。\nまた、日本においてはインスリンを分泌誘導して糖尿病になりにくくするコメや経口免疫寛容によるスギ花粉症を低減するコメの開発が先行している。\nまた、鉄分を多く含むコメも開発中である。", + "qas": [ + { + "question": "日本で開発が進んでいるコメの中で、インスリンを分泌誘導させるコメは何の病気を予防することが目的ですか?", + "id": "tr-085-18-000", + "answers": [ + { + "text": "糖尿病", + "answer_start": 234, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ビタミンAの欠乏は、子供の失明や発育障害などを招き、慢性的に摂取量が少ない後進地域では将来の人口構成にまで影響を与える。\nこのため、国際協力の一環として様々な研究機関や団体がビタミンAの摂取量を高めるための品種改良に取り組んでいる。\n植物のカロテノイドの一部はビタミンAの前駆体であるプロビタミンAである。\n1分子のβ-カロテン(β-carotene)から2分子のビタミンAに、1分子のα-カロテンやγ-カロテンやβ-クリプトキサンチンから1分子のビタミンAに変換される。\nそこで、作物中のプロビタミンA量を増やすための機構として次のものが挙げられる。", + "qas": [ + { + "question": "ビタミンAの前段階の状態であるカロテノイドの一部とは何ですか?", + "id": "tr-085-19-000", + "answers": [ + { + "text": "プロビタミンA", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ビタミンAの摂取量が慢性的に少ない地域はどこですか?", + "id": "tr-085-19-001", + "answers": [ + { + "text": "後進地域", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "第二世代の組換え作物として最も有望視されているものの一つがゴールデンライス(goldenrice)である。\n多くの発展途上国において深刻な問題になっているビタミンA(vitaminA)欠乏の解決策として開発された。\nビタミンAの前駆体であるβ-カロテンを内胚乳に含有するため精米された米が黄色を呈することから、このような名称がつけられた。", + "qas": [ + { + "question": "ビタミンA欠乏の解決策として開発された遺伝子組み換え作物は何?", + "id": "tr-085-20-000", + "answers": [ + { + "text": "ゴールデンライス", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ゴールデンライス自体を主食としてもビタミンAの必要量を満たさないとの主張が遺伝子組換え食品反対派にあった。\nしかし、2005年には、新たにゴールデンライス2が発表され、これだけを摂食することでビタミンAの必要量がまかなえるようになった。\nこれはカロテノイド生合成系遺伝子としてゴールデンライスで用いられていたスイセン由来のフィトエン合成酵素遺伝子のcDNAの代わりにトウモロコシやイネ由来のcDNAを利用することにより達成された。\nゴールデンライス2の形質転換に際して、後述の「抗生物質耐性以外の新たな選択マーカー遺伝子」のうちの「phosphomannoseisomerase(PMI)」遺伝子が選択マーカー遺伝子として利用されている。\nなお、人道的な見地からゴールデンライスの開発者たちは、特許を無償公開し、特許料等の知的財産権に基づく金員の請求をしないことを表明している。\nゴールデンライスは自家採種可能であるため、栽培農家は無償で永続的に栽培可能になる。\nコムギでも類似の研究が行われた。\nゴールデンライス2と同様に、トウモロコシのフィトエン合成酵素遺伝子のcDNAを内胚乳特異的プロモーターと連結したものとE.uredovora由来のフィトエン不飽和化酵素遺伝子crtIの改変型を構成的に発現するCaMV35Sプロモーターと連結したものをコムギに導入したところ、淡黄色を呈する内胚乳のコムギができ、その全カロテノイド含量は母本の10.8倍に達していたという報告である。", + "qas": [ + { + "question": "ゴールデンライスと類似の研究が行われたコムギでは、全カロテノイド含量が母本の何倍となったのですか?", + "id": "tr-085-21-000", + "answers": [ + { + "text": "10.8倍", + "answer_start": 619, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ゴールデンライス2が発表されたのはいつですか?", + "id": "tr-085-21-001", + "answers": [ + { + "text": "2005年", + "answer_start": 58, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "上記にあるゴールデンライスと同様に、多くの発展途上国において深刻な問題になっている鉄欠乏とそれによる貧血の解決策として鉄分豊富なコメが開発されている。\n大きく分けて二つの方法がある。\n一つは、鉄を貯蔵するダイズ由来のタンパク質であるフェリチン(ferritin)の分子種H1やH2をイネの種子中に多量に蓄積させることで種子中の鉄貯蔵能力を高め、鉄含有量を増加させる方法であり、こちらは\"フェリチン米\"とも呼ばれている。\nもう一つは、植物にとって鉄イオン吸収に関わるムギネ酸合成の前駆体であるとともに鉄イオンの体内輸送に係るニコチアナミンを合成する酵素の遺伝子の発現量を高める方法である。\nオオムギ由来の高発現のニコチアナミン合成酵素遺伝子をイネに導入して植物体中のニコチアナミンを増やすことで鉄の種子への輸送能力を高めている。\nこちらの方法では白米中の鉄濃度が3倍に増加していた。\nニコチアナミン合成酵素遺伝子は、アルカリ性土壌でも鉄イオンを吸収して生育できるイネやトウモロコシの開発にも利用されている。", + "qas": [ + { + "question": "ニコチアナミンを合成する酵素の遺伝子の発現量を高める方法では、白米中の鉄濃度がどれくらい増えましたか?", + "id": "tr-085-22-000", + "answers": [ + { + "text": "3倍", + "answer_start": 380, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "フェリチンの性質は何ですか?", + "id": "tr-085-22-001", + "answers": [ + { + "text": "鉄を貯蔵する", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "キャッサバ(Manihotesculenta)は熱帯における重要な作物である。\nただし、タンパク質含量が少なく、かつ、有毒なシアン化合物である青酸配糖体を多く含んでいる。\n含まれる青酸配糖体のうち、95%はリナマリンで、5%はロトストラリンである。\nキャッサバを食料や飼料にするためには青酸配糖体や分解産物であるアセトンシアノヒドリンの除去が重要であり、不十分だと健康被害が生じることがある。\nそこでキャッサバ中のシアン化合物を減少させるための研究が進められている。\nその一つにはヒドロキシニトリル脱離酵素をキャッサバの根で生産させるというものがある。\nヒドロキシニトリル脱離酵素はアセトンシアノヒドリンを青酸とアセトンに分解する酵素である。\nヒドロキシニトリル脱離酵素によって生じた青酸は気化するため、ヒドロキシニトリル脱離酵素活性とキャッサバ中の青酸化合物の濃度との間には負の相関性がある。\n野生型のキャッサバの根ではほとんど生産されていないヒドロキシニトリル脱離酵素を根で過剰生産させた結果、形質転換体では根でリナマリン含量が80%低下すると共にタンパク質含量が3倍に増加していた。", + "qas": [ + { + "question": "キャッサバに含まれる青酸配糖体の中で大半を占めているものは何ですか?", + "id": "tr-085-23-000", + "answers": [ + { + "text": "リナマリン", + "answer_start": 103, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "キャッサバに含まれる有毒な化合物とは何ですか?", + "id": "tr-085-23-001", + "answers": [ + { + "text": "シアン化合物", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "キャッサバの根にヒドロキシニトリル脱離酵素を過剰生産させた結果、タンパク質の量はどれくらい増えましたか?", + "id": "tr-085-23-002", + "answers": [ + { + "text": "3倍", + "answer_start": 484, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ワタ(Gossypiumhirsutum)の種子約1.65kg当たり、ワタ繊維1kgが生産される。\nワタの種子は21%の油脂とともに23%の高品質のタンパク質を含んでいる。\nしかし、ワタの種子自体や脱脂種子は反芻動物の飼料として利用されているが、食料としても単胃動物の飼料としても利用されていない。\n心機能と肝機能を障害するゴシポールが腺に含まれているからである。\nゴシポールはセスキテルペンの一種である。\nそこで、棉実を食料、飼料として利用するために、腺を持たない変異ワタが発見されたのでそれを用いて腺欠損品種の育種がすすめられ、上市された。\nしかし、腺欠損品種は害虫抵抗性に関与しているテルペノイドを欠くため、極めて虫害に遭いやすいので農民に拒否された。\nそこで種子でのみゴシポールが削減された品種の開発を目的として、ゴシポールの前駆体であるδ-カディニンをファルネシルピロリン酸から合成する酵素であるδ-カディニン合成酵素を、ワタの種子特異的α-globulinBの遺伝子のプロモーターを用い、RNAiで抑制した形質転換ワタが開発された。\nこの形質転換植物の種子と若い芽生えにおいてのみゴシポールや関連物質の含量が低下しており、他の地上部や根では含量の変化はなかった。\nつまり、害虫抵抗性は大きくは変化せず、また、この形質は多世代にわたり安定に遺伝していた。", + "qas": [ + { + "question": "ワタの種子に含まれる油脂とタンパク質は、どちらが少なく含まれていますか?", + "id": "tr-085-24-000", + "answers": [ + { + "text": "油脂", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "組換え作物に対する安全性審査は、生物多様性の確保に関するカルタヘナ法に基づく「食品としての安全性の評価」と「環境に与える影響の評価」に分けられる。\n日本においては、遺伝子組換え食用作物(遺伝子組換え食品)の商業的栽培は行われていないが、多量の組換え食品が輸入されている。\nそれらの安全性を確保するため、厚生省は1991年(平成3年)から「安全性評価指針」に基づいて個別に安全性審査を行ってきたが、任意の仕組みであった。\n安全性審査を法的に義務化することとし、2001年(平成13年)4月1日から、安全性審査を受けていない遺伝子組換え食品の輸入・販売等が禁止された。\nまた、2003年(平成15年)7月1日に食品安全基本法が施行され、内閣府に食品安全委員会が発足したことに伴い、遺伝子組換え食品の安全性審査は食品安全委員会の意見を聴いて行うこととなった。\n厚生労働省の「遺伝子組換え食品の安全性審査について」に関連の規則や安全性評価基準についてのリンクがある。", + "qas": [ + { + "question": "組換え作物に対する安全性審査は何に基づいていますか?", + "id": "tr-085-25-000", + "answers": [ + { + "text": "カルタヘナ法", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "カルタヘナ法の2つの評価は「環境に与える影響の評価」と何がありますか?", + "id": "tr-085-25-001", + "answers": [ + { + "text": "「食品としての安全性の評価」", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "リッチマン、プアウーマン", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "『リッチマン、プアウーマン』は、フジテレビ系の「月9」枠で2012年7月9日から9月17日まで、毎週月曜日21時-21時54分に放送された日本のテレビドラマである。主演は小栗旬である。公式な略称は『リチプア』、『RMPW』。\n\n2013年4月1日には、続編のスペシャルドラマ『リッチマン、プアウーマンinニューヨーク』が放送された。\n\n小栗は若くしてIT企業を作り上げ億万長者となった社長を演じ、ヒロイン役の石原さとみは、東京大学理学部という高学歴ながら内定がもらえず就職活動に奔走する女子大生を演じた。生活も価値観も正反対の2人が、衝突を繰り返しながらもお互いを知り精神的に成長して惹かれあう「現代版『プリティ・ウーマン』」的恋愛ドラマに加え、「絵空事じゃない地に足のついた夢を語って、世の中に発信できる」「男のカッコよさ」を描くことを主題とし、企業ものとしての要素も多く盛り込まれている。\n\n平均視聴率は12.4%であったが、有料動画配信では好調な売上を記録した。連続ドラマの特性を生かしたストーリーや、アイデンティティをめぐる問題を描いた姿勢などが評論家などに評価されたほか、ザテレビジョンドラマアカデミー賞での2部門受賞などいくつかの賞を受けている。", + "qas": [ + { + "question": "『リッチマン、プアウーマン』の主役は誰ですか。", + "id": "tr-086-00-000", + "answers": [ + { + "text": "小栗旬", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『リッチマン、プアウーマン』のヒロイン役は誰がやったの?", + "id": "tr-086-00-001", + "answers": [ + { + "text": "石原さとみ", + "answer_start": 204, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『リッチマン、プアウーマン』は何年度に放送されたか。", + "id": "tr-086-00-002", + "answers": [ + { + "text": "2012年", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『リッチマン、プアウーマン』の平均視聴率は?", + "id": "tr-086-00-003", + "answers": [ + { + "text": "12.4%", + "answer_start": 404, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "『リッチマン、プアウーマン』は『コード・ブルー-ドクターヘリ緊急救命-』などを手がけ、特定の職業の内実を描く「職業モノ」ドラマに対するセンスを主演の小栗にも評価されている増本淳らのプロデュースによる作品である。増本は本作について、「普遍的なシンデレララブストーリー」であると同時に、「現代社会のある側面を\"仕事\"というテーマで切り取り、4人(の登場人物)がそれぞれ自分の人生を織り成すヒューマンドラマでもあります」と説明した。IT業界の人物を主人公とした理由としては「単なる金持ちや成功者ではなく、世界を劇的に変えたイノベーターがここ数年で実際に登場した分野だからです」と語り、主人公の魅力を最大限に引き出し、視聴者に感情移入させるための舞台として、2012年現在においてIT業界がふさわしかったからとしている。\n\n主人公とは対照的に、高学歴で就職を望んで努力しているにもかかわらず、仕事に就けないヒロインを設定している。この背景には、ドラマの放送前年の2011年に大学卒業後の就職率が史上最低を記録したということがある。増本は、日本社会にここ数年の間に極端な格差社会があるという見解を示しており、それを象徴する主人公とヒロインの二者の間に恋愛は成立するのか、ということをテーマとして挙げている。\n\n多くの視聴者からの声に応え、2013年4月1日には続編となるスペシャルドラマが放送された。", + "qas": [ + { + "question": "『リッチマン、プアウーマン』に対して「普遍的なシンデレララブストーリー」であると同時に、「現代社会のある側面を\"仕事\"というテーマで切り取り、4人(の登場人物)がそれぞれ自分の人生を織り成すヒューマンドラマでもあります」と説明した人は誰なの?", + "id": "tr-086-01-000", + "answers": [ + { + "text": "増本", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "日本で大学卒業後の就職率が史上最低を記録したのはいつですか。", + "id": "tr-086-01-001", + "answers": [ + { + "text": "2011年", + "answer_start": 427, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『リッチマン、プアウーマン』の続編となるスペシャルドラマはいつ放送されたか。", + "id": "tr-086-01-002", + "answers": [ + { + "text": "2013年4月1日", + "answer_start": 564, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『リッチマン、プアウーマン』の主人公はどの業界で働く者か。", + "id": "tr-086-01-003", + "answers": [ + { + "text": "IT業界", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "『リッチマン、プアウーマン』の撮影は2012年6月から開始され、9月11日に終了した。\n\nクランクインの時点で台本は6話分まで完成していた。これは連続ドラマでは比較的珍しいことであり、キャストはストーリーの全体像を先まで見据えて役作りをすることができたという。\n\n小栗は同年6月21日に渋谷の「渋谷ヒカリエホール」で行われた主要キャストによる制作発表記者会見で、日向のキャラクターに通じる人物としてアップル創業者のスティーブ・ジョブズを挙げており、制作発表の席でジョブズの言葉を参考にした、「どこかに衝撃を与えられるような作品になれば」という発言をしている。また番組サイトによる「イントロダクション」は、日向と会社起業プロセスが似ている人物の例としてfacebook創業者のマーク・ザッカーバーグを挙げている。ドラマ内では日向がタンデムの可能な大型バイクを乗りこなす場面が登場するため、小栗は大型二輪免許を取得して撮影に臨んでいる。\n\n石原が演じる澤木千尋こと夏井真琴の「真面目で努力家、でも不器用」というキャラクターは、脚本家が石原自身をイメージしたいわゆる「あて書き」(演じる役者のイメージに合わせて脚本を作ること)である。", + "qas": [ + { + "question": "『リッチマン、プアウーマン』の撮影いつ始まったの?", + "id": "tr-086-02-000", + "answers": [ + { + "text": "2012年6月", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『リッチマン、プアウーマン』の撮影が終わったのは何月何日?", + "id": "tr-086-02-001", + "answers": [ + { + "text": "9月11日", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "小栗は誰の言葉を参考にして「どこかに衝撃を与えられるような作品になれば」と発言したの?", + "id": "tr-086-02-002", + "answers": [ + { + "text": "スティーブ・ジョブズ", + "answer_start": 207, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "facebookの創業者は誰なの?", + "id": "tr-086-02-003", + "answers": [ + { + "text": "マーク・ザッカーバーグ", + "answer_start": 337, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "『リッチマン、プアウーマン』の主要な舞台となる「NEXTINNOVATION」のオフィスは基本的にフジテレビ湾岸スタジオ内セットであるが、社内の一部撮影は、日本マイクロソフト品川本社オフィスで行われ、会議室の受付フロアや社員食堂などが登場しているほか、美術協力として同社製のキーボードやマウスなどが提供されている。また、社内の空間は一般的企業と異なり、遊び心に溢れたものとなっており、美術スタッフによる日本全国のベンチャー企業への取材を基にしている。外観のロケ地は横浜市内のみなとみらいグランドセントラルタワーで、1F玄関付近や入場ゲートなども撮影されている。\n\nほかに協力企業にクレジットされているIT企業としては、SNSのMobageを運営するDeNAがMobage関連グッズや画像素材などを提供している。\n\nロケーションでは東京都内の鳩山会館、真琴の通う東京大学理学部として東京薬科大学などが利用されたほか、東京都以外の首都圏の各地で撮影されているが、設定上は都内として扱われている場面が多数ある。第1話の会社説明会の会場は茨城県つくば市のつくば国際会議場であり、NEXTINNOVATION創業時オフィスの学生会館は神奈川県相模原市の相模女子大学旧第一タチバナ寮である。第4話の杉並区役所のロケ地としては神奈川県大和市役所が使われ��が、これは地域のフィルム・コミッションの協力によるものである。\n\nそのほか、第10話にはジュンク堂書店、H&Mなど実在する企業が登場し、店舗がロケ地として使用されたほか、伊豆急行・アルファ・リゾート21、いすみ鉄道・国吉駅(真琴の故郷の高知県土佐清水市以布利駅として)などが使用された。\n\nスペシャル版では、ニューヨークのタイムズスクエア前などでロケが行われている。", + "qas": [ + { + "question": "『リッチマン、プアウーマン』に登場するキーボードやマウスなどはどこから提供されたものですか。", + "id": "tr-086-03-000", + "answers": [ + { + "text": "日本マイクロソフト", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "日本における『リッチマン、プアウーマン』の初回放送は15分拡大放送(21時-22時9分)されたほか、第4話はロンドンオリンピック中継の実施のため21時55分-22時49分の放送となった。7月27日から8月12日まで行われたこのオリンピック中継の影響で、2012年7月期の連続ドラマは全般的に視聴率競争では厳しい戦いとなったが、本作はスタートから開催中までの間、常に2桁台の視聴率を保持するなど健闘している。\n\n8月29日には、27時5分(翌日3時5分)からフジテレビで、第8話までの30分バージョンダイジェストが放送された。\n\n本作は台湾の緯來日本台でも2012年7月21日(日本での放送12日後)から日本語音声のまま繁体中国語字幕付きで放送された。台湾でのタイトルは『多金社長小資女』である。\n\nweb上の展開として、フジテレビの有料配信サービス・フジテレビOnDemandにて、放送後の水曜日16時から最新話が配信されている。\n\nこの配信では第7話終了時点でスマートフォン向けでの歴代1位の売上を記録しているほか、2011年以降のトップだった『マルモのおきて』を上回って本店配信の売上1位となった。\n\nまた、8月22日から、フジテレビ公式YouTubeチャンネルで、「ロマンス編」「ビジネス編」の2種類に編集された第8話までの各話のダイジェストが無料配信された(番組終了後は配信も終了した)。", + "qas": [ + { + "question": "ロンドンオリンピック中継はに日本で何月何日から行われましたか。", + "id": "tr-086-04-000", + "answers": [ + { + "text": "7月27日", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『リッチマン、プアウーマン』の台湾でのタイトルは何?", + "id": "tr-086-04-001", + "answers": [ + { + "text": "『多金社長小資女』", + "answer_start": 334, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "日向徹は若くして時価総額3000億円のベンチャーIT企業「NEXTINNOVATION」(以下、記述上は適宜NIとする)を率いる社長であり、天才と評されるが傍若無人で毀誉褒貶の激しい人物である一方、母に捨てられた心の傷を密かに抱えている。ある日彼は自社の会社説明会で、東大生ながら折からの就職難で内定ゼロの就活生女子と出会う。その名は澤木千尋といい、彼の探している実母と同姓同名であった。日向は彼女を自分が力を入れる戸籍情報管理システム「パーソナルファイル」(以下、PF)の計画にインターンシップとして参加させる。しかし彼女の名は実は偽名であった。彼女は日向の実母の知人で、日向は覚えていなかったが数年前に日向本人と出会っており、彼を実母に会わせてやれなかったことを悔いていた。そのことからつい澤木千尋の名を騙って彼の前に現れたのだが、やがてその素性は日向にばれてしまう。", + "qas": [ + { + "question": "ベンチャーIT企業「NEXTINNOVATION」の社長は誰ですか。", + "id": "tr-086-05-000", + "answers": [ + { + "text": "日向徹", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "檜洞丸", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "檜洞丸(ひのきぼらまる)は、丹沢山地西部、神奈川県相模原市と同県足柄上郡山北町の境に���る標高1,601mの山である。\n別名、青ヶ岳(あおがたけ)だ。\n新字体で桧洞丸と表記されることもある。\n丹沢山地最高峰の蛭ヶ岳から西へ伸びる丹沢主稜にある山であり、丹沢山地で4番目に高い山である。\n周辺の山々とともに丹沢大山国定公園に指定されている。\n頂稜を深々としたブナ林に覆われたどっしりとした山容を持つことから西丹沢の盟主と呼ばれる。\n5月下旬から6月上旬にかけて山を彩るツツジで近年人気の山となっており、多くの登山者が訪れる。", + "qas": [ + { + "question": "青ヶ島の正式な名前は何?", + "id": "tr-087-00-000", + "answers": [ + { + "text": "檜洞丸", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "初夏の時期、檜洞丸にたくさん咲く花は何なの?", + "id": "tr-087-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ツツジ", + "answer_start": 232, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "丹沢山地で最も高い山とは何?", + "id": "tr-087-00-002", + "answers": [ + { + "text": "蛭ヶ岳", + "answer_start": 103, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "山頂からは東・北西・南西の3方向に尾根が伸びており、東側の尾根は金山谷乗越、神ノ川乗越、臼ヶ岳、蛭ヶ岳へと伸びる。\n北西の尾根は東に伸びる尾根と合わせて丹沢主稜と呼ばれており、大笄、犬越路、大室山へ至り、その先は甲相国境の尾根に伸びている。\n南西の尾根は石棚山稜と呼ばれ、テシロノ頭、石棚山などの山を含む。\n石棚山稜のテシロノ頭付近からは南方向へ起伏の大きい同角山稜が派生し、同角ノ頭、大石山、ユーシンへと至る。", + "qas": [ + { + "question": "蛭ヶ岳が位置しているのは東側と北西側のどちらの尾根ですか?", + "id": "tr-087-01-000", + "answers": [ + { + "text": "東側", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "テシロノ頭や石棚山が位置しているのはどの方角の尾根ですか?", + "id": "tr-087-01-001", + "answers": [ + { + "text": "南西", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "現在の檜洞丸の名称は、山頂南東面から南流して玄倉川に流入する檜洞(ひのきぼら)という沢に由来するものである。\nなお、洞(ぼら)は沢と同じ意味である。\n地域によってさまざまな呼び名があり、南西側の中川地域(丹沢湖の上流)では山頂西側を流れる本棚沢より本棚裏(ほんだなうら)と呼ばれ、北側の神ノ川地域(旧津久井町)では彦右衛門ノ頭(ひこえもんのあたま)や青ヶ岳(あおがたけ)と呼ばれていた。\n青ヶ岳の名称の由来には、周辺に多く生息するカモシカを「アオ」と呼んだためや、遠くから眺めると原生林に覆われた山体が青く見えるためなどの諸説がある。\nこれらの他に檜原丸(ひのきばらまる)や青ヶ丸(あおがまる)、本棚ノ丸(ほんだなのまる)などの別称もある。", + "qas": [ + { + "question": "本棚裏と彦右衛門ノ頭はどちらも何を指しているの?", + "id": "tr-087-02-000", + "answers": [ + { + "text": "檜洞丸", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "青ヶ岳の名称の由来に関わっている動物は何ですか?", + "id": "tr-087-02-001", + "answers": [ + { + "text": "カモシカ", + "answer_start": 215, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "檜洞はどこの川に流入しているの?", + "id": "tr-087-02-002", + "answers": [ + { + "text": "玄倉川", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "檜洞丸の標高については文献によってやや揺れがあり、1,600mとしているものと1,601mとしているものが存在する。\nこれは、山頂部に三角点が設置されておらず、正確な標高の測量が未だ行われていないためであるが、山頂の標識や昭文社で発行されている登山地図では標高1,601mとされている。", + "qas": [ + { + "question": "登山地図に記載されている檜洞丸の標高は?", + "id": "tr-087-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1,601m", + "answer_start": 130, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "檜洞丸の正確な標高が分からないのは、山頂部に何がないためですか?", + "id": "tr-087-03-001", + "answers": [ + { + "text": "三角点", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "檜洞丸がある丹沢山地はすぐ南に相模湾が位置し、太平洋の黒潮の影響を受ける太平洋側気候の山地である。\nこのため、関東平野と同様に夏季は雨が多く温暖で、冬季は雨雪は少なく晴れる日が多いが、雪の多い年には山頂周辺で1m以上の積雪を記録することもある。", + "qas": [ + { + "question": "丹沢山地の気候区分は何ですか?", + "id": "tr-087-04-000", + "answers": [ + { + "text": "太平洋側気候", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "丹沢山地の気候に影響している海流名は何?", + "id": "tr-087-04-001", + "answers": [ + { + "text": "黒潮", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "檜洞丸の植生は標高800m前後を境にシイやカシなどの暖温帯林からブナ(イヌブナ)やミズナラなどの冷温帯林に変化する。\n山頂周辺のブナ林は東京近郊でも有数の森林であったが、1980年代より急速に衰退していった。\n標高は1,600m程度で亜高山帯を形成する標高に達していない為、高山性の植物はほとんど無いが山地性の植物は多く見られる。\n4月末から5月上旬にかけて稜線沿いにキクザキイチゲやコイワザクラなどの小花が咲き、丹沢の稜線に春を告げる。\nその後5月中旬までに新緑が山麓から頂稜部まで一気に駆け上がり、5月下旬から6月初旬にはツツジの季節になる。\nこのツツジとは太平洋側の山地で多くみられるトウゴクミツバツツジとシロヤシオ(ゴヨウツツジ)のことで、近年はツツジの名山として多くの登山者が訪れるようになった。\n7月にはバイケイソウ、8月にはマルバダケブキの花が咲き、9月には紫色のヤマトリカブトが山稜に散見できるようになる。\n紅葉は山頂付近で10月中下旬頃から始まり、11月下旬にかけて徐々に山麓へ下りていく。", + "qas": [ + { + "question": "ヤマトリカブト、キクザキイチゲ、シロヤシオの中で花が咲く時期が最も早いのはどれですか?", + "id": "tr-087-05-000", + "answers": [ + { + "text": "キクザキイチゲ", + "answer_start": 184, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "バイケイソウ、ヤマトリカブト、マルバダケブキの中で開花の時期が最も遅いのはどれですか?", + "id": "tr-087-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ヤマトリカブト", + "answer_start": 389, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "開花の時期が早いのはトウゴクミツバツツジとマルバダケブキのどちらですか?", + "id": "tr-087-05-002", + "answers": [ + { + "text": "トウゴクミツバツツジ", + "answer_start": 295, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "檜洞丸周辺にはニホンジカ、ツキノワグマ、ニホンカモシカ、イノシシなどの大型哺乳類の他、小型動物ではニホンリス、ニホンモモンガ、ヤマネ、ムササビなどが生息している。\nこのうち最も多く生息しているのがニホンジカで、登山者の前に姿をあらわ���ことも少なくない。\n丹沢山地全体では現在4,000-4,900頭と適正頭数を超えた数のシカが生息していると考えられており、シカによる樹皮剥ぎや下草採食などの食害が各地で問題となっている。", + "qas": [ + { + "question": "現在、丹沢山地で確認されている二ホンジカの数はどれくらいですか?", + "id": "tr-087-06-000", + "answers": [ + { + "text": "4,000-4,900頭", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "現在、丹沢山地全体で森林の立ち枯れ・衰退が問題となっているが、檜洞丸も例外ではない。\nかつて山頂周辺は木々の枝にサルオガセが揺らぐ鬱蒼としたブナの原生林が広がっていたが、1980年代から森林の衰退が進み、今日の山頂周辺の森は少し明るい雰囲気となっている。", + "qas": [ + { + "question": "丹沢山地のブナの原生林が減少し始めたのはいつからですか?", + "id": "tr-087-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1980年代", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "この森林衰退の要因の一つとして考えられているのが、首都圏から風に乗って流れてくる大気汚染物質、およびそれ由来の酸性雨・酸性霧である。\n丹沢山地は東京都心から最も近い山地のひとつであり、檜洞丸は京浜工業地帯から50kmほどしか離れていない場所に位置していることから、風向きによっては汚染大気濃度が高い状態のまま流れてくる。\n過去の上空大気や降雨などの調査では硫黄酸化物(SOx)や窒素酸化物(NOx)、オゾン(O3)などが首都圏から丹沢山地へ移入していることが明らかになっている。\n近年では大気汚染物質のうち、オゾンによる影響が大きいと考えられている。\nなお、このオゾンとは地表近くに影響を与える「対流圏オゾン」と呼ばれるものであり、生物に有害な宇宙からの紫外線を遮断するオゾン層(成層圏オゾン)とは異なるものである。", + "qas": [ + { + "question": "檜洞丸と京浜工業地帯の間の距離はどれくらいですか?", + "id": "tr-087-08-000", + "answers": [ + { + "text": "50kmほど", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "近年考えられている地表近くに影響を与える大気汚染物質とは何?", + "id": "tr-087-08-001", + "answers": [ + { + "text": "「対流圏オゾン」", + "answer_start": 297, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "丹沢山地に最も近い工業地帯とは何?", + "id": "tr-087-08-002", + "answers": [ + { + "text": "京浜工業地帯", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1995年から2000年にかけて丹沢山地一帯で行われた大気調査では、樹木への影響が考えられる40ppbを超えるオゾン濃度が随所で出現していることが明らかになっている。\nまた、連続観測では檜洞丸山頂付近において一時的に100ppbを超す高い濃度のオゾンにさらされる場合があることも示されている。\n特にブナはオゾンへの感受性が高い樹木に分類されており、2002年〜2004年にかけて檜洞丸北西の犬越路においてオープントップチャンバーを用いて行われた実験(オゾンを含んだ大気および浄化した大気をブナ苗に暴露する比較実験)では、オゾンによってブナの黄葉・落葉が早まり、生長率が約2割低下した結果が報告されている。", + "qas": [ + { + "question": "樹木への影響が考えられるオゾン濃度の数値はどれくらいですか?", + "id": "tr-087-09-000", + "answers": [ + { + "text": "40ppb", + "answer_start": 46, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ある実験結果では、オゾンによってブナの成長率はどれくらいの割合で低下したの?", + "id": "tr-087-09-001", + "answers": [ + { + "text": "約2割", + "answer_start": 284, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "大気汚染物質や酸性雨による問題とあわせて檜洞丸周辺で問題となっているのが、害虫によるブナの食害問題である。\nこの害虫とは主にブナハバチやブナアオシャチホコ(いずれも幼虫)によるものであり、食害がブナ林の衰退をさらに加速させていると考えられている。\nブナハバチによる食害が問題となり始めたのは1993年からで、それ以降毎年発生を繰り返し、5月~6月にかけてブナの葉を食い荒らしている。\n近年では2007年と2011年が特に規模の大きな発生年であった。", + "qas": [ + { + "question": "ブナ林の衰退をまねいている害虫とはブナハバチと何ですか?", + "id": "tr-087-10-000", + "answers": [ + { + "text": "ブナアオシャチホコ", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ブナハバチがブナの葉を食い荒らす時期とはいつ?", + "id": "tr-087-10-001", + "answers": [ + { + "text": "5月~6月", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ブナハバチの食害問題が深刻化したのは何年からですか?", + "id": "tr-087-10-002", + "answers": [ + { + "text": "1993年", + "answer_start": 145, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "近年においてブナハバチによる食害が大発生したのは2007年と何年でしたか?", + "id": "tr-087-10-003", + "answers": [ + { + "text": "2011年", + "answer_start": 202, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "このブナハバチは2000年に属レベルで新種(学名:Fagineuracrenativora)として認められた昆虫であり、現在も生態の詳しい調査が続けられている。\n一般的に食葉性昆虫によって広葉樹が枯死に至ることは稀とされているが、ブナハバチの場合は同じ樹木個体に対して連年大きな被害を与える傾向が強く、外的ストレスに弱い樹木個体から衰弱枯死する例が後を絶たない。\n越地らによる檜洞丸や丹沢山おける定点観測(1997年~2005年)では、わずかな食害度であったブナの個体が、連年被害により10年足らずで枯死に至っている例が報告されている。\nまた、檜洞丸山頂付近における1993年から2010年にかけての長期調査では、調査本数計204本のうち32%の64本が枯死に至り、そのうち46本がブナハバチの食害を受けていたと報告されている。", + "qas": [ + { + "question": "調査本数204本のうち枯死した64本の中で、半分以上が何からの被害を受けていたの?", + "id": "tr-087-11-000", + "answers": [ + { + "text": "ブナハバチ", + "answer_start": 341, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ブナハバチは何年に新種認定されたの?", + "id": "tr-087-11-001", + "answers": [ + { + "text": "2000年", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "一方でブナアオシャチホコによる食害が注目されるようになったのは、2005年の大発生以降のことである。\n八甲田山や八幡平などの東北地方の山地では約10年の周期で大発生する昆虫として知られていたが、丹沢山地においては1917年以来、実に88年ぶりの大発生であった。\n2005年の大発生は檜洞丸西側の石棚山稜で起こったもので、大規模被害に準ずるものであったが、翌年の2006年は目立つような被害はなく、2007年はブナアオシャチホコの発生はほとんど確認できなかったことから、2005年の大発生は一過性のものであったと推測されている。\n大発生の原因としては、2005年4月~6月期の降水量が例年に比べて少なかったことが、降雨の影響を受けやすい幼虫に対して有利に働いたことによるものと考えられているが、なぜ88年ぶりに突然大発���を起こしたのかは未だ不明のままである。", + "qas": [ + { + "question": "ブナアオシャチホコは東北地方の山地において何年周期で大発生するの?", + "id": "tr-087-12-000", + "answers": [ + { + "text": "約10年", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2005年にブナアオシャチホコが大発生したのは何年ぶりでしたか?", + "id": "tr-087-12-001", + "answers": [ + { + "text": "88年ぶり", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "2005年より以前にブナアオシャチホコが大発生したのは何年のことでしたか?", + "id": "tr-087-12-002", + "answers": [ + { + "text": "1917年", + "answer_start": 106, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "昨今地球温暖化が各地で問題となっているが、丹沢山地も同様に気温上昇傾向にある。\n丹沢山地の頂稜部では長期の観測データがないため、山麓のデータを参考にするしかないが、横浜地方気象台海老名観測点の長期データでは、1980年〜2010年までの31年間に年平均気温が約1.5°C上昇しており、山地頂稜部でも同様の気温上昇が起こっていると推測されている。\nまた、丹沢山地では1990年頃から冬季の少雪化がより顕著になっており、気温上昇と合わさって山地全体で山肌は乾燥傾向にある。", + "qas": [ + { + "question": "1980年〜2010年までの間に丹沢山地の頂稜部の平均気温は何度上昇したの?", + "id": "tr-087-13-000", + "answers": [ + { + "text": "約1.5°C", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ブナは土壌の乾燥化など水不足に対して非常に敏感な樹種であり、水ストレスによる影響が考えられているのはこのためである。\nブナ林の衰退地は南向きの斜面に多くみられるが、これは春〜夏にかけて南から吹き付ける風によって、水ストレスを受けやすいためだと考えられている。\nまた、このような場所では先述したオゾンの影響も受けやすく、水ストレスとオゾンの複合影響によってブナの成長が著しく低下した事例も報告されている。\nしかし、水ストレスに由来する葉の気孔閉鎖によってオゾンの吸収量が低下し、両者の影響を相殺するように作用した結果、成長低下が確認できなかった例もあり、一概に水ストレスがブナの衰弱に結び付けられるとは言えないようである。", + "qas": [ + { + "question": "ブナ林の衰退地はどの方角向きの斜面に多いですか?", + "id": "tr-087-14-000", + "answers": [ + { + "text": "南", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "健全な森林環境下では、枯死した後に立ち枯れ状態になった木は風雨によって倒れ、その倒木を栄養源として再び新たな木が育つ倒木更新が起こる。\nしかし今日の丹沢山地では、植物の採食被害を起こすシカの増加などによって森林環境のバランスが崩れ始めているため、倒木更新がうまく行われておらず、ブナが衰退して日照量が増えた場所ではササ類やシカの不嗜好性植物のマルバダケブキやバイケイソウなどがはびこったり、ヤマボウシやアセビなどの低木が繁茂する傾向が大きい。", + "qas": [ + { + "question": "倒木を栄養源として再び新たな木が育つ現象を何といいますか?", + "id": "tr-087-15-000", + "answers": [ + { + "text": "倒木更新", + "answer_start": 58, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2008年、檜洞丸周辺で最もブナ林衰退が進行している山頂南向き斜面において神奈川県により行われた衰退調査では、調査区域の20%が草地化していることが報告されており、これは1980年代からブナ等の枯死衰退が拡大してマルバダケブキやバイケイソウなどの草地が��大したものと考えられている。\n近年ではシカの食害対策として植生保護用のシカ侵入防止柵が檜洞丸周辺各地に設置されているが、現在も森林衰退の跡地には後継樹木が育たず、ギャップが拡大しつつある。", + "qas": [ + { + "question": "ブナ等の枯死衰退と共に拡大した草地の主な植物はバイケイソウと何ですか?", + "id": "tr-087-16-000", + "answers": [ + { + "text": "マルバダケブキ", + "answer_start": 106, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "古い檜洞丸の写真で有名なものに、1923年に発生した関東大震災とその後の集中豪雨により、山体一帯が表層崩壊を起こした全景像がある。\n檜洞丸から蛭ヶ岳にかけ植生が失われた白々とした姿は、丹沢山系一帯に及んだ被害を後世に伝える写真として残されている。\nその後、ガイドブックの紹介などでツツジの名山として有名となった山であるが、登山対象の山としての歴史は、他の丹沢山地の山と比べて浅いものである。\n1950年代初頭まで檜洞丸周辺は鬱蒼とした樹林に覆われ、一般登山者の訪れを許さず、長く深山幽谷の聖域を誇ってきた。", + "qas": [ + { + "question": "ツツジの名山として有名な丹沢山地の山とは?", + "id": "tr-087-17-000", + "answers": [ + { + "text": "檜洞丸", + "answer_start": 66, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "一般登山者へ門戸を開くきっかけとなったのは、1955年に神奈川県で行われた第10回国民体育大会である。\n国体の登山部門が丹沢山地で行われるに際して、神奈川県は登山コースに当たる蛭ヶ岳〜臼ヶ岳〜檜洞丸の丹沢主稜のヤブ払いを行い、その後稜線の登山道は多くの登山者に歩かれるようになった。\n1962年にはシロヤシオツツジが多く自生する檜洞丸西側の支尾根に、山北町側山麓からの最短登山路であるツツジ新道が開かれ、さらに多くの登山者が訪れるようになった。\n平成期以降は先述した大気汚染・害虫被害などによるブナ林の衰退や、登山ブームにおけるオーバーユースによる登山道の荒廃が問題となっている。\n最近のツツジ新道では、ツツジのシーズンになると登山渋滞が起こるほど多くの登山者が訪れるようになり、ツツジの根が露わになるほど登山道が掘り荒らされ、周辺の登山道を管理する山小屋関係者などを悩ませている。", + "qas": [ + { + "question": "一般登山者へ門戸を開くきっかけとなった行事は何でしたか?", + "id": "tr-087-18-000", + "answers": [ + { + "text": "第10回国民体育大会", + "answer_start": 37, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "檜洞丸西側の支尾根に多く自生するツツジの種類は何ですか?", + "id": "tr-087-18-001", + "answers": [ + { + "text": "シロヤシオツツジ", + "answer_start": 149, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ツツジ新道は何年に開かれたの?", + "id": "tr-087-18-002", + "answers": [ + { + "text": "1962年", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1955年に丹沢主稜の登山道が開かれて以来、さまざまな登山道が整備されるようになり、一般登山者でも手軽に登れる山となった。\nしかし山麓からの標高差が大きいことから、ガイドブックなどでは健脚者向けの山として紹介されることが多い。\n小田急線新松田駅から路線バスでアクセスできる西丹沢自然教室を起点としてツツジ新道を登る者が圧倒的に多いが、主な登山ルートとしては次のようなものがある。", + "qas": [ + { + "question": "丹沢主稜の登山道は何年に開かれたの?", + "id": "tr-087-19-000", + "answers": [ + { + "text": "1955年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ツツジ新道ルートは前述のとおり檜洞丸登山で最も多く使われる人気ルートであり、その名の通り登山道にはツツジが多く自生しているため、ツツジのシーズン中(5月下旬〜6月上旬)は平日休日問わず多くの登山者が訪れる。\nツツジ新道の登り口は、西丹沢自然教室バス停前から神奈川県道76号山北藤野線を北へ少し進んだところに位置する。\n登り口からは沢沿いのトラバース道が続き、ゴーラ沢出合と呼ばれる沢の渡渉点から尾根道となる。登山道の多くは樹林帯であるため眺望はほとんどないが、登山道途中の展望園地と呼ばれる場所からは西側の展望が開け、畦ヶ丸や富士山を望むことができる。\nツツジ新道上部〜石棚山稜合流点付近はツツジのトンネルとなっている。", + "qas": [ + { + "question": "檜洞丸登山で最も多く利用されるルートは何?", + "id": "tr-087-20-000", + "answers": [ + { + "text": "ツツジ新道ルート", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ツツジ新道ルートで最もツツジがよく見える期間はいつ?", + "id": "tr-087-20-001", + "answers": [ + { + "text": "5月下旬〜6月上旬", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "犬越路経由ルートはツツジ新道と合わせた周遊ルートとして歩かれることが多い登山ルートである。\n登り口は西丹沢自然教室から神奈川県道76号山北藤野線をツツジ新道の登り口より北へ進んだところに位置する用木沢出合と呼ばれる場所で、そこから犬越路までは東海自然歩道に指定された沢沿いの整備された登山道が続く。\nツツジ新道と同様、途中に渡渉点があるため降雨後などは注意が必要である。\n犬越路は南側が開けているため眺望がよく、峠の傍らには避難小屋が設置されている。\n犬越路からは稜線の登山道となり、大笄(おおこうげ)の手前からは登山道が急になり岩場・クサリ場が断続するようになる。\n大笄〜檜洞丸もツツジが多く自生している。\n檜洞丸の手前は西丹沢の山並みや富士山が望める好展望地となっているが、この展望地周辺は森林衰退やオーバーユースによる草地化や土壌流出などが進みつつある場所である。", + "qas": [ + { + "question": "犬越路経由ルートの登り口はどこ?", + "id": "tr-087-21-000", + "answers": [ + { + "text": "用木沢出合", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "檜洞丸の手前にある展望地からは西丹沢の山並みと何の山を見ることができるの?", + "id": "tr-087-21-001", + "answers": [ + { + "text": "富士山", + "answer_start": 320, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "石棚山稜ルートは新松田駅発・西丹沢自然教室行きバスの終点手前の箒沢公園橋から石棚山稜を経由して登るルートである。\n石棚山までは非常に急な登山道であるが、それ以降はやや緩やかな稜線となり山頂へと至る。\nこのほかに丹沢湖畔の玄倉(くろくら)バス停から仲ノ沢林道、西丹沢県民の森を経由して石棚山稜へ出るルートもあるが、歩く者が少ないため、県民の森から稜線へ登る道の一部がやや不明瞭となっている。", + "qas": [ + { + "question": "石棚山稜ルートの出発地点はどこですか?", + "id": "tr-087-22-000", + "answers": [ + { + "text": "箒沢公園橋", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "同角山稜ルートはユーシン渓谷中のユーシンロージ前にある登り口から同角山稜を経て登るルートである。\nユーシンロッジまでは玄倉バス停から玄倉林道を7kmほど歩く。\nこの玄倉林道は2007年~2011年秋にかけてトンネル等の補強工事のため通行止めであったが、2011年11月より通行止めが解除され、2013年1月現在は」歩行者に限り通行できるようになっている。\n登り口から大石山までは急な登りが続き、大石山から先はクサリ場や梯子場などが断続する起伏の激しい登山道となる。\n同角ノ頭の先で石棚山稜コースと合流して山頂へ至る。\n昭文社の地図では唯一上級者向けとされている難コースであり、距離もやや長い。", + "qas": [ + { + "question": "玄倉林道の通行止めが解除されたのはいつ?", + "id": "tr-087-23-000", + "answers": [ + { + "text": "2011年11月", + "answer_start": 126, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "昭文社の地図で唯一上級者向けとされている難コースとは何のルート?", + "id": "tr-087-23-001", + "answers": [ + { + "text": "同角山稜ルート", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "コンスタンティヌス1世", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌスは、ローマ帝国の皇帝である。複数の皇帝によって分割されていた帝国を再統一し、元老院からマクシムスの称号を与えられた。\n\nローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を信仰した人物であり、その後のキリスト教の発展と拡大に重大な影響を与えた。このためキリスト教の歴史上特に重要な人物の1人であり、ローマカトリック、正教会、東方諸教会、東方典礼カトリック教会など、主要な宗派において聖人とされている。また、コンスタンティヌス1世が自らの名前を付して建設した都市コンスタンティノープルは、その後東ローマ帝国の首都となり、正教会の総本山としての機能を果たした。", + "qas": [ + { + "question": "ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌスは、どこの皇帝だった?", + "id": "tr-088-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ローマ帝国", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌスが元老院から与えられた称号は何?", + "id": "tr-088-00-001", + "answers": [ + { + "text": "マクシムス", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ローマ帝国の皇帝として初めてキリスト教を信仰した人物は誰?", + "id": "tr-088-00-002", + "answers": [ + { + "text": "ガイウス・フラウィウス・ウァレリウス・コンスタンティヌス", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "コンスタンティヌス1世が自らの名前を付して建設した都市はどこですか。", + "id": "tr-088-00-003", + "answers": [ + { + "text": "コンスタンティノープル", + "answer_start": 252, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "コンスタンティヌス1世はモエシア属州のナイッススでローマ帝国の軍人コンスタンティウス・クロルスの息子として生まれた。父はその後、ローマ帝国でテトラルキア体制が形成されると西の副帝を務め、後に正帝となった。父がブリタンニアで死亡した後、コンスタンティヌス1世はその軍団を引き継いで306年に正帝を自称し、312年に東の正帝ガレリウスから正式に正帝としての承認を獲得した。軍人として卓越した手腕を発揮し、帝国国境外の「蛮族」との戦いに従事するとともに、複数の皇帝たちの間で戦われた内戦で勝利を重ねた。306年の正帝自称以来、20年近い歳月を費やして対立する皇帝たちを打ち破り、ローマ帝国を再統一した。\n\n3世紀の危機と呼ばれる長い政治的・軍事的な動乱の時代を経ていたローマ帝国では、長期にわたって内政の再編が行われていた。コンスタンティヌス1世に先立ってこの混乱を一時終息させたディオクレティアヌス帝も新しい安定した統治機構の形成を模索し、各種の改革を実施していた。単独の皇帝となったコンスタンティヌス1世はディオクレテ��アヌスの改革を引き継ぎ、官僚制を整備し、文官と武官を分離するなどしてこれを完成させた。", + "qas": [ + { + "question": "コンスタンティヌス1世はどこで生まれたの?", + "id": "tr-088-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ナイッスス", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "コンスタンティヌス1世の父の名前は何?", + "id": "tr-088-01-001", + "answers": [ + { + "text": "コンスタンティウス・クロルス", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "コンスタンティウス・クロルスはどこで亡くなったの?", + "id": "tr-088-01-002", + "answers": [ + { + "text": "ブリタンニア", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ローマ帝国を再統一したのは誰なの?", + "id": "tr-088-01-003", + "answers": [ + { + "text": "コンスタンティヌス1世", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "コンスタンティヌス1世は内政的には、ディオクレティアヌス帝まで拡大し続けたエクィテス身分の重職への登用を止め、かわりに形骸化しつつあった元老院を拡充させた。そしてこれまで騎士身分のための職だった官職を元老院身分にまで解放し、元老院身分者を大幅に増加させた。また半公式の身分であった伯を公式の身分とした。この結果、従来の元老院身分の構成員が大きく変化するとともに、元老院身分と騎士身分を内包し、それを超える新たな社会的地位が形作られた。\n\n経済・社会面では、品質の安定したソリドゥス金貨を発行したことが特筆される。この金貨はギリシア語でノミスマと呼ばれ、その後地中海世界で最も信頼される貨幣として流通することになる。大事業を次々起こし、彼に由来する多くの都市や建造物が残された。これを支えるために多額の財政出動が必要となったことから、徴税に力が入れられ、コロヌスの移動を禁止、身分を固定化することで農地からの収入安定を図った。これらの施策はその後の西欧中世社会の原型の一部をも形作った。", + "qas": [ + { + "question": "騎士身分のための職だった官職を元老院身分にまで解放し、元老院身分者を大幅に増加させたのは誰の業績ですか。", + "id": "tr-088-02-000", + "answers": [ + { + "text": "コンスタンティヌス1世", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "コンスタンティヌス1世が発行した金貨はギリシア語で何と呼ばれるか。", + "id": "tr-088-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ノミスマ", + "answer_start": 267, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "宗教においては、ローマ帝国においてたびたび迫害されていたキリスト教を庇護し、コンスタンティヌス1世自身もキリスト教に改宗した。彼がキリスト教を受容したことは、未だ多数ある宗教の1つであったキリスト教がローマ帝国領内で圧倒的な存在となる契機となり、その後の地中海世界、ヨーロッパの歴史に重大な影響を与えた。統一以前にリキニウスと共に313年発布したいわゆる『ミラノ勅令』はしばしばローマ帝国においてキリスト教を公認したものとみなされる。コンスタンティヌス1世がキリスト教に好意的であった理由や、その改宗の動機ははっきりとはわかっていない。初のキリスト教徒ローマ皇帝であったコンスタンティヌス1世は、ドナトゥス派やアリウス派のようなキリスト教の分派の問題に直面した最初の為政者でもあり、教会の分裂の収拾に取り組んだ。またその過程で非正統宗派への弾圧にも初めて手を付けた。325年にキリスト教の歴史で最初の全教会規模の公会議(第1ニカイア公会議)を招集した。この会議とその後の経過によって���カイア派(アタナシウス派)が正統の地位を占めていく。", + "qas": [ + { + "question": "コンスタンティヌス1世の宗教は何でしたか。", + "id": "tr-088-03-000", + "answers": [ + { + "text": "キリスト教", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "キリスト教がローマ帝国領内で圧倒的な存在となったのは誰のおかげですか。", + "id": "tr-088-03-001", + "answers": [ + { + "text": "コンスタンティヌス1世", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『ミラノ勅令』は何年に発布されたか。", + "id": "tr-088-03-002", + "answers": [ + { + "text": "313年", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "最初のキリスト教徒ローマ皇帝は誰?", + "id": "tr-088-03-003", + "answers": [ + { + "text": "コンスタンティヌス1世", + "answer_start": 285, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "優秀な軍人であったコンスタンティヌス1世は軍事面でも多くの改革を実施した。この改革によって近衛軍団が解体され、コミタテンセスと呼ばれる中央軍と、河川監視軍や辺境防衛軍といった国境軍が設置された。一般的にはこの国境軍ははその名の通り各地の辺境属州の国境に常駐して国境や地域の安全を守り、野戦軍は普段は帝国の属州の都市に常駐して、敵の大規模な侵入や外征などの際には主力を担うという体制であったとされている。これは軍人皇帝時代より徐々に進められてきた政策であったが、ディオクレティアヌス時代にはこの戦略は修正され、辺境に従来の倍の兵を貼り付け国境で防衛する戦略に変わっていた。コンスタンティヌス1世は辺境の軍を分割して再び国境の国境軍と機動軍である中央軍の体制に戻したうえで明確化した。\n\nまた、帝国東方の都市であるビュザンティオンに自らの名前を与えてコンスタンティノープルと改称し大規模な都市に改造し、330年にはこの都市の落成式が執り行われた。コンスタンティヌス1世による内政の整備、キリスト教の拡大、コンスタンティノープルの建設といった事業は、後の東ローマ帝国の前提を作り上げた。\n\nコンスタンティヌス1世は337年にニコメディア近郊の離宮で死去した。その遺体はコンスタンティノープルでキリストの12人の使徒たちに準ずる存在として棺に納められた。晩年にはキリスト教の洗礼を受け、正教会ではキリスト教徒であった母とともに「亜使徒」の称号を付与されて尊崇された。", + "qas": [ + { + "question": "この改革によって近衛軍団が解体され、コミタテンセスと呼ばれる中央軍と、河川監視軍や辺境防衛軍といった国境軍が設置されたのは誰が実施した改革のおかげか。", + "id": "tr-088-04-000", + "answers": [ + { + "text": "コンスタンティヌス1世", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "コンスタンティノープルは誰の名前から与えられたか。", + "id": "tr-088-04-001", + "answers": [ + { + "text": "コンスタンティヌス1世", + "answer_start": 285, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "コンスタンティノープルの昔の名前は何だった?", + "id": "tr-088-04-002", + "answers": [ + { + "text": "ビュザンティオン", + "answer_start": 355, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "コンスタンティヌス1世は何年に亡くなったか。", + "id": "tr-088-04-003", + "answers": [ + { + "text": "337年", + "answer_start": 504, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "コンスタンティヌス1世、即ちフラウィウ��・ウァレリウス・コンスタンティヌスはモエシア属州のナイッススに生まれた。誕生日は2月27日であるが、生年は明らかではなく現代の学者による推定は西暦270年から290年までの範囲に及ぶ。誕生日がわかるのは後世この日が祝日とされたためである。主にアウレリウス・ウィクトルやエウセビオスが残した年齢と死亡年、在位期間の記録に基づいて計算すると270年代前半の生誕となり、これが「慎重な見解」であるとされる。しかし、その他の生年を導き出すことが可能な根拠もあり正確には不明である。コンスタンティヌス自身が自分が生まれた正確な年を知らなかった可能性もある。\n\n父親はローマの将軍コンスタンティウス・クロルスであり、母親はその最初の妻ヘレナである。後にコンスタンティヌス1世は父コンスタンティウスの出自をクラウディウス・ゴティクス帝と結び付けたが、これが真実である可能性はほとんど無い。コンスタンティウスはまた貴族出身ともされるが、恐らくは農民であり一兵卒から成り上がったものであろう。ビテュニアのドレパナ出身とも伝えられる母ヘレナが卑賎な身分の出身であったことは広く知られており、彼女は給仕婦であったともナイッススの宿屋で働いていたとも言われる。彼女はコンスタンティウスが西の正帝マクシミアヌスの義娘であるフラウィア・マクシミアナ・テオドラと結婚する際、政略的な理由から離縁されたが、コンスタンティヌスは母ヘレナとの間に密接な関係を維持した。コンスタンティウスとテオドラの間には6人の子供が生まれた。", + "qas": [ + { + "question": "コンスタンティヌス1世はどこで生まれた?", + "id": "tr-088-05-000", + "answers": [ + { + "text": "ナイッスス", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "コンスタンティヌス1世は何月生まれなの?", + "id": "tr-088-05-001", + "answers": [ + { + "text": "2月", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "コンスタンティヌス1世の母の名前は何?", + "id": "tr-088-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ヘレナ", + "answer_start": 331, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "コンスタンティウスとテオドラの間には何人の子供が生まれたか。", + "id": "tr-088-05-003", + "answers": [ + { + "text": "6人", + "answer_start": 654, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "312年、コンスタンティヌス1世は何らかの形でキリスト教を受け入れた。この点に関しては衆目は一致しているが、しかしそれが単なる政治上の都合からきたものであったのか、宗教的信念によるものだったのか、単なる儀式的なものであったのか、またどの程度真剣なものであったのか、様々な点において議論が続いている。伝説的な説話ではミルウィウス橋の戦いで神の啓示を受けて勝利したことがその切っ掛けであるとされる。コンスタンティヌス1世の父コンスタンティウス・クロルスが治世中にキリスト教徒に対して寛大であったことから、既にコンスタンティウス・クロルスもキリスト教徒であったという説もある。しかし、それを証明する証拠は皆無であり、少なくともコンスタンティヌス1世が当初からキリスト教徒ではなかったことは、ローマ古来の神々に対して彼が捧げた奉献や、コンスタンティヌス1世を称える演説家たちが彼をユピテル(ゼウス)になぞらえて褒めることが問題になっていないことによって明らかである。\n\nしかし、少なくとも312年のローマ入場の後、コンスタンティヌス1世のキリスト教に対する姿勢ははっきりと寛大さ以上のものとなった。312年末から313年初頭までのいずれかの時点でコンスタンティヌス1世がカルタゴ司教カエキリアヌスに当てた手紙の中で「アフリカ、ヌミディア、マウレタニアの全属州」において「合法的かつ至聖なるカトリックの宗教の奉仕者のうちの指定された者たち��に対して公的資金による補助の提供を決定したことが通知されている。", + "qas": [ + { + "question": "コンスタンティヌス1世は何年にキリスト教を受け入れたか。", + "id": "tr-088-06-000", + "answers": [ + { + "text": "312年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "出口川のカドミウム汚染", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "出口川のカドミウム汚染は、1986年に発覚した広島県府中市の出口川でのカドミウムなどによる重金属汚染だ。採石場での作業で露頭した鉱脈が原因であった。採石場はモルタルで封鎖され、漏出する汚染水を処理するために出口川湧水処理場が建設された。現在も環境基準を上回る汚染水が漏出しており、施設の老朽化と保守費用が問題となっている。採石場による重金属汚染としては日本初とされ、採石法の運用に影響を与えた。\n\n出口川は芦田川の支流で全長7kmだ。標高500メートル前後の山々に源を発し、荒谷町から出口町・目崎町を経由して芦田川に合流する。出口川や出口町の名前は、山間部からの「出口」という意味に由来する。\n\n下流側では石州街道と雲州街道が合流し宿場町が形成され、現代もその古い街並みを見ることが出来る。下流の剣先からは、街道で山陰地方から運ばれた物資が川船で芦田川経由で福山や大阪に運ばれていた。現在でも往年の繁栄を伺わせる屋敷が残る他、リョービ本社を中心にした金属、機械加工業の工場も立ち並んでいる。上流には昭和初期に瀬戸鉱山(岩谷鉱山とも)と呼ばれる鉱山があり、亜鉛や銅などが採掘されていた。付近の地層は複雑で、重金属を含む地層が眠っている。", + "qas": [ + { + "question": "出口川のカドミウム汚染は何年に発覚されたか。", + "id": "tr-089-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1986年", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "出口川は芦田川の支流で全長何kmなの?", + "id": "tr-089-00-001", + "answers": [ + { + "text": "7km", + "answer_start": 212, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1986年6月、出口川の水で鯉を養殖していた家で160匹の鯉が全滅する事件があった。川の汚染を疑った住人は鯉の稚魚を川の水につけたところ、一晩で死んでしまった。同時にカニ、ハヤ、カエルといった生物も出口川から姿を消した。地元町内会が広島県と府中市に出口川の調査を依頼した。\n\n調査の結果、出口川より基準を超えるカドミウムが検出された。広島県は「府中市出口川環境保全対策専門委員会」を立ち上げ、広島大学工学部の金丸昭治教授の協力のもと調査を進め、鯉が大量死した現場から500メートル上流にある「御調採石場」からカドミウムが浸出していることを特定した。岩石の採掘によって鉱脈が露出し、雨水と硫化鉱物が化学反応を起こして硫酸が生成され、その硫酸が重金属を溶出させているのが原因であった。川の水生生物が死滅した区間は、御調採石場から下流側に1.7kmであった。御調採石場の上流側では有毒物質は確認できなかった。採石場から下流側に100メートル程の区間で7カ所の地下水湧出地点があり、うち5カ所から高濃度のカドミウムが検出された。採石場での調査では、破砕された岩石の残りカスに交じって明らかに重金属の鉱石と思われる岩石が転がっていた。採石カスからは、福山大学の鷹村權教授の分析によって、カドミウム34ppm、鉄21000ppm、銅5700ppm、亜鉛2700ppmを検出した。出口川の流域の水田で作られた米にも重金属の集積が確認され、少なくとも1986-1989年の農地土壌汚染調査で基準値を超えるカドミウムが荒谷町の農地から検出された。", + "qas": [ + { + "question": "1986年6月、出口川の水で鯉を養殖していた家で何匹の鯉が全滅する事件があったか。", + "id": "tr-089-01-000", + "answers": [ + { + "text": "160匹", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "調査の結果、出口川で何が検出されましたか。", + "id": "tr-089-01-001", + "answers": [ + { + "text": "カドミウム", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ゴート戦争", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ゴート戦争(ゴートせんそう、伊:Guerragotica、羅:BellumGothicum)は、東ローマ帝国と東ゴート王国の間でイタリア半島とその隣接地域のダルマチア、サルデーニャ、シチリアおよびコルシカにおいて535年から554年まで行われた戦争である。この戦争は一般に二つの期間に分けられる。第一期(535年-540年)は東ローマ軍の侵攻からベリサリウスによるラヴェンナの占領と東ローマ帝国による一応のイタリア征服で終わり、そして第二期(540年/541年-554年)はトーティラ王のもとで東ゴート族の抵抗が再起し、長期にわたる苦闘の後にナルセスによって制圧されるまでであり、ナルセスはさらに554年のフランク族とアラマンニ族の侵攻も撃破した。しかしながら、北イタリアの多くの都市が560年代初頭まで抵抗を続けている。", + "qas": [ + { + "question": "ゴート戦争とは、東ローマ帝国とどの国の間で行われた戦争であるの?", + "id": "tr-090-00-000", + "answers": [ + { + "text": "東ゴート王国", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ゴート戦争が始まったのは、何年ですか?", + "id": "tr-090-00-001", + "answers": [ + { + "text": "535年", + "answer_start": 106, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ゴート戦争における第一期の中心人物はベリサリウスであるが、第二期の中心人物は誰か?", + "id": "tr-090-00-002", + "answers": [ + { + "text": "ナルセス", + "answer_start": 271, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "554年に東ローマ帝国を侵攻してきたのは、フランク族とどの部族か?", + "id": "tr-090-00-003", + "answers": [ + { + "text": "アラマンニ族", + "answer_start": 309, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ゴート戦争は、前世紀に蛮族の侵入によって失われたかつての西ローマ帝国の属州を回復しようとする東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の野望に端を発している。長期間にわたる戦争によってイタリアは荒廃し、戦災と飢餓そして疫病によって人口も激減してしまい、東ローマ帝国の国力も使い果たされた。そのため、東ローマ帝国は568年のランゴバルド族の侵攻に抗することができず、イタリア半島の大部分が失われることになった。", + "qas": [ + { + "question": "ゴート戦争は、誰の野望に端を発しているの?", + "id": "tr-090-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ユスティニアヌス1世", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "東ローマ帝国が568年のランゴバルド族の侵攻に抗することができず、イタリア半島の大部分を失ったのは、どの戦争により国力が使い果たされたからですか?", + "id": "tr-090-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ゴート戦争", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "568年に東ローマ帝国を侵攻してきたのは、どの部族か?", + "id": "tr-090-01-002", + "answers": [ + { + "text": "ランゴバルド族", + "answer_start": 156, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "東ローマ帝国は568年のランゴバルド族の侵攻により、どの地域の大部分を失ったか?", + "id": "tr-090-01-003", + "answers": [ + { + "text": "イタリア半島", + "answer_start": 177, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "476年、オドアケルが西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを追放し、東ローマ皇帝ゼノンよりイタリア領主(duxItaliae)として任命されたことで、西ローマ皇帝による西ローマ帝国の支配は終了した。オドアケルはゼノンの宗主権を認めていたものの、彼の独立志向と勢力の増大はコンスタンティノープルの目には脅威と映った。この頃、テオドリック王の東ゴート族は帝国の同盟部族(フォエデラティ)としてバルカン半島西部に定住していたものの、東ローマ帝国領に対する略奪を再開し始めていた。ゼノン帝は「一石を投じて二羽を仕留める」ことを決心し、オドアケルを排除すべく東ゴート族を帝国の代理人としてイタリアに赴かせ、テオドリックの東ゴート族はオドアケルを撃破して、イタリアを支配下においた。しかしながら、テオドリックとゼノン帝そしてその後継者のアナスタシウス1世との協定に従って、領土と住民は依然としてローマ帝国の一部と見なされ、テオドリックは西ローマ帝国の官僚として総督と管区軍司令官(マギステル・ミリトゥム)の役割で満足していた。", + "qas": [ + { + "question": "西ローマ帝国を支配した最後の西ローマ皇帝は、誰なの?", + "id": "tr-090-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ロムルス・アウグストゥルス", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ロムルス・アウグストゥルスは、誰により追放されましたか?", + "id": "tr-090-02-001", + "answers": [ + { + "text": "オドアケル", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "どの国にとっては、オドアケルの独立志向と勢力の増大が脅威であったか?", + "id": "tr-090-02-002", + "answers": [ + { + "text": "東ローマ帝国", + "answer_start": 214, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ゼノン帝は誰を動かし、オドアケルを撃破したか?", + "id": "tr-090-02-003", + "answers": [ + { + "text": "テオドリック", + "answer_start": 299, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "この協定はテオドリックによって遵守され、行政は従来のまま継続されてローマ人によって運営され、立法権は皇帝に保持されていた。一方で、軍隊は完全に東ゴート族に握られ、彼らは自らの首長たちと宮廷に従っていた。二つの人民は信仰によってさらに別たれており、ローマ人はカトリック(両性説)であり、東ゴート族はアリウス派であった。もっとも、ヴァンダル族や初期の西ゴート族と違い、かなりの宗教的寛容が行われていた。この複雑な二元制度はローマ貴族層を疎外することなく自らの政策を実施する術を知る賢明かつ強い指導力を持つテオドリックによって効果的に働いていたが、彼の晩年には崩れ始め、彼の後継者たちの代に完全に瓦解した。", + "qas": [ + { + "question": "当地域において、ローマ人と東ゴート族による社会二元制度が問題の起こらないまま維持できたのは、誰の優れた指導力を見せてくれる証であるの?", + "id": "tr-090-03-000", + "answers": [ + { + "text": "テオドリック", + "answer_start": 250, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "テオドリックの管理する地域における立法権は、誰にありましたか?", + "id": "tr-090-03-001", + "answers": [ + { + "text": "皇帝", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "テオドリックの管理する地域における軍隊は、誰が掌握していたか?", + "id": "tr-090-03-002", + "answers": [ + { + "text": "東ゴート族", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "信仰においては、ローマ人はカトリックであったのに対し、東ゴート族はどの派であったか?", + "id": "tr-090-03-003", + "answers": [ + { + "text": "アリウス派", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ユスティヌス1世が即位して「アカキオスの分離」が終わり、教会の統一が回復すると、アリウス派は危機感を持ち、東ローマ帝国やローマ教皇の意図に疑念を持つようになった。ローマ人に対して疑念を持ったテオドリックは524年に宰相ボエティウスを処刑し、これに対し、東ローマはコンスタンティノープルのアリウス派を処刑する。", + "qas": [ + { + "question": "「アカキオスの分離」が終わったのは、誰が即位してからのことなの?", + "id": "tr-090-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ユスティヌス1世", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "テオドリックが誰を処刑したことに対し、ユスティヌス1世はコンスタンティノープルのアリウス派を処刑しましたか?", + "id": "tr-090-04-001", + "answers": [ + { + "text": "ボエティウス", + "answer_start": 109, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "526年8月にテオドリックが死去して孫のアタラリックが後を継いだ。アタラリックがまだ幼少であったため、母のアマラスンタ(テオドリックの娘)が摂政の地位に就き、ローマの教育を受けた彼女は元老院および帝国との和解政策を執った。これらの政策そして彼女が息子にローマ風の教育を施していたことは東ゴート族には不評であり、彼らは彼女に対する陰謀を企て始めた。危険を察知したアマラスンタは陰謀の首謀者三名を処刑したが、一方で皇帝に書簡を送り、もしも彼女がイタリアから逃れざる得なくなれば庇護を与えてくれるよう求めている。結局、534年に息子のアタラリックが死去してもアマラスンタは実権を握り続け、彼女は従弟のテオダハドを共同統治者に任命した。これは致命的な誤りとなり、テオダハドは間もなく彼女を逮捕し、535年初めに暗殺してしまった。", + "qas": [ + { + "question": "テオドリックが死去したのは、いつか?", + "id": "tr-090-05-000", + "answers": [ + { + "text": "526年8月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "テオドリックが死ぬと、誰が実権を握ったか?", + "id": "tr-090-05-001", + "answers": [ + { + "text": "アマラスンタ", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アマラスンタは東ゴート族と帝国のうち、どちらにより友好的であったか?", + "id": "tr-090-05-002", + "answers": [ + { + "text": "帝国", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アタラリックとアマラスンタのうち、より早く死んだのは、誰か?", + "id": "tr-090-05-003", + "answers": [ + { + "text": "アタラリック", + "answer_start": 264, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "これより前の533年にユスティニアヌス1世(ユスティヌス1世の甥で後継者)はヴァンダル王国の内紛を利用して北アフリカ諸州を回復すべく最も有能な将軍ベリサリウスを派遣していた。このヴァンダル戦争は思いがけず迅速かつ決定的な勝利に終わり、ユスティニアヌス帝の西方諸州回復の野望を励ますことになったのは疑い無い。この戦争に際してアマラスンタは東ローマ艦隊の作戦基地として東ゴート領のシチリア諸港の使用を認めていた。ユスティニアヌス帝は使節を通じてアマラスンタの命を救おうとしたが、無駄に終わった。いずれにせよ、アマラスンタの死はユス���ィニアヌス帝に絶好の口実を与えた。「治世の9年目にあって、アマラスンタの身に起こったことを知るやいなや彼は戦争を始めた」と歴史家プロコピオスは述べている。", + "qas": [ + { + "question": "ユスティニアヌス1世が北アフリカ諸州を回復するために派遣したのは、誰なの?", + "id": "tr-090-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ベリサリウス", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヴァンダル戦争は、何年から始まりましたか?", + "id": "tr-090-06-001", + "answers": [ + { + "text": "533年", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ベリサリウスが最高司令官(stratēgosavtokratōr)に任命されて兵7,500とともにイタリアへ派遣され、イリュリクム管区軍司令官(magistermilitumperIllyricum)のムンドゥス(アッティラの孫を名乗るフン族の将軍)にはダルマチア占領の任務が与えられた。この時、ベリサリウスに与えられた兵力はヴァンダル族との戦争の時よりも寡兵であり、強力な東ゴート王国を倒すには不十分なものだった。作戦準備が極秘裏に進められる一方で、ユスティニアヌス帝はフランク族に贈物と黄金を贈り彼らの中立を確保しようとしていた。", + "qas": [ + { + "question": "誰にダルマチア占領の任務が与えられたか?", + "id": "tr-090-07-000", + "answers": [ + { + "text": "ムンドゥス", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "当時、ベリサリウスが率いる東ローマ軍と東ゴート王国のうち、どちらが優勢であったか?", + "id": "tr-090-07-001", + "answers": [ + { + "text": "東ゴート王国", + "answer_start": 187, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "535年6月、ベリサリウスはアフリカを出帆してシチリアに上陸した。島は迅速に占領され、唯一抵抗したパノルムス(Panormus:現在のパレルモ)も12月に攻略された。ベリサリウスはここからイタリア渡航を準備した。東ローマ軍の成功に恐怖したテオダハドはユスティニアヌス帝の元へ使者を送り、シチリアの割譲とユスティニアヌス帝の宗主権承認を、これが受け入れられない場合には年金と爵位とを引き換えに退位をも提案している。", + "qas": [ + { + "question": "ベリサリウスが率いる東ローマ軍がシチリアに上陸したのは、いつのこと?", + "id": "tr-090-08-000", + "answers": [ + { + "text": "535年6月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ベリサリウスの次々の成功に恐怖したテオダハドは、どこの割譲とユスティニアヌス帝の宗主権承認を提案しましたか?", + "id": "tr-090-08-001", + "answers": [ + { + "text": "シチリア", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "その間、ムンドゥスはほとんど抵抗を受けることなくダルマチアを制圧し、ダルマチアの首都サロナ(現在のスプリト)を占領した。だが、救援のための東ゴート族の大軍が到着して、ムンドゥスの息子マウリキウスは小競り合いで戦死する。息子の死に激怒したムンドゥスは東ゴート軍に向けて自軍を進めて、これを撃滅したが、その追撃中に彼自身が戦死してしまう。この結果、東ローマ軍は撤退してサロナを除くダルマチア全土は放棄され、東ゴート軍の手に帰した。勝報を受けたテオダハドは大胆になり、ユスティニアヌス帝の特使を逮捕して投獄してしまった。", + "qas": [ + { + "question": "東ゴート族の大軍との戦いで命を失ったのは、ムンドゥスと誰か?", + "id": "tr-090-09-000", + "answers": [ + { + "text": "マウリキウス", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "東ゴート軍は、テオダハドとユスティニアヌス帝のうち、誰の勢力であるか?", + "id": "tr-090-09-001", + "answers": [ + { + "text": "テオダハド", + "answer_start": 219, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "平和的イタリア接収の可能性がなくなったことを受け、ユスティニアヌス帝はダルマチア奪回のため、新たにイリュリクム管区軍司令官コンスタンティアヌスを派遣し、ベリサリウスにはイタリア渡航を命じた。コンスタンティアヌスは任務を迅速に成し遂げた。東ゴート族の将軍グリパスはサロナを占領したばかりだったが、城壁は崩落しており、市民も親ローマ的であったため町を放棄して北方へ撤退した。コンスタンティアヌスはサロナを占領し城壁を再建した。7日後、東ゴート軍はイタリアへ後退し、6月までにダルマチアは再び東ローマ帝国の支配下に入った。", + "qas": [ + { + "question": "コンスタンティアヌスとベリサリウスのうち、ダルマチア奪回のために派遣されたのは、誰?", + "id": "tr-090-10-000", + "answers": [ + { + "text": "コンスタンティアヌス", + "answer_start": 61, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この文書を見れば、ダルマチアが再び東ゴート軍の手に入るのは、何月以降であると予測できますか?", + "id": "tr-090-10-001", + "answers": [ + { + "text": "6月", + "answer_start": 230, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "コンスタンティアヌスがサロナを占領してから何日後に、東ゴート軍はイタリアまで撤退したか?", + "id": "tr-090-10-002", + "answers": [ + { + "text": "7日後", + "answer_start": 211, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "536年晩春、ベリサリウスは海を渡ってイタリアへと軍を進め、レギウム(Rhegium:現在のレッジョ・ディ・カラブリア)を奪取した。11月、東ローマ軍は多数の犠牲を出しながらもナポリを攻略し、略奪を行った。ベリサリウスの素早い進軍に東ゴート族は驚愕し、テオダハドの無能さに憤慨した。ナポリ失陥後、ローマにいたテオダハドは追放され、新王にウィティギスが選ばれた。テオダハドは首都ラヴェンナへの逃亡を図るが、刺客に追いつかれ暗殺された。", + "qas": [ + { + "question": "レギウムがベリサリウスの率いる東ローマ軍に陥落されたのは、いつなの?", + "id": "tr-090-11-000", + "answers": [ + { + "text": "536年晩春", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "東ローマ軍がナポリを攻略したのは、何年11月のことですか?", + "id": "tr-090-11-001", + "answers": [ + { + "text": "536年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "テオダハドの跡を継ぎ、王になったのは、誰か?", + "id": "tr-090-11-002", + "answers": [ + { + "text": "ウィティギス", + "answer_start": 168, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ウィティギスは南ガリア(現在のプロヴァンス)割譲と金2000リトゥラの支払いを条件にフランク族と同盟を結んで背後を固めると、537年2月に大軍を率いてローマへと進軍した。一方、ベリサリウスは野戦を行うに十分な兵力がなく籠城した。ゴート戦争中、幾度も行われることになるローマ包囲の最初となるこの包囲戦は537年3月から538年3月まで1年にわたり続いた(ローマ包囲戦(537年-538年))。この包囲戦では69回もの大小の戦闘記録が残されている。ローマ市内は飢餓と疫病に苦しめられ、ローマ人の不満が教皇シルウェリウスへ向けられ廃位される事件が起こっている。", + "qas": [ + { + "question": "ウィテ���ギスはフランク族との同盟締結のために、どこの割譲を約束したの?", + "id": "tr-090-12-000", + "answers": [ + { + "text": "南ガリア", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "537年2月にウィティギスのローマへの進軍は、誰との同盟があったからこそ可能でしたか?", + "id": "tr-090-12-001", + "answers": [ + { + "text": "フランク族", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ゴート戦争における最初のローマ包囲戦は、いつからいつまで行われたか?", + "id": "tr-090-12-002", + "answers": [ + { + "text": "537年3月から538年3月", + "answer_start": 150, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "4月にコンスタンティノープルから1,600人のスラブ族とフン族の部隊が到着し、11月に兵5,000の増援が到着すると東ローマ軍は攻勢に転じた。東ローマ軍の騎兵隊が東ゴート軍の背後の諸都市を攻略・略奪し、もともと貧弱だった補給状態をさらに悪化させて、東ゴート族を威嚇した。最終的にラヴェンナから1日の距離にあるアリミヌム(Ariminum:現在のリミニ)がヨハネス将軍によって攻略させられたことにより、ウィティギスは包囲を解いて撤退した。", + "qas": [ + { + "question": "4月と11月のうち、より多くの東ローマ側の軍が到着したのは、いつなの?", + "id": "tr-090-13-000", + "answers": [ + { + "text": "11月", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "4月にコンスタンティノープルから到着した1,600人の兵力は、スラブ族とどの部族の部隊でしたか?", + "id": "tr-090-13-001", + "answers": [ + { + "text": "フン族", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ウィティギスは後背の安全を確保すべく諸都市と城塞の守備兵を強化した上で、アリミヌム奪回に向かった。この地にはベリサリウスの精鋭を含む2,000の騎兵隊が占拠しており、ベリサリウスはこれを歩兵と交代させ騎兵隊を自らの側において活用可能にしようとしたが、指揮官のヨハネスはこの命令を拒否してアリミヌムに留まった。この失策は間もなく東ゴート軍が到着して明白になる。最初の強襲は失敗したものの、彼らは僅かな兵糧しかない都市の包囲を進めた。同時に別の東ゴート軍がアンコーナへ進軍した。彼らは野戦で東ローマ軍を打ち破ったが、結局、アンコーナの城壁突破には失敗している。", + "qas": [ + { + "question": "東ゴート軍は、アンコーナとどこに向かって進軍したか?", + "id": "tr-090-14-000", + "answers": [ + { + "text": "アリミヌム", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ベリサリウスの命令を拒否し、アリミヌムに留まったのは、誰か?", + "id": "tr-090-14-001", + "answers": [ + { + "text": "ヨハネス", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "この時、アルメニア人の宦官ナルセスに率いられた同盟部族・ヘルール族2,000人がピケヌム(Picenum)に到着した。ベリサリウスはナルセスと会合したが、両将は今後の方針について意見が対立した。ナルセスはアリミヌムを直接救援することを主張し、ベリサリウスはより慎重な方法を望んだが、落城が近いとのヨハネスからの手紙が届いたため前者に決した。ベリサリウスは軍を三手に分かち、海上輸送部隊は彼が最も信頼する副官イルディガルが率い、老練なマルティヌスに率いられた部隊が南方から攻め、そして主力部隊を彼自身とナルセスが率いた。だが、東ローマ軍の接近を知ったウィティギスは優勢な敵軍に包囲されることを避けるべく急��ラヴェンナへ撤退した。", + "qas": [ + { + "question": "ベリサリウスとナルセスの会合の結果、誰の意見に従うことにしたの?", + "id": "tr-090-15-000", + "answers": [ + { + "text": "ナルセス", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "東ローマ軍の接近を知ったウィティギスは、どこへ撤退しましたか?", + "id": "tr-090-15-001", + "answers": [ + { + "text": "ラヴェンナ", + "answer_start": 302, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "東ローマ軍は、どの部族からの援軍と合流し、アリミヌムの直接救援に向かったか?", + "id": "tr-090-15-002", + "answers": [ + { + "text": "ヘルール族", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "アリミヌムでの無血勝利はベリサリウスに対するナルセスの立場を強化し、ヨハネスを含む多くの多くの将軍たちがナルセスの側に付いた。アリミヌム救援後の軍議で、この不和は顕在化する。ベリサリウスが背後にあるアウクシウム(Auximum:現在のオージモ)の東ゴート軍を制圧して包囲されているメディオラヌム(Mediolanum:現在のミラノ)を救援する作戦を主張したのに対して、ナルセスはアエミリア(Aemilia)での軍事行動を含む、やや兵力を分散させる作戦を主張した。ベリサリウスはことを完全な決裂に至らせることはせず、ナルセス、ヨハネスとともにウルウィヌム(Urbinum:現在のウルビーノ)へ進軍することとした。二派の軍隊は別々に野営するようになり、すぐにナルセスはウルウィヌムは要害堅固かつ十分な補給もあると考え至り、野営地を引き払いアリミヌムへと向かってしまった。ここから彼はヨハネスをアエミリアへ派遣し、同地を容易に制圧した。一方、ベリサリウスは町の唯一の水源の枯渇という幸運もあり、ほどなくしてウルウィヌムを陥落させる。何れにせよイタリアの東ローマ軍は二人の司令官に従うことになり、この不和はメディオラヌム救援失敗という悲劇的な結果をもたらすことになる。", + "qas": [ + { + "question": "アリミヌムでの無血勝利により、誰の立場が狭またの?", + "id": "tr-090-16-000", + "answers": [ + { + "text": "ベリサリウス", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ベリサリウスとナルセスの不和は、何の失敗という悲劇的な結果をもたらしましたか?", + "id": "tr-090-16-001", + "answers": [ + { + "text": "メディオラヌム救援失敗", + "answer_start": 499, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウルウィヌムを陥落させたのは、誰か?", + "id": "tr-090-16-002", + "answers": [ + { + "text": "ベリサリウス", + "answer_start": 418, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "この文書では、ベリサリウスと誰の不和を中点的に取り扱いながら、戦争の流れを説明しているか?", + "id": "tr-090-16-003", + "answers": [ + { + "text": "ナルセス", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ピュー", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ピュー(Pyu)とは、かつてミャンマー(ビルマ)のエーヤワディー川流域に居住していた民族集団である。", + "qas": [ + { + "question": "ピューとは、かつてのどの国に居住していた民族集団であるか?", + "id": "tr-091-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ミャンマー", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ピューとは、かつてのどの地域に居住していた民族集団であるか?", + "id": "tr-091-00-001", + "answers": [ + { + "text": "エーヤワディー川流域", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "エーヤワディー川流域ではタイェーキッタヤー(シュリークシェートラ)、テーゴウン、ベイッタノー(ベイタノウ)、ワディー、マインモー、ハリン(ハリンジー)、ダガウンといった、10世紀以前に建設された7つのピューの城郭都市が発見されている。城郭都市と周辺の地域に共通する出土品から、かつてエーヤワディー川流域では一大文化圏が形成されていたと考えられており、その文化圏はピュー文化圏と呼ばれている。城郭都市の遺跡はエーヤワディー中流域にほぼ一直線に並んでおり、最南端のタイェーキッタヤーが最も新しい。1-2世紀から3-4世紀にかけて存続していたベイッタノーが最古の城郭都市であるが、一部にはベイッタノーをピューの城郭都市と見なすことに疑問を投げかける意見もある。また、エーヤワディー流域以外に下ビルマの海岸地帯でもピューの城郭都市と同じ特徴を持つ遺跡が多く発見されている。", + "qas": [ + { + "question": "エーヤワディー川流域で発見された、10世紀以前に建設されたと思われる7つのピューの城郭都市には、タイェーキッタヤーとテーゴウン、ベイッタノー、ワディー、マインモー、ハリンのほかに、何があるの?", + "id": "tr-091-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ダガウン", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "タイェーキッタヤーとテーゴウン、ベイッタノー、ワディー、マインモー、ハリン、ダガウンは、何世紀以前に建設されたと思われますか?", + "id": "tr-091-01-001", + "answers": [ + { + "text": "10世紀", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "タイェーキッタヤーとテーゴウン、ベイッタノー、ワディー、マインモー、ハリン、ダガウンが発見された場所は、どこだったか?", + "id": "tr-091-01-002", + "answers": [ + { + "text": "エーヤワディー川流域", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "エーヤワディー川流域で発見された、10世紀以前に建設されたと思われる7つのピューの城郭都市のうち、最も最近に建設されたのは、何か?", + "id": "tr-091-01-003", + "answers": [ + { + "text": "タイェーキッタヤー", + "answer_start": 230, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "晋に書かれた『華陽国志』南中志永昌郡条では、後漢時代の永昌郡に、後漢時代の永昌郡に「僄越」が居住していたことが述べられており、これが最も古い時代のピューについて記録した文献だと考えられている。『隋書』ではピューは「朱江」と記され、真臘と交流を持っていたことが伝えられている。ピューの支配範囲について、『新唐書』では東は陸真臘、西は東天竺、東南はドヴァーラヴァティー王国に接し、南は海に面していると述べられており、シッタン川以東を除いたエーヤワディー流域一帯がピューの勢力下に置かれていた。", + "qas": [ + { + "question": "『華陽国志』は、どの王朝の時代に書かれたの?", + "id": "tr-091-02-000", + "answers": [ + { + "text": "晋", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ピューの支配範囲について東は陸真臘、西は東天竺、東南はドヴァーラヴァティー王国に接し、南は海に面していると述べた書籍は、何ですか?", + "id": "tr-091-02-001", + "answers": [ + { + "text": "『新唐書』", + "answer_start": 150, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "7世紀に入ると、ピェー(プローム)付近に存在したシュリークシェートラが大勢力となっていた。3世紀から10世紀にかけて存続していたと思われるシュリークシェートラは7つのピューの城郭都市の中で最大の都市であり、中国の僧である玄奘と義浄の著書には「室利差呾羅」「室利察呾羅」という名前で現れる。「シュリークシェートラ」の名前はインドのオリッサ地方の都市の旧称に由来し、やがてビルマ語に転訛してタイェーキッタヤーと呼ばれるようになった。8世紀に至ってもシュリークシェートラはピューの中心であり、18の属国を従え、9の城鎮、298の集落を有していた。シュリークシェートラの遺跡から出土した石棺と骨壷の銘文を解読した結果より、7-8世紀のシュリークシェートラはヴィクラマという王統によって統治されていたと推定されている。", + "qas": [ + { + "question": "シュリークシェートラが大勢力となったのは、何世紀の話か?", + "id": "tr-091-03-000", + "answers": [ + { + "text": "7世紀", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "シュリークシェートラは、何世紀から何世紀まで存在したと思われるか?", + "id": "tr-091-03-001", + "answers": [ + { + "text": "3世紀から10世紀", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "シュリークシェートラが滅亡したと思われるのは、何世紀のことか?", + "id": "tr-091-03-002", + "answers": [ + { + "text": "10世紀", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "シュリークシェートラの勢力が成立したと思われるのは、何世紀のことか?", + "id": "tr-091-03-003", + "answers": [ + { + "text": "3世紀", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "7世紀半ばから、ピュー族の都市は雲南の南詔からの攻撃を受けるようになる。南詔が唐の徳宗に帰順した後、ピューの王・雍羌も唐への帰属を望むようになる。雍羌は南詔王・異牟尋の助言に従って王族(弟、もしくは息子)を唐に派遣し、楽人・楽器を献上した。中国の詩人・白居易は802年に来訪したピューの使者が音楽と舞踏を披露する様子を見聞し、漢詩『驃國楽』を詠んでいる。808年/09年に南詔の王は「ピューの君主」を称し、上ビルマは南詔の収奪に晒される。832年にピューの都市は南詔によって破壊され、3,000人の住民が拓東(昆明)に連行されたと伝えられている。ハリンからは炭化した木片が出土しており、南詔によって放火された痕跡だと見られている。", + "qas": [ + { + "question": "徳宗は、どの国の君主だったの?", + "id": "tr-091-04-000", + "answers": [ + { + "text": "唐", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "どの国が唐に帰順したのにつれて、雍羌も唐への帰属を望むようになりましたか?", + "id": "tr-091-04-001", + "answers": [ + { + "text": "南詔", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "当時のピューの王は、誰だったか?", + "id": "tr-091-04-002", + "answers": [ + { + "text": "雍羌", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "当時の南詔王は、誰だったか?", + "id": "tr-091-04-003", + "answers": [ + { + "text": "異牟尋", + "answer_start": 80, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "その後のピューの動向に関する記録は確認されておらず、エーヤワディー流域では9世紀半ばから11世紀のパガン王アノーヤターの即位に至るまでの、200年近い空白の時代が生まれる。1千年紀に完成したビルマの建物のうち、ピューの建物と同じレンガが使われているものが50以上パガンで発見されている。この発見は経済力と軍事力を蓄えたパガン王朝がビルマで台頭する前に、ビルマ族とピュー族の間に接触があったことを物語っている。「パガン」は「ピューの集落」を意味する「ピュー・ガーマ」が転訛した言葉だとする説があり、エーヤワディー沿岸に散在していた19のピューの集落がパガン王朝の原型になったとも言われている。伝承によれば、ピュー最後の王の甥にあたるタムダリッはピュー族を引き連れてシュリークシェートラから移住し、彼の女婿であるピューソウティがパガン王家の祖となったと言われている。", + "qas": [ + { + "question": "アノーヤターは、どの王朝の君主だったの?", + "id": "tr-091-05-000", + "answers": [ + { + "text": "パガン", + "answer_start": 49, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "エーヤワディー流域でピューの動向が見られるような記録が残されていないのは、ほぼ何年に至りますか?", + "id": "tr-091-05-001", + "answers": [ + { + "text": "200年", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "エーヤワディー流域において、ピューの動向が見られなかったのは、9世紀半ばから何世紀まで至るか?", + "id": "tr-091-05-002", + "answers": [ + { + "text": "11世紀", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "9世紀半ばからエーヤワディー流域で姿を消したピューが再び現れたのは、パガン王に誰が即位してからのことか?", + "id": "tr-091-05-003", + "answers": [ + { + "text": "アノーヤター", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ピューの城郭都市は、それぞれ独立した指導者の支配下に置かれていた。大規模な都市国家の指導者は自らを王と位置付け、インドのヒンドゥー教世界の君主制を模範とした宮廷を構築した。官職の名前にはサンスクリットとパーリ語が使われ、パーリ語の「マハー・セナパテイ(大将軍)」に由来すると思われる「摩訶斯那」が宰相を指す職名として使われていた。しかし、君主崇拝などのヒンドゥー教の思想がすべて受け入れられていたわけではなく、上座部仏教の思想に基づく思想も見られる。ピューの城郭都市の支配領域はそれぞれの都市の内部に留まっていたと考えられており、大規模な都市と小都市の間に主従関係が存在したかは不明確である。ビルマ語の年代記では、シュリークシェートラとベイッタノーの間に同盟関係が存在していたことが述べられている。", + "qas": [ + { + "question": "自ら王を名乗った指導者のいる都市国家の規模は、どうだったの?", + "id": "tr-091-06-000", + "answers": [ + { + "text": "大規模", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "規模の大きい都市国家では、どの宗教における君主制を模範とした宮廷を構築しましたか?", + "id": "tr-091-06-001", + "answers": [ + { + "text": "ヒンドゥー教", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "官職の名前には、パーリ語とどの言語が使われたか?", + "id": "tr-091-06-002", + "answers": [ + { + "text": "サンスクリット", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "宰相を指す職名は、何だったか?", + "id": "tr-091-06-003", + "answers": [ + { + "text": "摩訶斯那", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "乾燥地に居住するピュー族は乗馬の技術に長けており、ほとんどの人間は城郭都市の中に居住していたと���定されている。ピューの言語はチベット・ビルマ語派に属すると考えられている。1,2世紀ごろに南インドの人間が下ビルマに移住し、300年ごろに文字を初めとするインドの思想・学問がピューに伝わり、ビルマ土着のナッ信仰や竜神信仰にインド伝来のバラモンの思想がまじりあった。", + "qas": [ + { + "question": "ピュー族が乗馬の技術に長けていたのは、どんなところに住んでいたからなの?", + "id": "tr-091-07-000", + "answers": [ + { + "text": "乾燥地", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ピュー族は乾燥地に居住していたことから、何の技術に長けるようになりましたか?", + "id": "tr-091-07-001", + "answers": [ + { + "text": "乗馬", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ピューの言語は、どの語派に属すると考えられているか?", + "id": "tr-091-07-002", + "answers": [ + { + "text": "チベット・ビルマ語派", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ビルマ土着信仰としては、ナッ信仰と何が挙げられているか?", + "id": "tr-091-07-003", + "answers": [ + { + "text": "竜神信仰", + "answer_start": 154, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ピュー族はブラーフミー系文字に起源を持つ独自のピュー文字を使用していた。ピュー文字はヒンドゥー教徒が伝えた文字が元となり、碑文にはインド西海岸のカダンバ字音が使われているといわれている。パガン時代の1112年/13年ごろに奉納されたミャ・ゼーディー碑文にはパーリ語、モン語、ビルマ語とともにピュー語も刻まれている。1911年にイギリスの学者オットー・ブラグデンによってミャ・ゼーディー碑文の解読が試みられ、ピュー語はチベット・ビルマ語派に属することが判明したが、ピューの言語は完全に解読されていない。ピュー語が書かれた碑文はおそらくミャ・ゼーディー碑文が最後であり、他の言語と共にピュー語が刻まれた理由は判明していない。", + "qas": [ + { + "question": "ピュー族が使用していた独自の文字は、何系の文字を由来としたの?", + "id": "tr-091-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ブラーフミー系文字", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ピュー族が使っていた文字は、どの宗教の教徒から伝わった文字が起源となりましたか?", + "id": "tr-091-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ヒンドゥー教", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ミャ・ゼーディー碑文にはパーリ語、モン語、ピュー語とともに、どの言語が刻まれているか?", + "id": "tr-091-08-002", + "answers": [ + { + "text": "ビルマ語", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1911年にミャ・ゼーディー碑文の解読を試みたのは、誰か?", + "id": "tr-091-08-003", + "answers": [ + { + "text": "オットー・ブラグデン", + "answer_start": 170, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ピュー族がインドから取り入れた知識は宗教以外に科学と天文の専門的な領域にも及んでおり、ピュー族が天文学的な計算の知識を有していたことは、中国の史料にも記されている。ピュー族の社会では紀元前544年を起点とする仏暦が使われており、仏暦624年(西暦80年)に占星術の結果を重視したトウムンダリー王(Thumundari)によって西暦79年から始まる新たな暦法が使用されるようになった。638年に、同年3月22日から始まる新たな暦法がシュリークシェートラで使われ��ようになり、今日に至るまでビルマ暦として現代のビルマ社会でも使用され続けられている。", + "qas": [ + { + "question": "ピュー族が天文学的な計算の知識を有していたことについて書かれている史料は、どの国の史料なの?", + "id": "tr-091-09-000", + "answers": [ + { + "text": "中国", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ピュー族の天文と科学の分野に関する専門知識は、どの国から受け入れられたものでありますか?", + "id": "tr-091-09-001", + "answers": [ + { + "text": "インド", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ピュー族の社会で使われた仏暦は、何年を起点としているか?", + "id": "tr-091-09-002", + "answers": [ + { + "text": "紀元前544年", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ピュー族の社会で使われた仏暦では、何年が仏暦1年であるか?", + "id": "tr-091-09-003", + "answers": [ + { + "text": "紀元前544年", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "乾燥地に位置するピューの城郭都市では広範囲に及ぶ水田の耕作と安定した米の収穫は困難であり、水稲作、畑作、牧畜を組み合わせた自給的な経済システムが存在していたと考えられている。それぞれの城郭都市で自給体制の確立を目指す開発が進められ、一方で不足する食料を補うために城郭間で相互に交易が行われていた。", + "qas": [ + { + "question": "ピューの城郭都市では水稲作、畑作、牧畜を組み合わせた自給的な経済システムが存在していたと考えられるのは、どんなところに位置していたからであるの?", + "id": "tr-091-10-000", + "answers": [ + { + "text": "乾燥地", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "食糧の足りない分を他の都市からの交易で補うこと以外には、ピューの城郭都市は基本的にどのような体制を保っていましたか?", + "id": "tr-091-10-001", + "answers": [ + { + "text": "自給体制", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ピューの城郭都市はいずれも微高地や丘陵の麓に位置しており、城郭内で水田工作を行う環境は整っていなかった。ピュー族は水を得やすい天水田や氾濫原、小河川や溜池を利用する灌漑を利用して米を栽培していた。植民地時代前に建設された上ビルマのダム、運河、堤防などの治水施設に用いられている技術は、ピュー時代とパガン時代に起源を有する。また、米のほかに綿花、豆類、アワ、オオアワ、サトウキビなどの作物が栽培されていた。", + "qas": [ + { + "question": "ピュー族は何を利用して米を栽培していたの?", + "id": "tr-091-11-000", + "answers": [ + { + "text": "灌漑", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "上ビルマの治水施設に用いられている技術は、どの時代とパガン時代に起源をもちますか?", + "id": "tr-091-11-001", + "answers": [ + { + "text": "ピュー時代", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ピュー族の城郭都市からは、直径3cm・重さ約10g、あるいは直径2cm・重さ約2.5gの二種類の銀貨が出土している。銀貨の大半には表面に玉座か旭日、裏面に吉祥天の館であるスリーヴァッサが刻まれているが、玉座と旭日の意味については判明していない。エーヤワディー流域に留まらず、ピュー族の旭日銀貨はチャオプラヤ流域、メコン川下流域、タイ南部でも出土している。ピュー族の交易の範囲はピュー文化圏の外にも至り、淡水イルカ、ガラス、瓶などが輸出された。綿布はピューの特産品として知られており、扶南やドヴァーラヴァティー王国などの国にも輸出された。また、南北朝時代の中国で書かれた『広志』には、ピュー族の国では織物のほかに香料が産出されることが記録されている。", + "qas": [ + { + "question": "ピュー族の城郭都市で使われたと思われる二種類の銀貨のうち、より重いものは、何gであるか?", + "id": "tr-091-12-000", + "answers": [ + { + "text": "約10g", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ピュー族の城郭都市で使われたと思われる二種類の銀貨のうち、直径のより長いものは、何cmであるか?", + "id": "tr-091-12-001", + "answers": [ + { + "text": "3cm", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "銀貨の表面に刻まれているものではないのは、玉座、旭日、スリーヴァッサのうち、どちらか?", + "id": "tr-091-12-002", + "answers": [ + { + "text": "スリーヴァッサ", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ピュー族の旭日銀貨がエーヤワディー流域に留まらず、チャオプラヤ流域、メコン川下流域、タイ南部でも出土しているということは、ピュー族の何の範囲がそれほど広大なものであったことを示すか?", + "id": "tr-091-12-003", + "answers": [ + { + "text": "交易", + "answer_start": 182, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "当初はピューと扶南の間で交易が行われていたが、やがて新興のドヴァーラヴァティー王国が交易に参加するようになり、9世紀以前にはすでにエーヤワディー流域、チャオプラヤ流域、メコン下流域で旭日銀貨を介した交易圏が成立していた。しかし、エーヤワディー下流域を抑えるドヴァーラヴァティーの台頭によってピューの交易路は制限され、チャオプラヤ、タイ湾を通した交易に打撃を受ける。ピューの没落に伴って旭日銀貨を介した経済圏も崩壊し、851年に下ビルマを訪れた旅行家スレイマンは、銀貨ではなく子安貝が貨幣として流通していたことを伝えている。", + "qas": [ + { + "question": "ピューと扶南の交易を妨げたのは、どの国なの?", + "id": "tr-091-13-000", + "answers": [ + { + "text": "ドヴァーラヴァティー", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ドヴァーラヴァティーの登場は、チャオプラヤとどこを通したピューの交易に打撃を与えましたか?", + "id": "tr-091-13-001", + "answers": [ + { + "text": "タイ湾", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "誰の没落が、旭日銀貨を介した経済圏の崩壊を呼び出したか?", + "id": "tr-091-13-002", + "answers": [ + { + "text": "ピュー", + "answer_start": 182, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "スレイマンによると、誰が没落してからは、子安貝が貨幣として利用されていたか?", + "id": "tr-091-13-003", + "answers": [ + { + "text": "ピュー", + "answer_start": 182, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "2014年の第38回世界遺産委員会で、ピューの城郭都市の遺跡のうち、3件が「ピュー古代都市群」としてユネスコの世界遺産(文化遺産)リストに登録された。構成資産はハリン(Halin,ID1444-001)、ベイッタノー(Beikthano,ID1444-002)、シュリークシェートラー(SriKsetra,ID1444-003)である(構成資産の英語名およびID番号は世界遺産センター公表のもの)。", + "qas": [ + { + "question": "第38回世界遺産委員会が開催されたのは、何年のこと?", + "id": "tr-091-14-000", + "answers": [ + { + "text": "2014年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "何年に開催された世界遺産委員会で、ピューの城郭都市の遺跡のうち、3件が「ピュー古代都市群」としてユネスコの世界遺産リストに登録されましたか?", + "id": "tr-091-14-001", + "answers": [ + { + "text": "2014年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + } + ] +} \ No newline at end of file