diff --git "a/data/train/jaquad_train_0002.json" "b/data/train/jaquad_train_0002.json" new file mode 100644--- /dev/null +++ "b/data/train/jaquad_train_0002.json" @@ -0,0 +1,14372 @@ +{ + "version": "JaQuAD-ver0.3", + "data": [ + { + "title": "シェイクスピア別人説", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "シェイクスピア別人説は、「ストラトフォード・アポン・エイヴォンのウィリアム・シェイクスピアなる人物によって書かれたとされている作品は、実のところ他の作者もしくは“ウィリアム・シェイクスピア”という共有のペンネームを用いた作家集団によって書かれたものではないか」という話題を巡って18世紀以来続けられてきた学術的な議論である。\n\n当然のことながら一般にシェイクスピアの作品はシェイクスピア自身によって書かれたものと認められているが、懐疑派は「本当の作者」の候補としてフランシス・ベーコンやクリストファー・マーロウ、第17代オックスフォード伯エドワード・ド・ヴィアーなどを含む多くの人物の名を挙げている。", + "qas": [ + { + "question": "「ストラトフォード・アポン・エイヴォンのウィリアム・シェイクスピアなる人物によって書かれたとされている作品は、実のところ他の作者もしくは“ウィリアム・シェイクスピア”という共有のペンネームを用いた作家集団によって書かれたものではないか」という話題を巡って18世紀以来続けられてきた学術的な議論を何と呼びますか。", + "id": "tr-047-00-000", + "answers": [ + { + "text": "シェイクスピア別人説", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "シェイクスピアに関する、事実に基づいた、信頼に値する情報は少ない。ジョン・ミッチェルは、著書『シェイクスピアはどこにいる?」において「シェイクスピアの生涯について知られている事実は、便箋1枚の片面にそのすべてを書き尽くすことができる」とさえ述べている。ミッチェルは同書の中で、マーク・トウェインが『シェイクスピアは死んでいるのか?』(\"IsShakespeareDead?\"、1909年)で記した同じ趣旨の皮肉を引用している(トウェインは、シェイクスピアの確実に知られた事実だけを並べて貧相な伝記を書き、壮大なシェイクスピア研究の歴史総体を風刺してみせた)。", + "qas": [ + { + "question": "『シェイクスピアはどこにいる?』を書いたのは誰ですか。", + "id": "tr-047-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ジョン・ミッチェル", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "シェイクスピアに関して広く認められている従来からの見解は以下の通りである。ウィリアム・シェイクスピアは1564年にストラトフォード・アポン・エイヴォンで生まれた。その後ロンドンへ移り、詩や戯曲を書く一方で俳優も務め、内大臣一座(後に庇護者ジェームズ1世の即位に伴い国王一座(King'sMen)と改称)と呼ばれる人気劇団の株主(共同経営の劇団主)となり、グローブ座とブラックフライアーズ座の2劇場を中心に活躍する。1613年頃にロンドンでの活動から隠退し、1616年に亡くなるまでの余生を故郷ストラトフォードで過ごした。生前に発表された15篇の戯曲の内14篇の扉にシェイクスピアの名前が掲載されている。「本当の作者」として候補に上げられている人物達の大半も死去した後の1623年、その戯曲が集められて最初の二折判著作集(ファースト・フォリオ)が出版された。\n\nこの俳優の身元を特定するのに役立つ証拠としては以下のようなものがある。ストラトフォードのシェイクスピアは遺言書においてロンドンの劇団から俳優達への寄贈品を遺した。ストラトフォードの男と作品の著者は名前が同じである。1623年刊のファースト・フォリオの序詞において「エイヴォンの白鳥」(\"SwanofAvon\"、ベン・ジョンソンの詩。シェイクスピアの美称として定着している)、あるいは「ストラトフォードの記念碑」(レオナルド・ディッグスの詩)といった表現が見られる。従来の研究者は、後者のフレーズはストラトフォードにあるホーリー・トリニティ教会の墓標を表すものと推定している。その墓碑銘でシェイクスピアは作家と呼ばれており、ウェルギリウスとの比較や彼の作品に対する「生きた芸術」との評言もあり、1630年代頃までにはストラトフォードへの訪問者はこれを「記念碑」と表現していたのである。", + "qas": [ + { + "question": "ウィリアム・シェイクスピアはいつ生まれたの?", + "id": "tr-047-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1564年", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウィリアム・シェイクスピアはどこで生まれたの?", + "id": "tr-047-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ストラトフォード・アポン・エイヴォン", + "answer_start": 57, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウィリアム・シェイクスピアは何年に亡くなりましたか。", + "id": "tr-047-02-002", + "answers": [ + { + "text": "1616年", + "answer_start": 228, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ウィリアム・シェイクスピアは何年ごろ、ロンドンでの活躍を引退したか。", + "id": "tr-047-02-003", + "answers": [ + { + "text": "1613年頃", + "answer_start": 207, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "反ストラトフォード派は、戯曲を書くのに必要とされる教育をシェイクスピアが受けていた証拠がないという点をしばしば指摘する。一方、シェイクスピアは14歳までストラトフォードのキングス・スクール(エドワード6世校、KingEdwardVISchoolStratford-upon-Avon)に出席する権利を与えられており、そこでラテン詩人やプラウトゥス(Plautus)のような劇作家について学んだであろうというのがストラトフォード派の立場である。ただし、当時の学籍簿は紛失しているので、シェイクスピアがこの学校に出席していたかどうかは明らかではない。\n\nシェイクスピアが大学に通ったという証拠もないが、これはルネサンス期の劇作家としては珍しいことではない。伝統的に学者達は、シェイクスピアはある程度独学で学んだのだろうと推測している。仲間の詩人であり劇作家のベン・ジョンソンが、シェイクスピアよりも低い身分の出身でありながら桂冠詩人にまでなったことがよく似た例として挙げられる。シェイクスピアと同様、ベン・ジョンソンは大学を卒業していないばかりか恐らく入学さえしておらず、それにもかかわらず後年オックスフォードとケンブリッジの両大学から名誉学位を授与される程の碩学になっている。", + "qas": [ + { + "question": "シェイクスピアは何歳までストラトフォードのキングス・スクールに出席する権利を持っていたか。", + "id": "tr-047-03-000", + "answers": [ + { + "text": "14歳", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ベン・ジョンソンとシェイクスピアと、身分がより低かったのは誰?", + "id": "tr-047-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ベン・ジョンソン", + "answer_start": 377, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "後年オックスフォードとケンブリッジの両大学から名誉学位を授与される程の碩学になっていたのはベン・ジョンソンなの、シェイクスピアなの?", + "id": "tr-047-03-002", + "answers": [ + { + "text": "ベン・ジョンソン", + "answer_start": 448, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ジョナサン・ベイトは、その著書\"TheGeniusofShakespeare\"において、こうした出身階級を巡る議論については全く逆のこともいえると述べている。すなわちシェイクスピアの戯曲には、オックスフォード伯やベーコンのような上流階級の人間が詳しく知るはずのない下層階級の生活や俗語も詳細に描かれているという点である。フォルスタッフ(『ヘンリー四世』『ウィンザーの陽気な女房たち』)、ニック・ボトム(NickBottom、『夏の夜の夢』)、アウトリュコス(Autolycus、『冬物��』)、サー・トービー(TobyBelch、『十二夜』)その他、シェイクスピアの登場人物の中でもとりわけ活き活きと描かれている者達は大抵下層階級ないしは下層階級に近しい者ばかりなのである。しかし反ストラトフォード派の指摘する通り、シェイクスピアが貴族階級を描く時の著者の表現は人間的で多面的なのに対し、農民達の描写の仕方は全く異なっており、滑稽で珍妙な名前(ボトム(どん底)やベルチ(ゲップ)の他、『ヘンリー四世第2部』のブルカーフ(牛の仔)、『尺には尺を』のエルボウなど)を付けたり、ジョークの標的や暴徒として描いたりしていることもあるため、作中の表現から読み取れる作者の身分は曖昧なものにとどまっている。", + "qas": [ + { + "question": "\"TheGeniusofShakespeare\"を書いた人は誰なの?", + "id": "tr-047-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ジョナサン・ベイト", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "オックスフォード伯説は、初め1920年にジョン・トマス・ローニー(J.ThomasLooney)が提案し、これを支持したチャールトン・オグバーン(CharltonOgburn)が1984年にさらなる研究成果をつけ加えたことで強化された。この学説は、オックスフォード伯の個人史とシェイクスピアの正典の劇中で起こる多くの出来事との間に見られる著しい類似点や、オックスフォード伯がロンドン劇場や同時代の劇作家と繋がりを持っていたことなどにその根拠を置いている。\n\nまたオックスフォード派は、同時代の人々が伯爵の詩作や劇作の才能を賞賛していたこと、女王エリザベス1世や宮廷の生活にも近しかったこと、該博な知識と教養を備えていたこと、伯爵の書簡と正典の間に語彙や慣用表現、思考などの点において類似点が散見されること、伯爵の所蔵していた聖書の所々でアンダーラインを引かれた箇所が、シェイクスピアの戯曲で聖書が引用されている箇所と対応していることなどといった証拠を提示する。", + "qas": [ + { + "question": "オックスフォード伯説を初めて提案したのは誰ですか。", + "id": "tr-047-05-000", + "answers": [ + { + "text": "ジョン・トマス・ローニー(J.ThomasLooney)", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "チャールトン・オグバーンはオックスフォード伯説に対して支持していたか反対していたか。", + "id": "tr-047-05-001", + "answers": [ + { + "text": "支持", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1984年に出版されたチャールトン・オグバーンの著書\"TheMysteriousWilliamShakespeare\"は、オックスフォード伯説を裏づける新たな研究成果を数多く提示したばかりでなく、正統派の研究者が依拠する理論や方法に対する批判をもその内容に含んでいた。フォルガー・シェイクスピア図書館(FolgerShakespeareLibrary)の発行する研究誌\"ShakespeareQuarterly\"の書評の中で、同図書館の教育プログラム・ディレクターであるリッチモンド・クリンクレイ(RichmondCrinkley)も、オグバーンが提唱した研究理念に同意している。曰く「シェイクスピアに対する疑念は昔から存在し、急速に広まった。しかもそれらの疑いには単純かつ直截なもっともらしさがあった」「このもっともらしさは、これに応じた伝統的な学術研究の論調や方法論によって助長された」(Vol.36:p.518)。つまり、従来の保守的な研究者の「馬鹿馬鹿しくて真面目に論ずるに値しない」とでもいいたげな態度こそがこの疑念を促進させたのである。", + "qas": [ + { + "question": "\"TheMysteriousWilliamShakespeare\"は何年に出版されたか。", + "id": "tr-047-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1984年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "\"TheMysteriousWilliamShakespeare\"を書いた人は誰なの?", + "id": "tr-047-06-001", + "answers": [ + { + "text": "チャールトン・オグバーン", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "『グレイズ・イン法学院録』は1688年に公刊された68ページのパンフレットである。この中で、1594年12月28日(幼な子の日。イエス・キリスト生誕直後のこの日にヘロデ大王の命令でベツレヘムの幼児が大量虐殺された)に「プラウトゥス(Plautus)の『メナエクムス兄弟』(\"Menaechmi\")によく似た『間違いの喜劇』という作品が上演された」との記述があり、これが記録に残っている限りでは『間違いの喜劇』の最初の上演である(なお、実際にこの作品はほぼ同時期に英訳・上演された『メナエクムス兄弟』を種本として書かれている)。問題は、舞台に立ったのが誰であるにせよ、シェイクスピアとその劇団でなかったことだけは確実であるという証拠の存在することである。シェイクスピアの所属していた宮内大臣一座は、同じ日にグリニッジで女王のための上演を行っていたことを示す1595年3月15日付の文書が宮廷に残っている。", + "qas": [ + { + "question": "『グレイズ・イン法学院録』は何年に公刊されたか。", + "id": "tr-047-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1688年", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "クリストファ・マーロウ(ChristopherMarlowe、1564年-1593年)はエリザベス朝演劇の基礎を築いた劇作家の1人である。このクリストファー・マーロウを真の作者と考える人々もまた少なくない。しかしマーロウがオックスフォード伯やベーコンと決定的に異なっているのは、シェイクスピアと同年の生まれながらシェイクスピアよりも早くから人気作家としての地位を確立し、シェイクスピアが劇作を始めた1593年の時点で既に死去していることである。マーロウ派の人々は、この死は偽装であり、生き延びたマーロウが「シェイクスピア」という別の名前で劇作を続けていたのだと主張している。マーロウ説が浮上したのは1895年頃であり、20世紀初頭からアーチー・ウェブスターらによって広められた。しかしマーロウを真の作者とする最も詳細な理論を構築したのはアメリカのジャーナリスト、カルヴィン・ホフマン(CalvinHoffman)とその著書\"TheMurderoftheManwhowasShakespeare\"(1955年)である。マイケル・ルボ(MichaelRubbo)によるドキュメンタリー映画\"MuchAdoAboutSomething\"(2001年)においても、マーロウが真作者であった可能性を検証している。", + "qas": [ + { + "question": "シェイクスピアが劇作を始めたのはいつなの?", + "id": "tr-047-08-000", + "answers": [ + { + "text": "1593年", + "answer_start": 199, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マーロウとシェイクスピアと、もっと先に亡くなったのは誰なの?", + "id": "tr-047-08-001", + "answers": [ + { + "text": "マーロウ", + "answer_start": 106, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "マーロウ説が浮上したのいつごろですか。", + "id": "tr-047-08-002", + "answers": [ + { + "text": "1895年頃", + "answer_start": 299, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "マーク・アンダーソン(MarkAnderson)は著書\"ShakespearebyAnotherName\"においてシェイクスピアの作品それぞれの執筆年代を調べ、作者が1604年に謎の休筆をしていることに注目した。1593年から1603年にかけて、シェイクスピア作品は少なくとも年に1作、多い時には4作もの割合で出版されていたのだが、その後1604年に入ると、シェイクスピアは突如として沈黙期に入り、約5年間新作の発表が途絶えたのである。初期の史劇の再版も1604年を1つの転換点としている。1593年から1604年までの間、シェイクスピア作品の劣悪な海賊版が数多く出版されては、その直後に増補ないし改訂された公式の再版本が刊行されるといういたちごっこが続いていた。ところが1604年を過ぎると、この新しい増補や改訂が行われなくなったのである。この点においてもシェイクスピア��仕事が1604年に中断されていることが見て取れるが、当時存命であったストラトフォードのシェイクスピアが作者であるならば、名声の頂点に達していた頃に筆を折るべき理由がないのである。アンダーソンはさらに、シェイクスピアは16世紀の終わり頃まではその時点で最新の科学的発見や出来事を作品の中へ盛り込んでいたのにもかかわらず、オックスフォード伯の死去した1604年頃から科学に関しても沈黙を守るようになったことに喚起を促している。いくつかの例の内目立ったものを挙げるならば、1604年の10月に見られた劇的な超新星(SN1604)や、1609年に発表されたケプラーの惑星軌道に関する画期的な研究について、作品の中で全く触れられていないのである。", + "qas": [ + { + "question": "\"ShakespearebyAnotherName\"を書いたのは誰ですか。", + "id": "tr-047-09-000", + "answers": [ + { + "text": "マーク・アンダーソン(MarkAnderson)", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オックスフォード伯は何年ごろに死んだの?", + "id": "tr-047-09-001", + "answers": [ + { + "text": "1604年頃", + "answer_start": 560, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "W・R・チェトウッド(W.R.Chetwood)は1756年に、著書\"MemoirsoftheLifeandWritingsofBenJonson\"において、上演記録に基づきながら「1603年の終わりもしくは翌年のはじめに、シェイクスピアは作家としても役者としても、舞台に別れを告げたのだ」と結論付けている。1874年、ドイツの文学史家カール・エルツェ(KarlElze)は、シェイクスピアの最後期の作品とされる『テンペスト』と『ヘンリー八世』はいずれも1603年から1604年に掛けて書かれたものだと述べている。さらに、18世紀から19世紀の研究者の多くが『ヘンリー八世』の執筆年代を1604年以前としている。\n\nただし、シェイクスピア作品の執筆年代はいずれも推測であり、完全に年代を特定された作品は極めて少ない。1604年以降執筆をしていないというのはオックスフォード派による研究成果であり、ストラトフォード派の研究者の多くは『冬物語』や『テンペスト』を1610年頃に書かれた作品と考えている。しかしそれでも、1590年以降毎年少なくとも1作は執筆していたシェイクスピアの書誌の中で、1604年と1605年だけが空白となっていることに関しては従来の研究者も同意している(ストラトフォード派の書誌とオックスフォード派の書誌を比較されたい)。オックスフォード派の研究者は、それに加えて以下のような証拠を例示することで、シェイクスピアのものとされる戯曲や詩を書いた人物は1604年頃、遅くとも1609年までには死去していたはずであるという結論を出している。\n\nこれらの見解の真実性が明らかになれば、正統的ストラトフォード派の学者がその拠り所を失うことになるのは確実である上、ベーコンやネヴィルも真作者候補から外されることとなるため、この問題はオックスフォード派にとって最重要の立脚点であるばかりなく、反ストラトフォード派全体にとって極めて重要な論点となっている。", + "qas": [ + { + "question": "\"MemoirsoftheLifeandWritingsofBenJonson\"を書いたのは誰なの?", + "id": "tr-047-10-000", + "answers": [ + { + "text": "W・R・チェトウッド(W.R.Chetwood)", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ドイツの文学史家カール・エルツェ(KarlElze)が、シェイクスピアの最後期の作品とされる『テンペスト』と『ヘンリー八世』はいずれも1603年から1604年に掛けて書かれたものだと述べたのは何年のことですか。", + "id": "tr-047-10-001", + "answers": [ + { + "text": "1874年", + "answer_start": 154, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "もはや信仰に近いとさえいえる難解な解釈をする研究者は、シェイクスピアの正典の中に暗号の形で隠された秘密のメッセージを見出すことでこの問題を解決しようと考えている。彼��が発見したと主張する暗号の多くは、ベーコン説を裏づけるものであるが、これはベーコンが暗号解読法に精通していたという事実に照応させたものである。\n\nアメリカの連邦議会議員にしてSF作家、またアトランティス大陸理論家でもあるイグネシアス・ドネリーは、著書『偉大な暗号文:シェイクスピア作と称されたる戯曲に含まれたフランシス・ベーコンによる暗号』とその続編『戯曲および墓碑の暗号』において、シェイクスピアの戯曲の中に作者がフランシス・ベーコンであることを示す暗号化されたメッセージを発見したと書いているが、この暗号はドネリーにしか理解できないものであった。", + "qas": [ + { + "question": "『偉大な暗号文:シェイクスピア作と称されたる戯曲に含まれたフランシス・ベーコンによる暗号』を書いたのは誰ですか。", + "id": "tr-047-11-000", + "answers": [ + { + "text": "イグネシアス・ドネリー", + "answer_start": 193, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『偉大な暗号文:シェイクスピア作と称されたる戯曲に含まれたフランシス・ベーコンによる暗号』と『戯曲および墓碑の暗号』と、どっちの方がもっと早く出版された?", + "id": "tr-047-11-001", + "answers": [ + { + "text": "『偉大な暗号文:シェイクスピア作と称されたる戯曲に含まれたフランシス・ベーコンによる暗号』", + "answer_start": 208, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "大多数の反ストラトフォード派研究者は、戯曲の作者は旅慣れた人物に違いなく、生涯に一度も国外へ出たことのないシェイクスピアではありえないと考えている。なぜなら、シェイクスピアの戯曲の多くがヨーロッパ諸国を舞台としており、しかも地方の特色といった細部にこだわりを見せているからである。これに対して正統派の学者は、他の劇作家によって書かれた同時代の作品にも外国を舞台としたものが非常に多いことから、シェイクスピアがこうした流行に同調していたことに何ら不可思議な点はないと答えている。そもそも、シェイクスピアの作品の舞台はシェイクスピア自身が考えたものではなく、作品の構想段階で資料とした種本から借用したものであることは従来の研究からほぼ明らかになっているのである。\n\n真の作者に関する議論を別としても、シェイクスピアが作中で露呈した地理的な知識については疑問とされる点が多い。作中に地形的な情報が全く描かれていないと主張する学者もいる。例えば、ヴェニスを舞台とした『オセロー』や『ヴェニスの商人』の中には、ヴェニス名物の運河が一切登場しないのである。また、明らかな間違いも少なくない。『冬物語』の中で内陸国であるボヘミアの海岸を描いたり、『終わりよければ全てよし』の中では、パリからスペイン北部へ行くのにイタリア経由などという、まるで見当違いの道程を持ち出したりしている。", + "qas": [ + { + "question": "戯曲の作者は旅慣れた人物に違いなく、生涯に一度も国外へ出たことのないシェイクスピアではありえないと主張しているのはどの研究者たちですか。", + "id": "tr-047-12-000", + "answers": [ + { + "text": "反ストラトフォード派研究者", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『オセロー』、『ヴェニスの商人』の作家は誰だと知られているの?", + "id": "tr-047-12-001", + "answers": [ + { + "text": "シェイクスピア", + "answer_start": 348, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『オセロー』と『ヴェニスの商人』の舞台となっているところはどこですか。", + "id": "tr-047-12-002", + "answers": [ + { + "text": "ヴェニス", + "answer_start": 419, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ヴィクトリア朝時代におけるベーコン全集の編纂者であり、��ーコンに関する深い学識をもって反ベーコン派の立場を貫いたジェームズ・スペディングは、『マクベス』の中のある一節はウォルター・ローリーの処刑をほのめかしたものではないかとの新説を提唱した。ローリーが処刑されたのは1618年、すなわちシェイクスピアの死後2年目、オックスフォード伯の死後14年目のことである。問題の一節は、マクベスに殺害されるスコットランド王ダンカンの長男マルカムが「不誠実な裏切り者/コーダーの領主」(\"disloyalltraytor/TheThaneofCawdor\")が処刑されたときの様子を述べた、第1幕第4場冒頭のセリフである。", + "qas": [ + { + "question": "ジェームズ・スペディングは、『マクベス』の中のある一節が誰の処刑をほのめかしたものだと主張したか。", + "id": "tr-047-13-000", + "answers": [ + { + "text": "ウォルター・ローリー", + "answer_start": 84, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ウォルター・ローリーはいつ処刑されたか。", + "id": "tr-047-13-001", + "answers": [ + { + "text": "1618年", + "answer_start": 133, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ウォルター・ローリーとオックスフォード伯とシェイクスピアのうち、最も早く死亡したのは誰ですか。", + "id": "tr-047-13-002", + "answers": [ + { + "text": "オックスフォード伯", + "answer_start": 157, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ウォルター・ローリーの処刑をほのめかしたものだと判断されるのはマクベスの第何幕のことですか。", + "id": "tr-047-13-003", + "answers": [ + { + "text": "第1幕", + "answer_start": 288, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1969年と1977年に刊行されたペリカン叢書版のシェイクスピア全集において、編集責任者のハーバード大学教授アルフレッド・ハーヴィッジは、従来シェイクスピアの後期作品と見なされてきた『マクベス』『アテネのタイモン』『ペリクリーズ』『リア王』『アントニーとクレオパトラ』の執筆年代はいずれも1604年を越えるものではないという見解を示した。本当の執筆年代は従来考えられてきたよりも前であると主張するオックスフォード派研究者は他にも多い。執筆時期を特定するための証拠として、作品中に現れる時事的な隠喩を判断材料とするのは当然のこととされているが、こうした時事的な問題を反映させたり、特定の人物や政治的事件に敬意を表したりするために、俳優や劇団の配慮で台本が修正されるという、舞台芸術の世界では伝統的に行われていた改変が加えられている可能性を無視しているというのがその論拠である。\n\nしかしオックスフォード派研究者の中にも、『ヘンリー八世』『アテネのタイモン』『ペリクリーズ』といった後期作品の推定執筆年代は従来の見解と大きく異なるものではないと考える者はいる。これらの戯曲はシェイクスピアの未完成作品であり、1604年に作者が没した後に別の人物が補筆して完成させたのだという立場からである。事実、これらの作品がシェイクスピア単独の著作ではなく別人の手が入っている(『ヘンリー八世』はジョン・フレッチャー、『アテネのタイモン』はトマス・ミドルトン、『ペリクリーズ』はジョージ・ウィルキンズによる)ことは主流派研究者の間でも共通の見解である。シェイクスピアが1604年以前に単独で完成させたのか、1604年に没してから別人が加筆したのか、あるいは1604年以降も存命のまま別人と共同執筆したのかを断定する決定的証拠はいずれの学派も発見していない。", + "qas": [ + { + "question": "アルフレッド・ハーヴィッジはどの大学の教授ですか。", + "id": "tr-047-14-000", + "answers": [ + { + "text": "ハーバード大学", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アルフレッド・ハーヴィッジは『マクベス』『アテネのタイモン』『ペリクリーズ』『リア王』『アントニーとクレオパトラ』の執筆年代は何年を越えるものだと主張しましたか。", + "id": "tr-047-14-001", + "answers": [ + { + "text": "1604年", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "またストラトフォード派は、オックスフォード説にとっては根底を覆されるほど不利な証拠となる作品として『マクベス』を挙げる。この作品は伯爵死後の1605年11月に露見した火薬陰謀事件の余波の中で書かれたものであると考えられるためである。とりわけ、第3幕における門番のセリフに出てくる\"equivocation\"(二枚舌。同一の曖昧な言葉を複数の意味で使用するという虚偽はどこまで許容されるかという議論も意味する)が、この事件に関与して処刑されたヘンリー・ガーネット神父(HenryGarnet)を指している可能性が高いことも指摘される。オックスフォード派は、この\"equivocation\"はエリザベス1世の宰相ウィリアム・セシルによる1583年の政治論文もしくは1584年にスペインの高位聖職者マルチン・デ・アツピルクェタ(MartindeAzpilcueta)によって書かれ、ヨーロッパ中に広まって1590年代にはイギリスへも流入していた綱領で扱われていたテーマでもあると反論している。ニュー・ケンブリッジ版全集においてA・R・ブラウンミュラー(A.R.Braunmuller)も、1605年以降の作品と断定するには根拠が薄弱であり、遅くとも1603年以降と見ておくのが妥当であると述べている。またオックスフォード派は、王の殺害と王位簒奪を主題としている作品であることから、『マクベス』がジェームズ1世の即位を祝うために書かれたという定説をも疑問視している。", + "qas": [ + { + "question": "ストラトフォード派は、オックスフォード説にとっては根底を覆されるほど不利な証拠となる作品として何を挙げますか。", + "id": "tr-047-15-000", + "answers": [ + { + "text": "『マクベス』", + "answer_start": 49, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヘンリー・ガーネット神父(HenryGarnet)はどの事件に関与して処刑になりましたか。", + "id": "tr-047-15-001", + "answers": [ + { + "text": "火薬陰謀事件", + "answer_start": 83, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "火薬陰謀事件はいつ露見しましたか。", + "id": "tr-047-15-002", + "answers": [ + { + "text": "1605年11月", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "\"equivocation\"はエリザベス1世の宰相ウィリアム・セシルによる1583年の政治論文もしくは1584年にスペインの高位聖職者マルチン・デ・アツピルクェタ(MartindeAzpilcueta)によって書かれ、ヨーロッパ中に広まって1590年代にはイギリスへも流入していた綱領で扱われていたテーマでもあると主張したのは何派なの?", + "id": "tr-047-15-003", + "answers": [ + { + "text": "オックスフォード派", + "answer_start": 266, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ストラトフォード派研究者の間では、『ヘンリー八世』が1612年から1613年の作品であるということは了解事項となっている。1612年にエリザベス王女の結婚式のために書かれたらしいことや、翌1613年の上演のさいに第3幕第4場で祝砲を鳴らしたところ、飛び散った火薬から引火してグローブ座が全焼したという事件があるためである。しかしオックスフォード派研究者は、それから50年後の1663年に書かれたサミュエル・ピープスの日記に『ヘンリー八世』を「新しい」作品と称している箇所を見つけ出した。つまり、とうの昔に上演された作品であることを知らない人は多かったのである。ということは、1612年よりも前(具体的には1604年以前)に書かれた作品である可能性がない訳ではない。さらには、18世紀から19世紀の大多数の研究者(サミュエル・ジョンソン、ルイス・シオボールド、ジョージ・スティーヴンス、エドモンド・マロウン、ジョン・ハリウェル=フィリップスなど)は、いずれも『ヘンリー八世』の執筆年代を1604年以前としている。", + "qas": [ + { + "question": "『ヘンリー八世』が1612年から1613年の作品であると主張しているのは何派の研究者ですか。", + "id": "tr-047-16-000", + "answers": [ + { + "text": "ストラトフォード派", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『ヘンリー八世』を「新しい」作品と称しているサミュエル・ピープスの日記は何年に書かれたか。", + "id": "tr-047-16-001", + "answers": [ + { + "text": "1663年", + "answer_start": 187, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "主流の研究者達によって、『テンペスト』は1610年に書かれた難破事件に関する記録から着想を得たものであることが示されている。1609年、アメリカ植民地へ向かうイギリス船SeaVenture号が嵐に巻き込まれて難破し、消息を絶った。乗員は全員死亡したものと考えられていたが、翌年になって無事に帰還し、大きな話題となった。生存者ウィリアム・ストレイチーによる書簡(出版されたのは1625年)の写しやシルヴェスター・ジョーダンの『バミューダ島発見記』(\"ADiscoveryoftheBermudas\"、通称「バミューダ・パンフレット」)が1610年に広く出回っていたので、嵐の描写の類似などからシェイクスピアがこれらを参照していたというのが定説になっている。しかし、文学者のケネス・ミューアが「私が思うに、バミューダ・パンフレットがこの作品に及ぼした影響の大きさは誇張されているのではないか」と疑義を表明したのである。ミューアは、ストレイチーの報告書よりも前に書かれたセント・ポールによるマルタでの難破報告書と『テンペスト』との間で共通する13の主題や言い回しを引用している。加えてオックスフォード派は、『テンペスト』に登場する言葉やイメージの引用元として、リチャード・エデンの\"TheDecadesoftheNewWorldeOrWestIndia\"(1555年)やエラスムスの\"Naufragium\"(\"TheShipwreck\"、1523年)の存在を強調する。これらはいずれも『テンペスト』に影響を与えたかもしれない資料として従来から知られていたが、オックスフォード派はこれこそが種本であったということを証明するために新しい調査を進めている。", + "qas": [ + { + "question": "アメリカ植民地へ向かうイギリス船SeaVenture号が難破し、消息を絶ったのは何年のことですか。", + "id": "tr-047-17-000", + "answers": [ + { + "text": "1609年", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1609年、イギリス船SeaVenture号はどこに向かう途中難破しましたか。", + "id": "tr-047-17-001", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ植民地", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バミューダ・パンフレットが『テンペスト』に及ぼした影響の大きさは誇張されているのではないかと疑義を表明した人は誰なの?", + "id": "tr-047-17-002", + "answers": [ + { + "text": "ケネス・ミューア", + "answer_start": 335, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "オックスフォード派は、作者は遅くとも1609年までに死んでいたはずであると主張しているが、この1609年とはShake-Speareの『ソネット集』出版の年であり、冒頭に置かれた献辞がその証拠である。この献辞は著者によってではなく「T.T.」というイニシャルの人物によって書かれており、これが出版人トマス・ソープであるということにはほとんどの研究者が同意しているが、問題は\"'ourever-livingPoet'\"なる言葉である。刊行者から著者である「我らが不滅の詩人」に奉げるという意味であるが、この「不滅の」なる語が存命の人物に対して冠せられることはめったになく、通常は死者に対してしか用いられない言葉であり、1616年まで生きたストラトフォードのシェイクスピアには当てはまらないのである。\n\nストラトフォード派の研究者は、それよりももっと早い時期、作者が(その正体が誰であれ)まだ生きていたとオックスフォード派も認めざるをえない1598年に、明らかにシェイクスピアに言及した詩の一節、\"Liveeveryou,atleastinFameliveever:WellmaytheBodydie,butFamediesnever\"(永遠に生きよ。少なくとも名誉のもとで永遠に。肉体が死んでも、名誉は決して死にはしない)を引用することをもって答えている。しかしこれはあくまで類似の表現であり、ストラトフォード派の人々は「不滅の」という語が存命の人物に対して用いられた例を発見するには至っていない。", + "qas": [ + { + "question": "ストラトフォードのシェイクスピアは何年まで生きたか。", + "id": "tr-047-18-000", + "answers": [ + { + "text": "1616年", + "answer_start": 308, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ストラトフォード派によると、\"Liveeveryou,atleastinFameliveever:WellmaytheBodydie,butFamediesnever\"を言及した人は誰ですか。", + "id": "tr-047-18-001", + "answers": [ + { + "text": "シェイクスピア", + "answer_start": 429, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "21世紀に入ってからも新たな候補者が現れた。シェイクスピアの遠い親戚に当たる同時代の外交官、ヘンリー・ネヴィルである。プリマス大学の非常勤講師ブレンダ・ジェームズとウェールズ大学アベリストウィス校教授ウィリアム・ルビンシュタインによる共著\"TheTruthWillOut\"において提唱された学説で、ネヴィルの経歴を調べてみると、多くの戯曲の書かれた時期に、作中の舞台となる場所をネヴィルが訪れていること、ネヴィルの生涯と作中の事件に暗合が見られることなどがその論拠である。\n\nネヴィルは1599年にフランス大使を務めていることから、同じ時期に書かれた『ヘンリー五世』にフランス語が頻出している事実と符合する。外交官であれば、シェイクスピアに備わっていたはずのない外国語や宮廷に関する知識を持っていたことは明らかである。他にもネヴィルは諸外国を公務で訪れているが、ウィーン(『尺には尺を』)やヴェローナ(『ロミオとジュリエット』『ヴェローナの二紳士』)、デンマーク(『ハムレット』)など、シェイクスピア作品の舞台となった国が多い。\n\n特にジェームズとルビンシュタインが強調するのは、シェイクスピアの史劇は密かに前王朝のプランタジネット朝を支持するものだという点である。ネヴィルは、1601年に第2代エセックス伯ロバート・デヴルーが企てたクーデターに連座したため、ロンドン塔に幽閉されている。作風が重くなっていった時期と一致しており、当時の現体制であるテューダー朝に忠実なものでないことにも説明がつく。そもそもネヴィルはプランタジネット朝の血を引いており、その上政治犯とあっては著者として表に名を出す訳にいかなくなったため、遠い親戚のシェイクスピアに名前を借りて作品を発表していたのだという説である。またジェームズとルビンシュタインは、ロンドン塔幽閉中にネヴィルが記した文書の内容が『ヘンリー八世』の中で使用されている、また計量文献学による両者の文体比較から、シェイクスピアとネヴィルの文体や語彙、特殊語の使用頻度などには類縁性が見られるとも主張している。", + "qas": [ + { + "question": "\"TheTruthWillOut\"の著者はブレンダ・ジェームズとまた誰なの?", + "id": "tr-047-19-000", + "answers": [ + { + "text": "ウィリアム・ルビンシュタイン", + "answer_start": 100, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "シェイクスピアの遠い親戚であるヘンリー・ネヴィルの職業は何でしたか。", + "id": "tr-047-19-001", + "answers": [ + { + "text": "外交官", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ジェームズとルビンシュタインの主張によると、シェイクスピアの史劇が密かに支持している王朝は何ですか。", + "id": "tr-047-19-002", + "answers": [ + { + "text": "プランタジネット朝", + "answer_start": 508, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "マーロウの死が偽装であり1593年以降も存命であったことを示す証拠文書として提示されるのは、1599年と1602年にスペインのバリャドリッドで「クリストファー・マーロー」なる人物が逮捕されていたことを記録した外交文書である。また1604年にゲイトハウス監獄に短期間拘留され、やはり諜報機関の幹部であった初代ソールズベリー伯ロバート・セシル(オックスフォード伯の義父であった初代バーリー男爵ウィリアム・セシルの次男)に保釈金を出してもらうことで釈放された「ジョン・マシュー」なる人物こそ、偽名を用いていたマーロウだとされる。正統派研究者からは、マーロウだのマーレイだのといった名前は極めてありふれたものであり、それらの文書に記載されたのが果たしてマーロウその人であったかどうか確かめようがないとの反論がなされている。", + "qas": [ + { + "question": "1599年と、またいつ、スペインのバリャドリッドで「クリストファー・マーロー」という人物が逮捕されましたか。", + "id": "tr-047-20-000", + "answers": [ + { + "text": "1602年", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1883年、コンスタンス・メアリー・ポットは、ベーコン自筆の覚書を集めて『プロムス』として編纂し、これを丹念に調査した結果、ベーコンの書き留めたアイディアや比喩表現の多くが正典中に現れるということを発見した。ポット夫人はベーコン派支持者を集めるため1885年にフランシス・ベーコン協会を設立し、1891年には自説を著書として出版した。この本においてポットは、ベーコンはオカルト学者による秘密結社薔薇十字団の創設メンバーであったとするW・F・C・ウィンストンの学説を敷衍し、ベーコンらの作家集団は密かに正典の全戯曲を含む文学作品や美術作品を作ったのだと主張した。\n\n19世紀後半のベーコン派による議論の多くは正典中に隠された「暗号」を巡るものだった。イグネシアス・ドネリーが著書『偉大な暗号文』でベーコンが真の作者であることを示す暗号が正典中に含まれていると述べたのを初めとして、エリザベス・ウェールズ・ギャラップは、ベーコンは正典の真の著者であるばかりでなく、エリザベス女王の私生児であることが暗号によって記されているとの説を発表した。これらの暗号はおおむね提唱者以外には判読できないものであった。", + "qas": [ + { + "question": "ベーコン自筆の覚書を集めて『プロムス』として編纂したのは誰ですか。", + "id": "tr-047-21-000", + "answers": [ + { + "text": "コンスタンス・メアリー・ポット", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フランシス・ベーコン協会は何年に設立されたの?", + "id": "tr-047-21-001", + "answers": [ + { + "text": "1885年", + "answer_start": 124, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "二階堂トクヨ", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "二階堂トクヨは、宮城県大崎市出身の体育指導者・教育者だ。日本女子体育大学の創設者にあたり、「女子体育の母」と称される。日本初の女子オリンピック選手である人見絹枝のほか、8人のオリンピック選手を育てた。\n\nイギリス留学で学んだスポーツの普及に努め、女子のスポーツとしてクリケットとホッケーを日本に初めて紹介した。", + "qas": [ + { + "question": "女子のスポーツとしてクリケットとホッケーを日本に初めて紹介した人は誰ですか。", + "id": "tr-048-00-000", + "answers": [ + { + "text": "二階堂トクヨ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「女子体育の母」と称されている人は誰なの?", + "id": "tr-048-00-001", + "answers": [ + { + "text": "二階堂トクヨ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "二階堂トクヨが育てたオリンピック選手は何人いるの?", + "id": "tr-048-00-002", + "answers": [ + { + "text": "8人", + "answer_start": 84, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "二階堂トクヨはどこに留学にいった経験を持っていますか。", + "id": "tr-048-00-003", + "answers": [ + { + "text": "イギリス", + "answer_start": 102, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "二階堂トクヨは1880年12月5日に宮城県志田郡桑折村にて父・保治、母・キンの長女として生まれる。父方・母方ともに会津藩士の家系であった。三本木は豊かな自然に囲まれた山あいの里であり、トクヨはどんな花の名所よりも美しいと讃える歌を残している。1887年、父の赴任地・松山の松山尋常高等小学校に入学するが、間もなく父の転勤により三本木尋常高等小学校に転校する。三本木小では尋常科4年・高等科4年の計8年間学び、成績は普通であったが、「女子には高度な学問は不要」と考える当時の風潮からすると、高等科をきっちりと卒業させた二階堂家は教育熱心であったことが窺える。高等科4年生の夏休みに叔父の佐藤文之進から『日本外史』を習ったことで学問に目覚め、文学少女に成長した。なお、小学校時代の8年間、トクヨは体操の授業を受けたことがなかった。", + "qas": [ + { + "question": "二階堂トクヨはいつ生まれたの?", + "id": "tr-048-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1880年12月5日", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "二階堂トクヨはどこで生まれたの?", + "id": "tr-048-01-001", + "answers": [ + { + "text": "宮城県志田郡桑折村", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "二階堂トクヨは松山尋常高等小学校からどの学校に転校したの?", + "id": "tr-048-01-002", + "answers": [ + { + "text": "三本木尋常高等小学校", + "answer_start": 163, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "二階堂トクヨは誰から『日本外史』を教わったの?", + "id": "tr-048-01-003", + "answers": [ + { + "text": "佐藤文之進", + "answer_start": 292, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "二階堂トクヨは1895年に三本木小高等科を卒業し、予備講習会を経て、同年11月10日に尋常小学校本科准教員の免許を取得する。地元の三本木小学校に就職し、坂本分教場で准教員となった。坂本分教場では老教師が教えていたため、「鬼ごっこをしましょう」と誘う15歳の「二階堂先生」の出現に児童は驚いた。月給は1円50銭と新米教師の相場と同等で、初任給を神棚に祀った。\n\n分教場での教師生活を続けるうちに更に上級学校へ行って学問を身に付けたいという思いが募ったが、宮城県尋常師範学校は女子部を廃止しており、トクヨは進学ができなかった。しかしトクヨは諦めず、全く縁のない福島民報に手紙を送って福島県尋常師範学校への入学の斡旋を依頼した。福島師範には福島県民でないと入学できなかったことから、戸籍上養子縁組すれば面倒を見るという返事を受け取ったトクヨは、これを受諾して1896年3月に福島民報の社長・小笠原貞信の養女となり、小笠原トクヨを名乗った。こうして同年4月に福島師範へ入学、1899年3月に高等小学校本科正教員の資格を得て卒業した。福島師範では体操の授業があり、トクヨはほぼ休まず出席していたが���面白みに欠けたため、心ここにあらずという状態で臨み、「時間の無駄だ」と不満を漏らしていた。この時トクヨが学んだのは、すでに魅力を失っていた普通体操であり、体操が他の教科よりも1段低く見られていたことも手伝って、トクヨはより一層つまらなく感じたのであった。ただし、実地授業でトクヨが体操を教えると高く評価され、卒業まで校内では筒袖・袴姿で過ごすことを許された。", + "qas": [ + { + "question": "二階堂トクヨは何年に尋常小学校本科准教員の免許を取得したか。", + "id": "tr-048-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1895年", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "二階堂トクヨは尋常小学校本科准教員の免許を取得したあと、どこに就職したの?", + "id": "tr-048-02-001", + "answers": [ + { + "text": "三本木小学校", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "二階堂トクヨは何年に福島師範へ入学したか。", + "id": "tr-048-02-002", + "answers": [ + { + "text": "1896年", + "answer_start": 376, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "二階堂トクヨは何年に福島民報の社長・小笠原貞信の養女となったか。", + "id": "tr-048-02-003", + "answers": [ + { + "text": "1896年", + "answer_start": 376, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "二階堂トクヨは成績優秀で附属小学校の訓導に就くことを求められるも固辞し、安達郡油井村の油井尋常高等小学校に赴任し、訓導として尋常科2年生の担任になった。担任クラスには長沼ミツという児童がおり、その姉で高等科3年生の智恵子とも親しくなった。智恵子とは、後に高村光太郎の妻になる高村智恵子のことであり、智恵子はトクヨに懐いた。\n\n1900年4月、油井小を休職し、女子高等師範学校文科に入学する。当時の女高師は高嶺秀夫が校長を務め、和歌の尾上柴舟、体操の坪井玄道をはじめ、安井てつ・後閑菊野らの授業を受けた。トクヨは特に尾上柴舟の授業に魅了され、自作の歌を褒められて「小柴舟」の名をもらうほどであった。一方で体操の授業には全く関心がなく、欠課や見学など何とか授業に出ないようにしていた。なおトクヨ在学中の体操の授業では、矯正術や舞踊が教えられていた。\n\n女高師の学生時代のトクヨは、毎年学年末に不運に見舞われるというジンクスがあった。1年生の時はチフスに感染して4か月間茅ヶ崎の病院に入院、2年生は足裏の怪我が原因で骨が腐って40日の闘病生活を送り、3年生は養父・小笠原貞信が死去、4年生は実父・保治が死去した。このうち1・2・4年生の時には学年末試験を受けることができなかった。本来、試験を受けなければ進級できないが、トクヨは成績が良かったからか、試験免除で進級した。特に4年生の試験は卒業をかけたものであり、トクヨは留年覚悟であったが、学校は試験を免除し卒業を認めた。こうして1904年3月、教育・倫理・体操・国語・地理・歴史・漢文の7科目の師範学校女子部・高等女学校の教員免許を取得して女高師をストレートで卒業した。", + "qas": [ + { + "question": "智恵子の妹は誰?", + "id": "tr-048-03-000", + "answers": [ + { + "text": "長沼ミツ", + "answer_start": 83, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "二階堂トクヨはいつ油井小を休職し、女子高等師範学校文科に入学するか。", + "id": "tr-048-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1900年4月", + "answer_start": 163, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "女高師の1年生の時、二階堂トクヨは何に感染したの?", + "id": "tr-048-03-002", + "answers": [ + { + "text": "チフス", + "answer_start": 420, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "二階堂トクヨはいつ女高師を卒業した?", + "id": "tr-048-03-003", + "answers": [ + { + "text": "1904年3月", + "answer_start": 637, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "二階堂トクヨは女高師の卒業後は教師となり、最初の赴任先は石川県立高等女学校であった。赴任前に「主として体操科を受け持ってほしい」という私信を受け取っていたが、トクヨは何かの間違いだろうと思い、最初の校長からの言葉でそれが事実だと知ると絶句した。本業の国語の教師は十分いる一方、体操の免許を持った教師は不足していたからであった。体操のことを「義理にもおもしろいとは云えぬ代物」、「怒鳴られて馬鹿馬鹿しい」、「およそ之れ程下らないものは天下にあるまい」と酷評していたトクヨにとって体操教師を命じられたことは不本意であるばかりでなく、大恥辱である、世間に対して面目を失う、とまで思っていた。しかし、女高師の卒業生は5年間任地で教職を全うする義務を負っていたこと、女高師時代のジンクスから翌1905年の春に自分は死ぬのだろうと思い込んでいたことで、決死の覚悟で体操を教えることにした。最初は週13時間の授業に身も心も疲弊したが、数か月すると自身の体調が良くなっていることを発見し、夏には井口阿くりが講師を務める3週間の体操講習会を受講し、スウェーデン体操を学んだ。", + "qas": [ + { + "question": "女高師の卒業後、二階堂トクヨの最初の赴任先どこだった?", + "id": "tr-048-04-000", + "answers": [ + { + "text": "石川県立高等女学校", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "井口の講習を受けたトクヨは素人では到底教えられないと痛感し、体操を学びたいと思うようになった。幸運にも、体操専門学校を卒業したカナダ人宣教師のフランシス・ケイト・モルガンが金沢市にキリスト教を布教しに来ていたため、トクヨは1日おきに30分の個人レッスンをモルガンの家の庭で受け始めた。モルガンの教える体操は、スウェーデン体操にドイツ体操を混合した独自のもので、指導のうまさと相まって、トクヨはどんどん体操にのめり込んでいった。トクヨが習った体操はさまざまな体操器具を使うものであったが、器具が整わなくてもできるよう、跳び箱の代わりにトランクを、平均台の代わりにベッド2台の間に渡した板を、水平棒の代わりに柱と柱の間に張った縄を、肋木の代わりに本棚を活用する方法をモルガンは伝授した。ついには石川高女の全生徒を対象に週28時間もの体操の授業を受け持つに至り、石川県の郡部を回って小学校教師向けに体操の実地指導を行うようになった。この頃の教え子に時の石川県知事・村上義雄の娘がおり、父娘ともどもトクヨの体操に魅了され、知事の後ろ盾を得て運動会ではプロの楽隊を入れて体操を行うという企画を行ったり、生徒を男役と女役に分けてカドリーユを踊らせたりした。この運動会では、入場券を得られなかった第四高等学校の学生が塀を乗り越えて乱入し、警察官が監視に当たるほどの大変な評判を呼んだ。", + "qas": [ + { + "question": "フランシス・ケイト・モルガンの国籍は?", + "id": "tr-048-05-000", + "answers": [ + { + "text": "カナダ", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1907年7月、トクヨは高知県師範学校への出向を命じられた。しかし高知市に来てすぐにマラリアに感染し、入院を余儀なくされた。回復後、教諭兼舎監に着任し、歴史1時間、体操18時間を受け持った。体操の授業中、生徒を木陰で休ませている時に、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲を語り生徒を喜ばせた、という逸話が残っている。また校長が大切にしている芝生の上で自転車を乗り回し、校長に不満を持つ人たちを痛快がらせたという話もある。高知県でもトクヨは体操講習会を開き、その模様は土陽新聞に取り上げられた。この頃トクヨは、自身がスウェーデン体操を教えているつもりであったが、実際には金沢では第9師団、高知では歩兵第44連隊で行われていた軍隊式訓練を見よう見まねで教えていたのであった。軍人からは「女軍の一隊だ」などと言われたことに当時のトクヨは得意げだったが、後に振り返って「之れ等を思へば総べて漸死の種なり」と綴っている。1909年7月31日、トクヨは二階堂姓に戻った。1910年高師助教授に着任した。トクヨはこの時30歳で、異例の抜擢となった。\n\n東京女高師での仕事は、6時間の授業と井口阿くり・永井道明両教授の補佐であった。ところが井口は同年7月に藤田積造と結婚して退職したため、トクヨは井口の後任として女子体育の指導者の重責を負うことになった。体操を専攻した者ではないのに、体操界の権威になろうとしていたトクヨは同僚4人から妬まれ、家族宛ての手紙で「たかがウジ虫メラ!」とののしっている。", + "qas": [ + { + "question": "二階堂トクヨは高知市に来てすぐ、何に感染した?", + "id": "tr-048-06-000", + "answers": [ + { + "text": "マラリア", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "二階堂トクヨは何年に高師助教授に着任した?", + "id": "tr-048-06-001", + "answers": [ + { + "text": "1910年", + "answer_start": 427, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "井口は何年に退職したか。", + "id": "tr-048-06-002", + "answers": [ + { + "text": "1910年", + "answer_start": 427, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "井口の後任は誰だった?", + "id": "tr-048-06-003", + "answers": [ + { + "text": "トクヨ", + "answer_start": 534, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1912年10月1日、トクヨは体操研究のため文部省から2年間のイギリス留学を命じられた。留学を推薦したのは上司の永井道明であり、永井は女子体育の担い手としてトクヨに期待していた。11月20日、曇り空の下で永井道明、安井てつ、長沼智恵子、高村光太郎ら10人が見送りに駆けつけ、横浜港から旅立った。日本人女性の体育留学生は、井口阿くり以来2人目であった。\n\n1913年1月15日、ロイヤルアルバートドックに入港しイギリスに到着するも、予定より1日早く着いたため迎えの人が来ておらず、船中でもう一夜を明かした。翌1月16日、迎えは来たものの、その人は留学先のキングスフィールド体操専門学校の場所を知らず、雨の降る中ようやく夕方に学校に到着し、入学手続きを行った。学校側は「アシスタント・プロフェッサーが留学してくる」と聞いて身構えたが、いざトクヨに試験を課すと何も知らないことが判明し、トクヨは「一体まあ、何をあなたは教えていました?」と教師一同から問われてしまった。これに対して「スウェーデン体操を教えていた」とトクヨはすまして答えたが、その内容を話すと「スウェーデン式教育体操の一部をやっているんですね」と教師から言われ、自分が教えていたものはスウェーデン体操の一部にすぎないことを知った。そんな中で唯一、「家庭競技」だけは「興味ある室内ゲームだ」と高評価を得た。トクヨが披露したのは羅漢遊び、篠田の森の狐つり、鼻々遊び、はげ頭などであった。", + "qas": [ + { + "question": "トクヨは体操研究のため文部省から何年間のイギリス留学を命じられたか。", + "id": "tr-048-07-000", + "answers": [ + { + "text": "2年間", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "文部省からのイギリス留学にトクヨを推薦した人は誰なの?", + "id": "tr-048-07-001", + "answers": [ + { + "text": "永井道明", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "井口阿くり以来2人目の日本人女性の体育留学生は誰ですか。", + "id": "tr-048-07-002", + "answers": [ + { + "text": "トクヨ", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "井口阿くりとトクヨと誰が先に体育留学生になったの?", + "id": "tr-048-07-003", + "answers": [ + { + "text": "井口阿くり", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "トクヨは1915年5月、東京女高師教授となり、第六臨時教員養成所教授を兼任する。同年6月には文部省講習会講師と教員検定臨時委員に就任、1916年7月には文部省視学委員になり、夏休みには自ら体操講習会を開催して日本各地を飛び回った。また著書『体操通俗講話』、『足掛四年』、『模擬体操の実態』を1917年・1918年に立て続けに出版、東京女子大学の学長となっていた安井てつに請われて、1918年5月から1922年3月まで同学で授業を行った。女高師と臨時教員養成所では共に家事科の生徒に体育を教え、ダンス・体操・遊戯・スポーツの指導を行った。この時の教え子に、女子体育の指導者となる戸倉ハル、加藤トハがいる。戸倉はこの頃のトクヨが「女子体育は女子の手で」と口癖のように言っていたことを証言している。", + "qas": [ + { + "question": "トクヨは1915年5月、東京女高師教授と何を兼任するようになったの?", + "id": "tr-048-08-000", + "answers": [ + { + "text": "第六臨時教員養成所教授", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "トクヨは何年に文部省講習会講師と教員検定臨時委員に就任したか。", + "id": "tr-048-08-001", + "answers": [ + { + "text": "1915年", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『体操通俗講話』は誰が書いたの?", + "id": "tr-048-08-002", + "answers": [ + { + "text": "トクヨ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "戸倉によると「女子体育は女子の手で」は誰の口癖なの?", + "id": "tr-048-08-003", + "answers": [ + { + "text": "トクヨ", + "answer_start": 308, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1922年4月15日、トクヨは私財を投げ打ち、日本女子体育大学の前身となる「二階堂体操塾」を開いた。女子体育の研究機関と女子体育家の養成機関を兼ねた塾で、トクヨを中心として入塾生とともに創り上げていく共同体であった。この時トクヨは41歳であった。校舎は東京・下代々木に借りた庭園付きの邸宅を利用し、設立前から住み込みで準備していた。トクヨ塾長が自ら授業を行ったほか、トクヨの弟・二階堂真寿が国語と和歌を担当し、軍人や軍医ら軍関係者、野口源三郎・大谷武一ら体育界の重鎮も教鞭を執った。また、トクヨの母・二階堂キンとお手伝いさん2人が家事を行って塾生を支えた。", + "qas": [ + { + "question": "「二階堂体操塾」はいつ開館したの?", + "id": "tr-048-09-000", + "answers": [ + { + "text": "1922年4月15日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「二階堂体操塾」が設立された時、トクヨは何歳だった?", + "id": "tr-048-09-001", + "answers": [ + { + "text": "41歳", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "開校して間もなく、体操教師不足の時勢からトクヨの活動は世間の注目を浴び、9月には塾生に出張教授依頼が舞い込むほどであった。この年の12月4日、東京キリスト教青年会会館で第6回極東選手権競技大会を前にした女子体育の講演会が開かれ、野口源三郎・大谷��一・沢田一郎・内藤起行に続いてトクヨも演壇に立った。この時のビラでトクヨの肩書が「前東京女高師教授」になっていたことにトクヨは激昂し、「余は死せるか!」と冒頭の5分間熱弁を振るった。トクヨは臨時教員養成所が3年かけて教える内容をわずか1年で塾生に叩き込み、49人の1期生を世に送り出した。この1期生には、後に参議院議員となる山下春江がいた。\n\n1923年9月1日に関東大震災が発生し、塾舎が半倒壊し使用困難になる被害を受けたが、トクヨと塾生80人は全員無事であった。塾再建のため、塾生が体操やダンスをしている写真を売り歩き資金調達を図った。トクヨは荏原郡松沢村松原に移転を決め、1924年1月25日にバラックの塾舎へ移転した。", + "qas": [ + { + "question": "関東大震災はいつ発生したか。", + "id": "tr-048-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1923年9月1日", + "answer_start": 295, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1926年3月24日、「二階堂体操塾」は日本女子体育専門学校に昇格・改称した。私立の女子専門学校としては日本で20校目であり、初の女子体育専門学校であった。この頃のトクヨは忙しさのあまり居留守を使ったり、黒髪を切り丸坊主になったりしたエピソードが関係者の間で知られている。震災の被害や学校移転で資金繰りに窮し、学生からも借金をする羽目になった。文部省が審査のために来校した時には、慶応義塾大学や東京女子体操音楽学校から図書や備品を借りて審査をやり過ごした。\n\n体専時代のトクヨの学校経営は、思いの強さから「専制的」と見られ、トクヨと相いれず学校を去った教師も少なくなかった。11年ほど体専で講師を務めた今村嘉雄は、晩年のトクヨを「よい軍国婆さん」と表現した。社会が戦争へと向かっていったことと戦前の体育が軍と深い関係があったこともあり、トクヨは青年将校を愛し、将校の側もそれを分かっていて軍事演習の帰りに兵隊を連れてたびたび来校した。その際には授業を中断して湯茶で接待したり、軍人に見せるために学生にダンスさせたりしていたという。トクヨの日々の発言や雑誌『ちから』の記事も国家主義・国粋主義的な色味を帯びていき、「日本のほこり」のために女子スポーツ選手を輩出しようと考えるようになっていった。", + "qas": [ + { + "question": "「二階堂体操塾」が日本女子体育専門学校に昇格・改称したのはいつ?", + "id": "tr-048-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1926年3月24日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "今村嘉雄は晩年のトクヨを何と表現したか。", + "id": "tr-048-11-001", + "answers": [ + { + "text": "「よい軍国婆さん」", + "answer_start": 314, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1937年、佐々木等や戸倉ハルらの尽力で東京女高師に体育科が設立された。トクヨはこれを喜び、両手いっぱいに花束を抱えて下村寿一校長を訪問し、「限りなき喜びです」と挨拶した。その後は桜蔭会員とお茶をしながらの座談会を行い、「これから競争しましょう」と発言し、大笑いした。久々の母校訪問とあって夕方まで校内に滞在し、校内を一巡して満足げに帰宅した。\n\n1941年4月7日、トクヨは体専の入学式の朝に倒れ、東京海軍共済組合病院に入院、後に本人の希望で慶應義塾大学病院に転院した。病名は胃ガンで、ほかに糖尿病や白内障などの持病があった。4月14日にはトクヨの妹・とみの娘である美喜子を養女にとった。入院中、体専の生徒や卒業生は看病や見舞い、輸血を申し出たが、一切断っている。同年7月17日午前1時40分に死去、60歳であった。当日は稀に見るような暑さであったという。生涯独身であった。", + "qas": [ + { + "question": "トクヨは何歳に亡くなったか。", + "id": "tr-048-12-000", + "answers": [ + { + "text": "60歳", + "answer_start": 351, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "トクヨは何年に亡くなったか。", + "id": "tr-048-12-001", + "answers": [ + { + "text": "1941年", + "answer_start": 174, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "東京女高師に体育科が設立されたのはいつ?", + "id": "tr-048-12-002", + "answers": [ + { + "text": "1937年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "7月18日、数名の関係者のみが見守る中、堀ノ内斎場で火葬され、「勝妙院釈桜菊尼」の法名を授けられた。トクヨの死は7月27日に朝日新聞が夕刊で報じたのが最初で、翌7月28日の朝刊で他紙も報じ、これを見た人々が弔問に訪れた。夏休み期間中であったため、学校葬が行われたのは9月20日になってからであった。\n\n死後、勲六等瑞宝章が贈られた。墓所は築地本願寺和田堀廟所。すぐ近くには作家・樋口一葉の墓がある。トクヨは生前、多磨霊園がなければ和田堀廟所でもよいと美喜子に要望していた。\n\nトクヨは養女の美喜子に遺言書を口述筆記させ、その中で体専の学生募集を停止し、全生徒の卒業・就職を待って閉校するよう要望したが、弟の清寿が2代目校長に就任して学校を引き継いだ。清寿は「体育のタの字も知らない」ような人物であったため、学生は反発したものの、太平洋戦争の激化でボイコット運動をしているような時代ではなくなったことや、長年の学校行政手腕を発揮して同窓会「松徳会」を組織するなどして反発を収束させていった。\n\n1943年9月1日、ある新聞が「女子体力章検定いよいよ実施」という記事にて「日本女子体育専門学校校長二階堂とくよ女史」の談話を掲載した。すでに2年前に他界しているトクヨが当然語るわけはないので、実際は電話取材を受けた弟の清寿が「冷汗三斗」で答えたものがトクヨ談として掲載された。死してなお、トクヨが女子体育に大きな影響力を持っていたことを物語るエピソードである。", + "qas": [ + { + "question": "トクヨの死を最初に報じた新聞は?", + "id": "tr-048-13-000", + "answers": [ + { + "text": "朝日新聞", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "体専の2代目の校長は誰?", + "id": "tr-048-13-001", + "answers": [ + { + "text": "清寿", + "answer_start": 303, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "トクヨは生徒や卒業生にものをあげることが好きで、手当たり次第にものをあげ、その時は相手に要・不要を言わせなかった。喜んで受け取れば非常に満足し、断れば叱りつけた。好物はリンゴで、当時の高級品種・デリシャスを生徒1人ずつに配ることもあった。他人の幸福は自分の幸福と考える人であり、口癖のように「○○さん、ご幸福ですか?」と問うていたという。\n\n校長としての忙しい生活の中での束の間の休息には、よく新宿の映画館に出かけた。映画鑑賞が趣味だったわけではなく、誰にも邪魔されずにぐっすり眠るのが目的であった。ハッと起きると周囲の人々が不思議そうな表情を浮かべているので、トクヨは恥ずかしかったという。途中で中村屋に寄り、両手いっぱいにパンを買って帰るのが定番であった。\n\nある新聞で、トクヨはドイツの俳優・エミール・ヤニングスにたとえられたことがある。トクヨはこれが不服だったようで、体専の生徒に「楠木正成は忠臣、石川五右衛門は泥棒と相場が決まっているが、エミール・ヤニングスは何だ?」と問うたが、生徒は困惑し、黙って下を向いたという。", + "qas": [ + { + "question": "トクヨの好物は何?", + "id": "tr-048-14-000", + "answers": [ + { + "text": "リンゴ", + "answer_start": 84, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ある新聞で、トクヨはドイツの俳優誰にたとえられたことがあるか。", + "id": "tr-048-14-001", + "answers": [ + { + "text": "エミール・ヤニングス", + "answer_start": 349, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "トクヨはイヌやネコが好きで、よくイヌを連れて散歩していたので、「女西郷」というあだ名を付けられた。自身の好物をイヌ・ネコに与えることも好きで、散歩中には餌を持ち歩いていた。トクヨは常にイヌを5-6匹、ネコを3-4匹飼っていたので、イヌ・ネコ嫌いの教え子は大変困っていたという。\n\n特にシロと名付けたイヌをかわいがっていた。シロはトクヨが東京女高師教授時代の1916年頃に御茶ノ水で拾ったイヌで、東京女高師で苦楽を共にしたという思いから、二階堂体操塾の移転の際にも一緒に連れていった。「幼犬の頃に片足が不自由だった名残で、治ってからも足を引きずって歩く」、「何を聞いても『ワン』と答える」とトクヨはシロを溺愛していたが、よく吠えたので学生からは嫌われ、トクヨの外出中にシロをいじめる学生もいた。ある日、学生がシロをいじめているところを目撃し、その学生に「あなたは退学です」と宣告した。\n\nまたある時、大阪の街を歩いていると、瘦せた捨てイヌが木の下でうずくまっているのを見つけたので、近くのうどん屋に飛び込み、1杯の天ぷらうどんを買ってそのイヌに与えたという。", + "qas": [ + { + "question": "トクヨはイヌやネコが好きなことから、どんなあだ名がつけられましたか。", + "id": "tr-048-15-000", + "answers": [ + { + "text": "「女西郷」", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "トクヨが特にかわいがっていた犬は?", + "id": "tr-048-15-001", + "answers": [ + { + "text": "シロ", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "トクヨは東京女高師教授に就任した時には34歳になっていたが、トクヨはまだ若いつもりで、「老女流教育家を前にして、古くなった軍艦をおばあさんの船にたとえる講演会が学校であって、おかしくて仕方なかった」と家族に話し、弟の真寿は内心「そのうち自分もおばあさん船の仲間になってしまうくせに」と思っていた。そんなある日に縁談が持ち込まれ、相手の男性はある分野で知名度の高い人物であった。トクヨは一旦この縁談を断るも後から気になり出し、真寿に再交渉を依頼した。真寿は仲人だった人物に会いに行って事情を話すと、既に先方は婚約者が決まったと伝えられ、「もっと早く言ってくれたら」と残念がられた。真寿はトクヨに手紙で結果報告をし、トクヨから「二日二晩飯も食わずに泣き明かした。もう迷わないで女子体育という使命に生きる」という旨を記した長々しい返事を受け取った。\n\n最晩年になっても、トクヨは体専の若手男性教師を校長室に呼び、疑似恋愛のようなものを楽しんでいた。佐々木秀一は校長室に気軽に出入りを許された教師の1人で、佐々木を応対するときは、普段の孤独感を漂わせず明朗快活で、かつらは外したままだった。入院中、実弟の見舞いすら激怒して追い返したにもかかわらず、佐々木には面会を許し、「私は、他人のおせわになりたくない。」と話した。通常の訪問者には面会時間30分を要求し、居留守を使うこともあった一方で、心を許した男性記者とは3時間も懇談を楽しんでいた。", + "qas": [ + { + "question": "トクヨは東京女高師教授に就任した時に何歳だった?", + "id": "tr-048-16-000", + "answers": [ + { + "text": "34歳", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "京王6000系電車", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "京王6000系電車(けいおう6000けいでんしゃ)は、京王電鉄京王線用の通勤形電車である。1972年(昭和47年)から1991年(平成3年)に304両が製造され、2011年(平成23年)まで運用された。都営地下鉄新宿線への乗り入れを前提に設計され、京王で初めて20m級並びに4ドアの車体を採用した。京王線全線・都営地下鉄新宿線で運用され���のち、1998年(平成10年)から2011年(平成23年)にかけて事業用車に改造された3両と静態保存された1両を除いて廃車・解体された。事業用車に改造された3両は2016年(平成28年)4月に廃車されている。本稿では京王線上で東側を「新宿寄り」、西側を「京王八王子寄り」と表現する。編成単位で表記する必要がある場合は新宿寄り先頭車の車両番号で代表し、6731編成の様に表現する。京王では京王八王子寄りを1号車として車両に号車番号を表示しているが、本稿では各種文献に倣って新宿寄りを左側として編成表を表記し、文中たとえば「2両目」と記述されている場合は新宿寄りから2両目であることを示す。", + "qas": [ + { + "question": "京王6000系電車は何線に用いられるものなの?", + "id": "tr-049-00-000", + "answers": [ + { + "text": "京王線", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "京王6000系電車は何年まで運用されましたか?", + "id": "tr-049-00-001", + "answers": [ + { + "text": "2011年", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "改造されたものも含み、京王6000系電車が完全に廃車されたのは何年か?", + "id": "tr-049-00-002", + "answers": [ + { + "text": "2016年", + "answer_start": 250, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "三多摩地区開発による沿線人口の増加、相模原線延伸による多摩ニュータウン乗り入れ、都営地下鉄10号線(現都営地下鉄新宿線、以下新宿線と表記する)乗入構想により、京王線の利用客増加が見込まれ、相当数の車両を準備する必要に迫られるなか、製造費用、保守費用を抑えた新型車両として6000系が構想された。新宿線建設に際してはすでに1号線(後の浅草線)を1,435mm軌間で開業させていた東京都は京成電鉄と1号線との乗り入れにあたり京成電鉄の路線を1,372mmから1,435mmに改軌させた事例や、1,372mm軌間の特殊性から運輸省(当時、2001年から国土交通省)と共に京王にも改軌を求めたが、改軌工事中の輸送力確保が困難なことを理由に改軌しないことで決着している。", + "qas": [ + { + "question": "京王線の利用客が増加するとの予想は、どこが開発されたことによることですか?", + "id": "tr-049-01-000", + "answers": [ + { + "text": "三多摩地区", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "新型車両として6000系が構想されたのは、製造費用のほか、どんな費用を抑えるためだったの?", + "id": "tr-049-01-001", + "answers": [ + { + "text": "保守費用", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "6000系は京王線初の車両全長20m・両開扉・4扉車となり、最大幅2,844mmの初代5000系と同じ室内幅2,600mmを新宿線乗入で規定された最大幅2,800mmで実現するための設計上の工夫が施され、6両編成で5000系7両編成に匹敵する収容力をもつものとされた。床面の車体幅が5000系の2,700mmから2,780mmに拡幅されたことと併せ、20m車の導入に際して曲線上のホームとの干渉が発生するためホームの修正などの準備が行われたが、車両設計認可には時間を要した。6000系では京王で初めて電気指令式ブレーキを採用し、主幹制御器がブレーキハンドルと一体化されたワンハンドルマスコンが採用された。1962年(昭和37年)には井の頭線用に3000系がオールステンレス車体で就役していたが、6000系は5000系に続いて普通鋼車体とされ、アイボリー色の車体の窓下にえんじ色の帯が巻かれた。製造当時の法令に従い、6000系はA-A基準を満足するよう設計されている。1972年に入線した6両編成6本は5000系とほぼ同一の制御装置を採用した抵抗制御となったが、1973年製造車から界磁チョッパ制御に変更されている。当初は5000系が特急用、6000系は急行用と位置付けられ、性能もそれに見合うものとされた。1975年から既存の編��に新造車を組み込む形で8両編成化が開始され、平日の特急にも運用されるようになった。6両編成で製造された12編成すべてが新造車を組み込んで8両編成となったが、製造時に想定されていた電動車と非電動車の比率(MT比)1:1ではなく、5両が電動車、3両が非電動車(5M3T)となり、界磁チョッパ制御の6編成は8両固定編成、抵抗制御の6編成は高尾山口行きと京王八王子行きに分割される休日の特急運用にも充当できるよう5両+3両の編成となった。これ以降は8両編成での製造が基本となった。1980年に開始された新宿線乗り入れでは、故障した編成を後続編成が押して33.3‰の坂を登れる性能が求められたことから、電動車を1両増やした6M2T編成とする必要があり、中間付随車の電動車化が一部編成で行われ、新宿線用保安装置搭載などと併せて新宿線乗入対応とされた編成全車を車両番号の下2桁が31または81から始まる番号(30番台)に改番、以降は乗入対応編成と京王線専用編成が並行して製造された。", + "qas": [ + { + "question": "京王で初めて電気指令式ブレーキを採用したのは、何か?", + "id": "tr-049-02-000", + "answers": [ + { + "text": "6000系", + "answer_start": 237, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "普通鋼車体ではないのは、3000系と6000系、5000系のうち、どれ?", + "id": "tr-049-02-001", + "answers": [ + { + "text": "3000系", + "answer_start": 322, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1975年から8両編成となった平日の特急では、電動車と非電動車のうち、どれがより多く編成されたの?", + "id": "tr-049-02-002", + "answers": [ + { + "text": "電動車", + "answer_start": 654, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1981年からは朝ラッシュ時の一部列車を10両編成で運転するため、増結用の2両編成が製造されたが、8両編成同様新宿線乗入対応と京王線専用で番号が区分されている。1984年に6000系の車体をステンレス化したものと位置付けられる後継の7000系が登場した後も相模原線延伸に伴う新宿線乗入運用本数の増加や10両編成運転の拡大に伴って製造が継続され、1990年まで4扉車の製造が続いたのち、1991年にラッシュ時の混雑緩和のため片側5扉とされた5両編成4本が製造されたのを最後に19年にわたった製造が終了した。1970年代後半の改番以降5+3両編成が車両番号下2桁01(51)から附番された0番台、京王線専用編成の8両編成と2両編成が同10(60)からの10番台、20番台が5扉車、乗入対応編成の8両編成と2両編成が30番台となった。1998年から抵抗制御車を先行して廃車が始まり、2001年からは界磁チョッパ制御車、新宿線乗入対応車の廃車も始まったが、当時新宿線用ATCの耐雑音性が低く、VVVFインバータ制御車両が乗り入れできなかったことから、9000系で置き換えた経年の短い京王線専用の8両編成を新宿線乗入対応に改造することで経年が長い乗入対応編成の一部が廃車された。2000年には朝ラッシュ時の混雑が長編成化などの施策で緩和されてきたことから5扉車2編成が4扉に改造され、2002年10月に全編成の帯色がえんじ色から8000系と同じ京王レッドと京王ブルーに変更されている。2006年に新宿線の信号装置が更新され、VVVFインバータ制御車の乗入が可能となったことから、9000系に新宿線乗入対応編成が登場、6000系の廃車が加速した。2009年に6000系は新宿線乗り入れ運用から離脱、2010年までに8両編成が全車廃車された。9000系の増結用や競馬場線用として使用されていたワンマン運転対応の2両編成と、動物園線用の同じくワンマン運転対応の5扉車4両編成が2011年まで残存したが、2両編成が同年1月に、4両編成が3月に7000系に置き換えられて全車が旅客運用を終了した。3両が2004年に事業用車に改造されたほか、1両が若葉台工場に保管ののち、2013年より京王れーるランドで静態保存され、別の2両の運転台部分が同じく京王れーるランドに展示されているが、それ以外はいずれも解体処分された。", + "qas": [ + { + "question": "何年の製造を最後に6000系の製造が終了したの?", + "id": "tr-049-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1991年", + "answer_start": 192, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "6000系の全車が旅客運用を終了したのは何年のことですか?", + "id": "tr-049-03-001", + "answers": [ + { + "text": "2011年", + "answer_start": 830, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "6000系の8両編成と2両編成、そして4両編成のうち、最も遅くまで運用されたのは、どちらか?", + "id": "tr-049-03-002", + "answers": [ + { + "text": "4両編成", + "answer_start": 825, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "6000系の全車両における廃車は、何年から始まったか?", + "id": "tr-049-03-003", + "answers": [ + { + "text": "1998年", + "answer_start": 364, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "6000系は5000系の全長18mに対し、京王線の建築限界を修正した上で、京王線用として初めて全長20mの車体を採用した。6000系以降の7000系・8000系・9000系・新5000系は6000系同様20m車体となったが、7000系以降はステンレス車体となったため、6000系は京王線用として20m級車体を採用した唯一の普通鋼製車両である。6000系で床面(台枠上面)の幅が5000系の最大2,700mmから2,780mmに拡げられたため、ホームの改修が行われ、5000系以前の車両については出入口の踏段を拡幅する工事が施工された。最初の6編成の制御方式は5000系とほぼ同一の部品を採用した抵抗制御だったが、これ以外はすべて界磁チョッパ制御となり、7000系にもほぼ同じ方式が継承された。電気指令ブレーキとT形のワンハンドルマスコンは改良を加えながら6000系以降の京王線用車両に採用されている。5000系では多種多様の台車が使用されたが、6000系ではほぼ同一形態の2種類の台車に統一され、基本構造は7000系、最終製造車を除く8000系まで継承された。6000系は製造時から全車が冷房装置装備となり、初期の先頭車は集約分散式冷房装置を採用したが、途中から全車集中式冷房装置に統一され、以降新5000系に至るまで京王線では集約分散式の採用はない。6000系304両の製造期間である1972年4月から1991年3月の間に7000系132両と併せて436両が製造され、井の頭線からの転用車20両、2600系15両、2000系・2010系・2700系合計103両、5000系17両、5100系24両の179両が廃車された。京王線の車両数は257両増加したことになり、この間にいわゆるグリーン車と、吊り掛け式駆動車が全廃された。6000系304両の廃車は1998年1月から2011年3月にかけて行われ、この間に8000系40両、9000系264両の合計304両が製造された。6000系を代替したのはすべてVVVFインバータ制御、ステンレス車体の車両であり、6000系の全廃により京王線の営業車から普通鋼製の電車が消滅した。6000系の廃車と並行して6000系とほぼ同じ制御装置を採用していた7000系のVVVF化改造工事が進められたが、この工事完了による京王線からの界磁チョッパ制御車消滅は6000系全廃後の2012年となった。", + "qas": [ + { + "question": "京王線用として20m級車体を採用した唯一の普通鋼製車両は何か?", + "id": "tr-049-04-000", + "answers": [ + { + "text": "6000系", + "answer_start": 61, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1972年4月から1991年3月の間には、6000系と7000系のうち、どれがより多く製造されたの?", + "id": "tr-049-04-001", + "answers": [ + { + "text": "6000系", + "answer_start": 576, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "製造と廃車のうち、1972年4月から1991年3月の間に全車両においてより多く行われたのはどちらか?", + "id": "tr-049-04-002", + "answers": [ + { + "text": "製造", + "answer_start": 586, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "8000���と9000系のうち、1998年1月から2011年3月の間に製造された車両がより多いのはどれか?", + "id": "tr-049-04-003", + "answers": [ + { + "text": "9000系", + "answer_start": 813, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "新宿線乗り入れに対応するため、京王として初の20m車体、1,300mm幅両開き片側4扉の車体を採用した。最大幅2,844mmの5000系と同じ室内幅2,600mmを新宿線乗入協定で定められた最大幅2,800mmで実現するため、側窓を1枚下降式として壁厚さを薄くする手法が取られた。車体外幅は同寸法で車体をステンレス化する場合にコルゲートを追加できるよう2,780mmとなり、5000系に続いてアイボリー色の車体の窓下にえんじ色の帯が巻かれた。窓上にも赤帯をまくことが登場前には検討されたが、実現しなかった。従来の車両に取り付けられていた社紋の代わりに京王帝都電鉄を表すKTRのプレートが取り付けられた。平面を中心とした凹凸や曲面の少ない外観となり、客室屋根高さを高く取るため屋根も平面に近くなった。側窓はサッシ付き一枚下降式で、床面から1,300mmまで窓が下がる。戸袋窓が設けられ、戸袋窓にもサッシが付いた。サッシの角が角ばっているのは少しでも視界を広く取りたいためとされている。客用ドアは体格向上に併せ、5000系の高さ1,800mmから1,850mmに変更された。戸閉表示、非常通報、ブレーキ不緩解の3つの表示灯は車体中央部窓上にまとめて設置され、表示灯群の両側に種別と行先の表示装置が設けられた。", + "qas": [ + { + "question": "5000系の車体の色はどんな色なの?", + "id": "tr-049-05-000", + "answers": [ + { + "text": "アイボリー", + "answer_start": 196, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "5000系の室内幅はいくらか?", + "id": "tr-049-05-001", + "answers": [ + { + "text": "2,600mm", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "6000系の車体外幅を2,780mmにしたのは、ステンレス化する場合にコルゲートを追加してもいくらを超えないようにするためですか?", + "id": "tr-049-05-002", + "answers": [ + { + "text": "2,800mm", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "最大幅値がより小さいのは、新宿線乗入協定で定められたのと5000系のうち、どれですか?", + "id": "tr-049-05-003", + "answers": [ + { + "text": "5000系", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "先頭部には地下線走行時の非常脱出や、複数編成間を貫通幌でつなぐ目的で中央部に幅600mmの貫通扉が設けられ、貫通扉を中心に緩やかに後退角がついた折妻構成とされた。最初の3編成は貫通幌の座がなかったが、後に追加されている。4編成目以降は幌の座を備えて新造された。登場直後は5000系同様正面貫通路両側でえんじ帯が徐々に細くなっていたが、すぐに一定幅に変更された。貫通路上に行先、正面右側窓上に種別表示を備え、正面左窓上は運行番号表示用とされたため、前照灯は正面窓下に設置された。窓上表示装置の両脇に尾灯と列車種別識別用の表示灯兼用の角型の灯具が設けられ、夜間に表示灯が際立つよう表示幕類は黒地とされ、各表示装置の周りが黒く塗られた。登場当初は装置ごとに黒色部が3分割されていたが、すぐに一体に塗装された。車掌室窓部にリレー類を納める箱を設置したため、正面向かって左側の窓の天地寸法が運転席側より小さくなり、バランスをとるため窓下に車号板が取り付けられた。1992年ごろに先頭車正面床下にスカートが取り付けられ、2002年に帯色が京王レッドと京王ブルーに変更されているが、それ以外に外観の印象を変えるような大きな改造は行われなかった。", + "qas": [ + { + "question": "貫通幌の座を備えて新造されたのは、何編成目からか?", + "id": "tr-049-06-000", + "answers": [ + { + "text": "4編成目", + "answer_start": 110, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "外観の印象の大きな変化が見られる改造として最後に行われたのは、何年か?", + "id": "tr-049-06-001", + "answers": [ + { + "text": "2002年", + "answer_start": 454, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "複数編成間を貫通幌でつなぐ目的で設けられた貫通扉の幅はいくらですか?", + "id": "tr-049-06-002", + "answers": [ + { + "text": "600mm", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "先頭車正面床下にスカートが取り付けられたのは、何年?", + "id": "tr-049-06-003", + "answers": [ + { + "text": "1992年", + "answer_start": 426, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "座席はロングシートで、褐色のモケットが貼られた。壁色は5000系に続いてアイボリー系となった。天井の冷風ダクトの枕木方向の幅を広げることで天地を薄くでき、天井高さは床面上2,210mmとなった。車内照度確保のため、室内灯は乗客により近くなるよう冷風ダクトに取り付けられた他、天井には先頭車9台、中間車10台のラインデリアが埋め込まれた。座席端のアームレストは着座客のアームレストとしても、立客が寄りかかる場所としても両者が不快になることなく利用できるよう工夫されている。冷暖房効果向上などを目的として全中間連結部に引戸が設けられている。京王の車両で初めてワンハンドル式主幹制御器を採用した。押して制動か、引いて制動か、の議論が設計時にあり、先に登場していた東急8000系に倣って押して制動する方式が採用された。運転士前面に配置する計器類は速度計と圧力計、一部のスイッチ類などの最低限とされ、電流計・電圧計などは添乗する係員から見やすいよう乗務員室側開戸の上に設けられた。ATC設置に備えて、速度計外側には車内信号が表示できるスペースが設けられた。乗務員室中央部を貫通路として使用する場合、運転室・車掌室が仕切れるような構造となっていた。ワイパーは乗用車用を流用した電動式となった。", + "qas": [ + { + "question": "先頭車と中間車のうち、天井により多くのラインデリアが設置されているのは、どちらなの?", + "id": "tr-049-07-000", + "answers": [ + { + "text": "中間車", + "answer_start": 147, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "電流計と電圧計は、運転室と乗務員室のうち、どこに設けられたのか?", + "id": "tr-049-07-001", + "answers": [ + { + "text": "乗務員室", + "answer_start": 419, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "5000系の壁色は?", + "id": "tr-049-07-002", + "answers": [ + { + "text": "アイボリー", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "6000系に京王の車両で初めて採用された主幹制御器とは、何式のものか?", + "id": "tr-049-07-003", + "answers": [ + { + "text": "ワンハンドル式", + "answer_start": 277, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1972年製の6編成は抵抗制御を採用、5000系最終製造車とほぼ同様の日立製主制御装置MMC-HTB-20J(直列11段、並列7段、弱め界磁6段)、主電動機として直流直巻電動機・日立製HS-834Crb、東洋電機製造(以下、東洋)製TDK-8520A(出力150kW、端子電圧375V、定格電流450A、回転数1,450rpm)が搭載された。5両編成・6両編成でデハ6000形単独で使用される場合は永久直列制御とされ、発電ブレーキが使用できなかった。1973年以降は主回路を界磁チョッパ制御に変更するとともに回生ブレーキも採用し、主制御装置は日立製MMC-HTR-20B(��列14段、並列11段)、主電動機は直流複巻電動機・日立製HS-835GrbまたはHS-835Jrb、東洋製TDK-8525AまたはTDK-8526A(150kW、端子電圧375V、定格電流445A、分巻界磁電流28.3A、回転数1,500rpm)となった。抵抗制御車同様、デハ6000形単独で使用される場合は永久直列制御とされたが、回生ブレーキは使用できた。当初からユニットを組まない電動車として計画されたデハ6400形にはスペースの制約から他形式と異なる機器が採用され、主制御装置も日立製MMC-HTR-10C(永久直列14段)となった。5000系では日立製主電動機の数が多かったが、6000系では東洋製が主力となった。駆動装置はTD平行カルダン駆動が採用され、抵抗制御車の歯車比は85:14、界磁チョッパ制御車の歯車比は85:16である。後年7000系と共通のWN駆動装置に交換されたものがある。制動装置は日本エヤーブレーキ製全電気指令式電磁直通ブレーキ(HRD-1)が採用された。5000系では数多くの種類の台車が採用されたが、6000系以降の各形式では統一された形態のものとなった。台車は車体直結式空気ばね、ペデスタル方式軸箱支持の東急製TS-809動力台車、TS-810付随台車が採用された。界磁チョッパ制御車の台車は回生ブレーキ使用に対応してTS-809Aに形式変更されている。TS-809の軸距は2,200mm、TS-810は2,100mmで、全台車両抱式の踏面ブレーキを装備する。サハ6550形は電装を考慮していたため全車電動車用TS-809系を装備し、クハ6801-クハ6806はサハ6551-サハ6556から転用されたTS-809改台車を装備していた。デハ6456は落成当初、軸箱支持方式をシェブロン式とした試作台車TS-901を装着していたが、1年程度でTS-809Aに交換されている。", + "qas": [ + { + "question": "1972年製の6編成と1973年以降のものにそれぞれ搭載された主制御装置を作った会社は、どの会社ですか?", + "id": "tr-049-08-000", + "answers": [ + { + "text": "日立", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "5000系と6000系のうち、東洋製主電動機が多く使われたのは、どれ?", + "id": "tr-049-08-001", + "answers": [ + { + "text": "6000系", + "answer_start": 580, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "主回路を界磁チョッパ制御に変更したのは、何年以降のことか?", + "id": "tr-049-08-002", + "answers": [ + { + "text": "1973年", + "answer_start": 225, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1972年製の6編成と1973年以降のものには日立のほかにどの会社が製造した主電動機が搭載されたか?", + "id": "tr-049-08-003", + "answers": [ + { + "text": "東洋電機", + "answer_start": 102, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "集電装置として、東洋製PT-4201形パンタグラフがデハ6000形・デハ6400形・デハ6450形の全車に、2両編成ではクハ6750形のそれぞれ京王八王子寄りに搭載されたほか、一部のデハ6050形にも搭載された。6000系では4種類の容量の5種類の補助電源装置が使用された。1972年製のサハ6550形と1973年製のデハ6050形・サハ6550形には容量130kVAのHG544Er電動発電機(MG)、1972年製のデハ6050形には容量75kVAのHG584Er電動発電機、それ以外の4扉車には容量130kVAのTDK3344ブラシレス電動発電機(BL-MG)が搭載された。HG854Erは1972年製造車の5+3両編成化時にデハ6450形に移設され、同時にクハ6751-クハ6756に井の頭線用3000系から転用されたTDK362/1-B電動発電機(容量7kVA)が搭載された。のちにHG544Erの大半がTDK3344に載せ替えられている。5扉車にはSVA-130-477SIV(容量110kVA)が採用された。1983年ごろにデハ6261に試験的にSIVが搭載された。電動空気圧縮機は、2両編成を除いて、毎分吐出容量2,130リットルのHB-2000および1987年以降の製造車では性能は同一で小型低騒音のHS-20Dが、3・5両編成用のクハ6700形とデハ6050形、サハ6550形全車に各1台が搭載された。2両編成では床下スペースの制約から、井の頭線から転用された毎分吐出容量1,120リットルのC-1000を採用し、デハ6400形に搭載された。", + "qas": [ + { + "question": "集電���置としては東洋製PT-4201形パンタグラフがデハ6000形やデハ6400形などの全車に搭載された一方、一部だけ搭載されたのは、どんな列車なの?", + "id": "tr-049-09-000", + "answers": [ + { + "text": "デハ6050形", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "2両編成と3・5両編成のうち、搭載された電動空気圧縮機の毎分吐出容量がより少ないのは、どれですか?", + "id": "tr-049-09-001", + "answers": [ + { + "text": "2両編成", + "answer_start": 610, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1972年製造車の5+3両編成化時にデハ6450形に移設された電動発電機の容量はいくらか?", + "id": "tr-049-09-002", + "answers": [ + { + "text": "75kVA", + "answer_start": 220, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "6000系は急行用として6両編成で製造されたため、当初は5000系が7両編成で特急、6000系は6両編成で急行に運用された。1975年に6000系の8両編成が登場、平日の特急にも運用されるようになったが、一部駅ではホーム延伸が間に合わず、ラッシュに通勤急行などで6000系8両編成が運用される際は一部車両のドアを閉め切る措置が取られた。オフシーズン休日の特急は高幡不動で京王八王子方面と高尾山口方面で分割される運転形態だったため、5000系が引き続き充当されていたが、一部の6000系の5両+3両編成化により6000系がオフシーズン休日の特急にも運用されるようになり、オンシーズン時には8両編成で「高尾」「陣馬」などのヘッドマーク付き列車などにも運用された。5両編成は平日日中にグリーン車とともに各駅停車にも運用された。1978年に京王新線が開業したが、乗入相手である新宿線開業までの1年半、相模原線からの通勤快速・快速に加え、笹塚-新線新宿間の折り返し運転が行われた。1980年3月から都営新宿線への乗入が始まったが、岩本町より東は6両編成までしか対応していなかったため当初京王車の乗入は岩本町までとなり、1987年12月に大島まで、1989年3月に本八幡までにホーム延伸、新宿線延伸に併せて乗入区間が拡大された。1981年9月からは朝ラッシュ時の乗入運用の一部が10両編成化され、2007年9月に京王車両で運用される列車は終日10両編成での運転となった。乗入開始当初から10両編成化までの間、乗入距離精算のため6000系が新宿線内を折り返す運用が1運用設定されていた。朝ラッシュ時の相模原線から調布以東に直通する列車(相模原線系統)は京王八王子・高尾山口から調布以東に直通する系統(京王本線)の1時間当たり10本に対して半分の5本だったため、京王本線より先に輸送力が限界に達すると予想されたこと、京王線新宿駅と府中以西各駅の10両編成対応に時間を要したことから京王本線よりも先行して相模原線-新宿線乗入系統の10両編成化が実施された。東京都交通局は新宿線を6両編成対応で開業させた直後に8両・10両対応への延伸を行うこととなったが、東京都も開発に関連している多摩ニュータウンの輸送力確保が目的であることから協力的だったと言われている。京王線新宿駅の10両編成対応が完了した1982年11月から京王本線-京王線新宿駅系統も10両編成化されたが、乗入系統とは2両編成の連結位置が異なっていた。30番台の2両編成は当初日中の運用がなく、全車若葉台で待機していた。", + "qas": [ + { + "question": "どの駅を基点で京王八王子方面と高尾山口方面で分割されるの?", + "id": "tr-049-10-000", + "answers": [ + { + "text": "高幡不動", + "answer_start": 180, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "8000系の登場により特急が10両編成化され、6000系は特急運用の任を下りたが、1992年から相模原線で8両編成の特急が運転されるようになったためこれに6000系が充当された。同時にシーズンダイヤの午後に高幡不動で高尾山口行き5両と多摩動物公園行き5両に分割・併合する急行が運転されるようになり、これに6000系が充当された。多摩動物公園発の編成は高幡不動到着後いったん京王八王子側に引き上げられ、高尾山口発の編成と連結された。相模原線特急は8000系8両編成に順次置き換えられ、2001年に分割急行は廃止されている。5扉車は混雑の激しい編成中央部に連結するため、2両+5両+3両の編成で朝ラッシュ時は運用され、ラッシュ以降は3両または2両編成を切り離した7両または8両編成で各駅停車に運用された。競馬場線が1999年に、動物園線が2000年にワンマン化されて以降はワンマン対応の6000系専用編成が使用された。廃車進行により徐々に運用の範囲を狭めていったが、都営新宿線のATCは耐雑音性が低く、VVVFインバータ制御車が乗り入れられなかったことから、ATC更新まで6000系が乗入用に専用された。2007年(平成19年)9月に新宿線乗入運用がすべて10両編成となって以降30番台は8両+2両の実質的な固定編成として運用された。新宿線のATC更新後は急速に廃車が進行し、2009年(平成21年)6月に乗入運用から離脱、2010年(平成22年)8月に8両編成が全廃された。5扉車改造の4扉車は当初他の5両編成と共通に運用されたが、他の5両編成が廃車されたのちは2本組み合わせた10両編成で使用された。5扉車6両編成は相模原線内折り返しの各駅停車に運用され、5扉車4両編成はにワンマン化改造・ラッピングがほどこされたうえ、動物園線で運用された。競馬場線と動物園線のワンマン運転対応車が最後に残り、競馬場線用は2011年1月、動物園線用は2011年3月で運用を終え、全車廃車された。", + "qas": [ + { + "question": "ワンマン対応の6000系専用編成がより早く導入されたのは、競馬場線と動物園線のうち、どれですか?", + "id": "tr-049-11-000", + "answers": [ + { + "text": "競馬場線", + "answer_start": 350, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "6000系の全車が廃車されたのは、いつか?", + "id": "tr-049-11-001", + "answers": [ + { + "text": "2011年3月", + "answer_start": 817, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "6000系の廃車が急速に進行したのはあるシステムが更新されてからのことであるが、それではそのシステムとは、更新前には何が低かったか?", + "id": "tr-049-11-002", + "answers": [ + { + "text": "耐雑音性", + "answer_start": 441, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1995年から事業用車として運用されていた5000系電動貨車の代替としてデハ6107・デハ6407・デハ6457が2004年10月にデワ600形電動貨車に改造された。デハ6107はデワ601に改造されたが、1両単独での運転が可能な様、新宿寄りドアから前を切断し、クハ6707の運転台を取り付けるとともに自走に必要なすべての機器が搭載された。京王八王子寄りには構内運転用の簡易運転台が設けられた。空気圧縮機と主制御装置を床下に、ブレーキ制御装置、空気タンク、電動発電機が車内に搭載された。高圧機器が車内に搭載されたため、換気のため窓の一部が鎧戸とされた。デハ6407はデワ621となり、新宿寄りに簡易運転台が設けられた。ATS車上子を床下に搭載するため、一部の空気タンクが車内に搭載され、ATS装置本体も車内に搭載された。デハ6457を改造したデワ631には電動空気圧縮機を搭載するため、ブレーキ制御装置、一部の空気タンクが車内に移設された。デワ601の両側とデワ621の京王八王子寄連結器は棒連結器から密着連結器に交換されるとともにデワ601とデワ621の間に挟まれる貨車に電源を供給できるよう電気連結器が設けられた。車体塗装はグレーに変更され、夜間作業の視認性を高めるため正側面に赤白斜めのラインが入れられ、正面の白ラインは反射テープとなった。チキ290形又はクヤ900形をデワ601とデワ621の間に挟んで使用されるほか、相模原線がATC化されたのちはATC非設置の6000系が若葉台検車区・若葉台工場に入出庫する際のけん引車としても使用された。デヤ901・902形に置き換えられ、2016年4月に廃車された。", + "qas": [ + { + "question": "デハ6107・デハ6407・デハ6457がデワ600形���動貨車に改造されたのは、何年のことか?", + "id": "tr-049-12-000", + "answers": [ + { + "text": "2004年", + "answer_start": 57, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "デハ6457とデワ631のうち、ブレーキ制御装置と一部の空気タンクが車内にあるのは、どちらなの?", + "id": "tr-049-12-001", + "answers": [ + { + "text": "デワ631", + "answer_start": 371, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "デハ6107・デハ6407・デハ6457に代替される前に1995年から事業用車として運用されていたのは、何か?", + "id": "tr-049-12-002", + "answers": [ + { + "text": "5000系電動貨車", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "デワ601に改造された列車は何の代替として使われたのか?", + "id": "tr-049-12-003", + "answers": [ + { + "text": "5000系電動貨車", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "司馬遷", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "司馬遷は、中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者だ。\n\n姓は司馬だ。名は遷、字は子長だ。周代の記録係である司馬氏の子孫で、太史令の司馬談を父に持つ。太初暦の制定や、通史『史記』の執筆などの業績がある。\n\n遠い部分の信憑性には疑問があるが、父・司馬談が亡くなる際の遺言によると、司馬遷の家系は堯・舜の時代に功績を挙げ、代々歴史・天文を司る一族であるという。秦の恵文王らに仕えた司馬錯、その孫で白起の部下として長平の戦いに従軍した司馬靳、さらにその孫で始皇帝時代に鉄鉱を管理する役職にあった司馬昌がいる。司馬昌の子は司馬無澤と言い、漢市の長官に就いた。その子で五大夫の爵位を得た司馬喜は司馬遷の祖父に当たる。\n\nこのような家系において、父・司馬談もさまざまな師から天文・易・道論などの教えを受け、漢王朝に仕え、司馬遷3歳の年から元封までの約30年間にわたり太史公の官職を得ていた。談は道家的思想を基礎に、旺盛な批判精神を持ち、先祖が取り組んだ歴史書編纂事業への熱意を常々抱えていた。", + "qas": [ + { + "question": "『史記』は誰が書いたの?", + "id": "tr-050-00-000", + "answers": [ + { + "text": "司馬遷", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "司馬遷の字は何?", + "id": "tr-050-00-001", + "answers": [ + { + "text": "子長", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "司馬遷の父の名前は何ですか。", + "id": "tr-050-00-002", + "answers": [ + { + "text": "司馬談", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "司馬遷は司馬が名字なの、遷が名字なの?", + "id": "tr-050-00-003", + "answers": [ + { + "text": "司馬", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "司馬遷は、一族代々の墓があった左馮翊夏陽県竜門で生まれた。彼はそこで10歳になる前まで過ごし、農耕や牧畜などを通じて壮健な身体を育んだ。9歳になる頃までには家塾での勉学を始めた。\n\n10歳の時には「古文を誦んじた」という。『尚書』を学んだ師である孔安国は当時侍中の任にあったことから、司馬遷は長安へ移っていたと考えられる。さらに董仲舒らにも師事し、歴史書『春秋』は政治の根本原理を体現したものだと主張する公羊学派の影響を受けた。", + "qas": [ + { + "question": "司馬遷はどこで生まれたの?", + "id": "tr-050-01-000", + "answers": [ + { + "text": "左馮翊夏陽県竜門", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "司馬遷は何歳の時に「古文を誦んじた」と言われていますか。", + "id": "tr-050-01-001", + "answers": [ + { + "text": "10歳の時", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "司馬遷は何歳になって家塾での勉学を始めたか。", + "id": "tr-050-01-002", + "answers": [ + { + "text": "9歳", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "司馬遷は20歳頃から旅に出発し、東南および中原を巡る。この旅のきっかけは何か、また一人なのか複数によるものなのかは不明だが、その旅程は詳しくわかっている。最初に江淮へ行き、韓信が建てた母の墓を訪ねた。次に江西の廬山から禹が疏いた九江を見物し、さらに浙江省の会稽山に登り、禹が入ったと伝わる洞窟を探検したりした。そこから南下し、湘江の舜が葬られたという九疑山を訪ねた。この後、彼は湘江に沿って長沙に向かった。そこで屈原が身を投げた汨羅江を見て、また当地で不遇を託った賈誼へ思いを馳せた。", + "qas": [ + { + "question": "司馬遷は何歳頃から旅に出発したか。", + "id": "tr-050-02-000", + "answers": [ + { + "text": "20歳", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "司馬遷は旅行で最初にどこへ行きましたか。", + "id": "tr-050-02-001", + "answers": [ + { + "text": "江淮", + "answer_start": 80, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "東南方向の旅で楚の文化に触れた後、司馬遷は北に向かい、闔閭と夫差ゆかりの姑蘇・五湖を訪れ、さらに儒家発展の地である斉と魯へ赴いた。魯の滞在は長期に亘ったと思われる。その後はいずれも山東省南部と江蘇省北部に当たる鄱、孟嘗君ゆかりの薛、彭城を訪れた。彭城の北には豊・沛の地があり、司馬遷はそこまで足を伸ばして蕭何・曹参・樊噲・夏侯嬰の生家を見物し、彼らの話を聞いた。\n\nその後、河南地方へ向かった。開封は大梁と呼ばれた魏の首府だった地であり、土地の人から秦の攻撃で陥落した様子を伺い、信陵君を訪ねた。徐州は戦国時代末期の楚の土地であり、ここで壮大な春申君の古城や宮室を見物した。河南を後にした司馬遷は西に向かったと思われ、許由ゆかりの箕山に登った。", + "qas": [ + { + "question": "東南方向の旅で楚の文化に触れた後、司馬遷はどの方向へ向かいましたか。", + "id": "tr-050-03-000", + "answers": [ + { + "text": "北", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "徐州は戦国時代末期、どの国の土地でしたか。", + "id": "tr-050-03-001", + "answers": [ + { + "text": "楚", + "answer_start": 258, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "司馬遷のこの旅がいつ終わったのかははっきりしない。旅から戻った3年後の22歳頃、司馬遷は郎中に任命される。これは定常業務を持たないが勅命の使者や天子巡遊に従うなど、皇帝の侍従を担う仕事を行った。当時、郎中になるには2000石以上の官位を持つ者が子息に継がせるか、もしくは優秀な人物が試験を経て採用されるかの二つの方法があった。父・談の官位は600石であったため、司馬遷は後者の道筋で登用されたと考えられる。\n\n彼が仕える武帝は生涯において何度も巡遊を行い、郎中の司馬遷も多くに付き従った。元鼎5年、武帝は秦の徳公が居城とした雍で五帝を祀り、黄帝も登ったという崆峒を訪れ、さらに西の会寧へ至った。翌年には巴・蜀・滇などの西南巡遊に随行し、昆明まで至った。この時の奉使は、後に「西南夷列傳」に纏められた。", + "qas": [ + { + "question": "司馬遷は何歳ごろに郎中になったの?", + "id": "tr-050-04-000", + "answers": [ + { + "text": "22歳頃", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "司馬遷が郎中に任命されたころ、郎中になるにはいくつの方法がありましたか。", + "id": "tr-050-04-001", + "answers": [ + { + "text": "二つ", + "answer_start": 153, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "郎中になるためには2000石以上の官位を持つ者が子息に継がせる方法と試験を経て採用される方法二つがありましたが、司馬遷は前者と後者どちらの方法で郎中に任命されましたか。", + "id": "tr-050-04-002", + "answers": [ + { + "text": "後者", + "answer_start": 185, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "元封元年(前110年)、武帝は封禅の儀式に向けた準備に取り掛かり、武威を示す18万の騎兵を各地に派遣した。この軍団が洛陽に到着した際、付き従っていた父・司馬談が病に倒れた。西南奉使から戻った司馬遷は洛陽に向かった。\n\n死の床にあり、司馬談は先祖の事業が道半ばで去らねばならないことを嘆き、司馬遷へ引き継ぐよう命じた。そして、周公旦が定めた礼楽が衰えた際に孔子が現れ『詩』『書』『春秋』を著したが、400年以上が経過した今はまた事績の記録が荒んでいると指摘した。父は子に第二の孔子となれと言い残し、息を引き取った。", + "qas": [ + { + "question": "『詩』『書』『春秋』は誰が書いたの?", + "id": "tr-050-05-000", + "answers": [ + { + "text": "孔子", + "answer_start": 177, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "司馬談は司馬遷に何と言い残して息を引き取ったか。", + "id": "tr-050-05-001", + "answers": [ + { + "text": "第二の孔子となれ", + "answer_start": 234, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "父の死から3年後の元封3年、司馬遷は太史令の官職を継承した。彼の才能は高く買われており、父も亡くなる際に「太史に任命される」と述べていたが、3年は喪に服す期間として置かれた。彼は就任するや、友人らに政治への参加を勧めた。その中の一人・摯峻と交わした手紙が残っている。司馬遷は君子最上の生き方は徳を立てる事であり、その実現のために君主への働きかけをすべきと説く。摯峻は、有能な者が取り上げられる時代が来たが、私は気楽に過ごしたいと返答し誘いに応じなかった。この当時、司馬遷は血気盛んであり、任安への手紙にて、私的な事は省みず職務に専念し武帝の期待に応えると考えていたと述べている。\n\n実際、太史令となった彼は多くの書籍・文書に触れることを仕事とし、豊富な知識をさらに収集した。一方で元封4年、5年の武帝巡遊にも従い、各地を廻った。", + "qas": [ + { + "question": "司馬遷が太史令の官職を継承したのは父の死から何年後のことですか。", + "id": "tr-050-06-000", + "answers": [ + { + "text": "3年後", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "太初元年、司馬遷はひとつの事業を完成させ、新たな事業に取り掛かった年であった。前者は太初暦の制定であり、後者は『史記』執筆に着手したことである。太初暦は、年初を夏の暦である春正月に固定し、二十四節気を取り入れることで、各月の朔日・十五日・月末を確定させた。中国における時間感覚の基礎となったこの暦制定には30-40名の人間が関わり、公孫卿・児寛・壺遂・唐都・落下閎ら専門家も名を連ねたが、司馬遷は「私と壺遂が律暦を制定した」と述べており、主導的役割を果たしたと考えられる。\n\n司馬遷の先祖は天文を司り、星暦の観測は歴史家の重要な仕事のひとつであった。太初暦制定は、父の遺言である祖先の事業を実現する一環であり、また孔子の言葉「夏の暦が正しい」を実現するもので��あった。\n\nそして、司馬遷はいよいよ『史記』に取り掛かった。20歳頃からの大旅行、そして仕官後の武帝巡遊に随行し、前漢が支配下に置く中国のほぼ各地を歴訪していた彼は、旅先で土地の長老を訪ねては故事を聞き、太史令として各種史料に眼を通し、過去に思いを巡らせていた。史記執筆が始まってからも武帝の巡幸は毎年のように行われ、司馬遷もさらに知見を積んだ。", + "qas": [ + { + "question": "太初元年、司馬遷はどの事業を完成させたか。", + "id": "tr-050-07-000", + "answers": [ + { + "text": "太初暦の制定", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "司馬遷が『史記』執筆に着手したのはいつですか。", + "id": "tr-050-07-001", + "answers": [ + { + "text": "太初元年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "太初暦は、年初をいつに固定しますか。", + "id": "tr-050-07-002", + "answers": [ + { + "text": "春正月", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「夏の暦が正しい」は誰が残した言葉なの?", + "id": "tr-050-07-003", + "answers": [ + { + "text": "孔子", + "answer_start": 307, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "だが、天漢三年(前98年)になると武帝も考えを改め、逃げ延びた部下に恩賞を与え、李陵を救う手を打ったがこれは成功しなかった。ところが、ある匈奴の捕虜から、李陵が匈奴兵に軍事訓練を施しているとの誤報[注3]がもたらされ、事態は一変した。武帝は激怒し、李陵の一族は全て処刑された。そしてこの累は司馬遷にも及び、彼には宮刑が処された。\n\nこの処罰は、司馬遷にとって大変な屈辱だった。彼は、人の身に降りかかる様々な恥辱の中でも男性の誇りを奪う腐刑は最低なものだと言った。そして、宮刑に処された者はもはや人間として扱われない存在だと述べた。ここまでの絶望に晒されながらも、司馬遷は自害には走れなかった。彼には、父の遺言でもある『史記』の完成という使命を前に、耐えて生きる道を選んだ。\n\n『漢書』では、司馬遷処罰の背景には執筆中の『史記』にて「景帝本紀」を記したが、その内容が父・景帝を否定的に評していた事を知った武帝が怒って削除させたと言い、これに李陵の件が重なって厳罰が課せられたという。しかしこの説には確証は無い。", + "qas": [ + { + "question": "司馬遷とって、人の身に降りかかる様々な恥辱の中で最低のものは何でしたか。", + "id": "tr-050-08-000", + "answers": [ + { + "text": "腐刑", + "answer_start": 217, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "司馬遷に『史記』を完成させると遺言を残したのは誰ですか。", + "id": "tr-050-08-001", + "answers": [ + { + "text": "父", + "answer_start": 300, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "司馬遷処罰の背景には執筆中の『史記』にて「景帝本紀」を記したが、その内容が父・景帝を否定的に評していた事を知った武帝が怒って削除させたと言い、これに李陵の件が重なって厳罰が課せられたという話はどの文献に書いてあるか。", + "id": "tr-050-08-002", + "answers": [ + { + "text": "『漢書』", + "answer_start": 338, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "武帝の父は誰?", + "id": "tr-050-08-003", + "answers": [ + { + "text": "景帝", + "answer_start": 366, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "牢獄に繋がれてから4年後の太始元年(前96年)6月、大赦によって司馬遷は釈放された。そして彼には中書令の任が下った。宮中の文書を扱い、皇帝に奏上する文書、また逆に皇帝の詔を接受する中書令は、太史令よりも遥かに重要なポストだったが、宦官が担う役職であるこの任は司馬遷にとって屈辱であった。\n\n『史記』の執筆に取り組みながら、太始二年(前95年)からの3年間、司馬遷は武帝の巡遊につき従った。太始四年(前93年)に泰山から戻った司馬遷は、任安から受け取っていた手紙の返書(『報任少卿書』)を書いた。任安の手紙とは、高い地位にあるにもかかわらず司馬遷が有能な人物を推挙していないことを責めたものだった。かつて太史令に着任した頃は人材発掘を行っていた司馬遷だったが、この時には五体を欠く身となった自分にはその資格が無いと断った。", + "qas": [ + { + "question": "司馬遷はいつ釈放されたの?", + "id": "tr-050-09-000", + "answers": [ + { + "text": "太始元年(前96年)6月", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "司馬遷は20歳から各地を巡る旅を始め、役人に登用されてからも武帝に従って様々な地を訪れた。この旅行は漢のほぼ全土を網羅し、四川中部や雲南など当時は未開と言える場所にまで至っている。そしてこれは放浪などではなく、彼は各地を丁寧に見て廻り、資料を調べ、古老など様々な人々の話を聞いた。これら積み重ねた調査は『史記』に反映された。いわば彼は著述家以前に、大旅行家であり探検家でもあった。\n\nしかし、この旅は紀行文や風土記のような形には纏められなかった。司馬遷が筆を執った目的は歴史記述であり、そのために個人の直接的な観察はその中へ消化されてしまった。また、特定の歴史的事件を土地の環境から記すこともしなかった。", + "qas": [ + { + "question": "司馬遷は何歳から各地を巡る旅を始めたの?", + "id": "tr-050-10-000", + "answers": [ + { + "text": "20歳", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "司馬遷の各地を巡る旅はどの書籍に反映されていますか。", + "id": "tr-050-10-001", + "answers": [ + { + "text": "『史記』", + "answer_start": 151, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "父から「第二の孔子たれ」と厳命された司馬遷は、既に若い頃から儒教の教育を受け、その影響を強く受けた。具体的には、『史記』において人物や出来事の判断基準に、多く孔子の言葉を導入している。これらは、『春秋』『礼記』『論語』から出典不明なものまでを含め、何かしらの論評において「孔子はこう言った」と引用したり、または自らが意見を述べる形式で孔子の著作から言論を襲用している形で書かれたりしている。特に司馬遷は、孔子思想において六芸を重視し、孔子の言を借りて六芸こそが人を正しく導くと述べ、これらを歴史的事象や人物を評価する基準に用いた。", + "qas": [ + { + "question": "司馬遷は父に何と厳しく命令されたの?", + "id": "tr-050-11-000", + "answers": [ + { + "text": "「第二の孔子たれ」", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "孔子思想において特に司馬遷が重視したのは何ですか。", + "id": "tr-050-11-001", + "answers": [ + { + "text": "六芸", + "answer_start": 210, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "司馬遷から1世紀ほど後の文人揚雄は、『法言』君子篇にて「子長(司馬遷の字)は奇を愛す」と記した。司馬貞も『史記索隠』後序にて、「(司馬遷は)奇を好む」と書いた。ここで言う「奇」とは珍しいものや希なものを指すが、司馬遷は特に人物の中にある「奇」、すなわち類希な才能に重きを置いた。この傾向は、思想的に好まない人物、敗者や悪評を受けた人物の評価にも当てはめられた。例えば司馬遷の思想とは相容れない法家の韓非にも賞賛を加えている。それどころか、非情な役人であり彼自身にも刑を施した獄吏の中にさえ人物を見出し「酷吏列伝」を記した。ここには、司馬遷が持っていた『史記』に向かう私情を排した一貫する態度を表す。\n\n司馬遷が最も「奇」を見出した人物が項羽と李広であり、特に前者は歴史上において敗者でありながら、本来皇帝の伝記である「本紀」のひとつとして記されている。才気漲り、英雄的な生涯を送りながら最後は劉邦に敗れ自ら首を刎ねた項羽を高く取り上げた点は、司馬遷が持つ浪漫的性質が現れた一面とも評されている。", + "qas": [ + { + "question": "『法言』の著者は誰なの?", + "id": "tr-050-12-000", + "answers": [ + { + "text": "揚雄", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "司馬遷と揚雄と、誰がもっと先に生まれたの?", + "id": "tr-050-12-001", + "answers": [ + { + "text": "司馬遷", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『史記索隠』後序に「(司馬遷は)奇を好む」と書いたのは誰なの?", + "id": "tr-050-12-002", + "answers": [ + { + "text": "司馬貞", + "answer_start": 48, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "司馬遷の没年も明瞭ではない。『史記』に記述された最も遅い事件の頃には生きていたと考え勝ちだが、同記には後年の補筆が多い。ひとつの考察として武帝をどのように表しているかという点から検討が可能である。『封禪書』で司馬遷は武帝を「今の皇帝」という意味の「今上」と表記している。「武帝」と記された『孝武本紀』はこの『封禪書』の写しであり、後年に加えられた可能性を否定できないが、『衛將軍驃騎列傳』など補筆と考えにくい箇所でも「武帝」が使われる点から、司馬遷は武帝の死後、諡号が贈られた時には生きていたと考えられる。", + "qas": [ + { + "question": "司馬遷と武帝と、もっと先に亡くなったのは誰だと考えられますか。", + "id": "tr-050-13-000", + "answers": [ + { + "text": "武帝", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "グリム童話", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "『グリム童話集』(独:GrimmsMärchen)は、ヤーコプとヴィルヘルムのグリム兄弟が編纂したドイツのメルヒェン(昔話)集である。\nメルヒェンとは「昔話」を意味するドイツ語で、グリム兄弟はメルヒェンを収集したのであり、創作した(創作童話)のではない。\n正式なタイトルは『子どもと家庭のメルヒェン集』(独:Kinder-undHausmärchen)で、1812年に初版第1巻(86編)、1815年に第2巻(70編)が刊行されている。\n兄弟はその後7回改訂版を出し、1857年の第7版が決定版とされている。\n現在170以上の言語に翻訳され、世界で最も多くの言語に翻訳され、最も多くの人々に読まれ、最も多くの挿絵が描かれた文学とされている。\nこの書物に影響され、各国で昔話収集が盛んになり、昔話や民話の研究が新たな学問分野として立ち上がることになる。", + "qas": [ + { + "question": "『グリム童話集』の決定版は第何版ですか?", + "id": "tr-051-00-000", + "answers": [ + { + "text": "第7版", + "answer_start": 240, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『子どもと家庭のメルヒェン集』の第1巻と第2巻はどちらの方が収められている話の数が多いですか?", + "id": "tr-051-00-001", + "answers": [ + { + "text": "第1巻", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『グリム童話集』はどれくらいの言語に翻訳されているの?", + "id": "tr-051-00-002", + "answers": [ + { + "text": "170以上", + "answer_start": 257, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『グリム童話集』の���定版は何年に出版されましたか?", + "id": "tr-051-00-003", + "answers": [ + { + "text": "1857年", + "answer_start": 234, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "『グリム童話集』が成立したのは、フランス革命の後ナポレオン・ボナパルトによりドイツが占領されたので、ナショナリズム高揚の動きがドイツ国内に広まっていたころである。\nこのような状況のもとで、それまで芸術家主義的に展開していたドイツ・ロマン主義運動は一転して土着の民衆文化に目を向けるようになり、その一環として民謡やメルヒェンの発掘収集を進めるようになった。\nこうした収集の先駆的業績としては、ロマン主義以前、シュトルム・ウント・ドランク運動の提唱者であったヘルダーによる『民謡集』(1778年–79年)があり、グリム兄弟以前には他にもムゼーウスの『ドイツ人の口承メルヒェン集』(1782-1786年)、ナウベルトの『ドイツ人の新しい口承メルヒェン集』(1789-1792年)、『グリム童話集』の数ヶ月前に刊行されたビュッシングの『民間伝説、メルヒェン、聖者伝説』(1812年)など数種類のメルヒェン集が刊行されている。\n1808年にはグリム兄弟と同姓の(まったく血縁関係のない)A.L.グリムによる『子どもの童話集』も出ているが、『グリム童話集』が出た当時はこちらのグリムによる本もよく売れていたために、兄弟の生前はしばしば両者が混同された。", + "qas": [ + { + "question": "『民間伝説、メルヒェン、聖者伝説』と『子どもの童話集』はどちらが先に刊行されましたか?", + "id": "tr-051-01-000", + "answers": [ + { + "text": "『民間伝説、メルヒェン、聖者伝説』", + "answer_start": 363, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "フランス革命後にドイツを占領した人は誰?", + "id": "tr-051-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ナポレオン・ボナパルト", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『民謡集』は誰によって刊行されたの?", + "id": "tr-051-01-002", + "answers": [ + { + "text": "ヘルダー", + "answer_start": 227, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『子どもの童話集』は誰によって刊行されたの?", + "id": "tr-051-01-003", + "answers": [ + { + "text": "A.L.グリム", + "answer_start": 438, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "こうした流れの中で1806年、ロマン派の詩人ブレンターノとアルニムによる民謡集『少年の魔法の角笛』が刊行された。\nこの民謡集には恩師であるサヴィニーの仲介によってヤーコプ・グリムも収集の協力をしており、その後この民謡集の続編となるメルヒェン集が計画されると、ブレンターノはグリム兄弟にもメルヒェン収集の協力を依頼した。\nこのとき兄弟はブレンターノから、画家のフィリップ・オットー・ルンゲが方言で書き留めた二つのメルヒェン「猟師とその妻」と「ねずの木の話」を渡されており、兄弟のメルヒェン収集・編纂はこの二つのメルヒェンと、『少年の魔法の角笛』におけるブレンターノの再話法とによって方向付けられることになった。\n兄弟は口伝えと文献のふたつの方向からメルヒェン収集を進め、収集の成果である53篇をブレンターノに送った。\nしかしブレンターノから音沙汰がなくなったため、ブレンターノとは別に自分たちの童話集をつくることに決め、あらかじめ取っておいた写しをもとに『グリム童話集』の編纂を進めていった。\nその後ブレンターノのほうの企画は立ち消えとなり、ブレンターノはグリムから送られた原稿も返却しないまま紛失してしまったが、この初期の原稿は19世紀末になって、アルザスのエーレンベルク修道院で発見されており(エーレンベルク稿)、今日グリム兄弟によって加筆修正された刊本と原型を比較するための貴重な資料となっている。", + "qas": [ + { + "question": "ブレンターノとアルニムは何派の詩人でしたか?", + "id": "tr-051-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ロマン派", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヤーコプ・グリムは誰の仲介を受けて『少年の魔法の角笛』の民謡収集の協力をしましたか?", + "id": "tr-051-02-001", + "answers": [ + { + "text": "サヴィニー", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "エーレンベルク稿が発見された施設はどこ?", + "id": "tr-051-02-002", + "answers": [ + { + "text": "エーレンベルク修道院", + "answer_start": 529, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "兄弟は、誰から「猟師とその妻」と「ねずの木の話」を渡されたの?", + "id": "tr-051-02-003", + "answers": [ + { + "text": "フィリップ・オットー・ルンゲ", + "answer_start": 179, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "アルニムから自分たちの童話集出版を後押しされたグリム兄弟は、アルニムの仲介でベルリンの出版者ゲオルク・ライマーを版元に決め、1812年のクリスマスに『子どもと家庭のメルヒェン集』初版第1巻を刊行した。\nこの巻には86篇のメルヒェンが収められ、それぞれに学問的注釈をつけた付録が施されていた。\nしかし、この子ども向けの本と学問的資料との間のどっちつかずの体裁は、批判を呼んだ。\n86篇収めた第1巻の売れ行きは好調とはいえなかったが、新たに70篇を集めて1815年に刊行された第2巻はさらに売れ行きが悪く、このため計画が持ち上がっていた第3巻は実現しなかった。\n1819年に刊行された第2版は、弟ルートヴィヒ・グリムによる2枚の銅版画が口絵に入れられ、注釈も別冊として分離されたので、より親しみやすいつくりに変えられた。", + "qas": [ + { + "question": "『子どもと家庭のメルヒェン集』初版第1巻の刊行年はいつ?", + "id": "tr-051-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1812年", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "グリム兄弟のうち、弟の名前は何?", + "id": "tr-051-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ルートヴィヒ・グリム", + "answer_start": 296, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『子どもと家庭のメルヒェン集』の第2版は何年に刊行されたの?", + "id": "tr-051-03-002", + "answers": [ + { + "text": "1819年", + "answer_start": 279, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『子どもと家庭のメルヒェン集』の第2版に印刷されている銅版画は誰が描いたの?", + "id": "tr-051-03-003", + "answers": [ + { + "text": "ルートヴィヒ・グリム", + "answer_start": 296, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1816年にはデンマーク語で、1820年にはオランダ語で『グリム童話集』抜粋の翻訳が出ており、1823年にはエドガー・テイラー(EdgarTaylor)による英訳版のグリム童話選集『ドイツの民衆メルヒェン集』が、当時の人気画家ジョージ・クルックシャンクの挿絵をつけて刊行され大きな反響を呼んだ。\n同年、兄弟はこのイギリス版を手本として『グリム童話集』の選集版『グリム童話名作選集』(「小さい版」)を作り刊行した。\nこれには第2版『子どもと家庭の童話集』の170編から、子どもにふさわしいと思われるメルヒェンを50選んで収録しており、ルートヴィヒによる7枚の銅版画も挿絵として付けられている。\nこの廉価な普及版はもとの2巻本よりもはるかに売れ行きがよく(ヴィルヘルム・グリムの生前1859年までの間に9版まで出版)、グリム童��の普及に貢献した。\n『グリム童話集』がはっきりした成功を収めたのは、1837年に出版社をゲッティンゲンのディーテリヒス社に変えて出された第3版からである。\nその後『グリム童話集』はいくつかの話を加えたり入れ替えたりしつつ、兄弟の生前に7版まで改訂された。\n収録話数の変遷は以下のようになる。", + "qas": [ + { + "question": "『グリム童話集』抜粋の翻訳がいち早く出版されたのはデンマーク語ですか、それともオランダ語ですか?", + "id": "tr-051-04-000", + "answers": [ + { + "text": "デンマーク語", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『グリム童話集』を英語訳した人は誰ですか?", + "id": "tr-051-04-001", + "answers": [ + { + "text": "エドガー・テイラー", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『グリム童話名作選集』が刊行されたのは何年ですか?", + "id": "tr-051-04-002", + "answers": [ + { + "text": "1823年", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『子どもと家庭の童話集』と『グリム童話名作選集』はどちらの方が収められている話の数が多いですか?", + "id": "tr-051-04-003", + "answers": [ + { + "text": "『子どもと家庭の童話集』", + "answer_start": 214, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "『グリム童話集』とそれまでのメルヒェン集との大きな違いは、後者がそれぞれの物語を大きく脚色して長い作品に仕立てていたのに対し、グリムのそれでは一つ一つが短く、比較的口承のままのかたちを保っていたことにあった。\nしかしそのために、文章が粗野である、話の内容や表現が子ども向きでない、あまりに飾り気がないといった批判を受け、以降の版ではこれらの点について改善が図られるようになった。\n具体的には、風景描写や心理描写、会話文が増やされ、また過度に残酷な描写や性的な部分が削除され、いくつかの収録作品は削除された。\nこのような過程を経て『グリム童話集』は、庶民が「語り伝えたメルヒェン」から市民が「読むメルヒェン」になっていったのである。\nなお兄弟のうち初期の収集にあたっては主にヤーコプが仕事の中心を担っていたのだが、後の版のこのような改筆に当たったのは主にヴィルヘルムであり、メルヒェン集に学問的性格をもとめていたヤーコプのほうは次第にこの仕事から手を引くようになった。", + "qas": [ + { + "question": "グリム兄弟のうち、初期の収集で中心的に仕事をしたのは誰ですか?", + "id": "tr-051-05-000", + "answers": [ + { + "text": "ヤーコプ", + "answer_start": 336, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "グリム兄弟のうち、メルヒェン集に学問的性格をもとめていたのは誰ですか?", + "id": "tr-051-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ヤーコプ", + "answer_start": 336, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ヴィルヘルムは加筆修正の際に、メルヒェン集の購入者である当時の都市富裕市民(独:Bürger)の道徳観に合わせて記述を修正したといわれている。\n特にヴィルヘルムは物語から、妊娠などの性的な事柄をほのめかす記述を神経質なまでに排除している。\nまた近親相姦に関わる記述も削除や修正がなされている。\nこのほか、「ヘンゼルとグレーテル」「白雪姫」など、子を虐待する実母が出てくる話が、購買者である母親への配慮から後の版で継母に変えられているものが相当数存在する。\nしかしこれらの書き換えに比べると、ヴィルヘルムは刑罰の場面などの残虐な描写については意外なほど寛容で、例えば「灰かぶり(シンデレラ)」の最後で継姉たちの目を鳩に突かせて盲目にするなど、初版にはない復讐の場面が入れられたり、話によっては後の版のほうが却って残虐性が増しているようなものもある。\nこのために『グリム童話集』は子どもへの読み聞かせに適しているか、あるいはそのままの形で読み聞かせてよいのかどうか、といった点が、初版刊行時以来しばしば議論の的となっている。\n物語内の少女から積極性や能動性を奪ったという指摘がアメリカの学者からなされているが、最近の研究ではグリム兄弟による中世化の結果、性別役割分担で消費者にされてしまった消極的な近代の女性像ではなく、生産者であったたくましく積極的であった近代以前(近世・中世)の女性像も保持されている(例えば「灰かぶり」)ことが、日本の学者によって指摘されている。\nこのほか人種差別的な偏見が見られることなどが指摘されているが、グリム兄弟により挿入されたというより、当時の人々の間で持たれていた偏見がそのまま伝えられたと解釈すべきであろう。", + "qas": [ + { + "question": "「ヘンゼルとグレーテル」「白雪姫」では購買者の母親を配慮して、実母ではなく何に変更されましたか?", + "id": "tr-051-06-000", + "answers": [ + { + "text": "継母", + "answer_start": 206, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "子を虐待する実母が出てくる話は「ヘンゼルとグレーテル」と何ですか?", + "id": "tr-051-06-001", + "answers": [ + { + "text": "「白雪姫」", + "answer_start": 164, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "子を虐待する実母が出てくる話は「白雪姫」と何ですか?", + "id": "tr-051-06-002", + "answers": [ + { + "text": "「ヘンゼルとグレーテル」", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "『グリム童話集』は長い間、グリム兄弟がドイツ中を歩き回って、古くから語り継がれてきた物語をドイツ生粋の素朴な民衆たちから直接聞き集め、それを口伝えのかたちのまま収録して出版されたものだと一般には考えられてきた。\nこのように考えられてきたのは、一つにはグリム兄弟自身が童話集の序文でそのように宣言したためであったが、現実には「口伝えのかたちのまま」ではなく、兄弟の手によって少なからず手が加わっていることは前述したとおりである。\n取材源に関しても、『グリム童話集』にはラテン語の書物などを含む文献から取られた話が一定数含まれており(初版では全体の4分の1程度、第7版では5分の1程度の話が文献から取られている)、すべてが口伝えの聞き取りによっているわけではない。\nさらにほかの口伝えの情報源に関しても、ドイツの中世文学者ハインツ・レレケによる比較的近年の研究によって、上記の「ドイツ生粋の素朴な民衆から聞き取った」という通説が事実とは大きく異なっていたことが明らかにされている。\n実際には兄弟の聞き取りの取材源のほとんどが都市富裕市民の家庭であり、その中にはフランスなどをルーツとする人物が少なからず含まれていたのである。", + "qas": [ + { + "question": "『グリム童話集』はどこの国の童話集ですか?", + "id": "tr-051-07-000", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『グリム童話集』の初版と第7版ではどちらの方が文献から取られた話が多いですか?", + "id": "tr-051-07-001", + "answers": [ + { + "text": "初版", + "answer_start": 265, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『グリム童話集』には何語の文献から取られた話が入っていますか?", + "id": "tr-051-07-002", + "answers": [ + { + "text": "ラテン語", + "answer_start": 233, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ハインツ・レレケはドイツの何時代の文学者ですか?", + "id": "tr-051-07-003", + "answers": [ + { + "text": "中世", + "answer_start": 354, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "グリム兄弟自身は生前メルヒェンの取材源を公にしなかった。\n唯一の例外がカッセル地方の仕立て屋の妻であった「フィーマンおばさん」ことドロテーア・フィーマンであり、グリム兄弟は第2版の序文で、多数のメルヒェンを提供した彼女の貢献を称え、弟のルートヴィヒ・グリムが書いた彼女の肖像画を掲載したため、彼女は昔話の理想的な語り手として読者から親しまれきた。\nしかしこの人物は、実際には旧姓をピアソンという、フランスから逃れてきたユグノーの家庭の出で、普段はフランス語を話し『ペロー童話集』などもよく知っている教養ある婦人であったことがヴェーバー=ケラマンの研究によって明らかにされた。", + "qas": [ + { + "question": "「フィーマンおばさん」の本名は何ですか?", + "id": "tr-051-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ドロテーア・フィーマン", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ドロテーア・フィーマンの旧姓は何?", + "id": "tr-051-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ピアソン", + "answer_start": 190, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "フィーマンおばさんはどこから逃げて来た人でしたか?", + "id": "tr-051-08-002", + "answers": [ + { + "text": "フランス", + "answer_start": 198, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ドロテーア・フィーマンの素性は誰によって明らかになりましたか?", + "id": "tr-051-08-003", + "answers": [ + { + "text": "ヴェーバー=ケラマン", + "answer_start": 262, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "グリム兄弟の没後、ヴィルヘルムの息子のヘルマン・グリムは、兄弟による取材源のメモを公表した。\nこの際にヘルマンは、メモのなかにある「マリー」という女性について、これは自分の母(ヴィルヘルムの妻となったドルトヒェン・ヴィルト)の実家に住んでいた戦争未亡人のおばあさんで、昔話をよく知っていたと証言している。\nそのためにこの「マリーおばさん」は、先述の「フィーマンおばさん」と並び『グリム童話集』に貢献した昔話の語り手と信じられるようになった。\nところがこれも1975年に発表されたレレケによる研究で、このマリーとは実際には戦争未亡人の老婆「マリーおばさん」などではなく、ヘッセンの高官の家庭であるハッセンプフルーク家の令嬢マリー(de)のことであり、その母親はフランス出身のユグノーであったことが明らかにされた。", + "qas": [ + { + "question": "ヘルマン・グリムの父親は誰ですか?", + "id": "tr-051-09-000", + "answers": [ + { + "text": "ヴィルヘルム", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マリーおばさんの素性は誰によって明らかになりましたか?", + "id": "tr-051-09-001", + "answers": [ + { + "text": "レレケ", + "answer_start": 239, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ヘルマン・グリムの母親は誰ですか?", + "id": "tr-051-09-002", + "answers": [ + { + "text": "ドルトヒェン・ヴィルト", + "answer_start": 100, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『グリム童話集』に貢献した昔話の語り手は「フィーマンおばさん」ともう一人の女性は誰ですか?", + "id": "tr-051-09-003", + "answers": [ + { + "text": "「マリーおばさん」", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "『グリム童話集』の出版を軸として、グリム兄弟はメルヒェンの体系的な収集と研究(その範囲はヨーロッパを超えアメリカ大陸や東洋にも及んでいる)によってメルヒェン学を樹立した。\nその業績は他国の民話収集や研究に広い範囲で影響を与えている。\nイギリスでは1879年、グリムとウォルター・スコットに触発された人々によって英国フォークロア協会が設立され、その会員J.ジェイコブズによって1890年に『イギリス民話集』が刊行された。\nロシアでは19世紀なかばからグリム研究が開始され、アファナーシェフがグリムを範として『ロシア民話集』(1855年-1864年)を編纂し、ウラジミール・プロップがこれを受けて徹底的なグリム研究に基づくメルヒェン学を確立した。\nプロップの主著『昔話の形態学』(1928年)はフランス構造主義を先駆けた著作としても評価されている。\nフランスではP.ドラリュがグリム研究を踏まえて『フランス民話集』(1957年)を、イタリアではイタロ・カルヴィーノが『イタリア民話集』(1956年)を刊行している。", + "qas": [ + { + "question": "『イギリス民話集』と『ロシア民話集』はどちらが先に刊行されたの?", + "id": "tr-051-10-000", + "answers": [ + { + "text": "『ロシア民話集』", + "answer_start": 252, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『フランス民話集』と『イタリア民話集』はどちらが先に刊行されたの?", + "id": "tr-051-10-001", + "answers": [ + { + "text": "1956年", + "answer_start": 441, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『イギリス民話集』を刊行させた人は誰?", + "id": "tr-051-10-002", + "answers": [ + { + "text": "J.ジェイコブズ", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "『フランス民話集』を刊行した人は誰?", + "id": "tr-051-10-003", + "answers": [ + { + "text": "P.ドラリュ", + "answer_start": 379, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ドイツの民間伝承の背景として成立したグリム童話は、ときに民族主義的思想とのつながりが指摘されることもある。\n実際に第二次大戦下のドイツでは、ワイマール共和国時代に削除されていたグリム童話の残酷な部分が再度取り入れられ、闘争の理想化や権力の賞賛、人種政策の正当化のために利用されたと指摘されることもある。\n戦後まもない時期には、グリム童話の持つ残虐性の要素が収容所を生んだという極端な主張もなされ、1948年8月にイギリス占領軍によって、西ドイツ国内での『グリム童話集』の出版が一時禁止される事態となった。", + "qas": [ + { + "question": "西ドイツ国内での『グリム童話集』の出版が一時禁止される事態となったのはいつ?", + "id": "tr-051-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1948年8月", + "answer_start": 198, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1975年、グリム兄弟の故郷ハーナウから、「ブレーメンの音楽隊」の舞台ブレーメンまでを結ぶ600キロの街道が、ドイツ観光街道のひとつドイツ・メルヒェン街道として整備された。\nグリムゆかりの地や「いばら姫」の城があるザバブルクなどメルヒェン発祥の街70以上が参加する観光ルートとなっている。", + "qas": [ + { + "question": "ドイツ・メルヒェン街道の距離はどれくらいありますか?", + "id": "tr-051-12-000", + "answers": [ + { + "text": "600キロ", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「いばら姫」の城がある地域はどこ?", + "id": "tr-051-12-001", + "answers": [ + { + "text": "ザバブルク", + "answer_start": 107, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "日本におけるグリム童話の受容に関する研究は、1977年ドイツ・マールブルク大学に提出された野口芳子の博士論文が最初のものである。\nドイツ語で書かれたその内容は、部分的に要約されたものが本として出版されている。\n『グリム童話集』が最初に日本に導入されたのは、学校で使う英語教科書によってであり、グリム童話「釘」(KHM184)が紹介されている。\nこの話は2人の日本人によって邦訳されている。\n『グリム童話集』が一番最初に雑誌に紹介されたのは、『RŌMAJIZASSI』である。\nグリム童話「牧童」(KHM152)と「藁と炭とそら豆」(KHM18)が1886年にローマ字で訳されている。\n『グリム童話集』が最初に本として出版されたのは、1887年(明治20年)の桐南居士(菅了法)による『西洋古事神仙叢話』である。\n目次には10篇しか記載されていないが、実際は11篇収められている。\n「金の鳥」「忠臣ヨハネス」「踊ってすり切れた靴」「十二人の兄弟」「蜜蜂の女王」「灰かぶり」「金の毛が三本ある悪魔」などが収録されている。\nFairyTalesと書かれているので英語版を底本使ったと考えられるが、底本名だけでなく、グリム兄弟の名も書かれていない。\n最近の研究では、底本となった英語版はおそらくポール版であろうと考えられている。\n同年9月には統計学者でもあった呉文聰により「西洋昔噺第一号」として、「狼と七匹の子ヤギ」が「八ツ山羊」の題でカラー版仕掛け絵本として出版されているが、ここではなぜか子ヤギの数が8匹に変えられている。\n同年9月には中川霞城が「狼と七匹の羊」を雑誌『少国民』に訳出し、1889年(明治22年)10月には国語学者の上田万年が同じ話の翻案『おほかみ』を刊行しており、1895年(明治28年)には巖谷小波が同じ話を「子猫の仇」という題で猫の話に置き換えた翻案を出している。", + "qas": [ + { + "question": "『グリム童話集』の中で、最初に日本に導入された話のタイトルは何?", + "id": "tr-051-13-000", + "answers": [ + { + "text": "「釘」", + "answer_start": 151, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「藁と炭とそら豆」が掲載された雑誌名は何?", + "id": "tr-051-13-001", + "answers": [ + { + "text": "『RŌMAJIZASSI』", + "answer_start": 220, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『RŌMAJIZASSI』に初めてグリム童話が紹介されたのは何年?", + "id": "tr-051-13-002", + "answers": [ + { + "text": "1886年", + "answer_start": 273, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "雑誌『少国民』に掲載された「狼と七匹の羊」を訳した人は誰?", + "id": "tr-051-13-003", + "answers": [ + { + "text": "中川霞城", + "answer_start": 667, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1919年(大正7年)創刊の『赤い鳥』では、鈴木三重吉がグリムを素材とする童話を数話書いている。\n一方で大正期には、童話研究が進むとともに国民教育的な受容からの脱却もはじまっており、中島孤島が訳した『グリムお伽話』(1916年)、『続グリムお伽話』(1924年)は、岡本帰一の挿絵が好評で人気を博したが、原文の内容に添おうとしつつ改変が施されたものである。\n原文に忠実な訳の出現は1925年(大正13年)の金田鬼一による全訳本をまたなければならない(現在岩波文庫に収録)。\n1925年(大正13年)には金田鬼一による初の全訳が出ている(現在岩波文庫に収録)。\n第二次大戦期は政府の出版統制によってグリム童話の翻訳は一時下火となるが、戦後ふたたび注目され、以後原著に忠実な翻訳と教育的配慮から改変した訳との二つの系統で、途切れることなく翻訳や再話が出版され続けている。", + "qas": [ + { + "question": "『グリムお伽話』と『続グリムお伽話』で翻訳を担当した人は誰ですか?", + "id": "tr-051-14-000", + "answers": [ + { + "text": "中島孤島", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "パブリックアート", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "パブリックアートとは、美術館やギャラリー以外の広場や道路や公園など公共的な空間に設置される芸術作品を指す。設置される空間の環境的特性や周辺との関係性において、空間の魅力を高める役割をになう、公共空間を構成する一つの要素と位置づけされる。記念碑的なものより、象徴的なもの、コンセプチュアルなもの、建築の壁画、音、風、光などを利用したものも含まれる。\n\nパブリックアートの目的は、\n\n一つには芸術作品を街や公園に置いて市民に身近なものにするということ、\n一つには芸術作品の設置によってその都市・場所・住民の歴史、気概、願いを形にして、公共の福祉の向上に寄与し、街づくりに結びつけたり地域共同体の活性化に結び付けたりその都市に文化価値を付け加えたりすること\nである。", + "qas": [ + { + "question": "美術館やギャラリー以外の広場や道路や公園など公共的な空間に設置される芸術作品を何といいますか。", + "id": "tr-052-00-000", + "answers": [ + { + "text": "パブリックアート", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "パブリックアートという用語は第二次大戦後のアメリカ合衆国で誕生しヨーロッパに広まった。日本には1990年前後に用語や概念が導入されたが、それ以前にも「野外彫刻」などの名で実践されていた。\n\nパブリックアートという語は各国の美術界の中で重要なものになりつつある。設置を依頼する政府・自治体・企業、設置される場所のコミュニティや住民、設置を企画するキュレーター、設置する土地の特殊性に対応すること(サイト・スペシフィック)を考えコミュニティとも協力しながら作品作りを行う美術家など、多数の人の協力や理解によって多くの作品が作られている。", + "qas": [ + { + "question": "パブリックアートという用語はどこで誕生したの?", + "id": "tr-052-01-000", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ合衆国", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "公共空間での芸術活動の歴史は古代から連綿と続いている。共同体が共有した洞窟壁画や集落の石仏などの偶像や、都市民が資金を出し合った彫刻や教会、権力者が都市や国土を壮麗にするため作らせた彫刻・建築なども公共的な芸術といえる。近代に入り芸術の自律性が確立した後、芸術は芸術家が個人的な表現のために行うものへと変わっていったが、彫刻家は政府や市民の求めに応じて公共空間に置く記念碑的な像の制作を手がける機会も多く、オーギュスト・ロダンの『カレー市民』などのように公共の発注ですぐれた表現が市内に置かれることもあった。\n\nパブリックアートが生まれたアメリカでは、大恐慌後の1930年代、ニューディール政策の下で、公共事業促進局の手で「連邦美術計画」が進められ、多くの失業美術家を雇って壁画や公共建築の彫刻を作らせるなど芸術家支援策が行われた。政府が直接芸術支援に介入したこの政策で、市民の身近に芸術作品が行き渡る効果が得られた。その後、戦後アメリカでは連邦政府や地方政府が芸術家支援のため積極的に芸術作品を発注したほか、1950年代-1960年代の都市再開発政策の中で都市に芸術作品が置かれるようになり、パブリックアートという言葉が誕生した。", + "qas": [ + { + "question": "パブリックアーはどこで生まれた?", + "id": "tr-052-02-000", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ", + "answer_start": 269, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "日本では、山口県宇部市が1961年に常盤公園で行った「宇部市野外彫刻展」をきっかけに、1964年より買い上げた彫刻で市内を飾る事業が策定された。また1963年には神戸市が「須磨離宮公園現代彫刻展」を開始し、同様の買い上げと市内設置事業を行った。宇部と神戸の両方がそれぞれ重ならないよう隔年で野外彫刻展を行い、ともに買い上げた作品で市内を飾り、市民文化の啓蒙を図るようになったことは、日本各地の都市に影響を与えた。「地方の時代」が強調されるようになった1970年代後半以降は野外彫刻展・彫刻公園・彫刻の散歩道・シンポジウム開催など、「彫刻のある街づくり」が各地で競うように行われた。一方、横浜市は1968年より大通り公園などに有名作家の作品を置くようになったが、これは市民教育のために彫刻を置く他都市の理念とは異なり、大通り公園や公共空間の、ひいては横浜の都市としての魅力を増進するためのものであり「彫刻による街づくり」といえるものであった。後には宇部や神戸ほか各地の都市でもこの考えは導入されるようになった。埼玉県東松山市では、著名な彫刻家・高田博厚一人に絞った作品を駅前の路上1kmにわたり展示する「高坂彫刻プロムナード【高田博厚彫刻群】」を1986年から展開している。\n\n1990年代の北川フラムのディレクションによるファーレ立川や南條史生のディレクションによるゆめおおおかなどの事例も有名である。\n\nまた、上記のような自治体主導の取り組みとは別に、企業等からの協賛をもとに駅や空港などの公共空間に壁画や彫刻等の設置活動を行う個別団体も存在する。", + "qas": [ + { + "question": "「宇部市野外彫刻展」はどこで開かれたか。", + "id": "tr-052-03-000", + "answers": [ + { + "text": "常盤公園", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「須磨離宮公園現代彫刻展」はいつ開始されたか。", + "id": "tr-052-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1963年", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ヒルズボロ(オレゴン州)", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ヒルズボロは、アメリカ合衆国オレゴン州の都市で、同州ワシントン郡の郡庁所在地である。最初の共同体が1842年に設立され、1850年にヒルズボロと命名された後、1876年にヒルズボロの市名で法人化された。トゥアラティン渓谷の中に位置し、マイクロプロセッサ・チップ製造業やそれに関連する供給業者など、多くの技術系企業が拠点を置いていることから、近隣地域のハイテク企業と合わせてシリコン・フォレストと呼ばれている。交通機関としてトゥアラティン・ヴァレー・ハイウェイ、サンセット・ハイウェイ、ヒルズボロ空港があるほか、トライメットが運営するMAXライトレールと呼ばれるライトレールが走っている。同市には高校が4校、中学校が4校ある。また、パシフィック大学がヘルス・プロフェッションズ・キャンパスを置いている。\n\nヒルズボロの人口は、2000年の国勢調査の時点で70,186人であった。2007年の時点における推定人口は88,300人で、ワシントン郡で第1位、オレゴン州でも第5位の人口を誇る都市となっている。さらに昼間の人口は、通勤通学者によって11万人にまで上る。2000年の調査によれば、同市の人種構成は約78%が白人、約19%がヒスパニックであった。また、同時点における平均世帯所得は51,737米ドルであった。", + "qas": [ + { + "question": "ヒルズボロの人口は、2000年の国勢調査の時点で何人でしたか。", + "id": "tr-053-00-000", + "answers": [ + { + "text": "70,186人", + "answer_start": 376, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2000年の調査によれば、ヒルズボロの人種構成で、白人は約何%を占めていますか。", + "id": "tr-053-00-001", + "answers": [ + { + "text": "約78%", + "answer_start": 500, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "2000年、ヒルズボロの平均世帯所得はいくらですか。", + "id": "tr-053-00-002", + "answers": [ + { + "text": "51,737米ドル", + "answer_start": 541, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヒルズボロには高校が幾つありますか。", + "id": "tr-053-00-003", + "answers": [ + { + "text": "4校", + "answer_start": 300, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ヒルズボロの内外でアメリカ合衆国国家歴史登録財に追加された歴史的資産の一つに、市の北部にあり1876年に完成したオールド・スコッチ・チャーチがある。オレンコの近くにあるインブリー・ファームには、住宅(1866年建築)とフランク・インブリー小屋があるが、両方とも地ビールメーカーのマクメナミンズによって工場直営パブとして使用されている。1935年に建築されたハロルド・ワズ・レイ邸はインテルのホーソン・ファーム・キャンパスの近くにある。ダウンタウンにある史跡に、ズーラ・リンクレイター邸(1923年竣工)、ライス=ゲイツ邸(1890年)、エドワード・シューマリック邸(1915年頃)、チャールズ・ショーリー邸(1908年頃)がある。リチャード・ヘレン・ライス邸は市北部のサンセット・ハイウェイに隣接している。旧ワシントン郡拘置所は元々ワシントン・カウンティー・フェアグラウンズに建っていたが、2004年に修復されてワシントン郡博物館に移設された。2007年、マニング=カムナ・ファームが国家歴史登録財された。マニング=カムナ・ファームの起源は1883年と古く、10の建物が建っている。", + "qas": [ + { + "question": "オールド・スコッチ・チャーチは何年に完成したか。", + "id": "tr-053-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1876年", + "answer_start": 46, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マニング=カムナ・ファームは何年に国家歴史登録財されたか。", + "id": "tr-053-01-001", + "answers": [ + { + "text": "2007年", + "answer_start": 422, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ヒルズボロ市は8つの計画区域に分けられており、それぞれが複数の地区を含んでいる。ヒルズボロの北東にあるイースト計画区域には、タナスボーン地区とオレゴン健康科学大学のウェスト・キャンパスがある。イースト区域のすぐ西に位置するノースイースト計画区域には、オレンコ地区、オレンコステーション地区、空港、ウェストユニオン地区がある。さらに西にはノースウェスト区域があり、ジャクソンスクール地区、サンライズ地区、グレンコー地区が含まれる。ヒルズボロの西端はウェスト区域があり、デニス地区、ガリバルディ地区、コネル地区が含まれる。", + "qas": [ + { + "question": "ヒルズボロ市はいつくの計画区域に分けられているの?", + "id": "tr-053-02-000", + "answers": [ + { + "text": "8つ", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ヒルズボロの夏は通常温暖であるが、一年を通して気温は太平洋の影響で穏やかである。ヒルズボロはウィラメット渓谷の内部に位置するため、冬に雨季があり、特に11月から3月までの降水量が多い。ヒルズボロの降水日数は161日である。1930年から1998年までの年間平均降水量は38インチであった。8月が最も気温が高く、同月の平均最高気温は華氏80.2度である。最も気温が低いのは1月で、平均最高気温は華氏45.3度である。年間の平均最高気温は華氏62.4度である。一方、平均最低気温が最も低いのは1月で華氏32.5度である。7月の平均最低気温が最も高く、華氏51.8度である。年間の平均最低気温は華氏41.3度である。", + "qas": [ + { + "question": "ヒルズボロの年間平均最低気温は何度?", + "id": "tr-053-03-000", + "answers": [ + { + "text": "華氏41.3度", + "answer_start": 294, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヒルズボロは何月に一番寒い?", + "id": "tr-053-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1月", + "answer_start": 185, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1930年から1998年までの年間平均降水量は何インチでしたか。", + "id": "tr-053-03-002", + "answers": [ + { + "text": "38インチ", + "answer_start": 134, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヒルズボロは何月に一番暑い?", + "id": "tr-053-03-003", + "answers": [ + { + "text": "8月", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ヒルズボロで最大被雇用者数を誇る業種は製造業で、労働力の24%を占めている。その次に、医療、教育、社会事業がそれぞれ市の労働力の15%を占めている。小売業が12%、建設業が7%を占め、残りの13%を行政、科学、学術、廃棄物管理が占めている。労働者の68%が一人で職場に通勤しており、うち8%が公共の交通機関を利用している。片道における平均通勤時間は24分である。\n\n数々の技術系企業がヒルズボロで稼動しており、オレゴン州のシリコン・フォレストの中核を成している。特に、インテルの最も大きな工場はヒルズボロにあり、ロンラー・エーカーズ、ジョンズ・ファーム、ホーソンファームの3つを中心に数々のキャンパスが点在し、合計で約16,000人の従業員が働いている。サン・マイクロシステムズ・ハイエンド・オペレーションズは、ヒルズボロに本社を置いている。他のハイテク企業でヒルズボロに施設を持つものの一つにYahoo!、FEICompany、クレデンス・システムズ、シノプシス、エプソン、TriQuintSemiconductorがある。また、ヒルズボロに本社を置いている会社に、コリリアン、ラティスセミコンダクター、ラディシス、プラナー・システムズがある。", + "qas": [ + { + "question": "ヒルズボロの片道における平均通勤時間は何分ですか。", + "id": "tr-053-04-000", + "answers": [ + { + "text": "24分", + "answer_start": 174, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "2006年3月、ジェネンテックはヒルズボロの100エーカーの土地に包装・流通施設を建設する計画を発表した。また、ヒルズボロはC2C、SouthernCrossCable、VSNLTranspacificという、太平洋を横断してアメリカ合衆国と結ぶ3つの光ファイバー・ケーブル・システムのランディング・ポイントを担っている。富士通とNECはかつて工場をヒルズボロに構えていた。さらに、RodgersInstruments、Soloflex、PizzaSchmizza、ParrLumberの本社がある。\n\nヒルズボロのハットフィールド・ガバメント・センター駅は、ポートランド都市圏ライトレールシステムの1つであるMAXブルーラインの終点である。MAXの存在はオレンコ・ステーション地区の歩行者に優しい地域社会の開発を促進させた。オレンコ・ステーションは全米住宅建築業者協会によって1999年の\"BestPlannedCommunity\"(最もよく計画された地域社会)に選ばれた。また、同地区は2006年にサンセット誌によって\"Bestnewburb\"(最良の新郊外)に選ばれた。\n\nヒルズボロの商業の中心地は、トゥアラティン・ヴァレー・ハイウェイとコーネル・ロード沿いに位置している。また、商業地であるタナスボーン地区は市の東端に位置している。同地区にはザ・ストリーツ・オブ・タナスボーンと呼ばれるライフスタイル・ショッピング・センターがある。5500万米ドルを費やした36万8000平方フィートのスペースを持つアウトドア型商業複合施設が、マイヤー・アンド・フランクを中心的テナントとして、2004年にオープンした。", + "qas": [ + { + "question": "ヒルズボロの100エーカーの土地に包装・流通施設を建設するという計画は何年に発表されたの?", + "id": "tr-053-05-000", + "answers": [ + { + "text": "2006年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "MAXブルーラインの終点は何駅?", + "id": "tr-053-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ハットフィールド・ガバメント・センター駅", + "answer_start": 258, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "全米住宅建築業者協会によって1999年の\"BestPlannedCommunity\"に選ばれたのはどこなの?", + "id": "tr-053-05-002", + "answers": [ + { + "text": "オレンコ・ステーション", + "answer_start": 363, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アウトドア型商業複合施設は何年にオープンしたの?", + "id": "tr-053-05-003", + "answers": [ + { + "text": "2004年", + "answer_start": 694, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ヒルズボロ市周辺の一帯には、6つのワイン醸造所がある。1970年設立のオーク・ノール・ワイナリーは、ワシントン郡では最古で最大のワイン醸造所である。市の北に位置するヘルヴェティア・ワイナリー・アンド・ヴィンヤーズは1980年代に設立された。市の南に位置するワイナリーに、ジプシー・ダンサー・エステート・ワイナリー、ラプター・リッジがある。これらヒルズボロ周辺の地域では、ピノ・ノワール、ピノ・グリ、シャルドネなどの種類のワインが生産されている。\n\n市内の病院業務は、ダウンタウンのトゥアリティ市民病院(TualityCommunityHospital)が行っている。1918年に開院したこの病院は167のベッドを持つ施設で、トゥアリティ・ヘルスケア(TualityHealthcare)によって運営されている。その他の重要な医療施設として、カイザー・パーマネント(KaiserPermanente)のサンセット・メディカル・オフィスと、プロビデンス・ヘルス・アンド・サービシズ(ProvidenceHealth&Services)の応急処置センター(immediatecarecenter)が共にタナズボーン地区にある。2007年、カイザー・パーマネントは138のベッドを持つ病院をタナズボーン地区の同社の敷地内に建てる認可が下りた。", + "qas": [ + { + "question": "ヒルズボロ市周辺の一帯には、幾つのワイン醸造所がありますか。", + "id": "tr-053-06-000", + "answers": [ + { + "text": "6つ", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ワシントン郡で一番古いワイン醸造所は何?", + "id": "tr-053-06-001", + "answers": [ + { + "text": "オーク・ノール・ワイナリー", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ヘルヴェティア・ワイナリー・アンド・ヴィンヤーズとオーク・ノール・ワイナリーと、どっちの方がもっと後に設立されたの?", + "id": "tr-053-06-002", + "answers": [ + { + "text": "ヘルヴェティア・ワイナリー・アンド・ヴィンヤーズ", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "トゥアリティ市民病院は何年に開院したの?", + "id": "tr-053-06-003", + "answers": [ + { + "text": "1918年", + "answer_start": 283, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ヒルズボロの人口は、1880年に402人、1900年に980人、1910年に2,016人であった。1910年の国勢調査によれば、ヒルズボロは郡内で最も人口が多い都市であった。1920年の国勢調査で、市の人口は2,468人に成長した。その後、1930年に3,039人、1940年に3,747人、1950年に5,142人、1960年に8,232となる。1970年、市の人口は15,365人に倍増したが、ビーバートンに最高人口を譲り、郡内2位の都市に転落した。市の人口は、1980年の国勢調査で27,664人、1990年の国勢調査で37,598人に成長した。\n\n2000年の国勢調査では、市の人口は70,187人で、25,079世帯、17,078家族が暮らしていた。人口密度は3,253.8/mi2(1,256.3/km2)だった。1,261.5/sqmi(487.1/km2)の平均密度に27,211軒の住宅が建っている。2007年現在、17,126軒の住宅はその持ち主によって利用されており、平均の住宅価格は246,900米ドルであった。\n\n市の人種構成は、白人77.50%、アジア6.53%、アフリカン・アメリカン1.22%、先住民0.82%、太平洋諸島系0.25%、その他の��種10.38%、および混血3.30%である。人口の18.90%はヒスパニックまたはラテン系だった。これは州全体の人種構成(白人93.45%、アフリカン・アメリカン2.17%、アジア3.75%、ヒスパニック7.63%)と大体同等の傾向である。", + "qas": [ + { + "question": "1880年のヒルズボロの人口は何人でしたか。", + "id": "tr-053-07-000", + "answers": [ + { + "text": "402人", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1920年のヒルズボロの人口は何人でしたか。", + "id": "tr-053-07-001", + "answers": [ + { + "text": "2,468人", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1950年のヒルズボロの人口は何人でしたか。", + "id": "tr-053-07-002", + "answers": [ + { + "text": "5,142人", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "25,079世帯のうち、37.9%が18歳未満の子供と一緒に生活しており、54.7%は夫婦で生活している。9.0%は未婚の女性が世帯主であり、31.9%は結婚していない。23.4%は1人以上の独身の居住者が住んでおり、5.3%は65歳以上で独身である。1世帯の平均人数は2.76人であり、結婚している家庭の場合は、3.28人である。\n\nこの都市内の住民は28.3%が18歳未満の未成年、18歳以上24歳以下が11.4%、25歳以上44歳以下が37.0%、45歳以上64歳以下が17.0%、および65歳以上が6.3%にわたっている。中央値年齢は30歳である。女性100人ごとに対して男性は105.6人である。18歳以上の女性100人ごとに対して男性は105.8人である。\n\nこの都市の世帯ごとの平均的な収入は51,737米ドルであり、家族ごとの平均的な収入は57,379米ドルである。男性は41,046米ドルに対して女性は30,172米ドルの平均的な収入がある。この地域の一人当たりの収入は21,680米ドルである。人口の9.2%および家族の6.0%は貧困線以下である。全人口のうち18歳未満の10.9%および65歳以上の7.2%の収入は貧困線以下の生活を送っている。2007年現在、25歳以上の人口の28%は学士号以上の学位を持っており、11%は準学士号を持っている。25歳以上の人口の15%は高校を卒業証書を持たず、22%は高校の卒業証書は持っているが大学の学位は持っていない。", + "qas": [ + { + "question": "この都市の世帯ごとの平均的な収入はいくら?", + "id": "tr-053-08-000", + "answers": [ + { + "text": "51,737米ドル", + "answer_start": 353, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "平均的な収入は男性が高い、女性が高い?", + "id": "tr-053-08-001", + "answers": [ + { + "text": "男性", + "answer_start": 391, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "2006年に、ヒルズボロ市では192件の暴力事件と2,752件の窃盗事件が報告された。暴力犯罪の発生率は10万人中223.5で、国内平均473.5やオレゴン州平均287を下回っている。窃盗事件の発生率は10万人中3,203で、国内平均3,334.5やオレゴン州平均4,402.4を下回っている。暴力事件には強姦、強盗、謀殺、故殺、加重暴行が含まれる。窃盗事件には、放火、自動車盗難、窃盗、住居侵入窃盗が含まれる。\n\nヒルズボロ市議会は、市支配人制の議会形態を採用している。6人の市議会議員と市長は選挙により選ばれるが、いずれも任期は4年で、最長でも2期連続の就任制限が課せられている。市長と市議会は、日常的な市政の指揮を担当する市支配人を任命する。政策決定の責任は市議会と市長にあるが、行政は市支配人と市支配人により任命された職員によって行われる。政府機能はヒルズボロ・シビック・センターに集約されており、市支配人事務所が収められている他、月2回の市議会会議もこの建物で行われる。2009年1月現在、市長をジェリー・ウィリー、市議会議員をマイク・カスティロ、オルガ・アクーニャ、ネニス・アンドリューズ、ダグ・ジョンソン、アロン・カールソン、エド・デニスが務めている。市支配人はサラ・��ョー・チャプレンが務めている。", + "qas": [ + { + "question": "2006年に、ヒルズボロ市では何件の暴力事件が報告されましたか。", + "id": "tr-053-09-000", + "answers": [ + { + "text": "192件", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ヒルズボロの公立学校はヒルズボロ公立学区により運営され、23校の小学校、4校の中学校、4校の高等学校が所属している。また、オルターナティブ・スクールが1校と、ヘア・フィールドと呼ばれる競技場がある。ヒルズボロ公立学区が対象とする自治体に、ヒルズボロ、ショールズ、リードヴィル、ノース・プレーンズ、ウェスト・ユニオンなどが含まれる。2006年現在の全生徒数は19,938人で、州内では4番目に大きな学区である。\n\n高等教育に関しては、オレゴン健康科学大学のウェスト・キャンパスと、オレゴン工科大学(OIT)のポートランド・ウェスト衛星キャンパスがある。OHSUのこのキャンパスは、元々はオレゴン大学院大学とOHSUのオレゴン国立霊長類研究センターが置かれていた敷地であった。OHSUキャンパスとOITキャンパスは、タナスボーン地区にある。パシフィック大学は、ヘルス・プロフェッションズ・キャンパスを、ダウンタウンのトゥアリティ市民病院の隣に構えている。その他の教育機関に、労働力研修センター(キャピタル・センター)と、フェニックス大学の支部があり、共にタナスボーンにある。\n\nまた、ヒルズボロには様々な私立の小学校や中等学校がある。主なものとして、フェイス・バイブル高等学校、セント・マシューズ教区立学校、トゥアラティン・ヴァレー・ジュニア・アカデミー、スワローテイル・スクール、ヘリテージ・クリスチャン・スクールがある。", + "qas": [ + { + "question": "ヒルズボロには幾つの公立小学校がありますか。", + "id": "tr-053-10-000", + "answers": [ + { + "text": "23校", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オレゴン健康科学大学のウェスト・キャンパスはどの都市に位置しているか。", + "id": "tr-053-10-001", + "answers": [ + { + "text": "ヒルズボロ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "フェイス・バイブル高等学校は私立なの、公立なの?", + "id": "tr-053-10-002", + "answers": [ + { + "text": "私立", + "answer_start": 500, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ヒルズボロ市内には2つの映画館が存在し、合計で29のスクリーンがある。また、オレゴン・コラール、男声のバーバーショップ・コーラス、ヒルズボロ交響楽団、ヒルズボロ・アクターズ・レパートリー・シアターも市内にある。ヒルズボロ交響楽団はシュテファン・ミンデの指揮の下、2001年に設立された。\n\nヒルズボロは図書館を2館運営している。2007年に開館した38,000平方フィート(3,500m2)の面積を持つ本館は、市の中央北部に位置している。もう一つの古く小さな図書館は、市の南西にあるシュート・パーク内にある。ヒルズボロの図書館はワシントン郡協同図書館サービス(WashingtonCountyCooperativeLibraryServices)の一員であるため、図書館相互貸借制度の下、市民は郡内の他の図書館を利用することができる。\n\nAMラジオ放送局KUIKと、週2回発行の新聞ヒルズボロ・アーガスは、ヒルズボロを拠点においている。アーガス紙は毎週火曜日と木曜日に発行されており、1873年から刊行されている。KUIKは1360の周波数で放送されている5,000ワットの放送局である。その他、オレゴニアンやウィラメット・ウィークなど、ポートランド都市圏のメディアも利用されている。", + "qas": [ + { + "question": "ヒルズボロ市内には幾つの映画館が存在しますか。", + "id": "tr-053-11-000", + "answers": [ + { + "text": "2つ", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヒルズボロは図書館の本館は何年に開館したか。", + "id": "tr-053-11-001", + "answers": [ + { + "text": "2007年", + "answer_start": 164, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アーガス紙は何年から刊行されているか。", + "id": "tr-053-11-002", + "answers": [ + { + "text": "1873年", + "answer_start": 442, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "AMラジオ放送局KUIKはどこを拠点においているか。", + "id": "tr-053-11-003", + "answers": [ + { + "text": "ヒルズボロ", + "answer_start": 391, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "マルコ・ポーロ", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "マルコ・ポーロは商取引を父ニッコロー・ポーロと叔父マッフェーオ・ポーロに学んだ。1271年、父・叔父と共にアジアに向け出発し、以降24年間にわたりアジア各地を旅する。帰国後、ジェノヴァとの戦争に志願し、捕虜となって投獄されるが、そこで囚人仲間に旅の話をし、これが後に『東方見聞録』となった。1299年に釈放された後は豪商になり、結婚して3人の子供に恵まれた。1324年に没し、サン・ロレンツォ教会に埋葬された。\n\n彼の先駆的な冒険は当時のヨーロッパ地理学にも影響を与え、フラ・マウロの世界図が作成された。またクリストファー・コロンブスなど多くの人物に刺激を与えた。マルコ・ポーロの名はマルコ・ポーロ国際空港やマルコポーロヒツジにも使われ、彼の生涯をテーマにした小説や映画なども製作された。", + "qas": [ + { + "question": "マルコ・ポーロの父は誰ですか。", + "id": "tr-054-00-000", + "answers": [ + { + "text": "ニッコロー・ポーロ", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『東方見聞録』は誰の著書ですか。", + "id": "tr-054-00-001", + "answers": [ + { + "text": "マルコ・ポーロ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "マルコ・ポーロの遺体はどこに埋葬されたか。", + "id": "tr-054-00-002", + "answers": [ + { + "text": "サン・ロレンツォ教会", + "answer_start": 188, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "マルコ・ポーロがいつ、どこで生まれたか正確には分かっておらず、現代の説明はほとんどが推測である。その中で最も引用される情報は1254年生まれというものである。生誕地は一般にヴェネツィア共和国だったと受け取られており、これも正しい場所は不明ながら多くの伝記にて同様に書かれている。生家は代々続く商家で、彼の父親ニコーロは中東貿易に従事する商人として活躍し、財と地位を成しつつあった。ニコーロとマフェオの兄弟はマルコが生まれる前に貿易の旅に出発し、コンスタンティノープルに住み着いた。政変が起こると予測した彼らは、1260年に財産をすべて宝石に換えてその地を離れ、毛皮貿易で栄えるクリミアへ向かった。『東方見聞録』によると、彼らはアジアを東へ向かい、クビライとも謁見しているという。この間、マルコの母親は亡くなり、彼は叔父と叔母に養育された。マルコはしっかりした教育を受け、外貨や貨物船の評価や取り扱いなど商業についても教わったが、ラテン語を履修する機会は持てなかった。", + "qas": [ + { + "question": "最も引用される情報では、マルコ・ポーロは何年生まれですか。", + "id": "tr-054-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1254年", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "マルコ・ポーロの生誕地はどこだと一般的に受け取られていますか。", + "id": "tr-054-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ヴェネツィア共和国", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1269年、ニコーロとマフィオの兄弟はヴェネツィアに戻り、初めてマルコと会った。そして1271年後半に兄弟は17歳のマルコとともに後に『東方見聞録』に記録されるアジアへの旅に出発した。一行が富と宝を得て戻ってきたのは24年後の1295年、全行程15,000kmの旅であった。\n\n彼らが帰還してから3年後、ヴェネツィアは敵対していたジェノヴァと交戦状態に入った。マルコは兵士として志願し従軍したが、ジェノヴァに捕らえられた。数ヶ月の収監中、彼は旅の詳細を口述し、これを書き留めたのが、彼と同じく投獄されていた職業的著述家のルスティケロ・ダ・ピサであった。しかしピサは、ここに彼自身が聞きかじった物事や他の逸話や中国からもたらされた伝聞などを勝手に加えてしまった。この記録は、マルコがアジアを旅したことを記録した『東方見聞録』として有名になり、中国、インド、日本を含む極東の内実に関する包括的な視点に立った情報を初めてヨーロッパにもたらした。マルコは1299年8月に釈放され、父と叔父がヴェネツィア市内の中心部に購入した広大な屋敷に戻ることができた。事業は活動を継続しており、マルコはすぐに豪商の仲間入りを果たした。ただし、その後マルコは遠征への出資こそするも、彼自身はヴェネツィアを離れなかった。1300年、マルコは商人ヴィターレ・バドエルの娘ドナータ・バドエルと結婚し、ファンティーナ、ベレーラ、モレッタと名づけた3人の娘に恵まれた。", + "qas": [ + { + "question": "ニコーロとマフィオの兄弟が初めてマルコと会ったのは何年ですか。", + "id": "tr-054-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1269年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ニコーロとマフィオの兄弟は1271年後半、どこに旅しますか。", + "id": "tr-054-02-001", + "answers": [ + { + "text": "アジア", + "answer_start": 80, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1271年にアジアへ出発したマルコたちは何年に戻ってきますか。", + "id": "tr-054-02-002", + "answers": [ + { + "text": "1295年", + "answer_start": 113, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "マルコは誰と結婚しますか。", + "id": "tr-054-02-003", + "answers": [ + { + "text": "ドナータ・バドエル", + "answer_start": 571, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "マルコには『イル・ミリオーネ』というあだ名がついていた。『東方見聞録』でルスティケロは「それらはすべて賢明にして尊敬すべきヴェニスの市民、《ミリオーネ》と称せられたマルコ・ポーロ氏が親しく自ら目睹したところを、彼の語るがままに記述したものである。」と述べている。\nこのあだ名の由来には諸説あるがはっきりしたことは分からない。中国の人口や富の規模について百万単位で物語ったことからきたという説、またそれを大風呂敷だとして当時の人がからかい、そのように呼んだという説、またアジアから持ち帰った商品によって「百万長者」になったことを表すという説などがある。", + "qas": [ + { + "question": "マルコのあだ名は何?", + "id": "tr-054-03-000", + "answers": [ + { + "text": "『イル・ミリオーネ』", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『イル・ミリオーネ』は誰を指すのですか。", + "id": "tr-054-03-001", + "answers": [ + { + "text": "マルコ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "マルコ・ポーロは、自らは渡航しなかったが日本のことをジパング(Zipangu)の名でヨーロ���パに初めて紹介した。バデルが校正したB4写本では、三章に亘って日本の地理・民族・宗教を説明しており、それによると中国大陸から1,500海里(約2,500km)に王を擁いた白い肌の人々が住む巨大な島があり、黄金の宮殿や豊富な宝石・赤い真珠類などを紹介している。1274年、1281年の元寇についても触れているが、史実を反映した部分もあれば、元軍が日本の首都である京都まで攻め込んだという記述や日本兵が武器にしていた奇跡の石など、空想的な箇所もある。\n\n「黄金の国」伝説は、奥州平泉の中尊寺金色堂についての話や遣唐使時代の留学生の持参金および日宋貿易の日本側支払いに金が使われていた事によって、広く「日本は金の国」という認識が中国側にあったとも考えられる。また、イスラム社会にはやはり黄金の国を指す「ワクワク伝説」があり、これも倭国「Wa-quo」が元にあると思われ、マルコ・ポーロの黄金の国はこれら中国やイスラムが持っていた日本に対する幻想の影響を受けたと考えられる。", + "qas": [ + { + "question": "マルコ・ポーロは日本のことを何と紹介したか。", + "id": "tr-054-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ジパング(Zipangu)", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "マルコ・ポーロ以前にヨーロッパ人が中国を旅した他の例にはプラノ・カルピニがいる。しかし、彼の旅行の詳細は一般に広く知られることは無く、この点からマルコが先陣を切ったと思われている。クリストファー・コロンブスはマルコが描写した極東の情報に強く影響を受け、航海に乗り出す動機となった。コロンブスが所蔵した『東方見聞録』が残っており、ここには彼の手書き注釈が加えられている。ベント・デ・ゴイスも「東洋で君臨するキリスト教の王」についてマルコが口述した部分に影響され、中央アジアを3年間かけて4,000kmにわたり旅をした。彼は王国を見つけられなかったが、1605年には万里の長城に至り、マテオ・リッチ(1552年-1610年)が呼んだ「China」が、「Cathay」と同一の国家を指していることを立証した。", + "qas": [ + { + "question": "マルコ・ポーロとプラノ・カルピニと、誰がもっと先に中国を旅したの?", + "id": "tr-054-05-000", + "answers": [ + { + "text": "プラノ・カルピニ", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ディシディアファイナルファンタジー", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "『ディシディアファイナルファンタジー』(DISSIDIAFINALFANTASY、略称:DFFなど)は、スクウェア・エニックスより2008年12月18日に発売されたPlayStationPortable(PSP)専用のアクションゲームである。\n\n開発は「キングダムハーツシリーズ」などを手掛けた野村哲也を中心とするチームが行っており、「ファイナルファンタジーシリーズ」(以下『FF』)に登場した歴代のキャラクターを操作し1対1で戦う3Dのアクションゲームであり、また作品の垣根を越えたクロスオーバー作品として、シリーズ誕生20周年を記念して制作された。PSPのアドホックモードやPlayStation3(PS3)を介したネットワーク通信機能であるアドホック・パーティーを用いた対戦が可能である他、すれちがい通信を利用してゴーストと呼ばれる「キャラクターAI」を交換できる機能が盛り込まれた。これにより見知らぬプレイヤーとの対戦が可能となっている。\n\nストーリー展開は光と闇の双方の神々によって異世界から召喚されたシリーズキャラクターたちが、両陣営に分かれて戦うものとなっており、初代『FF』から『FFX』までの10作品の登場キャラクターが両陣営に1名ずつ配され、『FFXI』と『FFXII』からも隠しキャラクターとして1名ずつ登場する。この総勢22名が操作可能なプレイヤーキャラクターである。物語は光の陣営の10人の戦士がクリスタルの力に導かれ、カオスを倒すまでを描いている。\n\n本作の日本国内の販売実績は、発売週(初動)で約50万本、累積で約95.4万本に達している。初動50万本および2009年2月2日時点の累計84.7万本は、日本国内のPSPソフトの初動および累計で���に第3位(当時)の記録となる。\n\n2009年11月1日にはバージョンアップ版である『ディシディアファイナルファンタジーユニバーサルチューニング』(DISSIDIAFINALFANTASYUNIVERSALTUNING)が発売された。またディシディアシリーズ第2弾として『ディシディアデュオデシムファイナルファンタジー』が2010年9月に発表、2011年3月3日に発売されている。", + "qas": [ + { + "question": "ディシディアファイナルファンタジーはいつ発売されましたか?", + "id": "tr-055-00-000", + "answers": [ + { + "text": "2008年12月18日", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "今作の操作可能なプレイヤーキャラクターは何名ですか?", + "id": "tr-055-00-001", + "answers": [ + { + "text": "22名", + "answer_start": 572, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2009年11月1日に発売されたDFFのバージョンアップ版のタイトルは何ですか?", + "id": "tr-055-00-002", + "answers": [ + { + "text": "『ディシディアファイナルファンタジーユニバーサルチューニング』", + "answer_start": 778, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "DFFをプレイできる機器名は?", + "id": "tr-055-00-003", + "answers": [ + { + "text": "PlayStationPortable", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "元々のシリーズがRPGであることからARPGと対戦アクションゲームを足したイメージで開発されており、キャラクターの成長要素に比重が置かれているところが通常の対戦ゲームと異なる点である。RPGである従来シリーズとは一線を画した作品であり、そうした点を強調する意味も込めてジャンル名には「プログレッシブアクション」という名称が用いられた。\n\nタイトルに付けられた「ディシディア」とは、ラテン語やギリシア語で「異説」などを意味する中性名詞dissidiumの複数(主格/対格)形である。その名が示すとおり、世界観は本作オリジナルのものとなっており、舞台は本作のオリジナルキャラクターである調和の神「コスモス」と混沌の神「カオス」が、幾千年も争い続けてきた世界とされる。", + "qas": [ + { + "question": "通常の対戦ゲームと本作の違いは何ですか?", + "id": "tr-055-01-000", + "answers": [ + { + "text": "キャラクターの成長要素に比重が置かれている", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "本作のジャンル名は何と表明しているか", + "id": "tr-055-01-001", + "answers": [ + { + "text": "「プログレッシブアクション」", + "answer_start": 141, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "タイトルの「ディシディア」が意味するのは何ですか?", + "id": "tr-055-01-002", + "answers": [ + { + "text": "「異説」", + "answer_start": 201, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "本作は野村哲也が企画、立案を行っており、クリエイティブプロデューサーとして「一歩引いた立場で」ゲーム全体のプロデュースやサポート役も務めている。野村には2001年からPS2用に考えていた対戦ゲームの企画があり、スクウェア・エニックスがFFシリーズ20周年記念作品として「お祭り」的な要素のある作品を検討していた中で、この野村が温めていたアイデアと、若手スタッフの「新しいことをしたい」という意見とが結びつき、本企画が誕生した。キャラクターが集まって戦うというコンセプトはもともと『KH』で使うつもりだったが、ディズニーキャラクター同士が戦うのは良くないと判断があり、企画が『KH』から『FF』へとシフトした経緯がある。対応機種は、画面分割をせずに3D対戦ができるという点からPSPが採用され��。\n\n企画は2005年秋にまとまり、プロジェクトとして始動したのが2006年1月頃となる。開発期間はおおよそ2年。開発は当初の想定よりも長くかかり、発売は20周年ぎりぎり(正確には21周年当日)の2008年12月18日となった(FC版『FF1』と同じ発売日)。", + "qas": [ + { + "question": "本作の企画および立案を行った人物の名前は何ですか?", + "id": "tr-055-02-000", + "answers": [ + { + "text": "野村哲也", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "このゲームの対応機種としてPSPが採用された理由は何ですか?", + "id": "tr-055-02-001", + "answers": [ + { + "text": "3D対戦ができる", + "answer_start": 323, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "初代FF1はどの機器で遊べるの?", + "id": "tr-055-02-002", + "answers": [ + { + "text": "FC", + "answer_start": 460, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ディズニーキャラクターがでるスクエニのゲームシリーズは何ですか?", + "id": "tr-055-02-003", + "answers": [ + { + "text": "『KH』", + "answer_start": 239, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "開発チームは、『KHII』の戦闘シーンを担当したスタッフを主軸に構成される。開発前半期にコンセプトディレクターとしてチームの取りまとめを担った塩川洋介は過去に『KH』などを担当していた。プランニングディレクターとしてバトル全般のディレクションをした高橋光則は『KH』、『KH2』ではボス戦などを任されていた。シネマティクスムービークリエイティブディレクターとしてムービー全般のディレクションを行った野末武志は過去に『FFVIIAC』、『KH』などに関わった。メインプログラマーの池田隆児は過去に『KH』などを担当している。\n\n本作の開発には「若手スタッフにチャンスを作ろう」という意図があったことも関係して、若手スタッフが多いのも特徴。ゲーム全体のディレクションは『すばらしきこのせかい』でプランニングディレクターを担った荒川健がシニアディレクターとして担当した。そして、そんなチームに開発をまかせつつ、プレッシャーをあたえる役を担うのが本作の最年長スタッフとなるプロデューサーの北瀬佳範である。", + "qas": [ + { + "question": "開発チームはどのゲームの戦闘シーンを担当したスタッフを主軸に構成されたか?", + "id": "tr-055-03-000", + "answers": [ + { + "text": "『KHII』", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "本作のプランニングディレクターを務めた人物は誰ですか?", + "id": "tr-055-03-001", + "answers": [ + { + "text": "高橋光則", + "answer_start": 124, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "野末武志が本作で務めた役は何ですか?", + "id": "tr-055-03-002", + "answers": [ + { + "text": "シネマティクスムービークリエイティブディレクター", + "answer_start": 154, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "本作に関わった一番年上のスタッフが務めた役は何ですか?", + "id": "tr-055-03-003", + "answers": [ + { + "text": "プロデューサー", + "answer_start": 432, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "スタッフにはいちユーザーとしてFFをプレイしていた思い入れが強い世代が多く、その結果として原作をリスペクトした「深いネタ」が多く盛り込まれることになったという。中でもヘルプメッセージは、歴代のキャラクターたちが当時の画像と共にそのキャラクターの口調で説明する形式という非常に凝ったものとなっている。制作にあたっては、統一感を図るため歴代FFを全てプレイし直している。原作内で情報が少ない『FFIII』以前のボスキャラクターについては、ファンサイトなどを調べ、ファンの思い入れを崩さないように配慮されている。原作の忠実な再現にもこだわり、ソフトの対象年齢が上がることを知りつつも野村の判断により『FFVI』の衣装を身に着けていないトランス状態のティナを登場させた。こうした原作をリスペクトする開発様式については、ディズニーという原作がある『KH』シリーズのスタッフが主軸であったことがプラスに働いたという。\n\nキャラクターデザインは、これまでのシリーズ作品の多くでキャラクターデザインなどを手掛けてきた天野喜孝の原作発売当時の原画と、ゲーム中に登場する絵を融合させ、新たに全キャラクターを野村哲也が描き起こした。天野喜孝はサントラのパッケージなどにも使用されたコスモス陣営とカオス陣営の「メインビジュアル」のイラストレーションを担当している。声優については、既存作品で日本語ボイスがあるキャラクターは、一部の例外を除き、原則同一声優が続投している。この他、日本語版のナレーションには俳優の菅原文太が起用された。", + "qas": [ + { + "question": "本作のスタッフが制作にあたって、歴代FFを全てプレイし直した理由は何ですか?", + "id": "tr-055-04-000", + "answers": [ + { + "text": "統一感を図るため", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "コスモス陣営とカオス陣営の「メインビジュアル」のイラストレーションを担当したのは誰ですか?", + "id": "tr-055-04-001", + "answers": [ + { + "text": "天野喜孝", + "answer_start": 505, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "日本語版のナレーションの声の芝居を務めた人は誰ですか?", + "id": "tr-055-04-002", + "answers": [ + { + "text": "菅原文太", + "answer_start": 643, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "メインコンポーザーとして石元丈晴、アレンジャーとして関戸剛、鈴木光人らが加わり、スクウェア・エニックスの現役スタッフが担当している。本作のコンセプトに合わせ、『FFI』から『FFXII』までの歴代シリーズの曲が万遍なく使用されているのが特徴であり、エンディングでは野村の発案により、10作品のBGMのメドレーが使用された。TVCM(30秒)では「あの音が流れてきたら、うれしくないわけないだろ?」とのコピーが使用され、懐かしいBGMを聴くことができる点も本作の売りの1つとしている。オリジナルサウンドトラックでは、新規楽曲18曲に加え、本作で使用された歴代のシリーズの人気楽曲(アレンジ25曲、原作オリジナル11曲)が収録されている。また、本作の新楽曲として、カナダ出身の6人組のロックバンド「ユア・フェイバリット・エネミーズ」(以下YFE)が歌う英語歌詞による挿入歌『Cosmos』『Chaos』が使用された。作曲は石元、作詞はYFEのヴォーカリストであるアレックス・フォスターが担当している。男女のツインボーカルである点がYFEの起用要因であり、コスモスをイメージした『Cosmos』は女性ボーカルがメイン、ラスボス戦で使用されるカオスをイメージした『Chaos』は男性ボーカルがメインとなっている。なお、ゲーム内では、サントラ収録曲以外の原作曲も多数収録されており、そうした楽曲は、前述のゲーム内の「PPカタログ」で開放することで、BGMとして使用可能となる。", + "qas": [ + { + "question": "本作の音楽のメインコンポーザーは誰?", + "id": "tr-055-05-000", + "answers": [ + { + "text": "石元丈晴", + "answer_start": 12, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オリジナルサウンドトラックに収録された新規楽曲は全部何曲か?", + "id": "tr-055-05-001", + "answers": [ + { + "text": "18曲", + "answer_start": 261, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "本作の新規楽曲『Cosmos』『Chaos』を歌ったバンド名は何ですか?", + "id": "tr-055-05-002", + "answers": [ + { + "text": "「ユア・フェイバリット・エネミーズ」", + "answer_start": 346, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "本作について最初の発表がなされたのは2007年5月である。作品タイトルやロゴのみを記したティザーサイトが8日に開設され、12日、13日に開催された「スクウェア・エニックスパーティ2007」においてプロモーション映像と共に作品ジャンルやゲーム概要が明らかにされた。9月の「東京ゲームショウ2007」では映像のみの出展であったが、12月22日、23日に開催された「ジャンプフェスタ2008」は一般ユーザー向けの初の試遊の場となり、46台の大量の試遊台が設置された。翌2008年6月に公式サイトが正式稼動された。9月には発売日が公表され、併せてオリジナルデザインのPSP-3000同梱版の存在が明らかになった。10月の「東京ゲームショウ2008」では、神々2名と両陣営20名のキャラクターが出展映像の中で出揃い、11月の『FFXI』の公式ファンイベントにおいて『FFXI』からの隠しキャラクター、発売直前の12月15日にテレビ番組で放映された最終トレーラーで『FFXII』からの隠しキャラクターが公開された。\n雑誌広告やポスターなどで使用されたキャッチフレーズは「またお前と戦う時が来るとはな。」である。発売前のプロモーションでは「長年培ったFFファンのイメージを壊さない」ことを念頭に置き、FFの世界観とRPG的要素を前面に出す戦略をとった。テレビCMは、発売月である12月に入ると、サントリーとのコラボレーション商品である缶飲料『ディシディアファイナルファンタジーポーション』の15秒CM『乾杯』篇が、ゲームに先駆けて12月2日よりスタートした。追って11日よりゲーム自体の15秒CMも始まり、SCE枠で『FF』から『FFV』までのキャラクターが登場するCM、スクウェアエニックス枠で『FFVI』から『FFX』のキャラクターが登場するCMが流され始めた。18日の発売日を迎えると、SCE制作の30秒CM『あの、あの、あの篇』も放映開始となった。", + "qas": [ + { + "question": "本作のプロモーション映像が公開されたイベントは何?", + "id": "tr-055-06-000", + "answers": [ + { + "text": "「スクウェア・エニックスパーティ2007」", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "公式サイトが正式稼動されたのはいつですか?", + "id": "tr-055-06-001", + "answers": [ + { + "text": "2008年6月", + "answer_start": 231, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "缶飲料『ディシディアファイナルファンタジーポーション』はどの会社とのコラボ商品だったか?", + "id": "tr-055-06-002", + "answers": [ + { + "text": "サントリー", + "answer_start": 590, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "本作のPVが公開されたのは何月ですか?", + "id": "tr-055-06-003", + "answers": [ + { + "text": "5月", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "「ジャンプフェスタ2008」が開催された年は何年ですか?", + "id": "tr-055-06-004", + "answers": [ + { + "text": "2007年", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "発売後は、従来のFFシリーズのような広告宣伝費をかけ大量のCMを流す類のプロモーションではなく、インターネットによるユーザーの口コミを活用する戦略を採用した。本作にはユーザーがインターネット上に手軽に動画を公開できるよう意図したリプレイ機能がある。ユーザーがサイトに動画をあげてくれることによりコストをかけずに宣伝ができることを見込んでおり、公認はしないもののYouTubeやニコニコ動画などの動画投稿サイトへの投稿��制限しないとしている。さらに通信機能によって自力では困難なアイテムなどの入手ができる機能を持たせたことが功を奏し、ソーシャル・ネットワーキング・サービスなどでのオフ会も盛んに行われている。発売日の翌日には、スクウェア・エニックスの無料会員制サイト内にある3D仮想空間サービス「メンバーズバーチャルワールド」のリニューアルに合わせてディシディアFFの特設サイトが開設され、プレイ動画の公開が行えるようになり、投稿コンテストなどの企画も実施された。\nまた、本来は通信モードで用いるフレンドカードには、通信用途とは別の隠し機能があり、フレンドカードのメッセージ欄にパスワードを入力することで、予めゲーム内に組み込まれたレアアイテムやフレンドカードを出現させることができる。こうしたパスワードは各種雑誌やインターネットを通じて、発売直後から約三か月後の2009年4月まで、計16回に分けて段階的に公開された。これは、中古ソフトの流通を防ぐことを狙いとしていたが、同一機種のアクションゲームである『モンスターハンターポータブル2ndG』などと比べ中古流通量は多いとも言われる。", + "qas": [ + { + "question": "発売後の広告戦略では何を主に活用しますか?", + "id": "tr-055-07-000", + "answers": [ + { + "text": "ユーザーの口コミ", + "answer_start": 58, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ユーザーの口コミを活用する広告戦略のため追加された機能はなんですか?", + "id": "tr-055-07-001", + "answers": [ + { + "text": "リプレイ機能", + "answer_start": 114, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "「E3」が2007年からイベント規模を大幅に縮小したことを受けて、野村の意向により2007年、2008年共にE3での初出映像などは作成されず、情報公開は日本語版が発売されるまでの期間は日本国内を優先して行われていた。北米向けの公式サイトは日本語版が発売された2008年12月18日当日に開設され、欧州向けのプロモートは2009年5月から本格化した。同月14日には、ソニー・コンピュータエンタテインメント・アメリカ(SCEA)からPSP-3000他同梱版の存在と共に、北米版の発売日が公表され、6月に開催された北米最大級のゲーム見本市「E32009」は北米市場向けの試遊の場となり、同時に北米向けの新たなもトレーラーも公開された。欧州版の公式サイトは同月29日に開設され、英・独・西・仏・伊・露の6か国語対応となっている。また同日には、北米向けに北瀬佳範名義で「DISSIDIAFINALFANTASYDeveloperBlog」が開設され、開発スタッフによる開発秘話の掲載がスタートした。発売直前の同年8月にドイツのケルンで開催された欧州最大のゲーム見本市「Gamescom2009」は、欧州市場向けの試遊の場となった。", + "qas": [ + { + "question": "E3での初出映像が制作されなかった理由は何ですか?", + "id": "tr-055-08-000", + "answers": [ + { + "text": "「E3」が2007年からイベント規模を大幅に縮小", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "北米向けの公式サイトの開設はいつ?", + "id": "tr-055-08-001", + "answers": [ + { + "text": "2008年12月18日", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "欧州版の公式サイトが開設されたのは何月ですか?", + "id": "tr-055-08-002", + "answers": [ + { + "text": "6月", + "answer_start": 246, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "「Gamescom2009」が開かれたのはどの国ですか?", + "id": "tr-055-08-003", + "answers": [ + { + "text": "ドイツ", + "answer_start": 454, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "日本ではスクウェア・エニックスより2008年12月18日に発売された。なお本作は、FFシリーズ初のCEROレーティング「C」(15歳以上対象)の作品となる。これはティナがトランス(幻獣化)した際のビジュアルが理由とされる。\n\n売れ行きが好調であったため、当初は続編について期待する声も聞かれていたが、野村は構想はあるものの「現時点では続編の予定はない」とインタビューに答えていた。\n\n2009年11月1日には『ディシディアファイナルファンタジーユニバーサルチューニング』が発売された。これは北米と欧州で発売されたバージョンをベースとしており、変更点としてはキャラクターの性能の調整や新たな技の追加の他、新モード「アーケードモード」やデュエルコロシアムの最高難易度コースといった、更なるやり込み要素の追加などが挙げられる。オリジナル版からセーブデータを引き継ぐこともでき、その場合は4種類の引き継ぎパターンの中から選択することとなる。なお、音声は全編英語であるが、オプションでバトル時のみ日本語音声に切り替えることが可能。\n\n2010年9月には、ディシディアシリーズ第2弾として『ディシディアデュオデシムファイナルファンタジー』が2011年に発売されることが発表された。シリーズ上は続編であるが、物語上では本作で断片的に語られた「12回目の戦い」を描いている。本作に登場するキャラクターに加え、新たなキャラクターが多数参戦し、また新システムも追加されている。\n\n2010年9月16日より、PlayStationStoreにおいてオリジナル版のダウンロード配信が開始された。", + "qas": [ + { + "question": "CEROレーティングによると、本作の対象年齢は?", + "id": "tr-055-09-000", + "answers": [ + { + "text": "15歳以上", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "オリジナル版になかったゲームプレイモードは何ですか?", + "id": "tr-055-09-001", + "answers": [ + { + "text": "「アーケードモード」", + "answer_start": 305, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ディシディアシリーズ第2弾のタイトルは何ですか?", + "id": "tr-055-09-002", + "answers": [ + { + "text": "『ディシディアデュオデシムファイナルファンタジー』", + "answer_start": 488, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『ディシディアデュオデシムファイナルファンタジー』が発表されたのは何年か", + "id": "tr-055-09-003", + "answers": [ + { + "text": "2010年", + "answer_start": 462, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "発売前の評価として、2008年10月の「東京ゲームショウ2008」に出展された未発売作品を対象とした、日本ゲーム大賞2008「フューチャー部門」において、受賞作品の1つに選出された。また各種雑誌レビューにおいては、『週刊ファミ通』のクロスレビューにおいて10、9、9、8の36点と採点され、35点以上のソフトが対象となる「プラチナ殿堂」入りとなった。『電撃PlayStation』では、90、95、85、85の355点と採点され、また同誌のBUYERSGUIDEにおいてはS,A,B,C,D,Eの6段階でのA評価とされた。『ゲーマガ』では、「FF20周年」「対戦アクション」「キャラ育成」「懐かしBGM」に興味がある人に推薦できるとしている。\n\n発売後の評価では、『ファミ通PSP+PS3』では50時間ほどプレイした後でのレビューとして、「『FF』度」「シナリオ」「操作性」「爽快感」「やり込み度」の5項目について5点満点の5点と評価している。GAMEWatchでは、FFファン向けのソフトである点は否定できないとしたものの「満足度の高い良作」であるとレビューしている。発売から3箇月間のユーザーの得票を集計した『週刊ファミ通』のユーザーズアイでは、147票が集まり平均は9.05点となった(4点以下:1票、5-7点:11票、8点以上:135票)。また、2008年発売のソフトを対象にファンの投票を参考にして審査を行う『FAMITSUAWARDS2008』において、「優秀賞」11作品の中の1つに選出された。", + "qas": [ + { + "question": "『週刊ファミ通』のクロスレビューで総計何点もらいましたか?", + "id": "tr-055-10-000", + "answers": [ + { + "text": "36点", + "answer_start": 136, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「プラチナ殿堂」に入る基準は何点ですか?", + "id": "tr-055-10-001", + "answers": [ + { + "text": "35点", + "answer_start": 145, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「満足度の高い良作」と評価したのはどこですか?", + "id": "tr-055-10-002", + "answers": [ + { + "text": "GAMEWatch", + "answer_start": 422, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "『FAMITSUAWARDS2008』で「優秀賞」とされたのは全部何作品ですか?", + "id": "tr-055-10-003", + "answers": [ + { + "text": "11作品", + "answer_start": 638, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "2008年クリスマス直前週(12月15-21日)に発売された本作は、発売日には朝から長蛇の列が出来る店も見られた。初動(発売週の売上)は約50万本に達し、週間ランキングで1位となった(「エンターブレイン」発表:503,723本)(「アスキー総合研究所」発表:496,178本)(「メディアクリエイト」発表:489,000本)。発売当時の日本国内のPSPソフトの初動としては、モンスターハンターシリーズの『MHP2G』『MHP2』に続く歴代3位の売上であった。初動が好調だった理由として、メディアクリエイトでは『FF』シリーズの「ファンに対する訴求力が強かったことが要因」であると分析している。\n\nまた、発売月である2008年12月の月間ランキングで1位、翌2009年1月の月間ランキングでも連続1位となった(エンターブレイン発表)。2008年の年間ランキングでは、エンターブレイン集計で12位(集計期間:2007年12月31日から2008年12月28日)、アスキー総研集計においては発売から4日間の売り上げで16位(集計期間:2007年12月31日から2008年12月21日)にランクインとなった。\n\nアメリカでは2009年8月に発売され、NPDグループの調査では発売月に13万本を売り上げたと記録されている。2010年9月時点での全世界累計出荷本数は180万本を突破している。", + "qas": [ + { + "question": "本作の発売週の売上はざっとどれくらいですか?", + "id": "tr-055-11-000", + "answers": [ + { + "text": "約50万本", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "全世界累計出荷本数は180万本を突破した時点はいつですか?", + "id": "tr-055-11-001", + "answers": [ + { + "text": "2010年9月", + "answer_start": 555, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "初動売り上げデータでもっとも多く集計値がもっとも多かった期間はどこですか?", + "id": "tr-055-11-002", + "answers": [ + { + "text": "「エンターブレイン」", + "answer_start": 92, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "メディアクリエイトで分析した初動売り上げが好調だった理由は?", + "id": "tr-055-11-003", + "answers": [ + { + "text": "「ファンに対する訴求力が強かったことが要因」", + "answer_start": 263, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "なんちゃっておじさん", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "なんちゃっておじさんは、1977年から1978年にかけて東京都の電車車内に出没して乗客たちを笑わせたといわれる中年男性だ。当時の深夜のラジオ番組の投書を始めとしてテレビや雑誌などでも取り上げられ、日本中で社会現象と呼べるほどの大ブームとなった。実在の人物かどうかは諸説があり、日本の都市伝説の一つとして語られることもある。", + "qas": [ + { + "question": "1977年から1978年にかけて東京都の電車車内に出没して乗客たちを笑わせたといわれる中年男性を何と呼びますか。", + "id": "tr-056-00-000", + "answers": [ + { + "text": "なんちゃっておじさん", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "なんちゃっておじさんは国鉄山手線や小田急電鉄の電車内に出没するといわれ、国鉄中央線、京王井の頭線、京王線、東急東横線の電車に乗っていたともいう。「なーんちゃって」と言って両手を頭の上につけ、両腕で輪を作ったポーズを見せ、乗客たちの笑いを誘うという説が概略だが、そのセリフとポーズに至るまでの過程は、以下のようにいくつかのパターンがある。人物像については、主に40歳代の男性といわれたが、30歳代とも50歳代とも初老ともいわれた。正体については外務省の役人とも、霞が関の役人との情報もあり、絡んでいたヤクザ風の男は実は幼馴染みなどともいわれていた。", + "qas": [ + { + "question": "なんちゃっておじさんは主に何歳だといわれていますか。", + "id": "tr-056-01-000", + "answers": [ + { + "text": "40歳代", + "answer_start": 179, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "なんちゃっておじさんのブームの始まりはラジオ番組への投書である。発端は作家のかぜ耕士がラジオパーソナリティを担当する深夜番組『たむたむたいむ』であり、1977年5月27日、当時女子高生であった東京都文京区のリスナーから最初の目撃談が投書された。山手線での目撃談であり、前述のパターンのうちヤクザにまつわるもので、なんちゃっておじさんは40歳代の男性とのことであった。この投書内容は同番組の機関誌にも収録されており、なんちゃっておじさんに関する文献資料としては最古のものと見られている。これが大きな反響を呼んで同様の目撃談の投書が相次いだことで、同番組ではこれを2週にわたって放送した。しかし投書の中にはほかの投書を真似て書いたと見られるものも多くなり、信憑性を欠いたことから、その2週間をもって紹介は取りやめられた。", + "qas": [ + { + "question": "なんちゃっておじさんのブームの始まりはどんなメディアを通してでしたか。", + "id": "tr-056-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ラジオ番組", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "なんちゃっておじさんのブームの発端となったラジオ番組は何でしたか。", + "id": "tr-056-02-001", + "answers": [ + { + "text": "『たむたむたいむ』", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "最初のなんちゃっておじさんに関する投書では、彼をどの路線で目撃したと言っていましたか。", + "id": "tr-056-02-002", + "answers": [ + { + "text": "山手線", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『たむたむたいむ』はなんちゃっておじさんに関する放送を何週間続けましたか。", + "id": "tr-056-02-003", + "answers": [ + { + "text": "2週", + "answer_start": 280, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "続いて『笑福亭鶴光のオールナイトニッポン』のディレクターの1人がなんちゃっておじさんの投書に目をつけ、同1977年10月に同番組内で紹介した。同じ週に『タモリのオールナイトニッポン』でも取り上げられた。これらの番組に大量の目撃情報が寄せられて名物コーナーとなり、番組自体の人気が追い風となって日本中で大ブームとなった。『オールナイトニッポン』のディレクターを担当していた宮本幸一によれば、ラジオパーソナリティである笑福亭鶴光が番組中で初めて本件を紹介した翌週には、視聴者からの目撃談が300通も寄せられたという。その一方では鶴光とタモリの間で、どちらの番組がなんちゃっておじさんを流行させたか、との論争が展開されるまでに発展した。", + "qas": [ + { + "question": "『オールナイトニッポン』のディレクターを担当していた宮本幸一は、笑福亭鶴光が番組中で初めてなんちゃっておじさんを紹介した翌週に、視聴者からの目撃談が何通もあったといいましたか。", + "id": "tr-056-03-000", + "answers": [ + { + "text": "300通", + "answer_start": 242, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "後には日本ヘルスメーカーが「なんちゃって」のフレーズを広告に用い、なんちゃっておじさんをコマーシャルに起用することを狙って、翌1978年2月6日の朝日新聞上で「なんちゃっておじさんに同社のコマーシャルのことで相談がある」として情報を求める広告を掲載した。その広告料は120万円とも150万円とも見られている。これに対して50通から60通に昇る目撃情報が寄せられたことに加え、新聞、テレビ、週刊誌などマスコミ関係からの問合せが同社に殺到した。さらにテレビ局各社からは「なんちゃっておじさんが見つかったら、ニュースショーに出演してほしい」との打診が同社へあり、レコード会社からは「ナーンチャッテ・ブルース」なる楽曲をリリースしたいとの話もあった。これにより、なんちゃっておじさんはさらに有名な存在となった。肝心の本人からの名乗りについては、本人とおぼしき電話が同社へあったものの、「なーんちゃって」と言われて電話が切られたきりで、正体はつかめず仕舞いであった。\n\n同1978年には『週刊ポスト』『週刊朝日』『週刊サンケイ』などの雑誌記事にも掲載された。テレビでも取り上げられ、漫画にも登場した。刑事ドラマ『特捜最前線』でも第54話「ナーンチャッテおじさんがいた!」で扱われている。なんちゃっておじさんを演じたのは今福将雄だ。", + "qas": [ + { + "question": "今福将雄はどのドラマでなんちゃっておじさんを演じたか。", + "id": "tr-056-04-000", + "answers": [ + { + "text": "『特捜最前線』", + "answer_start": 500, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "なんちゃっておじさんが『週刊ポスト』『週刊朝日』『週刊サンケイ』などの雑誌記事に掲載されたのば何年のことですか。", + "id": "tr-056-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1978年", + "answer_start": 431, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1978年3月20日、なんちゃっておじさんは作家の小森豪人の創作した架空の人物だとする記事が朝日新聞に掲載された。前述の日本ヘルスメーカーの呼びかけに対し、小森が同社に赴いて明かしたものである。同年の雑誌『文藝春秋』6月号には「ナンチャッテおじさんの告白」と題し、小森が創作に至るまでのエピソードが掲載された。\n\n小森によれば、1970年に「電車内で『なんちゃって』と言って乗客を笑わせる男性『なんちゃっておじさん』を見た」というギャグを考案したが、当時はまったく受けなかった。後の1977年、酒の席で「なんちゃっておじさんを見たという架空の話を広める」と友人たちに提案。同年に前述のようなラジオの投書が始まったという。\n\n小森からこの話を打ち明けられた日本ヘルスメーカーは、1970年時点のテレビ番組で小森が前述のギャグを演じていたことを共演者の証言などで確認し、新聞紙上での公表に踏み切った。公表の直後から小森への取材、メディアへの出演依頼、執筆依頼などは計80件以上にも昇り、小森は取材に対し「なんちゃって」のポーズを何度も実演する羽目になった。", + "qas": [ + { + "question": "1978年3月20日の朝日新聞記事によると、なんちゃっておじさんは誰が創作した人物ですか。", + "id": "tr-056-05-000", + "answers": [ + { + "text": "小森豪人", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ナンチャッテおじさんの告白」は何年の『文藝春秋』に掲載されたか。", + "id": "tr-056-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1978年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "オットー・フランク", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "オットー・フランクは1889年、ドイツ帝国領邦プロイセン王国ヘッセン=ナッサウ県の都市フランクフルト・アム・マインで生まれる。父は銀行家ミヒャエル・フランクだ。母はその妻アリーセ・ベッティー・フランクだ。\n\n母アリーセの実家のシュテルン家はユーデンガッセから出た家であり、裕福なユダヤ人一家であった。一方父ミヒャエルはプファルツ地方のランダウ出身のユダヤ人であり、1879年にフランクフルトに出てきて、1885年にアリーセと結婚することで成功の足掛かりをつかんだ人物である。金融業で成功し、「ミヒャエル・フランク銀行」を所有・経営した。上流階級の仲間入りをしたフランク家は1902年にフランクフルト西部の高級住宅地ヨルダン通り4番地へ引っ越した。\n\nオットーは夫妻の次男であり、兄にローベルト、弟にヘルベルト、妹にヘレーネがいる。", + "qas": [ + { + "question": "オットー・フランクは何年生まれですか。", + "id": "tr-057-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1889年", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オットー・フランの父の名前は何?", + "id": "tr-057-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ミヒャエル・フランク", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アリーセ・ベッティー・フランクの夫の名前は何?", + "id": "tr-057-00-002", + "answers": [ + { + "text": "ミヒャエル・フランク", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ミヒャエルとアリーセと、誰の一家がもっと裕福だったか。", + "id": "tr-057-00-003", + "answers": [ + { + "text": "アリーセ", + "answer_start": 105, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "オットー・フランクはフランクフルトのギムナジウムで学び、優秀な成績でアビトゥーアに合格した。\n\n美術や考古学が得意であったオットーは、1908年にハイデルベルク大学美術史科に入学した。ここでアメリカ合衆国のプリンストン大学からの留学生であるネーサン・ストラウス・ジュニアと親交を結んだ。このネーサン・ジュニアはニューヨークの巨大百貨店「メイシー百貨店」の所有者ネーサン・ストラウスの御曹司で、ネーサン・ジュニアはオットーに「メイシー百貨店」で職を保証するのでニューヨークへ来ないか、と薦めた。オットーはこの申し出を受けてハイデルベルク大学を一学期で中退してニューヨークへ移住することとなった。\n\nしかし翌年の1909年秋には父ミヒャエルが死亡したため、急遽ドイツへ帰国することとなった。ミヒャエルの銀行の所有権は母アリーセに移ったが、銀行の実務の多くをオットーが握ることとなった。1910年からはデュッセルドルフにある金属工業会社の経営管理も引き受けることとなった。デュッセルドルフでの経営管理の仕事を主とし、片手間で銀行の経営を見て、ときどきニューヨークへ出張するという毎日が続いた。", + "qas": [ + { + "question": "オットー・フランクはどこのギムナジウムで学びましたか。", + "id": "tr-057-01-000", + "answers": [ + { + "text": "フランクフルト", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オットーの大学の専攻は何でしたか。", + "id": "tr-057-01-001", + "answers": [ + { + "text": "美術史科", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "オットーはハイデルベ���ク大学を中退してからどこへ移住したか。", + "id": "tr-057-01-002", + "answers": [ + { + "text": "ニューヨーク", + "answer_start": 278, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オットーの父は何年に亡くなったか。", + "id": "tr-057-01-003", + "answers": [ + { + "text": "1909年", + "answer_start": 304, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1914年の第一次世界大戦開戦後もしばらくこういった生活が続いた。しかし1915年に兄や弟とともに陸軍に徴兵された。オットーは砲兵連隊に配属されて射距離測定員となった。\n\n1916年にはソンムの戦いに動員された。ドイツ軍は45万人もの戦死者を出した戦いだったが、オットーは生き残った。1917年2月にオットーは部隊長の推薦を受けて少尉となる。1917年後半にはカンブレーでイギリス軍の戦車軍団によるヒンデンブルク・ラインへの攻撃の防衛戦に射距離測定隊の一部隊を指揮して参加した。1918年には偵察活動を評価されて中尉に昇進した。また一級鉄十字章を受章した。\n\nこの戦争中にオットーがドイツ人であることとユダヤ人であることの間に葛藤をした形跡はほとんどない。当時の彼の家族への手紙からはほかの多くのドイツ人兵士たちと同様、祖国ドイツ帝国の勝利を信じ切っていた様子がうかがえる。後世にもオットーはこの時期のことを「当時、ユダヤ人であるという意識が全くなかったとは言えません。ただドイツ人であることの意識の方が強かった。そうでなければ大戦中に将校にも出世していなかっただろうし、そもそもドイツのために戦ってはいません。」と語っている。\n\nちなみに彼の兄弟も常に最前線で戦い、また彼の母や妹も志願して篤志看護婦として陸軍病院に勤務して負傷兵の看護にあたった。また母は戦時国債をたくさん買いいれるなどしており、フランク家は一家をあげて祖国ドイツのために貢献した。", + "qas": [ + { + "question": "1916年のソンムの戦いで、ドイツ軍の戦死者は何人でしたか。", + "id": "tr-057-02-000", + "answers": [ + { + "text": "45万人", + "answer_start": 111, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オットーは何年に中尉に昇進した?", + "id": "tr-057-02-001", + "answers": [ + { + "text": "1918年", + "answer_start": 239, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "オットーは戦後に除隊してドイツへ帰国した。オットーも兄弟も大きな負傷をすることなく帰還できた。しかし戦時中に母アリーセが手をだした巨額の戦時国債、インフレーション、外貨取引許認可制度の導入などによってフランク家の銀行業は大きな打撃を受けた。\n\nフランク家は、経営の回復を目指してドイツ国外に活路を求め、1923年11月に「ミヒャエル・フランク&ゾーネン」の名称でオランダのアムステルダムに支店を設立した。オットーも同社の経営のためにしばらくアムステルダムへ移住した。この銀行にはヨハンネス・クレイマンが雇用されていた。彼は後にオットーたちの隠れ家生活の支援者となる。しかしこの支店も結局うまくいかず、1924年12月には負債の清算に入った。", + "qas": [ + { + "question": "1923年、「ミヒャエル・フランク&ゾーネン」はオランダのどこに設立されたか。", + "id": "tr-057-03-000", + "answers": [ + { + "text": "アムステルダム", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1925年5月12日、オットーはアーヘンのユダヤ人資産家アブラハム・ホーレンダーの娘エーディト・ホーレンダーとシナゴーグで挙式して結婚した。二人が知り合ったのは銀行業務を通じてだったといい、資産家の娘である彼女の実家からフランク家の銀行への経済支援を期待しての政略結婚であったとみられる。しかしオットーとエーディトは気も合った。二人はとも���裕福なユダヤ家庭に育ち、芸術や自然の愛好者であった。また両者ともユダヤ人ながらそれほどユダヤ教に熱心ではなく、宗教を瑣末なことと考えていた。二人のハネムーンはイタリア旅行であった。二人ははじめフランクフルトのヨールダンシュトラーセにあるオットーの母の家で暮らしていたが、1927年には母元を離れて同じフランクフルトのマルバッハヴェークのアパートへ移住している。1926年2月16日に長女、1929年6月12日に次女が生まれた。\n\nフランク家の銀行経営は相変わらず軌道に乗っていなかったが、家族に金銭的不自由を掛けるほどではなく、フランク一家は週末にはよく旅行に出かけている。地元の名所遺跡やエーディトのアーヘンの実家などによく遊びに行っていた。スイスのオットーの従姉妹の別荘にアメリカの友達ネーサン・ストラウス・ジュニア(伯父イジドーが1912年タイタニック号沈没事件で死亡し、メイシー百貨店はイジドーの子供たちが継いでいた。ネーサンは代わりに「エイブラハム&ストラウス」社を経営していた)を招待して休暇を過ごしたりもしている。", + "qas": [ + { + "question": "オットーの長女の誕生日は何月何日ですか。", + "id": "tr-057-04-000", + "answers": [ + { + "text": "2月16日", + "answer_start": 355, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オットは誰と結婚したの?", + "id": "tr-057-04-001", + "answers": [ + { + "text": "エーディト・ホーレンダー", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オットとエーディト・ホーレンダーはどこに行きましたか。", + "id": "tr-057-04-002", + "answers": [ + { + "text": "イタリア", + "answer_start": 249, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ドイツ国内でベルリンに次いでユダヤ人人口が多いフランクフルトは国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)による反ユダヤ主義運動が激しい場所だった。ナチスが成長してくるとフランクフルトでも反ユダヤ主義デモを行う突撃隊隊員の姿がよく見られるようになった。1932年にオットーはエーディトと相談して、ドイツを離れる事を考えたというが、亡命先で生活の糧を得られる見込みがなく、断念したという。突撃隊員は『シオン賢者の議定書』などユダヤ陰謀論系の文書をばらまいており、オットーのアパートの大家はこうした文書に影響を受けていた。おそらくその影響で1931年3月にオットーたちはアパートを引き払っている。ガングホーファーシュトラーセ24番地の新興住宅地のアパートへ移ることとなった。ここは前のアパートよりは狭かったが、広い裏庭があり、マルゴーとアンネの遊び場にするのにちょうどよかった。\n\n世界大恐慌でフランク家の銀行のオランダ支店が閉鎖し、さらに弟のヘルベルトは外国証券の売買を禁止した法律に違反した容疑で逮捕され、フランクフルトの証券取引場は1931年夏にフランク家の銀行との取引を無期限に停止した。これによりフランク家の銀行は一気に経営が苦しくなってしまった。後にヘルベルトは1933年10月に再審で勝訴し、罰金刑の免除を受けているが、その頃には手遅れになっていた(銀行は最終的にオットーのオランダ移住後の1934年1月に閉鎖している。いよいよフランク家はアパートの家賃を払うのが難しくなり、ヨールダンシュトラーセにあるオットーの母の家の同居に戻っている。ただ日常の生活はあまり変わらず、相変わらずフランク家は日帰り旅行や友人や親族の家に遊びに行っている。", + "qas": [ + { + "question": "ベルリンとフランクフルトと、ユダヤ人人口がもっと多いのはどこなの?", + "id": "tr-057-05-000", + "answers": [ + { + "text": "ベルリン", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1949年にオットーはオランダ国籍を取得していたが、1952年には母と姉がいるスイスのバーゼルへ移住した。\n\n1953���11月10日にエルフリーデ・ガイリンガー”フィリッツィ”と再婚した。このエルフリーデはオーストリアから逃れフランク家に近いメルヴェデプレイン46番で暮らしていたユダヤ人で娘のエファはアンネと同い年で知り合いだった。ガイリンガー家は1944年5月に密告されてアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所に送られ、夫と息子は解放寸前にマウトハウゼン強制収容所への「死の行進」を命じられ落命していた。彼女自身は解放後に生き残った娘とアムステルダムへの帰路に就いたが、ある駅で停まったとき、娘がオットーを見つけて「たったいまアンネ・フランクのお父さんを見かけたわ」と告げてきたのがきっかけでオットーと知り合い、マルセイユまでの帰路を同行した関係だった。アムステルダムへ帰国した後に再会し、関係が深まっていた。1954年2月にエルフリーデもバーゼルへ移住した。", + "qas": [ + { + "question": "オットーはいつオランダ国籍を取得したか。", + "id": "tr-057-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1949年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オットーは誰と再婚したの?", + "id": "tr-057-06-001", + "answers": [ + { + "text": "エルフリーデ・ガイリンガー”フィリッツィ”", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1954年2月、エルフリーデはどこへ移住したの?", + "id": "tr-057-06-002", + "answers": [ + { + "text": "バーゼル", + "answer_start": 422, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1980年8月19日にオットーは死去した。1963年にオットーがスイスの法律に基づいてエルフリーデと共同で創設した公共財団「アンネ・フランク基金」(在バーゼル)がオットーの包括相続人となっており、『アンネの日記』に関する権利を相続した。アンネの日記のaテキスト(手帳、ノート)とbテキスト(ばらの用紙)はオランダ政府に遺贈されている。マルゴーとアンネは未婚で子供を残しておらず、再婚相手エルフリーデとの間にも子供はいない為、直系の子孫はいない。但し、エルフリーデの連れ子で義理の娘エファには3人の子供(1男2女)がおり、子供たちはオットーの血の繋がらない義理の孫、マルゴー・アンネ姉妹の義理の甥姪にあたる。", + "qas": [ + { + "question": "オットーはいつ亡くなりましたか。", + "id": "tr-057-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1980年8月19日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1947年6月25日、オランダ語による初版がHetAchterhuis(後ろの家)というタイトルで出版された。この成功を受けて、1950年にはドイツ語版TagebuchderAnneFrank(アンネ・フランクの日記)とフランス語版LeJournald'AnneFrank(アンネ・フランクの日記)が出版された。ついで1952年には英語版TheDiaryofaYoungGirl(少女の日記)と日本語版『光ほのかにアンネの日記』が出版された。イギリスでは初めあまり売れなかったが(イギリスでは1954年にペーパーバック版になった後に売れるようになった)、西ドイツ、フランス、アメリカ、日本では発売とともに好調な売れ行きを示した。それにつづいてイタリア、スイス、北欧諸国、スペイン、ソ連、東ドイツ、南米諸国、インド、韓国、台湾、タイ、インドネシアなどでも翻訳版が出版された。", + "qas": [ + { + "question": "HetAchterhuis(後ろの家)の日本語タイトルは何?", + "id": "tr-057-08-000", + "answers": [ + { + "text": "『光ほのかにアンネの日記』", + "answer_start": 201, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "HetAchterhuis(後ろの家)のフランス語版タイトルは何?", + "id": "tr-057-08-001", + "answers": [ + { + "text": "LeJournald'AnneFrank(アンネ・フランクの日記)", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "HetAchterhuis(後ろの家)の英語版タイトルは何?", + "id": "tr-057-08-002", + "answers": [ + { + "text": "TheDiaryofaYoungGirl(少女の日記)", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1955年には『アンネの日記』がニューヨークで舞台化された。さらに1957年には20世紀FOXによって映画化されている(『アンネの日記』)。\n\n1957年に隠れ家のある建物が取り壊されそうになった際に建物の保存のために「アンネ・フランク財団」(在アムステルダム)が設立された。財団は一般からの寄付に支えられて、この建物とその周辺を買収し、1960年5月3日に博物館「アンネ・フランクの家」として公開した。オットーは様々な民族や宗教の若者の交流を促進して不寛容や差別が防止されることを期待してアンネ・フランク教育センターの設立を支援し、1964年までその初代会長を務めた。\n\nオットーはアンネの日記について「これは戦争文学ではありません。戦争はこの本の背景でしかないのです。同様にこれはユダヤ人の本でもありません。ユダヤ的世界やユダヤ人の心情・境遇が背景にはなっていますが。」と述べ、時代や人種を問わない普遍的なものであることを語っている。オットーは死ぬまで、アンネ・フランクの残した寛容と思いやりのメッセージを世界中に広め続けた。", + "qas": [ + { + "question": "『アンネの日記』がニューヨークで舞台化されたのは何年のことか。", + "id": "tr-057-09-000", + "answers": [ + { + "text": "1955年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「アンネ・フランク財団」はいつ設立されたの?", + "id": "tr-057-09-001", + "answers": [ + { + "text": "1957年", + "answer_start": 72, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "オットーは1945年6月3日にアムステルダムに帰還した。オットーは親戚や友人の多さのおかげで強制収容所から解放されたユダヤ人の中では経済的には恵まれた方だった。親戚が小包やお金を贈ってくれた。ニューヨークのネーサン・ストラウスjrも送金してくれた。また住居を失ったオットーのためにミープ・ヒースとヤン・ヒース夫妻が自宅に同居させてくれ、プリンセン運河通りの会社の社業にも復帰できた。ヴィクトール・クーフレルとともに会社の取締役に復帰した(オットーとクーフレルは1955年に会社を売却するまで経営を続けた)。だがオットーはこうして得た金を自分のためにはわずかにしか使わず、同じ境遇のユダヤ人、特にアンネの友達でベルゲン・ベルゼン強制収容所から生還したハンネリ・ホースラルとその妹への義捐金に宛てた。\n\nオットーは仕事をしながら娘たちの情報を探り続けた。そんな中、1945年7月にベルゲン=ベルゼンでアンネやマルゴーと一緒にいた囚人ヤニー・ブリレスレイペルがオランダ赤十字社からの行方不明者に関する調査に対してアンネとマルゴーの死亡を報告した。これを知ったオットーは7月18日にヤニーに直接面会し、アンネとマルゴーについて聞き質した。彼女の口から改めてアンネたちの死を聞かされたオットーの顔は蒼白になり、椅子にどさりと崩れ落ちたという。\n\nロンドンにいる兄ロベルトから「短い間とはいえ家族で幸せに暮らせたことは、お前にとってせめてもの慰めと思う。彼女たちはもう苦しんではいない。生きること、絶望しないこと、愛する者たちの思い出を大事にすること、それがお前の役目だ。こんなに辛い目にあってもお前は怒りや憎しみの言葉を口にしない。本当に感心している。」という手紙を贈られた。", + "qas": [ + { + "question": "オットーは1945年6月3日、どこに帰還したの。", + "id": "tr-057-10-000", + "answers": [ + { + "text": "アムステルダム", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロベルトとオットーと、どっちの���が年上なの?", + "id": "tr-057-10-001", + "answers": [ + { + "text": "ロベルト", + "answer_start": 576, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1945年1月27日アウシュヴィッツの病棟にいたところをソビエト赤軍により解放された。赤軍は病人とそれ以外の者を隔離し、オットーもこれまでとは別のバラックに移された。2月23日にスイスにいる母親に手紙を書くまでに病状が回復した。その手紙の中でオットーは「エーディトと子供たちの所在は分かりません。1944年9月5日に別れたきり、わずかにドイツに移送されたという噂を聞くだけです。三人とも無事でいてくれることを願うだけです」と書いている。\n\nその後もアウシュヴィッツで療養しながら手紙を書き続けていたオットーだったが、3月になってようやく収容所を出ることが認められ、赤軍のトラックに乗ってポーランド南部カトヴィツェへ移動した。そこでヴェステルボルク収容所で一緒だったローザ・ド・ヴィンテルと再会した。彼女はビルケナウ収容所でアンネ・マルゴー・エーディトと一緒にいたので、エーディトが死んだことを知っていた。エーディトの死を知らされたオットーは、ショックを受けながらも娘2人が生きていることに望みをかけてアムステルダムへ帰る決意をした。\n\n4月半ばにはオランダ北東部の大半は解放されていた。オットーはチェルノフツィを経由して4月25日にオデッサに到着した。そこからニュージーランド船に乗って5月21日に船出し、5月27日にフランスのマルセイユに入港した。5月28日朝にオランダ行きの列車に乗り込んだ。", + "qas": [ + { + "question": "オットーはいつエーディトと子供たちと別れましたか。", + "id": "tr-057-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1944年9月5日", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オットーは何月に収容所を出ましたか。", + "id": "tr-057-11-001", + "answers": [ + { + "text": "3月", + "answer_start": 258, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ローザ・ド・ヴィンテルがアンネ・マルゴー・エーディトと一緒にいた収容所はどこですか。", + "id": "tr-057-11-002", + "answers": [ + { + "text": "ビルケナウ収容所", + "answer_start": 352, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オットーは4月25日、どこに着きましたか。", + "id": "tr-057-11-003", + "answers": [ + { + "text": "オデッサ", + "answer_start": 516, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "隠れ家生活は2年間続いたが、1944年8月匿名の密告によって、フランクと家族、同居していた4人、およびクーフレルとクレイマンはナチス親衛隊SS曹長カール・ヨーゼフ・ジルバーバウアーに逮捕された。\n\nオットーら隠れ家メンバー8人はオランダ北東ヴェステルボルク通過収容所に1カ月弱収容された後、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へ送られた。1944年9月5日から6日にかけての深夜にビルケナウ強制収容所に到着している。到着後すぐに男女に分けられ、アンネ・マルゴー・エーディトと引き離された。彼女らはビルケナウ収容所に、オットーは3キロ離れたアウシュヴィッツ収容所に収容された。この時がオットーが妻と娘の姿を見た最後となった。\n\nオットーはファン・ペルス父子やプフェファーと一緒にアウシュヴィッツ収容所の第2ブロックに収容された。過酷な野外労働と少ない食料により1.8メートルの身長のオットーの体重が52キロまで下がってしまった。ヘルマン・ファン・ペルスはやがてガス室に送られたが、その息子ペーター・ファン・ペルスはオットーの面倒を献身的に見たという。しかし比較的健康だったペーターは1945年1月17日に別の収容所へ移された。", + "qas": [ + { + "question": "オットーら隠れ家メンバー8人はヴェステルボルク通過収容所に何ヶ月間収容されていたか。", + "id": "tr-057-12-000", + "answers": [ + { + "text": "1カ月", + "answer_start": 134, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "オットーら隠れ家メンバー8人は1944年9月5日から6日にかけての深夜、どこに着きましたか。", + "id": "tr-057-12-001", + "answers": [ + { + "text": "ビルケナウ強制収容所", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "オットーの身長は何メートルなの?", + "id": "tr-057-12-002", + "answers": [ + { + "text": "1.8メートル", + "answer_start": 380, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ペーター・ファン・ペルスはいつ別の収容所へ移されましたか。", + "id": "tr-057-12-003", + "answers": [ + { + "text": "1945年1月17日", + "answer_start": 491, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1942年7月5日には長女マルゴーに対してユダヤ人移民センターに出頭するよう召喚状が届いた。召喚後にはヴェステルボルク通過収容所からドイツの強制労働収容所へ移送されることになっていた。\n\n帰宅後オットーはただちに隠れ家生活に入ることを決意し、ファン・ペルス家や隠れ家支援メンバーと連絡を取り、アンネたちにも家を出て隠れ家に入ることを告げた。この時フランク家には下宿人がいたので、その人物(ちなみに彼もユダヤ人で、その後収容所送りになるが、生還した)に気取られぬように皆どたばたしたり、声を荒らげたりしないよう気を使ったという。翌日朝6時にミープが自転車に乗って駆け付け、まず自転車を持っていたマルゴーが彼女と一緒に隠れ家へ向かった。ついで朝7時半にはオットー、エーディト、アンネも家を出た。なお義母ローザは1942年1月29日に癌により死去していた。オットーは下宿人に宛ててアンネの飼い猫モールチェをお願いする旨を書き残し、また下宿人の目に付くようにスイスへ逃れることをほのめかした手紙も置き残した。\n\n2週間後、この隠れ家にファン・ペルス一家(ヘルマン、アウグステ、ペーター)が加わり、11月にはフリッツ・プフェファーが加わった。この隠れ家生活はヨハンネス・クレイマン、およびミープ・ヒース、ヴィクトール・クーフレル、ベップ・フォスキュイルに支えられていた。", + "qas": [ + { + "question": "ローザは何年に亡くなりましたか。", + "id": "tr-057-13-000", + "answers": [ + { + "text": "1942年", + "answer_start": 353, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マルゴーに対してユダヤ人移民センターに出頭するよう召喚状が届いたのはいつのことですか。", + "id": "tr-057-13-001", + "answers": [ + { + "text": "1942年7月5日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "水星", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "水星は、太陽系にある惑星の1つで、太陽に最も近い公転軌道を周回している。岩石質の「地球型惑星」に分類され、太陽系惑星の中で大きさ、質量ともに最小のものである。\n\n太陽系の惑星の中では最も小さい。例えば赤道面での直径4,879.4kmは、地球の38%に過ぎない。衛星である木星のガニメデや土星のタイタンよりも小さい。衛星や環はない。\n\n天球上での見かけの明るさは−0.4等から5.5等まで変化する。水星は太陽に非常に近いため、日の出前と日没直後のわずかな時間しか観察できず、時期によっては望遠鏡でも見ることが難しい。これは太陽との最大離角が28.3度に過ぎないためである。\n\nアメリカの探査機マリナー10号が初めて水星へ接近し、地表の約40から45%の地図が作られた。撮影された映像から、水星には多数のクレーターがあり、月と非常によく似た環境だと考えられた。依然として分からないことが多い惑星であるが、2008年に探査を始めたアメリカのメッセンジャーや、2018年10月に打ち上げられた日欧共同プロジェクトベピ・コロンボなどによって、探査の進展が期待されている。", + "qas": [ + { + "question": "太陽系の惑星の中で一番小さいのは何?", + "id": "tr-058-00-000", + "answers": [ + { + "text": "水星", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "太陽系にある惑星のうち、一番太陽に近いのは何?", + "id": "tr-058-00-001", + "answers": [ + { + "text": "水星", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ガニメデとタイタンと水星のうち、一番小さいのはどれですか。", + "id": "tr-058-00-002", + "answers": [ + { + "text": "水星", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "水星の太陽との最大離角は何度ですか。", + "id": "tr-058-00-003", + "answers": [ + { + "text": "28.3度", + "answer_start": 269, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "水星の公転周期は約88日である。その軌道離心率約0.21は太陽系惑星の中でもっとも大きく、近日点が約0.31au(46×106km)で遠日点が約0.47au(70×106km)という、太陽を焦点のひとつとする大きな楕円軌道を描いている。\n\n公転面は地球の公転面(黄道)に対して7度の傾きがある。その結果、水星の太陽面通過は黄道に水星があるタイミングに限られ、平均7年に1度しか観測されない。\n\nこの軌道の近日点は太陽の周りを周回する形でゆっくりと移動している。この現象の大部分は他の惑星からの摂動など古典力学で説明できるものだったが、観測値は古典力学による計算値より100年あたり43秒大きく、この説明不可能だったずれは19世紀の天文学者を悩ませてきた。このため水星の内側にもう1つ惑星があるという説が現れた。このニュートン力学では説明できなかった43秒は、後にアインシュタインの一般相対性理論によって「太陽の重力により時空が歪んだ結果」として説明づけられた。一般相対性理論による計算値が、誤差の範囲で観測値の43秒と非常によく一致していたのである。", + "qas": [ + { + "question": "水星の公転周期は何日なの?", + "id": "tr-058-01-000", + "answers": [ + { + "text": "約88日", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "水星は平均何年に1度しか観測されませんか。", + "id": "tr-058-01-001", + "answers": [ + { + "text": "7年", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "水星の自転周期は58日である。1965年にレーダー観測が行われるまで、水星の自転は地球の月や他の多くの衛星と同様に、太陽からの潮汐力によって公転と同期しており、常に太陽に同じ面を向けて1公転中に1回自転していると考えられていた。しかし実際には水星の自転と公転は2:3の共鳴関係にある。すなわち、太陽の周囲を2回公転する間に3回自転する。水星の公転軌道の離心率が比較的大きいため、この共鳴関係は安定して持続している。水星の自転と公転が同期していると考えられた元々の理由は、地球から見て水星が最も観測に適した位置にある時にはいつでも同じ面が見えたからであった。実際にはこれは2:3の共鳴の同じ位置にある時に観測していたためだった。この共鳴があるために、水星の恒星日(自転周期)は58.7日なのに対して、水星の太陽日(水星表面から見た太陽の子午線通過の間隔)は176日と、3倍になっている。誕生直後の水星は8時間程度の速さで自転していたが、太陽の潮汐力によって段々と遅くなり現在の同期状態になったと考えられるが、なぜ2:3の比となったのかは分っていない。", + "qas": [ + { + "question": "水星の自転周期は何日ですか。", + "id": "tr-058-02-000", + "answers": [ + { + "text": "58日", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "水星には半径1,800km程度の核が存在する。これは惑星半径の3/4に相当し、水星全体では質量の約70%が鉄やニッケル等の金属、30%がケイ酸塩で出来ている。\n\n平均密度5,430kg/m3は地球と比べわずかに小さい。核の比率が大きい割に密度がそれほど高くないのは、地球は自重によって惑星の体積が圧縮され密度が高くなるのに対し、小さな水星は圧縮される割合が低いためである。地球中心部の圧力は366万気圧に達するのに対し、水星中心部は約25から40万気圧にとどまる。しかし、天体の大きさと平均密度の相関関係では、水星は唯一他の地球型惑星が示す傾向から60%程度重い方向に外れている。自重による圧縮を除外して計算された平均密度は、水星が5,300kg/m3、地球が4,000-4,100kg/m3となり、水星のほうが有意に高い値をとる。", + "qas": [ + { + "question": "水星の核は半径何kmですか。", + "id": "tr-058-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1,800km程度", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "水星と地球と、どっちの方が平均密度が大きい?", + "id": "tr-058-03-001", + "answers": [ + { + "text": "地球", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "水星全体の質量の30%を占めているのは何ですか。", + "id": "tr-058-03-002", + "answers": [ + { + "text": "ケイ酸塩", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "水星の体積は地球の5.5%に相当する。しかし地球の金属核は17%にすぎないのに対し、水星の金属核はその42%を占める。核は地球の内核と外核のように、固体と液体に分離していると見られている。2007年、電波観測によって水星の核に液体の部分が存在することを示す磁場が観測された。2019年には、メッセンジャーの観測データとモデル計算から、核の中心に直径2,000kmにも及ぶ固体の核が存在することが示された。\n\n核の周りは厚さ600km程度の岩石質マントルで覆われているが、これは他の岩石惑星と比べごく薄いためマントルの対流が小規模となり、惑星表面に特有の影響を及ぼした可能性が指摘されている。地殻は、マリナー10号の観測結果から厚さ100-300kmと推測されている。\n\n水星は太陽系の他のどの天体よりも鉄の存在比が大きい。この高い金属存在量を説明するために、主に3つの理論が提唱されている。", + "qas": [ + { + "question": "水星の体積は地球の何%に相当しますか。", + "id": "tr-058-04-000", + "answers": [ + { + "text": "5.5%", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "電波観測によって水星の核に液体の部分が存在することを示す磁場が観測されたのは何年のことですか。", + "id": "tr-058-04-001", + "answers": [ + { + "text": "2007年", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "当初、水星の地形は望遠鏡によるアルベドの計測で予想された。地域によって反射率に差異があり、これは月の高地のようなリンクルリッジ、山脈、平野、ルペス、ヴァリスなどがあるためと推測された。\n\n1975年のマリナー10号による観測で得た情報から基本的な部分が明らかになった。水星の地表は月の地表と似ており、その特徴は、数十億年単位時間を経て形成される月の海のような滑らかな面や、全球を覆うさまざまな大きさのクレーターが数多く存在していることにある。その中でも最も目に付くものは、惑星直径の1/4以上に相当する直径1,300kmほどのクレーター群から成るカロリス盆地である。これは、46億年前に水星が形成されて間もなく始まり38億年前まで続いた後期重爆撃期に、彗星や隕石が���撃を和らげる大気が無い水星に衝突を繰り返すことでクレーターを形成し、当時まだ活発だった火山活動によって盆地がマグマで埋まり形成されたと考えられる。", + "qas": [ + { + "question": "水星の地表は何の表面に似ていますか。", + "id": "tr-058-05-000", + "answers": [ + { + "text": "月", + "answer_start": 140, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "水星は何年前に形成されたか。", + "id": "tr-058-05-001", + "answers": [ + { + "text": "46億年前", + "answer_start": 287, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "後期重爆撃期は何年前まで続いたか。", + "id": "tr-058-05-002", + "answers": [ + { + "text": "38億年前", + "answer_start": 308, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "水星の表面はおおまかにいって異なる時代にできた二つの表面によって覆われている。若い方の表面は溶岩が流れ出して形成された軽い地表であり、古い地表よりクレーターが少ない。このような二分化された地形は月の高地-海の関係に似ているが、水星に見られる新旧の地表の違いは月の場合ほど明確ではない。\n\n水星の地表を特徴付けるもう一つの地形は、惑星の広い範囲に散在する高さ約2km、長いものでは500kmにもなる断崖であり、リンクルリッジと呼ばれる。これは水星の内部が冷却され、半径が1-2kmほど縮む過程で形成された「しわ」であると考えられているが、太陽の潮汐力の影響という異説も存在する。断層のパターンについて詳細に分析できるようになれば、地形の正確な起源が明らかになると考えられている。また、太陽の潮汐力は地球が月に与える力の約17倍と推測され、そのために水星では赤道部分が膨らむ潮汐変形が起きている。", + "qas": [ + { + "question": "水星の表面はおおまかに、異なる時代にできたいくつの表面によって覆われていますか。", + "id": "tr-058-06-000", + "answers": [ + { + "text": "二つ", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "水星の地表に存在する高さ約2km、長いものでは500kmにもなる断崖は何と呼ばれますか。", + "id": "tr-058-06-001", + "answers": [ + { + "text": "リンクルリッジ", + "answer_start": 204, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "新旧の地表の違いがよりよく見られるのは月の方ですか、水星の方ですか。", + "id": "tr-058-06-002", + "answers": [ + { + "text": "月", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "水星は重力が小さいため、長く大気を留めておくことは難しい。しかし、ごく薄く分子同士の衝突がほとんど無い無衝突大気の存在が確認されている。水星の気圧は10-7Pa(10−12気圧)程度と推測され、その成分は水素、ヘリウムの主成分に加え、ナトリウム、カリウム、カルシウム、酸素などが検出されている。\n\nこの大気組成は一定しておらず、絶えず供給と散逸を繰り返している。水素やヘリウムは太陽風の粒子を水星磁場が捕捉したものと考えられ、やがて宇宙空間に拡散されてゆく。地殻で生じる放射性崩壊もひとつのヘリウム供給源であり、ナトリウムやカリウムも地殻起源である。水蒸気も存在しており、これは水星の表面が崩壊して生じたものと、太陽風の水素と岩石由来の酸素がスパッタリングを起こして生成されるもの、永久影にある水の氷が昇華して発生するものがある。探査機メッセンジャーによる水の存在に関連するO+、OH−、H2O+などのイオン発見は、驚きをもって受け止められた。これら発見されたイオンの量から、科学者らは水星の表面は太陽風に吹き晒されている状態にあると推測した。\n\n大気中にナトリウム・カリウム・カルシウムがあることは1980-1990年代に発見され、当初は隕石衝突に��る地殻の蒸発がこれらを供給していると考えられた。さらに探査機メッセンジャーによってマグネシウムの存在が確認された。その時点での研究の結果、ナトリウムの供給領域は惑星磁場に対応する部分に絞られた。これは水星の表面と磁場が相互作用を起こしていることを示す。", + "qas": [ + { + "question": "水星と地球と、どっちの方が重力が小さい?", + "id": "tr-058-07-000", + "answers": [ + { + "text": "水星", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "水星の大気中にナトリウム・カリウム・カルシウムがあることはいつ発見されましたか。", + "id": "tr-058-07-001", + "answers": [ + { + "text": "1980-1990年代", + "answer_start": 500, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "水星の表面の平均温度は452K(179°C)であるが、温度変化は90-100Kから700Kにおよぶ。水星は公転と自転が共鳴しているため、近日点において特定の2箇所が南中を迎え最高温度の700Kに達する。この場所は「熱極」と呼ばれ、カロリス盆地とその正反対側が当たる。遠日点では500K程度になる。日陰部の最低温度は平均110Kほどである。太陽光は地球の太陽定数の4.59-10.61倍に相当し、エネルギー総計では3,566W/m2となる。\n\nこのような高温に晒されながら、水星には氷の存在が確認されている。北極と南極に近く深いクレーターの中には太陽光が当たらない永久影となる部分があり、温度が102K以下に保たれている。これは1992年、ゴールドストーン深宇宙通信施設の70m電波望遠鏡と超大型干渉電波望遠鏡群(VLA)が、水の氷による強いレーダー反射を観測して確認された。この反射現象は他にも原因を考えうるが、天文学者は水の氷が存在する可能性が最も高いと考えている。2012年6月、メッセンジャーが撮影した極地の画像により、氷が存在する可能性が裏付けられたと、ジョンズ・ホプキンズ大学などの研究チームが発表した。この氷の量は10×1014-10×1015kg程度であり、レゴリスが覆うことで昇華から防がれていると考えられる。なお、地球の南極に存在する氷は4×1018kg、火星の南極には10×1016kg程度の水の氷があると言われる。水星の氷の起源は不明だが、彗星の衝突もしくは水星内部からの放出で生まれたという説が有力である。", + "qas": [ + { + "question": "水星の表面の平均温度は最大何Kまで上がりますか。", + "id": "tr-058-08-000", + "answers": [ + { + "text": "700K", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "水星で「熱極」と呼ばれる場所は何カ所ありますか。", + "id": "tr-058-08-001", + "answers": [ + { + "text": "2箇所", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "水星について記述された最古の観測記録は、紀元前14世紀頃のアッシリア人によって作られたと考えられる星図表Mul.Apinである。この表における水星の楔形文字表記は、Udu.Idim.Gu\\u4.Ud(thejumpingplanet、「跳ぶ星」)と訳された。バビロニアにも紀元前1000年代の記録があり、彼らは神話に登場する伝達する神ナブーになぞらえた名称をつけていた。\n\n古代ギリシアではヘーシオドスの時代には知られ、Στίλβων(Stilbon、「微かな光」の意)やἙρμάων(Hermaon)と呼ばれていた。ヘラクレイデスは、水星と金星が地球でなく太陽の周りを回っていると考えるに値する観測を行った。古代ギリシア世界では、宵の水星にヘルメース、明けの水星にはアポローンを対応させていたが、やがてこの2つの星が同一のものであることに気づいた。その後、最内周惑星で運行が速いことから、ヘルメースと同一視されていた他の神々の使いである俊足の神メルクリウスの名があてられ、これが英語のマーキュリー(Mercury=水星)の語源となった。", + "qas": [ + { + "question": "星図表Mul.Apinを制作したと考えられるのは何人なの?", + "id": "tr-058-09-000", + "answers": [ + { + "text": "アッシリア人", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "バビロニアの人々は水星を何に因んで名称を付けましたか。", + "id": "tr-058-09-001", + "answers": [ + { + "text": "神ナブー", + "answer_start": 166, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "古代ギリシア世界では、宵の水星を何といいましたか。", + "id": "tr-058-09-002", + "answers": [ + { + "text": "ヘルメース", + "answer_start": 321, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "英語のマーキュリーの語源となった神の名前は何ですか。", + "id": "tr-058-09-003", + "answers": [ + { + "text": "メルクリウス", + "answer_start": 423, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "古代中国では水星は「辰星」の名で知られ、方角の「北」、五行思想の「水」と対比させていた。水を当てはめた理由は、流水を水星の公転速度の速さに見立てたためであり、西洋の俊足神メルクリウスと同じ着眼である。現代でも、中国、日本、大韓民国、ベトナムでは漢字で「水星」と書かれ、五行思想の反映が見られる。インド神話では、水星には水曜日を司る神ブダの名が与えられる。曜日との関連は、ゲルマン人の思想でも神オーディンが水星と水曜日を司るという考えがある。\n\nマヤ文明では水星はフクロウに喩えられ、1羽という時と、朝夕それぞれ2羽の計4羽と考えられることもあった。彼らは地下世界からの使者と考えられた。", + "qas": [ + { + "question": "古代中国で水星は何と呼ばれましたか。", + "id": "tr-058-10-000", + "answers": [ + { + "text": "「辰星」", + "answer_start": 9, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "現代、中国、日本、ベトナム以外に漢字で「水星」と書く国はまたどこがありますか。", + "id": "tr-058-10-001", + "answers": [ + { + "text": "大韓民国", + "answer_start": 111, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マヤ文明では水星を何に喩えましたか。", + "id": "tr-058-10-002", + "answers": [ + { + "text": "フクロウ", + "answer_start": 231, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "中世イスラム世界では、11世紀にアンダルスの天文学者ザルカーリーが水星の公転軌道が卵や松の実のような楕円形だと主張した。ただし彼の天文学理論や計算に、この考えは反映されなかった。12世紀にはイブン・バーッジャが「太陽面にある2つの黒い点」を観察した。13世紀には、マラーゲ天文台のクトゥブッディーン・シーラーズィーが、これは水星か金星の太陽面通過またはその両方だと述べた。なお現代では、この種類の中世の報告は太陽黒点を見ていたものとも取り扱われる。\n\nインドでは、15世紀にケーララ州のケーララ学派のニーラカンタ・ソーマヤージーが、16世紀デンマークのティコ・ブラーエに先立ち、太陽の周囲を水星と地球が周回する太陽系モデルを構築した。", + "qas": [ + { + "question": "水星の公転軌道が卵や松の実のような楕円形だと主張した人は誰ですか。", + "id": "tr-058-11-000", + "answers": [ + { + "text": "ザルカーリー", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イブン・バーッジャは何世紀に「太陽面にある2つの黒い点」を観察しましたか。", + "id": "tr-058-11-001", + "answers": [ + { + "text": "12世紀", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "望遠鏡を用いた水星観測は17世紀初めにガリレオ・ガリレイが手がけたが、天体の相を確認するには充分な機能を発揮しなかった。しかし1631年にはピエール・ガッサンディが、ヨハネス・ケプラーが予告した天体の通過を望遠鏡で観測した。1639年にはイタリアのジョヴァンニ・ズッピが望遠鏡を使って水星を観測し、金星や月と同様に満ち欠けがあることを発見した。これによって、水星が太陽の周りを回っていることが確実になった。惑星同士が交差する掩蔽は非常に稀な天体現象だが、1737年5月28日に水星と金星で起こった掩蔽はグリニッジ天文台のジョン・ベヴィスによって観察された。水星と金星が次に掩蔽を起こすのは2133年12月3日である。\n\n水星は太陽に接近しているため、観測するのは非常に困難である。水星軌道周期の約半分に相当する期間は、太陽の光に埋もれてしまって見ることができない。またそれ以外の時期でも、朝か夕方のごく短い時間しか観測できない。ニコラウス・コペルニクスが水星を生涯見られなかったという逸話は有名である。", + "qas": [ + { + "question": "望遠鏡を用いた水星観測を最初に行った人物は誰か。", + "id": "tr-058-12-000", + "answers": [ + { + "text": "ガリレオ・ガリレイ", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "望遠鏡を使って水星を観測し、金星や月と同様に満ち欠けがあることを発見したイタリアの学者は誰ですか。", + "id": "tr-058-12-001", + "answers": [ + { + "text": "ジョヴァンニ・ズッピ", + "answer_start": 124, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "水星と金星が次に掩蔽を起こすのはいつなの?", + "id": "tr-058-12-002", + "answers": [ + { + "text": "2133年12月3日", + "answer_start": 294, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "このような観測の難しさから、水星の理解は他の惑星と比べて遅れた。1800年、ヨハン・シュレーターは水星表面の観察を行い、高さ20kmの山脈が存在すると主張した。フリードリヒ・ヴィルヘルム・ベッセルはシュレーターの観察結果から、自転時間を24時間、自転軸の傾斜が70度だという誤った見積もりを発表した。1880年代になって、ジョヴァンニ・スキアパレッリがより精確な惑星写像を取り、その結果から自転周期は88日であると示唆するとともに、公転も潮汐力から同期した状態にあると考えた。惑星写像への取り組みは引き続き行われ、1934年にはユジェーヌ・ミカエル・アントニアディが観測結果と地図を載せた本を出版した。そこには、数多いalbedofeaturesが反映され、「アントニアディ・マップ」と呼ばれた。", + "qas": [ + { + "question": "水星表面の観察を行い、高さ20kmの山脈が存在すると主張した学者の名前は何ですか。", + "id": "tr-058-13-000", + "answers": [ + { + "text": "ヨハン・シュレーター", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「アントニアディ・マップ」と呼ばれる本はいつ出版されたか。", + "id": "tr-058-13-001", + "answers": [ + { + "text": "1934年", + "answer_start": 257, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ジョヴァンニ・スキアパレッリは水星の自転周期は何日ですか。", + "id": "tr-058-13-002", + "answers": [ + { + "text": "88日", + "answer_start": 200, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1962年6月、ウラジーミル・コテルニコフ率いるソヴィエト連邦科学アカデミー情報通信研究所は、水星にレーダー信号を発信し反射を利用した観測を初めて行った。これはレーダーを利用した惑星観測の皮切りとなった。3年後に、アメリカのゴードン・ペッティンギルらがプエルトリコのアレシボ天文台300m径電波望遠鏡を用いた観測を行い、最終的に水星の自転周期が59日であることを突き止��た。水星の自転は公転と同期していると広く考えられていたため、この発見は驚きをもって受け止められた。同期していれば常に影となる半球は非常に冷たくなるはずだが、電波計測の結果は、予想よりもはるかに高い温度を示していた。それでも天文学者の中には風のような熱を分配する何かしら強力な機構を想定するなど、同期説を簡単には手放さない者もいた。\n\n公転と自転の比率が1対1ではないと提言したのはイタリアの天文学者ジュゼッペ・コロンボであり、彼は公転が自転周期の2/3に相当すると述べた。この証明は、マリナー10号から得られたデータで裏づけされた。これは、スキアパレッリとアントニアディの地図が正しいことを示すとともに、他の天文学者が観察した水星表面は2パターンある公転・自転関係のひとつだけを見ていたわけではなく、観測手段が未発達だったために彼らが目にした太陽方向に向けられた表面の違いをさしあたり無視していたことを示した。", + "qas": [ + { + "question": "水星にレーダー信号を発信し反射を利用した観測を最初に行った研究所はどこですか。", + "id": "tr-058-14-000", + "answers": [ + { + "text": "ソヴィエト連邦科学アカデミー情報通信研究所", + "answer_start": 24, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アメリカのゴードン・ペッティンギルらは最終的に水星の自転周期が何日であることを突き止めたか。", + "id": "tr-058-14-001", + "answers": [ + { + "text": "59日", + "answer_start": 172, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "水星の公転と自転の比率が1対1ではないと提言した学者の名前は何ですか。", + "id": "tr-058-14-002", + "answers": [ + { + "text": "ジュゼッペ・コロンボ", + "answer_start": 384, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "地球から水星に到達するためには高い技術的ハードルがある。水星の軌道は地球に比べて3倍も太陽に近いため、地球から打ち上げた宇宙機を水星重力に捕らえさせるためには、太陽の重力井戸を9100万km以上も下らなくてはならない。単純に、ホーマン遷移軌道によって遷移するとしても、ΔVが他の惑星探査よりも大きいことが問題となる。\n\n着陸や安定な水星周回軌道投入を実現するためには、水星に大気が存在しないために空力ブレーキを用いることができず、宇宙機のエンジンに頼らざるを得ない。なお、単純に力学的な比較として、水星への旅で必要なΔVとしては太陽系脱出速度のためのそれより大きい。これらが、水星探査機の実現回数が少ない理由である。", + "qas": [ + { + "question": "水星と地球と、どっちの軌道の方がより太陽に近いですか。", + "id": "tr-058-15-000", + "answers": [ + { + "text": "水星", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "水星に向けられた初の探査機は、1973年に打ち上げたアメリカ航空宇宙局(NASA)のマリナー10号であった。同機は1974年から1975年にかけて3回にわたって水星に接近した。写真撮影や表面温度の観測を行い、惑星表面の特徴的な地形を数多く知らしめた。しかし探査可能時間が短いことから惑星の夜の部分は撮影ができず、情報は全球の45%以下に止まった。\n\n2004年8月3日、アメリカ航空宇宙局のメッセンジャーが打ち上げられ、地球、金星をスイングバイしながら水星へ向かって航行し、2008年1月には水星での最初のスイングバイを行った。2011年3月18日に水星の周回軌道に入った。その結果、クレーターの縁や中心に穴があること、太陽系の内側には水が、ほぼ存在しなかったこと、南北の磁場が非対称なので、水星内部には薄い液体核しかないことが推測できるという。2015年5月1日に水星表面に落下してそのミッションを終了した。", + "qas": [ + { + "question": "水星に向けられた最初の探査機は何ですか。", + "id": "tr-058-16-000", + "answers": [ + { + "text": "マリナー10号", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "マリナー10号は1974年から1975年にかけて何回水星に接近しましか。", + "id": "tr-058-16-001", + "answers": [ + { + "text": "3回", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1974年から1975年にかけて3回にわたって水星に接近した探査機の名前は何ですか。", + "id": "tr-058-16-002", + "answers": [ + { + "text": "マリナー10号", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アメリカ航空宇宙局のメッセンジャーはいつ打ち上げられましたか。", + "id": "tr-058-16-003", + "answers": [ + { + "text": "2004年8月3日", + "answer_start": 175, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "クロアチア王国(925年-1102年)", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "クロアチア王国(ラテン語:RegnumCroatiae、クロアチア語:KraljevinaHrvatska,HrvatskoKraljevstvo)は、中央ヨーロッパに存在した国家である。王国の支配領域はイストリア半島の大部分とダルマチア地方の海岸部の一部を除くクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの一部で構成され、およそ2世紀にわたって主権国家として存続していた。", + "qas": [ + { + "question": "クロアチア王国は、どの地域に存在した国家なの?", + "id": "tr-059-00-000", + "answers": [ + { + "text": "中央ヨーロッパ", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クロアチア王国は、およそ何世紀も存在した国家でありますか?", + "id": "tr-059-00-001", + "answers": [ + { + "text": "およそ2世紀", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "クロアチア王国は恒常的な首都を持たず、君主が変わるたびに王宮の位置も変化していた。ニン、ビオグラード、クニン、シベニク、ソリンの5つの都市が「王の都市」の称号を得ていたと伝えられている。", + "qas": [ + { + "question": "クロアチア王国では、国王が変わるのにつれて何が変化したか?", + "id": "tr-059-01-000", + "answers": [ + { + "text": "王宮の位置", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「王の都市」の称号が与えられたと伝えられている都市は、いくつか?", + "id": "tr-059-01-001", + "answers": [ + { + "text": "5つ", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「王の都市」の称号が与えられたと伝えられている都市には、ニン、ビオグラード、クニン、シベニクのほかに、どの都市があるか?", + "id": "tr-059-01-002", + "answers": [ + { + "text": "ソリン", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "クロアチア王国では王宮がある都市には、何の称号が付けられたと予測できるか?", + "id": "tr-059-01-003", + "answers": [ + { + "text": "「王の都市」", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "中世クロアチア王国が存在した時代はブルガリア人、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)、ハンガリー人との間に起きた様々な衝突と和平、ヴェネツィア共和国とのアドリア海東海岸の支配権を巡る競争によって特徴付けられる。最初の国王であるトミスラヴはハンガリーとブルガリアの侵入を撃退するが、王権は不安定であり、彼の死後に内紛によってクロアチアは衰退する。11世紀後半にクロアチア王���はビザンツ帝国の支配の崩壊を利用して大部分のダルマチアの海岸部の都市を制圧した。この時代にクロアチア王国はペタル・クレシミル4世とドミタル・ズヴォニミルの統治下で最盛期を迎える。", + "qas": [ + { + "question": "クロアチア王国の初代国王は、誰なの?", + "id": "tr-059-02-000", + "answers": [ + { + "text": "トミスラヴ", + "answer_start": 109, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "トミスラヴがクロアチア王国の国王についていた時、クロアチア王国を侵攻していたのは、ハンガリーとどの国ですか?", + "id": "tr-059-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ブルガリア", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "誰の死後、クロアチア王国は衰退していったか?", + "id": "tr-059-02-002", + "answers": [ + { + "text": "トミスラヴ", + "answer_start": 109, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クロアチア王国が大部分のダルマチアの海岸部の都市を手に入れたのは、どの国からの支配が弱くなってからか?", + "id": "tr-059-02-003", + "answers": [ + { + "text": "ビザンツ帝国", + "answer_start": 183, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ズヴォニミルの死後に起きた王位を巡る十数年の抗争とグヴォズドの戦いを経て、クロアチア王位はアールパード朝ハンガリー王国に渡る。ハンガリー王カールマーン1世は1102年にビオグラードで「クロアチアとダルマチアの王」として戴冠され、2つの王国は1つの王冠の元に統合される。2つの王国の関係の実像は19世紀に論争の原因となる。現代のクロアチアとハンガリーの歴史学者の多くは、1102年以降のクロアチア王国とハンガリー王国の関係を共通の王を頂く同君連合として捉えている。", + "qas": [ + { + "question": "クロアチア王位がハンガリー王国に渡られたのは、誰が死んだ後のことなの?", + "id": "tr-059-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ズヴォニミル", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ズヴォニミルの死後、クロアチア王国の王位はどの国に渡られましたか?", + "id": "tr-059-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ハンガリー王国", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ズヴォニミルが死んだばかりのころ、ハンガリー王国の王座にはどの王朝の者が座っていたか?", + "id": "tr-059-03-002", + "answers": [ + { + "text": "アールパード朝", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "カールマーン1世がクロアチアとダルマチアの両方を統治するようになったのは、何年のことか?", + "id": "tr-059-03-003", + "answers": [ + { + "text": "1102年", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "7世紀から8世紀にかけてクロアチア人はバルカン半島に移住し、8世紀末から9世紀にかけて現代のクロアチア共和国北部のパンノニア(スラヴォニア)と南部のダルマチアにクロアチア人の国家が樹立される。パンノニアとダルマチアは東西に存在するフランク王国とビザンツ帝国の影響下に置かれていた。803年にフランク王国はクロアチア北部に支配を確立し、812年のアーヘンの和約でビザンツ帝国はザダルの司令官のテマに含まれるアドリア海沿岸の都市と島々を除いたクロアチアにおけるフランク王国の主権を認める。フランク王国のパンノニア、ダルマチア支配は9世紀後半まで続いた。", + "qas": [ + { + "question": "クロアチア人のバルカン半島への移住が始まったのは、何世紀からなの?", + "id": "tr-059-04-000", + "answers": [ + { + "text": "7世紀", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "パンノニアとダルマチアに対し影響力を行使したのは、フランク王国とどの国ですか?", + "id": "tr-059-04-001", + "answers": [ + { + "text": "ビザンツ帝国", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "フランク王国がクロアチア北部の支配を確立したのは、何年のことか?", + "id": "tr-059-04-002", + "answers": [ + { + "text": "803年", + "answer_start": 140, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アーヘンの和約は、いつ結ばれた和約であるか?", + "id": "tr-059-04-003", + "answers": [ + { + "text": "812年", + "answer_start": 167, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "870年代にビザンツ帝国はダルマチアにテマを設置し、デュラキオン(ドゥラス)を拠点として交易を行っていた。コトル(カッタロ)、ラグシウム(ラグーザ、ドゥブロヴニク)、スパラトゥム(スプリト)、トラグリウム(トロギル)、ザダルといったダルマチアの都市は名目上はビザンツの支配下に置かれていたものの、独自の参事会と法を有していた。", + "qas": [ + { + "question": "ビザンツ帝国がダルマチアにテマを設置したのは、何年代のことなの?", + "id": "tr-059-05-000", + "answers": [ + { + "text": "870年代", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "コトル、ラグシウム、スパラトゥム、トラグリウムのほかに、ダルマチアの都市として紹介されているのは、どこですか?", + "id": "tr-059-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ザダル", + "answer_start": 109, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "870年代にダルマチアにテマを設置したのは、どの国か?", + "id": "tr-059-05-002", + "answers": [ + { + "text": "ビザンツ帝国", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ビザンツ帝国が870年代にダルマチアにテマを設置してから、交易拠点として利用されたのは、どこだったか?", + "id": "tr-059-05-003", + "answers": [ + { + "text": "デュラキオン", + "answer_start": 26, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "「クロアチア人の公」として初めて記録に現れるトルピミルはダルマチア地方を拠点とし、彼を始祖とする王朝は「トルピミロヴィチ朝」と呼ばれている。トルピミルの後継者の一人であるヴラニミルはフランク王国からの独立を達成した人物とされているが、トルピミロヴィチ家の出身ではないと考えられている。ヴラニミルによってジュパと呼ばれる部族共同体が割拠していたクロアチアの諸部族の統一が進められ、879年にヴラニミルはフランク王国から独立し、ローマ教皇から独立国として承認される。ビザンツ帝国がパンノニア、ダルマチア支配の確立を進めると、クロアチア公となったヴラニミルはローマの教皇庁に接近してビザンツに対抗し、ダルマチアのキリスト教会をローマ・カトリックに帰属させた。パンノニアではキュリロス、メトディオスによるスラヴ語の礼拝の伝統が残り、カトリックへの改宗が進められるダルマチアではニンの司教座を中心とするスラヴ教会が勢力を維持していた。", + "qas": [ + { + "question": "記録に初めて登場する「クロアチア人の公」は、誰だったの?", + "id": "tr-059-06-000", + "answers": [ + { + "text": "トルピミル", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "トルピミロヴィチ朝の創始者は、誰ですか?", + "id": "tr-059-06-001", + "answers": [ + { + "text": "トルピミル", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "トルピミロヴィチ朝が拠点として成長した王朝は、どの王朝か?", + "id": "tr-059-06-002", + "answers": [ + { + "text": "トルピミロヴィチ朝", + "answer_start": 52, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ヴラニミルは、どの国に属していたか?", + "id": "tr-059-06-003", + "answers": [ + { + "text": "フランク王国", + "answer_start": 200, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ニンのジュパン(領主)であるトミスラヴ(在位:910年頃-928年)はフランク王国、ハンガリー王国との戦闘に勝利し、ダルマチアとパンノニアにまたがるクロアチア人の国家を建国する。925年頃にトミスラヴは教皇から王の称号を授与され、最初の「クロアチア王」となる。", + "qas": [ + { + "question": "トミスラヴはフランク王国とどの国と戦闘を行い、戦勝したの?", + "id": "tr-059-07-000", + "answers": [ + { + "text": "ハンガリー王国", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "トミスラヴが即位したのは、何年頃のことですか?", + "id": "tr-059-07-001", + "answers": [ + { + "text": "910年頃", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "トミスラヴが教皇から王の称号を授与されたのは、何年頃のことか?", + "id": "tr-059-07-002", + "answers": [ + { + "text": "925年頃", + "answer_start": 89, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "トミスラヴが最初の「クロアチア王」になった時点は、誰から王として認められた時のことを言うか?", + "id": "tr-059-07-003", + "answers": [ + { + "text": "教皇", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "トミスラヴの在位中、クロアチアはバルカン半島の諸勢力の中で最も強力な王国の一つに発展する。923年から928年の間に、トミスラヴは別々の公によって支配されていたパンノニアとダルマチアのクロアチア人の統合に成功する。トミスラヴ時代のクロアチア王国の正確な支配領域は完全に明らかになっていないが、クロアチア、ダルマチアの大部分、パンノニア、ボスニア北西部を領有していたと考えられている。ダルマチアの都市がクロアチア王国の支配下に入った後、スプリトの大司教はクロアチア全土を管轄化に置くことを要求した。ニンの司教の管轄化に置かれていた地域もスプリト大司教の管轄化に入り、925年と928年に開催された教会会議によってスラヴ語による典礼は禁止される。しかし、ラテン語を使用できる聖職者は限られていたため、スラヴ語とグラゴル文字は教会で使われ続けられる。", + "qas": [ + { + "question": "クロアチアがバルカン半島で最も影響力の強い国家の一つになったのは、誰が国王であった時点なの?", + "id": "tr-059-08-000", + "answers": [ + { + "text": "トミスラヴ", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "925年と何年に開催された教会会議で、スラヴ語による典礼が禁止されましたか?", + "id": "tr-059-08-001", + "answers": [ + { + "text": "928年", + "answer_start": 287, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "やがてトミスラヴは第一次ブルガリア帝国の皇帝シメオン1世と衝突するが、当時ブルガリアはビザンツ帝国とも敵対していた。ビザンツ帝国はトミスラヴにアンスィパトスの称号を与えてダルマチアの都市と海岸部の諸島の支配を認め、クロアチアとビザンツの間に協力関係が成立する。トミスラヴがビザンツ皇帝ロマノス1世レカペノスと結んだ協定では、トミスラヴは協力の見返りにダルマチア地方のビザンツのテマのうち沿岸部の都市の支配の承認と沿岸部の都市の部族集団の分配を受けたと思われる。924年にシメオン1世がセルビアを征服した後、クロアチアはザハリヤに率いられたセルビア人の難民を受け入れ、彼らを保護した。926年にシメオン1世は防備が薄くなったダルマチア地方の征服を企てるが、トミスラヴはボスニア高地の戦いでブルガリア軍の侵攻を撃退する。927年にシメオン1世が没した後、ヨハネス10世の仲裁を受けてクロアチアとブルガリアは和睦を結んだ。同時代に著された『帝国の統治について(DeAdministrandoImperio)』によれば、当時のクロアチアの陸軍と海軍は100,000人の歩兵隊、60,000人の騎士、80隻の大型の軍艦(sagina)と100隻の小型の軍艦(condura)から構成されていたが、これらの数値は誇張されたものと見なされている。", + "qas": [ + { + "question": "シメオン1世が敵対していたのは、ビザンツ帝国と誰の勢力か?", + "id": "tr-059-09-000", + "answers": [ + { + "text": "トミスラヴ", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "シメオン1世が敵対していたのは、トミスラヴと誰の勢力か?", + "id": "tr-059-09-001", + "answers": [ + { + "text": "ロマノス1世レカペノス", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "シメオン1世がセルビアを征服したのは、何年のことか?", + "id": "tr-059-09-002", + "answers": [ + { + "text": "924年", + "answer_start": 230, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "シメオン1世のセルビア征服の後、セルビア人の難民はどの国から保護されたか?", + "id": "tr-059-09-003", + "answers": [ + { + "text": "クロアチア", + "answer_start": 253, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "10世紀にクロアチアの社会は大きな変化を経験する。土着の指導者であるジュパニは旧来の地主の地を没収した国王の家臣に取って代わられ、基本的な封建制度が作られた。これまで軍事力を構成していた自由農民は農奴とされたため、クロアチアの軍事力の衰退を引き起こした。", + "qas": [ + { + "question": "クロアチアに封建制度が導入されるなどの変化が生じたのは、何世紀のことなの?", + "id": "tr-059-10-000", + "answers": [ + { + "text": "10世紀", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "クロアチアの軍事力が衰退していったのは、何世紀のことですか?", + "id": "tr-059-10-001", + "answers": [ + { + "text": "10世紀", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "10世紀までクロアチアの軍事力の主要構成員だったのは、どのような人々か?", + "id": "tr-059-10-002", + "answers": [ + { + "text": "自由農民", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "クロアチアの軍事力の衰退は、どのような人々が奴隷になるにあたって発生した結果であるか?", + "id": "tr-059-10-003", + "answers": [ + { + "text": "自由農民", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "佐久島", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "佐久島(さくしま)は、三河湾に浮かぶ離島だ。\n行政上は愛知県西尾市に属し、全域が三河湾国定公園に含まれる。\n2013年(平成25年)4月1日時点の人口は262人である。\n古くは作島、析島とも、佐古島、左近之島とも記した。\n日間賀島、篠島と合わせて「三河湾三島」または「愛知三島」などと呼ばれる。", + "qas": [ + { + "question": "佐久島は何県に属しているの?", + "id": "tr-060-00-000", + "answers": [ + { + "text": "愛知県", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "2013年4月1日当時の佐久島の人口は?", + "id": "tr-060-00-001", + "answers": [ + { + "text": "262人", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「三河湾三島」とは、篠島、日間賀島とあと1つはどこの島ですか?", + "id": "tr-060-00-002", + "answers": [ + { + "text": "佐久島", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "作島や析島と表記されていた島の現在の名称は何ですか?", + "id": "tr-060-00-003", + "answers": [ + { + "text": "佐久島", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "西尾市一色地区から南に約8kmの距離にあり、三河湾のほぼ中央に位置する。\n面積は1.81km2であり、三河湾の離島中最大である。\n西三河南西部(西尾市一色地区)、知多半島(知多郡南知多町)、渥美半島(田原市)との距離がそれぞれ10km以内であり、地理的な距離の近さに加えて本土との生活交流が活発であるため、国土交通省による離島分類では内海本土近接型離島にあたる。", + "qas": [ + { + "question": "佐久島の面積は?", + "id": "tr-060-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1.81km2", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "佐久島は何という名称の領域に位置しているの?", + "id": "tr-060-01-001", + "answers": [ + { + "text": "三河湾", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "西尾市一色地区と佐久島の間は距離はどれくらいですか?", + "id": "tr-060-01-002", + "answers": [ + { + "text": "約8km", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "島の北部には標高30m台の緩やかな丘陵が連なり、ヤブツバキやサザンカなどが植えられている。\n海岸線延長は11.5km、最高標高は38mであり、島内に河川はない。\n耕地と集落は南部の海岸沿いに密集しており、島の東と西に集落がある。\nかつては東集落を里、西集落を一色と呼んだが、一色町への編入後に現在の「東」「西」という呼称になった。\n東集落には筒井姓が、西集落には高橋・藤井姓が多く、太平洋戦争前までは集落間の通婚は皆無に等しかったとされる。\n東西の集落とも細い路地が多く、2001年(平成13年)時点で西集落の道路の7割が幅員4m以下、うち3割が幅員2m以下だった。\n冬期に北西から吹く強風を防ぐために集落内は三叉路が多く、見通しの良い十字路は少ない。", + "qas": [ + { + "question": "筒井姓が多いのは東西どちらの集落ですか?", + "id": "tr-060-02-000", + "answers": [ + { + "text": "東", + "answer_start": 166, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "高橋という苗字が多いのは東集落と西集落のどちらですか?", + "id": "tr-060-02-001", + "answers": [ + { + "text": "西集落", + "answer_start": 176, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "西集落の道路の��で割合が多いのは、幅員4m以下と幅員2m以下のどちらの路地ですか?", + "id": "tr-060-02-002", + "answers": [ + { + "text": "幅員4m以下", + "answer_start": 261, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "島の集落内に多いのは三叉路と十字路のどちらですか?", + "id": "tr-060-02-003", + "answers": [ + { + "text": "三叉路", + "answer_start": 305, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "町並みは東西二つの港を中心に扇状に広がり、大正時代から昭和時代にかけて建てられた民家が多い。\n西港周辺には潮風から家を守るためにコールタールを外壁に塗った民家が多く、名古屋市立大学芸術工学部教授の瀬口哲夫はその町並みをギリシャ・ミコノス島の白壁の家々、イタリア・シエーナの赤レンガの家々と対比させて「三河湾の黒真珠」と称した。\n西尾市役所支所、佐久島郵便局(無集配・特定局)、JA西三河支店、西尾市佐久島診療所、西尾警察署佐久島駐在所などの施設がある。\n知多郡南知多町より水道供給されており、愛知用水からの海底送水管が知多半島の師崎から日間賀島経由で届いている。\n水道の使用開始・中止の届け出、料金支払いは南知多町水道課に行う。", + "qas": [ + { + "question": "西港周辺の民家には何が塗装されているの?", + "id": "tr-060-03-000", + "answers": [ + { + "text": "コールタール", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「三河湾の黒真珠」と称した人は誰?", + "id": "tr-060-03-001", + "answers": [ + { + "text": "瀬口哲夫", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ミコノス島の家々の特徴は何?", + "id": "tr-060-03-002", + "answers": [ + { + "text": "白壁", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "イタリア・シエーナの特徴は何?", + "id": "tr-060-03-003", + "answers": [ + { + "text": "赤レンガ", + "answer_start": 136, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "明治時代から太平洋戦争前までの人口は1,200-1,500人程度で推移し、1947年には過去最大の1,634人に達したが、その後は急速に減少。\n1975年(昭和50年)から1980年(昭和55年)には日間賀島や篠島の人口が横ばいだったのに対して、佐久島は年平均3.2%の人口減少が見られた。\n2005年(平成17年)の人口は315人、2010年(平成22年)は271人、2013年(平成25年)は262人と、人口減少には歯止めがかかっていない。\n1980年国勢調査での高齢者比率は23.4%だったが、1990年調査では35.5%、2000年調査では48.5%、2010年調査では49.8%と急激に上昇した。\n産業別の就業者比率は、第一次産業が49.0%、第二次産業が5.5%、第三次産業が45.5%である。\n人口密度は約170人であり、日間賀島や篠島の1/10程度である。", + "qas": [ + { + "question": "2005年、2010年、2013年の人口を比較して最も人口が多かった年はいつ?", + "id": "tr-060-04-000", + "answers": [ + { + "text": "2005年", + "answer_start": 146, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1980年、1990年、2000年、2010年の中で国勢調査による高齢者比率が最も高いのは何年ですか?", + "id": "tr-060-04-001", + "answers": [ + { + "text": "2010年", + "answer_start": 280, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "1980年、1990年、2000年、2010年の中で国勢調査による高齢者比率が2番目に低いのは何年ですか?", + "id": "tr-060-04-002", + "answers": [ + { + "text": "1990年", + "answer_start": 250, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "産業別の就業者比率が最も高い項目は何ですか?", + "id": "tr-060-04-003", + "answers": [ + { + "text": "第一次産業", + "answer_start": 315, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "佐久島の気候は温暖であり、年平均気温は16度前後である。\n結氷や降霜は少なく、降雪はほとんどみられないが、冬季には強い季節風が吹く。\n1970年代の年平均降水量は1,310mmであり、愛知県の平均よりもやや少ない。\nその距離の近さにもかかわらず本土とは異なる植生を持ち、2000本のヤブツバキがトンネルのように続く丘陵のハイキングコース、3-4月に浜辺に咲いて春を告げるハマダイコンなどが特徴である。", + "qas": [ + { + "question": "1970年代の年平均降水量が多かったのは佐久島と愛知県のどちらですか?", + "id": "tr-060-05-000", + "answers": [ + { + "text": "愛知県", + "answer_start": 92, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "佐久島の丘陵にあるハイキングコースで有名な植物とは何?", + "id": "tr-060-05-001", + "answers": [ + { + "text": "ヤブツバキ", + "answer_start": 141, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "佐久島の丘陵にあるハイキングコースにはヤブツバキが何本生えているの?", + "id": "tr-060-05-002", + "answers": [ + { + "text": "2000本", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "佐久島の年平均気温は何度ですか?", + "id": "tr-060-05-003", + "answers": [ + { + "text": "16度前後", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "中新世に海中で堆積した島とされ、2500万年前と推定される貝の化石が島の各所で発見されている。\n佐久島には紀元前3000年頃から人が住み始め、縄文・弥生式の土器片などが多く出土している。\n『佐久島旧記』によれば、崇神天皇(紀元前97年-紀元前30年、第10代天皇)の時代に、斎宮(いつきのみや・さいぐう)の郷にいた佐久彦命が移住して農業を始めたことが島名の由来とされている。\n古墳時代後期の横穴式円墳は島内に38基が散在しており、古墳全体では47基を数える。\n島の両端と中央部の3ヶ所に多いこれらの古墳を総称して佐久島古墳群と呼び、知多半島から三河湾三島にかけての地域で最大規模である。\n1966年(昭和41年)に発掘が行なわれた山の神塚古墳の石室からは金環や緑玉などが出土した。\n藤原京時代(694年-710年)には文献に初めて佐久島の名前が登場。\n藤原宮跡から出土した木簡(貢進物付札)には「佐久嶋」の、また奈良時代の平城京跡から出土した木簡には「析嶋」の文字が見られ、島周辺の海産物を都に届けた記録も残っている。", + "qas": [ + { + "question": "佐久島という名前の由来となった人物は誰?", + "id": "tr-060-06-000", + "answers": [ + { + "text": "佐久彦命", + "answer_start": 157, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "佐久島に残る古墳のうち、最も多かった種類は何ですか?", + "id": "tr-060-06-001", + "answers": [ + { + "text": "横穴式円墳", + "answer_start": 195, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "知多半島から三河湾三島にかけての地域における最大規模の古墳群とは何ですか?", + "id": "tr-060-06-002", + "answers": [ + { + "text": "佐久島古墳群", + "answer_start": 256, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「析嶋」と書かれた木簡が見つかったのは、藤原宮跡と平城京跡のどちらですか?", + "id": "tr-060-06-003", + "answers": [ + { + "text": "平城京跡", + "answer_start": 411, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "中世には志摩国(現在の三重県中部)の属島であったとされるが、鎌倉時代には吉良氏の勢力下に入り、三河湾内の他の2島(日間賀島と篠島)とは異なり三河国方面との結びつきが深まった。\n江戸時代初期は相模国甘縄藩領だったが、元禄16年(1703年)には上総国大多喜藩領となった。\nコノワタは大多喜藩の幕府献上品であり、現在も佐久島の特産品である。", + "qas": [ + { + "question": "鎌倉時代に三河国方面との結びつきが深まったのは日間賀島、佐久島、篠島の中でどの島ですか?", + "id": "tr-060-07-000", + "answers": [ + { + "text": "佐久島", + "answer_start": 157, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "中世期に佐久島はどこの国に属していたの?", + "id": "tr-060-07-001", + "answers": [ + { + "text": "志摩国", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "佐久島は上総国大多喜藩領になる以前は、どこの藩領でしたか?", + "id": "tr-060-07-002", + "answers": [ + { + "text": "相模国甘縄藩領", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "江戸時代から佐久島の特産品として存在しているものとは何?", + "id": "tr-060-07-003", + "answers": [ + { + "text": "コノワタ", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "伊勢・志摩と関東を結ぶ海上交通の要衝にあることから、江戸時代には各地を結ぶ海運で繁栄を築き、吉田(現在の豊橋市)と伊勢神宮の結節点としても栄えた。\n吉田・伊勢間は陸路では約4日かかるが、海路では最短半日で着くことができ、金銭的余裕のない参拝者、遠江国や三河国など近隣諸国からの参拝者に多く利用されたという。\n江戸時代には海運業が経済の中心であり、海運業以外では東集落は主に漁業を、西集落は主に農業を経済基盤とした。\n大型船のほかに小型船の根拠地でもあり、知多半島で生産された陶器類を熊野灘まで運んだり、熊野の材木を名古屋や津に運んだりしていた。", + "qas": [ + { + "question": "吉田・伊勢間をより短時間で行き来することが出来るのは陸路と海路のどちらですか?", + "id": "tr-060-08-000", + "answers": [ + { + "text": "海路", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "江戸時代に農業を経済基盤としていたのは東集落と西集落のどちらですか?", + "id": "tr-060-08-001", + "answers": [ + { + "text": "西集落", + "answer_start": 190, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "江戸時代に東集落ではどのような産業が経済の基盤だったの?", + "id": "tr-060-08-002", + "answers": [ + { + "text": "漁業", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "世界で最も長期間に渡って漂流した人物として知られる船頭小栗重吉は佐久島の出身である。\n文化10年(1813年)、重吉らを乗せた督乗丸は江戸から尾張藩への帰還途中に暴風雨に巻き込まれ、アルタ・カリフォルニア(当時スペイン帝国領、現アメリカ)付近でイギリス船によって救出されるまで484日間にわたって漂流した。\n『寛永高附』による村高は90石余、『元禄郷帳』では99石余、『天保郷帳』と『旧高旧領』では534石余であり、1868年(明治元年)の石高は535石だった。\n民俗学者の宮本常一によれば、江戸時代の佐久島は他地域に比べて生活水準が高く、幕末時点でも瓦屋根を持つ民家がほとんどだったという。", + "qas": [ + { + "question": "小栗重吉の故郷はどこですか?", + "id": "tr-060-09-000", + "answers": [ + { + "text": "佐久島", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "記録されている村高が多いのは『寛永高附』と『元禄郷帳』のどちらですか?", + "id": "tr-060-09-001", + "answers": [ + { + "text": "『元禄郷帳』", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "記録されている村高が多いのは『元禄郷帳』と『天保郷帳』のどちらですか?", + "id": "tr-060-09-002", + "answers": [ + { + "text": "『天保郷帳』", + "answer_start": 184, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "『元禄郷帳』、『寛永高附』、『旧高旧領』の中で、記録されている村高が最も多いのはどの書物ですか?", + "id": "tr-060-09-003", + "answers": [ + { + "text": "『旧高旧領』", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "明治時代には西集落の松本家が名古屋や豊橋、平坂(現・西尾市)と東京を結ぶ海運に携わった。\n都市で荷船の会社を経営する佐久島出身者も現れ、豊かさゆえに離島する者が多かった。\n宮本常一によれば、明治30年代には横浜で艀(はしけ、小型船)乗りになる佐久島出身者が多く、彼らの多くは陸上輸送業に転じたという。\n1889年(明治22年)10月1日、町村制の施行により一島で幡豆郡佐久島村となった。", + "qas": [ + { + "question": "明治時代に名古屋や豊橋と東京を結ぶ開運に携わった人は誰ですか?", + "id": "tr-060-10-000", + "answers": [ + { + "text": "松本家", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "明治30年代に横浜で艀乗りを務めた佐久島出身者の多くは、どういった職業に転職したの?", + "id": "tr-060-10-001", + "answers": [ + { + "text": "陸上輸送業", + "answer_start": 137, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1952年(昭和27年)には佐久島村が運営する吉田航路(吉良町)の運航が開始されたが、1954年(昭和29年)8月1日に本土の幡豆郡一色町に編入されると、所属する一色町との間にも航路が設けられた。\n旧来から一色町よりも吉良町との交流が深かったが、一色町が飲料水供給の好条件を提示したことで一色町に編入されたという。", + "qas": [ + { + "question": "吉田航路の運航がスタートしたのは何年ですか?", + "id": "tr-060-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1952年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "佐久島と一色町を結ぶ航路が設けられたのは何年でしたか?", + "id": "tr-060-11-001", + "answers": [ + { + "text": "1954年", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1931年(昭和6年)頃に50人規模の赤痢患者を出したことから、佐久島の住民の間では安全な飲料水を求める要望が強かった。\n1958年(昭和33年)頃には再び100人規模の赤痢患者を出し、この事件が契機となって上水道整備が進んだ。\nそれまでは一色港から水槽船が運航されていたが、1973年(昭和48年)、日間賀島や篠島と同様に愛知用水を水源とする海底水道が敷設され、水道の導入は真水を必要とするノリ養殖を盛んにした。", + "qas": [ + { + "question": "佐久島の水道導入のおかげで盛んになった産業は何ですか?", + "id": "tr-060-12-000", + "answers": [ + { + "text": "ノリ養殖", + "answer_start": 196, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "佐久島にも海底水道が敷設されたのは何年のことでしたか?", + "id": "tr-060-12-001", + "answers": [ + { + "text": "1973年", + "answer_start": 138, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1953年(昭和28年)の離島振興法制定時には実施地域に指定されなかったが、1958年(昭和32年)の第7次指定において日間賀島と篠島も含めた「愛知三島」が離島振興対策実施地域に指定された。\n戦後には名古屋や京浜地区への出稼ぎ離村が進み、1946年(昭和21年)時点では本籍人口が2,000人を超しながら、居住人口は約1,500人だった。\n東京、横浜、名古屋、神戸などの大都市には佐久島出身者で構成される佐久島会があり、宮本常一が調査を行なった昭和50年代半ばには、東京の佐久島会だけで会員が15,000人もいたという。", + "qas": [ + { + "question": "「愛知三島」が離島振興対策実施地域に指定されたのは、日本の元号で何年でしたか?", + "id": "tr-060-13-000", + "answers": [ + { + "text": "昭和32年", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1946年当時の佐久島の本籍人口と居住人口はどちらの人数が多かったですか?", + "id": "tr-060-13-001", + "answers": [ + { + "text": "本籍人口", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "高度成長期には近隣の日間賀島や篠島で大規模な観光開発が行なわれたが、佐久島は大手資本の開発を拒否。\nバブル期に持ち上がったヨットハーバーの建設計画やゴルフ場リゾート開発計画も実現していない。\n1972年(昭和47年)には無医状態となったが、1978年(昭和53年)には町営診療所が完成し、与論島(鹿児島県)から着任した医師が離島医療にあたった。\n1980年(昭和55年)には医師の定年退職により再び無医状態となったが、1981年(昭和56年)以降は自治医科大学卒の医師が3年交代で常駐している。", + "qas": [ + { + "question": "佐久島が2度目の無医状態となったのは何年でしたか?", + "id": "tr-060-14-000", + "answers": [ + { + "text": "1980年", + "answer_start": 173, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1989年に竣工した海上自衛隊のはつしま型掃海艇に「さくしま」(MSC-671)の名前が付けられた。\n同艦は2004年11月29日に佐久島に寄港しており、2013年に除籍となった。\n1993年には高知県から約38,000m2の砂を運んで砂浜を造成し、1994年にはウミガメが来訪した。\n2009年にはにほんの里100選に選出された。", + "qas": [ + { + "question": "佐久島がにほんの里100選に選出されたのは何年ですか?", + "id": "tr-060-15-000", + "answers": [ + { + "text": "2009年", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "佐久島にウミガメがやって来たのは何年でしたか?", + "id": "tr-060-15-001", + "answers": [ + { + "text": "1994年", + "answer_start": 125, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ペレ", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ペレ(Pelé)こと、エドソン・アランテス・ド・ナシメント(EdsonArantesdoNascimento、1940年10月23日-)は、ブラジルの元サッカー選手である。\nアフリカ系ブラジル人。\nサッカーブラジル代表のエースとして3度のFIFAワールドカップ優勝した。\n15歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し1281得点を記録した。\nその実績から「サッカーの王様」(英語:TheKingoffootball、ポルトガル語:OReidoFutebol)、あるいは「20世紀最高のサッカー選手」と評され、多くのサッカー選手、サッカーファンから「サッカー史上最高の選手の一人」と見做されている選手である。", + "qas": [ + { + "question": "ペレがプロデビューしたのは何歳でしたか?", + "id": "tr-061-00-000", + "answers": [ + { + "text": "15歳", + "answer_start": 136, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ペレはどこの国のサッカー選手でしたか?", + "id": "tr-061-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ブラジル", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ペレは何度のワールドカップ優勝を経験しましたか?", + "id": "tr-061-00-002", + "answers": [ + { + "text": "3度", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ペレがプロの期間に記録した総得点は?", + "id": "tr-061-00-003", + "answers": [ + { + "text": "1281得点", + "answer_start": 180, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1940年10月23日、ブラジル南東部のミナスジェライス州トレス・コラソンエスで生まれる。\n出生と同じ時期に町に電気が敷設されたことから、発明王のトーマス・エジソンにちなんで「エドソン(Edson)」と名付けられた。\nしかしペレの出生証明書には「エジソン」と表記されており、この誤表記は現在も訂正されていない。\n父親のジョアン・ラモス・ド・ナシメント(通称ドンジーニョ)はサッカー選手でポジションはセンターフォワードを務めていた。\n180cm以上ある長身を生かし1試合にヘディングだけで5得点を決めたこともあるヘディングの名手であり、ミナスジェライス州の州都ベロオリゾンテを本拠地とする強豪クラブのアトレチコ・ミネイロに所属していたこともあったが、膝を痛めて退団。\nその後は小規模なクラブに所属し低い給与でプレーするなどサッカー選手としての成功とは無縁の人生だった。", + "qas": [ + { + "question": "ペレの出生証明書に誤表記されている名前とは?", + "id": "tr-061-01-000", + "answers": [ + { + "text": "「エジソン」", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ジョアン・ラモス・ド・ナシメントのニックネームは何ですか?", + "id": "tr-061-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ドンジーニョ", + "answer_start": 178, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ドンジーニョのポジションはどこでしたか?", + "id": "tr-061-01-002", + "answers": [ + { + "text": "センターフォワード", + "answer_start": 199, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「エドソン」の由来は誰ですか?", + "id": "tr-061-01-003", + "answers": [ + { + "text": "トーマス・エジソン", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1944年にサンパウロ州のバウルのサッカークラブに移籍したことを契機に家族でバウルへ引越し、選手としてプレーを続けたが後に膝の故障が基で現役を引退した。\nこれにより収入が途絶え生活に困窮したが、ペレはドンジーニョの再就職先が見つかるまでの間、靴磨きの仕事で家計を助けていた。\n母親は厳格な人物でペレに対し経済的に不安定なサッカー選手ではなく高い教育を受け真っ当な職業に就くように厳しく躾けていた。\nペレは当初は飛行機の操縦士になることを夢見ていたが、やがて父と同じサッカー選手を志すようになり、母の目を盗んで父からサッカーに必要な技術や心構えを学んでいった。\n「ペレ」の愛称は父親の所属していたサッカークラブ、ヴァスコ・デ・サンロレンソのGKの「ビレ」のファンであったことに由来している。\n当時のペレは幼かったことや、ミナス・ジェライス訛りもあって「B」の発音が出来ず「P」と発音していた。\nいつしかクラスメイトから自身も「Pelé」と呼ばれるようになったが、本人は少年時代はこの呼び名を好んでおらず、「エドソン」と呼ばれることを望んでいた。\nそのため、時には��レと呼んだ友人を殴り2日間の停学処分を受けたこともあった。\nまた、ペレの愛称が定着するまでは父親の愛称である「ドンジーニョの息子」、家族からは「ジッコ」と呼ばれていた。", + "qas": [ + { + "question": "ペレが家計を助けるために行っていた仕事とは何?", + "id": "tr-061-02-000", + "answers": [ + { + "text": "靴磨き", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ペレ」の愛称の由来となった人物の名は何ですか?", + "id": "tr-061-02-001", + "answers": [ + { + "text": "「ビレ」", + "answer_start": 322, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1950年、ペレが9歳の時に地元ブラジルで1950FIFAワールドカップが開催された。\n優勝候補の本命と目されていた同国は1次リーグのスイス戦を引き分けた以外は無敗で勝ち上がり、最終戦のウルグアイ戦を迎えていたが、最終戦を前にブラジルはウルグアイに対し勝点でも得失点差でも上回っており、この試合で引分けに終わっても優勝が決まる状況だった。\n同年7月16日のウルグアイ戦当日はペレの家にブラジルの勝利を祝おうと父の友人達が大勢訪れパーティを開きラジオの実況に聞き入っていたが、幼かったペレは大人と一緒にラジオの実況に聞き入るより外で友人達とサッカーをして遊ぶことに夢中になっていた。\nそしてブラジルが終了間際に失点し1-2で敗れ優勝を逃すと(マラカナンの悲劇)家中が深い悲しみに包まれ、パウルの街全体も静まりかえった。\nペレはこの光景にショックを受けたものの、悲しみにくれる父を励まそうと、「悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから。」と約束したという。", + "qas": [ + { + "question": "1950年のFIFAワールドカップの開催地はどこでしたか?", + "id": "tr-061-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ブラジル", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "1950FIFAワールドカップの優勝国はどこでしたか?", + "id": "tr-061-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ウルグアイ", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1950FIFAワールドカップの決勝戦で対戦した相手国はどこでしたか?", + "id": "tr-061-03-002", + "answers": [ + { + "text": "ウルグアイ", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1950FIFAワールドカップの準優勝国はどこでしたか?", + "id": "tr-061-03-003", + "answers": [ + { + "text": "ブラジル", + "answer_start": 294, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "10代になると、バウル市の内外の複数のクラブを渡り歩き、2から3チームを掛け持ちしてプレーをするほどだったが、学業の方は疎かになり、母の意向に反して落第生になっていた。\n1954年に地元のバウルACが下部組織(通称バキーニョ)を創設することに伴い、同チームに入団。\nそこで父の古くからの友人であり元ブラジル代表選手のヴァウデマール・デ・ブリトに出会い指導を受けることになった。\nヴァウデマールはペレの才能に着目し、体のあらゆる部位を使ったボールコントロールの重要性、試合の流れを読むコツ、ボールのない所(オフ・ザ・ボール)での動きなどを厳しく教え、選手として成長する上で父と同様に影響を与えることになった。\nヴァウデマールは他のクラブの指導をすることになりバキーニョを去っていったが、その後も連絡を取り合い15歳の時に両親を説得してサントスFCへの入団を取り持った。", + "qas": [ + { + "question": "ペレが10代の頃にサッカーの指導を受けていた人物とは誰?", + "id": "tr-061-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ヴァウデマール・デ・ブリト", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ペレが15歳で入団したチームとはどこ?", + "id": "tr-061-04-001", + "answers": [ + { + "text": "サントスFC", + "answer_start": 366, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1956年にサントスに入団。\nしかし体重が60kgに満たない華奢な体躯であったこともあって直ぐにトップチームでプレーすることは叶わずリザーブチームやユースチームでトレーニングを積むことになった。\n月給6000クルゼイロで仮契約を結び、それまで生活していたバウルを離れてクラブの合宿所での生活に入った。\n数ヶ月後、同年9月7日のコリンチャンスとの親善試合でデビューを果たし(試合は7-1でサントスの勝利)この試合で初得点を決めた。\n国内のリーグ戦でFWのヴァスコンセロスが骨折し戦列を離れたことをきっかけに出場機会を得るようになった。\nヴァスコンセロスはペレの入団以来、先輩として友人として親しく接していたが、この怪我からの復帰後も以前のようなプレーを取り戻す事は出来ず、他のクラブへ移籍した。\n1957年のサンパウロ州選手権では得点王となり、同年4月8日に正式契約を結んだ。", + "qas": [ + { + "question": "ペレが初得点を決めた試合の対戦相手チームは何でしたか?", + "id": "tr-061-05-000", + "answers": [ + { + "text": "コリンチャンス", + "answer_start": 163, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ペレが得点王になったサッカーリーグの名称は何でしょうか?", + "id": "tr-061-05-001", + "answers": [ + { + "text": "サンパウロ州選手権", + "answer_start": 353, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1958年には同じくFWを務めていたエマヌエレ・デル・ヴェッキオが欧州のクラブに移籍したことでポジションを不動のものとし、サンパウロ州選手権では38試合に出場し58得点を決め2年連続得点王を獲得すると共に優勝に貢献した。\n同年にはジト、ペペ、ジウマールらと共にブラジル代表としてワールドカップに出場し初優勝に貢献。\nブラジル代表での活躍もあってクラブには世界中から親善試合のオファーが殺到し、定期的に世界ツアーを行うようになった。\nサントスFCは収容人数の少ないスタジアムしか保有していなかったことから、ブラジル国内の公式戦の他にも毎年のように世界中に遠征して親善試合を行い、必要な収入を確保しなければならなかった。\nペレはそれらの全ての試合で奇跡を起こすことを期待されていたが、1959年に行われた最初の欧州ツアーは6週間に22試合をこなす過密日程だった。", + "qas": [ + { + "question": "ブラジルがワールドカップで初優勝を果たしたのは何年でしたか?", + "id": "tr-061-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1958年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1958年のサンパウロ州選手権で、ペレがゴールした得点数はいくつでしたか?", + "id": "tr-061-06-001", + "answers": [ + { + "text": "58得点", + "answer_start": 80, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "また、クラブでのプレーと平行して兵役の義務を負わなければならなかった。\nペレは「ブラジル代表として国の為に戦ったのだから再び国に仕える義務はない」と主張したが、医学的に正当な理由がない限り義務が免除されることは許されず、サントスの沿岸防衛部隊に配属され同年11月には軍選抜チームに選ばれ南米軍人選手権に出場した。\n同年にはサントス、ブラジル代表、サンパウロ選抜、兵役で配属された沿岸防衛部隊のチーム、そして軍選抜の合計5チームの選手として年間通算で103試合に出場。\n24時間に2試合に出場することが9回ほどあり、時には48時間に3試合に出場するなど、多忙な日々を送った。", + "qas": [ + { + "question": "ペレが兵役中に軍選抜チームとして出場したサッカーリーグの名称は何でしたか?", + "id": "tr-061-07-000", + "answers": [ + { + "text": "南米軍人選手権", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1961年3月5日、マラカナン・スタジアムで行われたリオ・サンパウロ選手権のフルミネンセFC戦において、自陣のペナルティエリア外でボールを受けると、そのままドリブルを開始し相手選手を次々に振り切りゴールキーパーを含めた6人抜きドリブルからの得点を挙げた。\nこの得点はサンパウロの『オ・エスポルチ』紙から「マラカナンの歴史上最も美しいゴール」と賞賛され、同スタジアムには「ペレはこのマラカナン・スタジアムにおいて歴史上、最も美しい得点を決めた」と刻まれた記念のプレートが設置された。\nこの時の得点は後に「ゴウ・ジ・プラッカ」(goldeplaca、プレートのゴールの意)と呼ばれるようになり、ペレのサッカー人生において最も美しいゴールの一つとされている。", + "qas": [ + { + "question": "「マラカナンの歴史上最も美しいゴール」と賞賛された得点において、ペレは何人もの選手をドリブルで抜きましたか?", + "id": "tr-061-08-000", + "answers": [ + { + "text": "6人", + "answer_start": 109, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「マラカナンの歴史上最も美しいゴール」と賞賛された得点は、後にどのような呼称になりましたか?", + "id": "tr-061-08-001", + "answers": [ + { + "text": "「ゴウ・ジ・プラッカ」", + "answer_start": 250, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "また同年のサンパウロ州選手権、グアラニFCでは自身のシュートがゴールラインを割っていないにも関わらず主審により得点が認められる珍事もあった。\nペレは浮き球で2人の相手DFを翻弄した後で3人目のDFを振り切りシュートを放ったが、クロスバーに当たった後に地面に叩きつけられておりゴールラインを割っていたか否かは微妙な状況だった。\nグアラニの選手やファンは猛抗議をしたが主審は「あれだけ見事なプレーなのだから、ゴールを割っていようがいまいが関係ない」と主張したため判定は覆らずゴールが認められた。\nこうした活躍からヨーロッパの有力クラブの関心を集め、スペインのレアル・マドリードは会長を務めるサンティアゴ・ベルナベウが直接オファーした。\n1961年にイタリアに遠征した際にはインテルナツィオナーレ・ミラノから4000万クルゼイロ、ユヴェントス会長のウンベルト・アニエッリからは百万ドルから数千万ドルの移籍の申し入れがあった。", + "qas": [ + { + "question": "ペレに直接オファーしたレアル・マドリードの会長は誰ですか?", + "id": "tr-061-09-000", + "answers": [ + { + "text": "サンティアゴ・ベルナベウ", + "answer_start": 293, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "しかしペレはこれらのオファーに乗り気ではなく、所属クラブのサントスもペレを放出する意思がないことを示したが、この移籍騒動は後にブラジル政府が「ペレは輸出対象外の国宝である」と公式に宣言して移籍を阻止する事態にまで発展した。\nまた所属するサントスFCはペレを慰留させるための多額の金銭を工面した。\nなおペレは欧州のクラブでプレーをしなかった理由について「ジジがレアル・マドリード、ジノ・サニとジョゼ・アルタフィーニがACミランへ移籍したように欧州のクラブでプレーをした選手が何人かいたが、私はサントスFCでの生活に満足していた」「欧州に移籍することも考えたが、サントスFCと共にあることを選んだ」と発言している。", + "qas": [ + { + "question": "欧州のクラブから多数の移籍オファーがあったが、ペレはどこに留まりましたか?", + "id": "tr-061-10-000", + "answers": [ + { + "text": "サントスFC", + "answer_start": 245, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1980年代頃まで世界中の多くのクラブでは外国人枠は「2人」までに設定されていたが、欧州のサッカー先進国ではその時代によって国外からの選手移籍に制限を加えようとする動きも見られ、イングランドでは1978年まで旧植民地以外の国からの選手移籍を制限。\nイタリアではFIFAワールドカップでの代表チームの成績不振を理由に1966年から1980年の間イタリア系アルゼンチン人以外の外国籍選手との契約を禁止、スペインでも1965年から1970年代初頭まで外国籍選手との契約を禁止するなど、他国のリーグでプレーをする機会は必ずしも多くは無かった。\nペレは他の多くの選手と同様にブラジル国内に留まってプレーを続けて、国内のリーグ戦で世界トップレベルの技術を磨いていた。", + "qas": [ + { + "question": "イタリアでは何年から何年の間にイタリア系アルゼンチン人以外の外国籍選手との契約を禁止していましたか?", + "id": "tr-061-11-000", + "answers": [ + { + "text": "1966年から1980年", + "answer_start": 157, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1962年、南米のクラブ王者を決めるコパ・リベルタドーレスに出場し決勝に進出した。\nウルグアイのペニャロールとの対戦となったが、1勝1分で迎えた最終戦でペレの2得点などで勝利し、ブラジル勢として初のタイトルを獲得した。\nこの勝利によりインターコンチネンタルカップへの出場権を得てエウゼビオを擁するポルトガルのSLベンフィカと対戦。\nホームでの第1戦は自身の2得点などで3-2と勝利。\n敵地リスボンでの第2戦も好調なプレーを維持。\nベンフィカの守備陣を翻弄し3得点1アシストという活躍で5-2と勝利を収め、クラブ世界一となった。\nなおリスボンで行われた試合を「私のキャリアにおいて最高の試合」「素晴らしい内容で、生涯忘れることの出来ない芸術的な試合」と語っている。\n翌1963年にもコパ・リベルタドーレスに出場してアルゼンチンのボカ・ジュニアーズを下して大会2連覇、インターコンチネンタルカップにおいてもイタリアのACミランを下して2年連続クラブ世界一となった。", + "qas": [ + { + "question": "コパ・リベルタドーレスでブラジル勢で初優勝したのはいつでしたか?", + "id": "tr-061-12-000", + "answers": [ + { + "text": "1962年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1963年のコパ・リベルタドーレスにおいて、決勝戦の対戦チームはどこの国でしたか?", + "id": "tr-061-12-001", + "answers": [ + { + "text": "アルゼンチン", + "answer_start": 356, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1963年のインターコンチネンタルカップで決勝戦で対戦したチーム名は何でしたか?", + "id": "tr-061-12-002", + "answers": [ + { + "text": "ACミラン", + "answer_start": 406, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "一方で数々のタイトルを獲得し著名になっていったことで、ペレは対戦相手から執拗なマークを受けるようになった。\nかつてのような新進気鋭の若手選手ではなく打倒すべき勝利者とみなされ、クラブや代表チームでもいかにペレの動きや周囲とのコンビネーションを止めるかに焦点が当たるようになった。\n相手DFはペレがどこのポジションに付いていても終始マンマークを付けてラフプレーも辞さない激しいプレーを仕掛け、時には言葉による挑発を仕掛けて故意に退場を誘おうとする選手もいた。\nこの頃にはブラジル国内においても高額の収入を得るようになっていたが、「ペレ」の愛称が多くの価値を生み出すことに気が付き、商標権を獲得して様々な商品に名前の使用を認めることで更に多くの収入を得るようになった。\nまたサントスFCのチームメイトを誘い投機事業に出資を行うなどしたが、一切の財産管理を一任していた人物が投機に失敗し多額の借金を背負うことになった。\nペレはクラブの役員会で事情を説明し、クラブ側に有利な条件で契約を更改するかわりに借金を肩代わりしてもらうことになった。", + "qas": [ + { + "question": "ペレが更に多くの収入を得るために獲得した権利とは何でしたか?", + "id": "tr-061-13-000", + "answers": [ + { + "text": "商標権", + "answer_start": 289, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "クラブは必要な資金を捻出するために依然として国外への遠征ツアーを続けていたが、それまでの欧州や南米だけでなくアジアやアフリカ、北米といったサッカーの後進地域のチームとも試合を行うようになった。\n特に自らのルーツであるアフリカに遠征した際には世界観が変わっただけでなく、社会における自分の立場のあり方を考える契機になった。\nペレは人種差別のない国で黒人が社会的に成功を収める事が出来る生きた証として崇拝の対象となり、アフリカの人々はペレの姿を一目見ようとスタジアムだけでなく空港まで押し寄せるなど各地で熱狂的に迎えられた。", + "qas": [ + { + "question": "ペレのルーツである地域はどこでしたか?", + "id": "tr-061-14-000", + "answers": [ + { + "text": "アフリカ", + "answer_start": 108, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1969年1月、最初の遠征地であるコンゴはコンゴ民主共和国とコンゴ共和国の間で紛争状態にあったが、双方の指導者は試合観戦のために休戦に合意した。\nサントスFCはコンゴで数試合を行い、同月23日のコンゴ民主共和国代表戦では2-3で敗れたが、この試合を記念して同国大統領のモブツ・セセ・セコは「国民のスポーツの日」と定めた。\n次の遠征先はビアフラ戦争により内戦状態にあったナイジェリアだったが、同国とビアフラ共和国との間で試合前後の48時間は停戦し、ペレらが滞在する首都のラゴスへは侵攻しないとの合意がなされ、親善試合は予定通り行われた。", + "qas": [ + { + "question": "モブツ・セセ・セコは1月23日を何の日と制定しましたか?", + "id": "tr-061-15-000", + "answers": [ + { + "text": "「国民のスポーツの日」", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "コンゴの次にサントスFCが親善試合を行った国はどこでしたか?", + "id": "tr-061-15-001", + "answers": [ + { + "text": "ナイジェリア", + "answer_start": 184, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "同年の夏になると通算1000得点が成るかにメディアやファンの注目が集まった。\n10月に990得点を達成し、11月14日にレシフェで行われたボタフォゴFC戦で999得点目を決めて1000得点まで王手をかけると遠征先の都市では1000得点の瞬間を祝おうとカーニバルが催され、スタジアムは宛らワールドカップ決勝のように熱狂して迎えた。\nメディアによる報道も加熱し「ペレは1000得点を達成し不老不死となる」と大仰に書き立てる新聞もあった。\n11月19日、マラカナンスタジアムで行われたCRヴァスコ・ダ・ガマ戦では6万5千人の観客が見守る中、後半33分にペレがペナルティエリア内で倒されペナルティキックを獲得した。\nこれを自らゴール右すみに決め1000得点を達成した。\nこの際にペレが放ったシュートはキックの瞬間に一瞬動きを止めてキーパーの動きを確認してから、その動きと反対方向に決めるという物だったが、この技は後に「パラディーニャ」(ポルトガル語で小休止の意)と呼ばれるようになった。", + "qas": [ + { + "question": "ペレが1000得点を決めた際のシュートの技は、何と呼ばれるようになりましたか?", + "id": "tr-061-16-000", + "answers": [ + { + "text": "「パラディーニャ」", + "answer_start": 404, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ペレが1000得点を決めた日はいつ?", + "id": "tr-061-16-001", + "answers": [ + { + "text": "11月19日", + "answer_start": 217, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ペレが1000得点を決めたスタジアムはどこ?", + "id": "tr-061-16-002", + "answers": [ + { + "text": "マラカナンスタジアム", + "answer_start": 224, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ペレが1000得点を決めた時の対戦チームはどこでしたか?", + "id": "tr-061-16-003", + "answers": [ + { + "text": "CRヴァスコ・ダ・ガマ", + "answer_start": 239, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1000得点が達成されるとスタジアム中が熱狂した。\n試合は中断され記者やレポーターがペレに殺到しコメントを求めた。\nペレは「この得点をブラジルの子供たちに捧げる。神のご加護に報いるためにも貧困に苦しむ子供たちを守ろう。」と答えるとウイニングランを行ってサポーターの声援に応じた。\nこの発言は物議を醸し「偽善者だ」「民衆を扇動しようとしている」と批判を受けたが、ペレは自著の中で「その日が誕生日だった母に捧げるというべきだったが、咄嗟に思いつかなかった」「私のような立場の人間がメッセージを発することは重要だ」と述べている。\nその後、ブラジル郵政省からは記念切手が発行され、ブラジル政府は1000得点を達成したペレに勲章を与え翌日を休日とした。\nサンパウロ市はこの記録を記念して1995年に11月19日を「ペレの日」と定めた。", + "qas": [ + { + "question": "11月19日は何の日となりましたか?", + "id": "tr-061-17-000", + "answers": [ + { + "text": "「ペレの日」", + "answer_start": 351, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ペレの1000得点達成を記念してブラジル郵政省が発行したものは何ですか?", + "id": "tr-061-17-001", + "answers": [ + { + "text": "記念切手", + "answer_start": 276, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ペレの日」を制定したのはどこですか?", + "id": "tr-061-17-002", + "answers": [ + { + "text": "サンパウロ市", + "answer_start": 322, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "所属するサントスFCはリベルタドーレス杯とインターコンチネンタル杯で2連覇を達成した当時の選手達が去り、長期的な展望もなく監督が短期間のうちに次々と入れ代わるなど徐々に衰退を始めていた。\nこのような状況もあって、かつてほどサッカーを楽しめなくなり、引退後の生活を考えるようになった。\n1970年代には大学や企業の招きを受けて講演を行う機会が増えていたが、高等教育を受けた人物と交流するうちに学問への意欲が芽生えるようになり、サントスFCでフィジカルコーチを務めていたジュリオ・マゼイの指導を受けて試合や練習の合間に勉強を続け、大学入試資格に必要な中等教育課程を修了。\n大学入学試験にも合格し体育学を専攻した。\n1973年にはペプシコーラとの間で世界中の子供たちを対象とした「インターナショナル・ユース・フットボール・プログラム」というプロジェクトの契約を結んだ。\nこの契約は当初1年間の予定だったが、更に5年間延長されペレはマゼイと共に世界64か国を訪問しサッカー教室を開き、サッカーの普及に努めた。\nまた「ペレ--キングの法則」と題した教則映画は数々の賞を受賞した。\n1974年10月2日、18年間を過ごしたサントスFCでの最後の試合となったポンチ・プレッタ戦を行った。\n試合開始20分に中盤でボールを受けると両手でキャッチしてセンターサークルへと向かい、ボールを置くとピッチに跪き両手を広げ十字架のようなポーズをとり集まったファンへの感謝の意を示すと共に別れを告げた。\nこの後、ペレは思い出の地であるメキシコを振り出しに世界キャンペーンに旅立ち、11月19日には訪日し1週間滞在。\n静岡県清水市、東京都と広島市で「サッカー教室」を開催した。", + "qas": [ + { + "question": "ペレはサントスFCに何年間在籍しましたか?", + "id": "tr-061-18-000", + "answers": [ + { + "text": "18年間", + "answer_start": 496, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ペレの最後の試合はいつ行われましたか?", + "id": "tr-061-18-001", + "answers": [ + { + "text": "1974年10月2日", + "answer_start": 485, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ペレの最後の試合の対戦相手はどこでしたか?", + "id": "tr-061-18-002", + "answers": [ + { + "text": "ポンチ・プレッタ", + "answer_start": 522, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ペレが静岡県と東京都以外でサッカー教室を開催したのはどこですか?", + "id": "tr-061-18-003", + "answers": [ + { + "text": "広島市", + "answer_start": 704, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1975年、北米サッカーリーグ(NASL)に所属するニューヨーク・コスモスに移籍。\nこれはアトランティック・レコードの創設者であるアーティガン兄弟やワーナー・ブラザース社長でニューヨーク・コスモスのチェアマンを務めていたスティーヴ・ロスからの勧誘を受けてのもので、2年契約で移籍金は900万ドルであった。\nこの契約の背後にはアメリカ合衆国国務長官で熱狂的なサッカーファンのヘンリー・キッシンジャーの存在があった。\n1970年代当時、サッカー不毛の地と呼ばれたアメリカにサッカーを普及させ、いずれワールドカップを招致したいという思惑があり、ペレのニューヨーク・コスモスへの移籍についても「わが国でプレーする事で発展に協力して欲しい」との旨を記した公文書を発行し移籍を支援した。", + "qas": [ + { + "question": "ニューヨーク・コスモスに移籍した時の移籍金はいくらでしたか?", + "id": "tr-061-19-000", + "answers": [ + { + "text": "900万ドル", + "answer_start": 141, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ニューヨーク・コスモスとの契約の背後にいた人物とは?", + "id": "tr-061-19-001", + "answers": [ + { + "text": "ヘンリー・キッシンジャー", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アメリカにサッカーを普及させ、将来的にワールドカップを招致したいという思惑を持っていた人物は誰ですか?", + "id": "tr-061-19-002", + "answers": [ + { + "text": "ヘンリー・キッシンジャー", + "answer_start": 186, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "同年6月15日に行われたトロント・メトロス戦には2万5千人の観客が集まり、この後も北米リーグの平均観客数は2万人台を維持した。\n2年後には西ドイツからフランツ・ベッケンバウアー、ブラジルからカルロス・アウベルトが加わりオールスターチームの陣容を呈し、1977年には同チームの北米選手権のタイトルを獲得した。\nサッカー不毛の地と言われたアメリカでサッカーの伝道師としての役割を果たし人気選手となり活躍したことで、ニューヨーク市の名誉市民に選ばれた。\n同年10月1日にジャイアンツ・スタジアムで行われた引退試合のコスモス対サントスFC戦には7万5千人の観衆が詰掛けた。\nペレは前半はコスモスの選手として後半はサントスの選手としてプレーし前半に1得点をあげ自らの引退の花道を飾った。\n試合後のセレモニーでは「愛を!皆に愛を!世界に愛を!」の言葉で締めくくった。", + "qas": [ + { + "question": "ペレの引退試合はどこで行われましたか?", + "id": "tr-061-20-000", + "answers": [ + { + "text": "ジャイアンツ・スタジアム", + "answer_start": 232, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ペレの引退試合に駆け付けた観衆は何人でしたか?", + "id": "tr-061-20-001", + "answers": [ + { + "text": "7万5千人", + "answer_start": 268, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "北米選手権のタイトルを獲得したのは何年でしたか?", + "id": "tr-061-20-002", + "answers": [ + { + "text": "1977年", + "answer_start": 125, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "大同電力", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "大同電力株式会社(だいどうでんりょく、英文社名:GreatConsolidatedElectricPowerCompany,Limited.)は、大正から昭和戦前期にかけて存在した日本の電力会社である。\n当時の大手電力会社、通称「五大電力」の一つ。\n大阪送電株式会社(おおさかそうでん)の社名で1919年に設立され、1921年に木曽電気興業・日本水力の2社を合併して大同電力となった。\n木曽川などの河川において電源開発を手がけ、同時に関西・中部・関東にまたがる送電網を構築した。\nこれらの地域で営業する電気事業者への電力供給を事業の中心とする、卸売り電力会社として発展した。\n1939年に解散した。\n保有していた発電所はその後の再編を経て関西電力・中部電力・北陸電力の3社に継承された。\nまた傍系会社の系譜を引く特殊鋼メーカーの大同特殊鋼に「大同」の社名を残している。", + "qas": [ + { + "question": "大同電力となる前の会社名は何だったの?", + "id": "tr-062-00-000", + "answers": [ + { + "text": "大阪送電株式会社", + "answer_start": 125, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "大同電力が解散したのはいつ?", + "id": "tr-062-00-001", + "answers": [ + { + "text": "1939年", + "answer_start": 288, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "大同電力は主にどの河川で電源開発事業を行っていたの?", + "id": "tr-062-00-002", + "answers": [ + { + "text": "木曽川", + "answer_start": 193, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "大同電力株式会社は、1919年(大正8年)から1939年(昭和14年)にかけて存在した、電気事業者への電力供給、すなわち電力の卸売りを主体とする電力会社である。\n大正末期から昭和戦前期にかけて大きな勢力を持っていた電力会社5社、いわゆる「五大電力」の一つに数えられる。\n1919年11月、「大阪送電株式会社」の社名で設立されたのが大同電力の始まりである。\n設立の前年にあたる1918年(大正7年)9月に中部地方を流れる木曽川の水力開発などを目的として設立されていた木曽電気興業(旧社名木曽電気製鉄)が主たる親会社で、同社が開発する水力発電所の発生電力を関西地方へと送電することを起業の目的とした。\nこれら大阪送電・木曽電気興業の2社に加えて、北陸地方などにおける水力開発を計画し、関西方面への送電を構想するという点で起業目的が共通する日本水力の計3社が1921年(大正10年)2月に合併し、大同電力株式会社は発足した。\n初代社長は大阪送電・木曽電気興業両社の社長を兼ねていた福澤桃介である。", + "qas": [ + { + "question": "木曽電気興業はどの地方への電力送電を目的としていたの?", + "id": "tr-062-01-000", + "answers": [ + { + "text": "関西地方", + "answer_start": 276, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "大同電力の初代社長の氏名は?", + "id": "tr-062-01-001", + "answers": [ + { + "text": "福澤桃介", + "answer_start": 437, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "大同電力が発足した第一次世界大戦後から大正末期にかけて、日本では5つの電力会社が業界内で巨大化していた。\nこの5社がいわゆる「五大電力」で、他の4社は関東の東京電灯、中京と九州北部の東邦電力、関西の宇治川電気、同じ卸売り会社の日本電力を指す。\n電気事業の大型化の中で、大同電力は木曽川において積極的な水力開発を手がけることにより規模を拡大していった。\n木曽川に建設された発電所のうち、1924年(大正13年)に完成したダム式の大井発電所は当時国内で最大の発電出力を擁した。", + "qas": [ + { + "question": "「五大電力」の中で九州北部を代表する電力会社は何?", + "id": "tr-062-02-000", + "answers": [ + { + "text": "東邦電力", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "大同電力によって建設された、大正13年当時国内最大となる発電所は何だったの?", + "id": "tr-062-02-001", + "answers": [ + { + "text": "大井発電所", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "電力の供給先はおおむね電気事業者であり、小売りの比率が1割程度あったため完全な卸売り専業とは言えないが、事業の主体は電力の卸売りであった。\n大口需要家には五大電力のうち宇治川電気・東京電灯も含まれるが、両社とはしばしば対立し、初期には大同電力側が相手側の地盤に割り込む構えを見せて自社に有利な電力供給契約を獲得したが、後期には一転攻勢を仕掛けられて電力料金の引き下げを要求され紛争が生じた。\nこれらを含む五大電力間の紛争は当時「電力戦」と呼ばれた。", + "qas": [ + { + "question": "五大電力間の対立や揉め事を、当時の世間の人たちは何と呼んでいたの?", + "id": "tr-062-03-000", + "answers": [ + { + "text": "「電力戦」", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1930年代に入ると、金輸出再禁止に伴う急速な円安により、1920年代に発行していた外債の支払利子負担が跳ね上がるという電力外債問題が発生する。\nこの処理のため2年間にわたり無配に転落するが、1930年代半ばより業績は持ち直した。\nしかしその一方で、そのころより政府主導の業界再編を目指す「電力国家管理」政策の検討が本格化する。\n同政策は1938年(昭和13年)の電力管理法公布、そして翌1939年(昭和14年)4月の国策会社日本発送電設立という形で実行に移された。\n同社設立の過程で大同電力は電力設備の出資を命ぜられ、他の設備も強制買収の対象とされた上に、政府当局から残余の資産・負債についても日本発送電へ移管することを慫慂された。\nこのことから大同電力は全社を挙げて日本発送電へと合流する道を選び、資産・負債を同社へと継承させて1939年4月に解散した。\n最後の社長(2代目社長)であった増田次郎は、解散により日本発送電の初代総裁に転じている。", + "qas": [ + { + "question": "電力国家管理政策によって設立された電力会社は何?", + "id": "tr-062-04-000", + "answers": [ + { + "text": "日本発送電", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "大同電力の2代目社長のお名前は?", + "id": "tr-062-04-001", + "answers": [ + { + "text": "増田次郎", + "answer_start": 396, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "大同電力から日本発送電に継承された発電所は、第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)に実施された「電気事業再編成」に際して、新発足した電力会社9社のうち関西電力・中部電力・北陸電力の3社にそれぞれ引き継がれた。\n中でも大半を占めていた木曽川の発電所はすべて関西電力の帰属となっている。\n傘下に抱える関係会社には、北陸から関西へ��送電線を建設した昭和電力などがあった。\n傍系会社のうち親会社と同じく「大同」の社名を冠する企業は3社あり、そのうち大同電力の兼業部門を起源とする大同製鋼(旧・大同電気製鋼所)は、特殊鋼メーカーとして戦後発展した大同特殊鋼の前身にあたる。", + "qas": [ + { + "question": "大同電力が保有していた木曽川の発電所を全て譲り受けた電力会社はどこですか?", + "id": "tr-062-05-000", + "answers": [ + { + "text": "関西電力", + "answer_start": 129, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "大同電力の前身、大阪送電株式会社の基盤となった「大阪送電計画」は、愛知県名古屋市の電気事業者名古屋電灯が立てた構想に端を発する。\n後に大同電力初代社長となる福澤桃介が当時社長(1914年就任)を務めていた名古屋電灯では、明治末期に木曽川の水利権を確保していたが、福澤の社長就任後これに修正を加えて木曽川全体の開発計画を策定し、1915年(大正4年)9月にその旨を所管官庁の逓信省へ申請した。\nこの時点では水力発電所を3か所設置する計画であったが、同年10月使用水量増加を追加申請、翌1916年(大正5年)6月には河水引用地点を見直し、最終的に4か所の発電所で計7万300キロワット(kW)を発電する計画とした。\n7万kWに及ぶ水力開発計画に対し、現実に名古屋電灯が持つ需要は、1916年末のものを見ても電灯・電力合計1万8千kW余りと計画に対して過少であった。\nこのことから、木曽川開発で生ずる電力の余力は、当初から大阪方面へと送電することが想定されていた。\n名古屋電灯は1915年9月、大阪市と周辺町村を供給区域とする電力供給事業を申請。\n1916年6月の計画修正時には堺市や兵庫県尼崎市も供給区域に追加申請した。", + "qas": [ + { + "question": "1915年当時の木曽川全体の開発計画では、水力発電所をいくつ設置する予定だったの?", + "id": "tr-062-06-000", + "answers": [ + { + "text": "3か所", + "answer_start": 208, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "尼崎市が名古屋電灯の電力供給区域に加わったのはいつですか?", + "id": "tr-062-06-001", + "answers": [ + { + "text": "1916年6月", + "answer_start": 471, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "申請の一方で大阪方面における供給先確保に向け手始めに大口電力需要家との供給契約締結に努めたが、この方針には大阪の既存電力会社宇治川電気が反発したため、妥協して同社や大阪電灯との供給契約締結を目指した。\n宇治川電気・大阪電灯とは1916年5月から9月にかけて交渉を重ねたが、供給料金について名古屋電灯は1キロワット時(kWh)あたり1銭2厘、大阪側2社は9厘以下を主張して折り合いがつかず、契約締結には至らずに終わった。\n1917年(大正6年)3月、前年に水利権を申請していた4地点のうち賤母水力(しずも、発電所出力1万2,600kW)の1地点のみ許可が下りた。\n当時逓信省では、水利権の転売を防止するため起業の確実性を確認した上で許可を出す方針を採っていたことから、4地点のうち名古屋方面への需要に見合う賤母水力のみの許可となり、具体的な供給先を掲示できなかった残り3地点は見送られたのである。\nここに至り名古屋電灯は大阪送電計画を一時棚上げし、電気で製鉄業をなすという「電気製鉄」の計画を立ち上げて、木曽川開発による電力を製鉄業に振り向けることとなった。\nそして翌1918年(大正7年)9月8日、水力開発事業と電気製鉄事業を名古屋電灯から分離し、木曽電気製鉄株式会社(後の木曽電気興業)を設立した。\nただし、電気製鉄事業は操業開始後まもなく頓挫している。", + "qas": [ + { + "question": "供給料金を主張し合った名古屋電灯と大阪側2社は、どちらが安い値段を主張しましたか?", + "id": "tr-062-07-000", + "answers": [ + { + "text": "大阪側2社", + "answer_start": 170, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "木曽電気製鉄株式��社の設立後、すぐに中途挫折してしまった事業とは何ですか?", + "id": "tr-062-07-001", + "answers": [ + { + "text": "電気製鉄事業", + "answer_start": 555, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "第一次世界大戦勃発後、大戦景気を背景として電力需要が急増した結果、名古屋電灯では一時供給力不足に陥っていた。\n1918年には電力だけでも2万2千kWの供給を行っていたのに対し、3万4千kWに達する新規の電力需要が見込まれていたのである。\nしかし発電所の新増設が進んだ上、1919年(大正8年)7月に木曽電気製鉄(木曽電気興業)の手により賤母発電所が運転を開始すると、名古屋方面での電力不足は緩和に向った。\nこのような大戦景気による需要増を原因とする電力不足は名古屋のみならず全国的な現象であったが、中でも関西地方では著しい電力不足に見舞われた。\n例えば大阪では電力不足からしばしば送電停止措置が採られていたのにもかかわらず、供給の予約が6万kWを越えていた。\n京都方面でも新規供給の停止措置が行われており、その影響で大阪・京都では電力使用権の転売が横行した。", + "qas": [ + { + "question": "1918年の名古屋電灯の電力需要と電力供給はどちらが多かったのですか?", + "id": "tr-062-08-000", + "answers": [ + { + "text": "電力需要", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "第一次世界大戦後、特に深刻な電力不足に陥った地域はどこでしたか?", + "id": "tr-062-08-001", + "answers": [ + { + "text": "関西地方", + "answer_start": 252, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "関西地方における深刻な電力不足を受けて、名古屋電灯から水力開発事業を継承した木曽電気製鉄(木曽電気興業)は棚上げされていた大阪送電計画に再び着目し、実現に向けて動き出すこととなった。\n木曽電気製鉄には当時、許可済みの水利権が約5万kW分あるほかにも、水利権申請中の発電所が10万kW分存在していたが、名古屋方面ではそれらの電力の受け皿たり得ず、他地域への送電が必須であるという事情もあった。\n関西ではこの時、京阪電気鉄道が電力供給を求めており、同社取締役の林謙吉郎と木曽電気興業の社長福澤桃介が旧知の間柄であったという関係から、両社の間で提携話が浮上する。\n1919年1月に京阪の常務太田光熈と交渉が持たれ、最終的に京阪方面への電力供給を行う新会社設立の合意へと漕ぎ着けた。\nこの時、京阪以外にも出資する電鉄会社がある方が有利だと判断し太田は複数社の重役に声をかけたが、大阪送電計画の実現に懐疑的で、中には福澤と組むのは危険だという者もあり、まったく賛同されなかったという。", + "qas": [ + { + "question": "京阪電気鉄道の常務に就いていた人は誰?", + "id": "tr-062-09-000", + "answers": [ + { + "text": "太田光熈", + "answer_start": 292, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "木曽電気興業・京阪電気鉄道の関係者が発起人となって新会社の設立準備を進め、1919年8月に電気事業の経営許可を逓信省に申請、10月にその許可を取得した。\nそして同年11月8日、東京市において創立総会が開催され、新会社「大阪送電株式会社」が発足した。\n資本金は2000万円で、出資比率は木曽電気興業側が51.2%、京阪電気鉄道側が48.8%であった。\n取締役には木曽電気興業から福澤桃介・下出民義・増田次郎・村瀬末一、京阪電気鉄道から太田光熈・林謙吉郎・岡崎邦輔、計7名が就任し、社長に福澤、常務に下出・増田・太田・林の4名が選任された。\n本社は東京市麹町区八重洲町1丁目で、大阪市と名古屋市にそれぞれ支店を構えた。", + "qas": [ + { + "question": "「大阪送電株式会社」の資本金をより多く出したのは木曽電気興業側と京阪電気鉄道側のどちらでしょうか?", + "id": "tr-062-10-000", + "answers": [ + { + "text": "木曽電気興業側", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "大阪送電株式会社の取締役には、木曽電気興業と京阪電気鉄道のどちらからの人間が多く選ばれましたか?", + "id": "tr-062-10-001", + "answers": [ + { + "text": "木曽電気興業", + "answer_start": 180, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "設立にあたって立案された大阪送電会社の事業計画によれば、木曽電気興業が水利権出願中の木曽川筋笠置発電所(岐阜県)から最大1万7,000kW、錦津発電所(同上)から最大1万8,000kWの電力供給を受け、両発電所から大阪・京都へと新設送電線により送電、さらに渇水時の補給用として大阪府下に出力1万kWの火力発電所を建設し、大阪市・京都市および周辺町村へと電力を供給する、という構想であった。\nこれらの第一期計画に続いて、白山水力・矢作水力・久原鉱業が計画する水力発電所から10万kWの供給を受け京阪方面への供給力を増強する、という第二期計画も予定された。\n供給先は京阪電気鉄道に加えて市営事業を経営する京都市および大阪市も確保でき、京阪へ2万kW、京都・大阪両市へ各1万kWを供給することとなった。", + "qas": [ + { + "question": "大阪送電会社の事業計画の構想では、木曽川筋笠置発電所と錦津発電所から受ける電力供給のうち、どちらがより多かったですか?", + "id": "tr-062-11-000", + "answers": [ + { + "text": "錦津発電所", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "大阪送電会社の設立と時を同じくして、大規模水力開発と電力不足に悩む関西方面への送電を事業目的とする新会社が2社設立されていた。\n一つは、宇治川電気の関係者が中心となって1919年12月に設立した日本電力で、東海・北陸地方で水力開発を行い10万kWを関西地方へと送電する計画であった。\nもう一つは同年10月に設立された日本水力で、山本条太郎らと大阪電灯・京都電灯の関係者が中心となり起業し、関係者から北陸・東海・関西地方の水利権を集めて10万kWを発電、それを大阪電灯・京都電灯へと供給する計画であった。", + "qas": [ + { + "question": "関西方面への送電を事業目的とする新会社のうち、山本条太郎が関与して起業した会社は何ですか?", + "id": "tr-062-12-000", + "answers": [ + { + "text": "日本水力", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "日本電力と日本水力はどちらが早く設立されたの?", + "id": "tr-062-12-001", + "answers": [ + { + "text": "日本水力", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1919年後半に相次いで関西への送電を目指す新会社が設立されたものの、翌1920年(大正9年)春に戦後恐慌が発生してしまう。\n大同電力の説明によれば、この財界変動により生じた金融、産業界、電力需要その他の環境が、大阪送電会社と日本水力がそれぞれ別個に事業を行うには困難な状勢となったことから、自然と合同の機運が生じたという。\n実際、日本水力側から見ると、恐慌の影響で資本金の払い込みや資金の借り入れが不可能となり資金が枯渇していた折であり、その打開策としての合併であった。\nまた日本水力は販路に大阪電灯・京都電灯を確保していたが、大阪送電・木曽電気興業は十分な販路を持たない、という事情もあった。\n合併交渉は岡崎邦輔を仲介者として行われ、大阪送電・木曽電気興業社長の福澤桃介、日本水力社長の山本条太郎との間に3社合併の交渉がまとまって、1920年9月に合併に関する覚書きの交換、同年10月8日には合併契約の締結へと進んだ。\n各社は11月中にそれぞれ株主総会にて合併契約を承認する。\n翌1921年(大正10年)1月20日には逓信省より合併認可が下り、その後各種手続き経て2月25日開催の合併報告総会をもって合併が完了し、大同電力株式会社が発足した。", + "qas": [ + { + "question": "大阪送電会社と日本水力が合併していくきっかけとなった経済的現象とは何ですか?", + "id": "tr-062-13-000", + "answers": [ + { + "text": "戦後恐慌", + "answer_start": 49, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "合併した3社の中で、2つの会社を経営していた社長は誰ですか?", + "id": "tr-062-13-001", + "answers": [ + { + "text": "福澤桃介", + "answer_start": 333, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "3社の合併交渉の仲介を務めた男は誰ですか?", + "id": "tr-062-13-002", + "answers": [ + { + "text": "岡崎邦輔", + "answer_start": 304, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "合併における存続会社は大阪送電会社。\n合併前の公称資本金は大阪送電会社2000万円、木曽電気興業が1860万円、日本水力が5000万円であったが、合併後の大同電力の公称資本金は3社合計に合併による増資1140万円を加え1億円とされた。\nただし合併による8000万円の資本金増加に伴う新株の交付は、木曽電気興業側に60万株、日本水力側に100万株となっている。\nまた合併条件は払込資本金額について木曽電気興業側を高く評価し、合併交付金348万4000円を木曽電気興業株主に別途交付する、合併に先立って日本水力側の資金拠出で同社株を木曽電気興業株主に無償取得させる、という付帯条件も付いており、実質的には資産内容が優れる福澤系2社による日本水力の吸収であったといえる。", + "qas": [ + { + "question": "合併前の公称資本金を2番目に多く出した会社は何ですか?", + "id": "tr-062-14-000", + "answers": [ + { + "text": "大阪送電会社", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "合併による8000万円の資本金増加に伴う新株が、より少なく交付されたのは木曽電気興業側と日本水力側のどちらですか?", + "id": "tr-062-14-001", + "answers": [ + { + "text": "木曽電気興業側", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "大阪送電会社、木曽電気興業、日本水力の中で実質的に資産が劣っていたのはどの会社ですか?", + "id": "tr-062-14-002", + "answers": [ + { + "text": "日本水力", + "answer_start": 249, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "新社名は3社の「大同団結」により発足したことが由来で、福澤の考案による。\n社長には福澤桃介が留任、副社長には日本水力から宮崎敬介が入り、常務取締役には増田次郎・太田光熈と木曽電気興業から三根正亮、日本水力から近藤茂・関口寿の計5名が選ばれた。\n本社は東京市麹町区八重洲町1丁目に置き、大阪市・名古屋市にそれぞれ支店を構えたが、本社についてはまもなく麹町区永楽町1丁目(後の丸ノ内1丁目)の東京海上ビルに移している。\n大同電力は発足当初、電気事業以外に2つの副業をもった。\n木曽電気興業より引き継いだ製鉄事業と、日本水力より引き継いだ硫酸アンモニウム(硫安)製造事業である。\nこれらの事業は景気に左右されやすいことから本業の電気事業の収益を確保すべく別会社とする方針が採られ、1921年11月、製鉄事業は大同製鋼株式会社、硫安事業は大同肥料株式会社(後の大同化学工業)へとそれぞれ分離された。\n電気事業専業となった大同電力は、以降電力設備の建設を進め、1922年7月に関西地方への送電を始めるなど、設備の拡充と供給の拡大を推進した。\n発足以降の沿革は、以下、建設、供給、業績の推移に分けて記述していく。", + "qas": [ + { + "question": "大同電力が電気事業だけ専念するようになったのは何年からですか?", + "id": "tr-062-15-000", + "answers": [ + { + "text": "1921年", + "answer_start": 337, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "大同電力という名前を考え出した人のフルネームは何ですか?", + "id": "tr-062-15-001", + "answers": [ + { + "text": "福澤桃介", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "大同電力は1921年2月に発足した当時、木曽川筋に9地点、矢作川筋に1地点の計10地点の水利権を木曽電気興業から継承し、日本水力からも九頭竜川筋に2地点と支流打波川筋に2地点の計4地点を継承、合計14地点に水利権を保有していた。\nそのうち、大同発足までに完成していた水力発電所は木曽電気興業2か所、日本水力1か所の計3か所で、他に木曽電気興業の発電所1か所が建設中であった。", + "qas": [ + { + "question": "発足当時の大同電力が木曽電気興業から継承した水利権のうち、最も数が少なかったのはどの川筋でしたか?", + "id": "tr-062-16-000", + "answers": [ + { + "text": "矢作川筋", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "発足当時の大同電力が保有した水利権のうち、数が同じだったのは支流打波川筋ともう1つはどこの川筋ですか?", + "id": "tr-062-16-001", + "answers": [ + { + "text": "九頭竜川筋", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "発足当時の大同電力が保有した水利権のうち、最多数だったのはどこの川筋ですか?", + "id": "tr-062-16-002", + "answers": [ + { + "text": "木曽川筋", + "answer_start": 20, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "発足当時の大同電力が保有した水利権のうち、数が最小だったのはどこの川筋ですか?", + "id": "tr-062-16-003", + "answers": [ + { + "text": "矢作川筋", + "answer_start": 29, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "西勝原発電所は九頭竜川(福井県)に位置し、出力7,200kW、1919年6月北陸電化(日本水力の前身)により運転開始。\n賤母発電所は木曽川(長野県)に位置し、出力1万2,600kW、1919年7月木曽電気興業により運転開始。\n1922年3月増設工事竣工、出力1万4,700kWに増強。\n大桑発電所は木曽川(長野県)に位置し、出力1万1,000kW、建設中である(1921年8月運転開始)。\n串原発電所は矢作川(岐阜県)に位置し、出力6,000kW、1920年12月木曽電気興業により運転開始。", + "qas": [ + { + "question": "西勝原発電所、串原発電所、大桑発電所、賤母発電所の中で最も遅く運転開始された発電所はどれですか?", + "id": "tr-062-17-000", + "answers": [ + { + "text": "大桑発電所", + "answer_start": 143, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "前身各社から引き継いだ水利権のうち、大同電力はまず木曽川開発に注力する方針をとった。\n木曽川開発にあたり同社は「一河川一会社主義」を標榜、木曽川の水力を余す所なく有効適切に利用開発する、とうたった。\n具体的には、水量・落差ともに豊富な上流部には水路式発電所を連関的に建設、次いで水量は多いものの落差が少ない中流部にはダム式発電所を設置して尖頭負荷(電力ピーク)の増大に対応、最下流には逆調整用発電所を構えて河水を自然流量に戻し、一方で最上流部(支流王滝川)には貯水池を起こして全発電所の水量調整に当てる、という開発計画である。\nこれらの方針に基づいて、大同電力は発足後ただちに木曽川開発に着手し、大正末期までに水力発電所5か所(須原・桃山・読書・大井・落合)を建設した。\n同時に送電線の延伸を進め、大阪では火力発電所4か所を新設あるいは買収している。", + "qas": [ + { + "question": "木曽川の中流部に設置された発電所は何式でしたか?", + "id": "tr-062-18-000", + "answers": [ + { + "text": "ダム式", + "answer_start": 158, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "木曽川の上流部と中流部はどちらが落差が多いですか?", + "id": "tr-062-18-001", + "answers": [ + { + "text": "上流部", + "answer_start": 117, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1917年(大正6年)に水利権許可を得ていた木曽川の「大桑第一水力」は、水路が長すぎることから実際の開発にあたっては2地点に分割することになり、下流側は「須原水力」となった。\n同地点は須原発電所として大同発足直後ただちに着工され、1922年(大正11年)7月に竣工した。\n須原発電所は長野県西筑摩郡大桑村に設置され、水路式発電所で出力は9,200kW。\nエッシャーウイス製水車、ウェスティングハウス・エレクトリック製発電機各2台と日立製作所製変圧器を設置した。\n竣工とともに大桑発電所まで77キロボルト(kV)送電線が完成、大桑発電所より名古屋市北区八龍町の六郷変電所へ至る既設送電線(同年6月全線竣工)と接続し、名古屋方面への送電を開始する。\nさらに翌1923年(大正12年)12月、大阪送電幹線が完成すると須原変電所を通じ154kVに昇圧した上で大阪方面へも送電するようになった。", + "qas": [ + { + "question": "須原変電所から大桑発電所までの送電線が完成したのは何年ですか?", + "id": "tr-062-19-000", + "answers": [ + { + "text": "1922年", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "須原発電所から名古屋方面への送電が開始されたのは何年ですか?", + "id": "tr-062-19-001", + "answers": [ + { + "text": "1922年", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "須原発電所が名古屋方面の次に送電を開始した地域はどこですか?", + "id": "tr-062-19-002", + "answers": [ + { + "text": "大阪方面", + "answer_start": 375, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "桃山発電所は「大桑第一水力」の一部を計画変更して開発された。\nすなわち、大桑第一水力を分割して生じた2地点のうち上流側にあたる「駒ヶ根水力」を、途中に景勝地寝覚の床があることからさらに分割して生じた2地点のうちの一つである(もう一つの地点は寝覚発電所となった)。\n1922年8月に着工、翌1923年12月に完成した。\n西筑摩郡上松町にあり、エッシャーウイス製水車2台とウェスティングハウス製の発電機2台および変圧器を設置して2万3,100kWの出力で発電する設計であった。\n桃山では、東京方面への送電を見越して、周波数を50・60ヘルツ双方に対応するよう水車・発電機が設計された。\n発電所に先立って1923年11月、須原発電所までの77kV送電線が竣工した。\n翌1924年(大正13年)1月には東筑摩郡広丘村郷原(現・塩尻市広丘郷原)に新設された塩尻変電所までの77kV送電線も完成し、東京電灯への電力供給を開始している。", + "qas": [ + { + "question": "桃山発電所から塩尻変電所までの送電線が完成したことにより、可能となった電力供給先はどこですか?", + "id": "tr-062-20-000", + "answers": [ + { + "text": "東京電灯", + "answer_start": 393, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "桃山発電所が竣工する前に、まず何の施設までの送電線が完成しましたか?", + "id": "tr-062-20-001", + "answers": [ + { + "text": "須原発電所", + "answer_start": 308, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "読書(よみかき)は1917年に水利権の許可が下りていた地点の一つである。\n読書発電所は1922年3月に着工され、翌1923年12月に竣工した。\n西筑摩郡読書村(現・南木曽町読書)にあり、木曽川本流のみならず支流の阿寺川・柿其川からも取水可能な設計である。\nエッシャーウイス製水車、ウェスティングハウス���発電機各3台にゼネラル・エレクトリック製変圧器が設置された。\n出力は4万700kWである。\n東京電灯猪苗代第一発電所(出力3万7,500kW)を上回る、当時日本最大の発電所となった。\n送電線は後述の大阪送電線が接続した。", + "qas": [ + { + "question": "読書発電所の出力はいくらですか?", + "id": "tr-062-21-000", + "answers": [ + { + "text": "4万700kW", + "answer_start": 185, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "東京電灯猪苗代第一発電所と読書発電所はどちらが出力が小さいですか?", + "id": "tr-062-21-001", + "answers": [ + { + "text": "東京電灯猪苗代第一発電所", + "answer_start": 197, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "読書発電所が位置しているのは現在のどこですか?", + "id": "tr-062-21-002", + "answers": [ + { + "text": "南木曽町読書", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "太宰治", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "太宰治(だざいおさむ、1909年〈明治42年〉6月19日-1948年〈昭和23年〉6月13日)は、日本の小説家である。\n本名、津島修治(つしましゅうじ)である。\n左翼活動での挫折後、自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。\n主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。没落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。\n戦後は、その作風から坂口安吾、織田作之助、石川淳らとともに新戯作派、無頼派と称されたが、典型的な自己破滅型の私小説作家であった。", + "qas": [ + { + "question": "『走れメロス』『津軽』『人間失格』を代表作に持つ日本の有名な小説家は誰でしょう?", + "id": "tr-063-00-000", + "answers": [ + { + "text": "太宰治", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "太宰治の作品の中で、ベストセラーとなった作品は何かご存じですか?", + "id": "tr-063-00-001", + "answers": [ + { + "text": "『斜陽』", + "answer_start": 184, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "太宰治の本名は何かな?", + "id": "tr-063-00-002", + "answers": [ + { + "text": "津島修治", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "太宰と共に新戯作派、無頼派と称されたのは、織田作之助と石川淳、あともう一人の作家の名前は?", + "id": "tr-063-00-003", + "answers": [ + { + "text": "坂口安吾", + "answer_start": 210, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "青森県北津軽郡金木村(のちの金木町、現在の五所川原市)に、県下有数の大地主である父津島源右衛門と母たね(夕子)の六男として生まれた。\n両親にいる11人の子女のうちの10番目である。\n父・源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員などをつとめた地元の名士で、津島家は「金木の殿様」とも呼ばれていた。\n父は仕事で多忙な日々を送り、母は病弱だったため、生まれてすぐ乳母に育てられた。\nその乳母が1年足らずで辞めた後は叔母のキエ(たねの妹)が、3歳から小学校入学までは14歳の女中・近村たけが子守りを務めた。\n1916年(大正5年)、金木第一尋常小学校に入学した。\n津島家の子弟は実際の成績に関係なく、学業は全て「甲」をつけられていたが、太宰は実際の成績も良く、開校以来の秀才と言われていたという。\n小学校卒業後、1年間明治高等小学校に通学。\nこれは次兄の英治と三兄の圭治が成績不振で弘前中学校を2年で中退していたため、落ちこぼれぬよう学力補充のための通学だった。", + "qas": [ + { + "question": "太宰は、父津島源右衛門と母たねの11人の子女のうち何番目の六男として出生しましたか?", + "id": "tr-063-01-000", + "answers": [ + { + "text": "10番目", + "answer_start": 82, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "太宰が金木第一尋常小学校に入学したのはいつのことでしょうか?", + "id": "tr-063-01-001", + "answers": [ + { + "text": "1916年", + "answer_start": 274, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "父・源右衛門が県会議員、衆議院議員、多額納税による貴族院議員などをつとめたことから、津島家は何と呼ばれていたの?", + "id": "tr-063-01-002", + "answers": [ + { + "text": "「金木の殿様」", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1923年(大正12年)、3月4日、父源右衛門が肺癌で死去した。\n4月、青森県立弘前中学校に入学、実家を離れて下宿生活を送る。\n成績優秀で1年の2学期から卒業まで級長を務め、4年修了(四修)時の成績は148名中4番目であった。\n芥川龍之介、菊池寛、志賀直哉、室生犀星などを愛読、井伏鱒二の『幽閉(山椒魚)』には読んで座っていられないほど興奮した。\n在学中の17歳頃に『校友会誌』に習作「最後の太閤」を書き、また友人と同人誌『蜃気楼』を12号まで発行。\n小説家を志望するようになる。\n1927年(昭和2年)旧制弘前高等学校文科甲類に優秀な成績で入学。\n当時の弘高は全寮制で1年次は自宅通学以外は寮に入らなければならなかったが、太宰は母の考えもあって、病弱と偽り下宿生活をしていた。\n夏休みで金木に帰省中の7月24日、芥川龍之介の自殺を知り衝撃を受け、弘前の下宿に戻るとしばらく閉じこもっていたという。", + "qas": [ + { + "question": "中学時代に太宰が読んだ中で、特に興奮した作品の名前は何でしたか?", + "id": "tr-063-02-000", + "answers": [ + { + "text": "『幽閉(山椒魚)』", + "answer_start": 144, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "太宰が高等学校時代の夏休みの帰省中に衝撃を受けたのは、自身が愛読していたどの作家が自殺をしたから?", + "id": "tr-063-02-001", + "answers": [ + { + "text": "芥川龍之介", + "answer_start": 357, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "父源右衛門が肺癌で死去したのは西暦何年?", + "id": "tr-063-02-002", + "answers": [ + { + "text": "1923年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1928年(昭和3年)、同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二名義で当時流行のプロレタリア文学の影響を受けた『無限奈落』を発表するが、連載は1回で終了した。\n津島家の反対を受けたと推測されている。\nこの頃、芸者の小山初代(1912-1944)と知り合う。\n1929年(昭和4年)、弘高で起きた同盟休校事件をモデルに『学生群』を執筆、改造社の懸賞小説に応募するが落選。\n12月10日未明にカルモチン自殺を図り、母たねの付き添いで大鰐温泉で1月7日まで静養した。\n太宰は自殺未遂の理由を『苦悩の年鑑』の中で「私は賤民ではなかった。ギロチンにかかる役のほうであった。」と自分の身分と思想の違いとして書いているが、1月16日から特高によって弘高の左翼学生が相次いで逮捕される事件が起きており、津島家から事前に情報を得た太宰が逮捕を逃れるために自殺未遂をしたのではという見方もある。", + "qas": [ + { + "question": "津島家の反対を受けたとして、一回きりで連載終了した太宰の作品名は何?", + "id": "tr-063-03-000", + "answers": [ + { + "text": "『無限奈落』", + "answer_start": 54, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "カルモチン自殺を図った理由を、太宰は何の��で記述した?", + "id": "tr-063-03-001", + "answers": [ + { + "text": "『苦悩の年鑑』", + "answer_start": 241, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "太宰が改造社の懸賞小説に応募しようと執筆した作品のタイトルは何ですか?", + "id": "tr-063-03-002", + "answers": [ + { + "text": "『学生群』", + "answer_start": 157, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1930年(昭和5年)、弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業した。\nフランス語を知らぬままフランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学、上京した。\n当時、東大英文科や国文科などには入試があったが、仏文科は不人気で無試験であった。\n太宰はそれを当て込んで仏文科に出願したが、たまたま1930年には仏文科でもフランス語の入試があった。\n目算が外れた太宰は他の志願者とともに試験場で手を挙げ、試験官の辰野隆に事情を話し、格別の配慮で入学を認められた。", + "qas": [ + { + "question": "太宰は1930年に弘前高等学校文科甲類を卒業し、その後、どこの大学に入学しましたか?", + "id": "tr-063-04-000", + "answers": [ + { + "text": "東京帝国大学文学部仏文学科", + "answer_start": 61, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "当時の東京帝国大学文学部仏文学科は不人気で試験が無かったが、たまたま試験があったのは何年のこと?", + "id": "tr-063-04-001", + "answers": [ + { + "text": "1930年", + "answer_start": 150, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "講義についていけず、美学科、美術史科への転科を検討している。\n小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。\n10月、小山初代が太宰の手引きで置屋を出て上京。\n津島家は芸者との結婚に強く反対、11月に長兄の文治が上京して説得するが、太宰は初代と結婚すると主張した。\n文治は津島家との分家除籍を条件に結婚を認める。\n大学を卒業するまで毎月120円の仕送りも約束するが、財産分与を期待していた太宰は落胆する。\n除籍になった10日後の11月28日、銀座のバー「ホリウッド」の女給で18歳の田部シメ子と鎌倉・腰越の海にてカルモチンで自殺を図る。\nだがシメ子だけ死亡し太宰は生き残る。\nこの事件について太宰は『東京八景』『人間失格』などで入水自殺と書いているが、当時の新聞記事では催眠剤を飲み海岸で倒れているところを発見されたと報道されている。\n自殺幇助罪に問われるが、文治らの働きかけで起訴猶予処分となる。\n南津軽郡の碇ヶ関温泉郷の柴田旅館で、初代と仮祝言をあげるが、入籍はしなかった。\n年明け、太宰は文治と覚書を交わし、問題行動を起こさず、大学卒業を約束する代わりに毎月120円の仕送りを受けることになった。\n2月、初代が上京し、新婚生活が始まる。\n1932年(昭和7年)、小説家になる決意で『思い出』『魚服記』を執筆。\n文治の助力で左翼活動から離脱。\n仕送りは120円から90円に減額された。", + "qas": [ + { + "question": "太宰が小説家になるために弟子入りした作家は誰でしょうか?", + "id": "tr-063-05-000", + "answers": [ + { + "text": "井伏鱒二", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "太宰が、津島家の反対を受けてもなお結婚を主張した相手は誰?", + "id": "tr-063-05-001", + "answers": [ + { + "text": "初代", + "answer_start": 117, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "鎌倉・腰越の海で太宰と一緒にカルモチン自殺を図って死んでしまった女性の名前は?", + "id": "tr-063-05-002", + "answers": [ + { + "text": "田部シメ子", + "answer_start": 239, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "太宰が起こした田辺シメ子を巻き込んだ自殺事件について、入水自殺と書いた作品は『東京八景』ともう1つは何というタイトル?", + "id": "tr-063-05-003", + "answers": [ + { + "text": "『人間失格』", + "answer_start": 303, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1933年(昭和8年)、『サンデー東奥』(2月19日発行)に『列車』を太宰治の筆名で発表。\n同人誌『海豹』に参加、創刊号に『魚服記』を掲載。\n檀一雄と知り合う。\n同人誌『青い花』を創刊、『ロマネスク』を発表するが、中原中也らと争い1号で休刊となった。\n1935年(昭和10年)、『逆行』を『文藝』2月号に発表。\n大学5年目になっていた太宰は、卒業できず仕送りを打ち切られることを考え、都新聞社(現・東京新聞)の入社試験を受けるが不合格。\n3月18日、鎌倉で首吊り自殺を図る。\n4月、腹膜炎の手術を受ける。\n入院中に鎮痛剤パビナールの注射を受け、以後中毒となる。\n学費未納のため9月30日付で大学を除籍となった。\n『逆行』が第1回芥川賞候補となるも落選した(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。\n選考委員である川端康成から「作者、目下の生活に厭な雲あり」と私生活を評され、「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」と文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した。", + "qas": [ + { + "question": "太宰の書いた『逆行』は何の候補に挙がりましたか?", + "id": "tr-063-06-000", + "answers": [ + { + "text": "第1回芥川賞候補", + "answer_start": 311, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "太宰が大学を除籍となった理由は何?", + "id": "tr-063-06-001", + "answers": [ + { + "text": "学費未納のため", + "answer_start": 281, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『逆行』が第1回芥川賞候補となった時に、太宰のことを「作者、目下の生活に厭な雲あり」と評したのはどの人物?", + "id": "tr-063-06-002", + "answers": [ + { + "text": "川端康成", + "answer_start": 356, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "同人雑誌『日本浪曼派』に発表した『道化の華』が佐藤春夫に高く評価され以後師事する。\n佐藤も芥川賞選考委員であり、第1回の選考時には太宰を高く評価していた。\n第2回を太宰は期待し佐藤も太鼓判を押したが、結果は「受賞該当者なし」となった。\n1936年(昭和11年)、前年よりのパビナール中毒が進行、佐藤春夫の勧めで済生会芝病院に10日間入院した。\n6月21日、処女短編集『晩年』を砂子屋書房より刊行。\n仇敵であった川端康成に献本と選考懇願の手紙を送っているが、第3回では過去に候補作となった小説家は選考対象から外すという規定が設けられ、候補にすらならなかった。\n\nパビナール中毒がひどくなり、多い時には1日50本を注射した。\n初代の着物を質に入れ、知人に借金をして歩いた。\n初代が井伏鱒二に泣きつき、文治に頼まれた津島家出入りの商人の中畑慶吉と北芳四郎が、10月13日に東京武蔵野病院に強制入院させる。\n11月12日に退院するが、翌1937年(昭和12年)、津島家の親類の画学生小館善四郎が初代との不貞行為を告白。\n3月下旬、水上温泉で初代とカルモチン自殺未遂した。6月には初代と離別した。", + "qas": [ + { + "question": "芥川賞選考委員でもあり、太宰の『道化の華』を高く評価した人物は誰か?", + "id": "tr-063-07-000", + "answers": [ + { + "text": "佐藤春夫", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "太宰が初代の着物を質に入れて借金してでも入手し、中毒になっていたものは何ですか?", + "id": "tr-063-07-001", + "answers": [ + { + "text": "パビナール", + "answer_start": 280, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "太宰は初代とも���自殺を図ろうとした?", + "id": "tr-063-07-002", + "answers": [ + { + "text": "カルモチン自殺", + "answer_start": 469, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1938年(昭和13年)、井伏鱒二の紹介で山梨県甲府市出身の地質学者・石原初太郎の四女の石原美知子と見合いをした。\nこのとき、太宰は媒酌人を渋る井伏に対して「結婚誓約書」という文書を提出した。\nその中でこれまでの乱れた生活を反省、家庭を守る決意をして「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」と書いている。\n翌年1月8日、井伏の自宅で結婚式を挙げる。\n同日、甲府市街の北に位置する甲府市御崎町(現・甲府市朝日五丁目)に移り住む。\n9月1日、東京府北多摩郡三鷹村下連雀に転居。\n精神的にも安定し『女生徒』『富嶽百景』『駆け込み訴へ』『走れメロス』などの優れた短編を発表した。\n『女生徒』は川端康成が「『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸運」と激賞、原稿の依頼が急増した。\n1941年(昭和16年)、文士徴用令に呼ばれるが、身体検査で肺湿潤とされて徴用免除される。\n太田静子に会い、日記を書くことを勧める。\n太平洋戦争中も『津軽』『お伽草紙』や長編小説『新ハムレット』『右大臣実朝』など旺盛な創作活動を継続。\n1945年(昭和20年)3月10日、東京大空襲に遭い、美知子の実家の甲府に疎開。\n7月6日から7日にかけての甲府空襲で石原家は全焼。\n津軽の津島家へ疎開。\n終戦を迎えた。", + "qas": [ + { + "question": "太宰は石原美知子との見合いの際に、何を書いて井伏鱒二に提出したの?", + "id": "tr-063-08-000", + "answers": [ + { + "text": "「結婚誓約書」", + "answer_start": 78, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "太宰と美知子をお見合いさせ、自宅で結婚式まで挙げさせてくれた人の名前は?", + "id": "tr-063-08-001", + "answers": [ + { + "text": "井伏鱒二", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "太宰の優れた短編作品である『女生徒』『富嶽百景』『駆け込み訴へ』『走れメロス』の中で、川端康成が称賛した作品は何?", + "id": "tr-063-08-002", + "answers": [ + { + "text": "『女生徒』", + "answer_start": 297, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "10月から1月まで『河北新報』に『パンドラの匣』を連載した。\nこれは『雲雀の声』として書き下ろしたものの印刷所が空襲に遭い、燃えてしまった原稿のゲラを手直ししたものである。\n1946年(昭和21年)11月14日、東京に戻る。\nチェーホフの『桜の園』のような没落貴族の小説を構想、1947年(昭和22年)2月、神奈川県下曾我で太田静子と再会、日記を借りる。\n3月27日、美容師の山崎富栄と知り合う。\n没落華族を描いた長編小説『斜陽』を『新潮』に連載。\n12月15日、単行本として出版されるとベストセラーになり、斜陽族が流行語となるなど流行作家となる。\n『斜陽』の完成と前後して、登場人物のモデルとなった歌人太田静子との間に娘の太田治子が生まれ、太宰は認知した。", + "qas": [ + { + "question": "長編小説『斜陽』は、単行本として出版されるまでは何に連載されていた?", + "id": "tr-063-09-000", + "answers": [ + { + "text": "『新潮』", + "answer_start": 216, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "太田治子の母は何という作品の登場人物のモデルだった?", + "id": "tr-063-09-001", + "answers": [ + { + "text": "『斜陽』", + "answer_start": 275, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "太宰はチェーホフの『桜の園』のような没落貴族の小説を構想していたが、実際に没落家族を描いた小説は何だった?", + "id": "tr-063-09-002", + "answers": [ + { + "text": "『斜陽』", + "answer_start": 211, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1948年(昭和23年)6月13日、玉川上水で愛人の山崎富栄と入水した。\n2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により「桜桃忌」と名付けられた。\nこの事件は当時から様々な憶測を生み、富栄による無理心中説、狂言心中失敗説などが唱えられていた。\n津島家に出入りしていた呉服商の中畑慶吉は三鷹警察署の刑事に入水の現場を案内され、下駄を思い切り突っ張った跡があったこと、手をついて滑り落ちるのを止めようとした跡も歴然と残っていたと述べ、「一週間もたち、雨も降っているというのに歴然とした痕跡が残っているのですから、よほど強く\"イヤイヤ\"をしたのではないでしょうか」、「太宰は『死にましょう』といわれて、簡単に『よかろう』と承諾したけれども、死の直前において突然、生への執着が胸を横切ったのではないでしょうか」と推測している。\n中畑は三鷹警察署の署長から意見を求められ「私には純然たる自殺とは思えぬ」と確信をもって答えた。\nすると署長も「自殺、つまり心中ということを発表してしまった現在、いまさらとやかく言っても仕方がないが、実は警察としても(自殺とするには)腑に落ちぬ点もあるのです」と発言した。", + "qas": [ + { + "question": "「桜桃忌」と名付けられたのは、太宰が死の直前に書いた何にちなんでいるからですか?", + "id": "tr-063-10-000", + "answers": [ + { + "text": "「桜桃」", + "answer_start": 85, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1948年6月19日は、太宰の遺体が発見された日であると同時に、どういう日でしたか?", + "id": "tr-063-10-001", + "answers": [ + { + "text": "太宰の誕生日", + "answer_start": 57, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "太宰の玉川入水自殺の原因として唱えられている説のうち、富栄が動機となる説は何と呼ばれている?", + "id": "tr-063-10-002", + "answers": [ + { + "text": "富栄による無理心中説", + "answer_start": 146, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "『朝日新聞』と『朝日評論』に掲載したユーモア小説「グッド・バイ」が未完の遺作となった。\n奇しくもこの作品の13話が絶筆になったのは、キリスト教のジンクス(13(忌み数))を暗示した太宰の最後の洒落だったとする説(檀一雄)もある。\n自身の体調不良や、一人息子がダウン症で知能に障害があったことを苦にしていたのが自殺の一つの理由だったとする説もあった。\nしかし、50回忌を目前に控えた1998年(平成10年)5月23日に遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明した。\n遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判った。", + "qas": [ + { + "question": "太宰のユーモア小説「グッド・バイ」を掲載していた新聞は何?", + "id": "tr-063-11-000", + "answers": [ + { + "text": "『朝日新聞』", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "遺族らが公開した太宰の遺書が公開されたのは平成何年のこと?", + "id": "tr-063-11-001", + "answers": [ + { + "text": "平成10年", + "answer_start": 196, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "50回忌を目前に公開された太宰の遺書には美知子への思いと何が説明されてあった?", + "id": "tr-063-11-002", + "answers": [ + { + "text": "自殺の動機", + "answer_start": 277, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「グッド・バイ」が未完の遺作となったことに関して、太宰の最後の洒落だったとされるのは、キリスト教のジンクス(13(忌み数))が、何とかかっていたからですか?", + "id": "tr-063-11-003", + "answers": [ + { + "text": "13話が絶筆になった", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1929年(昭和4年)、弘前高校で校長の公金流用が発覚し、学生たちは上田重彦(石上玄一郎)社会科学研究会リーダーのもと5日間の同盟休校(ストライキ)を行い、校長の辞職、生徒の処分なしという成果を勝ち取る。\n太宰はストライキにほとんど参加しなかったが、当時流行のプロレタリア文学を真似て、事件を『学生群』という小説にまとめ、上田に朗読して聞かせている。\n津島家は太宰の左翼活動を警戒した。\n翌年1月16日、特高は田中清玄の武装共産党の末端活動家として動いていた上田ら弘高社研の学生9名を逮捕。\n3月3日、逮捕された上田ら4人は放校処分、3人が論旨退学、2人が無期停学となっている。\n大学生になった太宰は活動家の工藤永蔵と知り合い、共産党に毎月10円の資金カンパをする。\n初代との結婚で津島家を分家除籍にされたのは、政治家でもある文治に非合法活動の累が及ぶのを防ぐためでもあった。\n結婚してからはシンパを匿うよう命令され、引っ越しを繰り返した。\nやがて警察にマークされるようになり、2度も留置所に入れられた。\n1932年(昭和7年)7月、文治は連絡のつかなかった太宰を探し当て、青森警察署に出頭させる。\n12月、青森検事局で誓約書に署名捺印して左翼活動から完全離脱した。", + "qas": [ + { + "question": "1929年に弘前高校で校長の公金流用が発覚し、学生たちが起こした5日間の同盟休校により、校長の辞職、生徒の処分なしという成果を勝ち取った事件を、太宰は何を真似て『学生群』という小説にした?", + "id": "tr-063-12-000", + "answers": [ + { + "text": "プロレタリア文学", + "answer_start": 130, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "太宰が書いた『学生群』を、太宰本人から朗読で聞かされたのは社会科学研究会リーダーを務めた誰?", + "id": "tr-063-12-001", + "answers": [ + { + "text": "上田重彦", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "太宰の左翼活動を警戒していた津島家の中で、太宰を探し当てて、青森警察署に出頭させたのは誰でしょう?", + "id": "tr-063-12-002", + "answers": [ + { + "text": "文治", + "answer_start": 467, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "逮捕された弘高社研の学生9名の内、最も少ない人数が処分された内容は?", + "id": "tr-063-12-003", + "answers": [ + { + "text": "無期停学", + "answer_start": 278, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "津島家の家系については様々な説があり、明確ではない。\n初代惣助は豆腐を売り歩く行商人だったという。\n1946年(昭和21年)に発表した『苦悩の年鑑』のなかで「私の生れた家には、誇るべき系図も何も無い。どこからか流れて来て、この津軽の北端に土着した百姓が、私たちの祖先なのに違ひない。私は、無智の、食ふや食はずの貧農の子孫である。私の家が多少でも青森県下に、名を知られ始めたのは、曾祖父惣助の時代からであつた」と書いている。\n惣助は油売りの行商をしながら金貸しで身代を築いていったという。\nまた、津島家は、旧対馬国から日本海を渡って津軽に定住した一族であるとする伝承もあり、菩提寺南台寺の墓碑でも祖先は“対馬姓”となっている。\nこの“対馬姓”と刻まれた墓について、太宰の甥津島康一(俳優)は、「どっからかもってきたんじゃないかな」となにやら意味ありげな���対馬姓”の刻名を信用していない口ぶりで「うちの系図はやばいんですよ」と恥ずかしそうに述べている。", + "qas": [ + { + "question": "太宰の書いた『苦悩の年鑑』にも登場する、津島家の初代であり、太宰の曽祖父でもある人物の名は何?", + "id": "tr-063-13-000", + "answers": [ + { + "text": "惣助", + "answer_start": 192, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "津島家は、旧対馬国から日本海を渡って津軽に定住した一族であるとする伝承もあり、その由縁で、祖先の墓碑に記載されていた姓は何だったか?", + "id": "tr-063-13-001", + "answers": [ + { + "text": "“対馬姓”", + "answer_start": 300, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "津島家の家系や由来について書かれた太宰の作品は何?", + "id": "tr-063-13-002", + "answers": [ + { + "text": "『苦悩の年鑑』", + "answer_start": 67, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "太宰の甥、津島康一の職業が何か分かる?", + "id": "tr-063-13-003", + "answers": [ + { + "text": "俳優", + "answer_start": 340, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "津島家を県下有数の大地主に押し上げた三代目惣助は嘉瀬村の山中家出身で、元の名を勇之助といった。\n1835年(天保6年)に大百姓・山中久五郎の次男として生まれ、1859年(安政6年)津島家の婿養子となった。\n山中家の先祖は、「能登国山中庄山中城主の一族」だったと伝えられている。\n1867年(慶応3年)に二代目惣助が他界し、家督を相続して三代目「惣助」を襲名した。\n油売りのほか、木綿などの繊維製品も扱い、金貸しで財を蓄えて新興の大地主となった。\n1894年(明治27年)に北津軽郡会議員の大地主互選議員に当選、1895年(明治28年)に北津軽郡所得税調査委員選挙に当選。\n1897年(明治30年)、合資会社「金木銀行」を設立した。\n再び郡会の大地主議員となり、県内多額納税者番付の12位に入って貴族院議員の互選資格を手に入れた。\n無名の金貸し惣助からちょっとした地方名士として名を成したのであった。\n跡取りがいなかったため婿養子・惣五郎を迎える。惣五郎にも跡取りがいなかったため源右衛門が婿養子となった。\n家紋は「鶴の丸」である。\n金木の生家は源右衛門が建造したもので、太宰治記念館「斜陽館」として公開され、国の重要文化財に指定されている。", + "qas": [ + { + "question": "源右衛門が建造した金木の生家は、後に太宰治の何という記念館として公開されたの?", + "id": "tr-063-14-000", + "answers": [ + { + "text": "「斜陽館」", + "answer_start": 491, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "無名の金貸し惣助が、地方名士として名を成したのは何を設立してからのこと?", + "id": "tr-063-14-001", + "answers": [ + { + "text": "「金木銀行」", + "answer_start": 303, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "津島家を県下有数の大地主に押し上げた三代目惣助は、元々は何家の出身で、津島家の婿養子になりましたか?", + "id": "tr-063-14-002", + "answers": [ + { + "text": "山中家", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ボストン", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ボストンは、アメリカ合衆国マサチューセッツ州北東部サフォーク郡にある世界都市だ。同州最大の都市かつ州都であり、同郡の郡庁所在地でもある。アメリカで最も歴史の古い街の一つであり、「ニューイングランドの首都」と言われることもある。2017年の調査によると、世界9位の金融センターであり、かつてのボストン金融街の名を冠するステート・ストリート、またミューチュアル・ファンド大手のフィデリティ・インベストメンツの本社が立地する。", + "qas": [ + { + "question": "ボストンは、どの州にありますか。", + "id": "tr-064-00-000", + "answers": [ + { + "text": "マサチューセッツ州", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "マサチューセッツ州の最大の都市はどこなの?", + "id": "tr-064-00-001", + "answers": [ + { + "text": "ボストン", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "2017年の調査によると、ボストンは世界何位の金融センターですか。", + "id": "tr-064-00-002", + "answers": [ + { + "text": "9位", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "アメリカ独立後、ボストンは主要な海港、そして製造業の中心地となり、その長く豊かな歴史に呼び寄せられて、現在年間1630万人の観光客がこの地を訪れている。ボストンでは、アメリカ最初の公立学校であるボストン・ラテン・スクール、アメリカ最初の大学であるハーバード大学、アメリカ最初の地下鉄網などが生まれた。\n\n市内および周辺地域には多くの総合・単科大学があり、高等教育の中心地であるとともに、医療の中心地でもある。それ以外に市の経済を支えるのは研究、エレクトロニクス、エンジニアリング、金融、テクノロジーなどである。面積当たりの職の数では、ニューヨークとワシントンD.C.に次ぐ。", + "qas": [ + { + "question": "現在、ボストンには年間何人の観光客がやってくるの?", + "id": "tr-064-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1630万人", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "アメリカ最初の大学は何?", + "id": "tr-064-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ハーバード大学", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アメリカ最初の地下鉄網はどこにあるの?", + "id": "tr-064-01-002", + "answers": [ + { + "text": "ボストン", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ニューヨーク、ワシントンD.C.、ボストンのうち、面積当たりの職の数が一番少ないのはどこなの?", + "id": "tr-064-01-003", + "answers": [ + { + "text": "ボストン", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "世界の143主要都市を対象とした2008年の調査では、ボストンは生活費の高さで99位にランクされている。他方で、世界の215主要都市を対象とした2009年の調査では、ボストンは住みやすさで35位にランクされている。治安も良く、アメリカ国内でも最も安全な都市の一つとされている。2019年、世界都市ランキングにおいて世界第21位の都市と評価されており、アメリカではニューヨーク、ロサンゼルス、シカゴ、ワシントンD.C.に次ぐ第5位であった。", + "qas": [ + { + "question": "世界の143主要都市を対象とした2008年の調査では、ボストンは生活費の高さで何位を記録したか。", + "id": "tr-064-02-000", + "answers": [ + { + "text": "99位", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "2019年、世界都市ランキングにおいてボストンは世界第何位の都市と評価されたか。", + "id": "tr-064-02-001", + "answers": [ + { + "text": "21位", + "answer_start": 160, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ボストンは、1630年9月17日にイングランドから来た清教徒たちの手によって、ショーマット半島に築かれた。マサチュー��ッツ湾植民地の清教徒は、1620年にプリマス植民地を建設した入植者と混同されることがある。しかし、両者は異なる宗教的実践を有しており、歴史的に見て別々のグループである。ボストンはオリバー・クロムウェルの台頭から当分、ロイヤリストであるアンソニー・アービー一族の地盤だった。1652年造幣局が設立されたが、まだ鉱山開発の余裕も技術もない時代であったのでずっと銀貨を悪鋳しており、1684年に本国が植民地の特許状を取り消し閉鎖してしまった。1691年10月7日、プリマス植民地をメイン植民地などと共にマサチューセッツ湾植民地に付属するという公式宣言がなされ、マサチューセッツ湾岸県が設立された。この宣言は翌年5月14日に有効になった。", + "qas": [ + { + "question": "プリマス植民地をメイン植民地などと共にマサチューセッツ湾植民地に付属するという公式宣言はいつありましたか。", + "id": "tr-064-03-000", + "answers": [ + { + "text": "1691年10月7日", + "answer_start": 277, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ボストンは17世紀にアカディアと交易し繁栄した。カナダは麦・魚・毛皮を産した。しかし通貨供給量が足りなかった。原住民の貝殻玉を1670年まで法貨とするほどであったが、サンゴバン等のガラス製レプリカにより価値を喪失した。そこでアカディアの商人は、特産物の倉荷証券と引き換えにボストンから生活物資を調達した。ポート・ロワイヤルの要塞を守る軍靴等がボストンから調達された。ボストン商人もアカディアへ出張した。ポート・ロワイヤルに倉庫をもって、砂糖・蜜・酒・服・食器、その他日用雑貨を売った。結果としてフランスからカナダへ送られた正貨は慢性的に流出した。英仏間のアカディアは独仏間のアルザスと似て、国益より地縁と商売をとった。", + "qas": [ + { + "question": "ボストンは17世紀にどこと交易し繁栄したか。", + "id": "tr-064-04-000", + "answers": [ + { + "text": "アカディア", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "地元教会と懇ろであったボストン商人HughHallJr.は、ジョン・レバレットの孫に南海会社重役へ紹介してくれるよう頼んでいた。1720年、南海泡沫事件が起こった。1721年から翌年にかけて、ボストンに天然痘が大流行した。接種技術は輸入された。フリーメイソンを含む人、そして物・金・郵便・病原体がボストン港で往来した。1721年と1728年には土地を担保に発券する公立銀行が設立された。市場経済に巻き込まれた農民・職人勢力の一部からも支持されて、反体制派の中産階級が通貨不足を打開するという目的で設立を推進した。1739年から1740年代初頭にかけて植民地では、銀行券を土地兌換とするか、または厳格に銀兌換とするかで、前者を支持する中産階級以下と、後者を支持する大商人・大地主との間に、深刻な対立・抗争が起こった。1741年に銀行規制法ができて、これら土地兌換銀行と銀兌換銀行の両方を解散させてしまった。ジョージ王戦争の戦費を調達するため政府証券が増発されて、銀行・通貨をめぐる改革運動は立ち消えとなった。", + "qas": [ + { + "question": "1721年から1722年にかけて、ボストンにはどんな質病が大流行したか。", + "id": "tr-064-05-000", + "answers": [ + { + "text": "天然痘", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ボストンに公立銀行が設立されたのは1721年といつ?", + "id": "tr-064-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1728年", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1822年、ボストン市民の投票により、正式名称が\"theTownofBoston\"から\"theCityofBoston\"へと変更された。1822年3月4日、市民により、市の設立憲章が受諾された。ボストンが市へ移行した当時、人口は4万6226人であり、市域はわずか12km2(4.7mi2)であった。1830年、ボストン旧家のエイモリー家を当事者としたHarvardCollegev.Amory事件に判決が下り、ハーバード大学よりも投資家の判断が尊重された。1844年、望厦条約が結ばれてからボストンの貿易が再び活気付いた。同じ年、チャールズ・グッドイヤーが加硫法の特許を取得した。1851年、ジョン・モルガンがボストンのイングリッシュ・ハイスクールへ入学した。", + "qas": [ + { + "question": "1822年、ボストンの正式名称が\"theTownofBoston\"から何に変更されたか。", + "id": "tr-064-06-000", + "answers": [ + { + "text": "\"theCityofBoston\"", + "answer_start": 43, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1851年、ジョン・モルガンはどの学校に入学したの?", + "id": "tr-064-06-001", + "answers": [ + { + "text": "イングリッシュ・ハイスクール", + "answer_start": 310, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "チャールズ・グッドイヤーが加硫法の特許を取得したのは何年のことか。", + "id": "tr-064-06-002", + "answers": [ + { + "text": "1844年", + "answer_start": 228, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1820年代、ボストンの人口が増えはじめた。1840年代後半のジャガイモ飢饉では多くのアイルランド人がアメリカ大陸へわたってきて、ボストン市の民族的構成を劇的に変化させた。1850年までに、ボストンに住むアイルランド人は約3万5000人に達していた。ボストン旧家のエイモリー・ローウェルは、当然のようにハーバード大学を卒業し、手形交換所であるサフォーク銀行(SuffolkBank)の経営者となった。彼がボストンの銀行間に連携組織をつくり、1837年から1857年までの経済恐慌に事なきを得たので、政治と血縁による絆が従来に増して堅くなった。", + "qas": [ + { + "question": "1840年代後半のジャガイモ飢饉のとき、多くのアイルランド人はどこへ移り込みましたか。", + "id": "tr-064-07-000", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ大陸", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1850年までに、ボストンに住むアイルランド人は何人に達していたか。", + "id": "tr-064-07-001", + "answers": [ + { + "text": "約3万5000人", + "answer_start": 110, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "エイモリー・ローウェルは、ハーバード大学を卒業したあと、どの企業の経営者になったか。", + "id": "tr-064-07-002", + "answers": [ + { + "text": "サフォーク銀行(SuffolkBank)", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ボストンの人口が増えはじめたのは何年代からですか。", + "id": "tr-064-07-003", + "answers": [ + { + "text": "1820年代", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "19世紀後半、ボストンに住み始めるアイルランド人・ドイツ人・レバノン人・シリア人・フランス系カナダ人・ユダヤ系ロシア人・ユダヤ系ポーランド人の数が増えていった。19世紀の終わりには、ボストンの中心部が互いに異なる民族の移民居住地でモザイク化していた。イタリア系はノースエンド、アイルランド系はサウスボストンとチャールズタウン、ロシア系ユダヤ人はウェストエンドに住んだ。アイルランド系とイタリア系の移民はローマ・カトリックを持ち込んだ。多様な民族が多様な資本をもちこみ、困窮しがちな移民を互いに独立した慈善組織が世話していたが、見かねた市は公的かつ一元的な救貧政策を打ち出した。", + "qas": [ + { + "question": "ボストンの中心部が互いに異なる民族の移民居住地でモザイク化していたのはいつですか。", + "id": "tr-064-08-000", + "answers": [ + { + "text": "19世紀の終わ���", + "answer_start": 80, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "また、ボストンは奴隷制度廃止運動の中心地ともなった。サミュエル・ジョンソンはC.F.HoveyandCo.のパートナーであったが、ともにウィリアム・ロイド・ガリソンを支援した。ボストンは、1850年の逃亡奴隷法に強く反対し、1854年のバーンズ逃亡奴隷事件の後、フランクリン・ピアース大統領はボストンを見せしめにしようとした。\n\nボストンにとっても大不況(1873年-1896年)は暗い時代だった。1872年ボストン大火に遭い、その焼け跡から復興しなければならなかった。1889年11月、EdwardL.Cunninghamというミルトン閨閥の一人が自宅で射殺された。遺族MaryA.Cunninghamの遺言によって、自宅の土地は1905年にカニングハム公園となった。フィデリティのエドワード・ジョンソン2世は公園管理会に参加している。1890年代、名家出身のトーマス・ローソンがいわゆるハゲタカファンドの地元ガス業界乗っ取りに手を貸した。数十人の議員に賄賂を払ったのである。1899年、アナコンダ銅鉱山会社にローソンが参加した。この会社にはウィリアム・ロックフェラーだけでなくロスチャイルド家も出資をした。", + "qas": [ + { + "question": "ボストンは1850年の逃亡奴隷法に賛成でしたか、反対でしたか。", + "id": "tr-064-09-000", + "answers": [ + { + "text": "反対", + "answer_start": 108, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "EdwardL.Cunninghamはいつ亡くなったか。", + "id": "tr-064-09-001", + "answers": [ + { + "text": "1889年11月", + "answer_start": 235, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "EdwardL.Cunninghamの自宅の土地は、1905年、何になったか。", + "id": "tr-064-09-002", + "answers": [ + { + "text": "カニングハム公園", + "answer_start": 322, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ボストン大火は何年にありましたか。", + "id": "tr-064-09-003", + "answers": [ + { + "text": "1872年", + "answer_start": 199, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1631年から1890年までの間に、ボストンの面積は土地の埋立てによって3倍に広がった。臨海地域に広がる湿地、沼地、波止場の切れ込みなどが埋め立てられた。これを、ウォルター・ミューア・ホワイトヒルは「丘を切り崩して入り江を埋める」と表現した。特に埋立てが進んだのは1800年代であった。1807年から、ビーコンヒルの頂上部分から取られた土で、大西洋の水面が20ヘクタール埋め立てられた。これは後のヘイマーケット・スクエア地区である。現在のマサチューセッツ州会議事堂は、こうして低くなったビーコンヒルの上に建っている。19世紀中頃の埋立てによって、現在のサウスエンド地区、ウエストエンド地区、フィナンシャル・ディストリクト、チャイナタウンの大部分が誕生した。ボストン大火の後には、その瓦礫がダウンタウンの臨海地区の埋め土に使われた。19世紀半ばから末にかけては、ボストンコモン(公園)西側に広がっていたチャールズ川の塩水を含む湿地帯2.4km2近くが埋め立てられた。これに用いられたのは、ニーダム・ハイツ地区の丘から鉄道で輸送された土であった。さらに、ボストンは1868年にロックスベリー、1879年にドーチェスターを併合、1874年にはブライトン、ウェスト・ロックスベリー(現在のジャマイカ・プレイン、ロズリンダルおよびウェスト・ロックスベリーを含む)、チャールズタウンの三つの町を併合した。", + "qas": [ + { + "question": "1631年から1890年までの間に、ボストンの面積は何倍に広がったか。", + "id": "tr-064-10-000", + "answers": [ + { + "text": "3倍", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ボストンの臨海地域に広がる湿地、沼地、波止��の切れ込みなどが埋め立てられたことを「丘を切り崩して入り江を埋める」と表現した人は誰なの?", + "id": "tr-064-10-001", + "answers": [ + { + "text": "ウォルター・ミューア・ホワイトヒル", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ボストンは何年にロックスベリーを併合したか。", + "id": "tr-064-10-002", + "answers": [ + { + "text": "1868年", + "answer_start": 480, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ロックスベリー、ドーチェスター、ブライトンのうち、ボストンとの併合が一番後で行われたのはどれ?", + "id": "tr-064-10-003", + "answers": [ + { + "text": "ブライトン", + "answer_start": 518, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "20世紀初頭ないし中頃には、工場の老朽化・陳腐化や、安い労働力を求める企業の流出に伴い、ボストンは衰退を始めた。それは第二次世界大戦から30年も続いた。そしてプロパガンダから復興事業がスタートした。ローウェル協会(LowellInstitute)が中心となり地元公共放送局(WGBH-TV)を立ち上げた。1957年に設立されたボストン再開発局(BRA)の指揮の下に、ボストンは様々な都市再開発事業を実施した。1958年、再開発局はウェストエンド地区の古い町並みを一新するプロジェクトを開始したが、広範囲にわたる取り壊しは、当局に対する市民からの猛反発を招いた。再開発局はその後、ガバメント・センターの建設などのプロジェクトにおいては都市再生の手法の見直しを行った。この点、パリ改造で近代都市計画を草分けたフランスのストラスブールと1960年に姉妹都市となったのは興味深いことである。1965年、アメリカで最初の地域医療センターであるコロンビア・ポイント医療センターが、ドーチェスター地区で開業した。同センターは、主に隣接する大規模なコロンビア・ポイント公営住宅群に医療サービスを提供した。これを設立したのは、ハーバード大学のジャック・ガイガーとタフツ大学のカウント・ギブソンという2人の医師であった。1990年にガイガー・ギブソン地域医療センターとして生まれ変わり、現在も診療を行っている。", + "qas": [ + { + "question": "工場の老朽化・陳腐化や、安い労働力を求める企業の流出に伴い、ボストンが衰退を始めたのは、第二次世界大戦から何年も続いたか。", + "id": "tr-064-11-000", + "answers": [ + { + "text": "30年", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ボストン再開発局(BRA)はいつ設立されたか。", + "id": "tr-064-11-001", + "answers": [ + { + "text": "1957年", + "answer_start": 152, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アメリカで最初の地域医療センターは何ですか。", + "id": "tr-064-11-002", + "answers": [ + { + "text": "コロンビア・ポイント医療センター", + "answer_start": 416, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "コロンビア・ポイント医療センターを設立したのはジャック・ガイガーと誰なの?", + "id": "tr-064-11-003", + "answers": [ + { + "text": "カウント・ギブソン", + "answer_start": 528, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "コロンビア・ポイント公営住宅は、1953年にドーチェスター半島に建設されたが計画はうまくいかず、1988年にはここに住むのはわずか350世帯となっていた。町は荒廃し、治安も悪かった。1984年に、ボストンは民間の開発業者であるコーコラン・マリンズ・ジェニソンに管理を委託し、同社の行った再開発・再活性化によって、公営住宅はハーバー・ポイント・アパートと呼ばれる、低所得者層に限らない、魅力のある居住地域となった。1988年に��居が開始し、1990年までに完成した。連邦政府の公営住宅事業が所得層を問わない民間住宅に転換した例としては、アメリカ国内初であり、1992年に始まった連邦政府の公営住宅再活性化プログラムのモデルとなった。", + "qas": [ + { + "question": "1988年に、コロンビア・ポイント公営住宅には何世帯しか住んでいませんでしたか。", + "id": "tr-064-12-000", + "answers": [ + { + "text": "350世帯", + "answer_start": 65, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "コロンビア・ポイント公営住宅はコーコラン・マリンズ・ジェニソンによって再開発・再活性化し、何と呼ばれるようになったか。", + "id": "tr-064-12-001", + "answers": [ + { + "text": "ハーバー・ポイント・アパート", + "answer_start": 161, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ハーバー・ポイント・アパートの入居は何年に開始したか。", + "id": "tr-064-12-002", + "answers": [ + { + "text": "1988年", + "answer_start": 206, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ダウンタウンおよびサウスボストンの地勢は、特に中央幹線・トンネル事業による変化が加えられた。埋め立てられたサウスボストンの不安定な土壌のため、同事業のトンネル掘削には特別な問題が生じた。ダウンタウン地区では、同事業により、中央幹線の見苦しい高架をなくすことができ、新しい緑地や公園を整備することが可能になった。\n\nボストンのフィナンシャル・ディストリクトやビーコンヒルの近くにあるボストンコモンは、アメリカで最も古くからある公園である。隣のボストン・パブリック・ガーデンとともに、フレデリック・ロー・オルムステッドがデザインしたエメラルド・ネックレスが街を取り巻く公園の連なりを構成している。エメラルド・ネックレスの一部を成すジャマイカ池は、市内最大の淡水域である。同じくエメラルド・ネックレスの一部であるフランクリン・パークは、市内で最も大きな公園であり、中にフランクリン・パーク動物園がある。もう一つ大きな公園としては、チャールズ川両岸に沿って広がるエスプラナード(遊歩道)がある。野外コンサート場のハッチ・シェルがエスプラナードに隣接してある。そのほかにも、市内至る所に公園が散在しており、キャッスル島近くやチャールズタウン内、またドーチェスター、サウスボストン、イーストボストンの海岸沿いには、大きな公園や砂浜がある。", + "qas": [ + { + "question": "アメリカで最も古くからある公園はどの都市にありますか。", + "id": "tr-064-13-000", + "answers": [ + { + "text": "ボストン", + "answer_start": 157, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ボストン最大の淡水域は何ですか。", + "id": "tr-064-13-001", + "answers": [ + { + "text": "ジャマイカ池", + "answer_start": 313, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "エメラルド・ネックレスの一部である、ボストンで最も大きな公園は何ですか。", + "id": "tr-064-13-002", + "answers": [ + { + "text": "フランクリン・パーク", + "answer_start": 353, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "2000年現在の国勢調査で、ボストンは人口589,141人、239,528世帯および115,212家族が暮らしている。人口密度は4,697/km2である。面積当たりの世帯数は2,009/km2である。\n\n239,528世帯のうち、22.7%が18歳未満の子供と一緒に生活しており、27.4%は夫婦で生活している。16.4%は未婚の女性が世帯主であり、51.9%は非家族世帯である。37.1%は1人以上の独身の居住者が住んでおり、9.1%は65歳以上で独身である。1世帯の平均人数は2.31人であり、結婚している家庭の場合は3.17人である。\n\nこの都市内の住民は19.8%が18歳��満の未成年、18歳以上24歳以下が16.2%、25歳以上44歳以下が35.8%、45歳以上64歳以下が17.8%および65歳以上が10.4%にわたっている。中央値年齢は31歳である。全体の女性100人ごとに対して男性は92.8人である。18歳以上の女性100人ごとに対して男性は90.2人である。", + "qas": [ + { + "question": "2000年の国勢調査で、ボストンの人口は何人でしたか。", + "id": "tr-064-14-000", + "answers": [ + { + "text": "589,141人", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "18歳未満の未成年、18歳以上24歳以下、25歳以上44歳以下のうち、ボストンで一番多いのはどれ?", + "id": "tr-064-14-001", + "answers": [ + { + "text": "25歳以上44歳以下", + "answer_start": 314, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ボストンの世帯ごとの平均的な収入は39,629米ドルであり、家族ごとの平均的な収入は44,151米ドルである。男性は37,435米ドルに対して女性は32,421米ドルの平均的な収入がある。この都市の一人当たりの収入は23,353米ドルである。人口の19.5%および家族の15.3%は貧困線以下である。全人口のうち18歳未満の25.6%および65歳以上の18.2%が貧困線以下の生活を送っている。\n\nボストンの人口密度は、アメリカの主要都市の中で第4位である。また、ボストンの昼間の人口は約120万人にも上る。このように人口が変動するのは、郊外の住民が仕事、学校、医療、あるいは特別の催しのために市内に移動するからである。", + "qas": [ + { + "question": "ボストンの人口密度は、アメリカの主要都市の中で何位ですか。", + "id": "tr-064-15-000", + "answers": [ + { + "text": "第4位", + "answer_start": 222, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ボストンの世帯ごとの平均的な収入はいくらなの?", + "id": "tr-064-15-001", + "answers": [ + { + "text": "39,629米ドル", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ボストンの平均的な収入は、男性と女性と、どっちの方が少ない?", + "id": "tr-064-15-002", + "answers": [ + { + "text": "女性", + "answer_start": 71, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ボストンの一人当たりの収入はいくらですか。", + "id": "tr-064-15-003", + "answers": [ + { + "text": "23,353米ドル", + "answer_start": 108, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "2007年のアメリカ・コミュニティ調査によれば、ボストンの人種別構成は58.4%が白人、25.3%が黒人、8.7%がアジア系、0.8%がネイティブ・アメリカン、0.1%がハワイ原住民およびその他の太平洋諸島原住民、9.4%がその他、2.6%が混血である。また全人口の15.6%がヒスパニックまたはラテン系である。28.6%が外国生まれであり、そのうち48.2%がラテン・アメリカ、25.7%がアジア、14.2%がヨーロッパ、9.8%がアフリカ、2.0%がその他の地域出身である。2009年の推計によれば、白人の割合は53.5%、ヒスパニックは15.7%となっている。単一の民族集団としてはボストンで最大であったアイルランド系の人々は人口の15.8%で、それにイタリア系の8.3%が続く。西インド諸島系の人も6.4%と相当大きな集団を構成しており、その約半分はハイチ系である。ドーチェスターなどの地区には、ここ数十年の間にベトナム系が流入してきた。ジャマイカ・プレインやロズリンダルといった地区では、ドミニカ系の人口が増加している。\n\nボストンは、LGBTの割合が最も多い都市の一つである。自らをゲイ、レズビアンまたはバイセクシュアルであると考える人の割合が12.3%であり、アメリカの主要都市の中で第5位である(1位がサンフランシスコ、ボストンと僅差でシアトル、アトランタ、ミネアポリスが2~4位である)。", + "qas": [ + { + "question": "2007年のアメリカ・コミュニティ調査によれば、ボストンの人種別構成で最も高いパーセンテージを占めている人種は何ですか。", + "id": "tr-064-16-000", + "answers": [ + { + "text": "白人", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ローガン国際空港は、イーストボストン地区にあり、ボストンのほとんどの定期旅客便を取り扱っている。また南北アメリカやアジア、ヨーロッパとの国際線が乗り入れている。\n\n市を囲んで、ゼネラル・アビエーション(輸送事業以外の一般民間航空)の大きな飛行場が三つあり、北がベバリー市営飛行場、西がベッドフォードのハンスコム・フィールド、南がノーウッド・メモリアル飛行場である。ロードアイランド州プロビデンスのT・F・グリーン空港と、ニューハンプシャー州マンチェスターのマンチェスター・ボストン地域空港も、ボストン圏に定期旅客便を提供している。", + "qas": [ + { + "question": "ローガン国際空港はどの地区にありますか。", + "id": "tr-064-17-000", + "answers": [ + { + "text": "イーストボストン地区", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ボストン市民の3分の1近くが、通勤に公共交通機関を使っている。アメリカ最初の地下鉄網であるマサチューセッツ湾交通局(MBTA)の地下鉄を運営が運営されており、これは現在全米で4番目に繁忙な地下鉄であり、線路の全長は105kmにまで延伸し、北はモールデン、南はブレイントリー、西はニュートンにおよぶ。この地下鉄網は「T」という愛称で呼ばれている。交通局はこれ以外に、繁忙度全米第6位のバス網(MBTABus)のほか、水上往復便、そして繁忙度全米第5位のコミューター・レールも運営している。コミューター・レールは、営業距離321km超、北はメリマック・バレー、西はワーススター、南はプロビデンスまで伸びる。", + "qas": [ + { + "question": "ボストン市民の3分の1近くは、通勤のとき、何を使いますか。", + "id": "tr-064-18-000", + "answers": [ + { + "text": "公共交通機関", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ダレイオス1世", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ダレイオス1世(古代ペルシア語:Dārayavau-ダーラヤワウ、英語:DariusI、紀元前550年頃-紀元前486年)は、アケメネス朝の王(在位:紀元前522年-紀元前486年)である。一般にキュロス2世から数えて第3代とされるが、ダレイオス1世自身の言によれば第9代の王である。", + "qas": [ + { + "question": "ダレイオス1世は、どの王朝の者なの?", + "id": "tr-065-00-000", + "answers": [ + { + "text": "アケメネス朝", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ダレイオス1世は、何代とされますか?", + "id": "tr-065-00-001", + "answers": [ + { + "text": "第3代", + "answer_start": 109, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ダレイオス1世は、自らを何代の王と主張するか?", + "id": "tr-065-00-002", + "answers": [ + { + "text": "第9代", + "answer_start": 133, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アケメネス朝の初代国王は、誰か?", + "id": "tr-065-00-003", + "answers": [ + { + "text": "キュロス2世", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ダレイオス1世はヒュルカニアとパルティアのサトラップ(クシャサパーワン、総督)ヒュスタスペス(ウシュタースパ)とロドグネ(ワルダガウナ)の長男として生まれた。ベヒストゥン碑文においてダレイオス1世自身が語るところによれば、その祖先はアケメネス家(ハカーマニシュ家)の分流であるという。", + "qas": [ + { + "question": "ダレイオス1世の父親��、誰なの?", + "id": "tr-065-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ヒュスタスペス", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ダレイオス1世の母親は、誰ですか?", + "id": "tr-065-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ロドグネ", + "answer_start": 56, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ダレイオス1世の父親は、ヒュルカニアとどこを統治していたか?", + "id": "tr-065-01-002", + "answers": [ + { + "text": "パルティア", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ダレイオス1世は、自らをどの家の子孫としたか?", + "id": "tr-065-01-003", + "answers": [ + { + "text": "アケメネス家", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ヘロドトスによれば、カンビュセス2世は弟であるスメルディスによる王位簒奪を恐れ密かに殺害した。そのためスメルディスの死は人々に知られる事はなかった。しかしカンビュセス2世がエジプトに遠征している最中、本国を任せていたマゴス僧パティゼイノスが反旗を翻した。", + "qas": [ + { + "question": "ヘロドトスによると、スメルディスは誰により殺害されたの?", + "id": "tr-065-02-000", + "answers": [ + { + "text": "カンビュセス2世", + "answer_start": 10, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヘロドトスによると、カンビュセス2世は誰に王位を奪われることを恐れていましたか?", + "id": "tr-065-02-001", + "answers": [ + { + "text": "スメルディス", + "answer_start": 23, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "スメルディスの死の経緯について説明したのは、誰か?", + "id": "tr-065-02-002", + "answers": [ + { + "text": "ヘロドトス", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "パティゼイノスの反乱がおこったのは、カンビュセス2世がどこへの遠征を実施していた時だったか?", + "id": "tr-065-02-003", + "answers": [ + { + "text": "エジプト", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "偽スメルディス(ガウマータ)を排除した後、紀元前522年に王位についたダレイオス1世は、王国全土で相次いで発生した反乱に対処しなければなからなかった。この一連の反乱についてはベヒストゥン碑文に詳述されている。それによれば、ガウマータの死の翌月(紀元前522年10月)、エラム(ウーウジャ)でアーシナという人物が王を称して反乱を起こし、またバビロニア(バービル)ではナディンタバイラ(ニディントゥ・ベール)が新バビロニア王国の王ナブナイタ(ナボニドゥス)の息子ナブクドゥラチャラ(ネブカドネザル3世)であると称して自立した。", + "qas": [ + { + "question": "ダレイオス1世は誰との闘争で勝利し、王位についたの?", + "id": "tr-065-03-000", + "answers": [ + { + "text": "偽スメルディス", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ダレイオス1世が王位についたのは、何年のことですか?", + "id": "tr-065-03-001", + "answers": [ + { + "text": "紀元前522年", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ダレイオス1世の治世中、彼を苦しめたのは、何だったか?", + "id": "tr-065-03-002", + "answers": [ + { + "text": "反乱", + "answer_start": 57, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ガウマータが死んだのは、何年か?", + "id": "tr-065-03-003", + "answers": [ + { + "text": "紀元前522年", + "answer_start": 122, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ダレイオス1世はアーシナを逮捕することで迅速に制圧することに成功し、ティグリス川の河畔でバビロニア軍を撃破し、次いでナディンタバイラが滞在していたユーフラテス川河畔のザーザーナ市の戦いでもバビロニア軍を撃破した。ナディンタバイラはバビロン市に逃げ込んだが、ダレイオス1世はこの都市も制圧してナディンタバイラを殺し、バビロニアの反乱は鎮圧された。", + "qas": [ + { + "question": "ダレイオス1世は、ティグリス川とユーフラテス川のうち、どちらの川の河畔の戦いでバビロニア軍を撃退したのがより早かったの?", + "id": "tr-065-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ティグリス川", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ダレイオス1世がバビロニア軍を撃破したのは、ユーフラテス川とどの川の河畔の戦いでしたか?", + "id": "tr-065-04-001", + "answers": [ + { + "text": "ティグリス川", + "answer_start": 34, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ナディンタバイラは、誰により殺害されたか?", + "id": "tr-065-04-002", + "answers": [ + { + "text": "ダレイオス1世", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "バビロニアの反乱を鎮圧したのは、誰だったか?", + "id": "tr-065-04-003", + "answers": [ + { + "text": "ダレイオス1世", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ダレイオス1世がバビロニアに滞在している間、更に反乱が相次いだ。紀元前522年12月、エラム王イマニを名乗ったマルティヤという人物によってエラムで反乱が発生した。しかし彼は部下の裏切りにあって殺害されたためこれはすぐに終息した。", + "qas": [ + { + "question": "ダレイオス1世の治世中、エラムで反乱が発生したのは、いつのことなの?", + "id": "tr-065-05-000", + "answers": [ + { + "text": "紀元前522年12月", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "紀元前522年12月にエラムで反乱を起こしたのは、だれですか?", + "id": "tr-065-05-001", + "answers": [ + { + "text": "マルティヤ", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "紀元前522年12月にエラムで発生した反乱がすぐに終息したのは、何のためだったか?", + "id": "tr-065-05-002", + "answers": [ + { + "text": "部下の裏切り", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マルティヤがエラムで起こした反乱がすぐに終息したのは、何のためだったか?", + "id": "tr-065-05-003", + "answers": [ + { + "text": "部下の裏切り", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "紀元前522年12月に、メディアでもフラワルティ(フラオルテス)がメディア王クシャスリタを称して反乱を起こした。この反乱はメディアの他、アルメニア(アルミナ)、アッシリア(アスラー)地方まで巻き込む大規模なものとなり、ダレイオス1世はメディアで2回、アルメニアで4回、アッシリアで1回の戦いを行った。メディアで行われた最後の戦いで逃亡したフラワルティを捕らえ、メディアの首都エクバタナで鼻と耳を舌をそぎ落とし最後に杭刺しにして殺害し反乱を鎮圧した。", + "qas": [ + { + "question": "フラワルティがメディアで反乱を起こしたのは、いつのことなの?", + "id": "tr-065-06-000", + "answers": [ + { + "text": "紀元前522年12月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "紀元前522年12月にメディアで反乱を起こしたのは、誰ですか?", + "id": "tr-065-06-001", + "answers": [ + { + "text": "フラワルティ", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "紀元前522年12月から始まった反乱を食い止めようとしたダレイオス1世は、どこで最も多く戦闘を行ったか?", + "id": "tr-065-06-002", + "answers": [ + { + "text": "アルメニア", + "answer_start": 68, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "紀元前522年12月から始まった反乱による戦いのうち、最後の戦闘となったのは、どこでの戦闘か?", + "id": "tr-065-06-003", + "answers": [ + { + "text": "メディア", + "answer_start": 150, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "同じく紀元前522年12月にマルギアナ(マルグ)ではマルギアナ人フラーダによる反乱が発生したため、バクトリアのサトラップ、ダーダルシに鎮圧が命ぜられ、これを撃破した。更に同月、ペルシア(パールサ)でワフヤズダータという人物が、キュロス2世(クル2世)の息子バルディヤを自称して反乱を起こしたため、これも臣下のアルタワルディヤによって鎮圧させた。", + "qas": [ + { + "question": "フラーダがマルギアナで反乱を起こしたのは、いつのことなの?", + "id": "tr-065-07-000", + "answers": [ + { + "text": "紀元前522年12月", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "紀元前522年12月にマルギアナで反乱を起こしたのは、だれですか?", + "id": "tr-065-07-001", + "answers": [ + { + "text": "フラーダ", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ワフヤズダータがペルシアで反乱を起こしたのは、いつのことだったか?", + "id": "tr-065-07-002", + "answers": [ + { + "text": "紀元前522年12月", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "紀元前522年12月に反乱がおこったのは、マルギアナとどこだったか?", + "id": "tr-065-07-003", + "answers": [ + { + "text": "ペルシア", + "answer_start": 88, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "しかしアラコシア(ハラウワティ)に派遣されていたワフヤズダータの軍勢は彼の死後も反乱を続け、鎮圧には更に時間がかかった。そして紀元前521年8月、バビロニアで再び反乱が発生し、アルメニア人アラカがナブクドゥラチャラ(ネブカドネザル4世)を称してバビロニア王となった。このため、一軍を派遣してこれを鎮圧した。", + "qas": [ + { + "question": "バビロニアで再び反乱がおこったのは、いつのことなの?", + "id": "tr-065-08-000", + "answers": [ + { + "text": "紀元前521年8月", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "紀元前521年8月の反乱は、誰が首謀者でしたか?", + "id": "tr-065-08-001", + "answers": [ + { + "text": "アラカ", + "answer_start": 94, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アラカは、紀元前521年8月、どこで反乱を起こしたか?", + "id": "tr-065-08-002", + "answers": [ + { + "text": "バビロニア", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "いつ発生した反乱で、自らをナブクドゥラチャラと称する者がバビロニア王となったか?", + "id": "tr-065-08-003", + "answers": [ + { + "text": "紀元前521年8月", + "answer_start": 63, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "ダレイオス1世はアケメネス朝の体制を整備し完成させたと言われる。彼は奪取した王位を安定させるため、キュロス2世の娘アトッサとアルテュストネと結婚し、殺害されたスメルディス(バルディヤ)の娘パルミュスも妻とした。更にカンビュセス2世の妻となっていたオタネス(ウターナ)の娘パイデュメも妻とし、王家の血統の独占を図った。彼の王国は20から29の邦(ダフユ)に分けられ、それぞれにサトラップが任命されていたが、その動きを監視するため、「王の目」、「王の耳」と呼ばれる王直属の官僚たちにその動きを監視させた。", + "qas": [ + { + "question": "アケメネス朝の体制を整備し完成させたと言われる王は、誰なの?", + "id": "tr-065-09-000", + "answers": [ + { + "text": "ダレイオス1世", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アトッサ、アルテュストネ、パルミュスと結婚したのは、誰ですか?", + "id": "tr-065-09-001", + "answers": [ + { + "text": "ダレイオス1世", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "王家の血統の独占を図ったアケメネス朝の者は、誰か?", + "id": "tr-065-09-002", + "answers": [ + { + "text": "ダレイオス1世", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ダレイオス1世は王国をいくつかの区域に分け、それぞれの区域を統率する者を何と呼んだか?", + "id": "tr-065-09-003", + "answers": [ + { + "text": "サトラップ", + "answer_start": 187, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "財政的な余裕を得たダレイオス1世は、かつてスキタイ人がメディアと小アジアを席巻したことへの報復としてスキュティアへの遠征を思い立った。ダレイオス1世の弟アルタバノスはこの遠征の困難を訴えて制止したが、ダレイオス1世は攻撃を強行した。紀元前513年頃、ダレイオス1世がダーダネルス海峡を越えると、トラキア地方の諸族は戦わずして降伏し、唯一抵抗したゲタイ人も瞬く間に征服された。", + "qas": [ + { + "question": "ダレイオス1世が報復遠征の対象としたのは、かつてメディアとどこを支配していた人々なの?", + "id": "tr-065-10-000", + "answers": [ + { + "text": "小アジア", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ダレイオス1世のスキュティアへの遠征を阻止しようとしてのは、誰でしたか?", + "id": "tr-065-10-001", + "answers": [ + { + "text": "アルタバノス", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ダレイオス1世がダーダネルス海峡を越えたのは、何年頃だったか?", + "id": "tr-065-10-002", + "answers": [ + { + "text": "紀元前513年頃", + "answer_start": 116, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ダレイオス1世の対外遠征の中で史上名高いのはイオニアの反乱に端を発したギリシア遠征である。この戦いは一般にペルシア戦争と呼ばれる数次にわたる戦争の第一回目とされている。", + "qas": [ + { + "question": "ギリシア遠征はどの��件に端を発して行われたの?", + "id": "tr-065-11-000", + "answers": [ + { + "text": "イオニアの反乱", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ダレイオス1世の対外遠征の中で史上名高いのは、何ですか?", + "id": "tr-065-11-001", + "answers": [ + { + "text": "ギリシア遠征", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ギリシア遠征は、どの戦争の第一回目の戦いとされるか?", + "id": "tr-065-11-002", + "answers": [ + { + "text": "ペルシア戦争", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ペルシア戦争の第一回目の戦いとされる戦いは、誰により行われたか?", + "id": "tr-065-11-003", + "answers": [ + { + "text": "ダレイオス1世", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ダレイオス1世はイオニアの反乱を鎮圧した後、紀元前492年に甥のマルドニオスに艦隊を与えて、反乱へ加担したアテナイやエレトリアへの懲罰を目的として遠征を行った。", + "qas": [ + { + "question": "アテナイとエレトリアへの懲罰のための遠征を命じられたのは、誰だったの?", + "id": "tr-065-12-000", + "answers": [ + { + "text": "マルドニオス", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "マルドニオスの率いる艦隊がアテナイとエレトリアへの懲罰のための遠征を開始したのは、何年のことですか?", + "id": "tr-065-12-001", + "answers": [ + { + "text": "紀元前492年", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "紀元前492年にマルドニオスに命じられた遠征は、何の目的を持った遠征だったか?", + "id": "tr-065-12-002", + "answers": [ + { + "text": "アテナイやエレトリアへの懲罰", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "黒石", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "黒石は、メッカのカアバ神殿の東隅に据えられたムスリムの聖宝である。その由来はアダムとイヴの時代にまで遡るという伝承がある。テクタイトもしくは隕石であるとも考えられている。サウジアラビアのメッカに所在する大モスクであるマスジド・ハラームの中央に位置し、世界のムスリムがその方角を向いて祈る古代の聖なる石造建築、カアバの東隅に据えられた要石である。黒石の直径はおよそ30センチメートル、地面からの高さは1.5メートルである。\n\n巡礼者たちは、ハッジのタワーフ儀式の一環としてカアバの周囲を回る。このとき、巡礼たちの多くは可能ならば、足を止めて黒石に7度接吻しようと試みる。イスラムの伝承によれば、預言者ムハンマドはかつてそうしたとされている。巡礼者たちは、黒石に触れることができない場合、カアバを7度回るたびに黒石を指差す。", + "qas": [ + { + "question": "黒石の直径約何センチメートルですか。", + "id": "tr-066-00-000", + "answers": [ + { + "text": "およそ30センチメートル", + "answer_start": 178, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "マスジド・ハラームはサウジアラビアのどこに位置していますか。", + "id": "tr-066-00-001", + "answers": [ + { + "text": "メッカ", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "イスラムの伝承によれば、預言者ムハンマドはかつて足を止めて黒石に何度接吻しましたか。", + "id": "tr-066-00-002", + "answers": [ + { + "text": "7度", + "answer_start": 272, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ムスリムの間に言い伝えられる伝承においては、黒石は、どこに祭壇を築き神に犠牲を捧げれば良いのかをアダムとイヴに示すため、天国から落とされたものとされている。祭壇は地上で最初の寺院となった。また別の伝承によれば、黒石は、アダムが堕落した罰としてアダムの守護天使が姿を変えさせられたものだとされている。石は最初は目映く輝く純粋な白であったのだが、長年に亘り人々の罪業を吸収し続けたために黒くなってしまったのだという伝承もある。伝承は、アダムの祭壇と石は大洪水で失われ一度忘れ去られたのだとしている。大天使ガブリエルがその在処をアブラハムに示し、黒石とアダムの祭壇の場所は再発見された。アブラハムは息子イシュマエルに、石を埋め込むための新しい寺院を建設するよう命じた。この新しい寺院がメッカのカアバである。", + "qas": [ + { + "question": "ムスリムの間に言い伝えられる伝承に従うと、黒石は落ちる前、どこにあったものとされていますか。", + "id": "tr-066-01-000", + "answers": [ + { + "text": "天国", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "預言者ムハンマドは黒石の歴史で重要な役割を演じたとされている。最初の預言的啓示を受ける以前の602年、ムハンマドはカアバを再建中のメッカに建造した。新しい建物を建設している間、黒石は一時的に別の場所に移されていた。イブン・イスハークの『預言者伝』に伝えられる内容によると、ムハンマドは、どの部族が黒石をカアバに据えるかでメッカの部族間に起きていた争いを和解させた。解決方法は、黒石を布に載せ、全ての族長がこれを持ち上げて運び、ムハンマドが自分の手で所定の位置に収めるというものであった。", + "qas": [ + { + "question": "カアバは誰によって建造されましたか。", + "id": "tr-066-02-000", + "answers": [ + { + "text": "ムハンマド", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ムハンマドが、どの部族が黒石をカアバに据えるかでメッカの部族間に起きていた争いを和解させたという内容が書いてあるものは何ですか。", + "id": "tr-066-02-001", + "answers": [ + { + "text": "『預言者伝』", + "answer_start": 117, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イブン・イスハークの『預言者伝』に伝えられる内容によると、どの部族が黒石をカアバに据えるかで争いになった部族を落ち着かせた人は誰ですか。", + "id": "tr-066-02-002", + "answers": [ + { + "text": "ムハンマド", + "answer_start": 136, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "630年にマディーナの支配権を確立したムハンマドは、大きく膨れ上がった軍勢を率いて、敵対していたメッカに進軍した。ほとんど無血のうちに街の征服を完了したムハンマドは、カアバの黒石に触れて「アッラーフ・アクバル」(神は偉大なり)と叫び、周囲の者も唱和したとされる。その後の632年3月、ムハンマドは、生涯で最初で最後となる巡礼を行った。後述するハッジにおける黒石の果たす役割も、この別離の巡礼の際にムハンマドが示した作法に基づくものである。\n\n黒石は割れていくつもの破片となっており、その数は7から15まで諸説あり、これらは銀の枠によってまとめられている。この損傷がいかにして起きたかにも諸説がある。1911年度版の『ブリタニカ百科事典』によれば、この損傷は638年の包囲攻撃の際に起きたものだったという。『Time-LifeBooks』の編者たちはウマイヤ朝のカリフ、アブドゥルマリク・ブン・マルワーン(646-705)による包囲戦の際の損傷だとしている。2007年度版のブリタニカを含む他の情報源によれば、アッバース朝の時代にバハライ��地方で信奉者を多数得ていたカルマト派というイスマーイール派の一派が、930年にアブー・ターヒル・ジャンナービーという指導者に率いられてメッカに攻め入り、黒石を本拠地のアハサーに持ち去った際に損傷が起きたのだという。歴史家ジュワイニーによると、黒石は20年後の951年に、いささか不思議な状況で戻って来たのだという。黒石は袋に包まれ、「我々は命令によりこれを持ち去り、命令によりこれを戻した。」というメモと共にクーファの金曜モスクに投げ込まれた。この持ち去りと移動はさらなる損傷をもたらし、黒石は割れて7つの破片になった。", + "qas": [ + { + "question": "メッカの征服を完了したムハンマドは何と叫んだとされていますか。", + "id": "tr-066-03-000", + "answers": [ + { + "text": "「アッラーフ・アクバル」(神は偉大なり)", + "answer_start": 93, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "1911年度版の『ブリタニカ百科事典』によると、黒石が割れていくつもの破片となったのは何年のことですか。", + "id": "tr-066-03-001", + "answers": [ + { + "text": "638年", + "answer_start": 328, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "黒石が割れていくつもの破片となったのは638年の包囲攻撃の際に起きたものだったいう内容などこに載せてありますか。", + "id": "tr-066-03-002", + "answers": [ + { + "text": "1911年度版の『ブリタニカ百科事典』", + "answer_start": 299, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ムハンマドが唯一に巡礼を行ったのはいつですか。", + "id": "tr-066-03-003", + "answers": [ + { + "text": "632年3月", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "黒石の崇拝は明らかにイスラム教の興隆よりも前から存在した。中東のセム人の文化には、珍しい石を崇拝の場の印として用いる伝統があり、旧約聖書やクルアーンにもその反映がある。\n\nグリューネバウムは著書『古典時代のイスラム』において、カアバはイスラム教以前の時代から既に巡礼の場所となっており、恐らくは石で築かれた唯一の聖所であったが、アラビアの各地には他の「カアバ」建築が存在したことを示す情報源があるとしている。南アラビアの街ガイマーンには「赤石」があり、その街の神格であった。アバラートの街にもカアバがあり、そこには「白石」があったという。グリューネバウムは、この時代の神性の経験はしばしば石への呪物崇拝、山岳、特別な造岩、「不思議な育ち方をした樹木」といったものと結び付いていたと指摘している。", + "qas": [ + { + "question": "『古典時代のイスラム』の作者は誰なの?", + "id": "tr-066-04-000", + "answers": [ + { + "text": "『古典時代のイスラム』", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "南アラビアの街ガイマーンにはどんな石があったの?", + "id": "tr-066-04-001", + "answers": [ + { + "text": "「赤石」", + "answer_start": 218, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アバラートの街にあったと言われているのは「白石」なの、「赤石」なの?", + "id": "tr-066-04-002", + "answers": [ + { + "text": "「白石」", + "answer_start": 257, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "この時代の神性の経験はしばしば石への呪物崇拝、山岳、特別な造岩、「不思議な育ち方をした樹木」といったものと結び付いていた述べた人物は誰でしょう。", + "id": "tr-066-04-003", + "answers": [ + { + "text": "グリューネバウム", + "answer_start": 269, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "黒石の材質は玄武岩質溶岩、瑪瑙、天然ガラス、そして最も一般的には石質隕石などとさまざまに記述されている。あれほどまでの接触に耐えてきたのであるから、硬い岩石なのは明らかである。951年に、その21年前に盗まれた石が取り戻された時の話は、石の性質の重要なヒントとなる。年代記編者によれば、黒石は水に浮くことでそれと分かったのだという。この話が正確であるなら、瑪瑙、玄武岩質溶岩、石質隕石という可能性は排除され、ガラスまたは軽石であるという可能性は残る。\n\n黒石は、約6000年前に、メッカから1,100キロメートルほど東にあるルブアルハリ砂漠のワーバルに落ちた、断片化した隕石の衝撃によってできたガラス片なのではないかという説がある。ワーバルには、衝撃で溶け、隕石のニッケル鉄合金の小片を含む石英ガラスの塊があることで知られている。これらのガラスの塊の中には、白や黄色の内部とガスが充ちた空洞を持つ、輝く黒のガラスでできたものもあり、この空洞によって水に浮く。科学者たちは1932年になるまでワーバルのクレーター群の存在に気付いていなかったが、これらはオマーンからの隊商路の近くに位置していたので砂漠の住民たちには知られていた可能性が非常に高い。より広いエリアとしては間違いなく良く知られていた。古いアラビア語の詩では、ワーバルもしくはウーバルとは、邪悪な王を頂いていたために天国からの火によって破壊された伝説上の都市の名前であった。クレーターの推定年代が正確であるとすれば、隕石の落下はアラビアに人間が住んでいた時期に収まり、衝突そのものも目撃されていた可能性がある。しかしながら、近年(2004年)の科学的な分析によれば、衝突は以前考えられていたよりも遥かに最近の出来事であり、ほんの200-300年前のことであったかもしれない。", + "qas": [ + { + "question": "黒石が水に浮くことが事実であるなら、瑪瑙、玄武岩質溶岩、石質隕石、ガラスのうち、黒石の材質として最も可能性が高いのはどれですか。", + "id": "tr-066-05-000", + "answers": [ + { + "text": "ガラス", + "answer_start": 204, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ルブアルハリ砂漠のワーバルはメッカから東に何キロメートル離れていますか。", + "id": "tr-066-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1,100キロメートル", + "answer_start": 245, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ヒューストン", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ヒューストンは、アメリカ合衆国テキサス州南東部に位置する都市。2,099,451人の人口を抱えるテキサス州最大、全米第4の都市である。ハリス郡を中心に9郡にまたがるヒューストン都市圏の人口は5,920,416人にのぼる。市域面積は1,500km2におよび、市郡一体の自治体を除くとオクラホマシティに次ぐ全米第2の広さである。\n\nヒューストンは1836年8月30日にオーガストゥス・チャップマン、ジョン・カービーのアレン兄弟によってバッファロー・バイユーの河岸に創設された。市名は当時のテキサス共和国大統領で、サンジャシントの戦いで指揮を執った将軍、サミュエル・ヒューストンから名を取って付けられた。翌1837年6月5日、ヒューストンは正式に市制施行された。19世紀後半には海港や鉄道交通の中心として、また綿花の集散地として栄えた。やがて1901年に油田が見つかると、市は石油精製・石油化学産業の中心地として成長を遂げた。20世紀中盤に入ると、ヒューストンには世界最大の医療研究機関の集積地テキサス医療センターやアメリカ航空宇宙局(NASA)のジョンソン宇宙センターが設置され、先端医療の研究や航空宇宙産業の発展が進んだ。", + "qas": [ + { + "question": "ヒューストンは何年に創設されたの?", + "id": "tr-067-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1836年", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヒューストンの市���面積は何km2なの?", + "id": "tr-067-00-001", + "answers": [ + { + "text": "1,500km2", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヒューストンはいつ、正式に市制施行されたの。", + "id": "tr-067-00-002", + "answers": [ + { + "text": "1837年6月5日", + "answer_start": 300, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アメリカ航空宇宙局(NASA)のジョンソン宇宙センターはどの都市に設立されたか。", + "id": "tr-067-00-003", + "answers": [ + { + "text": "ヒューストン", + "answer_start": 421, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "古くからこうした様々な産業を持ち、フォーチュン500に入る企業の本社数がニューヨークに次いで多いヒューストンは、テキサス州のみならず、成長著しいサンベルトの中心都市の1つであり、アメリカ合衆国南部のメキシコ湾岸地域における経済・産業の中枢である。また、全米最大級の貿易港であるヒューストン港を前面に抱え、ユナイテッド航空のハブ空港であるジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港を空の玄関口とする、交通の要衝でもある。また、日本を含む世界86ヶ国が領事館を置く世界都市でもある。\n\nこのようにヒューストンは工業都市・ビジネス都市としてのイメージが強い都市であるが、文化水準の高い都市でもある。ダウンタウンの南側には10以上の博物館・美術館が建ち並び、年間700万人の訪問者を呼び寄せるミュージアム・ディストリクトがある。ミュージアム・ディストリクトに隣接するエリアには、全米の総合大学の中で常にトップ25位以内の高評価を受けている名門私立大学、ライス大学のキャンパスが広がっている。一方、ダウンタウンの中心部に位置するシアター・ディストリクトはヒューストンにおける演技芸術の中心地で、演劇のみならず、オペラ、オーケストラ、バレエなど多彩な演技芸術の公演が行われている。\n\nジョンソン宇宙センターの存在から、ヒューストンには1967年にSpaceCity(宇宙の街)という公式な別名がつけられた。地元住民はこのほか、BayouCity(バイユーの街)、MagnoliaCity(マグノリアの街)、H-Townなどと呼ぶこともある。", + "qas": [ + { + "question": "シアター・ディストリクトはどの都市に位置していますか。", + "id": "tr-067-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ヒューストン", + "answer_start": 248, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ミュージアム・ディストリクトはどの都市に位置していますか。", + "id": "tr-067-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ヒューストン", + "answer_start": 248, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ジョンソン宇宙センターの存在から、ヒューストンにはどんな名称がつけられましたか。", + "id": "tr-067-01-002", + "answers": [ + { + "text": "SpaceCity(宇宙の街)", + "answer_start": 569, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "BayouCity(バイユーの街)、MagnoliaCity(マグノリアの街)、H-Townが指す都市は?", + "id": "tr-067-01-003", + "answers": [ + { + "text": "ヒューストン", + "answer_start": 555, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1836年8月、ニューヨークの不動産起業家、オーガストゥス・チャップマン・アレンとジョン・カービー・アレンの兄弟はバッファロー・バイユー周辺のこの地に都市を創設すべく、6,642エーカー(約27km2)の土地を購入した。サンジャシントの戦いで名を馳せた将軍で、その年の9月にテキサス共和国の大統領に選出されたサミュエル・ヒューストンの名を取って、アレン兄弟はこの都市をヒューストンと名付けることを決定した。ヒューストンは翌1837���6月5日に市制を施行し、ジェームズ・サンダース・ホルマンが初代市長に就任した。またその年、ヒューストンはテキサス共和国の暫定首都、およびハリスバーグ郡の郡庁所在地となった。1840年、バッファロー・バイユーに建設された新しい海港における貨物の積降や水上交通のビジネスを活性化させるため、ヒューストンには商業局が設置された。", + "qas": [ + { + "question": "1836年8月、オーガストゥス・チャップマン・アレンとジョン・カービー・アレンの兄弟は都市を創設するために何エーカーの土地を購入しましたか。", + "id": "tr-067-02-000", + "answers": [ + { + "text": "6,642エーカー(約27km2)", + "answer_start": 84, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヒューストンの初代市長は誰?", + "id": "tr-067-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ジェームズ・サンダース・ホルマン", + "answer_start": 228, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "都市ヒューストンという名称は誰の名前から出てきたの?", + "id": "tr-067-02-002", + "answers": [ + { + "text": "サミュエル・ヒューストン", + "answer_start": 154, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1860年頃には、ヒューストンは綿花の集積地・輸出拠点として栄え、商業や鉄道交通が発展した。テキサス州内陸部各地からの鉄道はヒューストンで合流し、ガルベストンやボーモントの港へと通じていた。南北戦争中、ジョン・B・マグルダー将軍はガルベストンの戦いにおいてヒューストンを隊の集合地とし、市内には同将軍の司令部が置かれた。南北戦争が終結すると、ヒューストンの実業家たちは市の中心部とガルベストン港との間での商業を活性化させるため、イニシアチブを取ってバイユー網の拡張に努めた。\n\n1900年にガルベストン・ハリケーンが上陸してガルベストンの港町が壊滅的な被害を受けると、内陸のヒューストンにより安全な、水深の深い、近代的な港を造る機運が高まった。翌1901年、ボーモントの近くのスピンドルトップ油田で石油が見つかると、ヒューストンでは石油産業が興った。さらにその翌年、1902年には、当時の大統領セオドア・ルーズベルトがヒューストン港の運河、ヒューストン・シップ・チャネルの整備費用100万ドルの計上を承認した。掘削に7年の歳月を費やした後、1914年、大統領ウッドロウ・ウィルソンはヒューストン港を開港した。1930年には人口292,352人を数え、サンアントニオとダラスを抜いてテキサス州最大の都市になった。", + "qas": [ + { + "question": "南北戦争のとき、ジョン・B・マグルダー将軍はガルベストンの戦いにおいてどこを隊の集合地としたか。", + "id": "tr-067-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ヒューストン", + "answer_start": 128, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "スピンドルトップ油田で石油が見つかったのは何年のことですか。", + "id": "tr-067-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1901年", + "answer_start": 323, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1930年のヒューストンの人口は何人でしたか。", + "id": "tr-067-03-002", + "answers": [ + { + "text": "292,352人", + "answer_start": 513, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "第二次世界大戦が開戦すると、ヒューストン港の貨物取扱量は減少し、積降は保留とされるようになった。しかし、戦争需要から市の経済はむしろ活性化した。戦時中の石油化学製品や合成ゴムの需要増加に対応するため、シップ・チャネル沿いには石油化学工場や製造工場が建設された。地元の造船業も増産し、市の成長を促した。経済成長をエリントン・フィールド空港は、もとは第一次世界大戦の最中に設置されたものであったが、���空士や爆撃手の上級訓練センターとして生まれ変わった。1945年、M.D.アンダーソン財団はテキサス医療センターを設置した。第二次世界大戦の終結とともに、ヒューストンの経済は再び港湾中心に戻った。1948年、近隣の所属未定地を合併したことにより、ヒューストンの市域はそれまでの2倍以上になり、地域全体にわたって広がり始めた。1950年代に入り、エアコンが普及し始めると、蒸し暑いヒューストンの夏も快適に過ごせるようになり、多くの企業がヒューストンに移転してきた。その結果、ヒューストンの経済は高度成長期を迎え、エネルギー産業を中心とした経済に移行していった。1961年には有人宇宙船センター(1973年にジョンソン宇宙センターに改称)が設置され、ヒューストンには航空宇宙産業が興った。", + "qas": [ + { + "question": "第二次世界大戦が開戦してから、ヒューストン港の貨物取扱量は増加したか、減少したか。", + "id": "tr-067-04-000", + "answers": [ + { + "text": "減少", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "エリントン・フィールド空港は、もとはどの戦争の時設置されましたか。", + "id": "tr-067-04-001", + "answers": [ + { + "text": "第一次世界大戦", + "answer_start": 173, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "エアコンの普及は何年代から始まったか。", + "id": "tr-067-04-002", + "answers": [ + { + "text": "1950年代", + "answer_start": 359, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "有人宇宙船センターは何年に設置されたの?", + "id": "tr-067-04-003", + "answers": [ + { + "text": "1961年", + "answer_start": 476, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1970年代に入ると、北部のラストベルトから南部のサンベルトへの人口と産業の移動が始まり、ヒューストンの人口は急増した。1973年の第一次オイルショックで原油価格が高騰すると、大量消費型の製造業を中心としていた北部の工業都市が軒並み衰退する一方で、産油地であるヒューストンは潤い、石油産業を中心に創出された雇用を求めて大量の住民が移入してきた。しかし、1980年代中盤に入ると原油価格が暴落し、経済は沈滞、人口増加のペースも鈍化した。そこに1986年のチャレンジャー号爆発事故が追い討ちをかけ、航空宇宙産業も打撃を受けた。アメリカ経済そのものの低迷もヒューストンの地域経済に影響を及ぼした。その教訓から1990年代以降、ヒューストンは経済の多様化に努め、航空宇宙産業やバイオテクノロジーといったハイテク分野に力を入れることで石油化学産業への依存度を減らしてきた。", + "qas": [ + { + "question": "北部のラストベルトから南部のサンベルトへの人口と産業の移動が始まり、ヒューストンの人口が急激に増加し始まったのは何年代に入ってからですか。", + "id": "tr-067-05-000", + "answers": [ + { + "text": "1970年代", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "第一次オイルショックは何年にあったの?", + "id": "tr-067-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1973年", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "チャレンジャー号爆発事故は何年にあったの?", + "id": "tr-067-05-002", + "answers": [ + { + "text": "1986年", + "answer_start": 220, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "アメリカ合衆国統計局によると、ヒューストン市の総面積は1,558.4km2である。そのうち1,500.7km2が陸地で57.7km2が水域である。総面積の3.70%が水域になっている。ダウンタウンの標高は約15mである。市の最高点はダウンタウンから遠く離れた北西部にあるが、それでも標高は約38mにとどまる。\n\nヒューストン地域の大部分はメキシコ湾西岸草原地帯に属する。その植生は亜熱帯性の森林および草原に分類される。市の大部分は森林、湿地、沼地、草原を切り開いて建設された。同じメキシコ湾岸の低湿地に位置するニューオーリンズほどではないものの、土地が低く平坦で、かつ市街地のスプロール化が進行しているヒューストンは、洪水の被害に見舞われやすい。かつては水道水源を地下水に頼っていたが、地盤沈下を引き起こしたため、ヒューストン湖やコンロー湖などの地表水を用いるようになった。", + "qas": [ + { + "question": "アメリカ合衆国統計局によると、ヒューストン市の総面積は何km2ですか。", + "id": "tr-067-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1,558.4km2", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヒューストン地域の大部分はどの地帯に属しますか。", + "id": "tr-067-06-001", + "answers": [ + { + "text": "メキシコ湾西岸草原地帯", + "answer_start": 169, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヒューストンは、土地が低く平坦で、かつ市街地のスプロール化が進行しているため、何の被害に見舞われやすいですか。", + "id": "tr-067-06-002", + "answers": [ + { + "text": "洪水", + "answer_start": 309, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "バイユー・シティの別名が示す通り、ヒューストン市内にはバイユーと呼ばれる小川がいくつも流れている。中でも最大のバッファロー・バイユーは、ヒューストン西郊のケイティに源を発し、ヒューストンのダウンタウンを東西に貫いて流れ、ヒューストン港のヒューストン・シップ・チャネルに注ぐ。ヒューストン・シップ・チャネルは南東へ続き、ガルベストンでメキシコ湾に注ぐ。\n\nヒューストンはケッペンの気候区分では温暖湿潤気候(Cfa)に属するが、実際には亜熱帯と呼ばれる、熱帯と温帯の中間にあたる気候である。春の雷雨は竜巻を伴うこともある。1年を通じて南から南西寄りの風が吹き、メキシコの砂漠地帯からの熱気とメキシコ湾からの湿気をヒューストンとその周辺地域にもたらす。", + "qas": [ + { + "question": "ヒューストンはケッペンの気候区分ではどの気候に属しますか。", + "id": "tr-067-07-000", + "answers": [ + { + "text": "温暖湿潤気候(Cfa)", + "answer_start": 195, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "バイユー・シティとはどの都市を意味するのですか。", + "id": "tr-067-07-001", + "answers": [ + { + "text": "ヒューストン", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ヒューストンの夏の日中の気温は摂氏30度を上回ることが常である。過去の統計の平均では、最高気温が華氏90度(摂氏32.2度)を超える日は年間の約1/4、99日におよぶ。またヒューストンは湿度が高いため、体感気温はさらに上がる。夏の午前中の相対湿度は平均90%を超え、午後でも60%近くなる。海岸沿いの一部を除いて、夏季のヒューストン周辺の風は弱く、暑さや湿気が和らげられることもあまりない。この暑さに対処するため、ヒューストンの住民は市内の建物という建物、通行する車という車のほぼ全てでエアコンを効かせている。1980年には、ヒューストンは「地球上で最もエアコンを効かせている場所」と評された。ヒューストンにおける観測史上最高気温は2000年9月4日に記録した摂氏42.7度である。", + "qas": [ + { + "question": "過去の統計の平均では、最高気温が摂氏32.2度を超える日は1年のうち、何日におよびますか。", + "id": "tr-067-08-000", + "answers": [ + { + "text": "99日", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1980年、「地球上で最もエアコンを効かせている場所」と評された都市はどこですか。", + "id": "tr-067-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ヒューストン", + "answer_start": 263, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "一方、ヒューストンの冬は温暖で、過ごしやすい日が続く。最寒月の1月においても、月平均気温は摂氏11度を超え、最高気温は摂氏17度、最低気温でも摂氏6度ほどである。降雪はめったに見られない。2004年のクリスマスイブには大規模な雪嵐がメキシコ湾岸を襲い、テキサス州南部は「記録的な」大雪に見舞われたが、その時もヒューストンにおける降雪量はわずか2.5cmであった。ヒューストンにおける観測史上最低気温は、1940年1月23日に記録された氷点下15度である。\n\nヒューストンの降水量は1年を通じて多く、年間では1,200-1,300mm程度になる。夏季には散発的な雷雨が起こりやすく、ハリケーンや熱帯低気圧の通り道になることもよくある。2001年6月には、トロピカル・ストーム・アリソンがテキサス州南東部に1,000mmを超える豪雨を降らせ、ヒューストンは市史上最悪の洪水に見舞われた。アリソンによる被害総額は60億ドルを超え、死者はテキサス州だけで20名を数えた。2005年9月、ハリケーン・リタが接近したときには、ヒューストン市街地への直撃が懸念され、ヒューストンとその周辺地域の住民約250万人が避難した。リタ襲来の1ヶ月前にニューオーリンズに甚大な被害をもたらしたハリケーン・カトリーナの教訓から多くの住民が早目に避難したことに加え、実際にはリタの進路が東寄りにずれてテキサス・ルイジアナ州境付近に上陸し、ヒューストン市街地はハリケーンの左側半分に入ったため、ヒューストンにおけるリタの被害は、ハリケーンの規模の割には比較的軽微であった。ただし広範囲に避難勧告を出したため数十時間路上に滞在したり自家用車のガソリンが路上で切れたりなどの混乱を伴う極端な避難渋滞が発生し、後のハリケーン・アイクの際の避難計画策定や人々の避難行動に影響を与えた。2008年9月13日に南東郊のガルベストンに上陸したハリケーン・アイクは高潮によりガルベストン西部に壊滅的な被害を与え、ヒューストン周辺で35名以上の死者を出し、ヒューストンの広範囲に停電を引き起こした。市民生活に多大な影響があったが、避難勧告地域を限定したためハリケーン・リタの際に起こった避難渋滞による混乱は発生しなかった。", + "qas": [ + { + "question": "ヒューストンの一月の最高気温は何度ですか。", + "id": "tr-067-09-000", + "answers": [ + { + "text": "摂氏17度", + "answer_start": 59, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "2004年のクリスマスイブには大規模な雪嵐がメキシコ湾岸を襲った時、ヒューストンの降雪量は何cmにすぎませんでしたか。", + "id": "tr-067-09-001", + "answers": [ + { + "text": "2.5cm", + "answer_start": 171, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1940年1月23日のヒューストンの気温は何度でしたか。", + "id": "tr-067-09-002", + "answers": [ + { + "text": "氷点下15度", + "answer_start": 217, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヒューストンの市史上最悪の洪水は何年にありましたか。", + "id": "tr-067-09-003", + "answers": [ + { + "text": "2001年", + "answer_start": 316, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1960年代、ダウンタウン・ヒューストンの建物はそのほとんどが中層オフィスビルであった。1970年代に入り、ヒューストンがエネルギー産業ブームに沸くようになると、建設ブームが起こり、矢継ぎ早に超高層ビルが建ち始めた。この時期に建てられた超高層ビルの多くは市内で不動産開発会社を営むジェラルド・D・ハインズが手がけたものであった。1982年には、高さ305.4m、75階建てのJP��ルガン・チェース・タワーが完成した。JPモルガン・チェース・タワーはテキサス州で最も高いビルで、全米でも11位、全世界でも35位の高さである。翌1983年には高さ302.4m、71階建てのウェルズ・ファーゴ・バンク・プラザが完成した。2006年現在、ダウンタウン・ヒューストンのオフィススペースの総面積は約4,000,000m2に及ぶ。\n\nポスト・オーク大通りとウェセイマー通りを中心としたアップタウンは、1970年代から1980年代初頭にかけて開発が進められ、環状線I-610に沿って、主に中層のオフィスビルやホテル、小売店などが建ち並ぶようになった。アップタウン・ヒューストンは最も成功したエッジ・シティの一例となった。フィリップ・ジョンソンとジョン・バーギーの設計によるウィリアムズ・タワーは高さ274.6m、64階建ての超高層ビルで、アップタウンのランドマークになっている。1983年に完成した当時は、ウィリアムズ・タワーは都市中心部以外に建つものとしては世界で最も高いビルであった。このほかにも、アップタウンにはイオ・ミン・ペイやシーザー・ペリなど、著名な建築家の設計による建築物が建ち並んでいる。1990年代から2000年代初頭にかけては、アップタウンには高層マンションがいくつも建った。この時期に建てられた高層マンションの中には30階建て以上のものもある。2002年現在、アップタウン・ヒューストンのオフィススペースの総面積は2,100,000m2を超える。その質も総じて高く、総面積の7割以上にあたる1,500,000m2はクラスAのオフィススペースである。", + "qas": [ + { + "question": "ヒューストンに建設ブームが起こったのは何年代のことですか。", + "id": "tr-067-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1970年代", + "answer_start": 44, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "JPモルガン・チェース・タワーは何階建てなの?", + "id": "tr-067-10-001", + "answers": [ + { + "text": "75階建て", + "answer_start": 181, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ウィリアムズ・タワーは何年に完成したか。", + "id": "tr-067-10-002", + "answers": [ + { + "text": "1983年", + "answer_start": 581, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ヒューストンは市長制を採っている。ヒューストンは特定の権限を委譲されている。ヒューストンを含め、テキサス州内においては、すべての市政選挙は党派を特定せずに行われる。ヒューストンの市政選挙で選ばれるのは市長、会計監査官、および14名からなる市議会の議員である。\n\n2016年現在の市長はシルベスター・ターナーである。ヒューストン市長は市の管理者の長であり、最高責任者であり、公式な代表である。市長は市の全般的な管理業務、および法律・条令の施行に責任を負う。1991年の住民投票の結果により、ヒューストン市長の任期は2年と定められ、連続多選が認められるのは3選までとなった。1997年、リー・P・ブラウンが市長に就任し、ヒューストン市史上初の黒人市長が誕生した。\n\nヒューストン市議会議員選挙においては、市は9つの選挙区に分けられている。この9つの選挙区は、もともとは1837年にヒューストンが市制を施行した際の区が基になっている。各選挙区から1名ずつがまず当選となり、残る5議席はワイルドカードとして市全体から選出される。このシステムは、1979年にアメリカ合衆国司法省が義務付けたものが基になっている。現行の市の認可条件では、市域人口が210万人を超えたときには、市議会議員選挙の選挙区は2区増やされ、11区に改組されることになっている。\n\n2020年7月21日連邦政府は知的財産と個人情報の保護を理由にヒューストン市内にある中国総領事館の閉鎖命令を出した。", + "qas": [ + { + "question": "2016年のヒューストン市長の名前は何?", + "id": "tr-067-11-000", + "answers": [ + { + "text": "シルベスター・ターナー", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヒューストン市史上初の黒人市長の名前は何?", + "id": "tr-067-11-001", + "answers": [ + { + "text": "リー・P・ブラウン", + "answer_start": 291, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヒューストン市議会議員選挙において、市は幾つの選挙区に分けられていますか。", + "id": "tr-067-11-002", + "answers": [ + { + "text": "9つ", + "answer_start": 352, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ヒューストンの治安はヒューストン市警等いくつかの法執行機関によって守られている。ヒューストンは「犯罪都市」と呼ばれることこそないものの、その犯罪率は決して低くはない。殺人の発生率が高く、全米の人口250,000人以上の都市の中でワースト18位である。ヒューストンにおける2005年の犯罪発生件数を2004年と比較すると、非暴力的犯罪こそ2%減少しているものの、殺人発生件数は23.5%増加し、336件を数えた。その原因の1つとしては、ハリケーン・カトリーナで大被害を受けたニューオーリンズからの避難民がヒューストンに大量に流入したことが挙げられる。カトリーナの襲来後、2005年の11月・12月においては、前年度の同時期に比べて殺人発生率が70%増加している。\n\nヒューストンにおける2006年の殺人発生件数は379件、発生率は人口100,000人あたり17.24件で、2005年の16.33件より増加している。この人口100,000人あたり17.24件という数値は全米平均の約2.5倍にあたる。アメリカ合衆国内の他都市同様、ヒューストンはギャングがらみの犯罪にも直面している。1996年現在、ヒューストンには380のギャングが存在し、少年2,500人を含む8,000人が加わっている。", + "qas": [ + { + "question": "全米の人口250,000人以上の都市の中でワースト18位の都市はどこですか。", + "id": "tr-067-12-000", + "answers": [ + { + "text": "ヒューストン", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ヒューストンの殺人発生件数は、2004年と2005年と、どっちの方が多いですか。", + "id": "tr-067-12-001", + "answers": [ + { + "text": "2005年", + "answer_start": 135, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "ヒューストンにおける2006年の殺人発生件数は何件なの?", + "id": "tr-067-12-002", + "answers": [ + { + "text": "379件", + "answer_start": 355, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ヒューストン都市圏における2006年の地域総生産(GrossAreaProduct、GAP)は3255億ドルで、オーストリア、ポーランド、サウジアラビアなどの国内総生産(GDP)を若干上回る。全世界の国の中でも、ヒューストン都市圏のGAPを上回るGDPを有する国はアメリカ合衆国自身を除いて21ヶ国しかない。主に石油や天然ガスの生産による鉱業は、ヒューストンのGAPの11%を占めるが、1985年の21%からは大幅に減っている。オイルショック後の原油価格暴落による経済停滞の教訓から、ヒューストン地域経済は石油への依存度を減らしており、その分技術サービス、保健サービス、製造業など、産業の多様化を進めている。GAPに占める鉱業の割合の減少には、そういった傾向が如実に現れていると言える。\n\nヒューストンは全米10大都市圏の中で、雇用増加率では2位、名目雇用増加数では4位である。フォーブス誌による「ビジネスやキャリアアップに良い場所」のランキングでは、ヒューストンはテキサス州内で1位、全米でも3位につけている。ヒューストンにはアメリカ合衆国外の40ヶ国の政府が国際貿易・通商機関を置き、23ヶ国の商業局・貿易協会が現在活動している。また、アメリカ合衆国外10ヶ国の銀行20行がヒューストンに支店もしくは事業所を置き、地域内の外国人コミュニティに財務補助サービスを提供している。", + "qas": [ + { + "question": "ヒューストン都市圏における2006年の地域総生産(GrossAreaProduct、GAP)はいくらでしたか。", + "id": "tr-067-13-000", + "answers": [ + { + "text": "3255億ドル", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2006年の地域総生産はヒューストンとサウジアラビアとどっちの方がもっと少なかった?", + "id": "tr-067-13-001", + "answers": [ + { + "text": "サウジアラビア", + "answer_start": 69, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "全米10大都市圏のうち、雇用増加率で2位を占めている都市はどこ?", + "id": "tr-067-13-002", + "answers": [ + { + "text": "ヒューストン", + "answer_start": 345, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "フォーブス誌による「ビジネスやキャリアアップに良い場所」のランキングで、ヒューストンはテキサス州内で何位につけられましたか。", + "id": "tr-067-13-003", + "answers": [ + { + "text": "1位", + "answer_start": 440, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "国際的にその名を知られているテキサス医療センターはヒューストンにある。テキサス医療センターは世界最大級の医療研究機関の集積地である。テキサス医療センター内の45機関すべてが非営利団体である。これらの機関は治療、予防医学、研究、教育、地域・国家・国際コミュニティの福祉と、医療とその研究に関わるあらゆる側面をカバーしている。センターには著名な病院13院をはじめ、特別機関2機関、医学校2校、看護学校4校、歯学校、公共保健学校、薬学校があり、医療・保健関連のあらゆるキャリア・パスが用意されている。テキサス医療センターはまた、ライフ・フライトと呼ばれる、救急ヘリコプター派遣のシステムが創設された地でもある。複数の機関が連携しての移植手術プログラムも開発されてきた。心臓外科の手術においては、テキサス医療センターは世界で最も術例が多い。", + "qas": [ + { + "question": "テキサス医療センターはどこにある?", + "id": "tr-067-14-000", + "answers": [ + { + "text": "ヒューストン", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "心臓外科の手術において世界で最も術例が多い医療センターはどこなの?", + "id": "tr-067-14-001", + "answers": [ + { + "text": "テキサス医療センター", + "answer_start": 344, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "イルカボーイズ", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "イルカボーイズ(英語:IrukaBoys)は、日本軍の捕虜として三重県南牟婁郡入鹿村(現・熊野市)の紀州鉱山で労働に従事したイギリス人兵士の通称。\n入鹿村に送られた捕虜の数は300人いたが、うち16人が落命した。\n紀州鉱山にやって来る前より泰緬鉄道建設で酷使されていたことから、日本に対して怒りや憎しみを抱いているメンバーが多かったが、鉱山で死亡した仲間が熊野市の住民によって弔われていることを知り、日本への再訪を望んだ。\n日英両国の民間人による草の根的な資金援助により、1992年(平成4年)10月に47年ぶりに日本を訪れ、旧友の慰霊や地域住民との交流を行った。\nイルカボーイズによる日本訪問は、戦争の記憶を忘れないことや、かつての交戦国の国民同士の和解の在り方の一例として取り扱われている。", + "qas": [ + { + "question": "イルカボーイズの最初の人数は?", + "id": "tr-068-00-000", + "answers": [ + { + "text": "300人", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "命を落としたイルカボーイズは何人でしたか?", + "id": "tr-068-00-001", + "answers": [ + { + "text": "16人", + "answer_start": 97, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "イルカボーイズは何年に日本に再来したの?", + "id": "tr-068-00-002", + "answers": [ + { + "text": "1992年", + "answer_start": 236, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "イルカボーイズが滞在していた村の名前は?", + "id": "tr-068-00-003", + "answers": [ + { + "text": "入鹿村", + "answer_start": 39, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1944年(昭和19年)6月、三重県南牟婁郡入鹿村大字板屋(現・熊野市紀和町板屋)に大阪俘虜収容所第16分所が開設された。\n当時の入鹿村には石原産業の経営する紀州鉱山があり、ここで捕虜を労働させることが目的であった。\n紀州鉱山には多くの朝鮮人労働者がおり、俘虜収容所の建物は朝鮮人労働者の寮であった「八紘寮」が転用された。\n収容所には高い塀が築かれ、歩兵第33連隊(久居)の1個分隊(10人程度)が交代で監視に当たった。", + "qas": [ + { + "question": "紀州鉱山はどこの経営下にありましたか?", + "id": "tr-068-01-000", + "answers": [ + { + "text": "石原産業", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「八紘寮」には元々誰が住んでいたの?", + "id": "tr-068-01-001", + "answers": [ + { + "text": "朝鮮人労働者", + "answer_start": 118, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "南牟婁郡入鹿村大字板屋の現在の地名は?", + "id": "tr-068-01-002", + "answers": [ + { + "text": "熊野市紀和町板屋", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "俘虜収容所に送られたのは、シンガポールの戦いで捕虜となったイギリス軍兵士300人であり、入鹿に来る前に泰緬鉄道の建設に動員されていた。\n捕虜はすでに泰緬鉄道の建設工事で酷使した身であり、ほぼ全員が栄養失調や何らかの病を抱えていた。\nさらに日本の厳しい冬が彼らの身に襲い掛かった。\nその結果、終戦までに16人が命を落とした。\n死者の大半はマラリア、ベリベリ、腸炎といった泰緬鉄道での酷使に由来する病気で死亡しており、その労働の過酷さが窺える。\nなお鉱山事故で死亡したのは3人であった。\n死亡時期について見ると、最後の死者が出たのは1945年(昭和20年)2月のことであり、同月にウィルソン医師が就任して以降は1人もいない。\nウィルソンは前任の医師の任期中にイギリス人捕虜の死亡率が高かったことを受けて交代し、医療物資の不足する中、プラセボ効果で不眠症患者を眠らせたり、万年筆のキャップの先端に穴を開けて針の代わりにし腹部にたまった水を抜いたりする治療で多くの命を救った。", + "qas": [ + { + "question": "死亡した16人のうち、鉱山事故での死亡者は何人でしたか?", + "id": "tr-068-02-000", + "answers": [ + { + "text": "3人", + "answer_start": 234, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "イギリス軍兵士300人が捕虜となったのは、どこでの戦いによってですか?", + "id": "tr-068-02-001", + "answers": [ + { + "text": "シンガポール", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イギリス軍兵士300人は何の建設工事を経て日本に送られて来たの?", + "id": "tr-068-02-002", + "answers": [ + { + "text": "泰緬鉄道", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "捕虜は鉱石の採掘や選鉱作業に従事した。\n労働環境は泰緬鉄道の頃より格段に向上し、食事の量は増え、休憩時間は長くなったと元捕虜は語っている。\nとは言え、作業場は不衛生かつ薄暗く、鉱石の粉塵が舞い散る中で防塵マスクも与えられず、現場監督が厳しく監視の目を光らせているという環境であった。\n入鹿村の村民は、収容所に野菜や菓子を差し入れ、捕虜と交流を図った。\n村民からの差し入れに感激し、通りかかった葬儀の列に敬礼をするなど、捕虜と入鹿村民との間には温かな交流があった。\nその一方で、俘虜収容所に投石する子供がいるなど、一部に心無い振る舞いをする村民がいたのも事実である。", + "qas": [ + { + "question": "収容所に差し入れをし、捕虜との交流を行ったのは誰ですか?", + "id": "tr-068-03-000", + "answers": [ + { + "text": "入鹿村の村民", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "泰緬鉄道の頃と入鹿村での労働とでは、労働環境が悪かったのはどちらですか?", + "id": "tr-068-03-001", + "answers": [ + { + "text": "泰緬鉄道の頃", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "学徒勤労動員により紀州鉱山で働いた三重県立木本中学校(現・三重県立木本高等学校)の生徒によると、捕虜は毎朝9時半に日本兵の監視誘導の下で持ち場に着き、16時半頃に収容所へ引き揚げる生活を送っていた。\nこれは学徒動員の生徒よりも前後1時間労働時間が短かった。\n捕虜と日本人が同じ作業場を割り当てられることもあり、片言の英語と日本語でコミュニケーションをとることができた。\n捕虜からチョコレートをもらった日本人もおり、捕虜が火葬されるたびに手を合わせたという。\n日本人が見た捕虜の印象は、勤勉で明るかったといい、シンガポールの戦いを経験していたため、山下奉文の名をよく知っていた。", + "qas": [ + { + "question": "捕虜がよく知っていた日本人とは誰ですか?", + "id": "tr-068-04-000", + "answers": [ + { + "text": "山下奉文", + "answer_start": 273, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "捕虜の勤務時間開始は朝の何時でしたか?", + "id": "tr-068-04-001", + "answers": [ + { + "text": "9時半", + "answer_start": 53, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "捕虜の終了勤務時間は何時でしたか?", + "id": "tr-068-04-002", + "answers": [ + { + "text": "16時半頃", + "answer_start": 75, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "紀州鉱山で働いていたのはどこの学校の生徒でしたか?", + "id": "tr-068-04-003", + "answers": [ + { + "text": "三重県立木本中学校", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1945年(昭和20年)8月15日、終戦を迎えた俘虜収容所にはイギリス軍兵士の歓喜の声が満ち、ある者は祝杯を上げ、またある者は近くの学校でピアノを奏でた。\nしかしすぐさま帰国できたわけではなく、元捕虜は3週間ほど入鹿に滞在した。\n自由の身となった兵士らは村人との交流も自由となり、学校で子供たちとサッカーに興じたり、収容所でコンサートを開いて村人を楽しませたりした。\nイギリス人隊長は、戦中の野菜提供のお礼として、入鹿村民に作業服の寄贈を申し出た。\n帰国直前には「一緒にイギリスへ行って仕事をするか?」と冗談交じりに日本人に声をかける兵士も現れるなど、深い友好関係が築かれていた。\n9月8日、生き残った捕虜は13台のトラックに分乗して「さようなら」という日本語を繰り返しながら入鹿村を離れ、故国へ戻った。\n沿道では村人がずらりと並び、口々に別れの言葉を贈った。", + "qas": [ + { + "question": "終戦後、元捕虜が村に滞在した期間はどれくらいでしたか?", + "id": "tr-068-05-000", + "answers": [ + { + "text": "3週間ほど", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "元捕虜が村から退去したのはいつ?", + "id": "tr-068-05-001", + "answers": [ + { + "text": "9月8日", + "answer_start": 291, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "イギリス人隊長は村に何の寄贈を申し出ましたか?", + "id": "tr-068-05-002", + "answers": [ + { + "text": "作業服", + "answer_start": 212, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "元捕虜は何台のトラックに乗って帰路につきましたか?", + "id": "tr-068-05-003", + "answers": [ + { + "text": "13台", + "answer_start": 304, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "一方、死亡した16人は「外人墓地」に葬られた。\nこの墓地は1946年(昭和21年)初頭までに石原産業が建立したもので、当初は遺骨が埋葬されていたが、1948年(昭和23年)頃に連合軍の墓地捜索班が英連邦戦死者墓地(神奈川県横浜市)へ遺骨を移したので、厳密には「墓地」ではなくなった。\n墓地の管理は当初、個人が行っていたが、1958年(昭和33年)頃に地元の老人クラブの活動となった。\n帰国した元捕虜らは、戦友会で時折集まっていたが、死亡した戦友が日本で墓地に葬られ、丁重に弔われていることを知ることなく、日本への怒りと憎しみを抱いたまま生き続けていた。\nそうした苦悩を家族にすら話さず、1人で抱え込む元捕虜も多かった。\n一方、紀和町では1965年(昭和40年)2月1日に「外人墓地」を町の文化財(史跡)に指定した。", + "qas": [ + { + "question": "死亡した捕虜が葬られた墓地の名前は?", + "id": "tr-068-06-000", + "answers": [ + { + "text": "「外人墓地」", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「外人墓地」はどこの町の文化財に指定されましたか?", + "id": "tr-068-06-001", + "answers": [ + { + "text": "紀和町", + "answer_start": 313, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「外人墓地」の遺骨はどこの墓地に移されましたか?", + "id": "tr-068-06-002", + "answers": [ + { + "text": "英連邦戦死者墓地", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "事態が変わらぬまま時は流れ、1987年(昭和62年)に墓地が移設された。\n1988年(昭和63年)、紀和町へ帰省した日系イギリス人の恵子ホームズはこの新しくなった墓地の存在と住民による弔いの活動を知って感銘を受け、このことを遺族や元捕虜に伝えたいという思いを抱いてイギリスに帰国した。\nしかしホームズは遺族や元捕虜につながる人脈がなく、伝える術はなかった。\nしかし偶然にも、和歌山県新宮市の宣教師ビード・クリアリーが、東京から訪ねてきた友人のシリル・マーフィー神父を墓地へ連れて行き、これに感動したマーフィーはカトリック系の雑誌『極東』に「小さな英国」(ALittleBritain)と題して寄稿した。\n『極東』の読者に、入鹿で労働に従事した元捕虜のジョー・カミングスがおり、カミングスはマーフィーに手紙を送った。\nマーフィーはクリアリーにカミングスからの手紙のコピーを送り、コピーは新宮のクリスチャンから紀和町のホームズの母へ届き、ホームズまでたどり着いた。\nこれを契機としてホームズはカミングスと文通をするようになり、他の元兵士とも交流が始まった。", + "qas": [ + { + "question": "「外人墓地」と住民のことが寄稿された雑誌名は何?", + "id": "tr-068-07-000", + "answers": [ + { + "text": "『極東』", + "answer_start": 264, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "「小さな英国」の寄稿者は誰?", + "id": "tr-068-07-001", + "answers": [ + { + "text": "シリル・マーフィー", + "answer_start": 221, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "「小さな英国」を読んだ元捕虜の名は?", + "id": "tr-068-07-002", + "answers": [ + { + "text": "ジョー・カミングス", + "answer_start": 325, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "さらにホームズは小冊子『ALITTLEBRITAIN片隅に咲く小さな英国』を作成し、極東捕虜協会のロンドン戦友会に出席して墓地の存在を伝える活動を開始した。\n当初、突然日本人が乗り込んできたことに嫌な顔をする出席者もいたが、ホームズの話を聞いているうちに「日本に行けば自分の中で続いている日本との戦争を終わらせることができるのではないか」、「戦友の墓を守ってくれている日本人にお礼を言いたい」と思う人が増えていき、日本訪問を望むようになっていった。\n冷え固まった心を溶かしたのは、ホームズによる熱心な活動に加え、捕虜時代に村人と交流した温かな記憶があった。\nそして来日を前に、元捕虜らは「イルカボーイズ」と自称するようになった。", + "qas": [ + { + "question": "『ALITTLEBRITAIN片隅に咲く小さな英国』の作成者は誰?", + "id": "tr-068-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ホームズ", + "answer_start": 3, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ホームズが墓地の存在を伝えるために出席した会とは?", + "id": "tr-068-08-001", + "answers": [ + { + "text": "ロンドン戦友会", + "answer_start": 49, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "イルカボーイズの訪日希望を受けて、ホームズはイギリスのライオンズクラブに協力を要請し、援助を取り付けた。\nインペリアル・カレッジ・ロンドンに留学中であった三重大学医学部教員の松岡裕之はこのことを知って、高齢のイルカボーイズに医師兼通訳として同行することを自ら申し出た。\n日本側では旧制木本中学校の卒業生らが、イルカボーイズの来日資金のカンパを募って支援した。\n木本中の卒業生は学徒動員の際にイルカボーイズと交流していたことから、彼らの滞在費を用意してもてなそうと墓参実行委員会を立ち上げたのであった。\n委員会の目標は125万円であったが、日本中にイルカボーイズのことが知れ渡った結果、約1000万円をあつめることができた。", + "qas": [ + { + "question": "イルカボーイズの医師兼通訳として同行することを申し出た人は誰?", + "id": "tr-068-09-000", + "answers": [ + { + "text": "松岡裕之", + "answer_start": 87, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イルカボーイズの来日資金はいくら集められましたか?", + "id": "tr-068-09-001", + "answers": [ + { + "text": "約1000万円", + "answer_start": 292, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1992年(平成4年)10月8日、イルカボーイズ一行26人(家族を含む)は大雨の中、47年ぶりに入鹿の地に降り立った。\n来日したばかりのイルカボーイズは、心身の深い傷を抱えたままどこか頑(かたく)なな姿勢を崩しておらず、入鹿へ向かう列車の中で「決して忘れることはできないけれど、許すことはできる」と通訳に語っていた。\nしかし熊野市駅から入鹿に至る道中で日本人から歓迎を受け、表情が和らいでいった。\n一行は湯ノ口温泉の瀞流荘に宿泊し、捕虜だった頃にイルカボーイズの通訳を務めた日本人男性と再会し、旧交を温める場面があった。\n翌10月9日は快晴の空の下、慰霊祭が開かれ、イルカボーイズのほか、実行委員、紀和町民、紀和町役場関係者、墓を維持してきた老人クラブの面々、駐日英国大使館付きの武官、大勢の報道陣が参列し、総勢約300人となった。\n慰霊祭は日本語と英語を交互に用いながら、しめやかに営まれた。\nイルカボーイズは70歳前後のおじいさんになっていたが、元気かつ陽気��振る舞い、昔覚えたテンコ(点呼)、サギョウ(作業)、コラ、チョットマテなどの日本語を冗談めかして使い、笑い合っていた。\n慰霊祭翌日の10月10日(体育の日)には入鹿中学校で開かれた町民運動会に出場し、「幼児・イルカボーイズ連合チーム」として紀和町の「お年寄りチーム」と玉入れで対決し、59対31でイルカボーイズらが勝利した。\n同日、入鹿を出発し、鳥羽や京都を観光して10月15日にイギリスへ帰国した。", + "qas": [ + { + "question": "イルカボーイズは何年ぶりに入鹿の地に立ちましたか?", + "id": "tr-068-10-000", + "answers": [ + { + "text": "47年ぶり", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "慰霊祭に参加した人数は何人でしたか?", + "id": "tr-068-10-001", + "answers": [ + { + "text": "約300人", + "answer_start": 356, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "イルカボーイズの慰霊祭からちょうど1年後の1993年(平成5年)10月9日、再び慰霊祭が行われた。\nこの慰霊祭にはイルカボーイズの一員ながら日本再訪前に逝去した人物の息子が参列した。\n慰霊祭では墓地の一角に建てた「イルカボーイズ墓参記念碑」の除幕式も併せて行われ、これをもって「イルカボーイズ来日墓参委員会ジャパン」は解散した。\n宗教観や戦争に対する認識の相違もあり、慰霊祭もこれにて終了となる予定であったが、三重県立紀南高等学校の同窓会長とPTA会長を兼務していた戸地功が同校の異文化教育や地域振興に生かそうと紀南国際交流会を立ち上げて継承した。", + "qas": [ + { + "question": "慰霊祭を継承させた人は誰?", + "id": "tr-068-11-000", + "answers": [ + { + "text": "戸地功", + "answer_start": 233, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "紀南国際交流会を立ち上げた人は誰?", + "id": "tr-068-11-001", + "answers": [ + { + "text": "戸地功", + "answer_start": 233, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1994年(平成6年)に開かれた極東捕虜協会全国大会(ブラックプール)では、ほとんどの元捕虜がイルカボーイズの日本訪問を知っており、反日運動の急先鋒に立っていた人物さえ感情の変化が現れていた。\nイルカボーイズは1995年(平成7年)11月にも21人(家族含む)が来日し、慰霊や地域住民との交流を行った。\nイルカボーイズの1人は、「入鹿では嫌な思い出は1つもない」と話した。\nこうした一連の流れによるイルカボーイズと入鹿の住民との「和解」(reconciliation)が成立した理由として、ミドルトンとブラウンは、慰霊の場が「発見」されメディアで取り上げられたという物語に加えて、入鹿の住民が墓を移動して新しく建て直し、亡くなった兵士を忘れないでいたことがあると指摘した。", + "qas": [ + { + "question": "1995年に来日したイルカボーイズと関係者は何人でしたか?", + "id": "tr-068-12-000", + "answers": [ + { + "text": "21人", + "answer_start": 121, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "イルカボーイズの2度の来日以降も、紀和町の住民とイルカボーイズとの交流は継続している。\n恵子ホームズはイルカボーイズの訪日墓参を契機に、遺族やイルカボーイズと日本やタイなどを巡る活動を開始し、それに「アガペ」と名付けた。\nアガペの活動はイルカボーイズらの「心の癒しと和解」をもたらし、日英交流に貢献したとして1998年(平成10年)にエリザベス女王から「大英第四級勲功章」(OBE)を授与された。\n授与の際、女王は「苦労を掛けたわね。ありがとう」と声をかけた。\n1999年(平成11年)には日本からも外務大臣賞を授与された。\nアガペはその後、オランダ、オーストラリア、ニュージーランドなど太平洋戦争に関わった各国へ活動地域を拡大し、平和活動を継続している。\n慰霊祭を継続開催してきた紀南国際交流会の戸地功理事長も、2013年(平成25年)に大英帝国勲章第五位(MBE)を受章した。\n紀南国際交流会では慰霊祭のほか、紀南高校の生徒をオーストラリアに派遣し、日本人捕虜の墓や現地の高校を訪問させるなどの活動も行っている。", + "qas": [ + { + "question": "アガペの活動が英国で授与されたものとは何?", + "id": "tr-068-13-000", + "answers": [ + { + "text": "「大英第四級勲功章」", + "answer_start": 176, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "アガペの活動は日本で何を授与されたの?", + "id": "tr-068-13-001", + "answers": [ + { + "text": "外務大臣賞", + "answer_start": 250, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アガペの活動は外務大臣賞と「大英第四級勲功章」のどちらを先に授与したの?", + "id": "tr-068-13-002", + "answers": [ + { + "text": "「大英第四級勲功章」", + "answer_start": 176, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "イルカボーイズの一員として入鹿を訪れたジミー・ウォーカー(1917-2005)は、入鹿の住民が記念碑(墓地)を建て維持することで、かつての同志を弔っているという事実に感銘を受け、捕虜時代の経験を綴った自伝\"OfRiceAndMen\"を出版した。\nこの本は松岡典子の翻訳により『戦争捕虜291号の回想タイメン鉄道から南紀イルカへ』の題で三重大学出版会から日本語訳が出版されている。\n慰霊祭にはイルカボーイズ以外の日本軍の捕虜となっていた元兵士も含めて、毎年イギリスからの参列者があり、2003年(平成15年)までに300人以上が訪れた。", + "qas": [ + { + "question": "『戦争捕虜291号の回想タイメン鉄道から南紀イルカへ』の原作者は誰?", + "id": "tr-068-14-000", + "answers": [ + { + "text": "ジミー・ウォーカー", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "\"OfRiceAndMen\"を日本語訳した人は誰?", + "id": "tr-068-14-001", + "answers": [ + { + "text": "松岡典子", + "answer_start": 127, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "英国人墓地は、1946年(昭和21年)初頭までに石原産業が建立したもので、設立当時の墓地は1987年(昭和62年)以降の墓地よりも少し南にあった。\n俘虜収容所があった頃の戦争遺跡は現存しておらず、関連する数少ない史跡である。\n一般に、紀州鉱山に連行されたイギリス人捕虜のうち、終戦までに死亡した16人が眠ると説明されているが、16人の遺骨は1948年(昭和23年)頃に横浜市の英連邦戦死者墓地へ移されたので、厳密には墓地ではない。\n墓の横にある碑には「英国人としての誇りと教養をもち、生活ぶりは紳士的であった」と亡くなった兵士を讃える言葉が刻まれている。\n英国人墓地という名称は2005年(平成17年)以降の熊野市の文化財(史跡)としての名称であり、旧文化財名の「外人墓地」も使用されている。\n恵子ホームズ率いるアガペの関係者の間では、LITTLEBRITAINの名が使われている。\n墓地にはイギリスの国旗を掲げ、老人クラブでは定期的に花を供え、草を取り、掃除をして墓地を維持している。\nまた毎年、慰霊祭を開いており、熊野市は「供養経費」として1万円を支出している。\n墓地から国道311号を東へ500mほど進むと、熊野市紀和鉱山資料館がある。\nここでは鉱山の歴史に関する展示があり、イギリス人捕虜に関してパネルやビデオを用いて展示している。", + "qas": [ + { + "question": "英国人墓地はアガペ関係者の間では何という名で使われていますか?", + "id": "tr-068-15-000", + "answers": [ + { + "text": "LITTLEBRITAIN", + "answer_start": 368, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アガペの中心人物は誰?", + "id": "tr-068-15-001", + "answers": [ + { + "text": "恵子ホームズ", + "answer_start": 347, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "入鹿で亡くなった兵士の最初の墓は、生き残った兵士たちが1945年(昭和20年)にイギリスに帰国するまでの間に築いたもので、木製の十字架と被葬者の名を刻んだ銘板だけの小さな墓だった。\n石原産業による墓地の建立は、純粋な慰霊目的ではなく、社長の石原広一郎がA級戦犯の容疑で逮捕されたことを受け、捕虜の取り扱いの犯罪性を緩和するために急造したという説がある。\n初期には個人が管理していたが、1958年(昭和33年)頃より地元の老人クラブが活動の一環として管理するようになった。\n1965年(昭和40年)に紀和町指定史跡となるが、その理由は資料が残っておらず、不明である。", + "qas": [ + { + "question": "石原産業の社長の名前は?", + "id": "tr-068-16-000", + "answers": [ + { + "text": "石原広一郎", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "1987年(昭和62年)には、元の墓地が採石場に近く汚れやすいことなどを理由に、石原産業が用意した土地へ移設された。\nこの時、紀和町民はお金を出し合い、クリスチャンがほとんどいない土地柄ながら、死亡したイギリス人に畏敬の念を示し、キリスト教式の墓を立てた。\n新しい墓地は中央に銅製の十字架を建て、その両側に石製の記念碑を配したものとなった。\nまた墓地と土地が石原産業から紀和町へ寄贈された。\n2005年(平成17年)に熊野市文化財専門委員会は、史跡の名称「外人墓地」が差別用語にあたり好ましくないとの判断から、「英国人墓地」に変更した。\n2014年(平成26年)6月には、墓地の周囲をレンガで舗装し、ブロック塀を白く塗り直す工事が行われた。", + "qas": [ + { + "question": "「外人墓地」は何に名前を改めましたか?", + "id": "tr-068-17-000", + "answers": [ + { + "text": "「英国人墓地」", + "answer_start": 255, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "「英国人墓地」と変更になったのは何年?", + "id": "tr-068-17-001", + "answers": [ + { + "text": "2005年", + "answer_start": 196, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「英国人墓地」と変更した組織とは?", + "id": "tr-068-17-002", + "answers": [ + { + "text": "熊野市文化財専門委員会", + "answer_start": 209, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "グリゴリー・ラスプーチン", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "グリゴリー・ラスプーチンは1869年1月9日、シベリアの寒村ポクロフスコエ村の農夫エフィム・ヤコブレヴィチ・ラスプーチンとその妻アンナ・パルシュコヴァの第5子として生まれる。翌10日に洗礼を受け、ニュッサのグレゴリオスから名前を授けられ、「グリゴリー」と名付けられた。ラスプーチンは学校に通わなかったため読み書きが出来なかった(1897年のロシア政府の国勢調査によると、村人の大半が同様に読み書きが出来なかった)。素行不良で粗暴な若者へ育ったグレゴリー青年はロシア正教会古儀式派のスコブツィ教派の教義に傾倒、指導者としての頭角を表す。幼少期のラスプーチンについて、娘のマリア・ラスプーチナが記録を残しているが、彼女の記録は信頼性が低いと見なされている。\n\n1887年にプラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚するが、1892年、唐突に父親や妻に「巡礼に出る」と言い残して村を出奔した。一説では、野良仕事をしているとき生神女マリヤの啓示を受けたといわれている。出奔後はヴェルコチュヤの修道院で数か月過ごしたが、その際に出会ったミハイル・ポリカロポフに強い影響を受け禁酒し肉食を控えるようになり、村に戻って来た時には熱心な修行僧になっていた。", + "qas": [ + { + "question": "グリゴリー・ラスプーチンはいつ生まれたの?", + "id": "tr-069-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1869年1月9日", + "answer_start": 13, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "エフィム・ヤコブレヴィチ・ラスプーチンの妻は誰?", + "id": "tr-069-00-001", + "answers": [ + { + "text": "アンナ・パルシュコヴァ", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "グリゴリー・ラスプーチンは何年にプラスコヴィア・フョードロヴナ・ドゥブロヴィナと結婚したの?", + "id": "tr-069-00-002", + "answers": [ + { + "text": "1887年", + "answer_start": 328, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "1892年、グリゴリー・ラスプーチンが「巡礼に出る」と言い残して村を出奔したことに対して、彼が誰の啓示を受けたとも言われていますか。", + "id": "tr-069-00-003", + "answers": [ + { + "text": "生神女マリヤ", + "answer_start": 414, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "グリゴリー・ラスプーチンは1903年に再び村を離れ数か月間巡礼の旅に出かけキエフ・ペチェールシク大修道院を巡り、カザンでは主教や上流階級の人々の注目を集める存在となった。ラスプーチンは十分な教育を受けていないため、独自の解釈で聖書を理解していたが、その熱心な姿勢が好感を与えていた。その後、ラスプーチンはクロンシュタットのイオアンと共に教会建設の寄付金を集めるためにサンクトペテルブルクを訪れ、サンクトペテルブルク神学校のセルギウス1世に寄付を求めた。サンクトペテルブルク滞在中のラスプーチンはアレクサンドル・ネフスキー大修道院に宿泊していたが、彼の心理的洞察力に感銘を受けたワシーリー・ビストロフに請われ、彼の宿舎に移り住む。\n\nロマノフ家の語学教師だったピエール・ジリヤールによると、ラスプーチンがサンクトペテルブルクに来たのは1905年とされるが、歴史家のヘレン・ラパポートは1903年の四旬節の頃と主張している他、1904年という説もある。", + "qas": [ + { + "question": "ロマノフ家の語学教師だったピエール・ジリヤールはラスプーチンがサンクトペテルブルクに来たのは何年だと主張していますか。", + "id": "tr-069-01-000", + "answers": [ + { + "text": "1905年", + "answer_start": 366, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "歴史家のヘレン・ラパポートはラスプーチンがいつ頃サンクトペテルブルクに来たと主張しましたか。", + "id": "tr-069-01-001", + "answers": [ + { + "text": "1903年の四旬節の頃", + "answer_start": 391, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "サンクトペテルブルクに出たラスプーチンは、人々に病気治療を施して信者を増やし「神の人」と称されるようになり、神秘主義に傾倒するミリツァ大公妃とアナスタシア大公妃の姉妹から寵愛を受けるようになり、1905年11月1日に大公妃姉妹の紹介でロシア皇帝ニコライ2世とアレクサンドラ皇后に謁見した。当時のロシア貴族の間では神秘主義が広く浸透しており、アレクサンドラも神秘主義に傾倒していた。\n\n1906年10月、ニコライ2世の要請を受け、爆弾テロにより負傷したピョートル・ストルイピンの娘の治癒に当たり、1907年4月にはエカテリーナ宮殿に呼び出され、血友病患者であったアレクセイ皇太子の治癒に当たった。医師たちはラスプーチンの能力に懐疑的だったが、彼が祈祷を捧げると、翌日にはアレクセイの発作が治まって症状が改善した。ギラードと歴史家エレーヌ・カレール=ダンコース、ジャーナリストのディアムルド・ジェフリーズは、ラスプーチンの治療法は1899年以降流通したアスピリンの投与による鎮痛治療だったと推測している。", + "qas": [ + { + "question": "ギラードと歴史家エレーヌ・カレール=ダンコース、ジャーナリストのディアムルド・ジェフリーズは、ラスプーチンの治療法は何を用いた鎮痛治療だったと推測していますか。", + "id": "tr-069-02-000", + "answers": [ + { + "text": "アスピリン", + "answer_start": 424, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ラスプーチンは誰の要請を受け、爆弾テロにより負傷したピョートル・ストルイピンの娘の治癒に当たったか。", + "id": "tr-069-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ニコライ2世", + "answer_start": 201, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ラスプーチンはいつエカテリーナ宮殿に呼び出され、血友病患者であったアレクセイ皇太子の治癒に当たったか。", + "id": "tr-069-02-002", + "answers": [ + { + "text": "1907年4月", + "answer_start": 247, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アスピリンの投与による鎮痛治療はいつから流通し始めたか。", + "id": "tr-069-02-003", + "answers": [ + { + "text": "1899年以降", + "answer_start": 413, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "血友病を治癒したことで、ラスプーチンは皇帝夫妻から絶大な信頼を勝ち取り、「我らの友」「聖なる男」と呼ばれるようになったが、多くの人々はラスプーチンをペテン師だと考えていた。侍医のエフゲニー・ボトキンとウラジーミル・デレヴェンコはラスプーチンの能力は催眠術だと信じており彼を皇帝一家から遠ざけようとし、フェリックス・ユスポフはピョートル・バドマエフから入手したチベット・ハーブでアレクセイを薬漬けにしたと考えていた。しかし、ラスプーチンは1913年以前には催眠術に興味を抱いておらず、また、ユスポフの主張も現在では否定されている。\n\n1912年10月9日、皇帝一家はビャウォヴィエジャの森に狩猟に来ていたが、そこでアレクセイの病状が悪化した。皇帝一家はスピアに移り治療を行い、アレクサンドラはペテルブルクにいるラスプーチンに助言を求めた。翌10日、ラスプーチンは「小さな子が死ぬことはありません。しかし、私が治療するのを侍医たちが許さないでしょう」と記した手紙を送っている。ラスプーチンの助言通りにアレクセイは死ぬことはなかったが、病状が回復するのは1913年に入ってからだった。", + "qas": [ + { + "question": "皇帝夫妻はラスプーチンのことを「我らの友」「聖なる男」と呼んだことに対して、多くの人々は彼を何だと考えていたか。", + "id": "tr-069-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ペテン師", + "answer_start": 74, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アレクセイの病状が回復したのは何年に入ってからですか。", + "id": "tr-069-03-001", + "answers": [ + { + "text": "1913年", + "answer_start": 474, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "やがてラスプーチンはアレクサンドラはじめ宮中の貴婦人や、宮廷貴族の子女から熱烈な信仰を集めるようになる。彼が女性たちの盲目的支持を得たのは、彼の巨根と超人的な精力によるという噂が当時から流布しており、実際に彼の生活を内偵した秘密警察の捜査員が呆れ果て、上司への報告書に「醜態の限りをきわめた、淫乱な生活」と記載するほどであった。しかし、貴族たちは次第にラスプーチンが皇帝夫妻に容易に謁見できることに対して嫉妬心を抱くようになった。サンクトペテルブルクではアパート5部屋を借りて家族と共に暮らしていたが、家賃はアレクサンドラ又は信者のアレクサンドル・タネエフが代わりに支払っていた。\n\n1907年9月にトボリスクで開かれた教会裁判において、ラスプーチンはフリスト派を信仰しており、偽の教義を広め女性信者とキスや混浴をしたとして非難された。しかし、地元の司祭たちがラスプーチンを連れ出そうとした時には、既に彼はトボリスクを離れており、フリスト派との関係を示す証拠も発見されなかった。このような醜態は新聞によって大々的に報道され、ラスプーチンの理解者だったビストロフも彼から離れ、ストルイピンも帝都からの追放を画策していた。", + "qas": [ + { + "question": "ラスプーチンはフリスト派を信仰しており、偽の教義を広め女性信者とキスや混浴をしたとして非難した教会裁判はいつ開かれたか。", + "id": "tr-069-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1907年9月", + "answer_start": 292, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ラスプーチンはフリスト派を信仰しており、偽の教義を広め女性信者とキスや混浴をしたとして非難した教会裁判はどこで開かれたか。", + "id": "tr-069-04-001", + "answers": [ + { + "text": "トボリスク", + "answer_start": 300, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ラスプーチンが家族と共に暮らしていたサンクトペテルブルクのアパート5部屋の家賃は誰が代わりに支払っていたの?", + "id": "tr-069-04-002", + "answers": [ + { + "text": "アレクサンドラ又は信者のアレクサンドル・タネエフ", + "answer_start": 254, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1912年初頭、ゲオルギー・ドルガニョフはラスプーチンがフリスト派の儀式に参加したと主張した。ラスプーチンがフリスト派の儀式に参加したことは事実と見られているが、言動にフリスト派の影響を受けたと思われる点は確認されていない。また、この時期には「ラスプーチンとアレクサンドラが愛人関係にある」という噂も流れた。噂に基きミハイル・ロジャンコはラスプーチンに帝都から出て行くように要求した他、首相ウラジーミル・ココツェフはラスプーチンを「亡命」させるようにニコライ2世に進言したが、拒否されている。トボリスク司教はラスプーチンを「皇室とロシア正教会の仲介者」と好意的に見ていたが、大半の司教たちは反感を抱いており、聖務会院はラスプーチンを「不道徳者」「異端者」「エロトマニア」などと非難した。この頃、ラスプーチンはロシアで最も嫌われる人物の一人となっていた。\n\nラスプーチンの言動はドゥーマでも問題視され、1913年3月にアレクサンドル・グチコフ率いる10月17日同盟がラスプーチンの調査を行うことになった。しかし、トボリスク司教は調査への協力を拒否した他、ニコライ2世もラスプーチンの身を案じて調査の中止を命令した。1914年1月29日、ニコライ2世はココツェフを解任し、イワン・ゴレムイキンとピョートル・バルクを後任の首相・大蔵大臣に任命した。", + "qas": [ + { + "question": "1912年初頭、ゲオルギー・ドルガニョフはラスプーチンが何に参加したの主張したか。", + "id": "tr-069-05-000", + "answers": [ + { + "text": "フリスト派の儀式", + "answer_start": 28, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ニコライ2世がココツェフを解任し、イワン・ゴレムイキンとピョートル・バルクを後任の首相・大蔵大臣に任命したのはいつですか。", + "id": "tr-069-05-001", + "answers": [ + { + "text": "1914年1月29日", + "answer_start": 506, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アレクサンドル・グチコフ率いる10月17日同盟がラスプーチンの調査を行うことになったのはいつですか。", + "id": "tr-069-05-002", + "answers": [ + { + "text": "1913年3月", + "answer_start": 400, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "当時、10月17日同盟を率いていたのは誰ですか。", + "id": "tr-069-05-003", + "answers": [ + { + "text": "アレクサンドル・グチコフ", + "answer_start": 408, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1914年6月29日午後3時、ポクロフスコエ村に帰郷していたラスプーチンは自宅でキオーニャ・グセヴァに襲われた。キオーニャは顔を黒いハンカチで覆い、短剣でラスプーチンを殺そうとした。ラスプーチンは腹部を刺され自宅から飛び出し、地面に落ちていた棒で反撃した。ラスプーチンは近隣から医師が来るまで自宅に留まり、翌30日午前0時に医師が到着し治療を受けた。\n\n4日後、ラスプーチンは妻子に伴われて船でチュメニの病院に移送された。知らせを聞いたニコライ2世は直ちにチュメニに医師団を派遣し手術を受けさせた。7週間後の8月17日、回復したラスプーチンは退院し、9月中旬にペトログラードに到着した。娘マリアによると、ラスプーチンは暗殺未遂の主犯は彼を批判していたセルゲイ・トルファノフとウラジーミル・ドズコフスキーだと信じていたという。しかし、トルファノフはキオーニャからラスプーチンの暗殺を進言された際に拒否していた。\n\n10月12日、トルファノフは殺人扇動の罪で告発されたが、検察官は非公開の理由で起訴を取り下げた。また、キオーニャは異常者としてトムスクの精神病院に収容されたため、裁かれることはなかった。この事件を最後にラスプーチンを公然と批判する勢力はいなくなった。ストルイピンは既に暗殺され、ココツェフは失脚、ビストロフとドルガニョフは追放され、トルファノフも逮捕を免れるためマクシム・ゴーリキーの助けを借りて逃亡していた。", + "qas": [ + { + "question": "ポクロフスコエ村に帰郷していたラスプーチンが自宅でキオーニャ・グセヴァに襲われたのはいつですか。", + "id": "tr-069-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1914年6月29日午後3時", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "自宅でキオーニャ・グセヴァに襲われたラスプーチンは何日後チュメニの病院に移送されたか。", + "id": "tr-069-06-001", + "answers": [ + { + "text": "4日後", + "answer_start": 177, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "トルファノフは何月何日に殺人扇動の罪で告発されたか。", + "id": "tr-069-06-002", + "answers": [ + { + "text": "10月12", + "answer_start": 406, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "自宅でキオーニャ・グセヴァに襲われたラスプーチンはいつ回復して退院したの?", + "id": "tr-069-06-003", + "answers": [ + { + "text": "8月17日", + "answer_start": 254, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "1914年10月、警視総監ステパン・ペトロヴィチ・ベレトスキーはラスプーチンを24時間体制で監視するように命令した。監視役は二人組で、内一人は注意を引き付ける囮役だった。1915年1月にロシア帝国内務省警察部警備局はラスプーチンの私生活に関する報告書を作成し、ニコライ2世に提出した。ニコライ2世は一日かけて報告書を読み、報告書はラスプーチンの敵である警察の捏造だと判断した。\n\n1915年3月25日、ラスプーチンは警護と共にモスクワを訪れ、翌26日の夜に泥酔状態で、ヤール・レストラン前にいたジプシーの女性歌手グループの前でズボンを下ろし男性器を露出したという。しかし、娘マリアによるとラスプーチンは暗殺未遂事件以降、土地勘のない場所に行くことを怖がるようになったため、夜に出歩くことはないと主張している。また、警察もレストランの従業員や歌手たちに話を聞くこともなく、信頼性に欠ける報告書を6月に提出した。\n\n現在では、この事件はラスプーチンの評判を貶めるためにドズコフスキーが捏造したものだとされている。後年、ドズコフスキーとベレトスキーは、ラスプーチンがヤール・レストランを訪れた事実はないと認めている。", + "qas": [ + { + "question": "警視総監ステパン・ペトロヴィチ・ベレトスキーがラスプーチンを24時間体制で監視するように命令したのはいつですか。", + "id": "tr-069-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1914年10月", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "パーヴェル・ミリュコーフによると、ラスプーチンが政治に影響力を持つようになったのは1914年5月頃からだという。1913年、バルカン同盟諸国は第一次バルカン戦争で獲得した領土の分配を巡って反目し合い第二次バルカン戦争を引き起こした。ニコライ2世は友邦であるバルカン諸国の分裂を避けるため仲介を試みるが、この際にラスプーチンは仲介に反対した。これにより、汎スラヴ主義を信奉するニコライ大公、ピョートル大公と、その妻であり自身の支持者でもあったミリツァ、アナスタシア大公妃姉妹と敵対することになった。一方で、第一次世界大戦直前にはドイツ帝国との戦争に反対し、「戦争を避けるためならば、どんな努力も惜しみません」と懇願している。ラスプーチンは、暗殺未遂事件で受けた怪我の治療のため滞在していたチュメニから何度も電報を打ち、「戦争が始まれば、ロマノフ家とロシアの君主制は崩壊してしまう」と国の将来に対する不安を吐露している。しかし、ラスプーチンの請願は受け入れられず、ニコライ2世は7月31日にロシア軍総動員令を布告しドイツ軍との戦端を開いた。\n\n当初、戦争は「クリスマスまでには終わる」と言われていたが、戦争は長期化し、東部戦線では150万人以上のロシア兵が戦死した。ロシア国内では食糧の不足と価格が高騰するが、人々は「ドイツのスパイによる陰謀」として反独感情が高まり、1915年5月26日には外国人が経営する店が襲われている。また、ドイツ出身のアレクサンドラ皇后を非難する人々も現れ始めた。8月、ドイツ軍がワルシャワを占領しロシアの大撤退が行われると深刻な弾薬・兵器不足に陥り、政界では政争により軍事大臣ウラジーミル・スホムリノフが失脚するなど国内は混乱した。", + "qas": [ + { + "question": "パーヴェル・ミリュコーフは、ラスプーチンが政治に影響力を持つようになったのはいつ頃だと主張しましたか。", + "id": "tr-069-08-000", + "answers": [ + { + "text": "1914年5月頃", + "answer_start": 41, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ニコライ2世は何月何日にロシア軍総動員令を布告しドイツ軍との戦端を開いたか。", + "id": "tr-069-08-001", + "answers": [ + { + "text": "7月31日", + "answer_start": 437, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "11月10日、議院内閣制の推進を図るアレクサンドル・トレポフが首相に就任し、アレクサンドラの後ろ盾を得ていた内務大臣アレクサンドル・プロトポポフの留任を拒否した。アレクサンドラはトレポフと共にスタフカに赴き、プロトポポフを留任させるように懇願し、ラスプーチンもアレクサンドラを支援するため5通の電報をスタフカに送った。これに対し、トレポフは辞任を示唆して抵抗した。11月31日、ドイツ首相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークがロシアとの和平交渉を模索し始めた。これに対し、外務大臣ニコライ・ポクロフスキーはドゥーマで演説し、和平交渉を行うつもりがないことを宣言し、ドゥーマもこれを支持しモルダヴィアへの増派を決定した。", + "qas": [ + { + "question": "アレクサンドル・トレポフが首相に就任したのは何月のことですか。", + "id": "tr-069-09-000", + "answers": [ + { + "text": "11月10日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1916年12月17日、ラスプーチンはユスポフ一派によって暗殺された。しかし、暗殺犯がロシア有数の大貴族だったユスポフや皇族のドミトリー大公だったため、警察は満足な捜査を行うことが出来ず、ユスポフに拒否され暗殺現場であるモイカ宮殿に立ち入ることすら出来なかった。さらに、ソビエト連邦成立後���捜査資料の大半が破棄もしくは消失したためラスプーチン暗殺の詳細は不明な点が多く、様々な逸話が残されている。", + "qas": [ + { + "question": "ラスプーチンが殺されたのはいつなの?", + "id": "tr-069-10-000", + "answers": [ + { + "text": "1916年12月17日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ラスプーチンは何派の人々によって暗殺されたの?", + "id": "tr-069-10-001", + "answers": [ + { + "text": "ユスポフ一派", + "answer_start": 19, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ラスプーチン暗殺決行の数日前、ユスポフはモイカ宮殿の新築祝いのパーティーにラスプーチンを誘い、その際、美人と評判だった妻イリナ・アレクサンドロヴナと引き合わせることをほのめかした(ユスポフは「妻は暗殺とは無関係だった」と語っている)。\n\n12月16日夜、ユスポフはスタニスラフ・デ・ラゾヴェルト博士と共にラスプーチンのアパートを訪問した。翌17日午前1時、ユスポフは改築したモイカ宮殿にラスプーチンを招待した。案内された部屋は防音設備が施されており、ラスプーチン暗殺のためにワインセラーを改築した部屋だった。プリシケヴィチの証言によると、窓際にはラスプーチンが好む甘口を含む4種類のワインが置かれていたという。2階の応接室には暗殺メンバーのドミトリー大公、プリシケヴィチ、ラゾヴェルト、スホーチン大尉の他、ユスポフの母ジナイダ・ユスポヴァの友人がいた。ロマノフ家と親しかった美術商アルバート・スタフォードは、同席していた友人はフョードル・アレクサンドロヴィチ公とニキータ・アレクサンドロヴィチ公だと推測している。また、この他にも複数の女性が同席していたが、ユスポフは女性の名前を生涯明かさなかった(マリアンヌ・ピストルコルズとヴェラ・カラーリィという説がある)。", + "qas": [ + { + "question": "ユスポフはいつスタニスラフ・デ・ラゾヴェルト博士と共にラスプーチンのアパートを訪問したか。", + "id": "tr-069-11-000", + "answers": [ + { + "text": "12月16日夜", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "12月17日午前1時、ユスポフはラスプーチンをどこに招待したの?", + "id": "tr-069-11-001", + "answers": [ + { + "text": "モイカ宮殿", + "answer_start": 187, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "12月17日、ラスプーチンが案内された部屋は何のためにワインセラーを改築した部屋でしたか。", + "id": "tr-069-11-002", + "answers": [ + { + "text": "ラスプーチン暗殺", + "answer_start": 225, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ユスポフの回顧録によると、ユスポフは青酸カリを盛ったプチフールと紅茶をラスプーチンに用意したという。しかし、ラスプーチンは毒入りの食事を平らげた後も態度に変化を示さず、ユスポフを驚愕させた。ユスポフはラスプーチンにデザートワインを飲ませ暫く談議していた(政治もしくは神秘主義について話し合っていたという)。数時間後、ラスプーチンが泥酔したことを確認したユスポフは応接室に向かい、ドミトリー大公からリボルバーを受け取った。ユスポフは部屋に戻ると、背後からラスプーチンに向かって2発発砲した。銃弾はラスプーチンの心臓と肺を貫通し、彼は床に倒れ込んだ。", + "qas": [ + { + "question": "ユスポフの回顧録によると、ユスポフは何を入れたプチフールと紅茶をラスプーチンに用意したか。", + "id": "tr-069-12-000", + "answers": [ + { + "text": "青酸カリ", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "12月19日早朝、橋から140メートル西に離れた岸辺からラスプーチンの遺体��コートが発見され、15分後に警察や政府関係者が到着した。遺体の手足はロープで縛られていたが、手首のロープは川に捨てられた際に解け、両腕は死後硬直で伸び切っていた。夕方には、ラスプーチンの遺体はチェスメ教会に運ばれた。翌20日、司法大臣アレクサンドル・マカロフが捜査を妨害したとして罷免された。同日夕方にラスプーチンの検死が行われ、死因は頭部を狙撃されたためと結論付けられた(ただし、この報告書は消失したため検証不可能である)。一説にラスプーチンの死因について「肺に水が入っていたため死因は溺死であり、川に投げ込まれた時点で生きていた」「自力で岸辺に辿り着き、十字を切ろうとして死んだ」というものがあるが、実際にはラスプーチンの肺から水は検出されず、胃からもアルコールが検出されたのみで、毒物は検出されなかった。検死によると、遺体の傷の大半は死後に傷付けられたものであり、右目は殴られ陥没し、橋から投げ捨てられた際に欄干にぶつかり右の頬骨が砕けていた。また、暗殺者たちに切り取られた「ラスプーチンの男根」とされる、13インチの巨大な男性器のアルコール漬標本が、サンクトペテルブルクの博物館に保存されている。", + "qas": [ + { + "question": "ラスプーチンの遺体とコートが発見されたのはいつなの?", + "id": "tr-069-13-000", + "answers": [ + { + "text": "12月19日早朝", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ラスプーチンの男根」とされる男性器のアルコール漬標本はどこの博物館に保存されていますか。", + "id": "tr-069-13-001", + "answers": [ + { + "text": "サンクトペテルブルク", + "answer_start": 517, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "2月23日、二月革命が勃発するが、ゴリツィン内閣は暴動を抑えることが出来ずにいた。26日、兵士の一部が暴動側に加わり、ニコライ2世は軍隊を出動させて暴動を鎮圧するように命令し、同時にゴリツィンの反対を押し切りドゥーマを解散させた。27日、ゴリツィン内閣はマリインスキー宮殿で最後の閣議を開き、ニコライ2世に総辞職の意向を伝えた。これを受け、ドゥーマ議長ミハイル・ロジャンコ率いる臨時委員会は閣僚や政府高官の逮捕を命令した。3月2日、グチコフはワシーリー・シュリギンと共にプスコフの大本営を訪れニコライ2世に退位を求めた。同日、ニコライ2世は退位を宣言し、ロマノフ朝ロシア帝国は崩壊した。", + "qas": [ + { + "question": "二月革命は何月何日に勃発したか。", + "id": "tr-069-14-000", + "answers": [ + { + "text": "2月23日", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ニコライ2世は退位を宣言したのは何日のことですか。", + "id": "tr-069-14-001", + "answers": [ + { + "text": "2日", + "answer_start": 213, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "祈祷僧を名乗っていたが正式な肩書きではなく、どの宗派にも所属していなかった。リリー・デーンは「ラスプーチンはシベリア訛りが酷く、話の内容はほとんど理解出来なかった」と述べている。歴史作家アンドレイ・アマルリクは、「ラスプーチンは満足な教育を受けなかったため文法上誤った文章しか書けなかった」と述べている。\n\n漁色家のイメージが強く、「皇帝一家や貴族のために祈りを捧げた直後に売春宿へ出かける二面性を持っていた」という逸話がある。しかし、この逸話はニコライ大公による創作の可能性が指摘されている他、漁色に関わる逸話の半分近くが政敵による創作と言われている。こうした指摘があるにも関わらず、「ラスプーチン=漁色家」のイメージは強く残っており、ロシア各地に「ラスプーチン」の名を冠したストリップ・クラブが存在する。", + "qas": [ + { + "question": "「ラスプーチンはシベリア訛りが酷く、話の内容はほとんど理解出来なか���た」と言ったのは誰?", + "id": "tr-069-15-000", + "answers": [ + { + "text": "リリー・デーン", + "answer_start": 38, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ラスプーチンが皇帝一家や貴族のために祈りを捧げた直後に売春宿へ出かける二面性を持っていたという話は誰が捜索した可能性があると指摘されていますか。", + "id": "tr-069-15-001", + "answers": [ + { + "text": "ニコライ大公", + "answer_start": 223, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ロシア各地に「ラスプーチン」の名を冠したストリップ・クラブが存在するのはラスプーチンがどんなイメージを持っているからですか。", + "id": "tr-069-15-002", + "answers": [ + { + "text": "漁色家", + "answer_start": 154, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "ラスプーチンは金銭に対して無頓着であり、金銭を受け取ってもすぐに他人に譲ってしまうことが多々あったという。また、街頭の托鉢や劇場・レストラン・カフェなどで気前よく大金を支払うため、「金銭に執着しない無私の男」という評判を得ていた。\n\nアレクサンドラは息子アレクセイの血友病を治癒出来るラスプーチンに強く依存していた。歴史家ジェラード・シェリーによると、ラスプーチンはその立場を活用してロシア再建のための政策実施を計画していたという。また、ラスプーチンの周囲にはロシアの重要情報目当てにヴィクトル・チェルノフなど様々な人物が出入りしていた。", + "qas": [ + { + "question": "ラスプーチンは街頭の托鉢や劇場・レストラン・カフェなどで気前よく大金を支払うことからどんな人だという評判を受けましたか。", + "id": "tr-069-16-000", + "answers": [ + { + "text": "「金銭に執着しない無私の男」", + "answer_start": 90, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "アレクサンドラは息子の血友病の治療のせいで誰に強く依存していたか。", + "id": "tr-069-16-001", + "answers": [ + { + "text": "ラスプーチン", + "answer_start": 142, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "アレクサンドラの息子は誰なの?", + "id": "tr-069-16-002", + "answers": [ + { + "text": "アレクセイ", + "answer_start": 127, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "娘マリアによると、ラスプーチンは暗殺未遂事件以降、胃酸過多に苦しみ砂糖を飲んで難を凌いでいたという。また、事件以降デザートワインを飲むようになったという。彼女は回顧録の中で、「父ラスプーチンの悪評は敵対者による中傷であり事実に反する捏造」と主張している。\n\n現代のロシアでは、ロシア正教会のニコライ・グリャノフや一般国民から義人の扱いを受けている。ラスプーチンを義人とする意見に対して、アレクシイ2世は「ラスプーチンはイヴァン4世、ヨシフ・スターリンと同じ狂人である」と反論し、ラスプーチンを聖人にしようとする動きを否定した。", + "qas": [ + { + "question": "娘マリアによると、ラスプーチンはどんな事件以降、胃酸過多に苦しみ砂糖を飲んで難を凌いでいたか。", + "id": "tr-069-17-000", + "answers": [ + { + "text": "暗殺未遂事件", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ラスプーチンはどんな事件以降、デザートワインを飲むようになったの?", + "id": "tr-069-17-001", + "answers": [ + { + "text": "暗殺未遂事件", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ラスプーチンに否定的な意見を持っているのはニコライ・グリャノフとアレクシイ2世のうち、どちらで��か。", + "id": "tr-069-17-002", + "answers": [ + { + "text": "アレクシイ2世", + "answer_start": 193, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ルーヴル美術館", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ルーヴル美術館は、パリにあるフランスの国立美術館だ。世界最大級の美術館であるとともに世界最大級の史跡のひとつで、パリ中心部1区のセーヌ川の右岸に位置する。収蔵品38万点以上。先史時代から19世紀までのさまざまな美術品3万5,000点近くが、総面積6万600平方メートルの展示場所で公開されている。世界でもっとも入場者数の多い美術館で、毎年800万人を超える入場者が訪れ、2018年は初めて1,000万人を超えた。フランスの世界遺産であるパリのセーヌ河岸にも包括登録されている。\n\nそのコレクションの一部は、日本を含め海外へ貸し出されることも多い。", + "qas": [ + { + "question": "ルーヴル美術館はどの川の右岸に位置しているの?", + "id": "tr-070-00-000", + "answers": [ + { + "text": "セーヌ川", + "answer_start": 64, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ルーヴル美術館への入場者が初めて1,000万人を超えたのは何年ですか。", + "id": "tr-070-00-001", + "answers": [ + { + "text": "2018年", + "answer_start": 185, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ルーヴル美術館は、フランス王フィリップ2世が12世紀に、もともとは要塞として建設したルーヴル城に収容されている。現在の建物にも要塞として使用されていた当時の面影が一部残っているが、幾度となく増改築が繰り返されて、現在のルーヴル宮殿の建物となっている。フランソワ1世の改築計画以来、歴代フランス王の王宮として使用されていたルーヴル宮殿だったが、1682年にフランス王ルイ14世が、自身の王宮にヴェルサイユ宮殿を選び、ルーヴル宮殿の主たる役割は、1692年以来収集されてきた古代彫刻などの王室美術品コレクションの収蔵、展示場所となった。1692年にはルーヴル宮殿に、フランス学士院碑文・美文アカデミーと王立絵画彫刻アカデミーが収容され、1699年に最初のサロンが開催されている。アカデミーはその後100年にわたってルーヴル宮殿に設置されていた。そして、フランス革命下の憲法制定国民議会で、ルーヴル宮殿をフランスが保有する優れた美術品を展示する美術館として使用することが決定された。", + "qas": [ + { + "question": "ルーヴル城を建設したフランスの王は誰?", + "id": "tr-070-01-000", + "answers": [ + { + "text": "フィリップ2世", + "answer_start": 14, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "フランス王ルイ14世は自分の宮殿に何を選びましたか。", + "id": "tr-070-01-001", + "answers": [ + { + "text": "ヴェルサイユ宮殿", + "answer_start": 195, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ルーヴル宮殿で初めてサロンが開催されたのは何年ですか。", + "id": "tr-070-01-002", + "answers": [ + { + "text": "1699年", + "answer_start": 316, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ルーヴル宮殿が美術館として正式に開館したのは1793年である。このときには、王室所有だった、あるいはキリスト教の教会財産から没収された絵画を中心として、537点の絵画が展示されている。しかしながら、建物の構造上の問題から1796年にいったん閉館されており、1801年に再度開館した。フランス皇帝ナポレオン1世が、諸国から美術品を収奪したことにより所蔵品は増大していき、美術館も名前を「ナポレオン美術館(MuséeNapoléon)」と改名したこともあった。その後、ワーテルローの戦いの敗戦でナポレオン・ボナパルトがフランス皇帝位を追われ、ナポレオン軍が収奪していた美術品の多くが元の持ち主��ちに返還されている。王政復古でフランス王となったルイ18世、シャルル10世の統治時代、さらにフランス第二帝政時代でルーヴル美術館の所蔵品はさらに増え続け、2万点を超える美術品が集められた。その後に成立したフランス第三共和政の時代にも、ルーヴル美術館の所蔵品は遺贈や寄贈などによって着実に増えていった。2003年に「イスラム美術部門」が創設され、所蔵品が「古代エジプト美術部門」「古代オリエント美術部門」「古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門」「イスラム美術部門」「彫刻部門」「工芸品部門」「絵画部門」「素描・版画部門」の8部門に分類されることとなった。", + "qas": [ + { + "question": "ルーヴル宮殿が美術館として正式に開館したのはいつなの?", + "id": "tr-070-02-000", + "answers": [ + { + "text": "1793年", + "answer_start": 22, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ルーヴル宮殿が美術館として正式に開館した時、何点の絵画が展示されましたか。", + "id": "tr-070-02-001", + "answers": [ + { + "text": "537点", + "answer_start": 76, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "フランス皇帝ナポレオン1世が、諸国から美術品を収奪したことにより所蔵品は増大していき、美術館の名称は何になりましたか。", + "id": "tr-070-02-002", + "answers": [ + { + "text": "「ナポレオン美術館(MuséeNapoléon)」", + "answer_start": 191, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「イスラム美術部門」は何年に創設された?", + "id": "tr-070-02-003", + "answers": [ + { + "text": "2003年", + "answer_start": 445, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "現在ルーヴル美術館として使用されているルーヴル宮殿は、12世紀にカペー朝第7代のフランス王フィリップ2世が要塞として建設したルーヴル城をもととしており、当時の建物の面影が現在も地下室に残っている。ただし、ルーヴル城が、すでに存在していた別の建造物を増改築した要塞だったのか、一から建てられた要塞だったのかどうかは伝わっていない。セーヌ川の中洲であるシテ島は、中世においてもパリの中心地であった。都市の防衛という面で、街の中心を流れるセーヌ川自体が防御の弱点となっていたため、防衛要塞たるルーヴル城が建設された。円筒形で、径約15メートルのドンジョンの周囲に方形の城壁(約78×72メートル)を巡らした要塞は、20年余の歳月を要して完成した。この城壁は、現代のルーヴルのシュリー翼の位置にあたり、シュリー翼の中庭(クール・カレ)の南西側4分の1の面積に相当する。当時のルーヴルは宮殿ではなくまさに要塞であり、建物の役割は大部分が牢獄や人質の監禁場所にあてられていた。パリ市の防衛のために建造されたルーヴル城であったが、この城が英国など外国からの攻撃にさらされることは結局なかった。当時のルーヴルの遺構は、のちのナポレオン3世の時代、1866年にも発掘調査が行われているが、本格的・学術的な発掘調査が行われたのは1984年から1986年のことである。また、1991年に発掘された城壁の一部は、地下のショッピングセンターの大ホールで一般に公開されている。\n\n「ルーヴル(louvre)」の語源については複数の説がある。12世紀後半のパリで最大の建築物だったことから「偉大な」を意味するフランス語「L'Œuvre」からという説、森の中に建てられたことから「オーク」を意味するフランス語「rouvre」からという説、『ラルース百科事典』の「狼狩り」と関係するラテン語「lupus」が変化した、ビザンチン帝国で使われていたラテン語「lupara」から派生したという説などがある。また、7世紀フランスのモーの女子大修道院長聖ファーレは「パリ地方にルーヴラ(Luvra)と呼ばれる邸宅がある」という記録を修道院に残しているが、この記述の「パリ」はおそらく現在のパリとは違う地域を指していると考えられる。", + "qas": [ + { + "question": "ルーヴル宮殿は現在何で使われている?", + "id": "tr-070-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ルーヴル美術館", + "answer_start": 2, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "フランス語「L'Œuvre」はどういう意味なの?", + "id": "tr-070-03-001", + "answers": [ + { + "text": "「偉大な」", + "answer_start": 679, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ヴァロア王朝の終焉後、ブルボン王朝の初代の王であるアンリ4世は、旧ルーヴル城の部分を4倍の面積に広げ、セーヌ河に沿ってルーヴルと西のテュイルリー宮殿を直接結ぶ、長大な回廊(現在の「大展示室(GrandeGalerie)」)を建設させた。グランド・ギャルリの建設やクール・カレ(方形中庭)の拡張を含む「グラン・デッサン(大計画)」はアンリ4世の時代に開始されたが、造営は次のルイ13世(在位1610年-1643年)の時代にも引き継がれた。太陽王ルイ14世もさらなる拡張計画を進め、1657年からは建築家ルイ・ル・ヴォーが中心となって、クール・カレ(方形中庭)の拡張、ならびにルーヴル宮殿とテュイルリー宮殿を結ぶ建物の工事が進められた。しかしながら、1682年にルイ14世が自身の宮殿に、それまでの歴代フランス王が宮廷としていたルーヴル宮殿から、ヴェルサイユ宮殿へと宮廷を移すことを決めた。宮廷の移動にともなうヴェルサイユ宮殿の改築工事は遅れがちではあったが、遷宮は予定どおりに行われ、王族が不在となったルーヴル宮殿は、芸術家たちの住居兼アトリエとして提供されることとなった。", + "qas": [ + { + "question": "ブルボン王朝の初代の王は誰?", + "id": "tr-070-04-000", + "answers": [ + { + "text": "アンリ4世", + "answer_start": 25, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "クール・カレ(方形中庭)の拡張、ならびにルーヴル宮殿とテュイルリー宮殿を結ぶ建物の工事を進めたフランス王は誰?", + "id": "tr-070-04-001", + "answers": [ + { + "text": "太陽王ルイ14世", + "answer_start": 218, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1747年に出版された美術評論家ラ・フォン・ド・サン=ティエンヌの著作がきっかけで、18世紀半ばに王室美術コレクションを公開展示するギャラリーを設置しようという気運が高まった。1750年10月14日にルイ15世がギャラリーの設置を承認し、リュクサンブール宮殿に「王室絵画ギャラリー(Galerieroyaledepeinture)」を設け、王室コレクションが所蔵する96点の絵画作品を展示することを許可した。ギャラリーの開館には、ル・ノルマン・ド・トゥルヌエムと、マリニー侯爵アベル=フランソワが立会っている。「王の絵画(TableauxduRoy)」は、毎週水曜日と土曜日に一般公開された。公開された王室絵画コレクションには、ルネサンス期のイタリア人画家アンドレア・デル・サルトの『慈愛』をはじめ、ルネサンス期イタリア人画家ラファエロ、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、バロック期オランダ人画家レンブラント、ヴァン・ダイク、バロック期フランス人画家プッサンらの絵画作品が含まれていた。1778年にルイ16世がリュクサンブール宮殿をプロヴァンス伯爵ルイに与えたため、この絵画ギャラリーは1780年に閉館された。しかしながら、ルイ16世のもとでリュクサンブール宮殿に代わる王立美術館の設置は国の政策となっていった。そして、王室建造物長官で王立絵画彫刻アカデミーにも関わっていたダンジヴィレ伯シャルル・クロードが美術コレクションを拡張し、1776年にルーヴル宮殿を「巨大なギャラリー(GrandeGalerie)」として、美術館へと転用する案を提出した。ルーヴル宮殿を美術館へと転用するというこの提案には多くの賛同者が現れたが王室からの許可は下りず、本格的にルーヴル宮殿が美術館として使用されるようになったのはフランス革命以降のことだった。", + "qas": [ + { + "question": "18世紀半ばに王室美術コレクションを公開展示するギャラリーを設置しようという気運が高まったきっかけとなった著書を書いた人は誰?", + "id": "tr-070-05-000", + "answers": [ + { + "text": "ラ・フォン・ド・サン=ティエンヌ", + "answer_start": 16, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "本格的にルーヴル宮殿が美術館として使用されるようになったのはどの事件以降なの?", + "id": "tr-070-05-001", + "answers": [ + { + "text": "フランス革命以降", + "answer_start": 751, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ルーヴル美術館の開館は1793年8月10日で、この日は前国王ルイ16世の処刑一周年にあたる日だった。週のうち3日間大衆に解放されたルーヴル美術館は、大いなる成果であるとして高く評価された。開館当時のルーヴル美術館には、537点の絵画と、184点のその他の美術品が収蔵されていた。コレクションのうち4分の3ほどが王室美術コレクション由来で、残りはフランス革命で他国へ亡命した上流階級、ローマ・カトリック教会からの押収美術品を国有財産化したものだった。コレクションを拡張、系統立てて整理するために、毎年10万リーヴルの献金が集まった。1794年から、フランス革命軍が北ヨーロッパ諸国から美術品を押収し始め、1797年2月にフランスとローマ教皇との和平条約であるトレンチノ条約が締結されてからは、古代ローマ彫刻『ラオコーン像』や『ベルヴェデーレのアポロン』などの美術品が、ヴァチカンから押収されてフランスへと持ち込まれた。これらはルーヴル美術館を「国民主権の象徴」たる一流の美術館とすることを目的としていた。\n\n開館初期のルーヴル美術館は混沌としたものだった。特権を受けた芸術家がいまだに美術館内に住んでいただけでなく、絵画の展示方法もまったく分類されておらず、「床から天上まで所狭しと」作品がかけられているだけだった。その後、1796年5月に建物の構造上の問題からいったん閉館され、1801年7月に、作品を年代順に配置したうえで新たな照明が追加されて再度開館している。", + "qas": [ + { + "question": "ルイ16世の処刑一周年はいつでしたか。", + "id": "tr-070-06-000", + "answers": [ + { + "text": "1793年8月10日", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ナポレオン1世がフランスの実権を握り、ヨーロッパ諸国との戦争に勝利し続けたことによって、フランスの美術品コレクションは、諸国からの略奪美術品で溢れかえっていった。1798年から1801年のエジプト侵攻後、ナポレオン1世はルーヴル美術館の初代館長にドミニク・ヴィヴァンを任命した。これにちなんで、1803年にルーヴル美術館は「ナポレオン美術館」へと改名され、スペイン、オーストリア、オランダ、イタリアなどの美術品が収蔵された。これらの美術品は、トレンチノ条約などの和平条約を無視して諸国から略奪された美術品だった。1815年のワーテルローの戦いでフランスが敗北し、略奪された美術品の元の所有者たちはその返還をフランスに求めた。しかしながら、ルーヴル美術館の上層部はこの要求にほとんど応じず、略奪美術品の多くを自分たちのプライベート・コレクションに紛れこませて、隠匿しようとした。進まない返還交渉に憤った諸国は、ワーテルローの戦いで勝利したイギリスに特使を送り、美術品返還への協力を求めた。この結果多くの美術品が返還されたが、そのままルーヴル美術館に残された美術品も存在している。返還されずにルーヴルに残った主要な美術品に、マンテーニャの『慈愛』、ヴェロネーゼの『カナの婚礼』、ロヒール・ファン・デル・ウェイデンの『受胎告知』などがある。王政復古後の1815年に、フランス王ルイ18世とイタリアとの間に、未返還の略奪美術品についての協定が交わされた。たとえば、現在もルーヴル美術館が所蔵するヴェロネーゼの『カナの婚礼』は、この時の協定でフランス人画家シャルル・ル・ブランの一大コレクションと交換され、元の所有者であるローマの美術���収集家アレッサンドロ・アルバーニにも賠償金が支払われている。", + "qas": [ + { + "question": "エジプト侵攻は何年に始まったか。", + "id": "tr-070-07-000", + "answers": [ + { + "text": "1798年", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ナポレオン1世はルーヴル美術館の初代館長に誰を任命しましたか。", + "id": "tr-070-07-001", + "answers": [ + { + "text": "ドミニク・ヴィヴァン", + "answer_start": 123, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ワーテルローの戦いは何年にあった事件ですか。", + "id": "tr-070-07-002", + "answers": [ + { + "text": "1815年", + "answer_start": 256, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ヴェロネーゼの『カナの婚礼』は現在、どの美術館に所蔵されていますか。", + "id": "tr-070-07-003", + "answers": [ + { + "text": "ルーヴル美術館", + "answer_start": 631, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ナポレオン1世が失脚し、フランスはルイ18世が王位に就いて、王政復古期(1814年-1830年)に入る。ルイ18世と次王のシャルル10世の治世下で、72万フランをかけてルーヴル美術館に135点の美術品が追加された。さらに、古代エジプト学者ジャン=フランソワ・シャンポリオンの指揮の下、古代エジプト美術品の専門部局が編成され、イギリス人画家、エジプト学研究者ヘンリー・ソルトやイタリア人古美術品収集家ベルナルディーノ・ドロヴェッティらのコレクションから、7,000点以上の古代エジプト美術品を購入している。ただし、この時代に追加された美術品の数よりも、王権を回復するためという名目でルーヴル美術館からヴェルサイユ宮殿へと持ち出された美術品のほうが多かった。1848年に第二共和制が成立すると、共和政府は美術品の修復費用として200万フランを供出し、さらに美術品の展示場所である「アポロン・ギャラリー」、「サロン・カレ」、「大展示室」の完成を推進した。1858年にフランス第二帝政が成立し、フランス皇帝となったナポレオン3世は、1861年に641点の絵画、古代ギリシアの金貨、ジャンピエトロ・カンパーナ侯爵の美術品コレクション由来の古美術品など、1万1,835点の美術品を購入した。1852年から1870年にわたるフランス第二帝政下でフランス経済は拡大し、ルーヴル美術館は1870年までに2万点にのぼる美術品を新たに収蔵している。また、「花の展示室」と「大展示室」が、建築家ルイ・ヴィスコンティとヘクター・ルフェルによって改装されたのもこの時期である。", + "qas": [ + { + "question": "ナポレオン1世次のフランス王は誰?", + "id": "tr-070-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ルイ18世", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ルイ18世次のフランス王は誰?", + "id": "tr-070-08-001", + "answers": [ + { + "text": "シャルル10世", + "answer_start": 61, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ルイ18世とシャルル10世の時代、ルーヴル美術館には何点の美術品が追加されたの?", + "id": "tr-070-08-002", + "answers": [ + { + "text": "135点", + "answer_start": 92, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "ポレオン3世は1861年に何点の絵画を購入したの?", + "id": "tr-070-08-003", + "answers": [ + { + "text": "641点", + "answer_start": 468, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "フランス第三共和政の時代にルーヴル美術館に新たに収蔵された美術品は、遺贈、寄贈によるものが多かった。アンゲラン・カルトン作といわれる、15世紀の油彩画『��ィルヌーヴ=レ=ザヴィニョンのピエタ』は「ルーヴル友の会」が寄贈したもので、1863年に発掘された古代ギリシア彫刻『サモトラケのニケ』は、同年にルーヴル美術館へと収められたものである。『サモトラケのニケ』は、頭部、左腕が存在しないなどのひどい損傷があるが、1884年の展示以来、ルーヴル美術館が誇る主要な古代彫刻となっている。1869年に美術品収集家の医者ルイ・ラ・カズが遺贈した583点の美術品からなる「ラ・カズ・コレクション」には、ロココ期のフランス人画家シャルダン、フラゴナールらの絵画が含まれており、その他ラ・カズ・コレクション由来の著名な作品として、バロック期のオランダ人画家レンブラントの『ダビデ王の手紙を手にしたバテシバの水浴』、ロココ期のフランス人画家ヴァトーの『ピエロ(旧称『ジル』)』などがある。\n\nルーヴル美術館の拡大は、第一次世界大戦後ゆるやかになっていき、重要な作品の購入はほとんどなされていない。例外といえる作品として、バロック美術期のフランス人ラ・トゥールの『聖トマス』と、遺贈された大規模なコレクションとして、1935年にエドモンド・ベンジャミン・ロスチャイルドが遺贈した、4,000点の版画、3,000点の絵画、500点の装飾本が挙げられる。", + "qas": [ + { + "question": "『ヴィルヌーヴ=レ=ザヴィニョンのピエタ』は誰の作品だと言われていますか。", + "id": "tr-070-09-000", + "answers": [ + { + "text": "アンゲラン・カルトン", + "answer_start": 50, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "1869年、ルイ・ラ・カズは何点の美術品を遺贈したか。", + "id": "tr-070-09-001", + "answers": [ + { + "text": "583点", + "answer_start": 267, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "第二次世界大戦時には、多くの美術品がルーヴル美術館から避難した。第二次世界大戦直前にドイツ軍がチェコのズデーテン地方を併合した時には、『モナ・リザ』などの重要な作品が、ロワール=エ=シェールのシャンボール城へと移された。1939年後半に第二次世界大戦が勃発すると、『サモトラケのニケ』や『ミロのヴィーナス』といった重要な彫刻作品がアンドルのヴァランセ城へと移されている。所蔵美術品の梱包に2日かけ、1939年8月27日に一団のトラックがルーヴル美術館を離れた。12月28日までには、あまりに巨大で重量がかさむ作品と「地下室に所蔵されていた重要ではない絵画作品」を除いて、主要な作品はすべてルーヴル美術館から姿を消している。1945年初頭、それまでドイツに占拠されていたフランスが解放されると、各地に分散していた美術品が元通りルーヴル美術館へと戻されていった。", + "qas": [ + { + "question": "第二次世界大戦直前にドイツ軍がチェコのズデーテン地方を併合した時、『モナ・リザ』はどこへ移されましたか。", + "id": "tr-070-10-000", + "answers": [ + { + "text": "シャンボール城", + "answer_start": 96, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "第二次世界大は何年から始まったの?", + "id": "tr-070-10-001", + "answers": [ + { + "text": "1939年", + "answer_start": 110, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "1874年までにルーヴル宮殿は現在の構成となった。ほぼ正方形の宮殿本体、中庭の東に面する最古の建築物シュリー翼、ナポレオン広場の北に面するリシュリュー翼と、広場の南に面するセーヌ川沿いのドゥノン翼である。1983年に、当時のフランス大統領ミッテランが推進した「パリ大改造計画」の一環である「大ルーヴル計画」で建物が改築されるとともに、それまでルーヴル宮殿内にあった財務省が移設され、宮殿施設全体が美術館となった。そして建築家イオ・ミン・ペイから、ナポレオン広場に設けられた新たなエントランスにガラス製のピラミッドを建築する提案がなされた。このピラミッドと直下の地下ロビーが落成し���のは1988年10月15日のことである。そして大ルーヴル計画の第二段階として、1993年に地下のカルーゼル・ショッピング・モールに、採光用途を兼ねる逆ピラミッドが完成した。従来の宮殿入口には、多数の来館者をさばききれないため行列ができるという問題があったが、ナポレオン広場の広大な地下エントランスがその問題を解決した。2002年以降のルーヴル美術館入場者数は、この大ルーヴル計画以前に比べて約2倍に増加している。", + "qas": [ + { + "question": "1983年、フランス大統領は誰でしたか。", + "id": "tr-070-11-000", + "answers": [ + { + "text": "ミッテラン", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「パリ大改造計画」を推進したフランスの大統領は誰なの?", + "id": "tr-070-11-001", + "answers": [ + { + "text": "ミッテラン", + "answer_start": 119, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "2002年以降のルーヴル美術館入場者数は、以前に比べて約何倍増加しましたか。", + "id": "tr-070-11-002", + "answers": [ + { + "text": "約2倍", + "answer_start": 485, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ルーヴル美術館には、38万点以上の収蔵品がある。そのうちおよそ3万5,000点が8部門に分かれて展示されており、常設展示室の総面積は6万600平方メートル以上となっている。ルーヴル美術館に展示されているのは、彫刻、工芸品、絵画、ドローイング、古代美術品などである。世界でもっとも入場者数の多い美術館・博物館であり、一日平均1万5,000人の入場者数のうち約65パーセントが外国人観光客となっている。\n\nイタリア人建築家マリオ・ベッリーニとルディ・リキオッティが国際コンペに勝ち残り、両者の設計による、イスラム美術品を展示する3,000平方メートルの新たなギャラリーが2012年に開館した。当初2009年の開館が期待されていたこのギャラリーは、美術館南のドゥノン翼中央にある新古典様式の「ヴィスコンティの中庭」に位置する2階建ての建物で、天頂が金色の起伏ある屋根と、蜘蛛の巣のように張り巡らされる9,000本近い鉄管で構成された内装を持っている。このギャラリーは、1989年に設置されたルーヴル・ピラミッド以来、21世紀に入って最初の大きな建造物となっている。", + "qas": [ + { + "question": "世界でもっとも入場者数の多い美術館・博物館はどこなの?", + "id": "tr-070-12-000", + "answers": [ + { + "text": "ルーヴル美術館", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ルーヴル美術館の入場者のうち、外国人観光客は何パーセントを占めていますか。", + "id": "tr-070-12-001", + "answers": [ + { + "text": "約65パーセント", + "answer_start": 177, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "前ルーヴル美術館長ピエール・ローゼンベールの後を継いで、2001年からアンリ・ロワレットが館長となった。ロワレットはそれまでの館長とは異なり、所蔵美術作品の貸し出しに積極的な方針をとっている。2006年に、1,300点の作品が他施設に貸し出され、その貸出料金が新たな美術作品の購入資金に充てられた。2006年から2009年には、米国ジョージア州アトランタのハイ美術館から作品の貸出料金として690万ドルを得て、作品の修復費用として使われている。2012年にはルーヴル美術館とサンフランシスコ美術館との間で、5年間の展示、出版、教育、保存、教育に関する協定が結ばれた。2012年に9,850万ユーロをかけてイスラム美術ギャラリーが拡張され、そのうち3,100万ユーロが国の基金から、1,700万ユーロがサウジアラビア王族のアミラ・タウィールが創設した基金であるワリード・ビン・タタール基金から供出された。そのほか、アゼルバイジャン共和国、クウェートの首長、オマーンの国王、モロッコの国王から、合計2,600万���ーロの寄付が集まった。", + "qas": [ + { + "question": "ピエール・ローゼンベールの次にルーヴル美術館長となった人の名前は何?", + "id": "tr-070-13-000", + "answers": [ + { + "text": "アンリ・ロワレット", + "answer_start": 35, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ルーヴル美術館の古代エジプト美術部門には、ナイル川流域に発展した文明の、紀元前4000年から4世紀にわたる5万点以上の美術品が所蔵されている。エジプト美術コレクションとしては世界最大規模であり、古代、中王国時代、新王国時代、初期キリスト教時代、ローマ属州時代、プトレマイオス王国時代、ビザンティン帝国時代の美術品が網羅されている。この部局の原点は王室コレクションまでさかのぼることができるが、ナポレオン1世の1798年のエジプト遠征でコレクションが大きく発展したものである。このときのエジプト遠征には、のちに初代ルーヴル美術館館長となるドミニク・ヴィヴァンも同行していた。その後、ジャン=フランソワ・シャンポリオンが『ロゼッタ・ストーン』を解読すると、フランス王シャルル10世が古代エジプト専門部局の創設を命じた。シャンポリオンは、エドム・アントワーヌ・デュラン、ヘンリー・ソルト、ベルナルディーノ・ドロヴェッティが収集したコレクションの購入を進言し、これらのコレクションから7,000点あまりのエジプト美術品が所蔵品に加えられた。さらに、エジプト考古学博物館の基礎を作ることになるフランス人考古学者オギュスト・マリエットによって、エジプト美術品の所蔵数は増大していった。マリエットは、エジプトのメンフィスで発掘調査を行い、『書記座像』などの出土品を、ルーヴル美術館へと送りだした。", + "qas": [ + { + "question": "エジプト美術コレクションとしては世界最大規模を誇る美術館はどこですか。", + "id": "tr-070-14-000", + "answers": [ + { + "text": "ルーヴル美術館", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "ナポレオン1世は何年にエジプト遠征を行いましたか。", + "id": "tr-070-14-001", + "answers": [ + { + "text": "1798年", + "answer_start": 204, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "『ロゼッタ・ストーン』を解読したのは誰?", + "id": "tr-070-14-002", + "answers": [ + { + "text": "ジャン=フランソワ・シャンポリオン", + "answer_start": 290, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ルーヴル美術館の古代オリエント美術部門は、1881年に創設された二番目に新しい部局で、イスラム教普及前の古代オリエント文明の美術品が収蔵されている。古代オリエント美術部門は、ユーフラテス川西側地域、古代メソポタミア、ペルシアの三地域別に細分化されている。古代オリエント美術のコレクションが充実したのは、フランス人学者ポール=エミール・ボッタによる、1843年のドゥル・シャルキン発掘調査、アッシリア王サルゴン2世の王宮発見とほぼ同時期に当たる。この遺跡からの出土品が、古代オリエント美術部門の前身である「アッシリア美術館」の基礎となった。\n\n古代オリエント美術部門では、初期メソポタミア文明ともいわれるシュメール文明の美術品と、アッカド帝国の出土品であるラガシュ王国王子の碑文『禿げ鷹の碑』、アッカド王ナラム・シンの戦勝記念碑などが展示されている。1901年に発見された、高さ2.25メートルの閃緑岩に古代バビロニアの「ハンムラビ法典」が楔形文字で刻まれた石碑も有名である。紀元前18世紀のマリ王国王宮壁画や、紀元前25世紀の『エビフ・イルの像』も、この古代オリエント美術部門の展示室で公開されている。\n\n古代ペルシアの所蔵品では、『射手のフリーズ』などが有名である。ペルセポリスからの貴重な出土品も所蔵されており、2005年にイギリスで開かれた古代ペルシア展で公開するために、大英博物館���貸し出されたこともある。", + "qas": [ + { + "question": "ルーヴル美術館の古代オリエント美術部門は何年に創設されましたか。", + "id": "tr-070-15-000", + "answers": [ + { + "text": "1881年", + "answer_start": 21, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ハンムラビ法典」は何年に発見されましたか。", + "id": "tr-070-15-001", + "answers": [ + { + "text": "1901年", + "answer_start": 374, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「ハンムラビ法典」の高さは何メートルなの?", + "id": "tr-070-15-002", + "answers": [ + { + "text": "2.25メートル", + "answer_start": 388, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門は、新石器時代から6世紀までの、地中海沿岸地方の美術品を収蔵している。時代区分としてはキクラデス文明からローマ帝国衰退までとなる。古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門は、ルーヴル美術館でも最古の部局のひとつで、所蔵品が王室コレクションだった時代までさかのぼることができ、フランス王フランソワ1世が購入した美術品も含まれている。コレクション初期には『ミロのヴィーナス』や『ベルヴェデーレのアポロン』のような、大理石彫刻の収集に重点が置かれていた。『ベルヴェデーレのアポロン』は、ナポレオン1世がヴァチカンから押収したものだったが、ナポレオンが失脚した1815年にヴァチカンへと返還されている。19世紀になってから、デュラン・コレクションやフランス国立図書館から、『ボルゲーゼの壺』のような大理石彫刻や銅像などを購入している。古代ギリシア・アルカイック期の収蔵品には、宝飾品、『オーセールの婦人』(紀元前640年ごろ)や『サモスのヘラ』(紀元前570年-560年ごろ)のような石灰岩彫刻がある。紀元前4世紀以降の収蔵品は、『ボルゲーゼの剣闘士』に代表されるような、人体を写実的に再現した彫刻が多くなっている。また、ルーヴル美術館には『サモトラケのニケ』(紀元前190年ごろ)や『ミロのヴィーナス』のような、古代美術の象徴ともいえるヘレニズム期の名作が所蔵されている。", + "qas": [ + { + "question": "ナポレオンはいつ失脚したの?", + "id": "tr-070-16-000", + "answers": [ + { + "text": "1815年", + "answer_start": 296, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "2003年に創設されたイスラム美術部門は、ルーヴル美術館ではもっとも新しい部門で「13世紀にわたる三つの大陸」の美術品が収蔵されている。コレクションには、陶磁器、ガラス工芸品、金属工芸品、木製品、象牙工芸品、絨毯、織物、ミニアチュールなど、5,000点以上の美術品が含まれている。イスラム美術部門はもともと工芸部門の一部だったが、2003年に独立した部局として新設された。アンダルシア由来の『アル=ムギラの銘のある小箱』(968年)と呼ばれる象牙の筒状の箱や、『サン・ルイの洗礼盤』(13世紀から14世紀ごろ、マムルーク朝)と呼ばれる金属製のボウル、イラン由来の『サン=ジョスの屍衣』などが有名な収蔵品となっている。ほかに、ペルシア語で書かれたフェルドウスィーの『シャー・ナーメ』3ページ分なども有名である。", + "qas": [ + { + "question": "ルーヴル美術館で一番新しい部門は何?", + "id": "tr-070-17-000", + "answers": [ + { + "text": "イスラム美術部門", + "answer_start": 11, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "彫刻部門には、古代ギリシア・エトルリア・ローマ美術部門に属さない、1850年以前の彫刻が収蔵されている。ルーヴル美術館が、いまだルーヴル宮殿として使用されていた時代から彫刻の収集は開始されていたが、ミケランジェロの『瀕死の奴隷』と『抵抗する奴隷』を除いて、1824年までは古代彫刻しか公開されていなかった。ルー��ル美術館開設当時には100点ほどの彫刻しかなく、ほかの王室コレクションの彫刻の多くはヴェルサイユ宮殿に移設されていた。その後も彫刻コレクションはほとんど増加することはなかったが、1847年にレオン・ラボルデが彫刻部門の責任者に任命されると、コレクションの数は徐々に増えていった。ラボルデは中世の彫刻を収集する部門を設置し、『キルデベルデ1世像』『スタンガの扉』などの彫像、彫刻を購入していった。彫刻部門は、もともとは工芸部門の一部局だったが、フランス美術品のコレクションを推進していた館長ルイ・クラジョが、1871年に自治裁量権を与えている。1986年に1850年以降の彫刻は、新設されたオルセー美術館へと移された。「大ルーヴル計画」によって、彫刻部門の収蔵品の展示場所が、フランス彫刻を展示するリシュリュー翼と、フランス以外の彫刻を展示するドゥノン翼に分けられた。", + "qas": [ + { + "question": "1847年、彫刻部門の責任者に任命されたのは誰なの?", + "id": "tr-070-18-000", + "answers": [ + { + "text": "レオン・ラボルデ", + "answer_start": 251, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "ハリファックス大爆発", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "ハリファックス大爆発(ハリファックスだいばくはつ、英語:HalifaxExplosion)は、1917年12月6日朝、カナダのノバスコシア州ハリファックスで発生した大災害である。アッパー・ハリファックス港とベッドフォード湾を繋ぐ狭い水路で、ノルウェー船「イモ(Imo)」が、高性能爆薬を積んだフランスの貨物船「モンブラン」と衝突し、モンブランで発生した火災が積荷に燃え移り、ハリファックスのリッチモンド地区を破壊する大爆発を起こした。爆風や破片、火災、建物の倒壊により約2,000人が死亡したほか、推定9,000人が負傷した。この爆発は、核兵器開発以前に発生した人によって引き起こされた最大の爆発であり、おおよそTNT換算で2.9キロトンに等しいエネルギーを放出した。", + "qas": [ + { + "question": "ハリファックス大爆発とは、いつ発生した災害であるの?", + "id": "tr-071-00-000", + "answers": [ + { + "text": "1917年12月6日朝", + "answer_start": 47, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ハリファックス大爆発は、どの国で発生した災害でありますか?", + "id": "tr-071-00-001", + "answers": [ + { + "text": "カナダ", + "answer_start": 59, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "ハリファックス大爆発は、イモとどの貨物船の衝突から始まった大爆発であったか?", + "id": "tr-071-00-002", + "answers": [ + { + "text": "モンブラン", + "answer_start": 155, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "死亡と負傷のうち、ハリファックス大爆発ではどちらに当たる人数がより多く発生したか?", + "id": "tr-071-00-003", + "answers": [ + { + "text": "負傷", + "answer_start": 258, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "モンブランはフランス政府の依頼で、ニューヨークからハリファックス経由でフランスのボルドーまで高性能爆薬を運んでいた。午前8時45分頃、モンブランは約1ノットの低速で、ニューヨークでベルギー向けの補給物資を積むためベルギー救援委員会が用船した空荷のイモと衝突した。モンブランで発生した火災はたちまち手が付けられなくなり、約20分後の午前9時4分35秒、モンブランが爆発した。", + "qas": [ + { + "question": "モンブランは、どこから出発したの?", + "id": "tr-071-01-000", + "answers": [ + { + "text": "ニューヨーク", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "モンブランには、何が積載されていましたか?", + "id": "tr-071-01-001", + "answers": [ + { + "text": "高性能爆薬", + "answer_start": 46, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "イモと衝突したモンブランが爆発したのは、いつ頃だったか?", + "id": "tr-071-01-002", + "answers": [ + { + "text": "午前9時4分35秒", + "answer_start": 165, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "モンブランは、どこに向かい、ニューヨークから出発した貨物船だったか?", + "id": "tr-071-01-003", + "answers": [ + { + "text": "ボルドー", + "answer_start": 40, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "リッチモンド市街を含む、半径800メートル内のほぼ全ての建物が吹き飛んだ。圧力波が木を折り、線路をねじ曲げ、建物を粉砕し、津波により陸地へ押し流されたイモを含む船を座礁させ、モンブランの破片を数キロメートル四方にまき散らした。街中の窓で無傷のものはほとんど無かった。港の対岸のダートマスにも被害が広がった。爆発により生じた津波は、数世代にわたりタフツ・コーブに住んでいたファースト・ネーション、ミクマク族の集落を押し流した。", + "qas": [ + { + "question": "この爆発により、破壊された市街地は、どこなの?", + "id": "tr-071-02-000", + "answers": [ + { + "text": "リッチモンド市街", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "この爆発により、ファースト・ネーションとどの部族の集落が破壊されましたか?", + "id": "tr-071-02-001", + "answers": [ + { + "text": "ミクマク族", + "answer_start": 197, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "ハリファックスはハリファックス港の西岸にあり、ダートマスは東岸に位置する。ハリファックスとダートマスは戦争で栄えてきた。ハリファックス港は、イギリス海軍の北米における最重要基地の一つかつ戦時貿易の中心地であり、アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争、米英戦争では、敵国船を襲う私掠船の母港であった。", + "qas": [ + { + "question": "アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争、米英戦争に用いられた、イギリス海軍の私掠船の母港は、どこか?", + "id": "tr-071-03-000", + "answers": [ + { + "text": "ハリファックス港", + "answer_start": 60, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ハリファックスと同じく、戦争で栄えてきたところは、どこか?", + "id": "tr-071-03-001", + "answers": [ + { + "text": "ダートマス", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1880年のインターコロニアル鉄道とディープウォーター・ターミナル(DeepWaterTerminal)の完成は、蒸気船貿易を増やし、港湾地区の発展を加速化させた。しかしハリファックスは、地元の工場がカナダ中央部の競合他社に敗北すると、1890年代には経済的に低迷した。イギリスの守備隊も1905年暮れと1906年初頭にハリファックスから去った。カナダ政府はイギリス海軍からハリファックス海軍工廠を引き継ぎ、1910年にカナダ海軍が創設されると、その司令部となった。", + "qas": [ + { + "question": "インターコロニアル鉄道が完成されたのは、いつなの?", + "id": "tr-071-04-000", + "answers": [ + { + "text": "1880年", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "インターコロニアル鉄道と同じ年に完成されたのは、何ですか?", + "id": "tr-071-04-001", + "answers": [ + { + "text": "ディープウォーター・ターミナル", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "インターコロニアル鉄道と何の完成が、港湾地区発展の加速化の原動力となったか?", + "id": "tr-071-04-002", + "answers": [ + { + "text": "ディープウォーター・ターミナル", + "answer_start": 18, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ハリファックスの経済が低迷したのは、何年代に入ってのことか?", + "id": "tr-071-04-003", + "answers": [ + { + "text": "1890年代", + "answer_start": 118, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "第一次世界大戦の直前、カナダ政府は港と付属施設の増強を開始した。第一次世界大戦の勃発により、ハリファックスは注目を取り戻した。カナダ海軍は外洋を航行可能な船をほとんど保有していないため、イギリス海軍が大西洋の貿易航路を守る責任を負うこととなり、ハリファックスが北アメリカでの作戦基地に再び選ばれた。港の運営は1915年に、エドワード・ハリントン・マーティン(EdwardHarringtonMartin)大佐の監督の下、カナダ海軍の指揮下に置かれることとなった。1917年には、ハリファックスに警備艇、タグボート、掃海艇を含む艦隊が増強されつつあった。", + "qas": [ + { + "question": "経済的に低迷していたハリファックスが再び注目されるようになったのは、どの戦争の勃発によることだったの?", + "id": "tr-071-05-000", + "answers": [ + { + "text": "第一次世界大戦", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ハリファックス港は、1915年からどの軍の指揮下に置かれたか?", + "id": "tr-071-05-001", + "answers": [ + { + "text": "カナダ海軍", + "answer_start": 210, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "ノルウェー船イモ(ハーコン・フロム(HaakonFrom)船長)は、ベルギー向けの補給物資を運ぶため、オランダを出港しニューヨークへ向かう途中であった。同船は中立検査のため12月3日にハリファックスに入港し、燃料補給を待ちながらベッドフォード湾に2日間停泊した。イモは12月5日に出港許可が下りたが、燃料の石炭がその日の午後遅くまで到着せず出港が遅れ、防潜網が夜間に引き上げられるまで燃料補給は完了しなかった。そのため、イモは翌朝まで錨を上げることができなかった。", + "qas": [ + { + "question": "イモは、どの国の船だったか?", + "id": "tr-071-06-000", + "answers": [ + { + "text": "ノルウェー", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イモは、どこから出発したか?", + "id": "tr-071-06-001", + "answers": [ + { + "text": "オランダ", + "answer_start": 51, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "イモがハリファックスに入港したのは、いつか?", + "id": "tr-071-06-002", + "answers": [ + { + "text": "12月3日", + "answer_start": 86, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イモは、もともといつ出港する予定であったが、燃料補給が完了されていなかったため、予定通りには出港できなかったか?", + "id": "tr-071-06-003", + "answers": [ + { + "text": "12月5日", + "answer_start": 134, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "フランスの貨物船モンブラン(エメ・ル・メデック(AiméLeMedec)船長)は、12月5日遅くにニューヨークから到着した。同船はTNTとピクリン酸の火薬、高可燃燃料のベンゾール、ニトロセルロースを満載していた。ヨーロッパへの出発準備中で、ベッドフォード湾に集結している船団に合流する予定であったが、遅延のため防潜網が引き上��られる前に入港することができなかった。なお、大戦前には危険物を積む船は入港できなかったが、ドイツ軍潜水艦の危険性を受けて、規制が緩和されていた。", + "qas": [ + { + "question": "モンブランは、どこに集結している船団に合流する予定でありましたか?", + "id": "tr-071-07-000", + "answers": [ + { + "text": "ベッドフォード湾", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "水先人のウィリアム・ヘイエス(WilliamHayes)を乗せたイモは、12月6日午前7時30分頃、警備艇アカディアからの信号でベッドフォード湾を離れることを許可された。イモは石炭の積載での遅れを取り返そうと、港の制限速度をはるかに超えてナローズへ進入した。イモは、港の間違った側(西側)を水先案内されていたアメリカの不定期貨物船クララ(Clara)と遭遇した。両船の水先人は右側通行ですれ違うことで合意した。イモはその直後、ナローズの中央近くを港からベッドフォード湾へ航行していたタグボートのステラ・マリスを追い越した後、さらにダートマス側へ舳先を向けることを強いられた。ステラ・マリスの船長ホレーショ・ブラネン(HoratioBrannen)は、猛スピードで接近するイモを見て、事故を回避するため船を西岸へ近づけさせた。", + "qas": [ + { + "question": "イモに水先人として乗っていたのは、誰か?", + "id": "tr-071-08-000", + "answers": [ + { + "text": "ウィリアム・ヘイエス", + "answer_start": 4, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イモが警備艇アカディアからベッドフォード湾を離れることを許可されたのは、いつ頃のことか?", + "id": "tr-071-08-001", + "answers": [ + { + "text": "12月6日午前7時30分頃", + "answer_start": 36, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "イモとは反対側から航海していたのは、どこ国の貨物船だったか?", + "id": "tr-071-08-002", + "answers": [ + { + "text": "アメリカ", + "answer_start": 154, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "ステラ・マリスの船長は、誰だったか?", + "id": "tr-071-08-003", + "answers": [ + { + "text": "ホレーショ・ブラネン", + "answer_start": 297, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "モンブランには1917年12月5日夜から、ベテランの水先案内人フランシス・マッケイ(FrancisMackey)が乗船していた。マッケイはモンブランの積荷に護衛船のような「特別な防護」がされているか尋ねたが、何の防護もなかった。モンブランは12月6日午前7時30分に航行開始し、朝にジョージ島と第21埠頭の間の防潜網が開けられると2番目に入港した。モンブランはベッドフォード湾へ向け港のダートマス側に進路をとった。マッケイはハリファックス・ダートマス間のフェリーや小型艇を見張った。0.75マイル(1.21km)離れた地点でイモを最初に発見したが、イモはモンブランを遮るように、モンブランの右舷へ向かって進路をとることが懸念されるようになった。マッケイは通行権を持っていることを示すため短い警笛を1回鳴らしたが、イモはその位置を認めないことを示す警笛を2回鳴らしてきた。船長はモンブランに機関を停止し、ナローズのダートマス側へ近づくよう、舳先をわずかに右へ向けるよう命令した。他の船が同様に右へ向かうことを期待して警笛を1回鳴らしたが、再び警笛を2回鳴らされた。", + "qas": [ + { + "question": "1917年12月5日夜から水先案内人としてモンブランに乗っていたのは、誰なの?", + "id": "tr-071-09-000", + "answers": [ + { + "text": "フランシス・マッケイ", + "answer_start": 31, + "answer_type": "Person" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "モンブランがジョージ島と第21埠頭の間の防潜網に向けて航行開始したのは、いつで��か?", + "id": "tr-071-09-001", + "answers": [ + { + "text": "12月6日午前7時30分", + "answer_start": 120, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "モンブランがイモを最初に発見した時の、モンブランとイモの距離は、何マイルだったか?", + "id": "tr-071-09-002", + "answers": [ + { + "text": "0.75マイル", + "answer_start": 241, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "モンブランとイモの警笛でのコミュニケーションにおいて、より多く警笛を鳴らしたのは、どちらだったか?", + "id": "tr-071-09-003", + "answers": [ + { + "text": "イモ", + "answer_start": 356, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "近くにいた船の船員は連続する警笛を聞いて、衝突が迫っていることを認識し、イモがモンブランに向かって進むのを見るため集まっていた。この時には両船とも機関を停止していたが、慣性でゆっくりと互いに向って進んでいった。衝撃により積荷が爆発することを恐れて船を座礁させることができず、マッケイは衝突回避に向けた最後の賭けで、モンブランに港のほうへ大きく面舵をとらせ、イモの舳先を横切ろうとした。イモが動力機関を逆回転させていることを知らせるために突如警笛を3回鳴らしたとき、二隻はほぼ平行となった。イモは空船で喫水線が高いことと右回転プロペラによる横移動が重なり、船首をモンブランのほうへ変えた。そしてモンブランの右舷、第一船倉にイモの船首が突っ込んだ。", + "qas": [ + { + "question": "イモとモンブランは、両船とも機関を停止していたのにもかかわらず、お互いに向って少しずつ前進していたが、それは何のためだったの?", + "id": "tr-071-10-000", + "answers": [ + { + "text": "慣性", + "answer_start": 84, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "イモが警笛を3回鳴らしたのは、何を知らせるためでしたか?", + "id": "tr-071-10-001", + "answers": [ + { + "text": "動力機関を逆回転させていること", + "answer_start": 195, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "午前8時45分、両船は衝突した。モンブランの被害は甚大でなかったが、穴の開いた樽が倒れて、ベンゾールが甲板にあふれ船倉に勢いよく流れ込んだ。イモは機関が壊れたため、すぐに離れたが、モンブランの船体内部に火花を起こした。これらが揮発したベンゾールに引火した。火災は喫水線で発生し、たちまち舷沿いに上へ拡大。濃く黒い煙に包まれ、今すぐにでも爆発する恐れから、船長は船員に退艦を命令した。ハリファックス市民は、この壮観な火事を見ようと、通りに集まったり、自宅や職場の窓辺に立った。モンブランの必死の船員は2艘の救命ボートから他の船へ今にも爆発しそうだと叫んだが、騒音と混乱のために聞き取ることはできなかった。救命ボートが港を横切りダートマスへ向かう間、放棄されたモンブランは漂流を続け、リッチモンド通りの端近くにある第6埠頭に接岸した。", + "qas": [ + { + "question": "モンブランとイモが衝突したのは、いつか?", + "id": "tr-071-11-000", + "answers": [ + { + "text": "午前8時45分", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "衝突した両船のうち、どの船で爆発の原因となる火災が始まったか?", + "id": "tr-071-11-001", + "answers": [ + { + "text": "モンブラン", + "answer_start": 90, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "午前9時4分35秒、モンブランの手が付けられなくなった炎が積荷の高性能爆薬に引火した。モンブランは完全に吹き飛び、強い爆風が秒速1,000メートルを超える速度で広がった。爆発の瞬間、爆心の大気は5,000°C、数千気圧になった。白熱した鉄の破片がハリファックスとダートマスに降った。砲身が融解したモンブランの90ミリ砲が、爆発地点から約5.6キロメートル北、ダートマス地区のアルブロ湖付近に落下し、0.5トンある錨の軸は3.2キロメートル南のアームデールに落下した。", + "qas": [ + { + "question": "モンブランに乗せられていた高性能爆薬まで炎が届いたのは、いつ頃なの?", + "id": "tr-071-12-000", + "answers": [ + { + "text": "午前9時4分35秒", + "answer_start": 0, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "モンブランの爆発による強い爆風は、秒速何メートルを超えるほどの速度で広がりましたか?", + "id": "tr-071-12-001", + "answers": [ + { + "text": "秒速1,000メートル", + "answer_start": 62, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "最初の救助活動は、隣人や同僚が建物から犠牲者を引きずり出したり掘り出したりすることで始まった。初期の非公式な対応にすぐに、生き残った警察官や消防士、到着し始めた軍人が加わった。動ける車両を持つ人々も同様に救助活動に加わり、あらゆる種類の乗用車やトラック、配達用ワゴンが負傷者を収容するために使われた。大量の犠牲者が市の病院に運び込まれたが、たちまち病院から溢れた。キャンプ・ヒル(CampHill)にある新しい軍病院は、12月6日に約1,400人の犠牲者を受け入れた。", + "qas": [ + { + "question": "12月6日にキャンプ・ヒルにある新しい軍病院に運ばれた犠牲者は、約何人に至ったか?", + "id": "tr-071-13-000", + "answers": [ + { + "text": "約1,400人", + "answer_start": 216, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + }, + { + "question": "初期の非公式な対応には、生き残った警察官や消防士だけでなく、誰も加勢したか?", + "id": "tr-071-13-001", + "answers": [ + { + "text": "軍人", + "answer_start": 80, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + } + ] + }, + { + "title": "讃岐うどん", + "url": "", + "paragraphs": [ + { + "context": "讃岐うどん(さぬきうどん)は、香川県(旧讃岐国)の特産うどんである。\n香川県において、うどんは地元で特に好まれている料理であり、一人あたりの消費量も日本全国の都道府県別統計においても第1位であった。\n料理等に地域名を冠してブランド化する地域ブランドの1つとしても、観光客の増加、うどん生産量の増加、知名度注目度の上昇などの効果をもたらし、地域ブランド成功例の筆頭に挙げられる。\n日経リサーチの隔年調査では地域ブランドの総合力において350品目中1位となり(2008年、2010年連続)、観光客は行き先選択の理由、香川の魅力の第一にうどんを挙げ、2011年には香川県庁と香川県観光協会はうどんを全面的に推しだした観光キャンペーン「うどん県」をスタートさせた。", + "qas": [ + { + "question": "讃岐うどんはどこの特産品ですか?", + "id": "tr-072-00-000", + "answers": [ + { + "text": "香川県", + "answer_start": 15, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "「うどん県」という観光キャンペーンはいつから開始した?", + "id": "tr-072-00-001", + "answers": [ + { + "text": "2011年", + "answer_start": 272, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "地域ブランドが成功した成果の中で、人の移動に関わるものでは、何が増加しましたか?", + "id": "tr-072-00-002", + "answers": [ + { + "text": "観光客の増加", + "answer_start": 132, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Logical reasoning" + }, + { + "question": "讃岐うどんは何という調査で、2年連続の地域ブランド総合力1位を獲得しましたか?", + "id": "tr-072-00-003", + "answers": [ + { + "text": "日経リサーチの隔年調査", + "answer_start": 189, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "古くから良質の小麦、塩、醤油、そして地元ではイリコと呼ばれている煮干しなどが、讃岐国(現在の香川県)の特産品であり、それらうどんの材料の入手が容易であった。\n元禄時代の一枚の屏風絵にも複数のうどん屋を認めることができる。\n時代が下り、現在の地域ブランド名称として広く知られるようになったのは、うどんを名物とし始めた1960年代頃と考えられている。", + "qas": [ + { + "question": "イリコとは何のことですか?", + "id": "tr-072-01-000", + "answers": [ + { + "text": "煮干し", + "answer_start": 32, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "香川県でうどんを名物とし始めたのはいつ頃から?", + "id": "tr-072-01-001", + "answers": [ + { + "text": "1960年代頃", + "answer_start": 157, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "元禄時代の一枚の屏風絵に描かれていたのは何屋だった?", + "id": "tr-072-01-002", + "answers": [ + { + "text": "うどん屋", + "answer_start": 95, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "香川県のうどん店や家庭で作られるうどんを指すとともに、日本全国各地の飲食店でもうどん料理が当名称で供されていたり、冷凍食品などとして手軽に購入できたりするなど、香川県外の地域でも容易に食せる料理として広まっている。\n代表的なうどんの一種として有名になったことや、2006年から開始された地域団体商標制度への登録は「地名+商品名」でも、一般的に使用されている名称で全国各地で作られている物は難しいという見解を特許庁は示しており、該当する商品(後述)において「本場」「特産」などと表示する場合のみ、公正競争の観点から規制を設けた程度にとどまっている。\n本場でしか味わえない点と、どこでも容易に触れ得る点の両面から、「本場の味を試したい」という欲求を呼び起こすことに成功している一方で、日本国外でのブランド防衛では後手に回った事例も見られる。\n小麦粉の切り麺であるうどんは香川にしかないものではなく、古来全国にあるが、讃岐は特にうどんのトップブランドとして広く認知されており、各地のうどんを紹介する際に「第二の讃岐うどん」といった表現が用いられたり、特にゆかりはなくとも「讃岐」「讃岐風」を謳われたりしている。", + "qas": [ + { + "question": "地域団体商標制度はいつから始まった?", + "id": "tr-072-02-000", + "answers": [ + { + "text": "2006年", + "answer_start": 131, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "讃岐うどんがトップブランドとして認知されているが故に、他地域のうどんを紹介する際にはどのような表現が用いられている?", + "id": "tr-072-02-001", + "answers": [ + { + "text": "「第二の讃岐うどん」", + "answer_start": 448, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "香川県民の生活の中で、うどんは特別な位置を占めている。\n香川県におけるうどん生産量の推移(ゆで麺・生麺・乾麺の合計、香川県農業生産流通課調べ)は、1980年代は1万トン台中盤から2万トン台中盤、1990年代は3万トン強から4万トン台後半、2000年代前半は5万トン弱から6万トン台中盤であった。\n2009年の生産量は59643トン(小麦粉使用量)、全国1位であり、2位の埼玉県の2倍以上となっている。\n1980年にはわずか5%でしかなかった日本国内シェアは、以後四半世紀で四半分に迫るほどの伸びを見せた。\n香川県民を対象とした調査によると、うどんを「週に1回以上食べる」人の割合は90.5%、「まったく食べない」人は9.5%であり、「週1回」が最も多く50.8%であった。", + "qas": [ + { + "question": "香川県がうどん��生産量全国1位になった年はいつですか?", + "id": "tr-072-03-000", + "answers": [ + { + "text": "2009年", + "answer_start": 148, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "2009年では、香川県の次にうどんをたくさん生産している地域はどこですか?", + "id": "tr-072-03-001", + "answers": [ + { + "text": "埼玉県", + "answer_start": 185, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "うどんは観光客向けの名物というよりは、老若男女問わず県民の生活に密着した食物・食習慣となっている。\nうどん店は高松市・中讃を中心に県全域に分布し、たとえば観光用に店鋪の特定集中区域はない。\n彼らは県外に出てもうどんへのこだわりを隠さず、里帰りにうどんを食して帰郷を実感するほどである。", + "qas": [ + { + "question": "香川県には、観光用にうどん店舗を特定集中させた区域があるか、ないか?", + "id": "tr-072-04-000", + "answers": [ + { + "text": "ない", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "うどん店は香川県のどこを中心に分布しているの?", + "id": "tr-072-04-001", + "answers": [ + { + "text": "高松市・中讃", + "answer_start": 55, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "香川県民が里帰りに帰郷を実感するのは何を食べた時?", + "id": "tr-072-04-002", + "answers": [ + { + "text": "うどん", + "answer_start": 104, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + } + ] + }, + { + "context": "うどんにまつわる地域行事も存在する。\n半夏生(7月2日頃)にうどんを食べるという慣わしがあり、この習慣に基づきさぬきうどん協同組合が毎年7月2日を「さぬきうどんの日」と制定しているほか、大晦日には年越し蕎麦ではなくうどんを食べる県民が一定の割合で存在しており(ただし2010年の四国学院大学の学生による調査では「年越し蕎麦派」が「うどん派」を上回っている)、玉売のうどん店や製麺所は多忙を極める。\nまた新たな行事やイベントのプロモーション活動にも余念なく、2009年からは「年明けうどん」をプロデュースするなどしている。", + "qas": [ + { + "question": "半夏生(7月2日頃)にうどんを食べるという慣わしから、さぬきうどん協同組合が制定した日を何と言っている?", + "id": "tr-072-05-000", + "answers": [ + { + "text": "「さぬきうどんの日」", + "answer_start": 73, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "一般的に日本で大晦日に食べるものは何?", + "id": "tr-072-05-001", + "answers": [ + { + "text": "年越し蕎麦", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "2009年からは何のプロデュースが始まったの?", + "id": "tr-072-05-002", + "answers": [ + { + "text": "「年明けうどん」", + "answer_start": 236, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "香川県民が大晦日に蕎麦を食べる人の方が多いと証明されたのは、何年の調査で明らかになった?", + "id": "tr-072-05-003", + "answers": [ + { + "text": "2010年", + "answer_start": 133, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "典型的な瀬戸内海式気候に属するため日照時間が長く、また平地が多い事から穀物栽培に適している。\n古く条里の時代から畿内を凌ぐほどの水田が広がる一大穀倉地であったが、主要な作物は長らくイネであった。\nやがて戦国時代から江戸時代にかけて二毛作が盛んになり、小麦の生産が増加した。\n降雨も河川も少ないこの地で水田から一度水を抜いて畑にする二毛作は、少ない水を徹底的に使う治水開発を促し、今日見られるおびただしいため池が広がる讃岐平野の景観もこの頃に形作られた。", + "qas": [ + { + "question": "香川県が穀物栽培に適していたのは、瀬戸内海式気候から日照時間が長かったのと、もう1つの理由は何?", + "id": "tr-072-06-000", + "answers": [ + { + "text": "平地が多い事から", + "answer_start": 27, + "answer_type": "Cause" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "小麦の生産が増加したのはどういう栽培方式が盛んになったから?", + "id": "tr-072-06-001", + "answers": [ + { + "text": "二毛作", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "二毛作が盛んになり始めたのはいつから?", + "id": "tr-072-06-002", + "answers": [ + { + "text": "戦国時代", + "answer_start": 101, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "香川県に多数のため池が広がる平野の名称は何でしょう?", + "id": "tr-072-06-003", + "answers": [ + { + "text": "讃岐平野", + "answer_start": 208, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "商品作物が奨励された江戸中期以降は米・小麦以外にも様々な作物が生産されるようになり、少雨の気候は製塩に適するため19世紀初頭から坂出に塩田が開発された。\n醤油の生産はそれより古くから小豆島や引田で行われていた。\nしかし江戸以前は醤油は高級品であり、産地の庶民が気軽に地元消費していたとは考えにくく、江戸中葉以前の讃岐におけるうどんの形がどのようなものであったか(あるいは他所との違いは無かったか)は、なお研究を待たねばならない。\nなお、当時の大消費地におけるうどんのレシピには、垂れ味噌または煮貫き(いずれも味噌由来)を用いるとあり、醤油の記載はない。", + "qas": [ + { + "question": "製塩に適する気候とはどんな気候ですか?", + "id": "tr-072-07-000", + "answers": [ + { + "text": "少雨", + "answer_start": 42, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "当時のうどんに使用されていた調味料は何を由来とするものでしたか?", + "id": "tr-072-07-001", + "answers": [ + { + "text": "味噌", + "answer_start": 241, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "古くから醤油の生産をしていた香川県の島はどこ?", + "id": "tr-072-07-002", + "answers": [ + { + "text": "小豆島", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + } + ] + }, + { + "context": "讃岐でのうどん屋の記述が、元禄末(18世紀初頭)に描かれた『金毘羅祭礼図屏風』に現れる。\n200軒あまりの建物がひしめく金刀比羅宮門前町の活況を描いたこの屏風には3軒のうどん屋が認められ、いずれも絵馬様イカ型の特徴的な形の招牌(しょうはい、看板のこと)を掲げて営業している。\n同時代の浮世草子『好色一代男』(1682年)の挿絵でも、三河国は芋川に開いたうむどん屋(うどん屋)が同じ形の招牌を掲げている。\nこの形状の招牌は、讃岐に限らず麺類を出す店の看板として一般的であった。", + "qas": [ + { + "question": "『金毘羅祭礼図屏風』に描かれているうどん屋は何軒?", + "id": "tr-072-08-000", + "answers": [ + { + "text": "3軒", + "answer_start": 81, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "麺類を出す店の看板として一般的だった形とはどんな形?", + "id": "tr-072-08-001", + "answers": [ + { + "text": "絵馬様イカ型", + "answer_start": 98, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "『金毘羅祭礼図屏風』と『好色一代男』に共通の形���登場したのはうどん屋の掲げる何だったか?", + "id": "tr-072-08-002", + "answers": [ + { + "text": "招牌", + "answer_start": 192, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "三河国の芋川に開いたうむどん屋(うどん屋)が登場した浮世草子のタイトルは何か?", + "id": "tr-072-08-003", + "answers": [ + { + "text": "『好色一代男』", + "answer_start": 146, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (world knowledge)" + } + ] + }, + { + "context": "江戸時代後期には金毘羅参りを対象とした旅籠が増え、その1階がうどん屋であることが多かった。\nまた参拝客が船で発着する丸亀や多度津にもうどん屋があった。\nうどん屋の店頭には麺を茹でる釜が据えられ、うどんを入れた砥部焼の鉢、付け汁を入れた猪口、そしてショウガやネギが供され、漬けて食べる形式が一般的だった。", + "qas": [ + { + "question": "江戸時代後期に旅籠が増えたのは何を対象として?", + "id": "tr-072-09-000", + "answers": [ + { + "text": "金毘羅参り", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "金毘羅参りの参拝客が船で発着していた地域は丸亀とどこ?", + "id": "tr-072-09-001", + "answers": [ + { + "text": "多度津", + "answer_start": 61, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "旅籠の1階に多かったのは何屋さん?", + "id": "tr-072-09-002", + "answers": [ + { + "text": "うどん屋", + "answer_start": 30, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "明治時代には夜なきうどんの行商人が高松市内に増え、1887年頃には天秤棒の両端に縦長の箱を下げ、頂部に石油ランプを灯して鈴を鳴らしながら売り歩いていた。\n箱の下部には丼鉢や湯沸かしを入れ、総重量は60-70kgだったといわれる。\n20世紀に入るとこれらの業者は全て車輪付き屋台を用いるようになり、その両脇に飾り格子をはめて行燈を吊るしていた。\nうどんは鰹節と出汁を掛けたぶっかけで、人気があったという。\n夜なきの行商人は生麺の卸売業者(玉卸し屋)と契約して道具を借り、営業を行っていた。\n当時は5軒の玉卸し屋があったが、大正時代にはのれん分けの関係を基に3系統に分かれ、第二次世界大戦終戦までこれが続いていた。\n昭和初期には飾りガラスなどを凝らした屋台が並び、夜の高松の風物詩と呼ばれた。", + "qas": [ + { + "question": "夜なきうどんの行商人は、うどんを売る手段として天秤棒から後に何を用いるようになった?", + "id": "tr-072-10-000", + "answers": [ + { + "text": "車輪付き屋台", + "answer_start": 132, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "夜なきうどんの行商人が明治時代に増えた都市はどこ?", + "id": "tr-072-10-001", + "answers": [ + { + "text": "高松市", + "answer_start": 17, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "夜なきの行商人が営業を行うために契約を結んでいた対象は?", + "id": "tr-072-10-002", + "answers": [ + { + "text": "生麺の卸売業者", + "answer_start": 210, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "農村部では水車の動力を利用した製粉業が盛んになり、粉を仕入れる小規模な製麺業者も増加した。\n1930年代にはエンジン式の製粉機が普及し始め、20世紀後半には完全に水車に取って代わっている。\n同時期には機械式製麺も全国に広がったが、香川県では手打ちの製麺所が残った。\n20世紀前半の香川県では年中行事や冠婚葬祭でもうどん料理が振る舞われ、「うどんが打てぬようでは嫁にも行けない」という言葉があったという。", + "qas": [ + { + "question": "エンジン式の製粉機が��及する前は何の動力を利用して製粉していましたか?", + "id": "tr-072-11-000", + "answers": [ + { + "text": "水車", + "answer_start": 5, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Multiple sentence reasoning" + }, + { + "question": "機械式の製麺が全国に広がる中、手打ちの製麺所が残ったのはどこですか?", + "id": "tr-072-11-001", + "answers": [ + { + "text": "香川県", + "answer_start": 115, + "answer_type": "Location" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "香川県で年中行事や冠婚葬祭でもうどん料理が振る舞われるようになったのはいつからですか?", + "id": "tr-072-11-002", + "answers": [ + { + "text": "20世紀前半", + "answer_start": 133, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "水車からエンジン式製粉機に完全に切り替わった時期はいつですか?", + "id": "tr-072-11-003", + "answers": [ + { + "text": "20世紀後半", + "answer_start": 70, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "終戦直後の小麦粉が十分に手に入らない中、高松市などでは代用品としてドングリや芋の粉を用い、足りない粘り気はワラビの粉やところてんで繋ぐなどしてうどんが作られていた。\n小麦粉の供給は、1949年頃から闇市を中心に回復してきた。\nうどんは主に家庭で消費され、また喫茶店や大衆食堂を含む様々な飲食店にうどんは置かれた。\n1960年代にはその数3,000から3,500と推定される。\n当時はまだうどん専門店と呼べるような店は高松市内でもほとんど存在していなかったが、1960年代半ばから香川県独自のセルフサービス方式のうどん専門店が登場した。\n1970年前後からはメニュー数種を揃えたうどん専門店も増え始め、現在に至る香川県におけるうどん店の状況が形作られていった。\n飲食店の分化・専門化が進んだことでうどんを扱う飲食店の総数は逆に減少した。", + "qas": [ + { + "question": "終戦直後の高松市で、小麦粉の代用として使っていた木の実は何ですか?", + "id": "tr-072-12-000", + "answers": [ + { + "text": "ドングリ", + "answer_start": 33, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "小麦粉の供給が回復してきたのはいつ頃から?", + "id": "tr-072-12-001", + "answers": [ + { + "text": "1949年頃", + "answer_start": 91, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "香川県独自のうどん専門店がとっていた方式は何?", + "id": "tr-072-12-002", + "answers": [ + { + "text": "セルフサービス方式", + "answer_start": 245, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1963年2月に高松駅の構内に立ち食いうどん店が開店した。\n当時、立ち食い蕎麦は全国の多くの駅にあったが、うどんは前例がなかった。\nまもなく高松駅構内には2号店もオープンし、テレビなどで「食べる民芸品」として県内で味の評価の高い店が紹介された。\n1969年には宇高連絡船デッキの立ち食いうどんコーナーが営業を開始した。\nまた、この頃にポリエチレン包装など衛生面の進歩により保存期間が伸び、土産品としての販売も上昇してきた。", + "qas": [ + { + "question": "全国初の立ち食いうどん店が開店したのはどこの駅ですか?", + "id": "tr-072-13-000", + "answers": [ + { + "text": "高松駅", + "answer_start": 8, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "うどんの保存期間を伸ばすために包装に使われた素材は何?", + "id": "tr-072-13-001", + "answers": [ + { + "text": "ポリエチレン", + "answer_start": 167, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "何が進歩したからによって、うどんの保存期間���伸びた?", + "id": "tr-072-13-002", + "answers": [ + { + "text": "衛生面", + "answer_start": 177, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + }, + { + "question": "衛生面の進歩がもたらしたのは、うどんの土産品としての販売をどうさせた?", + "id": "tr-072-13-003", + "answers": [ + { + "text": "上昇", + "answer_start": 204, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "この頃まではうどんが香川の名物であるという認識はそれほど一般的ではなかったが、1970年の大阪万博で和食チェーンの京樽の運営するレストランのメニューの一つとして供され、ガラス越しに手打ちを実演し毎日6,000食を売り切るなどし、知名度も上昇していった。\n1974年に加ト吉(現・テーブルマーク)が「冷凍讃岐うどん」で冷凍麺市場に参入し、製造・販売を開始。\nしかし、品質面における特徴であるコシの強さが出ていないとの理由から、当時の社長は直ちに改良を指示し、製法や茹で方を研究し試行錯誤を重ねた末、新技術の開発や新装置を導入して「コシ」問題を解決し、1976年にリニューアル発売した。\n1978年にはキンレイがコシを目指して再現したアルミ容器入り冷凍鍋焼きうどんを発売。", + "qas": [ + { + "question": "香川のうどんの知名度がアップするきっかけとなった大阪の行事は何でしたか?", + "id": "tr-072-14-000", + "answers": [ + { + "text": "大阪万博", + "answer_start": 45, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "大阪万博でガラス越しに手打ちを実演し毎日6,000食を売り切った食材は何?", + "id": "tr-072-14-001", + "answers": [ + { + "text": "うどん", + "answer_start": 6, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Lexical variation (synonymy)" + }, + { + "question": "うどんが冷凍麺市場に参入したのは何年のこと?", + "id": "tr-072-14-002", + "answers": [ + { + "text": "1974年", + "answer_start": 127, + "answer_type": "Date/Time" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + }, + { + "context": "1988年には瀬戸大橋の開通が好影響を及ぼし、加ト吉「冷凍讃岐うどん」の売上が急増した。", + "qas": [ + { + "question": "「冷凍讃岐うどん」の売上が急増したのは何という橋が開通したおかげ?", + "id": "tr-072-15-000", + "answers": [ + { + "text": "瀬戸大橋", + "answer_start": 7, + "answer_type": "Object" + } + ], + "question_type": "Syntactic variation" + } + ] + } + ] + } + ] +} \ No newline at end of file